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人権――その起源と目標 第4部

2016.7.10 10/2016.10.13 11/2017.1.13 12章掲示

 

<目次>

はじめに

第1部 人権に関する基礎理論

第2部 人権の歴史と思想

第3部 人権の現状と課題

 

第4部 人権の目標と新しい人間観

第10章 人権と正義

(1)人権と正義の歴史

(2)現代の自由主義〜ロールズ

(3)様々な立場からのロールズ批判

(4)公共哲学の正義論〜サンデル

(5)自由主義の根本的批判へ〜佐伯啓思

6)発展途上国からの正義論〜セン

第11章 国際的正義とグローバル正義

(1)ロールズは「諸国民衆の法」を構築

(2)コスモポリタニズムの正義論

(3)リベラル・ナショナリズムの正義論

(4)正義をめぐる現代諸思想の比較

(5)正義論の理論と展開

第12章 人権の理論と新しい人間観

(1)人権の基礎づけ

(2)権利の種類と内容

(3)最低限保障を目指すべき権利

(4)人権発達のための実践

(5)人権の目標と心霊論的人間観の確立

 

結びに

 

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第4部 人権の目標と新しい人間観

 

第10章 人権と正義

 

(1)人権と正義の歴史

 

●人権と正義

 本稿「人権――その起源と目標」は、
第1部の基礎理論篇で、最初に人権とは何かを問い、自由、権利、権力、国家、主権、国民について検討した。第2部では人権の歴史と思想、第3部では人権の現状と課題を述べた。この第4部では人権の目標と新しい人間観について書く。
 今日の人権の起源は、近代西欧発の普遍的・生得的な権利という観念にあるが、人権の実態は歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利である。生まれながらに誰もが持つ「人間の権利」ではなく、主に国民の権利として発達する「人間的な権利」である。「発達する人間的な権利」としての人権の目標とすべきものは、個人の自由と選好の無制約な追求ではない。個人においては人格的な自己実現であり、国家においては国民共同体の調和的発展、人類においては物心調和・共存共栄の世界の実現である。こうした目標を目指すには、従来の人間観から新しい人間観への転換が必要である。
 人権の起源を踏まえた人権の目標と新しい人間観について書くに当たり、最初に人権と正義について述べる。その理由は、20世紀後半から、正義の概念が世界的に重要性を増し、正義論抜きに人権を論じられなくなっているからである。
 第2次世界大戦後、人権に関する思想は、正義論を中心に新たな展開を続けている。人権の思想史については、
第2部に20世紀初めまでの展開を述べた。そこでは主権、民権、人権の関係に重点を置いた。第3部では世界人権宣言、国際人権規約及び国際人権条約を概観し、人権についての国際的な取り組みと世界の人権状況及び課題について述べた。
 人権は、17世紀から西欧において自由権の確保と拡大を通じて発達した。しかし、社会的矛盾が増大し、階級間の闘争が激化したことにより、社会権の実現が要求されるようになった。20世紀に入ると、社会権の確保・拡大によって「人間的な権利」としての人権は発達を続けた。第2次大戦後は発展途上国の側から「発展の権利」が主張され、人権の発達史は新たな段階に入った。この間、人権は、個人と集団、支配集団と被支配集団の権利関係・権力関係において、自由と平等の二つの理念の関係の中で発達してきた。社会権及び「発展の権利」は、自由を中心とする価値観に対し、個人間及び集団間の平等を重視する価値観によって成立した権利である。
 ここで自由と平等という二つの理念を結ぶものとして、正義の概念が重要性を増した。本稿ではこれまで正義について主題的に述べてこなかったが、第2次世界大戦後の世界では、人権の思想は正義の概念を考慮せずに深く検討することができない。
 本章では、まず人権との関係で正義を論じるに当たって必要な人間観について述べ、次に、西洋文明における正義の概念とその歴史を振り返り、第2次大戦後の人権と正義に関する議論について述べる。次章では、現代の国際社会における正義について検討する。その後、正義論を踏まえて人権の基礎づけ、定義、内容、実践を書き、人権の目標と新しい人間観について述べる。

●正義論の対象となる人間

 最初に、人権の主体であり、正義論の対象でもある人間について私見を述べる。
第1部で人間とは何かについて基礎的な考察を行ったが、その考察の一つとして、人間には個人性と社会性、生物性と文化性、身体性と心霊性があることを述べた。私は、現代の正義論を踏まえて人権を考察する際、人間はこれら三つの対で示される諸性質を持つという見方が必要だと考える。
 人間の個人性とは、身体的に自立し、個々に性別・年齢・世代等の違いがあるという性質である。社会性とは、そうした個人が社会を構成して集団生活を行っているという性質である。人間は、個人的存在である。個人としての男女の結合によって子孫が誕生し、個人として社会関係を結ぶ。また、人間は、単に個人的存在ではなく、社会的存在でもある。人間は集団的にしか生活できない。単独では生きられず、言語を習得したり、知識や技術を学習したりすることもできない。人間の個人性と社会性という両面の中間に、家族がある。家族は、最小規模の社会である。社会は家族を単位として、親族・部族・民族・国民等の集団を重層的に構成する。
 人間の生物性とは、生物であり動物であるヒトとしての性質である。文化性とは、高度に発達した言語・技術・知能を持つという性質である。人間は、生物的存在である。生物的存在として存続するためには、餓死、病死、事故死等をせずに生き延び、成長・生殖・出産・育児をし、生命を次世代に継承できねばならない。そのためには、空気、水、食糧、住居、衣服、安全な環境、健康の維持と治病の方法が必要である。また、人間は、単に生物的ではなく、文化的存在でもある。文化的存在として発展するためには、言語・制度・技術等を学び、文化を創造し、また次世代に継承できねばならない。そのためには、それができるような教育が必要である。
 人間の身体性とは、物質的な肉体を持ち、脳の機能によって生命活動を行うという性質である。心霊性とは、肉体と脳と相関関係にありながら一定の独立性を示す精神的な霊魂を持つという性質である。人間は、身体的存在である。この点は、基本的には生物的存在であることと重なり合う。人間は他の地球生物よりも高度に発達した生体情報系を持つ。また、人間は、単に身体的存在ではなく、心霊的存在でもある。心霊的存在として自覚・成長するには、死を理解・受容し、死後の安心を得ることができねばならない。そのために、人々を自己実現・自己超越へと導き得る宗教または心霊性を踏まえた道徳が求められてきた。
 人権を考察するために正義論を論じる時、拠って立つ人間観によって、議論の枠組みが大きく変わる。個人性と社会性のうち、個人性の面に偏ると、個人主義的で選好の自由の確保に重点が置かれる。社会性の面に偏ると、個人の自由と権利が抑圧される。生物性と文化性のうち、生物性の面に偏ると、生命の維持や生存の条件に関心が集中する。文化性の面に偏ると、人間の生命・生活が軽視される。身体性と心霊性のうち、身体性の面に偏ると、身体的満足や現世的な幸福に意識が向かう。心霊性の面に偏ると、身体を持って生きる現世の課題が否定される。私は、人間をこれら三つの対の一方に偏らずに、個人性と社会性、生物性と文化性、身体性と心霊性のそれぞれの両面を総合的にとらえて、正義論を論じ、またそれを踏まえて人権を考察すべきだと考える。

 

●正義とは何か

 正義とは何か。「正しいこと」「正しい状態」「正しさ」「正当性」である。宗教的・道徳的・法的な規範に沿っている状態またはその規範を実現する行為に関する概念である。
 正義という漢字単語は、英語・仏語・イタリア語の justice、独語の Die Gerchtigkeit 等の訳語である。justice はラテン語の ius を語源としている。ius は「正しさ」「公正」「法」を意味した。英語では right も正義を表す。right は正義とともに権利を意味し、justice は正義とともに公正を意味する。right には法の意味はなく、法には law が使われる。ラテン語の ius は「正しさ」「公正」とともに「法」を意味したが、ラテン語には別に法を意味する言葉として lex があった。英語の law はこの系統である。英語の語彙でかつて法用語として使われたノルマン的フランス語の droit 及び dreit は、権利と法の両義を持っていた。ドイツ語の Recht、フランス語の droit、イタリア語の diritto 等は、正義と権利と法の意味を持つ。それゆえ、英語を含めて西洋文明の主要言語では、正義と権利と法を同根とする概念が存在する。<正義=正しい状態=公正=正当性=権利=法>という概念の連続性を読み取ることができる。

●正義と善

 正義は個人の考え方や行為に関して使われるとともに、社会関係や社会制度に関しても使われる概念である。個人の考え方や行為に関する正義は、人間の徳目の一つに挙げられる。この意味の正義は教育や修養の目標となっている。また、社会関係や社会制度に関する正義は、社会のあり方として目指すべきものとされる。この意味の正義は政治の目標であり、法の基本的理念ともされてきた。
 そのようなものとしての正義をとらえるには、正義と善の関係を踏まえる必要がある。西洋文明では、その源泉の一つである古代ギリシャ文明の時代から、正義は善との関係で論じられてきたからである。
 善とは何か。「善いこと」「善い状態」「善さ」「善いもの」である。善という漢字は、英語の good、仏語の Bon、独語の Gut、イタリア語の Buono 等の訳語に当てられている。
 人間には生物性と文化性があり、生物的存在として生存・繁栄していくため、また文化的存在として文化を継承・発展させるために、集団生活を営む。人間が集団として生活していくためには、掟、決まりごとが必要であり、またそれらを守っていかなければならない。決まりごとには、行為や判断や評価を行う際の基準が必要である。それを規範という。
第1部に書いたように、規範には社会規範と個人規範がある。社会規範は、集団において共同生活を行うため、成員が行為・判断・評価を行う際の基準として共有されている思想である。個人規範は、これをもとに集団の中で個人が自らに対して定めるものである。規範に適った状態は、「善い状態」である。そうした状態をもたらす行為は、「善い行為」である。こうした考えを抽象化したところに、善の概念が生まれる。善の概念は、人間が生物的また文化的存在として集団生活をしていくために必要な規範との関係において成り立つ。
 人間には個人性と社会性があり、それゆえに、物事には個人にとって「善いこと」「善い状態」と、集団にとって「善いこと」「善い状態」がある。個人にとっての善と集団にとっての善は、一致する場合と一致しない場合がある。また、一致することを求める場合もあれば、求めない場合もある。個人と集団の善の一致を目指す時、集団にとっての善は、古代ギリシャ以来、公共善または共通善と呼ばれてきた。この善の概念が、正義の概念と結びつくのは、公共善を実現した状態が、正義とされてきたからである。
 詳しくは次の項目から書くが、古代ギリシャ=ローマ文明では、公的な善は私的な善より優先された。そして、公共善が正義とされた。プラトンやアリストテレスは、そうした考えのもとに、正義に関する思想を説いた。ヨーロッパ文明は、この考え方を継承した。ところが、近代西欧では、公的な善より私的な善を優先する考え方が支配的になった。私的な善を優先する場合、善は個人的な価値となり、私的な善の追求を保障する枠組みが正義となる。私的な善の優先は、さらに善を正義より優先するか、逆に正義を善より優先するかの二つの考え方に分れた。公的な善より私的な善を優先し、かつ善を正義より優先する代表的な思想家は、
第2部に書いた功利主義の始祖ベンサムである。また現代の通説では、公的な善より私的な善を優先し、かつ正義を善より優先する代表的な思想家が、「啓蒙の完成者」カントとされている。ベンサムとカントの思想は、20世紀半ばまで西洋文明における正義と善に関する思想の二大潮流となっていた。だが、1970年代に、あらためて正義と善の関係を問い直す思想が登場し、それをきっかけに活発な議論が行われてきている。ジョン・ロールズらによるものである。またその議論が、今日の人権思想に大きな影響を与えている。もはや現代の正義論を抜きに、人権を論じることはできない。そこで、次に古代ギリシャから今日までの正義の概念とその歴史を振り返ったうえで、現代の正義論を検討していきたい。

 

●古代ギリシャにおける正義の思想

 西洋思想の源の一つは、古代ギリシャにある。古代ギリシャの最も古い思想は、神話に表現されている。
 神話は、宇宙の始まり、神々の出現、人類の誕生、文化の起源等を象徴的な表現で語る物語である。一つの世界観の表現であり、またその世界で生きていくための規範が表現されている。神話においては、宗教・道徳・法は未分化であり、それらが分かれる前の思考が象徴的な形式で表現されている。しかし、その思考には、独自の論理が見られる。
 古代ギリシャの神話が表すのは、多神教の世界である。ヘシオドスの『テオゴニア(神統記)』は、ギリシャの神々の系譜を記している。神々は様々な権能と領域を与えられている。最高神ゼウスは世界の統治を担当しているが、絶対的な存在ではなく、神々の世界の秩序(コスモス)を守らなければならない。ゼウスはヘラを本妻とするが、その他に娶っている女神の中にテミス(掟の神)がいる。神々や人間は、時に傲慢(ヒュブリス)によって神聖な秩序を乱す。すると、ゼウスとテミスの子であるディケー(正義の神)が傲慢と対決する。神聖な秩序を保つ掟を踏み越えた者は、やがて報復を受けることになる。こうした神話に、古代ギリシャ人の世界観と規範が表現されている。
 紀元前6世紀ころから、古代ギリシャには、世界には神聖な秩序があり、踏み越えてはならない掟(ノモス)がある。それを踏み越えると世界や社会の秩序が乱れる。そうした時には、これを元に戻さなければならないという考え方があった。ソクラテス以前の哲学者であるエンペドクレスやアナクシマンドロスは、このような思想をそれぞれの言葉で語っている。政治や社会だけではなく、医学においてもそうである。西洋医学の祖とされるヒポクラテスは、人間の体は秩序を守っている時には健康だが、バランスが崩れた時には病気になる。それを元に戻すのが医学の役割だということを説いている。
 政治学者の佐々木毅によると、こういう考え方が「ギリシャ思想の原型というべきもの」であり、その後いろいろな変化をこうむったけれども、古代ギリシャでは「一つの基本的な原則」だった。佐々木は、「よき秩序をどのようにして実現するか、あるいはそれが乱された場合、どのようにして戻すかということが、病気の人を健康にし、乱れた政治をよき政治に持っていくことであり、これをもとにものの考え方の基本的な枠組みがつくられていた」という主旨のことを述べている(『よみがえる古代思想』)
 始めは、神々と人間を貫く掟、言い換えれば自然と社会と心身を貫く理法(ノモス)に従うことが、絶対的な規範だった。ところが、社会の変化によって、絶対的とされてきた理法の権威が疑われるようになった。正不正、善悪の価値観や人間のあり方について大きな動揺が広がった。そういう時代に現れたのが、賢者ソクラテスだった。
 ソクラテスが生きた古代ギリシャは、ポリスの社会だった。ポリスは都市国家であり、政治・祭祀・軍事の共同体だった。ポリスは、自由民と奴隷から成り立っていた。自由民と奴隷は大体1対4〜5の比率だった。特権的な市民は奴隷ではないという意味で自由だった。だが、ギリシャには、今日われわれがいうところの自由に正確に対応する言葉はなかった。ギリシャ人たちが深い関心を持っていたのは、「善い生き方」「善い活動」などの「善い」ということ、善(アガトン)だった。自由民は、参政権を含む権利を持つ自由な状態にあったから、それ以上に自由を望むことはなく、自由な立場で追求したのが、「善い生き方」を実現することだったわけである。
 「善い生き方」とは、個人的私的な意味で善い生き方ではなく、ポリスにおいて集団的公的な意味で善い生き方だった。ここにおける重要な概念が、正義(ディカイオシュネー)だった。
 当時の古代ギリシャでは、正義とは、人々がそれぞれのアレテーを発揮することを意味するようになっていた。アレテーは、「徳」または「卓越性」と訳される。卓越性とは、人より優れた能力や性質である。そして、正義は、各人がそれぞれの身分や職能において卓越性を発揮し、ポリスの秩序を維持し、調和することだった。いわばすべてのものが、その所を得た状態である。ポリスという国家共同体にとっての善、公共善が正義だったのである。
 ここで注意したいのは、絶対的とされてきた理法の権威が疑われるようになった後に、人間の間での相対的な状態としての卓越性の概念が現れ、それを基にしたものへと正義の概念が変化したことである。
 ソクラテスは、正義と善について深く考察した。ソクラテスは、プラトンの著作の中に登場する。プラトンは、師のソクラテスの言葉を通じて、イデア(形相)こそが真の実在とし、万物は最高のイデアである「善のイデア」を目的として秩序づけられているという世界観を説いた。そして、その世界観のもとに、国家や魂における調和として正義を説いた。プラトンの主著『国家論』は、同時に正義論でもある。プラトンは、国家にあっては、統治者たる政治家、守護者たる軍人、そして一般大衆がそれぞれのアレテーを発揮し、分に応じた役割を果たして調和することを正義とした。また個人の魂においては、理性的部分、気概的部分、欲求的部分がそれぞれのアレテーを発揮して調和することを正義とした。調和とは、諸要素・諸部分の関係に秩序のある状態である。
 プラトンの弟子アリストテレスは、万物は一つの目的のもとに、自らの自然・本性を実現すべく運動しているという目的論的な世界観を表した。アリストテレスは、プラトンの正義をより明確に公共善の実現として打ち出した。アリストテレスは、著書『政治学』で人間をポリス的な動物と定義した。人間が家族を形成するだけでなく、政治的な共同体をつくるのは、共通の善を目指すためである。正しい国制を構築するには、人間の自然・本性を完成するための「善い生き方」とはどういうものかを、まず考察する必要がある。正義とは最高の善にふさわしいあり方を示すものだとした。
 アリストテレスにとって、最高の善とは、幸福(エウダイモニア)だった。十分に恵まれて善い行為をすることのできる状態である。この幸福という目的を追求するために必要とされる特質が、徳だった。アリストテレスは、徳は個人の生活の中だけでなく、ポリスの生活の中に見出され、また養成されることを説いた。
 アリストテレスは、道徳・法に適っていることが正義だとした。正義は、法と道徳と一体のものだった。その究極の目的は、ポリスの中で、ポリスの一員として善く生きる有徳の人物を養成することにあった。
 アリストテレスは道徳・法に適うことを一般的正義とする一方、これとは別に特殊的正義という概念を立てた。特殊的正義には、配分的正義と矯正的正義がある。配分的正義は共同体の目的のもとにおける貢献に比例した地位・名誉等の配分をいい、矯正的正義は損害に対する補償等を均等に実現することをいう。こうしたアリストテレスの正義論は、古代ローマの思想に影響を与え、さらにヨーロッパ文明の伝統的な正義論の基礎となった。同時にこうした正義論が近代西欧発の人権思想に影響を与えてきた。
 以上、古代ギリシャにおける正義の概念について概略を述べたが、ここで注意すべきことを2点補足したい。
 まずポリスにおける正義は、対内的な正義と対外的な正義が異なっていたことである。対内的には、市民はともに公共善の実現を目指したが、対外的には戦士の共同体として戦闘における勝利を目指した。戦いに負ければ、ポリスの成人男性は奴隷として連れ去られることさえ稀ではなかった。対外的には戦いにおける勇敢さ、対内的には礼儀正しさや寛大さが徳とされた。祖国のために身を捧げることはそれ自体が正しく称賛に値する行為であり、勝利への貢献は名誉だった。その貢献に応じて地位や名誉が配分された。こういう二重の性格を持った共同体が、ポリスだった。ソクラテスは、哲学者である前に、歴戦の勇士として尊敬されていた。アリストテレスは、アテネという祖国を正義の唯一の実践の場と考えて、その政治学・倫理学を子弟に教えた。この対内的正義と対外的正義の区別、共同体の内と外における正義の二面性は、今日の国民国家による国際社会においても、基本的に共通している。
 次に、プラトンやアリストテレスが活躍した古代のアテネは、決して近代西欧国家のような自由で民主的な国家ではなかったことである。アテネは約30万人の総人口の上に、民会の構成員たる3万5千人の男性が君臨する国家だった。自由民であっても、女性や外国人には政治的な自由はなかった。ポリスの政治に参加する男性は、家庭という私的領域では奴隷を所有し、奴隷に労働をさせて生活していた。労働する必要がない彼らが、公的領域において目指した「善い生き方」とは、古代奴隷制に基づく支配集団にとっての「善い生き方」だった。正義もまた支配集団における正義だった。そして、対内的に正義が成り立つのは、支配―被支配の関係が安定している時であり、また対外的に独立を維持し得ている状況においてだった。国内で支配―被支配関係が動揺したり、国家の独立を失ったりすると、正義は成り立たなくなった。

 

