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204-01   人権・男女

           

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人権――その起源と目標 第2部

2015.6.23 56/2015.10.23 7章掲示

 

<目次>

はじめに

第1部 人権に関する基礎理論

 

第2部 人権の歴史と思想

第5章 西欧における人権の発達

(1)主権・民権・人権の歴史

(2)市民革命による人権の発達

(3)フランス人権宣言の実態

(4)欧米横断的な共通要素

第6章 人権の発達と国家・国民

(1)国民国家の形成・発展

(2)人権とナショナリズム

(3)資本と権利・権力

(4)帝国主義の時代

第7章 近代西欧発の人権思想史

(1)イギリスにおける思想的展開

(2)啓蒙思想による変革

(3)アメリカ独立革命の思想

(4)フランス市民革命の思想

(5)カントとドイツ観念論・唯物論

(6)ナショナリズムの思想

(7)イギリス功利主義と修正的自由主義

(8)日本における思想的展開

(9)19世紀末から20世紀初頭への展開

 

第3部 人権の現状と課題

第4部 人権の目標と新しい人間観

結びに

 

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2部 人権の歴史と思想

 

第5章 西欧における人権の発達

 

(1)主権・民権・人権の歴史

 

●近代的国家主権の原型

 第1部では、人権について、基礎理論の検討を行った。人権の発達を見るには、その歴史と思想を把握することが必要である。そこで、第2部では、西欧における人権の発達を歴史的にたどり、続いて思想的な展開を見る。

 人権は、主権・民権との関係の中でとらえなければならない。本章では、主権・民権・人権について、西欧の中世から市民革命の時代まで、次章で続いて国民国家・ナショナリズム・帝国主義の時代までの歴史を書く。その後に、20世紀初めまでの人権の発達を書くこととする。
 私は、「西欧発の文明と人類の歴史」という文明学的な観点に立った史論を書いており、本稿はそれに対する個別主題的な論稿となる。

 さて、主権・民権・人権の歴史を概観するに当たり、最初に主権について述べたい。主権については第1部第4章に基礎的なことを書いた。主権は英語 sovereignty等の訳語であり、国境で区画された領域内における最高統治権である。主権は統治の権利であり、その作用を力の観念でとらえれば、統治の権力である。実際、近代西欧では、主権は「最高の力」と呼ばれてきた。

西欧における権利と権力の根源は、ユダヤ=キリスト教の神に求められ、神の代理人としての教皇の権利と権力は神に授ったものとされた。この教権神授説に対し、帝権神授説、王権神授説が現れ、民権神授説、民権互認説が続いた。人権は、国王が神から授かったとする主権に人民が参与する過程で唱えられるようになった。ここで民権とは「国民の権利(rights of people)」であり、その一部が普遍的・生得的なものと想定されて人権すなわち「人間の権利(human rights)」と唱えられることになった。

近代的な国家主権には、原型がある。先行形態と言ってもよい。それは、ローマ・カトリック教会の教皇権である。古代ローマ帝国は、395年に東西に分裂した。その後、東西の帝国でキリスト教の教会は独自の道を歩み、1054年に最終的に東方正教会とローマ・カトリック教会に分離した。ローマ教皇の教皇権は、神授のものとされた。教権神授説は、キリスト教の教会組織が成立して以来、唱えられてきた思想だった。
 教皇グレゴリウス7世は、1075年に教皇教書を発布した。教皇教書は絶対的教皇権を確立するものだった。ここでの絶対的とは、一人に権威と権力が集中した状態をいう。立法・司法・行政のすべてにわたる権限が一個の権限となり、それが教皇によって保持された。教皇は、聖書に記された神の法と自然法とにのみ従う普遍的な立法者であるとした。神の法と自然法にのみ従うとは、人間が作った人定法を超えた存在ということである。また、教皇は聖職者及び君侯を補助者として使用する統治者、そして教皇令その他教会法に関する審判者であるとした。これによって教皇は、立法・司法・行政を貫く至上権を得た。私は、この絶対的教皇権が近代的な国家主権の原型と考える。
 教皇権はやがて皇帝権と相対的なものとなり、中世の西欧は、宗教的な教皇と世俗的な皇帝を二つの頂点とし、様々な封建勢力が各地に所領を持って混在する社会となった。近代的な国境は存在しなかった。その教皇権と皇帝権が並立する構造を打破したところに、国王の主権が成立した。これが近代的な国家主権の誕生となった。そして、国王の主権は、国王と貴族や新興階級、国王と国民が共有するものとなったり、国民が共有するものとなったりした。主権に国民が参与する過程で、国民の権利が獲得・拡大され、その権利が人権と呼ばれるようになる。

●教皇権に対する皇帝権の独立

 絶対的教皇権を確立した教皇グレゴリウス7世は、1075年に俗人による高位聖職者の任命を禁止した。それによって、教皇と皇帝の間で叙任権闘争が起こった。皇帝ハインリヒ4世は闘争に敗れ、破門寸前となった。これをカノッサの屈辱という。それほど教皇は強大な権限を持っていた。
 だが、12世紀半ばになると、皇帝フリードリッヒ1世は、教皇ハドリアヌスに反抗して、皇帝は神に直接、世俗の統治を委託されており、帝国は神に直接、聖別されている。教皇には世俗に介入する権利はもともとない、と主張した。フリードリッヒ1世は、1157年に「神聖帝国」の名を使用した。これは世俗権の所有者である皇帝が、教権神授説に立つ教皇による政治を斥ける決意表明だった。その後、1254年から、「神聖ローマ帝国」の国号が使われるようになった。同帝国は、962年オットー1世の皇帝戴冠に始源が求められ、ドイツを中心に19世紀の初めまで800年以上続いたとされる。
 フリードリッヒ1世以後、皇帝は権利・権力を強めた。1303年には、教皇ボニファティウス8世がフランス王フィリップ2世にローマ郊外で捕えられるというアナーニ事件が起こった。この事件以降、教皇権は次第に衰退していく。
 14世紀初め、『神曲』で知られるイタリアの詩人ダンテ・アリギエリは、「神の代理者である教皇は霊の世界を管轄するだけ」「現実の諸国家の上に平和を維持するべき皇帝の権限は、神から直接授けられたものであるから、教皇権と並立して俗界の至上権たるべき」と帝権神授説を説いた。
 神聖ローマ帝国は、ローマが中心ではなく、実態は今日のドイツを中心とした地域に存在した。皇帝は諸王の上に立つ王ではあるが、帝国の各地では諸侯が領地を持っていた。諸侯とは、カトリックの大司教等の高位聖職者、公爵・伯爵の貴族等である。また帝国の外の各地には、様々な封建制国家が存在し、諸国の国王が存在した。
 教皇権に対する皇帝権の強化は進んだ。1508年にハプスブルグ家のマクシミリアンが、教皇の戴冠を受けずに皇帝を名乗った。以降、教皇による皇帝戴冠の制度がなくなった。これは皇帝権が教皇権から独立したことを意味する。
 補足として、ここに登場するハプスブルグ家は、1282年にオーストリア・ハプスブルグ家が誕生して以後、約700年にわたって、ヨーロッパ史を彩った名家である。1438年にアルプレヒト2世が神聖ローマ帝国皇帝に即位したのが、ハプスブルグ王朝の開幕だった。オーストリアを根拠に、途中から系統が分かれたスペイン・ハプスブルグ家を含めて、西欧に広大な領地を持ち、各国の王族・貴族と婚姻関係を結び、栄華を誇った。皇帝権や国王権が、実はこうした有力家系の持つ家族的な権利及び家族的な権力でもあることに注意しなければならない。

 

●中世西欧の封建制

 世界史における諸文明の歴史は、権力の集中と分散、統一と分裂の繰り返しである。この点は、近代以前及び以後の西欧においても、非西欧においても変わらない。
 近代国家成立以前の西欧では、教会・帝国・領邦・自治都市・職業組合等の諸集団がそれぞれ社会的な権力を有していた。教皇的権力・皇帝的権力・封建領主的権力・自治都市的権力・ギルド的権力等である。それらの諸集団は、一定の領地を統治し、一個の政治団体として、政治的な権力を保持してもいた。
 封建制社会は、土地の生産力を経済的基盤とする社会である。社会関係は、土地の所有とその保障、土地の防衛と拡張等、土地をめぐる権利関係を主とするものだった。貴族と貴族、教会、修道院等の間で土地の授受が行われた。ここで説明のために、一方を有力な貴族としての王、もう一方を貴族とすると、王は貴族に土地を与えて領主にする。その代わり、貴族は王に忠誠を誓う。これが封建社会の基本である。実際は、王が土地を分与するのではなく、貴族が王に土地を差し出し、王はそれを与えるという形式的な授受が多かった。一種の寄進と安堵である。こうした土地の授受によって、土地を与えた王が封主、土地(封土 feud)を与えられた貴族が封臣となって、主従関係が結ばれる。封とは、王から直接に封土を受けている封建領主である。
 土地所有者は、所有権の正統性の根拠を封主との主従関係に置く。封主はまたその上の地位の封主との主従関係に権利の根拠を持つ。こうした重層的な関係の上位に、貴族の同輩の中の第一人者としての王がいる。王の土地所有権の正統性の根拠は、神に求めるしかない。西欧封建制は、神のもとにおける権利の相互承認と領主間の相互安全保障に基づく制度となっていた。
 ただし、実態は複雑であり、14世紀半ばから15世紀半ば英仏百年戦争の時期には、イングランドの国王がフランス国王の封建家臣となっていた。フランスにはフランス国王とイングランド国王の両方の家臣がいた。また国王が教会、修道院領主の家臣となっていたなど、関係は錯綜していた。近代的な国境の概念は当てはまらず、宗教的勢力と世俗的勢力の領地が入り組んで併存していた。
 封主と封臣の間には、土地所有と軍事的使役の権利関係が結ばれた。封臣は封主に土地の所有権の確保と引き換えに、軍事的義務を負う。封建制の本質は、領地の相互防衛、相互安全保障である。封臣は、馬・槍・剣等を用いて、封主に実力を提供した。
 西欧の騎士道は、しばしばわが国の武士道と比較される。西欧中世の騎士は、貴族と農民の間の身分だった。貴族は城砦を築き得る土地所有者だったが、騎士は貴族を封建君主とする封建家臣だった。貴族はまた上位の貴族等に対しては、封建家臣だった。西欧の封建制がわが国の封建制と違うのは、主君と家臣の関係が契約によることである。貴族や騎士が主君に対して負う軍事的義務は、契約の範囲内で履行されるもので、地域・期間等が限定されていた。それゆえ、主従関係で求められる忠誠は、絶対的忠誠ではなく、契約履行の誠実さだった。西欧では、一人の封臣が複数の封主を持ち得た。これを複数封臣制という。一人の家臣が何人もの主君を持つのが普通とは、わが国では考えられない状態である。それは権利関係が契約によるものであって、親子間に擬されるような情愛による全人格的な結びつきによるものではなかったからである。
 中世西欧では、王の治める領域を一種の国家と見ることはできるものの、封建制の国家は、その領域に教会領があったり、他の王の領地があったり、錯綜した状態だった。西欧各地域には、身分制議会があり、主に聖職者と貴族で構成されていた。神聖ローマ帝国では、帝国全域に係る身分制議会を帝国議会といい、帝国内の各領邦国家には領邦議会があり、諸侯はその領邦君主だった。皇帝の権力が最も強かったのは、1548年ごろだった。皇帝カール5世は、徴税等自らの権利の拡大と権力の強化を図った。諸侯はこれに抵抗した。その権利関係・権力関係に一大変化が起こったのは、ドイツ30年戦争による。この戦争は、西方キリスト教における宗教改革の産物である。宗教改革は、権利関係・権力関係に重大な影響を与え、西洋文明に大変化をもたらした。また、人権の観念の発達においても、重要な出来事だった。

 

●西方キリスト教の宗教改革

 16世紀初め、西欧で宗教改革が起こった。宗教改革は、信教の自由を求める運動だった。信教の自由の希求が、社会に巨大な変革を引き起こした。宗教改革とは言っても、キリスト教内、しかも西方キリスト教における改革にすぎないが、この改革によって、ドイツ30年戦争が起こり、教皇権と皇帝権の並立状態が打破され、近代主権国家が登場した。また、イギリスでは、市民革命が起こり、国家主権の権力主体が君主から君主と国民に拡大され、君主の主権が君民共有の主権へと変化した。こうした権力の変動の中で、人権の観念が発達した。ドイツ30年戦争を終結させたウェストファリア条約とイギリスのピューリタン革命は、主権と民権と人権の歴史におけるメルクマールとなった。
 第1部第2章に書いたように、人権の核心には自由がある。人権の観念は、自由への権利意識に基づく。信教の自由の獲得が、近代西欧的自由の発達の初めとなった。プロテスタンティズムであれ、カトリックであれ、英国国教会であれ、国王や領主による信教の強制に対しては、人民から反発が起こった。信教の自由の希求なくして、人権観念の発達はない。
 宗教改革は、どのようにして起こったか。西欧では、13世紀末からイタリアでルネサンスが始まった。文芸復興をきっかけに、それまで古代ギリシャ=ローマ文明の思想や技術を継承・発展させていたイスラーム文明から、多くの文化要素が摂取された。それによって、聖書の言語学的研究が進んだ。教会が独占するラテン語の公定聖書への疑問が湧いた。また、教義だけでなく、教会のあり方に対する疑念が深まった。その焦点となったのが、罪の償いが免じられるとして乱用された免罪符だった。
 1517年、マルティン・ルターが免罪符に関する95か条の提題をヴィッテンブルグの教会の門扉に掲げた。これが西方キリスト教改革の初めとなった。ルターに続いて、カルヴァンも1536年からスイスで教会の権威に異議を唱えた。彼らの改革運動は、各国に広がった。
 プロテスタントは、それまでラテン語で書かれ、ラテン語の知識のない者は読むことのできなかった聖書を各国語に訳した。各国語訳の聖書は、印刷技術と紙の使用によって、民衆に普及した。民衆は、自分たちが日常使っている言葉で聖書を読めるようになった。それによって、古代ギリシャ=ローマ文明の遺産であるキリスト教の土着化が進んだ。また、キリスト教の民族化やナショナリズム(国家主義・国民主義)の形成等へと発展した。
 キリスト教改革が本格的に開始された場所は、神聖ローマ帝国だった。この事実は、重要である。教皇が戴冠する皇帝が統治する地域で、カトリック教会批判が起こったのである。帝国内の各地で、プロテスタンティズムに改宗する諸侯や都市が現れた。1529年、シュパイアー帝国議会でルターを支持する5人の帝国諸侯と14の帝国都市が、皇帝5世の「異端根絶」の提案に激しく抗議つまりプロテストした。以来、諸侯と皇帝カールの戦いは、政治的抗争となった。
 教皇と皇帝は、諸侯の要求を入れざるをえなくなり、1555年にアウグスブルグの宗教和議が調印された。和議のスローガンは、「領主の宗教は領民の宗教!」だった。ルター派の主張が全面的に認められ、新教徒と旧教徒は同権であり、互いに相手の立場を尊重することが合意された。各領邦の宗教は、君主が選択することとなった。人権の重要な要素である信教の自由は、まずこうした限定的な形で獲得されることになった。このとき、プロテスタント諸侯は、領地にあるカトリック教会をプロテスタント教会にし、莫大な財産を自分のものにした。和議にいう宗教はカトリックとルター派に限定された。カルヴァン派は異端のままだった。

 

●ドイツ30年戦争とユダヤ人

 1618年、ドイツ30年戦争が勃発した。きっかけは皇帝フェルディナント2世がカトリック教会と結んで、皇帝権の再建を図り、絶対主義体制を構築しようとしたことである。これに対し、皇帝独裁を許すな、と諸侯が反発した。戦いは、皇帝の家系でカトリック擁護のハプスブルグ家と、プロテスタント支持の諸侯の対立で始まった。この帝国の内戦に、周辺の新教国・旧教国が参戦し、皇帝・教会・諸侯・諸王が入り乱れて争う大戦争となった。
 戦争の展開過程は、ボヘミア戦争、デンマーク戦争、スウェーデン戦争、フランス戦争と呼ばれる。戦争は拡大また長期化し、ドイツを主たる戦場とするヨーロッパ大陸戦争となった。最終段階では、フランスが介入し、ハプスブルグ家対ブルボン家という宿敵同士が激突した。しかし決着はつかず、泥沼の戦いが続いた。
 ドイツ30年戦争は、ユダヤ人の関与なくしては、これほどの規模と期間の戦争とはなり得なかった。ここで、人権の発達において、見逃すことのできないユダヤ人について触れておきたい。
 ユダヤ人とは、ユダヤ教を信じる少数民族である。ユダヤ人は、ユダヤ人の母親から生まれた者をユダヤ人ともしている。中世のヨーロッパでは、キリスト教に改宗しないユダヤ人は異教徒として差別され、市民権を与えられず、職業は金貸し、税の集金等に限定された。12世紀から西欧のユダヤ人には銀行業や商業で成功する者も出たが、社会的地位は低かった。13世紀までには、ユダヤ人はイエスを磔刑に処し、死に至らしめた罪により、永久に隷属的地位に置かれるべきだという教えが、カトリック教会で確立された。イギリス・フランス・ドイツ等多くの国でユダヤ人は追放された。
 宗教改革の指導者ルターは、ユダヤ人について、「彼らの財産を没収し、この有害で毒気のある蛆虫どもを強制労働に駆り出し、額に汗して自分の食べるパンを稼ぎ出させるべきだ。そして最終的には永遠に追放すべきだ」と説いた。一方、反宗教改革のために創設されたイエズス会は、ユダヤ人に改宗を強力に迫る運動を繰り広げた。1555年、教皇パウロ4世は、ローマとイタリア国内の教皇領のユダヤ人をゲットー内に隔離することを命じた。
 キリスト教社会で差別と迫害を受けるユダヤ人が、自らの地位を高めていったのは、類まれな経済的能力による。14〜15世紀にはイタリア諸都市やスペイン、ポルトガルの繁栄に貢献した。ユダヤ人は
商業・貿易・金融の知識と国際的なネットワークを持つ。彼らはある土地で追放されると、他の土地へ移り、そこで能力を発揮した。神聖ローマ帝国でも同様だった。
 1577年、ハプスブルク家の皇帝ルドルフ2世は、ユダヤ人に特権を与える勅許状を出した。ユダヤ人の財務能力が有益だと考えたからである。彼は大商人マルクス・マイゼルを最初の宮廷ユダヤ人として迎え入れた。以後、多くのユダヤ人が諸邦の宮廷に財務官あるいは財政顧問として入り、その後、他の分野にも関係していった。中欧のほとんどの国でユダヤ人は政府の財政を支配し、その影響力は1914年まで続くことになる。
 ドイツ30年戦争では、神聖ローマ帝国の皇帝やドイツの諸侯は莫大な戦費を必要とした。ユダヤ商人はその需要に応じることができた。ユダヤ人から資金の提供を受けなければ、戦争はできなかった。資金と引き換えに居住許可が乱発された。30年戦争は、ユダヤ人の国家財政と軍事物資の供給への大々的な関与の始まりとなった。なお、ユダヤ人の歴史については、本章の市民革命の展開と欧米横断的な要素の
項目等で述べる。

 

●ウェストファリア条約と近代主権国家の誕生

 ドイツ30年戦争で、キリスト教徒同士が際限のない戦争を続けた。ドイツの人口は、3分の1に減ったと言われる。この戦争のさなか、オランダのフーゴー・グロティウスは、1625年に『戦争と平和の法』を刊行した。グロティウスは、当時神の意思による宇宙と社会の秩序とされていた自然法を、「正しい理性の命令」と定義した。自然法は神の意思に基づくものだが、たとえ神が存在しないと仮定しても妥当するし、その定めは神さえ変えることができない不変なものであると説いた。これは信仰よりも理性を重んじる近代的な解釈である。そしてグロティウスは、人間理性に基づく人定法として、国家法のほかに万民法があるべきことを主張した。万民法は、国家間・国民間に共通の法であり、今日の国際法に当たるものである。そのグロティウスの思想をもとに結ばれたのが、ウェストファリア条約である。なお、自然法の思想は人権の思想の展開に深い関係を持つ。この点については、第7章で思想史を書く際に
述べる。

 ウェストファリア条約は、戦局で優位に立ったフランスの主導で交渉が進められ、1648年に調印された。この条約は、宗教的側面から見れば、アウグスブルグの和議を再確認したに過ぎない。新旧両教徒の同権と相互尊重の原則を回復し、新たにカルヴァン派が加えられた。これによって、領邦君主は信教の自由を確立した。教皇の権威は低下した。一方、領主の信教の自由は、領主と宗派が一致しない領民には、信教の自由の侵害となった。彼らは、集団的に改宗を強制された。
 またウェストファリア条約は、政治的側面から見れば、約300のすべての諸侯国の主権を保障するという画期的なものだった。諸侯は、帝国の諸侯間だけでなく、外国とも同盟を結ぶことができ、交戦権も持つことになった。このことは皇帝権の大幅な縮小を意味する。諸侯の権力は、宗教的にもまた政治的にも、皇帝と帝国に敵対しない限りにおいて認められた。領邦の大小に関わらず、すべての諸侯が同権を持つ体制となった。この条約に西欧の66カ国が調印した。国際条約の初めである。ドイツ諸侯や周辺諸国の国王の主権が制度的に認められたわけである。
 神聖ローマ帝国は、事実上崩壊状態になった。様々な独立国家に分裂したと等しい状態となった。それと同時に、西欧に近代主権国家が誕生した。多数の主権国家が併存する関係が、法的な秩序として定着した。西洋文明は、中世の教会と帝国の二元的な社会から、主権国家が並立する近代的な国際社会に変わった。中世のヨーロッパは、国境のない一つの文明社会だった。教皇と皇帝という二つの頂点のもとに、様々な封建勢力が各地に所領を持って混在していた。その社会が、主権を備え、国境を持つ国家が互いに対等な関係を結ぶという新しい社会に変わった。教皇権・皇帝権が後退し、国王権が伸長して、近代的な国家主権となった。ただし、教皇の権威と皇帝の権力が全く否定されたのではない。後者は主権国家体制の中に、新たな性格を持って組み込まれたのである。主権は、教皇と皇帝から諸侯・諸王へと移譲されたが、教皇の主権と皇帝の主権も存続しているから、主権の所有者が多元化したのである。同時に、主権の性格が変わったのである。
 ウェストファリア条約によって誕生した主権国家は、それまでの西欧の封建制国家とは、明らかに異なる。近代国家は、国境で区画された領域内において、主権者が最高の統治権を持つ。領域内に政府の権力に従わない政治的権力を認めない。主権国家と主権国家は、国境で互いに接する。
 ウェストファリア体制のもと、英仏等では主権国家が発展した。一方、ドイツは小国群立のため、後進地域となった。神聖ローマ帝国は、死に体ではあったが、形の上ではその後も存続した。フランス市民革命から台頭したナポレオンが帝国の西部・南部諸侯にライン同盟を結成させたため、1806年皇帝フランツ2世は帝国の解散を宣言した。その後も、ハプスブルグ家によるオーストリア帝国は1918年まで存続した。神聖ローマ帝国終焉後のドイツが統一されるのは、1871年、プロイセンが主導する時を待たねばならなかった。
 国家は主権の及ぶ範囲の地域的な組織であり、主権とはその国家の政府が内外に主張する統治権である。この統治権の所有者が、国王から国民に拡大されていく過程で、人権の観念は発達した。その点を見るには、神聖ローマ帝国を中心とした見方から、西欧全体へと視野を広げねばならない。

 

●西欧における王権の強大化

 神聖ローマ帝国において始まった宗教改革、帝国を中心とした30年戦争、その後のウェストファリア条約体制を見てきたが、ここで帝国から西欧全体に視野を広げ、中世から近代への変化を、あらためて見てみよう。まず全体的な傾向を概述し、その後、イギリス、フランスにおける展開を書く。英仏こそ、人権の観念が発生し、早くから人権の思想が発達した地域である。
 実は英仏では、神聖ローマ帝国より早くから権利関係・権力関係の変化が起こっていた。ウェストファリア条約体制によって、英仏が近代主権国家として覇を競う存在になったのは、そのためである。そこには、西欧の封建制に大きな変化が起こっていたことが背景にある。
 西欧の封建制に変化をもたらした原因の一つに、軍事的な技術の発達がある。14世紀以降、西欧では火器と傭兵制が登場し、騎士の存在意義が失われた。大砲や鉄砲の技術が進むと、傭兵軍隊を維持できる経済力を持った者でないと、戦いに勝ち残れない。国王の経済力の基盤は、土地所有である。土地を巡る戦いの勝者は、領地を拡大し、それによって経済力が増大した。経済力の増大は、軍事力の強化を可能にする。また軍事力の増大が経済力の増大をもたらす。こうして、戦いを繰り返す過程で、封建領主の中の第一人者に過ぎなかった国王が、各地で他に抜きん出た存在になっていった。国王とはいっても、この時点では封建制の国家の王であって、近代主権国家の統治権者とは異なる。これらの国家の違いについては、第1部第4章で述べた。
 13世紀末にイタリアに始まったルネサンスは、14〜15世紀には西欧各地に広がった。15世紀には、文芸復興による文化的近代化が進み、中世以来、曖昧模糊としていた国家という理念が徐々に明確になっていった。なかでも英仏両国では早くから中央集権体制が確立していった。
 16〜17世紀の西欧では、封建制の崩壊が進んだ。長く停滞していた商業の復活と貨幣経済の発達によって、地域間の結びつきが強まり、様々な封建制国家の国王は、地方の諸侯を支配下に組み込んでいった。王権の強大化は、経済活動に都合がよいので、都市の大商人から支持された。それによって、王権はますます強大化した。
 王は、都市の商工業者と同盟を結んで、力を拡大した。彼らから金をもらって軍を組織し、商工業の流通を守った。王が多数の傭兵を持つようになると、商工業者は、王に流通の安全を保護してもらった。やがて軍は常備軍となり、絶大なる王制への道を進んだ。また貨幣経済の浸透によって王の財政的基盤は、直轄地からの租税より全国からの租税へと転換した。それによって基盤が拡大し強固なものとなった。
 国王の政府は、領域内において、組織的に武器を使用する物理的な強制力を独占し、それ以外の政治団体が実力を組織し、行使することを禁止するようになった。またそれを法によって制度化した。政府が軍事・警察に用いる実力を独占的に所有することで、国王は圧倒的な権力を持つに至った。
 権利論的に見ると、中世西欧における王は、領主の一人で、貴族の中で「対等なる者のうちの首席(primus inter pares)」に過ぎなかった。封建制の身分社会において、王の権利は、王の身分に伴う特権(privilege)だった。王権(prerogative)は、王国(realm)の根本法である慣習法によって定められていた。貴族や聖職者も特権を持っていた。王の持つ大権も特権の一種であり、大権をもっても彼らの特権を否定することはできなかった。
 だが、王権が次第に強大になり、他の諸侯権(the privileges)を圧倒し、国王の主権(sovereignty)という概念が生じた。国王の主権は、それまでの王の大権が他の特権に比べて大きいという相対的なものだったのに対して、絶対的な権利を意味する。ここでの絶対的とは、一人の統治権者がすべての権力と権威を独占する状態をいう。国王の主権が確立されると、諸侯・聖職者・大商人は、王の命令には絶対服従しなければならない。王は自由に法律を作り、家臣や領民の生命,財産、自由を任意にでき、税金を課し、自ら信奉する宗教宗派を強制することさえした。
 国王はカトリック教会の教皇に対して、宗教的・世俗的な権利を主張するようになった。国王の宗教的権利は、自ら自由に信仰を持ち、領民にそれを信仰させることが究極の権利である。実際、イングランドでは国王がカトリック教会から離脱して国教会を創設し、北欧でも国王がプロテスタンティズムに改宗して、スウェーデン国教会やデンマーク国教会等が創設された。国王が統治する領域においては、教皇をさておいて、国王が神の権利と権力の代行者となろうとした。領域内という限られた範囲ではあるが、神の代理人が教皇から国王に代わりつつあったわけである。これは教皇権の縮小と国王権の拡大である。こうした変化が、神聖ローマ帝国の外で進んでいたのである。
 教皇権は教会の勢力圏における権利と権力だが、国王権は国家の統治領域における権利と権力である点が異なる。教皇権は宗教的権威に基づくものだが、国王権は世俗的実力に基づくものである。組織された武力が国王の権力の中核をなす。教皇権は教義の論戦で打ち破ることができるが、国王権は実力によって奪取しなければ移行しない。
 こうした中央集権化、実力の独占、宗教的自立という傾向が西欧で顕著になりつつあったところに、ドイツ30年戦争が起こった。それを通じて近代主権国家が誕生し、今日の世界に似た主権国家が並立する国際社会が西欧に形成されることになっていった。

 

●絶対王政と国王の主権

 近代主権国家は、国王に権力が集中し、官僚制と常備軍を備えた絶対王政国家として姿を現した。王権の強大化によって形成された政治体制を、絶対王政(absolute monarchism)という。「絶対」は、英語 absolute 等の訳語として作られた漢字単語である。absolute は「〜から完全に自由な」を意味する。そこから「無制限の、無条件の」を意味する。また、政治的には「専制の、圧政の、独断的な」を意味する。必ずしも哲学における絶対と相対という対概念における絶対を意味しない。王政について、絶対と形容されるのは、王が絶対者(the Absolute)すなわち神の代理人を任じ、絶対的すなわち専制的な政治を行って、無制約に権力を振るう様を表すものと言えよう。
 絶対王政は、16〜18世紀の西方ヨーロッパに現れた。その政治形態を、絶対主義(absolutism)という。絶対主義は、君主に至上の権利と権力を付与する専制的な政治形態である。絶対主義は、一人の支配者に統治権と権力と権威が集中し、独占された状態である。アリストテレスの国家の区分によれば、君主政治に当たる。君主政治は堕落すると暴君政治になる、とアリストテレスは説いたが、近代西欧の多くの国で、それが起こった。
 絶対王政では、国王は中央集権的統治のための官僚と直属の常備軍を所有した。国王は、封建制の崩壊で弱体化する貴族階級と資本の本源的蓄積の過程で成長途上の市民階級を押さえ、無制約の権力を振るった。宗教宗派を弾圧したり、信教を押し付けたり、重税を課したりした。王権の強化のため、多くの場合、王権神授説を援用した。経済政策は金銀の取得を目的とする重商主義を採り、富の増大を進めた。
 絶対王政の王権の確立によって、近代的な主権が登場した。同時に、近代的な主権を持つ国家が形成された。近代国家は、国境によって区画された領域、国家に所属する人民、国家を統治する主権という3要素を備えた政治団体である。
 絶対王政は、封建制国家から資本主義的な近代国家への過渡期に位置付けられる政治体制である。封建制国家は、アリストテレスの国家の区分と比較すると、君主政治と貴族政治の中間に位置すると考えられよう。統治権は君主と貴族が分有する。ただし、その上に教皇がおり、神聖ローマ帝国には皇帝がいるという複雑で多元的な関係になっていた。西欧の中世から近代への政治的変化は、まずこの多元的な封建政治から専制的な君主政治へ移行した。そして、教皇の主権、皇帝の主権に替わって、国王の主権が地域的に確立していった。正確に言えば、それらが新たな近代主権国家体制に組み直されたのである。

●イギリスの支配構造と「古来の自由と権利」

 神聖ローマ帝国の領域外にあって、15〜16世紀から王権が強大化し、中央集権化が進んでいた英仏では、ますます国王に権力が集中し、絶対主義が確立していた。ウェストファリア条約で生まれた国際社会では、主権国家として勢力を伸長し、また二大植民地帝国として発展した。次にこれら二国における展開を記す。
 イギリスは、大陸から離れた島国だったので、神聖ローマ帝国との関係は深くなかった。その一方、ドーバー海峡の対岸にあるフランスとは歴史的に関わりが深い。フランスとの関係も絡みながら、イギリスでは封建制の崩壊と王権の伸長が進んだ。
 ブリテン島では、15世紀末にイングランドがウェールズを併合し、アイルランドの植民地化を進めた。18世紀初めにスコットランドとの合同が成り、連合王国が完成した。本稿では便宜上、ブリテン島とアイルランド島にまたがる諸国家をイギリスと呼んでいる。
 さて、近代的な権利発生の起源は、一般に中世のイギリスに求められる。ここで注目すべきは、イギリスにおける民族間の支配構造である。その支配構造が、権利関係に重要な影響を与えてきたからである。

ブリテン島の初期の住民はイベリア半島から来たようであるが、その後、印欧語族のケルト人が住み着いた。ローマ帝国の支配を受けた後、5世紀初めからゲルマン民族が、現在のデンマークや北部ドイツ周辺からブリテン島に渡ってきた。彼らをアングロ・サクソン人という。アーサー王物語は、この時の先住民による抵抗と敗退の物語である。その後、一時、北欧のデーン人が侵入したこともあるが、ブリテン島ではアングロ・サクソン人の支配が続いた。
 1037年コンラッド2世は、封建法によって、封建諸公との間に「古き良き法」「古き良き権利」を確認した。「古き良き法」とは、古来の慣行である。ところが、そこへフランスのノルマンディー地方から、ノルマン人が侵入した。ノルマン・コンクェスト(1066年)である。その結果、イギ
リスは、フランス語を話すノルマン人が国王・貴族となり、アングロ・サクソン人、ケルト人等を支配する社会となった。征服国家の典型である。英語は約300年間、公式の場では使われなかった。支配階級と被支配階級では、言語も文化も習慣も違っていたのである。ちなみに、コモンウェルスとは、ノルマン人の征服によって、コモン・ピープル(庶民)となったアングロ・サクソン人の側の社会観及び国家観をいう。

 ノルマン王朝(1066〜1154)、プランタジネット朝(1154〜1399)と、フランス人の王朝が続いた。イギリスは、外来の王によって統治された。外来の統治者と土着の人民の間に対立があった。その間で、王権と土着の慣習法との均衡が図られた。
 国王と封臣との間で、封建的な権利・義務をめぐって争いが起こると、封臣は「古来の自由と権利」を確認するという形式をとって、国王に封臣の権利・自由を文書で認めさせていた。この制度を決定的なものとしたのが、マグナ・カルタ(大憲章)である。

 

●マグナ・カルタの伝統と絶対王政

 1215年、イングランドの貴族や僧侶及び一部の市民は、封建契約や古来の自由を破ったジョン王に要求をつきつけ、これを受け入れさせた。そのときの確認文書が、マグナ・カルタである。支配階級がフランス語を話す時代に書かれたラテン語の文書である。この時、貴族等は、国王は彼らの封建的な既得権を侵害してはならぬ、と全63カ条の要求を勝ち取った。
 マグナ・カルタは、慣習的に確立してきた既得権を守ることを明記したものだった。権利保障の要点は、封臣に対する不可侵の領域の保障、封臣の権利・利益を侵害する場合の一定の適正な手続きの保障、「代表なければ課税なし」の原則の承認、法による王権の規制である。
 マグナ・カルタにおいて、権利は「古来の自由と権利」と呼ばれた。この権利は、歴史の中で形成された「臣民の権利」であり、封建的な身分・階級と結びついた特権であって、いわゆる人権(human rights)とは異なる。しかし、マグナ・カルタの中の諸要素は、近代になって人権を擁護したものと拡大解釈されるようになった。
 13世紀のヨ−ロッパでは、法の支配という考え方が一般的だった。国王といえども神の法や国の法に従わねばならないという考え方である。教会が権威を持ち、教皇権が皇帝権より上位にあった。イギリスでは、法の優位の考え方は、国王は各裁判所の判令の蓄積である普通法(common law)に基づいて統治すべきという思想に発展した。国王が従うべき法の中で、慣習法の存在が大きくなっていった。また法以外に国王の悪政を防ぐものとして機能したのが、議会だった。
 中世の西欧各地では、身分制議会が行われていた。議会は、主に聖職者と貴族で構成された。身分的な集団間の意思の合成の場だった。主たる議題は、皇帝や王侯、諸侯の提案する課税が是か非かであった。多くの場合、課税は一方的でなく、議会の承認を要した。議会の参加者は、課税承認権を持っていたということができる。イングランドでは、マグナ・カルタから50年後の1265年に、身分制議会が制定された。議会の起源は、封建領土の国王の家臣の会議だった。議会の主な機能は、国王の課税に関する合議だった。14〜15世紀には、議会、特に庶民院(下院)の地位が次第に拡大強化された。そして、普通法による王権の抑制から、議会が制定する制定法(statute law)による王権の抑制という考え方に変化し、議会が国王の専制的な権力を抑制する砦と考えられるようになった。
 国王に権力が集中し、王権が絶対的となると、議会参加者には一人の王の臣下としての共通意識が生まれた。議会は、共通の中心を持つ集団が形成される場所となった。国王を中心とする臣民の集団という意識が発達した。このエスニック(民族的)な集団的自己意識がやがてネイション(国民)の意識へと発達していった。また、この封建的な身分制議会が市民革命を経て、近代的な国民の議会に変化していくのである。
エスニック・グループとネイションの関係については、第1部第2章に書いた
 この過程で、自由の確保・拡大を求めるリベラリズムと、民衆の政治参加を求めるデモクラシーが結合し、またそれによるリベラル・デモクラシーと、ネイションの形成・発展を目指すナショナリズムが、相互作用的に発達していった。
 イングランドは、1339年から1453年にかけて、フランスの間で百年戦争と呼ばれる戦争を戦った。フランス国内のイングランド領の帰属とフランドルの羊毛工業地帯を巡る戦いだった。領域内に外国の領主も混在する封建国家フランスに対し、イングランド軍が領域深く攻め入った。これに対し、ジャンヌ・ダルクが登場し、フランスでエスニックな集団としての自己意識が高揚した。イングランド軍に捕えられたジャンヌは、イギリス主導の宗教裁判にかけられ、火刑に処された。戦争の終局面では、ヘンリー5世がイングランド軍を率いて勝利に導いた。ヘンリー5世は、公文書に英語(イングリッシュ)を使用することを奨励し、ノルマン・コンクェスト以来、王として初めて個人書簡に英語を使用した。こうした対外戦争と精神的または英雄的な指導者がエスニックな集団意識を形成していった。その一方、百年戦争を通じて、英仏とも封建貴族の勢力が衰退し、国王による中央集権化が進んだ。
 百年戦争の終結後間もなく、イギリスでは、1455年封建貴族のランカスター家とヨーク家の争いが始まった。前者が赤ばら、後者が白ばらを紋章としたので、ばら戦争と呼ばれる。85年前者が勝ってヘンリー7世がチューダー朝を開き、ヨーク家のエリザベスと結婚して両家の和解を図った。この戦いで貴族が共倒れになり、絶対王政への道が開けた。
 ヘンリー8世は、イギリスにおける絶対主義国家の確立に寄与した。とはいえ、愛人との結婚問題で、離婚を認めないカトリック教会の教皇と対立し、国教会を作ったことが、国家的自立のきっかけである。1534年国王至上法を発して自ら英国国教会の首長となり、ローマ教会を離脱した。国教会の成立はルターが1517年に宗教改革を開始したわずか17年後だった。当時、大陸からプロテスタンティズムがイギリスに伝播し、特にカルヴァン派が広がった。彼らをピューリタンと呼ぶ。
 ヘンリー8世の娘エリザベス1世は国教会を確立し、カトリックとピューリタンの両方を弾圧した。彼女の死後、1603年にジェームズ1世が即位し、スチュアート朝を開いた。ジェームズ1世は王権神授説を唱えて、絶対王政を強化した。また新旧両教徒を弾圧した。彼の治世下の1620年に、信教の自由を求めるピューリタンを載せたメイフラワー号が北米に渡った。ヨーロッパ大陸では、ドイツ30年戦争が行われていた。ジェームズ1世は自ら王権神授説を主張し、重課税等で議会と対立した。その子チャールズ1世も増税政策を取り、議会が反対するとこれを解散し、専制政治を行った。これに反発した議会は、1628年に権利請願を提出した。国債の強制、勝手な課税、不法な逮捕・投獄等を、国民の歴史的権利に反するものとし、これらに反対する請願を国王に出したのである。歴史的権利は、人権の観念が想定する普遍的・生得的権利とは違う。歴史的に承認され、確立してきた国民の権利である。だが、通説では、権利請願は、人権の観念の発生につながる出来事と見なされている。
 先に書いたようにイギリスでは、1215年に国王の専制に貴族や新興階級が抵抗し、権力の行使を制御する約束を取り付けたマグナ・カルタが発布された。その発布の約400年後に出された権利請願は、マグナ・カルタ以来の伝統に基づいて、議会が国王に出した請願書だった。権利請願に対し、チャールズ1世は議会を解散して対応した。その圧政への反抗から、ピューリタン革命が起こることになる。

 

●フランスの王権強大化と宗教戦争

 ここでフランスに話を転じよう。神聖ローマ帝国では、中世を通じて教皇権と皇帝権の勢力争いがあった。これに対し、フランスでは教皇権と国王権の争いが繰り広げられた。そして、国王権が徐々に強化され、教皇権は衰退していった。
 フランスで特筆すべきは、アヴィニョンの捕囚と教会の大分裂である。1309〜77年、教皇7代が南仏のアヴィニョンに移され、フランス国王の支配下に置かれた。これを教皇のバビロン捕囚ともいう。続いて、1378年から1417年までは、ローマとアヴィニョンに教皇が並立し、カトリックが両派に分裂する状態だった。バビロン捕囚の時期の途中に、英仏百年戦争が起こり、その戦争の最中には、カトリックが分裂していた。こうした出来事は、神聖ローマ帝国では起こり得なかった事象であり、フランスにおける王権の強大さを示すものである。
 先に書いたように中世の西欧各地では、身分制議会が行われており、主たる議題は、皇帝や王侯、諸侯の提案する課税が是か非かであった。多くの場合、課税は一方的でなく、議会の承認を要した。ところが、フランスでは、15世紀に三部会と呼ばれる身分制議会が課税承認権を失った。これも王権の強化が進んでいたからである。16世紀初めになると、フランスでは、王権が著しく伸長し、王の意思は領地に行きわたり、ひとたび王が命令を発すれば、たちまち国家全体が動き出すといっても過言ではないほどだったといわれる。こうした国王権が増勢し、教皇権が後退していたフランスにも、宗教改革の波が押し寄せた。
 フランスでは、救霊予定説を説くカルヴァンの思想が広がった。カルヴァン派プロテスタントは、ユグノーと呼ばれた。1562年、カトリック派の首領ギー公によるユグノー虐殺事件をきっかけに、ユグノーとカトリック派によるユグノー戦争が始まった。教義争いは政治的な争いに発展した。ギー公と対立するブルボン家は、ユグノーを支持した。8次に及ぶ戦争は、1598年ナントの王令によって、カルヴァン派の信仰が公認され、終結した。この間、ユグノーを支持した国王アンリ3世がカトリックの修道士に暗殺され、ヴァロア朝が断絶し、ブルボン朝に移った。
 ナントの王令は、約40年ほど前の神聖ローマ帝国におけるアウグスブルグ宗教和議の内容に通じるものだった。またユグノー戦争は、ドイツ30年戦争に先立つキリスト教徒同士の宗教戦争だった。注目すべきは、ユグノーが暴君放伐論を唱えたことである。神の法に従わない君主に従う義務はなく、暴君は追放すべきだという主張である。この主張は、古代シナの孟子の思想と類似点がある。西欧では、人民の抵抗権・革命権の思想の先駆となり、ロックに影響を与えた。
 ブルボン家は、王位を得ると、カトリック信仰に戻った。ハプスブルグ家に対抗し、ドイツ30年戦争に参戦して、ウェストファリア条約を主導した。主権国家体制が生まれた西欧において、大陸ではフランスが優位を占めた。そして絶対王政の主権国家として勢力を伸長していった。
 イギリスの場合は、国王が英国国教会を作って、カトリック教会を離脱したことが、絶対王政を確立する上で、大きな意味を持った。宗教的自立が主権国家の形成につながったわけである。これに比し、イギリスと同様に絶対王政を発展させたフランスでは、王家が一時ユグノーを支持してカトリック派と戦ったが、その後、カトリックに復帰した。ブルボン朝は、カトリック教会を支持した。そえゆえ、絶対王政期の主権国家において、宗派が新教か旧教ということは、本質的な意味を持たない。宗教的教義の正当性よりも、政治的な権利と権力の確立・強化が重要だったのである。

 

●ボダンの主権論
 
 ここで絶対王政に関する主権の理論について述べたい。16世紀前半、宗教改革の旗手ルターは、カトリック教会を厳しく批判する傍ら、王権については、神授なるがゆえに人民の抵抗を許さない絶対のもの、と説いた。ルターの同時代のイタリアの政治思想家マキャベリは、『君主論』で、国家の君主は、平和を招来し維持するため、狐の策略と獅子の勇気を以て権力を行使すべきである、と説いた。そして、その世紀の後半、国家には最高の権力が存在しなければならないとして、国家と主権を制度論として論じる思想家が、フランスに現れた。それがジャン・ボダンである。
 当時フランスでは、国王への中央集権化が顕著に進んでいた。だが、宗教改革によってユグノー戦争が起こり、カルヴァン派プロテスタントとカトリック派が争っていた。この戦争を収拾するため、ボダンは、国王を中心として、分裂した国家の統一を図ろうとした。そして、国家の権力を確立することを目指して執筆したのが、『国家論』(1576年)である。
 ボダンは『国家論』において、神意実現のために国家の最高絶対権を説いた。目的は人民の自由と財産を守ることである。国家権力の主体は、国王という個人ではなく、主権という制度概念だった。ボダンは、対外的な意味における主権を「国家の絶対的で永続的な権力」であると定義した。国家は自らの国法を定め、他の権力に従うことなく、独立して国政を行うことができるということである。国内的な意味における主権は、ラテン語版の『国家論』で「市民や臣下に対して最高で、法律の拘束を受けない権力」と定義した。
 ボダンは、「主権的支配者」の上に立つ「世界中のすべての支配者に対する絶対的支配者」である神の存在を強調した。国家における「最高の力」の持ち主も、神の命令である神法・自然法には従わねばならず、それに違反すると、神罰が下る。君主が自らの自由意志に基づいて法律を作っても、神法・自然法に合致しないものは、法律としての有効性を持たないとした。そして、「人民が君主の法律に服し、君主が自然法に服して、人民の自然的自由と財産の所有権を保障する」という政治が「正しい統治」である、と説いた。
 ボダンの理論は、国家主権を理論的に強化すると同時に、制約もするという二面性を持っていた。ボダンは、無制約の主権を説いたのではなく、主権者を制約するものとして神法・自然法、契約、慣習法を挙げた。制約条件があるということは、ボダンの説く主権は、絶対的なものではなく、相対的なものだったことを示している。相対性の中での最高性を強調することが、ボダンの主張だったといえよう。
 彼の時代は、アンリ3世の治世だった。国王は、彼の思想に従って政治を行ったわけではない。公式にはカトリックだったアンリ3世は、プロテスタントに改宗を強要したり、逆に過激なカトリックから反発されたりした。宗教内戦の解決を図りながら、最後はカトリックの修道士によって暗殺された。主権の担い手である国王が絶対的支配者でないことは、その事件にも現れている。
 ボダンの死後、ウェストファリア条約で、諸侯の主権が確立された時、フランスでも国王の主権が制度的に確立された。ブルボン家は、神聖ローマ帝国が死に体となった西欧で、覇権を目指した。そして、フランスの絶対王政は、18世紀後半に絶頂に達した。国王はボダンが考えた制約を無視して、権力をほしいままにした。その頂点に立つのが、「朕は国家なり」の句で名高いルイ14世である。
 絶対王政は、これに反発する市民の蜂起によって倒された。主権は国王から国民の手に移った。国王を倒し、新たな主権者となった国民は、ボダンが君主に対して示したような制約を、顧みることはなかった。市民革命後の国家にあっては、キリスト教の神もキリスト教的な神法・自然法も、もはや主権と結び付けられることはなかった。

 

●文明間の政治道徳の比較

 先にボダンの主権論について書いたが、ここで西洋文明とシナ文明・日本文明の政治道徳を比較しておこう。古今東西、為政者が仁政・徳治を行えば、人民は為政者に恭順し協同一致して、安寧・繁栄を図ろうと努める。逆に為政者が暴政・圧政を行えば、人民は抵抗したり、体制を打倒しようとして戦う。それゆえ、さまざまな文明において、為政者に対して道徳を説く思想が現れた。またその一方で、人民の抵抗や闘争を正当化する思想も現われた。近代西洋文明に影響を与えたプラトンやアリストテレス、トマス・アクィナス等の思想は、前者の例である。ユグノーの暴君放伐論やロックの抵抗権・革命権の理論は、後者の例である。ボダンの場合は、前者である。その思想は主権論であるとともに、政治道徳論でもある。
 西洋文明とシナ文明・日本文明では、それぞれ政治道徳論の伝統が異なる。シナには古くから天人相関説があった。天人相関説は、天と人との間、すなわち自然現象と人事との間に、因果関係を認める考え方である。君主が徳を持ち、徳のある行いをしていれば、天もこれに呼応し、世の中は平和で作物も豊作となる。君主が不徳だと、飢饉となり疾病が蔓延する、と考えた。孔子の始めた儒教は、天人相関説を発達させたものである。儒教の政治思想は、天命を受けた者が有徳者として王者になるべきとする。また同時に、君主は有徳であるべきことを要求し、政治と道徳の合致を主張する。これを天命思想という。天命思想は、シナの代表的な政治道徳論である。孔子は「政を為すに徳を以ってす」、孟子は「徳を以って仁を行う者は王たり」と説いた。この天命思想はまた革命思想と表裏の関係にある。孟子は禅譲と放伐による王朝の交替を是認した。王朝の交替は、例えばそれまでの君主の姓が「李」だったのを「朱」に易(か)えたことになるので、これを易姓革命という。
 儒教は、為政者のあるべき姿を説き、仁政・徳治を勧奨した。だが、それが実践されないところに、革命が起こり、王朝の交替が繰り返された。またシナ大陸では、遊牧民族の侵攻による農耕民族の征服・支配が頻発した。シナの多くの王朝は、漢民族ではなく、周辺諸民族の王朝である。征服王朝は、儒教の思想を自らの正当化に利用した。支配・統治する者こそが、天命を受けた有徳者であるという逆転が起こった。力は正義であるとする思想と言える。
 シナとわが国では、考え方が大きく違う。違いは、歴史・伝統・国柄による。わが国は古来、一系の皇室が民族の中心であり続けている。この特徴は、既に鎌倉時代初期から認識されてきたが、江戸時代には、わが国とシナの伝統・文化・国柄の違いがより明確に認識された。例えば吉田松陰は、次のような主旨のことを記している。「わが国は、シナと全く違っている。天照大神の御子孫が天地とともに永遠にましますのであって、この大八洲、すなわち日本の国土は大神が開かれたところ、大神の御子孫、すなわち天皇が末永く守られるものである」(『講孟箚記』) こうした認識は、幕末の日本人に広くゆきわたっていた。
 天皇が君主であるのは、基本的には血統による。皇室は天照大神の子孫であることによって、侵しがたい権威を持つと仰がれてきた。また、神話に由来する三種の神器を保有することが、皇位の正統性を示すものとされている。シナと異なり、天が家系や民族に関係なく、徳のある者を君主に使命するのではない。徳は絶対条件ではない。有徳か否かに関わらず、臣下は天皇に忠を尽くさねばならない、とわが国では考えられてきた。だがその一方、有徳であることは天皇のあるべき姿とされ、歴代の天皇の多くがそれを心がけてきた。これら血統・神器に加えて有徳を備えるよう努めてきたことが、わが国の皇室が今日まで繁栄を続け、民族の中心であり続けている所以である。
 私は、キリスト教的な西欧と儒教的なシナは、政治において同じ傾向を持つことを指摘したい。宗教・思想は異なるが、為政者に暴政・圧政を行う傾向があり、前者における隣人愛も、後者における仁義も、為政者の支配欲・権力欲を抑制し得ない。独裁的・専制的な為政者に対し、これを倒し、成り代わろうとする者が現れる。これに比し、わが国の場合は、天皇が「民の父母」として、仁の実践に努めてきたことにより、概ね仁政・徳治が行われてきた。これは世界史に希有の実例である。
 実は、人権に関する考え方も、その文明の基本的な思想によって異なる。宗教的には、西洋文明はキリスト教、シナ文明は儒教、日本文明は神道が主要であり、そうした宗教を土台として、それぞれの政治道徳論が説かれた。近代西洋文明で発達した人権の観念は、キリスト教思想が背景にあり、普遍的・生得的な権利が想定された。だが、シナ文明には、神授による普遍的・生得的な権利という思想は、伝統的に存在しない。大陸アジア的な専制国家、家産国家では、人民の個人性は尊重されない。だから、人権の観念そのものが、容易に根付かない。支配階級・特権階級の権利が、一方的に強調される。日本文明にも、一神教的な普遍的・生得的な権利という思想はないが、祖孫・君民の絆が強く、調和を重んじ、互いを大切にするという生き方があったので、人権の観念がよく受容された。近代西洋文明では、個人の権利、個人の利益が価値として追求される傾向があるが、日本文明では、集団の権利、共同体の利益が優先される傾向がある。
 この項目では、西欧における主権・民権・人権の歴史を書くことを目的としているので、詳しく述べることは控えるが、政治道徳論の違いが、人権の考え方にも影響しているのである。もっとも、西欧の特徴が明瞭になったのは、近代化によってであり、人権に関しては、特に市民革命以降である。この項目では、人権の発達を歴史的に把握するため、西欧の中世から近代の初期までの期間における主権・民権・人権について書いた。続いて次の項目で、市民革命以後の時代について書く。
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関連掲示
・わが国の政治道徳については、皇室の伝統と武士道の精神が重要である。これらについては、マイサイトの下記のページの拙稿をご参照下さい。

君と民」「武士道


 

(2)市民革命による人権の発達

 

●市民革命はイギリスのピューリタン革命に始まる

 前項に書いた西欧における中世から近代初期にかけての主権・民権・人権の歴史に続いて、これから市民革命の時代の歴史を書く。その中で権利・権力の変動を見ていく。イギリス、アメリカ、フランスの順に書き、フランス人権宣言を分析した後、欧米各国を横断的に共通する要素について述べる。
 さて、17〜18世紀にかけてイギリス、アメリカ、フランスで市民革命が起こった。イギリスのピューリタン革命で封建的身分の特権を否定する自然法に基づく権利の理論が表れた。アメリカ独立革命の独立宣言でイギリスの「臣民の権利」の歴史性が否定されて、権利は神授のものとされた。フランス市民革命の人権宣言でも権利の神授性の論理が維持された。こうして歴史的に発達した権利が、普遍的・生得的な人権という概念で理解されるようになった。
 だが、近代西欧的な権利は、西欧各国の歴史の中で形成されてきたものであり、また権利の概念、内容、それを保障する法制度は、国や時代によってさまざまである。すなわち、人権という概念の実態は、主に各国の国民の権利である。
 ヨーロッパ大陸で新旧両教徒が争ったドイツ30年戦争が終結に近づいていたころ、周辺のブリテン島で市民革命が起こった。ピューリタン革命である。ピューリタン革命は1640〜60年にかけて展開され、王政復古の後、1688年には名誉革命が起きた。これら2度の革命によって、イギリスの絶対王政は終焉を迎え、議会による君民共治の政体が実現した。その過程で、国王の主権は国民と共有されるものとなり、同時に人間は生まれながらに自由であり、平等な権利を持つという人権の観念が発生した。
 マグナ・カルタ以後、16世紀のチューダー王朝までの間は、国王の権利と臣民の権利の均衡の原則が機能していた。ところが、17世紀初めスコットランドからイングランドに来てスチュアート王朝を開いたジェームズ1世は、絶対王政を敷いた。ジェームズ1世は法律に拘束されない王権の行使こそ真に自由な政治であると主張し、従来の慣行を無視して国王の大権を行使しようとし、議会との衝突を繰り返した。
 イギリスでは、封建制の解体が西欧で最も早く進んでいた。17世紀に入ると、ジェントリー(郷紳)やヨーマンリー(独立自営農民)が市民階級を形成し、議会に進出して政治的な影響力を持つようになっていた。またブルジョワジー(中産階級・商工業者・資本家)が成長し、私有財産等の権利を主張していた。彼らの多くは、カルヴァン派のプロテスタントだった。
 ジェームズ1世の子、チャールズ1世は、スコットランドに国教会を強制しようとした。これへの反発からスコットランドで反乱が起こると、国王は戦費調達のため、1640年に議会を召集した。これをきっかけに、ピューリタン革命が始まった。
 議会では、王党派と議会派が激しく対立し、1642年に内戦状態になった。その中で個々の教会の自主独立を説く独立派が勢力を強め、独立派から徹底抗戦を主張するオリバー・クロムウェルが台頭した。49年に議会の決議によりチャールズ1世が斬首刑に処され、共和制が樹立された。ウェストファリア条約で西欧に主権国家体制が誕生した翌年だった。クロムウェルは、53年に護国卿となって独裁政権を樹立した。
 この時代の思想家として知られるホッブスは、『リヴァイアサン』で絶対王政を擁護する理論を著述した。ホッブスは、原始的な自然状態は、「万人の万人に対する闘争」であるとする。人々は生命を奪われる恐れから逃れようと、社会契約によって権利を主権者に委譲し、国家を作るという社会契約論を説き、専制君主を支持した。

一方、これと対極的な主張をしたのが、水平派(Levellers)である。クロムウェルは「新しい型の軍隊」(New Model Army)を指揮して内戦を制した。その軍には合議制の組織ができ、全員参加で意思決定をした。兵士たちの一部は急進的な政治結社に参加した。それが水平派である。水平派は生得権(Birth right)を主張し、身分ある者の特権だった自由に対し、万人が平等に持つ自由を主張した。人民主権の成文憲法や普通選挙を主張した。だが、1649年よりクロムウェルの弾圧を受け、水平派は消滅した。イギリスでは、水平派のような思想は、以後大きく伸長しなかった。

 

●名誉革命と権利・権力の均衡

 1658年にクロムウェルが病没すると、独立派と対立していた穏健な長老派が王党派と組み、前王の子チャールズ2世を迎えて、1660年にスチュアート朝への王政復古が行われた。共和制も水平派も、歴史の一コマと化した。
 チャールズ2世は、国民の権利を制限し、親カトリック政策を取った。続くジェームズ2世は、国王大権を乱用し、カトリック化を推進したため、国民の不満が高まった。1688年、議会のトーリー党(王権擁護派)とウイッグ党(王権制限派)が結束して、ジェームズ2世の娘メアリと、その夫のオランダ統領ウィレムに援助を要請した。ウィレムが軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世はフランスに亡命し、戦わずして革命が成し遂げられた。とはいえ、次期国王たる人物を外国から呼んだり、国王が外国に逃走したりという、なんとも情けない話である。
 ウィレム夫妻は、イギリスでそれぞれウィリアム3世、メアリ2世となり、共同統治者として王位に就いた。その時、議会は、即位の条件として、権利宣言を承認させ、これを権利章典として制定した。権利章典の正式名は「臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律」という。僧俗の貴族および庶民が祖先から継承した権利を確認するものであり、同時に、国王の権限をあらためて慣習法の制約のもとに置くものでもあった。この革命が、名誉革命と呼ばれる。

こうしてイギリスでは、2度の市民革命によって、国家主権は君主の主権から君民共有の主権へと変化し、議会を中心とする立憲君主制が確立した。
 名誉革命の時代にロックは、ホッブスの理論を受けて、独自の社会契約説を説いた。ロックもまた政府が設立される以前に、自然状態を仮定したが、ホッブスのそれとは正反対に平和な社会を想定した。だが、相互の権利を防衛するために皆で合意して政府を作ったという理論を説いた。そして、名誉革命は人々の合意で新たな政府を形成したものとその意義を説明した。確かに、名誉革命で、議会は王を任免する権利を得て、王の権力を大きく制限した。ただし、人民による社会契約を実行したものではない。議会による王の交代は、王との統治契約であって全面的な社会契約ではない。契約の当事者も、当時の上院下院合同の仮議会(convention)の構成員であって、人民全体ではなかった。
 名誉革命の36年後となる1714年、スチュアート朝が絶え、開祖の血を引くドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として即位した。選帝侯とは、神聖ローマ帝国皇帝を選ぶ権限を持った上級貴族だった。皇帝の家臣がイギリスの王になったのである。ドイツ生まれのジョージ1世は英語を解さず、政治にも無関心だった。そのため、議会の多数派が内閣を形成して政治を行うようになった。1721年、内閣が国王ではなく議会に対して責任を負う責任内閣制が確立した。イギリス独特の「君主は君臨すれども統治せず(The sovereign reigns but does not rule.)」という伝統が生まれた。これが伝統となったのだが、王朝が絶え、外国人を呼んで国王にしたものの、その国王が国家を統治できないので、こういう制度を作ったのである。栄光あるものとは言えない。ハノーヴァー朝は、イギリスがドイツと戦った第1次世界大戦中に、ドイツ風の名前を改め、ウインザー家と称するようになった。それが今日の英国王室である。これも名誉ある改名とは言えない。
 マグナ・カルタ以来の伝統を持つイギリスでは、17世紀半ばから18世紀にかけて、市民革命と議会政治を通じて、国王の主権がそれまで以上に制限され、国民の権利と権力が増大した。そして、国王の権力と貴族・僧侶・市民の権力の均衡が生まれ、制限君主制となった。
 主権は最高統治権であり、理論的には無制限の権利であり、また無制限の権力である。だが、実際の歴史において、国王の権力はマグナ・カルタ等によって制限され、議会は、国王の権利・権力を協議的に制限する仕組みとして機能してきた。協議によって行使が制限され得るということは、そもそもその権利・権力は主権すなわち統治の最高権力ではなかったことを意味する。
 イギリスは、17世紀後半からウェストファリア体制の西欧で覇権を目指すフランスの最大の競争相手となった。そして18世紀半ばにかけて、英仏は海外植民地の支配権をめぐって数次にわたる戦争を行った。総称して英仏植民地戦争という。英仏は、当時の二大植民地帝国として、勢力を争った。フランスより早く資本主義が発達したイギリスでは、1770年代から動力とエネルギーの大変革による産業革命が進んだ。それにより、イギリスは、経済力・技術力・軍事力において、フランスをはじめとする欧米諸国を圧倒する存在になっていった。そして、世界に冠たる大英帝国の繁栄を築いた。
 ところで、トッドは、家族制度が価値観、法律、経済、イデオロギー等の違いにまで、深く影響していると説いているが、私は、イギリスの市民革命には家族型的な価値観が影響していると考える。イングランドを中心とする地域では、絶対核家族が支配的である。絶対家族は遺産相続において、親が自由に遺産の分配を決定できる遺言の慣行があり、兄弟間の平等に無関心である。この型が生み出す基本的価値は自由である。自由のみで平等には無関心ゆえ、諸国民や人間の間の差異を信じる差異主義の傾向がある。そこに自由を中心とした思想が発達し、市民革命の推進力になった。ホッブスやロックは、こうした社会を背景に、自然権や社会契約論の思想を説いた。彼らの思想については、第7章で市民革命から20世紀初めまでの時代に現れた人権関連の思想を検討する際に述べる。

 

●先進国イギリスの権利・権力構造

 イギリスでは、17世紀以降、リベラリズム(自由主義)とデモクラシー(民衆参政主義)が発達した。もともと別の思想だったが、これらが合体して生まれたリベラル・デモクラシーの下で、イギリスのネイション(国民共同体)が形成された。リベラル・デモクラシーは、西欧の政治的近代化の中心思想となった。
 さて、本稿でイギリスと呼んでいる国の正式名称は、「the United Kingdom of Great Britain and North Ireland」すなわち「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」である。イギリスは、かつて大ブリテン島においてイングランド、スコットランド、ウェールズ等の諸国に分かれていた。15世紀末に成立したイングランドのチューダー朝のもとで、ウェールズの併合とアイルランドの植民地化が進められた。イギリスでは、ピューリタン革命、名誉革命を経て、17世紀末のイングランドに国民国家(nation-state)が形成され、1707年イングランドとスコットランドの合同がなり、両国の旗を合わせたユニオン・ジャックに象徴される「グレート・ブリテン連合王国」が成立した。その後、1801年にアイルランドを併合して、現在の連合王国となった。
 通説では、フランス市民革命によって身分制社会が解体され、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトが、自由かつ平等な国民の結合による国民国家を打ち立て、それが欧米諸国に普及したとされる。だが、その前に、イギリスで市民革命を通じて国民国家が登場し、それへの対抗において、フランス等の諸国に国民国家が広がったと考えないと、大きな流れは見えない。ネイションを形成しようとする思想・運動をナショナリズムというが、ナショナリズムもまたイギリスにおいて発達し、これに対抗して、周辺諸国にナショナリズムが勃興したと見るべきである。
 わが国では、共和制・国民主権を理想とするアメリカ・フランス系の思想が世界標準であるかのように、しばしば錯覚されている。実際は、リベラリズムもデモクラシーも、個人主義も資本主義も、国民国家もナショナリズムも、君主制・議会主権のイギリスにおいて発達した。今日の福祉国家の理念を生んだ漸進的な社会改良主義もまたイギリスで発達した。それらの主義が、イギリスから近代世界システムの中核部の諸国に広がった事実が見逃されやすいのは、共和主義及びその過激な形態としての共産主義を進歩的と奉る思想の影響である。
 ところで、イギリス市民革命は階級闘争だったが、そこには民族問題の要素があることを見逃してはならない。イギリスは、民族間支配の征服国家だった。そこで階級分化が起こり、被支配民族から新たな階級が現れ、自由と権利を追求した。ヨーマンリーやブルジョワジーの多くはアングロ・サクソン人だった。彼らの運動には、ノルマン人である国王や貴族に対し、被征服先住民の側から反抗したという一面があった。この権利と権力の闘争の中から、イギリスの近代議会政治が生まれた。征服・支配され権利を侵害された先住民が、支配階級となった渡来民に対して、権利の回復・拡大を求めて戦い、権利と権力の変動と均衡が生まれたのである。
 民族問題の要素は、市民革命期にとどまらない。19世紀に現れる労働党や社会主義の主唱者の大部分はケルト人だった。ノルマン人とアングロ・サクソン人の民族融和の外にあったケルト人から、社会主義に活路を求める者が多く出た。これと対照的なのは、ケルト系のロイド・ジョージが、自由党の有力政治家として活躍し、第1次世界大戦では首相として英国の勝利に貢献したことである。
 イギリスの民族関係は地域間の問題ともなっている。スコットランド、ウェールズ、アイルランドはケルト人が多い。アイルランドは、現在も深刻な民族紛争・宗教対立の地となっている。ただし、イギリスの国家は、民族支配に基礎を置く身分制を残存しながらも、民族間の融和が進み、連合王国として一個のネイション(国民共同体)を形成することに成功している。ネイションの形成をなし得たからこそ、大英帝国の繁栄が得られたのである。ウォーラーステインのいう「近代世界システム」において、イギリスは中核部に位置する。この広大な植民地を持つ帝国の本国では、その国民の特権として、自由と権利が拡大されたのである。イギリスのリベラル・デモクラシーは、植民地から収奪する富の上に発展したものだった。本国における労働者や下層階級もまた中核部の国民としての恩恵を受けていた。先住のケルト人や外来の民族であっても、リベラル・デモクラシーのもとに富と権力を得ることができたのである。
 19世紀後半、マルクスは、所有を中心に社会を分析した。そしてイギリスを始め、資本主義の先進国における階級闘争による共産主義革命を煽動した。だが、権利と権力の関係は、所有関係だけでなく、支配関係からも見ないととらえられない。マルクスが分析した近代資本主義発祥の地における権利と権力の変動には、民族問題が深く絡んでいたのである。
 イギリスの民族問題には、他の西欧諸国の多くと同様、ユダヤ人の問題もある。先にドイツ30年戦争の項目に書いたが、中世のヨーロッパでは、キリスト教に改宗しないユダヤ人は異教徒として差別され、市民権を与えられず、職業は金貸し、税の集金等に限定された。13世紀までには、ユダヤ人はイエスを磔刑に処し、死に至らしめた罪により、永久に隷属的地位に置かれるべきだという教えが、カトリック教会で確立された。イギリスでは、1290年にユダヤ人が追放された。以後、公式に撤回することはなかったが、17世紀後半になると事実上、ユダヤ人の居住を再び認め始めた。彼らの経済的能力への評価による。ピューリタン革命は、ユダヤ人に対する政策が再検討されるきっかけとなった。清教徒たちは、英訳の旧約聖書を読み、ユダヤ人に尊敬の念を持つようになった。クロムウェルは、ユダヤ人の経済力が国益にかなうという現実的判断をし、寛大な政策への道を開いた。王政復古後のチャールズ2世も同様にユダヤ人に対して正式に居住を認めた。理由は、イギリスの商人を守るよりユダヤ人を保護する方が経済的にずっと大きな利益が得られると判断したからだった。こうして17世紀末までには、ユダヤ人が正式にイギリスに住むことが出来るようになった。
 名誉革命は、さらにユダヤ人の地位を高めた。名誉革命は、オランダからオレンジ公ウィレムを招聘して、国王を交代させたが、そこにはユダヤ人の関与があった。1688年ウィレムが英国に出兵する際、オランダのユダヤ人ロペス・ソアッソ一族が経費として200万グルデンを前貸しした。ウィレムが新国王ウィリアム3世となると、大勢のユダヤ人金融業者がロンドンに移り住んだ。ロンドンではウィリアム3世の時代に金融市場が発達したが、その創設にはユダヤ人が関った。その後のシティの繁栄は、ユダヤ人の知識・技術・人脈によるところが大きい。私は、大英帝国の文化は、単にアングロ・サクソン文化というより、アングロ・サクソン=ユダヤ文化であると考える。
 権利と権力について言えば、今日もイギリスは立憲君主国だが、主権は国王と貴族院・庶民院で構成される議会にあるとされる。これを「議会主権(Parliamentary Sovereignty)」という。君主は「議会における国王(または女王)(King or Queen in Parliament)」と呼ばれる。議会は、集団の意思の合成のための機関である。国王と貴族・庶民の代表者が意思を合成して、意思決定をする。その機関に主権があるということは、国王と国民が統治権を共有している体制と見ることができる。イギリスの議会主権は、国王主権とも国民主権とも違う形態だが、国王をその国籍によって国民の中に含めれば、君主制は広義の国民主権となる。国民主権には、こうした君主制による広義の国民主権と共和制による狭義の国民主権がある。前者は君民共有主権と呼ぶこともできる。君民共有主権の国民国家では、君主を特別の身分とするから、国民は皆平等という単純な平等論は成り立たない。
 イギリスには、中世以来の身分制が存続しており、議会は貴族院と庶民院で構成されている。国民の権利の調整を行う司法では、貴族院が「最高裁」の役目も負っている。イギリスには成文憲法がなく、法律より慣習が優先され、「良き伝統」という概念が重要とされる。貴族院が、これが「良き伝統」であると判断すれば、それが基準となる。この基準によって、権利と権利の衝突の調整をする。こうした「良き伝統」を否定するような人権の概念は認められない。近代化の先進国イギリスの実態は、以上のごときである。
 宗教についても、イギリスは英国国教会を「国教」と定めており、英国王は国教会の首長である。またこの宗教的伝統は権利を守る根拠とされている。市民革命の動機の一つは、信教の自由を守ることだったが、国教会以外のキリスト教宗派のほか、ユダヤ人の信仰するユダヤ教にも一定の自由が保障されるようになった。現在イギリスでは国教会の教徒が国民の4割以上を占める一方、他の宗派や宗教を信じる自由は保障されている。
 上記の議会主権及び国教と信教の自由については、十分注意する必要がある。イギリスは、こうした伝統を保ちながら、今日の世界で最も良く自由と権利が最もよく保障されている国の一つである。それは、自由と権利の拡大には、普遍的・生得的な人間の権利という思想は、必ずしも必要がないことを示していると言えよう。

 

●アメリカ独立革命の達成

 イギリスの植民地アメリカは、本国から独立し、一個の主権国家を建設した。アメリカの独立革命は、主権と民権と人権の歴史において、重要な意義を持つ。
 大陸でドイツ30年戦争が行われていた1620年、イギリスからメイフラワー号に乗って北米に移民したプロテスタントがいた。彼らはジェームズ1世の宗教弾圧に絶望し、信教の自由と新天地を求めたピューリタンだった。ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)と呼ばれる。彼らに続いてオランダ、イギリス、フランス等からも移民が渡り、先住民であるインディアンを駆逐していった。
 18世紀中ごろまでに、北米東岸ではイギリスの13植民地が成立し、それぞれ議会を設けて自治を行っていた。黒人奴隷が人口の2割を占め、その9割は南部に集中した。1755年、英仏間で北米での覇権を巡ってフレンチ=インディアン戦争が勃発し、イギリスが勝利した。
 北米の仏領植民地は英領となったものの、イギリスは戦費のため多くの負債を抱え、広大な植民地の経費もかさんだ。ジョージ3世は財政難を改善するため、植民地への課税を強化した。植民地側は、マグナ・カルタ以来の国王と臣民の権利関係の原則に立って「代表なくして課税なし」と本国政府に反発した。イギリス製品の不買運動を起こし、印紙税を撤廃させた。このころ独立を唱える声はまだ少数で、政策変更を迫るという程度だった。
 しかし、1773年、経営難に陥っていた東インド会社に茶の独占販売権を与える茶法が制定されると、植民地側は、ボストン茶会事件を起こした。急進派が先住民の扮装をし、港に停泊していた東インド会社の船に乗り込んで茶箱を海に捨てるという直接行動をしたのである。
 これに本国が強硬な姿勢を示したので、74年植民地の代表らが集まって大陸会議を開いて抗議した。そして、イギリスはこれを無視した。そこで、75年4月、レキシントンで両者はついに武力衝突した。ここにアメリカ独立戦争が始まった。
 ジョージ・ワシントンが総司令官に選ばれ、本国との戦いが繰り広げられた。ただし、なお植民地人の間には国王への忠誠心や英国人意識が強かった。イギリス本国政府は議会主権の発想に基づいて、議会の意思によって「古き良き権利」を否定できるという新たな統治理念を植民地に押し付けてきた。これに対し、植民地人は、最初は、イギリス臣民としての伝統的な権利・自由と財産の不可侵を主張する旧来の理念をもって抵抗した。
 世論が一挙に独立に傾いたのは、76年1月、トマス・ペインが刊行した『コモン・センス』による。ペインは、植民地人の権利を守らないイギリスの支配から脱し、アメリカが独立するという考えは「コモン・センス(常識)」だと説いた。ペインによって、世論は抵抗から独立へと大きく動いた。ただし、本国の国王を交替させるのではなく、自分たちが本国からの独立をめざす戦いだった。
 ロックの思想は、アメリカにも伝わっていた。ロックは、人民の抵抗権・革命権を認めていた。独立運動は、ロックの思想を急進化したものである。ロックの思想は、フリーメイソンに影響を与えていた。近代フリーメイソンは、17世紀イギリスではじまり、フランス・アメリカ等に広がった。アメリカ独立革命の指導者には、ワシントン、フランクリンを始め、フリーメイソンが多かった。合衆国の国璽には、メイソンの象徴が印されている。

●アメリカ独立宣言の思想

 1776年7月4日、大陸会議で独立宣言が採択・公布された。独立宣言は、起草委員会でトマス・ジェファーソンが草案を作成、ベンジャミン・フランクリンとジョン・アダムスが若干の加筆修正を行って成案した。
 独立宣言は、前文の主要部にて言う。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主(Creator)によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる。また、これらの権利を確保するために人類の間に政府が組織されたこと、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形体といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、かれらの安全と幸福とをもたらすべしと認められる主義を基礎とし、また権限の機構を持つ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる」と。
 独立宣言は、上記の部分で、自然権、社会契約思想、「合意の支配」、革命権を謳っている。この内容は、ロックの思想を発展させ、自然権と社会契約説に基づいて人民の抵抗権を主張し、圧政下にある植民地の人民が自由独立の国家を建設することを公言したものである。
 独立宣言は、権利の根源を「造物主」に置く。ここにおける「造物主」は、基本的にはユダヤ=キリスト教的な神である。ユダヤ=キリスト教では、神(God)が天地を創造し、人間は神が創造したものであり、神の前で人間は平等であるとする。独立宣言は、その世界観に立って、すべての人間は平等に造られ、造物主によって、一定の不可譲の権利を与えられているとする。これを天賦人権論という。人権は、普遍的・生得的な権利であるという思想が、宣言の形で打ち出された。天賦人権論は、基本的にユダヤ=キリスト教の信仰に基づくものである。その宗教的信条を除くならば、権利の根拠を持たない概念が、独立宣言の人権の概念である。
 植民地アメリカの人民が本国から独立を勝ち取ろうとすると、イギリス本国の歴史や国王の存在から自己を断絶する必要があった。そこで、人々の権利は、歴史的・社会的・文化的に形成されたイギリス臣民の「古来の自由と権利」ではなく、神によって賦与された権利であるという論理が打ち出された。アメリカは、信教の自由を求め、新天地で宗教的理想を追求しようとしたピルグリム・ファーザーズに始まるピューリタンの国である。それゆえ、ユダヤ=キリスト教的な観念が、宣言で強調されたのである。人民の権利からイギリスにおける「臣民の権利」の歴史性が否定された。同時にそれに替わる権利の根拠として、造物主によって与えられたものということが強調された。この思想によって、権利は歴史の所産であり、祖先の英知の結晶であるという考え方を、独立宣言は否定したのである。
 独立宣言には、ロックやピューリタニズム以外にも重要な要素がある。ピューリタン革命における水平派やフリーメイソンである。独立宣言の思想は、その要素を踏まえて理解する必要がある。独立革命期の思想については、第7章で述べる。

 

●英米間の主権と民権

 独立宣言公布の翌年、大陸会議は連合規約を採択し、13植民地の連合によるアメリカ合衆国の成立を詠った。独立戦争で当初、アメリカ側は苦戦したが、フランス・スペイン・オランダがアメリカを支援したことで戦局が逆転した。特にフランスの支援が大きかった。植民地が独立すればイギリスが弱まると考えたフランスは、財政・軍事の両面で植民地側を援助した。
 1781年10月、ヨークタウンの戦いで、米仏連合軍が英国軍に大勝し、勝敗は決定的となった。翌々年のパリ条約でアメリカの独立が承認された。87年には国民主権、連邦主義、三権分立を柱とする合衆国憲法が採択された。その2年後、ワシントンを初代大統領とする連邦政府が成立した。
 アメリカ合衆国は、新大陸に移民が建国した国である。この特殊な条件が、自然権に基づく社会契約による国家の建設を可能にした。ロックの思想は、彼の想定を超えた場所で現実化された。
 植民地人民は本国から独立して独自の権力を獲得して、国家を建設した。王政から離脱し、共和政を樹立した。国王から人民へと主権が移動した。主権と言っても、独立した植民地における統治権、自治権である。本国の主権は存続している。主権を実力によって分割し、領土を分離し、人民が独立したものである。主権を獲得することによって、人民の権利を宣言することができた。人民と言っても、実態は米国の国民の権利である。集団の権利を獲得することなくして、個人の権利を樹立することはできない。
 イギリス・アメリカの両国において、権利はそれぞれの社会の伝統・文化のもとに発達した。米国の人権思想は、移民による思想であり、移民が作った国家における思想である。それゆえに、米国民の権利であって人間一般の権利ではない。当然イギリス臣民の権利ではない。両国民は別々の権利を持つ。それを両国の政府が自国民に対して保障するものである。
 イギリス国民の権利とアメリカ国民の権利は、根拠が異なる。イギリスの臣民が歴史的に形成してきた権利と、アメリカの人民がイギリスから独立し、臣民としての歴史を断ち切って獲得した権利は、別のものである。だが、米国で権利に新たな根拠づけをしたからと言って、イギリス国民の権利が根拠を失ったわけではない。それ自体は何も変わらない。それぞれの国民が違う考え方で権利を持っているだけである。
 人権として観念された権利は、実際には、その国の国民の権利であり、主に国民の権利として確保・拡大されてきた。ユダヤ=キリスト教における神の下の主権に対し、同じく神の下の人権という宗教的な思想が、観念的な普遍性をまとわせたのである。しかし、それは英米両国の間でさえ、共有されるものではなかった。まして、当時の極東の島国・日本に住む武士や百姓のことなど、まったく考慮していなかった。非西洋文明の諸文明・諸国家・諸民族の人民を想定していないものだったのである。
 米国は国民主権の国である。ただし、神の下における国民主権であって、神を否定した国民主権ではない。神の下における植民地の主権を英国王から奪い取ったものである。米国民は米国の主権を持つ集団的主権者となった。連合王国から独立したことによって、国王を頂かぬ国民が神の下で主権を共同所有する国家を築いたのである。今日も米国は移民に対して明確な方針を示している。広く移民を受け入れるが、参政権を与えるには厳しい条件を設けている。理念としては自由と人権を謳いながら、現実としては国民の権利を厳格に定めている。
 国民主権によって、集団的主権者となった国民は、互いに個人の権利を主張する。集団における権利の協同性は失われ、権利の闘争性が顕在化し、個人の権利と権利がぶつかり合う。資本主義は、市場における競争によって、この権利の闘争を常態化した。米国は神の下での国民主権を政治原理とする国家だが、キリスト教の信仰が大都市を中心に低下し、また徹底した競争社会において個人の利害意識が先鋭化したことによって、個人主義的なリベラリズムが、社会規範になっていった。この状況は、20世紀にいたって、個人の選好を集団の利益より優位に置く思想を生みだす。それが、アメリカを中心とした現代のリベラリズムである。現代のリベラリズムについては、第4部で詳しく述べる。
 なお、政治体制について言えば、米国は主権在民のリベラル・デモクラシーであり、英国は君民共同統治のリベラル・デモクラシーである。リベラル・デモクラシーは、政治体制の違いに関わりなく発達したことに注意する必要がある。

 

●領主民族のデモクラシー

 米国建国の祖は、イギリス各地から渡来した移民だった。彼らは、カルヴァン主義を初めとするプロテスタント諸宗派を信仰していた。カルヴァン主義は、人間を神によって予め来世の救いに選ばれた者と、選ばれていない者とに峻別した。アメリカ建国の祖は、この救霊予定説に立って、自らを神に選ばれた者とした。エマヌエル・トッドはこれを「宗教的差異主義」と呼ぶ。救霊予定説は、人権と正反対の思想であり、生まれながらの絶対的不平等を説く思想である。
 建国の祖の宗教的差異主義は、イギリスの絶対核家族の家族制度を土台としていた。絶対核家族の価値観は、自由・不平等であり、相続における兄弟の平等には無関心である。
 家族型的かつ宗教的な差異主義は、旧約聖書の神の言葉によって増幅され、インディアンや黒人との混交を禁じることになった。アメリカ植民地は、厳しい差異主義の社会だった。ところが、そのアメリカ社会が「独立宣言」では人間の平等をうたう。そして、白人男性の普通選挙を実現した。これは、明らかに普遍主義の表現である。もともと差異主義的な社会でありながら、ある種平等主義的なデモクラシーを建設したわけである。
 トッドは、この点をファン・デン・ベルへの「領主民族のデモクラシー」という概念を用いて説明する。「領主民族」とは、成員一人ひとりが「領主=奴隷主」であるような民族をいう。「領主民族のデモクラシー」とは、「領主=奴隷主」のみが政治に参加するデモクラシーである。デモクラシーの発祥の地、アテネでは、ポリスの政治に参加し得る者は、異民族を奴隷として支配する領主民族だった。アメリカのデモクラシーは、この構造を近代において再現したものである。
 独立宣言には、「すべての人間」という言葉がある。それゆえ、独立宣言は、いわゆる人権を高々と掲揚したものと思われがちだが、宣言における「人間」には、先住民のインディアンや、奴隷労働をさせていた黒人は、含まれていない。人間は、二つに分けられている。キリスト教徒と異教徒、白色人種と有色人種である。より明確に言えば、白人キリスト教徒である「人間」と、有色人種の異教徒である「非人間」に分けられている。それゆえ、ここにおける権利は、人間一般の権利では、決してない。インディアンや黒人を「人間」とみなしていないからである。
 白人は先住民から土地を奪って、駆逐したり、アフリカから大陸間を強制連行されてきた黒人を購入し、奴隷労働をさせたりしていた。独立運動の指導者たちは、黒人奴隷を所有していた。ジェファーソンは数百人の黒人奴隷を抱えるプランテーションを所有していた。数名の黒人奴隷の女性に婚外子を孕ませた。ワシントンも奴隷農場主だった。ワシントンは、アメリカ先住民族であるインディアンを人間扱いせず、「猛獣 (beasts of prey)」と呼んで殺し合わせるようにした。
 独立宣言は、人間一般の平等を謳っているのではなく、非白人を差異の対象とすることで、領主民族としての白人の平等を宣言したものだった。そのことで白人間の差異が解消され、白人の間に平等の観念が成立した、とトッドは解釈する。いわば差異の上に立った平等である。トッドは、白人の平等と黒人への差別の共存は、「アメリカのデモクラシーの拠って立つ基盤」である、と指摘する。ここには、デモクラシーの「暗い秘密」とも呼べる構造がある、と見るのである。
 第1部第4章の国家の起源の項目に書いたが、国家の類型の一つに、ある民族がほかの民族を征服・支配してできた征服国家がある。征服国家では、支配階級と被支配階級は民族が異なる。アメリカは植民によって作られた国家だが、白人は先住民のインディアンを駆逐し、アフリカから連行した黒人を奴隷とした。それによって、アメリカは征服国家に似た民族間の支配構造を持つ。支配―被支配の上下関係には差異主義、支配層の内部では普遍主義という立体的な関係がある。これがアメリカのデモクラシーの基本構造であると言えよう。

