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日本の心  君と民

 

題  目

目 次

■01 天皇に伝わる「仁」の伝統

■02 神代から皇室を崇敬した藤原氏

■03 平氏滅亡の原因〜『平家物語』の真意

■04 平清盛を長男・重盛が諌めた理由

■05 愛民の政治と尊皇の心〜源頼朝

■06 悲劇の英雄・源義経に感動するのは

■07 天皇に求められる君徳〜承久の乱

■08 為政者に日本の国柄を説いた明恵上人

■09 日本の国柄を描いた書『神皇正統記』

■10 天皇と志士たちを結ぶ歌

■11 英明無私の指導者〜明治天皇(1)

■12 神への誓い、民への思い〜明治天皇(2)

■13 仁慈と博愛の歌〜明治天皇(3)

■14 人の道を三十一文字に〜明治天皇(4)

■15 世界の福祉に貢献〜昭憲皇太后(1)

■16 和歌に表わす人の道〜昭憲皇太后(2)

■17 唱歌にこめた愛と願い〜昭憲皇太后(3)

■18 「民の父母」たらんとして〜昭和天皇(1)

■19 独伊との同盟に反対〜昭和天皇(2)

■20 開戦を止め得なかったのは〜昭和天皇(3)

  21 国民を思った終戦の御聖断〜昭和天皇(4)

■22 御聖断に込められた願い〜昭和天皇(5)

■23 戦後の原点「終戦の詔書」〜昭和天皇(6)

■24 マッカーサーは感動した〜昭和天皇(7)

■25 天皇が国民の飢えを救った〜昭和天皇(8)

■26 御巡幸が国民を力づけた〜昭和天皇(9)

■27 外国要人も感銘を受けた〜昭和天皇(10)

■28 東日本大震災で被災者を励ます〜今上陛下

29 平成28年8月8日「天皇陛下のお気持ち表明」を拝聴して

 

別項の「天皇と国柄」にも掲示があります。

 

和の精神

国柄

君と民

日の丸

君が代

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武士道

歴史

文明と倫理

自然

世界の声

 

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■天皇に伝わる「仁」の伝統

2002.5.27/2008.4.23一部加筆

 

わが国の天皇には、国民に「仁」の心を持つという伝統があります。日本書紀には、初代天皇とされる神武天皇が、「民」を「おおみたから」と呼んだことが記されています。神武天皇にとって、国民は皇祖・天照大神から託された大切な宝物だったのです。そして、神武天皇は、日本を建国するに当たり、国民を大切にすることを統治の根本としました。その後の天皇には、こういう思想が受け継がれています。 (1)

 

最も有名なのは、第16代仁徳天皇です。仁徳天皇は、国民が貧しい生活をしていることに気づくと、3年間年貢などを免除しました。そして、3年後、高台に立って、炊事の煙があちこちに上がっているのを見て、「自分は、すでに富んだ」と喜んだと伝えられます。(2)

次に有名なのは、平安時代の第60代醍醐天皇でしょう。醍醐天皇は、国民に対する同情心が強く、寒い夜に、自分から着物を脱いで貧しい人たちの寒さ以って体験しようとしました。『大鏡』や『平家物語』に出てくる逸話です。

醍醐天皇の治世は、後に「延喜の治」と讃えられました。『大日本史』には、醍醐天皇が、疾病や不順な天候の時は大赦したり、税を免じたりしたという記述が多く見られます。収穫の良くない年は、重陽節(ちょうようのせち、9月9日)を何度もやめています。これは国民への負担の軽減を願ったものでしょう。また、旱魃の時には、一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、さらに神泉院の水も汲ませ、ここの水もなくなったという記事もあります。鴨川の洪水などがあれば、水害を蒙った者に助けの手を差し出したり、その年貢や労役を免除しています。

こういう仁政のもとにあるのは、醍醐天皇の基本的な考え方です。それはすなわち、「自分は、租税によって着物を着ている。自分は年貢によって食べている。それなのに、民の方は足りなくて自分の方が余っている。これはよろしくない」というものです。

 こうした考えに基づいて、醍醐天皇は、次のような政令を出したのです。

 「旱魃があったら年貢を免じてやりなさい。水害の時は逋(ほ=未納の租税)を免除しなさい。兵士となった家は租税の対象外にしなさい。疾病が流行した時は租税を取り立てないように」と。

 

このような伝統は、現代の皇室にまで脈々と受け継がれています。皇族男子は、御名前にみな「仁」という文字がついています。明治天皇(睦仁)、大正天皇(嘉仁)、昭和天皇(裕仁)、今上陛下(明仁)、皇太子(徳仁)、秋篠宮(文仁)、秋篠宮ご長男(悠仁)。これは平安時代からの伝統だといいます。このことは、皇室が「仁」ということを非常に大切にされていることを表わしています。

そのことを示す逸話を、昭和天皇に見ることができます。

 昭和天皇は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫に、居住しました。そこは、元侍従長の入江相政によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、天皇は戦後もそこに住み続けました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、天皇は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、空前の神武景気も過ぎた昭和36年の11月、天皇はようやく現在の吹上御所に移りました。新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。

 

この事実は、昭和天皇の中に、歴代天皇の心境が生きていたことを示すものでしょう。そのことは、昭和天皇の次の言葉からも、拝察できるのです。

「もっとも大切なことは、天皇と国民の結びつきであり、それは社会が変わっていってもいきいきと保っていかなければならない」

「昔から国民の信頼によって万世一系を保ってきたのであり、皇室もまた国民を我が子と考えられてきました。それが皇室の伝統であります」(『ニューヨーク・タイムス』、ザルツバーガー記者との単独会見、昭和47年)

私たちは、こうした伝統をもった国に生まれているのです。そしてこうした伝統を知ることは、日本の文化と日本人のアイデンティティを確認することともなるのです。ページの頭へ

 

(1)拙稿「日本には、国の理想があるのだろうか」をご参照下さい。

(2)拙稿「なぜ日本の皇室は続いているのだろう」をご参照下さい。

 
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神代から皇室を崇敬した藤原氏

2005.1.2

 

「藤」のつく姓の家は、多くが藤原氏の分かれと考えられています。足利国佐野に住んだ藤原氏は「佐藤」、伊勢国の藤原氏は「伊藤」、加賀国は「加藤」、近江国は「近藤」などと名乗ったからです。自身がそういう姓である人や、親戚にそういう姓を持つ人は多いことでしょう。

 

奈良時代から平安時代を通して、藤原一族は、宮廷内に大きな力を持ち、藤原時代といわれる時代を築きました。藤原氏は、もと中臣氏でした。大和朝廷の氏姓制度において、中臣氏は大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)ではなく、弱小豪族でした。しかし、中臣鎌足が大化改新で功績を挙げたことにより、一躍勢力を伸ばしました。ことに律令の編纂に携ったことにより、律令制度の運営に力を発揮しました。そして、藤原氏の繁栄の基礎を固めたのが、鎌足の息子・不比等でした。

 

藤原不比等は長女宮子を文武天皇の後宮に入れ、そこに生まれた首皇子(おびとおうじ)が聖武天皇となりました。これによって不比等は臣下でありながら、天皇の祖父となったわけです。これは皇室始まって以来のことでした。さらに不比等は、首皇子の養育係・三千代をめとり、生まれた安宿媛(やすかべひめ)を聖武天皇の皇后としました。これが光明皇后です。皇室の流れを汲まぬ臣下の娘が皇后になった最初の例でした。こうして不比等は、天皇の外戚(註 母方の親戚)として権力を振るいました。そして、天皇を中心として、権威と権力を分化する仕組みをつくりました。すなわち、天皇は統治者としての権威を持ち、その下で政治権力は実質的に臣下が担うというシステムです。これが、その後のわが国の国家構造の基本となっていきます。

不比等以後も藤原氏は天皇の外戚であり続けました。なかでも道長は、娘彰子を一条天皇の嬪(ひん)に入れて以来、三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇といった藤原氏の血を引く天皇を次々に誕生させました。つまり、自分の娘三人が三代の天皇の后となったわけです。道長は「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば」という歌を詠んだほどで、藤原三百年の絶頂を極めています。

 

しかし、重要なことは、藤原氏は、決して自分が天皇にはならなかったことです。絶大な権力をもった不比等や道長も、自ら皇位につこうとはしませんでした。また、天皇とするのは自分の息子ではなく、娘が生んだ自分の孫でした。自分の地位と権力は、あくまで天皇あってのものであると思っていたのです。

強大な権力を掌中にしながら、藤原氏が自分から天皇になろうとしなかったことは、世界の歴史を見ると不思議なことです。シナの歴史を見ても、家臣が王位を簒奪(さんだつ)することが、幾度繰り返されてきたかわかりません。

これはなぜなのでしょうか。ここにわが国の国柄を理解するポイントがあります。藤原氏のもとは、中臣氏でした。中臣氏の系図は、神代の時代にさかのぼり、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を先祖としています。天児屋根命は、天照大神が天岩屋戸に隠れたときに、岩戸の前で祝詞をあげた神でした。そして、天孫降臨の時にニニギノミコトに付き添って、日本の国に降りてきたとされ、その子孫である天種子命(あまのたねこのみこと)は神武天皇に従って日本の建国に参加したと伝えられます。その子孫、つまり中臣氏は代々、朝廷に仕えて神事を掌(つかさど)っていました。つまり、遠く神話の時代から皇室に仕えてきたのです。そのため、その末裔(まつえい)である藤原氏には、皇室の権威を侵してはならないという慎みの意識があったのです。仮に天皇の地位を簒奪したならば、神代以来の先祖の行為を否定することになってしまいます。これは、祖先を敬う日本人には、決してできないことです。こうした藤原氏の姿勢は、後代の日本人の模範となりました。そして、神話の時代から歴史の時代を一貫して、天皇と国民の関係が保たれ、国の秩序が守られてきたところに、わが国の他に比類ない特徴があります。

 

さて、栄華を極めた藤原氏は、都で優美な生活にふけるようになり、地方のことを省みませんでした。その結果、地方の政治が乱れ、平安時代末期には平将門・藤原純友の乱などが起こります。これらを鎮定したのは源氏や平氏の武士たちでした。さらに、藤原氏の内紛に端を発した保元の乱では、もはや貴族では世を治めていけないことが明らかになり、源平両氏が時代を担う者として登場しました。そして、平治の乱の勝者となった平氏が、藤原氏に代わって権勢を伸ばしました。

その後も、藤原氏は滅亡したわけではありません。平安時代から江戸時代まで貴族社会の中枢を占めて皇室を支え、その家系は明治以降も華族の名門として首相・近衛文麿等を輩出しています。わが国でこれほど長い間、繁栄を続けてきた家柄はありません。その最大の理由は、祖先伝来の皇室尊崇の心を保ち続けたからと言えましょう。

 

藤原氏は、古くからわが国に続く多くの家系の一例にすぎません。天照大神の子孫が「天孫降臨」をしたときに同行してきた神々の一族と伝えられる家系には、中臣(藤原)氏以外に、大伴氏、菊池氏、高橋氏、安倍氏などがあり、天照大神から初代・神武天皇までの先祖から枝分かれした子孫には、大河内氏、蒲生氏などがあり、また古代・中世に皇室から分かれた橘氏、源氏、平氏など、実に多くの家系があげられます。そして、わが国は、自家や親族を通じて、どこかで皇室につながっているところに、固有の特徴があるのです。ページの頭へ

 

参考資料

・拙稿「あなたと天皇は、親戚かも?

 

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氏滅亡の原因〜『平家物語』の真意

2005.1.14

 

 武士という階級が現れたのは、平安時代の後期、10〜11世紀頃です。この武士の勃興期に活躍したのが、平氏と源氏でした。貴族の家来だった彼らが、政治の舞台に進出するようになるのは、古代の朝廷政治が爛熟・腐敗し、対立・抗争を生じたことによっています。

その矛盾が極点に達したのが、保元・平治の乱でした。保元元年(1156)、藤原氏の内部抗争に端を発した争いは、皇位をめぐって天皇と上皇が戦うという未曾有の事態に至りました。後白河天皇側には藤原忠通・源義朝・平清盛ら、崇徳上皇側には藤原頼長・源為義・平忠正らがつき、一家一族が分かれて戦いました。勝利を得たのは、天皇側でした。これが保元の乱です。

この時、源義朝は勝者になったものの、上皇方についた父・為義の首を斬らせるという非道を行いました。子が親を殺すという前代未聞のことでした。その後、義朝は恩賞に不満を持ち、藤原信頼と結んで兵を挙げますが、平清盛の反撃にあって敗れます。これが平治の乱(1159)です。その結果、源氏は敗退し、平氏が全盛期を迎えます。

 

こうした時代を描いた物語が、『平家物語』です。『平家物語』は、武士が貴族に代わって権力の中枢部に上り、独裁的権力を握った平氏が栄華を極めた後、わずか20数年のうちに滅び、代わって源氏が武士政権を確立するまでのいきさつを描いています。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」という冒頭はあまりにも有名です。

「諸行無常」とは、仏教の世界観を表わす言葉です。しかし、『平家物語』は単に仏教的な無常観を表わしているのではありません。冒頭の文はすぐ次のように続くからです。ここからは現代文訳で引用します。

 「遠くシナの歴史を尋ねると、例えば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱弃、唐の禄山、これらの者はみな、帝の政治にも従わず、楽しみを極め、諌めをも入れず、天下が乱れて庶民が困窮しているのも省みなかったので、滅んでいった者たちである。

 近くはわが国を見ると、承平の平将門、平慶の藤原純友、康和の源義親、平治の乱の大納言信頼、これらの者たちも、それぞれ奢り高ぶった心の持ち主だった。

 もっと近い例では、伝え聞くところによると、六波羅の入道、前の太政大臣、平清盛という人の有様は、言い表わす言葉もない。その先祖を調べると、清盛は、桓武天皇の第5皇子・葛原の親王から9代にあたる子孫である讃岐守正盛の孫であり、刑部卿の平忠盛の長男である」

 

 さて、ここで重要なことは、『平家物語』の作者が、平清盛について述べている内容なのです。作者は、清盛が自分の仕える主君の政治に反逆して、権勢の限りを尽くし、周囲の忠告に耳を貸さず、世の中が乱れてしまうことに気づかず、世の人々が何に苦しみ、何に歎いているのか、まるで反省しなかったので、その栄華は長続きせず、間もなく滅亡したと書いています。すなわち、平氏滅亡の最大の原因は、朝廷に対する反逆の罪である、それが一門を破滅に導いたのだ、と『平家物語』の作者は考えているのです。

 

平清盛は、保元・平治の乱で目覚ましい武功を挙げ、僅かのうちに平(ひら)の参議から太政大臣という最高の位に昇りつめました。同時に一族の多くの者たちも高位高官に就き、武力をもって専横に振る舞いました。平氏一門は全国の半ば以上を支配するに至りました。さらに、清盛は、かつての貴族・藤原氏の後宮政策を真似し、娘の徳子(とくし)を高倉天皇の妃として皇室とのつながりを固くしました。終(つい)には、徳子の産んだ皇子、つまり清盛の孫が、3歳で即位して安徳天皇となりました。清盛は天皇の祖父になったわけです。こうして平氏一門は栄華の絶頂に達し、大納言平時忠などは、「此の一門にあらざむ人は皆人非人なるべし」と高言するほどでした。

そのうち、平氏は、一族のものまでが公家と結婚することによって、武家という自分たちの本質を忘れて貴族化していきました。一方、源氏は武士の理想を失いませんでした。

平氏も源氏も、元は皇室に由来をもつ家柄です。皇室を敬い、皇室に仕えることが、武士のあるべき姿でした。しかし、平氏は、皇室の権威を侵すほどに奢り高ぶり、源氏は、皇室への尊崇を保ち続けました。平氏は、まさにこの点での源氏との違いによって、敗退・滅亡への道を下ることになったのです。『平家物語』の背景には仏教的な無常観が漂っていますが、事の核心にあるのは仏教思想ではなく、わが国の国柄であり、天皇と国民の関係なのです。

 

『平家物語』は、琵琶法師たちの語りによって、後代の武士たちに広く親しまれ、武士の精神の形成に大きな影響を与えました。そこに記されたわが国の国柄と、国民の在るべき姿は、読む者、聞く者の心に深く刻まれていきました。また、忠度(ただのり)、敦盛(あつもり)、知盛(とももり)など滅びゆく平氏の武将たちの、美しくも悲しい最期の物語は、敵味方の憎悪を超えた武士の情を育み、武士道という独特の倫理を培っていきました。

『平家物語』は、江戸時代には、広く歌舞伎・浄瑠璃などの題材にも取られ、庶民にも親しまれました。それは日本人の共通の物語となって、国民意識の形成に大きな役割を果たしたのです。ページの頭へ

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参考資料

・佐藤謙三校注『平家物語』(角川文庫ソフィア)

・梶原正昭・山下宏明 校注『新日本古典文学体系 平家物語』(岩波書店)

・冨倉徳次郎編『鑑賞日本古典文学第19巻 平家物語』(角川書店)

 
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平清盛を長男・重盛が諌めた理由

2005.2.1

 

『平家物語』は、栄華を極めた平氏が滅亡した原因は、清盛が皇室の権威を侵すほどに奢り高ぶったからだという見方をしています。このことをよく表しているのは、平重盛が父・清盛を諫める場面です。

権勢を誇る平氏一門は、傲慢な振る舞いを続け、平氏を取り立ててきた後白河上皇やその近臣からさえ反感を買うようになります。そして上皇や藤原成親(なりちか)らが、平氏の打倒を謀議します。しかし、これが発覚し、清盛は彼らに容赦ない処罰を下そうとします。いわゆる鹿ケ谷事件(1177)です。この時、清盛の暴挙を制しようとしたのが、長男の重盛です。重盛は単に武勇に秀でただけでなく、温厚で人望も厚い人物でした。そこには、後世の武士道において目標とされた、武勇と人徳を兼備した武士の姿が描かれています。