●古代地中海帝国からヨーロッパへと続く正義論の歴史

 古代ギリシャではポリスに依拠する思想に反対する思想もあった。その主な担い手は、ポリスでは参政権を与えられない異邦人だった。彼らは、各ポリスの思想・宗教・文化の相対性を認識し、個々のポリスの価値観を越えた普遍的な価値を追求した。自らを世界(コスモス)をポリスとする者として、世界市民(コスモポリテース)と称した。彼らコスモポリタンは、ポリスの枠組みを越えた正義を希求した。古代ギリシャのコスモポリタンは、現代のコスモポリタンの遠い前例である。
 古代ギリシャは、ポリスを単位とする社会から、巨大な帝国へと成長した。各ポリスは帝国の統治機構に組み込まれた。アリストテレスの弟子アレクサンドロス(アレクサンダー大王)は前4世紀に、アジアへ東征し、広域的な国家を築いた。ヘレニズム時代のギリシャは、政治社会の拡大と異文化間の交流によって思想的に大きな変化を遂げた。
 イタリア半島に現れ、ギリシャを上回って発展したローマ帝国は、ギリシャのポリスよりはるかに大きな規模の奴隷制社会だった。ギリシャ思想はローマ帝国の法制度や政治に強い影響を与えた。コスモポリタンが説いた思想もまた影響力を持った。そのうち最も有力なのは、ストア派である。 
 ストア派は、ギリシャの異邦人であるキプロスのゼノンを始祖とし、ローマではキケロを代表的存在とした。ストア派によれば、ポリスや民族によって異なる正義や習慣は、ポリスや帝国の法を越えた普遍的な法に由来するものであり、もとは一つである。彼らは、自然そのものが規範を形成するとし、自然に従うことが正義であると考え、宇宙と人間をともに貫く自然法に従って生きる哲学を説いた。
 やがてローマ帝国では、ユダヤ民族から出現したキリスト教が、392年に国教になった。西ローマ帝国が476年に滅亡した後、キリスト教はゲルマン民族に浸透し、ヨーロッパ文明の精神的中核となった。その際、教父アウグスティヌスが大きな影響を与えた。アウグスティヌスの思想の根本にあるのは、唯一神による無からの天地創造説、神の似姿としての人間の創造説、「イエス=救世主」説、父なる神と子なる神としてのイエス=キリストと聖霊の三位一体説である。こうした教義は、従来のギリシャ=ローマ思想とは、まったく異なる思想だった。アウグスティヌスにとって、最高善は、異教徒であるアリストテレスの説く政治的に実現する公共善ではなく、キリスト教の信仰による魂の救済だった。彼は、著書『神の国』で、歴史は善の意志を持つ天使と人間による「神の国」と、悪の意志を持つ天使と人間による「地上の国」との対立・抗争の過程であり、最後の審判へと向かっているととらえた。そして、「神の国」における神の正義を説くとともに、人々が遍歴の途上にある「地上の国」においては、平和と秩序をもたらすために国家の法には一定の正義があり、それに従わねばならないと説いた。
 中世ヨーロッパ最大の思想家トマス・アクィナスは、13世紀に『神学大全』を著してキリスト教神学とアリストテレス哲学の総合を図った。イスラーム文明を経由して摂取されたアリストテレス哲学は、キリスト教の教義の整備に利用された。トマスにおいて、自然法則は、人間の事物・生物・理性という三相に基づく本性の傾向、すなわち自己保存、種の保存、神の認識と共生の傾向から導かれ、モーゼの十戒に集約される。トマスは、法的な正義は「共通善」(bonum commune)を基準とするとした。法は正義の要素を有する限りにおいて、法としての力を有する。法は共通善へと秩序づけられる行為を命じるのであり、この命令に従って市民は正義や平和などの共通善を維持してゆくように教導し、形成されると説いた。共通善は、プラトン、アリストテレスの公共善を継承したもので、神、教会、共同体への義務が強調された。またトマスは、アリストテレスの一般的正義をより明確に、共通善を対象とするものとし、特殊的正義は他者の人格の善を対象とするものとした。
 西洋思想では古代ギリシャ・ローマ、中世ヨーロッパを通じて、公共善の実現が正義とされてきた。その背景には、近代以前の世界で広く見られた世界観があった。その世界観とは、世界は神または超越者が秩序を与えているもの、または創造したものであり、万物は究極的な目的のもとに生成・展開しているという目的論的な世界観である。宇宙はコスモス、すなわち調和的秩序の体系であるとされ、人間はその中に包摂され、そこに規範を見出していた。そして、社会において階層的な秩序を実現することが、公共善としての正義だった。
 この世界観は、ストア派による自然法の思想をキリスト教の教学に取り込んだものでもあった。キリスト教では、神は言葉によって天地を創造したとし、自然は神の被造物であり、神の支配下にあると考える。また人間は神の似姿として造られ、知恵を与えられているとする。中世西欧では、こうした教義のもとに、自然法は神の意思による宇宙と社会の秩序とされた。自然法は、神が定めた宇宙の法則であるとともに、神が人間に与えた道徳の原理を意味するものだった。
 アウグスティヌスは、「神の国には完全無欠な神の永遠法が支配するが、地の国には罪ある人間の不完全な人定法しかありえない。しかし愛の神は、人間に理性の能力を授け永遠法の一部を認識して人定法の模範とさせるようにした。これが自然法である」と説いた。トマス・アクィナスは、聖書が啓示し教皇が命ずる法を神法とし、自然法の上に置いた。人間は神の叡智を理性として分有しており、自然法を理解できるが、人間には神の栄光に浴すには決定的な限界があり、これを超えられるのは信仰によってのみであるとした。
 中世西欧では、カトリック教会の権威によって、人定法、自然法の上にある神の永遠法や神法の解釈は教会に委ねられていた。しかし、社会の変化に伴う宗教改革・宗教戦争等によって、教会の権威は大きく揺らいだ。そのうえに、コペルニクスの地動説やニュートンの力学の登場によって、それまでの世界観が否定され、機械論的な世界観が支配的になっていった。その過程で、正義の概念もまた大きく変化することになった。

 

●近代西欧における正義論の展開

 17世紀から西欧で支配的になっていった機械論的な世界観は、機械をモデルとする世界観である。それまでの西欧の世界観は、有機体論的な世界観であり、生物をモデルにしたものだった。生物は目的論的な性質を持つから、有機体論的な世界観は総じて目的論的である。これに対し、機械をモデルにする機械論的世界観は、因果論的である。
 機械論的な世界観は、自然を外から与えられる力によって動くものであり、様々な部分の集合ととらえる。西欧で機械論的な世界観が確立すると、社会観にも変化が起こった。新たに登場した社会観では、個人は原子(アトム)のようにそれ自体で存在するものと考え、互いに自由で独立した個人の集合が社会とされる。親子・夫婦・祖孫等の家族的血縁的なつながり、集団における生命の共有と共同性は、よく考慮されていない。
 こうした社会観の広がりは、近代化の進行に伴うものだった。近代化は、生活全般の合理化であり、文化的・社会的・政治的・経済的の四つの側面をもって進行する。近代化の進行とともに、それまでの共同体を中心とする考え方から、個人を中心とする考え方への変化が加速された。
 近代化の進行は、正義に関する考え方にも変化をもたらした。アリストテレスは、古代ギリシャのポリスという共同体において正義を説いた。その思想がヨーロッパ文明の正義観に大きな影響を与えたのだが、近代化とともに伝統的な共同体が解体して市民社会が成立し、また市場経済が支配的になると、西欧では契約に基づく交換における正義という考え方が確立された。交換的正義は、アリストテレスの配分的正義に替わる概念である。配分的正義は、共同体の目的のもとにおける貢献に比例した地位・名誉等の配分をいい、共同体の目的である公共善を前提としたが、交換的正義は、個人と個人の契約に係る正義である。
 近代西欧では、共同体の解体とともに、共同体全体にとっての公共善を正義とする古代的・中世的な価値観に替わって、個人の私的な善を実現する枠組みを正義とする近代的な価値観が現れた。この変化は、正義観における重大な変化である。諸個人がそれぞれ私的な善を実現し得る状態が自由であり、それを実現する能力・正当性が権利であるという考え方が優勢になった。近代西欧的な交換的正義の考え方と不可分のものである。
 こうした変化の過程で、人権の思想が現れた。人権の思想は、近代西欧における個人の自由と権利を確保・拡大する運動の中で発達したものである。人権の思想の発達過程で重要なのは、中世西欧の自然法の概念が変化せられ、その中から自然権の思想が現れたことである。人権とは、人間の自然権を人権と呼ぶようになったものである。この自然法から自然権への転換を最初に進めたのが、ホッブスである。トマス・アクィナスは、自然法論において、「自然法則」に基づく事物の本性に基づく正しい状態・事柄を「自然的正」と呼んだ。ホッブスはこの「自然的正」を「自然権」だとし、「各人の自由」だと主張した。ここに個人と自由と権利が自然権として主張されることになった。
 ホッブスは、アトム的な個人を要素とする社会契約説を唱え、人々は自分自身の利益のために社会を形成すると考えた。ホッブス及びその後の社会契約説については
第2部に詳しく書いたが、プラトン、アリストテレス、トマスの公共善に代わる新たな思想を、ホッブスは説いた。ホッブスの自然状態は戦争状態である。ホッブスによると、自然状態では正義も不正義も存在しない。正義は法が定められ、共通の権力が発生した後に発生する。社会契約は、共同体的な公共善の概念に代わって、国家を設立し、正義を実現するためのものである。人間が理性を働かせて戦争状態を終わらせるために定めた自然法の一つが正義の法であり、正義の法は契約を守ることを求めるものである。契約に反することは不正義であり、契約を守らせるように強制する権力は正義の権力である。絶対王政を擁護するホッブスの理論においては、主権者に対するあらゆる反逆は不正義とされる。
 ホッブスと異なり、ロックの自然状態は平和な状態である。ロックによると、自然状態では、すべての人が自然法を執行する権利を持ち、自然法に違反する者を処罰する権利を持つ。国家ができる前から、正義の原理は存在する。社会契約が行われるのは、自然状態の正義が失われ、不正な状態になったのを解消するためである。しかし、絶対王政は社会契約を締結した人民に対して不正義の体制である、とロックは説いた。ホッブスは社会契約論で絶対王政を擁護したが、ロックは社会契約論で市民革命を正当化した。
 ルソーは、ロックの思想を急進化した。ルソーによると、社会契約は正義を実現するためのものであり、正義が実現されなくなった社会契約は本来の意味を喪失している。そうした社会では、正義のために革命と新たな社会契約の締結が必要だ、とルソーは説いた。ロックは抵抗権・革命権を説いて、名誉革命や米独立革命の理論を提供し、ルソーは人民主権を説いて、フランス市民革命に思想的な影響を与えた。
 カントは、今日人格を尊重する道徳哲学を構築し、すべての人の人権を守ることが正義としたという評価を受けている。カントの思想は、現代の通説によると、公的な善より私的な善を優先し、かつ正義を善より優先するものと理解されている。カントは、国家の起源については、基本的には社会契約論に立つ。ただし、社会契約を歴史的事実ではなく、「理念」としている。契約をしたという事実がないのに契約論を採るとすれば、理念とするしかないだろう。カントは、社会契約を突然廃止して結び直す革命は契約の原理から認められないとし、根源的契約の精神から共和的な政体が望ましいとする。カントの「共和的」とは、立法権が執行権から厳しく区別せられ、それが代議士を通じてすべての公民の手にあるという意味である。言い換えれば「法の支配」である。カントは、共和政体の実現を漸進的・連続的に進めるべきと説く。共和政体はすべての政治体制の目的であり、そこでこそ国民は自由で平等となり、完全な正義が実現されるだろうとする。カントは、共和的な国家で形成される国家連合が永遠平和の実現の基礎となると考えた。また国内法と国際法を補う世界公民法をつくることによってのみ、世界的な正義と永遠平和の実現が期待できるとした。
 社会契約説の展開の中で形成されたロック=カント的人間観が、世界人権宣言等に盛られた人権思想の背後にある。また、ルソーの社会契約は正義を実現するためのものという理論が、正義を人権に結び付けた。

 西欧には社会契約説を否定する思想の系統もある。これも第2部に書いたが、ヒュームやアダム・スミスは、歴史の研究から社会契約を否定し、市民社会の秩序は自生的に誕生すると説いた。彼らは、人間には利己心だけでなく共感の能力があることを主張し、共感による社会の秩序と繁栄の道を説いた。スミスは、労働が国民の富の源泉であり、分業と資本蓄積が社会の繁栄を促進するとした。市場は、「独占の精神」ではなく「フェア・プレイ」を受け入れる正義感、他人とものの交換をしようとする「交換性向」、及び交換のために人と言葉を交わし理解を得ようとする「説得性向」によって支えられている。これらは、共感の能力に基づいている。それゆえ、市場社会を支える根本は、自愛心とともに共感である、とスミスは考えた。スミスにおける個人は、共感の能力を持ち、心の中の「公平な観察者」によって、行為の適合性を判断する人間である。利己心のみで行動し、利益拡大のために競争する人間ではない。
 ベンサムは、社会契約説否定の系統から現れた。最大多数の最大幸福を目指す功利主義を打ち出し、快楽を量的に表現して計算することができるとし、効用の最大化を正義とした。ベンサムの思想は、公的な善より私的な善を優先し、かつ善を正義より優先するものである。
 功利主義の正義観は、社会を構成する個人の満足の合計が最大となるように社会制度が編成されている場合に、その社会は正義に適っているというものである。これは、正義から独立に善を規定し、その善の最大化を目標とする理論である。その理論は、神や超越的な理念に根拠を置く宗教的・道徳的な規範を排除し、当時の科学的合理主義に適う社会理論となった。
 ここで政治思想について触れると、17世紀から西欧で人権の思想を発達させたのは、国家権力から権利を守るために権力の介入を規制する思想・運動としての自由主義(リベラリズム)である。これと民衆が政治に参加する制度を求める民衆参政主義(デモクラシー)が融合したものが、自由とその実現のために政治参加を求める自由民主主義(リベラル・デモクラシー)である。この思想は、欧米を中心に広がり、浸透していった。
 自由民主主義の中には、もともとの自由主義の側面に重点を置く古典的自由主義と、民衆参政主義の側面に重点を置く修正的自由主義がある。修正的自由主義は、社会的弱者に対し同情的であろうとし、社会改良と弱者救済を目的として自由競争を制限する。名前は同じ自由主義だが、古典的自由主義は国権抑制・自由競争型、修正的自由主義は社会改良・弱者救済型で、思想や政策に大きな違いがある。
 ベンサムの思想は、効用最大化を目指す画期的な思想だったが、個人の尊重や少数者の権利の保護を欠いていた。この点について、古典的自由主義者からも修正自由主義者からも批判の声が上がった。ベンサムを継承したJ・S・ミルは、最大幸福を目的としつつ、古典的自由主義を修正し、自由と平等の調和を図った。労働者の団結権を擁護し、所有・相続・土地等の制度改革を承認した。また労働者の選挙権の拡大、婦人参政権を主張した。経済思想においては、生産面では自由放任を説きつつ、分配面では政府の関与によって正義を実現するという社会改良策を提案した。政治的自由に加えて、新たに社会的自由を主張した。これは、多数者の横暴からの自由であり、少数者の権利を保護するものである。こうしてミルは、平等に配慮して修正的自由主義を発展させた。
 17世紀以降、ロック、カント、ヒューム、スミス、ベンサム、ミルらはそれぞれ思想的な特徴を異にしつつも、自由を中心的な価値とする近代西欧の自由主義の思想を発展させた。自由主義は、政治的・市民的自由とともに経済的自由の実現を追求する。それゆえ、資本主義を肯定する。近代以前の社会と近代以後の社会の違いは、資本主義の発達による。資本主義の発達とともに、共同体の解体と都市社会の形成が進み、個人と個人は相互扶助ではなく、競争原理によって動く関係となった。市場経済が支配的な社会では、個人間で自由に契約のできる枠組みが正義とされる。
 しかし、経済的自由の拡大は、階級の分化を助長し、貧富の格差を拡大する。そこにおいて自由を至上のものとする考え方と、平等を求める考え方が対立するようになる。自由が実現されている状態が正義であるという考えを極端に進めると、競争社会における弱者の立場は考慮されない。そこで自由を優先しつつも平等に配慮することが正義だという考えが出てくる。前者はロックやアダム・スミスらによる古典的自由主義の正義観であり、後者はJ・S・ミルらによる修正的自由主義の正義観である。これらに対し、財産の私有制が不平等の原因であり、有産階級の自由を制限または剥奪して平等を実現することが正義であるという考えも出てくる。これが、社会主義の正義観である。社会主義のうち、議会を通じて合法的かつ漸進的に実現を図るのがよいとするのが、イギリス議会政治で発達した社会民主主義であり、暴力革命によって急進的に実現を図ろうとするのが、マルクス=エンゲルスによる共産主義である。
 古典的自由主義、修正的自由主義、社会民主主義、共産主義の正義観は、自由と平等に対する評価の度合いと、目指すべき状態を実現する方法の違いによって分かれている。そして、これら4種の政治思想が、自由と平等という二つの理念をめぐってぶつかり合い、権利と権力の獲得・拡大を目指して闘争する状況が、19世紀の西欧に生まれた。

 

●19世紀後半から第2次世界大戦までの正義論の展開

 19世紀後半以降の欧米では、自然科学をモデルとする科学的合理主義が支配的になり、社会科学では事実と価値が峻別されるようになった。事実の領域では、認識や判断の客観性や合理性が厳格に問われる一方、価値の領域では、価値は状況や判断者によって異なり得る相対的な観念であるとする考え方が現れた。価値相対主義によると、価値は主観的なものであり、突き詰めれば個人の選好の問題だということになる。こうした風潮において、正義もまた相対的なものとされ、規範的な理論の追求が重要視されなくなった。政府は多様な価値観に対して中立的でなければならないという主張が優勢になり、政治の役割は個人主義的で価値中立的な自由主義を保障することとされる。
 正義は、もともと宗教的・道徳的・法的な規範に沿っている状態またはその規範を実現する行為に関する概念である。文明の中核には、宗教がある。その宗教が精神的な指導力・統合力を失い、文明が世俗化すると、その社会の規範が揺らいだり、失われたりする。それとともに、正義の概念も揺らぎ、さらに正義の感覚も失われる。近代西欧において、この傾向を最も深くとらえた概念が、ニーチェのニヒリズムである。
 20世紀初頭のヨーロッパでは、資本主義の不均等な発展と植民地の再分割によって各国の利害対立が激化し、第1次世界大戦が勃発した。かつてない規模の戦争が長期化し、参戦した諸国は疲弊した。戦争の末期、東方のロシアで共産主義革命が起こり、西欧諸国は自国の共産化の危機に直面した。以後の世界は、経済思想に関しては国内的にも国際的にも資本主義と社会主義の対立を軸に展開した。この対立は、自由と平等という価値観の対立であり、また個人中心と全体優先という価値観の対立である。マルクスの理論を実践したソ連は、共産党官僚が「革命貴族」と呼ばれる特権階級となり、労働者・農民が支配される体制となった。自由が剥奪され、平等ではなく不平等が拡大し、自由も平等もない国家が、ソ連の実態だった。だが、当時は共産主義国家は平等の理念を実現したものという幻想が広がり、共産主義は、正義を実現する思想として、各国で勢力を伸ばした。
 この一方、第1次大戦後の欧米では、ベルサイユ体制が樹立された。ベルサイユ体制は、戦勝国による国際秩序であり、勝者の論理を正当化し、勝者の正義を制度化したものだった。敗戦国のドイツには、過酷な報復が加えられた。これに対する反発のなかから、ナチスが台頭した。ナチスは、人種主義の思想に基づき、ユダヤ人を組織的・計画的に抹殺しようとした。ユダヤ人であるということによって自由と権利を奪われた多くの人々が、強制収容所に送られて殺戮された。ここにおいて、近代西欧で発達した人権の思想は、巨大な壁にぶつかった。普遍的・生得的とされた人権は、ナチスの暴虐によって、無残に踏みにじられた。
 ナチスは、ゲルマン民族の生存圏の確保を図った。自己民族の生存・繁栄のために、武力による侵攻・支配を正当化した。それによって、第2次世界大戦が勃発した。英米等の自由主義諸国は、ナチス・ドイツと戦うために、共産主義のソ連と連合を結んだ。ナチス・ドイツもソ連も全体主義の国家である。そこで、この戦争を、民主主義とファシズムとの戦いとして正当化した。実態は、主権国家間の権力闘争だが、それを正義を守るための戦いと位置付けた。わが国は、ドイツ・イタリアと三国軍事同盟を結んだため、連合国から全体主義勢力として一括りにされた。だが、わが国は大東亜戦争を大東亜解放のための戦いとして戦った。15世紀以来、欧米白人種に植民地とされてきたアジア諸民族の解放を目指す正義の戦いと意義付けたわけである。ユダヤ人に対しては、戦前からナチスの迫害に加担せず、逆に亡命を求める多数のユダヤ人に便宜を図った。
 第2次世界大戦は、各国の掲げる正義の衝突だった。だが、戦争の結果は、どちらの正義が、真の正義だったかによるのではない。力と力のぶつかり合いは、武力に優るものが勝利する。勝者は、自らの論理を正義の概念で正当化する。勝った者は正しいのであり、正しい者が勝ったのだという勝者の正義が打ち立てられる。連合国が日本に受諾を迫った「ポツダム宣言」には、「世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義に基づく新しい秩序は不可能である」という一節がある。ここに正義の文言が使われていることが、勝者の論理をよく表している。
 戦勝国による正義の論理は、さらに戦後の国際軍事裁判で鮮明に打ち出された。わが国の国家指導者は、東京裁判で被告とされ、その多くが処刑された。東京裁判は、裁判という名のリンチであり、見せしめの儀式だった。しかも、近代西欧法の原則を破り、事後法によって裁判がされた。これは、グロチウス以来、発達してきた国際法の精神にも反するものだった。勝者による偽善の正義が打ち出される一方、連合国の犯罪は一切問われなかった。最も重大なのは、アメリカによる原爆の使用が、免罪されたことである。原爆投下は民間人の無差別大量殺戮だった。しかし、東京裁判では、民間人である犠牲者・被爆者の人権は、問題とされなかった。また、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州・樺太等に侵攻したことも問われなかった。ソ連によるシベリア抑留・強制労働も人権を蹂躙し、国際法に違反した犯罪だった。しかし、共産主義諸国による犯罪もまた東京裁判では一切裁かれなかった。
 東京裁判の判決が下された翌月、1948年(昭和23年)12月10日の第3回国連総会、すなわち連合国総会で世界人権宣言が採択された。「宣言」の採択の2週間後に、東京裁判のいわゆる「A級戦犯」の処刑が行われた。東京裁判と「宣言」の起草の時期は重なり合う。「宣言」の起草は、東京裁判が開始されて約1年後にはじまり、東京裁判と並行して進められた。「宣言」は連合国の力の優位と連合国の犯罪行為の不問の上に出された文書である。「宣言」の謳う人権と正義は、その時点では勝者の独善によって発せられたものなのである。

 