 

●米国の人権事情

 1787年制定の合衆国憲法には当初、いわゆる人権の規定がなかった。権利の章典を付けていなかった理由は、連邦政府は人民から委託された権限のみを行使し得る権利を制限された政府であるから、権利の章典を付けることは、この原則を侵すものとなるという点にあった。だが、権利の章典がないことをもって憲法案に反対する意見があり、権利の章典を追加することを条件として、憲法案を承認した州が少なくなかった。
 そこで89年第1連邦会議で権利の章典が提案され、所要の数の州の承認を得て、91年に発効した。これが、合衆国憲法修正10カ条である。修正第1条は、国教の禁止、信教の自由、言論及び出版の自由、集会の権利、請願権に係ることを規定した。以下の条文は、捜索・逮捕押収、死刑・破廉恥罪、不利益な供述、財産の徴収、裁判、弁護人の依頼、保釈金、罰金、刑罰等に関する権利を規定した。今日も合衆国の特徴の一つである人民の武器保有と武装の権利は、修正第2条に規定されている。また修正第3条には民兵と兵士の舎営に関する権利が規定されている。これらの権利は、米国の国民の権利であり、修正10カ条をすべて人権とみなすのは適当ではない。むしろ、修正10カ条は、米国民の権利を連邦憲法に定めたものである。
 修正10カ条の主な内容は、自由権だった。自由権を国民の権利として保障した。ただし、権利の主体は白人男性のみを対象としていた。白人女性、インディアン、黒人は除外されている。ここに定められた権利は、白人・男性・大人という特定の人種・性・年齢を前提にしたものゆえ、人権とは言えない。普遍的でなく特殊的な権利は、特権である。すなわち、合衆国憲法が修正条項に定めた権利は、アメリカ国民である白人男性成人の特権だった。合衆国憲法に、「婦人参政権修正」として知られる修正第19条が追加されたのは、1920年だった。黒人に参政権を与える修正条項が追加されたのは、1865年から70年にかけてだった。憲法に婦人参政権を定めたのは、それより約50年後のことだった。
 本章が対象とする時代の範囲を少し超えるが、人権との関係で黒人問題について補足すると、アメリカ国民は19世紀半ば南北戦争で国内を二分する内戦を戦った。南北戦争は the Civil War の訳語であり、civil warは内戦を意味するが、南部諸州は独立国家を結成したのだから、正しくは国際紛争と見るべきである。北部側は、かつて自由を求めてイギリスから独立していながら、自国から独立しようとする者の自由は認めないという姿勢だったわけである。
 最初は南部が優勢だった。しかし、リンカーンは1862年に、国有地に5年間居住・開墾すれば無償で与えるという自営農地法(ホームステッド法)を発布し、これによって、西部農民の支持を獲得した。さらに、63年に奴隷解放宣言を発し、内外世論を味方につけた。ゲティスバーグの戦いで北部が優勢になり、65年北部が南部に勝利した。
 欧米では、16世紀から黒人奴隷貿易が盛んに行われ、約1000万人に上る黒人が、アフリカからアメリカ大陸に送られた。19世紀に奴隷廃止運動が起こり、1833年にイギリス、48年にフランスで奴隷労働が廃止された。1860年の英仏通称条約で奴隷貿易が禁止され、実効性を持たせるため、海上での臨検の権利を定め、奴隷貿易を海賊行為とした。こうしたヨーロッパの動向がアメリカ合衆国に影響を与えた。
 南北戦争後の1865年から70年にかけて、修正第13条、14条及び15条が追加された。これらの3カ条は、「南北戦争の結果たる修正」として知られる。第13条は1863年の奴隷解放の布告を憲法上明文化したものであり、本条によって奴隷制度が廃止された。また14条は黒人に市民権を付与するもので、15条は黒人の参政権を保障しようとしたものだった。だが、実質的な差別は存続した。黒人解放運動が成果を上げるようになったのは、1940年以降であり、1964年にようやく公民権法が成立した。権利においては平等が実現した。しかし、現在も米国の大都市では、居住地と学校において、黒人の隔離が続いている。
 トッドが明らかにしたように、米国における黒人たちは、身体的差異という宿命的な違いによって差別される。黒人は、「お前は人間だ」と言われながら隔離される。それによって、心理的・道徳的な崩壊に追い込まれる。ここに米国という差異主義社会の根本構造が立ち現れる。すなわち、白人/黒人の二元構造である。そして、アジア人を含む広義の「白人」の平等と黒人差別の共存は、アメリカ建国当時の「領主民族のデモクラシー」が今日まで、アメリカのデモクラシーの本質として続いていることを示しているのである。アメリカ独立革命を「自由の革命」と理想化することは、誤りであることを知らねばならない。

 

●フランス市民革命と人権宣言

 アメリカで独立と建国がなされたことは、西欧諸国に大きな影響を与えた。最も早く反応が現れたのがフランスである。フランス市民革命は、ロックの思想の影響のもと、アメリカの独立革命に強い刺激を受けたものである。そして、主権と民権と人権の歴史において、画期的な出来事となったと見なされている。
 フランスはイギリスに比べて絶対王政が長く続いた。ブルボン家のルイ14世(1643-1715)の時代には、その絶頂に達した。王権は神に授けられたものだとする王権神授説が唱えられ、君主専制が行われた。重商主義政策を推進し、強力な常備軍を作り、ヨーロッパ随一の陸軍力を誇った。しかし、ルイ16世(1754-1793)の時代になると、イギリス等との植民地獲得戦争や宮廷の浪費が財政の悪化を招いた。そのうえ、アメリカ独立戦争を支援したことにより、財政は一挙に悪化した。
 アメリカでは、1776年に刊行されたペインの『コモン・センス』が、独立運動の高揚に決定的な影響力を振るった。本書はその年の内にフランス語に訳され、フランスでも広く読まれ、大きな影響を及ぼした。
 ルイ16世は特権階級への課税で財政を改善しようとした。これに貴族が反発した。国王は事態打開のため、1789年に三部会を召集した。当時のフランスは、封建的特権を持つ聖職者(第一身分)と貴族(第二身分)、そして参政権がなく課税の義務を負う農民や市民(第三身分)に分かれていた。三部会は封建制のもとでの身分制議会だが、平民の代表も参加していた。
 それまで175年間招集されていなかった三部会が開催されると、会議は議決方法をめぐって紛糾した。シェイエス神父が『第三身分とは何か』を著し、「第三身分はこれまで無であったが、これからは力を持つべきだ」と訴えた。シェイエスに呼応した第三身分は、独自に国民議会を結成した。
 ルイ16世は軍隊をもって国民議会に圧力をかけた。怒ったパリ市民は武装蜂起を図り、7月14日、武器・弾薬の保管所となっていたバスティーユ監獄を襲撃した。蜂起の成功を受けて、国民議会はアメリカ独立宣言等を参考にした「人間及び市民の権利宣言」を採択した。このいわゆるフランス人権宣言は「人間は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」と宣言した。そして、国民主権、法の前の平等、意見表明・表現の自由、所有権の不可侵等が謳われた。この人権宣言の思想については、次の項目に書く。

国民議会は1791年、一院制の立憲君主制、有産市民の選挙権等を盛り込んだ憲法を制定した後、解散した。憲法のもとに、新たに立法議会が発足した。立法議会では、共和制を主張するジロンド派が台頭した。ジロンド派は、ジャコバン修道院に集うジャコバン・クラブから自立した穏健共和主義者だった。
 立法議会は、92年、亡命者送還の要求に応じないオーストリアに宣戦を布告した。ここでフランス市民革命は、国内の変革だけでなく、対外戦争を伴うものに拡大した。フランス軍は苦戦したが、「祖国の危機」が叫ばれ、義勇兵が結集した。この時歌われた「ラ・マルセイエーズ」がフランス国歌となっている。
 抗争と戦争の中で民衆はチュイレーリ宮を襲撃し、王権の停止を宣言した。また男子普通選挙による国民公会の招集が決定された。9月20日、国民公会は、王政の廃止と共和制の成立を宣言した。以後、革命前の体制は、アンシャン=レジーム(旧制度)と呼ばれる。
 翌93年、ルイ16世と王妃マリー=アントワネットは、断頭台(ギロチン)で処刑された。このことは、諸外国の王族・貴族に衝撃を与えた。イギリスが中心となって第1回対仏大同盟が結成された。外圧による危機が高まるなか、国民公会でジャコバン・クラブの急進共和主義者が主導権を握った。より急進的なコンドリエ・クラブからもこれに合流した。彼らをモンターニュ派と呼ぶ。その中心指導者のロベスピエールやダントンは、ジロンド派等の反対派を次々に断頭台に送って処刑した。国王が処刑されて君主制が廃止され、共和制が実現し、独裁者が登場し、粛清が行われたという展開は、まるでイギリス・ピューリタン革命の悲劇の再演である。
 恐怖政治の最中、エベール等の過激派によって、理性を神格化した「理性の祭典」が行われた。過激派は、カトリック教会の破壊や略奪を強行した。ロベスピエールやダントンは、無秩序が広がるのを恐れ、過激派を逮捕・処刑した。その後、独裁者となったロベスピエールは、94年「至高の存在の祭典」を行った。ロベスピエールは無神論に反対し、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と主張し、カトリック教会の神観念に代わるものとして、「至高の存在」を祭壇に祀った。
 恐怖政治への反発は強まった。94年7月27日、クーデタが決行された。今度は、ロベスピエールが襲われた。その死が銃殺か自殺かは不明である。これをテルミドールの反動というのは、急進共和主義をよしとする立場からの言い方である。95年には穏健な共和派によって、5人の総裁による総裁政府が成立したが、不安定な政局が続いた。
 ところで、18世紀後半のフランスでは、フリーメイソンが活動していた。ロックの思想は、フランスのメイソンにも影響を与えていた。絶対王政やカトリック教会を批判した啓蒙主義者のモンテスキューやヴォルテール、百科全書を編纂したダランベール等はメイソンだった。革命の指導者には、多くのメイソンがいた。シェイエスはその一人である。メイソンは一枚岩ではなく、意見の違いから対立・抗争し、革命の混乱は深まった。フランス革命の思想面については、第7章で市民革命から20世紀初めまでの時代に現れた思想について書く際に述べる。

 

●ナポレオンの専制と革命の終焉

 混迷と戦争のなか、革命軍の将校として目覚しい功績を挙げていたナポレオン・ボナパルトが国民の支持を集めていった。ナポレオンは、1799年、ブリュメール18日にクーデタを起こして総裁政府を倒して、統領政府を樹立し、自らが第一統領となった。
 次いで1802年、ナポレオンは国民投票によって終身統領となった。民衆が多数決で独裁者を選んだのである。実質的な独裁権を得たナポレオンは、04年3月民法典を制定した。これは各地に残存していた慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、万人の法の前の平等、国家の世俗性、信教の自由、経済活動の自由等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものと評価されている。ナポレオンは、急進的共和主義の革命の中に登場した軍事的指導者である。周辺諸国との戦いを制して、市民革命の成果を守った。外国から自らの集団の権利を防衛し得たところで、国民の権利が整備されたのである。またナポレオンは、中央銀行の設立、教育制度の整備、国民皆兵制、宗教協約(コンコルダート)の締結等を進めた。これらは、市民革命の成果を政策的に実現したものと言える。
 市民革命と対外的な危機への対抗の中で、フランスでは国民という意識が高まった。激動を通じてフランスというネイション(国民共同体)が形成されていった。人権宣言による人権思想の発達は、ナショナリズムの高揚を伴う動きでもあったことに注意したい。
 国民の圧倒的な支持を得たナポレオンは、王党派と共和派をともに弾圧し、1804年12月皇帝の位に就いた。ナポレオンを終身統領に選んだ国民は、さらに彼を皇帝に選んだ。賛成357万余票、反対わずか2579票だった。市民革命は絶対王政を倒し、共和制を目指したはずである。ところが、デモクラシーは、国民の意思によって、前近代的な皇帝という独裁者を生み出したのである。
 皇帝ナポレオンは、フランス革命の理念を伝えるという大義のもと、大規模な対外侵攻戦争を繰り広げ、自身の帝国を全ヨーロッパに広げようとした。ナポレオンは、人権宣言を継承したナポレオン法典を他のヨーロッパ諸国に普及させて、ヨーロッパを統一することを構想していた。このヨーロッパ連邦構想は、軍事力による諸国の征服によって進められた。連邦といっても、ナポレオンとその親族が各国の国王となる新たな帝国の誕生だった。権力欲は、果てしなく強まった。人民の自由と平等を求めた革命は、とてつもない自我膨張を示す権力者を生み、人民を戦争と破壊に駆り立てた。
 フランスの攻撃を受ける側にとっては、この戦争は侵攻戦争である。イギリスは、大陸諸国と結び、1805年第3回対仏大同盟で対抗した。ネルソン提督率いるイギリス海軍は、トラファルガー沖の海戦で、ナポレオンを破った。海戦に分なしと悟ったナポレオンは、大陸制圧を図り、神聖ローマ帝国を解体してライン同盟を結成させた。イギリスに反攻するため、イギリス商品を大陸から閉め出す大陸封鎖令を出し、各国にイギリスとの通商を禁じた。大陸封鎖体制によって、ナポレオンのヨーロッパ連邦構想は、フランスが大陸市場を独占し、フランス産業が従属国を搾取する体制に過ぎないものに変貌した。
 当時イギリスは、産業革命が進行する先進国である。イギリスからの物産が入らないことは、大陸の各国民とともに、フランス国民にとっても生活苦を生んだ。破竹の勢いだったナポレオンは、スペインで思わぬ苦戦をした。封鎖令で経済的に打撃を受けたロシアが、イギリスと密貿易を行なっていることがわかると、ロシア遠征を敢行した。しかし、さしものフランス陸軍も、ロシアの冬には耐えられず、退却するしかなかった。
 ナポレオンが戦域を北方に拡大している間、イギリスは諸国と連携を強め、総反攻の準備を進めた。フランス軍に侵攻された国々では、ナショナリズムに目覚めた諸民族が各地で一斉に蜂起した。ここに至ってナポレオンは、14年に退位し、エルバ島に流刑となった。
 フランスは王政に復古し、ルイ18世が即位した。反仏諸国はウィーンに集まって戦後処理を話し合ったが、会議は進まない。こうした内外の情勢を見たナポレオンは、15年エルバ島を脱出して再起し、皇帝に復位した。諸国連合軍は再びナポレオン軍に立ち向かい、ウェリントン将軍の下、ワーテルローの戦いでこれを破った。ナポレオンは百日天下に終わった。今度は、大西洋の孤島セントヘレナ島へ送られた。そこで波乱万丈の生涯を閉じた。

 

●共和制と国民主権がはらむもの

 ナポレオンの半生は、フランス市民革命の後篇でもあった。1789年の革命開始からロベスピエールの独裁を経て、99年のナポレオンのクーデタに至る10年を前編とすれば、ナポレオンの独裁から1815年の敗死までの16年は、それに続く後篇である。1789年の人権宣言は、高らかに人権の理想を打ち出した。だが、それは激動の26年間の最初期の出来事にすぎない。人権の理想の下では、血なまぐさい殺戮と破壊が行われ、その中からナポレオンが出現し、皇帝の座を得ると、ヨーロッパからロシアにわたる戦争を繰り広げた。
 フランス市民革命を、人類の進歩として語る意見がわが国では多い。市民革命によって、主権が国王から理念的に国民に移った。特にそのことが評価されている。しかし、それは、単純な見方である。
 主権の概念は、当初は君主の権力を主権としたものだった。ボダンの主権論では、神法・自然法への服従等の規制によって、権力の行使に抑制がかけられていた。だが絶対君主は、専制政治を行った。これに対し、君主の主権を国民が奪取したのが、国民主権である。君主の主権を奪い取った国民が主権者となった。ただし、主権を行使するのは、権力を掌握した一部の革命指導者であり、ジャコバン派やロベスピエールらだった。国民主権の名のもとに、独裁的主権者に対する反対派は、権利を制限されたり、剥奪されたりした。反対勢力は逮捕・投獄され、財産を没収され、遂には処刑された。国民主権の体制では、主権者である国民の感情や気分によって、政体が変わり得る。革命によって主権者となったフランス国民は、選挙によってナポレオンという独裁者を選任した。主権者による多数決で、独裁者が生まれた。
 ナポレオンが没落すると、フランスは共和制に戻ったのではなく、王政に復帰した。その後もフランスの政体の変遷はめまぐるしい。王政復古の後は、七月王政、第二共和制、ナポレオン3世による第二帝政などと、フランスの政体はめまぐるしく変化し、不安定な時代が続いた。イギリスが、ピューリタン革命の後、君主制議会政治を確立し、安定した体制を形成したのとは、まったく対照的である。フランスがようやく安定するのは1958年、ド・ゴールの第五共和制になってからである。革命後のフランスの歴史を見ることなくして、フランス革命を理想化するのは、愚かであり危険である。
 ついでに書くと、共和制と国民主権を手放しでよいものとすることはできない。ロシアでは第1次世界大戦後、革命によって帝政が廃止されて共和制に移った後、クーデタによって社会主義となった。理論的にはプロレタリア独裁だが、実態は共産党による官僚独裁となった。しかも、その中から独裁者スターリンが登場し、個人崇拝が行われた。思想警察と収容所による統制が行われた。ドイツでは、第1次大戦後、帝政が廃止され、共和制となった。当時最も進歩的といわれたワイマール憲法のもと、国民投票によって、ナチスが第1党となり、議会で合法的にヒトラーに独裁権が与えられた。それゆえ、共和制と国民主権を無批判に理想化することは、歴史的経験を無視した愚論である。
 イギリス、アメリカの項目で、家族的価値観の社会的影響について書いたが、フランスの中心部は、平等主義核家族が優勢である。平等主義核家族は、遺産相続において兄弟間の平等を厳密に守ろうとするため、兄弟間の関係は平等主義的である。この型が生み出す基本的価値は、自由と平等である。この家族型の集団で育った人間は、兄弟間の平等から、諸国民や万人の平等を信じる普遍主義の傾向がある。
 フランス革命がおこったパリ盆地は平等主義核家族が支配的な地域なので、自由だけでなく自由と平等を価値とする思想が展開された。人権宣言は「人間は、自由で、権利において平等な者として出生し、生存する。社会的な差別は、共同の利益のためにのみ設けることができる」と宣言した。フランス革命の普遍主義は、平等主義核家族の価値観に基づくものである。英米と異なり、自由だけでなく、平等を重視する。平等の重視は、政治的にはデモクラティックになり、急進的になる。フランス革命は、またヨーロッパで初めてユダヤ人を解放した。これは普遍主義の理想を追求したものだった。
 イギリスの項目にユダヤ人について書いたが、イギリスでは、ピューリタン革命・名誉革命を通じて、ユダヤ人の自由と権利が確保・拡大された。フランス革命はユダヤ人の自由と権利をさらに大きく拡大した。フランスでは、8世紀のシャルルマーニュ(カール)大帝はユダヤ人を「王の動産」として保護した。ところが、カトリック教会の権威が増大すると、ユダヤ人に対する迫害が進み、1394年には追放に至った。それがフランス革命を機に一転した。人権宣言は、第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と謳ったが、これがユダヤ人にも適用されるようになった。1791年9月、国民会議はユダヤ人解放令を出し、フランスのユダヤ人に完全な市民権を認めたのである。フランスで市民権が認められた事実は他の国にも影響し、次第にユダヤ人の平等権が保障されるようになった。
 市民革命によって、ユダヤ人の自由と権利は、大きく拡大された。その変化はキリスト教社会において、彼らが経済活動によって富を蓄え、国家への影響力を持ったことによっている。ユダヤ人の差別と地位向上の歴史は、欧米における人権の発達において、少なからぬ意味を持っている。人権と呼ばれる権利は主に国民の権利として発達したが、同時にユダヤ人等の権利としても発達したからである。その点については、本章の欧米横断的な要素の項目に書く。
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(3)フランス人権宣言の実態

 

●人権宣言の概要

 ここであらためてフランス人権宣言について検討したい。人権の検討という観点から見て、人権宣言は市民革命の時代において最も注目される事案である。
 1789年の人権宣言は、正式には「人間及び市民の権利宣言(Déclaration des Droits de lhomme et du Citoyen)」という。人間の権利と市民の権利を宣言したものだった。国民会議が改称された「憲法制定国民議会(Assemblee nationale constituante)」が、1789年8月26日に採択した。1791年9月3日のフランス憲法がその一部としてそのままこれを取り入れた。
 人権宣言は、ホッブス、ロックの思想を継承し、ルソー、百科全書派が発展させた自然権や社会契約論に基づいている。作成に当たっては、アメリカ合衆国の独立宣言、米ヴァージニア州の権利宣言及び諸州の憲法における権利宣言が参考にされた。米国の各種の宣言は、アメリカ独立戦争に関係・従軍したフランス人が持ち帰り、多くの翻訳が行われた。国民議会の代表者たちは、これらの翻訳をもとに、人権宣言を起草した。
 人権宣言は、前文と17条で構成されている。前文は「国民議会として組織されたフランス人民の代表者たちは、人権の不知・忘却または蔑視が公共の不幸と政府の腐敗の諸原因にほかならないことに鑑みて、一の厳粛な宣言の中で、人の譲渡不能かつ神聖な自然権を展示することを決意した」と始まる。本文は、第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」と定めた。以下、政治的結合の目的と権利の種類、国民主権、自由の定義・権利行使の限界、一般意志の表明としての法律、法の前の平等、市民の立法参加権、適法手続きと身体の安全、罪刑法定主義、意見表明・表現の自由、行政報告、権利の保障と権力分立、所有の不可侵等を定めている。
 人間の権利と市民の権利を併記しているのだが、権利の記述には詳しさにムラがあり、反復重複が多く、権利の相互関係、権利と基本原理の関係が明確でない。

人権宣言は、91年憲法に取り入れられたにもかかわらず、すぐ改定の動きが起こった。93年にジロンド派による権利宣言が採択され、続いてモンターニュ派がこれを改定し、93年憲法に含めた。ところがその憲法は施行されずに恐怖政治となり、クーデタが勃発。95年にはまた新たな憲法と権利義務宣言が採択された。こういう具合だから、89年の人権宣言を不朽の金字塔のように仰ぎ見ると、大きな錯覚に陥る。

●人権宣言の特徴

 人権宣言の特徴として次の点が挙げられよう。

(1)普遍主義的傾向
 宣言は、それ自体は憲法と違い、実定法の体系ではなく、一つの世界観・価値観の表明であり、18世紀啓蒙思想の表現である。宣言は、人間社会に共通の普遍的原理があるとして、これを承認する。そこに掲げられる権利は、人間の「譲渡不能かつ神聖な自然権」として、人間が人間である限り所有するものとされる。宣言という語は、新たなものの創設でなく、もともと存在するものを厳粛に確認することを意味した。自由と権利が歴史的・社会的・文化的に発達してきたことに否定的であり、時代や民族の違いを超えた原理を唱える普遍主義的な傾向が顕著である。

(2)個人主義的傾向
 宣言は、第2条に政治的団結の目的は「自然権を保全すること」とする。その根底には、封建的身分制から解放された人間を個人として尊重し、政府や社会は個人とその幸福を究極の目的とするという個人主義の思想がある。個人の権利の保障のために、政治権力が組織されるとともに、個人の権利が侵害されないように、政治権力を規制しようとしている。

(3)権利における平等を説く平等思想
 宣言は、第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」と定め、生得的な権利における平等を強調する。また、第6条に「すべての市民は、法律の目からは平等であるから、その能力にしたがい、かつその徳性及び才能以外の差別を除いて平等にあらゆる公の位階、地位及び職務に就任することができる」、第13条に「それ(共同の租税)はすべての市民の間で、その能力に応じて、平等に配分されなければならない」としている。この点には、フランスは平等主義核家族が主な社会であり、自由・平等の価値観を持つことが反映している。

(4)権利の制限は法によるという「法の支配」
 宣言は、権利の不可侵性を強調する。例えば、第4条に「各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれら同種の権利の享有を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法によってのみ、規定することができる」、第7条に「何人も、法律が定めた場合で、かつ、法律が定めた形式によらなければ、訴追され、逮捕され、または拘禁されない」と定めている。これらは、国家権力といえども、法によらなければ個人の権利を奪うことができないという「法の支配」の観念を明文化したものである。

(5)市民階級の利益を追求
 憲法制定国民議会は、第三身分の代表者が支配していた。そこで採択された宣言は、市民階級の利益を排他的に追及するものだった。このことは、宣言はブルジョワ的な階級意識を反映したものであることを意味する。人権とは言うが、国王・貴族・聖職者の権利は、市民階級の利益のために、制限または剥奪される。生命・自由・財産の権利が不可侵のものであれば、他の人間を逮捕・拘束し、生命を奪い、財産を奪うことは、許されない。だが、フランス市民革命は、敵対的な集団や個人の権利を制限し、また剥奪した。

 以上、5つの特徴を挙げたが、一般には(1)の普遍主義的傾向と(2)の個人主義的傾向が強調される。しかし、私の見るところ、最大の特徴は(5)すなわち市民階級の利益を追求した点にある。その利益のためには、(1)(2)の理念は曲げられ、(3)の権利における平等や(4)の法の支配は簡単に破られた。

 

●人権宣言における人間と市民

 人権宣言は「人間及び市民の権利宣言」であり、「人間(homme)」と「市民(citoyen)」を区別し、「人間の権利」と「市民の権利」を区別している。
 まず人権宣言にいう人間は、どういう人間か。1789年フランスの国民議会は、封建的な身分制を否定し、それまでの第三身分を「国民」とした。国民議会が宣言した人権宣言における人間は、身分制から解放された人間である。そうした人間が、人権の主体とされている。
 同時に、人権の主体とされたのは、身分的帰属から解放されただけでなく、フランスの過去の歴史、カトリック教会という伝統的な宗教、家族・親族・職能・地域等の共同体から離脱した人間が想定されている。そうした歴史的・社会的・文化的なつながりを束縛とし、それらから解放された人間が、人権宣言の想定する人間である。
 そのような人間観をもって、人権宣言は、どこの国でも通用するような理念を謳い、権利を宣言している。しかし、ここにおける人間は、観念的な存在であって、現実的な存在ではない。歴史的・社会的・文化的なつながりを捨象した仮想の空間に原子(アトム)的な個人を想定したものだからである。現実の人間は、歴史的・社会的・文化的なつながりの中で生活している。親子・夫婦・祖孫等の関係にあって、集団的に生命を共有し、伝統や慣習を世代から世代へと継承してきた。そして、国家とは、そうした人間が構成する集団である。原子的な個人が契約によって設立したものではない。
 次に、人権宣言における市民とは、何か。市民は、今日特定の都市の住民のことをいうが、西洋文明の歴史では今日とは違う意味で使われてきた。古代ギリシャやローマにおいては、市民は都市に住む支配階級であり、奴隷民を使用する自由民だった。中世西欧の都市は、封建制社会において、領主から特権を与えられた場所だった。そこには、商工業者が住み、一定の自治を行っていた。市民は貴族とも農奴とも区別される集団だった。古代ギリシャやローマ、中世西欧とも、市民と呼ばれる者は、自由民の身分にあり、何らかの政治的関与権を持つ集団の成員だった。これに対し、近代西欧の歴史において、市民は、中世の貴族・聖職者の支配する封建社会を倒し、市民革命や市民社会の担い手となったブルジョワジーや商工業者を指す。この意味の市民は、仏語ではcitoyen、英語ではcitizenである。
 なお、ここでブルジョワジーは、生産手段を私有し賃金労働者を雇って利潤を得る資本家階級を意味する。言葉の由来を紐解くと、ドイツの中世自治都市は、「ブルク(burg)」という。ブルクは城砦に囲まれた都市であり、商工業者等が居住し自衛していた。このブルクが仏語に取り入れられて、「ブルジョワ(bourgeois)」となった。ブルジョワは本来、フランス中世自治都市の市民である有産階級を意味した。それが、近代的な資本家階級の意味に転じた。彼らは、第1身分の聖職者、第2身分の貴族と区別された第三身分として成長した。彼らはフランス市民革命において、シェイエスの理論に基づき、第三身分のみが「国民(nation)」であるとして「国民」を自称し、国民主権を主張して政治権力を奪取した。
 次に、人権宣言における「人間の権利」と「市民の権利」はどう違うか。宣言は、「人間の権利」は人間として生まれながらに平等に持つ権利とし、これを「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」とする。第2条に「あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」とし、これらの権利は「自由・所有権・安全及び圧制への抵抗」であるとする。一方、「市民の権利」は、国家という政治社会においてその権力の行使に参加する諸権利とされる。第6条に「すべての市民は、自身でまたはその代表者を通じて、その(法律の)作成に協力することができる」、「すべての市民は、法律の目からは平等であるから、その能力にしたがい、かつその徳性及び才能以外の差別を除いて平等にあらゆる公の位階、地位及び職務に就任することができる」と宣言は定めている。今日の概念では、「人間の権利」は概ね自由権、「市民の権利」は参政権と呼ぶことができる。前者はリベラリズムが追求してきた権利であり、後者はデモクラシーが追求してきた権利である。

●宣言の権利の実態は国民の権利

 人権宣言における「人間の権利」と「市民の権利」は、まったく別の権利ではない。そのことは、第12条に示されている。第12条は、「人及び市民の権利の保障は、一の武力を必要とする。したがって、この武力は、すべての者の利益のため設けられるもので、それが委託される人々の特定の利益のため設けられるものではない」と定めている。ここで宣言は、「人間の権利」も「市民の権利」も、その保障のためには武力が必要だとする。そして、第13条は「武力を維持するため、及び行政の諸費用のため、共同の租税は、不可欠である。それはすべての市民の間でその能力に応じて平等に配分されなければいけない」と定める。これらの条文は、「人間の権利」とされる権利も「市民の権利」とされる権利も、ともに国民が共同で費用を負担して守るべき権利であるということを表している。
 このような権利は、「人間の権利」や「市民の権利」ではなく、「国民の権利」である。なぜならば、集団が権利を守るのは、集団内で秩序を乱す者から、及び他の集団による侵攻からであり、集団内及び集団間の権力関係において、権利を守ろうとする。一方の集団における成員の権利を実現しようとすれば、他方の集団の成員の権利が侵害される。そのような権利は、人間が生まれながらに平等に所有する権利とは言えない。その集団に所属する者のみが所有する権利であり、だからこそ、それへの攻撃から、協同で守ろうとするのである。そのような集団が国民であり、その国民の権利を、人権宣言は「人間の権利」と「市民の権利」に分けて記しているのである。
 「人間の権利」も「市民の権利」も、実定法で保障されなければ、権利としての有効性を持たない。憲法は各国が定めるものであり、国民を対象とし、国民が賛否を決める。それゆえ、「人間の権利」と「市民と権利」と分けているが、それらは「国民の権利」というのが実態である。

 

●自由と権利及び義務

次に、人権宣言における自由及び権利について述べる。
 まず宣言は、条文において、自由と権利をどのように定めているか。
 第1条は、「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる」としている。
 前半は、宣言の基本的な人間観である。ホッブス、ロック、ルソー、百科全書派、アメリカ独立宣言にほぼ共通する認識である。これに続く後半が重要である。宣言は、無差別的な平等を言っているのではない。共同の利益のためには、社会的な差別を設けてよいと宣言している。権利に関する差別は、一部の人間への権利の付与や権利の制限ができるということである。共同の利益とは何か、そのために必要な社会的な差別とは何か。それを決めるのは、神ではなく人間である。仮に権利を付与する者は神だとしても、一部の人間に特定の権利を付与したり、権利を制限したりするのは、人間である。そうであれば、もともと権利を承認するのは、人間だという見方ができる。
 第2条は、「あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである。これらの権利は、自由・所有権・安全及び圧制への抵抗である」と定める。ここにおける自然権は、「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」である。そして権利として、自由・所有権・安全及び圧制への抵抗の4点を挙げている。
 自由については、第4条に「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する」という。そして、「その結果、各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれら同種の権利の享有を確保すること以外の限界を持たない」とする。そのうえで、「この限界は法によってのみ、規定することができる」としている。
 このように人権宣言が定める「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」としての権利には、義務が伴う。ここが重要である。宣言はただ権利を定めたものではない。主な義務は、武力維持と行政費用のための納税である。
 宣言は、第12条において、「人及び市民の権利の保障は、一の武力を必要とする。したがって、この武力は、すべての者の利益のため設けられるもので、それが委託される人々の特定の利益のため設けられるものではない」とする。
 「人間の権利」であれ「市民の権利」であれ、権利を保障するためには、武力が必要である。権利保障のために武力の維持には、費用がかかる。行政も同様である。
 第13条は「武力を維持するため、及び行政の諸費用のため、共同の租税は、不可欠である。それはすべての市民の間でその能力に応じて平等に配分されなければいけない」と定める。
 租税が義務ということは、12条における「人及び市民の権利」は、実態は国民の権利であることを示すものである。人権宣言は、国民に対し、治安維持や国家防衛のための義務を定めておらず、武力は政府が所有し行使する体制である。国民は費用負担を義務とするのみである。だが、政府を持ち、政府が他の集団に対して武力を以て成員の権利の防衛を行う集団は、特殊な政治団体である。そうした集団を国家といい、その成員を国民という。租税は国民に対して課すものであって、非国民に課すことはできない。
 フランス革命で、ブルジョワジーは第三身分のみが「国民」だとして国民主権を主張し、政治権力を奪取した。この時点での国民主権の主権者は、第三身分という集団であって、国民全体ではない。国王・貴族・聖職者は「国民」ではなく、よって主権者ではないという論理である。これは「国民」を自称する一部の集団が、権力を掌握したものである。
 人権宣言では、国民主権について、第3条に「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も、国民から明示的に発するものでない権威を行い得ない」と定めた。ここに明確に国民主権の原理が規定された。アメリカ独立宣言よりはるかに明確に国民主権の原理が打ち出されている。それが人権の確保という目的に結びつけられている。ここにおける国民の主権は、集団の権利であり、集団として持つ権利を前提として、個人の権利が存立するという構造である。国家という集団の集団として持つ権利が確立されてこそ、国民である成員が個人として持つ権利が保障されるのである。
 人間宣言は、「人間及び市民の権利」と称して、一見すべての人間と市民を権利主体としているかのようであるが、実際は、フランス以外の国民や植民地の被支配民族まで含むものではない。人権宣言といっても、実態はフランスにおける「国民の権利」を宣言したものである。そのことを明らかにしているのが、先に書いた権利保障の武力維持等のための納税の義務である。権利の保障は、国内の治安及び他国の侵攻に対する国防を必要とする。納税は自国の治安と国防を担う政府を維持するために資金を供出する義務である。これらの義務は、特定の国家の国民の義務であって、他国の国民にとっては義務ではない。その国家において人民に保障される権利は、他の国家では通用しない権利であり、「国民の権利」であって「人間の権利」ではない。

 

●「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」の根拠は何か

 人権宣言は、前文に、国民議会が「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」を宣言の中で展示することを決意したと記している。また第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」と定めた。ここには人間は生まれながらにして自由で平等な権利を持つという認識が示されている。その自然権の根拠は何か。
 人権宣言は、ホッブス、ロックが説いた自然権の思想を継承するものだった。ホッブス、ロックにおいて、自然権の概念は自然法の思想に基づく。自然法は、中世の西欧では神が定めた宇宙の法則であるとともに、神が人間に与えた道徳の原理を意味した。ホッブスは、人間は自然状態において、生まれながらに自然法によって認められる永久かつ絶対的な権利、自然権を持つとした。ロックにおいて、
自然法は、神の意思に基づく秩序の原理であり、神が人間に与えた理性の法だった。その神はユダヤ=キリスト教の神だった。アメリカ独立宣言は、明らかにロックの思想を継承している。独立宣言は、イギリス臣民の歴史的・社会的・文化的に形成・継承されてきた権利を否定し、「造物主(Creator)によって与えられた誰にも譲ることのできない権利」を主張した。ここにおける造物主は、明らかに北米プロテスタントが仰ぐユダヤ=キリスト教の神(God)である。
 これに比し、人権宣言は、独立宣言から権利の歴史性・身分性を否定する態度を継承したが、造物主が権利を付与したとは記していない。造物主には触れずに「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」という表現をしている。人間の権利を「神聖な自然権」としながら、自然権が神聖である所以、自然権の依って立つ自然法、さらに自然法のもとにあるものについても、具体的に述べていない。
 フランス市民革命では、一時カトリック教会が徹底的に弾圧され、教会財産が没収された。その点では、フランス市民革命は反カトリック的である。だが、プロテスタントの教義による新教対旧教という宗派闘争の運動ではない。また、全くキリスト教を否定しているのではなく、「反キリスト」ではない。
 ここで注目すべきことがある。人権宣言は、前文に「国民議会は、至高の存在(Etre supreme)の面前でかつその庇護の下に、次のような人及び市民の権利を承認し、かつ宣言する」と記していることである。「至高の存在」は、神聖な人格的存在にして崇拝の対象のようであるが、具体的な説明はない。ユダヤ=キリスト教の神のようでもあり、必ずしも特定の宗教に依拠しない超越的な存在のようでもある。ここで超越的とは、人間を超えたという広い意味である。「至高の存在」が「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」を人間に与えたとは書いていない。権利の根拠は明示されないまま、権利が承認され、宣言されている。
 そこで仮に自然権の付与者をユダヤ=キリスト教の神と理解すれば、人権宣言は独立宣言に近いものとなる。抽象化された超越的存在と理解すれば、人権宣言は半ば脱キリスト教化したものとなる。あるいはまた、付与者の有無に関係なく人間の権利は自然権であり、宣言はそれを確認したということのようでもある。これらのどれでもあり得るという幅のあるところに、人権宣言の特徴がある。どれかの方向を強調すれば、反発が起こる。反発は、対立・抗争に発展する。そういう可能性を内に秘めていたのが人権宣言だった、と私は考える。
 人権宣言の発布後、宣言の内に秘められていた対立・抗争の可能性は、現実のものとなった。宣言発布後、革命は誰も予想し得なかったほどの激動を続けた。人権宣言自体が書き換えられ、出し直され、また書き改められた。そして権利の付与者は遂に明示されず、「至高の存在」とは何かも明確にされないままとなった。

 

●理性の神格化と「至高の存在」の崇敬

 フランス市民革命は、啓蒙思想を思想的な原動力としていた。啓蒙思想は、名誉革命からフランス革命にかけての約100年間、欧米で広く影響力を持った思想である。自然科学の発達を背景に、人間理性を尊重し、封建的な制度や宗教的な権威を批判し、合理的思惟によって社会の変革をめざすものだった。啓蒙とは、理性の光を意味する。その啓蒙の時代の頂点にフランス革命は、しばしば位置付けられる。では、革命は、人間理性の光によって、無知の闇を追放するものとなったのか。否。人間理性による政治が行われるべきところ、狂熱の中でギロチンや虐殺、独裁が強行され、彼らが宣言した人権を無視する行為が横行した。
 1792年9月国民公会は王政の廃止と共和制の成立を宣言し、翌年ルイ16世と王妃マリー=アントワネットが処刑された。第1回対仏大同盟が結成されて外圧による危機が高まるなか、ジャコバン・クラブの急進共和主義者が主導権を握り、より急進的なコンドリエ・クラブからも一群が合流した。彼らモンターニュ派の中心指導者ロベスピエールやダントンは、ジロンド派等の反対派を次々に断頭台に送って処刑した。フランスに米国独立革命を伝えたトマス・ペインは、ジロンド派に近く、国王の処刑に反対したため、逮捕・投獄された。
 恐怖政治の最中、1793年、エベール等の過激派は「理性の祭典」を行った。「理性の祭典」とは、人間理性を神格化した儀式である。会場のノートルダム寺院では、「理性の女神」を女優が演じた。ヴォルテール、ルソー、フランクリン等の胸像が並べられた。フランス市民革命は、人間理性を賛美する思想が生み出したものだが、その思想の一つの頂点が「理性の祭典」といえるだろう。理性を神格化する過激派は、カトリック教会の破壊や略奪を強行した。ロベスピエールやダントンは、無秩序が広がるのを恐れ、エベール派を逮捕・処刑した。
 その後、独裁者となったロベスピエールは、94年「至高の存在の祭典」を行った。人権宣言の前文に、「至高の存在(Etre supreme)の面前で、かつその庇護の下に」とある、その「至高の存在」である。ロベスピエールは無神論に反対し、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と主張した。そして、カトリック教会の神観念に代わるものとして、「至高の存在」を祭壇に祀った。人権宣言では文言だけだった「至高の存在」が、崇敬の対象として持ち出された。祭典はロベスピエールが主催し、チュイルリーの庭園で行われた。この祭典は、ルソーが『社会契約論』で市民に国民的な義務を愛させるために必要だとした「市民的宗教」の実現を試みたものだった。
 その一方、パリでは、ギロチンによる断首刑が行われ、多い時は連日50〜60人にも達した。ロベスピエールは、盟友ダントンをも処刑した。闘争は国内各地に広がった。フランス西部のベェンデ地方では、女子供も含めて40万人もの農民が虐殺された。流血と破壊のなかで、革命による犠牲者は総計200万人にのぼったという。人権の主張と追求は、もともと闘争の中で行われてきたものだが、その闘争性が激しく発揮された。フランス市民革命において、理性の光を放射する啓蒙と、処刑と虐殺に熱狂する野蛮とは、表裏一体だった。
 ハンナ・アーレントは、人権宣言について、次のように述べている。「宣言の意味するところは、何が正であり何が不正であるかの基準を与えるのは、今後は人間それ自体であって、神の戒律でも自然法でも伝統によって聖化された過去の慣習や道徳でもない、ということ以上でも以下でもない」と。宣言における人間は、神や自然法からも、歴史や伝統からも離脱した人間である。そうした人間が正・不正の基準を与える者となったということは、いわば人間が神に成り上がったような状態である。
 人間理性を最高のものとすることは、人間の理性が神に近づいたのではなく、近代西洋人が自我膨張に陥ったのである。すなわち、人間の知恵への過信であり、自己過信である。深層心理学的に言うと、近代西洋文明における理性的な自我意識の確立は、無意識の抑圧を生み出した。抑圧された無意識のエネルギーは、時として破壊的な力を発揮することを、フランス革命は示している。

 

●1789年人権宣言の後の迷走

 1789年の人権宣言は、人権思想の発達において、確かに画期的な内容ではあった。1791年憲法がその一部として宣言をそのままこれを取り入れ、実定法の規定ともなった。だが、宣言は、フランスにおいて多くの国民が納得するようなものではなかった。むしろ対立・抗争の可能性をはらんでいたから、宣言発布の後、1795年までの6年間に3つの権利宣言が出し直されることになったのである。すなわち、ジロンド憲法草案における権利宣言(1793年)、モンターニュ派憲法における権利宣言(1793年)、共和暦第3年の権利義務の宣言(1795年)である。89年版を含むと6年間に計4回の宣言が出されたわけである。
 1793年のジロンド憲法草案における権利宣言は、憲法委員のダントン、シェイエスらが起草し、数学者のコンドルセが主導的役割を担った。前文はなく、「至高の存在」への呼びかけはない。89年宣言の17条に対して、33条と約2倍になっている。89年宣言は、権利の記述に詳しいところと簡単なところとでムラがあり、反復重複が多く、権利の相互関係、権利と基本原理の関係が明確でなかった。ジロンド宣言では、これらの点が修正され、構成・内容に一貫性が見られる。だが、国民公会では、ジャコバン派が勢力を得て、穏健的なジロンド派の憲法案は猛烈な攻撃を受けた。憲法本文の前に置く権利宣言のみが、93年4月に採択された。
 特に急進的なモンターニュ派が実権を握ると、ジロンド派は他の党派とともに追放・粛清された。そのため、権利宣言を含むジロンド憲法草案は流産した。国民公会は、新たな憲法草案を作成することとし、ロベスピエールを中心とする公安委員会がその任に当たった。新たな権利宣言は、ジロンド宣言を取り込んだうえで、平等主義的な傾向を強くした。国民主権ではなく人民主権、男子の普通選挙、人民の生活・労働の権利等に特徴がある。新憲法草案は93年6月に可決され、翌月から翌々月にかけて人民投票に付された。約700万人の投票権者のうち、約190万人しか投票しなかったが、その9割の賛成で可決された。これによって、89年宣言を含む憲法に替わって、新たな宣言を含む憲法が制定されたわけである。
 ところが、この権利宣言は、遂に適用されなかった。人民投票で可決されたにもかかわらずである。国民公会は、施行を延期した。そして、独裁者となったロベスピエールは、権利宣言を無視した恐怖政治を行った。人民から権力を委託された政府によって、人権宣言とは正反対のことが強行されたのである。めちゃくちゃである。
 ただし、人権宣言の条項が守られなかったのは、1793年に始まったことではない。89年の段階で既に宣言の条項は何も守られず、それとは正反対の不当逮捕や不当拘禁が行われた。恐怖政治は89年の革命の当初から行われていた。宣言の発せられた直後から、国民議会は、反革命の陰謀を探るための委員会を設置して、郵便物を開封、逮捕状なしに逮捕、正規の手続きを踏むことなしに拘禁、移動の自由を妨害するなどした。国民の権利は簡単に無視された。自分たちが掲げた人権を守ることより、権力者の権力を守るための政治が行われた。
 ロベスピエールの独裁への反発は、強まった。94年7月クーデタが決行され、ロベスピエールは絶命した。モンターニュ派は失脚し、穏健派が勢力を回復した。国民公会は、93年憲法を無政府主義の所産とし、人民投票は詐欺及び暴力により無効であるとして、新たな憲法を作成した。草案は95年人民投票に付されたが、一般の関心は極めて低く、投票者は100万人に満たなかった。9割が賛成したものの、有権者の8分の1の賛成で、憲法が制定されたのである。
 95年には穏健な共和派による総裁政府が成立した。だが、憲法の権利宣言で声明された権利は、あまり尊重されなかった。特に出版の自由及び個人の安全は、守られなかった。憲法という文書に理想的な言葉を並べても、政治権力がこれを順守するとは限らない。法を裏付けるものは実力であり、実力は法の規定を無視して行使され得る。フランス市民革命では、文書と現実は極めて大きく乖離し続けた。99年のナポレオンによるクーデタ、統領政府、帝政という展開において、この傾向は一層強まった。
 その後もフランスは政体の変化に伴い、1814年憲章における権利宣言、1848年憲法の権利宣言が出され、そのたびに権利・義務に関する規定は変化した。革命や失脚によって統治者が変わると、権利義務に関する思想も変化した。1789年の人権宣言は、決して不朽の金字塔などではなく、次々に書き換えられた初稿に過ぎなかった。しかし、20世紀に至り、1946年第4共和国憲法は、前文に「フランス人民は、1789年の権利宣言によって承認された人及び市民の権利及び自由並びに共和国の諸法律によって承認された基本原理を厳粛に再確認する」と書いた。それによって、89年宣言は、新たな意義を与えられた。だが、市民革命以後のフランスの歴史を振り返る時、人権の思想は根本的に再検討すべきものであることが、明らかになる。

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(4)欧米横断的な共通要素

 

●信教の自由を求める運動

 主権・民権・人権の歴史を市民革命の時代から各国別にたどってきた。ここで、この過程を横断的にも見るために、各国共通の要素として、信教の自由を求める運動、課税に反発する戦い、権利・権力の変動、ユダヤ人の自由と権利の拡大、家族的価値観の違いの影響の5点について補足したい。
 第1点は、信教の自由を求める運動である。西欧では、16世紀初めに宗教改革が起こり、17世紀半ばに主権国家が誕生し、絶対王政への反発から市民革命が起こった。この過程で人権の観念が発生し、人権の思想が発達した。この間の抵抗や変革のエネルギーは、主に信教の自由の希求と富の所有権の保守に発している。いわば精神的価値と経済的価値の追求である。
 信教の強制や制約は、人間の内面への介入である。宗教改革後、ドイツでは、16世紀半ばアウグスブルグの宗教和議がなされたが、皇帝がこれを軽視してカトリック教会と結び、皇帝権の強化を図ろうとした。これがきっかけとなって、ドイツ30年戦争が起こった。その結果、新教が全面的に公認された。フランスでは、ユグノーの虐殺への反発からユグノー戦争が起こり、ナントの王令で新教が公認された。イギリスでは、国王がカトリックとピューリタンの両方を弾圧したり、国教会を強制しようとしたりした。信教の自由の希求が、ピューリタン革命につながった。
 主権と民権と人権の歴史において、1648年のウェストファリア条約と1640〜60年のピューリタン革命は、重要なメルクマールである。これらはともに西方キリスト教改革なくして考えられないものである。
 宗教改革に始まる西欧の大変化は、ローマ=カトリック教会の精神的・政治的支配からの解放を目指す自由の希求が生み出したものである。信教の自由の希求が、社会に巨大な変革を引き起こした。人権の核心には自由がある、と第1部第2章の自由に関する項目に書いた。自由な状態への権利が、人権と呼ばれる諸権利の中核にある。そして、近代西欧的な自由は、まず信教の自由として求められたのである。
 西欧における人権の発生・発達に関する限り、宗教改革はルネサンス、地理上の発見、近代西欧科学や資本主義の発達よりも、重要な出来事だった。宗教改革は、個人の内面の自由の確立をもたらした。教会やその秘儀に依存しない個人が、聖書を手に自ら神と向き合う。この信仰態度は、キリスト教の信仰の純化となる一方、個人の意識の発達、理性的な判断によるキリスト教の相対化、さらにはキリスト教の否定への可能性を開くものだった。
 17世紀後半、ヨーロッパで最も宗教に関する自由が拡大されていたのは、オランダだった。オランダでは16世紀最大のヒューマニストといわれたエラスムスが、「信仰に自由を」と主張した。またアルミニウス等の自由主義派も信教の自由を主張した。イギリスでは、これらの人々から影響を受けたロックが、キリスト教の中で正統と異端の区別をなくすだけでなく、ユダヤ教やイスラーム教などの異教徒も、信教の自由を保障されるべきだと主張した。ロックの『寛容についての書簡』は1689年にオランダ、イギリスで出版され、同年イギリスではロックの主張に沿って宗教寛容法が制定された。これは非国教徒に対する差別を残し、カトリックやユダヤ教徒、無神論者、三位一体説を否定する者等には、信教の自由を認めないという限定的なものだったが、信教の自由の保障が一部実現した。宗教的寛容はイギリス以外にも広がっていった。
 人権は、キリスト教的な神から人間に生まれた時点で付与されている権利として観念された。しかし、それはまた、西欧人のキリスト教からの自由の確保・拡大に伴って発達した。キリスト教の中で発生し、キリスト教から脱して発達したのが、人権の観念である。信教の自由の希求は、思想・信条の自由の希求として、より広い精神的な自由の拡大を求めるものとなった。この延長上に、守るべき自由とは個人の選好である、という現代のリベラリズムの思想が現れる。
 なお、信教の自由を求める運動としては、啓蒙主義、理論論、フリーメイソンの活動が重要である。この点は、第7章で市民革命から20世紀初めまでの思想面について述べる際に書く。

 

●課税に反発する戦い

 第2点として、課税に反発する戦いについて述べる。
 国家(政府)の統治権の具体的な行使の主なものには、実力の裏付けをもって税を徴収すること、及び労役に従事させることがある。他には逮捕・投獄・死刑や財産没収、国外追放等がある。
 個人の自由と権利は、国王の権力による介入から、伝統的な自由と権利を守ろうとする中で発達した。国王の権力の介入を防いだり、縮減したりするために集団の権利が主張され、拡大された。当初は封建的身分に伴う権利の維持が主張され、権利の拡大が追求されるようになった。この過程でしばしば争いの原因となったのが、課税への抵抗である。
 国王は、徴税という形で合法的に富を収奪する権利を持っている。これに対し、国民(臣民)から一方的で無制限の徴税は認めないとして抵抗が起こった。税を巡って国王の権利対人民の権利の争いが行われた。力の観念でとらえれば、国王の権力対人民の権力のぶつかり合いが行われた。富に関する攻防から、権利関係・権力関係の変化が生じた。
 中世ヨーロッパの身分制議会では、王侯の提案する課税が是か非かが、主たる議題だった。議会は課税承認権を持っていた。ドイツでは帝国議会のほかに、各領邦国家の領邦議会があった。ドイツ30年戦争は皇帝が課税等の権利の拡大を図ろうとしたのが、きっかけである。各領邦議会が課税承認権を失ったのは、30年戦争を経て、領邦内に絶対主義が確立されていく17世紀末ごろからだった。
 イギリスでは、13世紀のマグナ・カルタは国王の課税に対する貴族の反抗がきっかけとなったものだった。17世紀初め、ジェームズ1世は自ら王権神授説を主張し、重課税等で議会と対立した。その子チャールズ1世も増税政策を取り、議会が反対するとこれを解散し、専制政治を行った。これに反発した議会は、1628年に権利請願を提出した。国債の強制、勝手な課税、不法な逮捕・投獄等を、国民の歴史的権利に反するものとし、これらに反対する請願を国王に出した。チャールズ1世はスコットランドに国教会を強制しようとした。スコットランドの反乱に対する戦費調達のため、1640年に議会を召集した。これがきっかけになって、ピューリタン革命が始まった。ロックは、国家権力に対抗し、財産の権利を中心として、所有と契約の自由を権利として基礎づけた。
 アメリカでは、独立革命は、国王の植民地への課税への反抗が引き金となった。1755年、英仏間で北米での覇権を巡ってフレンチ=インディアン戦争が勃発し、イギリスが勝利した。北米の仏領植民地は英領となったものの、イギリスは戦費のため多くの負債を抱え、広大な植民地の経費もかさんだ。財政難を改善するため、植民地への課税を強化した。植民地側は「代表なくして課税なし」と本国政府に反発し、イギリス製品の不買運動を起こし、印紙税を撤廃させた。さらに本国政府が茶税をかけたことが、反乱の引き金となった。
 アメリカ独立戦争では、当初アメリカ側は苦戦したが、フランス・スペイン・オランダがアメリカを支援したことで戦局が逆転した。特にフランスの支援が大きかった。植民地が独立すればイギリスが弱まると考えたフランスは財政・軍事の両面で植民地側を援助した。というのは、イギリス等との植民地獲得戦争や宮廷の浪費が財政の悪化を招いていた。そのうえ、アメリカ独立戦争を支援したことにより、財政は一挙に悪化した。そこでルイ16世が特権階級への課税で財政を改善しようとしたところ、これに貴族が反発した。国王は事態打開のため、1789年に三部会を召集した。そこから市民革命の激動が始まった。
 このように、西欧の中世から近代への展開において、政治的権力の変動は、しばしば富の権利をめぐる攻防がきっかけとなって、権利の制限や移動が行われたことがわかる。富の権利の侵害への反発は、信教の自由の侵害への反発以上に、権力の変動につながりやすい。また人権と呼ばれる権利の重要要素に、富への権利があり、所有の自由と財産権が、発達する人間的な権利としての人権において不可欠のものであることもわかる。

 

●権利・権力の変動

 第3点として、権利・権力の変動について述べる。
 西欧の中世から近代への過程で、権利のあり方は、多元的な特権から一元的な主権へと向かった。封建社会において皇帝・王・貴族・聖職者等が持っていた特権が否定され、各身分に分散していた権利が国王に集中し、国王個人の主権となった。領域における統治権者が複数から一人へと変化した。絶対王政は、君主に権利が集中した状態である。それによって、主権国家が誕生し、国王主権が確立された。
 近代主権国家が形成される過程で、教皇の権威が低下、皇帝の権力が縮小され、国王の主権が確立した。国王は、教皇・皇帝を真似て、王権は神から授かったものと主張し、絶対的・専制的な政治を行った。国王は、領域における主権すなわち最高統治権を持つに至った。主権は、国王個人の権利だった。これに対し、貴族や新興階級が国王の権力による介入から権利を守るために抵抗し、王権を制限するとともに、自分たちの権利を確保し拡大しようとしてきた。
 絶対王政の専制に反発して起こった市民革命は、国王個人の主権を、君民が共有する権利か、国民が所有する権利に変えるものだった。絶対君主の主権は、君主から君民共有または国民の主権へ移行した。統治権が1人の所有から多数が共有する体制へと移行した。
 先に各国別に書いたが、イギリスでは、17世紀半ばから国家主権の権力主体が君主から君主と国民の双方に移った。国王は「君臨すれども統治せず」といわれるようになった。主権は国王の下での議会にあるともいわれる。こうした権力の変動の中で、主権に与る国民の権利が発達した。その権利が人権と呼ばれ、人権の観念が発達した。ただし、イギリスでは、貴族階級と庶民階級が区別され、身分制の秩序が一部残った。
 アメリカでは、国王の主権を植民地人民が奪取した。奪取と言っても北米植民地という限定された地域における統治権を得たものであり、本国から独立し、国民主権の体制を築いた。ただし、その国民にはインディアンや黒人が含まれていなかった。白人のみを人間とし、その人間の権利が追求された。
 フランスでは、国王の主権を市民階級が奪取し、国民主権の体制が誕生した。普遍主義的な人権宣言が高らかに宣伝されはした。だが、その発信地のフランスにおいて、人権宣言そのものが何度も内容を変えて出し直されたり、革命政府は闘争・殺戮の中で自壊したりした。その後、フランスの政体はめまぐるしく変化した。
 英米仏の3か国において、三者三様に主権に係る権利と権力が変動し、その中で人権の思想が発達した。しかし、普遍的・生得的な権利としての人権は、歴史の中には、現実的な権利としては、どこにも存在しない。ただ、宣言や著作物の中に、観念として表現されているだけである。実際に存在するのは、各国における国民の権利であり、普遍主義的な人権の思想を完成させたと見られるフランスにおいても、理想と社会的現実は異なっている。
 君民共有主権型であれ、国民主権型であれ、欧米諸国家に共通しているのは、リベラル・デモクラシーである。主権のあり方という政治体制の優劣ではなく、国民の自由と権利が保障されているかどうかが重要である。わが国では、人権を説く者の多くは、日本国憲法の主権在民をもとに共和制を理想とする。だが、共和制と国民主権は、手放しでよいものとすることはできない。共和制と国民主権を無批判に理想化することは、歴史的経験を無視した愚論である。人権の考察において、共和制と国民主権を理想化し、人権の実現のためにはこれらが不可欠と考えるのは、日本人が陥りやすい誤謬である。
 ところで、1689年に権利章典がだされたイギリスと1789年に人権宣言が出されたフランスは、世界を二分する植民地帝国だった。その中核部で自由と権利が確立・拡大されたとき、植民地では権利の保障も権力の分立もなかった。権利を剥奪され、権力の支配を受けていた。近代西欧における人権の発達は、植民地・有色人種への支配・収奪のうえになされたものである。帝国中核部の国民の特権として、発達したものが、彼らのいう人権である。英仏における権利保障制度の整備は、人権の観念とまったく矛盾する植民地人民の犠牲(富の収奪、労役の強制)のもとで謳歌された本国の繁栄を基礎としていたのである。
 アメリカの場合は、これが白人種とインディアン、黒人の間で展開された。ここで、古代ギリシャのポリスの自由民と奴隷と、近代西洋文明のメトロポリスの市民とペリフェリーの植民地人民の関係は相似的である。支配と収奪の構造の上部において、支配集団の持つ集団の権利として、自由と権利が発達した。植民地人民は人間ではないという差別意識と、自分達のみが人間だという独善的な意識の上に、「人間の権利」という思想が展開された。
 近代西洋文明における市民革命及び権利・権力の変動は、中核部―半周辺部―周辺部という世界的な三層構造において、中核部の主要国における出来事だったことを、よく認識する必要がある。

 

●ユダヤ人の自由と権利の拡大

 第4点として、ユダヤ人の自由と権利の拡大を述べる。
 私は、近代西欧における人権思想の発達は、ユダヤ人の存在と深い関係があると見ている。人権と呼ばれる権利は主に国民の権利として発達したが、同時にユダヤ人等の権利としても発達した。宗教改革から市民革命の時代に、ユダヤ人は社会的な地位を徐々に高めていき、市民革命によって、ユダヤ人の自由と権利は、大きく拡大された。この変化はキリスト教社会において、彼らが経済活動によって富を蓄え、国家(政府)への影響力を持ったことによっている。
 中世のヨーロッパでは、キリスト教に改宗しないユダヤ人は異教徒として差別され、市民権を与えられず、職業は金貸し、税の集金等に限定された。12世紀から西欧のユダヤ人には銀行業や商業で成功する者も出たが、社会的地位は低かった。13世紀までには、ユダヤ人はイエスを磔刑に処し、死に至らしめた罪により、永久に隷属的地位に置かれるべきだという教えが、カトリック教会で確立された。イギリス・フランス・ドイツ等の多くの国でユダヤ人は追放された。中でもイスラーム文明から失地を回復したスペインでは、ユダヤ人はキリスト教への改宗を強制された。改宗ユダヤ人(マラーノ)は、表向きはキリスト教だが、ひそかにユダヤ教を信じた。だが異端尋問が厳しく行われた。1492年レコンキスタが成ると、すべてのユダヤ人が追放された。96年にはポルトガルでも同様となった。こういう具合ゆえ、西欧のユダヤ人には信教の自由が保障されていなかった。
 16世紀に西方キリスト教で、宗教改革が起こった。その旗手の一人、ルターは、ユダヤ人について、「彼らの財産を没収し、この有害で毒気のある蛆虫どもを強制労働に駆り出し、額に汗して自分の食べるパンを稼ぎ出させるべきだ。そして最終的には永遠に追放すべきだ」と説いた。一方、反宗教改革のために創設されたイエズス会は、ユダヤ人に改宗を強力に迫る運動を繰り広げた。1555年、教皇パウロ4世は、ローマとイタリア国内の教皇領のユダヤ人をゲットー内に隔離することを命じた。
 キリスト教社会で差別と迫害を受けるユダヤ人が、自らの地位を高めていったのは、類まれな経済的能力による。14〜15世紀にはイタリア諸都市やスペイン、ポルトガルの繁栄に貢献した。ユダヤ人は商業・貿易・金融の知識を持ち、国際的なネットワークを持つ。彼らはある土地で追放されると、他の土地へ移り、そこで能力を発揮した。神聖ローマ帝国でも同様だった。1577年、ハプスブルク家の皇帝ルドルフ2世は、ユダヤ人に特権を与える勅許状を出した。ユダヤ人の財務能力が有益だと考えたからである。彼は大商人マルクス・マイゼルを最初の宮廷ユダヤ人として迎え入れた。以後、多くのユダヤ人が諸邦の宮廷に財務官あるいは財政顧問として入り、その後他の分野にまで関係していった。中欧のほとんどの国でユダヤ人は政府の財政を支配し、その影響力は1914年まで続く。
 ドイツ30年戦争では、神聖ローマ帝国の皇帝やドイツの諸侯は莫大な戦費を必要とした。ユダヤ商人はその需要に応じることができた。ユダヤ人から資金の提供を受けなければ、戦争はできなかった。資金と引き換えに居住許可が乱発された。30年戦争は、ユダヤ人の国家財政と軍事物資の供給への大々的な関与の始まりとなった。諸国家の国民の権利が確保・拡大されることによるいわゆる人権の発達に伴って、ユダヤ人の自由と権利が拡大したのは、こうした財政・戦争等への関与の延長線上に実現したものである。人権発達の歴史は、一面において、ユダヤ人が自らの自由と権利の拡大を推進してきた歴史と見ることもできる。
 異教徒として蔑視や敵視をされながらも、経済的には諸国で欠かせない存在となったユダヤ人が、自由と権利を確保したのは、まずオランダにおいてだった。
 1580年、ポルトガルがスペインに併合され、隠れユダヤ人を厳しく追及し始めた。当時ヨーロッパで最も信教の自由が保障されていたのは、オランダだった。そのためポルトガルのユダヤ人の多くがアムステルダムに向かった。スペインのマラノも後に加わった。オランダの主要部は、絶対核家族が支配的で、自由主義的な家族型的価値観を持つ。プロテスタントが多く、ユダヤ人にも寛容だった。移住したユダヤ人は、アムステルダム銀行を作り、銀行業務を発展させた。アムステルダムは、17世紀に最高の繁栄を極めた。多くのユダヤ人が集まって豊かな生活を繰り広げたので、「オランダのエルサレム」と呼ばれた。ユダヤ商人は東インド会社・西インド会社に投資し、ギアナ、キュラソー、ブラジル等まで出かけて、オランダに富をもたらした。それとともに、ユダヤ人の自由と権利は確立された。ユダヤ人の地位改善がさらに進んだのは、市民革命による。

 イギリス市民革命は、イギリスのユダヤ人の自由と権利を拡大し、西洋におけるユダヤ人の自由と権利を拡大する端緒となった。ユダヤ人は市民革命にも関与した。
 イギリスでは、1290年にユダヤ人が追放された。以後、公式に撤回することはなかったが、17世紀後半になると事実上、ユダヤ人の居住を再び認め始めた。彼らの経済的能力への評価による。ピューリタン革命は、ユダヤ人に対する政策が再検討されるきっかけとなった。清教徒たちは、英訳の旧約聖書を読み、ユダヤ人に尊敬の念を持つようになった。クロムウェルは、ユダヤ人の経済力が国益にかなうという現実的判断をし、寛大な政策への道を開いた。王政復古後のチャールズ2世も同様にユダヤ人に対して正式に居住を認めた。理由は、イギリスの商人を守るよりユダヤ人を保護する方が経済的にずっと大きな利益が得られると判断したからだった。こうして17世紀末までには、ユダヤ人が正式にイギリスに住むことが出来るようになった。
 名誉革命は、さらにユダヤ人の地位を高めた。名誉革命は、オランダからオレンジ公ウィレムを招聘して、国王を交代させたが、そこにはユダヤ人の関与があった。名誉革命の理論を提供したロックは、同時にユダヤ教徒等への宗教的寛容を説き、大きな影響を与えた。
 17世紀後半の西欧は、「朕は国家なり」の句で知られる絶対君主の典型、太陽王ルイ14世が大陸を軍事的に制圧していた。ルイ14世は、イギリス、オランダと国際政治・国際経済の主導権を争い、4次にわたり絶対主義戦争を繰り返した。フランスに対抗して大連合が組まれ、1672年からオランダ統領のウィレムが連合軍を指揮し、英国王となった後も、引き続き連合軍を率いて、ルイ14世の支配を打ち砕いた。その際、資金と食糧を調達したのは、主にユダヤ人のグループだった。

名誉革命を通じて、国際金融の中心は、アムステルダムからロンドンに移った。シティの繁栄は、ユダヤ人の知識・技術・人脈によるところが大きい。ユダヤ人にとって戦争や革命に資金を提供することは、自らの富を増加することになるだけでなく、自らの自由と権利を人権の名のもとに拡大していくことにもなっていた。
 ユダヤ人の自由と権利がさらに大きく拡大されたのは、フランス市民革命による。フランスでは、8世紀のシャルルマーニュ(カール)大帝はユダヤ人を「王の動産」として保護した。ところが、カトリック教会の権威が増大すると、ユダヤ人に対する迫害が進み、1394年には追放に至った。それがフランス革命を機に一転した。1789年8月、国民議会は人権宣言を採択した。その第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と謳われたが、これがユダヤ人にも適用されるようになった。91年9月、国民会議はユダヤ人解放令を出し、フランスのユダヤ人に完全な市民権を認めたのである。解放令と言っても、当時、フランス中央部にはパリ在住の個人を除いて、ユダヤ人はいなかった。中央部のフランス人はよくユダヤ人を知らずに、自らの普遍主義の理想を実現するために、ユダヤ人の解放を決めたのだった。
 フランスで市民権が認められた事実は他の国にも影響し、1796年にはオランダ、1798年にはイタリアのローマ、1812年にはプロシアというように、次第にユダヤ人の平等権が保障されるようになった。しかし、ナポレオンの敗北後、フランス以外では以前の状況に戻るなど、歩みは一様ではなかった。
 ここで特筆すべきは、ロスチャイルド家の繁栄である。1743年、フランクフルトでユダヤ人の金匠モーゼス・アムシェル・バウアーが、古銭商の店を開いた。息子のマイヤーは、家名を店の名の「赤い盾」、ドイツ語のロートシルトに変えた。ロスチャイルド家は、その時に始まった。マイヤーは、長男に本拠地のフランクフルトを継がせ、他の四人の息子をウィーン、ロンドン、ナポリ、パリに送り、その地でそれぞれ銀行を設立させた。ロスチャイルドの息子たちは、その国の王侯・貴族と取引して巨富を得て、その国の主要な銀行家となり、他を圧倒していった。なかでも、ロンドンのネイサンは、産業革命の進むイギリスで木綿製品の事業に成功し、シティで地歩を固めた。
 ナポレオン戦争は、ロスチャイルド家に飛躍をもたらした。各国に戦争のための資金を貸し出して巨額の債権を得、また戦争を通じた投機で大もうけをしたのである。市民革命の時代を超える話になるが、19世紀後半には、イングランド銀行を始め、西欧の主要国のほとんどの中央銀行が、ロスチャイルド家の支配下に入ったり、ロスチャイルド家の所有銀行が中央銀行となったりした。一族は莫大な富と権力を掌中にした。イギリスでは、政府に重用され、上流社会に入り、国会議員にも列する者が出た。
 市民革命後のユダヤ人の自由と権利の拡大は、ロスチャイルド家等のユダヤ人資本家の繁栄によるところが大きい。その一方、彼らへの反発から反ユダヤ感情も強まった。19世紀末にはフランスでドレフュス事件が起こり、反ユダヤ主義が高揚した。これに対して、ユダヤ人の側では、シオニズムが起こった。その宗教的・民族的な動きとは好対照に、国際共産主義運動に参加する者も多かった。ロシアでユダヤ人の解放を目指すユダヤ系共産主義者は、ロシア革命に参加した。反共産主義革命と反ユダヤ主義には重複する部分が生じ、ドイツではナチスによる迫害・虐待が行われた。第2次大戦後、ユダヤ人の自由と権利が国際的に保障されるようになったのは、国際連合や世界人権宣言による。背後には、ユダヤ人の国際的な働きかけがあったものと思われる。その一方、ロスチャイルド家が資金を出したイスラエルの建国は、パレスチナ住民の権利を侵害し、中東に深刻な対立構造を生み出した。ユダヤ人の自由と権利の拡大は、ユダヤ人の利益実現を中心としており、人類全体の人間的な権利の発達に、十分つながってはいない。

 

●家族型的価値観の違いの影響

 最後に第5点として、家族型的価値観の違いの影響について述べる。
 家族型的価値観については、第1部第1章に書いたが、人権思想の発達には家族型的価値観の違いが関係している。人権の思想は、イギリス、アメリカ、フランスで発達したが、そこには家族型による価値観の違いが現れている。
 トッドによると、ヨーロッパの家族には平等主義核家族、絶対核家族、直系家族、外婚制共同体家族の四つの類型がある。これらの家族型は、結婚後の親子の居住と遺産相続の仕方に違いがある。その違いが親子間における自由と権威、兄弟間における平等と不平等という価値観の違いとなって現れる。そして自由と権威、平等と不平等の二つの対の組み合わせによって、四つのパターンに分かれる。すなわち、平等主義核家族は自由と平等、絶対核家族は自由と不平等、直系家族は権威と不自由、共同体家族は権威と平等である。
 イギリスのイングランドを中心とする地域では、絶対核家族が支配的である。初期のアメリカも同様である。絶対家族は遺産相続において、親が自由に遺産の分配を決定できる遺言の慣行があり、兄弟間の平等に無関心である。この型が生み出す基本的価値は自由である。自由のみで平等には無関心ゆえ、諸国民や人間の間の差異を信じる差異主義の傾向がある。
 フランスのパリ盆地を中心とする地域は、平等主義核家族が優勢である。平等主義核家族は、遺産相続において兄弟間の平等を厳密に守ろうとするため、兄弟間の関係は平等主義的である。この型が生み出す基本的価値は、自由と平等である。この家族型の集団で育った人間は、兄弟間の平等から、諸国民や万人の平等を信じる普遍主義の傾向がある。
 以上の核家族型の二種とは、異なる型が二種ある。そのうち、直系家族は、子供のうち一人のみを跡取りとし、結婚後も親の家に同居させ、遺産を相続させる型である。その一人は年長の男子が多い。他の子供は遺産相続から排除され、成年に達すると家を出なければならない。父子関係は権威主義的であり、兄弟関係は不平等主義的である。この型が生み出す基本的価値は、権威と不平等である。また共同体家族は、子供が遺産相続において平等に扱われ、成人・結婚後も子供たちが親の家に住み続ける型である。父子関係は権威主義的で、兄弟関係は平等主義的である。この型が生み出す基本的価値は、権威と平等である。共同体家族は、ロシア、シナ等、ユーラシア大陸の大半に分布する。共産主義が広がった地域は、外婚制共同体家族の地域と一致する。共同体家族の権威と平等による価値観は、共産主義の一党独裁と社会的平等という価値観と合致する。
 家族制度の違いが、価値観、法律、経済、イデオロギー等の違いにまで、深く影響していることを、トッドは明らかにした。私見を述べると、自由=不平等的個人主義のイギリスにはロック、自由=平等的個人主義のフランスにはルソー、権威=不平等的集団主義のドイツにはヘーゲル、権威=平等的な集団主義のロシアにはレーニンが出た。彼らは、それぞれの家族型に典型的な思想を表現したと思う。ただし、家族制度によって価値観が一元的に決定されるわけではなく、気候・風土・歴史等の様々な要素が複合的に作用するので注意を要する。

 さて、イギリスの主要地域は絶対核家族が支配的な社会である。絶対核家族は自由・不平等の対の価値観を持ち、自由を中心とした価値観を持つ。平等には無関心である。ホッブスやロックはそうした社会を背景にして、自由を中心に個人の自由と権利に係る思想を説いた。ピューリタン革命・名誉革命は、新興ブルジョワジーを中心とした集団が自由を確保・拡大しようとした運動だった。
 続いて、18世紀後半には、そのイギリスの植民地アメリカが独立した。初期の北米には、イギリス同様、絶対核家族の移民が多く、自由中心の価値観を共有していた。アメリカ独立宣言は「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主(Creator)によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」と宣言した。建国の祖の宗教的差異主義は、イギリスの絶対核家族の家族制度を土台としていた。キリスト教の宗派のうち、家族型的な価値観に合う教義を信奉したわけである。家族型的かつ宗教的な差異主義は、旧約聖書の神の言葉によって増幅され、インディアンや黒人との混交を禁じることになった。
 フランスでは、近代化の先進国イギリスの思想の影響を受け、自由を求める意識が高まった。パリ盆地は平等主義核家族が支配的な地域なので、自由だけでなく自由と平等を価値とする思想が展開された。フランス人権宣言は「人間は、自由で、権利において平等な者として出生し、生存する。社会的な差別は、共同の利益のためにのみ設けることができる」と宣言した。フランス市民革命の普遍主義は、平等主義核家族の価値観に基づくものである。英米と異なり、自由だけでなく、平等を重視する。平等の重視は、政治的にはデモクラティックになり、急進的になる。フランス革命は、またヨーロッパで初めてユダヤ人を解放した。これは普遍主義の理想を追求したものだった。
 トッドによると、今日もアメリカ合衆国は、差異主義によって、黒人という不可触賎民が存在する。一方、イギリスは、白人が階級的に分断されていることによって、移民が民族的・人種的に分断されない状態になっている。これに対し、フランスは、市民革命以来、民族性・出自・血統の観念を排除した国民概念が形成された。ただし、フランスには直系家族の有力な地域があり、普遍主義と差異主義の対立と均衡が見られる。フランス革命後のめまぐるしい政体の変化は、こうした社会構造が背景にあると考えられる。
 人権の思想は、英米の自由・不平等を基本的価値とする社会で発達し、フランスの自由・平等を基本的価値とする社会で確立された。人間は生まれながらに自由にして平等であるという思想は、欧米諸国やロシア、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ等に広がった。だが、家族型的価値観が異なる地域では、容易に浸透していない。最も浸透しないのは、権威・平等を社会の基本的価値とする共同体家族の社会であり、そこは共産主義が浸透することのできた社会である。
 今日の世界で最も普遍的な価値とされる自由は、絶対核家族及び平等主義核家族が支配的な社会で発達した価値である。自由と平等という対は、そのうち平等主義核家族の価値観である。フランスは普遍主義であるから、その価値観が人類普遍的であるべきものと主張されるが、英米の価値観に立てば、自由こそが至上の価値であり、平等の重視は自由を規制するものという見方になる。前者の場合は、平等を重視した人権が唱えられ、後者の場合は、自由を至上とする人権が唱えられる。そのこと自体が、人権は必ずしも普遍的な価値ではないことを示している。

 ここで、本章の時代範囲を超えるが、家族型的価値観と人権について、さらに補足しておきたい。
 自由・平等を説く人権の思想は、フランスで大きく発達した。それは、フランスの中央部が家族型的価値観から普遍主義の考え方を持っていたことと関係がある。普遍主義の社会は、人類は皆同じという考えを持ち、家族型の違いが小さな差異であれば、これを受け入れる。ところが、自分たちの人間の観念を超えた者に出会うと、「これは人間ではない」と判断する。人権宣言の国フランスでは、フランス人とマグレブ人は異なる普遍主義によって、互いを非人間扱いして、激しく争った。マグレブ人とは、北アフリカ出身のアラブ系諸民族である。 
 トッドによると、フランスには平等主義核家族と直系家族という二つの家族型があるが、これらの家族型には、共通点がある。ひとつは、女性の地位が高いことである。フランスの伝統的な家族制度は、父方の親族と母方の親族の同等性の原則に立っており、双系的である。双系制では、父系制より女性の地位が高い。もう一つの共通点は、外婚制である。外婚制は、工業化以前の農村ヨーロッパのすべての家族システムの特徴でもあった。トッドはこれらの点をとらえ、双系制と外婚制が「フランス普遍主義の人類学的境界を画する最低限の共通基盤」とする。
 フランス人が移民を受け入れるのは、双系ないし女性の地位がある程度高いことと、外婚制という二つの条件を満たす場合である。この最低限の条件を満たさない集団に対しては、フランス人は「彼らは人間ではない」という見方をする。
 マグレブ人の家族型は、共同体家族であり、内婚制で、かつ父系である。この家族型は、女性の地位の低さと族内婚を特徴とする。フランス人が要求する最低限の条件の正反対である。あまりに違うので、フランス人は、マグレブ人を集団としては受け入れられない。彼らは「人間ではない」として、非人間扱いをする。
 一方のマグレブ人の方も別の種類の普遍主義者である。マグレブ人は共同体家族ゆえ、権威と平等を基本的価値とする。フランスは、主に平等主義核家族ゆえ、自由と平等を基本的価値とする。ともに平等を価値とするから、普遍主義である。フランス人が普遍的人間を信じるように、マグレブ人も普遍的人間の存在を信じる。ただし、正反対のタイプの人間像なのである。フランス人もマグレブ人も、それぞれの普遍主義によって、諸国民を平等とみなす。しかし、自分たちの人間の観念を超えた者に出会うと、「これは人間ではない」と判断する。双方が自分たちの普遍的人間の基準を大幅にはみ出す者を「非人間」とするわけである。
 第2次世界大戦後、フランスの植民地アルジェリアで独立戦争が起こった。アルジェリア人は、マグレブ人である。アルジェリア独立戦争は、1954年から62年まで8年続いた。アルジェリア人の死者は100万人に達した。その悲劇は、正反対の普遍主義がぶつかり合い、互いに相手を非人間扱いし合ったために起こった、とトッドは指摘する。今日でもフランスでは、マグレブ移民への集団的な敵意が存在する。このようにフランスの普遍主義は、「小さな差異」の範囲外に対しては、差別的である。
 わが国には、フランス革命は人間の平等を謳った理想的な市民革命だと思っている人が多い。そして、フランスは人間平等の国と思っている人がいるが、話はそう単純ではないのである。
 家族型的価値観の各種の相対性と相互関係を踏まえたうえで、人類が共有すべき価値を考えないと、相互理解は進まない。私は、新しい精神科学が出現し、人類共通に受け入れられる原理が打ち出されるまでは、家族型の違いによる人権をめぐる価値観の対立は解消しえないだろうと考える。
 主権・民権・人権の歴史における欧米諸国に共通の要素として、信教の自由を求める運動、課税に反発する戦い、権利・権力の変動、ユダヤ人の自由と権利の拡大、家族型的価値観の違いの影響の5点について補足した。もう一つ、重要な要素に、ナショナリズムがある。ナショナリズムについては、理論的な検討が必要である。そこで、次章で国民国家の形成と発展について書いた後に述べることにする。

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第6章 人権の発達と国家・国民

 

(1)国民国家の形成・発展

 

