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日本の心  自然

 

題 目

目 次

■01 米と森と命〜天皇と日本のエコロジー

■02 エコロジーの心〜「天地父母」

■03 生かされていることへの感謝

■04 米が育んだ「和」の精神

■05 米と日本の祭り

■06 米作りと日本人のオリジナリティ

■07 米と理想的な食文化

■08 米は食糧問題を解決する

■09 米は地球環境を守る

10 地球環境保全のヒントとなる江戸日本

11 江戸日本文明のエコロジー

■12 東京が世界に誇る「都心の森」

■13 木のいのち、人の心〜西岡常一

■14 生物の世界は共存共栄〜今西錦司

 

※別掲「米と皇室と日本人

※別掲「地球温暖化〜“不都合な真実”を知ったら

和の精神

国柄

君と民

日の丸 

君が代

人物

武士道

歴史

文明と倫理

自然

世界の声

 

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エコロジーの心〜「天地父母」

2003.1.31

 

現代の私たちに比べ、私たちの先祖は、自然をもっと身近なものと感じていました。先祖は、自然を自分の親のようなものだと考えていたようです。儒教の経典にある「天地父母」という言葉は、そのことを表す言葉です。天とは天空、地とは大地です。宇宙と地球といってもいいでしょう。その天を「父」、地を「母」と呼び、天地大自然とは人間の親のようなものだとするのが「天地父母」という言葉です。この考え方には、現代人が見失った自然観・生命観が見られるのです。

「天地父母」について、江戸時代の思想家・貝原益軒は、次のように説いています。

 

 「およそ人となれる者は、父母これを生めりといえども、其の本をたづぬれば、天地の生理を受けて生る。故に天下の人は皆天地の生み給子なれば、天地を以て大父母と。尚書にも天地は万物の父母と言へり。父母はまことにわが父母なり。天地は天下万民の大父母なり。其上生れて後、父母の養を得て成長し、君恩を受けて身を養ふも、其本をたづねれば、皆天地の物を用ひて食とし、衣とし、器として身を養

 故におよそ人となれる者は、初めて天地の生理をうけて生まるるのみならず、生れて後、身を終るまで、天地の養を受けて身を保てり。然れば人は万物にすぐれて、天地の窮りなき大恩を受けたり

すなわち、人間は、父母から生まれたものだが、そのもとを考えると、天地大自然から生まれている。だから、人はみな天地の子であり、天地は実際の父母に対して大父母なのだ。人間は生まれてから、親に養ってもらって成長し、主君や天皇の恩を受けて生活しているが、そのもとを考えると、人はみな、衣食住すべて自然のものを用いて生活している。だから、人間は、天地大自然の恵みを受けて生まれるだけでなく、生まれてから死ぬまで、天地大自然の限りない恩恵を受けている、と益軒はいうのです。

また、次のように述べています。

 

 「ここを以て人の務めて為すべきことわざは、わが父母につかへて力を尽すは言ふに及ばず、一生の間常に天地に事へ奉り、其大恩を報じ奉らんことを思ふべし。……

 すべて父母の家に居ては、父母に専に孝を尽し、君に仕へては君に専に忠を尽す如く、天地の中に在りては、天地に事へ奉り仁を尽すべし」

すなわち、人間は、父母の恩に報いるだけでなく、天地の恵みに対しても一生、報いていかねばならない。父母に孝行し、主君や天皇に忠義を尽くすように、天地大自然に対しては仁愛を尽くすべきであると、益軒は説いています。

 

人間は天地大自然によって生かされていることを感謝し、その恩に報いるのが人として為すべき務めだと、益軒はいいます。そして、天地大自然に対するときに大切なものが、「仁」だと、益軒は説いています。

 

「万物をはれむを仁と言。仁とはあはれみの心なり。是天地の御心に従ひて天地に事へ奉る道なり。人倫のうち親を親しみ、次に万民を憐み、次に鳥獣およそ生けるものをそこなはず、是天地の御心に従ひて仁を行ふ序なり」

 「仁」とは、あわれみの心だと益軒は言います。「仁」は、現代的に「愛」という言葉に置き換えてもよいでしょう。親から始まってすべての人に愛情をもつこと、次にすべての生き物に対して愛情をもつこと、それが天地大自然に従うことだ、と益軒はいうわけです。ここには一般的なエコロジー(自然科学的生態学)より、もっと深いエコロジーがあると言えましょう。(1)

 

 益軒の言葉をもって反省してみると、今日の人間が、母なる地球の環境を破壊し、多くの種(=「生けるもの」)を絶滅に追いやっていることは、道に反したこととなります。自然の破壊・種の絶滅は、人間同士が、親殺し・子捨て・いじめなどをしていることと、根は同じ現象でしょう。ともに自然の法則から外れた人間の狂った行動だからです。

 逆に、「天地父母」という考え方を取り戻すならば、私たちは、もっと自然にそった行動ができるようになります。今日のエコロジーもまた、もっと自然と深く結びついたものとなるでしょう。また、より健康な生き方ができるようになるでしょう。(2)

 私たちの祖先がもっていた「天地父母」という考え方、そこに表れた「人と人」「人と自然」が一つに結ばれた日本精神を取り戻したいものです。ページの頭へ

 

(1)「深いエコロジー」については、以下をご参照下さい。

拙稿「心の近代化”と新しい精神文化の興隆」の第3章(7)「エコロジーの根底を深く問う」以下の部分

(2)健康な生き方については、次の項目をお読み下さい。

拙稿「生かされていることへの感謝

参考資料

    『日本の名著14 貝原益軒』(中央公論新社)

