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日本の心  人物(その2)

 

題   目

目  次

■11 文明の目的は独立にあり〜福沢諭吉

■12 竜馬・海舟・西郷に憧れた男〜中江兆民

■13 私利を超え、公益を追求した渋沢栄一

■14 日本を守った英雄〜東郷平八郎

■15 世界の中の日本〜明治の日本主義者

■16 主体的で国際的な国民主義〜陸羯南

■17 個性尊重の日本主義を提唱〜志賀重昂

■18 日本主義は国民道徳の原理〜高山樗牛

■19 21世紀、東洋人の課題〜三宅雪嶺

■20 新語「日本精神」を活用〜芳賀矢一

■21 日本精神は偏狭にあらず〜安岡正篤

■22 東洋の理想と日本の目覚め〜岡倉天心

■23 日本的デモクラシーの旗手〜尾崎行雄

■24 尊皇と愛民のデモクラシー〜吉野作造

■25 木のいのち、人の心〜西岡常一

 

人物(その1)もご覧下さい

聖徳太子、中江藤樹水戸黄門石田梅岩、恩田杢、

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文明の目的は独立にあり〜福沢諭吉

2002.3.7

 

 我が国で初めて文明論を説き、文明という観点から国是・国策を論じたのが、福沢諭吉です。

 福沢は、幕末から明治の時代に、西洋に渡航して実情を見て、日本人に西洋の新知識を伝え、これからの日本人はどうあるべきかを訴えました。そのポイントとなったのが、日本の国柄を踏まえ、独立を守るために、西洋近代文明を摂取すべきとする文明論です。

 

若き福沢は安政2年(1855)より、緒方洪庵の適塾でオランダ語を学び、西洋の医学や科学・技術を学びました。これが彼の知識の基礎となります。その後、いち早く英語の重要性を見抜き、独力で英語を習得して、欧米の政治や経済、社会思想なども貪欲に吸収していきます。その旺盛な好奇心と鋭い理解力は、驚嘆に値します。

福沢は、万延元年(1860)、咸臨丸に乗ってアメリカに行き、その後、ヨーロッパにも訪れ、西洋近代文明をつぶさに見聞しました。その経験をもとに書いたのが、『西洋事情』(1866-69)です。幕末の知識人でこの本を読んでない人はいないというくらいに、よく読まれました。徳川慶喜も西郷隆盛もみな『西洋事情』を通じて西洋諸国のことを知ったのです。

 

 維新後、福沢が、広範な知識と深い洞察をもって、これから日本人は何をすべきかを説いたのが、『学問のすすめ』です。

『学問のすすめ』の第1篇は、明治5年(1872)に発表されました。これは日本はじまって以来の大ベストセラーとなりました。

 『学問のすすめ』の出だしは、誰でも知っているほど有名です。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言え」。この一句を、人間は平等でなければならないという意味だと思っている人が少なくないようです。確かに福沢は、人間は生まれながらに平等だと言っています。しかし、その本来平等たるべき人に違いが生じるのは、ひとえに学問をするか、しないかによると、結論しているのです。機会は平等でも結果は努力によって異なるのです。それが、彼が『学問のすすめ』を書いた理由です。

ここで福沢が勧めた学問は、旧来の儒学ではなく、新しい「実学」でした。「実学」とは、サイエンスです。サイエンスといっても、自然科学のことだけではありません。政治学や経済学や倫理学など人文科学も含めた、近代西洋生まれの実際的な学問のことです。そして、福沢は日本が文明化すること、言い換えれば西洋にならって近代化することを唱導しました。

 

 では、福沢が説いたのは、日本を西洋化することだったのでしょうか。話はそう単純ではありません。問題は、なぜ福沢は、西洋文明の摂取、西洋科学の習得を力説したのかです。それは、わが国の独立を維持するためだったのです。

『学問のすすめ』で福沢は、無批判な西洋賛美をいましめています。そして全巻の結論において、日本にとって文明が必要なのは、国の独立を守る手段であると述べています。すなわち、「国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」と、福沢は明言しているのです。列強がアジアに進出し、インドやシナが蹂躙(じゅうりん)されていた当時のアジア情勢において、独立を守ることは、至上命題だったのです。

 

 福沢は『学問のすすめ』を中断して、明治8年に刊行した『文明論之概略』でも、同じ主旨のことを説いています。

 「目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。その目的とは何ぞや。内外の区別を明らかにして、我本国の独立を保つことなり。而してこの独立を保つの法は、文明の外に求むからず。今の日本国人を文明に進むるは、この国の独立を保たんがためのみ」

 そして、福沢は国の独立を保つために必要なのは、個人個人の独立心だと訴えました。

 「貧富強弱の有様は、天然の約束に非、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあら、何西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」

 この最後にある「一身独立して一国独立する」ということこそ、福沢が日本人に最も訴えたかったことでしょう。

 

独立心とは、愛国心に裏付けられてこそ、もち得るものです。福沢自身、強い愛国心を抱き、わが国の国柄を尊び、皇室を敬う日本人でした。この点を理解して初めて、彼のいう「独立心」の意味も明らかになります。

 

 『文明論之概略』で福沢は書いています。

 「日本にては開闢(かいびゃく)の初より国体を改(あらため)たることなし。国君の血統もまた連続として絶たることなし。ただ政統に至てはしばしば大いに変革あり。…政統の変革かくの如きに至て、なお国体を失わざりしは何ぞや。言語風俗を共にする日本人にて日本の政を行い、外国の人へ秋毫(しゅうごう)の政権をも仮(か)したることなければなり」

 つまり、わが国は国の初めから、国体つまり国柄の根本が変わることがなかった。天皇の系統も連続して絶えることがなかった。政権はしばしば変わったが、国体が失われることはなかった。それは外国の支配を受けることがなかったからだ、と福沢は自らの歴史観を語ります。これは、幕末・明治の日本人の共通認識であり、国民の常識でもありました。また、こうした自国の歴史に対する歴史観が、福沢の愛国心の背骨となっています。

 

 福沢は書いています。

 「この時に当て日本人の義務は、ただこの国体を保つの一箇条のみ。国体を保つとは、自国の政権を失わざることなり」

 この時つまり明治8年(1875)において、日本人の義務は、国体を保つという一事にある。国体を保つというのは、自国の政権を失わないことだ。つまり、外国の支配を受けることなく、日本人が自らの民族による政権を守ることだ。福沢はこう言っているのです。

さらに続いて彼は述べます。

 「政権を失わざらんとするには、人民の智力を進めざるからず。その条目は甚だ多しといえども、智力発生の道において第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行わるる文明の精神を取るにあり」

日本人自らによる独立政権を失わないためには、国民の知力を向上させなければならない。知力を発達させるために、しなければならないことはたくさんあるが、第一の急務は、古い慣習への惑溺を一掃して、西洋近代文明の精神を採り入れることだ、と。

福沢の主張の背景には、幕末から明治にかけて、わが国が欧米列強の脅威にさらされていたという現実があります。そして、福沢は、この厳しい国際環境において、日本人は白人の支配に屈するものかという強い気概をもつべきだと、国民同胞に訴えていたのです。これこそ、福沢の独立心が、強い愛国心に裏付けられていることを示すものです。

 

福沢は、後年、皇室に対する敬愛の念を強めていきました。帝国議会開設に先立つ明治15年(1883)、福沢は『帝室論』を著し、日本皇室を論じています。「帝室」とは、皇室のことです。

 「今日、国会の将に開かんとするに当たって、特に帝室の独立を祈り、遥かに政治の上に立ち下界に降臨し、偏りなく党なく以て其の尊厳神聖を無窮に伝えんことを願う」

 つまり福沢は、皇室は政治の上に立ち、不偏不党の立場にあるべきだとし、皇室の尊厳と神聖を未来永遠に伝えることを願ったのです。同書で福沢はこう書いています。

 「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり、其功徳至大なりと云ふ可し

つまり皇室は日本国民の精神を統合する中心である。その功徳は極めて大きいと福沢は考えていました。続けて彼は述べます。

 「国会の政府は様の政党相争ふて火の如く水の如く盛夏の如く厳冬の如くならんと雖(いえ)ども、帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し。国会の政府より頒布する法令は其冷たること水の如く。其情の薄きこと紙の如くなりと雖ども、帝室の恩徳は其甘きこと飴の如くして、人民これを仰げば以て其慍(いかり)を解く可し、何れも皆政治社外に在るに非ざれ行はる可らざる事なり」

 福沢は、皇室は、政治の外にあって、その徳によって国民に和をもたらすような存在であるべきだと説いたのです。この考え方は、戦後の象徴天皇制度にも通じる考え方と言えましょう。

 

 福沢諭吉は、単なる文明開化論者ではありませんでした。日本の独立維持を訴え、愛国心と尊皇心を持つ日本人でした。その言説には、維新の志士たちに連なる、日本人の精神が脈打っているのです。

この点を理解する時、「独立心をもて」という福沢の訴えは、私たちの心に、一段と強く響いてくるでしょう。

 

 福沢は明治34年(1901)に亡くなりました。その40年後、日本はアメリカと戦い、敗れました。戦後の日本は、敗戦国としてアメリカの占領を受け、その後もアメリカの強い影響下にあります。物質的には福沢が想像できなかったほどの豊かさを手に入れましたが、国の独立ということに関しては、逆に大きく後退しています。国民の多くは独立心を失い、政府は外交や国防を他国に依存しています。さらに金融による経済戦争にも敗れ、日本人の多くは日本人としての誇りや自信をも失っているようです。

ここで、私たちは、福沢が文明化の目的とした、国の独立ということをしっかり考えていかねばなりません。そして、独立心を持て、独立心は愛国心からだ、という彼の渾身のメッセージを受け止めたいものです。

そして、21世紀の今日、日本国と日本文明のあり方を考える際、福沢の訴えは、いよいよ深く、しっかりと理解する必要があるでしょう。

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参考資料

    福沢諭吉著『学問のすすめ』『文明論之概略』(岩波文庫)

    『福沢諭吉著作集 第9巻』(慶應義塾大学出版会)

・川村真二著『福沢諭吉』(講談社α文庫)

 
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■竜馬・海舟・西郷に憧れた男〜中江兆

2002.4.3

 

 中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を紹介した自由民権論者として有名です。「東洋のルソー」とも呼ばれます。しかし、兆民の本質は、日本の国柄にく社会改革を追及したところにあります。

兆民は土佐(高知県)の出身で、少年時代に同郷の坂本竜馬と出会い、竜馬を生涯、尊敬していました。少年兆民は、竜馬に「中江のニイさん、煙草を買うきてオーセ」と言われると、喜んで使い走りに行ったそうです。また、兆民が日本の政治家の中で、もっとも敬服し親交したのが、勝海舟でした。兆民は海舟から西郷隆盛の話を聞き、西郷を絶世の英雄と信じました。西郷が征韓論で帰郷したときには、西郷を上京させ、西郷・海舟の連立政権を樹立しようと努めたりしました。兆民とは、まさに維新の英雄たちの息吹を、自由民権運動に伝えた人物だったのです。

 

 兆民は、明治4年(1871)に岩倉遣欧使節団の一員として洋行し、フランスで知ったルソーの思想を翻訳・紹介します。彼が漢文(一種の中国語)に訳した『民約論』は、わが国だけでなく、シナでも読まれました。兆民が「東洋のルソー」と呼ばれる所以です。そこで、兆民と言えば、ルソーと同様の共和主義を唱えた思想家と思っている人が多いようです。確かに兆民はルソーの「人民主権論」の主旨を、わが国に生かそうとしました。しかし、彼は、ルソーに大いに学びつつも、その思想を批判しました。兆民は、ルソーの思想が直観的感情的な特色を持つが、思考には論理性に乏しく、往々にして奇を好む誇張癖があると指摘しています。またその人物については、人間的に後世のそしりをまぬがれがたい薄情、無責任の性質があったと厳しく批評しています。

