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日本の心  歴史

 

題  目

目  次

■01 国境のない世界へのモデル・廃藩置県

■02 日露戦争は帝国主義的侵略だった?

■03 日露戦争は負けた方がよかった?

■04 「君死にたまふことかれ」は反戦歌?

■05 大東亜戦争は戦う必要がなかった

06 大東亜戦争は、こうすれば回避できた

■07 陸軍にあって和平を希求〜宇垣一成

■08 東条英機と対決・退陣へ〜岡田啓介

■09 岡田の右腕となって活躍〜迫水久常

■10 炎の言論、軍の暴走に警鐘〜斎藤隆夫

■11 「ジリ貧はドカ貧に勝る」〜米内光政

■12 合理的判断で非戦を貫く〜井上成美

■13 忠義の心で終戦に導く〜鈴木貫太郎

■14 ナチス迎合を神道家が批判〜葦津珍彦

■15 天皇を補佐する者の役割と責任とは

■16 アメリカ人も太平洋戦争を反省する

■17 日本の戦争をマレーシアから見る

■18 日本人はインドネシア独立に協力した

■19 インドの独立にも日本人が貢献

 

別項の「歴史再考」にも掲示があります。

 

和の精神

国柄

君と民

日の丸 

君が代

人物

武士道

歴史

文明と倫理

自然

世界の声

 

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国境のない世界へのモデル・廃藩置県

2001.12.13

 

日本の歴史の転換点において、日本人は変化に対する不思議な適応力を発揮しています。日本という国は、それまで停滞しているように見えても、わずかの間に大転換してしまうのです。この国は、一人や二人で動かすことはできませんが、百人、千人と変革者が増えてゆけば、国全体が急速に変わりうる国だといえます。日本人はそういう凄い可能性をもった民族なのです。

 

 たとえば、明治維新です。幕末の日本は、アメリカのペリー提督が黒船を引き連れて登場したときから、激動の時代に入りました。それからわずか15年で、維新が実現しているのです。それによって、260年間も続いた徳川幕藩体制が一気にひっくり返り、新しく近代国家が誕生しました。

 この過程で、開国か鎖国か、倒幕か佐幕かなど、日本の進路をめぐっての争いがありました。しかし戊辰戦争から西南戦争までの死者は、わずか2万人ないし3万人です。フランス革命の死者が200万人といわれることに比べると驚くほど少ない数字です。

 

 どうしてこれほど大きな変革が、これほど短期間に、しかも流血が極めて少ない形で、実現できたのでしょうか。その一つの理由は、幕末の日本人はペリー来航以来、非常な危機感を感じていたことにあります。欧米列強は強力な軍事力と高い科学技術をもっています。不平等条約を余儀なくされました。ここで外圧の対処に失敗すれば、白人種に隷属することになりかねません。また、もし日本人同士が争えば、その隙に欧米諸国に付け入られるおそれも感じていました。この絶体絶命の状況をどう乗り越えるか、その危機意識が明治維新を促進したのです。

 

 維新の過程で、政権は、大政奉還(1867)によって、幕府から朝廷に移動しました。新政府ができたといっても、まだ全国に大名がいて各地方を支配する封建体制はそのまま残っています。この社会の仕組みを根本的に変えなくては、変革にはなりません。そこで行なわれたのが、廃藩置県(明治4年、1871)です。

 明治4年、サンフランシスコで行われた岩倉使節団歓迎会で、伊藤博文は「数百年の強固さをほこった日本の封建制度は、一個の弾丸も放たず、一滴の血も流さずして撤廃せしめられたのだ。この驚くべき事実は、政府と人民の共同行為によって達成され、今や相一致して進歩の平和的道程を前進しつつある。戦争なくして封建制度を打破した国がどこにあるだろうか」と述べています。ここに言うのが、廃藩置県です。明治政府はそれまでの「藩」を廃止して、「県」という近代的中央集権国家の単位を作りあげたのです。

 

 廃藩置県は、鎌倉幕府以来、700年もの間日本を支配してきた武士階級を一挙に廃止するものでもありました。これは、西洋でいえば領主の身分を廃止して土地を取り上げ、明日から平民にするといった大変革でした。ヨーロッパではこのような変革は、流血の革命を通してしか実現できませんでした。ところが日本では、明治新政府が一片の通知を出しただけで、その大事業を一日にして実現してしまったのです。当時261名もいた藩主は、全員そろって、先祖代々、保持してきた絶大な特権を返上したのでした。伊藤が言うように、廃藩置県は、「政府と人民の共同行為によって達成」されたのです。

 当時、欧州ではこのことに驚き、大英帝国の首府ロンドンの新聞は、一面扱いで大々的に取り上げています。まさに廃藩置県は、世界史上にも類例のない無血革命だったのです。

 今日の世界は、国境というものが必要のない世界に近づいてきています。しかし、実際に国境をなくし、世界が一つになるためには、大改革が必要となるでしょう。いわば「世界の廃藩置県」です。そのとき、日本の廃藩置県は、変革の最高のモデルとなるでしょう。ページの頭へ

 

参考資料

        廃藩置県については、以下の拙稿をご参照下さい。

廃藩置県〜『私』を超える武士道

 

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日露戦争は帝国主義的侵略だった?

 

 日露戦争は、日本による「帝国主義的侵略戦争」だった、というのが試験のための決まり文句のようですが、果たしてその見方は正しいのでしょうか。

 21世紀を迎えた今、20世紀を振り返ってみると、20世紀とは、数世紀にわたる白人の支配から、有色人種が自由と独立を勝ち取った世紀でした。日露戦争での日本の勝利は、夜明けの到来を告げる鶏鳴でした。そこで有色人種が白人を初めて打ち負かしたことは、抑圧された人々に希望の火を灯したのです。

 

新興国日本にとって日清・日露戦争は国運を賭けた戦いでした。わが国は、東アジアの安定のために、まず日清戦争で大国シナと矛を交えました。千年以上もの間、文明の源と仰いできたシナに勝つことができたのです。その結果、日本とシナの地位は逆転しました。かつては遣隋使・遣唐使を送っていた日本に、シナから日本に留学生が来るようにもなりました。日本文明のほうが、シナ文明に影響を与える関係になったのです。
 日清戦争の勝利は、強国ロシアとの戦いを余儀なくするものでした。幕末以来、北から迫ってくるロシアは、日本の独立を脅かす最大の脅威でした。

 

日本がロシアに勝つと、世界は驚嘆しました。中国の国父・孫文は、有名な「大アジア主義」という講演で、次のように語りました。「どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのです。(中略)ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります」(1)

 インドの初代首相ジャワ八ルラル・ネルーは、自伝に次のように記しています。「日本の戦捷(せんしょう)は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。(略)五月の末に近い頃、私たちはロンドンに着いた。途中、ドーヴァーからの汽車の中対馬沖日本の大勝利の記事を読み耽りながら、私はとても上機嫌であった」(2)

 

 こうした感激と興奮は、アメリカの黒人たちにも広がりました。「日露戦争当時、黒人新聞各紙は、西洋帝国主義の重圧に苦しむ日本人を『アジアの黒人』と呼び、白人に挑む東郷艦隊を声援したり、一部の黒人社会では驚くことに、日本ブームが起きて、日本の茶器や着物も流行。さらには、黒人野球チームの中から、『ジャップ』を自称するチームも出ていたという」(3)

当時、「ジャップ」という言葉は、侮蔑語ではありませんでした。

 ロシアに侵略・支配されてきた国々でも同様です。フィンランドの大統領パーシキピは、次のように記しています。「私の学生時代、日本がロシアの艦隊を攻撃したという最初のニュースが到着した時、友人が私の部屋に飛ぴ込んできた。彼はすばらしいニュースを持ってきたのだ。彼は身ぶり手ぶりをもってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足し、また胸をときめかして、戦のなりゆきを追い、そして多くのことを期待した」(2)

 ポーランドでは、日露戦争で活躍した乃木希典や東郷平八郎は、英雄でした。初代国連大使・加瀬俊一氏は、ポーランドのある教会に立ち寄った時のことを伝えています。「傍らに、小さい男の子が来てね。それで私は、『君の名前はなんていうの』って聞くと、『ノギ』って言うの。『えっ。ノギ?』。すると神父さんが言うです。『ノギ』というのは乃木大将のノギですよ。ノギとかトーゴーとかこの辺はたくさんいましてね。ノギ集まれ、トーゴー集まれっていったらこの教会からはみだしますよ」(4)

 

日露戦争における日本の勝利は、有色人種や被抑圧民族を奮い立たせ、独立への情熱を駆り立てました。15世紀以来の西洋白人種の優位を、初めて有色人種が打ち砕いたのです。近代西洋文明の世界支配体制は崩れ始めました。日露戦争は、世界史を西から東へと動かす、歴史的な出来事だったのです。

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参考資料

・日露戦争で活躍した東郷平八郎、乃木希典については、以下の拙稿をご参照下さい

 「日本を守った英雄〜東郷平八郎

 「昨日の敵は今日の友〜乃木の仁愛

(1)『大阪毎日新聞』大正13年12月3日〜16日号

(2)名越ニ荒之助著『世界に生きる日本の心』(展転社)

(3)レジナルド・カーニー著『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本人観 19001945』(五月書房)

(4)加瀬俊一著『大東亜会議とバンドン会議』(『祖国と青年』平成6年9月号 日本青年協議会)

 
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日露戦争は負けた方がよかった?

 

 中学や高校の歴史の教科書を読むと、「日露戦争は間違った戦争であり、戦わないほうが良かった」というような気がしてきます。そこでは、幸徳秋水や与謝野晶子の「非戦論」「反戦歌」が強調されているからです。

 確かに平和への願いは貴いものです。しかし、当時の国際情勢において、ロシアとの決戦は避けようのない課題でした。もし日本が日露戦争で敗れていたら、日本は、そして私たち日本人はどうなっていたか、と考えてみる必要があるでしょう。

 

 当時のロシアは大国でした。陸軍力は世界一であり、コサック騎兵を中心とする軍隊は、無敵と謳われたナポレオンをも敗退させたほどに強力でした。海軍力もまた、東洋を支配するバルチック艦隊を有していました。近代国家の仲間入りをしたばかりの日本など、敵ではないと見られていました。

 そもそも西洋諸国が、アジア・アフリカ・ラテンアメリカを侵略支配して以来、有色人種は白人の奴隷にされ、人権無視の扱いをされていました。白人に反抗して勝てるなどとは誰も思わない、そんな時代でした。なかでもロシアは、日本にとって、恐るべき存在でした。

 

 明治維新の志士たちは、イギリスがアヘン戦争で大国・清を破り、蹂躙(じゅうりん)していることを知って、このままでは日本も欧米の植民地にされる、と強い危機意識をもちました。なかでも北から迫ってくるロシアは、日本の独立を脅かす最大の脅威だったのです。

 維新の英雄・西郷隆盛は、征韓論に敗れて鹿児島に帰ったのち、かつて彼を訪ねた庄内藩家老・菅実秀に、こう語りました。「ロシアはいずれ満州、朝鮮半島を経て、日本に迫ってくる。これこそ第二の元寇であり、日本にとっては生死の問題となる」と。その「第二の元寇」こそが、日露戦争でした。(1)

 

 日露戦争は、奇跡的な勝利でした。日本海海戦の勝利が、日本の運命を開きました。

逆にもし日本海海戦で、連合艦隊が敗れていたら、日本は海軍力を失い、丸裸同然となりました。ロシアの艦隊は、日本海・太平洋を自由に航海できることになります。東洋一の艦隊が東京湾沖に停泊し、帝都・東京に艦砲射撃を行うと恫喝する。わが国は、極めて不利な条件で停戦せざるを得なかったでしょう。

 その結果、どうなっていたか。名越ニ荒之助・元高千穂商科大学教授は、日露戦争敗戦の場合について、次のように推理しています。

 「日本はロシアとの間に屈辱的な講和を結ばされ、朝鮮はロシアの支配するところとなったことは必定である。日本が勝ったことにより、南樺太を割譲したのだから、負けていたら、北海道はロシアに割譲することを余儀なくされていたであろう。

 ロシアはその勢いをかって日本国内各地に租借地を作り、三国干渉の相手国であった仏、独も租借地を作り、阿片戦争に敗れた清国のような末路をたどっていたかも知れない。

 あるいはまた李王朝末期に朝鮮の国内が親日派、親露派、親清派に分裂して収拾がつかなくなったように、日本の国内政治も、親露派、親英米派、親独仏派に分かれて、独立国の機能も果たせなくなる状況さえ予想される。やがてはこれら西欧各国の利害をめぐって、日本を舞台に争奪戦が行なわれたかもしれないのである」(2)

 

 ロシア帝国そして革命後のソ連に支配された国々の運命は、惨めでした。第2次大戦後、「解放」という名の下に共産化された国々、ポーランドやチェコスロバキアなどが、力で支配され、資源をほしいままに奪われました。日本がもし日露戦争に敗れていたら、これらの国のようになっていたかもしれません。

 

敗戦による過酷な運命を回避できたのは、明治の日本人は、日本精神で団結していたからです。天皇も将兵も国民も海外居留民も、心一つに国難に立ち向かいました。アメリカに終戦の仲介を求めた金子堅太郎、英米で資金調達に務めた高橋是清、ロシアとの交渉に骨折った小村寿太郎など、外交での働きも素晴らしいものです。当時の日本の指導層は武士道を根っこに持っており、戊辰戦争での実戦の経験のある世代もおり、政治と軍事を総合的に進めることにたけていたのだろうと思います。

また、当時のわが国は世界的にも高い科学技術の水準に達していました。日本海海戦で使用された下瀬火薬は、大きな威力を発揮しました。砲弾が炸裂すると、命中した場所は3000度になり、直ぐにバルチック艦隊は戦闘不能となりました。

また、陸戦では、わが国の馬は西洋種よりも劣るところを、騎兵に機関銃を持たせ、敵のコサック騎兵と遭遇したら、馬から下りて機関銃で掃射するちょい新しい戦法を取りました。また、無線電信。マルコーニの大西洋横断交信実験から5年しかたっていないのに、国産無線機を艦船に搭載していました。
 政治・外交・軍事・科学技術・教育等、まったくどこをとっても、当時の日本人はすばらしい働きをしました。それは、明治維新以来、近代国家の建設に国民が一心に努力し、未曾有の国難に際しては、日本精神で団結して立ち向かった結果だと思います。
 とりわけ明治天皇という歴史に輝く英明・仁慈の君主がこの時代に国の中心にあり、国民が天皇を中心に結束したからだと思います。これは明治維新において、天皇を中心とした国柄を改めて制度的に確立したことに多くを負っていると私は思っています。
 また、それを成文法として制定した明治憲法や、規範道徳として定着させた軍人勅諭・教育勅語等の総合力が、日露戦争において、最善の形で発揮されたのだと思います。
 日露戦争は辛うじて勝ったのですが、それは運などではなく、日本国民が一丸となって戦った結果です。我々はそのような先祖がいたことに誇りを持つべきです。日露戦争の再評価は、明治維新の再評価、わが国の国柄や文化の再評価につながるものであり、逆に日露戦争の忘却は、日本固有の国柄や文化の忘却につながると思います。
 
私たちは、明治の先祖・先人に感謝するとともに、彼らが持っていた日本精神を取り戻し、誇りと勇気と希望を持って、今日の危機に立ち向かわねばならないと思うのです。(3)

 

日露戦争後のわが国のあゆみについては、いろいろ検討すべき点があります。成功体験のパターン化、過剰適応、官僚制度の硬直化、帝国憲法の欠陥、指導層の世代交代等々です。
 特に精神面について思うことは、東アジアの安定が得られた後に、次の国家目標を打ち立てることができなかったこと、経済成長の中で政財界に腐敗が起こり、また欧米の模倣に流れたことが、大きな反省点だと思います。
 ともあれ、日露戦争戦勝の世界史的な意義は、まことに大きいものであって、あくまでその誇りを胸に抱いての検討でなければならないのです。

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(1)元寇については、以下の拙稿をご参照ください。

 「元寇から日本を守った北条時宗

(2)名越ニ荒之助著『戦後教科書の避けてきたもの』(日本工業新聞社)

(3) 日露戦争をどうとらえるかは、私たちの歴史観を大きく左右する。日露戦争の時代に日本人はどう生きたのかーーそれを知りたい人に、一度はひもといてみるべき小説がある。司馬遼太郎氏の名作『坂の上の雲』(文春文庫)である。
 学校で教わった知識の詰め込みだけの歴史、自虐的で日本が嫌になってしまうような歴史、過去の世代と自分たちのつながりを感じさせない書き方の歴史ーそんな歴史ではない、私たちと同じ血の通った日本人の歴史を描いているのが、この作品である。これぞ国民文学というべき不朽の名作だと思う。

 
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「君死にたまふことかれ」は反戦歌?

