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オ ピ ニ オ ン  人権・男女

                       

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■男女の調和が日本再生の鍵

2003.6.20

 

<目次>

 はじめに

性差は人類生存のために発達した

胎内で男女の違いが生まれる

性差の文化は人類の知恵

性別役割が逆転した社会はない

家族があるから人類である

母性愛は人間形成の根本

父性が性差的成長を促進する

父母の協力が幸福のもと

西洋は男性中心、日本は男女協調

結びに〜日本を家族から立て直そう

 

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はじめに

 

平成11年6月に「男女共同参画社会基本法」が制定された。それ以来、わが国に当惑と混乱が広がっている。この法律には、「豊かで活力ある社会を実現する」という目的が明記されている。その目的は良い。社会の基礎をなすものは、家庭である。家族は社会の基本単位である。「豊かで活力ある社会」を建設するには、まず家庭が明るく、安定していなければならないだろう。それは、男女の調和・協力によってのみ実現できるものだ。それには、男女の特性を認め合い、短所を補い合っていくことが必要である。ところが、「男女共同参画社会基本法」の施行後、「男女共同参画=ジェンダーフリー」という考え方が全国に蔓延している。ジェンダーフリーという考え方は、男女の特性を否定するものである。こうした考えが広まることにより、国や自治体や社会の各所に混乱が生まれている。

「男女共同参画=ジェンダーフリー」と主張する人々は、性差というものに関して、根本的な間違いを犯している。第一は「性差は社会的文化的にのみ作られたものだ」と考えている点。第二は「人工的に作られたものだから人為的に変更することができる」と考えている点である。

問題は、果たして性差は、人類の自然な生物学的な根拠のないものであり、社会的・文化的にのみ作られたものであるかどうかである。たとえば、男らしさ、女らしさとか、母性本能とかは、人間が作った人工の観念だから、人間の意志でなくしてしまえるというようなものなのか。否、そういうものではないことを、脳科学や心理学等の専門家が明らかにしている。

それゆえ、今日行き渡っている性差についての誤った認識を正す必要がある。人類の性差は、生物学的根拠に基づいている。そして、その発現として表れる性差を豊かに発展させてきたのが、人類の文化である。性差に基づく文化は、人類の知恵の結晶である。その積極的な意義を再認識する必要がある。

男と女、父性と母性、一見対立的に見えるものをどうやって調和させ、バランスを取るか、これが21世紀に求められる知恵である。日本の文化や伝統には、この知恵が豊かに息づいている。それを生かすことが、家庭や社会に調和と発展をもたらす。そこに、日本再生の道である。また、これは西洋的価値観に片寄った現代世界を正すことに、貢献することにもなるだろう。

 

1.性差は人類生存のために発達した

 

 脳は、人類にとって、まだ解明されていないことの多い未知の領域だといわれる。その脳の科学的研究が進むにつれ、性差というものは、胎児期から形成されることがわかってきた。

全世界で600万部以上のミリオンセラーとなった『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社)で、著者ピーズ夫妻は次のように述べている。アランとバーバラのピーズ夫妻は、ヒューマン・コミュニケーションの第一人者である。

 「男女の違いは社会が作りだすというのが、20世紀の考えの主流だった。 (中略) 生まれたばかりの赤ん坊はまっ白なキャンバスのようなもので、育てる人間がそこに色を描いていくというのが、近年までの定説だった。しかし生物学的な研究が進むにつれて、思考パターンの形成のしかたは、どうもそうではなさそうだということがわかってきた。私たちの態度や好み、行動を作り上げるのは、実はホルモンや脳の神経回路の働きなのである。(中略)私たちの思考や行動を決めるのは、胎児期に作られる脳の配線と、ホルモンの働きである」

ピーズ夫妻によると、男の脳と女の脳は、胎内において、異なる特徴を持つように発達する。そのため、男脳と女脳では、構造や脳細胞のネットワーク構成がまるで違う。外形(頭蓋骨)や構成部品(脳細胞)が同じであっても、配線や情報の処理方法が違うのである。それは、センサーやCPU・ソフトウエアが違うまったく別のシステムと考えられる。同じ環境に置いても、男脳と女脳では拾い上げる情報や導き出す結論が異なるのである。

 ピーズ夫妻は、脳科学の専門家ではない。かれらは最新の脳科学の研究成果をもとに、自分たちの言葉でわかりやすく伝えているのだ。こうした違いは、どうしてできたのか。ピーズ夫妻は、次のように推論している。

 「男と女が異なる進化をしてきたのは、その必要があったからだ。男は狩りをして、女は木の実や果実を採った。男は守り、女は育てた。それを続けた結果、両者の身体と脳は、まったく別なものになった。男女の身体は、それぞれの役割に合わせて発達していった。たいていの男は女より背が高く、力も強くなっていった。そして脳のほうも、役割に応じて進化していった。こうして何百万年もの間、男と女の脳は違う方向に進化していき、その結果、情報の処理の仕方まで変わってきた。いまや男と女では、考えかたはもちろん、理解のしかた、優先順位、行動、信念までことごとく違う」

 夫妻の言うように、男女の特徴の違いは、人類がこの地球において生存するために必要であり、有利であるから発達してきたものだろう。生存に不必要であり、不利であったら発達するはずがない。

フェミニストの中には、こうした男女の違いをも、「社会的・文化的に作られたものにすぎない」と言う人があるかも知れない。しかし、数百万年もの間、百万世代以上もの間、受け継がれ、身体や脳の違いとなっているものまで、「作られたものにすぎない」と言えるだろうか。そこまで言うのは、現代人の傲慢というものだろう。また、その違いまで変えたいと望むのは、非現実的な願いである。

再度、ピーズ夫妻の言葉を引こう。夫妻は言う。

「男と女はもともと作りがちがっている。この事実を認めようとせず、勝手な期待を相手に押しつけると、男女関係は暗礁に乗り上げる。人間関係で降りかかるストレスのほとんどは、男と女はまったく同じで、同じような欲望や衝動を持ち、大事に思っていることも同じだという間違った認識が原因になっている。