●国民国家とそれに関連する概念

 本章では、これまで書いた市民革命の時代の主権・民権・人権の展開を踏まえ、国民国家の形成・発展から帝国主義の時代までの人権思想の発達について述べたい。
 人権思想の発達は、リベラリズム、デモクラシーだけでなく、国民国家の形成・発展やナショナリズムの発生・発達とも深い関係がある。人権は主に「国民の権利」として発達したからである。
 西欧では、絶対王政の下で中央集権化が進み、ウェストファリア条約をきっかけに、主権国家体制が生まれた。絶対王政における国王の主権は、17世紀半ば以降、市民革命によって、貴族・新興階級と共有するものとなったり、新興階級に簒奪されたり、または国民全体が所有するものへと変化したりした。この過程で、17世紀末から19世紀にかけて、絶対王政国家に代わって登場したのが、国民国家である。
 最初に国民国家とそれに関連する概念について概述しておきたい。国家についての基礎理論は、第1部第4章に書いたが、国民国家とは、他国と領域を区別する国境を持ち、領域内の全住民を国民という単位にまとめ上げて成立した国家をいう。領域内の住民は、政治的・文化的に共通の意識を持つ集団へと形成され、国民としての自己意識を持つにいたった。
 国民国家の原語nation-state は、nationstateが複合した言葉である。ネイションは、「国家」「国民」「民族」「共同体」等と訳される。一方、ステイトは、「政府」や統治機構、または政府や統治機構を持つ政治的共同体としての「国家」を意味する。これらのnationstateという二つの語を組み合わせたnation-stateを、nation(国民)によるstate(国家)として、国民国家と訳している。日本語の「国家」は家族的共同体を連想させるが、国民国家は「国民(nation)の政府(state)」とも訳しうることに留意したい。
 後に詳しく述べるが、私は、最初の国民国家は17世紀末にイギリスで誕生したと考える。だが、多数説では18世紀末にフランスで誕生したとされる。また、政治学者ベネディクト・アンダーソンは、ヨーロッパではなく新大陸で18世紀末から19世紀初めに誕生したという。何に重点を置くかによって説が異なる。
 絶対王政国家から国民国家への変化の過程で、君主政治は君民共治政治または民主政治へ移行した。国民国家の政治形態は、共和制とは限らない。国民国家には、君主制の国民国家と共和制の国民国家がある。国民のうち、君主制の国家の国民を「臣民(subject)」という。君主制の国家においては、臣民は同時に国民である。共和制の国家の国民は、「公民(英語citizen、仏語citoyen)」という。citizencitoyenは、「市民」とも訳す。市民は、一般的には都市民のことだが、歴史的には市民革命や市民社会の担い手となったブルジョワジーや商工業者を指す。市民革命はbourgeois revolutionの訳語である。西欧言語では、citizen revolution等とは言わない。
 絶対王政で確立した主権は、国王一人の権利から、国王と国民が共有する権利または国民が所有する権利へと変化した。統治権者の数は、中世の封建制国家では少数、近代初期の絶対王政では単数、それ以降の国民国家では多数へと変化した。
 国民国家における「国民」としてのネイションは、古代ローマ帝国において用いられた「生まれ」「同郷の集団」を意味するラテン語ナチオ(natio)を語源とする。ナチオは本来、郷土を同じくする集団だった。そのナチオが、17世紀の西欧において、近代的な国家・国民(nation)の観念と結びつけられた。共通の対象が、郷土から国家・国民へと拡大された。
 西欧の封建国家は、国境が明確でなく、住民の多くに帰属意識がなく、また一定の統治権を持つ集団だった。これに対し、近代主権国家は、他国との明確な国境、国家に所属する国民、領域における主権を持つ集団である。1648年のウェストファリア条約の成立時点で、それぞれの主権国家は、国境で区切られた領土を持ち、その区域内の住民は、法理論的にはその国家の国民となったと考えられる。だが、まだ国民としての集団意識は発達しておらず、国民は形式的な存在だった。そうした形式的な国民が、国民としての集団的な自己意識を持ち、一体性が生まれていったことを、私は、国民の実質化と呼ぶ。絶対王政の主権国家が国民国家となると、政府が国民の意識の統合と文化的な均一化を進め、国民の実質化が一層進んだ。
 政治学者アンソニー・スミスは、ネイションとは「歴史上の領域、共通の神話と歴史的記憶、大衆的・公的な文化、全構成員に共通の経済、共通の法的権利・義務を共有する、特定の名前のある人間集団」と定義している。この定義におけるネイションは、国家形成過程の集団をいう場合は民族を意味するが、国家形成後の集団をいう場合は国民を意味する時と民族を意味する時がある。前者の国民としてのネイションは、国家の総構成員または国籍の所有者の総体をいう。後者の民族としてのネイションは、次に述べるエスニック・グループと重なり合う。
 近代的なネイションが形成される過程では、しばしばそのネイションのもとになった集団が存在した。それが、エスニック・グループ(ethnic group)である。エスニック・グループは、しばしば「民族」と訳される。血統・出自・言語・文化・宗教・生活習慣等によって、「われわれ」意識を持ち、自己の集団と他の集団を分ける集団である。そうしたエスニック・グループが核になって、ネイションが形成され、政府を樹立し、独自の国家を持つようになった場合が多い。
 ネイションは、必ずしも一つのエスニック・グループが発達したものとは限らない。複数のエスニック・グループが併存し、複数の言語・文化・宗教等が存在している場合がある。それゆえ、ネイションの形成において重要なのは、言語・文化・宗教等が統一されることより、自分たちは一個の集団であるという集団的な自己意識の確立である。この集団的自己意識は、個人におけるアイデンティティの一部ともなる。
 国民国家の統治機構は、国によって異なる。国民国家には、単一国家と連邦国家がある。単一国家は、一つまたは複数のエスニック・グループが中央集権的な政府によって統治されている国家である。これに対し、連邦国家は、複数の州または国家等と呼ばれる政治組織が、連邦政府によって統治されている国家である。連邦を構成する国家は、独立主権国家ではないが、一定の自治権をもつ。私は、連邦国家の国民をネイションと呼ぶ時は、その下位の政治的な集団をサブ・ネイションと呼ぶことにしている。
 エスニック・グループ、ネイション、国民国家に関係する概念に、ナショナリズムがある。社会人類学者アーネスト・ゲルナーは、ナショナリズムを「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければいけないと主張する一つの政治的原理」と定義している。ゲルナーのこの定義における「民族的」はナショナルの訳である。だが、私は、これはナショナルではなくエスニックとすべきと考える。このことは、エスニック・グループとネイションをどのようにとらえるかに関わる事柄である。

私はナショナリズムを「国家主義・国民主義」、エスニック・グループを「民族」と訳す。国家主義・国民主義としてのナショナリズムに対し、民族としてのエスニック・グループが独自に示す現象をエスニシズム(ethnicism)という。エスニシズムは、ある集団がエスニック(民族的)な特徴を積極的に維持・発揚しようとする思想・運動である。
 ナショナリズムには、国家形成段階のものと国家発展段階のものがある。国家形成段階のナショナリズムには、国内において市民革命によって権力を奪取または権力に参加しようとする市民革命型、一つのネイションにおいて植民地人民が本国政府から独立しようとする独立建国型、自民族の統一を目指し、民族統一的な国家を作ろうとする民族統一型、国内において自治権を獲得・拡大しようとする自治拡大型がある。国家発展段階のナショナリズムには、自国・自国民の国内的発展を目指したり、文化的同化や思想の共有による国民の実質化を図ったりする内部充実型、他国・多民族を支配またはそれらを併合して発展しようとする対外拡張型がある。こうした理論的な検討を通じて、ナショナリズムとは何かを明らかにしなければ、人権について深く論じることはできない、と私は考える。
 以上、簡単に国民国家とそれに関連する概念について書いた。国民国家、ネイション、エスニック・グループ、エスニシズム、ナショナリズムは互いに関係し合っている。これらについて論じるに当たり、まずエスニック・グループとネイションの関係について考察し、次に国民国家の形成・発展の過程について書く。そこでは、国民国家の各国における展開を述べる。その後に、ナショナリズムについての理論的な検討を行う。こうした記述を通じて、国民国家の形成・発展の時代における人権思想の発達の過程を明らかにしたい。

 

●エスニック・グループと他の集団の違い

 私は最も一般的なエスニック・グループという用語を使うが、専門家の間ではエトノス、エスニー、エスニシティ等の用語も使われている。含意は多少異なるが、基本的には同じ対象を示す。これらの言葉は、しばしば「民族」と訳される。だが、ネイションも「民族」と訳すことがあるので、混乱を生じやすい。そのうえ、日本語の「民族」はいわゆる民族を意味する場合と国民を意味する場合があるから、さらに混乱が深まる。そこで、重要な概念だが、エスニック・グループは主にカタカナで表記することとする。いわゆる民族の意味で私は使う。国民とはっきり区別できる文脈では、「民族」の語も使う。
 エスニック・グループについて、政治学者の塩川伸明は、エスニシティという用語を使う。塩川は、エスニシティを次のように定義している。「血縁ないし先祖・言語・宗教・生活習慣・文化などに関して、『われわれは○○を共有する仲間だ』という意識――逆に言えば『(われわれでない)彼ら』はそうした共通性の外にある『他者』だという意識――が広まっている集団」である、と。
 基本的には、このように定義される集団がエスニック・グル―プと言えるが、この定義だけでは集団一般との区別が曖昧である。集団とは、多数の人間の集まりで、「われわれ」意識を持ち、自他の集団を区別するものである。その中には、家族・氏族・部族・結社・団体等の集団がある。これらの集団は、みな血縁ないし先祖・言語・宗教・生活習慣・文化などに関して何らかの共通要素を持ち、自らを他と区別する集団的な自己意識を持つ。エスニック・グループを安易に「民族」と訳すと、これらの集団もみな一種の民族だということになりかねない。それゆえ、エスニック・グループと他の集団の違いは何かを明らかにする必要がある。
 アンソニー・スミスは、文化と歴史を共有するエスニック共同体を近代のネイションの原型ととらえる。このネイションの背景になっているエスニック・グループを、仏語を借用して「エスニー(ethnie)」と呼ぶ。そして、エスニック共同体あるいはエスニーの属性として、次の6点を挙げる。
 (1)集団に固有の名前、(2)共通の祖先に関する神話、(3)歴史的記憶の共有、(4)一つまたは複数の際立った集団独自の共通文化の要素、(5)特定の「故国」との心理的結びつき、(6)集団を構成する人口の主な部分に連帯感があることーーである。
 スミスは、「一定の人々の集団がこれらの属性のうち、より多くを獲得、あるいは共有すればするほど、それはエスニック共同体あるいはエスニーの理念型により近いものとなる」と述べている。逆に、共通要素が少なければ、他の集団に近づくことになる。スミスが挙げる6つの属性を他の集団と比較すると、最も特徴的な属性は、(5)の「特定の『故国』との心理的結びつき」だろう。だが、エスニック・グループには、特定の「故国」との心理的結びつきを持たないものもある。「国家」という観念を持たない共同体の場合は、祖先とのつながりを強く意識していても、祖先の「国家」という観念は、ない。むしろ、祖先が暮らした特定の場所との心理的な結びつきと言った方がよい場合がある。
 家族・氏族・部族・結社・団体等にも特定の場所との心理的な結びつきを持つものがあり、スミスの(5)を以て、エスニック・グループと他の集団との決定的な違いとは言えない。では、何が違うのか。集団ごとに比較してみよう。
 家族とエスニック・グループの違いは、親子・夫婦・兄弟・祖孫の直接的な生命のつながりの有無にある。エスニック・グループにも家族的な要素を持ち、家族を拡大したものという意識が見られる。しかし、直接的な生命のつながりは薄く、それに基づきつつも、象徴的な意味合いを持つものとなっていることが多い。
 氏族・部族とエスニック・グループは、血統・出自に重点を置けば、重なり合う。ただし、エスニック・グループは、必ずしも根拠を伴わない信念を共有する場合がある。また、これらは、ともに非自発的な集まりである。
 結社とエスニック・グループは、思想に重点を置けば、重なり合いはする。ただし、エスニック・グループは契約による集団ではない。結社のように自発的ではなく、非自発的な集まりである。 
 団体には、宗教団体、職能団体、組合、企業等がある。エスニック・グループにも、宗教的・経済的要素があり、その要素においては共通点がある。ただし、エスニック・グループは、特殊な目的のもとでの自発的な集まりではない。
 エスニック・グループと他の集団の間には、以上のような相似点と相違点がある。誰もが客観的に認められるような、決定的な違いはない。相違点を以て、おおまかに区別するしかない。

 

●エスニック・グループと文化及び政治の問題

 家族・氏族・部族・結社・団体等は、おおまかにエスニック・グループと区別される。だが、これらの集団がエスニックな要素を持っていないということではない。思想的な結社でも政党でも宗派的な信仰団体でも職能団体でも、多くの集団は、何らかのエスニックな要素を持っている。
 近代国家の政府もそうである。リベラリズムは、政府が文化的に中立であることを一つの原理としているが、実際には、支配集団と被支配集団の間でエスニックな特徴が異なっていたり、他国とはエスニックな特徴が異なっていたりして、文化中立的ではあり得ない。無色透明ではなく、エスニックな特色を持っている。その特色は、言語・制度・習慣・価値観等に現れる。その国家の形成や統治の仕方に、中心的な役割を担うエスニック・グループの特色が自ずと表れているものである。
 エスニック・グループを文化的な共同体とし、これを政治的な共同体と区別する考え方がある。スミスはこの考え方を取り、「文化的なエスニック共同体」が近代において「文化的かつ政治的なネイションへと変容した」とする。だが、どのような集団にも集団的な意思決定のための仕組みがあり、構成員の意思や能力の合成を行う制度や慣習がある。人民の意思と能力を結集し、権力を形成して、これを行使することは、政治的な行為である。集団は、自衛のための実力組織を作って、時に実力を行使する。
 それゆえ、エスニック・グループを単に文化的な共同体と見るのは間違いである。むしろ、単に文化的ではなく政治的でもあるから、自らの集団による政府の樹立を目指すことができる。もともと政治的共同体でもあるからこそ、近代主権国家による国際社会において、主権を持つ国家の建設を目指し得る、と私は考える。
 エスニック・グループは、政治的側面において、必ずしも一枚岩とは限らない。多くの場合、その中に思想や利害によって分かれる党派集団が存在する。革命運動の場合は急進派・穏健派・反対派等、独立運動の場合は賛成派・中間派・反対派等である。エスニック・グループが政治権力の獲得や拡大を目指す場合、それらの党派集団の間で意思形成が図られる。それは、しばしば実力による闘争に至る。この過程は、政治的なものである。意思形成の過程は、権力の動態だからである。
 また、党派集団が政治権力を得て、政府を樹立し、国家を建設することがある。典型的なのは、フランス革命におけるジャコバン派である。支配集団が使用する言語や政治文化が、権力の行使によって、国民に共有されていく。そして、党派集団が政治権力を得て、国家を建設する時、自ずとその集団の持つエスニックな要素が、政治や社会、文化に反映される。
 エスニック・グループ内の党派集団が、同時に国境を超えた国際的な政治集団となることもあり得る。例えば、18世紀におけるフリーメイソンや19世紀以降の国際共産主義者の集団がそうである。これらの集団にもまたエスニックな要素が認められる。普遍的な思想と見られる思想にも、それが発達した文明や地域の文化が表れる。
 エスニック・グループは、文化的かつ政治的であるがゆえに、固定的なものではない。言語的にも文化的にも社会的にも変化する。他のエスニック・グループを包摂して拡大したり、逆に包摂されて同化したりする。多くの場合、政治権力を持つ優位の集団が、劣位の集団を包摂して同化させる。これに対する抵抗や反発も起こり得る。それが高じれば、自治や独立を求める運動となる。他のエスニック・グループや他の国家に征服・支配された場合、統治されるエスニック・グループは、統治者集団の言語・文化・宗教等を強制されることがある。固有の言語を忘れ、民族の神話や歴史的記憶を奪われた集団は、自らの特徴を失い、統治者集団に同化していく。その先にあるのは、エスニック・グループの消滅である。逆に、統治されるエスニック・グループが優れた文化を持っている場合、統治する集団がその文化を摂取するうちに、被統治者の文化に飲み込まれていくこともある。エスニック・グループは、他の集団との相互関係・相互作用の中で、言語的にも文化的にも社会的にも変化する。

 

●ネイションとエスニック・グループの違い

 次に、ネイションとは何か、またネイションとエスニック・グループの違いは何かを検討する。
 スミスは、ネイションを「歴史上の領域、共通の神話と歴史的記憶、大衆的・公的な文化、全構成員に共通の経済、共通の法的権利・義務を共有する、特定の名前のある人間集団」であると定義する。また、エスニック・グループ、彼のいうネイションの原型となったエスニック共同体あるいはエスニーの属性を6つ挙げていた。繰り返しになるが、(1)集団に固有の名前、(2)共通の祖先に関する神話、(3)歴史的記憶の共有、(4)一つまたは複数の際立った集団独自の共通文化の要素、(5)特定の「故国」との心理的結びつき、(6)集団を構成する人口の主な部分に連帯感があることーーである。
 スミスの所論において、ネイションにあってエスニーにない要素、及び逆にネイションにあってエスニーにない要素を見てみよう。
 まずネイションにあってエスニーにない要素は、「歴史上の領域」「全構成員に共通の経済」「共通の法的権利義務」である。このうち、「歴史上の領域」について、スミスは「エスニーの場合は、領域との結びつきが歴史的、象徴的なものに過ぎない可能性があるのに対し、ネイションの場合、この結びつきは物理的、現実的なものとなる。その意味でネイションは領域を持つ」と述べている。これは、ネイションは必ず物理的・現実的な領域を持つが、エスニック・グループの方にも物理的・現実的な領域を持つものがあることを意味する。共同体、部族国家、部族連合国家、前近代的な国家・帝国等がそれである。スミスは「エスニック国家」という用語も使っており、これは国家であるから当然、領域を持つ。エスニック共同体がエスニック国家となり、エスニック国家がネイションの国家、すなわち国民国家となる場合には、もともと統治する領域が継承されていく。次に、「全構成員に共通の経済」「共通の法的権利・義務」については、エスニック・グループにも、その集団における経済活動があり、また法的な権利と義務の固有の体系がある。
 逆にエスニーにあってネイションにない要素は、「特定の『故国』との心理的結びつき」「連帯感」である。「特定の『故国』との心理的結びつき」については、ネイションにも過去の国家や帝国の復活を目指すものがある。「連帯感」については、構成員の間にまったく連帯感が存在しないネイションは考えにくい。
 このように考察すると、上記のスミスの所論では、ネイションとエスニーの違いが明確にはなっていないことが分かる。むしろ、私が注目するのは、上記の所論とは別に、スミスがエスニック共同体を「文化的な共同体」とし、ネイションを「文化的かつ政治的な共同体」とする点である。ここにこそ、これらの違いが浮かび上がる。
 先に書いたように、私は、エスニック・グループを単なる文化共同体ではなく、文化的かつ政治的な共同体と捉える。多くのエスニック共同体には、族長・首長・国王等がいて政治権力を所有し、一定の制度や慣習のもとに統治が行われている。領域の境界線は近代国家の国境のように明確ではないが、共同体は一定の空間に居住・占住するか、空間を専用的に利用する。動物におけるなわばり(テリトリー)に比せられる。エスニック国家は当然、国家ゆえに政治的である。ただし、領域は明確ではなく、そこにおける統治権は限定的である。一方、ネイションは統治領域が国境で区切られて明確であり、また主権としての政治権力を持つ。それゆえ、ネイションとエスニック・グループとの違いは、文化的か政治的かにあるのではなく、後者の場合、統治権が西洋文明の国際社会で各領域内の最高統治権とされる主権とは認められていないことである。この一点にこそ、ネイションとエスニック・グループの最も重要な違いがある。
 ただし、主権の観念は統治権のあり方を表すに過ぎない。主権とはまず教皇権、皇帝権に対する主権であり、最初は国王権だった。国王の主権は、また他の国王や封建領主に対する主権だった。一定の領域内で最高の統治権であり、実力を独占した組織の持つ権力である。ウェストファリア体制以前の国家は、エスニックな国家だったが、国王や封建領主は領域の人民を統治し、領域を支配したり課税や使役を行ったりするための政府または統治機構を持っていた。すでに14、15世紀から近代的な専門的官僚制が発達し、また軍隊を保有していた。ウェストファリア体制になった時点で、ドイツにおける約300のすべての諸侯国の主権が保障された。この条約に西欧の66カ国が調印し、それらの諸国の国王の主権が制度的に認められた。エスニック共同体及びエスニック国家の持つ統治権と、ネイションの国家の持つ主権との違いは、法制度上の観念の違いである。
 ネイションについては、エスニック・グループのうち主権国家の建設を目指す集団をネイションと呼ぶ説と、主権国家を建設して国民となった集団をネイションと呼ぶ説がある。前者の考えの場合、国民には別の概念が必要になる。しばしばこれが「ピープル(people)」とされるが、ピープルは国民以外に、「人民」「民衆」「住民」等に使う言葉なので、一義的に国民すなわち国家の総構成員、国籍保有者の総体に特定することはできない。私は、後者の考えを取る。主権国家建設を目指しているが、独自の政府や主権によって統治する領域を持っていない集団は、ネイションではなく、エスニック・グループである、と区別する。
 ネイションを目指すエスニック・グループは、他の主権国家に対抗し得る統治権を獲得しようとする。すなわち主権の獲得を目指す。近代的な主権としての統治権の獲得を目指す点が、前近代的なエスニック・グループと異なる。
 エスニック・グループが主権を持つ政府を樹立した時点で、その国家の所属員の集団をネイションという。ネイションは、主権を行使する独自の政府を持つ人間集団である。政府を樹立する前の集団は、ネイションではなく、ネイションを目指すエスニック・グループと区別すべきだろう。

 

●ネイション形成の必要条件

 アンダーソンは、著書『想像の共同体』で、ネイションを「イメージとして心に描かれた想像の共同体」であると定義し、「それは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」と述べた。これが「想像の共同体」論である。アンダーソンは、ある人間の集合は、共通の言語を持つ人間集団だと考えられるようになったからこそ、主権を持つ共同体だと想像されるようになった、と説く。萱野稔人はこの説を支持し、著書『ナショナリズムは悪なのか』で、この説の根拠を「人間の間での意思決定が言語によってなされるから」だとし、「ネイションの形成にとって一義的なのは言語の共通性」であり、ネイションは「あくまでも言語の共通性にもとづいて想像される」と説く。
 これに対し、スミスは言語を決定的とすることに異論を述べる。そして、ネイションの形成にはエスニックな核として、神話や歴史的記憶が必要だと説く。私は、言語は重要だが、言語の共通性は絶対必要な条件ではないと考える。スイス、カナダ等、多言語国家が存在するという事実は、アンダーソンや萱野氏への反証となる。集団的自己意識の形成は、多言語国家においても可能である。国民に共通する意識をつくるための核があれば、多言語の集団においても、意識形成はできる。スミスのいう神話や歴史的記憶が、その核となり得るものである。
 スミスは、ネイションの起源を近代以前のエスニックな要素に求めている。理由は、(1)西欧ではエスニックな核を土台としてネイションが形成されたこと、(2)それがモデルとなって世界中に広がったこと、また(3)そうしたエスニックな核を持たない集団がネイションの形成を目指す時には、歴史と文化を持つ共同体という神話や象徴をあえて「創造」しなくてはならなかったことーーである。
 私は、スミスの説くエスニックな核の必要性に同意する者だが、さらに重要な、ネイションの形成の第一の要素があると考える。それは、権力である。権力については、第1部第3章に書いたが、ネイションの形成において、言語よりもまた神話・歴史的記憶よりも重要な条件は、権力の形成である。集団を形成する権力が先にあり、権力によって一定の領域を統治すれば、その後にその領域に住む人民に一個の国民としての集団意識を持たせることが可能である。実際まず政治権力による領域の支配が行われ、次に、その領域内で権力による住民の統合や文化的な同化が行われた例が多くある。
 集団的自己意識は、権力のもとで、後から形成し得る。その時に必要なのが、神話・歴史的記憶というエスニックな核である。自己意識形成には、言語の共通性が有利であることは言うまでもない。だが、言語は共通していても、集団を結びつける物語がないと、集団の意識は分裂しさえする。逆に、エスニックな核がしっかりしていれば、言語は必ずしも共通でなくとも、行政において公用語が機能すれば、国民の統合ができる。
 なお、集団的自己意識を形成する際の核は、エスニックな神話・歴史的記憶でなく、何らかの思想であってもよい。権力を以て国民に思想を教育・宣伝し、またその思想を表す公用語を教育することによって、国民の実質化を進めることができる。
 それゆえ、私は、ネイションの形成に必要な条件は、必要度の高い順に、(1)権力、(2)神話・歴史的記憶または思想、(3)言語――となると考える。権力を見落とし、神話・歴史的記憶のみで思想を評価しなかったり、言語を絶対必要条件としたりするのは、欠陥のある見方である。
 権力の形成は、エスニック・グループ以外の集団でもなし得る。自らの政府を持ち、主権・領土・国民の3要素を持つ政治組織としての国家を作ろうとする集団は、エスニック・グル―プのみではない。政治団体・思想団体・宗教団体等、何かの集団が政府を持とうとし、政府を持ち国家を建設したら、その集団が統合する社会は、ネイションとなる。
 こうした何らかの集団が、政府の樹立を目指し、ネイションを形成しようとする運動と、エスニック・グループがネイションを目指す運動とに共通するものーーそれは、集団による権力の獲得・拡大の運動である。集団による権力の獲得・拡大が強く妨げられる場合、そこに実力のぶつかり合いが起こる。その大規模なものが、戦争である。国家間の戦争であれ、独立をめぐる戦争であれ、戦争は集団の権利をかけた実力の行使である。集団は他の集団または他の国家との戦いの中で、共同性を強める。単なる言語的・文化的・経済的な共同体ではなく、興亡盛衰をかけた運命共同体となる。
 ここで人権について述べておくと、人権は、単に国内において革命や政治参加によって発達しただけでなく、対立・抗争し合う諸国民との戦いを通じて、主に国民の権利として発達した。諸国民は、それぞれの権利をかけて戦った。その過程で国民の権利が獲得・拡大された。その権利を普遍的な理念で表現する場合に、人権と呼んできたのである。
 エスニック・グループとネイションについて書いたが、これら双方に関係するものに、ナショナリズムがある。ナショナリズムについて検討するには、前以て国民国家の形成・発展について歴史的かつ理論的に述べることが必要である。そこで次に、国民国家について書くことにする。

 

●西欧における国民国家の出現と普及

 西欧における国家の変遷は、ウェストファリア条約を一つの転換点とする。1648年以前の西欧における国家は、封建国家(feudal state)だった。領土は封建所領が錯綜しており、明確な境界線を欠いていた。人民は領民(people)であり、その多くは、国家への帰属意識を持っていなかった。統治機構は、国王や領主の政府、聖職者等の教会機構が併存していた。一定の統治権はあるが、主権ではなかった。身分制秩序による支配集団が統治し、複数のエスニック・グループが併存していた。
 ウェストファリア条約によって、主権国家(sovereign state)が出現した。経済的には封建制に基づく封建国家だが、それが法制度上、主権を持つと認められた。それぞれの主権国家は、国境で区切られた領土を持ち、領域内の人民は、その国家に所属する国民(nation)となった。ただし、形式的な存在だった。統治機構は、領域において主権を行使する国王の政府となった。絶対王政が行われた。
 封建的主権国家体制から、国民国家(nation-state)が登場した。17世紀末、イギリスで市民革命を通じて、最初の国民国家が形成された。次いで、18世紀後半にイギリスから独立したアメリカ、またイギリスに学んだフランスで国民国家が形成された。市民階級が参加した政府によって、国民(nation)の実質化が進んだ。統治機構は、主権を行使する政府であり、君民共有主権または国民主権となった。権力に参与する主要なエスニック・グループが、神話・歴史的記憶に基づく集団意識の形成や言語・文化等の均一化を進めた。だが、ほとんどの国で、複数のエスニック・グループが併存していた。
 国民国家は、資本主義の経済組織を領土内に統合することに成功した。国内の分業に基づく生産・消費・流通・金融の組織化を進めた。それによって、生産力と軍事力を飛躍的に増大させた。19世紀初頭のナポレオン戦争を通じて、国民国家の威力を見た国々が、広く国民国家を模倣するようになった。富と権力、生産力と軍事力を獲得して、先進諸国に対抗するためである。それによって19世紀後半から20世紀前半にかけて、国民国家の形態が世界の範例となった。

●イギリスにおける国民国家の形成

 次に、国民国家の形成と発展を、イギリスから主な事例を順にたどって、人権思想の発達との関係を見ていきたい。
 国民国家について、通説では、フランス市民革命によって身分制社会が解体され、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトが、自由かつ平等な国民の結合による国民国家を打ち立てたとされる。19世紀初頭、フランスに生まれた国民国家は、単一の法体系と政治体制、固有の領土、共通の民族・文化を持つ。政府は国民に対して徴兵を行い、課税権を行使できる。こうした国民国家は、従来の絶対王政国家とは比較にならないほど強力な軍事力を発揮した。その軍事的機能は、ナポレオンの軍事行動によって実証された。そこで、ヨーロッパ各国は、フランスに対抗するため、次々と国民国家へと移行したというわけである。
 しかし、破竹の勢いのナポレオンを打ち破ったのは、イギリスだった。このことに注目したい。フランスより前にイギリスで17世紀末に国民国家が成立していた。イギリスへの対抗において、アメリカ・フランス等の諸国に国民国家が形成され、普及していったと私は考える。西欧の大陸諸国に対し、大ブリテン島のイギリスは市民革命や産業革命だけでなく、国民国家の確立においても、先駆的だったのである。
 イギリスは、ノルマン・コンクェストによる征服国家である。ゲルマン民族の一派であるノルマン人が、1066年にフランスから渡ってイングランドを征服した。これによって、ノルマン人の集団がイングランドの支配的なエスニック・グループとなった。基本的には、このグループがイングランドのエスニックな核となった。12世紀以降、言語上の借用、結婚、官僚への取り立て等によって、被支配集団であるアングロ・サクソン人、ケルト人等との間に人的交流や文化的な融合が進んだ。
 第5章に書いたように、イングランドでは1265年に身分制議会が制定されて以来、議会を通じて国王を中心とする臣民の集団という意識が発達し、エスニックな集団としての意識が形成され、この封建的な身分制議会が、市民革命を経て国民の議会に変化していく。中世の英仏間では、王家の血族や所領が不可分の関係にあったが、1339年から百年戦争を戦い合い、最後はヘンリー5世がイングランドを勝利に導いた。こうした対外戦争と精神的または英雄的な指導者が集団意識形成の核になった。14世紀後半には、言語上の融合が進み、ウィクリフが聖書の英訳を企て、大陸での宗教改革の先駆となった。自国語で聖書を読むことは、ネイションの基礎となる言語共同体の発達を促した。また、14世紀末には『カンタベリー物語』の著者チョーサーによって中世英語が完成された。こうした政治的・社会的・言語的・文化的な変化によって、イングランドでは、将来ネイションを構成するエスニックな要素が十分発達していた。これに加えて、宗教的にはカトリックからの自立が行われた。16世紀チューダー朝のヘンリー8世は、離婚を認めないカトリック教会の教皇と対立して国教会を作り、1534年に自ら首長となってローマ教会を離脱した。国民国家の形成の道において、この宗教的自立は重要な意味を持った。イングランドの住民の多数は、カトリックから国教会に替わることで、エスニックな集団意識を強めた。精神的な中心はローマ教皇ではなく、宗教的な首長でもある自国の国王となっていった。
 大ブリテン島は、ヨーロッパ大陸から海で隔てられており、ドイツ30年戦争の混乱に巻き込まれなかった。1648年のウェストファリア条約によって、大ブリテン島の諸国家も法理論上、主権国家となった。この時点で、大ブリテン島とアイルランド島には、イングランド、スコットランド、アイルランドという3つの封建的主権国家が併存していた。これらはそれぞれ独自のエスニック・グループが支配する主権国家だった。

 17世紀前半のイングランドは、王侯・貴族・聖職者や絶対主義の官僚による身分階層が支配的な集団だった。近代資本主義の発達により、ヨーマンリー(独立自営農民)やジェントリー(郷紳)が成長し、市民階級として議会に進出し、政治的な影響力を持つようになった。市民階級が権利を拡大することによって、身分制議会は近代的な議会に変化していった。
 ピューリタン革命及び名誉革命を通じて、主権が国王の占有から君民共有の体制へ移った。国家主権は君主の主権から君民共有の主権へと変化した。私は、これによって17世紀末のイングランドに君主制の国民国家が誕生したと考える。史上初の国民国家は、フランスに約100年先立つ君主制の国民国家だった。市民階級を含む拡大された支配集団がより大きな核となって、ネイションを形成した。君主制の国民国家では、国民は同時に臣民(subject)であり、臣民が同時に国民である。イングランドの国民国家は、市民革命によって形成された市民革命型の国民国家である。
 イングランドでは、リベラリズムによって王権が制限され、デモクラシーによって民衆の政治参加が拡大した。この変化によって封建制国家から国民国家が誕生した。イングランドの市民革命は、自由と権利を確保・拡大する運動だった。その運動の中で、人権の観念が発生し、思想として発達した。その過程は、近代的なネイションが形成される過程と重なり合う。市民が参加した議会は、リベラル・デモクラシーを発達させるとともに、国民を形成して国家を発展させるナショナリズムを推進する機関としても機能した。

ウェストファリア条約で主権国家となった時点では、まだイングランドの国民は、形式的な集団にすぎなかった。ロンドンの政権に参与している国王・貴族・ブルジョワジー等の集団を除くと、国民の言語・文化は多様であり、また多くの国民に国民という意識がなかった。この状態で、イングランドの政府は、英語(English、イングランド語)を標準語とし、国教会を広めるなどして、国民の実質化を進めた。そして、市民革命によって、市民階級が政治権力に参加し、国民国家が形成された。
 チューダー朝のもとで、ウェールズの併合とアイルランドの植民地化を進めたイングランドは、1603年にはスコットランドと同君連合を結んでいた。市民革命後、1707年にスコットランドとの合同を実現した。ここに、「グレート・ブリテン連合王国」が成立した。以後、連合王国という一つのネイションの政府が、国民の実質化を一段と進めた。
 連合王国としてのイギリスでは、交通・通信・出版の発達によって、文化的な接近・融合が行われた。それによって、「ブリティッシュネス(ブリテン性)」という意識が次第に成長した。これは、ネイションとしての集団意識である。対外的には、ヨーロッパ大陸との差異の意識、特に歴史的に関係の深いフランス及びカトリックへの対抗心が、国民の統合を成り立たせた。一方、ネイションの内部においては、もともとのエスニック・グループの独自性が保たれた。ブリティッシュネスに対するイングリッシュネス、スコティッシュネスである。これは、サブ・ネイションとしての集団意識である。
 連合王国では、文化的な均一化は徹底されなかった。それには、地域によって家族型が異なることも要因となっている。大ブリテン島の大部分(イングランド、ウェールズ)では、自由・不平等の絶対核家族が支配的だが、スコットランドの西半分、アイルランドは、権威・不平等の直系家族が主である。そこに家族型的価値観の違いがある。だが、主要なエスニック・グループが、自由・不平等の個人主義を価値観とすることによって、自由を至上とする個人主義的な傾向が強く見られる。
 1721年、内閣が国王ではなく議会に対して責任を負う責任内閣制が確立した。イギリス独特の「君主は君臨すれども統治せず(The sovereign reigns but does not rule.)」という伝統が生まれた。こうして、17世紀半ばから18世紀初めにかけて、市民革命と議会政治を通じて、国王の主権が制限され、国民の権利と権力が増大した。そして、国王の権力と貴族・僧侶・市民の権力の均衡が生まれ、制限君主制が確立された。
 1770年代に産業革命が始まった。資本主義的な分業体制の発達と市場の拡大によって、国民経済が形成された。産業革命の進行によって、イギリスは圧倒的な生産力を発揮し、先進国として西欧諸国をリードする存在となった。国家としての発展が国民の権利を発達させた。
 連合王国は、1801年にアイルランドを併合し、また海外に多くの植民地を持つ一大帝国へと成長していった。連合王国のネイションは、この帝国の中核部として周辺部から収奪する富によって繁栄した。産業革命による生産力と科学工業に基づく軍事力が大きな威力を発揮した。
 産業革命が勃発してから半世紀ほどたった1833年、チャーティストが「われわれは普通教育制度を熱望する」と表明した。1870年には、初等教育の就学義務や公費による初等学校の設立が立法された。こうして、英語を標準語として教える公教育が、帝国中核部のネイションを成長させていった。
 イギリスでは、本格的な産業化とともに近代資本主義が大きく成長した。それによって市民階級が、資本家と労働者へと分裂した。だが、イギリスでは、封建制の身分である貴族階級と庶民階級の区別が続き、身分制の秩序が一部残る形で、国民が形成された。産業革命が進行するに従い、資本家階級と労働者階級の対立は激化した。それゆえ、国内的にのみ見るのでは、イギリスのネイションがネイションたるゆえんは、つかめない。
 ここで見逃してはならないのが、対外的な戦争や外圧による危機が、イギリスの国民意識の高揚をもたらしたことである。17世紀以降のイギリスの対外戦争は、ちょうどネイションの形成の時期と重なり、国民意識の形成を促した。それらの戦争とは、17世紀後半、ピューリタン革命後の3度にわたる英蘭戦争、続いて18世紀前半にかけて各地で繰り広げられた英仏植民地戦争、そして決定的なのは19世紀初頭の対ナポレオン戦争である。対外的な戦争や外圧による危機の中で、国民意識が高揚した。一個の国民であるという意識が、イギリスのネイションを単なる言語的・文化的・経済的な共同体ではなく、運命共同体と感じられるものにした。この過程でネイションを形成し発展させる思想・運動が高揚した。それがナショナリズムである。国民国家におけるナショナリズムの高揚は、集団の権利を強化し、その成員である個人の権利の拡大を促した。同胞意識や連帯感が醸成され、権利の拡大が労働者大衆へと広がっていった。大衆的な広がりが可能となったのは、イギリスがリベラル・デモクラシーの国になっていたからである。その過程で国民の権利として発達した権利こそ、人権と呼ばれる権利である。それゆえ、リベラル・デモクラシーとナショナリズムは対立するものではなく、相互作用的に発達したのである。
 思想史的に見ると、18世紀のヒュームやアダム=スミスは、リベラリズムとナショナリズムが融合した思想を説いた。この点は、第7章の思想面の検討の際に述べる。

 

●イギリスから独立した国民国家アメリカ

 イギリスは2度の市民革命後も、政治形態は君主制であり、資本主義の発達の中で封建貴族が所有者集団へとその性格を変えながら、社会階層として存続している。共和制と身分制の廃止こそ進歩とする見方からすれば、イギリスの事例から国民国家の理念型をつくることは、困難だろう。しかし、歴史的現実として、そうした国イギリスが近代世界システムの中核部に、最も早く、また群を抜いて強力な国民国家として出現した。イギリス帝国の中核部は、この時点で近代世界システムの中核部と重なり合う。一旦そういう国家が出現すると、それへの対応として、他地域や他国でも変革が行われた。
 最初にイギリスに対抗したのは、植民地アメリカである。対英独立戦争によって13の植民地が結びついて、独立国家が建設された。また、その国民としてのネイションが形成された。私はそこにイギリスに続く第二の国民国家の誕生を見る。北米における国民国家は、植民地独立型の国民国家であり、市民革命型の要素を含む。
 連合王国では、本国と植民地が一つのネイションを構成していた。このネイションから植民地の人民の集団が独立して、自らの政府を作った。独立によって別個のネイションとなった。一つネイションが二つに分かれ、君主制国家と共和制国家になった。君主制国民国家の国民は、国王の臣民(subject)でもあるが、独立した共和制の国民国家では、国民は公民(citizen 市民)である。
 建国時のアメリカは、人口の約8割が白人種だった。その9割が、アングロ・サクソン系だった。言語的には本国と同じ英語を話した。宗教的にはプロテスタント諸派が多いが、国教会やカトリックの信徒もいた。言語や宗教が独立を志向した主要因ではない。また、独立は北米が産業化する以前の出来事だった。圧政からの自由を求めるという政治的な動機が人民を立ち上がらせた。
 独立国家の建設を推進したのは、自由を求めるリベラリズムだった。それが、独立を求めるナショナリズムに発展した。この運動は、ナショナリズムの類型のうち、独立建国型のナショナリズムである。人民には、イングランド系、スコットランド系、アイルランド系等のエスニック・グループが存在した。それらを、共通語としての英語と基本的法制度としての憲法によって、ネイションへと統合し、国民の実質化を進めた。アメリカでは、君主制の国家から離脱するために、神から授かった人権という思想が独立宣言に盛り込まれた。植民地特有のナショナリズムなくして、アメリカにおける人権の思想の確立は、起こり得なかった。独立によって集団として持つ権利を獲得したことによって、成員である国民個人の権利が保障された。
 建国時のアメリカ合衆国は、大ブリテン島からの移民の影響で、主な家族型は絶対核家族だった。連合王国同様、自由・不平等の個人主義が支配的な価値観となった。個人の自由と権利が強調された。
 先住民族のインディアンとアフリカから強制連行してきた黒人奴隷は、権利保護の対象ではなかった。彼らは、人間と見なされていなかった。白人種のエスニック・グループがネイションを作った時、その全体が「領主民族」となり、白人/黒人の二元構造が生まれた。
 アメリカ合衆国は、統治機構から見ると連邦国家である。連邦制は、画一的・中央集権的でないので、日本人には、わかりにくい。しかし、各州を結合したものは、ネイションとしての自覚であり、憲法が制定され、連邦政府が樹立された。アメリカ合衆国は、the United States of Americaだが、この state は政府の意味ではなく「州」と訳される政治的共同体である。合衆国はその「州(state)」による連邦国家である。この連邦国家の全体を nation という。米国では national は全米的・全国的であり、それがゆえに国家的・国民的である。
 合衆国は、分権性の高い連邦制を取っているが、基本単位としての州は住民のエスニックな構成とは対応していない。州は、エスニック・グループとの対応を持たない形でつくられた。さまざまなエスニック・グループが地理的にあまり集中することなく、全米各地に分散的に住んでいる。国民には、エスニックなつながりによる統合ではなく、異なるエスニックな背景を持つ人々が、自由・平等・デモクラシー・人権という普遍的理念のもとに、一個の国家を作っているという意識が強い。移民の国ゆえ、国民統合のために、特定の宗教宗派や哲学的教説を強く打ち出すと、意見の対立が起こる。最大公約数となる政治的な理念でのみ、国民が結びつくという形態の国民国家となっている。この点は、第4部第10章で述べる現代アメリカの正義論の背景となった。
 人権論の観点から見ると、国民国家の形成・発展の過程において、イギリスで奴隷貿易・奴隷制が廃止され、アメリカ合衆国に影響を与えて奴隷解放がされたことが、極めて重要な出来事である。この点については、後に項目を改めて書く。

 

●フランス市民革命と国民国家の広がり

 アメリカの独立によって、イギリスという君主制の国民国家、またアメリカ合衆国という共和制の国民国家が、大西洋の両岸に並立することになった。これに続いて、ヨーロッパ大陸に、第三の国民国家が誕生した。それが、フランスである。フランスの国民国家形成は、市民革命型である。フランス市民革命は、先進国イギリスへの憧れと反発が変革の推進力となった。ディドロ、モンテスキュー、ヴォルテールらの英国かぶれは、半端でない。また、米国の独立に強い影響を受けた。独立運動の指導者の一人フランクリンは渡仏して、独立戦争に協力を求めた。ラ・ファイエットは渡米して、独立戦争を支援し、帰仏後、アメリカ流のリベラル・デモクラシーをフランスの知識層・市民階級に伝えた。彼らが加入するフリーメイソンの活動が強い影響を与えた。
 フランスの場合、市民革命で主権が国王から市民階級を中心とした国民に移った。この時点で、主権国家フランスの国民は、形式的な集団だった。パリの革命政府に参加している集団以外は、多くの国民に国民という意識がなかった。市民革命後のフランスでは、エスニックな一体性という意識より、政治的なネイションの意識が強かった。フランスのネイションは、近代市民社会の普遍的諸理念を共有する個人・市民によって構成される共同体と考えられた。自由・平等・友愛というシビックな理念が、諸階層や諸地方を結びつけた。だが、そのことは、フランスのネイションがエスニックな要素を持っていなかったことを意味しない。パリで政権に参加した市民階級の統治者集団は、自らの使っている言語・文化をもとに国民の実質化を進めた。彼らが、主要なエスニック・グループとなった。
 市民革命当時、後に標準フランス語とされる言語を話す人々は、全人口のおよそ半分だったといわれる。国民の言語は多様だった。この状態から、長い時間を経て、標準フランス語を国語として共有する国民が作られた。政府は公教育を行い、法制度を浸透し、徴兵制を行うなどした。1804年のナポレオンによる統治改革を以て、国民国家が成立した。
 まず革命によって新たな政治権力が生まれ、その権力によって国民国家が一種の枠組みとして形成された。その後に、政府が国民の言語的統一、文化的同化、思想の共有を進めた。形式的な国民を実質的な国民に変えていった。国民の実質化が進むことによって、フランスの国民は、言語や文化を共有するエスニックな集団としての民族という性格も持つようになった。エスニック・グループは、固定的なものではなく、言語的にも文化的にも社会的にも変化する。
 フランスでは、パリ盆地を中心とする北フランスと地中海海岸部は、平等主義核家族が支配的である。南部のオック語地方は直系家族、ブルターニュ地方は絶対核家族が主である。支配的なエスニック・グループが、自由・平等を社会の基本的価値とすることにより、フランス人の多くは普遍主義的な人間観を持つ。そのため、フランス思想の影響を受けた外国人は、フランス的なものを以て、普遍的と錯覚しやすい。だが、フランスで市民革命から生まれた国家は、国民国家の一つの型にすぎず、模範でも基準でもない。しかも、フランスの国民国家は、共和制に始まり、帝政、王政、再び共和制、また帝政等と政体がめまぐるしく変化した。イギリスやアメリカでの政体の安定性と比べると、とても典型的な国家形態とはいえない。だが、ナポレオン戦争後、1830年の七月革命と48年の二月革命をきっかけに、フランス型の国民国家の思想が、ヨーロッパに広がった。
 注目すべきは、フランスにおける国民意識の形成もまたイギリスの場合と同じく、対外戦争抜きに考えられないことである。市民革命の混乱の中で、フランス国内では対立・抗争が激化していた。そこに諸外国が干渉しようとした。これへの対抗において、階層・地域・思想・利害等を超えたネイションとしての自覚が強まった。繰り返される対仏大同盟が、フランスのネイションを鍛えた。自由・平等・友愛という普遍的な理念以上に、共通の敵と戦う友という運命共同体の意識が、ネイションを強固にした。第1部第3章に書いたように、敵と友は、政治学者カール・シュミットが政治的なものの固有の指標としたものである。フランスでも、私たちは、対外関係の中で発達するナショナリズムの高揚を見ることができる。また、ナポレオンは周辺諸国に侵攻し、フランス的価値観を普遍的理念として広めようとした。革命によって成長したナショナリズムは、国家発展段階において対外拡張型のナショナリズムへと発展した。
 一方、ナポレオン軍に侵攻された諸国、諸地域では、フランスのナショナリズムに対抗するナショナリズムが高揚した。エスニシズムからナショナリズムへの転換が見られ、敵の侵入・占領・支配に対し、団結して戦う中で、ネイションが形成された。
 ネイションには、ある普遍的な理念に基づいて形成された政治的な共同体という側面と、歴史・伝統に根ざした民族に基づく文化的な共同体という側面があり、国によって実態は異なる。私は、前者と後者に共通する顕著な傾向として、他の国家との戦いの中で、集団の共同性が強まり、国民の実質化が進んだことを強調したい。そして、人権は、対立・抗争し合う諸国民において、主に国民の権利として発達した。諸国民は、それぞれの権利をかけて戦った。その過程で国民個人の権利が獲得・拡大された。ユダヤ人資本家はその戦争に資金を提供し、既存の社会の枠組みを変動させることで、自由と権利の拡大を獲得し得た。
 思想史的に見ると、18世紀のルソーは、デモクラシーとナショナリズムを一体のものとして提示する思想を説き、国民国家の理論を提示した。またロックの思想の影響を受けたフリーメイソンは、フランス革命で重要な役割を果たした。この点は、第7章の思想面の検討の際に述べる。

 

●周辺部におけるラテン・アメリカの独立

 西欧諸国は15世紀末以降、ラテン・アメリカ、アジア、アフリカを植民地とし、白色人種が有色人種を征服・支配していった。近代世界システムの中核部―半周辺部―周辺部の三層構造において、中核部の繁栄は、周辺部からの収奪の上に実現した。中核部を上層、半周辺部を中層、周辺部を下層と垂直的にとらえると、上層の白色人種が自由と権利を獲得・拡大していくのと並行して、下層の有色人種は白色人種によって権利を侵害され、剥奪されていった。各地で有色人種は多数虐殺されたり、奴隷として強制労働をさせられたり、固有の文化を奪われたりした。
 こうした支配・収奪の構造において、上層・中核部で発生したのが、人権の観念である。近代西欧に現れた人権の観念と、各地域の固有法における権利との違いは、前者は人間が生まれながらに平等に持つ権利という考えを初めて打ち出した点にある。ただし、近代西欧の人権は、もともと非西洋人・非白人・植民地人民を対象としていなかった。生まれながらに平等に持つ権利とは、近代西欧の白人を前提とするものだった。古代ギリシャのポリスに比すならば、貴族や市民に当たるのが西欧社会の人間、奴隷に当たるのが非西欧社会の人間だった。
 ラテン・アメリカは、スペイン・ポルトガルによって植民地にされた。銀山や農産物のプランテーションから富が収奪された。アメリカ独立革命やフランス市民革命が起こると、本国からの独立の気運が高まった。1810年代から20年代にかけて、18もの独立国家が誕生した。ポルトガルからブラジル、スペインからアルゼンチン・チリ・メキシコ等が独立した。これらは、近代世界システム中核部での国民国家の形成に対抗して、周辺部に建設された国家である。中核部の国家とは出生が異なり、周辺部・下層に位置する国家としての特徴を持っている。ラテン・アメリカの国民国家形成は、植民地独立型であり、市民革命型の要素も持っている。

ヨーロッパにおけるネイションの形成は、言語・宗教が重要な要素となったが、ラテン・アメリカはこの点が違う。独立運動は言語や宗教とは関係なく、政治的な動機で行われた。ラテン・アメリカでは、本国と植民地の間で、言語はスペイン語またはポルトガル語という共通の言語だった。北米では、キリスト教の宗派に多様性があったが、中南米では、ほぼ全面的に本国と同じカトリックだった。だが、ラテン・アメリカでは広く言語・文化が共通だったにもかかわらず、単一の国家ではなく、多数の国家が誕生した。その理由は、植民地時代の行政区画を基盤としたからである。広域に及ぶ言語・宗教共通のエスニック・グループの中で、多数の独立国家が行政区画に分かれて誕生したのである。政治学者ベネディクト・アンダーソンは、著書『想像の共同体』で、ナショナリズムはヨーロッパではなく新大陸で18世紀末から19世紀初めに誕生したという説を唱えている。
 ラテン・アメリカでは、植民地で生まれ育った白人種の子孫である現地生まれの官僚が中心となって、独立を目指した。イベリア半島出身の官僚は、本国の王都マドリードや複数の植民地を転勤したが、現地生まれのスペイン系を意味するクリオーリョの官僚は、メキシコならメキシコ、チリならチリの区画内を転勤した。本国に栄転することはなかった。アンダーソンは、こうした職歴を「巡礼の旅」と呼んだ。「巡礼の旅」を共にする人たちの間で「われわれ」意識が生まれ、それがそれぞれのネイションの基礎となった、とアンダーソンはいう。
 独立は、一つのネイションの中の支配集団が本国の国家と植民地に出来た国家とに分かれたものである。いわば現地生まれ官僚による植民地の分離・領有である。本国との関係を絶って、新たな支配集団となった現地生まれ官僚は、植民地を国王のものではなく、自分たちのものにした。国王から植民地を簒奪した。
 まず権力の変動が先だった。独立によって生まれた新たな国家権力のもとで、国民の形成がされた。かつての行政区画を踏まえてできた独立国家は、エスニック・グループが個々にネイションに発展したものではない。形式的に国民となった人々は、集団としての一体感を持っておらず、国家の中に様々なエスニック・グループが併存・対立していた。白人種による支配的なエスニック・グループのほかに、先住民族のインディオとアフリカから強制連行された黒人奴隷等がいた。支配集団のエスニックな文化が、国民の実質化に用いられた。
 現地生まれの白人種に対し、世代を重ねるにつれ、混血(メスティーソ)が増加していった。今日クレオールと言えば、混成語・混成文化・混血の人等を意味するようになっている。だが、ラテン・アメリカにおける国家形成・国家発展のナショナリズムは、個々の国家ごとの現象であり、一つのスペイン語圏というようなエスニックな広がりを持っていない。その点では、エスニックなナショナリズムではなく、シビックなナショナリズムである。ナショナリズムの理論については、次の項目に書く。
 一個の集団が集団として持つ権利を確保し、拡大し得てこそ、その集団における個人の権利が発達する。それが、いわゆる人権の発達である。ただし、その集団内の小集団すなわち階層・性別・地域等によって、権利の保有の度合いは異なる。ラテン・アメリカの場合、西欧宗主国から独立し、主権国家は建設されたものの、植民地時代の大土地所有制が存続し、リベラル・デモクラシーは、大きく発達しなかった。北米では、対英独立戦争によって13の植民地が結びついて、独立国家が建設された。独立国家の建設を推進したのは、自由を求めるリベラリズムだった。それが、独立を求めるナショナリズムに発展した。また、ナショナリズムとともに、リベラル・デモクラシーが発達した。これに比べ、ラテン・アメリカのナショナリズムは、リベラル・デモクラシーと結びついた形へと発達しなかった。そのため、独立後に人権の思想が北米のようには発達しなかったのである。

 

●ドイツにおける国民国家の形成

 次に、ヨーロッパにおける後進地域であるドイツとイタリアにおける国民国家の形成・発展を見る。
 ドイツでは、ウェストファリア条約で、諸侯が領土主権を認められ、神聖ローマ帝国内の諸邦分立体制が確立した。帝国を構成する地方国家である領邦国家は、主権国家となった。外国とも同盟を結ぶことができ、交戦権も持つ。ただし、神聖ローマ帝国は1807年まで存続したので、それまでは帝国内の諸国家は完全な主権国家ではなかった。まだ国民国家ではなく、エスニック国家だった。帝国には、元来300以上の多様な政治的単位があったが、19世紀初めに統合・整理され、39の単位となっていた。
 ナポレオンは、フランス革命の理念を伝えるという大義のもと、対外的な大戦争を推し進めた。攻撃されるドイツ等にとっては、他国の侵攻に対する自衛戦争である。イギリスとのトラファルガー沖海戦に敗れたナポレオンは、大陸制圧を図り、ドイツにライン同盟を結成させた。神聖ローマ帝国は敗戦によって、名実ともに解体した。オーストリアではハプスブルグ家の帝国が存続したが、ドイツはほぼ全域がフランスの支配下に入った。ナポレオンは、ドイツにフランスの革命政策を及ぼした。特にライン川左岸では、ナポレオン法典による法律の制定、身分制の廃止、個人の自由と権利の保障、ユダヤ人の解放、農奴の封建的課役からの解放等を行った。
 18世紀後半、哲学者のカントは、イギリス・アメリカ・フランスの市民革命を通じて、権利として発達した自由を、哲学的に掘り下げた。またフランス革命に共感し、市民社会のあるべき姿を理論的に提示した。だが、革命の旗を掲げるフランス軍が行ったのは、ドイツの蹂躙だった。カントの弟子フィヒテは1807〜08年、ナポレオン占領下のベルリンで、『ドイツ国民に告ぐ』と題する連続講演を行い、愛国心を鼓舞して、ドイツの再建を訴えた。言語・文化・思想の民族的独自性を保守しようとする希求は強まった。異民族支配を打破し、ドイツ語圏の統一をめざすエスニックなナショナリズムの動きが起こった。
 ナポレオンは、ロシアに遠征し、戦域を北方に拡大した。だが、さしものフランス陸軍も、ロシアの冬には耐えられず、退却するしかなかった。この間、イギリスは諸国と連携を強め、総反攻の準備を進めた。フランス軍に侵攻された国々では、ナショナリズムに目覚めた諸国民が各地で一斉に蜂起した。プロイセン、オーストリア、ロシア等の対仏同盟軍は、1814年パリを陥落した。ナポレオンは退位し、エルバ島に流刑となった。
 戦勝各国は戦後秩序作りのため、1815年ウィーン会議を開催した。しかし、宰相メッテルニッヒのオーストリア、皇帝アレクサンドル2世のロシア等の間で利害が対立してまとまらない。その隙にナポレオンがエルバ島を脱出して、皇帝に復位した。それで再び対仏同盟軍が結成され、ワーテルローの戦いで決着がついた。ウィーン会議は、ようやくまとまり、議定書が交わされて閉幕した。
 以後、イギリスは、ヨーロッパ大陸に突出した強国が出ないよう、相互にけん制させる勢力均衡の外交を主導した。「パクス・ブリタニカ(イギリスによるイギリスのための平和)」が続き、産業革命が進展するイギリスは、圧倒的な経済力を誇るようになっていった。一方、大陸諸国は正統主義を打ち出し、フランス革命で広がった自由や政治参加を求める運動を押さえ込み、革命以前の体制の維持を図った。だが、リベラリズム、デモクラシーとナショナリズムは、ヨーロッパ諸国に徐々に広がった。ドイツでも自由と統一を求める動きが起こったが、19世紀初頭では資本主義はまだよく発達しておらず、反リベラリズム的で政府主導のナショナリズムが優勢だった。
 1830年、現状維持の原則に亀裂が入った。ナポレオン失脚後、ブルボン朝の王政に戻っていたフランスで、民衆の反発が強まり、七月革命が起こった。立憲君主制が取られ、七月王政となった。革命の影響は周辺地域に飛び火し、ベルギーがオランダから独立した。ドイツでは立憲政治を求める運動が起こったが、これは鎮圧された。
 1848年、再びフランスで民衆が蜂起し、二月革命が起こった。臨時政府が樹立され、第2共和制に移行した。革命の火は各地に広がり、オーストリアではウィーンで暴動が起こり、メッテルヒッヒが退陣した。チェコ、ハンガリーで独立自治を求めるナショナリズムの運動が起こったが、鎮圧された。プロイセンでは、ベルリンで市民・労働者が放棄し、リベラリズムを志向する内閣が成立した。他の諸邦でも新政権が樹立された。これを三月革命という。だが、その年から翌年にかけて、反革命が起こり、下からの急進的な改革は失敗に終わった。
 二月革命の直前、ロンドンで共産主義者同盟が結成され、マルクスとエンゲルスが起草に加わった『共産党宣言』が発表された。ここにリベラリズム、デモクラシー、ナショナリズムに共産主義が加わるという新たな状況が生まれた。共産主義はやがて、世界を闘争と混乱に引き込んでいく。

 ドイツでは、1850年代から産業革命が進んだ。市民階級の成長に対応し、諸邦で政府による上からの漸進的な改革が進められた。ドイツ統一を進め得る有力な国家は、北方のプロイセン王国と南方のオーストリア帝国の二つのみだった。1862年プロイセンの首相となったビスマルクは、工業化による経済成長、文化闘争と呼ばれるカトリック教徒への抑圧、社会主義者への弾圧と社会保障制度の拡充を合わせた政策などにより、国力増強と国民統合を図った。そして鉄血政策によって、ドイツの統一を進めた。
 ビスマルクは、1866年、ライバルのオーストリア帝国と矛を交えた普墺戦争で勝利を収め、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を設立した。一方、オーストリアは、翌年ハンガリーとの二重帝国を設立した。二重帝国は、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねる同君連合で、君主・外交・財政・軍事を協同にするほかは、別個の政府と議会を持って独立の政治を行った。多民族構成で主要な言語だけで11あった。
 プロイセンは、オーストリアと南ドイツを除くドイツの統一を進めた。プロイセンの強大化を恐れたフランスの皇帝ナポレオン3世により、1870年普仏戦争が開始された。セダンの戦いでナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となり、第二帝政は崩壊した。プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、1871年ドイツ帝国の成立が宣言された。ここに君主制の国民国家が誕生した。ドイツ帝国は、4王国、6大公国、5公国、7侯国及び3自由市からなる連邦国家だった。プロイセン国王がドイツ皇帝を兼ねた。
 ドイツでは、個人の自由と権利の実現よりも、集団の独立と統一の実現が優先的に追及される傾向があった。この点が、先進国のイギリス・フランスと異なる。これは、ドイツの家族型は直系家族が主であり、権威・不平等の価値を持つ集団主義の傾向を示すことにもよっている。
 ドイツの国民国家の形成においては、先にドイツ語を共有するネイションが広範囲に形成され、後で統一国家ができたとする説がある。もともと前近代的な帝国である神聖ローマ帝国があり、それが300以上に分かれていた。その状態でドイツ語が使われ、ルターのドイツ語訳聖書を各地のプロテスタント諸侯及びその領民が読んでいた。私の考えでは、先の説にいうネイションは、言語を共有するエスニック・グループであり、そのエスニック・グループが統一国家を目指し、ドイツ帝国の実現を以てネイションを形成したのである。ドイツ帝国は、神聖ローマ帝国に対し、第二帝国と称した。ドイツ統一には、ネイションの形成と同時に神聖ローマ帝国の回復を目指すという側面があった。ドイツの国民国家形成は、民族統一型である。
 ただし、ドイツの統一は、民族の統一と言っても、領域外のオーストリア=ハンガリー二重帝国にも多数のドイツ人の集団がおり、スイスにもドイツ語地域があるという状態だった。また、ドイツ国内には、デンマーク人居住地域、ポーランド人居住地域があり、ユダヤ人等のエスニック・グループも存在した。アルザス地方では、住民多数がドイツ語のアルザス方言を主に話しながら、文化的にはフランスとの親近性を持ち続けた。それゆえ、ドイツ統一によるネイションの成立後も、ドイツ語を話すエスニック・グループと領土が一致したとはいえなかった。
 20世紀初め以降に話が及ぶが、第1次大戦での敗戦により、ドイツ皇帝が退位し、ドイツは帝制から共和制に移った。ナチスは、ドイツ民族というエスニック・グループがオーストリア、チェコスロバキア、ポーランド等に広がって分散居住している状態を不満とし、軍事力を行使して一つのネイションに包摂しようとした。この点で、ナチズムはエスニックな要素を強く持つ対外拡張型のナショナリズムだった。ナチスは特異な人種主義思想を以てユダヤ人を敵視し、その抹殺を図った。この点で、排外的かつ闘争的なエスニシズムでもあった。

●イタリアにおける国民国家の形成

 イタリアでは、ルネサンス期から諸都市・諸国家が分立を続けていたが、19世紀後半にようやく統一が達成された。統一前のイタリアは、サルディニア王国、ローマ教皇領、フランス・ブルボン家の両シチリア王国などに分かれていた。ナポレオン戦争後、19世紀後半になって、サルディニア王国を中心に、統一の気運が高まった。統一運動には、フランス革命の影響を受けた共和主義者の活動が重要な役割を果たした。自由と統一を同時に求める点が、ドイツにおける動きと共通する。
 政治結社「青年イタリア」出身のジュゼッペ・ガリバルディは、1860年に赤シャツ千人隊を組織し、シチリアに上陸し、両シチリア王国を占領して、サルディニア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上した。それによって、1861年、イタリア王国が建国された。ドイツ帝国より10年早い。その後、オーストリアが領有していたヴェネチアと教皇領を併合し、ほぼイタリア全土が統一された。その結果、君主制の国民国家が成立した。ここに働いたのは、民族統一型のナショナリズムである。また、リベラリズムとナショナリズムが融合した動きとなっていた。またイタリアの国民国家形成は、民族統一型だった。
 イタリア王国は、ドイツ帝国と違って連邦制国家ではなく中央集権的な単一国家として建国された。イタリアはドイツと同じくネイションが先にできて、それに合わせて国家が作られた例とされる。この見方は、私の概念によれば、エスニック・グループが先に成長して、それに合わせて国民国家が建設されたということになる。ただし、統一達成期に、イタリア人のネイションがどの程度、形成されていたかについては、意見が分かれる。政治権力によって一個の国民として括られた人々が、徐々に言語・文化等を共有化することによって、形式的な国民から実質的な国民になっていったというべきだろう。
 しかし、イタリアでは、国民の間に方言の違いや社会的・経済的・文化的な差異が大きく、これをエスニック・グループの違いによるものと捉える見方もある。家族型は、北部イタリア、南イタリアとシチリアは平等主義核家族だが、トスカナ地方およびその周辺は西欧では珍しく共同体家族が主である。1世紀以上も中央集権国家のもと、国民の実質化を進める政策が進められ、その間、ムッソリーニのファシズムによる全体主義的な体制の時代もあったのだが、イタリアでは今日でも、地域間の対立が続き、それが時々政治的・社会的な問題として現れている。その点で、イタリアは、必ずしも国民国家の形成に成功しているとは言えない。

 

●イギリスの奴隷制廃止、アメリカの奴隷解放

 国民国家の形成・発展の各国別の展開を書いている途中だが、ここで、近代西洋文明における奴隷制の変化について述べておきたい。人権論の観点から見ると、国民国家の形成・発展の過程において、イギリスで奴隷貿易・奴隷制が廃止され、アメリカ合衆国に影響を与えて奴隷解放がされたことは、極めて重要な出来事である。
 奴隷貿易は最盛期には、イギリスだけで毎年30万人以上の黒人奴隷が大西洋を越えて運ばれた。19世紀初頭までの間に、推計1,000万人から2,800万人の黒人奴隷が大西洋を渡ったとされる。人類の歴史上最大の権利侵害である。しかし、イギリス人の中には、奴隷制の非人道性に気づいた者が現れ、1787年に奴隷貿易・奴隷制に反対する運動が始まった。フランス市民革命より2年早いことに注目したい。
 まず奴隷貿易廃止のための議会請願運動が行われた。奴隷労働によって生産された砂糖をボイコットする運動も行われた。これを受け、議会では活発な議論が繰り広げられた。その結果、1807年に欧米諸国としては初めて、イギリスで奴隷貿易が廃止された。続いて、1820年代には、奴隷制廃止のための活動が開始された。この時も議会請願運動が起こり、150万人以上の人々の署名が集まった。こうした大衆運動を背景として、1833年には奴隷制そのものが、欧米諸国で初めてイギリスで廃止された。奴隷制の廃止は、奴隷制の非人道性に目覚めたイギリス人が、解放奴隷たちと連携して行った世界初の人権運動の成果である、と理解されている。
 この時点では、イギリスが綿花の供給を確保するアメリカ合衆国においては、奴隷制が継続していた。イギリスで奴隷貿易・奴隷制が廃止されても、綿花と線製品の生産関係は変わっていない。合衆国における奴隷制の廃止は、南北戦争後まで待たねばならなかった。
 アメリカ合衆国は、イギリスから独立後、1803年にフランスからルイジアナを購入した。これを皮切りに、アメリカ=メキシコ戦争でカリフォリニアを獲得するなどして、領土を拡大していった。
 北米は、植民地時代から、地域によって産業構造に違いがあった。独立後、北部諸州では商工業が発達した。南部諸州は、綿花やタバコを栽培するプランテーションを営み、黒人奴隷を労働力に用いていた。北部はイギリスの工業に対抗するため、保護関税政策を求め、自由労働を重んじて奴隷制度に反対した。一方、南部は、イギリスの綿工業の発達により綿花の輸出が激増し、自由貿易政策を主張していた。
 このように内部に大きな利害の相違をはらみつつ、連邦国家アメリカは、西部の開拓を続けた。1846年から、太平洋岸側の広大な地域を次々に併合・割譲・買収し、1853年には大陸領土が確定した。先住民を駆逐し、領土を拡張することは、「明白な運命」(マニフェスト・デスティニイ)として正当化された。その運命とは、ユダヤ=キリスト教的な神から与えられた使命と思念された。インディアンに対する姿勢は、15世紀末から中南米のインディオを虐待・殺戮した白人カトリック教徒の姿勢に通じている。
 領土が広がるにつれ、地域間に存在する利害の対立は、激しさを増した。最大の係争点は、奴隷制だった。旧本国イギリスでは、先に書いたように、33年には奴隷制が廃止されている。その影響が合衆国にも及んだ。
 西部開拓が進み、新たな州が誕生すると、新しく出来た州に奴隷制の拡大を認めるか否かで南北の対立が深まった。1860年に奴隷制に反対する共和党のリンカーンが大統領に就任した。これを機に、翌61年南部11州が合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国を結成して、北部諸州に対して武力抗争を開始した。北部諸州は分離独立を認めず、ここに南北戦争が始まった。
 この戦争は今日、内戦(シヴィル・ウォー)とされているが、南部諸州は独立国家を結成したのだから、国際紛争と見るべきである。最初は南部が優勢だったが、62年にリンカーンが国有地に5年間居住・開墾すれば無償で与えるという自営農地法を発布し、これによって、西部農民の支持を獲得した。さらに、63年に奴隷解放宣言を発し、内外世論を味方につけた。北部はゲティスバーグの戦いで優勢になり、65年に南部に勝利した。戦死者・戦病死者は合計62万人に達した。
 1865年、合衆国憲法に修正第13条が加筆され、奴隷解放が実現した。アメリカ合衆国における黒人奴隷の解放は、やがて起こるアジア・アフリカでの被抑圧民族の独立への先駆けとなる出来事だった。また「発達する人間的な権利」としての人権の歴史において極めて重要な出来事だった。
 奴隷制を巡る南北戦争を経験したアメリカ合衆国は、内部にはらむ価値観、利害の違いを越えて、ネイション・ステイト(国民国家)として国民を統合する原理を、一層強く打ち出す必要を生じた。その原理が、自由、デモクラシー、人権である。しかし、黒人奴隷は法律上解放されたものの、実質的な差別が存続し、社会的地位の向上は1960年代の公民権運動の高揚まで待たねばならなかった。

 

●西洋文明の挑戦に対する非西洋諸文明の応戦

 次に、欧米及びその植民地による西洋文明とは異なる文明における国民国家の形成・発展について述べたい。
 文明学的には、西洋文明の世界的進出と、これに対応する非西洋文明における国民国家の形成・発展の過程は、アーノルド・トインビーの説く「挑戦と応戦」(challenge and response)にあたる。
 トインビーは、文明の誕生について「挑戦と応戦」の理論を提示した。「挑戦」とは、ある社会が環境の激変や戦争などによって、その存亡にかかわる困難な試練に直面することであり、「応戦」とは、この困難な課題に対して、創造的に対応しその脅威を乗り越えようとすることをいう。文明はこの「挑戦」に対する「応戦」によって発生するとトインビーは考えた。
 「挑戦と応戦」は、文明の誕生の時だけでなく、その後の文明のサイクルの各段階においても、重要な作用をする。ひとたび誕生した文明は、さまざまな困難を克服しながら、成長していく。しかし、危機に対して、有効な「応戦」ができなかった文明は、滅亡してしまう。
 15世紀末以降、西洋白人種がいわゆる地理的な発見によって、彼らにとっての新大陸に進出し、多くの文明・文化を征服・支配した。アフリカでは、多くのエスニック・グループが白人種との戦いに敗れ、奴隷として新大陸に強制連行された。伝統的な文化の多くが破壊された。ラテン・アメリカでは、ペルーのインカ文明、メキシコのアステカ文明、マヤ文明等が滅亡に追い込まれた。アジアでも多くの地域が植民地とされた。イスラーム文明、インド文明、シナ文明等の国々が、白人種によって支配・収奪されることになった。
 こうしたなかで、西洋文明の挑戦に対して有効な応戦を行い、自らの文明を維持・発展させ得た代表的な存在が、東方正教文明のロシア、及び日本文明の日本である。次に、これら諸国における国民国家の形成・発展を見ていこう。

●ロシアにおける国民国家の形成・発展

 ロシアは、東方正教文明の中核国家である。東方正教文明は、西洋文明とキリスト教を共有するが、古代ローマ帝国の東西分裂後、宗派を異にする別の文明として発達した。
 ロシアでは、16世紀半ばイワン4世がロシアを統一し、初めて皇帝(ツアーリ)を名乗った。以後、ロシアは中央集権国家として成長した。17世紀末のロマノフ朝ピョートル1世の時代から一大帝国となり、西欧諸国に伍する存在となった。シベリアを支配し、アジアへの進出を図った。19世紀初頭ナポレオン率いるフランス軍がモスクワ遠征を行った際、ロシア帝国はこれを撃退した。しかし、この戦争によって、皇帝は西欧発の国民国家の強力性を知り、西欧文化の導入によって上からの近代化を進めた。当時のロシアは、欧米を中核部とする近代世界システムの半周辺部に位置した。日本とは異なり、西欧と陸続きという地理的条件にあった。
 ロシアは、19世紀後半から一連の社会改革により資本主義の急速な発達を図った。またロシア語を中心に「正教・専制・国民性」というスローガンにより、国民の文化的な均一化を図る政策を行った。これは、形式的な国民を実質的な国民に変えていくための政策である。こうした政策はロシア帝国特有のものではない。半周辺部及び周辺部に存在する諸文明で、西欧発の国民国家を目指す帝国の多くがこれと似た政策を行った。ここにおけるナショナリズムを、アンダーソンは「公定ナショナリズム」と呼んでいる。私見では、国家発展段階における内部充実型のナショナリズムである。また、上からのナショナリズムである。国民国家の形成としては、ロシアの場合は政府主導型である。
 西欧発の国民国家を範例として国家を改造することは、西洋文明の摂取となる。資本主義、科学技術、法制度、価値観、思想等を取り入れることが、知識人の間に欧化主義と土着主義の対立を引き起こす。単なる模倣では、西洋文明に飲み込まれてしまう。守旧的な態度では、生産力・軍事力に優る欧米列強に対抗していけない。近代西洋文明の文化要素を取捨選択し、固有の文化に適合するように変換・活用して、自らの文明を創造的に発展させることができるかどうかが課題である。この課題への取り組みは、国民の意識の統合と文化的な均一化なくしては、成功し得ない。
 16世紀半ばから19世紀の間に急激に膨張したロシア帝国は、獲得した領土が広大であり、またあまりに多数の民族が居住するため、国民の実質化がうまく進まなかった。その状態のロシアで革命が起こって帝政が倒され、ソヴィエト社会主義共和国連邦が設立された。ソ連は、共産主義の思想のもとに、旧ロシア帝国が成し遂げられなかった課題を継承することになった。
 話が本章の範囲を超え、20世紀に及んでしまうが、ソ連の統治機構は連邦制であり、一個のネイションの中に、多くのエスニック・グループによる多数の共和国がサブ・ネイションとして所属する構造だった。また、それぞれのサブ・ネイションにおいて、主要なエスニック・グループと、少数派または弱小のエスニック・グループが存在した。マルクス=レーニン主義は階級闘争の理論であり、民族より階級を上位に置く。だが、ソ連の実態は、人口で5割を占めるロシア民族が他の少数民族を支配するものとなった。またソ連は国家として東欧諸国を支配・収奪した。共産党という党派集団が、労働者階級、農民階級を支配し、同時に中小のエスニックな共和国及び周辺諸国を支配するという三重の支配構造が、ソ連の特徴だった。
 家族型については、ロシアは共同体家族が支配的な地域である。この型が生み出す社会の基本的価値は、権威と平等である。権威・平等の集団主義は、ツアーリのような強力な独裁者に、集団の全体が服従する社会に肯定的である。帝政ロシアとソ連へと封建制から社会主義に変わったが、独裁者に全体が服従するという家族型的価値観に基づく社会構造は継続した。そのため、ロシアでは、欧米的なリベラリズムは長く浸透しなかった。その一方、上からのナショナリズムは、強力に進められた。既に16世紀半ば以降、膨張を続けていたロシア帝国は、革命後は共産主義の思想と組織のもとで、対外拡張型のナショナリズムを一段と発揮した。マルクス主義は、人権の観念はブルジョワ思想として批判する。そこに、ロシアの家族型的価値観が加わったため、人権の思想は長く発達しなかった。

 

●日本における国民国家の形成・発展

 19世紀後半には、アジアの大部分が西欧諸国の植民地・半植民地となった。アフリカでは、1880年代から急速に植民地化が進んだ。近代世界システムの支配・収奪の構造を打ち破る先頭を切ったのが、日本だった。わが国は、有色人種で初めて近代化を成し遂げ、国柄を踏まえた国民国家を建設し、リベラル・デモクラシー、ナショナリズム等を摂取し、伝統文化を生かしながら、独自の仕方で発達させた。日本の発展はアジア・アフリカ諸民族に勇気と自信と教訓を与えた。
 なぜ日本にそれができたか。理由は、日本の文明学的な特徴にある。日本は、古代にはシナ文明の影響下にあった。だが、早ければ9世紀末から10世紀、遅くとも12世紀末〜13世紀には、日本文明はシナ文明の周辺文明から脱し、精神的にも制度的にも主要文明の一つとなった。9〜10世紀の指標は遣唐使の廃止、仮名文字の使用。律令制の形式化、12〜13世紀の指標は公武の二重構造化、元寇の克服、封建制の発達である。こうして後成型の主要文明として確立した日本文明は以後、一国一文明として発達してきた。
 日本は、古代から朝廷が治めるエスニック国家を中心とした歴史を歩んできた。日本史における前近代の国家には、古代の部族国家・部族連合国家、中世・近世の封建制国家がある。これらも地域的なエスニック国家と見ることができる。上位のエスニック国家の内部に下位のエスニック国家が一部包摂され、一部併存しているという関係である。
 古代朝廷国家は、天皇の下での貴族政治に移り、平氏・源氏の戦いを制した源頼朝が12世紀末、鎌倉に幕府を作った。頼朝は、朝廷が統治する律令制国家のもとで諸国に分裂していた状態から、東北も一定程度含む統一国家を実現した。その国家の構造は、朝廷―幕府―地方国家(地方行政区)の三層構造であり、職位の序列は天皇―征夷大将軍―守護だった。以後、武士による政治が約700年続いた。この間、地方国家の統治者は、守護から守護大名、戦国大名、藩大名へと変遷した。また統治制度は、室町時代の守護領国制、戦国時代の大名領国制度、徳川時代の大名知行制へと変化した。
 国民国家の形成との関係から特に注目したいのは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康である。彼らは、戦国時代に国内が分裂していたのを再び統一することに成功した。1603年の徳川幕府の開設によって、北海道の一部を除いて、エスニックな統一国家が実現した。この年は、大ブリテン島でイングランドとスコットランドの同君連合が成立した年である。連合王国ができたのは、約100年後の1707年である。当時の日本は、イギリス・フランス・ドイツ等の倍の人口があったと考えられるので、その人口規模でほぼ全国的な統一国家を作ったことは、世界史的に見て、すごいことだった。
 信長・秀吉・家康による国家統一は、古代から続く天皇を中心とした国家の再建設だった。信長・秀吉は、そのために天皇の権威を仰ぎ、秀吉は律令制による関白に任命された。家康は頼朝と同じ征夷大将軍に任命され、朝廷の権威と幕府の権力を以て、幕藩体制を作り、日本を統治した。
 信長・秀吉・家康が日本を再統一したのは、西欧発のリベラリズムやナショナリズムによるものではない。武力による平和の実現、平和による繁栄の追求を目指す意思による。武士階級には武士道という独自の思想・文化が発達していた。武士道は、神道・儒教・仏教を摂取し、統治では仁政を理想とした。日本文明にとって、西洋文明が東漸してくる時代に、武士階級によって統一国家を築くことができていたのは、幸いだった。国内が戦国時代のまま分裂・闘争していたら、白人種によって征服・支配されたかもしれない。
 16〜17世紀の日本には、スペイン・ポルトガルからキリスト教の宣教師が来た。信長は宣教師と交流し、秀吉は宣教師を処刑し、徳川幕府は禁教令を出し、鎖国を行った。幕府は、キリスト教に対して日本の伝統・文化・国柄と相容れないものを感じ、その伝道による西洋文明の侵入を防ぐため、1633年から鎖国政策を行った。だが、鎖国している期間も、キリスト教の宣教を行わないオランダ及び清とは、交易を行った。西欧が1648年以降ウェストファリア体制にあったことを考えると、オランダと外交を行う日本は、国際関係においては、一個の主権国家だったといえる。
 日本は、鎖国政策によって欧州支配の近代世界システムから離れて、自給自足の体制を築いた。このことが、日本文明を熟成せしめた。江戸時代の日本人は、日本文明の独自性の自覚を深めた。言語は日本語、文字は漢字とそれを基に作ったかなであり、漢字かな混交文を使用した。宗教は、固有の宗教である神道とインド・シナ伝来の仏教が融合的に共存していた。日本神話や古文書、歴史書が研究され、日本の国柄が明らかにされた。シナ模倣ではない、日本独自の思想が発達した。自給自足による豊かな生産力を基盤として、日本固有の芸能である歌舞伎、人形浄瑠璃、浮世絵、俳諧などが発達・完成した。全国に多数の寺子屋が作られ、青少年が文字を学習し、和漢の文献を読んでいた。日本文明は、約250年続く世界史上に希な平和の時代の中で、人と人、人と自然の間の和を実現した文明として大成した。
 こうした日本文明に、再度、西洋文明との衝撃的な出会いが来た。黒船の来航である。15世紀から西欧で発生した近代化革命の進展する文明が、日本に到達したのである。この近代西洋文明の「挑戦」に対し、わが国は見事な「応戦」を行った。近代化の進展する欧米列強は、強力な軍事力と高い科学技術を持っていた。その前に、幕末の日本は開国を余儀なくされ、屈辱的な不平等条約を結ばざるをえなかった。もし日本人同士が分かれて争えば、その隙に欧米諸国に付け入られるおそれがある。大陸で清国はアヘン戦争で列強に敗れており、日本人は、非常な危機感を持った。そうした中で、藩を超えた国民意識が形成された。記紀の神話、『大日本史』に基づく歴史的記憶、これらに加えて現実に存在する皇室が、エスニックな集団意識の核となった。尊皇倒幕・近代国家建設の動きは、外敵の襲来に対し、民族の興亡をかけてエスニック・グループがネイションを形成する動きとなった。
 1867年(慶応3年)、徳川慶喜は、約700年続いた武家政権から朝廷に大政奉還を行った。明治天皇は王政復古を宣言し、ここに明治維新が始まった。イタリア統一の6年後、ドイツ統一の4年前だった。西欧の後進国とアジアの半周辺部で、自由と統一を求める動きが並行した。
 1868年(慶応4年、明治元年)、新政府の政治方針として「五箇条の御誓文」が公布された。御誓文の示す根本方針の下、明治政府は、古代からの皇室中心の国柄を明確にしつつ、近代的な中央集権国家を建設するというユニークな国づくりを推進した。エスニックな伝統・文化・国柄を保ちつつ、ナショナルな政治共同体を建設しようとしたわけである。日本の国民国家形成は、政府主導型であり、市民革命型の要素も持っている。
 1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、71年には廃藩置県が断行された。武士の時代に発達した封建制をやめ、近代西洋文明の制度を採り入れて近代国家を建設するための改革である。廃藩置県の成功は、世界史上比類ない無血革命という快挙だった。また、人権論の観点から見ると、明治政府による士農工商の身分制の廃止と四民平等の政策が重要である。70年(明治3年)に平民の苗字使用、71年(4年)に平民と華族・士族との通婚が許可された。72年(5年)に学制を制定して国民皆学とし、職業や移転の自由を認めるなど、封建的な身分差別を廃止し、国民の平等を打ち出した。公教育と標準語習得が推進され、国民の実質化が進められた。
 明治政府は、富国強兵・殖産興業・文明開化をスローガンとして、日本の近代化を進めた。1889年(明治22年)に帝国憲法が公布され、91年(24年)に帝国議会が開設された。これらによって、日本はイギリスに似た立憲議会政治を行う、アジア初の国民国家となった。帝国憲法は、臣民としての国民に対し、一定の自由と権利を保障した。また91年には、教育勅語が発布された。これによって、国民意識の形成が推進された。
 政府は資本主義の導入を行い、1890年代半ばには製糸・紡績などの軽工業を中心に産業革命が本格化した。さらに1900年代半ばには軍需部門を中心に重工業が発達して、産業革命が達成された。わが国は、この資本主義的工業生産力をもって、近代国家としての発展を確固としたものにした。
 国家発展段階の日本は、内部充実と対外拡張を同時に進めた。明治日本の最大の危機は、日清戦争・日露戦争だった。これらの戦争は、国運を賭けた戦いだった。当時、日本と清国とロシアの国益は、朝鮮半島をめぐってぶつかり合った。まずわが国は、1894〜95年(明治27〜28年)の日清戦争で大国シナを打ち破った。その結果、東アジアにおける日本とシナの地位が逆転し、日本文明のほうが、シナ文明に影響を与える関係になった。日清戦争の勝利は、強国ロシアとの戦いを余儀なくするものだった。1904年(明治37年)に勃発した日露戦争で日本が勝つと、世界は驚嘆した。15世紀以来の西洋白人種の優位を、初めて有色人種が打ち砕いたのである。日露戦争における日本の勝利は、アジア・アフリカ等の被抑圧民族を奮い立たせ、独立への情熱を駆り立てた。近代西洋文明の世界支配体制は崩れ始めた。日露戦争は、世界史を西から東へと動かす、歴史的な出来事だった。
 もし日本が清国またはロシアに敗れていれば、弱体化は免れなかった。それどころか、欧米諸国やロシアの属国または植民地にされていただろう。明治維新による国民国家建設の成果の多くが失われただろう。そして、人権と呼ばれる国民の権利は、大きく制限または剥奪されていただろう。日清戦争・日露戦争に勝利したことで、国家と国民の権利が守られた。集団の権利を守ることができたことにより、個人の権利も守られた。また権利の保障・拡大が進んだ。この過程で、ナショナリズムとリベラル・デモクラシーは、君主制国民国家の枠内で、相互作用的に発達した。
 明治維新後、幕末の不平等条約で失った関税自主権の回復と治外法権の廃止が、国家の権利の確保・拡大における重大課題となっていた。1894年(明治27年)に治外法権の廃止、1911年(明治44年)に関税自主権の回復を実現したことによって、わが国はようやく独立主権国家としての地位を確立した。関税や司法に関する集団の権利の回復は、個人の権利と無縁のものではなく、間接的に国民全体の権利の回復となった。また、国権(政府の権利)の回復によって、民権(人民の権利)が拡大し、人権と呼ばれる個人の権利の保障が進んだ。
 わが国が二度の戦争を通じて参入した国際社会は、欧米列強が激しく争い合う帝国主義の時代にあった。新興国日本は国民国家としての生き残りをかけて、国策を展開した。日清戦争の勝利により1895年(明治28年)台湾の割譲を受けた日本は、日露戦争の勝利後、1910年(明治43年)日韓併合を行い、多民族・多言語・多文化の大日本帝国として発展を続けた。
 日本の社会は直系家族が主である。直系家族は、権威・不平等の集団主義である。直系家族には族外婚と族内婚がある。族内婚は、配偶者を自己の所属する集団の内部で得る制度である。ドイツや朝鮮は外婚型直系家族だが、日本は内婚型直系家族である。外婚型直系家族は外部に対して開放的だが、冷厳な差異主義を示す。内婚型直系家族は閉鎖的だが、温和な差異主義を示す。そのうえ、日本の四季の変化のある穏やかな自然環境、大陸から離れた島国という地理的条件などによって、調和を重んじる精神が発達した。こうした文化的特徴の表れが、明治天皇が示した外部に対する四海同胞・一視同仁の理念であり、政府が朝鮮・台湾等の発展に尽くす開発政策を行ったことだろう。日本は日本語及び日本的倫理を教える文化的同化政策を行うとともに、朝鮮ではハングル文字の教育を実施するなど、統治下のエスニック・グループの文化も尊重した。これは、白人種の植民地主義には見られない日本独自の文化政策である。

