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日本の心  武士道(その2)

 

題 目

目 次

23 家臣こそわが宝〜徳川家康(1)

24 皇室に依拠した天下泰平〜徳川家康(2)

25 天下は天下の天下なり〜武士道の政治

26 剣の道から真理の道へ〜宮本武蔵

27 大石・松陰・乃木の師、山鹿素行とは

28 世界に知られる武士の物語『忠臣蔵』

29 死を覚悟して日々を生きよ〜『葉隠』(1)

30 大義のために生き通せ〜『葉隠』(2)

31 武士道の規範とされた『武道初心集』

32 無刀流の「五常の剣」〜柳生石舟斎

33 殺人刀が活人刀に〜柳生但馬守宗矩

34 武の奥義を説いた『不動智神妙録』

35 武士に人倫の道を示す『明君家訓』

36 江戸時代を貫いた皇室への崇敬心

37 幕府が依拠した皇室の権威

38 幕末の国民統合は皇室の存在による

39 「東洋道徳、西洋芸術」〜佐久間象山

40 死中に活を開く〜吉田松陰(1)

41 士の道を説く『士規七〜吉田松陰(2)

42 外国人も感動〜吉田松陰(3)

43 女性たちへのメッセージ〜吉田松陰(4)

44 江戸無血開城〜西郷と三舟の活躍

45 江戸の町を救った武士道の精神

46 大西郷の生き方〜「公と私」「天と道」

47 戦わずして勝つ〜達人・山岡鉄舟

48 廃藩置県〜「私」を超える武士道

49 昨日の敵は今日の友〜乃木の仁愛

 

  武士道(その1)もご覧下さい。

 武士道の精神、新渡戸稲造、平家物語、平重盛、

源頼朝、源義経、北条時宗、楠正成、北条早雲、

武田信玄、織田信長、豊臣秀吉等

和の精神

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■家臣こそわが宝〜徳川家康(1)

2006.7.14

 

徳川家康は戦乱が続く天文10年(1542)、三河の国は松平家に誕生しました。家康の祖父そして父も家臣に暗殺されました。母は政略で離婚し他家に嫁いでいきました。家康自身も幼くして織田信秀、次いで今川義元の人質となりました。こうして家康の生涯は、艱難辛苦(かんなんしんく)の連続でした。

しかし、豊臣秀吉亡き後、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)、征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きました。これは応仁の乱以来の130年の戦乱の世に終止符を打ち、以後260年におよぶ太平の世を開く快挙でした。この偉業は古今東西に比類がありません。

 

家康を描いたもので最も有名なのは、山岡荘八の長編小説『徳川家康』です。山岡の家康像の核心は、「元和偃武(げんなえんぶ)」にあります。元和元年の大阪夏の陣を最後に戦国時代は終わり、日本国中から合戦がなくなりました。家康の生涯を綾なす権謀術数や数々の合戦は、「元和」(平和が到来すること)「偃武」(武器を蔵にしまうこと)を目的に展開されたというのが、山岡氏の描いた家康像でした。

誰かが天下を統一しなければならない。そういう時代に武将として生を受けた家康は、織田信長・豊臣秀吉が切り開いた道を歩み、忍耐強く日本の平定を成し遂げました。戦争を終わらせるために合戦を行い、平和の実現のために策略を用いる、これは一見矛盾した行いですが、戦国の世を治めたのは、こうした現実的な努力でした。

 

家康の語録として、多くの人に知られるのが、次の言葉です。

「人の一生は重荷を負う遠き道を行くが如し。急ぐからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。勝事ばかり知って負けることを知らざれ、害その身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざる過ぎたるより勝れ。人はただ身の程を知れ。草の葉の露も重きは落つるものかな」(『東照宮御遺訓』)

 これは家康が日々口にしていたことを書き記したものの一節です。戦乱を治め太平の世を開くことを生涯の使命とし、我慢と忍耐、自戒と謙虚を自分に言い聞かせて、粘り強く努力した人が、家康だったのでしょう。

 

しかし、家康の偉業は彼一人でできたのではありません。家康を支えていたのは、家臣たちでした。家康はそのことを良く自覚し、家臣を宝として大事にしました。

『東照宮御實紀 附録巻七』に、次のような逸話が伝えられます。

 あるとき関白・秀吉が、家康をはじめ毛利・宇喜多等の諸大名を集めた時のことです。秀吉は自分が持っている宝物を自慢して、虚堂の墨蹟、栗田口の太刀などをはじめ、いろいろと数え上げました。そして、秀吉は「さて、家康殿はどのようなお宝をお持ちですかな」と家康に尋ねました。

すると家康は「御存知のように、それがしは三河の片田舎の生まれですので、書・画・調度など何も珍しいものは持っておりません。しかしながら、それがしのためには、水の中、火の中へも飛び入り、命を惜しまない侍を五百騎ほど持っております。これこそ、この家康にとって、第一の宝物と思っております」と答えました。

秀吉は少し恥じらう様子で、「そのような宝は自分も欲しいものだ」と言ったという話です。

 

 日本の武士道には、君臣一体といって、主君と家臣が親子のような情で結ばれ、互いに信頼し一体となって、家を守り立てていくという美風がありました。世界史に輝く家康の偉業は、こうした日本精神の発露であったと言えるでしょう。ページの頭へ

 

参考資料

・山岡荘八著『徳川家康』(講談社文庫)
 
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■皇威に依拠した天下泰平〜徳川家康(2)

2006.8.1

 

「織田がつき 豊臣がこねし 天下もち 骨も折らずに 食らう徳川」という俗謡があります。信長は古い秩序を破壊する役割、秀吉は新しい体制を建設する役割、家康はそれを整備し継続・管理する役割をしました。彼ら三人の連携によって、日本は分裂・対立の時代から抜け出て、統一・平和の時代を迎えることができました。

奇しくも三河の国(現在の愛知県)という小さな地域から、信長・秀吉・家康という三人の英傑が出ました。もし彼らが時代を違えて現れていたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

ここで注目したいのは、彼らが天皇の権威を再発見し、その権威の下に天下統一を成し遂げたということです。信長は右大臣、秀吉は関白となり、ともに朝廷の重臣として、天皇を奉じて日本を統一しようとしました。家康もこれを受け継ぎました。彼もまた朝廷を滅ぼしたり自ら皇位を狙ったりすることなく、国家社会の体制を整備しようとしました。

 

慶長5年(1600)、秀吉没後の主導権をめぐって、関が原の合戦が行われました。これを制した家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられました。ここで家康が信長や秀吉と違うのは、この二人が京都を中心に物を考えたのに対し、遠く離れた関東に幕府を開いたことです。また、征夷大将軍以上の官位を望みませんでした。その点では鎌倉幕府に似ています。

事実、家康が手本としたのは、源頼朝だったのです。家康は頼朝の事跡をよく研究しました。彼の言行を詳しく伝える『吾妻鏡(あづまかがみ)』を愛読しました。幕府の開設の仕方、諸大名の統御の仕方など、頼朝を参考にする点が多かったのです。

 

家康は、さまざまな策謀をめぐらして豊臣家を追い詰め、ついに元和元年(1615)、大阪夏の陣において豊臣氏を滅ぼしました。遂に戦国時代に終止符が打たれた瞬間でした。その後、家康は秀忠と共に幕藩体制の基礎固めを進めます。その一つが「武家諸法度」であり、また「禁中公家諸法度」でした。これらは武家と公家の権限を厳しく制限し、徳川政権を安定させるためのものでした。

 

先ほど家康は頼朝を参考にしたと言いましたが、皇室に対する態度は、頼朝よりはるかに厳しいものでした。「禁中公家諸法度」は、天皇・親王・摂家などの行動の全般を規定したものです。天皇は学問を第一に励めと定めて、天皇に行動規範を与えたのです。当時の重大事件に紫衣事件があります。天皇は旧来、僧侶に紫衣を着ることを許す権限を持っていました。それに基づいて、後水尾天皇は、大徳寺・妙心寺などの僧正90余人に紫衣を賜りました。

ところが、秀忠は「禁中公家諸法度」違反を理由に、綸旨(天皇の命令)の撤回を要求しました。やむなく天皇は一度出した命令を撤回することとなりました。この事件は、天皇の権力が最低にまで引き下げられたことを示す出来事です。

 

こうして家康・秀忠によって、天皇の政治的な権力は幕府に移り、天皇は日本古来の文化を維持するための、文化的な象徴になりました。しかし、見逃してはならないのは、天皇の統治権が失われたわけではないことです。幕府の権力の正統性の根拠は、朝廷から統治を委任されていることによります。朝廷の委任なしには、徳川家は権力を簒奪(さんだつ)した者ということになってしまい、幕府への反抗が正当化されることになります。幕藩体制を安定させるために、朝廷の権威という裏づけが絶対不可欠だったのです。

 家康はこのことを自覚していました。彼は「忠」について 次のように子孫に訓(おし)諭しています。「凡そ所謂(いわゆる)忠とは、豈(あに)独り徳川氏に忠なるのみならん。乃ち天に忠なるものなり。我も亦天に忠なるものなり、故に天これに授くるに大柄(たいへい=大権力)を以て。然れども自らその柄を有し驕奢怠惰、以て世民を虐せば、即ち天将にこれを奪はんとす」と。

 

徳川幕府は家康以後、約260年続きますが、国内の秩序を維持し、世界の歴史にも希な平和の時代を保ちました。この間、天皇の権力は実質的に失われていたものの、国民に尊皇の心は受け継がれ、皇室への憧れは高まりました。そして、やがて尊皇倒幕という新たな思想が登場し、維新への潮流が湧き起こっていくことになります。ページの頭へ

 

参考資料

・山本七平著『徳川家康』(プレジデント社)
・童門冬二著『徳川家康の人間経営』(祥伝社)
 
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■天下は天下の天下なり〜武士道の政治

2006.8.15

 

戦国時代の武士は、なによりも戦闘者でした。しかし、徳川家康によって戦国時代に終止符が打たれると、武士には天下を統治する為政者という役割が課せられるようになりました。ここで武士道は、天下公共のために尽くす道として発展していきます。

 

家康は江戸に幕府を開くと、朱子学を公認教学としました。朱子学によって幕府権力の正統性を理論化しようとしたのです。林家の祖・林羅山は、家康に対し「天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり」という思想を伝えました。為政者は国家を私物とし、ほしいままにしてはならない、天意に従って天下万民の安寧のために努めねばならないというのです。この「天下は……」の語句は、常に家康の胸中にあったものであり、江戸時代の政治思想の要となったものです。

 

江戸前期の儒学者・中江藤樹(1608-48)は、武士のあるべき姿を「士道」として説きました。藤樹の「士道」とは、戦国時代の侍の道を儒教によって発展させたものであり、「君子道」とも言えます。「士」とは為政者を意味し、仁義という道徳を行う人間です。こうして、武士は天下国家を治めて人倫の道を実現すべきものとされました。

藤樹の弟子・熊沢蕃山(1619-91)は、その思想を継承し、岡山藩主・池田光政の下で実践しました。蕃山によると、臣下の人馬や道具は主君から賜った知行でまかなうのだから、「我物ながら主君の物」であり、主君の領国統治の手助けをなすための手段です。主君の領国は将軍から預かっているものであり、将軍はまた天下を天より預かっているのです。したがって忠孝も、単に私的な主従関係の道徳ではなく、天下統治のための道徳となります。忠孝とは、主君の個人的な意思に従うのではなく、「道理にしたがうを以て忠とも言い孝とも言う」とされます。そして主君の天職は「仁政を行」ことであり、臣下の天職は「君を助て仁政を行はしむ」ことに求められました。

 

蕃山と同時代、山鹿素行(1622-85)は、次のように述べています。

「人君というものは、天下万民のためにその頂点を立てたものであって、人君はその地位を自分自身のためのものと考えてはならない。(略)それ故に、民が集まって君主が立てられ、君主が立って国が成立するのだから、民は国の本と言うべきである」(『山鹿語録』)と。

「人君」つまり君主は、天の意思によって天下万民のために立てられたものだ。民が集まって君主が立てられ、君主が立って国が成立するのだから、民は「国の本」と言うべきであるという思想は、日本的デモクラシーとも言うべきものです。素行において、「忠」とは、家臣が主君に利益をもたらすことではなく、国家天下のために心を尽くすことであるとされました。これが、天下公共の理念にかなった忠義であると素行は考えたのです。

 

蕃山・素行に続いて、荻生徂徠(1667-1728)は彼らの説いた武士道を、さらに発展させました。徂徠は言います。

「御政務の筋は上の私事ではない、天より仰せ付けられた御職分である。(略)下たる人にても御政務の筋に関わることを申すは、暫(しばらく)の内、上と御同役である。(略)下たる者も遠慮すべき事に非」(『政談』)。

徂徠によれば、君主も家臣も領国の統治を、天から命じられた公職にあります。政治の目的は、君主の私的利益の実現ではなく、「治国安民」という公共の利益の実現に向けられなければなりません。家臣の主君に対する忠義も、単に個人としての主君を利することではなく、天意に応えるために主君が実践する「治国安民」の仕事を補佐することに他ならないのです。

 

林羅山・中江藤樹・熊沢蕃山・山鹿素行・荻生徂徠と続く系譜は、武士道における天下公共の精神の発達過程と見られます。この精神は、各藩の藩政に生かされていきます。なかでもそれを最も徹底したのが細井平洲であり、平洲に学んだ米沢藩主・上杉鷹山でした。松代藩家老・恩田杢もまた、同じ精神を持って、藩政改革を成功させました。(註1

社会道徳が非常に低下している今日、私たちは、かつてわが国に厳然と存在した公共の精神を、武士道の中から学ぶべきだと思います。

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(1) 恩田杢・上杉鷹山・細井平洲については、以下の拙稿をご参照下さい。

05対話による改革〜恩田杢と『日暮硯』

0617歳の奮起〜上杉鷹山

07上杉鷹山の師・細井平洲

参考資料

    笠谷和比古著『武士道と現代』(産経新聞社)

    同上『武士道と日本型能力主義』(新潮選書)

 
 
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剣の道から真理の道へ〜宮本武蔵

2003.1.2

 

  「道」という言葉は、何かの技術や趣味を表す言葉につけて用いられます。たとえば、茶道、華道、書道、柔道、合気道など。このように「道」という言葉がつくと、単なる技術や趣味ではなく、それ以上のものが含意されます。すなわち、技術の熟達や趣味の追求を通じて、精神的に高い境地を目指すものが、日本の「道」なのです。

 そうした「道」の数あるなかでも、剣の道は、特異なものといえるでしょう。なぜなら、この道は、剣を用いて戦う、命がけの道だからです。この剣の道を極めて、高い精神的境地に達した人に、宮本武蔵がいます。

 

 若き日の武蔵は、関が原の戦いに参加したと考えられています。この戦いを制した徳川家康が天下を治め、戦国時代は終わりました。その結果、本来、専門的な戦闘者であった武士たちは、実戦の場を失いました。彼らは、太平の世の中で文民・官僚的な存在に変わっていきます。しかし、その時代にあってなお、武蔵はあくまで戦闘者であろうとし、独自の道を歩みました。

 

 武蔵の生年は天正12年(1584)頃、出生地は岡山県英田郡大原町宮本といわれますが、異説もあります。幼少の頃から剣を好み、13歳の時、初めて試合をして打ち勝ち、以後、諸国を巡って剣の道一筋に自分を錬磨しました。29歳の時、佐々木小次郎と巌流島で決闘するまで、60回余の勝負をし、一度も敗れたことがありませんでした。

 

 これは想像を絶する実績です。私たちは現代において、大山倍達、ヒクソン・グレイシー、アーネスト・ホーストなどの武の達人を目の当たりにしていますが、武蔵が彼らと決定的に異なるのは、文字通りの真剣勝負を生き抜いたことです。剣の道とは、刃物による決闘です。斬られれば、自分が死ぬのです。またその戦いは一対一の戦いに限りません。武蔵は時には一人で十人、数十人を相手とし、ことごとく打ち破って、生き残りました。凄絶というほかありません。

 

最大のライバル・小次郎と雌雄を決した武蔵は、巌流島最後に決闘やめます。その後の武蔵は、諸国を周遊し、さらに剣の道を深めていったようです。そして50歳にしてついに兵法の道を極めたという自覚に至ります。その後、自ら到達した境地を書物に書き著すことになります。

