トップ日本の心Blog基調自己紹介おすすめリンク集メール

 

オ ピ ニ オ ン  公と私

                       

題目へ戻る

 

ber117

 

■日本の「公と私」〜新しい公民倫理のために

2000.2.11初版/2007.3.20一部改訂

 

 <目次>

  はじめに

  第1章 「公と私」の構造

第2章 日本の公は「大きな家」

第3章 天皇は「公の体現者」

第4章 「天皇と公民」の来歴

第5章 明治維新による再構築

第6章 「公」を衰弱させる現行憲法

第7章 「私民社会」ゆえの危機

第8章 アインシュタインのメッセージ

結びに〜地球的視野の公民倫理へ

 

ber117

 

はじめに

 

わが国は近年、家庭、企業、社会、国家のあらゆる分野において、深刻な問題が生じています。日本人の倫理が急速に低下し、社会道徳そのものまで崩れつつあるような様相です。一体、日本は、そして日本人はどうなってしまったのでしょうか。

 私は、その原因の一つに、「公」の精神の著しい欠如、公共性の喪失があると思います。言い換えると、「私」的な権利・利害の意識や、自己中心的な考え方の蔓延です。

 そこで、以下、日本における「公と私」の問題について考察します。そして、日本の再生のために、新しい公民倫理を提案したいと思います。

 

 

第1章  「公と私」の構造

 

●人間は個人ではなく共同的存在

 

 今日、大抵の人は、自分というものがなによりも大切だと感じ、個人の自由や権利を守り、自分らしく生きることが目標だと考えています。実はこうした個人を中心とする考え方は、人間の歴史から見ると、とても新しい考え方です。わずか300〜400年程前、西欧に始まった考えなのです。近代西欧から広がったこの思想は、個人や自我が独立して存在するものと考えます。これに対し、根本的な反論を述べたのが、20世紀最大の倫理学者・和辻哲郎です。

和辻は、個人ではなく間柄を基本においた、新しい倫理学を構築しました。そして、その倫理学に基づいて「公と私」の構造を解明しています。日本の「公と私」について考えるために、この和辻の所論を導きとしたいと思います。

和辻は、人間とは何かという問いに対し、漢語の「人間」という言葉の解釈から説き始めます。「人間」とは本来、人と人の間すなわち「よのなか」「世間」を意味し、「俗に誤って人の意となった」と指摘します。この字義を踏まえて、和辻は、「人間」とは「世の中自身であるとともにまた世の中における人である」と述べます。言い換えると、人間には「個人性と社会性の二重性格がある」というわけです。「性格」というのは文字通りの意味ではなく、個人性と社会性の両面があると理解すればよいでしょう。

 和辻によると、「倫理」の「倫」という言葉は、元来「なかま」を意味し、人と人の「間柄(あいだがら)」や「行為的連関」(係わり合い)の仕方や秩序をも意味します。一方、「倫理」の「理」は、ことわり、すじ道を意味します。それゆえ「倫理」とは「人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる」ものです。そして、和辻は、倫理学とは「人間関係、従って人間の共同態の根底たる秩序・道理を明らかにしようとする学問」であると定義します。彼によって、個人ではなく間柄を基本においた、新しい倫理学が誕生しました。それは西欧近代の個人主義的な考え方とは異なる人間相互の共同性を重視した倫理学です。(1)

本来、人間は、決して単なる個人ではありません。人は誰でも自分ひとりで生まれてきたのではありません。親や先祖があるから自分が生まれてきたのです。そして、親や大人に育ててもらいながら、自ら成長してきたのです。今も妻や夫、兄弟や友人、子どもや孫、社会や国家があって、自分はその関係の中で日々、生活しています。この至極当たり前のことを、西欧近代の思想は軽視しています。そこから抽象的で個人主義的な考え方が出ています。しかし、人は、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な間柄の中で生きているのです。これは古今東西変わらない事実です。和辻の言い方によれば、人間とは様々な間柄においてある「間柄的存在」なのです。こうした生きた関係性において人間を考察することによってこそ、人間の倫理を解き明かすことができることうを、和辻は明らかにしたのです。

「公と私」の問題は、このような共同存在の倫理学によってのみ解明できる事柄です。

 

●「公と私」は階層的で入れ子的

 

和辻は、人間の社会を人倫的組織ととらえ、これを「家族」「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」「国家」の6つに分けて考察します。その中で、「公と私」という問題を考察していきます。なじみやすくするために、現代的な言葉を使って、「地縁共同体」を地域社会、「経済的組織」を企業・組合、「文化共同体」を民族やエスニック・グループに置き換えてもよいでしょう。人倫組織は、これらの諸段階を経て、私的なものから、公的なものへと高められるというのが、和辻の主張です。(2)

 和辻によると、私たちにとって最も身近な私的存在は、男女二人の関係です。男女は心身の全体をもって互いにかかわり合い、二人の間では「私」が消滅します。このプライベートな関係が世間に公認されるのが、婚姻です。これによって、男女関係は夫婦関係となります。婚姻は、男女関係という私的なものを、公的なものに変えるのです。次に夫婦という二人の共同体に子供が誕生すると、親子の関係となり、三人の共同体となります。さらに子供が生まれると、兄弟姉妹の間には同胞共同体が生まれます。

夫婦・親子・兄弟等による「家族」は、さらに「親族」という、より公的な人倫組織の一部に含まれます。親族の間では、それぞれの家族の事情は「私」的なものとなるからです。次に親族は「地縁共同体」(地域社会)へ、「地縁共同体」から「経済的組織」(企業・組合)へ、「経済的組織」から「文化共同体」(民族・エスニック・グループ)へと、より高次の段階に包摂されます。どの組織も、前の段階の組織が持つ「私」を超えることによって実現されます。そして、より「公」的で開放的な性格を持ちます。しかし、同時に、後の段階に対しては、より「私」的で閉鎖的な性格を持っています。このように「公と私」は、階層的で入れ子的な構造をもっていることを、和辻は明らかにしています。

こうした「公と私」の階層構造において、「国家」とは、「私」を超克した「公」そのものであるところの人倫的組織であると考えられます。日本という国の中においては、国家は最大の公共社会であり、政府は公共的な意思を実現する機関です。そして、この日本国と日本国民統合を象徴するものとして、わが国には天皇が存在します。それゆえ、天皇は日本における「公」を象徴する存在といえます。しかし、国際社会という、より広い「公」の場においては、国家はより大きな公共性を担う存在でもあります。国の公的機関である政府は、国家間関係における主体となります。この国際的主体性を担う代表者が国家元首であり、わが国においては、政治的には首相、文化的には天皇です。

拓殖大学客員教授・高森明勅氏は、以下のように述べています。 

 

「戦後の日本が、天皇から目を背けてきた、ということと公の感覚がどんどん希薄になってきたということとはパラレル(平行)だということだと思います。

 天皇を中心とした公の機能が久しく有効に働いてきたーーたとえば、政治的リーダーが無能であったり、誤った政治選択があっても国民的共同性というものが損なわれない、というような大きな遺産の上に、われわれは生活してきたにもかかわらず、天皇という存在を軽視し、戦後のミーイズム的な風潮とあいまって、公についての意識を希薄にしてきた。

 公の後退と天皇回避ーこの悪循環を断ち切らない限り、真の意味での日本の再生はない」(1)

 

近年、多くの人が「公と私」を論じていますが、高森氏の発言は、問題の本質をついていると思います。実際、後ほど具体的に見るように、わが国における「公」とは、天皇の存在と結びついた言葉でした。日本の「公」は、天皇を語ることなくして語れないものなのです。そして、わが国における「私」もまた、単に国家・社会との関係だけでなく、天皇との関係という要素を無視しては語ることが出来ないのです。

以上のような考察を踏まえて、日本の「公と私」の問題を検討してみたいと思います。ページの頭へ

 

(1)和辻哲郎著『人間の学としての倫理学』(岩波書店)

(2)和辻哲郎著『倫理学』(岩波書店版『和辻哲郎全集』第10〜11巻)

 

第2章  日本の公は「大きな家」

 

●シナでは「公と私」が対立

 

最初に、シナにおいて「公と私」はどのようなものであったかを見ておくことにします。「公」も「私」ももとは漢語だからです、

漢字学者によると、「公」という漢字の起源については、ト文・金文には「ム」に従う形の文字は見られません。「公」の字は、古くは「八」の下に「口」を書いたのです。漢字研究の大家・白川静氏によると、「口」は「儀礼の行われる宮廟の廷前の平面形」です。これが方形であったので「口」で表されます。また、「八」は「宮廟の廷前の左右にある障壁」を線で表したものと理解されます。そして、「公」とは、まずこの祖先祭祀が行われる宮廟の廷前をいいました。そこから、その廟に祀られる族長や領主を「公」といいます。またこの祭祀を行う族長・領主も「公」といいます。「○○公」などと尊称に使われるのは、この用法です。

 次に「私」の字義に関して、白川氏は、「私」とは、「公」の家の「私属」のことをいったとします。「私属」とは、家の衆、召使といった意味です。「私」の文字の「ム」は、農具のスキの象形です。そこから、「私」とは、スキを用いて耕作する人、つまり「私属の耕作者」を意味するものだといいます。(1)

 こうして、シナにおける「公」と「私」は、もともと族長と私属、領主と領民の関係だったと理解されます。

当初、「公私」は、対立概念ではありませんでした。しかし、やがて古代シナには家産制の国家が誕生しました。古代帝国の形成によって、土地や人民は君主の私有物となり、官僚は皇帝に私的に仕える者となりました。ここにおいて君主の利害と人民の利害は、対立・背反する関係となったのです。

シナ思想史学者の溝口雄三氏によると、「公私」が対立概念として用いられるようになったのは、性悪説で有名な荀子からでした。紀元前3世紀中ごろ、戦国時代の儒家の思想家です。この荀子に学んだ韓非は、『韓非子』において、公と私の対立を述べ、「ム(わたくし)に背く公と為す」と記しています。(2)

 韓非こそ「対立的な公私概念を体系化した初期創成者だった」と溝口氏は述べています。紀元前2世紀前半、戦国末期のころです。韓非は、秦の商鞅(しょうおう)らの説いた法家の完成者であり、君主専制のための法治主義を理論化しました。『韓非子』では、人民は支配と搾取の対象であり、君主に奉仕すべきものとされます。韓非は「君主と人民の利害は相反する」とし、君主の利益を「公利」、臣下や民衆の利益を「私利」として、「公利」の実現をめざします。この観点から、韓非は厳格な法で人民を規制すべきだとします。その冷徹な専制主義は、西洋のマキアヴェリと比較されましょう。

 シナは儒教の国といわれますが、「外儒内法」というように、儒教の道義的な理念を掲げながらも、実際には法家の支配技術が実践されてきた国です。その伝統は、今日の共産党政権にまで受け継がれています。

わが国には、4〜6世紀にかけて儒教・道教・仏教等が伝来し、わが国はシナから思想・宗教・政治制度等の多くのことを摂取しました。しかし、日本は、シナに学んでもシナの文明に同化することなく、独自の文化を発展させました。それは「公と私」の構造に関しても同様でした。

