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日本の心  人物(その1)

 

題   目

目  次

■01 聖徳太子に学ぶ政治・外交・文化のあり方

■02 尽くし人愛した聖人・中江藤樹

■03 日本人が好きなヒーロー〜水戸黄門

■04 庶民の中の日本精神〜石田梅岩

■05 対話による改革〜恩田杢と『日暮硯』

■06 17歳の奮起〜上杉鷹山

■07 上杉鷹山の師・細井平洲

■08 子供の手本だった二宮金次郎

■09 大義を世界に〜横井小楠

■10 国是を示し経綸を為す〜由利公正

■11 米百俵の精神〜小林虎三郎

 

人物(その2)もご覧下さい。

福沢諭吉、中江兆民、渋沢栄一、東郷平八郎、

明治の日本主義者、尾崎行雄、吉野作造、西岡常一

和の精神

国柄

君と民

日の丸

君が代

人物

武士道

歴史

文明と倫理

自然

世界の声

 

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聖徳太子に学ぶ政治・外交・文化のあり方

 

 日本の歴史には、立派な人物、優れた指導者が、数多く現れています。中でも聖徳太子(574-622)は、日本の国柄を明確にし、政治や外交や文化のあるべき姿を打ち立て、今日に至るまで大きな影響を与えています。

 

聖徳太子は、敏達3年(574)、用明天皇の皇子として生まれました。聖徳太子は死後につけられたおくり名で、本来は厩戸皇子(うまやどのおうじ)といいます。20歳の時に、皇太子となり、推古天皇の摂政となりました。推古元年(593)のことです。

推古天皇から政治を任された太子は、政治の改革に乗り出しました。その頃は天皇の跡継ぎのなどのことで、朝廷内部に争いごとが起こり、豪族同士がいがみ合っていたのです。また、太子が摂政となる4年前、西暦589年に、シナでは隋がシナを統一し、大帝国が誕生していました。隋は勢力を伸ばし、周辺の朝鮮などの国々を従えようとしていました。太子は、天皇を中心とした強い国家を作ろうと考えて内政の充実を図り、「和の精神」を理念として打ち立て、国家の骨組みを確立し、日本を豪族の連合国家から、天皇中心の中央集権国家にする橋渡しの役を果たしました。また、外交においては、隋に対して独立自尊の精神をもって毅然とした外交を行い、また外国文化を積極的に採り入れて自国の文化を豊かにしました。

 

太子は、推古8年(600)、隋との外交を結ぶため、初めて遣隋使を派遣したようです。国内には記録がありませんが、隋書には記載されています。

内政において、太子は皇太子の立場で天皇を補佐し、政治の基本を作り上げました。古代日本においては、政治(まつりごと)と祭事(まつりごと)は同じでした。太子は、日本古来の「神ながらの道」を根本とし、天皇を中心とした政治を行おうとしました。そのために重要なものが、官位十二階と十七条憲法です。

 

太子は推古11年(603)に冠位十二階を制定しました。徳・仁・礼・信・義・智に,それぞれ大徳・小徳というように大小をつけて12種の位をつくり、それを冠の色によって区別し、個人の能力や功労に応じて位を与えました。これは、官位は、豪族の中から氏(うじ)や姓(かばね)にかかわりなく、能力や功績によって授けるとするもので、豪族の支配する世の中から、公の官僚が政治を行う国にしようとしました。これが中央集権国家建設の基礎となります。

 

次に太子は、推古12年(604)に十七条憲法を制定します。十七条憲法は、日本で初めての成文憲法であり、また世界最古の憲法とも言われます。もっとも憲法といっても今日のような国家の基本法ではありません。むしろ官僚の職務心得であり、同時に人間の踏み行う道徳基準を示すものとなっています。しかし、その中に、わが国のあり方、国柄が表現されています。

まずその内容を簡約にて示すと、各条の大意は次のようなものです。(樋口清之著『逆・日本史』祥伝社より引用)

 

第1条 和を以って貴しとなし、忤(さから)うることなきを宗とせよ〔調和・協力の精神〕

第2条 篤く三宝を敬え〔仏教への尊崇〕

第3条 詔を承りては、かならず謹(つつし)め〔忠君の精神〕

第4条 群卿百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼をもって本とせよ〔礼節の精神〕

第5条 餐(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄てて、明らかに訴訟を弁(わきま)えよ〔贈収賄の禁止〕

第6条 (略)人の善を匿(かく)ことなく、悪を見てはかならず匡(ただ)せ〔勧善懲悪〕

第7条 人各(ひとおのおの)任(よさし)あり。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし〔職権濫用の禁止〕

第8条 群卿百寮、早く朝(まい)り晏(おそ)く退(まか)でよ〔遅刻・早退の禁止〕

第9条 信(まこと)は是、義(こころ)の本なり、事毎(ことごと)に信あれ。〔誠実の精神〕

10条 忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもえりのいかり)を棄てて、人の違(たが)うを怒らざれ。〔叱責の禁止〕

11条 功過(いさみあやまち)を明察(あきらか)にして、賞罰(たまいものつみなえ)かならず当てよ〔信賞必罰〕

12条 国司・国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ〔地方官の私税禁止〕

13条 諸(もろもろ)の任(よ)させる官者(つかさびと)、同じく職掌(つかさごと)を知れ〔職務怠慢の禁止〕

14条 群卿百寮、嫉妬あることなかれ〔嫉妬の禁止〕

15条 私を背きて、公に向(おもむ)くは、是臣(やっこ)が道なり〔滅私奉公〕

16条 民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良典(よきのり)なり〔農繁期の労役の禁止〕

17条 大事(おおきなること)を独り断(さだ)むべからず〔独断専行の禁止〕

 

 要点となるところを詳しく見ると、十七条に及ぶ憲法のキーワードは、「和」です。第1条は、「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まります。「和」を説く条文が、最初に置かれていることは、聖徳太子が、いかに「和」を重視していたかを示すものです。第1条には、次のようなことが記されています。

 「和は貴いものである。むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。人々が上も下も調和して、睦まじく議論して合意したならば、おのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない」。

 太子は、「和」という言葉で、単なる妥協や融和を説いているのではありません。「人々が調和すれば、どんなことでも成し遂げられる」という積極的な理念を説いているのです。

また、続く条文において、太子は「和」を実現するための心構えを説いています。すなわち、第10条では人への恨みや怒りを戒め、第14条では人への嫉妬を禁じ、第15条では「私(わたくし)」を超えて「公(おおやけ)」に尽くすように説いています。そして、最後の第17条には、「独り断ずからず。必ず衆とともに論ずべし」と記されています。つまり、「重大なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである」という意味です。これは第1条に通じるものです。

 

太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」でした。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。

 

第2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」とあります。聖徳太子は、仏教の興隆に力を入れました。しかし、太子は日本を仏教国にしようとしたのではありません。聖徳太子の父・用明天皇(第31代)について、『日本書紀』に「仏法を信じ、神道を尊ぶ」と書いています。「神道を尊ぶ」とは、日本の神々や皇室の先祖を敬うことです。太子もまた、神々や祖先の崇拝は当然の前提として、新たに仏教を取り入れようと言っているのです。敬神崇祖は、口にするまでもない当然の前提であって、それゆえ太子も憲法の中では、神道については特に触れていないわけです。

 太子伝の補註に、「神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華美、人智熟して後に起り、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは私情なり」と記されています。つまり、太子は、日本古来の神道を根本として堅持しながら、外来の仏教を積極的に採り入れたのです。同時に儒教・道教なども学んだうえで、日本固有の価値観である「和の精神」を思想として表現したのです。

太子は、仏教の受容において、固有の精神文化(神道)を保ちながら、外来の宗教(仏教)を摂取して共存させるという形を可能にしました。これは、わが国が外来文明を受容する際の型となりました。外国の文化でよいところは採り入れ、自国に合った形で活用する、また固有のものを保ちながら、外来のものを摂取して共存させる仕方です。

こうして日本文明は、文明の形成期にしっかりしたパターンが定式されたので、外来文化を積極的に採り入れても、自己の特徴を失うことなく、日本の独自性を維持していくことができました。それは聖徳太子に負っているのです。

 

次に国内的に重要なことは、天皇と公民の関係が樹立されたことです。聖徳太子は、天皇を中心としつつ豪族が政治権力に参加する政治制度を説いています。その理念が「和」なのです。十七条憲法は、第1条の「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まることは、先に述べたとおりです。以下の条文では私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を行うことを説いています。

「和」の理念の下に、天皇を中心とした公共の秩序を形成するには、「公」が「私」より尊重されなければなりません。太子の憲法第12条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おほみたから)、王(きみ)を以って主と」とあります。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。国土も人民も、主は天皇であるとし、国民統合の中心は、天皇であることを明記しました。太子は、さまざまな氏族が土地と人民を私有していたのを改め、国土も人民もすべて天皇に帰属するという理念を打ち出したのです。

第3条には「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とあります。太子は、豪族・官僚たちが天皇の言葉に従うように、記しています。そして、第15条には「私を背きて、公に向(おもむ)くは、是臣(やっこ)が道なり」とあります。すなわち、私利私欲を超えて、公共のために奉仕することが、官僚の道であると説いています。ここに日本における「公と私」のあり方が示されました。

 

太子は、天皇を中心として国民が統合された国のあり方を、理想として打ち出しています。国民は、豪族の私的な権力の下にあるものではなく、「公民」の立場となり、天皇を主と仰ぎます。一方、天皇は国家公共の統治を体現し、「公民」を「おほみたから」(大御宝)とする伝統が確認されます。この理念は、大化の改新において実現され、公地公民制が創設されました。それは、天皇―公民制というわが国独自の国家原理の樹立でした。シナの古代帝国の場合は家産制国家であり、国土・国民は皇帝の私物であり、官僚は皇帝に私的に仕える者でした。日本もシナに学び、中央集権的な家産制国家をめざしたように見えますが、シナでは帝国全体が皇帝の「私」のものであるのに対し、日本では国全体が「公」のものである点が違います。わが国では、天皇は公の体現者となり、人民は私的に所有されるのではなく、公民という公的存在になったのです。シナの皇帝が私利私欲で土地や人民を私有したのに対し、日本の天皇は公民を「おおみたから」と呼び、自らの徳を磨き、人民のために仁政を行いました。

太子の理想は、その後、形を変え、律令制として制度化されました。律令制国家は、「天皇と公民」の関係を、改めて構築するものでした。律令は、実に明治維新まで、千年以上もの間、わが国の基本法であり続けます。

 

さて、官位十二階と十七条憲法によって内政の充実を図った聖徳太子は、外交の面においても、画期的な活躍をします。

古代の東アジアでは、シナ文明が独り栄えていました。シナの皇帝は、シナこそが世界の中心国(=「中国」)であり、周辺諸民族は野蛮人だと見下していました。中華思想であり、これによる国際秩序を華夷(かい)秩序といいます。周辺諸国は、シナに貢ぎ物をして册封(さくほう)をうけていました。册封とは、シナ王朝の臣下となり、自分に「王」の位を与えてもらうことを意味します。東アジアは、こうした册封体制が支配しており、シナを核とした中心―周縁構造がつくられていました。

