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  公と私

                  

題 目

目 次

■01 日本の「公と私」(長文)

■02 「公と私」における個人と人権

■03 権利とは何かーー「力」から「徳」への転換

■04 小泉八雲が伝えた日本人の「公共心」

 

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ber117

 

「公と私」における個人と人権

2004.12.22

 

現代は、「個人」の時代です。今日、わが国では、大抵の人は、自分というものがなによりも大切だと感じ、個人の自由や権利を守り、自分らしく生きることが目標だと考えています。そして、「個人の権利」がいたるところで主張されています。また、「個人主義」が国や社会の原理とされています。それによって「公」が後退し、「私」が横行しています。「公と私」について考えるには、「個人」の概念の見直しが必要です。いったいわが国では、こうした「個人」の概念は、いつ発生し、どのような影響を与えてきたのでしょうか。

 

●近代的な人間の概念

 

一人一人に名前があり、言語には人称があります。ですから、「個人」の概念自体は、人間の歴史上、ごく早く発生したものと思われます。しかし、今日のように個人を中心として社会をとらえる考え方は、とても新しい考え方です。また、一部の地域にのみ発生したものです。すなわち、300〜400年前に近代西欧に発生し、そこから非西欧世界に広がったものです。

本来、人間は、決して単なる個人ではありません。人は誰でも自分ひとりで生まれてきたのではありません。親や先祖があるから自分が生まれてきたのです。そして、親や大人に育ててもらいながら、自ら成長してきたのです。今も妻や夫、兄弟や友人、子どもや孫、社会や国家があって、自分はその関係の中で日々、生活しています。人は、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な間柄の中で生きているのです。これは古今東西変わらない事実です。倫理学者・和辻哲郎の言い方によれば、人間とは様々な間柄においてある「間柄的存在」なのです。そして間柄の根本には、生命のつながりがあります。人間はなにより生命的存在であり、生命の維持・継承が社会関係の根底にあります。

この至極当たり前のことを、近代西欧の思想は軽視しています。生命的間柄的存在である人間の具体的な事実を捨象して、「個人」の概念を生み出したのです。その「個人」は、国家も歴史・伝統も宗教も家族や地域の共同体ももたない抽象的な人間です。そして、原子(アトム)的な個人を、集団より先在する要素とし、個人を原理として、社会の構成を考える考え方が、個人主義です。人間の個人性を社会性より優先する思想です。

こうした近代的な「個人」の概念に基づく人間観は、今日のわが国において、大きな弊害を生み出しています。続いて、わが国における「個人」の 概念の発生とその影響について見てみたいと思います。

 

●わが国自生の「個人」意識

 

現代的な「個人」の概念は、わが国固有のものではありません。それは、明治初期から流入してきました。そして、それが社会常識となったのは、大東亜戦争後、昭和後半期のことです。

わが国においても、近代以前から「個人」の意識はありました。ただし、それは西欧近代の「個人」概念とは異なるものであり、独自の文化にもとづくものでした。伝統的な「個人」意識においては、「個人」とは、親子、夫婦、兄弟、君臣などの具体的な社会関係における「個人」でした。そして、社会性が個人性より優先し、「個」より「全」、「私」より「公」が上位とされました。こうした日本の伝統的社会のあり方を価値体系として表現するのに有効だったのが儒教であり、さらにそれを日本化したところに確立されたのが武士道でした。

武士道は、江戸時代に「士道」として体系化されました。それ以前の戦国時代までの武士道を、日本化した儒教を用いて独自の倫理道徳としたものです。この士道的な武士道において、武士とは、社会関係における自己の役割を認識し、自己の判断・行動に責任をもつ「個人」でした。「個人」の生死は、「家(いえ)」の存続・繁栄・名誉のために決せられました。「個」より「全」、「私」より「公」のために、主体的な決意のできる「個人」が、武士でした。そして、自己の行いを恥じ、名誉を守るために切腹することは、その責任感の究極的な表現でした。

幕末に、欧米列強が押し寄せてきたとき、日本の社会には、「公と私」の階層構造がありました。すなわち、個人より家、家より藩、藩より国という階層構造です。藩は藩内では「公」ですが、藩外では「私」となります。幕府は「公儀」ですが、朝廷という上位の「公」に対しては、徳川家の「私」となります。そして、列強の圧力を受けた民族存亡の危機において、武士たちは、より大きな「公」のために、「私」を捨てて、行動しました。日本という国のために「個人」として行動できる人間が登場したのです。国禁を犯して海外に渡航しようとした吉田松陰、土佐藩を脱藩して大政奉還に奔走した坂本竜馬など、封建制度の枠を超え出て、国家を考える個人が誕生しました。こうして近代日本の「個人」は、西洋文明の挑戦に対する応戦の中で誕生しました。その新しい「個人」は、国家という「公」のために「個」を確立したのでした。この時、「個」より「全」、「私」より「公」のために行動する武士道の倫理が、重大な役割を果たしたのです。

 

●国家独立を守るための「個」の自立

 

幕末に洋行した武士たちは、欧米の近代文明、政治・社会制度を視察しました。そのうちの一人が、福沢諭吉です。

福沢は、万延元年(1860)、咸臨丸に乗ってアメリカに行き、その後、ヨーロッパをも訪れ、近代西洋文明をつぶさに見聞しました。その経験をもとに書いたのが、『西洋事情』(1866-69)です。本書が伝えた封建的な身分のない社会、議会や選挙という制度など、当時の日本人には驚天動地の新知識でした。