 

『平家物語』の巻第二の五「教訓の事」より、重盛が父・清盛を諌める場面を、現代文訳で引用します。

 「そもそも日本は神国です。神は非礼を受け入れません。ですから、神の子孫である法皇の思い立たれたことも、半分くらいは道理に合っているのです。特にわが平氏一門は、代々朝敵を征伐して、天下の争乱を鎮めたのは、無双の忠義ですが、その褒美(ほうび)を自慢するのは、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)というものです。

 聖徳太子の十七箇条の憲法に、『人間はみな心を持っている。人間の心は、ものごとにとらわれる性質がある。あちらが正しければ、こちらは誤っている、こちらが正しければ、あちらは誤っている、と決めつけてしまうが、正しいか誤っているか、その判断の絶対基準は人間が定めることはできない。お互いに賢くもあれば、愚かでもある。賢と愚とは一つの環のようにつながっていて、両者が分かれる端というものはない。だから、たとえ相手が怒っても、相手が悪いと決めつけず、自分のほうに間違いがないか反省すべきだ』とあります。

それにしても、今回の事件に関しては、わが家門の運命がまだ尽きないからこそ、法皇の謀反が露見したのです。しかも、共謀者の成親卿を逮捕してある以上、法皇がどんな奇策を用いようとも、何も恐れることはありません。

謀反人どもをそれ相応に処罰したならば、引き下がってこちらの事情を納得してもらい、法皇にはますます奉公の忠義を尽くし、民のためにいよいよ思いやりを持つようにすれば、神の加護があり、仏の思し召しにかないます。神仏が父上を受け入れるならば、法皇もきっと反省されるでしょう。

君と臣の関係は、親しいか疎いかで決めるものではありません。臣は君につくものと決まっています。道理と非道と比べれば、道理を選ぶのは当然なのです」

 このように述べて重盛は、父・清盛を制します。さらに重盛は、もし清盛が武力を振るうならば、自分は、君である法皇を守護するつもりであるといいます。そして、法皇に忠を尽くすか、父に孝を尽くすか、板ばさみになった苦悩を語り、自分の首をはねてくれと訴えます。この命がけの諌めには、さすがの清盛も心を動かされました。清盛は後白河上皇を離宮に軟禁することを、思いとどまりました。死罪とするつもりだった首謀者の藤原成親についても、流罪に減刑しました。

 

重盛は、奢る清盛を抑えられる唯一の人物でした。武勇に優れ、人格者でもあり、平氏一門の要でした。しかし、この重盛が清盛に先だって治承3年に病死してしまいます。その後、歯止めを失った清盛は、独断専横を続け、その結果、平氏は没落・滅亡に至るのです。

重盛の諌言には、日本は神の国であるという神国意識、武士は皇室を敬うべきものという尊皇心、親や一族を大切にしつつも、親への孝より君への忠を優先すべしという忠孝観が込められています。そこには、武士道の根幹となる思想が、よく表れています。また同時に、日本の国柄について、私たちに再認識を迫るものがあると言えましょう。ページの頭へ

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参考資料

・『ビギナーズ・クラシック 平家物語』(角川書店)

・佐藤謙三校注『平家物語』(角川ソフィア文庫)

 
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愛民の政治と尊皇の心〜源頼朝

2005.2.16

 

『平家物語』は、平氏の隆盛と滅亡を描いた物語です。それと並行して、源氏の興隆と制覇を描いた物語でもあります。その源氏の中心として登場するのが、源頼朝です。頼朝は、義経に比べるとヒーロー性はありませんが、その功績は偉大です。

 

頼朝は義経とともに、源義朝の子です。義朝は、保元の乱(1156)で、後白河天皇側について勝利を得ました。この時、義朝は、崇徳上皇側についた父・為義を斬首させるという非道を行いました。その後、義朝は平清盛と争うようになり、平治の乱(1159年)で矛を交えます。

この戦いに13歳の頼朝は、源氏の嫡男として初陣しました。結果は、惨敗。父・義朝は家臣に裏切られて謀殺され、頼朝も平氏方に捕らえられます。しかし、清盛の継母・池禅尼が清盛に助命を嘆願してくれたため、命だけは助けられました。少年でありながら流人の身となった頼朝は、以後20年余り、伊豆の配所で平氏方の監視を受けて過ごしました。

一方、平治の乱で勝利を得た平氏は、全盛期を迎えました。清盛は皇室の権威をも侵さんばかりの専横です。これに堪えかねた後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)は、治承4年(1180)、諸国の源氏に平氏討伐を呼びかけました。この令旨(りょうじ)を受けて、源氏のプリンス・頼朝は決起しました。

 

源氏は、第56代清和天皇の孫・経基が「鎮守府将軍」という地位を与えられ、源姓を名乗ったのが始まりです。八幡太郎義家の時に武勇で名をとどろかせ、平氏と並ぶ名門として知られました。それゆえ、東国の豪族たちは、義家の嫡流である頼朝が旗揚げしたことを歓迎し、頼朝のもとに続々と集結したのです。

源氏は、頼朝の従弟・木曽義仲や、軍事の天才・義経らの活躍により、平氏を圧倒していきました。文治元年(1185)、平氏は遂に滅亡。頼朝は、後白河法皇より、諸国に守護・地頭を置く許可を受けました。自分はそれを統括する総追捕使(そうついぶし)となり、鎌倉に幕府を開設しました。ここに、武士が政治を行うという、日本の新たな歴史が始まりました。

建久3年(1192)、頼朝は征夷大将軍の地位を得ます。征夷大将軍は、地方派遣軍司令官という程度の立場に過ぎません。律令制度の役職にはない、令外(りょうげ)の官です。頼朝はそれで満足でした。平清盛が太政大臣という最高位を得たのとは、大きな違いです。また、頼朝は、京都を遠く離れた鎌倉に拠点を置きました。平氏が貴族に近づき同化したことによって柔弱になり、腐敗・堕落していったのを見て、頼朝は、前者の轍(てつ)を踏むまいとしたのでしょう。

 

天下を治める過程で頼朝は、平氏を厳しく追討し、さらに従弟の木曾義仲、異母弟の義経・範頼など、一門の多くを殺しました。そのために、頼朝は猜疑心が強く、冷酷な人間と見られています。人気のない所以です。しかし、その反面、頼朝は偉業を行いました。

保元・平治の乱以降、わが国の道徳は大いに乱れていました。皇族にせよ貴族や武士にせよ、一家一族が権力をめぐって分かれて争うのですから、わが国本来の精神から大きく外れています。その混乱の世に秩序を回復できたのは、頼朝に負うところが大でした。頼朝は強大な武力と質実剛健の気風をもって、社会に安寧をもたらしたのです。

また、頼朝は、人民の安堵に心を用い、いくさの時にも武士たちを戒めて、決して民の生活を害することのないように命じ、これに背く者があれば厳刑をもって罰しました。そして、政治を私物化せず、愛民の心をもって政治に当たったのです。

 

南北朝期に活躍した北畠親房は、頼朝の開いた幕府と戦った勤皇家でした。その親房が『神皇正統記』に、次のように書いています。

「……打ち続く兵乱と奸臣のために世は乱れに乱れ、民衆はまさに塗炭の苦しみを味わっていた。このとき現われて乱を鎮め平和を回復したのが頼朝だった。天皇政治のあり方こそ古い姿に返ることはなかったが、都の戦塵は収まり民衆の負担も軽くなった。上も下も兵火に追われる憂いも消え、頼朝の徳を称える声は全国に広がった。……朝廷がそれにまさる善政を施(し)くことなくしてどうして容易に幕府を倒すことができようか」と。(註1

親房の志は、もとより幕府を倒し、天皇親政を実現することにあります。にもかかわらず、その親房さえ高く評価するほど、頼朝は仁政つまり愛民の政治に努めたのでした。頼朝が開設した武家政治は、日本の国柄から見れば変則的な形態です。しかし、それなくして中世の日本の混乱は治まることがなかったでしょう。乱世においては、まず力で治め、その後に人心を引き付けて仁政を行うことが必要なのです。

 

ところで、幕府開設当時の源氏の勢いは圧倒的でした。御大将・源頼朝は武力によって皇位を奪うこともできたはずです。しかし、頼朝はそうした不遜なことは考えませんでした。むしろ天皇に武官として仕え、朝廷を中心とする律令制度の枠内で、地方統治の委任を受けるという道を選びました。どうして、頼朝はこうした選択をしたのでしょうか。それは、頼朝が、皇室に対して、深い畏敬の念を抱いていたからです。

 

第一に、頼朝は、源氏が清和天皇の子孫に当たることを誇りとしていました。父親と早く死に別れ、先祖の供養に篤い人でしたから、自らの先祖がつながる皇室の権威を侵すことは、先祖の意志に反すると考えたのでしょう。第二に、頼朝が武士を結集し得たのは、彼が源氏の嫡流であることに多くを負っていました。皇族の分かれであるという出自に、東国の武士たちは敬意と求心力を感じていたので、頼朝は皇室を敬ったのでしょう。第三に、頼朝は、平氏討伐に当たり、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を拠り所としました。皇族の命令を受けていることが、頼朝の決起に大義を与えていたのです。第四に、頼朝は自分が政治の命令を出しても、朝廷の権威なくしては政治が行われないことを認めていました。それゆえ、律令制度を変えようとはしませんでした。

これらの理由により、頼朝は、朝廷に崇敬の念を持ち、その権威を尊重しました。平氏を屋島・壇ノ浦に攻めた時には、幼い安徳天皇の身の上を案じて、なんとか無事に迎えたいと考えました。頼朝は、出先の範頼に宛てた書状の中に、「猶々(なおなお)返す返す大やけ(=天皇)の御事、事なきやうに沙汰せさせ給ふべきなり」と指示しています。平氏の方では、清盛の妻が孫の安徳天皇を道連れに入水したのですから、大きな違いです。「公」に従うか、「私」をほしいままにするかの違いです。

 

文治元年(1185)、尾張国の玉井四郎助重という者が、勅命に背いたかどで召喚されました。ところが、出頭しないばかりか、朝廷を誹謗さえします。その報告を聞いた頼朝は言いました。「綸命(りんめい=天皇の命令)に違背するの上は、日域(=日本)に住すべからず。関東を忽緒(こつしょ=ないがしろに)せしむるに依りて、鎌倉に参るべからず。早く逐電すべし」と。つまり勅命に背くならば、日本に住むことは許されない。幕府の指示に従わない者は、鎌倉に来て保護を受けることはできない。さっさと日本を出て行け、と国外追放を宣告したのです。朝廷に対して無礼な者に対しては、このように、毅然として厳しい裁断を下したのです。

頼朝自身、朝廷からの申し付けには、恭(うやうや)しく従っています。文治5年の春、内裏の建築費を献上するようにという下命を受けると、「仰せのこと、ひざまづいて承ります。…朝廷でご必要なことは、幾度でも、頼朝こそ奉仕すべきですから、力の及ぶ限り、奔走させていただきます」と頼朝は答えています。

 

この時代、武家の棟梁である頼朝の一挙一動は、日本中の注目の的でした。もし彼が朝廷に対して傲慢であったならば、武士はこれにならったでしょう。しかし頼朝は、従順に勅命を承り、いかに困難なことでも、必ず奉仕させていただきますと誓い、実行に努めました。その一方で、勅命に従わない武士に対しては、「日本から出ていけ」と言い放ったのです。

このように頼朝は、尊皇心の篤い武士であり、日本人でした。だからこそ、彼は朝廷から地方統治の委任を受けて、その認可の下に幕府政治を行う道を選んだわけです。この頼朝の選択により、天皇の権威と、幕府の権力とが分離した日本独特の国家構造が生まれました。それはあくまで、天皇の権威の下に、天皇の委託を受けた幕府が実際の政治を行うという仕組みでした。

 

正治元年(1199)、頼朝は51歳の生涯を閉じました。彼の鎌倉幕府開設以後、武士による政治は、約七百年にわたって続くことになります。その間、武士の倫理である武士道は、日本独自の倫理として発展していきます。そして、尊皇・尚武・仁政という武士道の特徴は、すでに頼朝において、見事に表れていたのです。

また、頼朝の治世は武家政治の模範とされました。とりわけ徳川家康は、頼朝に多くを学び、徳川三百年の基礎作りに役立てました。愛民と尊皇の心をもった頼朝の功績には、誠に大きなものがあるといえましょう。ページの頭へ「武士道」の項目へ

 

(1)北畠親房については、以下の拙稿をご参照ください。

 「日本の国柄を描いた書『神皇正統記』

参考資料

    平泉澄著『物語日本史』(講談社学術文庫)

    『日本の名著 9 慈円・北畠親房』(中央公論新社)

 
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悲劇の英雄・源義経に感動するのは

2005.3.16

 

源義経は、少年牛若丸の時代から逸話に富む英雄です。兄・頼朝の命を受けて木曽義仲を討ち、一ノ谷・屋島・壇ノ浦と平氏を撃滅した義経は、頼朝の嫉妬と不信を買い、最後は逆臣として討たれてしまいます。義経は、頼朝の許可を得ずに「判官(ほうがん)」という官職を受けていました。「判官びいき」とは、悲劇的結末を迎えた義経に対する同情を表わす言葉です。しかし、義経人気は、ただ同情によるだけではないのです。

 

 『平家物語』は、義経を武士の理想像として描いています。当時の武士は「献身の道徳」(和辻哲郎)を基本的な倫理としていました。これは、自分の主君に、一身を献(ささ)げることです。自分の親や子への愛をも超えて、主君に忠誠を尽くすことが、武士のあるべき態度とされたのです。主君もまた家臣に対して深い情愛をもって応えます。義経は、こうした「献身の道徳」を一身に結晶させた人物として描かれています。

 

それを伝えるのが、義経とその家来、佐藤継信・忠信兄弟の物語です。『平家物語』巻第11の4、「嗣信最期の事」にあります。嗣信は継信のことです。時は屋島の戦い。平氏きっての勇者・能登守教経が、得意の弓で次々と源氏の武者を射落とします。そして、御大将の九郎判官義経を、一矢で仕留めようと狙いますが、源氏の方も心得て、伊勢の三郎らが判官を取り囲むように、馬を並べて矢面に立ちはだかります。教経が「そこを退け、雑兵共」と言いざま、矢継ぎ早に矢を放つと、たちまち源氏の武者は10騎ほども射落とされました。そのうち、真っ先に進んだ奥州の佐藤嗣信は、左の肩口から右の脇腹へ矢で射抜かれて、たまらず馬から、どどっと真っ逆さまに落ちました。

義経は、討たれた嗣信を陣の後ろへ抱き入れさせると、馬から飛び降りて手を取って、「大丈夫か、嗣信」と声をかけます。嗣信は「最早これまでと覚えます」と、弱々しい返答。「この世に思い残すことはないか」と聞くと、嗣信は「別にありません。ただ、殿が出世された晴れの姿を見られずに死ぬのが、心残りです。弓取りの侍が、戦場で矢に当たって死ぬことは、もとより本望です。その上、奥州の佐藤嗣信という者は、殿の身代わりとなって討たれたと、末代まで語っていただければ、この世の誉れ、冥土のみやげになります」と言い、次第に弱って事切れました。

義経にとって嗣信は、頼朝の旗揚げに奥州から馳せ参じて以来、一ノ谷の戦いまで常に自分の側にあって、手足となって働いてくれた家来。その嗣信を失った悲しさに、義経は、鎧(よろい)の袖に顔を押し当て、さめざめと泣きます。

「この辺に、尊い僧はいないか」と命じて、僧を連れて来させると、「深手を負って今、死んだこの者のために、写経をして、弔(とむら)って下されんか」と頼みました。そして、名馬・太夫黒(たいふぐろ)を、この僧に与えました。この馬は、義経が一ノ谷の鵯越(ひよどりご)えにも使用した愛馬です。嗣信の弟・佐藤忠信ら、これを見た侍たちは、みな涙を流して、「この殿のために命を失うことは、塵(ちり)ほども惜しくない」と、一様に言うのでした。――『平家物語』は、このように義経とその家来らの献身の姿を描いています。

 

こうして『平家物語』において、義経は武士の美しさを体現しています。さらに重要なことは、この義経が皇室の熱心な崇敬者として描かれていることです。平氏は一族の私利のために皇位を利用し、「三種の神器」(1)をも危うくします。追い詰められた清盛の妻・二位の尼は、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の入った小箱を脇にはさみ、宝剣を腰に差し、幼い安徳天皇を抱いて入水します。源氏の武士は、天皇の母・建礼門院を海中から救い上げます。そして、義経は平氏から取り戻した神鏡と勾玉を、無事、宮中に届けます。この皇室への忠誠によっても、義経は武士の理想像と描かれているのです。

 

義経の物語は、琵琶法師の吟唱によって、広く庶民に親しまれました。そして、義経の「献身の道徳」と尊皇心は、日本人に感動を与えてきました。江戸時代には、庶民は、楠木正成や赤穂浪士等、私心なく献身する武士に敬意を表し、浄瑠璃・歌舞伎等の大衆演劇は武士の忠義の姿を好んで題材としました。対象にかかわらず、自己を超えて忠誠を尽くす生き方を、日本人はよしとしてきたのです。義経の物語は、その中でも最も庶民に愛されるものでした。江戸時代には、山鹿素行や大道寺雄山らによって、武士道の理論化・体系化が行われもしました。その武士道の倫理や美意識は、単に武士たちの身分的なものではなく、庶民にも熱い共感を呼んでいたのです。

