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オ ピ ニ オ ン  家族・教育

                       

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ber117

 

家族の危機を救え!

2003.7.17初掲

 

 <目次>

第1章 家族とは何か

第2章 危機にある日本の家族

第3章 家族を解体しようとする動き

第4章 危機の根本にある憲法と民法

第5章 もともとの日本の家族とは

第6章 忘れられた心の道標〜教育勅語

第7章 家族的道徳をよみがえらせよう

第8章 家族の調和から人類共同体へ

 

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第1章 家族とは何か

                                                        

家族とは何だろう。家族はどうあるべきだろう。家族にはどういう役割があるのだろう。

現代のわが国では、個人の自由が最高の価値とされる。個人とは、独立した身体と固有の名前を持つ一人の人間である。現行憲法は、個人国家社会構成する基本単位とし、個人の権利を保障している。確かに個人の自由は価値あるものである。また、個人の権利は尊重されなければならい。

しかし、人間は、単に一人ひとりが個人であるというだけでなく、集団で生活を営む社会的動物である。つまり、人間には、個人性と社会性という両面がある。人間は、個人的存在であると同時に、社会的存在でもある。個人性の面を重視すれば個人主義、社会性の面を重視すれば集団主義となる。個人性にばかり傾くと、自己中心で利己的な考え方が蔓延する。社会性にばかり傾くと、統制が強調され、個人の自由が軽視される。

実は個人と社会の中間には、家族という特別の集団がある。家族を抜きにして、個人主義か集団主義かを論じても抽象論に陥る。また個人性に重点をおけば、社会の単位は個人であろうが、社会性に重点をおけば、社会の単位をなすものは、家族であるといえる。

 

(1)家族は個人の存在の根拠である

 

家族は、最小規模の社会である。家族という社会は、単なる個人の寄り集まりではない。家族は生命のつながりを基礎とした社会である。親子・夫婦を中心とし、それに兄弟・祖父母等が加わって構成される社会が家族である。そして、個人とはみな、それぞれの家族の中で、父・母・夫・妻・子・孫などといった立場や役割をもつ人間である。そして、個人とは家族とともに生命を共有し、人生の時間を共有している人間である。

欧米では個人主義の傾向があり、親子・夫婦・兄弟・祖孫などの区別なく、抽象的な個人を要素として、社会の構成を考える。これに対し、東アジアでは集団主義の傾向があり、親子・夫婦・兄弟・祖孫等の具体的な家族関係の中で、人間を考える。

そもそも個人がこの世に存在するのは、すでに集団が存在していたからである。そして、その集団の中に、一人ひとりの個人が生まれてきた。その集団とは家族である。

人には、誰にも家族がある。自分がこの世に存在しているのは、親がいて自分が生まれたのである。人は、それぞれ父と母という親を通じて生まれてくる。そして親なり親の役割をする者によって、育てられる。個人とは、誰もが生み育てられてきた存在である。そして、家族の中で家族の一員として生み育てられたことによって、個人は社会の一員として存在する。家族が個人の存在の根拠なのである。

 

(2)家族とは生命の維持・継承の場所である

 

人間は生き物である。人間は種として存続するために、生殖が不可欠である。その行為の継承なくして、人間社会は成り立たない。単に個人が寄り集まっているだけの集団は、生物社会としての生きた人間社会とはいえない。生命ということを根本において考えないと、抽象的で非現実的な思考となる。

人間は男女が結びつき、子供が生まれ、家族を形成することによって、はじめて社会が形成される。そして、家族がともに生活する場所、それが家庭である。家庭は、なにより生命活動の場所であり、生命継承の場である。人がそこで生まれ、育ち、死ぬところである。人は生も死も、家族とのかかわりの中にある。家族とのかかわりの中で生まれ、死ぬ。それが人間である。それゆえ、家族は生命の結びつきを基盤とした、人間としての最も基本的な結びつきなのである。

個人は子供から大人へと成長する。そして大人の男女として異性と結びつけば、そこに子供が生まれる。そして、今度は自分が親として子供を養育する番になる。親から子へ、子から孫へと、人間は生命を受け継ぎ、受け渡していく。家族はこうして前の世代や後の世代、つまり祖先や子孫につながっている。家族とは世代間のつながりを持つ社会である。

つまり、家族とは、生命の維持・継承の場所であり、生命活動の基本単位となる社会なのである。

 

(3)家族の成立が、人類に繁栄と発達をもたらした

 

 人類は、他の動物に比べ、脳が大変よく発達している。しかし、他の類人猿に比べると、人間の子供は非常に未熟な状態で生まれる。生まれたばかりの時は、ほとんど何も自分ではできない。そして、誕生後に数年もかかって成熟する。これを、ネオテニー(幼形成熟)という。

子供を育てるため、母親は出産後、数年にわたって子供にかかりきりとなる。こうした母子に対し、食糧を与えたり、外敵から守ったりする仕組みが必要となる。それがなければ、人類は存続できない。その弱い母子を守り支える者が、父親である。父親が母子とともに生活し、守り、面倒を見るという仕組みによって、人類は生存と繁栄が可能になった。また、脳の発達した子供を未熟なうちに産んで、安全に育てながら、さらに能力を発達させることが可能になった。この仕組みを実現した集団を、家族という。父・母・子からなる家族が成立したことによって、人類は生存と繁栄が可能になり、家族が寄り集まって集団生活を行うという独特の社会を形成したことが、人類に大きな利点をもたらし、文明の発達を可能にしたのである。

それゆえ、父・母・子で構成される家族が成立したときに、人類は誕生したといえる。家族あっての人類である。家族がなければ、人類は存在することすらできなくなるのである。(1)

 

(4)家族は愛情による人間形成の場所である

 

家族は、生命的な関係である血縁を基にし、愛情でつながる集団である。親子・夫婦・兄弟などを結びつけているのは、生命のつながりに基づく人間的な愛情である。各種のアンケートによると、あなたにとって一番大切なものは、と聞かれて、家族と答える人が最も多い。家族とは、かけがえのない価値をもったものである。

父・母・子を要素とする家族における愛情が、人類の知能を発達させ、文化を豊かなものにしてきた。家族において、子供を産むのは、女性のみの役割である。また、生後、数ヶ月の間、母乳を与えて哺育するのも、女性の役割である。人類は、ネオテニー(幼形成熟)のため、アドレッサンス(成体となるまでの期間)が非常に長い。この間の子育ては、主に母親が行う。母性愛こそ、子供を産み育て、人間を形成する根本的な原動力である。それと同時に、父性には子供に社会性やルールを教え、また性差の発達を促すなどの役割がある。子供に、しつけをするには、単に私的な愛情だけでなく、公共的な規範意識が必要である。

父母がそれぞれの特徴を発揮し、担うべき役割を担い、協力するところに、子供が健全に育つ。父親と母親の深い愛情に裏付けられた、厳しさとやさしさが、子供に豊かな心を育てる。さらに、これを取り巻く兄弟や祖父母と孫などの間の愛情ある家族関係が、人間形成を促すのである。(2)

 

(5)家族は自己実現の場所である

 

人間は、親から生まれ、家族の中で成長する。生活共同体の一員として生まれ、成長し、活動する。子供は、父母の愛情によって人間形成をし、家族的共同体で積んだ経験をもとにして、社会的共同体(親族、地域、企業、民族、国家、宗教など)に参画する。そして、自己の属する共同体の中で何かの役割を担当することによって、自己の存在の意義を見出し、自己の人格を成長・向上させる。家族は子供の人間形成の場所であるだけでなく、家族それぞれにとっての自己実現の場所でもある。

さまざまな共同体のうち、家族ほどサイナジックな共同体はない。サイナジックとは、心理学者A・マズローが使った言葉で、相互扶助的・相互実現的を意味する。家族は高いサイナジー(相助性)をもつ社会であり、親と子、夫と妻、兄弟と姉妹、祖父母と孫等が、各自の立場にありながら、互いに成長し、向上するように、共同生活をしている。夫は妻と夫婦生活をすることによって、男として成長していく。妻もまた夫と夫婦生活をすることによって、女として成長していく。親は子供を育てることを通じて、親として成長していく。両親は、父として、また母としてそれぞれ成長していく。兄弟姉妹も同様である。祖父母は、孫の養育を補佐しながら、人生最後期にある晩年の自己を、さらに成長させていく。それゆえ、家族は家族それぞれにとっての自己実現の場所であり、相互に自己実現を促し合う場所なのである。(3)

ところが、一部に、家族とは個人を抑圧するものであり、家族からの解放なくして個人の自由は実現できないという考えの人がいる。そういう人々は、結婚や出産・育児・介護等を、個人への束縛とみなす。これは、人間のもつ個人性という一面にばかり重点を置いて、もう一方にある社会性を軽視した考え方である。社会性の軽視は、家族の軽視となり、生物としての人間のもつ生命を軽視した考え方となる。また、それは、一人ひとりの自己実現を妨げる結果となる。

 

(6)家族は文化・伝統の継承の場所である

 

家族とは、最小規模の社会であり、家族関係は社会における最も基礎的な人間関係である。また、家族とは国家や社会を構成し、それを支える、最も重要な共同体でもある。

家庭は、子供を育て、子供の人格を形成する場所である。そして、それを通じて次世代に文化・伝統を継承する場所でもある。文化・伝統とは、その家族のもつ文化・伝統のことであると同時に、その民族のもつ文化・伝統のことでもある。民族の心を受け渡し、豊かな文化を創造するためにかけがえのないものが、家族である。単なる生命的共同体ではなく、文化の継承の場、文化の創造の場として、家族を考えなければならない。こうした観点から見ると、家族とは単に私的なものではなく、公的な役割を持ったものといえる。親には、子供を単に自分の子供という私的な関心からだけでなく、社会全体の子供として、公的な自覚を持って出産・養育し、次世代に文化を継承・発展していく役割がある。またそれゆえに、家族は生命と文化を継承する場所として、国家によって保護されなくてはならないのである。