 

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■生かされていることへの感謝

2003.2.14

 

私たちは、誰もが健康を願います。健康な生活をするためには、自分の身体を大切にすることが必要です。これは自明のことですが、昔の日本人、私たちの先祖は、自分の身体を単に自分の体だとは考えませんでした。どういうことかというと、自分の身体は、親からもらった身体だ、だから大切にしなければならないと考えたのです。

 

「身体髪膚(しんたいはっぷ)之(こ)れを父母(ふぼ)に享(う)く。敢(あ)えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり」という言葉があります。儒教の古典『孝経』にある言葉です。私たちの身体は、髪の毛から皮膚に至るまで、すべて、両親から譲り受けたものだ。この大切な身体を傷つけることのないように生活することは、親孝行の第一歩であるという意味です。(1)

 

こういう考え方は、現代の私たちには思いもつかない考え方です。しかし実際、明治生まれくらいまでの人、私たちの祖父や曽祖父の世代は、自分の身体は父母から与えられた体だと考えていました。親が死んだ後も、自分の体は父母が残してくれた体だと考えました。父母は死んでも、自分の身体として生き続けている。それゆえ、自己の身体は、父母の尊体でもある。だから大切にしなければならないと考えたのです。そこには、親への感謝の思いがありました。また、生命への確かな実感がありました。つまり、生命とは、親から与えられ、自分を通じて、子孫へと受け渡していくものという実感です。過去・現在・未来と、世代をつらぬく生命の連続性と一体性を、ちょっと前までの日本人は、私たちよりずっと深くとらえていたわけです。

 

私たちの先祖はまた、自分の生命は、大自然の恵みによって生かされている生命だとも考えました。私たちは、自然というと、自分の身体の外にあるものと考えがちですが、実は最も身近な自然とは、自分の身体そのものです。そして、この身体は自然つまり環境と切り離すことはできません。身体と環境は、それら全体で、一つの自然です。私たちは、大自然の中の一部として、その自然の恵みを受けて、生きているのです。実際、私たちは、空気や水や光や食物なくしては、生きていけません。私たちの先祖は、こういうことを深く感じ、大自然に対し、感謝の思いを持って生活していました。

 

このあたりのことを、江戸時代の思想家・貝原益軒は、次のように記しています。

 「人の身は父母を本とし天地を初と。天地父母のめぐみをうけて生まれ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの(御賜物)、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。是天地父母につかへ奉る孝の本也。身を失ひては、仕ふべきやうなし」(『養生訓』巻第一・総論上)

すなわち、人間の体は父母を本として生まれたが、生命の起源は天地大自然という大父母にある。自分の体は、親である父母によって生み育てられ、また大親である天地大自然の恵みを受けて養われたものだ。自分の体のようであって、自分の私物ではない。天地大自然から賜った物だ。また父母が残してくれた体だ。だから、健康に気をつけて、生活を慎み、体を粗末にせず、長生きできるよう努めなければならない。これが、父母や天地に孝行する根本だ。自分の体を損ない、健康を失ったら、自分の両親にも天地大自然にも報いることもできないのだ。このように、益軒は説くのです。益軒の書は、江戸時代広く庶民の間に読まれました。庶民が感じていることが納得できる形で書いてあったからでしょう。

 

確かに、私たちの生命は、両親から与えられ、大自然によって生かされている生命です。ですから、昔の日本人が、親さらには先祖への感謝と、大自然への感謝をもって生きていたということは、人間の本質に根ざした感情であったわけです。そして、生命を与えてくれたことを、親や先祖に感謝し、健康に気をつけ、子孫の繁栄に努めることは、親孝行であり、また先祖への孝養となります。さらにそれだけでなく、大自然の恵みに感謝し、自然環境を大切にすることは、大自然の恩に報いることともなります。そして、益軒によれば、健康な生き方をすることは、単に自分のためではなく、親や先祖や大自然に恩返しをするために必要な、積極的行動であるわけです。

大自然というのではわかりにくい人は、神と呼ぶとわかりやすいでしょう。神とは、生命の源であり、実の両親を超えた大親のようなものを人格化して、神と呼んでいるのだからです。

 

さて、上記のように見てくると、私たち現代人は、健康で有意義な生活を送るために、昔の日本人に学ぶ必要があることに思いいたります。また、地球の自然環境を保全するためにも、大いに学ぶ必要があることもわかります。そして、私たちが最も学ぶべきものとは、「生かされていることへの感謝の心」です。これこそ、西洋化・近代化した後の日本人が忘れているものであり、自然の中に生きる人間として取り戻すべき、最も大切な、根源的な感情ではないでしょうか。

「日本の心」を学ぶとは、「生かされていることへの感謝の心」をよみがえらせることでもあります。また、それは、私たちの先祖が持っていた「天地父母のエコロジー」を、現代において実践することにもなります。そして、人間が、健康な生き方をし、また自然環境を保全し、自然と調和した文明を創るうえでも、今日、まさに必要なことなのです。 (2)

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(1) 『孝経」は、孔子が弟子の曽子のために、孝の大切なことを教えた本であると伝えられる。四書五経には入らないが、大変重要な本とされてきた。

(2)拙稿「エコロジーの心〜天地父母」をご参照下さい。

参考資料

・貝原益軒著『養生訓・和俗童子訓』(岩波文庫)

 

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米が育んだ「和」の精神

 

 健康な生き方をし、自然と調和した文明をめざすには、どういう食糧を、どのようにして作るかということが、重要になってきます。そこで、私たちの主食である米の問題について考えてみましょう。