聖徳太子は、大国・隋を相手に気概ある外交を行い、シナ中心の国際秩序から離脱し、日本の独立を守り、独自の文化を築く道を開きました。

 

聖徳太子は、推古天皇16年(608)に、シナ大陸にできた大帝国・隋の煬帝に対して、国書を送ります。遣隋使には小野妹子が遣わされました。国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなき」という言葉が記されています。「日出づる処」とはわが国のことであり、その「天子」とは、日本の天皇のことを意味します。この国書を見た煬帝は「はなはだ喜ばしからず」と伝えられています。「天子」とはシナの皇帝一人とされていたからです。

さらに第2回の国書には、「東の天皇、西の皇帝に曰(もう)す」と記されています。太子は、もはや紀元1世紀以来使われてきた「王」という称号を用いませんでした。「王」は、シナの「皇帝」に仕える立場だからです。代わって「天皇」という言葉がここに初めて使われました。「天皇」の称号は皇帝と対等のものでした。これは、隋の煬帝の逆鱗(げきりん)に触れ、武力攻撃を招きかねないことでした。

しかし、聖徳太子は、シナの册封体制から離脱し、対等な国際関係を築こうとしたのです。これは画期的な外交方針の転換でした。そこには、大国をも恐れず、自己を卑下しない気概があったのです。こうした聖徳太子の毅然とした姿勢は、国家外交の基本を示しているものと言えましょう。また、日本が海に囲まれ、大陸からの攻撃が難しいという自然条件に恵まれていたことが、こうした外交政策を可能としたのです。

 

太子の意を受けて、大化の改新の後、天武天皇の時代に、「天皇」の称号が定着しました。また、「日出づる処」を意味する「日本」が、国名として用いられるようになりました。最初に、公式文書に「日本」という国名が現われたのは、大化の改新の後、大化元年(645)に、百済の使者に与えた詔勅とされます。その後、シナでは、咸亨元年(670)の『新唐書』に、「倭の字を悪(にく)み、更めて日本と号す」と記しています。ここに1世紀以来、「倭」と記されてきたわが国の国号は、「日本」という名称に公式に改められたのです。

 大化の改新では、年号も、我が国独自のものを使うことを決めました。それまでは、シナの皇帝が年号を定めると、他の周辺国はそれと同じ年号を使用していました。しかし、我が国は、こういう主体性のない状態を、よしとしなかったのです。

こうして聖徳太子の国家方針樹立によって、わが国では7世紀の初めに、君主を「天皇」と呼び、中頃には独自の年号を立て、また新たに国名を「日本」と定めました。その結果、我が国は政治的・外交的に、シナを中心とした政治秩序である册封体制から離脱しました。それによって、独自の文化を発展させ、一個の独立した文明を創造する基礎が固まったのです。

 

太子は、積極的に外国文化を採り入れました。太子は、繰り返し小野妹子を隋に派遣し、先進的なシナ文明に学ぼうとしました。ただし、自主的な姿勢を持ってこれを行うところに、太子の方針がありました。

太子が遣わした遣隋使には、留学生が一緒に大勢送られました。留学生たちは、帰国後、外国文化の知識をもとに、様々な形で、国家のために活躍します。

西暦618年に隋が滅び、唐が興りました。その4年後、推古30年(622)、聖徳太子は49歳の生涯を閉じました。

大化の改新(645)では、聖徳太子によってシナで学んだ留学生たちが太子の意思を受継いで活躍し、その後の国家建設においても、彼らの知見が生かされました。

 

聖徳太子による留学生の海外派遣が先例となり、明治維新の時にも、政府使節の海外視察や留学生の派遣が行われ、維新国家の建設に大きな成果を生み出しました。第2次大戦後、有色人種が白色人種の植民地支配から独立すると、先進国に多くの留学生を送り込みました。彼らは帰国後、祖国建設に活躍しました。これは、明治以来の日本のやり方を模倣したものです。それはまた、聖徳太子の政策にならったものともいえます。太子の留学生派遣には、世界史的な意義があったと言えましょう。

 

聖徳太子は、内政においては、天皇中心の国柄を明確にし、和の精神による公共秩序をつくり、神道を根本とした豊かな精神文化を創造し、外交においては、毅然とした独立自尊の外交を行いつつ、積極的に外来文化を摂取しようとしたと言えましょう。こうした太子の姿勢は、明治維新においても貫かれ、21世紀の今日においても日本国の一貫した基本方針たるべきものです。

私たちは、聖徳太子の姿勢に学び、自主性と創造性のある国家・文明を発展させたいものです。

 

参考資料

・拙稿「聖徳太子が文明化と自立を推進

 
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尽くし人愛した聖人・中江藤樹

2003.1.17

 

人間と動物の根本的な違いはどこにあるのでしょうか。親が子をかわいがるということなら、動物もやっています。それは本能だからです。しかし、子供が親を大切にし、年老いても面倒をみるのは、人間だけです。親に孝行をする点が、人間と動物を分けているわけです。実はそこに人間が動物より優れている点があるのです。

この孝行を道徳の根本とし、自ら実践した人に、中江藤樹がいます。藤樹は、わが国でただ一人、聖人と称えられたほどの人格者でした。

 

藤樹は江戸時代初期の人で、慶長13年(1608)、近江国小川村(現在の滋賀県安曇川町)に生まれました。9歳の時、米子藩の家臣であった祖父の養子となり、父母の元を離れて米子に行きます。翌年、藩主の国替えにより、祖父とともに伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住みます。15歳の時、祖父が死ぬと、藤樹は武士の身分に取り立てられます。その3年後、郷里の父が亡くなると、藤樹は近江へ駆けつけ喪に服した後、また大洲へ戻ります。藤樹は、この時、母を説得して大洲に連れて帰ることができませんでした。そのことを、藤樹は悔やみ続けることになります。

 

少年の日、11歳の藤樹は儒教の経典『大学』を読みました。そして、誰もが身分に関係なく聖人になれるという教えに感動し、自分も聖人をめざそうと心に決めました。なかでも『孝経』にある、孝行は人倫の第一であるという教えに、深い感銘を覚えていました。そうした藤樹は、母親と離れ離れのままであることに、強い自責の念を感じていました。27歳になった時、藤樹は、母親を見捨てたような状態で、天下国家を語っていることはできない、自分は何をおいても親孝行を実行しなければならないと決意しました。そして、母への孝行と自身の健康を理由に、大洲藩士の辞職を願い出ました。しかし、事はうまくはかどりませんでした。しびれを切らした藤樹は、ついに藩主の許可を待たずに脱藩し、近江へ帰ってしまいます。

親孝行のために武士の身分を返上した藤樹は、老母を養うため、近江でわずかな金で酒を買い、商売を始めました。また刀を売り払って資金を作り、村民を相手に金貸しをしました。その後、生計の一助にと医学を学び、医師として人々の病を治療するようになりました。そのかたわら、藤樹は私塾を開き、大洲藩から自分を慕ってやってきた武士や、近くの村人に学問を教えました。藤樹の人柄や生き方や思想は、多くの人々に感化を与えたのです。

 

藤樹の門人に大野了佐という男がいました。了佐は生まれつき愚鈍のため、武士としてはやっていけないと父親は行く末を案じていました。それを知った了佐は、せめて医者になりたいと思い立ちました。了佐の覚悟を聞いた藤樹は、その熱意に感心して、何とかしてやろうと決心しました。藤樹はまず了佐に短い語句を二、三句教えてみたのですが、了佐はなかなか頭に入りません。朝から200回も同じ事を教え、ようやく覚えて読めるようになったかと思うと、夕方には忘れてしまいます。日々この繰り返しですから、藤樹は精も根も尽き果てるばかりでした。しかし、それでも了佐は教えを乞い続けます。その熱意に動かされた藤樹は、了佐のために医学書を書き、それを少しづつ読んでは説明して覚えさせました。おかげで了佐は一人前の医者となることができました。そして、家族を養うこともできるようになったのです。

 

 藤樹は初め朱子学を学びました。朱子学では「性即理」とし、「理」は宇宙の絶対法則を意味します。そして、理に合った生き方をするために、経典の教えや規範を厳守するように説きます。しかし、藤樹は朱子学に満足できず、疑問を感じるようになりました。そして、自分の内なるものを信じて進むことにします。

自己完成をめざして努力を続ける藤樹は、37歳の時、王陽明の『陽明全書』と出会いました。陽明学は「心即理」とし、心そのものが理であり、心のほかに理はないとします。そして、人間の心に備わる生来の道徳的直観力を「良知」とし、この「良知」によって物事の是非善悪を判断して行動することを説きます(「致良知」)。

王陽明の思想に感激した藤樹は、自身の思想を一層深めることができました。そして、道徳的規範は自己の外にあるのではなく、内に求めるべきで、心の自発にあることを悟り、自らの心学を確立します。このことにより、藤樹は、日本陽明学の祖ともいわれています。

 

藤樹の思想は、「孝」を中核においています。そこには少年の日に触れた『孝経』の影響が色濃く表れています。すなわち、孝行を人倫の第一とする考え方です。

朱子学を批判して、厳しい内省を続けた果てに、藤樹は、人の心に備わる「理」を「孝」と表現します。藤樹において、「孝」は宇宙の根本原理とされます。そして、「孝」が人間生活に現れる形を、藤樹は「愛敬」と呼びます。「愛敬」の「愛」とは「人々が親しく睦まじく交わること」、「敬」とは「下は上を敬い、上は下を軽んじないこと」という意味です。いわば、縦のつながりと横のつながりの両方において、人と人が愛し合い、助け合う姿です。それが「愛敬」であり、宇宙的な原理、「孝」の表れだとするのです。

そして藤樹は説きます。「人間の内面には、天下に二つとない霊宝がある。この宝は、天において『天の道』、地においては『地の道』、人においては『人の道』となる。この霊宝を、昔の聖人は『老いた親を子が背負う姿』をかたどって『孝』と名付けたのである」と。(『翁問答』)

 現代人にとって、こうした「孝」の思想はなじみにくいかもしれません。それならば、「孝」を「愛」に置き換えてみると理解しやすいでしょう。親子の「愛」を宇宙の原理にまで高め、人間の共同性の根本においたのが、藤樹の思想であるわけです。キリスト教のように、無差別的で観念的な隣人愛を説くのとは違い、現実的な親子の愛を、身内から周囲に押し広げるところに、東洋的また日本的な特徴があります。自分の親を大切にすることを実践せずして、遠くの人への愛を説くのではないのです。

 

藤樹は、体が弱く喘息もちでした。彼の生涯は、41歳で幕を閉じます。その短い人生において、藤樹は母を愛し、妻子を愛し、門人を、また村人を愛しました。そんな藤樹は、いつしか「近江聖人」と称えられるようになりました。

「人は誰でも生まれつき美しい心を持っている。心を磨き修養に努めれば、誰でも立派な人になれる」と藤樹は説き、実践しました。こうした思想は、後の石田梅岩や細井平州や二宮尊徳にも見られるものです。封建的な身分制を超えた彼らの人間平等の思想は、庶民における日本精神を豊かなものにしていったのです。(1)