さらに維新後、福沢が、広範な知識と深い洞察をもって、これからの日本人は何をすべきかを説いたのが、『学問のすすめ』です。『学問のすすめ』の第1篇は、明治5年(1872)に発表されました。これは日本はじまって以来の大ベストセラーとなりました。福沢は、本書で旧来の儒学ではなく、新しい「実学」を推奨しました。「実学」とは、サイエンスです。サイエンスといっても、自然科学のことだけではありません。政治学や経済学や倫理学など人文科学も含めた、近代西欧生まれの実際的な学問のことです。そして、福沢は日本が文明化すること、言い換えれば西欧諸国にならって近代化することを唱導しました。

また、福沢は、日本にとって文明が必要なのは、国の独立を守る手段であると述べています。すなわち、「国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」と。欧米列強がアジアに進出し、インドやシナが蹂躙(じゅうりん)されていた当時のアジアにおいて、国家・民族の独立を守ることは、至上命題だったのです。

そして、福沢は、明治8年に刊行した『文明論之概略』で、国の独立を保つために必要なのは、個人個人の独立心だと訴えました。ここにおいて、福沢は、「個人」の自立を説きます。これがわが国で思想として「個人」の概念が説かれた始めでしょう。それは、封建的身分制度からの自立であり、藩を単位とした私的社会関係からの自立でもありました。

福沢は、「貧富強弱の有様は、天然の約束に非、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあら、何西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」

この最後にある「一身独立して一国独立する」ということこそ、福沢が日本人に最も訴えたかったことでしょう。

ここでは、近代的な「個人」の意識の確立が、国家の独立の条件とされています。近代的な「個人」の概念は、今日と違って「私」の方向へではなく、「公」の方向へと向けられていたのです。すなわち、「公」のための「個」の自立です。わが国では、こうして「公」、つまり国家・民族の独立のために「個人」の概念が打ち出されました。

 

●近代西欧的な「個人」概念の輸入

 

福沢に続いて、明六社などの啓蒙思想家によって、スマイルズ・ベンサム・ミル・スペンサー等の著作が、翻訳・紹介されました。それらは、17世紀以来、発達してきた近代西洋の社会思想を表しており、「社会契約説」「天賦人権論」「自由主義」「デモクラシー」等が、一挙にわが国に輸入されたわけです。

これらのうち「社会契約説」は、現実的な社会関係を捨象した抽象的な個人を想定し、国家社会の成立は個人の契約によるとする思想です。「天賦人権論」は、人間は神(キリスト教のGod)によって創造され、生まれながらに平等の権利を与えられているという思想です。「自由主義(リベラリズム)」は、国家権力から個人の権利を守る思想です。「デモクラシー」は、民衆が国家権力に参加する制度です。

これらの社会思想の核心にあるのが、近代西欧的な人間観でした。原子(アトム)的な個人を、集団より先在する要素とし、個人を原理として、社会の構成を考える思想は、17世紀のホッブズ・ロックに始まる思想です。これは、人間の生きた現実を括弧に入れて、観念的に生み出した思想にすぎません。彼らにはデカルトの影響が見られます。すなわち、コギト(我思うゆえに我あり)を認識の原理とする理性的自我意識と、物心二元論・要素還元主義の影響です。

こういうわが国にはかつてなかった、全く異質な「個人」の概念が、明治の日本に知られるようになりました。その影響が表面化してきた例として、自由民権運動が挙げられます。その主な担い手も、かつて武士だった者たちでした。

これは近代西欧的な「個人」の権利として、特に国家権力への参政権を求めるものでした。しかし、注目すべきは、自由民権運動は、「個人」の権利の取得・拡張を主目的とするものではなかったことです。それは国権の強化と民権の実現をともに求める運動でした。いわば国家的「公」と個人的「私」の両方向の確立を求める思想です。しかも皇室を尊重し、君民共治の国家を建設しようとする運動でもありました。自由民権論者は、藩閥政府が政治を「私」しているのに対し、五か条のご誓文にある「公論」の実現を求めました。彼らの運動に応じる形で、明治22年に帝国憲法が発布され、翌年帝国議会が開設されました。

大日本帝国憲法は、天皇が統治大権をもつとし、天皇の恩賜という形で、臣民としての国民に権利を与え、これを保障しました。権利とは、天皇が国民に賜ったものでした。また、「臣民権利義務」として、権利と義務は対になっていました。権利の内容は、今日に比べ限定されていました。その一方、義務には、戦後の憲法にはない国防の義務、国家への忠誠義務がありました。当時の義務観念には、単に法律上の義務というだけでなく、人として行うべき務め、国家公共のためになすべき務めという道徳的な意味合いが強くあったと思われます。それゆえ、「個人」の権利だけが主張されることは、ほとんどありませんでした。

また帝国憲法発布の翌年、教育勅語が発布され、国民が実践すべき道徳が示されました。教育勅語は、伝統的な家族主義と、近代的なナショナリズムを融合させたものでした。勅語は、「公」を優先した家族道徳・社会道徳・国民道徳の実践を呼びかけています。

こうして明治日本は、伝統を尊重しつつ近代化を進め、独自のバランスを持つ「公と私」のあり方を生み出したと、私は考えます。そこには、かつての武士道の伝統が、生きていたと思います。すなわち、「個」より「全」、「私」より「公」のために行動する倫理です。

戦前までのわが国では、近代西欧思想を、模倣や追従の対象とはしていませんでした。採り入れはするが、自国の伝統・文化・国柄を踏まえて、摂取しようとしたのでした。むしろ、欧米流の個人主義・自由主義・デモクラシーは、超克すべき欠陥思想と認識されていました。

 

●戦後大変化で、公私のバランスに崩れ

 

