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204-01   人権・男女

           

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人権――その起源と目標 第3部

2015.12.28 8/2016.4.14 9章掲示

 

<目次>

はじめに

第1部 人権に関する基礎理論

第2部 人権の歴史と思想

 

第3部 人権の現状と課題

第8章 世界大戦の時代と人権の世界化

(1)第1次大戦と人権の変動

(2)第2次大戦と人間の危機への対応

(3)世界人権宣言の意義と内容

(4)世界人権宣言の矛盾と限界

第9章 現代世界における人権の課題

(1)国際人権規約と人権諸条約の制定

(2)人権発達史の新たな段階

(3)今日の世界の人権状況

(4)日本における人権の現状と課題

(5)人権に関する世界的な課題

 

第4部 人権の目標と新しい人間観

結びに

 

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第3部 人権の現状と課題

 

第8章 世界大戦の時代と人権の世界化

 

(1)第1次大戦と人権の変動

 

●世界大戦と人権の変動

 
第2部では、西欧の中世・近代から20世紀のはじめにかけて、主権・民権との関係で人権の歴史を書き、近代西欧発の人権思想史について書いた。人権は、西欧において、「人間的な権利」として、歴史的・社会的・文化的に発達してきた。だが、20世紀に入り、世界規模の戦争や革命、恐慌、環境破壊等が発生する時代になって、「発達する人間的な権利」は、深刻な課題に直面することになった。第3部では、これまで書いた人権の歴史と人権の思想史を踏まえて、20世紀初頭以降の人権をめぐる歴史と人権の発達を述べたうえで、人権の現状と課題について書く。
 19世紀後半から20世紀のはじめにかけての世界は、帝国主義の時代となり、先進国のイギリスと後進国のドイツの対立を中心に国家間の植民地争奪戦が世界各地で展開された。1800年の時点では、欧米諸国は地球の陸地の35%を支配したに過ぎなかったが、1914年になると実に84%がその支配下に入っていた。激化した列強の勢力争いは、第1次世界大戦へとエスカレートしていった。
 戦争は、集団と集団の意志のぶつかり合いである。実力行使による権力と権力の衝突である。国民の権利は、戦争によって拡大されもし、または制限されもする。一方の集団における権利・の獲得・伸長は、他方の集団における権利の抑圧・喪失となる。個人の権利は、所属する集団の状況に大きく左右される。人権は、世界規模の戦争において、最大の変動を示す。
 英仏と独の戦いを中心として欧州を主戦場とする戦争は、誰もの予想を裏切って長期化した。国民全体の協力体制を必要とする史上初の総力戦となり、女性や植民地の住民までもが動員された。社会主義者の多くも自国の戦争に賛同したので、各国で挙国一致体制が成立した。莫大な人員と物量が戦場に投入されることにより、犠牲者の数は飛躍的に増大した。機関銃、毒ガス、戦車、飛行機などの新兵器が開発され、戦い方が大きく変化した。しかし、果てしない消耗戦が続くと、各国の国民の間に厭戦気分が広がった。1917年ドイツは西部戦線で最後の攻勢に出たが、アメリカの参戦後、戦局を打開できず、国内の政情は悪化した。4月ドイツ革命が起こり、ヴィルヘルム2世が退位し、休戦条約が結ばれた。
 第1次世界大戦によって、ヨーロッパは疲弊した。終戦の年、オズワルド・シュペングラーが『西洋の没落』を刊行した。その書名が象徴するように、西洋文明は衰亡の兆しを示した。戦争の悲惨は、キリスト教的な価値観に揺らぎをもたらした。啓蒙や進歩を無条件によしとする思想に、懐疑が生まれた。欧州列強による近代世界システムの支配は揺らぎ出した。米国が躍進し、欧州中心的な見方が相対化されはじめた。
 第1次世界大戦の期間から戦後にかけて、近代世界システムの中核部では、覇権国家がイギリスからアメリカに移動した。半周辺部では、東方正教文明の中心であるロシア帝国で革命が起こり、共産主義国家が初めて実現した。周辺部の諸文明では、植民地・従属国でナショナリズムが勃興し、独立運動が広がった。
 第1次大戦後、人権の歴史における新たな展開が生まれた。人権に関する主な動きとして、国際連盟の設立とその人権に関する取り組み、ロシア革命と社会主義における人権の抑圧、ドイツ・ワイマール憲法における社会権の規定、シオニズムとナショナリズム、世界恐慌と失業者の権利問題、ナチスによるユダヤ人の迫害がある。次項からこれらについて、書きたい。

 

●国際連盟と人種差別・民族紛争の継続

 第1次世界大戦後の混乱を収拾するため、1919年1月から連合国によるパリ講和会議が開かれた。講和会議を通じて、国際連盟が設立された。国際連盟は国際平和の維持と多方面にわたる国際協力を目的とし、紛争処理手続や主権侵犯国に対する制裁行動等を規定した。国際連盟の設立には、カントの永遠平和論が思想的な影響を与えた。国際連盟は、ヨーロッパが世界大戦の主要舞台となり、キリスト教の諸国・諸民族が殺戮・破壊を繰り広げた大戦争の後に、平和維持のための機関として作られた。だが、戦後世界の秩序維持にはほとんど役立たず、むしろ新たな大戦の原因ともなった。
 講和会議で国際連盟の設立を提案したのは、アメリカ合衆国のウィルソン大統領だった。ウィルソンは、国際連盟の設立のほか、秘密外交の廃止や軍備縮小、民族自決等を唱える「14か条の平和原則」を提案した。しかし、英仏はドイツへの報復を主張し、平和原則は実現を阻まれた。採用されたのは、国際連盟の設立のみだった。その提案も、自国の議会の反対を受けたため、ウィルソンはアメリカの国際連盟加入を実現できなかった。
 ここで特筆すべきことがある。パリ講和会議において、わが国が画期的な提案をしたことである。日本代表・牧野伸顕は、人種差別を廃止する人種平等案を規約に盛り込む提案をした。当時、アメリカに移民した日本人は、この自由の国で、人種差別を受けていた。日本政府は、そうした人種差別の廃止を望んだのである。アメリカの黒人をはじめ、世界各国の有色人種が、日本の提案を歓迎し希望を抱いた。
 講和会議において、日本は提案に関する採決を求め、挙手が行われた。賛成が11、反対が5。多数決の原則によれば、可決のはずである。しかし、議長のウィルソンは、全会一致でないので提案は否決とした。「このような重要な問題は、全員が賛成しなければ認められない」というのである。もし人種平等案が国際連盟の規約の中に盛り込まれたら、アメリカ国内の人種問題が激化することを、ウィルソンは恐れたのである。実現しなかったとはいえ、有色人種で初めて近代化を成し遂げた日本が、人種差別を廃止する人種平等案を提案した意義は大きい。
 当時近代世界システムの周辺部では、植民地の住民たちがパリ講和会議で、民族自決の要求が実現することを期待していた。しかし、宗主国は植民地の独立要求を無視した。独立要求を無視された植民地では、各地で民族主義運動が起こった。朝鮮の3・1運動、中国の5・4運動、エジプトのワフド党による反英運動、インドのガンディーの非暴力抵抗運動などである。ヴェルサイユ体制は、こうした有色人種のナショナリズムを抑圧するものだった。その一方、白人種の住む東欧諸国だけは、民族自決の原則が適用された。ここにも人種差別がはっきりと見られる。言い換えれば、有色人種に対しては、民族自決という「人間的な権利」を抑圧したのである。植民地諸民族にとって、人民の自決権の獲得は、白人種によって奪われた統治権の回復だった。
 国際連盟は、国際平和を維持する方法として信託委任統治制度を創始した。だが、その実態はドイツの旧植民地やオスマン帝国等の領土を、国際連盟の委任統治領という形で戦勝国の間で分配するものだった。
 大戦後、ドイツ、オーストリア、ロシアの各帝国が崩壊し、ポーランド、チェコスロヴァキア、バルト三国、ユーゴスラビア等の諸国が誕生した。白人種であることで民族自決の原則が適用されたとはいえ、東欧は民族分布が複雑で、国民国家の形成は困難を極めた。これらの地域にはドイツ系住民が多数居住しており、民族紛争の火種となる可能性があった。ドイツでナチスが台頭すると、これらの国々は、ドイツ系住民の保護を理由に掲げるヒトラーによって、併合または侵攻されることになる。民族自決権を得ても、それを守る実力を持たなければ、集団の権利は剥奪され、個人の権利は喪失するのである。

 

●人権の国際的保障の萌芽

 国際連盟では、欧米中心に国際平和を維持しようという取り組みがされる一方、人権を国際的に保障しようとする動きが現れた。
 国際連盟規約は、国際の平和と安全の維持に関する条項を置くとともに、人道的、社会的、経済的な国際協力に関する条項を設けた。加盟国は、男女及び児童のために公平で人道的な労働条件を確保することに努め、このために必要な国際機関を設立・維持すること、自国管轄内の土着住民に対して公正な待遇を確保すること、婦人及び児童の売買に関する取極めの実行について一般的な監視を連盟に委託することが規定された。しかし、また先に書いたとおり、人種差別の廃止も規定されなかった。また人権の保護に関する規定や少数者の保護に関する規定も盛り込まれなかった。
 国際的人権保障に係る動きとしては、少数民族保護条約、国際労働機関の設立、不戦条約等が挙げられる。
 第1次大戦の主な連合国は、国内の少数者の権利を定め、これらを国際機関の保護の下に置くことで、少数者問題を口実に隣国が国内問題に干渉することを回避しようとした。そこで締結されたのが、少数民族保護条約である。少数者保護制度は敗戦国に対する戦後処理の一貫として、中・東欧地域に誕生した新国家または独立回復国並びに敗戦諸国など限られた国に対して適用されるように作られた制度である。
 すなわち、少数民族の保護は、戦勝国によるヴェルサイユ体制の維持を目的として行われたものであり、少数者民族を保護の対象とするのではなく、少数者問題が発端となって再び欧州の安定秩序が揺るがされないようにするための制度だった。またヨーロッパという地域に限定されていた。連盟規約には少数者の保護に関する規定が設けられなかったので、少数者保護は新たな国家の独立の承認や連盟加盟の条件とした。
 このように、戦勝国及びヨーロッパ中心のものではあったが、国家を超えた国際機関による監視制度を導入した点で、後の国際人権保障制度の樹立に影響を与えた。
 次に、国際労働機関(ILO)は、1919年に国際連盟の一機関として設立された。第1次世界大戦後、国際の平和・協調を危うくするような労働状態の改善は急務だった。1917年ロシア革命の勃発により、社会主義革命の防止のため、労働問題への国際的な取り組みが必要となり、ILOの誕生を促す一つの歴史的要因となった。また激しい国際経済競争の中で、労働条件を低く押さえることによって自国の産品を有利な条件下に置こうとするソーシャル・ダンピングを抑制することが、公正な国際経済秩序を維持するために必要となった。
 ILOは、労働は商品ではないこと、表現及び結社の自由は不断の進歩のために不可欠であること等を根本原則とした。そして労働時間、女性や児童労働の最低年齢及び母性の保護を含む労働条件、強制労働の禁止等に関する国際労働立法を行った。またILOの労働条約勧告制度も国際機関による監視制度であり、国際人権保障制度の樹立に影響を与えた。
 わが国は1919年にILOに加盟し、33年に国際連盟を脱退するまで加盟していた。ILOは第2次大戦後、「連合国=国際連合」の専門機関となった。
 次に、1928年にパリで、仏外相ブリアンの提唱を受けた米国務長官ケロッグの呼びかけにより、不戦条約が調印された。初めは15か国が加盟した。この条約は国際紛争の解決はすべて平和的手段によるものとし、一切の武力使用禁止を約した。
 西欧では17世紀から国際法が発達したが、戦時に関する条約としては、第1次世界大戦前から、人道的見地から戦闘方法を規制し、あるいは戦闘外に置かれた個人を人道的に取り扱うことを求める戦争法規が発達した。1899年に国際紛争の平和的処理に関する条約が成立し、1907年には戦争の惨害を軍事上の必要の許す限り軽減することを目指し、戦闘手段や方法及び中立法を規定する陸戦法規が成立した。これらをハーグ法という。また、1929年には捕虜となった者に対する人道的待遇や文民の保護等を定めた捕虜待遇条約等が成立した。こちらはジュネーブ法という。ハーグ法・ジュネ―ブ法を総称して戦時国際法という。
 不戦条約は、これらに比べ、国策の具としての戦争放棄を約した最初の条約として大きな意義がある。だが、各国が行う戦争が侵攻戦争か自衛戦争かを解釈する権利はその国にあることを認め、制裁条項もなかった。そのため、世界恐慌に続く1930年代以降の国際情勢の悪化に対処し得なかった。
 少数民族保護条約、国際労働機関の設立、不戦条約等は、人権の国際的保障の萌芽となった。ただし、その萌芽が成長するのは、第2次世界大戦という第1次大戦に遥かに勝る惨事を経てのことだった。

 

●ロシア革命と共産党による自由と権利の抑圧

 大戦末期の1917年10月、ロシアで革命が起こり、共産主義国家が出現した。19世紀半ば、西欧に共産主義が登場して以降、共産主義は西欧では極く一部の地域を除いて浸透しなかった。この理由の一つは、西欧は世界的な資本主義システムの中核部であり、周辺部からの収奪をもとに、資本主義が発達を続け、国民全体の権利が拡大・強化されていったことがある。また別の理由は、西欧は平等主義核家族、絶対核家族、直系家族が多く、共産主義とは相いれない家族的な価値観を持っていたことである。共産主義は西欧に誕生したにもかかわらず、共産主義が深く浸透し、定着したのは、共同体家族が支配的なロシアにおいてだった。共同体家族は権威/平等を価値観とし、共産主義と親和的だったのである。
 ロシアでは10月革命の翌年、「勤労・被搾取人民の権利宣言」が採択された。これは社会主義革命の人権宣言ともいわれる。宣言は、人間による人間のあらゆる搾取の廃止、社会の階級的分裂の完全な廃絶および社会主義的な社会組織の確立をめざすとした。そして、土地を全人民の財産とし、地下資源・農園などの国有化を宣言した。
 その後、公布されたロシア共和国憲法 (1918年) 及びソヴィエト連邦憲法 (1936年と1977年)には、イギリス・アメリカ・フランスなどの自由主義国家と同様な権利が規定された。しかし、そこには、ロックやルソー、百科全書派等が強調した、人間が生まれながらに平等に持つ権利という観念はない。階級闘争史観のもと、権利は神与のものではなく、独自の理論によって歴史性を付与された。革命によって獲得した権利は、労働者・農民を中心とする人民のものとされ、貴族や地主など旧支配階級は権利を剥奪される。それゆえ、この権利は、「すべての人間」の権利ではなく、階級的な権利だった。そのうえ、権利の行使は、個人の自由と責任によるのではなく、勤労者の利益および社会主義制度の強化という目的に沿わねばならないという制約が課せられた。
 階級間における権利の制限は、共産主義社会の実現を目指すという目的によって正当化された。共産主義の低い段階としての社会主義社会から、高い段階としての共産主義社会に到達するまでの過渡期のあり方とされる。最終的には、「国家の死滅」(政府の廃止)を目指す。階級支配の実力装置としての国家権力を死滅させるために、国家権力を強化するという論理が用いられた。権利の実現のために、権利の制限を行うというのも同じ論理である。
 ところがソ連で実際に成立したのは、共産党による労働者・農民への独裁だった。国家的な教説と現実とは、全く異なっていた。ソ連の実態は、労働者の国家ではなく、共産党官僚が労働者や農民を支配する官僚専制国家だった。革命によって人民が獲得したはずの権力は、共産党官僚の手に集中し、官僚による支配体制が構築された。強大な権力の裏づけによって、様々な特権を得た官僚は、新しい階級となった。秘密警察が人民を管理し、政権を批判する者は強制収容所に入れられた。絶対王政の君主の再来のような個人崇拝が行われ、反対派は大量に粛清された。

●所有と支配の構造

 どうしてこのような結果に陥ったのか。その一因は、マルクス=エンゲルスが、所有関係で社会を分析し、支配関係の重要性を軽視したことにある。生産手段を私有から集団的所有にすれば、社会の不平等が解消するのではない。所有には管理・運営という行為が伴う。所有権が国家や集団にあるとされても、実際にはそれを管理・運営する者が支配権を持つ。すなわち官僚支配である。マルクスはこの官僚支配の出現の構造をとらえていない。そのため、革命後の国家は強大な官僚支配国家となったのである。知識人が労働者大衆を支配するために、あえてこのからくりを隠したという見方も成り立つ。
 旧ソ連は、政策としては、思想的には共産主義、特にその中のマルクス=レーニン主義だが、経済体制としては社会主義である。旧ソ連の社会主義体制は、資本主義を脱却し、原理的に別のものになったわけではなかった。所有の形態は、一部私的所有から社会的所有に変わった。しかし、所有は支配という行為と関連付けて考えなければいけない。所有者が資本家から国家に変わったといっても、その国家を支配しているのが、権力を握る特定の集団であれば、その集団は、多くの富を領有することができる。旧ソ連で共産党の官僚が新たな特権階級となり、新しい貴族となったのはそのためである。
 社会主義を標榜する国家において、貴族的な共産党官僚と貧しい労働者・農民という分化が起こったのは、支配集団と労働者・農民との権力関係による。共産党が権力を独占し、国民大衆には政治的自由がない。こうした社会では、自由主義的資本主義の社会におけるよりも、労働者・農民は弱い立場に置かれた。所有の形態より、支配の実態が重要なのである。
 それゆえ、旧ソ連の社会主義は資本主義を変形したものであって、資本主義とまったく別のものではなかったことがわかる。所有の形態が変わったとしても、資本主義の本質は維持されている。マルクスは、資本とは、貨幣や商品や生産手段ではなく、一方に生産手段を私有する少数の資本家、他方に生産手段を奪われ自分の労働力を商品として売るしかない多数の労働者がいるという生産関係が、貨幣や生産手段等を資本たらしめるとした。ここにおける資本家が共産党官僚に置き換えられた社会が、旧ソ連の社会主義体制であり、そこにおける生産関係は、本質的には変わっていない。生産関係は、生産の場における権力関係であることに注意したい。
 このような体制においては、国民の権利は極度に制限される。自由も平等もない社会で、国民の権利は、共産党政府によって侵害された。社会主義が人権の発達をもたらしたというのは、虚偽の主張である。

●共産主義とユダヤ人

 ところで、共産主義とユダヤ人との関係は深い。共産主義は、キリスト教社会で宗教的・人種的差別を受けるユダヤ人が祖国の回復を目指すシオニズムとは対照的に、主権国家による国際秩序を破壊し、国境を超えた社会を実現しようとする思想・運動である。マルクス主義の創始者であるカール・マルクスはユダヤ人だった。マルクス思想を継承したベルンシュタイン、ローザ・ルクセンブルク、ルカーチ、フランクフルト学派の主要学者等もユダヤ人だった。彼らは、ユダヤ教を信奉するユダヤ人ではなく、脱ユダヤ教的なユダヤ人である。
 ユダヤ人は、一枚岩ではない。排外的・独善的なユダヤ教徒から宗教否定の唯物論者まで、資本主義社会で富と権力を掌中にする国際金融資本家から私有財産制廃止を目指して階級闘争を指導する共産主義者までがいる。
 共産主義とユダヤ人の関係において、とりわけロシア革命で多くのユダヤ人が革命運動に参加したことは、特異な現象である。19世紀末ロマノフ朝圧制下のロシアで、ユダヤ人は「ポグロム」と呼ばれる虐待・虐殺を受けた。多数のユダヤ人が国外に出国してアメリカ等に移民した。また、国内に残って帝政打倒の政治運動に参加する者もいた。ロシアではユダヤ人の解放は、帝政を打倒する以外には、不可能だった。ボルシェヴィキの幹部には、ユダヤ人が多かった。トロツキーやジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、ウリツキーらがそうである。レーニンは、母方の祖母がユダヤ人だったといわれる。そのことによって、共産主義はユダヤ人が世界を変革しようとする陰謀だという説がある。また、マルクスはロスチャイルド家から生活資金を提供されていたといわれる。レーニンやトロツキーらにユダヤ人大富豪が資金を提供したり、ドイツや米国から国境を超えた革命活動を行うのに便宜を図ったりした。だが、ソ連では、レーニン死後、スターリンはトロツキーを惨殺し、他のユダヤ人幹部を次々に粛清した。その後も、ソ連におけるユダヤ人差別は続いた。共産主義とユダヤ人の関係は単純ではない。また、共産主義が人種問題・民族問題を解決するというのは、虚偽の宣伝である。人権論という本稿の主題について言うと、共産主義はユダヤ人の自由と権利の確保・拡大に寄与するものではない。そこが、フランス革命におけるロック・ルソー・フリーメイソンの思想とは違う。また、諸国民の自由と権利の確保・拡大に寄与するものでもない。人権と呼ばれる権利が発達したのは、リベラル・デモクラシー(自由民主主義)の国家においてのみである。

関連掲示
・マイサイトの「共産主義」の項目

 

●ワイマール憲法と社会権の規定

 ロシア革命は勃発当時、世界に大きな衝撃を与えた。西欧では共産化を防ぐために、労働者の権利を容認・拡大する動きが進んだ。それによって社会権が発達した。社会権は、国民の基本的な権利を労働者階級に広げるとともに、勤労権、生存権、教育を受ける権利等を新たに定めるものである。ロシア革命後、ドイツで制定されたワイマール憲法が、初めて社会権を憲法に定めた。これによって、「発達する人間的な権利」としての人権は、自由権を中心とした段階から社会権の確立・保障の段階に入った。
 ドイツでは、第1次世界大戦の敗北を契機としてドイツ革命が勃発し、帝政が崩壊した。社会民主党による臨時政府が樹立され、共和制が実現した。この時、旧ドイツ帝国憲法に替わる新たなドイツ国の憲法が制定された。それが、ワイマール憲法である。公式名はドイツ国憲法という。通称は、1919年1月に憲法制定議会が開催された都市ワイマールの名に由来する。1919年8月に制定・公布・施行された。起草者は、ユダヤ人法学者フーゴー・プロイスだった。
 ワイマール憲法は、当時世界で最も民主的な憲法だった。前文には、次のように書かれた。「ドイツ国民は、民族が団結し、自由と正義のもとで、新しい強大な国家を目指し、内外の平和に貢献し、社会進歩を促進させるため、この憲法を採択した」と。このように民族の団結と国家の目標を前文に明記した上で、第1条に国民主権を規定し、主権者を国民とした。選挙権は財産に制限をつけずに、20歳以上の男女に与えられた。男女平等の普通選挙を行うとともに、一定数の有権者による国民請願や国民投票等、直接民主制の要素を部分的に採用した。
 ワイマール憲法が世界史的な意義を持つのは、社会権を初めて盛り込んだ点にある。自由権に絶対的な価値を見出していた近代憲法から、社会権の保障を考慮する現代憲法への転換が、この憲法によってなされた。ワイマール憲法は、その後、制定された諸国の憲法の模範となった。わが国の日本国憲法も、同様である。
 社会権は、自由権・参政権より新しく、「20世紀的人権」といわれる。「20世紀的人権」の呼称で明らかなように、ここにいう「人権」は普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、発達する「人間的な権利」である。また社会権はドイツでまず制定されたように、特定の国家で、主に国民の権利として発達する権利である。そのうえ、自由権は不作為請求権であるのに対し、社会権は作為請求権であり、国家に積極的行為を請求する権利である。この点で自由権とは正反対の権利である。
 ワイマール憲法は、第151条に「経済生活の秩序は、すべてのものに人間たるに値する生活を保障する目的を持つ正義の原則に適合しなければならない」と定めた。「人間たるに値する生活」は、経済・社会・文化・文明の発達度合等によって異なる。それゆえ、「人間たるに値する生活」を送る権利は、歴史的・社会的・文化的に発達してきた「人間的な権利」である。また第153条3項に「財産権は義務を伴う。その行使は同時に公共の福祉に役立つものでなければならない」と定めた。この規定は、近代西欧で普遍的・生得的な「人間の権利」の一部とされた財産権の不可侵という原則を修正するものである。財産の自由への公共的な制約である。主に富裕者の権利に制限をかけることで、貧困者の権利を保障するものである。もしロックの財産に関する所有権が、不可侵の「人間の権利」だとすれば、その否定である。人権の侵害である。だが、ワイマール憲法の規定によれば、所有権の無制約こそが人権の侵害になる。財産権を巡って、自由権と社会権は鋭く対立する。社会権を権利として認めるならば、人権は歴史的・社会的・文化的な性格を持った「発達する人間的な権利」でなければならない。
 ところで、ワイマール憲法は、国家体制の規定に問題点を孕んでいた。この憲法は、議会制デモクラシーによるとともに、マックス・ウェーバーの提案により、大統領制を採用した。直接選挙で選出された大統領を国家元首とし、大統領に首相の任免権、国会解散権、憲法停止の非常大権、国防軍の統帥権など、旧ドイツ皇帝なみの強大な権限を与えた。任期は7年と長期だった。しかし、共和国政府の権力基盤は不安定で、危うさを秘めていた。国会の選挙方式は比例代表制だが、少数政党乱立を防止するための最低得票率制限がなかった。そのため、少数の複数政党による連立内閣となることが多く、議会政治は安定しなかった。ヒンデンブルク大統領は軍人上がりで、第一党の社会民主党を信頼せず、自らの指名のみを基礎とする大統領内閣を組織させた。そのため、大統領内閣の首相は議会で多数派を確保できず、法案制定を大統領命令に頼るようになった。この不安定なワイマール体制からナチスが台頭する。当時最も良く人権を保障していた憲法のもとで、ユダヤ人の権利を蹂躙するナチスの暴虐が繰り広げられたのである。権利を保障するものは憲法の文言ではなく、現実の政治的権力であることを、この史実はよく示している。

 

●ヴェルサイユ体制下のドイツ

 ワイマール憲法が制定される約2か月前、1919年6月にパリでヴェルサイユ条約が締結された。それによってヴェルサイユ体制と呼ばれる戦後国際秩序が形成された。この体制は、戦勝国が敗戦国に報復をし、戦勝国による秩序を固定化しようとするものだった。
 敗戦国ドイツは、不利な講和条約を結ばざるを得なかった。ドイツは海外の全植民地を失った。また軍備を制限され、ラインラントの一部は大戦後も連合軍によって占領された。さらに1320億マルクという巨額の賠償金を課せられた。戦争は集団間の権力闘争であり、勝者は権力によって敗者の権利を奪い、敗者に支配権・収奪権を振るう。敗れた集団の国民は、集団としても個人としても権利を制限・剥奪される。
 戦勝国の報復を受けたドイツは、経済破綻と天文学的なインフレに見舞われた。国民の多数が失業し、生活不安が広がった。ヴェルサイユ体制への反感は高まった。賠償金の支払いは極めて困難な課題だった。1922年後半、政府は支払いの履行政策を放棄した。賠償の一部である石炭の引き渡しが遅れると、フランス、ベルギーは実力行使に出て、23年工業地帯のルール地方を軍事占領した。これによってドイツ国内では社会不安が起こり、ハイパーインフレーションが発生した。
 こうした状況では、憲法に社会権が定められていたとしても、政府は国民に権利を保障できない。国家・国民という集団の権利が確保できていて初めて個人の権利の保障は可能になる。特に社会権は、政府への作為請求権ゆえ、国家が安泰で繁栄できていないと保障できるものではない。
 大戦を通じて世界最大の債権国となったアメリカは、ドイツの混乱を望まなかった。アメリカは、ドイツの経済が回復し、ドイツが英仏等に賠償金を支払い、その支払いを受けて英仏等の経済が活性化し、その英仏等がアメリカに債務を履行するという流れを作ろうとした。そこでアメリカは、24年にドーズ案を提示した。ドーズ案は、ドイツの賠償金支払いに具体策を示し、ヨーロッパ全体の安定を図るものだった。多額のアメリカ資本がドイツに投資され、ようやくドイツ経済は回復の兆しを見せた。それとともにドイツは、26年に国際連盟に加盟し、国際社会への復帰も果たした。しかし、復興過程にあるドイツを、今度は世界恐慌が襲った。
 1929年アメリカで大恐慌が始まった。未曽有の事態に直面したアメリカの投資家は、世界各国に投資していた資金を引き上げた。そのため、恐慌は世界に波及し、史上最大規模の世界恐慌となった。アメリカ経済への依存を深めていた各国経済は、連鎖的に破綻した。その中で特に深刻な打撃を受けたのが、ドイツだった。
 ドイツは、アメリカの多大な資本投資に支えられて、ようやく復興に向かいつつあるところだった。アメリカ資本が引き上げると、すさまじいインフレが起こり、ドイツ国民の約半数が失業状態に陥った。それを見たアメリカのフーバー大統領は、賠償等の支払いを1年間停止するモラトリアムを実施した。それでも、事態は好転しなかった。
 この世界恐慌後の経済的・社会的混乱の中で、ナチスが第1党に躍り出た。ナチスは国家社会主義ドイツ労働者党の略称である。国家社会主義は、イタリアでムッソリーニが始めた思想・運動である。ムッソリーニは、最初イタリア社会党左派に属し、社会主義から学んだものを、ナショナリズムに取り入れた。それが、ファシズムである。ムッソリーニは、軍事的圧力によって内閣を倒し、国王から首相に指名された。一党独裁体制を確立し、言論・裁判・労働組合を監督下に置き、総力戦を効果的に行うための総動員体制を日常化した。ヒトラーは、ムッソリーニのファシズムを独自に発展させた。ヒトラーは、1933年に首相に指名されると、国会で全権委任法を可決させ、当時世界で最も民主的な憲法のもと、合法的に一党独裁体制を確立した。これにより、ワイマール憲法は死文化した。この憲法は正式には廃止されぬまま、空しく人権の陳列を続けた。

 

●ナチスによるユダヤ人の迫害

 ナチスは、国家社会主義とユダヤ人を敵視する排外的民族主義とが一体になった特異な運動を推進した。ここに、国家的なユダヤ人迫害という重大な人権問題が生じた。ユダヤ人への差別は、ナチスが初めて行ったものではない。第5章にユダヤ人の自由と権利の拡大について書いたように、その根は深い。また、ユダヤ人への迫害は、西欧だけでなされたことでもない。19世紀末ロマノフ朝圧制下のロシアで、ユダヤ人は「ポグロム」と呼ばれる虐待・虐殺を受けた。多数のユダヤ人が、国外に出国してアメリカ等に移民するか、国内に残って帝政打倒の政治運動に参加した。ボルシェヴィキの幹部には、ユダヤ人が多かった。トロツキーやジノヴィエフ等がそうである。スターリンは、彼らユダヤ人幹部を次々に粛清した。その後も、ソ連におけるユダヤ人差別は続いた。社会主義または共産主義は、人種問題・民族問題を解決するというのは、虚偽の宣伝である。
 だが、ナチスによる迫害は、政府によって組織的・計画的に行われ、またその規模において、前例がない。迫害は第2次世界大戦前から行われていた。戦争による虐待・虐殺とは、別の人種差別によるものである。
 ワイマール共和国時代のドイツは、それまでの歴史において、ユダヤ人が最も活躍した社会だった。物理学者アインシュタインをはじめとして、ノーベル賞受賞者が11人も続出した。“ワイマール憲法の父”プロイス、外務大臣ラーテナウ、法学者イェリネック、フランクフルト学派のホルクハイマー、アドルノなど、科学、政治、経済、文学、美術、報道等の多彩な分野で、ユダヤ人の才能は大きく開花し、驚異的な活動を行った。
 ところが、それゆえにこそドイツ人のユダヤ人への反感が強まった。ドイツでも中世以来、ユダヤ人への差別・迫害が行われていた。ナチスは、そうした国民の伝統的な反ユダヤ感情を増幅させ、ユダヤ人に対する迫害を行った。多くの優秀なユダヤ人が国外に亡命した。
 第2次世界大戦開始後、ナチスによる人種差別的な迫害はさらに激しくなった。通説によると、強制収容所への収容、強制労働、毒ガス等によって、600万人のユダヤ人が犠牲になったとされている。毒ガスの使用や犠牲者の数等、通説には多くの疑義が出されている。だが、いずれにしても大規模に国家的な迫害が行われたことは事実である。
 第2次世界大戦後の人権問題への取り組みの重要な動機の一つが、ナチスによるユダヤ人への迫害だった。国際的なユダヤ人の生命と尊厳、自由と権利を守るにはどうすべきか。外国に亡命を希望する被迫害者、国籍を失った人間、彼らの権利とは何か、誰がどのように守るかという課題が生じた。この点は、後に改めて書く。

●杉原千畝・樋口季一郎・安江仙弘

 ここで強調しておきたいのは、戦前のわが国は、日独伊三国軍事同盟によってドイツと同盟を結び、国家の針路を大きく誤ったものの、ナチスによるユダヤ人迫害には加担していないことである。逆に迫害を受けたユダヤ人を支援した日本人がいた。特筆すべき事例として、杉原千畝・樋口季一郎・安江仙弘がある。
 1940年(昭和15年)夏、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人がリトアニアに逃亡した。彼らは当地で各国の領事館・大使館からビザを取得しようとした。しかし、リトアニアはソ連に併合されており、ソ連政府は各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。そこでユダヤ難民は日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。この時、彼らのために、ビザを発給したのが、杉原千畝である。第2次世界大戦の開始時、ヒトラーとスターリンには密約があった。杉原の行動は、その密約の下にドイツとソ連がポーランドを分割し、ソ連がバルト三国を併合するという状況におけるものだった。
 杉原の職を賭した勇気ある行動によってリトアニアを出ることのできたユダヤ難民は、シベリアを渡り、ウラジオストク経由で敦賀港に上陸した。うち約千人はアメリカやパレスチナに向かった。杉原によって救われたユダヤ人は、6千人にのぼると推計されている。1985年(昭和60年)、杉原は、イスラエル政府から日本人で唯一、「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞を受賞し、顕彰碑が建てられた。
 樋口季一郎陸軍少将もまた多数のユダヤ人を救出した。1938年(昭和13年)、約2万人のユダヤ人が、ソ満国境沿いのシベリア鉄道オトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するためには、満州国を通過しなければならない。しかし、入国許可は出なかった。彼らの惨状を見た樋口は、部下の安江仙弘大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
 大戦末期、樋口はソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与え、北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口は、安江とともに、イスラエル建国功労者と称えられ、その名が「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、功績が顕彰されている。

 ユダヤ人を迫害したナチス・ドイツと誤った提携をしたわが国ではあったが、こうした人道的な行為をして感謝されている日本人がいることは、わが国の誇りとすべきである。

 

●世界恐慌と経済的権利の保護

 第1次世界大戦末期にロシア革命が起こり、欧州と世界は共産主義の脅威に直面することになった。自由主義と統制主義の激しい対立が国際間に広がった。
 1920年代には、資本主義は、ものの生産より金融が中心となり、金融市場は賭博場と化していた。自由放任的な経済活動は、投機的な投資の大規模化を許した。そのなかで、資本主義は強欲資本主義に変貌した。そして1929年、世界恐慌が起こった。世界恐慌のドイツへの影響については先に書いたが、ここでアメリカにおける展開を述べる。
 大恐慌は、繁栄の絶頂にあったアメリカで始まった。1920年代のアメリカは、世界最大の工業国としての地位を確立し、大戦後の好景気を謳歌していた。好景気でだぶついた資金は株式市場に流入した。投機熱によって、ダウ平均株価は24年からの5年間で5倍も高騰した。29年9月3日、ダウ平均株価は過去最高価格を記録した。しかし、その一方、アメリカでは、農業不況の慢性化、鉄道や石炭産業部門の不振、合理化による雇用抑制等が生じていた。29年に入ってからは、工業製品が生産過剰に陥っていた。
 これらの要因が複合して、10月24日ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した。株価は投資家の買い支えで、一時安定したものの29日には再び大暴落した。もはや手の打ち様がなかった。株価は、9月のピーク時の約半分にまで下がった。わずか1週間で、当時のアメリカの連邦年間予算の10倍にも相当する富が消失した。銀行や工場は次々と閉鎖に追い込まれ、かつてない恐慌に発展した。
 恐慌発生後、フーバー大統領は、従来の不況対策程度の政策しか行っていなかった。混迷を打開するため、大胆な政策を提案したフランクリン・D・ルーズベルトが、現職大統領を破って、1933年に大統領に就任した。
 就任後、ルーズベルトは、議会に働きかけて矢継ぎ早に法案を審議させた。3ヶ月ほどの間に、各種法案が可決された。ルーズベルトは、全国産業振興法(NIRA)で労働時間の短縮や最低賃金の確保、農業調整法(AAA)で生産量の調整、民間資源保存団(CCC)による大規模雇用、テネシー川流域開発公社(TVA)等の公共事業による失業対策等を、強力に進めた。これらの一連の政策を、ニューディール政策という。ニューディール政策は、政府は市場に介入せず、経済政策は最低限なものにとどめる自由主義的な経済政策から、政府が積極的に経済に関与する統制主義的な経済政策へと一部転換したものだった。
 1933年に、アメリカの失業率は25.2%という最悪の数字を記録した。だが、ニューディール政策は効果を上げ、37年には14.3%に失業率が下がった。景気も回復の兆しが現れた。しかし、35年には、政策のいくつかに対し、最高裁が違憲判決を出した。また、統制主義的な政策には、反対勢力が根強く存在した。そのため、ルーズベルト政権は、中途半端な形でしか政策を実行できなかった。38年、累積債務の増大を憂う財政均衡論の意見に押されて、政府は連邦支出を削減した。すると、GNPは6.3%減少、純投資はマイナスに転化、失業率は19.1%に跳ね上がって、危機的な状況に陥った。
 この間、ドイツでは、ヒトラーが全体主義的な政策を行って、45%にも達していた失業率を着実に下げ、39年には失業者数を20分の1にまで減らした。アメリカの政治は議会制デモクラシーであり、ルーズベルトは、全権力を掌中にしたヒトラーのようには、大胆な公共投資を行えなかった。
 結局、アメリカが失業問題を解決できたのは、第2次世界大戦が始まってからである。軍需の増加によって初めて完全雇用を実現できたのである。そのうえ、アメリカの工業生産は、戦争中かつてない規模に拡大した。私は、ニューデュール政策は壁にぶつかっていた、だからルーズベルトは大戦に参戦するチャンスを得ようとしていたのだと思う。
 ここで重要なのは、いかに政府が国民の自由と権利を保障しようとしても、経済が安定しなければ、保障をし得ないことである。

●ケインズによる資本主義の変革

 世界恐慌後、欧米各国は失業者であふれた。新古典派経済学の理論は、非自発的な失業を想定しておらず、この事態にまったく対応できなかった。ここで失業の問題に取り組み、新たな経済理論を創出したのがケインズである。
 ケインズは、実際の貨幣の支出に裏付けられた需要を「有効需要」と呼び、社会全体の有効需要の大きさが産出量や雇用量を決定するという「有効需要の原理」を説いた。ケインズはこの原理に基づいて、政府による「総需要管理政策」の理念を打ち出し、経済学に変革をもたらした。経済政策にも大きな変化を与えた。
 ケインズの理論は、経済活動の自由に一定の規制を行い、それによって、自由主義を崩壊から守ろうとする理論である。失業は、国民の労働する権利、生活する権利を実現できない状態である。政府が有効需要を創出して雇用を生み出すことは、労働する権利、生活する権利を国家的に実現しようとするものである。ケインズは、自由放任的な資本主義の欠陥を修正することによって、資本主義の崩壊とそれによる共産主義革命の勃発を防ぐ方法を示した。
 ケインズの理論と政策はイギリスの国策に取り入れられ、またアメリカのニューディール政策に理論的根拠を与えた。経済的自由に一定の規制がかけられた。特に金融に関する規制が行われたことで、投機的な活動が抑制された。英米はケインズ主義によって経済的危機を脱した。共産革命の欧米への波及を防ぎ、またナチス・ドイツとの戦争に勝利することができた。いわば左右の全体主義から自由を守ることに、ケインズは重大な貢献をしたのである。もし人々が個人の自由を優先し、政府による規制を拒否していたら、全体主義から自由を守ることはできなかっただろう。またもし政府が自由放任的な自由の維持に固執していたら、逆に全体主義の支配下に陥り、自由を失っていただろう。自由の無制限の追求は、自由の喪失に結果したかもしれないということである。

 

●「資本の論理」に対する「国家の論理」の強権発動

 本稿は、しばしば集団の権利あっての個人の権利であることを強調しているが、このことは資本主義経済においても、同様である。世界恐慌が起こった場合、個人の自由と権利に基礎を置く自由放任の政策では、国民経済は回復し得ない。需要が極度に縮小した状態では、政府が有効需要を作り出し、民間の投資を喚起しなければならない。政府が積極的に雇用を生み出し、失業者を減らしてこそ、労働者及びその家族の権利を保護することができる。
 かつてマルクス及びマルクス主義者によって、資本主義は、私有財産制と契約自由の原則に基づいて、資本家の私的利潤獲得のために生産が行われるから、社会全体の生産は無政府的性格を持つとされた。マルクスは、19世紀後半の景気循環から、恐慌による資本主義の破局を予想した。19世紀末から20世紀初め、その予想は外れ、マルクスは権威を失った。しかし、世界恐慌は、彼の予想が現実になったものという見方が広がった。1930年代、先進国の知識人の多くが共産主義に共鳴し、共産主義への移行は歴史の必然であると考えるようになった。
 しかし、ニューディール政策やケインズ主義によって、資本主義は回復力を発揮した。それは「国家の論理」によって「資本の論理」を制御したからである。この過程を権力論的に述べると、資本は社会的権力である。この社会的権力が市場で猛威を振るい、国民経済や市場を破壊する事態となったものが、恐慌である。これに対し、政府の政治的権力で資本の社会的権力に規制をかける動きが、ニューディール政策であり、ケインズ主義である。
 「資本の論理」は利潤追求の論理であり、経済的合理主義に貫かれている。これに対し、国家は歴史的・文化的な共同体をもとに形成された組織であり、領域と人民を統治し、国民共同体を維持・発展させることを目的とする。「資本の論理」と「国家の論理」は異なっており、それぞれの目的に向かって活動する。資本の社会的権力と政府の国家的権力は、共通の利益を追求する協同的な関係になることも、利害の対立する闘争的な関係になることもあり得る。資本主義が崩壊の危機にある時には、「国家の論理」が発動する。政府の国家的権力によって、経済の秩序を回復させる以外にない。
 所有の自由に対する一定の規制、政府による市場への介入、資本の経営への政府の統制、私的所有から社会的所有への部分的転換、これらを施行する法の制定等が各国で行われた。こうした政策を通じて、資本主義は政府の介入を受け、一定の管理のもとで経済活動が行われるようになった。その結果、現代の資本主義は、管理された資本主義に転換し、修正資本主義となっている。
 「国家の論理」は、国家と国家の間においても作動する。世界恐慌後、植民地や従属国を多く持つイギリスは、1932年保護関税政策を始め、さらにイギリス連邦内に特恵制度を取って、スターリング・ブロックを設定した。フランスもこれに対抗して、植民地を基盤として、自国中心のフラン・ブロックを形成し、域外からの輸入品に高い関税をかける等の措置を講じた。アメリカは、33年からニューディール政策を実施するとともに、関税引き上げなど保護主義的な政策を行い、ラテン・アメリカ諸国との外交を強化し、通商の拡大に努めた。資本主義列強が取ったこうした経済政策が、ブロック経済である。
 排他的な経済圏の成立は、第1次世界大戦で植民地を失ったドイツや、もともと経済基盤の弱い日本、イタリア等の経済を一層悪化させるものとなった。これらの国々では、危機を打開しようとして、排外的なナショナリズムや全体主義が台頭した。
 こうして、第1次世界大戦後、戦勝国によって築かれた国際社会の秩序は、世界恐慌によって大きく動揺した。各国は自衛と生存のために、自己本位の政策を推し進めた。その結果、アメリカ、イギリス、フランス等の「持てる国」とドイツ、イタリア、日本等の「持たざる国」との対立が深まっていった。この対立は、先進国・後進国の間の対立ではあるが、それぞれの国民及び資本の生存・繁栄を賭けた戦いだった。集団間の自由と権利の戦いだった。
 そもそも戦争は、国家間での自由と権利の争いである。領土を奪ったり、他国民の所有物を奪ったり、財産を破壊したりする。もし所有権が普遍的・生得的な不可侵の権利なら、戦争はそれ自体が人権侵害ということになるだろう。だが、所有権はもともと絶対的なものではない。財産の所有権も生命の所有権も、自国の政府によって制限や剥奪をされ得る。他国の政府が侵攻して、規制や剥奪をすることも為し得る。権利は能力であり、奪う能力もあれば、守る能力もある。相互の承認が成立しなければ、実力によって決着をつけるしかない。戦争は権利をめぐる最大規模の戦いである。1930〜40年代の世界では、戦争による権利の追求が事実上承認されていた。第1次大戦後、国際連盟が結成され、また不戦条約が調印されたが、30年代以降の国際情勢に対して、これらはほとんど効力を発揮できなかった。
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(2)第2次大戦と人間の危機への対応

 

●第2次世界大戦による人間の危機

 第2次世界大戦は、欧米を中心に発達してきた人権を危機に陥れる出来事だった。戦争は権利と権力の闘争における究極の事態である。「人間的な権利」を根底から揺るがすだけでなく、人間そのものが危機に直面する。なかでも第2次大戦は、過去人類史上最大の危機を生み出した。この大戦は、人権の保障に関してかつてないほど深刻な課題をもたらした。
 1939年(昭和14年)9月1日、ドイツはポーランドに侵攻した。英仏はドイツに宣戦を布告し、ここに第2次世界大戦が勃発した。ヒトラーとスターリンは、密約によってポーランドを東西に分割した。スターリンは、同年11月フィンランドにも侵攻し、領土を拡張した。国際連盟は同年12月ソ連を除名した。
 40年5月10日、ドイツは電撃作戦を開始し、デンマーク、ノルウェーを占領、オランダ、ベルギーに侵攻した。6月18日、パリが占領された。市民革命によって自由・平等・友愛の理想を掲げたフランスが、全体主義の支配を受けるはめになった。ドイツの破竹の勢いを見たイタリアも、大戦に参戦した。 ヒトラーは、9月ロンドンへの空襲を開始したが、チャーチルは不屈の意思をもって国民を指導し、イギリスは粘り強く抗戦を続けた。ヒトラーは、ユダヤ国際資本との戦いを企図していた。だが、強大な資金力と緻密な情報力を持つロスチャイルド=ユダヤ・ネットワークは、徐々に劣勢を跳ね返していった。
 ヒトラーに幻惑されたわが国は1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国軍事同盟を締結した。そのため、欧米の強い反発を買った。石油確保を目指して、南部仏印に進駐すると、アメリカから対日石油輸出禁止の制裁を受けた。石油が入ってこないとは、経済活動が縮小し、ジリ貧に陥ることである。わが国の政府は、外交による事態の打開を図った。近衛文麿首相は日米首脳会談を決意し、米側に申し入れたがルーズベルトはこれを拒否した。ルーズベルトとチャーチルは、41年(昭和16年)8月14日大西洋憲章と呼ばれる共同宣言を発し、領土不拡大、民族自決、通商・資源の均等解放等の指導原則を明らかにした。
 わが国は、9月6日の御前会議において、外交努力を継続しつつも、10月上旬に至っても交渉が成立しない場合は対米英開戦を決意するという方針を決定した。国務長官ハルは、ハル・ノートを突きつけてきた。わが国の指導層は、その要求は到底呑めないと判断し、これを事実上の最後通牒と理解し、対米決戦へと歩を進めた。
 12月8日、日本は真珠湾を奇襲攻撃した。また同日、イギリス領マレーへの上陸作戦を開始した。こうしてヨーロッパで始まった戦争は、東アジア・太平洋での戦争と結合し、世界規模の大戦となった。わが国は自国の戦争を大東亜戦争と名づけ、アメリカは太平洋戦争と称した。
 1942年(昭和17年)中盤までは、ヨーロッパ、東アジア・太平洋両戦線ともに、枢軸国が優勢だった。しかし、42年6月、わが国はミッドウェー海戦で主力空母を失い、以後、戦争の主導権をアメリカに奪われた。42年6月ソ連に侵攻したドイツはロシアの冬に直面し、43年1月、第6軍がソ連軍に降伏し、以後、ドイツは各地で敗北を重ねた。42年(昭和17年)11月、英米連合軍が北アフリカから反攻を開始し、43年9月イタリアは無条件降伏した。44年(昭和16年)6月6日、連合国軍はノルマンディー上陸作戦に成功し、45年(昭和20年)に入るとドイツ領内に侵攻した。
 こうした戦争の最中、米英は、戦争の終結と戦後体制の構築を検討していた。同年2月クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによる首脳会談が行われた。彼らは、ドイツに対する戦後処理として、米英仏ソ4カ国による共同管理、戦犯処罰、非武装化を決めた。また連合国を発展させた国際機構をもって戦後世界を管理する体制に大枠合意した。この会談で、米英首脳は、スターリンに対日参戦を求め、見返りとして千島と南樺太の奪取を認めた。これは領土不拡大を宣言した大西洋憲章を曲げる密約だった。スターリンはヤルタ密約を背景に、ドイツに進軍した。アメリカ軍とソ連軍はエルベ川近くで合流し、追い詰められたヒトラーは自殺した。ドイツは正統な政府のない状態で、5月に無条件降伏した。
 わが国は3月10日、アメリカ軍のB29によって東京への空襲を受けた。一夜で約10万人が犠牲となった。一般市民を対象とした無差別攻撃であり、戦時国際法に違反した行為だった。わが国の66の主要都市が次々に無差別攻撃され、老若男女の無辜の民が斃れていった。8月6日、アメリカ軍は広島に原子爆弾を投下した。この人類史上初の原爆投下によって、約14万人の生命が奪われた。そのほとんどは、非戦闘員である。続いて9日には、二発目の原爆が長崎に投下された。約7万人が殺害された。9日未明、弱りきった日本の姿を見て、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦した。満州、樺太、千島列島等に、ソ連軍が猛然と攻め込んできた。
 ここにいたって、昭和天皇は、8月9日の御前会議において終戦の御聖断を下された。わが国は8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。ドイツと違い、日本は、正統なる政府が厳然と存在し、連合国と外交交渉を行ったので、日本の降伏は条件付き降伏だった。9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号の船上にて、降伏文書の調印が行われ、未曾有の大戦争となった第2次世界大戦は終結した。

 