 

●日本の「公」は家族的共同体

 

 日本において、「公」と「私」の文字は、固有の日本語を表すために使われました。「公」という漢語があてられたのは、「おおやけ」という言葉でした。「おおやけ」とは、「大宅・大家」つまり「大きな家」を意味します。そこからさまざまな意味が派生し、天皇・皇后が「おおやけ」と呼ばれ、天皇の政府つまり朝廷も「おおやけ」と呼ばれました。さらに公共性・世間なども「おおやけ」と呼ぶなど、多様な意味が生まれたのでしょう。

 先ほど書いたように、シナにおける「公」の字義は、祖先祭祀が行われる宮廟の廷前のことであり、その廟に祀られる族長や領主や、この祭祀を行う族長・領主をも「公」というのでした。

この漢語の意味に照らし合わせると、まずわが国における「公(おおやけ)」とは、第一に皇室を中心とした民族の祖先祭祀を行う「社(やしろ)」の神前の場所に当たります。第二に、その「社」に祀られる皇室の祖先、第三にこの祭祀を行う天皇に当たります。第一、第二の用例は明らかではありませんが、第三の用例は、天皇を「公(おおやけ)」と呼ぶ事実に合致します。

ちなみに第二の意味の「公」は、わが国では祖先神・氏神として祀られる「カミ」に当たり、また第三の意味の「公」は、祖霊の霊威を体しつつ祖霊を祀る「カミ」としての天皇つまり「アキツミカミ」「アラヒトガミ」に当たります。

一方、「私」の字義は、シナでは「公」の家の「私属」つまり家の衆、召使、「私属の耕作者」を意味するものでした。わが国における「私(わたくし)」は、「公」の家の「私属」つまり豪族や皇室に仕える者に当たるでしょう。

シナにおける「公と私」は、族長と私属、領主と領民の関係を意味しました。しかし、わが国においては、シナと異なり、「公と私」の関係が、支配服従の関係ではなく、家族的共同体における家長と家族の構成員のような関係として形成されたのです。家族的な共同互助の関係が保たれたところに、わが国の国家形成の特徴があると思います。

「おおやけ」つまり「大きな家」とは、多数の氏族が集合した一大家族を意味すると考えられます。個々の豪族の家が「小さな家」だとすると、豪族が連合した集団は「おおやけ」つまり「大きな家」となります。この中心が天皇です。天皇は一大家族の中心となる大親あるいは大家長であり、豪族はその子であるという関係となります。つまり親子の関係です。また豪族同士は、共通の大親を持つ「はらから」つまり兄弟・同胞の関係となります。

 この関係が、血縁関係であるかどうかは、二次的です。「ちぎり」ないし「誓い」によって結ばれた、擬制的な関係であってよいのです。精神的に、親子または兄弟という感情を共にしていることが重要です。つまり、家族的な感情によって結ばれた感情共同体です。家族意識を共有する集団です。これを、家父長制的擬制家族共同体と呼んでよいでしょう。

  現実世界での家族的融合に伴って、神話や伝承の編集が行われ、氏神や祖霊は系列化されます。天皇はこの体系の祭祀を司る祭祀王(priest-king)となり、各氏族の神々や祖霊もまた、体系のなかで所を得て、位置付けられ尊重されます。神道の神や霊の観念には、こうした和合・包容の原理があります。この原理によって、言語・民族・文化を異にする集団も、親和・融合し、やがて列島のほとんどが一大家族に包摂されていくことになります。

さて、「公(おおやけ)」とは、「大きな家」であり、家族的共同体の全体を意味しました。これに対し、その部分は「公」という「大きな家」に対する「小さな家」であり、さらに細分化すれば諸個人ということになります。例えば、自分の家に関わることや、自分の一身のことです。この全体に対する部分が、「私」となります。つまり、「私」とは、「おおやけ」という全体に対する部分に当たります。和辻の「公と私」の構造論によれば、「公」という全体の中に、「私」としての部分が階層的な入れ子構造になっているのです。

 天皇は「おおやけ」つまりこの家族的共同体の全体性の象徴であり、また共同体全体の統合を象徴するので、天皇自身も「おおやけ」と呼ばれます。これに対し、この共同体の家族的構成員、つまり「私(わたくし)」にあたるのが、「公民」です。言い換えると、全体=「公」を体現するものが天皇であり、部分=「私」を構成するのが「公民」です。

 

●家族的生命的な公共倫理

 

 先にシナと異なり、わが国においては、「公と私」が支配服従関係ではなく、一大家族的共同体を構成していると述べました。

ここで「公」とは、家族的統合による共同体の全員つまり「われわれ」のことでもあります。「われわれ」という全体と個々の「われ」は、親子・兄弟・親戚等に擬せられる家族的な関係にあります。こうした共同存在においては、「われわれ」の利益と「われ」の利益は、根本的に異なるものではありません。「われわれ」の利益は「われ」の利益であり、「われ」の利益は「われわれ」の利益となります。「われわれ」とは、一つの家族のような共同体だからです。「公」に対する「私」は「われわれ」のうちの「われ」に当たります。「われ」を「私」に、「われわれ」を「私たち」に置き換えると、一層分かりやすいでしょう。

「われわれ」と「われ」の関係においては、部分は一方的に全体に尽くすものではありません。同時に、全体が各部分を生かすという双方向の関係にあるのです。この点が、支配服従関係とは違う、家族的な共同互助の関係であるゆえんです。この「われわれ」の統合を象徴するものとして、天皇がありました。

先ほどから家族的ということを述べていますが、家族とは生命を共有する集団です。共有生命集団の目的は、集団の維持・存続・繁栄です。この目的の達成のためには、部分よりも全体の利益が追求されます。それによって各部分も利益を得ます。それが生命体の原則です。

さて、天皇と公民は共に、共生的な共同体全体の利益、つまり「おおやけ」の利益を追求します。そして、それぞれの立場で、家族的生命的な共同体の全体としての「おおやけ」に奉仕します。それは同時に「私」としての各部分が最もよく生き、生かされることにあります。これが、日本の公共倫理の根本となっていると考えられます。

この関係を集約する事実が、天皇が公民を「おおみたから」と呼び大切にすることです。これは、親から子への愛情に比せられる感情です。一方、公民もまた天皇をこそ「おおみたから」として敬愛するでしょう。これは、子から親への敬愛に比せられます。

天皇と豪族について先に述べましたが、ここでも実際に血縁関係があるかどうかは、二次的です。そもそも一大家族的共同体といっても、それは擬制的なものだからです。重要であるのは、共同体の構成原理が、家族的な理念であることです。そして、天皇と公民一般が、深い家族的な一体感をもって、結びついているところに、わが国の共同体の特徴があります。「親子一体」「君民一体」が、そこに流れる精神です。

このように、日本の「公と私」は、天皇を中心とした家族的共同体における「全体と部分」という構造を持ち、またその構造にく家族的生命的な公共倫理に貫かれてきたと、私は考えます。私は、わが国は、こうした家族的共同体を基盤として繁栄してきた国として、独自の特色・個性・体質を持っており、それが国体となっていると思います。日本の国体には、全体と部分、部分と部分が調和する、自然と生命の法則が見事に現れていると思います。日本の国家社会は、こうした自然の生命的有機的な共生原理がよく貫かれた社会といえます。そして、日本の国家社会における生命の共有性を象徴するものが、天皇でもあります。

 こうした「公と私」の構造と倫理が見失われているために、現代日本の危機が生まれているというのが、私の意見です。ページの頭へ

 

(1)白川静著『字通』(平凡社)

(2)狩野直禎著『韓非子の知恵』(PHP文庫)

 

第3章 天皇は「公の体現者」

 

●建国神話における「公と私」

 

この章からは、これまで理論的に考察してきた日本の「公と私」の構造について、歴史的観点から見ていくことにしましょう。その手始めに日本の神話を見ることにします。神話は歴史書ではありませんが、その民族が長年月語り継いできたところの、自分たちの出生や由来を書き留めたものです。そこには、おのずと日本における「公と私」の在り方が表れていると考えられます。

日本神話において、国の初めは、神武天皇の物語として描かれています。『古事記』『日本書紀』によると、神武天皇は、高天原から日本に降臨した皇孫ニニギノミコトの曽孫に当たります。神武天皇は、当時、わが国が、氏族が割拠し、対立抗争していたのを見て、皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)の理想とする国を作ろうと考え、九州の日向(ひゅうが)から東征を行いました。その過程で、神武天皇は「つわものの威をからずして、いながらにして天下を平(む)けむ」と言います。すなわち、大業が成った後は、武力を頼まず、徳の働きによって天下を平和に治めていこう、という意味です。そして神武天皇は、様々な困難を乗り越えて、大和に入り、奈良の橿原(かしはら)の地で、初代天皇に即位したとされます。「日本書紀」は、この年を紀元前660年としています。天皇はもともと「すめらみこと」「すめろぎ」に当てられた漢字です。

前章で述べたように、天皇は「おおやけ」と呼ばれる家族的共同体全体の象徴であり、「公の体現者」です。この時、わが国初めての「公の体現者」である神武天皇は、日本建国の理念を高らかに謳い上げたと伝えられます。その理念は、「橿原建都の詔」に示されています。「六合(りくごう)をかねて以て都を開き、八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)むこと、また可(よ)からずや」。これは、「国中を一つにして都を開き、さらに天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにすることは、なんと、良いことではないか」という意味です。この理念を表すのが、「八紘一宇(はっこういちう)」(「八紘為宇」〔はっこういう〕ともいう)という言葉です。

 また、神武天皇の「建都の詔」には、「苟(いやし)くも民に利あら、何聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ」という言葉があります。「民」は「おおみたから」と読みます。そこには、天皇は国民を宝のように大切に考えるという姿勢が表れています。そして、国民の福利をめざす政策を行おうという方針が示されています。ここで「民」は「公」に対する「私」にあたります。

 以上のように、日本神話が示しているのは、天皇と国民、「公と私」は、シナとは異なり、支配服従の関係ではなく、「公(おおやけ)」である天皇が「民」を「おおみたから」として大切にするという君民の共生的共栄的な関係なのです。

 初代神武天皇以来、わが国では、覇権ではなく徳をもって国を治めるという理想が、受け継がれてきました。こうした伝統を最も良く表現しているのが、聖徳太子の十七条憲法です。

 

●聖徳太子の「和」の理念

 

 聖徳太子は7世紀に、十七条憲法を制定しました。これは、日本で初めての成文憲法であり、また世界最古の憲法とも言われます。

 この太子の憲法には、神話に伝えられ、大和朝廷に形作られた日本の国柄と、それにく日本の「公と私」のあり方が、よく表されていると思います。

 まず憲法第15条に「私に背きて公に向かふは、是臣の道なり」(第15条)とあります。これはシナの「公と私」をよく表す『韓非子』の「ム(わたくし)に背く公と為す」によく似ています。聖徳太子は『韓非子』も読んだといわれますから、そこから章句を採っていると考えられます。ただし、『韓非子』での意味と、「十七条憲法」での意味は、正反対となっています。

