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説明: 説明: ber117

 

教育勅語を復権しよう

2002.12.7

 

 <目次>

1.教育と心の再生のために

2.教育勅語が発布された理由

3.立案された過程

4.教育勅語を読んでみよう

5.教育勅語の構成と内容

6.発布してどうだったか

7.教育勅語が廃止された事情

8.廃止に法的効力があるかは疑問

9.教育勅語を否定したがために

10. 教育勅語の復権を

 

説明: 説明: ber117

 

1.教育と心の再生のために

 

わが国では戦後、道徳教育が、ほとんど行われてきませんでした。大東亜戦争の敗北と戦勝国による日本弱体化政策の影響です。そのため戦後世代は倫理観が低下し、今日ではいじめ、不登校、学級崩壊等が深刻な問題となっています。

事態を改めるには、教育を改革しなければなりません。そして、道徳教育を復活、推進しなければなりません。そのためには、戦後教育を規定している教育基本法を改正するとともに、わが国の教育の理念・目標を示した教育勅語の復権が必要です。( 1)

戦前のわが国には、伝統に基づく道徳教育が行われていました。子供の心に規範意識をはぐくむものがありました。それが教育勅語です。

教育勅語は、明治23年に明治天皇より賜ったお言葉であり、わが国の教育の理念・目標が説かれています。そして、戦前は、教育勅語の示す理念・目標の下に、教育が行われていました。その核となったのが、修身と呼ばれた道徳教育です。しかし、戦後GHQによって教育勅語は廃止を余儀なくされてしまいました。そして、そのまま捨てて顧みられずにいます。このことが、今日の教育危機や青少年の心の荒廃の一つの重要な原因となっているのです。このまま、教育勅語を忘れ去っていると、日本の教育は益々荒廃し、日本人の心はいよいよ頽廃し、ひいては日本が亡国に至る恐れがあります。日本の教育と日本人の心の再生のためには、教育勅語の再評価と復権が必要です。ページの頭へ

 

(1)  教育基本法については、以下の拙稿をご参照下さい。

戦後教育を呪縛した教育基本法〜その弊害と改正

 

 

2.教育勅語が発布された理由

 

どうして、教育勅語というものが、発布されることになったのでしょうか。

明治維新後、西洋列強の脅威の中で独立を維持するため、日本は西洋の文化を積極的に採り入れ、自国の近代化を推し進めました。文明開化・富国強兵・殖産興業が目標とされました。

こうしたなかで、明治5年(1872)5月、学制が発布され、近代国民を創出する教育が開始されました。「一般人民邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」との趣旨に基づいて発布された学制は、国民すべてが学校教育を受けることを目指しました。江戸時代に発達していた寺子屋教育を下に、全国的に近代的な学校教育が急速に普及しました。学制の主眼は「学問は身に立つるの財本」とする功利主義的学問観に立つ実用的な教育でした。

こうして始まった近代教育は、西洋文明を模倣することに急なあまり、自国の学問をないがしろにしていました。とりわけ道徳教育を軽視していました。学制と同時に定められた「小学教則」において、修身の時間は最も下位に置かれました。その教科書もほとんどが欧米の道徳・法律書の類を翻訳したものでした。

明治天皇は西洋模倣の教育を深刻に憂慮し、明治11年(1878)に教学刷新についての示唆を与えました。これは後に「教学大旨」としてまとめられました。その内容は、道徳あるいは仁義忠孝を主に学び、その上で知識才芸を究め、それによって人道をつくすことが柱となっています。さらに同15年には、侍講の元田永孚(ながざね)に命じて、幼児のための教訓書である「幼学綱要」を編ませました。

しかし、世は鹿鳴館の舞踏会に象徴される欧化主義の時代でした。思想界、教育界の混迷は収まらず、道徳教育に関する課題はそのままとなっていました。

勅語煥発の直接のきっかけは、明治19年10月、明治天皇の東京帝国大学行幸でした。天皇の行幸ならびに明治天皇の教育観を、元田が記録したのが「聖諭記(せいゆき)」です。当時のわが国の指導者たちは、まず軍事技術で欧米に追いつかなければならないと考えていました。産学が一体になって技術革新に取組む必要があり、日本の大学が理工系を中心とするようになっていました。明治天皇は、大学の何もかもが西洋一辺倒になっていることにひどく驚きを感じました。これでは、日本の歴史、伝統、文化、精神が吹き飛んでしまう。西欧の科学教育のみでは人材を作ることができない。道徳を基礎として、その上で西欧の科学を学ぶようにしなければ、真の人材を育成できないーーこう憂えた明治天皇は、これからの教育のよりどころとなるものが必要だと考えました。