●第2次大戦の世界史的意義

 第2次世界大戦は、人類がかつて経験した最大の戦争であり、そして最後としなければならない世界戦争である。第2次世界大戦には、いくつか重要な意義がある。私は、人類史的意義、文明学的意義、国際関係論的意義の三つを挙げたいと思う。
 第一に、第2次大戦の持つ人類史的意義とは、人類史の大きな区切りとなったことである。私は、1945年(昭和20年)以降を現代と呼んでいる。
 第2次大戦での死者は5000万人を超え、なかでも民間人の犠牲者数は3400万人に達したといわれる。それほどの犠牲者を生んだのは、この大戦は第1次大戦以上の総力戦となったからである。高度な総力戦では、相手国の生産力や国民の士気を奪うことが重要となる。そのために爆撃機による無差別攻撃が行われ、多くの一般市民が犠牲となった。またこの大戦は、科学技術を大幅に発達させた。科学技術の発達が陸海空の兵器の破壊力を増大させた。レーダー、航空母艦、ミサイル等が開発され、実戦に使用された。その中でも突出した威力を持つものこそ、原子爆弾である。
 原子力の開発・利用によって、人類は新たな歴史の段階に入った。自然に内在する巨大なエネルギーを人間が使用できるようになったことで、人類は飛躍的に発展することもできれば、核戦争によって自滅することもありうる。そういう段階に、人類は入ったのである。それゆえ、私は、人類史の大きな区切りとして、1945年(昭和20年)以降を現代と呼ぶ。
 第二に、第2次大戦は、文明学的意義を持つ。大東亜戦争は、アジア・太平洋の広域に繰り広げられた、「文明の挑戦と応戦」の一大ドラマだった。白人種の文明と有色人種の文明という異質な文明同士が激突した。そして、日本の近代化や日露戦争に見られるように、世界の中心が西洋から東洋へと移行していく「時」の流れを、そこに見ることができる。
 その「時」の流れを巨視的に洞察していた大塚寛一先生は、日本が欧米との戦争に踏み込むことなく、厳正中立・不戦必勝の対策を提示された。ところが、当時の日本の指導者は、日本とアジアの発展の時を見誤って、戦う必要のない無謀な戦争に突入してしまった。東条英機らが描いた大東亜共栄圏構想は、花に例えれば、人工的に早咲きさせようとして、かえって花を散らせてしまったようなものである。西洋文明が産んだ独伊のファシズムを模倣して、力づくで無理矢理に進めたため、自然の法則に外れ、狂い咲きとなってしまったのである。これは誠に残念なことだった。
 しかし、その半面、時の勢いはすでにアジアに向かっていたから、大東亜戦争は、アジア諸民族の独立・解放のきっかけとはなった。20世紀後半から21世紀にかけて人類が目の当たりにしているアジアの興隆は、第2次世界大戦で欧米諸国が互いに傷つけ合い、日本が白人種による植民地支配を突き崩し、アジア諸民族が独立運動を行ったことに始まる。わが国が大東亜戦争をアジア解放の戦いとしたことは、その点で意味がある。だが、だからといって、独伊との同盟を正当化することはできないことは強調せねばならない。
 第三に、第2次世界大戦には、国際関係論的意義がある。第2次大戦は、国際社会の構造に大きな変化をもたらした。大戦後の国際秩序は、米英ソ参加国の首脳によるヤルタ会談とポツダム会談によって、大枠が決められた。それゆえ、ヤルタ=ポツダム体制と呼ぶことができる。
 米英ソの連携を支持する者は、第2次大戦を「民主主義対ファシズムの戦い」と称する。しかし、ソ連の国家体制は全体主義であって、自由民主主義ではない。米英とソ連を結んだのは、思想・体制ではなく、主権国家としての利害関係である。第2次大戦は、同盟国群の間の戦争であって、「連合国対枢軸国の戦い」としか言えない。近代世界システムの中核部における覇権争いである。その争いにおいて、日独伊は惨敗し、英仏蘭等は後退し、米ソが躍進した。その結果、戦後、アジア、ついでアフリカでは、抑圧されていた諸民族の多くが独立した。
 国際社会は、軍事的には、連合国が国際機構に再編された。いわゆる国際連合が国際秩序の要となった。やがて安保理常任理事国の五大国による核の寡占管理体制が形成されていった。一方、経済的には、大戦前の列強による分割支配・ブロック経済は、大戦後、米ソ二大国の系列支配・体制圏経済に移行した。資本主義対共産主義、自由主義対統制主義の対立が世界的に構造化された。資本主義・自由主義の体制圏では、アメリカを中心とする国際経済体制が構築された。ブレトン・ウッズ体制がそれである。共産主義・統制主義の体制圏では、ソ連を中心とする国際経済体制が構築された。こちらでは、共産党による計画経済が試みられた。
 第2次世界大戦は、戦争という破壊によって、こうした新しい国際社会の構造を生み出した。そこに国際関係論的な意義がある。
 こうした三つの意義のある第2次大戦は、人権の発達においても、大きな画期をなすものとなった。大戦を通じて、人権は現代世界の中心思想の一つとなった。人権の国際的保障が求められ、人権に係る国際法と国際機構が大きく発達した。その一方、第2次大戦の反省と総括が徹底してなされていないことによる問題点も残存している。

 

●人権が現代世界の中心思想に

 第2次世界大戦後、人権は現代世界の中心思想の一つになった。近代西欧に生まれた人権の思想が、文明や宗教等の違いを超えて、一見普遍的な思想として世界に広がった。そのようになる前は、西洋文明諸国による有色人種の植民地支配の時代が、15世紀末から20世紀中半まで400年以上続いた。もしすべての人間が人間として生まれながらに持つ権利が人権だとすれば、この数世紀は、有色人種が歴史上最も人権を蹂躙されていた時代だった。一方、西洋文明諸国における権利の拡大は、非西洋文明の諸民族の権利に対する侵害と並行していた。周辺部の支配あっての中核部における自由と権利の拡大だった。
 第1次世界大戦後、欧米で人権の国際的保障の萌芽が現れた。先に書いた少数民族保護条約、国際労働機関の設立、不戦条約等が挙げられる。だが、それらは欧米中心のものだった。第2次世界大戦を通じて、国際的な人権保障が大きな課題となった。ナチス・ドイツの暴虐によって、人権を各国の国内法で保障するだけでは不十分であり、国際的に保障する必要性が認識された。1941年(昭和16年)8月に英米により発表された大西洋憲章は、「恐怖及び欠乏からの解放」と「生命を全うすることを保障するような平和の確立」を掲げて、人権の尊重を戦争目的に掲げた。人権の国際的保障の整備は、連合国の欧米諸国民及び欧米各地に居住するユダヤ人の権利の確保を主に進められた。国際的人権保障の制度的な仕組みが飛躍的に整備された。その一方、ソ連及びソ連が侵攻・支配した東欧諸国の国民の権利は、共産主義政権によって逆に抑圧状態に置かれた。
 第2次大戦は、連合国によって、連合国と枢軸国の戦い、デモクラシー諸国と全体主義諸国の戦いとされたが、西洋白人帝国主義に対するアジア解放の戦いという側面があった。イギリス、オランダ、フランス等の植民地では、大戦の最中から有色人種が独立を求める運動を起こし、大戦後、次々に独立を勝ち取っていった。
 有色人種が白人種の支配から解放され、独立を獲得する過程は、国民国家という組織体制が、近代西洋文明から諸大陸の文明に伝播する過程でもあった。そして、欧米が作った国際社会に、有色人種が欧米由来の独立主権国家を作って参入し、1960年代には多数のアジア・アフリカの新興国が国際連合に加盟し、世界人権宣言に賛同した。それによって非西欧社会が、西欧的な「人間は生まれながらに自由で、平等の権利を持つ」という思想を受け入れてきた。それによって、人権の思想が非西洋文明の諸社会に伝播することになった。
 独立解放後も、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの諸国民・諸民族は、依然として西洋文明の圧倒的な影響下にある。非西洋文明の多くの文明は西洋文明の周辺文明と化しつつある。思想的にも、合理主義・個人主義・自由主義・デモクラシー(民衆政治参加制度)・ナショナリズム(国民主義・民族主義・国家主義)などが、広く非西洋文明の諸社会に浸透している。その中の一つとして人権の思想がある。そして、現代世界の中心思想の一つとなってきている。
 だが、そもそもアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの有色人種は、新たな権利を取得したというより、白色人種によって権利を侵害・剥奪され、家畜同然の奴隷状態に置かれていた状態から、もともと持っていた権利を回復したのである。そのことに注意する必要がある。彼らはこの回復した権利を、近代西欧発の人権思想を援用して理解しているのである。

 

●人権の国際的保障と国際法の発達

 今日、人権に係る問題は、各国の国内における問題であるとともに、国際社会における問題ともなっている。この点を法制度と国際機構について、見ていこう。
 まず法制度について、各国には法規範として国内法があるが、国際社会には、国際的な法規範として国際法がある。国際法は、西欧において近代主権国家が形成されたことにより、国家間の法として発達した。17世紀前半にグロティウスが、人間理性に基づく人定法として、国家法のほかに国家間・国民間に共通の法として万民法があるべきことを主張したのが、はじめである。その後、西欧で発達した国際法は、19世紀後半から世界に広まった。国際法において人権観念が発達し、その擁護が主張されるようになるのは、20世紀になってからである。
 今日では人権に関する国際的な規範は、国際法の一部となっている。わが国では、ともすると人権を自国の憲法との関係でばかり考えがちだが、それに偏ると島国社会での狭い議論に陥る。かえってそのために、人権に係る国際機関の勧告や、外国人の権利問題において有効な反論ができない状態にある。特に伝統尊重的保守の一部にその傾向があると私は強く感じている。だが、人権を考察するには、国際法の基礎知識が欠かせない。
 国際法は、条約と慣習国際法を主要な構成要素とする。条約は締約国のみを拘束し、第三国を拘束しないのに対し、慣習国際法は国際社会のすべての国家を拘束する。国際法違反を犯した国家には国家責任が生じ、原状回復、損害賠償、陳謝といった事後救済の義務が生じる。しかし、現在の国際社会にはそれを強制執行する仕組みは確立されていない。国際社会では、客観的な事実認定、違法性認定や法適用について制度的な保証がない。そのため、被害国の自力救済措置が認められてきた。自力救済措置とは、自衛権及び非軍事的復仇である。
 第2次大戦中、連合国は、現在国際連合と呼ばれている国際機構を創設し、国際秩序の形成を行うとともに、人権の国際的保障に努めることとした。国連については、次の項目で述べる。
 国際法の重要な機能の一つとして、各国の国内法の変更及び発展を外から促進するという役割がある。ただし、これも促進ということであって、強制力はない。
 国際法と国内法の関係については、両者は別箇の法秩序とみる二元論と、統一的な法秩序を構成するとみる一元論がある。一元論には、国際法をもって国内法を委任する上位秩序とみる国際法優位説と、国際法をもっていわば国内法により委任された法秩序とみる国内法優位説がある。後者の国内法優位説の一元論は今日ほとんど支持を失っているが、二元論と国際法優位的な一元論の間には論争があり、決着がついていない。
 国際法と国内法との効力の上下関係については、各国の憲法体系に委ねられている。国内で条約がどのような効力を持つかについては、各国の憲法が定めている。条約が国内的効力を持つために国内法への変形が必要であるという変形方式を取る国と、条約を国内法に一般的に受け入れてその国内的効力を認める一般的受容方式の国に大別される。前者はイギリス、カナダ等であり、後者は日本、米国、フランス等の多くの国々である。条約にどのような国内的効力順位を与えるかについてもまた各国の憲法が定めている。わが国では、憲法、条約、法律、命令、規則という順位が成立している。条約が憲法に優越するという考え方もあるが、その場合、国家主権に優越する権力を認めることとなり、国連等の国際機関は各国の国家主権以上の権力を持つと仮定するに等しい。
 だが、一般に法は、権利義務関係を体系的に表現し、究極的には物理的強制力によって権利を実現する。法を裏付ける強制力は、実力である。国内法は、政府が実力を独占し、抵抗する者には強制執行や刑罰を行う。国際法は、国際社会には国家間を超えた実力装置が未整備であるので、究極的な強制力を持たない。その点で、国際法は国内法に比べて、法としての性格が不十分である。国際法の国内法に対する優位は理念的なものであり、現実的には各国は主権の発動により、対抗することがある。各国の憲法と条約の関係は、憲法が優位と考えるのが妥当である。人権の考察においても、この点をよく押さえることが重要である。
 次に、人権に関する国際法は、国際人権法という。国際人権法は、International Law of Human Rightsの訳語である。国際人権諸条約が定義する人権を、国際人権と呼ぶ。国際人権は、International Human Rightsの訳語である。国際人権諸条約の特徴は、国家間の利害調整によって国家の相互的な利益を実現することを目指すものではなく、国家の壁を越えて、人間的な権利を相互に保障しようとしていることにある。
 国際法及び国際人権法の一部をなすものに、世界人権宣言、国際人権規約(自由権規約、社会権規約、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約等がある。国際法及び国際人権法の具体的な内容については、国際機構に関する項目に書くが、国際的な法制度が発達することによって、人権は現代世界の中心思想の一つとして多数の国々に浸透してきたのである。
 国際法は、かつて平時国際法と戦時国際法に分かれていたが、戦時国際法は今日、国際人道法と呼ばれる。国際人権法が主に平和時に適用される国際法であるのに対し、国際人道法は武力紛争時に適用される国際法であり、敵対行為の遂行や兵器の使用、戦闘員の行動や復仇の行使等を人道原則によって規制する。国際人権法と国際人道法は別々に発達したものだが、個人の権利の保護を目的とする点は共通している。国際人権法は平時だけでなく、武力紛争が発生した場合にも適用を予定している条文がある。平時・戦時を問わず、人権を尊重するための国際法として、国際人権法と国際人道法は補完的な関係となっている。

 

●国際連合の創設

 次に国際機構について述べる。人権が現代世界で中心思想の一つとなり、人権に係る法制度が発達してきたことにおいて、国際連合が果たしている役割は大きい。
 わが国の多くの人は、国連は国際社会の平和な秩序を維持するための人道主義的機構だ、というイメージを持っているようである。現実の国連に、あるべき理想を投影している人が多いのではないか。日本人はまず国連とは何かをしっかり理解する必要がある。
 国際連合は、わが国では国際連合と訳されているが、もともと第2次大戦における「連合国」のことに他ならない。第2次大戦の連合国が、発展的に国際機構になったものが、いわゆる国際連合である。英語では、一貫して the United Nations であり、実体は同一である。中国では、戦後も the United Nations を「聯合国」と表記している。連合国である。しかし、わが国では敗戦後、連合国を「国際連合」と訳すようになった。ここには明らかな自己欺瞞がある。
 「国際連合=連合国」は、1941年(昭和16年)8月に英米により発表された大西洋憲章に萌芽を見る。大西洋憲章には、戦後の平和維持体制や国際連合の基礎となる国際秩序の構想が盛り込まれた。この憲章の基本原理を取り入れて、42年1月に連合国共同宣言が出された。
 戦争の大勢が決した43年(昭和18年)以降、動きが加速した。この年、モスクワで開かれた米英ソ外相会談で平和機構設立が宣言された。これに中華民国(当時の中国)も署名した。米英ソ中の代表は、44年(昭和19年)8月ワシントン郊外で開催されたダンバートン・オークス会議にて、国際連盟に代えて国際連合を設立することを決めた。そして「国際連合憲章=連合国憲章(Charter of the United Nations)」の草案が作成された。
 注目すべきことは、「憲章」の作成過程において、1945年(昭和20年)2月、ヤルタ会談が行われたことである。この会談は、米英ソの三巨頭、F・D・ルーズベルト、チャーチル、スターリンが行った秘密会談である。会談では、まず敗北が決定的となっていたドイツの戦後管理が話し合われた。首脳は、米英仏ソ4カ国による共同管理、戦犯処罰、非武装化を決めた。日本に対しては、対日参戦秘密協定が結ばれた。米英首脳は、スターリンに対日参戦を求め、見返りとして千島列島と南樺太の奪取を認めた。大西洋憲章は領土不拡大を宣言していたので、これを曲げる密約だった。また連合国を発展させた国際機構をもって戦後世界を管理する体制に大枠合意し、その機構を創設する会議を同年4月に催すこととした。こうして、米英ソの間で秘密協定が結ばれた。
 ヤルタ密約の4か月後、「国際連合=連合国」の憲章が採択された。1945年(昭和20年)6月のサンフランシスコ会議においてである。この時は、日本がまだ米国等と戦っている最中だった。51カ国が「国連憲章=連合国憲章」に調印した。「憲章」は、枢軸国と戦う連合国の憲章だった。
 日本の敗北による大戦の終結の後、45年10月に原加盟国51カ国で、国際機構としての「国際連合=連合国」が改めて発足した。この時点では国際連盟は存続していた。国際連合は国際連盟が発展してできた組織ではない。まったく別に立ち上がった機構である。国際連盟の設立の経緯、国際連盟と国際連合の違いは、拙稿「現代の眺望と人類の課題」に詳細を書いたが、国際連盟は、第1次世界大戦後、国際平和を実現するために設立された組織である。勝者と敗者を等しく包含し、すべての加盟国が平等だった。大国に拒否権を認める制度はなかった。これに対し、国際連合は、第2次世界大戦において、戦争に勝利するために締結された軍事同盟が国際機構に発展したものである。連合国は、日独伊枢軸に対抗するため、米英ソ等がイデオロギーの本質的な違いを無視した合従連衡によって提携した。国際連合の創設は、1945年10月24日。国際連盟が解散したのは、その翌年の46年4月19日。二つの機構は、約半年間は共存していたわけである。
 アメリカは議会の反対により、国際連盟には加盟していなかった。連盟とは別に、新たにF・D・ルーズベルト大統領の構想によって、アメリカが主導的に創設を進めたのが、国際連合である。それゆえ、国連は、アメリカの国益を実現するために創設されたという側面がある。「国連本部=連合国本部」は、アメリカ・ニューヨークにある。国連本部の土地は、ロックフェラーが寄付した。
 国連は、アメリカを中心とする戦勝国の論理で作り上げられた世界支配のための機構である。勝者による秩序の固定化が目的である。戦争に勝利するための軍事同盟の延長であって、もとは恒久平和をめざす思想によって作られたものではない。大戦で戦勝国は密約や国際法違反の行為によって、敗戦国から領土や権利を奪った。これは戦争犯罪である。だが国連憲章は、第17章第107条に、それらはいかなることがあっても返す必要がないと規定した。
 国連の本質は、当初から今日まで一貫して軍事同盟である。そのことを示す事実を三点指摘したい。
 第1点は、ソ連の加盟である。ソ連は第2次大戦前には、共産主義革命を輸出する危険な国家とみなされていた。多くの国が対ソ反共政策を取った。大戦の初期、ソ連はフィンランド侵攻の非により、国際連盟から除名された。ところが、米英は、大戦の途中から、日独と戦うためにソ連と手を結んだ。国際連盟から追放された国が、平和を愛好する国家の一員に成り代わった。アングロ・サクソン流の原理原則なき外交が、ソ連を飛躍的に成長させた。そうしたソ連が国際社会で発言力、影響力を増していった。ここで作られたのが、第2次大戦は「民主主義対ファシズムの戦い」という虚偽の構図である。ソ連は「民主主義」の国家とされたが、実態は全体主義である。全体主義のソ連と自由主義の米英が提携したのは、戦争に勝つために結んだ軍事同盟だったからである。
 第2点は、旧敵国条項である。「国際連合憲章=連合国憲章」は、旧敵国である枢軸国に対し、旧敵国条項を定めている。旧敵国条項とは、第2次大戦中に連合国の敵国であった国々に対し、地域的機関などが、安全保障理事会の許可がなくとも強制行動を取り得ること等が記載されている条項である。第53条と第107条である。条文には明記されていないが、旧敵国とは、日本、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドの7か国を指すと考えられてきた。旧敵国条項は、今も削除されていない。そこに、国連とは第2次大戦時の連合国であり、「旧敵国」と戦うための軍事同盟であることが、明らかに示されている。
 第3点は、永世中立国のスイスが半世紀以上、国連に加盟していなかったことである。2002年(平成14年)になって初めて国連に加盟した。それまで加盟していなかった理由は、国際連盟と違って、国連は武力行使を手段として用い、戦争行為を是認する機構だからだった。もっとも国際連盟は、まさにその武力の裏づけがないことによって、機能麻痺に陥り、諸国家の闘争に対してほとんど無力に終わった。スイスは、国際情勢に応じて自国の方針を変えて、国連に加盟した。
 以上の三点は、国連の本質が軍事同盟にあることを示している。そして、国連による人権の国際的保障は、この軍事同盟による「力の秩序」を前提としたものである。武力による国家間の権利と権力の関係の維持の上に、個人の自由と権利の保障が進められたのである。

 

●国際連合憲章における人権の尊重

 次に「国際連合憲章=連合国憲章」の内容について述べる。憲章は、「国連=連合国」の組織及び活動の基本原則を定めたものであり、その中にその後の人権に関する思想や国際機構を方向付けることが盛られている。
 憲章は、次のような前文で始まる。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機関を設ける。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 冒頭の原文の主語は ”We the people of the United Nations”である。日本語の公定訳は、これを「われら連合国の人民は」と訳している。「連合国の人民」、これが正確な訳である。憲章の採択は1945年(昭和20年)6月のサンフランシスコ会議においてだから、わが国は連合国と戦っている最中である。”We the people of the United Nations”は、「国際連合の人民」とは、訳し得ない。その一方、最後部では、同じ the United Nations が「国際連合」と訳し分けられている。これは日本国政府による翻訳の操作であり、自己欺瞞である。
 憲章前文は、続く文章で、基本的人権、人間の尊厳および価値、男女及び大小各国の同権に関する信念を確認している。そして、憲章は第1条に、「連合国=国連」の目的を記している。
 国際連合の目的は、次の通りである。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1 国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
2 人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること。
3 経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。
4 これらの共通の目的の達成に当って諸国の行動を調和するための中心となること。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「国連=連合国」の目的は、ここに定められているように、第一は国際の平和及び安全の維持、第二は人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係の発展、第三は経済的、社会的、文化的または人道的性質を持つ国際問題の解決、並びに人権及び基本的自由の尊重を助長奨励することについての国際協力の達成。第四は、これら三つの目的の達成のために果たす中心的な役割である。
 これらのうち第三の目的の一部に、人権に係ることが盛られている。すなわち、「人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権および基本的自由を尊重するよう助長奨励することについて、国際協力を達成すること」である。この文言を端緒として、戦後、人権の思想が世界に広がることとなった。
 憲章は、第55条で、「諸国間の平和的且つ友好的関係に必要な安定及び福祉の条件を創造する」ために、3つのことを促進しなければならないとする。第一が、一層高い生活水準、完全雇用並びに経済的及び社会的の進歩及び発展の条件、第二が経済的、社会的及び保健的国際問題と関係国際問題の解決並びに文化的及び教育的国際協力、第三が人種、性、言語又は宗教による差別のないすべての者のための人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守である。人権尊重と遵守も、他の2つと並んで諸国間の平和と友好関係の不可欠の基礎的条件とされている。ただし、国連憲章の人権に関する規定は、加盟国を法的に義務づけるものではないと解されている。国連と協力して加盟国が共同及び個別の行動をとることを規定した56条の文言も、「義務」ではなく、あえて「誓約」(pledge)という言葉を用いている。
 こうして「国連=連合国」は、「国連憲章=連合国憲章」に、人権に関する規定を設けた。人権の擁護が憲章の多くの条文で定められたのは、サンフランシスコ会議においてだった。その会議で人権に関する規定が増加された理由の一つは当時、ラテン・アメリカ諸国が人権規定の必要性を強調したからであり、もう一つはアメリカ政府代表団に顧問として加わっていた多数のNGOが人権規定の挿入を繰り返し主張したからである。注目すべきはNGOの働きかけであり、国連憲章は、NGOの要望により、第71条に次のように定めているのである。「経済社会理事会は、その権限内にある事項に関係のある民間団体と協議するために、適当な取極を行うことができる。この取極は、国際団体との間に、また、適当な場合には、関係のある国際連合加盟国と協議した後に国内団体との間に行うことができる」と。
 私は、このように憲章に人権に関する規定が多く盛られた背景として、三点が挙げられると思う。第1に、ユダヤ人に対するナチス・ドイツの暴虐によって、人権を各国の国内法で保障するだけでは不十分であり、国際的に保障する必要性が認識されたことである。第2に、大西洋憲章に「恐怖及び欠乏からの解放」と「生命を全うすることを保障するような平和の確立」を掲げて、人権の尊重を戦争目的に掲げた連合国が勝利をおさめ、戦後の世界秩序を形作ったことである。そして、これらに加えるべきものとして第3に、資本主義諸国にとって、経済活動の自由を保障するため、人権を保障することが、資本と国家の利益にかなう状況になったことである。私は、これらの3点には、ロスチャイルド家を中心とするユダヤ系金融資本家が、自らの生存と利益の確保のために、国際的に働きかけをしたことが深く関わっているだろうと推測する。国境を越えて諸国に分散して活動するユダヤ人にとっては、国家や民族を否定し、個人や市場を強調することが有利だからである。

 

●国連の組織・機関

 国連憲章は第1条に「連合国=国連」の4つの目的を定めたが、それらの目的を達成するために、6つの主要機関が設けられた。総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所及び事務局である。このうち、国際的人権保障にかかる主な機関は、総会、経済社会理事会である。
 国連は、連合国という軍事同盟のもとに、国際人権保障制度を創設した。経済的、社会的、文化的権利をはじめ、政治的、市民的権利など、国際的に受け入れられるよう権利の定義を行ってきた。同時に、これらの権利を促進し、擁護するとともに、各国の政府がその責任を果たせるように支援する機構を作り上げた。また、国際人権文書の作成、人権にかかる啓発・教育・訓練、個人通報の処理、国別・テーマ別の人権問題の研究と決議等、人権の保護と促進のための活動をしてきた。
 こうした活動に関し、国連総会は、人権の保護および基本的自由の実現を援助するため、研究を発議し、勧告することを任務の一つとする。憲章第13条1項bに定めるところである。総会は国際人権文書草案を全体会議で採択することによって、国際人権基準を設定する中心的役割を果たしてきた。総会が採択した世界人権宣言・人種差別撤廃宣言・女性差別撤廃宣言等は、勧告的な効力しか持たないが、国際人権基準を各国に提示するものとなってきた。これらの宣言に基づいて、国際人権諸条約が起草され、総会で採択された。
 総会の役割は人権基準の設定にとどまらず、人権諸条約の条約監視機関の年次報告を受領・検討し、必要な場合には勧告を行う。また加盟国の重大な人権問題を取り上げて討議し、人権侵害を非難する決議をし、あるいは人権の尊重を呼びかける勧告を採択してきた。
 次に専門機関としては、1946年に経済社会理事会の補助機関として人権委員会(Commission of Human Rights)が設立された。人権委員会は、当初単一の国際人権憲章の作成を目指した。だが、これは容易ではないことがわかり、まずすべての国によって尊重されるべき人権の具体的な内容を示す宣言を発し、一定の人権に関しては条約の形式を取るとることとし、その実施措置について検討を行った。こうして、人権委員会の起草によって、1948年に採択されたのが世界人権宣言である。
 人権委員会はその後、人権理事会に改組されている。また、その他の専門機関として、高等弁務官事務所が設けられるなどして、国連の国際的人権保障機関は強化されてきた。
 なお、国連の主要機関の一つである国際司法裁判所(ICJ)は、いち早く1945年に発足した。ICJは国家間の法律的紛争、即ち国際紛争を裁判によって解決、または法律的問題に意見を与えることを役割とする機関である。ICJの設置によって、国家間の問題を国際機関に提訴することができる仕組みができた。もっとも裁判が成立するためには紛争当事国の合意が必要である。そのため、ICJ設立後、国際紛争のうちICJで扱われた紛争はごく一部にすぎない。ICJは国連総会および特定の国連の専門機関が法的意見を要請した場合には勧告的意見を出すことができる。当事者となりうるのは国家のみであり、個人や法人は訴訟資格を持たない。ICJは人権裁判所ではなく、国際人権保障制度に直接関係する機関ではない。国連には、直接人権問題を取り扱う人権裁判所は、いまだ設立されていない。
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(3)世界人権宣言の意義と内容

 

●世界人権宣言による人権の世界化

 「世界人権宣言(the Universal Declaration of Human Rights)」は、1946年(昭和21年)、人権委員会のなかに、起草委員会がつくられ、約1年半の準備を経て、48年12月10日に、第3回国連総会で採択された。
 世界人権宣言は、「連合国憲章=国連憲章」を受けて、人権を規定した。世界人権宣言は、「憲章」あっての宣言であり、また「宣言」によって「憲章」にいう人権がより具体化された。
 世界人権宣言の和訳文が、わが国の外務省のサイトに掲載されている。65年も前に採択された宣言なのに、外務省が公開しているのは、「仮訳文」である。政府として公定訳を完成させていないのは、不思議なことである。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html
 世界人権宣言は、次のような前文で始まる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、
 人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、
 人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権を保護することが肝要であるので、
 諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、
 国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、
 加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、
 これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要であるので、
 よって、ここに、国際連合総会は、
 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 2度にわたる悲惨な世界大戦の後、連合国の国民は、世界人権宣言の前文を、次のように始めた。「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等で奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものである」と。
 続いて、「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する」と宣言した。ここに近代西洋文明で発達した人権の思想は、世界的な宣言という形で表現された。

●世界人権宣言の起草の事情

 ここで宣言の起草過程について述べると、国連人権委員会の議長は、F・D・ルーズベルト米大統領夫人のエレノア・ルーズベルトが務めた。彼女のもとで、フランスの法学者ルネ・カッサン、カナダの法学者ジョン・P・ハンフリーが中心となり、ロシア人、シナ人、中東のキリスト教徒、ヒンドゥー教徒、ラテン・アメリカ人、イスラーム教徒等の欧米以外の代表やマルクス主義者も加わって、人権宣言が起草された。
 1947年2月、ルーズベルト夫人が起草委員会を初めて招集した時、シナ人の儒家とレバノンのトマス主義者が、権利の哲学的かつ形而上学的な基礎をめぐって議論を始め、互いに一歩も引かなかった。ルーズベルト夫人は、議論を先に進めるには、西洋と東洋とでは意見が一致しないということで意見を一致させるしかない、という結論に達した。起草委員たちは、自分たちの任務は西洋的な思想を宣言としてまとめればよいのではなく、多様な宗教的・政治的・民族的・哲学的背景を踏まえて、ある限られた範囲での道徳上の普遍を定義しようと試みることだ、と明確に理解していた。それゆえ、世界人権宣言の前文は、権利の根拠として、アメリカ独立宣言の「造物主」やフランス人権宣言の「至高の存在」のような西洋的な宗教的概念を揚げていない。世界人権宣言は人権の普遍性を説明する根拠を述べることなく、人権を宣言し、権利の詳細を述べていく。それは、委員たちの間の見解の違いを越えて、最大公約的な合意が追及されたためだと理解できる。
 とはいえ、宣言のもとになったのは、イギリスの権利章典、フランスの人権宣言、アメリカの連邦憲法等、欧米で制度的に発達してきた人権の思想であることに変わりはない。実際、西洋の法学者が宣言の起草で主導的な役割意を果たした。だが、それでもなお、この第2次世界大戦終了直後の時点で、幅広い合意がなされたということは、西洋発の人権の思想には、文明や文化、宗教や思想の違いを越えて、一定の範囲で合意を形成しうる要素があったことを意味している。

 

●「人権及び基本的自由」を列挙

 前文に続いて、「宣言」は、「人権及び基本的自由」を30条にわたって列挙している。外務省の仮訳文を掲載する。

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第1条 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第2条
1 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
2 さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

第3条 すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

第4条 何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。

第5条 何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。

第6条 すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。

第7条 すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。

第8条 すべて人は、憲法又は法律によって与えられた基本的権利を侵害する行為に対し、権限を有する国内裁判所による効果的な救済を受ける権利を有する。

第9条 何人も、ほしいままに逮捕、拘禁、又は追放されることはない。

第10条 すべて人は、自己の権利及び義務並びに自己に対する刑事責任が決定されるに当っては、独立の公平な裁判所による公正な公開の審理を受けることについて完全に平等の権利を有する。

第11条
1 犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。
2 何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない。また、犯罪が行われた時に適用される刑罰より重い刑罰を課せられない。

第12条 何人も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。

第13条
1 すべて人は、各国の境界内において自由に移転及び居住する権利を有する。
2 すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。

第14条
1 すべて人は、迫害を免れるため、他国に避難することを求め、かつ、避難する権利を有する。
2 この権利は、もっぱら非政治犯罪又は国際連合の目的及び原則に反する行為を原因とする訴追の場合には、援用することはできない。

第15条
1 すべて人は、国籍をもつ権利を有する。
2 何人も、ほしいままにその国籍を奪われ、又はその国籍を変更する権利を否認されることはない。

第16条
1 成年の男女は、人種、国籍又は宗教によるいかなる制限をも受けることなく、婚姻し、かつ家庭をつくる権利を有する。成年の男女は、婚姻中及びその解消に際し、婚姻に関し平等の権利を有する。
2 婚姻は、両当事者の自由かつ完全な合意によってのみ成立する。
3 家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であって、社会及び国の保護を受ける権利を有する。

第17条
1 すべて人は、単独で又は他の者と共同して財産を所有する権利を有する。
2 何人も、ほしいままに自己の財産を奪われることはない。

第18条 すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。

第19条 すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

第20条
1 すべての人は、平和的集会及び結社の自由に対する権利を有する。
2 何人も、結社に属することを強制されない。

第21条
1 すべて人は、直接に又は自由に選出された代表者を通じて、自国の政治に参与する権利を有する。
2 すべて人は、自国においてひとしく公務につく権利を有する。
3 人民の意思は、統治の権力を基礎とならなければならない。この意思は、定期のかつ真正な選挙によって表明されなければならない。この選挙は、平等の普通選挙によるものでなければならず、また、秘密投票又はこれと同等の自由が保障される投票手続によって行われなければならない。

第22条 すべて人は、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し、かつ、国家的努力及び国際的協力により、また、各国の組織及び資源に応じて、自己の尊厳と自己の人格の自由な発展とに欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する。

第23条
1 すべて人は、勤労し、職業を自由に選択し、公正かつ有利な勤労条件を確保し、及び失業に対する保護を受ける権利を有する。
2 すべて人は、いかなる差別をも受けることなく、同等の勤労に対し、同等の報酬を受ける権利を有する。
3 勤労する者は、すべて、自己及び家族に対して人間の尊厳にふさわしい生活を保障する公正かつ有利な報酬を受け、かつ、必要な場合には、他の社会的保護手段によって補充を受けることができる。
4 すべて人は、自己の利益を保護するために労働組合を組織し、及びこれに参加する権利を有する。

第24条 すべて人は、労働時間の合理的な制限及び定期的な有給休暇を含む休息及び余暇をもつ権利を有する。

第25条
1 すべて人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。
2 母と子とは、特別の保護及び援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。

第26条
1 すべて人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない。技術教育及び職業教育は、一般に利用できるものでなければならず、また、高等教育は、能力に応じ、すべての者にひとしく開放されていなければならない。
2 教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。
3 親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する。

第27条
1 すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利を有する。
2 すべて人は、その創作した科学的、文学的又は美術的作品から生ずる精神的及び物質的利益を保護される権利を有する。

第28条 すべて人は、この宣言に掲げる権利及び自由が完全に実現される社会的及び国際的秩序に対する権利を有する。

第29条
1 すべて人は、その人格の自由かつ完全な発展がその中にあってのみ可能である社会に対して義務を負う。
2 すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当っては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する。
3 これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならない。

第30条 この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。
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 第1条は、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と述べている。
 人権を正当化する根拠に全く言及することなく、宣言は端的にこのように断言している。なぜこのように言いうるのかについては、何の説明もない。
 続いて第2条の1項では、「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」と規定している。
 同条2項は、「さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない」と禁止している。
 第3条から21条は、すべての人間が享有すべきとするいわゆる市民的、政治的権利を詳細に規定している。すなわち、生存、自由、身体の安全に対する権利、奴隷および苦役からの自由、拷問又は残虐な、非人道的もしくは屈辱的な取り扱いもしくは刑罰からの自由、法のもとに人間として認められる権利、司法的な救済を受ける権利、恣意的逮捕、拘禁または追放からの自由、独立の公平な裁判所による公正な裁判と公開の審理を受ける権利、有罪の立証があるまでは無罪と推定される権利、自己の私事、家族、家庭もしくは通信に対して、恣意的に干渉されない権利、名誉または信用に対して攻撃を受けない権利、そうした攻撃に対する法の保護を受ける権利、移動の自由、避難する権利、国籍を持つ権利、婚姻し、家族を形成する権利、財産を所有する権利、思想、良心および宗教の自由、意見と表現の自由に対する権利、平和的集会と結社の自由に対する権利、政治に参加し等しく公務に就く権利及び選挙に関する権利である。
 第22条から27条は、すべての人間が享有すべきとする経済的、社会的、文化的権利を具体的に定めている。すなわち、社会保障を受ける権利、働く権利、同等の勤労に対し同等の報酬を受ける権利、労働組合を組織し、これに参加する権利、休息および余暇を持つ権利、健康と福祉に十分な生活水準を保持する権利、教育を受ける権利、社会の文化生活に参加する権利である。
 第28条から29条は、社会的および国際的秩序についての権利、権利が制限される場合、社会に対する義務を規定する。また、これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならないと定めている。
 最後に第30条は、「宣言」の規定を権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事したり、そのような目的を有する行為を行ったりする権利を認めるものと解釈することを禁じている。

 こうした構成を持つ「宣言」を概観すると、「宣言」は古典的な自由権を主としつつ、20世紀的な人権とされる社会権をも規定していることがわかる。労働権、社会保障を受ける権利、教育を受ける権利、文化を享受する権利等である。それゆえ、「宣言」は、普遍的・生得的な「人間の権利」を定めるものではなく、歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」を定めたものと言わねばならない。世界人権宣言は、「発達する人間的な権利」を宣言した文書である。
 世界人権宣言は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言等に盛られた人権の思想を、新たな文書に表現したものである。それまでの非西洋文明の諸社会から見れば、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言等の「人間」や「権利」は、西洋文明の基本要素の一つであるユダヤ=キリスト教を基盤とする特殊な概念だった。また、近代西欧の合理主義が生み出した歴史的・社会的・文化的に特殊な概念だった。アメリカ独立宣言やフランス人権宣言は、他国の植民地人民を対象として想定していない。だが、それらの宣言の思想は文明・国家・民族の違いを超えて受け入れられる一定の伝播性をもっていた。それは根底に近代西欧で論じられた自然法・自然権というある種、普遍性を持ち得る思想に基づいているからである。そして、世界人権宣言は、特定の国民や一部の集団ではなく、人間一般の権利を擁護したものとして発せられた。
 1948年12月10日の時点では、国連総会で「宣言」が採択された。だが、真の意味での人類普遍的な思想は、まだ形成されていない。それが、世界の現状である。その点は、宣言の内容を見ることによって明らかになる。
 なお、後に「国連=連合国」とわが国の関係及び「宣言」採択の状況と目的に関する項目で述べるが、「宣言」の作成・採択は、戦勝国による人権蹂躙の行為は考慮せず、勝者の戦争犯罪は不問にした状態で行われた。崇高な理想と巧みな偽善とが、表裏一体になっていることに留意する必要がある。

 

●世界人権宣言の人間観

 次に世界人権宣言の内容について、人間観、権利、義務の順に見ていきたい。
 まず世界人権宣言にいう人間は、どのような人間観に立つ人間だろうか。「宣言」の前文は、次のように書いている。
 「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利(the inherent dignity and of the equal and inalienable rights of all members of the human family)とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので ……」
 ここで「人類社会」と訳されているのは、the human family という英語であり、「人類家族」と訳すべきものである。また、「人類社会のすべての構成員」とは「人類家族のすべての構成員」を意味する。アメリカ独立宣言やフランス人権宣言では、社会を抽象的な個人の集合ととらえているが、世界人権宣言は、社会を「家族」にたとえており、人類は一つの家族であるという考え方が示されている。
 では、「人類家族」の構成員である人間とは、どのような人間か。第1条に、次のように記されている。
 「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心(reason and conscience)とを授けられており、互いに同胞の精神(a spirit of brotherhood)をもって行動しなければならない。」
 冒頭の「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」という文言に、近代西洋文明が生み出した人間観が打ち出されている。ホッブス、ロックが主張し、アメリカ、フランス等の市民革命で発達した人間観が、約300年を経て、世界人権宣言という国際的な文書に盛られ、非西洋文明の諸社会にも受け入れられるものとなった。この第1条における「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等」という文言は、「そうありたい」という理想と希望を表したものであって、事実の命題ではない。しかし、このように記すことによって、人権が宣言された。
 ここで宣言は、単に人間は権利において平等というのではなく、「尊厳と権利とについて平等」とする。権利だけでなく尊厳においても平等としている。尊厳という文言は、憲章の前文にある「人間の尊厳と価値」(the dignity and worth of the human person)を受けたものである。宣言前文は、より明確に「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等で奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものである」と記した。この思想は、さらに1965年の人種差別撤廃条約、79年の女性差別撤廃条約、89年の子どもの権利条約の各前文に取り入れられ、93年の「ウィーン宣言及び行動計画」も前文に「すべての人権は人間に固有の尊厳と価値に由来し」と謳った。
 しかし、人間の尊厳とは何かについて、これらの国際文書は何も語っていない。「尊厳」は、英語 dignity の訳語であり、dignity の原義は「価値のあること」。そこから「尊さ、尊厳、価値、貴重さ」などを意味する。「尊厳」という漢語については、「広辞苑」は「とうとくおごそかで、おかしがたいこと」と解説している。近代以前の西欧では、王侯・貴族は dignity を持つとされた。これは人間のうち、王侯・貴族は dignity を持つが、それ以外の人間には dignity はないという考え方である。家柄や身分によって、人間の価値が異なるという価値観である。これに対し、世界人権宣言は、すべての人間は等しく dignity を持つと宣言した。しかし、dignity の定義、及びなぜ人間は dignity を持つかの理由について、言及していない。
 今日一般には、人間の尊厳は、人間が事物または動物とは異なり、精神、良心、自由意思等を持つという事実を根拠とするものとされ、その価値は近代西欧で発見されたが、人類の起源とともに人間に備わっていたものと想定されている。この想定には、潜勢的な価値が現勢化したという論理と、近代西欧で創出された観念を過去に投射したという論理がある。前者の論理の典型は、ヘーゲルの世界史における自由の実現という弁証法的な歴史哲学である。だが、実際の歴史が示しているのは、後者であって錯覚してはならない。重要なのは、人間の尊厳とは何か、なぜ人間は尊厳を持つのかについて、人類は共通の理解を確立できていないことである。

 世界人権宣言第1条は、人間は「理性と良心」を授けられているとする。理性とは reason、良心とは conscience の訳語である。これらもまた、近代西洋文明の人間観に基づく概念である。18世紀において、人間理性は、近代西洋という歴史的・社会的・文化的に限定された社会で認められた思考能力に過ぎなかった。だが、その後、西洋文明が世界を席巻したことにより、理性は、非西洋文明の諸社会においても、人間の基本的な能力を表す概念となった。フランス人権宣言では、人間の理性が強調されたが、世界人権宣言では、理性という知的能力だけでなく、良心という道徳的能力が併記されている。ここで理性は良心と併記されつつ、近代西欧的な概念から、世界人類に共通する概念に転じたのである。
 次に、世界人権宣言第1条は「同胞の精神(a spirit of brotherhood)」という言葉を使っている。これは、人類を家族に例える考え方に基づく。同胞とは本来、共通の親を持つ兄弟姉妹のことをいう。「宣言」は、人類は家族であり、同胞の精神をもって行動しなければならないとする。
 「宣言」は人類家族の構成員について、「個人」の意味で individualいう言葉を使っていない。「宣言」において、個人にあたるのは、a person である。そして、人間は、人間としての尊厳を持ち、各個人が「人格」(personality)を持つ存在だとしている。ここにいう人格とは、理性と良心を持つものと考えられる。この点に関して、第22条に次のように記されている。
 「すべて人は、……自己の尊厳と自己の人格の自由な発展(the free development of his personality)とに欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する」
 また第26条2項に、次のように記されている。
 「教育は、人格の完全な発展(the full development of the human personality)並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。……」
 ここには、人格は発展するものであり、自由かつ完全に発展すべきであるという思想が表れている。また、人格の発展のために必要なものが教育であり、教育は人格の完全な発展を目的の一つとすべきだという認識が示されている。
 以上見てきた条文に、世界人権宣言の人間観が概ね表現されている。その主要な要素は、人類家族、自由、平等、尊厳、理性、良心、同胞の精神、人格とその発展可能性である。そして、「宣言」は、人間は経済的、社会的及び文化的な権利を実現する権利を持ち、それらを条件として、自己の尊厳を保ち、人格的発展を追求する権利を持つとしている。これは、人格の存在とその成長可能性を認める近代西洋の思想を背景にした考え方である。ただし、こうした文言が並んではいるが、そのもとにある人間観は、十分深く考察されたものではない。
 私は、こうした世界人権宣言の人間観のもとには、ロック=カント的な人間観があると見ている。ロック=カント的人間観とは、人間は、生まれながらに自由かつ平等であり、個人の意識とともに理性に従って道徳的な実践を行う自律的な人格を持つ、という人間観である。また「宣言」における人格の概念は、主にカント哲学によっていると考える。ただし、カントの超越論的観念論や道徳哲学を捨象し、また人間は理性的存在ゆえに尊厳を持つという思想も抜いて、ただ人格や人間の尊厳という観念だけを盛り込んだ様相である。いわば欧米人の常識となったロック=カント的人間観を反省的に検討することなく、条文を作成したのだろう。
 世界人権宣言における人間観は、先の文言にも関わらず、個人が「人類家族の構成員」であり、その家族の一員として人格的に成長し、発展することを強調してはいない。また、「宣言」は、親子・婦・祖孫等による実際の家族の重要性には、あまり具体的に触れていない。共有生命に基づく具体的な家族的人間関係に、立ち入ろうとしていない。同時にそうした家族の巨大な集合体である人類家族についても、具体的に生命的・歴史的に考察していない。一定の人間観を表しながら、その依って立つ根拠を示さず、またそこから展開し得るものを秘めた状態に止まっている。人間に関する考察の不十分なまま、条文は採択されたのである。私は、この点の掘り下げが人類的な課題だと考える者である。
 ところで、人間観に関する言葉に、人間、人類、人間的、人道がある。これらは human という形容詞を中心としたという英語単語に対応する日本語である。human は特に動物や機械と対比して人間について使われる。human being は「人間、人類」と訳される。human であることを意味する humanity は「人間、人類、人間らしさ、人道」等と訳される。すべての人間の持つ性質や権利を意味することもある。訳語のうち人道について、『広辞苑』は「人の踏みおこなうべき道。人の人たる道。人倫」と解し、人道的は「人としての道義にかなったさま。人間愛をもって人に接するさま」と解している。「道」は孔子・老子、「人倫」は孟子が使った概念であり、西洋思想に同一の概念はない。Humanity を人道、humanitarianism を人道主義等と訳すが、中心にある人、人間の概念に類似と相違があることに注意しなければならない。
 人間としての尊厳と個人としての人格を持つような人間の権利を考えるには、新たな人間観の構築が必要であると私は考えている。この課題については、第1部第1章に私見の概要を書いたが、第4部でより具体的に書くので、本章では世界人権宣言の条文の確認に止める。

 

●「宣言」における権利

 世界人権宣言は、人間の権利を普遍的なものとして保障している。だが、そこで人間の権利とされる権利は、実際には決して普遍的なものではない。それらの権利は、本稿で見てきたように、近代西洋において歴史的・社会的・文化的に発達してきたものだからである。
 世界人権宣言における権利について、具体的に述べるため、第1条を再び引くと、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」とし、これに続いて「人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とする。この後半部分は、道徳的な当為を述べるものであって、法的な義務ではない。
第2条1項は、次のように定めている。「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」と。また、第3条には、「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」とする。ただし、実際は人間には生まれながらにさまざまな不自由があり、また決して平等ではない。「宣言」がいうのは、事実ではなく理想であり、権利と自由においては、そうありたいという目標である。目標の実現には、時間と努力が必要である。
 「宣言」は、1920〜40年代の欧米における価値の相克の結果、生まれたものである。すなわち、古典的自由主義、修正的自由主義、社会民主主義、共産主義、ファシズムという種々の思想のぶつかり合いの結果、米英が主導し、自由を中心とした形での自由と平等の両立が、「宣言」には盛り込まれている。
 平等への配慮として、「宣言」は社会保障の権利や労働の権利、生活水準の権利、教育の権利などの社会権も規定している。社会権は、平等に配慮する思想に基づく権利である。例えば、第22条に「すべて人は、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し」、第23条1項に「すべて人は、勤労し、職業を自由に選択し、公正かつ有利な勤労条件を確保し、及び失業に対する保護を受ける権利を有する」、第25条1項に「すべて人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する」、第26条1項に「すべて人は、教育を受ける権利を有する」などと定めている。このようにして西欧発の価値である自由は、平等に一定の配慮をする形で、国際的な人権文書に表現されることになった。
 権利と自由の行使には、責任が伴う。この点に関して、「宣言」が具体的に書いているのは、2箇所のみである。そのうちの一つが以下の部分である。第29条2項である。
 「すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当たっては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として、法律によって定められた制限にのみ服する」
 個人の権利と自由の行使に責任を課す基礎は、個人においては良心である。良心は、自己の行為の良し悪しを道徳的に判断する能力である。自己の行為が他者や社会に与える影響を考慮するところに、社会的責任が成立する。その社会的責任について、個人を対象に社会的に制限を与えるものは、「宣言」ではなく、各国の法律だとされている。ただし、第29条の3項には次のように定められている。
 「これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならない」
 つまり、権利と自由の行使において、各個人は、自国の国民社会における法に従うとともに、「国連=連合国」の目的及び原則に沿わねばならないというわけである。これを、各個人の「国連=連合国」の一構成員としての責任というとするならば、現実にはどのような形で責任を負うのだろうか。実際は、各個人は国連に対して直接的ではなく、自国政府に対して責任を負い、それを通じてのみ間接的に国連に対する責任を負う。「国連=連合国」の加盟者は、国家であって、個人ではない。また「宣言」は、あくまで国家が人権を保障するように勧奨するにすぎず、保障の主体は各国家だからである。あたかも超国家機関が国家を超えて個人を保護し得るように説く説があるが、それは誤りである。世界人権宣言と国際人権規約等による申し合わせや約束は、参加した国家に目標の実現を推奨をするのみであって、直接、権利を保障するものではない。

