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日本の心  国柄

 

題 目

目 次

01 日本神話に現われた大宇宙の理法

02 日本には、国の理想があるのだろうか?

03 日本文化の一番の特徴とは?

04 なぜわが国は「日本」というのだろう?

05 天皇は「国民統合の象徴」です

06 あなたと天皇は、親戚かも?

07 なぜ日本の皇室は続いているのだろう

08 世界に誇れる日本の国柄とその心

 

別項の「天皇と国柄」にも掲示があります。

 

和の精神

国柄

君と民

日の丸

君が代

人物

武士道

歴史

文明と倫理

自然

世界の声

 

 

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■日本神話に現われた大宇宙の理法

2004.12.1

 

日本神話は、私たちの先祖が語り継いできた神々の物語です。そこには、先祖の心が反映しているとともに、わが国の国柄の由来を読み取ることが出来ます。その神話の世界を美しく、また楽しく描いている作家に、出雲井晶(いずもい・あき)氏がいます。

 

出雲井氏は、内閣総理大臣賞、文部大臣賞などを受賞している優れた画家でもあり、氏の本には、心を洗われるような、明るく夢のある絵が、たくさん盛り込まれています。

出雲井氏は神話について、次のように書いています。

「私たちの遠い遠い先祖の古代日本民族は、まことにそぼくで物質文明に晦(くら)まされていなかったのです。それで澄んだゆたかな感性を持っていたのでしょう。その澄んだゆたかな感性で、悠久の昔から未来永劫に続いていく天地をつらぬく理法、大宇宙の法則を直感で感じとり、正しい大宇宙観として深い人生観として持っていたことが読み取れます」(1)

 

さて、一般に日本の神話では、太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)が中心であると考えられています。これに対し、出雲井氏は、「天御中主命」(あめのみなかぬしのみこと)を、神話世界の中心に描きます。実は、皇室の祖先神とされる天照大神は、天御中主命を筆頭とする天神七代の後に現れたイザナギ・イザナミの二神から生まれています。つまり、神々の系譜ではかなり後の代に現れた神なのです。

それに比べ、天御中主命は、古事記の冒頭に現れます。名前の通り、宇宙の中心に存在する神です。鎌倉時代の度会家(わたらいけ)が創始した伊勢神道、江戸時代の平田篤胤(あつたね)による復古神道など、様々な神道思想の中で、天御中主命は宇宙の最高神として崇拝されてきました。

出雲井氏は、この天御中主命とは「大宇宙の理法」であり、すべてのものを生かしている「力」であるととらえます。そして、天御中主命と他の神々の関係を、次のように表現します。

「日本の神話では、高天原の天之御中主神の神話でまず、古くて新しい、どんな時でも変わることのない大宇宙の理法、天地をつらぬく法則がさし示されています。ついで伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)ニ神による国生み神生みがなされます。

その最後に天之御中主神のもっとも尊い化神として人格神として天照大神が誕生されます。そして、天地をつらぬく理法、法則にのっとって日本の国が建国されていく様子が示されています」

 出雲井氏は、天御中主命を「天之御中主神」と書いていますので、引用文ではその表記を尊重します。

 

さて、出雲井氏によれば、天照大神を含む他の八百万(やおよろず)の神々は、すべて、天御中主命という本源の神の現れです。そして、天御中主命の「もっとも尊い化神」である天照大神が、自らの子孫であるニニギノミコトを日本の国につかわします。これが天孫降臨の物語です。

出雲井氏によると、「天孫降臨の神話はわが偉大な先祖が、すべてが調和した目に見えない神の正しい道理の世界を、目に見えるこの地上にもあらわそうと考えたのです。その壮大な夢、理想の実現が『天皇の国・日本』の始まりでありました」。

天照大神は、ニニギノミコトに対し、三種の神器を授けます。すなわち鏡と剣と勾玉です。出雲井氏は、次のように書いています。

「日本建国の心・魂は、ニニギノミコトが天下(あまくだ)られますときに天照大神から賜った三種の神器にこめられています。無私なる澄みきった叡智と限りない恕(ゆる)しをふくんだ慈愛と正しい勇気で大和(だいわ)し、すべてが調和する明き清き直まことの心の国の建国をめざしたのです」