 それは、シナが支配と搾取の国であるのに対し、わが国は「君民一体」の国柄だからです。わが国では、韓非子流の政治は「うしはく」と呼ばれ、わが国の「まつりごと」は「しらす」と呼ばれます。前者が「公利」つまり支配者の利益を一方的に追求するものであるのに対し、後者は「公私」ともども利益をめざします。ここに見られるのは共存共栄の精神であり、一大家族的な共同社会の倫理です。

 この点を見ても、聖徳太子は、彼我の国柄の違いをはっきりと認識し、君民が相和す「和」の精神を、十七条憲法に表現したと思われます。

 十七条憲法は、天皇を中心としつつ豪族が政治権力に参加する政治制度を説いています。その理念が「和」です。憲法は、第一条の「和を以て貴しとなし……」という言葉で始まり、以下の条文では私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を行うことを説いています。この思想は、専制的(tyrannical, despotic)でなく、驚くほど民主的(democratic)です。古代アジアを制圧した君主の専制政治ではなく、衆議公論による君民和合の政治が目指されています。

 太子の「和」とは、家族的生命的な共同体としての「公(おおやけ=大きな家)」における、大家族的な感情にく調和の理念と考えられます。こうした太子の理念には、神武天皇の建国伝承以来、皇室を中心に保たれてきた固有の国柄、つまり日本の「国体」が表現されていると言えましょう。

 次に、こうした国体を基にした「公と私」のあり方が、憲法の条文に記されています。

 第12条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以って主と」とあります。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。天皇が国民統合の中心であるということです。太子は、さまざまな氏族が土地と人民を私有していたのを改め、国土も人民もすべて天皇に帰属するという理念を打ち出したのです。そして、国民は、天皇を主と仰ぎ、一方、天皇は「民」を「おおみたから」つまり大御宝としています。

 第3条には「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とあります。太子は、豪族・官僚たちが天皇の言葉に従うように、記しています。そして、最初に見た第十五条に、「私を背きて、公に向(おもむ)くは、是臣(やっこ)が道なり」とあります。すなわち、私利私欲を超えて、公共のために奉仕することが、官僚の道であると説いています。

 これらの条文は、「和」の理念にく、天皇を中心とした家族的共同体の公共倫理を表していると理解されます。またそれは、「天皇と公民」の関係を明文化するものでもあります。太子は、天皇を中心として国民が統合された国のあり方を、理想として打ち出しています。国民は、豪族の私的な権力の下にあるものではなく、「公民」の立場となり、天皇を主と仰ぎます。一方、天皇は国家公共の統治を体現し、「公民」を「おおみたから」とする伝統が確認されます。ここに日本における「公と私」のあり方が示されました。

第1章でも引用した高森明勅氏は、第12条を挙げ、次のように述べています。 

 

 「聖徳太子の十七条の憲法の第12条には、豪族の私的支配を拒絶する原則がはっきり打だされている。つまり民は国家の統治の下にあるものであって、豪族の私的な権力の下にあるものではない、という原則を打ち立てていく。すなわち、『公民』の概念です。

 この公民の登場が意味するものこそ、日本における古代国家の確立ということです。そしてその国家の公共の統治を体現するのが天皇だということなのです」(1)

 

氏はまた、次のように述べています。

 

 「天皇とは何か。それは天皇と同時に『公民』が誕生したということを考えるとわかりやすい。それ以前の君主は『王』(大王)で、……王は豪族全体の利害を代表する位置にあった。しかし各豪族の私地私民の拡大欲求は際限もない。民の限界を顧みず財を吸い上げていく。

 一体、誰がそれに歯止めをかけ得るのか。ここに豪族の利害の代表者としての王から、公共の体現者としての天皇への転換の歴史的必然性があったのです。この王から天皇への転換こそ、厳密な意味での国家形成以前と以後とを分かつ分岐点だった」(2)

 

●天皇は「究極の公共性の体現者」

 

 さて、「和」の理念の下に、天皇を中心とした公共の秩序を形成するには、「公(おおやけ)」が「私(わたくし)」より尊重されなければなりません。そのためには、自由に対する何らかの制限がなくてはなりません。

 制限には、支配・服従による強制的制限と、合意・承服による随意的制限があります。前者は権力により、後者は権威によるものです。これらのどちらか、あるいは両方がなければ、公共の秩序は成り立ちません。

 高森氏は、次のように述べます。

 

 「公について納得できる回路を日本人は歴史の中で育ててきた。その際、大事なのは公の体現者がもつ権威なんです。権力によっては、公は維持できない。権力は外から押さえるから、必ず反発を生む。逆に内側から納得させるのが権威です。

 公を納得させる権威をもつためには、その存在が長い来歴をもっている、つまり自分の父も祖先も代々それに従ったということ。そしてそれによって共同体というものが現に維持されてきたという事実が大切です。

 わが国において、天皇とは歴史に担保された公の体現者であった。誰しも素直にそこに公を感得できた。国内の統合を果たして以来、その地位に歴史的な変更を被らなかったという事実が自ずからそのことを納得させずにはいなかったのです」(3)

 

 そして、高森氏は、天皇は「日本の究極の公共性の体現者」であると表現しています。氏は、その権威は、祭事を司ることによって、天皇が「自ら公共性を体現するにふさわしい自己へと精神的な高みを保持されてきた」ことによると述べています。

 私は、天皇の権威は、神話・伝承にく伝統的な要素、祭祀・神器にく神聖的な要素、親子的な感情にく家父長的な要素、人格・心性にく有徳的な要素などが融合したものと思います。そしてこの権威は、生命的でまた民族的・文化的な、集合的無意識に深く根ざしたものと考えています。

 いずれにせよ、天皇の権威は、高森氏の言うように、人々を「内側から納得」させるようなもの、言い換えると、人々が自然に仰ぎ、その下に和合するようなものとして働いてきました。武力の強大さを背景とした、威圧的なものではないところが特徴です。

 そして、歴代の天皇の御心は、現代の天皇にまで受け継がれてきたのでしょう。今上陛下は、常に国民の幸福と世界の平和を祈り、慎み深いご日常を送っておられます。まさに、日本の「公」の体現者たるべく、気高い「無私」の精神を保ちつづけておられるわけです。私たちは、現代の天皇の姿を通して、古代から受け継がれてきた、歴代の天皇の御心を想うことができると思います。

 こうした天皇の「和」をもたらす権威のもとに、日本人は「公(おおやけ)」としての一大家族的共同体に統合され、ともすれば「私」に分裂し対立しやすい諸民・諸家が、天皇を中心として、一つの「公民」へと形成されてきたと考えられます。ページの頭へ

 

(1)(2)(3)雑誌「日本の息吹」平成11年10月号(日本会議)

 

第4章 「天皇と公民」の来歴

 

●「天皇―公民制」の創設と持続

 

 前章で、聖徳太子の十七条憲法は、日本の国体と「公と私」をよく表したもの、という私の理解を述べました。

この理念は、大化の改新において実現され、公地公民制が創設されました。それを高森氏は、「天皇―公民制」と呼んでいます。これこそわが国独自の国家原理の樹立でした。シナの古代帝国の場合は家産制国家であり、国土・国民は皇帝の私物であり、官僚は皇帝に私的に仕える者でした。日本もシナに学び、中央集権的な家産制国家をめざしたように見えますが、シナでは帝国全体が皇帝の「私」のものであるのに対し、日本では国全体が「公」のものである点が違います。わが国では、天皇は「公の体現者」となり、人民は私的に所有されるのではなく、公民という公的存在になったのです。シナの皇帝が私利私欲で土地や人民を私有したのに対し、日本の天皇は公民を「おおみたから」と呼び、自らの徳を磨き、人民のために仁政を行いました。

 太子の理想は、その後、形を変え、律令制として制度化されました。律令制国家は、擬制家族的な共同体を基盤として、「天皇と公民」の関係を、改めて構築するものでした。律令は、実に明治維新まで、千年以上もの間、わが国の基本法であり続けます。

 今日、私たちは、第125代の天皇を仰いでいます。歴史を振り返れば、皇室の足跡には、さまざまな出来事が見られますが、今日まで、皇統が存続してきたことは、世界史の奇蹟ともいわれます。

 この間、藤原不比等・道長、平清盛、源頼朝、北条泰時、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康など、さまざま権力者が現れました。しかし、強大な権力を掌中にした者たちも、決して天皇の御位を奪うことがありませんでした。

 むしろ、頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、武将は、天皇から官位を任命されていることを、自分の権力の根拠としてきました。それがなければ、果たして源氏・北条・足利などの政権が、成り立ったかどうか、というくらいに重要なことでした。北条政権が制定した「御成敗式目」も、天皇の政府・朝廷の定めた律令制を否定するものではなく、「公」の法規を「私」的に補完するようなものに、とどめられています。この形式は徳川幕府にも引き継がれます。

 戦国の戦乱の世を制覇した織田信長・豊臣秀吉にしても同様です。秀吉は、「関白」「太政大臣」という、朝廷(おおやけ)の官位を、天皇から授けられることにより、全国統一の政権を確立できました。

 徳川幕府においても、征夷大将軍の任命から、さらには東照大権現といった幕府の祖神の形成にいたるまで、政治権力の正統性(legitimacy)に関わる重要な事柄には、すべて朝廷が関与していました。

 

●皇室を宗本家とする家族意識

 

 わが国の歴史は、「公の体現者」・天皇の権威を否定したならば、いかなる覇者も、公共性を持ち得ない、そう信じられてきたことを示しています。政権の覇者たちの系譜にそれを見ることができます。

 例えば藤原氏は、もとは中臣氏で、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を先祖とします。この氏神は、皇室の祖先神・天照大神に仕えたと、古事記等に記されています。それゆえ、藤原氏は、いかに権勢を極めた時にも、あくまで皇室に仕えるという立場を保ちました。

 次に、武力をもって台頭した武家も、決して力によって皇位を奪おうとまではしませんでした。むしろ、平氏は桓武天皇、源氏は清和天皇の末裔(まつえい)であることを家の誉れとしました。また徳川氏は、皇室の分家・源氏の流れを汲むことを、武家の棟梁にふさわしい由縁としました。

 皇室が自分の家の本家のようなものであるとすれば、皇室に歯向かうことは、自分の祖先の意に反することになります。「公」である天皇・朝廷に対し、朝敵となることは、大罪と意識され、「私」の専横への強い自制が働いたものと思われます。

 ところで、姓氏の由来を調べてみると、多くの家が、皇室を宗本家とした本家・分家に由来を持つことがわかります。

 今日ある多数の名字が、藤原氏・橘氏・源氏・平氏などから分かれたものと伝えられます。藤原氏からは、足利国佐野の佐藤、伊勢国の伊藤、加賀国の加藤、近江国の近藤などの家が分かれました。もとの藤原という姓氏と、地名の一部とが合体して、名字が作られたのです。また、源氏からは、新田、今川、秋山などが分かれました。村岡、相馬、梶原などは平氏の子孫です。