 

 日本人は、米を作り、米を食べてきました。日本人の生き方、また日本文明は、米抜きでは考えることができません。日本人の民族性、祭、生活様式、芸能等の多くが、米と関係があります。米作りの文化は、各地の民話、民謡から絵画や詩歌、工芸品そして建造物や衣服、日用品に至るまで、日本人の生活のすみずみにまで浸透しています。それゆえ、米を語るということは、日本人の心を語ることであり、日本文化の土台と特徴を語ることでもあるのです。そして、米を通じて日本人の心、日本の文化を知ることができ、健康な生き方をし、自然と調和した文明をめざす鍵が得られるのです。

 

 日本の心は、よく「和」の精神といわれます。この「和」の精神の発達において、米作りは大きな役割を果たしてきたといえるでしょう。

 日本人は農耕民族です。そして米を主食としてきました。稲は連作が可能な作物です。一定の土地で、何代にもわたって水田を続けることができます。一つの土地に先祖代々にわたって生活すると、その土地にたいする強い愛着が生じます。また、同じ土地に住む村の人々は、先祖以来の知り合いであり、血縁・地縁による強い結びつきをもつことになります。そして、社会全体が、村を単位とした共同体の集まりとなっています。こうした日本社会を特徴づけているものが、米なのです。

 

 日本の稲作は、集約的灌漑水田稲作です。灌漑水田稲作は、個人労働ではできません。開墾や灌漑、そして水の管理など、すべて協同労働で行なわなければ、できないのです。田植えから稲刈りまで、労働は集団的・組織的に行います。水田の所有権は各戸別であっても、経営は共同経営方式で行なわれるわけです。こうした協同労働を通じて、団結心が育まれました。また、米作りは、家同士が争っていては、大切な協同労働ができません。そこで、相手との協調性が発達しました。

 

 灌漑水田稲作で、特に重要なものが水です。水は共有のものであり、共同体の全体で管理しなければなりません。水を田に、いつ、どれくらいの量や割合で入れるか、は勝手に決められません。同じ水系の上・中・下流の人たちが、何度も話し合いながら全体を調整しました。そこから話し合いによる合議が重んじられることになります。

 日本の水田は狭く、また水田と水田が互いに接しています。したがって、ある田で病虫害が発生したり、雑草が生えたまま放置すると、その影響はすぐ周りに及びます。昔は、今日のように食糧が豊かではありません。乏しい食糧を家族みなで分け合って生きてきたのです。もし稲が病虫害でやられると、何人もの生命にかかわります。自分の家だけでなく、村の他の家にも及びます。自分の田を荒らすことは、よそ様に申し訳ないことになります。自分勝手なことをして、人に迷惑をかけてはいけないわけです。まさに命懸けで、他人に気配りをすることや、相手の立場を考える思いやりの大切さを、日本人は学んできたわけです。

 

 このように、日本人は米作りを通じて、勤勉性、団結心、協調性、合議、迷惑を掛けない意識、気配り、思いやりなどを、身につけてきました。それゆえ、米作りによって、日本人は「和」の精神を発達させてきたということが言えるでしょう。

 私たち日本人は、こうした「和」の精神を発揮することにより、今日の地球で世界に貢献することができると思います。今日、世界は狭くなり、地球は、まるで一つの島国のようになっています。この限られた場所で、様々な人種・民族・国民が、寄り合って暮らしていかなければなりません。そのためには、戦いではなく、調和・共存していかなければなりません。このような時代に、求められているものこそ、「和」の精神です。

 私たち日本人は、日本の心、日本精神を大切にして、世界の平和と発展に貢献したいものです。ページの頭へ

 

    項目「和の精神」の拙稿

 
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米と日本の祭り

 

 日本の神話には米作りの話があります。また、日本の祭りや儀式の多くは、米作りと関係が見られます。

 

 日本神話の物語の一つに、天孫降臨の話があります。その話において、天照大神(あまてらすおおみかみ)は、孫のニニギノミコトを日本に派遣される時に、次のような言葉を与えたと伝えられます。

 「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほのあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、是吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)いて治(しら)せ、行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、まさに天壌(あめつち)とともに窮(きわま)りかるべし」

 すなわち、日本は、稲穂が豊かに稔る国であり、皇室の祖先は、この国で末永く繁栄するように、天から遣わされてきたとされているのです。

 天孫降臨の際、天照大神は、次のように命じたと伝えられます。

 「吾が高天原きこしめす斎庭(ゆには)の稲を以てまた吾が児(みこ)に御(まか)せまつる」

 すなわち、天照大神は、自ら高天原で作った稲を、ニニギノミコトに与え、日本へ行って、米を作るように命じたというのです。(1)

 

 神話の伝える遠い昔からハイテクの時代の今日まで、日本人は米を食べ続けてきました。そして、昔も今も、米を作る日本民族を象徴する存在であるのが、天皇です。

 初代・神武天皇は、伝承によれば、紀元前660年に、大和の橿原(かしわら)において即位式を挙げました。『日本書紀』には、それから4年ばかりたった神武紀元4年の頃に、「天神を郊祀(まつ)り用(もっ)大孝(おやにしたが)ことを申ぶ可しと、乃(すなわ)霊時(まつりのには)を鳥見(とみ)の山中に立つ」という記述があります。これは神勅に従って大和に国を定めて農耕に励み、みるべき収穫を得た、という感謝祭を意味するものでしょう。この鳥見山の祀りが、日本の祭りを代表する新嘗祭(にいなめさい)、大嘗祭(だいじょうさい)の起源とされます。

