トップ日本の心Blog基調自己紹介おすすめリンク集メール

 

  家族・教育

 

題  目

目  次

01 日本の建て直しは、必ず出来る

02 家族の危機を救え!(長文)

03 少子化プラス劣子化への対策を

04 脱少子化は、命と心の復活から(長文)

05 脱少子化と日本再建は一体の課題(長文)

06 少子化・高齢化・人口減少の日本を建て直そう(長文)

07 高齢化社会における家族のあり方

08 婚外子の相続均等化で、日本の家族を揺るがす民法改正

09 戦後教育を呪縛した教育基本法〜その弊害と改正(長文)

10 日本再建のため、教育基本法の再改正を〜ほそかわ私案(長文)

11 教育勅語を復権しよう(長文)

12 教育再生は社会総がかりで(長文)

13 食と健康と日本の再建(長文)

14 「親学」を学ぼう、広めよう(長文)

15 しつけが甘い、日本人〜国際比較調査(平成11年)

16 小学生の生活習慣を国際調査(平成18年)

17 「しつけ」あっての教育

18 親子で学べる「しつけ」の本

19 歴史・道徳から教育改革を

20 日本人の誇りを育てる教育(長文)

21 教科書を改善し、誇りある歴史を伝えよう(長文)

22 道徳をどう説く

23 道徳の教科化と親学の振興で道徳教育の充実を

24 いよいよ道徳が教科化される

25 体罰は教育的な一手段

26 音楽の力と卒業式の歌

27 日教組と良識ある教職員団体

28 東京から日本の教育を変える

29 続発する凶悪少年犯罪にどうする?

30 少年に贈る言葉

31 成人式騒動に思う

32 成人式の起源と意義

33 大人は「国民」、子どもは「少国民」

NEW

日本精神

公と私

●家族・教育

人権・男女

憲法・国防

天皇と国柄

祝日の意味

歴史再考

共産主義

心と宗教

政治・経済・社会

国際関係

人類の展望

 

ber117

 

日本の建て直しは、必ず出来る

2004.10.17

 

●子供たちに異変が起こっている

 

21世紀を迎えた今日、日本人は新たな危機に陥っている。それは青少年に最も顕著に表れている。子供たちの心に異変が現われているのだ。

 

(1)長崎県佐世保市で小学生による殺人事件

平成16年6月長崎県佐世保市の小学校で、小学校6年生の女子児童がカッターナイフで傷つけられ死亡するという事件が起きた。加害者は同級生の少女だった。その少女は事件直前の授業で、作文の下書きに「お前を殺しても殺し足りない」などと書いていた。残虐な内容で知られる映画や小説に影響を受けていたらしいことが指摘されている。

 

(2)連続する少年による凶悪犯罪

振り返って見ると、平成9年5月に神戸市で小学生殺害事件が起こった。中学校校門前に男児のものと思われる生首が置かれていたというニュースによって、日本全国に衝撃が走った。酒鬼薔薇聖斗を名乗る加害者は、14歳の中学3年生だった。その後、特に17歳の少年による凶悪事件が続いている。愛知・佐賀・岡山などで、バスジャック事件、金属バット殺人事件などが起こり、各地に広がっている。

 

(3)ひきこもりが増え、新たにNEETが社会問題に

子供たちの異変はこれだけではない。平成16年現在、不登校の児童・生徒は12万6千人いるという。不登校とは、年間30日以上学校を欠席している状態をいう。さらに「ひきこもり」が増えている。「ひきこもり」とは、厚生労働省の定義によれば、「6ヶ月以上自宅にひきこもって、会社や学校に行かず、家族以外との親密な対人関係がない状態」のことをいう。

そうした中で新たに社会問題化しているのが、NEETである。NEETとは、Not in Employment, Education or Trainingの略である。まだ適当な日本語がない。ニートとは、仕事に就こうとせず、教育を受けるでもなく、職業訓練を受けるのでもない状態の人々を指すとされる。イギリスで最初に問題となった。フリーターや失業者とは違う。自ら働いて社会参加する意欲がなく孤立している状態だからだ。わが国にはニートが、15才から34才で、52万人ほどいると推計されている。

 

(4)青少年は社会の縮図であり、また未来図である。

さらに深刻なのは、女性が一生のうちに産む子供の数(合計特殊出生率)が、1.29人に低下したことだ。人口を維持するのに必要な2.08人を大きく下回っている。65歳以上の高齢者が、5人に1人の割合となった。このように、わが国は、急速な少子化・高齢化が進んでいる。

その中で、ますます数少なくなっている子供たちの心が荒廃し、青年の無気力が深刻化している。このまま5年後、10年後、20年後の日本はどうなるのか。真剣に考えなければならない。

子供たちの異変は、大人の異変の現われだ。結婚しない男女、子供を作らない夫婦、子育てに悩む親が増えている。とりわけ子育てが出来ないと悩んで、自分の子供を殺す親が続出している。本来、親が子供を育てるのは、本能的な愛情による。その本能が壊れてきているのだろうか。親から愛情の受けられない子供たちは、心が健康に育たない。その子たちが親になる時代には、世の中がもっと悪化することは目に見えている。このままでは、日本は滅亡する。

 

●日本がこんなことになった原因は何か

 

なぜ日本はこんなことになったのか。その原因は何か。

 

(1)占領下の日本弱体化政策の影響

先進国共通の要因はいろいろあるが、わが国には特殊な事情がある。大東亜戦争の敗戦後、6年8ヶ月にわたって占領がされた。アメリカ・イラク戦争と比べると異常に長い期間だとわかる。この間、いわゆる「民主化」が進められたが、占領政策の目的は、日本が再び米国の脅威とならないように、日本人を精神的に骨抜きにすることだった。一言で言えば、日本の弱体化である。日本の伝統・国柄・教育・家庭等を破壊する政策が推し進められた。その結果、日本人の多くは、国に誇りを失い、自信喪失に陥ってしまったのだ。(註1

 

(2)誇りを奪う歴史教育

特に重要な問題として指摘したいのは、歴史教育である。米国の占領政策によって、それまでの日本人による歴史観が否定された。世界の歴史を見ると、ある民族を滅ぼすには、その民族の記憶を奪えばよいという鉄則がある。ここにいう記憶とは歴史である。その民族固有の歴史観を奪えば、その民族はやがて滅亡する。

占領後すぐ、アメリカの立場による「太平洋戦争史観」が日本人に植え付けられた。新聞に連載され、全国の学校に本が配付されて教え込まれた。ラジオ・ドラマ化されて、「真相はこうだ」という番組で全国に放送された。東京裁判の判決を是とする東京裁判史観が、それを補強した。これが、戦後の歴史教育のもとになっている。そのため戦後の歴史教育では、日本は侵略者として描かれている。特に昭和50年代から内容が悪化し、現在では中学校の教科書のほとんどが、明治以来の日本という国そのものを悪とし、日本の近現代史全体を、犯罪の歴史のように描いている。

子どもたちは、自分たちの父祖が他国を侵略し、人殺しをしたと教えられる。そのように教えられた子どもたちは、日本人は悪いことをしたんだと思い、国に誇りがもてなくなる。日本が嫌いになってしまう。祖先に対しても尊敬や感謝の気持ちがわかない。こうした子供たちは、道徳心が育たず、自己中心の考えとなる。その結果、自分を粗末にしたり、友達をいじめたり、さらには人を殺すような行動に走るようになる。(註2

 

●日本再建の具体策

 

 現在の日本の危機を克服するには、まず歴史教育を改め、次にもっと抜本的な改革を進めることが必要だ。

 

(1)誇りある歴史を教える

本来、どこの国でも、自国の歴史のよいところを教え、誇りをもてるようにしている。国の将来を担う青少年を育てるのだから、それが当然の姿である。わが国は、戦後の歴史教育を改め、子供たちが誇りの持てる歴史を教育しなければならない。この点で、「新しい歴史教科書をつくる会」の活動は、極めて重大な意義がある。(註3

自国の歴史や伝統に誇りを持つことは、祖先への尊敬や感謝を持つことにつながる。子供たちは、自分の命が祖先から受け継がれてきたものだと感じる。自分の存在は、祖先のおかげだと気づく。それによって、自分が生まれてきた意味、生きていく目的、自分の担うべき役割を理解することができる。そこに、人への思いやりや、助け合いの心も育つだろう。

それゆえ、誇りある歴史の教育は、子供たちの心を育てる教育となり、子供たちの心を救う教育になる。

 

(2)教育基本法を改正する

誇りある歴史の教育を進めながら、さらに抜本的な改革をめざすことが必要だ。

歴史教育に見るように、占領下で行われた教育が、今なお日本の教育を支配している。それは、教育基本法による。教育基本法は、昭和22年制定後、半世紀以上たっているのに、一言も変えられていない。根本方針が変らないまま、教育が行われてきたことによって、日本人の精神が低下・退廃してしまった。(註4

教育基本法には、「人格の完成」「機会均等」などの立派な理念が盛り込まれているが、その一方、愛国心、公共心、伝統の尊重などが盛られていない。つまり、わが国の青少年をどういう「日本人」に育てるかという目標像がない。それは、教育基本法が、日本国憲法の精神を実現するものとして制定されているからだ。根本原因は日本国憲法にある。日本の再建は、憲法の問題に行き着く。

 

(3)新しい憲法を制定する

日本国憲法は、GHQが1週間で草案を作り、翻訳された憲法である。憲法の前文には「ここに主権が国民に存することを宣言し」と主権在民が記されている。しかし、日本国民とはどういう歴史や伝統を持つ者であるか、日本の国はいかなる国柄の国であるかが書かれていない。憲法前文は、日本国民の記憶を奪い、歴史を断ち切るために前置きされた文章だからである。

この憲法のもとで、日本人は物質的な繁栄は得られたものの、精神的には低下を続けている。いまや子供たちの心に異変が起き、少なからぬ家庭が崩壊しつつある。早晩、この傾向は社会・国家の全般に広がるだろう。それゆえ、日本を崩壊・滅亡から救うには、どうしても憲法を改正しなければならない。そこまで行かないと教育も、抜本的な改革にならない。(註5

憲法に、日本の国柄・伝統・歴史を明記し、そのうえでその精神を実現するものとして、教育基本法に、愛国心、公共心等を盛り込む。それを政策や教育において具体的に実行することが急務である。

 

(4)家族の復権に心を注ぐ

子供の教育に関することを少々述べると、憲法に家族に関する条項を盛ることが必要である。日本国憲法には家族という概念がない。婚姻について、「両性の合意のみによって成立する」と規定されているだけである。この発想は、日本の伝統とは全く反対の個人主義の考えである。憲法に必要なのは、家族の大切さを規定することである。家庭は社会の基本単位であり、いのちが育ち、受継がれる場所である。民族の文化が継承される場所である。こうした家庭の役割について憲法に明記し、国家による家族・母性・子供の保護などを規定すべきである。

また、教育基本法にも、家庭教育の重要性を盛り込むことが必要である。前文を残すとすれば、「歴史、伝統文化の尊重」や「愛国心」とともに「家族を敬う気持ち」を持った日本人を育成するという文言を盛り込む。家庭教育については、現在は第7条「社会教育」の条項に一部あるだけだが、家庭教育の重要性に鑑み、独立した条文とする。そこに、家庭でのしつけを重視することを盛り込む。子育てにおける親の責任を明記し、また家庭・学校・地域社会が教育の目的の実現のために連携・協力すべきことを盛り込むと良いだろう。

 

●いま立たずしていつ立つか

 

これらは改革のごく一部に過ぎないが、国の根本となる憲法や教育基本法を改めてこそ、日本は立ち直る。幸い平成16年10月現在、33の都・県の地方議会が、「教育基本法の改正を求める意見書」を採択している。全国都道府県の過半数である。健全で良識ある意見を、地方から国家中央に反映させて教育を建て直そう。まず教育基本法、次に憲法の改正を進めていくという流れになりそうである。できるところから変えていき、根本のところまで変えていこう。そういう時が来ているのである。

日本人がこのままではだめだ、何とかしようと改革をめざして団結すれば、必ず実現できる。日本は立ち直る。座して滅亡を待つよりも、自ら立ち上がって、行動することである。ページの頭へ

 

(1)占領下の政策については、以下の拙稿をご参照下さい。

『日本弱体化政策』の検証

(2)歴史教育及び教科書の問題については、以下の拙稿をご参照下さい。

教科書を改善し、誇りある歴史を伝えよう

(3)「新しい歴史教科書をつくる会」については以下のサイトをご覧下さい。

http://www.tsukurukai.com

(4)教育基本法については、以下の拙稿をご参照下さい。

教育基本法を改正しよう

(5)憲法については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本国憲法って、このままでいいのかな?

 

ber117

 

少子化プラス劣子化への対策を

2005.5.24

 

日本人は、古来、四季に恵まれた美しい風土の中で、自然の恵みに感謝し、自然との調和を心がけて生きてきた。できるだけ人と人の争いは避け、お互いの調和を大切にしてきた。こうした日本人の心には、敬神崇祖の精神があった。神を敬い、祖先を尊ぶという心である。だから、日本人は、礼儀正しく、高い道徳性をもっていた。

しかし、現代の日本人は、日本古来の精神を忘れてしまっている。急速な物質文化の発達によって、人知を過信し、利己的な行動に走って、自ら不幸と災厄を招いている。その社会的な現われの一つが、少子化・高齢化であろう。


 わが国は、世界で最も急速に少子高齢化が進行している。女性が一生のうちに産む子供の数(合計特殊出生率)が、昨年は1.29人となった。本年も2年連続同じ数字だ。人口を維持するのには、2.08人必要だが、それを大きく下回っている。一方、65歳以上の高齢者が、5人に1人の割合となった。高齢化の傾向は、後戻りできない。ますます少なくなる青少年が、いよいよ多くなる高齢者を支えなければならない社会に、日本はなっている。

少子化とは、子どもや若者の数が減ることをいう。これに加えて、「劣子化」という現象が大きな問題になってきた。量だけでなく、質も低下しつつあるというわけである。

教育には、知育・体育・徳育の三要素がある。これらがバランスよく機能して、始めて健全な青少年が育つ。ところが、日本の青少年は、学力の低下、体位は向上したものの体力の低下、礼儀やマナーの低下、さらに凶悪な少年犯罪の増加など、知・体・徳とも全般的な劣化が進んでいる。


 今日、不登校の児童・生徒は全国で12万6千人いるという。不登校とは、「年間30日以上学校を欠席している状態」をいう。そういう子供たちが、「ひきこもり」の状態に移っていく例も増えている。「ひきこもり」とは、厚生労働省の定義によると、「6ヶ月以上自宅にひきこもって、会社や学校に行かず、家族以外との親密な対人関係がない状態」をいう。「ひきこもり」の例が増えつつある中で、新たに社会問題化しているのが、NEETである。

ニートは、"Not in Employment, Education or Training"の略称である。仕事に就こうとせず、教育を受けるでもなく、職業訓練を受けるのでもない状態の人々を指す。フリーターや失業者とは違い、自ら働いて社会参加する意欲がなく孤立している状態をいう。「無業者」と訳す。

始めはイギリスで問題になった現象だが、わが国にも同様の事態が発生した。平成15年の調査によると、フリーターが全国に217万人いる。これとは別に、ニート(無業者)が、15才から34才の年齢層で、52万人ほどいると推計されている。


 こうした子供や若者の異変は、親や大人の異変、いや社会全体の異変の現われだろう。結婚しない男女、子供を作らない夫婦が増えている。単身化、晩婚化、DINKS(共稼ぎで子無しの夫婦)の増加である。これらも大きな問題だが、せっかく子供を授かっていながら、子育てが出来ないと悩んで、自分の子供を虐待したり、さらには殺害までしたりする親が続出している。まことに痛ましい限りである。

本来、男女が健康に成長すれば、異性を求め、つがいをなして子供を作り、親として子供を育てるのは、本能的なものだろう。しかし、現代の急速に発達した物質文化の中で、人々は不自然な生活をするようになり、本能が壊れつつあるのではないかと思われる。とりわけ自分の子供に対して愛情がわかず、子育てに喜びを感じられない親の状態は、深刻である。そういう親のもとにある子供たちは、親から十分な愛情を受けられず、心身が健康に育たないだろう。その子たちが親になる時代には、もっと本能が崩壊していく。世代を追うごとに、格段と世の中が悪化することは目に見えている。


 青少年は、一つの社会の縮図であり、また国の未来図である。このままいけば、5年後、10年後、20年後の日本はどうなるか。根本的に国家・社会のあり方を考え直し、緊急対策を打っていかねばならない。
 いろいろな対策が考えられるだろう。ここまで来たら、なんでも効果のありそうなものはやったほうがよいと思う。ただし、国の根本の形を定めているものは、憲法である。あらゆる法律、あらうる政策が、憲法の枠組みの中に規制される。だから、日本を崩壊・滅亡から救うには、どうしても憲法を改正しなければならない。そこまで行かないと、少子化プラス劣子化と高齢化の進行する社会の抜本的な改革にはならないと思う。

 

現代の日本では、半世紀以上の前の占領下の教育が、今なお教育のあり方を規定している。それは、占領期間に作られた教育基本法による。教育基本法は、昭和22年制定後、半世紀以上たっているのに、一言一句変えられていない。教育の根本方針が変らないまま、進んできたことによって、世代を下るごとに、日本人の精神が低下・退廃してしまった。最近では、「大人の幼児化と子供の劣子化」が問題となってきた。


 本来、国家が青少年を育てるために公教育を行うのは、教育によって人格を形成し、将来、国家を担う国民を育てるためである。ところが、教育基本法には、「人格の完成」「教育の機会均等」などの立派な理念は盛り込まれていても、愛国心、公共心、伝統の尊重などが盛られていない。つまり、基本法には、わが国の青少年をどういう「日本人」に育てるかという目標像がないのである。

 どうしてこんなことになっているのか。それは、教育基本法が、日本国憲法の精神を実現するものとして制定されているからである。国の根本の形を定める憲法に欠陥があれば、その下に作られる法律はみな狂いを生じる。根本原因は日本国憲法にあるのである。


 日本国憲法は、GHQが約1週間で草案を作り、ほとんどその翻訳として作られた憲法である。この憲法の前文には、「ここに主権が国民に存することを宣言し」と主権在民が記されている。では、その日本国民とは、どういう歴史や伝統を持つ者であるか、日本の国とは、いかなる国柄の国であるか、そういう肝心なことが書かれていない。この前文は、日本国民の記憶を奪い、歴史を断ち切るために前置きされた文章だからである。

 この憲法のもとで、約60年間やってきて、日本人は物質的には豊かになったが、精神的にはかえって低下を続けている。いまや子供や若者の心に異変が起き、深刻な様相を呈している。青少年の姿は社会の縮図であり、国の未来図である。それゆえ、日本を崩壊・滅亡から救うには、憲法を改正しなければならない。その根本を改めないと、教育の改革だけやっても、抜本的な改革にならない。

 新たな憲法には、日本の国柄・伝統・歴史を明記する必要がある。そのうえで、この新憲法の精神を実現するために、教育基本法を改正する必要がある。教育基本法には、愛国心、公共心、伝統の尊重等を盛り込む。それを政策や教育において具体的に実行することが急務である。


 次に、教育に関することを少々述べると、憲法には、家族に関する条項を盛ることが必要である。日本国憲法には、家族という概念がない。婚姻について、「両性の合意のみによって成立する」と規定されているだけである。この発想は、日本の伝統とは全く反対の個人主義の考えである。現行憲法は、象徴天皇制・戦争放棄・主権在民・基本的人権の尊重を四原則とするが、実態は個人主義を根本原則としている。

 憲法改正に当たっては、個人主義という根本原則の弊害をしっかり見据えねばならない。そして、新憲法には、家族の概念を明確にし、家庭の尊重を打ち出すことが必要である。家庭は社会の基本単位であり、いのちが育ち、受継がれる場所である。また、民族の文化が継承される場所である。家庭の役割について憲法に明記し、国家による家族・母性・子供の保護などを規定すべきである。

 そして、教育基本法には、家庭教育の重要性を盛り込むことが必要である。現行のように、同法に前文を置くとすれば、愛国心、公共心、伝統の尊重等とともに、「家族を敬う気持ち」を持った日本人を育成するという文言を盛り込むべきだろう。