こうした文化的特徴は、国内においては、集団の共同性を優先しつつ、個人の自主性を尊重する社会となって表れている。そこに、日本では、リベラル・デモクラシーが浸透し得る土壌があった。日本には、古代から天皇が国民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、「民の父母」として仁政に努めてきた。国民はこうした天皇を中心に家族国家的な社会を築いてきた。こうした伝統・文化・国柄が、リベラル・デモクラシーを独自の仕方で発達させ得る要因となった。また、それが、人権と呼ばれる国民の権利の保障・拡大を可能にした。ロシアやシナ等では見られない、日本の顕著な文化的特徴である。

関連掲示
・拙稿「人類史の中の日本文明

・拙稿「ヤスパースの『新基軸時代』と日本の役割
・拙稿「ハンチントンの『文明の衝突』と日本文明の役割


●シナと残りのアジア及びアフリカ

 当時シナ大陸を統治していた清国は、少数派エスニック・グループである満州族が漢民族を支配する国家だった。清国は、シナ史上最大の規模に版図を広げた。しかし、アヘン戦争でイギリスに敗れ、さらに日清戦争で日本に敗れた。清国が「眠れる獅子」ではないことを知った欧米列強は、シナの分割を行った。このような状態において、漢民族が、滅満興漢の運動を行った。これは異民族支配に反抗する被支配民族による独立建国型のナショナリズムの一種と考えられる。孫文らは、辛亥革命を経て1912年に中華民国を樹立した。中華民国は、日本の明治維新の改革に習って国民国家の建設に取り組んだ。だが、シナでは国民の9割が漢民族を占める一方、多数の少数民族がいる。漢民族といっても漢字を共通使用してはいるが、地域によって言語が違い、口語ではほとんど会話は通じない。日本よりはるかに多数の民族・言語・文化を抱え、また多数の人口と広大な領土を持つシナでは、国民の実質化は、容易に進まなかった。
 シナ・朝鮮は、共同体家族が主である。共同体家族は、ユーラシア大陸に広く分布する。権威・平等の集団主義の社会であり、リベラリズム、デモクラシーは容易に浸透しない。この点は、ロシアと共通性がある。
 日本・シナ以外のアジアでは、タイを除いて、欧米列強によって植民地とされ、集団としても個人としても自由と権利を奪われていった。アフリカでは、エチオピアを除くほぼ全域が白人種の支配下となった。近代世界システムの周辺部・下層となったアジア・アフリカの解放は、第2次世界大戦によって、欧米列強が疲弊する時まで、待たねばならなかった。

 

●国民国家の形成過程の類型

 本章の国民国家の形成・発展の項目は、最初に主な概念の定義をし、次に主な国々での展開を概説した。ここで史的展開を踏まえて理論的な考察を行いたい。
 まず国民国家の形成過程の類型について、私は市民革命型、植民地独立型、民族統一型、政府主導型という主に四つの類型があると考える。
 第一に、ウェストファリア条約によって封建国家が主権国家となり、その後、市民革命によって、主権が、国王の所有から君民共有に代わるか、または国王から市民階級を中心とした国民に移ったかしたものがある。前者の例が、君主制国民国家のイギリス、後者の例が共和制国民国家のフランスである。このような国民国家を、私は市民革命型と呼ぶ。
 第二に、植民地が本国から独立することによって形成された国民国家がある。これを植民地独立型と呼ぶ。アメリカ合衆国、ラテン・アメリカ諸国がその例である。合衆国は君主制国民国家から独立し、中南米諸国は封建制主権国家から独立した。これらの国の独立には、副次的に市民革命型の要素も含まれている。
 第三に、諸国家に広がるエスニック・グループが政治的な単位と民族的または文化的な単位を一致させようとして国民国家を建設したものがある。これを民族統一型と呼ぶ。ドイツ、イタリアがその例である。
 第四に、前近代的な帝国が政府主導で、上からの近代化を進め、帝国を改造して国民国家を建設したものがある。これを政府主導型と呼ぶ。ロシア、日本がその例である。ただし、日本は明治維新によって封建制を廃止し、近代国家を建設したので、市民革命型の要素も持つ。また、ビスマルクが民族統一を行って建国したドイツ帝国は、政府主導型の特徴を示した。
 上記のような類型のある国民国家の形成は、統治権力の形成や移動である。権力の形成や移動の過程では、しばしば革命・独立・統一への動きとそれへの抑圧がなされる。多くは実力の行使による殺戮・破壊を伴う。最後は実力による決着がなされるか、力の均衡点において合意がなされる。
 こうして形成された国民国家において、集団の権利のもとに国民個人の権利が保障されるようになった。ここで重要なのは、人権と称されることになった個人の自由と権利が保障されるのは、新たに形成された国家の秩序のもとにおいてであることである。個人の自由と権利は、実力によって獲得・確保されるものであり、また国家権力による秩序が維持されていてこそ、保障されるものである。
 近代世界システムの中核部における人権の発達には、国民国家という枠組みが必要だった。そして、国民個人の権利としての人権を擁護するためにも、国民国家という枠組みが必要だった。それゆえ、権力論・国家論なしに人権を語ることはできない。また、人権論においては、個々の国民国家が、どのような構成であり、どのような仕方で国民の統合を行い、どのような統治機構を作り、どのように発展がなされているかの分析を欠くことができないのである。

●国民国家の民族構成の類型

 国民国家の国民の構成には、単民族国家(mono-ethnic state)と多民族国家(multiethnic state)がある。単民族国家は、国民(nation)が一つの民族(ethnic group)で構成されている国家である。これに比し、国民が複数の民族で構成されている国家が、多民族国家である。多民族国家は、一つの有力な民族が主導する型と複数の有力な民族が主導する型に分けられる。
 単民族国家は、理念的には政治的な単位と民族的な単位が一致し、すべての国民が言語・文化・宗教・歴史・記憶等を共有している国家である。だが、現実には、そのような国家はほとんど存在しない。実際に形成されたのは、多かれ少なかれ、異なる言語・文化・宗教・歴史・記憶等を持つ複数の集団で構成される国家である。イギリスもアメリカもフランスもラテン・アメリカ諸国もドイツもイタリアもロシアもそうである。これらは均質な国家ではなく、程度の差こそあれ、国内に複数のエスニック・グループを持つ。それらの集団を統合して国民意識を創出した国家が、国民国家である。
 日本は、ほぼ単民族国家に近いと見られるが、明治維新によってアイヌ・琉球等の少数民族を包摂する形で、国民国家を形成した。ただし、これらの少数民族は、古代の日本民族と同根と見られる。その後、海外に台湾・朝鮮等を領有し、その地のエスニック・グループをも国民とした。大日本帝国は、日本民族が主導する多言語・多文化・多宗教・多民族の国家だった。

 

●国民の実質化

 絶対王政の主権国家が国民国家となり、領域内の人民を国民としても、それだけでは、国民は形式的な存在にすぎない。そこで、政府は、国民を実質的な存在に変えていく政策を行った。形式的な国民が国民としての集団的な自己意識を持ち、集団に一体性が生まれていく、この国民の実質化の過程は、ネイションの形成の過程でもあった。
 国民の実質化は、国民の意識の統合であり、ナショナル・アイデンティティの確立である。多くの論者は、国民国家の形成において、国民の文化的な同化、文化的な均一化が行われたことを強調する。確かに国民国家では、しばしば領域における複数のエスニック・グループのうち、最も有力なものを基盤とする小集団が権力を掌握して、ネイションの中核となった。この主要なエスニック・グループの統治者集団は、自らの言語または方言をネイションの標準語として、他のエスニック・グループに教育したり、公用語として使用させたりする。またその言語によって制定された憲法等の法制度を理解させ、承認・遵守させる。こうして領域内に居住する国民の実質化を図った。しかし、言語や文化、宗教の統一は、国民国家に不可欠の条件ではない。国民国家には、必ずしも政治的単位と民族的または文化的単位が一致していないものがあるからである。
 国民国家において最も重要なものは、自分たちは一個の国民だという集団的な自己意識の形成である。その集団意識を形成する核となるものとして、エスニックな土台による神話や歴史的記憶がある。神話との結びつき、歴史的体験の共有は、必ずしも実際にそうでなくてもよい。集団の構成員の大多数がそう強く思い、自分たちは一個の集団だという意識を共有することが、国民の実質化のポイントである。また、この集団意識を強固なものにするのが、国民個人におけるナショナル・アイデンティティの内面的な確立である。
 現実には、言語・文化・宗教・歴史・記憶等の共有による全面的な同化は不可能に近く、多くの国家では一定の要素を共通にすることで、国民の統合を行った。多言語・多文化・多宗教の集団であっても、集団意識が形成され、ナショナル・アイデンティティが確立していれば、国民として強固な集団となり得る。

●国民の政治権力への参加

 国民意識の統合は、権力によって進められる。それは、実力に裏付けられて初めて可能なことである。警察・軍隊等による物理的な強制力があって、初めて国民の実質化は進められる。この強制力は、自由への干渉、権利への制限となるとは限らない。国民の実質化を進める権力と、個人の自由と権利を保障する権力は、同じものだからである。その権力に誰が参加するかによって、権力が行使する内容は変わる。
 絶対王政国家から国民国家への変化の過程で、君主政治は君民共治政治または民主政治へ移行した。主権は、国王一人の権利から、国王と国民が共有する権利または国民が所有する権利へと変化した。統治権者の数は、中世の封建制国家では少数、近代初期の絶対王政では単数、それ以降の国民国家では多数と変化した。
 ただし、この時代に政治権力に参加する国民は、一部に限定されていた。参政権の付与は、権利に対する義務として、納税と兵役が課せられることが多い。フランスでは、1792年に世界初の成人男子普通選挙が憲法に規定されたが、一時制限選挙に戻り、定着したのは1848年以降だった。イギリスでは、1918年に成人男子普通選挙が実現した。アメリカ合衆国では、1870年に全人種の成人男子への選挙権付与が連邦憲法修正第15条により義務付けられたが、実現は20世紀に入ってからになる。世界初の成人女性の参政権は、1869年にアメリカ合衆国ワイオミング州で実現した。ただし、選挙権のみだった。被選挙権を含む参政権の実現は、1894年のオーストラリアの南オーストラリア州が初めである。欧米において女性参政権が広まったのは20世紀に入ってからとなる。

●国民国家の統治機構

 国民国家には、単一国家と連邦国家がある。単一国家は、一つまたは複数のエスニック・グループで構成される国民が中央集権的な政府によって統治されている国家である。これに対し、連邦国家は、複数の州または国家等と呼ばれる政治組織が、連邦政府によって統治されている国家である。連邦を構成する国家は、独立主権国家ではないが、一定の自治権をもつ。連邦国家の国民をネイションとすれば、その下位の政治的な集団はサブ・ネイションである。
 単一国家は連邦国家より中央集権的だが、中央集権といっても、ある程度は地方分権がされている。また地方分権的な国家であっても、ある程度の中央集権がされている。集権度、分権度の度合いと、中央および地方の各政府の権限の内容は、それぞれの国家によって異なる。
 国家の統治には、対内的・対外的の両面がある。対内的には行政・立法・司法、対外的には防衛・外交が重要である。国家は、どれほど分権度が高くとも、防衛・外交の権限を中央政府に集中できていないと、分裂・解体しやすい。当然、連邦国家においては、一層その傾向が強い。連邦国家において、連邦を構成する州・国家等の自治権の度合いは、連邦国家によって異なる。だが、どのような権限分配の仕方であっても、防衛・外交の権限は連邦政府に集中できていないと、連邦国家は容易に分裂・解体する。20世紀末で最大の歴史的な出来事だった米ソ冷戦の終焉後、国家の数は減るどころか、さらに増えているが、新たに誕生した独立主権国家は、連邦国家の崩壊によるものがほとんどである。

 

●集団としての国民の権利
 
 人権と称される権利は、歴史的・社会的・文化的に発達する人間的な権利である。人権と称されることになった権利は、17世紀の西欧で国家権力の干渉を排除する自由権として発生し、政治権力に参加する参政権として拡大した。主権国家において、市民階級(ブルジョワジー)が革命や独立を通じて獲得した権利が、人間一般の権利と理念化された。その理念は、イギリスからアメリカ、フランス、ラテン・アメリカ、イタリア、ドイツ等へと広がり、ロシア、日本等へも及んだ。
 「発達する人間的な権利」としての人権は、近代世界システムの中核部において、生命、自由、財産または幸福追求の権利として発達した。これらは一般に個人の権利とされるが、集団としての国民の権利もまた生命、自由、財産または幸福追求の権利である。集団における生命の権利は、集団の生存・繁栄の権利である。同じく自由の権利は、自己決定権・統治権・主権であり、財産の権利は、富や領土を維持・利用する権利である。幸福追求の権利は、集団として発展する権利である。国民国家は、この集団の主体が国民となった国家である。
 こうした集団としての国民の権利の中で、最も基本的なものは、生存権である。生存権は、自己の生存を脅かすものから自己を防衛する権利、すなわち自衛権を含む。自衛権は、生物の最も基本的な能力の一つである。自己の心身・生命を守るとともに、生活のための基本的な資材である空気・水・食糧・住居・土地・生産手段等を守る権利である。集団は、自らの生存を脅かすものから、自らの集団を防衛する。集団の自己防衛は、生物の集団における本能的な行為である。主に青壮年の男性が組織的に実力を発揮し、女性や子どもや老人を守る。こうした集団の自衛能力を発動し得てはじめて、集団を構成する諸個人・諸家族の生存が可能になる。
 国民国家は、こうした生存権に基づく共同防衛を、国家を構成する国民自身が行う国家である。自立した個人が自由意志で集団を作って、はじめて共同防衛をするのではない。個人はもともと自衛する集団の中に生まれ、その一員として存在する。互いに自由と権利を守る義務を負う者または次の世代でそれを担うべき者として、自由と権利を付与・保障される。

●戦争と国民の権利

 国民国家は、時に国家間でそれぞれの集団の権利と集団の権利がぶつかり合う。対外的に権利の拡張を図る国家と、これに対抗する国家が、権利をめぐって争う。その最たるものが、戦争である。国家と国家、ネイションとネイションが権利の維持・獲得・拡大のために、実力を以てぶつかり合う。
 いわゆる人権は、戦勝国において国民の権利として維持・拡大されていった。イギリスにおいて、国民の自由と権利が拡大したのは、イギリスがオランダ・フランス等との戦争に勝ち続けたからである。アメリカ合衆国は、本国イギリスとの戦争に勝利したから、独立することができたとともに、国民の自由と権利が獲得・拡大された。フランスは、市民革命への対仏干渉戦争に勝利したから、自由と権利という革命の成果を守り得た。欧米列強の植民地とされたアジア・アフリカの諸国は、白人種との戦争に敗れた結果、統治権を失い、富を収奪され、労役を強制された。植民地の人民は、自由と権利を奪われ、生命と財産を奪われた。近代世界システムの中核部における人権の発達と、周辺部における人権の抑圧は、戦争という意思と実力のぶつかり合いの結果として、対照的に進行した。
 戦争に勝った国は、敗れた国から領土・権益・賠償金等を獲得する。戦勝による利益は、何らかの形でその国民に分配される。国家の権利の拡大は、国民の権利の拡大となる。逆に負けた国では、国家の権利の縮小とともに、国民の権利が縮小される。大敗を喫した場合は、敗戦国は主権の一部または全部を失う。国民は諸権利を制限または剥奪される。それゆえ、国民は自らの自由と権利を守るには、共同で自国の国家を守らねばならない。そこに、共同防衛の義務が生じる。
 国民国家は、国民個々が国家の一員として、自ら国を守る義務を負う国家である。国民国家は国民の共同体であり、それゆえに国防の共同体でもある。ネイションとしての国民とは、互いに国家を防衛し、運命を共にする集団であり、国防共同体を構成する集団として、近代西欧に出現したのである。
 ネイションには、言語共同体・文化共同体・宗教共同体・経済共同体等の側面があるが、最も強固なネイションは、生死興亡を共にする運命共同体としてのネイションである。権力を奪取するための革命戦争、外敵からの防衛戦争、または異民族支配からの独立戦争が、集団を運命共同体にする。運命共同体としてのネイションにおいては、人々は互いに生命を賭けてネイションを守る。そこに強い同胞意識・連帯感が築かれる。同胞意識・連帯感で結ばれた人々の間では、階級・身分・所得等の違いを越えて、自由と権利の共有が図られる。いわゆる人権が、国民の間で共有化される。逆にネイションの同胞意識・連帯感が失われれば、格差の拡大、階級の対立、民族間支配の先鋭化が起こる。
 多言語・多文化・多宗教の国家であっても、革命戦争・防衛戦争・独立戦争を闘って権利を獲得・維持・拡大することによって、運命共同体となった国家は、強い国民意識で結ばれている。逆に、単一の言語・文化・宗教の国家であっても、戦いの記憶と戦う意思を失った国は、衰退または滅亡に向かう。

●国民国家と人権の発達

 市民革命や植民地の独立、民族の統一等によって発達した国民の権利は、一国で発達したものが、他国の国民にも共有されていったのではない。集団と集団、国民と国民は、互いの権利を賭けて戦った。その戦いを繰り返しながら、先進的な国家においては、一国内でブルジョワジーから労働者・農民へと権利の主体が拡張された。国民の権利が人権の理念のもとに共有されていった。それは国家に所属する人々の間に、公用語・教育・戦争・独立等を通じて、一つの国民としての同胞意識・連帯感が醸成されていたからである。後進的な国家においては、先進的な国民国家に対抗する中で、国民の権利が拡張された。その結果、欧米の多くの国において、それぞれの国民の権利が発達していった。ここに人権の発達における国民国家の形成と発展の重要性がある。
 19世紀後半には、国民国家が近代国家の範例としてヨーロッパ各地や半周辺部にも普及した。しかし、その時期において、人権と呼ばれる権利は、国際的なブルジョワ階級から国際的なプロレタリア階級へと広がったのではない。いわゆる人権は、各国において、主に国民の権利として発達した。近代世界システムの中核部における人権の発生には、主権国家という枠組みが必要だった。人権思想は、主権国家という枠組みの中で発達し、他の主権国家に伝播し、またそこでその枠組みの中で模倣された。こうして人権は、各国において主にその国民の権利として発達した。主権国家が国民国家となった国では、国民国家という枠組みにおいて、その国民の権利としての人権が擁護された。その枠組みが破壊された時、枠組みを失った国民は、自らの権利を喪失する。人権と称される権利は、神が付与し保障するものではない。自らの権利の体系を人権と認める集団が、自ら守るべきものである。
 国民国家は、その内部で国民の権利を保障・拡大する一方、対外的には侵攻・略奪の主体ともなる。特に国民国家の政府が帝国主義政策を取るようになると、アジア・アフリカの人民が広く自由を奪われ、権利を抑圧されることになった。帝国主義の時代の展開については、人権とナショナリズム、資本と権利・権力について述べた後に書くこととする。
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(2)人権とナショナリズム

 

●人権とナショナリズム

 国民国家の形成・発展について書いたが、続いて国民国家と深い関係のあるナショナリズムについて理論的な検討を行い、人権とナショナリズムの関係について述べたい。
 人権の観念は、絶対王政の主権国家が国民国家に変化していく過程で発達した。国民国家は、nation-stateであり、ネイションの国家である。人権の発達は、ネイションの形成・発展と不可分だった。集団の権利の獲得・拡大が個人の権利の確保・拡大をもたらしたのである。そこで重要な働きをしたものが、ナショナリズムである。本章は20世紀初めまでの時代について書いているが、ナショナリズムについては、以後の章にも関係するので、その時代以降のことも必要に応じて書くことをお断りしておく。
 さて、多くのナショナリズム研究者は、ナショナリズムは近代的な現象だとし、その近代的な性格を強調する。これに対し、近代以前の伝統文化がナショナリズムの基盤にあるという見方もある。私は、後者に賛同する。ただし、ナショナリズムが西洋文明で古代からあるとするのではなく、西洋文明の近代以前及び非西洋文明にも広く見られるエスニシズム(民族主義)の特殊な形態が、近代西欧に発生したナショナリズム(国家主義・国民主義)だと考える。ナショナリズムは、主にエスニックな集団が一定の領域における主権を獲得・拡大しようとする思想・運動である。
 ナショナリズムは、エスニック・グループをはじめ、領域内の様々な集団を一つの国民として形成し、また人民の間に同胞意識や連帯感を培った。それによって、国民は等しく自由と権利を有するべきだという意識を高揚させた。市民革命や独立建国、民族統一等の過程で、ナショナリズムは、リベラリズム、デモクラシーとの相互作用を通じて、人権の思想を発達させた。
 一般に、ネイションは「国家」「国民」「民族」「共同体」等と訳され、ナショナリズムは「国家主義」「国民主義」「民族主義」と訳される。だが、国家と国民は異なり、国民と民族は異なる。私は、基本的にネイションを政治社会としての「国家」または政治的集団としての「国民」、エスニック・グループを「民族」とし、ナショナリズムを「国家主義」「国民主義」、エスニシズムを「民族主義」と区別する。これによって、用語や訳語による混乱を少なくできる。
 これからの項目でナショナリズムの定義、類型、主体等を検討し、また他の思想・運動との比較を行って、ナショナリズムを理論的に考察する。

●ナショナリズムの基本的な定義

 ナショナリズムとは何か。この定義は、なかなか難問である。ナショナリズムの定義で今日最もよく知られているのは、社会人類学者のアーネスト・ゲルナーの定義だろう。ゲルナーは、「ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければいけないと主張する一つの政治的原理である」と定義する。
 ここで「政治的な単位」とは「国家」のことだとゲルナーはいう。また、ゲルナーは、国家の存在は「ナショナリズムの十分条件ではなくとも必要条件」であり、「もし国家がなく、したがって支配する者もいないとすれば、支配者が支配される人々と同じ民族であるか否かを問うこともできない」と述べている。また、ナショナリズムとは「同質的な文化的単位を政治生活の基礎と見なし、支配する者と支配される者とは、文化的に同一でなければならないとする原理」であるとも述べている。こうしたゲルナーの定義が当てはまる最も典型的な事例は、統治する者と統治される者が同じ民族であることを求めるものである。異民族支配に反発・抵抗し、自らの政府による国家を建設しようとする思想・運動がそれである。
 ゲルナーは、第一義的な定義における「民族的な単位」の「民族的」を、「ナショナル」としている。私は、これをナショナルではなく、エスニックとすべきと考える。なぜならば、政府を樹立する前の集団も政府を所有する集団も、ともにネイションと呼ぶと混乱を招くからである。そこで、政府を樹立する前の集団はエスニック・グループとし、エスニック・グループが主権を持つ政府を樹立した時点で、その国家の所属員の集団をネイションと呼ぶことにしたい。ネイションは、主権を行使する独自の政府を持つ人間集団である。政府を樹立する前の集団は、ネイションではなく、ネイションを目指すエスニック・グループである、と分けるのである。この分け方をすると、ナショナリズムとは、エスニック・グループが政治的な権力を獲得して、政治的な単位と民族的(エスニック)な単位を一致させ、ネイションを形成しようとする思想・運動である、と定義することができる。これを定義1とする。ただし、ここでは作業上の仮の定義である。
 もう一人、ナショナリズムの代表的な研究者の定義を見てみよう。アンソニー・スミスは、ナショナリズムの目標にして主体でもあるネイションを、次のように定義する。「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通する経済、構成員に対する共通する法的権利義務を共有する特定の人々」と。スミスは、そのネイションを「文化的かつ政治的共同体」とする。そして、ナショナリズムとは「ある人間集団のために、自治、統一、アイデンティティを獲得し維持しようとして、現に『ネイション』を構成しているか、将来構成する可能性のある集団の成員の一部によるイデオロギー運動」である、と定義する。
 スミスはネイションを「文化的かつ政治的共同体」とするが、ネイションが単に文化的でなく、政治的でもあるのは、一定の領域に主権を持つことによる。それゆえ、「既にネイションを構成している」とは、既に政府を樹立し国家を形成していることであり、「将来構成する可能性」があるとは、政府の樹立を目指しているが、国家の形成には至っていないことを意味する。
 ここで既にネイションを構成しているか、将来構成する可能性がある集団とは、主にエスニック・グループ、スミスのいうエスニーである。ただし、それのみに限らない。政治団体・思想団体・宗教団体等でもあり得る。エスニック・グループであれ、これらの団体であれ、政府の樹立を目指し、ネイションを形成しようとする集団に共通するのは、権力の獲得・拡大の思想・運動である。ナショナリズムは、集団の権利の確保・拡大を目指す思想・運動の一つである。そうした思想・運動の中で、一定の領域における主権の獲得・拡大を目指すものが、ナショナリズムである。それゆえ、ナショナリズムとは、ある集団が一定の領域における主権を持とうとし、またその主権を行使するネイションとその国家を発展させようとする思想・運動である、と定義することができる。これを仮の定義2とする。

 

●エスニシズムとの比較を踏まえた総合的な定義

 私は、ナショナリズムは、近代西欧で発生したものではなく、西洋文明の近代以前及び非西洋文明にも広く見られるエスニシズムの特殊な形態だと考える。言い換えると、エスニシズムの特殊近代西欧的な形態が、ナショナリズムである。エスニシズムとは、ある集団がエスニック(民族的)な特徴を積極的に維持・発揚しようとする思想・運動である。ナショナリズムを国家主義・国民主義とすれば、エスニシズムは、民族主義である。
 西洋文明の近代以前及び非西洋文明においても、支配的なエスニック・グループが、その言語・文化・宗教等を被支配的なエスニック・グループに強制することは、広く見られる。また異民族の支配を受けた集団が、これに抵抗・反発し、分離・独立を目指したり、権力の部分的または全面的な奪取を図ったりすることも、広く見られる。古代のエジプト、メソポタミア、インド、シナの文明の時代から、西欧でネイションが形成される時代まで、世界史を通じて存在する現象である。私は、この現象をエスニシズムと呼ぶ。そうしたエスニシズムの特殊近代西欧的な形態が、ナショナリズムである。
 ナショナリズムは、ある集団が主権を獲得・拡大し、ネイションを形成し発展させようとする思想・運動である。その点では、西欧法制度下の主権国家体制における近代的な現象である。
 しかし、多くの場合、ナショナリズムの主体は、エスニックな特徴を持った集団である。ナショナリズムは、近代西欧に発生したエスニシズムの特殊な形態である。近代西欧主権国家体制が構築される前は、西欧でも非西欧でも、ナショナリズムは存在しない。前近代の世界において、ある集団がエスニックな特徴を積極的に維持・発揚しようとする運動や傾向は、ナショナリズムではなく、エスニシズムである。近代以降の西欧においても、また非西欧においても、エスニック・グループが権利・権力の獲得・維持・拡大を求めはするが、主権の獲得・拡大を目指さないものは、ナショナリズムではなくエスニシズムである。今日の世界各地のエスニック・グループには、部族や部族連合の規模に近い少数民族もあり、また人口が多くとも政治的主張が近代西欧的な政治思想とは異なるものもある。所属国において一定の自治権の保障や文化的な権利の尊重を求めるのみで、主権を持つネイションの形成を目指さない場合は、ナショナリズムではなくエスニシズムである。
 西洋文明の近代以前においても、また非西洋文明において、ある集団がエスニック(民族的)な特徴を積極的に維持・発揚しようとする思想・運動は、世界的に広く見られる現象である。こうした現象までもナショナリズムと呼ぶ論者がいる。もしこれをナショナリズムと呼ぶならば、ナショナリズムを担う集団的な主体を、何と呼ぶかを明確にしなければならない。それをネイションと呼ぶならば、ネイションは近代以前、主権国家出現以前から存在したことになる。そして、ネイションを前近代的ネイションと近代的ネイションとに分ける必要があるだろう。だが、この考え方は、混乱をもたらす。混乱を避けるには、ネイションは近代主権国家の主権を持つ集団とし、ナショナリズムは、そのネイションに関する思想・運動としなければいけない。そして、ナショナリズムは、西洋文明の近代以前及び非西洋文明にも広く見られるエスニシズムの特殊な形態であり、近代西欧的なネイションの形成・発展にかかるエスニシズムがナショナリズムである、と整理すべきである。これを仮の定義3とする。
 近代西欧に現れたネイションと、西洋文明の近代以前の諸社会及び非西洋文明の諸社会の政治的共同体の違いは、主権の所有の有無による。主権は、近代西欧の法制度上の概念ゆえ、この分け方は、近代西欧の法制度を基準とする分け方である。もっとも主権という概念と統治権一般の違いは、さほど明確なものではない。それゆえ、ここでも厳密に定義しようとすると、曖昧さは避けられない。20世紀後半以降の国連体制のもとでは、国連の加盟国の基準は近代西欧的な主権国家となったので、これを範型とするのが、分かりやすい。
 さて、ここまで私は、ナショナリズムについて、三つの仮の定義を示した。定義1は、ナショナリズムとは、エスニック・グループが政治的な権力を獲得して、政治的な単位と民族的(エスニック)な単位を一致させ、ネイションを形成しようとする思想・運動である、とするもの。定義2は、ナショナリズムとは、ある集団が一定の領域における主権を持とうとし、またその主権を行使するネイションを発展させようとする思想・運動である、とするもの。定義3は、ナショナリズムとは、西洋文明の近代以前及び非西洋文明にも広く見られるエスニシズムの特殊な形態であり、近代西欧的なネイションの形成・発展にかかるエスニシズムがナショナリズムである、とするもの、である。定義1〜3の間では、主体が異なる。定義1及び定義3は、主体をエスニック・グループとするが、定義2のように主体は、エスニック・グループだけには限らない。定義1は、ナショナリズムを単に近代的な現象とみなすが、この点は定義3のように、エスニシズムとの関係を明確にする必要がある。
 そこでこれらの三つの定義を総合すると、ナショナリズムとは、エスニック・グループをはじめとする集団が、一定の領域における主権を獲得しようとし、またその主権を行使するネイションとその国家を発展させようとする思想・運動である。また、西洋文明の近代以前及び非西洋文明にも広く見られるエスニシズムとの関係では、エスニシズムの特殊な形態であり、近代西欧的な主権国家の形成・発展にかかるエスニシズムであるーーこのように定義することができる。

 

●ゲルナーは産業革命以後にナショナリズムが発生したとする

 次に、ナショナリズムの代表的な理論について検討したい。
 ナショナリズムについては、第1次世界大戦後にハンス・コーンが先駆的な研究を行い、1960年代にはエリ・ケドゥーリーがこれに続き、1980年以後、様々な論者が活発に議論を行うようになった。アーネスト・ゲルナー、ベネディクト・アンダーソン、アンソニー・スミス、エリック・ホブズボームらである。彼らにユダヤ人・ユダヤ系が多いのは、ディアスポラとしての出自、ナチスによる迫害の記憶と新たな迫害への警戒、シオニズムの正当化または内在的批判等が背景にあるのだろう。ここでは、ゲルナー、アンダーソン、スミスの3人の理論を中心に検討する。
 1980年代のナショナリズム研究の先鋒となったのは、ゲルナーである。ゲルナーは、著書『民族とナショナリズム』(1983年)で、社会人類学に基づき、農耕社会から産業社会への発展がナショナリズムを必要とし、政府が国民を創造したと説いた。
 先に書いたように、ゲルナーは、ナショナリズムを「第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければいけないと主張する一つの政治的原理」と定義した。ゲルナーの定義によれば、ナショナリズムには二つの大きな作用があることになる。すなわち、文化が共有されると考えられる範囲まで政治的共同体の領域を拡張しようとする作用と、政治的共同体の統治する領域内に存在する諸文化を主要な文化に同化しようとする作用である。前者は、対外的な政治的拡張、後者は対内的な文化的同化である。
 ゲルナーは、ナショナリズムは18世紀から19世紀にかけて成立した新しい現象であるとし、この時代に、産業革命の影響を受けて資本主義経済が西洋の社会に浸透していったことが、ナショナリズムが成立する基盤となったという見方をしている。産業革命以後にナショナリズムが発生したとするゲルナーは、ナショナリズムは、人間集団が集権的に教育され、文化的に同質な単位に組織化されることで成立したとする。その文化的単位が政治的単位と一致すべきだというのがナショナリズムの原理にほかならないと説く。
 ゲルナーは、ナショナリズムは「近代世界でしか優勢にならない特定の社会条件の下でのみ普及し支配的となる愛国主義」だと考える。ゲルナーは、郷土愛や同朋意識を人間の心のなかの「一般的基層」と呼ぶ。そして文化的に同質な単位への組織化は、そうした「一般的基層」では決して説明がつかないとする。その理由は、「一般的な基層」はナショナリズムだけでなくさまざまな仕方で現れるからである。ナショナリズムの起源を探るためには、その基層に基づいて人間集団を文化的に同質的な単位へとまとめあげる、「もっと大きな社会編成の力」を考えなくてはならないのであり、それが「産業化」だ、とゲルナーは説く。
 ゲルナーはマルクス主義者ではないが、基本にあるのは、社会の土台は経済的な人間関係だという考え方である。産業革命は、資本主義的な経済的近代化が進み、マニュファクチュア(工場制手工業)で賃金労働者の分業が行われている段階で起こった変化である。新たな動力・エネルギーを利用する機械が工場に導入され、大規模な生産が行われるようになった。この生産技術の急激な発展によって、社会的経済的な大変革が起こった。ゲルナーは、この点に注目する。
 ナショナリズムの特徴は、ゲルナーによると、文化的な「同質性」、「読み書き能力」、住民の「匿名性」にある。ここでの文化は「読み書き能力に基礎を置く高文化であろうと努力する文化」である。また、匿名性とは、共同体が解体されて流動的となり、直接、文化的単位に所属するようになったアトム的な個人の特性をいう。
 ゲルナーは、産業社会では「普遍的な読み書き能力と高水準の計算・技術能力及び全般的訓練が、それが機能するための必須条件である」という。社会の成員は流動的であり、「次の新しい活動と職業の手引書や仕様書とについていけるような全般的訓練を積んでいなければならない」「数多くの他人と絶えずコミュニケーションを図らねばならない」「コミュニケーションは、共有され標準化された同一の言語的媒体と筆記文字とによって成り立たなければならない」とする。
 農耕社会では、人々の生活は特定の土地や人間関係に限られていた。だが、産業社会では、農村共同体の解体が進み、人々が土地に根差す共同体から離脱して流動化する。農耕社会では、土地の耕作のように生産手段に直接働きかける労働が中心だった。ところが、産業社会になると、言葉を使う意思交通が人々の労働を左右するようになる。機械操作を行うには操作の手順書が理解できねばならない。職場で働くには業務内容や職務規程が理解できねばならない。それゆえ、産業化した社会では、誰もが共通の言語を読み書き話す能力を持っていなければならない。多数の人々が共通語や標準化された知的・技術的能力を習得するには、大規模な教育制度が必要である。その教育制度を整備し得るのは、政府以外にない。政府は産業社会の要請に従って、教育制度を整え、共通の言語や基礎的な知的・技術的能力を人々に身に付けさせた。それによって、同一の言語を習得した人々、すなわち国民が創られた、とゲルナーは考えた。

 

●ゲルナーのナショナリズム論への批判

 ゲルナーの見方は、産業革命以後の段階のナショナリズムについては一定の説得力がある。だが、ナショナリズムは産業革命以前の西欧で既に発生・発達しており、それが産業革命を通じて、新たな発達を示したものである。ゲルナーは、その段階のナショナリズムを、ナショナリズムのすべてであると取り違えている。
 政治哲学者のケドゥーリーは、『ナショナリズム』(1992年版)で、ゲルナーを批判して、次のように書いた。「ナショナリズムを産業化のための必要条件あるいはそれへの反動とみるこの試みは、ナショナリズムの年表にも産業化の年表にも適合しない。教義としてのナショナリズムは、未だほとんど産業化が存在しなかったドイツ語地域において、自分たちが産業化に応答しているとも、そのための必要条件を提供しているとも意識していなかった著述家たちによって、構築された。さらにまた、ナショナリズムのイデオロギーは、産業化を全く知らなかった時期の、ギリシャやバルカン半島、オスマン帝国のその他の地域に広がった。逆に、極めて熱狂的な性格のナショナリズム運動は、移動性と識字率と文化的標準化が数十年にもわたり常態ともなってきた、既に高度に産業化された社会に出現した」と。
 最後の「極めて熱狂的な性格のナショナリズム運動」について、ケドゥーリーはナチス期のドイツ、ファシスト時代のイタリア、1920年代・30年代の日本を例に挙げる。そして、これらとの対比で、次のように言う。「しかしながら、産業主義が最初に表れ、最大の進歩を示した地域、すなわちイギリスとアメリカは、まさしく、ナショナリズムが知られていない地域である」と。結論として、「かくして、理論と証拠は不幸にして別々の方向に引き裂かれている」と断言している。
 ケドゥーリーは、ゲルナーの誤りを端的に指摘している。ナショナリズムはその発生の時期において、産業化の時期とは一致していない。ケドゥーリーの主張に加えて歴史的事実を補うと、ゲルナーが注目する産業化がイギリスで始まったのは、市民革命の後のことである。1640〜80年代の市民革命から1770年代以降の産業革命までの間には、1世紀ほども開きがある。市民革命で政治参加した市民階級は、資本主義的な所有と経営を自由に行う権利を獲得し、富を増大した。また彼らが参加した政府は、産業化に対応した公教育を実施し、標準語を教育した。チャーティストが「われわれは普通教育制度を熱望する」と表明したのは、産業革命が勃発してから60年ほどたった1833年のことだった。初等教育の就学義務や公費による初等学校の設立が立法されたのは、さらに遅く1870年である。
 イギリスに続いて市民革命の起こったフランスは、先進国イギリスを模倣し、イギリスに追いつこうとした。イギリス、フランスでは、産業化が国民国家を生んだというより、市民階級が政治権力に参加した国民国家の政府が産業化を進めた。ウェストファリア体制で、すでに形式的には存在していたネイションの実質化が産業革命で加速された。産業化は、既に進んでいた国民の実質化を、識字率と計算能力の向上、共通語によるコミュニケーションの拡大、集団労働の組織化、社会的分業の促進等によって加速したのである。
 ケドゥーリーは、ドイツ語地域で「教義としてのナショナリズム」が構築されたというが、その地域は、封建制諸国家に分裂している状態で、18世紀末から1810年代にかけて、ナポレオンのフランスによって占領された。その異民族の支配下にある状態で、哲学者や思想家、文学者らがナショナリズムの思想を生み出した。ドイツの産業化の遥か以前のことである。18世紀末に新大陸で独立型のナショナリズムが高揚した北アメリカのイギリスの植民地、19世紀初頭に独立型のナショナリズムが高揚した中南米のスペイン、ポルトガルの植民地も、産業化以前の段階にあった。
 これらの国々及び地域におけるナショナリズムは、産業革命による経済的・社会的な近代化とは別の政治的な動機が主要因である。ゲルナーは異民族支配に対する抵抗・反発をナショナリズムの典型とする一方、ナショナリズムは産業革命以後の現象という。政治権力の話と経済の産業化の話を羅列しているだけで、これらが、まったくつながっていない。この理論的欠陥は、ゲルナーには権利論・権力論がなく、権力関係と生産関係の分析がないことによるものである。

 

●アンダーソンは、ネイションは「想像の共同体」だという

 アンダーソンは、著書『想像の共同体』(1983年)で、ネイションは、宗教改革の時代に始まる出版資本主義(Print capitalism)によって、「心に描かれた想像の共同体」として成立したと説いた。
 アンダーソンの「想像の共同体」論は、わが国で多くの人々に誤解を生んでいる。その誤解とは、国民とは想像上の共同体であって、実在のものではない。単なる観念的なものにすぎない、という誤解である。だが、アンダーソンは、ネイションを具体的には、次のように定義している。「国民とはイメージとして心に描かれた想像の共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」と。定義の後半を理解すれば、先のような誤解は生じ得ない。
 まず「想像の共同体」と和訳している原語は、imagined communitiesである。Imaginary(想像上の、実在しない)ではなく、imagined(想像された)であることに注意する必要がある。アンダーソンは、「想像された共同体」を、人々の直接的なつながりを超えた共同体という意味で用いている。アンダーソンは、次のように言う。「日々顔をつき合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は、またおそらくそうした原初的村落ですら、想像されたものである。共同体は、その真偽によってではなく、それが想像される仕方によって区別される」と。それゆえ、ネイションは、「想像された共同体」であるから原初的な村落やそれより大きいすべての共同体と区別されるのではない。「想像された共同体」という点では、ネイションは原初的な村落やそれより大きいすべての共同体と同じなのである。アンダーソンが言っているのは、村落より小さい、家族のような直接的なつながりによるもの以外は、すべての共同体は想像的なものだということである。
 では、ネイションが他の共同体と異なる特賞は何か。アンダーソンは、ネイションは「本来的に限定され、かつ主権的なもの」として想像されると述べている。「本来的に限定され」とは、「限られた国境」を持つことを意味する、とアンダーソンは解説する。すなわち、国境で区切られた領域において主権を持つことが、ネイションの特徴だと言っている。
 さて、アンダーソンもゲルナーと同じく言語の役割に注目する。アンダーソンは、近代における出版資本主義の伸長と俗語革命によって、人々がネイション(国民)という共同体への帰属を想像するようになったと説いた。出版資本主義とは、資本主義的な出版事業である。また、大量に印刷・販売される出版物が人々の日常的に使用する言語で書かれるようになったことが、俗語革命である。
 16世紀初めに始まった宗教改革において、資本主義的出版企業が各国語訳聖書を多数出版したことで、改革が促進されたことを、アンダーソンは強調する。そして、18世紀以降に新聞や小説を読むことによって、人々は限られた領域に主権を持つ政治的共同体としてネイションを心に想像することになったとする。
 宗教改革までは、少数の知識層・聖職者のみが古典語(ラテン語)を習得していた。だが、アンダーソンによると、宗教改革以降、世俗的な言語で書かれた出版物の流通が、「世界を理解する仕方」を変化させた。以前は宗教共同体や王国を支える聖なる言語によって「世界の摂理」が示されていたが、出版資本主義が伸長すると、人々は、暦や時計等によって計測される「均質な時間」の中で、自分のように、同じ言語で書かれたものを読んだり話したりする人々が存在すると考えるようになった。このような世界理解の様式の変化が、一つのネイションという想像の政治的共同体の生成を可能にした。
 私見を述べると、俗語革命においては、庶民の話す俗語をもとにした文章語が作り出された。口語は多様だが、その中の特定の形を基礎として標準化された文章語が作り出された。この時、多くの主権国家では、政治権力に参加し、文化的に優位に立つ統治者集団の言葉が、標準語の座を占めるようになった。これは、政治的に優位な集団は文化的にも優位に立ちうることによる。富と権力を持つ集団だから、自らの文化を、統治される集団に浸透させられる。統治者集団の言語や思想が国民に普及したことで、国民の実質化が進んだ。
 アンダーソンが注目する新聞については、イギリスでは市民革命を通じて時事の出版が発達し、日刊新聞や地方週刊新聞も出版されるようになった。18世紀には、いろいろな新聞が読み放題というコーヒー・ハウスが流行し、ブルジョワジーが新聞を元に政治議論を行った。だが、新聞が労働者大衆の手に届いたのは産業革命後であり、本格的普及は19世紀に入ってからである。
 産業革命後、共通の言語を基礎としたコミュニケーションの濃密化やその言語に基づいた教育が普及し、広い範囲での経済的・文化的交流が容易になった。蒸気船(1809年に商業化)や蒸気機関車(1825年に初開通)による交通手段、郵便(1840年に切手使用)による通信手段の発達が、より一層コミュニケーションを発達させた。資本主義的生産力が科学技術の生産への利用を促進し、交通・通信・出版等を一層発達させた。フランス等の国々においては、次々にイギリスを追いかけるように進んでいった。
 この過程は、ネイションの形成・発展を進めるナショナリズムが、旧大陸で発生・発達した過程である。ところが、アンダーソンは、ナショナリズムは18世紀後半から19世紀初頭にかけて新大陸で発生したと主張する。歴史上最初にナショナリズムの高揚が見いだされた地域は、北アメリカのイギリス、フランスの植民地、これに続くのが中南米のスペイン、ポルトガルの植民地だった地域だとする。そのため、出版資本主義によるネイションの形成やイギリス・フランスにおける市民革命は、ナショナリズムの発生・発達とは関係のない現象だという理解を生む。

 

●アンダーソンのナショナリズム論への批判

 ナショナリズムは新大陸で発生したとするアンダーソンの主張は、ナショナリズムにおけるエスニックな要素を軽視し、また植民地独立型のナショナリズムに重点を置きすぎている。旧大陸におけるエスニック・グループのネイションへの自生的な発達を適正に評価していない。
 アンダーソンは、出版資本主義に注目するなかで宗教改革に言及してはいるが、宗教改革が旧大陸におけるナショナリズムの発生の要因の一つとなったことを、十分よくとらえていない。宗教改革は、異なる言語文化を持つ西欧のエスニック・グループが、自らの信仰をローマ・カトリック教会から相対的に独立させようとする運動という側面を持っていた。プロテスタントは、それまでラテン語で書かれ、ラテン語の知識のない者は読むことのできなかった聖書を各国語に訳した。各国語訳の聖書は、印刷技術と紙の使用によって、民衆に普及した。自ら日常的に使用する言語が文章語となり、その言語で聖書を読めるようになったことは、ナショナリズム発生の言語論的土壌となった。
 宗教改革は、文化的な変動と共に政治的な変動をも引き起こした。ドイツでは、ルターの思想と彼によるドイツ語訳聖書が広がり、プロテスタントの諸侯が群立した。ドイツのプロテスタント諸侯は、教皇の権威と皇帝の権力の両者に対して最も否定的な態度を取った。イギリスでは、14世紀にウィクリフが聖書の英訳を企て宗教改革の先駆となっていた。また、国王が国教会を作って、自らその首長となり、カトリック教会を離脱した。絶対王政を確立する上で、この宗教的自立は重要な意味を持った。連合王国の成立後も、独自の宗派を持つ国家であることがイギリスというネイションの意識を強める働きをした。一方、フランスでは、一時ユグノーを支持した国王がカトリック支持に戻り、絶対王政とカトリックは不可分のものとなった。この絶対王政とカトリックへの反発から、急進的な市民革命運動が起こった。信教の自由の獲得は、人権の発達において最初の目的の一つだった。西ヨーロッパでは、政治的な単位と一致する民族的な単位とは、まず宗教的な独自性を持つ集団としての単位だった。この点でも、宗教改革は、ナショナリズム発生の一つの大きな要因となったのである。
 新大陸の植民地では、この点の事情が異なる。アメリカでは、本国の国教会に対し、カルヴァン派プロテスタントが多かったが、宗教的な独自性を以て独立したのではない。また、ラテン・アメリカでは宗教はほぼ全面的にカトリックゆえ、本国と宗教は同じだった。北米・中南米では、政治的な独立が追及されたものである。新大陸におけるナショナリズムの発生を強調することは、ナショナリズムと新旧キリスト教の歴史的な関係を捉えそこなっているものである。
 そのうえ、アンダーソンは、旧大陸から新大陸への政治思想への影響を過小評価している。ナショナリズムは、新大陸ではなく旧大陸において、既に17世紀後半のイギリスで発生していた。それが、北米における独立運動に影響した。18世紀後半にアメリカ合衆国は連合王国から独立したが、それはイギリス的なリベラリズムが植民地で高まり、独立を求めるナショナリズムに発展したものである。また19世紀初頭にラテン・アメリカ諸国がスペイン、ポルトガルから独立したが、その独立運動は、米国独立の影響に加えて、フランス市民革命のリベラリズム及び対外的な防衛・拡張のナショナリズムの影響を受けたものである。新大陸のナショナリズムは、旧大陸のナショナリズムの応用形として、植民地独立型のナショナリズムが発生・発達した。それゆえ、アンダーソンのナショナリズム新大陸発生論は間違っている、と私は考える。

 

●スミスは、エスニックな核が必要と説く

 ゲルナーとアンダーソンは、ともに国民が形成された要因を、近代化に見た。彼らは、ナショナリズムを純粋に近代的な現象であると考え、近代以前の共同社会とネイションの間には明確な違いが存在すると主張した。他の代表的な論者の多くも、類似の主張をしている。こうした立場を、ナショナリズム論における近代主義という。
 これに対し、ナショナリズムは、原始時代からあると説く論者もおり、その立場を原初主義という。原初主義は、歴史の始めから現代まで世界に広く見られるエスニシズムと、近代的な現象であるナショナリズムの区別ができておらず、エスニックなものをナショナリズムの用語で語るために、議論が混乱している。
 私は、原初主義的なナショナリズム論に対しては、エスニシズムとナショナリズムを区別すべきと比較論を提示する。一方、近代主義的なナショナリズム論に対しては、前近代的なエスニシズムからの連続性を指摘し、ナショナリズムにおける近代性と前近代からの連続性を総合的にとらえるべきと考える。そして、このような観点から、ナショナリズムの近代性を説くだけでなく、ネイションの形成にはエスニックな核が必要だとするアンソニー・スミスの理論を高く評価する。
 スミスは、ゲルナーやアンダーソンらの近代主義的なナショナリズム論を批判し、ネイションの形成における伝統文化の役割を強調した。スミスは、著書『ネイションとエスニシティ』(1986年)で、近代のネイションの背景となっているエスニック・グループをエスニーと名づけて、ネイションと区別した。エスニーは、近代的なネイションが形成される過程で、そのネイションのもとになった集団である。ネイションは、一つのエスニーが周辺のエスニーを包摂することによって成立したものであり、近代以前からのエスニーの伝統を引き継いでいる。近代において国民形成が可能になったのは、エスニーに継承されてきた民族にまつわる象徴体系があったからだ、とスミスは主張する。近代化によって、商業や交易の方法の変化、行政・戦争・国家間関係の性格の変化、世俗的な知識階級・大衆文化・大衆教育の登場等が起こった。それによって、人間の集合的な単位や感情に重大な変化がもたらされたことをスミスも認める。だが、そうした変化は近代以前の社会的枠組みの中で起こったのであり、既存の枠組みが近代の新しい枠組みへの変動を条件づけた。民族の起源にまつわる神話や記憶、象徴等からなる「神話―象徴複合体」が、ネイションの近代性を制約したのだ、とスミスは主張する。ネイションの形成には、エスニックな核が必要だという主張である。
 私は、スミスの見解に基本的に賛同する。例えば、近代主義のゲルナーやアンダーソンは、ネイション形成における言語の重要性を説くが、人々が共通して身につけるようになった言語は、無から創造されたものではない。近代以前から受け継がれてきたエスニックな自然言語を、固有の語法に則って標準語化したものである。その言語には、出版資本主義や産業化以前から蓄積されてきたエスニックな文化が蓄積されている。また、個々のネイションの形成は、人類や民族の起源にまつわる物語が、もともと人々の間で共有されていたから可能になったものであり、全く歴史的な根を持たない思想は、人々に容易に受け入れられない。他にも、様々な理由を挙げることができる。そこに表れる思想・運動がエスニシズムであり、ナショナリズムはエスニシズムの特殊近代的な形態である。ナショナリズムには、近代性と近代以前からの連続性という二つの側面がある。その点を踏まえて、ナショナリズムを把握し、人権とナショナリズムの関係を考察する必要がある。

 

●西/東とシビック/エスニックという分け方
 
 次にナショナリズムの類型について述べる。はじめに代表的な論者の類型論を検討し、その後に私の所論を提示する。
 ナショナリズムの先駆的な研究をした歴史学者のハンス・コーンは、ナショナリズムを「西(West)のナショナリズム」と「東(East)のナショナリズム」に分けた。
 コーンの「西」は、イギリス、アメリカ、フランス、オランダ、スイス等の西欧及び米国を意味し、「東」はドイツを含む東欧、中欧、アジア等のそれ以外の地域を意味する。
 コーンによると、西のナショナリズムは、17世紀イギリスのピューリタン革命で始まったもので、個人の自由を尊重し、また合理的である。それが、フランスの1789年市民革命と1848年二月革命を通じて、東欧、中欧に波及した。東のナショナリズムは、個人の尊厳よりも集団の権力を強調し、また非合理的である。西のナショナリズムは市民階級による政治的運動として始まったが、東のナショナリズムは学者や詩人による文化的運動として始まった。ドイツを含む東欧、中欧では、市民階級がまだ成長しておらず、政治的発言力が弱かったからである。
 このように説いたコーンの西/東という分類は、コーンに続く研究者に強い影響を与えた。ナショナリズム論の論者の多くは、この分類を継承している。私は、西/東という地理的な名称による分け方は、空間的でわかりやすいが、西/東の分岐点がはっきりしないし、特徴を端的に示していない弱点があると思う。
 アンソニー・スミスは、西/東という分類に別の要素を加えている。スミスは、ネイションを「市民的・領域的なネイション」と「エスニック・系譜的ネイション」に分ける。「市民的・領域的なネイション・モデル」は「西欧型」ともいう。この型は、「ある種のナショナリズム運動」すなわち「独立以前における反植民地運動、独立以後における統合運動」を生み出す傾向があるとする。他方、「エスニック・系譜的なネイション・モデル」は、ドイツを中心とした「東欧型」ともいう。この型は、「独立以前は分離主義的あるいはディアスポラ的な運動」、「独立以後は領土回復主義あるいは『汎』運動」を生み出す傾向があるとする。スミスは、この「類型論」によって「多くのナショナリズムの基本的論理が捉えられる」と述べている。
 スミスは、こうしたネイションの類型論をもとに、ナショナリズムの分類を行い、ナショナリズムを「領域的ナショナリズム」と「エスニック・ナショナリズム」に分ける。「領域的ナショナリズム」は、「市民的・領域的ネイション」に対応する。「エスニック・ナショナリズム」は「エスニック・系譜的なネイション」に対応する。
 スミスは、これらについて独立以前、独立以後という分け方をしているので、その主旨を示すと、スミスは、領域的ナショナリズムの独立以前の型として、反植民地型ナショナリズムを挙げる。「まず外国の統治者を追放し、ついで旧植民地を新しいステート・ネイションに置き換えようとする」ものである。独立以後の型としては、統合型ナショナリズムを挙げる。「しばしば異なるエスニック集団を結合して新しい政治共同体に統合し、また旧植民地国家から新しい「領域的ネイション」を作り出そうとする」ものである。
 スミスの領域的なナショナリズムとエスニックなナショナリズムという分け方は、地理的な西/東と異なり、思想・運動の特徴を表現できている。ただし、前者はシビック(市民的)なナショナリズムと呼んだ方が、性格の対比が明瞭になる。そこでこれをシビックなナショナリズムとすると、シビック/エスニックという対になる。私見を述べるため、家族型の理論を加えると、自由至上の価値観を持つ絶対核家族のイギリス、アメリカと、自由・平等の価値観を持つ平等主義核家族のフランスは、自由を価値とする個人主義が強く、これをシビックなナショナリズムと見ることができる。これに対し、権利・不平等の価値観を持つ直系家族のドイツ、日本、権威・平等の価値観を持つ共同体家族のロシアでは、権威を価値とする集団主義が強く、これをエスニックなナショナリズムと見ることができる。
 次に、スミスは、エスニック・ナショナリズムには、独立以前の型として、分離型とディアスポラ型があるとする。これらは「より大きな政治的単位から分離し、あるいは分離したうえで指定されたエスニックの故国に結集し、その場に新しい政治的『エスノ・ネイション』を創設する」ものだという。「エスノ・ネイション」は、エスニックなネイションを一語にしたものである。スミスは、独立以後の型には、民族回復型と「汎」型のナショナリズムがあるとする。これらは「『エスノ・ネイション』の現在の境界線の外側にいるエスニックの『同族者』と彼らが居住する土地を包含したり、また文化的にもエスニック的にも近似性の高いエスノ・ナショナル諸国の連合を通じて、さらにもっと大きな一つの『エスノ・ナショナル』国家を形成することによって拡張しようとする」ものだという。このうち、スミスのいう「汎」型として、汎ゲルマン主義や汎スラヴ主義、汎アメリカ主義等が挙げられよう。

 

●シビックな要素とエスニックな要素の二重性

 アンソニー・スミスは、すべてのナショナリズムの核心には、根本的な二重性があるという。一つはシビック(市民的)と呼ばれる要素であり、もう一つはエスニック(民族的)と呼ばれる要素である。前者は、一定の領域内において共通の法体系のもとに法的・政治的権利の平等性を確立し、人々を政治的市民と規定する。後者は、祖先にまつわる神話や伝統を土着的な言語や文化などにより人々の紐帯を生み出す。これらは別々のものではなく、すべてのナショナリズムには、市民的要素と民族的要素が併存している、とスミスはとらえる。
 私見を述べると、これらの要素は単に併存するのではなく、シビックな要素が強い場合と、エスニックな要素が強い場合がある。シビックな要素だけを見ると、エスニックな要素を見落としてしまう。しかし、シビックなナショナリズムに分けられるイギリス、アメリカ、フランス、中南米等のナショナリズムにも、エスニックな要素がある。これらの国々のナショナリズムに相違があることが、そのことを端的に示している。エスニックなナショナリズムに分けられるドイツ、日本、ロシア等のナショナリズムにも、シビックな要素がある。西欧的近代法制度、市民的自由、合理的統治機構等がそれである。単純な二分法では、こうした要素を見落としてしまう。
 注目すべきは、シビックなナショナリズムには、一見普遍的な価値を原理としているようでいて、実はエスニックな価値観を普遍的価値とし、自己の特殊的な価値を人類に普遍的な価値として、普及する場合があることである。特に国家発展段階の対外膨張型のナショナリズムは、自らの家族型的かつエスニックな価値を普遍的な価値とし、その伝播を啓蒙・進歩として主張する。
 塩川伸明は、「わが国こそ普遍的な価値の担い手だ」という意識によって、普遍性の論理を掲げつつ、「その価値の卓越した、あるいは先駆的担い手が自分たちだ」という形で「ナショナリズムを正当化」する例を挙げる。
 普遍的な価値というと、フランスの「自由・平等・友愛」が代表的だが、塩川は、イギリスの場合に、これに当たるのが自由貿易主義であるとする。塩川は、これは「あたかも普遍的な原則であるかに見えるが、不均等な発展の現実の中では、相対的優位に立つ国を利する効果を持つ」とし、「自由主義イデオロギーが特定国家の世界的優位を正当化する役割を果たし、そのような中心国家の一種独自のナショナリズム・イデオロギーともなるという構造は、19世紀から20世紀前半にかけてのイギリスで典型的に見られたものであり、その後、アメリカに引き継がれた」と述べている。適切な指摘である。シビックなナショナリズムがはらむエスニックな要素を見落とすと、それが打ち出す価値を普遍的なものとして受け入れることが進歩だという錯覚に陥る。
 私見を加えると、イギリスの経済的自由はアメリカで政治的文化的自由へと拡大された。この自由主義(リベラリズム)の価値観の展開は、資本主義の発達と一体的に進行した。その過程において、アングロ・サクソン文化とユダヤ文化が融合し、アングロ・サクソン=ユダヤ文化が発達した。また、アメリカでアメリカ独自の要素が加わったアメリカ=ユダヤ文化が発達した。そして、その文化の中に深く浸透したユダヤ的な価値観が世界に広がることになった。ユダヤ的価値観の根底には、セム系一神教の世界観があり、ユダヤ教の選民思想と拝金思想がある。それらが近代資本主義市場経済の発達の中で、疑似的な普遍性を持つ価値観として、強力な影響を振るうに至った。
 これに対抗する思想の一つとして、共産主義がある。共産主義は、19世紀半ばからマルクスらによって、国際主義の運動として展開された。だが、革命後のソ連において、ナショナリズムのイデオロギーとなってしまう。ソ連共産党は、共産主義の思想を普遍的な価値観と説くことで、ナショナルな利益追求をカムフラージュし、自国の権力の対外的な拡大・強化を行った。共産主義の根底にも、セム系一神教の世界観があり、ユダヤ教の選民思想と拝金思想がある。
 自由主義と共産主義は、20世紀以降世界を二分する思想となったが、ともに真に普遍的な価値観ではなく、家族型的かつエスニックな価値観を疑似普遍的な価値観として、世界に広げようとしたものである。

 

●ナショナリズムの類型論

 私は、ナショナリズムの類型について、コーンやスミスの分け方では不十分であり、より網羅的な分類が必要だと考える。ここで私の類型論を提示したい。
 ナショナリズムは、ネイションの形成・発展にかかる思想・運動である。ナショナリズムの主な目的には、革命、独立、統一があり、ナショナリズムは目的別に分類できる。またナショナリズムには、国家形成段階と国家発展段階があり、前者は、ある集団がネイションを形成しようとするナショナリズムであり、後者は、出来上がったネイションをさらに発展させようとするナショナリズムである。
 具体的には、国家形成段階のナショナリズムは、目的別に、国内において市民革命によって権力を奪取または権力に参加しようとする市民革命型、一つのネイションにおいて植民地人民が本国の政府から独立しようとするか、または人々が異民族支配から独立しようとする独立建国型、自民族の統一を目指し、民族統一的な国家を作ろうとする民族統一型がある。なお、国家形成ではなく、自治の獲得・拡大のみを目指す運動は、主権を獲得しようとするものではないので、ナショナリズムではなくエスニシズムの方に私は分ける。
 国家発展段階のナショナリズムには、自らの国家や国民の国内的発展を目指したり、文化的同化や思想の共有による国民の実質化を図ったりする内部充実型と、他の国家や民族を支配またはそれらを併合して発展しようとする対外拡張型がある。
 国家の形成・発展の両段階において、前近代的な帝国で国王や皇帝の政府が主導して、国民形成を進めるものがある。これは主体による分け方になるが、人民主導ではなく、政府主導型である。
 国民国家においては、主要なエスニック・グループを基盤とする支配集団による統治支配的ナショナリズムに対して、被支配集団による反発対抗的または分離独立的なナショナリズムが現れる。反発対抗的ナショナリズムは、一国内の権力関係において権利・権力の拡大を図るものである。分離独立的ナショナリズムは、所属国からの分離・独立を求めるものである。被支配集団のナショナリズムは、国際社会では対外拡張型のナショナリズムへの反発対抗的ナショナリズムや分離独立型のナショナリズムという形でも現れる。
 ナショナリズムの特殊な例として、分断国家の統一または回復を求める運動がある。話は20世紀に及ぶが、第2次世界大戦後の東西ドイツや南北朝鮮・南北ベトナム等にこれが見られる。一つのエスニック・グループがイデオロギーによって、二つのネイションに分かれたか、もとは一つのネイションだったものが、外国勢力によって二つに切り離された場合である。分断国家の統一または回復を求める思想・運動は、分断回復型のナショナリズムである。

●ナショナリズムの主体

 ナショナリズムの担い手は、歴史的に見ると、ヨーロッパで絶対王政の主権国家が成立したとき、国家発展の主たる担い手は、国王その臣下としての絶対主義官僚だった。彼らのエスニシズムがナショナリズムに発達していった。次に、イギリス、フランスの市民革命後に発生したナショナリズムは、ブルジョア的市民層が主たる担い手になった。その後、19世紀から20世紀にかけて、担い手は労働者階級に広がった。民衆の政治参加が実現され、拡大された。この過程で、国民の権利を普遍的な理念とした人権の思想が発達した。ナショナリズムは、このようにまず欧米先進国で、社会の上層部から底辺部へと拡大された。
 次に、ナショナリズムの類型において、それぞれの担い手を見ると、大まかに次のようになる。
 国家形成段階において、市民革命型の主体は階級または党派、独立建国型は同じネイション内での植民地人民または異民族支配下にあるエスニック・グループ、民族統一型は諸国家に分散するエスニック・グループである。国家発展段階において、内部充実型の主体はネイションであり、主要的かつ支配的なエスニック・グループの統治者集団が、その核になる。対外膨張型の主体はネイションであり、その政府が核になる。国家形成・発展の両段階で、政府主導型は政府が主導する。所属国における反発対抗的ナショナリズムや分離独立的ナショナリズムの主体は、国内・国外ともエスニック・グループまたはサブ・ネイションである。
 ナショナリズムは、個人を主体として見れば、個人の忠誠心を近代的なネイションに向けることによって成立する政治的な意識と行動である。そのナショナリズムの主体は、多くの場合、特定の国家に所属するか、または一定の地域に集住する集団である。しかし、ここに特殊な集団として、ディアスポラ(離散民)がある。ディアスポラは、複数の国家に分散居住するエスニック・グループである。どの居住地でも少数派であるディアスポラには、本国を獲得する本国獲得型のナショナリズムと、本国とのつながりを維持・強化する本国連携型のナショナリズムがある。本国獲得型の主体はエスニック・グループ、本国連携型は本国のネイションと国外のエスニック・グル―プとなる。近代最大のディアスポラであるユダヤ人の場合は、イスラエル建国までが本国獲得型であり、イスラエル建国後は本国連携型である。

 

●ナショナリズムの各国での展開

 次に、ナショナリズムの歴史的な展開を、各国別に見ていこう。以下の記述は、先に書いた国民国家の各国史的展開を補足するものとなる。
 まずイングランドのナショナリズムは、前例のない先発的なナショナリズムであり、国家形成段階では、市民革命型である。国王に権力が集中し、身分制議会で国王を中心としたエスニックな意識が成長してきたところで、17世紀にヨーマンリー(独立自営農民)やジェントリー(郷紳)が市民階級を形成して議会に進出した。市民革命は、近代的なネイションを形成する政治的な運動ともなった。自由と権利を得た市民が参加した議会は、国民の実質化を促し、ナショナリズムを国内に推進する機関としても機能した。国家発展段階では、対外拡張型のナショナリズムが諸大陸に展開された。北米、アジア、アフリカ等に広大な植民地を獲得し、有色人種を支配・搾取した。
 フランスのナショナリズムは、先進国イギリスを前例とする次発的なナショナリズムである。フランスはイギリスに政治・経済・思想等を学び、これを摂取してイギリスに対抗した。身分制議会である三部会に参加した第三身分(農民・市民)が政治権力を求めて革命を起こした。1789年7月三部会は憲法制定国民議会と改称され、封建制の廃棄を宣言して、人権宣言を採択した。国民の議会が人権を宣言したのである。自由と権利の確保・拡大と、国民国家の形成が同時に進んだ。ナポレオンによる民法典等で国民の権利が法制化されるともに、対外戦争によってナショナリズムが高揚した。イギリス同様に植民地を獲得し、有色人種を支配・搾取した。そのナショナリズムは市民革命型であり、また対外拡張型だった。
 アメリカ合衆国のナショナリズムは、本国イギリスからの独立を求める独立建国型のナショナリズムだった。一つのネイションの中で、植民地人民が独立した。独立後、連邦政府のもとで、新大陸に別のネイションの形成がされた。国家発展段階では、まず北米大陸の開拓を進めた。その後、太平洋へと対外拡張を図った。
 ラテン・アメリカのナショナリズムも、独立建国型のナショナリズムである。スペイン・ポルトガルを本国とする植民地で本国の支配に抵抗して独立が主張された。植民地で生まれ育った白人種の子孫であるクレオールの現地官僚が中心となって独立を目指した。本国によって区画された非主権的な行政機構をもとに、多数の国家が独立し、新たな国家権力のもとで国民の形成がされた。
 ドイツ・イタリアのナショナリズムは、西欧における後発的なナショナリズムである。ドイツ語を話すエスニック・グループが多数の諸邦に分かれている状態を、ナポレオンのフランスに支配された。そこからの自由と統一を求める民族統一型のナショナリズムだった。先発的・次発的なナショナリズムの主体である先進国に、後進国として追い付こうとした。
 ロシアのナショナリズムは、非西欧における後発的なナショナリズムである。東方に位置し、イギリス、フランス等から政治・経済・思想等を学んで摂取して、追いつこうとした。皇帝の政府が前近代的な帝国を国民国家に改造しようとした。政府主導型のナショナリズムであり、また上からの近代化だった。国家発展段階では、広大な領域で多民族を統合しつつ、ユーラシア大陸の内陸部から対外的な拡張を図った。
 日本のナショナリズムは、非西欧における後発的なナショナリズムである。欧米列強による侵攻・支配の危機に直面し、エスニック・グループが近代的な中央集権国家を建設して、ネイションに成ろうとした民族統一型のナショナリズムである。封建制を打破しようとした市民革命型の要素も持つ。アジアにおいて、欧米諸国の植民地とされることなく、近代国家を建設することに成功した。国家発展段階では、東北アジアにおける対外拡張型ともなった。
 以上のような世界システムの中枢部(欧米)及び半周辺部(独伊露日)のナショナリズムは、多くの場合、対外拡張型となって周辺部の支配を進めた。そのうち中枢部における国民の自由と権利の発達は、周辺部における自由と権利の抑圧または剥奪と並行して進んだ。中枢部では国民の権利が人権として理念化され、周辺部では人間が家畜のように使役され、奴隷化された。中枢部では人間がより人間的になり、周辺部では人間がより非人間的にされた。人権の発達と抑圧が、上層と下層で対照的に並行して進んだ。
 これに対し、周辺部に位置するアジア・アフリカの諸社会が白色人種の植民地から独立したのは、20世紀半ば以降となるので、本章の範囲を超えるが、ここで触れておくと、そのナショナリズムは、有色人種による独立型のナショナリズムである。植民地からの独立において、統治の枠組みは外来の支配者によるものだった。この枠組みで国境が画定された新興独立国家には、その国家に対応するエスニック・グル―プが必ずしも存在しなかった。独立後、政治権力をめぐって民族間・部族間の激しい対立・闘争が展開された場合が少なくない。

 

●ナショナリズムとリベラリズムの相互作用

 ナショナリズムは、近代西欧において、近代国家を建設し、国民を形成する駆動力となった。その結果、実現・成長したのが国民国家である。ナショナリズムは、エスニック・グループをはじめとする様々な集団を一つの国民として形成することによって、領域国家の住民の間に同胞意識や連帯感を培った。それによって国民は等しく自由と権利を有するべきだという人権の思想を発達させた、と私は考える。
 西欧では、中世の身分制議会で国王を中心とする臣下の集団という意識が形成され、このエスニックな集団意識が国民の意識へ発達した。議会は、新興階級が市民革命を推し進める場所ともなった。市民階級が権利を拡大することによって、身分制議会は近代的な国民的な議会に変化した。この過程で、自由の確保・拡大を求めるリベラリズムと、民衆の政治参加を求めるデモクラシーが結合して、リベラル・デモクラシーが生まれた。そのリベラル・デモクラシーと、ネイションの形成・発展を目指すナショナリズムが、相互作用的に発達した。
 リベラリズムには、消極的リベラリズムと積極的リベラリズムがある。消極的リベラリズムは、国家権力による干渉を拒否し、政府に文化的中立を求める。積極的リベラリズムは、政治権力に参加を求め、権力を行使して自由と権利を拡大しようとする。リベラリズムには、目的別にみると、市民革命型、独立建国型、民族統一型、自治拡大型の4つの類型がある。ナショナリズムと違って、政府主導型はない。逆に、ナショナリズムには、自治拡大型はない。
 イギリス、フランスにおけるリベラリズムは、絶対王政を倒し、市民階級の政治参加を求める市民革命型だった。アメリカ、ラテン・アメリカでは、本国からの独立を求める独立建国型だった。イタリア、ドイツでは、自由と統一を同時に追求する民族統一型だった。カナダにおけるケベック州では、自治拡大型である。また、これらの型が複合した複合型が存在する。
 ナショナリズムとリベラリズムを相反するものと見たり、別個に扱ったりするのは、正しくない。人間には、個人性と社会性がある。リベラリズムは個人性の面で、自由と権利の獲得・拡大を目指す。これに対し、社会性の面で、自由と権利の獲得・拡大を目指すものが、ナショナリズムである。消極的リベラリズムの徹底した形態は、政府による国民の統合や国民意識の形成を行うナショナリズムに対して、自由への侵害として反発する。これは、反ナショナリズム的なリベラリズムであり、個人主義的である。これに対し、積極的リベラリズムは、ナショナリズムと融合し得るリベラリズムである。
 ナショナリズムの目指すものは、ネイションの形成・発展である。そのために、国家形成段階では、革命・独立・統一を図り、国家発展段階では、国内の充実と対外的な拡張を企てる。ナショナリズムは、政治権力の獲得・拡大を求め、集団的権利である国権・民権の獲得・拡大を目指すものである。これに対し、個人の権利である人権の確保・拡大を目指すものが、リベラリズムである。ここで国権とは政府の権利(the right of state)であり、民権とは人民の権利(the right of people)であり、人権とは個人の権利(the right of persons)である。そして、国権の獲得・拡大を目指すのが国家主義としてのナショナリズム、民権の獲得・拡大を目指すのが国民主義としてのナショナリズムである。また人権の獲得・拡大を目指すのが、自由主義としてのリベラリズムである。ナショナリズムとリベラリズムが融合する時、国権・民権・人権を一体のものとして実現・拡大しようとする運動となる。
 ナショナリズムは、リベラリズムによって集団が個人性の方向に行き過ぎるのを規制し、集団としての共同性を維持する力となる。一方、リベラリズムも本来、社会の共同性あってのものであり、ナショナリズムは、その基盤を確固としたものにする。
 個人本位のリベラリズムと集団本位のナショナリズムは、個人と集団の関係において、対立する場合もあれば、協調する場合もある。反ナショナリズム的なリベラリズム、反リベラリズム的なナショナリズム、両者が融合したリベラリズム的なナショナリズムが存在する。歴史的には、多くの場合、リベラリズムとナショナリズムは、相携えて発達してきたのである。
 ナショナリズムとリベラリズムの相互作用は、次のように展開した。先進地域であるイギリス、フランスでは、市民革命型のリベラリズムとナショナリズムが融合した。欧州諸国の植民地では、別の要素が加わった。北米、中南米の植民地では、支配者と被支配者が同じ民族だった。そこでの独立を求める思想・運動は、リベラリズムを基本とした。自由を求めるリベラリズムが権利の拡大要求を超えて独立運動となり、独立した政府を樹立しようとした。独立に成功すると、植民地だけで新たなネイションを形成した。この過程で、ナショナリズムが発達した。
 西欧の後進地域において、イタリアでは、フランス革命の影響を受けた共和主義者が、イタリアの統一を進めた。自由や民衆の政治参加を求めるリベラリズムが国家の統一を目指すナショナリズムとなった。ドイツでは、ナポレオンの占領下にあって、封建制を批判して近代化を進めるリベラリズムと、異民族であるフランスの支配からの自由と民族の統一を求めるナショナリズムが融合した。非西欧の後進地域において、ロシアでは、皇帝が国民国家をめざし、上からの近代化を進めた。政府主導型のナショナリズムが強く、リベラリズムの要素はあまり発達しなかった。
 日本では、欧米列強の植民地にされぬように、武士階級が中心となって近代的統一国家を建設した。封建身分制を自ら廃止した点では、リベラリズムである。また、欧米列強の植民地にされぬよう天皇を中心とした近代国民国家を形成した点では、ナショナリズムである。
 ナショナリズムとリベラリズムの相互作用には、さらに複雑な展開がみられる。ナショナリズムとエスニシズムの関係や、サブ・ネイションによるナショナリズムが絡むからである。次項からこれらについて述べたい。

 

●ナショナリズムとエスニシズムの相互作用

 ナショナリズムは、政治的には国家主義・国民主義であるが、文化的には一個のエスニック・グループの言語・文化等への同化を国民に求めるものと、多言語・多民族・多文化・多宗教を許容するものもある。前者は単一文化的ナショナリズム(mono-cultural nationalism)、多文化的ナショナリズム(multicultural nationalism)と呼ぶ。後者は、多民族的ナショナリズム(multiethnic nationalism)ともいう。
 多文化的ナショナリズムは、単一国家でも連邦国家でも取りうる態度である。統治する側のナショナリズムと統治される側のエスニシズムは、対立・衝突・和解・融合等の相互作用を生む。エスニシズムは、ある集団がエスニック(民族的)な特徴を積極的に維持・発揚しようとする運動や傾向であり、その意味での民族主義である。ここでは、その具体的な事象について述べる。
 近代西欧では、各地でネイションが形成された際、それぞれの集団で主要なエスニック・グループが政治権力を獲得または権力に参加した。多くの国では、それ以外に様々なエスニック・グループが存在してきた。少数民族としては、イギリスにおけるケルト人、フランスとスペインにおけるバスク人、スペインにおけるカタルニャ人、北部インドを原郷とするロマ人等が知られる。少数派のエスニック・グループを国民の一部とする国家では、主要な言語・文化・宗教等への同化を進めた場合と、少数派の文化を許容した場合がある。
 一つのエスニック・グループが必ずしもネイション(国家・国民)の形成に成功するとは限らない。所属国からの分離・独立は、多くの場合、激しい闘争を引き起こす。所属国における政権の奪取を目指すものであれば、闘争の激烈さは言うまでもない。ネイションの形成に成功した場合でも、一つのエスニック・グループが、その一部は一つのネイションとなり、別の一部は他のネイションに残り、少数派のエスニック・グループとなる場合もある。例えば、ドイツ民族がそれである。
 エスニック・グループには、複数の国家にまたがって存在するが、政治的な統治権力を持たない集団も存在してきた。例えば、イスラエル建国以前のユダヤ民族がそれである。ユダヤ人については、別の項目にも書いたが、西欧のみならずロシア、東欧からイベリア半島等にまで分布するディアスポラ(離散民)であり、ユダヤ教を信仰することによってキリスト教文化の中で迫害を受けてきた。その中で一部のユダヤ人は、西欧諸国で経済的文化的に活躍し、オランダ、イギリス、フランス等では王家と結びつき、財政や金融になくてはならない存在となった。イギリス、ドイツ等では、18世紀の啓蒙主義の時代に、ユダヤ人の知識人を中心にキリスト教社会への同化がかなり進んだが、ユダヤ教徒エスニック・グループの独自性を保とうとする動きも根強かった。
 フランス革命によって、ヨーロッパで初めてユダヤ人の解放が行われた。ユダヤ人の自由と権利を確保するための動きが、人権思想の発達に重大な影響を与えた。しかし、19世紀末にそのフランスでドレフュス事件が起こり、反ユダヤ主義が高揚した。これに対し、ユダヤ人の側に、シオニズムが起こった。シオニズムは、ユダヤ人というエスニック・グループが自前の国家を持とする思想・運動だった。ユダヤ人によるナショナリズムである。本章の範囲を超えて20世紀に話が及ぶが、イギリスがバルフォア宣言を出したことによって、ユダヤ人による国家建設が国際的に認められた。第2次世界大戦後、ユダヤ人はイスラエルを建設したが、その際、多数のパレスチナ人を排除したため、ユダヤ人のナショナリズムとパレスチナ人のナショナリズムが対立・抗争することになった。

 

●連邦国家の複雑な事情

 多文化的なナショナリズムは、単一国家でも連邦国家でも成り立ち得るが、当然、連邦国家の方が複雑な様相を呈する。
 連邦国家には、複数の州または国家等と呼ばれる政治組織が存在する。連邦国家の構成単位を表す訳語「邦」は、ネイションより下位の政治単位を表す。アメリカ合衆国の州、スイス連邦共和国の州、ドイツ帝国における王国・大公国等が、これである。基本的には独立した主権国家ではない、非独立の非主権国家を指す。ただし、一定の自治権を持っている。
 連邦国家のレベルの政治組織をネイションとすると、下位の政治組織は、サブ・ネイションと呼び得る。サブ・ネイションは、単なるエスニック・グループではない。その組織も、一つまたは複数のエスニック・グループによって構成されている。そこで、サブ・ネイションが政治的な思想・運動を持つ場合、ナショナリズムとエスニシズムの間で独自性を示す。これを私は、サブ・ナショナリズムと呼ぶ。独立建国を目指すならナショナリズムだが、サブ・ネイションの地位のままで、自治権の拡大を目指すのが、サブ・ナショナリズムである。サブ・ナショナリズムは、連邦国家のナショナリズムと種々のエスニシズムの双方に作用して複雑な影響をもたらす。集団と集団の間の権利・権力の関係である。それが重層的・交差的に関わり合う。
 この点について、事例を挙げて記したい。最初にイギリスの事例であるが、今日のイギリスは4つの非独立国であるイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドよりなる。これらの非独立国は country(国)と言われる。この構成は、かつての主権国家であるイングランド王国とスコットランド王国の連合、それによってできたグレート・ブリテン連合王国とアイルランド王国の連合による。
 ウェストファリア条約によって、島国のイギリスでも各王国は主権国家となった。市民革命後、1707年にイングランドとスコットランドの主権国家同士の合同がなり、連合王国が成立した。この時点で、イングランドにもスコットランドにも議会が存在した。合同によって、スコットランド議会の議員は、ウェストミンスターの議会に送られたが、スコットランドは貨幣の発行権等の一部の特権を保持した。連合によって出来た国家を、近代的なネイションととらえると、その構成員となったイングランド及びスコットランドは、サブ・ネイションとなった。一定の自治権を持ち、また独自の行政区分等を持つ。
 連合王国では、その全体レベルの思想・運動としてのナショナリズムが発達した。対内的には英語(イングリッシュ、イングランド英語)・国教会等で国民を文化的に均一化しようとし、形式的な国民を実質的な国民に変える動きが進められた。また対外的には、フランス・オランダ等に対し主権国家として、権利を主張し、国威を発揚し国益を追求する動きが行われた。
 この一方、イングランド及びスコットランドには、その政治組織のレベルでの文化的独自性や政治的・経済的利益を追及する思想・運動が存在する。サブ・ネイションの政治的な思想・運動としてのサブ・ナショナリズムである。イングランドは、連邦国家というネイションにおいて主要的なエスニック・グループゆえ、そのサブ・ナショナリズムはそのまま連邦国家レベルのナショナリズムとなり得る。これに対し、スコットランドは副次的なエスニック・グループゆえ、そのサブ・ナショナリズムは、イングランドにおけるそれとは違う性格を持つ。仮にスコットランドが所属国である連合王国から分離・独立を志向するならば、所属国のナショナリズムに対抗する分離・独立型のナショナリズムに転じる。
 アイルランドは、1800年に当時のグレート・ブリテン連合王国と合同して新たな連合王国の一部となった。その後、自治権を得て独立を図り、1949年にアイルランド共和国を樹立した。20世紀半ばの話になるが、この際、北アイルランドは連合王国にとどまり、アイルランドと北アイルランドの対立関係が生まれた。アイルランドは一個のネイションとなり、北アイルランドは連合王国の一部であるサブ・ネイションとなった。
 ややこしいことに、イギリスでは、ネイションに当たる連合王国を「コモン・ウェルス」と呼び、サブ・ネイションに当たるイングランド、スコットランド等を「ネイション」と呼ぶことがある。もともと独立した主権国家だったので、こういう言い方がされるのである。「多民族国家」は、米語では multicultural state というが、英語では multinational state という。連合王国とその他の主権国家で構成する英連邦のことも、「コモン・ウェルス・オブ・ネイションズ(Commonwealth of Nations)」と呼ぶ。英連邦は独立主権国家の緩やかな連合体であって、連邦国家ではない。英国女王を自国の元首とし女王がその国の王を兼ねる国と、独自の君主や大統領を元首とする国があるなど、実態は非常に複雑である。