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(1)石田梅岩細井平州二宮尊徳の項目をご参照下さい。

参考資料

    『日本の名著 11 中江藤樹・熊沢蕃山』(中央公論社)

    『人と思想 45 中江藤樹』(清水書院)

    滋賀県安曇川(あどがわ)町のホームページ

http://www.biwa.ne.jp/~adogawa/

郷土の偉人・藤樹を紹介しています。

 
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日本人が好きなヒーロー〜水戸黄門

 

 「このお方を、どなたと心得る」−−ご存知、天下の副将軍・水戸黄門は、テレビや映画で、悪を懲らしめるヒ−ロ−として描かれています。日本人に最も人気のある歴史的人物の一人です。

 

 水戸黄門とは、水戸藩主・徳川光圀のことです。「黄門様」と呼ばれたのは、水戸藩主に朝廷から与えられた「中納言」という官職によります。「中納言」のシナ風の呼び方が「黄門」だったからです。

 さてこの黄門様ですが、少年時代は不幸な生い立ちのためか、ひどい暴れん坊で、ごろつきとケンカをしたり、辻斬(つじぎ)りまでしたとか…。「あれでも、家康様の孫かと皆が後ろ指を差しておりますぞ!」と、養育係がいさめるほどでした。

 

 しかし、18歳の時、光圀は、シナの歴史書『史記』を読んで感動します。そして『史記』のような歴史書を編纂しようと思い立ちます。30歳となった時(1657年)から、その歴史書『大日本史』の編纂を始めます。歴史認識が、暴れん坊を変えたのです。

 当時は、「日本はシナの呉の国から分かれた国である」と書かれた『本朝通鑑』が広く読まれ、それを疑問に思わないようなシナ崇拝の時代でした。現代の日本に似ていなくもありません。

 「放っておくと日本はシナの属国ということになってしまう。日本の正しい歴史を明らかにしなければならない」。

 そう考えた光圀は「彰考館」を設立し、優秀な学者を集めて、史料調査を行います。「彰考」(しょうこう)とは、「彰往考来」(過去を明らかにして未来を考える)という言葉に由来します。なんと光圀は、藩の収入の4分の1をもこの事業につぎこみました。それほど、事の重要性を感じていたのです。「正しい歴史観が、日本人の誇りを取り戻す。なんとしても…」。

 しかし、光圀は志半ばにして73歳で亡くなります。『大日本史』の編纂は、その後250年もの間続けられ、明治39年(1906)についに完成しました。これほど壮大な歴史編纂は、世界にも希です。

 

 今日の我が国でも、歴史観の見直しが急務となっています。歴史の研究とは、過去の事実を明らかにするばかりではありません。国の本来の姿を明らかにするとともに、国の将来のあり方、理想を掲げるものでもあります。同時に歴史上の人物の生き方を鏡として、自己のあり方を正すこともできます。

 

 『大日本史』は、膨大な史料を調査・研究することを通じて、日本独自の歴史を明らかにしていきました。

 シナは易姓革命の国であり、王権が何度も交代しています。しかし、日本には革命がなく、古代から現在まで一貫して皇室が続いています。こうした歴史的事実によって、日本の国の本来の姿が確認されました。

 『大日本史』は、南北朝期に関し、南朝正統論を説きました。光圀は楠木正成の尊皇の精神を称え、正成ゆかりの地・湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ墓碑を建てました。

 『大日本史』の研究は、朝廷と幕府のあるべき姿を明らかにし、幕藩体制の矛盾を浮かび上がらせました。その結果、幕末の王政復古の運動を導く役割を果たしました。

『大日本史』を基に書かれた頼山陽の『日本外史』は、幕末のベストセラーとなり、日本人に自国の歴史を自覚せしめました。また『大日本史』編纂を通じて生まれた水戸学は、日本の国柄を明らかにし、西郷隆盛・吉田松陰などの草莽(そうもう)の志士たちを、尊皇攘夷の運動へと発奮させました。

 こうして『大日本史』は、幕末の日本が、西洋列強のアジア侵略の中で、民族の独立を守り、明治維新を成し遂げる原動力の一つとなったのです。光圀の手がけた『大日本史』こそ、後の日本の歴史を変えた、偉大な歴史書と言えましょう。

 

 さて、水戸黄門と言えば、「諸国漫遊記」というイメージがありますが、光圀自身は、諸国の旅はしてはいません。名執権・北条時頼(時宗の父)の実話と、光圀のイメージが結びついたもののようです。

 おともの助さんは佐々介三郎、格さんは安積覚兵衛(澹泊・たんぱく)という実在の人物。彰考舘で光圀に仕えた家臣です。佐々介三郎たちは、史料を求めて何度も全国各地を旅しました。その話が、明治に入り、講談の話として脚色されたのです。そして、水戸黄門は、弱き助け、強き(悪)をくじくヒーローとして描かれ、今日も庶民に愛されているのです。ページの頭へ

 
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庶民の中の日本精神〜石田梅岩

2002.1.23

 

台湾には今も「日本精神」という言葉が残っています。台湾の言葉で「リップンチェンシン」といいます。台湾では「日本精神」は、正直、勤勉、滅私奉公、向学心、礼儀正しい、約束事を守るなどを意味するそうです。(1)

 「日本精神」は、わが国の国の初めから、長い歴史の中で成長してきた心です。中でも武士道は、日本精神の精華ともいわれ、よくその特徴を表しています。しかし、日本精神とは、武士道に表れた心ばかりではありません。日本精神は、庶民の中でも豊かに成長してきました。たとえば、江戸時代の石田梅岩とその弟子たちは、商人の立場から心学を説いて、庶民の心を育み、大きな影響を与えてきました。

 

今日の日本人は、自分ではそれと意識していなくとも、どこかで神道・儒教・仏教の考え方や慣習を身に付けています。これは江戸時代に熟成したもので、徳川260年のうちに、神道・儒教・仏教が融合し、特定の宗教を超えた心の文化が生み出されたのです。また、日本人は基本的に、正直・勤勉・奉仕をよいことと考えています。これは、日本人の常識ともいえます。また、日本精神の特徴ともなっています。

こうしたわが国の精神文化の来歴を探ると、ルーツの一つとして浮かび上がってくるのが、梅岩らの心学なのです。

 

 心学の始祖・石田梅岩は、貞享(じょうきょう)2年(1685)に丹波国桑田郡東懸村、現在の京都府亀岡市の農家に生まれました。11歳の時、京都に出て商家に住み込み、丁稚(でっち)として奉公するようになりました。22歳からは、黒柳という呉服商に勤めました。厳しい仕事の毎日でしたが、梅岩は暇があると書物を読んで勉強しました。神道、儒教、仏教などに関する本でした。また、儒者の話を熱心に聞いて歩きました。そして、45歳の時、黒柳家の番頭をやめて、自分の家で講釈をするようになりました。

 

 「聴講無料、紹介がなくても結構、興味のある方は遠慮なくお入りください」。梅岩は家の前に、こんな張り紙を出しました。講釈を始めた頃は、出席者はたった一人という状態でした。当時の人々には、商家の番頭がある日突然、人に向かって道を説くとは、思いもつかないことでした。しかし梅岩は、難しい話をするのではありません。庶民の言葉で、生活に根ざした思想や道徳を説くのです。そして聴講者と問答をしながら講釈を進めていきました。学者や僧侶にはない、分かりやすい話が評判を呼び、しだいに聴衆は増えていきました。

 

心学は、宗教ではありませんが、教えの中には神道・儒教・仏教が採りこまれています。これら三教を融合した三教一致の道徳を説くのが、心学といえます。梅岩は宗教・思想を広く学び、それを現実に当てはめて、実際生活に合うところを摂取しました。生活の役に立たない観念は、採り入れません。この態度は商人であるがゆえの現実主義ともいえますし、日本的な合理主義ともいえます。観念的でなく現実的であり、生命と生活の実際に即しています。

 

梅岩の生きた江戸時代は士農工商の身分があり、商人はその最下位でした。武士階層から、卑しい職業として蔑まれていたのです。しかし、梅岩は、「商人(あきびと)の売買するは天下の相なり」と言います。商人がものを売買することは、世の中の役に立つことであるというのです。商人がみな農民や職人になれば、ものを流通させる者がなくなります。それでは、社会生活が成り立ちません。梅岩は、貨幣経済の発達を踏まえ、商人の立場を主張したのです。時節は元禄のバブルが過ぎ去った頃でした。

  

 梅岩は 「商人の道と云うとも、何士農工の道に替(かわ)ること有らん。孟子も、道は一つなりとの玉。士農工商ともに、天の一物なり。天に二つの道有らん」と言いました。武士は主君に仕え、国を富ませるのが仕事です。農民は農業に励むのが仕事、職人はものを作るのが仕事です。商人はものを流通させ、物価を下げ、人々の生活を豊かにするのが仕事です。すべての人は、自分の能力にしたがって仕事をしており、それに対して報酬を受けるのは当然だと梅岩はいいます。暴利をむさぼらない限りは、どれが正しく、どれが不正ということはない。どの職業が上というわけでもない。どの人も、自らの職業によって社会の役に立っているのです。梅岩は、このように主張しました。

 

 しかし、彼にとって最も重要だったこと、それは、利益の追求ではありませんでした。梅岩は商人の基本的な役割は、社会に仕えることだと考えていたからです。

梅岩は、自分の地位を私欲のために利用する人ではありませんでした。「広く人を愛し、貧窮の人をあわれみ…」と説いた梅岩は、洪水や飢饉が起きた時は苦しんでいる人々のために慈善活動を組織しました。町人によるボランティア活動です。

 梅岩の生活は質素でした。彼の死後残っていたのはわずかな物品だけでした。財産のほとんどを寄付してしまっていたからです。

 梅岩は、利益より徳を養うことを目指しました。いわば商業の倫理が、そのまま人間の倫理となるような道を説き、実践したのです。またそこには、自利と利他が一致する自他一如・共存共栄の精神が表れています。

こうした梅岩の思想は、日本的な経営哲学の原形ともいえるものです。すなわち、「論語と算盤」の一致を説いた明治の渋沢栄一や、「水道の哲学」を説いた昭和の松下幸之助の先駆を、梅岩に見ることができるでしょう。

 

さて石田梅岩の死後、彼の教えは弟子の手島堵庵、柴田鳩翁に引き継がれました。彼らの教えを石門心学といいます。彼らは、心学の教えを「道話」と呼びました。「道を説く話」という意味です。道というのは、天地人を貫く道理・法則のことです。

梅岩の弟子たちによって「道話」の聴講者は著しく増えました。特に梅岩の孫弟子・中沢道二は、心学をわかりやすく説き、各地に広めました。聴講の地域は28カ国、69都市にまたがりました。商人だけでなく武士までも教えを受けるようになり、全国65の諸藩から大名や家老も相次いで門をくぐりました。こうして心学は四民全体に広まり、それが日本人の常識を形作っていったのです。

 