 今日、日本人の名字は29万もあるといわれます。ところが、日本には、たった一つ名字のない家があります。それが、皇室です。皇室には姓がないのです。ある家から分かれた家は、新たな姓氏・名字を持ちます。皇室に姓がないということは、天皇家がどこかから分家したのではないということを示すと考えられます。つまり、本家の本家、宗本家にあたることを意味します。

 そして、日本の多くの家は、この皇室を中心とした本家・分家・別家の系統に連なると考えられます。あるいは、そうでなくとも、長い年月の中で、皇室の系統となんらかの親族関係を結んできたと考えられます。

 このことは、次のようなことを考えるとわかるでしょう。あなたには、ご両親がいます。父母にはその親がいます。こうして両親で2、祖父母で4、曾祖父母で8、さらに16、34、68と先祖をさかのぼると、28代でなんと1億3千万人にもなります。日本の現在の人口を超えてしまうわけです。過去の時代の日本人の人口は、それよりはるかに少ない。ということは、さかのぼっていくと、日本人はみなどこかで共通の先祖を持っているはずです。そして、また皇室とも、つながっているとも考えられるわけです。

 日本は、一大家族的共同体としての「公(おおやけ)」つまり「大きな家)」を基盤とした国柄であると、私が考える所以の一つがここにあります。

 こうしたことが事実かどうかは、ここでも二次的です。私たちの先祖が、こうした家族的なつながりの意識を共有しつづけてきたことが重要なのです。そこに、「天皇と公民」の関係が長い歴史を貫いて保たれてきた要因があると思います。

 

●江戸尊皇思想と「公」の再生

 

 さて、江戸時代には、徳川幕府の大義名分を論じるなかから、尊皇思想が現れます。それは幕府の官学とされた朱子学に始まり、崎門学・水戸学において、天皇の正統性が徹底的に論じられました。その展開は、日本の「公」のあり方を明らかにしようとした、壮絶な試みと言えましょう。

 崎門学とは、山崎闇斎の門流です。闇斎は、シナの朱子学を論理的に追及することにより、易姓革命により王朝が次々に交代してきたシナには、正統性はない。古来、一系の皇室を仰ぐ、わが国にのみ正統性があることを明らかにしました。そして、その正統性を持つ者は、天皇以外にはないという観念に到達しました。

 闇斎の弟子・浅見絅斎は、『靖献遺言』において、君主とは絶対的な存在であり、君主に無条件に忠を尽くし、義を立てるという究極の君臣関係を描きました。そして、シナの人士採りつつ、言外に、忠義を尽くす君主とは、「私」たる藩主や将軍ではなく、「公」たる天皇以外にないことを訴えるものでした。

 絅斎の弟子らは、水戸学において、武家政治の歴史を論じ、保元の乱、承久の乱、建武の中興などにおける天皇のあり方を強く批判しました。ところが、批判を徹底すればするほど、逆に天皇のあるべき姿が追求され、天皇が理想化されていくという、逆説的な展開が起こりました。ここから、明治の「現人神(あらひとがみ)」としての天皇観が創られていきます。(1)

 水戸藩は、「黄門様」として親しまれている水戸光圀の下、『大日本史』の編纂が行われていました。そして、歴史の研究を通じ、シナとは全く異なる、わが国独自の国柄が明らかにされていきました。ここから、水戸学の「国体」という概念が成長します。

 『大日本史』を基にした頼山陽の『日本外史』が、幕末の大ベストセラーとなり、水戸学の国体論にく歴史観が、広く共有されていきました。

 さて、頃は19世紀の半ば。アヘン戦争、そしてペリーの黒船来航によって、わが国に、白人列強による植民地化の危機が迫ってきました。開国か鎖国か、倒幕か佐幕か国論は二分しました。

 そうした状況において、わが国の独自の国体と歴史が、強く自覚されました。浅見絅斎の『靖献遺言』は、勤王の志士たちの愛読書となりました。絅斎の倫理において、君主を藩主・将軍から、天皇に置き換えるならば、天皇の「公」的権威と、個人の「私」的規範とが、ともに確立します。吉田松陰・西郷隆盛らは、『靖献遺言』を読んで鼓舞激励され、志を立てたと伝えられます。

欧米列強が押し寄せてきたとき、日本の社会には、「公と私」の階層構造がありました。すなわち、個より家、家より藩、藩より国という階層構造です。藩は藩内では「公」ですが、藩外では「私」となります。幕府は「公儀」ですが、朝廷という上位の「公」に対しては、徳川家の「私」となります。そして、民族の存亡の危機において、藩やお家という「私」よりも、日本という国の「公」を優先しなければならないという意識が、武士たちの新たな規範となりました。

 幕府が朝廷の許可なく、開国の方針をとると、幕府政治の「公儀」は「私」に傾いたとして批判されました。そして、国内に広く天皇を中心とする「公」の精神が高まりました。幕府は独断で外交・内政を進めることができなくなり、諸侯の意見を集め、「天下公論」にいて政治をすることを余儀なくされました。

日本という「国」つまり「公」の意識を最も強く持つ脱藩者・坂本竜馬の建策が容れられ、薩長同盟が実現し、遂には将軍・徳川慶喜による天皇への大政奉還がなされました。そして、江戸の町を争いの場にして、その隙に欧米諸国に突き入られてはならないと、勝海舟と西郷隆盛によって江戸城の無血開城が実現しました。「公」の精神が、「私」の確執を超えて、大きな「和」を生み出したのです。

 かくして、日本の独立と伝統は保たれました。国家・民族存亡の危機の中で、「私」を超える「公」の精神が確立・高揚していきました。こうした幕末の時代の「公」を一言で言えば、「一君万民」の精神と言えるでしょう。日本人の中に、「公の体現者」である天皇を統合の象徴として、近代的な国民意識が形成されていきました。それは、古来の「天皇と公民」の関係が、危機の中で再生された、歴史的な共有体験でもありました。

 もし、この時代、わが国に、天皇という「公」の象徴が存在しなければ、どうなっていたでしょうか。わが国は多数の「私」に分裂・対立し、欧米諸国の手で分断、植民地にされ、国民の多くは、白人に隷属することになったに違いないと、私は思うのです。ページの頭へ

 

 (1)山本七平著『現人神の創作者たち』(文芸春秋社)

 

第5章 明治維新による再構築

 

●「万機公論に決すべし」

 

 明治維新によって、日本の「公と私」の国家が再構築されました。「天皇―公民制」(高森明勅氏)の近代化ともいえます。それは、幕末に発展した国体論を受け、また衆議公論にいて、近代国家を建設したものでした。

 政治の御一新に当たり、明治天皇が大方針を打ち出したのが、五箇条の御誓文です。それは天皇が天地神明に誓いを立て、それを国民に発表したものでした。

 

<原文>
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
一、官武一途(いっと)庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめむことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道にくべし。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
 我国未曾有の変革を為(なさ)んとし、朕躬(み)を以て衆にじ、天地神明に誓、大(おおい)に斯(この)国是を定め、万民保全の道を立(たて)んとす。衆亦此(この)旨趣(ししゅ)に基き協心努力せよ。

<訳文>
一、会議を開き、多くの人の意見を聞いて政策を決める。
一、身分の上下に関係なく、心を合わせて、政策を行おう。
一、公家、武士や庶民の区別なく、国民の志がかなえられ、失望のない社会にしよう。
一、これまでの慣習をやめ、国際社会の習慣に従おう。
一、新しい知識を世界の各国に求め、国家を繁栄させよう。
 わが国は、未曾有の大改革を行うので、私はみずから先頭に立ち、天地神明に誓い、重大なる決意を持って、国家の大方針を決め、国家・国民の安定を図る道を確立するつもりである。国民の皆さんにもこの趣旨に基づいて、心を合わせて、努力をお願いしたい。


 五箇条のうち第一には、「万機公論に決すべし」とあり、衆議公論にいた政治を行うことが、打ち出されています。第二には、「上下(しょうか)心を一にして」とあり、国民が心を一つにして進むことが呼びかけられています。ここには、天皇と公民が一つになって新しい国づくりをしていくことが、打ち出されています。ほかの三箇条も、その方針のもとに、新日本の基本方針を明確に表しています。

 また、明治天皇は、御誓文と同日、御宸翰(ごしんかん)を出されました。宸翰とは天皇直筆の文書です。そこには次のような意味のことが記されています。

 

 「今回の御一新にあたり、国民の中で一人でもその所を得ない者がいれば、それはすべて私の責任であるから、今日からは自らが身を挺し、心志を苦しめ、困難の真っ先に立ち、歴代の天皇の事績を踏まえて治績に勤めてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君である地位にそむかない、そのように行う」

 

 すべての人が「所を得る」ような状態をめざし、全責任を担う。天皇の決意は、崇高です。まさに「公」の体現者としての天皇の姿と言えましょう。ここには天皇が国民を「おおみたから」と呼んで、大切にしてきたわが国の伝統が生きています。それは今日の「基本的人権の尊重」という考えにも通じるものだと、私は思うのです。

 御誓文と御宸翰に示されたもの、それが日本の近代民主主義の始まりでした。また、それは長い歴史を持つ「天皇と公民」の新たな形での出発でした。

 さて、五箇条の御誓文は、新政府の財政的窮状を打開するために、太政官札という政府不換紙幣を発行することを説いた由利公正が、起草したものでした。由利は政府貨幣の発行には、政府の信用がいる、それには国家の大方針を示すべきだと述べ、自ら草案を書いたのです。五箇条の御誓文により、国家の大方針を示した新政府は、太政官札の発行による造幣益で財源を確保し、新しい日本の建設を進めていきました。(1)

新政府は、五箇条の御誓文の国是の下に、封建制度を改めました。その一環として封建領主が所有する領民と領地を天皇に返す改革が行われました。まず版籍奉還が行われ、続いて廃藩置県が断行されました。廃藩置県は、西洋でいえば領主の身分を廃止して土地を取り上げ、明日から平民にするといった大変革でした。ヨーロッパではこのような変革は、流血の革命を通してしか不可能でした。ところが日本では、明治政府が一片の通知を出しただけで、その大事業を一日にして実現してしまったのです。しかもそれは、ほとんど無血の革命でした。当時欧州ではこのことに驚き、ロンドンの新聞が大々的に取り上げています。

 廃藩置県を達成し得たのは、「公」の精神でした。明治新政府の課題は、一日も早く近代国家を建設にして、欧米列強に支配されないようにすることでした。ところがそれを成し遂げる資金がありません。資金の調達には、各藩の徴税権を中央政府に集約するしかない。そこで、廃藩置県が断行されたのです。それは、特権階級だった武士は、禄を失うことを意味します。

 当時の国際情勢の中で、日本が独立を保つには、自分のことより国のことを考えるべきだ、「公」のために「私」の特権を放棄しなければならない、と武士は考えたのです。これが無血に近い状態で大改革を行い得た理由です。

 幕末から維新にいたる武士の行動は、「私」を超えて「公」に尽くす公共的な精神が貫かれています。

 

●自由民権運動における「公と私」

 