今の社会では、子どもを性の区別なく育て、男女はまったく同じだと教えている。こういう教育は、長い人類の歴史でも過去に例がない。異性との違いに気づくのは、大人になって結婚した翌朝である。これでは、人間関係や結婚生活が破綻するのも当然だろう。男女を同じものと見なす考え方には、危険が一杯だ。脳の配線が異なる男と女に、画一的な行動を押しつけているのだから」と。

人間が円滑な人間関係を結ぶには、互いに相手を理解することが必要だ。人間関係のトラブルのうち、最も多いのは男女間のトラブルであり、家庭の悩みや子供の問題の多くは、夫婦の不和が原因にある。幸福な人間関係を築くには、男女の違いを無視するのではなく、違いをよく認識し、相互理解を深めることが必要だ。違いを否定し、消去しようとすることは、男女間のトラブルを増加させ、夫婦の不和を増幅し、家庭を不安定にし、社会を混迷させることになるだろう。ページの頭へ

 

2.胎内で男女の違いが生まれる

 

 次に脳科学の専門家の言うことを聞いてみよう。わが国にも、早くから脳科学に取り組んでいる研究者がいる。順天堂大学名誉教授の新井康充 (やすまさ) 氏は、その一人だ。

新井氏は、『ここまでわかった ! 女の脳・男の脳』(講談社) の中で、「男らしさ、女らしさや性役割ができあがっていくのに、生物学的なものが何かかかわっていないのだろうか」と問いかけている。そして、男女の行動様式の違いには、はっきりと生まれつきの部分があることを明らかにしている。

 子育てをしたことのある人は、たいてい感じることだろうが、男の子は行動的で激しい遊びに夢中になり、女の子はやさしい、可愛らしい遊びに興味を持つ。男の子が「男の子らしい」遊びを好み、女の子が「女の子らしい」遊びを好む傾向があることは、事実である。新井氏は、この傾向がどの程度生得的なものかを調べた研究があると紹介している。

 その研究によると、男を男たらしめるのは、男性ホルモンのアンドロゲンである。胎内でこのホルモンが働くのである。男子になるように定められたXY染色体を持つ胎児は、自らアンドロゲンを出して、体を男の体に作っていくという。問題は、そのとき行動様式をも決定するのかどうかである。

 サルの場合は、アンドロゲンの有無が男女の行動様式の違いを産み出すことがわかっている。妊娠中のアカゲザルにアンドロゲンを注射するという実験をしたところ、生まれてきたメスザルは、遊びの行動パターンがオス型になった。

 新井氏は言う。「このことは、子ザルの遊び方の雌雄パターンが、生まれてからサル社会の中で生きていく過程で獲得されるものではなく、生まれつきのものであることを示している」

 こういう実験は、人間を対象にして行うことできない。そこで推論になるが、こうしたホルモンに関する生物学的・生理的な部分は、サルもヒトも、そう違わないだろう。それゆえ、人間の場合も、ホルモンによって、胎内で単に身体的な特徴がつくられるだけでなく、生後の遊びのパターンも、既に備わっていると考えられる。

新井氏は言う。「正常な男の胎児の場合は、自分の精巣からアンドロゲンが分泌され、これが脳に作用して遊びの行動パターンを男性型にするわけであるが、女の胎児の場合は、卵巣からはアンドロゲンは出ないので、遊びの行動パターンが女性型になる」

逆にもし女子がなんらかの理由で、アンドロゲンを多く浴びたら、どうなるだろう。そうした女子は、男の子の遊びに興味を持つと考えられる。新井氏は、そうした事例を紹介している。

 「副腎過形成症」という病気がある。アンドロゲンが異常に大量分泌される病気である。この病気にかかって過剰なアンドロゲンにさらされた女の子は、どうなるか。

新井氏は言う。「正常な女の子に比べて、より『おてんば』であり、遊び相手として男の子のほうを好み、屋外遊びが好きで、『ままごと』のような屋内遊びはあまり好まない。そして攻撃的になることが多いとよくいわれている」

そして、症例から見て、「胎児期におけるアンドロゲンの有無が幼児の行動型に大きな影響を与えていることがわかる」と新井氏は述べている。

 また、オモチャの好みも男子と女子では明らかに異なることが、脳科学によって確かめられている。そこで、新井氏は、次のように結論している。

「したがって、幼児の遊びの行動様式や性役割が成立していく過程には、出生後の社会的、文化的要因ばかりでなく、生まれる前のホルモン環境によって影響を受ける部分があることがわかる」

男女の性差は、単に文化的に作られるのではなく、胎内におけるホルモンの働きによって、生み出される。身体的な特徴だけでなく、行動のパターンの違いまでが、胎内において準備されるのである。ページの頭へ

 

 

3.性差の文化は人類の知恵

 

今日の女性学者は、男女の生物学的な性差を「セックス」と呼ぶのに対し、社会的文化的につくられた性差を「ジェンダー」と呼ぶ。そして、ことさらにセックスとジェンダーを区別し、セックスという生物学的・生得的な性差を過小評価し、後天的なジェンダーを否定すれば男女の性差を解消できるかのように言い張る人たちがいる。

ところが実際は、男女の性差は、生物学的な基礎に基づき、その発現として社会的・文化的な性差が生み出されてきた。ジェンダーはセックスを基礎としており、その発現として社会的・文化的に発展したものである。そして、性差は、人類の生存と繁栄のために必要なものなのである。性差を生かす文化は、祖先から受け継いだ大切な文化遺産であり、人類の知恵の結晶と言うべきものである。

 多くの動物の場合、行動は本能によってほとんど決定されている。しかし、人類は知能が発達していることにより、他の動物よりはるかに、自由で複雑な行動をする。そのため、本能が働く仕組みがデリケートになっている。先天的な本能が、後天的な学習とセットになっていて、学習によって、本能がよく働くようになっている。そして、本能自体が、引き金がなければ発露しない場合もある。性行動についても、このことがいえる。