 心学では、正直・勤勉・奉仕の大切さを教えます。

キーワードの第一は、「正直」です。これはただウソをつかないとか、人を欺かないということだけではありません。人間の本心そのままの状態を意味します。

 梅岩のたとえによれば、赤子が自ら行なっているのは呼吸だけですが、呼吸は自分の意志ではなく、意志を超えたものによって、呼吸させられているのです。それが赤子を生かしているのです。そこに梅岩は、人間を生かしている宇宙の法則を見出します。同時にまた、宇宙の法則にそって生きている人間の姿を見ます。そして「赤子は聖」と言い、そこに人間の本心を見るのです。その本心のとおりにあることを、梅岩は「正直」といいます。現代の言葉でいうと「素直」という言葉に、最も近いでしょう。そして、「心学」とは、本心どおりに素直に生きることを学ぶ学問といえます。

 

 心学の残りのキーワードは、「勤勉」と「奉仕」です。実践においては、梅岩は、勤勉と奉仕の大切さを説きます。商人が一生懸命、勤勉に働くと利益が得られるわけですが、そこで梅岩は私欲を自制せよといいます。そして倹約を実行し、経費を減らし、ひたすら消費者に奉仕することを心がけよと説きます。欲を出してはならない。貪欲になると道を外れるから、必ず倒産する。「奉仕に明けて、奉仕に暮れる」なら、必ず栄えると彼は説くのです。

 

 心学には、日本人が庶民にいたるまで外国思想をよく消化し、すっかり自分のものにしている例を、見て取れます。シナに生まれた儒教には、「修身斉家治国平天下」という言葉があります。四書の第一である『大学』の一節です。身を修め、家を斉(ととの)え、国を治めて、天下を平らかにするという意味です。本来これは君子つまり為政者の道でした。武士階層にはこの道が当てはまります。ところが梅岩は、身分が低いとさげすまされていた商人も同じ道を実行すべきだと説きました。

 

 「倹約の事を得心し行ふときは、家ととのひ国治り天下平なり。これ大道にあらず。倹約をいふは畢竟身修め家ととのえん為也」

 

 私欲を抑え、倹約をすることは、身を修めることだ。それによって商家という家を斉える。店で働く人々の生活を保障する。そして商売を通じて、社会に奉仕する。そうすれば、社会全体が豊かになり、国が栄え、世の中が平和になる。梅岩は、商人の道も、修身斉家治国平天下の大道だと誇り高く言うのです。それを広げて、さらに次のようにも説いています。

 

 「天より生民を降すなれば、万民はことごとく天の子なり。故に人は一箇の小天地なり。小天地ゆへ本(もと)私欲なき者也。このゆへに我物は我物、人の物は人の物。貸したる物はうけとり、借りたる物は返し、毛すじほども私なくあるかりにするは正直なる所也。此正直行なわるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし。我願所、人々ここに至らしめんため也」

 

 天地を父母として生まれた人間が、本心どおりに素直に生きれば、人々は和合し、世界人類はみな兄弟のようになる。梅岩はそういう気宇壮大な願いを抱いて、庶民に「道」を説いたのです。

 

最初に、台湾では「日本精神」は、正直、勤勉、滅私奉公、向学心、礼儀正しい、約束事を守るなどを意味すると書きました。こうした、ごく当たり前の道徳は、庶民の日常の中で育まれ、受け継がれてきたものです。そして梅岩らの心学に見るように、江戸時代の庶民の中で成長した日本精神が、近代日本の発展の力となったのです。ページの頭へ

 

(1)拙稿「日本人よ、しっかりしなさい」をご参照下さい

参考

・心学参前舎のホームページ

http://www1.neweb.ne.jp/wb/sanzensha/

・山本七平著『日本資本主義の精神』(祥伝社)

 
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■対話による改革〜恩田杢と『日暮硯』

2003.5.14

 

 17世紀後半、わが国は元禄文化の繁栄を迎え、武家社会にも華美享楽の風潮が広がりました。ところが、18世紀に入ると、元禄の栄華はバブルのようにはじけ、どこの藩も財政の窮乏に直面しました。信州松代藩の真田家10万石もまた、例外ではありませんでした。

 そのうえ、松代藩では、千曲川と犀川(さいがわ)のたび重なる氾濫に苦しめられていました。耕地の3分の1ほどが荒廃して、年貢収入は大幅に落ち込み、藩財政は破綻寸前でした。足軽の出勤拒否や大規模な百姓一揆が発生するに至っていました。そのようなとき、藩の財政再建を命じられたのが、恩田杢(おんだ・もく)です。

 

恩田杢はまだ41歳であり、家老とはいえ末席でした。そんな自分に藩の財政再建を命じられた杢は、誓言を立てました。飯と汁よりほかは口にせぬこと。決して嘘を言わず、一度取り決めたことは必ず実行すること。杢は、この二つを、改革に専心する覚悟の証として宣言しました。

藩財政を立て直すためには、税収の回復と、負債の整理が不可欠です。この課題に取り組むため、杢が行ったことは、全村から領民の代表を松代に集め、対話集会を催すことでした。そして話し合いを尽くして領民の信頼と支持を得て、立て直しを成し遂げました。

 この恩田杢の改革を伝えるのが、作者不詳の書、『日暮硯(ひぐらしすずり)」です。本書は改革のあり方の理想を記すものとして、江戸時代以来、今日まで読みつがれています。

 

恩田杢が生きたのは、士農工商の身分制社会でした。そうした社会において、武士と領民代表が集会を行い、話し合いを通じて問題を解決するという方法は、前代未聞のことです。

『日暮硯』によると、宝暦8年(1758)2月27日の集会において、杢は、今後の政治において、決して嘘を言わないことを宣言します。そして、杢は領民代表たちに次のような提案をします。第一に、役人に対する贈答の類を一切なくし役人にも賄賂をとらせないようにすること、第二に年貢催促のために村々に足軽を派遣することをやめること、そして第三には雑税を整理・廃棄することなどです。

「さて、次の段がよくよく相談せねば相成らざる事なり。皆よく聞いてくれよ」――杢は財政再建の核心となる租税問題に言及します。杢はここで次のような要請をします。それまでの乱脈な租税徴収をいったん御破算とし、未納分も先納分も全部帳消しとしたうえで、税制の出直しをしたい。そのためには年貢を先納した領民にも、もう一度、本年度の年貢を納入してもらわなければならない、と。これが財政の再建が成るか否かの核心であると、杢は領民に頼み入れました。

この杢の頼みに対して、領民代表たちの反応は次のようなものでした。「あの足軽共の在方(ざいかた)へ出で荒びるには困り果てたるに、向後(きょうご)一人も出すまじくとの仰せなれば、こればかりにても有難きなるに、以後諸役までも御免との事なれば、向後倍金、二年分ずつ御年貢差し上げ候ても苦しからず候」。足軽が来て粗暴な振る舞いをするので困り果てていましたが、今後は一人も派遣しないというお話ですから、これだけでも有り難いのに、そのうえいろいろな役務もなくしていただけるというのであれば、これからは倍の年貢を納めても苦しくありません、と言うのです。

杢は、領民の実情をよく把握し、その心に響く改革案を提案したのでした。それゆえ領民代表たちは一同に喜んで、杢の提案を全面的に受け入れたわけです。こうして松代藩の財政問題は解決を見ることができたと、『日暮硯』は伝えています。

 

『日暮硯』の内容は事実だったのでしょうか。武士道の研究家である笠谷和比古氏は、本書の記述と、実際の恩田杢による改革の経緯とを、松代藩の藩政文書に照らして比較検討しました。その結果、『日暮硯』は大局において改革の実態をよく描いていることが確認されました。対話集会、交換条件つきの新制度の提案、時限措置と話し合いによる更新、見直しと異議申し立ての機会等は、史実であることが明らかにされました。

 

 フランス革命やアメリカ独立革命より前、18世紀半ばの日本で、このようにデモクラティックな民衆参加の政治が実現されていたことは、驚くべきことです。恩田杢に10年ほど遅れて米沢の改革を手がけた上杉鷹山にも、同様の政治が見られます。これらは、わが国には日本的デモクラシーとでもいうべき伝統があることを示しており、日本人が誇りにすべきことです。(1)

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(1)拙稿「17歳の奮起〜上杉鷹山」をご参照下さい。

参考資料

・笠谷和比古校註『新訂 日暮硯』(岩波文庫)

・笠谷和比古著『「日暮硯」と改革の時代』(PHP新書)

 
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17歳の奮起〜上杉鷹山

2001.3.28

 

 かつてアメリカの大統領ジョン・F・ケネディが記者会見の時、「尊敬する日本人は?」と質問され、「ヨーザン・ウエスギ」と答え、記者団をびっくりさせました。ケネディはおそらく、内村鑑三の名著『代表的日本人』で、上杉鷹山を知ったのでしょう。

 上杉鷹山は、江戸時代の米沢藩主です。米沢藩(現在の山形県)を再興させた名君として知られています。宝暦元年(1751)7月20日、日向国(宮崎県)高鍋藩に生まれた鷹山は、母春姫が上杉家の血筋であったことが縁となり、10歳の時に、上杉重定の養子となりました。

 

 米沢藩は、先祖に戦国時代の英雄上杉謙信を戴く、天下に聞こえた名藩でしたが、長年失政を続けた結果、深刻な財政難に陥っていました。そんなとき、第9代米沢藩主となったのが、鷹山でした。

 米沢に入った鷹山は、ただちに藩の窮状を理解しました。そして、藩政改革に着手し、藩の復興に取り組みました。 鷹山はそのとき、わずか17歳でした。今の高校2〜3年生です。そんな若さで一国の運命を担った鷹山は、どんな思いだったでしょう。それは彼が詠んだ和歌に表されています。

 

 受次(うけつぎ)て 国の司(つかさ)の 身となれば

                 忘るまじくは 民の父母

 

 つまり、鷹山は、君主というものは「民の父母」のようでなくてはならないと考えました。そして親が子を思う心をもって、領民のことを思い、国を立て直そうとしたのです。

 

 しかし、鷹山は、よそ者の若造でした。そんな新領主に対して、激しい反発や抵抗が起こりました。老臣たちは上杉家の過去の栄光やしきたりにとらわれていました。しかし、改革に情熱を燃やす鷹山は、自分の考えを理解する臣下を思い切って重用し、経済再建を目指しました。 鷹山の心に燃える火は、一人また一人と、藩士たちの心に、火を灯してゆきました。

 鷹山は自ら質素倹約をすることを誓いました。殿様でありながら、一汁一菜の食事です。さらには、武士でありながら、刀を鍬(くわ)に持ち替えて働きました。そして、積極的な殖産興業政策を実施し、田畑の開墾、桑・楮(こうぞ)・漆などの栽培、養蚕・製糸・織物・製塩・製陶など新産業の開発に力を入れました。

 

 そんな鷹山には、14歳のときから師とする人物がいました。それが、儒学者・細井平洲です。「民の父母であれ」というのも、平洲から教わったことでした。

 鷹山は平洲の教えに学び、改革の根本方針を「三助」としました。すなわち、自ら助ける「自助」、近隣が互いに助け合う「互助」、藩が手を差し延べる「扶助」です。そして藩主が自ら先頭に立って「三助」を実行したことで、財政危機に瀕していた米沢藩は、立ち直りました。奇蹟的な大改革が成し遂げられたのです。