また、一方、明治23年に地方長官会議で、知育の一方のみ進んで徳育が進まないことを憂える知事たちから、徳育の教えを確立してほしいとの建議が内閣に対して出されました。要望の理由としては、当時の教育界には欧米の「豪傑」を理想としたり、欧米崇拝、伝統無視の風潮が強くなっていました。特に洋行帰りで西洋かぶれになった学士会の影響が地方や学生にまで及んでいました。そこで、地方長官たちは、教育のこの状態は日本の将来のために良くないとして、徳育の基本方針を立てることを提案したのです。こうした国民からの要望に応える必要もありました。ページの頭へ

 

 

3.立案された過程

 

教育勅語の最初の草案を書いたのは、中村正直でした。これは天・神などの宗教的概念を使い、西欧思想に基づく中村流の哲学理論によって道徳の根源を明らかにするという性格をもっていました。これは多くの問題点が指摘されて事実上廃案となりました。中村に代わって起草に携わったのが、当時法制局長官だった井上毅です。

井上は草案作成に当たり、7つの前提条件を立てました。まず、今日の立憲主義に従えば、君主は臣民の良心の自由に干渉してはなりません。そこで教育の方向を示す勅語は、「政事上之命令」ではなく、「社会上之君主の著作公告」として発せられるべきであるという原則を示しました。その上で、宗教上の争いを引き起こす可能性のある「天を敬い、神を尊ぶ」のような語を使用しないこと、必ず激しい論争を招く「幽遠深微なる哲学上の理論」にわたるのを避けること、天皇の真意ではなく時の政治家の示唆によるものと受け取られるような「政治上之臭味(くさみ)」を帯びないこと、「漢学の口吻と洋風の気習」を吐露しないこと等を、前提条件として挙げました。

井上はこれらの前提条件の下に教育勅語を起草しました。これに、彼と同郷(熊本藩)の儒学者・元田永孚(ながざね)が協力して草案を作りました。天皇からもいくつか要望が出され、さらに修正が加えられました。そして明治23年10月30日に発布されました。

元田が井上の意見を尊重したので、井上の基本方針は最後まで貫徹されました。それは、法律と異なり大臣の副署がないこと、天・神などの用語を使わないこと等に表われています。しかし、勅語の発布形式は井上の構想と異なり、天皇が首相・文相を宮中に召して親しく勅語を下され、文相は直ちに全国に発布するという形となりました。ページの頭へ

 

 

4.教育勅語を読んでみよう

 

 次に原文・読み下し・語句解釈・現代文訳を掲げます。

 

●原文

 

教育ニ關スル勅語

 

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス

爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

  明治二十三年十月三十日

      御 名   御  璽

 

●読み下し

 

朕(ちん)惟(おも)ふに 我が皇祖皇宗(こうそこうそう) 国を肇(はじ)むること宏遠(こうえん)に 徳を樹(た)つること深厚(しんこう)なり 我が臣民(しんみん) 克(よ)く忠に克く孝に 億兆(おくちょう)心を一(いつ)にして 世々(よよ)厥(そ)の美を濟(な)せるは 此(こ)れ我が国体(こくたい)の精華(せいか)にして 教育の淵源(えんげん)亦(また)実に此(ここ)に存す

爾(なんじ)臣民(しんみん) 父母に孝に 兄弟に友に 夫婦相(あい)和し 朋友(ほうゆう)相信じ 恭儉(きょうけん)己れを持し 博愛衆に及ぼし 學を修め業(ぎょう)を習ひ 以(も)って智能を啓発し 徳器(とくき)を成就(じょうじゅ)し、進んで公益を広(ひろ)め 世務(せいむ)を開き 常に国憲を重んじ国法に遵(したが)ひ 一旦緩急あれば義勇公に奉じ 以って天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし 是(かく)の如(ごと)きは 独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず 又以って爾祖先の遺風を顕彰(けんしょう)するに足らん