 各国が国民に保障する権利は、普遍的・生得的な「人間の権利」とは違う。自由権は、一般に権利の中心に据えられるものだが、絶対的なものではない。政府は、社会秩序を維持するために、法に基づいて逮捕・処刑をすることがある。国家の緊急事態の場合には、国民の自由と権利を一時的に制限することがある。参政権も無条件ではない。各国における参政権は、その国民の権利であって、普遍的・生得的な「人間の権利」ではない。また年齢制限がある。子供には与えられない。子供は親や大人の監督のもとに、将来の国民となるべく教育されている過程だからである。また受益権は、これを補償する国家の経済力によって、国家間の差が大きい。水や食糧など、基本的な生活物資も不足している国において、それらの提供以上のことを保障することは難しい。生まれた国によって、権利の内容は異ならざるをえないのである。
 「宣言」が謳う人権としての権利は、理論的には、すべての個人に無制限に実現されるべきものだとしても、現実的には、個人における権利の追求は、他の個人の権利と衝突する。そこで個人個人の権利の調整が必要となるが、「宣言」は権利の調整を各国の国内法に委ねている。権利と権利の衝突の調整は、その国の国内法に基づいて行われるしかない。権利の衝突を調整し裁定するのもまた、それぞれの国家の機構である。
 そのことが示しているのは、「宣言」にいう人権とは、「国連=連合国」の一構成員としての個人の権利ではない。実態は、各国の「国民の権利」なのである。その国の伝統と制度を離れて、抽象的普遍的な「人間の権利」が存在するのではない。各国が、それぞれの伝統と制度に基づいて「国民の権利」を保障し、調整もしているのである。
 各国の国内法の基盤となっているのは、その国の社会の伝統に基づく道徳である。道徳の根本は、多くの文化において宗教である。そして、宗教の中には、その社会の生活様式の総体つまり文化が溶け込んでいる。こうした道徳・宗教・文化は、各社会によって異なり、この社会の最大の単位が文明である。文明は、その中核に宗教を持ち、宗教の多様性が価値観の多様性を生み出している。
 近代西洋文明は、近代化すなわち生活全般の合理化を押し進めてきた。しかし、合理化の進展によって解消できないものが存在する。それは、人間の生命であり、無意識の領域であり、伝統や慣習である。その合理化し得ないものが、宗教・道徳・文化の要素の多くを占めている。
世界人権宣言は、諸文明・諸国家・諸民族が持っているそれぞれの精神的・道徳的伝統とその多様性を十分考慮していない。だが、それぞれの国家は、異なる文明に属し、異なる文化を持っている。そして、国内法は、文明と文化の違いによる多様性を持っている。「宣言」が「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」とし、「すべて人は、……自己の尊厳と自己の人格の自由な発展に欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する」等と規定しながら、個人個人の権利の調整については、各国の国内法に委ねているところに、「宣言」の矛盾と限界がある。
 この一方、「宣言」が定める権利について、見逃してはならない規定がある。第30条である。第30条は、「宣言」が定める権利及び自由を破壊することを目的とする活動に従事したり、破壊を目的とする行為をしたりする権利を認めないとしている。すなわち、「この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない」と定めている。いわば権利の破壊権というような権利は、認めないということである。権利の基礎にあるのは能力であるが、能力はその行使が社会的に承認された時に、権利となる。ただし、相手の承認なく、能力が権利の名のもとに行使されることがある。それを防ぐ手段は、実力を以てする以外にない。主体―対象間の権利の相互作用を力の観念でとらえたものが権力であり、権利関係はこれを力の観念でとらえれば権力関係である。権利と権力をめぐる争いを解決するには、一定の意思のもとに行使される強制力が必要である。世界人権宣言は、こうした権利と権力の関係に関する考察が表現されていない。
 世界人権宣言は国連総会決議として採択されたものであり、総会決議の性格上、国家に対する法的拘束力を持たないことを前提としていた。理念を謳うだけの政治的文書だった。そこで、後に「宣言」に補正を加えて条約化される。それが国際人権規約である。国際人権規約については、第9章で述べる。

 

●「宣言」における義務

 各国では、憲法等の国内法によって、権利は常に義務との関係において、定められている。ところが、世界人権宣言は、人権という権利に関しては詳細に定める一方、義務に関しては主題的に規定していない。権利と義務が対となっておらず、権利に伴う義務をほとんど課していない。この点が、各国の法規と大きく異なっている。権利の宣言であって、権利義務の体系の宣言ではないのである。
 「宣言」は、人権の理念を高く掲げているが、人権とされる権利は、基本的には「国民の権利」であり、「国民の権利」は、各国の政府がその国民に対して保障するものである。「宣言」は、すべての国が達成すべき共通の基準として布告されたものであり、国家が権利を保障するように勧奨するにすぎず、権利の保障の主体は各国家である。その権利とは国民が一方的に政府に請求し、政府が一方的に保障するものではない。権利を保障するのは、せんじ詰めればその政府を選択・委任している国民自身である。国民各自が互いの権利を保障し合っているのである。だから、自由には責任が、権利には義務が伴う。
 多くの国の憲法では、憲法が保障する国民の権利と表裏一体のものとして、国民の義務が記されている。各国における国民の義務の主なものは、納税・労働・国防・国家への忠誠、そして子どもの教育である。これらは政府が一方的に国民に課すものではない。西欧に生まれた近代国家において、国家つまり政府と政府を中心とした国民社会は、国民自らがこれを維持し発展させるものである。そうした国民が相互に認め合うのが国民の権利であり、同時に協同して分かち持つのが国民の義務である。
 この義務の中で、納税は政府を維持し、行政を執行するための費用を国民が協同で負担するものである。権利を相互に保障し合っているから、権利の維持のために必要な費用を分担するのである。そして、究極的には、互いの権利を生命をかけて保障し合う。それが国防の義務である。国防は国民の崇高な義務としている国が多い。政府が存立しなければ、国民の権利を保障するものがなくなる。無政府状態は、政治的無秩序であり、事実上の無法状態であって、国民の生命と財産は危険にさらされる。さらに他国の侵攻を招き、その支配を許すことになる。国防は他の誰のためでもない。互いの生命と財産に対する国民同士の相互保障である。義務とりわけ国防の義務のないところには、権利の究極の保障はないといわねばならない。
 国際連合の世界人権宣言は「宣言」であって、各国共通の憲法ではない。各国の憲法は、政府がその規定に反する行為を行ったときは、その責任が問われる。しかし、国際連合は、「宣言」を発することにより理想・目標を示しているにすぎない。国際連合の加盟国は、「宣言」の理念に基づきつつ、自国の憲法により、国民に対して、その権利を保障する。国民は、その権利に伴う義務を負う。これに対し、「宣言」は直接、各国の国民個人に義務を課すものではない。加盟国に対しても、勧告はしても罰則を与えるものではない。そこに国家という機関と国際組織という機関の根本的な違いがある。国際社会は基本的には主権国家を単位として構成されており、国際組織は主権国家間の共同や連携のための機関であって、地球統一政府ではない。だが、世界の大多数の国々は、「宣言」を通じて、矛盾をはらんだ思想を受け入れ、それを批判することなく、その上に自国の憲法や法律で人権について規定している。
 「宣言」において、広い意味での義務に関することが出てくるのは、3箇所のみである。まず第10条に「すべて人は、自己の権利及び義務(obligations)並びに自己に対する刑事責任が決定されるに当たって、独立の公平な裁判所による公正な公開の審理を受けることについて完全に平等の権利を有する」とある。
 次に第26条1項に「すべて人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的(compulsory)でなければならない。…」とある。
 最後に第29条1項に「すべて人は、その人格の自由かつ完全な発展がその中にあってのみ可能である社会に対して義務(duties)を負う」とある。
 obligation, compulsion, duties と英語では3種の言葉が、日本語では「義務」「義務的」と訳されていることに注意したい。第10条の「義務(obligations)」は、「宣言」が独自に定めるものではなく、各国の国内法が定めるものである。第26条1項の「義務的(compulsory)」は、各国の政府が自国民に義務教育を行うべきことを言っているに過ぎない。第29条1項に、最も義務の規定らしい記述がある。しかし、この「義務(duties)」もまた、各国の国民社会における国民の義務である。「宣言」においては、権利が強調される一方、権利とバランスを取るべき義務については記述が少なく、かつその義務は各国の国内法における義務に言及しているに過ぎないのである。

 「宣言」には各国の憲法におけるような具体的な義務内容が規定されていない。「宣言」は、各国の国民一人一人に対し、労役や費用の分担を直接課してはいない。納税や国防の義務は、各国の国民に対してのものであって、「地球市民」に対してのものではない。国連は、地球統一政府ではなく、直接、日本国民及び各国民の個人に対して税金を徴収しない。国連の平和維持活動にも直接、日本国民及び各国民の個人を召集しない。「宣言」には、各国憲法に見られるような法的な義務は、規定されていない。法的なということは、履行しなければ、法に基づいて罰せられるということである。
 それゆえ、「宣言」は、各国の国民の義務以外に、独自の義務を定めていない。各個人は国連に対して、直接義務を負っていない。このことは、「宣言」にいう人権という権利は、基本的に各国の「国民の権利」であることを、明確に示すものである。「国民の権利」は、その国の国内法が定める義務と対になっている権利である。「宣言」は、採択に賛成した各国の政府が、その「国民の権利」を拡張・強化すべきことを宣言しているに過ぎない。
 近代国家における国民の権利は、人権という概念と、一部共通し、一部相違する。人権とは、近代西欧に発生した普遍的・生得的な「人間の権利」という理念の下に、近代西洋文明を共有または摂取している国々が、その国民に対して保障している権利であり、その「国民の権利」には、国民の義務が伴うのである。現代世界において実際に保障されているのは、各国における「国民の権利」であり、それを保障するのはその政府であり、その国家の国民が相互に保障し合うのである。この事実から遊離した人権の概念は、理論上のものに過ぎない。
 しかも見逃してはならない重要なことは、「宣言」の採択の際に、8カ国は棄権したことである。当時国連に加盟していた国々のうち、国連総会での表決は賛成48に対し、反対はなかったが、社会主義のソ連と東欧圏の5か国(ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、ユーゴスラヴィア、チェコスロバキア)、及びサウジアラビア、南アフリカ連邦が棄権した。
 「宣言」は、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と謳っていても、国連加盟国でありながら棄権する国に対して、強制することはできないのである。特筆すべきことに、ソ連は国連の安保理常任理事国だった。国連の加盟国であるのみならず、国連の意思決定に特権を持つ構成員でありながら、「宣言」の採択に棄権した国があったわけである。それは、マルクス=レーニン主義の思想から見れば、「宣言」の思想はブルジョワ思想であり、階級闘争を無視した普遍主義に立っているからである。サウジアラビアが棄権したのは、「宣言」の自由と権利の一部がイスラーム教の教義から受け入れられないとしたためである。アラブの社会は父権主義が強く、女性には結婚相手の選択に自由がないなどの伝統があり、「宣言」の規定を受け入れることは、イスラーム教の教えに反するとされた。南アフリカ連邦が棄権したのは、アパルトヘイトと呼ばれる極端な人種隔離・人種差別政策を取っていたためである。
 「宣言」は、第29条3項に「これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならない」と規定している。そのように規定する一方で、「国際連合=連合国」の一員でありながら、「宣言」には参加しない国があり、しかもその国が安保理常任理事国であったことに、「宣言」の大きな矛盾と限界がある。そして「宣言」の矛盾と限界は、そのまま「宣言」の掲げる人権の矛盾と限界なのである。
 世界人権宣言によって人権が世界的に発達するなかで、権利が強調される一方、義務と責任が軽視されてきた。そのことへの反省から、自由・権利と義務・責任は不可分のものであることを踏まえ、「世界人間責任宣言」を発しようとする動きが行われている。この点については、後に第9章において人権の発達史に関する項目で述べる。
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(4)世界人権宣言の矛盾と限界

 

●「宣言」にはない国連加盟国の義務

 そもそも世界人権宣言は、「国連憲章=連合国憲章」が本であり、その末となるものである。「憲章」なくして「宣言」は、成立しない。言い換えると、「宣言」は、それ自体で自立しているのではなく、「国際連合=連合国」あってのものである。「宣言」第29条3項は、「これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならない」と規定している。「宣言」に署名した国の国民は、自分の権利と自由を行使するにあたって、「国連=連合国」の目的・原則に反してはならないということである。その目的・原則とは何か。それは、「国連=連合国」が第2次世界大戦の軍事同盟が発展した国際機構という認識なしには、理解し得ないものである。
 先に「宣言」には義務がほとんど課されていないと書いた。だが、実は「宣言」には規定されていない重要な義務が、「憲章」の方には規定されている。それは、加盟国の共同防衛の義務と、国連分担金の納入義務である。国際連合とは、連合国が母体となって設立された組織であり、その本質は軍事同盟だからである。ここに人権の背後にあるものが、明瞭に浮かび上がる。人権の背後には、連合国による「力の秩序」があり、その秩序の範囲で権利が宣言されているのである。
 第2章で権利の要素の一つとして強制力を挙げた。権利を裏付け、実効あるものにするのは、力であると書いた。現代の国際社会では、国家間の武力・軍事力による「力の秩序」が権利の基盤となっている。
 国連は、国家の自然権として個別的自衛権、及び集団的自衛権を認めている。国連は、各国が自衛権のもとに結んだ軍事同盟である。また、この軍事同盟のもとに、個人の人権の尊重を唱えている。人権が先ではなく、軍事同盟が先である。人権のための組織である前に、相互的な安全保障のための組織である。この組織において、憲章が各国に課す義務が、共同防衛と資金供出である。
 国連は、加盟国に共同防衛の義務を課している。「憲章」第43条に、国連軍への兵力の提供という義務がある。この義務を担うのは個人ではなく、加盟している国家である。加盟各国政府の義務であって、各個人の義務ではない。国連の加盟者は国家であって、個人ではない。各国が共同防衛義務を担う仕方は、その国の国内法による。わが国は以前、現行憲法の第9条を理由として、「国連=連合国」に自衛隊を派遣していなかった。これは、「国連=連合国」が軍事同盟であるという本質にそぐわないことだった。国連は、日本に対し、憲法解釈の変更や改憲または軍隊の強制的な派遣命令は出せない。国連が加盟国に強制力を持っていないことの証の一つである。そうしたなかでわが国は独立主権国家として、自主的に自衛隊の国連平和維持活動への参加を決めた。
 次に費用に関して、加盟国は資金供出の義務を負う。国連分担金を納めるのは、各国政府である。個人は直接、国連に分担金を納めていない。それゆえ、各個人は個人として、国際連合に対して、直接納税のような義務を負うものではない。わが国には国連税というような税はない。
 国連分担金を分担する主体となる国家に目を向けると、日本は、実質的に最も多くの分担金を支払っている。本来最も大きな分担率を担うアメリカは、現在、分担金を支払っていない。連邦議会が、現在の国連に不満を持ち、アメリカの国益にならないとして不払いを決めているからである。税金にたとえれば、堂々たる滞納であり、納税義務違反である。しかし、国連はアメリカに対して強制的な徴収を行っていない。差し押さえもしていない。できないのである。「宣言」は国家に義務を課してはいるが、各国の労役・費用負担は、強制的な義務とはなっていないのである。罰則を伴わない義務は、道徳的な義務に過ぎない。
 「憲章」における各国の義務について書いたが、冒頭に述べたように「憲章」が本であり、「宣言」は末である。「宣言」の背後には、軍事同盟のもとに共同防衛と資金供出を行う諸国家の連合が存在する。ただし、国連は軍隊の派遣命令も分担金の徴収もできない組織である。こうした不徹底な国家間の義務関係のもとに、各国における国民の権利の拡大が助長推奨されている。軍事同盟でありながら強制力を持たない組織ゆえ、人権の保障だけを加盟国に求めることはできないわけである。

 

●「宣言」の矛盾と限界は「国連=連合国」を背後に持つゆえ

 世界人権宣言には、矛盾と限界がある。その背後には、「国連=連合国」が存在する。そのことが矛盾と限界のもとになっている。
 国連が人権を掲げ、人権の平等を謳う。その人権を保障する世界人権宣言は、国連を組織的な裏づけとしている。連合国による国家連合的な政治権力が、「宣言」の裏付けとなっている。ただし、国連における加盟国の権利は平等ではない。むしろ、国際的な不平等を固定化するのが、国連の組織である。というのは、国連の主要な意思決定機関は、安全保障理事会であり、安全保障理事会の常任理事国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア(以前はソ連)・中国(以前は台湾)の5カ国である。これらの5カ国は、旧連合国の主要国であり、第2次大戦の戦勝国及びその地位の継承国である。これら5カ国は国連の設立において、拒否権という特権を持った。他の加盟国はこの権利を持たないから、各国の権利は同権とは言えない。特権をもつ国の国民と、特権をもたない国の国民との間には、権利において差別がある。歴史的には、特権の否定によって、勝ち取られたのが人権であった。平等というのであれば、諸国家の間に特権を認めてはならないはずである。しかし、国連は不平等を制度化している。こうした機関が、人権の平等を謳っているのである。ここに大きな矛盾がある。
 国連の発足後、米ソの対立が表面化し、米ソのイデオロギーがぶつかり合う冷戦時代となった。ソ連は軍事力強化を進め、東西に「鉄のカーテン」が引かれた。そのため、国連は拒否権を持つ大国の権力闘争の場と化してしまった。
 戦後、主要諸国は、米国に続いて次々に核兵器を開発し、核大国となった。核を持つ大国は、他の大国と激しい対立を生み出す行動を避けようとする。米国を中心とした旧西側の自由民主主義諸国は、旧ソ連、ロシアあるいは中華人民共和国が直接関わっている問題では、積極な介入はしない。小国が対象の場合であれば、5大国が一致することがある。1990年(平成2年)8月22日サダム・フセイン率いるイラクがクエートに侵攻した。この時、国連安保理はイラク軍のクエートからの即時かつ無条件の撤退を要求し、武力行使容認決議をした。国連始まって以来初めて五つの常任理事国が歩調を合わせたのである。この決議を後ろ盾に、91年(平成3年)1月から2月にかけて湾岸戦争が行われた。ただし、国連軍ではなく米国中心の多国籍軍が編成され、イラクに侵攻し、圧勝した。国連は、こうした小国の間の紛争を解決するには役立つことはあっても、大国が直接係った紛争には無力である。人権に関する問題も同様である。
 国連には、アメリカが主導で作られた組織という側面がある。国連創設後、アメリカは国連を自国の国益のために利用しようとして運営してきたが、他の主要国の存在や新興国の増加等により、アメリカの思惑通りにいかなくなってきている。アメリカは、国連が自分の利益に合わないとなると、独自の行動を取ってきた。2001年(平成13年)9月11日、世界貿易センタービル爆破事件が勃発した。これに対し、アメリカはイスラーム教過激派のテロリズムに対して強硬な姿勢を示した。国連の決議なしに、アメリカはイラクに侵攻した。日本をはじめとして、多くの国々がこの行動を支持・協賛したが、国連加盟国には、反対する国々もあった。現在は米国は議会が分担金を納めないことを決議したため、分担金を納めていない。さらに国連からの脱退論まで出ている。
 既成の秩序を維持する力は必要である。それが弱まれば、秩序を壊そうとする力が横行する。しかし、力だけでは、平和と安寧は実現できない。大国は、指導者と国民の意識を高め、その力を全体のために善用すべき務めがある。冷戦終焉後、唯一の超大国となったアメリカは、「世界の警察官」としての力を持ち、それを自認してきた。ところが実際にアメリカが行っているのは、国家と資本の利益の追求であり、利己的行動の正当化である。
 現代の世界において、国際問題における判断基準は、突き詰めると利害関係つまり各国の国益の追求にある。米国を始めとする主要国は、それぞれの利害関係の枠内で、正義や人道や環境への配慮を追求しているに過ぎない。国連はこれらの国々の権力関係の動的な均衡の上に成り立っている。このような実態を持つ国連を背景とし、国連の軍事力、実は各国の軍事力と同盟関係に裏付けられているのが、世界人権宣言である。国連という矛盾と限界を持つ組織を背後に持つ世界人権宣言は、それゆえに多くの矛盾と限界を露呈している文書なのである。

 

●わが国から見た「宣言」採択の状況と目的

 世界人権宣言は国連という矛盾と限界を持つ組織を背後に持つ。そのため、矛盾と限界を露呈している。そのことは、「国連=連合国」とわが国の関係及び「宣言」採択の状況と目的を確認すると、より一層明瞭になる。次にその点について書く。
 第2次大戦では、大規模な民間人の無差別殺戮が行われた。連合国・枢軸国の双方で非戦闘員の殺戮が行われた。枢軸国によるものだけが罪に問われて、連合国の行為は不問にされた。1945年(昭和20年)2月13日、英米軍はドイツの古都ドレスデンを空襲した。死者は約3万5千人に上った。この攻撃は、軍事施設を攻撃する戦術とは明らかに異なり、一般市民への無差別攻撃だった。わが国においては、同年3月10日、アメリカ軍がB29で東京を空襲した。一夜で約10万人が犠牲となった。一般市民を対象とした無差別攻撃であり、戦時国際法に違反した行為だった。木造建築の弱点を突き、焼夷弾で老若男女を焼き殺した。この東京大虐殺のほか、わが国の66の主要都市が無差別攻撃され、無辜の民が斃れた。さらに8月6日、アメリカ軍は広島に原子爆弾を投下した。この人類史上初の原爆投下によって、約14万人の生命が奪われた。9日には、二発目の原爆が長崎に投下され、約7万人が殺害された。原爆の死傷者のほとんどは、非戦闘員だった。原爆の火による大量殺戮にこそ、ホロコーストの語がふさわしい。
 8月9日未明、弱りきった日本の姿を見て、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦した。ヤルタ密約に基づく行動だった。満州・樺太・千島に侵攻したソ連は、国際法を無視し、日本人を俘虜として抑留し、シベリア等の各地で強制労働を課した。旧厚生省援護局の資料によると、抑留者は約57万5,000人、うち死亡者は約5万5,000人。ロシア側の研究報告によると、抑留者は約54万6,000人、うち死亡者は約6万2,000人とされている。実態はさらに大規模だった可能性があり、ロシア人ジャーナリストのアルハンゲリスキーは、日本人の抑留者200万人以上に達し、そのうち40万人が虐殺されたと推計し、酷寒の地で食糧も防寒具もろくに与えられず、重労働を課せられて虐殺された日本人の数は原爆での死者より多かったとして、著書に『シベリアの原爆』という題をつけた。邦題は『プリンス近衛殺人事件』(新潮社)とされている。
 昭和天皇は、8月9日の御前会議において終戦の御聖断を下された。御聖断に従って、わが国は8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。わが国は、宣言の定める条件を受け入れて降伏し、大戦は終結した。日本は、「連合国=国連」の占領するところとなり、国家主権を失った。「連合国軍=国連軍」の占領統治は、52年(昭和27年)4月28日まで、約6年8ヶ月続いた。異例の長さだった。この間、日本弱体化政策が強行され、極東軍事裁判いわゆる東京裁判が行われた。
 東京裁判は、1946年(昭和21年)5月3日に開廷され、2年半を経て、48年11月4日から12日に判決が下された。A級被告28人を起訴したのは昭和天皇の誕生日(昭和21年4月29日)、東条英機・広田弘毅等7人の絞首刑は、今上陛下の誕生日(同23年12月23日)に実施された。また、BC級戦犯1061名が処刑された。 東京裁判は、最初から日本を一方的に侵攻者、極悪犯罪国家とし、日本の国家指導者を処刑しようとするものだった。裁判は形式にすぎず、「勝者による敗者への復讐劇」であり、「見せしめの儀式」だった。判決は、罪刑法定主義、法律不遡及の原則に反し、かつ被告らが「共同謀議」による「侵攻戦争」を行ったという判決は不当なものだった。
 東京裁判では、連合国つまり国連の犯罪は一切問われなかった。最も重大なのは、アメリカによる原爆の使用が、免罪されたことである。原爆投下は民間人の無差別大量殺戮だった。しかし、東京裁判では、民間人である犠牲者・被爆者の人権は、問題とされなかった。また、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州・樺太等に侵攻したことも問われなかった。ソ連によるシベリア抑留・強制労働も人権を蹂躙し、国際法に違反した犯罪だった。しかし、共産主義諸国による犯罪もまた東京裁判では一切裁かれなかった。
 東京裁判の判決が下された翌月、1948年(昭和23年)12月10日の第3回国連総会、すなわち連合国総会で世界人権宣言が採択された。「宣言」の採択の2週間後に、東京裁判の「A級戦犯」の「処刑」が行われた。東京裁判と「宣言」の起草の時期は重なり合う。「宣言」の起草は、東京裁判が開始されて約1年後にはじまり、東京裁判と並行して進められた。「宣言」は連合国の力の優位と連合国の犯罪行為の不問の上に出された文書である。現代世界に公正と信義の実現を求める人は、このことの意味をよく認識する必要がある。「宣言」の謳う人権は、その時点では勝者の独善によって発せられたものなのである。

 世界人権宣言の起草の中心となったのは、エレノア・ルーズベルトだった。彼女は、対日戦争を指導した米国大統領F・D・ルーズベルトの夫人である。ルーズベルトは、人種差別主義者だった。日本人を野蛮人とみなし、有色人種を白色人種より進化の段階の低い劣等民族だとみなしていた。ルーズベルトは、対独参戦を実現させるために、日本を追い詰め、対米攻撃に仕向けた。日本は、その罠にはまって、無謀な戦争に突入した。ルーズベルトこそ、日米戦争の仕掛け人である。こうした大統領が一方では、国連の生みの親でもあった。ルーズベルトは、容共的でスターリンに対し幻想を抱いていた。スターリンは、ルーズベルトの周囲にスパイを送り込み、日米を戦わせるように画策し、国際情勢をソ連に有利に持っていこうとしていた。ルーズベルト夫人のエレノアも夫同様、社会主義に共鳴していた。彼女が、国連の人権委員会の議長として、「宣言」の立案を進めた。
 当然のこととして、世界人権宣言は、敗戦国に関する人権の問題を無視する形で、起草・採択された。なにより人類史上最悪の兵器、原爆の非人道性に目をつぶって、人権を宣言した点に欺瞞性は極まる。現在も、アメリカの原爆投下をはじめ、東京大空襲、東京裁判、シベリア抑留等の不当性は、問い直されていない。本当に人権の実現を目指すなら、連合国の行為も問われなければならない。戦勝国による戦争犯罪を不問にしたままで、人権を謳う姿勢は偽善である。
 日本は1956年(昭和31年)に「国際連合=連合国」に加盟した。しかし、国連に加入した後も、未だ戦勝国によるこれらの非違行為の再審査を求める機会がない。それどころか、国連憲章には、旧敵国条項があり、日本は「旧敵国」とされてきた。旧敵国に対しては、他の国連加盟国は、国連安全保障理事会の許可なしに経済的にも軍事的にも強制行動をとってよいということが定められている。つまり、アメリカも中国もロシアもフランスも、いざとなれば自由に日本に攻め入ってもいいということである。しかし、旧敵国とされていた国はすべて国連加盟国となり、「旧敵国条項」がそのまま国連憲章上に存在することは実態と合わなくなっている。「憲章」第2条1項に「加盟国の主権平等の原則」が定められていながら、このような差別待遇を半世紀以上も放置しているところに、国連の体質がある。
 わが国は、1970年(昭和45年)の第25回国連総会以来、たびたび総会などの場で、国連憲章から「旧敵国条項」を削除すべしとの立場を主張した。94年(平成6年)12月、総会において憲章特別委員会に対し「旧敵国条項」の削除の検討を要請する決議が採択され、95年(平成7年)12月の第50回総会において憲章特別委員会の検討結果を踏まえて、削除へ向けての憲章改正手続きを開始する決議が採択された。2005年(平成17年)9月に行われた国連特別首脳国連総会特別首脳会合が採択した「成果文書」に、ようやく敵国条項を削除することを「決意する」と盛り込まれた。しかし、いつまでにという期限は定められていない。今も削除は実行されていない。
 こうした歴史的事実がありながら、国連に対して、「平等」「平和」「正義」「人道」というイメージを抱いている日本人が多い。その心理には、日本国憲法を無批判に受容している心理と共通したものがある。国連幻想と憲法信奉は、一対の幻想である。これらは、戦勝国による東京裁判史観で植え付けられたものである。このマインド・コントロールから脱却しなければ、日本の真の独立と再建は成し遂げえない。また公正と信義に基づく世界の建設も為しえない。マインド・コントロールからの脱却のために必要なことは、歴史の真相を学び、国際社会の現実を見すえることである。そうすれば、おのずと呪縛から「自由」になることができる。
 第2次世界大戦の悲惨な体験を通じて、「人間的な権利」としての人権は大きく発達した。ただし、第2次大戦及びその戦後処理には、「人間的な権利」の発達に関して重大な問題点が残されている。その反省と総括なくして、「人間的な権利」の健全な発達はないと私は考える。だが、大戦後、これらに関する国際的な反省と総括のなされないまま、人権の国際的保障が進められた。第2次大戦後、制定された世界人権宣言やこの後に述べる国際人権規約等が真に「人間的な権利」の発達に寄与するものとなるのは、これらの問題点について、反省と総括が徹底的に行われたうえでのことになるだろう。

 

●第2次大戦後の世界とユダヤ人の人権

 先に書いたように国連及びそれに基づく世界人権宣言は、矛盾と限界を持つものである。しかし、それらが人権の発達に寄与してきたこともまた間違いのない事実である。特に大戦終結の直後にはユダヤ人の権利の確保に大きな貢献をした。また1960年代以降は、欧米の植民地から独立した国々の有色人種の権利の獲得・拡大に貢献してきた。
 本章を結ぶに当たって、第2次世界大戦後の人権の国際的保障とユダヤ人の関係について述べておきたい。旧植民地の人民については、次章で述べるつもりである。
 国連憲章と世界人権宣言は戦勝国による力の秩序を前提としているが、世界的な人権の実現は、その秩序のもとにユダヤ人の自由と権利を保障することを、一つの目的とするものだったと私は考える。そして、その目的の追求において、ユダヤ人の国際社会における権利の確保、地位の向上を求める働きかけがあっただろうと推測する。
 第2次大戦後の人権問題への取り組みの重要な動機の一つは、ナチスによるユダヤ人への迫害だった。ユダヤ人の生命と尊厳、自由と権利を守るにはどうすべきか。外国に亡命を希望する者、国籍を失った無国籍者、彼らの権利とは何か、誰がどのように守るか。これらの課題について、ナチスの脅威にさらされたユダヤ人自身が、国際社会で自己防衛のために行動しただろうと想像する。
 私の思うに、働きかけは二つの方向で行われた。一つは、シオニズムが目的の地としたパレスチナに、ユダヤ人国家を建設すること。もう一つは、主権国家による国際社会の相対化を図り、ユダヤ人の生命と安全、財産と経済活動が守られるように、世界を変えることである。これら二つは、どちらも欠かせないものだった。
 イスラエルの建国は、ユダヤ民族の集団としての権利の決定的な実現となった。国家なき流浪の民が、希望の土地に国家を建設し、定住地を得た。大戦後、世界各地からユダヤ人がイスラエルに移住した。また各国に居住し続けるユダヤ人は、イスラエルを故国として連携した。ここで私が重要な役割を果たしたと考えるのが、ユダヤ人最高の実力者ロスチャイルド家である。ヒトラーによってフランクフルトとウィーンのロスチャイルド家、ムッソリーニによってナポリのロスチャイルド家が滅ぼされ、第2次大戦後、生き残ったのは、ロンドンとパリの二家のみとなった。だが、欧州の支配集団の構成員であるロスチャイルド家は、英国政府等に働きかけ、イスラエル建国を推進した。ロスチャイルド家は、イスラエル建国に多額の資金を提供し、イスラエルの盟主のような存在となっている。
 ロスチャイルド家は、またユダヤ人の生命と安全、財産と経済活動が守られるように、国連の設立や世界人権宣言の実現を図り、働きかけをしたと思われる。イギリスは、アラブ対ユダヤの対立に手を焼き、1947年(昭和22年)、パレスチナの委任統治権を国際連合=連合国に返上した。以後、ユダヤ人国家を建設しようとするシオニズムの後ろ盾となる国家は、アメリカに替わった。ここで重要な役割を担うことになったのが、ロックフェラー家である。ロックフェラー家はユダヤ系ではないが、ロスチャイルド家とは深い関係にある。ロックフェラー家は国連の設立を促進し、本部の建設用地として土地を提供するなどした。アメリカは、イスラエル以外で、世界で最も多くのユダヤ人が住む国家である。アメリカのユダヤ人の6〜7割はニューヨークに住む。ニューヨークの人口の3〜4割はユダヤ人といわれ、世界の金融を支配するウォール街は、ロンドンのシティとともに、ユダヤ人が活躍する舞台である。それゆえ、英米両政府は、ロスチャイルド家とロックフェラー家の要望と支援を受けて、ユダヤ人の権利が保障されるような国際社会を実現しようとしたと考えられる。
 ユダヤ教を信じるユダヤ人にとって、18世紀以降啓蒙化されてきたキリスト教は、許容できるものである。ユダヤ教徒とキリスト教徒は、共通の神を信じ、共通の書物を啓典とし、共通の場所を聖地とする。キリスト教徒にユダヤ人を迫害させない仕組みをつくれば、人権思想はユダヤ人にとっても有益なものとなる。国連の組織や「憲章」「宣言」の思想によって、彼らの経済力や科学・思想・芸術等に示す優れた能力を発揮できる社会を実現することができる。

私は、イスラエル建国後のユダヤ教社会をユダヤ文明とし、一神教文明群の中の周辺文明の一つと位置づける。しかも、もともと「ディアスポラ(diaspora、離散民)」だったユダヤ人は世界各地に広がっており、文明間・国家間を自由に行動し、ネットワークを広げている。ユダヤ民族には、他の民族と同様、生存と繁栄の権利がある。しかし、彼らが中東でアラブ民族との和解・共存に努めない限り、彼らの行動はアラブ民族の自由と権利を侵害する。また、ユダヤ的価値観による強欲的な利益の追求は、世界の調和的な発展の阻害となっており、価値観の転換が求められている。第2次世界大戦後、世界的に人権が発達したのは、ナチスの迫害を受けたユダヤ民族の人権の保障のためでもあったが、21世紀の世界で人権を拡大するには、ユダヤ民族が自己中心主義を打ち破ることが必要なのである。

 国家を喪失した民族は、ある国の国民となっていても、国内で自由と権利を差別されたり、迫害を受けたりする。ユダヤ人はその最も深刻な例である。1930〜40年代、ナチスの支配するドイツで虐待を受けたユダヤ人の中には、国外に逃避して無国籍状態となり、保護を受ける国家を失った者がいた。こうしたディアスポラ、特に無国籍者と主権国家の関係は、20世紀に現れた新たな人権問題となった。ユダヤ人に限らず、自分が国籍を失ったり、あるいは祖国が消滅したりした無国籍者は、居留している国の政府から強制退去を命じられると、受け入れる国がないということが起きる。第2次大戦後、無国籍は個人の重大な不利益を招くため、無国籍者に関する条約が結ばれるなど、国際社会の取り組みがされてきている。
 第2次大戦を通じて生まれた国連と「宣言」は、戦後、欧米の植民地だった地域の諸民族が独立を勝ち取ると、それらの人民の権利を確保・拡大することに貢献するものともなった。そのことによって、人権は世界的な発達を見せた。本章では20世紀以降の人権をめぐる歴史と人権の発達について書いてきたが、続いて章を改めて人権に関する世界の現状と課題について書く。
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第9章 現代世界における人権の課題

 

(1)国際人権規約と人権諸条約の制定

 

●世界人権宣言後の人権の歴史的展開

本章では、世界人権宣言後の人権の歴史的展開をたどり、今日の人権状況を概観したのち、現代の世界と日本における人権の課題を検討する。

さて、2度にわたる悲惨な世界大戦を経験した人類は、世界人権宣言の前文で、その教訓を次のように述べた。「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等で奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものである」と。この認識のもとに、国際社会は国際人権保障制度を創設した。
 人権思想の発生の地であり、人権の先進的な地域である西欧諸国は、第2次世界大戦後まもなく、共産主義化した東欧諸国に対抗して、世界人権宣言の定める自由権の保障を目指した。1950年には欧州人権条約が調印された。また西欧諸国は人権保障を国際的に監視するため、欧州人権委員会・人権裁判所を設けた。一方、国連は総会、経済社会理事会、人権委員会を軸として、国際人権文書の起草、啓発・教育・訓練といった人権の促進活動、個人通報の処理、国別・テーマ別人権問題の研究と決議など人権の保護と促進のための活動を強化した。1966年には、国際人権規約が採択され、世界人権宣言の思想が条約へと具体化された。社会権規約、自由権規約のもとに、国際的な人権保障の実施制度の整備が図られてきた。
 しかし、冷戦体制下では、人権保障をめぐる議論は、ともすると東西両陣営及び南北諸国のイデオロギー対立の影響を免れることはできなかった。資本主義諸国と社会主義諸国の人権観には根本的な認識の違いがある。そのため、国連の人権活動のあり方や条約・制度の実施のあり方についても、人権はしばしば外交とイデオロギー闘争の手段となった。共産主義諸国は大規模あるいは系統的な人権侵害の批判に対し、しばしば内政干渉と非難した。そのため、国際人権保障制度は、実際の人権問題に直面してたびたび機能マヒに陥った。
 1980年代末、ソ連・東欧における共産主義体制が崩壊し、冷戦が終結した。それによって、状況がかなり大きく変化した。旧共産主義体制との相違を示すために、ロシア、東欧諸国の新政権は個人通報手続をはじめ、人権条約の実施及び国連の人権活動に対して、積極性を見せるようになった。
 冷戦の終焉によって、イデオロギー対立が後景に退く一方、経済のグローバリゼイションの進展と社会的格差の拡大、民族・宗教その他の理由に基づく集団間の抗争が顕著になった。いくつかの国および地域では、人種的、民族的及び宗教的対立が激化して、双方の当事者の間で、集団殺害罪や「人道に対する罪」が問われる大規模な人権侵害が行われたり、大量の難民及び国内避難民を発生させたりする事態が相次いだ。
 これは冷戦終結後に始まったものではない。実は、第2次大戦後、国家間の戦争による被害や死者よりも、内戦による民間人の被害や政府による人権弾圧の死者の方が、圧倒的に多くなっているのである。特定の人種、民族、宗教等に属する人たちに対する残虐行為や大量虐殺、強制移住、拷問、強姦等が目立つ。政府自身が行ったものがあるほか、政府が軍や警察による侵害を黙認し、あるいは不処罰によって事実上黙認し、また事実上政府とつながる私兵による侵害の支援を行った例がある。政府に治安維持能力がなかったり、司法が十分機能しなかったりして、人権侵害が野放しになっていた例もある。
 こうした問題が冷戦終焉後、露わになり、それに伴って1990年代には人権侵害の加害者である個人を確実に処罰することによって、人権を保障しようとする動きが急速に広がった。1991年に旧ユーゴスラビアで戦闘が激化すると、国連安保理は93年に旧ユーゴ国際刑事裁判所を設立した。また1994年に起こったルワンダ内戦の惨状に対処するため、ルワンダ国際刑事裁判所を設置した。また国連内で国際刑事裁判所設置の気運が高まり、1998年に国際刑事裁判所設立条約が採択され、常設的な国際刑事裁判所(ICC)が誕生した。
 冷戦時代には、資本主義国は自由権を、社会主義国は社会権を強調し、互いに批判し合う傾向があった。だが、実際にはどちらが欠けても人間は有意義に生きていくことができない。冷戦終焉後の1993年、ウィーンで行われた世界人権会議は、「ウィーン宣言及び行動計画」を採択した。宣言は「すべての人権は、普遍的、不可分、相互に依存し、関連している」と定めた。これは、自由権と社会権の一体性を打ち出したものとされる。
 世界人権宣言から国際人権規約へ、さらに「ウィーン宣言及び行動計画」への展開は、私の見るところ、人間が生まれながらに平等に持つ普遍的・生得的な権利が表現されてきたものではなく、さまざまな権利が歴史的・社会的・文化的に発生・発達してきたものを、その段階、その段階において人権と呼んでいるのである。
 21世紀に入り、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロが起こると、アメリカは「テロリズムとの戦争」を宣言した。このテロと対テロ戦争によって、市民的自由への規制等、人権を脅かす新たな事態が出現している。国連人権委員会を中心とした国連憲章に基づく従来の機関では、状況の変化に十分対応できなくなってきた。こうした背景の下、2006年に総会の補助機関として国連人権理事会が設置され、国連の人権活動は新たな局面に入った。国連では、人権の主流化が進んだ。
 今日、国連には人権理事会と人権高等弁務官事務所が置かれ、すべての国連加盟国の人権問題を定期的に審査する普遍的定期審査(UPR)が行われている。人権問題は、もはや国内問題ではなくなっている。世界的な人権条約に加えて、ヨーロッパ、米州、アフリカの地域的人権条約も、人権の内容と保障の仕組みを大きく発達させてきた。また、人種差別、女性、子ども、障害者等に係る個別的な人権条約が制定され、より詳細に権利を保障する方向に進んできた。
 だが、人権の思想が広範囲に発達する一方、肝心の人権の定義及びそれの基づく人間観については、根本的な合意はまだ形成されていない。また国連体制は戦勝国による支配の秩序であり、「国際連合=連合国」とそれに基づく「国際連合憲章=連合国憲章」及び「世界人権宣言」は、一面で画期的だが、一面で欺瞞的である。国連、「憲章」「宣言」には矛盾と限界があり、人類の歴史において過渡的なものと見るべきものである。今日の人類は、これを少しづつ改善していくしかない。
 本章では、こうした認識のもとに世界人権宣言後の人権の歴史的展開をたどり、今日の人権状況を概観したのち、現代の世界と日本における人権の課題を検討する。

 

●国際人権規約の制定の経緯と現状

 世界人権宣言は、単なる宣言であって、法的拘束力を持つものではなかった。そこで人権に関する条約を作って拘束力を持つものにしようとする動きが、まずヨーロッパで起こった。1950年に、「人権及び基本的自由の保護のための条約」、いわゆる欧州人権条約が締結されたのである。
 当時、西欧諸国は、共産主義陣営と厳しく対峙していた。同条約の当初の目的の一つは、共産主義との闘争の中で、自由民主主義の諸国が国民に対して保障する権利を明確な形で示すことだった。それは、各国において共産化を防ぐものとなった。欧州人権条約は、歴史的に人権の中心だった自由権に限定したものだったが、そのもとに欧州人権委員会と欧州人権裁判所が設けられた。
 ヨーロッパで人権を条約化し、法的拘束力を持たせる動きに続いて、1966年、一気にこれを全世界に広げたのが国際人権規約である。国際人権規約の成立の背景には、第2次世界大戦後のアジア・アフリカの動きがある。第2次世界大戦後、アジア・アフリカの有色人種が独立と解放を勝ち取り、自由の希求は諸大陸に広がった。1960年に「植民地独立付与宣言」が国連総会で採択された。同宣言は、「外国による人民の征服、支配および搾取は、基本的人権を否認し、国際連合憲章に違反し、世界の平和及び協力の促進に障害となっている」と明言し、「すべての人民は自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民はその政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的および文化的発展を自由に追及する」と宣言した。
 1960年代には、国連に加盟する発展途上国の数が急増した。国際連合は、第2次大戦の戦勝国による国際秩序の固定化を目指す組織だが、新興国が大挙して加盟したことにより、その性格を変えてきた。アジア、アフリカで増加する新しい国民国家は発言力を増し、旧宗主国と旧植民地、白色人種諸国と有色人種諸国、大国と中小国等の間の強力や調整が求められるようになった。国際社会の多数派を占めるに至った有色人種新興国は、人権を享有する上で民族自決は前提条件であると主張した。この大きな流れの中で、国際人権規約が、1966年12月16日に、国連総会で採択された。
 国際人権規約は、世界人権宣言のもとで、人権の理念を具体化し加盟国を直接に拘束する効力を持つ条約である。国際人権規約は、A規約・B規約という二つの規約の総称である。A規約は社会権規約、B規約は自由権規約である。これらの規約は基本的に世界人権宣言を条約化したものであり、人権の国際的保障の仕組みにおいて、最も重要な位置を占めるものとなっている。
 A規約・B規約は、共通の第1条に「すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」と定めた。これは、人権の発達史において、画期的な規定だった。自由権を中心とした段階を人権の発達史の第1段階、社会権が加わったのが第2段階とすれば、国際人権規約は、第2段階を確立すると同時に人権発達史の第3段階を開くものだった。そこにおける新たな権利は「連帯の権利」と呼ばれる。その代表的なものが「経済的、社会的及び文化的発展」を自由に追求する権利、すなわち「発展の権利」である。「発展の権利」は、発展途上国の主張が反映したものであり、欧米中心に発達してきた人権の思想は、ここで人類的な次元に進み入った。
 国際人権規約は、A・B両規約とも1976年に発効した。そして、それ以後の様々な国際人権条約のもとになるものとなっている。

●国際人権規約の概要

 国際人権規約は多くの日本人が思っているより、はるかに重要な条約である。いわゆる人権派、左翼人権思想の信奉者は、しばしば人権の文言を振りかざす。だが、多くの日本人は国際人権規約等の人権条約を読んでいないのか、有効な反論ができていない。
 国連広報センターのサイトは、「世界人権宣言、2つの国際人権規約、市民的、政治的権利に関する国際規約への第一及び第二選択議定書はともに、国際人権章典(International Bill of Human Rights)を構成する」としている。これらを論じることなく、人権は語れない。わが国では、国際法学者を除くと政治学者、憲法学者、哲学者、評論家等の有数の知識人でさえ、国際人権規約を立ち入って考察している人は少ない。保守の論者には、マグナ・カルタ、ホッブス、ロック、ルソー、フランス革命、アメリカ独立宣言あたりで歴史的な考察がとまってしまい、後は日本国憲法の問題点を論じるという傾向がある。それでは、考察の範囲が狭すぎる。現行憲法の改正を目指す取り組みにおいても、人権の発達史を批判的に検討しなければならない点がある。憲法改正を唱えながら、国際人権規約はおろか世界人権宣言すら論じることなく、「反人権論」を説く保守の論者もいる。国際社会では通用しない島国学者になってはいないか。
 国際人権規約は条約だが、大切な誓約であることを強調するために、規約 Covenant という名称が使われている。国際人権規約は、「経済的、社会的、文化的権利に関する国際規約」(A規約、社会権規約)、と「市民的、政治的権利に関する国際規約」(B規約、自由権規約)の二つの条約として採択された。国際人権規約の起草・協議において、自由権のみとすべきか、社会権を含めるべきか、一本化すべきか等の議論があり、自由権と社会権を分け、二つの規約にすることになった。直ちに実現することが比較的容易な権利と、それが難しい権利とでは、同一の義務づけをすべきでないという主張が採用されたためである。参政権は、自由権規約の方に含まれた。
 自由権規約は即時的実現を求めるが、社会権規約は締約国は権利の「完全な実現を」「漸進的に」達成するため、国際協力も用いながら、「行動(措置)を取る」(第2条1項)としている。国際人権規約は、締約国が規約の内容を実施するように、国際的な監視機関を設けている。それが人権委員会である。通称で自由権規約委員会・社会権規約委員会という。これらの委員会は、締約国の状況について総括所見を出す。委員会の総括所見は、法的拘束力はないが、勧告的な効果を持つ。また国際的実施制度として、自由権規約は、加盟国の政府が報告の義務を負う国家報告制度を定めるとともに、別に選択議定書に入ることによって、人権を侵害された個人が委員会に申し立てのできる個人通報制度を適用することも可能になっている。社会権規約は当初、国家報告制度だけだったが、2008年に総会で個人通報制度を設置する選択議定書が採択された。その結果、現在は、両規約とも個人通報制度を取り入れている。

 

●A規約・B規約共通の内容

 国際人権規約の内容を簡単に示すと、A規約・B規約は、共通の前文を持ち、第1条のみ共有の条文となっている。
 わが国の外務省のサイトから引用する。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/2b_001.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/2c_001.html
 まず前文は、次のようなものである。
 「この規約の締約国は、国際連合憲章において宣明された原則によれば、人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等のかつ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものであることを考慮し、これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認め、世界人権宣言によれば、自由な人間は市民的及び政治的自由並びに恐怖及び欠乏からの自由を享受するものであるとの理想は、すべての者がその経済的、社会的及び文化的権利とともに市民的及び政治的権利を享有することのできる条件が作り出される場合に初めて達成されることになることを認め、人権及び自由の普遍的な尊重及び遵守を助長すべき義務を国際連合憲章に基づき諸国が負っていることを考慮し、個人が、他人に対し及びその属する社会に対して義務を負うこと並びにこの規約において認められる権利の増進及び擁護のために努力する責任を有することを認識して、次のとおり協定する。」
 このように、前文は極めて長い一つの文章となっている。前半で国際連合憲章の原則と世界人権宣言の理想を受け、後半ですべての者が経済的、社会的及び文化的権利とともに市民的及び政治的権利を享有することのできる条件を作り出すために、この規約を定めることを述べている。
 続く第1条は、次のようなものである。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1 すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。
2 すべて人民は、互恵の原則に基づく国際的経済協力から生ずる義務及び国際法上の義務に違反しない限り、自己のためにその天然の富及び資源を自由に処分することができる。人民は、いかなる場合にも、その生存のための手段を奪われることはない。
3 この規約の締約国(非自治地域及び信託統治地域の施政の責任を有する国を含む。)は、国際連合憲章の規定に従い、自決の権利が実現されることを促進し及び自決の権利を尊重する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 第1項に「すべての人民は、自決の権利を有する」と述べて、人民(peoples)の自決権を定めている。第1章の人権の項目にも書いたが、人民と訳した peoples は多義的な言葉で、国民とも民族とも集団とも取れる。自決の権利は国民自決権・民族自決権・集団自決権のどれでもあり得る。いずれにせよ権利の主体が個人ではなく、集団となっていることが重要である。その集団の自決権に基づいて、人民が「政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」としている。この第1項の規定は、15世紀以来の白人種による植民地支配を否定するものである。第2項では、天然の富及び資源に関する権利を定め、生存のための手段を奪われることはないとした。これは、宗主国による資源収奪の否定である。第3項でも、自決権の実現の促進と尊重が書かれている。これは、過去の欧米における人権宣言と大きく異なっている点である。また個人の人権だけを規定した世界人権宣言とも、著しい対照を示している。これは、人権の発達史において、重大な変化である。
 第1項に定める自決の権利とは、自由に物事を決定する権利として、自由権に含まれるものである。人民の自決権は、集団の自決権である。集団の権利が確立されてこそ、個人の権利が保障されるという思想が、国際人権規約に盛り込まれた。人民の独立がなければ個人の人権なし、という原則が打ち立てられたのである。これによって、西欧発の個人中心的な自由権を、集団の権利の中に位置付け直す必要が生じた。自由権の上に拡張された社会権も同様である。自決権は政治的側面だけでなく経済的、社会的、文化的側面にも拡大された。ただし、人民という集団の権利と個人の権利との関係は必ずしも明確に整理されていない。個人の権利は集団の権利が確保されていて初めて保障される。近代西欧では諸国の独立と主権が確立されていたから、そのもとで個人の権利が発達し得た。そのことが再認識されねばならない。ここで国家の独立と主権を人民自決権という20世紀的な概念でとらえるならば、先に書いた17世紀以降の英米仏を中心とした欧米における人権の発達史においても、集団の自決権の確立のもとに、個人の自由と権利が拡大されてきたのである。自由権及び社会権を集団の権利の中に位置付け直すことが必要なのである。

 