幕末列強渡来の危機に直面した時、日本人は明治維新を起こしました。ここで国民の忠誠の対象が天皇に一元化された時、武士道は国民的な道徳として広く行き渡っていったのです。ページの頭へ

「武士道」の項目へ

 

(1)「三種の神器」については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「『三種の神器』と知仁勇

参考資料

・佐藤謙三校注『平家物語』(角川ソフィア文庫)

・和辻哲郎著『日本倫理思想史』(岩波書店)

 
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■天皇に求められる君徳〜承久の乱

2005.4.1

 

 わが国の天皇は、古来、侵しがたい権威あるものと仰がれてきました。その権威は、天照大神の子孫である神武天皇の血筋を引いており、また天照大神から授けられた三種の神器を持っていることによっています。そして、そのうえに、天皇が天皇にふさわしい徳を備えていることが、国民の崇敬を集めてきた所以でした。そのことを強く確認することになったのが、承久の乱でした。

 

●君側の奸を除く

 

源頼朝の死後、征夷大将軍となった長男の頼家は暗殺されてしまいます。続いて三代将軍となった次男・実朝は、朝廷に対して忠誠を誓う尊皇家でした。大政奉還の命令があれば、喜んで政権を朝廷にお返しするつもりでした。ところが、幕府の実権を握った北条氏は、政権返上に絶対反対しました。ために、実朝も暗殺されます。ここで頼朝の血流が絶えてしまいました。

源氏は、頼朝の父・義朝が、子どもでありながら父親の為義を斬首刑にし、最後は自分が家臣に謀殺されました。頼朝も、異母弟の義経・範頼ら一族の多くを殺しました。そういう非道の報いが、血統断絶という結果を生んだのでしょう。

 

さて、北条氏は、平氏に属する小さな武家でしたが、北条政子が源氏の御曹司(おんぞうし)の頼朝に嫁いだことで、権力の座にめぐり合わせました。頼朝の子孫が絶えたとき、源氏には名門・足利氏や新田氏がありましたが、北条氏は将軍の座を渡しませんでした。そして、執権という立場から、全国の武家を支配しようとします。執権は、将軍を補佐し政務を総轄する役職ですが、律令制の官職ではなく、幕府内の役職にすぎません。そこで、征夷大将軍には、頼朝と母系でつながっている藤原氏の公達を京都から連れてきました。この将軍は、わずか2歳。まさに傀儡(かいらい)政権です。しかし、北条氏にとっては、皇室の権威を仰ぐほかに、権力を維持する方法はなかったのです。

北条氏に対して、朝廷側は、後鳥羽上皇が中心となって、幕府から権力を取り戻そうと軍を動かします。それが、承久の乱(1221)です。

 

わが国では古代より、天皇に刃向かうことは、強烈なタブーでした。皇室に対して兵を挙げる者は必ず敗けるという観念があったのです。さらにまた、鎌倉武士の間には、尊皇心に篤い頼朝の考えが定着していました。それゆえ、武士たちは、官軍と戦うことに対し、強い抵抗を覚えていました。これを打破したのが、尼将軍と呼ばれた北条政子でした。

政子は、関東の諸将を集め、頼朝に受けた恩義を強調します。「いま讒諛(ざんゆ=人の悪口を言って取り入ること)する者が上皇を誤らせて、幕府を潰そうとしている。みながもし先の将軍(頼朝)の恩を忘れずにいるのなら、心を合わせて讒言者どもを除去して、幕府を安泰にして下さい。もし上皇の詔に応じて上京したい者があれば、今ここよりすぐに立ち去りなさい」と。頼朝の恩義には、決して背くわけにいきません。それに、政子は、朝廷に反抗せよと言っているのではありません。上皇の周辺で策動する者を討て、というのです。それならば、武士たちも抵抗は感じません。政子の訴えは、勘所を得ていました。

 

政子の弟・北条義時とその子・泰時の間では、次のような会話がされました。

泰時は言います。「一天悉(ことごと)く是れ王土に非ずと云ふ事なし。一朝に孕(はら)まるる物、宜しく君の御心に任せらるべし。されば戦ひ申さん事、理に背けり。しかし、頭を低(た)れ手を束(つか)ねて各々降人に参りて嘆き申すべし」と。すなわち、わが国の国土はことごとく天皇の土地です。その中のものはすべて天皇が思いのままにされるべきものですから、天皇と戦うことは道理に背きます。戦わずに降伏しましょう、と泰時は父を諌(いさ)めたのです。

これに対し、父・義時は答えます。「尤(もっと)もこの義さる事にてあれども、其れは君主の御政(おまつり)正しく、国家治る時の事なり。……是は関東若(も)し運を開くといふとも、この御位を改めて、別の君を以て御位に即(つ)け申すべし。天照大神・正八幡宮も何の御とがめ有べき。君を誤り奉るべきに非ず、申勧(もうしすすむ)る近臣どもの悪行を罰するまでこそあれ」と。すなわち、お前の言うとおりだけれども、それは君主の政治が正しく行われ、国が治まっている時の話だ。今は違う。この度は、現在の天皇に譲位していただき、別の方に天皇になっていただこう。天照大神・正八幡宮のおとがめはあるまい。なぜなら、天皇ではなく天皇を誤らせた側近の者がよくないので、側近を処罰することが目的だからだ、と父・義時は、泰時に答えました。泰時はこの意見に従い、官軍と戦うことにします。(註 1

 

天皇ではなく、天皇の周囲の者が悪い。だから、側近を討つことを、「君側(くんそく)の奸(かん)」を除くといいます。この考え方は、天皇を中心とした政治を実現するために、また時には反乱を正当化する考え方としても、後の時代に繰り返し使われることになったのでした。

 

●天皇には君徳が必要

 

鎌倉幕府から実権を取り戻そうと、後鳥羽上皇は、討伐の院宣(いんぜん=上皇の命令)を発しました。承久の乱です。これに対し、抵抗を正当化した北条義時・泰時父子は、武士団を指揮して官軍と戦います。幕府は官軍を連破し、泰時は出発後20日目には京都に入りました。この勝利によって、皇室に刃向かう者は必ず敗けるという古来の観念は破られました。義時・泰時は、後鳥羽院ら三上皇を島流しにし、天皇の周囲の有力者を除いて、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立しました。

 

臣下が天皇を力づくで替えてしまうというのは、前代未聞の暴挙です。それゆえ、承久の乱は、日本の国柄を考える上で、非常に重要な事件なのです。この事件以前の日本人は、「日本人民の尊皇心は当時に在りても、実に一種の宗教なりき」と明治の史論家・山路愛山が言うように、皇室に対して絶対的な崇敬を持っていました。天皇は、生来、常人を超えた神秘的な能力、カリスマがあるとして畏敬を受けていたのです。皇室は神の子孫だから神仏が加護しており、皇室に刃向かって兵を挙げると必ず敗れる、と思われていました。臣下は、天皇の命令には絶対に逆らうことができない。背くことは人倫にもとる行為だと信じられていました。ところが、北条氏によって、この観念が破られたのです。イザヤ・ベンダサン(山本七平)は、承久の乱によって天皇の在り方が変わったとし、これ以前を「前期天皇制」、以後を「後期天皇制」と呼ぶほど、この事件を重視しています。

承久の乱以後、天皇はもはや血統と神器だけでは、権威を保てなくなりました。つまり、天照大神の子孫である神武天皇の血筋を引いており、また天照大神から授けられた三種の神器を持っているだけでは、十分ではないのです。そのうえに、天皇が天皇にふさわしい徳を備えていなければ、崇敬されなくなったのです。

 

保元・平治の乱以後、世の中は大いに乱れました。そこに秩序を回復したのは、武士の力であり、幕府は善政に努めていました。もし幕府をなくして、朝廷による政治に戻そうとするならば、幕府以上の政治を行うのでなければなりません。この点、承久の乱を起こした後鳥羽上皇は、君主としての徳に欠けるところがありました。男女の道にもとる点があり、実務的な政治能力も不足していました。南北朝期の南朝の指導者・北畠親房は、鎌倉幕府は善政を行って特に罪科はなかったと認めており、それなのに幕府を倒そうと戦いを起こしたのは、「上(かみ=後鳥羽上皇)の御科(おんとが=過失)とや申すべき」と『神皇正統記』で批判しています。江戸時代には、新井白石が、後鳥羽上皇は「天下の君たらせ給ふべき器にあらず」と言い、勤皇家の頼山陽でさえ『日本政記』で、上皇は「軽挙妄動」したのであって「志ありて謀(はかりごと)なし」と断じています。

 

さて、承久の乱で天皇を交代させた北条義時は、そのことによって天皇の権威を引き下げる結果となってしまいました。しかし、義時には皇室そのものを滅ぼそうとか、自らが皇位に就きたいという考えは、全くありませんでした。義時は、幕府が実権を保つことのできる体制を作れれば、それでよいと考えたのです。それどころか、北条氏は、朝廷から征夷大将軍という官位を受けられなければ、幕府を維持することができません。朝廷の権威は、幕府の存立に不可欠なのです。源頼朝以後、三代実朝で源氏の嫡流が絶え、北条氏は将軍に貴族や皇族を招いていました。摂家将軍・親王将軍です。このような史実に、わが国の国柄の特徴が表れています。

承久の乱を通じて、武士は政治権力を保持し、幕府の基礎は確固となりました。このことは、わが国に意外な幸運をもたらしました。というのは、その約半世紀後蒙古が襲来したからです。その際、武家政権が奮戦したことによって、わが国は亡国の危機を免れることができたのです。(註 2

ページの頭へ)(「武士道」の項目へ

 

(1) 北条泰時にはその行動を明恵上人に諌められました。以下の拙稿をご参照下さい。

為政者に日本の国柄を説いた明恵上人

(2)蒙古襲来については、以下の拙稿をご参照ください。

 元寇から日本を守った北条時宗

参考資料

・三浦朱門著『天皇 日本の成り立ち』(小学館文庫)

・山本七平著『日本人とは何か。』(PHP文庫)

 
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為政者に日本の国柄を説いた明恵上人

2005.5.1

 

承久の乱(1221)の2年後、北条義時が亡くなり、その子・泰時が三代執権となりました。泰時は、人に与えること多く、自らおごることのない誠実な人間でした。善政に努め、厳正な裁判を行い、高位高官を望むこともありませんでした。この泰時によって、頼朝以来の武家政治は基礎を確立したのです。

 

泰時には、明恵(みょうえ)という人生の師がいました。承久の乱の時、後鳥羽上皇方の兵が、京都栂尾(とがのお)の高山寺に逃れてきました。寺の僧・明恵は、彼らをかくまいました。そのため北条側にとらえられます。この時、明恵は泰時に対し、「救いを求める者は、今後も助けたい。それがいけないというのなら、私の首をはねよ」と言いました。その態度の情け深く、また毅然(きぜん)としていることに、泰時は感心しました。そして、後日、明恵のもとを訪れました。

 すると明恵は、承久の乱の処置について、泰時を諫(いさ)めました。「わが国においては、万物ことごとく天皇のものであり、たとえ死ねと言われても、天皇の命令には決して逆らってはいけない。それなのに、武威によって官軍を亡ぼし、太上天皇を遠島に遷(うつ)すとは、理に背く振る舞いである」と。

 乱の後、北条氏は、天皇を代え、三上皇を島流しにしました。国家権力を掌中にした北条氏に対し、ものを言うことのできる者はいませんでした。しかし、明恵は畏れず、為政者の泰時を叱(しか)り、日本の国柄を説いて武士のあるべき姿を諭したのです。泰時も、乱の際の父・義時との問答(註 1)に見られるように、もともと尊皇の心をもっていたので、明恵の言葉は痛く響くものがあったのでしょう。以来、泰時は明恵を人生の師と仰ぐようになったのです。

 

 明恵は建永元年(1206)、34歳の時、後鳥羽上皇から栂尾山をたまわり、高山寺を建てて、華厳宗の復興のために尽くしました。その功績により、華厳宗中興の祖といわれます。   

 いったい仏教の僧侶である明恵がなぜ、わが国は天皇のものであり、泰時らの行為は理に背く振る舞いである、と諭したのでしょうか。

 明恵は両親を幼くして亡くし、天涯孤独の身でした。仏教の道に入り、修行を重ね、徳の高い名僧となりました。「山のはに われもいりなむ 月もいれ よなよなごとに またともとせむ」ーーこれは月を友として明恵が詠んだ歌の一つです。月を友とするというように、明恵は、自然の風物、身に触れるすべてのものに、深い情をもって接しました。明恵は刈藻島(かるもじま)という島で行をしたことがありました。島から帰った後に、自然の豊かなその島が恋しくなって、手紙を書きました。宛名は「島殿」となっていました。使いの者が「いったい誰に、手紙を届ければよろしいのでしょうか」とたずねたところ、「『栂尾の明恵房のもとよりの文にて候』と島の真ん中で読み上げてきなさい」と答えたといいます。

こうして自然と一つとなって暮らした明恵は、自然のままであることを大切にしました。

 

仏教には、王権を認め、国家の鎮護を祈るという教えがあります。また明恵が修めた華厳経には、すべてをあるがままに肯定するという思想があります。

 こうした考え方は、「人はあるべきやうはと云、七文字を保つべきなり」という明恵の遺訓に表れています。弟子の喜海が記したと伝えられるこの言葉は、『明恵上人伝記』や『沙石集』では、「王は王らしく、臣は臣らしく、民は民らしくふるまうべきだ」と解釈されています。つまり、王とは天皇であり、臣とは天皇に仕える者、貴族や官僚や武士であり、民とは一般の庶民です。明恵は、天皇と臣下と庶民、それぞれが分を守って振る舞うことが、自然な姿だというのです。

 この考え方は、明恵の独創ではありません。古代から我が国に受け継がれてきた考え方でもあります。鎌倉時代にもそれが当然のこととして、人々に定着していたのです。それは、日本の国は、天照大神の子孫である皇室が治めることが、在るべき姿であると思われていたことが前提となっています。皇室の権威は神話に根ざしたものであり、文字が使用される前の時代から伝わっている神的かつ伝統的な権威なのです。日本人は、この国は皇室が治める国であり、各自が在るべきように振舞うことを、自然な姿として受け止め続けてきたのです。

 

明恵は、このような我が国の国柄と、日本人の在るべき姿を、泰時に説いて聞かたわけです。強大な武力を持つ権力者に、説教をするということは、並みの度胸ではできません。そこに明恵の精神力の強さや人格の高潔さがうかがわれます。

明恵は、泰時に対し、「天下を治める立場の者一人が無欲になれば、世の中は治まる」という教訓を与えました。泰時はこれを肝に銘じて、実際の政治に生かしました。泰時自身、「自分が天下を治めえたことは、ひとえに明恵上人の御恩である」と常々人に語っていました。自分の家の板塀が壊れて内部が見えるほどになっても気にせず、御家人たちが修理を申し出ても、泰時は無用の出費だと断りました。裁判の処理も道理に適って明らかでしたので、武士の信望を集めました。

承久の乱では朝廷から実質的に権力を奪った泰時でしたが、我が国の国柄の根本を損なわぬよう、朝廷の権威を侵さずに、武家政治を行うことに努めたのでした。ページの頭へ

 

(1)義時・泰時の会話については、以下の拙稿をご参照ください。

君側の奸を除く〜承久の乱(1)

参考資料

・『人物叢書 北条泰時』(吉川弘文館)

・白州正子著『明恵上人』(講談社文芸文庫)

 
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日本の国柄を描いた書『神皇正統記』

2004.12.12

 

日本という国を知る上で必読の書に、『神皇正統記』があります。「君と民」のあり方を知るためにも重要です。著者は、建武の中興や南北朝の時代に活躍した北畠親房(ちかふさ)という人物です。

 

初めに、親房について書きます。鎌倉時代の末期、14世紀の初めのわが国には、精神的な権威を放つ朝廷が京都に、政治的な実権を担う幕府が関東に存在していました。北畠親房はそのような時代に、32歳で大納言となりました。大納言は、朝廷の最高機関である太政官の次官に当たる要職です。幕府を良く思わぬ後醍醐天皇に抜擢されたのです。

親房は、天皇の側近として第二皇子・世良(ときよし)親王の養育に努めました。しかし、元徳2年(1330)、親王が急逝したため、親房は出家して政界を退きました。

しばらくして、北条氏のもと腐敗・堕落を続けていた鎌倉幕府が、元弘3年(1333滅亡に至り、後醍醐天皇による建武の中興が始まりました。親房は再び朝廷に出仕し、新政府の下、義良(のりなが)親王を奉じて、長男顕家とともに奥州に下り、その地の行政に力を尽くしました。そのうち、中央では後醍醐天皇と足利尊氏らの対立が強まり、遂にその間で戦端が切られました。親房は反乱軍を追って上京し、そのまま京都にとどまって国政に加わります。朝廷側は尊氏を一時九州に追いやったのですが、尊氏に押し返され、劣勢やむなく後醍醐天皇は吉野に逃れました。すると、尊氏はあろうことか光厳天皇を立てて北朝を創設し、ここに南北朝の並立というわが国史上に前例のない異常な事態となりました。延元元年・建武3年(1336)のことです。

 

親房は吉野の南朝にあって、幕府と対抗していました。ところが、延元3年・暦応元年(1338)、義良親王とともに出帆した時、船が難破してしまいました。太平洋を漂流した親房は、奇しくも一人東国に流れ着きます。親房は逆境に挫けることなく関東で決起しました。そして、北朝方との戦いを続けていたところ、親房のもとに後醍醐天皇崩御という知らせが来たのです。南朝の天皇は、難破を生き延びていた義良親王が継いだといいます。後村上天皇です。感慨に堪(た)えぬ親房は、一書をしたためました。こうして、延元4年 (1339)9月、常陸小田城にて完成したのが『神皇正統記』です。親房はその後、京都に戻って南朝の中心として活躍し、正平9年(1354)、62歳で没しました。