 

武蔵は晩年、熊本の細川家に迎えられました。ここで藩主・細川忠利に求められて、『兵法三十五箇条を書きました。この書は、剣の技術をひたすら具体的に箇条書きにしたものでした。それをもとに、さらに踏み込んで書き記したのが、畢生(ひっせい)の著、『五輪書です。ここで武蔵は、剣の技術だけでなく、武士のあり方や武士としての心の持ち方までを説き、兵法の奥義を説き明かしています。

 

『五輪書は、近年アメリカでもベストセラーになり、ビジネスマンによく読まれているといいます。

『五輪書の構成については後に述べることして、まず本書における武蔵の根本姿勢について触れておきたいと思います。根本姿勢とは、武蔵は、剣の道において何よりも大切なことは、勝つことだとし、勝つことを、兵法の第一にあげていることです。武蔵は次のように書いています。「武士の兵法を行う道は、何事においても他人に勝つことを根本とする。一対一の斬り合いにおいても集団戦においても、勝って、主君のため我が身のために名をあげ身を立てようと思うことが、武士の本領である」と。

 そして、武蔵は、断じます。「ただ死を覚悟して生きよ」という『葉隠も、「日々道徳的に自分を律して生きよ」という大道寺友山や山鹿素行の書も、「武士が武士である拠りどころ足り得ない」と。それらは武士以外の身分の者でもできる。「他の身分と武士との違いは、戦いに勝つことを第一義に考えるかどうかだ」と武蔵は言うのです。

武蔵独自の二刀流も、生きるか死ぬかの厳しい戦いの中から生み出された必勝の剣法でした。それが「二天一流」です。

 

『五輪書は、必ず勝つために、心身を鍛錬し、数々の死闘を生き抜いてきた武芸家の書です。

本書は、地・水・火・風・空の5巻で成っています。「地の巻」では、兵法の道の概要、二天一流の見立て、自分の流儀を二刀と名づけた理由、兵法を治める際の心がけなどを説きます。「水の巻」では、一対一の立ち合いの心得を述べます。身なり、目のつけ方、太刀の持ち方、足づかい等を説明します。構えあって構えなし、拍打ち、あたり、受けなど、自分の流儀の奥義を独特の用語で列記しています。「火の巻」は、多数の敵を相手にする場合を中心に述べます。先を知ること、「景気」というその場の気の流れのようなものを感知すること、太刀の用法、敵状を知ることなどを記します。「風の巻」では、他流剣法の批判と自身の兵法の正当性を述べます。太刀の大小や数や型などにとらわれるよりも、臨機応変で自然な対応をすべきことを主張します。そして全巻の結びとなる「空の巻」では、こうしたすべての技術・経験を費やして、兵法の道を究め尽くした果てに、武蔵が到達した常人には窺(うかが)い知れないほど深い、精神の境地が開示されます。

 

その境地への手がかりとして、心のあり方について述べた部分が、「水の巻」にもありますので、そこから見てみましょう。「兵法心持の事」です。原文から引きます。「兵法の道において心の持様は『常の心』にはる事なかれ、常にも兵法の時にも少しもかはらずして心を広く直にし、きつくひっぱらず少もたるまず、心のかたよらぬやう心を直中に置て心を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那もゆるぎやまぬやうに能々吟味すべし、静なるときも心は静かならず、如何に疾き時も心は少もはやからず、心は体につれず体は心につれず、心に用心して身には用心をせず、心の足らぬことなくして心を少しも余らせず……」。

すなわち、「兵法の道においては、心の持ち方は『平常心』と変わってはならない。平常も、戦いのときも、少しも変わることなく、心を広く素直にし、緊張しすぎることも少しもたるむこともなく、心が偏らないように真中に置いて、心を静かに揺り動かしながら、その動きの一瞬一瞬には心が留まらないように、よくよく注意しなければならない。動作が静かな時にも、心を静止させず、動作がいかに速い時にも、心は少しも速くなく平静に保ち、心が体にとらわれることなく、体が心に引きずられることなく、心に注意して体には注意しないようにし、心は不足のないようにし、また少しも過剰ではないようにして……」。

平常心と、心身の自在なバランスの大切さが、深遠で微妙な表現で書き記されています。何事でも、完全にコツを身につけ、自分のものにした技術は、どんなに難しい技でも、なんのとらわれもなく、自然にできてしまうものです。武蔵は、そういう心の状態が、武芸の道でも大切だと言っているのでしょう。ちょっとした隙が死を招く、真剣勝負の道であるだけに、言い様のない凄みがあります。

 

次に、今、引用した部分を踏まえて、「空の巻」の枢要な部分を挙げてみます。

「武士は兵法の道を慥かに覚え、其外武芸を能く覚え武士の行道にも暗からず、心の迷ふ所なく、朝々時時に怠らず、心意二つの心を研き、観見二つの眼を磨き、少しも曇り無く迷ひの空の晴たる所是実の空と知るべきなり、実の道を知らざる間は仏法によらず世法によらず、己れゝゝは慥か成る道と思ひ善き事と思へ共、心の直道よりして世の大がねに合せて見る時は其身其身の心贔屓、其目ゝゝのひずみによる、実の道には背く物なり、其心を知て直に成る所を本とし、実の心を道として兵法を広く行、正敷明に大成る所を思ひ取て、空を道とし道を空と見る所也」。

すなわち、「武士は兵法の道を確かに覚え、その他の武芸をよく覚え、武士の行う道にも暗くなく、心に迷うところがなく、日々怠らずに鍛錬し、心・意の二つの心を磨き、観・見の二つの目を磨き、少しも曇りがなく、迷いが晴れている心の状態こそ、真実の空と思うべきである。真の道を知らずにいるのに、仏法によらず、世間の法によらず、自分で正しい道と思い、善いことだと思い込んでいても、本当の道から考え、宇宙の大きな尺度に合わせてみると、自分を贔屓目(ひきめ)に見ていたり、自分の目が歪んでいたりし、正しい道から外れているのである。この道理をよくわきまえて、真っ直ぐなところを根本とし、真実の心を道として、兵法の道を広く行い、正しく、明らかに、物事を大きくとらえて、空を道とし、道を空と見ることである」。

最後は、次の一文で終ります。「空有善無悪 智者有也 理者有也 道者有也 心者空也」。すなわち、「空には、善があり悪はない。智がある。理がある。道がある。心の根本は空である」

こうした深遠な文言によって、宮本武蔵は単なる無敵の剣豪ではなく、剣を通じて、もっと深い境地へと進んだ達人であることが、察せられるのです。

 

武蔵は、長年命がけの決闘を重ねたことによって、常人の遠く及ばないほど高く自由な境地に到達したのでしょう。晩年の武蔵は剣以外に、書・画・彫刻・工芸等の道にも通じ、「ニ天」と号して、優れた作品を多く遺しています。特にその水墨画は高く評価されています。京都の東寺勧智院に武蔵の作と推定される襖絵(ふすまえ)が伝わっているほか、代表作に「枯木鳴鵙図」「鵜図」などが挙げられます。

どうして、剣を書筆や絵筆に持ち替えた武蔵は、全く別の分野でこのような創作をなし得たのでしょうか。それは、ちょうど登山でも山の頂点を極めれば、どの方向の道にも下って行けるように、武蔵は剣の道を極めたことによって、それ以外の道にも遊び出ることができるようになったのでしょう。換言すれば、一つの道を極めたことによって、武蔵は、万事に通じる真理の道に分け入っていったことが、うかがわれるのです。

武蔵は「兵法の利に任せて、諸芸諸能の道となせば、万事において我に師匠なし」「その道にあらざるといふも、道を広く知れば、物毎に出あふ事也」と書いています。

 

書・画・彫刻・工芸等の道に遊んだ武蔵は、改めて剣の奥義に向います。独り洞窟にこもる武蔵は、剣の道の極意を書に認(したた)めました。それが、『五輪書だったのでした。本書を完成するや、わずか数日後、武蔵は波乱万丈の生涯を閉じました。享年62才。最後の5年間を過ごした熊本の千葉城にて。正保2年(1645)5月19日のことでした。

 

宮本武蔵を、一躍有名にしたのは、吉川英治の名作『宮本武蔵です。総計1千万部以上が出版されており、明治以来、日本の小説の中で、この作品ほどよく読まれたものはないといわれます。夏目漱石や司馬遼太郎の作品に優るとも劣らない国民文学であり、日本国民の「教養の書」また「人生の書」として愛読されているのです。数年前には、英訳版『Musashiがヒットし、海外にも多くの読者を得ています。映画やテレビドラマもたびたび製作されており、内田吐夢監督、中村錦之助主演の東映映画「宮本武蔵」は映画史上に輝く不朽の傑作です。

 そのように、武蔵という人物が、今日なお多くの人の共感を呼ぶのは、なぜでしょうか。「道を求める生き方」は、日本人の生き方の特徴とも言えます。宮本武蔵という一個の求道者が歩んだ道に、私たちは共感し、人として生きる「道」の奥深さを感じずにはいられないのです。ページの頭へ

 

参考資料

・宮本武蔵原著『五輪書 武蔵ニ天一流の極意(教育社新書)

・吉川英治著『宮本武蔵(講談社文庫)

 
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大石・松陰・乃木の師、山鹿素行とは

2001.7.18

 

武士道というと、多くの人は『葉隠を語ります。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一句はあまりにも有名です。しかし『葉隠は佐賀鍋島の地方武士の作であり、書かれた当時、それほど社会的影響を与えた書ではありませんでした。これに比し、江戸時代の武士たちに教科書として広く読まれたものに、『甲陽軍鑑『武道初心集等と並び、山鹿素行の『武教全書等の著書があります。

 

江戸時代最大の事件は、元禄太平の世を驚かした赤穂浪士の討ち入りでした。以来、「忠臣蔵」は日本人に最も人気のある物語です。忠臣内蔵助(くらのすけ)こと大石良雄は、吉良邸討ち入りの際に、山鹿流の陣太鼓を打ったといわれます。実は、素行は幕府によって赤穂に流され、その地で8年9ヶ月余の月日を過ごしたことがあるのです。その際、素行は、国家老の大石良重のはからいにより、大石家の隣屋敷に住んでいました。良重とは、後に赤穂浪士を率いる大石良雄の大叔父です。その縁で、良雄は8歳の時から17歳まで素行に接して感化を受けました。少年期に、その兵学者に学んだことは、良雄の人格形成に重大な影響を与えたことでしょう。

 

素行は、「自分は侯の諸臣に儒学と兵法を教えたが、みな見事に会得してくれた。従って、もし人倫の道にはずれた異変がおこれば、必ずや君の命に従い、命がけで事に当たるだろう」と語ったと伝えられます。山鹿語録には、「君の讎(あだ)を奉ずる事、是勇士の節に死する大義也」という言葉があります。大石らの赤穂浪士は、素行の教えを実践し、武士のなんたるかを世に知らしめたと言えるのです。

 

『中朝事実は、素行が赤穂滞在中に完成した名著です。この書で素行は、中華思想・シナ崇拝を斥け、日本こそ「中国」だと主張しました。その理由は、皇室が連綿と続いているわが国は、智仁勇の三徳においてシナよりはるかに優れている、だから日本こそ世界の中央にある国だというのです。また、素行は、天皇に対する忠義こそ、真の忠だと説きました。これは、『葉隠の説く封建領主への忠義を超えたものです。

  

そうした素行の思想を最もよく理解して実行・徹底したのが、吉田松陰です。松陰は、代々山鹿流の兵学師範だった吉田家を継いでおり、素行を「先師」と呼んでいます。

「吾(われ)も人も貴き皇国に生まれ、なかでもわれわれは武門であり武士である上は、その職分である武道をつとめ、皇国の大恩に報じなければならぬは、いうまでもないことである。

しかるに、誰も職分と国恩に報いた者は、古今にわたって極めてまれなのである。それは、何故かというとその道を知らぬ者が多いからである。もしその道をよく知ってさえすれば、誰が職分をつとめまいとし、又、国恩に報じまいとするだろうか。道を知りたいと云うのなら山鹿素行の教戒を受入れなさい」と松陰は記しています(『武教全書講録)。尊皇倒幕を説き維新の道を指し示した松陰に、素行は大きな影響を与えたのです。

 

素行の影響は、明治時代にも及びました。陸軍大将・乃木希典も、素行を尊敬してやまない一人でした。乃木は、松陰の叔父であり師匠であった玉木文之進の内弟子でした。日露戦争の激戦、旅順陥落後、乃木は敗将ステッセルに礼をもって接しました。各国特派員が二人の撮影の許可を求めたとき、「敵将にとって後々まで恥が残るような写真を撮らせることは日本の武士道が許さない。しかし、会見後、我々が既に友人となって同列に並んだ所を一枚だけ許そう」といい、ステッセルに帯剣を許し、肩を並べて写真に収まりました。その態度は、外国人記者たちを感動させ、各国に日本武士道の表れとして報じられました。乃木こそ、明治の世にあってなお武士道に生きた最後の武士でした。乃木は、主君と仰ぐ明治天皇の大葬に際して、鎌倉以来の古武士の伝統にならって殉死しました。乃木は自費で素行の『中朝事実を刊行し、死の前日にこれを皇太子に献上しました。

 

  元禄の大石、幕末の松陰、そして明治の乃木――これらの日本人に武士道の真骨頂を教えたのが、山鹿素行だったのです。ページの頭へ

 

参考資料

・『日本の名著 12 山鹿素行(中央公論新社)

 
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世界に知られる武士の物語『忠臣蔵』

2001.8.1

 

 「忠臣蔵」は、なぜこんなに人気があるのでしょうか。赤穂浪士による吉良邸討ち入りは、元禄時代の江戸庶民を熱狂させました。この事件をもとに「仮名手本忠臣蔵」という芝居が作られ、江戸や大坂で大ヒットしました。事件から約300年たった現代においても、「忠臣蔵」の人気は衰えません。歌舞伎や講談・浪曲にはじまり、映画やテレビ番組が数え切れないほど多く作られています。歌謡曲でも、三波春夫の傑作「俵星玄」が紅白歌合戦で歌われたことがあります。

 

 根強い人気のわけを考えてみると、「忠臣蔵」には、日本人に感動を与える要素がたくさん詰まっているのです。たとえば、浅野長矩と家臣たちのきずな、大石内蔵助と主税の親子の情、岡野金右衛門と吉良邸女中の恋とかけひき、内蔵助と妻・りくとの夫婦愛、早野勘平と同志の連判など、枚挙にいとまがありません。日本人が古くから大事にしてきた君臣の義、親子の孝、夫婦の和、兄弟・同志の友愛などを考えさせられる物語なのです。また、大石に見る指導者像、集団の中の個人のあり方、「公と私」などのテーマが、そこに重なり合っています。それゆえ、赤穂浪士の姿に、日本人は自分の生き方を照らしてみるわけです。

 

 赤穂浪士の討ち入りについて、事件当時は賛否こもごもした。手放しで称賛する意見、犯罪だと決め付ける意見、一面は認めるが半面では批判する意見など、評価は多岐に分かれています。しかし、大衆的な人気は増す一方でした。そして維新後、明治天皇が彼らをたたえたことにより、「忠臣蔵」は国民道徳の鑑(かがみ)とされるまでになったのです。

 明治元年(1868)、御年わずか16歳であった明治天皇は、初めて京都から江戸に入られました。そして最初に、勅使を泉岳寺につかわし、こう述べられました。「汝良雄等固く主従の義を執り、仇を復して法に死す。百世の下、人をして感奮興起せしむ。朕、深く嘉賞す」。すなわち、「大石内蔵助ならびにその配下の諸君は、固く君臣の義を行い、主君の仇を討ち、法に従って死んだ。諸君の振る舞いは、日本の国民を感動・奮起させた。私は、ここに深くこれをほめ称えるものである」と。

 

 フランスのルネ・セルヴァワーズ太平洋巡回大使は、「こうして四十七士は、大和魂すなわち永遠の日本の権化となった」と記しています。大使はまた、「戦後、日本の企業や公共の機関で、上司のもと一糸乱れず働き、それによって立派に祖国復興を成し遂げた国民のすべての階層に、いまなお武士道精神は生きている。日本人自身が想像するよりも深く、まして外国人には到底想像しかねるほどに、深く生きている。現代の日本を知ろうとして、もしこの武士道の中心たる『誠』『至誠』を無視するならば、我々は取り返しのつかない過ちを犯すこととなるだろう」と述べています。