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(1)家族についての人類学的考察は、以下の拙稿をご参照下さい。

家族があるから、人類である

(2)子育てについての父母の役割については、以下の拙稿をご参照下さい。

母性愛は人間形成の根本」「父性が性差的成長を促進する

(3)自己実現については以下の拙稿をご参照下さい。

人間には自己実現・自己超越の欲求がある

 

2章 危機にある日本の家族

 

第1章で見てきたように、家族には大切な価値がある。私たち日本人は古来、こうした家族を大切に考えて生きて来た。親は子を愛情を持って育て、子は親を大切にしてきた。夫婦は互いに助け合い、一体となって円満な家庭を作るように努めてきた。そして、子孫の繁栄を願い、祖先を敬ってきた。また、家族の寄り集まりとして、国家というものを理解してきた。国家とは、一大家族のようなものだとも考えてきた。それが、日本人の特徴であり、わが国の国柄であった。

しかし、戦後、日本の家族は大きく変わってきた。夫婦・子供・祖父母・孫などが一緒に住む大家族から、夫婦と子供だけの核家族が多くなった。また、夫婦共働きや、遠隔地への単身赴任による別居、老人の一人暮らしなどが増えている。社会全体で個人の意識が強くなるにつれ、家族の紐帯が弱くなってきている。親子や夫婦、祖父母と孫、祖先と子孫などの心のつながりが薄くなってきている。そうしたなかで、今日では家族に崩壊の危機が訪れており、多くの問題が表れている。そのうち主なものを挙げてみよう。

 

(1)家族の孤族化

 

家という建物があり、そこに住んでいる人間はいる。しかし、その間に、家族といえるような心のつながりがない家が増えている。同居してはいても、家族が食事を一緒に取るという昔ながらの慣習がすたれ、一家だんらんの時間が少ない家が増えている。そうした家では、子供が一人で食事をすることが多い。これを「孤食」という。食の乱れが子供の心に影響することが懸念されている。

こうした傾向の中で、さらに最近増えているのは、家族がそれぞれ寝る時間も起きる時間も食事の時間もばらばらで、お互いが何をしているかも分からないという家である。同じ家に寝泊りはしているが、お互いが別々の生活をしている。それをたとえて、「ホテル家族」という。こうした家族では、家族の心の通い合いというものがなく空洞化してしまっている。「ホテル」とまでは行かなくとも、それに近い家が増えつつある。

社会全般に個人の意識が強くなっている今日、家族の中においても個人の意識が強くなっている。家族のつながりよりも、個人の自由を上位に置く。一見、進歩的なようであって、家族の一人ひとりが心に孤独を抱えるようになっている。心理学者や精神病医は、いまや日本の家族は「家族(かぞく)」ではなく、「個族(こぞく)」または「孤族(こぞく)」になりつつあるという。

 

(2)離婚の増加

 

家族は、男女の結合によって形成される。その男女つまり夫婦の間の愛情が薄れてきている。それを象徴的に示すのが、離婚の増加である。

近代化とともに個人主義を謳歌してきた欧米諸国では、家庭の崩壊が進み、深刻な社会問題となっている。1970年代に、個人主義やフェミニズムが横行したアメリカでは、現在離婚率が50%に達している。わが国も今や5組に1組が離婚するようになっている。離婚率つまり人口千人当たりの離婚件数は、昭和38年(1963)には0.73組だったが、25年後の平成10年(1998)には1.94組に増え、フランスの1.90組を抜いた。平成11年(1999)には2.00組と初めて2の大台に乗った。さらに平成14年(2002)には2.31組となって、最多記録を更新し続け、西欧の先進国と肩を並べる状態になっている。

新婚旅行で海外に行ってきた二人が成田空港で離婚するのを、「成田離婚」というが、若い人だけではない。同居はしているが実質的には離婚に近い「家庭内離婚」、結婚生活20年以上の熟年の夫婦による「熟年離婚」、夫の定年を機とする「シルバー離婚」などが増えている。夫婦の間の愛情が薄くなれば、当然、家族全体の間の愛情も薄くなる。とりわけ離婚は、子供が不幸になることが多い。複雑な事情のある家庭の子供は、非行や犯罪に走りやすい。

 

(3)児童虐待や家族間殺人の多発

 

家族間の愛情が希薄になったため、社会が殺伐として来ている。厚生労働省は、平成12年度(2000)に発生した児童虐待件数は3万5千件と推定している。そのうち児童相談所が把握できたのはほぼ半数にとどまるという。虐待の結果、児童を死に至らしめる悲惨なケースが増えている。この年、無理心中など虐待類似行為を含めた児童死亡件数は106件にのぼった。平成10年度には41件だったので、2年で倍増以上となっている。

親が子を、子が親を殺す事件が多発している。夫が妻を、妻が夫を殺害する事件も同様である。保険金目当てや、不倫がらみのもの、老親介護の悩みや、子供による家庭内暴力によるものなど、原因は多様である。札幌での一人娘による両親殺害事件、中学教師夫婦による長男殺害事件、筑波での医師による妻子殺し死体投棄事件、長崎での保険金狙いの夫・息子殺し、福岡での中学生兄弟による母親殴殺事件、岡山でのバット殴打のよる母親殺害事件、母親による泣き止まぬ赤子の絞殺事件など、社会に衝撃を与える事件が続発している。この種のニュースが多く、珍しい事件ではなくなっている。

 

(4)家庭の教育力の低下

 

家庭教育はすべての教育の出発点である。それゆえ家族の危機は、子供に強く影響する。青少年の非行や犯罪は、家庭に問題がある場合が多い。また、いじめ、不登校、登校拒否、学級崩壊、援助交際、子供の生活習慣病、覚せい剤の濫用、10代の少女たちの性病の蔓延、ひきこもり、NEET等の背景にも、家庭における教育力の低下が重要な原因と指摘されている。

平成10年6月、中教審は、『幼児期からの心の教育の在り方について』という答申を発表した。答申は、家庭、地域、学校に呼びかける方式で、提言をしている。特に重点を置かれたのが、家庭での教育である。就学する子供たちの多くは、しつけや基本的な生活習慣が身についていない。家庭で、親が子供に教えなければならないことだが、それができていない。叱られた経験がない。我慢ができない。こうした家庭での基本的な教育ができていないため、学校が危機に陥っている。家庭での教育力を回復しなければ、青少年教育が成り立たないところまできている。そこで、中教審は、家庭における教育を、あえて呼びかけた。これは前例のないことである。

今日、しつけが問題になっている。しつけとは、子供が社会生活の適応に必要な生活習慣を身につけさせえることである。幼児が成長して、社会に出て行くとき、社会の決め事や慣習に沿って行動できるように、親は育てなければならない。子育ては、自分の子供を育てるという私的な行為であるが、同時にそれを通じて、社会の一員、国家の一員を育てる公的な行為でもある。親に公共道徳を失い、個人主義的な考え方に陥ると、子供に対する、しつけがちゃんとできなくなっていく。

倫理・道徳は、主として家族という場所において伝達される。家族の危機は、社会全体の倫理・道徳の低下となる。

 

(5)少子化の進行

 

さらに大きな問題が日本の家族に生じている。少子化である。

わが国では、男女とも晩婚化、非婚化が進んでいる。最大の原因は、女性の社会進出だろう。働く女性たちは、結婚をあまり望まず、独身をエンジョイしたいという傾向がある。パラサイト・シングルと呼ばれる、30歳台で実家に居る独身女性が増えている。また、結婚しても、子供は欲しくないというDINKS(共稼ぎで子無し)の夫婦が増えている。

すべての夫婦が二人の子供を産めば、人口が維持されるわけだが、出生後、病気や事故で亡くなる子もある。そこで人口を維持するには、出産年齢にある女性の平均出生数(合計特殊出生率)が、2.08必要だ。わが国の現状はこれを大きく下回っている。出産年齢にある女性全体の平均出生数は、平成元年には1.57であった。しかし、平成15年には1.32、平成16年には1.29へと低下している。そのため、平成17年からは、日本の人口が減少することになる。これを押し留める有効な対策は打ち出されていない。

平成12年を基準として、平成22年までの10年の間に、青年の労働人口が3割減少するといわれる。また、この少なくなりつつある子供たちの劣子化が指摘される。学力の低下、礼儀・道徳の低下、気力・精神力の低下等が顕著になっている。

 

(6)高齢化の加速

 

少子化と同時に進んでいるのが、高齢化である。わが国は世界最速の速さで高齢化が進行している。少子化は人口の減少をもたらすが、少なくなる人口の中で老人の割合が増えていく。平成17年に、国民の5人に1人が、65歳となった。21世紀半ばには、3人に1人が65歳以上となる。

こうした時代を前にして、わが国の家族はどう対応するのか、対策が整っていない。現在でも家庭では老人介護ができず、老人ホームなどの施設に老親を預けたり、出張サービスを受けたりする家が多い。今後はますます老人介護が社会化されるだろう。老人のみの家庭や、一人暮らしの老人も増えている。福祉の肥大化は、国民から自助自立の精神を奪い、財政への負担を異大きくしていく。

 

以上、日本の家族の主な問題点を挙げた。このままいくと、日本の家族はどうなるか。間違いなく、家庭から人間的な温かみがなくなり、孤独な個人の寄り集まりの場所となる。子供が年々少なくなり、子供は親の愛情をあまり受けられずに育つ。老人がいたるところに増え、離婚して孤独な老人が多くなる。増大する老人層を、ますます少なくなる若者や子供が支えていかなければならない。現状が続くと経済は活力を失い、重税がのしかかる。非行や犯罪が増え、暗く殺伐とした世の中となるだろう。