斯(こ)の道は 実に我が皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所 之(これ)を古今に通じて謬(あやま)らず 之を中外(ちゅうがい)に施(ほどこ)して悖(もと)らず 朕爾臣民と倶(とも)に挙々服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)其(そ)の徳を一(いつ)にせんことを庶(こ)ひ幾(ねが)う

 

●語句解釈

 

朕(ちん) =天皇の自称。ここでは明治天皇自身のこと。

皇祖皇宗(こうそこうそう)=皇祖は、皇室の先祖である天照大神あるいは初代・神武天皇、または天照大神から神武天皇まで。皇宗は、第2代以降の歴代天皇。

肇ムル=創り開く。

徳ヲ樹ツルコト=徳をもって国を治めること。この徳治主義の理想が、八紘一宇。

臣民(しんみん)=臣としての人民。本来、シナでは臣と民は別だが、ここで臣民という身分的区別のない国民を創り出した。

克ク=「能く」と同じ。

忠(ちゅう)=まごころを尽くすこと。君主に対して忠実なさま。

孝(こう)=父母を大切にすること。

億兆(おくちょう)=多くの人々。この場合、すべての国民。

國體=国家としての固有の体制ないし性格、「国柄」の意。

精華=すぐれて美しい特色。

淵源(えんげん)=物事が起こり基づく根源。

朋友(ほうゆう)=友達・友人。

恭儉(きょうけん)=人に対してうやうやしく、自分自身はつつしみ深いこと。

博愛(はくあい)=すべての人を等しく愛すること。

徳器(とくき)=道徳の高い立派な人格。

世務(せいむ)=世の中のつとめ。

國憲=国の根本法すなわち憲法(勅語発布の前年の明治22年に出された)

緩急(かんきゅう)=危急の場合。非常事態。

義勇(ぎゆう)=正義に基づいて発する勇気。

天壌無窮(てんじょうむきゅう) =天地とともに永遠に続くこと。

皇運(こううん)=皇室の運命。ひいては天皇を戴く日本国の運命。

扶翼(ふよく)=力をそえて助けること。扶助。

遺風=祖先が残した美風。

古今ニ通シテ謬ラス=昔から今に至るいつの時代に実践しても誤りがない。

中外ニ施シテ悖ラス=我が国で実践しても外国で実践しても間違いがない。

拳拳服膺=謹んで捧げ持つように、常に心に抱いて守り実行すること。

庶ヒ幾フ=願い望む。

 

●現代文訳

 私は、天照大神を皇祖とし神武天皇を初代天皇とする私達の祖先が、遠大な理想のもとに日本の国を始め、また祖先が立てた道徳は、実に奥深く慈しみ厚いものであることを固く信じます。そして、国民がよく君に忠義を尽くし、父母に孝行を励み、全国民が心を一つに合わせて、今日に至るまで、忠孝の美風を作り上げてきたことは、日本の国柄の最も優れた美点であって、私は教育の根本もまた、この点にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟、姉妹は互いに仲よく、夫婦は敬愛の心をもって睦まじく、友人は誠の心をもって信じ合い、他人に対しては礼儀を守り、自分に対しては慎み深く、広くすべての人々に愛の手を差し延べ、学問に励み、職業を習って身につけ、知識を広めて才能を伸ばし、立派な人格を完成し、さらに進んで、公共の利益を増進し、世の中のためになる仕事をすることが大切です。また、いつも法律や秩序を守り、もし一たび国家に非常事態が起こったならば、正しい勇気をもって、真心を捧げて、天地とともに限りなく栄える、皇室を中心とした日本国の運命を助けなければなりません。

 これらの道徳を良く実行することは、単にわが国の立派な国民としての当然の務めであるばかりでなく、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された、忠孝という伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先が残し、代々受け継がれてきた教訓であって、皇室の子孫も、国民も等しく守ってゆかねばならないところであると共に、昔も今も、いつの時代に行なっても誤りがない道であり、日本だけでなく、世界中どこの国で行なっても、間違いのない道であります。

 私もまた、国民の皆さんとともに、父祖の教訓を常に胸に抱き、この道徳を守り実行して共にすることを、心から念願するものであります。

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5.教育勅語の構成と内容

 