 

さて、親房の著『神皇正統記』は、日本という国はどうして建国されたか、この国の理想は何か、本質は何か、建国以来その基底に流れている精神はどのようなものかを説いたものです。

冒頭は「大日本は、~国なり。天祖始めて基を開き、日~長く統を伝へ給ふ。我国のみ此の事有り。異朝には其の類無し。此の故に~国といふなり」と始まります。ここには、元寇を通じて高まった、日本は神国であるという自覚が明確に述べられています。そして、天照大神が国の基を開いてより、その子孫が皇統をずっと伝えてきている。これは他国には見られない。それゆえに、日本を神国というのだと述べています。

 

続いて、親房は『古事記』『日本書紀』等に基づきながら、当代の後村上天皇に至るまでのわが国の歴史を書き表しました。記述には、親房独自の見解が多く見られます。

その特徴の一つは、天皇には、血統や神器の保有だけでなく、君主としての徳がなければならないという主張です。たとえば、後嵯峨天皇の件(くだり)に、次のようにあります。

「神は人を安くするを本誓とす。天下の万民は皆神物なり。君は尊くましませど、一人を楽しましめ、万民を苦しむる事は、天も許さず、神も幸せぬいはれなれば、政(まつりごと)の可否に随ひて、御運の通塞(つうそく)あるべしとぞ覚え侍る」。すなわち、神は人が安心して暮らせることを願っている。天下の万民はみな神のものである。だから、天皇一人だけが楽しくして、人民を苦しめるようなことをすれば、天は許さないし、神も喜ばない。天皇は、良い政治をしているかどうかによって、自分の運命が開けもし塞(ふさ)がりもする、と親房は書いています。これは、天皇への教訓でした。親房は、承久の変や建武の中興を通じ、天皇が道を行い、徳を磨いて仁政を行うのでなければ、その地位だけでなく、国の本質をも守ることはできないと痛感していたのです。

 

また、親房は、国民の在り方についても、書き記しています。

「朝夕に長田狭田(さた)の稲の種をくふも皇恩なり。昼夜に生井栄井(いくゐさくゐ)の水の流を呑むも神徳なり。是を思ひも入れず、あるに任せて慾をほしいままにし、私を先として、公を忘るる心あるならば、世に久しき理(ことわり)侍(はべ)らじ」。すなわち、神の徳と皇室の恩に感謝せず、欲望のままに「私」を先にして「公」を忘れるならば、権勢は続かず滅びることになると、説いているのです。このことは平氏や北条氏に前例があり、やがて足利氏にも当てはまることになりました。

 

『神皇正統記』は、南朝の天皇や側近・将士にとって心の支えとなりました。その後、戦国時代には、広く全国各地で書写されて読み継がれました。江戸時代の学者は、本書によってわが国の本質を理解し、敬神尊皇の自覚を高めました。そして本書の精神が、明治維新の源流の一つともなっていったのです。

日本の建国の由来、この国の理想・本質、建国以来その基底に流れている精神、そしてそれらが明治以後の日本にどのように受け継がれてきたのかを考える際、『神皇正統記』は興味の尽きない名著です。ページの頭へ

 

参考資料

・北畠親房著『神皇正統記』(ニュートンプレス)

・『日本の名著 9 慈円・北畠親房』(中央公論新社)

 
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天皇と志士たちを結ぶ歌

2002.6.10

 

 わが国は、国難の時に、天皇を中心として国民が団結したという歴史を持っています。

建国以来、最大の国難の一つは、元寇でした。この時、諸国の武士たちは、蒙古軍の猛攻から懸命に国を守りました。国難のなか、亀山上皇は、京都の石清水八幡宮に参拝し、国家の安泰を祈念しました。八幡宮とは、応神天皇を祭神とし、皇室では国防の際に非常に重んじられている社です。上皇は、また伊勢神宮にも直筆の願文をささげました。『増鏡』によるとその願文には、次のように書かれていました。

「我御代にしもかかるみだれ出できて、まことに此日本のそこなはるべくば、御命をめすべき」と。すなわち「私の代にこのような乱れが出てきて、もしも日本が損なわれることになるのならば、自分の命を召してほしい」と、上皇は神に願い出たのです。その上皇は、次の歌を詠んでいます。

 

  世のために 身をばをしまぬ 心とも

あらぶる神は てらしみるらむ

 

上皇は、こうした心境で、命をかけて、国家の安泰を祈ったのでした。

 

 元寇以来最大の国難は、幕末の黒船の来航でした。この時の天皇は、孝明天皇でした。孝明天皇は、明治天皇の父君です。孝明天皇は黒船の来航を知り、約600年前の元寇の時、亀山上皇が行ったことを思い起こしました。そして、自ら文久3年(1863)4月、天皇在位中の参拝としては、約511年ぶりとなる岩清水八幡宮への行啓をしました。

そのころ日本は、国全体が攘夷か開国か、勤皇か佐幕かと揺れ動いていました。そうした中で孝明天皇は、次のような御製を詠みました。

 

   あさゆふに 民やすかれと おもふ身の

こゝろにかゝる 異国(とつくに)の船

 

天皇が常に国民の安寧を願い、黒船の来航に脅威を感じておられたことがわかります。そして、天皇は、ペリー来航の翌年から、伊勢神宮、石清水八幡宮などに、御法楽の歌すなわち神に祈りを捧げる歌を奉納していました。

一方、国民の側には、天皇を中心として団結し、国難に立ち向かおうという気運が高まっていきました。当時、幕政参与の重職にあった徳川斉昭は、次のような歌を残しています。

   

  身は辺地に 在りと雖も 心は 皇室を奉ず

   大君に つかへささぐる 我がこころ

 都のそらに 行かぬ日ぞなき

 

斉昭は、徳川光圀の遺志を継ぐ、尊王思想を抱いた水戸の藩主でした。斉昭の歌に詠んだ「都」(京都)の「大君」とは、孝明天皇に他なりません。

 

 孝明天皇の国家国民を思う御製は、諸国の志士たちの間に広まっていきました。特に有名なのは、安政5年(1858)7月に詠まれた神宮法楽の歌です。

 

すましえぬ 我身は 水にしづむとも

 猶にござじな 萬国民(よろずくにたみ)

       

 自分の身は、たとえ汚濁の水に沈もうとも、国民が外国人に隷従するような目にあうような事があってはならない、という祈りでしょう。

 この歌は、諸国の志士たちの間に広まり、感動を与えていきました。筑前福岡藩士・平野国臣は、この御製を書き写して、その奥に次のように記しています。

 

 孝明天皇御製

  すみのえの 水に我身は 沈むとも

 濁しはせじな 四方の国民

  かくばかり なやめる君の 御心を

 やすめ奉(まつ)れや 四方の国民

 

 元の歌と少し違いますが、それは天皇の歌が巷間伝わっていくうちに、少しづつ変わって伝わったのでしょう。平野は、西国の尊王攘夷派の結集をめざして諸国を奔走し、禁門の変にたおれた勇士でした。

 また、孝明天皇の御製に、次の歌があります。

 

  戈とりて まもれ宮人 ここのへの

みはしのさくら 風そよぐなり

 

この歌に対して、肥後勤王党の代表的人物・宮部鼎蔵は、

 

  いざこども 馬に鞍置け 九重の

 御階(みはし)の桜 散らぬそのまに

 

と応じています。宮部は、吉田松陰らとともに尊王攘夷運動に活躍しましたが、池田屋事件で襲われ、自刃しました。

 

 安政6年(1859)6月、孝明天皇は石清水八幡宮に、次の歌をささげました。

 

わが命 あらむ限は いのらめや

 遂には神の しるしをもみん

 

命の限り、国家国民のことを祈る天皇の姿が、そこにあります。こうした天皇のもとに、幕末の志士たちが結集されていきました。そして、天皇を中心とする君民一体の力が、新しい明治の時代を切り開いていったのです。

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参考資料

(1)田中和子著『八幡行幸と写経の歴史を紐解いて』(『祖国と青年』平成9年11月号) 

 
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■英明無私の指導者〜明治天皇(1)

2002.6.24

 

 ペリーの黒船が来航した年、明治天皇は1歳でした。当時、白人諸国は、競って東洋に植民地を求めて進出し、一歩誤れば、わが国はたちまち欧米列強に征服支配されるおそれがありました。しかし、260年にわたる徳川幕藩体制は、もはや対外的な対応力を失い、国中が開国か鎖国か、朝廷か幕府かで激動していました。こうした情勢の中で、尊皇攘夷の中心となっていた父・孝明天皇が崩御し、少年・明治天皇は僅か16歳で、皇位を継ぐことになったのです。慶応3年(1867)1月のことでした。

 

 天皇は背が高く、色浅黒く、骨格たくましく、剛毅果断の性格で進取の気象に満ちていました。この若き天皇を中心として、時代は大きく転換してゆきました。慶応3年10月、徳川慶喜は大政奉還を行い、政権は700年ぶりに朝廷に返されました。これを受けて、明治天皇は、同年12月、王政復古の大号令を発しました。そして、翌年の明治元年(1868)3月、天皇は、五箇条の御誓文をもって、施政の大方針を示しました。

その後のわが国の発展はめざましく、翌2年版籍奉還、4年廃藩置県、5年学制頒布、鉄道の開通、太陽暦の採用などが進められました。さらに、明治22年、明治天皇は大日本帝国憲法を発布、翌23年には帝国議会を開設し、また教育勅語(註 1)を下賜しました。

こうしてわが国は、明治天皇の下、僅か半世紀の間に、アジアで初めての近代化に成功し、文明開化、富国強兵、殖産興業、教育の普及、文化の向上など、欧米に伍した近代国家として躍進していったのです。

 

明治天皇は6度にわたって地方御巡幸をしました。まだ交通手段が発達していない時代ですから、馬車や船による旅行は、身体的に大きな負担だったことでしょう。しかし、天皇は自分の目で国内各地の様子を見、また国民に接し、直接世情を知りたいという強い希望をもっていたのです。御巡幸の旅は、2ヶ月の長期に及ぶこともありました。今日も各地に明治天皇が訪問したという記念碑が建てられています。

その一方、天皇は避暑避寒などは殆どしなかったそうです。記録に残っているのは、わずかに東京・小金井に遠乗りして桜を賞でたとか、また多摩の丘陵の兎狩り、清流での鮎漁ぐらいと伝えられます。我が身をいとうことなく、常に国家国民のために尽くす指導者としての天皇の姿がうかがわれます。

 

明治時代の最大の危機は、日清・日露戦争でした。これらは、新興日本の国運を賭けた戦いでした。明治天皇は、その間、常に国民の先頭に立ち、国利民福のためひたすら尽力しました。そして出征兵士と苦労を共にするという考えから、炎暑の最中でも冬の軍服を着用しておられたという逸話があります。とりわけ日露戦争の際は、天皇は非常な心労を続け、それがもとで健康を害し、明治45年7月30日、61歳で崩御したのです。その御代は、ひたすらに「公」のために尽くし、「私」を省みない天皇の生涯でした。

 

幕末から明治の時代は、欧米列強から独立を守るため、わが国が急速に変革を成し遂げねばならなかった時代でした。この変革に成功したのは、明治天皇を中心に、国民が君民一体となって懸命の努力をした結果でした。危機と転換の時代に、わが国が類まれな英明無私の君主をもったことは、大きな幸いだったのです。ページの頭へ

 

1 教育勅語については、下記をご参照下さい。

・拙稿「教育勅語を復権しよう

 
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■神への誓い、民への思い〜明治天皇(2)

2002.7.7

 

 明治維新において、政治の御一新に当たって、明治天皇が大方針を打ち出したものが、五箇条の御誓文です。御誓文は、その言葉のとおり、天皇が神に誓いを立て、それを国民に発表したものでした。

 

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。

一、上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。

一、官武一途(いっと)庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめむことを要す。

一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。

一、 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」

 

大意は、次の通りです。

 

一、広く人材を集めて会議体を設け、重要政務はすべて衆議公論によって決定せよ。

一、身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国策を遂行せよ。

一、朝臣武家の区別なく、さらには庶民のすべてにわたって、各自の志を達成できるようにはからい、人々を失意の状態に追いやらぬことが肝要である。

一、これまでのような、かたくなな習慣を打破して、普遍性のある道理に基いて進め。

一、知識を世界に求めて、天皇の大業を大いに振興せよ

 

 見逃してはならないのは、これに続く明治天皇の言葉です。

 「我国未曾有の変革を為(なさ)んとし、朕躬(み)を以て衆に先じ、天地神明に誓ひ、大(おおい)に斯(この)国是を定め、万民保全の道を立(たて)んとす。衆亦此(この)旨趣(ししゅ)に基き協心努力せよ」

 すなわち、「わが国に前例のない変革を行おうとするにあたり、私は自ら国民の先頭に立って、天地の神々に誓い、重大な決意をもって国政の基本条項を定め、国民生活を安定させる大道を確立しようと思う。国民もまたこの趣旨に基いて心を合わせて努力せよ」

ここには、天皇が自ら先頭に立って国民とともに新しい国づくりをしていこうという決意が、打ち出されています。こうした決意のもとに、天皇は神に向かって五つの誓いを立て、それを国民に明らかにしたのです。率先垂範、有言実行の精神が、そこに溢れています。

 

 これは単なる官僚による作文ではありません。天皇が自らの思いを国民に伝えようとしたものでした。そのことを裏付けるものが、五箇条の御誓文が発表された、明治元年(1868)3月14日に出された御宸翰(ごしんかん)です。宸翰とは天皇直筆の文書です。そこに明治天皇は直筆で次のような意味のことを記しています。

今回の御一新にあたり、国民の中で一人でもその所を得ない者がいれば、それはすべて私の責任である。今日からは自らが身を挺し、心志を苦しめ,困難の真っ先に立ち、歴代の天皇の事績を踏まえて治績に勤める。そうしてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君である地位にそむかないものとなる。自分はそのように行う」と記されています。

 すべての国民が「所を得る」ような状態をめざし、全責任を担う。天皇の決意は、崇高です。

また、御宸翰の文章の先の方には、次のように記されています。

「朕いたづらに九重のうちに安居し…百年の憂ひを忘るるときは、つひに各国の陵侮(あなどり)を受け、上は烈聖を恥しめ奉り、下は億兆を苦しめんことを恐る」と。

すなわち、「天皇である自分が宮殿で安逸に過ごし、…国家百年の憂いを忘れるならば、わが国は外国の侮りを受け、歴代天皇の事績を汚し、国民を困苦に陥らせることになってしまう」。

明治天皇は、こうした事態に至らぬよう、国家の元首として、最高指導者として、自らを律し、国家の独立と発展、国民生活の安寧を実現するために尽力したのでした。

 

五箇条の御誓文と、同日に出された御宸翰には、明治天皇の真摯誠実な精神が現れています。ここに、私たちは「公」の体現者としての天皇の姿を見ることができるのです。そして、神武天皇以来、国民を「おおみたから」と呼んで、大切にしてきたわが国の皇室の伝統が、ここに生きているのです。

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註 五箇条の御誓文の成立過程については、下記をご参照下さい。

・拙稿国是を示し経綸を為す〜由利公正

 
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■仁慈と博愛の歌〜明治天皇(3)

2002.7.20

 

 明治天皇は、和歌を好み、優れた歌を多く残しました。生涯に詠んだ御製(ぎょせい)の数は9万3千余首に及んでいます。和歌の手ほどきをしたのは、父・孝明天皇でした。孝明天皇は、歌によって尊王の志士たちと結ばれていました。(1)

そんな父君から、国家の独立と国民の繁栄を思う心を受け継いだ明治天皇は、君主としての思いを歌に表しています。

 明治天皇に、次の歌があります。

 

あしはらの 国とまさむと 思ふにも

青人草ぞ たからなりける

  (大意:日本の国を富ませたいと思うにつけても、第一に貴い宝は

わが国民である)

 

この歌は、国民を「おおみたから」つまり宝と呼んで、大事に思う皇室の伝統が、良く表れています。明治天皇は、こうした伝統を体し、「民の父母」として、国民を我が子のように心にかけていました。

 

照につけ くもるにつけて おもふかな

 わが民草の うえはいかにと

  (大意:照れにつけ、曇るにつけて思うのは、わが国民の生活は

どうであろうかということである)

 

 ここには、国民一人ひとりの身の上をわがことのように思う、思いやりと慈しみの心が表されています。それが「仁」であり、仁慈とも仁愛ともいえます。

 常に国民のことを思う天皇は、国家社会のことが頭を離れませんでした。

 

夏の夜も ねざめがちにぞ あかしける

 世のためおもふ こと多くして

(大意:短い夏の夜も、国のため世のため思ひめぐらすことが多く、

安らかに寝通すことが出来ず、夜を明かしてしまうよ)

 

 天皇は、また国家の建設、国難の対応においては、国民の団結の力を信じていました。

 

千萬(ちよろず)の 民の力を あつめなば

 いかなる業も 成らむとぞ思ふ

(大意:国民の力を集めたならば、いかなることも成し遂げられる

と思う)

 

 天皇は国民に期待を寄せる一方、指導的立場にある者に対しては、厳しく自覚を求めていました。

 

世の中の 人のつかさと なる人の

                   身の行ひよ ただしからなむ

  (大意:世の中の人の上に立つ人は、身の行いが殊に正しく

ありたいものだ)

 