 

 ルソーの思想が暴力革命・君主制否定・共和主義であるのに対し、兆民の思想は議会主義・法治主義・君民共治です。兆民は、君主の存在する国であっても「公義公道」の行われる国は「共和国」であり、形は民主大統領制の国であっても、「公義公道」の行われない国は真の「共和国」ではないとの旨を説きました。つまり、政治を「私」する専制政治がよくないのであり、君主の有無にかかわらず、「公論」が反映される政治をよしと考えたのです。兆民は、外国思想の模倣に走る戦後の進歩的文化人とは、違ったのです。

 

兆民は洋学者である以上に、優れた漢学者でした。兆民は、フランス民権論は、孟子の民本主義の思想と通じると理解していました。彼はルソー等の思想は、欧米の専有物ではない。東洋にも孟子のような思想があると考えました。そして東洋的な革命思想を、近代的な理論とするために、フランス民権論が大いに有用だと、主体的に考えていたのです。そして兆民が目指したのは、民権論の知識をもった、東洋的な志士仁人(活動家であり人格者)だったのです。

明治8年、兆民は、東京外国語学校の校長に任ぜられました。現在の東京外国語大学です。ところが、兆民はわずか3ヶ月で、この職をやめてしまいます。その理由は、兆民が「徳育の根本」に「孔孟の教え」を用いようとして、文部省と衝突したためです。ルソーの紹介者が、伝統的な儒教道徳を学生に教えようとしたのは、意外に思われるでしょう。しかし、兆民には、当時の功利主義的な洋風教育を推し進めようとする政府の方針は、皮相なものと写っていたのです。

 

 こうした兆民に、維新の英雄、竜馬・海舟・西郷の人格的な影響を見ることができるでしょう。彼らを追慕してやまなかった兆民は、指導者は人格的に優れた人物でなければならないと信じていました。そして年少の友、頭山満(とおやま・みつる)に、大人長者の風姿を見出し、大きな期待を寄せていました。そして、玄洋社の頭山らが支援するアジア諸民族の独立運動を、兆民は積極的に支援しました。(1)

一方、兆民の門弟に無政府主義者の幸徳秋水が出ますが、兆民は秋水には批判的でした。思想や発想に大きな隔たりがあることは明らかです。兆民を日本の左翼の先駆のように見るのは、無理があります。

 

先に書いたように中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を評価しつつも、彼の急進思想には反対でした。そして、日本の国柄に基づいた社会改革を追求したのです。日本にルソー流は合わない、と。

 

 兆民は『東洋自由新聞』(明治14年、1881創刊)に掲載した『君民共治の説』において、当時のフランス第三共和国よりも、国王の君臨するイギリスの方が、より健全な「共和国」であると論じています。兆民は、「共和という字面に恍惚」として、フランス革命のような革命をめざす考えを退けます。兆民はフランスでは、革命後、ナポレオンという独裁者が出現し、さらに王政復古、七月王政、第二共和制などと、二転三転していることを、しっかり見すえていました。フランス革命を手放しで美化せず、その矛盾と限界を理解していました。そして兆民は、ルソー流の暴力革命・君主制否定・共和主義を採らず、議会主義・法治主義・君民共治を良しとします。日本は、イギリス流の君主政体でありながら、実質的な人民主権の国に向かうべきだと主張したのです。

 

確かに兆民は、政府対人民という関係においては、徹底して民権的であり急進的でした。「民権是れ至理なり。自由平等是大義なり」という言葉は、彼の民権思想をよく表しています。兆民の藩閥政府批判は鋭く、改革への情熱にあふれています。しかし、兆民は、天皇と藩閥政府との間には、明確な区別を設けています。兆民の目指す政体は、天皇を中心とする立憲君主政体でした。

 

兆民は、『三酔人経綸問答』(明治20年、1887)で南海先生の言葉として、次のように述べています。民権には「回復の民権」もあれば、「恩賜の民権」もある。前者はイギリスやフランスのように、君主と闘って取り戻した民権であり、後者はわが国のように、君主(天皇)が国民に賜った民権です。兆民は、「恩賜の民権」は「善く護持し、善く珍重し、道徳の元気と学術の滋液とをもってこれを養う」なら、「回復の民権」に匹敵するようになるだろうと説きました。そして、「立憲制度を設け、上は天皇の尊栄を張り、下は万民の福祉を増し、上下両議院をおき、上院議員は貴族が継承するものとし、下院議員は選挙で選ぶ」という政治体制が目標だと語りました。

兆民の主張は、わが国の国柄を守り、皇室制度の下で、デモクラシーあるいは議会主義の拡充を図るものでした。兆民は、日本においては、天皇を中心とする伝統を尊重してこそ、民権は健全なる発展を期待しうると考えていたのです。

 

 兆民は、天皇に関し、政府対議会の政治的対立に介入せず、高い精神的な権威をもって、国民の統合を保つ地位にあることを切望していました。たとえば国会開設前に出した『平民のめざまし』(明治20年)で、兆民は次のように書いています。

 「天子様は尊き上にも尊くして外に較べ物の有る訳のものでは無い。畢竟天子様は政府方でも無く、国会や我々人民方でも無く、一国衆民の頭上に在って、別に御位を占させ給うて、神様も同様なり。別して我日本の天子様は、神武天皇以来皇統連綿として絶えることなく……内閣が如何にしばしば更迭するも、天子様は常に一天万乗の君にて、国会の未だ開けざる今日と既に開けたる二十三年後と少も変る訳の物では無いと心得し」

 天皇と国民が争うことなく、互いに理解し合い、最後には天皇が民権主体の国家を実現するように導いていくことを、兆民は期待していたのです。ルソー流の暴力革命による君主制否定・共和主義との違いは明白です。

 

自由民権運動といえば、国民の権利を追及し、共和制を目指す思想だと理解している人が多いようです。また、共和主義や社会主義までいかない未成熟の思想というイメージを持っている人も、少なくありません。そういう人には、兆民の実像は意外に思われるでしょう。しかし、実際の自由民権運動は、天皇を中心と仰ぎながら、国権と民権を共に拡充して、立憲議会政治をめざす運動でした。それは、幕末の尊皇攘夷思想を受け継ぎ、天皇と国民が一体となった「君民一体」の政治を理想としていたのです。

そして、中江兆民とは、竜馬・海舟・西郷の息吹を受け、維新の理想目標を受け継いだ、明治の志士だったのです。ページの頭へ

 

(1)拙稿ネールは愛国者・頭山満に感謝したをご参照下さい。

参考資料

・『日本の名著 36 中江兆民』(中央公論社)

・葦津珍彦著『明治維新と東洋の解放』(皇學館大学出版部)

 
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■私利を超え、公益を追求した渋沢栄一

2002.5.1

 

 生涯に関与した事業は実に千を数え、さらに千あまりの社会事業・文化事業に貢献した巨人。それが渋沢栄一です。渋沢は、日本資本主義の草創期に、その基盤づくりを強力に推し進めました。日本最初の銀行を設立し、近代的な金融制度を実現したことをはじめ、紡績、保険、製紙、鉄道、郵船等々、彼が創設・経営した事業は、枚挙にいとまがありません。もし明治の日本に、渋沢というたぐい希な人物が出なかったら、日本の近代化は、これほどの成功をみなかったでしょう。

 

 渋沢栄一は、天保11年(1840)現在の埼玉県深谷市に、豪農の長男として生まれました。彼は7歳から儒学を学びました。そこで出会った『論語』が、彼の人生の規範となりました。

元治元年(1864)、24歳の渋沢はその非凡な能力を見出され、一橋慶喜の家臣に取り立てられました。農民から武士になった渋沢は、一橋家の立て直しを成し遂げます。また慶喜が将軍となると、ブレーンとして将軍を支えました。慶応3年(1867)には慶喜の弟・昭武について、パリの万国博覧会に派遣されました。そしてヨーロッパ諸国で約1年間、近代資本主義の実態を徹底的に見聞しました。

滞欧中に明治維新が起こり、帰国を余儀なくされた渋沢は、維新の元勲たちに請われて、新政府の大蔵省に任官しました。当時、新政府は深刻な財政危機にありました。渋沢はこれを解決するため、欧州仕込みの新知識に基づく、大胆・斬新な財政改革を提言しました。しかし、その提言は用いられず、明治6年(1873)、渋沢は約3年半いた政府を去ることを決意しました。

 

このとき辞職をとめようとした友人に対し、渋沢は次のように答えました。

 「元より金を溜める為に辞官はしない。一体実業家が今日の如く卑劣で、全く社会の尊敬を受けぬと云ふのが抑々(そもそも)間違って居る。欧米では決して官商の懸隔が斯(かく)の如きではない。日本を早く官商同等の地位に進めなくては、到底実業の進歩する見込みがない。日本の商人が今日の如く社会の軽蔑を受けるのは、一つは封建の余弊でもあらうが、一つはまた商人の仕打ちが、甚だ宜しくないからである。予不肖ながらこの此風矯正のために一身を捧げたい。

宋の趙普は論語の半部を以て天子を輔(たす)半部を以て身を修めといって居るが、予は論語の半部を以て身を修め、半部を以て実業界を救ひたい覚悟で居る。どうか先を永く見てゐて呉れ。……

その時、論語と云ふことを固く云ったのを今も能(よ)記憶して居る。予が行往坐臥、事業を経営するも、事を処するも、是非論語に拠(よ)ろうと堅く決心を起こしたのは、此時の事である」と、渋沢は記しています。

こうして、渋沢の新たな挑戦が始まりました。その後、約60年間、民間にあって彼が成し遂げた偉業は、前代未聞・空前絶後のものでした。

 

彼の超人的な活動を支えた思想を一言でいうと、「論語と算盤(そろばん)」です。『論語』は東洋の伝統的な道徳を説くものです。これと「算盤」つまり経済的な利益とは一見、無縁です。しかし、渋沢は『論語』にある経世済民の考え方を、近代的な経営に生かし、道徳と経済は常に一体であると唱えました。

渋沢は「利益を棄てたる道徳は真正の道徳でなく、又完全な富、正当な殖益には必ず道徳が伴はなければならぬ筈のものである」としました。資本は利潤の追求を目的とします。しかし、渋沢は、私的な利益は「公益」の追求の結果でなければならないと考えました。

「勿論(もちろん)、当該会社の利益を謀(はか)らねばならぬが、同時に之によって国家の利益即ち公益をも謀らねばならぬ」「社会に利益を与へ、国家を富強するは、やがて個人的にも利益を来す」「私利私欲の観念を超越し、国家社会に尽くす誠意を以て得たる利は、是真の利と謂ふをべく」と渋沢は、説いています。

 

 渋沢は、自分の言葉を文字通りに実行しました。第一国立銀行(現在はみずほグループ)、東洋紡、東京海上火災、王子製紙、日本鉄道会社、日本郵船会社等、彼が創設・経営・支援した企業は、彼の公共精神によって起こされたものです。渋沢はまた、今日の商工会議所をつくり、企業家が協力して社会に貢献する仕組みをつくりました。そして、渋沢は、事業によって得た利益を社会に還元しました。帝国劇場・日仏会館・一橋大学・日本女子大など、渋沢の寄与は幅広く、文化・教育にも及んでいます。また、浮浪者の施設である東京養育院の院長も50余年務め、そこに私財を投じています。

こうした彼の姿勢は、彼が渋沢の名をもつ財閥や企業グループをつくらなかったことにも、よく表れています。

 

