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日本の心  文明と倫理

 

題  目

目  次

01 日本文明は、個性ある一個の文明

02 日本文明は、自立して主要文明になった

03 明日への挑戦は神道への復帰〜トインビー

04 「文明の衝突」の中の日本〜ハンチントン

05 日本は「一国一文明」〜中西輝政

06 日本は文明の大転換を促進すべき国〜カプラ

07 日本文明は海の感化を受けている

08 日本文明はシナ文明から自立して発展

09 日本とシナでは社会構造に顕著な違い

10 日本とシナ、国柄の違いが文明の違いに

11 独自の国柄が、文明の独立・発展の力に

12 自然崇拝を保持した日本、否定した西欧

13 日本と西欧は文明史を並走

14 聖徳太子が文明化と自立を推進

15 伊勢神宮の生命力、記紀・万葉からの一貫性

16 仮名の発明に見る日本文明の特質

17 言霊の幸は

18 和歌が生み出す調和

19 日本文明は西欧より早く独自性を発揮

20 日本の武士文化、西欧のルネッサンス

21 近代はアジアの海から生れた

22 日本の勤勉革命と西欧の産業革命

23 鉄砲製造で西洋から自衛、国内を統一

24 江戸社会は世界平和実現のモデル

25 地球環境保全のヒントとなる江戸日本

26 江戸日本文明のエコロジー

27 日本文明とヨーロッパ文明の共通

28 日本文明は近代西洋文明にどう対応してきたか

 (1) 近代化の大波

 (2) 開国から維新へ

 (3) 世界への雄飛と迷走

(4) 国の進路を誤る

(5) 復活・興隆と今後の役割

29 文明の目的は独立にあり〜福沢諭吉

30 日本的倫理は世界的人倫実現の鍵〜和辻哲郎(1)

31 風土と文明と民族の心〜和辻哲郎(2)

 

※別稿「人類史の中の日本文明」「日本文明の宗教的中核としての神道」もご覧下さい。

 

の精神

国柄

君と民

日の丸

君が代

人物

武士道

歴史

文明と倫理

自然

世界の声

 

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日本文明は、個性ある一個の文明

2005.6.1

 

日本文明は、一個の文明です。日本文明を一つの文明とみなした最初の歴史家は、文明史家アーノルド・J・トインビーでした。

トインビーは、世界の歴史を研究し、「充分に開花した文明」が過去に21あったとしました。そして、これらの文明を5つの系統に分け、文明と文明の間の関係を研究しました。彼は、共時的に並存している文明と文明との「出会い」によって、文明の相互に様々な影響関係が生まれることを明らかにしました。他の文明から与えられた「試練」(challenge)にある文明が「対応」(response)するという、文明間の受容や反発などのダイナミズムを描き出したのです。これが文明の「試練・対応論」です。また、トインビーは、通時的には、5つの文明の系統には、それぞれ第1世代・第2世代・第3世代があるとしました。文明の「世代論」です。そして、文明の世代間で、親子関係のような継承があることを明らかにしました。

 

さて、トインビーは初め、日本文明はシナ文明を「本体(main body)」とする「側枝(offshoot)」だと考えました。家にたとえれば本家と分家、木にたとえれば幹と枝の関係にあると見たのです。そしてシナ文明が「親文明」であり、日本文明はその「子文明」だとしました。トインビーの考えでは、シナ文明は殷に始まり漢までが一代目であり、隋・唐以後、それが再建されて、二代目となりました。日本文明は殷から漢までの一代目シナ文明の「子文明」として発生し、隋・唐以後の二代目シナ文明から引き続き、文字・制度・宗教・芸術・技術など多くの文化要素を採りいれることによって、未開から文明へと飛躍することができたというのが、トインビーの理解でした。

 彼によると、東アジアでは、数千年前からシナ文明が、ひとり「親文明」として先行していました。その間、日本は長く縄文時代が続き、漢帝国のできるころ弥生時代へと移行しました。古墳時代の日本は、まだ「文明」とまで言うことはできません。必要条件のいくつかを欠いているからです。たとえば、都市の出現、文字の使用、持続的な高度の政治制度、文明全体を統合する宗教などが、まだ欠けているとトインビーは言うのです。

 

彼の考え方によると、日本を文明と言いうるのは、大化の改新以後です。この時期より、シナ文明から、政治的には唐の律令制を採用して、政治的都市を作り、文化的には漢字の使用が広く行われ、宗教的には大乗仏教を輸入して、各地の国府に国分寺を建立しました。この時期をもって、日本文明の誕生とみなされます。しかし、日本は、律令制は採り入れても、科挙は導入しないなど、取捨選択をしました。そして、日本固有のものを残しながら、シナ文明を「親文明」とする「子文明」を作ったのです。これがトインビーの言う「側枝」の意味です。

 その後、トインビーは「側枝」という用語をやめ、「衛星文明」と言い換えました。これは、少壮の文明学者フィリップ・バグビーから、批判を受けたからです。バグビーは、諸文明を「主要文明(major civilization)」と「周辺文明(peripheral civilization)」とに区別すべきだと主張しました。トインビーは、その意見を容れ、諸文明を「独立文明(independent civilization)」と「衛星文明(satellite civilization)」とに分けることにしました。「衛星文明」とは、「独立文明」の刺激を受けて発生し、独立文明に依存し自立していない文明です。日本文明の場合は、シナ文明を惑星とする「衛星文明」とされました。これが、トインビーの日本文明に対する見方でした。

 

バグビーの場合は、日本文明を「周辺文明」と位置付け、周辺文明でありながらも、かなり自立性を発揮していると見ましたが、トインビーもバグビーも、日本の文化については造詣が浅く、日本文明の特徴や日本文化の歴史について、十分理解していたと言うことはできません。

私たちは、海外の先学に感謝しつつ、日本人自身で、自らの文明を考察してゆく必要があると思います。そして、こうした個性ある一個の文明に生育したものとして、日本精神を自覚したいと思います。ページの頭へ

 

参考資料

・トインビー著『歴史の研究』(社会思想社)

 
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日本文明は、自立して主要文明になった

2005.6.16

 

 文明史家トインビーは、日本文明はシナ文明を惑星とする「衛星文明」と分類しました。これに対し、異論を唱えているのが、比較文明学者の山本新氏です。

山本氏は、トインビーとバグビーを継承して周辺文明を研究し、日本文明は、途中からかなり独自性を発揮していると主張しています。すなわち山本氏は、「平安朝の中期、9世紀の末から10世紀にかけて、日本文明には中国文明への依存性をかなり断ち切り、独自性を出した」とします。「日本自立の兆候は、対外的には遣唐使の廃止や、対内的な政治の面では律令制の変質としての関白制や、宗教の面では神仏習合、修験道の発生、空也・源信における仏教の内面化・超越化や芸術と工芸の面での全面的和風化や、仮名の発明、それによる王朝文学の出現などで、日本文明が中国文明の影響をかなり脱し、相当独自性を発揮したといえるであろう」と山本氏は言っています。

 

このように日本文明が独自性を発揮し得た理由は、シナ文明の影響を受ける前に、自生の文化が存在していたことにあるでしょう。日本には、今から約1万2〜3千年前に始まり、約2千3百年前に終わった縄文時代があり、世界最古の土器文化が形成されていました。この先古代の縄文文化が日本文明の基層となっています。トインビーは文明の中核は宗教であると説きましたが、日本ではこれに当たる固有の宗教に、神道があります。神道は縄文時代から受け継がれてきた日本文明の精神的基盤です。さらに、神道に基づく宗教的政治制度として、皇室を中心とした制度がつくられ、民族全体が一大家族国家のような社会を構成しています。神道・皇室・家族国家は、シナ文明の影響を受けながらも、一貫して変化することのなかった日本文明の特徴です。シナには見られない独立自存のものです。トインビーや山本氏は、こうした日本文明の本質的な特徴を把握しきれていませんでした。

 

この特徴をとらえると、山本氏の注目する9〜10世紀より前、既に7世紀前半の聖徳太子の時代には、日本文明が明らかに自立的な個性を表現していると言わねばなりません。太子は、日本固有の価値観である「和」の精神を思想として表現しました。「十七条憲法」がそれです。聖徳太子はまた超大国・隋に対して、萎縮することなく、毅然とした外交を行いました。この自尊自立の精神が、やがて日本文明がシナ文明から独立した一個の主要文明となる道を開いたのです。

 

7世紀後半には、この太子の姿勢にならって、「日出づる処」を意味する「日本」が、国名として用いられるようになりました。最初に、公式文書に「日本」という国名が現われたのは、大化の改新の後、大化元年(645)に、百済の使者に与えた詔勅とされます。その後、シナでは、咸亨元年(670)の『新唐書』に、「倭の字を悪(にく)み、更めて日本と号す」と記しています。「天皇」という名称も、聖徳太子が煬帝への返書に使ったのが、初めです。太子は、隋の煬帝への返書で、我が国の君主を「天皇」、シナの君主を「皇帝」と表現しました。そして、大化の改新の後に、「天皇」という称号が定着しました。大化の改新では、年号も、我が国独自のものを使うことを決めました。こうして、我が国は政治的・外交的に、完全にシナの冊封体制から離脱しました。そして、これによって、独自の文化を発展させる基礎が固まったのです。

8世紀には皇室を中心に『古事記』『日本書紀』や『万葉集』が編纂され、ユニークな文化を創造し、10〜11世紀には仮名が発明され、王朝仮名文学が絢爛たる世界をつむぎ出しました。そして、13世紀以降はより一層、個性を明確に発展させていきました。例えば、神道を基盤として仏教・儒教の共存・融合が行われ、日本的な仏教が出現し、また茶道が発達して建築・造園・花道・陶芸等に日本文明の独自性が表れました。これらは、武士集団が政治・社会の担い手となって以降、一層促進されました。そして武士道という独自の精神文化が、数世紀かけて熟成したことが、日本文明に比類ない輝きを加えています。江戸時代には、極東の地に、桜花爛漫ともいえる文明の絶頂期を迎えたのです。(1)

 

それゆえ、日本文明は、世界の諸文明の中で、指折られるべき主要文明の一つということができます。また、そのことによって、私たちは日本文化の特徴を一層良く理解できるでしょう。私たちは、日本文明の独自性を認識したうえで、世界における日本及び日本人の役割を考え、自らの役割を担っていきたいものです。ページの頭へ

 

(1)  詳しくは以下の拙稿をご参照ください。

 「人類史の中の日本文明

参考資料

    トインビー著『歴史の研究』(社会思想社)

・山本新著『人類の知的遺産 74 トインビー』(講談社)

・同上『周辺文明論 欧化と土着』(刀水書房)

 
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明日への挑戦は神道への復帰〜トインビー

2005.7.1

 

 20世紀最大の歴史家A・J・トインビーは、日本文明を一個の文明ととらえました。彼の日本文明の理解は十分なものではありませんでしたが、日本文明の中核にある神道に注目した点は見逃せません。

昭和49年(1974)、日本の国際PHP研究所は、晩年のトインビーの論文を編集し、『日本の活路』と題して刊行しました。その中に彼の世界及び日本に関する所見が述べられています。

 

 本書で、トインビーは、文明史的な視野から、現代世界で今こそ必要なものについて、次のように訴えます。

 「今日、人間性が精神的に最もさし迫って必要としているものは、復興(ルネッサンス)です」「現在、世界のどの地域を見ても、精神的復興がいまこそ緊急に必要であることが、広く認識されています」

 トインビーが精神的復興の必要を訴える理由は、技術の発達による自然環境の破壊が進んでいるからです。

 「最初は、人間は自然の奴隷でした。いまでは人間は、自分自身の技術の奴隷です。しかも、人間にとって、人間の技術というものは、かつての自然よりもはるかに恐るべき主人なのです。これこそ、人間が直面している現在の実態にほかなりません。それはまさに新たな精神的復興を緊急に必要としている苦境ということができます」と述べています。

 また、「私たちは自然に対して物理的な暴力を加えてきました。そして、私たちはいま、祖先が抱いていた自然への畏敬の念を失ったことに対して、高価な精神的代価を支払っているのです」と記します。

 

 トインビーは、母国イギリスにおける産業革命以後の自然環境の破壊について触れ、同じことが日本でも起こっているのを見て、「私はやはり、心をかき乱されるのです」と述べています。続いて、「日本はことのほか美しい自然に恵まれた国で、しかも国民の美的感覚が、世界全体の通例より、はるかに高度に培われている国でもあるからです。自然の汚染は、それ自体が悪い行いであるばかりではありません。それはまた、私たちが同じ人間同士の調和を失ってしまったことの徴候であり、象徴なのです」と書いています。(1)

 そして、トインビーは「西洋がどうしても学び、心に留めなければならない教訓を、東洋は持っている」として、その一つに「人間と人間以外の自然との本来の調和を取り戻す方法」を挙げます。

 

 トインビーは、日本は、「その固有の宗教と哲学の中に、現代人の自然からの疎外に対する、貴重な矯正手段を持っている」と述べ、神道に注目すべきことを説いています。

「神道は、人間とそのほかの自然との調和のとれた協調関係を説きます。神道によれば、自然は神聖であり、侵すことのできない権利を持っています。人間には、そうした自然の権利を尊重すべき宗教的義務があるのです。そして、もし人間がそうした権利を侵したら、その報いを受ける、とされています。日本国民は、自然の汚染によって、すでに報いを受け始めました。彼らは自然を怒らせ、自然に報復を余儀なくさせることによって、わざわいを招き寄せました。しかし彼らは、実は神道の中に、そうしたわざわいに対する祖先伝来の救済策を持っているのです」(2)

 「自然と調和して生きることは、人間が生き残るための必須の条件です。これはまぎれもなく神道の教えにほかなりません」

 そして、また次のように述べています。

 「どん欲ではなく畏敬こそ、自然に対する私たちの態度を支配する感情でなくてはなりません。明日への挑戦は、神道への復帰です。西洋の見地からいえば、キリスト教や回教以前のカナン人、ギリシャ人、ローマ人の、宗教への復帰なのです」(3)

 「技術は、全人類に対して同じ精神的挑戦状を突きつけました。私たちは、精神のルネッサンスを達成することによって、この挑戦にこたえなければなりません。もし私たちが失敗すれば、人類の前途そのものが暗いものになります」(4)

 

 人類の精神的ルネサンスを達成するために、トインビーは、神道への復帰を提唱しました。神道の復興は、日本にとっても、また西洋諸国にとっても、さらに人類の生存のためにも必要だと訴えたのです。こうした世界的な識者の期待・助言を、私たちは真摯に受け止め、今日に生かしたいものです。ページの頭へ

 

(1)トインビー著『精神のルネッサンス』(『日本の活路』所収 国際PHP研究所)

(2) 同上『西洋が東洋に学ぶもの』(同上)

(3) 同上『明日への挑戦』(同上)

(4) 同上『精神のルネッサンス』(同上)

 
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「文明の衝突」の中の日本〜ハンチントン

2005.7.16

 

ハーバード大学の国際政治学者サミュエル・P・ハンチントン教授は、平成8年(1996)、『文明の衝突』と題する書物を出版しました。同書は25の言語に翻訳され、日本でも平成10年に翻訳刊行され、ベストセラーとなりました。

ハンチントンは、文化を「人々の間に共有された生活様式の総体」とし、そして文明を「文化のもっとも大きなまとまり」と定義しています。そして、国家ではなく文明を単位として世界を捉えるところに、その所論の特徴があります。これは彼が、トインビーなどの文明学者に多くを負っていることを示しています。

 

ハンチントンによると、21世紀初頭の世界は、二つの点でかつての冷戦時代と異なります。冷戦時代とは、第二次世界大戦後の世界を二分した、ソ連を盟主とする教条主義(社会主義)とアメリカを盟主とする自由主義(資本主義)の対立構造です。大戦終結の昭和20年(1945)からソ連崩壊の平成3年(1991)までの時代です。

ハンチントンのいう冷戦時代と冷戦後の世界の違いとは、第一に、冷戦期には、世界が自由主義、共産主義、第三世界と三分されていたが、今日の世界は、7または8の文明によって区分されているということです。彼は、現存する主要文明として、キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする西洋文明(西欧・北米)、東方正教文明(ロシア・東欧)、イスラム文明、ヒンズー文明、儒教を基礎とするシナ文明、日本文明、カトリックと土着文化を基礎とするラテン・アメリカ文明。これに今後の可能性のあるものとして、アフリカ文明(サハラ南部)」を加え、7または8と数えています。

次に、違いの第二とは、冷戦期には、米ソという超大国が二つあったが、今日の世界は一つの超大国(アメリカ)と複数の大国からなる一極・多極体制を構成するようになったことです。

そして、最終的には「キリスト教文明」対「イスラム・儒教文明連合」の対立の時代を迎えるだろうとハンチントンは予測しています。

 

それでは、ハンチントンは、日本について、どのような意見を述べているでしょうか。氏は『文明の衝突』日本語版で、次のように書いています。

「文明の衝突というテーゼは、日本にとって重要な二つの意味がある。

第一に、それが日本は独自の文明をもつかどうかという疑問をかきたてたことである。オズワルド・シュペングラーを含む少数の文明史家が主張するところによれば、日本が独自の文明をもつようになったのは紀元5世紀ごろだったという。私がその立場をとるのは、日本の文明が基本的な側面で中国の文明と異なるからである。それに加えて、日本が明らかに前世紀に近代化をとげた一方で、日本の文明と文化は西欧のそれと異なったままである。日本は近代化されたが、西欧にならなかったのだ。

第二に、世界のすべての主要な文明には、2ヶ国ないしそれ以上の国々が含まれている。日本がユニークなのは、日本国と日本文明が合致しているからである。そのことによって日本は孤立しており、世界のいかなる他国とも文化的に密接なつながりをもたない」

 

このように、ハンチントンによると、日本は独自の文明であるが、「日本国=日本文明」という独自の特徴を持っているため、他の文明から孤立しています。そのことによる長所と短所をハンチントンは指摘します。

「文化が提携をうながす世界にあって、日本は、現在アメリカとイギリス、フランスとドイツ、ロシアとギリシア、中国とシンガポールのあいだに存在するような、緊密な文化的パートナーシップを結べないのである。日本の他国との関係は文化的な紐帯ではなく、安全保障および経済的な利害によって形成されることになる。しかし、それと同時に、日本は自国の利益のみを顧慮して行動することもでき、他国と同じ文化を共有することから生ずる義務に縛られることがない。その意味で、日本は他の国々がもちえない行動の自由をほしいままにできる」とハンチントンは説いています。

私たちは、こうした「日本国=日本文明」の特徴を自覚して、現代世界における日本の在り方を考える必要があるでしょう。

 

我が国は戦後、アメリカと緊密な関係を保ってきました。また、我が国が位置している地域は、東アジアです。ハンチントンはこの点について、次のように述べています。

「中国が大国として発展しつづければ、中国を東アジアの覇権国として、アメリカを世界の覇権国として処遇しなければならないという問題にぶつからざるをえない。これをうまくやってのけるかどうかが、東アジアと世界の平和を維持するうえで決定的な要因になるだろう」

これは、そのまま日本の課題を述べたものでもあります。21世紀の東アジアにおいて、超大国・アメリカと地域大国・中国の存在は、ますます重要なものとなっていきます。また、これら二国は、単に東アジアにおいてだけでなく、世界的にも重要な存在です。米中が協調するか対立するかは、東アジアのみならず、世界全体に影響をもたらします。太平洋を隔てて、これら二大国の中間に位置する我が国は、米中どちらとも良好な関係を保っていかねばなりません。それは、単に自国の存立のためだけでなく、世界の平和と発展のためにも必要とされることです。

我が国は、国家間関係(international relationship)においてだけではなく、文明間関係(inter-civilizational relationship)においても、地球全体のキーポイントとなる立場にあるのです。そこで求められるのが、日本文明の特長を良く発揮することです。発揮すべきものを一言で言えば、共存共栄の精神と物心調和の理念です。それは今日の世界で求められているものです。

 

私たち日本人は、この21世紀において、世界的にユニークな日本文明の特徴を発揮し、新しい世界秩序の構築と、新しい人類文明の創造に寄与したいものです。ページの頭へ

 

参考資料

・サミュエル・ハンチントン著『文明の衝突』(集英社)

・同上『文明の衝突と21世紀の日本』(集英社新書)

 
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■日本は「一国一文明」〜中西輝政

2005.8.1

 

●「一国一文明」をなす日本文明

 

 日本は、世界の諸文明の中で、一国で一文明をなすという他にない特徴を持っています。キリスト教文明圏もイスラム文明圏も数多くの国々で構成されています。中華文明にはアジア諸国の多くが入ります。ところが日本だけは、一国で一つの文明を成しています。これは、アーノルド・J・トインビー、アルフレッド・ウェーバー、フィリップ・バグビー、サミュエル・ハンチントンなどの文明学者に共通した認識です。

わが国の文明史学者・中西輝政氏(京都大学教授)は同様の認識をもって、『国民の文明史』(扶桑社)を著し、わが国が文明の危機を乗り越えるための提言をしています。

 

中西氏は、文明の核心にあるのは、経済や科学・技術ではなく、「人間の心、精神」であるといいます。そして、文明とは、「その国の歴史の中で、数百年から千年という長い期間、流れている精神」だとします。それが「文化や伝統を含むその国の『かたち』を決めている一番根本にあるもの」だというのです。

そして、中西氏は、文明史は、「人間の精神が歴史を動かす」という前提に立つと述べています。「集団としての国民全体、あるいはその文明圏に属する人間集団全体の精神、心の働きが、歴史を動かす源だと考える」のが文明史の立場だというのです。

 

さて中西氏は、こうした精神中心の文明観のもとに、わが国では「日本人の心、精神こそが、日本の歴史を作ってきた」と主張します。人間の心、精神が一つの形をとるとき、「広い意味で『宗教的なもの』が重要な役割を果たす」と中西氏はいいます。各文明の中核には宗教があるというのは、トインビーが強調したところでした。中西氏は、日本文明にも文明史的な意味での宗教があるとし、それは神道であると説きます。神道は古代からの伝統であり、いまも日本人の心の中にしっかりと根付いていると指摘します。神道は、日本固有の宗教であり、いまも全国に8万を数えるという神社があり、正月には多数の人々が参拝しています。また、各地でさまざまな祭りがにぎやかに行われています。