●自由権規約の内容

 国際人権規約は、自由権・社会権を集団の権利の中に位置付け直したり、集団の権利と個人の権利の関係の整理をし直したりされないまま、様々な権利を人権の名のもとに定めている。A規約・B規約は、前文と第1条に続いて、それぞれ社会権・自由権について独自の条項を連ねている。
 規約のアルファベット順では、社会権規約がA規約、自由権規約がB規約だが、自由権と社会権は歴史的には自由権が先であり、国際人権規約の実施においても自由権規約の方が制度的に先行した。そこで、先に自由権規約について書く。
 自由権規約(B規約)は「市民的、政治的権利に関する国際規約」である。1976年に発効し、2013年4月現在で締約国は167カ国だった。わが国は1979年に締結した。
 この規約は、生命に対する固有の権利、身体の自由及び安全についての権利、違法逮捕等の賠償請求権、移動の自由及び居住の自由についての権利、法律の前に人として認められる権利、思想、良心及び宗教の自由についての権利、干渉されることなく意見を持つ権利、平和的な集会の権利、結社の自由についての権利、家族が社会及び国による保護を受ける権利、婚姻・家族形成の権利、児童が保護を受ける権利、市民の参政権、法律による平等の保護を受ける権利、少数民族の文化・宗教・言語使用の権利等を定めている。
 また、恣意的な生命の剥奪、拷問及び残虐な品位を傷つけるような取り扱い及び刑罰、奴隷と強制労働、恣意的逮捕もしくは抑留及び私生活への恣意的干渉、戦争の宣伝、人種的もしくは宗教的憎悪の唱道を禁止している。
 参政権は、ここで自由権に含まれている。この規約に定める自由権は、言論の自由のように、政府が介入をやめれば直ちに実現できるものなので、即時実施が義務付けられている。これに対し、社会権規約(A規約)に定める社会権は、教育を受ける権利や社会保障を受ける権利のように、なんらかの政府の施策を必要とするものゆえ、「漸進的に達成する」ことが求められている。
 自由権規約第2条1項は、締約国が権利を確保すべき個人を「領域内にあり、かつその管轄の下にあるすべての個人」とし、自国民かどうかという国籍には無関係としている。これは重要なポイントである。人権とはすべての人の権利であるという原理に立てば、原則としてその保護をすべての人に及ぼすことが妥当とされるからである。ただし、自由権規約では、これを自由権に限っている。
 自由権規約には、2つの選択議定書がある。第一選択議定書(First Optiona Protocol)は、1966年に採択され、1976年に規約と同時に発効した。この選択議定書は、規約に規定される権利を侵害されたと主張する個人に請願の権利を与えている。2010年末現在の締約国は113カ国だった。わが国は締約していない。
 第二選択議定書(Second Optional Protocol)は、1989年に採択され、91年に発効した。この選択議定書は、死刑廃止の実質的義務を確立したもので、2010年末現在で、加入国の数は72カ国だった。わが国は締約していない。
 自由権規約は、18人の委員で構成する「人権委員会(Human Rights Committee)」を設置すると定めた。これを通称、自由権規約委員会という。この委員会は、規約の規定を実施するために取った措置について締約国が定期的に提出する報告を審議する。これを国家報告制度という。第1選択議定書の締約国については、委員会は、規約に規定される権利が侵害されたと主張する個人からの通報を審議する。個人からの通報は非公開の会合で審議される。これを個人通報制度という。個人からの書簡およびその他の文書は秘密扱いである。しかし、委員会の審議結果は公表され、委員会は国連総会宛て年次報告の中に記載される。委員会はまた、テーマ別の問題について、もしくはその作業方法について、人権規定の内容について一般的意見(general comments)として知られる評釈を発行している。
 国際法において、条約の第一次的な解釈適用権限は、締約国が有する。自由権規約において、委員会を規約の有権的解釈機関と認めた条文は存在しない。形式的には委員会の解釈が締約国に対して何らかの拘束力を持つことはありえない。しかし、その国の裁判所が委員会の見解や一般的意見と異なる解釈を採用した場合には、国家報告制度の場で取り上げられ、自国の裁判所の解釈の妥当性の立証を迫られる。ここに国家主権と国際機関の権限の関係という重大な問題が存在する。わが国は、規約は締結しているが、選択議定書は締約していない。国家主権と国際機関の権限の関係をあいまいにしたまま、安易に国際条約を結ぶべきではない。

 

●自由権の保障には国家の作為が必要

 自由権は、一般に政府の干渉から自由を守る権利とされている。だが、自由権に分類される権利であっても、権利を実効的に確保するためには政府の積極的な施策が不可欠な場合が多い。
 自由権に関連して述べるべき権利に、受益権がある。受益権は、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言で、既に認められた権利である。18世紀当時の米仏において、受益権は、裁判を受ける権利、請願権、損失補償請求権などだった。受益権は、国民の利益の保障のために権力の積極的な発動を求める権利である。
 たとえば、公正な裁判を受ける権利は、自由権規約に規定された権利だが、公正な裁判の提供について国に作為を求める権利という性格を持つ権利である。これは国の積極的な施策によってこそ実現が可能な権利であり、実現には多大な国家能力と財政負担が必要である。裁判所を設け、裁判官、事務職員等を雇用することが必要だからである。そして、政府の干渉から自由を守る権利にしても、その権利が侵害された場合に、権利の回復を求める訴えのできる公的機関があることによってこそ、権利の保障がされる。
 それゆえ、自由権を政府の不作為を求める権利と一般的に規定するのは、間違いである。自由権の保障を含めて、人権保障はすべて国の積極的な取り組み、投資を必要とする。そこに、集団の権利と個人の権利の関係が存在する。集団の権利あっての個人の権利であり、個人の権利は集団の権利が確保されていてこそ、保障されるものである。その究極の場合が、外国の侵攻を受けた場合の集団としての権利の防衛である。国防または共同防衛は、究極的な権利の保障であり、集団の合意によって、各自の権利を協同的に保障し合う。その集団的な権利防衛の機能を政府が担う。それゆえ、政府は積極的に作為を行う責任がある。
 国際人権規約では、自由権と区別された社会権は、自由権と全く異なる権利なのではなく、自由権における政府の作為をもっと積極的に行うことを求める権利である。自由権と社会権は、別個のものではなく、関連したものであり、統一的にとらえる必要のある権利である。この点は、後に「ウィーン宣言及び行動計画」で自由権と社会権の一体性が打ち出されることになったところである。

●社会権規約の内容

 社会権規約(A規約)は「市民的、政治的権利に関する国際規約」である。1976年に発効し、2013年4月現在で締約国は160カ国だった。わが国は自由権規約と同時に1979年に締結した。
 この規約は、労働の権利、公正かつ良好な労働条件を享受する権利、労働組合の結成・加入・連合・活動に関する権利、社会保障の権利、衣食住の生活水準・生活条件の不断の改善についての権利、飢餓から免れる権利、身体及び精神の健康を享受する権利、教育の権利、文化的な生活に参加する権利、科学の進歩及びその利用による利益を享受する権利、著作の利益保護を享受する権利等を定めている。
 自由権の場合、人権委員会が当初から設置されたが、社会権規約委員会は、それより後、1985年に経済社会理事会によって設置された。この委員会は18人の専門家から構成される。規約第16条の規定に従って締約国から定期的に提出される報告を検討し、関係国政府の代表と報告の内容について話し合う。委員会は、個々の報告の検討結果に基づいて締約国に必要な勧告を行う。また、人権または分野横断的テーマについての意味を説明する一般的な意見を採択する。
 2008年、国連総会は全会一致で社会権規約に対する第一選択議定書を採択した。それによって、社会権規約委員会は個人からの通報を受け取り、審議する権限が与えられた。選択議定書は2010年末現在で、署名した国が35カ国、締約国となった国が3カ国だった。10締約国が批准すると発効する。わが国は締約していない。

 

●国際人権規約における自由と権利への制限

 私が重要だと思うのは、国際人権規約は、無制限の自由と権利を人権とするものではなく、公共の利益のためには、自由と権利を制限できることを定めていることである。
 国際人権規約は、前文に、「個人が、他人に対し及びその属する社会に対して義務を負うこと」及び「この規約において認められる権利の増進及び擁護のために努力する責任を有すること」を明記している。権利には義務が、自由には責任が伴う。国際人権規約は、諸国家が個人の自由と権利を無条件に保障するよう求めたものではない。また、このことは一般に政府の干渉から自由を守る権利とされる自由権であっても、権利を実効的に確保するためには政府の作為を必要とし、人権保障はすべて国の積極的な取り組み、投資を必要とすることと関係している。
 まず自由権規約(B規約)は、緊急事態の場合には、自由と権利を制限できることを規定している。すなわち、第4条1項に、次のように定める。「国民の生存を脅かす公の緊急事態の場合においてその緊急事態の存在が公式に宣言されているときは、この規約の締約国は、事態の緊急性が真に必要とする限度において、この規約に基づく義務に違反する措置をとることができる。ただし、その措置は、当該締約国が国際法に基づき負う他の義務に抵触してはならず、また、人種、皮膚の色、性、言語、宗教又は社会的出身のみを理由とする差別を含んではならない。」と。このように、国家の緊急事態には条約で保障する権利のいくつかについてその効力を一時的に停止することを、規約は認めている。これを国家のderogation の権利と言う。derogationは効力停止あるいは条約上の義務からの離脱を意味する。
 ただし、生命権は、緊急時であっても効力を停止できない権利non-derogable rightとされている。自由権規約は、第6条1項に次のように定める。「すべての人間は、生命に対する固有の権利を有する。この権利は、法律によって保護される。何人も、恣意的にその生命を奪われない」と。自由権規約委員会は、この条文に定める生命権を、「人間の至高の権利(the supreme right of the human being)」であり、「すべての人権の基礎である」と評価している。確かに人は生命を奪われるとすべての権利を失う。したがって、生命に対する権利は、最も基礎的な権利である。また、1996年(平成8年)、国際司法裁判所は、自由権規約に基づく人権保護は戦時にも停止することはなく、特に第6条に明記された生命に対する権利は免脱できない権利であり、敵対行為中であっても恣意的に生命が奪われてはならないとの考え方を示した。
 ここで欠かしてはならないのは、人々の生命を守るためには、生命の危険を冒して国防や治安、災害救助や国際てきな平和維持活動を行う必要があることである。国家の存亡、社会の安全、民族の繁栄、国際の平和のためには、生命を賭けても人々の生命を守るための人員と組織が不可欠である。国家にあっては国軍であり、国連にあってはPKO・PKFである。この論理は、自然の法則に反したことではない。自然界では種の存続のため、多数の個体が生まれ、その一部が種の生命を次世代に継承していく。人類だけが例外とはなり得ない。生命の尊重は、諸個体の生命より、集団で共有する生命の尊重を重視するものでなくてはならない。
 次に、国の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の権利及び自由を保護するために必要な場合にも、自由と権利を制限できることを規定している。すなわち、第12条では、1項で「合法的にいずれかの国の領域内にいるすべての者は、当該領域内において、移動の自由及び居住の自由についての権利を有する」、2項で「すべての者は、いずれの国(自国を含む。)からも自由に離れることができる」とし、これらの権利はいかなる制限も受けないとしながら、3項に次のように定める。「ただし、その制限が、法律で定められ、国の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の権利及び自由を保護するために必要であり、かつ、この規約において認められる他の権利と両立するものである場合は、この限りでない。」と。
 次に、宗教または信念を表明する自由を制限できることを規定している。すなわち、第18条3項に、次のように定める。「宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。」と。
 次に、表現の自由についての権利については、特別の義務と責任を伴うとし、一定の制限を課すことができるとしている。まず第19条2項に「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。」として、権利を保障する。そのうえで、同条3項で「2の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課すことができる。」とする。「ただし」として、「その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。」として、条件を限定している。「(a)他の者の権利又は信用の尊重 (b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」の二つである。
 集会の自由は第21条、結社の自由は第22条に定められるが、これらに関してもほぼ同様の制約がある。
 今日多くの国の憲法は、国民の自由と権利の制約要件として、公共の利益、公共の秩序、国の安全、社会道徳、青少年の保護等を定めている。それらの国々の憲法の規定は、国際人権規約の規定と矛盾しない。だが、人権を至上の価値とする論者は、国際人権規約の権利の制限に関する規定には触れない。国際人権規約をよく理解していないと有効な反論はできない。国際化時代の人間の常識として、国際人権規約はもっと読まれるべきものと思う。
 自由と権利への制限は、戦争、差別、敵対、暴力を避けるためという目的によっても、国際的に認められている。世界人権宣言は、第30条に、「宣言」が定める権利及び自由を破壊することを目的とする活動に従事したり、破壊を目的とする行為をしたりする権利を認めないとしている。国際人権規約は、第20条1項に「戦争のためのいかなる宣伝も、法律で禁止する」、2項に「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」と定めている。戦争には侵攻戦争と防衛戦争があり、人権を守るための戦争もあり得るから、戦争の「宣伝」と差別、敵意又は暴力の扇動となるような「憎悪の唱導」を同じ条に並べるのは不適当と思うが、自由と権利への制限の例として記す。
 ところで、共産中国は、A規約に1997年に署名、2001年に批准し、B規約に1998年に署名した。人権問題は「国家主権の範囲内の問題(国内専権事項)」と言ってきた中国の態度の変化を示すものとして注目された。ただし、中国は国際人権規約に参加した後も、ほとんど人権状況が改善されていない。国際人権規約では、中国政府に少数民族への虐待や生体からの臓器取り出し等をやめさせることができない。その程度の拘束力なのである。その限界を重大な問題点として指摘しておきたい。

 

●普遍志向的な人権条約と特殊志向的な人権条約

 世界人権宣言では、人権は本来普遍的・生得的であり、すべての人に享有されるものである。国際人権規約は、そのような考えによる人権を条約に具体化した。
 これらの宣言及び規約に掲げられた「基本的人権及び自由」は、すべての人間に対して人種、皮膚の色、性、言語、宗教等によるいかなる差別もなしに認められるべきものとされる。それゆえ、女性も、子どもも、どのような民族や種族に所属する人も、誰もが平等にこれらの自由と権利を享受できると考えられている。
 すべての人間の権利とされる権利は普遍的権利であり、人種、地域、性別、年齢、心身の状態等に基づいて保障される権利は特殊的権利である。世界人権宣言及び国際人権規約は、普遍的な権利を定めるようとした普遍志向的な条約である。普遍的ではなく普遍志向的と私がいうのは、普遍性を確立してはおらず、普遍性を目指したものだからである。
 実は、世界人権宣言は、「すべての者」の権利をうたったものでありながら、成年男女の婚姻の権利等及び母親・児童の特別保護について定めてもいる。すなわち、すべての人間に共通する権利だけでなく、特定の集団に限定される権利を認め、その保障を主張しているのである。世界人権宣言における特殊的な権利は、国際人権規約ではぐっと増大した。国際人権規約は、すべての者の権利をうたうとともに、いくつかの条項で、女子、母親、妊娠中の女子、児童、少年、18歳未満等を権利享有主体として規定している。また少数者にも権利を保障している。それゆえ、世界人権宣言及び国際人権規約は、普遍的な権利を定めるものでありながら、同時に特殊的な権利を定めようとするものだった。この特殊志向的な部分は、さまざまな条約によって拡張された。
 世界人権宣言及び国際人権規約とは別に、地域、性別、年齢、所属等によって対象を限定した権利を定める特殊志向的な人権条約も多くつくられている。特殊的ではなく特殊志向的というのは、普遍志向的をもとに特殊性をめざしたものであり、特殊的な権利を拡大することで普遍的な権利を強化するものであるからである。
 特殊志向的な人権条約には、地域的な条約と個別的な条約がある。地域的な人権条約には、ヨーロッパ、ラテン・アメリカ、アフリカ等におけるものがあり、個別的な人権条約にはジェノサイド、難民、女性、子ども等に関するものがある。
 地域的人権条約はその地域の国々の間で締結されたものであり、個別的人権条約は性別、年齢、所属等で対象を分けてそれぞれの条約が定める人権基準の達成を目的として、国連で締結されたものである。
 普遍志向的・特殊志向的に関わらず、人権条約は、何らかの人権基準を定め、その達成を目的として締結されたものである。各国は自らの領域や管轄の下にある個人に対してその人権基準を確保することを約束し、任意にこれらの条約の締約国となる。この項目では、特殊志向的な人権条約について、地域的、個別的の順に概観したい。それによって、人権とは普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」であり、またそれらの権利主体とされる人間のもとになる人間観は未だ完成してはおらず、発達の過程にあることが、より一層明確になるだろう。

●地域的人権条約の制定

 特殊志向的な人権条約のうちの一つは、地域的な人権条約である。これは、世界人権宣言または国際人権規約のもとに、一定の地域の範囲で成立した条約である。普遍志向的な人権条約は、国連で採択されたものだが、地域的な人権条約は、それぞれの地域の各国の間で締結されたものである。
 人権が地域によって異なるとすれば、そもそも人権は普遍的な権利ではないことになる。だが、現実に世界人権宣言以後、各地域における人権条約が成立してきた。地域的な人権条約には、「欧州人権条約(European Convention on Human Rights)」、「米州人権条約(American Convention on Human Rights)」、「人および人民の権利に関するアフリカ憲章(African Charter of Human and Peoples Rights)」等がある。これらは地域的な特殊性を持つ権利に関する条約である。内容は世界人権宣言または国際人権規約に基づくものゆえ、基本的には共通しているが、地域的な違いがある。その違いの部分が地域的権利の特殊性を際立たせるところである。

●欧州人権条約

 最初にできたのが、欧州人権条約である。欧州人権条約は、1950年11月にローマで調印され、53年に発効した。世界人権宣言の約2年後、宣言の理念をヨーロッパの地域性を踏まえて条約化したもので、国際人権規約に16年先立つ。普遍的権利を定めた世界人権宣言のもとで、特殊的な権利を定める地域的人権条約が作られたのである。
 第2次大戦後、ドイツは米国を中心とする勢力とソ連によって分割支配された。ベルリンは、ソ連が作った「ベルリンの壁」で分断された。東欧諸国はソ連共産主義の支配下に入った。西欧諸国は、核の時代に入った新たな段階の世界で、共産主義陣営と厳しく対峙した。欧州人権条約は、そうした状況において締結された。
 この条約は、自由主義陣営が共産主義との闘争の中で、各国の国民に保障する権利を明確な形で示すことを当初の目的の一つとしていた。また、ナチスによる人権侵害の経験を生かし、身体の自由と安全の保障のために多くの規定を置いた。そのうえで、世界人権宣言の定める権利のうち、主に自由権の保障を目指し、人権保障を国際的に監視するために、欧州人権委員会と欧州人権裁判所を設けた。これらは1994年に人権裁判所に一本化されたが、人権に係る国際的な司法機関の設置として先駆的なものだった。人権を侵害された個人が、国家を超えて直接に国際的な司法機関に訴えることができるようになった。判決は強制力を有し、個人の人権に対して加盟国を直接、法的に拘束する。国連の主な人権条約には、未だ拘束力ある判決を出せる人権裁判所の設置を認めたものはない。条約の実施監視機関が条約違反の有無を審査し勧告を出す手続を定めたものがあるにとどまっている。そのことは、ヨーロッパという一個の文明の内部だからこそ、こうした制度が可能になったともいえる。宗教、歴史、文化等をともにする国々の間ゆえに、こうした国際的な司法制度が実現しえたのである。
 欧州人権条約は、自由権に限定したものだったが、これを補うために、人権を社会権の分野に広げた「欧州社会憲章」が1961年に採択された。2013年現在、欧州人権条約は、欧州連合の加盟国のみならず、ロシア、トルコまで含むものとなっている。
 欧州人権条約は、世界人権宣言の条約化を地域的に実現したことによって、ヨーロッパから国際人権規約の成立を促すものとなった。

 

●米州人権条約とアフリカ人権憲章

 国際人権規約の成立後、アメリカ大陸で成立した地域的人権条約が、米州人権条約である。1969年に採択され、1978年に発効した。1951年に発足した米州機構に加盟する国々の一部が、基本的人権の法的保障の目的に制定された。一部というのは、米州機構の本部は米国にあるのだが、米国は米州人権条約を批准していない。カナダ、キューバも批准していない。批准しているのは、現在中南米の24カ国である。実体としては、ラテン・アメリカ諸国の人権条約となっている。
 この条約は、国際人権規約の自由権規約に定める自由権を主とし、社会権規約に定める権利を盛り込んでいる。ただし、社会権については、漸進的な発展を述べるにとどまる。次に戦時や非常事態時の違反の許容は、自由権規約や欧州人権条約より厳格な条件を持つ。また権利と義務の関係については「全ての個人が家族、共同体、そして人類に対して責任を負う」ことを明記していることも特徴的である。
 国連で国際人権規約が制定されたのちに、こうした地域的な人権条約が作られたということは、国際人権規約がすべての地域のあらゆる国々を満足させるものではなかったことを示している。米欧の主導で一定の合意を形成したものではあるが、完全な合意ではなく、またさらに発達を求められるようなものだったのである。この点は、規約のもとにある世界人権宣言自体が同様なのである。
 米州人権条約に続いて、アフリカでも地域的な人権条約がつくられた。アフリカ人権憲章と称し、バンジュール憲章とも呼ばれる。1981年に採択され、1986年に発効した。現在の批准国は54カ国であり、アフリカ連合の全ての加盟国が批准している。この憲章は、多くの点で欧州人権条約や米州人権条約と異なっている。第1に、前文に植民地主義、新植民地主義、アパルトヘイト、シオニズムの廃絶が謳われている。第2に、権利のみならず、義務をも宣言している。第3に、個人の権利に加えて人民の権利として民族自決の権利、民族の発展を規定している。第4に、自由権としての市民的及び政治的権利に加えて、社会権としての経済的、社会的及び文化的権利を多く保障している。第5に、条約で保障する権利の行使に対して締約国が非常に広範な制限や制約を課すことができる規定となっている。第6に、環境権が盛り込まれている。
 以上、三つの主な地域的人権条約について書いてきたが、こうして複数の地域的人権条約がつくられたということは、人権の観念は完全に普遍的なものではなく、特殊性を持っていることを示している。もし完全に普遍的なものであれば、地域的な条約を作る必要がない。特に非西洋文明の諸社会の側から、欧米的な人権に対し、ラテン・アメリカ的人権、アフリカ的人権等が提唱されていることは重要である。欧米で発達した人権思想は、必ずしもそのまま中南米やアフリカの社会には受け入れられず、不足を感じさせているのである。このことは、文明、宗教、価値観の違いに根差すものであり、約500年にわたる植民地支配の歴史を背景にしたものである。
 これらの地域的な人権条約では、人間について human personhuman personalityhuman beinghuman individual という異なった用語を使っている。このことは、人類は未だ共通の人間観を持つに至っていないことを表すものである。
 地域によって、人権の観念が異なり、統一は簡単ではない。もともと人権は、普遍的な価値ではなく、欧米で歴史的・社会的・文化的に発生・発達してきたものであり、西方キリスト教文明の特徴を持っている。非西洋文明の諸社会でも容易に受け入れられ、共通化してきた要素と、抵抗や不満を生じている要素がある。トインビーが述べたように、諸文明の中核には宗教がある。宗教によって世界観、人間観、価値観が異なる。宗教が多数併存している状態で、人権のみを統一することは不可能だろう。将来、一つの宗教が世界化し、従来宗教が帰納統一されるか、または諸宗教が対話の中で相互理解を深めつつ、共存共栄していくか、二つの道筋が考えられる。いずれにしても、人権の思想だけで人類普遍的な思想が創造されるものではない、と私は考える。

 

●個別的人権条約の必要性

 特殊志向的な人権条約には、地域的人権条約とは別に個別的人権条約がある。国連は総会が採択した国連憲章と世界人権宣言のもとに、漸次国際人権法の拡大をはかり、個別的条約を制定してきた。個別的人権条約には、ジェノサイド、人種差別、アパルトヘイト、女子差別、拷問等の特定の行為や慣習を禁止する禁止条約と、難民、子ども、障害者、移住労働者、先住民族等の特定の集団の権利を保護する保護条約がある。
 国際人権規約はまず抽象的な人間一般の権利を保障する。人権が単純に普遍的・生得的な「人間の権利」であれば、その点を定めさえすればよい。だが、それだけでは広く権利を実効的に保障できない。個々の具体的な人間は、男または女、大人または子どもであり、多数者または少数者等の集合に属する。そこで、規約はそれまで人権保障の薄かった集団を考慮し、権利関係における劣位者の権利の保護に意を用いるものとなっている。もっとも普遍志向的な条約の上で権利を認めるだけでは、実際の社会における権利の享有には十分でない。現実の社会には、権利をよく保障されず、また侵害されやすい人々がいる。歴史的・社会的・文化的な事情によって、弱い立場に立たされた人々の権利をどのように保障するかについて、国際社会はしだいに認識を深めるようになった。普遍的な人権を基礎におきつつも、特定の立場に置かれた人々の具体的な問題に対応した権利を保障することが重要な課題となった。そこで既存の普遍志向的な人権基準に加えて、特殊志向的な基準を作る必要性が出てきた。その結果作られたのが、人種差別、女性、子ども、障害者等に関する個別的な人権条約である。
 各種の個別的な人権条約の実現を推進したのは、世界人権宣言の場合と同じく、経済社会理事会に属する旧人権委員会だった。旧人権委員会は、1965年の人種差別撤廃条約、79年の女性差別撤廃条約、89年の子どもの権利条約等を起草した。
 個別的な人権条約には、まず個別的な対象や行為等に関する人権基準を示す宣言が出され、その後、条約に具体化されたものが多い。宣言から条約へという展開は、世界人権宣言から国際人権規約への展開と同じである。宣言は理念を打ち出す道徳的なものだが、条約はその思想を法律へと具体化する。ただし、罰則がなく、各国の国内法のような強制力を欠く。その点では不完全な法である。国際法には、この不完全性がつきまとう。

●最初はジェノサイド条約・難民条約・無国籍者条約

 国連は創設以来、個別的な人権の保障を目的とした条約を数多く採択している。広範な問題についておよそ80件の条約や宣言が国連の枠組みの中で締結されてきた。こうした条約の中で最も早い時期に結ばれたのが「集団殺害罪に関する条約」「難民の地位に関する条約」「無国籍者の地位に関する条約」である。
 第2次大戦後、戦争による惨禍を振り返る中で、ユダヤ人への迫害、大量殺戮、多数の難民の発生等が国際社会で大きな問題となった。それらの問題に対処し、ユダヤ人への迫害・殺戮を防止し、難民を救済することが求められた。これをユダヤ民族という特定の民族だけでなく、他の民族にも適用・拡大する形で、ジェノサイド条約、難民条約、無国籍条約が制定された、と私は考える。
 個別的人権条約は、すべてが世界人権宣言に触発されて成立したのではない。世界人権宣言は、1948年12月10日に国連総会で採択されたが、その前日の12月9日に「集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約」すなわちジェノサイド条約が成立している。世界人権宣言で普遍的な人権基準を定める前に、また特定の事案について宣言という理念的な打ち出しを経ることなく、集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約が締結された。世界人権宣言の起草・協議が進められ、まだ総会で採択される前に、この条約は先行して実現したのである。ここに、第2次世界大戦後の人権保障におけるユダヤ人を主な対象としたジェノサイドへの対応の重要性が現れている。ジェノサイド条約は、1951年に発効した。
 集団殺害は、第2次世界大戦がはじまる前から、ナチスによって行われていた。ナチスによるユダヤ人への迫害は、戦争が原因ではない。平時から行われていた。ジェノサイド条約は、集団殺害罪を国民的、人種的、民族的、または宗教的な集団を破壊する意図を持って行われる行為であると定義付け、それを犯した者は法に照らして処罰することを国家に義務付けるものである。
 2010年末現在で141カ国が加入している。わが国は締約していない。

 次に1951年に、「難民の地位に関する条約」すなわち難民条約が、国連総会で採択され、1954年に発効した。難民は refugees の訳であり、refugeesは亡命者とも訳す。難民条約は、難民の権利、特に迫害の恐れのある国へ強制的に送還されない権利を定めており、また労働、教育、公的援助よび社会保障の権利や旅行文書の権利など、日常生活のいろいろな側面について規定している。これも主にユダヤ人難民への対応を目的とし、それを他の民族に拡大したものである。ただし、ここにはイスラエルの建国とパレスチナ難民の問題が絡んでいる。
 1947年11月、国連はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家と国連永久信託統治区に分割するパレスチナ3分割案を可決した。だが1948年、ユダヤ人は国境を明示しないままイスラエルの独立を宣言した。それに抗議する周辺アラブ諸国との間で、第1次中東戦争が起こったが、イスラエルの圧倒的な勝利に終わり、49年休戦協定では、イスラエルは国連分割案が示す範囲を超えて、パレスチナ全土の80パーセントを支配した。分割案から休戦協定までの間に、パレスチナ人130万人のうち100万人が難民となったとされる。ユダヤ人は一方で難民として国際社会で救済されながら、一方ではイスラエル建国を通じて他民族に難民を生み出している。背景には、ユダヤ民族を神に選ばれた民とし、他民族を蔑視する選民思想があり、この宗教思想が複雑な民族問題を醸成している。
 1967年には、「難民の地位に関する議定書」が採択され、同年発効した。条約は本来第2次世界大戦による難民を対象にしたものだったが、この議定書によって条約の適用範囲が拡大され、戦後に生じた難民にも適用されるようになった。
 2010年末現在で、147カ国が条約と議定書のいずれか、もしくは双方に加入している。わが国は条約に1981年(昭和56年)に加入し、1982年(昭和57年)1月1日に発効した。議定書は82年に締約した。難民及びこれに準ずる国内避難民は、現在世界で4,300万人ほどいるといわれている。

 1954年には「無国籍者の地位に関する条約」が国連総会で採択され、60年に発効。1961年には「無国籍の減少に関する条約」が採択され、75年に発効した。これらも私は主にユダヤ人を対象とし、それを他の民族に拡大したものと見ている。これらの条約の締約国は、他の主な個別的条約に比べ、半分以下と少ない。

 

●様々な個別的人権条約の成立

 次に1960年代以降につくられた主な個別的な人権条約を記す。

 1965年には、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」すなわち人種差別撤廃条約が国連総会で採択され、69年に発効した。
 この条約は、主に三つの要素を背景として制定された。戦後ヨーロッパでネオ・ナチズムなど人種優越主義や人種差別を唱える動きが起こったこと、1960年代に植民地から独立した国々からアパルトヘイトの廃絶を求める声が高まったこと、1964年のアメリカ公民権法や65年のイギリス人種関係法の制定のように差別撤廃の世論が国際社会に広がったことの三つである。
 条約は、前文に「人種的相違に基づく優越性のいかなる理論も科学的に誤りであり、道徳的に非難されるべきであり、及び社会的に不正かつ危険である」と記した。そして、人種差別を「人種、皮膚の色、世系または民族的若しくは種族的出身(national or ethnic origin)に基づくあらゆる区別、排除、制限または優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し、または行使することを妨げまたは害する目的または効果を有するもの」と定義した。文中の世系は descent の訳語で、カースト及び類似の世襲的地位の制度を意味する。このような人種差別の定義のもと、この条約は、締約国に法律及び慣行の双方において人種差別を撤廃する措置を義務付けている。
 条約のもとに実施監視機関として、人種差別撤廃委員会が設置され、締約国からの報告を審議する。締約国が条約の選択手続きを受諾している場合は、条約の侵害を主張する個人からの請願も審議する。
 2010年末現在で174カ国が加入している。わが国は1995年に締約した。

 人種差別撤廃条約の1年後、国際人権規約が国連総会で採択された。以後の個別的人権条約は、国際人権規約の成立後という段階で制定されたものである。

 1973年には、「アパルトヘイト犯罪の抑圧及び処罰に関する国際条約」すなわちアパルトヘイト条約が国連総会で採択され、76年に発効した。この条約は、人種差別を犯罪とし、その禁止・処罰を定めた条約だが、アパルトヘイトに焦点を合わせていることが特徴的である。アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国における人種隔離・差別政策をはじめ、ある人種集団による他の人種集団に対する支配、組織的抑圧の目的でなされてきた基本的人権と自由の侵害をいう。締約国は、アパルトヘイトが人道に対する犯罪であり、国際法の諸原則、特に国連憲章に反し国際の平和と安全に対する重大な脅威であること、そしてそれを犯す団体と個人も犯罪者であり、処罰のために立法、司法、行政の措置をとること等を約束している。
 2006年現在で加盟国は106か国だった。わが国や西欧諸国は未加入である。人種差別撤廃条約と重複する点があることが理由とみられる。

 1979年には、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」すなわち女性差別撤廃条約が国連総会で採択され、81年に発効した。
 この条約の成立の経緯としては、まず1946年に国連経済社会理事会が、人権委員会とともに婦人の地位委員会を設置したことに始まる。当時人権委員会のほかに、婦人の地位委員会を設置したという事実は重要である。それだけ、女子差別の問題を重視したことの表れである。婦人の地位委員会は第1回会議以来NGO代表が参加し、女性差別撤廃宣言と女性差別撤廃条約を起草した。そして、1975年の国際女性年に開催された世界女性会議並びに1976年から始まった「国連女性の10年」を契機として、条約の作成が目指され、79年に総会で採択された。
 条約は、第1条で、女性差別を「性に基づく区別、排除または制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のいかなる分野においても、女性が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有しまたは行使することを害しまたは無効にする効果または目的を有するもの」と定義した。
 そして、法の前における女性の平等を保証し、政治的・公的活動、国籍、教育、雇用、保健、結婚、家族における女性への差別を撤廃する措置を規定している。ただし、母性の保護を目的とする特別措置は差別とはみなさないとし、母性や妊娠中の女性の保護を求めている。また、女性の売買、売春及び売春からの搾取を禁止するための適当な措置を取る義務を締約国に課している。
 2013年5月現在、締約国は187か国である。わが国は1985年に締約した。
 女子差別撤廃委員会が条約機関で、実施状況を監視し、締約国からの報告を検討する。1999年に選択議定書が採択され、個人通報制度を定めている。これには2013年5月現在、104カ国が批准しているが、未発効である。わが国は締約していない。
 アメリカ合衆国は1980年7月に女子差別撤廃条約に署名したが、2013年5月現在、批准していない。自由の国であり、レディ・ファーストの国であるアメリカが批准していない一方、欧米諸国から女性差別を指摘されているイスラーム教諸国は、この条約を締結している。これは、注目すべき事柄である。
 なお、イスラーム教諸国は女性差別撤廃条約その他の条約を締結はしているが、『クルアーン(コーラン)』やシャリーア(イスラーム法)を根拠とする多数の留保や宣言を付している。その中には欧米諸国や条約実施機関から条約目的と両立しないという異議や懸念を表明されたものが少なくない。イスラーム教徒は、世界人口の5分の1ほどを占める。世界の中でごく一部の国々が異論を唱えているのではない。地域的な人権条約の項目に、欧米で発達した人権思想は、必ずしもそのまま中南米やアフリカの社会には受け入れられず、また不足を感じさせている点があると書いた。それは文明、宗教、価値観の違いに根差すものであり、約500年にわたる植民地支配の歴史を背景にしたものとも書いた。このことは、個別的な人権条約の多くにも共通しているのである。

 1989年には、「児童の権利に関する条約」すなわち子どもの権利条約が国連総会で採択され、90年に発効した。
 この条約の歴史は、1924年国際連盟の児童の権利宣言に遡る。第2次大戦後、1959年国際連合で子どもの権利宣言が採択され、79年国際児童年を契機に、ユニセフ、WHO、ILO、ユネスコ等の協力と多数のNGOの運動によって条約化が図られ、権利宣言30周年に合わせて、89年に国連総会で採択された。日本では1994年に締約し、同年から効力が発生した。
 発展途上国では1億5千万の子どもが貧困にあえぎ、毎年何百万という子どもが栄養不良、病気等のために死んでいる。戦争、自然災害、HIV/エイズ等の犠牲となっている子どもも多い。ストリートチルドレン、劣悪な条件下での労働、少年兵等の問題もある。先進国でも子どもへの虐待、いじめ、少年犯罪、麻薬、売買春といった問題が深刻化している。子どもの権利条約は、こうした実態を踏まえて、18歳未満の者を子どもとし、子どもに対する行動の普遍的な倫理的原則と国際的な行動基準を定めたものである。国際人権規約で認められている諸権利を子どもについて規定し、意見表明権や遊び・余暇の権利等、この条約独自の条項を加え、子どもの人権尊重や権利の確保に向けた事項を規定している。少数者及び先住民に所属する子どもについても、その所属に係る権利を認めている。
 2013年10月現在、締約国・地域の数は193か国・地域である。わが国は、1994年に締約した。アメリカ合衆国とソマリアは署名はしているが、未締約である。米国は「自由の国」を自負しているが、女子差別撤廃条約は署名したが批准していない点と合わせて、個別的な人権条約には慎重な姿勢を取っている。
 この条約は、子どもを「保護の対象」としてではなく、「権利の主体」としている点に特色がある。この点は大いに議論のあるところであり、まだ社会的な責任と義務を担い得ない子どもに多くの権利を認めることは、親や教師や大人による教育に支障をきたす。特にわが国では、日教組が、性の自己決定権を子どもにも当てはめた過激な性教育を行っており、条約による弊害が多い。
 この条約によって設置された子どもの権利委員会は、条約の実施状況を監視し、条約による義務の実施について締約国が提出する報告を審査し、義務の履行について政府に勧告する。する。また2000年に2つの選択議定書が総会で採択された。一つは18歳未満の子どもを軍隊に徴兵することや武力紛争に参加させることを禁じ、もう一つは子どもの売買、売春、ポルノの禁止や処罰を強化したものである。
 この条約に関連する機関として、国連児童基金(ユニセフ)がある。

 1984年には、「拷問およびその他の残虐な、非人道的なまたは品位を傷つける取扱いまたは刑罰を禁止する条約」すなわち拷問等禁止条約が、国連総会で採択され、87年に発効した。
 自由権規約は、第7条に拷問等の禁止を定めている。だが、1970年代以降、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの国々で軍事独裁政権または開発独裁と呼ばれる政権が生まれ、強制失踪や即決処刑等とともに拷問が頻繁に行われていた。こうした事態に対応するため、国連総会は1975年に拷問等禁止宣言を採択した。その後、拷問等禁止条約が採択されたのである。
 この条約は拷問の禁止を定めている。ただし、第1条で「合法的な制裁の限りで苦痛が生ずること又は合法的な制裁に固有の若しくは付随する苦痛を与えることを含まない」としている。この点は重要である。条約はまた拷問は国際的犯罪であると定義し、締約国は拷問防止に責任を持つとして、犯罪実行者を処罰することを締約国に求めている。拷問を正当化するいかなる例外も認めず、また命令による行為であったとする拷問者の弁解は認めない。
 2010年末現在で、締約国数は147カ国だった。わが国は1999年に締約した。
 条約の実施監視機関は拷問禁止委員会である。委員会は締約国からの報告を受けて審議し、勧告する。2002年に選択議定書が採択され、「防止小委員会」が設置された。小委員会は、締約国の国内の防止機関と協力し、抑留場所を査察する。議定書はまた、国内に防止機構を設立することも規定している。2010年末現在で、57カ国が加入しているが、未発効である。わが国は締約していない。

 1990年には、「すべての移住労働者とその家族の権利の保護に関する国際条約」すなわち移住労働者保護条約が、国連総会で採択され、2003年に発効した。
 労働者一般の権利に関する条約は、第1次世界大戦後から発展してきたものである。その点で重要なのが、国際労働機関(ILO)の役割である。ILOについては第8章に書いたが、ここで補足する。ILOは、1919年に国際連盟の一機関として設立され、国際の平和・協調を危うくするような労働状態の改善、社会主義革命の防止等のため、国際労働立法を行った。第2次大戦中の1944年5月10日、ILOは第26回総会において同機関の目的に関するフィラデルフィア宣言を採択した。この宣言は、労働は商品ではないこと、表現及び結社の自由は不断の進歩のために不可欠であること等のILOの根本原則を再確認した。また「すべての人間は、人種、信条又は性にかかわりなく、自由及び尊厳並びに経済的保障及び機会均等の条件において、物質的福祉及び精神的発展を追求する権利をもつ」「このことを可能ならしめる状態の実現は、国家の及び国際の政策の中心目的でなければならない」として、人権の観念を強調した。
 注目すべきは、フィラデルフィア宣言が、45年の国連憲章、48年の世界人権宣言に先行して発せられていることである。第1次世界大戦及びロシア革命の後、労働者の権利の確保・強化が図られ、それを「すべての人間」に拡大しようとする動きがあり、その流れの中で、国連憲章及び世界人権宣言が成立したのである。
 ILOは、第2次大戦後、「連合国=国際連合」の専門機関となった。国際連盟の機関から、国際連合の機関へと所属は変わったが、国際労働機関として一貫して活動している。
 ILOは、第1次大戦後、移住労働者の権利保護のための条約を採択し、移住労働者の国際的保護に取り組み、第2次大戦後もその取り組みを続けた。私は、この動きも、主にユダヤ人移住労働者の便宜を図ることが動機と考える。労働問題とユダヤ人問題は深いつながりがある。労働問題や社会主義の指導者に、ユダヤ人が多くいることが思い合わせられよう。
 次に移住労働者保護条約が制定された経緯を述べる。ILOは1975年に第143号条約を採択した。この条約は、非正規または不法な状況にある者を含むすべての移住労働者の基本的な権利の尊重を義務付ける一方、労働者の秘密裏の移動と移住者の不法な雇用を抑止することを締約国に求めている。正規の在留資格を持たない「不法な状況にある者」の権利保護をめざすという姿勢には、国家の法規範より個人の権利に優位を置く考え方が示されている。
 こうしたILOの活動があって、移住労働者保護条約は1990年に、国連総会で採択された。この条約は、労働者一般ではなく移住労働者を対象とする。移住の仕方の合法・非合法を問わず、移住労働者の基本的権利を定義し、彼ら及びその家族の権利を保護する措置について規定している。ただし、適法状況にある移住労働者と不法状況にある移住労働者では保護される権利を区別している。区別の仕方としては、条約の第2部と第3部ですべての移住労働者とその家族に適用される権利を列挙し、その後に第4部と第5部で適法状況にある移住労働者に認められる追加的権利を規定している。また非正規の移住労働者の合法化を求めている。条約機関は、移住労働者委員会である。
 2011年1月時点で、批准国は北アフリカや南米諸国を中心とした44カ国だった。わが国は締約していない。
 私は、移民問題について、別稿「トッドの移民論と日本の移民問題」をサイトに掲載している詳しくは、そちらを参照願いたいが、不法に入国したり、滞在したりする外国人労働者とその家族の地位を安易に合法化すると、不法行為を助長する。また国内の雇用は悪化し、さらに国民の経済的文化的な共同体が解体される危険性がある。それゆえ、移住労働者保護条約への対応は、十分な注意を要する。

 2006年には、「障害者の権利に関する条約」すなわち障害者条約が、国連総会で採択され、2008年に発効した。この条約は、雇用、教育、保健サービス、運輸、司法へのアクセスなど、生活のすべての領域において障害者に対する差別を禁止している。世界人口の推計では6億5千万人が障害者(persons with disabilities)で、世界人口の10%弱に当たる。日本でも全人口の約5%に当たる655万人の障害者がいる。その人口比を考えるとき、障害者条約の重要性がわかる。障害者の多くは発展途上国におり、またその多くが最下層で生活している。
 2010年末現在で96カ国が加入していた。わが国は締約していない。
 条約の実施監視機関は、障害者の権利委員会である。条約の選択議定書は、個人通報制度を定めている。2010年末現在で、締約国の数は60カ国だった。

 

●条約化されていないもの

 個別的な人権条約の主なものについて書いてきたが、現段階では、宣言にとどまり、条約化はされていないものもある。
 その一つに、1992年に国連総会で採択された「民族的または種族的、宗教的および言語的少数者に属する人々の権利に関する宣言」すなわち少数者の権利宣言がある。この宣言は、少数者は自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し、自己の言語を使用し、かつ自国も含め、いかなる国からも出国し、かつ自国へ帰国する権利を有すると宣言している。宣言は、これらの権利を促進し、擁護する行動をとるよう各国に要請している。
 また2007年に採択された「先住民族の権利に関する宣言」すなわち先住民族の権利宣言がある。ここで先住民族とは、indigenous peoplesの訳語である。先住民族はまた「最初の住民」、部族民、アボリジニー、オートクトンとも呼ばれる。現在地球上には少なくとも5,000の先住民族が存在し、5大陸の70カ国以上の国々に住んでいるとされる。ただし、ある集団をその居住国や国際社会が先住民族と認めるかどうかによって、数値は変化する。何を以て先住民とするか、その基準が重要であるし、先住民だと主張する個人個人がその基準に適っているかどうかを、適切に判断する仕組みも必要である。
 先住民族の権利宣言は、先住民族が個人として、また集団として国連憲章、世界人権宣言を始め、国際人権法に認められるあらゆる人権を享有する権利があり、その権利の行使について、いかなる差別もなく、平等であるとしている。また先住民族の個人及び集団の権利をはじめ、文化、アイデンティティ、言語、雇用、健康、教育、その他の利益に対する権利を規定している。また先住民族自身の制度、文化、伝統、それらの発展のモデルを維持、発展させる権利を強調している。また、宣言は先住民族に対する差別を禁止し、公務への参加を推進している。さらに集団の自決権に基づいて、独自の政治的、法的、文化的な制度を保持する権利があり、強制的な同化政策や文化の破壊を受けない権利を有するとしている。その他、立ち退きや移住を強制されない権利、独自の宗教、教育、メディアなどを維持する権利、自分たちに関わる意思決定に参加する権利なども挙げている。
 先住民族の総人口は3億7,000万人を数え、世界人口の4.6%に上るとされる。先に書いたように基準とそれによる判断という課題があるが、仮にその数値に基づくならば、彼らの権利を広範囲に認めると、非先住民族は歴史的・社会的・文化的に獲得・拡大してきた権利を縮小されることになる。国民のアイデンティティ、居住、資源利用、環境保全等の多くの問題に影響する事柄である。彼らは世界の約190か国のうちの707か国以上に居住する。場合によっては、世界の約36%の国々において、人口5%未満の少数者と大多数を占める多数者の間で、権利関係の逆転すら起こり得る。
 少数者及び先住民族の権利保護は、道徳的課題として、注目されるものである。一般に発達したデモクラシーにおいては、多数者による合意の形成と実現とともに、少数派の意思の尊重が重要とされる。デモクラシーは選挙制度と同一視されるべきものではなく、「討議による統治」こそ中心要素と理解されるべきものである。しかし、権利関係は意思の合成に係るものであり、また権利関係は権力関係でもあるから、少数者の意見の尊重が多数者の権利の多大な侵害となってしまうとデモクラシーは機能しない。権利保護を人権の理念のもとに政治的な闘争に利用する左翼人権主義者が世界的に横行している現状では、この点の確認が極めて重要である。
 今日の国際社会においては、民主主義を標榜していながら、「討議による統治」としてのデモクラシーが実現していない国が多数ある。このような状況で、少数者の権利宣言、先住民族の権利宣言で挙げられているような少数者または先住民族の権利を急進的に実現しようとすることは、複雑で多様な問題を生み出す。文化も宗教も言語も民族も、固定的・不変的なものではなく、これまでの人類の歴史の中で生成・変化してきたものである。少数者及び先住民族が権利の拡大を実現するには、それを可能にするだけの価値と普及力を発揮できなくてはならない。またここでも権利は義務と相即的なものでなくてはならないのであって、権利を保障されるとともに、義務を果たし、社会に貢献し得てこそ、権利の拡大が承認される。義務の面を無視してただ権利の保障や拡大を求める者は、真の権利主体とは言えない。

 

●普遍志向的と特殊志向的の関係のまとめ

 ここで普遍志向的な人権条約と特殊志向的な人権条約の関係について補足し、この項目のまとめとしたい。
 もともと人権とは、近代西欧において、王侯・貴族・聖職者に対し、庶民が自らの権利を確保・拡大しようと主張してきたものだった。彼らは、その権利をすべての人間の固有の権利と表現した。ただし、権利主体の実態は、西欧の白人種の富裕な大人の男性の健常者だった。その西欧においても、また人類全体においても、一部の集団に属する者の権利が、人間に普遍的・生得的なものと主張されたのである。普遍的権利ではなく、特殊的な権利だったのである。
 この地域・人種・財産・年齢・性別・心身機能によって限定されていた権利が、20世紀に入ってから大人の男性全体や女性、子ども、障害者等へと保障の対象を拡大してきた。対象の拡大によって、人権は疑似的な普遍性を強めてきた。言い換えれば、特殊的権利の非特殊化である。同時に、この過程で、労働者のみの権利、女性のみの権利、子どものみの権利等が派生してきた。新たな特殊的な権利の付加である。こうして人権は特殊的な権利の疑似的な普遍化、疑似普遍的な権利への特殊的権利の付加という二重の進行によって発達してきた。特殊的な権利の疑似的な普遍化を進めたものが、国際人権規約であり、疑似普遍的な権利への特殊的権利の付加を行ってきたものが、地域的または個別的な人権条約である。厳密な意味ですべての人間の権利とされる普遍的権利は、理念においてしか存在しない。実際には、特殊的権利の非特殊化と新たな特殊的権利の付加という展開で、人権は「人間的な権利」として歴史的・社会的・文化的に発達してきたのである。
 今日の世界には、普遍志向的な人権条約のほかに、多数の特殊志向的な人権条約が存在している。主に三つの地域的人権条約と多数の個別的人権条約である。どれも対象を限定した特殊志向的なものだが、これだけ多くなると、普遍志向的と特殊志向的の逆転が起こってくる。というのは、まず地域的人権条約については、欧州、米州、ラテン・アメリカの三つの地域を合わせると、世界の人口の約4割に上る人々が特殊志向的な地域的条約の権利主体となっている。次に個別的人権条約については、まず人類のうち半数以上は女性である。女子差別撤廃条約は、人類の過半数を対象とした特殊志向的な条約である。また18歳未満の者は、世界人口の約10%を占め、子供の権利条約はその集団を対象としている。障害者は、世界人口の約10%を占め、障害者条約はその集団を対象としている。その他、各種の個別的条約が対象とする者を除くと、残るのは3割程度となるだろう。残る人々は、18歳以上の男性の健常者で難民・国内避難民等でない者となる。そのうちの大半は労働者であり、労働者としての権利を保護される対象ゆえ、どのような個別的人権条約の対象にもならない者は、わずか数%だろう。その数%の人々は普遍志向的な条約のみで権利を保障され、それ以外の大多数の人々は単数または複数の特殊志向的な条約によっても権利を保障されている。
 ふつう普遍的とは全部または大多数に当てはまることをいい、特殊的とは一部または極少数に当てはまることをいう。その量的な点のみから言えば、人権条約における普遍志向的と特殊志向的の関係は、逆転しているのである。これは実際にどの程度権利を保障されているかとは別の話である。1%の超富裕層が世界の富の40%を所有しているといわれる。そのごく一部の者が多大な自由と権利を享受する一方、99%の大多数の者は自由と権利を制限されているのが、現在の世界だからである。
 次に、権利関係における優劣に関して述べると、権利関係における劣位者の権利を保護することは、必要である。それが個別的な人権条約を制定する目的である。だが、注意すべき点として、劣位者の権利の拡大によって優位者の権利は縮小され、これが極度に進められると、権利関係における優劣の逆転が起こり得ることである。例えば、女性の男性に対して、子供の大人に対して、在住外国人の居住国の国民に対して、先住民族の非先住民族に対して等の関係において、部分的こうした逆転が起こっている。差別という観点から述べると、差別−被差別の関係は、権利関係と連動するから、同様な逆転が起こり得る。差別されている側の権利を保護することによって、差別している側が権利関係において劣勢になることが起こり得る。これを逆差別という。いったん権利を獲得または拡張した者は、権利を縮小されることに抵抗する。縮小は「人権侵害」だとの主張がなされる。これに対して、論理的かつ実証的に反論することは、容易なことではない。
 普遍志向的な人権条約のほかに、多数の個別的人権条約が存在している。そのため、普遍志向的と特殊志向的の逆転が起こっている。また劣位者の権利の拡大によって優位者の権利は縮小され、これが極度に進められることにより、権利関係における優劣の逆転も一部に起こっている。こうした事態が生じ得るのは、そもそも人権とは普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」だからである。またそれらの権利主体とされる人間のもとになる人間観がいまだ確定したものではなく、人間観が多様化しつつ発達する過程にあるためである。