渋沢が実践した、私を超えて公に尽くす奉仕の精神は、日本人の精神の特徴です。それゆえ、私たちは、伝統的な日本精神を近代社会に応用した見事な実例を、渋沢栄一に見ることができるのです。ページの頭へ

 

参考資料

    童門冬ニ著『渋沢栄一』(学陽書房)

・渋沢栄一原著/竹内均編・解説『孔子 人間、どこまで大きくなれるか』(三笠書房)

 
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日本を守った英雄〜東郷平八郎

 

 アジア・アフリカが、欧米の植民地として支配されていた19世紀、わが国は明治維新を成し遂げました。そして、国家の独立を守り、半世紀足らずのうちに近代国家を形成しました。その間、日露戦争という国の存亡をかけた戦いがありました。

 日露戦争における日本の勝利は、西洋白人種による植民地支配を打ち破るという世界史的意義を持つ出来事でした。その日露戦争の勝利を決定的にしたのが、日本海海戦です。この海戦で活躍したのが、海軍大将・東郷平八郎でした。東郷は、近代日本を代表する英雄として、各国で深く尊敬されています。しかし、わが国では、戦後、教科書から消されてきた人物です。

 

 明治38年(1905)、大国ロシアは、日本海軍に対抗するため、その海軍の全力をあげて、東洋に回航させました。その進路によっては、戦いは全く変わってきます。東郷は、ロシア艦隊は、対馬海峡に現われると確信していました。そして、5月27日、38隻からなるバルチック艦隊は、東郷の予感通り、対馬海峡に現われました。いよいよ戦いが始まろうとする時、東郷連合艦隊司令長官は、「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗信号を、旗艦三笠に掲げました。東郷は、ロシア艦隊を取り逃がしてはなりません。なぜならば、取り逃がした艦船によって東京等を砲撃されたならば、日本には防ぎようがなく、敗戦は必至だからです。完勝する以外に、日本の明日はないのです。

 

 東郷は、「丁字戦法」という捨て身の戦法を採り、ロシア艦隊を驚嘆・狼狽(ろうばい)させました。世にいう「トーゴー・ターン」です。折りから風は強く、波の高い日本海でした。この気象条件は日本に幸いしました。 日本は砲力で劣っていましたが、相手の船体に沈没させるほどの穴を開けなくとも、波による浸水で被害をもたらすことができたからです。

 砲弾が飛び交い、波しぶきが寄せる中、東郷は、艦橋に立って微動にせず、指揮を執り続けました。そして、日本海軍は、ロシア艦隊19隻を打ち沈め、5隻を捕獲し、司令長官を捕虜としました。しかも、わが方は1隻も失うことがありませんでした。これほどパーフェクトな海戦は、世界の海戦史上、あとにもさきにもありません。実に奇跡的な大勝利でした。

 このニュースは瞬く間に世界に伝わりました。東郷は「世界の英雄」と賞賛されました。そして、被抑圧民族に、独立への勇気と希望を与えました。トルコやフィンランドなど、多くの国の教科書に彼の英雄振りが記載されているほどです。

 もしこの日本海海戦で日本が敗れていたら、どうだったでしょうか。制海権を握られた日本は、日露戦争に敗れ、ロシアの過大な要求を飲まされたことでしょう。明治維新を経てわずか30数年にして、日本は植民地と化していたかもしれません。男は強制労働、女は暴行を受け、逆らうものは死。ロシアが支配する国では、それが当然でした。日本の資源や労働成果は、とことんロシア人に吸い尽くされたことでしょう。

 

 日本海海戦は、運命の岐路でした。この岐路に立って、日本と日本人の運命を救った東郷平八郎のことを、日本人は忘れていて良いのでしょうか。

 戦後教育を受けてきた者にとって、軍人というと、それだけで恐ろしい、悪人であるかのように思う人が少なくないでしょう。だが、東郷という日本人は、誠実な、私利私欲のない人でした。戦争終了後、彼の息子を文部大臣にしようという声が出ました。彼の名声をもってすれば、どんなわがままも通ったことでしょう。しかし、東郷は、「人間には器がある、器で生きてこそ幸せだ」と言ってその申し出を固辞し、息子を湘南の図書館長にしたといいます。

 東郷は、また「天佑神助(てんゆうしんじょ)というものは必ずある」と心より信じた人でした。日本海海戦において、東郷は天の恵み、神の助けを信じました。だが、それは人間が真心の限りを尽くすことによってのみ得られるというのが、彼の不動の信念でした。そこに、世界史の奇跡といわれる勝利も得られたのでしょう。そして、彼だけでなく、当時の日本人は、国家国民の一大事に、一致団結して向かったからでしょう。

 

時は移り、わが国は第2次世界大戦では米国に敗れました。この時の太平洋艦隊司令長官が、チェスター・W・ニミッツです。ニミッツ提督は、日露戦争の英雄・東郷平八郎を師と仰いでいました。そして、大戦後、東郷元帥に敬意を表して、日米親善に尽くしました。

 日露戦争の直後、当時、士官候補生だったニミッツは、米国軍艦にて日本を訪れ、明治天皇の賜宴に出席し、東郷と言葉を交わしました。ニミッツは次のように言っています。

 

 「私は海軍士官候補生のとき、私の前を通った偉大な提督東郷の姿を見て全身が震えるほど興奮をおぼえました。そして、いつの日かあのような偉大な提督になりたいと思ったのです。

 東郷は私の師です。あのマリアナ海戦の時、私は対馬で待ちうけていた東郷のことを思いながら、小沢(治三郎中将)の艦隊を待ちうけていました。そして私は勝ったのです。東郷が編み出した戦法で、日本の艦隊を破ったのです」と。

 

 戦後、ニミッツは、日露戦争で東郷が乗艦した戦艦・三笠が、荒れ放題になっていることを聞き、深く心を痛めました。三笠は、日本の運命を救った船として永久に記念すべく、大正15年以来、横須賀に保存されていました。ところが第2次大戦後、東郷までが「軍国日本」の「悪しき象徴」とされてしまいました。そして、彼の乗艦三笠は見るも無惨な扱いを受けたのです。大砲、鑑橋、煙突、マスト等は取り除かれ、丸裸になってしまいました。艦内では米兵相手の営業が行われ、東郷のいた司令長官室は「キャバレー・トーゴー」に変わり果てるという有り様。敗れた日本人は魂を失い、勝った米国人はおごりに陥っていました。

 ニミッツは、嘆き悲しみました。彼は米国海軍に働きかけて資金をつくり、これを三笠の復元費として日本側に寄贈しました。また、日本国内にも反省が起こり、昭和35年、ようやく三笠は復元されました。その際、ニミッツは彼の写真とともに次の言葉を送ってきました。

 

 「貴国の最も偉大なる海軍軍人東郷元帥の旗艦、有名な三笠を復元するために協力された愛国的日本人のすべての方へ、最善の好意をもってこれを贈ります。

 東郷元帥の大崇拝者たる弟子 米国海軍元帥 C・W・ニミッツ」

 

 大戦の際、東郷元帥をまつる東郷神社は、戦災で焼失しました。ニミッツは、東郷神社が再建されることを聞くと、自著『太平洋海戦史』の日本語版の印税を、米国海軍の名において寄付したい、と申し出ました。昭和39年、再建が成った時、ニミッツは、自分の写真とともに、祝賀のメッセージを寄せて、喜びを表しました。

 

 「日本の皆様、私は最も偉大な海軍軍人である東郷平八郎元帥の霊に敬意を捧げます」

 

 ニミッツの死後、昭和51年、アメリカでは、英雄ニミッツの功績を記念して「ニミッツ・センター」(テキサス州立公園)の設立が計画されました。その時、センターのハーバード理事長は、「ニミッツ元帥は東郷元帥を生涯心の師として崇拝してきました。東郷なくしてニミッツを語ることはできないと信じますので、本センターは是非、東郷元帥の顕彰も併せ行いたいと思います。また東郷のような偉大な人物を育てた日本の文化資料も展示し、日本の姿も知らせたいと思います」と協力を要請してきました。日本側は喜んでこれに応じました。そして、資料のほか、「平和庭園」と名付けた日本庭園を贈りました。こうしてニミッツ・センターは、日米両国を代表する英雄を記念するとともに、日米親善を深める施設ともなったのです。

  敗戦とその後の占領政策によって魂を失い、経済成長に血道をあげたすえ、底無し不況と環境生命破壊に陥り、いまや物心両面で危地にある、私たち日本人。

 「座して滅亡を待つか、起ちて活路を開くか」ー東郷元帥と、彼をめぐる「物語」は、私たちに明日への活力を与えてくれるものだと思います。

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参考資料:

    岡田幹彦著『東郷平八郎〜近代日本をおこした明治の気概』(展転社)

・名越ニ荒之助著『世界に生きる日本の心』(展転社)

 
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■世界の中の日本〜明治の日本主義者

2003.6.30

 

 日本人は江戸時代までは、主にシナとの対比によって、自己認識をしました。せいぜい「東洋の中の日本」という自覚でした。しかし、明治維新によって西洋文明を採り入れ、欧化を進めた段階で、初めて「世界の中の日本」という自覚をもつようになりました。これは21世紀に続く世界史の舞台に登場した日本人の自己認識です。ここに出現したのが、日本主義(Nipponism)であり、日本精神論(Study of Japanese Spirit)です。

 

 維新後、文明開化によって、日本の近代化が推進されました。明治20年代の初めには、近代国家としての基礎づくりができました。この段階に至り、維新以来の20年を振り返って、反省と評価が行われるようになりました。そして、それまでの西洋・欧米への傾斜から、日本への回帰をめざす思潮が現れてきます。それは日本人が、「世界の中の日本」を自覚する動きでした。

 この時、現れた思潮が、国粋主義と国民主義(Nationalism)であり、それが、さらに発展して日本主義となります。また、日本主義の中から、日本精神という言葉が現われます。

「国粋」とは、nationality の訳語です。今日では、国民性・民族性等と訳します。「国粋主義」は、政教社の雑誌『日本人』が、「国粋保存」を唱道したのに始まります。政教社は、明治21年(1888)、当時の代表的な言論人、志賀重昂・三宅雪嶺・杉浦重剛らを中心に作られたグループです。彼らは、「国粋」の「保存」、つまり日本国民固有の特性を維持・発揚することを主張しました。そして、鹿鳴館外交に象徴される欧化主義、欧米追随路線に反対し、内政外交ともに日本自らの立場をとることを主張しました。

雑誌『日本人』に呼応して、陸羯南(くが・かつなん)は、明治22年に、新聞『日本』を発行し、「国民主義」を唱えました。「国民主義」とは、日本が維新後、一旦失った国民精神を回復し、また発揚しようとする思想です。外に対しては国民の独立を、内においては国民の統一を求めます。これは、後進国の近代化の課題を明らかにしたものでもありました。

 

「国粋主義」と「国民主義」は、名前は異なりますが、実体は同じです。人脈的にも密接な関係にあります。陸羯南は、両者をまとめて「国民論派」と称しました。彼らの代表的な著作は、新聞『日本』によった陸羯南の『近時政論考』(明治23年)、雑誌『日本人』の同人である、三宅雪嶺の『真善美日本人』(明治24年)や志賀重昂の『日本風景論』(明治27年)などです。これらの著作は、当時のわが国で、大きな影響を及ぼし、近代日本人の自覚を高めました。その後、明治40年(1907)には、雑誌『日本人』が新聞『日本』を吸収し、『日本及日本人』に改名されました。

 