 実は「忠臣蔵」は、日本の代表的な物語として、世界に紹介されているのです。最初の紹介者は、アルジャーノン・B・ミットフォードでした。彼は幕末・明治の在日英国公使館の書記官でした。ミットフォードは明治7年(1874)、『日本の昔話を出版しています。その中で、彼は歌舞伎「忠臣蔵」の筋書きを書き、自分が目撃した切腹を描写しています。この本は欧米で広く読まれ、「武士道」を広く海外に知らしめました。

 

 日本では、恩を受けた主君のために仇討ちをすることは、忠義の振る舞いとして、人々に大きな感動を与えます。これは日本独特の倫理であり、西洋では個人の名誉が傷つけられたときは決闘を申し込みますが、主君の名誉のために決闘を申し込むことはしません。インドの社会でもこうした例はなく、朝鮮にも主君の仇を討つという観念は昔からないようです。それゆえ、「忠臣蔵」には日本的な倫理観の特徴がよく表われているわけです。

 

  さて、このエッセイの読者のみなさんは、「忠臣蔵」のあらすじを、大体ご存知でしょう。では、次の質問の答えを考えてみてください。

 

 @この物語は、武士の忠誠心とはどんなものだと語っているか。

 A浅野はなぜ切腹したのか。

 B47人の浪人たちは、なぜ切腹したのか。

 Cこの物語は、忠誠心ばかりでなく、反逆と暴力を教えている

と思われる。説明せよ。

 

 これらの質問は、『The Growth of Civilization』(文明の成長)というアメリカの教科書が、生徒に問いかけているものです。この教科書は、挿絵入りで「忠臣蔵」を教えています。また、イギリス、オーストラリア等の教科書にも、「忠臣蔵」を「日本で最も有名な物語」として、掲載しているものがあります。これに対し、日本の教科書には、「忠臣蔵」を具体的に採り上げているものはないでしょう。最も日本的な物語として世界に知られる「忠臣蔵」を、日本の青少年は教えられていません。これで、自国の文化や精神を知ることができるでしょうか。

 「忠臣蔵」という物語を味わうことは、日本の心を深く知る道です。そのことを、再認識したいものです。ページの頭へ

 
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■死を覚悟して日々を生きよ〜『葉隠(1)

2006.11.16

 

「武士道といふ事は、死ぬ事と見つけたり」――この一句によって武士道の精髄を表すものとされるのが、『葉隠』です。

葉隠』は、佐賀鍋島藩士・山本常朝(つねとも)(1659-1719)の談話を書き留めた書です。常朝は、9歳で藩主鍋島光茂に仕え、以来、主君の側近くに勤めました。主君が死ぬと、出家隠棲しました。その彼のもとを訪れた若い藩士・田代陣基に、老齢の常朝は武士の心得を語りました。これをまとめたものが『葉隠』です。その後、『葉隠』は鍋島藩士の間でひそかに書き写され伝えられました。

 

本書の冒頭には次のように記されています。

「どのような御無理の仰せつけをこうむろうとも、又は不運にして牢人・切腹を命ぜられたとしても少しも主君を恨むことなく、一の御奉公と存じて、未来永劫に鍋島の御家のことを第一に案じる心入(こころいれ)をなすことは、御当家の侍の本意にして覚悟の初門なのである」と。

そして、それに続いて記されているのが、冒頭の一句「武士道といふ事は、死ぬ事と見つけたり」です。

 

「武士道といふ事は、死ぬ事と見つけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風(かみがたふう)の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当たるやうにわかることは、及ばざることなり。我人、生きる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身(しにみ)になり居る時は、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕果(しはた)すべきなり」

この一文は、前半で死ぬべきことを説いています。しかし、後半では、死を覚悟して生きることを説いています。すなわち、武士は毎朝毎夕、改めて死を覚悟し、常に死に身になって生きることだ。それによって、初めて生死を超えた自由の境地に到達できる。そしてこの境地を得たとき、何ものも恐れることなく、一生落ち度なく自己の仕事を成し遂げることができるというのです。つまり、単に死ぬことではなく、死んだ気で生き、自分の使命を果たすべきことを説いているのです。このことは、現代人にも当てはまる密度の濃い生き方だといえるでしょう。

 

ところで、『葉隠』が武士の使命としているのは、主君に対する忠誠です。そして、『葉隠』が説くのは、「主従の契(ちぎり)」において常に「死身」になって仕えるという意味での「死の覚悟」なのです。常朝自身、9歳で奉公して以来、主君の死まで仕事を果たし、60歳まで生きています。『葉隠』はそうした奉公人としての彼の生涯が反映しています。

このことは、次のような文章でも明らかです。

「我が身を主君に奉り、すみやかに死に切って幽霊となり、ニ六時中主君の御事(おんこと)を歎き、事を整へて進上申し、御国家を堅(かた)むると云う所に眼をつけねば、奉公人とは言われぬなり」

「歎く」とは、主君のことを心底から切実に思うことです。こうした主君に対する思い入れは、『葉隠』では「恋」という「理非の外なるもの」とされます。常朝はそれを「忍ぶ恋」にたとえました。主君に対する恋情が、没我的忠誠心の源にあるのです。

こうした部分は、今日では特殊な封建思想という感じがします。しかし、死を覚悟して日々を生きるという『葉隠』の生き方は、自分の責任と使命を自覚する者に、意志と勇気を与えてくれるものと言えるでしょう。

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■大義のために生き通せ〜『葉隠(2)

2006.12.01

 

武士道の真髄を説いたものとされる『葉隠』は、死に急ぎの哲学ではありません。若くして散ることを美化しているどころか、『葉隠』は随所に生き通して義を尽くすことをうたっています。

 

語り手である山本常朝は、言っています。

「一、武士道においておくれ取り申すまじき事。

一、主君の御用に立つべき事。

一、親に孝行仕るべき事。

一、大慈悲を起こし人の為になるべき事。

此の四誓願を、毎朝、仏神に念じ候へば、二人力になり、後へはしらざるものなり。尺取虫のように、少しづつ先へ、にじり申すものに候。仏神も、先誓願を起し給なり」

四つの誓いを実行するために、尺取虫のように一歩一歩、粘り強く、前へ進もうとする努力が、武士道には必要だというのです。死に急ぎとは、全く正反対の話です。

 

次の言葉も、一生を貫く根気の良さが武士道であることを示しています。

「忠節の事、御心入れを直し、御国家を堅め申すが大忠節なり。一番乗、一番槍などは命を捨ててかかるまでなり。其場ばかりの仕事なり。御心入れを直し候事は、命を捨ててもならず、一生骨を折る事なり。主君も御請け取り候ものになり、御心安く御懇意を請け、取寄り、家老役に成されたる上にてなければ、諌め申すことは叶わず、此の間の苦労量り難き事なり。我が為の私欲の立身さえ骨折ることなり。これは主君の御為ばかりに立身する事なれば、中々精気続き難き事なり。然れども此の当りに眼を着けずしては、忠臣とはいふべからず」。

「御心入れ」とは、自分が仕える主君の心構えのことです。主君の考えが誤っているときは、これを正していくのが武士だ、と常朝は言います。戦場での一番乗、一番槍などの目立った功名は、その場で捨て身になればできないことではない。しかし、主君の心構えを改めさせ、正しい政道を行い、国家を固めることは、その場限りの諫言(かんげん)でできることではない。ただ命を捨てればできるというものではないところに難しさがある、と常朝は語ります。

主君を諌めるといっても、主君から評価を受け、信頼され、主君が耳を傾けるくらいの識見と器量を磨かなければ、諌めなどできることではない。一生かかって骨を折って成し遂げる仕事である、と。そして、こう考えないようでは、真の忠臣ということはできないというのです。

 

葉隠』は、君主は正しく慈悲深く、民や家臣の事を思って政治をすべきであると考えています。だから、主君のために尽くし、御家のために尽くすことは、民衆や国全体のために尽くすことと同じだと考えます。そして、主君に尽くすことを通じて、公共に尽くすことが、行いの真の目的となっています。つまり公共に尽くすために、主君に尽くすのであり、それが大義なのです。そして、国を思い、社会を思うなら、軽々しく死んではならないわけです。

 

このように見てくると、「武士道とは死ぬことと見つけたり」に言う「死ぬこと」とは、自分の私を捨てて、公共の正義の実現のために生きる覚悟を示したものであることがわかります。つまり、「死ぬこと」とは私心私欲を超えることを意味したものです。大義のために、一生を生きて、生きて、生き抜いて尽くすこと。それこそ、真の武士道だと説いていると解すべきでしょう。

今日、社会は『葉隠』の時代とは大きく変わりましたが、私を超えて公に尽くすことの大切さは、変わっていません。その公が国家であれ、世界であれ、『葉隠』そして武士道から学ぶものは多いと言わねばなりません。ページの頭へ

 

参考資料

・『葉隠』(岩波文庫)

・『葉隠』(徳間書店)
 
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■武士道の規範とされた『武道初心集』

2006.12.16

 

武士道の書としては『葉隠』が有名ですが、『葉隠』は佐賀鍋島藩という一地方で密かに伝えられたものに過ぎません。これに対し、『葉隠』とほぼ同じく江戸時代初期に成立し、江戸時代を通じて広く武士道の規範とされ、さまざまな藩で読み継がれた書が、『武道初心集』です。

 

本書が著された時代は、戦国の気風が段々薄れ、実戦の機会のない武士たちは、心身ともに弛緩しつつありました。こうした武士たち、とりわけ下級武士への警鐘と再教育を意図して書かれたのが、『武道初心集』です。それは、武士の再教育のために、教科書的な役割を担って公刊されたものでした。

著者の大道寺友山は、元禄から享保(1690年代から1720年代)にかけて、さまざまな藩に招かれ、藩士の教育係を務めた軍学者です。

 

本書で友山が説いたことは、つねに死を覚悟することに尽きます。本書は、教育・礼儀・言葉づかいなどの事柄についても、すべて死の覚悟が大前提となっています。それは明日、戦乱となろうとも対応できるよう物心の備えを怠るなという、常在戦場の精神を説くものです。

本書は、次のような趣旨の言葉で始まります。

「武士というのは、正月元旦の朝、雑煮を祝う箸を手にしてから、その年の大晦日の夜にいたるまで、毎日毎夜のごとく、心に死を覚悟するのを第一の心がけとするものである」。

これは、『葉隠』の「武士道とは死ぬ事と見つけたり」と同じく、死を覚悟して日々を生きるという武士の心構えを表わすものです。

「つねに死の覚悟ができていれば、忠孝ふたつの道を踏みはずさず、さまざまな危険や災難にあうこともなく、健康に恵まれ寿命も永く保持できるし、加えて、人品骨柄までも立派になるなど利点の多いものである」

 

このように説く本書は、続いてその理由を述べます。それは大略以下のようなものです。

「元来、人間の命は、夕べの露、朝の霜のように、はかないものだ。なかでも危険なのは武士の命である。それなのに、いつまでも生きられると思い込んでいるから、主君への奉公を怠り、両親に対する孝養も疎かになる。この命明日知れぬものとの覚悟があれば、主君や親に仕えるのも今日を限り、これが最後になるかも知れないという気持ちになるだろう。したがって、常日頃、死を覚悟していることが、忠孝ふたつの道に合致するのだ。

 また、他人には慎重にものを言い、他人の言葉には慎重にこれを返すので、不要な口論などはしなくてすみ、人に迷惑されてもくだらない場所へ行くこともなく、したがって不慮の災難に出合うこともないから、さまざまな災難から逃れられる。

 人は死ぬという事実を忘却していると、過食・大酒・色道などで健康を害し、内臓疾患で思いもよらぬ若死にをしたり、たとえ命を長らえてもなんの役にも立たぬ病弱者で終わってしまう。つねに死を心がけていれば、年も若く身体が丈夫であっても、健康には十分注意して、暴飲暴食をせず色ごとも遠ざけ慎むので、病を患うこともなく、健康で長命を維持できる。

 そのうえ、死を遠い先の事と思えば、この世に命を長らえるものと錯覚するから、心の中にいろいろな願望を持つので、欲深くなって他人の物を欲しがり、わが物は惜しむことになる。つねに胸の奥に死の覚悟があれば、この世は味気ないものと悟れるから、貪欲の心もおのずと希薄となり、欲しいとか惜しむといった気持ちがあまり出てこないものだ。人間は死を覚悟さえすれば、人品骨柄まで良くなり、人格の向上ができるとは、これをいうのである」

 

このように『武道初心集』は、常日頃、死を覚悟して生きることを、武士の第一の心がけとしています。武士道の持つ高い精神性、優れた道徳性は、こうした心がけが生んだものと言えるでしょう。

 

大道寺友山は、武田流軍学を集大成した『甲陽軍鑑』の編著者・小幡景憲や、その弟子で『武教全書』等の著者・山鹿素行らに師事しました。『甲陽軍鑑』『武教全書』そして『武道初心集』等は、江戸時代の武士が実際に学んだ武士道の教本です。江戸時代における武士道の形成には、武田信玄の甲州流兵学が、強い影響を与えたことが、このことからもわかります。(1)(2)

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(1)拙稿「武田流軍学の書、『甲陽軍鑑』

(2)拙稿「大石・松陰・乃木の師・山鹿素行とは

参考資料

・大道寺友山原著・加来耕三訳『武道初心集』(ニュートンプレス)
 
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■無刀流の「五常の剣」〜柳生石舟斎

2007.1.1

 

武士の最も代表的な武器は、刀です。刀は刃物であり、殺人の道具です。武士たちは刀の用い方を磨き、必殺の技を競いました。しかし、剣の技をさらに深く極めた武芸者は、剣を無用とするような境地へと至りました。そうした武芸者の一人が、柳生石舟斎です。無刀流の極意に達した彼は、「五常の剣」という精神性の高いものへと剣の道を深めていったのです。

 

柳生石舟斎宗厳(むねよし)は、戦国時代の末期、畿内随一の兵法者として知れ渡っていました。その噂を聞き、新陰流開祖の上泉伊勢守信綱が立ち合いを申し出ました。永禄6年(1563)のことです。宗厳は快諾したものの、信綱と立ち合うどころか、弟子の鈴木意伯に簡単に打ち負かされます。己の慢心を恥じた宗厳は、信綱に入門を願いました。信綱はこれを快く受け入れました。宗厳37歳のことでした。

宗厳に類まれな素質を見た信綱は、3日間宗厳と二人だけで立ち合い、新陰流の極意を授けました。信綱はさらに柳生の里に足を運び、半年間にわたって宗厳を指導しました。そして一年後、大きく成長した宗厳は、信綱の前で、無刀取りの極意を披露しました。それを見た信綱は、もう何も教えることはないと言い、宗厳に柳生新陰流を名乗ることを許しました。

無刀取りという技は、剣を持った相手に素手で立ち向かうものです。その意味は、刀に拠らない無刀の境地に立ち、武器なしで己を守る兵法のことを指します。宗厳は、遂に剣を無用とする境地にまで到達したのです。

 

柳生家は代々大和国柳生庄(現在の奈良市北東部)を領地としていました。しかし、宗厳の代に太閤検地により領地を召し上げられてしまいました。この頃、宗厳は剃髪して石舟斎と号します。

失地回復に苦労する石舟斎のことを伝え聞いたのが、徳川家康です。家康は石舟斎に無刀取りの披露を求めました。家康の見守るなか、素手の石舟斎に対し、石舟斎の息子・宗矩(むねのり)が木刀で打ち込みました。二人の体が重なるや、宗矩の手から木刀が落ち、逆に石舟斎が宗矩に木刀を突き付けています。家康は宗矩が手心を加えたのではないかと疑います。ならば、と黒田長政が打ち込みますが、結果は同じでした。

なお納得がいかないのが、家康。そこで、石舟斎は、家康に、今度は自ら真剣で打ち込んでくるよう言います。真剣で挑んだ家康は、柄を握っている両腕ごと、石舟斎の両拳に挟まれました。そのまま刀を捻り取られるや、逆にその刀を突き付けられてしまいました。これには家康も感服。その場で石舟斎に、兵法指南役になってほしいと懇請しました。しかし、石舟斎は老年を理由にこれを辞退し、代わりに息子・宗矩を推しました。