 

 日露戦争といえば、学校では「日本によるアジア侵略」「帝国主義戦争」などと教えられます。しかし、当時の日本国民のほとんどは、ロシアとの戦いを避けられない運命と感じ、開戦となるや一丸となって、大国ロシアと戦いました。そして、奇跡的な勝利を得、日本は国家の主権と民族の独立を、かろうじて保つことができました。

 教科書では、内村鑑三や幸徳秋水の非戦論、与謝野晶子の「君死にたまふことかれ」が強調され、日本はロシアと戦わないほうが良かったかのように書かれています。しかし、そのような考えを持っていたのは、ごく一部の人間だけでした。私たちの先祖は、この一戦に命をかけて戦ったのです。それによって、子孫の私たちが、今日、居られるのです。

 

 与謝野晶子の「君死にたまふことかれ」についても、単純に反戦の詩と見るのは無理があります。それは詩の全体を自分で読んでみるとわかります。

 晶子は堺の商家出身でした。当時の商家においては、戸主という家督相続者を守ることと、家存続絶対視していました。そうした思いが、「君死にたまふことかれ」の熱唱にも結実しています。

 

「……

 堺の街のあきびとの

 旧家をほこるあるじにて

 親の名を継ぐ君なれば、

 君死にたまふことかれ、

 ……

 君は知るべきあきびとの

 家のおきてに無かりけり

 ……」(『明星』 1904年9月号)

 

 君とは、晶子の弟・鳳(おおとり)籌三郎(ちゅうざぶろう)のことです。弟は、晶子の実家である駿河屋の家督を相続し、三代目宗七という「旧家をほこるあるじ」となったのです。晶子は、反戦どうこうではなく、駿河屋の断絶をおそれ、弟に家の存続のために生きて帰れ、と身内としての真情を歌ったと理解すべきでしょう。

 事実、晶子は、大町桂月が晶子を「乱臣なり賊子なり」と罵ったのに対し、「あれは歌に候。この国に生れ候私は、私等は、この国を愛(め)で候こと誰に劣り候べき」「無事で帰れ、気を付けよ、万歳」というほどの意味であったと反論しています。

 

 大東亜戦争において、晶子は、海軍大尉となって出征する四男・与謝野c(いく)のために「水軍の大尉となり我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ」と詠んで我が子を激励し、また一方では、「戦ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く」と詠んで遠方洋上の子を思う母として泣いているのです。

 ここには、国を思い、家を思い、子を思う、一人の日本女性がいます。反戦主義者という晶子像は、戦後に作られた虚像にすぎないといえるでしょう。そうした虚像を教科書に掲載し、晶子の半面を伏せ、一面だけを誇張するのは、バランスのとれた教育とはいえないでしょう。採り上げるなら、戦地に送った息子のことを詠んだ歌なども載せ、一国民としてまた母親として、国を思いまた子を思った晶子の心を考えさせる内容にすべきだと思います。

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参考資料

・平子恭子編著『与謝野晶子』(河出書房新社)

・『教科書が教えない歴史@』〜『好戦でも反戦でもなかった   与謝野晶子』(扶桑社)

 
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■大東亜戦争は戦う必要がなかった

 

  今日、日本の国を思う人は、誰しも大東亜戦争(アメリカのつけた名称は太平洋戦争)をどうとらえるべきかを考えるでしょう。

 

 昭和前期、世界に戦雲がたれこめ、日本は軍部が台頭し戦争への道を進もうとしていました。「明けゆく世界運動」の提唱者・大塚寛一総裁は、当時、事態を深く憂慮し、戦争に反対する建白書を送付して、指導層の誤りを指摘しました。

 

 しかし、時の指導者の多くは戦争の道を選び、昭和20年8月15日、未曾有の敗戦を喫しました。当時のことについて大塚総裁は、次のように語っています。

 

 「明治以後、日本は西洋の物質文化を模倣して、日本古来の精神文化を見失ってしまったのだ。ちょうど牛肉を食べたからといって牛になったり、豚肉を食べたからといって豚になったりするような愚かな真似をしてしまい、自己の本質を忘れてしまった。そしてヒトラーやムッソリー二等の覇道をまねた東条英機が、第二次大戦を起こしたために、建国以来はじめての敗戦を喫してしまったのである。

 その開戦に先立つ昭和14年9月以降のことだが、わしは上層指導者たちに警告を発しつづけた。それはこういうことである。いま日本の指導者は、ヒトラーやムッソリー二の尻馬に乗ってアジアで旗を上げようとしている。だが、それをやれば、大都会は焼きはらわれ、三千年来ないところの大敗を招くことになる。だから絶対にやってはならぬーーそういう意味のことを印刷物にして三千部ほどつくり、当時の閣僚から大政翼賛会の主だった人々、参謀本部の人々と陸海軍の少将以上に度々送付した。

 ところが、それらの人々はみんな熱に浮かされて、道を忘れてしまっているから、ほとんどの人は耳を貸そうとしない。そして、とうとう真珠湾攻撃を始めてしまった。その反動が戻って来て、最後には広島、長崎のあの悲惨な状態を招いたわけだが、それもつまりは国政をあずかる指導者が、神の道から外れてしまっていたからである」

 

 大塚総裁は、指導者について次のように語っています。

 

 「物ごとをするには、今日にして百年の計を立て、戦いをするにも、居ながらにして千里の外に勝敗を決すべきものである。だが、それは心眼が開けて、はじめてなし得られることであって、肉眼や五感をもってしては、今日にして今日を看破することが不可能である。そのよい例が、先の大東亜戦争であった」

 「大東亜戦争は戦う必要がなかったし、戦えば負けることは最初から決まっていた。それはちょうど弓を放つのでも、矢が弦を離れるときすでに、当るか当らないかは決定している」

 

 大塚総裁の心眼には、次のように、時の流れが映っていました。

 

 「すでに裏半球の欧米は、四季でたとえれば木枯が吹きはじめる季節であり、表半球のアジアの方は、春がおとずれ、発展期に遭遇する時である」と。

 

 そして、総裁は、次のように語っています。

 

 「あの時、わしの言う通りに厳正中立を守っていれば、日本は一兵を失うこともなく、領土も縮めず、第三国からは敬われ、いまは米ソをしのぐほどの立派な国になっていたにちがいない」と。

 

 大塚総裁の建白書は、「不戦必勝・厳正中立の大策」を説くものでした。わずかながら、大塚総裁の建言に耳を傾けた人々もいました。政界を動かす巨頭・頭山満、憲政の大家・田川大吉郎、陸軍大将・宇垣一成、陸軍中将・林弥三吉、海軍大将・山本英輔、高級官僚・迫水久常の各氏などでした。(1)

 しかし、東条英機ら指導層の多くは建言を受け入れず、日本は神の道から外れてしまいました。誠に残念なことであり、日本はこの失敗を教訓として二度と道を誤ってはならないのです。

 

 戦後、大塚寛一総裁は、国民大衆に神の道を広め、真の世界平和の実現をめざす運動を、行ってきました。それが、「真の日本精神」を伝える運動です。

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(1)以下の拙稿をご参照ください。

ネルーは愛国者・頭山満に感謝した

陸軍にあって和平を希求〜宇垣一成

岡田の右腕となって活躍〜迫水久常

参考資料

        「真の日本精神」を伝える運動については、以下をご覧下さい。

http://www.nsfs.jp

 
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■大東亜戦争は、こうすれば回避できた

2005.6.28

 

私は、大塚寛一先生の「大東亜戦争は戦う必要がなかった」「日本には厳正中立・不戦必勝の道があった」という希有な歴史観を学んできました。そうはいっても、日米開戦は避けられなかったのではないか、どうすれば避け得たのか、という質問があろうことと思います。浅学非才ではありますが、現時点での私なりの考えを記しておきたいと思います。

 

◆ハル・ノートにどう対処すべきだったか


 昭和16年11月26日、ハル・ノートを突き付けられた時、日本の指導層はこれを最後通牒と解し、対米決戦へと歩を進めました。ポイントは、中国から撤退すべしという要求の範囲に満州を含むと受け留めたことです。しかし、ハル・ノートは満州を含むか否か明示していませんでした。この点を問いただして、外交交渉を続ける余地があったのです。確認もしなかった日本の外交はずさんでした。
 昭和天皇は、最後まで対米開戦を望まず、外交による打開を求めておられました。指導層はその御心にどこまでも沿おうと考えるべきだったと思います。御心に背いて開戦を決定した東条の責任は大きいのです。
 近年、ハル・ノートの対応について傾聴すべき意見が出されています。まず小室直樹氏、日下公人氏の共著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社、平成7年刊)から要点を引用します。

 小室: 戦争をしない方法の「一番簡単なのは、ハル・ノートを突き付けられた時に『はい、承知しました』って言ってしまえばよかった。そうすれば戦争をする必要は無かった」
 日下: 「実行はズルズル将来へ伸ばせばいいんだから」
 小室: 「ハル・ノートには日程はついていなかっただから」。「国際法の無理解」のため「ハル・ノートを理解できなかったから日本は対米戦争に突入した」
 日下: 「ハル・ノートの内容を世界に公開すべきでした」

 両氏の意見をさらに推し進めているのが、片岡鉄哉氏です。片岡氏は、戦後日本外交史の国際的な権威として名高い方です。氏は概略、次のように述べています。(『アメリカに真珠湾を非難する資格はない!』 月刊誌『正論』平成11年10月号)
 「日本にとって勝つとは、戦争を回避することだった。そのために政府は手段を選んではならなかった。名誉ある不戦を求めて手段を選んではならなかった。‥‥日本政府は、その最後通牒の内容を暴露すべきだった。ルーズベルトが、ハワイの司令官にも、誰にも知らせないで、最後通牒を出した事実を暴露すべきであった。‥‥ルーズベルトは真珠湾攻撃を両院議員総会で発表して、メディア・イヴェントにしたが、あれくらいの派手なことをやって、誰が戦争を求めているのかを、全世界に印象付けるべきだった。…」

 実はハル・ノートを突き付けられた後、挑発に乗らず、あくまで戦争を避けるべきだという意見が、日本の指導層の一部にはあったのです。この時、ポイントは独ソ戦の情勢判断でした。ここで正確な情勢判断をしていれば、「不戦必勝」の道を進むことは可能だったと私は考えます。再び小室氏・日下氏の共著から要点を引用します。

 日下: 「ハル・ノートが出た頃、ソ連に攻め込んでいたドイツ軍の進撃が、モスクワの前面50キロというところで停止したです。そのことは、大本営もわかっている。ただ、大本営は『この冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる』と考えていた。『本当に大本営はそう思っていたですか』って瀬島さん(=龍三、元大本営参謀)に聞いたら、『思っていた』と。
 その頃、『これでドイツはもうダメだ』という駐在記者レポートが各地から来ていた。イギリスにいた吉田茂(大使、のちの首相)も、ダメだと見ていた。それなのに、ベルリンからのだけ信用した。そりゃあ、ベルリンの大島浩(大使)はヒトラーに懐柔されちゃっているから、いいことしかいわない。それを信じたのです。…
 瀬島さんに聞いたです。『もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか』って。そうしたら『日下さん、絶対そんなことありません。私はあの時、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやると言う人なんかいません。その空気は、私はよく知っています』と」

 以下は私の推測です。わが国は、独ソ戦の戦況を冷静に見極めて、百害あって一利なき三国軍事同盟を破棄すべきでした。そして、泥沼に陥った中国本土や、欧米を刺激する仏印からは撤退するが、満州国は堅持するという方針で対米交渉を続けていけば、そのうち国際関係のバランスが崩れ、欧米列強が相打つ戦況が展開しただろうと思います。そして、わが国は、ルーズベルトの挑発やスターリンの思惑に乗らずに、無謀な対米開戦を避け得る道筋が開けたと思います。
 米内光政大将の言葉を借りれば、一時的に「ジリ貧」にはなっただろうが「ドカ貧」にならずに済み、やがてわが国は英米の信用を回復し、大塚先生の言われるように、満州や朝鮮・台湾を失うことなく、無傷のまま発展を続ける道を進むことが出来たと思います。今後、小室氏・日下氏・片岡氏に続く碩学が現われ、こうした推測を裏付け、また是正してくれるだろうと期待しています。

 

◆三国同盟と日本の進路

 

話が後先になりますが、20世紀の日本の運命を大きく左右したものに、日独伊三国軍事同盟があります。三国同盟は、昭和15年9月に締結されました。これが米英に敵愾心を抱かせ、経済制裁を招き、遂にわが国は米ソの策略に引っかかって、無謀な戦争に突入してしまいました。

 大塚寛一先生によると、実は世界的に見て、その前に重要な時期がありました。昭和11年のスペイン動乱です。この内戦は、第2次大戦の前哨戦といわれ、英仏独伊ソの思惑が交錯した国際紛争でもありました。この時が、ヒトラーの行動をよく観察できる好機でした。大塚先生は、ここで彼の野望を見抜いてドイツと防共協定を結ばず、ソ連とは中立を厳守していれば、やがて欧州で英・ソ対ドイツの間で大戦が勃発し、これにアメリカも参戦する展開になっただろうと説かれています。大戦になれば、米英は援蒋政策を行う余裕はないから、日本はシナと共存共栄の道を進むことが可能となったでしょう。
 次は、小室直樹氏が言っていることですが、シナ問題が解決すれば、日米摩擦の種はなくなったでしょう。当時、重化学工業中心に転換する段階に入った日本は、大不況の後遺症で苦しむアメリカから、技術・機械・施設などを輸入すればよかったのです。経済的要請という点では、日米の利害は一致していたのです。(註1

 かえすがえす残念なのは、ヒトラーの術中にはまったわが国の指導者の無明です。もともと三国同盟を提唱したのはドイツでした。昭和14年9月にポーランドに侵攻したドイツは、大戦を有利に進めるために、イギリスを敵国とする日独伊ソ四ヶ国同盟を構想したのです。まずイタリアが賛同しました。ソ連のスターリンも賛同の回答をしましたが、領土問題で折り合わず、逆に独ソ戦に発展したのです。
 反対を押し切って三国同盟を強引に進めた松岡外相は、三国同盟を改編し、ソ連を加えた四国同盟とし、その圧力を背景にアメリカとの国交を正常化し、シナ問題も解決するという案を持っていました。しかし、彼の考えがアメリカに通用するはずはありませんでした。
 昭和天皇は三国同盟には反対しておられました。天皇は次のように語ったと伝えられます。「同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独乙の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあったのである」と。(註2

