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オ ピ ニ オ ン  人権・男女

 

題  目

目  次

01 人権――その起源と目標(超長文)

 目次(全体の目次)

第1部 人権に関する基礎理論

第2部 人権の歴史と思想

第3部 人権の現状と課題

第4部 人権の目標と課題

02 「人権民主主義」に注意せよ

03 人権擁護法案の危険性

04 良識ある男女共同参画社会をめざそう

05 男女の調和が日本再生の鍵(長文)

06 夫婦別姓の導入に反対しよう(長文)

07 フェミニズムから公共道徳への転換を

08 急進的なフェミニズムはウーマン・リブ的共産主義(長文)

09 猛威のジェンダーフリーと過激な性教育(長文)

10 ジェンダーフリーは革命思想〜デルフィと大沢真理

11 嘘つきはジェンダーフリーのはじまり〜『ブレンダと呼ばれた少年』を読む(長文)

12 過激な性教育の背後に、妄想医師ライヒ(長文)

13 権利とは何かーー「力」から「徳」への転換

14 日本の再生か、個人主義の徹底か

15 外国人参政権付与が間違っている理由

16 外国人参政権より、日本国籍取得を(長文)

 

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■「人権民主主義」に注意せよ

2005.4.20

 

今日、一般に民主主義と訳されているもとの言葉は、英語のdemocracyである。現代では、デモクラシーは民衆が政治に参加している制度をいう。その参加形態は、多くの場合、選挙で代表を選んだり、意思を表わしたりする形をとる。そして、民主的といえば、無条件でよいものという価値観が広がっている。しかし、デモクラシーが発生した古代ギリシャでは、必ずしも良いものと考えられていたわけではない。
 古代ギリシャでは、古くは王から人民までが共同体の祀る神の前にひとしくぬかずいて祈るというのが、国のあり方だった。王は神々の子孫と信じられ、人民もまた王と血縁でつながっていると考えられた。そこでは宗教と政治が不可分のものとなっており、わが国にいう「祭政一致」の状態だった。これは、世界的に広く見られる国家以前の共同体と共通しており、氏族共同体が小王国に発展したと考えられる。しかし、ギリシャでは、都市国家が発展するにつれて、社会の共同性が崩壊していった。その結果、表れた政体が、君主制、貴族制、民主制(デモクラシー)である。
 プラトンやアリストテレスは、それぞれ君主制が堕落した場合は専制政治となり、貴族制が堕落した場合は寡頭政治となり、民主制が堕落した場合は、衆愚政治となると考えた。民主制は、多数者による無秩序な支配となると見なされていた。
 デモクラシーは、「デーモス demos(民衆)」の「クラティア kratia(支配)を意味する。デーモスは民衆であり、君主や貴族に対する市民のことである。ただし、彼らは奴隷を所有する少数の自由市民であった。一方、クラティアは、名詞のクラトス(力)、動詞のクラテイン(打ち勝つ、征服する)という言葉から派生している。そこから、支配を意味する。
 それゆえ、デモクラシーには、「力による支配」「勝利・征服による支配」が含意されている。そこには、国家の内部に対立・抗争があることが想定されている。また、その争いに「力」をもって「打ち勝った」者が支配する体制という考えが表れているわけである。その力による勝利者が民衆であるので、デモクラシーと呼ばれるわけである。しかし、その民衆が必ず良い判断・行動をするとは限らない。大多数の者が愚かな状態に陥れば、衆愚政治に陥る。少数の賢者の意見は圧殺され、大衆心理による無秩序な状態に陥る。そして、その状態を収める者は、再び「力」をもって現れ、「力による支配」を行う。その支配者が国の内部から現れれば、専制政治または独裁政治となる。国の外部から現れれば、その国は外部から侵略・征服される結果となる。デモクラシーとは、そういう危険性をもったものであることを知らねばならない。
 それでは、衆愚政治またはその後の専制や侵略を避けるにはどうすべきか。人民が道徳性を磨き、精神性を高める努力をするしかない。その努力をいとうならば、人民主権を担うにはふさわしくない。デモクラシーは、国民の道徳の涵養なくしては、維持できないのである。国民道徳・道徳教育の重要性に触れずにデモクラシーのみを唱える者は、国民を衆愚政治か、専制または他国民の征服支配へと導く者と知るべきである。
 国民道徳の向上を説かずに「人権」の拡大・擁護ばかり強調する「人権民主主義者」には、十分注意しなければならない。
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ber117

 

■人権擁護法の危険性

2005.4.20

 

 国会で、人権擁護法案が成立しかねない情勢となっている。この法案は、その核心をなす「人権侵害」という概念が曖昧である。そこに非常な危険性がある。さらに言うと「人権」という概念自体が、まだ十分な根拠付けのされていない概念であり、これを無制限に拡張すると憲法の法秩序を内部から破壊するものになりかねない。

 

●「人権」概念のあいまいさ

 

「人権」の概念は、戦後日本に突然、天から降ってきたものだ。GHQ製の翻訳憲法に「基本的人権の尊重」という原則が盛り込まれたのが、始まりだからである。

戦後日本における「人権」は、人間が生まれながらに自由であり、権利において平等であるということから出発した。日本国憲法に定められている。その憲法は、アメリカ軍人が起草したものが、銃砲の下に押し付けられたのである。そういう意味では、日本人の「権利」は、日本を占領していたアメリカ人の思想に根源を持つ。彼らの背骨にあるアメリカ独立宣言の思想が、その源流となっている。

独立宣言はいう。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれていることを信じる」と。日本国憲法には、「造物主」という言葉はない。しかし、もとは、「人権」とは造物主によって与えられたものだという観念があっての「人権」である。造物主を除いたならば、「人権」の根拠とは何か。「人権」とは、誠に宙に浮いたような不確かな観念なのである。

 

ところで、独立宣言にいう「造物主」だが、これはユダヤ=キリスト教における神を含意する。その神(ヤーウェ、エホヴァ、ゴッド)は、人間を自由で平等なものと創造したのだろうか。聖書を一度でも読めば、そうではないことが書いてある。

神が創造したのはアダムとイブのみである。アダムを土くれから造ったという。そして、アダムが寂しそうにしているので、彼の肋骨からイブを造ったという。この時点で、アダムとイブ、男性と女性の始原は平等ではない。神が創造したのはこの二人だけで、その後の人間は、つまり彼らの子孫として生まれたのであって、神が直接創造したものではない。

次に、アダムとイブは自由ではなく、その子孫も自由ではない。アダムとイブは楽園に暮らしていたが、イブが蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまったことで、楽園から追放された。そのため、彼らとその子孫は原罪を負っているというのが、聖書の信仰である。そして罪を負った人間は、男は労働を、女は生みの苦しみを味あわねばならなくなっているという。この状態は、自由ではない。労働をしなければならず、陣痛に苦しまねばならないのだから、労働と陣痛から自由でない。また原罪によって、この世に死というものが入ったという。そのため、人間は死ぬべき運命から自由ではない。それゆえ、人間は自由でも平等でもないというのが、聖書の書き示すところである。

キリスト教では、神がこの世に一人子イエスを遣わし、そのイエスが十字架上で贖罪をしたことによって、人間の原罪があがなわれたと説く。原罪とは神から離れている状態であって、救世主イエスの死と復活によって、神と人とが再び結びついたとする。それでは、それによって原罪は消滅したのだろうか。否、依然として、男は額に汗を流して働いている。また、女性は陣痛に苦しみ、すべての人は死を避けられない。キリスト教では、死の後に、最後の審判が待っているという。審判の結果は、もちろん平等ではない。聖書は、すべての人が救われるとは書いていない。それゆえ、人間が自由でも平等でもないという状態は変わっていない。

アメリカ独立宣言は、聖書に基づきつつ、聖書とは異なることを信じていると宣言しているわけである。いつのまにか、ユダヤ=キリスト教ではない「造物主」の信仰に乗り換えたのだろうか。日本憲法においては、一層事態が曖昧となる。「基本的人権の尊重」を謳っていながら、「人権」の根拠はそこには存在しないからである。

 

さて、そのような中で、現在、人権擁護法案が国会で取りざたされている。根拠不明の「人権」を擁護しようということを法律で決め、そうした人権の侵害を防ごうというのだ。その前にやることがある。憲法を見直し、「人権」という概念の根拠付けをやり直すことである。では、どのようにしてそれをやり直すのか。この課題は人間とは何か、地球における人間の存在とは何か、というような根本的な問題となる。現在の憲法改正論議では、まだほとんどその点が認識されていないようだ。ましてや、そのような中で、どさくさまぎれのような形で人権擁護法案を通過させてはならないと思うのである。

 

●人権擁護法案は思想統制を生む

 

人権擁護法案が「人権侵害」とするのは「不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為」である。また、人権侵害とは「人種等を理由としてする不当な差別的扱い」だとする。「人種等」とは「人種、民族、信条、性別、社会的身分、門地、障害、疾病又は性的指向をいう」と定義している。
 では、どういう行為を「差別」とし、「不当」だと判断するのか。どういう内容・程度を基準として「侵害」とするのか。同法案は解釈次第によって、特定の思想を持つ人々や団体の利益が過大に擁護され、大多数の国民の自由と権利が侵害されるおそれがある。