 そのため、人類が生存し繁栄するためには、子供や未成年に、男は男としての、女は女としての行動をとれるように教えることが必要となっている。男子は男らしく、女子は女らしく育てないと、互いに性的な魅力を発揮できなくなり、男女がうまくカップルを作れなくなる。また、円滑な性行動を行うことができなくなる。特に男子の場合は、男らしく行動することを身につけさせないと、男性の性行動に必要な能動性を発揮できなくなる。

このことは、心の問題にも関わる。「自分は〜である」という自己認識を、アイデンティティ(自己同一性)という。アイデンティティは、特に青年期に必要な自己同定である。男子は「自分は男である」というアイデンディティを喪失すると、自信喪失、無気力、現実逃避などの状態に陥る。男が性的なアイデンティティを失うと、女もまたとしてのアイデンティティを確立できなくなる。男らしい男がいない社会では、女も女らしく振舞うことができなくなってしまう。そういう社会は、他の部族との競争において、生存能力が低くなる。また自然環境の中で生きていく、生きる力も弱くなる。

 人類は昔から男女の差異を教える仕組みを発達させてきた。内容は部族や民族や地域によって異なる。しかし、儀礼や教育を通じて、男女の差異を際だ出せ、次世代に教えてきたことは、いずこにも共通している。

たとえば、わが国には端午の節句と雛祭りがある。それぞれ、男子は男らしく、女子は女らしく育つようにという願いに基づく行事である。それぞれの行事に使われる人形は、男性の美しさと女性の美しさを様式化している。こうした性差の美を子供の心に焼き付けることによって、男女の差異を意識させ、男子は男子の理想目標を、女子には女子の理想目標を持たせるのである。理想目標とは、自分がそうなりたいと思う成長の目標でもある。

また、どの文化にも、イニシエーション(通過儀礼)と総称される儀礼がある。これは、子供が大人になるための儀礼である。この儀礼は、この世に子供が誕生することに匹敵するくらいに、重要な意味を持つ。儀礼の過程で、子供は一度象徴的に死に、生まれ変わる。この「死と再生のシンボリズム」(エリアーデ)を体験することによって、子供は初めて大人になったことを認められる。

イニシエーションは、どの文化でも男女別々に行われてきた。そして、この儀礼を通じて、子供がなるものは、抽象的な「大人」ではない。男子は大人の男に、女子は大人の女になるのである。そのことによって、男女それぞれのアイデンティティを確立する。そして、一人前の大人の男になった者と、同じく女になった者が、初めて結婚を許される。そこには、身体的にも精神的にも大人になったと認められた男女がいる。そして、男女の両性は、磁石の両極のように引き寄せ合う。これが、恋である。相異なる極性を持つがゆえに引き付け合い、一体となるのである。

 男女の差異を示す文化は、身体的本能的な生物学的根拠に基づいている。それをさらに、洗練させてきたのが、人類の文化である。性差の文化は、生得的な部分と後天的な発達が結合したものである。生得的な部分つまり自然の生物学的な根拠を否定すると、自然に反し、不自然な状態に陥る。

どういう性質を「男らしい」「女らしい」と考えて発達させるかは、それぞれの文化によって異なる。しかし、どのような文化でも、性差は人間に必要不可欠のものであることにかわりない。男女には、身振りや言葉、衣装の違いなどがあり、それが人類の文化を豊かにしている。性差が文化を豊かにしているのである。文化の発達とは、男女の文化が、それぞれ独自に洗練され、そこに調和が維持されていくことである。

男女差異の文化の中には、男女差別が含まれているケースもある。そうした差別はなくしていかなければならない。しかし、基本的に性差は、人間の生存と繁栄のために必要なものである。性差を生かす文化は、人類の智恵の結晶であり、大切に守っていかなければならない祖先の遺産である。それを否定する時、青少年はアイデンティティと理想目標を失い、社会は活力を失い、人類は生存と繁栄の力を失う。ページの頭へ

 

 

4.性別役割が逆転した社会はない

 

「男女共同参画=ジェンダーフリー」と曲解する人々は、性差は社会的文化的にのみ作られたものであり、人工的に作られたものだから人為的に変更することができると考えている。そして、「男らしさ」や「女らしさ」が絶対的なものではなく、社会や文化によって変化するのだと主張する。その例証として、よく挙げられるのがパプア・ニューギニアのチャンブリ族である。人類学者マーガレット・ミードがこの部族では男女の性別役割が逆になっているという報告をしている、としてジェンダーフリー論者が好んで取り上げる。その真相はどうか。

確かにミードは、「3つの原始社会における性と気質」において、チャンブリ族の社会について報告している。チャンブリ族では「われわれの文化の男性と女性の態度が完全に逆転しており、女性が優位であって、感情的ではなく、仕切る側であり、一方、男性のほうは責任を欠き、情緒的に不安定であった」とミードは記述している。彼女によると、チャンブリ族では、女性が優位だという理由は次の点である。経済的な生産の役目を女性が果たしている。女性は漁労のほとんどを担い、他の部族との間で魚を他の食糧と交換する。また重要な交易品である蚊帳を編む。女性は強い結束を示し、男性よりも情緒的に安定しているように見える。それに対してチャンブリ族の男性は、事実上女性に依存しており、女性から食糧や金を得る。大半の時間を絵を描いたり、踊りなど非生産的な芸術活動に費やしているのだという。

しかし、現在の文化人類学によって、ミードは、誤った観察と記述をしていることが明らかになっている。ドナルド・E・ブラウンの『ヒューマン・ユニバーサルズ』(新曜社)によると、1974〜75年にデボラ・ゲワーツがチャンブリ族を再調査した。その結果、ミードが報告したような男女の姿は見られなかった。チャンブリ族では、伝統的に、男性は攻撃的で女性は服従的であり、この傾向は調査し得る範囲だけでも、少なくとも1850年までさかのぼることができた。確かにチャンブリ族の女性は一家の稼ぎ手ではあったが、その労働の産物をコントロールするのは夫や父親であった。女性には、自分の生産物を誰に、どのようなときに与えるかを決める自由はなかった。ミードには、チャンブリ族の男性が無責任で情緒不安定に見えたのは、他の部族との関係で、たまたまその時期にそうなっていたこともわかった。ミードの観察は一時的・表面的であり、男女関係の一面しか見ていなかったのである。