巨大な変化が起こったのは、大東亜戦争後です。大東亜戦争の敗北の結果、外国人によって、わが国の歴史・伝統・文化は否定されました。替わりに個人主義・自由主義・デモクラシーこそ、信奉すべき価値として与えられました。GHQ製の憲法には、主権は国民に存すると定められました。基本的人権が保障され、国民の権利は拡大した点は向上ですが、その半面、義務が削減され、国防の義務、国家への忠誠義務がなくなり、実質的な義務は、納税のみとなりました。国家公共のために、何かをするという意識より、いかにして個人の権利を拡大するかという意識に変化しました。

GHQの占領政策の一環として民法が改正され、家制度が否定されました。家父長制の大家族が縮小し、核家族化が進みました。また、資本主義経済が発達することにより、血縁・地縁を基礎とする村落共同体が解体され、地方にも多くの都市社会が形成されました。それによって、個人と個人は、相助原理で助け合う関係ではなく、競争原理で競い合う関係となりました。

意識の変化に最も強力な影響を与えたのは、教育でしょう。教育勅語は否定・排除され、戦後世代の青少年に西洋近代思想が教育されました。そして、占領政策に迎合する「進歩的文化人」によって、個人主義・自由主義・デモクラシーは、人類普遍的な最高価値であるかのように崇められてきました。教育勅語が否定され、それに代わる公共道徳は、つくられていません。

かくしてわが国の「公と私」のバランスは、大きく崩れました。日本人の固有の価値観、共同性や公共性の意識は低下し、国家・国民の意識は衰退しました。その結果、個人の「私」的な権利が強く主張され、権利の行使における「公」的な責任があいまいになりました。また、国民としての意識が低下しました。こうして権利は、「個人」の「私」的な「利益」を追求する概念に変化していきました。

現在では、国家や国民社会のレベルだけでなく、地域社会のレベルでも、「公」の意識が弱くなってしまっています。路上に座り込む中高生、電車内で化粧をする若い女性、の行動に見られるように、「公」の場所で、「私」が剥き出しになり、公共道徳が失われつつあります。市民社会が「私民社会」になり、個人の権利ばかりが主張され、「公共の福祉」(公利公益)が後退しています。私利私益の追求が大手を振り、公利公益の尊重が損なわれています。これと同時に「個人」の意識が強くなり、いまや家族や男女の間でも、「個人」としての権利と自由が主張され、「個人」対「個人」の対立・抗争が広がっています。

上記のように、近代西欧の「個人」概念が、破壊的な影響力を振るったのは、戦後のことです。

 

●人権思想による「公」の後退

 

「公と私」のバランスが崩れ、「私」の横行を許しているのは、個人の権利が「人権」という概念の下に唱えられていることによるところが大です。「個人」の権利は、仮にそれが私利私欲の主張であっても、普遍的な「人間」の権利として要求すれば、公共善に変じるというパラドックスが生まれました。

「人権」とは「人間の権利」のことですが、ここにいう「人間」とは国家も歴史・伝統も宗教も家族や地域の共同体ももたない抽象的な存在です。これは実際に存在する人間ではなく、17〜18世紀西欧の啓蒙思想家が頭の中で捻り出した観念の所産です。啓蒙思想家たちは社会契約説という独自の論理に基づいて国家成立以前の状態を想念し、それを「自然状態」と名づけて、そこにおいて「人間」のもっている権利を「自然権」と称しました。「人権」とはこの「自然権」のことです。

この啓蒙思想家たちによって突き動かされたのが、18世紀末のアメリカ独立革命とフランス革命でした。そこではこれまでの歴史が簒奪と暴虐の歴史であり、「封建的」であると全面的に否定されました。また宗教や共同体は人々を縛り付ける悪しき存在として否定され、解体した上で、そこから人を「個人」として解放することが主張されました。

こうして確立した「人権」とは、実際に存在する人間から、国家や歴史・伝統、宗教、共同体という要素を捨象し、抽象的な存在とした上で、そのような「人間」が持つと想定した権利なのです。

日本国憲法は、基本的人権の尊重を定めています。この憲法は、啓蒙主義的な「人間」観をもとにしています。憲法作成にあたったGHQのアメリカ人たちは、アメリカ独立革命以来の思想を、彼らの伝統思想としてもっていました。それが憲法作成過程で注入されたのです。

しかし、人権の実態とは、この憲法が日本の国民に保障している「国民の権利」つまり「日本国民の権利」です。国家や政府を抜きにした普遍的な人間の権利ではありません。

人権には、義務は伴いません。国民の権利には、国民としての義務が伴います。納税・国防の義務は、国民に対してのものであって、「地球市民」に対してのものではありません。国連は、世界政府ではなく、直接、日本国民及び各国民の個人に対して税金を徴収しませんし、国連の平和維持活動に直接、日本国民及び各国民の個人を召集しません。人権とは、近代西欧に発生した普遍的な人間の権利という理念の下に、近代西洋文明を受け入れた国々が、その国民に対して保障している権利であり、その国民の権利には、国民としての義務が伴うのです。

「公と私」について考えるには、「個人」や人権という近代西欧の特殊な歴史的・風土的条件で生まれた概念を、総体的に見直すことが必要でしょう。それには、「人間とは何か」というところから、考え直す必要があると思います。「公と私」のバランスを回復し、公共道徳を再建するには、近代的な人間観を点検し、生命の共有性に基づき、人間相互の共同性を重視した人間観を打ち立てる必要があります。これは、21世紀の国際社会で、日本人が生きていくために、また新しい憲法を立案するうえでも、大きなポイントになると思います。ページの頭へ

 

参考資料

・八木秀次著『人権は国民の常識を超えるか』(産経新聞社月刊『正論』平成12年3月号)
 

 

ber117

 

■権利とは何かーー「力」から「徳」への転換

2004.12.22

 

●権利の概念

 