中西氏は、日本人の宗教心について、次のように述べています。

「よく簡単に『日本には宗教がない』という人がいるが、日本ほど豊かな宗教心、宗教的な精神構造が残っている国はない。ただそれが外に向かうのではなく、内面に向かうので、外国の人には分かりにくいのである。神や仏は自分の心の中にあると考えるからである」と。そして、菅原道真の「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守ら」という和歌を挙げます。この歌に、日本人の深い宗教心がよく表れているというのです。氏によると、この歌には、「心」「誠」「神」は一つであるという考え方が見られます。そして、「これこそ一番進んだ信仰だと思う。日本人にとっては、心こそが神なのである」と中西氏は述べています。

 

神道を伝統的な宗教としてきたわが国は、中世以来、「神国」といわれてきました。「神国」という観念には、様々な理解・反応があるようですが、それが日本人の自己認識だったことは間違いありません。中西氏は、「少なくとも庶民がそう信じていたという点では一千年来ずっと歴史的真実だった」と述べています。そして、わが国において、「日本の歴史の中心的な存在であり続けてきた」ものが、天皇だと中西氏はいいます。天皇は神道の宗教儀式において祭主としての役割を果たします。また同時に政治や文化全般においても、中心的な存在であり続けています。

中西氏は、「一国一文明の日本において、天皇とは国家と文明の双方に関わる『結節』」として重要な存在であると強調します。「現行の憲法ですら、天皇を『日本国の象徴であり、国民統合の象徴』と定めている。この条文は、天皇は国家の代表であると同時に日本文明のシンボルでもあるということを謳(うた)っている」とも指摘します。そして「天皇に対する関心が薄れていく時代には、日本人の間に精神の危機が進行する」と中西氏は述べています。

これは文明史的観点からの私たち国民への警告なのです。

 

●日本文明の危機克服法

 

日本は、一つの国で一つの文明をなすという、世界に類例のない独自の特徴を持っています。ところが、中西氏は、「現在の日本は、こうした自らのアイデンティティを失っている。国際化・グローバリゼイションという謳い文句に乗って、異質な文明に迎合しようとするばかりである」と現在の日本人の在り方に警告を発しています。

 

 氏の説くところを要約すると、「日本は、『一国一文明』だから、国が滅びれば文明も滅びる。国がおかしくなれば、文明もおかしくなる。つまり、国家を軽んじると、我々は文明、つまり、一人一人の生き方、我々のアイデンティティまでが失われる。日本においては、国家というものが、西洋人やイスラム圏の人たちとはまるで違う重みがある。だから、日本人は、国家の持つただならぬ重要性を理解しなければならない」のです。

「『国家なくして文明なし』。日本の文明の本質が持っているこうした宿命を受け入れなければ、われわれは国家も失うし、自分たちの生き甲斐の根幹である日本人の精神、心までも失ってしまう」と中西氏は指摘します。そして「つまるところ、日本という国や日本人そのものが融けてなくなってしまう」「これが我々の宿命だということを、日本人にはっきりと自覚してほしい」と、中西氏は強調します。

 

一体、日本の国家的=文明的な危機を乗り越えるには、どのようにすればよいのでしょうか。中西氏は、次のように提言します。

「戦後の問題はあまりにも長く間違った『国家否定』の風潮が続いていることです。一国一文明の日本にとって、これはやがて文明の衰弱死をもたらしかねない。戦後も日本文明の本質は少しも揺るがなかった。しかし、国家がおかしくなり始める」。ここで中西氏は、戦後憲法の持つ文明論的問題点を指摘します。

 

現行憲法は、敗戦後、占領下にGHQによって作成され、日本に押し付けられた翻訳憲法です。この憲法には、日本の国柄や伝統・歴史については、書かれていません。それは、前文を一読すれば明らかです。日本は「国家と文明が直結しているという特別の構造」があるので、「この憲法が流す害毒、文明史的害毒はたいへん大きく根が深い。日本人の精神に決定的な傷をつけると同時に、日本の国家を果てしなく衰退へと導く」と中西氏は論じます。そして、この問題は、憲法第9条の問題に「集約されている」と主張します。

第9条は、日本国が自力で国家を防衛することを制限した条項です。「自らの生存を他者に依存すると謳っているこの9条こそは、古今東西の歴史に類を見ない『国家の否定』そのものである。国家としての生存を否定されれば、『文明としての日本』はやがて生命力を失い、回復しがたい致命傷を負わずにはいられない。それが一国一文明の日本の宿命である。この致命傷が二世代を経ていまや誰の目にも明らかになってきた。日本人の精神と価値観、モラルの崩壊である。この文明の崩れが国家を根底から破綻させかねない様相になってきている。いま、憲法改正こそは日本文明回復の鍵となっている」と中西氏は述べています。(1)

 

また、日本文明の回復のために、もう一つ必要なものとして、中西氏が挙げるのは教育基本法の改正です。戦後教育は、現行憲法に基づいた教育を推し進めています。そのもととなっているのが教育基本法です。教育基本法の改正は「子どもだけでなく、大人も含めた日本人の精神的な目覚め、文明的な目覚めに必ずつながってゆく」と中西氏は訴えています。(2)

 

私たちは、日本文明の特徴をよく認識し、日本国=日本文明の危機を乗り越えるために、憲法と教育基本法の改正を実現すべき時にあるのです。文明史的あるいは比較文明学的な観点からも、このことは明白な事実といえましょう。ページの頭へ

 

(1)憲法については、以下の拙稿をご参照ください。

日本国憲法は亡国憲法――改正せねば国が滅ぶ

(2)教育基本法については、以下の拙稿をご参照ください。

 「教育基本法を改正しよう

参考資料

・中西輝政著『国民の文明史』(扶桑社)

・同上『日本はこの文明史的危機を克服できるか』(月刊『正論』平成16年2月号所収)

 

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日本は文明の大転換を促進すべき国〜カプラ

2005.9.1

 

 人類の文明は今、かつてない大転換の時を迎えています。このことを感じている有識者は少なくありません。原子物理学者のフリッチョフ・カプラは、その一人です。彼は、日本がこの大転換を促進すべき国だと説いています。

 

カプラは、科学者の立場から、人類は「ターニング・ポイント(転向点)」にあると唱えています。彼は、次のように述べます。

「われわれが今、体験しつつある変化は、これまでになく劇的なものかもしれない。理由は変化の速さがこれまでになく速いこと、変化が広範で地球全体を巻き込んでいること、そしていくつかの大きな移行が同時に起きていることである。人類の文化的進化を支配しているように思える盛衰の周期的なパターンが、どういうわけかみな同時に転向点に達してしまった。家父長制の衰退、化石燃料時代の終末、感覚的文化の衰退期におけるパラダイム・シフト。それらがみな、同じ地球規模の過程に一役買っているのである」と。

最後に出てきた「パラダイム」とは、私たちの世界観のもとになっている認識、思考、価値観のことを言います。それらが根本的に変わることが、「パラダイム・シフト」です。かつて人類は、過去にヨーロッパで天動説から地動説に変わるパラダイム・シフトを経験しました。これは、「コペルニクス的転換」といわれます。そして、現在、人類は、そのときの転換以上の大転換を体験しつつあるのだと、カプラは主張します。

 「今日移行しつつあるパラダイムは、数百年にわたってわれわれの文化を支配し、その間、現代の西洋文化を形作り、世界の他の文化圏にも大きな影響を与えてきたもの」だとカプラは言います。すなわち、デカルト=ニュートンによる機械論的な世界観です。このパラダイムの価値観は、「科学革命、啓蒙主義、産業革命といった、西洋文化の様々な流れと結びついており、科学的方法を知識への唯一有効なアプローチと信じたり、宇宙を基本的な物質構成要素からなる機械的システムと見たり、社会生活は生存競争であるとしたり、経済とテクノロジーの発展により究極的な物質的進歩が達成されると信じたりするのは、こうした価値がもたらしたものである」とカプラは述べます。

 

しかし、「1973年のオイルショック以降、こうした概念や価値にはどうしようもない限界があり、それらは根本的に変革される必要があることがわかってきた」と彼は言います。

 カプラによれば、「今日の危機」は「時代遅れの世界観ではもはや理解できないリアリティ(註 現実)に対して、そうした概念を適用しようとするところから生まれている。今日われわれは地球規模で相互に結ばれた世界に住んでいるから、生物学的、心理学的、社会学的、環境的現象はすべて相互に依存している。このような世界を正しく記述するには、デカルト的世界観にはないエコロジカル(生態学的)な視点が必要である」のです。

 

もともとカプラは、原子物理学者です。20世紀の初めに表れた相対性理論や量子力学を研究し、そこに新しい世界観が出現していることを、彼は強調します。

「現代物理学から生まれつつある世界観は、機械論的なデカルトの世界観とは対照的に、有機的なホリスティック(全包括的)な、そしてまたエコロジカル(生態学的)な世界を特徴としている。それはまた、一般システム論という意味で、システム的世界観と呼ぶこともできる。そこではもはや、世界は多数の物体からなる機械とは見なされていない。世界は不可分でダイナミックな全体であり、その部分は本質的な相互関係を持ち、宇宙的過程のパターンとしてのみ理解できるとする」

 

カプラは、現代物理学の世界観が、東洋に伝わる伝統的な世界観に非常によく似ていることを発見しました。すなわち、「老子」や「易経」や仏典に表わされている宇宙の姿と、相対性理論や量子力学が描く世界像とが近似しているのです。このことをカプラは、『物理学の道(タオ)』(邦題『タオ自然学』)という本で発表しました。それによって、カプラは世界にその名を知られています。

カプラの見方は、決して彼個人の見方ではありません。20世紀の名だたる物理学者、不確定性原理のウェルナー・ハイゼンベルグや波動方程式のエルヴィン・シュレーディンガーが、かつては単なる神秘思想と思われていたインド哲学に深い関心を持ち、コペンハーゲン解釈のニールス・ボーアは晩年シナの易学の研究に没頭しました。カプラの師、ジェフリー・チューは自分の靴ひも理論が大乗仏典の内容とそっくりなことに驚愕しています。

カプラは次のように書いています。「東洋思想がきわめて多くの人々の関心を呼び起こしはじめ、瞑想がもはや嘲笑や疑いを持って見られなくなるに従い、神秘主義は科学界においてさえ、真面目にとりあげられるようになってきている。そして神秘思想は現代科学の理論に一貫性のある適切な哲学的裏づけを与えるものという認識に立つ科学者が、その数を増しつつある。人類の科学的発見は、人類の精神的目的や宗教的信条と完全に調和しうる、という世界観である」と。

 こうしてカプラは、科学と宗教とが調和・融合する新しい時代の到来を、世界の人々に伝えています。この新時代の一端を表しているものの一つが、カプラも参画しているトランスパーソナル学です。(1)

 

カプラは、この大転換の時代において、日本が重要な役割を果たすことに期待しています。彼自身、自宅に畳の部屋を持ち、太極拳を実践しているというカプラは、日本人に向けて次のように呼びかけています。

「日本は西洋の科学・技術を重視する近代産業社会だから、他のすべての産業社会同様、古いパラダイムの限界に苦悩もする。が、一方、日本はまだ自国の伝統的文化との接点を残している。その文化の世界観には、いま具体的に形を成しつつある新しい世界観と、多くの点で共通するものがある。それゆえ日本は、今日の地球規模の問題解決のために早急に必要とされるホリスティックでエコロジカルな世界観への移行、それを促進する特別な立場に置かれた国である、と私は思っている」と。

 

私たちは、日本文明とその底にある日本精神の本質を、文明の大転換というこの時代において、理解する必要があるでしょう。ページの頭へ

 

(1)拙稿「人間には自己実現・自己超越の欲求がある〜マズローとトランスパーソナル学」をご参照下さい。

参考資料

    フリッチョフ・カプラ著『ターニング・ポイント』(工作舎)

・同上『タオ自然学』(工作舎)

 

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■日本文明は海の感化を受けている

2005.12.1

 

地球の表面の7割は海が占めています。中でも我が国は、最大の海である太平洋を初め、四方を海に囲まれています。そこに発生した文明には、おのずと海洋の感化が表れていると考えられます。

 

日本文明は、実際ユーラシアの大陸的な文明とは、異なる面を持っています。『国民の歴史』(扶桑社)を書いた西尾幹ニ氏は、日本文明は「ユーラシア大陸とは別系統の独立した文明」だと言います。東洋文明・西洋文明は、ともにユーラシア大陸に生まれた大陸の文明ですが、日本文明はこれとは異なるものととらえるのです。

西尾氏によると、日本は、シナ大陸から「漢字、仏教、儒教、律令の四つを国造りの基本原理」として採り入れました。しかし、その後は、「良く言えば日本化、悪く言えば適宜利用、あるいは未消化放棄、場合によっては輸出国とは似て非なる深化変容を遂げた部門もある」とします。他方、シナ大陸から受け入れなかったものとして、西尾氏は科挙の制度、宦官の制度、族外婚、纏足(てんそく)、食人習慣などを挙げます。

そして、「日本列島の先住民たるわが祖先の享受していた『文明』がユーラシア大陸のそれとは別系統であったことは明らか」であるとし、「彼らは恐らく言語的にも、人種的にも、太平洋に全身を向け、わずかに文字利用においてのみ支那大陸につながった、一個の独立した文明圏であったし、今なおありつづけている」と説いています。(1)

 

さて、日本文明の黎明期(れいめいき)において私たちの先祖が持っていた世界観は、神話に表現されています。その中には、日本文明の海洋的要素が見られます。

そもそも日本神話は、国土の誕生を海中の島々の生成として語っています。それが国生み神話です。ここで登場するのが、イザナギノミコトとイザナミノミコトという男女二神です。二神は「天の浮橋」に立って「天の矛」を持って青海原をかきまわし、その矛を引き上げたときに、矛の先から滴り落ちる潮(しお)が凝(こ)り固まって一つの島となったといいます。これが「おのごろ島」です。二神はその島に降りて、夫婦の契りを結び、国生みをします。初めが淡路島で、さらに次々と大八洲(おおやしま)の国々を造っていきます。

このようにして、男女ニ神が協力して島々を生み出すのが、日本列島の誕生に関わる神話です。イザナギ・イザナミという名前自体、「ナギ」と「ナミ」は、海の「凪」と「波」の意味であろうと考えられます。

 

国生み神話の主人公・イザナギは、妻のイザナミが亡くなった後、黄泉(よみ)の国へ行きます。そこで変わり果てた妻の死体を見たイザナギは、ほうほうの態で地上に逃げ帰ります。そして死の穢(けが)れに触れたからと、イザナギは禊(みそぎ)をしました。つまり、海の水で身を清めたのです。

禊は、日本神道の基本的な儀式です。『魏志倭人伝』にも、邪馬台国では死者を葬ったのち、家族のものはみな水中に入って禊を行うと記されています。禊という儀式が、海洋と結びついていることは、神道の海洋性をよく物語っています。今日も禊は宗教儀式として行われています。葬儀などから帰って家に入るとき「塩をまく」という風習も残っていますが、これは海水から取れる塩が、ものを浄化する力を象徴しているのです。

 

海洋に関係する別の神話として、海幸山幸の物語があります。この兄弟はある日、互いの役割を替え、弟の山幸彦は、兄の海幸彦から釣り針を借りたのですが、これをなくしてしまい、探し求めているうちに、海底の楽園・ワタツミ(海神)の宮殿に着きます。そこで、釣り針を見つけました。そして、山幸彦はトヨタマヒメと結婚し、海の宮殿で3年過ごしました。その後、地上に帰る際、彼は約束を破って妻の出産をのぞいてしまいます。そのため、ヒメは竜になってしまい、海の道は閉ざされました。

海彦山彦の話は、古くから親しまれてきた物語である浦島太郎の話と似たとところがあります。太郎は海底にある竜宮城に行きましたが、そこは不老不死の楽園でした。太郎の話は、『丹後国風土記』に原形があり、日本書紀にも記されています。

 

浦島太郎とともに親しまれている話に、一寸法師の物語があります。一寸法師の話のもとは、小人神・少彦名神(すくなひこなのかみ)の神話でしょう。

少彦名神は、海の彼方にある常世(とこよ)の国からやってきて、大国主命(おおくにぬしのみこと)とともに国づくりをし、それを終えると、また常世に帰ったとされます。常世は不老不死の国であり、祖先の往った死後の世界でもあり、また生命と豊穣の源泉地でもあります。そういう理想郷が、海の彼方にあると、我が国では信じられてきました。沖縄に今も伝わる「ニライカナイ」の伝承は、この常世に通じるものです。

 

このように見てくると、日本文明は海洋的要素を持っていることが、はっきりと浮かび上がってきます。日本文明は、大陸の文明とは別の独立した一個の海洋的な文明であるという見方も可能です。その見方によって、私たちは日本文明のユニークな性格を一層良く理解できるでしょう。日本文明の独自性を認識したうえで、世界における日本及び日本人の役割を考えていきたいものです。ページの頭へ

 

(1)  西尾幹二著『一つの文明圏としての日本列島』(雑誌『史』平成11年1月号所収)

参考資料

・西尾幹二著『国民の歴史』(扶桑社)
 
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■日本文明はシナ文明から自立して発展

2005.12.16

 

日本文明は、大陸系とは別の独立した一個の主要文明です。そういう見方をすると、私たちは日本文明のユニークな性格を一層良く理解できます。

 

日本文明はシナ文明から、文字(漢字)、宗教・思想(仏教・儒教・道教)、制度(律令)等を基本的な文化要素として取り入れました。しかし、日本人は、自分に合わないものは、受け入れませんでした。科挙、宦官、族外婚、纏足(てんそく)、食人習慣、一夫多妻制、姓、冊封、天命思想、易姓革命などがそれです。

一方、日本にあってシナにないのが、仮名、幕府、武士、紋章、葬式、墓などです。料理も、日本料理はシナ料理とは関係が薄く、日本料理の基本は縄文的といわれ、東南アジアとの類縁性が多く見られます。

 

このように、日本文明はシナ文明と明らかな違いを持っています。その違いは社会構造の違いにも顕著です。この点でも、日本文明のシナ文明からの自立性が明白になります。社会構造の違いは、日本とシナが近代化する過程で顕著な違いとなって作用しました。社会学者・富永健一氏の説に基づいて、その違いを見てみましょう。

 

古代には、父権を中心とした家父長制家族が、世界的に多く見られました。この家父長制家族から、家父長制国家が生まれます。家父長制国家には、両極をなす二つの類型があります。家産制と封建制です。前者は、権力が一元的に集中していて、中央集権的支配が行われ、家臣団を各地域に派遣して、地方行政を分担させる制度です。後者は、権力が多元的に分散していて、家臣が自分自身の領地を持つ独立した領主となり、土地と人民を世襲的に領有する制度です。

 封建制は、西欧と日本にのみ見られます。世界で最も早く近代化した西欧と、それに続いた日本では、封建制が発達していたのです。わが国は、大化の改新以前は、血族集団による氏族制社会でしたが、改新で家産制国家をめざしたものの、その後、封建制に移行しました。日本の封建制は、10世紀頃から荘園制に胚胎し、12世紀末の鎌倉幕府の成立とともに発達して、江戸時代を通じて維持されました。これに対し、シナでは、ずっと家産制のままでした。

 

 富永氏は「封建制は資本主義の発展に対して、家産制よりも促進的に作用する」と述べています。封建制では、中央集権でなく、地方ごとの小領主が自律性を持つ分権行政が行われます。封臣は中央官僚と違い、身分的独立性を持っています。西欧の封建制では、「市民層の経済的独立が実現されているため、中間層が成長し、民間レベルで資本形成が行われ」ました。とりわけイギリスでは、封建制が進み、家産支配が極小化されていました。それが、イギリスで世界最初に近代資本主義が発展した要因といわれます。つまり、封建制は家産制よりも資本主義発展の初期条件としては有利に働くのです。

わが国においても封建制が発達していたことが、近代化・産業化に有利に作用したのです。逆にシナの場合、家産制だったことが、近代化・産業化には障害となりました。

封建制などというと、封建的・前近代的という負のイメージがありますが、実は日本は封建制だったからこそ、西欧に続いて、いち早く近代化しえたのです。また、封建制の主な担い手は、武士でした。武士というシナにも、西欧にもない日本独自の存在が、日本文明の確立・成熟と、近代化への準備を進めたのでした。ページの頭へ

 

参考資料

・富永健一著『マックス・ウエーバーとアジアの近代化』(講談社学術文庫)
 
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■日本とシナでは社会構造に顕著な違い

2006.1.2

 

日本の封建社会は武士が指導層であり、彼らは江戸時代に土地から切り離された官僚集団となっていました。そのため、ヨーロッパ文明に対抗して、近代化を推進する主体となりえたのです。これに対し、シナでは、家産官僚である士大夫階層が指導層でした。彼らは、科挙試験合格のために「宗族」という血縁集団の援助を必要としました。両者が密接に結びついていたのです。そのため、士大夫階層は伝統的な社会構造を壊して近代化・産業化を進める役割を担いえませんでした。

 

これに関連して日本とシナの社会構造の違いで重要な点は、血縁関係による結びつきの強さの度合いです。西欧では、中世のうちに血縁社会としての氏族集団が解体していました。それが共同体の解体と、市民社会の形成の土壌となったのです。富永氏によると、「一般的にいって、血縁社会が解体化していくのと入れ替わりに、機能集団(組織)が叢生(そうせい)し、役割分化の形成がすすむのが産業化・近代化である」と言います。

ヨーロッパと異なり、日本とシナは血縁集団を近代まで持ちつづけていました。血縁集団は共同性が強い反面、社会関係が閉鎖的です。この点、シナの「宗族」は、日本の「同族」よりも、はるかに強固に制度化された血縁集団でした。シナのように強固な血縁関係が存続している場合、「社会関係は血縁社会内部に集積したままになって、機能集団の叢生とこれによる役割分化の形成が進まない傾向がある」と富永氏は言います。これに対し、日本の「同族」はシナの「宗族」のような強い結合力をもった親族集団ではありませんでした。「同族」は、近代化を妨げるほどに強くなかったので、近代的組織の形成には有利だったというのです。

 

社会構造の違いは思想の違いにも反映します。近代以前には、日本でもシナでも、指導層は儒教を政治倫理としました。儒教の発祥の地・シナでは、儒教は古代以来の伝統的な社会に基づく社会制度であり、祖先祭祀の宗教であり、生活文化そのものでした。しかし、日本では、儒教を宗教としては摂取しませんでした。儒教はその宗教性を神道や仏教に吸収され、倫理思想としてのみ学びとられました。その理由は、社会構造が違うためです。また、このことが、我が国をシナ文明圏に従属した小中華となることを防いだとも言えましょう。