 ドイツが最も警戒していたのは、欧州戦線にアメリカが参入することです。そこで、アメリカを太平洋に釘付けにしておくために、日本の海軍力をけん制に利用しようとしたのでしょう。さらに、戦況が不利になったときにも、日本を利用できると考えていたのではないでしょうか。
 昭和16年1月、広田弘毅は野村駐米大使の送別会で、次のように言ったといいます。「もし欧州戦争で、ドイツ側が不利となり、絶望的となった場合、ドイツは、自国の危機を脱するため、あらゆる手段を尽くして、日米を戦しめるように動くだろう。この時こそ、日米戦争の起こる可能性があり、もっとも危険な時だ」と。6月22日、ヒトラーは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連に侵攻し、ここに独ソ戦の火蓋が切られました。近衛文麿は、しばらくして「あのとき三国同盟を解消しておけばよかった」と後悔したといいます。広田も近衛も、それなりの見識を持っていながら、あいまいな行動をしたわけです。身体を張って軍部を抑えられる政治家が、いなくなっていました。

 
 この年、ロシアの冬は早かったのです。押し寄せる寒波に、ドイツ軍は苦戦しました。12月に入ると間もなく、スターリンが反攻を開始しました。この時、わが国の指導層は、的確な情報分析と冷静な外交判断ができず、米英との戦争に突入してしまいました。ハル・ノート突きつけられた時の対応については、先に書きました。日本の参戦は、結果として、イギリスを叩き、アメリカを引き付けたことによって、ドイツに助力するものとなりました。
 ヒトラーは翌年春、再びロシアに進撃しました。しかし、欧州戦争の「関が原」となったスターリングラードの攻防は、ドイツの敗退となりました。それが、ドイツの命運を分けたのです。わが国は、緒戦の電撃戦におけるドイツの勢いに幻惑され、ナポレオンも敗退した史実に深く学ばなかったわけです。

 私は、三国同盟は絶対締結すべきでなかったという考えです。しかし、締結してしまった以上は、米英とも同盟を結んで害悪を相殺して中立関係を築き、とりわけドイツへの加担というアメリカの懸念を晴らすのが、善後策だったと考えます。これは、大塚先生の「不戦必勝・厳正中立」の大策の一部をなす独創的な建言によります。こうすれば、アメリカは日本に石油を輸出してもドイツに回る恐れはないとして、輸出禁止は回避できただろうと思います。
 この善後策も採用されなかった場合は、次善の策として、独ソ戦の開戦時または遅くとも昭和16年11月26日のハル・ノート以後に、独ソ戦の展開を見極めて三国同盟を破棄すべきだったと思います。
 実際に、わが国の政府がやったことは、正反対でした。日米開戦後、その同じ月に、三国単独不講和確約を結びました。大戦の展開にかかわらず、日独伊は単独では講和を結ばないという約束です。昭和天皇は、次のように語ったと伝えられます。「三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」「この確約なく日本が有利な地歩を占めた機会に和平の機運を掴むことがきたかも知れぬ」と。(註3
 米英との開戦はまことに悔やむべきことでしたが、戦争を始めた以上、今度はこれを有利に終結するのが、政治の役割です。しかし、わが国の指導層は、日露戦争の時の先人の貴重な功績に学ばず、善戦している間に講和の機会をつくるという努力をしませんでした。まことに残念なことです。

 「覆水盆に帰らず」といいます。だが、歴史を振り返り、いろいろな道筋を考えてみることは、今日のわが国の進路を考える上で、思考を柔軟にする効果があると思います。ページの頭へ

 

(1)小室直樹+日下公人著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社)

(2)(3)『昭和天皇独白録』(文春文庫)

 
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陸軍にあって和平を希求〜宇垣一成

2003.11.30

 

「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁は、戦前、『大日本精神』と題する建白書を、毎回千余通、時の指導層に送付しました。(1)

大塚総裁の建言に耳を傾け、国政に努力した指導層の一人に、陸軍大将・宇垣一成がいます。

 

◆陸軍を抑える実力者との期待

 

宇垣は、陸軍軍人には珍しく高い識見をもち、つねに国家の進路を見つづけた人物でした。戦前、彼は独断専横の陸軍を抑え、シナ事変を解決し、対米戦争を回避できる実力者として期待を集めました。幾度も首班候補に挙げられたほどでした。

 宇垣は大正期に長く陸軍大臣を務め、陸軍の四個師団削減と軍備近代化を成し遂げました。昭和5年(1930)1月、ロンドン軍縮会議が開かれた時には、閣僚の一人として、海軍軍縮条約の批准を促進しました。しかし、時の首相・浜口雄幸は襲撃され、重傷。軍部は統帥権干犯を唱えて政府に反発し、以来、わが国にテロリズムが横行するようになりました。中でも陸軍の一部が反乱を起こした2・26事件は、全国を震撼させました。事件後、陸軍では統制派が主導権を握りました。そして政治の主眼は、この陸軍の抑制か陸軍との協調に置かれました。ここにおいて陸軍を抑えられる者として期待をされた人物こそ、宇垣なのでした。

 

昭和12年1月、昭和天皇より、宇垣に首相指名の大命が下されました。宇垣は、中国との紛争の早期解決に情熱を持っていました。ところが、陸軍では石原莞爾ら反宇垣派が、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣を出しません。そのため、宇垣は組閣ができず、大命拝辞に追い込まれました。期待の宇垣内閣は流産に終わったのです。

 この時、宇垣の側近・林弥三吉(やさきち)中将が、新聞記者に談話を発表しました。林は、宇垣の考えを伝えたわけです。「軍は陛下の軍であるが、過般来の行動は、陛下の軍の総意なりや、問わずして明らかであります」「自分の大命拝辞後の軍の成り行きおよび君国の前途は、痛心にたえざるものがあります。私はいま、ファッショか日本固有の憲政かの分岐点に立っていると信じます」と。ところが、林談話は、同じ陸軍によって新聞への掲載が禁止されまたのです。

 

宇垣内閣流産に、無所属の代議士・田川大吉郎は、衆議院議長・富田幸次郎を訪問しました。田川は、“憲政の神様”尾崎行雄の代理として、次のように伝えました。「現下の時局に対し、宸襟(しんきん=天皇の心)を悩まし奉ることはまことに恐懼(きょうく)にたえない。今日は憲政の危機であり、さいわい議会も開かれていることだから、議会において憲政並びに時局に対する国民の意思を発表することにしたい。これが議会当然の義務と思うから、民政・政友両党に交渉していただきたい」と。しかし、議会も政党も、この重要な危機に、積極的に動こうとはしませんでした。テロを恐れていたからです。

 

宇垣内閣への妨害・不成立は、憲政の大きな曲がり角でした。これ以後、陸軍を中心とするファッショ的な運動が日本を支配していきます。

もし宇垣内閣が成立していたら、日本の進路は変わっていたことでしょう。宇垣は命がけで陸軍を正常に戻し、中国問題を解決しようと決意していたからです。しかし、それは成りませんでした。そして、この年7月8日、廬溝橋事件が勃発。わが国は、コミンテルンの戦略による中国共産党の謀略にはまり、紛争は長期化しました。昭和13年1月に近衛文麿首相は、「爾後国民政府を対手とせず」という第1次近衛声明を出しました。戦争をしている相手国の正統政府を相手としなければ、戦争を終らせることは不可能です。こうして日本は戦争目的不明の泥沼の戦争に引きずり込まれていきました。

 

宇垣は、この事態をなんとかしようと考えていました。彼にチャンスが訪れました。昭和13年5月、近衛内閣の外務大臣に就任したのです。宇垣は支那事変の解決に情熱を燃やし、和平工作を行いました。そして、蒋介石の国民政府の行政院長・孔祥熙を相手とする会談を進める方針を決めました。ところが、9月に入り、近衛が新聞記者会見で「蒋介石を相手とせずという帝国政府の方針は終始一貫不変である」と声明しました。これは宇垣の和平交渉を抹殺するものでした。また、軍部と外務省の一部は和平交渉に反対し、支那事変処理の仕事を外務省から別に移すために、興亜院を設立することを提案。近衛は、これに賛成しました。またも、宇垣への裏切りでした。憤った宇垣は、外相を辞任。「事変の解決を自分に任せるといっておきながら、今に至って私の権限を削ぐような近衛内閣に留まり得ない」と宇垣は語りました。

宇垣の和平交渉は頓挫し、わが国は支那事変の解決のチャンスを失い、大陸で泥沼の消耗戦に陥っていきました。誠に残念なことでした。以後、反宇垣派が主導する陸軍は暴走を続け、わが国を危険な方向へ誤導したのでした。

 

◆反東条派が擁立工作

 

「宇垣一成を首相に」という宇垣待望論が、戦前、繰り返し現れました。宇垣擁立をめざして行動した者の一人に、戦後首相となった外務官僚・吉田茂がおり、また一人に、当代随一の雄弁を誇る代議士・中野正剛がいました。

 

吉田茂はいわゆる英米派の外交官でした。昭和5年(1930)のロンドン軍縮会議のとき、吉田は外務次官として、陸軍大臣の宇垣とともに軍縮を推進しました。吉田は以来、宇垣を深く信頼していました。

吉田は、昭和14年3月に駐英大使を辞めて帰国すると、独伊と図って英米を敵視する時勢を憂え、日米開戦回避に奔走し、宇垣擁立を工作しました。東条英機の登場によって、大東亜戦争が開始された後も、吉田は擁立工作を止めませんでした。

 

「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁は、昭和14年9月に『大日本精神』と題する建白書を送付し始めました。建白書は、毎回千余通、時の指導層に送付されました。その中に、宇垣が含まれていたことは言うまでもありません。宇垣は大塚総裁の建言に耳を傾けました。側近の林中将もまた総裁に意見を求めました。

 

昭和17年9月、吉田茂は宇垣の意見書を預かり、元首相・近衛文麿に渡しました。宇垣の意見書は、欧州と中国に実情視察の名目で有力な使節を派遣して、戦争終結を図るものでした。欧州には近衛を先頭に吉田ほかで中立国スイスに乗り込み、そこで各国各界の士と広く接触を図り、和平への道を探る。中国へは蒋介石の恩人たる頭山満を派遣する。「行け」と言われれば宇垣もその随員に加わる、というものでした。また、敗色が濃厚になった20年1月には、吉田は近衛を動かして、天皇に戦争終決の上奏文を提出します。しかし、吉田の動きは憲兵隊の知るところとなり、この年の4月、遂に吉田は逮捕されました。終戦まであと4ヶ月という時期でした。

吉田は宇垣にあてて約30通の書状を出していますが、その内容はいずれも国を思う熱情に満ちており、宇垣への傾倒を示しています。吉田は和平を希求し、日米開戦回避、早期終戦、日中関係正常化のために、宇垣宰相を期待したのです。

 

宇垣擁立のために行動したもう一人の人物が、中野正剛です。中野はジャーナリストとして活躍した後、34歳で代議士になりました。中野は学生時代に玄洋社の頭山満と出会い、その感化を受けました。また、三宅雪嶺の『日本及び日本人」に学生時代から寄稿し、雪嶺の娘と結婚しました。仲人は頭山でした。(2)(3)

中野はアジアの民族自決を目指す東方会を興しますが、一時、独伊のファッショ思想の影響を受け、三国同盟を推進し、米英決戦を唱導していました。しかし、開戦後は、自分の意見を改めました。昭和17年4月の翼賛選挙では、中野の東方会は、東条のファッショ的な候補者推薦制度を批判し、非推薦で選挙戦に臨み、激しく反対意見を投げつけました。これに対し、東条が言論統制を強化し、中野らを圧迫するようになると、「東条のやり方は間違っとる。これでは、国を誤った方向へ導く」「たとえ結果の上で敗れても、軍事独裁と闘う議会人がいたことを、歴史の上にとどめたいのだ」――そう決意して中野は、東条に挑戦しました。ヒトラーやムソリーニと決別した中野は、日本精神を取り戻し、楠木正成や西郷隆盛を尊敬する日本人となっていたのです。(4)(5)

 

中野は昭和18年元日、新聞紙上に『戦時宰相論』を発表し、古今東西の宰相を例に引いて間接的に東条首相を批判しました。これは発禁処分にされました。(6)

当時、元首相・岡田啓介は、重臣会議によって東条を退陣に追い込もうと考えていました。これを受けて中野が構想を練り、行動を起こしました。中野の方針は、重臣を説いて東条を倒し、その後に宇垣政権を作るというものでした。彼らの根回しにより、同年18年8月、宇垣・近衛会談が行われ、宇垣と近衛は、東条退陣と宇垣内閣実現を約束し合いました。しかし、重臣らはいざとなると東条に退陣を迫ることができません。そこで中野は、さらなる工作を進めました。東条はその動きを察知。中野は逮捕され、憲兵の取り調べを受けました。釈放はされましたが、中野は、「皇族・重臣に迷惑を及ぼしてはならない」「ここまで闘って、刀折れ矢尽きた」と感じました。そして、10月27日、自決する道を選びました。

 

その後、岡田らの努力は、ようやく功を奏し、昭和19年7月に東条内閣を総辞職に追い込みました。代わった小磯国昭首相は宇垣に入閣を求めました。しかし、宇垣はこれを断りました。「今さら尻ぬぐいの担当者でもあるまい」と考えたのです。中国との紛争の解決を願う宇垣は、自由な立場で問題解決に助力したいと言いました。そして、9月から1ヶ月間、中国を視察し、その結果を小磯首相らに報告しました。宇垣は、全権使節を派遣して重慶側と交渉し、日本軍は揚子江以北に撤収するという提案をしました。しかし、採用はされませんでした。日本は中国問題を解決できないまま、対米戦争を続けていったのです。

 

戦後、東京裁判が行われ、戦勝国によってわが国の多くの指導者が裁かれました。昭和23年10月、判決を前に裁判が休止されていた時、首席検事ジョセフ・キーナンは、宇垣をティー・パーティに招きました。他に岡田啓介・米内光政・若槻礼次郎の3名が呼ばれ、キーナンは「日本における真の平和愛好者はあなた方4人である」と述べました。(7)

 宇垣は、昭和28年4月の参議院通常選挙に全国区で立候補し、51万票を超える驚異的な大量得票を得て、最高点で当選しました。国民の間にも宇垣への期待があったのです。しかし、宇垣は結局、政治活動の場のないまま、31年4月、87歳で亡くなりました。

 

陸軍にあって常に和平を希求した宇垣一成。戦前、彼がその和平政策を実行できたならば、わが国の進路は大きく変わっていたかも知れません。ページの頭へ

 

(1)以下をご参照下さい。

大東亜戦争は戦う必要がなかった

(2)頭山満については、以下をご参照下さい。

ネルーは愛国者・頭山満に感謝した

(3)三宅雪嶺については、以下をご参照下さい。

21世紀、東洋人の課題〜三宅雪嶺

(4)楠木正成については、以下をご参照下さい。

利を捨てて、忠義に生きた楠木正成

(5)西郷隆盛については、以下をご参照下さい。

江戸無血開城〜西郷と三舟の活躍

(6)東条批判をした人物には、尾崎行雄もいます。以下をご参照下さい。

日本的デモクラシーの旗手〜尾崎行雄

(7)東京裁判については、以下をご参照下さい。

『日本弱体化』のための東京裁判

参考資料

・渡邊行男著『宇垣一成』(中公新書)