三種の神器のうち、鏡は「無私なる澄みきった叡智」を象徴し、勾玉は「限りない恕(ゆる)しをふくんだ慈愛」を、剣は「正しい勇気」を象徴すると出雲井氏は考えます。

 

続いて出雲井氏は、次のように書いています。

「天照大神は天孫ニニギノミコトに『豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)は、わが子孫の君たるべき国なり、みましゆきて治(し)ろしめせ、天つ日嗣(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと天壌(てんじょう)と共に窮まりなからんもの』と、おおせられました。この三種の神器のお心を体され、みんなが幸せに仲よくくらせる理想郷の実現をねがわれたのが、神武天皇さまでありました」

神武天皇とは、日本を建国したと信じられている初代の天皇です。神武天皇の願いとは、「橿原(かしはら)建都の詔」に記されているもので、その理念のキーワードが、「八紘為宇(はっこういう)」(一宇とも書く)です。「八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」つまり天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにしようという理念です。(2)

出雲井氏は、日本神話には「永久不変の真理が記されている」といいます。その「永久不変の真理」とは、「すべてのいのちは天之御中主神のおいのちの分けいのちであり、それぞれがところを得て調和していく、という生命観・世界観です。…それが神武天皇の『橿原建都の詔』に国の理想として示されたのです。『八紘為宇』とは大和の精神、『和』のこころです。つまり、大宇宙の理法、真理そのものが、国体=国の姿として現れ出たというところにあるのです」と出雲井氏は述べています。(3)

出雲井氏は、このように、天御中主命に始まり、天照大神から神武天皇に続く、神々の物語を描いているのです。

 

日本の国や日本人の精神について知ろうと思うならば、日本神話の世界に親しむ必要があります。出雲井氏の書く神話の世界は、現代の日本人が失っている豊かな感性を取り戻させてくれるでしょう。ページの頭へ

 

(1)出雲井晶著『教科書が教えない神武天皇』(産経新聞社)

(2)神武天皇については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「日本には、国の理想があるのだろうか?

(3)国体について、注釈します。

国体という漢語は、シナの「漢書」によります。その語が「くにがら」という大和言葉に充てられました。わが国の国体は、万世一系の天皇が統治する国のあり方を意味します。
 国体の語は、近代において、西洋の constitution の訳語に充てられました。この場合は、国の主権または統治権のあり方を意味し、主権または統治権の運用の仕方を意味する政体と区別されます。国体の例は君主制・共和制等であり、政体の例は専制政治、立憲政治等です。例えば、君主制国家の場合、政体が専制政治から立憲政治へと変わっても、君主制を維持していれば、国体は変わらないということになります。
 わが国で国体を護持するという場合、天皇を中心とした皇室制度を守ることを意味します。国体の破壊は、皇室を廃止し、共和制や共産主義体制に変えることを意味します。

 

参考資料

・出雲井晶著『母と子におくる 教科書が教えない日本の神話』(扶桑社)

 

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■日本には、国の理想があるのだろうか?

 

 アメリカの独立記念日は7月4日、フランスの革命記念日は7月14日。それぞれその国の最大の祝日として盛大に祝われます。では、我が国にはそういう日があるのでしょうか。2月11日、つまり「建国記念の日」がそれに当たります。この日は、神武天皇(じんむてんのう)が初代天皇に即位し、日本国を建国された日とされています。戦前には、紀元節と呼ばれ、国民が盛大に祝う重要な日でした。

 

 神武天皇は、古事記・日本書紀によれば、高天原から日本に降臨した皇孫ニニギノミコトの曽孫に当たります。神武天皇は、当時、我が国が、氏族が割拠し、対立抗争していたのを見て、皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)の理想とする国を作ろうと考え、九州の日向(ひゅうが)から東征を行いました。その過程で、神武天皇は「つわものの威をからずして、いながらにして天下を平(む)けむ」と言います。すなわち、大業が成った後は、武力を頼まず、徳の働きによって天下を平和に治めていこう、という意味です。そして神武天皇は、様々な困難を乗り越えて、大和に入り、奈良の橿原(かしはら)の地で、初代天皇に即位したとされます。『日本書紀』は、この年を紀元前660年としています。

 