 イギリスに続いて創設された近代国家は、国によって事情が違い、また統治機構がそれぞれ異なっている。多民族・多文化・多言語・多宗教の国家は、込み入った事情を抱えている。
 アメリカ合衆国は、ネイションのレベルでは大統領・連邦議会・連邦裁判所があるが、その下に一定の政治権力を有する州(state)と訳される政治的単位がある。州は日本の県(prefecture
より自治権が大きく、サブ・ネイションと見ることができる。連邦政府の権限は強大だが、同時にかなり分権的である。
 米国がイギリスの植民地から独立した当時、移民国家ゆえ多数のエスニック・グループが移住していたが、それらのエスニック・グループは一つの州に集中せず、各地に分散して居住していた。建国の指導者は、連邦体制を作る際、エスニック・グループと行政単位の州が一致しない構成にした。
 米国のネイションの歴史で最大の出来事は、先に述べた南北戦争である。南部と北部は産業や貿易、奴隷制等に関する意見の対立により、実力闘争を行った。南部諸州は、連邦からの独立を宣言したのに対し、北部諸州は、その独立を認めず、戦争となった。南部諸州の独立運動は、サブ・ネイションによる独立建国型ナショナリズムと言える。戦争は、北部諸州が勝利し、南部諸州を再び一個のネイションに統合した。仮にリベラリズムの思想によって、北部諸州が南部諸州の自由と権利を尊重していれば、米国は二つの連邦国家に分裂していただろう。北部諸州でリベラリズムよりナショナリズムが優位だったので、南北が一体化したネイションができた。この点で、米国は、連邦からの独立の自由を認めない「イリベラル(illiberal)」な原理による連邦的ナショナリズムの国家である。
 ナショナリズムは、政治的には統一を目指すが、文化的には多様性を許容し、異民族・異文化・異宗教に対して寛容なものであり得る。アメリカ合衆国は、限定された範囲で一定程度これを実現した。アメリカのナショナリズムは、政治哲学者ジョン・ロールズの言葉を借りれば、一種の「政治的リベラリズム」の上に立っている。言語は英語を前提とし、その言語による憲法を中心とする法制度を受諾・遵守すれば、民族・文化・宗教は多様でよいという考え方である。国民(ネイション)としては一つだが、民族(エスニック・グループ)としては多様でよいとする。政治的統一と文化的寛容を両立する論理である。ただし、先住民族のインディアン、アフリカから強制連行した黒人に対しては、長く人種差別を行ってきた。白色人種の人権は、彼ら有色人種の自由と権利の剥奪のうえに成立したものだった。
 アメリカ合衆国のエスニック・グループのうち、当初最も有力だったのは、WASPである。WASPとは、ホワイト(W)、アングロ・サクソン(AS)、プロテスタント(P)の略で、主に大ブリテン島出身の白人プロテスタントをいう。WASPは、もともとのアメリカの支配集団で、今日も上流階級をなす。これに対し、非WASPには、アイルランド系・イタリア系等の白人で主にカトリックのホワイト・エスニックと呼ばれる集団や、ユダヤ系が含まれる。WASPが支配していたアメリカでは、20世紀に入ると、欧州のロスチャイルド家を後ろ盾に持つユダヤ系が経済的な実力を発揮し、ニューディール政策を行ったF・D・ルーズベルト政権の時代以降は、WASPとほぼ拮抗するようになった。
 次に、スイスは、1648年にウェストファリア条約で正式に独立を求められた主権国家である。正式にはスイス連邦という連邦共和国であり、州と訳される政治単位がある。国民は主にドイツ系、フランス系、イタリア系の3つのエスニック・グループによって構成され、ドイツ語圏、フランス語圏、イタリア語圏と言語で地域が分かれている。ドイツ系が人口の6割以上を占めるが、文化的にはほぼ対等な多民族・多文化国家と言える。また、カトリックとプロテスタントがほぼ半々である。共有の歴史的記憶を持つことによって国民意識が強く、ナショナリズムの中にエスニシズムやサブ・ナショナリズムが取り込まれている。1815年から長く永世中立国だった。国民皆兵による国防体制が徹底されている。
 次に、カナダは、1763年に英植民地となったが、ケベック地方はフランス語・フランス文化を保っていた。1774年にケベック法を制定し、フランス人の伝統尊重を約束した。その後、20世紀半ばに話が及ぶが、カナダは、1931年にイギリス連邦内の独立主権国家としての法的地位が確立した。統治機構は州と準州による連邦制を取っている。多数原語は英語だが、ケベック州はフランス系住民が多く、フランス語が用いられている。カナダでは、英語系と仏語系の2つのネイションがあるという言い方をする。これらは、サブ・ネイションというべきものである。ケベック州には、分離独立運動がある。それを押さえるために、多文化主義の政策が取られてきた。
 次も20世紀初め以降に及ぶが、ロシア革命で誕生したソ連は、連邦制国家であり、統治機構は、連邦レベルのネイションの中に、多数の共和国がサブ・ネイションとして所属する構造だった。また、それぞれのサブ・ネイションにおいて、主要なエスニック・グループと、少数派または弱小のエスニック・グループが存在した。マルクス=レーニン主義は階級闘争の理論であり、民族より階級を上位に置く。だが、ソ連の実態は、人口で5割を占めるロシア民族が他の少数民族を実質的に支配していた。その構造は、社会主義圏にも及び、国家としてのソ連が東欧諸国を支配・収奪していた。
 なお、江戸時代の日本は、連邦国家と見ることはできない。徳川幕藩体制は、皇室から統治権力を委託された幕府が統治する封建社会の体制だった。幕藩体制の藩は一定の自治権をもった封建国家だったが、当時の日本は連邦国家とは言えない。皇室による朝廷があり、その下に幕府、さらにその下に藩のあるという単一国家だった。国民は主にシナとの対比により、古代から続く天皇を中心とした国柄の独自性を認識し、幕府の正当性の根拠は天皇による統治権の委託にあることを理解していた。それゆえ、日本の幕末ナショナリズムは、一個のエスニック・グループがネイションを形成しようとしたものだった。後の項目でアイデンティティに関して述べるが、日本では、藩ごとのローカル・アイデンティティを、民族としてのエスニック・アイデンティティが上回ったところに、中央集権の近代国家を目指すナショナリズムが興隆した。

 

●ナショナリズムとアイデンティティ

 ナショナリズムは単なる思想・運動ではなく、集団及び個人におけるアイデンティティの重要な要素ともなる。ナショナリズムはネイションの形成・発展を進めるが、単に主権を獲得・拡大するだけでは、調和と発展のあるネイションを建設することができない。ネイションは、集団としてのアイデンティティを確立し、さらに構成員の内面にその集団の一員であるというアイデンティティを確立してこそ、安泰と繁栄を実現することができる。
 アイデンティティとは、「自分は○○である」という自己意識・自己規定である。自己同一性と訳す。ここで述語となるのは、まず自分を特定する名詞・代名詞である。次に自分が所属する集団を表す集合名詞及びそれとの関係である。例えば、「自分は、○○家の一員である」「自分は、○○族の人間である」等という文が、アイデンティティを表す。
 萱野稔人は、「アイデンティティの構成はけっして自分ひとりだけではできない」と述べている。「それは、他者とのコミュニケーションに参加し、他者からのまなざしをつうじて自己を了解することで初めて可能になる」と。「『私とは誰か』という自己了解」や「どのような集団や人間関係に属しているか」は、「他者からのまなざしを想像的に先取りする限りで成り立つ」と説く。
 萱野の主張は、アイデンティティを共同主観的=間主体的なものととらえ、「まなざし」に係る想像力の働きによるものとしている。だが、主体=主観の側のアイデンティティの個人的な意識を述べているだけで、集団におけるアイデンティティの社会的事実に触れていない。
 アイデンティティは、個人の自己了解だけで成立するのではなく、自己了解の前に集団がその個人を誰誰であり、この集団に所属する者だと認定することが必要である。人は、親や保護者によって名前を与えられ、誰の子供であると聞かされ、集団の一員だと教えられる。ここで集団が共有している事実が、アイデンティティの社会的事実である。個人はその事実の理解を以て、関係の中における自己を了解し、また帰属意識を持つ。それがアイデンティティの意識のもとになる。自己了解も帰属意識も、自分を誰誰と認め、帰属を承認・保障する集団があって、初めて可能である。
 アイデンティティは、事実を表す同一性の論理である。だが、その事実を価値と感じられる時に、人は自己の存在を肯定し、自己の価値を認めることができる。人は、何らかの形で、自己の存在を肯定し、自己の価値を認めることのできるアイデンティティを持たねば、心身ともに健康で幸福に生きることができない。単なる事実ではなく、価値としてのアイデンティティを成立させるものは、自分が所属する集団への愛着と誇り、一体感である。

●ナショナル・アイデンティティの優位の確立

 集団には、家族的・地域的・文化的・宗教的等の集団がある。それぞれの集団において、アイデンティティがある。ナショナリズムは、近代西欧において、家族的・地域的・文化的・宗教的等の集団におけるアイデンティティとは異なる、新たなレベルのアイデンティティを創造した。そして、人々に自分が独自の文化と歴史を持つ世代を超えた共同体の一員であることを認識させた。人々は、家族的・地域的・文化的・宗教的等の集団の一員であるというアイデンティティに加えて、一個のネイションの一員であるというアイデンティティを保有するようになった。
 ネイションは、自分がある集団に帰属しているというアイデンティティの対象の一つである。ネイションは、「自分は○○人である」「自分たちは○○人である」という意識を、人々が共有するところにのみ成立する。構成員の間に広く共通意識を醸成できれば、ネイションは成長・拡大する。
 ある地域に存在するさまざまな集団が一つネイションになっていくには、自分たちが、より大きな集団に帰属しているというアイデンティティの共有が必要となる。近代化の過程で、市場の拡大、都市の発展、国家の建設等が進み、それまで地域的・職業的・民族的等の集団への帰属を意識していた人間が、より大きな社会集団への帰属に、強い意義を感じるようになった。この変化は、アイデンティティの対象の変化だった。
 ネイションの形成は、主にエスニック・グループが主権を獲得することによるものだった。エスニック・グループは、「われわれは○○である」という自己意識を持ち、他の集団との区別意識を持つ集団である。血統または祖先、言語・宗教・文化・生活習慣等の何らの要素を共有しているという集団的な自己意識は、エスニックなアイデンティティと言える。ネイションにおけるナショナル・アイデンティティの基盤には、多かれ少なかれエスニックなアイデンティティがある。エスニック・アイデンティティは、前近代的な共同体における集団的な共同性と深い関係がある。エスニック・グループの一員は集団の一部という意識が強く、集団との一体感がアイデンティティの基盤になっている。ナショナル・アイデンティティにおけるエスニックな要素を排除すると、ナショナル・アイデンティティは歴史や伝統という根を断ち切ったものとなる。憲法等の基本的な制度の共有という社会契約的な市民の国民意識となる。そうした市民的(シビック)なナショナル・アイデンティティは、個人主義的なリベラリズムと親和的である。これに対し、民族的(エスニック)なナショナル・アイデンティティは、諸個人を結ぶ社会の共同性の基礎にあるべき同胞意識や連帯感につながっている。
 国民国家では、形式的な国民の間に、一個の集団としての意識が形成され、国民意識が普及した。国民の実質化の過程は、ナショナル・アイデンティティが、地域的なローカル・アイデンティティや民族的なエスニック・アイデンティティ等に対して、優位を確立していく過程でもあった。そこに、共通のアイデンティティを持つ国民としての同胞意識や連帯感が発達した。

 

●ナショナル・アイデンティティの形成の仕方

 ナショナル・アイデンティの形成においては、言語が重要な役割を担う。言語は、諸文化の中核的な要素である。それは、人間は、自分を認識する時、何か特定の言語によって「自分は誰誰である」「自分は何々の一員である」と思考するからである。その言語は、近代化の過程で無から創造されたものではなく、主要なエスニック・グループで使用されていた言語がもとになったものである。近代西欧では言文一致運動と印刷技術の発達、義務教育等によって、共有の言語が創造され、共用されるようになった。その結果、言語共同体的な集団意識が生まれた。ただし、アイデンティティを形成するもとは、言語だけではない。アイデンティティ共有の別の要素は、宗教またはその宗派の信仰である。自分たちは同じ信仰をともにしているという意識によって、信仰共同体的な集団意識が生まれた。また、別の要素は、歴史である。自分たちは共通の祖先の体験を共有しているという意識が成立したところに、歴史共同体的な集団意識が生まれた。また、次の別の要素は、経済生活である。生産・消費・流通・金融のネットワークが地理的に拡大し、一つの政府のもとに経済を営み利害を共有するという意識が成立したところに、経済共同体的な集団意識が生まれた。その他にも、血統・文化・生活習慣等、いくつかの要素が考えられる。こうした要素のどれが主要となってネイションが形成されたかは、そのネイションによって異なる。言語は非常に重要だが、必ずしも言語が常に決定的な要素ではない。
 意思の交通には共通の言語で会話・文通する言語的能力が必要だが、アイデンティティの形成には、これに加えて象徴的な想像力が必要である。アンダーソンは、ネイションとは「想像された共同体」と定義した。ネイションは一定の領域において主権を持つ政治的共同体として想像される。人間は、直接的な体験できる関係、つまり共同で生活する、会って意思の交通を行う、集団の一員として一緒に行動する等の関係については、体験を通して認識する。だが、そうした関係を超えた規模の集団を認識するには、想像力を要する。それゆえ、直接体験できる関係を超えた規模の共同体は、“想像された共同体”である。ネイションに限らない。ローカル(地域的)な集団も、エスニック(民族的)な集団も、その他の集団も、“想像された共同体”である。またこれらの共同体におけるアイデンティティは、“想像されたアイデンティティ”である。ナショナル・アイデンティティに限らない。郷土的なローカル・アイデンティティも、民族的なエスニック・アイデンティティも、またその他の集団のアイデンティティも、“想像されたアイデンティティ”である。違いは、ナショナル・アイデンティティは、一定の領域で主権を持つ集団の一員だという自己同定であるという点である。
 直接体験した関係を認識する能力は、具象的な能力である。直接体験できる範囲を超えた関係を認識する能力は、抽象的な能力である。ローカル・アイデンティティもエスニック・アイデンティティ等も、抽象的な能力によって“想像されたアイデンティティ”である。ナショナル・アイデンティティは、より拡大された共同体における“想像されたアイデンティティ”である。関係の範囲が広がれば、それだけ高度な抽象的能力を必要とする。ネイションの形成及びナショナル・アイデンティティの確立に必要なのは、ローカルな集団やエスニックな集団におけるよりも高度な抽象性を理解する能力である。
 その抽象的能力を育成・開発する方法が、出版物の読書や公教育の履修、集団的な行事への参加等である。ここで重要なのが、象徴(シンボル)の利用である。人間には、分析―総合によって、物事を論理的に理解する能力とともに、象徴によってその意味する全体を直観的に理解する能力がある。前者は主に論理的な言語や数式、後者は主に詩的な言語や図像・形象を通じた理解力である。
 ネイションをとらえるには、論理的な理解力だけでなく、直観的な理解力が必要である。直観的な理解力を育て働かせる象徴としては、神話における祖先神、歴史的な記憶を表す物語における英雄、現在における中心指導者、国旗、国歌等がある。アンダーソンは、ネイションについて「想像された共同体」といい、出版物を通じた共通言語による想像力の働きを強調したが、象徴によって全体を理解する能力は、単なる想像力ではなく、象徴的想像力である。出版物や教育内容、集団的な行事等に、神話や物語、象徴的な図像や形象が盛り込まれることによって、象徴的想像力が育成・開発され、ネイションが一定の領域において主権を持つ共同体として想像される。またその一員としてのアイデンティティが内面的に確立されていく。国家・国民・最高指導者と自分が一体的なものと感じられる時、国民個人個人のアイデンティティの意識は、最も強まる。

 

●ナショナリズムと愛国心

 ナショナリズム及びナショナル・アイデンティティと深く関係するものに、愛国心がある。
 ゲルナーの項目で、ゲルナーのナショナリズム論は、産業革命以後の段階について述べたものだと書いた。近代化しさらに産業化する社会において、多数の人々が共通語や標準化された知的・技術的能力を習得するには、大規模な教育制度が必要である。その教育制度を整備し得るのは、政府以外にない。政府は産業社会の要請に従って、教育制度を整え、共通の言語や基礎的な知的・技術的能力を人々に身に付けさせた。教育の発達がさらに産業化を推し進め、社会の流動性を高めた。政府はまた強力な軍隊をつくろうとして国民皆兵制を敷いた。ゲルナーは、近代的な軍隊が産業社会におけると同じように、人々を集権的に教育し、文化的に同質化したとも説いている。
 私見を述べると、工場も軍隊も、一定の目的の下に人々を組織し、合理的に動かす集団である。そのような集団の構成員は、指示・命令を理解し、互いに意思を疎通し、決められた作業を同じようにできなければならない。それには、共通語の読み書きと基礎的な計算能力を身に付け、集団的行動の訓練ができていなければならない。学校や軍事教練場は、そのような構成員を養成する機関である。
 問題は、産業革命以後の段階において、近代的・合理的な組織人を養成し、集団の能力を高めることと、ナショナリズムとの関係である。私は、ここで重要なのは、学校で愛国心を教え、軍隊で国防に従事することだと考える。愛国心の涵養と国防への従事が、国民意識を高め、ナショナリズムを発達させた。もし工場労働者に愛国心を教えなければ国家に無関心であり、また国防に従事させなければ国防に無関心だろう。
 愛国心は、パトリオティズム(patriotism)の訳語である。祖国愛とも訳す。パトリオティズムは、もともと郷土(ラテン語のpatria パトリア)への愛情である。ナチオが「生まれ」「同郷の集団」を意味するのに対し、それへの愛着や忠誠を表す。郷土愛、愛郷心である。郷土愛、愛郷心としてのパトリオティズムは、近代以前から存在し、近代以後も存在している。パトリオティズムは、ナショナリズムにおける前近代的かつエスニックな要素の一つである。このどの時代どの地域にも見られる郷土愛・愛郷心に対して、ナショナリズムは、個人の忠誠心を近代的なネイションに向けることによって成立する政治的な意識と行動である。
 人は自分の帰属する集団に対して、愛着、誇り、一体感を抱くと、忠誠心を以て行動する。この感情と意思が向かう対象には、家族・氏族・部族・結社・団体・民族等から、国民全体が住む国家までの広がりがある。また、内容には、懐かしさ、親近感、郷愁のような淡い感情から、対象との一体感、熱烈な献身までの幅がある。これらのうち、郷土に向かうものが郷土愛・愛郷心である。ここでいう郷土には、生まれ育った土地だけでなく、故郷に住む人々、その先祖を含む。郷土愛・愛郷心は、地域の生活環境の中で育まれる感情や意識であり、自分の属している地域集団が外から侵害された時は、集団を防衛しようとする意思と行動となって現れる。
 ネイションの形成の過程で、社会集団の規模が拡大し、郷土愛の対象が祖国に一致したものが、祖国愛・愛国心である。ナショナリズムは、祖国愛・愛国心の意味で使われる場合もある。領域内の諸地域を統合しながらネイションが形成される過程で、パトリオティズムはナショナリズムに発展し得る。対象が郷土から、祖国へと拡大される。それによって郷土愛が祖国愛に発展し、もともとの郷土愛に加えて、祖国愛が成立する。それゆえ、本来、祖国愛は郷土愛を否定するものではない。国民という上位集団への愛情と郷土という下位集団への愛情は、相互に排斥するのではなく、相補的であり得る。また祖国愛は、源泉としての郷土愛に根付き、またそれに裏付けられてこそ、強固なものとなる。ここで祖国愛を愛国心、郷土愛を愛郷心と置き換えても同じものである。

 

●愛国心とアイデンティティ

 郷土愛や祖国愛は、郷土や祖国を対象とした感情や意識である。そうした感情や意識と、自己の同一性を意味するアイデンティティには、深い関係がある。郷土に対して、人はローカルなアイデンティティを抱く。郷土との関係で「自分は、○○生まれの人間である」という時、この規定を肯定的に感じるのは、郷土愛を抱いている場合である。また祖国との関係で、「自分は、○○国の国民である」という時、この規定を肯定的に感じるのは、祖国愛を抱いている場合である。
 郷土的なローカル・アイデンティティは、民族的なエスニック・アイデンティティと同様、国家的・国民的なナショナル・アイデンティティのもとになるものである。ナショナル・アイデンティティはエスニック・アイデンティティを排除しないのと同様に、ローカル・アイデンティティを排除しない。これらは並立し得るし、また互いに他を強化することもできる。なお、イギリスでは、連合王国のレベルの忠誠心をパトリオティズムといい、スコットランド、ウェールズ等への忠誠心であるナショナリズムと対置される。そのうえ、英語圏にはパトリオティズムを健全な愛国心、ナショナリズムを独善的または狂信的な愛国心と対比して使う人がいるので、議論が錯綜しやすい。注意を要する。
 ネイションの最も強固なあり方は、運命共同体としてのネイションである。ネイションでありながら、複数の言語が使用される多言語社会、複数の文化が混在する多文化社会、複数の宗教が併存する多宗教社会、階級で利害が違う階級社会など、ネイションの実態はさまざまである。しかし、こうした違いを超えて、自分たちは運命を共有し、生死・興亡をともにしているという意識が、ネイションを強固にする。そして、運命共同体としての自覚は、他の集団からの侵攻・外圧・課税等への反発、それらからの防衛において強まる。国民という集団は、生死・興亡を共にする運命共同体となることによって、家族や氏族のような共有生命的な共同体と意識される。
 こうした運命共同体となったネイションにおいて、ナショナル・アイデンティティは、最も深くまた強いものとなる。自己の生命と集団の生命が不離一体のものと感じられ、自己は集団のために生き、集団は自己のために存在すると確信される。また、生きる自己と死せる祖先は、心霊的なつながりの中にあると感じられる。集団のために貢献し、献身した者は、尊敬され、死後も感謝と崇敬の対象となる。自己は、集団への貢献・献身によって、死後も子孫の感謝と崇敬を受けるものと信じられる。この信念によって、人は、死の恐怖と、死による生の無意味化への疑いを、乗り越えることができる。そこに、ナショナリズムとアイデンティティの関係の最も深いポイントがある。ネイションは、集団としてのアイデンティティを確立し、さらに構成員の内面にその集団の一員であるというアイデンティティを確立してこそ、安泰と繁栄を実現することができる。個人もまた死を乗り越え、生に有意味を確認することで、安心と喜びを得ることができる。

 この点で、ナショナリズムは近代国家の宗教になったという見方がある。もし宗教性を認めるとするならば、本来人間がそこに生まれ、死ぬ共同体が持っている文化が、宗教という形態に特化したのであり、宗教の原型には生命を共有する共同体の精神文化があると言わねばならない。ヨーロッパについて言えば、古代のラテン民族もゲルマン民族も、そうした共同体の文化を持っていた。だが、ユダヤ民族に表れた創唱宗教であるキリスト教が普及したことにより、それらの民族は本来の先祖伝来の文化を失った。西方キリスト教圏では。教会を中心とした共同体に対して、人々の帰属心、忠誠心が向けられていた。しかし、人々は、先祖の生命とつながる神ではなく、先祖とはつながりのないアブラハムの神を信仰していた。そうした社会が近代化・産業化したことによって、ますます先祖からの生命を共有する共同体の精神文化から遠ざかった。共同体が解体され、アトム的な個人に分解された人々を、キリスト教会はかつてのように統合できなくなった。そうした人々を国家と資本の論理によって再び結集する必要が生じた時、ナショナリズムは、社会の共同性を回復する働きをした。近代化・産業化する社会において、集団としてのアイデンティティを確立し、構成員の内面に集団の一員であるというアイデンティティを確立して、個人が死を乗り越え、生に有意味を確認することができるようにする役割を果たすことになったのである。
 死すべきものとしての人間は、死の恐怖を乗り越え、自己の生が無意味になる不安から逃れることを望む。この恐怖と不安からの自由は、人間が目指すべき一個の権利である。ナショナリズムは、宗教とともに、その権利の実現を可能にするものとなってもいるのである。これは近代に特有の現象ではない。ナショナリズムはエスニシズムの特殊近代的な形態であり、エスニック・グループにおいて、また家族的・生命的共同体において実現されていた権利が、ネイションという集団においても実現可能となっているものである。

 

●人権の発達にナショナリズムは重要な役割

 この人権とナショナリズムに関する項目の冒頭に書いたように、人権の観念は、絶対王政の主権国家が国民国家に変化していく過程で発達した。国民国家は、nation-stateであり、ネイションの国家である。人権の発達は、そのネイションの形成と不可分だった。ナショナリズムは、ここで重要な働きをした。
 近代西欧において、それぞれの地域で、神話や伝承による祖先からの物語を含む伝統文化を基盤として、個性的な性格を持つネイションが形成された。多くの場合、エスニック・グループがネイションに発達する過程を通じて、固有の言語・文化・宗教・生活習慣等を基盤として、各国における自由と権利の思想が発達した。この文化的な土壌の上に発達した国民の権利が、同時に人権という普遍的・生得的な権利として理念化されてきた。それゆえ、人権の理論にはナショナリズムの理論が必要であり、またナショナリズムの理論には人権の理論が必要である。
 人権は、単に個人の権利の獲得・拡大ではなく、集団の権利の獲得・拡大の中で、集団の成員の権利として発達した。集団の例としては、身分や階級に基づく集団が第一に挙げられる。身分や階級に基づく集団的な権力闘争の中で、集団の権利を獲得・維持・拡大し、それに伴って集団の成員の権利を付与・拡大するものとして、人権は発達した。この過程で、国家権力の介入から自由を守ろうとするリベラリズムと民衆の政治参加を求めるデモクラシーが結合し、集団及び個人の権利の維持・拡大を促進した。
 しかし、身分や階級による集団だけでなく、一国の国民が集団的な権利を獲得・拡大することが、国民の権利を拡充し、人権の発達をもたらしたという側面もある。ここに集団の第二のものとしてのネイションがある。そして、ネイションを形成・発展させようとするナショナリズムが、人権の発達に重要な役割を果たしたことを、私は強調したい。
 欧米の多くの国において、ナショナリズムは、国際社会における国家の権利を拡大するととともに、国民の権利を拡大する思想・運動でもあった。国家の権利の拡大とともに国民の権利の拡大を図る運動または国民の権利の拡大とともに国家の権利の拡大を図る動きの中で、個人の権利としての人権という観念が発達した。国権・民権の拡大に裏付けられなくしては、個人の権利としての人権は拡大し得ない。人権という理想の実現は、国家の建設及び国民の形成による国家の権利、国民の権利の伸長によってこそ、一歩一歩現実のものとなってきた。それが実定法に国民個人の権利として制度化され、定着してきたのである。
 先にナショナリズムとリベラリズムの関係について書いたが、リベラリズムは、近代西欧においてデモクラシーと融合し、リベラル・デモクラシーを生んだ。リベラル・デモクラシーと、ネイションの形成・発展を目指すナショナリズムは、相互作用的に発達した。前者を欠くナショナリズムは、統制的な傾向を強く示し、個人の権利に抑圧的となり、後者を欠くリベラル・デモクラシーは、外国の干渉や侵攻に対して、脆弱さを晒す。人権が発達したのは、リベラル・デモクラシーとナショナリズムが相互補完的に発達した国々においてだった。人権の発達は、ナショナリズムの発達と切り離せない。またリベラル・デモクラシーなくして、ナショナリズムの発達はない。またナショナリズムなくして、リベラル・デモクラシーの成長はないのである。
 人権とナショナリズムの相互作用的発達は、20世紀初め以降の世界において、一層密接なものとなっている。本章でも少しふれたが、詳しくは、
第4部に書く。ページの頭へ

 

(3)資本と権利・権力

 

●資本と人権

 本稿では、これまで資本と人権の問題については、主題的に述べてこなかった。近代資本主義は17世紀から今日まで発展を続けており、一定の時代の枠内ではとらえることができないからである。資本は近代西欧及び世界における権利と権力の変動における重要な要素である。前章から本章にかけて、市民革命から国民国家の時代について書いたが、ここで資本と権利・権力について書くことにする。
 第3章の権力論において、次の旨を書いた。近代西欧では資本主義が発達した。それによって、社会関係が血縁的・生命的な共同性を失い、経済的利益の追求を主とする社会関係に変わった。経済的な権利を拡大する活動が、社会生活の日常となった。生産力が発達し、生活が豊かになるにつれて、人々の権利意識が発達し、個人及び集団の権利の拡大が追求されてきた。ここに新たな社会的権力として、資本が登場した。
 資本は、家族と国家の間に形成された社会経済的な組織である。そして、一個の集団として権力を持つ。資本は、組合・団体・社団に比せられる集団だが、近代社会における特殊な社会的権力である。資本は、資本家と労働者の契約によって形成された組織であり、商品を生産・交換して利潤を生むことを目的とする。「資本の論理」は利潤追求の論理であり、経済的合理主義に貫かれている。これに対し、国家は文化的・政治的な共同体をもとに形成された組織であり、領域と人民を統治し、国民共同体を維持・発展させることを目的とする。「資本の論理」と「国家の論理」は異なっており、それぞれの目的に向かって活動する。資本の社会的権力と政府の国家的権力は、共通の利益を追求する協同的な関係になることも、利害の対立する闘争的な関係になることもあり得る。
 富を集めるため、政府は実力の裏付けのもとに国民に対して徴税と使役を行い、資本は資本家と労働者の権力関係を基盤として合理的に利潤を追求する。資本の社会的権力を最終的に保障するものは政府だが、政府の国家的権力を経済的に支えるものは資本であるという関係にある。
 19世紀以降の西欧及び世界では、こうした資本と国家の間で権利と権力の関係が変動してきた。その変動は、経済的成長と発展をもたらし、また反面で戦争と革命という劇的でまた対照的な現象として現れた。

●資本主義と権利・権力関係

 資本(capital)とは、富を増やしたり、事業を始めたりする時の元手である。一般には資金や生産設備と考えられている。生産手段を私有する資本家は、生産手段を持たない労働者の労働力を商品として買い取って商品生産を行うが、この生産様式を資本制的生産様式をいう。資本主義とは、資本制的生産様式が主たる生産様式になった社会経済体制をいう。
 カール・マルクスは、『資本論』で資本制的生産様式が支配的となった社会の原理を究明し、またこの社会が形成された歴史を描こうと試みた。彼のとらえた資本とは、資金とか生産設備とかいった物象ではなく、生産関係にほかならない。「資本とは、物象ではなく、物象を介した人と人との間の社会的関係である」(『資本論』)、「資本は一つの社会的生産関係である」(『賃労働と資本』)とマルクスは明言する。
 マルクスによれば、資本は貨幣や商品や生産手段ではなく、一方に生産手段を私有する少数の資本家、他方に生産手段を奪われ自分の労働力を商品として売るしかない多数の労働者がいるという生産関係が、貨幣や生産手段等を資本たらしめるのである。
 賃金労働者は、労働力商品を資本家に売り、資本家は、労働力という他人の所持する商品を買うという関係にある。マルクスは、この資本家と労働者の関係を、階級という概念でとらえ、階級関係は、政治的な支配関係を伴うが、本質的・基本的には生産の場における経済的関係であることを洞察した。
 階級は一個の国家における集団を意味するだけでなく、国家間を貫いて広がる集団を意味する。私見を述べると、マルクスはこの集団間の権利関係を、マクロ的に見るとともに闘争的な側面のみを単純化してとらえた。しかし、資本家と労働者の権利関係は、企業・法人という個々の小集団における関係の集積である。マルクスは、ミクロ的な分析を行わず、また協同的な側面を無視した。彼の目的は共産主義革命だったから、革命に役立つ理論を構築したのである。
 だが、権利には、協同的行使と闘争的行使の両面がある。権利の作用を力の観念でとらえた権力についても同様である。資本家と労働者の経済的な権利と社会的な権力の関係も、協同的側面と闘争的側面がある。個々の企業・法人では、保護―受援の関係と支配―服従の関係という両面がある。市場では、企業間・法人間の経済的社会的な競争が行われている。市場は一国内に完結する場合は、国内における競争だが、国家間に広がる場合は、国際的な競争が行われる。資本の社会的権力を最終的に保障するものは政府であり、また政府の国家的権力を経済的に支えるものは資本だから、国際的な市場競争においては、資本と労働者と政府の利益が一致する場合がある。必ずしも国際的な資本家階級と労働者階級の闘争とはならないわけである。むしろ、国際的な市場においては、A国の政府―資本家集団―労働者集団と、B国の政府―資本家集団―労働者集団の市場における競争が通常である。ここにマルクスが西欧で「万国の労働者、団結せよ」と呼びかけ、国際的な労働者組織を作り、国際的な階級意識を注入しようとしても、国民国家の国民意識が階級意識に勝り、共産主義革命が実現しなかった一つの理由がある。ネイションにおける同胞意識・連帯感は、階級間の利害意識・敵対心を上回ることが多い。また共産主義運動は、ドイツやロシア等のように、ユダヤ人の革命家や外国人居住民が指導・煽動している場合がある。
 資本主義の国際的な発達の中で、ネイションとネイション、ナショナリズムとナショナリズム及びエスニシズムがぶつかり合った。この対立・抗争において優越的な地位に立つ国家は、ナショナルな経済共同体による国民経済を発展させた。

 

●剰余価値説の欠陥

 資本主義における経済的社会関係は、権利と権力の関係を抜きに考えられない。まず権利関係だが、資本制的生産様式の生産関係は、生産手段の所有権をもとに構成されている。また生産された商品は、市場において交換されることを通じて権利関係の変動をもたらす。ここにおける権利は、価値の生産・交換・蓄蔵に係る権利である。
 資本主義社会における権利と価値の問題について、マルクスは剰余価値説という学説を唱えた。マルクスは、資本制的生産様式においては、商品の生産過程で剰余価値が生み出され、資本家はこれを利潤として獲得する。資本は、賃労働者を搾取して得た剰余価値を領有する。従って、資本とは剰余価値を生む価値である、と主張した。 この理論の基礎にあるのは、労働価値説である。マルクスは、イギリス古典派経済学における商品の価値はその生産に投じられた労働量によって決まるというアダム=スミス、リカードの労働価値説を継承した。彼は、労働と労働力を区別し、労働力商品が生産過程で余分の新価値である剰余価値を無償で産むという説を説いた。それが剰余価値説である。
 マルクスは、労働力商品が市場で売買される際、外形的には等価交換がされていることを認めている。その上で資本家が正当な手続きで商品経済の論理、等価交換の原理に則りながら、どうやって剰余価値を搾取しているか、その仕組みを解明しようと試みた。マルクスによれば、資本家は労働力の価値の回収に要する必要労働時間以上に労働時間を延長することにより、その超過分である剰余労働を剰余価値として取得する。剰余価値は、利潤、地代、利子等の不労所得として現れるというのである。
 だが、私は、こうしたマルクスの剰余価値説には、欠陥があると思う。同じ量の労働時間を投じて生産した商品でも、他社や他国の商品より品質が悪かったら売れない。また、仮に品質はよくても、買い手の購買意欲を引き出すものでなければ、高く売れない。また、消費者の求める新しい商品を開発せず、いつまでも同じ商品を作っているのでは、売れなくなる。売れない商品を山ほど作っても、価値を産出したことにはならない。投下された労働時間が同じであっても、市場において売れない商品の価値はゼロである。商品が売れなければ、賃金は払えない。資本家自身も破産する。
 マルクスは、労働力を量的にのみとらえ、労働者の能力の質的な違いを捨象した。しかし、労働力商品の価値もまた他の商品と同様、需要と供給によって決まる。また、単純作業の機械的肉体労働と、知性・感性を発揮する創造的精神労働では、市場における価値が大きく異なる。労働力の質が商品の価値を高めるのである。発明や工夫、デザイン等、生産に知識・技術・美意識を要するものは、市場における価値が高くなる傾向がある。特に消費者の欲求に応え、また消費者の欲求を引き出す商品は、高い価値を獲得し、また多くの需要を創出できる。このように商品の価値を高めるものは労働力の量ではなく質であり、質の高い労働を行う労働者は、それだけ多くの賃金を得ることができるのである。
 それゆえ、市場における交換原理を中心にすえない限り、価値の本質と、その創造、決定、増殖のメカニズムは、解明し得ないと私は考える。市場は、商品を通じた意思交通の場である。需要側と供給側の意思が合致することによって、契約が成立し、権利が発生したり、移譲されたりする。資本主義における経済的社会関係をとらえるには、生産の過程だけでなく、市場を通じた流通・消費・金融の過程を含む権利関係をとらえる必要がある。

●権力関係の分析が必要

 資本主義における経済的社会関係をとらえるには、権利関係だけでなく、さらに権力関係にも注目しなければならない。権力関係とは、支配―服従または保護―受援の関係である。資本主義社会で広く見られる支配―服従の関係は、一方が自分の意思に他方を従わせ、他方がこれに従うという双方の意思の働きである。意思の働きは、権威という心理的な作用のみで機能する場合と、実力ないし武力という物理的な作用を伴う場合がある。
 資本家と労働者の間における賃金の決定には、双方の意思が関わっている。これは支配―服従の権力関係によるものであって、商品経済の論理とは異なる社会的要素である。資本家の力が圧倒的に強い場合は、15〜16世紀のラテン・アメリカやアフリカの奴隷のように、労働者はまったく無力な存在となる。生活に最低限必要な賃金すら得られないことさえある。逆に労働者の力が相対的に強くなると、資本家は賃金を上げざるを得ず、労働者は豊かになり、社会保障も充実していく。19世紀後半以降の西欧先進国では、こうした変化が起こった。この変化は、権力関係の変化によるものであって、経済法則からは出てこない。マルクスの理論モデルは、19世紀半ばのイギリス社会には、ある程度近似しているとしても、それ以前の非西洋文明やそれ以後の西洋文明の諸社会には、よく当てはまらないのである。
 資本主義社会を把握するには、資本主義以前の経済社会、及び変貌する資本主義社会との比較の中で理解せねばならない。そのためには権力関係に関する分析を重視しなければならない。マルクスの理論で革命を起こした旧ソ連が内部に大きな問題を抱え、崩壊に至った原因の一つは、この点に関わっている。
 マルクスの理論的欠陥として、市場の交換原理の軽視と権力の分析不足の二点を挙げた。市場における商品交換と保護―受援または支配―服従の権力関係は、ともに人間の意思の形成と交通に関する事象である。意思の合成は、協同的な側面と闘争的な側面がある。マクロ的かつ闘争的な見方だけでは、権利と権力の関係の実態に迫ることはできず、資本主義社会の分析も一面的なものになってしまうのである。

 

●権力関係を加えないと価値の移転は説明できない

 西欧における資本家と労働者の権利と権力の関係の変動は、西欧だけで行われたものではない。近代資本主義は、西欧とラテン・アメリカ、アフリカ、アジアとの関係の中で発達した。イマヌエル・ウォーラーステインは、「近代世界システム」は、中核―半周辺―周辺の三層に構造化された「資本主義世界経済」として形成されたとする。半周辺は、中核と周辺の中間領域である。西欧を中核部とし、東欧・ロシアを半周辺部、ラテン・アメリカ、アフリカ、アジアを周辺部とする支配・収奪の構造が、資本主義を発達させた。西欧におけるいわゆる人権の発達は、この構造における上部集団の権利の獲得・拡大である。
 世界的な資本主義の中核部と周辺部の間には、権利と権力の関係が形成された。ウォーラーステインは近代世界システムの分析において、中核部と周辺部の間で商品交換が行われる際、周辺部において競争的に生産される産品は弱い立場に置かれ、中核部において独占に準ずる状況で生産される産品は強い立場を占めるとし、「結果として、周辺的な産品の生産者から中核的な産品の生産者への絶え間ない剰余価値の移動が起こる」と説く。しかし、ウォーラーステインは、剰余価値という用語を使っていながら、この用語は「生産者によって獲得される実質利潤の総額という意味でしか用いていない」と断っている。
 アルギリ・エマニュエルは、周辺的産品が中核的産品と交換されるときに、剰余価値の移転を伴うとし、これを「不等価交換」と呼んだ。これについて、ウォーラーステインは、「不等価交換は、政治的に弱い地域から政治的に強い地域への資本蓄積の移転の唯一の形態ではない。たとえば収奪というかたちもあり、近代世界システムの初期の世界=経済に新しい地域が包摂される際には、広い範囲でしばしば行われた」と述べている。すなわち、「政治的に弱い地域から政治的に強い地域への資本蓄積の移転」には、収奪、不等価交換等の形態があるとしている。
 私見を述べると、不等価交換は、市場での交換における価値の移動の非対称性をいう。形式的には等価交換に見えるが、実質的には不等価交換になっているために、一方的に価値が移動していくわけである。これに比べ、収奪は、強制的に奪い取ることである。売買という経済的な行為ではなく、権力による政治的な行為である。多少の対価が支払われても、極度に非対称的な場合は、収奪という。
 ウォーラーステインは「政治的に弱い地域から政治的に強い地域へ資本蓄積の移転」と書いているが、私は、価値の移転は、経済の原理によるだけではなく、政治学的な権力関係によると考える。そして権力関係という社会的要素を重視しなければ、資本主義の根本構造は理解できないと思う。
 いわゆる人権は、とりわけリベラル・デモクラシーとナショナリズムが融合した国において、資本主義の発達とともに、主に国民の権利として発達した。

●中核部の資本主義は変貌しつつ発達を続けている

 資本主義は、19世紀の後半から様々な点で変貌しながら生き延び、またますます発達を続けている。マルクスは、『資本論』において、資本制社会はブルジョワジーとプロレタリアートに二極化し、労働者は絶対的に窮乏化すると予想した。恐慌が必ず起こり、プロレタリアートが蜂起して革命が起こるといって、革命運動を煽動した。だが、絶対的窮乏化、階級の二極分化、恐慌の不可避性という彼の予想はことごとく外れた。
 階級については、マルクスは、資本家と労働者の中間に中産階級があるとしていた。プティ・ブルジョワともいう。中小商工業者・自営農民・自由業者等を指し、社会の中間層をなす。中産階級は、小所有者階級として所有者意識を持つ反面、生活上は労働者に近いという二重の立場に立つ。マルクスは、中産階級は資本主義社会の発展とともに衰退・分解する不安定な階級とした。しかし、近代世界システムの中核部は、周辺部から収奪する富によって社会全体が豊かになり、労働者の生活も豊かになった。また資本主義の高度な発達によって、19世紀後半より労働者は精神的労働者と肉体的労働者に分化し、精神的労働を担うホワイトカラーが増加し、かつての中産階級を旧中間層とすれば、新中間層を形成するようになり、かつ極度に増大していった。
 また株式会社の発展により、大会社の場合、資本所有者である株主の数が増加し、中小株主が増えて株式所有が分散し、大株主の持ち株が低下する傾向が現れた。その一方、経営管理の職能が専門化し、所有者と経営者の分離が進んだ。企業だけでなく国家においても、高度な知識・技術を持つ経営者や官僚、すなわち精神的労働者の役割が重要になった。また労働者も株式を購入することで、資本の所有に参加することができるから、小所有者が増加した。
 社会の変動は、権利・権力の闘争によってのみ起こるのではなく、協調・融合によっても起こる。19世紀末期以降の欧米諸国では、生活水準が向上し、労働者階級の多くは、プロレタリアートというすべてを奪われ、失った階級ではなくなっていった。また議会制民主主義による漸進的な社会改良が進んでいった。こうした変化を可能にした条件の一つが、中核部による周辺部の支配・収奪だった。周辺部からの価値の移動をもとに、中核部の諸国では、国民経済が成長し、富と豊かさが増大した。それとともに、労働者階級を含む国民全体の権利は拡大・強化されていった。それが、欧米における人権の発達に関する国際間の経済的社会的構造である。

 

●欧米における自由と権利の拡大

 17世紀の市民革命の時代以降、ヨーロッパにおける人権の発達過程は、伝統的な共同体の解体、農民の都市への流入、近代資本主義の発達、近代主権国家の成立、アジア・アフリカの支配と収奪、産業革命による労働条件の悪化、階級闘争の激化、世界的な植民地の争奪戦、ナショナリズムとナショナリズム及びエスニシズの相互作用等の過程でもあった。先進国同士、また先進資本主義国と後進資本主義国の間で利害対立による戦争が繰り返された。
 この間、自由と権利は、イギリス・アメリカ・フランス等の核家族的な価値観を持つ諸国を中心に、拡大されていった。一方、直系家族が支配的なドイツ・オーストリアや共同体家族が支配的なロシアは、核家族的な価値観とは異なる価値観を持っていた。直系家族は権威・不平等、共同体家族は権威・平等の価値観であるから、自由を主とする価値観への抵抗は大きかった。だが、19世紀に入ると、産業革命の進む先進国の経済力・技術力・軍事力が、他のヨーロッパ諸国に近代化の波を広げた。それとともに、自由の思想が浸透していった。

極少数の人間の自由と大多数の人間の不自由の対比の中で、自由は拡大されてきた。不自由な状態にある大多数の側が自由を求めるとき、それは平等への志向となる。17世紀イギリスのピューリタン革命では、水平派が急進的に平等を求めた。イギリスで18世紀に始まった産業革命は、それまでの社会を大きく変え、階級分化を促進した。この過程でイギリスではリベラリズム(自由主義)とデモクラシー(民衆参政制度)が融合してリベラル・デモクラシー(自由民主主義)となり、それが西洋の多くの国家の理念となった。

 その一方、自由民主主義に対抗するものとして出現したのが、社会主義である。社会主義は、社会的不平等の根源を私有財産制に求め、それを廃止ないし制限し、生産手段の社会的所有に立脚する社会を作ろうとする思想・運動である。19世紀前半における社会主義初期の代表的な思想家はサン・シモン、フーリエ、オーエンである。彼らに続いてカール・マルクス、フリードリッヒ・エンゲルスは、1848年に、『共産党宣言』を発表した。マルクス、エンゲルスは、初期社会主義者の思想を「空想的(ユートピア的)社会主義」と呼び、資本主義の分析に基づく自分たちの理論を「科学的社会主義」と自称した。彼らの説く科学的社会主義は共産主義とも言われる。
 マルクス=エンゲルスは、フランス革命をブルジョワ革命と規定し、一定の評価をするとともに、その限界を主張し、プロレタリア革命の理論を提示した。彼らは社会的な不平等の原因を、所有の概念で分析し、財産の私有に階級の発生を求め、歴史の動因として階級闘争を強調した。被支配階級は、支配階級の権利を戦い取るべきものとされた。そして、それが人間の解放であると説いた。
 1864年にマルクス、エンゲルスの理論を取り入れた第1インターナショナルが結成され、国際的な社会主義運動が広がった。その後、社会主義は、主として議会を通じて平和的に目標を実現しようとする社会民主主義と、武力革命によって社会改革を行おうとする共産主義の二つに大きく分かれた。前者を社会主義、後者を共産主義とする分け方もある。
 19世紀末から社会主義が勢いを強め、多くの国で社会民主主義の政党が結成された。社会民主主義は自由を保ちつつ平等の拡大を図る態度である。これに対し、共産主義は平等を価値とする。ごく少数ではあるが、共産主義者は武力革命を目的とする活動を展開した。
 平等を志向する社会主義が広がると、自由の思想の側にも変化が現れた。イギリスで発達した伝統的な古典的自由主義は、国家権力の介入を排し、個人の自由と権利を守り、拡大していこうという態度のことである。これに対し、19世紀半ばイギリスでそれまでの自由主義を修正した修正的自由主義が出現した。修正的自由主義は、社会的弱者に対し同情的であろうとし、社会改良と弱者救済を目的として自由競争を制限する。
 古典的自由主義は、個人の自由を中心価値とする。古典的自由主義は、主に米国でリバータリアニズム(絶対自由主義)として存続した。修正的自由主義は、自由を中心としながら自由と平等の両立を図ろうとする態度である。修正的自由主義は、社会主義に対抗して、労働条件や社会的格差を改善し、平等に配慮するものである。古典的自由主義は国権抑制・自由競争型、修正的自由主義は社会改良・弱者救済型で、思想や政策に大きな違いがある。平等に配慮する修正自由主義は、古典的自由主義よりも、ナショナリズムと親和的である。
 こうして19世紀末以降の欧米では、自由と平等という価値の対立軸をめぐって、政治や社会運動が展開された。重点のありかを自由から平等の方へと順に並べると、古典的自由主義、修正的自由主義、社会民主主義、共産主義になる。「発達する人間的な権利」としての人権は、これらの主義の対立や融合の中で発達を続けた。
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(4)帝国主義の時代

 

●帝国主義とは

 近代資本主義は、産業革命を経て産業資本が成立するに至って、社会経済体制として確立した。19世紀後半から産業資本は株式会社化し、銀行が株式の発行を引き受け、銀行資本と産業資本は結合した。それが金融資本である。マルクス主義の見方によると、利潤の追求のための自由競争により、弱小資本は没落して資本の集中・集積が進み、大産業資本と金融資本が結合して、独占資本が形成された。生産力が増大して国内市場が狭隘化し、植民地及び市場獲得のための国際競争が激化した。こうしたなか、1870年代から資本主義は帝国主義(imperialism)の段階に入ったといわれる。帝国主義の時代は、世界的な人権の発達史において重要な意味を持つ時期である。
 帝国主義という用語における帝国(empire)は、もともと皇帝(emperor)が統治する国家を意味する。帝国の語は古代ローマ帝国、古代シナの王朝、インドのムガール帝国、ロシア帝国等にも使われるが、皇帝と呼んでもその対象は文明・文化・時代によって異なるので、厳密な定義になっていない。多くの場合、複数の王を統治する者が、皇帝と呼ばれる。だが、王と族長の定義と区別も一般的とは言えない。
 近代西洋史に限ると、皇帝が統治した国家は、中世からの神聖ローマ帝国、ナポレオン皇帝によるフランス帝国、プロイセン国王が皇帝を兼ねたドイツ帝国、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねたオーストリア=ハンガリー二重帝国等に限られる。
ここで帝国は、広義では、複数の国家(country)を一人の統治者または一つの政府が統治する国家をいう。帝国は、それまで独立した統治権を持っていた国家または地域を支配下に置く。統治権を完全にまたは一定程度奪い、支配―被支配の権力構造を形成する。これには、直接的な支配・収奪の場合と、間接的な臣属・朝貢の場合がある。特に周辺や海外に植民地を多く持つ国家が、帝国と呼ばれる。この用法では、皇帝ではなく国王が統治する国家も、帝国という。スペイン、ポルトガル等がそうだった。神聖ローマ帝国の皇帝に対し、スペイン国王、ポルトガル国王が皇帝以上の富と権力を所有した。イギリスについて、大英帝国という名称が使われたのは、連合王国の海外領土を含めた非公式な呼び名である。皇帝ではなく国王が統治したから、喩の表現である。
 日本は、明治期から昭和戦前期には、大日本帝国を正式名称としたが、天皇は西洋史における皇帝とは異なる。天皇は独自の性格を持つ。天皇は大和言葉で「ミカド」といい、「帝」の文字を充てる。「帝」は、徳が天に合する意である。日本についていう場合の帝国は、狭義ではミカドが徳を以て統治する国家の意味である。大日本帝国成立後、台湾、朝鮮等を領有したので、戦前の日本は広義においても帝国となった。
 帝国主義は、帝国またはそれに例えられる国家が、軍事力を背景に他国を植民地や従属国に転化する政策をいう。こうした政策は、古代からギリシャ、ローマ、シナ等で広く行われた。15世紀以降のスペイン、ポルトガル等の政策もこれである。しかし、特に19世紀末以降、独占資本主義段階に至った資本主義の国家が、商品や資本の輸出を保護するために後進的な国家や地域を支配しようとした政策を、帝国主義政策という。また、主要な国家がこの政策を取るようになった時代を、一般に帝国主義の時代と呼ぶ。
 帝国主義は、皇帝や国王の存在しない共和制の国家も取り得る政策である。フランスやアメリカ等についても、フランス帝国主義、アメリカ帝国主義等という。
 帝国主義政策を取る国家において、本国の政治的・経済的支配下に置かれた国家や地域を、コロニー(colony)という。「植民地」と訳すが、単なる移住地ではなく、略奪貿易の対象であり、奴隷や原料の供給地及び過剰資本・商品の投下・販売地でもある。帝国主義政策を行う国家は、植民地からの富の収奪をもとにして繁栄し、経済的な豊かさの中で本国の国民の権利は拡大された。一方、植民地においては、本国政府の統治に協力する土着の支配層やエリート層を除いて、大多数の人民は自由と権利を奪われた。ここに帝国主義の時代における世界的な人権の発達/抑圧の二重構造がある。

●非西洋の前近代的な帝国の没落

 19世紀の世界には、西欧発の国民国家とは異なる前近代的な帝国が世界的に併存していた。
 前近代的な帝国は、広大な領土を支配し、その中には多種のエスニック・グループが住んでいた。
 帝国を含む国家とは、一般に、都市を結節点としたネットワークの構造体と見ることができる。都市とは、比較的狭い地域に多数の人口・住居が密集し、農業以外のおもに商工業等が経済生活の主体をなす集落をいう。前近代の国際交流史の研究者である宮崎正勝によると、都市は神経細胞のように、本体と触手(ネットワーク)から成り立っている。人と人、集団と集団、人と集団の間の結びつきが、ネットワークである。都市は、周辺の農業集落に触手を延ばして結びつきを作る。そのネットワークを安定させるために、道路網・法律・官僚制・軍隊・宗教・交易などのシステムを複合化して、ネットワークの構造化を図る。そうしたシステムの複合体となったのが、国家である。そのシステムの中核となるのが、都市である。国家においては、首都と、それに従属する都市と、その周辺の農業集落が、ネットワークで結ばれている。
 前近代的な帝国では、都市と都市を結ぶ線の外、網の目に当たるのが農村であり、そこには都市の文化は、あまり浸透していなかった。統治の密度が低かったので、人民は国家とあまり関係のない生活をしていた。主要なエスニック・グループの統治者集団の文化への同化政策が強行されることもあまりなかった。
 だが、19世紀後半になると、非西洋の帝国にも欧米の影響で、国民国家の観念が浸透するようになり、それに対応するための改造に迫られた。支配集団は、統治下のエスニック・グループの意識の統合と文化的同化を図るようになった。
 国民国家の項目に書いたロシアは政府主導による国民国家への改造を一定程度進めたが、シナはそれのできぬうちに、列強によって半植民地にされた。また、中東のオスマン帝国は、列強による分割統治の対象とされた。インドのムガール帝国は、イギリスによって植民地にされた。他の地域的な帝国や国家も、ほとんどが列強の支配下に組み込まれていった。

 

●イギリスを先頭とする帝国主義の展開

 1870年代から第1次世界大戦に至る時期は、欧米列強が植民地獲得に狂奔し、数ヶ国で「世界の分割」を完成させた時期であり、それが帝国主義の時代である。この時代の先頭に立って、帝国主義を展開したのが、イギリスである。
 産業革命後のイギリスは、「世界の工場」として圧倒的な工業力・経済力を持つにいたり、自由主義の貿易政策の下で繁栄を誇った。とりわけ1837年から1901年に及ぶヴィクトリア女王の時代に、イギリスは絶頂期を迎えた。国内では自由党と保守党が交互に政権を担当する議会制デモクラシーが定着した。二大政党は労働者の支持を得て優位に立とうとし、それが政策にも反映された。19世紀後半の選挙法改正で、都市労働者や農業労働者も選挙権を獲得し、教育法の制定、労働組合の合法化など、労働者を体制に取り込む政策が取られた。
 マルクスは、資本主義が発達することによって、労働者が絶対的に窮乏化するという説を説いた。しかし、実際はイギリスのネイションでは、資本主義の発達によって、労働者大衆の所得が増大し、生活水準が向上した。マルクス・エンゲルスは、この傾向を追認するようになった。近代世界システムの中核部の最先進地域にあって、富を巨大に増殖したイギリスでは、資本主義の矛盾を是正しようとする政策が行われた。これは、市場にすべての決定を任せる自由主義を修正した修正自由主義や、キリスト教的な慈善運動に基づく社会改良主義の政策である。そうした政策によって、イギリスの労働者大衆の生活は豊かになり、政治的社会的な権利も拡大した。国民の権利としての人権が、ネイションを基盤に発達していったのである。
 1870年代に入ると、不況のため、各国は保護関税政策に転換した。その影響で、イギリス経済は、徐々に力を削がれていった。ドイツやアメリカでは、不況を乗り切るため、企業の集中が進み、技術革新が行われた。80年代には、鋼鉄が生産され、化学工業が勃興した。90年代には、新エネルギーとして電力が登場し、内燃機関が使用されるようになった。第2次産業革命である。技術体系の変化と産業の巨大化に伴って、新産業分野では膨大な設備投資が必要となった。巨額の資金を調達するため、銀行・証券会社などを通じて市場で投資を募る株式会社が普及した。各国に大企業・財閥が出現し、利潤を求めて競い合った。イギリスの資本は、巨大資産家の私的資本が中心だったため、技術革新では遅れをとった。アメリカやドイツの資本の追い上げにより、国民経済が低迷した。先進国として賃金水準が高くなっていたため、生産コストが上がり、国際的な競争力が弱まった。
 そこでイギリスは、それまで蓄積した富と権益をもとに、金融大国として生き残る方法を取った。ロンドンのシティは世界の金融センターとして、この時代に支配的な地位を確立した。それとともに、イギリス資本は、安価な労働力と資源に恵まれた諸大陸の植民地に資本を輸出した。政府は資本家と協同し、対外投資による利益拡大へと政策を転換し、植民地の拡大を図る政策を推進した。それがイギリスの帝国主義政策である。
 帝国主義という言葉は、1870年代からイギリスで使われ始めた。イギリスの帝国主義的な対外政策は、インド、アフリカ、シナ等へと展開された。イギリスは、1600年東インド会社を設立してインド洋交易に参加し、以後、インドへの進出を続けたが、1857年にムガール帝国を滅亡させ、77年にはヴィクトリア女王が皇帝を兼ねるインド帝国を創建した。その結果、インドを、実質的に植民地化した。
 1869年に中東でスエズ運河が開通すると、イギリスはその株式を取得し、経営を支配し、82年には運河地帯を占領した。これによってイギリスは、スエズ運河を通って、中東、インド、シナ等の植民地支配を大々的に展開するようになった。
 イギリスがアフリカ大陸に進出すると、これに負けじと、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギーなどもアフリカ分割に参加し、1880年代以降、アフリカの植民地化が一気に進んだ。
 西アジアでは、13世紀から東ヨーロッパ・西アジア・北アフリカを長く支配したオスマン帝国が、1877年の露土戦争に敗れた。イギリス・オーストリアが露土間に干渉し、78年ビスマルクの仲介でベルリン条約が締結された。その結果、オスマン帝国はヨーロッパ領の大部分を失い、「瀕死の重病人」と呼ばれるまでに衰退した。
 東アジアでは、欧米列強は18世紀後半から、新しい市場と資源の可能性を求め、広大なシナへの進出を行った。ここでも先頭を切ったのは、イギリスだった。イギリスは、インドでアヘンを栽培し、これを清に密輸することを考え出した。イギリスの工業製品をインドへ、インドのアヘンをシナへ、シナの茶をイギリスへという三角貿易を行った。1840年には、軍艦を派遣してシナ沿岸の各地を攻撃し、圧倒的な軍事力で清を屈服させ、南京条約を結んで、清の貿易制限を撤廃させた。これがアヘン戦争である。イギリスはさらにフランスと組んで、清に戦争を仕掛け、清と北京条約を結んで、開港場の追加やキリスト教布教の自由を認めさせた。これがアロー戦争である。この結果、列強による清の半植民地化が決定的なものとなった。
 19世紀前半には、アジアにはインドにムガール帝国、西アジアにオスマン帝国という二つのイスラーム文明の帝国が存在し、東アジアには清帝国というシナ文明史上最大の版図を持つ中華帝国が存在していた。ところが、19世紀後半にはそれらがいずれも急速に揺らぎ出し、崩壊に向かった。西洋文明による他文明の周辺文明化となる動きだった。

 

●ドイツとアメリカの勢力伸長

 イギリスは、帝国主義政策により、アジア・アフリカ・ラテンアメリカに及ぶ広大な植民地を持つ覇権国家として世界に君臨した。しかし、1870年代から、覇権への対抗国が勢力を大きく伸長した。それがアメリカ合衆国とドイツ帝国である。
 南北戦争の結果、工業国として歩むこととなった米国は、めざましい発展を遂げた。ヨーロッパからの移民によって人口も急増した。1869年には、最初の大陸横断鉄道が開通し、広大な国土に存在する豊富な資源の輸送、工業製品・農業製品の流通、労働者・消費者の移動等が可能になった。そして、1890年代には、米国はイギリスを抜き、世界最大の工業国となった。
米国では、20世紀初頭には「ビッグ・ビジネス」と呼ばれる大企業が急激に台頭した。ビッグ・ビジネスとは、1万人を超える筋肉労働者(ブルー・カラー)を雇用し、多数の事務労働者(ホワイト・カラー)による官僚的管理システムを持つ企業をいう。そうした大企業がグループをなす財閥も出現した。
 米国は、1898年の米西戦争でフィリピンやグアムなどを獲得し、さらにハワイを併合して太平洋地域への勢力拡大を本格化させた。カリブ海諸国に対しては、武力で内政に干渉する棍棒外交を展開した。

近代世界システムの中核部に、イギリスに並ぶ有力国家が確立したのである。これにより、近代西洋文明は、英米で発達した文化要素を主要な要素とする文明として、世界各地に伝播してきた。イギリスでは、ユダヤ的な価値観とアングロ・サクソン文化が融合し、アングロ・サクソン=ユダヤ文化が発達した。アメリカでは、それにアメリカ文化独自の要素が加わって、アメリカ=ユダヤ文化が発達している。ユダヤ的価値観は、世界的な覇権国家となった英米の文化に深く浸透したことによって、世界的に普及することになった。
 一方、ヨーロッパでイギリスを脅かす存在として遅れて登場したのが、ドイツである。ドイツ帝国では、1870年代から80年代にかけて、宰相ビスマルクが辣腕を振るった。ビスマルクは、巧みな外交によって、列強各国の利害を把握し、各国間に軽い緊張状態を作りながら、どの国もうかつに戦争を起こせない状態を作り出そうとした。ビスマルクの外交戦略は成功し、ヨーロッパには第1次世界大戦まで小康状態が続いた。その間、ドイツは資本主義を発展させ、工業力を伸張していった。
 1888年、ヴィルヘルム1世が死去すると、孫のヴィルヘルム2世が後継した。この若き皇帝は、ビスマルク外交の手練手管が理解できず、単純で直線的な植民地拡大政策を欲した。ビスマルクと度々衝突した挙句、90年にはビスマルクを解任した。
 ヴィルヘルム2世は、単純に力で植民地を奪い取ろうとして、3B政策を推進した。3B政策とは、ベルリン、ビュザンティウム(イスタンブール)、バグダッドという三つの都市の名に由来する。目的は、これら3都市を結ぶ鉄道を建設し、バルカンから小アジアを経てペルシャ湾に至る地域を経済的・軍事的にドイツの勢力圏にすることにあった。この政策は、北アフリカのカイロと南アフリカのケープタウンを結ぶアフリカ縦断政策を進め、この線をさらにインドのカルカッタに伸ばし、アフリカの南北からインドまでを押さえようとするイギリスの3C政策と対立した。
 ドイツは、1882年にオーストリア、イタリアと三国同盟を締結した。ロシアとは、独露再保障条約の更新を拒否したことにより、対立した。一方、イギリスは、1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、07年の英露協商によって、英仏露の三国協商を結んだ。こうして、19世紀末から20世紀の初頭における西欧の国際関係は、イギリス対ドイツの対立を主軸として進んでいく。英独にロシアやフランス等が絡む形で植民地争奪戦が行われ、それが高じて世界大戦へといたるのである。

 

●ホブソンとレーニンの帝国主義論
 
 イギリス自由党員で経済学者のジョン・アトキンソン・ホブソンは、1902年に『帝国主義論』(初版)を刊行した。ホブソンは本書で、当時のヨーロッパの状況を描き、帝国主義政策による植民地獲得や戦争の背後にいるのは、主として国際資本勢力だと主張した。次のように、ホブソンは書いている。
 「銀行、証券、手形割引、金融、企業育成などの大型ビジネスが、国際資本主義の中核を形成している。並ぶもののない強固な組織的絆で束ねられ、常に密接かつ迅速な連絡を互いに保ち合い、あらゆる国の商業の中心地に位置し、ヨーロッパに関して言えば過去何世紀にもわたって金融の経験を積んできた単一の、そして特異な民族によってコントロールされている。こうして国際金融資本は、国家の政策を支配できる特異な地位にある。彼らの同意なくしては、また彼らの代理人を通さずには、大規模な資本移動は不可能である。もしロスチャイルド家とその縁者が断固として反対したら、ヨーロッパのいかなる国も大戦争を起こしたり、あるいは大量の国債を公募したりできない。この事実を疑う者は一人としていないのである」と。
 上記引用において、「過去何世紀にもわたって金融の経験を積んできた単一の、そして特異な民族」とは、言うまでもなくユダヤ人のことである。そして、ホブソンは、その代表格としてロスチャイルド家を挙げているのである。
 ロスチャイルド家は、1904年までにヨーロッパ諸国に13億ポンドの債権を持つにいたった。ホブソンが、彼らなしに、戦争を起こすことも、国債を募集することもできない、と述べているのは、そのような状況を指す。
 ホブソンの理論は、ヴラディミール・イリッチ・レーニンの『帝国主義』(1917年)の理論的中核となった。レーニンは「ホブソンの著作を細部にいたるまで使わせてもらった」と記している。
 レーニンは、ホブソンによりつつ、資本主義は独占資本の段階に入った時にその最高形態としての帝国主義に転化すると規定した。レーニンは、資本主義は独占資本主義の段階に達すると、利潤率の低下と生産力の著しい上昇の結果、国内消費が不足するため海外投資と過剰製品の販売市場を求めて植民地獲得競争が激化せざるをえないとした。そして、帝国主義の五つの特徴として、(1)生産の集中・独占、(2)金融寡頭支配の確立、(3)資本輸出、(4)国際カルテルによる国際市場の分割支配、(5)世界分割の完成を挙げた。
 レーニンは、こうした帝国主義を資本主義の最高にして最後の発展段階とし、社会主義革命への準備段階と位置づけた。そして帝国主義の不均等発展は、戦争を不可避とすると主張した。その部分は予想が当たり、列強は世界大戦に突入していく。レーニンの指導するボルシェヴィキは「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」というスローガンを掲げた。そして、第1次世界大戦の戦争による混乱に乗じて、ロシアで革命を実現した。第1次大戦、ロシア革命及びそれ以後の展開については、後の章に書くが、革命はロシア以外の帝国主義国では起こらなかった。レーニンの予想とは異なり、帝国主義は資本主義の最高の段階でも最後の段階でもないことが、歴史によって示された。レーニンが挙げた帝国主義の特徴の多くは、独占資本主義の特徴であり、経済学的な分析によるものである。
 この時代の帝国主義は、独占資本主義段階に至った資本主義の国家が、商品や資本の輸出を保護するために後進的な国家や地域を支配しようとした政策である。だが、帝国主義は、基本的には対外政策であり、もともと経済外的な動機による。経済外的な政策によって、資本主義経済が国際的に管理・統制されれば、各国の対外政策は変わりうる。事実、資本主義は、20世紀半ばからの植民地の多くの独立を受けて、大きく変貌することになる。

●帝国主義の時代における人権の二重構造

 帝国主義は軍事的な膨張主義である。これに資本の利潤獲得という経済的理由が重なっているのが、資本主義的帝国主義の特徴である。この帝国主義政策を推進した主体は、西欧で形成され、非西欧へも普及した国民国家である。国民国家は、1870年代から20世紀はじめにかけての時期には、帝国主義政策を取ることによって、対外的な発展を遂げた。対外拡張型のナショナリズムが高揚した。帝国主義の時代に欧米諸国が世界の大部分を征服・分割することが出来た理由は、強力な新型兵器にあった。圧倒的な軍事力がアジア・アフリカの人々の抵抗を押さえつけ、近代西洋文明の受容を強いたのである。その軍事力を生み出すものは、近代資本主義による経済力であり、物質科学による工業技術だった。そして、経済力・技術力・軍事力で圧倒する欧米列強によって、アジア・アフリカの人々の多くは、自由と権利を奪われた。逆に欧米列強では、この構造的な支配・収奪の上に、欧米列強では、諸国民の権利が拡大されていった。
 近代世界システムの中核部の諸国は、周辺部からの富の収奪をもとにして繁栄し、経済的な豊かさの中で本国の国民の権利が拡大された。一方、植民地においては、本国政府の統治に協力する土着の支配層やエリート層を除いて、大多数の人民は自由と権利を奪われた。ここに帝国主義の時代における世界的な人権の二重構造がある。上層にして中核部では人権が発達し、下層にして周辺部では人権が抑圧された。前者では国民の権利が人権の理念のもとに拡大され、後者では伝統的な人民の権利が剥奪されたのである。この人権の発達/抑圧の二重構造が、さらに深刻化・先鋭化するのが、帝国主義の時代に続く世界大戦の時代である。
 本章では国民国家の時代から20世紀初めにかけての人権の歴史を書いた。人権は、「人間的な権利」として、歴史的・社会的・文化的に発達してきた。近代西欧における人権の発達の過程を把握するには、人権の思想をより深く理解することが必要である。そこで次章では、近代西欧発の人権思想史を概観する。
 なお、20世紀に入り、世界規模の戦争や革命、恐慌、環境破壊等が発生することで、「発達する人間的な権利」は、重大な課題に直面することになった。20世紀初め以降の人権の歴史と世界における人権の現状については、次章で人権の思想史を書いた後に、第3部で述べる。
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第7章 近代西欧発の人権思想史

 

(1)イギリスにおける思想的展開

 

●人権の思想史を概観する

 人権の思想の発達を、主権・民権・人権の関係において見るため、第5章及び第6章において、西欧における市民革命から20世紀初めにかけての歴史を概観した。本章では、近代西欧に現れた主権・民権・人権に係る思想について、人権を中心に述べる。まず17世紀イギリスにおける思想的展開を書き、続いて18世紀の啓蒙思想、アメリカ・フランスにおける市民革命期の思想、ドイツにおけるカント及び彼以後のドイツ観念論から現れたマルクスとナショナリズム、19世紀イギリスにおける功利主義と修正自由主義、最後に日本における近代西洋思想の摂取と独創的な展開、最後に19世紀末から20世紀初頭までの人権思想の展開という順に記す。
 人権の思想は、西欧の近代化の過程の中で発達した。私は、西欧の近代化は、心の近代化に始まったという見方をしている。心の近代化とは、マックス・ウェーバーの「呪術の追放」つまりアニミズム的・シャーマニズム的な世界観の駆逐を皮切りに、宗教における合理的態度が形成され、合理主義が思考・行動・制度の全般を支配してきつつあることである。その進展に伴い、西欧では生活全般の合理化が進んだ。すなわち、文化的・社会的・政治的・経済的な近代化が全般的に進行した。心の近代化は、全般的合理化の開始点であり、またその過程の中心部分でもある。心の近代化の過程で、人権の思想は発達した。人権の思想の発達は、心の近代化の過程の一部である。心の近代化について詳しくは、拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ」をご参照願いたい。その論稿は、人類の文明に巨大な変化をもたらした近代化を、“心の近代化”という角度から検討し、世界的な危機の解決の道を見出そうとしたものである。本章は、その論稿を土台として、人権の思想について検討するものである。
 人権の思想の起源は、トマス・ホッブスの自然権とピューリタン革命期の水平派の生得権にあり、ジョン・ロックがこれを政治理論化した。ロックの思想はフリーメイソンと結びつき、アメリカ独立革命、フランス市民革命の推進力となった。人権の思想は独立宣言・人権宣言に盛り込まれ、イマヌエル・カントによって哲学的に掘り下げられた。世界人権宣言のもとには、こうして形成されたロック=カント的な人間観がある。その人間観は、キリスト教に基づくものであり、新たな人間観を創出し、真に地球的な人類文明を創造することが人類の課題である。本章はこのような認識と問題意識を以て書くものである。
 さて、人権の思想は、17世紀イギリスに発生した。17世紀は、科学革命の世紀としても知られる。西欧では、ルネッサンスの時代から実験と数式による科学が発達し、天動説から地動説へのコペルニクス的転回が起こった。トマス・クーンのいうパラダイム・チェンジである。それによって中世のキリスト教の教義による世界観は破綻を始めた。17世紀には、フランシス・ベーコンが帰納法による学問方法論を打ち立てるとともに、科学万能の思想を説いた。ルネ・デカルトは物心二元論・要素還元主義による認識方法を提示した。アイザック・ニュートンは機械論的自然観を完成した。機械論的自然観は、機械をモデルとする世界観であり、自然を外から与えられる力によって動く部分の集合ととらえるものである。また、化学・医学等様々な分野で自然の研究が進み、実験と観察にもとづく近代西欧科学的な世界観が形成された。こうした世界観の変化が、人権の思想の発生・展開の背景にある。ホッブスもロックも当時の科学に通じた思想家だった。

●人権概念の最初はホッブスの自然権

 人権と呼ばれるようになった権利を最初に提起したのは、ホッブスだった。ホッブスは、イギリスで歴史的に形成された「臣民の権利」とは異なる自然権(natural rights)を主張した。自然権は自然法(the law of nature)という思想に基づくものだった。人権の概念を理解するには、自然法の理解が欠かせない。まずその点を述べ、次に自然権とその理論の展開について述べる。
 自然法は、人間がつくった人定法とは異なり、時と所を超越した普遍的な法を意味する。自然法の概念は、古代ギリシャのポリスの枠組みを越えたコスモポリタン(世界市民)の思想に始まる。ギリシャの異邦人ゼノンを始祖とし、ローマではキケロらが発展させたストア派は、自然法を人間の意志を超越した宇宙の法則を意味するものとし、宇宙と人間をともに貫く自然法に従って生きる哲学を説いた。キリスト教は、教義を体系化するために、プラトンやアリストテレス、ストア派の哲学を取り入れた。自然法は、それによって理論化されたものである。だが、キリスト教では、神は言葉によって天地を創造したとし、自然は神の被造物であり、神の支配下にあると考える。また人間は神の似姿として造られ、知恵を与えられているとする。中世西欧では、こうした教義のもとに、自然法は神の意思による宇宙と社会の秩序とされた。自然法は、神が定めた宇宙の法則であるとともに、神が人間に与えた道徳の原理を意味する。わが国では「法」と訳すので、後者の原理でもあることが、理解しにくい。法というより掟。法と道徳が分離する前の宗教的な掟と考えたほうがよいだろう。
 古代ギリシャ人は、人間が動物と区別されるのは、言葉を持つことによると考えた。言葉に当たるギリシャ語はロゴス(logos)であり、ロゴスは理性・理法をも意味した。ギリシャ語には、理性を意味するヌース(nous)という別の言葉もある。そして、人間は理性の働きによって、自然法を理解することができるとされた。
 中世西欧では、教父アウグスティヌスが5世紀に『神の国』にて、「神の国には完全無欠な神の永遠法が支配するが、地の国には罪ある人間の不完全な人定法しかありえない。しかし愛の神は、人間に理性の能力を授け永遠法の一部を認識して人定法の模範とさせるようにした。これが自然法である」と書いた。またトマス・アクィナスは、13世紀に『神学大全』にて、聖書が啓示し教皇が命ずる法を神法とし、自然法の上に置いた。人間は神の叡智を理性として分有しており、自然法を理解できるが、人間には神の栄光に浴すには決定的な限界があり、これを超えられるのは信仰によってのみであるとした。トマスの思想はトミズムと呼ばれ、21世紀の今日でもキリスト教文化圏で影響力を持っている。
 中世西欧では、カトリック教会の権威によって、人定法、自然法の上にある神の永遠法や神法の解釈は教会に委ねられていた。しかし、地動説、宗教改革、宗教戦争等によって、教会の権威は大きく揺らいだ。そうしたなか、グロティウスは、1625年刊行の『戦争と平和の法』で、自然法を「正しい理性の命令」と定義した。自然法は神の意思に基づくものだが、たとえ神が存在しないと仮定しても妥当するし、その定めは神さえ変えることができない不変なものであると主張した。ルターやカルヴァンは、信仰のあり方について教会の権威に抗議したが、グロティウスは信仰より理性を重視する自然法論を説くことで、教会の権威を相対化したのである。
 グロティウスに続いて、ホッブスは、独自の自然法論を展開した。そして、人権の概念の最初のものとなる自然権の概念を提起した。

 

●自然法論におけるコペルニクス的転回

 

ホッブスの思想は、自然法論におけるコペルニクス的転回といわれる。

トマスの自然法論には、自然法則(lex naturalis)と自然的正(ius naturale)という二つの領域があった。前者は、神の根本法則である永遠法の人間理性における分有であり、人間の道徳の原理を含む概念である。後者は、事物の本性に基づく正しい状態・事柄である。前者のlexは英語にもある単語でlawと同義、後者のius(ユス)はjusと書かれることもあり、jusiticeの語源である。 これらを区別せずに lexiusも「法」と訳されるため、混同しやすい。「法」と「正しい状態、公正」は、通底する概念だが、区別した上で理解する必要がある。独語・仏語では「法=権利(Recht/droit)」であり、英語では「正当性・正義=権利(right)」である。そこから、「法=正しい状態=公正=正当性=正義=権利」という概念の連続性を読み取ることができる。

トマスにおいて、自然法則は、人間の事物・生物・理性という三相に基づく本性の傾向、すなわち自己保存、種の保存、神の認識と共生の傾向から導かれ、モーゼの十戒に集約される。法的な正義は「共通善」(bonum commune)を基準とした。古代ギリシャでは、プラトン、アリストテレスが公共善を正義としたが、共通善はその公共善を継承したもので、神、教会、共同体への義務が強調された。

だが、自然科学が発達して科学的な世界観が登場し、また宗教改革により個人の意識が発達すると、共通善に替わるものとして、個人の自由と権利が追求されるようになった。自然権は、この個人の自由と権利に係る概念である。その先鞭を切ったのが、ホッブスである。

ホッブスは、著書『リヴァイアサン』(1651年)に、次のように書いている。

「自然法則(a law of naturelex naturalis)とは、理性によって発見された戒律または一般法則である」

「著作者たちが、一般に自然的正(ius naturale)と呼ぶ自然権(the right of nature)とは、各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の欲するままに彼自身の力を用いるという、各人の自由である。したがって、彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段だと思われるあらゆることを行う自由である」。

ここで「自然法則」「自然的正」と訳したlex naturalis ius naturaleは異なる概念である。重要なのは、ホッブスが「自然的正」を「自然権」だとし、「各人の自由」だと主張していることである。ここには飛躍がある。トマスの自然法論における「自然的正」は、「自然法則」に基づく事物の本性に基づく正しい状態・事柄だが、ホッブスは「自然的正」を人間の自由だとする。自由とは自由な状態への権利である。英語で書くとjusticerightに置き換えて、<正しい状態・事柄→正義→権利>と、言葉の中で意味をずらしていって、個人の自由と権利を提起したと考えらえる。

ここに自然法の理解にコペルニクス的転回が起こった。ホッブスは、自然法に基づく自然権によって、人間が契約を結び、国家を設立したと説いた。社会契約論の始めである。その理論は人権論であり、主権論であり、国家論である。

なお、ここで注意すべきは、「自然」という訳語を当てている原語の nature は、東洋的な自ずと生成するものではなく、神が創造した被造物であることである。自然権は、神が被造物に与えた権利である限り、神の存在が前提となる。ホッブスも神による創造を積極的に否定してはいない。しかし、思考からは神を排除し、神の関与の有無にかかわらず、自然法は存在し、自然権は成立するという考え方で、社会契約論を説いているものである。次にその内容を見てみよう。

 

●自由・平等な個人の契約で絶対主義国家が設立

 ピューリタン革命の最中、王党派のホッブスは、国外に逃れたパリで、1651年に『リヴァイアサン』を書いた。本書は近代西欧発の人権論であり、特異な主権論であり、国家論の書である。
 ホッブスは、『リヴァイアサン』で、大意次のように述べる。―――人間はかつて政府や国家がなく、従って法も秩序もない自然状態にあった。人間は自然状態において、生まれながらに自然法によって認められる永久かつ絶対的な権利を持つ。自然状態では、人間は、心身両面において平等であり、自分の生命を守るためには、殺人を含むいかなる手段を用いてもよい。その権利を自然権という。内容は、自己保存の権利である。しかし、人間が自然状態のままにあれば、本来自己保存のために自然権が与えられているのに、自然権を持っているがために、かえってそれを行使することで、「万人の万人に対する闘争」という戦争状態が生じた。「人間が人間に対する狼」となった。これでは、各人の生命そのものが危険にさらされてしまう。そこで人間は、「自己保存のために平和を求めよ」という、人間に内在する理性の声、つまり自然法に従って、自分たちの持つ自然権を放棄し、相互に契約を結び、各人の代表者である主権者を選んで国家(コモンウェルス)を設立した。そして以前は、各自が自然権によって自己保存を図っていた代わりに、主権者が定める法に従って、平和と生命を維持することになった、とホッブスは説いた。
 ホッブスは、人間が自然状態から脱し、国家を設立した際に、自発的な同意による契約を行ったとする。この説を社会契約論という。国家としてのコモンウェルスはcommonwealthであり、「共通善」であり、ホッブスは、設立された国家をリヴァイアサンと名付ける。リヴァイアサンは、旧約聖書に現れる海の怪物である。ここにおける国家は、国家共同体と政府の両義を持つ。怪物としての国家において、政府は頭に当たるだろう。ホッブスは、絶対的な主権者は、一人でも少数者の集団でもよいとする。一人であれば絶対君主であり、複数であれば独裁的な支配集団となる。
 人間は生まれながらに平等の権利を持つという発想は、封建的身分制の特権と異なる新しい考え方だった。またホッブスは、国家の設立は自由で平等な人々の同意によって行われると主張した。ホッブスは、人権とともに、近代西欧で自由の思想を最初に公表した思想家でもある。ホッブスは、人間を幾何学的な空間を運動する原子のような存在とらえ、自由を「運動の外的障害の欠如」と定義した。自らの意思に従ってなすところを妨げられない状態をいう。障害・拘束からの自由である。そして、あらゆることに先んじて個人の自由が存在すると発想した。
 ホッブスは、自然権とは「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて各人が持っている自由」だとした。またそれは「彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段だと思われるあらゆることを行う自由」だとした。ここで自由とは、自由に物事を行う権利である。自由権である。ホッブスは、殺人を含む自由権の行使のために戦争状態が生じ、それを逃れるために人々は主権者に権利を譲渡すると考えた。この論理は、近代主権国家の成立の過程で、国王に権力が集中し、国王が領域における実力を独占するようになった過程を、歴史を無視し、思弁的に考察したものと言えよう。
 ホッブスの説は絶対王政を擁護するものである。自滅に向かう戦争状態より、絶対的主権者の統治による平和を求める思想である。絶対的な権力で生命の安全は得られるかもしれないが、権利を主権者に譲渡するのだから、自由の獲得にはならない。生命は守られるが、自由は失う。そして、自己保存のために他人を殺す自由権を失うとともに、人間が生まれながらに平等に持つ自由と権利を失うのである。
 ホッブスの自然状態は戦争状態である。ホッブスによると、自然状態では正義も不正義も存在しない。正義は法が定められ、共通の権力が発生した後に発生する。社会契約は、公共善の概念に代わって、国家を設立し、正義を実現するためのものである。人間が理性を働かせて戦争状態を終わらせるために定めた自然法の一つが正義の法であり、正義の法は契約を守ることを求めるものである。契約に反することは不正義であり、契約を守らせるように強制する権力は正義の権力である。絶対王政を擁護するホッブスの理論においては、主権者に対するあらゆる反逆は不正義とされる。
 ホッブスは、主権国家における支配と服従を正当化するために、人権と自由を持ち出した。ホッブスの人権と自由の理論が帰結するのは、主権者への絶対服従である。契約を結んだ人々が契約に違反するのは、平和な社会を再び戦争状態に戻す自然法に反する行為だから、主権者の法には絶対服従せよ、と説く。一方、主権者には、軍事権・立法権を基礎とする絶対的権力を与え、処罰という恐怖によって、人々に契約を守らせよ、と主張する。ホッブスの自然権は国家形成以前の権利であり、社会契約によって国家形成後の権利に転じる。また個人は権利を譲渡して国家権力に委ねよ、という主張は、絶対王政の国家における権利と権力の関係の理論化を試みたものといえる。
 実に奇怪な理論である。キリスト教徒同士が殺し合ったドイツ30年戦争や、信教の自由をめぐり人民が国王を斬首したピューリタン革命という悲惨な状況に西欧があった時代に、ホッブスはこうした奇怪な理論を説いた。この理論は、戦争と内戦という修羅場のような状況から生まれたものだったのである。