 また、家庭教育については、現在の教育基本法では、第7条「社会教育」の条項に、社会教育の一部として触れているだけだが、本来、家庭教育こそ教育の基礎となること考え、家庭教育を独立した条文とする。そこに、家庭でのしつけを重視することを盛り込む。子育てにおける親の責任を明記し、また家庭・学校・地域社会が教育の目的の実現のために連携・協力すべきことを規定すると良いだろう。

 

 これらは改革のごく一部に過ぎないが、国の根本となる憲法や教育基本法を改めてこそ、日本は立ち直る。

 教育基本法については、今国会で改正案が上程される予定だったが、郵政民営化法案が優先され、早期改正は難しくなっている。理想的には憲法を改正して、次に教育基本法というのが順序だが、現状ではやむを得ない。まず現行憲法の下で可能な範囲で教育基本法を改め、次に憲法の改正を進めていくという段取りでいくしかない。できるところから変え、さらに根本のところまで変えていこう。

 日本人がこのままではだめだ、何とかしようと改革をめざして団結すれば、改革は実現できる。そういう思いが結集されれば、日本は必ず立ち直ると思う。ページの頭へ

 

ber117

 

■高齢化社会における家族のあり方

2013.11.13

 

平成25年10月6日「高齢化社会における家族のあり方」と題して、細川が行った講話の要旨を掲載する。

 

●家族とは何か

 

家庭には家族がいる。家族とは、親子、夫婦、兄弟等、人間としての最も基本的な結びつきである。親がいて、自分がこの世に生まれて、生きている。自分に続いて、子供や孫がいる。また親から祖先にもつながっている。家族は、生命で結びついている。

家庭とは、人がそこで生まれ、育ち、死ぬところ。また日々、生活する場所であり、安らぎの場所でもある。多くのアンケートによると、あなたにとって一番大切なものは、と聞かれて、家族と答える人が多い。家族は、心で結ばれている。

家族の絆はかけがえのないものであり、人間関係の基礎である。家庭が崩壊し、家族がバラバラになると、人々の心が荒廃し、社会は混乱し、国は伝統や文化を失う。

 

●家族があるから、人類である

 

人間の子供は生まれたばかりの時は、自分ではほとんど何もできない。非常に未熟な状態で生まれ、成熟するまで誕生後数年もかかる。これを、ネオテニー(幼形成熟)という。ネオテニーは生物学上、人類最大の特徴ともいわれる。

人間は、脳が発達して頭が大きくなった。未熟なうちに産まないと、子供の頭が産道を通らない。そこで未熟な状態で産むようになったと考えられている。

こうした子供を育てるため、母親は出産後、数年子供にかかりきりとなる。自分のことを自分で出来ない子供と、それを連れた母親。自然界で生存していくには、きわめて弱い存在である。その弱い母子を守り支える役割を担う者が、父親である。父親が母子とともに生活し、守り、面倒を見ることによって、子供をネオテニーの状態で産んで安全に育てることが可能になった。この仕組みを、家族という。

父・母・子からなる家族が成立したことによって、人類は生存と繁栄が可能になった。複数の家族が集団で狩猟採集を行い、また定住して農耕を行う。複数家族の共同生活が、文明の発達を可能にした。家族あっての人類である。家族がなければ、人類はなくなるのである。

 

●日本の家族の変化

 

家族はこのように大切なものだが、わが国の家族は急速に変化している。大きな問題の一つが高齢化である。

わが国は、世界最速で高齢化が進んでいる。本年9月15日の総務省の発表によると、65歳以上の高齢者は3186万人、4人に1人が高齢者となった。世界で最も高齢化率(人口に占める65歳以上の割合)が高い。国立社会保障・人口問題研究所は平成47(2035)年には3人に1人の割合となると予想している。

高齢化は、少子化と一体の現象である。男女とも晩婚化、非婚化が進む。また子供は欲しくないという夫婦が多くなっている。出産年齢にある女性全体の平均出生数(合計特殊出生率)は、平成17年に過去最低の1.26にまで低下。その後、団塊ジュニア世代の出産期ピーク等で上向きになり、22〜23年1.39→24年1.41と上がっているが、人口を維持できるのは、2.08。重要なのは、女性一人が産むこの人数が減るだけでなく、子を産む女性の数も減っていること。そのため、24(2012)年度の日本人の出生数は5年連続で減り、102万9433人と過去最少を更新した。

高齢化・少子化によって、わが国は人口減少の傾向となっている。本年発表の人口動態調査で、人口は1億2639万3679人と4年連続で減少した。14歳以下は過去最少の1660万人となり、少子高齢化に歯止めがかからない状況だ。本年現在、国立社会保障・人口問題研究所では、人口が平成42(2030)年には1億1522万人、72(2060)年には8674万人になると予測している。

高齢化は、少子化・人口減少と同時に進行している。日本人は皆、こうした日本の社会の大きな変化の流れの中にある。

高齢化に対応するため老人介護の社会化が進められている。その一方、福祉政策や年金制度のあり方が問題になっている。また高齢者を狙った振り込め詐欺を始めとする特殊詐欺が増加。警察庁の発表によると、振り込め詐欺だけで、25年上半期の被害総額が約109億円。警察官、銀行員、弁護士等になりすます悪質なものが多い。よほど注意が必要。

その一方、生活困窮・孤独による高齢者の犯罪が増えている。東京都内では24年にあった万引きで、65歳以上の高齢者の摘発数が19歳以下の少年を上回った。犯罪に手を染める高齢者の60〜80%が一人暮らしだという。

これらの犯罪傾向から浮かび上がってくるのは、家族関係の希薄化、家族が本来持っていた働きの低下である。

 

●心がけたい家族のあり方

 

もともと日本人は、親は子を愛情を持って育て、子は親を大切にしてきた。夫婦は互いに助け合い、一体となって円満な家庭を作るように努めてきた。そして、子孫の繁栄を願い、また先祖を敬ってきた。高齢化社会で、こういう日本人の生き方がますます大切になっている。

親は子供を愛情をもって育て、子供は親を大切にするのが人間本来の姿。自分を育んでくれた親に感謝し、親を敬い大切にすることは、人間として非常に重要なこと。親に恩を感じ、これに報いる行いを、孝という。親孝行ともいう。孔子・孟子など東洋の聖賢の説く道徳では「孝は徳の始め」といわれてきた。そして、親に対する孝は、人間の人間たる道徳の基本ともされてきた。動物も愛情深く、子育てをする。しかし、年老いた親の面倒を見ている犬や猫は居ない。親孝行こそ、人間が動物より優れたところである。

これとともに大切なのが、夫婦の和である。家族は、男女の出会いによってつくられる。男女は身体的特徴からして違う。男女が互いの特徴を認め合い、それぞれの特長を生かし、欠点を補い合っていくことが大切。それぞれ役目があり、夫婦が調和することで、幸福な家庭が築かれる。

人間は、自然と調和し、自然の法則にそってゆかなければ、不幸や災難を招き、ひいては滅亡してしまう。男女・夫婦のあり方についても、なによりも自然の法則に基づいて考える必要がある。男女・父母の特長を生かし、調和のある家庭を築くことが、必要なのである。

親子、夫婦が調和した家庭を築くことのできている人は、自分の親が老い、弱った時、自分を含めて家族が協力して支えていける。逆の場合、自分自身が老い、弱った時に、さみしく、つらい思いをする。だが、親子関係が希薄になっていたり、ほぼ断絶に近い状態なっている家庭が少なくない。シルバー離婚が増えている。定年になった男性が、突然妻に離婚話を持ち出される。もらえる年金の時期、金額等を計算していたりする。晩年は、その人の人生の総決算となる。因果応報、善因善果、悪因悪果、行いはわが身に返ってくる。これからの日々の生き方が大切である。

 

●高齢化社会における生き方

 

自分自身が高齢になると、心身の機能低下を感じ、生活に支障を感じたり、将来に不安を感じたりする。家族は、高齢者の世話や支援を行う必要に迫られ、家族のあり方や介護について考えるようになる。

高齢化社会のあり方として、自助・互助・共助・公助が言われる。「自助」は、できる限り本人が自分で問題解決すること。それには限界があるり、家族や親族が自発的に助け合うのが「互助」。しかし、互助にも限界があり、地域社会の中で助け合いを行うのが「共助」。最後に、政府が主体となって最低限の支援を行うのが「公助」。

自助・互助が基本。それによって、本人及び家族・親族の努力で対応できれば、理想的。だが、それだけでは無理な状況になった時に利用できるのが、介護保険制度。国家的な公助の制度でありながら、地域の助け合いである共助としての性格を持つ。

高齢化社会を背景に、介護保険制度が平成12(2000)年にスタート。これまでの介護は家族、その中でも特に女性が支えている介護だったが、介護保険制度は社会的な仕組みとして取り組むもの。ただし、基本は自助・互助。本人及び家族のあり方が重要。

介護保険制度は利用者自身が申請をし、介護サービスを選択し、介護サービス事業者と契約をかわす。上手に利用するためには、利用者自身が介護保険のしくみと内容を理解しておく必要がある。

介護サービスを利用するためには、自分なり家族が市区町村の役所に申請しなければだめ。また要介護者であるかどうかを認定される必要がある。認定調査は訪問調査員が行い、その結果とかかりつけ医の作成する意見書を基にして、専門家による認定審査会で審査が行われる。

医者の診断を受けて自分の健康状態を知り、健康に留意すること。安易に医療に頼らず、生活習慣に注意し、できるだけ自然な生き方をすること健康の維持・増進を図ることが、望ましい。

介護認定は「要支援1〜2」「要介護1〜要介護5」の7段階がある。それぞれの段階に応じて、介護サービスを利用できる。利用料は、9割が保険で支給され、実費は1割負担が基本。サービスには、福祉用具貸与(1割助成)、福祉用具購入(9割助成)、短期入所介護(ショートステイ)、訪問入浴介護(巡回入浴車)、訪問介護(ホームペルパー派遣等)、介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)等がある。支援を要する段階に応じたサービスが受けられる。サービスによっては負担額が異なる。所得の多い人は2割負担に、低い人は負担減が検討されている。

60歳を過ぎたら、これからの自分の人生の目標を明確にすること。健康に天寿を全うすることを目標とすべし。そのために日々是新たなりという姿勢で生活し、人格完成の努力も怠らないようにしよう。家族は、本人に協力し、本人の目標達成に助力することを目標にしよう。高齢者を支えていくのは、家族の試練でもあり、家族の絆が試される。互いの思いやりと感謝の気持ちが大切である。ページの頭へ

 

ber117

 

■婚外子の相続均等化で、日本の家族を揺るがす民法改正

2013.12.13

 

●115年ぶりの民法規定の改正

 

 本年9月、最高裁は、結婚していない男女の子供、いわゆる「婚外子」が、結婚した男女の子供である「嫡出子」の半分しか相続できない、とする民法の規定について、違憲と判断した。判決は、嫡出子と婚外子の相続を、従来の2:1から1:1つまり均等にすることを命じるものである。判決は、理由として「婚姻や家族の形態が著しく多様化し、国民意識の多様化が大きく進んでいる」こと、「国連も本件規定を問題にして、懸念の表明や法改正の勧告などを繰り返してきた」ことを挙げた。

 これを受けて政府与党は、民法の改正案を作成した。婚外子の遺産相続分を嫡出子の半分とする民法の規定を削除するという案である。改正案は11月21日衆院本会議を通過し、12月5日の参院本会議で全会一致により可決、成立した。

 これによって、婚外子と嫡出子の相続分は原則として同等となった。明治民法以来の規定は、115年後の今、「差別」として解消された。改正民法の付則に基づき、法施行前でも最高裁決定後に開始した相続には、さかのぼって適用される。

 この民法改正案とともに、民主党などが出生届に嫡出子かどうかを記載するとした規定を削除する戸籍法改正案を提出した。こちらは、衆院で公明党が賛成したが、自民党が反対し否決された。だが、戸籍法の改正を求める動きは今後も続くだろう。

 私は嫡出子・婚外子の相続を均等とする民法改正は、日本の家族を揺るがすものと思う。均等相続の弊害を防ぐため、家族を保護する法制度の強化が必要である。またそのためにも憲法を改正し、家族保護条項を設けることが急務である。

 

●最高裁の違憲判決

  

 9月4日、最高裁大法廷は、結婚していない男女の間に生まれた非嫡出子(婚外子)の遺産相続分を嫡出子の半分と定めた民法の規定が、「違憲」とする初判断を示した。

 規定の合憲性が争われたのは、平成13年7月に死亡した東京都の男性と、同年11月に死亡した和歌山県の男性らの遺産分割をめぐる家事審判で、いずれも家裁、高裁は規定を合憲と判断し、婚外子側が特別抗告していた。明治時代から続く同規定をめぐっては大法廷が平成7年に「合憲」と判断、小法廷も踏襲してきた。だが、特別抗告審で、法の下の平等を保障した憲法に違反するかが争われた。最高裁は14裁判官全員一致で、規定を「違憲」とした。

 違憲と判断されたのは、民法第九百条四項のただし書きである。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第九百条(略)

四  子、直系尊属又は兄弟姉妹が数人あるときは、各自の相続分は、相等しいものとする。ただし、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一とし、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分は、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の二分の一とする。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 このただし書きを違憲とした最高裁大法廷決定の要旨は次の通り。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

法廷意見

 

 相続制度は、それぞれの国の伝統や社会事情、国民感情のほか、婚姻や親子関係への意識や規律を総合的に考慮した上で、どのように定めるかは立法府の合理的な裁量権に委ねられている。

 婚外子の相続分を嫡出子の半分とする本件規定で生じる区別に、立法府の裁量権を考慮しても合理的な根拠が認められない場合は、憲法違反と理解するのが相当だ。

 平成7年の最高裁大法廷決定は合憲と判断したが、国民の意識などは時代とともに変遷する。不断に検討、吟味されなければならない。

 本件規定が設けられた昭和22年の民法改正以降、日本では婚姻や家族の実態が変化した。高齢化の進展に伴い、生存配偶者の生活の保障の必要性が高まって55年には配偶者の相続分が引き上げられるなどした。その後も婚姻や家族の形態が著しく多様化し、国民意識の多様化が大きく進んでいる。

 一方、諸外国では1960年代後半以降、婚外子と嫡出子の差別が撤廃された。現在、日本以外で差別を設けている国は欧米諸国にはなく、世界でも限られた状況だ。国連も本件規定を問題にして、懸念の表明や法改正の勧告などを繰り返してきた。

 日本でも平成6〜18年に、住民票や戸籍での続柄の記載を婚外子と嫡出子で同様に取り扱うようになったほか、20年には婚外子の日本国籍取得を認めない国籍法の規定を違憲とする最高裁大法廷判決も出た。

 相続分の平等化の問題は、かなり早くから意識されて準備が進められたが、法案の国会提出には至らず、現在も法改正は実現していない。

 国民の意識の多様化が言われつつも、増加している婚外子の出生数が欧米に比べると少ないことなど、法律婚を尊重する意識が幅広く浸透しているためと思われる。しかし、本件規定の合理性は憲法に照らして婚外子の権利が不当に侵害されているか否かの観点から判断されるべきだ。

 最高裁は、7年の大法廷決定以来、本件規定を合憲とする判断を示してきたが、7年の決定でも反対意見や、昭和22年の民法改正当時の合理性が失われつつあるとの補足意見が述べられていた。

 平成15年3月31日の同種訴訟の判決以降の判例は、その補足意見の内容を考慮すれば、合憲の判断を辛うじて維持したものとみることができる。

 本件規定の合理性に関する種々の事柄の変遷は、その一つだけでは相続分の区別を不合理とすべき理由にはならない。しかし、昭和22年から現在に至るまで、家族という共同体の中における個人の尊重がより明確に認識されてきたことは明らかだ。

 そして、認識の変化に伴い、父母が婚姻関係になかったという、子自らが選択や修正する余地のない事柄を理由に不利益を及ぼすことは許されず、子を個人として尊重し、その権利を保障すべきである、という考えが確立されてきている。

 以上を総合すれば、遅くとも今回の相続が始まった平成13年7月当時は、相続分を区別する合理的根拠は失われており、本件規定は憲法に違反する。

 ただ、今回の決定の違憲判断が既に行われた遺産分割に影響し、解決済みの事案にも効果が及べば、著しく法的安定性を害することになる。

 従って、今回の決定は13年7月からこの日の決定までに開始されたほかの相続について、本件規定を前提に行われた遺産分割の審判や裁判、分割協議、合意などで確定的となった法律関係に影響を及ぼすものではない。

 

補足意見

 

▽金築誠志裁判官 最高裁決定の効果は遡及するのが原則だが、法的安定性を害するときは後退させるべきだ。予測される混乱を回避するためになされたもので、違憲判断と密接に関連しており、単なる傍論ではない。

▽千葉勝美裁判官 決定が、違憲判断の拘束が及ぶ範囲を示したのは異例だ。現行の規定を前提に築き上げられた法的安定性を損なう事態が生じるのを避けるための措置で、法令を違憲無効と判断する際には必要不可欠というべきだ。

▽岡部喜代子裁判官 夫婦と嫡出子という婚姻共同体の保護には十分理由があるとしても、嫡出子を当然のように婚外子よりも優遇することの合理性は減少した。全体として法律婚を尊重する意識が浸透しているからといって、差別を設けることは相当ではない。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130905/trl13090513580004-n1.htm

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 最高裁が法律の規定について憲法違反と判断したのは戦後9件目となった。違憲判決によって、国会は法律の改正を迫られた。その結果、にわかに民法の改正がされた。第九百条四項のただし書きが削除され、嫡出子と非嫡出子(婚外子)の相続分が均等化された。

 

●懸念と課題

 

 今回の民法改正は、本人の意思にかかわらず婚外子の立場にある人にとっては、権利が拡大され、相続を受ける権利が嫡出子と平等とされ、出生の事情にかかわらず、「法の下の平等」が得られたことになる。だが、その一方、嫡出子は相続分が減少し、権利を侵害される結果となった。嫡出子の親にとっても、財産を婚外子に多く与えなければならないので、嫡出子に多く相続する権利を侵害される結果となった。婚外子個人の権利が拡大したが、法律婚による家族の権利は縮小された。家族という集団の権利より、家族外の個人の権利が優先されたわけである。集団より個人、家族より個人を重視する個人主義の考え方が、民法上でより強くなった。

 私は、今回の民法改正がわが国の家族のあり方に、重大な悪影響をもたらすことを強く懸念する。法律婚と事実婚の法的な格差をなくせば、国民の結婚観や家族観に誤った影響を与えかねず、事実婚が増え、家族制度が崩壊しかねない。早急に善後策を講じるべきと考える。

 民法改正後、有識者の一人、長谷川三千子・埼玉大学名誉教授は、次のように述べた。

 「改正によって、民法の定める法律婚の持つ意味がおろそかになってしまうことを危惧している。法律婚の規定があるのは、建前論でなく、法律に基づく扶養義務などを定めて、家族をきちんと保護するという目的と意味があるからだ。

 子供との関係で、法律婚とそうでない事実上の結婚を区別しない相続制度は、同じ民法で禁じられている重婚の実質的な許容にもつながり、法的な整合性を欠くという疑問もある。

 『子にとって選択の余地がない事柄を理由に不利益を及ぼすことは許されない』と最高裁は判断したが、婚外子であってもそうでなくても、相続は本質的に個人の主体的な意思に基づかずに、降りかかってくるものではないか。家族のあり方を支えてきた法律がなくなり、社会全体が不安定になってしまうことも考えられる」

 実は最高裁の違憲判決後、政府与党が民法改正案を作成する過程で、「伝統的な家族制度を崩壊させかねない」と、自民党内には慎重論・反対論が多くあった。

 西川京子文部科学副大臣は「民法上の法律婚と自己矛盾し、結婚制度を否定する話になる。私は政府の人間だが、おかしいと思う」と党法務部会で、改正案に反対した。他の議員からも異論が相次いだと伝えられる。