こうして、柳生家は将軍家兵法指南役という兵法者として最高の栄誉を得ることとなりました。宗矩は旧領二千石を回復しました。念願を果した石舟斎は、80歳の長命を全うしました。

 

石舟斎が生きた戦国時代、兵法は戦場で生死・勝敗を分けるものでした。しかし、そうした時代にあって、石舟斎は、人を殺す技法から、人を活かす技法へと剣の道を深めていきました。時代もまた、戦乱が去り、平和の世を迎えつつありました。石舟斎の探求は、時代が求めるものでもありました。そして、こうした石舟斎の先見の明が、家康の眼鏡にかない、柳生一族に繁栄をもたらしたのです。

 

石舟斎のめざした新しい兵法は、新しい時代の武士の形成に役立つものでした。それは単に武を磨くだけではなく、同時に文を修めるものでもありました。文武両道の兵法でした。石舟斎が開いた柳生新陰流は、儒教に立脚した剣法だったからです。

この剣法は、「五常の剣」と呼ばれます。「五常」とは、儒教が説く、人が常に守り、行うべき五種の徳――仁・義・礼・智・信です。剣の道を実践することによって、これらの徳を体得し、またその徳の裏づけをもって、剣を用いるのです。

石舟斎は、次のような歌を残しています。

 

  兵法の 極意は五常の 義にありと

         心の奥に 絶えずたしなめ

 

  常々に 五常の心 無き人に

         家伝の兵法 印可ゆるすな

 

こうして、剣の道は、戦闘の技術から人倫を修める道へと深められていきました。石舟斎における「五常の剣」の登場に、武士道の発展・深化をたどることができます。ページの頭へ

 

参考資料

・山岡荘八著『柳生石舟斎』(講談社文庫)
 
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■殺人刀が活人刀に〜柳生但馬守宗矩

2007.1.16

 

戦国時代が終わり徳川時代に入ると、武士に求められるものは、戦場における戦闘者の心構えから、次第に治世のための人倫の実践へと変化していきました。それとともに、刀もまたその存在意義を変えていきました。単なる武器としての性格から、それを帯する人間の心身鍛練の道具へとその役割を移すようになったのです。

こうした時代に、新しい剣法を開いたのが、柳生新陰流の開祖・柳生石舟斎でした。彼は無刀流という極意に達し、「五常の剣」という精神性の高い剣法を説くに至りました。それを受け継いで発展させたのが、五男の柳生但馬守宗矩(たじまのかみ・むねのり)です。

 

柳生家は徳川家康に取り立てられ、宗矩は1万2千石を与えられ大名となります。宗矩は家康・秀忠・家光の三代の将軍に、剣術指南役として仕えました。息子には、十兵衛三巌(みつよし)があり、やはり優れた武芸者として名を轟かせています。

柳生新陰流は、将軍家だけが学ぶお留め技とされ、一般への伝授は禁じられていました。その特徴は、相手の剣を殺す技、動きを止める技にあります。相手を切るのではなく、相手の剣の働きを無効にしたり、敵へ詰め入って動きを封じたりするのです。相手の小手や竹刀を制する形が多く、斬り殺すことを意図したものは、原則としてないとされます。

また、心のあり方を非常に重視していることも特徴です。柳生新陰流の極致を説いたとされる「本識三問答」には、「世間の剣術者は、ただ勝つことを急ぐ。そのために、早く打ちたがり、心も技も乱れて結局容易に勝つことができない。柳生流は、無理に勝つことを急がない。早く打ちたがらない。道理に叶い、法理にしたがって動くので自然に勝つのである。つまり心は平易につながるのだ。他流と違うのはここである」とあります。

 

このように、心のあり方が重視されるのは、宗矩が沢庵禅師に師事し、剣の心諦を学んだことに多くを負っています。沢庵が宗矩に与えた『不動智神妙録』には、「無心之心」ということが繰り返し、述べられています。「無心の心と申すは、…固(かたま)り定(さだま)りたる事なく、分別も思案も何も無き時の心、総身にのびひろごりて、全体に行き渡る心を無心と申す也。どこにも置かぬ心なり。石木かのやうにてはなし。留る所なきを無心と申す也。留れば心に物があり、留る所なければ心に何もなし。心に何もなきを無心の心と申し、又は無心無念とも申し候…」

宗矩は、沢庵に学んだ心法を、自身の剣法に採り入れました。時代は天下泰平の時代です。父石舟斎の思い描いた仁義礼智信の五常を本とする「五常の剣」が、活きる時代です。宗矩は、人を殺す「殺人刀(せつにんとう)」ではなく、人を活かす「活人刀(かつにんとう)」を追求していきました。それは剣法の域を越えて、天下国家を治める兵法へと発展しました。

 

宗矩は寛永9年(1632)、『兵法家伝書』を著しました。宗矩は言います。「古にへる事あり、『兵は不祥の器なり。天道之を悪(にく)む。止むことを獲(え)ずして之を用ゐる、是れ天道也』と。…其故は、天道は物をいかす道なるに、却而(かえって)ころす事をとるは、実に不祥の器也。しかれば、天道にたがふ所を即ちにくむといへる也。しかれど、止むことを得ずして兵を用ゐて人をころすを、又天道也と云ふ…」と。彼はさらに続けて、「一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人をいかすつるぎなるべきに」と力説します。

兵法(武力)を行使することは、天道(自然の理法)にそむくが、一人の悪人のために万人が苦しむならば、一人の悪人を殺し、万人を救うこともやむを得ない。これが天道であり、すなわち「殺人刀」が同時に「活人刀」となる「一殺多生」の理であると、宗矩は武力の役割を意義付けます。

宗矩はさらに、次のように言います。「治まれる時乱をわすれざる、是兵法也。国の機を見て、みだれ事をしり、いまだみだれざるに治むる、是又兵法也」と。

 

宗矩の言うことを、現代の国際関係に置き換えると、彼は国際関係を見て、戦争が起こる可能性を知り、戦争になる前に外交で解決することもまた、軍事であると言っています。言わば、戦わずして勝つことです。これは、孫子の兵法において、最上とされていることです。

人間の社会から戦いは、まだまだ容易になくならないようです。戦いから身を守るには、武力が要ります。武力をもって相手の攻撃を抑止し、いかに戦いを避け、平和を維持するか。また、武力を極力用いぬようにし、行使するときは最小で最大の効果を生むこと。これは武の奥義を究めることによってのみ、可能なことです。

日本の武士道は、戦いの中から生まれ、戦いを避け平和を維持する道へと深化しました。その平和の維持のためには、武を尊び、備えを怠らない。こうした武士道の思想には、核時代の政治・外交・軍事にも通じるものを見出すことができるでしょう。ページの頭へ

 
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■武の奥義を説いた『不動智神妙録』

2007.4.16

 

日本の武道家は、単なる戦いの技術を超え、武の奥義を、心の悟りを得ることに求めました。武がこれほど精神的に高められたのは、日本においてだけでしょう。

深奥微妙な武の奥義を表した書として有名なものに、沢庵(たくあん)の『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』があります。沢庵は江戸時代初期の禅僧で、柳生新陰流の達人、柳生但馬守宗矩(むねのり)の師でもありました。沢庵は宗矩から剣の心諦について質問を受けたのに答えて、この書を著したのです。

 

沢庵は、武道の奥義は、ただ技の道ではなく、心法だといいます。心には形も色もありません。しかし、その心をどう用いるかによって、剣の勝敗が分かれるからです。

 『不動智神妙録』の中に、特に心の用い方として、次のような言葉があります。

「心を何所に置かうぞ。敵の身の働きに心を置けば、敵の身の働きに、心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思う所に心を置けば、敵を切らんと思う所に心を取らるるなり。我が太刀に心を置けば、我が太刀に心を取らるるなり。我切られじと思う所に心を置けば、切られじと思う所に心を取らるるなり。人の構えに心を置けば、人の構えに心を取らるるなり」

心のあり方が大切だと沢庵はいうのです。剣を抜いて、敵と相対している時、自分の心をどこに置くべきか。相手の体の動きに心を置けば、それに心がとらわれて、自分の手もとがおろそかになります。相手の刀の動きに心を置いても同様です。敵を切ろうと思うと、そのことに心を取られて、その虚を突かれて、敵に斬られてしまいます。逆に自分を守ろうと思うと、相手の動きが読めなくなってしまいます。ほかの事に気が散っていては、こちらに隙(すき)ができて、斬り殺されてしまうわけです。

 

沢庵の言葉は続きます。「兎角(とかく)心の置き所はないという。あるいは人問う、我が心を兎角余所へやれば、心の行く所に心を取止めて敵に負ける程に、我が心を臍(へそ)の下に押込めて余所(よそ)にやらずして、敵の働きにより転化せよという。尤(もっと)もさもあるべき事なり。然れ共、……やるまじと思う心に心を取られて矢の用かけ、殊の外不自由になるなり。……然らば則ち心を何所におくべき。我答へて曰く、何所にも置かねば、我が身一ぱいに行きたりて、全体にのびひろごりとある程に、手の入る時は手の用を叶へ、足の入る時は足の用を叶へ、目の入る時は目の用を叶へ、其の入る所々に行きたりてある程に、其の入る所々の用を叶ふるなり」

とにかく、心の置き所というのは難しいものです。臍下丹田に押し込めて、後は敵の動きに応ずればよいという人もあります。これは、もっともな説のように聞こえます。しかし、今度は、心を臍下に押し込めようということにとらわれて、そこに隙ができます。ではどうしたらよいのでしょうか。沢庵は、答えます。心をどこに置くなどということにとらわれずに、無心になることだと。そうすれば、心は体の隅々にまで伸び広がって、手にも足にも目にも、全身に行きわたって、敵の動きに応じ、自由に剣を揮(ふる)えるようになるというのです。

 

こうして沢庵は、剣の道を極めるには、心のあり方が大切であると、説いたのでした。『不動智神妙録』の最後には、次の歌が載せられています。

 

心に 心まよわす 心なれ

心に心 心ゆるすな

 

武道を通じても心のあり方を極めようとしたところに、日本人の特徴が見られます。これもまた日本精神の表れと言えるでしょう。ページの頭へ

 

参考資料

・『沢庵 不動智神妙録』(徳間書店)
 
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■武士に人倫の道を示す『明君家訓』

2007.5.1

 

戦国時代には、大名家において、家訓が作られました。北条家の『早雲寺殿廿一箇条』、武田家の『甲州法度之次第』などが知られます。江戸時代になると、多くの藩で家訓が作られました。その中で特に有名なものに、『明君家訓』があります。

著者は八代将軍徳川吉宗の侍講にもなった朱子学者・室鳩巣(むろ・きゅうそう)。成立は元禄5年(1692)頃とされます。本書は徳川光圀の著として流布され、また、多くの藩の家訓にも採り入れられたといわれます。

 

戦国期の武士は、常時、戦闘の中にありました。武士道は初め、そうした武士の戦場における勇気や美学として形成されました。しかし、徳川家康が天下を治めると、各大名家は幕藩体制の中に組み込まれ、また島原の乱を最後に戦争はなくなりました。こうした平和な時代において、武士はどうあるべきかを明らかにすることが求められるようになりました。また、大名は一領国の宰相として、家中に規範を立て、よりよい治世を確立する必要に迫られもしました。その具体的な姿が、家訓の形をとって現れたのです。

戦国期までは、『論語』や『大学』などの書を読む武士は、ごく少数でした。そのような教養は、武人には無用のものだったのです。しかし、幕府が朱子学を官学に採り入れると、儒教の道徳観が武士階層に行きわたるにいたりました。

 

そうした中で書かれたのが、『明君家訓』です。本書は、儒教に基づき、武士とは人倫の道の実践者であるべきだと説きます。「百姓町人が武士を畏敬するのは、武士の職分の高さゆえ」と述べ、畏敬の理由は武士という身分にあるではなく、武士の職分にあるとします。武士は義理を職分とするものだからこそ、人倫の道を踏み外してはならないと強く訴えるのです。そのために、『明君家訓』は儒教的な意味での学問の必要性を強調します。

 「およそ家中の武士は、貴賎を問わず学問に励むべきである」「学問とは人としての正しい道(=人倫の道)をいうのであって、人として生まれ、これを知らず、行わないのでは、ひとえに牛馬のごとき獣同然といえよう。したがって、学問は朝夕の衣、食よりも大切であることを心得るべきである。さて、その修行の道は、心の正と邪、己のおこなうところの善悪すべてをよく吟味し、心を正しく身を治めて、修行することによって古の賢人君子のようにもなる。または、その人の心がけ次第で、聖人にもいたる道なのである」

 

そして、武士のあるべき姿を、次のように説いています。

「家中の武士は、つねに怠らず、人としての道を固くまもらねばならない。一言一行も武士として不明瞭なものであってはいけない。人としての正しい道とは、口先で嘘や偽りをいわず、私利私欲をもたず、心を素直にして飾らず、起居動作を乱さず、礼儀正しく、上位者に媚びて意をむかえようとなどしてはならない。

 また、下の者を侮るなどはもってもほかで、己のなした約束は違えず、他人の苦難を援け、律気に頼もしく、間違っても賤しい話や、他人の悪口などは口にしてはならない。  

さらにまた、恥を知って、かりに首を刎(は)ねられようとも、己の信じる道を行い、死すべき場所では一歩も退かずに、いつも理を重んじる鉄のごとく固い心と、温和で慈愛に富む心、つまりものの哀れを知り、人情を心得る者を、人の正しい道を知る武士というのである」

 

『明君家訓』に見られるように、日本の武士道は、シナの儒教を摂取することによって、人倫の道として発展しました。以来、武士道はわが国の活動の精神的推進力となり、維新以降も、近代日本を築くうえで、大きな精神的支柱となったのです。ページの頭へ

 

参考資料

・『明君家訓』(『武道初心集』〔ニュートンプレス〕所収、加来耕三訳)
 
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■江戸時代を貫いた皇室への崇敬心

2007.5.16

 

江戸時代は、徳川幕府が政権を担い、朝廷の存在が軽んじられていた時代だと考えられがちです。確かに江戸時代の皇室は、中級程度の大名の実力しかありませんでした。経済的には12万5千石程度にすぎません。けれどもそれは百万石の大名よりも、八百石の幕府よりも、強大な精神的権威を持っていました。

 

幕府は当初、朝廷に制約を課す政策を採りましたが、その後、朝廷の権威を重んじる方針に転換しました。それにより4代将軍家綱から5代将軍綱吉の時期にかけて、重要な朝廷儀式が幕府の経済的援助を受けて復興されました。

その第一は、応神天皇・神功皇后等を祀る石清水八幡宮において、勅使が参向する放生会(ほうじょうえ==万物の生命をいつくしみ、殺生を戒める神事)が復興されました。第二は、元禄7年(1694)に、応仁の乱以降途絶えていた、賀茂神社に勅使が参向する祭りが復興されました。これが京都の葵祭です。第三は、貞享4年(1687)、東山天皇の即位時に、大嘗祭(だいじょうさい)が再興されました。大嘗祭は、天皇が即位の後、初めて行う新嘗祭(にいなめさい)です。これは、皇室行事の中で最も重要な儀式であり、朝廷の強い要望に応えて復興されました。

この他、幕府は皇室の財政基盤を強化するため、禁裏御料1万石を加増し、荒廃した山陵を修理するなどしました。また、6代将軍家宣の時代には、宝永7年(1710)に新宮家・閑院宮家が設立されました。これは、皇子が出家する慣習を止め、新たに宮家を立てるべきとする新井白石の進言によるものでした。

 

江戸時代には、日本の歴史や政治について教養のある者であれば、日本国の真の君主が天皇であることを認めない者はありませんでした。幕府の官学でもその点は、明白に認めていました。学者だけでなく、歌舞伎の作者、俳諧師、軍談講釈師でも、日本国は神の国であり、天皇が君たるべき国だと信じて、疑いませんでした。それは全国的に広く認められ、信じられていた通念でした。だからこそ幕府は、国民全体に浸透している天皇への崇敬心に基づき、天皇の精神的権威に依拠して自らの地位を強めようとしたのです。将軍は、天皇により信任され、その役職に任命された者であることを誇示して、権勢を振るいました。