「公と私」や「人権」について考える際、「個人の権利」ということが問題となります。「権利」とは一体どういう概念なのでしょうか。

これは近代西欧から入ってきた概念です。今日、権利と訳されている言葉は、英語では rightです。明治初期に西洋思想を紹介した福沢諭吉は、rightを「通義権理」と訳しています。その略語として「権理」「権義」を使いました。rightには「正しいこと」「正義」「正道」「権利」等の意味があります。福沢は、儒教的な「理」や「義」の概念をもとに、rightという概念を理解したのでしょう。天理や道義に基づく権利というような理解と思われます。

明治22年公布の帝国憲法では「権利」の文字が使われ、以後これが公式用語となります。

西欧言語の多くでは、「権利」を表わす言葉は「正義」の語と同じものです。英語のrightは、古英語のrihtから来ています。rihtは「まっすぐな」「正しい」を意味し、そこから「正義」、さらに「権利」という意味が派生しました。rightはドイツ語のrechtと関係があります。ドイツ語のrechtの原意は「まっすぐな」であり、ここから「正しい」「間違っていない」「本当の」「真の」「適切な」「ふさわしい」といった意味が生じ、さらに「(法律や規範に照らして)正しい」「道理にかなった」という意味から、中性名詞のRecht「権利」が生まれました。

こうした語源と語義の変化が示しているように、西欧的な「権利」とは「正しさ」を主張することなのです。すなわち、「〜する権利(right)がある」ということは、「〜する正当性(right)がある」ということです。

では、何をもって正当であるとするのか、その正当性の根拠は何なのでしょうか。西洋では、古くは神(God)という超越的存在や、伝統・慣習という歴史的なものであり、西欧人が通念としてもっているものでした。しかし、近代においては、そうした一見、不合理なものが否定ないし括弧に入れられました。そして、正当性の根拠は「法」という人間同士の取り決めのみになってきました。

人間同士の言葉による取り決めは、相互の信頼をもとにしています。お互いが約束を守るということが前提です。しかし、この取り決めを実際に裏付けているものは、力関係です。「法」は「力」によって破られ、覆されます。また新たな力関係を、言葉で表現したものが「法」となります。つまり、正当性の根拠とされる、本質的なものは「力」であると考えられます。

「権利」とは、あることをすることができる能力です。その「できる」ということを、自他の力関係によって承認または許可されているものが、「権利」です。それゆえ、「権利」の概念は、「力」の概念を抜きにしては、成り立たない概念です。

 

●権利と権力の関係

 

何かをすることができる能力が「権利」ですが、「権利」のうち、他者を管理・支配する能力を、特に「権力」といいます。「権力」の西欧言語は、英語ではpower、独語ではMachtであり、端的に「力」を意味します。この点で「権利」と「権力」には深いつながりがあります。

「権利」や「権力」でいう「力」とは、物理的な力ではなく、社会的な力であり、他者に意思を強制する力です。強制力の行使に実力が伴う場合は、暴力や武力となります。

ここで「権力」について述べると、「権力」とは、勢力・影響力・説得力などと同様、社会的な力の一種です。社会的な力としての権力は、集団の意思が合成された意思であり、また個々人に意思を強制する意思です。マックス・ウェーバーの定義によると、社会的な力とは「ある社会関係の内部で、抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性」です。こうした社会的な力としての権力は、狭義においては制度化された強制力を意味し、特に国家のもつ強制力すなわち政治権力、国家権力と同義に用いられます。政治的・国家的な権力は、多くの場合、軍事力・警察力等の物理的な強制力を伴います。

権力に基づく社会関係、つまり権力関係は「当事者の一方の意思が相手方の意思に対して、事実上または法律上優越する力を持つ関係にあること」(広辞苑)です。

このような「権力」と「権利」の関係については、人間や土地等に対する「権利」のうち最大のものは、統治の権利、統治権です。封建領主や国王の持つ権利、領主権や王権は、領土や人民に対する統治権を核心とします。そして、統治権が「権力」の権利としての内容です。

西欧言語のright powerの訳語には、「権」という漢字が使われました。「権」という文字は、意味の核心に「力」の概念をもつと思います。「権」の語源は分銅の重りであり、天秤の左右・軽重を決める力(重力)です。そこから転じて、物事を決定・支配・管理する力(能力)の意味に転じて使われます。本来、物理的な力と、人間的な能力や社会的な力とは別の概念ですが、そういう連想が働いたのでしょう。何かにある状態・運動・変化を強いる働きとして共通しています。「力」という漢字が、どちらにも当てられていることに表れています。西欧言語のrightpowerの訳語に、「力」の概念を含む「権」の文字を使用したのは、適切だったことがわかります。

 

●「力は正義」の思想

 

西欧言語の「権利つまり正当性(right)」の概念の核心には、「力」つまり「権力」の概念があり、それは「権力」に通じます。

近代西欧の「権利」や「権力」の概念に共通するものが、「力」の概念だとすると、そこには「力は正義である」という思想が浮かび上がってきます。「力のある者は正しい」「正しい者は力を持つ」という思想です。これを語源的に表しているのが、「right(権利・正当性・正義)」だと考えられます。

西洋の歴史では、「権利」という時は、多くは土地などの私有財産の所有権・使用権・管理権をいっており、「権利」をめぐる闘争は、税金や利権にからむことが多いのです。そして、ある権力関係において、権利の実現や保障がされるうちは、その権力関係に構造的な変化はありませんが、権利の獲得や拡大が、既存の権力関係に収まらない時は、権利をめぐる闘争が行われ、しばしば権力関係の構造的な変化が起こります。この最大のものが、統治権の移行であり、典型的なものが革命です。近代西欧においては、「権利」の主張や獲得は、「権力」への参与(=デモクラシー)を求め、あるいは「権力」の分有・獲得(=市民革命)を成し遂げました。