 
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東条英機と対決・退陣へ〜岡田啓介

2004.1.1

 

戦前、陸軍では、軍の独断専横を抑えようと、宇垣一成が孤軍奮闘しました。一方、海軍では、陸軍の無謀な作戦、危険な政策に対し、岡田啓介・米内光政・山本五十六・井上成美らが断固反対しました。彼らのもとにも、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の建白書は、送り続けられました。

そのうち海軍大将岡田啓介は、東条英機と対決し、東条を退陣に追い込んで、戦争終結に力を尽くしました。

 

昭和3年(1928)6月、関東軍は張作霖爆殺事件を起こしました。当時岡田は、田中義一内閣の海軍大臣でした。陸軍は山海関に一個師団を上陸させる作戦を提起。政府閣議がこれを了承しようとした時、岡田は断固反対しました。「北京、天津地方への駐兵については国際間の取決めがある。そんなことをすれば英米との戦争になる」と。岡田は、陸軍の満州簒奪計画を見抜いていたのです。閣議の前日に、陸軍の案を聞いた軍令部第3班長の米内光政が、鈴木貫太郎軍令部長に報告し、そこから岡田に連絡があったのです。岡田の反対によって、陸軍の計画は阻止されました。しかし、この結果、岡田、鈴木、米内は陸軍の目の敵とされることになりました。

 

昭和9年(1934)、岡田は首相になりました。彼の在任中に、2・26事件が起こりました。昭和11年(1936)の2月26日、青年将校を中心とする反乱軍が首相官邸等を襲撃。多くの政府要人を殺傷しました。この時、岡田は官邸に居ました。しかし、反乱軍は岡田の義弟の松尾伝蔵を、岡田と間違えて射殺したのです。九死に一生を得た岡田は、事件後、重臣(首相経験者)の一人として、陸軍の暴走を抑えようと努めました。岡田は、日独伊三国軍事同盟に反対し、対米開戦回避のために奮闘しました。岡田と意見を同じくする米内・山本・井上も同様でした。しかし、次第に海軍にも陸軍に同調する者が多くなり、開戦を阻止することは出来ませんでした。

 

対米戦争を始めた東条英機は、厳しい言論統制を敷き、憲兵政治とも呼ばれる独裁態勢を作り上げました。その強引なやり方への反発は、昭和17年6月のミッドウェー海戦の敗北後、徐々に高まっていきました。岡田は、東条政権打倒を志しましたが、最初は孤軍奮闘という感じでした。岡田は、当時企画院課長だった女婿の迫水久常を使って、若槻礼次郎、近衛文麿、米内光政、平沼騏一郎、広田弘毅らの重臣に対して、粘り強く東条打倒を働きかけました。しかし、運動は遅々として進みません。岡田に同調し、独自に東条打倒工作をしていた中野正剛も、東条の弾圧を受け18年10月自決に追い込まれました。

 

昭和19年(1944)6月、マリアナ諸島陥落。これをきっかけに、反東条の包囲網が急速に形成されました。すると東条は、この動きをキャッチし、岡田を首相官邸に呼び出しました。岡田は、いよいよ対決の時が来たと、東条の下に出向きました。その時のことを、岡田は次のように語っています。

「東条はどこまでもわたしの動きを難じ、『おつつしみにならないと、お困りになるような結果を見ますよ』と、暗にわたしをおどかした。そこでわたしは、『それは意見の相違である。わたしはわたしの考えを捨てない』と言い切った」(1)

 さしもの東条も、断固たる意志の重臣・岡田啓介を抑えることはできませんでした。延命を図る東条は、重臣を入閣させて内閣を改造しようと試みました。内閣改造のためには、大臣を誰かやめさせて空席を作らねばなりません。当時の大臣は、天皇の親任であったので、総理大臣といえども、各省大臣をやめさせることはできません。そこで、東条は岸信介商工大臣(戦後首相)に辞表を出させようとしました。しかし、岡田は迫水に指示して、岸に辞表を出すなと連絡しました。岸は辞表を出しませんでした。そのため、東条は内閣改造ができなくなりました。ここに到って、重臣たちは、改造ではなく新しい内閣を作る必要があると、天皇に上奏することにしました。

 この上奏案が東条のもとに伝えられると、追い込まれた東条は退陣の決意を固めました。昭和19年7月18日、2年10ヶ月存続した東条内閣は遂に総辞職するにいたったのです。

 

後継首相は、東条政治の継承者・小磯国昭陸軍大将でした。勝ち目のない戦争がいたずらに続けられるばかりです。岡田は、なんとかして戦争を早期に終結させようと努力を続けました。そして、同志・鈴木貫太郎を説得し、首相に推したのです。昭和天皇も、戦争終結の難事をやり遂げられるのは鈴木しかいないと考えていました。昭和20年(1945)4月、鈴木内閣が成立すると、岡田は迫水を書記官長に送り出し、閣外から首相の鈴木、海相の米内を支え、終戦に向けて陰で尽力しました。そのかいあって、ようやく8月15日、わが国はこの大戦の終結にこぎつけたのです。

 

東条英機と対決し、日本を終戦に導いた岡田啓介。その波乱に富んだ一生は、昭和27年(1952)10月10日に幕を閉じました。享年85歳。彼が自らの生涯を語った『岡田啓介回顧録』は、貴重な時代の証言となっています。

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(1)岡田啓介著『岡田啓介回顧録』(中公文庫)

参考資料

・上坂紀夫著『宰相岡田啓介の生涯』(東京新聞出版局)

 
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■岡田の右腕となって活躍〜迫水久常

2004.1.14

 

東条英機と対決し、日本を終戦に導いた岡田啓介には、右腕がいました。迫水久常(さこみず・ひさつね)です。

迫水久常は、戦前から「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の教えを受け、戦後もその教えに従って国家・社会のために努めた人物です。

迫水は、海軍大将岡田啓介の娘婿でした。優秀な大蔵官僚だった彼は、昭和9年に岡田が首相となると、秘書官に任ぜられました。そこから、岡田の分身としての彼の活躍が始まります。

 

昭和11年(1936)2月26日、青年将校を中心とする約1400名の兵士が反乱を起こしました。2・26事件です。時の首相は、岡田啓介でした。新聞は、首相官邸が襲われ、岡田は即死と報じました。岡田の死亡確認のため官邸に行った迫水は、遺体の顔を見て絶句しました。横たわっているのは、岡田の妹の夫、陸軍大佐の松尾伝蔵だったのです。反乱軍は相貌が岡田によく似た松尾を、岡田と思い込んでいたのです。 

この時のことを、迫水は次のように回想しています。「全く千古の謎というより外申し上げる言葉もありません。亡くなった松尾は、私にとっては妻の関係から叔父に当たりますし、殊に私の妹がその倅(せがれ)に嫁いでいるので、私自身も何時も『叔父さん』と呼んでいました。義父(岡田啓介)が亡くなったと思ったのが叔父になったのですから、私としては嬉しいだか悲しいだか判りません」と。

岡田が生きていることを知った迫水は、岡田救出に動きました。岡田は、女中の機転で女中部屋の押入れに潜んでいました。迫水らは、葬儀のため首相官邸に入ると、岡田を弔問客に見せかけて反乱軍の目を欺き、車で連れ出しました。命がけの救出劇でした。

 

その5年後、大東亜戦争が勃発すると、岡田は東条英機政権打倒に立ち上がりました。迫水は、憲兵の監視の目が光るなか、岡田の意向を受けて、重臣や閣僚を反東条へと誘導しました。その甲斐あって、東条は退陣に至りました。(1)

昭和20年4月、岡田が推す鈴木貫太郎が首班となりました。鈴木の密命は、昭和天皇の意思に応えて、戦争を終結させることでした。岡田は、鈴木の秘書役である内閣書記官長(現在の官房長官)に、迫水を送り出しました。鈴木は、徹底抗戦を唱える陸軍・強硬派を欺きながら、終戦の「玉音放送」にこぎつけるまで、4ヵ月間、生死を賭けて使命を全うしました。この間、迫水は、岡田の指示を受けつつ、鈴木を補佐しました。終戦に関する実務作業は、すべて迫水が行ったといわれます。

迫水は当時のことを次のように書いています。「ふと、銀座の電柱に大きな張紙がしてあって、『日本のバドリオ(註2)を殺せ 。鈴木、岡田、近衛、迫水を殺せ』と書いてあるのを見てよい気持ちはしなかった。しかし、私には住むべき家がない。家内は、中風で身体の不自由な私の老母を擁して、 五人の子供とともに新潟県新発田の在に疎開していた。一先ず、世田谷の岡田啓介大将の家に行った。鈴木内閣成立後、私はほとんど毎夜、ここで岳父に会って、指導を受けた。終戦工作の大部分は、岡田大将の指導によったものといっても過言ではない」と。(3)

 

和平への努力は遂に実りました。昭和20年8月15日、昭和天皇は、ラジオで直接、国民に終戦を告げました。この時に天皇が読んだ終戦の詔書は、書記官長の迫水が起稿に当たりました。

 「絶対に詔書に書き入れなければならない個所というのは、まず第一に、陛下は忍びがたいことも忍ばねばならないとおっしゃっている。これからの日本の進んでいく道は苦しいだろうが、陛下もその苦しみをともに耐えていこうという意味だから、このお気持ちはぜひとも生かさねばならない」。

その思いが「堪難キヲ堪忍ヒ難キヲ忍ヒ」(原文)という一節に表現されました。迫水は草稿を作り、碩学(せきがく)として名高い安岡正篤(まさひろ)の添削を受けました。成案ができた詔書は、天皇の裁可を受け、天皇自身によって吹き込まれ、全国に放送されたのです。(4)

 

 迫水久常は、戦前から、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の教えを受けた、時の指導層の一人でした。戦後は参議院議員を長く勤め、経済企画庁長官・郵政大臣等を歴任しました。昭和43年6月、大塚総裁が、日本精神復興促進会を設立した際には、設立発起人の一人として名を連ねました。そして終生、大塚総裁への尊敬を持ち続け、その教えを国政に生かすことに努めました。

迫水が残した著書・談話は、時代を物語る第一級の証言集です。

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(1)詳しくは、岡田啓介の項目をご参照下さい。

東条英機と対決し退陣へ〜岡田啓介

(2)ピエトロ・バドリオは、イタリアの軍人。国王とともに、ムソリーニを首相の地位か追放・監禁し、自ら首相としてファシスト党を解散。ひそかに連合軍と和平交渉を始め、イタリアを終戦に導いた。

(3)迫水久常著『機関銃下の首相官邸』(恒文社)

(4)迫水の伝える昭和天皇の「終戦の御聖断」、また「終戦の詔書」については、以下をご参照下さい。

国民を思った終戦の御聖断

戦後の原点『終戦の詔書』

参考資料

・首相秘書官の証言テープ(迫水久常の証言を昭和4710月に録音、200211月に公開)

国会図書館で速記録の閲覧や、録音の視聴ができます。詳しくは、政治史料課憲政資料係(0335812331 内線27410)へ。

 
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炎の言論、軍の暴走に警鐘〜斎藤隆夫

2004.11.1

 

昭和12年7月、支那事変が勃発し、紛争は泥沼化しました。国民はいつ終わるとも知れぬ事態に不安と疑問を感じていました。そうしたなか、衆議院議員・斎藤隆夫が国会で質問に立ちました。昭和15年2月2日、斎藤の演説があるというので、傍聴席は超満員となりました。静まりかえった議場で、斎藤は「支那事変処理に関する質問演説」を行いました。

 

「‥‥一体支那事変はどうなるものであるか、何時済むのであるか、何時まで続くものであるか。政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとするのであるか、国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くことが出来得ると期待しない者は恐らく一人もないであろう」

斎藤の堂々たる弁論は、拍手喝采を浴びました。斎藤は欧米のキリスト教国の実態について触れながら、次のように弁じました。

「彼等は内にあっては十字架の前に頭を下げて居りますけれども、一たび国際問題に直面致しますと、基督(キリスト)の信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉強食の修羅道に向かって猛進する、是が即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。

 此の現実を無視して、唯(ただ)徒(いたずら)に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴(つか)むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない」

 

この歴史に残る名演説に、全国から激励の手紙が寄せられました。しかし、軍は斎藤を激しく非難しました。政治家は軍の攻撃を恐れて、斎藤を代議士除名とし、事態を収拾しようとしました。

実のところ、斎藤の演説は、決して「反軍演説」というようなものではありません。先ほどの引用の直前の部分で、次のように述べているからです。

「国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。(略)国家競争の真髄は何であるか。日生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向かうに当りまして、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に国家の向うべき途はないのであります。」と。

この部分は、議会議事録から削除されたのですが、一体どこに問題があるというのでしょう。反軍でも軍備放棄でもなく、国際政治のリアリズムを述べているに過ぎません。斎藤がいわんとしているのは、弱肉強食・優勝劣敗という当時の国際社会の現実を冷静に見すえ、大勢に押し流されずに、政治が軍事をコントロールしていくことでした。そして、「聖戦の美名に隠れて」、戦争目的のあいまいなまま、現実的な見通しもなく、ずるずると戦線を拡大していってはならないと、警鐘を鳴らすものだったのです。

 

ところが、3月7日に議会で斎藤議員除名動議が出されました。議員の3分の1が棄権しながらも、賛成大多数で、斎藤は衆議院除名処分となりました。それは、政治家自らが言論を自主規制し、軍部に迎合することでした。前年、首都を揺るがした2・26事件の後、政治家の多くは軍部・右翼のテロを恐れて正しい勇気を失いつつあったのです。

斎藤が議席を失った昭和15年の秋、10月12日にすべての政党は解党して、「大政翼賛会」が成立しました。「大政翼賛会」は、ナチスの一党独裁体制を模倣したものです。昭和天皇は、これは「幕府」のようなものではないか、と憂慮されました。「幕府」とは、天皇から実権を奪うものということかと思われます。ここに明治・大正以来の日本的デモクラシーは事実上、終焉に至りました。

その後、言論統制は一層厳しくなり、軍部は暴走を続け、我が国は自滅への道をひた走りに走りました。日中の紛争を解決できないまま、日本は米英との戦争に突き進み、終にわが国は焦土と化しました。

 

敗戦のどん底で、国民が塗炭の苦しみを味わっていた昭和20年の9月。斎藤は新政党の創立をめざしていました。75歳の斎藤は老骨に鞭打ち、国民に檄(げき)を飛ばしました。

  「我々は戦争に敗けた。敗けたに相違ない。併(しか)し戦争に敗けて、領土を失い軍備を撤廃し賠償を課せられ其の他幾多の制裁を加えらるるとも、是が為に国家は滅ぶものではない。人間の生命は短いが、国家の生命は長い。其の長い間には叩くこともあれば叩かることもある。盛んなこともあれば衰えることもある。衰えたからとて直ちに失望落胆すべきものではない。       

  若し万一、此の敗戦に拠って国民が失望落胆して気力を喪失したる時には、其の時こそ国家の滅ぶる時である。それ故に日本国民は、茲(ここ)に留意し新たに勇気を取り直して、旧日本に別れを告ぐると同時に、新日本の建設に向って邁進せねばならぬ。是が日本国民に課せられたる大使命であると共に、如何にして此の使命を果たし得るかが今後に残された大問題である」