 

●ホッブスの社会契約論は科学思想の応用だった

 ホッブスの理論は、彼の世界観・人間観に基づいている。17世紀の西欧では、F・ベーコン、デカルト、ボイル、グロティウスなど新たな理論を発表する思想家が多く出たが、ホッブスは特異である。当時、ホッブスほど、キリスト教的な神を思考から排除した思想家はいない。古代ギリシャにはデモクリトスのような唯物論者がいた。ホッブスはその後継者のように突如、キリスト教文化圏に出現した唯物論者である。
 ホッブスの社会観・国家観は、当時の科学思想を社会・国家に応用したものである。デカルトと親交のあったホッブスは、思考方法を彼に学んでいる。ホッブスは、国家を一つの巨大な「人工的人間」として考察し、それがどういう要素をどのように組み立てて出来上がるか、思考実験によって構成した。デカルトは『情念論』(1649年)で、「生きている人間の身体」を自動機械にたとえ、それをあくまでも機構としてとらえるべきことを説いた。ホッブスが『リヴァイアサン』の序説に書いている思考方法は、ほとんどデカルトの方法をなぞったものである。ホッブスはまたデカルトの影響で機械論的自然観を抱き、原子(アトム)的個人を要素とする社会観を描いた。原子(アトム)とは、それ自体で存在する最小の単位である。原子的とは、互いに独立した個人が、運動する原子のように、力を以てぶつかり合う状態である。個人について、親子・夫婦・祖孫等の家族的血縁的なつながり、集団における生命の共有と共同性は、考慮されていない。
 ホッブスに多大な影響を与えたデカルトは、近代哲学の祖である。デカルトは、中世の神学や薔薇十字団の神秘思想等を経て、数学・自然科学を志した。そして方法的な懐疑を通じて、「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」を哲学の第一原理とした。そこから明晰判断を真理の基準とする物心二元論を打ち出した。物心二元論は、思惟を属性とする精神と、延長を属性とする物体とを峻別する。デカルトは精神・物質をともに実体すなわちそれ自身によって存在するものとした。これによって、機械論的自然観の基礎を築いた。またデカルトは、精神の中に生得的な観念があり、理性によって精神自身が観念を演繹して展開することが可能であるとした。その生得的な観念の一つが神であり、デカルトはコギト(思考する我)の根拠として神の存在は自明のものとした。
 デカルトは、大陸合理論の祖でもある。合理論(rationalism)は、合理主義、理性主義とも訳す。すべての確実な知識は生得的で明証的な原理に由来すると説く立場である。ホッブスは、デカルトの形而上学的な部分については、異を唱えた。キリスト教的な神を思考から排除するホッブスは、人間の観念は生得的ではなく、感覚から経験的に生じるとした。この点で、ホッブスは、イギリス経験論の先駆者とも言える。経験論(empiricism)は経験主義とも訳す。その祖はロックとされる。ロックはデカルトと同じく神の存在を肯定しているので、ホッブスの唯物論は当時において際立っている。
 さて、ホッブスによると、物体は実在し、物体と感覚の衝突によって、行動への意思が生じ、意思を実現するための力が求められる。「全人類の一般的性向」は「次から次へと力を求め、死によってのみ消滅し得るような不断の意欲」である。人間がその意欲によって力を求めて行動し、互いにぶつかり合うとき、「力の合成」が起こる。その結果、合成された力は「人間の力の中で最大のもの」となる。ホッブスは、国家の設立を、こうした物理的な力の合成として説明する。
 ホッブスの力は物理的な力と表象されているが、その力は意思に基づく能力であり、権力である。ホッブスの人間は、生命の自己保存のために、権力を求め続ける者である。また個々人の意思を合成して生まれる国家は、権力の主体である。その権力が主権である。ニーチェは生命の本質を「力への意志」であるとし、「力への意志」を生の唯一の原理とする闘争の思想を説いたが、その思想は、ホッブスは通じ合う。また、あらゆる人間関係に「無数の力関係」が存在するとして権力のミクロ分析を行ったフーコーにも、ホッブスは通じる。
 ホッブスは、フランシス・ベーコンの思想の影響も受けている。ホッブスはベーコンの弟子であり、秘書として彼に仕えた。そして、ベーコンを継承し、科学による新しい国家(コモンウェルス)の構築を図った。ベーコンは、「知は力なり」との言葉通り、科学と科学者が王座を占め、科学によって得られた正しい知識によって統治が行われる「ニュー・アトランティス」という文明を構想した。現実の不合理を超える合理的な社会秩序があると考えるベーコンは、人間の理性に無限の信頼を置き、自然と社会の科学が社会を支配すれば、幸福な社会が実現すると考えた。ホッブスの『リヴァイアサン』は、「ニュー・アトランティス」を実現しようとしたものだった。原子的な個人による「力の合成」で設立された国家が、科学によって社会を発展させるという構想である。
 ホッブスは、イギリスの政治的伝統や価値観を否定する。彼の社会契約論は、解析幾何学的な方法で国家を設計するもので、ホッブスは自然科学的思考を国家建設に応用した設計技師と言えよう。ハイエクは、頭の中で考えた理論で社会制度を設計し、それをもって社会を改造しようとする思想を設計主義と呼び、デカルトに始まる設計主義は「合理主義の思い上がり」であり、人間の驕りだとして厳しく批判した。人間は完全な知識を持ち得ないのであり、社会の慣習や伝統を大切にしてこそ、個人の自由が守られる、と説いた。ホッブスは、ベーコンとデカルトを合体することにより、デカルトとサン・シモンを結んだ。私は、そこから百科全書派、マルクス、レーニン、スターリン、ヒトラーという系譜が続くと考える。
 人権概念を最初に提起したホッブスは、人権とともに主権・国家を論じた。その思想は、リベラル・デモクラシーとは正反対の独裁、統制主義を裏付けるものだった。この点、ロックは、ホッブスの社会契約論を継承しながら、個人を家族的な結合による社会関係の中でとらえ、ホッブスとは異なる理論を展開した。次にそのロックの思想を見てみよう。

 

●自由と権利、権力と国家の理論で世界に影響を与えたロック

 ホッブスの社会理論を批判的に発展させたのが、ジョン・ロックである。ロックはホッブスを受け、自然状態や社会契約について独自の考察を行った。ホッブスの自然権の思想を発展させ、今日の人権思想の最大の源となっている。ロックが説いた自由と権利、権力と国家に関する思想は、21世紀に至るまで世界に広く影響を与え続けている。
 ロックは、ジェントリでプロテスタントの家庭に生まれた。この出自は、ロックの思想形成の基盤となった。ロックは議会制デモクラシーの理論を説き、近代西欧の政治思想を発達させた。労働による所有を権利として打ち立て、私有財産を肯定し、近代資本主義を基礎づけた。キリスト教の諸宗派だけでなく、異教も含む信教の自由を唱え、その実現を図った。ロックの政治・社会・経済・宗教等にわたる思想には、17世紀イギリスの新興階級の意識やプロテスタントの価値観が反映しているところがある。
 ロックは哲学者で政治理論家として知られるが、職業は医者だった。医学を通して観察と実験という近代西欧科学の実証的方法を習得していた。当時の科学思想に通じ、イギリス王立協会の会員ともなった。デカルトを読んで中世キリスト教神学のスコラ的な思弁から脱却した。ボイルの実験に参加し、粒子物理学に関心を持った。ガッサンディの原子論的感覚論にも興味を示した。機械論的自然観を構築したニュートンとも親交を結んだ。ロックの思想は、こうした医学と科学の知見が反映している点もある。
 ロックの思想は、独自の認識論、人間観、世界観に基づくものである。中世西欧では、キリスト教的プラトニズムが支配的だった。プラトンは、世界をイデア界と現象界に分けた。現象界の事物はイデア(観念)を原型・模範とする似像・模像だと説いた。イデアは超感覚的で永遠不変の真実在であり、道徳、存在、自然等の統一的で超越的な原理だった。プラトンは、魂はかつて天上界にあったが、地上の世界に追放されて、肉体に閉じ込められているとし、真の認識とは魂の解放のために、天上界で見たイデアを「想起」することだとした。キリスト教神学は、プラトンのイデア説を取り込んで、人間の認識は生まれながらに備わる観念に基づくという説を教義とした。
 アリストテレスは、プラトンの弟子だが、認識は感性的経験に基づくという立場を取った。アリストテレスは、師のイデア論を継承しながらも、イデアが個物とは別に実在するという考えを批判した。エイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱し、形相が質料と不可分に結合した個物が基本的実在であるとした。以後の西洋思想史は、プラトンとアリストテレスを二極として展開した。何らかの意味でイデアが真の実在だとする思想を、観念主義または観念論(idealism)といい、イデアを否定し、ヒュレーはそれ自体で存在するという思想を、質料主義または唯物論(materialism)という。先に触れたデカルトは前者、ホッブスは後者になる。
 デカルトは、人間の精神の中には生得的な観念があり、理性によって精神自身が観念を演繹して展開することが可能であるとした。これは、プラトンの系統である。デカルトは大陸合理論の祖となり、スピノザ、ライプニッツ、ヴォルフらが続いた。これに対し、ロックは、近代科学の知見に基づいて、生得観念を否定した。すべての観念、すべての知識は経験、すなわち感覚と内省に由来する。客観的な物体は不可知体であると説いた。これは、アリストテレスの系統である。こうした認識論の立場によって、ロックはイギリス経験論の祖とされる。バークリー、ヒュームらが続いた。
 ロックによれば、感覚によるものでも内省によるものでも、すべての観念には快楽と苦痛が伴う。人間は、快楽を追及し、苦痛を回避しつつ自己保存を図る。このような人間観によって、ロックは功利主義の祖とされることがある。しかし、ロックの世界観においては、人間の行動を規制するものとして、自然法が厳然と存在する。ロックの自然法は、神の意思に基づく秩序の原理であり、神が人間に与えた理性(reason)の法である。自然法は人間が生まれ持つ能力を正しく行使することによって認識できる。こういう認識論、人間観、世界観に基づいて、ロックは自由と権利、権力と国家を論じた。この点から見て、ロックを功利主義の祖とは言えない。
 ロックは、ホッブスの思想を批判的に継承したが、ホッブスとは正反対に、絶対王政に対して批判的だった。そのためオランダに亡命していた時に、イギリスで名誉革命が始まった。革命派に請われてオレンジ公ウィレムが渡英する際、イギリスに帰国した。彼がオランダで書いた『統治二論』は、1690年に出版され、時代を代表とする書となった。
 ロックは、社会契約論によって人民に抵抗権・革命権があると主張し、名誉革命における議会による国王の交代を正当化した。君主制の下での議会制デモクラシーを目指し、専制君主の権力を制限して、民衆が政治権力に参加し、君民共治の体制を確立する理論を樹立した。ロックは、政治的にはトーリー党(王権擁護派)と対立するホイッグ党(王権制限派)だった。
 『統治二論』の眼目は、「人間は生まれながらにして完全な自由をもつ。人間はすべて平等であり、他の誰からも制約を受けることはない」という主張である。普遍的・生得的な人間の権利としての人権の思想である。ここに表れているのは、自然法に基づく自然権の思想である。自然法の思想を抜きに、ロックの自由と権利、権力と国家の理論は成り立たない。自然法はキリスト教の世界観に基づくものであり、キリスト教及び自然法という前提を外して、いわゆる人権の理論は成り立たないと私は考える者である。

 

●自然状態から国家へという理論

 これからホッブスとの比較に重点を置きながら、ロックの思想を概観したい。
 ホッブスは、デカルトのコギトの自己認識に立って、原子的な個人を要素として社会を考察した。自然状態は、他の人々と関わりなしに存在する孤立した個人が自己保存のために争い合い、「万人の万人に対する闘争」が行われている戦争状態と考えた。
 ロックもコギトの認識に立つが、ホッブスと異なり、人間の本性は社会的であるととらえた。そして個人を社会的なつながりを持つものととらえた。そして、社会関係における個人の自由と権利を確保・拡大することを目指した。ロックは、社会の基礎を家族に見た。「男女の結合の目的は、単なる生殖にあるのではなく。種の存続にもある」「夫婦社会は、男と女との間の自発的な契約によってつくられる」とし、「最初の社会は夫と妻の間に存在し、これが両親と子供たちとの間の社会の端緒となり、やがてこれに、主人と召使いとの間の社会が加わるに至った」と説いた。こうした夫婦・親子・主従による家族がもとになった集団を考えるロックは、自然状態を家族的結合による平和な状態と考えた。
 ロックは、人間は生まれながらにして自由・平等であり、他者から制約を受けることはないと説いたが、この点はホッブスの主張を継承したものである。ホッブスは、自然法に基づいて、人間には生まれながらに自然権があるとする。ロックも同様だが、自然法と人間に対する考え方は、ホッブスと大きく違う。
 ホッブスは、自然法から自然権という権利のみを取り出し、制約のない自由を強調し、いかなる道徳的な拘束も存在しないとした。ホッブスの自然状態における人間は、主に自己保存の本能で行動し、生命維持のため殺人を含むあらゆることを行う。自然法による秩序というより、無法状態がホッブスの自然状態の結末である。これに対し、ロックは自然状態における自然法の存在を強調する。ロックの自然状態では、各自が自然権として生命・自由・財産の所有権を持つ。人々は自然法の道徳原理である理性に従って行動する。理性は他人の所有権を侵害すべきでないことを教え、人々はこれに従う。互いに自由・平等で独立して生活し、他人の生命・自由・財産を損ねることがない。これは、ホッブスの戦争状態とは正反対の平和な状態である。
 人権の観念の核心には、自由がある。ホッブスは、自由を「運動の外的障害の欠如」と定義した。自らの意思に従ってなすところを妨げられない状態であり、障害・拘束からの自由である。ホッブスは、自然権とは「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて各人が持っている自由」だとした。またそれは「彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段だと思われるあらゆることを行う自由」だと説いた。そして、殺人を含む自由権の行使のために戦争状態が生じるとした。
 これに対し、ロックは、自然法には、他人に要求することを自分もまた受け入れ、自分の主張することを他人にも認めるという相互性が基礎にあるとし、自由を自他の相互性においてとらえた。ロックは言う。「自然状態とは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人よりも多く持つ者は一人もいない」「人々が理性に従って一緒に生活し、しかも彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者を地上に持たない状態、これこそまさしく自然の状態である」と。
 ここで注目したいのは、ロックが自然状態における「権力と支配権」を認めていることである。ロックは、権利だけでなく同時に権力について論じている。「権力と支配権」といっても、社会に権力による支配が既にあるのではない。自由で平等な個人がそれぞれ権力を持ち、所有物に対する支配権や裁判権・制裁権を持ち、自他の権利関係・権力関係が均衡的になっている。そこにもし「彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者」が現れるならば、その優越者は、法を司る権力者・支配者となるというわけである。
 こうした自然状態に変化が起き、国家が形成された。ここで「国家」と訳した原語は、commonwealth である。Statenationではない。ロックの『統治二論』は、第10章「コモンウェルスの諸形態について」、第12章「コモンウェルスの立法権・行政権及び連合権について」、第13章「コモンウェルスの諸権力の従属関係について」と題している。これらにおけるコモンウェルスを「国家」と訳しているものである。市民社会(civil society)、政治社会(political society)も同義である。
 ホッブスもロックも、人間は自由で平等な権利を持つとし、自由で平等な権利を持つ人々が自発的な同意によって契約を結んで、国家(コモンウェルス)を作ったと考えた。ホッブスは、人々は自己保存のために殺し合いをするようになり、生命を守るために、権利を一人に委譲することで国家を設立したとする。一方、ロックは、生命・自由・財産の所有権を相互防衛するために、共同で権力を行使するために国家を作ったと説いた。
 ホッブスは人間の個人性、権利と権力の闘争性・侵略性に注目し、ロックは人間の社会性、権利と権力の協同性・防衛性に重点を置く理論を構成した。ただし、ホッブスは絶対的主権者への絶対服従を説いたのに対し、ロックは政府が約束に反して権利を侵害するときは、人民には抵抗する権利があるとする。反乱し、革命を起こす権利もあるとした。
 ホッブスの自然状態は戦争状態だが、ロックの自然状態は平和な状態である。ロックは自然状態では、すべての人が自然法を執行する権利を持ち、自然法に違反する者を処罰する権利を持つとし、国家ができる前から、正義の原理が存在する。社会契約が行われるのは、自然状態の正義が失われ、不正な状態になったのを解消するためとされる。しかし、絶対王政は社会契約を締結した人民に対して不正義の体制である。ホッブスは社会契約論で絶対王政を擁護したが、ロックは社会契約論で市民革命を正当化した。
 現実のイギリスはノルマン・コンクェストによる征服国家であって、自発的同意による社会契約で政府を作った国家などでは全くない。私の見るところ、ロックは教養人としてそのことは分かっていながら、社会契約の理論を創作し、あるべき国家を説くことで市民革命を推進したのである。

 

●所有権の強調と労働による生産物の私有

 ホッブスは、生命の自己保存を強調する一方で、生命維持のために必要な物資の所有権を、あまり考慮していない。ホッブスにおいては、所有権は契約によって設立された国家の絶対的権力者の決定に委ねられている。生命の安全と引き換えに、権利を移譲しているからである。絶対君主が人民から富を収奪し、重税を課しても、絶対服従すべきということになる。これに対してロックは、所有権を自然法に基づく自然権として強調し、これを擁護する。
 ロックは、人々は、歴史的・社会的に形成された貴族・庶民の「古来の自由と権利」ではなく、自然権として、諸個人が各自に固有な所有権(property)を持つとする。生命(life)、自由(liberty)、財産(possessions, estate)が、一体として所有物(property)とされる。生命・自由も固有(proper)の所有物とし、所有に関する権利を強調した。英語は have 動詞が多用される言語であり、事物も経験も観念も have(持つ)で表すが、ロックほど have (所有)を中心に思考した思想家はいない。ロックの生命・自由・財産は、後に近代法の権利義務体系において、それぞれ人身の自由または身体の自由、精神的自由、経済的自由として位置付けられることになった。自由な状態への権利または自由に行動する権利である。
 「神はこの世界を人間に共有物として与えたもうた」とロックは言う。神は「人間の利益」となるよう、また「衣食住の便」を最大限に引き出すことができるよう、世界を与えた。では、神が共有物として与えたものを、どうして各人は所有物とするようになったのか。ロックは、「神は土地の開墾を命じることによって、その限りでそれを占有する権限を与えた」という。人々が労働をして土地を開墾することで、私有財産がもたらされた。ロックは、労働によって得られたものは、固有の所有物である身体を動かして得たものゆえ、その人の所有物であるとして、ロックは私有財産を正当化した。この理論は、私有制に基づく資本主義を権利論で基礎づけるものだった。
 ホッブスは、自己保存に必要な自然資源を有限と考え、限定された資源をめぐる争いは必至とした。ホッブスは希少性の世界を想定した。これに対し、ロックは、労働によって生活のための資源を増加できると考えた。労働で生活資源が増え、各人の所有物も増えていくから、ロックの自然状態は、豊かで平和な社会である。

●自然法からの逸脱の原因

 もしロックの自然状態が、人々がみな理性に従って生き、互いの権利を侵害しない平和な状態であれば、争いは生じ得ない。そのため、どこまでも平和な状態で、豊かに、安全に発展していくはずである。だが、ロックは、その自然状態に争いが起こるようになったという。いわば自然法からの逸脱が起こったとするのである。
 ロックによると、自然法は、理性によってのみ認識できる法であり、理性を失っている者、無知な者には見えない。自然状態においては、所有権の享受は「はなはだ不確実であり、絶えず他の者の侵害にさらされている」とロックはいう。自然状態の人間はいつも理性の人であるとは限らず、自然法から逸脱し、これに背いた振る舞いをする。人々のうち勤勉でも理性的でもない人間は、労働を怠り、財産を持たない。人をうらやみ、人のものを奪おうとする。そのため、財産をめぐる争いが起こり、殺し合いにもなる。それによって、自然状態の平和は破れたという見方である。
 ホッブスは、自己保存のための殺し合いを想定したのに対し、ロックは財産をめぐる争いを想定した。平和を取り戻すため、人々は自発的な同意による契約で国家を設立したという部分は、ホッブスとロックの論理は同じである。
 ホッブスにおいては、人々は権利を主権者に譲渡し、生命の安全を確保する。政治権力は、生命の安全を維持するのが、役割である。これに対し、ロックにおいては、盗みや殺人に対して、裁きと処罰を行うものとして、政治権力が求められる。「人間は、自分の所有物、すなわち生命・自由・財産を、他人の侵害や攻撃から守るための権力だけでなく、また他人が自然の法を犯したときには、これを裁き、またその犯罪に相当すると信ずるままに罰を加え、犯行の凶悪さからいって死刑が必要だと思われる罪に対しては、死刑さえ処しうるという権力を生来持っている」とロックは言う。各人の権利を確実に保障するために、財産争いの状態から脱し、自然法を協同で執行する権力を形成する。それによって、政治社会が成立する。自然状態から政治社会への移行が起こるとロックは考えた。ここにおける権力は、主に司法的な権力である。自然法に基づいて裁判・処罰を行う権力である。
 ロックは説く。「すべての人が自然の法の執行権を放棄してそれを公共の手に委ねる」ことで政治社会あるいは国家が成立する。「人々は、すべての争いを裁定する権威と、国家のどの成員に加えられる危害をも救済する権威とを備えた裁判官を地上に打ち立て、自然の状態から国家の状態に入るのである。その裁判官とは、立法部またはそれによって任命された行政者なのである」と。
 ホッブスは、生命の安全のため、絶対的権力への絶対服従を求めるが、ロックは、生命・自由財産の所有権の保全のため、人々が政治に参加し、権力を協同的に行使する体制を求める。ロックにおいては、議会制デモクラシーは、自然法から逸脱してしまった状態を是正する制度であり、逸脱の是正によって自由と権力の保障を実現し得る機構なのである。

 

●貨幣の発明で国家が生まれたと推測

 ロックは貨幣に注目した。土地を開墾すれば、土地を所有できる。労働によって所有物を得られるが、農作物はやがて痛み、腐敗する。しかし、貨幣は腐らない。人間は貨幣を発明したことにより、所有物を蓄積・増加できるようになった。所有は自然法に基づく自然権ゆえ、人間は勤勉に働くことで、いくら貨幣を蓄蔵してもよい。だが、そのために私有財産の差が出て来る。
 ロックは言う。人間に「自分が必要とする以上のものを持ちたいという欲望」が生ずると、消耗も腐敗もしない貨幣が「大きな肉の塊や山と積んだ穀物と同じ値打ちがあると、人々が一致して考えるようになってしまった」。「勤労の程度がそれぞれ異なることによって、人々はそれぞれ異なった割合の所有物を持つことになりがちであったが、それと同じように貨幣の発明は、人々にそうした傾向を持続させ、さらにそれを拡大する機会を与えた」「土地生産物の過剰分と交換にそれらを受け取ることによって、人は、自分だけではそこからの生産物を利用しきれないほどの土地を正当に所有する方法を暗黙の自発的な同意によって発見した」と。
 人々の間に財産の差が生じてくると、他人の所有権を侵害する者が現れる。財産をめぐって争い合うようになった人々は、所有権を共同で防衛するために契約を結び、国家を設立したとロックは考えた。
 自然状態においては、所有権の侵害を処罰する共通の権力がないために、さまざまな不便が生じてきた。そこで彼らの間の争いを決し、犯罪を処罰する権威を持った共通の確固たる法と裁判所に訴えることができるように、相互に政治社会に入った、とロックは推測する。
 ロックは、国家設立の理由を、ホッブスのように単に自己保存に求めるのではなく、このように自己保存のために必要な財貨の獲得に結びつけた。貨幣が人間を変え、社会を変えた。そして、国家が生まれたというわけである。
 ロックは言う。「人間は生来、すべて自由であり、平等であり、独立しているのだから、だれも自分から同意を与えるのでなければ、この状態から追われて、他人の政治的な権力に服従させられることはあり得ない。人がその生来の自由を放棄し、市民社会の拘束を受けるようになる唯一の方法は、他人と合意して一つの共同社会に加入し、結合することであるが、その目的は、それぞれの自分の所有物を安全に享有し、社会外の人に対してより大きな安全性を保つことを通じて、相互に快適で安全で平和な生活を送ることである」と。
 ここにおける国家設立の目的には、集団の内部における所有権の安全の確保と、集団の外部からの侵略への防備という両面があることに注意したい。また国家設立の際、人々はホッブスのように権利を譲渡してしまうのではなく、生来の権利を保持しつつ、統治者に統治権を信託したというのが、ロックの主張である。ロックは同意によって設立される政治権力の目的を、所有権の調整と保存においた。人々は共同社会に入ることで、自然状態における完全な自由は失う。拘束は受ける。だが、権利は保持する。権力を合成し、合成された権力の行使に参加する。そのようにして生命・自由・財産を共同で防衛する。これは、名誉革命によって新しく支配層に加わったジェントリとブルジョワジー等の新興階級の政治的権利を正当化するものだろう。近代国家の役割は、国民の生命と財産を守ることだといわれるが、ホッブスとロックによってその考え方が打ち出されている。
 なお、ロックは、この合成された政治権力の行使の方法として、多数決の原理を打ち出す。ロックは言う。「自然の状態を脱して結合し、一共同社会を形成する者は誰でも、そのような社会へ結合する目的に必要な権力のすべてを、その共同社会の多数派に譲渡するものと解釈されなくてはならない」と。

 

●所有・契約の自由による資本主義の基礎づけ

 貨幣に注目したロックは、資本主義を理論的に基礎づけた。それは、所有と自由と契約の自由の確立を通してである。ロックは生命も自由も財産も所有物とし、所有に関する権利を自然権であると主張した。身体を使って労働して得たものは、その人間の所有物である。私有財産は、神の意思による道徳の原理である自然法に沿って守られねばならない。この論理によって、ロックは私有財産を正当化した。これは、所有の自由の主張である。
 ロックは、自然法には、他人に要求することを自分もまた受け入れ、自分の主張することを他人にも認めるという相互性が基礎にあるとし、その相互性の最も典型的なものが契約であるとした。自然状態における人間は、生命・自由・財産を所有し、自らの意思で契約を結ぶ。これは契約の自由の主張である。
 ロックは、これら所有の自由と契約の自由を説いた。自由とは、自由な状態への権利であり、自由に物事を行う権利である。この権利の思想こそ、私有財産と市場経済に基づく近代資本主義を理論的に基礎づけるものだった。資本主義では、市場の普遍性が必要である。市場の普遍性とは、あらゆるものの所有権が確立しており、双方の合意によって売買契約を結ぶことのできる市場が存在することである。市場の普遍性は、所有と契約の自由の保障によってのみ成立する。
 ロックは、自然権として所有権を打ち出すことで、貨幣経済の発達した近代社会における所有権を正当化した。資本主義的所有権の特徴は、絶対的であることである。絶対的とは、所有者が身分や帰属に関係なく、所有物を自由に処分できることである。所有の自由である。この自由によってあらゆるものが商品化される。生産物だけでなく、土地や労働力までもが所有物として商品と化し、貨幣と交換される。所有物が商品化される社会で、もう一つ必要なのが、契約の自由である。ロックは、人間は生まれながらに自由で平等だとし、人民は契約によって国家を形成したとする。そうした論理で、人々は自由に契約を結ぶことができるとした。この契約の自由によって、所有物の交換がなされる。契約は双方を拘束し、権利と義務が発生する。それによって資本主義的な市場経済が成り立つ。ロックの所有と契約の理論は、資本主義が依って立つ近代西欧法を、所有と契約の自由に基づく権利と義務の体系として発展させることになった。
 ところで、所有の自由と契約の自由の背景には、キリスト教の文化がある。所有の自由は、神の被造物への絶対的権限が、人の所有物への権限へと変換されたものである。所有者は所有物を自由に処分できる。所有する土地の利用は、自然の改造を是認するものでもある。また契約の自由は、神と人との契約が人と人との契約に変換されたものである。神との契約は絶対的な拘束である。背反は罪であり、罰を受ける。人と人との契約も、絶対的な拘束として権利と義務の関係を結び、違反すれば処罰される。

●所有権は自然権とは言えない

 ロックは、生命・自由・財産の所有権は、自然権だとする。だが、果たして所有権は、普遍的・生得的な人権といえるだろうか。ロックのいう自然状態は、国家の設立までに段階がある。原始的な段階では、財産は私有ではなく、共有だった。労働によって所有物の差が出て、私有制になった。貨幣の発明によって、争奪が起こった。それゆえ、ロックの自然状態には、財産の共有段階、私有段階、争奪段階の3段階がある。人間が生まれながらに自由で平等だとすると、真に自然状態といえるのは、財産の共有段階のみであって、その段階の人間が持っていたと想定されるもののみが、自然権と言わねばならない。
 注意したいのは、財産の共有段階においても、私有物が全くないのではない。共同体の集団生活においても、最小限の必要品は個人に帰属する。私有が問題になるのは、生産手段の私有である。特に生活資源の源である土地の私有である。本来、土地は集団で共有または共同利用していたが、土地が開墾・耕作されるようになって、財産の差が生まれた。財産の私有段階に入り、個人や家族が所有する財産に差が出て来ると、個々人はもはや平等ではない。それゆえ、ロックのいう財産の所有権は自然権ではなく、普遍的・生得的な人権とは言えない。
 では、生命・自由の所有権はどうか。身体・精神の所有は自然権と言えるか。身体・精神は個人に帰属するが、生命は個体で自足しておらず、集団で共有している。生命は夫婦の結合によって発生し、親子・祖孫の世代間で継承される。精神もまた家族における言語・文化の継承を通じて形成・成長し、集合的に働く。個人で自己完結していない。それゆえ、人間は心身両面から見て、17世紀の物理学における原子のような存在ではない。
 それゆえ、ロックが生命・自由・財産の所有権は自然権だとする主張は、単純には成り立たない。所有権は普遍的・生得的な人権とは言えない。所有権は、歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利の一つである。ロックが所有権を強調するのも、17世紀イギリスのジェントリやブルジョワジーの所有意識の現れであり、所有意識を想定上の自然状態に投影しているものである。
 所有は私有/共有のどちらかに一元化すると、徹底的な個人主義か、統制的な共産主義となる。だが、人間には個人性と社会性の両面があり、所有についても私有と共有のバランスが必要である。徹底的な個人主義は、絶対的な自由主義となり、資本の活動に無制限の自由を与え、激しい競争による格差社会を生み出す。統制的な共産主義は、私有財産が階級支配をもたらしたとして、私有財産制を否定して、生産手段を共有する共同体を実現しようとするが、ロシアや中国等における実験は、悲惨なる失敗に終わっている。
 ロックの自然権としての所有権の理論から、人権の思想は発達した。しかし、人権が所有権としてのみ成り立つものだとすると、ロックの私有的所有権の否定は、人権論の否定となる。人間は生命を共有し、集団生活と営む動物である。その本質を踏まえて、人権を普遍的・生得的な人間の権利ではなく、発達する人間的な権利として基礎づけるには、ロックの所有論は私有と共有のバランスという観点から見直す必要がある。

 

●抵抗権・革命権の肯定とデモクラシーの発達

 次に、政治理論に話を進めると、17世紀のイギリスでは、ロックに先んじてジェームズ・ハリントンが、国王・上院・下院からなる議会に主権があるという議会主権の理論を説いた。ロックは、これを社会契約論を用いて発展させ、国王の行政権を抑制する議会の機能を強化しようとした。特に下院(庶民院)における新興階級の政治活動を有利にしようとしたものだろう。
 ロックは、民主的な「法の支配」を実現する保障として、立法権を最高の権力とするとともに、立法部と行政部の権力分立を説いた。立法部としての議会と行政部としての政府に権力を分立し、国王に対する議会の優位を確保しようとした。
 同時にロックは、「民衆の信頼に反するような法律や政令を発見した場合は、民衆にはその法律を改廃させる優越的権利が依然としてある」として、人民の抵抗権・革命権を主張した。
 ロックは、政府を人民の自発的な同意によって設立された政府とするので、統治者が彼に信託された権力を濫用する時には、国民は法の枠内で抵抗することができるとする。人間が政治社会を結成した目的を全面的に破壊するほど専制支配が極度に進んだときは、反乱を起こしてもよいとした。ロックは、さらに、革命を起こすことも是認した。「彼らが決起して、最初、統治が樹立された時のその目的を、自分たちのために確保してくれそうな人々の手に支配権を移そうとするのは、別に不思議なことではないのである」とロックは述べている。こうしてロックの理論は、名誉革命における議会による国王の交代を正当化した。この抵抗権・革命権の肯定が、近代西欧の市民革命の理論的根拠となった。
 16世紀フランスで、カルヴァン派プロテスタントのユグノーは、暴君放伐論を唱えた。神の法に従わない君主に従う義務はなく、暴君は追放すべきだという主張である。この主張は、ロックの抵抗権・革命権の思想の先駆であり、ロックに影響を与えた。
 ロックの抵抗権・革命権は、政府が人民の自発的な同意によって契約によって設立されたものであるということが前提になっている。実際のイギリス国家は、外来の侵略者による征服国家であり、その政府は人民の同意によって設立された政府ではない。人民は征服支配者とその後継者に対して抵抗し、議会を通じて請願をし、権利の確保や拡大をしてきた。その抵抗の極点において、ピューリタン革命が起こった。それゆえ、人民の抵抗権・革命権を主張するのであれば、征服国家における被支配人民の権利として理論化すべきものだろう。
 ロックは、この点、イギリスの歴史や国家の由来を無視して、架空の理論を説いているように見える。だが、私は、ロックは征服国家イギリスの政治権力の由来を分かったうえで、自己の政治的な主張をしていると推測する。ロックは言う。「正当な権利によらず、暴力によって押し付けられた権力を払いのけることは、それが反乱という名で呼ばれようとも、神の前では罪ではなく、たとえ、そこに力ずくで無理に結ばせられた約束や契約が介在していたとしても、それは神が許し、奨励するものだということである」と。「正当な権利によらず、暴力によって押し付けられた権力」「力ずくで無理に結ばせられた約束や契約」という文言は、ノルマン・コンクェスト以来のイギリスの権利関係・権力関係を暗示するものと私には思われる。
 ロックは抵抗権・革命権を認めるが、共和主義者ではない。ロックもまたピューリタン革命の悲惨を見ており、共和主義の危険性を知っていた。ロックは、水平派の生得権・平等思想の急進性を退け、君主制と共和思想、自由と平等の均衡を図った。ピューリタン革命を徹底してイギリスを共和制にするのではなく、名誉革命で作られた制限君主制を整備しようとした。
 ロックの思想にある共和的な要素は、イギリスでは、議会を通じた政治参加という君主制におけるデモクラシーとして発達した。一方、フランス・アメリカでは、君主制を打倒したり、君主制国家から独立して共和制を目指す思想へと急進化し、アメリカ独立革命とフランス市民革命の駆動力となった。

 

●ロックの政治理論と水平派

 ホッブスからロックへの思想的な展開において、見逃せないものに、水平派の存在がある。人権の思想は、17世紀半ばのイギリスに、二つの起源を持つ。一つはホッブスの自然権であり、もう一つは、水平派の生得権である。ロックは、ホッブスの自然権と水平派の生得権を検討し、独自の政治理論を打ち出した。それによって、人権の思想が発達した。
 水平派とは、ピューリタン革命の中で現れた政治結社である。ジョン・リルバーンらを指導者として、ロンドン市民、小商人、職人、小農間に組織化が進められ、クロムウェルによる「新しい型の軍隊」(New Model Army)の兵士層に勢力を伸ばした。リルバーンは、1647年人民主権論に立つ人民協定と称する成文憲法草案を出して、軍の主流である独立派と対立する平等派を率いたが弾圧を受け、オランダに亡命した。残る水平派は、一時的な妥協によって共和制を成立させたが、1649年クロムウェルの弾圧を受けて消滅した。
 水平派は、自然法に基づく生得権 Birth right を主張した。中世のイギリスでは、生得権とは、身分によって与えられる特権や既得権のことだった。だが、水平派は、人間が生まれながらに神から等しく与えられている権利として生得権を主張した。人間はすべて神の前では平等であり、身分や貧富の差が存在することは聖書に反すると主張した。ここに人権の思想の一つの起源がある。
 水平派の生得権は、生まれながらの権利という点では、ホッブスの自然権に通じる。ただし、水平派の思想は、聖書に基づくキリスト教的な平等思想であって、思考から神を排除したホッブスとは、世界観が基本的に異なる。
 また水平派は、ノルマン人の征服を非難して、アングロ・サクソン時代の自由を回復すべきであると訴えた。彼らは、それを生得権による要求であるとした。ここには、外来の征服者の支配に対する土着民族の抵抗という要素がある。
 水平派は共和政を目指し、普通選挙を要望した。水平派に近い思想を持っていたのは、詩人のジョン・ミルトンである。ミルトンは、ピューリタン革命に参加し、共和政府の秘書官として活躍し、多くの政治文書を書いた。ミルトンは、そうした文書に、生まれながらに神から与えられている権利という意味で、生得権を使っている。共和政崩壊による王政復古後は、失意の中で、聖書に基づく叙事詩『失楽園』『復楽園』(1671年)を書いた。
 ロックは、リルバーンら水平派の運動家の書いた文書や宣言文を読んでいたが、彼らの主張には組みしなかった。君権・民権の均衡を目指すロックは、王政を否定する共和主義を志向しなかった。ロックは、ホッブスの絶対主義、水平派の共和主義をともに否定し、君主制の下での議会制デモクラシーを目指し、専制君主の権力を制限して、民衆が政治権力に参加し、君民共治の体制を確立する理論を樹立した。
 ロックの政治理論は、近代デモクラシーの基本原理を集約的に表現したものと言える。民衆の政府参加、法の支配、議会政治、立法府に最高権力、権力分立、多数決、抵抗権、革命権等である。18世紀のフランス、アメリカの思想家や政治家たち、三権分立論のモンテスキュー、啓蒙思想家のヴォルテール、社会契約論を発展させたルソー、米国独立宣言を起草したジェファーソンらは、ロック思想の影響を強く受け、または独自に発展させた。
 ロックの思想は、抵抗権・革命権を徹底すると、急進的な共和主義になる。イギリスでは、共和主義は、勢いを伸長することはなかったが、アメリカやフランスでは独立運動・革命運動を推進した。またロックの思想は、歴史的権利や伝統を尊重する立場から一定の修正を加えれば、逆に穏健な議会政治や保守主義の理論的基礎ともなる。ヒュームやバークはこの方向にロックの思想を発達させた。
 私は、ロックの社会契約論は、社会発達の学説というより政治革命の理論であり、学説としての妥当性ではなく革命理論としての有効性を追求したものと考える。この点、マルクスの唯物史観と似た性格を持っている。社会契約論と唯物史観は、近代西欧における二大革命理論であり、前者はアメリカ・フランスに市民革命を起こし、後者はロシア・東欧に共産主義革命を起こした。ともに社会発達の学説としては誤りだが、革命理論としては強力な変革力を持ってきた。ロックは私有財産を肯定し、マルクスは否定しようとする。その点は対照的だが、マルクスの思想もまたロックの思想を批判的に発達させたものである。ロック以降の政治社会思想は、ロックをどのように解するかによって、大きく分かれたと言えよう。

 

●フリーメイソンとの関係と信教の自由の確保

 ロックの思想とその欧米諸国への影響を考える時、フリーメイソンとの関係は見逃せない。イギリスは、近代フリーメイソンの発祥地だった。フリーメイソンの起源には諸説あるが、学術的に有力なのは中世の石工つまり建設業者の職人組合に起源を求める説である。石工組合が近代的な結社に変わったとするものである。 「近代フリーメイソンの父」と呼ばれるジャン・デザキュリエは、イギリス王太子の礼拝堂付牧師で実験物理学者であり、権威ある王立協会の会員だった。デザキュリエはニュートンの友人であり、ニュートンはロックの友人だった。ロックは名誉革命の前、オランダに亡命していたが、1680年代のオランダでは既にメイソンが活動していた。ロックがメイソンだった確証はないが、その周囲にはメイソンが多くいた。ロックがメイソンと交わり、メイソンの思想をよく知っていた可能性は高い。
 「自由・平等・友愛」というと、誰もがフランスの三色旗を思い浮かべるだろうが、これらはフリーメイソンの標語だった。ただし、この標語はメイソンが発案したものではない。もとはロックの『統治二論』である。ロックは、本書で、自然状態において完全に自由かつ平等である人間が、自然法による理性に従って行動し、正義と友愛という原理に導かれると説いている。それゆえ、フリーメイソンがロックの思想を摂取したと考えるべきだろう。
 フリーメイソンは、イギリスからフランス・アメリカ・ドイツ等に組織を広げた。それによって、ロック思想を大陸の貴族や上層市民階層に伝える役割をした。そして、ロック思想とフリーメイソンは分かちがたく結びつきつつ、アメリカ独立思想やフランス革命思想の源泉となった。
 カトリック教会は1738年にフリーメイソンを破門に処した。フリーメイソンの象徴や知識には、古代エジプトや古代ギリシャからの継承を思わせるものがある。その一方、当時の先端思想である自然科学や理神論的な道徳思想を取り入れていた。古代的神秘的象徴的なものと、近代的合理的科学的なものとが共存していた。彼らの活動の広がりは教権の秩序を揺るがすものだった。ロックがメイソンの活動の便宜を図ったかどうかは分からないが、ロックの功績の一つに、信教の自由の確保への貢献がある。
 ロックは宗教的寛容を主張した。ロックが名誉革命期に亡命していたオランダは、16〜17世紀にかけて、ヨーロッパで最も宗教に関する自由が保障されている国だった。16世紀にエラスムスが、「信仰に自由を」と主張し、当時はアルミニウス等の自由主義派も信教の自由を主張していた。ロックはこれらの影響を受けた。オランダは、早くからユダヤ人にも寛容だった。名誉革命は、オランダのユダヤ人の資金提供がなければ、成功し得なかった。オレンジ公ウィレムは、英国侵攻の際、彼らの支援を受け、英国王となったが、この時、多くのユダヤ人がイギリスに移住し、イギリスの銀行業や金融市場を創設した。
 ロックは、『寛容についての書簡』で、キリスト教の中で正統と異端の区別をなくすだけでなく、ユダヤ教やイスラーム教などの異教徒も、キリスト教徒と同じく信教の自由を保障されるべきだと主張した。ただし、社会秩序に反するもの、他の人々の信仰の自由を認めないもの、外国への服従を主張するもの、無神論者には制限を設けるとした。『寛容についての書簡』は1689年にオランダ、イギリスで出版され、同年イギリスではロックの主張に沿って宗教寛容法が制定された。これは非国教徒に対する差別を残し、カトリックやユダヤ教徒、無神論者、三位一体説を否定する者等には、信教の自由を認めないという限定的なものだったが、信教の自由の保障が一部実現した。ロックが直接意図したかどうかはわからないが、ユダヤ人の自由と権利の拡大に寄与したことは間違いない。
 ロックは先の書簡で秘密結社に触れ、秘密結社は陰謀や反乱の温床とされ、実際しばしばそうした集団であるが、もし寛容の法が定められ、良心のための不満や対立の諸原因が取り除かれれば、これらの集団も含めて平和を乱し、国の治安を妨げるものはなくなるだろうと主張した。この主張が直接フリーメイソンを擁護したものかどうかも分からないが、宗教的寛容の実現によって、イギリスではフリーメイソンの活動も一定の自由が得られるようになっていったのである。
 ロックは、キリスト教に関しては『キリスト教の合理性』(1695年)を著し、多大な影響を与えた。この点については、啓蒙主義の項目に書く。

●ロックの世界史的評価

 ロックの項目の最後に、ロックの世界史的評価について記す。近代西洋思想の骨格を成すリベラリズム・デモクラシー・個人主義・資本主義の思想は、どれも元をたどるとロックにたどり着く。本稿が主題とする人権も、ロックに最大の源がある。ロックの思想は17世紀以降、この21世紀まで、世界に甚大な影響を与えている。その重要性は、マルクスやニーチェやフロイトの比ではない。わがGHQ製の日本国憲法も、根本思想はロックにある。ロックの思想は世界に広まり、そのうえに18世紀の啓蒙思想を大成したカントの哲学が浸透している。ロック=カント的な人間観が今日の世界に普及した人間観のもとにある。ロック=カント的な人間観とは、人間は、生まれながらに自由かつ平等であり、個人の意識とともに理性に従って道徳的な実践を行う自律的な人格を持つ、という人間観である。世界人権宣言や国際人権規約の人間観のもとになっているのは、ロック=カント的な人間観であり、それが現代の国際社会の人間観の基本的な枠組みになっている。
 人権の考察において、ロックをどのように評価し、また批判するかは、一つの重要なポイントになる。批判の焦点は、社会契約論にある。次に話を市民革命の時代に戻して、18世紀イギリスで社会契約論を批判したヒュームの説を検討したい。

 

●ヒュームは歴史に基づいて社会契約説を否定

 17世紀の市民革命の時代に権利と権力に関する理論を説いたホッブスとロックは、その後、西欧の多くの思想家に影響を与えた。ホッブスの思想はルソーに影響を与え、そのルソーの理論がフランスを革命に向かわせた。ロックの思想はアメリカ人民を本国からの独立に向かわせ、その思想はアメリカ独立宣言に盛り込まれた。だが、18世紀半ばのイギリスで、ホッブス、ロックの社会契約論を根本的に批判した思想家がいた。デイビッド・ヒュームである。懐疑の果てに理性の驕りを戒め、歴史・伝統を尊重するその思想は、バークを通じて、西欧における保守主義の形成に寄与した。
 哲学者としてのヒュームは、イギリス経験論を完成させた哲学者として知られる。経験論の展開から述べると、元祖のロックは、すべての観念、すべての知識は経験、すなわち感覚と内省に由来するとし、客観的な物体は不可知体であると説いた。次にバークリーは、知覚を離れて存在する対象は存在しないとし、真に実在するのは自我とその意識内容のみであるという独我論を説いた。彼らを受けたヒュームは、『人性論』(1739〜40年)で、感覚的な印象によってものの観念ができ、観念の連想によって、高級な観念や知識ができるとした。そこから、自然科学が基礎に置く因果律も、連想の繰り返しという経験に基づくものである。習慣に過ぎないものが、不動の法則と信じられているだけである。それゆえ、自然科学は理論的な学として成り立つか疑わしい。ましてや感覚的に経験することができない神や神の創造を問題にする形而上学は、学として成り立つことはできない、とヒュームは考えた。ここに経験論は頂点に達した。ヒュームは、自然科学と合理論的な形而上学を疑っていなかったカントに衝撃を与え、カントの「独断論のまどろみ」を破った。
 次に、ヒュームの政治的・社会的な思想について述べる。イギリスでは、ピューリタン革命後、王政復古がされた時期の1670年ごろ、近代的な政党であるトーリー党とウイッグ党が出現した。トーリー党は政府の起源を神に求め、王権神授説に基づいて、政府への絶対服従を主張した。ウイッグ党は、政府の基礎は人民の同意にあるとし、原始契約を想定して、人民は抵抗権を持つと主張した。
 ヒュームは、18世紀半ばにあって、両党の党派的対立を憂慮し、両党の基礎となっている理論を批判した。トーリー党が依って立つ王権神授説に対しては、政府という制度は神が奇跡的な介入によって作ったのではなく、人間の目には見えない普遍的な力によって作り出したのであり、君主が神の代理者と呼ばれることに特別の意味はないと論駁した。ウイッグ党が依って立つ契約説に対しては、歴史上の事実に反することを主張した。原始契約は、世界のいかなる時代や国においても、歴史や経験によって正当化されないとして、ヒュームは、論文「原始契約について」で次のように述べる。「現に存在している、あるいは歴史のうちに何らかの記録をとどめている政府は、そのほとんど全部が、権力の奪取かそれとも征服に、あるいはその両方に起源をもっており、人民の公正な同意とか自発的な服従とかを口実にしたものはない」と。
 ヒュームは、理性・歴史・経験の教えるところでは、国家的事件において、人民の同意が最も尊重されなかった時期は、新しい政府が樹立されたときだろう、革命・征服・社会的動乱の荒れ狂う時期には、議論を決するのは普通軍事力か政治的策謀だという。同意によって成し遂げられたとされる名誉革命でさえ、契約説に合致するものではない。「その時、変革されたのは、王位継承だけであり、従って政体といっても王位に関する部分だけに過ぎなかった。しかも、1千万に近い人民に対して、このような変革を決定したのは、多数といってもたった700人に過ぎなかった」と指摘している。こうしてヒュームは、ホッブスとロックの社会契約論を完膚なきまで批判し、これを否定した。

 

●共感による社会、権威と自由のバランスを提起

 ホッブスは、人間は利己的であり、自然状態においては「万人の万人に対する闘争」が繰り広げられ、生命の危険にさらされていた。そこで人間は自己保存のために平和を求めよという自然法つまり理性の声に従って、自然権を放棄して相互に契約を結び、各人の代表者である主権者を選んで国家を設立したと説いた。
 ヒュームは、そうした契約説の虚構を暴いたが、人間観においては、一部ホッブスと共通する見方をした。ヒュームもまた人間本性の中心が利己心にあるととらえ、次のように述べている。「人間は生まれつき利己的であるか、あるいは単に限られた寛大さを付与されているに過ぎない」。だが、その一方、ヒュームは、ロックと同じように、人間は本来社会的であり、人間は他者との関わりの中に存在しているととらえた。ロックが理性による道徳を説くのに対して、ヒュームは情念の働きを肯定的にとらえ、人間には利己心を抑制する「共感(sympathy)」の能力があることを強調した。ヒュームのいう共感とは、弦と弦が共振するように、互いの心を感じ合う働きである。人間は、共感によるつながりの中で生活しているとヒュームはとらえた。
 そして、ヒュームは、社会の構成原理として、契約ではなく、共感の働きによる黙約を挙げた。黙約とは、暗黙のうちに了解し合った約束であり、「共通利益の一般的な感覚」だとヒュームはいう。ヒュームは、黙約によって利己心を抑制して公共の利益を実現し、諸個人の利己心の充足をもたらす制度を作ることが可能であると説いた。
 ヒュームの共感の概念は、年下の親友アダム・スミスに強い影響を与えた。『国富論』と並ぶスミスの主著『道徳感情論』は、共感論から始まる。スミスは、ロックが基礎づけた資本主義の理論を発展させたが、スミスの政治経済学は、道徳哲学に裏付けられ、共感を原理としている。ヒュームは、共感によって結ばれた社会を経済成長させるためのナショナリズム的な経済思想を説いた。この点でも、ヒュームはスミスに影響を与えた。
 経済官僚・評論家である中野剛志は、ヒュームを「経済ナショナリズム」の創始者とする。「経済ナショナリズム」は、ネイション(国家・国民・共同体)の発展が国力の増大になるとし、国民の生産力を中心とした国力を増大させようとする思想である。ヒュームの影響を受けたアレグサンダー・ハミルトンがアメリカ、フリードリッヒ・リストがドイツで実践し、ヘーゲルが哲学的に深め、マーシャルがこれらを継承し、ケインズが完成させたとする。
 ヒュームは、単に経済の思想を説いたのではなく、むしろ政治の方面に関して、より大きな影響を与えた。論文「王位継承について」で、ヒュームは、名誉革命以来の政体を混合政体ととらえ、君主制と共和制の要素、権威と自由の混合として分析している。二つの要素の相互抑制がそれぞれの長所を引き出し、それによってイギリスの平和と繁栄がもたらされたと見る。論文「政治支配の起源について」では、次のように述べる。「あらゆる政治支配の中に、権威と自由の間に、公然または隠然たる普段の内部闘争が存在する。しかもこの抗争において、権威と自由のいずれも絶対的な勝利を得ることは不可能である」「自由はまさに政治社会の完成であると言われなければならない。しかし、それにも拘わらず、権威が政治社会の存続そのものにとって不可欠であることが承認されなければならない」と。権威なき自由は無秩序となり、自由なき権威は専制となる。ヒュームは、権威と自由のバランスが必要であると説いたのである。
 ヒュームは、名誉革命によって実現した制限君主制を承認し、法の支配のもとに政治の仕組みを改善することで、イギリスに平和と繁栄が得られるように努めた。優れた歴史家でもあったヒュームの著書『イングランド史』(1754〜61年)は、長くイギリス国民に愛読された。ヒュームは、歴史研究をもとに社会契約論を否定した。その後も今日までの人類学的研究では、どんな未開な単一社会でも、契約によって成立した国家は一つも発見されていない。だが、18世紀の欧米では、社会契約論が既存の制度への変革力を発揮した。アメリカでは、トマス・ペインが社会契約論でアメリカの独立運動を宣揚し、フランスでは、ジャン・ジャック・ルソーが社会契約論を独自に発展させて、革命運動を駆動した。ヒュームは、フランス革命での革命の到来を予見し、頭の中で考えた観念的な理論は破壊・混乱をもたらすことを警告した。人間は現実的な経験を重んじ、歴史的に培われてきた英知を大切にすべきことを説いた。ヒュームによる歴史の援用は、バークに引き継がれ、歴史・伝統・慣習を重んじる保守主義が形成された。また今日のイギリスの政治と社会のあり方に、ヒュームは大きな影響を与えている。
 なお、ヒュームについて、後に述べる功利主義の先駆者という見方があるが、その見方には無理がある。功利主義における功利は、物事の効用や有用性を意味する言葉である。ヒュームは『人性論』で、功利(utility)の語を、自己や他者に対する有用性の意味で用いてはいる。しかし、功利主義者は快楽を善、苦痛を悪として、最大多数の最大幸福を目標とし、その実現に貢献する行為を義務とするのに対し、ヒュームは快楽と善を同一視していない。また目的への手段としての行為に価値を認めていない。功利主義は、ベンサムが創始した思想と見るのが適当である。

 

●アダム・スミスは共感による道徳哲学を説く

 17〜18世紀のイギリスにおける人権の思想を見てきた。人権と呼ばれる自由と権利を担う主体は、人間である。人間について当時のイギリスでは、理性を中心にとらえる見方と感情を重視する見方があった。また人間を利己的なものととらえる見方と共助的なものととらえる見方があった。先に書いたヒュームは、理性を疑い、情念を重視した。人間には利己心のあることを認めつつ、共感によるつながりのあることを強調した。アダム・スミスは、ヒュームと基本的な考え方を共にし、道徳哲学を説くとともに、それに基づく政治経済学の理論を構築し、さらに法学・政治学を構想していた。
 スミスは、『国富論』(1776年)の著者であり、古典派経済学の創始者として知られる。人権を主題とする本稿でスミスを取り上げることに、奇異な感じのする人がいるだろう。確かにスミスは、ロックが基礎づけた資本主義の理論を発展させ、国民の労働が富の源泉であると説いた。分業による交換の発生から交換価値の尺度を労働に求めた。文明社会では価値は労働に利潤と地代が加わったものであるとし、資本の分析を行った。彼の理論が出発点となって、マルサス、リカード、J・S・ミルによる古典派経済学が展開された。だが、スミスの政治経済学の根本には、道徳哲学がある。彼の政治経済学は、道徳哲学に基づく政治経済学だった。
 人間には個人性と社会性がある。権利には協同的行使と闘争的行使がある。権力も、協同的と闘争的の両面がある。スミスは、そうした権利・権力の主体である人間を、共感の能力を根本に置いてとらえて、社会の秩序と繁栄の理論を提示した。それゆえに、スミスは人権の思想史で欠かすことのできない思想家である。
 スミスは『国富論』で「独占の精神」に反対し、「自由競争」を主張した。しかし、彼の説く自由競争は、自分の利益のためなら何をしてもよいというような、利己本位のものではなかった。スミスは『国富論』を書く前に、グラスゴー大学の教授として道徳哲学や法学、政治学等を講じていた。そうした講義のうち道徳哲学に関するものをまとめて出版したのが、『道徳感情論』(1759年)である。「道徳感情」は、moral sentiments の訳である。
 『道徳感情論』は、共感論から始まる。スミスは、出だしに次のように書く。「人間がどんなに利己的なものと想定し得るにしても、明らかに人間の本性の中には何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心を持ち、他人の幸福をーーそれを見る喜びの他には何も引き出さないにもかかわらずーー自分にとって必要なものだと感じるのである。この種類に属するのは、哀れみまたは共感であり、それはわれわれが他の人々の悲惨な様子を見たり、生々しく心に描いたりしたときに感じる情動である」と。
 人間には、他人の感情を心の中に写し取り、それと同じ感情を自分の中に起こそうとする能力がある。それが、スミスのいう共感の能力である。人間は、その能力によって、自他の双方の利益に中立な「公平な観察者(impartial inspector)」を心の中に作り上げる。この第三者の立場に立って、行為が適切かどうか、適合性(propriety)を判断する。スミスは、そこに道徳の根本を見出した。この考え方は、キリスト教の神の教えを絶対的な規範とするものではない。また理性を道徳的能力の根源とするものでもない。相手の身になって考え、相手の感情を思いやるという、どのような文化・社会でも見られる心の働きから、道徳を考えるものである。
 家族や友だちの身になって考える能力を養うことは、子育てにおける大切なポイントの一つである。高尚な道徳を教える以前の基礎的な人格形成における要である。シナの孟子は、「惻隠の情」を説いた。赤ん坊が井戸に落ちようとしている時、普通の人間ならそれを放っておけない。助けようと思う。そうした同情心を「惻隠の情」という。孟子は「惻隠の心なき者は、人にあらざる也」とし、「惻隠の心は仁の端なり」と説いた。仁は、孔子が説いた儒教の中心的な道徳観念であり、自己抑制と他者への思いやり、忠と恕の両面を持つ。ヒュームやスミスの説く共感は、孟子の「惻隠の情」に通じるものである。共感は、キリスト教と儒教という文化の違いを超えて、人間に共通する基本的な能力である。動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールは、共感は、人間だけではなく、チンパンジーやイルカ等の哺乳類に共通して認められる特性であることを明らかにしている。文明や文化の違いを超えて、「発達する人間的な権利」を基礎づけようとする時、種としての人類に共通する共感の能力は、注目すべきものである。

 

●道徳と経済を一体的に思考

 スミスは、『道徳感情論』で、個人の利己的な行動は、「公平な観察者」の共感が得られなければ、社会的に正当であるとは判断されない、個人は「公平な観察者」の共感が得られる程度まで自己の行動や感情を抑制せざるを得ない、との旨を説いた。「公平な観察者」は正邪善悪を厳しく判断する。スミスは「胸中の法廷」「神の代理人」という言い方もしている。
 『国富論』にも、この『道徳感情論』における見解は、貫かれている。スミスが「見えざる手」に導かれて市場の秩序が維持されると説いたのは、人々が互いに共感を呼ぶ行動を行うことを想定してのものである。もし人々が利己的一辺倒の行動を取るならば、市場は混乱を免れない、とスミスは予測した。スミスにおいて、道徳哲学と政治経済学は一体のものなのである。
 『国富論』で、スミスは次のように書いた。「われわれが食事ができると思うのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心に期待するからではなく、彼ら自身の利益に対する彼らの関心に期待するからである。われわれが呼びかけるのは、彼らの人間愛に対してではなく、自愛心に対してであり、われわれが彼らに語りかけるのは、われわれ自身の必要についてではなく、彼らの利益についてである」と。だが、スミスは、利己心の無制約な解放を説いたのではない。スミスは、労働が国民の富の源泉であり、分業と資本蓄積が社会の繁栄を促進するとした。分業が進むためには、市場がなければならない。市場は、「独占の精神」ではなく「フェア・プレイ」を受け入れる正義感、他人とものの交換をしようとする「交換性向」、交換のために人と言葉を交わし理解を得ようとする「説得性向」によって支えられている。正義感、交換性向及び説得性向は、共感の能力に基づいている。それゆえ、市場社会を支える根本は、自愛心とともに共感である、とスミスは考えた。
 スミスが「見えざる手」という表現を使ったのは、『国富論』でただ一か所、資本を所有する個人ができるだけ資本を国内に投資しようとすることについての箇所である。ここでスミスは、個人は「見えざる手」に導かれて、「自分の意図の中には全くなかった目的を推進する」「自分自身の利益を追求することによって、個人はしばしば社会の利益を、実際にそれを促進しようと意図する場合よりも効果的に推進する」と書いている。ここで「見えざる手」は、直接的には市場の機能を意味する。私的な利益の追求が、市場の価格調整機能を通じて、公共の利益を促進するというわけだが、ここにおける個人は、共感の能力を持ち、心の中の「公平な観察者」によって、行為の適合性を判断する人間である。利己心のみで行動し、利益拡大のために競争する人間ではない。
 スミスは、自国の経済システム及び国際社会の経済システムの理想を、「自然的自由の体系(system of natural liberty)」という。この体系においては、個人が共感と正義感をもって行動し、その制約の中で利己心に基づいた経済行動を行う。政府は防衛、司法、若干の公共活動のみを行い、個人の経済活動には介入しない。自然的とは、物事の自発的・自動的な成り行きである。ただし、スミスは政府の機能の重要性を認めており、自由放任主義ではない。自由放任(レッセ・フェール)は、後年フランスに現れた思想である。スミスを権威づけのため歪曲して利用したのである。
 スミスは『道徳感情論』と『国富論』を刊行後、それぞれ死の直前まで繰り返し改訂した。これらは、社会の秩序と繁栄に関するスミスの思想を表した一連の書物である。これらを通じて、スミスは相互の共感に基く市民社会を構想した。市民社会においてデモクラシーが発達すれば、国民国家(ネイション・ステイト)の発展となる。ここで自由主義とナショナリズムが結びつく。私は、スミスは自由主義者であり、かつナショナリストだったと理解する。ヒュームもまた同様である。
 スミス以後の古典派経済学・新古典派経済学の主流には、ネイションの概念がなくなってしまう。しかし、本来、経済的な自由を追求することと、ネイションの発展によって国力を増大させることは、矛盾することではない。ヒュームやアダム・スミスは、自由主義者であり、かつナショナリストだった。その主にナショナリズム的な側面を各国において応用・発展させたのが、ハミルトンやリストである。
 人権論において、自由主義とナショナリズムの結合は重要である。本稿は、人権を主権・民権との関係でとらえる見方を提示しているが、個人の権利は集団の権利あってのものであり、国家の主権、国民の権利が発達してこそ、個人の権利は拡大・保障される。先進国イギリスでは、自由主義とナショナリズムが結合し、国民経済を成長させ、国民全体の生活が向上する中で、政治的・経済的・社会的・文化的自由が発達した。人権は「発達する人間的な権利」であり、近代世界システム中核部の先進国イギリスにおいては、自由主義的ナショナリズムが、国民の「人間的な権利」を発達させる思想となったのである。
 だが、スミスの死後、実際の社会は自由放任の資本主義によって、弱肉強食の競争社会となった。利己的な個人、私益追求的な資本が跋扈し、市民社会的・国民国家的な道徳は衰退していった。ヒュームとスミスは、理性中心の考え方に対して情念を重視し、人間には利己心だけでなく共感の能力があることを主張した。だが、こうした考え方は、思想の領域では細々とした傍流となった。スミス以後の経済学は、合理的に行動するアトム的な個人を仮定した理論を構築するに至った。こうした人間像を「経済人(エコノミック・マン)」という。経済人は「なんらの倫理的な影響を受けず、金銭上の利益を細心かつ精力的に、だが非情かつ利己的に追求しようとする人間」(アルフレッド・マーシャル)である。資本主義の発達により、そうした人間が経済学の理論上のモデルにとどまらず、現実の社会で増加していったことにより、「共感」の能力が低下し、利己的な活動が蔓延していった。そのことが、社会に経済的な格差をもたらし、貧富の差を増大させた。自由という価値に対して、平等という価値が求められるようになっていく。そのことについては、後に功利主義と修正自由主義について書く際に述べることにする。
 これでイギリスについてはひとまず記述を終え、次に西欧の啓蒙思想について書く。

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(2)啓蒙思想による変革

 

●啓蒙思想による意識と社会の変革

 イギリスで市民革命の起こった17世紀は、科学革命の世紀でもあった。16世紀後半、フランシス・ベーコンが、科学技術の発達によって、人間は宇宙のすべてを知り、自然を支配することが可能だという考えを表した。この科学万能思想は、17世紀を通じて広がった。デカルトの物心二元論・要素還元主義、ニュートンの機械論的自然観等が打ち出され、様々な分野で自然の研究が進み、実験と観察、数理的な計算にもとづく近代西欧科学的な世界観が形成された。その世界観は、合理主義を発展させた。合理主義とは、一般に理性を重んじ、思想や生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする態度をいう。こうした態度が実験・観察・計算によって裏づけられたものが、科学的合理主義である。
 17世紀後半から、こうした科学的合理主義を基礎とする啓蒙思想(The philosophy of the Enlightenment)が出現した。啓蒙思想は、名誉革命からフランス革命にかけての約100年間、西欧で広く影響力を持った。啓蒙(enlightenment)は、啓示の光に対する理性の光、あるいはその光による闇の追放を意味する。
 啓蒙主義(illuminism)は、自然科学の発達を背景に、人間理性を尊重し、封建的な制度や宗教的な権威を批判し、合理的思惟によって社会の変革をめざした思想・運動の総称である。17世紀後半のイギリスで始まり、18世紀にはフランス、アメリカ、ドイツに広まって、宗教思想、認識論、社会思想、経済思想、文学等の多様な領域で展開された。イギリス、アメリカ、フランスでは、人権の思想を発達させた。
 本章では、先にホッブス、ロック、ヒューム、アダム・スミスについて書いたが、彼らはイギリスの啓蒙思想の代表的な思想家でもある。イギリスにおける啓蒙思想は、名誉革命及びその後の政体を支持し、君権・民権の均衡と資本主義国民経済の発展を追求した。認識論では経験論、宗教論では理神論が大勢を占めた。イギリス経験論は学説上、大陸合理論と対比されるが、反合理主義ではない。合理論が思弁的な合理性を追求するのに対し、経験論は経験に基づく合理性を追求する。ただし、経験論者の中から単純な科学的合理主義への疑いが出されもした。
 啓蒙思想は、先進国イギリスからフランスに伝わり、モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー等が展開した。近代科学を推進する思想家たちが百科全書の製作に集い、啓蒙を進めた。彼らの多くは理神論を主張し、カトリック教会の権威に強く反発し、唯物論や無神論を説く者も現われた。ロックの思想は、絶対王政下のフランスでは、王政の打倒を目指すものへと急進化した。啓蒙主義は、フランス革命の原動力となった。
 啓蒙主義は、イギリスの植民地アメリカでも展開され、ここでもロックの思想が強い影響を与えた。ロックの抵抗権・革命権は、ジェファーソン、フランクリン等によって、イギリス王政からの独立と共和制の実現をめざす思想に転換された。独立革命の成功は、フランス市民革命の成功につながった。アメリカ独立革命、フランス市民革命は、いわゆる人権と呼ばれる権利を実現するものとなった。
 一方、後進国のドイツでは、トマジウス、ヴォルフ、レッシング等が主に哲学・文学の方面で啓蒙主義を展開した。その頂点に立つのが、カントである。カントはアメリカ独立戦争やフランス革命を同時代として生きた。大陸合理論とイギリス経験論を批判的に総合し、科学と宗教を両立させたカントは、市民社会の目指すべき姿や国際社会の永遠平和を説き、「啓蒙の完成者」といわれる。
 カントは、論文『啓蒙とは何か』(1784年)に、次のように書いた。「啓蒙とは、人間が自分自身に責任のある未成年の状態から抜け出ることである。未成年の状態とは、他人の指導を受けずに自己の悟性を使用する能力のないことである。自己に責任があるとは、未成年状態の原因が悟性の欠乏にあるのではなく、他人の指導を受けずに悟性を使用する決断と勇気の欠乏にある場合のことである。知ることを敢えてせよ! 自己自身の悟性を使用する勇気を持て! というのが、したがって啓蒙の標語なのである」と。

 

●理神論と信教の自由の拡大

 啓蒙主義は、自由を要求する。とりわけ宗教に関わる事柄において、自らの理性を公的に行使する自由を要求した。啓蒙思想における宗教思想で代表的なものが、理神論である。理神論は、deismの訳である。キリスト教の神を世界の創造者、合理的な支配者として認めるが、創造された後では、世界は自然法則に従って運動し、神の干渉を必要としないとし、賞罰を与えたり、啓示・奇跡を行ったりするような神の観念には反対する宗教思想である。近代科学が発達し、キリスト教の権威が低下する中で、キリスト教を科学と矛盾しないものに改善しようとした試みであり、信仰と理性の調和を目指し、キリスト教を守ろうとしたものである。自然宗教ともいわれる。この場合は、人間理性に基づく宗教を意味する。
 理神論は、17世紀前半のイギリスに現れた。チャーベリーのハーバート卿は、啓示に依存しない自然宗教を説いた。その基本命題として、神の存在、神を礼拝する義務、経験と徳行の重要性、悔悟することの正しさ、来世における恩寵と堕罪の存在を信じることの5点を挙げた。ロックは、宗教的寛容を説く一方、『キリスト教の合理性』(1695年)で、理性の権威と聖書の権威は両立するという証明を試みた。ロックは、キリスト教徒が絶対に信ずべきものは、神が存在することと、イエスを救世主とすることの二つとし、それ以外の教義や儀式、制度等は否定する。本書でロックは、人間は理性の範囲内でのみ啓示を理解できる、それを超えた部分は信仰の領域である、信仰は理性で論じるべきでない、各派は些末な問題での論争を止め真の信仰を取り戻せ、と説いた。ジョン・トーランドは、『キリスト教は神秘的でない』(1696年)で、ロックのキリスト教の合理的性格の論証を援用して、キリスト教の中には理性を超えた神秘的要素は何ひとつ存在しないと強調した。本書の公刊に際し、国教会の護教論者が攻撃を加えたのを機に、理神論者と国教徒の論争が行われた。言論を通じて、イギリスでは宗教的寛容が進んだ。
 カトリック教会の権威の強いフランスでは、理神論は異端邪説とされた。ヴォルテールは、ロックの宗教的寛容論に甚大な影響を受けた。腐敗したカトリック教会、キリスト教の悪弊を弾劾し是正することに情熱を燃やした。生涯、精力的に、理神論の立場から教会を批判した。キリスト教の様々な伝説・聖物を笑い物とし、キリスト教否定の手前まで行った。晩年は「知的十字軍」を自称して、宗教的狭量に激しく反対する活動を行った。
 ドイツでは、レッシングは理神論に基づき、戯曲『賢人ナータン』(1779年)を書いた。ユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーンをモデルにしたナータンを通して、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教は、元は一つであり、どの神が本物かを主張してぶつかり合うのではなく、互いに寛容に相手を受け入れ合うべきであるとの主張をした。本書の前に書いた『エルンストとファルク〜フリーメイソンのための対話』(1778年)という作品では、自己を高めて自由な世界市民となり、諸宗教が統合された世界国家を目指す思想を述べている。
 ライプニッツ、ヴォルフ等による大陸合理論は、数学的な方法で神の存在や霊魂不滅の証明を試みた。カントは、彼らを感性で経験できる範囲を超えた独断として批判した。理神論に対しても、同様の批判をした。科学的認識を行う理性は、超感性的な神や不死を証明できないとする一方、道徳的実践を行う理性は、その行為が意味あるものとなるために、神や不死を要請するとした。カントは、キリスト教を啓示宗教から道徳的宗教に純化、改善することを企て、科学的合理主義と道徳的信仰の両立を図った。
 理神論は、科学からキリスト教を擁護するとともに、他宗教、特にユダヤ教に対する寛容を促すものともなった。西欧における信教の自由の拡大において、理神論は歴史的な意義を持つ。またその一方、理神論からキリスト教を否定する唯物論・無神論も現われた。前者は有神論、後者は無神論だが、科学的合理主義という点は、共通している。

 

●キリスト教の合理化と「呪術の追放」

 理神論は、プロテスタンティズムによる宗教の合理化の思想的な展開である。マックス・ウエーバーによると、プロテスタントはカソリックのサクラメント(秘蹟)を否定し、「呪術」として追放した。そして、プロテスタンティズムの倫理が、「資本主義の精神」を生み、近代資本主義が発生・発達した。その過程で近代人のエートスが形成された。「呪術の追放」によって、宗教の合理化が行なわれた。このことを出発点として、合理性が社会の全般において追求・実現されるようになった。すなわち、文化や社会や政治や経済の諸領域を貫いて、価値観の合理化が人間生活の全般にわたって進行したというのが、ウェーバーの近代化についての分析である。
 啓蒙思想家たちの多くは、科学的合理主義によってキリスト教の合理化を進めた。ユダヤ=キリスト教は、啓示宗教である。神(ヤーウェ)が人間に教えや奇跡をもって真理を示すことを信じ、アブラハムが契約を結んだ神の言葉を記した啓典を持つ。西方キリスト教は、ユダヤ民族の神話的思考と歴史、イエスの奇跡伝承等をもとに構築された教義体系を持つ。その教義には、天動説に典型的なように、近代科学によって獲得された知識と相容れないものがある。そこで、啓蒙思想家は、キリスト教から科学と相容れない部分を除いたり、科学的合理的な思考で解釈し直したりして、キリスト教を科学と対立する宗教から科学と両立する宗教へと改革しようとした。
 啓蒙主義の高揚によって、近代西洋文明では、アニミズム的・シャーマニズム的な世界観が徹底的に駆逐された。その結果について、20世紀の深層心理学者ユングは、「太古以来、自然は常に霊に満ちたものと考えられてきた。いまはじめてわれわれは神々も霊もない自然のなかに生きているのである」と書いた。呪術の原理である「共感の法則」は否定された。それによって、自然は霊的存在に満ちた世界ではなく、単なる質料、霊魂のない物質の広がりとみなされるようになった。人間と自然との根源的な連続感は失われ、自然は人間が征服・支配すべき対象となった。自然は、科学技術と産業経営によって、欲望の充足のために利用すべき生産手段にすぎなくなった。近代西洋人は、人間理性への自信を強め、自信のあまり、人間の知力でできないことは何もないかのような錯覚を生じ、人間が神に成り代わったかのような傲慢に陥った。これは、ウェーバーの「世界の呪術からの解放」つまり「呪術の追放」が行き着いた結果である。近代化の問題については、拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ」に書いているので、ご参照願いたい。

●近代西洋文明の深層流

 啓蒙思想は、上記のように科学的合理主義に基づく思想だが、ここで見逃してはならないのは、啓蒙思想とフリーメイソンの関係である。奇妙なことに啓蒙主義とフリーメイソンの思想は深く融合しており、切っても切れない関係にある。しかし、ほとんどの学術的な歴史書や思想史には、フリーメイソンは登場しない。その一方、フリーメイソンは今日、陰謀論者がどうとでも使える格好の題材となっている。荒唐無稽な説も多く、それがカムフラージュになって、実態が見えにくくなっている。だが、18世紀の欧米に限っては、フリーメイソンに触れずして、歴史も思想も語れない。
 キリスト教化された西欧では、自然崇拝・祖先崇拝が失われ、さらに宗教改革・魔女狩り等を通じて、「呪術の追放」がされた。しかし、ルネサンスにおいて古代ギリシャ=ローマ文明の遺産を摂取する過程で、グノーシス主義、新プラトン主義、錬金術といった思想が知られるようになった。それらの非キリスト教思想は、知識人の間で密かに受け継がれた。心理学的には、無意識の領域に係る思想である。
 キリスト教を中心とした文化を表層流とすると、こうした思想は深層流となって潜伏した。実は近代西欧科学を生み出した科学者の多くは、深層流から知識と発想を汲み上げていた。例えば、ケプラーが惑星の運動法則を発見したのは、新プラトン主義の世界観を抱いていたからであり、ニュートンは物理学の一般法則を追及する一方、錬金術の実験に熱を上げていた。物質の基本構成要素として元素の存在を認め、実験科学を確立したボイルは錬金術師だった。

 深層流に流れ込んだ思想は、近代西欧科学が発達するにつれ、科学的合理主義以前のものとして、科学思想から、ほとんど排除されていった。その一方、政治思想・社会思想においては、重要な役割をした。その顕著な例外が、啓蒙思想と結びついたフリーメイソンの活動である。
 ロックの項目の最後に、フリーメイソン及びそのロックとの関係について書いた。先に挙げた啓蒙思想家の中では、モンテスキュー、ヴォルテール、ダランベール、フランクリン、レッシング等がメイソンに加入している。ここでは、啓蒙思想とフリーメイソンの関係を指摘するだけとし、アメリカ独立革命とフランス市民革命の思想を書く際に、独立革命・市民革命にいかに深くフリーメイソンが関わっていたか書くことにする。
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(3)アメリカ独立革命の思想

 

●アメリカ独立革命を成功に導いたトマス・ペイン

 啓蒙主義は、イギリスの植民地アメリカでも展開された。特にロックの思想が強い影響を与えた。ロックの思想は、アメリカにおいて、専制君主の圧制への抵抗の根拠となっただけでなく、イギリス王政からの独立と共和政の実現をめざす運動へと急進化された。急進化は、キリスト教の聖書に基づいて自由と平等を求めるもので、ピューリタン革命期の水平派の思想に通じるものがある。啓蒙主義は、アメリカにおいては、キリスト教への批判に向かうのではなく、キリスト教の信仰と結合した。フランスでは、カトリック批判から理性崇拝・唯物論・無神論が登場したのとは、対照的である。
 アメリカ独立革命の過程において、決定的な影響を与えた書物がある。トマス・ペインの『コモン・センス』(1776年)である。独立宣言には、ロックの思想とともに『コモン・センス』が反映している。『コモン・センス』の思想は、ペインという人物の行動と深くかかわっているので、ペインの生涯を概観する中で、その内容を述べたいと思う。
 ペインは、1737年生まれのイギリス人だが、74年ロンドンに来ていたフランクリンに勧められてアメリカに渡った。雑誌の編集を仕事にしていたが、75年4月レキシントンの戦いで植民地人がイギリス軍と衝突し、独立戦争が始まった。
 ジョージ・ワシントンが総司令官に選ばれ、本国との戦いが繰り広げられた。だが、なお植民地人の間には国王への忠誠心や英国人意識が強かった。イギリス本国政府は議会主権の発想に基づいて、議会の意思によって「古き良き権利」を否定できるという新たな統治理念を植民地に押し付けてきた。これに対し、植民地人は、最初は、イギリス臣民としての伝統的な権利・自由と財産の不可侵を主張する旧来の理念をもって抵抗した。
 世論が一挙に独立に傾いたのは、76年1月、トマス・ペインが刊行した『コモン・センス』による。この小さなパンフレットは、わずか3ヶ月で12万部を売り上げたと推測され、世論を臣民としての抵抗から本国からの独立へと決定的に転換させた。苦戦を強いられていた独立派に勇気と展望を与え、勝利に導く大きな力となった。 ワシントンやジェファーソンらの大陸会議の指導者にも読まれた。7月に出された独立宣言にもその思想が取り入れられた。起草にも参加した。
 ニューヨーク付近の戦いでワシントンの率いる独立軍が大敗して危機に直面すると、ペインは『アメリカの危機』(1776年)を発行し、「今こそ、人の魂が試されるときだ」と訴えて独立軍を鼓舞し、勝利に貢献した。それによって、ペインは独立戦争の英雄の一人に数えられた。

●『コモン・センス』の思想

 『コモン・センス』は、キリスト教の聖書に基づいて、人間の自由・平等を説き、植民地人の権利を守らないイギリスの支配から脱し、アメリカが独立するという考えは「Common sense」(常識)であると説いた。
 ペインは、植民地人がジョージ3世の臣民であろうとする限り、自由は勝ち取れない、専制君主の奴隷となるか独立するかのどちらかしかなく、独立によってのみ自由になれる、と主張した。
 ペインは、イギリスの立憲君主政を「古代における二つの暴政の汚い遺物と新しい共和政的要素とが混合」したものだと批判した。二つの遺物とは、「国王という君主専制政治の遺物」と「上院という貴族専制政治の遺物」だという。これらに対し、下院つまり庶民院が共和的な要素であるが、国王が下院を支配している。世襲制は神が人間に等しく与えた権利にそむいている。イギリスの国王は、ノルマン・コンクェストでイギリスを征服したウィリアムの子孫に過ぎないと論じた。イギリスでは、広く国民に受け入れられる思想ではないが、植民地アメリカでは、世論を動かした。
 ペインは、イギリスがアメリカを支配することは、不自然で不合理であると説いた。「自衛力のない小さな島なら、政府が面倒を見るのにふさわしい。しかし大陸が永久に島におって統治されるというのは、いささかばかげている。自然は決して、衛星を惑星よりも大きくつくらなかった。イギリスとアメリカとの相互関係は一般的な自然の秩序に反しているので、明らかに両者は異なった組織に属すべきである。すなわちイギリスはヨーロッパに、そしてアメリカはアメリカ自身に属すべきだ」とペインは書いている。本国からの離脱が経済に悪影響を与えるとの懸念に対しては、独立によって自由貿易を採用すれば、より合衆国経済は繁栄すると説いた。

ペインは、ロックの著書を読んでいないとされている。しかし、『コモン・センス』は、ロックの政治理論の要点を理解し、社会契約論に立っている。そのうえで、共和主義の立場から、イギリスの政体と植民地支配を批判するものとなっている。ただし、その主張の根拠は聖書であり、キリスト教原理主義とでもいうべき思想がつづられている。ペインは、ピューリタン革命で活躍したミルトンの影響を受けたと見られる。また、ミルトンを通じて間接的に水平派の影響を受けたと考えられる。水平派は、人間はすべて神の前では平等であり、階級や貧富の差が存在することは聖書に反すると主張した。ノルマン人の征服を非難して、アングロ・サクソン時代の自由を回復すべきであると訴えた。ペインもまた聖書に基づいて、自由・平等を主張するとともに、ウィリアム征服王による統治権の強奪を非難した。ただし、ペインが水平派と異なるのは、富の平等を要求しなかったことである。

 

●フランス革命にイギリス人ペインが参加

 ペインは、アメリカ独立の思想をフランスに伝えるとともに、外国人でありながらフランス市民革命に参加もした。1789年秋、革命の最中にあるフランスに渡り、革命の高揚を目撃した。翌年、友人のバークがイギリス議会でフランス革命を激しく批判し、『フランス革命の省察』(1790年)と題して出版すると、ペインはイギリスに帰国し、バークに反論して『人間の権利』(1791年)刊行した。バークはフランス革命がイギリスに波及して共和主義が高揚することを防ごうとしたが、ペインはフランス革命を擁護し、バークを徹底的に批判して、熱烈に共和主義を唱導した。そのため、著書は発禁処分となった。ペインは逮捕寸前のところ、フランスに脱出した。
 バークについては後に書くが、ペインについては、『人間の権利』は、91年までのフランス革命を過度に美化している。その後の混乱や悲惨を全く予想していない。ましてや自分がフランスで捕囚の身となるとは、思ってもみなかったのだろう。
 『コモン・センス』は、刊行されたその年の内にフランス語に訳され、フランスでも広く読まれ、大きな影響を及ぼした。ペインは、フランスでも著名人だった。ペインは市民権を与えられ、国民公会の議員に選出された。ジロンド派に協力して、ジロンド派の憲法草案作成に参加した。アメリカ独立革命の扇動家がフランス革命を推進したのである。ペインはルイ16世の処刑には反対した。だが、フランスの急進共和主義者は、過激だった。ロベルピエール等がジロンド派を追放すると、ペインは孤立し、93年12月、「共和国に対する反逆」という罪状で投獄されてしまった。
 テルミドールの反動後も出獄できないでいたが、駐仏アメリカ大使モンローの奔走で、ようやく94年11月に釈放された。その後、ペインはナポレオンに請われて、統領政府の会議に出席した。意見を求められたペインは、たとえイギリス軍には勝てても、イギリス人民を支配することはできない、と答えた。ナポレオンから呼ばれることは二度となかった。
 フランスに居場所のなくなったペインは、1802年に再びアメリカに渡った。だが、『コモン・センス』の著者で独立戦争の英雄は、民衆から忘れ去られていた。ペインはフランス仕込みの過激な思想家と見られ、孤独の中で惨めな最期を遂げた。ペインがアメリカ独立を訴えた『コモン・センス』、フランス革命を擁護した『人間の権利』は、ペインの生涯の全体を踏まえて読まれるべきである。
 ところで、ペインについては、もう一つ見逃せないことがある。それは、「フリーメイソン団の起源」という論文があることである。ペイン自身がフリーメイソンに加入していたかどうかは不明であるが、メイソンとの関係は濃厚である。ペインは、フランクリンの紹介でアメリカに渡ったが、フランクリンはメイソンの活動家だった。ペインは、フランクリンが関与した独立宣言の作成に協力した。『コモン・センス』の共和主義・人民主権の思想は、「自由・平等・友愛」というメイソンの思想に通じる。独立戦争の司令官ワシントンも同書を読んだ。ワシントンは有力なメイソンであり、フランスから援軍に来たラ・ファイエット公爵をメイソンに加入させた。そのラ・ファイエットに、ペインは『人間の権利』第2部を献呈している。フランス革命期には、ペインは外国人でありながら国民公会の議員になったが、革命は多くのメイソンによって指導されていた。メイソンは国境を超える思想・運動であり、イギリス、アメリカに人脈を持つペインは、歓迎されただろう。このように、ペインはメイソンと多くの関係を持っている。
 私は、人権の思想の発達には、ホッブス、水平派、ロック、ルソー等とともに、フリーメイソンが関わっていると見ている。拙稿
西欧発の文明と人類の歴史に書いたように、アメリカ独立革命、フランス市民革命は、メイソンを抜きに理解することはできない。独立宣言、人権宣言には、フリーメイソンの思想が何らかの形で反映されていると私は考えている。