いまや家族のあり方を真剣に考え、大きく軌道修正しなければならない深刻な事態となっているのである。ページの頭へ

 

3章 家族を解体しようとする動き

 

日本の家族は多くの危機を抱えている。この危機は、戦後のわが国の歩みの結果である。戦後日本は、敗戦から経済復興を進め、次に高度経済成長を成し遂げた。この過程は、日本国憲法のもとでの近代化・産業化・都市化の過程だった。その過程で、多くの国民は個人主義的となり、人々は個人の自由を追い求めている。またその一方、国民は経済中心の考え方となり、人々はお金や物を中心とする価値観を持つにいたった。この風潮が家庭の中にも深く浸透している。家庭においても、家族全体のことより個人個人の自由が、いのちや心よりお金や物が、重んじられる。家族を大切にする価値観が見失われ、家族が家庭外の論理に押しまくられてきている。

家庭外の論理とは、産業主義社会の論理である。それは利潤と効率を追求する論理である。そのモデルは機械である。これに対し、家族は生命の共同体である。機械と生命は、まったく違う論理で成り立っている。近代化・産業化・都市化とは、機械が生命を浸食し、生命をも機械の論理の支配下に置こうとする過程である。

産業主義社会の究極の理想は、家族の解体である。家族という共同体を解体して、バラバラになった個人を直接管理するほうが効率的だからである。産業化が進むに従い、家族のさまざまな機能、しつけ、教育、介護、生産活動などはしだいに、家庭の外に譲り渡されてきた。そして、外の社会の価値観が家族の中に浸透してきた。

この現象は「家族の社会化」と呼ばれる。生産は企業に、教育は学校に、健康は病院にゆだねられた。出産や死の見取りも、病院に場所を移した。これらの進行により、家庭の空洞化が起こり、家族はしだいにバラバラになりつつある。それは、家庭のもつ様々な役割が、家庭から産業に奪われていることによる。資本家・経済界は、経済の論理によって、これを一層推し進めようとする。女性の社会進出を進め、女性を労働力として活用しようとするのも、それである。従来、家庭にあって、育児や養育に専念していた女性を、出産直後から労働させ、生命と愛育の論理から、生産と消費の論理の下に支配しようとしている。

生産と消費の論理の推進者には、家族の孤族化、離婚の増加、児童虐待や家族間殺人の多発、家庭の教育力の低下、少子化、高齢化などへの考慮はない。利潤と効率が目的だからである。

こうした傾向から家族を守ろうとするのではなく、むしろさらに家族を解体しようという動きがある。それが、急進的なフェミニズムである。フェミニズムは女性の権利を拡張しようとする思想・運動である。そこには、すべての女性は家庭から出て、外で労働すべきという考え方がある。女性が社会に進出することが、女性の自由の拡大になると考えるからである。

そして、資本家・経済界とフェミニストの求めるものが、ここで一致する。資本家・経済界は、女性の社会進出を労働力の確保として求め、フェミニストは女性の社会進出を自由の拡大として求める。

フェミニストは、個人としての女性の自由の拡大をめざすために、家族の解体をめざしている。家族を解体しなければ、女性の自由は実現されないというのである。結婚制度を否定し、性の自由を主張する。家族よりも個人を尊重するという個人主義を徹底した思想が、フェニミズムである。個人主義が女性において追及されているため、結婚、出産、育児、家事、老親介護などは、女性の自由を制限し、女性を束縛するものと考えられている。個人の権利や自由のためには、家族を解体しなければならないという個人中心の利己主義的な考えである。そこには、生命や文化・伝統の継承という、大人または親の世代の責任と義務という観念がない。フェミニズムの急進的な勢力は、日本の伝統的な家庭のあり方を突き崩そうとしている。急進的なフェミニズムは、共産主義とウーマン・リブの影響を受けている。ウーマン・リブ的共産主義が、急進的なフェミニズムであるといえる。

急進的な勢力が主流となっている今日のフェミニズムの運動は、夫婦別姓の導入、ジェンダー・フリー、育児や老人介護の社会化等として展開されている。(1)

これらのうち、直接家族にかかわるものを一点を挙げれば、夫婦別姓の導入がある。フェミニストによって、夫婦別姓を法制化しようとする動きが、執拗に続けられている。この運動は、夫婦別姓だけでなく結婚制度の否定と性の自由化をめざしている。そして、離婚における破綻主義の明確化(事実上破綻している場合理由のいかんに関わらず離婚を認める、5年以上の別居で離婚を認める)、摘出子・非嫡出子の相続の均分化(非嫡出子への相続差別の廃止)、戸籍制度の廃止等をめざしている。そこには、民法の改正が意図されている。

仮に夫婦別姓が法制化されたならば、同姓による家族の結びつきは崩れ、家族の崩壊が加速されるだろう。

次の章で触れるが、占領政策によって戦後改正された憲法と民法は、戦前の日本の家族制度の破壊を意図したものだった。その憲法・民法のもとで育った世代が、今度は自ら家族を解体しようとしている。それが、夫婦別姓法制化運動である。(2)

さらに、科学技術の進歩が、家族の基本的な関係に影響を及ぼし始めていることも見逃せない。体外受精、精子・卵子の商品化、クローン人間の研究等が行われ、家族の根本である生命的つながりが問われている。こうした動向と、女性の権利拡張の運動とは無関係ではない。「産む権利・産まない権利」、人工中絶の正当化の問題がそれである。フェミニズムは、生命の科学技術をも、個人主義の徹底や家族の解体の手段として取り入れようとしている。まさに、人間の倫理の根底にかかわる問題が浮上しているのである。

  日本人は、いまこそ家族のあり方を真剣に考えなければならないところに立っている。日本は重大な事態となっているのである。ページの頭へ

 

(1)     フェミニズムについては、以下の拙稿をご参照下さい。

 猛威の『ジェンダー・フリー』と過激な性教育

急進的なフェミニズムはウーマン・リブ的共産主義

(2)  夫婦別姓法制化運動については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「夫婦別姓の導入に反対しよう

 

 

4章 危機の根本にある憲法と民法

 

こうしたわが国の家族解体運動の背後には、歴史的な問題が存在する。それは、敗戦後、米国がわが国を占領した期間に行った日本弱体化政策の影響である。(1)

かつて家族は日本の固有の文化・伝統・精神の基盤であり、民族的団結、国力の源泉だった。GHQはこの日本の持つ家族的団結を弱めるために、日本の家族制度を破壊しようとした。家族を含め日本の弱体化のために強行されたのが、GHQ製の憲法の押し付けと民法の改正である。ここにこそ、今日の我が国の家族の危機の根本原因がある。

 

(1)憲法の欠陥

 

戦後日本の家族のあり方に最大の影響をもたらしているものーーそれは、日本国憲法である。日本国憲法は、戦後、GHQによって押しつけられた憲法である。その基本理念は欧米の価値観に基づいている。その理念の一つが、個人主義である。これは家族や国家より個人を重んじる考え方である。日本の社会に個人主義を植えつけること、それが日本を「民主化」することであり、同時に日本を弱体化することだった。

西洋近代の思想の一つである啓蒙主義は、17世紀イギリスのホッブス、ロックらによって展開された。彼らは、デカルトの要素還元主義の影響を受けていた。そのため、まるで幾何学的空間におかれた原子(アトム)のようなものとして、人間をイメージした。そして、抽象的なアトム的個人を、社会の構成要素と考えた。「個人主義」とは、原子(アトム)的な個人を、集団より先在する要素とし、個人を原理として、社会の構成を考える考え方である。個人性を社会性より優先する思想である。ホッブス・ロックらは、生命があり、家族がある個人という、具体的で現実的な人間をとらえそこなった。それとともに、社会における人間関係の基礎をなす家族関係の重要性を見失った。彼ら以後、西洋近代思想においては、親孝行とか夫婦の和というような家族的な道徳は、ほとんど論じられることがない。東アジアでは伝統的な家族道徳が道徳の根本とされ、実践されてきたのとは、全く対照的である。

 日本国憲法は、こうした西洋近代啓蒙思想が根底に置かれている。そして、この思想をさらに極端に推し進めた学説が普及した。すなわち、「個人の尊厳」を持って「個人主義の原理」とし、アトム化した個人を持って「人間社会における価値の根源」などと説明する宮沢俊義らの学説である。

 こうした極端な学説が出てくる原因は、日本国憲法にある。具体的に挙げれば、第24条である。この条項には婚姻に関する規定がある。すなわち第1項に「婚姻は、両性の合意のみによって成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とある。また第2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と記されている。

  このように憲法に婚姻に関する規定が設けられているのは、世界的に見ても異例である。男女が恋愛をし、性的に結びつくことには、法律はいらない。その限りでは、私的な事柄であり、国家が介入すべきことではない。しかし、結婚した男女は、単なる同棲者ではなく、親や家族や親族・友人などの認知を得た関係となる。私的な男女関係が、ここで公認による公の関係となるのである。それは、結婚は夫婦の性的関係を維持する手段ではなく、家族を形成することが目的だからである。つまり、結婚とは、社会の基本単位である家族を形成するという公共性のある行為なのである。そこに、結婚を法律に定める必要があるわけである。そして家族の安定のために、婚姻の安定性を求める法律も定められる。それゆえ、憲法に規定する必要があるのは、婚姻よりも家族に関する規定である。

しかし、第24条は、個人の尊厳と両性の権利の平等を強調する一方、家族の大切さを規定していない。そこに大きな欠陥がある。条文には、夫婦と並んで家族を構成するもう一本の柱である、親子への言及がない。これは、生命と文化が、世代から世代へと継承されていくことを軽視している。憲法の全体に、世代間の縦のつながり、民族の歴史が断ち切られている。 