 人権擁護法案では、法務省の外局として人権委員会なるものが設置される。人権委員会は5人で構成され、ここが「人権侵害」であるか否かを判断する。また、地域における人権擁護の推進を図るために、人権委員会に人権擁護委員を置く。その数は全国で2万人とする。
 この法案の禁じる「不当な差別的言動」とは「相手を畏怖させ、困惑させ、又は著しく不快にさせるもの」である。「畏怖」「困惑」「著しく不快」の判断基準は、「人権侵害」「差別的言動」をされたと訴え出た「被害者」の側にある。
人権侵害をしたとみなされた人は、公的機関によって「出頭」が命じられ、「捜査」「家宅捜索」「押収」が行われる。またそれを拒否すれば、多額の「罰金」が科せられる。これではまるで、思想警察だ。
 何をもって「差別」とするか、また「差別助長行為」というかは、裁判でも見解が分かれている極めて難しい問題のようだ。それを厳格な審査を行う司法ではなく、行政機関である人権委員会が判断して、国民生活に介入するのは公権力の暴走を許す。
 「人権侵害」の定義が曖昧であるので、そのための「情報収集」「調査」「救済」「予防」は、特定の利害・目的のために利用される危険性もある。

 同法案について警鐘を鳴らしてきた八木秀次氏は、月刊「正論」の平成17年5月号に、「人権擁護法の背後にあるもの」という論文を書いている。八木氏によると、人権擁護法案は、もともとある特定の団体の思惑で策定されたものである。その団体とは、部落解放同盟(以下、部解同)であるという。東京新聞2月23日号は、部解同が人権委員会のメンバーに「被差別部落出身者、女性、障害者、在日外国人」を想定していることを報じている。もし全国の人権擁護委員が部解同の影響下に置かれたならば、「人権行政全体部同盟の完全なるコントロール下に置かれるのではないかという大きな懸念が生じる」と八木氏は書いている。

 また、仮に左翼的・反日的な思想をもった人間や過激なフェミニズムの思想をもった人間が人権擁護委員の多数を占めれば、特定の思想が「人権啓発」という名の下に宣伝・強制され、違う思想を持つ人々の思想・信条・表現の自由が踏みにじられるおそれがある。
 まだある。同法案の最大の問題は国籍条項の定めがないことである。人権擁護委員の要件は「住民」というだけで日本国籍は必要ないとされる。そのため、北朝鮮系の朝鮮総連の各地役員やそれに同調する日本人が人権委員になったり、人権擁護委員となることも可能である。彼らは本国にとって不利益となるような日本人の言動を「人権侵害」だとして糾弾するだろう。「救う会」は、この法案は拉致問題の解決に障害となるといって、断固反対している。中国系や韓国系の在日外国人が委員になれば、自虐的な歴史観、偏向した歴史教育を改めようとする日本人の言動を「人権侵害」だとして告発するだろう。韓国の国会議員数十名が、日本の国内の中学生用教科書の採択について、裁判所に訴えを起こしている。同法案が成立すれば、裁判という面倒な手続を踏むまでもなく、外国籍の人権擁護委員が日本人の言論に規制を与えうる。
 しかも、人権委員会は「人権侵害」のみならず、それを行うおそれのある者、これを助長・誘発する行為をする者およびその関係者に対して、説示・啓発・指導をするとも規定されている。これではあらゆることについて「人権侵害」のおそれがある、助長・誘発するとして、国民の自由な言動が規制されるおそれがある。

 八木氏は、「ドサクサに紛れて我が国の社会の在り様を大転換させる天下の悪法が作られようとしていたのである。国民的な議論もなく、あっという間に自由社会を監視社会に転換させる法律が通ろうとしていたのである。‥‥この法案が成立すれば、拉致被害者救出運動も、近現代史見直しの機運も、ジェンダーフリーへのバックラッシュも、憲法改正も教育基本法改正もすべてが吹っ飛ぶことになる。それだけの破壊力をこの法案は備えている」と述べている。
 慧眼だと思う。「人権擁護法案」は、独立主権国家において、国法の秩序を内部から破壊する悪法だと私は考える。日本国民の良識を結集して、同法案を廃案に追い込もう。
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ber117

 

良識ある男女共同参画社会をめざそう

2004.3.14

 

 平成11年6月、「男女共同参画社会基本法」が制定され、国を挙げて、「男女共同参画社会」の実現に向けて動いています。

私は、現在の男女共同参画の考え方、進め方に、大きな疑問をもっています。男女共同参画社会という理念には、女性の権利や男女の同権という人権擁護の目的があります。それは、よいのです。不当な差別や虐待などは、なくしていかなければなりません。働く女性を支援することも、必要です。

問題は、プラス面だけではないことです。男女共同参画社会実現運動には、別の目的が絡められており、大きな危険性があると思うのです。その危険性を見抜き、良識ある方向に転換する必要があります。

 

●男女共同参画社会運動がこぞって進められている

 

 現在の男女共同参画社会運動は、資本家・経営者からフェミニスト(女権拡張論者 註1)・共産主義者まで、こぞって推し進めようとしているところに特徴があります。本来、思想や利害が異なるはずの人たちが、男女共同参画社会の実現という点では、一致している。これはどういうわけでしょう。

私の考えるに、資本家・経営者が男女共同参画社会を目標とするのは、女性を家庭から引き出し、女性を労働力して利用することです。これは同時に、家庭を単なる消費と労働力再生産の場とすることです。一方、フェミニストや共産主義者が男女共同参画社会を目標とするのは、伝統的な共同体を解体し、アトム化した個人を生み出すことです。これはバラバラの個人を集合的に管理する社会に近づけることです。

 ここで資本家・経営者とフェミニストや共産主義者の利害が一致します。かくして国を挙げての男女共同参画社会実現運動が推し進められている、と私は思います。

 便宜上、資本家・経営者の側を自由主義、フェミニストや共産主義者の側を社会主義と呼ぶことにします。この両者は、思想的・利害的には対立するはずです。ところが、男女共同参画社会の実現という目標は、両者に共通しているのです。なぜなら、自由主義も社会主義も、ともに近代西欧で生まれた思想であり、近代化を進める思想という点では、同類だからです。

 

●近代化とは何か

 

 では、近代化とは何でしょうか。近代化は、16世紀の西欧に始まった現象です。近代化とは、いわゆる「呪術からの解放」(M・ウェーバー)によって、価値の合理化が進むことです。すなわち、神話的・宗教的なものの考え方を否定し、人間理性のみによる考え方を推し進めることです。神あるいは超越的な存在を軽視し、人間中心の考え方になることともいえます。これは、地動説の登場や支配体制の腐敗・堕落などを通じ、キリスト教の権威が低下したことによります。そして、宗教改革を始めとする、市民革命、科学革命、産業革命等の一連の出来事を通じて、近代化が進んできました。この過程は、世俗化の進行でもあり、またニヒリズムの進行でもあります。

近代化は、人間生活の全般にわたって進行しています。富永健一氏によると、これを経済的、政治的、社会的、文化的の4分野にわけて考えることができます。経済的近代化とは産業化・資本主義化を意味します。政治的近代化とは民主主義化・官僚制化を意味します。社会的近代化とは家族や村落等の共同体の解体、機能集団である組織(企業等)の成立などを意味します。文化的近代化とは科学・宗教・思想等における合理主義の実現です。(2)

近代化・合理化の特徴は、端的に言って、数理的と機械論的といえます。数理的とは、ものごとを、質的な違いを無視して、数量化して扱うことです。機械論的とは、機械をモデルにして宇宙や社会の仕組みを理解することです。それゆえ、合理化とは、数理的・機械論的な理性を用いて、目的を実現するために最も効率的な方法や組織を追求することといえます。

 

●近代化の徹底が家族を襲っている

 

近代化は西欧・北米から非西洋社会にも広がり、非西洋社会では西洋文明の流入とともに、近代化が進んできました。我が国も明治維新以降、世界的な近代化の流れの中にあります。そして、西洋とは異なる我が国の固有の伝統・文化・習慣等を、近代化の遅れとみなす考え方が定着しています。このように、西洋的近代化を良いこととし、近代化を推し進める思想を、近代化推進論と呼ぶことにします。

先ほど述べた自由主義と社会主義は、ともに西欧近代の思想であり、近代化推進論の一種です。これらの思想は、冷戦の時代には米ソの対立を軸に、世界的に対立していました。我が国でも55年体制下での保革対立として、自由主義と社会主義が鋭く拮抗しました。

しかし、現代では、世界と国内の体制の変化により、自由主義と社会主義は、対立面よりも、その根底にある共通面が明瞭になってきています。そして、資本家・経営者とフェミニスト・共産主義者は、いまや共同して、近代化つまり全般的合理化を徹底する運動を推し進めています。そして、この運動がいま最も力を入れているのが、家族における近代化の徹底なのです。

 

●家族を解体して個人主義を徹底しようとしている

 

家族とは、人間の自然に基づく、生命と愛育の共同体です。これは、資本や産業等とは別の原理が働く社会です。近代化が深く及び得ていない最後の領域の一つです。もう一つは、自然環境です。ともに、人間理性、言い換えると人知だけでは、把握・管理しえない領域です。(3)

家族における近代化とは、伝統的な家父長制家族の解体による核家族化です。核家族とは、一世代の夫婦とその子どもだけで構成される家族です。核家族化は西欧に始まり、産業化・民主化等とともに非西欧社会に広がっています。我が国では、戦後、急速に核家族化が進み、既に家族のほとんどが核家族になっています。そしていま、近代化推進論者が推し進めようとしているのは、この核家族さえも解体して、さらなる近代化を進めようという動きです。どうして、これを、さらなる近代化だといえるでしょうか。

先ほど、近代化とは価値の合理化だといいました。また、合理化の特徴は、数理的と機械論的だといいました。家族には夫・妻・親・子等がいます。みなそれぞれ立場や役割が違います。しかし、性別や年齢等の質的な違いを無視すると、一人一人は単なる個人として数量的に扱う考え方となります。家族は男女・親子等の生命によるつながりですが、その生命性を無視し、機械をモデルにして考えると、家族も原子(アトム)のような個の集合として扱う考え方となります。