将軍だけではなく、大名・旗本等も朝廷から官位を受けました。それは律令制度による位や役職です。大岡裁きで有名な大岡忠相(ただすけ)の越前守というのもこれです。日光には徳川家康を祀る東照宮がありますが、これは家康の死後、朝廷から「東照大権現」という神号を与えられ、将軍家の祖神となったものです。このほか武家政権の正統性に関わる重要な部分には、すべて朝廷が関与していました。

 

徳川幕府が採用した朱子学の政治理論によると、幕府の政権は、朝廷から委任されているということでなければ、徳川家が奪い取ったものとなり、他に力がある者が立って幕府を倒しても良いことになってしまいます。17世紀末から18世紀前半にかけて、新井白石や荻生徂徠らが、幕府・将軍の権力を正当化することに腐心しました。朝廷の権威を認めつつも、幕府の優位を確立しようという試みです。

これに対し、朱子学の論理を徹底した山鹿素行や浅見絅斎(けいさい)は、天皇が真の統治権者であり、将軍は天皇から政権を委任されているという考えを明らかにしました。とりわけ絅斎の書『靖献遺言』1687年)は、幕末まで広く読まれ、討幕運動の糧となりました。また、国学者の本居宣長は、古道の研究により、『玉くしげ』に次のような趣旨のことを書いています。天下の政(まつりごと)は、天皇の「御任(みまさし)」により、徳川家康とその子孫である代々の将軍が行う。将軍はその「御政」を大名に預けている。天皇が国土と国民を将軍に預けたのであるから、国土と国民は将軍や大名の私有物でないと。これが大政委任論です。

 

18世紀に入ると、飢饉や財政難で、幕府の統制にも緩みが出てきました。世紀半ばには、幕府が京都の公家たちの間に尊王論を講じた竹内式部を京都から追放する宝暦事件や、江戸で塾を開いて尊王斥覇を説いた山県大弐を死罪に処した明和事件が起こりました。それだけ朝廷の存在に神経質になる状況が生まれていたということでしょう。

その後、天明7年(1787)から寛政の改革を主導した松平定信は、11代将軍家斉のために書いた『御心得之箇条』の中で、大政委任論を表明しました。それが、以後の朝幕関係の基本になります。しかし、これは同時に、朝廷の重要性を正式に認めることにもなりました。

なかでも、幕府側から朝廷の権威を積極的に尊重する説を唱えたのが、水戸学です。水戸学は、徳川光圀による『大日本史』の編纂の中で生まれ、山崎闇斎や浅見絅斎の門弟らが大義名分論を展開していました。しかし、19世紀に入ると、外圧の危機に直面する過程で、尊王攘夷論を高唱するようになりました。なかでも会沢正志斎が書いた『新論』(文政8年 1825)は写本の形で広く流布しました。本書は、日本の「国体」は記紀神話の天孫降臨の神勅によって、万世一系の天皇が統治する国柄であることを明確に説き、世界情勢の分析に基づいて外国による侵略に備える国防の重要性を訴え、その後の尊王攘夷運動に深い影響を与えます。

 

こうした尊王論は、一部の学者や勤王運動家のみのものではありませんでした。18世紀末(1770-1780)に、日本に住み日本事情を著述した、長崎のオランダ商館長ティッチングは、著書に日本の統治者君主が天皇であり、将軍は天皇に隷属する一役人にすぎないことを明記しています。それは当時の日本人の社会通念を反映したものでした。

 アメリカの外交官ハリスの『日本滞在記』によると、彼が日本に通商条約を迫った当時、幕府の外交政策を支持しているのは、18の雄藩のうち4藩のみでした。中小の藩でも、わずか3割のみといいます。また、こう説明した井上信濃守は、勅許がありさえすれば、不服を固執し得る藩は、ただの一藩もない、強大な反対派も直ちに沈黙する、とハリスに切言したと書かれています。

江戸時代を通じて、皇室への崇敬が社会通念となっていたことを前提としなければ、黒船来航以後、明治維新へいたる尊皇倒幕への動きは理解できないでしょう。ページの頭へ

 
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■幕府が依拠した皇室の権威

2007.6.1

 

わが国では、天皇と無関係に形成された権力には正統性がないという考え方が、ずっと存在していました。

豊臣秀吉は天皇の権威を仰ぎ、自分の権力を天皇の権威によって公認のものとしました。秀吉は天正13年(1585)7月に関白に任じられました。関白は本来、天皇を補佐し、政務を執り行う重職でした。秀吉は、さらに太政大臣ともなり、朝廷から与えられた地位を諸大名に対する支配の正当化のために利用しました。

秀吉の後を受けて天下を統一した徳川家康は、慶長8年(1603)2月、征夷大将軍に任じられました。将軍職も天皇の権威あってのものであり、源頼朝以来の「武家の棟梁」としての地位を正当化するものでした。家康は、2年後には将軍職を秀忠に譲り、徳川氏がこの官職にもとづく政権を世襲することを天下に示しました。

 

幕府は当初、天皇が政治に係ることを規制し、学問や和歌などに専念するよう求めました。慶長20年(1615)、家康が制定した「禁中並公家緒法度」は以下のように定めています。

「 一、天子諸(御)芸能の事、第一御学問なり。学ならずん則ち古道明らかならず。而して能く太平を致すもの未だ之有らざるなり。貞観政要の明文なり。寛平遺誡に経史を究めずと雖も群書治要を誦習すべしと云々。和歌光孝天皇より未だ絶へず、綺語たりと雖も、我国の習俗なり。棄て置くべからずと云々。禁秘抄に載せる所、御学習専要に候事」

そのほか、天皇の行為を細かく規定しています。天皇が高位の僧尼に与える「紫衣(しえ)」や上人号についても、事前に幕府の許可を得ることとしました。朝廷に対する幕府権力の優位は、紫衣事件(1627年)によって再確認されました。後水尾天皇が高僧に紫衣を勅許したのを無効としたのです。天皇は譲位をもってこれに抗議しました。

 

このように幕府は当初、朝廷の権限を抑制する政策を採っていたのですが、その後、朝廷の権威を重んじる方針に転換します。征夷大将軍の任命は、4代将軍家綱以降、天皇から勅使が江戸に下向して、将軍宣下の儀式として行われました。勅使下向は将軍の権威を高めるために重視されましたが、元禄14年(1701)にはその接待をめぐって刃傷事件が発生しました。それが「忠臣蔵」の話の発端です。浅野長政に切り付けられた吉良義央(よしなか)は、勅使の接待や朝廷との間の儀礼を司る「高家(こうけ)」という役職にありました。

幕府が皇室を重んじただけではありません。江戸時代には、今日想像する以上に、多くの人々が皇室への憧れを抱いていました。皇室を雅(みや)なるもの、高尚なるものとして憧れる感情は、国民全体の生活にしみわたったものでした。その例を雛人形に見ることが出来ます。

 

雛人形の由来については、平安時代の貴族の女の子は、人形遊びのことを「ひいな遊び」と呼んでいました。「ひいな」は雛型人形のことですが、小さくてかわいいという意味もありました。今日のような雛人形は、室町時代ごろ宮中や貴族の間で始まり、江戸時代に武家、やがて国民全体に広まったといわれます。

 当初の雛人形は立ち姿で、紙で作られたものでした。はじめは男女一対でした。室町時代より座り雛となり、江戸時代初期、17世紀の寛永時代に、寛永雛と呼ばれる公家風の雛人形が表れました。これが改良されて、元禄雛、享保雛と徐々に大型化し、優雅な人形になりました。また、雛祭りの習俗が、大名家を始めとする武家にも広まりました。そして、18世紀の半ばに、有職故実(ゆうそくこじつ)にのっとった正確な装束を着た人形が作られました。これは、有職雛と呼ばれるものです。江戸後期には、豪華な装束を身につけた雛人形を祀り、雛壇に調度品を飾る今のようなスタイルが出来上がりました。雛祭りが商家や地方にも普及して国民的な行事となりました。これは女子の祭であり、健やかな成長、幸福な結婚、子孫の繁栄を願う行事です。

雛人形は、江戸後期に今日のような親王飾りとして完成されました。親王とは本来、天皇の兄弟と皇子のことですが、お内裏様とお雛様は、皇太子の結婚の儀を表したものといえましょう。お内裏様が天皇、お雛様は皇后に当たります。三人官女、五人囃子の人形は、皇室に仕える女官や雅楽の楽師です。雛壇に飾られる調度類は、結婚の際の嫁入り道具に当たります。そうした雛人形が、国民の間に広まったのです。もともと庶民の間に皇室への憧れがあり、雛人形によってさらにそれが強まったと考えられます。

 

江戸時代には、百人一首も民間で広く親しまれています。百人一首には、皇族や公家の歌が多く選ばれており、国民の間に宮中の「みやび」の文化への憧れが醸成されました。皇室の仁愛や優美に憧れる心は、国民全体に浸透していたのです。それが、いかに広く深いものであったかは、江戸の庶民文学や娯楽の中に表現されています。例えば、庶民の楽しみの一つだった川柳に、仁徳天皇を詠んだものが知られています。

 

  低き家(や)の 煙は高き 御製なり

  生薪(なままき)の 煙りも御製の 中に入り

 

理想的な天皇の姿が、川柳に歌われるまでに国民の意識に定着していたわけです。

皇室への憧れは、明治になって初めて、政府が上から浸透させたものではありません。江戸年間に、庶民の間に広く行き渡っていたものなのです。だからこそ、幕末の危機の時代に、天皇を中心とする国のあり方を取り戻そうという運動が起こり、明治維新の原動力となったのです。
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■幕末の国民統合は皇室の存在による

2007.6.14

 

 徳川幕府は当初、朝廷に制約を課す政策を採っていましたが、その後、朝廷を重んじる方針に転換しています。

 家綱から5代綱吉の時期にかけて、勅使派遣を伴う石清水八幡宮の放生会など、一連の朝廷儀式が幕府の経済的援助によって復興されました。元禄7年(1694)には,応仁の乱以降中絶していた勅使が賀茂神社へ派遣される祭りが復興されました。それが京都の葵祭です。また、朝廷の強い要望を受けて、貞享4年(1687)東山天皇の即位時に大嘗祭も再興されました。大嘗祭は、皇室行事の中で最も重要な儀式です。徳川幕府は禁裏御料1万石を加増し、荒廃した山陵を修理するなどしました。6代将軍家宣の時代には、新宮家・閑院宮家が設立されました。この新宮家は新井白石の建議によって、宝永7年(1710)に創設が決定されました。朝幕の協調関係の中で生まれた出来事です。

 

 江戸時代の京都の皇室は、中級程度の大名の実力しかありませんでした。経済的にはすべてを合わせても12万5千石程度にすぎません。けれどもそれは百万石の大名よりも、八百石の幕府よりも強大な精神的権威を持っていたのです。この天皇の権威は徳川時代を通じて不可欠なものとして存続していました。

 

 江戸時代には、日本の歴史や政治について見識のある者であれば、日本国の君主が天皇であることを認めない者はありませんでした。幕府の御用学説でもその点は、明白に認めていました。学者だけではなく、歌舞伎の作者でも、俳句の作者でも、軍談講釈師でも、日本国は神の国であり、神孫である天皇が君たるべき国だと信じていて、いささかも疑いませんでした。それは一部勤皇的な思想家や学者の説を待つまでもなく、日本全国いかなる地方でも認められ、信じられていた通念でした。

 そして、幕府は、国民全体に浸透している天皇への崇敬心を利用し、天皇の精神的権威に依存して、自らの地位を強めようとしたのです。将軍は、天皇により信任され、将軍に任命(宣下)された者であることを誇示することによって、天下に権勢を張ることに努めたのです。将軍ばかりでなく、大名・旗本等は朝廷から官位を受けました。それは律令制度の位・役職です。大岡越前守等もそれです。こうした武家の官位の授与や、東照大権現といった幕府の祖神の形成にいたるまで、武家政治の正統性に関わる重要な箇所にすべて朝廷が関与していました。

 

 江戸時代の儒者や国学者などにとって、幕府と朝廷、将軍と天皇の関係をどのように規定するかは、重要な課題でした。新井白石や荻生徂徠らは、幕府・将軍の支配を正統化することに腐心し、本居宣長は、朝廷が幕府に政権を委任したとする大政委任論の立場に立ちました。この大政委任論は、幕府の老中・松平定信が11代将軍家斉のために書いた『御心得之箇条』の中でも表明されています。定信は天明7年(1787)に老中首座、翌年将軍補佐となって幕政改革を主導しました。その一方で、山崎闇斎と彼の学派、『大日本史』編纂の中で生まれた水戸学などのさまざまな尊王論が存在しました。

 幕府は、京都の公家たちの間に尊王論を講じた竹内式部や、江戸で塾を開いて尊王斥覇を説いた山県大弐を、それぞれ重追放、死罪に処しています。これらは、尊王論に朝廷や藩内部の対立などが絡むことによって浮上した事件でした。宝暦・明和のことです。

 

 こうした尊王論は、外圧の危機に直面する過程で,後期水戸学や国学を信奉する人びとを中心として、尊王攘夷論へと展開していきました。

 なかでも会沢安は、文政7年(1824)水戸藩内大津浜へイギリス人が上陸した事件に携わって危機意識を深め、翌8年民心統合を実現する方策として「尊王」と「攘夷」を論じる『新論』を脱稿しました。この書物は,写本の形で広く流布し,その後の尊王攘夷運動に思想的影響を与えていきます。

 

 明和7年(1770)から安永9年(1780)にかけて、日本に住み日本の事情を著述した、長崎のオランダ商館長ティッチングの著書では、日本の統治者君主が天皇であり、将軍は天皇に隷属する一役人にすぎないことを明記しています。それは当時の日本人の社会通念を反映したものです。このような社会通念を前提としなければ、黒船来航以後、明治維新へいたる政治思想、政局の推移は理解できないのです。

 日本に通商条約を迫ったアメリカのハリスの『日本滞在記』によると、幕府の外交政策を支持しているのは、18の雄藩のうち4藩のみでした。中小の藩でも、わずか3割のみです。こう説明する井上信濃守は、勅許がありさえすれば、不服を固執し得る藩は、ただの一藩もない、強大な反対派も直ちに沈黙する、と切言しています。

 

 封建的各藩に分立している日本人の間に、共通して浸透している意識は、天皇を中心とした意識あるのみです。あらゆる封建的藩意識の鉄壁を越えて、日本人を一つに統合しうるものは、天皇への崇敬心あるのみでした。徳川幕府は、ここで根本的に体質を改善して、天皇の意思に基づく政府となることによってのみ、全国を団結せしめて、外力に対抗し得る統一国家の政府となり得るのです。こうした考え方が安政時代の尊皇攘夷の思想であり、維新の理念でした。(ページの頭へ

 

参考資料

・葦津珍彦著『明治維新と東洋の解放』(皇學館大学出版部)

 
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「東洋道徳、西洋芸術」〜佐久間象山

2003.2.27

 

19世紀半ば、アヘン戦争(1840)で、シナ(清国)が英国に敗れると、わが国に強い衝撃が走りました。それまで日本人にとって、シナは世界の中心的な存在でした。そのシナが西洋に敗北を喫したことは、世界観が揺らぐほどの大事件でした。この時、この衝撃を最も強く感じ、行動した日本人が、佐久間象山(ぞうざん)です。

 

象山は、朱子学を信奉する信州・松代藩の兵学者でした。シナの敗北を知るや、象山は、白人列強の侵攻の手は、必ずわが国に及んでくる、といち早く予見しました。そして、儒学の観念世界を破り出て、自ら西洋の科学技術を学び取ろうとします。白人に征服・支配されないためです。象山はそのために、オランダ語を学ぶことを決意します。そして、苦闘の果てに原書を読める力をつけ、西洋の科学書・軍事書等を読破します。さらに、それらの本をもとに、独力でガラス・大砲・望遠鏡・電信機・写真機等を製作し、次々に技術をものにしていきました。物凄いチャレンジ精神だと思います。

これほどの気概をもつアジア人は、インドにもシナにもいませんでした。ただ日本に、象山という巨人がいました。彼の先駆けによって、この日本が、そしてアジアが、動き出したのです。

 象山のこのチャレンジ精神は、武士道の表れでした。

 