 明治の政治と社会運動は、五箇条の御誓文が与えた決定的な影響を理解しなくてはとらえられません。自由民権運動も、「西洋から輸入した各種の民主主義思想も確かに補強材料になってはいるが、基本的に自由民権運動が依拠したのは、『五箇条の御誓文』にほかならなかった」と近代思想史家の坂本多加雄氏は述べています。

維新の改革の理念は、「勅命」(天皇の意思)と「公儀輿論」(国民の意思)とが一致しなければならないということでした。五箇条の御誓文の第一に、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とあります。これは、この理念を謳うものでした。そして、民権派は、御誓文に基づいて、「君民一体」の実現のために、議会の開設を請願したのです。

板垣退助の監修による『自由党史』に、次のようにあります。憲法は「王朝の古より殆ど不文の憲法として」存在してきたが、これからは新たに解釈された「立国の憲法」つまり五箇条の御誓文を基礎にして政治が行われねばならないと。従って彼らが主張したのはこの五箇条の御誓文の本来の趣旨にそって、早く議会を開けということに他ならなかったのです。

板垣らの「国会開設期成同盟」の請願書は、政府に対してではなく、天皇に直接捧げられています。そして、議会開設が「天下の公論」を伸張し、「人民の通義権理」を立て、そのことで「上下親近し、君臣相愛」し、「我帝国」を維持振起するゆえんであると述べているのです。

憲法制定に関しては、「民権派の各種の憲法案には、戦後の民権運動研究者の期待に反して、共和政治を謳ったものはなかったし、すべてが、なにがしかの意味で天皇を頂点に仰ぐ制度構想に立っていた」と、坂本氏は述べています。

 また、自由民権運動のなかで「政府に対する過激な抵抗運動」の一つとなったものが、加波山事件でした。しかし、坂本氏は「加波山事件も、それを支えている論理は、薩長藩閥政府が、天皇と民衆の間をさえぎって、独断的に振るまい、『公論』に沿った政治を行っていないという点にあった」と述べています。

 言い換えれば、薩長藩閥政府が、政治を「私」していることを批判し、「公」の精神によって、「君民一体」の政治を実現しようというのが、自由民権運動だったのです。

 自由民権運動によって、デモクラシー、つまり民衆の国家権力への参加が、制度として実現しました。このデモクラシーは、天皇の下における立憲議会政治です。それは、伝統的な国柄を保守しつつ、政治・社会を近代化する道です。また、自由民権運動を通じて、ナショナリズム(国家建設・国民形成の思想・運動)が高揚し、わが国が名実共に近代的なネイション(国民国家)となりました。それは、民衆の側から、国権の強化と民権の拡張を、同時に求める運動が起こってこそ可能となったことでした。天皇を中心とした「公」の拡充をなしえてこそ、国民個々の「私」の拡充も実現したと、私は考えます。そして、それが、五箇条の御誓文の主旨の実現であったというところに、わが国独自の「公と私」のあり方があると思います。

 

●「国=家」を「知らす」

 

 さて、明治において、日本人は「国(くに)」を言い表すのに、「国家」という語を使いました。欧米のステート(state)やネイション(nation)の系統の言葉に当てて、使ったのが「国家」です。これは、西洋の国家とは全く違った概念です。「国家」とは「国=家」であり、家族的共同体としての国です。つまり、「大きな家」としての「公(おおやけ)」です。この一語には、日本の「公と私」が見事に表されています。

 わが国は、明治時代に欧米の法思想を採り入れて、西洋以外で初めての近代成文憲法を制定しました。帝国憲法は、わが国の国体を、法規に明文化したものと言えましょう。憲法は、欽定憲法として発布されました。

 

第1条 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第4条 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ

此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ

 

帝国憲法は、天皇に統治大権があるとして、その下に、立憲君主制の民主主義国家が樹立されました。君主主権の民主主義国家です。この国家は、単に近代西洋的な法治国家をめざすものではなく、わが国古来の倫理道徳にく道義国家を目指すものでした。

 憲法第1条の「統治」とは「知らす」の意味とされます。起草において実務的な中心となった井上毅によると、「『知らす』は、『領有』や『支配』を意味する『うしはく』と区別された言葉であり、端的に『神意を知る』という意味だとされる。ここからさらに転じて、民の暮らしぶりを『知る』といった意味を獲得するようにもなった」とされます。

井上は、古事記・日本書紀からはじまって、十七条憲法、律令、延喜式、御成敗式目等、数多くの古典を読み、わが国の伝統について徹底的に研究しました。その過程で、古事記の中に、井上は「知(し)らす」と「領(うしは)く」という二つの異なる統治概念を発見したのでした。「領」は、国家を私物化するという意味で、シナでは国家は皇帝の財産である家産国家でした。「民を御す」「民を牧す」とあたかも家畜を扱うように言うのは、人民を牛馬のように見ていたことの現われでしょう。
 それに対して、井上は「知らす」こそ、我が国の統治の理念であるとして、憲法草案の第一条に「日本帝国は万世一系の天皇の知らす所なり」と書きました。成案では「知らす」は「統治ス」に置き換えられましたが、その統治という言葉は「知らす」を意味するものと解説されています。

 

「知らす」という言葉の深意に触れた井上穀は、『悟陰存稿』に次のような歌を残しています。

 知らすと 言葉にこもれる いにしえの

御祖(みおや)の思ひに 初めてふれぬ

 知らすとは 鏡のごとく 外のものを

己が心に 映して知ると

 明らけく 物事映す 歪み無き 

鏡のごとき 心もがもな

 私は、「知らす」は、わが国の祭政一致の国柄をよく表していると思います。「知らす」とは、「神意を知り、また民の実情を知って、国を治める」という意味と理解されます。「神意を知る」とは、身を清め、祭事を行って、神に祈り、神の道にそうように努めることでしょう。天照大神の象徴たる鏡に向かって、神の鏡と心の鏡を照らし合わせ、神意のままに政治を行なうことが、「知らす」の一面です。

一方、民の実情を知るには、民の心を「知ら」なければなりません。天皇は鏡のような無私の心となって国民の思いを映し、その幸福を神に祈るという行いに努めてきたのでしょう。天皇は国民を「大御宝(おおみたから)」と呼んで大切にし、それが皇室に受け継がれる「仁」の伝統となっています。民の心を「知る」には、心を寄せて、心が通じ合うように努めなければなりません。そのような行いによって、「天皇と公民」の間に、親子的な感情が共有され、一大家族的な共同体が形成されるでしょう。

「知らす」とは、このように神の心と民の心を二つながら映しとって、天皇が祭政一致の「まつりごと」(祭事=政治)を行うことではないかと思います。

 第4条における、天皇は「元首」であって「統治権を総覧」するという規定も、「知らす」の概念にく、天皇の権能と理解すべきでしょう。ここには、武力や法による権力的な支配ではなく、徳による統治を行い、仁政を敷くという伝統が生かされています。また道義による一大家族的な共同互助の関係をめざすという、わが国の国家理想がそこに含まれています。

 

●教育勅語が示す「公と私」の倫理

 

 その道義の面は、明治天皇が発布した教育勅語によく表されています。教育勅語には、「天皇と公民」が共に修めるべき徳目が挙げられています。中心は、敬神崇祖の精神にく、君に忠、親に孝という忠孝です。その中ほどの段は次のようになっています。

 まず「父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ」と家族的な、いわば「私」的な徳目が示されます。続いて「朋友相信ジ 恭倹己レヲ持シ 博愛衆ニ及ボシ」というように、社会から人類へとその徳目は広がります。「博愛」という言葉は、ここから一般化します。

 そのうえで、次に「公」に関する徳目が挙げられます。「学ヲ修メ業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓発シ 徳器ヲ成就シ 進ンデ公益ヲ広メ 世務ヲ開キ」。ここに人格を高め、「公益」を広めることがあります。続いて「常ニ国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ」とやはり、「公」に関わる心得があります。

 そして、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ  以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と続きます。国防のような国家の一大事には、「公」に尽くすことの大切さが示されています。それは、日清・日露戦争という国家・民族の存亡の危機において、日本人が天皇を中心として一致団結したことに現れています。

 今日、勅語のこの一節をもって、勅語の全体を否定するような意見が一部にあります。しかし、当時の厳しい国際環境の中で、私たちの祖先が強い団結力を発揮することなく、ロシアとの戦争に敗れていたら、わが国はどうなっていたでしょうか。

 国家と自己、皇室と国民の運命は、一体だったのです。

 教育勅語の最後は、次のように結ばれています。

 

  「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」

 

 その大意は、「私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えの道を胸に抱いて、立派な徳を見につけてゆきたいと、心から念願するものであります」という主旨であると思います。この一行に見られるように、教育勅語は、天皇が国民に命令するものではなく、共に実践しようと親しく呼びかけるものでした。

 この一行には、「天皇と公民」の関係は、支配服従の権力的な関係ではなく、一大家族的な共同互助の関係をめざすものであったことが、よく表れています。また、天皇の権威が、古来、強権的威圧的なものではなく、自然と仰ぎ、和合をもたらすようなものであったことは、この一行にも表れていると思います。(2)

 私は、明治における五箇条の御誓文、帝国憲法、教育勅語は、日本の国体と、それにく「公と私」の構造と倫理を、新たに表現したものと思います。また、そこには、第3章でふれた聖徳太子の理想が脈々と生き続けているとも言えるでしょう。

さて、第1章で、和辻哲郎の倫理学について述べましたが、西欧近代の個人主義を批判した和辻が高く評価したものがあります。教育勅語です。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という家族的道徳に始まり、「朋友相信シ」「進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」という社会的道徳に進み、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という国民的道徳に至ります。和辻は教育勅語を、人倫的組織の各段階の道徳を示し、また諸人倫を包摂する国家の構成員の道徳を示すものとして、高く評価したのです。そして、教育勅語は、「私」的なものから、より「公」的なものに進み、「私」を超えて「公」に貢献する倫理を体系的に説いていることを、解き明かしています。同時に、和辻は、教育勅語には、西洋近代の個人主義の思想を超える、人類普遍的な倫理があることを明示しているのです。そして、国際社会というより大きな公共社会において、世界的な人倫を実現するために、わが日本国民は、どのようにしてこの課題に取り組むべきかついても述べています。それには、「教育勅語の本義に沿うことが肝心である」と和辻は説いています。「教育勅語の本義」とは、間柄的存在である人間が、家族的道徳、社会的道徳、国家的道徳の実践を通じて、万民が所を得る国家をつくり、さらにその道を押し広めて、万邦がその所を得る世界的な人倫組織を実現することにあるからです。一視同仁・四海同胞・共存共栄の理念ということもできます。ページの頭へ

 

(1)「五箇条の御誓文」については、拙稿「国是を示し経綸を為す〜由利公正」に、より詳しく記しています。

(2)教育勅語については、拙稿「教育勅語を復権しよう」をご参照下さい。

参考資料

・坂本多加雄著『日本の近代2 明治国家の建設』(中央公論新社)、『歴史教育を考える』(PHP新書)

 

第6章 「公」を衰弱させる現行憲法

 

●「公」の精神の変質と危機

 

 王政復古、文明開化、富国強兵、立憲・教化、日清・日露戦争などの時代を、知しめした明治天皇は、次のような御製を残されています。

 