儒学は徳川時代に、日本独自の発展を遂げました。伊藤仁斎を初めとする古学派は、シナの官学である朱子学を批判して、孔子に帰ることを訴え、日本人独自の解釈をしました。また、陽明学はシナではほとんど忘れ去られましたが、日本では武士道と結びつき、社会変革のエネルギーとなりました。こうした日本的な儒学を学んだ武士たちの中から、幕藩体制の変革を目指す志士が現れ、変革の先頭に立ったのです。

 

我が国においては、氏族制・家産制・封建制の時代を貫いて、皇室を中心とした一大家族国家という国柄が維持されてきました。大化の改新が目指した家産制国家においても、皇室を中心とした家族意識が保たれました。また、封建制においても、武家政権の担い手となった源氏は皇室の出身でした。徳川家康も、源氏の出自であると自称し、源頼朝の政治を見習いました。征夷大将軍という地位も天皇の権威によって裏付けられ、統治を委託されたものでした。古代から一貫して、皇室中心の国柄が維持されたのは、日本がシナとは違う社会構造を持っていたことにもよっているのです。

このように社会構造の違いという点から見ても、日本とシナの違いは明白です。日本文明はシナ文明から明らかに自立した一個の主要文明なのです。

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■日本とシナ、国柄の違いが文明の違いに

2006.1.16

 

日本文明はシナ文明の周辺文明として発生しましたが、日本の国柄はもともとシナの国柄とは根本的に異なっていました。その違いが、日本文明を自立した主要文明ならしめた一要因です。この点について考えてみましょう。

 

人類学者のジェームズ・G・フレイザーは、未開人の社会には特有の考えがあることを発見しました。そのうちの一つとして、彼は「金枝篇」に次のように書いています。

「未開人はしばしば彼ら自身の安全と世界の安全すらも、神人すなわち神の受肉である人間の生命と緊密に関連していると信じている」

未開人は、王の生命力が旺盛な時には、この世はすべてうまくいくが、王の力が衰え、死に至ると、世界も同時に終わると考えました。そこで、それを防ぐために、力の衰えた王は殺され、殺した者が新しい王となるということを、フレイザーは伝えています。

このような王と自然界の現象との間に因果関係があるという考え方は、古代の世界では広く見られるものでした。特にシナでは、こうした観念が発達して、天人(てんにん)相関思想が生まれました。天と人との間、すなわち自然界と人間界との間には、因果関係があり、君主の政治の善悪が、自然界の吉祥や災異を招くという思想です。「天」は最初、北方遊牧民族の天空神でしたが、遊牧民族が農耕民族の文化に融合するに従い、万物を主宰する最高神になりました。

 

古代シナ人は、君主とは、フレイザーのいうところの生命力よりも、徳を備えた人でなければならないと考えました。君主が徳を持ち、徳のある行いをしていれば、天はこれに呼応して、世の中は平和で作物も豊作となる。しかし、君主に徳が欠けると、飢饉となり疾病が蔓延し、地震などが起こると考えたのです。「朕(ちん)の不徳の致すところ」というのがこれです。

こうした天人相関思想を政治哲学として洗練させ、完成させたものが、儒教です。儒教は、孔子の説いた教えであり、その弟子や孟子・朱子などが発展させました。儒教において、天は人間界を統治するために、多数の民衆の中から傑出した人物を選び出します。そして、その人物に「人民を治めよ」という命令、すなわち「天命」を与えます。天命を受けた人物は「天の子」とされ、「天子」と呼ばれます。ここで天が傑出した人を選ぶ条件が、「徳」なのです。「徳」とは、宇宙の本体であり法則であるところの「道」の働き・作用であり、その力です。また、それを体得した人の持つ人間的な美徳ともなります。

儒教は、天命を受けた「徳」のある人、有徳者が君主になるべきだと説きます。それとともに、君主は有徳であるべきだと要求します。孔子は「為政以徳」(政を為すに徳を以って)、孟子は「以徳行仁者王」(徳を以って仁を行う者は王たり)と言いました。儒教とは、君主(国王)は聖人を、臣下(官僚)は君子を理想として人格向上を目指す、為政者のための政治道徳思想だったのです。

 

さて、有徳者王の思想によれば、君主となるのは無条件ではなく、君主への「忠」も無条件ではありません。君主が徳を失うならば、別の有徳者がその君主に取って代わることを認めています。儒教は、権力の正統性の根拠を「天命」に置きます。その天命が革(あらた)まることを「革命」といい、天命を受けた有徳者が暴君に代わって天子となることを意味します。この王朝交替は、天が、それまで人民を治めていた天子の一族の姓を、例えば「李」から「朱」に易(か)えたことになります。これを「易姓革命」といいます。特に孟子は「禅譲」と「放伐」による王朝交替をはっきりと是認しました。「禅譲」は王がその位を世襲ではなく、有徳者に譲ることであり、「放伐」は徳を失った王を討伐し、放逐することを意味します。

シナにはこうした道徳に基づく政治思想があったのですが、実際のシナの歴史は理想とは異なっています。現実と理想がかけ離れているからこそ、孔子やその弟子たちは、あるべき理想を説いたのです。そもそもシナでは、古代において漢民族の王朝が途絶え、北方遊牧民族による征服・支配が繰り返されてきました。例えば、北魏はトルコ系の鮮卑族、金はシングース系の女真族、元は蒙古族、清は満州族による王朝です。儒教を大成した朱子は南宋の人ですが、南宋は金の侵略によって江南に逃れた王朝であり、元に滅ぼされました。朱子学にいう「尊王攘夷」とは、異民族支配に屈してはならぬというナショナリズム、漢民族の抵抗思想だったのです。

 

シナの政治道徳思想は、古代から日本に大きな影響を与えてきました。今日でも孔子の言葉を伝える『論語』を「人生第一の書」として愛読している人は少なくないようです。しかし、日本の国柄には、シナにはない大きな特色があります。それは、わが国には、万世一系と信じられてきた皇室が存在し、古代から今日まで、天皇が代々、君主として続いてきていることです。

ここに日本文明とシナ文明の大きな違いがあります。この違いこそ、日本文明がシナ文明の周辺文明から自立し、一個の主要文明となっていった一大要因なのです。ページの頭へ

 
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■独自の国柄が、文明の独立・発展の力に

2006.2.1

 

日本文明とシナ文明の違いの一つは、国柄の違いにあります。このことは、江戸時代に強く自覚されるようになりました。歴史の研究が進んだからです。既に南北朝時代の北畠親房は『神皇正統記』にわが国の国柄を述べていましたが、徳川光圀は大プロジェクトを組んで、『大日本史』の編纂を推進し、シナとは異なる日本の国柄を明らかにしました。また、『大日本史』を大衆化した頼山陽の『日本外史』は、幕末のベストセラーとなり、日本人に国柄の自覚を促しました。

 

幕末にあって、日本とシナの国柄の違いを最も鮮やかに書き表しているのが、吉田松陰です。草莽(そうもう)の志士・松陰は、概ね次のように書いています。

「凡そ漢土の流儀は、天が人間をこの世に降したものの、その君となり師となる人物がなければ世の中が治まらぬので、必ず億兆の民衆のうちから傑出した人を選んで、これを指導することを命ずる。帝尭・帝舜や湯王・武王という人が、それである。

 それ故に、その人物がその職責にふさわしくなく、民衆を治めることができない場合には、天もまた必ずこの人をその地位から引き下ろす。傑王・紂とか、周の幽王、脂、のごときがそれである。それ故に、天から民衆を指導せよと命ぜられた職責に基づいて、天が引き降ろしたものを討つのであるから、『放伐』ということに何の疑問をも抱かぬのである。

 わが国は、これと全く違っている。天照大神の御子孫が天地とともに永遠にましますのであって、この大八洲、すなわち日本の国土は大神が開かれたところ、大神の御子孫、すなわち天皇が末永く守られるものである」と。(1)

松陰が書いているように、わが国では、天皇は天照大神の子孫であると信じられてきました。そのことが君主であるための根本条件なのです。すなわち「血統」です。天皇が君主となるために「徳」は必ずしも必要ないのです。この点がシナと全く異なります。

天皇とは、大和言葉の「すめらぎ、すめらみこと」に当てた漢字です。天皇は古来、現人神(あらひとがみ)または現御神(あきつみかみ)とされ、その権威は侵し難いものとして仰がれてきました。その神聖な権威は、血統に基づく「世襲カリスマ」の一種(2)ともいえます。また、即位にあたっては「三種の神器」すなわち鏡・剣・勾玉が皇位の象徴として継承されます。

皇位の世襲は、重要な儀式を伴います。すなわち、天皇が即位するに当たっては、大嘗祭(おにえまつり、だいじょうさい)が行われます。この祭儀は、皇祖神・天照大神の霊力が天皇に受け継がれるという儀式と見られます。そして、大嘗祭を全うすることによって、はじめて天皇は天皇にふさわしい霊力を得るとされます。

 

わが国にはこのように、シナとは異なる伝統があります。天皇は徳の有無にかかわらず、君主として敬われます。そして、臣下は天皇に対して絶対に「忠」を尽くすという関係にあります。この君民の根本的な関係に立ちながら、天皇は君主としての徳を持てるように努めます。

初代・神武天皇は国民を「おおみたから」と呼び、宝物のように大切しました。以後の天皇は「民の父母」として、国民のために仁政が行われるよう尽力してきました。「仁」とは儒教の中心的な徳目であり、「慈しみ」や「思いやり」を意味します。日本の歴代天皇は、シナの皇帝と違い、この仁徳を実践してきました。だからこそ、古代から今日まで、国民の深い信頼と敬愛を得て、125代もの長きにわたって、皇統が維持・継承されているのです。ここにシナと異なるわが国の国柄が表れています。この国柄の特徴に日本文明の独自性・自立性が明瞭に発揮されているのです。(3)

 

日本で初めて、近代西洋的な文明論を書いたのは、福沢諭吉ですが、彼はこうしたわが国の国柄を踏まえて、文明を論じています。

時は明治の初め、近代西洋文明の挑戦に対し、どう応戦するかが課題です。『学問のすすめで福沢は、日本にとって文明が必要なのは、国の独立を守る手段であると説きます。「国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」と。また、『文明論之概略では、この国の独立を保つために必要なのは、個人個人の独立心だと訴えました。「一身独立して一国独立する」と彼は述べました。

 独立心とは、愛国心に裏付けられてこそ、持ち得るものです。福沢自身、強い愛国心を抱き、わが国の国柄を尊び、皇室を敬う日本人でした。福沢の認識はこうです。

 「日本にては開闢(かいびゃく)の初より国体を改(あらため)たることなし。国君の血統もまた連続として絶(たえ)たることなし。ただ政統に至(いたり)てはしばしば大いに変革あり。…政統の変革かくの如きに至て、なお国体を失わざりしは何ぞや。言語風俗を共にする日本人にて日本の政を行い、外国の人へ秋毫(しゅうごう)の政権をも仮(か)したることなければなり」(4)

 つまり、わが国は国の初めから、国体つまり国柄の根本が変わることがなかった。天皇の系統も連続して絶えることがなかった。政権はしばしば変わったが、国体が失われることはなかった。それは外国の支配を受けることがなかったからだ、と福沢は自らの歴史観を語ります。これは、幕末・明治の日本人の共通認識であり、国民の常識でもありました。また、こうした自国の歴史に対する歴史観が、福沢の文明論の背骨となっているのです。

 

 日本文明とシナ文明の違いの重要点は、国柄の違いにあります。そして、この違いの認識は、西洋文明に対しても通用します。自らの国の国柄の特長の自覚こそ、独立心、愛国心の発露となり、文明の独立・維持・発展の力となるのです。ページの頭へ

 

(1)吉田松陰著『講孟箚記(こうもうさっき)』(近藤啓吾訳、講談社)

(2)カリスマとは、預言者や英雄などが持つ非日常的・超人間的な資質。

マックス・ウエーバーは、支配の3類型として「合法的支配」「伝統的支配」と並んで「カリスマ的支配」を挙げた。カリスマは本来、個人の生得的資質であるが、日常化されると「世襲カリスマ」(血統)や「官職カリスマ」(役職)に転じて継承されるようになる。

(3) 天皇の「仁」については、拙稿「天皇に伝わる『仁』の伝統」をご参照ください。

(4)福沢諭吉については、拙稿「文明の目的は独立にあり〜福沢諭吉」をご参照ください。
 
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■自然崇拝を保持した日本、否定した西欧

2006.5.1

 

日本文明とヨーロッパ文明は、ユーラシア大陸の東端と西端に位置しています。ヨーロッパ文明は西欧を中心に発生し、18世紀には北米にも広がり、地理的にはヨーロッパ文明というより欧米文明と呼ぶのがふさわしいものとなります。これを近代西洋文明と呼ぶことにします。近代西洋文明とは呼ぶもののこの文明は、ギリシャ=ローマ文明と単純に連続した文明ではありません。ギリシャ=ローマ文明は滅び、西欧においてその文化要素を一部継承した文明が西欧に誕生し、それが近代化し、北米にも広がって、近代西洋文明となったものです。ここでは、西欧を中心に発生したという地理的な区域を強調するためにヨーロッパ文明と呼ぶことにします。

さて、ヨーロッパ文明は世界に先駆けて近代化しましたが、日本文明はこれに支配されることなく、近代化の後を追いました。そして、この二つの文明は20世紀以降の世界を、ともにリードしています。

両文明には、おのずと相違点と共通点があり、様々な角度からの比較が可能です。

 

まず日本文明とヨーロッパ文明の違いとは何でしょうか。文明の核心は精神であり、その精神の違いが文明の様式や価値の違いとなって表れます。そして精神文化の中核にあるのは、宗教です。日本と西欧の宗教の違いに、日本文明とヨーロッパ文明の本質的な違いが見られます。

日本の固有の宗教は神道であり、森林と海洋の息吹を受けた多神教です。ヨーロッパの宗教はキリスト教であり、砂漠生まれの一神教です。しかし、もともとヨーロッパ文明の担い手であるゲルマン民族は、日本民族と同じく、自然崇拝と祖先崇拝の信仰を持っていました。

 

古代の日本では、世界のどこでもそうだったように、アニミズム(精霊信仰)が行われていました。アニミズムは、自然の事物に霊魂が宿ると考える信仰です。それは自然崇拝の基礎にある考え方です。この自然崇拝の一つに、巨木崇拝があります。

日本の神社には今でもしめ縄を張った神木がありますが、古代のゲルマン民族にも似たような信仰がありました。森の中の大きな木を、神木として崇めていたのです。これは、世界に広く見られる「世界木」または「生命樹」に通じるものだったでしょう。「世界木」は世界や宇宙の全体を表わすものあり、また天と地をつなぐものという象徴的な意味を持っています。

 

この神木崇拝は、ゲルマン民族がキリスト教に改宗させられる過程で、否定されました。ゲルマンの部族のひとつであったフランクを統一したクローヴィスは、496年にカトリックに改宗しました。それ以降、キリスト教はゲルマン民族に広く浸透していきました。

この過程で重要なのは、8世紀の伝道師ボニファチウスです。ボニファチウスは、ドイツの使徒と呼ばれ、ドイツ地方にキリスト教を広めました。それまでゲルマン民族は多神教であり、オーディン(ドイツ名はヴォータン)を主神としていました。そして、樫の木を雷神ドールの神木としていました。ボニファチウスは、この樫の木を、ゲルマン人の目の前で切り倒してみせました。そして、キリスト教の神の力が彼らの神よりも強力であることを示して、改宗させたと伝えられます。これによって、ゲルマン民族は自然崇拝を失うことになりました。自然は崇拝すべきものではなく、人間が支配すべきものというユダヤ的な考えが植えつけられたのです。

 

キリスト教への改宗でもう一つ重要なことは、祖先の霊を祀(まつ)り、それと交流する祖先崇拝が否定されたことです。優れた比較文化論者でもある渡部昇一氏は、次のように書いています。「ゲルマン人の元素神にガウタズがいる。ガウタズは『精液を注ぐもの』という意味で、創造の神である。この神話は、古事記の国生みの神話とイメージが通じる。イザナギ、イザナミノ命という男女ニ神は、その矛の先から滴り落ちる塩水によって日本を造った。その後、男女の原理で多くの神々が作られ、それがゲルマン諸族の王家となるというのも古事記そのままである」といいます。(1)

渡部氏が言うように、わが国の神話では、イザナギとイザナミの二神によって国土や神々が生み出されました。その神々の一人である天照大神(太陽神)が皇室の祖先と信じられています。それゆえ、皇室と神々とは、連続しています。渡部氏は、古代ゲルマン神話でも、日本と同じく、「神の系図と王の系図の間に切れ目が無い」と指摘します。「ゲルマン人の系図では、古代イギリスのアルフレッド大王家の例でも分かるように、途中から神になってしまう。どの部族にも氏神があり、王はその氏神の子孫だった」と。

 

ところが、キリスト教では、神がアダムを「土」から作ったと教えます。神と人とは断絶しているのです。そのためキリスト教に改宗したゲルマン民族において、神と人間は断絶してしまいました。こうした人間観は、自然との連続意識、一体感を失わせるものです。そして、自然は人間の帰るべき母体ではなく、対象化し、利用し、支配すべきものとなったのです。

祖先崇拝についての渡部氏の言葉を続けます。「古代ゲルマン人も、古代日本人と同じく、霊魂の不滅を信じた。死んだ先祖がまだ生き続けて、自分を見ているかのように感じる先祖意識があった。死後、自分の父母や祖父母や先祖の霊と再会する。ところが、キリスト教では、親や先祖の霊ではなく、神やキリストに対面することが強調される。しかも、死後自分一人で絶対の力を持つ全能の神と対決する。このキリスト教の原則は、家族中心であったゲルマン人の心を『家』を絶対視しない個人主義へと真底から変えていった。西洋人の個人主義の根源は、まさにこの点にある」。(2)

 

家族や氏族は血縁集団であり、共通の祖先を祀ることによって、互いの結合を維持します。移動・遠征の多かったゲルマン民族は、もともと氏族に基づく祖先崇拝が弱かったようですが、キリスト教によって偶像崇拝として排斥され、最終的に祖先崇拝が破壊されました。そうなると、社会を構成する原理は、個人の利益の合致による契約か、力による支配かのいずれかになります。契約は利害が反すれば破棄されますし、力による支配は支配される側が力を蓄えたらひっくり返されます。そのため、ゲルマン民族の社会は結合力が弱く、不安定な社会となりました。近代西欧の階級支配や市民革命は、既にここに源を持っているのです。

渡部昇一氏は、次のように書いています。「全く同じような霊魂不滅観を持っていた古代ゲルマン人と日本人が、まるで異質な文明を作り上げた原因は、その国民の大多数がキリスト教的体質を持っているのか、先祖意識的体質を持っているかに、さかのぼって考えなければならない」(3)

 

ゲルマン民族と異なり、日本人は古来、自然崇拝と祖先崇拝を保ち続けてきました。自然に対する親しみや一体感は、現代人の心から、今なお消えていません。日本人は、祖先と子孫が生命でつながっているように、神と人間は連続し、親しく通い合うものを感じてきました。

また、日本人は、共通の祖霊を祀ることにより、家族・親族の強い結びつきを保ってきました。日本は国全体が血縁関係でつながった一大家族国家のようなものであり、その中心に皇室があるという考え方が、今日まで受け継がれています。そのため、日本人は、人と自然、人と人が、大きな調和・一体感で結ばれているという感覚を持っています。これは日本文明の中核にある精神です。

 

最初に、日本文明とヨーロッパ文明の違いは宗教の違いにあると書きました。自然崇拝と祖先崇拝を否定して進んできた欧米の文明、近代西洋文明は、今日、行き詰まっています。この時、人間と自然、人間と人間の結びつきを大切にしてきた日本文明には、現代世界の問題解決に貢献すべき重要な役目があると言えるでしょう。ページの頭へ

 

(1)(2)(3)渡部昇一著『歴史の読み方』(祥伝社)

参考資料

・渡部昇一著『人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)
 
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■日本と西欧は文明史を並走

2006.5.15

 

日本文明とヨーロッパ文明は、ユーラシア大陸の東端と西端にあって、長く歴史を並走してきました。そこには、相似と相違の両面が見られます。

 

文化人類学者の梅棹忠夫は、生態史観による比較文明の理論を提示しています。そのモデルによると、ユーラシア大陸は、東西の両端にある第1地域と、乾燥地帯を含む第2地域に区分されます。第1地域とは、日本と西欧です。第2地域は、乾燥地帯を除く地域が、イスラム世界、ロシア世界、インド世界、シナ世界の4つに分けられます。さらにこれに、東欧と東南アジアが加えられ、6つの世界に区分されます。

 梅棹が注目するのは、第2地域の存在の重要性です。この地域は、「遊牧民の間欠的に暴発する暴力的破壊によって、大帝国ができては消え、できては消えるという歴史をへてきた」といいます。これに対し、 「第1地域はそのような破壊は経験していない。そこでは文化が蓄積され、それぞれ独自の発展を遂げることができた。ことに封建制がこの地域では発達し、それが各地の文化の発展を促した。西ヨーロッパと日本だけが、封建制の平行的な発展をたどっている」というのです。

梅棹モデルでは、東洋と呼ぶ地域は日本を中心とした東アジアに限定され、西洋は西欧に限定されます。そして、東洋と西洋の間は「中洋」と呼ばれます。そして、「中洋」に乾燥地帯やイスラム、ロシアなどが入ります。

 

さて、こうした見方を加えると、日本文明とヨーロッパ文明の対比は、一層明瞭になってくるでしょう。両文明が並走してきた過程を比較してみましょう。

 

文明史家トインビーは、世界の諸文明の中には、継承関係にある文明があるとしました。ちょうど親子のように、前の文明がもとになって、次の文明が生まれるという場合です。西洋では、地中海地域にギリシャ=ローマ文明が起こり、その後、それを受け継いでヨーロッパ内陸部にヨーロッパ文明が誕生しています。東アジアでは、シナ大陸にシナ文明が起こり、その影響を受けて日本文明が誕生しました。このように、日本文明とヨーロッパ文明は、それぞれの地域の中心にある文明の刺激を受けて発生したのです。主要文明に対する周辺文明という関係です。しかし、この関係にとどまらず、次第に自立性を強め、遂には独立した主要文明となった点が、日欧両文明に共通しています。