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(2)人権発達史の新たな段階

 

●人権の世代論

 人権は歴史的・社会的・文化的に発達してきた。その人権の発達史の見方に、人権の世代論がある。ユネスコの人権部長等を務めたカレル・ヴァサクが唱えたものである。人権の世代論は、「第3世代の人権」を主張する。
 人権は近代西欧で、まず国家権力の介入からの自由として発達した。それゆえ、その権利すなわち自由権は「第1世代の人権」と呼ばれる。次に、資本主義の発展により生じた社会的矛盾を解決するために、国家の積極的関与によって実現される権利が発達した。それゆえ、その権利すなわち社会権は、「第2世代の人権」と呼ばれる。
 これら第1世代、第2世代の人権は、ともに20世紀半ばに、世界人権宣言及び国際人権規約に規定されるものとなった。世界人権宣言及び国際人権規約は、私見では主に普遍志向的な権利を定めたものだが、特殊的権利を定めてもおり、それを拡張する形で特殊志向的な人権条約が制定されてきた。地域的人権条約及び個別的人権条約である。これらの人権条約は、第1世代、第2世代の人権を特殊志向的に発達させてきた。
 1966年制定の国際人権規約は、第1世代、第2世代だけでなく、新たな権利をも定めた。それが「第3世代の人権」と呼ばれるものである。「第3世代の人権」は、自由権・社会権に対し、「連帯の権利」と称される。その代表的なものが「発展の権利」であり、他に「環境と持続可能性への権利」「平和への権利」等が提起されている。
 「第3世代の人権」のうち「発展の権利」は、白色人種の支配から独立を勝ち得た有色人種の要望によって承認されたものである。移住労働者に関する項目に書いたが、ILOは1944年のフィラデルフィア宣言で、「すべての人間は、人種、信条又は性にかかわりなく、自由及び尊厳並びに経済的保障及び機会均等の条件において、物質的福祉及び精神的発展を追求する権利をもつ」として人権の観念を強調した。45年の国連憲章や48年の世界人権宣言は、発展のための機会均等の原則を、はっきりと認めている。「発展の権利」の確立過程で、重要な道標となったのが、「植民地独立付与宣言」である。植民地独立付与宣言は、1960年に国連総会で採択された。この宣言は、世界人権宣言を踏まえて自己決定を行いたいという人民の抱負と国連憲章の原則の適用が非常に遅滞しているとの認識に基づいて、発せられた。
 植民地独立付与宣言は、「外国による人民の征服、支配および搾取は、基本的人権を否認し、国際連合憲章に違反し、世界の平和及び協力の促進に障害となっている」(1項)と明言し、さらに「すべての人民は自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民はその政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的および文化的発展を自由に追及する」(2項)と宣言した。付帯条項では、「単独での主権独立国家」「独立国家との自由な連合」「独立国家への統合」の三種類をもって合法的な自治権の達成と定義した。これは、個人の自由権及び社会権の前提として、諸個人の所属する集団の自己決定権を認めるものである。そして、自決権だけではなく、自決権を根本として、「発展の権利」を宣言しているのである。
 自決権は、国家における主権に比べることができる。西洋文明では、各国が近代西欧的な主権を所有しており、その主権に対抗して人権の確保・拡大が追求された。これに対し、非西洋文明の諸社会では、欧米諸国に主権を奪われている状態から、統治権を奪還し、主権を確立することによってのみ、人権の確保・拡大を追求し得る。
 私の観点からいえば、欧米諸国はもともと集団の自決権を持っていたので、個人の自由権・社会権が発達し得た。集団の自決権はそれらの暗黙の前提となっていた。欧米諸国によって集団の自決権を奪われていた有色人種が独立を目指す時に、その背景、いわば“図”に対する “地”が反転して顕在化したのである。
 植民地独立付与宣言後、1960年代には個人の権利の成立条件として人民の自決権が強調された。自決権はその政治的側面だけでなく経済的、文化的側面にも拡大された。そのうえで、「すべての人民はその政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的および文化的発展を自由に追及する」として「発展の権利」が打ち出されている。そして、1966年に至って、国際人権規約に、人民の自決権とともに、それに基づく「発展の権利」が規定された。植民地独立付与宣言は、「発展の権利」を掲げ、その発達を促進するものとなったのである。
 国際人権規約は、世界人権宣言を条約化したものであり、第1世代、第2世代の人権を国際的な人権条約に規定して定着させ、国際社会に共通する価値とした。さらに規約は「第3世代の人権」を発達させるものともなった。その代表的なものが、「発展の権利」である。「発展の権利」は、自由権規約・社会権規約に定められた。そして1986年の「発展の権利宣言」、1993年の「ウィーン宣言及び行動計画」を経て、国際社会に定着した。またこれらの宣言を通じて、「連帯の権利」がより強く主張されるようになった。「連帯の権利」については現状、否定的な意見が多いが、国際的な議論を通じて新たな権利として承認されるようになっていく可能性がある。

 

●人権発達史の三つの段階

 私は、人権の発達史をとらえるには、世代よりも段階の概念が適当と思う。人権の発達史において、第1段階では17〜18世紀の西欧において、新興ブルジョワジーを中心に自由と権利が主張され、普遍的・生得的な権利が主張された。これが自由権である。ただし、第1段階で発達した権利には、単なる自由権ではない権利が含まれていた。単純な世代論は、これを見失わせる。第2段階では、20世紀前半の欧米において、平等に配慮した権利が多く主張され、権利の主体が労働者へと拡大された。これが社会権である。第2次世界大戦後、先進諸国を中心に「福祉国家」という目標像が打ち出され、「福祉国家」を目指す国々では、社会権が多く実現されている。
 第1段階・第2段階は、主に欧米を中心に展開されたが、第2次世界大戦後、アジア・アフリカの有色人種が独立と解放を勝ち取り、自由と権利の希求がアジア・アフリカへと広がった。新興独立国の多くが「国際連合=連合国」に加盟すると、それらの国々の主張を背景として、国連で「発展の権利」が主張されるようになった。
 先に書いたように、国際人権規約は「連帯の権利」を定めた。自由権を中心とした段階を人権発達史の第1段階、社会権が加わったのが第2段階とすれば、国際人権規約は、自由権・社会権についてそれぞれ規約を定めたことで、社会権の地位を高めた。それによって人権の発達史の第2段階を確立した。それと同時に、「発展の権利」等によって人権発達史の第3段階を開くものとなった。A規約(社会権規約)・B規約(自由権規約)は、共通第1条に、「すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」と定めた。この「経済的、社会的及び文化的発展」を自由に追求する権利が、「発展の権利」である。集団が発展する自由への権利と理解することができる。単に経済的な発展だけでなく、より広汎な社会的・文化的な面も含むことが重要である。「発展の権利」は、植民地から独立した国々の多くが、低開発や貧困等に苦しんでいる中で、主に発展途上国の側から主張されたものである。「発展の権利」の規定は、人権の発達史において画期的だった。「発展の権利」が国際人権規約に盛り込まれたことで、欧米中心に発達してきた人権の思想は、人類的な次元に進み入ったのである。
 共通第1条は1項に「すべての人民は、自決の権利を有する」と述べて、人民(peoples)の自決権を定めている。人民の自決権は国民自決権・民族自決権・集団自決権のどれでもあり得る。権利の主体が個人ではなく、集団となっていることが重要である。その集団の自決権に基づいて、人民が「政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」としている。この第1項の規定は、15世紀以来の白人種による植民地支配を否定するものである。第2項では、天然の富及び資源に関する権利を定め、生存のための手段を奪われることはないとした。これは、宗主国による資源収奪の否定である。第3項でも、自決権の実現の促進と尊重が書かれている。これは、過去の欧米における人権宣言と大きく異なっている点である。また個人の人権だけを規定した世界人権宣言とも、著しい対照を示している。これは、人権の発達史において、重大な変化だった。
 国際人権規約の制定後、1981年にアフリカ人権憲章(バンジュール憲章)が制定された。この地域的人権条約は、植民地主義、新植民地主義、アパルトヘイト、シオニズムの廃絶を謳い、「発展の権利」を規定している。
 「発展の権利」は、1986年に国連総会で採択された「発展の権利に関する宣言」すなわち発展の権利宣言において、一個の権利として強調された。
 この宣言は、「発展の権利」について、「奪うことのできない人権である。この権利に基づき、すべての個人および人民は、あらゆる人権および基本的自由が完全に実現されうるような経済的、社会的、文化的および政治的発展に参加し、貢献し、ならびにこれを享受する権利を有する」と宣言した。ここで「発展」は個人の能力の発達を可能にするような「国家的発展政策を樹立する権利」を含み、特に「発展途上国のより急速な発展を促進する」ことを目的とする。さらに、「発展のための機会の平等は、国民および国民を構成する個人の双方の特権である」と述べている。権利の主体は個人だけでなく人民を含み、単に経済的発展だけでなく社会的、文化的および政治的発展とし、また発展の権利というだけでなく発展に参加・貢献・享受する権利を宣言した。
 「発展の権利」は、自由権及び社会権に対して、次のような特徴がある。権利の主体は、 個人と集団の双方である。義務の主体は、国家、先進工業国、国際機関、国際共同体である。実現には、個人、国家、団体等の参加が必要である等である。
 「発展の権利に関する宣言」の採択は、自由権的人権と社会権的人権を保障する前提となる権利として、開発または発展を人権として捉えるという国際社会の意思を明確に示した点で画期的なことだった。人権の発達史は、「発展の権利」を含む「連帯の権利」によって第3段階に入った。同時にまた欧米中心の段階から人類全体的な段階に入ったのである。

 

●「ウィーン宣言及び行動計画」の重要性

 1993年、第2回世界人権会議がウィーンで開催され、「ウィーン宣言及び行動計画」が採択された。
 ウィーン会議において、新国際秩序の創造へ果たす役割に期待のかかっていた国連のブトロス・ブトロス=ガリ事務総長(当時)は、人権は「究極の価値」であり、「われわれは、その価値を通して単一の共同体(コミュニティ)となる」と高らかに演説した。
 「ウィーン宣言及び行動計画」は、人権の発達史で、国際人権規約以来のメルクマールとなるものだった。この文書は、人権の普遍性、人権にかかる国家の義務、人権侵害の停止を強調した。そうした文書で、「発展の権利」が人権の一部として重ねて、強く宣言されたのである。
 ウィーン宣言は、「T 人権問題に関する原則」の第5節に、「すべての人権は、普遍的、不可分、相互に依存し、関連している。国際社会は、同一の立場に基づき、かつ同様に重点を置いて、公平かつ平等な方法で、人権を全世界的に取り扱わねばならない。国、地域の特殊性及び種々の歴史的、文化的及び宗教的背景の重要性は考慮されねばならないが、すべての人権及び基本的自由の促進及び保護は、その政治的、経済的及び文化的制度の如何を問わず、国家の義務である」と記した。
 また第28節に、次にように記した。「世界人権会議は、大規模な人権侵害、とりわけ難民及び強制移住者の大量流出を惹起す戦時下の虐殺、『民族純化』及び女性に対する集団強姦に失意を表明する。これら忌むべき行為を強く非難するとともに、その犯罪の加害者が処罰され、このような行為がただちに停止されることを繰り返し訴える」と。
 「ウィーン宣言及び行動計画」が、このように人権の普遍性、不可分性、相互依存性、相互関連性を打ち出したことは、人権の思想の展開において重要な出来事である。この打ち出しは、自由権と社会権の一体性を示したものと理解されている。
 それまでは、自由権と社会権は別のものであり、まず自由権が発達し、後に社会権が発達したと考えられてきた。欧米では、自由権のみが普遍的・生得的な「人間の権利」であり、社会権を人権とは認めないという考え方が、今も有力である。自由を最高の理念とし、平等への配慮は個人の自由を侵害しない範囲で最小限にとどめるべきという考え方に立てば、社会権の拡大は人権の侵害となる。だが、「ウィーン宣言及び行動計画」は、自由権と社会権の一体性を示すことにより、事実上こうした考え方の誤りを表明した。
 自由権と社会権が一体のものであるとすれば、これらは根源的な権利から分化したものと考えられる。根源的な権利からまず自由権が展開し、次に社会権が展開した。さらにその後に、「発展の権利」を含む連帯の権利が展開したということになる。そうした根源的な権利は、権利を個人的なものではなく集団的なものと考えるときにのみ、理論的に成立する。他の集団に対して優位にある集団において、集団の権利から個人の権利が分化し、その後に個人間の権利の調整が行われるようになった。次に、その集団に対し劣位にあった集団が、集団として権利の回復を求めるようになった。それが「発展の権利」である。もとの優位集団はその「発展の権利」を行使し得ていたから、個人の権利の保障・拡大をなし得たのである。ここにおける優位の集団とは、歴史的には欧米諸国であり、劣位の集団とはアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの諸民族である。
 人権の発達史における第1段階から第2段階への展開は、主に欧米諸国における階級間での権利の拡大だった。帝国の周辺部からの収奪の上に繁栄する中核部で、支配集団から労働者や社会的弱者へと権利が拡大していったものである。それが第3段階では、欧米諸国民から非西洋文明の諸国民へと拡大された。第2段階から第3段階への移行は、民族間の拡大であり、中核部から周辺部への拡大である。こうした文明間・地域間・民族間の展開が最も明確な形を取ったのが、「ウィーン宣言及び行動計画」である。
 「ウィーン宣言及び行動計画」は、自由権と社会権の一体性を示しただけでなく、国家の義務を定めた。国家の不介入ではなく、積極的な取り組み、しかも義務としての履行を求めている。実は政府のこの役割は、もともと西欧諸国の政府が担ってきたものである。政府が国防や治安維持、司法等を担って集団として持つ権利が確保されているから、その社会で個人の自由と権利の確保・拡大が可能になったのである。もし政府の統治権がしっかり行使されず、国家権力が機能していなかったなら、他国の侵攻・支配を受け、人民の権利は制限または剥奪されてしまう。または、国内の治安が乱れ、人民の権利は保障されなくなる。公権力によって裁判が行われず、処罰が課せられなくなると、暴力が蔓延し、私刑が横行する。政府の統治権がしっかり行使され、国家権力が機能していて初めて個人の権利が享受される。このことは、先に書いたように、集団の権利が個人の権利に先立ち、集団の権利から個人の権利が分化し、個人間そして集団間の権利の変動が起こってきたことと関連している。
 国際人権規約から「発展の権利宣言」へ、さらに「ウィーン宣言及び行動計画」という展開は、人権の発達史の第3段階の進行だった。この進行そのものが、近代西欧で発達した人権の思想は、根本的に見直されるべきものであることを示しているのである。

 

●第3段階における新たな権利の主張

 人権の発達史は、欧米で普遍的・生得的な権利として発生した人権という観念が、もともと歴史的・社会的・文化的な生成物であることを示している。人権は「発達する人間的な権利」である。しかし、国際社会は、依然として、人権の発達史の第1段階で歴史的・社会的・文化的に形成された「人間が生まれながらに平等に持っている権利」「国家権力によっても侵されることのない基本的な諸権利」という理解をそのままにしている。その状態で、第2段階の権利、第3段階の権利を拡張している。人権の概念について根本的な再検討を行っていないのである。そのために、今日人権については、普遍的と特殊的、非歴史的と歴史的、個人的と集団的、権利と義務といった基本的な概念の関係が、乱雑な状態になっている。
 このような状態において、「第3世代の人権」として「連帯の権利」が唱えられている。そのうち「発展の権利」については先に書いたが、他にも新たな権利が主張され、また一部では実現されている。その一つに、「環境と持続可能性への権利」がある。1972年の国連人間環境会議におけるストックホルム宣言に盛り込まれたほか、ギリシャ、ブルガリア、ポーランド、ポルトガル、フランス等の憲法に取り入れられている。ほかに「平和への権利」、「人類の共同財産に関する所有権」、「人道援助への権利」等がある。現在のところ、これらの権利については、否定的な意見が多い。さまざまな権利を人権とすることによって、既成の権利の信頼性・実定性が損なわれる、集団の権利によって個人の権利が侵害される、権利を要求する対象となる義務主体が明確でない、権利主体に集団を含めると義務主体が同一になる等がその理由である。
 こうした新たな権利について国際的な議論を行うためには、人権の発達史を踏まえて、人権そのものの再検討がなされねばならない。自由権と社会権の一体性と「発展の権利」との関係、また普遍的と特殊的、非歴史的と歴史的、個人的と集団的、権利と義務といった基本的な概念の原理的な掘り下げが必要である。この掘り下げの結果、世界人権宣言・国際人権規約等を改定し、それに従って国際人権機関の制度や運用を改める必要も出て来るだろう。

●「世界人間責任宣言」への動き

 人権の再検討に通じる動向の一つとして、義務と責任を重視する取り組みがある。それは、自由・権利と義務・責任は不可分のものであることを踏まえ、「世界人間責任宣言」を発しようとする動きである。「世界人間責任宣言」は、インターアクション・カウンシル(通称OB サミット)が提案しているものである。OBサミットは1983年、わが国の福田赳夫元首相の提唱で設立され、国家元首・首相経験者30人前後が毎年非公式に集い人類が直面する政治経済社会倫理などの分野における諸問題の実践的な解決へ向けた提言をしてきている。OBサミットが提案する「世界人間責任宣言」は、世界人権宣言によって人権が世界的に発達するなかで、権利が強調される一方、義務と責任が軽視されてきたことへの反省に立っている。
 「世界人間責任宣言」案は、権利と義務は表裏一体であり、相互補完的なものととらえる。そして、主に次のような責任を挙げている。(1)他者に対する責任として、他者を人道的に遇する責任、他者の尊厳と自尊のために努力する責任、生命の尊重の責任、他者からの収奪の禁止、弱者に対する支援の責任、(2)社会に対する責任として、共同体において連帯する責任、自然環境や未来世代に対する責任、高潔・誠実・公正に行動する責任、社会改善に向けて努力する責任、(3)家族に対する責任として、夫婦間における相互尊敬の責任、親子の間の責任、(4)自己に対する責任として、自分の能力を開発し、最大限に発揮する責任である。
 OBサミットは、世界人権宣言採択50周年となる1998年に国連総会での採択を目指したが、採択は未だ実現していない。私は、「世界人間責任宣言」は、人権の発達史の第4段階を開き得るものとして注目する。新たな権利をいろいろと増やすよりも、義務と責任を明確にすることが先決である。人権の観念は、すべての人間が互いの自由と権利を尊重するだけでなく、互いの義務と責任を承認し、ともに実行することによって、より健全な形で発達するだろう。そして、義務と責任について掘り下げを進めていくとき、近代西欧で発達した人権の思想は、権利と義務、自由と責任という観点からも、根本的に再検討する必要が出てくるだろう。

 

●人権についての文明間の違い

 ここで人権の発達史について、文明学的な観点から補足したい。
 人権といわれるものは、主に「国民の権利」であり、人々の権利を保障する主体は、国家である。国家は、多くの場合、単独で存在するのでなく、より大きな文明という広域社会の中に存在する。ひとつの文明には大概、複数の国家が並存している。同じ文明の中にある国家間では、共通の文化要素が多く、相互理解・相互協力がしやすい。しかし、異なる文明の間では、相互理解・相互協力が難しい。『文明の衝突』の著者サミュエル・ハンチントンによると、冷戦終焉後の世界には、系統の違う主要文明が7つ存在する。キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする西洋文明(西欧・北米)、東方正教文明(ロシア・東欧)、イスラーム文明、ヒンドゥー文明、儒教を要素とするシナ文明、日本文明、カトリックと土着文化を基礎とするラテン・アメリカ文明である。これに今後の可能性のあるものとして、アフリカ文明(サハラ南部)を加えると、8となる。
 これらの文明は基本的な世界観を異にしている。国連には、これらすべての文明の大多数の国家が参加してはいるが、文明の違いにより、加盟国の間で人権のとらえ方に相違がある。人権は「憲章」や「宣言」に定められ、その思想は世界規模で普及しつつある。しかし、未だ真の共通理解に至っているとはいえない。
 人権の思想は、近代西洋文明において形成されたものである。そこには、西洋文明の烙印が押されている。西洋文明の文化的伝統に立てば、他の文明の国々が、人権を制約しているように見えたとしても、これを解決する手段は人権の概念の中には存在しない。西洋文明と他の文明は、基本的な人間観が違うからである。この相違の根底にあるのは、宗教観の違いである。現代世界の主要文明は、それぞれ精神的中核として、異なる宗教または宗教的伝統文化を持っている。そして、この宗教または宗教的伝統文化の違いが、それぞれの価値観、人間観の違いに現れる。西洋文明は、この違いを近代西洋思想的な論理によって排除し、自らの文明の規範を押し付けようとしている。そこに軋轢が生じる。

●一神教文明群とユダヤ・キリスト教諸文明

 ハンチントンは、8つの主要文明を単に並列的に見たが、私はそれらを一神教文明群と多神教文明群と分ける。一神教文明群とは、セム系唯一神教を文明の中核とする文明群であり、多神教文明群とは、人類に広く見られる多神教を文明の中核とする文明群である。一神教文明群は、さらにユダヤ=キリスト教諸文明とイスラーム文明に分けられる。ユダヤ=キリスト教とは、ユダヤ教とキリスト教の関係を強調する場合の名称である。ユダヤ=キリスト教諸文明は、西洋文明、東方正教文明、ラテン・アメリカ文明を主要文明とし、周辺文明の一つにユダヤ文明がある。
 近代西欧から世界に広がった人権の概念の基礎にあるのは、キリスト教である。キリスト教における神は、もともとユダヤ民族の神(ヤーウェ)である。その神への信仰を継承している点で、キリスト教はユダヤ=キリスト教と呼ぶべきものでもある。キリスト教の神は、ユダヤ民族の始祖アブラハムと契約を結び、ユダヤ民族を選民とした。こうした民族性の強い神に、人権の根拠が求められている。近代西欧においては、この神が人格神から非人格神、さらに法則・理法へと解釈が拡大されてきた。「憲章」と「宣言」には、こうしたキリスト教とそれに基づく啓蒙思想が色濃く反映している。
 

●キリスト教の教化力の低下と世界的なニヒリズム

 キリスト教を抜きにしては、現代の人権の思想は成り立たない。人権の普遍性とは、未だ見せかけの普遍性に過ぎない、と書いたが、では今日、キリスト教に基づく西洋文明は、さらに世界をキリスト教化し、キリスト教に基づく人権思想を世界に広める感化力を持っているだろうか。否。欧米諸国ではキリスト教の勢力は徐々に低下し、キリスト教を土台とした西洋文明の世俗化が進んでいる。そのような状態で、非キリスト教文化圏にキリスト教文化を伝道していくことは難しい。
 むしろ、西洋文明で世俗化が進んでいることが、西洋文明の周辺文明と化しつつある非西洋文明に対して、世俗化という影響を与えつつある。19世紀末の西欧にあって、ニーチェは、キリスト教によって代表される伝統的価値が、人々の生活において効力を失っていると洞察した。この状況を「神は死んだ」と表現した。ニーチェは、西洋思想の歴史は、プラトンのイデアやキリスト教道徳など、彼にとっては本当はありもしない超越的な価値、つまり無を信じてきたニヒリズムの歴史であるという。ニーチェのニヒリズムは多義的であり、ニヒリズムは、超越的な価値の否定ないし喪失をも意味する。そして、ニーチェは、その意味でのニヒリズムが表面に現われてくる時代の到来を予言した。
 そうしたニヒリズムが20世紀後半から西欧・北米だけでなく、非西洋文明の諸社会へと本格的に広がりつつある。一旦ある程度、キリスト教化した非西洋文明諸社会が、今度は脱キリスト教化しつつあるのである。この変化は近代化・合理化の世界的進展でもある。キリスト教に基づく文明がもはや世界をキリスト教化する感化力を失っている中で、近代化・合理化が世界的に進展しているのである。


●人権の普及力を支えるものとしての軍事的実力

 脱キリスト教化し、近代化・合理化の進む世界で、人権はキリスト教以外の根拠を持ち得るか。人類は、キリスト教及びそれに基づく思想に代わって、その根拠となるような共通の世界観・人間観には未だ到達していない。現在、キリスト教的な西洋文明諸国が、経済力・軍事力において優位に立っており、欧米諸国が力において世界を圧倒しているので、人権という西欧発の思想が、ある程度の普及力をもっているに過ぎない。
 現在の世界においては、脱キリスト教化しつつ国際化した人権の思想を裏付けるものは、キリスト教の神、ゴッドではない。またアッラーやブラフマンや天やカミ等でもない。ましてや、各文化の伝統・慣習ではあり得ない。今のところその裏付けは、国連や「宣言」に加盟している国々の政府の合意のみであり、意思の合成を担保するものは、外見的には「憲章」や「宣言」の言葉である。その言葉を担保するものは、国家間の力関係である。
 第2次世界大戦で勝者となった連合国の主要国の多くは、キリスト教国だった。日本の占領者アメリカもキリスト教国だった。勝者の価値観・歴史観が敗者に押し付けられ、敗者を精神的に支配するようになったのである。人権の思想の世界化自体が、キリスト教的西洋文明諸国の力の優位の現れである。
 この力の優位が、「連合国=国連」を中心とした第2次世界大戦後の世界秩序を生み出している。その権力と秩序の上に成立しているのが、今日の人権の思想である。これに対抗する力も存在する。たとえば、旧ソ連や中国、イスラーム教諸国等が、人権というカードによる干渉を斥けるのは、その国家間の権力関係の現れである。こうした国際社会の「力の政治」(パワー・ポリテックス)の現実をとらえずに、「憲章」や「宣言」の言葉だけによって、人権を考えると、大きな錯覚に陥る。

 

●文明間の違いと地域的人権条約

 文明間の違いとの関係で再度言及しておきたいのが、地域的人権条約である。地域的人権条約については、特殊志向的な人権条約の項目に書いたが、国連で世界人権宣言が採択され、人類共通的な人権思想が広がる一方で、1951年に欧州人権条約、69年に米州人権条約、81年にアフリカ人権憲章等が採択されてきている。欧州・米州・アフリカで地域的な人権条約が作られてきたことは、非西洋文明の諸社会は近代西欧発の人権思想を受容すると、これを自分たちの権利意識に合うように修正しつつ、発展させていることを示している。
 その時、欧州に対抗して、ラテン・アメリカやアフリカで独自の人権条約が制定されていることは、単に地域ではなく文明という観点からも見る必要がある。ハンチントンは、主要文明の中に、キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする西洋文明(西欧・北米)のほかに、カトリックと土着文化を基礎とするラテン・アメリカ文明と、アフリカ文明(サハラ南部)を挙げた。米州人権条約はラテン・アメリカ文明の地域で制定されており、アフリカ人権憲章はアフリカ文明を含むアフリカ地域で制定されているのである。それゆえ、私は、これらの人権条約を単に地域的ではなく、文明圏的な人権条約と考える。
 世界で最大の人口を擁するアジアでは、地域的な人権条約は作られていない。このことは、アジアの権利意識が欧米と共通だからではない。逆に違いが大きいためである。欧米に起源を持つ個人中心の人権思想は、共同体と個人の調和を前提とするアジアの社会には妥当でないという主張がある。この点はアフリカ以上にアジアの特徴である。またアジアは、イスラーム文明、インド文明、シナ文明、日本文明と主要な文明が四つある。ラテン・アメリカ、アフリカと比較すると、アジアではそれぞれの文明ごとに地域的または文明圏的な人権条約が模索されることになるかもしれない。
 ここで、アジア、アフリカを中心に世界各地に多くの信者を持つイスラーム教における人権動向を書いておきたい。世界人権宣言の採択の際、サウジアラビアは、イスラーム教の教義から宣言の定める自由と権利の一部は受け入れられないとして、採択を棄権した。その後、イスラーム教諸国会議機構に加盟する中東、北アフリカの国々は協議を重ねた。これらの諸国は、ウィーン会議を前後して、1990年(平成2年)に「イスラーム教における人権に関するカイロ宣言」を採択した。また1994年(平成6年)には「人権に関するアラブ憲章」を採択した。これらの宣言及び憲章は、人権概念とイスラーム教の国家原理との調和を図るためのものである。イスラーム教諸国の側から欧米に向けて発せられた「どのような人権なら受け入れることができるか」を示すメッセージだったとも理解できる。
 カイロ宣言では「イスラーム教における基本的権利及び普遍的自由は、イスラーム教の信仰の一部である」ことが確認された。アラブ憲章では、人権が「イスラーム教のシャリーア(イスラーム法)及びその他の神の啓示に基づく諸宗教によって堅固に確立された諸原則」であることが確認された。このことは、イスラーム教諸国は人権が西洋文明の所産であるという見方を否定したことを意味する。移動や居住の自由、表現の自由といった個別的な人権については、シャリーアの優越が強調された。またカイロ宣言は、イスラーム教諸国の地域性を反映して「高利貸しは絶対的に禁止される」とし、アラブ憲章は「アラブ・ナショナリズムが誇りの源泉である」「世界平和に対する脅威をもたらす人種主義とシオニズムを拒否する」等の他地域の人権条約には見られない規定が盛り込まれた。
 このように、イスラーム教諸国の人権解釈は、イスラーム教の教義に人権の概念に当たるものを見出して、教義と人権概念の矛盾を解消し、それでもなお矛盾の生じかねない部分、たとえば移動・居住・表現等の自由については、シャリーアの規定を優先させている。ここには西欧発の人権思想を一定程度摂取しながら、それをイスラーム教に固有の概念で置き換えて土着化させるという文明間における主体的な対応が見られる。
 国際人権諸条約に定められた個人の自由及び権利が国家の体制のいかんを問わず、実現すべき価値であるという認識は、大局的には深まりつつある。また国際人権規約の自由権規約及び社会権規約は、今日ともに160以上の国が締約国となっている。個別的人権条約についても、締約国が最も多い子どもの権利条約は190以上の国が締約国となっている。また女性差別撤廃条約も締約国は180以上となっている。
 それにもかかわらず、人権の思想の根本にあるべき人間観については、人類は未だ共通の人間観を構築できていない。表面的には、人権は一元的・単線的に発達しており、今後も同様に発達し続けると見えよう。だが人権の発達史を文明学的に見ると、人権は一元的・単線的な発達過程ではなく、ある程度の多様性を持って発達してきている。人権は普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」であるから、文明を単位として一定の多様性を持ちながら発達し続けていく可能性がある。
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(3)今日の世界の人権状況

 

●共産主義の犠牲者は1億人

 次に、今日の世界における人権状況を概観する。まず20世紀以降、世界の人権問題で重要な位置を占める共産主義について見ていきたい。
 共産主義運動はロシア革命後、旧ソ連を根拠地として世界各国に広がり、東欧、東アジアを中心に多くの国が共産化され、一時は世界人口の3分の1が共産主義の勢力下に置かれた。だが、旧ソ連は共産主義の理論が描いた国家とは程遠く、共産党官僚が労働者・農民を支配する官僚支配の国家だった。人民の自由と権利は抑圧された。合理主義的な計画経済は生産性が低く、軍事中心で民生は向上せず、矛盾が拡大した挙句、ロシアは革命の70年後に共産主義体制を放棄するにいたった。相前後して東欧諸国も共産主義を脱却し、共産主義は世界的に大きく後退した。ただし、東アジアでは中国及び北朝鮮、ベトナムがなお共産主義の影響を受けた官僚支配国家を保持している。
 共産主義が人類にもたらした災厄は、極めて大きなものである。1997年(平成9年)にフランスで共産主義の犯罪を厳しく検証した『共産主義黒書』が刊行された。編者ステファン・クルトワによると、共産主義による犠牲者は、8,000万人から1億人にのぼる。この数字は、ヒトラーのナチズムによる犠牲者数とされる2,500万人を軽く上回る。
 クルトワは同書において、共産主義体制により殺害された犠牲者数の国・地域別の一覧を提示している。それによると、

 ソ連       2,000万人
 中国       6,500万人
 ベトナム       100万人
 北朝鮮       200万人
 カンボジア     200万人
 東欧         100万人
 ラテン・アメリカ   15万人
 アフリカ       170万人
 アフガニスタン  150万人
 コミンテルンと権力を握っていない共産党   約1万人
-----------------------------------------------------
 総計         約1億人

となっている。
 ソ連と中国における犠牲者が圧倒的に多いが、ソ連に関してはかなり控えめの数字である。兵本達吉(元共産党代議士秘書)によると、1997年(平成9年)11月6日、モスクワ放送は「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6,200万人が殺害され、そのうち4,000万が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と放送した。
 このうちスターリン時代に関しては、マーティン・メイリア教授(カリフォルニア大学バークレイ校)が、最低2,000万人という数字を提示している。内訳は、強制労働収容所の死者1,200万人、1937〜39年の処刑者100万人、農業集団化の犠牲者600万人〜1,100万人などである。
 第2次世界大戦でのソ連の死傷者数は、平凡社『世界大百科事典』によると、1,200〜1,500万とされるから、戦争よりも共産主義の方が、ソ連の人々に大きな犠牲を生み出したと見られる。
 中国に関しては、毛沢東が1957年(昭和32年)2月27日、「1949年から54年までの間に80万人を処刑した」と自ら述べている。(「ザ・ワールド・アルマナック」1975年版)。周恩来は、同年6月、全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと報告している。また、42%が労働改造所(労改、強制収容所)に送られ、32%が監視下に置かれたと述べている。毛沢東は、その後もさまざまな権力闘争や失政を続けたが、丁抒らの研究によると、大躍進運動と文化大革命によって、2,000万人が死に追いやられた。
 『共産主義黒書』では、ジャン・ルイ・マルゴランが、ほぼ信頼できる数値として、内戦期を除いた犠牲者の数を、次のように総括的に提示している。

・体制によって暴力的に死に至らしめられた人
 700万〜1,000万人(うち数十万人はチベット人)
・「反革命派」としてラーゲリに収容され、そこで死亡した人
 約2,000万人
・1959〜61年の「大躍進期」に餓死した人
 2,000ないし4,300万人

●共産主義は全体主義であり、人権を抑圧する

 共産主義は、人民の解放を説いていながら、どうして人民の自由と権利を抑圧するのか。共産主義は、リベラル・デモクラシー(自由民主主義)より、ファシズムに似ている。共産主義とファシズムは、ともに全体主義である。フリードリッヒ・ブレゼンスキーの『全体主義的独裁と専制』によると、全体主義には、次のような6つの特徴がある。

 @ 首尾一貫した完成したイデオロギー(世界征服を目指す千年王国論)
 A 独裁者の指導による単一大衆政党
 B 物理的・心理的テロルの体系
 C マスコミの独占
 D 武器の独占
 E 経済の集中管理と指導

 これらの特徴は、旧ソ連にもナチス・ドイツにも当てはまる。特にスターリン時代のソ連は、ナチス・ドイツとの共通点が多い。違いは、ソ連はマルクス・エンゲルス・レーニン等の思想を掲げるが、ナチスは彼らの思想を敵視するところにある。それを除くと、政治体制・統治方法・行動形式は、よく似ている。また経済体制については、私的所有と社会的所有の度合いの違い、及び政府による経済統制の度合いという相対的な違いに過ぎず、共産主義とファシズムは、ともに統制主義的資本主義と見ることができる。旧ソ連は、それをマルクス、レーニンの用語で粉飾し、ナチス・ドイツはマルクス、レーニンの用語を排除しただけで、本質的な違いはない。
 全体主義の国家では、全体の目的のために、個人の自由と権利が強く制限される。特に最高指導者の個人崇拝が推進されると、その制限は極限的なものとなる。ソ連では、独裁者は政敵に「人民の敵」というレッテルを貼って、粛清した。反対派は弾圧され、恣意的な見せしめの裁判や公開処刑が常態化した。人民の利益や階級の利益ではなく、共産党の利益や指導者個人の利益が追求された。秘密警察と強制収容所で人民を管理・抑圧する自由も平等もない社会だった。政治的に打破することの極めて困難な強固な支配体制だった。そのため、共産主義による犠牲者は、1億人にも上るほどになってしまったのである。
 先に『共産主義黒書』の犠牲者数を揚げたが、そこに含まれていないのが、ソ連が行ったシベリア抑留にる日本人の犠牲者である。大東亜戦争の末期、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州・樺太等を侵攻した。さらに、スターリンは国際法を無視し、日本人を俘虜として抑留し、シベリア等の各地で強制労働を課した。わが国の厚生省援護局の資料によると、抑留者は約57万5,000人、うち死亡者は約5万5,000人とされている。また、ロシア側の研究報告によると、抑留者は約54万6,000人、うち死亡者は約6万2,000人とされている。しかし、実態はさらに大規模だった可能性がある。ロシア人ジャーナリストで、元イズベスチア編集長のアルハンゲリスキーは、著書『シベリアの原爆』(邦題『プリンス近衛殺人事件』)にて、日本人の抑留は軍人・民間人合わせて200万人以上に達し、そのうち40万人が虐殺されたと推計している。酷寒の地で食糧も防寒具もろくに与えられず、重労働を課せられて虐殺された日本人の数は原爆での死者より多かったために、著者は「シベリアの原爆」と名づけたのである。
 共産主義は、人類に途方もない災厄をもたらした。しかし、未だに、共産主義に憧れを持ち、共産主義に新たな可能性を求めている人たちがいる。21世紀を共存調和の世紀とするためには、共産主義の誤りを明らかにし、徹底的に総括しなければならない。そのためには、「発達する人間的な権利」としての人権という観点から、共産主義の人権抑圧を批判する必要がある。

 

●ソ連の体制と人権の抑圧

 共産主義は、西方キリスト教の西洋文明を脱キリスト教化し、近代化・合理化を進める思想・運動の一つである。だが、共産主義は西欧ではなく、ロシアで定着・発展した。共産主義は、ロシアで支配的な共同体家族の権威・平等の価値観と親和性があったためである。レーニン、スターリンは、人権という無階級的な概念を批判し、これに労働者の権利や被抑圧民族の権利を対置した。しかし、旧ソ連の実態は、労働者の国家ではなく、共産党官僚が労働者や農民を支配する官僚専制国家だった。マルクス主義は、階級闘争を説き、プロレタリア独裁を目指すので、人間一般の権利を認めない。世界人権宣言の採択の際、ソ連と東欧5か国(ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、ユーゴスラヴィア、チェコスロバキア)は棄権した。当時の共産主義者は、人権の思想はブルジョワ的とし、人権の尊重は階級闘争を阻害するものとした。
 ソ連は、第2次大戦において米英等によって民主主義勢力とされ、戦勝後は「国連=連合国」の安保理常任理事国という特権的な地位を得た。また共産主義を東欧・アジア等に広げた。ソ連は1956年(昭和31年)のハンガリー動乱を鎮圧し、1968年(昭和43年)チェコスロバキアの「プラハの春」を戦車で蹂躙した。安保理で拒否権を持つソ連に対し、国連は無力だった。東欧の衛星国は、ソ連の植民地に近い状態に置かれていた。
 冷戦体制下では、人権保障をめぐる議論は、ともすると東西両陣営及び南北諸国のイデオロギー対立の影響を免れることはできなかった。国連の人権活動のあり方や条約・制度の実施のあり方についても、人権はしばしば外交とイデオロギー闘争の手段となった。共産主義諸国は大規模あるいは系統的な人権侵害の批判を受けると、しばしば内政干渉と非難した。そのため、国際的な人権保障制度は、実際の人権問題に直面してたびたび機能マヒに陥った。
 世界人権宣言の思想は、共産主義の階級闘争的・民族闘争的な権利論に対して、自由主義の階級融和的・民族協調的な思想で対抗するという一面があった。冷戦期における人権の強調は、共産主義に対する自由主義の思想・宣伝・文化戦略の一環だった。共産党の支配下では、表現の自由、思想・信条の自由、集会・結社の自由等が厳しく制限された。労働者の国家を標榜していながら、ソ連の労働者は自由主義圏の労働者が享受する権利を制限または剥奪されていた。「宣言」における社会権の保障には、共産主義革命を防ぎ、漸進的な社会改良を進めようという欧米諸国の意図がうかがえる。経済的には、ソ連は計画経済を試みた。一見合理的なようだが、市場メカニズムを欠くことで、イノベーションの不全、消費者心理の無視、労働意欲の減衰、非効率等の欠点を生んだ。生産性が向上せず、経済は停滞した。軍需中心で民生軽視の経済で国民生活は疲弊した。自由と権利を強く制限され、生活も苦しいのでは、人々の不満は募る一方となる。
 自由主義側の対共産主義戦略は成功し、1991年12月、ソ連の共産主義政権は崩壊した。連邦は解体し、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、グルジア、カザフスタン等、15の共和国が独立し、民主化・自由化が進められた。これらの国々のうち、12か国は独立国家共同体(CIS)を結成し、ゆるやかな国家連合体をなしている。
 共産主義体制の崩壊後、旧ソ連圏では人権状況がかなり大きく変化した。旧体制との相違を示すために、ロシア、東欧諸国の新政権は個人通報手続をはじめ、人権条約の実施及び国連の人権活動に対して、積極性を見せるようになった。

●ロシアにおける人権状況

 アメリカとソ連の対立は、ハンチントンの文明学的な分類では、西洋文明と東方正教文明の中核国家の対立だった。宗教的には同じキリスト教圏の文明だが、カトリック・プロテスタントとロシア正教との違いがある。トッドの家族形態論で言えば、旧ソ連は共同体家族が支配的な社会であり、権威/平等を価値観とする。この価値観は、アメリカの絶対核家族に基づく自由/不平等の価値観とは、大きく異なる。家族型的な価値観の違いによって、人間観が異なり、自由と権利に対する考え方も異なっていた。ソ連解体後は、ロシアが東方正教文明の中核国家となっており、ロシアは文明学的にも家族形態論的にも旧ソ連の特徴を引き継いでいる。
 ロシアは、脱共産化によって生まれた国家ゆえ、一定の民主化が行われてはいる。しかし、欧米や日本に比べると、国民の権利は規制されている。旧KGB出身のプーチンは、大統領職、首相職、再び大統領職を歴任して、強権的な政治を行い、政権に批判的な政治家、ジャーナリスト、財界人等を逮捕したり、拘束したりしている。彼らの暗殺を行っているという批判もある。
 旧ソ連の場合は、社会主義共和国連邦と称したが、各自治共和国は民族や文化が異なっており、それを共産党が支配する連邦制の国家だった。ロシア民族が人口の5割を占めた。スターリンによって、ロシア民族による少数民族への支配・搾取が行われた。その代表的な例が、チェチェン民族に対するものである。チェチェン人は、スターリンからナチス・ドイツに協力したと決めつけられ、民族ごと強制移住させられたという苦難の経験を持つ。
 1991年11月、チェチェン独立派が、崩壊寸前のソ連からの独立を宣言し、以後独立運動が続けられている。これに対し、94年にロシア軍がチェチェンに武力侵攻を行い、二次にわたる紛争が起こった。チェチェンは石油、天然ガス、鉄鉱石などの地下資源が豊富であり、ロシアは独立を認めようとしない。ロシアは無差別かつ大規模な民間人への攻撃を行い、チェチェン人口の約10分の1が死亡し、5万人のチェチェン人が国外で難民となっている。チェチェン人過激派はモスクワ等で無差別テロを行い、泥沼化している。チェチェン人はイスラーム教徒が多い。東方正教文明とは異なるイスラーム文明に属する。チェチェン人への対処は、独立国家共同体(CIS)に加盟するイスラーム系共和国との関係に影響する。それだけに、ロシアは武力でチェチェン人の独立を防ぎ、他に波及しないように画策している。このような国が国連では安保理常任理事国の地位にある。
 2014年2月、ロシアは、ウクライナのクリミア共和国を併合した。この出来事は、冷戦終焉後、初めての現状変更であり、世界の緊張が高まった。米欧日はロシアに経済制裁やG8から除く等の対処をしたが、プーチン大統領によってクリミア併合は既成事実化された。ウクライナ東部では、ウクライナ政府軍と親ロ派による内戦状態になり、ようやく2015年2月に停戦合意がされたものの、なお不安定な状態が続いている。こうした事実上の領土併合、武力による制圧、内戦等は、単なる外交・安全保障の問題ではなく、人々の生存・生活を揺るがす点で、同時に人権問題でもある。国家の主権をめぐる紛争が生じている状況では、個人の権利より、主権の問題が優先される。個人の権利は集団の権利あってのものである。集団の権利が確保され、安定していないと、個人の権利の保障はできない。

 

●共産中国の体制と人権の抑圧

 ソ連・東欧の共産主義政権の崩壊によって、冷戦は終焉した。だが、共産主義は、死滅してはいない。今日も、シナ大陸では共産党が支配している
 共産中国は、国連安保理の常任理事国である。国連の発足後、冷戦が終わるまでの約40年間、国連は麻痺状態にあった。この間、最初の大規模な国際紛争となったのが、朝鮮戦争である。当時、ソ連が安保理をボイコットしおり、アメリカは安保理を強行して、朝鮮半島に介入した。アメリカ主導の国連軍が派遣された。国連軍は、1949年(昭和24年)に建国された中華人民共和国の人民解放軍と激突した。当時の常任理事国は中国といっても、中華民国(台湾)だった。中華民国は、国連創設時からの加盟国である。しかし、中華人民共和国が建国されると、蒋介石政権は台湾に移った。1971年(昭和46年)10月に、北京政府が台北政府にかわって代表権を認められた。国連憲章では、今も安保理常任理事国は「中華民国」のままである。中共の加盟、蒋介石政府の脱退後も、「中華民国」を「中華人民共和国」と読み替えることにして、ずっと放置してきたからである。中華人民共和国が国連に加盟を許された時、国連から脱退したのは、厳密には蒋介石政権であって、中華民国そのものではない。しかし、実質的に台湾は国連から追放されたに等しかった。こうして共産中国は、国連のメンバーとなり、かつ拒否権を持つ主要国の一角に座を占めた。その地位にある共産主義の国が人民の自由と権利を抑圧している。
 毛沢東指導下の中国は、ソ連ほど工業化が進んでおらず、社会主義体制というより、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカにおける軍事政権による開発独裁に近い体制だった。開発独裁は、政府主導の近代化・産業化であり、資本主義化の道と社会主義化の道を選択しうる。中国の場合、毛の時代には、まがりなりにも社会主義経済体制を目指していた。しかし、毛の政策は、大躍進政策や文化大革命等、破壊と混乱を繰り返すばかりで、膨大な犠牲者を出した。また、ほとんど経済成長ができなかった。毛の死後、実権を握ったケ小平は、経済的な停滞を打開すべく、「社会主義市場経済」の導入という政策を掲げた。中国は共産党独裁下で資本主義的な経済発展の道を進んだ。いまや中国はかつてのソ連の地位に取って代わるほどの経済的・軍事的な大国となっている。だが、旧ソ連に似て中国の人権状況は劣悪なままである。
 シナ大陸には、アジア的専制国家の土壌に、マルクス=レーニン主義が移植され、シナの官僚制と共産党の官僚制が融合し、アジア的共産主義の国家が建設された。自由やデモクラシーは認められない。政府は人命を尊重しない。人々の自由と権利は無視される。中国は長い間、間人権問題は「国家主権の範囲内の問題(国内専権事項)」と言ってきた。発展途上国で人権の獲得・拡大が進むと、1991年に「人権白書」を発表するなど人権の擁護を解禁したが、それを集団的努力により達成される人民の生存権に読み替え、主権の優位を強調し続けた。
 ケ小平の跡を継いで、1993年に江沢民が国家主席になると、1997年に国際人権規約のA規約に署名、2001年に批准し、B規約に1998年に署名した。その結果、中国は形の上ではロック=カント的な人間観に立つ人権を認めることになった。これは、ロック=カント的な人間観をブルジョワ的と批判するマルクスの思想とは、異なる対応である。ただし、中国は国家間の権力関係を有利に進めるために、国際人権規約に参加しているだけで、自国内では積極的に人権状況を改善しようとはしていない。共産党の特権集団が富と権力を独占し、彼らに搾取・抑圧されているのが、農民労働者である。とりわけ少数民族や宗教者への弾圧は、激烈である。
 中国のチベット侵攻は、1950年(昭和25年)に始まった。ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺以後最大のジェノサイド(民族大虐殺)が行われてきている。チベット人は仏教徒であり、唯物論的共産主義による宗教弾圧が行われている。国際的に中国の人権弾圧への非難が高まっているが、人権の擁護・普及の世界的な中心であるはずの国連で、中国のチベット問題は、議論らしい議論が行なわれない。中国が安保理常任理事国の一員だからである。2008年(平成20年)4月国連人権理事会で、欧米はチベットの人権問題を取り上げようとした。ところが、中国は内政干渉だと反発し、これにキューバ等の独裁国家が加勢し、議題として取り上げられることもなく、同理事会は会期を終えた。
 中国は、チベット自治区だけでなく、新疆ウイグル自治区でも、弾圧・虐殺を行っている。ウイグル人はイスラーム教徒であり、ここでも宗教弾圧が行われている。さらに、中国では民主化運動家への弾圧、インターネットへの監視・規制、法輪功への弾圧、生体からの臓器取り出し等が行われている。2010年、民主化運動家・劉暁波にノーベル平和賞が贈られると、中国政府は激しく抗議し、劉暁波を事実上の軟禁状態に置いている。
 中国やロシアの人権問題について国連で議論らしい議論がされないのは、これらの国が安保理常任理事国だからである。ロシアにしても中国にしても、人権問題を扱うことを頭から拒否する。これら二国が国連において人権問題で連携すれば、主要5大国は二分する。そのため、安保理では、これまで人権弾圧を非難する本格的な決議や声明は出されていない。こういう現状ゆえ、国連は「人権のとりで」としての存在意義が問われている。国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約の思想と、国連の現実は違う。

 