 ところが、現在もなお、ミードの報告は、男女の役割が逆になっている社会の実例だとして、社会学の様々な本に引用されているようだ。引用は、日本の高校教科書にまで及んでいる。国語教科書『展開・国語総合』(桐原書店)がそれだ。この教科書には、大阪大学教授・伊藤公雄氏による「ジェンダーの視点から」という文章が掲載されている。男性学を教えているという伊藤氏は、次のように書いている。「ニューギニア地域のチャンブリ族は男が繊細で臆病、女は頑強で管理的役割を果たしている」「このミードの議論は、いわゆる『男らしさ』や『女らしさ』が絶対的なものではなく、文化によって変化すること……を明らかにした点で画期的」と絶賛している。この文章は。高校生に誤った知識を与えるものである。

実のところ、ミード自身が、自書の明らかな誤解に基づく引用に迷惑している。彼女は、雑誌『アメリカ人類学』への投稿で、「自分は性差の存在を否定するような実例を見つけたなどとはどこにも書いた覚えはない」「私の研究は普遍的な男女の性差が存在するかどうかに関するものではなかった」と述べている。またある本の書評の中で、ミードは、「実際、ゴールドバーグ博士が指摘しているように、女性が統治する社会について立て続けに成された主張は全てナンセンスである。そのような社会が存在すると信じる理由はどこにもない。……男性は常に公事における指導者であり、家庭における最高権力者でありつづけたのであるから」と書いている。

この地球上に、男女の役割が逆転している社会は、一つも発見されていない。人類学の研究が示しているのは、どこの社会でも男女の身体的・能力的特徴に基づく役割分担が存在するという事実である。ページの頭へ

 

家族があるから人類である

 

人類は、他の動物に比べ、脳が抜群によく発達している。子供は頭が大きく、また生まれたばかりの時は、自分ではほとんど何もできない。非常に未熟な状態で生まれた子供は、誕生後に数年もかかって成熟する。これを、ネオテニー(幼形成熟)という。ネオテニーは生物学上、人類最大の特徴ともいわれる。

人間の子供が未成熟な状態で生まれてくるのは、脳が発達して頭が大きくなったためといわれる。未熟なうちに産まないと、子供の頭が産道を通らない。そこで未熟な状態で産むようになったと考えられている。

こうした子供を育てるため、母親は出産後、数年にわたって子供にかかりきりとなる。自分のことを自分で出来ない子供と、それを連れた母親。人間の母子は、自然界で生存していくには、きわめて弱い存在である。こうした母子に対し、食糧を与えたり、外敵から守ったりする仕組みが必要となる。それがなければ、人類は存続できない。

その弱い母子を守り支える役割を担う者が、父親である。父親が母子とともに生活し、守り、面倒を見るという仕組みが働くことによって、子供をネオテニーの状態で産んで安全に育てることが可能になった。この仕組みを、家族という。父・母・子からなる家族が成立したことによって、人類は生存と繁栄が可能になったのである。

心理学者の林道義氏は、次のように述べている。「家族の発生は人類の発生の必要条件であった。家族の誕生と人類の誕生はメダルの表裏、切っても切れない関係なのである。人類にとって家族は一心同体、家族を壊してしまっては人類でなくなるというほどに重要な単位なのである」(『家族の復権』中公新書)

家族とは男女とその子供を中心とし、それに若干の親族が加わり、原則として共同生活をしている集団をいう。家族は、親から子へと生命を継承していくための、すなわち子供を育て、種を維持していくための基本単位である。それゆえ、両親と子供が不可欠の要素である。そして、父・母・子で構成される家族という単位集団を構成したときに、人類は誕生したといえる。

それゆえ、家族あっての人類なのである。家族がなければ、人類はなくなるのである。

 この点を、他の動物と比べてみよう。「人間はサルから進化した」という説があるが進化論というものは、未だ仮説に過ぎず、検証されたものではない。しかし、人類の特徴を理解するために、他の大型類人猿と比較してみることは有効であろう。大型類人猿の社会構成は、オスとメスがペアをつくるペア型家族か、複数のオス・メスが交尾して群れをつくる乱婚型集団かのどちらかである。前者の例がゴリラであり、後者の例がチンパンジーやボノボである。

 ゴリラのようにペア型家族をつくる類人猿には、オスとメスの体格が各段に違う。また、メスを獲得するためにオス同士の対立が激しく、オス同士が集団をつくって協力することができない。それに対してチンパンジンーのように乱婚型集団をつくる類人猿は、オスとメスの体格はそれほど違わない。また、オス同士が協力し合い、挨拶行動がよく発達している。このように、オス同士の敵対関係を緩和する仕掛けが存在している。

ペア型ではある程度安定した「つがい」ができている。これは、父・母・子からなる単婚家族の先駆形態とでもいうべきである。乱婚型では、単婚家族は成立せずに集団を構成している。

 人類の場合は、この両方の型のプラス面を生かす形になっている。男女が性的結合により、「つがい」を作り、ある程度安定した家族が成立している。それと同時に、男同士が敵対し合わず、集団を作り協力し合う社会を構成している。つまり、家族が寄り集まって集団を作り、その集団の中に家族がいくつか含まれているという社会である。人間の社会では、集団の共同性と家族の独立性とが両立している。こうした社会を形成したことが、人類の生存と繁栄に大きな利点をもたらしたのである。人類は、父母が協力して、知能が発達した子供を産み育てながら、集団で狩猟採集を行い、また定住して農耕を行う。複数家族の共同生活が、文明の発達を可能にしたのである。

こうした人類文明の基礎は、家族にある。家族あっての人類である。家族がなければ、人類はなくなるのである。ページの頭へ

 

6.母性愛は人間形成の根本

 

家族とは、単に男女の性的結合に基づき、子孫を生み育てていく、生命継承・種族維持のための集団である。しかし、家族の意義はこれに尽きるものではない。家族とは、こうした生命的なつながり、血縁を基にし、人間的な愛情でつながる集団でもある。