ギリシャ・ローマ文明は、紀元前1600年頃にはじまるミケーナイ文明から発します。そして、前8世紀のホメロス、前4世紀のプラトン、前4世紀のアリストテレスまで、黄金時代を経験しました。さらにアレクサンダー大王の東征によって、ペルシャなどの東方文明と融合してヘレニズム文明をつくりました。その文明は、ローマに受継がれましたが、紀元後476年の西ローマ帝国の滅亡をもって終わりました。そして、トインビーによると、ギリシャ=ローマ文明が「親文明」となり、「子文明」として誕生したのがヨーロッパ文明です。ローマ帝国が亡んだのちに、蛮族ゲルマンが、キリスト教など先行文明の遺産を継承して、新しいヨーロッパ文明をつくったのです。

 

日本文明とヨーロッパ文明を具体的に比較できるのは、4世紀末からです。ヨーロッパ内陸部には、古くからケルト族が住んでいたのですが、4世紀になると北欧のゲルマン諸族が大移動して、南下してきました。その一部はローマ帝国になだれ込みました。既に内部から腐敗していたローマ帝国は、この「外的プロレタリアート」(トインビー)の圧力を受けて衰退を早めました。そして、西ローマ帝国の滅亡(476)にいたります。

トインビーはこうした地域帝国を「世界国家」と呼び、「世界国家」はその末期に、征服された地域に「高度宗教」を生み出し、「世界国家」の崩壊後、その「高度宗教」が蛮族に受け継がれ、次の文明の発生の核になると説いています。ここで「世界帝国」とはローマ帝国であり、「高度宗教」とはキリスト教であり、子文明の担い手はゲルマン民族でした。

ローマ帝国滅亡後、辺境のガリア地方(今のフランス)で、ゲルマンの一部族フランク族のクローヴィスが、481年にフランク王国を建国しました。そして、496年には王自らカトリックに改宗します。これによって、ゲルマン民族による新たな文明が誕生しました。それは、滅亡したギリシャ=ローマ文明を、別の民族が受け継ぐ形で始まったのです。

 

日本には約1万年前から縄文文化があり、世界最古の土器をつくるなど、ユニークな個性を発揮していました。シナ大陸では、紀元前5000年頃に黄河流域を中心に文明が発生し、紀元前1500年頃、殷文明が起こり、その後、周・秦・漢などの王朝が興亡を繰り返しました。その間、孔子・孟子・老子・荘子などシナ特有の思想が現れ、ギリシャ=ローマに勝るとも劣らない高い精神文化が育まれました。このシナ文明から、その周辺に文明の影響が広がり、日本列島にも及びました。

 

トインビーによると、シナ文明は、殷から漢までが第1世代、隋・唐以後が第2世代となります。そして、日本文明は、シナ文明を「親文明」とする「子文明」であるといいます。すなわちシナ文明の第1世代から枝分かれし、引き続き第2世代から文字・制度・宗教など多くの文化要素を取り入れることで、未開から文明へと飛躍することができたというわけです。この過程は、縄文文化を基盤として、外来の文化を受け入れ、弥生文化が発達する過程でした。

 

わが国では、西暦57年ころのものとして、「漢委奴国王」という金印が出土しています。これはシナの漢王朝の時代のものです。金印には、国名として「倭(わ)」の「奴国(なのくに)」が使われ、その「王」という称号が彫られており、日本がシナ文明の影響下にあることが伺われます。

シナの歴史書である『魏志倭人伝』によると、3世紀ころ、邪馬台国という国があり、卑弥呼という支配者がいたことがわかります。邪馬台国は九州にあったという説と、畿内にあったという説があり、どちらもまだ決め手がありませんが、卑弥呼は単に邪馬台国の女王ではなく、倭国の女王とされています。倭国とは対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国等々の多くの「国」をたばねた連合国家と考えられます。それは、卑弥呼が、魏王朝から「親魏倭王」に任命されていることからわかります。

 

同じ3世紀に、近畿地方では大和朝廷による国家ができました。やがて大和朝廷は、4世紀から5世紀までに、北九州を含む広範な地域を統合した統一国家に成長しました。シナの史書において、3世紀の邪馬台国から7世紀にいたるまで、日本は「倭国」として一貫して扱われています。その首都もおなじヤマトだったと認識されています。それゆえ、邪馬台国と大和朝廷は、国内統合の段階は異なりますが、統治の主体としては連続したものだったと考えてよいでしょう。

大和朝廷の特徴は異民族による征服王朝ではなく、豪族の連合による融合王朝であると見られます。君主は大王(おおきみ)と呼ばれ、今日の皇室の祖先と見られます。大和朝廷の時代は古墳時代と呼ばれ、仁徳天皇陵などの巨大な古墳群は、ピラミッド等の古代遺跡に比較できるものです。そして、朝鮮半島との交流や渡来人の渡航などにより、わが国はシナから漢字・仏教・道教・儒教・政治制度等、多くの文化要素を摂取していきました。

日本文明とヨーロッパ文明を具体的に比較できるのは、4世紀末からです。そして、5世紀頃までの日欧両文明を比較すると、ともに主要文明の周辺にあり、主要文明の強い影響の下にあったことがわかります。しかし、この位置にとどまらず、日本文明、ヨーロッパ文明は、それぞれ一個の文明として成長していくのです。ページの頭へ

 
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■聖徳太子が文明化と自立を推進

2006.9.1

 

日本はシナ文明の刺激を受け、その周辺文明として発生しました。しかし、日本は、シナ中心の国際秩序の枠を出て、自立する方向に進みます。それが7世紀です。当時、ヨーロッパではまだ文明の成長はほとんど見られず、8世紀末まで停滞が続きます。そのころ、日本文明は独自の文化を創造しはじめていたのです。

5世紀以前のわが国は、いわゆる册封(さくほう)体制のもとにありました。册封体制とは、シナ王朝の皇帝が周辺諸国の君主に官号・爵位などを与え、擬似的な君臣関係を結ぶことによって形成された国際的な政治システムです。しかし、5世紀後半の雄略天皇のころから、自国の政治的・文化的な独立を尊重する意識が次第に高まり、5世紀末には朝鮮半島との関係は保ちつつも、シナとの交渉を中断したりしています。わが国はシナを文明の先進国として学びつつも、同時に独立自尊の立場を守ろうとしたのです。

この志向が明確に打ち出されたのは、7世紀前半です。当時、わが国には改めて積極的にシナ文明を摂取しようとする動きが起こります。この動きを従属的ではなく主体的に進めようとしたのが、聖徳太子です。

 

聖徳太子は、推古天皇16年(608)に、シナの大帝国・隋の煬帝に対して、国書を送ります。またその第2回には、「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に曰(もう)す」と記され、「天皇」という言葉が初めて使われました。太子は、もはや「王」という称号を用いませんでした。それは、シナの「皇帝」に仕える立場だからです。この太子の意を受けて、大化の改新の後、天武天皇の時代に「天皇」の称号が定着しました。

また、この太子の姿勢にならって、「日出づる処」を意味する「日本」が、国名として用いられるようになったと見られます。最初に、公式文書に「日本」という国名が現われたのは、大化の改新の後、大化元年(645)に、百済の使者に与えた詔勅とされます。その後、シナでは、咸亨元年(670)の「新唐書」に、「倭の字を悪(にく)み、更めて日本と号す」と記しています。ここに1世紀以来、「倭」と記されてきたわが国の国号は、「日本」という名称に公式に改められたのです。

大化の改新では、年号も、我が国独自のものを使うことを決めました。それまでは、シナの皇帝が年号を定めると、他の周辺国はそれと同じ年号を使用していました。なぜかというと、これらの国は、シナに貢ぎ物を納めることによって国王と認めてもらうという册封(さくほう)体制の下にあったからです。しかし、我が国は、こういう主体性のない状態を、よしとしませんでした。

 

また、太子は、文化面においても外来文明の移入する際の枠組みを打ち立てました。太子は皇室の神道を堅持しながら、外来の仏教を積極的に採り入れました。同時に儒教・道教なども学んだうえで、日本固有の価値観である「和の精神」を思想として表現しました。「十七条憲法」がそれです。それによって、固有のものを保ちながら、外来のものを摂取して共存させるという日本文明の外来文化受容の型がつくられました。文明の形成期にしっかりしたパターンが定式されたので、それ以後、外来文化を積極的に採り入れても、自己の特徴を失うことなく、日本の独自性を維持していくことができました。

 この自尊自立の精神が、やがて日本文明がシナ文明から独立した一個の主要文明となる道筋をつけたのです。

 

また、国内的に重要なことは、7世紀に天皇と公民の関係が樹立されたことです。聖徳太子は、十七条憲法に次のように定めています。すなわち、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おほみたから)、王(きみ)を以って主と」。国の中心は一つである、中心は二つもない、ということです。そして、国土も人民も、主は天皇であるとし、国民統合の中心は、天皇であるというわけです。この理念は、大化の改新において実現され、公地公民制が創設されました。天皇は公の原理の体現者となり、人民は私的に所有されるのではなく、公民という公的存在になったのです。ここに「天皇―公民制」が国の基本構造として樹立されました。

 

こうして7世紀には、日本文明は明確な自立性を示しました。日本は東アジアを支配したシナを中心とする「中心―周縁」の構造から離脱し、独自の国家・文明を建設する道を進みました。ページの頭へ

 
参考資料
・拙稿「聖徳太子に学ぶ政治・外交・文化のあり方
 
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■伊勢神宮の生命力、記紀・万葉からの一貫性

2006.9.15

 

日本文明の自立性を考える上で重要なものに、伊勢神宮・『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』があります。伊勢神宮は、7世紀後半に、現在のような規模の社殿が作られたようです。以来、今日まで日本文明の中核である神道の中心的な場所となっています。

 

伊勢神宮の歴史は古く、垂仁天皇の24年(紀元前4年)に、皇女・倭姫命が各地を巡幸したすえ、現在の五十鈴川の川上を大宮地としたと伝えられます。そして天武天皇の宿願によって、第1回の遷宮は持統天皇4年(690)に行われました。建築様式は、シナ文明のそれとはまったく異なるものであり、日本文明の独自性を明確に表しています。社殿の建立後、20年に1度、式年遷宮が行われ、正殿をはじめとする建物全てが新造され、神宝・道具類も新調されてきました。戦国時代には中断した時期もありますが、今日まで1300年にわたって続けられてきます。

ヨーロッパ文明の「親文明」であるギリシャ=ローマ文明には、アテネのパルテノン神殿があります。これは優れた遺産ではあるものの、古代の廃墟に過ぎません。伊勢神宮の場合は、今日もそれを守り、参拝する人々が居る、生きた礼拝場所です。しかも、建物は20年ごとに新しく再生されているわけであり、世界に比類ない持続力・生命力を持っています。伊勢神宮は、日本文明の自立性を体現する、生きたモニュメントといえるでしょう。

 

わが国では、8世紀に古事記・日本書紀が編纂され、国家・民族の原典が出来上がります。これらは民族の神話・伝承を集大成したものであり、日本人自身の祖先の物語でもあります。そこには、天之御中主之命、天照大神、神武天皇や三種の神器が登場します。

ヨーロッパ文明には、ギリシャ=ローマ神話がありますが、これは自分たちとは別の民族の神話です。祖先が伝えたゲルマン神話や北欧神話もありますが、それより圧倒的な存在となっているのが、キリスト教の聖書です。しかし、聖書は、ユダヤ民族の聖典であり、アブラハムとその子孫の歴史は、ゲルマン民族とは異なる民族の記録です。ヨーロッパ文明は、自らの祖先から伝来した古典を持っていないのです。

これに対し、日本文明は、民族の源であり、拠り所であるところの古典を持っています。その編纂をしたのが、8世紀でした。

 

また、9世紀には『万葉集』の編纂が始まりました。『万葉集』には、5世紀頃から8世紀にかけて詠まれた歌が多数収録されています。詠み人は天皇や貴族から庶民にまで及んでおり、わが国では古くから歌を詠む文化が育まれていたことがわかります。ヨーロッパでは、欧州統一の英雄、9世紀のカール大帝(シャルルマーニュ)すら、王となるまで読み書きができなかったといいますから、日本の文化の高さがわかります。驚くべき早さで、自立性・独創性を発揮したのです。しかも、千数百年も前に祖先が詠んだ歌を、21世紀の私たちが、自分の言葉として味わい、追体験できるのです。ヨーロッパ文明には、これに類するものを見出すことができません。まことに貴重な生きた遺産です。 

 

さて、聖徳太子とほぼ同時代に、ヨーロッパに重大な影響を与える人物が中東に出現しました。マホメット(ムハンマド571頃―632)です。マホメットはユダヤ教・キリスト教を学び、独自の宗教を創唱しました。イスラムです。マホメットは、西暦622年にメディナに聖遷し、630年にメッカを征服しました。イスラムの教勢は全アラビアに広がり、8世紀には一個の文明として発展しました。アラビア文明は、紀元前1200年頃のフェニキア文明以来、中東で発展してきたシリア文明を同化し、また東ローマ帝国におけるビザンツ文明を通じて、ギリシャ=ローマ文明を摂取しました。

アラビア文明が興隆すると、かつてはローマの海だった地中海はイスラムの海になりました。8世紀のことです。その結果、陸地に封じ込められたヨーロッパは、土地を唯一の富の源泉とする新しい経済秩序すなわち封建制を生み出すことになりました。封建制は8世紀末から9世紀の初め、カール大帝の時に形成されました。

カール大帝は西ローマ帝国の理念を復興し、カトリック世界を統一しました。ここに新しいヨーロッパ文明が誕生したといえます。ギリシャ=ローマ文明とキリスト教とゲルマン民族の精神というヨーロッパ文明の三要素が融合することになったからです。とりわけキリスト教つまりローマ=カトリック教会というギリシャ=ローマ文明の遺産が、ヨーロッパ文明の精神的中核となりました。カール大帝は教育・文化の発展に尽力し、カロリング・ルネサンスと呼ばれる文化再生運動を起こします。しかし、これはまだラテン語の純化によって聖職者の教養を高めるという部分的なものにとどまっていました。同時代のイスラム的アラビア文明が、本格的にギリシャ=ローマ文明の思想や科学を継承・発展させていたのと比べると、当時のヨーロッパ文明は遥かに劣っていました。

 

7世紀から9世紀の期間で比較すると、日本文明がシナ文明からの自立を明確に発揮しています。これに対し、ヨーロッパ文明はギリシャ=ローマ文明の再生を試みたのみで、まだ創造性を発揮できる段階に至っていなかったのです。ページの頭へ

 
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■仮名の発明に見る日本文明の特質

2006.10.01

 

今日私たちは、漢字と仮名と英文字とが混ざった文章を、ごく自然に使っています。実は、この日本語の在り方の中に、日本文明の特質が集約されているのです。


 わが国では、いつごろから文字が使われるようになったのでしょうか。最初はもちろん漢字の受け入れから始まりました。紀元後1世紀の半ばのものである「漢委奴国王」の金印が北九州で出土しています。ですから、このころには、シナ文明の文字文化を受容していたのでしょう。大和朝廷の時代には、相当広く文字が使われ、5世紀半ばには、部分的とはいえ、訓仮名の使用が始まっていたと見られています。

 訓仮名とは、漢文をその語順のままシナ語の発音で読むのでなく、日本語の語順に読み替えてしまい、単語によっては大和言葉に移し替えながら、和訓で読むわけです。この訓読という方法は、外国語を受け入れながら、それを自国の言葉の規制下に置こうとするものです。訓読によって、わが国は、外国語より自国語が下位になる二重言語(バイリンガル)国家に変貌するのを防ぐことができました。そして、漢字を通じてシナの高度な文明を導入しながらも、大和言葉に込められた日本文化の主体性を失わずに済んだのです。むしろ外国語を自国語の中に取り込んでしまうことによって、日本語そのものをさらに豊かにできたのです。ですから、訓読はそれ自体、素晴らしい発明でした。実に主体的な方法によって、漢字の習得・使用が勧められたのです。


 その後、日本人は漢字を使いこなし、8世紀には『古事記』『日本書紀』という日本文明を代表する文献を生み出しました。記紀は漢文で表記されていましたが、やがて日本人は漢字から表音文字を取り出して、音を表わす道具にします。9世紀初めには、『万葉集』の編纂が始まります。『万葉集』では、漢字を表音文字として使う真仮名(いわゆる万葉仮名)が駆使されています。さらに、日本人は、漢字をもとに、独自の文字を作ってしまいます。9世紀には、片仮名・平仮名が発明・使用されました。これは画期的なことでした。日本人は、独自の文字を手にしたのです。


 9世紀末、寛平6年(894)に遣唐使が廃止されました。7世紀の遣隋使以来、積極的にシナ文明を摂取する文化活動は、ここに区切りを迎えました。遣唐使廃止の前年に出た『新撰万葉集』上巻は、漢字のみで表記されていました。ところが、その約10年後の延喜5年(905)には、平仮名を使った『古今和歌集』の勅撰が始まりました。『古今集』は、わが国初の勅撰和歌集であり、醍醐天皇の勅命によって収集・編纂が行われました。そして、ここでは、漢字に混じって仮名が使われています。いわゆる漢字か混じり文の登場です。仮名を作っても、漢字の使用を止めるのではなく、漢字と仮名を両方とも使うのです。このことによって、日本語(大和言葉)を漢字と仮名で自由に表記できるようになりました。


 言語学者の鈴木孝夫氏は、次のように評価しています。

 「日本語の仮名のように、借用した文字を、すべて痕跡を止めないほど改変して、自分の音韻体系に合致した新たな文字を作り出した例は少ないのみならず、元の素材である文字をも、そのまま用い続けるという二重構造は他に例を見ない」(1)

 これは日本文明の創造力と包容力をよく示す事実です。

 拓殖大学客員教授の高森明勅氏は、以下のように書いています。

 「仮名の創造は日本文明の独特な発展に大きな貢献をしている。そのなかでも大切なのは、大和言葉(和語)の保存だ。‥‥日本人のながい精神生活からうまれ、生長してきた和語には、たんなる意味や概念におきかえることのできない情感がひそんでいる。仮名はそれを守り、伝える力をもった」(2)

 仮名は、日本文明がシナ文明から自立するための土台となったともいえます。


 作家の山本七平氏は、「日本文化とは、何か。それは一言で言えば、『かな文化』であり、この創出がなければ日本は存在しなかった」とまで言っています。(3)

 優れた比較文化学者でもある渡部昇一氏は、次のように述べています。

 「漢文・漢詩という外来のシナ文化が浸透し、それが完全に日本の文化として消化した時、『漢字混じりかな書き』という表記法が確立されていくのです」「しかも、漢字は、漢読みである音(おん)と和読みである訓(くん)が全く分けられて使われるのではなく、渾然として、つまり音訓自在に読まれていくのです。そういう芸当が抵抗なく日常で行われるようになっていくのです。表音文字と表意文字を混ぜるということからして奇異なのに、同じ漢字を何様にも読むというのですから、これは妙なる共存と呼ぶしかありません」(4)


 渡部氏の「妙なる共存」とは、言いえて妙な表現です。日本は、仏教等の外来の宗教が入ってくると、固有の宗教である神道と共存・融合させました。また、近代になって、西洋文化が入ってきても、日本文化・東洋文化と共存・融合させています。いずれも日本独自のものを基盤あるいは容器として、外来のものを採り入れ、調和させてしまうのです。こうした日本文明の調和の力を最もよく表わしているのが、日本語における文字と表記ということができましょう。ページの頭へ



(1)
鈴木孝夫著『閉ざされた言語・日本語の世界』(新潮社)

(2)高森明勅著『歴史から見た日本文明』(展転社)

(3)山本七平著『日本人とは何か。』(PHP研究所)

(4)渡部昇一著『人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)

 
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■言霊の幸は

2007.10.16

 

古代の日本人は、アニミズムとシャーマニズムに基づく信仰を持っていました。アニミズムとは、自然界のあらゆる事物には霊魂や精霊が宿り、諸現象はその意思や働きによるものとみなす信仰です。シャーマニズムは、祖霊や精霊と接触・交流する能力を持つ職能者を中心とする信仰であり、制度化され、体系化されたアニミズムであると考えられます。一言で言えば、職業的霊能者を中心とした精霊信仰です。祈りを捧げる者がシャーマンであり、捧げる対象が精霊(アニマ)です。

 

日本のアニミズム的・シャーマニズム的な世界観においては、言葉が重視されました。古代の日本人は、言葉には霊的な力が宿っていると信じていました。それが言霊(ことだま)の思想です。言霊とは、言葉に宿る不思議な霊威であり、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられていたのです。言霊がその力を表わすのは、祈りによってです。祈るとは「斎(い)告(の)る」の意味であり、神の名を呼び、幸いを請い願うことです。祈りの言葉はそれ自体に霊力があると考え、祈ることによって、言葉に内在された霊力が働いて、祖霊や精霊に感応すると考えたのでしょう。

 

言霊の思想は、『万葉集』に見ることが出来ます。山上憶良の「好去好来歌」に次のようにあります。

 

神代よりいひ伝(つ)てけらく 空見大和の国は すめらぎのいつくしき国 言霊の幸は国と 語りつぎいひつがひつつ 今の世の人もことごと 目の前に 見たり、知りたり(以下略)

 

この歌の大意は、「神代の昔から言い伝えて来たことだが、日本の国は、天皇の祖先神の神威がゆるぎない国であり、言霊の霊妙な働きによって幸いをもたらす国だと語り継ぎ、言い伝えてきた。このことは、現代の人も、みな実際に見てもいるし、知ってもいる」となります。ここで、憶良は、日本は「すめらぎのいつくしき国」であるとともに、「言霊の幸は国」だとしています。「すめらぎ」と「ことだま」の関係は、天皇(すめらぎ、すめらみこと)は宗教学的にはシャーマンに当たり、言霊を振るって神々に祈る最高位の神主と考えられます。

 

「言霊の幸は国」だという認識は、『万葉集』に広く見られます。皇族の代作歌人・柿本人麻呂の歌にも次のようにあります。

 

磯城島(しきしま)の 大倭(やまと)の国は 言霊の助くる国 まさきくあれ

(大意: この日本という国は、言霊が助けてくれる国である。幸多かれ)

 

この歌は、祝福の言葉を唱えるならば、必ずその言霊の働きによって幸いが実現するという信仰に基づいているのでしょう。

 