19世紀ドイツの法学者イェーリングは『権利のための闘争』の中で「権利」という概念の最も本質的な永遠の内在要素は「闘争」であり、「権利の生命は闘争」であると述べています。「正しさ」は「勝ち取る」ものであり、「正しさ」を裏付けるものは「闘争」であるということです。これは大変深いところをとらえているといえましょう。

もっとも後年のイェーリングは、個人の権利意識の高揚を説く一方で、国家・社会の秩序という目的のためには、「権利」を制限することをよしとしていることは、注目に値します。

イェーリングが説くように、「権利」はもともと闘争の論理に基づくものですが、人々が自己の「正しさ」を主張するに当たって、自己を振り返る指標となったのは、宗教的な戒律であり、共同体の中における相互の関係や、先祖から伝わる歴史の教訓でした。

実際の歴史的・風土的な社会における力関係は、民族・階級・集団等の間の力関係です。異民族支配の場合は、外来の征服支配者の、土着の被征服支配者に対する力関係であり、階級・集団間では、上位による下位に対する力関係です。

 

●階級と民族の力関係と「人権」の闘争性

 

この力関係を階級という概念、特に所有関係を中心にとらえる場合、注意すべきことがあります。マルクスは、生産力の発達によって生産関係に変化が起こり、階級分化が起こるという理論モデルを考えました。いわば共同体の内部から階級が発生するという内発的な階級発生論です。その中心に所有・非所有の関係を置きます。しかし、人類諸文明の歴史を見ると、このモデルが当てはまるのは、一部です。これよりも、ある共同体が他の共同体を征服・支配し、この支配関係が固定し、階級対立になっている例の方が遥かに多いのです。いわば外発的な階級の発生です。西洋史を見ても、古代ギリシャ=ローマ文明の奴隷制社会は、戦いに敗れた民族が男は殺戮、女は強姦され、生かされたものが奴隷とされ、家畜のような労働を強制されることで形成されています。この被支配異民族こそ、プロレタリアートです。

マルクスの内発的な階級発生論は、西欧における近代市民社会・近代資本主義の発達過程の分析には、ある程度、有効です。17世紀のイギリスでは、清教徒革命、名誉革命によって、王権への制限と新興階級・市民の権利の確保という形で、市民革命が起こり、近代デモクラシーが発生しました。市民革命とデモクラシーを理論的に裏付けたのが、ロックらによる啓蒙思想であり、個人主義的な原理に基づく社会契約説です。それは、私有を正当化し、近代資本主義の発達を促進する理論でもありました。

しかし、見逃せないのは、イギリスにおける階級と民族の関係です。ブリテン島の初期の住民はイベリア半島から来たようですが、その後、印欧語族のケルト人が住み着きました。ローマ帝国の支配を受けた後、5世紀半ば、現在の北ドイツからゲルマン民族でバイキング系のアングロ人・サクソン人が侵入しました。アーサー王物語は、先住民による抵抗と敗退の物語です。ブリテン島は一時、北欧のデーン人が侵入したこともありますが、アングロ=サクソン人の支配が続きました。ところが、今度はフランスのノルマンジー地方から、別のバイキング系であるノルマン人が侵入しました。1066年のノルマン・コンクェストです。その結果、フランス語を話すノルマン人が国王・貴族となり、アングロ=サクソン人・ケルト人の庶民を支配する構造となりました。英語は約300年間、公式の場では使われませんでした。支配階級と被支配階級では、言語も文化も習慣も違っていたのです。

この中世的な支配構造に対し、新興階級のヨーマン(独立自営農民)やブルジョワジー(中産階級市民)が、私有財産等の権利を主張して闘争しました。これは階級闘争ですが、彼らの多くはアングロ=サクソン人でもありました。また、その後に現れる労働党や社会主義の主唱者の大部分はケルト人でした。(ロイド=ジョージなど) 名誉革命以降に確立したイギリスの近代議会政治には、こうした民族関係の均衡という一面があったのです。近代資本主義・近代デモクラシーの発祥の地における階級問題には、民族問題が絡んでいたのです。征服・支配され権利を侵害された先住民が、支配階級となった渡来民に対して、権利の回復・拡大を求めて戦い、力関係の変動と均衡が生まれたのです。この関係は、地域間の問題ともなっており、ウェールズやアイルランドはケルト人が多く、後者は現在も深刻な民族紛争・宗教対立の地となっています。マルクスのように、所有関係を中心に社会を分析すると、こうした支配関係の実態を見損ないます。

マルクス自身がそうであった西欧社会におけるユダヤ人の存在も、単なる所有関係だけでは、理解不可能です。ユダヤ人は、古代パレスティナを征服されて各地に離散し、西欧にも流入して宗教的な問題から差別・虐待を受けました。ここにも力関係による権利の剥奪または制限が起こっています。(1)

近代的な「人権」の観念は、こうした歴史的な経緯を経て発生します。イギリスの植民地アメリカでは、1776年に本国からの独立革命が起こりました。また、フランスにおいては、ルソーや百科全書派によって啓蒙思想が急進化し、フランス革命が起こりました。アメリカとフランスにおいては、宗教的な戒律や、共同体の中における相互の関係や、先祖から伝わる歴史の教訓を否定し、権利の実現のために、権力の獲得が行われました。こうして得られた「権利」が、「人権」という概念で表現されたのです。

「人権」とは、民族・階級・集団等の特殊な権力関係を捨象した、普遍的な人間の権利です。ここにおける人間は、国家や歴史・伝統、宗教、共同体という要素を捨象した抽象的な存在となっています。その結果、この近代的人間に残ったのは、権利をめぐる闘争の論理だけです。こうして「人間の権利」としての人権は、神・共同体・伝統等のように制約される条件がなく、自己の「正しさ」だけを主張する闘争の論理となったのです。