 すると鷹山は35歳の若さで隠居し、治広に家督を譲ります。その時、治広に贈ったのが「伝国の辞」です。これは、国を治めるための心得を記したものです。

 

一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物にはこれ無く候

一、人民は国家に属したる人民にて、我私すべき物にはこれ無く候

 一、国家人民の為に立ちたる君にて、君の為に立てる国家人民にはこれ無く候

 

 この言葉は、現代の民主主義の精神にも通じるものです。ケネディ大統領が上杉鷹山の名を挙げたのは、こういう精神に感銘を受けたからでしょう。

 

 鷹山は文政5年(1822)、72歳で死去しました。

 「成せばなる成さねばならぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり」−−これは鷹山の言葉です。彼の偉業は、17歳の奮起に始まったのです。

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参考資料

・童門冬二著『上杉鷹山の経営学』(PHP文庫)

・同上『小説 上杉鷹山』(学陽書房)

 
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■上杉鷹山の師・細井平洲

2001.4.11

 

 バブルの崩壊後、平成大不況となり、厳しいリストラと就職難の時代が続いています。そんな今、注目されているのが、上杉鷹山です。鷹山は江戸時代に、逼迫した財政危機を克服した名君として知られています。この鷹山には、細井平洲という師がありました。鷹山の治世は、平洲の教えを忠実に実行したものであり、平洲なくして鷹山は考えられません。

 

  細井平洲は、江戸時代最高の学者の一人です。その教えは、鷹山のみならず、吉田松陰・西郷隆盛・二宮尊徳等にも多大な影響を与えました。

 

 平洲は、享保13年(1728)に尾張国平島村(現在の愛知県東海市荒尾町)で生まれました。京都・長崎で学問を修め、24歳の時、江戸へ出て嚶鳴館(おうめいかん)という塾を開きました。その名声は全国に伝わり、西条藩(愛媛県)・人吉藩(熊本県)・米沢藩(山形県)等に迎えられました。53歳の時には、御三家の筆頭・尾張藩(愛知県)に招かれ、藩校・明倫堂の督学(学長)にまでなっています。

 

 これほど偉い学者でありながら、机上の理論ではなく、現実に即した実学を重んじるところに、平洲の特徴があります。また、平洲が教えたのは、武士だけではありません。町民や農民にもわかりやすく学問を広めました。平洲が村々を巡って講話をすると、何千人もの聴衆が集って話を聞いたといいます。封建時代にありながら、生まれや身分・性別に関わりなく、誰にでも道を説いた平洲は、まことに仁愛深い人でありました。

 

米沢藩主・上杉鷹山との出会いは、平洲の名を不朽のものとしました。その時、平洲は37歳、鷹山は14歳でした。

 平洲は、鷹山に君主のあるべき姿を教えたのです。「君主というものは、人の父として、母として、常に自分の藩の人々のことを考え、人々の暮らしと心を豊かにしていかねばなりません。米沢藩を立派な藩に立て直すためには、まず、あなたご自身が、手本を示さなくてはなりません。そして、藩の改革をするために優れた人物を育てることが大切です」と。

 平洲に学んだ鷹山は、わずか17歳で米沢藩主となりました。そして崩壊寸前の藩を再建するため、改革に全力を尽くしました。鷹山は、平洲の教えを実行し、藩を挙げての努力が行なわれました。その結果、米沢藩の財政は立て直され、他藩の手本となるほどになってゆきました。

 

 平洲が江戸から、はるばる米沢を訪ねたのは、そのころです。鷹山は、久しぶりに恩師に会えると思うと、居ても立ってもいられません。城を出て、10キロほどもある普門院という寺まで、出迎えました。藩主が自ら出迎えるなど、異例のことです。

 鷹山は「先生、お元気でしたか」と、思わず駆け寄り、涙が流れ落ちました。「ようこそいらっしゃいました。先生、どうぞこちらへ、ご案内しましょう」。鷹山は、13年ぶりに再会した平洲に深く礼をし、心からの尊敬と感謝を表しました。師弟の心は、年月が過ぎても変わることなく、深く結ばれていたのです。

 今でも、米沢の普門院のある関根という場所は、先生を敬うことの尊さを教えた「敬師の里」として、知られています。

 

 平洲は、また出身地の愛知県東海市でも大変尊敬されています。東海市は、平洲没後200年となった西暦2000年、平洲の偉大な業績から「21世紀の人づくり、心そだて」のヒントを探ろうと、「平洲サミット」・「平洲賞(エッセイコンテスト)」・「嚶鳴シンポジウム」等を展開しました。郷土の偉人を称え、また青少年にも教育している同市の姿勢もまた、素晴らしいものです。ページの頭へ

 

参考資料

 (1)童門冬二著『上杉鷹山と細井平洲』(PHP文庫)

 (2)平洲記念館のホームページ

 http://www.medias.ne.jp/~heishuu/index_001.htm

   平洲の伝記マンガ(パソコンで見られる楽しい紙芝居です)

 http://www.atnet.ne.jp/~nagaura/kamisibai/sld001.htm

 
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■子供の手本だった二宮金次郎

2002.2.20

 

 かつてわが国の小学校の多くには、子どもたちが手本とすべき人物の銅像が、建っていました。背中にまきを背負い、本を読みながら歩いている少年の像です。その人物が、二宮金次郎すなわち二宮尊徳です。

 

 二宮尊徳(17871856)は、神奈川県小田原市栢山(かやま)の裕福な農民の子として生まれました。しかし、尊徳が5歳のとき、そばを流れる酒匂川(さかにがわ)が氾濫し、一家の田畑はひどい被害を受けました。田畑の修復に疲れた父は病気がちとなり、幼い尊徳は父の代わりに、川の堤防工事で働きました。しかし、子どもでは一人前の働きができません。申し訳なく思った尊徳は、人知れず皆のわらじ作りに精を出しました。また、工事の賃金で松の苗を買い、洪水が来ないようにと土手に植えました。

 14歳のとき、終に父が亡くなりました。残された母と幼い弟たちのために、尊徳は朝早くから田畑を耕し、まきを拾い、夜にはわらじ作りに精を出しました。そんな尊徳は、貧しさのため寺子屋へも行けませんでした。そこで、仕事の合い間に『童子教』から『大学』『論語』などを独学しました。なんという勉学意欲でしょう! 少年金次郎の銅像は、このころの姿です。

 悲しいことに尊徳が16歳のとき、母も亡くなってしまいました。しかもその年の夏には、再び川が氾濫し、一家離散となりました。おじの家に引き取られた尊徳は、再起を目指しました。日々田畑の仕事に従事するかたわら、自分で菜の花を栽培して、種から油を搾り、それを明かりとして、夜は読書をしました。また、荒地を起こして、捨ててあった苗を拾って植え、2年で20俵を収穫しました。こうした努力と倹約によって、尊徳は田畑を少しずつ買い戻し、20歳代で生家の再興を果たしたのです。

 

 尊徳は、その後、小田原藩の家老服部家に奉公することになりました。尊徳は、主人の息子が儒学者の家に勉強に行くお供をし、庭先で先生の講義をじっと聞いて勉強しました。そのうちに先生も尊徳に気付き、指導してくれるようになりました。やがて服部家でその非凡さを認められた尊徳は、主家の財政の建て直しを成し遂げました。それが評価され、藩主大久保忠真(ただざね)により、桜町領(栃木県二宮町)の復興を命じられ、粉骨砕身の努力により、10年がかりでこれに成功しました。評判はさらに幕府に及び、老中水野忠邦より、印旛沼の分水掘削、日光の村々の再興などを命じられました。

 

 尊徳の生きた時代は、江戸時代の末期です。当時の農村は、悲惨な状態にありました。平和な時代が長く続き、人々の生活はぜいたくになっていました。その怠惰な風潮は農村にも及び、わが国全体の農地収入は3分の2に減じたといわれています。飢饉も次々に起こりました。その結果、貢租の重圧に耐えられなくなった農民は、次々と離散し田畑は荒廃しました。そのような時代に、尊徳は農村の再建、農民の救済に、懸命に努力しました。実に、約600もの藩や郡村を再興し、多くの人々を飢餓・離散から救いました。

 

 尊徳の思想の根本には、独自の人間観があります。尊徳は、人間と自然、人間と動物の違いをこう説きます。自然の道、「天道」は、人間が何もしなくても行われますが、人間は働かなければ生きてゆけません。勤労が根本なのです。また、動物は争い、戦い、奪い合いますが、人間は助け合い、融け合い、譲り合うことができます。尊徳は、これを人の道、「人道」といいます。世の中をよくするためには、「人道」に徹するほかはないのです。そして、人間の動物にない良いところをのばすために、尊徳は具体的な実践方法を説きました。それが、「報徳思想」です。

 

尊徳の報徳思想は、「分度」「勤倹」「推譲」「報徳」の四つからなっています。

動物はエサを食べたいだけ食べますが、人間は先のことを考えて、収穫の中から、来年のための種を保存します。「まかぬ種は生えぬ」からです。そして、一年かけて一家が食べられるように配分し、どれだけ食べ、どれだけ蓄えなければならないかを計画しなければなりません。このように消費と備蓄の度合いを考えて生活をすることを、「分度」といいます。

また、一生懸命働いて収穫を得たら、その利益を倹約するということが大切です。これを「勤倹」といいます。

勤倹によって余りが出れば、これを足りない人に譲る心が大切です。自分のために残すものを「自譲」、他人のために残すものを「他譲」といいます。尊徳は、この両方を合わせて「推譲」といいます。

推譲に対して、差し出された者は、感謝して、受けた徳に報いるという心が大切です。これを「報徳」といいます。つまりお返しをするということです。この時に、返し手が自分なりのお礼を加えれば、推譲の基金はいよいよ増えていきます。

これら「分度」「勤倹」「推譲」「報徳」は、どれが欠けても完全ではありません。四つが合わさって人間の生活を全うできるのです。こういう生き方が、尊徳の「報徳思想」です。尊徳は、これをひたすら実践し、人々に広めていきました。

 

 「報徳思想」はただ食べて、生きていく方法ではありません。

「わが道はまず心田の荒蕪を開くのを、先務としなければならぬ。心田の荒地を開いてのち、田畑の荒地に及んで、この数種の荒地を開いて熟田としたならば、国家社会の進展は手のひらをめぐらすように容易であろう」(『二宮翁夜話続編』)。尊徳は、田畑のことも、国家社会のことも、まず心を開拓することが第一だというのです。

「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」(『二宮翁夜話』)とも尊徳は説いています。心の開発ができれば、国土を豊かにし、国家社会を発展させることができる。生きるために協働し、支え合いながら、自らを磨き、互いの人格を高め合うーーそれが人としての道であると尊徳は説いているのです。

 

かつて二宮尊徳を歌う唱歌がありました。「柴刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり 親の手を助(す)弟(おとと)を世話し兄弟仲よく孝行つくす 手本は二宮金次郎……」