先進国の中ではイタリア憲法やドイツ基本法などには、家族に関する規定がある。それらの国法には、家族の権利、子供の教育の義務と権利、国家による家族・母性・子供の保護などを規定した例がある。そこには、家族は特別な社会であるから、特に保護されなければならないという考えが示されている。

家族は、生命・種族の維持・繁栄のための基本単位となる社会であるとともに、文化の継承と創造の基礎となる社会でもある。単なる生物的経済的共同体ではなく、文化の継承の主体、文化の創造の主体でもあるのが、家族である。具体的には、生命と文化を親が子供に継承するわけだが、それは単に私的な行為ではなく、社会全体においては、大人が次の世代を生み育て、生命と文化を継承するという公共性をもった行為でもある。それゆえ、家族は生命と文化を継承する場所として、国家によって保護されなくてはならないのである。子供の教育に関しても、親は子供を教育する権利を有し、また子供を教育する義務を負う。それは、自分の子供を通じて、次世代に文化を継承発展させていくという公的な義務なのである。家族というものを通じて、国民は、生命と文化の継承という公的義務を負うのである。

しかし、日本国憲法の規定には家族という概念がない。婚姻が両性の努力で維持されるべきことしか規定されていない。「両性の合意のみによって成立する」という単純な発想は、日本の伝統とは正反対のものである。家族より個人を重んじる西洋近代個人主義の考えである。しかも、「両性の合意のみ」というのは、ヨーロッパの伝統とも言えない。キリスト教の伝統でもない。日本国憲法が制定された当時、キリスト教(特にカソリック)では、結婚は神の意思であり祝福であって両性の恣意ではなく、離婚は神の意志に反するものとして厳しい制約があったからである。

一体どこから、家族を無視した両性の合意なる考えが持ち込まれたのか。実は、第24条の規定が盛り込まれたのは、GHQ製憲法案の作成メンバーの一人だった米国人女性の考えが大きく影響しているといわれる。彼女は、ベアテ・シロタ・ゴードン。当時22歳だった。シロタと言っても日系ではない。彼女は、戦前、5歳から15歳の時まで日本に居住し、アメリカの価値観と異なる日本の男女観、特に見合い結婚に強い嫌悪感を持っていた。日本文化への無理解と偏見による彼女の考えが、第24条の条文の起源となったのである。こうしたアメリカ人の一女性の主張で憲法に条文が加えられ、日本という社会の基礎となる婚姻制度・家族制度が変えられていったのである。

実は、GHQ案の冒頭には「家族は人間社会の基盤」という規定があった。しかし、日本側の方で、その規定を削除したのである。日本国憲法が、婚姻を定めながら家族についての規定を全く欠くのは、日本側にも責任があるのである。

第24条の条文は、利己的個人主義的な結婚観を、日本人に植え付け、愛と調和の家族倫理を失わせ、社会の基礎を破壊するものとなっている。こうした憲法によって、戦後の日本では、結婚に関して個人主義的な考え方が広がった。また、家族より個人を重んじる考え方が蔓延することになった。戦後世代の利己的な個人主義、核家族化、少子化、育児や介護の社会化等の考え方の根本に、憲法の思想がある。

本来、憲法には、各世代には世代としての責任があり、健常な大人の男女は、子孫を生み育て、教育を施し、生命と文化の継承に努める義務があると明記すべきであろう。

特に、今日、家庭道徳の低下と離婚率の上昇など、日本の家族は崩壊の危機にあるので、女性・子供・高齢者を守るためにも、憲法において家族の概念を明確化することが必要である。日本人は、アメリカやスエーデンなどの極度の個人主義が招いた家庭崩壊の愚を後追いすべきではない。 (2)

 

(2)民法の弊害

 

憲法と同時に、占領政策によって民法の改正が強行された。これによって、日本の伝統が深い層まで破壊された。その結果、利己主義的な風潮が助長され、道徳の低下や社会の混乱が促進されている。

戦前のわが国には、「家(イエ)制度」というものがあった。明治31年制定の明治民法は、家制度を法律的に定め、家によって家族を最大限に尊重するものであった。明治民法が法的に制度化した「家(イエ)」は「複合家族」といわれ、家族・親族が一つの家に住んでいるものだった。また、この家族は「直系家族」といわれ、両親・祖父母・孫が一緒に住み、世代間の縦のつながりが重んじられていた。また、戸主(家長)、家督相続、分家、廃家、親族会などが定められていた。

戦後は、この家をもって、封建的で、個人を束縛するものと決め付けている。しかし、明治民法の目的は家を強化することによって、個人を抑圧するというような一面的なものではなかった。この民法は、幕末以来のわが国の重大課題である不平等条約改正をめざすという政治的要請によって創られた。その際、人権先進国といわれるフランスの民法、つまりナポレオン法典等が参考にされた。明治民法の制定には、伝統を重んじながら、国際社会で伍していくために日本を近代化しようとする明治の日本人の工夫があった。

こうした民法に対し、旧守的な学者である穂積八束は、「民法出デテ忠孝亡ブ」として批判した。民法は個人主義的社会原理を、忠孝は家族国家的原理を象徴する。穂積にとって、民法は日本に西洋式の個人主義を移入することによって、国家原理を根本から崩す危険性のあるものと映じた。

こういう批判も出たくらいに、明治民法には、西洋近代的な面があったのである。例えば、この民法は、家族における妻の不安定な地位を厚く保護することを目的の一つとした。女性解放運動家の山川菊枝は、旧民法に対し、「女性にとっても社会にとってもまことに喜ばしき進歩」「日本の女性のため、かつ国民全体のために祝福されなければなりません」と賞賛したほどである。そして、「わが国の離婚率は新しい戸籍法の実施された明治16年当時から、年と共に低下し、殊に明治31年民法の制定によって、妻の地位が在来よりはるかに安定し、みだりに離婚できなくなってから、急に低くなっております」と述べている。実際この間に、離婚件数は5分の1に減少した。こうした肯定的評価があったことを見逃すべきではない。

日本の被占領時代、昭和22年にGHQによって民法改正が強行された。戦後は戦勝国の占領政策によって、家という伝統的な大家族が解体され、夫婦と子供だけの「単婚家族」、いわゆる核家族が増えた。都市化、若年人口の都市への流入、住宅事情等がこれに拍車をかけた。その結果、夫婦とその両親、祖父母とその孫という縦のつながり、また夫婦とその兄弟姉妹・おじ・おば等という横のつながりとが、ともに弱くなった。

民法改正の焦点の一つは、親族相続編だった。これが全面改正された。改正は、わが国の家族制度に重大な改変を加えるものだった。戸主(家長)、家督相続、分家、廃家、親族会などがことごとく廃止された。

中でも第一に、家督相続の廃止と均分相続の導入は、日本の家族に甚大な影響を及ぼしている。それらにより、親子・兄弟姉妹の遺産争いが顕在化し、家族の結びつきが利害中心のものに変じた。家族における個人主義が、遺産の相続問題をめぐって、家族間の対立・抗争を激化した。第二に、多額の相続税が課されることにより、家族の経済的基盤が切り崩された。かつては、親が子供に土地・財産を相続し、子供が祖先伝来の土地・財産を守り維持するところに、家族の継続があった。また子孫の祖先への感謝と尊敬が保たれていた。こうした経済的基盤が崩されたことにより、親子・祖孫の結びつきは弱くされた。それは、同時に文化の継承のための物質的基礎を崩すものとなった。第三に、姦淫罪の廃止は、男女の愛と信頼による結婚制度を根底から弱めるものとなった。

実は、GHQは当初、これほど過激な改正を行おうとは考えていなかった。GHQは憲法第24条をもって明治民法の改正を命じはした。しかし、家制度を根こそぎ破壊せよ、とまで指示してはいなかった。民法改正における戸主(家長)、家督相続、分家、廃家、親族会などの廃止は、すべて日本の民法学者らが、この機会に乗じて強行したものである。その学者とは、中川善之助、我妻栄、川島武宣らである。彼らはマルクス主義の影響を受けていた。この点が重要である。

中川善之助は、次のように述べている。「汝の夫婦関係、汝の親子関係、汝の兄弟関係を民主化せよ、そうすれば国の民主化はたちどころになるであろう」(『新憲法と家族制度』)

川島武宣は、次のように述べている。「民主主義は、個人の主体性を否定するような意味での共同体的な……家族を解体し、家族を主体的な個人と個人の関係とすることを要求する」と。(『日本社会の家族構成』)

中川は、「国の民主化」を行うために家族関係を民主化せよ、というわけだが、そもそも民主主義(デモクラシー)とは、民衆が権力に参加する政治制度のことである。国家や社会の制度ではありえても、家族の制度ではありえない。また、川島は「家族を解体し」「個人と個人の関係とする」ことを主張するが、これは個人主義の徹底である。まさに、共産主義やフェミニズムがめざしていることそのものにほかならない。中川や川島のいう「民主主義」とは、欧米における自由主義的なデモクラシーのことではないのである。旧ソ連が掲げていた社会主義的な意味での「民主主義」である。

彼らのいう「家族関係の民主化」や「家族の解体」とは、マルクス=エンゲルスの共産主義革命の戦略である。そして、その実行は、スターリンが日本革命のテーゼとして指令した二段階革命の道である。すなわち、共産主義革命のための第一段階としてブルジョワ民主主義革命を行う。そのために、アメリカの占領政策に便乗して、日本の民主化を行う。その戦術の一つが、家族関係の民主化だったのである。それは、共産主義革命の準備としての社会主義的民主化なのである。