わが国の文化を最も良く表わすものの一つが和歌ですが、和歌の根底には言霊の思想があります。『古今集』の序にもそれが表れています。その冒頭部は、次のように記されています。

「大和歌は、人の心を種として、万の言の葉となれける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞く物につけて、言出だせるなり。花に鳴く鴬、水に住む河鹿の声を聞けば、生きとし生ける物、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、はれと思はせ、男女の仲をもやはら、猛きもののふの心をも、慰むるは歌なり」

最後部分の大意は、「全く力を入れることなく、天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の関係を和らげ、勇ましい武人の心をも慰めるのは和歌である」となります。この「力をも入れずして、天地を動かし」いう一句には、言霊の思想がよく表れています。

 

言霊の思想は、古代で消滅したわけではありません。現代でも、願いは必ず実現する、信念は必ず実現すると信じている人が少なくありません。そう信じて実行したという成功体験は多数あります。祈りの効果は、欧米における数々の実験によって、科学的に認められています。言葉の力を信じ、祈りに思いを込めるという点では、現代の私たちにも言霊の思想に通じるものがあるといえるでしょう。ページの頭へ

 
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■和歌が生み出す調和

2007.11.1

 

和歌の起源は、神話の中に求められます。『古事記』の伝える須佐之男命(すさのおのみこと)は、天照大神の弟で大国主命の父です。須佐之男命は、出雲の国で八俣大蛇(やまたのおろち)を退治して、櫛名田姫(くしなだひめ)を妻に得て、須賀の地に新婚の宮を建てた時、祝婚の歌を詠みました。

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 八重垣作る その八重垣を

 

こうした起源を持つ和歌が歌い継がれて、最初に編纂されたのが、『万葉集』です。『万葉集』には、第16代仁徳天皇皇后の歌とされるものから、8世紀までの約350年間の種々の歌が収集されています。

『万葉集』は、作者は天皇や貴族ばかりでなく、庶民や防人といった兵士、乞食に至るまで、全く身分も男女も差別がありません。地域も、中央ばかりでなく、地方や辺境の地まで含まれており、文字通り国民的歌集になっています。しかも帰化人も含まれており、国際的な要素もあります。

この歌集では、高貴な身分の人の歌もと、名も無い低い身分の者の歌が隣り合わせに並べられています。こうした例をさかのぼると、『古事記』の日本武尊(やまとたけるのみこと)と火焼きの翁の合作による和歌に行き当たります。日本武尊は、父の第12代景行天皇の命令を受けて東国征伐に出かけて成功し、その帰りに甲斐の酒折宮(さけおりのみや)に立ち寄りました。そこで日本武尊は、

 

  新治(にいはり) 筑波をすぎて  幾夜が宿(ね)つる

 

と詠いました。するとそこに居合せた火焼(ひたき)の老人が、その後を受けて

  

日々並(かがな)べて  夜には九夜(ここのよ) 日には十日を

 

と続けました。

日本武尊は、皇子であり天皇の名代(みょうだい)です。そういう高貴な人が歌った歌の後に、つけ句をしたのが、身分の低い名も無い老人です。歌において、身分の差がなくなり、和歌を合作しているわけです。これが連歌の起源とされています。

 

 良い和歌を詠むと、身分の高低に関係なく、宮廷で取り上げられ、歌人として遇されました。和歌三神とされている柿本人麻呂、山部赤人、衣通姫のうち、人麻呂は、身分が低く六位以下であり、赤人も下級官吏です。

 こうした日本独特の文化について、優れた比較文化論者でもある渡部昇一氏は、大意次のように指摘しています。

 「ユダヤ・キリスト教圏では『万人は神の前において平等』と考え、異民族支配のローマ帝国では『法の前において平等』と考えた。近代の欧米社会では、個人生活では神が、社会生活では法が平等の拠り所となっている。これに対し、日本では、『和歌の前において平等』という考えがある。和歌の前には、天皇も乞食も平等という日本独特の思想である」と。

シナの儒教には、「礼楽」という考え方があります。『礼記』に「礼は民心を節し、楽は民声を和す」とあります。また「仁は楽に近く、義は礼に近し」「楽は同(どう)を統(す)べ、礼は異を弁(わか)つ」ともあります。「礼」は政治の制度、社会の規範であり、宗教的な儀礼や慣習の形式です。これに対し、「楽」は音楽・詩歌・舞踊です。「礼」だけでは、君主と国民の間に秩序が固定され、堅苦しい関係となります。その隔たりを超えて、楽しく交流・融和するのが、「楽」でしょう。

わが国は、シナから儒教的な制度を採り入れましたが、その一方で固有の和歌の伝統を保ちつづけました。そして、和歌を通じて君民が交流し、調和・一体化するという文化を発展させてきたといえましょう。ページの頭へ

 

参考資料

・渡部昇一著『歴史の読み方』(祥伝社)、『人生観・歴史観を高める事典』(PHP)
 
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■日本文明は西欧より早く独自性を発揮

2006.10.16

 

現在は世界的に近代西洋文明が広がっているので、ヨーロッパが昔から世界の中心であったかのように錯覚しがちです。しかし、今から5百年ほど前には、文明の中心はユーラシア大陸の主要部であるインドやシナ、イスラム地域にありました。また、ヨーロッパ文明はギリシャ=ローマ文明と単純に連続しているように理解されがちですが、両文明には明らかに断絶があります。実際、ローマ帝国の崩壊とともに、ギリシャ=ローマ文明は滅びました。地中海はイスラムの海となりました。

イスラムの繁栄は8世紀から15世紀末まで約8百年間も続きました。この間、ヨーロッパはユーラシアの諸文明の辺境にある遅れた地域に過ぎませんでした。文化的には、隣接するアラビア文明よりずっと劣っていたのです。

私たちは、意識深く刷り込まれた西洋中心の文明の見方を修正しなければなりません。

 

ヨーロッパ文明は、ギリシャ=ローマ文明とは、異なる民族が生み出したものです。西欧に移住したゲルマン民族は、徐々にキリスト教化していきました。5世紀末に、フランク王国の国王クローヴィスがカトリックに改宗したことにより、キリスト教の浸透が進みました。

8世紀前半には、ボニファチウスがドイツに宣教しました。この時、従来のゲルマン民族の信仰が否定されました。自然崇拝・祖先崇拝の喪失です。日本文明は、仏教・道教・儒教を導入しても自然崇拝・祖先崇拝を保持したのに対し、ヨーロッパ文明の場合は、自然崇拝・祖先崇拝という本来の心を失いました。このことが、ヨーロッパ文明に自然支配や個人主義という強い特徴を与えたのです。

 

西欧のキリスト教徒は、聖地回復という理想の下、1096年から1270年のおよそ200年の間、十字軍の遠征を行いました。彼らは、回教徒への侵攻・殺戮・略奪を繰り返しました。

当時はアラビア文明の方が、ヨーロッパよりはるかに高い文化を持っていました。西ローマ帝国滅亡後、生き残ったビザンツ帝国の文明を、イスラム地域は積極的に摂取・消化しました。野蛮なキリスト教徒たちは、イスラム地域に保存されていた親文明の遺産を持ち帰ったのです。

このアラビア文明経由のギリシャ=ローマ文明の摂取が大きな刺激となり、ヨーロッパでは「12世紀ルネサンス」と呼ばれる活発な知的運動と文化の興隆が起こりました。古代の哲学・科学・法学・文学等の文献が、積極的に翻訳されました。このことによって、ヨーロッパ文明は文化的離陸が可能になったのです。ギリシャ=ローマ文明⇒ヨーロッパ文明という二段階の見方は、ギリシャ=ローマ文明⇒アラビア文明⇒ヨーロッパ文明という三段階の見方に補正する必要があります。

 

さて一方、日本文明はヨーロッパ文明より早く、7世紀には既に自立性を示していました。8世紀には『古事記』『日本書紀』、9世紀には『万葉集』という日本文明を代表する文献が生み出されています。最初は漢文で表記されていましたが、やがて漢字から表音文字を取り出して音を表わす道具にします。さらに9世紀から片仮名・平仮名が発明・使用されました。これは漢字から仮名を発明するという画期的な文化創造でした。

寛平6年(894)に遣唐使を廃止して、シナ文明からの文化輸入をやめると、シナ文化の和風化が進みました。いわゆる国風文化の創出です。遣唐使廃止のわずか9年後の延喜5年(905)には、醍醐天皇の勅命により、わが国初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編集が開始されました。ここに漢字か混じり文が登場しました。このことによって、日本語(大和言葉)を自由に表記できるようになったのです。そして10〜11世紀には仮名文字を自在に用いた、華麗なる王朝仮名文学が花開きました。この時代、ユーラシアの東端において、紫式部・清少納言らが活躍したことは驚異的です。ヨーロッパで女性による小説が登場したのは、その約7百年も後のことでした。文字や文学だけでなく、シナ文化の土着化・日本化は広く進み、建築では寝殿造り、彫刻では寄木造、絵画では大和絵、服装では衣冠束帯・十二単(じゅうにひとえ)等が出現しました。こうして、日本独自の文化が次々に生み出されたのです。

12世紀にヨーロッパ文明がアラビア文明の力を借りて、ようやく文化的離陸を始めようとしていた時、日本ではすでに『源氏物語』をはじめ、世界の文明史に明確な個性を刻印する文化が創造されていました。13世紀の鎌倉時代には、一層その個性を大きく発揮していきます。

 

このように4世紀末から12世紀までの過程を見ると、日本文明とヨーロッパ文明がユーラシア大陸の東西で並走してきたことがわかります。そして、この間、日本文明の方が文化程度は高く、また自立性や独創性を早くから発揮していたことが注目されるのです。ページの頭へ

 
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■日本の武士文化、西欧のルネッサンス

2006.11.1

 

日本と西欧は、文明史を並走して13世紀を迎えます。ここで、世界を揺るがす大事件が起こりました。モンゴル族によるユーラシア大陸の制覇です。

ヨーロッパでは、モンゴルの来襲を受ける前、8〜9世紀のカール大帝の時代に封建制が確立し、11〜13世紀にその最盛期を迎えました。封建制のもと、騎士道の精神が生まれました。ヨーロッパの騎士たちは十字軍の遠征をし、イスラム文明に侵攻する武力を誇っていました。

しかし、モンゴルの強さは圧倒的で、ハンガリーが占拠され、ポーランド・ドイツ騎士団諸侯連合軍も敗れました。1241年4月のことです。翌年、モンゴル軍はウィーン郊外まで達し、ヨーロッパは恐怖のどん底に陥りました。ところが、ここでモンゴル帝国の皇帝オゴタイ(チンギス・ハンの三男)が逝去し、モンゴル軍は撤退を始めたのです。もしオゴタイの死がなければ、西欧はモンゴルの大侵略を受けたことでしょう。

 

日本には、二度、モンゴルが来襲しました。元寇です。皇帝フビライ(チンギス・ハンの孫)の指揮下、元軍は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の二度、日本列島を襲いました。当時、日本にも西欧に似た封建制が発達していました。封建制は平安時代後期の荘園制に胚胎し、12世紀末鎌倉幕府のもとで確立しました。その担い手は武士です。

武士の間には、主従の強い感情的結合があり、武士道が発達していました。彼らは英雄・北条時宗の下、当時世界最強のモンゴル軍に対抗し、善戦防衛しました。そして、二度とも台風という天佑によって、日本は守られました。こうして日欧はともにモンゴルの大侵略を受けずに済んだのです。

 

ヨーロッパは、8世紀からイスラムの圧力によって、地中海から閉め出され、陸地に封じられていました。しかし、十字軍の兵士や物資の輸送によって北イタリアの都市が発達するようになり、フランドル低地諸邦との間に交易路が開かれ、商業が復活しました。そして、イスラムとの交易が盛んになり、ヴェネチア・ジェノヴァなどが東方交易の拠点として発展しました。特に肉食中心の西欧人にとって、風味を増す上に防腐効果のある胡椒などの香辛料は珍重されました。それ以上に胡椒は、医薬品として用いられていたのです。

船旅の冒険と投機によって莫大な富を得た新興商人たちは、西ローマ帝国滅亡以来の停滞を破り、新しい文化を生み出しました。それが、14世紀のイタリア・ルネッサンスです。

 

トインビーは、ルネサンスについて、「子文明」による「親文明」の「再生」という見方をしています。子文明が危急に際して、親文明に助けを求め、親文明の理念・制度・思想・芸術・技術などをよみがえらせて危急に対処することを、ルネサンスとみなしたのです。

西欧はルネサンスによって、千年近い低迷から抜け出し、ようやく一つの文明としての個性を表わしました。12世紀以来、アラビア文明経由で摂取して来たギリシャ=ローマ文明の遺産が基になり、創造性を発揮できるようになったのです。文芸のダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、美術のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロら、綺羅星(きらぼし)のような天才たちが輩出しました。ルネッサンスはやがて南欧から西欧へと広がります。

 

一方、日本では、実権を担う武士の気風により、独自性の高い文化が一層発展しました。12世紀から13世紀にかけて、彫刻には運慶・湛慶らの写実的で力強い表現が見られ、建築では大仏様(だいぶつよう)・禅宗様(ぜんしゅうよう)、絵画では絵巻物が最盛期を迎えました。とりわけ個人を描く写実的な似絵(にせえ)には傑作が現われ、藤原隆信の「平重盛像」は、アンドレ・マルローがモナリザに匹敵すると激賞しています。

元寇以後は、台風が勝利に導いたことにより、神国思想が高揚し、神道に理論的な発達を見ました。仏教は土着化されて、鎌倉仏教が登場しました。法然・親鸞・日蓮・道元・一遍らの仏教は、もはやインド・シナの仏教とは明らかに異なる日本的な仏教に変じています。この時代、日本文明の個性は鮮やかに花開きました。それが14〜16世紀には、能や茶の湯などにおいてさらに精神的に深められていきます。

 

こうして日本文明とヨーロッパ文明は、ユーラシア大陸の東西の端において、各々周辺文明から主要文明へと成長し、それぞれの個性を開花していったのです。ページの頭へ

 
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■近代はアジアの海から生れた

2007.2.1

 

日本文明とヨーロッパ文明は、文明史を並走し続けながら、世界史の近代を切り開いていきます。この近代という時代について考えるには、海の存在を視野に入れる必要があります。

このことを提唱したのが、川勝平太氏(国際日本文化研究センター教授)です。氏以前には、近代西欧の歴史を、ヨーロッパ大陸における経済的・社会的変化を中心にとらえていました。いわば陸地を中心とした「陸地史観」です。これに対し、川勝氏は、海洋の重要性に目を向けた「海洋史観」を提唱しています。海洋史観をもって近代の発生を見ると、これまでとはまったく異なったことが見えてくるというのです。

 

川勝氏は、16世紀以降を広義の「近代」とし、その前半となる16世紀から1800年頃までを「近世」、1800年頃以降を狭義の「近代」としています。(1)

そして、川勝氏は、次のように述べています。「近代はアジアの海から誕生した。より、正確にいえば、海洋アジアからのインパクトに対するレスポンスとして、日本とヨーロッパに新しい文明が出現した」と。

上記の引用における「近代」は、狭義の「近代」つまり19世紀以降の時代を意味します。

 

氏の海洋史観を参考にしながら、日欧両文明を対比してみましょう。

ヨーロッパは、14世紀にイタリア・ルネサンスが始まり、ようやく文明としての個性的な創造力を発揮するようになりました。1497年、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰航路を発見すると、西欧は大航海時代に入り、アジアの物産をインド回りで直輸入できるようになりました。それまではインド洋世界ではイスラム教徒を主とする三角貿易が行われていました。イスラム教徒は西アジア、東南アジア、東アジアを結ぶ壮大な商業圏を作り上げていたのです。しかし、新航路を発見した西欧人は直接、東南アジアを中心とする海洋アジアから物産を輸入できるようになりました。

交換するのは、銀が主です。16〜17世紀中葉までは、銀と胡椒・香辛料が交換されました。銀は、ヴェネチアの栄えた時代には南ドイツから、新大陸が発見されてからは新大陸から運ばれました。17世紀後半から18世紀には、木綿と砂糖と茶と生糸が主な商品になりました。銀と引き換えにこれらを手に入れることにより、西欧では、衣料・食物などの生活様式が大きく変わりました。

 

ここで重要なことは、西欧人が、西欧とアジアをアメリカ大陸に結びつける構造を作り出したことです。これこそ暴力と収奪によって非西欧地域を支配する仕組みでした。西欧諸国が帝国の中心部となり、非西欧地域が、帝国の周縁部となる構造です。この中心―周縁構造の植民地支配によって、ヨーロッパ文明は繁栄しました。西欧の白人は、新大陸から銀を奪い取り、アフリカの黒人を奴隷として働かせました。資源の略奪と強制労働によって、暴力的に富を蓄積していったのです。この構造は、人類史上初めて真に世界規模でつくられた「世界システム」の名に値するものです。

古代ローマ帝国、漢帝国等は地域的なものであり、またいずれも政治中心のシステムでした。しかし、15世紀からヨーロッパ文明が進出して作り出したのは、経済中心の世界システムでした。これこそ、近代世界資本主義です。近代資本主義は、最初から大陸間にまたがる中心―周縁の構造の中で発達したものです。アメリカの社会経済史家ウォーラーステインは、この構造をとらえて、「近代世界システム」と呼んでいます。

彼によると、近代世界システムは、「長期の16世紀(1450〜1640年頃)」に、大西洋を囲む地域に西欧を中核、その他の地域を辺境、半辺境という三層構造に編成して成立したものです。

 

この「近代世界システム」の形成過程において、西欧諸国の間で覇権の移動が起こりました。新航路の発見によって胡椒の価格が暴落すると、イタリアが衰退しました。東方貿易の中心はスペイン・ポルトガルに移りました。これにより、16世紀前半を境に、イタリア・ルネサンスは急速に衰退しました。しかし、イタリアで花開いたルネサンスは、北方のヨーロッパ諸国に伝播し、16世紀には西欧ルネサンスを生みました。イギリス・ドイツ・フランス・オランダ・スペイン等で、文芸・美術等に優れた作品が生まれました。覇権はオランダからさらにイギリスへと移行しました。

この間、西欧では、文化・社会・政治・経済に及ぶ文明の大変化が起こりました。すなわち、ルネッサンスに続く、15〜16世紀の宗教改革、17世紀の科学革命や市民革命、18世紀の産業革命等の一連の変化です。一言で言うならば、近代化です。近代化とは、マックス・ウェーバーによれば、生活全般における合理化の進展です。この西欧における近代化、換言すると近代西洋文明の誕生は、15世紀末からのアジア・新大陸への進出と、それによる収奪の上に進行した現象でした。

 

さて、ユーラシア大陸の東部では、シナ文明が繁栄を続けており、海洋はその支配下にありました。13世紀に世界に覇を誇った元(モンゴル)が亡んだ後、14世紀から17世紀にかけて明が栄えました。日本は11世紀の宋に続いて、元・明とも貿易を続けました。そして、ちょうど西欧が大航海時代に入った時代、日本もまた海洋アジアとの交易を始めました。それによって、アジアの文物が直接入り、ヨーロッパと同様に生活様式が大きく変化したのです。

日本人は海洋アジアを天竺・南蛮と呼び、西欧人は東インドと呼びました。両者は、近世成立期の海洋アジアという同じ時空を共有していたのです。日欧はともに貨幣素材を輸出して、海洋アジアから物産を輸入していました。この交易は、日本にとっても西欧にとっても、膨大な銀の流出となりました。出超による赤字が続いたのです。西欧は、この銀を新大陸から収奪し続けました。

これに対し、当時の日本は、世界有数の金山・銀山を持っていました。自給の貨幣素材による交易を行っていたのです。また、日本は、西欧と異なり、異民族を大量虐殺したり、奴隷として強制労働させたりはしませんでした。白人がしたような植民地の獲得・支配は、まったく行いませんでした。この点は、日本文明とヨーロッパ文明の顕著な相違となっています。ページの頭へ

 

(1) 西洋史では、歴史を古代・中世・近代と三つに分け、14世紀ルネサンスあるいは17世紀科学革命以降を「近代」と区分する人が多い。日本史では、江戸時代あるいは安土・桃山・江戸時代を「近世」とし、明治時代以後を「近代」とすることが多い。

 
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■日本の勤勉革命と西欧の産業革命

2007.2.15

 

日本も西欧も、近世(16〜18世紀)はアジアからの文物に依存していました。しかし、ともに貴重な輸入品だった木綿・砂糖・茶・生糸を生産することに成功しました。それによって、それぞれアジア経済からの自立を成し遂げました。川勝平太氏は、そこに世界史の近代が開始されたとし、「近代はアジアの海から誕生した」と表現しています。自立の仕方は、日欧で異なっていました。その違いを見てみましょう。

 

ヨーロッパは、ヴェネチアの時代から18世紀にかけて、イスラムの栄えるアジアに対し貿易赤字を続け、経済的外圧に苦しみました。近代(川勝氏の意味では1800年以降)とは、「この東方からの荒波を逆転させた時代」だと川勝氏は言います。逆転を起こしたものこそ、産業革命でした。

産業革命は、新大陸の発見以来の西欧を中心とした中心―周縁構造の中で、勃発しました。しかし、産業革命が起こった要因には、西欧の社会における内発的な変化があります。西欧では、中世末期に封建制の農村において工業が発生し、徐々に封建制が突き崩され、封建制から資本主義への移行が起こりました。この先端を行ったのがイギリスです。イギリスでは16世紀にマニュファクチュアーが発達し、毛織物の生産が盛んになりました。それによって貨幣が流通して商品交換が一般的になりました。この過程で、共同体が解体され、中間生産者層が資本家と賃金労働者に両極分化し、産業資本が発生し、資本主義的な生産関係が生まれました。やがて毛織物に代わって木綿製品が有力な国際商品となりますが、イギリスはアジアから輸入していた木綿製品を自力で生産するようになったのです。そこに起こったのが、産業革命です。

 

産業革命は1760年代に毛織物工業で始まり、次に綿工業において本格的に進行しました。紡織機の動力は水力から蒸気力に替わり、化石燃料である石炭が利用されるようになりました。動力革命・エネルギー革命は、交通革命をも引き起こし、陸には蒸気機関車、海には蒸気船が登場しました。