 父・母・子を要素とする家族の間の愛情が、人類の知能を発達させ、それによって文化を豊かなものにしてきた。ここにおいて、重要なことは、子供に対する親の愛情が、子育てには不可欠であること、また父性と母性の両方が、子供の発育と成長に不可欠であることである。

 子供を産むのは、女性のみの役割である。また、生後、数ヶ月の間、母乳を与えて哺育するのも、女性の役割である。哺乳ビンでミルクを与えるというのは、ごく最近のことである。人類は数百万年の間、みな母親の出す乳で育ってきた。母乳は生命の泉だった。

そのうえ、人類は、ネオテニー(幼形成熟)のため、アドレッサンス(成体となるまでの期間)が非常に長い。この間の子育ては、主に母親が行う。それゆえ、母性の役割は、極めて重要である。この役割を果たすために働くのが、母性本能である。女性の中にある母性本能が、子供を求め、子供を育てようとするものである。母性愛こそ、子供を産み育て、人間を形成する根本的な形成力である。

母性本能は、生得的なものであるが、学習によって発現し、発達する。社会的・文化的な学習機能によって、女性の中に潜在する母性本能が機能し、母性愛が豊かにあふれ出る。

 「三ッ子の魂百まで」という諺がある。この諺の正しさを裏付けるものに、「母親剥奪理論」がある。米国の精神分析学者ジョン・ボールビーが唱えた説である。

 ボールビーは、非行少年のなかには幼児期に母親と別れているものが多く、とくに乳幼児の時に母親を欠いて乳児院などで育てられた者が多いことを発見した。彼は、母親を剥奪された子どもが、感情の冷たさ、対人関係での感情の交流の不十分、愛情に対する欲求不満を持つのではないかと考えた。調査の結果わかったことは、母親から引き離され、いくら泣いても乳児院の職員から相手にされない子供は、泣くこともしなくなる。体力が弱くなり、遂には成長が止まってしまうことさえある。ボールビーは、こうした研究に基づいて、乳幼児、とくに生後1年から3〜4歳までの間に母性的な養護が受けられないと、成長してからの生活全体に広範囲な悪影響があると結論した。非行や犯罪、精神病等の原因となるということである。

ボールビーの「母親剥奪理論」を裏付ける実験報告がある。比較行動学による、母親を剥奪されたサルの実験である。母親ザルから引き離された子ザルは、鬱病のような状態となり、えさを食べなくなり、動作も鈍くなってしまう。そうした子ザルは、人間の飼育係が育ててやっても、思春期にあたる年になっても、群れに入れない。群れに入れようとしても、飼育係のもとに逃げ帰ってきてしまう。まるで人間の不登校児そっくりの状態となる。

さらに、子ザルに対して、檻の外から鉄製のアームの先に哺乳ビンを着けて哺乳するという実験を行った。母親から離され、人間の飼育係が哺乳するのでもないから、子ザルには動物的な温かみは全く感じられない。このようにして育てられたサルは、人間の自閉症児のように、対人関係を築けない。自分の体をかきむしる自傷行為をしたり、常に首をゆすったりする。さらに場合によっては、こういう子ザルは、無差別に周囲のサルを攻撃する。そのため、他のサル全員から集中して報復を受け、殺されてしまうこともある。

「母親剥奪理論」と母親剥奪ザルの実験は、いかに母性愛というものが、子供の成長にとって重要なものであるかを示している。最近、いじめの原因の一つに、母親とのスキンシップの不足があると言われる。母親と安定したスキンシップを欠いた子どもたちがいじめっ子になっており、そのような子は3歳児の時点で発見できるという。

母性愛こそ、人間性を育てる基礎である。家庭において、豊かな母性愛を発揮できるようにするところに、人類の文化の進歩がある。

 しかし、急進的なフェミニストは、母性本能は近代に作られた神話だ、男性の女性支配に都合よく作られた虚構だとして、母性本能の存在自体を否定する。また、3歳児までの母性教育の重要性についても、3歳児神話だといって否定する。そして、すべての女性が家庭の外へ出て働くように仕向けている。家庭にあって子育てに専念しようとする女性を、さげすみ、専業主婦を社会からなくそうとする。そして、人類の本質的特徴である家族というものを、解体しようとさえしている。

 こうした急進的なフェミニズムの思想を吹き込まれた女性は、母性本能を発現することができなくなり、母性愛を発揮することが出来なくなる。また、結婚して家族を形成し、家庭を作り上げようという意欲を持てなくなる。母性を抑圧された女性は、子供が欲しいとか、子供を可愛いとか、思えなくなる。仮に母親となっても、子供の心や欲求を理解することができない。

こうしたフェミニズムによる害毒が広がると、人間の家庭から母親らしい愛情が失われていくことになる。家族を結び付けている人間の絆が弱まり、家族が解体されてしまう。その結果はどうなるか。子どもたちは、健全な心が育たず、人間形成がうまくいかない。社会全体で見ると、人々の人間性が壊れていくだろう。行き着く先は、人間性が失われた、恐ろしく殺伐とした社会となる。母性の否定は、家庭の破壊であり、人間性の喪失である。それは、人類文明の自壊への道である。ページの頭へ

 

7.父性が性差的成長を促進する

 

 子供の誕生と生育は、主に母性に負っている。しかし、子供のさらなる成長に関して、父性には独自の役割がある。この役割は、人類の生物学的な特徴に根ざしている。

人類の特徴としてネオテニー(幼形成熟)が挙げられると書いた。人類は脳が非常によく発達し、頭が大きくなったので、子供が未熟なうちに産まないと、頭が産道を通らない。そこで未熟な段階で産んで、生後、成熟させていくようになった。最近は、脳科学の発達によって、これには、さらに別の意味があると考えられている。未熟な段階で産むと、子供は生後いろいろな刺激を受けて、一層、脳が発達する。この方法によって、今までよりももっと高度に脳を成熟させることができる。これが、ネオテニーの目的だというのである。したがって、もし生後、子供を成熟させる機能がよく働かないと、子供は精神的に未成熟のまま、身体だけが大人になってしまう。