 この時、神武天皇は、日本建国の理念を高らかに謳い上げたと伝えられます。その理念は、「橿原建都の詔」に示されています。「六合(りくごう)をかねて以て都を開き、八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)むこと、また可(よ)からずや」。これは、「国中を一つにして都を開き、さらに天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにすることは、なんと、良いことではないか」という意味です。

 この理念のキーワードが、「八紘一宇(はっこういちう)」です。この言葉は、大東亜戦争において乱用されたため、侵略思想を表す言葉と思っている人が多いかもしれません。しかし、この言葉は、日本人の「道徳上の目標」を表す言葉であって、侵略主義とは無縁のものであることが、東京裁判においても認められています。本来は「世界は一家、人類みな兄弟」という意味であり、英語ではuniversal brotherhood と訳されています。

 

 また、神武天皇の「建都の詔」には、「苟(いやし)くも民に利あら、何聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ」という言葉があります。「民」は「おおみたから」と読みます。そこには、天皇は国民を宝のように大切に考えるという姿勢が表れています。そして、国民の福利をめざす政策を行おうという方針が示されています。

 以来、わが国では、覇権ではなく徳をもって国を治めるという理想が、受け継がれてきました。これは、今日まで皇室が続いてきた理由の一つと言えましょう。

 このように、記紀は、日本国は高い理想のもとに建国された国であることを伝えています。そのことが歴史的事実であるかどうかは別として、日本人は少なくとも千年以上もの間、そのように信じてきました。そして、その理想が保たれていたことによって、明治維新も成し遂げられたのです。

 

 幕末の日本は、西欧列強の植民地にされるおそれがありました。その危機感の中で、日本人は、新しい国民結集の政治体制をつくろうとしました。そしてその方向性を決定づけたのが、慶応3年12月に出された「王政復古の大号令」です。その中には「諸事神武創業のはじめにもとづき……」という文言があり、神武天皇の建国をモデルにすることが謳われました。そして、明治6年には、2月11日が紀元節と定められ、新国家建設が進められました。明治憲法も、明治22年の2月11日という日を選んで発布されたのです。

 

 このような日本国の歴史を振り返るとき、自国の神話と建国の理念を知らなければ、日本の歴史と文化を真に理解することはできないことが分かるのです。ページの頭へ

 

参考資料

・出雲井晶著『教科書が教えない神武天皇』(産経新聞社) 

 

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■日本文化の一番の特徴とは?

 

 海外へ行った人は、外国人から日本の国について質問されて、答えに困ってしまうことが多いようです。「日本文化の最大の特徴はなんですか」――あなたは、外国人からこう聞かれたら、何と答えますか。

 上智大学名誉教授の渡部昇一氏は、ある講演で次のようなことを語りました。

 

 「若い頃(注:昭和20年代)、ドイツに留学したとき、当時の日本には外国に誇れるものがなく、劣等感を感じ、何か誇れるものはないかと悩みました。いろいろ考えた末、日本の皇室が古代から連綿として続いていることに気付きました。

 このことをドイツ人に話すと、彼らはひどく驚きました。それは、ドイツ人にとっては、ギリシャでアガメムノン王の子孫がずっと絶えることなく今日まで続いていると同じなのです。ドイツ人は、みな日本へ尊敬のまなざしを向けるようになりました。

 その後、留学した英国でも同じでした。英国王室には歴史があるといっても、そこには断絶があります。現在の王室はもともとドイツからきたので、たかだか200年の歴史しかありません。英国人にとっても、日本の皇統は驚嘆すべきことだったのです。留学という極度の緊張状態で、このように自国に誇れるものがあるということは、本当にありがたかったです」(平成10年11月28日、東京国際フォーラムにて)

 

 日本文化をよく知る外国人の中には、日本の最大の特徴として、皇室の存在を挙げる人が、多いのです。彼らには、これは大きな驚きなのです。古代から今日まで王室がずっと続いているということなど、彼らの国では考えられないことだからです。

日本の学校では、青少年にこうした自国の特徴が教えられていません。かえって外国で、日本の特徴として教育されていたりします。例えば、アメリカの社会科教科書『アジア・アフリカ世界〜その文化的理解』(アラン・ベーコン社、1978)では、第4章「日本史概説」で、次のように教えています。