 「親が亡くなった途端に、親の面倒を見ていない(事実婚の)子供が遺産相続に現れることがあるが、許されるのか」「自民党は昨年の衆院選で『日本や家族の絆を取り戻す』と訴えて勝利した。家族制度を促す価値観をつくるのが立法府の仕事だ」「戸籍や住民票の実務で混乱が生じる可能性が否めない。最高裁決定は尊重しなければいけないが、いかに家族制度を守るかパッケージで議論しなければいけない」「婚外子への相続を同等とするなら、法律上の妻への優遇策などをセットにしない限り了承できない」等々。

 有村治子参議院議員は、フェイスブックで次のように述べた。「遺産相続をめぐる婚外子の扱いについて、先般の最高裁判決を受け、民法と戸籍法の一部を改正することが政府内で検討されています。しかしながら、日本における戸籍上の非嫡出子(婚外子)の割合は2.1%。フランスの52.6%、アメリカの40.6%など(2008年アメリカ商務省調査等)との差は歴然、我が国では、妊娠を契機として結婚に踏み切る事例も多く、結婚とは法律上の婚姻とほぼ同義であると言っても差し支えない現状があります。そもそも婚外子は、その父親の道徳の問題なのではないでしょうか。相続上の不利益を生じせしめたことを法律に帰結させるのか、国が立法上の措置を講じる必要があるのか、甚だ疑問に感じるところです」と。

 違憲判決は、婚外子と嫡出子につき、「日本以外で差別を設けている国は欧米諸国にはなく、世界でも限られた状況だ」というが、非嫡出子の割合が欧米主要国では40〜50%台であるのに対し、日本は2%台である。歴史・文化の異なる欧米の立法例を根拠にした違憲判決は、妥当性を欠く。

 また違憲判決は「国民意識の多様化」を理由の一つに挙げるが、平成24年の内閣府による世論調査では、嫡出子・婚外子について「現在の制度を変えない方がよい」が35.8%、「相続できる金額を同じにすべきだ」が25.8%であり、国民の多くは均等相続を求めていない。

 判決は「昭和22年から現在に至るまで、家族という共同体の中における個人の尊重がより明確に認識されてきたことは明らかだ。そして、認識の変化に伴い、父母が婚姻関係になかったという、子自らが選択や修正する余地のない事柄を理由に不利益を及ぼすことは許されず、子を個人として尊重し、その権利を保障すべきである、という考えが確立されてきている」とする。だが、そのような考え方は、国民の間で多数意見とはなっていない。最高裁が「確立されてきている」という考え方は、親子や夫婦、家族の関係よりも、個人の権利を優先する個人主義の考え方である。それを、嫡出子・婚外子の間の相続の問題において、当てはめたものである。だが、今日わが国では、個人主義の行き過ぎによる弊害が、家庭から社会、国家の全体に蔓延し、その対策こそが求められている。

 

●子供の権利条約との関係

 

 今回の最高裁の違憲判決は、わが国が締約している子どもの権利条約と関係がある。その点が重要なのだが、マスメディアの報道はそのことに触れていない。また保守の政治家・有識者も触れていないようである。わが国では国際法及び国際人権法についての関心が薄く、人権に関する国際条約が日本の社会にどのような影響をもたらすかについて、よく理解していない知識人が多い。そのため、国際人権法との関係でわが国が直面している問題が国民に広く認識されていない。

 子どもの権利条約は、国家報告制度を持つ。条約の実施監視機関である子供の権利委員会は、わが国の第1回報告を平成10年(1998)5月に審査し、同年6月に総括所見を採択した。この総括所見で、わが国は相続や出生届をはじめ婚外子に対する差別は条約違反なので是正されるべきとの勧告を受けた。また委員会は平成16年(2004)、日本の第2回報告審査の結果、総括所見を出し、婚外子に対する差別について、法律改正を勧告するとともに非嫡出子という用語を使用しないように要請した。また委員会は日本人父と外国人母の間に生まれた子どもが日本国籍を取得できないケースがあることに懸念を表明し、わが国は日本で出生した子どもが無国籍者にならないよう国籍法を改正するよう勧告を受けた。これに対し、わが国政府は、婚外子差別の一つと指摘された出生登録(戸籍の父母との続柄欄の記載方法、戸籍法第13条)については、同年11月の戸籍法施行規則の一部改正により、嫡出でない子についても嫡出である子と同様に「長男(長男)」等と記載するよう改めた。

 平成20年(2008)6月、わが国の最高裁は、準正(非嫡出子が嫡出子の身分を取得すること)による国籍取得について定めた国籍法第3条が、婚内子と婚外子を国籍付与の点で不合理に差別しており、遅くとも2005年当時において憲法第14条1項に違反すると認定した。

こういう経緯がある。国際法において、条約の第一次的な解釈適用権限は、締約国が有する。ほかの国際人権条約と同じく子供の権利条約において、子どもの権利委員会を条約の有権的解釈機関と認めた条文は存在しない。形式的には委員会の解釈が締約国に対して何らかの拘束力を持つことはありえない。しかし、条約の締結国は、条約の要請に従い、また委員会の勧告を受けて、法律を制定・改正したり、行政実務を改善したりする必要がある。また、国内の裁判所は、条約の規定や委員会の勧告を考慮に入れて判決や決定を下すことになる。

 条約は政府が締約し、国会が承認して批准している。発効しているものは、遵守する義務がある。またわが国には憲法裁判所がなく、最高裁判所が終審裁判所として憲法判断を行う。最高裁が法律の規定を違憲と判断すれば、法律を改正せざるを得ない。

 わが国は、憲法、条約、法律には、「憲法>条約>法律」という優劣関係があるとしている。政府も最高裁も見解が一致している。条約の締約による弊害を除くには、優位にある憲法から改正する必要がある。裁判所は、現行憲法を基準にして、判決を下す。その憲法に欠陥があれば、欠陥を助長する判断を裁判所はしてしまう。特に国連の懸念表明や法改正の勧告が出されると、裁判所はそれをもとに判断をする。そこに大きな問題があると私は考える。

 

●憲法に家族条項を

 

 私は、今回の民法改正への善後策として、家族制度を守る方策を講じることが必要だと思う。国会は、そのための法律を制定し、嫡出子・婚外子の均等相続による弊害を防ぐべきである。ただし、法律による善後策には限界がある。ここで重要な課題は、憲法を改正し、憲法に家族条項を設けることである。

 

 現行憲法には、第二十四条に婚姻に関する規定がある。第1項に「婚姻は、両性の合意のみによって成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」、第2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と記されている。

 最高裁は、先の判決で家族観の変化を挙げるが、わが国の現状は、家族に係る問題が増加、深刻化し、重大な社会問題を生み出している。むしろ、親子、夫婦、祖孫等の家族の絆を強め、家族を再建することが課題である。先の民法改正に対し、家族を保護するため、他に法律を作るなどして、個人の権利の尊重が家族の崩壊を助長するものとならないようにしていく必要がある。ただし、法律では限界がある。私は真に有効な手立てを講じるには、憲法に家族条項を設け、日本の家族を立て直すことが必須であると考える。

 そもそも現行憲法のように、憲法に婚姻に関する規定が設けられていることは、世界的に見て異例である。男女が性的に結びつくことには、法律はいらない。その限りでは、結婚は私的な事柄であり、政府が介入すべきことではない。

 結婚が法律上定められるとすれば、それは結婚が単なる男女の結びつきではなく、家族という一つの社会を形成する公共的な行為だからである。そのために婚姻の安定性を求める法律も定められるのである。恋愛・性交をするのは両性の自由だが、婚姻は夫婦の性的関係を維持する手段ではなく、家族を形成することが目的である。それゆえ、憲法に必要なのは、婚姻よりも家族に関する規定なのである。

 先進国の中ではイタリア憲法やドイツ基本法などには家族に関する規定がある。それらの国法の規定は、婚姻ではなく、家族を中心とした規定となっている。そして、家族の権利、子供の教育の義務と権利、国家による家族・母性・子供の保護などが規定された例が見られる。そこには、家族は特別な社会であるから、特に保護されなければならないという考えが示されている。

 家族は、生命・種族の維持・繁栄のための基本単位となる社会であるとともに、文化の継承と創造の基礎となる社会である。単なる生物的経済的共同体ではなく、文化の継承の主体、文化の創造の主体として、家族を考えなければならない。それゆえ、家族は生命と文化を継承する場所として、国家によって保護されなくてはならないのである。また、親は子供を教育する権利を有し、また子供を教育し文化を継承発展させていく義務を担う。

 しかし、現行憲法の規定には家族という概念はなく、婚姻が両性の努力で維持されるべきことしか規定されていない。私は、両性の権利の平等を強調しながら、家族の大切さを規定していない第二十四条には、大きな欠陥があると思う。その条文は、利己的個人主義の結婚観を、日本人に植え付け、愛と調和の家族倫理を失わせ、社会の基礎を破壊するものとなってきたのである。

 特に、今日、家庭道徳の低下と離婚率の上昇など、日本の家族は崩壊の危機にあるので、女性・子供・高齢者を守るためにも、憲法において家族の概念を明確化することが必要だと思う。日本人は、アメリカやスエーデンなどの極度の個人主義が招いた家庭崩壊の愚を後追いすべきではない。

 また、現行憲法の条文には、夫婦と並んで家族を構成するもう一本の柱である親子への言及がない。これは、生命と文化が、世代から世代へと継承されていくことを軽視しているものである。婚姻が、その夫婦、その世代限りのものと考えるならば、先祖から子孫への縦のつながりは断ち切られ、民族の歴史が断ち切られる。

 親が子どもを生み、その子に知恵や財産を継承するのは、私的な行為である。しかし、それは単に私的な行為ではなく、同時に、大人が次の世代を生み育て、生命と文化を継承するという社会性をもった行為でもある。それゆえ、家族は国民の生命と文化を継承する場所として、国家によって保護されなくてはならないのである。

 新しい憲法には、各世代には世代としての責任があり、健常な大人の男女は、子孫を生み育て、教育を施し、生命と文化の継承に努める義務があると明記すべきであろう。

 子供の教育に関しても、親は子供を教育する権利を有し、また子供を教育する義務を負う。それは、自分の子供を通じて、次世代に文化を継承発展させていくという公的な義務なのである。家族というものを通じて、国民は、生命と文化の継承という公的義務を負うのである。

 また、国民は、自分の親の養護に努力すべきことも、憲法に定めるべきだろう。自分の子どもには、親として教育を与える義務があるということは、他の大人に託すのではないということである。これと同様に、自分の親に対しても、子として養護に努力すべきだろう。それは、他の大人に託すのではないということである。子どもの教育においても、親の養護においても、まず自助努力を促し、それで足りないところを学校や、福祉施設が補う。これが、人格的な人間関係を根本においた社会の基本的なあり方である。

 以上のように憲法において家族の概念を明確化することが不可欠であると私は考える。条文案は、新憲法案の一部として下記のページに掲載している。

http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion08h.htm

 嫡出子・婚外子の均等相続による民法改正の弊害を防ぎ、日本の家族を守り、日本の社会、国家を再建するために、憲法の改正が急務である。

ページの頭へ

 

関連掲示

・拙稿「家族の危機を救え!

・拙稿「高齢化社会における家族のあり方

 

ber117

 

しつけが甘い、日本人〜国際比較調査(平成11年)

2000.2.14

 

 諸外国に比べ日本はしつけが甘い、日本の子どもは、親から生活面で注意されることが少なく、手伝いもあまりしないーー文部省(現・文部科学省)は平成12年2月4日、こんな国際比較調査の結果を発表した。

 

 考えさせられる調査結果だと思う。

 

 この調査は、文部省の「子どもの体験活動研究会」(代表、平野吉直・信州大助教授)が平成11年10月から12月にかけて、5カ国の小・中学生の生活実態を比較したもの。

 日本のほか韓国、アメリカ、イギリス、ドイツの小学5年生と中学2年生を対象に実施し、全体で約6600人が回答した。

 

●「家庭のしつけ」に関する設問

 

 「人に迷惑をかけない」「うそをつかない」など12項目について、普段、親からどの程度注意されているかを、子供たちに質問。日本は10項目で「よく言われる」割合が最低だった。

 たとえば、「弱いものいじめはしない」ように親から「よく言われる」と答えたのは、日本は父親9%、母親11%と、5カ国で最低だった。最も高いのは、英国で「よく言われる」と答えたのは、父親から34%、母親から36%である。

 「うそをつかないように」と両親から「よく言われる」子供は、諸外国では25%を超えた。しかし、日本では、父親から「うそをつかない」と「よく言われる」のは11%で、五カ国中、最低。逆に「言われない」は71%。母親から「よく言われる」は16%で、やはり最低だった。

 「先生の言うことをよく聞きなさい」という項目でも、父母から「よく言われる」と答えた子どもの率は、他国の2分の1から3分の1程度だった。

 総じて諸外国に比べ両親のしつけが不足しており、特に、父親から注意される割合が低いという結果が出た。文部省は「国により文化的、歴史的な違いはあるが、深刻に受け止め、各家庭でしつけを大事にする施策を進めたい」と述べた。

 

●道徳観・正義感に関する設問

 

 「いじめを注意した」などの5項目について、質問した。

 「いじめを注意した」という項目は、日本では、「何度もある」と答えたのは、わずか4%。「まったくない」が41%。これに対し、たとえば米国では、「何度もある」と答えた子供は、28%だった。

 その他の「体の不自由な人やお年寄りの手伝いをした」「悪いことをしている友達を注意した」「困っている友達の相談にのった」などの項目でも、5カ国中で最も低い結果となった。

 文部省は「一概に日本の子供の道徳観・正義感が乏しいとはいえないが、友人を思いやるなどの友人関係の希薄さが感じられる」と分析している。

 

●手伝いの内容に関する設問

 

 「買い物」などの6項目について、聞いた。

 「食事の後片付け」は「いつもしている」と答えたのが、37%。これは、5カ国中、最高だった。しかし、他の項目で「いつもしている」と答えた割合は、「買い物」で7%、「家での掃除や整頓」で9%、「ゴミ袋を出す」で11%など、いずれも最低だった。

 文部省は「家庭教育の第一歩は手伝いだが、総じて低い。子供の体験活動の推進や家庭教育の支援を今後も行い、家庭でのしつけの大切さを知ってもらいたい」と述べた。

 

●家庭でのあり方を見直そう

 

 文部省は、この国際比較調査を、「社会ルールや道徳観について、日本では親のしつけが不足している」などと結論づけた。

 国によって、家庭教育に対する考え方や、社会・文化的な背景は異なるので、単純に数値だけで判断することはできないだろうし、設問の仕方によっても結果は異なるだろう。しかし、最近の教育関係の国際調査や、青少年の意識調査でも、わが国は、対象国中、最低の結果を示しており、今回の調査でも、また最低である。子供を持つ人々は、反省させられる点があるだろう。

 家庭でのしつけや、教育全般のあり方を、見直してゆきたいものである。

ページの頭へ

 

関連掲示

・拙稿「小学生の生活習慣を国際調査(平成18年)

参考資料

・時事通信、毎日新聞、産経新聞の平成12年2月4日発信の当該ニュース

 

ber117

 

■小学生の生活習慣を国際調査(平成18年)

2007.3.17

 

財団法人「日本青少年研究所」は、昨年(平成18年)10〜11月、日中韓の小学生の国際比較調査を行なった。このたび「小学生の生活習慣に関する調査」と題して、その結果が公表された。
http://www1.odn.ne.jp/youth-study/

 調査は各国首都の東京、北京、ソウルの小学4〜6年生を対象に、各学校にて書面質問紙法で実施された。東京と北京は1500名ほど、ソウルは2100名ほど、計5249人から回答を得た。同種の調査は初めてのものという。
 調査の目的は、「日本では、親と先生の権威がともに低下したといわれている。親と先生の関係はどうなのか。頑張ろうという気持ちがどれほどあるのか。物事に対する「やる気」はどうなのか。親のしつけは、時代とともに変わっているのか。しつけの理念というものがあるのだろうか。食べるに困らない時代のしつけは、どんな目的があるのか。こういったことを想像してみると、不透明さが次第に膨らんでくる。まず、生活習慣の調査からはじめねばならない。起床時間、就寝時間、食事や生活習慣、親のしつけ、家事の手伝いなど子どもたちの日常生活の実態を把握するのはこの調査の目的である」という。

 調査内容は、以下の点である。

・生活習慣( 起床・就寝時間、日常生活習慣、食事)
・登校と下校( 登下校時間、登下校同伴、遅刻の有無)
・友達( 仲良しの友達の有無、好きな友達)
・放課後や休日の行動
・なりたい人間
・親のしつけ、家の手伝い
・礼儀作法

●親のしつけ〜日中韓の3か国で最低

 親のしつけに関する設問では、家庭で親や保護者がよくするような注意がされているかが、問われた。23項目のうち20項目で、日本の子供は注意される割合が、日中韓3か国中で最低だった。
 質問は「おうちの方は、あなたに次のようなことを言いますか?」というもので、3か国中最低だったのは、次ぎの項目である。
 「早く宿題をしなさい」「テレビをみるのをやめなさい」「ゲームをやめなさい」「勉強しなさい」「友達と仲良くしなさい」「先生のいうことをよく聞きなさい」「親のいうことをよく聞きなさい」「約束を守りなさい」「あいさつしなさい」「きちんとかたづけなさい」「自分のことは自分でしなさい」「うそをついてはいけません」「好き嫌いしないで全部食べなさい」「人に迷惑をかけないようにしなさい」「もっと食べなさい」「ちょっと遊んできなさい」「漫画( 勉強以外の本など)を読むのをやめなさい」「自分の勉強だけちゃんとやればいい」「家で勉強した内容を友達に言わない」「よく勉強すれば、将来いい仕事がある」。

 整理のために、設問を内容別にまとめて、もう少し具体的に見てみよう。

●基本的な道徳について注意をしない

 まず基本的な道徳に関することについて。

 「約束を守りなさい」という項目では、「よく言う」と答えたのが、東京26.5%>ソウル30.9%>中国46.6%と、日本が最低である。
 「あいさつしなさい」という項目では、「よく言う」と答えたのが、東京26.1%>ソウル35.5%>中国46.7%。
 「人に迷惑をかけないようにしなさい」という項目では、「よく言う」と答えたのが、東京20.9%>北京29.0%>ソウル32.1%。
 さらに注目すべきは、「うそをついてはいけません」という項目である。この項目では、「よく言う」と答えたのが、東京20.9%>ソウル39.7%>北京46.0%。「あまり言わない」と答えのが、東京は、52.0%と半数を超えている。
 また、「友達と仲良くしなさい」という項目も目を引く。「よく言う」と答えたのが、東京11.1%>ソウル29.8%>北京36.1%。「あまり言わない」と答えのが、東京は、74.6%と約4分の3である。

 日本の親は、子供に甘く、基本的な道徳を教えていないことがはっきりと浮かび上がってくる。

●自由放任の傾向が強い

 もっと具体的な生活習慣について、次に見てみよう。

 「テレビをみるのをやめなさい」という項目では、「よく言う」と答えたのは、東京13.3%>ソウル21.0%>北京35.9%。「あまり言わない」と答えたのが、東京は、55.3%と半数を超えている。
 「ゲームをやめなさい」という項目では、「よく言う」と答えたのは、東京20.1%>ソウル28.7%>北京30.5%。「あまり言わない」と答えたのが、東京は、44.2%と、やはり多い。
 日本の親は、中国・韓国に比べて、子どもが長時間テレビを見たり、ゲームで遊んでいても、あまり注意をしない。子どもの好きにさせる自由放任の傾向が強いことがわかる。
 日本の親の多くは、子どもに積極的に注意して、生活習慣を身につけさせようという意志が弱いのだろう。そのことが、食についての設問を通じてもわかる。

 「好き嫌いしないで全部食べなさい」という項目では、「よく言う」と答えたのは、東京18.9%>ソウル40.0%>北京40.7%。日本は、2割以下であり、中韓の半分以下である。「あまり言わない」も、東京は56.0%と半数を超えている。これでは、子どもの好き嫌いを直すことができないだろう。
 「もっと食べなさい」という項目では、「よく言う」と答えたのは、東京15.0%>ソウル31.5%>北京37.4%。ここでも日本は、中韓の半分以下。「あまり言わない」が、65.7%と約3分の2を占める。