 中川や川島やその弟子たちの教育を受けた世代から、共産主義的フェミニズムが台頭するのは、必然の流れであった。昭和22年の民法改正は、共産主義の革命戦略に基づく、日本の社会主義化・共産化への第一歩だったのである。幸い、戦後のわが国は、共産革命の危機を乗り越えてきた。しかし、現在、急進的なフェミニズムという形を変えた共産主義が、「家族の解体」を狙っている。その攻撃から、日本の家族を守るためには、憲法に家族条項を入れ、家族の価値を称揚するとともに、民法から共産化に悪用されるような規定を除いていく必要がある。

 

 弁護士の佐藤欣子氏は、次のように述べている。「戦後のわが国の家族の基本原則は個人の尊厳と両性の平等だけである(憲法第24条)。しかし、それは結局のところ、エゴイズムや相手を自分の欲望充足の手段視する孤独で殺伐たる人間関係をもたらした。日本の家族は一家の中心を失い、共通の信仰や理想を失い、祖先と子孫に対する責任も日本文化の伝承の役割も放棄したのである。そしてこれは日本人の人を愛する能力を大幅に破壊した。結婚を避け、子どもを生まず高齢者を嫌悪するなどはその結果に過ぎない」と。(3)

 憲法と民法が、今日の家族の危機の根本原因となっている。そして、この憲法と民法が、家族を解体しようとする共産主義やフェミニズムの温床となっている。ページの頭へ

 

(1)日本弱体化政策については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本弱体化政策の検証

(2)憲法については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本国憲法は亡国憲法――改正せねば国が滅ぶ

(3)『漁火平成11年10月号(経営者漁火会)

 

 

第5章 もともとの日本の家族とは

 

戦後、日本の家族は大きく変化した。その根本原因には、GHQによって強行された憲法と民法の改正がある。私たちは、戦後の憲法・民法によって作り替えられる以前の、もともとの日本の家族について知る必要がある。戦後改変される前の日本の家庭とはどのようなものだったのだろうか。

 それを知るにはまず、西洋近代文明の影響を受けていなかった時代の日本の家族の姿から見てみるのがよいだろう。

約300年前、元禄のころ来日したフランス人は、「子育ては日本の最大の美徳で、到底外国人の及ぶところではない」とまで激賞している。また160年前の文政年間に、長崎のオランダ商館に勤務していたフィッセルは『日本風俗備考』の中で、次のように言っている。「私は親子の愛情の交流こそが、日本人の特質であると考えている。この密接な関係は、死ぬまで誰も引き裂くことはできない」。子供に対するこうした親の愛情が、田舎町に至るまで貸し本屋とおもちゃ屋を繁盛させていた。黒船を率いて来日したペリーも、日本の幼児教育の素晴らしさに驚いたという。西洋人にとって、このような親子の愛情の交流の深さは驚きだったのだろう。そして、西洋人にそういう驚きと感嘆を与えたものが、もともとの日本の家族の姿だったのだ。

この姿は、戦前までは、日本の家族に受け継がれていた。大正11年(1922)11月、20世紀を代表する科学者・アインシュタインが来日した。その時、彼は、日本の家族主義の伝統に感銘をうけた。そして、次のように述べている。

 「日本の家族制度ほど尊いものはない。欧米の教育は個人が生存競争に勝つためのもので極端な個人主義となり、あたり構わぬ闘争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみとなった。家族の絆はゆるみ、芸術や道徳の深さは生活から離れている。激しい生存競争によって共存への安らぎは奪われ、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独にしている。

日本は個人主義はごく僅かで、法律保護は薄いが、世代にわたる家族の絆は固く、互いの助け合いによって、人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。この尊い日本の精神が地球上に残されていたことを神に感謝する」

西洋人によるこうした見方は、多くの日本人にとって意外な感じがするだろう。戦前までの日本は封建的であり、個人は「家(イエ)」に縛り付けられ、自由が抑圧されていた、人権が保障されていなかった、その主たる原因は家父長制・男尊女卑の家制度にある、伝統的な家族制度を破壊したことによって、戦後の自由で平等な社会が実現した、こう考えている人が多いからである。

確かに、そういう面はあっただろう。しかし、戦前までの日本のあり方が、すべて悪かったわけではない。何もかも悪かったのであれば、上に引用したような西洋人の見方はありえないではないか。彼らは、「子育ては日本の最大の美徳」「親子の愛情の交流こそが、日本人の特質」「世代にわたる家族の絆は固く、互いの助け合いによって人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている」と言っている。そこに、戦後の日本では失われつつある、本来の日本の家族の美点があったと考えられる。

伝統的な日本の家族制度は、西洋式の夫婦中心で一世一代の単婚家族と異なり、親子関係を中心に世代間のつながりを重視していた。各家族では、子供の一人(多くは長子)に跡を継がせ、家を子孫へ持続させてゆく。子や孫が親や祖父母と一緒に暮らす。三世代、四世代の大家族が共同生活を行う。そして、祖先と自分たちの生命とは切り離せないものと感じ、自分たちの世代の幸福を望むだけでなく、祖先の慰霊し、子孫の繁栄を願ってきた。このように、日本の伝統的な家族では、世代の連続性という縦の関係を重んじていた。

それととともに、日本の家族は、横のつながりも強く持っていた。親子だけでなく、夫婦の結びつきも強い。また、親族による血縁的な同族意識が強く、それを基盤とした地縁的な村落共同体の結束も固い。そして、社会を、家族的な共同体と考える傾向がある。国家をも、一大家族と意識し、自己の家族と民族とが、家族的な原理で一貫していると考えた。

こうした日本の家族の本来の姿を理解するには、西洋の家族との基本的な文化の違いを知る必要がある。西洋の家族といっても、古代のギリシャ・ローマと、近代ヨーロッパでは、民族も言語も文化も違う。古代ギリシャ・ローマでは、もともと多神教であり、祖先祭祀が行われていた。人々は祖先の霊魂を祀(まつ)り、その信仰の上に家族制度を築いていた。彼らの家族は、祖先祭祀を重視する点で、日本の家族と共通点を持っていた。ところが、ローマ帝国に入ったキリスト教は、こうした伝統を排斥した。キリスト教は、一神教であり、神と各個人が直接結びつく。また、自然の事物に霊を認めるアニミズム的な世界観を否定する。キリスト教がゲルマン民族にも広がった結果、西洋では古来の信仰と制度が跡を絶った。祖先祭祀は偶像崇拝として排除された。また、自然との生命的・霊的なつながりは断絶した。

これに対し、日本は古代から今日まで、祖先祭祀の国である。人間の自然の愛情は血縁の愛情である。日本では共通の祖先の霊を崇拝することにより、血族が団結している。日本の国柄は、多数の家族が皇室を中心に結び合って、一つの国家を形成し、それが祖先や神に通じているというものだった。国民は祖先の霊を氏神として祀り、天皇は天照大神を祖先神として祀る。国民と皇室は共通の祖先を持ち、「君民同祖」と信じられてきた。また、人間と自然の事物も、神々から産まれたものと考えられ、人間と自然が共通の根源において結びついていると信じられてきた。自分と祖先が連続し、国民と皇室が連続し、さらに人間と自然が連続している。そして、人と人との調和、人と自然との調和を大切にし、親子一体、夫婦一体、祖孫一体、また国家と国民が一体の生き方をするのが、日本の伝統的な精神だった。

 しかし、今日では、こうした日本の特徴が失われつつある。個人の自由や権利が強調され、その個人が本来持っている縦と横のつながりを軽視する傾向が強まっている。家族を大切にするという場合でも、自分たち夫婦と子供を中心とした核家族の範囲が主である。親との同居を避け、親もまた子どもから独立して生活する。親が病弱となっても、同居して面倒を見るのでなく、病院へ入れる。介護が必要となっても、家庭で世話をするより、老人ホームに入れるという傾向にある。親戚づきあいも薄い。居住地の移動が多くなり、出身地の違う夫婦が多くなっていることもあり、血縁的であると同時に地縁的でもあった親族のつながりは、薄れつつある。親の面倒をあまり見ないし、親族のつながりも薄いから、祖先について考えることが少なくなっている。当然、祖先を尊ぶ心は薄れつつある。それは、生命の本質に根差した、愛情豊かな生き方が、忘れられていることでもある。

 これは、日本に西洋文化・近代思想が浸透してきているからである。特に、それは現行の憲法・民法の影響が強いのである。この点は、前章で述べたとおりである。ページの頭へ

 

6章 忘れられた心の道標〜教育勅語

 

日本人はもともとの家族の美点を取り戻すことができるだろうか。伝統の中にあった良い点を、危機にある今日の日本の家族に活かすことはできるだろうか。ここで注目すべきものが、教育勅語である。教育勅語は、明治天皇が明治23年に賜った勅語である。それは教育の目的を示したものであるが、同時に人としての生き方を説いているものでもある。そこに、伝統的な日本人の生き方・価値観が結晶している。教育勅語は、忘れられた心の道標である。

教育勅語は、三つの部分から構成されている。第1段は、冒頭から「〜此ニ存ス」まで。ここでは、最初に我が国の建国の由来と日本の国柄の美しい特色が述べられ、これを教育の根本とすることが明らかにされている。第2段は、「爾臣民」から「〜ニ足ラン」まで。ここでは、初めに天皇が国民に対して「爾臣民」と親しく呼びかけ、国民が守り行うべき道を示している。そして、具体的な徳目を掲げて、それを実践する意義が明らかにされている。

この部分は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という家族的道徳に始まり、「朋友相信シ」「進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」という社会的道徳に進み、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という国民的道徳に至る。