産業革命が進行したのは1800年前後のことです。その結果、アジアからの輸入物産の自給生産が可能になり、東インド貿易の構造が一変しました。従来西欧は、16〜17世紀中葉までは、銀と胡椒・香辛料を交換し、17世紀後半から18世紀においては、銀と木綿を交換していました。しかし、産業革命によって逆転が起こり、イギリスがアジアに木綿を輸出し、東方から銀を手に入れたのです。それによって、西欧はアジア経済から自立し、非西欧地域を完全に中心―周縁構造に組み込み、圧倒的な大発展をしていったのです。そして、17世紀に起こった科学革命による諸発見が、資本主義的な産業経営に応用されるようになると、地域差はとめどなく広がるようになりました。人類史上、最も強力な文明が、西欧に確立したのです。

 

さて、ヨーロッパ文明が外に向かったのに対し、日本文明は内に向かい、活動の舞台を自国に閉じるという正反対の方向に進みました。木綿と砂糖と茶と生糸を外から持ってくるのではなく、国内で自給するという方向です。日本の豊かな自然環境がそれを可能にしました。

15世紀から海洋アジアに進出していた日本は、自国にまでやってきたヨーロッパ文明と出会うと、当初は鉄砲などを積極的に取り入れました。東南アジアに進出した日本人は、日本人町をつくりました。しかし、豊臣秀吉や徳川家康は、キリスト教の布教を警戒するようになり、徳川幕府は17世紀前半に「鎖国」を断行しました。「鎖国」は、キリスト教の布教を行うとするカトリック諸国とは絶交し、商業活動だけを目的とするオランダとは交易を行うという外交戦術でした。

川勝氏によると、鎖国には「当時豊かだったアジアに物質的なものを依存していた日本が、アジア経済から鎖国を通じて自立していく過程という面」がありました。鎖国は「当時の世界史の大きな動向に対するひとつの対応」だったというのです。そして、近代西洋文明が資本集約型の経済を発展させ、労働生産性が世界一の水準になったのに対し、日本文明は労働集約型の経済を発展させ、土地生産性が世界一の水準になりました。

 

こうして、川勝氏によると、「西洋が『産業革命(industrial revolution)』を背景にアジアに進出してアジアの豊かさを収奪していくのとは対照的に、日本は国内を『勤勉革命(industrious revolution)』によって豊かにしていくというコースを辿った」のです。

この二つの革命は、ともに生産革命でした。産業革命は資本集約型であり、大量の石炭を消費するエネルギー資源消費型の生産革命でした。これに対し、勤勉革命は、資本を節約し、資源をリサイクルすることに工夫をこらした生産革命でした。ともに「人類史上、生産革命によって、経済社会を形成した点において、対等の文明史的意義を持っています。

 

川勝氏によると、15世紀以来、ヨーロッパはインド洋から、日本はシナ海から、それぞれアジアの外圧を受けていました。その外圧をはねのけるのに成功した時期は、ほぼ1800年頃とされます。それが近代の初めです。そして、近代西洋文明は本格的に植民地支配を広げていくのに対し、日本文明は自給自足体制を築き上げていきました。この体制は「江戸システム」(鬼頭宏氏)と呼ばれます。

「江戸システム」は、約260年間も戦争のない平和な社会(島原の乱からは約230年)、自力更生の経済、リサイクルに徹した環境保全という世界に類のない文明を創造しました。そして鎖国というかなり閉鎖的な環境において、江戸文化という独自の日本文化が爛熟しました。歌舞伎・浄瑠璃・俳諧・日本的儒学・国学など、日本文明の個性そのものです。近松門左衛門、松尾芭蕉、伊藤仁斎、本居宣長など、全く日本的な思想・文化が満開しました。

 

こうした日本に対し、近代化した西洋文明が改めて押し寄せてきました。より正確に言うと、欧米の近代西洋文明が日本に押し寄せたのです。ロシアやイギリス等の船が来航するようになり、遂にアメリカの黒船が来て、砲艦によって日本に開国を迫りました。日本は鎖国をしつつもオランダを通じて海外の情報は得ていたものの、この間、西欧では近代科学が登場し、産業革命が起こり、経済・技術・軍事等で圧倒的な差ができてしまっていたのです。

ここに、日本文明は、近代西洋文明による「試練」(challenge)を受けることになりました。人類史上最強の文明の挑戦です。白人の植民地化・奴隷化に陥るか、それとも独立を保ち独自の文明で対抗してゆけるか。明治維新は、こうした世界文明史的な大事件でした。ページの頭へ

 

参考資料

・川勝平太著『文明の海洋史観』(中央公論社)

・川勝平太著『日本文明と近代西洋』(NHKブックス)
 
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■鉄砲製造で西欧から自衛、国内を統一

2007.3.1

 

ヨーロッパは、15世紀から世界に進出しました。その過程は、白人種による有色人種への暴力と収奪の歴史でした。ヨーロッパ文明と出合う前、中央アメリカの人口は7千万人から9千万人あったと推定されていますが、スペイン人の侵入後、わずか1世紀の間に、350万人に激減したと見積もられます。またアフリカから奴隷として拉致された黒人は、3千万人から6千万人に及び、その3分の2が航海途上で死亡して、大西洋に捨てられたといわれます。有色人種の犠牲者数は、世界大戦の死亡者数さえ上回ります。

こうした暴力と収奪によって、ヨーロッパ文明は、大陸間の支配構造を作り出しました。アメリカの社会経済史家ウォーラーステインは、これを「近代世界システム」と呼んでいます。「近代世界システム」は、1450年頃から1540年頃までに形成されました。この支配体制は、西欧を中核とし、アジア・アフリカ・ラテンアメリカを半辺境または辺境としています。そして、この構造の中で、近代資本主義が発達し、産業革命によって支配体制を完成させました。

外に向かって侵略と搾取をし続ける西欧諸国は、お互いの間でも戦争が絶えませんでした。とりわけ17世紀前半の三十年戦争(1618-48)は、キリスト教の新教国・旧教国が参戦して大戦争となり、ドイツの人口が3分の1になるという悲惨さでした。

 

川勝平太氏(国際日本文化研究センター教授)によると、ヨーロッパ文明による「近代世界システム」では「戦争と平和」という観点から世界秩序が構想されました。この構想を最初に体系化したのは、オランダのグロチウスの著書『戦争と平和の法』(1625)でした。時まさに三十年戦争のさなかでした。この理論をもとにして、1648年にウェストファリア条約が結ばれました。以来、ヨーロッパでは、戦争を世界観の柱として国際関係が律せられることとなりました。これが現在に続く主権国家体制です。主権国家同士の戦争は、1480年から1950年までの460年間に278回にのぼります。約1年8ヶ月に1回の割合で戦争が起こっていた計算となります。当然、莫大な軍事支出が必要となり、1650年代のイングランドは歳出の90%を、フランスのルイ14世は75%を軍費に充てていたといいます。

 

こうした侵略的・攻撃的なヨーロッパ文明から自らの文明を守ることは、容易ではありません。力には力で対抗して身を守らないと、虐殺あるいは支配されてしまいます。ラテン・アメリカでマヤ文明・アステカ文明などが滅ぼされ、アフリカやインドの有色人種が家畜のような奴隷労働をさせられたのは、力に対し自らを防衛する能力を欠いていたためでした。

そのなかで、日本人はヨーロッパ文明に出会った時から、見事に対応し、自衛を行いました。13世紀の元寇の記憶が働いたのかも知れません。天文12年(1543)、ポルトガル人が種子島に鉄砲(火縄銃)を伝えると、領主・種子島時堯(ときたか)はポルトガルから鉄砲を購入し、刀鍛冶に命じて1年後には10挺の鉄砲を作らせています。それから10年もすると、日本中の刀鍛冶が鉄砲を大量に製作し始めました。そして、16世紀後半には、日本は世界最大の鉄砲の生産・使用国となっていました。当時、地球を二分割していたポルトガル、スペインも、日本の軍事力を見て侵略を諦めざるをえませんでした。

 

これほど早く鉄砲製造の技術を習得し、また自力生産できた理由は何でしょうか。武士が政治・社会の担い手であり国防意識が高かったこと、戦国時代だったので武器の需要があったこと、高級な刀剣の作成により技術水準が高かったこと、国内で品質の高い銅・鉄を産出していたこと、人口が当時の西欧のどの国より多く教育程度も高かったことなどが挙げられるでしょう。

日本人は物真似ばかりで独創性がないといわれますが、単にコピーするのではなく、さらに良いものに改良してしまうところに、日本人の真骨頂があります。鉄砲についても、わずかのうちに、発砲装置の改良や、雨の中でも銃を撃てる雨よけ付属装置の考案などをします。

アメリカの銃砲専門家のロバート・キンブローは、次のように言っています。「この改造銃は、近代の火薬を使っても暴発しなかった。昔の日本の職人の技術は、最高級の賛美に値する」と。

 

鉄砲を使った戦法も世界一でした。天文3年(1575)、織田信長は、長篠の戦いで武田の騎馬武者を駆逐しました。この時、信長は3千人の鉄砲隊を3分隊に分けて、一斉射撃を繰り返す戦法を用います。この戦法は、当時の西欧の数段上を行っており、西欧で同様の戦法が見られるのは、約350年後の第1次大戦のドイツ軍だったといいます。それほど日本の軍事技術は先駆的だったのです。

豊臣秀吉は、この軍事力をもって戦乱の世を治め、国内を統一しました。さらに朝鮮の役で海外に進出を試みました。しかし、これに失敗すると、徳川家康は対外的な進出を止め、内政充実の政策を取ります。さらに、幕府は「鎖国」をして「近代世界システム」から離脱します。そして、西洋諸国が内では戦争を繰り返し、外へは植民地獲得に明け暮れていたころ、江戸日本は、戦争のない平和な社会を実現していたのでした。

日本文明は、「鎖国」のなかで、自らの個性を保ち、じっくりと熟成していったのです。ページの頭へ

 

参考資料

・川勝平太著『日本文明と近代西洋』(NHKブックス)

・川勝平太著『文明の海洋史観』(中央公論社)

・ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』(中公文庫)
 
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■江戸社会は世界平和実現のモデル

2007.3.14

 

 日本文明は、17世紀からヨーロッパ文明とは対照的な歩み方をします。

16世紀には世界最大の鉄砲の生産国・使用国であった日本は、江戸時代に入ると、軍縮の道を選びました。当時、世界最高の技術水準にあった鉄砲を捨ててしまったのです。この過程で決定的に大きかったのは、徳川家康のリーダーシップでした。

信長・秀吉に続き、戦国時代に終止符を打った家康は、天下太平の世を作ることを理想としていました。江戸に幕府を開くと、家康は鉄砲・火薬製造の統制を行います。鉄砲や火薬の産地を集中させ、鉄砲代官を置き、製造は幕府の許可制としたのです。寛永14年(1637)に島原の乱が起こりますが、これを治めることに成功すると、いよいよ幕藩体制は安定し、鉄砲はもはや戦闘の重要な要素ではなくなりました。鉄砲の製造数が減少する一方、世界最先端の技術も次第に衰退していきました。

 

こうして日本人は鉄砲を捨て、刀剣の世界に帰ったのです。元米国軍人のノエル・ペリンは、著書『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』で、日本人が鉄砲を捨てた理由を考察しています。第一は、日本は海に囲まれ、鉄砲以外の兵器で侵略から自国を守ることができたこと。第二は、キリスト教に対する反発と同時に、同じヨーロッパに起源を持つ鉄砲も軽視されていったこと。第三に、日本人は刀に武器として以上の価値を見いだし、刀は武士の魂であり、美術品でもあるという独特の意味を持っていたことです。ペリンは、これらを理由に挙げています。

 

銃の統制だけではありません。徳川幕府は、様々な戦争防止の仕組みを作り上げました。参勤交代や新たな築城の禁止、転封(国替え)など、精緻な統制が行われました。その結果、人類史上稀(まれ)なほど長い、平和の時代を実現しました。

ここで最も注目したい点は、長期平和を実現した思想です。日本には、西欧とは異なる世界観があったのです。キリスト教は「愛と平和の宗教」のようですが、その基底にはユダヤ教の怨恨的・闘争的な性格があります。それに基づく世界観は、近代において主権国家間の対立・抗争を原理とする国際秩序を生み出しました。これに比し、日本には、儒教に基づく修己治人の政治哲学がありました。

儒教の経典『大学』に「修身斉家治国平天下」という言葉がありますが、為政者は身を修めて徳を積むことに努力しました。そして、統治の正当性の源泉は、力ではなく徳であると考えられました。武力や策謀による支配は、覇道としてさげすまれ、仁徳による王道が理想とされました。

川勝平太氏は、これを「近世ヨーロッパでは覇権主義(パワー・ポリテックス)、近世日本では徳治主義(モラル・ポリテックス)が発達した」と表現しています。(註1

ここで川勝氏は、16世紀から1800年ころまでの時代を「近世」と呼び、1800年頃以降を「近代」と言っています。

 

さて、徳治主義に基づくならば、軍縮はその必然的な帰結です。まさにこの思想によって、日本は、かつて世界最大の鉄砲の生産使用国であったにもかかわらず、徳川時代に入ると、鉄砲を捨て、徳によって天下を治めるという理想を追求したのです。

 先ほど引いたペリンは、17世紀の日本で、鉄砲が姿を消しつつあったまさにその時に、水道工事が開始されたことに注目しています。江戸ばかりでなく、日本中のいたるところに大規模な灌漑用水路が造られました。多くの個所では固い岩盤を貫通するトンネルを掘削する必要があったので、軍事技術が応用されました。軍縮が我が国の民生の向上を推し進めたわけです。また火薬の用途は弾薬から花火に転じ、夜空を彩る花火が夏の風物詩になりました。鉄砲数の削減に象徴される軍縮は、江戸時代の日本文明の熟成をもたらした要因の一つとなったと言えましょう。

島原の乱(1637-38)から大政奉還(1867)までの約230年間、我が国には戦争がなく、国内は安寧と平和に包まれていました。しかし、黒船による砲艦外交で、欧米が支配する「近代世界システム」に引きずり込まると、日本は、過酷な抗争の世界に身をさらすことになりました。そこから、日本にとっての、真の近代が始まります。

 

日本文明が200年以上、一度も戦争のない社会を作ったのに対し、西洋文明は、15世紀からの500年間、約1年8ヶ月に1回の割合で戦争を繰り返していました。そこに両文明の根本的な違いを見ることができるでしょう。現代世界は、依然として対立・抗争の中にあります。そこにおいて、日本文明が生み出した「江戸システム」は、「技術の進歩は決して止められない」という現代人の思い込みへの反証となっています。

15世紀から20世紀まで、世界を支配したのは、西洋近代文明の原理でした。すなわち、暴力と収奪に基づく対立と抗争の原理です。しかし、この21世紀には、江戸日本的な原理、すなわち共存と調和の原理が世界に広まることが期待されています。ページの頭へ

 

(1) 川勝平太著『文明の海洋史観』(ダイヤモンド社)

参考資料

・ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』(中公文庫)
 
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■地球環境保全のヒントとなる江戸日本

2007.4.2

 

 日本文明は、江戸時代に熟成期を迎えました。江戸時代の日本人は、鎖国の中で停滞していたわけではありません。長期間にわたって平和を維持する統治システムをつくるとともに、閉ざれた国土で生産力を高めながら、環境と調和したリサイクル社会を建設したのです。

 

 江戸時代の初期は大開発時代でした。新田開発、用水整備などにより、わずか数十年の間に、コメの生産量が3倍に増えています。かつては海洋アジアから輸入していた木綿・砂糖・茶・生糸の国産化にも成功しました。生産力の増大は、人口を養う力を高めます。江戸幕府創設の直前である1600年に、日本の人口は1200万人だったのが、1721年には3100万人と2.6倍にも増えました。(1)

  この間、耕地の増加は、225万ヘクタールから296万ヘクタールへと1.3倍です。人口の増加率の半分に過ぎません。これで2.6倍になった人口を養っていたのですから、土地生産性は2倍になったといえます。

 土地生産性が倍増したのは、人々がよく働き、また知恵を絞った結果です。飼料のために広い土地を必要とする牛馬を減らし、人力で代替しました。また、土地や作業に合った鍬(くわ)などの農具が開発されました。さまざまな創意工夫が農書にまとめられ、各地に広められました。江戸社会は、資本を節減し、労働を集約することによって、国内の限られた土地を最高度に活用したのです。ヨーロッパの「産業革命(Industrial revolution)」に対して、日本は「勤勉革命(Industrious revolution)」(速水融氏)を成し遂げたといわれる所以です。

 

ところで一般に生産性の向上は、土地の疲弊や自然環境の破壊をもたらします。この点においても、江戸日本人は、工夫と努力を惜しみませんでした。彼らは生活物資の多くを、徹底的に使い尽くし、最終的には燃やすか、肥料に使いました。それが土地生産性の向上となるとともに、自然の保護ともなっていたのです。

例えば、菜種から油を絞って残る油カスは、窒素分を含んでおり、良質の窒素肥料になります。作物に養分を吸収された後は、腐敗して土の一部になるので、完全にリサイクルする有機肥料といえます。また、稲を刈った後の藁(わら)も日用品を作ったり、堆肥(たいひ)にしたり、残りは燃料などに使いました。百パーセント利用して、大地に戻し、完全にリサイクルしていたのです。「街道ではしばしば旅行者が落としたり捨てたりした藁靴の山を見かけるが、集めて肥料にするのである」とドイツ人医師シーボルトは、書きとどめています。

 

新田の開発は、木の伐採を伴います。乱伐は、災害の原因となります。そこで、幕府は「諸国山川掟」(寛文6年1666)を公布して、大雨による土砂崩れや河川の氾濫が起こらないように、植林の奨励・焼畑の禁止などを申し渡しました。稲作には水が大切です。水が足りないと凶作となり、多すぎれば水害になります。それを調節してくれるのが山々の森林なのです。農民は木を切りっぱなしにせず、植林をして森を育て、森を守りました。森林は降雨による水を貯え、田に水を恵みます。いわば天然のダムの役割をします。また、森林は川の水を通じて田の土壌に有機源を補い、また水や風の被害を防ぐなどの役割もしています。稲作農民にとって、植林による森林の維持は、田を守り、生活を守っていくために不可欠のことだったのです。(1)

 

環境科学者の富山和子氏は、次のように書いています。江戸時代に日本中に繰り広げられた新田開発ブームで、「それまでどうにも手のつけられなかった荒れ地までも、農民、町人たちにより、ことごとく沃野に変えられてきたように、それまで藩の保護からも、林業からも見放されていた荒廃地、骨と皮ばかりのような山の斜面にまで、緑の樹々が植えられるようになったのは、まさにその新田の水のため、無名の農民たちによってのことであった」「江戸時代に始まった木を伐って植えるというこの産業は、自然に対する深い洞察力と、何十年何百年先を考えながら行動する作業の息の長さと、一本一本の木に対する細やかな心配りがあってはじめて可能である」と。

18世紀初頭、日本は、シナ、インドに続く世界有数の人口大国でした。富山氏は言います。「それほどの高い人口を擁しながらも、なお国土の7割を森林に保ち得たのは、ひとえに稲作なればこその土地の生産力のお陰であり、その豊かな水と土壌を約束してくれたのが国土の7割の森林であった。それほどの面積を森林として育て守ることで、土地の生産力が保証されたとも言える」と。(2)

さらに森林の維持は、漁業とも関係していました。山に水が蓄えられ、その水が田を通り、海に流れ込むと、水に溶け込んだ様々な栄養分が、魚たちを養います。農民は漁業の権利を併せ持っていましたから、森林の保全に努めることによって、海からの恵みも得られていたのです。このような、<山―川―田畑―村―海>を一つの生きたシステムとして保全する仕組みが出来ていたのです。

 

閉ざれた国土で生産力を高めながら、環境と調和したリサイクル社会を建設した江戸日本――ここには「持続可能な開発」をめざす21世紀地球文明への大きなヒントがあるのです。ページの頭へ

 

(1)  米と環境の関係については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「米は地球環境を守る

(2)  富山和子著『水と緑と土』(中公新書)

関連掲示

・拙稿「江戸日本文明のエコロジー

参考資料

・農文協編『江戸時代にみる日本型環境保全の源流』(農文協)
 
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■江戸日本文明のエコロジー

2007.7.1

 

 17世紀末の約3年間1690-1692に滞日したドイツ人ケンペルは、次のように記しています。

「この民は、習俗、道徳、技芸、立居振舞いの点で世界のどの国民にも立ちまさり、国内交易は繁盛し、肥沃な田畠に恵まれ、頑健強壮な肉体と豪胆な気象を持ち、生活必需品はありあまるほどに豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくて世界でも稀に見るほどの幸福な国民である」(「日本誌」)

また、幕末に来日したアメリカの総領事タウンゼント・ハリスも、安政4年(1858)に、次のように書いています。

「人々はみな清潔で、食料も十分にあり、幸福そうであった。これまでにみたどの国にもまさる簡素さと正直さの黄金時代をみる思いであった。」と。

ハリスの驚きの目は、江戸の町にも向けられました。そこは、19世紀の欧米のどの都市よりも人口の多い巨大都市でした。しかも、想像できないほど美しく衛生的な町でした。江戸日本文明には、欧米人が驚くほど、幸福な社会が実現されていたのです。

 

もともとほとんど人の住んでいなかった武蔵野の外れに、幕府が置かれ、人工的に作られた都市が、江戸です。急激に大勢の人が入り込んで来たので、ゴミや不用品の処理に困りました。1600年代の前半には、深刻な問題となりました。しかし、この解決に取り組んで、高度のリサイクル社会を実現したのです。

 人が多く住むと、排泄物の処理が問題となります。18世紀以後、江戸の人口は百万人から120万人もありました。糞尿の量は、年間にざっと60万から70万キロリットル。蒸発する分を差し引いても、50万キロリットルはあります。これは1日当たり1400キロリットルですから、10トン積みのトラック140台分になります。江戸の日本人は、これを捨てずに肥料にしたのです。

 江戸庶民の多くは長屋住まいで、トイレは共同でした。その糞尿の所有権は、大家にありました。大家は糞尿を農家に売りました。その収入は、家賃より多かったといいます。一般の町家や武家では糞尿を汲み取らせる代わりに、農家から野菜や漬物などをもらいました。大人一人の糞尿代は、1年に大根50本、ナス50個くらいが相場でした。