『幼児教育と脳』(文春新書)等の著書のある脳科学者、澤口俊之氏によると、子供の成熟に関係する脳の分野が前頭連合野である。ここは「自我や社会的知性といった高度な精神生活を司る」ところであり、「動物としてのヒトを人間たらしめる脳領域」である。前頭連合野は、自分の行動や心・感情をコントロールする「自己制御」の働きに関わる。この部分が発達しないと、ヒトを「人間」とする社会性や恥の感覚が働かないという。

 ここで、重要な役割をするのが、父性である。生後、子供の脳の前頭連合野を成熟させるためには、母性の働きだけでは足りない。子供に自己制御や社会性や恥の感覚を教えるには、父性の役割が重要なのである。

子供に社会のルールを教えるのが父性の大切な役割だ。母子が一体となって完結している母子関係に、外の視点を持ち込み、他と比較しながら自己を客観視する、他人と付き合うときに守らなければならない規則や秩序を教える、というように子供を外の社会と関係付けるのが父性の役割だ。特に大切なことは、社会において、してよいことと悪いことを教えることだ。善悪の区別を厳しく教えることが道徳の基礎だが、父性にはその役目がある。この過程はまた、男は男らしく、女らしく育つようにする過程である。男子は男らしく、社会で行動し、女子は女らしく、社会で行動できるように、社会性を育てるのである。

子供は、母親の胎内において、ホルモンの働きによって男性化あるいは女性化しながら成長する。そして、ネオテニーによって、未成熟な状態で誕生する。その子供を、男子は男として、また女子は女として成長していくように促す役割を、父性は担っていると考えられる。

 自然界では、本来、オスはオスらしく、メスはメスらしく育っていく。人間もまた、男は男らしく、女は女らしく育っていくのが自然な姿である。人間の場合は、こうした性差の子育てを、自覚的に進めていかねばならない。

現代心理学・精神医学は、3歳以後の子供の発達には、父親の役割が重要な意味を持っていることを明らかにしている。小さい子供にとって、父親は、腕力、知力など種々の能力において、自分とは比べ物にならないくらい卓越している。子供にとっては憧れの的だ。男の子にとって父親とは、目標であり、父と同じように立派になりたいと思い、父を目標にして自我を形成しようとする。また、女の子にとって、父親は最初の異性として、愛を勝ち取りたいと願う存在であり、そのために父の気に入るような女性になろうとする。要するに父性は男の子が男性となり、女の子が女性となるのを促す働きをする。

 人間は単に生物としての行動を学ぶだけではなく、文化を身につけてこそ、人間となる。この文化の伝承において、父親は重要な役割を担う。

父親は、祖先から受け継いできた伝統や理想を子供に伝える立場にある。今の中学生の親の世代は、子供の自主性を尊重しなければならない、押し付けはよくない、子供と対等の友達のような親子でいたいと、自分から親の権威を否定する考えの人が多い。それでは親の責任は果たせない。人格教育は権威がないとできない。親の教えることに子供は抵抗したり反抗するかもしれない。しかし、父親が壁となることで、子供はそれにぶつかり、乗り越えようとし、それを通じて自我が確立する。また子供が新しいものを創造してゆく。だから、自信と誇りと権威を持って、祖先から受け継いだ伝統や理想を教えることが必要なのである。

 父性の役割が十分に機能しない場合、子供にいろいろな問題が生じてくる。子供は物事の規則やきまりを身につけられない、礼儀やマナーの欠けた、けじめのない人間となる。また、自分のことしか考えられない利己的な人間となる。また自分で判断し、行動することができなくなる。いってみれば、背骨のない人間、精神力の弱い人間になる。こうした傾向があることが指摘されている。

 また、さらに父性の乏しい家族では、心的障害が現れてくる。中学生や高校生の不登校の原因には、多くの場合父性の喪失がある。また、子供にひどい無気力症状が現れる場合がある。気力がなく、なにをやっても長続きしない。それが嵩じると病的な状態ともなる。最近よく問題となっている「境界例」という症状も、多くは父性の不足から生まれているといわれる。逆に親や周囲に、ひどい暴力をふるうようになった事例もあるという。

 事情により、父親のいない家庭もあろう。しかし、片親の家庭からもすばらしい人間が、たくさん現れている。それは母親なり、祖父なり、誰かが父性を発揮して真剣に子育てをしているからだ。父性が必要なことには違いはない。

 これまで、家族や母性・父性について書いたことについて、良識ある女性の意見を聞いてみよう。共立女子大学名誉教授の木村治美氏は、次のように述べている。

「昔は体力の差、出産を含めた生理の差が、日常生活の中でさえ男女の役割をわかりやすいものにしていた。力仕事は男性に適しているので、戦争に出て家族を守った。女性はこまごました家事労働で、家族を守った。

 いま戦争は小指で押せるボタンになった。こまごまとした家事も大半は機械文明がやってくれる。日々の暮らしの中で、なにが男の仕事か女の仕事か、わかりにくくなった。

 つきつめれば、女性には子供が産めるという性の部分の差しか残らない。その差は大きく、基本的なものである。子供が産めるという価値が、どういう意味をもつかに焦点を絞れば、すべての問題はわかりやすくなる。出産は個体にとってもっとも危険な時期であり、敵からの攻撃を受けやすい。動物の雌は必死で身を隠し、雄はこれを守ってやる。これを人間社会にあてはめて条件整備をするのがよい。

産んだら、長期にわたって育てなければならない。嬰児は母親の心音や声に安心するし、母乳を必要としている。育児には母性という資質が求められるし、父性も欠けてはならない。このような動物的側面を大切にすることで、社会はどのような受皿を用意するか、男女互いに相手に何を期待すればよいかはっきりしてくる」(木村治美著『男らしさ女らしさの価値』(『日本の息吹」平成15年6月号)

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.父母の協力が幸福のもと

 