教育勅語は、三つの部分から構成されています。

第1段は、冒頭から「〜此ニ存ス」まで。ここでは最初に、我が国の建国の由来と、日本の国柄の美しい特色を述べ、これを教育の根本とすることが明らかにされています。

この段の「我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり」という一文は、明らかに記紀神話に基づいています。すなわち天照大神を皇祖とし神武天皇を初代天皇とする皇室の祖先が、日本の国を始めた時、「うしはく」つまり力による支配ではなく、「知らす」つまり徳による統治が目指されました。そして、天皇が国民を、「大御宝」(おおみたから)と呼んで大切にし、親が子を思うように慈しんで、仁愛による政治を行うことが方針とされました。また、八紘一宇(はっこういちう)の理想世界の実現という遠大な理想が立てられました。八紘一宇とは、「天の下を一つの家とする」ということであり、世界中を一つの家族とするという目標です。

そして、天皇が行う仁政に対して、国民が応えるのが、忠孝の実践です。すなわち、君に忠義を尽くし、父母に孝行を励むことです。そして、勅語は、全国民が心を一つに合わせて忠孝の美風を作り上げてきたことが、日本の国柄の最も優れた美点であるとしています。ここには、人と神が連続し、皇室と国民が祖先を共にし、一大家族をなしているという日本独自の考え方が見られます。そして、わが国においては、忠孝の本が一つであり、それは敬神崇祖に基づくことが含意されています。ただし、神という言葉は直接使われていません。文字に表わさなくとも、それは国民的常識だったからでしょう。( 2)

 

第2段は、「爾臣民」から「〜ニ足ラン」まで。ここでは、 初めに天皇が国民に対して「爾臣民」と親しく呼びかけ、国民が守り行うべき道を示しています。そして、具体的な徳目を掲げて、それを実践する意義が明らかにされています。

ここでは第1段で述べられた忠孝を実践するための徳目が具体的に述べられていきます。挙げられた徳目は12あります。「孝行」「友愛」「夫婦の和」「朋友の信」「謙遜」「博愛」「修学習業」「智能啓発」「徳器成就」「公益世務」「遵法」「義勇」です。それぞれ次のような内容です。

 

「孝  行」=子は親に孝養を尽くそう

「友  愛」=兄弟姉妹は互いに仲よくしよう

「夫婦の和」=夫婦は敬愛の心をもって仲睦まじくしよう

「朋友の信」=友人は誠の心をもって信じ合おう

「謙  遜」=他人に対しては礼儀を守り、自分に対しては慎み深くしよう

「博  愛」=広くすべての人に愛の手を差し延べよう

「修学習業」=勉学に励み、職業を習って身につけよう

「智能啓発」=知識を広めて才能を伸ばそう

「徳器成就」=自己の人格の完成に努めよう

「公益世務」=公共の利益を増進し、世の中のためになる仕事をしよう

「遵  法」=いつも法律や秩序を守ろう

「義  勇」=正しい勇気を持って世のため国のために尽くそう

 

これらの徳目は、個人的から家族的の私的な道徳にとどまらず、社会的から国家的の公的な道徳に及んでいます。これらは単にシナの儒教の徳目を列挙したものではありません。日本人の精神的伝統に基づいて再編されているとともに、近代国家・日本の国民として期待される徳目へと展開されています。

精神的伝統に基づく再編の例としては、儒教では「夫婦別あり」と夫婦の位階的・秩序的区別を説きますが、勅語では「夫婦の和」、夫婦の和合を説いています。近代国民としての徳目の例としては、「義勇」は近代国家の国民としての国防の義務に通じるものです。

 

第3段は、「斯ノ道」から最後まで。ここでは、勅語が説く道は、明治天皇が新に決めたものではなく、祖先からの教訓であり、いつの時代どこの国にも通じる普遍的な道徳であるから、ともに努力して実行するよう呼びかけて結んでいます。

特に注意したいのは、教育勅語は、天皇が国民に一方的に命令したものではないことです。天皇は自ら実行するともに、国民に一緒に実行しようと呼びかけているのです。すなわち、敬神崇祖・忠孝一本の道であり、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の精神を、天皇は国民に対してともに実行しようと呼びかけているのです。

このような構成の下に、教育勅語には、わが国の教育の理念・目標が説かれています。さらにその短い文章の中に、教育勅語には、日本人が古来受け継いできた自己本来の日本精神が、よく表現されていることがわかるでしょう。(3)

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(2)  日本の国柄については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本の公と私

(3)教育勅語のさらに深い意味については、以下の拙稿をご参照下さい。

『三種の神器』と知仁勇

 

 