  まつりごと ただしき国と はれなむ

   もものつかさよ ちから尽して 

     (*もものつかさ=文武百官)

 

  世の中の 人の司と なる人の

   身のおこなひよ ただしからなむ

 

 これらの御製は、「公」に尽くすことをその務めとする、政治家・官僚・指導層に、あるべき姿を諭されたものでしょう。

 しかし、現実は、この御製の主旨に外れるものとなっていってしまいました。

 日露戦争の勝利によって、東アジアが安定し、また殖産興業による経済成長が軌道に乗ると、幕末・明治の「公」の精神は徐々に形骸化してゆきました。明治の元勲が一人二人と減り、世代交代が進むと、武士道は弱まり、政・官・財等の指導層は、「私」的な利益の追求に傾きました。

 第1次世界大戦、ロシア革命、世界経済恐慌など、大正・昭和戦前期のわが国は、厳しい国際環境と経済危機に直面しました。激動する世界の中で、わが国の指導層は、的確な判断と行動ができなくなってしまいました。

 行き詰まった状況の中から台頭した軍部は、政治に介入しました。それは、「軍人は政治に関与してはならない」という明治天皇の遺訓に反する行為でした。そして、昭和天皇の御心に背いて、度重なる暴走を続け、国の進路を誤ってしまいました。日中関係の泥沼化、日独伊三国同盟の締結、日米開戦、そして敗戦へ。

 大東亜戦争の敗戦の時、最大の課題は、天皇と国体を守ることでした。幸いにも、それはかろうじて果たされました。

 戦勝国は、日本を弱体化するために、一連の占領政策を強行しました。弱体化の最大のポイントは、天皇と国民の強い団結を打ち砕くことです。それは、日本の「公と私」の伝統を、破壊するものでした。

 日本弱体化の目的の下、GHQによる「神道指令」の発布、いわゆる天皇の「人間宣言」などが推し進められ、天皇の「公」的権威は弱められました。「公」の精神を培ってきた家族的な国民道徳は否定され、「公」の基盤であった家族的共同体にも、解体の手が加えられました。

 「教育勅語」は国会で、国民の代表自身の手で失効とされました。明治天皇の教訓は教育から除かれました。そして、いつの間にか、聖徳太子も紙幣から消えてゆきました。

 最も重大なことは、帝国憲法に代わって、占領軍の外国人が、わずか1週間で作った粗製英文憲法が押し付けられたことです。(1)

 

●憲法が「公」を衰弱させている

 

 GHQ製の憲法は、日本の「公」の精神を衰弱させるものとなっています。国家の基本法である憲法が、そのよって立つ国家国民の公共性を弱めていると見られるのです。それゆえ、現代日本の「公と私」の問題は、憲法の問題として、論じられなけなりません。

 現行憲法は、主権は、天皇ではなく国民にあるものとしました。いわゆる「主権在民」です。そして、「象徴天皇制」となり、天皇は「象徴」であって、元首とは明記されていません。これらの2点は、戦後憲法の4大特徴のうちに挙げられます。他は、「平和主義」と「基本的人権の尊重」です。

 問題は、こうした特徴をもつ憲法によって、「天皇と公民」の関係が大きく変えられ、天皇が統治大権とともに「公」的な権能を多く失い、一方、主権者とされた国民は、「公」の精神を失う結果となっている点です。

 現行憲法は、「基本的人権の尊重」を特徴の一つとします。これは、帝国憲法に規定された、民主的な「臣民の権利」をさらに拡大したものであり、評価すべき点です。しかし、権利と義務のバランスを欠いているために、人権の尊重が、反面では「公」の精神を低下させています。

 憲法は、基本的人権の保障を詳細に規定している反面、国民の義務は、3つしか定めていません。即ち、納税の義務、教育の義務、勤労の義務です。このうち教育や勤労は義務というより権利という性格が強いですから、義務らしい義務は、税金を納めることだけです。

 これに対し、日本以外の多くの国では、国法の遵守や国防の義務が定められています。日本にはそのような義務は存在しません。そのため、お金さえ出していれば、誰かがやってくれるだろう、という意識が生まれています。

 このように、現行憲法は、権利に対して義務が少ないというアンバランスな規定となっています。権利を「私」の方向、義務を「公」の方向と考えると、現行憲法は、国民を「私」の方向へ、誘導するものとなっています。

 主権が存するとされる国民が、「公」のことより「私」の方へ向いているのでは、国政がうまくいかないのは、当然でしょう。

 この最大の問題が、国防にあると、私は考えます。

 「平和主義」は、現行憲法の大きな特徴です。しかし、それは、単なる「平和主義」ではなく、戦勝国が敗戦国に強制したものであって、わが国の軍事力に大きな制約をかけるものでした。第9条の「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」は、さまざまな解釈を生み、自衛権までを放棄したという解釈も、生まれました。しかし、憲法の内容は、国際社会の現実からかけ離れたものでした。わずか数年以内に、この憲法を押し付けた米国自身の手で、自衛隊が創設され、また日米安保条約が締結されました。

 ここで重要なことは、日本は以後、米国の軍事的な保護を受けることによって、国民が自国の国防を自分の問題として考えなくなったことです。

 近代西洋国家においては、国防は、国民の義務とされています。

 権利とは「人権(human rights)」といわれるものの、実際にはそれぞれの国家がその国民に保障している権利です。つまり、国民の権利です。国民の権利を保障しているのは、国家ですから、その国家が保護されなければ、誰も国民の権利を保護してくれません。国家を保護するものは、その国の国民以外にはありません。それゆえ、国民は自分の権利を守るためには、国家を自らの手で守らなければなりません。そこに、国防の義務が、国民の当然の義務として発生するのです。

 しかし、戦後のわが国では、国民に国防の義務がありません。そして、国家を保護しているのは、国民自身ではなく、外国の軍隊、つまり米軍なのです。

 国民に国を守る義務がなければ、自衛意識は失われます。そして国を愛する心、愛国心を持たなくともよいということになります。事実、わが国の学校教育では、愛国心についての教育がほとんどされていません。国家や社会全体のことを考えるのは、全体主義や軍国主義の復活につながるというのです。

 その結果、国家や社会全体のこと、つまり「公」のことを考えない、「私」的で自己中心的な考えをもつ世代が生み出されます。戦後世代が増えるにつれ、社会から公共性が低下してゆくことになります。

 私は、国民が国防を自らの問題として考えなくなったこと、この点が、戦後、「公」の精神の衰弱した重大な原因であると考えます。ページの頭へ

 

(1)戦後憲法については、拙稿「日本国憲法は亡国憲法――改正せねば国が滅ぶ」をご参照下さい。

 

第7章 「私民社会」ゆえの危機

 

●「公共の福祉」とは、「私益」の調整か

 

 現行憲法が「公」の精神を衰弱させてきた原因の一つとして、国民が自分の個人的な権利の追求において、責任を軽んじていることが挙げられます。

 国民は、国家から保障を受けた権利を行使するためには、それぞれ責任を負っています。国家国民全体の「公益」の実現をめざして国家が機能するためには、個人の「私」的な権利が制限される場合があるのは、合理的です。「私」という部分が尊重されなければならないのは、当然ですが、それ以上に「公」という全体が尊重されなければならないのです。そうであってこそ、各自の「私」も保障できるのです。

 ところが、現実には、今日、多くの国民が、権利の追求において、自分の責任を軽んじる傾向に陥っています。

 憲法第12条には、

 

 「国民は、これ(権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負う」

 

と規定されています。問題は、この「公共の福祉」という概念があいまいなことです。国民は何のために、誰に責任を負うのかが、明確でないのです。

  「公共の福祉」とは、GHQの作成した英文の Public welfare に当てられた訳語です。Welfare とはアメリカ社会におけるアメリカ人の倫理観に基づく概念といわれます。それは、日本人にはわかりにくいものです。社会も文化も伝統も全く異なる日本人に、外来の異質な概念を植えつけようとしています。ここにそもそも無理があります。しかも、訳語としても「福祉」では、どうもあいまいです。吉田和雄京都大学教授は、「公共善」か「公共の利益」と訳した方がよいと述べています。(1)

 私自身は、 Public welfare は「公益」と訳したほうがよいと思います。「公益」とは、教育勅語に、「...徳器ヲ成就シ 進ンデ公益ヲ広メ...」と使われていた言葉でもあります。

 著名な憲法学者の宮沢俊義氏は、「公共の福祉」について次のような学説を説いています。すなわち、

 

  「公共の福祉は、それら(公益)とは違い、どこまでも個人主義に立脚する」

 

と言います。そして、「公共の福祉」の概念は、

 

  「個々人の権利を調整し、それら相互の衝突を規制する原理」

 

であるという解釈です。

 宮沢説によるならば、全体の「公益」より個人の「私益」が尊重され、「公共の福祉」とは、エゴのぶつかり合いを規制する程度のものとなります。国家社会全体の公共的利益、つまり民利国益を目標とする概念ではなくなるわけです。

 宮沢説が原理とするものは、「どこまでも個人主義」です。それが、欧米の近代市民社会の基本原理だと、宮沢氏は理解したのでしょう。

 確かに欧米社会は、個人主義の社会といわれます。一人一人が強い「個」の意識を持っています。自我意識や権利意識が強いのは、確かです。

 しかし、同時に、欧米では、社会における個人の責任を非常に重く見る。自分のことは自分で責任を持ち、また社会全体に対して責任を持つことが、要求される、そういう社会だということが、戦後、欧米で生活した多くの人々によって明らかにされてきました。

 さらに、欧米の市民社会には、自分たちの生命や財産を、市民が共同で防衛するという伝統があり、国防は国民の義務とされています。個人の「私」的な権利を強く主張・要求するけれども、国家・公共のことについては、「私益」より「公益」を優先するという規範が確立しているようです。そして、欧米人は、個の意識が強い反面で、しっかりした国家意識や地域意識を持っており、明確な公共意識を持っているのです。

 今日、宮沢氏の学説が、かなりの誤解にいたものだったことは明らかです。しかし、氏の学説は、東大系の学閥を通じて、わが国の憲法解釈と、政・官・民の意識に、多大な影響を与えてきました。そして、戦後日本人の「公と私」を歪めてきた、原因の一つとなっていると、私は思います。

 

●「市民」ではなく「私民」の社会へ

 

 欧米社会における「市民(citizen, cityoen)」とは、国家・公共に対する責任と義務の意識を強く持った、自立した個人だと、私は考えます。こうした欧米の「市民」は、日本語には、むしろ「公民」と訳したほうがよいと、私は思います。

 今日、わが国には、「市民」という言葉を愛用する人々が多くいます。しかし、その人たちのいう「市民」は、欧米の「市民」とは違う。欧米市民の持つ国民意識・公共意識を欠いているからです。そこで、最近よく、「私民」とも書かれます。そのうえ、「市民」というのは、町民や村民が無視されているようで、どうもよくないと、私は思います。都市に住む知識人のおごりがあるような気さえします。

 戦後日本の知識人の「市民像」によると、次のようになると京大教授の佐伯啓思氏は、記しています。

 