●共産主義の現状と急進的なフェミニズム

 20世紀末から共産主義は交代したもの、今日の人権の思想には、共産主義の影響が色濃く残存している。共産主義系の人権論者は、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンらの名前を表には出さない。彼らは、共産主義国家に起こった悲劇の原因を究明せず、その総括も行うことなく、人権の主張に共産主義の幻想を融け込ませている。そして、人権を道具として、共産主義の見果てぬ夢を実現しようとしている。
 共産主義の発祥の地、西欧では、冷戦の後期に、一時、イタリアやフランスでユーロ=コミュニズムと呼ばれる先進国型共産党が政権に参与したが、西欧の共産党は、共産党という名称を捨て、社会民主主義政党に変貌している。ところが、わが国には先進国で唯一、「共産党」の名称を保持する政党が、議会政党として活動している。かつて暴力革命を計画して様々な事件を起こした日本共産党は、レーニン=スターリン主義から方針を転換し、1980年代から人権の保障や拡大を運動の重要部分にすえている。現代世界の状況では、人権という旗を振ることが、彼らの闘争にとって有利だという判断がされたのだろう。
 共産主義による人権拡張運動は、それを通じて、我が国の皇室制度の廃止、共和制の実現、社会主義体制への移行を目指すものである。人権の擁護は、革命のための闘争の道具にすぎない。共産主義運動の行き着くところ、官僚の権利の拡大と人民の権利の縮小にいたることは必定である。共産主義こそ、20世紀以降の世界で1億人もの犠牲者を出した最大の人権侵害の災厄であることを、思い起こさなければならない。
 共産主義は階級闘争の運動である。闘争は、今日、階級対階級、民族対民族の闘争だけでなく、個人対個人、男性対女性、家族員対家族員の闘争へと細分化してきている。これは、もともとマルクス=エンゲルスの思想に内在するものが、顕在化したものである。この細分化闘争の先端を行くのが、急進的なフェミニズムである。
 急進的なフェミニズムは、男と女を対立的・闘争的関係ととらえ、この対立・闘争を女性の勝利に導こうとする。そのために、男性・女性の特徴を否定し、人間を抽象的な個人という観念に変え、家族の解体や道徳の破壊を推し進めている。その根底には、共産主義がある。性差の否定、家族の解体、道徳の破壊の末に実現されるのは、孤立した個人を、女性を中心とした官僚集団が統制する高度な管理社会である。
 急進的なフェミニズムは、女性の権利拡大が自己目的化し、男性の支配から女性の支配への逆転を求める権力闘争の運動となっている。人権という旗を揚げる者がそれぞれ自分の権利を主張し、人権を利用して自分の利益を追求している。逆に人権を認めない立場を取る者は、そのことによって自らの権利を維持し、利益を拡大しようとしているという複雑な事態となっている。
人類の文明の相当部分は、男性が築き上げてきた。有史以来、男は機械を作り出し、自然環境を変え、多くの生命を破壊してきた。女性は、男性に比べ、自然のリズムの影響を強く受けている。女性の月経は、月の満ち欠けと同じ周期性を持っている。だから、本来、女性は、男性よりも自然の側に近く、男性中心に発達した人類文明の偏りを、自然や生命と調和する方向に向ける役割があるのではないか。ところが、現代の女性の一部は、それとは正反対に、文化と家族と生命を破壊しようとする運動を推進している。
 人間には攻撃性がある。攻撃性は外の対象に向かい、その対象を破壊しようとする。ところが、障害に合い、その対象を破壊できないような場合は、攻撃性は自分に向かう。自傷行為や自殺がそれである。それが集団的に表れれば、自滅への衝動ということになる。急進化したフェミニズムは、人類の半分を占める女性の側に現れた、自滅への衝動というべきものである。
 共産主義は、破壊ばかりで建設がない。それは「建設なき破壊」の理論である。その共産主義に基づくフェミニズムも、「建設なき破壊」の運動である。それゆえ、それらは、物質科学文明の進展のなかで、自然と生命と精神の価値を見失った人類が、攻撃・破壊の衝動を高めていることの現れと言えよう。
 人権の観念を利用して、左翼的な思想を実現しようとする運動を、私は左翼人権主義と呼ぶ。その主要部分を為すのが、今日の先進国の共産主義と急進的なフェミニズムである。人権主義的な共産主義者や急進的なフェミニストは、人権を闘争の武器としている。人権を道具として、自分たちの思想の実現を図っていることに注意する必要がある。共産主義や急進的なフェミニズムが唱える人権の言葉に惑わされることなく、「発達する人間的な権利」としての人権に関する考察を深めていく必要がある。

関連掲示
・共産主義に関する拙稿は、項目「共産主義」をご覧ください。
・拙稿「急進的なフェミニズムはウーマン・リブ的共産主義

 

●冷戦終焉後の世界におけるアメリカの人権政策

 次に、共産主義に対抗してきた自由主義の諸国を見ていきたい。米ソ冷戦期の自由主義対共産主義というイデオロギーの対立には、自由と平等という価値観の対立が含まれていた。この対立において、自由主義の側の中心となったのが、アメリカ合衆国である。人権の思想は、アメリカを中心とする自由主義の側が、共産主義側にイデオロギー攻勢をかける道具として用いられた。
 冷戦終焉後、唯一の超大国となったアメリカは、自由を最高の価値として、より一層強調している。アメリカは自由の理念を世界に広めることを国家戦略の要とし、その戦略に基づいて、人権の普及・拡大を行っている。だが、アメリカは、自国内に深刻な人権問題を抱えていることに注目しなければならない。
 アメリカ社会は、建国以来、差異主義を根底に持つ社会である。家族型の違いによって、自由・権威、平等・不平等の価値の違いが生まれるが、差異主義は遺産相続における兄弟間の平等・不平等という対にしぼって抽出した概念である。兄弟間の不平等に基づき、人間は互いに本質的に異なると考える。これに対し、普遍主義は兄弟間の平等に基づき、世界中の人間はみな本質的に同じと考える。イギリスの主要部は、絶対核家族が支配的な社会である。絶対核家族は、自由・不平等の価値観を持ち、それが差異主義の考え方となる。アメリカは差異主義的な確信を持つイギリスからの移民が建国した。トッドによれば、アメリカは、差異の観念をインディアンや黒人に固着させることによって白人の平等を実現した。アメリカの「多数の民族が織り成す万華鏡」という多文化主義のイメージは、幻想にすぎない。現実のアメリカには、白人と黒人という二分法のみが存在する、とトッドはいう。トッドは、白人の平等と黒人への差別の共存は、「アメリカのデモクラシーの拠って立つ基盤」である、と指摘する。
 1940年代以降の黒人解放運動は大きな成果を挙げ、1964年には公民権法が成立した。権利においては平等が実現した。しかし、大都市では、居住地と学校において、黒人の隔離が続いている。黒人の多い地域から、白人が逃げ出している。かつてアメリカの白人と黒人の間には、識字率など圧倒的な文化水準の差があった。黒人の「劣等性」にはある意味で根拠があった。しかし、19世紀から1世紀に及ぶ努力の結果、黒人の教育レベルは白人のそれと並ぶにいたった。白人との知的・文化的な差はなくなり、黒人の「劣等性」には根拠がなくなった。だが、それでも差別は続いている。アジア人とインディアンが、「白人並み」に扱われるようになった現在、黒人だけが差異の対象となっている。この事態は、何を意味するか。黒人隔離の根拠は、肌の色の違いだった、とトッドは指摘する。
 第2次大戦後のアメリカは、ヒスパニックを中心に有色人種の人口が増え、世界最大の移民国家として成長し続けている。そのアメリカで2008年(平成20年)バラク・オバマが黒人初の大統領になった。これは、画期的な出来事だった。しかし、合衆国の社会構造は、簡単には変わらない。アメリカで支配的な価値観は、自由を中心とし、平等は重視しない。自由一辺倒の追求が、極端な競争社会を生んでいる。
 ノーベル経済学賞受賞者の経済学者ジョゼフ・E・スティグリッツは、米国は1%の富裕層と99%の貧困層に分かれてしまったと指摘する。「政治家やその応援団は常に1%のための政策を遂行するので、99%の不幸が続く。それが根本的に間違っている」との主張である。この極端な格差の背景には、人種差別がある。1980年代からアメリカで主導的になった新自由主義は、根底に人種差別意識のある米国社会では、市場における自由競争による格差拡大、弱者切り捨てを正当化する理論として働く。しかし、一部の富裕層が保有する富をさらに増大させても、社会全体の活力はそれほど上がらない。中間層の所得が増えて購買力が伸長し、それに伴って貧困層も上昇できるような経済社会政策が強力に実行されないと、1%対99%に二極分化した帝国は、虚栄と荒廃の中で衰亡していくだろう。
 だが、アメリカの伝統的価値観がこうした転換を阻む。優越的な立場にある白人種の多くは、開拓民の子孫という伝統から、自立自助を重んじる。そのため、国民皆健康保険制度ができていない。公的年金制度も発達していない。世界で最も豊かな国でありながら大都市にはホームレスが多くおり、貧困層を中心に乳幼児の死亡率が高い。社会保障の拡大のための徴税に対しては、政府の干渉、自由への制約として、古典的リベラリストであるリーバータリアンが反発する。もし「20世紀的人権」と呼ばれる社会権の発達をもって人権の拡大と考えるならば、この点ではアメリカは後進的である。アメリカは自由の先進国ではあるが、人権の後進国である。
 こうした人権問題を国内に抱えているアメリカが、世界に自由を広めようとしている。アメリカの歴代政権は旧ソ連や中国・北朝鮮・イラク等に対して、人権の実現を求める外交を展開してきた。民主党政権の方が共和党政権よりも人権外交に積極的な傾向を持つ。ただし、アメリカは、他国の人権より、自国の国益を優先する。たとえば、1990年代、民主党ビル・クリントン政権は、人権外交を展開していたが、途中で共産中国の市場による利益を優先し、人権の原則を放棄した。北朝鮮に対しても、人権問題より、外交上の妥協と取引を図った。その後も、共和党ブッシュ子政権は、専制的なサダム・フセイン政権を倒せとイラクには侵攻したが、中国のチベット弾圧は黙認した。明らかに国益に基づいて、判断基準を変えている。単なる理想主義ではなく、自国の国益のために人権を政治的に利用しているのである。
 アメリカは、自己の価値観を他国で実現するために、しばしば軍事力を行使する。追及する自由は、主に経済活動の自由であることに注意しなければならない。アメリカ及び巨大国際金融資本は、世界各地で市場の開放と自由な投資を求める。そのための自由が最優先されている。途上国の人民の集団としての権利や人民個人の権利の拡大は、主目的ではない。むしろ、経済的利益の追求をカムフラージュするものとなっている場合がある。
 かくして、今日の世界では、アメリカ及び巨大国際金融資本の開放・投資の自由と、発展途上国を中心とした独立・発展の自由という二つの異なる権利が、互いに実現・拡大を目指して衝突している。人権をめぐる問題は、しばしばアメリカ及び巨大国際金融資本の側が開放・投資の自由の実現・拡大を進めるための手段として使われている。手段として有益でない場合は、問題は軽視され、または政治的判断によって無視されるのである。
 そえゆえ、アメリカ主導、アメリカ一国の国益追求ではない形で、世界各国で人権の発達を目指すことが、人類的な課題となっている。

 

●人権の歴史的先進国イギリスの現状

 続いて、イギリスとフランスの人権状況を見てみよう。これらは、国連創設以来、国連安保理の常任理事国である。まず人権の歴史的な先進国イギリスはどうであろうか。イギリスは、第2次世界大戦後に「非白人」移民が大量に流入するまでは「同質的白人国」であった、とトッドは言う。白人のみの国だったということである。イギリスでは、産業革命によって階級分化が起こった。大ブリテン島の大部分で支配的な家族型は絶対核家族である。絶対核家族は、差異主義である。そのため、白人種の間の階級分化が、アメリカにおける人種の差に匹敵するほど大きな階級の差を生み出した。イギリスの労働者階級は、アメリカの「黒人英語」を思わせる社会的方言を話す。トッドは「イギリスの労働者は、白人であるけれども、19世紀半ばより、イギリス中産階級の精神の中では、差異の観念そのものを具現している」と言う。つまり、労働者階級は人種が違うくらいに異なった集団だ、と中産階級が感じていたということである。イギリスはそれほど差異の観念が強い。
 第2次大戦後、イギリスに非ヨーロッパから多数の有色人種が流入した。主な移民は、ヒンドゥー教の一種であるシーク教徒のインド人、イスラーム教徒のパキスタン人、キリスト教徒のアンチル諸島人である。彼らは当初、イギリス社会に同化する気構えを持っていたが、差異主義的なイギリス人の拒否に会った。拒否に会った移民集団には、それぞれ異なる結果が現れた。受け入れ社会と移民の文化の組み合わせによって、結果が違ったのである。ポイントは家族型の違いにある。
 インド人のシーク教徒の家族型は、直系家族である。彼らにはイギリスの差異主義が幸いし、囲い込みという保護膜に守られた形で同化が進んでいる。パキスタン人は、共同体家族である。共同体家族は、固有の普遍主義を持つ。これとイギリスの差異主義がぶつかった。パキスタン人は隔離された。これに対しもともとイスラーム教スンナ派のパキスタン人は、イランのシーア派の活動組織と結び、イスラーム教原理主義に突き進んだ。アンチル諸島のジャマイカ人はキリスト教徒で、習俗もイギリス化していた。文化的には最も受け入れ社会に近い。しかし、アメリカの白人がそうであるように、イギリス人は肌の色にこだわり、彼らを「黒人」とみなした。そのため、ジャマイカ人は、アメリカの黒人と同様に心理的・道徳的な崩壊へと追い込まれている。ただイギリスの「黒人」がアメリカと黒人と違うのは、イギリス社会で「異なる人種」のような存在となっている労働者階級と、民族混交婚が進んでいることである。それによって、イギリスの「黒人」は、絶対的隔離を免れている。
 今日イギリスは、イスラーム系移民がヨーロッパでも最も多く、またEUの中でも最も速いスピードでイスラーム人口が増加している国である。2009年(平成21年)8月、英『デイリー・テレグラフ』紙は、EU内のイスラーム人口が2050年までに現在の4倍にまで拡大するという調査結果を伝えた。それによると、EU27カ国の人口全体に占めるイスラーム系住民は前年には約5%だったが、現在の移民増加と出産率低下が持続する場合、2050年ごろにはイスラーム人口がEU人口全体の5分の1に相当する20%まで増える。イギリス、スペイン、オランダの3ヵ国では、「イスラーム化」が顕著で、近いうちにイスラーム人口が半数を超えてしまうという。イギリスは、近いうちにイスラーム人口が過半数を占めると予想されている国の一つである。
 今日の西洋文明には、イスラーム教徒をキリスト教に改宗し得る宗教的な感化力は存在しない。イギリスは、英国国教会という独自の国家的なキリスト教宗派を保ってはいるが、近代化・世俗化の進むイギリスに、熱烈な異教徒を信仰転換できる宗教的情熱は、見られない。近代化・合理化の作用は、他の文明から流入する移民の価値観を変え得る。だが、近代化・合理化は、人々が宗教に求める人生の意味、魂や来世の問題については、何ももたらすものがない。イギリスの差異主義と衝突したイスラーム系移民の一部は過激化し、ロンドン等の大都市で、無差別テロ事件を起こしている。また、イギリス社会では、シャリーア(イスラーム法)の導入を巡って摩擦が起き、一つの社会問題となっている。イスラーム系移民の人口は、年々増加している。その過程で、イギリスの社会には、かつて欧米諸国が体験したことのない質的な変化が起こるだろう。  そうした中で、国民の権利と移民の権利を区別し、国民には何を保障し、非国民には何を付与するかを明確にすることが必要になる。国民と移民を区別しない無差別的な人権思想は、自国の文化・慣習・宗教・国柄を否定し、自らのアイデンティティを否定するものとなるだろう。

 

●人権宣言の国・フランスの現状

 次に、人権宣言の国フランスはどうであろうか。フランスには、平等主義核家族と直系家族という二つの家族型がある。これら二つの家族型には、共通点がある。ひとつは、女性の地位が高いことである。フランスの伝統的な家族制度は、父方の親族と母方の親族の同等性の原則に立っており、双系的である。双系制では、父系制より女性の地位が高い。もう一つの共通点は、外婚制である。フランス人は普遍主義的だが、移民を受け入れるのは、双系ないし女性の地位がある程度高いことと、外婚制という二つの条件を満たす場合である。この最低限の条件を満たさない集団に対して、フランス人は「人間ではない」という見方をする。第2次世界大戦後、フランスに流入した移民の中で最大の集団をなすマグレブ人は、この条件を満たさない。マグレブ人とは、北アフリカ出身のアラブ系諸民族である。アルジェリア人、チュニジア人、モロッコ人の総称である。宗教は、イスラーム教徒が多い。マグレブ人の社会は共同体家族の社会である。女性の地位が低く、また族内婚である。フランス人が要求する最低条件の正反対である。そのため、フランス人は、マグレブ人を集団としては受け入れない。
 マグレブ人は共同体家族ゆえ、権威と平等を価値とする。フランスは、主に平等主義核家族ゆえ、自由と平等を価値とする。ともに平等を価値とするから、普遍主義である。人間はみな同じだと考える。フランス人が人間の普遍性を信じるように、マグレブ人も人間の普遍性を信じる。ただし、彼らが持つ普遍的人間の観念は、正反対のタイプの人間像なのである。フランス人もマグレブ人も、それぞれの普遍主義によって、諸国民を平等とみなす。しかし、自分たちの人間の観念を超えた者に出会うと、「これは人間ではない」と判断する。双方が自分たちの普遍的人間の基準を大幅にはみ出す者を「非人間」とする。ここに二種類の普遍主義の「暗い面」が発動されることになった、とトッドはいう。第2次世界大戦後、フランスの植民地アルジェリアで独立戦争が起こった。戦争は、1954年から62年まで8年続いた。アルジェリア人の死者は100万人に達した。その悲劇は、正反対の普遍主義がぶつかり合い、互いに相手を非人間扱いし合ったために起こった、とトッドは指摘する。ただし、フランス人には、集団は拒否しても、その集団に属する個人は容易に受け入れる傾向がある。実際、マグレブ人は婚姻によって、個人のレベルではフランス人との融合が進んでいる。
 わが国には、フランス革命は人間の平等をうたった理想的な市民革命だと思っている人が多い。そして、フランスは人間平等の国と思っている人がいるが、話はそう単純ではないのである。
 今日、フランスは、欧州諸国の中でもイスラーム教徒の絶対数が多いことで知られる。比率も、人口の8%ほどを占める。トッドは、フランスは普遍主義に基づく同化政策を取るべきことを主張しているが、私は、どこの国でも移民の数があまり多くなると、移民政策が機能しなくなって移民問題は深刻化すると考える。その境界値は人口の5%と考える。フランスの人口比率は、その境界値を超えてしまっている。
 2015年(平成27年)1月7日フランスの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」のパリ市内の本社が銃撃され、同紙の編集者や風刺画家を含む12人が死亡、20人が負傷した。 犯人らはフランス生まれのイスラーム教徒で、アルカーイダ系武装組織が事件に関与しているとともに、犯人らは、イスラーム教スンナ派過激組織ISILへの忠誠を表明してもいた。2015年(平成27年)11月13日パリで同時多発テロ事件が起こった。130人が死亡し、約350名が負傷した。フランスでは第2次世界大戦後、最悪のテロ事件となった。「イスラーム国」を自称するISILが犯行声明を出した。ISILへの空爆に参加している主要国の首都で大規模なテロが起こったことが、世界に衝撃を与えた。
 戦後、フランス政府は、移民として流入するマグレブ人イスラーム教徒に対して、フランス社会への統合を重視してきた。だが、彼らの中には、差別や就職難などで不満を持つ者たちがいる。そうした者たちの中から、ISILなどが流し続ける「自国内でのテロ」の呼び掛けに触発される者が出てきている。こうした「ホームグロウン(自国育ち)」と呼ばれるテロリストの増加が、パリ同時多発テロ事件によって浮かび上がった。
 フランスでは、移民の多くが今日、貧困にさらされている。失業者が多く、若者は50%以上が失業している。イスラーム教徒には差別があると指摘される。宗教が違い、文化が違い、文明が違う。そのうえ、イスラーム教過激派のテロが善良なイスラーム教徒まで警戒させることになっている。
 フランスやベルギー等の社会である程度、西洋文明を受容し、ヨーロッパの若者文化に浸っていた若者が、ある時、イスラーム教の過激思想に共鳴し、周囲も気づかぬうちに過激な行動を起こす。貧困や失業、差別の中で西洋文明やヨーロッパ社会に疑問や不満を抱く者が、イスラーム教の教えに触れ、そこに答えを見出し、一気に自爆テロへと極端化する。
 こうした文明の違い、価値観の違いからヨーロッパでイスラーム教過激思想によるテロリストが次々に生まれてくる。これを防ぐには、貧困や失業、差別という経済的・社会的な問題を解決していかなければならない。これは根本的で、また長期的な課題である。
 同時多発テロ事件後、フランスが移民政策の見直しをするかどうかが、注目されている。フランス人権宣言による個人を中心とした自由・人権等を価値とする普遍主義的な価値観を信奉する限り、移民の受け入れはその価値を堅持するものとなる。移動の自由の保障も同様である。だが、この価値観とは異なる主張もフランスにはある。極右政党と言われる国民戦線(FN)は、事件後の選挙で、年間20万人の移民受け入れを1万に減らす、犯罪者は強制送還する、フランス人をすべてに優先、社会保障の充実等を訴え、支持率を伸ばした。FNが大統領選挙及び今後の国政選挙の台風の目となることは確実とみられる。
 パリ同時多発テロ事件は、フランス一国の出来事であるだけでなく、欧州の中心部で起こった事件でもある。2014年(平成26年)から欧州では、中東や北アフリカから流入する移民や難民が急増している。その49%がシリアから、12%がアフガニスタンから、その他の多くがリビア等のアフリカ諸国からといわれる。それぞれ内戦と政情不安が原因である。こうした移民・難民に紛れてイスラーム教過激派のメンバーが欧州諸国に潜入している。パリ同時多発テロ事件で、そのことが浮かび上がった。事件が起こったのはパリだが、テロリストはベルギーやオランダ等にネットワークを広げていた。
 EUの場合、域内での「移動の自由」が保障されている。テロリストは、EUの域内に入ってしまえば、各国の国境を越えて自由に移動できる。地球上でこれほどテロリストが行動しやすい地域はない。こうしたEUの「移動の自由」が、パリ同時多発テロ事件のテロを許した背景にある。
 EU諸国には、フランスの国民戦線と同様に、移民政策の見直しを主張する政党が存在する。そうした政党への支持が増加傾向にある。EUは、国民国家(nation-state)の論理を否定する広域共同体の思想に基づく。だが、異文明からの移民を抱えて社会問題が深刻化し、さらに国境の機能を低めたことでテロリストの活動を許していることによって、広域共同体の思想そのものが根本から問い直されつつある。この問題は、いわゆる人権と「国民の権利」との関係の問題である。
 人権宣言の国・フランスをはじめとするヨーロッパを中心に、普遍的・生得的な「人間の権利」としての人権という理念は、文明間・国家間・民族間の摩擦・対立の拡大の中で、見直されざるを得ない。そういう状況になっている。
 人類は、肌の色、宗教、文化・習俗等、一切の差異を差異と感じず、無差別的に、人間はみな同じと感じる段階には至っていない。今後、人類の諸民族が、個性を尊重しながら、共存調和し得るようになるには、婚姻による融合、識字率の向上と出生率の低下による近代化だけでなく、家族型の違いが生む価値観の相違を相互に理解し合うことが必要である。またそれだけでなく、無意識のレベルから他者や他集団の人間に対する感じ方が変わることが必要である。それには、相当の時間が必要だろう。人権という一見普遍的な観念を唱えれば、どの社会でも人権が実現するとは限らないことを、イギリス、フランスの現状は示している。
 今日の世界の人権状況を概観するために、自由主義諸国の内から、アメリカ、イギリス、フランスの現状を見た。これらの3国は、安保理常任理事国の地位にある。自由民主主義の国家であり、人権を尊重する政策をとっている。だが、安保理常任理事国の残る2か国は、旧ソ連を継承したロシアと共産主義の中国である。これら2カ国については、先に書いたとおり、劣悪な人権状況にあるが、安保理常任理事国であるがために、国連では問題にされないという欺瞞的な状況にある。

 

●イスラーム系移民の増加と西洋文明の対応

イギリス、フランスの人権状況には、ユダヤ=キリスト教諸文明とイスラーム文明の相互作用における国民と移民の権利問題がある。そのことを補足したい。
 イスラーム文明は、セム系唯一神教を文明の中核とする一神教文明群に所属し、キリスト教とは兄弟のような関係にある。イスラーム文明は世界で最も人口が増加している地域に広がっている。人口増加とともに、イスラーム教徒の数も増加している。イスラーム教は、今日の世界で最も信者数が増加している宗教である。そして発展途上国のうち、中東・アフリカ・中央アジア・南アジアにはイスラーム教国が多い。世界人口の4人に1人がムスリムと言われる。サウディアラビアやイランなど一部のイスラーム教国ではキリスト教に根拠を置く人権思想を異教の思想として受け入れられないとする考えが根強い。その一方、イスラーム教国も、血の神聖さなどの教義を中心としたシャリーア(イスラーム法)における人権という考え方を持って欧米の人権思想との整合性を図っている。だが、イスラーム法の人権は制限が厳しく、欧米から人権侵害であると非難されている。特に女性の権利への制限は、西洋文明と大きな価値観の相違を示している。そこには、宗教だけでなく、家族型による価値観の違いが表れている。むしろ、家族型的な価値観が宗教的価値観のもとにある。

 中東・アフリカのイスラーム教徒の多くは、共同体家族である。共同体家族は、ユーラシアに広く分布し、権威と平等を価値観とする。フランスのマグレブ人はアラブ系だが、アラブの家族制度は族内婚で、かつ父系的なので、内婚制父系共同体家族と呼ばれる。この家族型は、アラブ圏全域に加えて、イラン、アフガニスタン、パキスタン、トルコ、トルキスタンに分布する。インドネシア、マレーシア等の東アジアを除くイスラーム圏の大半の地域である。
 アラブ社会では、遺産相続は男子の兄弟のみを平等とし、女子を排除する制度である。それゆえ、女性の地位は低い。女子は家内に閉じこめられ、永遠の未成年者として扱われる。ヨーロッパの価値観に立てば、女性の権利が制限されるアラブの文化、ひいてはイスラーム教の文化は、人権侵害となる。逆にムスリムから見れば、女性が顔や肌を露出し、性的に自由な行動をするヨーロッパの文化は不道徳となる。アラブの族内婚は、伯叔父・伯叔母の家に嫁ぐために、親しく大事にされ、族外婚の女子が体験するような苦労がない。アラブ社会は、西洋的な価値観に立てば、女性が抑圧されていると見られるが、親族内で女子が守られるという一面もある。それゆえ、こうした家族型による価値観の違いを理解し、そのうえで相違の次元の根底にある共通の次元を見出し、それぞれが人民の自由と権利を拡大していくのでなければならない。
 イスラーム文明では現在、2011年(平成23年)の「アラブの春」と呼ばれる出来事の波紋が続いている。同年1月、チュニジアで民衆運動が起こり、ベンアリ大統領の長期独裁体制が崩壊した。チュニジアの動きはエジプトに波及し、やはり長期独裁体制を続けていたムバーラク大統領が辞任した。リビアでは民衆の運動を弾圧しようとした最高指導者カダフィが、反乱軍によって射殺された。他にもトルコ、イエメン、バーレーン、イラク、サウジアラビア等でデモが起こり、アラブ諸国が大きく揺れた。シリアでは、反政府勢力が活発化し、内戦が始まった。これを「アラブの春」という。
 イスラーム文明において、これほど多くの国で政治体制に対する民衆の反対運動が起こったのは、初めてのことだった。各国で事情は異なるが、共通しているのは長年続く独裁体制に反発した民衆が、独裁者の退陣を要求した点である。「アラブの春」をきっかけに、アラブ社会に巨大な地殻変動が起こりつつある。「アラブの春」は、さらにイスラーム文明の激動の開始ともなっている。
 シリアでは、「アラブの春」以後の内戦が長期化し、ドロ沼化している。内戦による死者は25万人を超え、400万人以上の難民を出している。(2016年1月現在) 難民は近隣のトルコ、レバノン、ヨルダン、エジプト、リビアに逃れ、約32万以上が地中海を渡ってヨーロッパへ流入している。シリアの統治機構が安定しない限り、難民の流出が止まることはない。また、この内戦を舞台にして、ISILが勢力を伸長し、強大化してきた。これに対し、国際社会はISILへの空爆を行って、ISILの掃討作戦を展開している。
 またリビアでは、2014年(平成26年)以降、イスラーム教勢力を中心とする軍閥とこれに対抗する勢力との戦闘が激化し、多数の難民が発生し、欧州等へ流入している。地中海を粗末な船で渡ろうとして、沈没・水死する者も多数出ている。内戦状態で政府が機能しておらず、多くの武装組織の武器調達ルートとなっている。また、ここでもISIL系過激組織が勢力を拡大している。
 欧州連合(EU)では、中東や北アフリカイスラーム文明諸国からの難民・移民の流入が、2014年(平成26年)から急増している。シリアの内戦やアフガニスタン、リビア等の混乱が原因である。流入する移民や難民の49%がシリアから、12%がアフガニスタンから、その他の多くがリビア等のアフリカ諸国からといわれる。
 難民・移民問題は、人権問題でもある。人権の思想を生み、人権の先進地帯であるヨーロッパで、西洋文明とイスラーム文明が価値観の違いでぶつかり合っている。ぶつかり合っている価値観は、宗教観・世界観・人間観・女性観・国家観・生命観等の全般と絡み合っている。その中心に、人権に関する考え方がある。この状況は、今後ますます深刻化していく可能性が高い。
 米調査機関のピュー・リサーチ・センターは、2015年4月、世界の宗教別人口について、現在はキリスト教徒が最大勢力だが、21世紀末にはイスラーム教徒が最大勢力になるとの予測を発表した。同センターは世界人口をキリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教、仏教、ユダヤ教、伝統宗教、その他宗教、無信仰の8つに分類。地域別などに人口動態を調査し、2010年から50年まで40年間の変動予測を作成した。2010年のキリスト教徒は約21億7千万人、イスラーム教徒は約16億人で、それぞれ世界人口の31・4%と23・2%を占めた。イスラーム教徒が住む地域の出生率が高いことなどから、2050年になるとイスラーム教徒は27億6千万人(29・7%)となり、キリスト教徒の29億2千万人(31・4%)に人数と比率で急接近する。2070年にはイスラーム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年にはイスラーム教徒が最大勢力になる、と同センターは予測している。
 ヨーロッパにおいて、イスラーム文明からの難民・移民にどう対応して、各国の「国民の権利」を守るかは、今後いっそう重大な問題になっていくだろう。逆にイスラーム教徒にとっては、このことは、イスラーム教徒の権利をどう実現するかという課題である。とりわけ21世紀後半、世界的にキリスト教徒とイスラーム教徒の数が歴史上初めて伯仲し、さらにイスラーム教徒の数が上回っていく段階になった時、ヨーロッパのみならず世界的にイスラーム的価値観と非イスラーム的価値観の間の相互理解と、それを通じての人々の自由と権利の保障、特に女性の自由と権利の保障が、より大きな課題となっているだろう。

 

●発展途上国の人権状況

 次に、発展途上国の人権状況について述べる。今日、世界の独立国は、約190カ国を数えるにいたっている。その大多数は、植民地から独立した有色人種の発展途上国である。その多くでは、白人種によって剥奪されていた統治権の回復はされたものの、人民の自由と権利はいまだよく発達していない。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの多くの地域に、貧困、不衛生、飢餓、内戦、虐待、環境破壊等の問題が存在する。これらの問題の解決には、まず国家の集団として持つ権利が拡大され、そのうえで個人の自由と権利が発達しなければならない。
 発展途上国における国家的権力の強化は、しばしば独裁や腐敗を生み、それが固定化される。経済発展と国民形成はうまくいかず、混迷と混乱が続く。先進国側は人権の擁護のための関与の正当性を主張し、人権の尊重を求める。これに対し、発展途上国は、人民の「自決の権利」を援用して、先進国の要望を内政干渉として非難するという構図となっている。
 有色人種の国家の多くは、欧米・日本等の近代化の先進国より人権状況がよくない。その例の一つが、北朝鮮である。わが国と北朝鮮の間には、日本人拉致の問題がある。北朝鮮では、金日成・金正日政権のもと、多くの日本人を含む外国人の拉致が行われた。国家最高指導者の指示による拉致は、最も許されざる人権侵害であり、国家によるテロである。2003年(平成15年)4月、国連人権委員会は、北朝鮮が多くの国民を強制収容所に送り込み、拷問をし、幼児を餓死させるなど、人権を蹂躙していると非難して「組織的かつ広範囲で重大な人権違反を犯している」という決議をした。この決議は日本人拉致問題の全面的解決を要求した。
 とはいえ、この委員会には、国内で人権を蹂躙している多くの諸国が名を連ねていた。議長国は、カダフィを元首とする専制国家当時のリビアだったことは、皮肉なことだった。北朝鮮による人権侵害を糾弾する決議を採択したこの同じ委員会は、ロシアによるチェチェンの陵辱、中国におけるチベットでの弾圧等には目をつぶった。ロシアや中国の人権問題について国連で議論らしい議論がされないのは、こうした加盟国の実態も背景にある。
 北朝鮮に関しては、国連において拉致問題等に関する理解が進み、近年対応に変化が出ている。2014年2月、国連北朝鮮人権調査委員会が、北朝鮮の人権問題について最終報告書を公表した。これを受けて、3月28日国連人権理事会は、北朝鮮による国家ぐるみの人権侵害行為は「人道に対する罪」と非難する決議を賛成多数で採択した。決議は、拉致被害者らの帰国、全政治犯収容所の廃止と政治犯の釈放等を要求し、犯罪に関与した人物の責任を追及するよう明記した。人権状況を今後も把握するため「実態の監視と記録を強化する組織」の創設を盛り込んだ。また、国連安保理に対し「適切な国際刑事司法機関」への付託の検討を勧告した。そして、北朝鮮の人権侵害を国際刑事裁判所(ICC)に付託するよう勧告した初めての北朝鮮人権決議案が、12月18日に国連総会本会議で採択された。過去の決議は北朝鮮住民たちの人権問題だったが、このたびの決議は「人道に対する罪」の最高責任者として金正恩の責任をICCで問うことを目指したものである。
 だが、金正恩は、拉致した多数の日本人の帰国を拒み、生死や安否に関しても正確な情報を提供しようとしていない。わが国は、拉致問題は金日成・金正日の指示によって行われ、現在も金正恩が関与している国家犯罪であることを強く打ち出し、またこれを国際社会が一致協力して解決すべき人権侵害犯罪として、米国および国際社会により積極的にアピールすることが必要である。
 その他の各地の発展途上国に目を向けると、バルカン半島のボスニアにおけるムスリムへの虐殺・虐待・強姦等は、民族浄化(エスニック・クレンジング)といわれるほど、苛烈なものである。アフリカ北東部の南スーダンのダルフール地方における紛争は、多くの難民を生み出している。その他、イラク、エチオピアのソマリ州、コンゴのギブ地方、ジンバブエ、ソマリア、パキスタンの北西部、シリア、イスラーム教過激組織ISILが支配する地域等、近年その国の国民の権利が著しく侵害されている国は、少なくない。問題の原因には、宗教的対立、少数民族の独立運動、相対的強国による併合、為政者の独裁・専横、資源確保を図る先進国の関与等がある。専制国家、独裁国家においては、特権的な支配集団を除く多数の国民が権利を制限され、多民族国家・多宗教国家においては、少数民族や少数集団が権利を制限されている例が多い。
 こうした人権問題への対処としては、国連が政権に対して非難決議をしたり、国際社会が経済的等の手段によって制裁を加えたりして、政治体制の変化を促す。また安保理の決議によって、PKF・PKOが活動し、治安と秩序の回復を図る。だが、安保理は、常任理事国の意見が一致しなければ、国連としての行動は取らない。その場合、特定の国家やそれに連携する国家群のみで行動を起こすことがある。その戦争が侵攻戦争なのか人道支援なのか、今のところ客観的な基準は存在しない。立場・利害が異なると、軍事行動に対する評価は大きく異なる。軍事行動の目的も、人権の擁護より、主は石油・天然ガス等の資源の確保にあることが多い。今日の国際社会では、国益の追求が優先され、国益を実現するため、または国益を損なわないようにするために、人権擁護の行動がされることが多い。

●難民及び国内避難民が4,300万人

 今日の世界の人権状況で深刻なものの一つに、難民の問題がある。難民については、個別的人権条約の一つとして、1951年に難民条約が締約された。難民条約は、第1条A(2)にて難民を定義している。すなわち、この条約の成立を分岐点として、「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」が、難民と規定された。要件は、迫害の恐怖、国籍国の外にあること、国籍国の保護の喪失の3つである。こうした難民を狭義の難民または条約難民という。迫害を受ける理由は、人種、宗教、国籍、特定の社会集団または政治的意見の5つである。それゆえ、戦争や内乱、自然災害によって国を追われる人々は、難民ではない。また、国籍国の外にあることが要件ゆえ、国内にとどまっている者も同様である。国籍国の外にあっても、国籍国の保護を受けている者も同様である。
 難民条約が定める狭義の難民に対し、外国軍隊の侵攻や内戦、食糧危機等により生じた国内避難民、人道上の難民等を、広義の難民と言う。国内避難民とは、武力紛争や内乱、自然災害、大規模な人権侵害等によって、難民と同じく移動を強いられているが、国境を越えていないので難民とは分類されない人々である。国内避難民は、国籍国の保護を期待できないという点に関しては、難民と共通した境遇にある。
 国籍国に代わって難民に保護を提供するのは、難民条約の締約国である。ただし、どの国家も、難民条約の締約国となることによって、難民を受け入れる義務を負うわけではない。たとえ自国の領域に入った人々が難民と認定されても、これを受け入れるかどうかは、各国が領域国として独自に主権的判断に基づいて決定し得る事項とされている。
 一方、国家の権利としては、国籍国から迫害を逃れてきた個人を領域内に庇護する自由を、国家は持つ。これを領域内庇護権という。領域内庇護権は、主権国家の権利であって義務ではない。またあくまで国家が庇護する権利であり、個人が庇護を受ける権利ではない。
 無国籍の場合は、国外強制退去となった時に、当該個人を受け入れる国がないということが起きる。無国籍は個人の重大な不利益を招くため、1954年に「無国籍者の地位に関する条約」、61年に「無国籍の減少に関する条約」が成立した。ただし、これらの条約の締約国は多くない。

 わが国の外務省によると、2009年(平成21年)末の時点で、世界における難民及び国内避難民は、4,300万人を超えるといわれる。日本の人口の3分の1である。それだけの人々にとって、地球は安住の地となっていないのである。

 こうした難民及び国内避難民への支援においても、国連の役割は重要である。だが、国連には、安保理常任理事国の構成だけでなく、他にも問題が存在する。その一つが、左翼人権主義の浸透である。国連は、世界の人権状況を改善する中心的な国際機関だが、そこに自らの思想を浸透させて利用しようとする勢力が存在する。そうした勢力が関わっているものの一例が、戦前の日本軍の慰安婦問題である。1996年(平成8年)に国連人権委員会(現人権理事会)に出されたクマラスワミ報告書は、慰安婦を「性奴隷」と定義し、その人数を「20万人」と記述した。この報告書は、虚偽であることが明白な著作を基にしたものだった。その他、さまざまな国連機関が、日本の責任を追及する報告書や勧告を相次いで出してきた。その背景には国連を利用し、自らの主張を通そうとする左派・リベラル系団体の活発な動きがある。彼らは、NGO(非政府団体)という公認の団体を通じて、国連諸機関に働きかけて、自国の政府への批判や他国の政府への攻撃を行い、党派的・民族的な利益を実現しようとしている。市民運動の名目で、国際的な左翼や反日勢力が活動している。人権は普遍的・生得的な価値と思われやすく、また国連機関は一見政治的に中立な機関であるので、国連機関から人権問題として指摘されると、抗弁がしにくい。それゆえに、国際的な左翼や反日勢力の巧妙な活動には十分な注意が必要である。
 国連の改革のためには、国連から左翼人権主義を駆逐しなければならない。

 

●人権状況の改善は自助あっての互助・公助

 人権は、普遍的・生得的な「人間の権利」ではない。歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」であり、主に「国民の権利」として発達するものである。それゆえ、発展途上国において貧困・虐待・暴行・虐殺等から人々の権利を守ることは、第一義的にはその人々が所属する国の政府の責任である。その政府の権利保障の取り組みを推奨・促進するものとして、国連等の国際機関やNPO等の国際団体の活動がある。自助が基本であり、次に友好国や支援団体による互助、さらに国際機関による公助がある。
 重大な人権問題が起き、当事国がこれに対処できていないか、または対処しようとしない時は、国連安保理で常任理事国が対応を決める。常任理事国が一致しなければ、国連は動かない。常任理事国が自国の利害から問題に関与せず、放置された事例は少なくない。その事例の一つが、ルワンダでの大量虐殺である。
 中部アフリカのルワンダでは、1994年、民族間の対立で大虐殺が起こった。国連は、安保理常任理事国の政治的思惑から、積極的な対応をしなかった。ルワンダは、1962年、ベルギーから独立したが、クーデター、内戦等が続いた。94年の大量虐殺では、人口約730万人のうち、80〜100万人が殺害されたとみられる。またこのとき約210万人もの大量の難民が周辺国に流出した。人口の約4割が死亡または国外流出したことになる。亡国に至りかねない危機だった。しかし、ディアスポラ(離散民)となって世界各地に散らばったルワンダ人は、それぞれの地で技術を身に着け、教育を受け、意識を高めた。そして、彼らは祖国の農業、観光産業、不動産等に投資し、また約半数の100万人が帰国し、祖国の再建に努めている。それによって、ルワンダは驚異的な復興と目覚しい成長を行い、「アフリカの奇跡」と呼ばれている。
 ルワンダの例が示しているのは、第一にその国民、その民族の自助努力の大切さである。人民には「発展の権利」がある。その権利を生かし、経済的・社会的・文化的発展を実現するには、人民自身の努力が必要である。友好諸国の互助、国際機関の公助は、その国の人民の自助があってのものであり、補助に過ぎない。人権は、普遍的・生得的な「人間の権利」ではない。歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」である。それを発達させるのは、主にそれぞれの国民であり、それぞれの集団なのである。
 自助努力はしばしば実力行使や独立運動となる。また国民形成、成長・発展の取り組みとなる。その自助努力の中でしか、人権と呼ばれる権利は発達し得ない。人権は観念であり、理想・目標であって、それを実現するのは、各国民・各民族・各集団である。国民の権利の協同的な行使によってのみ、人権の発達は可能となる。
 近年南アフリカの人種差別反対運動、中国・北朝鮮・ケニア等の権利保障の悪い国で自由や権利を求める運動が行われてきた。こうした自助努力の奨励のために、発展途上国での人権運動の指導者に国際機関が褒賞を行うことは、意義がある。ノーベル平和賞は近年、南アのネルソン・マンデラ、中国の劉暁波等、それぞれの国で人権運動をしている人物に贈られることが多い。
 2011年(平成23年)は、アフリカと中東で非暴力の人権活動を続ける3人の女性が選ばれた。アフリカ初の女性大統領としてリベリアの国家再建に力を尽くしたエレン・サーリーフ大統領、同国の平和活動家リーマ・ボウイー、イエメンの人権活動家タワックル・カルマンである。これら発展途上国における人権運動を評価し、推進するため、国際的な褒賞を行うことは有効である。ただし、平和賞は、政治的な思惑が絡んでいると見られる時があり、特に先進国の指導者への授章は十分な検討が望ましい。
 もう一つ、ルワンダの例が示しているのは、新興国における国民の形成の大切さである。氏族的・部族的集団の対立・抗争状態を脱し、国民的集団を形成することができなければ、近代的な武器を得た国内の政治団体の争いが高じ、せっかくできた独立国家が内部から機能マヒとなり、さらに自壊さえしかねなくなる。ここで国民形成の推進力なるのが、ナショナリズムである。人権とナショナリズムの関係については、第6章に書いたので、ここでは現代世界におけるナショナリズムについて、簡単に補足する。
 先に書いたように、国際人権規約は、自由権規約も社会権規約も第1条で、人民(peoples)の自決権を定めている。「すべての人民(peoples)は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」が、その条文である。peoples は、人民とも国民、民族とも理解し得る。それらの自決権は、しばしば民族自決権と訳されるが、一般的に言うと、集団の自決権である。国際人権規約に集団の自決権が盛り込まれたのは、第2次世界大戦後、アジア・アフリカで民族解放・独立運動が高揚し、多くの独立国が建設されたことによる。集団の権利が確立されてこそ、個人の権利が保障される。その思想が、国際人権規約に盛り込まれている。人民の独立なければ個人の人権なし、という原則が、打ち立てられたのである。そして、有色人種の諸集団では、西欧諸国から独立を勝ち得た後に、国民個人の権利の保障や拡大が進められつつある。その前提は集団として持つ権利の獲得である。
 集団の権利の獲得は、周辺部におけるナショナリズムの高揚によるものである。ただし、ナショナリズムはリベラリズム、デモクラシーと結合したものとならなければ、個人の権利の保障・拡大にはつながらない。ナショナリズムは、リベラリズム、デモクラシーと結合した時に、人権の観念の発達・伝播をもたらすものとなる。アジア・アフリカには開発独裁型の発展途上国や社会主義の影響を受けた新興国、部族連合が発展した国家等が多くあり、そうした国々では、国民の自由と権利は思想として発展しておらず、逆に自由と権利への抑圧がしばしば横行している。ナショナリズムがリベラル・デモクラシーと結合して発達した時に、集団の権利とともに個人の権利の発達が可能となる。
 以上、今日の世界の人権状況について概説した。こうした状況において、「人間的な権利」の発達を図るには、人権の基礎づけ、定義、内容、実践に関する検討が必要である。その点については、第4部で人権の理論と新しい人間観について述べる際に、具体的に書くこととする。
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(4)日本における人権の現状と課題

 

●日本における人権の観念

 ここでわが国における人権の現状と課題について述べたい。
 毎年、12月10日は世界人権デーとされている。世界人権デーは、1948年(昭和23年)12月10日に第3回国際連合総会で世界人権宣言が採択されたことを記念して設けられた日である。この日は国連を中心に記念行事が行われる。わが国では、法務省と全国人権擁護委員連合会が1949年(昭和24年)から毎年12月4日から10日まで)を人権週間と定めている。この期間中、世界人権宣言の趣旨及びその重要性を広く国民に訴えかけるとともに、人権尊重思想の普及高揚を図るため、集中的な啓発活動が行われる。
 国際的な人権保障と国家主権は、一面で依存的、半面で対立的な関係にある。個人の権利のみを追及すれば、国家主権は侵害される。逆に集団の権利のみを追求すれば、個人の権利は保障を失う。人権は、普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、歴史的・文化的・社会的に発達する「人間的な権利」である。また集団の権利あっての個人の権利である。そのことを確認したうえで、個人の権利を尊重するものでなければならない。
 だが、わが国の左翼や個人主義者は、国際機関を通じて、市民の権利を追求し、国家主権を弱めようとする。その動きは、中国・韓国・北朝鮮による反日攻勢に連携するものとなっている。また国連や各国のNGO等には、国際的な左翼がおり、わが国の左翼人権主義者と連携しているものと見られる。
 さて、わが国の人権の現状と課題を論じるには、大東亜戦争の敗戦後、占領下において制定された日本国憲法から述べなければならない。現行憲法は、GHQが秘密裏に英文で起草した原案がもとになった。この憲法は「基本的人権」の保障を原則の一つとしているとされ、今日、日本人が人権について考える時は、ほとんど現行憲法の思想に基づいている。そして、日本国民の多数は、人権は「人間が生まれながらに平等に持っている権利」と考えている。だが、現行憲法は、人権とは何かを定義していない。定義のないまま「基本的人権」という用語が使われている。人権の語は前文にはなく、すべての条文のうち、第11条と第97条にのみ現れる。
 現行憲法は、第11条に「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」と定めている。この権利の保障の対象は、日本国民である。だが「基本的人権」には、人間一般の基本的な権利という含意がある。では人間とは何か、人間はなぜそのような権利を持つのか、その根拠は何か、またどうしてその権利を、現行憲法は日本国民に保障するのか。現行憲法は、これらについて、具体的に記さぬまま、条文を連ねていく。そして、第97条にようやく、次のように記されていることにぶつかる。
 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」。
 「人類の多年にわたる自由獲得の努力」とは、どういう努力なのか、「過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託された」とは、どういう過去なのか、そしていつどのように信託されたのか。具体的でない。なにより国民に「基本的人権」を信託したのは誰なのか。天皇なのか、過去の世代なのか、GHQなのか、そもそもその主体がはっきりしない。
 もともと人権が生まれながらに誰もが平等に持っている権利であるならば、誰かが国民に信託するまでもなく、国民がみな生まれながらに平等に所有しているはずだから、あえて信託する必要はない。その本来的状態を確認するだけで足りる。また、人権が生まれながらに誰もが平等に持っている権利であるならば、人類が多年にわたって自由を獲得する努力をしなければならなかったというのもおかしい。第97条の条文は、人権とは普遍的・生得的な権利ではなく、歴史的・社会的・文化的に「発達する人間的な権利」であることを含意していると解さざるを得ない。一般に言う人権は、狭義の場合は「普遍的でありたい権利」「普遍的であるべき権利」であり、広義の場合は国民や集団の成員、性別・年齢等に限定される特殊的な権利を含む権利一般である。この区別によれば、日本国憲法における人権とは、狭義の人権ではなく、広義の人権であるということになる。
 人権について、こういう具合だから、現行憲法は、人間の尊厳についても、具体的に記していない。そもそも人間の尊厳という概念が盛られていない。条文に出てくるのは「個人の尊厳」である。また出てくるのは、第24条ただ1か所である。この点については、次項で個人についての条文を見たうえで述べることにしたい。

●日本国憲法における個人と尊厳

 現行憲法は、個人について、第13条に「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と記している。
 ここに個人としての「尊重」が記され、その個人の生命、自由及び幸福追求に対する権利の「尊重」が定められている。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」とあるのは、アメリカ独立宣言の直接的な影響だろう。もとはロックであり、ロックにおいては、生命・自由・財産の所有権としていたもののうち、財産の権利が、独立宣言では幸福追求の権利に置き換えられたのである。これらの権利は、自由権を規定するものである。生命、自由及び幸福追求に対する権利を「国民の権利」として尊重するには、その前提としてすべての個人はこの権利を保有するという思想があると推量される。だが、現行憲法はその思想を明示していない。これらの自由権と「基本的人権」との関係も、説明されていない。
 さて、国民は個人として尊重されると記す現行憲法は、第24条に「個人の尊厳」を謳う。人間の尊厳ではなく、個人の尊厳である。第24条は婚姻について定めたもので、第1項に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とし、2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」としている。現行憲法では、この第24条2項においてのみ、「個人の尊厳」が記されている。婚姻に関する条項において、また「両性の本質的平等」との関係でのみ、個人の尊厳が記されているわけである。
 このように現行憲法は国民に基本的人権を保障すると謳っていながら、人権保有の理由である人間の尊厳について、直接述べていない。個人の尊厳について、限られた関係において触れるのみである。また、現行憲法には、人格という概念がない。国民が個人として尊重されるとしてはいるが、それは個人が人格的存在だからとは、みなしていないのである。国民は、憲法の条文の文言から、憲法の基づく人間観を想像し、人間の尊厳や個人の人格について推察するしかないのである。