家族に合理的な考え方を持ち込むと、生命と愛育の共同体の絆を断ち切り、家族をバラバラにし、一人一人を一個の個人とみなすことになります。言い換えると、徹底した個人主義の実現です。

すなわち、家族において近代化を推し進めるとは、核家族をも解体して、徹底した個人主義を実現するものとなります。この運動こそ、現在の男女共同参画社会実現運動なのです。つまり、家族解体の運動です。

 

●個人主義推進の先鋒に夫婦別姓がある

 

 男女共同参画社会実現運動は家族解体運動であるといいました。そのことを明らかにする事実があります。それは、この運動を推進してきた人々は、最初、夫婦別姓の導入を進めようとしてきたことです。

夫婦別姓論の本質は、個人主義です。個人主義を家族関係の原理とするのが、夫婦別姓論です。この考え方では、夫婦、親子、家族の一体感よりも、個人の自由と権利が優先されます。先祖と子孫のつながりも断ち切られます。代表的な夫婦別姓推進論は、次のように言っています。

 民法学者・滝沢律代氏、曰く「氏(姓)を真に個人のものとして規定し直すことは、社会の根底を個人主義のレベルで把握し直すことにつながり、戦後の改正民法のめざした『家』の解体が、はじめて貫徹されることになる」。

 社民党代議士・福島瑞穂(みずほ)氏、曰く「核家族は戦前の家の残滓である。核は分解してアトム、即ち個人個人にならなければならない。男女平等や個人の尊厳の立場からは、戸籍は廃止され、個人籍にすべき。日本の戸籍制度は世界で最も遅れた制度である」

 このように、夫婦別姓推進論者は、明確なる主義主張を持って、夫婦別姓を推進しています。すなわち、日本の家族制度を破壊して欧米並の個人主義的な制度を導入せよという意図を持っており、現在の核家族すらも解体しようというわけです。こうした動きに勢いをつけているのが、「男女共同参画社会実現運動」なのです。(4)

 

●危険性に輪をかけるジェンダーフリー思想

 

 以上、見てきたように、家族における近代化の徹底は、家族を解体し、バラバラの個人の群れを生み出します。その結果はどうなるでしょうか。すべての女性が労働者となり、産業化が大きく進められるでしょう。同時に、子どもは家庭外の施設で集団的に育てられ、老人もまた専門施設で介護を受けるようになるでしょう。家族の自然なつながりはどんどん希薄になっていきます。こうして家族が解体された社会は、社会全体の基礎が不安定になってしまうでしょう。人心は荒廃し、青少年の非行・犯罪の増大をもたらすでしょう。そして、物質中心・経済中心の考え方と利己主義が、社会の隅々まで蔓延し、すべての人間関係が利害得失で動く殺伐とした社会となるおそれがあります。

 こうした危険性を生み出す運動が、「男女共同参画社会実現運動」なのです。

さらに、大きな問題は、この運動には、「男女共同参画社会」=「ジェンダーフリー」という考え方があることです。「男女共同参画社会基本法」の制定以来、「ジェンダーフリー」という思想が、あらゆるところを席巻しています。「ジェンダー」とは、生まれつきの男女の差ではなく、社会的・文化的に作られた性差を意味する言葉とされます。「ジェンダーフリー」とは、そうした社会的・文化的性差がなくなった状態という意味でしょう。

この「ジェンダーフリー」の思想により、わが国の常識や伝統を覆すような事態が起こっています。「男らしさ、女らしさ」を否定する教育や過激な性教育が、その事例です。(5)

 

●日本の伝統に目を向け、良識を取り戻そう

 

このままでは、日本の家族と国民の将来は危ういものとなります。私たち国民が、真剣にこの問題を考え、取り組まねばならないところにきています。

まず、ここ1世紀半にわたって進んできた近代化・合理化・西欧化の問題点を、浮き彫りにすることが必要です。そして、日本の伝統と国民のバランス感覚を取り戻すことです。また、「男女共同参画社会実現運動」を、良識ある男女共同参画社会をめざす方向へと軌道修正することです。

私たちがめざすべきは、男女がそれぞれの特長を認め合い、互いの短所を補い合って、調和・協力する社会です。家族を大切にし、伝統文化を尊重した、良識ある男女共同参画のあり方です。

日本では、もともと親子・夫婦・家族の結びつきが深かったのです。親子一体・夫婦一体・祖孫一体の生き方が、日本精神の特徴をなしてきました。こうした日本の心を取り戻すことが、今日の日本社会の問題を解決する道です。親子・夫婦・祖孫が一体と考える生き方に立ち返らなければ、日本の家庭は立ち直りません。家庭が立ち直らなければ、社会も国家も立ち直りません。遅れれば、取り返しのつかない事態に陥ります。もはや猶予はないところにきています。詳しくは、別の項目に書いていますので、お読み下さい。(6)

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(1) 拙稿 「急進的なフェミニズムはウーマン・リブ的共産主義」をご参照下さい。

(2)富永健一著『近代化の理論』『マックス・ウェーバーとアジアの近代化』(講談社学術文庫)

(3)拙稿「家族の危機を救え!」をご参照下さい。

(4)拙稿「夫婦別姓の導入に反対しよう」をご参照下さい。

(5)拙稿「猛威の『ジェンダーフリー』と過激な性教育」をご参照下さい。

(6)拙稿「男女の調和が日本再生の鍵」をご参照下さい。

 

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フェミニズムから公共道徳への転換を

2001.2.1

 

 18世紀末、フランス革命の中から、男女同権論に基づく女性の権利拡張の思想・運動、つまりフェミニズムが誕生しました。その後、女性の権利は拡張され、性差による不当な差別は、少しづつ解消に向かっています。

 しかし、1960年代以降、フェミニズムが急進化してから、その弊害が強く出てきていると思います。既にアメリカは、フェミニズム急進化以前の社会に、大きなうねりとなって回帰しつつあります。そして、家庭を始めとする道徳回復運動が、国家的規模で推進されています。

 

●アメリカのウーマン・リブ

 

 今日の急進化したフェミニズムは、1960年代後半、アメリカで発生したウーマン・リブ(女性解放運動) に源を持ちます。60年代に黒人公民権運動が高揚し、その運動の波に乗って、ウーマン・リブは伸長しました。

 この時代の申し子が、ベティ・フリーダンです。女性心理学者フリーダンは、1963(昭和38)年、『女らしさの神秘』(邦題『新しい女性の創造』大和書房)を出版しました。彼女は「幸福な主婦」を執拗に攻撃し、「幸福な母子関係」を叩きました。同書は世界的なベストセラーとなり、甚大な影響を及ぼしました。

 1966(昭和41)年、フリーダンは、全米女性連盟(NOW:National

Organization for Women)を結成し、初代会長となりました。NOWによって、ウーマン・リブは本格的に拡大し、フェミニズムは急進化しました。

 

●フェミニズム急進化の背景にあった「性革命」

 

 1970年代に、アメリカで急進的なフェミニズムが高揚した背景には、アメリカ人の性に関する意識と行動の変化がありました。アメリカでは1960年代に、「性革命」が進行しました。

 当時の「性革命」の理論家に、ケイト・ミレットがいます。ミレットは、ウーマン・リブから登場した、急進的なフェミニストでした。

 ミレットは1970(昭和45)年に出した著書『性の政治学』の中で、社会体制が男性の女性支配を固定化しているとし、体制の変革を訴えました。とくに男性支配の原単位が、一夫一婦制の家族にあるとし、それを崩すために、婚前・婚外の性交渉、同性愛、女性の社会進出などあらゆる手段を駆使することを主張しました。これは完全なフリー・セックスにつながる主張です。ミレットの思想は、当時のアメリカ社会に、強い影響を及ぼしました。

 

●道徳回復運動の広がり

 

 しかし、急進的なフェミニズムや性革命に反対する動きも起こってきました。アメリカの国民社会には、厳しい現実があります。概括的に言えば、離婚率は50%に達しています。そのうち71%が3年以内に再婚し、さらにその60%は再び離婚して、3回4回の離婚はざらにあるといいます。そうなると被害者は結局子供ということになります。

 子供の60%が18歳までに両親の離婚を経験し、その3分の1が親の再婚と2度目の離婚を経験します。そのため、継母・継父による児童虐待が大きな問題となっています。現在報告されているものだけでも、年間2百万件を越えています。このような家庭環境で育てられた子供が、少年犯罪や麻薬に走り、また10代の出産が増えるのは、当然です。

 1980年代、共和党のレーガン政権の下で、道徳教育ルネッサンスが始まりました。レーガン時代に教育省長官を務めたウイリアム・ベネットは、1993(平成5)年、『徳の本』(The Book of Virtues)を出版しました。

 この本は、子どもの徳育について、父母向けに綴った教科書ともいわれます。「自己修養」「思いやり」「責任」「友情」「仕事」「勇気」「忍耐」「正直」「忠誠」「信仰」という10項目の徳目が挙げられ、これに関する教育を実行するために、実話や寓話を多数掲載したものです。子どもの教育を考え直そうとする親たちは、競って同書を購入し、たちまち全米で読まれました。そして、道徳回復運動は、共和党保守派から、民主党へも広がっていったのです。

 

●クリントンが訴えた「家族の強化」

 

 民主党のクリントン大統領は、1997(平成9)年2月に、「一般教書」演説を行いました。ここでは、アメリカが力をあわせて挑戦すべき6項目を挙げました。その一つが「家族の強化」でした。