 

 新嘗祭は毎年、勤労感謝の日に行われます。天皇が神に新穀を供えて祀り、神に収穫を感謝し、かつ自らも試食をする祭儀です。特に、新しく即位した天皇が初めて行う新嘗祭を、大嘗祭といいます。大嘗祭は、新天皇が即位後初めてとれた新米(初穂)を神に供え、収穫を感謝するとともに、即位を報告し、新しい世に対する神の加護を祈る儀式です。

 天皇は、皇居で自ら田植えや稲刈りをされています。そして、神に収穫を感謝し、神の加護を祈っておられます。これは昭和天皇が始められ、平成になってからは今上陛下が引き継がれたものです。天皇は、5月末ころに皇居内の水田で、五穀豊穣を祈る「お手植え」を行い、稲の苗を植えられます。そして、10月初め頃、「お稲刈り」をされます。収穫された稲は、新嘗祭に使われます。

 このように天皇は、自ら米作りをすることによって、人間と自然との調和のために、象徴としての役割を担っておられるのです。

 今日の日本は、エレクトロニクスや自動車のような先端的工業製品で、世界屈指の水準にある先進工業国です。それと同時に、日本では、今日も神話の時代さながらの祭りが行なわれています。このユニークな日本文明は、米作りと深い関係があるのです。日本の文化を語るとき、米の重要性に目を向ける必要があるでしょう。ページの頭へ

 

参考資料

 (1)『古事記』『日本書紀』

 
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米作りと日本人のオリジナリティ

 

 日本人は米を食べてきました。稲には、ジャポニカと呼ばれる系統と、インディカと呼ばれる系統があります。日本で作られているのはジャポニカ、東南アジアは主にインディカです。ジャポニカの特色は、米粒が丸みを帯びていて粘り気が多い点にあり、インディカの特色は、米粒が細長くてご飯に炊いてもパサパサしているところにあります。

 インディカは手間暇をかけても、放って置いても収穫量にほとんど差がありません。ところが、ジャポニカは手間をかければかけるだけ、収穫が上がります。肥料を施すことによって一株の稲の茎が著しく増え、米の増収につながるのです。日本人はこうしたジャポニカを栽培してきました。

 

 また、日本と東南アジアの稲作地帯の違いは、水の扱いにあります。一部の地域を除く東南アジアでは、自然のままに委ねた天水田で稲作を行なっています。これに対し、日本人は、人間が水を引いて潅漑田で稲作を行なっています。潅漑水田稲作をするためには、水を引くとか環防を作るとか、土を耕すとか、苗を植えるとか、雑草を取るなど、いろいろな手間暇がかかります。しかし、知恵を絞って努力すればするほど地味が肥え、米の収穫量が増え、品質も向上します。

 灌漑水田稲作のポイントは、水です。日本は山岳地帯が多く平野が少ないため、川は急流です。そこでいかにして水をコントロールするかが、課題となります。また、日本は四季の変化に富んでいます。日々の天気の移り変わりをとらえて、米作りをする必要があります。そこで日本人には、自然の仕組みや自然の動きを学び、自然と調和しながら努力するという生き方が、育まれました。

 努力といえば、「一所懸命」という言葉があります。一生懸命ではありません。「一つの場所、この土地に命を賭けて働く」です。この田に米が出来なければ、人は食べるものがなくて死ぬのです。幼い子どもや年寄りが死ぬのです。そういう命がけの真剣さで家族・一族が働くとき、小さな土地に労働が集約されます。そこで、一所懸命にやれば水田の生産量は目に見えて上がるのです。このことが、日本人の勤勉さや真面目さ、几帳面さ、また郷土愛の強さといった性格を作り上げたと言えるでしょう。

 

 日本人は品質改良にも実に熱心でした。稲は本来、熱帯・亜熱帯の植物です。その稲を温帯の風土に定着させることが第1段階でした。次に定着したものを一定面積中、最多収穫性に変えることが第2段階でした。

 気候的には、日本は本来、稲の生育には決して適した条件とは言えません。しかし、私たちの先祖は、幾百世代にもわたり稲作を続け、優れた種の選抜を繰り返して品種改良に挑みました。そして、東北や北陸のような雪国でも米が取れるようになり、今では北海道も稲が稔っています。しかも北海道が新潟と共に日本におけるコメの生産高で一、二を争う地域にまでなっています。二千年という長い年月をかけて、私たちの先祖は、寒冷地でさえ稲が稔るところまで品種改良してきたのです。

 

 よく日本人には、オリジナリティがないと言われます。これは、日本の歴史を知らない人の言葉ではないでしょうか。日本の米作りを見ると、日本人はまことにオリジナリティ溢れる民族であることがわかります。水利や土木、品種改良など、米作りには、日本人のオリジナリティが明確に表れているのです。

 そして、米を育ててきた日本人のオリジナリティが、日本文明の文化に一層の独創性を加えてきたと思います。建築・彫刻・土木・治水・政治・経済・環境保全など、日本人の智恵は、さまざまな分野に個性あるひらめきを示しています。そして、それを基盤として、今日の最新科学やハイテクにも、優れた発想力を示していると言えましょう。ページの頭へ

 
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■米と理想的な食文化

2001.2.23

 

 穀物の中で、米は生産性が抜群です。モミが一粒まかれると、秋には500〜700粒に増えるといわれています。米と麦を単位面積で比較すると、米は麦の約2倍の収穫を得ることができます。そのため、多くの人口を養うことができます。