象山の最も有名な言葉は、「東洋道徳、西洋芸術」です。この言葉は次の一文に見えます。「東洋の道徳と西洋の科学技術、この両者についてあますところなく詳しく究めつくし、これによって民衆の生活を益し、ひいては国恩に報いる」(『省愆録)象山にとって、東洋の道徳と西洋の科学技術を究めることは、ともに民利国益のためでした。科学技術の修得に努めたのも、武士として日本の国を守るための行動でした。単なる知的興味によるのではありません。象山は次のように述べています。

「彼を知り己れを知らなくては防御の策も立たず、たとえ強いて立てても実際の効果はないと思います。その彼を知ることは、西洋の言葉に通じ、西洋の学問・技術を究め尽くしてはじめて可能となるのです」(『答弁書 ハルマ字書を藩の事業として開版したい

こう述べる象山がよりどころとしたのは、シナの兵法書の古典『孫子でした。『孫子は、「敵を知り、己を知ら百戦危うからず」といい、相手を知り己を知ることが、勝利の要諦とします。また、「百戦百勝は善の善なるものにあらず、戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」とします。戦って勝つのが最善ではないのです。戦わずして勝つことこそ、最高の道なのです。象山は兵学者として、孫子の兵法に基づいて西洋列強に学び、相手から科学技術を採り入れて我が国の国防力を強大にし、相手に侵攻をあきらめさせることをめざしたのです。

 

一方、彼のいうところの「東洋道徳」とは、儒教的な道徳です。武士道に摂取された「仁」「忠」「孝」等の徳目の体系です。象山はこうした道徳が実践されているわが国を西洋列強の侵攻から守ろうとしました。これもまた武士道の実践と見ることができます。

ここで象山に特徴的なことは、彼は、当時の日本の国家社会に、孔子が理想とした国家社会を見ていたことです。孔子の理想とは、古代シナの周王朝初期の封建制であり、その復興が儒教の政治道徳の目標でした。象山は、孔子の理想は、わが国の皇室を中心とする徳川封建制に実現している、だから、これを守らねばならないと考えました。こうした道義国家・日本を守るために、西洋の科学技術の摂取は焦眉の課題としました。

彼は西洋の新知識に通じた開国論者でありながら、政治的には佐幕であり、公武合体論者であるという複雑な様相を呈しています。幕末の錯綜した思潮の中で、彼の考えは容易に理解されませんでした。このため、彼は偏狭な攘夷派の手によって、暗殺されてしまいます。元治元年(1864)7月11日、京都でのことでした。

 

しかし死して後も、象山の魂は滅びませんでした。象山は次世代の人材を育てる偉大な教育者でもあったからです。彼のもとには、諸国から数千の門弟が集まり、彼が獲得した科学知識や彼の思想・精神を学びました。弟子の中には、「象門の二虎」と呼ばれた吉田寅次郎(松陰)・小林虎三郎、勝海舟・坂本竜馬・橋本左内・河井継之助らがいます。(1)

東洋の道徳と西洋の科学技術の融合によって、日本の防衛・発展をめざした巨人・象山。武士としての彼の熱き魂は、弟子たちによって受け継がれ、日本の変革と文明開化の推進力となったのでした。ページの頭へ

 

(1)象山の弟子のうち勝海舟吉田松陰小林虎三郎は、それぞれの項目をご参照下さい。

参考資料

    『日本の名著 30 佐久間象山・横井小楠(中央公論新社)

    松本健一著『評伝 佐久間象山(中央公論新社)

 
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死中に活を開く〜吉田松陰(1)

2001.8.14

 

 今日、教育の改革が叫ばれています。教科書の改革も必要です。教育基本法の改正も必要です。しかし、それ以上に必要なものは、教師の変革でしょう。教育者が変わらなくては、本当の教育改革は成しえません。こう考えるとき、教育にたずさわるすべての人が学ぶべき人物として、吉田松陰がいます。

 

 松陰は、国防のためには海外を視察する必要があると考え、密航を試みました。しかし、失敗して自首し、囚われの身となりました。安政元年(1854)10月、萩の野山獄に移されました。

獄中には、既に11人の囚人がいました。彼らには出獄の可能性がなく、ただ死を待つのみでした。心は荒み、自暴自棄となっていました。国禁を犯した松陰も、死罪は免れ難い身でした。しかし、この絶望的な状況でも、松陰は希望を捨てませんでした。松陰は、獄中を学びの場としようと考えたのです。そこには、死中に活路を開く武士道の精神が、表れています。

 

 松陰は、まず富永有隣に働きかけました。有隣は優秀な能力を持ちながら、性格粗暴のため投獄されていました。この扱いにくい人物に対し、松陰は「一緒に勉強しよう」と粘り強く呼びかけました。その熱意に動かされた有隣は、松陰と心を通わすようになりました。こうして松陰は、次々に囚人たちに働きかけ、入獄の半年後には、座談会を開けるまでにこぎつけました。

  そして、松陰は皆の求めに応じて、『孟子の講義を始めました。開巻第一頁を講ずるに先だって、皆にむかってきっぱりと言いました。

 「諸君と一緒に学を講ずる私の意見をまず申しあげたい。私たちは囚人として再び、世の中にでて、太陽を拝することはないかもしれない。たとえ、学んで、その学が大いに進んだとしても、世間的には何のききめもないといえるかもしれない。しかし、人間として、必ずもっているものは、人として、人の道を知らず、士として士の道を知らないということを恥かしく思う心である。この気持が誰にもあるとすれば学ぶ外ない。そして、それを知ることが、どんなに我が心に喜びを生ずるものか……」(『講孟余話)と。

 松陰は『孟子の講釈を通して、自らの志を語り、天下国家を論じ、いま何をなすべきかを訴えました。その情熱と至誠は、囚人たちの魂を揺り動かしました。いつしか司獄(刑務所長)までが獄室の外から、講義に耳を傾けていました。講義は、2ヶ月後には『孟子の輪読会に発展します。囚人たちは見違えるように真剣に学ぶようになり、輪読は力のこもったものとなっていきました。やがて松陰が「諸君の中に必ず後世、僕の意志を継ぐ者が出てくるでしょう」と信頼するまでに、彼らは変わっていきました。

 

 松陰は、ただ自分が教えるだけではありませんでした。囚人のなかに俳句が上手な人があれば、その人を師匠にして俳句の会を主催し、書道や植木のうまい人がいればそれを習う会をつくるなど、各自の得意を生かして先生になってもらいました。こうして絶望の監獄は、希望の学校に変わりました。囚人たちは、生きがいを取り戻し、罪を悔い改め、度し難い性格もが改まっていったのです。松陰自身も、彼らを通じて文芸等を学ぶことができ、蒙を啓かれました。そして、囚人たちとの学びを通じて、松陰はどんな人間にも至誠をもって当たれば、必ず通じることを、一層強く確信しました。

 

 安政2年の暮、松陰は野山獄から出られることになり、自宅蟄居(ちっきょ)を命じられました。翌年、いよいよ松下村塾が始まります。この時、松陰27歳。処刑されるまでの二年あまり、彼は不屈の情熱をもって、青年たちの魂に訴え、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋等の志士を育てました。こうした松陰の偉業は、死中に活を開く野山獄の学びに、発するものだったのです。ページの頭へ

 

参考資料

池田諭著『吉田松陰 維新を切り開く思想とその後継者たち(大和書房)

http://www.asahi-net.or.jp/~KD6K-YMMT/yosida.html

 絶版ですが、上記サイトで読むことができます。

 
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士の道を説く『士規七則〜吉田松陰(2)

2001.9.5

 

  吉田松陰は、海外密航を企てた罪で、長州萩の野山獄に入牢の身となりました。そんななか、25歳の松陰は、安政2年 (1855)の正月、叔父・玉木文之進の子で、自分の従弟である毅甫(きすけ)の元服に際し、『士規七則(しきしちそく)を作って贈りました。「元服」とは、男子の15歳を祝う儀式で、今日の成人式の原形です。

 戦前の旧制中学校(今の中学から高校にあたる)では、生徒の生活指針として『士規七則を教えました。そこには、15歳以上の男子の修得すべきことが、記されています。その内容には、確かな指針のない現代の私たちに鋭く迫ってくるものがあります。

 

●原文

 

士規七則 毅甫加冠に贈る

 

 冊子を披繙すれば、嘉言(かげん)林の如く、躍々として人に迫る。顧(おも)うに人読まず。即(も)し読むとも行わず。苛(まこと)に読みて之れをなわば則ち、千万世と雖も得て尽す可からず。噫(ああ)、復(ま)何をか言わん。然りと雖も、知る所あり、言わざること能(あた)わざるは、人の至情なり。古人これを古(いにしえ)に言い、今我これを今に言う、亦詎(なん)傷(いたま)ん。士規七則を作る。

 

一、凡そ生れて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。蓋し人には五倫あり、而して君臣父子を最も大なりと為す。故に人の人たる所以は、忠孝を本と為す。

一、凡そ皇国に生まれては宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は万葉一統にして、邦国の士夫世々祿位を襲(つ)ぐ。人君民を養いて以て祖業を継ぎたまい、臣民君に忠にして以て父志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致、唯吾が国を然りと為す。

一、士の道は義より大なるはなし。義は勇に因り行われ、勇は義に因り長ず。

一、士の行いは質実欺(あざむ)かざるを以て要と為し、巧詐にして過(あやまち)を文(かざ)るを以て恥と為す。光明正大、皆是より出

一、人古今に通ぜず、聖賢を師とせずんば則ち、鄙夫(ひふ)のみ。読書尚友は君子の事なり。

一、成し材達するには、師恩友益多きに居(お)る。故に君子は交遊を慎む。

一、死して後已(や)むの四字は、言簡にして義広し。堅忍果決、確乎として抜くべからざるものは、是れを舎(お)きては術なきなり。

 

 右士規七則、約して三端と為す。曰く、「志を立てて以て万事の源と為す。交(まじわり)を選び以て仁義の行を輔(たす)く。書を読みて以て聖賢の訓(おしえ)を稽(かんが)う」と。士苛(まこと)にここに得ることあら、亦以て成人と為すべし。

 

●現代文

 

 書物を開いてみると、立派な言葉が林のように連なっていて、人の心をはげしく打つ。しかし人びとは書物を読まないようだ。たとえ読んでもみずから実行しない。まことに書物を読んでみずから実行するのであれば、千万年あったとしても、これを実行しつくすことはできない。ああ、なにをいったらよいのであろう。しかしながら、自分の知っていることを言わなければならないのが人間の真心ではないか。古人はすでに昔に言い、今は私がこれを現代に即して言うのである。またどうして悩むことがあろうか。そこでここに、士規七則を作る。

 

一、およそ生をこの世に受けて人となったからには、人が禽獣(きんじゅう)と異なるゆえんを知らなければならない。思うに人には五倫がある。そのうち君臣、父子の道が最も大切である。だから人の人である真面目(しんめんぼく)は忠孝を根本とすることにある。

一、およそ皇国に生まれたからには、わが国が世界各国より尊いわけを知っていなければならない。思うに、皇室は万世一系であり、士や大夫は代々禄を受け地位を継いでいる。君主は人民を養い、祖業を継がれ、臣民は君主に忠義を尽くし、もって父の志を継いでいる。君臣一体、忠孝一致、これはわが国だけの特色である。士の道は、義より大切なものはない。義は勇気によって実行され、勇気は義によってますます発揮される。

一、士の行為は質実で自分の心をあざむかないことが肝要である。いつわりに巧みであったり、あやまちを飾りごまかすことを恥とする。心が明白で邪心なく、行ないが正しく堂々としているのは、みなここが出発点なのである。

一、人たる者で、古今の学問に通ぜず、聖賢を師とせず、自己の修業をおこたるようでは、心のいやしいままで終わってしまうだけである。読書や賢人を友人とするのは君子のなすべきことである。

一、徳を厚くし才能を磨くには、師の恩や友人の益によるところが大きい。それゆえ君子は人との交際を慎重にする。

一、死してのちやむの四字(死而後己)は、言葉は簡単であるがその意味は広い。堅くたえ忍び、果断に実行し、断固として心を変えないのは、この死してのちやむの精神をほかにしては道がないのである。

 

 右の士規七則は、これを要約すれば三つになる。すなわち、「志を立てて万事の根源とする。交友を選んで仁義の行いを助ける。書物を読んで聖賢の教えを考え究める」ことである。士が、まことにこの三つのことを修め得ることができれば、人格・教養の備わった立派な人ということができよう。ページの頭へ

 

参考資料

・『松陰読本 (山口県教育委員会)

小学生高学年からお勧めできる伝記です。

・『日本の名著 31 吉田松陰(中央公論新社)

 

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外国人も感動〜吉田松陰(3)

 

 吉田松陰ほど、日本人を感動させ、青年たちの魂を奮い起こしてきた人物は少ないでしょう。そればかりか、松陰は多くの外国人にも感動を与えてきました。

 黒船の来航でゆれる幕末、松陰はアメリカの艦隊の威容を浦賀で眼のあたりにしました。アヘン戦争で大国・清が敗北したことを思い、松陰は、日本の危機を乗り越えるには、欧米の軍事力に何としても追いつかなければならないと考えました。そして、自ら海外へ出て欧米の実態を調査することを決意し、決死の密航を試みました。

 

 当時の新聞『センチュリー紙は次のように報道しています。

「アメリカのフリーゲート艦ミシシッピイ号が江戸湾に到着した。とある日の夕方、きりっとした身なりの気高き風貌の日本の青年が、ちっぽけな小舟を漕いで、同艦に乗り込んで来た。アメリカで勉学をしたい、船に乗せて連れて行ってほしい、これはたっての願いである、ということを、青年は非常に丁寧に懇願した」

 

 提督のペリーは、松陰の勇気ある行動に感心しましたが、鎖国を国法とする日本との外交を考えると、松陰の懇願を拒否せざるをえませんでした。送り返された松陰は、幕府に自首し、虜囚の身となりました。

 『ペリー日本遠征記の著者ホークスは、松陰の密航未遂事件について次のように記しています。

 「この事件は、厳しい国法を犯し、知識をふやすために生命まで賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、興味深いことであった。日本人は確かに探究好きな国民で、道徳的・知的能力を増大させる機会は、これを進んで迎えたものである。この不幸な二人の行動は、同国人に特有のものだと信じられる。また、日本人の激しい好奇心をこれほどよく示すものは他にはあり得ない。・・・日本人のこの気質を考えると、その興味ある国の将来には、何と夢にあふれた広野が、さらに付言すれば、何と希望に満ちた期待が開けていることか!」

 

 名作『宝島の文豪スティーヴンソンもまた、松陰に感銘を受けた外国人の一人です。彼は松陰の弟子・正木退蔵から話を聞き、"Yoshida Torajiro"という文章を著しています。その文章は次のように結ばれています。

 「一言つけ加えておかねばならない。これは英雄的な一個人の話であるとともに、ある英雄的な一国民の話だということを見損じないでほしいと願うからである。吉田のことを脳裏に刻み込むだけでは十分ではない。あの平侍のことも、日下部のことも、また、熱心さのあまり計画を漏らした長州の18歳の少年ノムラ(野村和作)のことも忘れてはならない。このような広大な志を抱いた人々と同時代に生きてきたことは、歓ばしことである」

 

 幕府の縄にかかり郷里の萩に送られた松陰は、蟄居の身ながら、人物育成の教育に情熱を燃やします。それが松下村塾です。27歳の松陰は、刑死するまでのわずか2年半ほどの間に、のちに明治維新を成し遂げ、近代日本を築き上げた英傑たちを輩出しました。桂小五郎、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文、乃木希典などは、みな松陰の魂の感化を受けた人物です。

 外国人にも感動を与えた、松陰の志を、私たちも見習いたいものです。

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参考資料:

・徳富蘇峰著『吉田松蔭(岩波文庫)

    司馬遼太郎著『世に棲む日々(文春文庫)

 
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女性たちへのメッセージ〜吉田松陰(4)

 

 吉田松陰は、妹・千代に女性としての生き方を、手紙で書き残しています。

 

 松陰は、ペリーの黒船に乗って海外渡航することを企てて失敗し、その罪によって獄中につながれます。松陰は、同囚の富永有隣と、曹大家(そうたいこ)の『女誡を訳した時に次のような言葉を記しています。

 「節母烈婦あり、然り後孝子忠臣あり、楠、菊池、結城、瓜生諸氏においてこれを見る」。すなわち、優れた人物は、母親・女性として立派な人の影響の下に、現れているということです。