現代日本の社会は、父性の低下した父親と、母性の低下した母親が増えている。それを、急進的なフェミニズムによる性差否定の風潮が、助長している。戦後日本では、父親が権威を失った。敗戦によって、それまでの伝統的価値観が否定されたからである。それを強行したのは、GHQの日本弱体化政策である。とりわけ、国防を制限され、自主的な国防力をもてなくされたことが、男性の役割を縮小した。男は、そして父親は、自信をなくし、誇りを失った。男性は女性化し、中性化し、父性は存在感が希薄になった。こうした男性や父親を見て育った女性たちは、男性や父親に価値を感じなくなっている。そういう女性が増えている。

とりわけ、結婚しない女性、子どもを産まない女性が増えている。そのうえ、子どもを生んで間もない女性が働きに出る例が増えている。現在、国を挙げて推し進められている「男女共同参画社会の実現」は、乳幼児から母親を剥奪する結果になりかねない。そこに露呈しているのは、個人としての女性の自由を追求する考え方である。また、これに、女性をすべて労働力として利用しようという経済界の考え方が合体し、母性の重要性がますます軽視・否定されている。こうした傾向は、一見、女性を尊重して民主的で人権を尊重しているように見える。しかし、実は自然の法則に反しており、男女両性の特徴を発揮できないから、健全な子育てはできない。母親の本能的な愛情、母性本能や、父親の本質的な役割がともに失われてしまう。その結果、家庭教育はうまくいかなくなる。それは、子供にとって悲劇であり、その家族にとって不幸であり、また日本の社会にとっても人類全体にとっても災難となる。

フェミニズムの中から生まれてきたジェンダーフリーの思想は、「男らしさ」「女らしさ」を否定する。この考え方は、子供の健全な成長を妨げる。男の子の持つ特徴や、女の子の持つ特徴を人為的に押さえてしまうことになる。そうすると、いろいろな問題が出てくる。男の子の持つ攻撃性・闘争心は生来のものゆえ、それを押さえてしまうと、逆にとんでもないところに陰湿な暴力が噴出する。女の子も調和性や愛育心は生来のものゆえ、それを育てないと、成長する方向を見失う。単なる男子との競走や模倣は、女性の特長を損なう。特に女子は貞節の大切さを身に付けないと、身を持ち崩す。女性が貞節を失ったら、母性は育たず、愛情をもって子供を産み育てるという意欲が低下する。

「男らしさ」「女らしさ」を否定する考え方を、大人に当てはめれば「父親らしさ」「母親らしさ」を否定することである。ジェンダーフリーを推し進めれば、父親らしくない父親と、母親らしくない母親が増えるということである。また、そういう親に育てられた子供は、母性の愛も父性の愛も受けられず、男らしくもなく、女らしくもない子供に育っていく。そういう子供がまた、次に親になったときは、一層、父親らしくない父親と、母親らしくない母親になるから、次世代はさらに母性の愛にも父性の愛にも欠けた子供となる。この過程は、道徳的な低下であり、精神的な退化となることは間違いない。そうした事態は、なんとしても避けなければならない。

男女が互いの特長を認め合い、欠点を補い合ってこそ、調和が生まれる。そうした男女のもとに子供は生まれる。もし男女が斥け合い、争い合って、男ばかり、あるいは女ばかりの社会になったとしたら、人類は百年もたたずに、滅亡する。人類が生存し繁栄していくためには、男女の調和・協力が不可欠である。

男女の間に子供が生まれたならば、父母がそれぞれの特徴を発揮し、担うべき役割を担い、協力するところに、子供が育つ。父親は父親らしく、母親は母親らしく、その特徴を発揮し、互いに欠けているものを補い合う時に、子供は健全に成長する。父親と母親の深い本能的な愛情に裏付けられた、厳しさとやさしさが、子供の心を豊かに育てる。そうした子供は、男は男らしく、女は女らしく育つ。そして、また大人になったとき、父親らしい父親、母親らしい母親になって、次世代を健全に育てていくことができる。

これは道徳的な向上、さらに精神的な進化となる方向である。それが日本を再生する道である。ページの頭へ

 

9.西洋は男性中心、日本は男女協調

 

「男女共同参画社会基本法」には、「豊かで活力ある社会を実現する」という目的が明記されている。豊かで活力ある社会というものは、男女の特性を認め合い、長所を生かし合い、短所を補い合うことによってのみ、実現できるものだろう。男女の調和・協力あってこそ、本来の男女共同参画社会が実現できるはずである。そして、そのめざすべき社会の基礎は、家庭にある。「男女共同参画=ジェンダーフリー」といって、男女の特性を否定するのは、家族を解体させ、社会を混乱させるだけである。

男と女、父性と母性、一見対立的に見えるものをどうやって調和させ、バランスを取るか、これが21世紀に求められる知恵である。日本の文化や伝統には、この知恵が豊かに息づいている。それを生かすことが、家庭や社会に調和と発展をもたらす。そして、西洋的価値観に片寄った現代世界を正すことに、貢献することにもなるだろう。

西洋のユダヤ=キリスト教では、男性の神が一人で万物を創ったとする。その神は、ヤーウェあるいはエホヴァと呼ばれる。女性の神はいない。一神教というのは、男性唯一神である。この男性神は、土の塊から人間の男を創ったとする。その名をアダムと言う。そして、神はこの男を慰めるために、男の肋骨から女を創ったとする。いわば男性が幹であり、女性は枝である。このように、ユダヤ=キリスト教は、非常に男性中心的な世界観をもっている。それが、西洋の文化に決定的な性格を与えている。

これに対し、日本神話では、イザナギ、イザナミという男女二神が協力して「国生み」をして、国土が誕生したとする。これらのニ神は、人間と同じく男女の営みをし、人間も自然の事物も、男女の神々の子孫として誕生したとする。このように、日本神話では、男女の協力、陰陽の和合によって、国土や人間が誕生したとする。日本神話は多神教であり、男の神々もいれば、女の神々もいる。そうした多数の神々の中心が、天照大神であり、これは女性神とされる。天照大神は、イザナギ、イザナミの男女ニ神が産んだ子孫の一人である。このように、日本神話は、男女両性が協力し合う共存調和的な世界観を持っている。