●世界人権宣言等と日本の人権

 わが国は現行憲法のもと、昭和27年(1952)4月28日独立を回復した。そして、「国際連合=連合国」に加盟し、世界人権宣言に参加した。続いて国際人権規約も締結した。その他、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、児童の権利条約、拷問禁止条約等も締約している。その「宣言」にしても「規約」にしても、他の特殊的な国際人権条約にしても、人間の尊厳や個人の人格について、具体的に記していない。人間がなぜ生まれながらに、侵しがたいほどの価値を持つのか。その根拠は何か。「宣言」及び「規約」等の文言から、それらの依って立つ人間観を推量するしかない。日本国民にとって、人権は決して自明なものではない。人間の尊厳についても、個人の人格についても、憲法やこれらの国際人権条約に、明確なものを見出せないのである。
 ところで、わが国において、日本国民とは、日本国籍を持つ者をいう。国籍とは国民の資格である。憲法は、日本国の国民という資格をもった者に対して、基本的人権を保障している。他国民や無国籍者に対しても、まったく同等に保障するものではない。日本国憲法が保障する基本的人権は、日本国籍という資格を持つ者にのみ保障される特殊的な権利である。国民の権利である。外国人に対しては、限定した範囲でのみ権利を保障している。日本国民と非国民は、権利において平等ではない。日本国政府は、諸外国の人間に対して一定の保護や支援はするが、日本国籍を持つ人間に対してと同じようには対応しない。非国民に対しても日本国民と全く同等に保障するとは定めていない。またその義務を負わない。
 もし日本国憲法が保障する基本的人権が、真に普遍的な人権であるならば、日本国政府は、他国民に対しても、国民と同様に保障しなければならない。貧困や不衛生や内戦等の状態にある国の国民に対しても、自国民と同様に施策を行わねばならないことになる。だが、実際にはそうではない。
 それゆえ、日本国憲法が保障する権利は「国民の権利」である。外国籍の住民は、その所属国の政府がその国の「国民の権利」として保障すべきものである。
 ところが、日本国憲法が保障する権利は「国民の権利」でありながら、普遍的・生得的な権利という近代西欧的な人権の観念に基づくもののようであり、そのうえで国民に対して「基本的人権」を保障するらしき規定になっている。これは、普遍的権利と特殊的権利を区別せず、人権の狭義と広義を区別せずに、条文を作成したからである。現行憲法は、第25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めているが、「健康で文化的な最低限度の生活」は一定の基準があるのではなく、社会の発達度合いや意識の変化によって「文化的」や「最低限度」の基準が変わっていく。人権は「発達する人間的な権利」であり、「人間的な」という時の「人間らしさ」は歴史的・社会的・文化的に変化する。それはもともと人権として観念されてきた権利が「発達する人間的な権利」であるからにほかならない。
 日本国憲法は、極めて欠陥の多い憲法だが、人権についても欠陥を持つ。それは、欠陥思想に基づいているからである。その欠陥思想に基づく憲法の条文を根拠に、普遍的・生得的な人権を説き、虚構の人権の拡大を諮り、人権侵害の救済機関を設けるなどの動きがあるのは、国民を欺き、誤導するものである。

 

●人権の名のもとに、日本の家族と国民を解体する動き

 わが国は、家族的・生命的なつながりを重視する伝統を持つ。GHQはその伝統を破壊しようとした。GHQが秘密裏に起草した英文草稿がもとになった日本国憲法は、天皇の権威と権能を低下させ、また家(イエ)制度を否定して欧米的な個人主義の考え方を、わが国に持ち込んだ。わが国の左翼人権主義者は、この考え方に則って、家族や国民を解体しようとしている。日本国憲法に依拠して個人主義を推し進め、家族をアトム的な個人の集合に変えるとともに、国民と非国民の区別をなくし、単なる住民の集合に変えようとしている。そうした考え方から打ち出されているのが、夫婦別姓法案、嫡出子・非嫡出子の相続の均等化、永住外国人への地方参政権付与法案、人権侵害救済法案、外国人住民基本法案等である。これらは、日本の家庭、社会、国家を解体する強力な爆弾である。

●夫婦別姓を導入する画策

 わが国では、明治時代に国民がみな姓を名乗るようになった。その際、国民多数の要望により、夫婦同姓が法制化された。以後、わが国の社会に定着してきた。だが、この制度を止め、夫婦別姓に変えようとする動きが、1950年代に起こった。夫婦別姓論は、姓に関する個人の権利を人権として主張する。伝統的な夫婦同姓を否定し、家族より個人を重視した制度・慣行を促し、家庭において個人主義を徹底しようとするものである。
 一挙に別姓を導入しようとする夫婦別姓法案に批判が多く出ると、1975年以降、別姓の選択を可能とする選択的夫婦別姓法案に修正され、夫婦別姓を実現しようとする運動が執拗に続けられてきた。選択的夫婦別姓法案は、個人の判断で別姓を選択できるようにすることにとどまらない。それをきっかけに別姓を押し広めて夫婦別姓の社会に変えようとするものである。
 別姓推進派の主張の骨子は、日本国憲法が個人主義を原則としている以上、現民法も個人主義に基づくあり方でなくてはならない。だから、夫婦別姓は当然であるというものである。
 個人主義とは、世の中の原理を個人に置き、個人の自由と権利を守ることをなにより優先する考え方である。個人主義は、近代西欧に現れた思想である。その個人主義の思想を日本の家庭にあてはめたところに、夫婦別姓論が登場する。個人主義の考え方では、社会の基本単位は個人とされるから、家族の一体性よりも、個人の自由と権利が優先される。
 これに対し、社会の基本単位は家族であるとする考え方を、家族主義という。家族主義では、人間は親子・夫婦・兄弟姉妹・祖孫等の具体的な人間関係においてあるものと考える。個人といっても、こうした関係から切り離した抽象的でアトム的な存在とは、考えない。家族主義は、わが国の伝統的な考え方である。戦後、個人主義的な傾向が強くなったとはいえ、伝統的な家族制度の文化が土台にあるからこそ、日本の社会は安定・調和してきた。しかし、夫婦別姓推進派は、個人主義を徹底することにより、家族主義の伝統を根絶しようとしている。
 わが国は直系家族が支配的な社会である。直系家族は家族主義的な考え方を持つ。これに対し、欧米に多い平等主義核家族及び絶対核家族は個人主義的な考え方を持つ。わが国の社会では戦後、核家族化が進み、3世代以上が同居する大家族が少なくなり、親子2世代による核家族が増えつつある。これに伴い、直系家族及び家族主義に基づく伝統的な考え方である夫婦同姓を否定し、核家族的かつ個人主義的な夫婦別姓に変えるべきだという意見が現れている。

●夫婦別姓導入で予想される弊害

 わが国で夫婦別姓が導入されると、個人が解放され、社会の進歩が実現するのだろうか。否、そうではなく、個人が寄って立つ基盤である家族が解体され、夫婦関係や子供の教育、青少年や高齢者の問題等に、深刻な事態が現れることが懸念される。その結果、社会に混乱がもたらされるだけだろう。主に予想されることは、以下の3つである。

 @ 事実婚が増加し、結婚制度が否定される

A 親子別姓・離婚増加等によって、子供が被害者になる

B 老人介護や祖先の祭祀がおろそかになる

@ 事実婚が増加し、結婚制度が否定される

 別姓が導入されると、正規に届け出た夫婦(法律婚)ではない事実上の夫婦関係(事実婚)が増える。別姓論者は、別姓が実現した場合、次の目標を「事実婚を法律上認知せよ」というところに定めている。その先には結婚制度の否定がある。結婚制度の否定とは、性の自由化である。
 事実婚の認知は、重大な家庭破壊、社会破壊の引きがねとなるおそれがある。かつて事実婚を公認した例がただ一つ、一時期のソ連にあった。ロシア革命後、レーニンは家族はブルジョワ的なものだから解体せよ、と結婚・離婚を自由化した。近親相姦や重婚も犯罪リストから除き、堕胎も公認されることになった。そして1927年には未登録の結婚と同等とし、重婚でさえも合法となった。
 しかし、その結果、想像もつかない社会問題が起こった。一つには、離婚と堕胎の乱用の結果、出産率が激減し人口が増えなくなった。そして、社会的には少年犯罪が激増した。少年による暴行傷害、重要物の破壊、住宅への侵入略奪と殺傷、学校襲撃と教師への暴行、婦女暴行が横行し、数百万の少女が漁色家の犠牲にされ、数百万の家なし子が生まれたと当時の新聞は書いている。
 さすがのソ連政府もこれは大変だと反家族政策の誤りに気付き、スターリン時代の1934年頃から政策を180度転換した。家族の尊重、結婚、離婚の制限等を実行し、1944年には未登録結婚の制度を廃止して、嫡出子と庶子との差別も復活した。
 ソ連における事実婚の公認は家庭と社会に混乱を生むだけに終わった。このように既に結果の出ているものを、人権の名のもとに、あえてわが国に導入することは、愚の骨頂である。
だが、結婚制度の否定は目標として生き残り、共産主義者やフェミニストの脳裏に棲みついている。それは、結婚制度否定による性の自由化は、マルクス=エンゲルスのコミューン論に淵源するからである。その思想を直接共産主義を打ち出すのではなく、個人主義という衣に包んで打ち出しているのが、夫婦別姓論である。


A 親子別姓・離婚増加等によって、子供が被害者になる

 わが国に夫婦別姓という異文化の制度を持ち込むとき、最も苦しむのは子供だろう。夫婦別姓は、必然的に親子の間で姓が異なる「親子別姓」をもたらす。父母の姓が違う。親と自分の姓が違う。そういう事態は、子供の心理に悪影響をもたらす。家族的アイデンティティがあいまいになる。人権の一種として子供の権利が強調されるが、夫婦別姓を導入すると、子供は被害者になる。
 1970年代、個人主義やフェミニズムが横行したアメリカでは、今や2組に1組が離婚している。そのうち約7割が3年以内に再婚し、さらにその約6割は再び離婚して、3回4回の離婚はざらにあるという。子供の約6割が18歳までに両親の離婚を経験し、その3分の1が親の再婚と2度目の離婚を経験するため、継母・継父の児童虐待が深刻な問題となっている。虐待は報告されているものだけでも、年間2百万件を越える。そのような環境で育てられた子供は、少年犯罪や麻薬の汚染、十代の出産に走る傾向がある。子供たちが受ける心の傷は癒しがたいものとなるだろう。
 近年、日本では離婚が増加しており、多くの子供が両親の争いに巻き込まれて、辛い目に合っている。平成27年(2015)現在、人口1000人当たりの日本の離婚件数は1.77となり、フランスの1.97に近づいている。3組に1組は離婚する割合である。そうした社会傾向のもと、離婚における破綻主義の明確化が企図されている。事実上夫婦関係が破綻している場合、理由のいかんに関わらず、5年以上の別居で離婚を認めるというものである。それに加えて、夫婦別姓が導入されれば、結婚による夫婦の制度的結合力が弱まり、現状よりさらに離婚が増え、犠牲となる子供が急増するおそれがある。

B 老人介護や先祖の祭祀がおろそかになる

 別姓となったら、高齢者は子供や孫が自分たちの世話をしてくれるのかどうか、大きな不安に陥るだろう。また、家の墓を守ったり、先祖の供養もおろそかになるおそれがある。
 高齢化社会への対応は、現在の日本の重要課題であり、対策の中心は在宅介護におかれている。在宅介護は、夫婦・家族が一体となった協力がなければ無理なことである。しかし、別姓論者は、結婚によって相手の親族との姻族関係の発生をさけたいという考えを持っており、別姓の家庭の多くでは、配偶者の老親介護は考慮されなくなるだろう。
各種世論調査によると、「老人介護は社会全体で考えるべき問題」と考える人がおよそ3分の2、「老人介護は家族で考えるべき問題」と考える人が3分の1となっている。かつての日本では、老親の世話は家族の役目と考えられていたが、今や3人に2人は社会の問題、つまり国家が面倒を見るべきだと考えているわけである。
 配偶者の老親介護を国家の問題とする考え方では、配偶者の祖先の祭祀は、行われなくなるだろう。生きているときに世話をせずして、どうして死後、祖先を敬う心が出るだろうか。共通の祖先を持ち、儀式を共にすることが、家族や親戚の結びつきを暖かいものにしてきたが、祖先祭祀が行われなくなるとき、人々の心のつながりは一層薄弱なものとなるだろう。
 夫婦別姓が導入された場合、事実婚が増加し、結婚制度が否定されること、親子別姓・離婚増加等によって、子供が被害者になること、老人介護や祖先の祭祀がおろそかになることが予想される。そのため、夫婦別姓の導入は、家庭を破壊し、人々の心を傷つけ、社会を混乱に導く危険性が高い。

●シナ・コリア及びキリスト教文化圏との違い

 夫婦別姓論は、中国・韓国からの外国人移民が日本で生活・行動しやすい環境に日本の社会を変える作用も持つ。シナ・コリアは夫婦別姓の文化だからである。
 だが、日本は、シナ・コリアとは社会の基礎をなす親族構造が異なる。シナは共同体家族、コリアは直系家族が支配的だが、ともに父系社会である。また、シナは宗族、コリアは本貫という独自の親族構造を持つ。その親族構造の上に夫婦別姓の制度が成り立っている。父系社会は、族外婚(イクソガミー)の有無で大きく2種に分かれるが、シナ・コリアは族外婚のある父系社会である。儒教では「同姓めとらず」という。すなわち、同姓同士の結婚を禁止する。少数の例外を除いて、同姓は結婚できない。だから夫婦別姓なのである。これに対し、日本は父系が一元的・支配的ではなく、父系が主だが母系的な要素も尊重される双系的な性格を持つ。通婚制度は、族内婚である。こうした親族構造の上に、夫婦同姓の制度が採られている。親族構造に基づく文化が異なるのである。それを無視して、日本の社会を別姓に変えようとするのは、乱暴この上ない。
 一方、欧米諸国でも夫婦別姓が認められるようになっているから、わが国もそうすべきだという意見がある。西方キリスト教文化圏は、もともと夫婦別姓である。アメリカでは、事実上夫の姓しか選べなかったし、ドイツでは夫婦は夫の姓を名乗るべしと法律で定められていた。イギリスは、夫の姓を名乗る慣習があり、今も続いている。フランスでは、現在まで民法に姓の規定はないが、事実上妻が夫の姓を名乗ることになっている。欧米でフェミニスト(女権拡張論者)たちが夫婦別姓を主張したのは、フェミニズムはキリスト教的拘束から逃れようとする反キリスト教の要素があるからである。その影響で、欧米諸国では1970年代以降、一部の国に夫婦別姓を認めるところが出てきた。だが、わが国はキリスト教国ではない。文化的・宗教的背景が違う。断片的なところだけ取り上げ、それを世界の趨勢であるかのように説き、人権という観念を使って世論を誘導するのは、非常に作為的である。
 わが国の別姓推進の急進的な団体は、欧米のフェミニズムの影響を強く受けている。また現在の日本の女権拡張運動には、左翼思想が流れ込んでいる。左翼は「革命の祖国」と仰いだソ連の共産主義体制の解体を目の当たりにして、社会主義、共産主義社会の実現の難しさを感じ、日本の家族制度と社会制度の解体を図るところに現在の活動の場を求めているのだろう。そして彼らの目標の一つが、夫婦別姓の法制化なのである。
 平成8年(1996)に法制審議会が、夫婦で同じにするか、旧姓をそれぞれ名乗るかの選択的夫婦別姓の導入を答申した。しかし、以後20年近くたっても法改正がされていないのは、国民の間に十分な合意が得られないからである。
 平成24年(2012)の内閣府調査によると、自ら夫婦別姓を希望する国民はわずか8%であり、国民の大多数は夫婦同姓制を肯定している。そのような中で、一部の要望によって、明治以来、120年近い伝統を有しわが国の社会に定着している夫婦同姓制という、わが国の姓に関する基本ルールを変更すべきでない。
 結婚後、旧姓を使用しなければ社会生活において不便な人はいる。そういう人のためには、旧姓を通称として使用できるようにすればよい。官公庁や多くの企業は、通称の使用を認めるようになっている。また戸籍法を改正し、戸籍に旧姓も併記できるようにする方法もある。このような改善を行えば、夫婦別姓を制度として導入する必要はない。

 

●最高裁が夫婦同姓規定は合憲と初判断

 夫婦別姓の法制化を求める動きは、執拗に続けられている。そうしたなかで、民法で定めた「夫婦別姓を認めない」とする規定の違憲性が争われた訴訟が、大きな注目を浴びた。
 訴訟を起こしたのは東京都内に住む事実婚の夫婦ら5人である。原告は「結婚に当たって多くの女性は改姓を強いられている」「選択的夫婦別姓を認めないことは、婚姻の自由を不合理に制約していて、両性の本質的平等に立脚していない」「憲法第13条、第24条は夫婦別姓の権利を保障しており、民法の規定は違憲で、国会の高度な立法不作為にあたる」などと指摘し、「国会が正当な理由なく長期にわたって民法を改正しない立法不作為は違憲・違法である」と主張して、国に計600万円の損害賠償を求めた。
 原告は、1、2審で敗訴し、上告した。この上告審で、2015年(平成27年)12月16日、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は、民法の夫婦別姓を認めないとする「規定は合憲」とする初めての判断を示し、原告側の上告を棄却した。
 判決は、憲法第13条の「個人の尊重」は「氏(姓)の変更を強制されない自由」まで保障したものではなく、また第24条の「婚姻の自由」は夫婦別姓の権利まで保障したものではないとして、原告らの主張を退けた。憲法第14条1項は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定めているが、この「法の下の平等」との関係についても、民法750条は夫婦がいずれの姓を称するかはその「協議」に委ねており、「文言上性別に基づく法的な差別的取扱いを定めているわけではない」ことを理由に、夫婦同姓制は違憲ではないとした。
 これに加えて、判決は夫婦同姓の意義や合理性について積極的に言及した。判決によれば、氏(姓)には、「家族の呼称としての意義」があり、その呼称を「一つに定めることには合理性がある」。また、「家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位」であって、全員が「同一の氏(姓)を称することにより家族という一つの集団を構成する一員であることを実感することに意義を見いだす考え方も理解できる」。さらに、夫婦同姓であれば、その子も両親と「氏を同じくすることによる利益を享受しやすい」として、夫婦同姓の利点を評価した。
 また、夫婦別姓論者の不利益は「氏の通称使用が広まることにより一定程度は緩和され得る」と指摘した。この最高裁の判断は、通称使用の広がりを踏まえたものである。民間調査機関「労務行政研究所」によると、平成7年に旧姓使用可能な企業は約18%だったが、上場企業約3700社を対象に行った25年には約65%まで進んだ。また、公務員は本人の申し出で職場での旧姓使用が可能。弁護士など多くの国家資格も仕事上の通称使用を認めている。こうした背景から、大法廷の多数意見は「通称使用が広がることにより、不利益は緩和され得る」とした。
 このように、最高裁は夫婦別姓論者の主張をことごとく退けたうえに、夫婦同姓制の意義や合理性にまで積極的に言及した。夫婦同姓は合憲とされたことにより、夫婦別姓の議論はおそらく沈静化すると思われる。また、最高裁によって家族は国や社会の基盤であることが改めて位置づけられた意義も大きい。
 なお、この最高裁判断が出されたのと同じ日、「女性は離婚後6カ月間、再婚できない」とする民法の規定が違憲かどうかが争われた訴訟の上告審判決で、女性の再婚禁止期間を6カ月とする規定は、最高裁大法廷は、100日を超すのは過剰な制約で違憲だと判断した。その上で原告側の上告を棄却した。この民法の規定は、生まれた子の父親は誰かといった混乱を防ぎ、子供の利益を考えた規定である。最高裁の判断に従って、国会は法改正を行った。女性の権利だけでなく、子供の利益を擁護した適正な運用が望まれる。

 

●婚外子の相続均等化で、日本の家族を揺るがす民法改正

 家庭において個人主義を徹底しようとする動きは、他にもある。その中で重要なのが、摘出子・非嫡出子の相続の均等化である。既に民法の改正が行われた。
 平成25年(2013)年9月、最高裁は、結婚していない男女の子供、いわゆる「婚外子」が、結婚した男女の子供である「嫡出子」の半分しか相続できない、とする民法の規定について、違憲と判断した。判決は、嫡出子と婚外子の相続を、従来の2:1から1:1つまり均等にすることを命じるものである。判決は、理由として「婚姻や家族の形態が著しく多様化し、国民意識の多様化が大きく進んでいる」こと、「国連も本件規定を問題にして、懸念の表明や法改正の勧告などを繰り返してきた」ことを挙げた。
 違憲と判断されたのは、民法第九百条四項のただし書きである。

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第九百条(略)
四  子、直系尊属又は兄弟姉妹が数人あるときは、各自の相続分は、相等しいものとする。ただし、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一とし、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分は、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の二分の一とする。
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 違憲判決によって、国会は法律の改正を迫られた。その結果、にわかに民法の改正がされた。25年12月、第九百条四項のただし書きが削除され、嫡出子と非嫡出子(婚外子)の相続分が均等化された。明治民法以来の規定が、115年後に改正されたのである。
 民法改正案とともに、当時の民主党(現民進党)等が出生届に嫡出子かどうかを記載するとした規定を削除する戸籍法改正案を提出した。公明党が賛成したが、自民党が反対して否決された。だが、戸籍法の改正を求める動きは今後も続くだろう。
 上記の民法改正は、本人の意思にかかわらず婚外子の立場にある人にとっては、権利が拡大され、相続を受ける権利が嫡出子と平等とされ、出生の事情にかかわらず、「法の下の平等」が得られたことになる。だが、その一方、嫡出子は相続分が減少し、権利を侵害される結果となった。嫡出子の親にとっても、財産を婚外子に多く与えなければならないので、嫡出子に多く相続する権利を侵害される結果となった。婚外子個人の権利が拡大したが、法律婚による家族の権利は縮小された。家族という集団の権利より、家族外の個人の権利が優先されたわけである。集団より個人、家族より個人を重視する個人主義の考え方が、民法上でより強くなった。
 違憲判決は、嫡出子と非嫡出子につき、「日本以外で差別を設けている国は欧米諸国にはなく、世界でも限られた状況だ」というが、非嫡出子の割合は、欧米主要国では、フランスが52.6%、アメリカが40.6%(2008年アメリカ商務省調査等)など、40〜50%台であるのに対し、日本では2.1%である。歴史・文化の異なる欧米の立法例を根拠にした違憲判決は、妥当性を欠く。
 また違憲判決は「国民意識の多様化」を理由の一つに挙げるが、平成24年の内閣府による世論調査では、嫡出子・婚外子について「現在の制度を変えない方がよい」が35.8%、「相続できる金額を同じにすべきだ」が25.8%であり、国民の多くは均等相続を求めていない。
 判決は「昭和22年から現在に至るまで、家族という共同体の中における個人の尊重がより明確に認識されてきたことは明らかだ。そして、認識の変化に伴い、父母が婚姻関係になかったという、子自らが選択や修正する余地のない事柄を理由に不利益を及ぼすことは許されず、子を個人として尊重し、その権利を保障すべきである、という考えが確立されてきている」とする。だが、そのような考え方は、国民の間で多数意見とはなっていない。最高裁が「確立されてきている」という考え方は、親子や夫婦、家族の関係よりも、個人の権利を優先する個人主義の考え方である。それを、嫡出子・婚外子の間の相続の問題において、当てはめたものである。だが、今日わが国では、個人主義の行き過ぎによる弊害が、家庭から社会、国家の全体に蔓延し、その対策こそが求められている。

●均等相続と子供の権利条約との関係

 均等相続を求めた最高裁の違憲判決は、わが国が締約している子どもの権利条約と関係がある。その点が重要なのだが、当時マスメディアの報道はそのことに触れなかった。また保守の政治家・有識者も触れていないようだった。わが国では国際法及び国際人権法についての関心が薄く、人権に関する国際条約が日本の社会にどのような影響をもたらすかについて、よく理解していない知識人が多い。そのため、国際人権法との関係でわが国が直面している問題が国民に広く認識されていない。
 子どもの権利条約は、国家報告制度を持つ。条約の実施監視機関である子供の権利委員会は、わが国の第1回報告を平成10年(1998)5月に審査し、同年6月に総括所見を採択した。この総括所見で、わが国は相続や出生届をはじめ婚外子に対する差別は条約違反なので是正されるべきとの勧告を受けた。また委員会は平成16年(2004)、日本の第2回報告審査の結果、総括所見を出し、婚外子に対する差別について、法律改正を勧告するとともに非嫡出子という用語を使用しないように要請した。また委員会は日本人父と外国人母の間に生まれた子どもが日本国籍を取得できないケースがあることに懸念を表明し、わが国は日本で出生した子どもが無国籍者にならないよう国籍法を改正するよう勧告を受けた。これに対し、わが国政府は、婚外子差別の一つと指摘された出生登録(戸籍の父母との続柄欄の記載方法、戸籍法第13条)については、同年11月の戸籍法施行規則の一部改正により、嫡出でない子についても嫡出である子と同様に「長男(長男)」等と記載するよう改めた。
 平成20年(2008)6月、わが国の最高裁は、準正(非嫡出子が嫡出子の身分を取得すること)による国籍取得について定めた国籍法第3条が、婚内子と婚外子を国籍付与の点で不合理に差別しており、遅くとも平成17年(2005)当時において憲法第14条1項に違反すると認定していた。こういう経緯がある。
 国際法において、条約の第一次的な解釈適用権限は、締約国が有する。ほかの国際人権条約と同じく子供の権利条約において、子どもの権利委員会を条約の有権的解釈機関と認めた条文は存在しない。形式的には委員会の解釈が締約国に対して何らかの拘束力を持つことはあり得ない。しかし、条約の締結国は、条約の要請に従い、また委員会の勧告を受けて、法律を制定・改正したり、行政実務を改善したりする必要がある。また、国内の裁判所は、条約の規定や委員会の勧告を考慮に入れて判決や決定を下すことになる。
 条約は政府が締約し、国会が承認して批准している。発効しているものは、遵守する義務がある。またわが国には憲法裁判所がなく、最高裁判所が終審裁判所として憲法判断を行う。最高裁が法律の規定を違憲と判断すれば、法律を改正せざるを得ない。
 わが国は、憲法、条約、法律には、「憲法>条約>法律」という優劣関係があるとしている。政府も最高裁も見解が一致している。条約の締約による弊害を除くには、優位にある憲法から改正する必要がある。裁判所は、現行憲法を基準にして、判決を下す。その憲法に欠陥があれば、欠陥を助長する判断を裁判所はしてしまう。特に国連の懸念表明や法改正の勧告が出されると、裁判所はそれをもとに判断をする。そこに大きな問題があると私は考える。

 

●憲法に家族保護条項を

 私は嫡出子・婚外子の相続を均等とした民法改正は、日本の家族を揺るがすものと思う。法律婚と事実婚の法的な格差をなくせば、国民の結婚観や家族観に誤った影響を与えかねず、事実婚が増え、家族制度が崩壊しかねない。均等相続の弊害を防ぐため、早急に善後策として家族制度を守る方策を講じることが必要である。
 現行憲法には、第24条に婚姻に関する規定がある。第1項に「婚姻は、両性の合意のみによって成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」、第2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と記されている。
 最高裁は、先の判決で家族観の変化を挙げた。だが、わが国の現状は、家族に係る問題が増加、深刻化し、重大な社会問題を生み出している。むしろ、親子・夫婦・祖孫等の家族の絆を強め、家族を再建することが課題である。先の民法改正に対し、家族を保護するため、他に法律を作るなどして、個人の権利の尊重が家族の崩壊を助長するものとならないようにしていく必要がある。ただし、法律では限界がある。私は真に有効な手立てを講じるには、憲法に家族保護条項を設け、日本の家族を立て直すことが必須であると考える。
 そもそも現行憲法のように、憲法に婚姻に関する規定が設けられていることは、世界的に見て異例である。男女が性的に結びつくことには、法律はいらない。その限りでは、結婚は私的な事柄であり、政府が介入すべきことではない。
 結婚が法律上定められるとすれば、それは結婚が単なる男女の結びつきではなく、家族という一つの社会を形成する公共的な行為だからである。そのために婚姻の安定性を求める法律も定められるのである。恋愛・性交をするのは両性の自由だが、婚姻は夫婦の性的関係を維持する手段ではなく、家族を形成することが目的である。それゆえ、憲法に必要なのは、婚姻よりも家族に関する規定なのである。
 国際社会では、社会の基礎は個人ではなく家族であり、政府が家族を積極的に保護しようとする考え方が時代の趨勢となっている。それを端的に示しているのが、国際人権規約(A規約)であり、同規約は第10条1項で「できる限り広範な保護及び援助が、社会の自然かつ基礎的な単位である家族に対し、…与えられるべきである」と述べている。西修・駒沢大学名誉教授によれば、1990年以降に制定された世界102カ国中、87の憲法には、家族保護の規定がある。それらの国の憲法の規定は、婚姻ではなく家族を中心とした規定とする傾向にある。そして、家族の権利、子供の教育の義務と権利、国家による家族・母性・子供の保護などが規定されている。そこには、家族は特別な社会であるから、特に保護されなければならないという考えが示されている。
 家族は、生命・種族の維持・繁栄のための基本単位となる社会であるとともに、文化の継承と創造の基礎となる社会である。単なる生命的・経済的共同体ではなく、文化の継承の主体、文化の創造の主体として、家族を考えなければならない。それゆえ、家族は生命と文化を継承する場所として、国家によって保護されなくてはならないのである。また、親は子供を教育する権利を有し、また子供を教育し文化を継承発展させていく義務を担う。
 しかし、現行憲法の規定には家族という概念はなく、婚姻が両性の努力で維持されるべきことしか規定されていない。両性の権利の平等を強調しながら、家族の大切さを規定していない第24条には、大きな欠陥がある。その条文は、個人主義の結婚観を、日本人に植え付け、愛と調和の家族倫理を失わせ、社会の基礎を破壊するものとなってきたのである。
 特に、今日、家庭道徳の低下と離婚率の上昇など、日本の家族は崩壊の危機にあるので、女性・子供・高齢者を守るためにも、憲法において家族の概念を明確化することが必要である。日本人は、アメリカやスェーデン等の極度の個人主義が招いた家庭崩壊の愚を後追いすべきではない。
 また、現行憲法の条文には、夫婦と並んで家族を構成するもう一本の柱である親子への言及がない。これは、生命と文化が、世代から世代へと継承されていくことを軽視しているものである。婚姻が、その夫婦、その世代限りのものと考えるならば、先祖から子孫への縦のつながりは断ち切られ、民族の歴史が断ち切られる。
 親が子供を産み、その子に知恵や財産を継承するのは、私的な行為である。しかし、それは単に私的な行為ではなく、同時に、大人が次の世代を生み育て、生命と文化を継承するという社会性をもった行為でもある。それゆえ、家族は国民の生命と文化を継承する場所として、国家によって保護されなくてはならないのである。
 新しい憲法には、各世代には世代としての責任があり、健常な大人の男女は、子孫を生み育て、教育を施し、生命と文化の継承に努める義務があると明記すべきである。
 子供の教育に関しても、親は子供を教育する権利を有し、また子供を教育する義務を負う。それは、自分の子供を通じて、次世代に文化を継承発展させていくという公的な義務なのである。家族というものを通じて、国民は、生命と文化の継承という公的義務を負うのである。
 また、国民は、自分の親の養護に努力すべきことも、憲法に定めるべきだろう。自分の子どもには、親として教育を与える義務があるということは、他の大人に託すのではないということである。これと同様に、自分の親に対しても、子として養護に努力すべきだろう。それは、他の大人に託すのではないということである。子どもの教育においても、親の養護においても、まず自助努力を促し、それで足りないところを学校や、福祉施設が補う。これが、人格的な人間関係を根本においた社会の基本的なあり方である。
 以上のように憲法において家族の概念を明確化することが不可欠であると私は考える。家族保護条項の条文案については、後に憲法改正案の各項目において示す。

 

●外国人地方参政権付与は、国民を解体する動き

 日本国憲法のもとに、家族の解体のみならず、人権の観念を利用して国民の解体を進める動きがある。その一つが、永住外国人への地方参政権付与法案の制定を図るものである。
 参政権を自由権の一部とし、これを基本的人権とするところに、外国人への参政権付与という考え方が出てくる。しかし、参政権は国民の権利であって、普遍的・生得的な人間の権利ではない。だから、外国人に対しては、各国が独自の判断をすればよい事柄である。
 現行憲法は、第15条に「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と定めている。国民については、第10条に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」としており、これを定めているのが、国籍法である。国籍法は、国民とは日本国籍を持つ者と定めている。それゆえ、憲法第15条の規定は、日本国籍を持つ者のみが、公務員の選定と罷免の権利を持つということである。
 ここにいう公務員とは、国会議員、地方首長、地方議員、最高裁判所裁判官等を含む。これらの公務員の選定・罷免の権利が、参政権である。参政権には選挙権・被選挙権、国民投票、国民審査で投票する権利等を含む。憲法は、こうした参政権を「国民固有の権利」とし、日本国の国籍を持つ者のみが参政権を持つことを規定している。
 日本国籍を持たない非国民は、日本の参政権を持たない。仮に外国籍の人間に参政権を一部といえども与えようとするのであれば、憲法の改正が必要である。
ところが、外国人に外国籍を持ったまま日本の参政権を与えようとする動きがある。これは、国民と非国民の区別をなくし、国民を解体して、単なる住民の集合に変えようとするものである。
 永住外国人への地方参政権の付与に関しては、平成7年(1995)の最高裁判決が、主文において「憲法第93条第2項にいう(地方選挙権を持つ)『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味する」と明言している。主文とは別に、異論を述べた傍論があるが、法律上の効力はない。永住外国人への地方参政権付与は、憲法違反の可能性が高いのみならず、彼らが地方参政権を梃子に、領土問題や安全保障問題の帰趨に影響を及ぼす恐れがある。ただし、日本国籍を取得した外国人であれば、国と地方の双方において選挙権のみならず被選挙権を有することは、言うまでもない。

●外国人に参政権を付与してはならない

 西欧諸国は第2次大戦後、多数の移民を受け入れたが、それによって多くの社会問題が生じている。とりわけオランダの状態は深刻である。ドイツ、フランス、イギリスにおける移民の人口比は7〜9%だが、2010年現在でオランダは10%を大きく超え、20%に近くなっている。オランダは、EUの加盟国以外の外国人にも、地方参政権を与えている唯一の国である。オランダは、この地方参政権付与によって、大失敗した。イスラーム系移民は、オランダ人とは融和せず、都市部に集中して群れを成して居住する。アムステルダムなどの都市部では、彼らが形成するゲットーにオランダ人が足を入れようとすると、イスラーム系住民は敵意を燃やして攻撃する。そういう険悪な状態に、オランダ人も危険を感じるようになった。特に新たに流入したイスラーム系移民たちの暴力、犯罪や組織犯罪が目立ってくると、関係は悪化した。国内に別の国家が作られたような状態となってしまった。わが国は、このオランダの例を教訓とすべきである。
 外国人への参政権付与は、世界的な潮流などではない。アジアで韓国以外に外国人に参政権を認めている国はない。韓国のみが外国人に地方参政権を認めているが、その前提となる永住権取得に関しては、所得額や投資額に厳しい条件がある。 韓国では、外国人有権者数は内国人有権者のわずか0.05%ほどである。一部の外国人に参政権を与えても、選挙には何ら影響しない。
 韓国に関して、わが国の一部には、相互に地方参政権を認めるべきだという意見がある。在日韓国人の特別永住者が多くおり、韓国にも日本人が在住しているから、相互に地方参政権を与え合うことは、日韓親善の拡大となり、それを周辺諸国にも拡大しようということもいわれる。
 だが、在日韓国人・朝鮮人は、平成24年(2012)6月末で、特別永住者360,004人、一般永住者が65,117人、これらの計で425,121人いる。北朝鮮は、日本の参政権を求めないから、このうち韓国人のみの話になる。わが国の外国人参政権付与論者は、わが国は韓国を真似て年収や投資額等を条件にすべし、とは言わない。在日韓国人永住者であれば、無差別に参政権を付与しようという考えである。とすれば、これらの韓国人に参政権を与えようということなる。韓国における地方参政権を付与された日本人は、平成18年(2006)の時点で51人だった。その後も大きくは変わらない。数千倍も人数が違うのである。
 これでは、あまりにも非対称である。ここまで非対称な関係を相互主義とはいわない。日韓に相互主義は成り立たない。そこから、韓国は、在日韓国人が日本の地方参政権を得るために、在韓日本人に韓国の地方参政権を与え、相互主義を理由に、在日の参政権を実現して、日本の政治に影響力を持とうとしてきたと見られるのである。
 わが国の在日外国人は、すでに中国人が最も多くなっている。平成24年(2012)6月末で648,734人で、登録されている在留外国人の31%を占める韓国人・朝鮮人の508,561人より、14万人ほども多い。もはや参政権付与問題は、在日韓国人を主とした特別永住外国人の処遇の問題から、中国人移民の問題、そして国家としての中国への対応の問題へと変化しつつある。
 世界中が中国人の進出に悩んでいる。その現代において、わが国は中国を隣国としていることにより、他のカナダ、イタリア、フランス等の国々以上に特殊な困難を抱えている。
 韓国はまだしも自由民主主義の国だが、中国はわが国でいう意味での「民主主義国家」ではない。中国は、共産主義の国である。共産党が事実上の一党独裁を敷き、人民解放軍は共産党の軍隊である。自国民に自由な参政権が与えられていない国の国民に、わが国の参政権を与えるなど、倒錯も甚だしい。中国人移民に、地方参政権を与えれば、日本の共産化を諮る工作員がますます活発に活動するだろう。
 国家体制の根本的な違いを無視して、在日中国人に外国籍のまま地方参政権を与えるなどという発想は、常軌を逸している。日本を破壊しようとする自傷・自壊の衝動に駆りたてられた者か、中共の工作員に操られて動かされている者か、中共に忠誠を誓ってそのために行動する者か。いずれかだろう。
 日本人が日本精神を取り戻し、しっかり団結したうえで移民問題に対処しないと、わが国は共産中国に侵食され、併呑されると知るべきである。移民の問題については、拙稿「トッドの移民論と日本の移民問題」に詳しく書いた。
 本稿の人権論は、日本を含む各国の移民問題を検討する中で、それに続く問題として取り組んでいるものである。在日外国人や外国人移民問題に対処できないような従来の人権論は、むしろ日本国民にとって有害なものとなっている。

 

●外国人への国籍付与は各国が独自に判断

 外国人がわが国で参政権を望むならば、日本国籍を取得して日本国民となればよいのである。その道は開かれている。
 日本の場合、永住資格を与える外国人には、2種類ある。特別永住者は、敗戦後、サンフランシスコ講和条約の発効で日本国籍を失った者とその子孫である。一般永住者は、経済的基盤が日本にあること等を条件に法相が永住許可を与えた外国人である。
 特別永住者については、帰化を望まない者には、本国への帰国の道もあるから、一定の期間を決めて、どちらかを選択してもらい、その後、入管特例法を改正して「特別永住者」の制度を廃止することを、私は主張してきた。帰化によって日本国籍を取得した元特別永住者は、基本的に日本国民と同じ権利に限定する。参政権は与えるが、各種の特権、いわゆる在日特権は廃止する。引き続き外国籍のままで日本に在留したい者は、一般永住者の地位で居住を許可する。当然、参政権は与えない。このようにするのがよいと考える。特別永住制度をやめ、すべての在日特権を廃止することが必要である。
 どの範囲の者をその国の国民として認めるかという事柄は、その国の歴史・伝統・政治・経済情勢等によって異なり、それぞれの国が自ら決定することができる。わが国では国籍法で、日本国籍の取得及び喪失の原因を定めている。集団はその構成員を集団の意思で決定できる。構成員の決定は、集団の自決権の最も重要な事項である。
 日本国籍を取得する原因には、出生・届出・帰化の3つがある。出生による国籍の取得は、出生の時に父または母が日本国民であるとき、 出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であったとき、日本で生まれ、父母がともに不明のとき、または無国籍のときがある。届出による国籍の取得は、一定の要件を満たす者が法務大臣に届け出ることによって日本国籍を取得する制度である。これには、認知された子の国籍の取得、国籍の留保をしなかった者の国籍の再取得、その他の場合がある。帰化による国籍の取得は、日本国籍の取得を希望する外国人からの意思表示に対して、法務大臣の許可によって、日本の国籍を与える制度である。
 これら3つのうち最も代表的なのは、出生による国籍付与である。出生による国籍付与には、血統主義と出生地主義がある。政府が親の血統と同じ国籍を子に与える、つまり自国民から生まれた子に自国の国籍の取得を認めるのが、血統主義である。これに対し、政府が出生地の国籍を子に与える、つまり自国で生まれた子に自国の国籍の取得を認めるのが、出生地主義である。前者を「血の権利」、後者を「土地の権利」ともいう。
 血統主義は、直系家族の価値観を法的に制度化したものであり、出生地主義は、核家族の価値観を制度化したものである。前者の例は1999年(平成11年)以前のドイツ等、後者の例はフランス、イギリス、アメリカ等である。わが国は直系家族の社会であり、出生による国籍付与は、血統主義を原則としている。わが国は血統主義において父系主義を採ってきたが、昭和59年(1984)の国籍法改正の際に、父母両系主義を採用した。なお、出生による国籍付与の例外として、日本で生まれたが父母の身元が分からなくなった子や、無国籍の両親から生まれた子には日本国籍を与えている。
 次に重要な国籍取得の原因は、帰化である。わが国の国籍法は、帰化による国籍取得について、住所・能力・素行・生計・重国籍防止・憲法遵守の6つの一般的な条件を定めている。これらの条件を満たせば、帰化することが可能になる。
 外国人に日本国籍を与える際の条件は強化する必要がある。それには、日本国民とは誰か、どういう人間が日本国民になれるのか、日本国籍を持つ人間は何をなす人間か、ということを明確にしなければならない。日本国籍取得を希望する外国人には、日本語能力の試験をし、日本の伝統・文化・国柄への理解、法制度への理解等につき、学習と試験を行なうべきである。そして、国民的アイデンティティを共有し、日本国民になりきるように教育する。これは出自の文化、言語、習慣を捨てることを意味しない。シナ系日本人、コリア系日本人、ブラジル系日本人等として、日本の言語・文化・慣習を主としつつ、出自の文化、言語、習慣を副として保持すればよい。それは自由である。
 仮にこのようにしても、なお国籍を取得して帰化した渡来系日本人が、日本国よりも出身国への忠誠を心に抱き、出身国及び同じ民族の利益のために行動することが考えられる。実際、わが国では、帰化して日本名を使用しているコリア系日本人が、韓国または北朝鮮の国益や同じ民族の利益を追求して、活発に政治活動をしている。帰化した者と帰化しない者が連携して、法制度が自分たちに有利になるように、日本の政治を変えようと活動してきた。それゆえ、国籍付与において、日本国への忠誠・義務は絶対条件である。そして、そのためには、日本人がまず自国への忠誠・義務を明確化することが必要である。特に国防の義務がポイントとなる。私は、憲法を改正し、国民に国防の義務と国家忠誠の義務を定めるべきと考える。
 上記に関連して二重国籍の問題がある。この事案については、昭和59年(1984)の国籍法改正において、二重国籍の事後的解消のための国籍選択制度が導入された。例えば、日本人の子供がアメリカのような出生地主義の国で出生した場合は、日米両方の国籍を取得することもでき、二重国籍という現象が生ずる。これを解消するため、一定の期間内にいずれかの国籍を選択させる制度である。
 わが国においては、帰化しようとする者は無国籍であるか、原則として帰化によってそれまでの国籍を喪失することを必要とする。本人の意思によってその国の国籍を喪失することができない場合は、例外として対応する。国によっては、外国人に二重国籍を認めているところがある。出生地主義の国のうち、フランス、アメリカ等は二重国籍を認めている。ただし、アメリカはやむを得ず認めているものであり、二重国籍は国家安全保障上望ましくないという見解を政府が示している。
 私は、わが国において、外国人への二重国籍許可に反対する。外国籍を持ったまま、日本国籍も与えるとすれば、その人は、二つの国家に帰属することになる。この場合、わが国がその国と戦争になったら、二重国籍者は相手国を利する行為を行なう可能性があるから、国家安全保障上、二重国籍を認めるべきでない。また、国益に係る重大な問題が生じた場合、二重国籍者はもう一つの祖国の利益のために行動する可能性があるから、国益確保上、二重国籍を認めるべきでない。
 とりわけわが国は、現状、憲法に国民に国防の義務がなく、国家忠誠の義務もまた憲法に規定されていない。また刑法は外患援助罪のうち、第83条から89条の通謀利敵に関する条項が、敗戦後GHQにより削除されたままである。スパイ防止法も制定されておらず、日本は「スパイ天国」といわれる。このような状態で、外国人に地方参政権を付与したり、二重国籍を認めたりすることは、危機管理上、危険である。
 わが国は、日本列島から外国人を排斥したり、追放したりはしていない。日本国は帰化したいという外国人には門戸を開いている。ただし、その国籍付与は安易に行ってはならない。外国人の個人の権利よりも、日本国民の集団の権利を尊重するのは、当然の態度である。それは集団の自決権の行使であり、集団の自決権は「発展する人間的な権利」としての人権の重要な要素である。

 

●人権侵害救済法案の危険性

 

  わが国では、21世紀に入ったころから、人権侵害救済法を制定しようとする動きが続いいている。人権侵害を救済するのだから、人権擁護のため、良い法案だろうと多くの人は思うだろう。だが、この法案は、人権という美名に隠れて、逆に国民の権利が侵害される危険性が非常に高いものである。私は、先に述べた永住外国人への地方参政権付与とともに、日本国民の解体を図る者と見ている。

  人権関連法案は、もともと自民党が、法務省の官僚の誘導によって、成立を図ったものだった。今もまだまだそうだが、当時の自民党は、考え方がかなりおかしくなっていた。平成14年(2002)、自公政権時代に法務省が示した人権擁護法案には、メディア規制条項があり、マスメディアが批判した。その後、メディア条項を凍結する修正案などが示され、マスメディアの多くは、人権侵害救済法案の危険性について報道しなくなった。そうした中で、自民党は平成20年(2008)に、与党として人権擁護法案をまとめた。だが、この法案はなにより人権侵害の定義があいまいであり、また救済機関の権限が強大であることや、公権力による民間の言論活動への介入の根拠となるおそれのあることなどにより、党内でも異論が多く出て、国会には提出されなかった。

  当時野党の民主党(現・民進党)は、自民党に対抗して独自の人権侵害救済法案を作った。民主党案は、自民党案より、一層問題が大きかった。民主党の法案の原案は、同党の支持団体である部落解放同盟の要望が、ほぼそのまま取り入れられたものだったからである。部落解放同盟は、被差別部落出身者の人権を守る団体のはずだが、左翼的・反日的な団体と化しており、過激な行動で知られる。そういう団体が政党を動かして人権侵害救済法案の成立を図っているのである。ここにわが国における人権をめぐる動きの問題点が集約的に表れている。

  民主党は、平成21年(2009)9月の衆議院議員総選挙で、自民党を破り、政権交代を成し遂げた。選挙戦で民主党は、選挙公約に当たるマニフェストに「人権侵害救済機関を創設し、人権条約選択議定書を批准する」と記し、「内閣府の外局として人権侵害救済機関を創設する」こと等を謳った。民主党は、以後、政権にあった3年間、人権侵害救済法案の成立を図る動きを熱心に続けた。

  平成23年(2011)7月、民主党は、法案に人権侵害救済機関を内閣府ではなく、法務省の外局に設置するという修正を行った。内閣府だと、政権政党の意向が強く反映されると懸念されたので、野党・自民党の案に譲歩したものだろう。救済機関を、公正取引委員会と同等の政府から独立した強力な権限を持つ「三条委員会」とし、また中央だけでなく、各都道府県に置くとした。

  当初人権侵害救済法案は、人権委員に国籍条項がなく、外国人も就任可能であり、外国人が自国民の人権を守るために利用し、日本国民の自由と権利が侵害される危険性があると指摘された。この点の指摘を受けて、民主党の修正案は、中央の人権委員は日本国籍を持つ者に限定した。だが、各都道府県の人権擁護委員は「地方参政権を有する者」とした。これが問題である。旧民主党や公明党等は永住外国人に地方参政権を付与しようとしており、地方参政権が与えられれば、外国籍の外国人が人権擁護委員に選ばれる可能性がある。外国人への地方参政権付与とセットになって働くとき、人権侵害救済法案は劇的な効果を生み出すのである。

  日本人が在日韓国人・朝鮮人や在日中国人の言動を批判した場合、それが「人権侵害」として訴えられ、出頭が命じられ、捜査・家宅捜索・押収が行われたり、罰金が科せられる。歴史認識の問題だけでなく、領土や資源等をめぐる国益に関することであっても、訴える側の外国人が「人権侵害」だと主張すれば、人権委員会が動く。そして、「人権」という普遍的・生得的な権利の観念に隠れて、外国人の民族的な利益やその所属国の政治的利益が主張され、「人権」として「擁護」されるという事態が生じるだろう。

  また、民主党の人権侵害救済法案は、当初から部落解放同盟の意向が強く反映していた。維新の党を吸収した民進党が今後、この法案をどのように扱うかは不明だが、もし旧民主党が作成した法案が成立すると、部落解放同盟のような団体の行動を批判することを言えば、「人権侵害」だと言って、取り締まられるおそれもある。部落解放同盟と在日韓国人・朝鮮人は、組織的につながっている。人権という理想の旗の下に、合法的に国家権力を簒奪しようとする政治団体・外国人組織が暗躍しているのである。

 ここでこの項目の冒頭に触れたことに補足すると、政党のもとで具体的に法案を作るのは、国家官僚である。国家官僚は、現行の日本国憲法に従って法整備を行おうとする。彼らの中には、左翼的な思想を持った者が少なくない。官僚の背後には、彼らに思想的な影響を与えた学者がいる。東京大学等の権威ある学者が左翼人権主義の理論を説くと、官僚はその理論の実現のために行政の実務を進める。政党が法案を進めているようでいて、それを誘導しているのが、官僚であり、学者であり、特殊な思想を持つ政治団体なのである。ついでに言えば、この人的ネットワークは、国際的な左翼人権主義の団体や外国人活動家につながっている。そして、彼らの活動の主要領域は、国際連合の中にある。
 わが国の人権侵害救済法案の場合、その実現を進めているのは、法務省である。法務省は、平成23年(2011)12月、「人権救済機関設置法案」(仮称)の概要を発表した。この法案の最大の問題点は、依然として人権侵害の定義が曖昧なことである。人権侵害とは「不当な差別、虐待その他の人権を違法に侵害する行為」とするが、これではどうとでも拡大解釈ができてしまう。人権侵害だという主張が乱用される危険性がある。それまでの法案には「差別的言動」という文言があったが、これに代えて「差別助長行為」を禁じるとした。だが、実体は変わっていない。差別を受けたという主張によって憲法で保障された他の基本的権利、表現の自由等を侵害し、ひいては自由民主主義の社会を崩壊させる危険がある。また、それまでの法案には、令状なしの「強制調査」が盛られ、警察権を超えるものとして批判を受けていた。そこでこれをなくし、調査を拒否した場合の「過料」も見送った。だが、そもそも現在の法制度の下でも、法務局は人権侵害の訴えがあると任意の呼び出しを行っている。あえて新法を作り、権限を拡大する必要はない。法案は、人権侵害救済機関を「三条委員会」として設置するというが、任意調査しか行わない組織を「三条委員会」にしようとするのは、将来、強制調査権を付与できるようにしたいがためだろう。
 法務省の統計によれば、毎年、約2万件の「人権侵犯事件」が発生しているが、99%つまりそのほとんどは現在の法制度の下で救済されている。法案は、人権侵害の救済方法として、新しい人権委員会制度の下では、「援助」「調整」「説示」「勧告」「要請」等が行われるとされている。だが、現在でも法務省訓令に基づき「援助」「調整」「説示」「勧告」「要請」等が行われている。新たに人権委員会を設置する必要はない。現行制度の運用で足りる。
 仮に人権委員会が強大な権限を振るうようになると、言論統制や密告等によって国民の権利の侵害が深刻化するだろう。さらに、市町村に置く人権擁護委員には日本国籍の有無について規定がなく、地方参政権が付与されれば外国人でも就任できる仕掛けになっている。人権侵害救済法案を推進する勢力と、外国人地方参政権付与の実現をめざす勢力は重なり合っている。もし地方参政権を得た在日韓国人や在日中国人が人権擁護委員に就任すれば、本国政府の指示のもと、人権侵害を自国の国益のために利用することは目に見えている。人権侵害救済法案をめぐる人権問題は、わが国と周辺諸国との間の独立と主権の問題となっているのである。
 平成24年(2012)9月民主党・野田佳彦内閣は、人権救済機関設置法案を閣議決定した。そして、その年秋の臨時国会への提出を目指した。だが、同年12月の衆院選で再び政権交代が起き、自民党が政権に返り咲いて安倍晋三内閣が成立した。これによって、人権救済機関設置法案提出の動きは止まった。かつて人権擁護法案を準備していた自民党では、人権侵害救済設置法案の危険性を理解し、法案に反対する意見が増えている。
 平成28年(2015)3月現在、本格的保守政権である安倍内閣が続いているが、今後、再び旧民主党である民進党を中心とする政権に代わったり、あるいは自民党内で左翼人権主義と親和的なリベラル勢力が大きくなると、また人権侵害救済法案が提出される可能性がある。自由民主主義を守り、日本国民の権利を保持するためには、左翼人権主義による人権侵害救済法の制定を阻止しなければならない。それには、人権という魔術的な言葉のからくりを見破ることが必要である。