 戦後の日本人は、子供の手本とまでしていた二宮尊徳の銅像を校庭から取り払いました。それとともに、尊徳が実践し、説き広めた精神も、かえりみなくなってしまいました。

 そして、半世紀たった今、わが国には長期にわたる不況、国や自治体の膨大な借金、豊かさの中で勤労の精神を忘れた若者たち、官僚の腐敗堕落等の問題が、広がっています。今日の日本人が、再び二宮尊徳に学ぶべきことは、まことに多いでしょう。ページの頭へ

 

参考資料

・『日本の名著 26 二宮尊徳』(中央公論社)

    尊徳が晩年を過ごした栃木県今市市のサイト

 http://www.city.imaichi.tochigi.jp/

二宮尊徳を紹介しています。

 
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■大義を世界に〜横井小楠

2003.3.14

 

勝海舟は、言っています。「俺は今までに天下で恐ろしい者を二人見たよ。それは、横井小楠と西郷南洲であった。……横井の思想の高調子のことは、俺などとてもはしごをかけても及ばぬと思ったことがしばしばあったよ」(『氷川清話』)

勝が畏敬するほどの人物、横井小楠は西郷・勝と並び、幕末維新の三傑と呼ぶにふさわしい巨人です。

 

小楠は、西郷や勝を始め、坂本龍馬・橋本左内・木戸孝允等にも強い影響を与えました。龍馬が大政奉還等を打ち出した「船中八策」は、彼の案とされていますが、横井小楠の影響を強く受けたものです。維新後の日本が国是とした富国強兵も、小楠が唱えたものでした。

 

小楠は文化6年(1809)に熊本で生まれました。小楠は、形骸化した儒学を痛烈に批判し、現実に根ざした学問、「実学」を説いて全国的に知られました。安政5年(1858)、49歳の時、越前福井藩の松平慶永に招かれ、藩の財政改革を指導しました。特に由利公正と共に実施した、増産した絹や生糸を長崎で売却して農民に還元するという富国策は大きな成果を挙げました。

文久2年(1862)、慶永が政事総裁職という大老よりも格上のポストにつくと、そのブレーンとして幕政改革と公武合体を推進します。その後、失脚して一時、不遇の身にありましたが、小楠の偉大さを知る西郷隆盛らから、明治政府に招かれ、制度局判事や参与に任じられました。しかし、その雄大な構想を実現できぬうちに、明治2年(1869)1月、尊攘派の浪士たちによって暗殺されてしまいます。彼の死は、出発期の近代日本にとって大きな損失でしたが、彼の感化を受けた人材は、その思想を受け継ぎました。

 

小楠は後進を育てた点でもめざましいものがありました。「五箇条の御誓文」を起草し、また新日本最初の大蔵大臣として財政政策を担当した由利公正や、明治天皇の侍講で教育勅語の実現に関わった元田永孚(ながざね)は、小楠の弟子です。また、明治憲法・皇室典範・教育勅語の作成に尽力した井上毅(こわし)は、晩年の小楠の話を筆録しています(『沼山(しょうざん)対話』)。彼らは、小楠の思想を、近代日本の建設に活かそうとしました。

 横井小楠の思想は、坂本龍馬の手になる「船中八策」、由利公正が原案を書いた「五箇条の御誓文」、井上毅が起草に関わった「大日本帝国憲法」「皇室典範」、元田永孚・井上毅が関わった「教育勅語」に、さまざまな形で影響を与えました。私はこれら5種の文書を、維新立国の五大文書と考えますが、これらすべての実現の背景に小楠の存在があったことは、壮観と言えましょう。

 

さて、近代日本の国家建設において、当面の目標は富国強兵でした。富国強兵とは、まさに横井小楠が唱えた政策でした。

小楠の富国強兵策は、福井藩主・松平春嶽に提出した『国是三論』に論述されています。『国是三論』は、富国・強兵・士道の三論より成ります。それぞれ経済論・国防論・道徳論にあたります。そして、そのまま日本国の方針ともなるものとして書かれました。小楠はそこに、世界を念頭においた近代日本建設のグランド・デザインを描きました。

三論の第一である富国論は、殖産興業と通商交易の必要を論じ、民生を安定させ国を富ませる方針です。小楠は福井藩でこれを実践し、藩に繁栄をもたらしました。第二の強兵論は、列強のアジア進出のなかで、海軍の創設こそ強兵と説き、島国から世界に雄飛した大英帝国に例をとり、イギリスに匹敵する海軍を創る方針です。このように小楠は富国強兵を説きながら、その限界をも看破しており、さらに重要なものとして、第三に士道論を説きました。「士道」とは、儒学や武士道に基づく東洋的な政治道徳です。ここで小楠は、富と力を生かすために、己修め人治める「修己治人」の道を強調しています。

『国是三論』は、次のような言葉があります。「万国を該談するの器量あり始めて日本国を治むべく、日本国を統摂する器量あり始めて一国を治むべく、一国を管轄する器量あり一職を治むべきは道理」と。その論の高邁であることは、勝海舟を感嘆させたほどで、他にほとんど類を見ません。

 

小楠が説いた士道論は、「富国強兵」によって国力を充実させたうえで、大義を世界に伝えるという国家目標へと高められていきます。

 

小楠が「小楠」と号したのは、楠木正成によっています。大楠公と仰がれる楠木正成は、忠義の英雄であり、武士の鑑(かがみ)、日本人の模範として、当時、最も広く尊敬された人物でした。(1)

大楠公に敬意を抱く小楠は、伝統的な精神を持った日本人でした。それと同時に、彼は類稀なる戦略的思考と国際感覚をもった日本人でもありました。

幕末、攘夷の興奮が国内に満ち、多くの日本人が外国人を極度に警戒し、あるいは侮蔑していた時、小楠は悠然とこう主張しました。「外国人もまた日本人と同じ、『天の子』ではないか。そうであれば、外国と接するには、天地仁義の大道をもってしなければならない」と。

また、死の2年前、アメリカに留学する甥に、はむけに送った、小楠の言葉は有名です。

 

 堯舜孔子の道を明らかにし 西洋器械の術を尽くす

 なんぞ富国に止まらん なんぞ強兵に止まらん

 大義を四海に布かんのみ

 

 この一節に、小楠の雄大な思想が表われています。わが日本国は、尭舜や孔子の行った東洋古来の道徳を明らかにし、また進んで西洋の科学技術を我が物とすべきだ。新しい国家の方針は富国強兵だ。しかし、目的は富国や強兵にとどまらない。日本の使命は、充実した国力をもって、大義を世界に広めることにあるーーこれが、小楠の堅い信念でした。(2)

 

小楠は晩年、次のように語っています。「西洋の学はただ事業上の学にて、心徳上の学にあらず。心徳の学無きがゆえに人情にわたることを知らず。交易談判も事実約束を詰めるまでにて、詰まるところ遂に戦争となる。戦争となりても事実を詰めてまた賞金和好となる。人情を知ら戦争も停むべき道あるべし。事実の学にて心徳の学なくしては、西洋列強戦争の止むべき日なし」と(井上毅の筆録による『沼山(しょうざん)閑話』)。

単に物質的な富や力を追求する「事実の学」でだけでは、戦争はなくならない。世界平和の実現のためには、「心徳の学」が必要だと小楠はいいます。「心徳の学」とは、「国是三論」の「士道」を顕揚するものです。小楠は富国強兵を実現するとともに、国民の道徳心を高め、日本を道義国家たらしめたいと思っていたのです。そして、日本の政治を一新して、西洋に普及すれば、世界の「人情」に通じて戦争をなくすことができると、小楠は確信していました。

 

小楠は、弟子の元田永孚に向かって、次のように抱負を漏らした、と伝えられます。「もし自分を用いる者があれば、自分は使命を奉じてまず米国を説き、一和協同を成し遂げ、その後に各国を説き、遂に世界の戦争を止めるであろう」と。

大義を世界に伝えるために、まず米国と交渉して日米の協和を実現し、それをもとに各国を説得して世界平和を実現する。こうした小楠の政略は、1世紀以上も後の今日の世界をも見通していたかのようです。

 

日本人は、ともすると偏狭で独善的な島国根性に傾きがちです。しかし、日本精神の奥底には、世界平和を実現する精神的指導原理が内在しています。それは、四海同胞・共存共栄の精神であり、世界に通じる世界精神ともいえるものです。小楠は、真の日本精神は世界精神であることを、私たちに感じさせてくれる、偉大な先人と言えるでしょう。

 

さて、近代の日本は、小楠が構想していたような進路を歩むことができたでしょうか。

明治の日本は、小楠の建策に基づく「富国強兵」を方針として国家建設を進め、政治的独立を守り、経済的発展にも成功しました。また、「士道」という面では、「五箇条の御誓文」とそれに基づく「教育勅語」が、近代的な国民道徳を生み出しました。しかし、日露戦争に勝利して、幕末以来の危機を脱し、国際社会で一定の地位を得ると、日本人は次に目指すべき国家目標を見失いました。そこに、世界戦争と共産主義と経済恐慌という大津波が次々に押し寄せ、政治がこれに対応できずにいるなか、軍部が台頭します。そして、「強兵」中心の路線に傾斜していきました。シナでの紛争が勃発・泥沼化し、終には米英との無謀な戦争に突入。わが国は大敗を喫しました。

敗戦後、米国の日本弱体化政策が行われ、日本は「強兵」どころか国防自体を制限されました。また、「士道」に表れたような精神的伝統を否定され、「教育勅語」も排除されました。(3)

そのなかで、国民はひたすら経済的な成長をめざす「富国」中心の路線を盲進しました。確かに勤労により、わが国はかつてない物質的繁栄を得ました。しかし、ものの豊かさに反比例するように心は貧しくなり、唯物主義・利己主義が蔓延しています。道徳の低下は目をおおうほどです。

さらに、わが国は国家の根幹をなす国防を他に依存しているため、米国から譲歩を迫られると言いなりになるしかなく、米国との経済戦争において、敗北を余儀なくされました。大東亜戦争の敗北を「第一の敗戦」とすれば、今度は金融によるマネー戦争に敗れ、「第二の敗戦」を味わっているわけです。また、少子高齢化は今後、長期的に国力の衰えをもたらすでしょう。こうした国家・民族の衰退現象が、青少年に一層の精神的低下をもたらしています。

 

明治維新後の日本の歴史を振り返る時、わが国の歩みは、小楠の説いた「富国」と「強兵」の次元にとどまり、「士道」つまり道徳の面において欠けるものがあったことに気付かねばなりません。「富」も「力」も「徳」の裏づけがあってこそ、有益であり、また永続もするのです。

今日、私たちは日本の再建がなるかどうかの瀬戸際にいます。それには、大義に基づく精神的な建て直しが必要です。日本の再生のために、改めて先人の言葉に耳を傾けたいものです。

 

 なお、横井小楠の思想は、「船中八策」「五箇条の御誓文」「大日本帝国憲法」「皇室典範」「教育勅語」の実現に関わったと先に書きましたが、うち坂本龍馬建策の「船中八策」と由利公正原案の「五箇条の御誓文」については、拙稿「国是を示し経綸を為す〜由利公正」をお読み下さい。