 

斎藤隆夫のいう「日本国民に課せられたる大使命」を、戦後日本人はどこまで果たせたでしょうか。占領政策による足かせをはめられたまま、「第2の敗戦」といわれる経済戦争にも敗れた日本は、さらに少子高齢化などの問題を抱えています。国民を拉致され、領土を侵されても、政府はなお謝罪外交を繰り返しています。「失望落胆」している人は少なくないでしょう。しかし、時勢に押されて現状をあきらめ、国民が「気力を喪失」したならば、戦前と同じ自滅の道を進むことになります。気骨の政治家・斎藤隆夫の檄を思い起こし、日本の危機を乗り越えるために、日本の元気を奮い起こしましょう。ページの頭へ

 

参考資料

・草柳大蔵著『斎藤隆夫 かく戦えり』(絶版)

・松本健一著『評伝 斎藤隆夫』(東洋経済新報社)

 
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「ジリ貧はドカ貧に勝る」〜米内光政

2004.2.1

 

昭和戦前期、少数ながら、政府・陸軍の暴走に反対した指導者がいました。海軍では、岡田啓介のほか、米内光政、山本五十六、井上成美、鈴木貫太郎らが挙げられます。

そのうち、海軍大将米内光政は、威風堂々とした端麗な容貌で有名でした。無口でしたが、内に秘めた意志は強固でした。彼は、テロの横行をものともせず、一貫して平和路線を通しました。

 

昭和12年(1937)7月、廬溝橋事件が勃発しました。中国共産党の戦術にはまった日本は、シナ大陸で泥沼の戦争に引き込まれていきました。時の首相近衛文麿は和平の機を逃して退陣。その後、成立した平沼内閣で、米内は海軍大臣になりました。当時、陸軍はソ連を仮想敵国とし、日独伊三国軍事同盟の締結を推進していました。しかし、米内は、ヒトラーを信用していませんでした。次官の山本五十六、軍務局長の井上成美も同じです。彼らは「海軍の三羽烏」と呼ばれ、断然と三国同盟に反対しました。

三国同盟を締結すべき否か、主要閣僚による五相会議が70数回も繰り返され、なお結論は出ませんでした。そこに突然、驚くべきニュースが入ってきました。昭和14年8月23日、ヒトラーがスターリンと独ソ不可侵条約を締結したのです。わが国の方は、ソ連に対抗するためにドイツとの同盟を議論しているのに、そのドイツがわが国に断りもなく、こともあろうにソ連と手を結んだのです。衝撃が走りました。ヒトラーに振り回された平沼首相は、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」という言葉を残して辞任しました。このことにより、三国同盟論は、急速に退潮になりました。

 

三国同盟論が後退した後、米内は内奏のため参内しました。その際、昭和天皇は「海軍のおかげで国が救われたと思う。また今度のことが契機で、陸軍が目覚めることとなれば、かえって仕合わせというべきだろう」と述べたと伝えられます。昭和天皇は、独伊との同盟に反対だったのです。(1)

昭和15年1月、米内は首相に指名されました。天皇は米内内閣の成立を喜びました。「近来、歴代内閣の総理が拝謁する場合には御不機嫌なことが多かったけれども、最近、米内総理が拝謁した時は非常な御機嫌で、総理も珍しいことだと不思議がっておった」といいます(『原田熊雄日記』)。戦後、天皇は、「米内はむしろ私の方から推薦した、…日独同盟論を抑える意味で米内を総理大臣に任命した」と語っています。(2)

 

ところが、三国同盟論は陸軍や外務省に根強く、再び強硬派が勢いを増してきました。米内は彼らのテロを恐れず、あくまで同盟に反対しました。三国同盟を結ぶと、英米との戦争を覚悟に入れなければならないからです。米内は閣議において明言しました。「対米英海戦には勝てる見込みはありません。大体、日本海軍は米英を敵に回して戦争するようには建造されておりません」と。

米内の戦争回避論は、米英との戦力・生産力等の比較に基づいた合理的判断でした。これに対し、陸軍は同盟締結を図って畑陸相を辞任させ、後任者を出そうとしませんでした。陸軍が意志を通すために使っていた横暴な手段です。当時は後任者が出ないと内閣は総辞職しなければならないという仕組みになっていたのです。そのため、米内は昭和15年7月、総辞職に追いやられました。天皇が最も期待を寄せていた米内を、陸軍が引きずり下ろしたのです。

 

その後、成立したのは、第2次近衛内閣でした。ここで外相となった松岡洋右は、強力に同盟を推進しました。そして、遂に日独伊三国軍事同盟は締結されてしまいました。

岡田啓介元首相は戦後、「三国同盟が日本の分かれ道だった」と語っています。事実、それによって日米関係は悪化し、アメリカは日本を締め上げてきました。じりじりと追い詰められ、こうなったら一か八か戦うしかないという意見が国内に強まりました。そういう空気のなかでも、米内は大局を見失わず、沈着冷静でした。米内は、天皇がご出席される御前会議で、「ジリ貧はドカ貧に勝る」と述べ、ジリ貧に堪える方が、アメリカと戦ってドカ貧に陥るよりましだと反対しました。

 

しかし、近衛内閣の後、東条英機が首班となると、日本は決定的に誤った方向に踏み出しました。ハル・ノートを突きつけられた日本は、米ソの謀略にかかり、戦略も政略もないまま、無謀な戦争に突入してしまったのです。(3)

最初、わが国は華々しい戦果を挙げました。けれども、戦争が長期するに従い、米内らの予測の通り、わが国は苦境に陥りました。東条を倒さねば、この窮地を切り抜けることはできません。この時、打倒東条の中心となったのが、岡田啓介でした。米内は岡田に呼応し、他の首相経験者たちとともに東条打倒を図りました。粘り強い努力が続けられました。その結果、昭和19年7月、遂に東条を退陣に追い込むことができました。

この時、岡田は、米内を後継首相にと考えていました。米内に戦争の早期終結を期待したのです。しかし、後を継いだのは、陸軍の小磯国昭大将でした。米内は小磯内閣で再び海相に就任し、腹心の井上成美を次官とし、彼に密命を与えました。極秘裏に、終戦工作を進めよというのです。

 

岡田や米内は、懸命の努力を続けました。戦争終結という難事業を成し遂げられる人物は、もはや老将鈴木貫太郎しかいません。鈴木は、昭和天皇が、日本を終戦に導く切り札として期待を寄せた人物でもあります。昭和20年4月、岡田・米内らの思いが実って、鈴木が首相に指名されました。米内は鈴木内閣で海相として鈴木を支え、戦争終結への機会を待ちました。岡田は、右腕の迫水久常を内閣書記官長に送り込み、鈴木・米内を助けました。

昭和20年8月9日、ポツダム宣言を受諾するか否かを決める御前会議が集められました。会議を前に、岡田と米内は、鈴木に天皇の裁断を仰ぐよう進言しました。御前会議で、米内は東郷外相の説く終戦論に賛成しました。賛否同数で結論は出ません。これを好機ととらえた鈴木は、おもむろに天皇に裁可を仰ぎました。ここに至って、天皇は自ら終戦の御聖断を下しました。迫水はこの時の会議の模様を詳しく伝えています。

こうして、3年8ヶ月続いた無謀な戦争は、ようやく終結をみたのです。

 

戦後、米内は、米国戦略爆撃調査団の質問に応じ、次のように証言しています。

 

質問: 最初の戦争計画は妥当なものであったかどうかということ、およびその計画に付随する要求に応ずるため、はたして日本国家の能力は十分なものであったかについて、あなたのご意見はどうですか。

米内: あの戦争計画は当時の情勢や、わが国の戦争能力の実際に鑑みるとき、決して適当な計画ではなかったと、今日に至るまで信じています。 

質問: つまり、あの計画ははじめから、あまりに手を広げすぎた、身のほど知らぬ計画だと考えたわけですか。

米内: 詳しいことは実はよく知りません。しかし、私は、そんな戦争計画は全然、試みてはいけなかったとすら考えたのです。私は堅く信じていますが、仮に当時、私が首相だったとしたら、われわれはこの戦争をはじめなかったでしょう。

 

日本が、米英との戦争をあくまで回避する道を選んでいたら—--日本は米内の言うように「ジリ貧」を味わっても「ドカ貧」に陥ることなく、死中に活路を開くことができたでしょう。その活路を示すものがありました。それが、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の建白書でした。建白書は、昭和14年9月から、昭和20年の終戦間際まで、時の指導層に対し、毎回千余通送られました。そして、大塚総裁の意見に耳を傾け、戦争回避・戦争終結のために行動した良識ある指導者がいたのです。 (4)

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(1)拙稿「独伊との同盟に反対〜昭和天皇(2)」をご参照下さい。

(2)『昭和天皇独白録』文春文庫

(3)拙稿「ハル・ノートにスターリンの謀略」をご参照下さい。

(4)拙稿「大東亜戦争は戦う必要がなかった」をご参照下さい。

参考資料

・阿川弘之著『米内光政』(新潮文庫)

 
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合理的判断で非戦を貫く〜井上成美

2004.2.13

 

“最後の海軍大将”となった井上成美(しげよし)は、非戦派として有名です。井上は、昭和10年代、米内光政、山本五十六とともに「海軍の三羽烏」と呼ばれ、陸軍のもくろむ日独伊三国同盟に頑強に抵抗しました。井上は三人の中で最も強硬で、その後も対米開戦に突き進む動きを阻止しようとし、また開戦後は早期終結のために尽力しました。非戦派”といわれるゆえんです。

もちろん軍人である以上、ただの平和主義者ではありません。非凡な軍人だったがゆえに、“非戦派”だったのです。井上は早くから情報の重要性を理解し、作戦計画は正確な情報に裏づけられていなければならないと考えていました。昭和7年(1932)、当時海軍大学校の教官だった井上は、戦略講義の教材用に、「合理的敵情判断ノ方法」「敵情補充ノ原則」を執筆して、学生に配布しました。そこには、あらゆる予断と希望的観測を排して数理と情報を大切にせよ、旧套墨守はやめて新時代に即した独創をはかれ、ということが、図式入りの明快詳細な論法で説いてありました。この日本人には珍しい、抜群の情報分析力と戦略的思考力に基づいた合理的な判断が、井上の信念を不動のものにしていたのです。

 

昭和14年1月、平沼騏一郎内閣に対し、ドイツは日独伊三国軍事同盟案を送付してきました。これはそれまでの防共協定がソ連一国を対象としていたのに対し、対象国をソ連以外に広げ、しかも同盟国の戦争に武力援助・参戦を義務付けるものでした。

当時わが国では、ヒトラーの『わが闘争』が翻訳で読まれていました。語学力に優れた井上はこれを原著で読み、和訳されていない部分に、重大な問題があることを発見しました。井上は軍務局長名で海軍省内に注意を促しました。「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら、小器用で小利口で役に立つ民族と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由も其処にあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは、三思三省の要あり、自戒を望む」と。実際、ヒトラーは、米国が英国を援助するために参戦することを恐れており、米国を牽制するために、日本の海軍力を利用しようと企んでいたのです。

昭和14年9月、ドイツが電撃的にポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まりました。当初、ドイツは破竹の勢いで、向かうところ敵無しに見えました。それを見て、わが国には、ドイツが直に英国を破りヨーロッパを席巻する、独伊と同盟を結べば我が国はアジアを掌中に出来ると見て、その尻馬に乗ろうとする動きが、陸軍を中心に起こりました。しかし、米内海相・山本次官・井上軍務局長の海軍トリオは、「ドイツは必ず負ける」と見ていました。「イギリス海軍が壊滅したわけでもなく、また、今後もドイツ海軍がイギリス海軍を凌駕するわけもなく、劣悪なイタリア海軍では話にならない」。そして何より「ドイツと同盟を結べば、対米戦争は避けられなくなる」――それこそ彼らが三国同盟に反対する理由でした。中でも最も頑強に反対したのが、井上でした。

 

終戦後、井上は三国同盟について、次のように語っています。

「同盟反対の理由としては、独に対する国力判断なり。独は世界の強国にあらず。伊は三等国なり。しかも独・伊は、従来幾度か外交上不信行為を反復し来たれ(1)

「米国人の一番嫌っている国民、しかも1年前以来非道の侵略戦遂行中で、米と関係緊密な英国と交戦中の独と、軍事同盟を結ぶ事は、対米戦に一歩を進める事になることに思い至らないとは、誠に不思議と申すの外なく、正常な理性の持ち主とは考えられない」と。(2)

当時の我が国には「正常な理性」を失って、ヒトラーの術中にはまり、熱病につかれたように戦争の道に突き進もうとする者が、指導層に多くいたのです。井上は、大勢に流されることなく、彼らに対抗しました。それはいつテロを受けるかわからない危険を伴っていました。しかし、井上は、一切臆することなく、身を張って三国同盟に反対し、無謀な戦争を阻止しようと懸命の努力を続けたのです。

 

井上は、日本には希な戦略的思考をもつ軍人でした。彼の対米戦争の予測は、一切の希望的観測を排した、冷徹な研究・分析に基づくものでした。昭和16年(1941)1月、井上は『新軍備計画論』という計画書を出しました。その骨子は、将来の戦争では、航空機・潜水艦の発達により、主力艦隊同士の決戦は絶対生起しない。日米戦争の場合、太平洋上の島々の航空基地争奪が必ず主作戦となる。ゆえに、巨額の金を食う戦艦の建造など中止し、従来の大艦巨砲思想を捨て、新形態の軍備に邁進する必要がある。米国と量的に競争する愚を犯してはならない、というものでした。

この計画書で井上が一番言いたかったことは、総論の第二項「日米戦争ノ形態」に書かれています。この項目において、井上はわが国が対米戦争に突入した場合の見通しを書いています。

「日本ガ米国ヲ破リ、彼ヲ屈服スルコトハ不可能ナリ」。アメリカの国土の広さを考えれば、米全土の攻略は到底できない。米海軍を殲滅(せんめつ)することもまず困難である。それに反し、アメリカは「(一)日本国全土ノ占領モ可能、(二)首都ノ占領モ可能、(三)作戦軍ノ殲滅モ可能ナリ」。アメリカは海上交通路の破壊を狙い、物資封鎖の挙に出るだろう。「帝国ノ最弱点ヲ突カレテ屈スルコトトナル」危険性が強い。

「米国ニ対シ、有ラユル弱点ヲ有スル」日本は「此ノ弱点ヲ守ルノ方策」を十二分に講じない限り、一時西太平洋上に王者の地位を保持し得たとしても、不本意の持久戦に持ち込まれる。やがて陸海両作戦軍全滅、米軍の東京占領、日本全土占領のかたちで戦いを終わる可能性が強い。これが、井上の基本的な主張でした。

井上は職を賭し、生命の危険を承知の上で、この計画書を書きました。そして、時の海軍大臣及川古志郎に手渡しました。しかし、極秘扱いとされて実施に移されませんでした。

 

計画書が書かれた10ヶ月後、日本は真珠湾攻撃で対米戦争に突入。わが国は一時優勢に戦いを進めたものの、物量に勝る米国の巻き返しに遭(あ)いました。井上の予測したとおりです。米国による物資封鎖、わが国の連合艦隊の全滅、陸海軍の無条件降伏、そして「日本国全土ノ占領」等が現実となってしまいました。