 「…市民は、国家権力に対して、個人の権利をまずは主張し、それを政治的正義にまで高めて、権力と対峙するものとされた… しかし、このような『市民像』は、どうしても『私』の権利や利益から出発することになる。『私』の世界が、国家という権力に対比されるからである。『私』の権利や利益を守りまた主張するのが、市民であり、これを政治の世界に持ち込むのが民主主義ということになる。『市民』ではなく『私民』が民主主義の世界を闊歩(かっぽ)し始める。『私』の権利や利益の食い合いとなってゆく。

 国家や公共への責任を見失った、戦後の『市民』が民主主義を担うとすると、民主主義から腐臭が出てくるのもいたしかたのないところであろう」(2)

 

 佐伯氏の言葉は、戦後民主主義の問題点を、深くとらえていると思います。

 戦後日本は、欧米の「民主主義」に学んでいるようでいて、欧米の「市民」が持っている国家意識や国防の義務などの面は、避けてきました。戦後日本の「民主主義」は、「公」の意識を欠いた、個人主義による民主主義です。

 その結果、生まれたのは、「市民社会」ではなく、「私民社会」ではないか、と私は思います。そして、「市民」ならぬ「私民」による「民主主義」が、わが国の「公」の精神を崩壊させてきたのではないかと思うのです。

 戦後、使われている「公」の文字は、わが国の伝統における「公」とは、大きく意味が異なっています。

 「公益」という言葉は、教育勅語にあった言葉でした。それは、わが国の伝統である「公(おおきい家)」としての家族的共同体を基盤とした「公」の利益と考えられます。

 この「公」つまり「われわれ」の利益のために、個々の「われ」が尽くすのが、奉公です。ここでは「われわれ」と「われ」の利益は、根本的に一致します。「われわれ」の利益は、「われ」の利益であり、「われ」の利益は「われわれ」の利益となります。「われわれ」とは、一つの家族のような共同体だからです。そして、この「われわれ」の統合を象徴するものとして、天皇がありました。それが日本の「公と私」だと、私は考えています。

 これに対し、現行憲法の「公」は、個人の集合を指しているものにすぎません。また、その個人は、抽象的で、アトム的な個人です。まるで、家族も先祖も故郷も持たないような。

 そうした個人を要素とする集合は、「われ」と「われ」の集合ではあるかもしれません。しかし、それは「われわれ」と呼べる集団なのでしょうか。

 現行憲法には、「日本国民は…」という主語が、しばしば出てきます。それは "We, the Japanese people"の訳語です。"We"と書いたのは、「われわれ」ではない。日本を占領していた米国軍人だったのです。

 仮に、この個人の集合が「われわれ」と呼ばれるとしても、集団を「われわれ」へと統合するものの存在感が希薄です。つまり、「日本国」と「日本国民統合」の象徴とされる天皇の存在感が、弱いのです。同時に、天皇の象徴的な権威によって一つに統合される「われわれ」にも、確かな存在感が、ないのです。

 また、この個人の集合としての「公」には、全員で協力して自分たちを守るという義務はありません。その「公」は、教育勅語の「義勇公に奉じ」の「公」のように、自ら守るべき「公」ではないのです。

 ここでは、「公の体現者」としての天皇も、「公」を構成する「公民」も、二つながら弱められているのです。「天皇と公民」の伝統を否定しようという力が働いています。

 戦後の「公」の文字を透かして見れば、見えるのは、ばらばらの個人のみ……。家族も、国家も、天皇も、公民も、歴史も、伝統も見えてこないのです。

 こうして戦後憲法は、日本の「公」の精神を衰弱させてきた、と私は思います。

 

●聖徳太子・明治天皇の精神に学ぶ

 

 戦後半世紀を経て、今日なお天皇という「公の体現者」に代わり得る「公」の根拠を、日本人は持っていません。欧米から取り入れたつもりの「民主主義」や「個人主義」は、新たな公共性を生み出すようには、機能していません。そもそも国家や国防という問題を避けて、欧米型の「市民社会」などコピーできないものだったのです。

 事の核心は、天皇の存在を避けて、「公と私」の問題は論じられないことにある、と私は主張するものです。

 「天皇と公民」の関係が損なわれると、「私」は、倫理的な規制のくびきから離れます。

 至るところの無責任、あくなき利権追求、個人主義の規範化、ファッション化するミーイズム……こうして、「公」の精神は、戦後、萎弱を続けてきました。今や私たちは、信じがたいほどの職業倫理の低下、「安全神話」の崩壊をも、目の当たりにしています。

 このまま天皇という、「日本の究極の公共性の体現者」の存在感が薄れ、またその象徴的権威が無視されるならは、わが国の公共性は後退するのみ。聖徳太子以前の豪族たちのように、人々は「私」をもって争い、奪い合うでしょう。その結果、「公務」にある者が「公」を忘れ、政も官も民も「私」をほしいままにする状態が、一層広がっていくばかりでしょう。

 青少年は、直感的に虚偽を感じている。いらだち、満たされず、教室で、街なかで、剥き出しの「私」をさらけだし、ぶつけることで、大人や社会に「反公」している……そんな風に、私には感じられます。

 高森氏は、述べています。

 

 「公の後退と天皇回避この悪循環を断ち切らない限り、真の意味での日本の再生はない」(第1章に引用)

 

 この悪循環を断ち切るために、私は、聖徳太子の十七条憲法や明治天皇の「教育勅語」や御製などに学ぶことが、有効だと思います。歴史や伝統を学ぶことも、「公」の精神の復興につながります。それは、日本人の固有の精神、すなわち日本精神の復興ともなるでしょう。ページの頭へ

 

(1)吉田和男著『21世紀の繁栄のための憲法改正論』(PHP研究所)

(2)佐伯啓思著『市民とは誰か』(PHP新書)

 

第8章 アインシュタインのメッセージ

 

●「世界は一家、人類みな兄弟」

 

 これまで見てきたように、日本の国柄の特徴は、天皇を中心とした家族的共同体を基盤としている点にあります。

 古代には世界の多くの地域でこうした共同体的国家が存在しました。しかし、ごく早い時期に、そうした国家は消滅してきました。ギリシャ、ゲルマン、シナ…… 日本は、世界で唯一、古代から連綿として続く王朝を持つ国となっています。

 戦後、わが国では、そうしたわが国の比類ない特徴がおおい隠されてきました。そのことが、「公」の精神の衰弱の大きな原因となっていると考えられます。このまま現在のように、天皇の存在を回避し、「公」の精神が後退してゆけば、いよいよ日本は本来の姿を失ってゆくでしょう。それとともに、日本の社会は混迷・混乱に陥っていくでしょう。この傾向を押し止め、日本の国柄を守ることは、日本を愛する人々の共通の課題だと思います。

 また、日本の国体が貴重であるのは、ただ単に日本民族にとってのみではありません。人類全体にとって、今後ますます貴重なものとなると思われます。

 「世界は一家、人類はみな兄弟」という言葉があります。素朴・単純な思想のようではあります。しかし、人類はその発生をさかのぼれば、最初はある一つの世代から、繁殖・増加してきたはずです。

 最初の世代が一対の男女であるのか、あるいは複数の群れであるのかはわかりませんが、いずれにせよ、彼等、つまり私たち人類の祖先の第一世代が持っていたDNAは、現在、60億の人類の一人一人に受け継がれているでしょう。つまり、生物学的また人類学的に言って、人類は一つの家族、みな兄弟という思想は、正しいはずです。

 単純に原点に戻れば、人類は、互いを家族・同胞と認め、結び合い、この地球で共に生きることが可能でしょう。

 ここで、人間の本来あるべき家族的な結合をよく象徴するものが、日本の国体であると私は思うのです。

 古代の日本においては、さまざまな人種・民族・文化が日本列島に移入・居住し、それらが長い年月を経て、一つの日本民族を形成してきたのでしょう。

 この過程には、戦いもさまざまあったでしょうが、それ以上に、親和的・融合的に民族が形成されてきたと考えられます。その理由は、たとえば、日本の神話には他の神話に比べて、戦いの話が目だって少ないこと、また、各地の神社や霊廟が破壊されずに尊重・保存されてきたことなどが挙げられます。

 そして、対立・闘争よりも親和・融合を重んじてきた結果、日本の古代社会は、擬制家族的な一大共同体を形成するようになったと考えられるのです。

 ここで、古代の日本を現在の地球に比し、また古代日本の居住民を現在の人類に比すならば、過去に日本で起こったことは、これから人類が人種・民族・文化等を超えて、一つの地球共同体となりうる可能性を、事実として、示していると、私は考えます。

 そこには、何か現代の科学では、割り切れないような、原理があるはずです。人間が共存共栄し、また自然と共生してゆける原理が。

 それゆえに、私は、日本の国柄は、単に日本国民にとってのみ価値があるのではなく、人類社会において、いわば「公」的な価値のあるものだと思います。

  そして、わが国において「公」の精神を復興し、また日本の国体を守ることは、私たち日本人の単なる「私」的課題ではなく、地球人類のための「公」的課題でもあると、私は考えるのです。

 

●「八紘一宇」「四海同胞」

 

 わが国は、神武天皇の建国伝承以来、「八紘一宇」という状態を理想として来ました。「八紘一宇」とは、天の下が一つ屋根の家の家族のように仲良く暮らす状態、つまり今日的に言えば、世界が一家族である状態を意味します。

 現在、2月11日は、「建国記念の日」として祝われています。この日は、神武天皇が初代天皇に即位し、日本国を建国された日とされています。「日本書紀」は、この建国の年を紀元前660年としています。この年を紀元とした暦があり、西暦2000年が皇紀2660年にあたりました。キリスト教による西暦が2000年であるのに対し、わが国は、さらに古い年代の暦を持っているのです。

 記紀の神話によれば、神武天皇は、高天原から日本に降臨した皇孫ニニギノミコトの曽孫とされます。神武天皇は、当時のわが国では、氏族が割拠し、対立抗争していたのを見て、皇祖・天照大神の理想とする国を作ろうと考え、九州の日向(ひゅうが)から東征して大和に入り、奈良の橿原(かしはら)の地で、初代天皇に即位したとされます。

 その際、神武天皇は、日本建国の理念を高らかに謳(うた)い上げたとされます。その理念は、「橿原建都の詔」に示されています。

 

 詔(みことのり)に曰く、「上はすなわち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、下はすなわち皇孫(すめみま)正しきを養ひたまふ心(みこころ)を弘め。然して後に六合(りくごう)をかねて以て都を開き、八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)むこと、また可(よ)からずや」と。

 

 すなわち、「天の神の御神徳にこたえ、また子孫に至るまで正義を養う心を広めよう。そして、国中を一つにして都を開き、天の下をおおって一つの家となすことは、なんと良いことではないか」という意味と解されます。