●第2次大戦後の世界と現代の正義論

 第2次世界大戦後の世界は、「連合国=国際連合」の文書及び国際軍事裁判の判決を、国際的な正義とする世界である。戦後間もなく、大戦中は連合国として共に戦った米ソが二大超大国として対峙する構図が生まれた。ソ連によって東欧諸国の共産化がされ、また中国・北朝鮮・キューバ等で社会主義政権が成立したことにより、自由主義圏と共産主義圏の間の緊張が強まった。核兵器の出現と主要国への拡散によって、人類は存亡の危機に直面した。
 大戦後発せられた世界人権宣言では、危機の時代において人権が宣揚され、自由と平等の調和ある実現が目指された。自由・平等な個人の人格的な発展、人間の尊厳が主張され、人格・人間性が価値とされる。宣言は人類の道徳的な向上を目指しており、そのもとには、ロック=カント的人間観がある。また、世界人権宣言は、前文で「平等で奪い得ない権利を認めることが、世界における自由、正義及び平和の基礎をなす」と謳っており、人権と正義との不可分の関係を宣言している。
 一方、現実の社会では、経済的な利益を追及する活動が活発に行われている。資本主義的な市場経済を背景に、自由な生産と交換が主張され、効用・利益の増大が目的とされる。功利主義と経済合理主義が結合したベンサム=新古典派経済学的な人間観がまかり通っている。
 ロック=カント的な人間観は人権の論理、ベンサム=新古典派経済学的な人間観は市場の論理に基づく。ともに自由を中心的な価値とするが、前者は道徳的自由、後者は経済的自由を志向する。また前者は、個人の尊厳を認めることによって、人格的発展のための機会の平等を求め、また生活状態の格差を是正することを目指す。後者は、最大多数の最大幸福の実現を目指す功利主義の特徴として、個人を重視せず、少数者に配慮しない。また善を量的かつ一元的にとらえ、質的な違いを捨象する。さらに、人間を利己的で合理的に行動するものとする新古典派経済学の特徴として、人々の道徳的欲求を認めない。
 自由主義圏の諸国は、こうした価値観の違いを抱えてはいたが、共産主義に対して自由を守るために結束した。なかでも「自由の国」を自認する米国は、自由主義圏の盟主として、ソ連に対抗した。だが、大戦後の欧米では価値相対主義の風潮が強くなり、正義を主要な価値として論じることが憚られる傾向があった。また、自由主義対共産主義というイデオロギー対立の中で、自由と平等の関係に係る正義を正面から論じることは敬遠された。
 1960年代に入ってベトナム戦争が拡大するにつれ、米国ではこの戦争に反対する国民が増えていった。ベトナム戦争は自由主義と共産主義が激突した戦争だったが、複雑な利害が絡み合っていた。米国民の間で、単純に自由を理念として泥沼の戦争を続けることに疑問が強まった。同じころ、黒人を中心に公民権運動が高揚し、人種差別に対する反対運動が広がった。また性別や文化的な違いによる差別に反対する運動も広がった。これらベトナム反戦運動、人種差別反対運動、性的・文化的差別反対運動等によって、米国の自由や正義という建国の理念が根本的に問われるようになった。自由を中心価値とする旧来の自由主義への信頼が揺らぎ出した。
 そうした危機的な状況にあった1970年代の米国で、自由の理念を再度確立するとともに、自由と平等の均衡を図ろうとする試みが現れた。その先鞭をつけたのが、政治哲学者ジョン・ロールズである。ロールズは、17世紀以来の社会契約説を再構成して、自由で平等な道徳的人格が自分たちの社会の基本構造を定める根本的な決まりごとを合意の上で選択するという仮説を打ち出した。そして、「公正としての正義」としての正義論を提唱した。これは、宗教・哲学による思想の違いに関わらず、政治的な合意を形成しようとするものであり、ロールズは、自由と平等に関し、“平等な自由原理>公正な機会均等原理>格差是正原理”という優先順位をつけた。
 ロールズの正義論は、欧米を中心に活発な議論を巻き起こした。ロールズの理論に対し、彼よりも自由を重視する自由至上主義的な立場や、彼よりも平等を重視する平等主義的な立場からの批判が出された。自由主義には、個人主義的な形態と集団主義的な形態がある。個人主義的形態とは、個人を単位とし、個人の自由と権利の確保・実現を目的とするものである。集団主義的形態とは個人の自由を尊重しつつ家族・地域・民族・国民等の共同性を重視し、集団の発展を目的とするものである。ロールズは個人主義的な自由主義に基づいているが、これに対し、集団主義的自由主義の立場から共同体を重視するコミュニタリアンによる批判が出された。ロールズが国内社会における正義と国際社会における正義を区別したのに対し、世界市民的な思想を持つコスモポリタンからの批判が出された。ロールズの権利を中心とした正義論に対し、目的論的な立場からの批判が出された。ロールズが自由について形式的な自由を説いたのに対し、ケイパビリティ(潜在能力)という概念を以て実質的な自由を説く論者からの批判が出された。また、自由主義とナショナリズムの融合を行う論者からの批判も出された。こうした議論は、今日も活発に行われている。その議論は、今日の世界における諸問題を、正義と人権という観点から論じるものとなっている。
 今日の世界では、自由の尊重とともに平等への配慮を求める傾向が、国際的に強まっている。この傾向は20世紀初頭からの社会権の実現に始まり、国際人権規約のA規約の締結に至って、地球規模の趨勢となった。これは、各国において社会的な正義の実現をめざすものである。さらに1960年代より、発展途上国の側から「発展の権利」が唱えられ、先進国と途上国の間での国際的な正義の実現が要求されてきた。
 冷戦下ではこれが米ソの勢力争いに組み込まれていた。発展途上国は、米国につくかソ連につくかによって、自由主義型の発展か、共産主義型の発展かで分かれた。冷戦下に発展途上国の側から国際的正義への要求が強まったが、米ソ超大国の国益の枠内に抑え込まれた。
 冷戦の終焉により、共産主義が大きく後退し、自由主義の優位が歴史的に確立した。それとともに、市場原理主義的な新自由主義が世界を席巻した。米国では、1929年の世界恐慌後、恐慌を招いた反省から、金融機関に規制をかけた。だが、1980年代から規制が廃止され、投機的な活動が盛んになり、国内的・国際的に貧富の格差が拡大した。
 21世紀を前にした2000年に、国連ミレニアム・サミットが行われ、ミレニアム宣言が出された。ミレニアム宣言は、世界の貧困を半減する等の目標を掲げた。ところが、その翌年に9・11の米国同時多発テロ事件が起こり、アフガニスタン戦争、2003年にはイラク戦争が勃発した。これと並行して、デリバティブ(金融派生商品)の開発による強欲資本主義の活動が猛烈化した。
 強欲資本主義は、2008年のリーマン・ショックで、破綻した。新自由主義への批判が高まり、再び規制を求める方向へ向かった。だが、数年後から強欲資本主義は再び勢いを取り戻しつつある。米国政府は、支配者集団の利益の拡大のために、TPP等を推進している。また人口の爆発的な増加の中で、世界的に富はますます偏在の度合いを強め、貧困層は食糧・水・住居・衣服等の不足により、生命・不衛生等の危険にさらされている。そこで国際的な正義が一層強く求められている。
 21世紀の地球では、国境を越えた交通、貿易、通信が発達し、人・もの・カネ・情報の移動・流通が地球規模で進むグローバリゼイションが、進行している。グローバリゼイションによって、諸文明の間の交流が多くなり、異なった文化的背景を持つ人々が接触する機会が増大している。この傾向は、今後一層活発になっていくだろう。それゆえ、文明や文化を横断し、諸国家・諸民族を貫く思想や地球人類として共存する倫理を形成することなくして、どの文明もどの国家もどの集団も生存と繁栄を単独で維持することは、不可能になってきている。そして、人権と正義に関する考え方をある程度共有せずに、環境・エネルギー・食糧・人口・核戦争等の地球規模の諸問題による危機を乗り越えることはできない状況となっている。
 以上、正義の概念とその歴史を振り返ったところで、次に第2次大戦後の人権と正義の関係について詳しく述べたい。現代の世界では、人権の思想は正義の概念を欠いては、深く検討することはできない。そうした思想状況を生み出したのが、先に触れたロールズである。そこでロールズの理論を考察し、併せてロールズ批判者の主張を検討することを通じて、今日の世界における人権と正義の関係について書きたいと思う。
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(2)現代の自由主義〜ロールズ

 

●議論を巻き起こしたロールズの正義論

 ロールズは、1971年刊行の『正義論』において、社会契約説を再構成して、自由で平等な道徳的人格が自分たちの社会の基本構造を定める根本的な決まりごとを合意の上で選択するという仮説を打ち出した。そして、「公正としての正義」(justice as fairness)という正義論を提唱した。ロールズの試みは、自由と平等の対立の調整という課題に取り組むもので、大きな反響を呼んだ。その影響は、21世紀にまで及んでいる。本稿では、人権論への今日的影響に注目する。
 ロールズは、自らの取り組みについて、次のように述べている。「私の狙いは、ロック、ルソー、カントが展開した社会契約説を一般化し、抽象度を一段と高めた一つの正義構想を提示することである。その指導理念によれば、社会の基礎構造の正/不正を判定するための正義の諸原理とは、自由かつ合理的な人々が自分たちの連合体の基礎的な条項を定めるものとして、平等な初期状態で受容するだろう諸原理に等しい」と。
 当時英米では、功利主義が支配的だった。ロールズは「功利主義は、個人間の差異を真剣に受け止めようとしない」と指摘する。「最大多数の最大幸福」を実現する効率性の観点から正義を定義する功利主義の正義観には、最大幸福をどう分かち合うべきかという分配原理が欠落している。そのため、一部の個人が不当に犠牲にされることが起こり得る。ロールズは、この功利主義の致命的な欠陥を克服し、功利主義にとって代わるべき正義論を提示しようとした。
 ロールズの思想は、非常にアメリカ的である。自由の旗のもとに多様な価値を認める米国では、特定の宗教や思想で国民を統合することは難しい。統合の拠り所となるのは、建国のもとになった独立宣言や米国憲法等の政治的な文書である。それらの文書のもとにあるのは、18世紀の社会契約の思想である。ロールズは、社会契約説を哲学的に再考し、民主的な社会における統合の原理を鍛え直そうとした。その際、カントの道徳哲学を継承し、論理的に一貫性のある正義観を生み出すことに努めた。
 ロールズは、自由を「ある事柄をするように、もしくはしてはならないという、ある種の制約から逃れているときに、人は自由(free)であり、この制約に縛られているとき、人は自由ではない(not free)」と定義する。この定義は、自由とは「運動の外的障害の欠如」すなわち自らの意思に従ってなすところを妨げられない状態としたホッブスの定義と、本質的に同じである。
 このような自由の概念を以て、ロールズは社会契約説を一般化して抽象度を高めようとした。そのために、ロールズは、伝統的な社会契約説が「自然状態」と呼んだ状況を、社会生活を開始する前にその基本的な決まりごとを参加者全員で協議し採択する場と設定し直し、これを「原初状態」と呼んだ。そして、「平等の原初状態における仮説的な同意」を社会契約であるとした。
 ロールズが『正義論』を発表すると、賛同的な意見とともに批判的な意見も多く表れた。ロールズは、これに応え、自身の正義原理を何度か修正し、理論的に発展させた。その到達点が、生前最後の著書である『公正としての正義 再説』(2001年)である。
 この著書において、ロールズは、原初状態について、次のように書いている。
 「原初状態においては、当事者たちは、自分たちが代表する人々の社会的地位とか彼らの特定の包括的教説を知ることを許されない。当事者たちはまた、人々の人種や民族集団、性別も知らないし、強さや知力などさまざまな生まれつきの才能がすべて通常の範囲内にあるということも知らない。われわれは、情報に対するこれらの制約を、当事者たちは無知のヴェールの背後にいるということによって、比喩的に表現する」
 「原初状態は、自由で平等であり、かつ、適切に情報に通じており、合理的である、そのような当事者たちにとって公正であるように設定されている。それゆえ、市民の代表者としての当事者たちが取り結ぶいかなる合意も公正である。合意の内容は、基本構造のための正義原理に関するものであるから、原初状態における合意は、そのような人格とみなされる市民相互の社会的協働の公正な条項を明確にするのである。それゆえに、公正としての正義という名称になるのである」と。
 ここで公正としての正義とは、社会的協働の公正に関するものであることが示されている。すなわち、「協働の公正な条項は、互恵性ないし相互性の観念を明確にする。すなわち、承認されたルールが要求するようにそれぞれの役割を果たす者はすべて、合意された公共的基準によって明確にされた利益を受けるべきである」とし、「正義原理の役割は、社会的協働の公正な条項を明確に示すことである」とも、ロールズは述べている。
 原初状態における合意を行うのは、自由で平等な人格であり、また生涯社会的協働に携わる市民とされる。社会的協働は集団的な活動に関する概念である。集団的な活動には、労働の他、出産・育児・教育・祭儀等が含まれるが、ロールズはその内容を具体的に検討していない。また、その活動を担う社会の構成員は一律ではなく、性別・年齢・世代・血縁関係等の違いがあるが、ロールズは多様性を考慮せず、市民という概念で一括りにしている。
 そうした市民について、ロールズは、次の二つの能力を持つ人間を想定している。

@ 正義感覚への能力。これは政治的正義の原理を理解し、適用し、準拠して行動する能力。
A 善の構想への能力。これは善の構想を持ち、修正し、合理的に追及する能力

 これらの能力は、正義と善に係る能力である。ここで想定されているのは、近代西欧的な理性的な能力である。
 ロールズは、上記のような市民が原初状態で合意する対象を、ロックのように特定の統治形態とするのではなく、社会の基本構造のための正義の原理とする。社会の基本構造とは、「社会の主要な政治的・社会的諸制度を相互に適合させて社会的協働の一システムとする方法であり、それらの制度が諸々の基本的な権利と義務を割り当て、長期にわたる社会的協働から生じる利益の分配を規制する方法である」とされる。すなわち、「その枠内で諸々の結社や個人の活動が行われる背景的な社会的枠組み」である。ロールズは、こうした社会の基本構造のための正義の原理を原初状態の合意の対象とすることによって、社会契約説を一般化しようとした。また合意は仮説的なものであり、非歴史的なものだと明確にすることで、抽象度を高めようとした。
 ロールズはこのようにして社会契約説を作り直そうとしたわけだが、そもそも社会契約説は歴史的事実と異なる仮説的な理論である。ロールズの原初状態は、作為的で恣意的な条件のもとに仮定するものであり、親子・夫婦を基礎とした家族的生命的な集団が発達する過程における意思の合成とは全く異なるものである。近代西欧の個人主義的自由主義を正当化し、自分の考える正義の原理を結論として導き出すための巧妙な仕掛けに過ぎない。
 ロールズは、ここで人権については主題的に考察していない。だが、人権の思想は17世紀以降の社会契約説の展開の中で発達したものだったから、現代において社会契約説を理論的に作り直すロールズの試みは、人権の思想を正義論の視点から批判的に考察する動きともなった。

 

●自由を優先しつつ平等に配慮する正義の原理

 ロールズは、原初状態を仮設して思考実験を行った。それを通じて、社会的な正義(justice)の原理を導き出した。正義の第一の原理は平等な自由原理である。平等な自由への権利に関わる原理であり、これには種々の自由権が含まれる。第二の原理は機会均等原理と格差是正原理である。これは、組織のあり方、所得や富の配分に関わる。原理と称しているが、基本的には自由を優先しつつ、そのもとに平等に一定の配慮をすることが正義だという主張である。この主張は、西洋文明で古代以来さまざまに論じられてきた正義を、公正(fairness)という概念を用いて理論化したものである。
 『正義論』において、ロールズは、次のように言う。「自分自身の利益の増進を願っている自由かつ合理的な人びとが、彼らの連合体の基本条項を規定するものとして、社会生活を始める前の平等な出発点において受け入れられるだろう諸原理、それが正義の諸原理に他ならない。これらの原理が、その後に結ばれるあらゆる合意を規制することになる。(略)正義の諸原理を勘案するこのやり方を『公正としての正義』と呼ぶ」と。
 ロールズは、社会を「相互利益を求める共同の冒険的企て」と規定する。人々は、互いによりよい生活ができそうだという見込みに賭けて、社会をつくる契約を結ぶ。それゆえ、社会形成後に生じる利益や社会を維持する負担をどう分配するかを取り決めておく必要がある。人々は、自由で平等な契約当事者として、フェアな状況で、正々堂々と意見を述べ合い、社会を運営する基本的なルールを全員一致で採択する。ロールズは、このように仮定するから、「公正としての正義」だと言うわけである。
 ロールズの正義原理の最終形は、『公正としての正義 再説』に書かれたものである。それによると、第一原理は、「各人は、平等な基本的諸自由からなる十分適切な枠組みへの同一の侵すことのできない請求権を持っており、しかも、その枠組みは、諸自由からなる全員にとって同一の枠組と両立するものである」。第二原理は、「社会的・経済的不平等は、次の2つの条件を充たさねばならない。@社会的・経済的不平等が、機会の公正な平等という条件のもとで全員に開かれた職務と地位に伴うものであるということ。A社会的・経済的不平等が、社会のなかで最も不利な状況にある構成員にとって最大の利益となるということ」。
 ロールズは、原初状態において彼が想定する条件のもとに人々が合理的に考え、平等に発言して議論すると、こうした原理が採択されると主張する。それによって、自由と平等の調和的均衡点を提示している。
 正義の原理において、第一原理は第二原理に優先する。自由は自由のためにのみ制約されるとする付帯ルールもあり、基本的諸自由への平等な権利に優先的地位が与えられている。また、第二原理の中でも、@の公正な機会均等原理がAの格差是正原理に優先する。すなわち、“平等な自由原理>公正な機会均等原理>格差是正原理”という関係が成り立つ、と主張する。
 正義の原理をより具体的なものとするうえで、重要なのが、「基本財(基本善 primary goods)」という概念である。ロールズは、人間は各自異なる善い生き方の構想を持つが、その構想がどのようなものであれ、各自の考える善い生き方をしようとする上で普遍的に必要となるものを、基本財という。基本財は権利、自由と機会、所得と富、そして自尊心の社会的基礎を含むとされる。この概念を加えて理解すると、第一原理は、基本財のうちでも最も基礎的な「基本的諸自由」つまり選挙権・被選挙権などの政治的自由、言論・集会の自由、思想及び良心の自由の平等な分配を命じるというものであり、第二の原理は、所得や地位など他の基本財の分配に関わり、機会の公正な平等、及び最も不利な状況にある構成員の利益の最大化を図るという二つの条件に合わせて、社会的・経済的不平等を是正するものである。
 ロールズの正義原理では、基本財概念を用いて、すべての人々に基本的諸自由を平等に保障することが、全体としての社会的・経済的利益の増進に優先される。それによって、功利主義に欠けていた個人の独自性と多様性への配慮がなされる。そのうえで、自由な個人の間の公正な機会均等を確保する。またそれに加えて、社会的な格差を是正するため、社会的・経済的弱者の福祉の向上を目指す分配的正義のあり方を示すものと言える。こうしたロールズの正義原理は、フランス革命の理念に符合してもいる。すなわち、第一原理は「自由」、第二原理のうち機会均等原理は「平等」、格差是正原理は「友愛」に対応するという見方が成り立つ。
 これらの価値のうち、中心はあくまで自由であり、自由が常に優先される。ただし、自由権のうち特定の自由権を優先するものではない。『公正としての正義 再説』でロールズは、「思想の自由と良心の自由、あるいは、政治的自由と法の支配の保障という基本的自由のどれ一つとして絶対的なものはない。というのは、互いに衝突するときには制限されるからである」とし、「これらの自由がどのように調整されるにせよ、その最終的な枠組みこそがすべての市民に平等に保障されるべきなのである」と述べている。種々の自由権を調整しつつ平等に保障する枠組みをこそ、自由としている。いわば、自由への諸権利の上に立つ制度としての自由である。
 ロールズは、17世紀以来の社会契約説の発想を継承しており、原初状態で想定しているのは、ほぼ等しい能力を持つ市民であり、彼らによる相互利益のための契約という発想をしている。そのため、障害者や社会的協働に参加できない者を、契約の当事者から除いている。社会契約に参加する市民は、抽象化され、画一化された個人である。この点は、ロールズの理論の特徴であり、また弱点でもある。

 

●正義の善に対する優先

 ロールズは、正義と善の区別を提唱し、正義の善に対する優先を主張した。正義は社会の基本構造に対応し、善は個人の生き方に対応する。正義と善の関係については、本章の始めに書いたが、近代以前の西欧は、アリストテレスの思想の大きな影響下にあった。アリストテレスは、人間をポリス的な動物ととらえ、政治的共同体をつくる目的は、公共善の実現にあるとした。その思想では、正義とは「善い生き方」にふさわしいありかたを示すものであり、善が正義によりも優先された。
 これに対し、近代西欧では、公的な善を正義とする考え方に代わって、私的な善を優先する考え方が支配的になった。私的な善を優先する場合、善は個人的な価値となり、私的な善の追求を保障する社会的な枠組みが正義となる。私的な善の優先は、さらに善を正義より優先するか、逆に正義を善より優先するかで考え方が分れる。功利主義は、公的な善より私的な善を優先し、かつ善を正義より優先する。カントは公的な善より私的な善を優先するが、正義を善より優先する、とロールズは理解する。またそこに正義と善をめぐる功利主義とカント哲学の違いと対立があるとする。
 正義と善の区別は、公と私、あるいは公益と私益の区別に置き換えることができるだろう。だが、ロールズは、あえて正義と善という対概念を選び、それによって自らの正義論と功利主義の違いを際立たせた。
 功利主義は、正義から独立に善を規定し、その善の最大化を目標とする理論である。その正義観は、社会を構成する個人の満足の合計が最大となるように社会制度が編成されている場合に、その社会は正義に適っているとする。ロールズは、功利主義を、正義を善に還元して正義と善の区別を認めない思想として批判した。
 正義と善の関係について、ロールズはカントの考え方を継承する。カントは人間が自由であるのは、道徳的な存在であるからだと考える。道徳的な存在であるとは、理性によって自らの道徳法則を自由に定めることができることである。それゆえ、カントの正義論では、道徳的な義務はいかなる善の概念にも左右されない。そこでは正義が善に対して優先される、とロールズは理解する。
 ロールズの「公正としての正義」は、彼の理解するカントにならって、正義が善に対して優先される。ロールズにおける正義が善より優先されるということには、二つの意味がある。第一に、個人の権利は集団全体の善のために犠牲にされてはならないこと。第二に、権利の枠組みを定める正義の原理は、個々人の「善い生き方」に関する特定の見解を前提にしてはならないこと。この二つである。
 ロールズは、『正義論』に次のように書いた。「一人ひとりが正義に基づく不可侵性を持っているため、社会全体の幸福ですら、それを踏みつけることはできない。正義によって確保された権利は政治的取引や社会的利益の計算には左右されない」と。
 ここにおける正義の善に対する優先は、近代西欧の個人主義的自由主義の思想である。個人主義的自由主義においては、共同体の共通目的としての公的な善は設定されておらず、各人がそれぞれ自分の人生における私的な善を、政府や他者から干渉されることなく追及することを以て、自由としている。ロールズの「公正としての正義」は、個人の自由を確保するための社会的な枠組みを正義とし、その社会において、人々がどういう善を目指すかについては論じることがない。これは、21世紀の今日の個人主義的自由主義が、価値を相対的なものとし、自由を個人の選好ととらえるのと同じ姿勢である。