終戦後、井上の計画書は米国海軍の手に渡りました。そして「もし日本がこの計画を基礎に動いていたら日米戦は起こらなかっただろう」と言わしめました。

 

井上の良き理解者だった山本五十六は、連合艦隊司令長官となり、昭和15年9月、近衛文麿首相から日米戦争の見通しについて聞かれました。山本は「是非やれと言われれば、初めの半年や1年は暴れて御覧に入れます。しかし、2年3年となっては、全く確信がもてません」と答えました。

井上はこのとき山本は次のように言うべきだったと言います。「総理、あなたは三国同盟なんか結んでどうする気か、あなたが心配している通りアメリカと戦争になりますよ、なれば負けですよ、やってくれと頼まれても、自分には戦う自信がありません。対米戦の戦えない者に連合艦隊司令長官の資格なしと言われるなら、自分は辞任するから、後任に誰か、自信のある長官をさがしてもらいたいと、強くそう言うべきでした」と。

「かねがね私は、山本さんに全幅の信頼を寄せていただが、あの一点は黒星です。山本さんのために惜しみます」と井上は述べています。

 

昭和17年11月、井上は、海軍兵学校の校長となりました。井上の目にはわが国の敗戦は不可避でした。彼は、戦後日本の復興の土台となれる人材を育てようと考えました。そして、その時役立つように、軍事関係の授業時間を減らし、一般的な課目に力点を置きました。また、当時は敵国語として各方面で英語の使用が禁止されましたが、井上は兵学校の受験科目と授業から英語を廃止することに、断固反対しました。「自分の国の言葉しか話せない海軍士官が、世界中どこにあるか!」と、英語教育を続けました。

 

戦争末期の昭和19年8月、海相米内光政は、井上を海軍次官に呼び寄せました。井上は戦況をつかむや、極秘裏に高木惣吉少将に終戦工作を命じ、終戦への努力を続けました。米内は自分が倒れた場合、海軍大臣となって終戦に導けるのは井上のみと信じ、井上を温存するため、井上を海軍大将に推しました。井上は大いに不満でしたが、従わざるをえませんでした。こうして“最後の海軍大将”となった井上は、20年5月、次官の職を去り、軍事参事官として終戦を迎えました。

 

戦後、井上は三浦半島の長井に隠棲しました。一度も世に出ることなく、ひっそりと晩年を送りました。近くの子供たちに英語を教えて、わずかな収入を得るのみ。その生活は困窮を極めました。しかし、井上は、最後まで清廉潔癖の姿勢を崩しませんでした。合理的判断で非戦を貫いた井上は、自分の良心に照らして、生涯自ら信ずるところを貫いたのです。(ページの頭へ

 

(1)終戦直後の海軍特別座談会『日本海軍はなぜ太平洋戦争に突入したか」

(2)昭和39年2月、国会図書館の角田順博士の質問に答えた回答書

参考資料

・阿川弘之著『井上成美』(新潮文庫)

・宮野澄著『最後の海軍大将・井上成美』(文春文庫)

・高木惣吉著『自伝的日本海軍始末記』(光人社NF文庫)

 
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忠義の心で終戦に導く〜鈴木貫太郎

2004.3.15

 

戦前、わが国の進路を誤らせた重大な事件の一つが、昭和11年に勃発した2・26事件です。決起したのは、青年将校たちでした。彼らは、「君側の奸」つまり天皇の側近くにいる悪臣を除けば、国が正されると考え、さして計画性もなくクーデターを試みました。多くの国家指導者が襲撃され、首相岡田啓介は即死と報じられて、首相代理も居ない非常事態となりました。

このとき、昭和天皇は、国家元首として、敢然と自らの意思を明らかにしました。「朕(ちん)が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為である」「すみやかに鎮圧せよ」と天皇は憤りました。

 

事件で襲われた重臣のなかに、侍従長の鈴木貫太郎海軍大将がいました。鈴木は昭和4年から8年間、侍従長として天皇に仕えていました。当時鈴木は69歳で、天皇にとって鈴木は親ほども年が離れていました。また鈴木の妻・たかは、天皇が幼少の時、養育係を約10年間、務めたことがありました。それゆえ、天皇は鈴木夫妻を親代わりのように、篤く信頼していたのです。反乱軍は、こうした鈴木を襲ったのでした。

鈴木は頭部や胸部などに4発の銃弾を撃ち込まれました。しかし、九死に一生を得ました。襲撃部隊の安藤輝三大尉が、部下がとどめを刺そうとしたのを制したからです。安藤は一度鈴木に会ったことがあり、鈴木の話を聞いて「西郷隆盛のように腹の大きい人物だ」と敬意を抱いていました。このことにより、鈴木は一命を取り留めました。

 

結局、このクーデターは失敗に終わりました。しかし、陸軍中枢部には、青年将校たちの国家改造の思想に共鳴する勢力があり、この事件をきっかけに国の実権を握るようになっていきます。そして、陸軍は中国共産党の挑発に乗り、大陸で戦争を始めました。政府はこれを追認するばかりで、政治によるコントロールが効かなくなり、戦線が拡大されていきました。そして、わが国は大陸問題を解決できないまま、昭和16年(1941)12月8日、遂に米英との戦いを始めてしまいます。戦争が長引くに従い、敗色は濃厚になる一方でした。

 

この戦争を収めるために、鈴木貫太郎は重要な役割をすることになります。もともと鈴木は日独伊三国軍事同盟に反対し、対米英戦争にも反対でした。この点で、鈴木は、同じ海軍の岡田啓介・米内光政・山本五十六・井上成美らと意見をともにしていました。なかでも岡田啓介元首相は、鈴木と同じく、2・26事件において、不思議な形で助かった人物でした。そして、岡田と鈴木という、ともに2・26事件を生き延びた者が、この事件以後に国の実権を握った軍閥と、対決することになるのです。不思議な因縁といえましょう。

開戦後、岡田・米内らは、密かに戦争終結の道を模索していました。しかし、あくまで戦争を継続しようとする強硬派に、動きを悟られてはなりません。弾圧か暗殺されることは必至です。表向きはあくまで戦争貫徹というふりをしていなければなりません。いかに彼らを欺きつつ、戦争終結への動きを進めるか。ここに命がけの苦心があります。失敗すれば、同じ日本人が戦争継続派と戦争終結派に分かれて戦う事態とになりかねません。イタリアのような、同民族が相撃つ悲劇の二の舞は避けねばなりません。岡田らは思案の末、戦争終結の大役を担えるのは、この男しかいないと、鈴木貫太郎に白羽の矢が立ちました。

 

昭和20年4月5日、鈴木は重臣会議の決定に基づき、昭和天皇から組閣の大命を受けました。79歳でした。

天皇は「どうだ、やってくれるな」と鈴木に言いました。天皇は戦争の早期終結を願っていました。そして、鈴木にこの難事を委ねようというお考えなのです。鈴木はそれまで、軍人は政治に関与するなという明治天皇の勅諭を頑なに守って来ました。「なにとぞ、この儀ばかりは……」と口ごもりながら固辞すると、天皇は微笑を漏らして、言葉をさえぎって申されました。「お前の気持ちは、よく分かっている。しかし、今この危急の時にあたって、もう他に人はいないのだ。頼むから、どうかまげて承知してもらいたい」と言いました。そこまでの言葉を受けた鈴木は、この大任を全うしようと自らに誓いました。

 

鈴木の就任間もない4月12日、ルーズベルト米大統領が急死しました。鈴木は、感想を聞きに来た記者に、「偉大な指導者を失ったアメリカ国民に、深甚なる弔意を申し述べる」と語りました。この談話は、同盟通信の英語放送を通じて、海外に流されました。鈴木の言葉は、心あるアメリカ人の胸に響きました。しかし、ドイツ首脳は鈴木の談話に反感を持ちました。このことがわが国に伝わると、陸軍の若手幕僚たちが、血相を変えて総理官邸に押しかけてきました。しかし、鈴木は彼らに淡々と応じました。

 「死んだ敵将に敬意を捧げるのは、日本古来の武士道である。軍人たる諸君が、武士道を否定してどうするか」

 武士道には、「敵を愛す」という精神があります。日本人の心根の美しさを表わすものです。鈴木と対照的に、ヒトラーは「運命は歴史上最大の戦争犯罪人ルーズベルトをこの地上より遠ざけた」という声明を発表しました。日本とナチス・ドイツは軍事同盟を結んでいたとはいえ、その精神には対照的な違いがあったのです。

 当時アメリカに亡命していたドイツの作家・トーマス・マンは、「ドイツではみな万歳、万歳と叫んでいるのに、日本の首相は敵の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。やはり日本はサムライの国だ」と賞賛の言葉を送っている。

劣勢著しい中にあっても、堂々と日本精神を発揮し、敵国民に礼儀を尽くした鈴木貫太郎。この古武士のような人物によって、わが国は国土の破壊、民族の滅亡を免れることになるのです

 

昭和20年(1945)7月26日、連合国はわが国に降伏を求め、ポツダム宣言を発表しました。日本政府は、国体が護持されるか否かを懸念し、宣言を受諾すべきか決めかねていました。そこに、8月6日、広島に原爆が投下されました。さらに、9日未明には、ソ連が日ソ中立条約を無視して、突如宣戦布告をし、満州・樺太になだれ込んできました。後ろから袈裟懸(けさが)けに切りつけてくるような卑劣なやり方です。

 

8月9日午後11時30分、御前会議が始まりました。会議の参加者は、鈴木貫太郎首相以下の最高戦争指導会議のメンバーと平沼枢密院議長らでした。終戦工作を進めてきた岡田啓介元首相と海軍大臣の米内光政は、会議を前に、鈴木に天皇の裁断を仰ぐよう進言していました。

会議が始まると、東郷外相は「天皇の国法上の地位を変更しない」という了解のもとにポツダム宣言を受諾するという案を主張しました。米内海相は当然、これに賛成しました。阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の3名は、徹底抗戦を主張しました。戦争終結論が2名、徹底抗戦論が3名です。平沼の態度はあいまいでした。議論は平行線のまま、結論が出ませんでした。議長である鈴木には、決定権はありません。きわどい多数決で受諾案を通してしまえば、陸軍は猛反発し、クーデターは必至となるでしょう。鈴木はここで、老熟の英知を働かせました。

既に午前2時を回っていました。おもむろに鈴木が立ち上がり、語りだしました。「既に長時間にわたり、議論を重ねてまいりました。かくなる上は、まことにもって畏れ多い極みではありますが、陛下の思し召しをうかがい、聖慮をもって、本会議の決定と致したく思います」。そう述べると、鈴木は天皇の方に向きを変えました。徹底抗戦派の阿南が「総理……」と小さな声を発しました。しかし、高齢の鈴木は耳が遠くて聞こえないのか、それとも聞こえないふりをしているのか、そのまま、天皇の前に進み、最敬礼をしました。

 天皇は鈴木に自席に戻るように言い、鈴木が自席に戻ると、天皇は、語り出しました。「もう意見は出尽くしたか。それならば、私の意見を言おう。私は外務大臣の申しているところに同意である。……これ以上、戦争を続けても国民を苦しみに陥れるばかりである。……今日は忍び難いものを忍ばねばならない時と思う」と。国政上、天皇が自身の判断を示いたのは、異例のことでした。この時の模様は、岡田元首相の右腕であった内閣書記官長・迫水久常が詳細に伝えています。(1)

 

天皇の意向を受けた鈴木は、すぐに首相官邸に引き返しました。ここからの手続きが遅れれば、徹底抗戦派に妨害をされかねません。老練な鈴木に手ぬかりはありませんでした。鈴木は前もって待機させてあった閣僚たちを招集し、閣議を行いました。そして、10日の午前4時、ポツダム宣言の受諾が閣議で承認され、正式の国政方針となりました。

 長い一日が終わりました。家に戻った鈴木は、長男の一(はじめ)に次のように語ったといいます。

「国が敗北することと、滅亡することとは違うのだ。その民族に活力さえあれば、荒廃した国土を再建して、立ち直ることもできる。……日本国民は戦争に負けた経験がないから、戦後は大変な混乱に陥るだろうが、わが民族は優秀な素質を持っておる。必ず日本を復興してくれるだろう」

 

日本は連合国に宣言受諾の意思を伝えました。これに対する連合国の回答は、国体護持に明確な保証を与えるものではありませんでした。13日の閣議で阿南陸相は受諾絶対反対を唱えました。鈴木は、再度の御前会議招集を決定しました。「もう二日だけ待ってほしい」との阿南陸相の要望を、鈴木は毅然として断りました。鈴木は次のように語りました。「今を外したら、ソ連が満州、朝鮮、樺太ばかりでなく、北海道にも攻め込んでくるだろう。ドイツ同様に分割されれば、日本の土台が壊れてしまう。相手がアメリカであるうちに、始末をつけねばならんのです」(2)

 8月14日午前10時50分、二度目の御前会議が開かれました。鈴木は宣言受諾反対の者だけに、天皇に意見を陳述する機会を与えました。その後、天皇が静かに口を開きました。「国体問題についていろいろ疑義もあるということであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。……自分は如何になろうとも、万民の生命を助けたい。…この際、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う……」

 これが最終的な決定となりました。天皇の発言をもとに終戦の詔書が作られ、翌8月15日、天皇がラジオで国民に直接呼びかけるという玉音放送がなされました。強硬派の多い陸軍も、阿南陸相が「承詔必謹」の方針を打ち出し、静かに矛を納めました。

 

かくして鈴木首相の、天皇の意向に忠実におうとする至誠の行動によって、わが国は破壊滅亡の淵から救われ、無事終戦を迎えることができたのです。

戦後、わが国は敗戦の痛手から立ち上がり、復興の道を力強く歩みだしました。その3年後、昭和23年4月、鈴木貫太郎は、そんな日本を見守りながら、81年の生涯を閉じました。

 

平和を願い国民を救おうとした天皇と、天皇の御心に応えようと献身した先人たち。そこに、日本人の精神の精華があり、テロや独断専横に走った軍部の行動は、天皇の御心に反し、日本の国柄に背いたものだったのです。私たちは、先人たちの努力に感謝するとともに、先人が子孫にたくした、この日本という国の重みと尊さを、かみしめたいと思うのです。ページの頭へ

 

(1)拙稿「国民を思った終戦の御聖断」をご参照ください。

(2)拙稿「日本は分割占領を避けられた」をご参照ください。

参考資料

        『鈴木貫太郎自伝』(日本図書センター)

        立石優著『鈴木貫太郎』(PHP文庫)

 
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ナチス迎合を神道家が批判〜葦津珍彦

2004.10.16

 

日本の固有の宗教は、神道です。それゆえ、神道には、日本人の心性がよく表れています。神道は「清き明き直心」を理想としています。また闘争的・対立的でなく、共存調和をよしとします。戦後、神道は大きな誤解を受けていましたが、近年こうした神道の本質が正しく理解されるようになってきました。今では、海外でも神道が注目されつつあります。(1)

戦後、神道の評価回復に貢献した人物の一人に、葦津珍彦(あしづ・うずひこ)がいます。

 

葦津は神道の理論家として知られています。彼は生涯、西郷隆盛と頭山満を尊敬しました。西郷隆盛のことは、日本人なら誰でも知っています。内村鑑三が英文の著書『代表的日本人』の第一に書いたのも、西郷でした。西郷は「敬天愛人」の精神を持って、私利私欲を超え、誠をもって公に奉じる生き方を貫きました。(2)