 天皇自身が「公」とは何かを体現し、自ら率先垂範していました。さらに、天皇の心は、国内だけでなく、世界人類にも注がれていました。

 

よもの海 みなはらからと 思ふ世に

など波風の たちさわぐらむ

(大意:人類はみな兄弟だと思うこの世界において、どうして戦乱の

波風が立ち騒ぐことになるのであろうか)

 

国のため あだなす仇は くだくとも

                   いつくしむべき 事なわすれそ

(大意:我が国のために敵は打ち砕くとも、敵に対しても慈愛をたれる

ことを忘れてはならないぞ)

 

 天皇は、他国民に対して博愛の精神を及ぼそうと、わが国民に呼びかけています。さらに、日本人に、世界に通用し、世界の国から敬われるようにその精神を磨いてほしいと望んでいました。

 

国といふ くにのかがみと なるばかり

みがけますらを 大和だましひ

  (大意:世界中の国々の鏡・模範となるほどに、大和魂を磨いてほしい)

 

  以上見られるように、明治天皇の御製には、天皇の崇高な精神が表現されているとともに、国家国民のめざすべき姿が示されているといえましょう。

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(1)拙稿天皇と志士たちを結ぶ歌をご参照下さい。

 
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■人の道を三十一文字に〜明治天皇(4)

2002.8.2

 

 明治天皇の業績の一つに、「教育勅語」によって、教育の目標と道徳の基本を示したことが挙げられます。天皇はまた、和歌の内に人の道を詠み、国民に人としてのあり方を諭しました。「心の教育」が求められるなか、その歌は今日に歌い継がれる価値あるものです。

 

 まず、明治天皇が人の心のあり方について詠んだ歌に、次のようなものがあります。

 

久かたの 空に晴れたる 富士の根の

 高きを人の こころともがな

(大意:晴れた大空にそびえる富士山の高根のように、気高い心を自分の

心としたいものだ)

 

あさみどり すみわたりたる 大空の

 ひろきをおのが 心ともがな

  (大意:浅緑色に澄みわたった大空のように、広々とした心を自分の心

としたいものだ)

 

目の見えぬ 神に向ひて 耻(はじ)ざるは

 人のこころの まことなりけり

  (大意:目に見えぬ神に向って恥じないのは、人の誠の心であるよ)

 

 さて、人は親に育てられ、やがて自らの人生を歩みだします。誰にとっても親は、人生について教えてくれた最高の恩人です。天皇は親について次のように詠んでいます。

 

たらちねの みおやのをしへ 新玉の

 年ふるままに 身にぞしみける

  (大意:年々、新しい年を重ねるにしたがって、身に染みわたるのは、

自分を育ててくれた親の有り難い教えである)

 

 次に人には誰しも友だちが必要です。真の友情は、人を磨き、人を成長させます。天皇は、そのことを次のように詠んでいます。

 

あやまちを 諌(いさ)めかはして 親しむが

まことの友の 心なるらむ

(大意:過ちがあれば互に注意しあって、親しんでゆくが、本当の友だち

の心である)

 

 また、天皇は、一人一人の自分の努力の大切さを、わかりやすく歌に詠んでいます。

 

つもりては 払ふがかたく なりぬべし

 ちりばかりなる こととおもへど

  (大意:心の汚れというものは、僅かなる塵ほどのことと思っても、

そのままにしておくと積もり積もって、払うことができなくなって

しまう。だから、自分の心を常に清めなければならない)

 

思ふこと おもふがままに なれりとも

 身をつつしまん ことを忘るな

  (大意:なんでも自分の思うようになるようになったとしても、人は

わが身を慎むことを忘れてはならないぞ)

 

 天皇自身が、周囲の忠告に謙虚に耳を傾け、努力を惜しみませんでした。

 

こころある 人のいさめの言の葉は

やまひなき身の くすりなりけり

  (大意:忠誠心の篤い臣下のいさめの言葉は、わが身に病はない

けれども、心の良薬である)

 

 こうした歌を詠み、また自ら実践した明治天皇。その下に、国民が教育に、自己啓発に努めたのが、近代日本の初め、明治という時代でした。その伝統は、昭和・平成と進むにつれ、見失しなわれてきています。「心の教育」が求められる今日、明治天皇の御製に込められた教訓は、再発見されるべきものではないでしょうか。ページの頭へ

 
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■世界の福祉に貢献〜昭憲皇太后(1)

2004.6.1

 

明治天皇の美子(はるこ)妃殿下は、昭憲皇太后と呼ばれています。

昭憲皇太后は、幼少の頃より聡明で心優しい女性でした。明治天皇の妃となるや、天皇とともに、わが国の要として近代国家建設に尽くしました。なにより「昭憲皇太后基金」(The Empress Shoken Fund)を通じ、多くの人々の福祉に貢献したことによって、世界的に知られています。

 

明治45年(1912)4月20日、ワシントンで、第9回赤十字国際会議が開かれました。この時、昭憲皇太后は、万国赤十字連合に対して、「平時救護事業奨励基金」として10万円を寄贈しました。現在の貨幣価値で約3億5千万〜4億円にあたります。これが、昭憲皇太后基金の始まりです。

 皇太后は寄贈にあたり、次のような言葉をそえました。「赤十字事業の根本が仁愛であって、仁愛の精神は戦時、傷病兵士に対するだけでなく、平時の不幸な被災者をも救済しなければならぬことだと考えます。また、仁愛的事業には国境はありません。平時の救護事業において各国赤十字社が助け合う時は必ず、世界の国民がみな互いに仲良くするようになるでしょう。その心が赤十字の本来の目的を達成することを確信します」。

 「仁愛」は、古代よりわが皇室に伝わる精神です。当時の世界では、バルカン半島に戦雲がうずまき、第1次大戦のきざしが現れていました。こうした情勢のため、平時事業の推進は、赤十字の国際会議の議題にのせることすら難しい状態でした。しかし、昭憲皇太后は、わが国の仁愛の精神をもって、人類の幸せと平和を図ることこそが赤十字社の本命という信念で、基金を寄贈したのです。それはまだ貧しい東洋の一国から、世界に向けて差し出した愛の手でした。

 昭憲皇太后基金は、赤十字国際委員会と赤十字社連盟から指名された人々が共同管理する形で、創設されました。基金の収益は、大正10年(1921)から、世界の発展途上国の平和目的に限って活用されることになりました。これは、今日の開発協力を先取りするもので、極めて画期的なことでした。それ以来、今日まで、世界の多くの国に援助が続けられています。

 

国際的な救護事業を始めた昭憲皇太后は、国内でライ病(ハンセン病)に苦しむ人々にも、仁愛の心を注いだ方でした。ライ病は当時、不治の業病とされていました。伝染し進行すると、体中が朽ち、目も見えず息もできないようになる、これ以上恐ろしい病気はないと考えられ、家族からさえ縁切りされた病気でした。そのライ病に苦しむ人々に、援助の手を差し伸べたのが、昭憲皇太后だったのです。

昭憲皇太后は、明治天皇の後を追うように、大正3年に亡くなりましたが、その遺志は、皇室に継承されました。皇太后の精神を受け継いだ貞明皇后(大正天皇妃)は、ライ病患者への支援を続けました。当時、ライ病の歌人・明石海人は、次の歌を詠みました。

 

  みめぐみは 言はまくかしこ 日の本の

癩者(らいしゃ)に生れて われ悔ゆるなし

 

国際的な平時救護の事業も、皇室に受け継がれました。昭和9年(1934)、東京で開かれた第15回赤十字国際会議に際し、大正天皇妃・貞明皇后、昭和天皇妃・香淳皇后が、昭憲皇太后の遺志をついで、基金に10万円を加えました。基金の利益収入は、昭和19年だけを除いて、大戦中も続行されました。このことは、わが国の「八紘一宇」(はっこういちう)の精神が、海外諸国への福祉という形で、戦時にも保持されていたことの証です。(1)

 

赤十字社社則に天災時救護をはっきり打ち出し、平時活動の先例を世界に示したのも、昭憲皇太后でした。チリの大地震の時、昭憲皇太后基金による生命維持装置は、多くのけが人の生命を救うのに役立ちました。アフリカ諸国やアジアの国々では、車体に “The Empress Shoken Fund”と書かれたミニバスや救急車、血液運搬車が活躍しています。基金によって、大勢の人々が救われ、感謝されています。

基金の毎年の利子の配分は、合同管理委員会が各国赤十字社からの申請を審査し、昭憲皇太后の命日である4月11日に配分先を発表しています。収益配分は、平成14年で81回を数え、通算 9,497,010 スイスフラン(約7億5千万〜8億円)となります。そして、延べ541カ国の国々の福祉に貢献しています。

 

昭憲皇太后基金が今なお、世界中を愛で潤し続けているのは、わが皇室が折にふれて基金を増額しているからです。世界の平和と人類すべての幸せを願う、日本の皇室の心が、目に見える形で示されているのが、昭憲皇太后基金なのです。昭憲皇太后基金は日本人として最高の誇りにできることであり、その精神を国民みなが分かちもちたいと思うのです。ページの頭へ

 

(1)「八紘一宇」は、「世界は一家、人類みな兄弟」という意味であり、英語ではuniversal brotherhood と訳されます。日本人の「道徳上の目標」を表す言葉であって侵略主義とは無縁のものであることは、東京裁判においてすら認められています。

参考資料

・出雲井晶著『エピソードでつづる昭憲皇太后』(錦正社)

 
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■和歌に表わす人の道〜昭憲皇太后(2)

2004.6.16

 

昭憲皇太后は、明治天皇とともに、わが国民の道徳の向上に、大きな感化を与えました。明治天皇には、自己修養に努めていることが伺われる御製が多数あります。(註1) 昭憲皇太后にもまた、高い精神性が表れた御歌が多く残されています。

ある時、昭憲皇太后は、侍講(教育係)の元田永孚(ながざね)から、ベンジャミン・フランクリンについてのご進講を受けました。フランクリンは、アメリカの立志伝中の人物です。彼は十二の徳目を壁に掲げて自分を戒め、常に自分を磨き、品性を高めるよう努力しました。そして、この道義的精神を基にして、アメリカ独立宣言の起草にかかわりました。近代のデモクラシーと資本主義の精神を象徴する人物としても知られています。

そのフランクリンの十二徳とは、「節制・清潔・勤労・沈黙・確志・誠実・温和・謙遜・順序・節約・寧静・公義」です。皇太后は、フランクリンの志に感動し、十二徳を和歌に詠みました。それは、次のような御歌です。

 

一、節制

花の春 もみぢの秋の さかづきも

     ほどほどにこそ くままほしけれ

(大意:春の花見、秋のもみじ狩りの時などは、お酒を酌む量をほどほどにしたいものです)

 

二、清潔

しろたへの 衣のちりは はらへども

   うきは心の くもりなりけり

(大意:白い衣についたチリは掃えば落ちますが、思うように祓えないのは、心の曇りです)

 

三、勤労

みがかずば 玉の光は いでざらむ

人のこころも かくこそあるらし

(大意:磨かなければ宝玉も光を発しませんが、人の心も全く同じであるようです)

 

四、沈黙

すぎたるは 及ばざりけり かりそめの

言葉もあだに ちらさざらなむ

(大意:過ぎたるは及ばざるが如しというように、ちょっとした言葉使いにも注意し、言い過ぎることのないようにしましょう)

 

五、確志

人ごころ かからましかば 白玉の

またまは火にも やかれざりけり

(大意:白い宝玉は火によっても、焼けることがありません。人も、それくらいに確固とした志を持ちたいものです)

 

六、誠実

とりどりに つくるかざしの 花もあれど

にほふこころの うるはしきかな

(大意:色とりどりにつくった造花も美しいですが、誠実な心を持つ人は匂い立つようにうるわしいものです)

 

七、温和

みだるべき をりをばおきて 花桜

まづゑむほどを ならひてしがな

(大意:散り乱れる前の桜は、微笑をたたえたように穏やかです。人もそれにならって、どのような時でも微笑をたやさない温和な心を持ちたいものです)

 

八、謙遜

高山の かげをうつして ゆく水の

低きにつくを 心ともがな

(大意:高い山の姿を面に映す川の水は、低い方へと流れていきます。人もまた高い目標を胸に抱きながらも、どこまでも謙虚であるとよいなあと思います)

 

九、順序

おくふかき 道をきはめむ ものごとの

本末をだに たがへざりせば

(大意:物事の本末を間違わなければ、奥深い道理を窮めることができるでしょう)

 

十、節約

呉竹の ほどよきふしを たがへずば

末葉の露も みだれざらまし

(大意:節約を心がけほどほどの生活をしていると、子孫にいたるまで堅実な生き方をするでしょう)

 

十一、寧静

いかさまに 身はくだくとも むらぎもの

心はゆたに あるべかりけり

(大意:どれほど懸命に力を尽くしている大変な時でも、心の中はゆったりと静かでありたいものです)

 

十二、公義

国民を すくはむ道も 近きより

おしおよばさむ 遠きさかひに

(大意:国民を救う公義の道も、まず自分を修め、家をととのえて、近くから始め、遠くへと及ぼして参りましょう)

 

以上がフランクリンの十二徳と、それを和歌で詠んだものです。

昭憲皇太后の御歌には、欧米の道徳からも広く学んで、伝統的道徳を発展させようという姿勢が表われています。その御歌は、明治の日本人が、古くてしかも新しい精神をもって近代化を進めたことを示す、一つの徴(しるし)といえましょう。ページの頭へ

 

(1)拙稿「人の道を三十一文字に〜明治天皇(4)」をご参照下さい。

 
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■唱歌にこめた愛と願い〜昭憲皇太后(3)

2004.6.30

 

昭憲皇太后の御歌は2万7千余首、明治天皇と琴瑟相和(きんしつあいわ)し、歌聖としても仰がれています。明治天皇は「教育勅語」を発するとともに、和歌の内に人の道を詠み、国民に人としての在り方を諭しました。昭憲皇太后もこれに和して、多くの道徳的な歌を詠んで、国民の心の向上を促したのです。

 

朝ごとに むかふ鏡の くもりなく

あらまほしきは 心なりけり

(大意:毎朝見る鏡が曇りなく、ものを映すように、曇りのない状態でありたいものが、心です)

 

日に三度 身をかへりみし いにしへの

     人のこころに ならひてしがな

(大意:一日に三度、自分を反省したという古人の心を、見習いたいものです)

 

人ごとの よきもあしきも 心して

     きけばわが身の 為とこそなれ

(大意:人の話は良いことも悪いことも、注意して聞かせてもらえば、なんでも自分のためになるものです)

 

このような御歌で人の道を諭した昭憲皇太后は、女子教育の奨励にも力を入れました。女性教師を養成する東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の設立の際には、多額の手許金を出し、開校式にも行啓しました。そして、次の御歌を下賜しました。

 

みがかずば 玉も鏡も 何かせむ

      まなびの道も かくこそありけれ

(大意:宝玉も鏡も磨かなければ、何の値も出てきません。学業の道も同じことで、自分を磨く努力が大切です)

 

この歌は、同学の校歌となっています。また、戦前、唱歌として広く歌われた「金剛石・水は器」は、昭憲皇太后が自ら作詩し、華族女学校(女子学習院)に下賜したものです。

 

◆金剛石

 

  金剛石も みがかずば 珠のひかりは そはざらむ

  人もまなびて のちにこそ まことの徳は あらはるれ

  時計のはりの たえまなく めぐるがごとく 時のまの 

  日かげをしみて 励みなば いかなるわざか ならざらむ

 

(大意:ダイヤモンドも磨かなければ、宝石としての光は出てきません。人もまた、学問をしてこそ、真の徳が表れてくるのです。時計の針が絶え間なく回るように、時を惜しんで励むならば、どんなことでも成し遂げられないことがあるでしょうか)

 

◆水は器

 

 水はうつはに  したがひて そのさまざまに なりぬなり

  人はまじはる 友により  よきにあしきに うつるなり 

  おのれにまさる よき友を  えらびもとめて もろともに

こころの駒に むちうちて  まなびの道に  すすめかし

 

(大意:水は器の形に従って、さまざまな形に変わります。それと同様に、人は交際する友人によって、良いようにも悪いようにも影響を受けるものです。ですから、自分より優れた、良い友を選び求めて、その友と一緒に、自分の心にむち打って、学びの道に進んでいきましょう)

 

昭憲皇太后の御歌や唱歌には、人を信じ、愛し、助け合うという心があふれています。こうした精神は「昭憲皇太后基金」として実践され、現在も世界の多くの国々の人々に、博愛の手が差し延べられているのです。(註1

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(1)拙稿「世界の福祉に貢献〜昭憲皇太后(1)」をご参照下さい。

 
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「民の父母」たらんとして〜昭和天皇(1)

2002.8.31

 

わが国には、天皇と国民が親子のような家族的な感情で結ばれてきたという伝統があります。国民は天皇を親のように慕い、天皇は国民を我が子のように慈しむ。天皇は、国民を「大御宝(おおみたから)」と呼んで大切にし、「民の父母」たらんとして国民に仁愛を注ぐ。こうした伝統を最も良く体現していたのが、昭和天皇でした。

昭和は、日本が戦争と平和、困苦と繁栄を体験した、空前の一時代でした。天皇の在位も63年間という記録的な長さに及びました。その間、昭和天皇は、国民と苦しみと喜びを共にしました。国の中心・象徴として、いやそれ以上に「民の父母」たらんとして。

 

昭和天皇は、祖父である明治天皇が発した「五箇条の御誓文」と帝国憲法を、自らの規範としました。そして、そこに示された、近代的な立憲君主としての役割を、頑ななほど誠実に果たそうとしました。しかし、その根底には、伝統的な「民の父母」としての役割を担おうとする強い意志がありました。一人の青年天皇が、1億の国民に対し、親のような心を持とうと努めたのです。