 この詔は、神の道に基づく道義国家の建設を、日本の建国の理念とすることを、宣言したものと言えましょう。

 そのキーワードが、「八紘一宇」です。「八紘一宇」という言葉は、英語では Universal brotherhood (世界同胞主義)と訳されます。戦前のわが国の外交文書で公式に、この用語が使われました。「世界は一家、人類みな兄弟」という考えがよく表現されています。「八紘一宇」は侵略のスローガンだと錯覚していた人もいるでしょうが、「八紘一宇」が、侵略主義とは無縁の概念だったことは、かの東京裁判においても(!)、認められているのです。

 記紀が描く日本国は、こうした高い理想をもって始まった国です。 このことが歴史的事実であるかどうかは別として、日本人は、少なくとも千数百年以上もの長い間、そのように信じてきました。そして、その理想のもとに、わが国では、天皇を中心とした家族的共同体を基盤とした国家が築かれ、「公と私」の構造と倫理が形成されました。

 それは、聖徳太子による十七条憲法にも表され、各時代へ経て受け継がれ、幕末の危機において再生し、変革の原動力ともなりました。明治維新において掲げられた「五箇条の御誓文」や「教育勅語」などもまた、神武天皇の肇国(ちょうこく)の精神を受け継いで、明治天皇が発せられたものでした。

 ちなみに明治天皇の御製にも、この建国以来の理想が歌われています。

 

  四方の海 みな同胞(はらから)と思ふ世に

   など波風の 立ち騒ぐらむ

 

 世界の人々を同胞(=兄弟)と思う「四海同胞」とは、「八紘一宇」の理想を、別の言葉で表したものでしょう。それは、すなわち「世界は一家、人類みな兄弟」の思想です。わが国に伝わるこの理想は、来るべき地球共同体の建設の理念と言えましょう。しかも、これは単なる理想ではなく、そのモデルが、現存しているのです。この日本の国体として。

 

●「世紀の人」アインシュタインのメッセージ

 

 こうした日本の国体は、いわば「世界遺産」です。しかも、生きた遺産です。存亡の危機にあって、人類がこれから同胞愛・人類愛を持って調和・共生できるかどうかは、この日本の国体の価値を、まず日本人が、ついで人類が再発見できるかどうかに、多くかかっていると、私は思います。

 こうした日本の国体が地球共同体の実現に向けて、かけがえのない価値のあるものであることを、深く直感したのが、アルバート・アインシュタインでしょう。

 アインシュタインは、タイム誌19991231号において「世紀の人(The Person of the Century)」つまり、20世紀を最もよく代表する人に選ばれました。(1)

 彼は、まさに「科学とテクノロジーの世紀」を象徴する人物です。20世紀最高の天才と評価されています。彼の相対性理論は、物理学だけでなく、世界観・文化・芸術などにまで、広汎な影響を与えました。それとともに、彼は、世界大戦・民族大虐殺などを経験した20世紀の人類に対し、宇宙を創造した神を前にして、謙虚であるべきことを語りつづけた人物でもありました。人類絶滅の武器・核兵器は、彼の理論が現実になったものであり、アインシュタインは痛切な思いで、核廃絶による世界平和を訴えました。また、一人の亡命ユダヤ人として、彼は人間の尊厳を求めました。まさに、「世紀の人」に選ばれるにふさわしい人物です。

 ここに、20世紀を最もよく代表する人物の言葉があります。

 

 「近代日本の発展ほど、世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界の一箇所くらいなくてはならないと考えていた。

 世界の未来は進むだけ進み、その間、いく度か争いは繰り返され、最後の戦いに疲れる時が来る。その時、人類は真実の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならぬ。

 この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き超えた、最も古くまた尊い家系でなくてはならぬ。

 世界の文化はアジアに始まってアジアに還る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国を造っておいてくれた事を」(2)

 

 この言葉は、21世紀を生きる地球人類に送られたメッセージとも言えましょう。

 わが国で「公」の精神を復興し、また国体を守ることは、日本人の単なる「私」的課題ではなく、地球人類のための「公」的課題でもあると、私が考えるゆえんです。ページの頭へ

 

(1)『TIME』(December 31, 1999

(2)雑誌 『改造』(大正12年)

     大正11年11月18日、博士初来日、伊勢神宮参拝の際の言葉

参考資料

・出雲井晶著『教科書が教えない神武天皇(扶桑社)

 

結びに〜地球的視野の公民倫理へ

 

●歴史伝統を踏まえた公民倫理を

 

 わが国の公共性・公共精神の低下のなかで、わが国の歴史と伝統、そして国体の人類的価値を踏まえ、私たちは、何を行うべきでしょうか。

 私は、日本の「公と私」の伝統にいて、「公」の精神の復興を進めることだと思います。

 復興のための具体的な方策の一つは、教育の建て直しです。家庭でのしつけ、学校での歴史教育や「心」の教育、道徳教育、地域の大人が参加する社会教育などが、改革の重要な課題です。子供たちをなんとかしなくてはという努力が、大人の意識改革となります。「国民参加の教育改革」は、青少年ともに、大人自身が変わってゆく改革です。

 改革の課題のなかで、学校での教育内容については、これまで弱かった、家族の意識、国家と国民の意識の育成に重点を置く必要があります。それには、教育基本法の改正(註 昭和22年版は平成18年に改正されたが再改正が必要)と教育勅語の復権が必要ですが、この点は、別項に譲ることにします。(1)

 学校での道徳教育の内容については、私は、「公と私」の問題を柱の一つとして、内容を構成すべきだと思います。具体的には、「天皇の存在を踏まえた公民教育」を行うことを提案します。それが、日本人が公共性、公共精神を取り戻すために、有効かつ不可欠の方法だと思います。

 「公民」という言葉は、かろうじて現代にも生きています。公民館とか公民権など、学校教育の教科名にも使われてはいます。しかし、積極的な概念としては、ほとんど使われていません。市民や住民などとの違いも意識されていないようです。

 「公民」とは文部省によって、「国民としての意識と社会貢献の意志を持つ者」と定義されています。つまり、単なる国民ではなく、国家や公共のために貢献する意志を持った国民です。

 ちなみに「市民」という言葉は、現行憲法には存在しません。憲法に書かれているのは、「国民」です(people の訳語として)

 現代日本では、国民から、公利公益に尽くす「公民」が減り、私利私益を追求する「私民」が急速に増えつつあるといえます。「公僕」である「公務員」が「公」の精神を失い、一方、「市民」という名の「私民」が跋扈(ばっこ)しています。そして「私民ジュニア」が全国に量産されています。そのことが、さまざまな危機を生み出しており、日本再生の道が求められています。

 再生の道ーそれは「公」の精神を取り戻すことです。そのために、まず現行憲法を踏まえた公民教育の実現をめざそうというのが、私の意見です。ポイントは、天皇の存在とご公務について教えることです。

 小学・中学には、社会や道徳の教科はあります。高校には、「公民」という教科もあります。しかし、道徳教育は、軽んじられており、とりわけわが国の伝統的な「公と私」については、否定的な形でしか教えられていません。「天皇と公民」の歴史については、教えられていません。日本の「公」は天皇と切り離せませんから、天皇の存在についてふれない「道徳教育」「公民教育」では、「公民」としての国民を育成することはできません。国家・公共の意識の薄い「私民」を生みだすばかりです。

 そもそも現行憲法は「象徴天皇制度」を規定しています。このことは、世界的に見て、非常に顕著な特徴です。憲法が制定されたころは、どの解説書も新憲法の特徴は、象徴天皇制度を含む四大原則としていました。残りの3つは、「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」です。それがいつのまにか、三原則にされてしまっています。そして、学校教育では、ほとんど天皇について教えられていないのです。

 私は、こうした現状は、憲法違反の疑いがあると考えます。日本国憲法は前文よりさらに前に、天皇の「…帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」という言葉と署名・押印があります。それは、なぜなのか。第1章に、なぜ天皇が規定されているのか。天皇が日本国の象徴にして、日本国民統合の象徴とされているのはなぜか。象徴とは何か。国民の総意にくとともに、世襲のものとされているのはなぜか。天皇と国民、そして自己とのつながりは、何かーーこれらについての教育が、当然行わなければなりません。これを、怠っていることは、違憲の疑いがあると私は、考える者です。

 

●日本の再生と地球の未来のための新しい教育を

 

 現行憲法と教育基本法(註 平成18年版も同様)の下でも、天皇の存在を踏まえた教育は可能です。いや憲法の規定にそうならば、当然、実行されねばならないと、私は考えます。

 天皇の存在を踏まえた教育は、さしあたりこれまでの「民主・平和・人権・環境」などの教育と、同程度の比重をもって行うとよいでしょう。前者の教育を適当な程度に行うことによって、後者の教育も、新しい公民教育として、再生されます。

 天皇の存在を踏まえた新しい公民教育では、天皇の存在とご公務の一端を、具体的に教えます。

 天皇は現行憲法において、「日本国の象徴」にして「日本国民統合の象徴」と、規定されています。天皇陛下は、その規定に従って、象徴としての役割を果たすため、様々なご公務をされています。それを話やビデオ等によって、伝えるのです。

  たとえば、天皇皇后両陛下は、平成2年の雲仙・普賢岳噴火や、平成7年の阪神淡路大震災の際には、危険をも顧みず被災地を訪れて、被災者の方々を励まされました。こうした行動が、多くの人々を力づけ、復興の希望と活力を生み出しました。

 また、ご公務の中には、人々の食生活や地球の環境保全に関することもあります。すなわち、天皇は、皇居で自ら田植えや稲刈りをして米作りし、五穀豊穣を祈っておられます。また、毎年行われる「全国植樹祭」に出席し、苗木の植樹や、木の播種をし、森林を育て、自然を守ることもされています。

 こうしたご公務には、人々の感想や証言があり、また記録映像があります。

 ご公務の一端を教えることによって、天皇の存在と、国民との関係が明瞭になります。また、国旗・国歌の意義、和歌などの国文学、社会福祉、国際協調・国際親善などに関してもおいても、同様にすることでそれぞれの意義を深く学ぶことができます。

 このような教育によって、わが国の国柄と伝統・文化への理解が深まり、生きた公民教育が実現できるでしょう。これは同時に、よりよい歴史教育、「心」の教育、環境教育ともなり、また、よりよい国際貢献の教育ともなります。

 こうした新しい公民教育は、日本の「公」の精神を復興させるに違いありません。そして、日本が自壊の危機から立ち直り、さらにわが国とわが国民が、地球と人類というより大きな「公」に貢献することができるようになる道だと思います。

 

(1)教育基本法は拙稿「戦後教育を呪縛した教育基本法〜その弊害と改正」を、教育勅語は拙稿「教育勅語を復権しよう」をご参照下さい。

 

参考資料

・家庭・学校・団体向けの資料・補助教材の例

 出雲井晶著『教科書が教えない日本の神話』(扶桑社)

 同上『教科書が教えない神武天皇』(扶桑社)        

 『天皇陛下のお話』(日本会議)    ※上記は小学高学年以上

 ビデオ『天皇陛下とブラジル』(同上) 

ビデオ『奉祝の灯〜天皇陛下御即位十年をお祝いして』(明成社)

     ※上記は中学生以上

 

「公と私」の題目へ戻る

 

ber117

 

ICO_170

 

トップ日本の心Blog基調自己紹介おすすめリンク集メール