挙げられている徳目は12ある。「孝行」「友愛」「夫婦の和」「朋友の信」「謙遜」「博愛」「修学習業」「智能啓発」「徳器成就」「公益世務」「遵法」「義勇」である。それぞれ次のような内容である。

 

「孝  行」=子は親に孝養を尽くそう

「友  愛」=兄弟姉妹は互いに仲よくしよう

「夫婦の和」=夫婦は敬愛の心をもって仲睦まじくしよう

「朋友の信」=友人は誠の心をもって信じ合おう

「謙  遜」=他人に対しては礼儀を守り、自分に対しては慎み深くしよう

「博  愛」=広くすべての人に愛の手を差し延べよう

「修学習業」=勉学に励み、職業を習って身につけよう

「智能啓発」=知識を広めて才能を伸ばそう

「徳器成就」=自己の人格の完成に努めよう

「公益世務」=公共の利益を増進し、世の中のためになる仕事をしよう

「遵  法」=いつも法律や秩序を守ろう

「義  勇」=正しい勇気を持って世のため国のために尽くそう

 

これらの徳目は、「父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ」と個人的から家族的の私的な道徳にはじまり、「朋友相信ジ 恭倹己レヲ持シ 博愛衆ニ及ボシ」というように、社会的道徳に広がる。「博愛」という言葉は、ここから一般化する。次に「公」に関する徳目が挙げられる。「学ヲ修メ業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓発シ 徳器ヲ成就シ 進ンデ公益ヲ広メ 世務ヲ開キ」。ここに人格を高め、「公益」を広めることが示されている。続いて「常ニ国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ」と、国家的な道徳が述べられる。そして、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ  以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と続く。国防のような国家の一大事には、「公」に尽くすことの大切さが示されている。

こうして教育勅語は家族的道徳、社会的道徳、国民的道徳の実践を説いている。そして、道義国家を築くことが目標とされている。さらに、その道を押し広めて、万邦がその所を得る世界的な共同体を実現することに、より大きな目標があることが含意されている。一視同仁・四海同胞・共存共栄の理念の実現ということもできる。そこには、西洋近代思想を超える、人類普遍的な倫理がある。

 教育勅語の最後は、次のように結ばれる。

 

  「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」

 

 大意は、「私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えの道を胸に抱いて、立派な徳を見につけてゆきたいと、心から念願するものであります」という主旨である。この一行に見られるように、教育勅語は、天皇が国民に命令するものではなく、国民に対して、ともに実践しようと親しく呼びかけるものだった。

 この一行には、天皇と国民の関係は、支配ー服従の権力的な関係ではなく、一大家族的な共同互助の関係をめざすものであったことが、よく表れている。また、天皇の権威が、古来、強権的威圧的なものではなく、国民が自然に仰ぎ、国に和合をもたらすようなものであったことが理解できる。(1)

最初に教育勅語は、忘れられた心の道標であると書いた。そこには、伝統的な日本人の生き方・価値観が結晶されている。そこに込められているものを、再発見することが、日本の家族の美点を取り戻し、伝統の中にあった良い点を危機にある今日の日本の家族に活かすことになるだろう。

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(1)教育勅語について、詳しくは以下の拙稿をご参照下さい。

教育勅語を復権しよう

 

第7章 家族的道徳をよみがえらせよう

 

 戦後日本では、教育勅語は否定され、そのまま顧みられていない。しかし、教育勅語に説かれているような道徳は、時代の変化に関わりなく、普遍性を持つ。その道徳を今日に活かすことが、日本の家族の危機を解決する一つの方法であると私は考える。危機にある家族に道徳をよみがえらせるために、家族の道徳を考えてみよう。

 

(1)親子の孝

 

 子供を生み子孫を育て、種を存続することは、生物の最大の関心事である。例えば、野生の鳥は、ひなを守るためには、大きな外敵に対して、夫婦で体当たりし、命がけで向かっていく。そうやって子供を守り、育てる。本能的な愛情の表れというべきだろう。

このように親が子供を愛し、子供を育てることは、どんな動物にも見られる。本能的な愛情は、人間より他の動物の方が強いくらいではないか。しかし、人間の特徴は、子供が親の愛情に感謝して、これに報いようとするところにある。特に、親が年をとって弱っても、子供が親を大切にして世話をする。この点が、人間と動物を分ける根本的な違いである。

こうした親子間の愛情を「孝」という。つまり、親から子へ、子から親への血族愛が、孝である。孝は後に、主に子から親への愛情を意味する言葉として使われるようになった。子供が親に恩を感じ、これに報いることである。これを孝一般と区別して、親孝行という。「孝」という文字は、子供が老人を背負った姿をかたどったものといわれる。

人間と動物の根本的な違いは親孝行にある。親孝行をするか、しないかが、人間と動物を分けている。東洋(東アジア)では、孔子・孟子などの聖賢の説く道徳において、「孝は徳の始め」「親孝行は、万行の基」といわれてきた。親に対する孝は、人間の人間たる道徳の基本と考えられ、実践されてきた。親孝行のできない人間は、まともな人間ではないとみなされた。自分を生み、育んでくれた親に感謝し、親を敬い大切にすることは、人間らしさの中心となるほどに、非常に重要なことなのである。

とはいえ、子を思う親の愛は大きなものであり、「親の恩は山よりも高く、海よりも深し」という言葉は、それを言い表したものといえる。また、幕末の志士・吉田松陰は、獄中で死を予想して母にあてた手紙の中で、「親思う心に優る親心 けふのおとづれなにと聞くらむ」という歌を詠んでいる。

それでは、こうした親の愛情に対し、子供はどのようにして「孝」を実践すればよいか。「孝は親を安んずるより大なるはなし」といわれる。親孝行は、親に心配をかけないこと、親に安心してもらうことが、第一である。それには、まず健康であることである。「身体髪膚はこれを父母に受く。これを被傷せざるは孝の初めなり」という。自分の身体は、親から受け継いだ生命である。だから身体を大切にして、健康を損なわないよう、また身体を傷つけないようにすることが、親孝行の始めとなる。そして、親は死んでも、自分の身体は親の生命そのものとして、親や祖先が自分の中に生きていると思って、感謝して生きていく。そして、立派な人になり、世のため、人のためになることのできる人間、社会に貢献できる人間となることが、親孝行だと考える。

 日本人は、親は子を愛情を持って育てるように努めてきた。親は子供に乳をやり、食べ物を食べさせる。それが親の一番の務めだと考えてきた。親は、子供が満足そうにしている姿を見て喜びを感じる。子供はそうしてくれた親に感謝し、親が年を取ってもどこまでも大切にする。親子一体が日本人の本来の生き方である。

ところが、こういう生き方が、戦後日本では、失われてきている。学校でも、家庭でも教えない。すべて戦前の考え方は、封建的、古いといって省みない。そして、家族制度を否定し、個人を家から解放されるべきものと考える。これは、個人を西洋式に具体的な生命的関係から抽象して考えるからである。西洋では、個人と神が直接、一対一で対面する。神と自分をつなぐ両親や先祖の存在が薄い。隣人という他者一般が強調され、親兄弟の存在が軽く。戦後の日本人は、その考えの影響を強く受けているのである。

本来の日本人の生き方では、親への感謝は、親の親である祖先への感謝につながるものであった。その感謝の念は、国を作り、国を築いてきてくれた祖先にも及んだ。こういう考え方からは、歴史や伝統の尊重という心が湧いてくる。それが国民の社会意識、歴史意識、国家意識のもととなり、国民の間に連帯感、共有意識をつちかうものとなる。また、国の中心としての皇室への敬いの心も湧いてくる。逆に親への感謝の心が薄くなると、祖先や皇室に対してもその心がなくなる。つまり、親への感謝は、その人の社会意識、歴史意識、国家意識の形成の基礎となるものである。親への感謝の心が薄いと、自己中心・個人主義・利己主義となる。親への感謝は、個人の人間形成の核であると同時に、社会・国家の発展の基礎ともなる。そこに、親への孝の大きな意義がある。

 

(2)夫婦の和

 

人間には男女両性がある。男女は互いの特長を認め合い、欠点を補い合うことによって、両性の調和が生まれる。もし男女が斥け合い、争い合って、男ばかり、あるいは女ばかりの社会になったとしたら、その社会は百年もたたずに滅亡する。男女が愛し合い、調和するところに、子供が生まれ、家族が成立する。家族が維持され、繁栄していくためには、夫婦の調和・協力が不可欠である。

子作りや子育てにおいて、男女には異なった役目がある。夫婦は子供が生まれると、父母という役割を持つことになる。夫婦・父母がそれぞれの特徴を発揮し、担うべき役割を担い、協力するところに、よい子育てができ、子供が順調に育つ。父親は父親らしく、母親は母親らしく、その特徴を発揮し、互いに欠けているものを補い合う時に、子供は健全に成長する。父親と母親の深い本能的な愛情に裏付けられた、厳しさとやさしさが、子供の心を豊かに育てる。夫婦・父母の調和・協力が、幸福な家庭のもとである。

世界的に父権制の社会が広く見られるが、父権制が確立する前には、母権制の社会があった社会が多いといわれる。ほとんどの社会では、それが父権制に移行したが、日本の場合は母権制の要素が強く残っている。わが国の場合、8世紀以前には、父系と母系が並存した双系制社会だったといわれる。その後の日本社会は母権制から父権制へと変化した。しかし、父権が強くなっても、基底には双系的な文化が存続しているところに特徴がある。一家に、主人と主婦がいるというのは、その現れである。主人は対外的には家の代表であるが、家内のことは主婦(「奥様」)が取り仕切っている。現代でも日本の主婦の大半は財布を握り、財産の管理を任されている。欧米人は、夫が家計を握っており、妻に財布を任せるということは考えられない。そのことには、日本の女性の地位の高さを示している。