 まず日本の国名の由来について、次のように書いています。

 

 「『日本』という国名は、太陽の出るところという意味の『漢語』から来ている。……このために、日本はしばしば『日出づる国』と呼ばれてきた。……」

 

 次に「神々の国」という見出しの下に、次のように書いています。

 

 「イザナギという神が、その妻イザナミと共に『天の浮橋』の上に立った。イザナギは、眼下に横たわる海面を見下ろした。やがて彼は暗い海の中に、宝石を散りばめた槍をおろした。その槍をひき戻すと、槍の先から汐のしずくが落ちた。しずくが落ちると、次々に固まって、島となった。このようにして日本誕生の伝説が生まれた。

 またこの伝説によると、イザナギは多くの神々を生んだ。その中の一人に太陽の女神があった。女神は孫のニニギノミコトを地上に降り立たせ、新しい国土を統治することを命じた。ニニギノミコトは大きな勾玉(まがたま)と、神聖な剣と、青銅の鏡の三つ(注:三種の神器)を持って、九州に来た。これらはすべて、彼の祖母から贈られたものであった。これら三つの品物は、今日もなお、天皇の地位の象徴となっている。ニニギノミコトにはジンムという孫があって、この孫が日本の初代の統治者となった。それは、紀元前660年の2月11日のことといわれる。

 何千年もの間、日本人はこの神話を語り継いできた。この神話は、日本人も、その統治者も、国土も、神々によって作られたということを証明するために使われた。現在の天皇ヒロヒト(注:当時)は、神武天皇の直系で、第124代に当たると伝えられる。これによって日本の皇室は、世界で最も古い王朝ということになる」(1)

 

 日本では、こうしたことを確かな智識として持っている青少年が何人いるでしょうか。ごくわずかしかいないことでしょう。大人だって同様です。

 私たちは、日本は皇室の存在を一大特徴とする国であることを認識し、日本の文化について、理解を深めたいものです。ページの頭へ

 

参考資料

(1) 名越ニ荒之助著『世界の中の日本の心』(展転社)

 

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■なぜわが国は「日本」というのだろう?

 

「日本」という国名は、「にほん」あるいは「にっぽん」と読みます。どちらの読み方も可能ですが、対外的に使う際には「にっぽん」と読むことに統一すると、昭和45年7月14日の閣議で決定されました。

NHKでは、正式な国号として使うときは「にっぽん」と読むことにしています。それ以外のときは、「にほん」でもよいとされています。

ローマ字では Nippon と書きます。英語には Japaneseのほかに、Nipponeseという単語もあります。

 

 さて、「日本」は、「日の本(ひのもと)」とも読むように、太陽にちなんだ名称です。「日の本」は「日が昇る本」「太陽の昇るところ」を意味します。元は「日出づる処」という表現に由来します。この表現は、聖徳太子が使ったものです。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなき」と、太子が隋の煬帝にあてた国書にあります。このことは、『隋書』の大業3年、我が国の推古天皇(第33代)の16年(西暦608年)の出来事として記されています。

 聖徳太子が我が国を「日出づる処」と称したのは、超大国・隋に対して、萎縮することなく、毅然とした外交を行おうとしたからです。この太子の姿勢にならって、「日出づる処」を意味する「日本」が、国名として用いられるようになったと見られます。最初に、公式文書に「日本」という国名が現われたのは、大化の改新の後、大化元年(645)に、百済の使者に与えた詔勅とされます。

 その後、シナでは、咸亨元年(670)の『新唐書』に、「倭の字を悪(にく)み、更めて日本と号す」と記しています。ここで我が国が「倭」という字を嫌って、「日本」という国名に改めたと書かれていることは重要です。我が国では古くから自国を「わ」と呼んでいたようで、シナ人はこれを「倭」という文字で表しました。この文字は、蔑称です。日本人はこれに屈せず、「倭」をやめて「日本」という国名を使うことを決めたのです。

 

 「天皇」という名称も、聖徳太子が煬帝への返書に使ったのが、初めです。太子は、隋の煬帝への返書で、我が国の君主を「天皇」、シナの君主を「皇帝」と表現しました。太子は「国王」や「大王」という文字を用いませんでした。それは、「王」は、シナの「皇帝」の下の位であり、「皇帝」に仕える立場だからです。そして、やはり太子の意を受けて、大化の改新の後、天武天皇の時代に「天皇」という称号が定着しました。