日清戦争(明治37〜38年)の前後からは、欧化への批判・抵抗の段階から一歩進んだ「日本主義」が、高山樗牛(ちょぎゅう)・井上哲治郎らによって提唱されました。

ここでは、国粋主義・国民主義を含めた総称として、日本主義と呼ぶことにします。

明治20〜40年代の日本主義は、昭和戦前期の超国家主義(Ultra-nationalism)のような独善的・排外的な偏狭さはなく、国際的・世界的な視野をもっていました。陸・志賀・三宅らは、政府の欧化主義には反対するが、西洋の科学技術を排斥せず、これを採り入れました。彼らが批判したのは、西洋崇拝・欧米追従のような行き過ぎに対してでした。民族や文化の独自性を主張しながらも、それを国際社会の中でいかにして実現するかを、彼らは考えました。そのために、日本人の主体的な自覚を高めようとしました。そして、日本がその固有性を保持・発展させることによって、世界人類に寄与しようとしたのです。

そこには、江戸時代末期、「東洋道徳、西洋芸術」を唱えた佐久間象山や、「大義を四海に布(し)くのみ」とうたった横井小楠に連なる、日本人としての主体的な態度が受け継がれています。(1)

 

明治の日本主義者にとっては、ナショナリズムとインターナショナリズム、あるいは伝統的な精神文化とデモクラシーの総合が理想であり、また目標でもありました。この理想・目標は、21世紀を生きる私たちにとっても、共通のものです。明治の日本主義を振り返ることは、今日の私たちに多くのヒントを与えてくれるでしょう。

 

 続く項目で、明治の日本主義者とその周辺について取り上げます。引き続きお読みください。

陸羯南志賀重昂高山樗牛三宅雪嶺芳賀矢一岡倉天心

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(1)以下の拙稿をご参照下さい。

『東洋道徳、西洋芸術』〜佐久間象山

大義を世界に〜横井小楠

参考資料

    宮川透著『日本精神史への序論』(紀伊国屋書店)

    松本三之助著『明治思想史』(新曜社)

 
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主体的で国際的な国民主義〜陸羯南

2003.7.14

 

陸羯南(くが・かつなん)は、明治時代を代表する新聞記者であり、言論人です。広い意味での日本主義者の一人として、陸を指折ることが出来ます。

弘前藩(現・青森県)の下級士族の出身である陸は、一時中央官庁に勤めたものの、政府の条約改正と欧化政策に反対して野に下りました。そして、明治21年(1888)年4月に政教社の雑誌『日本人』が創刊されると、これに呼応して翌22年2月、新聞『日本』を発刊します。『日本人』が「国粋保存主義」を唱えたのに対し、陸が標榜したのが「国民主義」です。その後、39年(1906)年に病で新聞の経営権を譲るまで、彼は同紙の社主・主筆として言論一筋に生きました。

 

陸の新聞『日本』は、政権を争う機関でも私利を求める商品でもなく、主義のみによって立つ非党派、非営利の言論新聞をめざしました。同紙の創刊の辞において、陸は、国外に向かっての「国民精神の発揚」と、国内に向かっての「国民団結の強化」を、その目的として掲げます。そして、それによって、人類への「博愛」を持ちつつ「国民精神を回復発揚」しようという意思を表明しています。この「国民精神」とは日本の国民精神のことですから、後に使われる日本精神という言葉に置き換えて、理解することが可能です。

さて、陸は、自身の国民主義を「ナショナリチー」を主張する思想を指す、といいます。そして、「一国の独立進歩は国民固有の元気性格にき、外国文明の事物は国民の理想感情を以て之を同化する」主義と定義しています。その目的は「国民的特性即ち歴史上より縁起する所のその能力及び勢力の保存及び発達」です。それは閉鎖的・排外的なものではなく、単に外国の文化をうのみにせず、主体的な姿勢をもとうじゃないか、ということです。

こうした陸の国民主義は、志賀重昂・三宅雪嶺・杉浦重剛らの雑誌『日本人』が説く国粋保存主義と同じ主旨のものでした。陸は「吾輩は国粋旨義に対して固より同感なれども。最初よりの慣用に従ひて、其の同一の旨義を国民旨義と称し来れり」(『日本』明治22年5月)と言っています。そして彼自身、『日本人』と『日本』の立場を総称して「国民論派」と呼んでいます。

 

 陸は『近時政論考』で次のように書いています。国民論派は西洋の主義・思想をそのまま信奉するものではない。例えば「代議政すなわち立憲政は他の論派にありては最終の目的なれども、国民論派にありては一の方法たるに過ぎず。しからばその目的はいかん。いわく、『国民全体の力をもって内部の富強進歩を計り、もって世界の文明に力を致さんこと』これその最終の目的なり」と主張します。また「国民論派は単に抽象的原則を神聖にしてこれを崇拝するものにあらず」と言います。国民論派は、自由主義と平等主義を共に必要なものだと認める、しかし「あえてその天賦の権利たりまたは泰西(たいせい=西洋)の風儀たるがゆえをもってするにはあらざるなり」とその姿勢を明らかにします。また、国民論派は個人主義にも国家主義にも偏るものではないと述べます。「個人主義を取るもの個人国家のために存すと主張す。国家主義を取るもの個人国家のために存すと主張す。二者ともに旧時の迷想を争そうに過ぎず。国民論派は個人と国家を並立してはじめて国家の統一および発育を得るものとせり」と。

 

こうした国民論派は、鹿鳴館に象徴されるような欧化風潮に反対して起こったものです。「しかれども」と陸は書いています。「この論派はただに欧化風潮を停止することをもって満足するものにあらず。なお進んで日本の社交上および政事上に構成的論旨を有するものなり、されば国民論派は一時の反動的論派にあらずして、将来永遠に大目的を有するところの新論派と言うべし」と。この大目的とは、「国民全体の力をもって内部の富強進歩を計り、もって世界の文明に力を致さんこと」にほかなりません。

陸の国民主義は、国粋保存主義と同じく、日本主義の先駆形態です。それは日本が自らの個性を保ち伸ばすことによって、世界人類に貢献しようという、主体的で国際性豊かな思想だったのです。ページの頭へ

 

参考資料

・『日本の名著 37 陸羯南・三宅雪嶺』(中央公論新社)

 
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■個性尊重の日本主義を提唱〜志賀重昂

2003.7.31

 

日本主義という用語を使い出したのは、志賀重昂(しげたか)のようです。明治が生んだ世界的地理学者だった志賀は、三河国 (現・愛知県岡崎市) の武家に生まれ、札幌農学校を卒業しました。明治19年(1886)からダーウィンをまねて、船でオーストラリア、サモア、ハワイを歴訪し、帰国後その見聞記を書きました。その後も世界を旅行してほとんど全大陸を踏破し、当時の日本では比類のない大旅行家でした。

 

志賀は明治27年(1894)日清戦争勃発の年に『日本風景論』を刊行しました。この書は、日本の気候の特徴、生物、水蒸気の現象、各地の火山等を描き、登山の準備、装備などについても詳細に書いたものです。古典文学からの引用と地理学の術語を駆使し、日本の風土がいかに欧米に比べて優れているかを情熱的な文章で綴(つづ)っています。この本は日清戦争と三国干渉の時期という時勢にのってベストセラーとなりました。若者が競って読み、発売後わずか3週間で完売したといわれます。

 

志賀は当時、既に思想家としても著名でした。明治21年(1888)、志賀は三宅雪嶺・杉浦重剛・陸羯南らと政教社を結成し、雑誌『日本人』を創刊しました。そして、「国粋保存主義」の唱導者として知られていました。

 「国粋」と聞くと、多くの人は右翼をイメージするでしょう。しかし、もともと「国粋」という言葉は 英語の nationality の訳語です。日本独自の風土や歴史や文化をとおして長年の間に形作られてきた国民性・民族性を意味します。志賀は、『日本人』第2号(1888)に次のように書きました。「国粋」とは「大和民族の間に千古万古より遺伝し来りし化醇し来り、終に当代に到るまで保存」されたものだ、と。そして、国粋保存主義とは、その「国粋」の「発育成長」を促し、大和民族を進化改良することを目的とする、と志賀は書いています。(『「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す分』)

そして国粋保存主義とは、「国粋」こそ、今後、日本民族の進歩と改良とをめざすにあたって、もっとも考慮されるべき「標準」であり「基本」でなければならないとする主義である、と志賀は定義しています。

 

ただし、これは外国文化を排斥するような排外的で閉鎖的な思想ではありませんでした。志賀は「日本の宗教、徳教、美術、政治、生産の制度を選択せんにも、亦『国粋保存』の大義を以て之を演繹せんとするものなり。然れども予輩は徹頭徹尾日本固有の旧分子を保存し旧原素を維持せんと欲する者に非。只泰西の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以て之を咀嚼し之を消化し、日本なる身体に同化せしめん」とも書いています。(上掲論文)

つまり、西洋の「開化」を採り入れても、それを日本的に「同化」することが大事だ、日本のめざすべきものは「西洋の開化」ではなく、あくまでも「日本の開化」でなければならないと、志賀は説いているのです。それゆえ、志賀の国粋保存主義とは、日本人としての主体的な姿勢を訴えるものだったわけです。

 

本来、国粋保存主義とは、各民族の「国粋」、つまり国民性・民族性の多様性を前提とするものでした。それは、各国民・各民族の個性を尊重する姿勢ともいえます。志賀は、次のように書いています。「人々個々の間に各自が最特の長処あるを以て、所謂分業なる者起るとなれば、邦国個々も亦長処を以て分業せざる可からざるや知るべし」と。これは、各国がそれぞれ長所を発揮して国際分業を行い、共存共栄することを説くものでしょう。国粋保存主義は、国際的な広がりをもった思想だったのです。

志賀は「日本の国粋を精神となしこれを骨髄となし、而して後能く機に臨みて進退去就する」ところの「国粋保存旨義」とも書いています。日本の国粋を「精神」「骨髄」とする主義であれば、これを日本主義ということもできます。またこの「精神」を日本精神と呼ぶこともできます。

実際、志賀は国粋保存主義を一歩進めて、『日本人』第6号(明治21年)では、「日本旨義」すなわち日本主義という用語を使用します。それは、「欧化旨義」つまり欧化主義と対比して打ち出したものでした。そして、志賀が提唱した日本主義は、その後、大きな発展を見せることになります。

明治に出現した日本主義は、もともと排外的・偏狭的ではなく、主体的であるとともに国際性をもったものだったのです。ページの頭へ

 

参考資料

・志賀重昂著『日本風景論』(岩波文庫)

 
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日本主義は国民道徳の原理〜高山樗牛

2003.8.16

 

 明治維新によって独立を守り、国際社会に参入した日本人が、大きな試練に遭遇したのが、日清戦争でした。それは、江戸時代末期のペリー来航以来、欧米の外圧の下に置かれてきたわが国の危機を、再認識させられる出来事でした。わが国はこの戦争に勝利することができましたが、列強の三国干渉を受け、苦渋をなめました。それとともに、日本人の民族的・国民的な自覚が高まりました。

この頃、現れた新思想が、日本主義です。これは明治20年代初め、欧化現象への批判・抵抗として提唱された国民主義・国粋保存主義より、視野を広げ、一歩進んで提唱された思想です。

 

日本主義という言葉を最初に使ったのは、志賀重昂のようだと志賀の項目に書きました。志賀は、明治21年(1888)雑誌『日本人』第6号で、「日本旨義」つまり日本主義を、「欧化旨義」つまり欧化主義と対比して打ち出したのです。日清戦争後には、国民道徳を顕揚する哲学者・井上哲次郎も日本主義を唱え、倫理学者の木村鷹太郎が喧伝しました。明治30年(1897)には、井上・木村と高山樗牛(ちょぎゅう)らが中心となって「大日本協会」を創立し、機関紙『日本主義』を発行しました。その翌月、樗牛は『日本主義を賛す』を雑誌『太陽』に発表しました。