 教書の言葉を拾ってみましょう。「より強い家族が、より強いアメリカをつくる」「家族を強化することで、10代の妊娠の比率は下がる」「家庭内の男女がたがいに尊敬しあうことで、家庭内暴力を終わらせなければならない」「アメリカの家族が一緒にとどまるべく、努力することに挑戦しよう。なぜなら家族は一緒にいると経済的にも助かるばかりでなく、子どもたちのためにもなる」「子どもは生まれたばかりのときから、情緒的にも知的にも発達するのだから、両親が幼児に話しかけ、歌いかけ、読み聞かせることが非常に大切である」等々。

 クリントンは訴えました。「21世紀のアメリカに向けて、我々はより強い家族を建設しなければならない。‥‥我々はより強い共同体(コミュニティー)を建設しなければならない」と。

 彼自身は女性スキャンダルで名を汚しましたが、こうした彼の訴えは、今後もアメリカ社会で、受け継がれていくでしょう。

 

●アメリカは「公共」へ舵を切った

 

 病める大国・アメリカにおいて、良識ある人々は、性の自由化やフェミニズムの急進化の弊害を悟ったのでしょう。その国民社会は、家族や共同体の価値を認める方向に変化しています。

 ブッシュ政権もこの方針を引き継ぎ、公共道徳の再建を図っています。その成果は、確実に現われています。青少年の意識が変わりつつあるのです。「米国の10代の男女間で結婚まで性行為を控える傾向が強まり、新たな性革命が進行中」――と、雑誌『ニューズウィーク』(平成14年12月2日発売号)は、報じています。同誌によると、今アメリカでは若者たち自身の間に結婚前の性交渉をやめようという傾向が出てきています。疾病対策センター(CDC)の平成13年(2001)の調査によると、性行為を経験したと答えた高校生は46%で、2年前の調査に比べ、54%から急減しました。また、10代の妊娠も減っています。

こうした結婚まで「純潔」を守ろうとする若者の風潮について、同誌は「気楽に性行為に走る親の世代の風潮を拒否し、視聴率を稼ぎ、製品を押し売りするため日常的にセックスを利用する主流メディアと明白に対立する新たなカウンターカルチャー」と位置付けています。

若者の変化に呼応するように、政府も禁欲教育に乗り出しています。禁欲教育は道徳的・社会的な問題だけでなく、性病予防策としても重視されものです。全米の高校の3分の1以上が、結婚までの禁欲を勧める教育を実施しています。ブッシュ政権は禁欲教育にかける予算を平成10年(1998)の6千万ドルから1億3千5百万ドルに増やそうとしている、と『ニューズウィーク』は伝えています。

 

●ウーマン・リブの闘士が家族に回帰

 

冒頭に、ウーマン・リブを世界に広めたベティ・フリーダンについて書きました。彼女の書いた『女らしさの神話』は、女らしさを否定し、女性解放運動のバイブルになったものでした。しかし、彼女は、この運動によって女たちが捨てた家庭が崩壊し、子供たちが不幸になるのを見て取るや、考えを改めました。第2作の「セカンド・ステージ」では、男女共闘と家族回帰へと方向転換したのです。

さらに第3作の『老いの泉』において、フリーダンは、女らしさを最高のものとして人生を閉めくくろうとしています。『老いの泉』の上下2巻には、女であること喜びが描かれ、ジェネラティビティgenerativityという言葉が幾度も使われています。この言葉は、あえて訳すと「生殖性」つまり「子供を産む力」となります。フリーダンは、この本の最後で、自分には3人の子供と、10数人の孫がいるということを、誇らしげに紹介しているのです。自分の子供を産むという男には絶対できないことを成し遂げ、またその子供たちが子供を産み、こうした子供や孫から「おばあちゃん」と慕われる。これこそ、女の人の、男には絶対持ち得ない喜びでしょう。

ウーマン・リブに始まって家族回帰に転じ、子どもを産み育てる喜びに到ったベティ・フリーダン。彼女の軌跡は、三部作すべてを通じて理解されなければならないものです。ところが、日本では第2作、第3作はほとんど話題にされず、いまでは入手も困難です。

ウーマン・リブの開祖フリーダンの改心を無視して、1960年代に彼女が唱えた“女らしさの否定”を推し進めようとする日本のフェミニストは、欺瞞的というほかありません。

 

●男女が力を合わせて、公共道徳の復興を

 

 わが国では、近年、家庭の崩壊や道徳の低下が、急速に進んでいます。17歳に代表される凶悪犯罪や、麻薬・少女売春、離婚や児童虐待の増大が、深刻になってきています。 男も女も、どっちがどうだと争っていられる状況ではなくなっていると思います。男も女も力を合わせて、この社会を立て直すために、努力しないといけないところに、とうに入っていると思います。

 私男女お互いの特徴を認め合い、欠点を補い合って、相協力するところに、円満な家庭ができ、子どもも健やかに成長できると思います。明るく楽しい家庭は、心豊かな社会、平和な世界の基礎です。これはどこの国にも共通のことです。

 わが国は「個人」や「私」を偏重してきたことを改め、国家・社会全体の利益、「公」の意識を回復する方向へと、転換すべき時期を迎えていると思います。公共の利益とは、男女共通の利益です。「公」の意識は、男女が調和をもって協力し合うところに、育まれます。

 また、さまざまな社会運動は、男女が共同で公共道徳の復興をめざすものとなってこそ、健全で良識ある社会を実現することができると思います。

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ber117

 

ジェンダーフリーは革命思想〜デルフィと大沢真理

2005.8.13

 

 ジェンダーフリーの運動は、共産主義と深くつながっている。性差の解消をめざす運動は、家族の解体をめざす運動と一つのものである。それを見抜くことが、わが国に吹き荒れるジェンダーフリーの嵐を鎮めることになる。

 

●デルフィの逆さまジェンダー論

 

 ジェンダーフリーという考えは、フェミニストが唱え出した。もっともフェミニズムとジェンダーフリー論は、本来別のものである。フェミニズムは、女性の権利を獲得・拡大する思想・運動であり、ジェンダーフリー論は性差を否定・解消しようとする考えである。だから、フェミニストの中で、ジェンダーフリーに反対する人は少なくない。男女の生物学的性差及び文化的社会的な性差の存在を認めた上で、女性への不当な差別を解消するという考えは、必ずしもジェンダーフリー論とはならない。

 これに対し、ジェンダーフリーを唱え、急進的に進めようとするフェミニストが、日本にはいる。ジェンダーフリーという言葉自体、和製英語である。

 

 わが国にジェンダーフリーの嵐を巻き起こしたジェンダーフリー派のフェミニスト、大沢真理・東大教授は、上野千鶴子・東大教授との対談で、次のように語っている。

 「セックスが基礎でその上にジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスにまで二分法で規定的な力を与えている、けれど本当はあなたのセックスはわかりません、ということ」だと。

 大沢氏は、「女で妊娠したことがある人だったらメスだと言えるかもしれないけれども、私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はない」とまで言う。(『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば』平凡社、平成13年)

 大沢氏は、昭和28年生まれ。今年で52歳になる。私より1歳上、ほぼ同世代である。全共闘世代の少し下の世代になる。

 

 上野氏は、大沢氏のジェンダー概念について、次のように語っている。

 「ジェンダー概念は、女性学の研究者の間でさえ、十分に合意が形成されているとは言えない状況でして、ここで大沢さんが論じておられるジェンダー概念は、ポスト構造主義の到達点ですね」「生物学的な性差を基盤とするジェンダーではなく、しかも男女特性論を排除するという、学問的にもかなり新しい到達点ですね」と。

 上野氏は、大沢氏のジェンダー概念は、女性学者の間でも合意の成立していない新しい主張だと言っている。ジェンダーフリー派のフェミニストは、本来ごく少数派なのである。

 大沢氏は学者だから、その意見は学説と呼ばれるかも知れないが、普通の女性が「私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はない」と言ったならば、周囲は首を傾げるだろう。親なら、嘆き悲しむに違いない。

 

 大沢氏の考えは、男女の性差とは、つきつめると妊娠能力の有無のみだと見る極端な考え方である。しかし、男性性器でなく女性性器を持ち、月経があり、膨らんだ乳房を持つ女性は、それだけでは女性といえないと言うのか。不妊症の女性は、女ではないとでも言うのか。大沢氏には、自分を女性であると認めたくない心理が働いているのではないか。この心理傾向は、健常に成熟した女性の意識とは思えない。

 大沢氏によるジェンダーフリー論は、こうした心理傾向のうえで説かれた学説と理解される。その学説化において、大沢氏が多くを負っているのが、フランスの社会学者でマルクス主義的フェミニストであるクリスティーヌ・デルフィである。

 

 普通、私たちは、男女の生物学的な性差に基づいて、男または女の性自認がされると考える。ところが、デルフィは逆に「ジェンダー」が先にあって、自分が生物学的に男であるか女であるかを識別できると考える。デルフィは、この考えについて、「もちろん仮説であり、実証(または反証)されるまでには数年かかるだろう」と述べ、それは「冒険的な企て」であるが、「にもかかわらず、この賭けを私たちはやりたいと思っているのだ」と述べている。(『なにが女性の主要な敵なのか』勁草書房、平成8年)。

 このジェンダー先行論をさらに発展させて、積極的に性差の否定・解消を目指すのが、大沢氏のジェンダーフリー論である。仮説にすぎないものの上に、それを前提としてさらに階上をつくったようなものである。

 