 大化の改新では、年号も、我が国独自のものを使うことを決めました。それまでは、シナの皇帝が年号を定めると、他の周辺国はそれと同じ年号を使用していました。なぜかというと、これらの国は、シナに貢ぎ物を収めることによって国王と認めてもらうという册封(さくほう)体制の下にあったからです。しかし、我が国は、こういう主体性のない状態を、よしとしませんでした。

 

 こう考えると、7世紀は、日本が日本となった重要な時代だったことがわかります。7世紀の初めには、君主を「天皇」と呼び、中頃には独自の年号を立て、また新たに国名を「日本」と定めました。その結果、我が国は政治的・外交的に、完全にシナの册封体制から離脱しました。そして、これによって、奈良・平安時代に国風文化が生み出される基礎ができ、輝かしい日本文明が花開くことになったのです。

 

 「日本」という国名、そして「天皇」という称号や独自の年号には、超大国に対しても対等であろうとする、堂々たる精神が込められています。もし私たちの祖先が自主独立の気概を持っていなければ、「日本」と呼ばれる国はなかったことでしょう。そして、サムエル・ハンチントンにより世界の6大文明のひとつに数えられる、今日の日本文明も存在しなかったでしょう。

 「日本」という国名に込められた独立自尊の精神を、この21世紀にも受け継いでいきましょう。ージの頭へ 

 

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■天皇は「国民統合の象徴」です

 

 天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である、と現行憲法には規定されています。この「国民統合の象徴」という点について考えてみましょう。

 ある集団が一つの集団としてまとまるためには、集団を統合するものが必要です。それは、統合力のある人物や思想や象徴などです。言いかえれば、統合の中心です。中心がなければ、集団はばらばらになってしまいます。国家においても同様であり、国民が団結するには、統合の中心が必要です。

 

 日本では、古代より天皇が国民統合の中心として存在してきました。天皇による統合は、政治的な権力ではなく、精神的な権威によっており、それが日本独特のところです。そして、この統合力は、長い歴史の中で、自然につちかわれてきたものです。天皇機関説で有名な憲法学者・美濃部達吉は戦後、『民主政治と議会制度』において次のように書いています。

 

 「すべて国家には国民の国家的団結心を構成する中心(国民統合の象徴)がなければならず、しかして我が国においては、有史以来、常に万世一系の天皇が国民団結の中心に御在(いま)しまし、それに依って始めて国家の統一が保たれているからである。

 それは久しい間の武家政治の時代にあってもかつて動揺しなかったもので、明治維新の如き国政の根本的な大改革が流血の惨を見ず平和の裡に断行せられたのも、この国家中心の御在しますがためであり、近く無条件降伏、陸海軍の解消と言うような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられたのも、一に衆心のむかうべき所を指示したもう聖旨があったればこそあることは、さらに疑いを入れないところである」

 

 それでは、もし日本において、天皇という国民統合の中心が無くなった場合は、どういうことが予想されるでしょうか。美濃部博士は、次のように考察しています。

 

 「もし万一にもこの中心が失われたとすれば、そこにはただ動乱あるのみで、その動乱を制圧して再び国家の統一を得るためには、……ナポレオンの帝政やヒトラーの指導者政治や、またはレーニン・スターリン・蒋介石などの例に依っても知られ得る如く、民主政治の名の下に、その実は専制的な独裁政治を現出することが、必至の趨勢と見るべきであろう」

 

 世界の歴史が示しているのは、国王を廃止することによって、より民主的で平等な社会ができるとは限らないということです。むしろ逆の例が多い。例えば、第1次大戦の敗北後、ドイツでは王制が廃止され、ワイマール憲法による共和制が取られましたが、その下で、ヒトラーが出現し、狂暴な独裁政治が行われました。ロマノフ王朝への反発によって共産主義革命が起こったロシアでは、ボルシェビキの一党独裁の下で、スターリンの個人崇拝体制が生み出されました。エチオピアは、かつて日本のように古代から由緒ある王室が続く国でした。しかし、戦後、社会主義の勢力によって、王制が廃止されました。その結果、体験したものは、何だったでしょうか。飢餓と内戦による混乱です。