 松陰の母・滝子は、明るい性格で、家を支え、貧乏でも毎日風呂を炊いて子供たちの心がのびやかになるように努めました。滝子の母親としての愛情や智恵が、松陰という偉人を育てたのでしょう。

 松陰は、そうした母の下に育ち、自分の妹・千代に対して、女性としての生き方を書き教えたのでした。千代は、松陰の4人の妹のうちで、一番上でした。千代は長州藩士・児玉祐之に嫁ぎました。安政元年12月、野山の獄中にあった松陰は、千代に手紙を書き送ります。その手紙から、現代の私たちにも通じる点を、以下に記します。

 

 まず、総論ともいうべきものとして、次のように書かれています。

 「凡(およ)人の子のかしこきもおろかなるもよきもあしきも、大てい父母のしえに依る事なり」。つまり、子供の人格形成には、父母の教育が大切だということです。

 「男子は多くは父の教えを受け、女子は多くは母のをしえを受くること」。男子は父性の、女子は母性の教育が重要だと言っています。

 「十歳巳下(いか)の小児の事なれば、言語にてさとすべきにもあらず、只正しきを以てかんずるの外あるからず」。幼い子供は、言葉でさとしてもまだわからないので、親が自らの態度で示して教えようということでしょう。子供は親の背中を見て育つ。

 「昔聖人の作法には胎教と申す事あり。子胎内にやどれば、母は言語立ち居より給(たべ)ものなどに至るまで萬事心を用い、正しからぬ事なき様にすれば、生るる子なりすがたただしく、きりよう人に勝るとなり」。胎教というのは、最近の流行のようですが、東洋の儒教は、古代から胎教の大切さを説き、具体的な実行法を教えていました。松陰も妊娠期間中の母親のあり方を説いています。

 

 さて、次は、妻としてのあり方についてです。「元祖巳下代々の先祖を敬ふべし」。先祖を敬いなさい、ということです。このことに関し、松陰は、以下のように書いています。「婦人は己が生まれたる家を出て、人の家にゆきたる身なり。(略)ややすればゆきたる家の先祖の大切なる事は思い付かぬ事もあらん、能々心得し」。つまり自分の実家の先祖だけでなく、嫁いだ家の先祖を大切にしなさいと説いています。

 「神明を崇め尊ぶべし」。神を敬いなさい、ということです。「神と申すものは正直なる事を好み、又清浄なる事を好み給。夫(そ)故神を拝むには先己が心を正直にし、又己が体を清浄にして、外に何の心もなくただ謹み拝むべし。是(こ)れを誠の神信心と申すなり。その信心が積もりゆけば二六時中己正直にて体が清浄になる。是れを徳と申すなり」。正直・清浄とは、日本人の心の理想ともいえるものです。

 「親族を睦じくすること大切なり」。親戚と仲良く、親族が調和するように努めなさい、ということです。

 

 この手紙を書いた時、松陰は25歳。兄としての愛情と、教育者としての誠意に心打たれます。千代は松陰の手紙を一生繰り返して読み、松陰の教訓に従い、子供の教育に努めたといいます。

 

 わが国には、かつて立派な人物が多数現れました。そうした人物が出現した土壌には、家庭にあって強くやさしく子供を育てる母性の力があったことを思い返したいものです。ページの頭へ

 

参考資料

・『日本の思想 19 吉田松陰集(筑摩書房)

 

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江戸無血開城〜西郷と三舟の活躍

2001.9.18

 

 世界史上の多くの革命が血と犠牲の上で行われました。これに対し、明治維新における江戸城の無血開城は、世界に誇るべき快挙です。

 ときはすでに王政復古の大号令が出された、明治元年(1868)。1月の鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府は、東海道を通り江戸を目指していました。このとき、東征大総督府下参謀だったのが、英雄・西郷隆盛です。一方、幕府側には、後に「幕末の三舟」と呼ばれる勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟がいました。

 

 徳川将軍慶喜は新政府軍との戦いを望まず、後事を勝海舟に託し、上野寛永寺に移り、蟄居(ちっきょ)謹慎していました。しかし、幕臣の一部はなお抵抗の意志が固く、予断を許しませんでした。もし新政府軍が江戸を攻撃したならば、町中に激しい戦いと火災が広がったでしょう。

 これを避けたいと願う勝海舟は、駿府(静岡県)にいる西郷に手紙を書きました。その手紙を届ける役に名が挙がったのが、幕臣随一の侍・高橋泥舟です。しかし、慶喜は彼を身辺から離すことを拒みました。そこで、泥舟は主君の警護に徹し、代わりに義弟・山岡鉄舟を推薦しました。泥舟の生家・山岡家は槍の名家で、泥舟は実兄・山岡静山に就いて槍を修業し、神業に達したと評されるほどの達人でした。しかし、泥舟は高橋家の養子となっていたため、山岡家に養子に入ったのが鉄舟だったのです。鉄舟は剣の達人で、山岡静山の弟子として、泥舟に劣らぬ槍の名手となっていました。泥舟は鉄舟以外に、大事を託せる者はないと推し、それが通ったのです。

 

 駿府へ向かう鉄舟は、官軍の陣を通過するときに、「朝敵徳川慶喜の家来山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と大声で言いました。そのため、誰も手出しをしなかったといいます。単身やってきた鉄舟の求めに応じ、西郷は鉄舟に会いました。鉄舟は、勝の手紙を渡しました。手紙には、次のような主旨が書かれていました。

 「現在、主人(徳川慶喜)は恭順しているけれども、いつその主人の意を解せぬ不貞の者が、新政府軍に対し反逆を企てるか分からない。また、この無頼の徒が反乱するか、恭順の道を守るかは、貴殿ら参謀の処置にかかっている。もし、正しい処置を行えば、何の暴動も起こらず、日本にとって大幸であるが、もし間違った処置をすれば、おのずから日本は滅亡の道を歩むだろう」

 勝は、今は国を二分して戦いなどしている場合ではない、戦乱は欧米列強がつけ込んでくる絶好の口実を与えてしまうーーと、西郷に戦争回避の道を暗示したのです。

 

 西郷はすぐに大総督府に向かい、総督や参謀たちと慶喜恭順降伏の条件を相談して、戻ってきました。そして、条件を箇条書きにした書きつけを鉄舟に手渡しました。そこには、五つの条件が書かれていました。ー「江戸城を明け渡す」「城中の兵員をすべて向島に移す」「兵器をすべて差し出す」「軍艦をすべて引き渡す」「徳川慶喜を備前藩に預ける」

 鉄舟はそれらの条件を読み終わると、西郷に対し、「一つだけお受けできない条件があります」と言いました。慶喜を備前藩に預けるという条件です。鉄舟は言いました。「仮に私に立場になって考えてみてください。もし貴殿の主君・島津候が現在の慶喜公の立場となったら、貴殿はこの条件を受けられますか。切にお考え下さい」と。

 同じ武士として、西郷は、主君を思う鉄舟の心が分かりました。「分かりました。慶喜公のことについては、私が責任を持ってお引き受けいたします」と、西郷は答えました。鉄舟はその言葉に感動し、泣いて西郷に感謝しました。

 鉄舟は早速、その足で江戸に戻り、勝に西郷との面会の内容、降伏の条件等を報告しました。これをもとに、勝と西郷は直接、江戸で会談し、江戸城の無血開城が実現することになるのです。

 

 後日、西郷は鉄舟を評してこう言っています。

 「さすがは徳川公だけあって、えらいお宝をおもちです。山岡さんという人は、どうのこうのと言葉では言い尽くせませんが、何分にも腑の抜けた人です。命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、というような始末に困る人ですが、あんな始末に困る人でなくては、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけにはいきません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんのような人でしょう」

 明治維新において江戸城無血開城という快挙がなされたのは、新政府に西郷、幕府に三舟という大人物がいたからなのです。ページの頭へ

 

参考資料

・安岡正篤著『日本精神の研究』(絶版)

・山岡鉄舟著、勝海舟談『武士道』(角川選書)

 

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江戸の町を救った武士道の精神

2001.10.3                                             

 

 明治維新の過程で起こった世界史に輝く出来事が、江戸無血開城です。それは、西郷隆盛と勝海舟の会談によって実現した快挙でした。

 明治元(1868)年3月、新政府軍の東征大総督府は、江戸総攻撃を3月15日と決定しました。江戸に入った大総督府下参謀・西郷隆盛は、13日、高輪の薩摩屋敷において、幕府代表の勝海舟と会談しました。彼らは、立場は敵同士です。しかし、敵といえども互いを認め合うところに、武士道の精神があります。

 

 勝と西郷の二人は、愛宕山に登りました。そして、山上から江戸の町を見渡しました。当時の江戸は120万の人口を抱える世界最大級の都市でした。もし幕府と新政府の両軍が戦うならば、多くの人の生命や財産が失われることになります。勝は西郷に言いました。「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのは、忍びないことです」と。二人は翌日、薩摩屋敷で会うことを約束して別れました。

 

 翌14日、勝は嘆願書を携えて、西郷のもとを訪れました。西郷はその書状を読みました。そこには、徳川幕府が恭順するにあたっての条件が書かれていました。

 勝は戦争を何としても回避したいと考えていました。もし日本人同士が戦をすれば、当然、英仏等がそれにつけこんできます。日本は、白人の植民地にされてしまうかもしれません。当時の国際情勢を、勝はよく認識していました。

 また、勝は幕閣ではありましたが、もはや幕府だけの利益にとらわれていませんでした。勝はペリー来航から7年後の安政7年(1860)には、咸臨丸に乗り込んで渡米し、日本とは全く異なる世界を目の当たりにしています。そして幕藩体制のもとでは世界の荒波の中を生き抜くことはできない、新しい日本をつくる必要があると考えていました。

 西郷はそういう勝の高い見識を、深く理解していました。そして国家国民を思う勝の誠心誠意を疑いませんでした。西郷は結局、細かいことは言わず、勝の出した条件を、ほとんどそのまま呑みました。そして、翌日の江戸総攻撃の中止を決断しました。

 

勝は、この会談のことを後年、次のように語っています。

 「いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。

 『いろいろ難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引受けします』ー西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮は言わない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。

 このとき、おれが殊に感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上に乗せ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったことだ。その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかった」(1)

 

 明治元年(1868)4月1日、血を流さずして江戸城は新政府軍に明け渡されました。もし戦争が回避できなかったならば、両軍はもとより江戸市民もまた甚大な損害を被っていたでしょう。

 剣の道には「殺人刀(せつにんとう)」と「活人剣(かつにんけん)」があります。人を殺すより、人を活かす剣こそが、真の剣の道とされました。そして武士道とは、単に戦いの道ではなく、その真髄は平和を実現し、人々の安寧を守るための道なのです。つまり大調和の精神こそが、武士道の真髄なのです。勝海舟と西郷隆盛は、こうした武士道の真髄を体得した人物だったのです。

伝記作家の木村毅は、次のように書いています。

 「由来、政治革新には必ず悲惨な戦争、残虐な殺戮がつきものである。それを明治維新には、誠心誠意と相互のよき了解と敬意によって無血で仕上げた。それは日本人でなくてはできなかったことで、世界に輝かしいただ一つの異例だ。江戸城の明け渡しは、西郷、勝両英雄の生涯の最も高潮した頂点であるとともに、また二千年の日本歴史の最大の誇りとなる一場面でなくてはならない」(2)ページの頭へ

 

(1)勝海舟談『氷川清話』(角川文庫)

(2)木村毅著『西郷南州(絶版)

 

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大西郷の生き方〜「公と私」「天の道」

2001.10.18

 

 明治維新の英傑・西郷隆盛には、これといった著書がありません。わずかに西郷の言葉を伝えているのが、『西郷南洲遺訓です。『遺訓は西郷が生前語った言葉や教訓を集めたものです。編集は、薩摩ではなく庄内藩(今の山形県鶴岡市付近)の藩士たちによってなされました。

  内村鑑三は、世界に向けて書いた英文の名著『代表的日本人』で、第一に西郷隆盛を挙げています。

 「維新における西郷の役割をあまさず書くことは、維新史の全体を書くことになるであろう。ある意味に於いて、明治元年の日本の維新は西郷の維新であった。…余輩は、維新は西郷なくして可能であったかどうかを疑うものである」

 このように西郷を称える内村は、西南戦争における西郷の死を悼み、「武士の最大なるもの、また最後のものが世を去ったのである」と書きました。

 

◆西郷における「公と私」

 

維新前夜の戊辰戦争の時、庄内藩は最後まで抗戦し、遂に城を明け渡すことになりました。厳罰を覚悟したところ、官軍から何ら恥辱を受けず、きわめて寛大な処置でした。後日それが西郷の指示によるものであったことを知り、庄内藩士たちは西郷の度量の大きさに感服したのです。庄内藩は親書をもった使者を鹿児島に派遣し、藩主酒井忠篤以下76名が西郷を訪ね面談しました。その後も庄内藩士は西郷に教えを受けました。やがて彼らは西郷から聞いた言葉をまとめ、『西郷南洲遺訓を作成したのです。これが西郷の偉大さを今日に伝える珠玉の文集となっています。

 

 西郷は、無私の人だといわれます。『遺訓には、その西郷の公と私についての考え方が表れています。

 

 「小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。己を利する者は私、民を利する者は公なり。公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ」

  小人とは徳のない人間です。君子は徳の高い人間、大人物です。西郷は自分の利益を図ることは私であり、人民の利益を図ることは公だといいます。民利公益を追求する者は栄えるが、私利私欲を追求する者は亡びると、彼は言っています。

 

 「廟堂(びょうどう)に立ち大政を為すは天道を行うものなれば、些(ちつ)とも私を挾みては済まぬもの也」

 廟堂とは政府のことです。国の政治を行うことは、天地自然の道を行なうことであるから、たとえわずかであっても私心を差しはさんではならない、と西郷は言います。

 

 「草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷(まじき)也。今となりては戊辰の義戦も、偏(ひとえ)に、私を営みたる姿になり行き、天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻(しき)りに涙を催されける

 西郷は明治政府の指導者が、公を忘れ私に走る姿を見て、悲嘆していました。維新創業の時というのに、ぜいたくな家に住んで、衣服を飾り、きれいな妾をかこって、私財を蓄えることばかり考えるならば、維新の本当の目的は遂げられないだろう。今となっては戊辰戦争もひとえに私利私欲を肥やすためとなり、国に対しても、戦死者に対しても申し訳ないことだと言って、西郷はしきりに涙を流したのでした。

 

 西郷は「児孫のために美田を買わず」という七言絶句の漢詩を示し、もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと行いとが反していると見限りたまえと言ったそうです。実際、西郷はその言葉どおりに実行しました。こうした西郷の姿勢は、まさに奉私滅公の精神の表れでしょう。その精神は、次の一句に最もよく示されていると思われます。

 

 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

 命も名誉もいらない、官位も金もいらないというような人は扱いに困る。しかし、このような人物でなければ困難をわかちあい、国家のために大きな仕事を成し遂げることはできない。この言葉は、山岡鉄舟のことを語ったともいわれますが、西郷自身がこのように私利私欲を超え、誠をもって公に奉じる人間だったと言えます。

 今日、わが国では、西郷のように「公」の精神をもつ若者の活躍が、期待されているのです。誠をもって公に報じる人にとって、『西郷南洲遺訓は座右の書となるでしょう。

 

◆西郷における「天と道」

 

 西郷を敬愛した内村鑑三は、西郷の内面に深く思いを致します。『代表的日本人』に内村は書いています。尊敬する徳川斉彬と藤田東湖を失ったとき、西郷は孤独の中に住み、自己の心を見据えました。そして、「西郷はその心のなかに自己と全宇宙より更に偉大なる『者』を見出し、その者と秘密の会話を交わしつつあった、と余は信ずる」と。そして内村は、「天との会話」の中から、西郷の次のような言葉が生まれたといいます。

 「人を相手とせず、天を相手とせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」

 すなわち、人を相手にせず、常に天を相手にするよう心がけよ。天を相手にして自分の誠を尽くし、決して人の非をとがめるようなことをせず、自分の真心の足らないことを反省せよ。

 「道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬する目的と。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛するなり」

 すなわち、道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人は道にのっとって行動すべきものであるから、まず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も同じように愛するものだから、自分を愛する心をもって人を愛することである。

 