 

樗牛は、明治27年、小説『瀧口入道』で彗星のように登場し、明治35年、32歳で亡くなるまで、文芸批評家、 思想家、美学者として短い生涯を駆け抜けました。『高山樗牛全集』は明治30年代の青年たちに熱烈な影響を与えました。

樗牛の説いた日本主義とは、どういうものでしょうか。『日本主義を賛す』で樗牛は、「日本主義とは何ぞや」と問い、これを「国民的特性に本ける自主独立の精神に拠り建国当初の抱負を発揮せむことを目的とする所の道徳的原理、即是なり」と定義しました。そして「日本主義は大和民族の抱負及理想を表白せるものなり。日本主義は日本国民の安心立命地を指定せるものなり。日本主義は宗教にあらず、哲学にあらず、国民的実行道徳の原理なり」としました。

樗牛は次のように説いています。「帝国憲法、教育勅語、及び日本主義――吾人は是を以て明治思想上の三大事実となす。帝国憲法は国法の大綱を示し、教育勅語は教育の針路を明にし、日本主義は国民道徳の本領を指示するを主眼と若し大日本帝国の国体民性に基きて国民精神の統一を目的とするに至りては、三者其の軌を一に」(『国民精神の統一』)。

樗牛によれば、「国家は人生寄託の必然的形式にして又其の唯一形式」であり、「日本の国家は日本の国民の幸福の唯一且つ必然なる形式」です。それゆえに「日本主義は日本国民の性情に本づき、皇祖建国の精神を発揮しむことを目的とする所の国家的道徳の原理」(『世評を慨す』)にほかなりません。ただし彼が国家を至上と考えたのは、権威的な国家主義ではなく、「国民的性情」に根ざした「国家的道徳」のみが、実際に国民に「安心立命」の方向を示しうると考えたからでした。

 

樗牛の「日本主義」は、日清戦争における日本の勝利の結果、「黄白人種最後の大格闘」はいまや不可避であり、「黄人種最後の運命を決すべき一大危機」は「眉睫の間に近づきつつある」という認識に立って、それに対処すべき日本のあり方を説こうとするものでした。このような認識の上に構築される「世界における日本の位置」は、欧米列強に伍すべき東洋・アジアの新興・日本の姿にほかなりませんでした。樗牛のいう「大格闘」は日露戦争という形で現実となりました。わが国は、この元寇以来の危機を、国民の一致団結によって、切り抜けました。そして、有色人種がはじめて白色人種に勝利したことによって、世界史は大きく転換することになったのです。

 

樗牛らによる日本主義の唱導は、日本人が、西洋物質文明から東洋精神文明の時代へと向かう世界史の流れを感知し始めたことを示す、画期的な主張だったといえましょう。そして、この日本主義の思潮の中から、明治末期に「日本精神」という言葉が登場し、大正・昭和において大きく展開されていくのです。ページの頭へ

 

参考資料

    高山樗牛著『樗牛全集』(日本図書センター)

 
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■21世紀、東洋人の課題〜三宅雪嶺

2003.8.31

 

 三宅雪嶺は、明治の中期から昭和前期まで活躍した精神的巨人です。国際的な視野を持つジャーナリストであり、哲学者、歴史家でもありました。万延元年(1860)、石川県金沢の医師の家系に生まれ、昭和20年(1945)85歳で没しています。

 

早くから社会問題に関心の強かった雪嶺は、明治21年(1888)、政府の条約改正案や欧化政策に反対して、志賀重昂らとともに政教社を設立し、雑誌『日本人』を創刊しました。

当時使われた「国粋」という言葉は、ナショナリティの訳語で民族性・国民性を意味します。そして、「国粋保存」という言葉が広まりました。しかし、雪嶺はこのことを残念がります。「国粋保存」は適当でない、「国粋顕彰」や「国粋助長」が良いというのです。実際、政教社の人々は、日本固有の制度や風俗習慣を、ただそれだけで保守しようとしたのではありません。欧化であれ国粋であれ、本当に価値があるかどうか十分考慮したうえで、取捨選択すべきだという合理的態度を良しとしたのです。

明治22年5月、雪嶺は『余輩国粋主義を唱導するあに偶然ならんを発表します。この中で、雪嶺は次のように書いています。

「たとい欧米の風俗を採用するも、たとい旧来の習慣を打破するも、日本在来の精神はこれを保存せざるからず、これを顕彰せざるからず、これを助長せざるからず。ある部類の人士のごとく、その心志を英に化し、その精神を独に変じて、自ら得たりとするは、日本人にして日本人にあらざるなり、言を換えて言えば、泰西(=西洋)の利機はこれを採用するも、泰西の智識はこれを利用するも、各自『日本人』たるの精神はこれを喪亡せざるべしとすること、これなり」

 

雪嶺は東西の哲学を検討し、わが国における最初の自覚的な哲学書『哲学涓滴(けんてき)』(明治22年)を書きました。その緒論で次のように述べます。「東洋といひ西洋といへば、優劣自ら判然たるが如なれども、マルコ・ポロの元の世祖に仕へし時は、恐くは東洋を以て西洋に超越すと為しならん」と。つまり、彼かつて東洋が西洋にまさっていた時代があった、近代のヨーロッパの優越は相対的なものであると認識していました。「一盛一衰は自然の勢いのみ。盛なれば貴ばれ、衰ふれば賎(いやし)まる。(略)嗟吁(ああ)東洋果して永く下劣を甘んじて、西洋果して常に秀憂を誇るか。時あり、勢あり、資質奚(なん)異ならん」。彼は、やがて東洋が再び西洋にまさる時が来ることを、歴史的に予想していたのです。

雪嶺は、当時ほとんど顧みられなくなっていた東洋哲学を、世界の思想の中で、西洋哲学と並ぶものとして位置づけます。そして、東西両哲学の総合をめざします。「我国儒教を伝ふる久し。仏教を伝ふるも久し若し泰西(たいせい=西洋)の哲学を注入し、混然和合して新に進化開達するに及ては、東海において宇内(うだい=世界)第二十世紀の哲学界を支配する得ん」。雪嶺は、東西の思想が相補って世界の文明を進展させるべきだと考えました。この課題は、21世紀の東洋人の大きな課題でもあります。今から110数年前、明治維新後、わずか20年あまりの時代に、かくも雄大な思想が胚胎されていたことは、驚嘆に値しましょう。

 

雪嶺は、西洋白人種が支配する世界において、東洋アジア人が目覚めるべき時が来たことを感得し、日本人の個性と役割を自覚しました。彼は次のように書いています。

「その実力の薀蓄(うんちく)ひとたび暢達(ちょうたつ=発揮)せば、世界史のふたたび蒙古種の紀事に充たされんこと、けっして疑いを容るべからず。…東洋の問題に矻々(こつこつ=努力)するはまさにこれ蒙古人種を因睡(いんすい=眠り)より醒起(せいき=目覚めさ)して、重大なる任務のあるところを知らしめ、それをしてアリアン(=アーリア人種)と馳駆(ちく=奔走)して世界の円満なる極処を尋求しむのみ。二十世紀より後はけだし蒙古種に取り好望の世なり。しかして日本人に取りまたもっとも好望の世なり」

雪嶺は、こうした主張を、続く著書『真善美日本人』において、大きく展開するのです。

 

三宅雪嶺の名を不朽のものとしているもの、それが、明治24年(1891)、わずか32歳で世に問うた名著『真善美日本人』です。

巻頭、雪嶺は次のように記します。「自国の為に力を尽すは、世界の為に力を尽すなり、民種の特色を発揚するは人類の化育を裨補(ひほ=補う)するなり、護国と博愛と奚(なん)ぞ撞着すること有らん」と。ここにおいて、雪嶺は、国家に尽くし民族の特色を発揮することが、世界のため、人類のためになる、愛国心と人類愛は矛盾しないと述べています。彼は国家と世界、民族と人類の間の共存調和を揺ぎない確信として語っているのです。

 

続く第1章は「日本人の本質」です。ここで雪嶺は「日本人とはなんぞや」と切り出します。まさに日本人論です。明治維新後、ひたすら西洋文明を志向してきた欧化の風潮に対して、雪嶺は、日本人にとって必要なことは、まず日本人自身が何であるかを知ることであると主張します。そして、日本人のアイデンティティの発見を訴えます。

注目すべきは、ここで雪嶺が、日本人の本質を、人類の進化という観点に立って自覚しようとしていることです。雪嶺は、人類進化の目標は、真・善・美という普遍的な価値の極致に至ることであるとします。そして、日本人にはこの理想の達成に貢献できる能力があるとし、西洋白人種が文明を独占していた当時の世界で、日本人は東洋アジア人として果たすべき使命をもっており、日本が覚醒した意義は大きい、と堂々たる見解を明らかにします。

 

続いて雪嶺は、真・善・美の三つの領域における「日本人の能力」と「日本人の任務」を追求します。「真」に関して強調されているのは、日本人は、大いに西洋に学んで科学的国家になるとともに、東洋に関する学問を興すことです。「善」に関しては、列強の圧力に抗し国家としての独立を維持しながら、人権・公徳の実現をはかり、進んで正義を行なうべきことが力説されます。「美」に関しては、日本人は美的感覚に優れているが、その美は繊細な美に偏っているので、東洋や西洋の諸国に学び、もっと壮大な美をめざすべきだ、と主張しています。そして、こうした考察の下に、雪嶺は、日本人には「大に其の特能を伸べて、白人の欠陥を補、真極り、善極り、美極る円満幸福の世界に進むべき一大任務」があると主張します。日本人が自らの本質を自覚し、その能力を発揮すれば、西洋白人種の欠陥を補って、人類の進化に貢献し、真・善・美の価値を実現した世界に進むことができるというわけです。

 

こうした雪嶺の精神は独善主義を許しません。雪嶺は『真善美日本人』を公刊すると、同じ年、直ちに『偽悪醜・日本人』を世に出し、日本人の欠陥も厳しく指摘しました。本書と『真善美日本人』とは、一対をなしているのです。

 本書で雪嶺が述べているのは、日本と日本人の現実に対する厳しい批判と反省です。日本の近代化とともに現れてきた腐敗への、彼の憤りの深さが感じられます。すなわち、日本人の果たすべき使命の実現には、徹底的な日本の浄化が必要であり、積年の偽・悪・醜を一掃しなければならない。「偽」については、日本の学問は官僚の支配下にあり、学者自身も曲学阿世や私利私欲の徒が多いので、その弊害から脱すべきこと。「悪」については、社会の腐敗の根源は紳商(社会的地位の高い商人)・政商の跋扈(ばっこ)にあるので、彼らを一掃すべきこと。「醜」については、西洋の美の模倣から脱して、力強い日本の美を生み出すべきこと、を説いています。

 

こうして雪嶺は、日本人の長所・短所、美点・欠点を総合的に把握し、そのうえで、日本人の世界史的使命を説いたのでした。個性の発揮を通じて、普遍的な価値を実現するーーそこに、日本古来の精神を発揚する意義があることを、雪嶺は今日の私たちに訴えています。明治の国粋主義あるいは日本主義は、独善的・排外的ではなく、国際的・人類的なスケールを持ったものだったのです。ページの頭へ

 

参考資料

・『日本の名著 37 陸羯南・三宅雪嶺』(中央公論新社)

 
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新語「日本精神」を活用〜芳賀矢一

2003.9.29

 

明治20年代に登場した「日本主義」は、その後、発展を続けます。そして、日本主義の思潮の中から、「日本精神」という言葉が登場します。明治になって、古来の「大和魂」「大和心」を、近代的に「国民精神」などと呼んでいたのに代わって、「日本精神」という新しい言葉が使われるようになったのです。