●独立宣言の思想の背後にあるもの

 独立宣言の思想については、第5章に書いたが、ここでその要約を示すとともに、新たな点を補いたい。
 独立宣言は、ジェファーソンが草案を作成、ベンジャミン・フランクリンとジョン・アダムスが若干の加筆修正を行って成案した。ペインも作成に協力した。
 独立宣言は、前文で、圧政下にある植民地の人民が自由独立の国家を建設することを公言し、自然権、社会契約思想、「合意の支配」、革命権を謳った。そこには、ロックの思想が色濃く反映されている。ジェファーソンは、ロックを信奉していた。彼が起草した独立宣言は、「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主(Creator)によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」とあるが、「生命、自由及び幸福の追求」は奪いがたい天賦の権利と書いているのは、ロックが説いた生命・自由・財産の所有権のうち、最初の二つをそのまま取り入れ、最後の財産を幸福の追求に置き換えたものである。また、アメリカ合衆国は、ロックが市民社会の発生段階に想定した社会契約を、絶対王政下の植民地が独立して新たな国を建設するという全く異なる条件において、実現したものである。米国憲法は、前文に「われわれ合衆国の人民は(We the people of the United States)」と書いており、契約をした主体は、アメリカ人民である。人民が相互に契約を結んで作ったのが、合衆国である。ロックの社会契約論は、既存の国家の起源には当てはまらないが、新たな国家の建設には、有効な理論となったのである。
 独立宣言は、権利の根源を「造物主」に置く。ここにおける「造物主」は、基本的にユダヤ=キリスト教的な神である。ただし、この「造物主」は、理神論に立てば、ユダヤ教・キリスト教・フリーメイソンに共通する宇宙の創造者となる。アメリカを建国した指導者たちは、ピューリタンまたはキリスト教を信奉するフリーメイソンだった。独立宣言に署名した56人うちフランクリンを含む9人から15人がメイソンと見られる。独立宣言は、建国の指導者たちが共有し得る世界観に立って、すべての人間は平等に造られ、造物主によって、一定の不可譲の権利を与えられているとしたものだろう。人民の権利は、歴史的・社会的に形成されたイギリス臣民の「古来の自由と権利」ではなく、天賦の権利であるという論理が打ち出された。人民の権利から、権利の歴史性が否定され、権利の根拠として、造物主によって与えられたものということが強調された。この造物主は、単にユダヤ=キリスト教的な神ではなく、ユダヤ教・キリスト教・フリーメイソンに共通する神の理念ととらえたほうがよいだろう。
 独立宣言には、ロック、ピューリタニズム、フリーメイソンという3つの要素が融合していると私は見ている。これらのうち、フリーメイソンについて、次に書く。

 

●アメリカ建国におけるフリーメイソンの活動

 ロックの政治理論は、植民地アメリカでは本国への抵抗権の論拠となり、さらに連合王国からの独立を求める思想へと急進化した。ロックの項目にフリーメイソンとの関係について書いたが、アメリカでロックの政治理論を広めた団体が、フリーメイソンである。
 フリーメイソンは、本国のイギリスから植民地アメリカに入って、各地にロッジを開設した。各地に組織されたロッジは情報交換や人材交流の場となり、13に分かれていた植民地を共通の理想のもとに結びつける役割を果たした。独立戦争の導火線となったボストン茶会事件は、「自由の子ら」というグループの仕業だが、そこには多くのメイソンが加わっていた。
 アメリカ独立期のフリーメイソンのうち、最も重要なのは、ベンジャミン・フランクリンとジョージ・ワシントンである。
 フランクリンは、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、自身の理論の論拠として挙げた代表的なピューリタンである。フランクリンは敬虔なプロテスタントであると同時に、雷が電気現象であることを実験によって明らかにした自然科学者であり、また当時のアメリカの代表的なフリーメイソンでもあった。
 フランクリンは、1731年ロンドン滞在中にフリーメイソンに加入した。アメリカ独立革命では、独立宣言の起草委員の一人として、ジェファーソンに協力した。またジェファーソンとともに、植民地アメリカ代表としてフランスに派遣された。独立戦争におけるアメリカの勝利は、フランスの支持が得られるかどうかにかかっていた。フランクリンは、フランスでアメリカ独立運動への理解を得るのに成功し、フランスはアメリカを支援した。フランクリンは、このとき、フリーメイソンの人脈を活用した。フランクリンは、フランスで当時最も有名な「九人姉妹」のロッジに加入した。フランクリンは、代表的な啓蒙思想家ヴォルテールを、このロッジに加入させた。
 フランクリンは、「九人姉妹」ロッジを中心としてメイソンに協力を要請した。最大の協力者は、ラ・ファイエット公爵である。ラ・ファイエットは、独立運動に共感し、1777年、アメリカ独立戦争を助けるため、自費で軍隊を率いて渡米し、独立戦争に参戦した。
 フランクリンは、植民地時代のアメリカにおいて、当時の最新のメディアである新聞を通して、啓蒙思想とフリーメイソンの理念を訴え、また他の新聞人を経済的に援助して、新聞のネットワークを作った。メイソン関係の書物や冊子の出版もしており、知識人だけでなく、一般大衆にも愛読者を獲得した。
 独立軍の総司令官に選ばれたワシントンは、独立軍の兵士に俸給を出し、精神的にも結束させた。軍にはメイソンの軍事ロッジ(軍隊の中のフリーメイソン結社)が作られ、13植民地から来た兵士たちは啓蒙思想とメイソンの理想をともにした。
 ワシントンの周辺には、その後のアメリカ政治・経済の中枢を担う人材が集まっていた。その多くがメイソンに加入していた。フランクリンの要請で独立戦争に参戦したラ・ファイエットは、ワシントンの主催する参入儀式を受けて、ワシントンの軍事ロッジに加入した。
 大統領府が置かれたホワイトハウスの設計者は、フリーメイソンだった。また、議事堂の礎石を置く儀式は、メイソンのロッジと提携して行われた。ワシントンはメイソンの象徴が描かれたエプロンをつけて儀式に臨んだ。周りの列席者もすべてメイソンの礼服と標章を身に付けていた。メイソンの正装をしたワシントンの肖像画が残されている。
 アメリカの独立と建国にいかに深くフリーメイソンが関わっていたか、消しようもないほど確かなものは、アメリカ合衆国の国璽である。国璽の裏には、フリーメイソンの象徴のひとつであるピラミッドが表されているのである。国璽とは、国家を表す印章である。大統領の署名した条約批准書、閣僚や大使の任命書など公式文書などに押印されるものである。それが、1ドル紙幣の裏側に印刷されている。国璽のピラミッドは、13段まで積み上げられた未完成のもので、13は独立時の13植民地を意味する。冠石に相当するところには、三角形の中に書かれた「万物を見る眼」が置かれている。古代エジプトを思わせるもので、ユダヤ=キリスト教発祥以前の文明を象徴している。
 ただし、フリーメイソンは、キリスト教を否定するものではない。フリーメイソンの象徴主義の最も古く、最も確実な基礎は、ヨハネ派のキリスト教的秘教主義とされる。ヨハネ派とは、バプテスマのヨハネと福音史家のヨハネを崇拝する宗派である。フリーメイソンはカトリック教会からは何度も弾圧されているが、イギリスでは上流階級の社交クラブのようなものとなり、国王が代々フリーメイソンの名誉会長を務めているという。
 ワシントン以後、歴代のアメリカ合衆国の大統領のうち、F・D・ルーズベルト、トルーマン、レーガンなど16人がメイソンだったという。政治的な主張、政策、所属教会等が違う政治家が加入しているということは、フリーメイソンは秘儀集団とか政治結社という性格を失い、緩やかな親睦交流団体となっていることを意味するだろう。
 私は、18世紀啓蒙思想を欧米で伝播し急進化させたところに、フリーメイソンの歴史的役割を認める者である。またロックの政治理論の浸透における英米仏のメイソンの活動を強調したい。フリーメイソンの思想は、国家・国民の枠を超える。メイソンの権利は、国民の権利とは異なる。人間の権利を広めることは、メイソンの思想を広めやすい環境を作ることになる。この点で、メイソンの活動は、人権思想の発達を促すものとなったのである。
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(4)フランス市民革命の思想

 

●フランス啓蒙主義から市民革命が胎動

 啓蒙主義は、フランス市民革命の原動力となった。フランスでは、モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー等が啓蒙思想を発展させた。
 フランス啓蒙思想の成果の一つが、「百科全書」である。科学や学問が発達しているイギリスでは、1728年に「チェインバーズ百科事典」2巻が刊行された。この事典には、フリーメイソンが関わっていた。編纂者も版元もメイソンだった。フランスの「百科全書」は、この事典を仏訳するという計画から始まった。途中から、ただ翻訳を出すのではなく、独自のものを作ることへと話が発展し、ディドロとダランベールが編集を担当した。「百科全書」は、1751年に第1巻が刊行され、72年まで続いた。総執筆者184人、当時のフランスの知識人が結集した。本文、図版合わせて全28巻となる大事業だった。
 編集者のディドロは哲学者・文学者で、イギリス経験論、特にホッブスの影響を受けて、理神論から唯物的無神論に転じた。「隠れたる神は無用の神」とするその考え方は、キリスト教的な神の啓示や現実を超越したものを否定し、人間の理性に一切の根拠をおく思想を産み出した。盟友のダランベールは数学者・物理学者で、剛体運動の理論を整え、ダランベールの原理を立てた。哲学的には感覚論者で、不可知論的傾向を示し、神の存在を疑った。ディドロは不明だが、ダランベールはメイソンだった。百科全書派にはメイソンが多くいた。
 執筆者の一人、モンテスキューは、ロックの政治理論を継承し発展させた。イギリスに2年間滞在して政治制度や社会制度を見学し、とりわけ深い関心をもって議会政治を学んだ。帰国後20年間かけて、思索と研究を重ね、イギリスの議会制度を模範にしながら近代政治の原理となる三権分立や両院制による権力の抑制理論を説いた理論書『法の精神』(1748年)を発表した。モンテスキューはメイソンだった。
 別の執筆者であるヴォテールは、イギリス滞在期に、ホッブスやロック、F・ベーコン、ニュートン等の書を読破し、イギリスの啓蒙思想家たちと親しく交わった。彼が最も刺激を受けたのが、リベラル・デモクラシーの政治制度だった。ヴォルテールの思想は、アメリカの独立運動やフランス市民革命に多大な影響を与えた。ヴォルテールは、晩年、フランクリンの導きで、「九人姉妹」のロッジに加入した。「九人姉妹」には、ラ・ファイエット、シェイエス、メーヌ・ド・ビラン、コンドルセらが属していた。百科全書派が多く、「百科全書家のロッジ」とも呼ばれた。
 ルソーも百科全書に執筆した。ルソーは、当時最も急進的な思想を提唱し、多くの知識人に対してとともにフリーメイソンに対して大きな影響を与えた。1750年半ばから60年代初めに、かけて、『人間不平等起源論』(1755年)、『社会契約論』(1762年)、『エミール』(1762年)を発表したルソーは、人間の自然・本性の回復を目指して人民主権に基づく政治体制を主張した。
 「百科全書」の執筆者には、他にコンディヤック、エルベシウス、ドルバック等がいた。百科全書派の多くは理神論を主張し、カトリック教会の権威に強く反発した。コンディヤック、エルベシウスは徹底的な感覚論者であり、ドルバックは唯物論者で無神論を唱えた。唯物論的傾向を強めるディドロらに対し、ルソーは異議を唱え、百科全書派から離れた。「百科全書」によって、かつてない規模での知識・情報の集積が進んだ点では画期的な大事業だったが、それを統合する世界観の違いから、百科全書派は分裂していった。

●革命を主導したメイソンが争い合った

 「百科全書」の項目には、自然状態、自然法、政治的権威、主権者等、政治・社会思想を書いた者がある。百科全書派の政治・社会思想には、ロックの影響が強く見られる。絶対王政下のフランスでは、ロックの政治理論は、王政の打倒を目指すものへと急進化した。ロックの思想が、革命前のフランスで広まったのは、フリーメイソンによるところが大きい。アメリカではメイソンの活動は顕著であり、国家象徴にも定着した。フランス市民革命でフリーメイソンがどの程度まで関与したかは、よく解明されていない。ただ言えることは、啓蒙思想とフリーメイソンは分かちがたく融合して、フランス市民革命の思想的推進力になったということである。
 フリーメイソンは1738年カトリック教会から破門されたため、フランスではカトリック教徒はメイソンの結社を脱退し、残った者は無神論者の政治的結社として潜伏した。そこで結成されたのが、フランス大東社(グラン・トリアン)である。ド・シャルトル公爵が中心となり、後のオルレアン公ルイ=フィリップを長とした。大東社は、イギリスの組織から1756年正式に独立した。以後、フランスのメイソンは独自性を強め、また急進化した。
 百科全書派にメイソンが多くいたが、「百科全書家のロッジ」とも呼ばれたのが、「九人姉妹」ロッジである。1969年に結成され、ラ・ファイエット、シェイエス神父、メーヌ・ド・ビラン、コンドルセらが属していた。訪仏したフランクリンも所属し、ヴォルテールを加入させた。
 彼らのうち、ラ・ファイエットは、アメリカ独立戦争から帰国後、フランスの市民革命運動に参加し、人権宣言の起草に加わった。また国民議会が結成した国民軍の司令官となった。
 大東社系のロッジは、1789年には700近くに増え、パリだけでなく、各地に広がっていた。国民議会の代表者には、多くのメイソンがいた。特にジャコバン・クラブに集った者には、フリーメイソンが多かった。ジャコバン・クラブより急進的なコンドリエ・クラブには、ダントン、マラー等が属していた。ロベスピエール、ダントンは不明だが、マラーはメイソンだった。
 「ラ・マルエイエーズ」を作曲したルジェ・ド・リールもメイソンだった。この歌を歌いながらマルセイユから来た義勇軍の隊長もメイソンだった。断頭台にその名を留めたギロチン博士もメイソンだった。
 フランス市民革命でフリーメイソンは活躍した。しかし、団員の中には、さまざまな人物がいた。個々に思想や立場が異なっていた。メイソン同士が意見の違いから対立・抗争した。大東社の中心的存在だったド・シャルトル公爵はギロチンで処刑された。急進派のマラーは暗殺され、穏健派のコンドルセは服毒自殺した。
 それゆえ、18〜19世紀のフリーメイソンを強固に団結した陰謀団体と見るのは、不適当である。参加者はフリーメイソンの教義や規約よりも、各自の抱く思想や利害で行動した。ロシア革命を遂行したボルシェヴィキ、後のソ連共産党や、ワイマール共和国で権力を掌中にしたナチス等に比べ、フリーメイソンはもっと緩やかな集団と見るべきである。
 フランス革命において、思想の面で重要な役割を果たしたのが、ルソーとシェイエスである。ともに主権・民権・人権の歴史において大きな影響を与えた思想家なので、項目を改めて書く。

 

●ルソーの矛盾と言行不一致

 ジャン・ジャック・ルソーは、18世紀の西欧で最も急進的な人民主権の思想を説き、多くの知識人に影響を与えた。17世紀以降の人権の思想から、今日世界的に影響を与えているロック=カント的な人間観が生まれたが、ロックとカントを結びつける位置にいるのが、ルソーである。
 ルソーが一貫して主張したのは、人間の本来の姿の回復だった。人間は自然状態では、自由で幸福で善良だったが、自ら生み出した制度や文化によって、かえって不自由で不幸な状態に陥り、邪悪な存在と成り果てている。だが人間は等しく尊い。互いを認め合う自由・平等の秩序こそ、本当の人間の姿であり、それを回復しなければならない、と説いた。
 ルソーは、1755年に出した『人間不平等起源論』で、自然状態を自由で平等な単独者の世界と想像し、それが否定された状態として社会状態を描いた。自然状態から社会状態への移行をもたらした原因は、財産の不平等であり、不平等の起源は私有財産だとした。62年の『社会契約論』では、自由と平等を取り戻すため、社会契約論を独自の論理で展開した。人民主権を主張して法の支配を求め、直接民主政の理想国家を提示した。同年続いて刊行した『エミール』では、当時のフランスの特権階級の教育がいかに人間の自然の発達を歪めているかを告発した。大地の上で額に汗して働く農民の生活こそが教育的機能を果たしていると指摘し、農夫のように働き、哲学者のように思索する人間の育成を教育の目標として示した。
 ルソーが著書に表したことは、絶対王政下のフランスでは危険思想だった。カトリック教会は『エミール』を禁書とし、パリの最高法院は逮捕状を出した。国外に逃れたルソーは、スイス、プロイセン、イギリスを渡り歩いた。お尋ね者の状態でフランスに戻ったルソーは、偽名を使って各地を転々とした。
 ルソーは、同時代及び後世の西洋人に多大な影響を与えた。フランス革命は、ルソーの思想に発奮した市民階級によって遂行された。革命の過程で重要な役割を演じたシェイエス、ロベスピエール、ナポレオンは、ルソーを信奉していた。カントは、ルソーから「人間を尊敬することを学んだ」と書いた。ルソーに啓発されたカントは、人間の研究に向い、ルソーの思想を哲学的に掘り下げ、市民社会や国際社会のあり方を説いた。人権の思想からロック=カント的な人間観が生まれる過程で、カントへのルソーの影響は重要である。
 だが、ルソーの主張には矛盾が多く、言行が一致せず、人格的にも破たんしている。ルソーは、『エミール』で、孤児エミールの成長物語を通して、子どもの本性を尊重して、自由で自然な成長を促すことが教育の根本であると主張した。だが、ルソーは自分が作った5人の子供をすべて孤児院に棄てている。『エミール』は教育理論の古典となっているが、酷薄非情な父親が高邁な子育て論を書いた偽善の書なのである。また、ルソーは、自然状態における人間の善良さを描き、人民の一般意志 volonte generale は常に共通の利益を目指すと強調した。だが、ルソー自身は猜疑心が強く、被害妄想の傾向が顕著だった。そのため、イギリス滞在時に世話になったヒュームと感情的ないさかいをし、非難合戦を繰り広げて、喧嘩別れした。それでフランスに戻ったのだが、その後もヒュームに殺害されるという妄想に取りつかれたまま、最後は悶死した。

●不平等の起源を考察し、文明化を批判

 次に、人権に係る点を中心に、ルソーの思想について、具体的に見てみよう。
 『人間不平等起源論』の主題は、文明社会における様々な害悪は不平等によるとし、不平等の起源を考察し、文明社会を根底的に批判することである。
 ルソーは、自然状態を想定し、それを基準として文明社会を批判する。もっともその自然状態は「もはや存在せず、おそらくは少しも存在したことがなく、多分将来も決して存在しないような状態」だと言う。だが、その「単に仮説的で条件的な推理」による自然状態を基準に、ルソーは激しく文明社会を批判した。
 自然状態における人間、すなわち自然人は、孤立した生活を送る原始人である。その意味で自由と平等と独立を享有していた。ルソーの自然状態は、ホッブスの考えた利己心による戦争状態でも、ロックの考えた人々が理性に従って平和に暮らす状態でもない。自然人は、言葉もなく無知で理性も良心も発達していないから、善悪の観念もない。ただ「自己愛」と「憐憫の情」のみで行動している。ルソーはそこに人間の自然の善性の根拠を置いた。18世紀半ば、西欧には非西洋文明の「未開人」に関する報告がされていたので、ルソーは、そこから未開社会の人間を想像したのだろう。
 やがて自然状態は終結し、人間は社会状態に移行する時を迎えた。その決定的な原因は、私有財産の成立だとルソーは考えた。この点は、ロックと同じである。ルソーは、最初に土地を囲い込み、それを自分のものだとした者が「政治社会の真の創立者」だったという。土地の私有に注目した点も、ロックに通じる。ただし、ロックは、貨幣の発明による変化を重視した。一方、ルソーは、知力の発達と欲求の拡大が大きな役割を果たしたとする。人々が生産技術を高めたことが、忌まわしい富と欲望の増加へ導いたとし、文明化を問題視する。ルソーは、次のように書いている。「冶金と農業とは、その発明によってこの大きな革命を作り出した二つの技術であった。人間を文明化し、人類を滅ぼしたのは、詩人によれば金と銀であるが、哲学者によればそれは鉄と小麦とである」と。ルソーは、その結果、道徳的かつ政治的な不平等が生じたとする。そして、社会状態の最後の段階は専制政体であり、「不平等の最後の到達点」にある現在、もはや主人と奴隷の関係しかないとして、文明社会を激しく弾劾した。
 ところで、ルソーの主張には矛盾が多いと書いたが、それほど文明社会を批判するルソーは、「自然に帰れ」と訴えたのではない。「自然に帰れ」はルソー自身の言葉ではない。文明嫌いのはずのルソーは、文学や芸術を愛し、都市の生活に執着を示した。

 

●社会契約論を独自に展開

 ルソーは『社会契約論』の開始部に、「人は本来自由なものとして生まれた。だが、至る所で鎖につながれている」と書いた。
 本書の主題は、『人間不平等起源論』における考察を踏まえて、自然人がかつて持っていた自然・本性、すなわち自由・平等・善良等を、いかにすれば取り戻せるか、そのためにはどういう社会に改革すべきか、である。ルソーは、本書で人民主権による社会契約の原理を述べ、奴隷的な状態にある人民が、社会の主人となって政治に参加することにより、精神的・道徳的にも本来の姿を回復し得ることを説いた。
 ルソーは、私有財産が発生し、不平等が拡大したため、人民は契約によって自然状態から社会状態に入ったという。ルソーによれば、契約とは自由にして平等なものとして生まれた人間が、社会生活の必要上、自発的に結ぶものである。
 ルソーは想定する。自然の状態を保つために各個人が使うことができる力が、その自然の状態における保存を妨げる障害に勝つことができなくなった、と。この状況では、「自己保存のためには、力を集合して力の総和を作って、障害の抵抗を克服できるようにし、ただ一つの原動力でこれらの力を動かし、そろって作用させるよりほかに方法はない」。もはや自然状態に止まることができなくなったために、人間は社会契約をせざるを得なくなったとルソーは推測する。
 人々の力の総和によって社会契約が成立するとき問題になることは、「共同の力をあげて、各構成員の身体と財産を防御し、保護する結合形態を発見すること」である。また「この結合形態によって各構成員は全体に結合するが、しかし自分自身にしか服従することなく、結合前と同様に自由である」ことが可能となる、とルソーは言う。
 私見を以て補うと、力とは能力であり、能力は集団において合成される。合成された能力は権力としても働く。権力は権利の相互作用を力の観念でとらえたものである。自由とは、自由な状態への権利であり、自由に行為する権利である。
 社会契約において、究極的な条項は、次の条項に帰着するとルソーはいう。「各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すこと」。
 この時、各人は、すべての人に自らを与えても、結局は誰にも自らを与えないことになる。自らが譲ったのと同じ権利を得ない者はいない。したがって、各人はすべての人と同じものを持ち、また自らが持っているものを保存するためのより以上の力を得ることになる。ルソーは、このような社会契約について、次のように言っている。「われわれの誰もが自分の身体とあらゆる力を共同にして、一般意志の最高の指揮のもとに置く。そうしてわれわれは、政治体をなす限り、各構成員を全体の不可分の部分として受け入れる」と。
 ルソーは言う。「人間が社会契約によって喪失するものは、その生来の自由と、彼の心を引き、手の届くものすべてに対する無制限の権利とである。これに対して人間の獲得するものは、社会的自由と、その占有する一切の所有権とである」と。
 ルソーは、社会契約を権力者との服従契約ではなく、主権者たる人民相互の間の結合契約とした。この分け方ではホッブスはもちろん、ロックも服従契約説になる。ただし、ロックの場合は、君主も服従する。ルソーの契約は、全員一致による約束である。個人個人が結合することで、彼らが主権者であると同時に国家の構成員となる。契約の目標は、平等な構成員による「共和国の建設」である。共和国 republique とは、ルソーの場合、一般意志の表現としての法が支配し、市民の自由と権利を保証する国家を意味する。その条件を満たす限り、君主政でも貴族政でも民主政でも、共和国と呼ばれる。
 社会契約で生まれる国家について、ルソーは、次のように言う。「共同体が形成される時、各構成員は現在あるがままの自己、すなわち彼自身とあらゆる力を共同体に譲り渡す。この時、構成員の占有する財産も彼の力の一部である」「国家に捧げた生命さえ、国家によってたえず保護されている。国家防衛のために生命を危険にさらず時でも、国家から受けたもの国家に戻す」に過ぎない、と。
 共同体国家においては、権利より義務が強調される。「市民は、法が危険に身をさらすことを要求する時、もはやこの危険を云々する立場にはない。施政体が『お前の死ぬのは、国家のためになる』と言えば、市民は死ななければならない。それまで彼が安全に生活してきたのは、そういう条件下においてのみであり、その生命はもはや単に自然の恵みではなく、国家の条件つきの贈り物であるからである」と。
 ルソーは、権力について、「私はあらゆる権力が神から由来することを認める」と書いている。ルソーにおける人民主権という権力は、神に由来するものである。主権とは統治権であり、統治の権利にして統治の権力である。ルソーは、主権者 Souverain について、能動的に法を作る能力を持つことを強調する。主権者は、集合的には人民 Peuple であり、個別的には市民 Citoyensである。人民は主権者であると同時に、臣従者 Sujects である。臣従者とは、この場合、君主に対する臣下ではなく、国法に従う者の意味である。ルソーによれば、主権者と臣従者は盾の両面であり、この二つの言葉の概念は、「市民」という一語に合一する、と。
 ルソーは、国家忠誠の義務、国防の義務を当然のことと説く。ルソーの理論は、デモクラシーとナショナリズムを一体のものとして提示する。国民国家の理論となっている。注意しなければならないのは、ルソーの社会契約論は、一面において現実の国家の由来を説明する仮説であり、他面において現実の国家を変革してこれから建設すべき国家の目標を説く構想であることである。前者の場合、契約は過去に行われたと想像される行為であり、後者の場合、契約は将来行うべきと提案する行為である。歴史が示すところでは、同時代のヒュームが示したように、過去にそのような契約で国家が設立された事実はない。それゆえ、ルソーの社会契約論は、これからなされるべき契約の構想を提示する理論である。
 ホッブスは、社会契約は国家を設立し、正義を実現するためのものだとした。契約に反することは不正義であり、契約を守らせるように強制する権力は正義の権力であるとして、絶対王政を擁護し、主権者に対するあらゆる反逆は不正義とした。ロックは社会契約が行われるのは、自然状態の正義が失われ、不正な状態になったのを解消するためとした。絶対王政は社会契約を締結した人民に対して不正義の体制であるとして市民革命を正当化した。ルソーは、ロックの思想を急進化した。ルソーによると、社会契約は正義を実現するためのものであり、正義が実現されなくなった社会契約は本来の意味を喪失している。そうした社会では、正義のために革命と新たな社会契約の締結が必要だと説いた。
 ここで本稿の主題である人権に関して書いておくと、ルソー流の社会契約による国家においては、自然人が持っていた人間性を回復することが、人間的な権利の獲得となる。人間的な権利が確保されるのは、法治国家においてである。普遍的・生得的な人間の権利の観念は、国民の権利としてのみ現実化される。国家の主権あっての個人の人権である。集団の権利あっての個人の権利であり、集団の権利を守るために個人は献身しなければならない。自由・平等の権利の実現は、同時に善良な徳性の開発となる。このように、整理できるだろう。引き続き、ルソーの思想として、一般意志に基づく理想国家、市民的宗教、法治国家による国際平和について書くが、それらは普遍的・生得的な人間の権利に基づく理論ではなく、発達する人間的な権利の理論として理解されるべきものである。

 

●一般意志に基づく理想国家を提示

 ルソーの政治理論は、国家の形成に関しては社会契約論であり、主権に関しては一般意志の理論である。
 ホッブスは自然状態に「万人の万人に対する闘争」を想定した。戦争状態を克服するために絶対的権力を導き出した。これに対して、ルソーは、人間の自然の善性を前提として、人民の一般意志のみが絶対であり、善であるとする論理で、絶対的権力を導き出した。そして、ホッブスの絶対主義的な主権論を人民主権論へと転換した。一般意志の理論は、徹底した人民主権の理論である。そこから理想の国家が説かれる。
 ルソーによると、一人一人の個別の利害や関心は「特殊意志」である。これを足し合わせたものは、「全体意志」である。全体意志は、個々人の利益の総和でしかないが、一般意志はただ共通の利益を考慮する。人民の一般意志は、常に公共の利益を目指すものであり、絶対的であって、誤ることがないという。
 ルソーにおいて、主権は、一般意志の行使である。主権は譲渡することができない。なぜなら、主権は一般意志の行使でしかなく、一般意志は譲り渡されたり、移されたりすることはできないからである。主権は分割することができない。主権が譲渡できないと同じ理由によってである。一般意志を分割すればそれは特殊意志となり、特殊意志の行使では主権となることができない。主権は一般的約束の範囲から出ることはできない。いかに絶対的であり、神聖で侵すべからざるものであっても、主権は市民に対して理不尽な要求をすることはできない。
 社会契約によって各人は自己の力と自由を全面的に譲渡するが、その国家が一般意志の実現である限り、各人は一構成員として平等の権利を持つ主権者となる。主権者の行為は、公の利益を目指す一般意志に導かれ、「すべての国民のための政治」を実現する行為となるという。
 一般意志が常に正しいと言えるには、公衆の「啓蒙」が不可欠だとルソーは主張した。正しい政治的決断を行うには、理性の働きが必要である。集団の一人一人が、自らの意志を理性に一致させるようにすることによって、はじめて一般意志を論じ得るとした。
 ルソーは、一般意志は、法律に全面的に表現される、法は一般意志の表明である、とする。だが、人民は何が真の共通の利益であり、また何が真の幸福であるかを必ずしも知っているとは言えない。ルソーは、主権者である人民が正しい善の観念を以て行為することができるように啓蒙する役目を持つ者が必要だと考える。それが立法者である。
 立法者は、主権者である人民が議論をして、共通する利益を表す一般意志をもって、法を作る際、それが公共の利益に適っているかどうかを判断する。立法者は、権力も利害関係も持たずに、公平と明知をもって洞察のできる「すぐれた知性の人」「非凡な人間」でなければならない。ルソーは、古代スパルタの「神のような立法者」リュクルゴスを、その模範とする。リュクルゴスは、特異なスパルタの鎖国制や軍国主義的な市民生活を定めた伝説的な立法者である。
 ややこしいのは、立法者と言っても、主体的に法を立案・制定する者ではない。立法者は立法権を持ってはいけない。立法者は主権者でもなければ、行政官でもない。役割は、啓蒙だとする。立法者は、国家の一員でありながら主権者ではなく、立法に関わりながら自分自身は立法権を持たない。外国人の法律顧問のようでもあり、人民を啓蒙する精神的指導者のようでもある。最終的に法を審判する権限があるわけでもない。ルソーは、「人民自ら承認したのでない法律は無効であって、断じて法律ではない」と明言している。主権者としての人民があくまで主体である。
 ルソーにおいて、主権は立法権を主とする。政府は、法を執行する機関である。政府は、従来主権と混同され、絶対の権威を持つと見られてきたが、主権者たる人民の意思の執行機関に過ぎない。首長は、人民の主人ではなくて、「単なる役人」であり、「主権者が彼らを受託者とした権力を、主権者の名において行使しているわけであり、主権者はこの権力をいつでも好きな時に制限し、変更し、取り戻すことができる」とされる。
 ルソーの構想した理想国家は、ロックやモンテスキューが説いた議会制デモクラシーの国家や権力分立による立憲君主制ではなく、全人民を主権者とする直接民主政の国家だった。主権は、全構成員が参加する全体会議、いわば人民総会でのみ行使される。ただし、ルソーは、直接民主政をすべての西欧諸国で実現せよ、と主張したのではない。そもそもルソーは、民主政について「もしも神々から成る人民があるとすれば、この人民は民主政をもって統治を行うだろう。これほど完璧な政体は人間には適さない」と言っている。極限的な理想として提示しているだけなのである。また、ルソーは、租税の負担という点から、「君主政は富裕な国民にのみ適するものであり、貴族政は富から言っても大きさから言っても中くらいの国家に適し、民主政は貧しい小国に適する」と書いている。これらを比較し、それぞれの長所と短所を指摘し、どれも長く続くと欠陥が出てくる。それを防ぐために最低限、立法権と執行権は分けるべきと説いている。
 この論に従えば、フランスは豊かな大国だから、君主政が相応しい。フランスで目指すべきは、君主専制から民衆の政治参加へ、絶対君主政から制限君主政への改革だということになるだろう。しかもルソーは武力によって権力を奪取して社会秩序を打ち立てようとは、まったく考えなかった。ルソーは、武力は権利を与えない、それに屈服する義務はないとした。それゆえ、ルソーはフランスで武力革命を起こして、クロムウェルのように君主を除いて共和政を目指せ、と説いたのではない。だが、君主政の打倒を目指す者は、ルソーは人民主権の共和主義を説いたのだとし、自分たちの主張に利用してきた。

 

●市民的宗教の必要を説く

 ルソーの理論は、単なる政治理論ではない。ルソーにとって、国家の問題は、同時に道徳の問題であり、宗教の問題だった。『社会契約論』には、巻末近くに「市民的宗教」の章がある。社会契約による国家に不可欠のものとして、宗教の必要性を説いている。
 ルソーは、まず宗教を、(1)寺院も儀式も伴わない福音書の宗教、(2)一国に固有の守護神を与える宗教、(3)二人の首長、二つの祖国を与える宗教に分ける。ルソーは、(2)(3)を斥け、(1)のプロテスタント的なキリスト教をよしとする。ちなみに、カトリック教会は(3)であり、悪しきものだと唾棄する。
 次にルソーは、「市民的宗教」の必要性を説く。「市民的宗教」は、市民に対して国家に生命を捧げる義務を愛させるような宗教である。キリスト教は地上の国家より天国を志向しており、それゆえにキリスト教徒の軍隊は弱い。ルソーは、キリスト教的でありながら愛国的であるような宗教が必要だとする。それを国教として強制しようというのではない。そういう宗教を個々の市民が自由に信仰できるようにすることが必要だと説いている。その一方、社会性の意識を欠き、国家への献身の義務を果たせない国民は、追放するという。これは多数による少数の排除を認め、それを以て一般意志の行使と称するわけだろう。
 ルソーは「市民的宗教」の教義について、「全知全能で慈愛に満ち、すべてを予見し配慮する神の存在、来世の存在、正しい者の幸福、悪しき者への懲罰、社会契約と法律の神聖性」を積極的教義とし、「不寛容」を消極的教義として挙げる。キリスト教と社会契約説を融合させた教えであり、それに対して国家献身の義務を説くものである限り、他宗教を許容すべきと説く。ユダヤ教を許容するかどうかは、明言していない。
 ルソーを利用する共和主義者には、キリスト教徒も非キリスト教徒も無神論者もいる。彼らの多くは、ルソーの理論は人民主権の共和主義だとしながら、その理論に不可欠な「市民的宗教」という要素を除去している。だが、デモクラシーとナショナリズムを一体のものとするルソーは、政治と宗教の関係を考察して、国民国家の理論を説いているのである。ナショナリズムと宗教を無視して、ルソーの思想を個人主義的な共和主義や無神論的な社会主義に仕立てるのは、恣意的な歪曲である。

●国際平和への道を素描

 ルソーは、『社会契約論』の結びに、国際平和の実現の検討が残る課題だと記した。この検討における先駆者は、サン・ピエール神父である。サン・ピエールは、18世紀初めスペイン継承戦争を終結させるためのユトレヒト会議に参加し、これを契機に『ヨーロッパの恒久平和』(1713〜17年)を著した。欧州連合の案を示し、フランスを中心とする国際平和組織を構想し、「諸国民の最高法廷」の設置の必要を説き、その権威によって戦争の害悪を除こうとした。
 ルソーは、サン・ピエールの理論を批判した論文で、戦争と平和について書いた。国際社会は、ほとんど戦争状態にある。これを世界国家という高次の社会状態に発展させることを、ルソーは「人類にとってのこのうえもなく偉大で美しく、有益な」課題だと書いた。ルソーが残した素描は、その後の国際平和論の基礎となるものとされてきた。
 ルソーは、戦争は人類の最大の災厄である専制政治と結びついていることを指摘する。国際平和の達成のためには、各国家が人民主権とデモクラシーの政体となり、専制的な統治者の恣意という戦争の原因を取り除かねばならない。しかし、国際社会の現状は、戦争状態に近く、まれに平和状態になっても、一時的な休戦にすぎない。国内では専制を廃止しても、国家間の事情は変わらない。人民主権とデモクラシーの国家が結合して、諸国民が平等な資格で参加し、個人も人民も等しく法の権威に従う国家連合を、ルソーは構想した。カントは、ルソーの国際平和論を発展させて、『永遠平和のために』を書いている。
 18世紀半ばの西欧では、既に近代資本主義が発達し、工業化が進みつつあった。国際社会の主要な構成員となり得るのは、大国である。ルソーは、大国には君主政が適しているというから、専制を廃止したイギリス型の制限君主政の国家が連合を結ぶという構図となるだろう。ルソーが理想とするような農業生産を基礎とする小国が、国際社会の主要な構成員とはなり得ない。小国の平和的併存は、18世紀のヨーロッパでは、もはやまったく現実的でない。
 民主政の国家こそが国際平和を建設し得るのではないかという見方については、ルソー自身が疑問を投じるだろう。ルソーは、民主政について次のように書いている。「民主政もしくは人民政体ほど内乱や国内の動揺を招きやすい政府はない」「なぜなら、これほど激しく、しかも絶え間なく政体を変えようと躍起になっている政体は他にはなく、また現下の形態を維持するために、これほど警戒と勇気を要するものはないからである」と。そのうえ、ルソーは言う。「もしも神々から成る人民があるとすれば、この人民は民主政をもって統治を行うだろう。これほど完璧な政体は人間には適さない」と。
 ルソーは、君主政、貴族政、民主政を是認しているが、この点は人民主権とどういう関係になるか。どの政体もみな自然状態から社会状態への移行の際には、社会契約によって設立された国家が採っている政体である。もとが全員による社会契約であれば、人民主権における人民は、君主や貴族を含む人民となる。
 人民主権の国家においても、政治を行うためには、首長を選任する必要がある。その首長が法の支配による政治を行えば、その国家は自由と平等が比較的保たれた国家となる。仮に古代において、優れた首長を出した家系が代々首長を出すこととなり、その家系が善政に努め、人民の支持を維持し続けた国があるとすれば、理想的な君主政国家となる。皇室を中心とするわが国の国体は、その世界史にまれな実例となっている。

 

●矛盾多きゆえの影響力

 ルソーの主張には矛盾が多く、ルソーほど解釈や評価の別れる思想家は、珍しい。ルソーは高い理想を説き、読む者の気分を高揚させる。それでいて、その理想がほとんど実現不可能であることを説く。立法者の重要性を強調したうえで、立法者はリュクルゴスのような神的な人物であるべきとする。民主政の素晴らしさを描いておいて、「これほど完璧な政体は人間には適さない」と言う。神的な人物が立法者となり、全国民が神々のように高い徳性を持つ国。それは、政治的な目標というより、宗教的・道徳的な理想である。「神々から成る人民」でもなければ、一般意志に基づく民主政は不可能なのである。そのため、ルソーの理想を吹き込まれて精神が高揚した多くの人は、理想の頂点と現実の深淵の間で、引き裂かれることになる。
 ルソーの社会契約による国家は、家族的結合をもとにした氏族的・部族的共同体のような自然的生命的な集団ではない。族長と成員が生命を共有する共同体であれば、指導者と全員の意思が一致することが考えられる。だが、ルソーが想定するのは、自由で平等な個人が自らの意思で結成した集団である。政治結社であれば、意思の一致する者のみで集団を結成できる。しかし、一定の領域に居住する人々の場合、宗教宗派の違う者や民族の異なる者がいれば、完全な意思の一致は難しい。
 ルソーは、征服・支配による自然状態から社会状態への移行をよく検討していない。移行は内部的な要因だけでなく、外部的要因によっても起こり得る。歴史が示しているのは、主人―奴隷の関係は、多くの場合、異民族間の支配関係である。そのため、武力による支配を正当化し、固定化するために法が作られる。法の強制力は、根本的には権威ではなく、武力による。社会契約説は、ルソーにおいても、国家の起源論としては欠陥理論である。
 立法について、ルソーは、公衆の「啓蒙」と各自の道徳的努力を行えば、全体意志は一般意志と一致し得るとする。それは、極限における一致だろう。意思決定は、多くの場合、多数決となる。全会一致以外は一般意志の表明と認めない。あくまで全会一致をめざせというのかと思いきや、多数決の決定は一般意志の表明だ、とルソーはいう。だが、99対1と51対49は同じではない。99対1であっても、その1がソクラテスであったとすれば、真の賢者のみが反対したということになる。立法の過程では、合意形成のために修正や妥協がしばしば行われる。その結果制定された法は、そのまま一般意志の表明とは、言えない。また、そこで合成された意思が、単なる全体意志ではなく一般意志であるかどうかを誰が判断できるのか、そしてその判断者となる立法者を誰が選任できるのかという問題がある。
 全会一致は、必ずしも最善の意思決定とは限らない。全会一致で愚かな決定や狂気の行動をすることも、集団にはある。逆に意見対立が鋭くなり、双方が絶対に譲歩・妥協できない状況となることもあり得る。対立が激化すれば、集団は分裂する。集団が分裂すれば、権力は変動する。主権は分割される。譲渡も簒奪も起こる。ルソーは、権力の動力学を具体的に把握できていない。
 次に執行については、合成された意思は、最終的に執行者によって発動される。完璧な法ができれば、自ずと理想的な政治が行われるのではない。意思決定の参加者と仕組みがどうであれ、執行する場面では、執行者個人または執行機関の意思が働く。いかなる法であっても、権力者はこれを勝手に解釈できる。法を無視し、実力の行使を以て統治することもできる。意に沿わなければ法の効力を停止して、直接権力による政治を行い得る。クーデタや独裁政治がこれである。選挙による任免だけでは、独裁者の出現を防ぎ得ない。むしろ、人民の支持によって独裁者は現れ、しばしば人民の名のもとに専制を行う。フランス市民革命は、ルソーの思想の欠陥や限界を検証する歴史的な題材となっている。
 フランス革命の権力闘争で、ルソーの思想を独自の理解で実行したのが、ロベスピエールとナポレオンだった。革命過程で最大の権力を振るったこの二人は、ともにルソーを信奉していた。
 ロベスピエールはルソーの最大の賛美者であり、徹底した擁護者だった。ルソーは、農業生産を基盤とする直接民主政の小国家を理想とした。ただし、直接民主政は人民の道徳的向上が必要とし、「神々からなる人民」でなければ、不可能であることを示唆した。だが、ロベスピエールは大国で豊かなフランスで、君主政を倒し、人民主権を実力闘争で実現しようとした。その結果、独裁を行い、恐怖政治を進めた。ルソーの説く市民的宗教を模して、「至高の存在」を祀る祝典を行った。独裁者は反発を買って敗死した。
 ナポレオンは、若年期における知的形成で、ルソーから最大の影響を受けた。ナポレオンは、民主的な選挙によって終身統領になり、さらに自らの意思で皇帝になった。ルソーが大国で豊かな国にふさわしいとした君主政を自らの手で創設し、法治主義の帝国を築こうとしたのだろう。皇帝ナポレオンは、武力によって自由と平等の理念をヨーロッパ諸国に広めようとした。だが、大戦争の果てに、流刑の地で死んだ。ルソーの理論は、一国のナショナリズムの形成を促進するものではあっても、国際社会に広く受け入れられるものではなかった。
 ロベスピエールとナポレオンは、ともにフランス革命が生んだ国家指導者である。ともに民衆の支持を受けて、独裁を行った。彼らが出現する土壌となる思想を提示したのは、これもルソーの影響を受けたシェイエスだった。シェイエスについては、次の項目に書く。もう一人、ルソーの影響を受けた重要な人物が、カントである。カントは、ルソーの矛盾が多く多義的な著作から要点を取り出して、哲学的に発展させた。カントについては、フランス革命の思想の後に書く。

 

●民衆を扇動しながら独裁者にも仕えたシェイエス

 シェイエスは、神父だった。ルソーの影響を受けていた。フリーメイソンのロッジ「九人姉妹」に所属していた。ルイ16世が1789年に三部会を召集したとき、会議は議決方法をめぐって紛糾した。シェイエスは『第三身分とは何か』(1789年)を著し、「第三身分はこれまで無であったが、これからは権力を持つべきだ」と訴えた。
 シェイエスの言う国民は、第三身分のみを意味した。第一身分・第二身分は国民ではないとし、国民から除外した。国家の政治権力は第三身分のみに属すべきであると説いた。それゆえ、国民主権を説いても、国民全体の主権ではなく、第三身分による主権の奪取と独占を説くものである。シェイエスに呼応した第三身分は、独自に国民議会を結成した。マルクス=レーニン主義は、労働者階級によるプロレタリアート独裁を標榜したが、シェイエスは国民主権の名のもとに、第三身分という集団による独裁を煽動したのである。
 国民議会が発した人権宣言は、第3条に「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も、国民から明示的に発するものでない権威を行い得ない」と定めた。ここに明確に国民主権の原理が提示された。
 国民主権の原理は、シェイエスの思想に負うところが大きい。シェイエスは、国民主権の原理を次のように述べた。「国民(nation)はすべてに優先して存在し、あらゆるものの源泉である」「その意思は常に合法であり、その意思こそ法そのものである」「国民がたとえどんな意思をもっても、国民が欲するということだけで十分なのだ。そのあらゆる形式はすべて善く、その意思は常に至上至高の法である」と。
 これは明らかにルソーの論理を踏襲している。ただし、国民主権は、ルソーの人民主権と同じではない。人権宣言における主権者は、第三身分という集団であって、国民全体ではない。国王・貴族・聖職者は「国民」ではなく、よって主権者ではないという論理である。「国民」を自称する一部の集団が、権力を掌握したものである。そしてシェイエスは、国民すなわち第三身分の民衆を神のごときものへと理想化している。こういう理想化のもとで、国民主権の考え方が生まれ、国民主権を標榜する政府が誕生したのである。
 16世紀のボダンは、主権論で、「主権的支配者」である君主の上に立つ「世界中のすべての支配者に対する絶対的支配者」である神の存在を強調した。絶対君主は自らの自由意志に基づいて「法律」を作ることはできても、神法・自然法に合致しないものは、法律としての有効性を持たないとした。ところが、シェイエスの国民主権論は、主権者を君主から第三身分に置き換えるだけでなく、第三身分の意思は「常に至上至高の法である」として、もはや規制するものが、なくなっている。
 ルソーの一般意志は、人民全体が主権者であるときの、その人民全体の意思の意味である。ルソーは、一般意志は、常に公の利益を目指すものとし、一般意志に導かれる「主権者」の行為は、「すべての国民のための政治」を実現するものとした。ただし、ルソーは、一般意志が常に正しいと言えるには、「公衆の啓蒙」が不可欠だと主張した。正しい政治的決断を行うには、理性の働きが必要である。集団の一人一人が、自らの意志を理性に一致させるようにすることによって、はじめて一般意志を論じ得るとした。シェイエスは、ルソーの一般意志を自分の「共同意思」という概念に取り入れた。だが、各人が「その意志を理性と一致させる」というルソーの考えを排除した。「公衆の啓蒙」や各自の道徳的な努力もなしに、民衆が欲するものは、すべて善く、常に正しいとしてしまう。ルソーは、一般意志を実現するには「神のような立法者」が必要だとし、民主政について「これほど完璧な政体は人間には適さない」と説いた。しかし、シェイエスはありのままの民衆を神格化した。
 シェイエスは、ジロンド派に属していた。1789年の人権宣言を改定した93年のジロンド権利宣言の起草に当たった。ジロンド宣言は、第25条に「人権の社会的保障は、国民主権の上に基礎を置くものである」、第27条に「主権は、本質的に人民全体に存し、各の市民は、その行使に協力する平等の権利を有する」と盛り込んだ。ジロンド派は、ロベスピエールらのモンターニュ派によって、国民公会から追放・粛清された。シェイエスは、ギロチンを免れたが、幾人ものが断頭台の露と消えた。民衆は、公開処刑に喝さいを送った。
 ロベスピエールは、国民主権ではなく、人民主権を打ち出した。ルソーを信奉し、ルソーの一般意志論をシェイエスよりも徹底した。人民は people である。モンターニュ派憲法における権利宣言では、第25条に「主権は人民に存する。それは単一かつ不可分であり、消滅することがなく、かつ譲渡することができない」と定めた。主権は単一かつ不可分、譲渡不能というのは、その現れである。先に指摘したように、人民主権論では、主権を掌握した権力者は、人民の名において独裁を行うことができる。ロベスピエールは、恐怖政治を行った。人民主権論は、個人独裁の理論に転じ得る。この「人民」を「労働者階級」や「被抑圧人民」に置き換えれば、レーニンや毛沢東が出現する。
 シェイエスは、恐怖政治を生き延びた。1795年に穏健派によって総裁政府が出来ると総裁に指名された。ナポレオンと結んでクーデタを起こして統領政府を樹立すると、統領の一人となった。統領政府のもとで行った国民投票で、国民はナポレオンを終身の第一統領に選んだ。シェイエスは敗退した。国民は、さらにナポレオンを皇帝に選んだ。賛成357万余票、反対わずか2579票。シェイエスは、国民の意思は「常に至上至高の法」だとしたが、国民は選挙によって権利・権力を託した独裁者を、皇帝の座に就かせた。民衆を神格化したシェイエスは、集団の心理のダイナミズムを全く予測することができなかった。
 ロベスピエールとナポレオンは、革命の激動の中で命運尽きた。だが、シェイエスは、革命の初期から王政復古・七月革命の後まで生き延びた。このような人物の説いた国民主権や人権を無批判に受け継いではならない。

 

●フランス市民革命を批判したバークと保守主義

 フランス市民革命には、革命の最中から批判的な見方があった。1789年、フランスで革命が勃発すると、イギリスでも共和主義に同調する者が表れた。その中で、フランス革命を敢然と批判したのが、イギリスの政治家、エドマンド・バークである。
 バークは革命の最中である1790年に『フランス革命の省察』を書いた。フランスやドイツなどで翻訳されて読まれた。西欧諸国は、フランス革命の波及から自国の伝統・体制を守ろうとしていた。バークの思想は、各国の保守の形成に影響を与えた。それによって、バークは保守主義(conservatism)の元祖とされている。
 バークは、著書でフランス革命を次のように見る。貴族・僧侶による伝統的な秩序を打破して自己の利益を拡大するため、新興の貨幣所有階級が啓蒙思想家と手を組み、民衆を扇動して起こした破壊行動である、と。いまや「騎士道の時代は永遠に過ぎ去り、詭弁家・守銭奴・計算屋の時代がそれに続くであろう」とバークは言う。しかし、「恥知らずの純粋デモクシー」たる暴徒の支配によって、最後は社会そのものの崩壊と荒廃にいたるだろうと予測した。
 バークが守ろうとするのは、13世紀のマグナ・カルタ以来、400年、500年とかけて熟成されたイギリスの政体であり、伝統である。リベラリズムとデモクラシーの融合である。すなわち、権力の介入への規制と、民衆の政治への参加のバランスである。また、近代科学による知識と、人間を超えたものへの信仰との共存である。すなわち、理性と感情のバランスである。
 バークは、イギリスでは国王と貴族と民衆、教会と国家、私有財産と社会的義務、自由と服従、理性と愛情などの諸要素が調和し、美しい統一的秩序を為していると説く。この秩序ある体制は中世以来の騎士道精神と、宗教改革を経た国教制のキリスト教が結合し、長い歴史の中で生まれてきたものだ、と主張した。そういう祖先の英知をバークは尊重し継承しようとする。
 バークに対して、ペインは『人間の権利』で徹底的に批判した。バークは、フランス革命の実態をとらえていないとして、革命を擁護した。またバークはイギリスの政体や歴史を正しく理解していないとして、王政や世襲制を激しく非難した。
 バークがフランス市民革命を批判し、ペインがそれに反論した後、革命は、誰もの予想を超えた展開を続けた。ペインが反対した国王の処刑の後、王党派も共和派も、穏健派も急進派も、首切り機械に送られた。独裁者の登場、恐怖政治、穏健派の巻き返し、軍人によるクーデタ、皇帝の誕生、そしてヨーロッパ規模の大戦争へ。フランスの進軍は、周辺諸国にとっては侵攻戦争である。フランスに対抗する諸国でのナショナリズムの高揚。最終的に、イギリス中心の諸国連合軍は、ナポレオンを破った。ナポレオン軍は、自由と平等を中心とした一種普遍的な価値を他国に普及しようとした。これに対し、各国は、自国の伝統や既成の制度を守ることに努めた。
 バークの主張の背後には、「知は力なり」と言ったF・ベーコン流の科学的楽観主義に対し、人間理性による進歩への懐疑があった。また人間は放任されると際限なく利己主義と無秩序に走るものであり、社会の秩序のためには権威と権力が不可欠だという人間観察があった。この点において、彼は同時代の哲学者ヒュームに通じる。
 ヒュームは、人知の限界を思索し、自然科学や形而上学が学として成り立つかどうかを疑った。その深い洞察は、カントに衝撃を与え、彼を批判哲学に向かわせた。ヒュームはフランスでの革命の到来を予見し、頭の中で考えた観念的な理論は破壊・混乱をもたらすことを警告していた。人間は現実的な経験を重んじ、歴史的に培われてきた英知を大切にすべきことを説いていた。
 ところで、バークは、1792年2月英国議会でフランス革命を非難する演説を行った。これに対し、イギリスの急進的な活動家メアリー・ウルストンクラフトから、厳しい批判が向けられた。ウルストンクラフトは、長文の手紙の形式でバークに鋭い質問を投げかけた。ウルストンクラフトは、バークが、アメリカ植民地の人民の自由を擁護しながら、アメリカの奴隷の権利については沈黙している矛盾を衝いた。彼女は次のように述べる。「彼(バーク)のもっともらしい主張は、奴隷制度を永遠の基礎と見なしている。彼の古いものに対する卑屈な畏敬の念と、打算的な利己主義が、彼の主張するような力を持つなら、奴隷貿易は決して廃止されるべきものではない。そして、我々の無知な祖先が、人間の素朴な尊厳を理解せず、理性と宗教のあらゆる教えに背くような不正な貿易を認めたという理由で、我々は非人間的な慣習に服従し、人間性に対する残忍極まる侮辱を、わが国への愛と呼び、我々の財産を守る法律に対する正しい服従と呼ばなければならなくなる」と。
 ウルストンクラフトの態度は、一部の人々の自由だけが重要であり、その他の人々を排除する形で人間の自由を擁護するような議論は支持できないというものである。ウルストンクラフトは、バーク宛ての手紙の2年後、『女性の権利の擁護』を出版した。この本では、女性の権利に対して同等の関心を払わずに、男性の権利を擁護することはできないことを主張した。ウルストンクラフトは、ルソーが自由と平等を説きながら女性を蔑視していることを強く批判するなど、初期のフェミニストとされる。ただし、彼女自身は、キリスト教の信仰を抱き、男女双方に貞淑な道徳を説き、また家庭における女性の役割を高く評価している。なお、ウルストンクラフトは、インドの不可触賤民やアパルトヘイトの南アフリカにおける黒人等についても、権利の擁護を主張している点でも注目される。
 バークの死後、保守主義という言葉が西欧で一般化する。西欧諸国の保守政党が維持しようとしたものの内容は、一様ではない。各国の伝統や事情が異なっているからである。そのため、保守主義は、普遍的な政治理論を否定し、それぞれの固有文化の価値を主張することが多い。しかし、保守主義の根底に共通するのは、フランス革命に対する批判である。人間の知恵と力を過信した、近代西欧の啓蒙思想・合理主義に対する西洋人自身による反省である。そこには、近代西洋文明に対する一定の内在的批判を読み取ることが出来る。人権を普遍的・生得的な権利とする人権論者は、フランス革命を理想化し、その理念を追い続けているが、西欧においてフランス革命に批判のあることを踏まえて、主権・民権・人権について反省的な思考を行う必要がある。
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(5)カントとドイツ観念論・唯物論

 

●カントによる啓蒙の完成

 人権の思想の起源は、トマス・ホッブスの自然権とピューリタン革命期の水平派の生得権にあり、ジョン・ロックがこれを政治理論化した。ロックの思想はフリーメイソンと結びついて、アメリカ独立革命、フランス市民革命の推進力となった。人権の思想は独立宣言・人権宣言に盛り込まれ、イマヌエル・カントによって、道徳的に掘り下げられた。その際、ルソーが重要な作用をした。世界人権宣言のもとには、こうして形成されたロック=カント的な人間観がある。
 イマヌエル・カントは、18世紀西欧の「啓蒙の世紀」を代表する哲学者であり、「啓蒙の完成者」といわれる。カントはアメリカ独立戦争やフランス革命を同時代として生き、当時の政治思想・社会思想を哲学的に掘り下げた。現代の人権の思想には、ロックと並んでカントが重要な影響を与えている。
 若き日のカントは自然の科学的研究に優れた業績を現した。数学・自然科学の論文を多く書き、特に宇宙の発生に関する星雲説は、ニュートン物理学を宇宙発生論にまで拡張適用したもので、カント=ラプラス仮説として名高い。カントは、数学・自然科学だけでなく、論理学・形而上学・自然地理学等、広い範囲にわたる科目を大学で講じていた。しかし、ヒュームによって「独断論のまどろみ」を破られた。
 ヒュームは、感覚的な印象によってものの観念ができ、観念の連想によって、高級な観念や知識ができるとした。自然科学が基礎に置く因果律も、連想の繰り返しという経験に基づく習慣に過ぎない。自然科学は理論的な学として成り立つか疑わしい。ましてや感覚的に経験することができない神や神の創造を問題にする形而上学は、学として成り立つことはできない、と考えた。カントは、ヒュームの懐疑論に衝撃を受け、それまで影響を受けていたライプニッツ、ヴォルフ等の思弁的形而上学を見直した。そして、人間の認識能力について根本的な検討を行うことにした。
 またカントは、ルソーの著書から人間を尊敬すべきことを学んだ。「私は無知の民衆を軽蔑していた。しかし、ルソーが私の誤りを正してくれた。目のくらんだ優越感は消え失せ、私は人間を尊敬することを学んだ」とカントは書いている。そして「人間を尊敬するというこの考え方こそ、すべての他の人に一つの価値を与えることができ、その価値からこそ、人間らしい諸権利は由来する」と信じ、自然の研究から人間の研究に向かった。
 こうした時、カントが強い関心を示したのが、視霊者スヴェーデンボリである。スヴェーデンボリは、数学者、科学者として著名であるとともに、霊魂との意思交通、遠隔視を行うことで、当時西欧で評判だった。カントは、スヴェーデンボリを研究し、1766年刊行の『視霊者の夢』に自らの見解を書いた。この書でカントは、霊魂との意思交通や共同体的なつながり、来世の存在を信じる考えを書く一方、スウェーデンボリの語ることを幻想であると否認する見方も書くという二面的な態度を見せる。そして霊界を語る視霊者と独断的な形而上学者はともに夢想を述べているとし、自らは、経験に基づく立場から人間理性の限界を定める新しい形而上学へと向かう。(1)
 その後、カントは、1781年の『純粋理性批判』で経験に基づく範囲で理性による科学的認識を基礎づけるとともに、88年の『実践理性批判』等で科学の理論的認識の対象とはならない道徳の実践を説き、科学と道徳・宗教の両立を図った。さらに、市民社会の目指すべき姿を提示し、また国際社会に永遠平和を実現する道を論じた。その哲学は、批判哲学または批判的観念論と呼ばれる。
 すべての哲学はカントに流れ込み、それ以後のすべての哲学はカントから発するといわれるように、カントは西洋思想史で最大級の思想家である。カントの思想の後世への影響は大きく、今日にまで及んでいる。本稿では、市民革命及び啓蒙思想の関係からカントの思想を検討したい。初めに思想の概要を示し、その後、自由と人格、人間の尊厳等、人権に関わる点について書く。


(1)
私は、ヒュームの衝撃とルソーの啓発を受けたカントが、独自の哲学を構築するに当たって、『視霊者の夢』が重要な節目になっていると考える。また、『視霊者の夢』に書いた心霊論的な信条が、カントの道徳哲学の根底にあると考える。この点については、別稿「カント哲学と心霊論的人間観」に詳しく書いた。


●三つの問い

 カントは、批判哲学の嚆矢となる『純粋理性批判』に、三つの問いを挙げた。(1)人間は何を知り得るか、(2)人間は何を為すべきか、(3)人間は何を望んでよいか、の三つである。三大批判書をはじめとするカントの主要著作は、これらの問いへの彼の解答である。
 第1の問い、人間は何を知り得るかについて、カントは形而上学を検討した。カントは、第一の批判書『純粋理性批判』で、理性による理論的な認識について検討した。批判とは、認識能力の適用範囲と限界を吟味することをいう。批評というより裁判に近い。当時、ライプニッツ、ヴォルフ等による合理論的形而上学は、数学・自然科学を用いて、神の存在、霊魂の不滅、人格の自由を証明しようとしていた。カントは、ヒュームの懐疑論に啓発されて、すべての認識は感覚的経験によるという経験論と、確実な認識は生得観念によるとする合理論は、ともに正しくないとし、人間は対象をア・プリオリ(先験的)な形式に基づいて感覚し、思考するのだとした。
 これは、古代ギリシャ従来の西洋哲学史で、認識は対象に依存するとしてきた考え方を、対象こそ認識により構成されるという考え方に転換したもので、カントのコペルニクス的転回と呼ばれる。この転回によって同時にカントは、大陸合理論とイギリス経験論を総合したとされる。
 カントは、人間の認識能力を感性・悟性・理性に分け、その検討を行った。現象は主観が経験に与えられた感覚内容を総合構成したものであり、物自体は感覚の源泉として想定はできるが、認識はし得ないとした。物自体は、物そのものというより、物事の真相というのに近い。こうして、カントは現象界・感性界と物自体の可想界または叡智界を厳格に区別した。ヒュームが成立を疑った自然科学及び数学については、感性のア・プリオリな直観形式としての空間・時間と悟性のア・プリオリな思考形式としてのカテゴリーの協同によって確実な学的認識たり得ているとして、学としての基礎づけをした。
 ア・プリオリは経験から論理的に独立したものを意味し、その基準は必然的かつ普遍的であることである。必然的かつ普遍的とは、必ずそうなり、誰にでもまたどういう場合でもあてはまるということである。反対語は、ア・ポステリオリで、経験によって得られるものを意味する。
 カントは、悟性による認識を体系づけ、統一する理性による理論的な認識は、感性による経験に基づくものに限って可能だが、感性を超えたものは知り得ないとして、その適用範囲と限界を明らかにした。一方、神、不死、自由という超感性的な対象に関する形而上学は、これらの学と同等な資格をもつ確実な理論的学としては成立しえないとした。
 第2の問い、人間は何を為すべきかについて、カントは道徳を検討した。理性には理論的な機能とは別に、実践的な機能があるとして、第二の批判書『実践理性批判』において、道徳法則の客観的な確実性を論じ、『人倫の形而上学』で道徳哲学の体系を示した。カントは、人間は、自分の行為の個人的・主観的な規則である格率を、普遍的な道徳法則と一致するように行為すべきものとした。無条件に「△△せよ」と命じる定言命法に従って実践すべきことを説いた。道徳の最高原則は、「同時に普遍的法則としても妥当しうるような格率に従って行為せよ」である。人間は幸福を求めるべきではなく、幸福を恵まれるにふさわしい人間をめざして努力すべきものであるとした。神の存在、霊魂の不滅、人格の自由については、理論理性は決定不可能である。だが、これらは人間の道徳的な行為が意味あるものとなるために不可欠であり、実践理性はこれらを要請するとした。道徳的実践の目的は善であり、究極目的は最高善であるが、人間は最高善を実現するには力不足である。そこで最高善の実現を根拠づけ、徳性と幸福の一致を恵み与えるものとして神が要請される。また最高善に到達するには無限の努力が必要であるので、霊魂の不滅が要請される。また人間は、単に感官的存在者ではなく、叡智的存在者であり、理性が課す義務を負う人格とみなさなければならない。互いに、単に手段ではなく、目的そのものとして尊重されねばならないと説いた。
 第3の問い、人間は何を望んでよいかについて、カントは宗教を検討した。カントは、第三の批判書『判断力批判』で、悟性と理性を媒介する判断力について検討した。判断力は、特殊が普遍に包含されていると思考する能力である。特殊的なものだけが与えられ、そこから普遍的なものを見出す能力は、反省的判断力と呼ばれる。自然は必然的な法則に支配されているが、最高善を目指す道徳は意思の自律に基づく。感性界において自由を実現するには、自然に合目的性がなければならないとカントは考えた。そして、反省的判断力は、自然に合目的性を見出すとして、美、崇高の感情、有機体における合目的性を論じた。そのうえで、われわれは世界を目的に従って脈絡づけられた一つの全体また目的因の体系とみなす根拠または主要条件を持っているとして、一切の存在者の根源にある存在者は叡智体であり、全知にして全能、寛仁にして公正であり、また永遠性・遍在性を持つものでなければならないと説いて、目的論によって神学を基礎づけた。一方、カントは啓示宗教としてのキリスト教から、啓示の部分を除き、道徳的宗教へと純化、改善することを試みた。人間は本能や衝動で行動する動物的な感性的存在者であるが、自由で自律的な理性的存在者でもある。人間は、欲望の誘惑に負けやすいが、理性は人間を超感性的な世界へと向かわせる。人間は理性の声に従って道徳を実践する者として、神・不死を望んでよいとした。

●第四の問い

 カントは、三つの問いの検討のため、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三大批判書や『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785年)『人倫の形而上学』(1797年)『単なる理性の限界内における宗教』(1793年)等の多くの著書を書いた。晩年のカントは、三つの問いに加えて、第四の問いを立てた。それは、人間とは何かという問いである。
 カントは『論理学』(1800年、死後編纂刊行)の序論に次のように書いた。「第1の問いには形而上学が、第2の問いには道徳が、第3の問いには宗教が、第4の問いには人間学が、それぞれ答える。根底において、これらすべては、人間学に数えられることができるだろう。なぜなら、はじめの三つの問いは、最後の問いに関連を持つからである」と。
 人間とは何かという問いは、形而上学、道徳、宗教の検討を踏まえて、人間を総合的に研究するものである。これこそ実はカントの中心主題だったものであり、晩年のカントは『実用的見地における人間学』(1798年)を著した。カントは、本書に次のように書いている。
 「人間は、人々と一つの社会をなし、その社会において、芸術及び学問を通して自己を陶冶し、市民化し、かつ道徳化するよう、自らの理性によって定められている。幸福と呼ばれる心の安逸と歓楽へ受動的に身を任そうとする動物的傾向がいかに強くとも、むしろ能動的に、人間の自然の粗野のために人間につきまとっている妨害と戦いつつ、自らをば、人間性にふさわしいものとなすよう、その理性によって定められている」と。
 こうした思想によるカントの人間学は、近代西欧の人間観に大きな影響を与えてきた。私は、世界人権宣言の根底には、ロック=カント的な人間観があると見ており、人権の思想の考察において、カント哲学とその影響の検討は不可欠の課題と考えている。

 

●カントによる認識能力の検討

 カントの人間観は、彼による認識能力の検討を通じて形成されたものである。そこでカントによる認識能力の検討について、具体的に記したい。
 カントは、三大批判書で、人間の認識能力である感性・悟性・理性のうち、理性を最上位に置いた。感性は、独語Sinnlichkeit、英語 sensibility、仏語Sensibilite等の訳語であり、身体に基づく感覚的な能力である。理性は、独語Vernunft、英語reason、仏語raisonの訳語である。ギリシャ語のlogosnous、ラテン語のratioも理性と訳す。理性は、古来西洋で、人間と動物を区別する能力とされた。今日一般には、概念的思考の能力をいい、感性的欲求に左右されず思慮的に行動する能力をも意味する。これに対し、カントの悟性は、カント及びドイツ哲学に特有の用語である。独語 Verstandの訳語であり、英語ではunderstandingである。
 中世西欧では、人間の認識能力は、神に関わる知性intellectus、被造物である自然に関わる理性ratio、身体的感覚による感性 stomachus に分けられていた。知性は、キリスト教の信仰をもとに、人間の魂の最高段階にあって、実在を直接把握できる能力を意味した。またそれ自身が現象界を超えた形而上学的実在、不死の精神とされた。現代の言葉で言えば、霊性に近い。これに対し、理性は、ratioが比・比率を意味するように、比較・推量や論証の能力を意味した。現代で言う知性に近い。
 ドイツでは、ルターが聖書の独語訳を行って、独語による思考が普及すると、中世的な知性にVerstand、理性に Vernunftの語を充て、Verstand(知性)は心の最高で内的な働きとして、Vernunft(理性)より上位に置いていた。ところが、カントは、Verstandの能力は直接実在を把握することではなく、感性が受容した素材に概念を適用することにあるとして、その能力を限定した。そこでカントのVerstandは、中世的な知性と区別するため、「悟性」と訳される。カントにおいては、理性が上位で悟性が下位に逆転した。
 カントの悟性は、感性と協同で認識を行う。感性は、対象を直観する受容的な能力であり、悟性は対象を概念で思考する能力である。カントによると、感性には空間・時間というア・プリオリ(先験的)な直観形式、悟性にはカテゴリーと呼ばれるア・プリオリな思考形式がある。感性に基づく素材は、悟性の思考形式が適用されることで表象が可能になるとした。カテゴリーは純粋悟性概念とも呼ばれ、量・質・関係・様態にそれぞれ3つ、合計12あるとされた。
 カントは悟性の最も重要な機能は、自我が感覚的多様性を自己の内で結合させて統一することであるとし、この機能を統覚Apperzeptionと呼ぶ。統覚は、「我思う」という形式で現れる自我の同一性である。コギトをカントの立場で解釈した根源的な自己意識である。カントは経験的統覚と超越論的統覚を区別し、超越論的統覚を経験以前に経験による認識を可能にするものとして強調した。カントは感性・悟性・理性の他に構想力・判断力・共通感覚を挙げて認識能力の一致を追求したが、それらの諸能力を最も下で支えているのが、超越論的統覚だという理解が成り立つ。
 カントは、統覚を最重要機能とする悟性を、広義の悟性としている。そして、広義の悟性をさらに概念・規則の能力である狭義の悟性、判断の能力である判断力、推理の能力である理性に分ける。この分類では、理性は、根幹ではなく枝葉に置かれる。だが、カントは、理性は悟性に対しては、悟性を統御し、体系的統一的な認識を行う能力だとしている。また、理性には理論的な機能だけでなく実践的な機能があるとし、認識に関するものを理論理性、行為の原理となるものを実践理性とした。そして、実践理性の優位を説いた。
 理性は、そもそも中世の西欧では知性より下級の能力だったが、カントは科学的認識から道徳的実践にまで関わる上級の能力に格上げした。これは、近代西欧の理性中心の考え方を押し進めたものである。これとともに、カントは知性に含まれていたより高次の能力を検討の対象から除いた。中世的な知性は直観的な能力だったが、カントは、人間の悟性・理性には直観を認めず、知的直観は神の知性に特有のものとした。直観的知性は思惟において対象を産出するものであり、原型的知性とされる。原型的知性の反対は、派生的知性である。カントは、本来悟性は能動的であるので、実在に関与する感性と一つになれば、主観が実在を創造するのと同じことになると考え、その機能を否定する。カントは、知的直観の有無に、神と人間、絶対者と有限者の区別を置いた。この点でカントは人間が独断や傲慢に陥ることを戒めている。
 カントは世界を Sinnenwelt Verstandeswelt とに分けた。前者は感性界と訳し、後者は悟性界ではなく叡智界または知性界と訳す。実はこの場合の Verstand は、中性的な知性の意味を保持しているからである。カントは、人間を単に感官的存在者ではなく、叡智的存在者であるとしており、知的直観は持たないが、最高の叡智的存在者である神と理性によってつながっているとした。この点は、カントが宗教否定・霊魂否定の合理主義者とは、異なる点である。カントは三大批判書の前に『視霊者の夢』を出したが、その書でカントは霊魂との意思交通や共同体的なつながり、来世の存在を信じる考えを記していた。私は、この心霊論的な信条がカントの道徳哲学の根底にあるものだと考えるのだが、人間が単に感官的存在者ではなく叡智的存在者でもあり、神と理性によってつながっているとカントが説いたのは、この信条をもとにした主張である。
 ここで複雑さを加えているのは、カントが人間は知的直観を持たないとする一方で、判断力という悟性・理性とは別の能力に注目したことである。カントの哲学は、感性界と叡智界の区別もそうだが、現象界と物自体、自然界と道徳界、自然と自由、実在と観念等が峻別され、一見二元論の構成を示す。しかし、カントは、その断絶をつなぐもの、二元性の根源にあるものを探求した。認識能力においては、それが判断力(Urteilskraft)とされる。判断力は、感性に対する広義の悟性が、狭義の悟性、判断力、理性に分けられるうちの一つである。
 判断力については、後に自然に関する項目に詳しく書くが、人間の根源的な認識能力ではなく、悟性と理性を媒介する能力である。カントが認識能力で最上位に置いているのは理性であり、それに変わりはない。人間は理性的存在者と呼ばれる。叡智界における叡智的存在者も、理性的存在者と呼ばれる。判断力的存在者とは言わない。人間は理性的存在者であるから、道徳的実践を行う人格的存在者とされるのである。私は、カントは理性中心であって、構想力や判断力に「未知の根」を求めるのは、無理があると思う。
 深層心理学の観点からは、こうしたカントの哲学は、理性を中心として、心をほぼ意識に限定し、無意識の領域を論議の対象から除外したものと見られることになる。これは別稿に書いた心の近代化に関わることだが、プロテスタンティズムによる宗教の合理化は、「世界の呪術からの解放」を進めた。「呪術の追放」は、カントによって、哲学の分野でも推進された。カントの理性に基づく道徳的な宗教は、キリスト教の合理化を進めたものである。ただし、カント自身は霊魂との交流や来世の存在を独断的に否定しておらず、誰もが経験することのできない事柄については、語るのを控えるという姿勢だった。
 カントの哲学に対して、彼の死後、中世的な知性の復権を目指す動きや、反対に宗教的・心霊的な要素を排除しようとする動きが現れた。前者は観念論や唯心論、後者は唯物論の系統である。この点については、ドイツ観念論についての項目に書く。

●自由と人格

 第1部第2章に、近代西欧における人権の観念の核心には自由があり、その自由が、自由な状態への個人の権利として希求されたところに、近代西欧の特殊性があると書いた。ホッブス、ロック、ルソー等が理論的に思考し、イギリス・アメリカ・フランスの市民革命を通じて、権利として発達した自由を、哲学的に掘り下げたのが、カントである。今日世界に広がっている人権の思想は、自由を中心に、理性、良心、人格、自己の尊厳、同胞の精神等を説くものとなっている。そこにおける人間観を、ロック=カント的人間観と私は呼ぶ。そこにはロックとともにカントの影響があると私は見ている。ただし、この2世紀の間にカントの思想は種々の批判を受け、大半は風化し、それでもなお残って半ば常識化した概念のみが用いられ、カントの影響はほとんど忘れられているという状態である。まして、カントにおける心霊論的な信条は忘れ去られている。そのため、世界人権宣言におけるロック=カント的な人間観には、心霊論的な前提が見失われている。
 さて、自由は、カントの道徳哲学で「要石」となる概念である。他の概念や神や不死は、自由から導き出されるからである。カントによれば、人間は、本能や衝動によって行動する動物的な存在者であるとともに、道徳的な義務を実践する理性的な存在者である。ここで重要なのが、意志の自由である。
 カントは、自然と自由を対比させ、自然は必然的な法則に支配されており、自然には自由は存在しないとした。理論理性は、自然法則を認識することはできるが、感性によって与えられる現象界を超えることができず、自由の実在性を証明することはできない。自由は、道徳の領域にのみ存在する。実践理性は、本能や衝動の克服を命令し、最高善をめざすために人格の自由という理念を要請するとした。
 人間は、自分の意志で行為する。その限りでのみ人間は自由である。カントは、次のように説く。「自由の概念は意志の自律の説明のための鍵である」「意志の自由は、自律すなわち自己自身に対する法則であるという意志の特質以外の何ものでありえようか」「自由はあらゆる理性的存在者の意志の特質として前提されねばならない」と。またカントは「生得的な権利はただ一つである」として、「自由こそは、それが普遍的法則に従ってあらゆる他人の自由と調和しうる限りにおいて、この唯一、根源的な、その人間性のゆえに万人誰しもに帰属するところの権利である」と書いている。(『人倫の形而上学の基礎づけ』)
 カントの自由は、拘束や束縛のない状態、外的障害の欠如という消極的な概念ではなく、自らの意志で法則を制定するという積極的な概念である。積極的概念の自由は、自律と同義である。カントは、意志の自律とは「意志が彼自身に対して法則となるという、意志のあり方のこと」であるとする。自律の反対は、他律である。他律とは「対象が意志との関係を介して意志に法則を与えること」であるとする。(『人倫の形而上学の基礎づけ』) 自律は、単に自分で自分を規制するという程度のことをいうのではない。自らの意志で自己の法則を制定できることである。道徳の領域における立法者であることである。
 カントの自由は、現代人の多くが考える自由とは、大きく異なっている。現代人の多くは、自分の感性的な欲求のままに行動できることを自由と考える。カントにおいては、この状態は、本能や衝動によって行動している動物的な状態であり、自然法則に支配されている状態である。私見を述べると、ここには、自然界・現象界に存在することは不自由であり、自然界・現象界から超え出ることが自由であるという考え方がある。自然のままに生きるのが自由なのではない。自然のままに生きるのは不自由である。本能や衝動を規制し、自己に規律を課す道徳的実践は、不自由な世界から抜け出るという目的のための行為であり、自由への道になるというわけである。
 カントの自由は、意志が感性的な欲求に束縛されずに、理性の道徳的な命令に服することである。命法には、二種類ある。「○○ならば、△△せよ」と何かの条件付きで命じる仮言命法と、単に「△△せよ」と無条件に命じる定言命法である。定言命法は、何かのための義務ではなく、義務のための義務である。カントの道徳法則は、定言命法で表現される。道徳の最高原則は、「同時に普遍的法則としても妥当しうるような格率に従って行為せよ」だと説く。そして、自分の行為の個人的・主観的な規則である格率が、普遍的な道徳法則と一致するように行為することが、真の自由であるとカントは言う。

 

●人間の尊厳と「目的の国」、そして永遠平和への道

 意志の自由を持つ人間は、物件ではなく人格として扱われなければならない、とカントは説く。人は自分を「自分自身の理性が自らに課する義務を身に負っている一個の人格」とみなさねばならないともいう。カントによれば、人間らしさ、すなわち人間性は、理性に従う意志の自由に基づく人格にある。人間性を「善い意志」とも言っている。
 「人格として見た人間、すなわち道徳的な実践理性の主体たる人間は、一切の価格を越えて尊いものである」とカントは述べる。価格とは、物件の商品としての値段をいうものである。「人間には尊厳が備わっている」とカントは説く。尊厳とは、絶対的内的価値をいう。マルクスであれば、資本主義社会では、人間は疎外され、労働者は労働力商品となっているというだろう。労働力商品ではあっても、人間には道徳的な主体性があり、尊厳があるというのが、カント的な考え方である。カントは、こうした人格尊重の道徳哲学を説いて、すべての人の人権を守ることを正義とした。
 カントは、人間は「どのような人によっても、他人によっても、自分自身によってさえも、単に手段として利用されることはできず、つねに同時に目的として用いられねばならない」。「この点にこそまさに人間の尊厳がある」と説いた。(『人倫の形而上学の基礎づけ』)
 人間は、個人個人が尊厳を備えている。個人は、何かの目的を実現するために、単に手段とされてはならない。その実現すべき目的そのものでなければならない。だが、また単に目的とされるのではなく、互いがその目的を実現する手段となって、協力し合わなければならない。
 カントは、すべての人が人格的存在として尊敬され、単に手段ではなく、目的とされる社会を「目的の国」と名付けた。「目的の国」は、自由で自律的な人格の共同体であり、市民社会のあるべき姿である。カントにおいては、ホッブス、ロックと同様、市民社会は国家と同義であるので、「目的の国」は、カントの提示した国家の目標である。個々人が理性の道徳的な命令に服し、自己の格率が普遍的な道徳法則と一致するように行為する国家が、カントの理想国家である。この国家は、単に自由・平等な独立した個人の集合体ではない。人々が協同的に道徳的な実践を行う共同体である。
 カントは、ルソーから人間を尊敬することを学んだ。ルソーは、自由な人格をもつ自律的人間の形づくる国家を理想とした。カントはこの理想を道徳的に掘り下げた。ルソーは人民主権を説いたが、彼を信奉したシェイエスが民衆を神格化したのとは異なり、一般意志が常に正しいと言えるには「公衆の啓蒙」が不可欠であり、一人一人が自らの意志を理性に一致させるようにすることによって、はじめて一般意志を論じ得るとした。カントは、「目的の国」を地上に建設するため、人々に理性に従って普遍的な道徳法則と一致するように実践するように説いた。それは、必然的法則に支配された自然界に、自由を実現することである。カントは、自然とは感官の対象の総体とするが、自然に合目的性のあることも認めており、自然界において自由を実現することが可能だとした。またカントは自然の一切は人間の文化のために存在するとし、文化は道徳の準備であり、自然の究極の目的は道徳的な人間を出現させることだと考えた。この場合の自然は、単なる被造物ではなく、創造力を持つ能産的な自然である。
 カントは、上記のような道徳哲学を構築するとともに、キリスト教を啓示宗教から道徳的な宗教へと純化、改善することを試みた。ルソーは、人民主権の国家には新しい市民的宗教が必要だと説いたが、カントは「目的の国」における、あるべき理性宗教の姿を示そうとしたのだろう。
 カントは、個人と国家の目標を示しただけでなく、国際社会に永遠平和を実現する道をも説いた。ルソーは、国際平和論を説いたが素描にとどまった。カントはこれを継承して発展させた。
 カントは、18世紀にありながら、人類は永遠平和を実現するか、さもなければ戦争によって絶滅するかどちらかだと、人類の将来を予想した。戦争による自滅を避けるために、カントは国家連合を提唱した。その後、人類は二度の世界大戦を経て、人類絶滅の武器・原子爆弾を持つに至った。国際連盟・国際連合という国際機関を作りながら、大量破壊兵器を使用する戦争によって、地球の文明が崩壊する危険は減っていない。こうした人類にとって、カントの永遠平和論は、重要な古典である。
 カントは、『永遠平和のために』(1795年)で、まず永遠平和の予備事項を六つ挙げる。平和条約は偽りのものであってはならないこと、独立国は他国に領有されてはならないこと、常備軍は漸次全廃されるべきこと、対外戦争のための国債発行を行わないこと、実力を以て他国に干渉してはならないこと、戦争中であっても卑劣な手段を取らないことである。
 カントは続いて永遠平和のための確定事項を三つ挙げる。第一は、各国家の体制は「共和的」でなくてはならないこと。カントの「共和的」とは、立法権が執行権から厳しく区別せられ、それが代議士を通じてすべての公民の手にあるという意味である。言い換えれば「法の支配」である。君主制でもこの意味での共和的であり得る。第二に、国際法は、自由な諸国家の連合に基礎を置かなくてはならないこと。カントは世界共和国を究極の到達点とする。だが、現状では世界を一つの強い権力でまとめることになるとして、消極的代用物として国家連合を提案した。第三に、人間は世界のどこにおいても客人として友好的に扱われる権利を持たなくてはならないこと。訪問権ないし友好権が一般化することによって、人類は永遠平和へとたえず近づくことができるだろうと説いた。
 カントは、国家の起源については、基本的には社会契約論に立っている。ただし、社会契約を歴史的事実ではなく、「理念」としている。契約をしたという事実がないのに契約論を採るとすれば、理念とするしかないだろう。カントは、社会契約を突然廃止して結び直す革命は契約の原理から認められないとするが、根源的契約の精神から共和的な政体が望ましいとする。カントの「共和的」とは、立法権が執行権から厳しく区別せられ、それが代議士を通じてすべての公民の手にあるという意味である。言い換えれば「法の支配」である。カントは、共和政体の実現を漸進的連続的に進めるべしと説く。共和政体はすべての政治体制の目的であり、そこでこそ国民は自由で平等となり、完全な正義が実現されるだろうとする。カントは、共和的な国家で形成される国家連合が永遠平和の実現の基礎となると考えた。また国内法と国際法を補う世界公民法をつくることによってのみ、世界的な正義と永遠平和の実現が期待できるとした。
 カントの哲学全般を通じて注意すべきは、カントの思想は、あくまでキリスト教の信仰に基づくものだったことである。理性の絶対的命令は、キリスト教の権威があってのものである。そのキリスト教の権威が低下すると、定言命法による道徳法則は、人々が無条件で従うべきものではなくなる。それが、19世紀以降の欧米諸国の状態となる。永遠平和への提言など、まずヨーロッパで実行してもらえば、2度にわたる世界大戦は起こらずに済んだかもしれないが、現実はカントの説く理想とはかけ離れた歩みをしてきている。カントの現代への影響については、カント以後のドイツ観念論の展開とマルクスについて書いたのちに、改めて書く。
 カントとフリーメイソンについては、直接的な関係は見られない。ただし、間接的な関係を想定する必要はある。啓蒙主義とフリーメイソンの思想は深く融合し、切っても切れない関係にあるので、メイソンの思想は啓蒙思想とともに、カントに流れ込んでおり、カントはそれらすべてを含めて、啓蒙を完成に導いた。この項目に書いた「目的の国」、自然の目的、道徳的な宗教、永遠平和、世界共和国等は、フリーメイソンの説くところに通じるものがある。カントより5歳年少のレッシングはメイソンだった。カントはレッシングを読んでいた。彼らより、下の世代ではヘルダー、ゲーテ、モーツァルト、フィヒテ、クライスト等がメイソンだった。メイソンの思想は、時代の教養の一部だったのである。