 そのうえに、米は栄養的に素晴らしい食品です。米はでんぷん質が75%、タンパク質が7%含まれ、更にビタミンB1・B2や鉄分や食物繊維なども含まれています。これらの栄養素は、精米や調理法によって減少しますが、他の食材に比べ大変栄養価が高いといえます。

 そこで、米を主食とした民族は、こうした米の特長を生かした食文化を発達させています。

 

 我が国では、米を中心として、「ご飯とおかず」という方式の食事法を取っています。米をカロリー源として、米の吸収を早め、栄養を補うために副食をとります。副食類には、米の吸収を早めるために、一種の触媒的なアルカリ食品を、さらにミネラル、ビタミン類を補給する食品を、少量摂取しています。これは、実は合理的な食事法だといえます。

 白米の場合、主な欠点を挙げると、まず酸性食品であることがあります。次に完全無塩食品であることがあります。また、米をカロリー源としたために、タンパク質や脂肪、ミネラル、ビタミン類の摂取が少なくなりがちです。そこで副食類は、その3点を補うことに集中されます。

 

 第一に、酸性の中和剤として、日本人は梅干、味噌、漬物などの発酵食品を摂ります。特に素晴らしい発明品が、梅干です。梅干は、米の酸性を中和し、食べた米のカロリーのほとんどが吸収される役割を果たします。「日の丸弁当」といって、ご飯の真中に梅干が一粒という弁当がありますが、実はこの梅干が日本人のパワーの秘訣だったのです。

 第二に、米の澱粉は完全無塩食品ですから、塩分をいかに摂取するかが課題となります。塩は、空気に触れるとすぐ品質が変化します。そこで、日本人は、塩を空気に触れさせない方法を考え出しました。それが、他の動物の蛋白や繊維の中に塩を入れておくという方法です。この発想が、味噌、醤油、漬物が発達した原点です。味噌、醤油、漬物の中に塩を入れると、そのもの自体の発酵がそこで止まるという働きがあります。それと同時に、塩が空気に触れないから半永久的に保存されるのです。

 特に味噌は、傑作です。味噌は米と一緒に食べると、味噌のおかげで、米の賛成が中和され、カロリーがほとんど吸収されるだけでなく、栄養素が体の中に入ってから変質して、大切なアミノ酸に化すのです。ご飯に味噌汁という組み合わせが、日本食の基本です。

 第三に、さまざまな栄養素を補うために、日本人は魚類や大豆食品(豆腐、納豆など)、根菜類、海草類などを副食に摂ります。これらは低脂肪で食物繊維、ビタミン、ミネラルの豊富な栄養バランスの良い食事です。

 

 米を中心に組み立てられた日本食は、科学的に見ても非常に優れた食事であることがわかっています。そこには、豊かな先祖の智恵が盛り込まれているのです。

 日本食は、世界で最も健康に良い食事であると評価されています。私たちは世界に誇る食文化を有する国民です。理に適った日本食を見直す時ではないでしょうか。ページの頭へ

 

参考資料

・樋口清之著『梅干と日本刀』(祥伝社文庫)

 
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■米は食糧問題を解決する

2001.3.1

 

 21世紀において世界人類が必要とするものは何でしょうか。それはまず食糧です。現在の人口爆発を放置すると、今世紀半ばには世界人口は100億人から130億人に上ると予測されています。地球の酸素も石油も森林も、増加する人口を養うために消費されてゆくでしょうが、最初に訪れるのが食糧危機だといわれています。そして、この世界的な飢餓を救う、優れた食糧が米なのです。

 

 日本は北から南までずっと細長い島国で、耕地面積はおよそ全面積の14%前後しかありません。ところが、このような狭い土地で、人口は徳川時代に3000万人、大正年代に約2倍の6000万人、今は1億2400万人を超えています。これだけの人口を支えてきたというのは、米が抜群に大きな人口扶養力を持っているからです。

 米は、小麦など他の穀類に比べて、栄養価が高く、生産性の高い穀物です。小麦を作ってきたヨーロッパでは、古代から中世へ、2圃式から3圃式に進みましたが、10世紀ころの小麦で播種量の3倍を収穫するのがやっとで、中世末の14〜15世紀でもわずか5倍程度にすぎなかった。ところが、奈良時代8世紀の日本では最下位の田でも7倍、上位の田では25倍もの米の収穫をあげています。近世ですでに40倍にも達していました。この差は現在でも基本的に変わっておらず、稲が、いかに人間の食糧として優れているかがわかります。(1)

 

 しかも、水田稲作は土壌を痩せさせることなく連作が可能であり、かつ土壌を肥沃にもします。小麦やトウモロコシなどの畑作物は、北米の穀倉地帯の現状を見るように、単一作物の連作によって地力が消耗し、ついには不毛の半砂漠に近づいていきます。一方、東アジアのモンスーン地帯の水田稲作は、ほぼ永続的な生産が可能なのです。

 歴史的に見ると、ヨーロッパでは、小麦のできなくなったところでは、草を生やして牧畜を肉を生産してきました。肉食をするために要する耕地面積は、人間が直接穀物を食べるために要する面積の8〜10倍にもなります。こうした小麦と牧畜の農業は、広い面積を求める農業であり、自然を征服・破壊する農業だったのです。

 これに対し、連作可能な水田稲作は、地球環境にとって非常に有効な耕作法であり、自然との共生の模範例として注目されています。また水田は、保水能力に優れ、水田の周囲に、森林をつくり、緑化を進めることもできるのです。

 そこで、とりわけ期待されているのが、砂漠の水田化です。ゴビ砂漠やサハラ砂漠などで、実験が進められています。これを成功させて、大規模な水田化を実現できれば、日本は砂漠に米を作り、世界の人々に充分な食糧援助を行うことができます。