「人権」は、何より国家や歴史・伝統、宗教、共同体、そういったものを否定する目的を持って主張された思想であり、また元来、闘争的な概念です。それは、普遍性を装っていながら、階級や党派等の集団の利益を追求するものです。「人権」の主張が、国家・歴史・伝統・宗教・共同体を否定する傾向をもち、集団だけでなく、個人のエゴの主張と化していく理由は、この思想自体にあるのです。

 

●擬制の普遍性

 

近代西欧に生まれた「人権」の思想は、非西洋世界にも伝播しました。文明や宗教等の違いがあるにもかかわらず、一見「普遍的」な思想として広がっています。ここにおいて、人権の概念の基礎にあるのは、キリスト教の思想です。キリスト教では、人間は神(God)が神に似せて創造したものであり、神の下では平等と考えられたからです。それゆえ、人権は、神から与えられた人間の権利であり、それゆえに平等だということになります。戦後世界に広まった「世界人権宣言」も「国連憲章」も、この思想をもとにしています。そこにはキリスト教を基礎とする文明で発生した啓蒙思想が色濃く反映しています。キリスト教を抜きにしては、「人権」の思想は成り立ちません。

しかし、キリスト教を真理として認めている民族は、非西洋世界では、実際には少ないのです。キリスト教以外の宗教や哲学・世界観を持つ国民・民族には、「人権」の究極的な根拠は、理解し得ない要素があります。実際、「世界人権宣言」も「国連憲章」を読んでも、そこにおける「人間」とは何か、「権利」の根拠何か書かれていません。それゆえ「普遍性」といっても、擬制の「普遍性」に過ぎません。現在、キリスト教的な西洋文明が、世界的に優位に立っており、その裏づけとなる有力国家が力において世界を圧倒しているので、この特殊な思想が、ある程度の普遍性をもっているに過ぎません。戦後世界においては、勝者となった連合国の多くがキリスト教であり、日本に対しては占領者アメリカがキリスト教国だったのです。勝者の語る人間観が、力によって支配的になったのです。「人権」という概念の世界化自体が、キリスト教的西洋文明諸国の「力」の優位の現れです。

ところが、欧米諸国では、キリスト教の勢力は徐々に低下し、キリスト教を土台とした文明の世俗化が進んでいます。ニーチェのいうニヒリズムが西欧・北米から、非西洋世界へと広がりつつあります。一旦ある程度、キリスト教化した非西洋世界は、既に脱キリスト教化しつつあるのです。

脱キリスト教化しつつ国際化した「普遍性」の概念を裏付けるものは、ゴッドではなく、アラーやブラフマンや天やカミ等でもありません。まして、各文化の伝統・慣習ではあり得ません。ただ「人間」の合意によるのであり、意思の合成を担保するものは、法や宣言の言葉のみです。

この言葉の背後には、「力」関係が存在します。その言葉を無効にするものも、また「力」です。たとえば、中国やイスラム諸国が、「人権」というカードによるアメリカの干渉を斥けるのは、互いの「力」関係の現れです。日本国憲法や世界人権宣言・国連憲章などの言葉だけによって、「人権」や「権利」を考えることは、現実から離れて、観念世界に舞い上がるばかりだと思います。

 

●権利の新たな根拠付け

 

近代西欧的な「権利」の実現を無制限に追求すれば、帰結するのは、「万人の万人に対する闘争」でしょう。それはホッブズの描いた自然状態における抽象的な「人間」同士の争いではなく、現実的な人間関係において、親と子、夫と妻、男と女、兄と弟、同胞と同胞、国民と国民、民族と民族が争い合う、修羅の世界です。この「闘争」の道を避けるとすれば、近代世界を支配している「力」に代わる概念が、再発見されなければなりません。そこで、次に「権利」について、近代以前、また西欧以外の概念についても検討し、「権利」の概念の新たな根拠付けを試みたいと思います。

「権利」の概念は、近代西欧において初めて発生したものではなく、古今東西の社会において広く見られるものです。さらには、狩猟採集や初歩的な農耕を行っていた共同体、国家成立以前の氏族・部族の集団においても、原初的な形態における権利が存在していただろうと思います。権利の中心をなす所有に関しては、基礎的な生産手段については集団的な所有または共有が基本ですが、個々の家族や個人が排他的に所有や管理をするものがあったでしょう。また「権利」の頂点をなす「権力」に関しては、共同体の内部においては、集団として指導者が存在し、指導者は集団に強制する意思を行使し、それが集団の意思を合成して生活・行動していたでしょうし、他の共同体に対しては土地の占有や使用を主とした統治が行われていたと思われます。

こうした原初的な「権利」は、神や宗教や共同体の祖先からの言い伝えなどによって根拠づけられていたものと思います。土地の所有に関して言えば、神によって与えられた土地であるとか、神によって統治すべく命じられた土地だとか、祖先がこの土地で生まれここで生き続けてきたなどが、その根拠となります。いずれにしてもその共同体または集団において、こうだと信じられているものが根拠となります。単に現在いる人間の間の約束や承認・許可ではなく、超越的な存在や過去の世代の意思が介在しているところが、近現代の権利概念と異なると考えられます。

 

●生存と繁栄の能力に根源

 

原初的な「権利」の根拠付けは、その集団によって様々ですが、文化の違いを超えて根底にあるものを考察すると、共通するの人間生命ある存在だという事実です。そして「権利」とは、生命あるものの生存と繁栄の能力に根源を持つものです。