 デルフィの「仮説」は、常識に反したさかさまの考え方だ。親も医者も、子供に「おちんちん」がついているなら男。ついていないなら女と識別する。もしどちらともつかない、あいまいな性器であれば、障害を持った子供となる。半陰陽者である。子供たちも「おちんちん」がついていて、立っておしっこをできるのが、男。そうでないのが、女と自分を理解する。思春期になると、男は髭が生え、筋肉がつき、声変わりもする。女も月経が始まり、胸が膨らみ、体に曲線を帯びる。こうした性徴を表わす身体的な変化は、自分が男であること、または女であることを強く意識させる。そして、異性に関心を持ち、恋に陥ると、一層、自分が男性であること、または女性であることを意識し、より男らしく、または女らしくあろうとする。自分は男が嫌だとか、女でありたくない、逆に生まれたかったと思う人もいるが、それがひどく講じた場合は、性同一障害となる。

 デルフィや大沢氏の主張は、自分が女性であることを認めたくないという心理傾向を表わしていると思う。私の言葉でいえば、「ジェンダーフリー・コンプレックス」である。それを学問的な粉飾のもとに表現しているにすぎないのではないかと私は思うのである。

 

●わが国に仕掛けられた文化革命戦術

 

 デルフィは、「マルクス主義フェミニスト」を自称している。この自称に実態が表現されている。デルフィは、セックスよりジェンダーが先行するというジェンダー先行論を説く。ただし、これは「仮説」であって、実証はされていないと言っている。「賭け」だとまで言っている。

 このように「仮説」をあたかも科学的真理であるかのように思わせて同調者を増やし運動するやり方には、類例がある。マルクス主義である。

 

 マルクス主義は自らを「科学的社会主義」と称して、資本主義から社会主義への移行を歴史的な必然であるかのように説いた。20世紀の世界を誤導し、その犠牲による死者は1億人に及ぶと推計される。デルフィのジェンダー先行論は、マルクス主義のやり方に似ている。この「仮説」を前提にして、性差を解消したジェンダーフリーの社会を目指そうと唱導しているのが、大沢真理氏である。

 

 大沢氏は、フェミニストを自称する。今日、フェミニズムは多様化しており、いろいろな流派がある。例えばリベラル・フェミニズムのように、フェミニズムという言葉の頭に、マルクス主義、ラディカル、精神分析派、ソーシャリスト、アナキスト、エコロジカル、現象学、ポストモダン等がついて、それが各流派の旗印となっている。

 私は、現代のフェミニズムは共産主義との関係なくして存在しないと見ている。マルクス主義の影響を受け、それに対する同化や反発の仕方が、フェミニズムの多様化の要因となっていると考える。また、フェミニストが本気で自分たちの思想を実現しようとすれば、政治権力の奪取を目指すことになるだろう。その方法を提示しているのは共産主義しかない。だから、私は、フェミニズムは共産主義との関係で見るのがポイントだと思っている。

 大沢氏の場合もリベラルな装いをしているが、実態は共産主義的なフェミニストと見るべきではないか。隠れ共産主義者は、まだまだ棲息している。

 

 大沢氏のジェンダーフリー論のもとになったのがデルフィだが、デルフィは、マルクス主義フェミニストの一論客である。デルフィは、著書『女は何を欲望するか?』径書房、平成14年)で、以下のように述べている。

 「明らかにマルクス主義は唯物主義である。そのかぎりにおいてマルクス主義はフェミニズムに応用できる」

 「マルクス主義フェミニストと名のることのできる立場とはどういうものであるか‥‥それは、彼女たちがまさに行っていない二つのことを行うことにある。つまり、唯物論を女性の抑圧に応用することと、マルクスの『資本論』の分析を家父長制の分析にもとづいて再検討することである」

 デルフィは、このように「マルクス主義フェミニスト」を自称する。彼女の言う唯物論とは史的唯物論のことであり、唯物史観は階級闘争を歴史の原動力だとする。このマルクス主義のイデオロギーに基づいて、デルフィは、男女関係を階級関係ととらえている。

 すなわち、「セクシュアリティはまさに階級闘争の場である。それは二つの集団が対決する場の一つであるが、それらの集団とは労働者と資本家ではなく、社会における男性と社会における女性である」と。

 

 このとらえ方は、マルクスの盟友エンゲルスのとらえ方と一致する。エンゲルスは、著書『家族・私有財産・国家の起源』(岩波文庫)で、以下のように述べている。

 「近代的個別家族は、妻の公然または隠然の家内奴隷制のうえに築かれており、そして近代社会は、個別家族だけをその構成分子とする一つの集団なのである。今日、すくなくとも有産階級では、夫は大多数のばあい稼ぎ手であり、家族の扶養者でなければならないが、このことが彼に支配者の地位を与えるのであって、これは法律上の特権を一つも必要としない。

 夫は家族の中でブルジョワであり、妻はプロレタリアートを代表する。…近代的家族における夫の妻にたいする支配の独特の性格や、夫婦の真に社会的平等を樹立する必要性並びに方法も、夫婦が法律上で完全に同権になったときに初めて、白日のもとに現れるであろう。そのときには、女性の解放は、全女性が公的産業に復帰することを第一の前提条件とし、これはまた、社会の経済的単位として個別家族の属性を除去することを必要とする、ということがわかるであろう」。

 

 家族の中で、夫はブルジョワ、妻はプロレタリアートであり、男女関係は階級間の支配・搾取の関係であるというのが、マルクス主義のジェンダー論である。デルフィはこれにほぼ忠実なジェンダー論を説いていることが分かる。そして、次のように言う。

 「女性の解放のためには、現に知られている社会すべての基礎を完全にくつがえす必要がある。この転覆は革命なしには、すなわち現在他の人間に握られている、私たち自身を支配する政治的権力を奪取することなしには実現できない。この権力奪取が女性解放運動の究極的目標とならなければならないし、女性解放運動は革命的な闘争に備えなければならない」

 デルフィは階級闘争を説き、革命を説いている。冷戦終焉後、これほど直接的な言説は、過激派以外には見当たらない。このデルフィを継承したのが、大沢氏である。デルフィがめざす「政治権力の奪取」を、武装闘争による権力の奪取ではなく、グラムシのような文化革命戦術、マルクーゼのような体制内変革で行っていく。それが、大沢氏が仕掛けた「男女共同参画=ジェンダーフリー」だろう。

 

●家族の解体を押し留めよう

 

 ジェンダーフリーと、フェミニズム、共産主義が共通してめざすもの、それは家族を解体である。

 ジェンダーフリーという考え方は、デルフィや大沢氏等のフェミニトが唱えだしたものである。もとには急進化したフェミニズムがある。そして、フェミニストが主張する「結婚制度の廃止」や「家族の解体」や「性的自由」は、共産主義が唱えてきたものである。男女闘争と階級闘争を一体のものとし、家庭における男女闘争を通じて階級闘争を行おうとするのが、共産主義的なフェミニズムである。その今日的な戦術が、ジェンダーフリー運動なのである。

 

 マルクス主義は、近代的な家族を、ブルジョワジーが作った階級支配の形態としており、フェミニストの多くは、これを家父長制による女性支配の形態と見ている。だから、プロレタリアートの解放また女性の解放のためには、家族を解体しなければならないという理屈になるわけである。そこで、攻撃の対象となるのが、結婚制度である。

 結婚という法制度を廃止すれば、家族は解体する。性の自由の拡大が、結婚の廃止と家族の解体のための戦術である。青少年に「性の自立」「性の自己決定権」を教えるのは、この戦術の実行である。また専業主婦をバカ呼ばわりし、すべての女性を家庭から引き出し、賃金労働者にしようとするものも、この戦術の実行である。

 また、結婚制度の廃止のために導入をはかっているのが、夫婦別姓の導入である。法律婚と事実婚の違いを無くし、嫡子と庶子の区別をなくす等を進めれば、家族はゆるやかに解体する。すでに、人権の名のもとに、戸籍に子供の続柄を記載しなくなってしまっている。

 

 政府は活力ある日本を築くために、「個の確立」「個の自立」という個人主義の徹底を進めている。これは自由民主主義の進展のようでいて、実はそれを通じて家族を解体し、階級闘争と性差闘争を進めるという、先進国革命の文化革命戦術の進行ともなる。コインの両面なのである。

 

 財界は、女性を安価な労働力として利用するために、政府に「個の確立」「個の自立」の政策を求めている。これは、一時的な経済効果を生んだとしても、長期的には離婚・非婚の増加による家族の解体を招く。また、家庭の教育力の低下による青少年の非行や無業化が深刻化する等の結果を生じる。

 

 わが国の政治家たちは、マルクス主義フェミニスト・デルフィでさえ「仮説」に過ぎないと言っているものをさらに極端に進めた大沢氏の弁舌に圧倒されて、男女共同参画社会基本法を制定してしまった。ジェンダーフリーが共産主義に基づく革命思想だということに気づかずに。そして、あろうことか、国を挙げて全国に押し広める形になったのが、近年のわが国の混乱なのである。

 政府によって軌道修正がされつつあるが、教育現場はジェンダーフリーに席巻されており、地方自治体も性差解消に熱を上げているところが多い。このとんでもない現状を、早急に転換しなければならない。子供たちを、この恐ろしい思想から守らなければならない。

 男女が調和し、互いの長所短所を認め合い、補い合って、子供を産み育て、明るい家庭を築くという、人間本来の道に立ち帰ることが、日本再生の道である。それが、子供たちに夢のある未来を受け渡す唯一の道であることを広めていこう。ページの頭へ

 

ber117

 

日本の再生か、個人主義の徹底か

2005.4.20

 