 

●自由で独立した個人と価値中立的な政府

 ロールズは、『正義論』で、善に関する特定の考え方に基づく正義の理論は、宗教的なものであれ世俗的なものであれ、自由とは相容れないという考え方を打ち出した。ロールズによると、正義より善を優先する理論は、特定の価値観の押し付けとなる。
 近代西欧に現れた自由で独立した個人という人間観は、どのような目的に対しても中立で、道徳的・宗教的な問題で特定の思想に拠らず、国民が自由に価値観を選べるような権利の枠組みを必要とする。ロールズにおいては、この枠組みが正義とされた。国家において、正義は法として制度化される。正義の法の核心は、17世紀以降、欧米諸国の憲法で保障されるようになったいわゆる人権を定めたものである。
 先に正義と善について書いたが、ロールズは、正義と善の区別を提唱し、正義の善に対する優先を主張した。このような正義論は、近代西洋文明における個人と政府の関係を理論化したものである。
 個人が自分で目的を選択できる自由を確保するためには、政府は価値に対して中立でなければならない。自由に選択できる自己と価値中立的な国家は一対をなす。個人主義的な自由主義と価値中立的な国家観は、表裏一体である。
 だが、現実の国家には由来があり、歴史がある。伝統があり、国柄がある。そうした国家を、価値中立的なものとして理論化するには、社会契約説によるしかない。社会契約説では、自由で独立した個人が契約によって国家をつくるとするから、政府を価値中立的なものとする契約が可能となる。そこに理論上、自由に選択できる個人と価値中立的な政府という関係が設定される。
 ロールズは社会契約説を一般化するに当たり、カントの思想に依拠した。自らの『正義論』は、カント主義的であると自認していた。1980年の講演では、自らの立場を「カント的構成主義」と称した。カント的構成主義とは、「公正としての正義」の方法論的側面を強調する名称である。カント的な自由で平等な道徳的人格の諸個人が合意を積み上げていくという手続きから正義の原理を引き出そうとする方法であり、こうした合意形成以外に正義の原理を定める独立した基準はないという立場である。
 ただし、ロールズは、カント的構成主義がもたらす正義の原理は、近代の民主的社会における基礎的な諸制度には妥当するけれども、必ずしもすべての時代、すべての社会に当てはまるものではないと断っている。ということは、ロールズの正義論は、近代西洋文明における個人と政府のあるべき姿を説くためにひねり出したものだということになる。

●ロールズの脱カント主義化

 ロールズは、カントの思想のある部分を継承してはいるが、カントの道徳哲学が包括的な思想体系に基づくものであるのに対し、政治の分野に課題を限定し、多様な価値観と信条が併存する民主的な社会における政治道徳を追求した。
 ロールズは、前期の『正義論』では、カント的な自由で平等な道徳的人格を主体とし、カントにならって正義論を道徳哲学によって基礎づけようとする姿勢を示していた。だが、1980年代半ばごろからその姿勢を修正しはじめ、次第にカントの道徳哲学から離れていった。1996年刊行の『政治的自由主義』では、あくまで政治の分野に限って社会正義を構想する姿勢に変わった。
 後期の主要著作となった『政治的自由主義』では、自分の考える自由主義は、「そもそも人格の概念に基づいていない」とし、正義の善に対する優先は人格概念を前提しない方向へ向かった。生前最後の著書『公正としての正義 再説』では、「公正としての正義は、正義の一般的な構想ではなく、政治的な構想なのである」と明言している。
 その結果、後期ロールズの人間観は、世界人権宣言に見られるロック=カント的人間観とは違うものとなった。世界人権宣言は、人間の尊厳を認め、個人の自由と人格を尊重するが、人類を家族とし、世界平和という目的に向けた人格的発展を期待している。そこには、個人の選好を自由とする個人主義的自由主義とは異なる要素が含まれている。私は、宣言にはロールズとは別の仕方でのカントの影響を見る。
 
第2部にカントについて書いたが、私はロールズとは異なるカント理解をしている。ロールズは、カントの哲学は目的論ではないとする、だが、カントは、大意次のように説いている。道徳的実践の目的は善であり、究極目的は最高善であるが、人間は最高善を実現するには力不足である。そこで最高善の実現を根拠づけ、徳性と幸福の一致を恵み与えるものとして神が要請される。また最高善に到達するには無限の努力が必要であるので、霊魂の不滅が要請される。また人間は、単に感官的存在者ではなく、叡智的存在者であり、理性が課す義務を負う人格とみなさなければならない。互いに、単に手段ではなく、目的そのものとして尊重されねばならない、と説いた。また、自然は必然的な法則に支配されているが、最高善を目指す道徳は意思の自律に基づく。感性界において自由を実現するには、自然に合目的性がなければならない、とカントは考えた。そして、反省的判断力は、自然に合目的性を見出すとして、美、崇高の感情、有機体における合目的性を論じた。そのうえで、われわれは世界を目的に従って脈絡づけられた一つの全体また目的因の体系とみなす根拠または主要条件を持っているとして、一切の存在者の根源にある存在者は叡智体であり、全知にして全能、寛仁にして公正であり、また永遠性・遍在性を持つものでなければならないと説いて、目的論によって神学を基礎づけた。カントの自由は、神的理性につながる実践理性によって定言命法を実行することであって、幸福追求の自由ではない。カントは、キリスト教的で目的論的な道徳哲学を説き、「目的の国」を実現すべき社会の目標とした。また彼の説いた「永遠平和」は、世界史の目的であり、神の計画の実現という暗黙の前提に立ったものだった。それゆえ、カント哲学には目的論的な側面があるのであって、ロールズのカント理解は、極めて一面的である。
 ロールズは、カントの正義論を超越論的観念論の思想体系から切り出した。そして、経験論の規範にはめ込み、独自の仕方で作り変えた。その際、カントの背景にあったキリスト教思想を希薄にし、またカントにあった目的論的な要素を除去した。それによって、ロールズは、思想・信条に関わりなく受け入れられる正義の理論の構築を試みた。そこに提唱されたのが、「政治的自由主義」という立場である。これは、ロールズが構成主義という方法を除いて、自身の思想を脱カント主義化した結果である。

 

●「重なり合う合意」を求める政治的自由主義

 ロールズは、『政治的自由主義』で、自らの政治哲学を「包括的(comprehensive)な自由主義」と区別した。包括的な自由主義とは、カントやヒュームに見られるような「包括的な世界観」に基づく自由主義である。「包括的な世界観」とは、人生の価値や人格の理想を説き、政治以外の分野の問題にも答えを示す思想体系をいう。これに対して、ロールズは、政治の分野に取り組みを限った「政治的自由主義」を標榜する。
 ロールズによると、現代の民主的な社会では、宗教的・哲学的・道徳的に異なる複数の包括的世界観が併存している。それらは、融合は不可能だが、互いに暴力でなく言論を通じて、相手の意見に耳を傾けるという関係にある。ロールズは、この状態を「穏当な多元性」と呼ぶ。そして、政治的自由主義は穏当な多元性を背景とするものであり、正義の原理を示すには、真理ではなく、「筋が通っている」とか「道理に適っている」という基準に訴えるしかないと考える。
 ここで「穏当な」「筋が通っている」「道理に適っている」と書いた原語は、reasonable である。reasonable は、古くは人が理性的であることを意味した言葉で、今日では、人が道理をわきまえて分別のあること、言動に筋が通っていること、考え方が道理に適っていることをいう。そこから性質や状態が穏当・適性であることを表す。
 前期の『正義論』ではカント的な道徳的人格の概念にもとづき正義の原理を哲学的に正当化しようとする姿勢を示していたロールズは、後期の『政治的自由主義』では、人間本性に基づく普遍的な合意ではなく、相対立する宗教的・哲学的・道徳的教説(doctrine)の間で同意のできる部分、すなわち「重なり合う合意」(overlapping consensus)が得られれば十分だとする考えに変わった。「重なり合う合意」とは、具体的には、近代国家の各国の憲法に含まれる人権条項の間の重なり合いをいう。この合意は、西方キリスト教の宗教戦争やユダヤ人の解放を通じて、徐々に定着してきた「寛容の原理」を拡張するものといえる。
 生前最後の著書『公正としての正義 再説』では、ロールズは次のように書いている。
 「穏当な多元性の事実を所与とすれば、その構成員のすべてが同一の包括的教説を受け入れるような秩序だった社会は不可能である」「しかし、民主的な市民たちは、異なった包括的教説を抱いていても、正義の政治的構想には合意できる。正義の政治的構想が、民主的社会の市民としてのわれわれが得ることができる社会的統合の十分かつ最も道理に適った基礎を提供する、と政治的自由主義は考える」と。
 政治的自由主義は、特定の教説に依拠せず、価値観・世界観に関する問題には立ち入らない。そして異なる教説の間の関係を政治的に調整する仕組みを提示する。そこにおいて、正義とは「重なり合う合意」の焦点となるものである。かつて『正義論』における正義の原理は、社会契約によって社会の基本構造を定める基本的な枠組みだった。それは、集団を構成する人々が集団の内部で守ろうとする決まりごとである。これに比し、「重なり合う合意」は、複数の集団の間における合意である。各集団は、それぞれの正義を内部の原理として持つ。それらの原理は普遍的ではなく特殊的であり、相違と対立のあることが想定されている。「重なり合う合意」に関する正義は、各集団の間における正義である。その正義は、集団内の正義とは必ずしも一致しない。基本的な価値観や世界観が異なるからである。
 ロールズは「重なり合う合意」を求めることによって、米国のような多文化的な国家において、価値観・世界観の異なる集団の間で、どのように正義についての合意を成立させたらよいかという問題に答えを見出そうとしたと見ることができる。この試みは、また諸文明・諸文化が併存する国際社会において、価値観・世界観の異なる集団の間で、どのように正義についての合意を成立させたらいいのかという課題への取り組みともなる。
 だが、ここでロールズが『正義論』で取った社会契約説のはらむ問題点が浮き彫りになる。もともとホッブス、ロックらによる社会契約の国家は、歴史的に実在するものではない。社会契約説は、ヒュームらによって実証的に否定されている。だが、ロールズは『正義論』で社会契約説を一般化し、抽象度を高めることによって、「公正としての正義」を打ち出した。集団内の正義は、社会契約説による思考実験で定式化できる。しかし、集団間の正義は、社会契約説では説明できない。社会契約は仮想的なものだが、「重なり合う合意」は集団間の対話と交渉による現実的なものである。ロールズは『政治的自由主義』に至って「重なり合う合意」でよしとする立場に転じるとともに、仮説と現実、国内と国際の違いに直面し、社会契約説の限界を露呈したといえよう。
 実際、『政治的自由主義』では、正義の2原理の妥当性の根拠は、社会契約説ではなく、実質的には宗教改革以降の西洋文明の公共的な政治文化に置かれている。正義の構想も、公共的な政治文化に潜在すると想定される諸観念によって、組み立てられている。これによって、正義は歴史的・社会的・文化的な文脈によって決定されることが露呈している。だが、ロールズは自説を撤回せず、正義論の議論をやり直さずに社会契約説の手法を保ち続ける。私は、そこに学者としての名声・評価を守ろうとするための欺瞞があると思う。
 正義は、法として制度化される。一つの国家という集団の内部であれば、合意は憲法を頂点とする国内法の体系に表現される。これに対し、諸国家という集団間で合意を形成したものは、条約や協定という形による国際法に表現される。ロールズの政治的自由主義は、国家間の問題でも実際に有効かどうかを問われている。その点については、次の項目に書く。

 

●国際的な正義の追求

 ロールズの正義論は、原初状態を想定する社会契約説に立つものゆえ、もともと一個の政治社会の成立を説明するために立てられた仮説である。近代西欧で形成された国民国家をモデルとしている。ロールズは、当初自らの正義論の適用範囲を「他の社会から孤立している閉鎖システム」に限定していた。国際的な正義は検討の対象としていなかった。だが、国家は仮想的な空間に存在するのではない。
第2部に書いたように、近代西欧の国家は、様々な集団の権利関係・権力関係の中で形成され、複雑な国際関係の中で生成興亡してきた。そうした国家が構成する国際社会の決まりごととして、17世紀西欧で国際法が生まれ、以後発展を続けている。ロールズが「公正としての正義」を打ち出すのであれば、国際的な正義や法についてどう考えるのか、見解を問われるのは当然である。そのうえ、ロールズの理論を継承しつつ、国民国家の枠組みを破って国際社会における正義を論じる動きが現れた。ロールズもこれに応え、自身の理論を国際法の領域へと拡大することを試みた。
 ロールズは、前期に立てた正義の原理について、これは想定される或る社会における正義の原理のあり方であって、唯一のあり方ではないという考えに、自ら考え方を変えた。このことはまず国民国家一般ではなく、一個の国民国家におけるあり方を示すものであることを意味する。英国や米国、ドイツでは違うということになる。また西洋文明と非西洋文明でも違うということをも意味する。こうなると、抽象的・普遍的な国家社会を設計する社会契約説を止めて、歴史的・実証的な立場に転換すべきところである。だが、ロールズは社会契約説に固執しつつ、1980年代の終わりころから、国際的正義論の構築に取り組んだ。そして、「諸国民衆の法」(the law of peoples)という構想を発表した。
 ロールズは、『公正としての正義 再説』において、正義には三つのレベルがあると書いている。「われわれは正義の三つのレベルを持つ。第一にローカルな正義、すなわち諸々の制度や結社に直接適用される原理。第二に国内的正義、すなわち社会の基本構造に適用される原理。そして最後にグローバルな正義、すなわち国際法に適用される原理である」と。
 ここでロールズは「グローバルな正義」と書いているが、彼の場合は実質的に国民国家の人民を主体とした正義を考えているので、グローバルというより国際的な正義の趣旨である。
 「諸国民衆の法」は、その第三のレベルの正義を構築しようとするものである。古代ローマにおける「万民法」に着想を得ているが、法の主体をネイション(国家・国民・民族)ではなく、ピープル(人民・民衆)とする。また、個人ではなく集団を主体としている点に特徴がある。原題の“the law of peoples”は「万民の法」とも訳されているが、後で述べるように、ロールズは普遍的な法を提示しているのではなく、合意のできる民衆と民衆の間での法の構築を追求しているので、私は「諸国民衆の法」という訳の方がよいと考える。「万」の文字は、万物・万有等の熟語において、「すべての」という意味を表すため、ロールズの著書の名称に当てるのは適当でない。
 ロールズが最初に「諸国民衆の法」について発表したのは、1993年にオクスフォード大学で行われたアムネスティ・インターナショナル主催による公開講座においてだった。ロールズは、この公開講座に講演者の一人として参加した。講座の記録は、『人権について』と題され、日本語の翻訳版が出版されている。
 「諸国民衆の法」と題した講義の始めに、ロールズはこの講義の目的について、一つは「諸国民衆の法が自由(リベラル)な正義の理念からどのように展開され得るか、そのあらましをのべること」、次に「自由な正義の政治的構想を諸国民衆の法へと拡張したうえで、政治的自由主義のあり方について明らかにすること」だとし、特に問題にするのは「寛容の道理ある限界はどこに設定されるべきか」だと述べる。
 ロールズは、「諸国民衆の法」とは「国際法および国際慣行の諸原理や諸規範に関わる正しさ(the right)と正義(justice)についての政治的構想」だと定義する。実定法である国際法が「正しいかどうかを判断するための諸概念と諸原理」を提供するものということである。ロールズは、こうした構想のもとに検討を続け、1999年に著書『諸国民衆の法』を刊行した。
 本書で、ロールズは社会契約説の手法と政治的自由主義の立場のもとに、国際的正義の理論を提示している。その中で、国際的正義との関係で人権についても論じている。ロールズの政治哲学は、もともと直接人権を主題とするものではなかったが、ロールズの正義論を巡る議論は人権論の領域に広がった。人権こそ、自由と平等、個人と共同体、国民国家と国際社会の交差点に立つ概念だからである。こうして、正義論において人権が論じられ、また人権論において正義が重要な概念となった。『諸国民衆の法』は、国際社会における人権の考察を含めて活発な議論を引き起こした。ロールズに対する批判的な意見と、彼の理論を継承・発展する試みとが多く現れている。『諸国民衆の法』の内容及びその批判・継承・発展については、次章「国際的正義とグローバル正義」に書くこととし、ここでは続いてロールズの理論全般を批判する論者について述べることにする。
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(3)様々な立場からのロールズ批判

 

●自由至上と平等重視の立場からのロールズ批判

 ロールズの正義に関する理論は、英米圏にとどまらず、わが国を含めて世界的に大きな反響を呼んだ。彼の見解をめぐって重要な論争が展開され、哲学・政治学・法学等の多くの分野で幅広い議論が行われてきた。ロールズの理論に対し、自由と平等の重点の置き方についてノージックとドゥオーキンが、個人と社会の関係についてコミュニタリアンが、権利と目的の関係についてサンデルが、自由とケイパビリティ(潜在能力)の違いについてセンが、国家間的な国際的正義と個人間的なグローバル正義の違いについてベイツ、ポッゲ、ヌスバウムが批判を繰り広げている。本稿は、こうした議論が特に人権論に大きな影響を与えていることに注目する。
 ロールズは、自由を優先しつつ、機会の平等と格差の是正を図ることで、自由と平等の調和的な均衡を実現しようとした。ロールズは、自分の「公正としての正義」を現実政治の文脈に置くと、米国では「リベラル左派」、イギリスでは「社会民主主義」もしくは「労働党支持派」というレッテルを貼られるだろうと書いている。ロールズは、政治的自由を擁護しながら経済的自由の制限を求める政府の市場介入や累進的所得税による再分配に肯定的である。その点で、彼の思想はミルの修正自由主義の系統であり、ニューディール政策やケインズ主義、福祉国家論に通じるものがある。
 1970年代の米国に、こうしたロールズを批判する思想家たちが現れた。ロールズ以上に自由を重視する主張をしたのは、ロバート・ノージックである。ロールズ以上に平等を重視する主張をしたのは、ロナルド・ドゥオーキンである。
 ノージックは、ロールズを古典的自由主義の立場から批判した。今日米国で「リベラル」と言えば、主に修正的自由主義を意味する。そこで、古典的自由主義者は、自らの自由主義が修正的自由主義と異なることを主張するため、リバータリアニズムを標榜する。リバータリアニズムは、個人の自由を至上の価値とする思想である。自由至上主義または絶対的自由主義と訳される。
 ノージックは、著書『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)で、すべての個人は、生命、自由及び財産の権利を侵害されることなく、侵害されれば処罰や賠償を求めることができる絶対的な基本的権利を持つとする。ノージックは、この権利を、人間は単なる手段ではなく目的であり、本人の同意なしに何かの目的を達成するために利用したり犠牲にしたりすることは許されないというカント的な思想で基礎づける。ノージックによると、道徳的に正当化できる国家(政府)は、暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の履行の強制に限定される「最小国家」のみである。所得の再分配等の機能を果たそうとする「拡張国家」は、人々の権利を侵害するゆえに正当化されない。最小国家は、人々の自由な活動と結合による自発的共同体であるユートピアのための枠組みとして「メタ・ユートピア」という性格を持つとする。
 ノージックは、国家に必要なのは市場の中立性と矯正的・手続き的正義の確保であると説く。また取得と交換の正義が満たされている限り、どのようなものであっても、結果としての配分は正しいとする。功利主義やロールズの格差是正原理については、分配の結果を何らかの範型に当てはめようとするものであり、政府によるそうした押し付けは、個人の自由を侵害し、専制的な再分配を正当化するものであると批判する。この考え方は、政府による市場への介入に対して全体主義への道と強く反対したハイエクや、第2次大戦後、新古典派経済学の中心となり、新自由主義の経済理論を説いたフリードマンに通じるものである。
 次に、ドゥオーキンは、ロールズより平等主義的な立場から彼を批判した。ドゥオーキンの著書『権利論』(1977年)によれば、権利は既に個別化された政治的目的であり、どのような社会的目標よりも優先される。個人の権利の中で最も基底的な権利は、「平等な配慮と尊重への権利」である。これは、立法に先立つ道徳的権利であり、人々の根源的平等を確保する権利である。諸個人の持つ平等権こそが、私的な善を尊重する自由主義の核心をなす。この権利は、政府に対し、諸個人を自律的な道徳的人格として尊重し、一定の生活様式を押し付けないことだけでなく、諸個人が人間らしい生活を送ることができるように配慮することを求める。
 ドゥオーキンは、分配的正義について、結果の平等や機会の平等ではなく、「資源の平等」を説く。「資源の平等」とは、政府は、各人の生まれつきの能力の相違や自然的・社会的偶然から生じる資源の差について、財の再分配によって市場経済の欠陥を公正の観点から是正する義務を負うとするものである。ロールズは、格差是正原理を「社会的・経済的不平等が、社会のなかで最も不利な状況にある構成員にとって最大の利益となるということ」として抑制的に定式化したが、ドゥオーキンは、個人は一定の生活水準を確保するための経済権・福祉権を持ち、政府はそれらの権利を実現する義務を負うと説いた。この点で、ドゥオーキンは、ロールズより社会権を遥かに重視している。ロールズよりもっと社会民主主義的である。
 ドゥオーキンは、政治理論を目的・権利・義務の結合の仕方から、目的基底的、権利基底的、義務基底的の三つに分ける。「基底的」は、“-based”の訳である。ドゥオーキンは、行為はあらかじめ善とされた目的に貢献する限りでのみ善いとするアリストテレス的な目的基底的理論や、行為の道徳性を重視し義務は義務のためになされるべきとするカント的な義務基底的理論を退ける。そして、個人の意志と選択を尊重し、権利が義務に先立つとする権利基底的理論を提示している。これは、平等を求めて、義務よりも権利の実現を求める主張である。個人主義的な社会民主主義と言えよう。
 ロールズに対するノージックとドゥオーキンの批判は、ロールズよりも自由を重視するか、平等を重視するかの違いによる批判である。人権論の観点から言うと、ここには自由を至上の価値としその実現を以て人権の実現とする考え方、社会的な平等の実現こそ人権の実現とする考え方、また自由を優先しつつ自由と平等の均衡点に人権の実現を目指す考え方がある。人権は普遍的・生得的として自明の権利とされるというのに、その人権について、これだけ違う考えがあるわけである。
 ノージックもドゥオーキンも、ロールズと同じく、公共善の実現を目的とせず、私的な善の追求を保障する枠組みを正義とし、正義を善より優先する。その点で、彼らは三人とも、個人主義的な自由主義の思想家である。これに対し、自由主義を根底的に批判する思想が欧米に現れた。それが、コミュニタリアニズム(共同体主義)である。次に、コミュニタリアニズムによるロールズ及び自由主義への批判を見てみよう。