関連掲示
・拙稿「カント哲学と心霊論的人間観

 

●カント以後のドイツ哲学の展開

 カントは、感性界と叡智界、自然と自由、実在と観念を厳然と区別した。断絶をつなぐもの、根源的なものが探求されてはいるが、その哲学は結論の出ないままに終わった。彼の哲学に不満を持つ思想家たちは、自我を中心とした一元論による形而上学的な体系を樹立しようとした。そのうちの一人が、アルトゥル・ショーペンハウアーである。
 ショーペンハウアーは、現象界と叡智界に二分するカントの思想を継承して、世界は表象であるとしたが、カントの物自体とは意志であるとする独自の説を唱えた。人間だけでなく動植物・無機物も「生きんとする意志」の表れだとし、意志による一元論を打ち出した。20代からインド哲学や仏教の影響を受けたショーペンハウアーは、この衝動的な盲目の意志を否定することで、解脱の境地へと達することができるという思想を説いた。ショーペンハウアーは、意志という概念で無意識の領域を示唆した。また霊魂との交流やテレパシーの可能性を認めることにより、脱キリスト教的な心霊論哲学の可能性を開いた。ショーペンハウアーは、同時代のヘーゲルと対立したが、後代のニーチェ、フロイト、ユング等に大きな影響を与えた。また欧米における東洋思想への関心を高め、また理解を助ける役割をした。本稿の主題である人権に関して言うと、ショーペンハウアーは、キリスト教的な人間観・世界観を相対化することによって、東西の対話と相互理解を促進することに貢献したと言える。
 ショーペンハウアーとは異なる仕方で、自我を中心とした一元論による形而上学的な体系を樹立しようとした思想家たちがいる。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらである。カントから彼らの思想への系譜をドイツ観念論という。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの思想は、それぞれ主観的観念論、客観的観念論、絶対的観念論と呼ばれる。フィヒテとシェリングは、カントが斥けた知的直観を認め、中世キリスト教教学的な知性を復権させ、個性的な思想を創造した。ヘーゲルは、彼らが開拓した観念論の可能性を最大限に追求し、壮大な哲学体系を築いた。
 英仏に比べて近代化の遅れていたドイツでは、後進的であるがゆえに、個我の解放は個人主義ではなく能動的自我の絶対化を目指すものとなり、キリスト教批判は無神論ではなく汎神論に傾き、市民社会の建設は革命による実現ではなく理念化された道徳や法の哲学の構築へ向かった。
 ドイツ観念論は、人権の発達史において重要な役割を果たした。その哲学的展開から、マルクス主義とナショナリズムの思想が登場したからである。マルクス主義は、ヘーゲルの観念論への批判からマルクスの唯物論が誕生した。ナショナリズムの思想は、カント哲学の批判的継承の中から生み出された。

●フィヒテとシェリングの観念論哲学

 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、カント哲学から、一切の人間の行為の必然性を人間の意志の自由によって根拠づけ、そこから説明しなければならないという考えを学んだ。その考えを進めるため、カント哲学をさらに展開して体系化することを試みた。フィヒテは、フランス革命に感激し、ルソーの『社会契約論』を読んで思想・表現の自由と革命権の擁護を説いた。そして、自由への思いをカントの実践理性に託して、能動的自我を絶対化する思想を構築した。自我の内に非我もまた定立されるとし、「絶対我は、我と非我とを内に含み、しかもこれを超越するところのものである」とし、一切の存在者は純粋な絶対我が自ら定立した非我を通じて自己を展開する事行(Tathandlung)に他ならないと説いた。
 このようにしてフィヒテは、自我の外に物自体を残す二元論を、自我の一元論に統合しようとした。その際、フィヒテは、カントが認識能力の一つとしていた構想力を、すべての認識能力に通底する根源的な機能とした。構想力は、自己を越えていこうとしながら障害にぶつかって折れ曲がることを余儀なくされる自我の活動であるとして、構想力から直観、悟性、判断力、理性という認識諸能力を導出し、同時に、実践能力の根底にあるものともした。
 その哲学はまさに主観的観念論だったが、同時に行動の思想でもあった。フィヒテは、ドイツがナポレオンに占領されると、「ドイツ国民に告ぐ」と題した講演を行い、ドイツの独立と統一を達成するため、国民的自覚を高める教育の重要性を訴えた。この講演によって、フィヒテは、ナショナリズムの思想を樹立した。フィヒテ哲学のその部分及びナショナリズム思想については、マルクス主義の後に別項目として書く。
 フィヒテは、自然を他我とみなして、原理的に哲学の対象とみなさなかったが、フリードリヒ・シェリングは、自然に対して深い関心を示した。シェリングは、自我と自然の相互浸透を論じる自我哲学と、有機体を自然の最高形態と見なす自然哲学を説いた。また、「人間の意識も自然も同じ『世界精神』の現れであり、この絶対者は芸術的、知的直観によってとらえられる」として、神と人間、絶対者と有限者は「あらゆる媒介なしに根源的に一つである」とする同一哲学を説いた。ヘーゲルは、『精神現象学』(1807年)で、「すべての牛を黒く塗りつぶす闇夜」として、シェリングの思考の無媒介性を批判した。無差別の絶対者からどうして人間や自然という有限者が生まれるのか、分離された瞬間、絶対者は有限者となってしまう。この点を掘り下げたシェリングは、『人間的自由の本質』(1809年)で、神の実存と実存の根拠を分け、実存の根拠を「神のうちの自然」と定義し、諸事物は神の実存の根拠から生成するとした。そして、人間の自由に悪を行う可能性があるのは、神の実存の構造に基づくとした。
 1830年代のシェリングは、従来の哲学は「あるものが何であるか」に関わるのみで、「有るとはどのような事態であるか」について答えていないという。そして、事物の本質を論じるだけの理性の哲学を消極哲学として、これを批判し、事物の実存を解明する積極哲学を標榜した。シェリングの思考は、理性に定位するドイツ観念論を抜け出るものであり、20世紀に入って、ハイデッガー、ヤスパース等によって再発見されることになった。彼らの系譜による実存の哲学は、世界戦争と核の時代において、人間の実存を問い、自由と人間性の発展を求めるものであり、今日の人権の思想に影響を与えている。

 

●ドイツ観念論を極限まで進めたヘーゲル

 ゲオルク・W・F・ヘーゲルは、フィヒテの絶対我、シェリングの同一性を批判しつつ、独自の思考を展開した。ヘーゲルは、『精神現象学』において、「絶対知」という概念を提出し、人間理性は精神の弁証法的な上昇運動によって神的理性に達し得ることを主張した。そして、絶対精神の自己展開としての体系的な哲学を構築した。
 ヘーゲルは、感覚から始まる人間知の歩みは、絶対知にまで到達しなければならないと考えた。「宗教の最高段階であるキリスト教は、人間知の絶対性を内容としながらも、神人一体の理念をイエスという神格に彼岸化し、その内容を表象化している。この彼岸性・表象性・対象性を克服したところに絶対知が成り立つ」とした。宗教と哲学とは同一内容の異なった形式であり、宗教はまだ絶対知ではない。「哲学は人間知の絶対性にまで達成しなければならない」と説いた。
 啓蒙主義によって、近代西洋人は、人間理性への自信を強め、自信のあまり、人間の知力でできないことは何もないかのような錯覚を生じ、人間が神に成り代わったかのような傲慢に陥った。人間がすべてを知り得るという思想は、人間理性が全体知と絶対的真理を知り得るというヘーゲルでその頂点に達した。カントによる悟性に対する理性の優位は、ヘーゲルで徹底された。
 ヘーゲルは、理性を悟性と区別される弁証法的思考の能力とした。分析的な悟性が固守する有限なものの対立を融解させ、相互の一面性を否定して制限から解き放ち、高次の統一の新たな契機としてそれらを高め保存する働きを、理性とした。また、心の能力としての静的で同一な従来の理性を、歴史において自らを展開し実現する理性へと転換させ、悟性をこの生成する理性の契機とみなした。
 弁証法は、もともと対話・弁論の技術の意味だったが、ヘーゲルは、現実世界の一切の運動の原理とした。有限者はすべて自己に内在する矛盾を動因として対立物を生み出し、それを媒介として共により高次の段階へ止揚されると主張するヘーゲルは、弁証法を思考と存在の統一的な論理とした。それゆえ、ヘーゲルの理性は、弁証法的かつ歴史的な理性である。
 ヘーゲルは、「これまでの哲学史を貫く一本の『太い糸』を発見して、これを合理的法則によって説明しなければならない」と考え、その「太い糸」をイデー(理念)と名づけた。イデーは、プラトンのイデア(観念)を継承したものである。
 プラトンのイデアは、現象界の事物の原型・模範であり、超感覚的で永遠不変の真実在を意味した。イデアは道徳、存在、自然等の統一的で超越的な原理だった。ヘーゲルのイデーは、「人間の理性によって到達し得る最高の真理」を意味し、その点ではプラトンのイデアに通じるが、人間の歴史において顕現し、自己発展するとした点が独特である。叡智界に想定されるイデアが現象界に歴史的に展開するというヘーゲルの発想は、キリスト教から来ている。キリスト教は始源から終末に向かう直線的な歴史における救済を説く。ヘーゲルはその宗教的な歴史観を哲学で表現したのである。
 ヘーゲルのイデーは、人類の歴史の中に顕現して弁証法的に自己発展していく絶対精神とされた。ここで弁証法的とは、神の原初的同一性が疎外(外化)され、これが止揚されてより高い同一性に還帰するという過程的な構造をいう。また絶対精神については、『歴史哲学講義』(1831年、死後出版)の序論に、ヘーゲルは次のように書いた。「魂を導くヘルメスに似て、イデーこそが、まさに民族や世界の真の導き手であり、精神の持つ理性的かつ必然的な意思は、いつの時代にあっても現実の事柄を導くことにある。この精神が世界を導くさまを認識するのが我々の哲学的な歴史の目的である」と。また同書の末尾では、「日々の歴史的事実は、神なしに起こり得ないということのみならず、歴史的事実がその本質からして神自らの作品であることを認識する」と述べている。このように、ヘーゲルの絶対精神とは、人間の精神を通した思想や行動によって自己表現されていく精神のことである。歴史哲学の一部をなす『宗教哲学』では、「人類の歴史発展の根底には、人間が絶対精神にまで自らを向上させたいという願望と、その理想を実現したいという営為努力があった」と述べている。
 本稿の主題である人権との関係では、自由と国家の関係についての所論が注目される。ヘーゲルは、絶対精神の自己展開としての歴史は自由の実現を目的とするとし、「自由はまさに精神の本質である」と説いた。歴史において個々人の動きを通して自己を主張しているのは、理性であるとし、それを世界精神と呼んだ。世界精神は歴史の主体であり、自由の真の領域である国家においてのみ具体的に自己を実現する、とした。ヘーゲルは、『法の哲学』(1821年)で、家族、市民社会、国家を即自、対自、即自かつ対自の弁証法的な三段階とし、市民社会の諸矛盾は国家においてすべて止揚されると説いた。ヘーゲルがとらえた市民社会は、個々人の欲求の体系であり、「人間を原子的孤立状態に解体させ」「個人的私益を求める万人の万人に対する戦場」だった。ヘーゲルは、個人と全体は有機的組織を形づくるのであり、個人の実体は国家であるとし、市民社会は「普遍的究極目的と諸個人の特殊的利益との一体性」であり、「自由の理念の現実態」である国家へと止揚されるべきことを説いた。
 知識の範囲と限界を示したカントと、絶対知に到達しようとするヘーゲルは、哲学的な立場は大きく異なる。だが、自由を追求する点は共通する。彼らは、現実の社会で自由を実現しようと運動したのではなく、道徳や法に関する哲学の中で自由の理念を追求したのである。

 

●ヘーゲルの絶対的観念論からマルクスの史的唯物論へ

 ヘーゲルは壮大な観念論哲学の体系を構築した。その思想は、キリスト教の信仰に基づくものであり、彼流にキリスト教の教義を哲学的に体系化したものである。その教義とは、父と子と聖霊の三位一体説を核心とし、原罪による楽園追放、神の独り子イエスによる贖罪、神と人の再結合という展開を持つ。ヘーゲルは、神は実体にして主体であるとしてその疎外(外化)と還帰の弁証法の論理による絶対的観念論を体系化した。それゆえ、キリスト教に関する基本的な理解が変わると、その体系は崩壊に向かう可能性を秘めていた。

ヘーゲルの死後、ダーフィト・シュトラウスが『イエスの生涯』(1835〜36年)で、福音書は事実の記録や故意の創作ではなく神話であり、原始キリスト教団の宗教的理念の象徴的な表現だとする聖書神話説を打ち出すと、激しい論争が起こった。その結果、へーゲル学派は左派、中間派、右派に分裂した。新たな思想を生み出したのは左派で、シュトラウスの解釈を支持する集団で、青年ヘーゲル派とも呼ばれる。
 左派に属したルートヴィヒ・A・フォイエルバッハは、『キリスト教の本質』(1841年)で、キリスト教で神として崇拝されてきたものは、人間の「類的本質」を対象化したもので、人間の自己疎外を示している、人間が自己の願望の対象を理想化した幻影にすぎない、と説いた。フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の本質は神の彼岸性を否定する点にあるとし、「神学の秘密は人間学であり、神学の本質の秘密は人間の本質であること」を知らねばならない、「神の主体は理性である。しかし、理性の主体は人間である」と述べた。ヘーゲル批判を通じて、フォイエルバッハは唯物論に転じた。

 フォイエルバッハの説について私見を述べると、宇宙には万物を生々流転させる理法にして力が実在する。科学はこれを対象的に認識しようとするが、これを人格化してとらえることは可能である。神話や宗教の多くは、宇宙の理法にして力を人格化し、象徴的に表現している。ユダヤ民族も日本民族もアーリヤ民族も同様である。とらえ方や表現の仕方は異なるが、対象は同一である。キリスト教はユダヤ民族が人格化した神を、唯一男性神として崇拝する。その人格化された神を否定しても、理法にして力は宇宙に実在する。それをカミと呼ぼうが、存在と呼ぼうが、ブラフマンと呼ぼうが、人間の認識に関わらず実在する。このように考えると、フォイエルバッハのキリスト教批判は、キリスト教が人格化した神(God)を否定し、その人間学的または心理学的な解明をしたことにはなっても、人格化される前の本源の神(the godhead)を否定するものにはならないのである。
 だが、フォイエルバッハ以降、キリスト教の人格神を否定することで無神論に転じ、同時に宗教一般を否定できたつもりの唯物論者が、近代西欧には多く現れた。その代表格が、カール・マルクスである。マルクスは、市民革命の後の時代になるが、市民革命の時代に現われた思想の影響範囲になるので、ここに記しておく。
 マルクスは、フォイエルバッハの説を受けて観念論を批判し、史的唯物論を唱導した。マルクスは、ヘーゲルが依拠した宗教については「宗教は、悩める者のため息であり、心ある世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である」として、現実の変革を主張した。(『ヘーゲル法哲学批判序説』) そして歴史はヘーゲルの説くような絶対精神の自己展開ではなく、階級闘争の歴史であるとする唯物史観を打ち出した。その思想は、マルクス主義と呼ばれる。近代西洋文明では、キリスト教以後、最大の影響力を振るった。
 マルクスは『経済学批判』(1859年)の序言で唯物史観を定式化している。「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的生活諸過程一般を制約する」「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。そのとき社会革命の時期がはじまるのである」と。こうした歴史観を以て、マルクスは、社会的不平等の根源を私有財産に求め、私有財産制を全面的に廃止し、生産手段を社会の共有にすることによって経済的平等を図り、人間社会の諸悪を根絶しようとする理論を説いた。
 ロックは、所有権を自然権とした。だが、マルクスは、所有権が自然権であることを否定する。私有財産制は、生産力の発達段階において現れたものとする。ロックの説く普遍的・生得的な権利はブルジョワジーの階級意識の表現として、これを批判した。権利は階級闘争によって発達してきたものであり、人間一般の権利を認めない。権利は、共産革命によってプロレタリアート(無産階級)が戦い取るべきものとした。
 マルクスと盟友のフリードリヒ・エンゲルスは、プロレタリアートとなった労働者階級を組織し、革命を起こすことによって、共産主義社会を実現することを目標とした。共産主義とは、コミュニズムの訳語である。コミュニズムとは、コミューンをめざす思想・運動を意味する。コミューンとは、私有財産と階級支配のない社会であり、個人が自立した個として連帯した社会であるとされる。それは、新しい人的結合による社会だという。エンゲルスは、『反デューリング論』(1878年)で、建設すべき共産主義社会について、「人間がついに自分自身の社会的結合の主人となり、同時に自然の主人、自分の自身の主人になること――つまり自由になること」「必然の王国から、自由の王国への人類の飛躍である」と書いた。マルクス=エンゲルスは、その社会について、具体的には語っていない。むしろ語れなかったというべきだろう。想像の中にしかない社会であり、空想に近いものだったからである。
 しかし、マルクス=エンゲルスは、共産主義を科学的社会主義とも自称した。彼らによる共産主義こそ、啓蒙思想の一つの帰結である。無神論・唯物論・物質科学万能の思想は、合理主義を極端に推し進めたものである。極度の合理主義としての共産主義は、人類に大きな災厄をもたらすことになる。
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関連掲示
・マイサイトの「共産主義」の項目

 

(6)ナショナリズムの思想

 

●カントからナショナリズムの思想が発生した

 ドイツ観念論は、人権の発達史において重要な役割を果たした。それは、その哲学的展開から、マルクス主義とともにナショナリズムの思想が登場したことである。ナショナリズムについては、第6章で理論的に検討した。ここでは、思想史的な側面を見ていきたい。
 ナショナリズムの研究者のうち、その思想史的な考察をしたのが、エリ・ケドゥーリーである。ケドゥーリーの著書『ナショナリズム』によると、ナショナリズムの理論的出発点は、カントにおける人間の自律性の主張にある。カントの倫理思想の中核にある自己決定の観念が、彼の後継者たちの道徳的政治的論説の支配的観念となった。フィヒテによって、個人にとっての完全な自己決定を実現するために、民族における自己決定が要請されるに至った。
 私見によれば、カントは、人間は自分の意志で行為する、その限りでのみ人間は自由である、と説いた。カントは、次のように言う。「自由はあらゆる理性的存在者の意志の特質として前提されねばならない」。カントの自由は、自らの意志で法則を制定するという積極的な概念であり、積極的概念の自由は、自律と同義である。カントは、意志の自律とは「意志が彼自身に対して法則となるという、意志のあり方のこと」であるとする。自らの意志で自己の法則を制定できること、道徳の領域における立法者であることである。
 ドイツにおけるカントの継承者たちは、こうしたカントの倫理思想から、個人と集団が一致する国家理論を作り上げた。人間の目的は自由である。自由とは自己実現であり、自己実現とは普遍的意識への完全な没入である。したがって個人と国家が一体になった時、個人は初めて自由を実現するという理論である。カントの自律的存在は個人が主体だったが、その主体を集団に置き換え、集団が意志の自由を持つ時にこそ、その構成員である個人も意思の自由を持つ、という論理が成り立つ。その論理からナショナリズムの思想が発生・発達した。

●ヘルダーは、民族の言語・精神の独自性を説いた

 ナショナリズムの発生・発達に重要な影響を与えたのが、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーである。ヘルダーは、若いカントの天文学や自然地理学等の講義を聴いて感銘を受けた。だが、普遍的規則のものさしをあてはめる啓蒙主義や自然科学的な合理主義に反対するヘルダーは、理性批判や歴史哲学において、カントの論敵となった。ヘルダーは『言語起源論』(以下、『起源論』、1772年)で、普遍的理性の一元性に解消することのできない各民族の言語の生命を説き、また言語ひいては理性の歴史的発達という構想を述べた。その構想のもとに、『人間性形成のための歴史哲学異説』(1774年)、『人間性の歴史哲学への構想』(以下『構想』、1784年)等で、民族の多様性を重んじる立場から、人類とその知性の発達に関する歴史哲学を展開した。
 ヘルダーは、『起源論』の冒頭に「人間は動物としてもすでに言語を持っている」と書いて、言語が神から与えられたという言語神授説を批判した。動物語から人間の言語が生まれたのは、人間の精神的な能力によると説いた。『構想』においては、次のように主張した。「人間の理性と文化とは言語から始まる」「ただ言語のみが人間を人間らしくする」「言語は必ず、個々の民族の言語」であり、「民族は一つの言語共同体として、実に顕著な独自の生を持っている」と。ヘルダーは、民族への共感、感情移入の必要性を強調し、文学の民族性を重視し、各言語の民謡などのうちに「民族の声」を聞き取り、それを通して歴史的風土的に発達した「民族精神(Volksgeist)」を見出そうとした。民謡の収集は、19カ国語に及ぶ。
 ヘルダーは、言語の多様性に注目することによって、人類の普遍性に対して民族の特殊性を位置づけた。諸民族・各時代は固有性を持っており、他の尺度によって測られるべきでない。進歩は反面では喪失であり、歴史に永遠なものは存在しない。だが、それにもかかわらず、歴史は全体として、「人間性(Humanitate)」の形成という神の計画を表現しているという歴史観を打ち立てた。
 ヘルダーによると、人間は自然の一部であり、人間の生活はすべて日々歳々の地球の運行に拘束される。「人間性」は、人間が直立歩行することによって形成され始めたが、多様な「風土」に応じて諸民族の多様な性格となって展開してきた。気象、山脈、河川等の地理的条件の相違によって、生活様式や性格、考え方の違いが生まれる。また、人間は言葉の習得によって「理性」を持つに至り、自然の根源的な流れは、精神の内の流れとなる。精神としての人間は、他の人間との交渉や教育によって人類の一員になるが、歴史の中で先祖からの文化を継承することによってこそ、真の人間となる。 
 「個人における人間性の形成は、精神的発達、教育によって、その両親や教師と友人と、彼の生涯の経歴における一切の環境と、したがって民族や民族の先祖と、最後に実に、何か一つの項において彼の精神力の一つと接触している人類全体の鎖と連関している」とヘルダーは言う。
 ヘルダーにとって、人間性とは民族の興亡盛衰を通して形成されてきたものであり、カントの定言命法におけるような、行為の努力目標や理想として掲げられるものではない。現実の人間のうちに既に発現しており、また絶えず発達しつつあるものである。
 ヘルダーは、多様性は宇宙の基本的特徴の一つであり、神の目的であるとした。あらゆる文化、あらゆる個性は、他と比較し得ない固有の価値を持つだけでなく、それぞれの固有の特性を発達させる義務がある、と説いた。このようなヘルダーの思想は、各民族が固有の言語を尊重して民族精神を発揚し、それによって全人類の人間性の発達への貢献を求めるものである。和辻哲郎は、主著『倫理学』でヘルダーにつき、「いかなる民族もそれ自身の特殊性において独自の意義を担い、その独自性のままで充分に人道(註 人間性)の実現たりうるとせられる」と論評した。
 私は、ネイションとエスニック・グループを区別する。第6章に詳しく書いたが、前者は近代主権国家の国民、後者は前近代や非西欧にも存在してきた民族とする。またナショナリズムとエスニシズムを区別する。前者は近代国際社会における国家主義・国民主義、後者は世界史に広く見られる民族主義である。この視点から、ヘルダーの思想はエスニシズムであり、エスニシズムからナショナリズムの思想が生まれる土壌となったと考える。ただし、ヘルダーのエスニシズムは、独善的で偏狭な思想ではなく、人類的な観点を持つ思想だった。それは、彼が当時の多くの知識人が加入したフリーメイソンの一員だったことにもよっているだろう。
 ヘルダーは、人間性を固定的なものではなく発達途上のものとした。また歴史と風土の中で、エスニックな特徴を示しながら発達するものとした。この考え方は、いわゆる人権は歴史的・社会的・文化的に発達する権利であるとすると見方に通じるものである。

 

●フィヒテは自由と統一を目指すナショナリズム思想を展開

 ヘルダーの言語起源論と歴史哲学を発展させ、ナショナリズムの思想を打ち出した思想家が、フィヒテである。フィヒテは、カントの自由に関する倫理思想を発展させたドイツ観念論の哲学者であり、個人にとっての完全な自己決定を実現するために、民族における自己決定を要請した。フィヒテは、またヘルダーの思想を受けつぎ、民族語の保持と民族精神の発揚を訴えた。
 フィヒテにおけるナショナリズム思想は、ドイツがナポレオンのフランスに占領されている状況で樹立されたものだった。フィヒテは、フランス革命に感激し、思想・表現の自由と革命権の擁護を説いた。ところが、革命後のフランスは、周辺諸国に侵攻し、支配下に置いた。ナポレオンは、フランス人権宣言を継承したナポレオン法典を、他のヨーロッパ諸国に普及させて、ヨーロッパを統一することを構想した。1797年からドイツに侵攻したナポレオンは、1806年にライン同盟を結成させ、神聖ローマ帝国を崩壊に導いた。1807年のティルジットの和議によって、プロイセン領土の割譲、貢納金の支払い等極めが約定され、ドイツは、ほぼ全土がフランスの支配下に入った。こうした状況下にあって、ドイツは、封建制を脱して近代化を推し進めながら、ナポレオンからの解放とドイツの統一を目指すという、非常に困難な課題を遂行なければならなかった。
 フィヒテは、ナポレオン占領下のプロイセンで、1807年12月から翌年3月にかけて毎日曜日、14回にわたって、「ドイツ国民に告ぐ」と題した講演を行った。
 フィヒテは、第1回の講演の冒頭で、大意次のように述べる。「独立を失った国民は、時代の潮流に影響を与え、その内容を自由に左右する能力をも失っている。この状態を改めなければ、外国のために解体され、運命を制せられてしまう。この状態から再起するには、新たな世界を開き、新たな時代を作り、その世界を発達させ、その時代の内容を充実させる以外に道はない」。「この講演の目的は、こうした世界を創造する手段を述べることである」と。この再起の手段とは、教育の全面的な改革であるとして、フィヒテは、ドイツの独立と統一を達成するために、祖国愛を高める国民教育の重要性を強調した。また、国民一人ひとりを「精神的な眼」を持った人間へ、「新しい自我」へ改造することが、ドイツ救済の唯一の手段だと訴えた。
 この教育の基礎に置かれるものは、「知識学」と称するフィヒテの哲学である。フィヒテは言う。「知識学は、人間を自然的で所与の現存在から、自由を持った存在へ、自由の自覚へ拡大する」と。ここで「自由な存在」となった「新しい自我」とは、アトム的な個人ではない。フィヒテは、個人の意志と国家の意志が一致するとき、個人はこの国家への没入の内に自由を見出すとする。私見を述べると、ロック=カント的な個人の自由は、ここで集団の一員としての自由となる。集団が自由な意思決定をできてこそ、構成員個々の自由もまた実現し得るという構造である。
 フィヒテは、ヘルダーに学び、ドイツ人に共有の言語であるドイツ語とドイツ人が持つドイツ精神を重視した。ドイツ語はゲルマン民族のもともとの言語であり、生きた言語である。ゲルマン民族でありながら、新ラテン語を話す人々は、死んだ言語を話している。それゆえ、ドイツ語を話すドイツ人には、重要な使命がある。ただし、それは一民族の利己的な繁栄のためではない。フィヒテはドイツ人の使命を、全人類を世界史の発展の次の段階、つまり「自由」と「理性の支配する時代」に導くことにあるとした。彼にとって最終的な目標は人類の進歩であり、また自由の実現だった。教育もそのためのものだった。教育を通じて、ドイツ人を精神的に覚醒させ、ドイツ人が人類の歴史を発展させることによって、「全人類の改良」を目指すという構想である。
 フィヒテは、フリーメイソンに加入していた。先に触れたように、フリーメイソンはアメリカ独立革命やフランス市民革命で重要な役割をした。18世紀末から19世紀の初めにおいてドイツでも知識人の間でメイソンは、少なくなかった。フィヒテは、『フリーメイソンに関する講義』を著している。そこでフィヒテは、「全人類の目標は唯一の結合をつくること」であり、そのために一人一人の自己完成と全人類の共同体の形成を目指しているのが、フリーメイソンに他ならないと述べている。ただし、彼の哲学は、祖国なき世界市民思想ではなかった。フィヒテにおいて、祖国愛と人類愛は対立するものではなく、祖国愛あってこその人類愛だったのである。
 フィヒテのナショナリズムの思想は、ヘーゲルに影響を与えた。へーゲルは、先に書いたように、個人と全体は有機的組織を形づくり、個人の実体は国家であるとし、市民社会は「普遍的究極目的と諸個人の特殊的利益との一体性」であり、「自由の理念の現実態」である国家へと止揚されるべきことを説いた。ヘーゲルの国法哲学は、ナショナリズムの思想であり、ドイツのみならず、英米や日本等にも大きな影響を与えた。
 ナショナリズムの思想は、ドイツにおいて、カントに端を発し、ヘルダー、フィヒテ、ヘーゲルという影響のつらなりを以て発展したのである。

 

●リストはナショナリズムの政治経済学を構築した

 フィヒテのナショナリズム思想は、ドイツの独立と統一を求めるものであり、また教育を手段とするものだった。フランスの支配から独立を回復したドイツでは、先進国に対抗して国民国家を形成し、経済成長を目指す理論が必要となった。そうした学問を構築したのが、フリードリッヒ・リストである。リストは、ナショナリズムの政治経済学を樹立した。
 リストは、メッテルニッヒの政策を批判したため迫害を受けて海外に亡命し、1825年にラ・ファイエットの忠告を受けて米国に渡った。そこで農業経営をしながら、米国の制度・実業・経済事情を研究した。ドイツ帰国後、その経験と研究をもとに『政治経済学の国民的体系』を書き、1841年に刊行した。「国民的体系」の「国民的」はナショナルである。また、リストは、本書でネイション(国民)とステイト(政府)を明確に区別している。
 リストは、アダム・スミスの政治経済学は先進国イギリスのためのものであり、彼の時代のドイツに適合したものではないとし、ドイツの発展段階に合った政治経済学を構想した。
 自由競争は、国家間で両者がほぼ同じ工業的発展の状態にあるときにしか有益に作用しない。国際貿易で後進工業国がイギリスに太刀打ちするためには、政府の関与が必要である。工業力で他国を大きく上回るイギリスにとっては、自由貿易が有利だが、後進国ドイツが取るべき政策は保護貿易である、とリストは説いた。
 リストの保護貿易理論は、主に関税を手段とする政策を提案するが、保護そのものが目的ではなく、国内の分業を進め、国民間の結合を強めることで経済発展ができるという思想に基づいている。それゆえ、工業振興政策と一体のものである。
 リストは、諸国民が経過しなければならない発展段階を5つに分けた。原始的未開状態、牧畜状態、農業状態、農工業状態、農工商業状態である。まず農業によって国家の経済的基盤を確立すれば、工業を振興するための条件を整えることができる。ただし、工業の発展のためには知識、技能、熟練が必要であるため、政府による保護が必要である、とした。
 リストは、重商主義者ではない。富と富を作り出す力を区別し、富の掠奪や富の交換ではなく、富を生み出す生産力を増大することを目指した。「富を作り出す力は、富そのものよりも無限に重要である」という。ドイツの人民を統一し、自由な国民とするためには、ドイツは単なる農業国であってはならず、商業国として独立するために工業を振興しなければならない、と主張した。
 リストは、ドイツ歴史学派の祖とされるように、歴史の事例研究を通して、「私的利益が国民的利益に従属し、諸世代が引き続いて同一目的に向って努力したところでのみ、諸国民は生産諸力の調和的発達を遂げた」、また「同時代に生きる諸個人と次々に継続する諸世代とが共通の目的に向って一致した努力をしなければ、私的工業はめったに繁栄できるものでない」と指摘した。そして、次のように述べた。「個々人がどれほど勤勉、節約、独創的、進取的、道義的、知的であっても、国民的統一がなく国民的分業および生産諸力の国民的結合がなくては、国民は決して高度の幸福と勢力とをかち得ないだろうし、またその精神的、社会的、物質的諸財をしっかりと所有し続けることができないだろう」と。
 リストは、政治経済学の体系の中心に国民国家を置いている。「個人と人類との中間項としての国民国家の本質の上に、私の全建築は基礎を置いている」という。なぜなら、彼は「国民の精神と境遇とに、殊にそれが立脚する文化段階に、最も適した政治形態が最良のものである」と考えるからである。
 リストは、国家は「人間が必要とする至上最高のもの」であるとし、次のように言う。「国民精神は一般的福祉という地中にのみ根を生やして、美しい花を咲かせ豊かな果実を実らせる。物質的な利害の統一からのみ精神的な力の統一が生まれ、この両者からのみ国民の力が生まれる。しかし、われわれが統治者であろうと被統治者であろうと、貴族の出であろうと市民階級の出であろうと、国民国家がなくわれわれの国民国家の永続に対する保障がなければ、われわれの一切の努力はなんの価値を持つであろうか!」と。
 ヒュームの項目に書いたが、中野剛志は、リストをヒュームに始まる「経済ナショナリズム」の系譜に位置づける。だが、単なる経済学とは異なる政治経済学を、「経済ナショナリズム」と呼ぶと、政治学の側面が落ちてしまう。「ナショナリズムの政治経済学」と称する方がよいと私は思う。  
 ヒュームと基本思想を共にするアダム・スミスの政治経済学は、単に自由主義的ではなく、同時にナショナリズム的な要素を持つ。一方、リストも、単なる保護主義ではない。工業が発達した段階での自由貿易を否定していない。経済の発展段階によって、その段階での国益に応じて、貿易政策を変えればよいという考え方である。今日、ナショナリズムの政治経済学は、後進地域で「発展の権利」を実現する理論となるだけでなく、グローバリズムから国民の権利を守るための理論を提供するものともなっている。

 ナショナリズムの思想について、ヘルダー、フィヒテ、リストの3人を中心に概説した。彼らの思想は、後進地域で発生・発達したナショナリズムの思想の代表例と言える。ドイツと同じく後進国であるイタリア、ロシア、日本等においても、類似した思想が現れた。この項目では思想史的な側面を書いたが、ナショナリズムは特定の思想家が唱道した思潮というより、主に現実社会における政治的社会的な運動として展開されていった。第6章の人権とナショナリズムの項目で、ナショナリズムの理論的な検討を行ったので、詳しくはその項目を参照願いたい。
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(7)イギリス功利主義と修正的自由主義

 

●ベンサムの功利主義

 前項で後進国ドイツにおけるカントとドイツ観念論、マルクス主義とナショナリズムの思想について書いたが、ここで同時期の先進国イギリスにおける思潮について書きたい。功利主義と修正自由主義についてである。具体的にはジェレミー・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、トマス・ヒル・グリーンの思想である。彼らが生きた時代は、ほぼカント、ヘーゲル、マルクスと重なっている。ベンサム(1748-1832)は、カント(1724-1804)より20年以上後に生まれたが、没年はヘーゲル(1770-1831)の1年後。ミル(1806-1873)はマルクス(1818-1883)より早く生まれて、早く亡くなっている。グリーン(1836-1882)はマルクスより20年近く後に生まれたが、1年早く亡くなっている。フィヒテ(1762-1814)、リスト(1789-1846)とも重なり合う。
 19世紀にイギリスでベンサム、ミル等によって唱えられた思想が、功利主義(utilitarianism)である。功利(utility)とは、物事の効用や有用性を意味する言葉である。その功利を倫理的な価値とする思想が、功利主義である。
 功利主義のもとになったのは、イギリス経験論である。ロックは、認識の源泉は感覚であるとし、感覚によるものであれ、内省によるものであれ、すべての観念には快楽と苦痛が伴う。人間は快楽を追及し、苦痛を回避しつつ自己保存を図る、と説いた。ヒュームが『人性論』で、功利(utility)の語を、自己や他者に対する有用性の意味で用いている。快楽をもたらす行為が善で、苦痛をもたらす行為が悪だとして、善悪を有用性で判断する考え方は、18世紀イギリスでは常識の一部になっていた。ベンサムは、こうした考え方を学問的な原理に高めた。
 ベンサムは、ロックの思想における社会契約論や自然法論を批判し、「功利の原理(the principle of utility)」を提示した。イギリスでは経験論の伝統から理神論や懐疑論が現れたが、ベンサムは、この原理を宗教的な道徳に依拠せずに打ち出した。主著『道徳と立法の諸原理序説』(1789年)で、ベンサムは「功利の原理」を体系的に説明した。
 「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである」とベンサムはいう。人間は、快楽の総計を増大させ、苦痛の総計を減少させようとする。その結果、得られるものが、個人の幸福である。個人の幸福は、社会全体が幸福である時に最大になる。そこで、「最大多数の最大幸福」が目標となる。ベンサムはこれを「功利の原理」とした。ベンサムにおいては、効用の最大化が正義とされた。
 ベンサムに特徴的なのは、快楽を量的に表現し、計算することができるとした点である。ベンサムは、この計算を快楽計算とよんだ。計算の基準には、強さ、持続性、確実性または不確実性、遠近性、多産性、純粋性、範囲または影響を受ける人数を挙げた。この定量化は、ニュートンが万有引力の法則を発見し、自然を統一的にとらえる力学を完成させたのを受けて、精神科学を自然科学と同じような精密科学としようとする試みである。
 ベンサムは、「功利の原理」を単に理論として説いたのではなく、現実社会で実践して、法や政治を改革しようとした。ベンサムは、「功利の原理」を立法に適用し、法で禁止されるべき有害な違反行為、違反行為と罰との平衡等を考察した。これは従来の政治が自然法や共感等の主観的な原理に基づく法に依拠していたのを、客観的な原理を以て是正しようとしたものである。ベンサムは、「功利の原理」を、後に「最大幸福の原理(the greatest happiness principle)」と言い換えた。
 ベンサム及びその支持者たちは、社会における「最大幸福」を実現するために、積極的に政治活動を行った。最大幸福を目標とし、その実現に貢献する行為を義務とした。彼らは、ベンサム主義者または政治的急進派と呼ばれた。政治的には代議制デモクラシーの確立を目指し、経済的には自由放任主義を主張し、これらを立法による改革で実現しようとした。彼らは1832年のイギリスにおける選挙法改正に寄与した。この改正は中産階級の政治的発言権を拡大するものとなった。また1834年の救貧法の改正にも寄与した。この改正は、産業革命後の労働者や社会的弱者を保護するものとなった。本稿の主題である人権論の観点から見ると、ベンサム主義者は、デモクラシーの発達や労働者の権利拡大に貢献した。
 『道徳と立法の諸原理序説』は、1789年に刊行された。カントの『実践理性批判』が刊行された翌年である。ベンサムの功利主義は、行為の善悪の基準を理性や客観的な真理ではなく、経験的な快楽や苦痛に置くから、理性に基づく普遍的な道徳法則を説くカントの道徳哲学とは、相容れない。ベンサムは幸福の実現を道徳や法、政治の目標としたが、カントは人間は幸福を求めるべきではなく、幸福を恵まれるにふさわしい人間をめざして努力すべきものであると説いた。ベンサムは宗教に基づく形而上学的な理念を前提せず、カントはキリスト教の信仰と心霊論的信条に基づく道徳哲学を構築した。今日もベンサムの支持者とカントの支持者の論争は続いている。
 ところで、わが国では、功利主義を利己的個人主義や利害打算的な考え方であり、感覚的な快楽を追求するものだという見方がある。これは誤解である。ベンサムは個人を要素として社会をとらえる方法論的個人主義を用いているが、彼が想定する個人は自分だけでなく社会全体の幸福を望む人間である。最大幸福を望む動機は、「善意(good will)」や「慈悲心(benevolence)」だとベンサムは述べている。また彼の快楽は物欲や性欲、権力欲等より、精神的な喜びに重点があった。この点で、先の誤解はアダム・スミスに関する誤解に通じるものがある。わが国では、アダム・スミスについて、「神の見えざる手」を説いて自由放任を唱導し、利己的個人主義を正当化したという見方がある。これも、間違いである。彼の「神の見えざる手」は、人々の「共感(sympathy)」を原理とする道徳哲学に基づく観念である。「共感」は、ヒュームとアダム・スミスに共通する道徳的能力である。ベンサムの場合、彼らのように、個人と個人を結ぶ原理は明確でないが、社会に生きる人々の善意への信頼が功利の原理の前提になっている。だから、個人が幸福の極大化を図ることが、社会全体の最大幸福になるという理論が成り立つ。誤解を避けるためには、功利主義の語を止め、「最大幸福主義」と呼んだ方が良い。
 私見では、ヒューム、アダム・スミスやベンサムは、18世紀イギリスにおいて、伝統的な共同性が残存していた社会にあって、その中で思想を構築し、表現した。だが、資本主義の発達、特に産業革命によって、社会が本格的に共同性を失っていった時に、利己的個人主義や快楽主義が顕著になった。これは彼らの思想の影響というより、社会の変化に伴う現象である。逆に言えば、ヒュームやアダム・スミスの「共感」、ベンサムの「最大幸福」は、土台としての社会の共同性あってのものだった。カントの「定言命法」も同様である。個人主義的な自由主義者の思い込みとは異なり、歴史的・社会的・文化的に継承されてきた共同性があってこそ、道徳は成り立つのである。そして、国民の間に同胞意識や連帯感があってこそ、人権の思想は発達する。

 

●J・S・ミルによる功利主義の修正

 ベンサムの功利主義(最大幸福主義)には、重大な欠点があった。どんな人間でも快楽を求め、苦痛を避けるものだとするのは、事実を単純化し過ぎていること。快楽の追求、苦痛の回避が善なら、すべての行為が正しいことになること。自分の幸福と他人の幸福とは衝突することがあること。快楽計算の実例が挙げられていないこと。快楽計算は、実際には非常に困難であること。最大多数の最大幸福のためには少数者の犠牲はやむを得ないとすると、個人の自由と権利が侵害される場合があること、等々である。
 これらの欠点を踏まえて、ベンサムの理論の修正を行ったのが、J・S・ミルである。ミルは、若い時からベンサムの功利主義を信奉していた。『自由論』(1859年)を刊行した後に『功利主義論』(1863年)を出して、功利主義に対する種々の批判に反論した。ミルは「行為は、幸福を増す程度に比例して正しく、幸福の逆を生む程度に比例して誤っている。幸福とは快楽を、そして苦痛の不在を意味し、不幸とは苦痛を、そして快楽の喪失を意味する」と書いている。基本的な考え方は、ベンサムと同じである。ただし、ミルは、ベンサムが快楽を量的にとらえたのに対し、質の相違を認めた。ミルの「満足した豚であるよりも、不満足な人間である方がよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスである方がよい」という言葉は、食欲の満足のような質の低い快楽と、真理の探究のような質の高い快楽を区別したものである。ベンサムの功利主義は量的功利主義、ミルの功利主義は質的功利主義と呼ばれる。ただし、ミルは快楽計算を否定はしなかった。またミルは、当時の連想心理学における「観念連合」の原理を導入し、快楽を追求する利己的個人には利他的行動を起こす心理的要因があるとし、もともと人間には共感や慈善の衝動が存在すると説いた。これは、ベンサムの理論では、個々人の幸福と社会全体の幸福をつなぐものが明確でなかった点を補強したものである。
 ミルは功利主義者であるとともに、修正的自由主義者でもある。ミルにおける功利主義と修正自由主義は、功利すなわち社会全体の最大幸福を主要な原理とし、自由と平等の調和を補助的な原理とするという関係にある。この点を踏まえてミルの思想を概観すると、ミルは最大幸福を目的として、古典的自由主義を修正し、自由と平等の調和を図った。労働者の団結権を擁護し、所有・相続・土地等の制度改革を承認した。また労働者の選挙権の拡大、婦人参政権を主張した。さらにサン・シモン、フーリエらの社会主義に共感を示した。ただし、社会主義に対しては、理念には賛成するが、個々の理論には反対するという立場だった。
 経済思想では、ミルは、アダム・スミス、マルサス、リカードの古典派経済学の完成者とされる。ミルは、生産面では自由放任を説きつつ、分配面では政府の関与によって正義を実現するという社会改良策を提案した。この点で、ミルの思想は、自由放任主義からケインズ主義や福祉国家論に向かう過渡的な性格を示している。
 政治思想では、ミルは代議制デモクラシーの確立を目指した。ミルが代議政治を最善の政治形態であるとしたのは、それが人々の人格の陶冶、知性と徳性の向上、自由の実現という目的に適合すると考えたからである。そして、選挙権を拡大しつつ、大衆政治に陥らない制度を構想した。またイギリス伝統の個人主義の立場に立ち、「権力からの自由」を強調しつつ、この政治的自由に加えて、新たに社会的自由を主張した。これは、多数者の横暴からの自由であり、少数者の権利を保護するものである。ミルはまた婦人問題に強い関心を示し、産業革命後のイギリスで悲惨な婦人が増大したのに対し、婦人の権利の拡大を追求した。さらに、ミルはイギリスの植民地支配に反対し、イギリスは植民地を独立へと導くよう主張した。
 ミルは、最大幸福という目標の下で自由と平等の調和を図ったが、その思想は19世紀後半のイギリスで広く影響を与えた。私見を述べると、イギリスの社会主義が、マルクス=エンゲルスの共産主義と一線を画し得たのは、ミルの思想の影響によるところが少なくない。イギリスの社会主義は、伝統的な個人主義や相互扶助的な要素を保持した。議会主義に基づく漸進的な社会改良を目指すウエッブ夫妻、バーナード・ショーらのフェビアン協会が社会主義の主流となった。この社会民主主義の運動から、1900年に労働党が結成される。また、第2次世界大戦後には、福祉国家の思想が発達することになる。ミルの思想は、自由党の政治家にも影響を与え、二大政党を対立より協調に向ける働きをしてきている。そこには、次に書くような人格主義的な態度も関係している。

 ミルの功利主義(最大幸福主義)について補足すると、ミルの思想は、利己的個人主義や利害打算的な考え方とは、大きく違う。そのことを最もよく明かすのは、ミルが次のように書いていることである。「ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読み取る。おのれの欲するところを人に施し、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、功利主義道徳の理想的極致である」と。ミルはまた人類の社会的感情の根底には、「同胞と一体化したいという欲求」があるとし、社会全体における人格の向上が最大幸福の実現となることを説いている。こうした主張によって、ミルの功利主義は、人格主義的功利主義とも呼ばれる。
 私見を述べると、ミルの質的かつ人格主義的な功利主義は、快楽に質的な差異を認め、食欲のような基本的な欲求から人格向上の欲求までを「最大幸福」という目標の下に一元的にとらえている。この点で、心理学者マズローの欲求の5段階説に通じるものがある。
 自己実現は基本的には個人個人がそれぞれ追い求めるものだが、人々は互いに自己実現を促し合い、精神的に高め合うことができる。マズローは、互いに自己実現のできる社会の状態を「サイナジック」(synergic)と呼んだ。「サイナジック」とは、文化人類学者ルース・ベネディクトが北米インディアンの部族社会について作った造語で、協同的・相互扶助的を意味する。マズローの考えでは、「ハイ・サイナジー」の社会では、すべての個人が高次元の自己実現に到達し、しかも他の誰の自由とも抵触しない。人間が本性として備えている潜在能力が充分に考慮されれば、個人の自由は他者の自由を侵害する必要がなくなる。あり余るまでの自由が社会に行き渡ると考えられると説いた。
 ミルは、自由について、『自由論』に、次のように書いた。「その名に値する唯一の自由は、われわれが他人から彼らの幸福を奪おうとしたり、幸福を得ようとしたりする彼らの努力の邪魔をせぬ限り、われわれ自身の幸福をわれわれ自身の仕方で追求する自由である」と。これは、個人の自由の条件と限界を定式化したものである。ミルはまた次のように書いている。「各人は、その個性の発展に応じて、自分自身にとってますます貴重なものとなり、したがって、他人にとってもいっそう貴重なものとなることができる。彼自身の存在にはより充実した生命が満ち、また個々の単位より多くの生命がみなぎると、それから構成されている全体にも、より多くの生命がみなぎるのである」と。
 この点について私見を述べると、ここでの自他の関係は、まず家族間関係から説かれねばならない。すなわち、親子・夫婦・祖孫のつながりによって、家族的な生命が充実してこそ、家族を単位とする社会が共有する生命が発展する。高度にサイナジックな社会では、人々は、互いに自己実現を促し合い、自他ともに自己実現をする。協同的・相助的に自己実現が行われる。夫婦、親子、祖孫などの家族同士、また師弟、老幼、個人と個人などの人間同士が、お互いを高め合い、お互いに向上・成長していくことができる。

●グリーンの人格的自由主義

 サイナジックな社会とそこにおける自由の実現を考える際、T・H・グリーンは、今日再評価されてよい。グリーンは、ミルより30歳年少のイギリスの哲学者である。資本主義の発達に伴って貧富の差が拡大し、階級間の対立・闘争が激化した19世紀後半のイギリスで、コモンウェルス(国家)を修復し救済するために、グリーンは独自の思想を展開した。
 グリーンは、原子論的個人主義とベンサム的な量的功利主義を批判し、ドイツ観念論からカントの人格倫理やフィヒテの自我哲学、ヘーゲルの国法哲学を摂取し、国家を積極的に認める有機的国家の思想を説いた。グリーンによれば、絶対我(絶対意識)がまずあり、自我はそれに向かって人格を形成する。絶対我は自我の自由の実現であり、国家はその実現のための道徳的共同意志の表われである。人間は、国家において、人格を完成させることができる。国家の倫理的目的は個人の自由の保障にあり、各個人の自発的な人格的成長の支援にある。市民社会の矛盾は、国家において、また国家によってのみ解決され、止揚される。こうして、グリーンは、個人対国家の対立ではなく、個人に対する国家の価値を主張して、自由放任主義を改め、公共性を重んじる社会改革の道を開いた。
 グリーンは、イギリスの伝統的なリベラリズムが要求する国家の不干渉を求める自由を「消極的自由」とし、人格の発展のために国家に積極的な役割を求める自由を「積極的自由」とした。そして「積極的自由」の実現を説いた。ただし、グリーンは、国家の積極的関与が認められるのは、個人の人格的完成を妨げる「障害の除去」に限定されるべきとし、個人の内面生活への国家の干渉は断固として否定した。
 グリーンが目指したのは、人々が自己実現としての自由を享受し、人格の完成を図ることのできる共同体だった。グリーンは、国家の成立や人民の政府の服従の根拠は、社会契約・武力・恐怖等ではなく、人々の「公共善(common good)」への関心にあるとし、政治と道徳を一体のものとして道義国家の建設を構想した。その哲学は、人格的自由主義と呼ばれる。人格的自由主義は、ミルの修正的自由主義とは異なる形態の修正的自由主義である。グリーンの哲学は、また国家発展段階のナショナリズムの思想でもある。国家形成段階のナショナリズムの思想であるフィヒテやヘーゲルの哲学の発展形を、ここに見ることができる。重要なのは、それが後進国ではなく、先進国で展開されたことである。
 グリーンの哲学のナショナリズム的な側面は、セシル・ローズやアルフレッド・ミルナーらを心酔させ、大英帝国の帝国主義の思想的裏づけの一つとなった。彼ら大英帝国の帝国主義者は、グリーンの理想とは正反対に、道義国家の建設ではなく、イギリスの国家権力が支配する領域を世界に拡大・発展させる活動を行った。その活動は、ロスチャイルド家等のユダヤ系巨大国際金融資本と結合したものだった。中核部における自由主義的ナショナリズムは、対外拡張を図る国家においては、世界政策としての帝国主義の推進力ともなり得るのである。
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(8)日本における思想的展開

 

●日本の国是を示した「五箇条の御誓文」

 17世紀から20世紀初頭までの時期の西欧発の人権思想史をたどった。ここで、近代西洋文明と遭遇した日本における思想的展開を見ておきたい。欧米列強の迫る中、封建制を打破し、日本の統一と近代化を実現しようとする思想が、幕末から明治にかけて発達した。その展開は、欧米のリベラリズム、デモクラシー、ナショナリズムを摂取し、日本の伝統・文化・国柄に基づいて主体的に応用し、独創的に発展させたものだった。この思想的展開の要に、五箇条の御誓文がある。
 1868年(慶応4年) 3月14日((明治元年4月6日)、明治天皇は、「五箇条の御誓文」を発表した。政治の御一新に当たり、明治天皇が国家の大方針を示したものだった。
御誓文は、次の通りである。

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
一、官武一途(いっと)庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめむことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
 我国未曾有の変革を為(なさ)んとし、朕躬(み)を以て衆に先じ、天地神明に誓ひ、大(おおい)に斯(この)国是を定め、万民保全の道を立(たて)んとす。衆亦此(この)旨趣(ししゅ)に基き協心努力せよ。

 現代語訳を示す。

一、会議を開き、多くの人の意見を聞いて政策を決める。
一、身分の上下に関係なく、心を合わせて、政策を行おう。
一、公家、武士や庶民の区別なく、国民の志がかなえられ、失望のない社会にしよう。
一、これまでの慣習をやめ、国際社会の習慣に従おう。
一、新しい知識を世界の各国に求め、国家を繁栄させよう。
 わが国は、未曾有の大改革を行うので、私はみずから先頭に立ち、天地神明に誓い、重大なる決意を持って、国家の大方針を決め、国家・国民の安定を図る道を確立するつもりである。国民の皆さんにもこの趣旨に基づいて、心を合わせて、努力をお願いしたい。

 「私」とは、明治天皇である。天皇が天地神明に誓って、国是すなわち国家の大方針を決め、これを国民に発表し、国民に心を合わせて努力してほしいと呼びかけたものである。
 明治天皇は御誓文と同日、御宸翰(ごしんかん)を出された。宸翰とは天皇直筆の文書である。そこには次のような意味のことが記されている。
 「今回の御一新にあたり、国民の中で一人でもその所を得ない者がいれば、それはすべて私の責任であるから、今日からは自らが身を挺し、心志を苦しめ、困難の真っ先に立ち、歴代の天皇の事績を踏まえて治績に勤めてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君である地位にそむかない、そのように行う」
 すべての人が「所を得る」ような状態をめざし、全責任を担う。天皇の決意は、崇高である。ここには天皇が国民を「おおみたから」と呼んで、大切にしてきたわが国の伝統が生きている。御誓文と御宸翰に示されたもの、それが近代日本のリベラリズム、デモクラシー、ナショナリズムの始まりだった。
 新政府は、五箇条の御誓文の国是の下に、封建制度を改めた。その一環として封建領主が所有する領民と領地を天皇に返す改革が行われた。まず版籍奉還が行われ、続いて廃藩置県が断行された。廃藩置県によって、各藩の徴税権を中央政府に集約し、近代的な租税制度が確立された。財政的基盤を明治政府は、国力の増強、国民の実質化を進めた。政府主導のナショナリズムによって、上からの近代化が進められた。改革と近代国家の建設が、天皇と国民が一体となって進められたところに、わが国の大きな特徴がある。

 

●横井小楠は大義を世界に広めようとした
 
 次に、人権の思想史という観点から、幕末・明治の思想を、横井小楠、福沢諭吉、中江兆民の3人を主に概観したい。小楠が維新立国、諭吉が文明開化、兆民が自由民権を進めた中心的な思想家だからである。
 横井小楠は西郷隆盛・勝海舟と並び、幕末維新の三傑と呼ぶにふさわしい巨人である。小楠は幕末、熊本藩にあって、形骸化した儒学を痛烈に批判し、現実に根ざした学問、「実学」を説いて全国的に知られた。越前福井藩の松平慶永に招かれ、藩の財政改革を指導し、1862年(文久2年)、慶永が政事総裁職という大老よりも格上のポストにつくと、そのブレーンとして幕政改革と公武合体を推進した。維新後は、小楠の偉大さを知る西郷隆盛らから、明治政府に招かれ、制度局判事や参与に任じられた。
 坂本龍馬が大政奉還等を打ち出した「船中八策」は、龍馬の案とされているが、小楠の思想の影響を強く受けたものである。小楠は、後進を育てた点でも目覚ましいものがある。小楠の弟子・由利公正は、「五箇条の御誓文」の原案を書いた。晩年の小楠の言葉を記録した井上毅は、「大日本帝国憲法」「皇室典範」の作成に預かった。熊本時代の弟子・元田永孚は、井上毅とともに「教育勅語」の起草に関わった。小楠は、彼らにさまざまな形で影響を与えた。私は先の5種の文書を維新立国の五大文書と考えるが、これらすべての実現の背景に小楠の存在があったことは、壮観である。
 近代日本の国家建設において、当面の目標は富国強兵だった。富国強兵も小楠が唱えた政策だった。小楠の富国強兵策は、福井藩主・松平春嶽に提出した『国是三論』に論述されている。『国是三論』は、富国・強兵・士道の三論より成る。それぞれ経済論・国防論・道徳論にあたる。そして、そのまま日本国の方針ともなるものとして書かれた。小楠はそこに、世界を念頭においた近代日本建設のグランド・デザインを描いた。
 三論の第一である富国論は、殖産興業と通商交易の必要を論じ、民生を安定させ国を富ませる方針である。第二の強兵論は、列強のアジア進出のなかで、海軍の創設こそ強兵と説き、島国から世界に雄飛した大英帝国に例をとり、イギリスに匹敵する海軍を創る方針である。このように小楠は富国強兵を説きながら、その限界をも看破しており、さらに重要なものとして、第三に士道論を説いた。「士道」とは、儒学や武士道に基づく東洋的な政治道徳である。ここで小楠は、富と力を生かすために、己を修め人を治める「修己治人」の道を強調している。小楠が説いた士道論は、富国強兵によって国力を充実させたうえで、大義を世界に伝えるという国家目標を目指すものだった。
 小楠が「小楠」と号したのは、楠木正成によっている。大楠公と仰がれる楠木正成は、忠義の英雄であり、武士の鑑(かがみ)、日本人の模範として、当時、最も広く尊敬された人物だった。大楠公に敬意を抱く小楠は、民族の中心としての天皇を敬う心、尊皇心を持つ日本人だった。ところが、小楠は、維新後の1869年(明治2年)、小楠を誤解する尊攘派の浪士たちによって暗殺されてしまう。
 死の2年前、アメリカに留学する甥に、はなむけに送った、小楠の言葉は有名である。

 堯舜孔子の道を明らかにし 西洋器械の術を尽くす
 なんぞ富国に止まらん なんぞ強兵に止まらん
 大義を四海に布かんのみ

 この一節に、小楠の雄大な思想が表われている。わが日本国は、尭舜や孔子の行った東洋古来の道徳を明らかにし、また進んで西洋の科学技術を我が物とすべきだ。新しい国家の方針は富国強兵だ。しかし、目的は富国や強兵にとどまらない。日本の使命は、充実した国力をもって、大義を世界に広めることにあるーーこれが、小楠の堅い信念だった。
 単に物質的な富や力を追求する「事実の学」でだけでは、戦争はなくならない。世界平和の実現のためには、「心徳の学」が必要だと小楠はいう。「心徳の学」とは、「国是三論」の「士道」を顕揚するものである。小楠は富国強兵を実現するとともに、国民の道徳心を高め、日本を道義国家たらしめたいと思っていたのである。そして、日本の政治を一新して、西洋に普及すれば、世界の「人情」に通じて戦争をなくすことができると、小楠は確信していた。
 こうした小楠の思想に感銘を受けた若い指導者が、維新立国の五大文書の作成に参加した。いわゆる人権は、普遍的・生得的な個人の権利とされるものだが、その実態は歴史的・社会的・文化的に発達する権利であり、また集団の権利あっての個人の権利である。独立を失い、または主権を持たない人民は、集団としての統治権がなく、個人としての自由と権利を得ることもできない。19世紀後半の世界では、アジア、アフリカのほとんどの地域が植民地化され、人権が抑圧されていた。その中で、日本は、白人種の征服・支配を免れ、近代的な独立主権国家の建設に成功し、国民は自由と権利を享受することができた。それは、小楠のようなスケールの大きな思想家が存在し、またその思想を実行する若い行動者・改革者たちがいたからである。

 

●福沢諭吉は「文明の目的は独立にあり」と説いた

 明治政府は、近代西洋文明を摂取して近代国家を建設する文明開化を進めた。文明開化の推進において、決定的なほど大きな影響を与えた思想家が、福沢諭吉である。福沢は、幕末から明治の時代に、西洋に渡航して実情を見て、日本人に西洋の新知識を伝え、これからの日本人はどうあるべきかを訴えた。福沢は、日本の国柄を踏まえ、独立を守るために、近代西洋文明を摂取すべきとする文明論を説いた。
 福沢は、1860年(万延元年)、咸臨丸に乗ってアメリカに行き、その後、ヨーロッパにも訪れ、近代西洋文明をつぶさに見聞した。その経験をもとに書いたのが、『西洋事情』(1866〜69年)である。幕末の知識人でこの本を読んでない者はいないというくらいに、よく読まれた。
 維新後、福沢が、広範な知識と深い洞察をもって、これから日本人は何をすべきかを説いたのが、『学問のすすめ』である。『学問のすすめ』の第1篇は、1872年(明治5年)に発表された。
 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」という出だしは、欧米の天賦人権論を端的に表現している。福沢は、人間は生まれながらに平等だと言っている。しかし、これは、単なる普遍的・生得的な人権を説き、その権利の実現を要望するものではない。福沢は、本来平等たるべき人に違いが生じるのは、ひとえに学問をするか、しないかによる、と結論している。機会は平等でも結果は努力によって異なる。それが、彼が『学問のすすめ』を書いた理由である。
 ここで福沢が勧めた学問は、旧来の儒学ではなく、新しい「実学」だった。「実学」とは、サイエンスである。サイエンスといっても、自然科学のことだけではない。政治学や経済学や倫理学など人文科学も含めた、近代西洋生まれの実際的な学問のことである。そして、福沢は日本が文明化すること、言い換えれば西洋にならって近代化することを唱導した。
 なぜ福沢は、西洋文明の摂取、西洋科学の習得を力説したか。それは、わが国の独立を維持するためだった。『学問のすすめ』で福沢は、無批判な西洋賛美を戒めている。そして全巻の結論において、日本にとって文明が必要なのは、国の独立を守る手段であると述べている。すなわち、「国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」と、福沢は明言している。列強がアジアに進出し、インドやシナが蹂躙されていた当時のアジア情勢において、独立を守ることは、至上命題だった。独立の無いところには、人権の保障もないのである。
 福沢は、明治8年に刊行した『文明論之概略』でも、先と同じ主旨のことを説いている。
 「目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。その目的とは何ぞや。内外の区別を明らかにして、我本国の独立を保つことなり。而してこの独立を保つの法は、文明の外に求むべからず。今の日本国人を文明に進むるは、この国の独立を保たんがためのみ」
 そして、福沢は国の独立を保つために必要なのは、個人個人の独立心だと訴えた。
 「我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」
 この最後にある「一身独立して一国独立する」ということこそ、福沢が日本人に最も訴えたかったことだった。独立心とは、愛国心に裏付けられてこそ、持ち得るものである。福沢自身、強い愛国心を抱き、わが国の国柄を尊び、皇室を敬う日本人だった。
 『文明論之概略』で福沢は書いている。
 「日本にては開闢(かいびゃく)の初より国体を改(あらため)たることなし。国君の血統もまた連続として絶たることなし。ただ政統に至てはしばしば大いに変革あり。…政統の変革かくの如きに至て、なお国体を失わざりしは何ぞや。言語風俗を共にする日本人にて日本の政を行い、外国の人へ秋毫(しゅうごう)の政権をも仮(か)したることなければなり」
 つまり、わが国は国の初めから、国体つまり国柄の根本が変わることがなかった。天皇の系統も連続して絶えることがなかった。政権はしばしば変わったが、国体が失われることはなかった。それは外国の支配を受けることがなかったからだ、と福沢は自らの歴史観を語る。これは、幕末・明治の日本人の共通認識であり、国民の常識でもあった。また、こうした自国の歴史に対する歴史観が、福沢の愛国心の背骨となっている。
 福沢は書いている。
 「この時に当て日本人の義務は、ただこの国体を保つの一箇条のみ。国体を保つとは、自国の政権を失わざることなり」
 この時つまり1875年(明治8年)において、日本人の義務は、国体を保つという一事にある。国体を保つというのは、自国の政権を失わないことだ。つまり、外国の支配を受けることなく、日本人が自らの民族による政権を守ることだ。福沢はこう言っているのである。
さらに続いて彼は述べている。
 「政権を失わざらんとするには、人民の智力を進めざるべからず。その条目は甚だ多しといえども、智力発生の道において第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行わるる文明の精神を取るにあり」
 日本人自らによる独立政権を失わないためには、国民の知力を向上させなければならない。知力を発達させるために、しなければならないことはたくさんあるが、第一の急務は、古い慣習への惑溺を一掃して、近代西洋文明の精神を採り入れることだ、と。
 福沢の主張の背景には、幕末から明治にかけて、わが国が欧米列強の脅威にさらされていたという現実がある。そして、福沢は、この厳しい国際環境において、日本人は白人の支配に屈するものかという強い気概をもつべきだと、国民同胞に訴えていた。これこそ、福沢の独立心が、強い愛国心に裏付けられていることを示すものである。
 西洋文明の近代思想から天賦人権論を学んだ福沢は、リベラリズム、デモクラシーの思想をわが国に伝えたが、同時に福沢はナショナリズムの思想を説き、近代世界における日本人のあるべき姿を示したのである。彼の所論は、日本人だけでなく、非西洋文明の後進地域及び植民地化された地域における人民に対しても、指針を与えるものとなっている。事実、シナや朝鮮の独立運動家たちは、福沢の思想を学び、欧米列強からの独立運動を推進した。

 

●中江兆民はルソーを批判し、日本の国柄に基づく改革を追求した
 
 日本における人権思想の発達において、自由民権運動は重要である。この運動に思想的な根拠を与えた思想家の一人が、中江兆民である。
 兆民は、ルソーの『社会契約論』を紹介し、「東洋のルソー」と呼ばれる。しかし、兆民の本質は、日本の国柄に基づく社会改革を追及したところにある。
 兆民は、1871年(明治4年)に岩倉遣欧使節団の一員として洋行し、ルソーの思想を知った。彼が漢文に訳した『民約論』は、シナでも読まれた。兆民が「東洋のルソー」と呼ばれる所以である。兆民はルソーの人民主権論の主旨を、わが国に生かそうとした。しかし、ルソーに大いに学びつつも、その思想を批判した。ルソーの思想が直観的感情的な特色を持つが、思考には論理性に乏しく、往々にして奇を好む誇張癖があると指摘した。またその人物については、人間的に後世のそしりをまぬがれがたい薄情、無責任の性質があったと厳しく批評している。
 ルソーの思想が暴力革命・君主制否定・共和主義であるのに対し、兆民の思想は議会主義・法治主義・君民共治である。兆民は、君主の存在する国であっても、「公義公道」の行われる国は「共和国」であり、形は民主大統領制の国であっても、「公義公道」の行われない国は真の共和国」ではないとの旨を説いた。つまり、政治を「私」する専制政治がよくないのであり、君主の有無にかかわらず、「公論」が反映される政治をよしと考えたのである。
 兆民は洋学者である以上に、優れた漢学者だった。兆民は、フランス民権論は、孟子の民本主義の思想と通じると理解していた。彼はルソー等の思想は、欧米の専有物ではない。東洋にも孟子のような思想があると考えた。そして東洋的な革命思想を、近代的な理論とするために、フランス民権論が大いに有用だ、と主体的に考えたのである。兆民が目指したのは、民権論の知識をもった、東洋的な志士仁人(活動家であり人格者)だった。
 兆民は、ルソーの急進思想に反対し、日本の国柄に基づいた社会改革を追求した。兆民は『東洋自由新聞』(明治14年、1881創刊)に掲載した『君民共治の説』において、当時のフランス第三共和国よりも、国王の君臨するイギリスの方が、より健全な「共和国」であると論じた。兆民は、「共和という字面に恍惚」として、フランス革命のような革命をめざす考えを退けた。兆民は、フランスでは革命後、ナポレオンという独裁者が出現し、さらに王政復古、七月王政、第二共和制などと、二転三転していることを、しっかり見すえていた。フランス革命を手放しで美化せず、その矛盾と限界を理解していた。そして兆民は、ルソー流の暴力革命・君主制否定・共和主義を採らず、議会主義・法治主義・君民共治を良しとした。日本は、イギリス流の君主政体でありながら、実質的な人民主権の国に向かうべきだと主張したのである。
 確かに兆民は、政府対人民という関係においては、徹底して民権的であり急進的だった。「民権是れ至理なり。自由平等是れ大義なり」という言葉は、彼の民権思想をよく表している。兆民の藩閥政府批判は鋭く、改革への情熱にあふれている。しかし、兆民は、天皇と藩閥政府との間には、明確な区別を設けている。兆民の目指す政体は、天皇を中心とする立憲君主政体だった。
 兆民は、『三酔人経綸問答』(1887年)で、南海先生の言葉として、次のように述べている。民権には「回復の民権」もあれば、「恩賜の民権」もある。前者はイギリスやフランスのように、君主と闘って取り戻した民権であり、後者はわが国のように、君主(天皇)が国民に賜った民権である。兆民は、「恩賜の民権」は「善く護持し、善く珍重し、道徳の元気と学術の滋液とをもってこれを養う」なら、「回復の民権」に匹敵するようになるだろうと説いた。そして、「立憲制度を設け、上は天皇の尊栄を張り、下は万民の福祉を増し、上下両議院をおき、上院議員は貴族が継承するものとし、下院議員は選挙で選ぶ」という政治体制が目標だと語った。
 兆民の主張は、わが国の国柄を守り、皇室制度の下で、デモクラシーあるいは議会主義の拡充を図るものだった。兆民は、日本においては、天皇を中心とする伝統を尊重してこそ、民権は健全なる発展を期待しうると考えたのである。この項目で述べた横井小楠、福沢諭吉、中江兆民に共通するのは、民族の中心としての天皇を敬う心、尊皇心である。
 自由民権運動といえば、国民の権利を追及し、共和制を目指す思想だと理解している人が多い。また、共和主義や社会主義までいかない未成熟の思想というイメージを持っている人も、少なくない。しかし、実際の自由民権運動は、天皇を中心と仰ぎながら、国権と民権を共に拡充して、立憲議会政治をめざす運動だった。それは、幕末の尊皇攘夷思想を受け継ぎ、天皇と国民が一体となった「君民一体」の政治を理想とした運動だったのである。
 先に述べた五箇条の御誓文は、自由民権運動のよりどころともなった。政府が維新当初の理念から外れ、藩閥による有司専制に変質したのに対し、板垣退助らが「民撰議院設立建白書」を提出した。自由民権運動は、天皇を中心とする日本的なデモクラシーと、リベラリズム、ナショナリズムを融合しつつ発展させた運動だった。その理念は、五箇条の御誓文に掲げられた近代日本の国是だった。
 自由民権運動に応え、政府は憲法の発布と議会の開設を進めた。当時の最高実力者・伊藤博文は自ら渡欧し、ドイツ・オーストリアで憲法の理論と国政の事情を調査した。帰国後、主にプロイセン憲法を参考にして、日本独自の憲法が起草された。起草に参与した井上毅は、わが国の古典を研究し、天皇が徳を以て国を「しらす」という西洋とは異なる国柄を表現しようとした。その結果、生まれた帝国憲法は、五箇条の御誓文が示した国是に基づいて、君主制国民国家の法規範を示したものである。天皇の臣民としての国民には、政治的・社会的権利が付与され、また一定の自由が保障された。
 帝国憲法のもと、大正期には、普通選挙法の制定、議会政治・政党政治の確立、民衆の政治参加の拡大を目指す大正デモクラシーと呼ばれる運動が高揚した。わが国では、近代国民国家としての発展とともに、国民の自由と権利が漸進的に拡大された。第2次世界大戦後のわが国に比べれば、限定的な権利だったが、アジア・アフリカでは、他に比類ない水準にあった。そうしたわが国の近代化の基本方針を打ち出したものが、五箇条の御誓文だったのである。ページの頭へ

 

(9)19世紀末から20世紀初頭への展開


 本章では、近代西欧に現れた主権・民権・人権に係る思想について、人権を中心に述べた。17世紀イギリスにおける思想的展開、18世紀の啓蒙思想、アメリカ・フランスにおける市民革命期の思想、ドイツにおけるカント及び彼以後のドイツ観念論から現れたマルクスとナショナリズム、19世紀イギリスにおける功利主義と修正自由主義、最後に日本における近代西洋思想の摂取と独創的な展開という順に記した。
 ここで本章の結びに、19世紀末から20世紀初頭までの人権の思想の発達を書きたい。
 17〜19世紀の欧米における人権の思想史を振り返る時、最も重要な動きは、ロックの思想の普及であると考える。ロックは近代科学思想に通じ、中世的プラトニズムを排して生得観念を否定し、感覚に基づく経験論を説いた。ホッブスの理論を批判的に継承して、自由・平等な個人の自発的同意に基づく契約によって政府が設立されたとする社会契約論を発展させた。ロックはまた労働による所有を意義づけて、私有財産を肯定し、近代資本主義を正当化した。
 ロックは、「人間は生まれながらにして完全な自由をもつ。人間はすべて平等であり、他の誰からも制約を受けることはない」と主張した。絶対主義王政に対抗して、リベラリズム、デモクラシーの思想を唱え、「民衆の信頼に反するような法律や政令を発見した場合は、民衆にはその法律を改廃させる優越的権利が依然としてある」として抵抗権・革命権を認めた。
 ロックの思想は、イギリス名誉革命を正当化する理論となり、アメリカ独立革命や独立宣言、合衆国憲法の理論的支柱となった。またフランスでは、ルソーや百科全書派によって急進化され、フランス革命の推進力ともなった。そして、イギリス、アメリカ、フランスが先進国・列強として発展するにつれ、ロックの思想は直接的または間接的に欧米の他の諸国へ、さらに非西洋文明の社会へと伝わっていった。この過程は、近代化の進行と西洋文明の非西洋文明諸社会への伝播と相即する。ロックの思想の浸透は、資本主義・自由主義・デモクラシー個人主義の普及と重なる。
 ロック思想が諸方面に浸透していった17〜19世紀は、科学の発達によってキリスト教が権威を失い、世俗化が進み、科学的合理主義が支配的になった過程でもある。17世紀の「科学の世紀」、18世紀の「啓蒙の世紀」を経て、様々な分野で自然の研究が進み、実験と観察に基づく近代西欧科学的な世界観が形成された。それに加えて、ダーウィンが1859年に『種の起源』で、生物の種は神の創造によるという聖書の記述を揺るがす理論を説いたことは、重要である。ダーウィンの仮説は、天動説から地動説への転回以来の衝撃を、キリスト教文化圏にもたらした。
 西方キリスト教文明は根底から揺らぎ出した。その動揺を最も鋭く、深く捉えたのが、ニーチェだった。ニーチェは、1883年の『ツァラトゥストラ』で、キリスト教によって代表される伝統的価値が、西洋人の生活において効力を失っていると洞察し、この状況を「神は死んだ」と表現した。彼は、西洋思想の歴史は、本当はありもしない超越的な価値、つまり無を信じてきたニヒリズムの歴史であると断じ、ニヒリズムが表面に現われてくる時代の到来を予言した。そして、ニヒリズムを克服するため、新しい価値を体現し得る超人の思想を説いた。
 ニーチェが予言したように、19世紀末の欧米では、ニヒリズムが蔓延するようになった。ニヒリズムは、広義の場合は従来の宗教的価値観の喪失や否定・破壊を意味する。
 だが、科学的合理主義の増勢やニヒリズムの浸透が進むなかにおいても、ロックの思想は普及し続けた。それはイギリス・アメリカ・フランス等での資本主義的な生産力の増大、軍事力の強大化、帝国主義政策の展開による。資本主義の発達によって、各国・各地域に自由主義・デモクラシー・個人主義が広がった。それとともに、これらを基礎づけるロックの思想が普及していった。そして、ロック思想の普及によって、人権の思想が発達し、各国において国民の権利が拡大されていったのである。

 

19世紀末の欧米には、ロックの思想の普及を基にして、人権に関して影響力を持つ思想が四つあった。カント主義、功利主義(最大幸福主義)、マルクス主義、ナショナリズムである。

カント主義、功利主義、マルクス主義は、カント、ベンサム、マルクスの思想そのものではなく、その継承者たちが定式化したものである。ナショナリズムは思想である以上に、政治的・社会的運動である。

カント主義は、ロックの自由で独立した個人に人格の尊厳を認め、すべての人間を目的とする社会の実現を目指す。カントは、科学と道徳の両立を図って、宗教の独自性を認め、科学的理性的な認識の範囲と限界を定めつつ、神・霊魂・来世という形而上的なものを志向する人間の人間性を肯定し、理性に従って道徳的な実践を行う自由で自律的な人格を持つ者としての人間の尊厳を説いた。その思想は、18世紀という科学的合理主義が楽観的に信じられていた時代の思想だった。カントの死後、カントを批判する思想は多く表れたが、19世紀後半から「カントに帰れ」と説く新カント派によって、カントの思想が継承され、哲学・政治学・法学・歴史学等の諸分野で影響を保った。

功利主義は、ロックの経験論を徹底し、最大多数の最大幸福を目指す理論を構築した。功利主義は、資本主義の経済学と親和的である。効用の最大化と経済的利益の最大化は、重なり合う部分があるからである。アダム・スミス以後の経済学は、合理的に行動するアトム的な個人を仮定した理論を構築した。こうした人間像を「経済人(エコノミック・マン)」という。経済人とは「なんらの倫理的な影響を受けず、金銭上の利益を細心かつ精力的に、だが非情かつ利己的に追求しようとする人間」(マーシャル)である。この人間像は、1870年にジェボンズ、メンガー、ワルラスが行った「限界革命」を経た新古典派経済学に受け継がれた。新古典派経済学は、価値判断を排除することによって、経済学から倫理を放逐した。功利主義は新古典派経済学と結合し、自由主義的資本主義の発達に寄与した。

マルクス主義は、ロックが自然権とした財産の所有を不平等の根源とし、私有財産制を廃止した社会の建設を図る。マルクスの唯物論は、自然と人間を物質ととらえ、神・霊魂などの観念を否定する。唯物論の世界観は、ニヒリズムの蔓延を促進した。19世紀半ば以来、経済思想における最大の対立は、資本主義と共産主義の対立となった。根本的な違いは、私有財産制の肯定か否定かにある。カント主義と功利主義は資本主義を肯定するが、マルクス主義はこれを止揚しようとする。カント主義は修正的自由主義または社会民主主義と親和的であり、功利主義は古典的または修正的な自由主義と親和的である。これに対し、マルクス主義は共産主義を理論的に発展させた。それによって西欧諸国の労働運動の主流となり、ロシアにも浸透した。

これらカント主義、功利主義、マルクス主義と人権の思想との関係を述べると、カント主義は、人間は理性的で人格的存在として尊厳を持つがゆえに、すべての人間の人権を尊重すべしと説く。これに対し、功利主義は法に規定された権利のみが権利であるとし、人権の主張の根拠について批判的である。また、神や形而上的なものを排除し、カント的な道徳的人格性を否定する。マルクス主義は、人権はブルジョワ的な観念だとしてこれを退け、階級闘争による権力の奪取を説く。カント哲学を観念論として批判し、理念による道徳的主体性を認めない。

19世紀末の時点では、カント主義的な人権思想は、功利主義とマルクス主義に圧され気味だった。ところが、20世紀に入り、2度の世界大戦、共産主義革命、社会権の確立、世界恐慌、ユダヤ人の迫害等によって、人間性の危機が高まった。その危機の中で、ロックの思想をカントによって掘り下げた人間観が有力になっていく。それがロック=カント的な人間観である。これは、人間は、生まれながらに自由かつ平等であり、個人の意識とともに、理性に従って道徳的な実践を行う自律的な人格を持つ、という人間観である。この人間観が20世紀前半の激動の時代を生き延び、20世紀半ばに至って世界人権権宣言の裏付けとなるに至る。

人権の発達にもう一つ影響力を持つ思想が、ナショナリズムである。ナショナリズムは、ネイション(国民)の形成・発展を目指す思想であり、直接個人の自由と権利を獲得・拡大しようとする思想ではない。しかし、個人の権利は集団の権利あってのものであり、集団の構成員に付与・保障される権利である。欧米の先進国では、ナショナリズムと人権思想が結合していることが見逃されがちだが、後進国のドイツやアジアに位置する日本では、まず民族の独立と統一が必要であり、ネイションの形成・発展あっての個人の自由と権利だった。

ナショナリズムが人権の発達にもともと不可欠のものであることは、アジア・アフリカの被抑圧人民が欧米白人種の支配からの解放を求める運動を通じて、明確になった。20世紀半ば以降、独立を勝ち取ったアジア・アフリカ諸国は、次々に世界人権宣言に参加した。民族の独立によって、集団の権利が回復・確保されて初めて、個人の自由と権利の拡大が可能になったのである。

近代世界システムの中核部における人権の発生には、主権国家という枠組みが必要だった。人権は、各国において主にその国民の権利として発達した。主権国家が国民国家となった国では、国民国家という枠組みにおいて、その国民の権利としての人権が擁護された。その過程で、ナショナリズムは早くからリベラリズム、デモクラシーと相互作用的に発達し、人権の発達に重要な影響を与えてきた。20世紀初頭以降のカント主義、功利主義、マルクス主義の動向も、ナショナリズムとの関係に留意して把握する必要がある。

本章では、17世紀から20世紀初頭までにおける人権の思想の発達を書いた。20世紀初頭以降の人権の歴史と思想、人権の現状と課題については、第3部に書くことにする。ページの頭へ

 

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