これを簡単に生存権ということにすると、生存権は論理的には動物にも存在することになります。動物において、テリトリーは同じ種における生存権の主張だと理解でき、異種間の食物連鎖の食い食われする関係も、相互の生存権の行使だという理解が可能です。人間は動物や植物の生命に依存しなければ生活できませんから、考察の範囲を動物(獲物・家畜)だけではなく、植物(採集・栽培)に広げることも可能でしょう。

動植物に「権利」を認めるならば、人間はそれらの生存権を奪うことでしか生存できない生物です。さらに、考察の範囲を細胞や細胞の中の微小な生命体やウイルスにまで広げることも可能でしょう。こうなると、人間が生存するためには、病原菌やガン細胞の生存権を侵さなければ健康に生きられないということになります。その点では、人間は動植物や原初生命体に、「力の論理」を行使しつつ生存・繁栄している生物であり、また生物である以上、「力の論理」による生存権を行使してよいという主張も可能です。

生存のための「力の論理」を定式化したのがダーウィンです。ニーチェはさらに生命の本質を「力への意志」であるとし、「力への意志」こそ、生の唯一の原理であるとときました。まさに闘争の思想です。この「力の論理」に対し、「調和の論理」を提唱したのが今西錦司です。今西の「棲み分け」の理論によると、さまざまな種が棲み分けをしながら共存共栄しているのが、生物の世界なのです。この自然観は、上記の問題にヒントを与えてくれるものと思います。また、健康に関してあれば、パスツールではなく、東洋医学がこれに対応します。力によって病原菌を殺戮する治療より、環境と調和してバランスを取ることによって健康状態を維持しようとする生き方が、「調和の論理」です。

 

●「力」から「徳」への転換

 

近代的な「権利」の実現を無制限に追求すれば、「万人の万人に対する闘争」となり、親と子、夫と妻、男と女、兄と弟、同胞と同胞、国民と国民、民族と民族が争い合うこととなります。また、同時に、人間が自然と闘争し、自然を征服・支配し、その結果、自然を破壊して、自らの生存の基盤・根拠を喪失することともなります。

この闘争・破壊・自滅の道を避けるとすれば、近代世界を支配している「力」に代わる概念が、再発見されなければなりません。それは、「愛」や「慈悲」や「仁」など、「徳」を表す概念でしょう。ここに、道徳の問題が出てくるわけです。この点を、次にまず人間社会において、続いて人間と自然の関係において考察したいと思います。

まず人間社会における権利と道徳の関係について述べると、古代から異民族の征服支配が絶えなかったシナでは、「力」による政治を「覇道」と言い、「徳」による政治を「王道」と言いました。これは東洋の儒教的な政治学の理想目標でした。わが国の国体は、天皇の仁徳による「皇道」を実践するものでした。武士道もまた、武力や権謀による政治ではなく、「徳」による政治を目標としました。ここにいう「徳」とは「力」の否定ではなく、「力」を含み、「力」を超えた概念です。徳の正義の表れとしての「力」です。

しかし、いまやわが国でも中国でも、「徳」の理想は忘れ去られています。いやより正確にいうと、無視されています。その分、指導者の「徳」は低下し、政治は「権力」と、「権利」むしろ「利権」の争奪の場と化しています。しかも、現代のデモクラシーは、君主や政治家の「徳」の程度よりも、国民の「徳」の程度によって、政治が左右されます。そして、わが国の国民の意識を先鋭化しているのが、「個人」や「権利」という概念です。その基礎には、現行憲法に定められた「人間」の概念があります。そして戦後日本の特殊事情から、「個人」の「権利」としての「人権」の追求は、「公と私」のアンバランスを一層危機的な状態に、押し崩す可能性を持っています。

これまでの「人権」つまり「人間の権利・正当性・正義」という概念は、「力」や闘争を伴います。いやむしろ、そこに本質があると私は思います。この機構を見定め、「権利」を「徳」という概念によって、根拠付け直すことが必要だと思います。それによって初めて、「人権」の拡充が、万人の幸福に益するものとなるのではないでしょうか。

そのためには、「人間とは何か」というところから、考え直していく必要があると思うのです。この点で、近代的な人間観を乗り越える試みとして、トランスパーソナル学の動向は注目に値するものです。トランスパーナル学は、科学・宗教・医学等の学際的な研究です。トランスパーナル学の進展の中から新たな人間観が生まれ、「人間」や「個人」や「権利」「権力」の概念が大きく見直されるようになっていくことと予想します。(2)

 

●権利の自然調和的な用い方

 

次に、人間と自然の間における権利と道徳の関係について述べると、「人間は万物の尺度である」という古代ギリシャの格言があります。その原意はともあれ、人間は人間の言語や論理や感覚を持って世界を認識します。人間は人間的に世界を了解するのであり、人間的にしか了解できません。人間は人間として存在するのであり、自分の「尺度」をもって世界を認識し、生活・行動するしかないのです。

ただし、そこから、近代の人間が陥っていたような人間中心主義が唯一の態度だということにはなりません。人間が有限なものであることを自覚し、謙虚に自然との調和を心がけるという態度こそ、あるべき姿だからです。

人間の生存権の行使にも一定の限度があります。一定の限度とは、生態系との関係です。人類の文明は地球環境を改変し続けてきており、人類の生存自体が危ぶまれるような危機的状況に立ち至っています。一つの種だけが繁栄すると、生態系に乱れが生じ、その種自体もそれ以上繁栄できないか、下手をすると生態系全体が崩壊するというのが、自然の仕組みのようです。

近年「自然の権利」ということが主張されています。これは動物だけではなく、川や地域の生態系など、自然環境に対しても「権利」の概念を摘要して、その「権利」を擁護しようというものです。訴訟活動も行われています。