頭山満は、こうした西郷の精神を受け継いだ人物でした。彼は戦前の日本において、国家社会のために生きる在野の巨人として、広く敬愛を受け、「昭和の西郷さん」と呼ばれるほど、国民的な人気があったのです。(3)

葦津珍彦と頭山の縁は深く、葦津の父・耕次郎が大正時代、東京赤坂の霊南坂に住み、隣家の頭山と親交を結んでいたのが始まりです。その関係で、葦津は「少年時代から、頭山先生を絶世の英雄と信じ仰いできた者であって、ひそかに頭山門下をもって自任してきたものである」と書いています。そして、葦津は、頭山を通じて、西郷の「敬天愛人」の精神を、現代に受け継いだ人物でした。

 

さて、戦前の日本は、ヒトラーのドイツ等と軍事同盟を結び、そのため国の進路を大きく誤りました。当時、葦津は、神道家の立場から、親独路線に強く反対しました。ゲルマン民族の優秀性を説き人種差別を行うナチスの思想は、我が国の精神とは相容れないと論じたのです。

葦津は、戦前の我が国の歴史について、著書『明治維新と東洋の解放』にて次のように書いています。

 「大東亜戦争は、文字通りの総力戦であり、日本人のあらゆる力を総動員して戦われた。……日本国をして『東洋における欧州的一新帝国』たらしめたいとの明治以来の征服者的帝国主義の精神が、この大戦の中で猛威を逞しくしたのも事実である。それは同盟国ドイツのゲルマン的世界新秩序論に共感した。しかし日本人の中に、ゲルマン的権力主義に反発し、あくまでも、日本的道義の文化伝統を固執してやまない精神が、根よく生きていたのも事実であった。

日本人の中にあっても、概していえば政府や軍の意識を支配したものが主としてナチス型の精神であり、権力に遠い一般国民の意識の底にひそむものが、日本的道義思想であったということもできるであろう」(4)

 

葦津自身、戦前、政府や軍の親独路線を批判したため弾圧を受け、著書は細かく検閲を受け、発行できなくなりました。(5)

この点は重要です。戦前国策として行われていた神道は戦後、「国家神道」と呼ばれ、「国家神道」が戦争の重要な原因の一つであったと見なされてきました。これは、神道を危険視したアメリカの占領政策の影響です。しかし、事実は大きく異なるのです。葦津のような在野の神道家は、官製の「国家神道」に異を唱え、日本人でありながらナチス思想を模倣するような当時の風潮を断固批判したのです。

葦津は、次のように書いています。「政治家や軍人の中に、いかにナチス流の征服主義の思想が強大であっても、かれらは、ヒトラーのごとくに強者の権利を主張し、征服者の栄光を説いて、それで日本国民の戦意を煽り立てることができなかった。かれらが日本人を戦線に動員するためには、古き由緒ある文明と最高の道義との象徴たる『天皇』の名においてのみ訴えることができた。……天皇の名において訴えるためには、かれらは『征服』の教義ではなくして『解放』の教義を説く以外になかった。しかも日本国民は、その解放の教義を信じ得る限りにおいてのみ、忠勇義烈の戦闘意識を発揮し得た。国民の意識は、天皇の精神的伝統的権威と結びついて、目に見えざる大きな圧力となって、戦時指導者に、間接的ではあるが大きな制約を加えていたことを見失ってはならない」(6)(7)

事実、葦津の言うように、「大東亜戦争で、日本軍の影響の及んだところでは、インド、ビルマ、マライ、インドネシア、ベトナム、フィリピン、どこででも人種平等の『独立と解放』が大義名分とされた」のでした。ナチス流の反ユダヤ主義、人種主義は、日本では到底通用し得なかったのです。

 

神道家・葦津の大戦に対する反省は、真摯かつ率直です。

「われわれは、日本軍が純粋に利他的に解放者としてのみ働いたなどというつもりは全くない。日本軍の意識の中には、征服者的なものも秘められてもたであろうし、その行動には、専横で圧迫的な要素もあった。しかしそれと同時に、解放者としての使命感と解放者としての行動もあった。その二つの潮流が相合流していた。そこに歴史の真相がある。その征服者的な日本の側面については、東京裁判以来、あまりにも多くのことが誇張的にいわれており、しかも解放者的な側面については、ほとんど無視され否定されているのが現状である」と葦津は書いています。

 また、葦津は続けます。「日本帝国が掲げた『大東亜共栄圏』の精神は、いかなるものであったか。そこに日本人の侵略的植民地主義の影がなかったとはいいがたい。東洋における欧州的一新帝国を目標として成長して来た日本の政府や軍の体質の中には、それは当然に強力に存在するものであった。だがそれと同時に日本民族の中に営々として流れた日本的道義の意識、アジア解放の悲願の存在したことも無視してはならない。そこには清くして高きものと、濁り低きものとが相錯綜し激突しながら流れて行った」と。(8)

 

戦前の我が国の指導層は、西洋思想の影響を受け、ナチス・ファッショを模倣して、日本人本来の在り方を見失いました。しかし、国民の多くは、善良な日本人の心を保っていたのです。そこには、「清き明き直心」を理想とし、共存調和をよしとする神道的な精神が脈打っていたのです。

私たちは、奢(おご)ることも、また卑下することもなく、自国の歴史・文化・伝統を、広い視野をもってとらえる必要があるでしょう。

 

そして、さらに日本的な精神の真髄を学びたいと願う人々には、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の教えに触れることを、強くお勧めします。大塚総裁は戦前、戦争回避・不戦必勝を説く建白書を、昭和14年9月から昭和20年の終戦間際まで、時の指導層に対し、毎回千余通送られました。戦後、大塚総裁は、国民大衆に神の道を広め、真の世界平和の実現をめざす運動を、行ってきました。それが、「明けゆく世界運動」です。大塚総裁の教えを知ることによって、真の日本精神・神の道を学ぶことができます。(9)

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(1)神道に注目・期待する外国人については、以下の拙稿をご参照ください。

20世紀の知の巨人達が神道に感動

(2)拙稿「大西郷の生き方(1)〜公と私」「(2)〜天と道」をご参照ください。

(3)拙稿「ネルーは愛国者・頭山満に感謝した」をご参照ください。

(4)葦津珍彦著『明治維新と東洋の解放』(皇学館大学出版部)

(5)同上『神道的日本民族論』(絶版)

(6)同上『明治維新と東洋の解放』(皇学館大学出版部)

(7)昭和天皇は三国同盟に反対し、日米開戦を避けようとしました。以下の拙稿をご参照ください。

独伊との同盟に反対」「開戦を止め得なかったのは

(8) 葦津珍彦著『明治維新と東洋の解放』(皇学館大学出版部)

(9)拙稿「大東亜戦争は戦う必要がなかった」をご参照ください。

 
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天皇を補佐する者の役割と責任とは

2004.4.15

 

戦前、昭和天皇は、シナ問題の拡大を憂慮し、その早期解決を望みました。日独防共協定・三国同盟には内心賛成せず、対米英戦争の回避を最後まで強く願いました。そして、大東亜戦争の開戦後は、緒戦の勝利に惑うことなく早期講和の方策を考えました。国家指導層の多くは、こうした天皇の御心に反して、日本を誤った方向に導いてしまったのです。

日本の指導層及び国民は、どのようにあるべきだったのでしょうか。元亜細亜大学教授・小田村寅二郎氏は、示唆に富んだ意見を述べています。「天皇に対する輔弼(ほひつ)とは」という氏の所論から紹介します。

 

戦前の我が国では、大日本帝国憲法の下、天皇は軍を統帥する統帥大権(註1)、さらに立法、司法、行政の三権分立制度を統括する政治大権の双方を持っていました。小田村氏は、この点について次のように述べています。

「大日本帝国憲法のそれらの諸規定が有効、適切に機能を発揮するためには、何よりも大切な必須条件がありました。具体的に申しますと、統帥大権を補佐申し上げる軍令部総長、参謀総長の輔弼の責任をはじめ、内閣その他様々な角度から天皇政治を補佐申し上げる側の人々に、臣下として天皇に忠誠を尽し、真心をもって天皇様をお助け申し上げなければならない重大な輔弼の責任があったのであります。

ここのところが、大日本帝国憲法における最も重要な骨組みでありました。ところが、事実を調べてみますと、この点において、十分に輔弼の責任を果たし得ていないことが数多くあったことに気付いてきます。これは重大な歴史的事実でありまして、それがいっこうに是正されぬままに、あるいは、さらに一層深刻にマイナス面が深まっていくままに、天皇様は御年を重ねて遂に敗戦時に至られたのであります」

このように小田村氏は、帝国憲法の下において天皇を補佐すべき者に責任があったと指摘します。

 

さて、明治時代、日清・日露戦争で活躍した帝国陸海軍は、大正、昭和を経て非常に問題のある軍部になってしまいました。作家の司馬遼太郎氏は、生涯この原因を問いつづけました。小田村氏は、軍部が変化した原因について次のように記しています。

「満州事変、上海事変、2・26事件、支那事変と推移していく間に、軍ことに陸軍部内ではいつしか、下克上と申しますか、下の者が勢力を得て、上の者たちを自分たちの思うとおりに動かすという傾向が一層深まってきます。中堅幹部将校があらゆることに口を出し、陛下を輔弼申し上げる高位高官が中堅将校の傀儡(かいらい)的存在となっていったのであります。

 かかることが万一にも起きてはならないというのが明治天皇様の深いご配慮であられたために、明治15年、『軍人勅諭』が下付されております。この『軍人勅諭』を日夜奉読することによって、一兵卒から将軍に至るまでの全軍人が拳拳服膺(けんけんふくよう)しながら軍務に精励していた時の軍と、この『軍人勅諭』をうつろに読むだけで、心に味わうことを怠りだした時の軍部とは、自(おの)からそこに内的変質が発生していたと思います」と。

 小田村氏は続いて次のように述べます。

 「しかも昭和16年、時の陸軍大臣東條英機大将の名で、全陸軍に『戦陣訓』というものが出されました。(略)『戦陣訓』の下付によって『軍人勅諭』への関心が自然に低下していったことは申すまでもありません。敗戦の責任は軍部にあるという言い方はその通りだと思いますけれども、時の軍部が『軍人勅諭』に従うことを好い加減にしていたところに、軍部の腐敗、堕落があったということを併せて指摘しなければ、軍部に責任があるということを言っているだけでは意味をなさないと思います」

 このように小田村氏は、軍部の責任とその原因を指摘しています。

 

小田村氏は、次に政治家・官僚・学者等の指導層全般について言及します。

「大日本帝国憲法の規定する条章の精神の中には、内閣は毅然として政治に携わることを、定めております。即ち、天皇に対して、輔弼の責めを持つという表現用語によって、そのことが明示されているのであります。もしその通りに実行するとすれば、誤れる軍人に対して、これを正すのが政治家の責務だと思います。その任務を果たした人もいます。しかし、大勢はそれができなかった、あるいはする意志も持ち合わせていなかったのです」

氏によると、「先の大戦の原因は、軍人、政治家、役人、そして、それらの誤りを正すべき最後の切り札である学者、総じて日本の指導者層の全てに、それぞれの分野における臣下としての責務に怠慢、さらに責任の回避、承詔必謹の精神の欠落等のあること」でした。「陛下の大御心を憶念し奉り、大御心を安んじ奉ることこそが、天皇を輔弼申し上げる臣下の重大な責務」でしたが「それを感じる者乏しく、またその志ある者も衆寡敵せず」という状態だったと、小田村氏は指摘します。

「大日本帝国憲法下に運営されていた日本の素晴らしいシステムが機能するには、忠誠心という重大な精神的ファクターを要求していた。それが摩滅し希薄化していく時には、素晴らしいシステムも機能を発揮しなくなるのはもとよりであります」

小田村氏の所論は、大略、以上の通りです。

 

昭和天皇は、終戦の御聖断、戦後のマッカーサー会見、全国御巡幸等において、こうした国家指導層すべての責任を一身に担って、国家と国民を救おうとしました。しかし、戦後の我が国民は、そうした過去を忘れています。そして、戦前に比べるべくもないほど、日本人の道徳や責任感は低下してきています。小田村氏の言葉は、国民統合の中心を見失ったまま、国家溶解の危機にある今日の日本人に対しても、反省と覚醒を促す言葉として響くのではないでしょうか。ページの頭へ

 

(1) 統帥大権=軍隊の最高指揮権。帝国憲法下では、天皇の大権の一つとされ、政府や議会等から独立して、発動には陸軍参謀本部・海軍軍令部が参与した。

参考資料

     小田村寅二郎著『天皇に対する輔弼とは』(『聖帝〔ひじりのみかど〕 昭和天皇をあおぐ』明成社  所収)

 
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■アメリカ人も太平洋戦争を反省する

2001.5.9

 

 今日、大東亜戦争(太平洋戦争)は、日本の侵略戦争だったと考えている人が多くいます。しかし、歴史というものは、そう簡単には言い切れないところがあります。

 

 ノンフィクション作家ジョン・トーランドは、『大日本帝国の興亡』(毎日新聞社)の中で次のように書いています。同書は、ピューリッツアー賞に輝いた名著です。

 「日本の満州奪取と北支(註 中国北部)への侵攻に対して、アメリカがさらに激しい言葉を用いて日本を弾劾するようになると、両国の溝はいっそう深まった。……なぜアメリカはモンロー主義の存在が許されるのに、アジアに対して門戸開放の原則を強制しようとするのか? 日本が匪賊の跋扈(ばっこ)する満州に乗り出すことは、アメリカがカリブ海に武力介入するのと、なんら変わらないではないか。……イギリスやオランダが、インドや香港、シンガポールおよび東インド諸島を領有することは、これを完全に認めることができるが、日本が彼らのまねをしようとすれば、罪悪であると糾弾する根拠はどこにあるのか? なぜインディアンに対して術策を弄し、酒を使い、虐殺をして土地を奪ったアメリカ人が、日本人が中国で同じことをしたからといって、指をさすことができるであろうか」

 トーランドはここでアーノルド・トインビーの次の言葉を引用しています。

 「日本の満州に対する経済進出は、日本が国際社会で存立してゆくのに不可欠であったので、けっして貪欲な行為とはいえない。……国民党に率いられる中国と、ソ連と、太平洋にあった人種偏見の強い英語国民(アメリカ)が日本を圧迫すると、日本の国際的地位は再び危ういものとなった」

 

 戦前のアメリカで、日本について最もよく知っていたといわれる人物が、ヘレン・ミアーズです。ミアーズは日本に滞在したことがあり、実際の日本を知っていました。彼女は、戦後間もなく『アメリカの鏡・日本』(メディアファクトリー)という本を書きました。この本は、マッカーサー( 1)によって、発禁処分にされました。わが国の占領期間中は、禁書とされたのです。

 この本でミアーズは、戦前の日本がアジア地域で行ったことを、侵略であるとは決めつけていません。日本よりもむしろ欧米列強の方が、よほど大規模な植民地政策や拡張主義、奴隷搾取主義をとっていたと指摘しています。

 ミアーズは、「アメリカは日本を裁くほど公正でも潔白でもない」と書いています。そして、「日本の指導部が満州と中国における行動を説明するのに使っている言葉と、今日私たち(アメリカ人)の政策立案者、著名な評論家がアメリカの政策を説明するのに使っている言葉は、まったく同じなのだ」とも。『アメリカの鏡・日本』という題名の含意が伺われましょう。

 