6.発布してどうだったか

 

教育勅語が発布された当初は、キリスト教徒の内村鑑三による敬礼拒否事件、またそれを契機とする哲学者・井上哲次郎とキリスト教徒との論争などもありましたが、時代を経るに従って、教育勅語は国民に深く浸透していきました。そして道徳教育のみならず、初等教育から高等教育に至るまで、わが国の教育全般の根本となりました。

明治38年(1905)、わが国が日露戦争に勝利すると、世界はわが国を驚きの目で見るようになりました。そして、日本の教育のあり方が大きな注目を受けました。

日露戦争開戦の直前、元老伊藤博文は、あらかじめ戦争終結の工作のため、米国に、金子堅太郎を派遣しました。金子はハーバード大学に留学したことがあり、当時の大統領T・ルーズベルトとも同窓でした。開戦後、大方の予想に反して日本軍は連戦連勝を続けました。それを見て驚いた米国人から、金子は質問を受けました。「日本の勝利はきっと国民の教育によるものだろう。日本はどのような教育を行っているか」と。そこで金子は、まず日本軍には軍人勅諭があることを述べ、次に教育全般の根本には教育勅語があることを説明しました。そして、前もって準備しておいた教育勅語の英訳を披露したところ、多くの米国人から共感と称賛の声が寄せられました。金子の終戦工作もまた、成功できました。

日露の和平が成って帰国すると、金子は、政府が正式に教育勅語を翻訳することを提案しました。そこで、菊池大麓(理学者、東大総長等を歴任)・新渡戸稲造らによって、まず英訳版が作られ、明治40年に公刊されました。ついで漢訳(中国語訳)がなり、42年には仏訳・独訳が完成し、在外公館を通じて世界各国に配布されました。この間、41年にロンドンで開催された国際道徳会議においては、菊池が教育勅語について講演し、好評を博しました。そして、欧米の有識者から、教育勅語は高い評価を受けるようになりました。

戦前まで、わが国の学校では、四大節などの式日を中心として、勅語が奉読されました。またその中に説かれた徳目を身につけるため、道徳教育が行われました。当時の道徳教育は「修身」という科目で行われました。1週間の最初つまり月曜日の1時間目に、修身の授業が行われました。修身では、道徳がわかりやすい実話や寓話を基に講述されました。また教育勅語を学ぶことが義務付けられ、尋常小学6年の修身の教科書に、勅語の解説が掲載され、教えられました。

教育勅語は、天皇が国民に共に実行しようと呼びかけたものでした。ところが、起草者の井上の意図と異なり、文部大臣に下賜される形となったため、「政事上ノ命令」と誤解されるようになりました。そして文部行政は、勅語の枠外に教育すべき徳目はないという狭量な考えに陥ってしまったのです。とりわけ、昭和戦前期には学校における勅語の奉読形式が格別重視されたり、全文の暗記・暗写がことさら強調されました。当時は、軍部の戦争遂行政策に役立つように悪用されていたことを指摘せねばなりません。

しかし、それは、教育勅語の用い方の問題であって、勅語の内容そのものの価値とは別です。明治時代以来、勅語の中に示された徳目は、わが国の家庭教育の指針ともなっていました。また、社会教育、国民教育の基本でもありました。昭和戦前期に一時、用い方に行き過ぎがあったにせよ、教育勅語は、近代日本の精神的支柱となっていたのです。ページの頭へ

 

 

7.教育勅語が廃止された事情

 

ところが、大東亜戦争の敗戦によって、わが国は外圧によって、教育勅語を失うこととなりました。米国を中心とする連合国は、わが国を占領し、占領政策を行いました。占領政策の目的の一つは、彼らに対する日本の「脅威」の除去にありました。GHQ(連合国軍総司令部)は、日本を弱体化するために、軍事的な武装解除だけではなく、日本人の「精神的な武装解除」を行おうとしました。

そこで重視されたものの一つが、教育でした。GHQは、わが国の教育を改変するため、多方面に渡る政策を相次いで強行しました。彼らは戦前の教育から「軍国主義」また「超国家主義」を取り除こうとしたのです。そこで難題となったのが、教育勅語でした。