 

●コミュニタリアニズムによる自由主義批判

 コミュニタリアニズムは、1980年代に、ロールズ、ノージック、ドゥオーキンらを批判する思想として出現した。コニュニタリアニズムは、コミュニティ(共同体)を重視する思想である。コミュニタリアン(共同体主義者)は、近代西洋文明で主流となった自由主義に、根本的な疑問を呈する。私的な善を公的な善より優先し、政府に価値中立であることを求める思想の問題点を抉り出し、共同体の復権と自律的・自覚的な主体による共同社会の建設を説く。アラスデア・マッキンタイア、チャールズ・テイラー、マイケル・ウォルツァー、マイケル・サンデルらがその代表的な論者である。
 コミュニタリアニズムは、現代のさまざまな社会的病理現象が、自由主義に起因するとする。社会的病理現象とは、共同体の崩壊であり、それに伴って人間関係が希薄となり、人間の主体性が失われていることである。自由主義は、個人単位の考え方によって、家庭や社会に深刻な事態を招いている。例えば、個人の幸福追求の結果として離婚が増加し、社会福祉への依存によって家族ヘの責任感が弱まっている。それによって、夫婦・親子の関係が不安定になり、家庭の崩壊が進んでいる。また個人の自由や福祉が重視されるあまり、社会のさまざまな集団で人々の結びつきが弱くなり、道徳意識の低下や政治的な無力感が社会全体に広がっている。
 コミュニタリアンは、自由主義がこうした社会病理を生み出したのは、個人主義的な自己観念にあると指摘する。自由主義は、個人は社会関係から離れて、それ自身として自分自身の所有者であり、自分自身の意志にしたがって善を選択し生きていくものと考える。それゆえ、個人は他者との関係や相互の承認とは無関係に、社会になんら責任や義務を負うことなく、権利を持つものとした。こうした近代的自己を、テイラーは「遊離せる自己(the disengaged self)」、サンデルは「負荷なき自己(unencumbered self)」と呼ぶ。彼らによれば、近代的自己は、社会関係から切り離され、自己の意思決定だけを拠り所とする「内容を欠いた空虚な自己」である。これに対し、コミュニタリアンは、「共同体の中にある自己」という別の自己認識を対置する。
 マッキンタイアは、著書『美徳なき時代』(1981年)で次のように述べる。「われわれはみな、特定の社会的アイデンティティの担い手として自分の置かれた状況に対処する。私は、ある人の息子や娘であり、別の人の従兄弟や叔父である。私はこの都市、あるいはあの都市の市民であり、ある同業組合や業界の一員である。私は、この部族、あの民族、その国民に属する。したがって、私にとって善いことはそうした役割を生きる人々にとっての善であるはずである。そのようなものとして、私は、自分の家族や、自分の都市や、自分の部族や、自分の国家の過去からさまざまな負債、遺産、正当な期待、責務を受け継いでいる。それらは私の人生に与えられたものであり、私の道徳的出発点となる。それが私自身の人生に道徳的特性を与えている部分もある」と。
 そして、マッキンタイアは、人間を「物語る存在」ととらえる。マッキンタイアによると、人間は本来的に自己解釈的で物語的(narrative)な存在である。人間は自らの意識の中で、過去、現在、未来を統一する。人間は言語共同体の中で他者と会話しながら、「何をなすべきであり何をなすべきでないか」を判断して行動する。善は単に主観の問題であるにとどまらず、一定の客観性を帯びるに至る。共同体における共通の善との関わりにおいて、初めて自己の生に意味が与えられ、アイデンティティも保障される。
 マッキンタイアは、近代的自己と「自己についての物語的見解との対照ははっきりしている」という。「私の人生の物語はつねに、私のアイデンティティの源である共同体の物語のなかに埋め込まれているからである。私は過去を持って生まれる。だから、個人主義の流儀で自己をその過去から切り離そうとするのは、自分の現在の関係を歪めることである」と述べる。
 マッキンタイアらのコミュニタリアンによれば、近代西洋哲学は感情主義か主観主義に陥っている。善を直接的に問うことを避け、価値の選択を個人の感情や主観に委ねている。これは人間の存在と道徳的な行為についての根本的な誤解によるものである。価値相対主義が支配的な現代社会では、道徳も政治も個人の選好の問題へと矮小化されてしまう。こうした社会において、コミュニタリアンは、個人の主体性の確立が重要だと主張する。自分が生まれ、育ち、あるいは参加する共同体の中で自己のアイデンティティは形成され、個人は真に道徳的・政治的主体性を確立することができる、と説く。
 私見を述べると、コミュニタリアニズムの自由主義批判は、自由主義の個人主義的形態を批判するものであって、コミュニタリアニズムは近代西洋文明の自由の価値を否定しているのではない。コミュニタリアニズムは、集団主義的自由主義の立場から、個人主義的自由主義を批判するものである。
 コミュニタリアニズムによる個人主義的自由主義への批判は、わが国における近代的自己の乗り越えに通じるものがある。19世紀後半から近代化・西洋化の大波を受けてきたわが国では、近代的な個人意識が発達する一方、共同体や国柄への回帰を説く思想が登場した。国粋主義や日本主義がそれである。その哲学における最良の成果は、人間を間柄的存在ととらえた和辻哲郎の倫理学である。欧米では、1980年代に入ってようやく日本での議論に100年近く遅れて、個人主義的自由主義を根本的に批判する動きが現れたと見ることができる。そこでもわが国の場合と同じように、アイデンンティティや主体性の拠り所は、伝統や文化に求められている。
 コミュニタリアニンはコミュニティ一般を重視し、地域的(ローカル)、民族的(エスニック)、国民的(ナショナル)な共同体の問題に強く関心を向ける。そのことによって、近代市民社会で失われつつある共同性の回復を志向する。
 こうしたコミュニタリアニズムによる個人主義的自由主義への批判は、近代西欧合理主義的な人間観の見直しにつながるものでもある。ロールズが原初状態で想定した市民は、正義感覚への能力と善の構想への能力を持つ人間だった。これらの二つの能力は、理性的な能力である。だが、人間が集団において共通の意識を持つには、同胞意識や連帯感、共通の記憶が必要である。言い換えれば、基本的な信頼関係であり、生命的な一体感である。その根底にあるのは、他者と喜怒哀楽を共にする感情的な能力である。そうした感情的な能力は、家族において親子・夫婦・兄弟姉妹・祖孫等の間で家族愛を通じて培われ、家族的生命的なつながりに基づく共同体で発達するものである。ロールズは、近代西欧合理主義的な人間観に立つことによって、理性的能力に偏った発想をし、感情的能力が軽視されている。近代西欧合理主義の隘路を抜け出すには、理性と感情のバランスを求める発想が必要である。コミュニタリアンの自己像は、理性中心ではなく、理性と感情のバランスを持った人間観に向かうものとなるだろう。私は、理性と感情の共通の根に関わる能力として、共感に注目すべきだと考えている。共感については、第4部のまとめとなる第12章の人権の基礎づけに関する項目に書く。
 さて、ロールズらの個人主義的自由主義を根本的に批判するコミュニタリアンのうち、最大の存在はサンデルである。次に、サンデルの主張を詳しく見てみよう。
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(4)公共哲学の正義論〜サンデル

 

●サンデルは公共善を説く

 アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルは、ハーバード大学の歴史で最も多くの聴講者を集めている教授として知られる。サンデルは、コミュニタリアン(共同体主義者)の一人に数えられるが、サンデル自身は、自分に対するコミュニタリアンというレッテルは、「多くの点で誤解を招く」と言う。自分は「常にコミュニタリアン側が正しいと考えているわけではない」「コミュニタリアニズムが多数決主義の別名、あるいは正義とはある時代のあるコミュニティで主流をなす価値観に依存すべきものだという考え方の別名である限り、私はそれを擁護しない」と述べている。その点に留意しつつ、本稿の分類ではコミュニタリアンに含める。
 ロールズ、ノージック、ドゥオーキンらの自由主義の正義論は、近代的自己を前提とするものゆえ、基本的に権利基底的理論である。公共善や道徳的義務よりも、権利を優先する。一方、彼らを批判するコミュニタリアンは、共同体において歴史的・社会的・文化的に形成され、受け継がれてきた共通の価値を重視する。サンデルは、さらに積極的に公共善の必要性を説き、また、正義を認定する論拠はそれが促進する目的や目標の道徳的重要性にあるという目的論的な考えを支持し、権利基底的な理論から目的基底的な理論への転換の方向を指し示している。

●位置づけられた自己

 サンデルは、カントやロールズの自由に選択できる独立した自己の概念を「負荷なき自己(unencumbered self)」と呼んで批判する。「負荷なき自己」とは、いかなる歴史的・社会的・文化的な制約からも自由な選択の主体である。「主意主義的自己(voluntarist self)」とも呼ぶ。
 実際には、諸個人は、何の負荷も受けずに存在しているのではない。生まれた社会、家族の関係、置かれた状況等において、さまざまな重荷を負っている。そこでサンデルは、マッキンタイアの「物語る存在」という概念を支持する。「人間は物語る存在だ。われわれは物語の探求としての人生を生きる。『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語の中に自分の役を見つけられるか?』という問いに答えられる場合だけだ」とサンデルは言う。物語を語るということは、「自分の家族や、自分の都市や、自分の部族や、自分の国家の過去のさまざまな負債、正当な期待、責務を受け継ぐ」ということである。「マッキンタイアによる人格の物語的な考え方は、自由に選択できる負荷なき自己としての人格を見る主意主義的な考え方とは好対照をなす」とサンデルは指摘する。
 サンデルは「人間の義務と責務はすべて意志や選択に帰することができるか。できない。われわれは、選択とは無関係な理由で連帯や成員の責務を負うことがある。その理由は、物語と結びついており、その物語を通じてわれわれは、自分の人生と自分が暮らすコミュニティについて解釈するのである」と述べている。
 サンデルは、「負荷なき自己」に対して、共同体との繋がりを自覚したコミュニタリアン的な「位置づけられた自我(situated self)」を対置する。situated は「〜に位置すること」「特定の場所にいること」を意味する。「位置づけられた自己」とは、「自ら選んだのではない道徳的絆に縛られ、道徳的行為者としてのアイデンティティを形づくる物語に関わりを持つ自己」である。
 サンデルの自己論は、単なる自己認識ではなく、道徳意識や政治的関心に裏付けられているところに特徴がある。サンデルは、「自分自身をまったく負荷なき自己として構想することは、われわれが通常認めている、広範囲な道徳的で政治的な責務の意味を理解できなくなることである。その責務によってわれわれは、特定のコミュニティ、生活史、伝統による成員であることと結びついているからである」という。また、「家族や同胞の行動に誇りや恥を感じる能力は、集団の責任を感じる能力と関連がある。どちらも、自らを位置づけられた自己として見ることを必要とする」と述べている。
 私は、自己認識について、この見方を妥当と考える。ただし、訳語の問題として「位置づけられた自己」は、日本語として練れていない。situated は、特定の場所や地位にあることを言う。社会関係の中で特定の立場や地位にある自己という意味であり、「特定の立場にある自己」という説明的な表現の方が良いと思う。

 

●連帯の義務

 サンデルは、カントやロールズの「負荷なき自己」ではなく、マッキンタイアの「物語る存在」という概念を支持する。その理由は、道徳的責任には三つのカテゴリーがあるが、「負荷なき自己」の概念ではそのうちの一つをまったく説明できないためだとする。
 サンデルのいう道徳的責任のカテゴリーとは、次の三つである。

@ 自然的義務:理性的存在者として他者に対して負う責任。敬意を以て人に接すること、正義を行い、残虐行為を避けること等。普遍的な義務であり、合意を必要としない。
A 自発的義務:他者との間で自らが負うと同意した責任。自分が約束したことを守ること。個別的な義務であり、合意を必要とする。
B 連帯の義務:家族や一定の歴史を共有する人々に対する責任。個別的な義務であるが、合意を必要としない。

 カントやロールズが道徳的な責任として認めるのは、これらのうち、@とAのみである。しかし、サンデルはBの連帯の義務が存在するという。サンデルは、「公的な謝罪と補償、歴史的不正に対する共同責任、家族や同胞が互いに負う特別な責任、兄弟や子としての忠誠、村やコミュニティにみられる連帯の要求は、われわれの道徳的、政治的体験によく見られる特色」であり、連帯の義務の存在は否定できないと主張する。カントやロールズの正義論では、こうした種類の道徳的責任を認めることができない。それは、「負荷なき自己」という自己認識によるためだ、とサンデルは考える。これに対し、「物語る存在」または「位置づけられた自己」という認識に立てば、@の「自然的義務」、Aの「自発的義務」とは異なるBの「連帯の義務」を自己は負っているという意識が働く。
 連帯の義務として、サンデルがまず挙げるのは、家族が互いに負う特別な責任である。母親の介護等がこれに当たる。次に、サンデルは、コミュニティの成員の責任を挙げる。フランスのレジスタンスのパイロットが、自分の住んでいた村を破壊する爆弾を拒否した例やイスラエルによるエチオピアのユダヤ人救出の例を述べる。後者の例は、とりわけ興味深いものである。
 サンデルは、1980年代前半、エチオピアで飢饉が起こった時、イスラエルがエチオピアのユダヤ人を救出してイスラエルに搬送した行動は適切だったか、と問う。「連帯と帰属の責務を受け入れるならば答えは明らかだ」とサンデルは言う。「イスラエルはエチオピアのユダヤ人の救出に特別の責任を負っており、その責任は難民全般を助ける義務(それはほかのすべての国家の義務でもある)よりも大きい。あらゆる国家には人権を尊重する義務があり、どこであろうと飢餓や迫害や強制退去に苦しむ人がいれば、それぞれの力量に応じた援助が求められる。これはカント流の論拠によって正当化され得る普遍的義務であり、われわれが人として、同じ人類として他者に対して負う義務である。いま答えを出そうとしている問いは、国家には国民の面倒を見る特別な責任がさらにあるかどうかである」と述べ、国家には、無差別的に人権を尊重する普遍的な義務とは別に、自国の国民の面倒を見る特別な責任がある、と主張している。
 そして、「愛国心に道徳的根拠があると考え、同胞の福祉に特別の責任があると考えるなら、第三のカテゴリーの責務を受け入れなければならない。すなわち、合意という行為に帰することのできない連帯あるいは成員の責務である」と説いている。
 私見を述べると、カントや前期ロールズの思想は個人主義的で世界市民的傾向が強く、普遍的な人権の尊重を強調する一方で、家族的生命的なつながりによる共同体の一員としての特殊的な責任を基礎づけられない。だが、自己は家族や地域社会や国家社会から様々なものを負っており、それゆえに自己は家族や地域の人々や自国の国民に対し、特別の責任を負っている。親や先祖に感謝し、その恩に報いようとすること。民族や国民の一員として、民族の繁栄や国家の存続のために尽力しようとすること。これらは、「物語る存在」または「位置づけられた自己」として、果たすべき義務である。
 カントやロールズの正義論とサンデルの正義論の違いは、移民問題を考える時、さらに重要な違いとなって現れる。サンデルは移民政策について、次のように書いている。
 「最も恵まれない人々を助けるという観点からすれば、移民に門戸を開くという政策にも一理ある。とはいえ、平等主義に共鳴する人々も、それを支持するのは躊躇する。この躊躇には道徳的根拠があるだろうか? そう、確かにある。だがそれは、共同生活と共有する歴史ゆえにわれわれが同胞の福祉に対して特別の責務を負うと認める場合に限る。そして、そう認めるかどうかは、人格をめぐる物語的な考え方を受け入れるかどうかによる。この考え方によれば、道徳的行為者としてのわれわれのアイデンティティは、われわれが暮らすコミュニティと不可分である」と。
 「負荷なき自己」と「物語る存在」または「位置づけられた自己」という自己認識の違いは、一国の政策の違いとなって現れる。前者の個人主義的自由主義を信奉すれば、移民の大量受け入れと多文化主義の政策が正当となり、後者の共同体主義を支持すれば、移民より国民の権利を優先し、移民を制限し移民を文化的に同化する政策が正当となる。移民問題は人権論と正義論の接点に存在する問題であり、近代西洋文明による自己認識に固執するならば、あらゆる国家は流入する移民に対して国民の権利を守ることができず、その結果、国民を統合している正義の仕組みをも失うことになる。
 私は、サンデルの「連帯の義務」という考え方は、共同体の道徳的意義を認め、ローカリズム(地域主義)、エスニシズム(民族主義)、ナショナリズム(国民主義)を評価するものとなると考える。ローカル、エスニックまたはナショナルな連帯の義務は、道徳的責任として集団を構成する諸個人が果たすべき義務とされるだろう。この時、自然的義務と連帯の義務、普遍的義務と個別的義務の二者択一を迫られる状況が考えられる。西方キリスト教はすべての人への無差別的な愛を説くが、人間の家族を単位とした集団生活を行うという特徴を踏まえると、家族から段階的に広がる差別的な愛が、人間の本質に適っている。道徳的義務については、家族的・部族的・民族的・国民的等の義務を優先し、そのうえで他の集団への支援を行う援助義務を担うとすべきである。それぞれの家族・部族・民族・国民等の集団において、集団内の連帯の義務を果たしつつ、集団間で相互に可能な支援をし合うことによって、より広い範囲での共同性を実現するという自助自立と相互援助の道徳が基本となるべきである。

 