男尊女卑という言葉があるが、これは男系中心・夫婦別姓の儒教国の特徴である。シナやコリアがそれである。これに対し、わが国は男尊女卑ではなく、夫唱婦随である。男性が中心的でありリードするが、一方的でなく、夫婦の調和を重んじる。このように、夫婦の和や男女の協力を大切にするところに、日本文化の特徴がある。

どの民族も祖先が長く伝えてきたものとして、神話を持っている。日本の神話では、イザナギ、イザナミという男女二神が協力して「国生み」をして、国土が誕生したとする。これらのニ神は、人間と同じく男女の営みをし、人間も自然の事物も、男女の神々の子孫として誕生したという。このように、日本神話では、男女の協力、陰陽の和合が描かれている。天照大神は、イザナギ、イザナミの男女ニ神が産んだ子孫の一人である。日本神話は多神教の世界であり、男の神々もいれば、女の神々もいる。そうした多数の神々の中心が、天照大神である。この神は女性神とされる。神道は正確に言うと、男女多数神の宗教である。男性的なものと女性的なもの、父性と母性が共存している。このように、日本神話は、男女両性が協力し合う共存調和的な世界観を描いている。こうした世界観を持ってきた日本人は、家庭においても、おのずと夫婦の調和・協力を大切にしてきた。

日本人は、男女の調和の大切さを、今一度、再認識すべきである。

 

(3)兄弟姉妹の同胞愛

 

  男女の結合によって子供が生まれる。それによって父・母・子を要素とする家族が形成される。子供が二人、三人と複数生まれると、子供同士の関係が生まれる。それが兄弟姉妹である。

兄弟姉妹とは、同じ親から生まれた人間である。人間のうちで、同じ親から生まれた者は、この世にわずか二人から数人程度しかいない。兄弟姉妹を「はらから」という。「同胞」と書く。親から見れば子供たちである。

  兄弟姉妹が仲良く和合することは、何より親を安心させる。だから、それは孝の道にかない、親孝行になると日本人は考えてきた。兄弟姉妹が仲良く協力して、親を大切にすれば、親は喜ぶ。逆に、兄弟姉妹が争うことは、親を苦しめ悩ませ、親不孝になる。兄弟姉妹が互いに助け合えば、家は繁栄する。兄弟姉妹の協力はこれほど心強いものはなく、争い合えば骨肉の争いとなる。諺に「兄弟は他人の始まり」という。兄弟姉妹は血族であるが、一方で自立することによって、他人に近い関係ともなる。その兄弟姉妹を結びつけるのは、親の存在である。共通の親を思い、親に尽くすことで、兄弟姉妹は「はらから」であるという本質を確認する。こうしたことは、古今東西に共通したものだろう。

例えば西洋には、「兄弟は左右の手」ということわざがある。互いに助け合って生きなければならないという意味である。また「善良な兄となり、また善良な弟となるには、まず私欲を去ることから始めよ」という。我を張り、欲を出して争うのでなく、互いのため、家のためを考えるべきことを意味する。

兄弟姉妹は、単に同じ親から生まれた集団というだけではない。その間柄に、年齢の上下がある。そして、年齢の違いは経験の違いであり、順序つまり順番や序列という、否定し得ない差異がそこに存在する。長男と次男と三男、長女と次女と三女等。こうした年齢差による差異は、決して変え得ない生得的な差異である。これは互いの性格形成に少なからぬ働きをする。兄弟姉妹における序列は、性格形成における一つの条件となる。

親しい友人は、互いを兄弟、あるいは姉妹と呼ぶ。友情の最高形態は、互いを兄・弟、姉・妹と感じることである。そこから、他人をもみな兄弟姉妹と感じることが、隣人愛の理想とされる。その極限が、「人類みな兄弟」という考え方である。兄弟姉妹の血族的な同胞愛が、比喩的な意味での人類の同胞愛となる。実際の生みの親は別々だが、あたかも同じ親から生まれた兄弟姉妹のように、感じ合う。それが博愛的な同胞愛である。生命の根源までさかのぼれば、人類はみな親がつながっている兄弟姉妹である。ここで根源という意味は、時間的には祖先であり、超時間的には神であり、宇宙生命である。

人類の共存・平和のためには、「人類みな兄弟」という精神が必要である。それには、各自の肉親である兄弟姉妹の同胞愛が基礎となる。その同胞愛は、親子の愛情に裏付けられたものでなければならない。また、夫婦の和のもとで、同胞愛が育つ。人類的な博愛を理想とするならば、まず家族的な愛の実践が必要であるのが、道理というものである。

 

(4)親族の協力

 

 家族という集団は、それだけでは完結しない。父母にはそれぞれ兄弟姉妹があり、そのまた父母つまり祖父母にも兄弟姉妹がある。自分から見て、親の兄弟姉妹は、おじ・おばとなる。父母の兄弟や姉妹は、他人とは違い、血縁の関係にある。自分にとっての祖父母を親とするのが、おじ・おばである。祖父母によって、親とおじ・おばがつながっている。さらに、自分にもつながっている。おじ・おばの子供は、自分にとって、いとこ(従兄弟・従姉妹)である。いとこは、兄弟姉妹とは違うが、親同士が兄弟姉妹であり、祖父母が共通である。それゆえ、兄弟姉妹と他人の間にあるのが、いとこである。

 兄弟姉妹のつれあいは、義理の兄弟姉妹となる。血はつながっていない。その点では、他人だが、義理の関係が結ばれていることによって、単なる他人ではない。おじ・おばのつれあいは、義理のおじ・おばとなる。やはり、血はつながっていない。その点では、他人だが、義理の関係が結ばれていることによって、単なる他人ではない。さらに、祖父母の兄弟姉妹は、大おじ・大おばとなる。大おじ・大おばは、自分の曽祖父が親である。そのつれあいとなると、大分関係が遠くなってくるが、やはり単なる他人ではない。そこに、親族というものの存在がある。

 個人と社会との間には家族がある。そして、家族と社会との間にあるのが、親族である。親族は血縁と義理の縁とをもった集団である。家族に近い側面と、他人に近い面とをもつ。親族という範囲を超えると、社会一般となる。

家族・親族との関係を具体的に表すために、法的には親等という用語を用いる。自分の親は一親等、自分の子供も一親等。自分の兄弟姉妹は二親等、祖父母は二親等。おじ・おばも二親等。自分の曽祖父母は三親等。いとこは三親等。大おじ・大おばも三親等となる。

 遺伝的には、自分は父母からそれぞれ半分づつ遺伝子を受け継いでいる。兄弟姉妹も同様だ。発現するものは違っても、受け継いでいる遺伝子は共通している。おじ・おばとなると、祖父母からの遺伝子を一部共有している。いとこも同様だ。

 こうした生物学的な根拠に基づいて、社会的な人間関係を考えると、親族とは、特殊な遺伝学的関係にある集団である。それは生物学的・生命科学的な関係である。生命というものを重視するならば、親族というものが再評価されなければならない。それは、社会の人間関係一般に解消することのできない特殊性を持っているのである。

人間は長い年月、親族との濃厚な関係の中で生活してきた。多くの場合、それは血縁的であるだけでなく、地縁的でもあった。一つの家に祖父母・おじ・おばなどの親族が同居していたり、一つの村落という地域共同体に多くの親族が住み、共同生活をしていた。しかもその多くは同姓でもあった。近代化・産業化・都市化の中で、こうした共同体が解体された。近代以前の共同体の多くは、親族を相当程度基盤としていた。それゆえ、村落共同体の解体は、親族の解体の過程でもあった。いわゆる「市民」は、村落共同体から外に出た個人の集まりである。そこには、血縁的な人間関係はない。「市民」は隣人ではあっても、親族ではない。偶然居合わせた他人同士である。こうした「市民」の集団である都市社会をモデルにして、社会一般を考えるならば、その人間関係は生命的な基礎を捨象した、抽象的なものとなる。そこにおける倫理は、都市社会の倫理である。それは、利害関係を中心としたものとなる。家族的な道徳を基にした生命的で共同的な倫理ではない。

近代化・産業化・都市化の進む現代社会において、道徳を復活させるには、家族的親族的な道徳の再評価が必要なのである。

 

(5)敬神崇祖

 

本来、日本の家庭では、子供や孫と父母・祖父母・曾祖父母が同居し、世代間の協力が行われてきた。若い者は、人生の先輩の経験や知恵を尊重して老人を大切にし、老人は、愛情をもって子孫の養育に協力した。また、社会においても、先人の努力によって今日の社会があるとして老人に感謝し、老人をいたわる敬老の精神があった。老人も、子孫に文化・伝統を伝え、次世代に立派な社会や国を受け渡せるよう、生涯責任を果たす努力をしてきた。

 こうした世代間のつながりは、さらに祖先と子孫の関係へとつながっている。日本人は、祖先と自分たちの生命とは切り離せないものと感じてきた。

自分の存在を考えてみると、父母があって自分がある。また両親にはその親があり、そのまた上にも親がいる。自分は父と母の2人から生まれたが、祖父、祖母は4人ある。曾祖父、曾祖母は8人、更に遡れば16人、32人という様に、代をさかのぼって、続いている。しだいに世代を重ねていくと、どれくらいの祖先につながるのかといえば、10代で約2千人、1代30年として3百年ぐらい、江戸時代の初めで2千人の祖先とつながる。28代、約840年さかのぼると、なんと1億3千万人にもなる。日本の現在の人口を超えてしまうわけである。50代さかのぼれば、平安時代の中ごろで何と20億もの人々と繋がる。人類が発生した時に遡れば、莫大な数の祖先がいることになる。

 これは生物学的・生命科学的な事実である。日本人は、こうした祖先から自分に続いてきた生命の流れを自覚し、その過去からの流れの中で自分の役目を考えてきた。それは、自分から子供・子孫へという、これから将来へ向かう流れの自覚ともなる。