注意したいことは、GHQの幹部は、教育勅語それ自体は何ら悪いところはないと考えていたことです。内容よりも、戦前のわが国で行われていた勅語の解釈や運用を問題としたのです。GHQの民間情報教育局(CIE)の教育課長H・G・ヘンダーソンは「非常に家族主義的であることを除いて、勅語それ自体は悪いところはない」と考えました。問題は勅語が「軍国主義的狂信的愛国主義者」によって悪用されたことであり、「御真影」(天皇の写真)の前で行われる「勅語奉読の儀式」は、「天皇の神格性の観念を説くのに役だった」から「少なくともその悪影響を除去したかった」と、考えたのです。しかし、ヘンダーソンは、勅語の廃止を直接命じることは「天皇に対する侮辱であり、ゆえに、日本人が百人おれば、95人が個人的侮辱とみなすだろう」と懸念していました。

そこで、ヘンダーソンは勅語の超国家主義的解釈については、最終的にはそのような解釈を公的に否定する「日本側からの権威ある声明」を得ることを目指しました。それに応える形で昭和21年1月1日に発せられたのが、いわゆる天皇の「人間宣言」です。

わが国の政府は、教育勅語を何らかの形で維持することを希望していました。昭和21年7月、田中耕太郎文相は議会で教育勅語擁護論を表明しました。このことにより、CIEと文部省との間で折衝が重ねられました。その結果、10月8日に、文部省が各学校にあてて、次のような通牒を発することで、一応の決着が図られました。通牒は、(1)教育勅語を我が国教育の唯一の淵源とする従来の考えを改め、古今東西の倫理・哲学・宗教などにも求める、(2)式日などに行ってきた勅語奉読を止める、(3)勅語・詔書の謄本などは従来同様に学校で保管するが、それらを神格化するような取り扱いはしない、というものです。CIEとしてはこれでほぼ満足し、これ以上深入りしないという姿勢を示しました。これで決着がつけば、わが国は、教育勅語に関する戦時中の極端な傾向を改めたうえで、本来の内容を戦後の教育に生かしていくことができたはずです。

ところが、戦前のわが国のあり方を何もかも悪いものとみなす米国務省は、教育勅語を全面禁止とすることを決定しました。また、日本占領の最高機関として連合国で構成する極東委員会も、同主旨の指令を発しました。GHQの内部で、この方針を忠実に実行しようとしたのが、民政局(GS)でした。民政局は、日本占領において内政一般を所掌しており、教育を管轄するCIEとは別の部署です。

GSはCIEの権限を侵さずに実を得る巧妙な方法を考えました。国会で教育勅語の廃止を決議させるという方法です。国会課長のJ・ウイリアムスは衆参両院の文教委員長を呼び、教育勅語の廃止決議を行うよう口頭で命令しました。当時は占領下です。銃砲の下での圧力に屈し、昭和23年(1948)6月19日、衆議院は「教育勅語等排除に関する決議」を行い、参議院は「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行いました。こうして教育勅語は事実上、廃止されるに至りました。ページの頭へ

 

 

8.廃止に法的効力があるかは疑問

 

教育勅語が廃止される前に、昭和22年3月、戦後教育を規定することになる教育基本法が制定されました。教育基本法の制定にあたり、わが国の政府は、教育基本法は教育勅語を否定して制定するものではないと考えていました。道徳としての教育勅語と法としての教育基本法はセットとしてとらえていたのです。しかし、国会決議によって教育勅語が廃止されたことにより、教育勅語と教育基本法を補完的なものとする政府文部省の公的見解が、否定されてしまったのです。

明星大学の高橋史朗教授は、昭和56年にアメリカで発見した占領文書などを研究し、このことによる問題点を明らかにしました。

教育基本法の立法者意思は、教育勅語を否定していませんでした。当時の高橋誠一郎文相は、「教育勅語とこの教育基本法との間には、矛盾と称すべきものはないのではないかと考えておる」「決してこれに盛られている思想が全然誤っており、これに代わる新しいものをもってするという考えはもって」いないと答弁しています。しかし、GHQ民政局の口頭命令によって強要され、国会決議にて教育勅語は廃止されたのです。

しかし、この国会決議が有効なものかどうかには、問題がある、と高橋教授は指摘していす。そもそも教育勅語は、起草者の井上毅が「政事上ノ命令ト区別シテ社会上ノ君主ノ著作公告」として起草したものでした。当時、天皇の詔勅には大臣の副署がつけられて、法律となりました。しかし、井上の構想に基づいて、教育勅語には副署がつけられませんでした。法律ではなく、教育に対する天皇からの呼びかけという形をとったからです。それゆえ、教育勅語は「社会上ノ君主ノ著作公告」という性格のものであり、法的効力をもつものではありません。