●正義と善の結合

 サンデルの連帯の義務は、カントやロールズの正義論のように正義と善を区別するのではなく、正義と善を結合する必要があることを説くものである。
 サンデルは、カントやロールズの「負荷なき自己」の概念は、正義と善は切り離すことができ、正義は善よりも優先されるという考え方と深く結びついたものだと指摘する。
 サンデルの理解するところでは、カントは、道徳的な義務はいかなる善の概念にも左右されることはないと考えた。人間の自由は道徳的存在であることによる。道徳的存在は理性によって自らの行動原理を自由に定めることができる。この考え方によれば、正義と善は区別でき、正義は善よりも優先される。前期ロールズは、こうしたカントの思想を継承している。彼らは、自由に選択できる「負荷なき自己」という自己認識に立っているから、このように正義と善の関係を説くのである。
 これに対し、サンデルは、「位置づけられた自己」という別の自己認識を示す。「位置づけられた自己」は、連帯の義務を負う。連帯の義務においては、カントやロールズにおける正義と善の関係とは異なった正義と善の関係が示される。
 サンデルは、ロールズ的な自由主義と自分の見解の争点は、正義が重要かどうかではないという。「そうではなく、善い生き方について特定の考え方を前提とせずに正義を規定し、正当化できるかどうかである。問題は、個人の主張とコミュニティの主張のどちらを重視すべきかではない。そうではなく、社会の基本構造を支配する正義の原理が、市民の抱く相容れない道徳的・宗教的な信念に関して中立であり得るかということだ。言い換えれば、根本的な問題は、正義は善に優先するかどうかである」と問題の焦点を示す。
 そして、次のように述べる。「カントにとってもロールズにとっても、正義の善に対する優先は、二つの主張を意味している。それらを区別するのが大事である。一つ目の主張は、ある種の個人的な権利は非常に重要なものであり、公共の福祉ですらそれを踏みにじることは許されないという主張である。二つ目の主張は、われわれの権利を規定する正義の原理の正当性は、善い生き方をめぐる特定の構想、最近のロールズの表現を借りれば、包括的な道徳的・宗教的構想に依拠するものではないという主張である」と。そしてサンデルは、「自分が異議を唱えるのは二つ目の主張であり、一つ目の主張ではない」と言う。
 サンデルは、カントや前期ロールズにならって、普遍的な人権を尊重する。また人類には、普遍的な自然的義務があることを肯定する。サンデルは、カントの『道徳形而上学原論』(別訳は『人倫の形而上学の基礎づけ』、1785年)について、本書は「18世紀の革命主義者が人間の権利と呼んだもの、そして21世紀初頭のわれわれが普遍的人権と呼んでいるものの強固な礎となっている」という。
 カントについて、サンデルは、次のように述べている。「カントによれば、人間はみな尊敬に値する存在である。それは自分自身を所有しているからではなく、合理的に推論できる理性的な存在だからである。人間は自由に行動し、自由に選択する自律的な存在でもある」「われわれはもはや、誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものである。この能力が人格と物とを隔てているのである。カントにとって、人間の尊厳を尊重するのは、人格そのものを究極目的として扱うことである」「カントのいう尊厳は、人間性そのものへの尊敬であり、すべての人に平等に備わっている理性的な能力への尊敬である。だから自分自身の人間性を侵害するのは、他者の人間性を侵害するのと同じように好ましくない。だからこそカントの尊敬の原理は、普遍的人権主義に一役買っているのである。カントにとっては、すべての人間の人権を守ることが正義である。相手がどこに住んでいようと、相手を個人的に知っていようといまいと関係ない。ただ相手が人間だから、合理的推論能力を備えた存在だから、したがって尊敬に値する存在だから、人権は守られるべきなのである」と。
 今日の普遍的人権という観念にカントが強い影響を与えていることを、これほど明確に述べているものは他になかなかないほど、サンデルはカントの思想に従っている。
 サンデルはカントを踏まえて次のように言う。「あらゆる国家には人権を尊重する義務があり、どこであろうと飢餓や迫害や強制退去に苦しむ人がいれば、それぞれの力量に応じた援助が求められる。これはカント流の論拠によって正当化され得る普遍的義務であり、われわれが人として、同じ人類として他者に対して負う義務である」と。
 サンデルは、こうしてカント主義的な普遍的義務を認めた上で、人間には家族・部族・民族・国民等の共同体における特殊的な義務、連帯の義務のあることを強調する。連帯の義務は、正義を善と区別し、正義を善より優先する考え方では説明できない。連帯の義務のあることを認めるならば、正義と善を切り離して考えることはできないというわけである。
 サンデルは、次のように説く。「哲学的な問題としては、正義に関するわれわれの省察は、善い生き方の本性や人間の最高の目標に関する省察から合理的には切り離せない。政治的な問題としては、正義や権利について討議する場合、その討議の土俵となる多くの文化や伝統の中に現れる善の概念に言及しない限り、前進はあり得ない」と。
 またサンデルは、次のようにも述べている。「平等主義であれリバータリアニズムであれ、権利に基づく自由主義の出発点には、次のような主張がある。すなわち、われわれはバラバラの独立した個人であり、それぞれが自分なりの目的、関心、善の概念を持っているという主張である」と。
 サンデルは、平等重視的なロールズやドゥオーキン、また自由至上的なノージックの個人主義的自由主義は、権利基底的な理論だと見ている。権利基底的な理論は、個人の権利は、共同体の目的やカント的な義務に先立つという理論である。権利基底的な自由主義は、「負荷なき自己」を前提としている。自己は善を選択する自由を持ち、正義は私的な善を選択する権利を保障する枠組みのこととする。権利基底的な理論は、正義と善を区別し、正義を善より優先する。サンデルは、これに対して、「位置づけられた自己」を対置し、正義と善は切り離せないと反論する。
 私は、この点においてサンデルの見解を支持する。実際の社会は、個々に全く異なる善の構想を持つバラバラの個人の集合ではない。歴史的・社会的・文化的に共通の価値を形成し、その価値を世代から世代へと継承してきた集団である。その集団は、共通の価値としての公共善を持っている。それが集団の目的でもある。集団の中で生まれ育った諸個人は、自ずとその共通の善のもとに価値観を形成する。諸個人の権利を保障する枠組みも、自ずと公共善を踏まえたものとなる。正義の前提として公共善が存在する。私的ではなく公的な善が、正義に先立つ。公的な善の実現という集団の目的が、私的な善の選択という個人の権利に先立つ。
 正義は法に表現される。成文憲法を持たない国家または社会では、社会規範の中に集団の目的としての公共善が盛られており、公共善に基づく規範が正義の原理となっている。成文憲法を持つ国家では、憲法に国家の目的としての公共善が書かれ、それを実現するための正義が表わされ、憲法のもとに個別的な法が制定されている。この公共善と正義の体系の中で、諸個人の権利の保障が規定されている。諸個人の権利は、基本的な人権とされる場合と、国民の権利とされる場合があるが、どちらにしても、実態としてはまず集団の権利があり、そのもとに個人の権利が承認されている。集団の権利は、公共善を実現するための権利であり、その目的のもとに集団の合意によって行使される。

 

●自由主義への批判

 サンデルは、ロールズによって「正義の政治的構想として考えられた自由主義」は、三つの反論にさらされている、と言う。
 第一に、「ロールズが訴える『政治的価値観』は大切だとしても、道徳的・宗教的な包括的教説の内部から提起される主張を、政治的な目的のためにカッコに入れる、つまり脇へ置くことが必ずしも合理的だとは限らない」。
 第二に、「現代の民主主義社会に住む人々が、相容れない多様な道徳的・宗教的見解を持っているというのはそのとおりだが、道徳や宗教に関する『穏当な多元性の事実』が正義の問題には当てはまらないとは言えない」。
 第三に、「市民が政治や憲法の基本問題を論じる際、自分の信じる道徳的・宗教的な理念を持ち出すのは正当ではない」というのは「あまりにも厳しい制約であり、政治論議を貧弱にし、公共の熟議の重要な要素を排除してしまう」。
 これら三つの反論は、コミュニタリアンによるものであり、サンデル自身によるものでもある。
 サンデルは、第一の反論について、「道徳や宗教の主張を考慮せずに『政治的価値観』の優先を断言することの難しさは、重大な道徳的・宗教的問題にかかわる二つの政治論争を考えてみればわかる」として、二つの例を挙げる。一つは現代欧米社会における妊娠中絶の権利をめぐる論争、もう一つは1858年米国における住民主権と奴隷制をめぐるエイブラハム・リンカーンとスティーヴン・ダグラスの討論である。
 まず堕胎の問題について、サンデルは次のように言う。「胎児の道徳的地位に関してカトリック教会が正しいとすれば、つまり中絶が道徳的には殺人に等しいとすれば、寛容や女性の平等という政治的価値観がいかに重要であろうと、それが優位に立つ理由は明確ではない」「中絶するかどうかを決める女性の権利を尊重する議論は、発達の比較的早い段階で胎児を中絶することと、子どもを殺すことの間に妥当な道徳的違いがあると示せるかどうかに左右される」と。
 次に、奴隷制の問題については、サンデルは次のように言う。「ダグラスによれば、奴隷制の道徳性について見解が一致しないのは避けられないから、国策においてはこの問題に対して中立を守るべきだという。彼が擁護した住民主権の教説は、奴隷制の是非を判断せず、各準州の住民に自由な判断に任せるというものだった」。これに対し、リンカーンは反論した。「政策は奴隷制について実質的な道徳判断を避けるのではなく、表明するものであるべきである」「奴隷制をめぐる道徳問題をカッコに入れることに納得できるのは、それが自分の考える道徳的悪ではないという前提がある場合に限られる」と。
 第二の反論について、サンデルは次のように言う。「ロールズのようなリベラル派平等主義者とノージックやフリードマンのようなリバータリアンの論争」は「配分的正義の正しい原理とは何かをめぐる意見の不一致であり、格差是正原理をめぐる意見の不一致ではない。だが、ここからわかるのは、民主主義社会には道徳や宗教についてと同様、正義についても『穏当な多元性の事実』が存在するということだろう。そうだとすれば、正義と善の非対称性は崩れてしまう」と。正義と善の非対称性とは、正義が善より優先されるということであり、非対称性が崩れるとは、正義の善に対する優先は根拠を失うということである。続けてサンデルは、次のように述べる。「穏当な多元性の事実が正しいとしても、正と善の非対称性はさらに別の前提に依拠している」。「それは道徳や宗教について我々の意見が一致しないにもかかわらず、正義については同じような意見の不一致はない、あるいはよく考えてみればないはずだという前提に立っている」。だが、「周囲を少し見渡すだけで、現代の民主主義社会に意見の対立が満ち満ちていることがわかる」「アファーマティブ・アクション、所得分配と税の公平性、医療、移民、同性愛者の権利、言論の自由と差別発言、死刑など、ざっと例を挙げただけでもこれだけある」と。
 次に、第三の反論について、第一の反論、第二の反論でサンデルが挙げた例には、道徳的・宗教的な価値観の違いが政治的な意見の違いになっているものが多くあり、それらが第三の反論の例証となる。多様な価値観が併存する社会で政治的な議論を行う際、各自の信じる道徳的・宗教的な理念を持ち出してはならないとすれば、実りある議論ができなくなる。政治的な合意も形成されず、意見の相違は対立のままになってしまう。
 ロールズによって「正義の政治的構想として考えられた自由主義」は、これらサンデルの挙げる三つの反論に対して、有効な再反論をすることができない。それは、個人主義的自由主義が前提としている「負荷なき自己」という自己認識が誤っているためであり、また正義と善を区別できるとする理論が社会の現実と乖離しているためである。私は、この点サンデルの見解は、妥当なものと考える。

 

●目的論を再評価

 サンデルは、「正義は善と相関しており、それと独立した存在ではない」と考える。その点では、コミュニタリアンと見解が一致する。ただし、見解の違う点がある。その相違点は、サンデルの思想の独自性を示すものである。
 サンデルは「正義は善と相関しているという主張には、二つの種類があり、通常の意味で『コミュニタリアン』的とされるのは、そのうちの一つだけである」と言う。
 サンデルは、正義と善を結びつける一つ目の方法は、「正義の原理はその道徳的な力を、特定のコミュニティや伝統の中で一般に支持されていたり、広く共有されていたりする価値観から引き出す」と考えることだという。この方法は「何が正義で何が正義でないかを定義するのはコミュニティの価値観であるという意味で、コミュニタリアン的である」と言う。
 二つ目の方法は、「正義の原理は、それが資する目的の道徳的価値や内在的善に応じて正当化される」と考えることである。サンデルはこの方法は「厳密に言えばコミュニタリアン的ではない。この方法が、正義を認定する論拠はそれが促進する目的や目標の道徳的重要性にあるとする以上、目的論的あるいは完成主義的というほうがふさわしい」と言う。サンデルは、アリストテレスの政治論をその例に挙げる。アリストテレスの政治論は目的論であり、また人間は徳を身に付けて自己完成に至るべしという完成主義(perfectionism 卓越主義)である。
 「二つの方法のうち、第一のものは適切ではない」と、サンデルは判断する。「何らかの慣習が特定のコミュニティの伝統で認められているという事実だけでは、それを正義とするのに十分とは言えない。正義を因習の産物としてしまえば、その批判的性質を奪うことになるからである。問題となる伝統が要求するものをめぐって解釈が対立することを考慮しても、それは変わらない。正義と権利に関する議論が、価値判断に関わる側面を持つのは避けられない。権利を擁護する論拠は本質的な道徳的・宗教的な教説に中立であるべきだと考えるリベラル派と、権利は支配的な社会的価値を土台とすべきだと考えるコミュニタリアンは、似たような過ちを犯している。どちらも、権利が促進する目的の内容について判断するのを避けようとしているのである」と指摘する。そのうえで、「選択肢はこの二つだけではない」として、「私の見るところもっと妥当な第三の可能性は、権利の正当性はそれが資する目的の道徳的な重要性にかかっているとするものである」と述べる。
 サンデルは、基本的にロールズらの自由主義に批判的であり、コミュニタリアニズムに一定の賛意を示す。正義と善の関係についてもそうである。だが、コミュニタリアニズムが、何が正義で何が正義でないかを定義するのはコミュニティの価値観であると考える点は、間違っているという。そして、上記の「二つ目の方法」、つまり正義の原理はそれが資する目的の道徳的価値や内在的善に応じて正当化されると考えることへの支持を述べる。ここでサンデルは、他のコミュニタリアンと異なり、アリストテレス的な目的論の考え方への賛同を表明する。
 サンデルの理解によると、「アリストテレスにとって、正義について判断することは、問題となっている物の目的(テロス)あるいは性質に基づいて判断することである。正しい政治的秩序について考えるためには、善い生き方から論じなければならない。最善の生き方がどんなものかをまず知らなければ、正しい国制を構築することはできない」。そして、次のように言う。「現代の正義論は、公正さや正しさに関する問いを、名誉、徳、道徳的真価をめぐる議論から切り離そうとする。すべての目的にとって中立的な正義の原理を探り、人々が自ら目的を選び追求できるようにしようというのである。だが、アリストテレスは、正義がそのように中立的なものだとは考えない。彼の考えでは、正義をめぐる論争は必然的に、名誉、美徳、善い生き方をめぐる論争になるのである」と。
 サンデルは、こうしたアリストテレスの正義と善に関する考え方を高く評価する。そして、正義には美徳を涵養することと公共善について判断することが含まれるという見解への支持を明らかにしている。
 欧米社会には、現在もカトリックの文化とプロテスタントの文化の違いがある。さらにユダヤの文化が深く浸透している。カントやロールズはプロテスタントの文化を背景にしているが、サンデルの背景にはアリストテレス=トマス的な伝統が存在する。また米国では、アメリカ的なナショナリズムに対して、ユダヤ的なナショナリズムが影響力を持っている。この要素もサンデル自身の思想には、見受けられる。さらに米国にはアフリカ的な文化、ヒスパニックの文化、イスラームの文化等が、「サラダボール」のように混在している。
 こうした社会において、サンデルは、次のようにいう。「公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、実現できない。公正な社会を実現するためには、善い生き方の意味をわれわれが共に考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化を創り出さなければならない」とサンデルは言う。道徳的・宗教的な信念の違いによって意見が対立する事柄だが、社会的に重要な課題は多くある。サンデルは、それを回避すべきではない、積極的に取り組む必要があると説く。そして、「公共の文化」を創り出すために、サンデルは、教育や政治参加の推進が必要だとし、「公共哲学」を説いている。
 サンデルは、公共哲学において、未だ共同体または国家の目的をはっきり示していない。それは、アリストテレスのいうところの「最も望ましい生き方の本性」を明確にし得ていないからだろう。アリストテレスは、「それが曖昧なままであるうちは、理想の国制の本性もまた曖昧なままであるしかない」と説いているからである。
 私は、サンデルが説く集団の目的を重視する目的基底的な考え方を妥当とするとともに、物心調和の文明、共存共栄の世界を建設するための公共哲学・公共文化の創造が必要だと考える。その新文明建設という目的のもとに、個人・集団・国家の権利と義務の体系的な見直しが必要と考える。
 さて、私は、ここまでに書いたコミュニタリアン及びサンデルの思想は、欧米の市民社会において、そこでの共同性の回復を図るものと考える。それらの思想はローカル、エスニックまたはナショナルな共同体を志向しており、世界人権宣言や国際人権規約、各種の国際人権条約については、積極的に考察していない。そのため、人類規模の善や国際的な正義に関する議論へと発展していない。私は、彼らの思想は、資本主義世界システムにおけるメトロポリスの住民の思想であると考える。巨大国際金融資本によるグローバリズム(地球統一主義・地球覇権主義)が生む国際的な格差の是正や、発展途上国側が主張した「発展の権利」の確立・拡大については、主体的に検討していない。人間開発や人間の安全保障の思想とも、まだよく結びついていない。世界の貧困者を何パーセント減らすとか米国の乳児死亡率を何パーセントに下げるとかいう具体的な目標がない。そこに、ここまでに書いたコミュニタリアン及びサンデルの限界を私は見る。
 この点、ロールズは、世界人権宣言や国際人権規約、各種の国際人権条約について具体的には論じないが、「諸国民衆の法」の構築を試みることによって、国際的な正義を目指す取り組みのきっかけとなった。ロールズを批判する者の中には、ローカル、エスニックまたはナショナルな共同体を志向するのではなく、グローバルな問題に取り組み、世界的に大きな影響を与えている思想家もいる。後程そうした思想家について検討するが、その前に、わが国において、ロールズ及び現代の自由主義を批判する代表的な思想家として、佐伯啓思について述べたい。
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(5)自由主義を根本的に批判〜佐伯啓思

 

●佐伯啓思は自由主義を根本的に批判

 佐伯啓思は、わが国の優れた社会経済学者・社会思想史家である。佐伯は、近代西洋文明や現代日本社会のあり方について、根本的なところからの反省を行っている。佐伯は、著書『自由とは何か』等で、コミュニタリアン及びサンデルに近い立場から、ロールズ及び現代の自由主義を批判している。
 近代西洋文明では、ホッブスからロールズまで、自由を「制約のない状態」と定義している、と佐伯は指摘する。そして、この自由観に基づく現代の自由主義には、三つの基本的な柱があるという。「価値についての主観主義あるいは相対主義」「中立的な国家」「自発的な交換」の三つである。
 第一の柱について、佐伯は言う。「価値への相対主義によって、われわれはいかなる価値につくべきか、といった議論ができなくなってしまう。それは公共的に論じるべき事柄ではなく、個人のひっそりとした孤独な選択でしかないのだ。だが、そうなると、そもそもリベラリズムの想定する社会からは価値などというものは姿を消してしまう。価値へのコミットメントが持つ社会的な妥当性への言及がなければ、すべては好みの問題に解消されてしまうからだ」と。
 だが、佐伯は、「価値は本質的に個人の主観を超えた次元を持っている」と言う。「ある価値に基づく行動は、常に社会的な妥当性を求める」。また、個人の責任による選択において「重要な規範的基準を与えるもの」は、「その社会の習慣や常識である」と述べる。私流に言い換えると、価値には本質的に公共的な次元がある。規範的基準を与える習慣や常識は、歴史的・社会的・文化的に形成され、世代間で継承されるものだからである。
 第一の柱である価値についての主観主義あるいは相対主義は、第二の柱である価値中立的な国家を要請する。ここにいう国家は政府というべきところである。価値中立的国家とは、「価値の領域に対しては国家は介入しない、ということ」だが、これは厳密にはあり得ない、と佐伯はいう。「自由や民主主義、そして基本的人権等も近代の『価値』であり、近代国家はこれらの価値は積極的に掲げるべきことをリベラリズムは唱えるからだ。またいかなるリベラリズムの国家といえども、人々の生命・財産の尊重は決定的な価値とみなしている。ここでも国民の生命・財産に第一義の価値を置くという点で国家は価値中立的ではあり得ない」。指摘の通りである。コミュニタリアンもサンデルも、この点を佐伯のようには明確に認識していない。
 第三の柱である自発的な交換は、第一の柱、第二の柱から導出されるもので、市場における交換は個人の自発的な行為だとするものである。私見を以て補足すると、近代資本主義社会は、個人は所有物をどのように処理することもできる絶対的な権利を持ち、互いに自由に契約を結ぶことができることを原則としている。自発的な交換の前に、この原則があることに留意しなければならない。ここにもキリスト教の思想があり、統治権としての主権が、神から人へと転じたように、被造物に対する神の主権が、所有物に対する人の主権に転じたと考えられる。それが自由な契約による自発的な交換が自由主義の柱となる前提条件である。
 さて、佐伯は、上記の三つの柱を挙げて、現代の自由主義に対して根本的な批判を行う。佐伯は、現代の自由主義には、市場中心主義(ハイエク、フリードマン)、能力主義(ノージックはこれか市場中心主義に近い)、福祉主義(ロールズ)、是正主義(ドゥオーキン、セン)の四つの原理があるとする。センとは、アマルティア・センのことだが、彼については、後の項目で述べる。佐伯は「この四つの立場は、すべて個人の自由を基本に据えている。議論の基調はあくまで個人主義にある」「さらにこの四つの立場のすべてが、ある種の『権利』のほうが『善』より優先されるべきだと考えている」と指摘する。最後の文における「権利」は right 等の西欧単語の訳語であり、原語は同時に正義・正当性を意味する。それゆえ、この一文は、正義の善に対する優先と読み替えることができる。思想史を踏まえた議論としては、正義と善という概念に整えた方が良い。
 佐伯は、一つの社会を構成するには、この四つの原理のいずれかに基づくほかないであろうという。ここでの社会は自由で民主的な社会に限られるだろう。佐伯は述べる。「これは相反する価値の間の選択にほかならない」「この選択は個人の嗜好に基づく選択ではなく、集団の選択だ」「個人は個人としてではなく、集団として選択し、場合によっては集団の決定に従属することになる。このとき個人はリベラリズムの言う『自由』を失わざるを得ない」「一つの社会が善に関する想定のうちの一つを選ぶということは、ある意味で、生き方についての個人の選択の自由は排除されたことを意味している。つまり『善の構想』はあくまで一つの社会共同体において存在するのであって、個人レベルでの自由な選択においてではないのである」と。
 私見を述べると、この「集団の選択」を行う方法の一つとして発達したのが、議会制デモクラシーである。討論や選挙を通じて集団としての意思決定を行う。その結果としての法や政策を執行するのが、政府である。それゆえ、政府は価値中立的ではあり得ない。また、集団が一つの社会を構成するための原理を選択することは、公共善を定めること、または確認することである。私的な善はその中で、集団の目的に適う範囲で成立し、承認される。このことは、善の正義に対する優先、または善と正義の不可分性を示すものである。

 