 

●外国人住民基本法案はさらに危険

 この項目では、夫婦別姓法案、嫡出子・非嫡出子の相続の均等化、永住外国人への地方参政権付与法案、人権侵害救済法案について書いてきた。これらの法制度化は、日本を解体する危険な行為である。民法は既に一部改正されたが、他の新法案を成立させてはならない。しかも、これらの法案よりさらに危険な法案が準備されていることを知らなければならない。それが、外国人住民基本法案である。
 外国人住民基本法案は、法案の全体が移民の増大、権利拡大を目的としている。私は、夫婦別姓法案、永住外国人への地方参政権付与法案、人権侵害救済法案は、この法案の成立のための準備的・階梯的なものではないかと考えている。
 平成21年(2009)4月17日、当時民主党幹事長だった鳩山由紀夫は、インターネット動画サイト「ニコニコ動画」の番組に出演し、永住外国人に参政権を付与すべきとの持論を繰り返した。その上で、鳩山は「日本列島は日本人だけの所有物じゃない。仏教の心を日本人が世界で最も持っているはずなのに、なんで他国の人たちが、地方参政権を持つことが許せないのか」と発言した。鳩山は、その7年前、平成14年(2002)8月8日の夕刊フジのコラムで、民主党代表として、「日本列島は日本人の所有物と思うなという発想は、日本人の意識を開くことであり、死を覚悟せねば成就は不可能であろう。私はそこまで日本を開かない限り、日本自体の延命はないと信じる。だから私はその尖兵を務めたいのだ」と書いていた。
 こういう思想を持った人物が、21年9月の政権交代後に民主党の首相となった。鳩山は、首相の座にあった間、参政権について地方参政権の付与のみを述べていた。だが、本音は、死を覚悟してでも国政参政権を外国人に与えたい、と思い込んでいるのである。鳩山は、いのちをかけてでも「日本を開きたい」という衝動に駆られている。鳩山だけでなく、民主党には、彼と共通した考えを持った国会議員が少なくない。鳩山と民主党については、拙稿「友愛を捨てて、日本に返れ〜鳩山政治哲学の矛盾・偽善・破綻」に書いた。
 旧民主党、現民進党の中には、日本という国家を外国人に開放するための法案を制定しようと動いているグループがある。そのグループは、国会の法務委員会に「外国人住民基本法の制定に関する請願」を提出し、平成21年(2010)3月4日に受理された。
 請願は、国会に対し、「外国人住民に対する総合的な人権保障制度を確立するための特別委員会を設け、外国人住民公聴会を各地で開くとともに、自治体・市民団体・弁護士の提言を尊重し、外国人法制度の根本的な改正を行うこと」、及び「日本国憲法及び国際人権条約に基づいて外国人住民基本法を制定すること」を求めている。
 ここにも人権が出てくる。現代日本で支配的な個人主義的かつ普遍主義的な人権思想を極度に推し進めると、この請願のような主張となるのである。彼らが制定を求めている外国人住民基本法案は、真に恐るべき法案である。まさに日本という国家を破壊する最も強力な爆弾である。私は、外国人住民基本法案は、合法的に日本を開放・解体する「亡国の移民国家法案」だと見ている。
 外国人住民基本法案において、「外国人住民」とは、何か。第1条に「外国人住民」とは、在留資格、滞在期限その他在留に伴う条件の如何に関係なく、日本国籍を保持することなく、日本国内に在住する者をいう」と定義される。
 「在留資格、滞在期限その他在留に伴う条件の如何に関係なく」という点が重要である。不法入国者や不法滞在者も、すべて「外国人住民」とする。
 この法案は、こうした「外国人住民」の権利について、次のように第2条@に定める。
 「すべて外国人住民は、その国籍、人種、皮膚の色、性、民族的および種族的出身、ならびに門地、宗教その他の地位によるいかなる差別も受けることなしに、日本国憲法、国際人権法、およびこの法律が認める人権と基本的自由を享有する権利を有する」
 ここに言う「外国人住民」には、共産中国から来た者も、北朝鮮から来た者も、国際テロ活動を行っている国から来た者も、すべて含まれることになる。
 この法案は、国及び地方公共団体に対して、第3条Aにて次のような義務を課す。
 「国および地方公共団体は、人種主義、外国人排斥主義、および人種的・民族的憎悪に基づく差別と暴力ならびにその扇動を禁止し抑止しなければならない」
 これは重大な問題である。法案は「人種主義、外国人排斥主義、および人種的・民族的憎悪」というが、「主義」だ「憎悪」だというものは、いかようにも規定できてしまう。外国人のマナー違反を注意したり、反日的な言動に反論したりすることも、外国人の権利の侵害であり民族差別だとされる可能性がある。日本国において、日本国民の「言論の自由」が制限され、日本の文化・習慣・公序良俗を守ろうとする言動が差別だ、扇動だと規制されかねない。
 この内容が先に書いた人権侵害救済法案の内容に通じるものであることは、明らかである。人権侵害救済法案は、外国人住民基本法案を成立させるためのステップとして企図されていると考えられる。


 外国人住民基本法案は、いとも簡単に外国人が永住資格を取れるようにする。第5条に次のようにある。

 「@ 永住資格を有する外国人住民の子孫は、申請により永住資格が付与される。
 A 外国人住民の子として日本国内において出生した者は、申請により永住資格が付与される。
 B 日本国籍者または永住資格を有する外国人の配偶者で、3年以上居住している外国人住民は、申請により永住資格が付与される。
 C 外国人住民で引き続き5年以上居住している者は、申請により永住資格が付与される」

 外国人住民は、一度永住権を取得すれば、子々孫々まで永住権が与えられる。不法入国であろうと、5年以上に日本に居住すれば、永住資格が得られる。日本人なり永住外国人なりの配偶者であれば、3年以上でよい。しかも第6条Bに次のように定める。

 「永住資格を有する外国人住民は、いかなる理由によっても追放されることがない。」

 一度永住資格を取れば、どんな理由でも追放されないというのだから、したい放題となる。第7条には、次のようにある。

 「すべて外国人住民は、日本においてその家族構成員と再会し、家庭を形成し維持する権利を有する」

 国外にいる家族をどんどん呼び寄せ、家族も一定期間を経れば簡単に永住資格を得ることができる。
 ここまでの内容は、日本が外国人を無制限に受け入れ、彼らの「人権」なるものを保障し、容易に永住資格を与えることで日本を開放し、外国人が多数流入し、日本人と混住する地域に変えようという内容である。
 外国人住民基本法案は、ここで終わらない。この先に最も重要な規定が続く。 第8条は「基本的自由・市民的権利」と題して、次のように定める。

 「すべて外国人住民は、日本国憲法および国際人権法が保障する基本的自由と市民的権利、とくに次の自由と権利を享有する。
(略) i.直接に、または自由に選んだ代表者を通じて政治に参与し、公務に携わる権利。(略)」

 日本国憲法が、政治に参与したり、公務に携わる権利を保証しているのは、日本国民に対してである。日本国民とは、日本国籍を有する者である。日本国籍を有しない外国人住民は、日本国民ではない。ところが、「外国人住民基本法案」は、憲法の規定を無視して、「直接に、または自由に選んだ代表者を通じて政治に参与し、公務に携わる権利」を外国人住民に与えようとする。これは憲法違反である。しかし、もしこの法案が成立すれば、憲法の規定は空文化する。憲法を改正せずに、日本という国家が骨抜きにされる。骨抜きにして、国民の意識を変えた後に、憲法を実態と意識に合わせて改正しようと謀るものだろう。
 第11条は「公務につく権利」と題して、次のように定める。

 「永住資格を有する外国人住民は、日本の公務につく権利を有する」

 条文案は「公務」とのみ言っているから、地方公務員のみならず、国家公務員になることも出来るようにする。定住するだけで永住資格を取った外国人住民が、外国籍のまま日本の公務員となり、国家の重要機密や地域住民の個人情報に触れることになる。これは危機管理上、由々しき事態である。
 第20条は「政治的参加」と題して、次のように定める。

 「地方公共団体に引き続き3年以上住所を有する外国人住民は、地方自治法が住民に保障する直接請求ならびに解散および解職の請求についての権利を有する」

 そして、第21条に「参政権」が出てくる。

 「永住の資格を有し、もしくは引き続き3年以上住所を有する外国人住民は、当該地方公共団体の議会の議員および長の選挙に参加する権利を有する」

 外国人住民に、地方参政権を与えることをはっきり規定している。「選挙に参加する権利」というから、ここは選挙権だけを言うものと理解される。被選挙権については明示的でないが、第11条に「公務につく権利」を定めている。国会議員や地方議会の議員、知事・市長・区長・裁判官等も、公務員である。永住外国人に、外国籍のままで被選挙権を与えるという意図が込められているだろう。
 鳩山前首相は、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と言った。その思想を法案の形にすれば、外国人住民基本法案となるだろう。
 今日イギリス、フランス、オランダ、ドイツ等の移民政策の失敗を見ると、移民の人口比が高くなると、その社会の家族型による価値観が差異主義であれ普遍主義であれ、また地方参政権を与えようが与えまいが、そして二重国籍を許可しようがしまいが、社会的な危機が増大するということである。そこにこそ問題の核心がある。だが、トッドはこの最重要点を指摘していない。
 わが国には、少子高齢化、それによる人口減少への対応のために、移民を1000万人受け入れるべきだという主張がある。自民党・民進党や財界の一部を中心に盛んに唱えられている。そのような政策を行ったら悲惨な結果になることは、ドイツの例を見れば、明らかである。まして、地方参政権を与えれば、オランダの悲劇以上のことが起こるだろう。移民の多くが共産中国から流入し、移民の行動を中国共産党が指示するだろうからである。
 国家とは何か、国民とはどうあるべきものか、わが国はどういう外国人なら受け入れ、また国籍を与えるべきなのか。こうした問題を掘り下げて考えることなく、生産年齢人口、特に労働力人口の減少を、外国人労働者で埋め合わせようという発想は、安易かつ極めて危険である。
 一方に移民1000万人受け入れ政策がある。また一方に外国人住民基本法案がある。同法のもと、日本という国家は、押し寄せる外国人に圧倒され、他国との境がなくなり、同時に国家としては、事実上消滅していく。卵は孵化する前に、殻を割ると、中身が流れ出る。割れた卵は、元には戻らない。外国人住民基本法を制定すれば、日本という国家は、割れた卵のように崩れて、もとには戻らない。
 外国人移民の増大と彼らの権利の拡大は、日本の解放・解体である。破局を避けるにはどうすべきか。日本人が自己本来の日本精神を取り戻し、国家意識・国民意識を確立することが急務である。

 夫婦別姓法案、嫡出子・非嫡出子の相続の均等化、永住外国人への地方参政権付与法案、人権侵害救済法案、外国人住民基本法案等は、日本の家庭、社会、国家を解体する強力な爆弾である。
 夫婦別姓法や相続均等化の民法によって日本の家庭が解体され、人権侵害救済法によって日本の社会が解体され、永住外国人地方参政権付与法と外国人住民基本法によって、日本の国家が解体される。その後に立ち現われるのは、中国人・韓国人等の外国人移民が無制限に増加し、外国人が外国籍のまま日本の政治を左右する、今とはまったく異なった日本である。私は、これら日本の家族と国民を解体する動きに強く反対する者である。
 これらは、人権という概念のあいまいさ、人間の権利と国民の権利の区別の不十分さ、日本人の国家・国民の意識の希薄さ等を利用した極めて巧妙な日本解体戦術である。こうした戦術による攻撃から日本の伝統・文化・国柄を守るためには、人権について徹底的な考察が必要である。個人の権利と集団の権利、人権と主権の関係も明確にしなければならない。私が、本稿「人権――その起源と目標」を書くに至った一つの動機は、この点にある。

 

●欠陥憲法の改正が必要

 人権の観念のもとに、個人主義を徹底し、日本の家族と国民を解体する動きが進められている。それゆえ、解体を防ぐには、現行憲法の改正が必要である。
 わが国において、現行憲法は人権に関して多くの欠陥を持つ。その改善は、日本人が自らの意思と思想をもって行うべきことであり、また為さねばならないことである。現行憲法は、国民に基本的人権を保障しているので、多くの人は漠然とこの憲法は人間の尊厳や個人の人格を認め、家族を尊重するものと思っているようである。実際はそうではない。現行憲法には、人間の尊厳も個人の人格も家族の尊重も規定されていない。これらの規定を欠いては本来、人権を憲法に規定することはできない。私は、この点でも現行憲法は欠陥憲法と考えている。日本人の手で新たな憲法をつくる時には、普遍的権利と特殊的権利、人権の狭義と広義を区別し、「人間の権利」と「国民の権利」の関係を明確にしたうえで、条文に人間の尊厳、個人の人格、家族の尊重を盛り込みたいと思う。これを実行するには、単に生命的価値を至高のものとするのではなく、文化的価値、特に精神的価値を上位に置く思想をしっかり打ち立てる必要がある。
 平成18年に発表した新憲法のほそかわ私案は、人権という概念を使っていない。 私案において権利と義務については、第2章「国民の権利と義務」に定めているが、ここに定めるのは題名の通り、日本国民の権利義務である。人間一般の権利義務ではない。必ずしも人権という普遍的と特殊的、狭義と広義等が整理されていない概念を用いなくとも、国民の権利義務の規定はできる。そのように考えてのことである。人権についてしっかり整理をし、「人間の権利」と「国民の権利」を明確に定義した上で、新憲法の条文に人権を用いたいと思う。平成18年版の新憲法ほそかわ私案は、まだその取り組みが進んでいない段階のものだが、基本的な考え方はそこに表してある。
 ほそかわ私案ではまず国民の権利について、次のように定めている。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(重要な基本的権利の享有)
第ニ十一条 すべての国民は、人格を有する者として尊重される。
2 この憲法は、国民に対し、国民が自らまた相互に人格を形成し、成長させ、発展させることができるように、自由及び権利を保障する。
3 この憲法が国民に保障する重要な基本的権利は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 次に国民の義務について、次のように定める。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(国民の義務)
第ニ十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自他の人格を認め合い、互いの自由と権利を尊重しなければならない。
2 国民は自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しなければならない。自由の享受、権利の行使には、公共の利益の実現のために努力する責任を負う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 これら第21条・第22条は、人格と自由及び権利について定めるものである。次に個人と家族について次のように定める。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(個人の尊重等)
第ニ十三条 すべて国民は、家族・社会・国家の一員である個人として尊重される。
2 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の利益に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
3 前2項の権利は、公共の利益の実現のために、法律をもって制限される場合がある。ただし、第十九条に定める非常事態においては、この限りではない。

(家庭の運営と保護)
第三十九条 家庭は、社会を構成する自然かつ最も基本的な単位である。何人も、各自、その属する家庭の運営に責任を負う。
2 親は、子に対する扶養および教育の義務を負う。子は親に対する孝養に努めるものとする。
3 政府は、家庭を尊重し、家族・母性・子供を保護するものとする。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 上記のように新憲法に定めたいと思う。次に、いわゆる人格権について述べると、現行憲法は、人格という概念がなく、また人格という用語も使われていない。自由と権利を保有する主体としての人格的存在である個人の基礎付けができていないまま、自由と権利を保障するという内容になっている。名誉及びプライバシーの保護についての規定もない。その規定を設けるには、新憲法には、人格という概念を用いなければならない。私は、人格を用いて、次のような条文を盛り込みたいと思う。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(人格権)
第三十四条 国民は、その人格、名誉及び信用を尊重される権利を有する。
2 何人も、自己の私事について、みだりに干渉されない権利を有する。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 この条文について補足すると、人はそれぞれ人格を持ち、人格を成長・発展させる自由と権利を有する。ここで家庭は、相互の人格の形成・発展の場として尊重されねばならない。子供の両親または保護者は、子供の心身の健やかな成長と、人格の健全な発展を促す義務を負う。地域社会もまた相互の人格の交流・発展の場として、その活動の振興を図らねばならない。政府は、国民の子供の人格形成のため、教育を施す義務を負う。また、国民の人格の発展を促す環境を整備する責務を負う。こうしたことを、新憲法の条項に定めることとして、人格権については最低、上記のような規定が必要と思う。
 人格権は個人の人格的利益を保護するための権利である。現行憲法第13条に定める幸福追求の権利から導かれる基本的人権の一つと理解される。幸福追求権は、個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利の総体を言うとされる。憲法第13条は、第14条に列挙されていない新しい人権の根拠となる包括的な権利であり、これによって根拠づけられる個々の権利は、裁判上の救済を受けることのできる具体的権利であるとされる。
 幸福追求権には、人格的利益説と一般行為の自由説とがあるとされる。人格的利益説は、「個人の人格的生存に不可欠な利益」のみが幸福追求権として保護されるとする。一般行為の自由説では、「あらゆる生活領域に関する行為」が保護されるべきとする。前者は保護範囲が狭く、後者は広い。一般的行為の自由にまで範囲を拡大すると、人の行為のほとんどが憲法で保障される権利となり、人権の範囲が拡大しすぎてしまう。これを「人権のインフレ化」と呼ぶ。何でも人権だとすると、権利をめぐる争いが多くなる。そこで主張されたのが人格的利益説である。人格的利益説は通説となっており、裁判の判例で取られている説である。
 だが、私は、これらの説は、人格についての根本的な考察を欠いていると思う。そこには、人格の成長と発展、文化的価値、特に精神的価値を踏まえた人間観がない。そのため、利益を中心とした権利論となっている。これを新しい人間観によって基礎づけなければならないと私は考える。それをしないと、人格という用語を使いながら、憲法が個人の利己的欲望の追求を助長することになってしまうと考える。
 人権の観念を利用した個人主義の徹底は、日本の家族と国民を解体する動きである。家族の崩壊が加速され、それがさらに社会・国家の混迷を深めることになるだろう。個人主義的かつ普遍主義的な人権思想は、家族・国民の共同性を破壊し、「発達する人間的な権利」としての人権を侵害する。左翼人権主義の策謀を打ち破るには、人間とは何か、人権とは何かを問い直し、個人主義的かつ普遍主義的な人権論を打破し、家族的・生命的なつながりを重視した人権論を打ち立てる必要がある。
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(5)人権に関する世界的な課題

 

●人間開発と人間の安全保障

 第3部を締めくくるに当たり、現代世界における人権に関する課題について補足したい。「人間開発」と「人間の安全保障」、ミレニアム宣言、国際的なガバナンス、地球環境・エネルギー・食糧・水・人口の問題について述べる。
 まず現代世界で人権に関する取り組みを行うに当たり、1990年代から重要な位置を占めるようになっている「人間開発」と「人間の安全保障」という二つの概念について書く。
 戦後世界では、国連とともに国際通貨基金(IMF)・国際復興銀行(世界銀行/IRBD)等の国際金融機関が国際社会の政治的経済的秩序の維持を図っている。これらの国際金融機関は、大戦の疲弊からの復興と経済成長を目指してきた。そこで用いられる開発の概念は、GDPに代表されるような、ものやサービスの生産の量的な拡大を意味するものである。
 これに対し、パキスタン出身の経済学者マーブブル・ハクは、「人間開発」という概念を提示した。人間開発の概念は、従来の経済開発中心の路線から人間中心の発展路線への方向転換を促した。そして国内総生産(GDP)や国民総生産(GNP)に反映されるような商品の生産に偏りすぎていた人々の目を、人間の生活の本質と豊かさに向けさせた。ハクは、人間開発の概念を用いて、国連を中心に国際的な正義の実現を図る政策を推進した。
 第10章で現代の正義論と人権論の関係について述べるが、1970年代以降、政治哲学者ジョン・ロールズの正義論の影響により、正義(justice)は主に自由と平等に関する公正(fairness)、正義の実現は不平等や格差の是正を意味するようになっている。
 インド出身の経済学者アマルティア・センはハクに協力し、「人間開発指標(Human Development Index、HDI)」を作成した。GDP等の数値化された経済指標に対し、人間開発を定量化し、客観的に評価できるように考案したものである。具体的には、出生時平均余命、識字率、購買力平均で調整した一人当たりGDPという三つの指数を立てる。数値によって、各国を上位国、中位国、下位国に分ける。HDIによって、人間開発は、21世紀の国際開発協力の新しい理念となった。
 人間開発とともに、もう一つセンが提案して現代世界に重大な影響を与えているのが、「人間の安全保障」の概念である。センは、1994年次の国連開発計画(UNDP)による『人間開発報告書』で、この概念を打ち出した。人間の安全保障とは、「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」と定義される。人間の安全保障論は、発展途上国における貧困、階級や所得格差に基づく不平等などが内戦・紛争を引き起こす主な原因であり、社会や政治における民主的な発展が、平和を実現する道であることを主張する。伝統的な安全保障は国家安全保障だが、人間の安全保障は個々の人間の安全を保障しようとする。国家の安全保障と人間の安全保障は対立するものではなく、相互補完的な関係にあるとされる。
 人間の安全保障という考え方は、短時日に世界中に広がった。冷戦終結後の世界において、地域紛争の多くは発展途上国で起こっており、その状況に対応するために、人間の安全保障は不可欠の概念となった。
 人間の安全保障の主な領域は、経済・食糧・健康・環境・個人・地域社会・政治の7つある。そしてこのような人間の安全保障を実現する新しい開発のパラダイムとして、「持続可能な人間開発」がある。「持続可能な人間開発」は、地球環境の保全と経済成長の調和を図る「持続可能な開発」という概念をもとにしている。「環境と開発に関する世界委員会」は、持続可能な開発を「将来世代の必要を満たす能力を損なうことなく現存世代の必要を満たすような開発」と定義している。「持続可能な人間開発」は、開発を単に経済的な開発でなく、広く人間開発としたものである。世代間と世代間の公平を重視し、現在の世代も将来の世代もともにケイパビリティ(潜在能力)を最大限に発揮できるような開発である。ケイパビリティは、実際に人が何かをすること、または何かになることができる能力を意味する。「持続可能な人間開発」は、また人間・雇用・自然を重視し、貧困の撲滅、生産性の高い雇用の創出、女性の社会参画、環境の保全と再生を重視する考え方である。
 人間開発と人間の安全保障は相補的なものであり、大まかに言うと、人間開発が自由の拡大を目指し、人間の安全保障が平等に考慮するという関係にあると言えよう。
 国連では、2006年(平成18年)に総会の補助機関として国連人権理事会が設置された。旧人権委員会が格上げされたものである。それ以来、国連の人権活動は新たな局面に入り、国連では人権の主流化が進んでいる。その中で、人間開発と人間の安全保障は、国連の活動の柱となる重要な概念である。詳しくは、第4部に書く。

 

●ミレニアム宣言

 

 21世紀を翌年に控えた2000年(平成12年)の9月、ニューヨークで、国連ミレニアム総会が開催された。ミレニアムとは、1千年紀を意味する。このミレニアム・サミットには、189の国連加盟国が参加した。各国の代表者たちは、21世紀の国際社会の目標として「国連ミレニアム宣言」を採択した。この宣言は平和と安全、開発と貧困、環境、人権とグッドガバナンス(良い統治)、アフリカの特別なニーズなどと課題として掲げ、宣言と既存の国際開発目標を統合し、「ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals、略称MDGs)」という共通枠組みとしてまとめた。

 「ミレニアム開発目標」は、次の8つの目標から構成されている。

 

<目標1> 極度の飢餓と貧困の撲滅

 2015年(平成27年)までに1日1ドル未満で生活する人の人口比率を半減させ、栄養失調を半減させる。

<目標2> 初等教育の完全普及の達成

 2015年までにすべての子供が男女の区別なく初等教育を修了できるようにする。

<目標3> ジェンダー平等の推進と女性の地位向上

 初等・中等教育における男女格差をできれば2005年まで、遅くとも2015年までに解消する。

<目標4> 乳幼児死亡率の削減

 2015年までに5歳未満児の死亡率を3分の2減少させる。

<目標5> 妊産婦の健康の改善

 2015年までに妊産婦の死亡率を4分の3減少させる。

<目標6> HIV/エイズ、マラリア、その他の疾病の蔓延防止

 HIV/エイズの蔓延を2015年までに阻止し、その後減少させる。

<目標7> 環境の持続可能性の確保

 2015年までに安全な飲料水と衛生設備を継続利用できない人々の割合を半減する。

<目標8> 開発のためのグローバル・パートナーシップの推進

 最貧諸国への特恵的措置によって、援助と貿易を改革する。

 

 これらの目標を達成するため、富裕国は貧困国に援助を行う。援助額は、各国の対GNI比で、2010年には0.5%、2015年には目標の0.7%を達成できるように拠出公約を行わなければならないとした。GNIは国内総所得である。

 だが、国連開発計画が発行した2005年版の『人間開発報告書』は、このままでは2015年を目標年次とするMDGsの達成が危ぶまれるという危機感を示し、富裕国から途上国への国際協力の抜本的改革を主張した。『報告書』は、大意次のように記している。

 最富裕層10%の所得の1.6%(3000億ドル)を再配分するだけで、1日1ドル未満で生活する10億の人々を、極度の貧困から上に押し上げることができる。

 人間開発の観点から不平等が問題になるのは次の5つの場合である。

 

(1)社会正義と道徳:許容可能な剥奪状況には限度があり、著しい不平等は是正すべきである。

(2)貧困層の優先:ほとんどの人々は豊かで大きな特権を享受している人々よりも貧しく恵まれない人々の所得やサービスといった暮らし向きの改善を優先すべきことを認めている。(3)成長と効率:財産、ジェンダー、宗教的差別のために社会の成員の多くが資産と資源を十分に得ていない場合、社会全体は非常に非効率であり、そのような社会では、より大きな平等と効率は相互補完的である。

(4)政治的正当性:弱者集団である貧困層、女性、農民、先住民族のコミュニティが、政治的な発言力が弱く、不利な立場に置かれたままであると、それが政治の正当性を弱め、制度を腐敗させる。

(5)公共政策の目標:多くの社会では、貧困を削減し、不当な不平等を取り除くことが公共政策の重要な目標と見なされているが、極端な格差がこのような目標の追求を阻んでいる。

 

 ミレニアム開発目標の達成期限は、2015年だったが、目標の達成はできないどころか、はるかに及ばなかった。振り返ると、2000年(平成12年)9月ニューヨークでミレニアム宣言が出された翌年の9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルが倒壊した米国同時多発テロ事件が起こった。米国政府は9・11をきっかけに、アフガニスタン戦争及びイラク戦争を開始した。これに対し、反米的な国際テロ活動が繰り広がられてきた。上記の2005年版『人間開発報告書』の3年後には、米国発のリーマン・ショックが起こった。それにより、世界各国の経済は大きな打撃を受けた。国連を中心とした国際的な貧困撲滅・人権擁護等の活動は、こうした現実世界の激動の中で行われており、国際情勢の影響は避けられない。

 

●国際的にガバナンスの向上が求められている

 

国際社会の諸問題に取り組むために、国連を中心にガバナンスの向上が必要である。ガバナンスとは、統治のあり方のことである。良い統治の要件には、責任の明確性、透明性、予測可能性、公開性、デモクラシー、法の支配などが挙げられる。発展途上国の政府が効率的かつ公正な開発を進めるためには、これらの要件を満たすような「良い統治」の確立が求められている。

国連開発計画による2002年版の『人間開発報告書』は、「ガバナンスと人間開発」を主題とし、人間開発の観点からガバナンスの向上について報告した。それによると、人間開発を推進するためには、人々のための人々による民主的なガバナンスが確立される必要がある。民主的ガバナンスは次の3つの理由で人間開発の前進に役立つ。その3つとは、

 

@ 政治的自由を享受し、自らの生活を形成する意思決定に参加することは、それ自体が人間開発の一部をなす基本的人権であること。

A デモクラシーの下での選挙と報道の自由が、飢饉や無秩序への後退などの経済的、政治的破局から人々を守るのに役立つこと。

B 民主的ガバナンスは政治的自由と市民参加による社会的経済的機会の拡大により、開発の好循環を引き起こすこと。

 

以上である。

 一方、発展途上国や移行経済国においてデモクラシーの推進に努めている国際機関に対しても、デモクラシー、透明性、説明責任の拡大が求められている。

こうしたガバナンスの向上が必要なのは、まず「国際連合=連合国」そのものである。向上のために、国連の代表制の基礎を拡大する改革案が出されている。改革案は、次の3つに絞られている。

 

@ 政府や官僚だけでなく、市民社会組織の参加を認め、発言者の多元化を図って代表制を拡大すること。

A 権力の不均衡を是正し、いっそう民主的な意思決定手続きを持つ組織とすること。

B 安全保障理事会の常任理事国5ヶ国に与えられた拒否権は、非民主的であり、これを撤廃もしくは縮小すること。

 

私は、これら3点の意義を認めるとともに、国連憲章の敵国条項の削除を加えることを提案する。「国際連合=連合国」の発端は、枢軸国に対する軍事同盟だった。そのため「国際連合憲章=連合国憲章」は、旧敵国である枢軸国に対し、旧敵国条項を定めている。旧敵国条項とは、第2次大戦中に連合国の敵国であった国々に対し、地域的機関などが、安全保障理事会の許可がなくとも強制行動を取り得ること等が記載されている条項である。その対象とされる日本、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドは、大戦後、国連に加盟し、その一員として誠実に努力してきている。それにもかかわらず、戦勝国はいざとなれば自由に日本等に攻め入ってもいいという条項が、半世紀以上もそのままになっている。まず敵国条項を削除することが、国連を出発点に戻って改革し、ガバナンスを向上させるポイントである。

 次に、世界の貧困を低減し、過度の不平等を是正するためには、国際金融機関の改革が必要である。国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(世界銀行/IBRD)、世界貿易機関(WTO)等の国際金融機関においては、デモクラシーの原則を推進するため、発展途上国が組織の意思決定に影響力を行使できるようにする必要がある。それには、現在IMFと世銀の投票権の半数近くを、アメリカ、日本、フランス、イギリス、サウジアラビア、ドイツ、ロシアの7ヶ国が持っている体制を変え、議席と投票権の配分方法を発展途上国の利害を適正に反映できるように改める必要がある。

IMFと世銀は、今日ではもっぱら途上国と移行経済国を対象に貸付を行っている。移行経済国とは、中央集権的計画経済から自由主義的市場経済への移行をめざす旧社会主義諸国をいう。これらの機関において発展途上国等の代表を増やす方法として、3つ挙がっている。

 

@ 各加盟国に割り当てられている基礎票の割合を高めること。

A これらの機関内での途上国の発言権を拡大すること。

B これらの機関に自らの行動の説明責任を徹底して果たさせること。

 

 次に、WTOは、全加盟国が議席と投票権を持っているものの、実際の意思決定は舞台裏で行われており、発展途上国等から強い反発がある。この機関の透明性と参加の改善のための方法として、次の3点が提案されている。

 

@ 討議、交渉を公表し、意思決定を民主的で参加型のものにすること。

A 発展途上国を無視して大国寄りの立場を取ることのないように不偏の立場を維持すること。

B 各国の国内政策や実施に影響を与える可能性を考慮し、WTOも透明性を実現すること。

 

 IMF、世銀、WTOの改革については、既得権益を持つ国々を中心に強い抵抗がある。だが、発展途上国や移行経済国に対して、ガバナンスの向上を求めるのであれば、それを推進している国際機関そのものが、ガバナンスの向上を行うことが必要である。

 ガバナンスの向上については、国民国家やそれを基盤とした国際機関ではなく、国家の枠組みを超えたグローバル・ガバナンスの向上を求める動きもある。例えば国連開発計画が発行した1999年版の『人間開発報告書』は、国際組織が人間開発のための国際・国内・地方レベルの行動をいっそう支援するために、グローバル・ガバナンスについて、次の5つの変革が必要であるとした。

 

@ 生命・自由・正義・平等の尊重といった価値観や基準、態度を共有し、グローバルな倫理と責任を強化すること。

A グローバル・ガバナンスに全世界の人々を対象とした貧困緩和、公平さ、持続可能性といった人間開発の優先課題を組み入れ、人間開発と社会保護の原則をグローバルな経済統治の概念と実施に導入すること。

B とめどない共食い競争を防ぐために地域協定とグローバル協定を採択し、労働基準や環境規制を守らせること。

C 多国籍企業のグローバルな倫理規範を策定し、そのモニタリングのため、企業、労働組合、NGOからなるグローバル審議会を設立すること。

D 人間性重視のガバナンスに対するグローバルな関わりを強化し、世界市民意識を高めること。

 

一見して分かるように、ここには国連等の国際機関に強い影響力を持つコスモポリタニズム(世界市民主義)の思想が色濃く表れている。現代のコスモポリタニズムは、個人主義、平等、そして普遍性という三つの要素からなり、その価値単位は個々の人間としている。コスモポリタニズムは、ネイション(国家・国民・民族)の政治的・経済的・文化的な役割を認めず、世界市民意識を以てガバナンスの改革を進めようとする。そのため、ネイションの責任遂行能力を生かすことができず、国際社会で有効な改革を進めることができない。これに対し、コミュニタリアニズム(共同体主義)やリベラル・ナショナリズムの立場から、コスモポリタニズムのもとにあるアトム的な個人という近代西欧的な自己像を批判し、共同体やネイションの独自の価値を評価したうえで、国際社会の現実を踏まえた改革を行うことが主張されている。これらの思想については、第4部で詳しく論じる。

 

●地球環境の危機

 

21世紀における人類の課題は、環境・エネルギー・食糧・人口・核戦争等の地球規模の諸問題による危機を乗り越えて、物心調和・共存共栄の新しい文明を築くことである。人権とは、「発達する人間的な権利」であり、「『人間らしい生活』を送る権利」だとすると、地球環境破壊は、核戦争とともに、その権利を根底から危うくするものである。

人類が、地球環境の危機を認識し、取り組みを始めたのは、まだそう古いことではない。人類が、地球というこの惑星を自らの住まいと自覚したのは、宇宙から撮影した一枚の写真による。1968年(昭和43年)12月24日、アポロ8号が撮った宇宙に浮かぶ、青く輝く地球の写真である。この写真が世界中に報道されたことによって、人々は、はじめて「地球意識」とでもいうべき新しい意識を持つようになった。
 翌69年(44年)7月20日、人類史上初めて、有人宇宙船が月に着陸し、アメリカのアポロ11号の乗組員が、月面に降り立った。まさに歴史的な瞬間だった。

 以後、地球環境を考える運動や、宇宙や地球を意識した文化運動、自然回帰の生活運動等が、先進国を中心に叢生した。地球にギリシャ神話の大地の女神の「ガイア」という名前をつけ、地球を意識を持った存在のようにとらえる考え方も広がった。
 地球規模の環境問題について、人類が最初に国際会議を開いたのは、1972年(昭和47年)だった。その年の6月、ストックホルムで、国連人間環境会議が開催され、114ヶ国が参加した。キャッチフレーズは、「かけがえのない地球 (Only One Earth)」。経済学者バーバラ・ウォードと生物学者ルネ・デュボスが、地球と人類の文明の危機を伝える報告をした。かけがえのない地球を守るために「人間環境宣言」及び109項目の「環境国際行動計画」が採択された。会議の初日だった6月5日は、「世界環境デー」に定められた。しかし、その後、人類は、地球環境やエネルギー・食糧・人口等の問題に、十分有効な取り組みをできていない。
 国連人間環境会議が開かれた同じ年、ローマ・クラブの委嘱した研究グループが、『成長の限界』という報告書を発表し、世界的に大きな話題を呼んだ。研究グループは、マサチューセッツ工科大学(MIT)内に置かれ、ドネラ・H・メドウズ、デニス・L・メドウズ、ヨルゲン・ランダースの3人が中心となった。彼らはあらゆる分野からデータを集め、コンピュータを駆使し、システム思考に基いて総合的に地球の状態を把握し、21世紀の世界の人口および産業の成長を予測して、考えられるいくつかのシナリオを提示した。『成長の限界』は、具体的な政策と行動を求める問題提起を行った。本書は、人類はエネルギー、環境、食糧、人口等の危機にあることを明らかにした。また、近代西洋文明が目指すべき価値としてきた「成長」という概念に反省を投げかけた。

 

国連人間環境会議の20年後、1992年(平成4年)6月、ブラジルのリオ・デジャネイロで、史上はじめての地球環境サミットが開催された。この年、『成長の限界』を出したメドウズ等のグループが『限界を超えて』という新たな報告書を発表した。彼らは、この20年間、人類は危機に有効に対処できておらず、危機が一層悪化していることを告げた。「持続可能な成長」という概念を打ち出して、具体的な行動を提案した。「持続可能な」とは、自分たちの世代だけでなく、将来世代も経済発展が可能であるような、という意味である。

さらに、その12年後の2004年(平成16年)、メドウズらのグループは、3冊目の本を出した。『成長の限界〜人類の選択』である。1972年の最初の報告書から30年以上たったところで、改めて地球規模のシナリオを提出したものである。1970年代から顕在化してきた温暖化、砂漠化、森林消失、大気汚染、土壌汚染、水質汚染、海洋汚染、種の大量絶滅等々を揚げ、事態の深刻さは、以前より増しており、待ったなしで人類に行動を迫まるものとなっている。

だが、人類全体で見る時、1990年代から2000年代にかけては、「持続可能な成長」の追求よりも、欲望を解放した貪欲な利益の追求を行う強欲資本主義の活動の勢いが大きく上回る時期となってしまった。そのことは、地球に生きる多くの人々の「人間らしい生活」を送る権利を危うくするものとなっている。「人間らしい生活」とはどういう生活かということは、人間とは何かという問いにつながる。これらの問いについては、第12章で考察する。

 

●環境破壊とエネルギーの危機を乗り越える

 

人類全体のために長期的危機の解決を目指すより、現在の私的な利益を追い求める経済活動は、1990年代から増勢し、狂乱の様を呈した。一方、地球温暖化に対処するため、国際的な取り組みが話し合われ、1997年(平成9年)12月に京都議定書が議決された。議定書によって、2008年(平成20年)から二酸化炭素の削減への取り組みが始まった。この年、強欲資本主義はリーマン・ショックによって、壁に激突した。これを機に、従来の物質的・金銭的な基準による成長という考え方への見直しが、ようやく広まった。

京都議定書には、世界132ヶ国が参加した。だが、先進国のうち、アメリカとオーストラリアは、批准しなかった。なかでもアメリカは、中南米・アフリカ・中東・オーストラリア・日本・アジアのすべてを合計した以上の量の温室効果ガスを排出している。アメリカの人口は世界の5%だが、世界全体の25%近くの温室効果ガスを出している。一人当たりの炭素排出量で見ても、アメリカがずば抜けて多い。こうしたアメリカが、地球温暖化の問題への取り組みにおいて極めて消極的であることは、この取り組みを大きな限界のあるものにしている。アメリカが変わらなければ、地球の温暖化は止まらない。

さらに京都議定書では、インドや中国などの大量排出国が規制対象外となった。その他の削減対象になっていない発展途上国からの排出は続き、かつ急速に増加した。そのうえ、カナダは削減目標の達成を断念するなど、多くの問題が発生した。

京都議定書は、2013年(平成25年)までの5年間に関する協定だった。それ以降の地球温暖化防止の実効的な枠組みを作る必要がある。だが、ポスト京都議定書については、5年間のうちには結論が出ず、また協議や議論の途中であり、合意の目処は立たなかった。
 そうしたなか、国連気候変動枠組条約締約国会議(COP)が続けられてきた。2015年(平成27年)11月30日にパリでCOP21が開催され、初日は150カ国もの首脳が参加した。12月12日に、2020年以降の温暖化対策の国際枠組みとしてパリ協定が採択された。この協定は、京都議定書と同じく、法的拘束力の持つ強い協定として合意された。
 全体目標として、世界の平均気温上昇を2度未満に抑えることを掲げ、世界全体で今世紀後半には、人間活動による温室効果ガス排出量を実質的にゼロにする方針を打ち出した。そのために、全ての国が、排出量削減目標を作り、提出することが義務づけられ、その達成のための国内対策を取ることも義務付けられた。各国の国情を考慮しながら、全ての国が徐々に国全体を対象とした目標に移行することとし、5年ごとに目標の見直しをする。アメリカ・中国・インドも従来より積極的に排出量実質ゼロに取り組むこととなり、ようやく世界全体で地球温暖化対策に取り組む国際合意ができたといえる。
 地球環境問題では、各国がエゴの張り合いをしていたのでは、人類全体が共倒れになる。人類全体としての「持続可能な成長」の枠内で、先進国、途上国、それぞれが「持続可能な成長」のあり方を見出せなければ、海面上昇による主要な巨大臨海都市の水没、凶暴化する台風・竜巻の襲来、一層の砂漠化による農地の荒廃、大気・水・土壌の汚染による健康喪失等によって、人類は衰亡へと向かうだろう。これほど人間の生存・生活の権利を自ら危うくすることは、核戦争以外に他にない。

 

温室効果ガスの削減を進めるためには、エネルギー政策の転換が急務である。産業革命以降、19世紀までは石炭の時代、20世紀以降は石油の時代だった。だが、化石燃料は埋蔵量に限界がある。1970年代の初めに、人類はエネルギーの危機にあると報告されるようになってから、自然エネルギーの研究が進められてきた。2008年の世界経済危機によって、自然エネルギーの活用は、世界各国の現実的課題となり、活発に進められることになった。アメリカのオバマ大統領はグリーン・ニューディール政策を打ち出し、わが国でもクリーンなエネルギーを活用する新しい政策が推進されている。太陽光・風力・地熱・潮力等の自然エネルギーの活用による「21世紀の産業革命」が、起こりつつある。いわば石油の時代から「太陽の時代」への転換である。この変化は、人類の文明に大きな変化を生み出す出来事である。

だが、石油に代わる新たなエネルギーが産業と生活全体を支えられるようになるには、時間がかかる。新興国を中心とした経済成長と人口増加によって、世界全体の石油消費は増え続けている。20世紀の後半から21世紀にかけて、石油・天然ガス等の天然資源の争奪が各地で繰り広げられている。天然資源の確保は、新たな国際紛争の重要な要因となっている。資源問題が改善に向かわないと、世界は安定に向かえない。そのうえ、化石燃料の消費で温室効果ガスが増加し、異常気象が恒常化している。北極の氷や氷河が溶け、各地の大河が干上がり、地下水が涸れてきている。砂漠が拡大し、難民や内乱や戦争を誘発している。

原子力発電は二酸化炭素を少量しか排出しないが、現在の核分裂による発電技術は、安全性が確保されていない。原発の管理や廃棄物処理が難しく、事故やテロや核兵器転用へのリスクもある。直接石油燃料に替わるものとしては、トウモロコシやサトウキビを原料にしたエタノール燃料が商品化され、それを利用した自動車も走るようになっている。しかし、食用植物を原料とするバイオ燃料は、食糧価格の上昇をもたらすなど、新たな問題を生み出している。

これらの問題を乗り越えるため、自然エネルギーの活用への転換を急加速しなければならない。地球環境破壊とエネルギーの危機を乗り越えることは、地球に生きる多くの人々の「発達する人間的な権利」を守るために、重大な課題となっている。

 

●食糧・水・人口の問題を解決する

 

21世紀の世界では、天然資源の争奪に、食糧と水の争奪が加わっている。まず世界の食糧は、現在の世界人口を養うに十分な量が生産されている。だが、食糧の分配が過度に不平等な状態になっている。小麦、トウモロコシ、牛肉等は国際的な商品であり、巨大な農業関連資本が市場を制している。そのため、先進国には飽食、発展途上国には飢餓という二極分化が起こっている。国連開発計画が発行した2003年版の『人間開発報告書』によると、発展途上国の7億9900万人、世界人口の約18%が飢えている。毎日世界中で3万人を超える子供が、脱水症、飢餓、疾病などの予防可能な原因で死亡している。世界的な食糧事情は、国際的な協力によって貧困と不平等の是正を進めなければ、改善されない問題となっている。

食糧問題に加えて深刻になっているのが、水不足である。2000年(平成12年)の時点で世界中で少なくとも11億人が安全な水を利用できず、24億人は改善された衛生設備を利用できなかったと報告されている。その後もアフリカ、中東、アジアの各地で水不足と飢饉が日常化している。原因は、人口増加、都市化、工業化、地球温暖化等である。水の価値が上がり、水は「21世紀の石油」といわれる。今後20年で世界の水需要は現在の倍になると予測される。これから一層、水の需要と供給のバランスが崩れていくだろう。「ウォーター・バロンズ」(水男爵)と呼ばれる欧米の水企業が、世界各地の水源地の利権を確保するため、しのぎを削っている一方、中国は、国家として、水の確保を進めており、わが国の水と森林の資源が狙われている。

仮にエネルギーを化石燃料から太陽光・風力・水素等に転換できたとしても、水の問題は、なお存在する。水不足と水汚染を解決できなければ、人類の文明はやがて行き詰る。また水をめぐっての紛争が各地で頻発し、大規模な地域戦争が起こる可能性もある。こうしたなか、日本の水関連技術への期待は大きい。海水の淡水化に必須の逆浸透膜の技術や、排水や汚水を再び生活用水として生まれ変わらせるリサイクル技術等は、日本の技術が世界で圧倒的なシェアを誇っている。日本は世界の農村と農民を助け、水と食糧問題を解決する力を持っている。優れた農業関連技術とインフラ整備、砂漠緑化や淡水化や浄水化などで最先端の技術を保有している。自然と調和して生きる日本人の知恵が、今ほど世界で求められている時はない。

各国政府が積極的に太陽光発電、電気自動車、砂漠の水田化、水の造成と浄化等の新しい技術を活用することで、環境、エネルギー、食糧、水等の問題は、改善に向いうる。地球温暖化や砂漠化にも、対処する方法はある。人工知能やロボットの開発、宇宙空間での資源利用等が、これらの問題への取り組みにもさまざまな形で貢献するだろう。しかし、仮にこれらの問題による危機を解決に向けることが出来たとしても、なお重大な課題が残る。その一つが人口問題である。

世界の人口は、20世紀初めは16億人だったが、年々増加を続け、1950年頃から特に増加が急テンポになり、「人口爆発」という言葉が使われるようになった。1987年(昭和62年)に人類の人口は50億人を突破し、2007年(平成19年)には66億人になった。2050年の世界人口は91億人になると国連は予想している。世界人口がピークを迎えるのは、21世紀末から22世紀になるだろうともいわれる。
 増え続ける人口は、大量のエネルギーを消費し、環境を悪化させ、食糧を高騰させ、水の争奪を起こし、紛争を激化させる。人口爆発は、新しい技術の活用による環境、エネルギー、食糧、水等の問題への取り組みを、すべて空しいものとしかねない。だから、人口増加を制止し、「持続可能な成長」のできる範囲内に、世界の人口を安定させる必要がある。
 どうやって安定させるのかは難題であるが、エマニュエル・トッドは、家族制度と人口統計の研究に基づいて、発展途上国での識字率の向上と出生率の低下によって、世界の人口は21世紀半ばに均衡に向かうと予測している。希望はある。識字率の向上と出生率の低下を促進するには、基本的な教育の普及が必要である。そのためには、貧困と不平等の是正が不可欠となっている。

食糧・水・人口の問題を解決することもまた、地球に生きる多くの人々の「発達する人間的な権利」を守るために、重大な課題となっている。


●シンギュラリティから人類の「黄金時代」へ

 人類は、上記のような様々な重大な課題を抱えている。だが、こうした課題解決は、決して不可能なことではない。テクノロジーの進歩は、指数関数的な変化を示してきた。たとえば、コンピュータの演算速度は、過去50年以上にわたり、ほぼ2年ごとに倍増してきた。これを「ムーアの法則」という。1985年のスーパーコンピュータCray2と2011年型のiPad2を比較すると、重さと大きさは4000分の1、価格は51,775分の1、CPUのプロセッサ速度は4倍、消費電力は15,000分の1になっている。30年前には、一つの部屋くらいの大きさだったスーパーコンピュータが、今では片手で持って気軽に使えるものになっている。しかも性能は遥かに向上している。

「ムーアの法則」によると、2045年に一個のノートパソコンが全人類の脳の能力を超えると予測される。人工知能が人間の知能を完全に上回るということである。そのような時代を未来学者レイ・カーツワイルは「シンギュラリティ(特異点)」と呼んでいる。カーツワイルは、その時、人類の「黄金時代」が始まるという。

世界的な理論物理学者ミチオ・カクは、今から30年後の「黄金時代」について、次のように語っている。

 

・ナノテクノロジー・再生医療等の発達で、寿命が延び、平均100歳まで生きる。

・遺伝子の研究で、老化を防ぐだけでなく、若返りさえ実現する。

・退屈な仕事や危険な仕事は、ロボットが行う。

・脳をコンピュータにつなぎ、考えるだけで電気製品や機械を動かせる、など。

 

カクが挙げていること以外にも、新DIY革命、テクノフィランソロピストの活躍、ライジング・ビリオンの勃興等で、次のようなことも可能になると予想されている。

 

・新種の藻類の開発で石油を生成

・水の製造機でどこでも安全な水を製造

・垂直農場やバイオテクノロジーで豊富な食糧生産

・太陽エネルギーの利用で大気中の不要なCO2を除去

 

テクノロジーの爆発的な進化が今後も続けば、今のべたようなことが可能になると予測されている。

さらに今後人類にとって新しい文明の建設が可能になるのは、空間エネルギーの利用、物質転換の実現等、これまでの科学技術の水準を大きく越えるものが登場・普及した時だろう。空想的といえば空想的だが、わずか500年前には、夜も昼のように明るく、空中や地下を自由に移動し、遠く離れた大陸の人と互いに姿を見ながら話ができ、過去に起こったことを映像で再生できるというような今日の文明を、誰も予想することはできなかった。ここ百年の間にも、夢のような、いや人々が夢にすら思いつかなかったようなことが、次々に実現してきている。そのことを思うと、これからの時代にも何が現れ、世界がどのように変わりうるか分からない。危機が大きければ大きいほど、それを乗り越える知恵やひらめきもまた強く輝くだろう。人類は既に想像を超える変化を経験してきている。これからはさらに想像を絶する大変化を体験していくことだろう。

 

 本章では、現代世界における人権の現状と課題について書いた。第2次世界大戦後の世界における国際人権諸条約による人権の発達をたどり、文明間の違いや思想的・文化的な違いを踏まえて、今日の世界の人権状況を概観した。

この第3部では、20世紀以降の人権をめぐる歴史と人権の発達を書いたうえで、人権の現状と課題について書いた。最終部となる第4部では、これまでの第1〜3部での考察を踏まえて、人権の目標と新しい人間観について述べたい。ページの頭へ

 

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