「日本精神」という言葉を使った最初期の人物に、芳賀矢一がいます。芳賀は、明治後期の代表的な国文学者です。ドイツに留学して文献学の理論と方法を学び、国文学を近代的学問として樹立し、また国語政策にも尽力した人物です。

 

芳賀は、明治40年(1907)に、『国民性十論』を著しました。これは留学経験を生かした文化史的な観点から、従来になく詳しい国民性論を展開したものでした。

 芳賀は、日本の国民性の特質として、次の10項目を挙げました。

(1)忠君愛国、(2)祖先を崇家名を重んず、(3)現世的実際的、(4)草木を愛し自然を喜ぶ、(5)楽天洒落、(6)淡白瀟洒、(7)繊麗繊巧、(8)清浄潔白、(9)礼節作法、(10)温和寛恕がそれです。

 そして、これらの項目の説明をしています。

たとえば、(1)の「忠君愛国」では、日本国民の皇室に対する考えは、古今東西全く類例がないとして、皇室に対する忠義と愛国心を強調します。武家で養成された武士道精神が、明治以後は皇室に向かって捧げられることになったと述べています。(2)の「祖先を崇家名を重んず」では、この性向は、もともと日本は神祇政治・宗族政治の国で、村の氏神、家の先祖、家名を重んじる伝統があるからだとします。このような具合に、各項目を展開し、最後の(10)「温和寛恕」については、当時、欧米に現れた「黄禍説」に関して、日本人は古来侵略的でなく異人種に寛容であると言い、また神話・童話などにも残酷な話は非常に少ないと述べています。

 

芳賀の『国民性十論』は、三宅雪嶺の『真善美日本人』(明治24年発行)以来の総合的な日本人論として、大きな反響を呼びました。本書が出た当時は、日露戦争(明治38年)、日英同盟、排日運動などが起こった時期でした。日本が国際社会に大きく登場したところで、日本人とは何かということが改めて自問される時だったのです。それゆえに本書は大きな注目をもって読まれたのです。

 

 芳賀は、明治45年(1912)には『日本人』を発表しました。その内容は、後の大正・昭和の日本論の骨格が、ほぼ出されていると考えられるものです。

たとえば、第1章「すめらみこと」では、「すめらみこと」としての天皇を「現神(あきつかみ)」とする日本の国体を、国民性の政治的な土台と考えています。第2章「家」では、日本を「家族国家」と考え、その単位集団である家における家長に対する「孝」の念と、天皇に対する「忠」の心が、全く同じものだとします。第6章「同情」では、犠牲的精神が日本人の美質で、義侠とも呼ばれ、忠臣蔵はその象徴であるとします。第9章「国家」では、皇室に対する忠誠心が古代から変わらず、君と国とは一つであるとしています。そして結語では、教育勅語を引用しています。

 

芳賀が活躍していた明治45年頃から、「日本精神」という言葉が用いられ始めます。日本の「国民精神」という意味で、「日本精神」という新語が登場したのは、自然な展開でした。

大正6年(1917)に芳賀は、ロンドンの日本協会で、「日本精神」を演目とする講演を行いました。その中で、芳賀は、武士道について触れ、次のように述べています。

「勇猛にしてしかも謙遜、天皇と皇祖皇宗の神々の他には何物をも恐れない日本武人の本質は、遠い神代の昔から子々孫々に伝わったもので、鎌倉時代に始めて現れたものではない。もしそういう祖先の先例がなかったならば、武士道の発達は不可能であったに違いない。そうして後世の領主に対するあの熱烈な忠節は存在し得なかったと思う。たまたま後世の叙事詩や戯曲だけを読んだだけで、古代文学について何の知識も持たない人が、武士道の起源を中世の精神であるかの如く誤り伝えたのである」

こうした芳賀の武士道の見方は、新奇なものではありません。幕末から明治を生きた剣豪・山岡鉄舟は、武士道を日本古来の日本人の道と説いていたからです。芳賀の見方は、鉄舟と根本において一致しています。彼らはともに、武士道に現れた日本精神を深く観察していたのです。(1)

 

芳賀は、明治20年代以降の日本主義を受け継ぎ、日本精神について、初めて本格的に、国際的な視野で総合的な考察を行いました。芳賀あたりから「日本精神」という用語が使用され、大正10年代には積極的に使われるようになっていきます。「日本精神」という言葉は、「世界の中の日本」を自覚した日本主義の思潮の中から、登場したのです。ページの頭へ

 

(1)山岡鉄舟については、以下の拙稿をご参照下さい。

戦わずして勝つ〜達人・山岡鉄舟

参考資料

    三宅雪嶺・芳賀矢一著『日本人論』(冨山房百科文庫)

 
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日本精神は偏狭にあらず〜安岡正篤

2004.5.1

 

明治末に現れた「日本精神」という言葉は、大正期から積極的に用いられ、昭和戦前期には広く国民的に使われました。

大正期から「日本精神」を論じていた人物の一人に、安岡正篤(まさひろ)がいます。安岡は東洋思想に造詣が深く、戦前から国家指導層に指導者の在り方を教え、戦後は「歴代総理の指南役」と呼ばれました。

 

 明治31年(1898)生まれの安岡は、青春時代に、明治以来の日本主義に触れました。東京帝国大学1年の時に、三宅雪嶺、志賀重昂らが創刊した雑誌『日本および日本人』に寄稿し、まれに見る俊才として注目を浴びました。(1)

安岡は、大正10年に皇居内に設立された社会教育研究所に入り、大川周明らとともに、教師や政治家・軍人・官僚などに教育を行いました。昭和の元老・牧野伸顕は、はるか年下の安岡を「老師」と呼んで、その学識の深さに敬意を示したほどです。

 

大川や安岡は、社会教育において、「日本精神」という言葉を積極的に用いました。安岡は社会教育研究所で書いた論文を集め、大正13年に『日本精神の研究』を刊行しました。当時の日本精神論としては、大川の『日本精神研究』(昭和2年刊)と双璧をなす名著です。本書で安岡は、自覚・人格・悟道、学問と政治行動、武士道などを論じ、熊沢蕃山、大塩中斎、宮本武蔵、副島種臣、高橋泥舟らの人物論を披露しています。文武両道の安岡は剣道を得意としており、武士を論じた文章には、その修行で得たものが反映されています。

 

昭和に入ると、わが国ではテロやクーデター事件が続発しました。大川周明は、そうした事件にかかわり、5・15事件に連座しました。しかし、安岡の考えは違いました。5・15事件の直後、安岡は『青年同志に告ぐ』と題する一文を著しました。その中で彼は言います。

「革命と称し、維新と称し、救国済民に名を仮て乱を好み、乱を煽り、乱に乗じて、その私欲を恣(ほしいまま)にせんとする志士、運動家が如何に多いことでありましょう。(略)一身の病すら凡医の容易に治療するところではありません。天下の病を救うには、それこそ余程の仁愛と細心の智慮と、定策決機の勇断とを内に養い、外はかかる真乎の同志を要するのであります。(略)私の素志はむしろ、張横渠の所謂『天下の為に心を立て生民の為に命を立て、往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く』の徒たらんとするに存するのであります」と。

こうして安岡は、テロやクーデターをめざす運動家たちと、たもとを分かちます。そして、幅広い教育、啓蒙活動によって「人間教化」を推進するという、独自の路線に進みました。

 

昭和6年に満州事変が勃発し、7年に満州国が建設されると、国際社会でわが国への風当たりが強くなりました。これに対し、わが国は翌8年、国際連盟を脱退するという、危険な国際的孤立化の道を進みました。それとともに、国内では「日本精神」を標榜する書物が多く現れるようになりました。これはわが国の伝統や文化を再評価する動きではあったのですが、国内事情・国際情勢を反映して、排外主義的な主張が目立ってきました。

 

昭和11年、2・26事件が勃発しました。これを機に、軍部や右翼の独善的・偏狭的な傾向が一層、強まりました。この年、安岡は『日本精神通義』を刊行します。

安岡は、本書で本来の日本精神は狭量なものではないことを説き、日本精神は異民族・異文化を受け入れながら発達してきたことを明らかにしています。

 「日本の国土からして非常に紫外線の強い、地熱の高い、ラジューム放射能などの強いところである。それだから杉、檜などが発生し、よい酒ができ、また良い刀ができるのです。植物の数、禽獣草木の数、実に豊富である。これくらい豊富なところは世界にない。そのうえ、国民精神も儒きたらば儒、仏きたら仏、キリストきたらキリスト教、その他何でも、一切自由に謙虚にこれを受けて、そして、これを実に健やかに咀嚼し消化し吸収し、しかして排泄するのである。これこそ偉大なる日本精神です。

 その最も高貴な顕現を皇道に見るのであります。ところが古来、日本に困ったことは、国学者は漢学者を排斥し、キリスト教はまた神道を排斥し、というふうに始終排斥し合っている。特に異民族の文化に反感を持つ、いわゆる日本主義者、日本精神論者が(今日なお未だありがちだが)何ぞといえば相排斥することをもって能事としている。非常によろしくないことであります。それでは日本精神は発達しない」

 そして、次のように警告しました。「今日憂うべきことの一つの大事は、心なき人々が、妄りに日本主義、王道、皇道を振り回して、他国に驕ることであります。これは決して日本精神、皇道を世界に光被するゆえんでない。そもそも言挙げをするということが、イデオロギー闘争をやるということが、日本国民性に対してあまり合わない。それよりも不言実行の士、謙虚、求道の風を帯びるということが日本人の欲するところであり、しかして、これ実に人類の欲するところです」と。

 

 しかし、こうした本来の日本精神の良さが見失われ、独善的で偏狭な考え方が、わが国を覆うようになりました。多くの政治家や軍人は、ナチスやファッショの影響を受け、無謀な戦争に突き進んでいきました。彼らは、日本精神を失って、独伊のファシズムを模倣したのです。昭和10年代から戦争中に唱えられた日本精神論は、本来の日本精神とはかけ離れたものです。

 

大東亜戦争の開戦によって、安岡の憂いは深まりました。そして昭和18年1月には、読売新聞に『山鹿流政治』を掲載しました。これは為政者の心構えを説き、東条英機を暗に批判するものでした。軍部が専横を極めた時代に、排外的・独善的な風潮に物申すことは、勇気のいることでした。しかし、言論統制が厳しくなり、安岡には、もうそれ以上のことはできませんでした。地道に人材育成を続けるばかりです。

 

大東亜戦争は敗北に終わりました。この時、安岡は重要なことに関わります。昭和天皇の「終戦の詔勅」を作成するにあたり、内閣書記局長・迫水久常が、安岡に原稿の校正を依頼したからです。詔勅にある「万世ノ為ニ太平ヲ開カントス」という文言は、安岡の朱筆によるものといわれます。

 

戦後、首相となった吉田茂は、かつて安岡を「老師」と呼んだ牧野伸顕の女婿でした。その関係で吉田もまた、安岡を師と仰ぎました。「吉田学校の優等生」といわれた池田勇人、佐藤栄作を始め、岸信介、福田赳夫、大平正芳といった歴代総理も、安岡の薫陶を受けました。彼らのような保守本流ではなかった中曽根康弘は、自ら安岡に教えを乞いました。作家の三島由紀夫もまた安岡に啓発されています。その他、安岡の指導を受けた経営者や官僚は多く、その名声は今日も衰えません。

「平成」の元号は、安岡の提案によると伝えられます。

 

安岡正篤は、深い学識と活眼をもった学者・教育家でした。明治の日本主義を継承して日本精神を研究し、政・官・財の指導層に影響を与えた一代の碩学(せきがく)が、戦前から日本精神とは偏狭なものではないと説いていたことは、傾聴に値するでしょう。