 食育が国民的課題となり、家庭においても食育が求められている状態だが、まず、しつけのできる親をつくらないと、食育の実践もできないだろうと思う。

●学習への意欲を引き出していない

 子どもに甘く、自由放任の傾向が強いことは、学習に関しても、同じ傾向を示している。
 「早く宿題をしなさい」という項目は、「よく言う」と答えたのは、東京26.7%>ソウル29.2%>北京42.8%。
 「勉強しなさい」という項目では、「よく言う」と答えたのは、東京30.5%>北京31.7%>ソウル47.2%。
日本の児童の学力低下は、「ゆとり教育」のみが原因ではない。家庭における親の教育も影響していることがわかるだろう。日本の親は、子どもに勉強するように、あまり求めなくなってきているのである。

 それがいっそうよくわかるのは、「よく勉強すれば、将来いい仕事がある」という項目である。ここで「よく言う」と答えたのは、東京17.8%>ソウル41.7%>北京53.8%である。日本は、韓国の2分の1以下、中国の3分の1以下である。「あまり言わない」と答えたのは、北京16.2%>ソウル29.3%>東京62.9%であることと合わせてみると、この回答差は非常に大きい意味を持っている。
 設問は、勉強をして、いい学校に行っていい会社にという問いではない。より広い意味で、勉強すれば、将来いい仕事がある、という問いである。回答率を見ると、日本の親の多くは、勉強の学習に関する意欲を引き出そうとしていないようである。子どもに勉強をすることの目的・意義を語っていないのだろう。また、勤勉や努力の大切さを子どもに語って聞かせていないのだろう。

 勉強は、親のためにするのではない。子どもが将来、一個の人間として、社会で自立して生きていくために必要な知識や技術を身につけるために、必要なのである。そして、世のため人のために役立つ人間となるには、子どものときに勉強することが大切なのである。
 そういうことを親が子供に語ることができなければ、子どもの学習意欲を引き出すことはできないと思う。

●権威に対して否定的な傾向がある

 私が親のしつけに関する設問で、もっとも深刻だと思ったのは、先生や親の言うことを聞きなさいという注意が、家庭であまりされていないことである。
 「先生のいうことをよく聞きなさい」という項目では、「よく言う」と答えたのは、東京20.3%>ソウル43.7%>北京45.2%。日本は、約2割であり、中韓の半分以下である。しかも、「あまり言わない」が、53.8%と半数以上を占める。
 親が学校の先生を立て、先生の言うことを聞くように教えなければ、子どもは先生を敬い、先生の言うことに素直に従おうとしなくなる。先生に対する態度は、大人全般に対する態度ともなっていく。

 さらに重要なのは、「親のいうことをよく聞きなさい」という項目である。「よく言う」と答えたのは、東京18.6%>ソウル38.7%>北京41.7%。日本は、2割以下であり、中韓の半分以下である。しかも、「あまり言わない」が、51.4%と、ここでも半数以上である。
 親が、子どもに、親のいうことをよく聞きなさいと言って教えないと、子どもは親を軽く見て、親の言うことに従おうとしなくなる。親が子どもに教育をするには、親の権威を子どもに感じさせなければならない。
 親と子どもが同じような立場と子どもに思わせたら、家庭での教育は成り立たない。生んで育て教え養っている側と、親に依存し自分ではまだ自立できていない側とが、同じ立場であるはずがない。それなのに、これほど回答結果が低調であるのは、日本の多くの親は、自ら親としての権威を確保しようという意識がないのだろう。そのため、まともなしつけができず、子どもに基本的な生活習慣を身につけられないことに気づくべきである。

 「親のいうことをよく聞きなさい」という項目で低調であるということは、ほかの項目における注意も、あまり有効ではないことが予想される。一応注意してはいるが、子どもが言うことを聞かず、困っているという家が多いはずである。実は、その原因は、親である自分自身にあることを認識したいものである。

  ●子どもも目標や理想を持てていない

 この国際比較調査は、子ども自身のことについても質問している。「あなたはどのような人間になりたいですか」という質問のもとに、19の項目に回答を求めている。その一部は子どもたちの目標や理想を尋ねる内容となっているのだが、「人の気持ちがわかる人間になりたい」「人の役に立つ人間になりたい」「努力する人間になりたい」「勇気のある人間になりたい」等の項目で、「そう思う」と答えた子どもは、東京が北京・ソウルよる少ない。

 具体的には、「人の気持ちがわかる人間になりたい」という項目では、「そう思う」と答えたのは、東京60.0%>ソウル71.6%>北京72.6%。
 「人の役に立つ人間になりたい」という項目では、「そう思う」と答えたのは、東京64.7%>ソウル72.7%>北京78.8%。
 「努力する人間になりたい」という項目では、「そう思う」と答えたのは、東京64.5%>ソウル78.5%>北京80.8%。
 「勇気のある人間になりたい」という項目では、「そう思う」と答えたのは、東京60.3%>北京76.3%>ソウル76.9%。

 これらの項目において、日本の子どもの回答が低調なのは、「人の気持ちがわかる人間」「人の役に立つ人間」「努力する人間」「勇気のある人間」等の道徳的価値が、よく教えられておらずいないことを示すものだろう。

●意欲が低く、気力の薄く、精神的に弱い子どもたち

 これらの項目以上に、日本の子どもたちの回答が目立って低調なのは、「勉強のできる子になりたい」「クラスのリーダーになりたい」「先生に好かれる子になりたい」「友達から人気のある子になりたい」「将来のためにも、今がんばりたい」の4項目である。

 これらの項目を、「そう思う」という回答が低い順に並べると、次のようになる。
 「先生に好かれる子になりたい」10.4%>「クラスのリーダーになりたい」12.0%>「友達から人気のある子になりたい」25.3%>「勉強のできる子になりたい」43.1%>「将来のためにも、今がんばりたい」48.0%。
 「先生に好かれる子になりたい」という項目は、「そう思わない」が36.0%、「クラスのリーダーになりたい」という項目は、「そう思わない」が35.5%もある。それぞれ、3分の1以上の子どもが、Noと答えているのである。
 小学校4年から6年という年齢の子どもであれば、「先生に好かれる子」「友達から人気のある子」「勉強のできる子になりたい」になりたいというのは、大人であれば、「人に好かれる人間」とか「仕事のできる人間」とか「人のためになれる人間」になりたいということに通じるだろう。

 回答結果が示しているのは、人格的な目標・理想が、日本の子どもの心に、よく形成されていないということではないか。
 こういう子どもになりたい、こういう人間になりたいという具体的な目標、めざしたい理想が、心に結像していなければ、子どもは日々を漫然と過ごしてしまうだろう。学習に意欲がわかず、テレビやゲームで時間を費やし、それを親に注意されることもあまりない。そういう子どもは、自分の天分を発揮して、生き生きと生きることができない人間になるだろう。

 「将来のためにも、今がんばりたい」という項目において、「そう思う」と答えた小学生は、東京は48.0%だった。半分程度の子どもがそう思っているのだから、まあまあだと考える人がいるかもしれない。しかし、ソウルの小学生は72.1%、北京の小学生は74.8%が、「そう思う」と答えている。問題は、この大きな差にある。

 私は、日本の子どもたちは、努力してめざすべき目標が持てず、そのために意欲が低く、気力が薄く、精神的に弱い状態にあるように思う。

●結びに

 財団法人「日本青少年研究所」による「小学生の生活習慣に関する調査」の結果を検討してきた。
 この国際比較調査が示しているのは、日本の親は、中国・韓国に比べて、子どもに甘く、自由放任の考えが強く、親の権威を持って教育をしようとしていない傾向にあることであると思う。また、子どもは、人格的な目標・理想が形成されておらず、意欲が低く、気力が薄く、精神的に弱い傾向にあることであると思う。
 私たちは、こうした比較結果を踏まえて、本気で、家庭における親の責任と役割を考える必要がある。日本の親は、自信と誇りと権威を持って、子どものしつけを行い、子どもに基本的な生活習慣を身につけさせ、また子供にめざすべき目標・理想を伝えられる親になれるよう、考え方を改めるべきと思う。
 私は、親が親となるための学問、親として必要な知識・心構えを教える学問としての「親学」の振興を強く訴えたい。
ページの頭へ

関連掲示
・拙稿「『しつけ』あっての教育
・拙稿「親子で学べる『しつけ』の本

 

ber117

 

■「しつけ」あっての教育

2006.4.8初稿、2007.6.8改訂

 

●「しつけ」が出来ていないと教育は成り立たない

 

 教育が成り立つには、子供に人間としての基礎ができていなければならない。人格形成の基礎は、しつけによってつくられる。家庭でのしつけができていないと、学校や社会における教育は、効果があがらない。

今日の日本の実態は、しつけという根本的なところから、取り組まなければならないと思う。そこで、しつけに関することを述べたい。

 

しつけは、漢字で「躾」と書く。この文字は、日本人がつくった文字である。身に美しいと書く。美しい身柄と書いて、しつけと読む。

 和裁で着物を縫うときに、型が崩れないように下縫いをする。それがしつけである。しつけをしっかりしないと、人間としての型が崩れてしまう。

 

 しつけは家庭で親が行うものである。親がしつけをしないと、子供に人間としての基礎を築くことができない。しつけをしなければ、人間は動物とそう変わらなくなる。しつけをしないと、動物と同じように好きなように食べ、排泄する。おしっこやうんちにしても、親が何十回、何百回と教えて、みなちゃんとできるようになる。子供を人間らしく育てることが、しつけなのである。

 

 自分の家の中だけなら、言葉や行儀が悪くても、親子・家族同士は親しい関係だから、それでも済んでしまう。しかし、子供は3歳くらいになると、行動半径が広がる。家の外でほかの子供や大人に接することが多くなると、社会の決め事や慣習を身につけられなければ、社会に適応できない。

 

 親が、やっていいことと悪いことを教える。子供が社会生活に適応できるように、基本的な生活習慣を身につけさせる。言葉遣いや、座り方、はしの上げ下げ等、行儀を良くすること。こうした基本を身につけていないと、社会のルールを身につけることもできない。公共性が育たない。だから、しつけには、公共性をもった家庭教育という意味がある。

 

 しつけは「つ」のつくうちに行うことが大切である。「ひとつ、ふたつ」と年を数えるが、「九つ」つまり9歳までに、しっかりしつけをしていないと、その後は容易でない。子供の身につかない。これは、親や教育者が経験の中で、実感していることである。こうした経験知が軽視されると、しつけはうまくいかないのである。

 なかでも「三つ子の魂百までも」というように3歳までに土台を作っていないと、やり直しは難しい。

 

 学校に上がったときに、子供が椅子に座って落ちついて先生の話を聞いていられるように、親が家庭で育てていないと、学校教育は効果が上がらない。ベテランの優秀な先生でも、学級をまとめていけなくなる。一人二人の子に親がしっかりしつけをしないと、30〜40人の子供に先生が基本から身につけさせるのは、困難。

 家庭教育という基礎の上に、学校教育、社会教育が積みあがっていく。基礎ができていないと、学校教育、社会教育は効果が上がらない。

 

乳幼児を保育所に預けて働きに出る母親が多くなっている。それを財界が求め、行政が支援している。東京都など保育所で0歳児からの超長時間保育を行っている。これは劣子化を助長するものとなる。またこれこそ戦後、占領期の日本で行われた、日本人を精神的に劣化させる政策を完成させるような自滅行為となるだろう。

 

●「しつけ」の三原則

 

 しつけは、どのように実行するとよいか。教育家の森信三(のぶぞう)氏は、「しつけの三原則」を唱えた。

 

@挨 拶: 朝起きたら「おはよう」と挨拶する

A返 事: 呼ばれたら「はい」と返事をする

B片付け: 椅子から立ったら、椅子を入れて元の位置に戻す。履物を脱いだらそろえる。

 

 森氏はこれらを「三原則」とし、実行を勧めている。保育園・幼稚園等でこれを取り入れて、目覚しい成果を上げているところがあるという。

 では、具体的には、どのようにしたら、子供に身につけさせることができるのだろうか。

 

@挨拶は、親が子供に挨拶をすること。毎日毎日、親が子供に挨拶をし続けると、子供は自分から両親や祖父母に挨拶をするようになる。

A返事は、妻が夫から呼ばれたら「はい」と返事をすること。母親がいつもそう返事をしていると、子供も「はい」と返事をするようになる。幼い子供は母親と密着しているから、母親のすることをまねる。

B片付けは、親が常にやってみせること。言葉で「しなさい」と言うだけでなく、親が子供に言ったように自分が実行する。子供は親の背中を見て育つ。

 

 これらを根気よく、継続して実行することである。

 

「しつけの三原則」は、森氏の長年にわたる経験を凝縮したものである。単純なようだが、その意味は深い。森氏の弟子である寺田一清氏の説くところに基づきながら、私なりに考えてみよう。

 

 挨拶・返事・片付けには、どういう意味があるか。

 挨拶は、自分から他者に呼びかけることであり、返事は、他者から声をかけられたら、これに応じることである。これらは、コミュニケーションの基本である。

 人間関係は、人と人とのコミュニケーションによって成り立つ。社会で生活するには、コミュニケーションができなくてはならない。その基礎となるのが、挨拶と返事である。

 次に、ものの片付けは、他の人に配慮してものを扱うことである。人間はものを用いなければ生活していけない。ものの取り扱いは、自分と他者を媒介する。自分だけが使うもの、使う場所なら、どのようにしてもよい。しかし、他の人も使うものや場所なら、自分が使ったら、後の人のことを考えて片づけをしなければならない。だから、片付けも人間関係の基本となる。ものを媒介とするコミュニケーションなのである。

 

 コミュニケーションとは、意思の疎通であり、思っていること、感じていることを伝え合うことである。心の通い合いである。人の心は、心の通い合いを繰り返す中で、成長する。また心の健全さが維持される。挨拶・返事・片付けは、本質的に共同的・相助的な存在である人間が、互いに心を通い合わせながら社会生活をするうえで、最も大切な行いなのである。

 コミュニケーションの出来ない子は、集団に不適応になったり、群れから孤立したりする。いじめを受けたり、不登校や引篭りになったりする。友達が作れず、異性との交際もできなくなる。

 

●親の愛情と責任、夫婦の協力

 

コミュニケーションの基礎は、母親と子供の心の通い合いにある。そこに父親が加わり、親と子のコミュニケーションが家庭でしっかりなされることが、大切である。

 

 ここで重要になるのが、親の愛情と責任である。子供が社会で一人前にやっていけるように、愛情と責任をもって育てようという心である。

 それには自分を育ててくれた親に感謝し、親のまた親である先祖に感謝の気持ちを持つことが必要だ。そういう気持ちを持つと、今度は自分が自分の子供に親から学んだものを伝え、一人前の人間に育てようという愛情と責任がわいてくる。

 

 また、しつけには、夫婦の協力が必要である。夫と妻が互いの長所を求め合い、短所を補い合って、和をもって子育てに取り組むこと。夫婦のコミュニケーション、心の通い合いが、親子のコミュニケーション、心の通い合いに通じ、子どものコミュニケーション能力を育てるものとなる。

 

●親学の振興を

 

 ところが、この大切なしつけのできない親が増えている。しつけを実践するには、しつけのできる親を育てる必要がある。

戦後、わが国では、日本の伝統が否定され、親は子育ての規範を失った。そこにアメリカから子供中心主義の教育論が入ってきた。子供がどうしたいか、子供の意思を尊重し、親は干渉しないのがよいとされ、自由放任の教育がよしとされた。親が子供に押し付けるのはよくないと言う考え方が広がった。アメリカでは、20年以上前から、この間違いに気づき、方向転換をしている。日本では今なお、友達のような親でありたいなどと言って、しつけを軽んじている人が多いようだ。

 昔は大家族だったから、自然と親のあり方が受け継がれた。しかし、今日の社会では、核家族化が進み、祖父母と同居せず、自分が親になったとき、どうしたらいいか学べないような環境になっている。そこで、親になるための勉強、親が親らしくできるようになるための訓練、言い換えると「親学(おやがく)」の必要性が唱えられている。

 

現代日本の惨状は、相当部分を共同性・相助性の急速な低下によっている。共同性・相助性の低下は、個人主義の進展と相即している。自己中心・自己本位の態度や、わがまま・我欲が横行している。最も顕著な現象が、家庭や子供に表われている。ぞっとするようなことが、いくらでもある。

 この日本を立て直すには、しつけからやり直す必要がある。それには、しつけのできる親を育てる必要がある。しつけのできる親や大人になる必要がある。親学こそ、現代社会に最も求められているものではないか。

 

 教育再生会議は、第1次報告書(平成19年1月)に、親学の振興を盛り込んだ。一部の新聞が断片的な報道をしたことで、誤解や反発を生み、政府は慎重になっているが、親の問題に踏み込まなければ、絶対に教育はよくならない。社会も日本もよくならない。そこまで来ている。政治家は、抵抗を恐れず、親や大人に「親学」の振興を呼びかけるべきである。

 

●日本精神を取り戻そう

 

 最後に最も重要なことを述べる。それは、日本人が日本人としての誇りを取り戻すことである。そして、日本人の子育ての伝統の良い部分を、自信をもって取り戻すことである。江戸時代や明治時代に日本に来た外国人は、日本の子育ての優れていることに驚き、日本人の礼儀正しさや誠実さを感動をもって記している。私たちの先祖・先輩は、それだけ立派な子育てをしていたのだ。

 

 ユダヤ民族は、国を失い、流浪の民になったが、困難の中でも民族の伝統・文化・理想を失わなかった。そして力を入れたのが教育である。わずか1500万人ほどの人口なのに、優れた科学者・芸術家・銀行家・政治家等を多数輩出している。今も世界に大きな影響力を振るっている。

 日本は、戦争に敗れたとはいえ、国がある。国土がある。あと取り戻すべきは、民族の精神だ。

 

 日本精神は、家庭にあっては、親が子を愛情をもって育て、子どもは親に感謝して、親が老いても大切にする。夫婦が互いの特徴を認め合い、また欠点を補い合って協力する。親子一体、夫婦一体である。

 また社会にあっては、人と人が助け合い、共存共栄を図る。そして、祖先・自分たち・子孫という生命のつながりを自覚して、互いに役割を果たす。個人主義・自己中心・自己本位は、日本精神とは大きく異なっている。

 子育てにおいても、自分の子どもを単に自分の子どもとしてだけでなく、世の中で役に立つ人間、日本を担う人間を育てるという願いを持って育てる。それが、私たちの先祖が心がけてきた教育である。

 

日本を立て直すため、家庭でのしつけからやり直そう。教える親や大人も、それを実行することで自分も変わる。子供に教えることを通じて、自分も親として、大人としての自覚が強くなる。教育とは共育、共に育つ行ないである。

 幼児期の子には、しっかりしたしつけをする。少年期の子には、道徳を教え、誇りを育てる教育をする。これらを並行して進めていけば、日本人は、大人も子供も精神的によみがえると思う。

 日本精神を復興して、日本の再建を進めよう。(ページの頭へ

 

関連掲示

・拙稿「親学を学ぼう、広めよう

参考資料

・森信三氏について

http://www10.plala.or.jp/mori-sinzo/right.htm
・寺田一清著『三つのしつけ』(登龍館)

・親学会編・高橋史朗監修『親学のすすめ』(モラロジー研究所)

・親学会のサイト

http://www.oyagaku.jp/index.htm

・野口芳宏著『小学生までに身に付ける子どもの作法』(PHP研究所)

次の項目「親子で学べる『しつけ』の本をご参照のこと

 

ber117

 

■親子で学べる「しつけ」の本

2006.6.5

 

『小学生までに身に付ける子どもの作法』(PHP研究所)という本をご紹介したい。著者は、野口芳宏氏。国語教育で有名な教育者である。

 親が子どもにきちんと「しつけ」をすること。この当たり前のことが、切実に求められている。それが今日の日本だ。心を育てる教育、道徳・感性・愛国心を育てる以前に、「しつけ」が問題なのである。「しつけ」のできない親。いや、どうしたら「しつけ」をできるのか、わからなくて悩んで、困り果てている親が多いのだ。そこに差し延べられたやさしい手が本書『小学生までに身に付ける子どもの作法』である。