 一方、今日も西欧には、国王が存在する国々が多数あります。それらの国々では、一般に政治的な安定度が高く、成熟した議会政治が行われ、伝統文化が豊かに保たれています。例えば、イギリス、ノルウェー、オランダ、ベルギーなどです。

 

 これらの国に比べ、日本においては、天皇と国民がはるかに強く結びついているのが、特徴です。戦前アメリカの駐日大使であった知日家のグルーは、天皇を女王蜂にたとえ、「この女王を取り除くならば、この群れは解体する」と言いました。ちょうど扇はかなめをはずすと、ばらばらになってしまうように、日本人は天皇という中心を失ったならば、ばらばらに分裂してしまうおそれがあります。逆に、天皇を中心とすることによって、国民が一体感を持つことができるのです。そこに、天皇の「国民統合の象徴」としての働きがあるのです。

 天皇という「国民統合の象徴」について、認識を深めましょう。

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■あなたと天皇は、親戚かも?

 

 あなたの名字は何ですか。名字をみれば、あなたの家のルーツをたどることができます。例えば、新田、今川、秋山などは源氏の子孫です。源氏の多くは清和天皇につながります。村岡、相馬、梶原などは、平家の子孫であり、桓武天皇にさかのぼります。あなたの場合は、いかがでしょうか。

 

 日本人は古くから家系に関心を持ってきました。9世紀初めには、我が国最古の系譜集『新撰姓氏録』が作られました。そこには、1,182の姓氏が載っています。当時の姓氏家系は、四つに分類されています。

 

(1)皇別(335氏)

 天皇家から分かれた家。源氏、平氏、橘氏など。さらに、そこから分かれた佐竹、武田、渋谷、江戸、小田など。

 

(2)神別 

 @天神(335氏)

  天照大神の子孫が「天孫降臨」をしたときに同行してきた神々の一族。

中臣(藤原)、大伴、菊池、高橋、安倍など。

 A天孫(128氏)

  天照大神から、初代・神武天皇までの先祖から枝分かれした子孫。

天照大神の子・天津日子根命の子孫・大河内、蒲生など。

 B地祇・国神(30氏)

  「天孫降臨」のときに、既に日本の国土にいた先住土着の一族。

大国主命の後裔・三輪氏をはじめ、中条、和田、三浦など。

 

(3)諸蕃(326氏)

 3〜4世紀に日本が皇室中心に統一され安定した豊かな国になってから、朝鮮や中国から来た渡来人。秦、和仁、秋月など。

 

(4)出自不詳(117氏)

 

 このように、今から千年以上前、既にさまざまな家系が分類されていたのです。(1)

 

 さて、今日、日本人の名字は29万もあります。名字が増えた理由の一つは、日本では分家することによって、その分家先の地名が名字になることが多いことです。実際、名字の8割が地名に由来します。

 例えば藤原姓は、もとは中臣氏で、天神系。天照大神に仕えた天児屋根命(あめのこやねのみこと)を先祖とします。藤原氏からは、足利国佐野の佐藤、伊勢国の伊藤、加賀国の加藤、近江国の近藤などの家が分かれました。もとの藤原という姓と、地名の一部とが合体して、名字が作られたのです。

 また、源氏の主流は、清和天皇の親王が臣籍降下して、源姓を名乗ったのが初めです。そのうち、下野国足利郡(現栃木県足利市)の足利庄に住んだ源姓の一族が、足利氏となりました。また、足利氏の一部が、三河国額田郡(現愛知県岡崎市)の細川庄に移り住んで、細川氏を称するようになりました。この場合は、地名がそのまま名字となった例です。

 このように日本では分家によって、もとの姓氏から名字に変わるのです。

 

 ところが、日本には、たった一つ名字のない家があります。何だかわかりますか。皇室です。このことは天皇家がどこかから分家したのではない、もともとの本家であることを表すと考えられます。そして日本人は、すべてどこかで大本家の天皇家につながっており、あなたと天皇は親戚かも知れません。

 