 「歴史」は事実そのものではなく、事実や体験の解釈であり、想像力による構成である。その点では、歴史は「物語」ともいえる。その「物語」は、自分たちはどこから来て、どこにおり、どこに行こうとしているのかという存在了解の表現である。生命的歴史的存在である人間が、世界における座標軸を確認し、時空間における方向感覚を共有するものが、「歴史=物語」である。

 戦後日本の憲法や法律は、こうした「歴史」を日本人から奪うものとなっている。その理由の一つは、別に書いた。他の理由として、憲法・法律が「個人主義」に立っていることがある。個人主義は、歴史・伝統・宗教・共同体を否定したアトム的な個人を社会の基本原理とする思想である。欧米の個人主義はキリスト教や厳しい公共道徳に支えられたもののようだが、わが国ではそうした歴史・伝統・文化の違いを無視して、抽象的な個人を考えるようになってしまった。

 人には親があり、誰しも親から生まれ、育てられた。自分が大人になると、多くの人は異性と出会い、結婚をし、家庭を持ち、子供を生み育てる。この両親自分子供という三世代のつながりを延長すると、祖父母以前の過去の世代と、自分以後の未来の世代の存在に思い至る。世代を超えた生命と文化の継承の中で、自分にも生命と文化を継承する役割があると理解できる。私自身、自分の役割は、自分の両親・祖父母の世話や子供の養育にとどまらず、先祖が築いてくれたものに感謝し、これを継承・発展させ、将来の世代にまで、より良い形で受け渡すことにあると感じる。先祖もまたそのようにしてくれたのだろうからである。これは特別な思想ではない。昔の日本人にとっては、ごく当たり前の常識だった。

 ところが、戦後日本の主流は、こうした常識を否定し、外来の原子的な個人を単位とする個人主義の思想になっている。17世紀の西欧人デカルトやロックの思考から抜けられないでいるのだ。
 しかも歴史を奪われ、民族の記憶を失った日本人の社会にあって、もっと個人主義を徹底しようというのが、近年のわが国の政府の「個の確立」「個の自立」という理念である。親子・夫婦・男女等の違いをなくして、家族も社会もすべて個人の集合に組み直そうとしている。そのために、法律をつくり、政策を決めて実行している。男女共同参画社会基本法も人権擁護法案も、根本は、原子的個人主義から来ている。これは、親子断絶・男女闘争・家族解体・国家滅亡の思想である。「個」の確立や自立どころか、共同社会的な人間関係のなかで生きる個人として人格形成のできないまま、「個」が精神的に崩壊してしまうおそれがある。

 それゆえ、私は、日本再生のための根本的な方法は、原子的個人主義の虚妄を破り、いのちや文化を共有する家族や社会の共同性の回復にあると思う。ここで重要なのが、教育である。国家が行う教育の目的は、青少年の人格形成を行い、これから自国を担い、自国を継承していく国民を育てることにある。わが国の戦後教育は、この国民形成という根本目的をおろそかにしてきた。根本目的が見失われているために、何のために公教育を行うのか、ということがわからなくなっている。歴史教育も道徳教育も、人格形成を通じた国民形成という目的のために行う事柄である。

 日本再生のために教育改革は、重要である。それは、教育の根本目的の再確認からはじめるべきと私は考える。そして、この改革を正しく推進するには、戦後日本的な個人主義を克服することが必要である。
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ber117

 

外国人参政権付与が間違っている理由

2000.11.30

 

外国人に地方参政権を与えるという法案が、国会で審議されています。これは極めて重大な問題です。下手をすると、日本亡国の引き金となるやしれません。

 

●国の根幹を揺るがす問題

 

 ここでいう外国人とは、特別永住権をもつ「永住外国人」で、全国に約64万人いるとされます。その多くは在日韓国人、在日朝鮮人です。

 現在、与党を含む多くの政党が、早期に「永住外国人参政権付与法案」を成立させようとしていますが、拙速は国家百年の過ちにつながります。外国人に参政権を与えることは、国の根幹を揺るがし、国を崩壊に導く恐れがあります。慎重に議論し、日本の国家・国民はどうあるべきか、よく考える必要があります。

 さらに、この法案を最も強く推し進めているのは公明党であることが、重要です。この法案を早くから提唱しているのが、創価学会の池田大作名誉会長なのです。そこに、日本の国のことより、一団体の利益を追求する考え方が明らかになってきているのです。

 

●何が問題か

 

 外国人に参政権を与えることは、何が問題なのでしょうか。主な点を挙げてみます。

 

(1)明白に憲法に違反している

 現行憲法は、参政権は「国民固有の権利」と明記しています。第15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と。地方参政権に関しては、第93条「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」とありますが、ここにいう「住民」は、「国民」であることを前提としています。「国民」とは、日本国籍を持つ人のことです。日本国籍のない人は、「国民」ではありません。故に、外国籍の人間に参政権を与えることは、憲法違反です。もしこの法律を成立させたいのなら、憲法改正が必要です。

 

(2)外国人は自国の利益のために行動する

 外国人の忠誠の対象は、自分が国籍をもっている国です。当然、日本の国益よりも自国の国益が優先されます。そのため、外国人に参政権を与えると、日本の政治は、外国に左右されることになります。具体的には、永住外国人の多数をしめる韓国の影響を最も強く受けることになります。また長期的に見て、中国系の居留民が増えれば、その影響も増大するでしょう。

歴史教育の内容に対しても、一層強く、外国側の視点を要望してくるでしょう。さらに万が一、その国との間で戦争が起こったとき、日本国内にいる外国籍の外国人は、自国のために行動することも明らかです。

 

(3)地方自治も国政の一環である

 地方参政権を与えるだけならいいではないか、という意見があります。しかし、地方自治体は、日本の国の不可欠な構成要素です。地方行政は国政の重要な一環です。3割自治と言うように、国から地方自治体に、巨額のお金が交付されてもいるのです。教育や基地、原発等の問題を考えても、切っても切り離せない関係にあることがわかります。

 

(4)被選挙権や国政参加権に拡大する恐れがある

 選挙権だけでなく、次は被選挙権、さらには国政への参政権へと、なし崩し的に拡大するおそれがあります。実際、対象となる在日外国人の多数を占める韓国系の在日本大韓民国民団(民団)は「韓国民」の団体ですが、外国籍のままで、日本国内の選挙権だけでなく被選挙権の獲得をも目標としています。

 

(5)在日外国人には「帰化」の道が開かれている

 そもそも在日外国人が、日本の政治に参加したいのであれば、日本に帰化すればよいのです。日本国籍を取ることを拒否して、外国籍のまま参政権を得て、日本の政治に口を出そうと言う外国人に参政権を与えるべき理由はありません。

 かつて、民団の団長が、韓国の国会議員を務めていたことがあります。現在も、在日朝鮮人数名が北朝鮮の最高人民会議のメンバーだといわれています。地方参政権を与えるならば、そういう政治力のある外国人が日本の政治に介入するようになるでしょう。

 

(6)納税義務は参政権とは全く関係がない

 在日外国人も税金を納めているのだから、参政権を与えてもいいのではないかという意見があります。これは間違いです。税金は、行政からサービスを受けることに対する対価です。居住民の義務と、国民の権利は違うのです。

 

(7)在日韓国、朝鮮人のほとんどは、「強制連行」とは関係ない

 戦前日本に連れてこられた人々は、日本の敗戦で、ほとんどが帰国しています。現在、日本に永住している人々たちは、大部分が自らの意思で日本に残った人とその子孫です。

 

 これらのポイントを確認すれば、基本的な方向性は次のようになるでしょうーー永住外国人には、憲法に違反する「外国人参政権」ではなく、「日本国籍」を希望・取得した人にだけ、参政権を与えるべきであると。

 出身国はどこであれ、日本を自国として愛し、日本の国民として運命をともにする人でなければ、参政権を与えるべきではないのです。

 

●法案を推進する創価学会=公明党

 

 「外国人参政権付与法案」を、最も強く推進しているのは、創価学会=公明党です。公明党は、連立政権に入って以来、創価学会の利益のために政治を利用していることが、各方面から批判されています。

 

 『月刊現代』(講談社)の平成12年10月号で、ジャーナリストの乙骨正生(おっこつ・まさお)氏は、次のように書いています。(「池田大作・創価学会 韓国折伏40年史」)

 「在日韓国人をはじめとする永住外国人に地方参政権を付与する問題は、公明党がその旗振り役的立場にある。その結果、昨年10月に成立した自・自・公三党の連立合意のなかに、永住外国人に対して地方参政権を付与する法律を成立させるとの方針が盛り込まれ、これに基づいて公明党は自由党とともに、国会に対し『永住外国人地方参政権付与法案』を提出した」

 

 ではどうして、創価学会=公明党は、この法案を熱心に進めようとしているのでしょうか。

 「公明党が参政権問題に積極的に関与する背景には、永住外国人の地位向上、人権擁護という表向きの理由ばかりではなく、選挙の際の票の上積みという実利があるとみられている」と乙骨氏は書いています。そして、大阪の自民党関係者の言葉として、次のように伝えています。

 「公明党が地方参政権の問題に熱心な背景には、頭打ちになっている得票数を伸ばしたいとの思いがあることは間違いない。在日韓国人が多い関西地区では地方参政権が認められれば、確実に公明党が議席を増やすでしょう」

 

 こうした見方は、決して少数の意見ではありません。また、在日韓国人のなかには熱心な創価学会員が多いともいわれています。つまり、背後には、創価学会の利益追求があると見てよいでしょう。

 

●池田大作氏が法案実現を推進

 

 『諸君!』(文芸春秋社)の平成12年10月号に、ジャーナリストの桜井よし子氏が、「同法案を早くから提案してきたのが創価学会の池田大作名誉会長である」と書いています。(「野中幹事長さん、国を売る気ですか!」)