 野口氏は、「あとがき」に、「家庭教育は国語教育と並んで私のライフワークです」と書いている。小学校の先生だった野口氏は、「楽しく素敵なイラストが入った家庭教育の本」を書いてみたいと考えていたそうである。そしてその願いどおり、この本は、子どもと一緒に読めるような、わかりやすく、楽しい本になっている。きっと幼児や小学生の子どもを持ったお父さん、お母さんに、そして幼稚園や小学校の先生に、この本は役立つ。そう思う。

 出版社・著者からの内容紹介を引いておこう。
 「『作法は、人を幸せに導くお守り』です。世の中で生活していく上で必要とされる、さまざまな手本となる正しい決まり[作法]を身につけると、誰からも愛され親しまれます。さらに、品位も生まれ人間としての円熟味が加わり、何よりも本人が楽しく幸せな日々をおくることができます。
 この作法の基本は、実は子どもの頃の家庭教育によって形作られていくもので、幼児期、小学生時期のいわゆるシングルエイジの基準感覚形成時期に身につけることが大切。作法を身につけるのに、大人になってからでは遅すぎる!のです。
 『ありがとう』『すみません』と必要に応じて言わずにはいられない、という『基準感覚』はセンスです。幼い時のしつけがこのセンスを育てます。時期を逸すると感覚の形成やその修正は困難になります。
 この本は、大切な幼児期、小学生の時期のうちにぜひとも身につけたい『基準感覚』を育むためのハンドブック、ガイドブックです。」

 国語教育の大先生が、ここで「シングルエイジ」などというカタカナ語を使うとは思わなかったが、「シングルエイジ」とは、0歳から9歳まで、一桁の年齢のことだ。
 昔から、「しつけ」は「つ」のつくうちにせよ、といわれる。「一つ、二つ」と年を数えるが、最後の「九つ」までに、しっかり「しつけ」をしないとだめだよ。後になってからでは、身につかないよ、ということである。
 野口氏のいう「基準感覚」とは、「人間として必要な基本ルール」に関する感覚のことらしい。人間関係の秩序や礼儀に関する感覚は、幼い時に身につけさせないといけない。それができないと、やっていいことと悪いことの区別がつかず、絶対やってはいけないことに対しても鈍感な人間になる。

 「はじめに」という文章が、この本には、二つある。一つは「お父さん・お母さんへ」。もう一つは「この本を読む子どもたちへ」。大人にも子どもにも、素晴らしい呼びかけが書いてある。
 そして私が感心したのが、イラストのページ。親が子どもと一緒に読める。子どもだけでも、絵本のように読めるだろう。楽しい絵が並んでいる。「挨拶の作法」「話す時と聞く時の作法」「食事の作法」「街を歩く時の作法」が、順にわかりやすく、一つ一つ品格高く書いてある。
 イラストの前には、日常的な作法や挨拶の持つ意味についての解説がある。簡潔でいて内容が深い。「しつけ」は、理屈なしに教え込むものだが、子どもはある程度の年齢になると、どうしてそうするのか考え、反抗したりする。そういう時、親が、どうしてこういう挨拶や言葉遣いをするか、その理由を言い聞かせられるように、この本は手立てを与えている。

 本書は、すぐ役立つ実践的な「親学」の手引書となっている。正直言って、私は反省した。親として恥ずかしいことに、いくつも気がついたからだ。もっと早く出会いたかった。こんな本があれば、もっとよい子育てができたかも、と考えるところがいろいろある。
 そんな先輩の反省を込めて、子育てしている人、子どもたちにかかわっている人たちに、本書を手にしていただきたいと思う。
ページの頭へ

 

ber117

 

■歴史・道徳から教育改革を

2000.11.28

 

 昭和20年、当時日本共産党の幹部だった志賀義雄氏(のちに追放)は、次のような趣旨のことを語ったことが知られています。

 「武闘革命など不必要だ。共産党が作った教科書で、社会主義を信奉する日教組の教師が反日教育を施せば、30〜40年後には、その青少年が日本の指導者になる。その結果、教育で共産革命が達成できる」と。(雑誌『センボウ』)

 

 幸いその目論見ははずれ、日本の共産化は、防がれています。この間、ソ連の崩壊や中国の開放政策への転換等が起こり、社会主義は後退しています。しかし、日教組を中心とした教育の影響は強く、日本の指導層にもサヨク化が進んでいます。政界・官界や司法やマスコミ等にもその影響が広がっています。

 

 この間、文部省と日教組の角逐が行われてきたのですが、文部省は段々日教組と妥協する傾向を示すようになっていきました。特に、大きな変化として指摘されるのが、昭和52年の学習指導要領の改訂です。

 名越二荒之助氏によると、(『戦後教科書の避けてきたもの』日刊工業新聞社)、昭和43年に文部省が作った「小学校学習指導要領・社会」の第6学年の部には、次のような「内容の取り扱い」に関する指摘がありました。

 「天皇については、日本国憲法に定める天皇の国事に関する行為など児童に理解しやすい具体的な事項を取り上げて指導し、歴史に関する学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすることが必要である」

 「わが国の歴史を通じてみられる皇室と国民との関係について考えさせたり、貴重な文化財の尊重、保護が国民全体のたいせつな歴史的責任であることを自覚させたりするよう配慮する必要がある」

 立派な内容ではありませんか。ところが、昭和52年に、指導要領が全面改訂されたときに、すべて削られてしまいました。

 

 また、高橋史朗氏によると(『親が変われば子は変わる』扶桑社)、文部省は53年には、学習指導要領(※学年・教科など詳細不明)から以下の部分を削除するにいたりました。

 「家庭の役割、社会および国家のはたらきなどそれぞれの特質を具体的な社会機能と結びつけて正しく理解させ、家庭、社会および国家にたいする愛情を育てるとともに、自他の人格の尊重が民主的な社会生活の基本であることを自覚させる」

 「われわれの生活や日本の文化、伝統などはすべて歴史的に形成されてきたものであることを理解させ、わが国の歴史や伝統に対する理解と愛情を深め、正しい国民的自覚をもって国家や社会の発展に尽くそうとする態度を育てる」

 これも立派な内容でした。教育基本法には、歴史・伝統・家庭・皇室などについて書かれていなくとも、学習指導要領には、書かれていたのです、この時期までは。ところが、そういう個所が削られてしまったのです。それが、昭和52〜53年だと指摘されます。

 

 この頃既に、文部省は、精神的に骨抜きになってきていたのでしょう。GHQの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争犯罪宣伝教育計画)が、戦後ひと世代を経た昭和50年ごろには、既に相当の効果をあげていたとみるべきだと思います。

 そして、戦後50年を迎えた平成7年前後には、このプログラムは、ほぼ達成段階に至ったと見るべきと思います。その指標は、衆議院での「戦後50年謝罪決議」や、細川首相による「侵略戦争」認識発言です。このころまでに、伝統的な日本の価値体系が根こそぎにされ、その代わりに、連合国の歴史観・価値観が、日本の国家中枢までをほぼ支配するに至ったと思われます。その中枢とは、政界・官界・法曹界・マスコミ等も含みます。

 その結果、我が国は大きな危機に陥っています。今日、この危機を自覚した人々が、歴史教育と道徳教育の改善をめざしています。戦後日本のあり方を反省し、自国の伝統や国柄を大切にした歴史教育や道徳教育を、実現すべきだと思います。ページの頭へ

 

ber117

 

■道徳をどう説く?

2001.3.14/2006.4.8

 

道徳教育とは、何でしょうか。心を育てる教育です。心を育てるとは、心の中に価値を植えつけ、その価値を育て、自分で価値を判断する力を養う教育です。価値とは、真善美聖をいいます。価値を判断するとは、物事の真偽、善悪、美醜、聖俗を見分けることをいいます。物事の真偽、善悪、美醜、聖俗を見分ける力を養うことにより、自ら得た価値観に照らして行動できる人間が育ちます。それが、人格の形成ということになるのです。

●道徳教育の復活には、教育勅語の復権を


 戦後、長く道徳教育がほとんどなされていません。昭和22年に教育基本法が出来ましたが、その翌年、GHQの圧力によって、わが国の国会で、教育勅語を排除し、失効とする決議がされました。それ以来、わが国の学校教育では、道徳がほとんど教えられていないのです。近年の教育の荒廃や青少年の問題の噴出には、道徳教育の欠落という事態が、重大な原因の一つになっています。道徳教育の復活は、日本の教育の立て直し、ひいては日本そのものの建て直しのために急務です。
 そのポイントとして、私は教育勅語の復権を訴えています。教育勅語は、日本人の道徳の根本を説いたものであり、またそれに基づいて教育の理念・目的を示したものです。そして家庭教育に対しても、基準・規範を示すものとなっていました。教育基本法の改正とともに、教育勅語の復権が行われてはじめて、日本の教育は、よみがえると思います。この点は、他所に書いたことがあるので、ここでは省き、次に具体的な内容に入ります。(註1


(1)
教育勅語については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「教育勅語を復権しよう

 

●道徳の二つの基本

 

 道徳の基本とは、何でしょうか。私なりに古今東西の道徳説を概括すると、

 

 「自分が他者(ひと)からされたくないことは、他者にするな」

 「自分が他者からしてほしいと思うことを、他者にしてあげなさい」

 

という二つに、要約される、と思います。

 「自分が他者からされたくないことは、他者にするな」という意味で有名な言葉は、「己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ」。『論語にある言葉です。「人に迷惑をかけるな」というのは、これです。

 もう一つの「自分が他者からしてほしいと思うことを、他者にしてあげなさい」というのは、もっと積極的です。人に親切にするとか、人に奉仕するというのは、これです。宗教で説く愛や慈悲は、これを深め、高度にしたものでしょう。これまで人類社会では、前者の実行が大きく欠けていますので、まず前者について私見を述べることにします。

 

●自分が嫌なことは、ひとにするな

 

 他者からしてほしくないことには、何があるでしょうか。世界中によく知られているキリスト教の十戒と仏教の五戒は、そのうち四つが共通しています。すなわち、「偽ること」「盗むこと」「犯すこと」「殺すこと」です。これらは、他者からしてほしくないことの最たるものでしょう。

 人にだまされるのは、いやなものです。ものを盗まれるのも、いやでしょう。これらを喜ぶ人はいません。また、自分や妻や娘が犯されるのは、許せません。まして、自分が他者に殺されるのは、一番いやでしょう。自分の親や子どもや恋人を殺されるのも、絶対いやでしょう。

 自分がいやなことは、人にするな。自分がしたいと思うことでも、他者がいやがることは、してはならないのです。だから、人を殺すのは、いけないのです。「人を殺してみたかった」などと言うのは、とんでもないことです。

 法律で殺人が犯罪と定められ、殺人を犯した者には、重い刑罰が科せられるのは、それだけ強く人がいやがることだからです。

 家庭や学校で、こういう道徳の基本を教えると、青少年の無軌道な行動は、少なくなってくるだろうと思います。

 

●宗教や伝統文化の理解が必要

 

 次に、より積極的な道徳のあり方について、私見を述べます。「自分が他者からしてほしいと思うことを、他者にしてあげなさい」ーー本来は、こちらが道徳の主たる課題です。この課題は、宗教心というもの抜きには、ほとんど考えられないと思います。

 伝統的な文明社会では、宗教と無関係の道徳というものは、ほとんどありえないことでした。最も世俗的で合理的といわれる儒教においてさえも、天という超越的な意志や、祖先崇拝という心霊的要素がみられます。絶対的な規範を欠く「恥の文化」の社会といわれるわが国にも、「お天道様が見ている」とか「ご先祖様に申し訳が立たない」などという内心の規範がありました。近代西欧が生み出した、非宗教的な、啓蒙主義・功利主義の道徳観は、特殊なものです。また、一部の知識人のものに過ぎません。

 わが国では戦後、憲法20条3項と教育基本法9条2項で、公立学校での宗教教育が制限されてきました。近年はこれらの条文を、極端に拡大解釈し、あらゆる宗教的な文化・習慣までを否定しようとする傾向があります。たとえば学校給食のときに、「いただきます」と手を合わせて言うのは、仏教的だから為すべきでないなどと、習慣的な礼儀までも排除しようという動きがあるのだそうです。しかし、欧米では今日も、公立学校で、キリスト教に基づく道徳教育がされていることが明らかにされています。実際、道徳教育は、宗教や伝統文化への理解なしには成り立たないと、私は思います。

 

●宗教的情操を養おう

 

  今日、わが国では、教育荒廃のなかで、「心の教育」が求められており、平成10年6月に、中央教育審議会は、「心の教育」に関する答申を出しました。その中で、中教審は、「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」「宗教的な情操」をはぐくむことの大切さを訴えています。「もう一度家庭を見直そう」という章では、「家庭内の年中行事や催事を見直そう」という節をもうけ、そこに次のように書かれています。

 「宗教的な情操をはぐくむ上で、我が国における家庭内の年中行事や催事の持つ意義は大きい。日本人の宗教観や倫理観は、日常生活そのものと深く結び付いている。我が国の伝統的な家庭内行事は、例えば、初詣や節分で無病息災を祈ったり、家族一緒に墓参りをして先祖と自分との関係に思いを馳せることなどを通じて、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めるなど、宗教的な情操をはぐくむ貴重な契機となってきた」

 わが国では、固有の宗教である神道のほかに、外来の宗教である儒教、仏教などが共存してきました。それによって、わが国には、西欧におけるような、血で血を洗うがごとき宗教戦争がありませんでした。神・儒・仏の三教には、先祖を敬い、生命を尊び、家族や隣人をいつくしむことが、共通しています。そして、これらが渾然と融合して、庶民の生活文化に溶け込んできました。これは、わが国の伝統的な心の文化です。こうした文化を、子供たちに伝えることは、教育の大切な役割だと思います。

 また、世界には様々な宗教があり、様々な価値観があることを教えることは、国際理解につながります。宗教的な理解力がなければ、異文化の人々の心を理解し、親善友好することはできません。宗教的な情操を育むことは、今日の本格的な国際化時代において、ますます必要となっていることなのです。

現行憲法や教育基本法の規定は、特定の宗教・宗派を児童・生徒に押し付けることを禁じたにすぎません。日本の伝統的な宗教観に根ざした規範意識や習慣の継承まで否定したものではありません。宗教的情操を養う教育は、現行憲法のもとで可能なことです。そして、それを積極的に実行することによってこそ、「心の教育」は、真に教育効果を生むことができると私は思います。また、21世紀の世界を生き抜くことができる、国際的な日本人を育てることにもなると思います。ページの頭へ

 

ber117

 

■道徳の教科化と親学の振興で道徳教育の充実を

2014.7.5

 

●はじめに

 

 戦後日本では道徳教育が軽視されてきた。GHQの圧力で教育勅語が廃止され、日教組が道徳教育に反対してきたからである。しかしいま現状を改革しようとする力強い動きが起こっている。安倍政権は本年度から新教材「私たちの道徳」を小中学生に配布し、また道徳の教科化を実現しようとしている。この動きに親学の振興を加えることによって、道徳教育の充実を実現することができるだろう。

 

●日本は敗戦後、優れた道徳教育を失った

 

 世界から称賛される日本人の高い道徳性は、長い歴史の中で培われたものであるとともに、明治以降の学校教育の成果でもある。明治以降の教育は、近代国家日本を担う国民を育てることに根本目的を置いていた。その教育方針を示したのが教育勅語であり、教育勅語のもとに国民を育てる道徳教育が行われた。道徳教育は「修身」という正式科目であり、国定教科書によって行われていた。修身の内容は、教育勅語に盛られた孝行、友愛、博愛、義勇など12の徳目を分かりやすく教えることが中心だった。

 ところが、敗戦後、GHQの圧力によって、教育勅語は廃止を余儀なくされた。修身も禁止された。留意したいのは、GHQの幹部は教育勅語それ自体は何ら悪いところはないと考えていたことである。内容よりも、戦前のわが国で行われていた勅語の解釈や運用を問題としたものだった。

 教育勅語については、拙稿「教育勅語を復権しよう」に詳しく書いた。

 占領期間を終え、昭和27年(1952)4月28日サンフランシスコ講和条約の発効で主権を取り戻した日本政府は、道徳教育の復活を目指したが、日教組が強硬に反対した。そのため、わが国では戦後、まともな道徳教育が行われないまま、70年近く経過している。昭和33年(1958)から小中学校で週1時間、「道徳の時間」として、年間35時間の授業枠が設定されているが、正式な教科ではなく、ホームルームや自習時間に充てられるなど形骸化している。

 私は、戦後50年を迎えた平成7年(1995)からわが国は精神的な劣化が目立ってきたと見ている。その年には、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。平成9年(1997)には神戸連続児童殺傷事件や11年(1999)には栃木女性教師刺殺事件・光市母子殺害事件等の社会を揺るがすような凶悪な少年犯罪が相次いで発生した。

 そうしたなか、「心の教育」の必要性が強調されるようになり、文部科学省は、道徳の補助教材として「心のノート」を作成し、平成14年(2002)、全国の小・中学校に無償配布した。小学校低学年、中学年、高学年、中学校用の4種類が作られた。心ある教育者はこの教材を使って、いじめや自殺等を防ぐために懸命に取り組んだ。だが、道徳は正式科目ではなく、さらなる道徳教育の充実が求められている。

 ちなみに日教組は道徳教育の廃止を唱え、「心のノート」の配布・使用に反対してきた。日教組を支持母体とする民主党は政権を取ると、事業仕分けで予算を削り、「心のノート」の配布をやめてしまった。痛恨の出来事だった。

 

●いま道徳教育の充実を目指す取り組みが

 

 しかし、いま現状を改革しようとする力強い動きが起こっている。その動きを推進しているのは、現首相・安倍晋三氏である。安倍氏は「戦後レジームからの脱却」をめざし、その課題の一つとして教育改革を掲げている。道徳教育の充実についても積極的に進めようとしている。

 平成18年(2006)、第1次安倍政権は、国と郷土を愛する教育や公共心の育成などを重視するよう約60年ぶりに教育基本法を改正し、教育改革に意欲を示した。同政権が設置した教育再生会議は、道徳の教科化を提言し、中教審で議論がされた。しかし、検定教科書について「個人の内面にかかる問題を扱うので検定になじまない」といった慎重意見が多く、平成20年1月の新学習指導要領に向けた答申では判断が先送りされた。その後の自民党政権、民主党政権では、この課題への取り組みは進まなかった。

 平成24年(2012)12月、第2次安倍内閣が発足すると、25年2月政府の教育再生実行会議(座長・鎌田薫早稲田大総長)は、いじめと体罰問題に関する提言をまとめ、安倍首相に提出した。提言は、学校や教員によって充実度にばらつきがあった「道徳」について、「他者への思いやりや規範意識を育むよう」新たな枠組みで教科化することを求めた。

 25年(2013)12月文部科学省の有識者会議「道徳教育の充実に関する懇談会」が下村博文文科相に報告書を提出した。報告書では、「歴史的経緯に影響され、道徳教育そのものを忌避しがちな風潮がある」などの課題を指摘し、抜本的な改善を図るには「特別の教科」として位置づけることが適当とした。ただし、5段階などの数値評価は行わず、記述式など多様な評価方法を検討するよう求めた。教材は新たに検定教科書を導入するのが適当と判断した。

 本年(26年)1月24日安倍首相は施政方針演説で、第1次政権から取り組む課題の1つである教育再生に強い意欲を見せた。「学力の保障」「道徳」「英語力」を柱とする施策強化を訴え、将来の日本を支える次世代教育に注力する。首相は演説で「すべての子供たちに必要な学力を保障するのも公教育の重要な役割だ」と強調。国の責務として基礎学力などが備わるよう教科書の改善に取り組むと訴えた。さらに「公共の精神や豊かな人間性を培う」ことを目的に、道徳を特別教科と位置付けた。

 

●26年度から使用の新教材「私たちの道徳」

 

 本年(26年)2月14日文部科学省は、26年度(26年4月〜)から全国の小中学校に配布する道徳用の新教材「私たちの道徳」を公表した。これは、検定教科書ができるまでの道徳教材として、現在配布されている「心のノート」を全面改定したものである。読み物を充実させ、ページ数を約1・5倍に増やした。「心のノート」と同様、小学校低学年、中学年、高学年、中学校用の4種類である。全小中学生の手に渡るよう計約1000万部作成された。作成費は郵送代を含めて約9億8000万円。文科省は小中学校の「道徳の時間」や家庭や地域での活用を想定しているという。