 このことは、別の角度から考えることもできます。あなたには、ご両親がいます。父母にはその親がいます。こうして両親で2、祖父母で4、曾祖父母で8、さらに16、34、68と先祖をさかのぼると、28代でなんと1億3千万人にもなります。日本の現在の人口を超えてしまうわけです。ですから、日本人は、さかのぼればみなどこかで同一の先祖を持っています。つまりみな血縁・親族です。そこからも、あなたと天皇は、血のつながった親戚かも知れないわけです。

 

 日本国憲法に、天皇は「日本国の象徴」であり、「日本国民統合の象徴」であると記されていますが、その背景には、いろいろと深い由来があるのです。ページの頭へ

 

参考資料

・与那嶺正勝著『家系の科学』(徳間書店)

 

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■なぜ日本の皇室は続いているのだろう

 

 日本の天皇は、古代から今日まで続いています。世界的に他にこんな例はありません。どうして日本の皇室は、これほど長く続いてきたのでしょうか。

 その秘密を探るために、第16代仁徳天皇の例を見てみましょう。仁徳天皇といえば、大きさがピラミッドにも優る前方後円墳で有名です。古事記・日本書紀に、この天皇についての記述があります。その話の大意を紹介します。

 

 仁徳天皇は即位されて4年目、高台にのぼって見渡されました。すると家々から炊事の煙がのぼっておらず、国民は貧しい生活をしているのだと気づかれました。そこで3年間年貢などを免除されました。そのため、天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果ててもそのままにしていました。

 そうして3年、気候も順調で国民は豊かになり、高台に立つと、炊事の煙があちこちに上がっているのが見えました。国民の生活は見違えるように豊かになりました。それを見て、天皇は喜ばれ、「自分は、すでに富んだ」と言われました。

 それを耳にされた皇后は、「私たちの住んでいる皇居の垣はくずれ、雨もりもしているのに、どうして富んだといわれるのですか」と問われました。すると天皇は「昔の聖王は、国民の一人でも飢え寒がる者があるときは、自分を顧みて自分を責めた。今、国民が貧しいのは、自分も貧しいのだ。国民が富んでいるのは、自分も富んでいるのだ。未だかつて、人民が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と答えられました。

 

 やがて、天皇に感謝した人々が、諸国から天皇にお願いしました。「3年も課役を免除されたために、宮殿はすっかり朽ち壊れています。それに較べて国民は豊かになりました。もう税金をとりたてていただきたいのです。宮殿も修理させてください。そうしなければ罰があたります」と。

 それでも天皇は、まだ我慢してお許しにならなりませんでした。3年後にやっと許されると、国民はまず新しい宮殿づくりから始めました。人々は命令もされないのに、老人を助け、子供を連れて、材料運びに精出し、昼夜兼行で競争して宮殿づくりに励みました。そのためまたたく間に宮殿ができあがりました。それ以来天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」とあがめるようになりました。(1)

 

 日本の天皇は、初代の神武天皇以来、国民を「おおみたから」と呼んでいます。国民は奴隷として搾取する対象ではなく、宝として大切にするという姿勢です。仁徳天皇は、その姿勢で政治を行い、『日本書紀』には、困窮者を救い、病者を慰問し、孤児や寡婦を扶助したことなども書かれています。

 仁徳天皇の御製として、『新古今和歌集』に次の歌があります。

 

  たかき屋に のぼりみれば 煙たつ

    たかみのかまどは にぎはひにけり

 

 この歌は日本人に広く知られ、江戸時代の川柳にも次のようなものがあります。

 

  低き家(や)の 煙は高き 御製なり

  生薪(なままき)の 煙りも御製の 中に入り

 

 川柳に歌われるまでに、理想的な天皇の姿が、国民の意識に定着していたわけです。

 このようにわが国では、天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛して、天皇と国民が家族的な感情で結ばれた状態を、理想としてきました。それは他の国々には見られない日本独自の伝統です。皇室が古代から今日まで絶えることなく続いてきた秘密の一つが、ここにあります。

 

 ルソーは、『社会契約論』の中で次のようなことを書いています。

 「人がもし私に随意に祖国を選べというなら、私は君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分はやむをえず民主主義を選ぶのだ」と。

 もしルソーが日本を知っていたならば、日本に移住したかも知れませんね。

 世界に比類ない日本の伝統に目を向けましょう。ページの頭へ

 

参考資料

(1)『古事記』『日本書紀』

 
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