 こうして糞尿を大切な資源として利用したので、江戸の町では、下水に流す生活廃水が少なかったのです。隅田川は、河口の佃島(つくだじま)付近でも、白魚が豊富に取れるほど水がきれいでした。パリの空の下を流れるセーヌ川は、こうはいきませんでした。19世紀の文豪ビクトル・ユーゴーは、「レ・ミゼラブル(ああ無情)」の中で、パリの下水道を批判しています。当時のフランスの国家予算は20億フランでしたが、肥料の値段にして5億フラン分にもなる糞尿を、川に流していました。その結果、土はやせ、川が病気を運ぶため、「下水道は誤った考えである」とユーゴーは主張しています。西欧の市民に比べ、江戸の町民は、ずっと文化的な生活を送っていたのです。

 

物を大切にし、何でも最後まで使い切ることが、江戸時代の生活原則でした。いわば「もったいない」の徹底です。その例として、蝋燭(ろうそく)が挙げられます。「蝋燭の流れ買い」という業者がいて町を巡回し、各家で燭台の上に垂れたしずくが固まったものを、秤で計って買っていきました。買い集めた蝋は、安い蝋燭の原料として再利用されました。物を燃やして出る灰さえも、業者が回収して堆肥などに使用されました。

さらに、江戸時代には、様々なリサイクル業者がいました。その業者は3種類に分けられます。

 

(1)職商人(しょくあきんど): 修理が本業で、新品の販売や古物の下取りもした。提灯の張り替え、錠前直し、コタツのやぐら直し、めがね屋のレンズ取替など。

(2)修理・再生専門業者: 古い鍋・釜の鋳掛け、瀬戸物の焼き接ぎ、下駄の歯入れ、研ぎ屋など。

(3)回収専門業者: 紙くず買い、紙くず拾い、古着屋、傘の古骨買いなど。

 

これらの業者は、ボランティアではなく、リサイクル・システムの一端を担う職業人として、活躍していました。使えるものは、すべてリサイクルした上で、最終的に処理のしようのないゴミだけが、船で江戸湾の埋立地に運ばれました。江戸の下町の多くは、そうして造成された土地に暮らしていたのです。

このように江戸日本は、徹底的なリサイクル社会でした。

 

 さて、21世紀の人類を脅かす最大の危機――それは、核戦争と地球環境の破壊でしょう。核兵器も地球環境危機も、科学技術をもって異民族や自然を支配しようとした西洋近代文明が生み出したものです。世界規模で核戦争が起これば、人類はほとんど滅亡するでしょう。また、これ以上、資源・エネルギーの濫用を続けると、地球環境は回復不能なほど破壊されてしまうでしょう。

 人類は、このかけがえのない地球において、限られた資源を有効に使って共生する道を学ばなければなりません。この時、「近代世界システム」から離脱して、平和で自然と調和した社会を実現した江戸日本文明は、これからの地球文明のモデルを提示しているといえます。私たち日本人は、先祖の優れた知恵を、世界の人々に伝える使命を持っているのです。

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参考資料

・鬼頭宏著『環境先進国・江戸』(PHP新書)
 
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■日本文明とヨーロッパ文明の共通点

2007.7.16

 

日本文明は、ヨーロッパ文明とはまったく異なる文明です。しかし、近代にいたる日本文明とヨーロッパ文明の過程を比較すると、いくつか重要な共通点があることに気づきます。

 

(1)日本文明・ヨーロッパ文明とも、古代シナ文明、古代ギリシャ=ローマ文明というそれぞれの地域の主要文明の刺激を受け、周辺文明として発生した。両文明とも温帯を中心に位置し、自然の恵みと厳しさを体験しながら成長して、主要文明の一つになった。

(2)日本文明もヨーロッパ文明も、文明を統合するための原理・制度・機構を「親文明」に学んだ。日本はシナ法による律令制、西欧はローマ法による国家・社会を目指した。しかし、「親文明」である古代主要文明は片や低迷片や消滅した。そのため、「子文明」は、独自の文化を発達させることができた。

(3)「子文明」には、「親文明」が残した文化的統合の象徴によって、緩やかな統一性が残った。日本文明では仏教・道教・儒教と漢字漢文、ヨーロッパ文明ではキリスト教とラテン語がそれである。弱い統合であるにもかかわらず、両文明は分解することなく、約千年にわたり持続した。ただし、日本文明は、固有の神道・皇室・家族国家を統合力として持ち、ヨーロッパ文明は、外来の宗教・言語以外に、固有の統合力を持たなかった。

(4)主要文明の影響により、日本ではそれまでの氏族制度、西欧では部族制度をやめて、血縁集団構造を解体しようとした。しかし、両文明は統合のための諸制度の継承や、軍事的・文化的な統合力の摂取は不十分だった。そのため、家産制による官僚統合国家をめざしたものの、中央集権化は成功せず、それぞれ封建制が出現した。

(5)封建制は家産制と違い、専制体制ではないので、財の分配が主として当事者間の社会的交換によって定まる。封建制の下、日本では武士道、西欧では騎士道が発達した。武士道は領主と武士が親子のような情で結び合い、騎士道は相互の意思の一致による契約関係であった。そこに違いがあるが、ともに個人を重視する気風が育った点では共通性がある。封建制は日欧でのみ発達した制度であり、近代化の土壌となった。

(6)日欧はともに13世紀にモンゴル族の大侵略を受けなかった。ユーラシア大陸の両端に位置するという地勢的条件が幸いした。それにより、それぞれ独自の文化を発達させることができた。まったく文化の異なる異民族による支配を千年以上も受けなかったことが、それぞれの個性を保持させた。

(7)日本文明・ヨーロッパ文明は、主要文明から多くの文化要素を吸収したが、ともにそれを土着化して独自のものを生み出した。例えば、日本文明は仏教・儒教を日本化して日本的仏教、日本的儒教を生み出した。ヨーロッパ文明はキリスト教を西欧化し、各国語訳聖書やプロテスタンティズムを生み出した。西欧におけるプラトン・アリストテレス・錬金術等の摂取は近代科学発生の土壌となり、日本における朱子学の学習は、西洋近代科学を理解する基礎となった。

(8)15世紀には、日本はシナ文明、西欧はイスラム文明という大文明の圧迫により、海に乗り出し、海洋アジアの物産に触れて、大きな刺激を受けた。ただし、その後は、「近代世界システム」と「江戸システム」という対照的な方向に進んだ。そして、それぞれの仕方で近代化の条件を整えていった。

(9)西欧では、呪術の追放による生活全般の合理化が進展した。すなわち近代化である。宗教・思想の合理化に始まり、近代科学が生まれ、民主主義・近代官僚制・資本主義等が発達した。日本は、西欧のような近代化は自生しなかったが、近代西洋文明を摂取し、近代化を推進できる条件を準備していた。武士が土地から離脱し、勤勉の思想が行き渡り、貨幣経済が発達していた等である。

10)日欧とも先行する文明による「試練」(challenge)に創造的に「対応」(response)し、独創性豊かな文明を生み出すことによって、世界文明史を活気あるものとしてきた。西欧は、長くイスラム文明の挑戦に応戦することで、独自の文明を確立した。12世紀ルネッサンス、14世紀イタリア・ルネッサンスがそうであり、17世紀科学革命もそうだった。これに対し、日本文明は、19世紀半ばに近代西洋文明の挑戦を受けることになった。人類史上最強の文明の挑戦だった。白人種の植民地化・奴隷化に陥るか、それとも有色人種が独立を保ち独自の文明で白人種に対抗してゆけるか。明治維新は、こうした世界文明史的な大事件だった。ページの頭へ

 

参考資料

    西尾幹ニ著『国民の歴史』(扶桑社)

・ 同上『一つの文明圏としての日本列島』(『史』平成11年1月号所収)
 
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■日本文明は近代西洋文明にどう対応してきたか

(1)〜近代化の大波

2007.8.1

 

鎖国によって熟成した日本文明は、突如、強烈な外圧を受けました。西欧に勃興した近代文明が、日本に到達したのです。既に、アジア・アフリカ・ラテンアメリカのほとんどの民族は、白人種の植民地とされていました。日本もまた征服・支配の危機に直面しました。しかし、その危機を克服して、わが国は明治維新を成し遂げて近代化の道を進みました。

 

近代史を振り返ると、15世紀後半以降のいわゆる「大航海時代」において、ヨーロッパは地理的な拡大をしました。スペイン・ポルトガルは世界を二分する勢いでした。しかし、それだけで、ヨーロッパの優位が確立されたわけではありません。イスラムは、中世を通して中東から西アジア・東アジアを結ぶ大航海を展開しており、ヨーロッパとは比較にならぬほど巨大な都市文明・大帝国を築いていました。また当時、東アジアに来航したイエズス会の宣教師たちは、シナや日本の文明がヨーロッパ文明に劣らないばかりでなく、しばしば優越したものがあることを認めていました。

後進的なヨーロッパが先進的なアジアの諸文明を乗り越え、圧倒的な存在になるのは、17世紀の「科学革命」から始まります。

 

比較文明学者で科学史家の伊東俊太郎氏は、「世界の近代化に決定的な役割を果たしたのは、近代科学とそれに基づく産業技術であり、結局それを生み出した『科学革命』である」「実に『科学革命』による近代科学の形成・確立こそ、世界史における西欧の優位の真の起源なのである」と述べています。

西欧の近代科学は当初は、イスラムやシナの科学と大差ありませんでした。世界観や価値観の違いにより、自然の認識や研究の方法・態度が異なる程度でした。

ところが、18世紀後半からの「産業革命」によって、近代科学のもつ潜在力が現実化されていったのです。それは、西欧において、近代科学の知識を技術に応用し得る物質的な生産の場が生まれていたからです。すなわち、資本主義的な経営です。そして、近代資本主義による物質的生産力の前に、非西欧諸国は屈服したのです。

さらに、資本と近代主権国家の権力とが結びついたことによって、西欧諸国は強大な力を持ったのです。科学技術と資本の経営体と近代国家の官僚制、これらに共通するものは合理性です。思想や組織等の全般的な合理化が、ものと人に対するかつてない支配力を生み出したのです。

 

その結果、西欧は、地球のほとんど全表面をみずからの支配下におきました。ヨーロッパ文明は北米にも広がり、「近代世界システム」による中心―周縁構造が徹底され、19世紀の世界はいたるところ近代西洋文明の「周辺文明」と化すがごとき状態となりました。インドでは、プラッシーの戦い(1757年)においてイギリスが勝利し、東インド会社がインドの総面積の5分の3を支配するようになりました。

イギリスは、シナ(清)へも進出し、それまで茶や絹を輸入するために大量に放出された銀の回収を目的として、アヘンを輸出しました。これに清が反発すると、アヘン戦争(1840)で打ち破り、イギリスはシナの植民地化の先鋒となりました。他の列強がこれに続きました。こうして19世紀半ばには、アジアの大部分が西欧諸国の植民地・半植民地となりました。

 

このころ、ロシア・イギリス・フランス等の船が相次いで、わが国周辺に出没するようになりました。近代西洋文明の大波が、東の果て、極東にまで達したのです。そして、嘉永6年(1853)には、アメリカから黒船がやってきました。アメリカはヨーロッパ文明が拡大した地域であり、イギリスの植民地から独立すると西部開拓を続け、さらに太平洋へと乗り出しました。近代西洋文明は、西欧とアメリカという二つの中心をもって非西洋社会に伝播したのです。

当時のアメリカ人は新たな土地の開拓支配を「マニフェスト・デスティニー」(明白なる運命)つまり神から白人に与えられた使命であると考え、露骨な砲艦外交によって、わが国に開国を迫りました。この時、日本は敢然とこれに対応したのです。ページの頭へ

 
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■日本文明は近代西洋文明にどう対応してきたか

(2)〜開国から維新へ

2007.8.15

 

日本は17世紀前半のデカルトの時代に、ちょうど鎖国体制に入りました。以後、約220年間、「科学革命」の進行の外で過ごしていました。鎖国中もオランダを通じて、海外の情報は得ていたものの、特に産業革命を経た近代西洋文明とは、物質的生産力において圧倒的な差がついていたのです。

当時、わが国では、攘夷か開国か、その方法をどうするかをめぐって国論が分裂していました。これは、わが国だけにおける特殊な現象ではありません。西欧近代文明による「挑戦」(challenge)を受けた民族は、それぞれの「応戦」(response)をしたのです。

 

トインビーは、文明の発生について、「挑戦と応戦」という理論を説いています。「挑戦」とは、ある社会が環境の激変や戦争などによって、その存亡にかかわる困難な課題に直面することです。「応戦」とは、この厳しい試練に対して、創造的に対応しその脅威を乗り越えようとすることです。

文明はこの「挑戦」に対する「応戦」によって発生する、とトインビーは考えました。そして、「応戦」を無にしてしまうほど「挑戦」が強烈すぎても、また有効な「応戦」を引き出せないほど「挑戦」が弱すぎても、文明を生み出す力にはならないと説いています。「挑戦と応戦」の理論は、その後の文明の各段階にも適応されます。文明崩壊の危機に対して有効な「応戦」ができなかった文明は、滅亡していくのです。

トインビーは、劣勢な文明が優勢な文明の侵略を受けた時に、優勢な外来文明に対する態度には、2つの正反対の態度があることを指摘しています。その典型をヘレニズム文明とユダヤ文明の出会いに見ています。ここでトインビーは、外来文明の優秀なことを客観的に認め、それを積極的に受容しながら自らの劣勢な文明を発展させようとする者を、ヘロデ主義者と呼びました。また、優勢な外来文明に対してあくまでも伝統文化に固執し、排外的な国粋主義を取る者を、ゼロト主義者と呼びました。ヘロデ主義とゼロト主義は、どの文明同士の「挑戦と応戦」においても現われうる二つの思潮です。

この説によると、幕末の日本では、ヘロデ主義者が開国派であり、ゼロト主義者が攘夷派です。先進外来文明に順応する現実的な路線か、固有の文明を保守して抵抗する路線かの違いです。この路線の違いは、明治初期まで見られます。

 

いずれも欧米の外圧の中で民族の独立、文明の自立を守るための真剣な模索です。幕末の日本人は、非常な危機感を持っていました。欧米列強は強力な軍事力と高い科学技術をもっています。その前に、屈辱的な不平等条約も余儀なくされました。ここで外圧の対処に失敗すれば、白人種に隷属することになりかねません。また、もし日本人同士が争えば、その隙に欧米諸国に付け入られるおそれがあります。

実際のところ薩摩藩がイギリスと、長州藩が米・仏・蘭・英と砲火を交えましたが、西欧諸国の軍事力は圧倒的でした。彼我の力の違いを痛感し、薩長を始め、多くの日本人が攘夷の不可能を悟りました。この絶体絶命の状況をどう乗り越えるか、わが国は、揺れに揺れました。

こうした危機意識の中で、民族の中心としての天皇の存在が再認識されていったのです。精神的に団結する核は、天皇以外になかったのです。徳川慶喜によって約700年続いた武家政権から朝廷へと大政奉還が行われ、慶応3年(1867)、明治天皇は王政復古を宣言しました。これが明治維新の始まりです。

 

明治新政府は、慶応4年、明治元年(1868)、新政府の政治方針として「五箇条の御誓文」を公布しました。御誓文は、新たな日本国・日本文明を創造する根本方針を示したものです。

この方針の下で、明治政府は国家建設を進めました。明治2年(1869)に版籍奉還が行われ、同4年には廃藩置県が断行されました。封建制をやめ、近代国家を建設しようとする改革です。廃藩置県の成功は、世界史上比類ない無血革命という快挙でした。こうして日本は、古代からの皇室中心の国柄を明確にしつつ、近代的な中央集権国家を建設するというユニークな国づくりを進めました。その一環として、明治6年には地租改正が行われ、近代的な租税制度への転換が行われました。

国家の基礎となる政治・財政の基礎をつくった明治政府は、富国強兵・殖産興業・文明開化をスローガンとして、日本の近代化をはかりました。そして進歩発展した欧米に追いつくために、総力をあげて、西洋の思想・文化・知識を採り入れることに全力を集中しました。そして、日本は、まさに驚異的な発展を成し遂げたのです。ページの頭へ

 
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■日本文明は近代西洋文明にどう対応してきたか

(3)〜世界への雄飛と迷走

2007.9.1

 

日本の近代化は、西洋近代文明による「挑戦」に対する「応戦」でした。近代化は、同時に西洋化の過程でもありました。国家政策によって、欧米の近代的技術・風俗習慣などが急激に流入してきました。電信・鉄道・郵便などの近代的交通機関、近代工場の経営・学制・太陽暦、軍人・官吏などの洋服、洋食、洋風建築など、衣食住の全面にわたって西洋文明が入ってきました。さらに、こうした文明の基底にある思想つまり啓蒙主義・合理主義や、政治・法・経済・社会の制度つまり資本主義、デモクラシー、欧米近代法、官僚制、そして西洋文明の核心にあるキリスト教までもが入ってきました。これらの総体がどっと流入したのです。その結果、日本は急速に近代化し西洋化しました。

 

明治22年(1890)には帝国憲法の公布、23年には教育勅語の発布ついで帝国議会が開設されました。政府によって資本主義の導入が推し進められ、日清戦争(1894-95)前後には製糸・紡績などの軽工業を中心に産業革命が本格化しました。さらに日露戦争(1904-05)前後には軍需部門を中心に重工業が発達して、産業革命が達成されました。わが国は、この資本主義的工業生産力を持って、近代国家としての発展を確固としたものにしました。

こうして日本は非西洋世界で初めて近代化に成功しました。古代から東洋精神文化の総合地点となっていた日本は、今度は東洋文明と西洋文明の総合の場となったのです。

 

明治日本の最大の危機は、日清・日露戦争でした。これらは、新興日本の国運を賭けた戦いでした。まずわが国は、日清戦争で大国シナを打ち破りました。これは古代より東アジアの文明の中心であったシナ文明から日本文明が完全に自立したことを意味します。次に幕末以来、北から迫ってくるロシアは、日本の独立を脅かす最大の脅威でした。そのロシアと戦った日露戦争では、15世紀以来の西洋白人種の優位を打ち砕き、世界を驚かせました。このことは有色人種に解放への希望をもたらしました。日露戦争における日本の勝利は、被抑圧民族を奮い立たせ、独立への情熱を駆り立てた世界史的な出来事だったのです。

そして世界は20世紀に入ります。この世紀前半は、近代西洋文明が繁栄と腐敗の頂点に達した時期でした。世界は、欧米諸国の激闘の場となり、第1次世界大戦が勃発しました。大戦はかつてない破壊と犠牲を生み出しました。大戦後、1917年にロシアでは共産革命が起こり、共産主義による世界革命の画策が始まっていました。1919年、パリ講和会議が開かれました。この時、日本代表・牧野伸顕は、人種差別を廃止する「人種平等案」を国際連盟規約に盛り込む提案をしました。黒人をはじめとする有色人種も、日本の提案に期待しました。採決の結果は日本の提案に賛成が11人、反対は5人でした。しかし議長であるアメリカのウィルソン大統領はこう言いました。「日本の提案は全員が賛成ではないので否決された。このような重要な問題は全員が賛成しなければ認められない」と。「人種平等案」が規約に盛り込まれると、その影響を受けて、アメリカ国内の人種問題が更に大きく広がることを恐れたのです。アメリカの黒人たちの期待は、大統領によって裏切られたのでした。黒人たちが公民権を得たのは、はるか後の1960年代のことでした。

 

日本が近代国家建設に成功し、ロシアを破り、さらに西洋文明による世界支配体制にもの申すようになると、欧米諸国からの風当たりが強くなりました。日本は、大きな挑戦にぶつかることになったのです。それは同時に、西洋文明と非西洋文明、白人種と非白人種の文明間の力動でした。

明治時代の日本人は、大国シナや強国ロシアに勝つことができました。これは国民が日本精神で結束していたからです。日露戦争でロシアを撃破したことは、欧米が世界を制して以来、アジア人で欧米の大国を打ち破った最初の快挙でした。アジアや東欧の人々は日本を尊敬し、勇気を得ました。

ところが、この一方で、日本人は、近代化・西洋化を進める中で、段々自国本来の特徴を忘れて、ひたすら欧米文化を採り入れ、これに追いつくという考えにとらわれてしまいました。本来であれば、西洋文明は、自国の精神文化をより豊かにし、また自国を進歩・発展させるために、採り入れるべきものです。しかし、明治末から大正にかけて、日本は盛んに外来思想を摂取し、それを中心に動いてきました。なにもかも、すべてにわたって、欧米の文化を模倣することに専念してしまったのです。

その結果、日本本来の日本精神がないがしろにされ、すぐれた国民性が失われがちになりました。国家指導層にある政治家や財界人も、段々日本の本質というものがわからなくなっていったのです。ページの頭へ

 
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■日本文明は近代西洋文明にどう対応してきたか

(4)〜国の進路を誤る

2007.9.16

 

日清・日露戦争でシナやロシアを破り、日本は幕末以来の危機を脱し、国際社会で一定の地位を得ました。東アジアは安定し、日本は自分から攻めていかなければ他から攻撃されるような憂いがなくなりました。すると日本人は次に目指すべき国家目標を見失いました。次第に、政治家が国益に基づく政治よりも、個人的な利益にとらわれるようになり、腐敗堕落していきました。資本主義の発達によって、財界にも私利私欲をほしいままにする傾向が生じました。

そうしたところへ、昭和4年(1929)、世界恐慌が起こりました。自由主義的な資本主義は破綻し、イギリス等の各国がブロック経済政策を行いました。国内に資源が無く、欧米のような植民地も持たない日本は、経済的な窮地に陥りました。この時、わが国にはこの時代を生きる明確な国家理念を持っていませんでした。

 

20世紀前半の世界は、世界戦争の勃発、共産主義の台頭、世界経済恐慌という激動の連続でした。厳しい国際環境と経済危機に直面する中で、わが国の指導層は、的確な判断と行動ができなくなっていました。政治が問題に対応できずにいるなか、軍部が台頭し、昭和5年ごろから「統帥権干犯」を唱えて軍人が政治に口出しをするようになりました。それは、「軍人は政治に関与してはならない」という明治天皇の遺訓に反する行為でした。軍は独断専横で動くようになり、昭和6年には満州事変を起こしました。これは、世界のブロック化の中でシナに進出する行動でしたが、シナの民族主義の抵抗にあいました。

わが国は昭和7年の満州国建設がきっかけで、翌8年には国際連盟を脱退し、国際的孤立化の道を進みました。こうした状況において、政治経済など総合的な視野を持たない青年将校が中心となって、昭和7年には5・15事件、11年には2・26事件を起こしました。シナでは、ソ連共産主義の謀略にあって、昭和12年シナ事変を皮切りに、シナ大陸に誘い込まれ、泥沼に陥ったような状態となりました。