「自然の権利」をどう根拠付け、しかも法のレベルでどのように制定するかは、かなり難問です。これもまた人間を「尺度」にした主張だと見ることも可能でしょう。自然の側はそんなことは思ってもいないでしょうから。しかし、人間が自分のために自然を支配・利用するという態度から、人間が自然とともに調和して生きようとする態度に自らを改めることが必要です。かといって不殺生を説いた原始仏教の教えに忠実であれば、人間は生命を維持できません。私の知る限り、伝統的な文化で最も自然調和的な態度を取っているのは日本神道です。また現代においてこの点に最も深く取り組んでいるのが、トランスパーソナル・エコロジーです。(3)

 

●道徳的・精神的向上による地球公益の配慮

 

人間と自然との関係を考慮する時、権利の概念を「徳」によって根拠付け直すには、「徳」の中に人間の間における「徳」だけではなく、動植物等の自然に対する「徳」を含まねばなりません。東洋の思想、仏教・道教などでは、本来「徳」とはそういうものであり、いわば社会倫理と環境倫理の総合だったのです。すなわち「愛」「慈悲」「仁」には、単に他の人間に対してだけではなく、生きとし生けるものへの「愛」や「慈悲」でした。神道が理想とする「清き明き直心」も、人や自然への感謝の思いに基づくものでした。こうした伝統的な精神文化が培ってきた道徳的・精神的な価値を実現することによって、「力は正義」という闘争的な権利の概念は、「徳」に基づく調和的なものに転換していくでしょう。

権利の概念を根拠付け直すことは、人間の道徳的・精神的向上を伴ってのみ可能となり、またそれによって権利の自然調和的で抑制された用い方も可能となるのだと思います。

 

最後になりますが、以上の考察に基づいて、「公と私」と権利という問題について補足すると、地球における「公と私」の枠組みの最大は、人類社会という「私」に対する、地球生態系という「公」になります。人類は、地球生態系という公共の場所において生存しており、文明的な生活・活動をしています。人類の生存権は、生命あるものとして与えられている生存と繁栄の能力の発揮です。しかし、この生存権は地球生態系という「公」に対する私的な権利であり、その私的な権利を、いかに公共全体の利益と調和できるように行使するかが、現代人類の最も重要な課題の一つです。これは、人類全体にとってだけでなく、各国家・各民族にとっても、各企業団体にとっても、そして私たち各個人にとっても、ますます重要な課題となっています。

他の動植物と異なり、智恵と自由を与えられている人類は、この地球で生存・繁栄するためには、自らの智恵と自由を自然調和的に、地球公益を配慮しながら用いなければならないのです。(4)

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(1)権力の問題については、以下の拙稿をご参照下さい。

所有と支配の矛盾〜求められる精神的向上

(2)トランスパーソナル学については、以下の拙稿をご参照下さい。

人間には自己実現・自己超越の欲求がある〜マズローとトランスパーソナル学

(3)トランスパーソナル・エコロジーについては、以下の拙稿をご参照下さい。

“心の近代化”と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ」の第3章(6)〜(8)

(4)環境保全については、「日本の心」の項目「自然」に掲載した拙稿をご参照下さい。

参考資料

・イェーリング著『権利のための闘争』(岩波文庫)

 

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小泉八雲が伝えた日本人の「公共心」

 

 現代の日本人の多くは、「みんなのため」という心を失い、「自分のため」だけを考えるようになってしまいました。しかし、かつての日本には、「自分のため」を超えて「みんなのため」に、立派な行動をした人たちがたくさんいました。そして、その行動は、外国人にも感動を与えるものでした。

 ここに、「稲むらの火」という話があります。

 

 「これはただごとではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、べつにはげしいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りのしたくに心を取られて、さっきの地震にはいっこう気がつかないもののようである。

 村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸い付けられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。

 「たいへんだ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村もろともひと飲みにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。

 「よし」と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明(たいまつ)を持って飛び出してきた。そこには、取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。

 「もったいないが、これで村中の命が救われるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。ひとつまたひとつ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。

 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。

 「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者のあとを追うようにかけ出した。

 高台から見下ろしている五兵衛の目には、それがアリの歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人ほどの若者が、かけ上がってきた。彼らは、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に言った。

 「うっちゃっておけ。----たいへんだ。村中の人にきてもらうだ」村中の人は、追々集まってきた。五兵衛は、あとからあとから上がってくる老幼男女ひとり一人数えた。集まってきた人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とをかわるがわる見くらべた。そのとき、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。

 「見ろ。やってきたぞ」。たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い一筋の線が見えた。その線はみるみる太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。

 「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったと思うと、山がのしかかってきたような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙のほかは、いっとき何物も見えなかった。

 人々は、自分らの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進みまた退いた。

 高台では、しばらく何の話声もなかった。一同は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。

 稲むらの火は、風にあおられてまた燃え上がり夕やみに包まれたあたりを明るくした。初めて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。

 

 この話は、戦前の尋常小学の国語教科書(昭和12年以降)に掲載されたものです。和歌山県の小学校教員・中井常蔵が、子供向けに書いたものです。原作は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の "A Living God"(生き神)という作品です。主人公のモデルは、今も和歌山県で尊敬されている浜口儀兵衛(梧陵)という人物です。ハーンは、儀兵衛の行動を知って感動し、儀兵衛の話を世界に書き伝えたのです。(1)

 日本の歴史には、私たちが見習うべき人物の話が多数あります。私たちは、先人に学び、「自分のため」を超えた「みんなのため」という心を取り戻したいものです。ージの頭へ

 

(1) 拙稿「日本の『魂』を伝えた小泉八雲をご参照ください。

参考資料

・早川由紀夫氏のホームページ

http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/bosai/inamura.html

 

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