 

(1)拙稿「利を捨てて、忠義に生きた楠木正成」をご参照下さい。

(2)東洋の道徳と西洋の科学技術の融合を説いた点で、佐久間象山と対照されます。以下の拙稿をご参照下さい。

『東洋道徳、西洋芸術』〜佐久間象山

(3)拙稿「日本弱体化政策の検証〜日本の再生をめざして」をご参照下さい。

参考資料

・『日本の名著 30 佐久間象山・横井小楠』(中央公論新社)

・三上一夫著『横井小楠〜その思想と行動』(吉川弘文館)

・童門冬ニ著『小説・横井小楠』(祥伝社)

・熊本日日新聞「くまにちコラム」

http://www.kumanichi.co.jp/syonan/syonan.html

横井小楠を「日本の未来をみすえた思想家」として特集しています。

 
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■国是を示し経綸を為す〜由利公正

2007.3.20

 

●横井小楠の弟子

 

 明治維新の際、太政官札を発行して新政府の財政危機を打開した由利公正は、横井小楠の弟子でした。

小楠は越前福井藩の松平春嶽に招かれ、藩の財政改革を指導しまた。増産した絹や生糸を長崎で売却して農民に還元するという富国策は大きな成果を挙げました。この時、小楠の教えを受け、一緒に富国策を実施したのが三岡八郎、後の由利公正でした。

小楠は、『国是三論』を著しました。本書は、富国・強兵・士道の三論より成り、それぞれ経済論・国防論・道徳論にあたります。小楠は、「富国強兵」によって国力を充実させたうえで、「大義」を世界に伝えるという国家目標を打ち出しました。その思想は、勝海舟、西郷隆盛、坂本龍馬等に大きな影響を与えました。

坂本龍馬は、福井藩を訪れて、横井小楠・由利公正に会い、大いに語り合いました。小楠は日本の目指すべき国家像を語り、公正はそれを実現するために新政府の財政論を語りました。

龍馬は、新政府に必要な人材のリストに、小楠、公正を挙げました。龍馬の推薦により、二人は新政府に出仕し、新しい日本の建設に携わったのです。龍馬は暗殺され、小楠もまた出仕数ヵ月後に暗殺されました。公正は、龍馬や小楠の意思を受け継ぎ、事実上、新政府最初の大蔵大臣となって、財政政策を担当しました。

由利は、太政官札を発行するにあたり、政府が信用を得ることが必要だと説きました。新政府の方針を示すため、自ら方針の草案を書き、それが、「五箇条の御誓文」のもとになったのです。国民の信用を得るには、政府が国民に大方針を示す必要があります。国家の根本理念や目標像、それを実現するための計画を明確に打ち出し、国民の精神を統合することなくして、大胆な政策は断行し得ません。

 

●五箇条の御誓文

 

慶応4年 (明治元年) 3月14日(1868年4月6日)、明治天皇は、「五箇条の御誓文」を発表しました。政治の御一新に当たり、明治天皇が国家の大方針を示したものでした。

御誓文は、次のようなものです。

 

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
一、官武一途(いっと)庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめむことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道にくべし。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
 我国未曾有の変革を為(なさ)んとし、朕躬(み)を以て衆にじ、天地神明に誓、大(おおい)に斯(この)国是を定め、万民保全の道を立(たて)んとす。衆亦此(この)旨趣(ししゅ)に基き協心努力せよ。

 次に、現代語訳を示します。

 

一、会議を開き、多くの人の意見を聞いて政策を決める。
一、身分の上下に関係なく、心を合わせて、政策を行おう。
一、公家、武士や庶民の区別なく、国民の志がかなえられ、失望のない社会にしよう。
一、これまでの慣習をやめ、国際社会の習慣に従おう。
一、新しい知識を世界の各国に求め、国家を繁栄させよう。
 わが国は、未曾有の大改革を行うので、私はみずから先頭に立ち、天地神明に誓い、重大なる決意を持って、国家の大方針を決め、国家・国民の安定を図る道を確立するつもりである。国民の皆さんにもこの趣旨に基づいて、心を合わせて、努力をお願いしたい。

 「私」とは、明治天皇です天皇が天地神明に誓って、国是すなわち国家の大方針を決め、これを国民に発表し、国民に心を合わせて努力してほしいと呼びかけたものです。


 

●横井小楠の「国是七条」

 

大政奉還により、王政復古がなされたとき、天皇を中心とする新政府は、新しい日本の方針を国民に示す必要がありました。その方針案を起草したのが、当時、新政府参与という役職にあった由利公正です。由利は、横井小楠や坂本龍馬の思想を深く理解・継承し、新政府の政治に生かそうとしました。由利の方針案には、自ずと小楠や龍馬の思想が現れていると考えられます。

由利の師・横井小楠は文久2年(1863)、松平春嶽が政事総裁職に就くと、春嶽に従って幕政に参加しました。小楠は、幕政改革の方針を「国是七条」として建議しました。下記の七条です。

 

一、大将軍上洛して列世の無礼を謝せ。
一、諸侯の参勤を止めて述職となせ。
一、諸侯の室家を帰せ。
一、外様・譜代にかぎらず賢をえらび政官となせ。
一、大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ。
一、海軍おこし兵威強くせよ。
一、相対交易をやめ官交易となせ。

 

七条の中で「大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ」という条文は、「御誓文」の骨子の一つとなりました。御誓文の「智識を世界に求め」は、小楠が『国是三論』で説いた「智識を世界万国に取て」から採られたものとみられます。小楠はまた同書に「一国上の経綸」という章を設け、経済について論じました。その影響を受けた由利公正が、御誓文の草案に「経綸」の語を用い、御誓文の「盛んに経綸を行ふべし」に結実しました。

文久3年(1864)4月、坂本龍馬は、勝海舟の使いで福井藩の松平春嶽を訪れました。目的は海軍の軍資金の調達でしたが、龍馬は、「海軍おこし兵威強くせよ」と説く小楠の助力を受けて、多額の軍資金を得ることができました。この時、龍馬は小楠を自宅に訪ねました。小楠は龍馬を連れ、由利公正の家を訪れました。三人は国を憂い、大いに語り合いました。その際に、龍馬が詠んだと伝えられるのが、次の歌です。

 

君がため捨つる命は惜しまね 心にかかる国の行く末

 

君とは、当時の志士において天皇を意味する。龍馬の尊皇と愛国の思いが表れた歌と言えよう。

 

  坂本龍馬の「船中八策」

 

龍馬は、慶応3年(1867)6月9日、薩長による討幕を推し進め、天皇を中心とする新国家を創ろうと奔走しました。そして、長崎より京都へ向かう船中で、新しい国の体制案を記した。それが「船中八策」です。

 

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべきこと。
一、上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜、よろしく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議をとり、新たに至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事。
一、海軍よろしく拡張すべき事。
一、御親兵を置き帝都を守衛しむべき事。
一、金銀物価よろしく外国と平均の法を設くべき事。

 

第一の「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべきこと」とは、大政奉還です。第二の後半に「万機よろしく公論に決すべき事」とあります。この主旨は、由利の御誓文草案の「万機公論に決し私に論ずるなかれ」を通じて、成文の「万機公論に決すべし」に生かされます。
 龍馬は、「船中八策」を書いた年の11月1日、由利公正を新政府の財政担当として招くため、福井藩を再訪しました。公正の財政論を聴いた龍馬は、改めて公正の必要性に確信を深めました。その2週間後、11月15日、龍馬は京都・近江屋で暗殺されてしまいます。

 

●由利公正の「議事之体大意

 

坂本龍馬の死を知った由利公正は、深い悲しみに襲われました。龍馬の推薦により、小楠とともに新政府に出仕したのですが、小楠もまた暗殺されてしまいます。日本は新たな出発において、実に貴重な人材を失ったのです。

残された由利は、新政府の財政的窮状を打開すべく、太政官札の発行を説きました。太政官札は、日本で初めての政府紙幣です。当時欧米にも例のない不換紙幣でした。異論反論が起こりましたが、由利の政策を最も良く理解する岩倉具視が、採用を進めました。この時、由利は太政官札を通用させるには新政府の信用が必要であることを力説しました。そのためには新政府の方針を広く世間に示すことだと主張し、自ら草案を書いたのです。慶応4年(1868)1月のことでした。

 

一、庶民志を遂げ人心をして倦まさらしむるを欲す。
一、士民心を一つに盛んに経綸を行ふを要す。
一、知識を世界に求め広く皇基を振起すへし。
一、貢士期限を以って賢才に譲るべし。
一、万機公論に決し私に論ずるなかれ。

 

第一の「庶民志を遂げ人心をして倦まさらしむるを欲す」は、御誓文の「官武一途庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦まざらしめむことを要す」に結実します。第二の「士民心を一つに盛んに経綸を行ふを要す」は、御誓文の「上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし」に結実します。第三の「知識を世界に求め広く皇基を振起すへし」は、御誓文の「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」に結実します。第四の「万機公論に決し私に論ずるなかれ」は、御誓文の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に結実したのでした。
 由利案の「
経綸」は横井小楠の「一国上の経綸」から来ており、「智識を世界に求め」は、小楠の「智識を世界万国に取て」に由来し、「万機公論」は、小楠の「大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ」に発し、龍馬の「万機よろしく公論に決すべき事」によります。

 

●「五箇条の御誓文」の完成と発表

 

由利公正は「議事之体大意」を、東久世通禧を通じて議定副総裁の岩倉具視に提出しました。

由利案に対し、福岡孝弟が冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなどの修正を加え、表題を「会盟に改めて、天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案しました。これに対し、総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が天神地祇を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて、共に誓い、また全員が署名する形式を提案し、これが採用されました。木戸はまた福岡案の「列侯会議を興し」を「広ク会議ヲ興シ」に改め、五箇条の順序を入れ替えるなどしました。さらに、議定副総裁三条実美は、表題を「誓」に修正しました。こうして、「五箇条の御誓文」が完成されたのです。

改めて「五箇条の御誓文」を、次に掲載します。

 

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
一、官武一途庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめむことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道にくべし。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
 我国未曾有の変革を為とし、朕躬を以て衆にじ、天地神明に誓、大に斯国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆亦此旨趣に基き協心努力せよ。

ここで私が強調したいのは、五箇条の文言に続いて、明治天皇が「我国未曾有の変革を為とし、朕躬を以て衆にじ」云々と述べておられることです。

明治天皇はまた御誓文と同日、御宸翰(ごしんかん)を出されました。宸翰とは天皇直筆の文書です。そこには次のような意味のことが記されています。

 「今回の御一新にあたり、国民の中で一人でもその所を得ない者がいれば、それはすべて私の責任であるから、今日からは自らが身を挺し、心志を苦しめ、困難の真っ先に立ち、歴代の天皇の事績を踏まえて治績に勤めてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君である地位にそむかない、そのように行う」

 すべての人が「所を得る」ような状態をめざし、全責任を担う。天皇の決意は、崇高である。ここには天皇が国民を「おおみたから」と呼んで、大切にしてきたわが国の伝統が生きている。御誓文と御宸翰に示されたもの、それが近代日本のデモクラシーとナショナリズムの始まりだったのです。