 子として親に感謝する心は、親のまた親である祖先への思いとなっていく。子孫として今日あることは祖先のおかげであると感じて、祖先に感謝する。そして、祖先から受けた恩に対して、子孫としてこれに報いようとするのである。自分が祖先もそうしてきたように、子どもを産み育て、さらに子孫が幸福に暮らし、繁栄していけるように、親としてあるいは祖父母として、努力する。そこに、自分のアイデンティティや役割意識を感じてきた。世代間の生命の継承という流れの中で、祖先には感謝と敬愛を表し、子孫には子孫繁栄の基礎作りに努めてきた。自分たちの代の幸福を望むだけでなく、祖先を慰霊し、子孫の繁栄を願ってきたわけである。ここには本来の日本の家族の姿がある。

日本の家庭では祖先を大切にし、祖先の霊を祀る。そこには祖先の生命が死後も存続し、祖先と子孫が霊的につながっているという観念がある。祖先祭祀は、一般に仏教の教えと思われているが、仏教に由来するものではない。仏教発祥の地・インドには、先祖供養の風習はなく、お墓もなく遺体を川に流して自然に帰すところが多いようである。本来、亡くなった人を供養するという考え方のなかった仏教が、中国を経て日本に入ったのちに、日本人がもともと行っていた祖先祭祀の習俗を取り入れたのである。それゆえ、日本人が先祖供養をするのは、日本人本来の精神の表れといえるだろう。

日本人は祖先祭祀を行うことで、自分の生命の源を敬っているのである。祖先の生命は、どこまでも遡れば神に到る。それゆえ、祖先への崇敬の念は神への信仰へと連続していた。

日本人は、自分というものを一人ではないと考える。親も祖先も、子供も子孫も、みな自分と繋がっている。そういう繋がりの中に自分がいると考える。そして親子は一体であり、祖先と子孫も一体である。親子一体、祖孫一体が、日本精神の特徴である。それは、生命を重んじ、生命を大切にする生き方ともなる。

戦後の日本では、生命というものが最高の価値であるという考えが一般的になった。そこで考えられているのは、個人個人の生命であろう。しかし、実際の生命は、親から子、子から孫、祖先から子孫へと受け継がれ、受け渡されてきたものである。今日、求められているのは、こうした生命観に基づく価値観である。そして、生命の実態に基づいて道徳を考えるならば、家族から祖先へと道徳を広げていった日本の伝統的な道徳には、時代が変わっても失ってはならないものがあることがわかるだろう。

 

(6)社会公共への貢献

 

人は家庭で育てられ、成長すると、友人や親族と遊ぶ。また学校で学び、道徳・体力・知識・技術等を身に付けて、少しづつ社会生活の仕方を身につけて、社会に出て自立していく。そして、地域や職場の知人などとのつながりを持ち、様々な人間関係の中で生きていく。家族は、このように人が社会で活動できるようにするための保育場所であり、訓練所である。

人は家族の一員であるとともに、社会や国家や人類の一員でもある。それゆえ、家庭において「世のため、人のため」という公共的な精神を育てることは、家族の役割でもある。

そして、明るく楽しい家庭は、明るく心豊かな社会、活力ある国家の基礎である。この点は、次の章で改めて考えて見よう。ページの頭へ

 

第8章  家族の調和から人類共同体へ

 

家族の役割は、国家・社会に関することに留まらない。明るく楽しい家庭は、平和な世界の基礎でもある。

前章の家族的道徳の復活から社会公共への貢献へという線にそって、最後にこの点を考察してみよう。人間社会は「家族」を最小単位として、いくつか段階的に拡大する集団で構成される。それを「家族」「親族」「地域」「企業」「民族」「国家」「宗教」「人類」という8つの主な集団に分けてみることにする。

人は家族に所属しつつ、こうした一部階層的で、一部重り合う諸集団に、多重的に所属し、またそこでの人間関係をもちながら生活している。

まず人は「家族」をつくり、親子・夫婦・兄弟・祖孫といった家族のつながりを持ち、様々な人間関係の中で生きている。「個人」とは、こうした「家族」の中にある人間である。

その「家族」は、さらに「親族」というより大きな血縁をもとにした集団に含まれる。親族は、拡大された家族ともいえる。その中には、非血縁による義理の関係が含まれる。その点で、親族は社会一般と、家族との間にあり、どちらにも開かれている。

「家族」は直接、あるいは親族とともに、地縁的な集団、「地域」に所属し包摂される。これは小さくは村落であり、さらに町・市・県というように段階的に拡大する。人は居住地を中心に、こうした地縁的な集団に所属する。これは地域の人間関係であり、地方自治体への所属である。

「地域」と一部重なり合いながら、個人・家族・親族を包摂している組織に「企業」がある。これは社縁的な経済組織であり、生産と消費の活動を行う。企業は、利潤と効率を追求する組織である。こうした企業が多数活動する場として、経済社会がある。そこでは、物・貨幣・情報・労働力が流通する。「企業」は、必ずしも地域に限定されず、市場の広がりと共に、国内に活動を広げ、また国外にも広く展開する。企業は家族・親族とは、集団構成の原理が異なる。後者が生命のつながりを基本とした集団であるのに対し、企業はものとお金のつながりを基本とした集団である。その経済原理は、家族・親族の生命原理と対立する。

「企業」とは異なり、家族・親族の生命的なつながりをさらに拡大したものが、「民族」である。ただし、民族は必ずしも生命的なつながりを主要素としない場合がある。むしろ言語や文化、歴史や宗教の共有が重要となる場合がある。では何をもって「民族」と呼ぶか。これは「自分たちは、○○民族である」という集団の自己意識による。それは多くの場合、他の集団との違いによって、自らを一つの集団と意識する。違う集団との出会いが、自己意識を生む。それゆえ、民族は生命的・言語的・文化的・歴史的・宗教的等の要素をもつ心理的集団ということができる。人は、家族・親族・地域を通じて、民族に所属する。家族・親族・民族という生命的な組織の高度化がここにある。下位の段階は、より高位の段階に包摂される。

 そして、家族・親族・地域・企業・民族を包摂した集団が、「国家」である。国家は領土・国民・政府を要素とする政治的な集団である。国家は家族を初めとする下位の集団を包摂しつつ、それらの間の段階的秩序を形成する。国家には法や行政組織や軍事組織など、下位の集団に比べ、特徴的に発達した要素が多く存在する。

一方、国家とは別の意味で、高次の集団が宗教である。宗教は信仰をもとにした精神的な集団である。それは国家に包摂される場合が多いが、国境を越えた国際的な集団となることもある。その宗教が宇宙的原理・法則に則った教えを説く宗教である場合、宗教は国家の原理を超えた集団となり得る。

人類はヒトという人類学的・種族的な集団であり、また国家間のつながりを通じての国際社会でもある。国際社会とは、国家が多数集合した社会である。国際社会は、国家や民族や宗教のような共同性は低いが、人類の社会という意味では、世界人類的共同体である。ここにおける人倫は、人類を同胞と感じる人類愛・博愛である。それは、「人類みな兄弟」という言葉に表される。人類愛は、家族道徳が確立されていればこそ、発現される。自分の親・妻・子・兄弟姉妹への真情からの愛があってこそ、周囲にその愛が広げられ、ついには人類愛・博愛にまでいたる。

人類の歴史は、諸部族・諸民族・諸国家の対立と闘争を繰り返してきた。しかし、生産・交通・情報等の発達により、人類は一つの社会を形成する方向へと進んでいる。現在は大きくは諸国家が連合と協調の方向に向かいつつ、部分的には対立と闘争を繰り広げている状態である。この人類社会はまだ、一つの共同体とはなっていない。「一つの世界」をめざすためには、それぞれの国家が独自の文化に基づく道義国家を建設することが求められる。そうした国家が寄り集まることによってこそ、「世界国家」の形成が可能となる。

来るベき世界国家においては、従来の諸国家は「廃藩置県」を断行することになるだろう。すなわち、近代国家が保有していた主権を一部制限し、より高次の共同体をつくる。国家が個別に戦力を持たず、その戦力を提供し合って、共有の戦力を持つ。いわば世界警察をつくって治安を維持する方式となるだろう。諸国民はその文化をそれぞれ独自の性格において発展させながら、しかもそれらの異なった文化を互いに補充し合うことが求められる。各国民は互いに犯すべからざる尊厳と価値をもち、いかなる国民も、他の国民を支配してはならないとともに、他の国民に支配されないような国際社会がめざされよう。

こうした「世界国家」、新たな人類の共同体の基礎となるものーーそれが、家族である。親子・夫婦・兄弟・祖孫の間の愛情と信頼こそが、人類の平和と発展の基礎となる。

さて、わが国では、もともと親子・夫婦・家族の結びつきが深い。親子一体・夫婦一体・祖孫一体の生き方が、日本精神の特徴をなしてきた。日本精神とは、このように人間の人間たるゆえんが表れた精神であるから、民族・国境・時代を超えて踏み行うべき道である。共存共栄の指導理法である。私たち日本人には、日本精神に基づいた家庭を築き、それによって健全な社会を作り、さらに、この道を世界の人々に伝えて、調和のある家庭を基にした平和な世界を築くべき役割があるといえよう。そうした観点も加えて、今日の日本の家族の危機を乗り超え、家族の再生を目指していきたいものである。子供たちのために、そしてその子供たちの子供たちのために。(1)(2)

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(1)わが国の伝統と日本人の役割については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本の公と私

(2)家族の調和のために重要な男女の役割については、以下の拙稿をご参照下さい。

  「男女の調和が日本再生の鍵

 

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