●自由・平等は目的実現のための手段・条件

 佐伯は「近代社会を構成している重要な価値」として、「生命尊重主義あるいは自己保存の原則」「抑圧からの解放」「合理的な実証主義」の三つを挙げる。これらの「三つの価値はそれ自体としては決して人間の活動の目的ではなくてあくまで手段」である、と佐伯は指摘する。生命尊重主義や自己保存の原則は、人が何らかの活動をするための基本条件である。抑圧からの解放も、人が何らかの活動をする条件を与えるものである。合理的な実証主義も、真理なり真実なりに到達する方策である。言い換えると、目的ではなく手段なのである。
 自由や平等は、これらの三つの価値から出てくる観念である。そして、自由や平等の観念もまた人間が何かを実現するための手段であり、条件である。近代社会では、「活動の目的は主観的であり相対的であるために、それについては論じることができない」。そこで客観的条件としての自由や平等に焦点が合わされた、と佐伯は言う。それだけではなく、やがて自由や平等こそが最高価値とみなされることとなった。「これは価値の転倒というほかない」「なぜなら本来、価値あるものは、人間の活動の目的であって、その条件や手段そのものではないからだ」と佐伯は言う。私は、この意見に同意する。補足するならば、ここにおける人間の活動は、個人の活動ではなく、個人を含む集団が行う活動である。
 佐伯は次のように説く。「自由も平等も生命尊重も重要な価値には違いない。だが、それらが重要なのは、自由や平等を通して何か生活や活動が実現されるからであろう。この『意義ある活動』や『意義ある生活』といったとき、そこに『何か善いもの』という価値が本来は想定されていた」「この種の『何か善いもの』という観念と切り離して、自由や平等、生命尊重などを無条件で最高価値とみなすわけにはいかない」「自由にしろ、平等にしろ、生命尊重にしろ、人間がそれによって何かを実現していくための条件であって、その実現すべき『何か』こそが本当は価値あるものである。それに価値ありとすればこそ、その条件である自由や平等などにも重要な価値が与えられる」と。ここで、「意義ある活動」「意義ある生活」「何か善いもの」とは、善のことである。善の概念を用いて整理すると、佐伯は、自由・平等・生命尊重等は、善を実現するための手段であり、条件である。自由・平等・生命尊重等も価値だが、それ以上の価値が善である。善という価値を実現する手段・条件であることによって、自由・平等・生命尊重等にも価値が与えられる、と説いているわけである。
 善という価値には、私的な善と公的な善がある。私的な善は個人的な次元のものであり、公的な善は公共的な次元のものである。公的な価値は、集団が構成員の合意によって選択するものである。それが公共善である。正義は、その社会の公共善と切り離すことが出来ない。善と正義は不可分である。この考え方は、サンデルの理論と近いところにある。佐伯は、サンデルと異なり、アリストテレス的な目的論の再評価を積極的に説いてはいない。だが、佐伯とサンデルの両者がそれぞれ目指しているのは、目的基底的な理論と言えよう。
 私は、ここで佐伯とサンデルは、人間とは何かという人間の本質に関する問いを発しなければならないと思う。私は、
第1部で人間は集団生活を行う動物であり、家族を単位とする社会を構成するところに特徴があると述べた。この家族的生命に基づく人間観に立つと、近代西欧の自由主義より、現代欧米のコミュニタリアニズムが妥当であり、さらにアリストテレス的な目的論の再評価がされるべきこととなる。正義論について言えば、権利基底的な理論や義務基底的な理論より、目的基底的な理論が家族的生命に基づく人間観に適っている。また、人間は単に生物的存在ではなく、文化的存在である。人間は言語を用いて、文化を創造する。言語の習得・使用は、家族において親子間から始まり、世代間でその能力が継承されていく。子孫を産み育てるのは、集団の維持・繁栄を目的とする。生命の再生産、次世代の養育・教育は、世代交代を介した生命と文化の維持・発展を目的とするものである。この点からも、アリストテレス的な目的論の再評価と目的基底的な理論の構築が求められるのである。

 

●超越的な「義」と「日本的精神」

 佐伯啓思は、著書『自由とは何か』で、自由には「義」という次元があると主張している。「現代のわれわれは、つい自由を『個人の選択の自由』として理解してしまう。しかし、その背後には二つの次元がある。ひとつは『社会の是認』もしくは『他者からの評価』であり、もう一つは『義にかなう』という次元である。少なくとも自由の観念は、この三つの層の重なりにおいて論じなければならないと思う」「この背後にあるものもあえて排除しようとした点にこそ、現代の自由の混迷があるといわざるをえないのである」と佐伯は述べる。社会の是認もしくは他者からの評価は、人間の社会性について言うものである。集団の選択に個人が従属すると佐伯が述べたのは、この点に関わる。一方、第三の層に係る義とは、「多様なレベルの共同体の規範を超えたいっそう超越的な規範への自発的な従属」である、と佐伯は言う。
 義に関する佐伯の論考は、自問自答しつつ模索しているような書き方であるため、主張が明確でないが、私の理解によると、佐伯は、「個人の選択の自由」の背後に、「共同体の規範」と「超越的規範」という二つの次元があると考えている。義は、第三の次元である超越的規範を指す。義は「東洋思想固有のもの」であり、西洋の「絶対的な命令に服する責務」とは違う、と佐伯は言う。天・道・五倫・六度などと「いってもよく」、「国家や共同体の他者からの評価や評判を超えたもの」と述べている。社会の是認や他者の評価に係る共同体の規範を超えたものということだろう。正義は justice の訳語だが、義に近い西洋語は、英語で言うと principle だろう。
 佐伯の義に関する考察を善の概念でとらえるならば、「個人の選択の自由」の次元は私的な善をめざし、「共同体の規範」の次元は公的な善をめざし、「超越的規範」の次元は公共善を超えた最高善をめざすものだということができよう。人は、共同体の防衛のためには互いの生命を捧げる。人々は、そのために生命を捧げた人間に感謝し、また慰霊を行う。人はまた超越的な義のためにも生命を捧げる。国家・民族の大義、宗教共同体の教義、結社の仁義等の規範は、共同的でかつ超越的でもあり得る。そこに、異なった義を持つ集団の間での非妥協的な対立・抗争が生まれ、その解決や回避のためにいかにして相互理解や相互承認を得るかという課題が生じもする。
 ところで、佐伯は、義は西洋的な「絶対的なものを前提」とした倫理とは違うと言っているので、その超越的規範には、西洋的な倫理は含まれないことになる。それでいて、佐伯はカントの定言命法は義に当たるとし、孟子の義と類似のものと見ている。しかし、カントはキリスト教的な神を前提にした道徳を説いている。定言命法は、東洋的な道を知り、自ずと道に従うといった境地とは、大きく異なる。
 私は、佐伯と違って、西洋には「超越的規範」があると考える。そもそも超越的という概念は、西洋で発達したもので、自然的世界を超えたものとしての神を意味する「超越」から来ている。プラトンのイデアとユダヤ=キリスト教の神の意思に係る規範は、超越的規範と言える。
 東洋の規範との違いについては、まず東洋の規範を超越的規範というのが適当かどうかということを指摘したい。東洋では、自然とは別の存在にして、自然を外から創造した者としての神を想定しないからである。超越的規範というより、むしろ自然的規範と言った方がよいだろう。
 仮に東洋的な自然的規範も含めて、広い意味で超越的規範と呼ぶとすれば、西洋と東洋では、もとにある原理・理法が異なるので、それに基づく規範も異なる。また超越的なものを仮定する方向が違う。西洋では、自己の「上への超越」、東洋では自己の「底への超越」であり、近代西洋では意識の領域で極限をめざし、伝統的東洋では無意識の領域に根源を求めるという違いがある。
 佐伯は、本書で超越的な義の存在を指摘したのみで、それ以上に考究は進んでいないようである。だが、世界では、超越的な義を頂く集団が併存し、価値観の違いによる争いが行われている。ロールズが「諸国民衆の法」の構築を目指したのは、超越的な義を信奉する集団の間でも可能な相互承認のための枠組み作りだったといえる。前期ロールズを受けた個人を行為主体とするグローバルな正義の構築を目指す取り組みや、後期ロールズの国際的正義の構築の試みを継承する取り組みが行われている。これに比し、佐伯の場合は、グローバルではなくナショナルな領域を志向している。それは、佐伯がグローバル・エコノミーの発展に対してナショナル・エコノミーの再構築の必要性を説くことによる。この点は次の項目で述べる。
 著書『自由と民主主義はもうやめる』で、佐伯は、わが国における共同的な価値について考察し、戦後失われた「日本的精神」を取り戻す必要性を訴える。「日本的精神」を取り戻すことによってのみ、現代文明を覆うニヒリズムを克服することができると主張する。佐伯の場合は、こうした主張が、資本主義経済の歴史的・思想的な研究に基づいている点に独創的な特徴がある。

●グローバリズムを克服するために「日本的価値」の回復を

 佐伯は、ロールズ、ノージック、ドゥオーキン、マッキンタイアやサンデルらと異なり、政治哲学の専門家ではない。社会経済学、経済思想史を基盤に、経済・政治・心理・文明等を総合的に考察する学者である。佐伯は、資本主義の本質と歴史を研究し、ウェーバーとゾンバルトの論争の再評価、アダム・スミスとケインズの思想の見直し、貨幣に関する精神分析学の摂取等を通じて、資本主義における人間の精神作用の解剖を試みている。私流に佐伯の諸論を要約すると、資本主義の発達過程で、近代人はウェーバーが説いたような初期の宗教的な倫理を失い、存在の不安に陥り、不安解消のために、欲望を無制限に増大させている。欲望の象徴である貨幣の自己増殖運動によって社会的な価値が空無化され、世界的にニヒリズムが文明の崩壊をもたらしつつある。『欲望と資本主義』『幻想のグローバリズム』『欲望と貨幣〜資本主義の精神解剖学』が、この主題に関する佐伯の一連の著作である。
 佐伯は、20世紀末以降の世界はグローバリズムの拡大によって、各国の経済・社会が不安定になっているとし、「金融の経済」であるグローバル・エコノミーに対して、「労働・生産の経済」であるナショナル・エコノミーの強化が必要であると説く。グローバリズムの進行で人間が大地から切り離され、また家庭・地域・民族・国家が解体されていくのに抗するために、「善い生き方」とは何かを再考し、各国の伝統・文化を重視することを呼びかける。この主張は、一部コミュニタリアンの主張に通じるとともに、アリストテレスの公共善の思想に淵源を持つものでもある。ロールズの個人主義的自由主義をグローバルに推し進めようとするコスモポリタニズムとは、正反対の主張である。
 佐伯は、現在のわが国はデフレ脱却や大規模自然災害への備えを課題とするゆえに、特にナショナル・エコノミーの強化が必要だと強調する。そして、この点から、「日本的価値」の回復を訴えている。「日本的価値」の中核には、「日本的精神」があると説く。
 グローバリズムの克服は世界的な課題である。その克服のための道の一つは、それぞれの社会における伝統的な価値の回復である。だが、伝統的な価値の回復は、超越的な義の信奉を硬直化し、非妥協的なものともなり得る。この点において、わが国に伝わる日本精神は、「和の精神」であり、共存共栄の理法であるから、ナショナルな価値の回復が国際的な正義の構築に貢献できるものとなるだろう。私は、日本精神には、世界的な経済格差の是正、文化的な多様性の尊重、自然環境との調和による共存共栄の世界を実現する原理が潜在していると考えている。日本精神については、様々な論考を著しているので、マイサイトの拙稿を参照願いたい。
 結びに、佐伯の主張は、人権という観点から見ると、個人主義的自由主義の人権論では、今日のグローバリズムや世界的なニヒリズムを克服しえないことを強く示唆するものである。個人の尊厳に配慮しつつも個人本位・権利志向ではなく、家族・民族・国家、責任・義務・目的を重視した人権論の構築が急務だと私は考え、本稿を書いているものである。
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関連掲示
・マイサイトの「和の精神」及び「日本精神」のページ

 

(6)発展途上国からの正義論〜セン

 

●センは発展途上国側から正義論を説く

 ロールズ及び彼の正義論を批判する論者について書いてきたが、続いてロールズを批判的に継承し、現代の人権論に多大な影響を与えているアマルティア・センについて書く。センは自由主義(リベラリズム)に基づきつつ、ケイパビリティ(capability)という概念で自由の概念を掘り下げたケイパブリズム(capablism)の創始者である。
 1933年、英領インド生まれのセンは、アジア人で初めてノーベル経済学賞を受賞したことで知られる。アマルティアの名は、アジア人初のノーベル文学賞受賞者ラビンドラナート・タゴールによって名づけられた。センはタゴールが創った学校で教育を受けた。9歳のとき、1943年にベンガル大飢饉が起こり、200万人以上が餓死した。センは強烈な印象を受け、その記憶と貧困の原因への疑問が結びついて、後に経済学者になる決心をした。
 センは、ロールズの正義論を学び、これを批判しつつ、自由、平等、正義、人権に関する新たな思想を生み出し、国際間の不平等や貧困の解決等の課題に取り組んでいる。今日国連が思想的な柱としている「人間開発」や「人間の安全保障」という考え方は、センに負うところが大きい。センは現代の人権論を検討する上で欠かせない存在である。
 センは、主著『正義のアイデア』で、自分の基本姿勢について述べている。センによると、近代西洋哲学には、正義に関して二つの異なる考え方がある。一つは「契約論的アプローチ」で、完全に公正な社会的取り決めを示すことに集中し、公正な制度を特徴づけることを、正義論の主要な課題だとする。社会契約論のホッブス、ロック、ルソー、カント、ロールズらがこのグループである。もう一つは、「比較論的アプローチ」で、制度だけでなく、実際の人々の行動や社会的相互作用やその他の重要な決定要因によって人々の暮らしがどのようなものになるのかを比較する。アダム・スミス、コンドルセ、ウルストンクラフト、ベンサム、マルクス、J・S・ミルらがこのグループである。センは、後者の伝統に立つ。
 センは、何が理論的に完全な正義なのか、どうすればそのような正義に適った制度を構築することができるのかを考えることは、現実の問題を考える上であまり意味がないとし、もっと役に立つアプローチは、実際の世界に存在する明らかな不正義を取り除くにはどうすればよいかを考えることだとする。比較によって不正義を取り除くことに合意できれば、理論を持たなくても前進することができるとする。
 センは、契約論と比較論には類似点もあり、共通の特徴として、理性的な推論に基づくことと公共的討論を要求することを挙げる。そして、自分は比較論的アプローチを取りながらも、カントの基本的な洞察の影響を強く受けていると述べている。

●ロールズの正義論を批判

 センは、ロールズの正義論を高く評価しながら、その問題点を指摘する。

・完全に公正な社会の要求を特定することだけに集中して、正義について相対的な問いに答えるという分野を無視していること。
・社会的達成という広い視野を無視して、もっぱら「公正な制度」のみに関わる正義の原理によって正義の要求を公式化しようとすること。
・他所で影響を受ける人々の声を聞く制度的必要性がないため、ある国における行動と選択から、その国の国境を越えて人々に及ぼし得る悪影響を無視していること。
・どの社会も、他の世界から切り離されたとき、影響を受けやすい偏狭な価値の影響を正すための体系的な手続きを持っていないこと。
・理性的な政治的規範や価値は複数あるため、原初状態においてさえ、様々な人びとは、公共的討議の後でさえ、様々な原理を正義にとって適切なものと見なし続けることができるという可能性を考慮していないこと。
・仮想的な社会契約にもかかわらず、一部の人々は常に「理性的に」行動するとは限らないという可能性が生じる余地を残していないこと。そのことは、社会的取り決め(もちろん、制度の選択を含む)の適切さに影響を与え、すべての人々が、特定の「理性的な」行動を守るという強力な仮定を強制的に用いることによって、極めて単純化されている。

 このようにロールズの問題点を指摘するセンは、ロールズの正義論を超えて独自の思想を打ち出した。それは、自由を絶対的に優先するロールズへの批判を通じてである。
 センは、『正義のアイデア』で次のように述べる。
 「ロールズの第一原理、すなわち、すべての人が等しく共有する個人の自由の優先に関する議論について、私はロールズと概ね一致しているので、この優先が、ロールズが示したほど絶対的なものでなければならないのかどうかを検討することは有用である。自由の侵害は、それ自体、重要な問題だとしても、なぜある人、あるいは、ある社会にとって、極度の飢えや飢饉や流行病やその他の惨事から来る苦しみよりも常に重要なものと判断されなければならないのだろうか」
 「なぜ我々は、飢餓や医療を受けられないことの方が、個人のあらゆる種類の自由の侵害よりも重要ではないと見なさなければならないのだろうか」「ロールズは後の著作(特に『政治的自由主義』)では実質的に自由にそれほど極端な優先権を与えないようになっている。自由がある種の優先権を持たなければならないということを受け入れることはできるが、完全な無制限の優先権を与えるのは言い過ぎであろう」と。
 なお、私見ながら、ロールズにおいて正義原理の中心は自由であり、自由が常に優先される。ただし、自由権のうち特定の自由権を優先するものではなく、種々の自由権を平等に保障する枠組みをこそ、自由としていることに留意したい。
 センはまたロールズの第二原理の要素である格差是正原理について、次のように言う。「ロールズは、基本財(基本善 primary goods)を良い暮らしに変換する能力が人によってかなり多様であることを考慮せず、人々が持っている機会を人々が保有する手段のみによって判断する。例えば、身体障害者は、健常者と同じ水準の所得や他の基本財を持っていたとしても、できることはかなり少ない。妊婦は、妊娠していない人よりも、取りわけ多くの栄養を必要とする」と指摘する。
 センは、こうして、ロールズが自由を常に最優先すること、及び人によって基本財を利用する能力が異なることを考慮していないことを批判する。その批判を通じて、自由の概念を掘り下げ、ケイパビリティという独自の概念を生み出した。単なる ability ではない。capability である。
 センのケイパビリティは、「人間の生命活動(functioning)を組み合わせて価値のあるものにする機会であり、人にできること、もしくは人がなれる状態」を意味する。実際に人が何かをすること(doing)、または何かになること(becoming)のできる能力であり、「潜在能力」とか「実質的自由」等と訳される。私は、この概念は、センの思想全体の要になっている。そこで私は、センをケイパブリスト(capablist)と呼ぶ。

 

●自由とケイパビリティ

 ケイパビリティは、自由に関する概念である。センは、まず自由について、『正義のアイデア』で次のように述べる。
 「自由は、少なくとも二つの理由により価値がある」「第一に、より自由であれば、我々の目標、我々が価値を認めるものを追求する機会が、より多く開かれる」「自由のこの側面は、我々が価値を認めるものを達成する能力に関わっていて、それがどのように達成されるかという過程には関わりがない」「第二に、我々は選択の過程自体に重要性を認めるかもしれない」と。後者の選択の過程とは、個人の意思による選択の自由に関するものである。
 ロールズは、正義論においてこうした自由について考察した。その際、鍵となっているのが、基本財の概念である。基本財は、権利、自由と機会、所得と富、そして自尊心の社会的基礎を含むものとされる。センは、「基本財は、せいぜい人間の暮らしにとって価値ある目的のための手段でしかない」とし、「基本財は何か別のもの、特に自由のための手段に過ぎない」と主張する。この点で、センは、自由を中心とした近代西洋思想の伝統を継承している。センが独自性を見せるのは、その自由の実際的な内容を検討しているところにある。
 センは、『人間の安全保障』(集英社新書 講演・論文集)に収められた「人権を定義づける理論」と題した講演で、次のように述べる。
 「ケイパビリティは一種の自由であり、これは人が良好な栄養状態であることをはじめ、生命活動の特定な組み合わせをどれだけ選択できるかを表すものである」
 ここでポイントとなるのは、ケイパビリティの拡大は、個人の自由意志による選択の幅を広げることを意味することである。
 センは、『正義のアイデア』で、次のように述べる。
 「ケイパビリティ・アプローチは、人の暮らしに焦点を合わせるものであり、経済分析で人の成功を測る主要な基準として用いられる所得や財のような、単に有用なモノではない。確かに、ケイパビリティ・アプローチは、暮らしの手段から離れ、暮らしの実際の機会に焦点を移すことを提案する」と。
 ケイパビリティ・アプローチは、まったく同じ手段を持った人同士でも、現実に与えられる機会はきわめて異なったものになる可能性があることを明らかにする。
 「たとえば、所得もそれ以外の基本財も完全に同じ条件であれば、障害者がなしとげられることは、健常者よりもはるかに限られている。(略)健常者と比べた場合に、障害者は実際に全く同じ機会に恵まれているとは言えないのである」と。
 センはまた次のように述べる。
 「富は、それ自身、我々が価値を認めるものではない。また、我々の富を基礎として、我々がどんな暮らしを達成しているかを示す良い指標でもない。深刻な障害を持つ人が、健常者よりも多くの所得や富を持つという理由で、健常者よりも優位にあると判断することはできない。実際、障害を持つ金持ちは、障害を持たない貧しい人よりも多くの制約を受けているかもしれない。様々な人々が他者と比べて持っている優位性を判断する上で、我々は、彼らが享受することのできるケイパビリティ全体を見る必要がある」と。
 このように説くセンは、ケイパビリティの概念を用いて、同じ基本財でも、それが実際に可能にする自由は、健常者と障害者、富裕者と困窮者等の間で異なることを明らかにした。例えば、同じ自転車という財が与えられても健常者と身障者ではその使い勝手が異なる。この点を考慮せずにただ手段を平等に分配しても、本当の平等にはならないことを、センは指摘する。そして、とくに人間生活の基本となる衣食住、社会生活への参加等については可能な限りの平等を図るべきだと訴え、障害者、女性、困窮者等の権利を主張している。
 センは、ケイパビリティの概念は、世界の貧困問題の解決に取り組むうえで、有効だとする。センは、貧困を低所得あるいは福祉の欠乏ととらえる従来の解釈に対し、ケイパビリティが低い状態ととらえることを提案した。センは『不平等の再検討』で、「所得中心の見方からケイパビリティ中心の見方に軌道修正することで、立ちはだかる貧困がどういったものかについてのわれわれの理解は深まる」とし、「ケイパビリティの見方は、貧困撲滅の政策における優先順位についての明確な指針」を与えるという。
 講演「人権を定義づける理論」では、次のように言う。
 「生きるのに最低限必要なものでさえ欠乏する深刻な状況が世界各地で起きており、それらの多くが選択されたものではなく、こうした状況を回避する自由がないことから生じていると思われる」と。
 欠乏を回避する自由がない状態は、ケイパビリティが低い状態である。それは個人の選択の自由によるものではなく、発展途上国の多くの深刻な現実である。
 センは、ケイパビリティが示す実質的自由について、次のように言う。「より多くの自由は、人々が自らを助け、そして世界に影響を与える能力を向上させる」。すなわち、潜在能力の機能の拡大こそ、発展の究極的目標であり、またそれは同時に自由の拡大を意味すると主張するのである。
 国連開発計画(UNDP)による『人間開発報告書』1997年版は、ケイパビリティについて、センの思想を踏まえて次のように書いている。
 「ケイパビリティが欠如しているということは、寿命、健康、住居、知識、参加、個人の安全保障、環境について剥奪状態に置かれているということであり、これらの剥奪状態が絡み合うと人間の選択の幅は大幅に制限される。剥奪状態をもたらす格差の中味は、貧しい人と富める人、女性と男性、農村と都市、国内の開発の進んだ地域と低開発地域、そして民族間の不平等である。しかも、これらの不平等は相互に絡み合い、重複している」と。