由利は政府貨幣の発行には、政府の信用がいる、それには国家の大方針を示すべきだと述べ、自ら草案を書きました。五箇条の御誓文により、国家の大方針を示した新政府は、太政官札の発行による造幣益で財源を確保し、新しい日本の建設を進めることができました。

新政府は、五箇条の御誓文の国是の下に、封建制度を改めました。その一環として封建領主が所有する領民と領地を天皇に返す改革が行われました。まず版籍奉還が行われ、続いて廃藩置県が断行されました。ほとんど無血の革命が、わずか一日で実現したのです。明治新政府の課題は、一日も早く近代国家を建設にして、欧米列強に支配されないようにすることでした。それを成し遂げる資金を調達するには、各藩の徴税権を中央政府に集約するしかありません。廃藩置県によって、近代的な租税制度が確立されたのです。

 五箇条の御誓文は、その後、自由民権運動のよりどころともなりました。政府が維新当初の理念から外れ、藩閥による有司専制に変質したのに対し、板垣退助らが「民撰議院設立建白書」を提出しました。この際、五箇条の御誓文の起草者・由利公正は、建白書に名を連ねました。自由民権運動は、天皇を中心とする日本的なデモクラシーとナショナリズムを発展させた運動でした。その理念は、五箇条の御誓文に掲げられた近代日本の国是だったのです。

 

●「五箇条の御誓文」に表れた日本精神の復興を

 

「五箇条の御誓文」は、由利公正が、新政府の財政的窮状を打開するため、太政官札を発行するにあたって、政府が信用を得ることが必要だと説き、新政府の方針を示すため、自ら方針の草案を書き、それがもとになったのでした。太政官札の発行のような大胆な政策は、政府が国民の信用を確保し得てこそ、実行が可能となります。国民の信用を得るには、政府が国民に大方針を示す必要があります。国家の根本理念や目標像、それを実現するための計画を明確に打ち出し、国民の精神を統合することなくして、こうした大胆な政策は断行できなかったでしょう。

「五箇条の御誓文」は、直接的には由利・福岡・木戸らが作成に関与し、そこに小楠・龍馬の思想が反映していますが、彼らの背景には、長い歴史の中で受け継がれてきた日本人の精神があります。その伝統的な精神を、明治維新の際の先例を通じて学び、今日の日本において復興させること。それが、日本の危機を打開することにつながると私は思うのです。(1)

(ページの頭へ)

 
(1)「五箇条の御誓文」に表れた日本の精神的伝統については、
拙稿「日本の公と私」をご参照下さい。
参考資料
・三上一夫・舟澤茂樹編著『由利公正のすべて』(新人物往来社)
・尾崎護著『経綸のとき』(文春文庫)
 
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米百俵の精神〜小林虎三郎

2003.4.14

 

平成13年(2001)5月7日、衆議院本会議で小泉純一郎首相は、所信表明演説をしました。「今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしようか」と。

 この演説でにわかに注目を集めたのが、小林虎三郎の「米百俵」の逸話です。

 

 時は明治維新、戊辰戦争を佐幕派として戦った長岡藩(現・新潟県)は、官軍に敗れ、領地は焦土と化しました。それに追い討ちをかけるかのように、7万4千石の知行地は実質5分の1に減らされました。藩士たちはたちまち貧窮に陥り、その日の食べ物にも困るほどとなりました。刀を売る者や、辻斬り強盗に走る者、娘を売る者など、敗戦国の惨状を極めました。

  この時、混乱する藩内を導いたのが、小林虎三郎でした。幕末に江戸遊学をし、佐久間象山に学び、吉田松陰(寅次郎)とともに、「象門の二虎」といわれたほどの逸材でした。象山は「天下国家の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである」と言いました。巨人象山にそう言わしめるほど、教育者として優れた人物が、小林虎三郎でした。(1)

 

象山門下の虎三郎は、幕府の外交方針に異を唱えたため、帰国謹慎の身となりました。その後、これを許され、藩が敗戦のどん底に陥った時、文武総督、大参事という大役に任命されました。

虎三郎は、見渡すかぎりの焼け野原のなかで、「次代を担う人材を育成しよう」という方針を掲げました。そして明治2年(1869)5月1日、国漢学校を開校し、子供たちへの教育を始めました。

 

  翌3年5月、長岡藩の窮状を知った三根山藩から、米百俵が見舞いとして贈られてきました。藩士たちは、これで一息つけると喜びました。食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米でした。

  しかし、虎三郎は米の分配に待ったをかけました。「この米を今日食うことより、国を建て直す人材育成のために活かそう」というのです。虎三郎の必死の訴えを聞いた藩士たちも、一時の空腹を満たすことよりも、明日の人づくりを選びました。そして、学校教育に必要な書籍・器具の購入にあてるため、米百俵は売却され、その代金が青少年教育に充てられました。6月には、国漢学校の新校舎が完成し、ついで洋学校・医学校も建てられました。藩士の子弟だけでなく町民や農民の子供も入学でき、敗戦国の長岡で、全国に先駆けた画期的な教育が行われるようになりました。

 国漢学校では、虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、人材を育てる教育が行われました。その成果が実り、後年、長岡からは国家を担う多くの人物が輩出しました。東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士・小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥等々です。

 

  この国漢学校創立時の故事をもとに、文豪・山本有三が戯曲として書き下ろしたのが「米百俵」です。この戯曲は、虎三郎に関する詳細な研究と合わせて一冊の本にまとめられ、昭和18年(1943)に新潮社から出版されました。(2)

  山本の『米百俵』では、虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかけます。

  「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国が興るのも、滅びるのも、町が栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校を建てたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、計り知れないものがある。いや、米俵などでは、見積もれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。新しい日本は生まれないぞ。……」。山本有三の描く虎三郎は、「国が興るのも町が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、教育をするのだ」と訴えています。

 

  戯曲『米百俵』はベストセラーとなりましたが、当時の軍部からは反戦戯曲だと弾圧を受けて、自主回収の憂き目を見ました。それから約30年後。昭和50年(1975)、長岡市が『米百俵・小林虎三郎の思想』を復刻出版すると、大きな反響を呼びました。その後、歌舞伎による戯曲『米百俵』が上演されたり、中村嘉津雄主演のビデオが製作されるなどしています。

長岡市では、英語版の『米百俵・小林虎三郎の思想』も発行しています。翻訳は日本文学・日本文化研究の世界的権威、ドナルド・キーン氏が行いました。こうして、米百俵の精神は、日本のみならず海外にも紹介されているのです。(3)

 

さて、「米百俵の精神」に具現された彼の教育論とその実践とは、どのようなものだったのでしょうか。安政6年(1859)、師の象山にあてた『興学私議』は、虎三郎の教育論を述べたものです。虎三郎は、次のように書いています。

「西洋の様子をみると、その学問の精密なことに驚く。しかも学校を興し、人材を養成し、兵を強くしている。しかるに我が国は改革の命が下って6、7年もたつのになんの効果もあがっていない。これはすべて人材に乏しいからである。……基礎から人材を養成していけば、国は富み、兵は強くなる。だから国家は、学問を興し、教育を普及させ、人材を育てて、世界の国々と肩を並べるべきだ」と。

 

こうした虎三郎の教育論を実践した場こそ、「米百俵」の資金をあてた国漢学校だったのでした。国漢学校には武士の子弟だけでなく、町人や農民の子供も入れました。「読み書きそろばん」がきちんとできるように教え、生活力を身につけさせました。さらに英語・洋学・兵学・医学なども教えました。教授方法はゼミ方式をとるなどして、生徒に実力をつけさせました。専門教育は生徒の実力を増進する抜群の効果があったといわれています。こうした国漢学校の教育は、維新政府による学校教育に、時期においても内容においても先んじた画期的なものでした。

 ところが、明治3年(1870)10月、国漢学校は、長岡藩の廃藩で消滅の危機におちいります。「米百俵」の逸話のわずか5ヵ月後でした。国漢学校は、藩から国の手に移り、新たにできた柏崎県(いまの新潟県)の所管になりました。虎三郎は学校に残り、青少年教育に尽力しますが、県の役人と衝突します。県が中央集権的で画一的な教育行政を進めるのに対し、虎三郎は地方の特色のある教育をすべきだと主張します。人材育成のためには多様で豊かな人材を作り上げなければならないと、彼は考えていたのです。衝突の結果、虎三郎は学校をやめることとなり、長岡の地を離れます。

 

その後、虎三郎は上京し、ここで新たな活躍の場を得ました。虎三郎はまず、わが国で初めての日本語による歴史教科書『小学国史』を執筆します。これは意外なことかもしれませんが、実はそれまで、歴史の教科書はすべて漢文(一種のシナ語)で書かれていたのです。日本の歴史を教えるには、日本語で書かれた教科書によらねばならない、と虎三郎は考えました。今では当たり前のことですが、ここにも彼の慧眼(けいがん)が光っています。虎三郎は、母国の歴史を学ぶことが、日本文化を豊かにし、国民の国際性を育てるのだ、と歴史教育を重視したのです。

 次に、虎三郎は『徳国(とくこく)学校論略』の翻訳を行います。徳国とはプロシア、後のドイツのことです。当時、プロシアは国民皆学を実施し、教育制度を充実することによって、国力を増強しつつありました。虎三郎は、その教育制度を参考にしようとしたのです。その特徴の一つは、国民に職業専門教育をすることでした。商人や職人に技術教育をすれば、より一層社会が富むという理論を日本に紹介したのです。

 小林虎三郎の教育論は、この『徳国学校論略』で一通り、大系をなします。すなわち、虎三郎の教育理念は、人に道徳を教え、読み書きそろばんを身につけさせ、自国の歴史を大切にし、職業専門教育をすることでした。

 

小林虎三郎は、明治10年(1877)8月24日に亡くなります。虎三郎を引き継ぐ形で、長岡には女子教育・社会教育が勃興しました。人間の教育では幼児教育がもっとも大切であり、そのためには母親となる女性の教育の向上をはかり、社会全体が学ぶという理念を忘れてはならないというものでした。

小林虎三郎が説き、実践したのは、教育によって人材を育て、そのことによって国を興すことでした。教育は「国家百年の大計」といわれますが、まさにその事業に半生を捧げたのが、虎三郎でした。

わが国の教育が大きな危機に陥っている今日、小林虎三郎の「米百俵の精神」に学ぶものは、多いと言えましょう。(ページの頭へ)

 

(1)佐久間象山・吉田松陰については、以下をご参照下さい。

『東洋道徳、西洋芸術』〜佐久間象山

死中に活路を開く〜吉田松陰

(2)山本有三著『米百俵』(新潮文庫)

(3)長岡市による「米百俵」のサイト

http://www.city.nagaoka.niigata.jp/ 「長岡を知ろう」→「米百俵情報」

参考資料

    松本健一著『小林虎三郎 米百俵の思想』(学研M文庫)

・童門冬二+稲川明雄著『米百俵と小林虎三郎』(東洋経済新報社)

 
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