GHQ製の戦後憲法は、第98条第1項に、「この憲法は,国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない」と定めています。しかし、教育勅語は、この条規に反する詔勅には該当しないものだったのです。高橋氏によれば、「教育勅語は天皇の御言葉であって法的な詔勅ではなく、国会決議で排除することはできない」のです。ページの頭へ

 

 

9.教育勅語を否定したがために

 

戦後日本の教育は、日本国憲法と教育基本法の下で行われてきました。そして、教育勅語は、廃止されたまま顧みられずにきました。その結果、明治天皇がおそれたことが起こっています。繰り返しになりますが、教育勅語は、西洋文明の摂取に急ぐあまりに、伝統的な道徳を軽視していた風潮に対して、わが国の教育の根本となる理念・目標を打ち出したものでした。それゆえ、教育勅語を否定すれば、必然的に、学校教育から伝統に基づく道徳が欠落し、西欧の模倣追従となります。同時に、家庭での教育も指針を失ってしまいます。学校で家庭で道徳的な価値観が喪失され、物事の判断基準が見失われます。まさにそれが、戦後日本において起こったのです。

日本国憲法には、日本の歴史・伝統・精神を守ろうという姿勢がありません。また、教育基本法は日本国憲法の下での教育を定めたものですから、愛国心・公共心の育成、伝統の尊重、祖先への敬愛、自衛心の涵養などが盛られていません。その空隙に教え込まれたのは、外国の思想でした。アメリカ型の民主主義であり、旧ソ連型の共産主義であり、また中国・朝鮮の反日思想です。こうして日本人は、日本の心を失い、独自の精神文化を失ってゆくことになりました。そして、日本人は経済的な復興と繁栄を追求するなかで、物質的な豊かさは得たものの精神的な高邁さを失ってしまいました。欲望の開放を自由の拡大と錯覚したような、品性のない国民に成り下がってしまったのです。

教育勅語という支柱をなくした教育が、戦後50年以上も続けられたことによって、教育には甚大な影響が出ています。将来を担う青少年の退廃、堕落は、底知れぬ深刻さを示しています。また、家庭が崩壊に向かい、社会は混乱し、国家の溶解が進んでいます。このまま精神的な支柱を見失っていれば、わが国は、亡国の道を歩むでしょう。ページの頭へ

 

 

10.教育勅語の復権を

 

戦前の教育がすべてよかったわけではありません。欠陥もあれば、ゆき過ぎもあったでしょう。しかし、その中の良いものもすべて否定してしまっては、精神的な低下が起こるのは当然です。教育勅語には、何千年もかかって培われてきた日本独自の道徳が結晶しているからです。そえゆえ、教育勅語の再評価と復権を行い、その内容のうち、現代に生かせることは、生かしていくべきなのです。

ただし、教育勅語の復権だけで充分なのではありません。21世紀において、大きな危機を乗り越えるためには、さらに深く、日本精神の真髄を学ぶことが必要です。またそれによって真の教育改革を実現でき、また新しい日本を築いていくことが初めて可能となるのです。(4567)

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(4)日本精神の真髄については、「基調」をお読み下さい。

(5)教育勅語について、道と徳という観点から考察した拙稿も、ご参照下さい。

 「日本における道と徳〜日本人の美徳を取り戻そう」の第3章

(6)教育勅語については、以下の拙稿に述べる和辻哲郎の所論も参考になります。

 「日本的倫理は世界的人倫実現の鍵〜和辻哲郎(1)

(7)子供のための教育勅語のビデオがあります。お勧めします。

http://www.youtube.com/watch?v=YgUi9g0KZGA

参考資料

・『明治天皇御製・教育勅語謹解』(明治神宮)

・ 大原康男解説『教育勅語』(ライフ社)

    涛川栄太著『今こそ日本人が見直すべき教育勅語』(ごま書房)

    八木公生著『天皇と日本の近代』(講談社新書)

    加地伸行著『教育勅語とは何か』(『明治天皇とその時代』産経新聞社所収)

・高橋史朗著『日本を蝕む日教組の浅薄な伝統観』(『正論』平成14年10月号 産経新聞社)

 

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