 

昭和の初めの日本は、世界的な経済危機、国際関係の緊張、共産主義の脅威にさらされていました。常に平和を希求していた天皇は、軍部の独断専横を戒め、とりわけ日独伊三国同盟の締結には、反対でした。しかし、立憲君主として、憲法を超えて自己の意思を表すわけにはいきません。天皇は最後まで戦争を望みませんでしたが、わが国と米英との関係は悪化を続け、わが国は遂に未曾有の戦争に突入しました。それはわが国にとってかつてない苦難の体験でした。

昭和20年8月、敗色が濃くなるなか、御前会議で、天皇は終戦を決断しました。その「御聖断」は、帝国憲法に定められた立憲君主としての役割を逸脱する行為でした。しかし、国家存亡の危機にあって、天皇は、国民の生命を救済しようとしたのでした。それは「民の父母」として責任を果たそうとする天皇の決断でした。

 

 8月10日、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に通告しました。12日に米国から回答が届きました。そこには、「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文がありました。軍部は天皇制を廃止し、共和制に誘導しようという狙いがあると強く反対しました。しかし天皇は次のように言いました。

「それで少しも差し支えないではないか。たとい連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めてもらって少しも差し支えないと思う」(「木戸幸一関係文書ーー日記に関する覚書」)

連合国が日本を占領・統治すると、昭和天皇は、マッカーサーに自ら会見し、国民の救済を懇請しました。「自分はどうなってもかまわないから、国民を救ってもらいたい」と述べて、元帥を感動させました。また側近の反対を押して、全国を巡幸しました。天皇の訪問、その姿と言葉は、敗戦に打ちひしがれた国民に生きる希望をもたらしました。こうした天皇の行動は、「民の父母」としての自覚にもとづくものでした。 

 

昭和天皇は、昭和21年1月、一般に「人間宣言」と称される「新日本建設に関する詔書」を発しました。昭和52年8月23日、天皇は、その詔書の真意について記者団に述べました。

 「民主主義を採用したのは、明治大帝が思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもとになって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要が大いにあったと思います」

ここにいう「民主主義」とは、民を大切にする、民の幸福を政治の根本におくという意味でしょう。これは、神武天皇が国民を「大御宝」と呼び、その後の天皇が国民に「仁愛」を注いできた伝統に根ざすものです。明治天皇は、近代日本の創始にあたり、こうした伝統に基づいて、「民主主義」(デモクラシー)を採用したのです。そして、昭和天皇は、「御誓文」における明治天皇の考えを継承・実行しようとしたのでした。

昭和天皇は、次のように語っています。

「もっとも大切なことは、天皇と国民の結びつきであり、それは社会が変わっていってもいきいきと保っていかなければならない」

「昔から国民の信頼によって万世一系を保ってきたのであり、皇室もまた国民を我が子と考えられてきました。それが皇室の伝統であります」(ニューヨーク・タイムス、ザルツバーガー記者との単独会見、昭和47年)

 ここに見られる天皇と国民の間の親子のような結びつきこそ、わが国の国柄の基礎にあるものであり、日本的デモクラシーはそうした国柄の上に花開いたものだったのです。

 

昭和天皇は、国際的にも日本の象徴として敬われ、アメリカ・イギリスなど多くの国を歴訪し、歓迎を受けました。昭和64年1月7日、天皇が崩御すると、ご大葬には、世界約160国の代表が参列し、哀悼と敬意を捧げました。

昭和天皇は、日本の心を伝える存在として、内外の多くの人々の敬愛を集めたのです。そして、それは、天皇の心底に、「民の父母」たらんとする意志があればこそのことだったでしょう。ページの頭へ

 
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■独伊との同盟に反対〜昭和天皇(2)

2002.9.13

 

昭和天皇が自ら歩んだ時代を語った書が、『昭和天皇独白録』(文春文庫)です。

 これは戦後、昭和21年3〜4月に、昭和天皇が側近に語った言葉の記録です。それを読むと、昭和天皇が歴史の節目の多くの場合に、的確な判断をしていたことに、驚かされます。

 

最も重要な事実は、天皇は米英に対する戦争に反対だったことです。しかし、本心は反対であっても、立憲君主である以上、政府の決定を拒否することができません。拒否することは、憲法を無視することになり、専制君主と変わらなくなってしまうからです。そこで、天皇は昭和16年9月6日の御前会議において、自分の意見を述べるのではなく、明治天皇の御製を読み上げたのでした。

 

よもの海 みなはらからと 思ふ世に

など波風の たちさわぐらむ

 

これは対米英戦争の開始には反対である、戦争を回避するように、という昭和天皇の間接的な意思表示です。しかし、時の指導層は、この天皇の意思を黙殺して、無謀な戦争に突入したのです。結果は、大敗でした。

 

戦後、天皇は『昭和天皇独白録』でこの戦争について、次のように述べています。戦争の原因は「第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している」と。「日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦(また)然(しか)りである」と天皇は、長期的な背景があったことを指摘します。

昭和天皇はまた、わが国が大東亜戦争に敗れた原因について、自身の見解を明らかにしています。

 「敗戦の原因は四つあると思う。

第一、兵法の研究が不充分であったこと、即ち孫子の『敵を知り己を知れば、百戦危からず』という根本原理を体得していなかったこと。

 第ニ、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。

 第三、陸海軍の不一致。

 第四、常識ある首脳者の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛という様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且(かつ)軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂(いわゆる)下克上の状態を招いたこと」

 このように、天皇は敗因を分析しています。的を射ていることばかりです。

 

昭和天皇と大東亜戦争との関わりを振り返ってみると、まず日独伊三国軍事同盟をめぐる問題があります。昭和15年9月に、この同盟を締結したことは、わが国が決定的に進路を誤った出来事でした。当時、昭和天皇はヒトラーやムッソリーニと同盟を結ぶことを憂慮し、何度も同盟反対の意向を示していたのでした。

 しかし、三国同盟は強硬に推し進められました。推進の中心には、外務大臣の松岡洋右がいました。松岡は、独ソ不可侵条約と三国同盟を結合することで、日独伊ソの四国協商が可能となり、それによって中国を支援する米英と対決する日本の立場を飛躍的に強めることができるだろう、という構想を持っていました。しかし、松岡の狙いは見事に外れました。これに対し、天皇は『独白録』で当時を振り返り、次のように語っています。

「同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独乙の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあったのである」と。

 天皇の方が、外交の専門家である松岡よりも、相手国の意図をよほど深く洞察していたことがわかります。

 

三国同盟が締結された当時、天皇は、時の首相近衛文麿に対して、次のように問い掛けていました。

「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」

天皇は、独伊のようなファシスト国家と結ぶことは、米英両国を敵に回すことになり、わが国にとって甚だ危険なものだと見抜いていたのです。また、近衛首相に対して、次のようにも言っていたのでした。

「この条約のために、アメリカは日本に対して、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後、長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちに置かれるかもしれない」と。

実際、日独伊三国同盟の締結で、アメリカの対日姿勢は強硬となり、石油等の輸出が止められ、窮地に立った日本は戦争へ追い込まれていきました。同盟が引き起こす結果について、昭和天皇は実に明晰(めいせき)に予測していたことがわかります。この天皇の予見は不幸にして的中してしまったのです。当時の指導層が、もっと天皇の意向に沿う努力をしていたなら、日本の進路は変わっていたでしょう。(1)

『昭和天皇独白録』は、その他の事柄に関しても、天皇自身による貴重な証言に満ちています。ページの頭へ

 

(1) 拙稿「大東亜戦争は戦う必要がなかった」をご参照下さい。

参考資料

・『昭和天皇独白録』(文春文庫)

 
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■開戦を止め得なかったのは〜昭和天皇(3)

2002.9.27

 

 昭和天皇は、三国同盟に反対し、米英との戦争を憂慮するなど、的確な洞察を示していました。それにもかかわらず、どうして天皇は開戦を止められなかったのでしょうか。

 

 昭和16年9月6日の御前会議で、「戦争第一、交渉第ニ」の方針が決まりましたが、天皇は戦争に反対の意思を暗示しました。天皇は会議の結果を白紙に還元し、交渉を第一として極力努力することを期待したのです。ところが近衛は政権を投げ出し、後任の東条は開戦の道を進んだため、天皇の願いは実現されませんでした。

「問題の重点は石油だった」と『昭和天皇独白録』で、天皇は語っています。独伊と同盟を結んだことにより、米国は日本への石油等の輸出を禁止しました。石油を止められては、「日本は戦わず亡びる」と天皇は認識していました。天皇は次のように語っています。

「日米戦争は油で始まり油で終わったようなものであるが、開戦前の日米交渉にもし日独同盟がなかったら、米国は安心して日本に石油をくれたかも知れぬが、同盟のあるために日本に送った油が、ドイツに回送されはせぬかという懸念のために、交渉がまとまらなかったともいえるのではないかと思う」

「実に石油輸出禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦ったほうが良いという考えが決定的になったのは自然の勢いといわねばならぬ。もしあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ちながら、むざむざ米国に屈服するというので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろう」と。

 

 昭和16年11月31日、天皇は高松宮に、開戦すれば「敗けはせぬかと思う」と語りました。高松宮が「それなら今止めてはどうか」とたずねるので、天皇は次のように語ったと言います。「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ。もし認めなければ、東条は辞職し、大きなクーデタが起こり、かえって滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであろうと思い、戦争を止める事については、返事をしなかった」と。

同じ趣旨のことを、天皇は繰り返し語っています。「陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら、降伏に対しクーデタ様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に対し私がベトー(拒否)を行ったとしたならば、一体どうなったであろうか。(略)私が若(も)し開戦の決定に対してベトーをしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私は信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても結局、強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる結末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う」と。

 昭和16年12月1日、御前会議で遂に対米英戦争の開戦が決定されました。天皇は「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も言わなかった」と、『独白録』で語っています。

なぜ天皇は開戦を止め得なかったか、その答えを天皇自身は上記のように語っているのです。5・15事件、2・26事件では、首相らの重臣が殺傷されました。終戦時にも、玉音放送を阻止しようと一部の兵士が反乱を起こしました。天皇の懸念は切実なものだったことが分かります。

 

 では、開戦後、早い時期に戦争を終結させることは出来なかったのでしょうか。ここで再び三国同盟が拘わってきます。日本は12月8日、米英と開戦するや3日後の11日に、三国単独不講和確約を結びました。同盟関係にある日独伊は、自国が戦争でどのような状況にあっても、単独では連合国と講和を結ばないという約束です。ここでわが国は、ドイツ、イタリアとまさに一蓮托生(いちれんたくしょう)の道を選んだことになります。昭和天皇は、このことに関し、『独白録』で次のように述べています。

 「三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦後できた三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」

「この確約なくば、日本が有利な地歩を占めた機会に、和平の機運を掴(つか)むことがきたかも知れぬ」と。

 なんとわが国は、戦局が有利なうちに外交で講和を図るという手段を、自ら禁じていたのです。ヒトラーの謀略にだまされ、利用されるばかりの愚かな選択でした。ここでも天皇に仕える政治家や軍人が、大きな失策を積み重ね、国の進路を誤ったことが、歴然と浮かび上がってくるのです。ページの頭へ

 

参考資料

・『昭和天皇独白録』(文春文庫)

・山本七平著『昭和天皇の研究』(祥伝社)

 
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■国民を思った終戦の御聖断〜昭和天皇(4)

2002.10.12

 

大東亜戦争は、昭和天皇の決断によって終結しました。時の首相は鈴木貫太郎海軍大将、内閣書記官長(現在の内閣官房長官)は、迫水久常(さこみず・ひさつね)でした。迫水は、戦後参議院議員となり、郵政大臣、経済企画庁長官などを歴任した人物です。

迫水は、岡田啓介元首相の女婿でした。迫水は、岡田の指示を受けながら、東条政権打倒に尽力しました。鈴木内閣では、書記官長として、終戦のための手続きや段取りのすべてを取りしまっていました。(1)

 

  迫水は、昭和天皇が終戦の決断をした昭和20年8月9日の御前会議のことを、次のように回想しています。

「その日の真夜中、宮中の防空壕の中、天皇陛下の御前で戦争を終結させるか否かに関する、最後の御前会議が開かれました。…そのとき、私は一番末席を占めさせていただいておりました。

会議の席上、戦争を終結させるか否かについて、いろいろな論議がございました。が、最後に鈴木総理大臣が立って、天皇陛下に『陛下の思召しをうかがわせて下さいませ』とお願い申し上げたのでございます。

  天皇陛下は『それでは自分の意見を述べるが、みなの者は自分の意見に賛成してほしい』と仰せられました。時に昭和20年8月10日午前2時ごろのことでした。

  陛下は、体を少し前にお乗り出しになられまして『自分の考えは、先ほどの東郷外務大臣の意見と同様に、この戦争を無条件に終結することに賛成である』と仰せられたのであります。

  その瞬間、私は胸が締めつけられるようになって、両方の目から涙がほとばしり出て、机の上に置いた書類が雨のような跡を残したことを今でも覚えております。部屋は、たちまちのうちに号泣する声に満ちました。私も声をあげて泣いたのでございます。

しかし、私は会議の進行係でございましたので、もし天皇陛下のお言葉がそれで終わるならば、会議を次の段階に移さなければならないと考えまして、ひそかに涙に曇った目をもって天皇陛下の方を拝しますと、陛下はじっと斜め上の方を、お見つめになっていらっしゃいました。そして白い手袋をおはめになった御手の親指を、眼鏡の裏にお入れになって、何回となく眼鏡の曇りをおぬぐいあそばされておられました。やがて白い手袋をおはめになった御手で、両頬をおぬぐいになりました。

  陛下御自身お泣き遊ばされていることを拝しました参列者一同、身も世もあらぬ気持でその時ひれ伏し泣くほかなかったのでございます。

  陛下は思いがけなくも『念のために理由を言っておく』とお言葉を続けられました。『自分の務めは、先祖から受けついで来た日本という国を、子孫に伝えることである。もし本土で戦争が始まって、本土決戦ということになったならば、日本国民はほとんど全部、死んでしまうだろう。そうすればこの日本の国を子孫に伝える方法はなくなってしまう。それゆえ、まことに耐えがたいことであり、忍びがたいことであるが、この戦争を止めようと思う。ここにいる皆のものは、その場合、自分がどうなるであろうと心配してくれるであろうが、自分はいかようになっても、ひとつもかまわない。この戦争を止めて、国民を一人でも多く救いたいという自分の意見に賛成してほしい』という主旨のことを、たどたどしく、途切れ途切れに、ほんとうに胸からしぼり出すようにして陛下は述べられたのであります。

  かくして、大東亜戦争は終わりました。…すなわち大東亜戦争が終わったのは、天皇陛下が御自身の身命をお犠牲になさいまして、日本の国民を救い、日本国をお救いになられたのであります」(2)

 

終戦の御聖断は、憲法に定められた立憲君主の立場を超えたものでした。それは「民の父母」として、国民を救いたいという願いからの決断でした。もしこの時、天皇が終戦を決断しなければ、戦争はさらに悲惨な展開を遂げ、わが国は回復不可能な結果に陥ったでしょう。

今日、私たち日本人があるのは、国民を思って終戦を決めた昭和天皇の御聖断によっていることを、忘れてはならないのです。

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(1拙稿「東条英機と対決〜岡田啓介」「終戦・和平に献身的活躍〜迫水久常」をご参照下さい。

(2)迫水久常の講演記録(昭和44年1月7日、東京・日比谷公会堂、

日本精神復興促進会発行『明けゆく世界 第6集』より

 
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■御聖断に込められた願い〜昭和天皇(5)

2002.10.25

 

 大東亜戦争末期の昭和20年8月9日、昭和天皇は、御前会議において、終戦の御聖断を下しました。

 

『昭和天皇独白録』で、天皇は次のように述べています。

「開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬ事である。若(も)し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之(これ)は専制君主と何等異なる所はない。終戦の際は、然(しか)し乍(なが)ら、之とは事情を異にし。廟議(ちょうぎ)がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族のために私が是なりと信じる所に依(よっ)て、事を裁いたのである」(1)

  当時、侍従長だった藤田尚徳(ひさのり)海軍大将は、天皇がその時の心中を次のように語ったと伝えています。

「…その時には終戦か、戦争継続か、両論に分かれて対立し、議論が果てしもないので、鈴木(貫太郎、当時の首相)が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。ここに私は、誰の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予(かね)て考えていた所信を述べて、戦争をやめるようにさせたのである。……この場合に私が裁決しなければ、事の結末はつかない。それで私は、この上、戦争を継続することの無理と、無理な戦争を強行することは皇国の滅亡を招くとの見地から、胸の張り裂ける想いをしつつも裁断を下した。これで戦争は終わった。…」(2)

 

もしこの時、天皇が御聖断を下さなかったら、わが国はどうなっていたでしょうか。

8月6日、広島に人類史上初めて、原子爆弾が投下されました。さらに9日には、長崎に2発目の原爆が投下されました。沖縄を既に手中に収めていた連合国軍は、9月の末か10月の初めには南九州に上陸する計画でした。ついで10月か11月には関東地方に上陸を敢行する計画も立てられていました。また、9日未明には、日ソ不可侵条約を一方的に破って、ソ連軍が雪崩のごとく満州や樺太に侵入してきました。終戦を急がなければ、ソ連軍は、北海道に侵攻し占領していたでしょう。やがては本州にも上陸したに違いありません。

 