著名人の伝記や名言が多く載っており、坂本龍馬、二宮金次郎、緒方洪庵、葛飾北斎ら歴史上の人物や、イチロー、澤穂希、内村航平ら世界で活躍するスポーツ選手らのエピソードなども紹介されている。日本の伝統文化に関する読み物を盛り込んだ。小学3・4年生用の教材では、「伝とう文化を大切に」というテーマで、和服、和食、和室、風呂敷などについて写真付きで説明。「他にどのような日本の伝とうや文化がありますか」と問いかけている。

 私が特に注目するものを二つ挙げる。

一つは、小学5・6年生用の教材に盛り込まれたのは、剣道をめぐる物語である。

 親にすすめられて剣道をはじめた小学生が、正座の仕方や立ち方、礼の仕方などを厳しく教えられ、「何でこんなに礼にこだわるんだろう」と疑問を抱く。初めて迎えた試合の日。あっさり負けてしまい、ふてくされた態度で礼をすると、先生から「剣道をやる資格がない。他の試合をよく見てみなさい」と叱られる。

 「先生は何を怒っているのだろう」。そう思いながら上級者の試合を見ていると、試合に負けたあとでも立派な態度で礼をする姿に心を打たれ、「美しい」と感じるようになる。

 「剣道は、『礼に始まり礼に終わる』と言われるように、礼というものをとても大切にします。これは、日本人が昔から大切にしてきた相手を思いやる精神です。我々が受けついでいかなければならないことです」と先生に教えられ、小学生はこれまでの姿勢を改めるというストーリーである。

 中学生用の教材には、エルトゥールル号遭難事件が取り上げられた。私が教科書に載せることを以前から提案してきた話の一つである。

 明治23年(1890)に和歌山県沖で沈没したトルコ船エルトゥールル号の乗員を、近くの集落の人々が総出で救助した。非常時のために蓄えていた食糧をすべて提供してトルコ人遭難者の介抱に努めた。トルコでは、この事実が語り継がれ、青少年にも教育しており、知らない人はいないと言われる。エルトゥールル号遭難事件から100年近くたった昭和60年(1985)、イラン・イラク戦争が激化する中、日本人多数がテヘラン空港に取り残された。この時、トルコ政府が日本人のために救援機を飛ばし、全員を脱出させてくれた。それは、エルトゥールル号の遭難者を救助してくれたことへの感謝の行動だった。

 「私たちの道徳」は、この史実を取り上げ、自らの困窮も構わずに人を助ける日本人の「無私の心」が、100年も続くトルコの親日感情に結びついたのだと、生徒に気づかせる構成になっている。

 このように「私たちの道徳」は、大人も読みたくなる内容である。家庭で親子で読み、それを題材に話し合いができるようなものとなっていると思う。地域や民間の青少年活動でも有効に利用できるだろう。

問題は、この新教材が学校現場で適切に活用されるかどうである。日教組や一部マスコミは道徳教育に反対しており、小中学生に配布しても、授業では扱われない可能性もある。道徳を正式教科とし、検定教科書を作成・配布し、道徳教育に関する教師への研修を実施するところまで進めないと、現状の改革は大きくは進まないだろう。

 

●文科相が中教審に教科化を諮問、超党派の議連も始動

 

 安倍政権で教育行政の責任担当者となっている下村博文文部科学相は、本年(26年)2月17日に開かれた中央教育審議会総会で、「道徳の教科化」について諮問した。第1次安倍政権では議論だけに終わったが、昨25年第2次安倍政権下で、教育再生実行会議と文科省の有識者会議が昨年、正式な教科に格上げするよう提言した。今回、改めて諮問するにあたり下村文科相は「規範意識や自己肯定感、社会性、思いやりなど豊かな人間性を育むために道徳教育は重要だ」としている。今後、検定教科書や成績評価、教員養成のあり方について議論が進められ、26年秋をめどに答申が出される。文科省は、教科書の作成から使用まで数年かかることから、正式な教科化は30年度以降となるが、学習指導要領が一部改訂されれば、早ければ27年度にも先行実施する方針と報じられている。

 政界では、人格教育の重要性を訴える超党派の「人格教養教育推進議員連盟」が26年6月10日に設立された。呼掛け人は、事務局長の山田宏代議士、会長は下村博文文部科学大臣である。政府内にある道徳の教科化の動きを後押しする狙いという。自民党の安倍首相と民主党の野田前首相が最高顧問を務める。保守系国会議員を中心に70名が入会した。

 東京都豊島区議会議員の細川正博氏によると、議連の目的は、道徳の教科化ということだけでないとし、以下の3点を掲げている。

 

1.規範形成教育の再興

・子育て(家庭教育)から就学前(幼稚園、保育園教育)、就学後(小学校教育、中学校教育)を通じて、規範形成を一貫性をもって実施する体制の整備

 

2.教師の養成(規範が教えられる教師の養成)

 

・家庭教育=親に対する子育て教育支援

・幼稚園、保育園教育=幼稚園教員、保育園保育士に対する教習の機会の提供

・小学校、中学校教育=教師に対する教育機会の提供

 

3.地域、学校、家庭の三位一体の教育

・家庭教育、学校教育に対する地域からの支援

・地域の独自性を活用した規範形成教育の実施

http://ameblo.jp/hosokawamasahiro/

 

 議連会長の下村文科相は、教育勅語に記されている「兄弟・姉妹は仲良くしましょう」「人格の向上に努めましょう」などの12の徳目に注目し、「今でも十分に通用し、中身は普遍性がある」と述べている。議連では教育勅語の精神を道徳教育にどう生かすについても議論するという。また親のモラル低下も最近の教育問題の一つとして、規範意識を親世代にも浸透させるために道徳教育への親の参加の是非などに関しても意見交換する予定と伝えられる。

 

●有識者の見解

 

 道徳教育の充実を求める有識者は増えている。そのうち、教育評論家の石井昌浩氏、政治ジャーナリストの細川珠生氏、明星大学教授の高橋史朗氏の意見を紹介する。

 まず、東京都国立市の教育長等を歴任した石井昌浩氏は、次のように述べている。

「もともと教育には押しつけなしには成立しないところが多い。価値観が多様化している現代だからこそ、子供たちには社会を構成する一員として守るべき時代を超えて変わらないルールや、その場にふさわしい振る舞いのできる弁(わきま)えを身に付けさせるべきである。幼いうちから『ダメなものはダメ』と子供に教え育てることは押しつけでも何でもない」「道徳の教科化により体系的理論や古今東西の先人の『生き方の座標軸』が提示されることで、子供たちには『人格の完成』のような人間性を高めるための普遍的目標が初めて身近なものとして理解されてくるだろう」と。

 次に、東京都品川区の教育委員長等を務めた細川珠生氏は、次のように述べている。

「『教育改革の本丸』とは、『家庭教育の立て直し』以外、ない。道徳教育の充実のために、教科化を行うなどの方策は、一定の効果はあると思うが、根本的な『人としての在り方』を教育するのは、家庭である。目を覆いたくなるような行動や言動をする親は、今や街中に、日本中にあふれている。道徳教育を学校教育の中で懸命に取り組んでも、家に帰ればぶち壊し。この現実にたって、教育の本丸である家庭教育の立て直しに本気に取り組むべきである」「親の道徳観や判断力の乱れがはびこり、それが各地で子供を取り巻くさまざまな問題を引き起こす最大の原因となっていると、私は常々感じてならない。ではどうすればいいか。方法は簡単である。親の道徳教育を必須とする制度を国が作ればいい」と。

 最後に、埼玉県教育委員長等として活躍してきた高橋史朗氏は、次のように述べている。

「筆者も政府の少子化対策重点戦略検討会議の『家族・地域の絆再生』をテーマとする分科会委員として『教育の原点は家庭にあり、教育の第一義的責任は親にある』ことを強調し家族・地域の絆を再生する国民運動が展開されたが、『家庭の劣化』『子育ての劣化』が深刻化の一途をたどっている」。「3歳以下の子供を持つ母親の約6割が『働きたくない』と答え、出産後は退職する女性も約6割いる。固定的性別役割分担意識についても、20代の女性に伝統的な価値観への回帰傾向が見られる。こうした動向を踏まえ、『家庭基盤の充実』を重視した大平正芳政権に学び、家族と家庭を尊重し、一刻も早く『家庭教育推進法』を制定して、親子が向き合って『共に育つ』ことを支援し、『幸福のものさし』を取り戻す必要がある」と。

特に親への働きかけは重要であり、道徳の教科化は親学の振興と結びついてこそ、真に効果が期待できるものである。小学校から道徳の教科教育を行ったとしても、就学前に基本的な道徳を家庭で身に付けていないと、十分な効果は上がらない。とりわけ3歳までに人間としての土台を作ることが極めて大切である。土台ができていてこそ、学校での道徳教育が充実したものになる。親学については、下記の拙稿をご参照願いたい。私は特にしつけあっての教育と訴えているところである。ページの頭へ

 

関連掲示

・拙稿「教育勅語を復権しよう

・拙稿「親学を学ぼう、広めよう

・拙稿「『しつけ』あっての教育

 

ber117

 

■いよいよ道徳が教科化される

2015.1.9

 

●道徳の教科化が実現する

 

道徳の教科化がようやく実現する。平成26年10月21日、中央教育審議会(会長・安西祐一郎日本学術振興会理事長)は、道徳教育の教科化について下村博文文部科学相に答申した。

答申は、小中学校の「道徳の時間」を、数値評価を行わない「特別の教科」に格上げし、検定教科書を導入することを主旨とする。文科省は答申を受けて学習指導要領を改定し、早ければ平成30年度からの教科化を目指すとのことである。

道徳は戦後、日教組などの反対にあい、正式な教科とされなかった。昭和33年に「道徳の時間」が特設され、「道徳教育の要」とされ、各教科や他の領域を補充・深化・統合する役割を果たすものとされてきた。だが実際はホームルームや運動会の練習、自習、他教科に振り分けられるなどし、きちんとした道徳教育がされてこなかった。

教育には、知育・徳育・体育の三要素がある。これらがバランスよく機能して、始めて健全な青少年が育つ。ところが、日本の青少年は、学校で徳育がほとんど実施されていないため、礼儀やマナーの低下、いじめや凶悪な少年犯罪の増加など、道徳面での劣化が目立つ。

中教審の答申は、道徳教育について「本来、学校教育の中核として位置付けられるべきもの」と明記した。道徳教育について「学校や教員によって指導の格差が大きいなど多くの課題が指摘されている」などと強調し、道徳の時間が他の教科に比べて軽視されがちだと指摘し、教育課程に「特別の教科 道徳」(仮称)として新たに位置づけることを求めた。

道徳の教科化については、「価値観の押しつけ」だという批判がある。しかし、答申は、価値観の押しつけや言われたままに行動するような指導は「道徳教育が目指す方向の対極にある」と、明確に否定した。

答申は、「道徳教育の充実を図るためには、充実した教材が不可欠であり、全ての児童生徒に無償で供与される検定教科書を導入することが適当」と指摘した。民間の教科書会社の創意工夫により「バランスのとれた多様な教科書を認める」とし、郷土資料など多様な教材を活用することも提案している。

答申は、小中学校の発達段階や学年により「正直」「誠実」「公正」・「正義」「信頼」「思いやり」など留意するキーワードを明示した。いじめ問題への対応を求め、学校での指導方法を改善して、対話や討論など言語活動を重視することも要望した。

答申は、「道徳性は、極めて多様な児童生徒の人格全体に関わるもの」とし、数値などによる評価は不適切とした。数値評価をする代わりに、指導要録に専用の記録欄を設け、道徳性に関わる子供たちの成長の様子を多面的・継続的に文書で記述することを提案した。

今後、文部科学省は平成30年度から特別教科としての実施を目指し、学習指導要領の改定と教科書の作成を進める。

ここにおける課題は、まず充実した内容の教科書づくりである。戦後のわが国は、民間の教科書会社が学習指導要領に沿って作った教科書を検定するという仕方を取っている。道徳の場合、他の教科より、題材の選択や主題の表現に自由度が大きい。それゆえに、わが国の伝統・文化・国柄を踏まえた内容の教科書をつくることもできれば、共産主義・フェミニズム・反日思想を盛り込んだ教科書をつくることも可能だろう。より良い内容の教科書が作成されるようにするには、教育関係者だけでなく政治家や保護者、さらに一般の国民が道徳教育に関心を持ち、発言していくが必要だと思う。

次の課題は、教師の姿勢や指導力の向上である。仮に良い内容の教科書が作られても、それを使って道徳を教える教師が、道徳教育に情熱を持ち、また子供たちの心に響く指導を行う教育技術を磨くことが必要である。イデオロギー教育や過激な性教育を行うなど、もってのほかである。私は、学校長が中心となって、教育者として、また社会人として豊かな経験を持った教師が、しっかり研究を重ねて、子どもの心を育てる教育をできるように努めてほしいと思う。他の教科と同じく道徳を専門とする教師の養成も必要だろう。

次の課題は、道徳教育に関する学術的な研究である。戦後わが国には、大学に道徳教育を本格的に研究する専門家がほとんどいない。教職課程では、ごくわずかの時間の履修であり、他の専門の教授者が教える。その程度だから、道徳教育の本格的研究者が必要とされなかった。だが、教育における徳育の重要性を考えると、まず道徳教育の裏付けとなる学問を、哲学・倫理学・心理学・教育学・宗教学・文化人類学・国際関係学等を結集して構築することが必要だろう。学際的な道徳教育学が発展してこそ、現場で教育に当たる教師の養成も、質的に向上するだろう。

最後に、実は学校における道徳教育以上に重要なものがある。教育は、家庭教育、学校教育、社会教育が有機的に連携してこそ、充実したものになる。これらの基礎となるのは、家庭における親によるしつけである。親が子供をしつけ、人間としての土台をつくってこそ、その上に学校・社会における教育が豊かな花を咲かせることができる。今の日本では、子供にちゃんとしつけのできない親が増えている。実は世界的な傾向でもある。そこで振興が求められているのが、親学である。私は、学校における道徳の教科化を成功させるには、親学の振興が最も重要だと考える。

 

●有識者の見解

 

道徳の教科化について、有識者の意見を紹介する。

昭和女子大学人間社会学部教授で日本道徳教育学会会長の押谷由夫氏は、道徳の教科化の意義を次のように述べる。

「不透明な時代。不安は尽きない。だからこそ確かな未来を求めて、子どもの教育に目が向けられる。そして、学力の育成。その学力も、社会の変化に主体的に対応できる知識や技能が強調される。確かに、それらは重要である。しかし、何かが足りない。未来を生きていくのは、子どもたちなのだ。子どもたちの幸せ感と一体となったところに、それらの知識や技能の獲得がなければならぬ。それには、何が必要か。いうまでもなく、人間としての心の育成、つまり道徳教育である。その道徳教育を充実させる切り札として『特別の教科道徳』が提案されているのである」と。

「そもそも道徳は、一般に言われる教科とは異なる。教科はそれぞれに専門分化したものだが、道徳は総合されたものである。したがって、道徳は、各教科全体を包み込んで人間として生きる根幹となる道徳的価値の自覚を計画的発展的に図るという意味で、特別の教科なのである」という。そのために、道徳教育をどのようなものにしていくべきなのか、について、押谷氏は、目標は「自律的に道徳的実践のできる子どもを育てる」、教科書は「開発資料も使えるようにする」、指導者は「全員で取り組む」、評価は「良さの成長を伝える」という4点を挙げる。

これらのうち、目標については、「自ら気づき(感じ)、考え、判断し、意欲して道徳的な行為ができる人間」を育てることとし、さらに重要なのは「そのような道徳的思考や実践を習慣化(日常化)すること」と述べている。そして、押谷氏は、次のように呼びかけている。「道徳教育は、子どもたちの未来やこれからの社会を、明るく希望に満ちたものにしていくものでなければならない。基本的な道徳的価値を窓口として、互いに励まし合い、助け合って、それらを共に発展させ高めていけるようにしていくのが『特別の教科道徳』である。『特別の教科道徳』が教育課程にしっかりと位置づけられ機能するようになることによって、学校教育が人間教育の場となっていく。そのことに夢を託して、皆さんと一緒に『特別の教科道徳』を創り上げていこうではありませんか」と。

 

次に、シナ思想史家の加地伸行氏は、道徳の教科化への反対論は「〈道徳教育は一定の価値観の押しつけ〉という硬直した思いこみの感情論であり、道徳とは何かと考えたことがないことを露呈している」と指摘する。

加地氏によると、道徳は、絶対的道徳と相対的道徳とに二大別できる。絶対的道徳とは、古今東西において共通する道徳である。人を殺すなかれ、他人の財物を盗んだり焼亡することなかれ…といった、社会秩序の鉄則である。それは公徳であり、きちんと教えなくてはならない。相対的道徳とは、それを実行するには自己が判断し決定する種類のものである。これは、古くから道徳教育の大きなテーマとして存在する。今日では、ディスカッションの形で学ぶことが多い。一般にはモラルジレンマ(生きかたにおける苦渋の決断)と言う。例えば、海上に3人が乗っている1隻の舟があるとする。しかし、その舟の能力では1人しか乗れない。では3人はどうするかーーというような問題について考えさせるものである。正解はないが、議論して道徳の実践における選択と自己の決断という生き方を学ぶ訓練となり、それが道徳心を高める。

加地氏は、さらに個人における修養を挙げる。「小中学生が自分一人で修養を積むのはなかなか難しい。そこで例えば偉人の伝記や人々のエピソードを知ることによって啓発される可能性が高い。こうした修養は、私徳であり、生涯にわたって続くこととなり、その人の人生を左右する。そのための種まきが道徳教育なのである。そのどこがいけないのか」と加地氏は言う。

そして加地氏は、次のように主張する。「日本の教育の不幸は、政府の行うことを、左筋の者が常に悪く悪く解釈し悪宣伝をするところにある。モラルジレンマの訓練・討論など知らないで悪口雑言だけ。彼らにこそ道徳教育が必要だ。文部科学省よ、自信をもって道徳教育を推進すべし。それは明日を担う少年少女のためである」と。

 

次に、元国立市教育長で教育評論家の石井昌浩氏は、「道徳の教科化により、道徳教育は新しい時代を迎えたのだ」と評価している。「道徳教育で問われているのは、社会の一員としてどう生きるかについて自ら学び、自ら考え、問いを立て、答えを見つけて実践する力である。未来の社会の在り方を見据えつつ、独立自尊の精神を身につけ、自らの生き方の座標軸を持つことである」と石井氏は言う。

ただし、石井氏は「道徳の教科化さえ実現すれば、『いじめ』などの難問が、すぐにでも解決するように期待する人もいるが、それは幻想というものだ。教科化は特効薬ではない」と指摘する。

道徳が教科化されることで何がどのように改善されるかについて、石井氏は「まず、検定教科書が使われることが特筆すべき変化である。従来の副読本などに加えて、教科書を使用することにより、学校や教員によって授業内容に格差が生まれていた状況が解消されるだろう」と述べる。

石井氏は「教科化に伴い、大学において道徳を対象とする領域が開設され、専門の教員配置が実現するだろう」と言う。「これによって初めて、道徳の目的・内容・評価・指導法などについての学問的な研究体制の確立が期待できる」とする。

石井によると、道徳教育に限って教員免許制度と教員養成制度が未整備のままに長い間放置されてきた。教職課程で道徳の必修単位は2単位、つまり、1回90分の「道徳の指導法」の講義を年間15回受ければ小中学校の道徳授業が可能という軽い位置づけである。さらに道徳が教科でないため、道徳を専門とする研究者の育成がされずに、大半は専門家ではない大学教員が道徳の講義を担当しているのだという。

とはいえ、戦後の長きにわたり試行錯誤の連続だった道徳教育が教科化した途端に手品のように変容するはずもない、と石井氏は指摘する。「戦後70年、私たちは教育の根本にあるはずの道徳について深く論じることはなかった。教科化をきっかけに、他の教科と同じように科学的な学問体系を築いていく必要がある」と石井氏は主張している。

 