 アメリカは日本を打ち負かしました。しかしその結果、中国は共産化し、ソ連は勢力を拡大してしまいました。戦後、アメリカはソ連を封じ込めようと強力な反共政策を推進しました。その中心となったジョージ・F・ケナンは、それまでのアメリカの対日政策を批判しました。アメリカは戦前、日本に対し、中国や満州における権益を放棄させようと、極めて厳しい要求をしました。ケナンはその点について『アメリカ外交50年』という講演録で、次のように述べています。

 「これを字義通りにまた型破りな仕方で適用しようとすれば、それは外人一般が中国における居住および活動を完全に破棄することを、意味するだけだっただろう」「長年にわたって、我々が要求していることが、日本の国内問題の見地からみていかに重要な意義をもっているかについて、我々は考慮を払う事を拒んできた。…我々の要求が特に敏感な部分に触れて、日本人の感情を傷付けたとしても、それは我々にはほとんど影響を持たなかった」「我々は十年一日のごとく、アジア大陸における他の列強なかんずく日本に向かって嫌がらせをした」

 彼はこうした米国外交が、日本を戦争に追いやり、共産主義を増強させるはめになったと、米国の政策を批判したのです。

 

 アメリカ人のなかにもこういう意見があることを知ると、大東亜戦争が単純に日本の侵略戦争だったとはいえない、複雑な性格をもっていることがわかるでしょう。ページの頭へ

 

(1) マッカーサーはその後、「日本が始めた戦争は主として安全保障のためだった」と米国議会上院の軍事外交合同委員会で証言しています。次の拙稿をご参照下さい。

マッカーサー証言をTV放送し学校で教えよう

 
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日本の戦争をマレーシアから見る

 

 日本にとって、第二次世界大戦は、戦う必要のない戦争であり、戦えば負けることは最初から明らかでした。しかし、大東亜戦争と呼ばれたこの戦争が、結果として、アジア諸民族の独立に寄与したことも、歴史的な事実です。私たちは、この戦争を様々な角度から総合的に見る必要があります。そのための一つの視点として、東南アジアの人々の見方をご紹介します。

 

 マレーシアは、かつてイギリスの植民地でした。イギリスは、マレーシアを支配するために、インド人、中国人を移民させて複合民族化し、分割統治を行って、非人間的な収奪をしていました。マレーシアではゴム園や錫鉱山で使役したマレー人に、イギリスはマラリアの特効薬だとして阿片を売りつづけました。阿片販売はジュネーブ協定違反ですが、イギリスはこの協定はアジアに適用されないとして、日本軍に追い払われるまでやめませんでした。植民地体制を打ち破る切掛けを作ったのは、日本でした。それまで、マレーシアの人々にとって、白人は絶対に逆らうことのできない支配者でした。しかし、同じ有色人種の日本軍は、英国軍と戦って破り、マレーシアの人々に独立をめざす勇気を与えたのでした。そして、マレーシアは、1957年に独立を勝ち得たのです。

 

 このことに対し、マレーシアの人々はどのように考えているのでしょうか。例えば、ピン・モハマッド・ナクラ氏(近代史研究家)は「神と見えた白人がアジアの軍隊に負けたので、独立は我々の力で達成できると感じた」と語っています。そして、日本最初の上陸地コタバルには、ケランタン州政府によって、日本軍の勝利を記念する戦争博物館が建設されているのです。

 ガザリー・シャフェー外相(当時)は、昭和63年9月、先の大戦について詫びる日本の政治家を批判して、次のように語りました。「とくに私が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。『その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか? 日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。そのアジア人のことかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか』と」

 

 最後に、マレーシアのリーダーとして、「ルック・イースト政策」を推進してマレーシアを発展に導いたマハティール首相は、どうでしょうか。マハティールは、「東アジア諸国だけで経済問題を討議する組織をつくろう」という東アジア経済協議体(EAEC)構想を打ち上げるなど、アジアの立場から堂々と発言してきた指導者です。そのマハティールは、日本の最大の功績として、白人と対等に口をきけるようにしてくれたことを挙げています。平成7年、村山富市首相がマレーシアを訪問し、謝罪外交を行ったときには、マハティール首相は、次のように語りました。

 「日本がいつまでも過去の戦争について謝り続けているのはおかしい。日本のかつての戦争に関する責任を問うならば、アジアを長きにわたって植民地化し非人間的な収奪と支配を続けた欧米の宗主国の責任はどうなるのか」と。

 マハティールの発言は、かつて東京裁判で日本を一方的に裁いた欧米人の間に、大きな反響を引き起こしました。しかし、彼らからは、反省や謝罪の声はほとんど現れませんでした。

日本は、マレーシアが、イギリスの苛酷な統治から独立したことに大きな貢献をしたと、感謝されているのです。

 

 私たちは、アジアには日本を評価する見方があることを踏まえて、大東亜戦争を様々な角度から見てゆく必要があるでしょう。ページの頭へ

 

参考資料

・名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』(展転社)

 
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日本人はインドネシア独立に協力した

 

 大東亜戦争は無謀な戦いであり、敗れるべくして敗れました。しかし、その中において、アジアの解放を目指して、アジア民族のために尽くした日本人がいたことを、忘れてはならないでしょう。

 

 インドネシアは、現在、ASEANのメンバーとしてめざましい発展を遂げています。しかし、この国は、17世紀以来、3世紀半にわたって、オランダの過酷な植民地支配を受けていました。独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種がやってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでにインドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれました。

 その予言は、昭和17年3月1日に実現しました。日本軍が総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を行ったからです。わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏しました。予言を信じた人々が、積極的に日本軍に協力したからです。

 

 オランダ支配下では、強制労働が行われ、オランダ語が強制され、政治的には分割統治が行われ、愚民扱いの政策が行われ、人々には政治参加の機会が与えられませんでした。独立運動は弾圧され、独立旗(メラプティ)・ 独立歌(インドネシア・ラヤ)は禁止され、インドネシア人には軍事能力を絶対に与えない政策がされていました。

 

後に大統領になるスカルノやハッタは、独立運動の指導者として活動していました。彼らの情熱は、第16軍の今村均中将を感動させました。今村は、彼らの運動を支援しました。「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」というのが、今村の信念でした。

 また、日本は、ペタと呼ばれる祖国防衛義勇軍を組織して訓練し、3万5千の将校・兵士を育成しました。このペタが独立戦争で活躍するようになったのです。

 

ペタ出身の元大将スミトロ氏は、日本軍政の三年半は「インドネシア独立のアクセルとなった」と語っています。また、チョクロプラノロ氏(元ジャカルタ州知事)は、日本がインドネシア人にインドネシア語を使うように教育したことにより、「感情の統一、行動の統一、民族の統一がなされ、独立にとっての力を発揮することができた」と語っています。ケマル・イドリス氏(ペタ出身)も「独立戦争の基本となった軍事能力を与えてくれた」とも語っているのです。

 

 日本は、オランダとは異なり、インドネシアを一つの地域として認め、中央参議院・州参議会を設置して、インドネシア人に政治参加の機会を与えました。約300もの多数の言語に分かれているインドネシア人のために国語(インドネシア語)を整備して教育し、教員学校・職業学校も設立しました。インドネシア・ラヤのラジオ放送を行い、将来の独立を承認して、最終的には独立旗・独立歌を承認しました。こうした政策は、白人が有色人種を支配した政策とは、全く違う日本独自の政策だったのです。

 

 日本が敗戦を迎えた昭和20年8月15日の2日後、スカルノとハッタは独立宣言を発し、翌日、インドネシア共和国憲法を採択しました。しかし、イギリスとオランダは植民地の復活を狙い、独立運動を阻止しようとしました。インドネシア側には、戦いのために武器が必要でした。群衆が武器を要求して、日本軍の施設を襲う事件が起きた時、日本軍は「撃つな、指導者と話し合え」と厳命を下しました。そのため、暴徒に殺された日本人もいました。「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、その血文字は、今も人々に多大の感銘を与えています。

 日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力する動きが現れました。そして、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡されました。自らインドネシア軍に身を投じた日本人も多くいました。たとえば、その一人青木政四郎曹長は、オランダ軍が千ギルダーもの懸賞金をかけるほどの勇士で、戦闘に慣れないインドネシア人を率いて指揮をしました。青木は「民家のものは決して奪うな。日本人でも女を襲ったり物品を略奪したら撃ち殺す」という厳しい規律を貫き、厚い信頼を受けました。

 

 オランダとの独立戦争は昭和24年12月まで、4年5ヶ月も続きました。インドネシア側の死者は80万人にも及んだといわれますが、民衆は粘り強く抵抗を続けました。インドを始めとするアジア諸国はオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行いました。国際世論に押されたオランダは、遂に植民地の回復を諦めざるをえなくなり、インドネシアは白人の支配から独立を勝ち取ったのです。

 日本の敗戦後、現地に残留し、インドネシア独立義勇軍に身を投じた人々は約2千人、そのうち約千人が戦死等で亡くなったと推定されています。首都ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地には、独立戦争で特別な功労を立てて戦死した人々が祀られています。この中には11名の日本人が英雄として手厚く葬られています。

 

 独立戦争の生き証人である宮本静雄氏(元16軍陸軍参謀)は、「敗戦後、インドネシア人に密かに武器を渡す方法を考えた。軍隊を街に残すと、インドネシア人との衝突が起こるので、軍隊を武装解除して山に入れて軍属や邦人を街に残し、インドネシア人との衝突を避けて密かに武器を渡すことに成功した」と語っています。また、小野盛氏(元16軍陸軍指令部参謀部勤務)は、「約2千人の日本人が独立戦争に参加したが、その内約千人が戦死した。何故これだけの戦死者がいるかと言うと、日本人は指揮官として第一線で戦ったからである」と語っています。

 

 平成3年、海部俊樹首相がASEAN諸国を謝罪して回りました。この時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は、語りました。「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った海部演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。海部さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、アジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」と。

 

 誤った戦争であったとはいえ、大東亜戦争において、アジア解放の理想のために尽くした立派な日本人がいたことを、私たちは忘れてはなりません。そして、アジアの立場に立った歴史の視点をしっかり持っていきたいものです。

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参考資料:

・田中正明著『アジア独立への道』(展転社)

・名越ニ荒之助著『日韓2000年の真実』(ジュピター出版)

・『祖国と青年』平成6年2月号(日本青年協議会)

        インドネシア独立を描いた「ムルデカ17805」という映画があります。詳しくは、以下の拙稿をご参照下さい。

『ムルデカ17805』を推す

 
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インドの独立にも日本人が貢献

 

 大東亜戦争は戦う必要のない、無謀な戦いでした。しかし、そのなかで、アジアの解放を目指し、アジア民族のために尽くした日本人がいたことを、私たちは記憶にとどめるべきでしょう。

 今や世界最大の民主主義国といわれるインド。その国が、長い英国の支配から独立できた陰には、日本人の協力があったと今もインドの人々から感謝されています。

 

 藤原岩市少佐は、昭和16年9月、日米交渉が難航し、米英との戦争が避けがたい状況に陥った時、特務命令を受けました。命令は、マレー半島の英国軍の中核をなすインド兵に対して、投降工作を行い、インド独立の基盤をつくることでした。彼が率いる特務機関は、「F機関(藤原機関)」と呼ばれました。

 12月8日、大東亜戦争が開戦されるや、日本軍は破竹の勢いでマレー半島を南下しました。そこに英国軍の一大隊が、退路を断たれ、孤立しているとの情報が入りました。英国人は大隊長だけで、中隊長以下は、すべてインド人でした。

 この時、藤原少佐は一切武器を持たずに、この大隊を訪れました。そして、大隊長と会って全隊を投降させることに成功しました。少佐は、約200名のインド人投降兵の身柄を預かりました。この中に、後にインド国民軍を創設したモハン・シン大尉がいたのでした。

 

 英国人はインド人を奴隷視・家畜視し、彼らと食事を共にすることなどありませんでした。しかし、藤原少佐は、インド兵たちとともに、インド料理を手づかみで食べました。これには、インド人もビックリ。日本人は、彼らを同じ人間として扱ったのです。彼らの心をつかんだ藤原少佐は、モハン・シン大尉を説得しました。この戦争こそ欧米の支配からアジアが独立する絶好の機会だ、インド人自身によるインド国民軍を創設すべきだ、と。

 昭和16年12月末に発足したインド国民軍は、各地で英国軍内のインド兵を説得して、増員していきました。シンガポール陥落時には、数万人規模にもなりました。

 

 インド独立の志士スバス・チャンドラ・ボースは、当時、弾圧を逃れてドイツにいました。機を見たボースは18年5月、日本政府からインド独立への支援の約束をとりつけ、シンガポールに入りました。そして、インド国民軍総帥の地位につき、自由インド仮政府を樹立して、英米に宣戦布告を発しました。

 激戦で名高いインパール作戦は、ボースにとって、すべてをかけた戦いでした。「チャロー・デリー!」(征、デリーへ)が合い言葉でした。北ビルマからインド東部に進攻し、国内の独立活動を活発化させて、英国の支配者を駆逐しようとしました。しかし、結果は大惨敗。死者は3万人にものぼり、インド国民軍も8千人の犠牲者を出しました。彼我数倍の兵力差と雨期にたたられ、物資補給が途絶えたことが、主な敗因でした。しかし、インパール作戦は、これをきっかけに、インド独立の気運が高まった歴史的な戦いでした。

 

 昭和20年8月の日本敗戦の後、英国はインド国民軍の約2万名を、反逆罪で軍事裁判にかけようとしました。しかし、ガンジー、ネルーらの国民会議派は、「インド国民軍将兵は、インド独立のために戦った愛国者である」と反発し、反英運動を繰り広げました。そして2年間にわたる弾圧をはね返し、インド人は自らの手で独立を勝ち取ったのです。

 

 戦後インドは、日本に対して大変友好的な態度を取っています。インド政府は戦争賠償の請求を放棄し、また東京裁判ではインド代表パール判事が「日本無罪論」を唱えました。パール判事を日本に送ったネルー首相は、日本が独立を回復すると、日本の国連加入を支援してくれました。(1)

 

インド独立の道を切り開いた藤原少佐らは、「インドの独立は、日本のお陰で30年早まった」と、インドの人々から感謝されています。その感謝は、現在も絶えることがありません。平成10年(1998)、インド国民軍(INA)全国委員会は、靖国神社に感謝状を奉納しました。そこには「インド国民は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本帝国陸軍によってもたらされました。ここに日印両国の絆がいっそう強められることを祈念します」と書かれてあります。(2)

私たちは、誤った戦争であったとはいえ、大東亜戦争において、被抑圧民族のために尽くした日本人がいたことを心に留め、英霊の安らかならんことを祈りたいと思います。

 

インドは、世界で最も親日的な国の一つです。それはインド独立のために尽くした日本人がいたからです。インドは、IT革命の先端を行き、21世紀中半には経済力で中国を抜くかもしれないというほどの潜在力を持っています。反日的な政策をとる国のことばかり意識するのでなく、日本を愛し、日本に感謝している国々を大切にし、関係を深めていくという外交も必要でしょう。

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(1)パール博士、ネルー首相については、以下の拙稿をご参照下さい。

パール博士の『日本無罪論』

ネルーは愛国者・頭山満に感謝した

(2) 加瀬英明著『日本は国の柱を取り戻せ』(『漁火』平成12年10月1日号 経営者漁火会)

参考資料

・西岡香織著『アジアの独立と大東亜戦争』(芙蓉書房出版)

 
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