当時、軍部は徹底抗戦を主張していました。それゆえ、もし天皇がここで終戦を決断しなければ、軍部は本土決戦に臨んだでしょう。国民は「一億玉砕」という軍部とマスコミの扇動に操られていました。その戦いは、数十万、数百万の犠牲者を生んだに違いありません。さらに、国土は徹底的な破壊を受けたことでしょう。また恐らく日本は四分五裂の状態となり、連合国軍によって分割占領されて、南北朝鮮や東西ドイツのような分裂国家の悲惨を味わうことになったでしょう。最悪の場合には、日本という国自体が消滅していたかも知れません。

そのような悲劇を避けえたのは、ひとえに昭和天皇の御聖断によっているのです。「民の父母」である天皇以外に、この戦いを納められる人間は、他にいなかったのです。

 

昭和天皇は、終戦を決断した時の心境を、次の歌に詠んでいます。

 

爆撃に たふれゆく民の うへをおもひ

いくさとめけり 身はいかならむとも

 

身はいかに なるともいくさ とどめけり

ただたふれゆく 民を思ひて

 

 自分の身はどうなっても、国民を救わなければならないーーこのような天皇の必死の思いによって、終戦の御聖断は下されたのです。

 

御聖断に従って、わが国は8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、12日に回答が届きました。そこには「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文がありました。天皇は14日に閣僚全員を召集し、御前会議が開かれました。

陸軍大臣、参謀総長、軍令部総長らは、連合国の回答の主旨に疑いを持ちました。もし国体の護持、即ち天皇の地位の安泰という条件が受け入れられなければ、受諾できないと訴えました。ところが天皇は、静かに口を開くと、「国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えない。要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思う。そのまま、受諾してよいと考える」と述べました。この天皇の意思に従って、ポツダム宣言の受諾が決定されました。

 

終戦について、天皇は自ら全国民に呼びかけたいと望み、マイクの前に立ちました。8月15日、玉音放送で、終戦の詔書が全国に放送されました。直接国民に呼びかける天皇の言葉に、全国の国民は泣き崩れました。一部には、なお抵抗を主張する人もありました。しかし、御聖断の主旨は、国内はもちろん、海外の戦地にいた軍人においても、守られました。天皇の呼びかけに従って、日本軍は静かに降伏し、国民が整然と行動しました。その姿は、世界の人々を驚かせました。(3)

 

昭和天皇は「国民全体の信念と覚悟」を信じていました。こうした天皇の下で、国民は敗戦という事実を受け容れ、苦難を乗り越え再起を図ることを誓ったのです。ページの頭へ

 

(1)『昭和天皇独白録』(文春文庫)

(2)藤田尚徳著『侍従長の回想』(中公文庫)

(3)終戦の詔書」は次項をご参照下さい。

 
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■戦後の原点「終戦の詔書」〜昭和天皇(6)

2002.10.25

 

 昭和天皇の「終戦の詔書」は、玉音放送として知られています。その内容は、天皇が大東亜戦争の終結を決めた事情を国民に伝えるとともに、敗戦から我が国が再出発するにあたって国民に指針を示したものでした。戦後日本のありようを反省し、日本の再建を進めるために、折に触れて再確認すべき原点であると思います。

以下、原文とともに、語句解釈と現代文訳を掲載します。

 

●原文

 朕深ク 世界ノ大勢ト 帝國ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ 忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ 帝國政府ヲシテ 米英支蘇 四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ

 抑々 帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遣範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戦セル所 以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵カス如キハ 固ヨリ朕カ志ニアラス

 然ルニ 交戰巳ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ 尚交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ

 斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ 是レ 朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ 朕ハ 帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス

 帝國臣民ニシテ 戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ 非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク 且 戰傷ヲ負ヒ 災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ

 惟フニ 今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ 固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ 太平ヲ開カムト欲ス

 朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ 情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排儕 互ニ時局ヲ亂リ 為ニ 大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム

 宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

 裕仁

 

●読み下し

 朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。

 朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。

 そもそも帝国臣民の康寧を図り、万邦共栄の楽をともにするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の拳々措(お)かざる所、先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出て、他国の主権を排し領土を侵すか如きは、固(もと)より朕が志にあらず。

 然るに交戦すでに四歳(しさい)を閲(えっ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)の励精、朕が一億衆庶の奉公、各ゝ最善を尽せるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず。

 しかのみならず敵は新に残虐なる爆弾を使用して、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚、交戦を継続せんか終(つい)に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。

 斯(かく)の如くんば朕何をもってか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉し非命に斃(たお)れたる者及びその遺族に想を致せば、五内(ごだい)為に裂く。且つ戦傷を負い災禍を蒙(こうむ)り家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。

 おもうに今後帝国の受くべき苦難は、固(もと)より尋常にあらず。爾臣民の衷情(ちゅうじょう)も朕よくこれを知る。然れども朕は時運の趨(おもむ)く所、堪ヘ難きを堪ヘ、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かんと欲す。

朕はここに国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在り。若(も)し夫(そ)れ情の激する所、濫に事端を滋(しげ)くし或は同胞排擠(はいせい)互に時局を乱(みだ)り、為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは、朕最もこれを戒(いまし)む。

宜(よろ)しく擧国一家子孫相伝ヘ確(たしけ)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)し、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。爾臣民それ克(よ)く朕が意を体せよ。

  裕仁(ひろひと)

 

●語句解釈

 朕(ちん)=天皇の自称。ここでは昭和天皇のこと。

共同宣言=ポツダム宣言。

拳々措(お)かざる=常に慎み願ってやまない

庶幾=一途にこい願うこと。

百僚有司=多くの官僚、官吏。

億兆の赤子=我が子のように思う多数の国民

無辜(むこ)=罪のない民間人

五内(ごだい)=5つの内蔵(心臓、肝臓、肺臓、腎臓、脾臓)

軫念(しんねん)=天皇が深く心を痛めること。心配すること。

赤誠=少しも嘘偽りのない誠の心。

信倚(しんい)=信じ頼ること。

事端を滋(しげ)くし=事を多く起こし

同胞排擠(はいせい)=他を押しのけたり、陥れたりすること。

志操=堅く守って変えない志。

裕仁=昭和天皇の名前。

 

●現代文訳

 私は世界の大勢と我が国の現状を深く考え、非常の措置をもって現下の情勢を収拾しようと思い、忠実で善良なるあなた方国民にお知らせする。

  私は、米国・英国・中国・ソ連の4国に対して、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れることを、日本国政府に通告させた。

 そもそも、わが国民の平穏安寧を図り、世界各国が共に繁栄する楽しみをともにすることは、皇室の祖先が残した規範であり、私が常に慎み願ってやまないことであって、以前に米英の2国に宣戦した理由も、真に我が国の自存と東アジアの安定とを一途に望んでいたからであり、他国の主権を排除したり、領土を侵略したりするようなことは、もとより私の思いではない。

 ところが戦争を始めて4年の歳月が経過し、私の陸海軍将兵の勇戦、私の官僚の精励、私の国民の奉公、おのおのが最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は好転しないばかりか、世界の大勢もまた我が国には不利な状況である。

 それだけではなく、敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して、しきりに罪もない民間人を殺傷し、惨害の及ぶ状況は、じつに測りきれないほどである。

 しかもこのまま交戦を続けたとしたら、ついには日本民族の滅亡という事態を招くだけではなく、ひいては人類の文明も破壊され尽くすことになる。

 そのようなことになれば、私はどのようにして我が国民を守り、皇室の祖先の霊に謝罪すればよいのだろうか。

 このような思いによって、私は日本国政府に共同宣言に応じさせることにしたわけである。

 私は我が国とともに、終始東アジアの解放に協力してくれた各国に対して、遺憾の意を表さなければならない。

 わが国民のうち、戦死したり、殉職したり、不慮の災難に倒れた者たち、そしてその遺族のことを思うと、はらわたが引き裂かれんばかりの思いである。かつ、戦傷を負い、戦災をこうむり、家業を失った者たちの健康や生活について、私は深く心を痛めている。

 思うに、今後の日本が受ける苦難は、言うまでもなく尋常なものではない。あなた方国民の心のうちは、私はよくわかっている。しかし私は時運の赴くところ、堪え難いことにも堪え、忍び難いことをも忍んで、将来のために太平の世を開こうと思う。

 私はここに、国体を護持することができて、忠実で善良なるあなた方国民の誠の心を信頼し、常にあなた方国民と共にあるものである。

 もしあなた方が、激しい感情によって、むやみに事を起こしたり、あるいは国民同士で陥れ合い、互いに情勢を乱れさせ、そのために国家として進むべき道を誤って、世界に対して信義を失うようなことは、私が最も戒めたいことである。

 どうか、国を挙げ、一家みなで、子孫にまで、この私の思いを伝えて欲しい。また神国日本の不滅をかたく信じ、責任は重く道は遠いと思うが、総力を将来の建設に傾け、道義を篤く行い、志を堅く持ち、誓って我が国体の美しい特色を発揮して、進歩発展する世界に遅れを取るまいという決意を持って欲しい。

 あなた方国民は、どうか私の真意を理解・体得して欲しい。

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■マッカーサーは感動した〜昭和天皇(7)

2002.11.9

 

 敗戦の約1ヵ月後。昭和20年9月27日、昭和天皇はGHQのマッカーサー元帥を訪問しました。場所は東京都港区にある現在のアメリカ大使館。その時、天皇は45歳でした。

「マッカーサー回想録」によると、昭和天皇は「国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」と述べたといいます。

わが国の外務省は、この会見から57年たった平成14年10月17日、会見の公式記録を公開しました。そこには天皇が直接「戦争責任」に触れた部分はありませんでした。しかし、そのことをもって、天皇が責任を負うと言わなかったと見るのは、早計です。外務省側が連合国による裁判を想定して、あえて記録に残さなかった可能性があるからです。(1)

 

マッカーサーとの会見は、昭和天皇自らの意思によるものでした。当初、天皇が自分を訪問希望だと聞いたとき、マッカーサーは非常に厳しい顔をしたといいます。どうせ命乞いか亡命の嘆願に来るのだろう、と。それが敗戦国の元首の常だからです。

それゆえマッカーサーは最初、昭和天皇をぞんざいに迎えました。しかし、30分後には、自ら天皇を丁重に送っているマッカーサーがいました。その姿は、周りにもわかるほど感動していたといいます。通訳をしたファウビオン・バワーズは、次のような手記を、読売新聞に寄せています。

「我々が玄関ホールに戻った時、元帥ははた目で見てもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた。……ついこの間まで『日本人の罪をどんなに処罰してやろうか』とばかり話していた人物なのに。天皇陛下が戦争犯罪人たちの身代わりになると申し出られたことに驚いたと、元帥は後に私に語った。『戦争は私の名前で行われた。私には責任がある』と陛下は説明されたというのだ。元帥はそのような考えを受け入れようとは思わなかったろう。天皇の存在なしでは占領は失敗するのだ」

 

 昭和天皇はこの会見の内容について、一言も語りませんでした。それが元帥との約束だったのです。ところが、天皇の態度に感動したマッカーサーが、会見の様子を、来訪する日本人に語ったことにより、わが国に知られるようになりました。そして、マッカーサーは、昭和天皇との会見のことを自ら『回想録』に記しています。

「私は大きい感動に揺すぶられた。死を伴うほどの責任、しかも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない戦争責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」

会見後、マッカーサーが「はた目で見てもわかるほど感動していた」とバワーズが、伝えているとおり、彼は「大きい感動に揺すぶられた」のです。

昭和天皇は、食糧不足のため餓えに苦しむ国民を思い、自分の身を投げ出して、国民を餓死から救いたいと願ったのです。その姿勢が、マッカーサーを感動させたのです。

 

当時、アメリカでは、天皇の裁判や処刑を求める意見が高まっていました。これを受けて上院は「天皇を戦争犯罪人として裁判にかけることをアメリカ合衆国の政策とする」ことを全員一致で決議しました。しかし、マッカーサーは、昭和天皇に直接会って以来、天皇に対する考えが一変していました。また、彼のもとには、天皇の助命を願う日本国民から、千通を超える直訴状が送られてきていました。国民は天皇を恨んでいるどころではありません。自分の命に代えても、天皇を助けて欲しいと懇願する国民が多数いるのです。天皇の存在の重大さを痛感したマッカーサーは、昭和21年1月25日、ワシントンに電報を送りました。

「…天皇告発は日本人に大きな衝撃を与え、その効果は測り知れないものがある。天皇は日本国民統合の象徴であり、彼を破壊すれば日本国は瓦解するであろう。事実すべての日本人は天皇を国家元首として崇拝しており、正否は別としてポツダム宣言は天皇を存続させることを企図していると信じている。だからもし連合国が天皇を裁けば日本人はこの行為を史上最大の裏切りと受け取り、長期間、連合国に対して、怒りと憎悪を抱き続けるだろう。その結果、数世紀にわたる相互復讐の連鎖反応が起こるであろう…」

この電報が、米国政府の決定を覆しました。アメリカは、天皇の存在と地位を保つ方向に急転回したのです。

 

東洋には「身を殺して仁をなす」という言葉があります。仁とは愛の形です。仁愛は、親が自分はどうなっても、と自己犠牲的な行為によって、子供を救おうとする。そこに極まるでしょう。昭和天皇は「民の父母」として、まさに身を捨てて「仁」をなしたと言えましょう。

昭和天皇のこうした姿勢がマッカーサーの心を動かし、それによって日本の国民は救われ、日本という国もまた守られたのです。ページの頭へ

 

(1)「戦争責任」という問題については、以下の拙稿をご参照下さい。

昭和天皇に『戦争責任』なし

 
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■天皇が国民の飢えを救った〜昭和天皇(8)

2004.5.15

 

敗戦の年、昭和20年、戦後の混乱のなかで、国民の塗炭(とたん)の苦しみを味わっていました。食糧難は深刻でした。この年、成人に必要なカロリーは、配給ではわずか半分しか摂取できず、残りはヤミで補うという状況でした。人々は、金になるものは何でも売って食いつなぐ、いわゆる「たけのこ生活」を強いられていました。

 

加えて、この年は、明治43年(1910)以来最悪の不作の年となりました。天候不順、戦争による労働力不足、粗末な農機具、そして肥料や農薬生産の減少により、米の収穫が例年より40パーセント近くも減少したのです。しかも、敗戦により国家機能が低下していたため、農民は収穫した穀物を政府に供出せずに、闇のルートに横流ししました。その結果、ついに政府からの配給米が底をつく事態となりました。大蔵大臣はUP通信社に対して「食糧がすぐに輸入されなければ、1千万人の日本人が餓死するであろう」と述べました。国民は迫りくる飢餓の恐怖におののいていました。

 

このようななか、国民の食糧事情に最も胸を痛めていたのが、昭和天皇でした。戦後、農地改革や日中友好に活躍した政治家・松村謙三は、当時を次のように回想しています。

昭和20年12月、宮中からお召しがあり、天皇からお言葉がありました。

「戦争で苦しんだ国民に、さらに餓死者を出すことは堪(た)え難い。皇室の御物(ぎょぶつ)の中には国際的価値のあるものもあると聞く。その目録を作製させたから、米国と話してこれを食糧に替えたい」とのお言葉でした。

さっそく幣原喜重郎首相が、マッカーサーに面会してこれを伝えると、感動したマッカーサーは「自分としても、米国としても、その面目にかけても御物を取り上げることはできない。断じて国民に餓死者を出すことはさせないから、ご安心されるよう申し上げて下さい」と答えたといいます。

 

食糧を求める国民の声は、ますます高まっていました。昭和21年5月19日には、「食糧メーデー」が行われました。参加者は25万人といわれ、坂下門から皇居内にも群集が押し入りました。教科書にも載っている「国体は護持されたぞ。朕はたらふく食っているぞ。汝、臣民飢えて死ね。御名御璽」というプラカードはこの時のものです。プラカードを持った者は、不敬罪に問われました。プラカードの表現は、共産党によるものでした。

皇居前広場では、トラックを3台並べ、その上にテーブルをのせて演壇がつくられました。演説が続き、最後に、共産党の指導者・徳田球一が演壇に立ちました。徳田はおもむろに皇居を指さし、「オレたちは餓えている。しかるに彼らはどうだ」と叫んで、群集をアジりました。

翌20日、マッカーサーは、「規律なき分子がいま開始している暴力の行使は、今後継続を許さない」と警告し、「食糧メーデー」はGHQ(連合国軍総司令部)の命令で収拾されます。そして、21日、マッカーサーは吉田茂をGHQに招き、「自分が最高司令官であるかぎり、日本国民は一人も餓死させない」と約束しました。

その約束通り、GHQは6〜7月にかけて20万トンの輸入食糧を放出しました。8〜9月には、それぞれ20万トンの食糧が放出されました。これによって、日本国民は、大量餓死という最悪の危機を乗り越えることができたのです。

 

大戦後の数年間、世界の食糧事情は悪化しました。中国・インドでは飢餓が起こり、ヨーロッパでさえ飢餓が囁(ささや)かれたほどです。敗戦国の日本など、懲罰として飢餓を強いられても不思議ではない状況でした。それにもかかわらず、国民が餓死から救われたのは、昭和天皇の役割が大きかったのです。

昭和天皇は、餓えに苦しむ国民を思い、皇室財産を差し出して食糧に替え、国民を餓死から救いたいと申し出ました。その無私仁愛の心が、マッカーサーの心を揺り動かし、GHQによる食糧放出が行われたのです。当時の国民はこのことを知る由もありませんでした。今日も多くの国民は、ただ米軍が食糧を供給してくれたと思っているようです。実はその陰には、国民の身の上を思う天皇の存在があったのです。

こういう真実をこそ、私たちは語り継いでいかなければならないでしょう。ページの頭へ

 

参考資料

・岡崎久彦著『百年の遺産――日本近代外交史(65)』(産経新聞平成14年6月17日号掲載)