次に、武蔵野大教授で日本道徳史・道徳教育論が専門の貝塚茂樹氏は、「今回の教科化によって、道徳教育の形骸化が解消されたかといえば、問題はそれほど単純ではない」と言う。

貝塚氏は、中教審の答申が検定教科書の導入を提案し、授業の指導法にも積極的な提言を盛り込んだことは大きな成果であるとして評価する。だがその一方で、答申では、道徳の専門免許は見送られ、大学での教員養成改革への実質的な提言はない。「これで本当に形骸化が克服できるのか。私には疑問である」と言う。

貝塚氏は、「形骸化の元凶」は「道徳教育の理論研究の貧困」であるとし、それは「道徳が教科でないことで、大学に道徳教育を専門的に研究する講座や専攻分野がほとんどないことに起因する」と指摘する。そのために、道徳教育の研究者は極めて少数であり、道徳教育の専門でない教員が大学の講義を担当することは決して珍しくない。大学での理論研究の貧困は教員養成の機能不全をもたらし、教育現場での教育実践(指導法)の停滞を引き起こしている。これこそが道徳教育の形骸化の本質だ、と貝塚氏は主張する。いわば「負のスパイラル」に陥っているわけである。

貝塚氏は、道徳を教科化する根本的な理由は、この状況に風穴を開け、「正のスパイラル」へと構造的に転換することだ、と述べる。そして、この構造転換に必要なものが、道徳の専門免許だと主張する。その理由は、教員養成は免許と連動しているので、専門免許を制度的に担保しなければ、大学で道徳教育を研究する基盤が形成されないからだという。これに加えて、いじめと自殺の深刻化やインターネットの拡大など、子供たちが直面している現実はますます複雑となっている。こうした中で、子供の心に響く適切な授業を展開するためには、教師の側に高度な専門性が求められることも、貝塚氏は指摘する。そして、次のように主張する。「教科化しても何も変わらない」ではもはや済まされない。「仏作って魂入れず」と後世に揶揄されるような教科化では何の意味もない。道徳教育改革に魂を入れるのは、これからが正念場である」と。

 

●親学の振興を

 

冒頭に、私見として、親学の振興が必要だと述べた。学校での道徳教育の回復・強化は急務だが、もっと重要なことは、学校教育に先立ち、家庭で親が子供にしつけをし、子どもの心を育てることである。家庭教育は、人格形成の基礎作りとなる。基礎が出来ていないと、その上に、立派な建物を建てようとしても、柱も立たない。それゆえ、学校における道徳教育の充実以上に、親が親になる教育、親学の振興が必要である。親学を振興してこそ、学校における道徳の教科化を成功させることができる。また、親や大人が協力して行う社会教育も成果を上げることができるだろう。親学については、様々な機会に書いてきたので、下記の拙稿をご参照願いたい。ページの頭へ

 

関連掲示

・拙稿「親学を学ぼう、広めよう

・拙稿「しつけあっての教育

・拙稿「道徳の教科化と親学の振興で道徳教育の充実を

 

ber117

 

体罰は教育的な一手段

2000.4.30

 

 これは一人の親としての意見ですが、私は、家庭においてと同様、学校でもある程度の体罰は必要であると思います。

 

 現在、わが国では、学校における体罰は、法律によって禁止されています。直接規定している法規は、学校教育法第11条です。この条文では、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」とされています。

 

 しかし、体罰とは、単なる暴力ではありません。なんらかの違反に対する懲戒の手段です。肉体的な苦痛を与える、こらしめ、いましめの手段なのです。その教育的な意義を見直すべきだと思います。

 

 家庭において大抵の親は、必要なときには、子供に体罰を与えます。言って聞かせてわからないことは、肉体的な苦痛を与えてでも、分からせなければならないからです。親は子供が就学年齢になれば、学校に行かせ、子供を学校に預けています。学校においては、教師は親の代わりをしてもらっています。ですから、教師は親代わりとして、必要なときには体罰を行ってよいことにすべきだ、と私は考えます。ただし、親は自分の責任において子供を教育するのに対し、教師は実の親ではありません。他人様です。親から教育を付託されている立場です。それゆえ、力の行使には、一定の条件が必要だと思います。

 

 条件付とはいえ体罰を肯定する意見に対しては、非民主的だ、人権侵害だという反対論があるでしょう。しかし、それはあたりません。 欧米諸国には、体罰を肯定している国もあることに注目すべきです。アメリカでは半数近くの州が、体罰を肯定しています。ただし、無制限に容認するのではなく、一定の条件を与えています。

 

 体罰に対する制限条項の例としては、ミシシッピー州では、@体罰は秩序を維持するためや生徒を懲戒するために、合理的な方法で実施されること、A州法や連邦法に拠ること、B教員、補助教員、校長、副校長のいずれも行使できること、C悪意、恣意、人権無視、安全無視でないこと、Dそのために生徒が悩んだとしても、教員等は免責であること、としています。また、ペンシルバニア州では、@地方教委の政策やガイドラインに合致していること、A傷害を与えるものでないこと、Bすべての親に徹底されていること、C親が反対している場合は実施できないこと、としています。

 

 こうした例も参考にして、我が国の伝統と実情にあった形で、体罰を教育に有効に生かすべきだと、私は考えます。そのために英知を集め、法改正を行って、体罰を懲戒の一手段として認める、また同時に具体的な制限事項やガイドラインを作っていくのがよいと思います。これは、児童・生徒による教師への暴行・器物損壊などを抑え、学校を崩壊から救うことにもなると、私は考えます。ページの頭へ

 

ber117

 

音楽の力と卒業式の歌

2001.3.8

 

 教育について、まず歴史教科書の内容が問題となりました。次に道徳を教える教育が殆ど行われていないことが浮かび上がりました。国語の教科書も問題をはらんでいることが明らかになってきました。

 これに加えて注目したいのは、音楽教育にも重大な問題があることです。音楽は、主要な教科ではないため、何が教えられているかなど、あまり関心のない方が多いでしょう。

 しかし、音楽には、特に幼い子どもの情操を育てるうえで大きな力があります。学校でどんな歌を教えるかは、子どもたちに大きな影響を与えるのです。

 

●音楽教育の目的

 

 明治以降の音楽教育を振り返ると、音楽という教科は、単に音楽的な感性・教養を身につけることが目的だったのでは、ありませんでした。義務教育における音楽教育は、修身(道徳)や歴史・国語等の教科と結びついて、これらを支援する役割をもっていました。そして音楽を通じて、子どもたちに国民としての自覚を育て、日本の伝統と文化を身に付けさせるという目的があったのです。

 そうした目的のもとに創作されたのが、文部省唱歌であったのです。文部省唱歌には、国語や国土の美しさを感じることができる歌、歴史的な偉人や物語を語る歌、自然に徳性を養う歌が、多く含まれています。「故郷」「春の小川」「水師営の会見」「児島高徳」「母の歌」など、心にしみる名歌がいくつもあります。こうした歌を多く教えた戦前の音楽教育には、他の教科に優るとも劣らない教育力があっただろうと思われます。

 歌というものは、言葉と音楽が一体となっていますから、心に深く刻み込まれます。親子や、先生と生徒あるいは友達同士が、一緒に歌を歌うとき、全身で一つのリズムに共振します。そこで体験する一体感は、生命の共有感覚につながっていくと思います。また、そこで歌われる言葉は、子どもに意味はわからずとも、字句を超えた感化を与えるだろうと思います。それゆえ、学校教育でどういう歌を教えるかは、教育全体において、重要な課題だと思います。

 今の音楽の教科書には、近年流行った歌など、新しい歌が増えています。それらの歌は、若い教師や親の感覚には合うでしょう。私も好きです。しかし、昔から載っている文部省唱歌と比べるとき、学校で教えるほどの価値があるのか、私は疑問を感じます。

 

●「あおげば尊し」

 

 ところで、3月の卒業式のシーズンには、それにふさわしい歌が歌われます。その代表的なものが、「あおげば尊し」と「蛍の光」です。これらは、戦前作られた文部省唱歌です。しかし、現在、これらの歌は、歌詞の一部がカットされてしまっています。カットされた内容を見ることによって、戦後の音楽教育から欠け落ちたものを、うかがうことができます。

 今日、卒業式で、「あおげば尊し」が歌われる学校は、ごく少ないようです。戦後のわが国では、学校は、教師と生徒の魂のふれ合いの場ではなくなりました。知識や技術・資格の習得の機関にすぎなくなりつつあります。「あおげば尊し」の歌詞にある「尊い」とか「恩」という感情は、戦後教育では、ほとんど培わることがありません。

 現在、一般に歌われている「あおげば尊し」は、以下の歌詞です。

 

-----------------------------------------------

 あおげば とうとし、わが師の恩。

 教(おしえ)の庭にも、はや 幾年(いくとせ)。

 思えば いと疾(と)し、この年月(としつき)。

 今こそ 別れめ、いざさらば。

 

 朝夕 馴(なれ)にし、まなびの窓。

 螢のともし火、積む白雪。

 忘るる 間(ま)ぞなき、ゆく年月。

 今こそ 別れめ、いざさらば。

-----------------------------------------------

 

  実は、上記の1番と2番の間に、本来の2番があり、以前はその2番も歌われました。歌詞は、次のようなものです。

 

-----------------------------------------------

 互(たがい)にむつみし、日ごろの恩。

 別るる後(のち)にも、やよ 忘るな。

 身をたて 名をあげ、やよ はげめよ。

 今こそ 別れめ、いざさらば。

-----------------------------------------------

 

 この部分を含めて、歌詞全体をみると、この歌の核心は、2番にあることがわかります。2番を抜くと、単なる別れの歌となってしまいます。どうして、2番が歌われなくなったのか首を傾げます。「身を立て、世に出て、名をあげる」といった人生の目標や、その目標をめざす「刻苦勉励」の態度を、公教育から斥けようとするものでしょう。かつて、日教組が、「立身出世」はよくないといって、この歌を卒業式から排除しようとして話題になったことがあるそうです。

 

●「蛍の光」

 

 この歌は、明治14年(1881)、「小学唱歌集(初)」に「蛍」という題で掲載されたのが、唱歌としての始めといわれます。原曲は、スコットランド民謡の「久しき昔 (Auld Lang Syne)」。これに東京師範学校の教員だった稲垣千穎(かい)が詩をつけました。

 「蛍の光」にも、戦後、歌われない歌詞があります。現在は2番までですが、原詞には3番、4番があります。それは、次のような歌詞です。

 

----------------------------------------------

 筑紫(つくし)のきはみ、みちのおく、

 海山(うみやま)とほく、へだつとも、

 その真心(まごころ)は、へだてなく、

 一つに尽くせ、国のため。

 

 千島(ちしま)のおくも、沖縄(おきなは)も、

 八洲(やしま)のうちの、守りなり。

 至らん国に、勲(いさを)しく。

 務めよ わが背(せ)、つつがなく。

----------------------------------------------

 

 2番までしか知らない者は、「蛍の光」は、単なる別れの曲だとしか思いません。しかし、後半の歌詞を知ると、歌のイメージが全く変わってしまいます。

 3番、4番では、「筑紫」(九州)、「陸奥」(東北)、「千島」(北方)、「沖縄」(南方)という地名が、一連なりに歌われます。このことにより、わが国の領土が想起されます。そして、国民が旧来の藩や地域を越えて一つとなり、公に尽くそうという意識が自覚されます。また国民が自ら国を守る国防意識を高揚する歌詞ともなっています。ここには、明治日本の健やかなナショナリズム(国家意識・国民意識)がみられます。4番の出だしの歌詞は、おそらく日清戦争後に、「台湾の果ても、樺太(からふと)も」と改訂されたそうです。

 こうした歌を4番まで、卒業式という節目・門出に歌うことは、意義深いものだったろうと思います。

 

●教科書から消された唱歌

 

 卒業式で歌われる歌として、2曲挙げました。これらの歌は、歌詞の一部がカットされています。それだけでなく、戦後の教科書から消された文部省唱歌は多数あります。その一つとして、「水師営の会見」があります。

 この歌は、日露戦争の時の乃木将軍とステッセル将軍の会見を歌ったものです。歴史や修身の教科書に、乃木将軍のことが書かれ、音楽ではそれが歌として教えられたことは、大変効果的な方法だったと思います。しかし、戦後の教科書では、日露戦争の真の意義は教えられません。そして、欧米人を感動・尊敬せしめた乃木将軍の美談は、教科書から消されてしまいました。音楽の教科書からも、「水師営の会見」がなくなったのです。

 

-----------------------------------------------

 旅順(りょじゅん)開城(かいじょう)

 約成(やくな)りて

 敵の将軍 ステッセル

 乃木大将と会見の

 所はいずこ 水師営

 

 庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木

 弾丸あとも いちじるく

 くずれ残れる 民屋(みんおく)に

 今ぞ相(あい)見る 二将軍

 

 乃木大将は おごそかに、

 御()めぐみ深き 大君(おおぎみ)の

 大(おお)みことのり 伝(つと)うれば

 彼(かれ)かしこみて 謝しまつる

 

 昨日(きのう)の敵は 今日の友

 語ることばも うちとけて

 我はたたえつ かの防備

 かれは称えつ わが武勇

 

 かたち正して 言い出でぬ

 「此の方面の戦闘に

 二子(にし)を失い給(たま)いつる

 閣下の心如何にぞ」と

 

 「二人の我が子それぞれに

 死所を得たるを喜べり

 これぞ武門(ぶもん)の面目(めんぼく)」と

 大将答(こたえ)力あり

 

 両将昼食(ひるげ)共にして

 なおもつきせぬ物語

 「我に愛する良馬(りょうば)あり

 今日の記念に献ずべし」

 

 「厚意謝するに余りあり

 軍のおきてに従いて

 他日我が手に受領せば

 ながくいたわり養わん」

 

 「さらば」と握手ねんごろに

 別れて行(ゆ)くや右左(みぎひだり)

 砲音(つつおと)絶えし砲台(ほうだい)に

 ひらめき立てり 日の御旗(みはた)

-------------------------------------------------

 

●歌の力の再認識を

 

 戦後の教科書から消された文部省唱歌は多数あります。その結果、親と子、祖父母と孫が、いっしょに歌える懐かしい歌が、少なくなりつつあります。これは、親子・祖孫の心の結びつきを、弱めていると思います。

 戦後の教育は、国民の育成、日本人としての人格形成という根本目的を失いました。そのため、各教科を一つに結びつける統合力がなくなっています。音楽教育もまた、かつてもっていた教育力を失っていると言えましょう。

 しかし、冒頭に書きましたように、歌は、言葉と音楽が一体となっていますから、心に深く刻み込まれます。一緒に歌を歌うとき、一つのリズムに共振し、一体感を感じます。そこで歌われる言葉は、子どもに、字句を超えた感化を与えると思います。それゆえ、学校教育でよりよい歌を教えることは、教育全体における重要課題だと思います。

 歴史、道徳、国語だけでなく、音楽教育の重要性は、もっと認識されなければならないと思います。ページの頭へ

 

参考資料

・ごんべ007さんのサイト

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

 

ber117

 

日教組と良識ある教職員団体

2005.4.162000.4.19初掲

 

 教育を立て直すために、学校の先生方の役割が重要なことは論をまちません。

 教職員の団体としては、日教組(旧社会党系)と全教(共産党系)が知られています。これらの団体は、教師は労働者であるとし、階級闘争を使命とした政治活動を行っています。そのことが今日の教育崩壊の少なからぬ原因となっています。

 日教組への教員加入率は年々落ち込んでいるものの、いまだ3割と依然、最大組織であることに変わりはありません。ちなみに全教が1割です。一時、日教組みは文部省と和解的なムードになった時期もありましたが、平成11年の国旗国歌法の制定を境に、再び反体制色を強めています。さらに、近年はジェンダーフリー教育と過激な性教育に、異常なほどの熱を入れており、ますます世間の常識、親の願いとはかけ離れたことを行っています。

 

●日本教職員組合(日教組)の問題点

 

 戦後、「左翼=革新」は多数決では勝てないので、特にマスコミと教育に焦点を合わせて、力を入れたのでしょう。青少年に自分達の思想を吹き込めば、10年後、20年後には自然と「左翼=革新」が増え、彼らが社会で活動するようになります。その結果が、昭和40年代の学生運動だったといえましょう。そして、当時活動していた世代が、いまは社会の中枢に居て物事を決めるポストにいます。その世代、つまり団塊の世代が間もなく定年退職することは、わが国の良い変わり目になることが期待されます。

 さて私は、日教組は、この団体単独ではなく、政党・大学・学者・他団体との関係の中でとらえたほうがよいと考えます。
 第一に、政党との関係は、日教組は旧社会党の下部組織のような関係にあったことです。左翼政党が組織している労働組合の一つ、教育労働者の政治団体が、日教組だったと見たほうがわかりやすいと思います。国家公務員と違って、地方公務員は公務員法に多少、政治活動ができるような抜けがあることが、災いしています。

 第二に、大学との関係とは、教師になるには大学を出て教員免許を取らねばなりません。普通の学部出身の人もいるが、やはり教育学部出身の先生が多い。藤岡信勝氏の話では、教育学部はマルクス主義の学者に占められているそうです。今も冷戦時代と変わらないそうです。これから教師をめざす学生に、大学で左翼思想を教育しておけば、自然と日教組の活動家に育ちます。大学が日教組予備軍の育成場所となっていたわけです。

 第三に、学者との関係とは、現場の教師に対して、教育理論や教科書・指導書を提供する学者がいるといます。我が国は、学問の自由が保障されていますから、学者は研究・教育を自由に出来ます。日教組の後ろでは、組合教師に理論や知識を送り込む左翼学者が活動しているということです。また、その学者達は左翼政党のブレーンともなっているという構図でしょう。

 第四に、他団体との関係において、私が重要だと思うのは、部落解放同盟と韓国民団です。日教組は、これらの団体と深い関係があるのでしょう。教育者は、差別・加害の論理に心情的に弱いですから。部落解放運動や在日韓国人の政治活動が、教職員の活動また教育の内容に、年々影響を強めていると私は感じています。

全教は、日教組から分かれた団体で、共産党の参加組織です。これに対し、日教組は現在、民主党の傘下団体です。民主党が勢力を得れば、日教組の偏向教育も生き延びることになります。
 

 さて、こうした左翼系の政治団体・思想団体と化した教職員組合以外に、あまり知られてはいませんが、良識ある教職員団体もあるのです。それらの団体は、教育者・公務員としての自覚を持ち、政治的な中立を守り、日本の伝統を尊重する教職員の団体です。

 

●全日本教職員連盟(全日教連)

 

 この団体のホームページには、「日の丸」が揚がっています。そして、「われわれは、教育専門職としての使命を自覚し、中正不偏の教育実践を通して、美しい日本人の心を育てる教職員団体です」という言葉が掲げられています。この「美しい日本人の心を育てる」という理念が、全日教連の特徴を表わしています。

 昭和59年に教育正常化を目指して結成され、既に参加している単位団体は、1都2府23県に広がっており、栃木県のように県下最大の団体となっている所もあります。そのほか、山口県、徳島県、愛媛県、香川県などでは、有力団体となっているようです。

 東京都国立市の前教育長、石井昌浩・拓殖大学客員教授や、日本教育文化研究所長の金井肇氏(前大妻女子大教授)らが、賛同しています。

しかし、残念ながら長年、東京をはじめ、大阪・横浜・名古屋等の大都市部ではまだほとんど存在感がありませんでした。大都市部で良識ある教職員を結集していくことが必要でしょう。まず東京から、そして全国へという展開が期待されます。

http://www.ntfj.net/

 

  全日教連が東京で本格的な旗揚げをしました。

 以下の拙稿をご参照下さい。

 「東京から日本の教育を変える

 

●福岡教育連盟(FENET)

 

昭和47年、日教組が支配していた福岡県で、志ある教師が立ち上がり、新たな団体を結成。今や県内7千人の高校教師のうち、2千人が加入、日教組系を上回るまでになっているといいます。関係者の話を聴くと、この間、反対派の脅迫・妨害・いやがらせに立ち向かい、教育の再建に努めてきた話には、感動を禁じ得ません。こうして教育の建て直しが行われた福岡では、町にコギャルのような女子高校生がいないのだそうです。