 

 農業家で農民詩人の星寛治氏は、『農業新時代ーコメが地球を救う』で次のように述べています。

「いま、地球上に広がりつつある不毛の砂漠を緑の絨毯に、そして黄金の穂波に変えることができれば、飢餓の時代は回避できる。そのときこそ、みずほの国日本の農民が、ニ千年かけて蓄積してきた稲作技術、ノウハウのすべてを注ぎこんで、途上国の、いや、人類の壮大な実験に貢献すべきだと考える」(2)

 地球に広がる砂漠を水田化できるならば、飢餓の時代を乗り越えることができるでしょう。そして、日本人の米作りの技術と知恵を世界に伝えることは、日本人ができる国際貢献の一つとなるでしょう。ページの頭へ

 

(1)河野健二・飯沼二郎著『世界資本主義』(岩波書店)、山根一郎著『日本の自然農業』(農文協)など。

(2)星寛治著『農業新時代ーコメが地球を救う』(ダイヤモンド社)

 
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■米は地球環境を守る

2001.3.14

 

 古代文明の発祥地エジプトやメソポタミア、黄河やインダス川流域は、かつて黒々とした森林に覆われていました。ギリシャもまた25世紀も以前に、プラトンがその昔の国土を振り返って歎いています。

 「アテイカ(古代アテネ付近)が損なわれないとき、山々は密林に覆われ、国内に放牧が広がっていた。雨は今のように侵食された土壌の表面をそのまま流れて海に注ぐことはなく、国ふところ深く受け入れられ、やがて泉となり川となって豊かな水量は国内広く吐き出された」と。

 立正大学教授の富山和子氏は、次のように書いています。

 「文明が滅亡した決定的な理由は、蛮族の侵入や人心の腐敗などでは決してなかった。かりに支配者が入れ替わろうとも土壌がそのままである限り、つねに都市は再建された。土地が老朽化してはじめて都市は崩壊した」「いかなる文明も土壌の生産力を条件として発生し、いかなる文明もそれを失ったときに滅亡する」(1)

 

 一体、人類は環境を破壊せずに、農業と文明を維持していくことができるのでしょうか。ここで、注目されているのが、水田稲作なのです。そして、日本人は、自然環境を守りながら、米を作るということを数千年も前から実践してきたのです。

 日本は古代から世界に誇る文明を築いてきました。世界最古の土器を作った縄文文化は、当時の世界の諸文明に匹敵する高い文化をもっていました。当時、栄えた文明はほとんどが滅んでしまいました。しかし、わが国は、今日も世界の先進国の一員として、日本文明の繁栄を続けています。

 日本は国土の3分の2は森林に覆われており、全国土のおよそ40%は人間の手の入っていない天然林です。今日の主要産業国で、これほどのパーセントを誇れる国は他にありません。実は、この豊かな森林は、米作りと関係があるのです。

 

 稲作には水が大切です。水が足りないと凶作となり、多すぎれば水害になります。それを調節してくれるのが山々の森林なのです。森林は降雨による水を貯え、田に水を恵みます。いわば天然のダムの役割をします。また、森林は川の水を通じて田の土壌に有機源を補い、また水や風の被害を防ぐなどの役割もしています。

 日本人はこうした森林を大切にし、9世紀には大和朝廷が水源林の禁伐を定める世界最古の保安林立法を行いました。その後、様々な施策によって、森の保護や育成が続けられてきました。高度に発達した文明国の中で、日本人は木を伐(き)っては植え、緑を絶やさなかったほとんど唯一の民族であり、これは「世界の奇跡」ともいわれます。それは稲作のためであり、日本の森林は米が作ったといえると同時に、米は森林の賜物ともいえるのです。

 日本人は、こうして世界史にまれな、自然と調和して発展する文明を築いてきたのです。日本人は、米と森にかけた智恵と技術を、今日の地球環境問題の取り組みに生かしたいものです。

 

 現在、沙漠に水田を作り、米を栽培する技術が開発されています。しかも、水田は保水能力に優れていますから、周囲に森林をつくり緑化を進めることもできるのです。アフリカなどの沙漠で水田を作り、周りを緑化するプロジェクトが進められつつあります。

 ノンフィクション作家の上之郷利昭氏は、次のように書いています。

 「水田を中心とした農業は食糧産業であると同時に、環境保護産業でもある。砂漠をはじめ地球のあちこちに水田を作ることによって、破壊されつつある地球は再生、保護されるのだ。21世紀、コメは地球を救う、といっても過言ではないだろう」(2)

 日本の米作りは、人類の文明が自然と調和して、永遠に発展していくことができる可能性を、示しているのです。ページの頭へ

 

(1)富山和子著『水と緑と土』(中公新書)

(2)上之郷利昭著『コメと日本人と伊勢神宮』(PHP研究所)

 
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東京が世界に誇る「都心の森

 

 「東京沙漠」という言葉があります。まさにその通り、都心には、ビルが立ち並び、殺伐とした風景が広がっています。そのうえ、ゴミや環境汚染などの問題が山積しています。しかし、東京には、世界に誇るべき「森」があるのです。

 

 東京のまんなかで、樹木が鬱蒼(うっそう)と茂り、野鳥たちが住むのが、「代々木の森」。その森は、明治神宮の境内にあります。すぐ隣には、原宿があり、茶髪・金髪の若者たちでにぎわっています。そんな若者も訪れる明治神宮は、正月には全国一の初詣客が集まります。また、外国人が訪れる観光スポットでもあります。