 
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■御巡幸が国民を力づけた〜昭和天皇(9)

2002.11.23

 

 昭和天皇は、昭和21年2月より実に9年間にわたって、全国411個所、総行程にして3万3千キロの御巡幸を行いました。天皇の訪問は、敗戦によって廃虚の中にあった国民に大きな力を与えました。この世界史に類例のない出来事は、天皇自身の発意で行われたものでした。

 

加藤進元宮内次官は次のように、伝えています。

 「陛下は概ね次のように私に仰せになりましたーーこの戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けた。この際、私としては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任と思う。

私としては、このことをどうしてもなるべく早い時期に行いたいと思う。ついては、宮内官たちは私の健康を心配するだろうが、自分はどんなことになってもやり抜くつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやってほしい。宮内官はそのことを計画し実行して欲しい」(1)

 加藤氏は、天皇の言葉に驚きを隠せませんでした。氏の回想によると、政府側の重臣たちは、「警備の面の安全を考えても、御巡幸は差し控えた方がよい」という意見で、すべて反対でした。また、外務省あるいは終戦連絡事務局の幹部もたびたび反対意見を述べていました。

 

今上天皇が皇太子だった時の家庭教師、エリザベス・バイニング夫人は、日記に当時のエピソードを書き留めています。昭和24年9月25日の日記に、彼女が吉田茂首相の別荘に招かれ、同席した樺山愛輔伯爵から聞かされたことが記されています。それによると、昭和天皇は九州御巡幸を望んだのですが、政府は世情不安、身辺の安全問題を理由に反対しました。そこで天皇は、自らマッカーサー元帥に面会して賛同を取り付け、吉田首相に九州御巡幸の実現を迫りました。驚いた吉田首相は元帥に緊急会見し、事実かどうか確かめ、その上で御巡幸を決定したというのです。

 

 こうして行われた全国御巡幸は、各地で大きな感動をもたらしました。それまで、雲の上のような存在だった天皇が、自ら国民のもとにやってきて、親しく慰め、励ましたからです。

 

 元宮内次官の加藤氏は、次のような実話を伝えています。

 「下関巡幸の折りなど、陛下御巡幸の反対の動きがありましたので、お迎えする民衆の後ろの方で、当時の県知事とともにあたりを見守っておりましたところ、遠くで赤旗を振っていた反対派の組合員が、陛下のお姿を見ているうちに感激してしまったのか、赤旗を振っているのも忘れ、万歳、万歳と叫び出したこともありました。

また中国地方の水島工業に行った折など、組合が奉迎派と反対派に分裂。この時も、あたりを見回していますと、反対派の人間が4〜5人、工場の屋根の上からじっと歓迎の様子を見ているのを発見しました。随分、危ないなと思って見ておりますと、陛下が奉迎員の組合委員長と話をしておられる時です。突然、屋根の上に立ち上がり、万歳をしているのです。落ちるのではないかと心配したことを覚えています。

とにかく陛下がお出でになられる工場では、ストライキがことごとく解決していきましたし、これは調べれば分かると思いますが、物資や食糧の生産が、陛下のおいでになるところことごとく向上していくのです」(2)

 こうしたエピソードが、全国に多数残っています。

 

わが国には、天皇と国民が深い家族的な感情で結ばれてきたという伝統があります。それは、君民一体ということもできます。

昭和天皇の御巡幸は、終戦直後、塗炭の苦しみにあった国民を力づけました。このことが戦後日本の復興に大きな力となりました。全国を回って国民を慰め、励そうと考えた昭和天皇は、君民一体の伝統を実践したのです。

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(1)(2)加藤進著『昭和の御巡幸』(『聖帝昭和天皇をあおぐ』明成社)

 
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■外国要人も感銘を受けた〜昭和天皇(10)

2002.12.7

 

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、昭和56年2月に来日しました。24日、法王は昭和天皇を表敬訪問し、次のように語りました。

「私は、陛下が無益な受難が起こらぬようにするため、先の大戦を終わらせようと断固たる努力を払い、そして、すべての国民に代わってひとりで戦争の責任を引き受けようと申し出られた陛下の高貴な御態度に格別の尊敬を表します。陛下は実に、現代日本の民主主義と平和と自由の基礎の確立に、疑う余地のない貢献をなされました。そして、その基礎は、お国の歴史上かつてない進歩と繁栄を実現しました」と。

また、法王は、この来日の際、次のように語りました。「陛下にお目にかかって日本人の心の美しさが、どこから出てくるのかということが良く分かりました」「今回来日して発見したことがあります。つまり、日本の良さというものを、一点に凝縮すると、天皇陛下なのです」と。

 

 ローマ法王ばかりでなく多数の外国人が、昭和天皇と会見して、大きな感銘を受けました。それは、昭和天皇の個人的な人格によるのみでなく、わが国の皇室に伝わる伝統あってのものといえるでしょう。その証として、アメリカのレーガン大統領、カーター大統領、東ドイツのシェール大統領など、多くの外国の要人が、皇居で行われる宮中晩餐会で、天皇に体されるわが国の伝統・文化を称えています。

 

 例えば、パキスタンのモハメッド=ジアウル=ハック閣下は、次のように語りました。「パキスタンにおいて、私どもは、陛下を日本文化の絶えざることの象徴として、また、日本国民の不屈の精神の象徴として尊敬申し上げております。……経済分野における日本のめざましい業績に対し、世界全体が賞賛と羨望とをもって認めていることは疑いありません。しかも、さらに一層敬服に値することは、日本国民がその倫理的な拠(よ)り所をしっかりととらえ、そして独自の文化と伝統を保存することに成功しているということであります。回教国家として、その宗教的遺産に誇りを持つパキスタンの国民は、日本人のこの優れた資質に深い感銘を受けております」と。

 次に、ニジェールのセイニ=クンチェ最高軍事評議会議長は、次のように述べました。「陛下は、世界で最も古い君主国の頂点におられます。最も古く最も賞賛すべき文明のひとつが、富士山の影に横たわるこの列島に生まれました。そこには独創的な文明が発達し、結実し、それによって日本国は、押し寄せる様々な出来事にもかかわらず、自らの個性を守り、その魂を保持することができたのであります。かくて、この地には、その文化を失うこともその伝統を放棄することもなく、最も見事で根本的な変革に断乎として着手し、それを成功裏に実現した偉大な国家が繁栄するに至ったのであります」と。

また、パラグアイのストロエルネル大統領は、天皇と国民の結びつきを次のように表現しました。「私は、この尊敬する日本国民の本国に参りまして、心が高められるように感じ、人類が常に誇りとしてきた数々の力強い美徳の存在を身をもって感得するような気持ちがいたしております。日本人の国を愛する心は、日本人の持つ純真、克己及び謙譲の精神から永劫の泉のように涵養されることを世界は認識しております。……この高潔な国には、人をして日本国を尊敬せしめた祖先伝来の煌(きらめ)きがあり、天皇陛下に体現される諸体制が整っており、日本国民がその輝かしい宗教を信じ、希望を抱き、そして日本民族特有の力強さをもって天皇陛下をお慕いしていることを何人も否定しないのであります」と。

 

 これらの言葉は、昭和天皇に対する敬意の言葉であるとともに、また、日本の国民全体に対する賞賛の言葉でもあります。そして、日本の伝統と文化の中心には、天皇の存在があり、天皇と国民の一体性に、日本の国柄の特徴があることを示す言葉ともいえましょう。そして、こうした国柄を最もよく体現したのが、昭和天皇だったことがわかります。

 昭和天皇が崩御して、今日もなおその事績を仰ぎ、その人柄を慕う人々は、絶えることがありません。ページの頭へ

 

参考資料

・『聖帝 昭和天皇をあおぐ』(明成社)

 
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■東日本震災で被災者を励ます〜今上陛下

2011.6.3

 

平成23年(2011)3月11日、東日本大震災は、死者1万5千人以上、行方不明者約8千5百人(平成23年5月31日現在)という多大な犠牲者をもたらしました。また、政府は道路・建物等の直接的被害を16〜25兆円と概算しています。日本経済への影響は甚大であり、損失はその数倍に達すると見られます。まさに戦後最大の惨事であり、わが国が直面している国難です。

 大震災の中で、被災地の人々は取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示しました。その高い道徳性に、世界各国から賞賛の声が上がりました。福島第1原発の事故現場で懸命に対応する自衛隊・消防・警察・電力会社関係者等の献身的な行動は、海外の多くの人々を感動させました。

震災発生から5日後、3月16日、今上陛下より、国民にビデオメッセージを賜りました。陛下がビデオでお気持を述べられるのは、初めてのことでした。お言葉の全文は、次のとおりです。

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 この度の東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9・0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。
 現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食糧、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。
 自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内のさまざまな救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。
 今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者とともにあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
 海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
 被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

わが国の天皇は、常に国民と共にあり、国民の幸福と安寧を願っておられます。地震と津波の影響で福島第一原子力発電所で深刻な事故が起こり、放射性物質の拡散が首都圏にも及び、また事故の拡大が懸念されるなかにあっても、天皇・皇后両陛下は、都内の皇居に留まられました。地震の影響で関東・東北各地の発電所が損壊したため、東京電力は、3月中旬から4月にかけて計画停電を行われました。すると、天皇・皇后両陛下は「国民と困難を分かち合いたい」として、毎日数時間にわたり、明かりや暖房など電気を一切使わない「自主停電」をされたのです。

宮内庁の御料牧場の生産品の卵、野菜を避難所に届けたり、那須御用邸の職員用の風呂が避難者に開放されたりもしました。これらの取り組みも、両陛下のご発案でした。

天皇・皇后両陛下は即位後、大規模な自然災害が起きるたび、可能な限り速やかに現地を訪問されてきました。平成7年(1995)の阪神淡路大震災では、震災後約2週間で兵庫県に入られました。深い哀悼の意を表される両陛下のお姿は、現地の人々に感動を与えました。また一人一人に温かい声をかけられる両陛下のお心は、被災者の人々に大きな励ましとなりました。

東日本大震災においては、天皇、皇后両陛下は3月30日、被災者が避難している東京都足立区の東京武道館を訪問されました。天皇陛下は、目線を落とし、ひざまずきながら熱心に耳を傾けられ、「本当にご心配でしょう」「ご家族は大丈夫ですか」などと同情を示されました。皇后陛下は乳幼児を抱える母親に「ミルクやおむつはあるの?」「屋外で遊ぶところはあるんですか?」とご質問され、子供の前でお手玉をされると、周囲に笑いが広がりました。

4月に入ると、被災地である千葉県、茨城県、宮城県、岩手県等を、次々にご訪問され、激甚な被害を受けた地域に入られ、被災者の人々に勇気と希望を与えられました。津波によって多くの人々が犠牲になり、瓦礫に覆われた場所にお立ちになり、深々と礼をされ、追悼の誠を捧げる両陛下のお姿は、人々の心に感動とともに刻まれました。

わが国は皇室を中心とした国柄であり、天皇と国民は苦楽を共にしてきました。長い歴史の中で日本人が一致して、強い団結力を発揮するのは、天皇を中心として、心を一つにした時でした。そこに、いま見失われている日本精神があります。日本精神を取り戻しましょう。そして、国民が一致団結して、大震災の危機を乗り超えましょう。 ページの頭へ

 

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■平成28年8月8日「天皇陛下のお気持ち表明」を拝聴して

2016.8.9

 

 平成28年7月14日、天皇陛下が「生前退位」のご意向であるとNHKテレビが報じました。ご高齢により、象徴としての務めを十分果たせなくなる懸念があるため、数年のうちに譲位したいとの主旨と理解されました。これに対し、宮内庁は放送された内容を否定したので、混乱を生じました。

 

 皇室典範には、退位の規定はなく、天皇は自らのご意思で退位することはできません。 皇室典範に退位の規定がないのは、明治以降、譲位による争いを避けるためにそうしたものです。皇室の歴史には、皇位を巡る争いが幾度かあり、上皇方と天皇方に分かれて戦った争いもありました。そのような争いを防ぐために、明治時代の先人は皇室典範に退位の規定を設けず、天皇には事実上終身お勤めいただくこととしたのです。ただし、不慮の事柄等によって、天皇がお勤めを果たせない事態が考えられます。そこで、皇室典範に摂政を置くことを定め、大正天皇の代には、皇太子(後の昭和天皇)が摂政となって、天皇のお勤めを代行されました。

 大東亜戦争の敗戦後、占領下でつくられた現行の皇室典範にも、戦前の皇室典範と同様、摂政の規定があります。下記の条文です。

 

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第十六条 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。

2 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。

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 そこで、もし天皇陛下が譲位を希望されているとすれば、この規定を一部改正して、天皇陛下は御在位のままで、摂政を置くという対応が考えられます。具体的には「精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、」という一節に「高齢による心身の著しい衰え」といった文言を加えることです。

 摂政を置くのではなく、譲位を可能にするという場合は、はるかに重い検討を要します。

 

 先の「生前退位」のご意向という放送の後、天皇陛下が直接国民にお気持ちを述べられたいというご希望であることが伝えられました。そして、8月8日NHKテレビで「天皇陛下のお気持ち表明」という番組が放送されました。天皇陛下が直接国民にビデオで御言葉を述べられたのは、約5年前に東日本大震災の時以来です。このたびの御言葉の全文をここに掲載します。

 

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戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。

 私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

 始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 国民の理解を得られることを、切に願っています。

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 以上の御言葉を拝聴して、私は、天皇陛下は、現行の皇室典範に定める「摂政」を置くことよりも、生前に譲位することを強く願っておられると拝察しました。特に最後部近くで、「天皇の終焉」という言葉を使われ、現在の天皇の大葬と新天皇の即位等の行事が重なることの社会的影響等を懸念されるお言葉がありましたので、そのように拝察した次第です。

 仮にこのように拝察されるお気持ちに応えて、譲位を可能にするには、明治時代以降、皇室典範には退位に関する定めがありませんから、皇室典範改正のための一大研究が必要です。明治維新の時以来の大きな重みをもった取り組みになります。

 最大の理由は、先に書いたように、譲位による争いを避ける工夫が必要であることです。また現行の皇室典範には、譲位した後の天皇の称号を定めていません。歴史的には太上天皇いわゆる上皇が用いられましたが、これをどうするかという課題があります。譲位後の権能、お住まい、公費の支給額等も検討を要します。また、皇太子が天皇に即位した場合、男子のお子様がいないので新たな皇太子を置くことができません。皇太子は「皇嗣たる皇子」と皇室典範に定めていますからです。皇位継承順位第1位となる秋篠宮殿下は、皇太子ではなく別の呼称が必要になります。歴史的には皇太弟といいますが、これも皇室典範に新たに定めねばなりません。その他にもいろいろ検討点が生じるでしょう。

 このたびの天皇陛下の御言葉を受けて、日本国民は、皇室を中心としたわが国の伝統・文化・国柄に深く思いをいたし、最善の制度整備ができるように願いたいと思います。

 

 その際、重要なのは、現行の皇室典範は、戦前のそれと違い、一般の法律と同じ位置づけをされており、国会で改正が審議されることです。審議に当たっては、天皇をはじめとする皇族の意思の尊重が必要ですが、現在の皇室会議は、戦前の皇族会議と違い、十分皇族の意思が反映される場となっていません。また改正においては、皇室廃絶をねらう左翼による改悪を避けねばなりません。特に人権を理由として自由意思による退位を認めると、さらに退位者や継承辞退者が出て、皇位が継承されなくなるおそれがあります。

 戦後の皇室典範は、GHQ占領下に最低限の内容を定めた簡素なものです。日本人自身の手による憲法改正を成し遂げた後に、皇室典範は位置づけを含めて、大幅な改正を要すると私は考えています。また、私は、男系男子による皇位の安定的な継承が必要という観点から、皇室典範改正に関する私見を下記に書いています。

http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion05b.htm

 

 さて、私は「天皇陛下のお気持ち表明」を拝聴して、まことに感慨深く感じました。そのことを次に書きます。

 

 今上陛下は、現行憲法に定める「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」としてのあり方を模索されながら、今日まで御公務に尽くしてこられました。このたびのお言葉により、そのことを国民は皆これまで以上に、強く感じたのではないでしょうか。

 私があらためて深く感じたのは、陛下は日本国の象徴天皇として誠に立派にそのお役目を果たしておられるだけでなく、更に人類に普遍的なものを象徴するに至っておられるということです。その普遍的なものとは、仁、思いやり、博愛、誠実、善意等の数々の美徳です。そうした美徳を一身に象徴されておられるのが、今日の日本の天皇であると私は思います。

 シナの儒教では、為政者の理想を聖人と呼び、尭・舜等をその例とします。私は、今上陛下は、その聖人の域に達しておられる方と思います。人類の歴史において、過去に釈迦、孔子、イエス、ムハンマドなどの精神的指導者が現れましたが、彼らは書物や伝説の中の存在であり、私たちは直接彼らの言葉を聴き、姿を見、行いに接することはできません。これに比し、日本の天皇は現代に生きておられる方であり、その徳の高さを直接感じることができます。私たちが日本の国民として、そのような方から親しく呼びかけを受けるということは、非常に希な貴重な体験だと思います。

 また、わが国において、今日こうした天皇を象徴として仰いでいるのは、長い歴史・伝統があってのことであり、敬神崇祖・君民一体・忠孝一本の日本精神が、皇室においても、また国民においても、代々受け継がれてきたからこそと思います。

 このたびの「天皇陛下のお気持ち表明」を機会に、わが国の伝統・文化・国柄をもっと知りたい、学びたいという方は、この項目の目次に掲げてあるものをはじめ、マイサイトの拙稿をご参照ください。ページの頭へ

 

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