西洋の文化は、男性中心的であるので、それが西洋人の性格形成にも強く影響する。

フロイトは、エディプス・コンプレックスというものを仮定した。子供は3歳ごろになると異性の親に恋慕し、同性の親をライバル視して、憎むようになる。しかし、この思いは抑圧され、無意識的な観念と感情の複合体を形成する。これを、エディプス・コンプレックスという。フロイトは、このコンプレックスが、性格形成に重要な働きをすると考えた。さらに、ユダヤ=キリスト教における原罪という罪悪感を生み出したり、神経症の重要な原因となると考えた。フロイトは、エディプス・コンプレックスを絶対視し、人類一般に見られる心理と考えた。

しかし、このコンプレックスは、家父長制社会に特徴的に見られるものであることが、明らかにされている。父性中心的な西洋の家父長制家族、ユダヤ=キリスト教社会に典型的な心理である。

日本人の場合は、エディプス・コンプレックスは、西洋人ほどはっきりとは見られない。それは西洋社会のように、極端に父性中心な社会ではないからである。8世紀以前の日本社会は、父系と母系が並存した双系制社会といわれる。その後の日本社会は母権制から父権制へと変化した。ここでわが国の父権制の特長について述べると、わが国では現実の血縁を絶対化せず、血縁の擬制を作って、生活共同体としての家族を保持しようとする。また、婿養子が行われ、妻側の家を存続させる場合が多くあるのは、シナや朝鮮にはない特徴である。また、父権が強くなっても、基底には双系的な文化が存続している。一家に、主人と主婦がいるというのは、その現れである。主人は対外的には家の代表であるが、家内のことは主婦(「奥様」)が取り仕切っている。現代でも日本の主婦の大半は財布を握り、財産の管理を任されている。欧米人は、夫が家計を握っており、妻に財布を任せるということは考えられない。そのことには、日本の女性の地位の高さを示している。

このように、わが国では、単に父権的でもまた母権的でもなく、また単に父性中心でも母性中心でもない。父権と母権の共存、父性と母性の調和が重んじられる。夫婦の和や男女の協力を大切にするところに、日本文化の特徴がある。この点で、男性中心・父性中心の西洋文化と違うのである。

欧米では、男性中心的・父性中心的になり過ぎているので、これに対する反発として、男性的・父性的なものを否定し転覆しようとする運動が起こってくる。ユダヤ=キリスト教は一神教であり、より正確に言うと、男性唯一神の宗教である。そのため、反発もまた、宗教や道徳全般の否定という極端な形となって現れる。父権の支配から脱しようとすると、改宗するか無神論となるかしかないわけだ。だから、勢い対立的・闘争的になる。

これに対し、日本の固有の宗教である神道は多神教といわれる。神道は正確に言うと、男女多数神の宗教である。もともと男性的なものと女性的なもの、父性と母性が共存している。だから、父権的なものが強くなり過ぎると、母権的なものをもってバランスを取り直すことができる。一方を否定することなく、調和をはかることができる。そこには、融和的・共生的な志向が働く。

フェミニズムやジェンダーフリーの思想は、欧米から入ってきた外来思想である。フェミニズムは、西洋のユダヤ=キリスト教的な文化への反発として表れている。特にその社会に特徴的な家父長制を問題にする。そして、同じくユダヤ=キリスト教文化への反抗として表れた共産主義と合体している。その点を理解せず、機械的に日本の社会に当てはめると、おかしな論理がつむぎ出されることになる。西洋的教養に偏り、日本の文化や伝統を知らずに育った人たちは、こういう落とし穴に陥りやすい。ページの頭へ

 

結びに〜日本を家族から立て直そう

 

日本では、もともと親子・夫婦・家族の結びつきが深い。親子一体・夫婦一体・祖孫一体の生き方が、日本精神の特徴をなしてきた。こうした日本の心を取り戻すことが、今日の日本社会の問題を解決する道である。親子・夫婦・祖孫が一体と考える生き方に立ち返らなければ、日本の家庭は立ち直らない。家庭が立ち直らなければ、社会も国家も立ち直らない。遅れれば、取り返しのつかない事態に陥る。もはや猶予はない。

さらに言えば、根本的な解決のためには、憲法を改正する必要がある、と私は考える。現行憲法は、極端な個人主義に基づいている。それは、親子・夫婦・祖孫といった生命のつながりから、抽象されたアトム的な個人を構成要素としている。この憲法には、欧米諸国に見られるような、家族を保護するという規定がない。家族の中の個人は、各自、自分の利益を追求するばかりとなりやすい。さらに、この憲法は、わが国の歴史や伝統が排除され、また自らの国を国民自身が守るという仕組みがない。そのため、国民が協力して国家公共の利益を追求するという公共性を欠く。公共性なき個人主義は、利己主義にほかならない。その思想が家庭にも持ち込まれる。家族がバラバラになるだけでなく、家族を形成することなく、個人として生きる方を選ぶ人が増えることになる。しかし、その個人が生まれ、育てられるのは、家庭である。その個人の権利を保障するのは、国家である。家庭が崩壊し、国家が溶解すれば、個人を保護するものは、やがてなくなる。その被害を最も多く受けるのは、最も幼い者である。

憲法の基本原理を、アトム的な個人から、家族や社会のつながり、共生的な集団へと転換すべきである。そして、利己的な利益よりも公共的な利益を重視する考え方を盛り込むべきである。そして、新憲法の制定と同時に、教育基本法を改正し、公共道徳や家庭教育に関する規定を盛り込む。これらのことが必要不可欠であると思う。(1)

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(1)憲法と教育基本法については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本国憲法は亡国憲法――改正せねば国が滅ぶ」第6章

教育基本法を改正しよう

(2)家族の問題については、以下の拙稿で主題的に述べています。ご参照下さい。

家族の危機を救え!

参考資料

・林道義著『家族の復権『父性の復権『母性の復権(中公新書)『主婦の復権』(講談社)

・ピーズ夫妻著『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社)

・澤口俊之著『幼児教育と脳』(文春新書)

    ドナルド・E・ブラウン著『ヒューマン・ユニバーサルズ』(新曜社)

・高橋史朗著『過激な性教育の背景を暴く』(『正論』平成15年4月号)

 

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