 「代々木の森」には現在、17万本もの樹木が生い茂っています。しかし、この森は、もともと自然のものではありませんでした。植林による人工の森だったのです。

 

 この場所は、80数年前までは原っぱや田畑が広がる荒漠とした場所でした。「豊多摩郡代々幡村代々木」、ここに、明治天皇をまつる明治神宮の建設が始まったのは大正4年(1915)のことでした。建設は、政府主導で行われたのではありません。明治45年、明治天皇が亡くなられると、その直後から、国民の間に「ご遺徳をしのぶ所がほしい」という請願運動が起き、これに押されて建設が決定されたのです。

 費用は国が負担しましたが、全国から延べ10万人もの青年たちが上京し、建設工事や植樹に当たりました。神社に森はつきものです。70町歩の広大な土地に、百年後の森を想定した壮大な計画が立てられました。全国各地からの献木は、10万本にも上ったといわれます。その種類は365種に及びます。森の造営には、当時の最高技術が結集されました。こうして、先人たちの叡知と、明治天皇に対する国民のまごころによって、「代々木の森」が誕生したのです。

 

  「代々木の森」では、土地の能力に基づいた生態系を造り、「管理しない管理」によって森を維持するという方法がとられています。カシ、シイ、クスの広葉樹を中心に構成される現在の森の姿は、造営の時に計画されたものでした。マツ類の大木を主木とし、それより少し低いヒノキ、スギ、モミを、さらに低いカシ、シイ、クスを植えることにより、樹木間で世代交代が順々に行われます。そして、やがてカシ、シイ、クスが主木になるという計画です。そして、人々の手になる森は進化し、人工林は見事な自然林へと姿を変えたのです。海外からの訪問者に、この森が人工林であると説明すると「信じられない」と驚かれます。また、全国各地で公園緑地をつくる際のモデルともされています。

 

 今日、日本の都市では、緑が少なくなり、わずかに残っているのは、神社の「鎮守(ちんじゅ)の森」などに限られています。それは、経済中心、物質中心の考え方により、人間の都合で樹木を切り倒し、生態系を破壊してきた結果です。これに対して、森を大切に守り続けたのが、神道であったことは、意外と知られていません。日本固有の宗教である神道では、森を神聖なものと考えてきました。その伝統によって日本人は、自然環境を保ってきたのです。それゆえ、「鎮守の森」は、自然との調和を大切にする「日本の心」の現われなのです。もしこうした神道の伝統が失われていたら、日本の都市は、すっかり緑を失っていたかもしれません。

 

 東京の都心に息づく「代々木の森」は、私たちに、今日取り戻すべき大切な心を教えてくれているのです。

 自然と調和して生きる「日本の心」を取り戻しましょう。

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木のいのち、人の心〜西岡常一

2004.10.1

 

 日本の文化は木の文化であり、欧州の文化は石の文化であるといわれます。欧州人が石の建物に住むのに対し、日本人は木の家に住んできました。木にはいのちがあり、日本人はその木のいのちに包まれて、生活してきました。そこには、自然との深い融合がありました。今日の日本人は、そういう伝統の中にある心を忘れているのではないでしょうか。

 西岡常一氏ほどそのことを強く感じさせてくれる人は居ません。氏は、法隆寺の近くの宮大工の家に生まれました。昭和9年(1934)から始まった「昭和の大修理」で、氏は、現存する世界最古の木造建築である法隆寺の金堂や五重塔の解体修理を手がけました。平成7年、86歳で亡くなっています。

 

西岡氏には、宮大工棟梁としての経験から語った数冊の著書があります。法隆寺は1300年もの間、立ち続けてきましたが、その材木について、氏は次のように語っています。

「……ただ建っているといふんやないんでっせ。五重塔の軒を見られたらわかりますけど、きちんと天に向って一直線になっていますのや。千三百年たってもその姿に乱れがないです。おんぼろになって建っているというんやないですからな。

 しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているです。塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、鉋(かんな)をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。これが檜の命の長さです」(1)

「こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。(樹齢が)千年の木やったら、(用材として)少なくとも千年生きるやにせな、木に申し訳がたちませんわ」(2)

 

樹齢千年の桧(ひのき)なら千年以上もつ建造物ができる、と西岡氏は述べています。氏によると、千年ももつ建物を建てるためには、使う木の生育状況を見て、適材適所の使い方をしなければなりません。木は人間と同じで一本ずつみな違い、それぞれの木の癖を見抜いて、それに合った使い方をする必要があります。日の当たる場所に立つ木、当たらない場所に立つ木など、場所によって様々な木があるためです。そこで、宮大工は木を買うのではなく「山を買え」と言います。切り倒した後の木ではなく、山ごと買うことによって、一本一本の木の特性を見極めなければならないからです。また、一本の木についても日向側と日陰側によって用途が違ってきます。だから、木について知り抜いていなければ、宮大工は、まともな仕事はできないと西岡氏はいいます。

 

西岡氏によると、昔の日本の大工は、ただ木を材料と見、道具として使っていたのではありませんでした。木の持ついのちにふれ、そのいのちに心を通わして、木を用いてきたのです。

「木は物やありません。生きものです。人間もまた生きものですな。木も人も自然の分身ですが。この物いわぬ木とよう話し合って、生命ある建物にかえてやるのが大工の仕事ですわ。木のいのちと人間のいのちの合作が本当の建築でっせ(3)