福岡教育連盟は、「自らの命を育んでくれた母なる国、日本に誇りを持つことのできる心」「日本の伝統と文化、父母の教えに学ぼうとする謙虚な心」「自然を大切にし、郷土を愛し、父母を敬う深い感謝の心」「そして、国際化に対応するための高い情報のアンテナ」「国際社会にも通用する紳士・淑女としてのマナー(礼節)」「世界を活躍の舞台として、堂々として怯むことのない志」、そんな活力あふれる日本人としての教育を公教育の場でこそ必ず実現したいと考えています。そして、そのために、教育者の「師」としてのあり方に、真剣に取り組んでいるようです。

http://www.fenet.or.jp/

 

●師範塾

 

 師範塾は教職員団体ではなく、福岡教育連盟の代表だった木村貴志氏が創始した特定非営利活動法人です。木村氏が理事長、明星大学教授の高橋史朗氏らが副理事長を務めています。高橋氏は元臨教審専門委員、埼玉県教育委員でもあります。

師範塾は「教師の復権」「親の復権」を独自の研修プログラムで実現させ、「教育の復権」を実現させることを目的としています

趣旨説明によると、「教育者」に必要なものは「師範力」である。「師範力」とは、師として、範を示すことのできる人間力、豊かな人間性と高い見識で教え導く力のことである。教師はもとより、あらゆる人を対象に、より良質の情報や体験を、効果的・効率的に共有させることによって、「師範力」のある「教育者」を育成することを目指しているといいます。

 注目すべきは、親向けに「親学プログラム」があることです。「子供は親の背中を見て育つ」と言いますが、青少年・子供たちの問題は、突き詰めると親の問題に行き当たります。親が変らなければ、子供は変りません。「親学」こそ、今日、最も求められているものではないでしょうか。師範塾では経験豊かな専門スタッフによって、「楽しく子育てについて学び合うことができる新しいスタイルのセミナー」を開いているとのことです。

http://www.shihanjuku.com/

 

これらの全日教連・福岡教育連盟・師範塾は別組織ですが、友誼団体として交流を図っているそうです。

 こうした心ある教育者の方々の血のにじむような努力に感謝するとともに、今後の活躍に大いに期待したいと思います。ページの頭へ

 

ber117

 

■東京から日本の教育を変える

2006.3.1

 

日教組・全教に代わる第3の教職員団体がある。その名を全日本教職員連盟、略して全日教連という。私は教育問題に関心を持つ中で、7〜8年前にその存在を知った。

 

全日教連は、昭和59年に教育正常化を目指して結成された。参加単位団体は、1都2府23県に広がっており、栃木県では県下最大の団体であり、山口県、徳島県、愛媛県、香川県などでも有力団体となっている。しかし、東京をはじめ、大阪・横浜・名古屋等の大都市部ではほとんど存在感がない。いわば良識派の弱小教職員団体の連合組織である。


 全日教連は「美しい日本人の心を育てる」という理念を掲げている。政治的イデオロギー的には中立不偏の態度を保ち、教育専門職として、教育現場の問題に誠実に取り組もうという姿勢がうかがわれる。私は、日本の教育を変えるには、やはり現場の教育者の人たちに、日本人としての自覚を持って頑張っていただかなければならないと思う。そこで、全日教連に期待を寄せてきたのである。


 その全日教連が平成18年2月11日、東京で本格的な旗揚げを行った。傘下団体となる東京都教育研究連盟(都教連)の設立記念大会が行われたのである。「東京から日本の教育を変える」がその志だ。

私は、旗揚げの準備に尽力されてきた石井昌浩氏のご案内で、大会に参加してきた。石井氏は、東京都国立市の前教育長で、全国に名高い国立市の教育の惨状を訴えた「学校が泣いている」(産経新聞社)で知られる。現在は拓殖大学客員教授をされている。

 

会場の日本財団ビルには、約200人が集結した。都教連の加盟者は約500人になるという。東京都では、全教が1万人、日教組が2千人というから、旗揚げとしては幸先の良い人数である。

会長には、都立日比谷高校の校長が就任し、副会長・理事には、東京の小・中学校等の現役の校長が名を連ねている。


 自民党・公明党の衆議院議員らが来賓として、お祝いと期待の言葉を述べた。都の副知事と教育長が来る予定だったが、代わりを石原都知事に頼まれたと、首都大学の西沢潤一学長が挨拶した。

祝電の披露にて、石原都知事からの長くメッセージが読み上げられた。知事は「教育現場から子供不在のイデオロギー対立を解消して、教育荒廃を克服し、東京の教育を変革・再生することを目的として結成される貴連盟には大いに期待しております」と祝辞を寄せた。「心の東京革命」にかける知事の思いは熱い。

大会宣言の採択では、「東京発 信頼と誇りある教育の復活」というスローガンを掲げ、具体的な方針が発表された。

その後、基調講演では、永世棋聖・米長邦雄氏が「次の一手」と題して、教育論を展開した。氏は、石原都政のもと、教育委員をして6年になる。「このまま行くと日本という国はなくなってしまう。日本が沈んでいるのは、経済だけではない。魂が沈んでいるのだ」と訴えた。

氏は、ジェンダーフリーや過激な性教育を批判し、扶桑社の歴史教科書の登場以後、他社の教科書から「従軍慰安婦」などの記述がなくなって内容が好転していることを述べた。そして、子供が教師を尊敬するような教育を復活しようと呼びかけた。

講演に対する謝辞では、都教連副会長が「魂を呼び起こす教育に取り組んでゆきたい」と力強く応えた。

 

大会の模様は、東京新聞等で報道された。

いよいよ首都東京で旗揚げした全日教連。教育を変えなければ日本はだめになる、東京から日本の教育を変えようというその活動に大いに期待したいと思う。ページの頭へ


参考資料

・全日教連のサイト

http://www.ntfj.net/

 

ber117

 

続発する凶悪少年犯罪にどうする?

2000.6.12

 

17歳の事件など、凶悪な少年犯罪が続発しています。今、多くの少年たちの心は病んでいます。その背景には、家庭や教育・社会の問題があります。事態の改善のために、できることはいろいろあると思います。私は次の3点を挙げたいと思います。

 

●心を変えること

 

 この事態は、心の病ですから、解決のためには、人々の心が変わらなければなりません。人の心を変え、心の成長や向上をもたらす最大のものは、人格的な感化や精神的な啓発でしょう。優れた教育者や指導者は、人の心を変える力を放射しています。

 とはいえなかなか、そうした人格と出会い、直に接することは難しいのが実際かもしれません。その代わりに、倫理道徳や宗教など、精神的なものを学ぶという道があります。

 精神的なものを学習すると、心の支えが得られ、自分を養う糧となります。また、自分が少しでも向上すれば相手に良い影響を与えられるようになります。家庭においては、夫婦が共に精神的なものを学び、努力すれば、円満な関係が得られるでしょう。子供に対しては、親が年齢に応じて噛み砕いて、教えてゆけばよいでしょう。

 

●教育を変えること

 

 教育とは本来、人格の陶冶を目的としています。人格形成が根本です。そえゆえ、教育においては、青少年に道徳や生き方を教えることが不可欠です。ところが戦後の教育は、人が生きるうえで一番大切なことを教えていません。

 このことを渡部昇一氏は、次のように言っています。「戦後日本の教育は、@何のために人として生まれてきたか、どう生きるのが正しいか、A死ねばどうなるか、B人間として、してはいけないことはなにか、を教えなかった」(『日本新生』PHP研究所)

 逆に言えば、こういうことを教育で教えるならば、日本の青少年は変わると思います。その教育の中で、命の大切さや、子供を生み育てる役割や喜びを教え、家族愛や宗教心を育ててゆくとよいと思います。

 

●メディアを変えること

 

 人間は多く見聞きするものの影響を受けます。テレビ・ビデオ・ゲーム等で、強烈な刺激を受けると、それが深層意識に刷り込まれて、同じことをしてみたくなる。

 たとえば、殺人などということは、普通の生活をしていれば、実際に見聞きすることは滅多にないものです。ところがテレビ・ビデオ・ゲーム等で、日常的に殺人シーンを繰り返し見ている少年は、自分でやってみたくなる。その他の犯罪や不倫でも同様でしょう。精神の弱い人は、衝動を抑えることができなくなるのでしょう。

 有害な情報から各家庭で自己防衛することはもちろんですが、社会的に、メディアから有害な内容をなくしてゆく取り組みが必要です。指導層が現状を改めようと思えば、法律や条例をつくって規制を加えることができるし、有害情報から少年を保護する技術を開発・普及することもできるでしょう。

ページの頭へ

 

ber117

 

少年に贈る言葉

2000.6.14

 

人は神の子である。

しかし、人は神に近づくこともできれば、

鬼になることもできる。

 

誰もが、神の子として、神性を持っている。

その一方で、恐ろしい魔性も持っている。

 

君の心にもそれはある。

君もまた神の子であり、また鬼にもなりうる

一人の人間だ。

 

この世の中は、

善いことを行なえば、善い結果が返ってくる。

悪いことを行なえば、悪い結果が返ってくる。

すべて自分の行なった結果が、自分に返ってくる。

それが宇宙の法則だ。

 

何が善で、何が悪か。

人を助け、人を救う心は善である。

人をいじめ、人を殺す心は悪である。

善の心に従えば、人は他人から好かれ、愛される。

悪の心に従えば、人は他人から嫌われ、恨まれる。

 

人を助け、人を救う心は、神に通じる。

人をいじめ、人を殺す心は、鬼に変じる。

 

心の中には、闇があり、光がある。

光の方へ向えば、君は人を助け、

人を救う人間になれる。

闇の方へ向えば、君は人をいじめ、

人を殺す人間にもなりかねない。

そういう人間というものを、どう生きていくか。

それは自分が考えなければならない。

それが人間だ。

そういう人間の一人が、君なのだ。

 

君よ、君の心の光へ向え。

光をもって、心の闇に克ち、

神の子としての人生を生きよ。

神の国は、君の心の中にあることを知れ。

 

ページの頭へ

 

ber117

 

成人式騒動に思う

2001.1.13

 

 教育の目的とは、人格形成であり、その国と社会を担う次世代の国民を育てることです。それゆえ、教育の結果は、その国の新成人の姿となって現れます。

 そこでわが国の成人式騒動について。

 

 近年、全国各地で行われる成人式において、参加者のマナーの悪さが問題になっていますが、今年(平成13年)は一段と深刻化しました。テレビのニュースでも放送されましたので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。

 

 報道によると、埼玉県深谷市では、市長が、会場を走り回ったり携帯電話で話すなど騒がしい新成人に業を煮やし、激怒。用意した式辞を読むのをやめ、「三十分の静寂も守れないのか。ルールを守れない人間が成人といえるのか。あえておめでとうと言わない」と、式辞を書いた紙を壇上から投げ捨てて怒りを表しました。

 高知県高知市では、橋本大二郎知事が祝辞を述べている最中に、二階席に座った十人ほどのグループが「大二郎、うるさい」「帰れ、帰れ」などと大声でやじり始めました。橋本知事は祝辞を中断し「静かにしろ」と一喝。「出るようにしてください」と言い、さらに新成人がやじったため、「出てけ」と怒鳴りつけました。知事は「みなさんはどう思いますか。恥ずかしいと思うでしょう」と会場に問いかけると、一階席では拍手をする新成人もみられました。

 香川県高松市では、10数人が、会場内に日本酒を持ち込んで飲酒。市長が新成人への励ましの言葉を述べている途中、ステージに駆け寄って至近距離からクラッカーを鳴らしました。市はこの成人らを刑事告訴する方針です。おまけに彼らは、式の様子を取材していた新聞記者に暴行を加えるという傷害事件まで起こしています。

 一昨年、仙台市の成人式で、吉村作治教授が、参加者の態度の悪さに怒って退席したことが話題になりました。今年は、それ以上の騒動が起こったわけです。

 

 21世紀を迎えた本年、新成人となった日本国民は、全国で157万人。戦後二番目の少なさということで、少子高齢化の進むわが国では貴重な青年たちです。成人式で騒いだり傷害事件を起こすような若者はごく一部でしょうが、新成人は全体にマナーが悪く、社会の規範が身についていないという傾向が指摘されています。

 成人つまり大人の仲間入りをした以上、自分の行動には責任が伴います。一社会人として、反省と自覚が求められます。

 しかし、より大きくとらえると、この背景には、戦後社会の歪みが明瞭に現れているのです。戦後わが国では、家庭で、しつけや社会の規範がきちんと教えられてきませんでした。学校では、人格形成・国民育成という教育の根本目的が見失われ、心を育てる教育がされてきませんでした。それは、敗戦と占領政策によって、歴史・伝統・国柄が否定され、道徳教育が欠如しているからです。家庭や学校で、「他人に迷惑をかけない」「嫌なことも我慢する」「自分を律する」といった基本的なルールや心構えが、きちんと教えられていないのです。

 その結果、小中学校では、児童・生徒が騒ぎ、授業が成立しない「学級崩壊」が深刻な問題となっています。大学の講義では私語がまん延しています。学力も低下が目立ってきています。今年の成人式の騒動も、そうした教育荒廃の延長線上にあると言えましょう。

 

 事態はもはや猶予を許しません。これから成人となる青少年は、年々悪化していく一方であることが予想されるからです。当然、その世代が親になれば、もっと凄い子どもたちが出てくるでしょう。日本を崩壊から守るには、国民一人一人の真剣な取り組みが求められます。そして、国民道徳を再建し、道徳教育を復活しなければなりません。そのためには、憲法と教育基本法の改正の必要性を、より多くの人々に認識・理解していただかねばならないと思います。ページの頭へ

 

ber117

 

成人式の起源と意義

2001.1.15

 

 平成10年の祝日法改正で、「成人の日」は1月の第2月曜日となりました。成人式のもつ伝統を無視し、ただ連休を増やす。その安易な発想が、成人式の意義を軽くしていると思います。

 

 祝日法には、「成人の日」を「おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」と定められています。

 成人になると、選挙権や婚姻の自由などさまざまな権利が与えられ、その権利の行使には責任を伴います。それと同時にさまざまな義務を担う立場となります。

 成人の祝いのために祝日をもうけているのは、わが国の伝統を踏まえたものです。日付も、以前は1月15日と定められていました。その日の起源について、「国際派日本人養成講座」(JOG)より引用します。

 

JOG(29) 国柄探訪:深い泉の国

 「数え歳では、元日に家族揃って、一緒に年齢を加えるわけだが、男子は15歳頃、女子は13歳頃になると、祖霊とともに、成人となるのを祝う。ただ、旧暦の元日は新月で闇なので、望月(満月)の15日に元服式を行った。これが「成人の日」の起源である。現在でも全国各地で成人式が行われるのは、この元服式の継承である」

 

 人は人生を生きるにおいて、誕生、入学、卒業、成人、結婚、死などの節目を通過します。

 人生の節目において、伝統的な社会では、儀礼を行い、象徴を用いて、深い意味体験をさせています。こうした人生儀礼の一つが成年儀礼です。興味深いのは、各地の成年儀礼において、それまでの幼い自分が死に、新しい自分となって再生するというパターンが見られることです。これは宗教学者エリアーデによって、「死と再生のシンボリズム」と名づけられた象徴行為の一種です。

 試練のなかで、幼い自分は死に、新しい自分に生まれ変わる。幼い自分と訣別し、大人の自分に成長・変容しなければならないのです。そういう魂の実存的な体験が、成年儀礼には含まれていると思われます。

 

 わが国の古代においては、どのような成年儀礼が行われてきたのでしょうか。文献や各地の習俗を通して想像するしかありませんが、平安時代の公家や、中世・近世の武家で行われた元服・成人式について書かれたものを見ると、幼少年から大人への変容を象徴し、大人として公認する象徴を見ることができます。

 その象徴とは、成人となった証として、衣装を変える、髪型を変えたり、冠を付けるなどがあります。目に見える形で表しています。さらに、幼名を捨て、新名を付けることも行われています。これは名前の変化によって、死と再生が行われたことを象徴していると解釈されます。

 

 マックス・ウェーバーは、近代化とは生活全般の合理化のことであるとし、西欧における合理化は「呪術からの解放」によって始まったとしています。それは、伝統的な文化・習俗がもっていた、儀礼や象徴を否定・追放する過程でした。

 戦後のわが国では、西欧と違い、敗戦による外力の強制によって伝統文化が破壊されました。そして、急速に合理化が進められました。

 その中で、伝統的な人生儀礼や象徴体系が失われつつあります。人生に節目を設け、人の魂を守り、成長を促す知恵が、忘れられつつあるのです。そのことが、人の魂にどのような結果をもたらすのか、日本人はまだその本当の意味を知らないのです。ユング派の心理学者たちは、警鐘を打ち鳴らしています。

 

 自立できない若者、大人になりきれない若者、幼児的な趣向に固執する若者が増えています。極めつけは、自分の生んだ子どもを育てられず、虐待や殺害をする大人が増えている惨事です。私には、魂の未発達と、未発達のままの退行と思えます。

 

 今回の成人式騒動の背後には、こうした戦後日本における伝統の喪失と、精神文化の劣化があると思います。法や制度の改悪は、国民の道徳の低下に伴ったものでしょう。自国の伝統を思い起こし、先祖・先人の伝えてきた精神文化の深さに学ぶことが必要だと思います。ページの頭へ

 

ber117

 

大人は「国民」、子どもは「少国民」

2001.1.17

 

 現代のわが国では、成人となっても子どもの延長のような状態が許されてしまっています。そのため、子どものままのような大人、大人になりきれない「子ども大人」が増えています。

 今年(平成13年)各地で問題を起こした新成人は、そのニューフェイスでしょう。とんだデビューでしたが。

 

 私は、大人とはまず参政権をもつ国民である、子どもとは小さい国民、「少国民」である、と考えることを提案します。

 

 今日の日本では、成人となると、選挙権が与えられたり、自分の意志で結婚することが認められます。酒・タバコ・車の免許などがみな許可されます。その一方、税金を払わなければならなくなったり、民法・刑法上の責任能力が重くなり、自分の行動に責任をとらねばならない立場となります。

 これらのうちで、一番重要なものは、なんでしょう。やはり選挙権です。より正確にいうと参政権です。参政権とは、国家社会の物事の決定に加わることが出来る国民の権利です。主権を構成する権利です。つまり、成人となるとは、主権の一部を共有する国民となったということです。その意識・自覚をもつことが、大人社会の仲間入りで、今日最も重要なことです。

 

 大人とは、ただ年を取った人ではない。一人の国民として、参政権をもつ人です。それは同時に、憲法に定められた権利と義務を担う国民であるということです。こう考えると、子どもとは、まだそれを持たないが、これからそれを担うべき国民だということになります。「小さい国民」とは、このことを意味します。

 

 私は、このように国民という概念を明確化することなくして、新成人問題は、好転できないだろうと考えます。この点で、外国人参政権付与の問題と成人式騒動は、国民という意識のあいまいさが共通の原因にあると思います。

 

 戦後のわが国では、国民としての意識、いいかえると国民としての大人という意識が薄れてきています。国政への参加意識が低下し、政治や税金に無関心となれば、大人が大人らしくなくなるのは当然です。この点で重要なのが、国防に関する問題です。世界の多くの国では、国民に国防の義務があります。成年ないし一定の年齢になると、国を守る義務を担います。

 ところが、戦後のわが国には、国防の義務がない。そして国防の意識が大きく低下しています。しかし、国防とは、大人が子どもを外敵の侵入から保護することでもあるのです。それを自らせずに、他人に保護してもらっている。他国に依存している。これは、大人が大人の役割を果たしていないことです。そういう点で、戦後のわが国は、大人が大人になりきれない国となっているのです。

 このことは、子どもの教育にも、大きな影響を与えているでしょう。そして10台後半から20歳前後の青年教育においては、おそらく決定的な影響を与えているでしょう。

 

 成人式騒動を通じて、私は、わが国の大人は、自分が国民の一員であるという意識を取り戻す必要があると感じます。また、子どもは「小さな国民」とし、将来、国を担う一員として教育していくことを提案します。これは、いいかえると、国民という概念を明確にした道徳教育を行おうという提案であります。

ページの頭へ

 

ber117

 

ICO_170

 

トップ日本の心Blog基調自己紹介おすすめリンク集メール