ここに見られるのは、有名な「敬天愛人」の思想です。内村は、明治維新における「出発合図者」(スターター)「方向指示者」(ディレクター)としての西郷の常人に絶した活動力は、この信念から発していると書いています。

 「敬天愛人」とは、西郷が創った言葉ではありません。シナの古典にある言葉です。「道」という概念も同様です。しかし、西郷の「天」や「道」は、シナ思想の受け売りではありません。作家の林房雄氏は次のように指摘します。「西郷のいう道とは何か…道とは『天を相手にせよ』の『天』と同じであるが、これを『天地自然の道』と定義するところに、私は国学の影響を見る」と。

  幕府の官学は、朱子学でした。西郷も四書五経や朱子を学びました。しかし、薩摩藩では、国学も盛んでした。島津久光は、国学の大家ともいえる一面をもっていました。西郷は、やがて先輩・友人・同志の影響によって、本居宣長や平田篤胤を学ぶようになりました。なかでも先輩の竹内伴右衛門は篤胤生前の門人でした。竹内は「皇道唯一(すめらぎの道ただ一つ) こをおきて仇の小径に ためや人」という篤胤直筆の和歌を、座右にかかげていました。

 

このようなことから、西郷の「敬天愛人」には、わが国固有の思想が含まれていると考えられるのです。その傍証として、林氏は次の点を挙げています。西郷は36歳から38歳まで、第2回の島流しの身となりました。沖永良部島の獄中で、死を覚悟した西郷は、「獄中有感」と題する詩を詠みました。その一節に、「生死何疑わん、天の付与なるを。願わくは魂魄をとどめて、皇城を護らん」とあります。「皇城」とは、宮中のことです。自分が死んでも魂となって、天皇を護りたいという願いを歌っています。こうした勤皇の精神は、外国思想(儒学)のみで養われるものではありません。

 

 このように見てくると、西郷の「敬天愛人」は、天地自然の道に従う思想というだけではないことがわかります。西郷の「敬天愛人」には、わが国に伝わる神の道に従うという意味があり、また天皇への忠義の念が込められていたのです。西郷に限らず、維新の志士たちは、わが国の伝統・国柄を学び、そこから新しい変革のエネルギーを得ていたことを忘れてはならないでしょう。

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参考資料

・『西郷南遺訓(岩波文庫)

・内村鑑三著『代表的日本人』(岩波文庫)

・林房雄著『大西郷遺訓』(新人物往来社)

・荘内南洲会のホームページ

http://www1.ocn.ne.jp/~x48ue66i/data/frame.htm

 

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戦わずして勝つ〜達人・山岡鉄舟

2001.11.12

 

 山岡鉄舟は、西郷隆盛との談判で有名です。その談判により西郷と勝海舟の交渉を実現し、江戸無血開城を成功に導きました。そうした鉄舟は、幕末屈指の剣術家であり、サムライでした。

東洋の軍事学の古典・『孫子』は、戦わずして勝つことを最上とします。戦って勝つのは真の勝利ではなく、戦わずして勝つのが本当の勝ちであるというのです。「武」という文字は、「戈(ほこ)を止める」と書きます。つまり、武力を用いずに平和を実現するのが、真の武なのです。

武士とは本来、戦士であり、兵法(軍事学)を実践する武芸者でした。しかし、『孫子』に見るような真の「武」の考えが、日本の武士道にはあります。

 剣法においては「殺人刀(せつにんとう)」と「活人剣(かつにんけん)」があるとされ、人を殺すより、人を活かす剣こそが、真の剣の道とされました。そして、相手と戦わずして勝つことが、最高の境地とされました。その境地に至るには、剣の技術以上に、心の修行が必要です。山岡鉄舟こそ、これを生涯実践した達人でした。

 

鉄舟は、剣の達人でありながら、暗殺の横行する血なまぐさい幕末の時代にあって、一人の人間も斬ることがなかったといわれます。

 鉄舟は自ら体得した剣の流儀を「無刀流」と名づけました。その極意を次のように述べています。

 「無刀とは、心の外に刀なしと云事(いうこと)にして、三界唯一心也。内外本来無一物なるが故に、敵に対する時、前に敵なく、後に敵なく、妙応無方朕迹(ちんせき)を留めず。是余が無刀流と称する訳なり」

 また、「無刀流剣術大意」にはこう記されています。

「一、無刀流剣術者(は)、勝負を争わず、心を澄し、胆を練り、自然の勝を得るを要す。

一、刀とは何ぞや。心の外に刀なきなり。敵と相対する時、刀に依らず

して心を以て心を打つ。是を無刀と謂ふ

 そのような境地に到達した達人が、鉄舟でした。

 

鉄舟にとって「武士道」とは、中世の武士の間に初めて生まれたものではありませんでした。「謹んで惟(おもん)みるに、わが皇祖皇宗、この国を『しろし』召され、そのお徳を樹て給うことはなはだ深遠である。故に日本武士道はこれに伴うて、またはなはだ深遠である。天地未発の前において、すでにはらまれていたものである。さて、これは日本人の道というほうが至当である…」と鉄舟は語っています。また、「武士道という語句の中には…『日本人の守るべき道』という意味があるから、…上は王侯貴族より、下は方山里のこりまで、また浦々の漁民までならして国民全般の修身宝道である」と述べています。

鉄舟のいう武士道は、日本古来の精神的原理であり、武士だけでなく、すべての国民が踏み行うべき道だったのです。こうした見方は、彼以後の武士道論に影響を与えています。

 

鉄舟は、幕末から明治にかけての大変動の時代を生きた人間です。明治維新によって文明開化がなされ、西洋の物質文明が急激に日本に流れこみましたが、鉄舟は、そうした西洋の科学・知識を否定するわけではありません。むしろ、大いに摂取するとよい、といいます。しかし、鉄舟は、物質文明と精神文明が調和してこそ「真の文明」であると考えました。そして、「今後は祖先伝来の武士道をもって頭脳となし、抽象科学、物質的思想を手足となし、武士道である頭脳が指揮官となって、物質的科学が手足のごとき遵奉者」と、ならなければならないと説きました。これは、一個の文明論といえます。

 

 鉄舟は、西郷・岩倉・勝らの切なる推挙により、明治天皇の侍従となり、教育・補佐にあたりました。官軍・賊軍と分ければ、鉄舟は賊軍の幕臣出身でありながら、人物を見込まれたのです。明治天皇がまだ少年の頃、鉄舟に相撲を挑んだところ、鉄舟はいとも簡単に転がしてしまいました。わざと負けて、「お強いですね」とおだてたりするのでなく、立派な君主になって育っていただきたいという思いで、敢えて投げ飛ばしたのでしょう。

鉄舟は明治5年(1872)から10年間このお役を務めた後、引退を申し出ましたが、天皇のご信任は篤く、ご下命により終生、御用係という役職につきました。鉄舟はその功績を称えられ、子爵を授けられていました。しかし、かなりの俸給を受けるようになっても、お金はみな困った人たちに融通し、自分は死ぬまで清貧で通しました。宮内省に馬車を差し回すといわれても固く断り、人力車で通いました。

 

鉄舟は、明治21年7月19日、胃ガンで亡くなりました。その最期は白衣に着替え、皇居に向かって遥拝して、座禅を組んだ姿勢で、静かに座死したと伝えられます。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は……」という有名な西郷隆盛の言葉は、鉄舟のことを述べたものとも伝えられます。ページの頭へ

 

参考資料

・山岡鉄舟口述+勝海舟評論『武士道』(角川選書)

 

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廃藩置県〜「私」を超える武士道

2001.11.28

 

 明治維新を実現したものは、武士道の精神でした。武士たちの「私」を超えて「公」に尽くす精神が、この大改革を成し遂げたのです。

 

 維新直後の明治新政府の課題は、一日も早く近代国家を建設して、欧米列強に支配されることのないようにすることでした。明治2年(1869)6月に版籍奉還が行なわれ、各藩の土地と人民は朝廷に返還されたものの、実質的には藩はそのままの形で残っていました。新政府の収入は、徳川幕府から引き継いだ直轄地からの年貢収入だけです。全国の石高3000万石のうちの860万石、約3分の1にすぎません。財政の基盤を作り出さねば、新しい国造りはできません。それには、各藩の徴税権を中央政府に集約するしかありません。そこで断行されたのが、明治4年(1871)の廃藩置県です。

 

 廃藩置県には大きな危険が伴っていました。各藩から経済的基盤を奪い去るのですから、激しい抵抗が起こり大乱となるかもしれません。維新最大の難題でした。この改革の中心となったのが、西郷隆盛でした。西郷と大久保利通・木戸孝允・板垣退助とが相談し、薩摩・長州・土佐の三大藩の力を合わせて廃藩置県を行うことを決定します。西郷は、三藩から御親兵(政府直属軍)を出させ、日本の東西に鎮台を置くことにしました。もし反対する旧勢力が武力行動に出た場合、すぐ鎮圧できるようにとの準備です。

 しかし、いざ実行の段階になると、首脳会議は紛糾しました。時期尚早ではないかとか、抵抗が起こるのではないかと、大久保と木戸は大激論になったのです。しかし、黙って聞いていた西郷が、口を開きました。

 「貴殿らの間で実施についての事務的な手順ができているのなら、その後のことは、自分が引き受ける。もし暴動が起これば、自分がすべて鎮圧する。貴殿らは心配せずに、やって下され」。

 この西郷の一言で、廃藩置県が断行されることになったのです。

 

 明治4年7月14日、政府は東京に住む元大名の知藩事を集め、天皇の詔勅として、廃藩置県を言い渡しました。元大名たちは、驚きました。これまでの地位と財産を失ってしまうからです。しかし、彼らにも全国の武士たちにも、抵抗らしい抵抗はほとんどありませんでした。一日にして藩は廃止され、全国の土地は中央政府の管轄になりました。政府は全国から税を徴収できるようになり、財政の基盤を確立できたのです。それゆえ、廃藩置県は、世界史にも希な無血革命といわれます。

 

 一体、どうしてこれほどの改革が、無血のうちに実現できたのでしょうか。

 廃藩置県は、これまで特権階級だった武士階級にとって、収入の基盤を失うことを意味しました。江戸時代にサラリーマンのようになっていた武士たちは、サラリーがもらえないことになったわけです。

 これをフランス革命と比較すると、フランス革命は新興ブルジョワジーが、自分たちの発展を妨げる封建階級を打倒して新しく権力を握った革命でした。これに対して明治維新を行った武士階級は、逆に自分たちの特権をなくす改革を行ったのです。しかも、それによって、武士という階級そのものを自ら消滅させる改革だったのです。

 ここに、我が国の武士道の精神があります。

 

武士道は、大義に生きる精神です。主君への忠誠のためには、「私」を捨てるのが武士です。幕末の武士たちは、もはや藩にとらわれている時代ではない、藩を超えて日本国のために行動しなければならないと考えるようになっていきました。日本の国柄を学ぶにつれ、忠誠の対象は、藩主から天皇へと変わっていました。そして維新の過程で、全国の武士たちは、日本という「公」のために、自ら「私」を捨てようという考えを持つにいたったのです。改革を断行した西郷は、改革を私利私欲のために行なったのではありませんでした。日本の独立を守り、新しい国造りをするための決断でした。その無私の精神が、全国の武士たちに「私」を超え、「公」に尽くす行動をなさしめたといえましょう。

 

 こうした武士道の精神が、世界史に例のない無血革命、廃藩置県を実現させました。明治維新とは、武士道による革命だったということができるでしょう。

 今日の日本では、明治維新以来、最大の改革が求められています。私たち日本人は、私たちの先祖・先輩が持っていた武士道の精神を見直すべきではないでしょうか。ページの頭へ

 

参考資料

拙稿「国境のない世界へのモデル・廃藩置県」をご参照下さい。

 

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昨日の敵は今日の友〜乃木の仁愛

2002.1.10

 

 日露戦争最大の激戦は、旅順攻略戦でした。戦いは半年以上にわたり、日本側の戦死者は1万5千4百人余、負傷者は4万4千人余にのぼりました。苦戦の末、司令官・乃木希典大将は、参謀に児玉源太郎中将を得て活路を開き、ついに二〇三高地を陥落せしめました。ロシアは旅順艦隊も全滅して戦意を失い、関東軍司令官ステッセルは、降伏の軍使を派遣してきました。明治38年(1905)1月2日、両国代表が降伏文書に調印。この世界史に残る戦いは終結しました。

 

 1月5日、日露の司令官による会見が行われました。会見は、ステッセルの求めによるものでした。既に降伏文書の調印は済んでおり、敗者ステッセルが勝者乃木に会う義務はありませんでした。しかし、彼は騎士道に基づいて礼儀を表そうとしたのです。これが後に、小学校唱歌に歌われた「水師営の会見」です。佐佐木信綱作詞による歌詞が、会見の模様を一編の叙事詩のように、見事に描いています。

 

一、旅順(りょじゅん)開城(かいじょう) 約成(やくな)り

敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ水師営

 

 ニ、庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木 弾丸あとも いちじる

くずれ残れる 民屋(みんおく)に 今相(あい)見る 二将軍

 

三、乃木大将は おごそかに 御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の

大(おお)ことのり 伝(つと)うれば 彼(かれ)かしこみ

謝しまつる

 

四、昨日(きのう)の敵は 今日の友 語ることばも うちとけて

我はたたえつ かの防備 かれは称えつ わが武勇

 

五、かたち正して 言い出でぬ 『此の方面の戦闘に 二子(にし)を

失い給(たま)いつる 閣下の心如何に』と

 

 六、『二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門

(ぶもん)の面目(めんぼく)』と 大将答(こたえ)力あり

 

七、両将昼食(ひるげ)共にして なおもつきせぬ物語 『我に愛する良馬(りょうば)あり 今日の記念に献ずべし』

 

 八、『厚意謝するに余りあり 軍のおきてに従いて 他日我が手に受領せば

ながくいたわり養わん』

 

 九、『さらば』と握手ねんごろに 別れて行(ゆ)くや右左(みぎひだり)

砲音(つつおと)絶えし砲台(ほうだい)に ひらめき立てり

日の御旗(みはた)

 

 「昨日の敵は今日の友」という一節は、特に有名です。この会見の前、アメリカ人の映画技師が、会見の様子を活動写真に収めたいと要望しました。乃木は、副官を通じて丁寧に断りましたが、なお各国特派員が撮影の許可を求めました。そこで、「敵将にとって後々まで恥が残るような写真を撮らせることは、日本の武士道が許さない。しかし、会見後、我々が既に友人となって同列に並んだ所を、一枚だけ許そう」と答えました。乃木はステッセル以下に帯剣を許し、肩を並べて写真に収まりました。勝者が敗者の立場を思いやり、互いに栄誉を称えあったのです。外国人記者たちは、この配慮に感動し、彼らの発した電文と写真は、世界各国に配信されました。これによって、乃木は、日本武士道の精神を世界に知らしめたのです。

 ステッセルの帰国後、ニコライ2世は敗戦の責任を追及し、銃殺刑を言い渡しました。これを知った乃木は、助命嘆願の手紙を出しました。そのかいあって、ステッセルは罪を軽減され、死刑を免れて、シベリア流刑となりました。世界史上、敵将の助命を嘆願した将軍は、乃木以外にはいません。

 

明治天皇の御製に、次の歌があります。

 

  国のため あだなす仇は くだくとも

       いつくしむべき 事なわすれ

 

大意は、国の仇である敵を打ち砕くとも、その人々に対して仁愛の心を以て接することを忘れてはならないぞ、ということと思われます。乃木は、こうした仁愛の心を誰よりもよく実践した日本人だったのでした。

 

 乃木は、明治天皇が崩御するや、殉死をしました。主君に殉ずるという武士道の流儀を固守したがゆえです。その一方、乃木は、自決のときまで、ステッセルの家族に生活費を送り続けていました。そんな乃木の葬儀の後、ロシアから匿名で、「モスクワの一僧侶より」とだけ記された香が届きました。それは、ステッセルが贈ったものだといわれています。

 敵同士の間にも真の理解と友情が生まれる、それが日本の武士道であり、日本の心の精華をそこに見ることができるでしょう。ページの頭へ

 

参考資料

・戸川幸夫著『人間乃木希典(学陽書房)

ごんべ007さんのサイト

 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

 「水師営の会見」の曲を聴くことができます。

 

武士道(その1)へ

 

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