そして、氏は、続いて建築の際に行う伝統的な儀式のこころを語ります。

「わたしたちはお堂やお宮を建てるとき、『祝詞(のりと)』を天地の神々に申し上げます。その中で、『土に生え育った樹々のいのちをいただいて、ここに運んでまいりました。これからは、この樹々たちの新しいいのちが、この建物に芽生え育って、これまで以上に生き続けることを祈りあげます』という意味のことを、神々に申し上げるのが、わたしたちのならわしです」(3)

 太古の昔から木を用いてきた日本人が、代々受け継いできた経験と知恵を、西岡氏は語ってくれます。その言葉には、自然に学び、自然と共に生きてきた日本人の精神を感じ取ることができるでしょう。ページの頭へ

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(1)(2) 西岡常一著『木のいのち 木のこころ 天』(草思社)

(3) 西岡常一・小原二郎共著『法隆寺を支えた木』(NHKブックス)

 
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生物の世界は共存共栄〜今西錦司

2005.5.16

 

今西錦司は、日本の社会人類学、生態学の草分けです。霊長類研究の指導者としても有名です。今西は、ダーウィンの進化論に異議を唱え、独創的な「棲み分け理論」を展開しています。

 

ダーウィンの進化理論は、自然淘汰説として知られています。彼は、『種の起源』に以下のように記しています。

  「もしもある生物にとって有用な変異が起こるとすれば、このような形質を持つ個体は確かに、生活のための闘争において保存される最良の機会を持つことになろう。そして、遺伝の強力な原理に基づき、それらは同等な形質を持つ子孫を生じる傾向を示すであろう。このような保存の原理を、簡単に言うため、私は『自然淘汰』と呼んだ」

つまり、生存競争の結果、最適者だけが生き残るということです。

  ダーウィンの自然観察は、ガラパゴス諸島と、イギリスの自宅の庭先に限られていました。その狭い範囲での観察に基づいてこのような理論を提起したにすぎません。

 

これに対し、今西は、人生の大半を世界各地の自然観察に費やし、その結果、自然はダーウィンの言うような生存競争の場ではないと論じたのです。

今西によれば、生物の進化とは、少数の種の生物が、数百万の種に分化しながら、それぞれ多様な環境に適応して特殊化してきた歴史です。

  「すべての生物がこのようにして、それぞれ特殊な環境に適応し、その主人公になったならば、そこに成りたつ生物の世界は『棲み分け』によるすべての生物の平和共存の世界である」(1)

 ここに今西の進化理論、「棲み分け理論」のエッセンスがあります。競争よりも共存だというのです。

今西が、「棲み分け理論」を思いついたきっかけは、カゲロウの研究でした。京都・加茂川に棲むカゲロウの幼虫を観察するうちに、今西は異なった種が川の中で棲み分けている事実に気づきました。生物は、個体間の競争の結果、最適者のみが生存しているのではありません。むしろ地球上には数百万を超える様々な生物が「種」として存在し、それぞれ「棲み分け」をし合いながら共存共栄していると考えられます。そこで、今西は、ダーウィンが個体のレベルで進化の過程を考えたのに対し、種のレベルで進化をとらえることを提唱しました。

 

 進化論で未解決の問題に、キリンの首はなぜ長くなったのかという問いがあります。ダーウィン説は、首の長いほうが生存に適しているので、首が長くなる方向に進化したと説明します。ところが今日まで、中間的な長さの首を持つキリンの化石は、一つも発見されていません。それどころか、化石が示しているのは、ある時、突然のようにキリンの首が長くなったことです。キリンだけではありません。ほとんどの生物の場合、進化過程における中間段階の化石は、見つかっていないのです。それゆえ、進化における変化は、種の全体に突然のように起こったと考えられます。

今西は、このことを次のように言い表します。「種は変わるべくして変わる」のだと。より理論的に表現すれば、「進化とは、種社会の棲み分けの密度化であり、個体から始まるのではなく、種社会を構成している種個体の全体が、変わるべき時が来たら、皆いっせいに変わるのである」ということになります。

この発想は、自然とは「自(おの)から成るもの」という自然観を持つ日本人には、直感的に理解できるものでしょう。自然には、人間の知恵では理解し得ない、深遠な原理があり、それによって生態系の進化が起こっているのです。その原理を究めることはまだ人間にはできませんが、次のことは言えます。

 生物の社会は、個体間に弱肉強食の競争原理が支配しているようでいて、その奥には種の間の共存原理が働いているということです。ある種から新しい種が生まれても、強い種だけが生き残るのではなく、弱い種や古い種も一緒に共存していくのです。これは、最初は種の少なかった地球の生物社会に、魚類が登場し、両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類という風に、どんどん種が増え、それらが水中・地上・空中など様々な環境に棲み分けて、豊かな生命世界を創っていることを見れば明らかです。今西が「進化とは、種社会の棲み分けの密度化」であるという所以です。

 

このように考えると、ダーウィンの進化理論が競争原理という一面的な理論であるのに対し、今西の理論は共存原理によって、生物社会の全体像をとらえようとする、より高次の理論ということができます。「棲み分け」理論は、これまでの西洋的な発想による進化論に対し、有力な反論を提起したものであり、日本人による世界的な業績です。

19世紀半ば以降、ダーウィンの理論の影響を受け、国家・民族・階級の関係をも競争原理によって見る見方が広がりました。今西の理論は、その見方の偏りを正し、人類社会を共存共栄へと転換する原理への示唆を与えるものともいえましょう。

 

(1)今西錦司著『私の進化論』(思索社)

参考資料

・今西錦司著『生物社会の論理』(平凡社)

・同上『主体性の進化論』(中公新書)

 
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