しかし、安岡の日本精神論は、なお限界があります。日本精神の真髄を極め、自ら体得した境地とは、隔たりがあるからです。

本当の日本精神を学びたいと願う人々には、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一先生の教えに触れることを、強くお勧めします。大塚総裁の教えを知ることによって、初めてこれまでのあらゆる日本精神論を超えた、真の日本精神・神の道を学ぶことができるからです。(2) ページの頭へ

 

(1)以下の拙稿をご参照下さい。

世界の中の日本〜明治の日本主義者」、志賀重昂三宅雪嶺

(2)このサイトの「基調」その1〜3をご参照ください。

参考資料

    塩田潮著『安岡正篤』(文春文庫)

    安岡正篤著『日本精神の研究』(絶版)

    安岡正篤著『日本精神通義』(MOKU出版)

    別掲の「日本精神」の拙稿もご参照下さい。

 
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東洋の理想と日本の目覚め〜岡倉天心

2003.10.14

 

 明治の日本主義と、そこから展開した日本精神論を振り返る時、これらと深いつながりのあるアジア主義にも目を向ける必要があります。そこで、忘れてならないのが、岡倉天心の存在です。

 

明治37年(1904)3月のある日、アメリカの大都会ニューヨークを、ひげを生やした男が闊歩していました。羽織・袴に黒足袋・雪駄きです。2、3人の若者が物珍しげに寄ってきて、冷やかし半分にたずねました。

 「ジャパニーズ、チャイニーズ、ジャバニーズ、ウイッチ・ニーズ、アーユー?」(お前は日本人かシナ人か、それともジャワ人か?) 男はそれには答えず、こう切り返しました。「モンキー、ドンキー、ヤンキー、ウイッチ・キー、アーユー?」(お前は猿か、ロバか、それともアメリカ人か?) この男こそ、岡倉天心でした。

 

◆アジアは一つ

 

岡倉天心は、日本の美、東洋の理想を世界に伝えた美術思想家です。明治11年(1878)、天心の在学する東京開成学校(後の東京大学)に、アメリカ人教師がやってきました。フェノロサでした。彼は哲学を教えるかたわら、日本の美術の研究にのめりこんでいました。そして彼はやがて日本美術の復興を提唱していきます。彼との出会いが、天心の人生を変えました。フェノロサの研究を手伝った天心は、卒業後に文部省に入り、フェノロサとともに奈良・京都などの古美術調査を実施しました。その後、天心は東京美術学校(現東京芸大)の創設(1889)に係わり、同校の校長となります。しかし、その後失脚して同校を去ることになります(1898年3月)。そして同年10月、橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草らとともに日本美術院(現在の院展)を立ち上げました。彼らの目指したのは、伝統的な日本画に西洋的な手法を取り入れた新しい日本画の創造でした。

しかし、日本美術院の経営はうまくいかず、明治34年(1901)天心は、失意のうちにインドに渡りました。そこで天心は、インドの文化の偉大さに感銘を受けました。また、後年世界的に有名になる詩人タゴールと出会い、意気投合しました。また、イギリスの支配下に置かれているインド人の苦悩と屈辱感を知りました。

 

 天心は、インドに旅立つ前に、ある英文の原稿を書き上げていました。それは日本の美術史を中心とした壮大な東洋文明論でした。インドから帰ると、天心はその原稿に手を加えて、明治36年(1903)、ロンドンで出版しました。それが『東洋の理想』です。

 『東洋の理想』は”Asia is one.”という有名な言葉で始まります。「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明、すなわち、孔子の共同社会主義をもつ中国文明と、ヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、ただ強調するためにのみ分かっている。しかし、この雪をいただく障壁さえも、究極普遍的なるものを求める愛の広いひろがりを、一瞬たりとも断ち切ることはできないのである。そして、この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遣伝であり、かれらをして世界のすべての大宗教を生み出すことを得させ、また、特殊に留意し、人生の目的ではなくして手段をさがし出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族からかれらを区別するところのものである」と。

天心は、アジア民族に共通する精神的な特質とは、「究極普遍的なものへの愛」だとします。その愛が、仏教・キリスト教・イスラムなどの世界的な大宗教を生み出したのだと。また天心が本書で展開する日本と東洋の美術史もまた、「究極普遍的なものへの愛」が生み出した美の歴史だともいえます。

 

「究極普遍的なもの」、それは宇宙の理法とも、神、真理、生命の本源ともいえるでしょう。東洋アジア人、なかんずく私たち日本人は、アジアを一つに貫いてきた「究極普遍的なものへの愛」を今一度、燃やすべき時に立っているのではないでしょうか。

日本主義・日本精神とともに、アジア主義に目を向けることは、「究極普遍的なもの」に対する日本人の思いを取り戻すことにもなっていくのです。

 

◆東洋の理想

 

さて、天心の名著『東洋の理想』(明治36年)は、「アジアは一つである」と始まりました。続く部分で、天心は、日本は「アジアの思想と文化を託す真の貯蔵庫」となっていると書きます。そして、「日本はアジア文明の博物館となっている。いや博物館以上のものである。何となれば、この民族のふしぎな天性は、この民族をして、古いものを失うことなしに新しいものを歓迎する生ける不二一元論(アドヴァイテイズム)の精神をもって、過去の諸理想のすべての面に意を留めさせているからである」と記します。そして、次のように述べています。「日本の芸術の歴史は、かくして、アジアの諸理想の歴史となるーー相ついで寄せてきた東方の思想の波のおのおのが、国民的意識にぶつかって砂に波跡を残して行った浜辺となるのである」と。

 

こうして天心は、古代から近代にいたる日本美術の歴史の記述へと筆を進めます。そこで彼は、日本のみの美術史ではなく、日本に流れ込んだインド・シナ等の東洋の美術と宗教と思想の歴史を、全アジア的・国際的なスケールで描いています。

そして結章で、天心は書き記します。「アジアの栄光は、…すべての人の胸に脈打つ平和の鼓動の中にある。帝王と田夫とを合一させる調和の中にある。あらゆる共感、あらゆる礼譲をその結果たらしめるところの、崇高な同心一体の直感の中にある」。しかし、今日、インドやシナ(清)は西洋列強の支配を受けている。日本もまた欧化の中で、堕落・破滅へと進んでいるのかも知れない。「今日、アジアのなすべき仕事は、アジア的様式を擁護し、回復する仕事となる。しかし、これをするためには、アジアみずからがまず、これらの様式の意識を確認し発達させなければならない。けだし、過去の影は未来の約束だからである。いかなる木も、種子の中にある力以上に偉大になることはできない。生命はつねに自己への回帰の中に存する」。こう天心は書いています。

 

本書の末尾で、天心は、呼びかけます。「われわれは、暗黒(※西洋列強による征服・支配)を引き裂く稲妻の閃く剣を持っている。何となれば、恐ろしい静寂は破られなけれならず、新しい花が生出てその美しい色で大地を覆うことができる前に、新しい生気の雨の滴がそれを清新にしなければならないからである。しかしその大いなる声が聞こえて来るのは、この民族の千古の道筋を通って、アジアそのものからでなければならない。内からの勝利か、それとも外からの強大な死か」と。

 

本書『東洋の理想』において天心は、西洋近代の物質文明の弊害を克服する価値観として、東洋の精神文化のもつ価値観がいかに貴重かを世界に示そうとしました。近代以降、欧米に支配され虐げられたという点において、東洋は運命を共有していると天心は認識しました。欧米の支配下にあって自信を失っているアジア人の姿に天心は憤りました。そして、日本の美術に結晶したアジアの歴史を再発見することによって、精神的伝統を取り戻せ、自らの理想に向かって立ち上がれと、アジアの人々に、天心は訴えました。

しかし、天心は武力をもって対抗せよと言ったのではありません。天心は、力によって異文明・他民族を侵略・支配・搾取し、自然をも征服して、ただ無限に富だけを追う西洋の姿勢を批判します。そして、アジアは、西洋と同じ道を行くのではなく、本来の平和的、自足的、調和的なものを追う伝統を復活させるべきだと訴えたのです。そして、世界平和の実現のためには、アジアのみでなく西洋諸国をも目覚めさせなくてはならないと、天心は考えたのです。

こうした「東洋の理想」こそ、今日、私たちが掲げるべき目標といえるでしょう。

 

◆日本の目覚め

 

東洋の理想を胸にした天心は、明治37年(1904)2月10日、アメリカに渡りました。日露戦争の宣戦詔勅が出された日でした。以後、ボストン博物館に勤務し、美術研究に専心しました。

この年、天心は『日本の覚醒』をニューヨークで出版しました。本書は、西洋の衝撃を受けた日本がどのように自己に覚醒し、新しい国家をつくったかを、英文で叙述したものです。

 

天心は書いています。

「魔法の杖の一触れをもって、突如として日本人を数世紀の眠りから覚ましたものは西洋人であった、というのが外国人一般の印象のようである。しかしながら日本の目覚めの真因は日本自体のうちにあった。1853年、ペリー提督がわが沿岸に到着したときは、すでに日本人の国民意識は覚醒し始めていたのである。ペリーの来訪は、その覚醒した意識が広汎な国家革新運動に飛躍するきっかけとなったにすぎない」

 すなわち、明治維新はヨーロッパ文明の影響のみによって起こされたものではない。徳川幕府の支配体制が長く続く中で、日本を革新する思想が徐々に用意されていた。そしてその革新の声は西洋の帝国主義の侵略を契機として高まり、ついに維新の変革に導いたのだーー天心はこうして、日本の近代化には日本人の主体性が働いていたことを明らかにしました。

 

『日本の覚醒』を出版したもう一つの意図は、当時西洋に高まっていた「黄禍論」を論破することでした。本書で天心は、禍(わざわい)のもとは東洋民族にあるのではなくて、むしろ西洋民族にあると鋭く反論したのでした。「もしも西欧諸国の良心の不安が黄禍の幻影を呼び起こしたとするならば、苦悩するアジア民族が白禍の現実に号泣するのは当然のことではないか」「踏みにじられた東洋人の目から見れば、ヨーロッパの栄光はひとえにアジアの屈辱なのである」と。

当時、日本はロシアと戦っていました。天心はその戦いは日本人が好戦的だからではなく、やむをえず戦っているものである、と主張します。そして、本来、日本人は平和的な民族であることを強調します。

「日本の対外政策の歴史を検証するくらいの人間ならただちにわかることは、日本が終始一貫して平和維持を希求し、万やむを得ず戦争に訴えるときはまったく自衛のためにほかならぬという事実であろう。そもそも外国を攻略しないということは、わが国文明の本性そのものからきているのである」と。

 

天心が最も訴えようとしたのは、東洋精神が世界平和の実現に寄与できることです。本書の末尾に天心は記します。

「いったい戦争というものはいつなくなるのであろうか。……西洋が見せるこの奇妙な組み合わせーー病院と魚雷、宣教師と帝国主義、膨大なる軍備と平和の確保――これらはいったい何を意味するのか。こんな自家撞着は古来の東洋文明にはなかった。日本の王政復古の理想はこんなものではなかった。日本の革新の目標はこんなものではない。われらを幾重にも包んでいた東洋の夜は明けた。だが、世界はまだ人類の黎明下(れいめいか)にある。西欧はわれらに戦争を教えてくれた。それなら、いったいいつ、彼らは平和の恵みを学ぶのであろうか」

 

日本は日露戦争でロシアに勝利しました。すると、欧米諸国の間には、日本人が好戦的な民族であるという見方が広がりました。天心は、この誤解と警戒心を解くために、再びペンを取りました。それが、明治39年(1906)刊の『茶の本』です。その中で天心は、日本人が茶や花を愛玩する美風を持つ平和愛好の民族であることを、世界に伝えようとしました。本書に天心はこう記しています。「もしもわが国が文明国となるために、身の毛のよだつ戦争の栄光に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。われわれの技芸と理想にふさわしい尊敬がはらわれる時まで喜んで待とう」と。