 なぜ池田氏は、この法案を推進しているのでしょうか。

 現在、韓国には30万人から40万人の創価学会員がいると推定されています。創価学会はかつて韓国では「邪教」として、布教が禁止されていました。しかし、今年(平成12年)4月、創価学会の韓国組織である「韓国仏教会」は、韓国政府から合法的な組織として認められたのです。これによって、創価学会は、韓国で信者を拡大することができるようになったのです。

 乙骨正生氏によると、「創価学会が韓国で法人格を取得できた理由の一つは、公明党が日本国内で永住外国人の地方参政権獲得に対して積極的に働きかけたことが評価されたため」といわれています。

 また、月刊『正論』(産経新聞社)の平成12年10月号「バサリ 論壇」によると、池田大作氏は、金大中大統領が韓国で創価学会の布教を許可してくれたことへのお礼として、在日韓国人に地方参政権を与えるようにしたいと考えているようです。

 

 乙骨氏によると、池田氏は最近、韓国でさまざまな賞や学位などを受けています。平成10年の4月には、ソウル市議会が、池田氏が「韓日友好の架け橋」になっており「正しい歴史観で善隣へ努力」しているとして初の顕彰牌を贈っています。また同年9月には、韓国の「独立友好者遺族会」は、池田氏は「正しい歴史観の確立」と「在日韓国人の地位向上」に尽力しているとして日本人に対して初の感謝牌を贈りました。

 乙骨氏は、「現在、創価学会と韓国は、蜜月状態といってもいい状況にある」と書いています。

 日本への影響力を強めたいと考える韓国と、韓国で教勢を拡大し、また日本の政権を掌中にし、ようとする創価学会の利益が一致しているということでしょうか。

 

●基本にある歴史認識のゆがみ

 

 創価学会は、もともと富士大石寺系の日蓮正宗の信徒団体です。もっとも正宗の高僧・阿部日顕と対立し、破門されています。日蓮正宗及び創価学会の教えは、日本を法華経に基づく仏教国にしようというものです。日本の精神・国柄・伝統とは、もともと相容れないところがあります。そのため、基本的な歴史認識にゆがみが生まれやすいのでしょう。

 そのゆがみは、池田大作氏の次のような発言に表れています。乙骨氏によると、今年5月19日、氏は来日していた韓国仏教会の代表メンバーとの会合で、日韓友好にかける自らの決意を次のように語りました。

 

 「韓国は日本にとって『文化大恩』の『兄の国』である。『師匠の国』なのである。その大恩を踏みにじり、貴国を侵略したのが日本であった。ゆえに、私は永遠に貴国に罪滅ぼしをしていく決心である」(「聖教新聞」5月22日号)

 

 池田氏の歴史認識には、大きな問題があることがわかります。池田氏について、両親とも在日韓国人であり、本人は戦後帰化した在日系の日本人であるという根強い噂があるのは、こうした歴史認識と符合するかも知れません。池田氏と結託している野中元自民党幹事長は、自分が京都府園部市の部落出身だと言っていますが、氏の歴史認識も、同様の誤解と思い込みに満ちています。

 日本と韓国には、長い歴史があり、特殊な関係や複雑な事情があります。国家・社会に影響力をもつ各界の指導者は、正確な歴史認識と事情把握に努めてもらわねばなりません。

 

●参政権の問題は同化政策とは別

 

 参政権の問題は、国家主権や国民の概念の問題であって、他民族の同化政策とは、直接の関係はありません。「帰化」(naturalization)とは、日本国籍を取得して、日本国民になるということですから、法的・政治的な資格に関することです。これと、文化的・民族的(ethnic)な問題とは別です。

 国籍の取得は、文化的な同化の強制を伴うものではありません。まして生物的意味での種族(race)的な同化を強制することとは、全く異なります。しかも、日本国籍を希望するかどうかは、あくまで自由意志による選択です。

 日本国籍を取るということは、ある国の国民であることを止め、日本の国民となるということです。私は、日本国民になる以上は、その人は日本国と運命を共にするという決意をもつことが必要だと思います。日本国民の一員として、国民としての意識や、国民の歴史認識を共有すべきだと思います。本来は、国家への忠誠義務等を担うべきところです。

 このことは、文化的・民族的な同化を意味しません。日本国籍を得た旧・外国人は、母国の文化を持ち続けることができます。言語や習慣や宗教等など、母国の文化に誇りを抱き、それを子孫に継承することは、個人の自由です。憲法が保障する思想・信条の自由にあたると思います。また、結婚において、母国を共にする相手と結婚することも、自由です。たとえば、韓国系日本人同士が結婚し、家庭では子どもに韓国の言語を教え、韓国式のしつけをするなどすれば、日本国民としての自覚と責任を持ちつつ、文化的には韓国系としてのアイデンティティを保つことができるでしょう。また、それを生かして、日本社会で活躍することもできるでしょう。

 私は、むしろこのようにして、渡来系の日本国民が増えることは、日本の国民社会に文化的な多様性をもたらすこととなり、日本文明の発展や日本国の繁栄にプラスになると思います。わが日本文明は、渡来人を受け入れ、それによって文化を豊かにしてきた歴史をもっています。きちんとルールを決めた上で、こうした文化的な包容力と共生力を、今日的に生かすべきだと思います。

今日、外国の優秀な人材を最も多く集めている国は、アメリカです。そのアメリカの場合、グリーンカード(永住許可証)を取得しても選挙権がもらえるわけではありません。むしろ兵役登録されることが義務付けられます。納税はもちろん兵役の義務を課しても、帰化しない限り参政権は得られません。アメリカ国民としての国籍を取得しない限り、参政権は与えられないのです。そのような国家であるアメリカに、世界から優秀な人材が集まり、日本ではそうでないことに、答えがあると思います。参政権付与の条件とは、別の要因でしょう。

 

●参政権付与より国籍取得が正道

 

 外国人については、参政権付与より国籍取得が正道であることは、多くの有識者が強調するところです。

 外国人参政権付与法案には自民党内で異論が多く、今年(平成12年)9月7日には、自民党有志による議員連盟が発足し、同法案に反対していく姿勢を打ち出しました。これをきっかけに、ようやく事の重大性が、浮かび上がってきています。自民党の内部では、同法案への反対が強まりつつあるようです。また、対案として、特別永住資格者が日本国籍を取るための手続きを簡略にするという法案が準備中のようです。特別永住資格者は日本国籍をとるか、あるいは母国の国籍を確認することとし、特別永住資格は廃止すべしという意見もあります。

 「外国人参政権付与法案」は、日本の国の根幹をゆるがし、日本を亡国に導くおそれがあります。また外国の干渉や、悪質な宗教団体の横暴を許す可能性があります。

 ここで日本人が国家・国民の意識をしっかりもたないと、国家百年の計を誤るやしれません。私たち国民は、国会議員が党利党略・私利保身に走って国家百年の計を誤らぬよう、積極的に意思を示す必要があると思います。ページの頭へ

 

参考資料

・拙文「外国人参政権より、日本国籍取得を

 

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「人権民主主義」に注意せよ

2005.4.20

 

今日、一般に民主主義と訳されているもとの言葉は、英語のdemocracyである。現代では、デモクラシーは民衆が政治に参加している制度をいう。その参加形態は、多くの場合、選挙で代表を選んだり、意思を表わしたりする形をとる。そして、民主的といえば、無条件でよいものという価値観が広がっている。しかし、デモクラシーが発生した古代ギリシャでは、必ずしも良いものと考えられていたわけではない。
 古代ギリシャでは、古くは王から人民までが共同体の祀る神の前にひとしくぬかずいて祈るというのが、国のあり方だった。王は神々の子孫と信じられ、人民もまた王と血縁でつながっていると考えられた。そこでは宗教と政治が不可分のものとなっており、わが国にいう「祭政一致」の状態だった。これは、世界的に広く見られる国家以前の共同体と共通しており、氏族共同体が小王国に発展したと考えられる。しかし、ギリシャでは、都市国家が発展するにつれて、社会の共同性が崩壊していった。その結果、表れた政体が、君主制、貴族制、民主制(デモクラシー)である。
 プラトンやアリストテレスは、それぞれ君主制が堕落した場合は専制政治となり、貴族制が堕落した場合は寡頭政治となり、民主制が堕落した場合は、衆愚政治となると考えた。民主制は、多数者による無秩序な支配となると見なされていた。
 デモクラシーは、「デーモス demos(民衆)」の「クラティア kratia(支配)を意味する。デーモスは民衆であり、君主や貴族に対する市民のことである。ただし、彼らは奴隷を所有する少数の自由市民であった。一方、クラティアは、名詞のクラトス(力)、動詞のクラテイン(打ち勝つ、征服する)という言葉から派生している。そこから、支配を意味する。
 それゆえ、デモクラシーには、「力による支配」「勝利・征服による支配」が含意されている。そこには、国家の内部に対立・抗争があることが想定されている。また、その争いに「力」をもって「打ち勝った」者が支配する体制という考えが表れているわけである。その力による勝利者が民衆であるので、デモクラシーと呼ばれるわけである。しかし、その民衆が必ず良い判断・行動をするとは限らない。大多数の者が愚かな状態に陥れば、衆愚政治に陥る。少数の賢者の意見は圧殺され、大衆心理による無秩序な状態に陥る。そして、その状態を収める者は、再び「力」をもって現れ、「力による支配」を行う。その支配者が国の内部から現れれば、専制政治または独裁政治となる。国の外部から現れれば、その国は外部から侵略・征服される結果となる。デモクラシーとは、そういう危険性をもったものであることを知らねばならない。
 それでは、衆愚政治またはその後の専制や侵略を避けるにはどうすべきか。人民が道徳性を磨き、精神性を高める努力をするしかない。その努力をいとうならば、人民主権を担うにはふさわしくない。デモクラシーは、国民の道徳の涵養なくしては、維持できないのである。国民道徳・道徳教育の重要性に触れずにデモクラシーのみを唱える者は、国民を衆愚政治か、専制または他国民の征服支配へと導く者と知るべきである。
 国民道徳の向上を説かずに「人権」の拡大・擁護ばかり強調する「人権民主主義者」には、十分注意しなければならない。
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ber117