 

こうした中、独伊のファシズムに幻惑された軍部・政治家・官僚が、昭和14年に日独伊三国同盟を締結してしまいました。これは欧米の一層の反発を買い、アメリカによる石油輸出禁止などの厳しい経済制裁を受ける羽目になりました。

日本が国際的に孤立化の道に進んだ昭和8年、「日本精神」論がブームとなりました。この言葉は大東亜戦争において、軍部によって盛んに利用されました。内容は戦意発揚・国策遂行的なものでした。しかし、それは本来の「日本精神」とは違うものであり、独伊のファシズムの影響を強く受けていました。ヒットラーやムッソリー二等の覇道をまねた軍部は、排外的・好戦的な傾向を強め、無謀にも米英との戦争を始めてしまいました。これは日本精神に外れた行動でした。その結果、わが国は史上はじめての敗戦を喫してしまったのです。

 

大東亜戦争は、アジア・太平洋の全域に繰り広げられた、「文明の挑戦と応戦」の一大ドラマでした。それは、白人種西洋文明と有色人種東洋文明という異質なものの激突でした。そして、世界の中心が西洋から東洋へと移行しようとしている時の流れが、そこにはありました。その時の流れを洞察していれば、日本は欧米との戦争に踏み込むことなく、不戦・中立の道を取ることができました。

しかし、当時の日本の指導者は、日本とアジアの発展の時を見誤って、戦う必要のない無謀な戦争に突入してしまったのです。東条英機らが描いた「大東亜共栄圏」構想は、花に例えれば、人工的に早咲きさせようとして、かえって散らせてしまったようなものです。それは、独伊ファシズムをまねて、力づく無理矢理に進めたために、自然の法則に外れ、狂い咲きとなってしまったわけです。これは誠に残念なことでした。ページの頭へ

 
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■日本文明は近代西洋文明にどう対応してきたか

(5)復活・興隆と今後の役割

2007.10.1

 

木にしても、早咲きの花が散って終わりではなく、季節がくれば自ずと満開になっていきます。そのように、日本は時の勢いを受けて、敗戦後、奇蹟的に復興し、旭日が昇るように繁栄への道を進んできました。そして、日本に続くように、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸民族が独立を勝ち取り、400年来の白人植民地主義から解放されました。

日本は大東亜戦争によって莫大な富を失い、何百万という人が犠牲になりました。しかし、大戦を契機として、長い間、白人種によって奴隷状態となっていた有色人種が、鉄鎖から解放されました。アジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸民族がつぎつぎと独立を勝ち取りました。このことは有色人種が起ち上がり、活動発展する時が巡ってきたことを、明確に示す出来事です。

 

トインビーは、昭和31年(1956)10月28日付の『オブザーバー』紙に次のように書いています。「日本人が歴史上残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある」。また、歴史学者としても偉大なH・G・ウェルズは、「大東亜戦争は、大植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」と述べています。

日本を先達として、非欧米諸国は欧米の科学技術を学び取り、これを使用して独自の近代化・産業化を進めています。東南アジア諸国・韓国・台湾・中国・インド等の躍進によって、欧米の優位は絶対的なものではなくなりつつあります。非西洋諸国の「近代化」とは、西欧発の近代科学技術文明に対するそれぞれの地域での応戦のドラマにほかなりません。これは、近代西洋文明の摂取による非西洋文明の巻き返しです。

 

戦後世界は、長く資本主義と共産主義の陣営に二分されていました。これらはともに西洋近代が生み出した主義であり、西洋文明の世界化は進みました。それによって、世界の諸文明は西洋文明の「周辺文明」と化しつつあるといえます。同様に、西欧に発した近代化が、非西洋地域にも広がり、世界全体が近代化しつつあるともいえます。

しかし、この過程は、一方的なものではなく、非西洋文明が西洋文明に対して逆流してもいるのです。すなわち、日本の仏教、シナのタオイズム、インドのヒンズー教、中東のイスラムなど、東洋の精神文化が欧米諸国に流入し、精神的な影響を与えつつあるのです。移民も多く、アメリカは有色人種が白色人種より多くなりつつあります。ヨーロッパでもアラブ人やインド人などの人口が増えつつあります。

 

こうした真の意味での人類の共存の道を切り開いてきたのが、日本国であり、日本文明です。20世紀から21世紀へと入り、世界は大転換を続けています。図式的に言えば、西洋から東洋へ、物質科学から精神科学へ、人間中心から宇宙との調和へ、という転換です。そういう転換の「時」がきているのです。この転換期において、日本は東洋と西洋の融合点に位置し、文明の総合と進化のために重要な役目を担っています。日本はこの大潮流の中で、中心的かつ先端的な役目を担う運命にあるのです。ページの頭へ

 
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日本的倫理は世界的人倫実現の鍵〜和辻哲郎(1)

2004.8.14

 

●人は独りでなく間柄的存在

 

現代文明は行き詰まっており、人類は生存の危機にあります。そうした中で、私たちの生き方が根本から問われています。

 今日、大抵の人は、自分というものがなによりも大切だと感じ、個人の自由や権利を守り、自分らしく生きることが目標だと考えます。実はこうした個人を中心に考える考え方は、人間の歴史から見ると、とても新しい考え方です。わずか300〜400年程前、西欧に始まった考えです。近代西欧から広がったこの思想は、個人や自我が独立して存在するものと考えます。これに対し、根本的な反論を述べたのが、和辻哲郎です。

 

 和辻は、漢語の「人間」という言葉は本来、人と人の間すなわち「よのなか」「世間」を意味し、「俗に誤って人の意となった」と指摘します。これを踏まえて、和辻は、「人間」とは「世の中自身であるとともにまた世の中における人である」と述べます。言い換えると、人間には「個人性と社会性の二重性格がある」というわけです。性格といっても文字通りの意味ではなく、個人性と社会性の両面があると理解すればよいでしょう。

 和辻は『人間の学としての倫理学』(昭和9年刊)で、自論を展開します。彼によると、「倫理」の「倫」という言葉は、元来「なかま」を意味し、人と人の「間柄(あいだがら)」や「行為的連関」(係わり合い)の仕方や秩序をも意味します。一方、「倫理」の「理」は、ことわり、すじ道を意味します。それゆえ「倫理」とは「人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる」ものです。そして、和辻は、倫理学とは「人間関係、従って人間の共同態の根底たる秩序・道理を明らかにしようとする学問」であると定義します。彼によって、個人ではなく間柄を基本においた、新しい倫理学が誕生しました。

 

 西欧近代に生まれた個人主義的な人間観は仮構にすぎないと、和辻は説きます。個人主義的な人間観の元祖といえるのは、デカルトです。彼は、すべてのものを疑ったすえに、それを疑っている自己の存在だけは自明であるとし、そこから「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という認識に到達しました。しかし、和辻はデカルトを次のように批判します。

 「この問いの立場は、実践的行為的連関としての世間から離脱し、すべてをただ観照する、という態度を取ることにほかならぬ。従ってそれは直接的に与えられた立場ではなくして人工的抽象的に作り出される立場である。言い換えれば人間関係から己れを切り放すことによって自我を独立させる立場である」。

 すなわち、現実の社会における人間関係から自分を切り離し、ただ世界をながめているだけの自分という、作りものの立場だというのです。

 「疑う我が確実となる前に、他人との間の愛や憎が現実的であり確実であればこそ、世間の煩いがあるのである。言い換えれば観照の立場に先立ってすでに実践的連関の立場がある。デカルトは後者の中から前者を引き出しながら、その根を断ち切ってしまった」。

 和辻はこのように、デカルトの仮構をあばきます。ある面では、常識的な発想による批判です。しかし、西欧近代では、こうした常識的な考え方が、どこかへ行ってしまい、極めて抽象的な人間観に陥ったのです。デカルトの影響を受けたホッブスやロックは、原子(アトム)のようにそれ自体で存在する個人を想定し、そこから出発して社会の成り立ちや国家の由来を考えました。社会契約説がそれです。現代の日本国憲法や人権思想も、基本的にはこうした考えに基づいています。その根本には、デカルトのコギトがあります。彼の影響は20世紀にまでも続き、フッサールやハイデッガーにも、デカルト以来の個人主義の色彩が残っていることを、和辻は見破り、その仮構を暴露しました。

 

 本来、人間は、決して単なる個人ではありません。人は誰でも自分ひとりで生きているのではありません。親や先祖があるから自分が生まれてきたのです。妻や夫、兄弟や友人、子どもや孫、社会や国家があって、自分はその関係の中にいるのです。この至極当たり前のことを、西欧近代の思想は軽視しています。そこから抽象的で個人主義的な考え方が出ています。しかし、人は、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な間柄の中で生きているのです。これは古今東西変わらない事実です。和辻の言い方によれば、人間とは様々な間柄においてある「間柄的存在」です。こうした生きた関係性において人間を考察することによってこそ、人間の倫理を解き明かすことができると、和辻は主張したのです。

 

 和辻は、間柄の考察を、「家族」や「親族」、「地縁共同体」や「経済的組織」、「文化共同体」や「国家」へと広げていきます。また、間柄がおいてある空間としての「風土」の研究も行いました。その到達点が、主著『倫理学』全3巻(昭和12年〜24年刊行)です。これは、西欧近代思想に対抗して打ち立てられた東洋的・日本的な倫理学です。また同時に、近代思想を超える新時代の倫理学の試みでもあります。

 個人主義的な考えが多くの弊害をもたらしている今日、和辻の「間柄的存在」という考えは、私たちに大きなヒントを与えてくれています。

 

●「公と私」の体系

 

人間は、個人個人が独立して存在しているのではありません。人間とは、様々な間柄のなかで生活している間柄的存在です。言い換えると、人間は共同体という「人倫的組織」の中で生きているのだ、と和辻哲郎は言います。

 

和辻は、人倫的組織を、「家族」「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」「国家」の6つに分けて考察します。そして、「公と私」という問題を解き明かしていきます。人倫組織は、これらの諸段階を経て、私的なものから、公的なものへと高められるというのが、和辻の主張です。(1)

 

私たちにとって最も身近な私的存在は、男女二人の関係です。男女は心身の全体をもって互いにかかわり合い、二人の間では「私」が消滅します。このプライベートな関係が世間に公認されるのが、婚姻です。これによって、男女関係は夫婦関係となります。婚姻は、男女関係という私的なものを、公的なものに変えるのです。次に夫婦という二人の共同体に子供が誕生すると、親子の関係となり、三人の共同体となります。さらに子供が生まれると、兄弟姉妹の間には同胞共同体が生まれます。

夫婦・親子・兄弟等による「家族」は、さらに「親族」という、より公的な人倫組織の一部に含まれます。親族の間では、それぞれの家族の事情は「私」的なものとなるわけです。次に親族は「地縁共同体」へ、「地縁共同体」から「経済的組織」へ、「経済的組織」から「文化共同体」へと、より高次の段階に包摂されます。どの組織も、前の段階の組織が持つ「私」を超えることによって実現されます。そして、より「公」的で開放的な性格を持ちます。しかし、同時に、後の段階に対しては、より「私」的で閉鎖的な性格を持っています。このように「公と私」は、階層的で入れ子的な構造をもっていることを、和辻は明らかにしていきます。

 

そして、和辻は、「私」をことごとく超克して、徹頭徹尾「公」であり、「公」そのものである人倫的組織が「国家」である、と説きます。そして次のように述べます。「国家は家族より文化共同体に至るまでのそれぞれの共同体におのおのの所を与えつつ、さらにそれらの間の段階的秩序、すなわちそれら諸段階を通ずる人倫的組織の発展的連関を自覚し確保する。国家はかかる自覚的総合的な人倫的組織なのである」。国家は、さまざまの段階の人倫的組織をすべて「己れの内に保持し、そうしてその保持せるものにおのおのその所を与えることによって、それらの間の発展的連関を組織化しているのである。その点において国家は、人倫的組織の人倫的組織であるということができる」と。

 

以上のような和辻の社会観・国家観は、西洋近代思想とは大きく異なっています。デカルトが考えたような、間柄的存在に先立って存在するという個人を、和辻は否定します。そうしたアトム的(原子的)な個人が契約によって社会をつくったという、ホッブスやロックの社会契約論も否定します。また、国家を個人の利益の擁護を目的とする一つの特殊社会ないし打算社会とする契約的国家論をも斥けます。そのような西洋近代思想は、人間の本質を認識するものではないことを、和辻は明らかにしました。

 

さて、その一方、和辻が高く評価したものがあります。それは、教育勅語です。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という家族的道徳に始まり、「朋友相信シ」「進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」という社会的道徳に進み、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という国民的道徳に至ります。和辻は教育勅語を、人倫的組織の各段階の道徳を示し、また諸人倫を包摂する国家の構成員の道徳を示すものとして、高く評価します。そして、教育勅語は、「私」的なものから、より「公」的なものに進み、「私」を超えて「公」に貢献する倫理を体系的に説いていることを、解き明かします。同時に、和辻は、教育勅語には、西洋近代思想を超える、人類普遍的な倫理があることを明示しているのです。(2)

 

●世界的人倫の実現を

 

和辻哲郎は、「国家」とは、「私」を超克した「公」そのものである人倫的組織と考えました。しかし、国際社会という、より大きな「公」の場においては、国家は新たな公共性を担う存在でもあります。この点に関する所論を見てみましょう。

 

 和辻は、国家の根本的なあり方とは、すべての国民が「所を得る」ようにすることであるとします。そして、「家族」にはじまり、「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」までのあらゆる人倫的組織の人倫が実現することです。そのために、国家がなすべきことは、国民に「正義の保証」をすることであり、「仁政」つまり仁愛に基づく政治をすることだとします。そして、全国民が「所を得る」ようにするという国内における道義の実現は、「万邦をしておのおのその所を得せしめる」という国際的な道義の実現につらなっていきます。

 

和辻は戦前、国家を人倫の至上と考えていましたが、戦後はそれまでの自説を是正しました。戦後世界を見た和辻は、いまや国際社会は「世界的国家」の方向に向かって動こうとしていると考えたからです。そして、過去の世界史の場面は、諸国家・諸民族の対立と争闘の場でしたが、いまや人類は、民族や国家の別なく一つの共同体を形成すべきであるという展望ないし理念を、歴史的に生み出すに至ったという認識を明らかにします。「世界史の意義は世界的な人倫的組織への方向にある」と和辻は述べました。

ここにおいて和辻は、それまでの国家的国民的な倫理学を、世界的人類的な倫理学へと発展させたのです。彼は次のように書いています。

「いかなる民族も、家族を形成し地縁共同体を形成し、そうして言語、宗教、芸術、思想等の共同を実現せざるを得ない。(略)これらの民族におのおのその所を得せしめ、その特殊な形態においてそれぞれその固有の国家を形成せしめることは、正義即仁愛を世界的に実現するゆえんである」と。

続いて和辻は、各国家・各国民はなにをなすべきか、を論じます。「一つの世界」という「課題の解決に参与し得るためには、いかなる国民もまず一つの国民としての人倫的組織の実現に努めなくてはならない」。次に、確固たる人倫体を形成した諸国民が組織を作り、「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」を形成する、という順序となる、と。

 

こうした和辻の考え方は、近年わが国で流行している、家族や民族や国家から自立した個人が地球市民として連合して地球社会をつくるという個人主義的な考え方とは、対照的な道を指し示しています。和辻は、人間の「個人性と社会性の二重性格」に基づいて、人間の本質をとらえ、家族や民族や国家を肯定するからです。そして、「一つの世界」をめざすためには、それぞれの国民が確固たる人倫組織を実現すべきであるとします。いわば、それぞれの国で、人々が人倫に基づいて家族・地域・組織を形成し、文化を育み、道義に基づいた立派な国づくりをする。そうした国家が寄り集まることによってこそ、「世界国家」が実現できると和辻は説くわけです。

「世界国家」は、世界的なひとつの共同体であり、西欧近代の「個」の原理に基づく近代主権国家という卵の殻を破ってこそ、可能となるものです。和辻は、政治的には各国民国家は主権を放棄すべきとします。しかし、文化的には「諸国民の文化をそれぞれの独自の性格において発展せしめつつ、しかもそれらの異なった文化を互いに補充し合い交響し合うように」すべきだと主張します。各国民は互いに侵すべからざる尊厳と価値をもち、「いかなる国民も、他の国民を支配してはならないとともに、他の国民に支配されてはならない」と、国際社会の倫理的原則を述べます。各国による主権の放棄が、超大国や一部の組織による支配体制を生み出すのではいけない、文化的には多様なものの共存調和が実現されるべきだという考え方でしょう。

 

それでは、わが日本国民は、どのようにしてこの課題に取り組むべきでしょうか。そのためには「教育勅語の本義に沿うことが肝心である」と和辻は説いています。「教育勅語の本義」とは、間柄的存在である人間が、家族的道徳、社会的道徳、国家的道徳の実践を通じて、万民が所を得る国家をつくり、さらにその道を押し広めて、万邦がその所を得る世界的な人倫組織を実現することにあるからです。一視同仁・四海同胞・共存共栄の理念ということもできます。

和辻は、20世紀後半以降の世界において世界国家実現をめざすために、教育勅語の再評価を促したのです。

 

 教育勅語は、過去において、日本精神を最もよく表現したものといえます。また、和辻の倫理学は、教育勅語を踏まえつつ、日本精神を学術的に解き明かし、発展させようとした最良の試みのひとつといえるでしょう。和辻倫理学を一言で言えば、日本精神の倫理学です。しかも、国際化時代における日本精神の倫理学として、再評価すべきものです。

今日、国際社会という「公」の場において、日本人がなすべきことを考える際、和辻哲郎の世界的人類的な倫理学には、大いに傾聴すべきものがあるといえるでしょう。ページの頭へ

 

(1) 「公と私」の問題については、以下の項目をご参照ください。

公と私

(2)教育勅語については、以下の拙稿をご参照ください。

教育勅語を復権しよう

参考資料

・和辻哲郎著『人間の学としての倫理学』(岩波書店)、『倫理学』(岩波書店版『和辻哲郎全集』第10〜11巻)

 
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■風土と文明と民族の心〜和辻哲郎(2)

2004.9.1

 

 和辻哲郎の名著に『風土』があります。この本は、単に地理学や比較文化論の本ではなく、和辻の倫理学の一環をなすものです。それとともに、この本は、倫理学に基づいて風土と文明の関係を考察した本でもあります。

 

若き和辻はハイデッガーの著書『存在と時間』に衝撃を受けました。20世紀を代表する哲学者ハイデッガーは「存在とは何か」という問いのもとに、現存在つまり人間の存在を分析しました。その哲学は存在論とか実存哲学として有名です。

人は漠然とではありますが、存在について理解を持っています。そして、自分に過去と未来があり、いつか死ぬことを知っています。ハイデッガーは、そうした現存在を時間との関わりにおいて論じ、さらに存在そのものの意味を時間に見出そうとしました。これに対し、和辻は異論を唱えます。人間存在は時間性だけではとらえられないからです。人が単に個人として生き、また死ぬのではありません。人は個人的とともに社会的な存在であり、他者とかかわり合う空間の中で、生の時間を生きています。それゆえ、人間の存在は、時間性とともに空間性からもとらえねばなりません。時間性とは歴史的、空間性とは風土的ということです。そこで、和辻は人間存在の考察のために、風土の研究を行いました。その成果が、昭和10年(1935)に刊行された『風土―人間学的考察』です。

 

和辻がいう風土とは、客観的な自然環境のことではありません。風土は主体的な人間存在の表現であり、人間の自己了解の仕方です。例えば、寒気は、我々の外にあって、我々に迫ってくるのではなく、我々が寒さを感ずるのであり、そこに寒気を見出すのです。また、我々は、他者とともに同じ寒さを感じ、日常の挨拶に用います。寒さの感じ方自体が、間柄的で共同存在的です。「だから」と和辻は述べます。「寒さにおいて己れを見出すのは、根源的には間柄としての我々なのである」「すなわち我々は『風土』において我々自身を、間柄としての我々自身を、見出すのである」と。

 

さて、「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される」と和辻は述べます。そして、海外を旅した自身の体験に基づいて、風土をモンスーン、沙漠、牧場の3類型に分けます。さらに、東アジア、南アジア、西アジア、ヨーロッパの風土的特性と民族・文化・社会の伝統的特質の関係について考察します。

和辻は、日本の風土をモンスーンの特殊形態であるとします。モンスーン型は、インドから東アジア一帯に見られるもので、暑さを素直に受け入れる受容的な性格と、大雨による災害にもじっと耐える忍従的な性格を特徴とします。その中で、日本の風土は、規則的でありつつ、同時に変化にもまれています。日本はユーラシア大陸と太平洋の間にあり、極めて変化に富む季節風が吹き、夏は突発的で猛烈な台風が来て大雨をもたらし、冬は大雪をもたらします。言い換えると、日本の風土は、熱帯的とともに寒帯的であり、また季節的でありつつ突発的であるという二重の性格をもっています。こうした気候の影響により、日本人の国民性には、モンスーンの受容性・忍従性に、熱帯のあきらめ、寒帯の辛抱強さなどが加わっていると和辻は考えます。そして、次のように述べます。

「日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が、変化においてひそかに持久しつつ、その持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が、反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の裏に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられる。それは、“しめやかな激情”“戦闘的な恬淡”である。これが日本の国民的性格にほかならない」と。

 

 同じようにして、和辻は様々な民族について、風土的特性との関係を考察します。これは、風土と文明の関係を論じ、文明の中核である精神と風土の関係を明らかにしようとしたものともいえます。

さて、和辻によれば、人間存在は時間的と同時に空間的存在であり、歴史的・風土的な特殊構造を持っています。それゆえ、地球上の地理的条件による風土の多様性が、諸文明の多様性の基礎となっています。これを抽象的な普遍思想によって一元化しようとするのは、無理があります。政治的には「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」をめざすとともに、文化的には多様なものの共存調和を図るべき所以の一つが、風土と文明の関係に求められるのです。

 

和辻の名著『風土』は、人間学的生態学的な風土論の先駆として不朽の価値をもっています。また、日本学・日本人論に大きな影響を与えています。それと同時に、倫理学に基づいて、風土と文明の関係を考察した本ともいえるのです。ページの頭へ

 

参考資料

・和辻哲郎著『風土――人間学的考察』(岩波文庫)

 
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