 

私たちは今なお戦争の絶えない世界にあります。天心が願った世界平和への寄与のため、この21世紀に、日本人として、また東洋人として、たゆみない努力を続けたいものです。ページの頭へ

 

参考資料

・岡倉天心著『東洋の理想』(筑摩書房版『近代日本思想大系 岡倉天心』所収)

 
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日本的デモクラシーの旗手〜尾崎行雄

2002.8.16

 

 民主主義とは、デモクラシーの訳語です。デモクラシーは、「民衆が権力に参加する政治・制度」を意味します。これは、戦後初めてわが国に移植されたものではありません。明治天皇による「五箇条の御誓文」に、既にデモクラシーは打ち出されています。以後、明治・大正・昭和とわが国のデモクラシーは発達を続けていました。

この三代を生きた日本的デモクラシーの旗手がいます。それが、「憲政の父」と仰がれる政治家・尾崎行雄です。

 

尾崎は、青年時代に自由民権運動に参加し、大正期には大正デモクラシーの指導者の一人となって活躍しました。尾崎にとって、デモクラシーとは、「五箇条の御誓文」で示された、日本の伝統に基づく国是でした。「世論公議を尊重する政治形体、すなわち独裁専制の反対で、明治天皇が御即位の初めにあたり、『万機公論ニ決ス』と誓わせ給いたるわが皇道政治と異語同質のもの」、それがデモクラシーだと尾崎は書いています。

 

 明治天皇は議会を開き、憲法を定めました。そして、明治から大正・昭和と、憲法のもと国民が選挙によって代表を選んで政治を行う制度が定着・発達しました。ところが、昭和戦前期に、軍部が政治に介入するようになると、わが国の指導層から、明治天皇が示したデモクラシーの精神は見失われていきました。それは、日本人が日本伝統の精神を見失っていくことでもありました。そのことを強く憂えたのが、尾崎でした。

 

大東亜戦争の開戦後、尾崎は、アメリカやイギリスを「鬼畜米英」とののしり国民の戦意を煽るマスコミに対し、武士道に反するものと批判しました。さらに尾崎は、東条英機の軍閥による強権政治に敢然と抵抗したのです。

東条がファッショ的な翼賛選挙を推進すると、尾崎は昭和17年4月、『東条首相に与えた公開状』をもって東条を批判しました。『公開状』で尾崎は、翼賛選挙は「一種の選挙干渉」であり、議会を官選に等しくする「非立憲的動作」であるとし、すみやかに選挙干渉を止めるように要求しました。

そして、尾崎は立候補の趣旨説明で、自分が選挙に立つ目的を明らかにしました。『最後の御奉公につき選挙人諸君に御相談』と題された一文で、尾崎は次のように述べています。「明治大帝が畢生(ひっせい)の御心労を以て、御制定遊ばされた憲法政治のために、身命を擲(なげう)つのが、最善にして、かつ最後の御奉公だと信じます」と。さらに尾崎は、帝国憲法は臣民の権利を保証しており、「自由主義の憲法だと申しても差し支えないのです」と言い、東条らのように「口をきわめて自由主義を悪罵することは、明治大帝や大正天皇を誹謗する事になりはしますまいか」と問いかけました。

 

  次いで尾崎は、自由主義の代議士・田川大吉郎の応援演説に立ちました。この演説は「尾崎行雄の天皇三代目演説」と呼ばれます。尾崎はこの演説で、明治天皇から三代目となる昭和天皇の御代になって、ますます日本は良くなったと天皇を称えています。ところが、この演説は東条をひどく怒らせました。演説の中で、尾崎が東条を痛烈に批判したからです。尾崎は、東条は翼賛体制によって実質的に憲法を棚上げし、ファッショ的な独裁政治を実現しようとしており、それは天皇を棚上げするに等しいと指摘したのです。この点が、東条の怒りをかったのです。東条の指示で、尾崎は不敬罪で起訴され、一審で有罪判決を受けました。尾崎は昭和天皇を称えているのですから、不敬罪とはおかしな話です。為政者の都合による全く不当な政治的判決でした。

 

 この頃、近衛や東条が企図した大政翼賛会は、「幕府のようなものだ」と強く警戒した人物がいました。誰あろう昭和天皇、その人でした。

昭和天皇は、「五箇条の御誓文」と明治憲法を篤く尊重したことで知られます。昭和天皇は、明治天皇が示した日本の伝統に基づくデモクラシーを堅く守ろうと努めました。そうした昭和天皇と、デモクラシーの政治家・尾崎は、ほぼ同じ意見を述べていたことが分かります。

 東条は、昭和天皇と同じく日本的デモクラシーを守ろうとする尾崎に弾圧を加えました。それゆえ、彼の行ったことは、昭和天皇の意志に反するものであったことが明らかです。東条らの戦争指導者は、独伊のファシズムを模倣して、日本の伝統に基づくデモクラシーにそむき、国の進路を誤らせてしまったのです。

 

 戦後、尾崎は「憲政の父」として讃えられ、国民的な人気を獲得しました。昭和29年に彼が死去すると、国会はその業績を記念するため、尾崎記念館の建設を決議しました。現在の憲政記念館(東京都千代田区)がこれです。しかし、戦後の日本人は、尾崎が身を張って守ろうとしたものを正しく継承しえたでしょうか。

昭和天皇は、いわゆる人間宣言、「新日本建設に関する詔書」を発した真意について、昭和52年8月23日、記者団に次のように述べました。

 「民主主義を採用したのは、明治大帝が思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもとになって明治憲法ができたで、民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要が大いにあったと思います」と。

 この言葉の意味を最も良く理解し得る日本人の一人が、尾崎行雄だったでしょう。

私たちは、アメリカが押し付けた戦後民主主義ではなく、明治以来の日本的デモクラシーを発展させ、尾崎の姿勢をこそ継承すべきであると思います。ページの頭へ

 
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尊皇と愛民のデモクラシー〜吉野作造

2003.6.15

 

民主主義と訳されているデモクラシーという言葉は、かつて「民本主義」とも訳されていました。民本主義という言葉は、明治末年から使われはじめ、大正初年には井上哲次郎、上杉慎吉らがそれぞれの立場から用いていました。この言葉が一躍脚光を浴びるようになったのは、吉野作造が『中央公論』の大正5年(1916)1月号に書いた『憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず』という論文によってです。

当時、東京帝国大学教授だった吉野は、この論文で世界的なデモクラシーの風潮と日本の護憲運動の動きを結びつけ、大正デモクラシーの運動に大きな影響を与えました。

 

吉野の民本主義について、彼が民主主義ではなく民本主義という言葉を使ったのは、明治憲法では主権は天皇にあるとされていたので、表立って国民主権を意味する「民主主義」と表記できなかった、というのが通説です。しかしそのような理解では、吉野の思想は把握できません。

 「デモクラシーなる言葉は、…一つは『国家の主権は法理上人民に在り』という意味に、またもう一つは『国家の主権の活動の基本的の目標は政治上人民に在るべし』という意味に用いられる。この第二の意味に用いらるる時に、我々はこれを民本主義と訳するのである」と吉野は書いています。これに対し、第一の意味で訳したのが、民主主義です。吉野の主張は明確です。「民主主義とは、文字の示すが如く、『国家の主権は人民に在り』との理論上の主張である。されば、わが国の如き一天万乗の陛下を国権の総覧者として戴く国家においては、全然通用せぬ考えである」と。

吉野は、主権在民という意味での「民主主義」を斥けています。そして、民本主義について、次のように説きます。「いわゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやということは措いてこれを問わず、ただその主権を行用するに当って、主権者は須らく一般民衆の利福並びに意向を重んずる方針とす可しという主義である」と。

つまり、主権の所在にかかわらず、主権がどのように運用されているかが問題だ、というのです。実際、近代デモクラシーの発祥の地・イギリスは、君主制の国ですが、安定した議会政治が行われており、社会政策も進んでいます。

吉野は「主権が法律上君主御一人の掌握に帰して居るということと、君主がその主権を行用するに当って専ら人民の利福及び意向を重んじるということとは完全に両立し得る」「何ら君主主義と相矛盾するものではない」と述べています。

 

吉野は、天皇が法律上、主権者とされた当時の体制のなかで、民衆が政治に参加し国民の福利が政治の目的となるような政治のあり方を確立しようとしたのです。彼は具体的には、国民が信頼した政党が政治を行う政党内閣制と、普通選挙制度の実現を唱えました。他方でまた枢密院、貴族院、軍部等の非立憲的勢力の政治介入を少なくしようと努力しました。

吉野は次のように明言しています。「明治天皇陛下は維新の初め現に広く会議を起し万機公論に決すべしと勅せられて居る。即ち多数の人に相談して公平にして且つ正当な政治を行うという民本主義の精神は、明治以来我が国の国是であった」と。

 

吉野のいう民本主義の根本は、「主権を行用するに当って、主権者は須らく一般民衆の利福並びに意向を重んずる方針とす可しという主義」という点にあります。こういう意味での民本主義は、実に古代から続くわが国の伝統でした。例えば仁徳天皇は「百姓 (ひゃくせい=国民) を以て本と為す」とし、民を本とするという民本主義の政治を行っていました。そこには、天皇が国民を子のように愛し、国民が天皇を親のように敬うという、わが国の国柄が表れています。こうした伝統が長く受け継がれ、明治維新の時には、明治天皇による「五箇条のご誓文」となって表れたのです。それゆえ、吉野の民本主義は、わが国の伝統を近代に生かそうとした「尊皇と愛民のデモクラシー」というべきものだったのです。

 

ここで吉野が活躍した大正時代に来日し、多くの日本人に影響を与えたフランス人ポール・リシャールの言葉に傾聴しましょう。リシャールは、わが国の伝統に真のデモクラシーを見出しています。そして、次のような主旨のことを述べています。

「現在のデモクラシーは、議会主義的、金権的個人主義である。真のデモクラシーとは、選挙によって金権政治を実現することではなく、数によって匿名の専制政治を行うことでもない。それは制度ではなく、態度である。個人の力と集団の偉大な精神が、個人の魂と集団の偉大な力が、つまり、個と全体が相互に尊敬しあうことが、真のデモクラシーなのである。

日本人は、君権と民権を調和統一した理想国家を実現せよ。そもそも君権といい民権といい、その源は天に発する。君主は、天の統一的方面を、人民は天の差別的方面を、地上に代表するものである。従って、本来両者の間には何ら矛盾衝突があるはずがなく、真のデモクラシーとは、真の天皇主義の別名であるはずである。君民は本来一体である。君主にとって、人民が『大御宝(おおみたから)』であるとすれば、人民にとっても君主は『大御宝』である。これは相補い一体となっているものである」(1)

 

大正デモクラシーには、日本の伝統と近代政治を総合し、「真のデモクラシー」を実現する可能性がありました。しかし、吉野が活躍した時代の後、昭和に入ると、政党政治が腐敗し、軍部の独走、独伊のファシズムの模倣等によって、わが国の立憲議会政治は麻痺状態に陥りました。それは、民本主義の精神が歪曲されたためであり、同時にわが国の伝統にも反した姿なのでした。私たちは、こうした歴史を振り返り、日本的デモクラシーを再評価して、伝統の創造的継承に努めたいものです。ページの頭へ

 

(1)拙稿「リシャールの名詩『日本国に告ぐ』」をご参照下さい。

参考資料

・『吉野作造評論集』(岩波文庫)

 
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