 

人権擁護法の危険性

2005.4.20

 

 国会で、人権擁護法案が成立しかねない情勢となっている。この法案は、その核心をなす「人権侵害」という概念が曖昧である。そこに非常な危険性がある。さらに言うと「人権」という概念自体が、まだ十分な根拠付けのされていない概念であり、これを無制限に拡張すると憲法の法秩序を内部から破壊するものになりかねない。

 

●「人権」概念のあいまいさ

 

「人権」の概念は、戦後日本に突然、天から降ってきたものだ。GHQ製の翻訳憲法に「基本的人権の尊重」という原則が盛り込まれたのが、始まりだからである。

戦後日本における「人権」は、人間が生まれながらに自由であり、権利において平等であるということから出発した。日本国憲法に定められている。その憲法は、アメリカ軍人が起草したものが、銃砲の下に押し付けられたのである。そういう意味では、日本人の「権利」は、日本を占領していたアメリカ人の思想に根源を持つ。彼らの背骨にあるアメリカ独立宣言の思想が、その源流となっている。

独立宣言はいう。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれていることを信じる」と。日本国憲法には、「造物主」という言葉はない。しかし、もとは、「人権」とは造物主によって与えられたものだという観念があっての「人権」である。造物主を除いたならば、「人権」の根拠とは何か。「人権」とは、誠に宙に浮いたような不確かな観念なのである。

 

ところで、独立宣言にいう「造物主」だが、これはユダヤ=キリスト教における神を含意する。その神(ヤーウェ、エホヴァ、ゴッド)は、人間を自由で平等なものと創造したのだろうか。聖書を一度でも読めば、そうではないことが書いてある。

神が創造したのはアダムとイブのみである。アダムを土くれから造ったという。そして、アダムが寂しそうにしているので、彼の肋骨からイブを造ったという。この時点で、アダムとイブ、男性と女性の始原は平等ではない。神が創造したのはこの二人だけで、その後の人間は、つまり彼らの子孫として生まれたのであって、神が直接創造したものではない。

次に、アダムとイブは自由ではなく、その子孫も自由ではない。アダムとイブは楽園に暮らしていたが、イブが蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまったことで、楽園から追放された。そのため、彼らとその子孫は原罪を負っているというのが、聖書の信仰である。そして罪を負った人間は、男は労働を、女は生みの苦しみを味あわねばならなくなっているという。この状態は、自由ではない。労働をしなければならず、陣痛に苦しまねばならないのだから、労働と陣痛から自由でない。また原罪によって、この世に死というものが入ったという。そのため、人間は死ぬべき運命から自由ではない。それゆえ、人間は自由でも平等でもないというのが、聖書の書き示すところである。

キリスト教では、神がこの世に一人子イエスを遣わし、そのイエスが十字架上で贖罪をしたことによって、人間の原罪があがなわれたと説く。原罪とは神から離れている状態であって、救世主イエスの死と復活によって、神と人とが再び結びついたとする。それでは、それによって原罪は消滅したのだろうか。否、依然として、男は額に汗を流して働いている。また、女性は陣痛に苦しみ、すべての人は死を避けられない。キリスト教では、死の後に、最後の審判が待っているという。審判の結果は、もちろん平等ではない。聖書は、すべての人が救われるとは書いていない。それゆえ、人間が自由でも平等でもないという状態は変わっていない。

アメリカ独立宣言は、聖書に基づきつつ、聖書とは異なることを信じていると宣言しているわけである。いつのまにか、ユダヤ=キリスト教ではない「造物主」の信仰に乗り換えたのだろうか。日本憲法においては、一層事態が曖昧となる。「基本的人権の尊重」を謳っていながら、「人権」の根拠はそこには存在しないからである。

 

さて、そのような中で、現在、人権擁護法案が国会で取りざたされている。根拠不明の「人権」を擁護しようということを法律で決め、そうした人権の侵害を防ごうというのだ。その前にやることがある。憲法を見直し、「人権」という概念の根拠付けをやり直すことである。では、どのようにしてそれをやり直すのか。この課題は人間とは何か、地球における人間の存在とは何か、というような根本的な問題となる。現在の憲法改正論議では、まだほとんどその点が認識されていないようだ。ましてや、そのような中で、どさくさまぎれのような形で人権擁護法案を通過させてはならないと思うのである。

 

●人権擁護法案は思想統制を生む

 

人権擁護法案が「人権侵害」とするのは「不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為」である。また、人権侵害とは「人種等を理由としてする不当な差別的扱い」だとする。「人種等」とは「人種、民族、信条、性別、社会的身分、門地、障害、疾病又は性的指向をいう」と定義している。
 では、どういう行為を「差別」とし、「不当」だと判断するのか。どういう内容・程度を基準として「侵害」とするのか。同法案は解釈次第によって、特定の思想を持つ人々や団体の利益が過大に擁護され、大多数の国民の自由と権利が侵害されるおそれがある。

 人権擁護法案では、法務省の外局として人権委員会なるものが設置される。人権委員会は5人で構成され、ここが「人権侵害」であるか否かを判断する。また、地域における人権擁護の推進を図るために、人権委員会に人権擁護委員を置く。その数は全国で2万人とする。
 この法案の禁じる「不当な差別的言動」とは「相手を畏怖させ、困惑させ、又は著しく不快にさせるもの」である。「畏怖」「困惑」「著しく不快」の判断基準は、「人権侵害」「差別的言動」をされたと訴え出た「被害者」の側にある。
人権侵害をしたとみなされた人は、公的機関によって「出頭」が命じられ、「捜査」「家宅捜索」「押収」が行われる。またそれを拒否すれば、多額の「罰金」が科せられる。これではまるで、思想警察だ。
 何をもって「差別」とするか、また「差別助長行為」というかは、裁判でも見解が分かれている極めて難しい問題のようだ。それを厳格な審査を行う司法ではなく、行政機関である人権委員会が判断して、国民生活に介入するのは公権力の暴走を許す。
 「人権侵害」の定義が曖昧であるので、そのための「情報収集」「調査」「救済」「予防」は、特定の利害・目的のために利用される危険性もある。

 同法案について警鐘を鳴らしてきた八木秀次氏は、月刊「正論」の平成17年5月号に、「人権擁護法の背後にあるもの」という論文を書いている。八木氏によると、人権擁護法案は、もともとある特定の団体の思惑で策定されたものである。その団体とは、部落解放同盟(以下、部解同)であるという。東京新聞2月23日号は、部解同が人権委員会のメンバーに「被差別部落出身者、女性、障害者、在日外国人」を想定していることを報じている。もし全国の人権擁護委員が部解同の影響下に置かれたならば、「人権行政全体部同盟の完全なるコントロール下に置かれるのではないかという大きな懸念が生じる」と八木氏は書いている。

 また、仮に左翼的・反日的な思想をもった人間や過激なフェミニズムの思想をもった人間が人権擁護委員の多数を占めれば、特定の思想が「人権啓発」という名の下に宣伝・強制され、違う思想を持つ人々の思想・信条・表現の自由が踏みにじられるおそれがある。
 まだある。同法案の最大の問題は国籍条項の定めがないことである。人権擁護委員の要件は「住民」というだけで日本国籍は必要ないとされる。そのため、北朝鮮系の朝鮮総連の各地役員やそれに同調する日本人が人権委員になったり、人権擁護委員となることも可能である。彼らは本国にとって不利益となるような日本人の言動を「人権侵害」だとして糾弾するだろう。「救う会」は、この法案は拉致問題の解決に障害となるといって、断固反対している。中国系や韓国系の在日外国人が委員になれば、自虐的な歴史観、偏向した歴史教育を改めようとする日本人の言動を「人権侵害」だとして告発するだろう。韓国の国会議員数十名が、日本の国内の中学生用教科書の採択について、裁判所に訴えを起こしている。同法案が成立すれば、裁判という面倒な手続を踏むまでもなく、外国籍の人権擁護委員が日本人の言論に規制を与えうる。
 しかも、人権委員会は「人権侵害」のみならず、それを行うおそれのある者、これを助長・誘発する行為をする者およびその関係者に対して、説示・啓発・指導をするとも規定されている。これではあらゆることについて「人権侵害」のおそれがある、助長・誘発するとして、国民の自由な言動が規制されるおそれがある。

 八木氏は、「ドサクサに紛れて我が国の社会の在り様を大転換させる天下の悪法が作られようとしていたのである。国民的な議論もなく、あっという間に自由社会を監視社会に転換させる法律が通ろうとしていたのである。‥‥この法案が成立すれば、拉致被害者救出運動も、近現代史見直しの機運も、ジェンダーフリーへのバックラッシュも、憲法改正も教育基本法改正もすべてが吹っ飛ぶことになる。それだけの破壊力をこの法案は備えている」と述べている。
 慧眼だと思う。「人権擁護法案」は、独立主権国家において、国法の秩序を内部から破壊する悪法だと私は考える。日本国民の良識を結集して、同法案を廃案に追い込もう。
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