 センは、ケイパビリティについて考え方を示すのみで、具体的なリストを提示しない。この点を補っているのが、センと共同作業を行った哲学者のマーサ・ヌスバウムである。ヌスバウムのリストについては、ヌスバウムの項目に記すことにし、ここではセンに関する記述を続ける。

 

●スミスの「公平な観察者」とセンの開放的不偏性

 ロールズは、「原初状態」において社会のすべての構成員が全員一致で受け入れることのできる社会契約を想定した。その際、「無知のヴェール」により、その社会における多様な個人の既得権益や個人的見解の影響を取り除こうとした。だが、センはこの方法には欠陥があるという。『正義のアイデア』で、センは次のように指摘する。
 「ロールズの形式の社会契約の利用は、正義の追求における参加者を、特定の政治形態の構成員、すなわち、国民に不可避的に限定する」と。
 ロールズの推論は、その特定の社会以外の人々を排除している。そのため、必ずしも偏りのない、公平な判断がされるとは限らない。判断における不偏性を追求するには、他の社会の人々の判断も取り入れられるようにする必要がある。閉鎖的な不偏性ではなく、開放的な不偏性を追求すべきである、というのがセンの主張である。
センは、特にグローバル化した現代では、ある国における決定が他の国における生活に深刻な影響を与えることがあることを強調する。また、ある国に特有の信念はグローバルな精査を受けるべきであることを主張する。
 ここでセンが注目するのが、アダム・スミスが『道徳感情論』で説いた「公平な観察者」という考え方である。スミスは、『国富論』によって古典派経済学の創始者とされるが、同時に『道徳感情論』を著した道徳哲学者でもあった。スミスによれば、人間には、他人の感情を心の中に写し取り、それと同じ感情を自分の中に起こそうとする共感の能力がある。人間は、この能力によって、自他の双方の利益に中立な「公平な観察者(impartial inspector)」を心の中に作り上げる。この第三者の立場に立って、行為が適切かどうか、適合性(propriety)を判断する。スミスは、そこに道徳の根本を見出した。スミスは、個人の利己的な行動は、「公平な観察者」の共感が得られなければ、社会的に正当であるとは判断されない、個人は「公平な観察者」の共感が得られる程度まで自己の行動や感情を抑制せざるを得ない、との旨を説いた。「公平な観察者」は正邪善悪を厳しく判断する。スミスは「胸中の法廷」「神の代理人」という言い方もしている。
 センは、『正義のアイデア』で、スミスの基本的なアイデアは『道徳感情論』で要件として簡潔に述べられているとして、次のように書いている。「自分自身の行動を判断するとき、『公平な観察者ならそうするだろうと思われる方法で吟味せよ』、あるいは同書の改訂版で書き直されているように『どのような他の公平で不偏的な観察者もそうするだろうと思われる方法で自分自身の行動を吟味せよ』ということである」と。私見を述べると、スミスの「公平な観察者」という考え方は、共感の能力に基づくものであり、キリスト教の神の教えを絶対的な規範とするものではない。また理性を道徳的能力の根源とするものでもない。相手の身になって考え、相手の感情を思いやるという、どのような文化・社会でも見られる、共感という心の働きから、道徳を考えるものである。 
 「公平な観察者」は、共感の能力を基礎として発達した理性と良心に基づいて物事の判断規準を示すものと考えられる。私は、文明や文化の違いを超えて「発達する人間的な権利」を基礎づけようとする際、種としての人類に共通する共感の能力に注目すべきと考える。それゆえ、センがスミスの「公平な観察者」に注目し、現代世界に必要な考え方であることを強調していることを高く評価する。
 ところで、センは、カントとスミスの間には影響関係があるという見方をしている。「現代の道徳哲学及び政治哲学で不偏性が強調されるようになったのは、カントの強い影響によるところが大きい。スミスがこのアイデアについて論じていたことはそれほど記憶されていないが、カントとスミスの間には本質的な共通点が存在する」「カントも『道徳感情論』(1759年初版)を知っており、1771年に弟子のマルクス・ヘルツに宛てた手紙にそのことを書いている。(略)これはカントの
 「公平な観察者」の概念によって、スミス自身がどこまでグローバルな判断を追求していたかは別として、センは「公平な観察者」を、文明間や異文化間、先進国や発展途上国の間等において不正義を取り除くために不可欠なものとする。
 センは、「遠くからの判断は、地方あるいは国内の偏狭主義に囚われるのを避けるために考慮し精査すべき重要なものである」「これはスミスが『人類の他の人びとの目に』どう映っているかを考慮することを主張した理由である」と述べている。
 古典的著作『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785年)と『実践理性批判』(1788年)よりも早く、当時、カントはスミスの影響を受けていたと考えられる」とセンは書いている。興味深い指摘である。

 

●社会選択理論の発展と新古典派経済学への批判

 アダム・スミスの政治経済学の根本には、道徳哲学があった。また政治経済学は法学や政治学等を含む総合的な社会理論の一部だった。スミスの「公平な観察者」を継承するセンは、新古典派経済学の利己的な人間観を批判し、経済学と道徳哲学を再結合した。それによって、現代の主流派経済学の姿勢を正すことに貢献をした。
 センの経済学及び道徳哲学は、社会選択理論を発展させたものでもある。社会選択理論は、個人の多様な選好(preference)をもとに、社会の選好の集計方法、社会による選択ルールの決め方、社会が望ましい決定を行なう仕組みの設計方法を解明する学問である。先駆者のひとり、ニコラ・ド・コンドルセは、多数決投票において投票者一人一人の選好順序は推移的なのに、集団としての選好順序に循環が現れる状態があるという投票の逆理を発見した。このコンドルセのパラドックスの発見を受け継ぎ、1950年代に確立されたのがケネス・アローの不可能性定理である。この定理は、人々が求めるものに対して社会的決定が正当に配慮すべきいくつかの非常に緩やかな条件を同時に満たすような合理的で民主的な社会的選択の手続きは存在しないことを示すものである。その後の理論的展開で、社会的意思決定の手続きをもっと多様な情報に基づかせることによって解決し得ることがわかった。センは、この観点から、ケイパビリティの概念によって人々の暮らしに関する幅広い情報を用いることができると主張している。
 社会的選択理論と関係の深いものに、厚生経済学がある。厚生経済学は、個人が経済活動の結果として得た福利である厚生を、諸個人の所属する社会の単位で集計した社会的厚生を最大化することを目的として、必要な所得再配分について考える。新古典派経済学の一分野である。厚生経済学は、功利主義を経済学に応用したものであり、個人主義的な自由主義に基づいている。
 センは、厚生経済学が自明視していた自由主義の価値観には、多数決すなわち全員一致原理(パレート原理)と個人の自由の承認というまったく相容れない二つの原理があることを明らかにした。これを「センのリベラル・パラドックス」という。
 センは、リベラル・パラドックスの解決策として、他人の権利を考慮して他人のために行動すること、自己の権利を主張する前に、まず他人にどのような権利が与えられているかを考えることを提案した。
 新古典派経済学は、人間の行動の動機は自己の利益を追求することだとし、合理的で利己的な「エコノミック・マン」を人間像とする。センは、この精神的に貧しい人間像を「合理的な愚か者」と呼ぶ。そして、新古典派経済学は、事実を倫理的価値から切り離すために、人間の行動の動機を狭くとらえすぎていると批判する。センは、人間は、利己的な動機だけでなく、他者に対する共感やコミットメントなど、様々な動機を持って選択や決定を行っていると主張する。共感についてはアダム・スミスに関するところに書いたが、センのいうコミットメントは、他者の権利が侵害されている時、それによって自分には何の利益ももたらさず、また、たとえそれが不利益をもたらすとしても、他者の権利の侵害をやめさせるために何らかの行動を行う決心をすることを意味する。センは、他者に対する共感を持ち、社会的なコミットメントができるような人間像を提案した。それによって、経済学は、生きた人間を再発見し、社会問題や政治問題に経済倫理の視点から取り組むことが可能となった。
 センは、著書『経済学の再生〜道徳哲学への回帰』で、経済学におけるアリストテレス以来の道徳哲学的な志向、つまり人々がよく生きるために経済学はどうあるべきかを模索する姿勢を取り戻したいという思いを明らかにしている。センは、実際に人が何かをすること(doing)、または何かになること(becoming)ができる能力であるケイパビリティを、個人的福利あるいは社会的厚生を評価する際の基礎情報とするが、そうしたアプローチの根底にあるのは、経済学に道徳を回復したいという意識である。私見を述べると、経済学に道徳を回復しようとしたのは、センが初めてではない。
第1部で、私は、ケインズは経済学を道徳科学と考えた、その考えはアダム・スミス以来の伝統を受け継ぐものだった、と書いた。ケインズは、富の追求はそれ自体が目的ではなく、「賢明に、快適に、裕福に」暮らす生活を実現する手段だとし、ものの豊かさの達成の上に、心の豊かさの実現を考えた。また、個人の人生や自分の世代を超えて、子孫や将来世代の発展を目指した。これは、「善い生き方」また公共善を目的とする思想である。アリストテレスやサンデルに通じる考え方である。
 センはケインズをあまり評価していないようだが、リーマン・ショック後の世界で、ケインズは再評価されている。リーマン・ショックは、新古典派経済学に基づく新自由主義による強欲資本主義の結果である。今日、強欲資本主義の反省に立って、経済的自由とその規制について考え、世界的な富の偏在、格差の是正を目指すポール・クルーグマン、ジョセフ・スティグリッツらの経済学者は、ケインズの理論の応用を図っている。彼らの試みは、人権と正義という観点から言うと、政治的な手段によって経済的な財の再配分を行って、グローバルな正義の実現を目指す動きと言える。センの思想と活動は、彼らと目指す方向は一致する。それゆえ、ケインズとセンの思想は結合し得る。結合のポイントは、自由を守り、道徳を高めることである。

 

●非西洋における宗教的寛容の伝統

 センは、宗教的寛容、デモクラシー、自由は西洋のみの産物ではないとし、非西洋にもこれらの伝統があることを指摘する。
 センの祖国は、インドである。インドは、多数の言語と種々の宗教・宗派を共存共栄させるという大きな課題に挑戦してきた。インドでは、デモクラシーが機能不全に陥ったら、国家の統一は保ち得ない。インドのように驚くほど多様性に富んでいる国の存続と繁栄にとって、デモクラシーは必要不可欠である。その根底にあるのは、宗教的寛容である。
 センは、『人間の安全保障』で、次のように書く。インドは、第2次世界大戦後独立し、「20世紀最大の民主主義国」となった。「この時の議論は、欧米諸国がそれまでの民主政治で経験してきたことを参考にしただけでなく、インド本来の伝統にも立ち返ったものだった。(略)ネルー(註 インドの初代首相)は、アショカ王やアクバルなど、インドの皇帝の統治方法に見られた異教や多元主義への寛容性を特に強調した。こうした寛容な政治体制のもとで公の場における議論が奨励されてきたことが、現代インドの複数政党制につながったのである」と。
 センは、様々な著書で、インドにおける宗教的寛容の歴史的な事例を繰り返し述べている。
紀元前3世紀のアショカ王は、最初厳しく過酷な王だった。だが、戦いでの勝利の残虐な現実を目の当たりにして、道徳的政治的優先順位を変え、ゴータマ・ブッダの非暴力的な教えを受け入れ、次第に彼の軍隊を解隊し、奴隷や不自由労働者を解放し、強大な支配者であるよりも、道徳の師であろうとした。他の宗派に対する寛容を重視し、他の宗派の人たちは、いかなる場合も、いかなる点でも、十分に尊重されるべきであることを主張した。残念ながら、アショカ王の広大な帝国は、彼の死後、間もなく小さな領域に分裂した。
 次に、センが挙げるのは、アクバル帝である。1590年代のインドで、ムガール帝国のアクバル帝は、多文化社会であるインドでいかに調和と協調を達成するかを課題としていた。アクバル帝は、宗教的寛容の必要性を宣言し、ヒンドゥー教徒、イスラーム教徒、キリスト教徒、パールシー教徒、ジャイナ教徒、ユダヤ教徒、無神論者等と対話する努力を続けた。アクバル帝は、さまざまに異なる宗教の美点を融合させながら、それらを統合しようとも試みた。当時、ローマのカンポ・デイ・フィオーリ広場では、ジョルダーノ・ブルーノが異端のかどで火あぶりの刑に処せられた。
 センは、インド以外にも宗教的寛容の事例があることを挙げている。その一つが、サラディンである。12世紀のユダヤ人哲学者マイモニデスは、偏狭なヨーロッパから移住を余儀なくされた。その時、彼はアラブ世界に寛容な避難所を見出した。カイロのサラーフ・アッディーン帝の宮廷で名誉と影響力のある地位を得たのである。このアッディーン帝は、十字軍が遠征した際に、イスラーム側で激しく抵抗したサラディンである。サラディンのみならず、イスラーム文明は他宗教に対して寛容だった。それは、宗教裁判が横行した西欧とは、顕著な対比をなす。
 センは、他の例も挙げながら、西洋にも非西洋にも「寛容な事例は多数あり、また非寛容な例も同じくらいある」「正しく改める必要があるのは、寛容の問題で西洋だけが特別だったとする、不十分な研究に基づく主張」であると述べている。(『人間の安全保障』)
 近代西欧で自由の思想が発達したのは、宗教的寛容の定着・拡大と切り離せない。そのことは、
第2部に書いた。だが、自由は決して西洋でのみ発達したものではない。古代ギリシャのポリスと近代西洋文明のイギリス、アメリカ、フランスを結びつけて、あたかも近代西欧発の自由思想が、古代ギリシャのそれらを直接継承し、発展させたものであるかのように説くのは、誤りである。
 センは、このことを明確に指摘している。『正義のアイデア』で次のように言う。
 「西洋の古典的著作の中にも、自由を擁護するものと批判するものがあり、(例えばアリストテレスとアウグスティヌスとを比べてみよ)、西洋以外の著作にも同様に擁護と批判とが混ざり合っている(アショカ王とカウティリアを比べてみよ)」「自由を擁護するものと自由を批判するものの間の差が、地理的な二分法によってとらえられるなどという期待はほとんど持てない」と。
 引用文中のカウティリアは、古代インドのマガダ国マウリヤ朝初代チャンドラグプタ王の宰相・軍師で、「インドのマキャヴェリ」と評される人物である。センの比較文明論的な指摘は、的確である。

 

●非西洋でも発達していたデモクラシー

 センは、デモクラシーもまた歴史的に西洋に限らず、非西洋にも広く存在していたことを強調する。一般にデモクラシーは、民衆が政治に参加する制度を意味し、特に政府官僚を選挙で選ぶ仕組みを言う。同時にそうした制度の実現と発達を求める思想・運動をも意味する。だが、センは、デモクラシーは選挙のような制度的特徴としてとらえるのではなく、公共的推論の活用という観点からとらえるべきだと説く。推論(reasoning)とは、単なる推理ではなく、すべての事実を考慮して、一つの結論に到達する過程を意味する。
 センは、『人間の安全保障』で、次のように言う。「人々が何を要求し何を批判すべきかを自ら決め、どう投票すればよいのか判断できるようにするには、成人の選挙権を拡大し、公正な選挙を実施するだけでは十分ではない。検閲を受けない自由な討議の場が必要なのである」と。
 センは、同書で、「デモクラシーを議論による政治と理解すれば、デモクラシー思想の歴史的なルーツは、世界中いたるところにあったことがわかる」と述べている。
 「ギリシャにおける民主政治の体験が、ギリシャとローマより西にある、例えばフランス、ドイツ、イギリスなどの国々に、じかに大きな影響を与えたことを示す証拠はない。一方、この時代のイラン、バクトリア(北アフガニスタン)、インドなどにおけるアジアの都市には、主にギリシャの影響を受けて、統治にデモクラシーの要素を取り入れたところがあった。例えば、アレクサンドロスの時代から数世紀後に、イラン南西部の都市スーサには選挙で選ばれた評議会と民会があり、評議会が推薦した民会が選出した行政官がいた。この時代のインドとバクトリアには、地方レベルで民主政治が行われていたことを示す証拠がかなりある」と、センは書いている。
 また『正義のアイデア』では、次のように書いている。「例えば、もっとも初期のオープンな一般の集会としては、社会的宗教的問題に関する意見の対立を解決するためにインドで行われた、いわゆる仏教の結集がある。異なる見解を持つ人たちが集まり、その違いについて論じ合うことが始まったのは紀元前6世紀のことである」「アショカ王は、紀元前3世紀に第3回目にして最大の結集を、当時のインド帝国の首都であったパトナに召集した。そして、公共的討議のための規則としては最も初期のものを成文化し、広めようとした」と。
 ここで公共的討議の規則とは、19世紀米国で作られたロバート議事法の初期の版のようなものをいう。
 センが引用文で述べるように実際、他にもシナ、韓国、イラン、トルコ、アラブ、アフリカの多くの地域には、政治や社会、文化などの問題について、公の場における議論を奨励し擁護してきた伝統がある。日本には、日本的なデモクラシーの伝統がある。センは、『人間の安全保障』で、聖徳太子に触れている。「十七条憲法は、600年後の1215年にイングランドで調印されたマグナ・カルタにも似た精神を持ち、こう主張している。『それ事は独り断(さだ)むべからず。かならず衆とともに論(あげつら)うべし』。またこうも述べている。『人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執(と)るところあり。彼是とすれば、則ちわれは非とす。われ是とすれば、則ち彼は非とす』。日本が『民主主義に向けて徐々に歩みはじめた第一歩』と中村元が呼んだものが、7世紀につくられたこの憲法に見られるのは、驚くべきことではないか」と。
 デモクラシーが西洋だけのものであり、西洋に始まり、西洋だけに栄えた考え方だという見方は、間違いである。センは、公共的討議を重んじる非西洋の様々な社会の伝統に光を当て、デモクラシーを発展すべきことを説く。そして、世界から飢饉をなくしていくためには、デモクラシーの発展が不可欠だと主張する。
 センは、『人間の安全保障』に次のように書いている。
 「デモクラシーの国家では、飢饉は起こらないとよく言われる」「飢饉が起こるのは、英領インドでかつて発生したように帝国の植民地か、軍事独裁政権、近年の例で見れば。エチオピア、スーダン、ソマリア等や、一党独裁の国家、1930年代のソ連や1958年から61年にかけての中国、1970年代のカンボジア、つい最近の北朝鮮のような国だけである。民主主義国では飢饉が起こったとなると、政府は世論の批判に持ち堪えられない。選挙で負ける恐れもある。新聞などのメディアが独立していて検閲を受けず、野党が政府を自由に批判できる場合には、世論から厳しく非難されるだろう」と。
 実際、1973年のインドや1980年代初頭のジンバブエやボツワナは、深刻な旱魃や洪水やその他の自然災害に見舞われたが、食糧供給を行って飢饉の発生を被らずに済んだ。それは、貧しい国だが、デモクラシーが発達していたからである。
 センは、著書『貧困の克服』で、次のように述べている。
 「20世紀は数々の発展を成し遂げた。しかし、その中で最も際立っているのは、デモクラシーの台頭であると迷わず言い切ることができるだろう」「もしも遠い将来に人々が20世紀に起こったことを振り返るならば、その人々もまた迷うことなく最高の統治形態であるデモクラシーの出現こそ、20世紀の最も素晴らしい発展であると考えることだろう」「デモクラシーの普遍的価値が認められる方向にあることは、史上最大の思想革命であり、しかも20世紀の最も偉大な貢献の一つであると言えるだろう」と。
 こうした見方をするセンは、アジア的価値観は欧米的価値観ほど自由を擁護せず、秩序と規律を重視するという主張や、欧米に比べてアジアでは政治的自由及び市民的自由の領域における人権を要求することは適切でないという主張に対して、批判的である。
 『貧困の克服』でセンは次のように述べている。
 「アジアにおける中国や韓国のような高い経済成長の例をもってきて、権威主義体制のほうが、経済成長の促進には好ましいとする“決定的証拠”にはできない。なぜなら、アフリカのなかでも最高の経済成長を記録してきたボツワナのケースからは、まったく逆の結論を引き出すことができるからである。実際、ボツワナは世界中で最も素晴らしい経済成長の記録の一つを達成した。そればかりではなく、ボツワナは何十年にもわたって、あのような不幸なアフリカ大陸に位置するにもかかわらず、民主主義のオアシスであり続けてきた国である」
 「アジア的価値が権威主義的だとする現代の解釈の多くが儒教にのみ集中しすぎている」
 「現在、アジア的な価値の擁護者の間で規準になっている儒教の解釈は、孔子の教えの中にある多様性を正しく扱っていない」と。これも適切な指摘である。

 

●人権を道徳的要求として擁護

 センの思想について書いてきたが、ここから本稿の主題である人権に関するセンの考え方について書く。
 センの考え方を見るには、法と道徳の区別が重要である。最初にこの点について私の認識を示しておくと、
第1部に書いたことだが、法と道徳の違いには、物理的強制力の有無、外面的行為と内心、相手のある義務と相手のない義務、現実規範と理想規範等の区別が挙げられる。ただし、これらは決定的な相違ではなく、相互に重なり合った部分がある。
 人権の観念は近代西欧で発生し、法によって保障される権利として発達してきた。だが、法のもとに道徳があり、道徳のもとに宗教がある。宗教は、超自然的な力や存在に対する信仰と、それに伴う儀礼や制度が発達したものであり、宗教から超越的な要素をなくすか、または薄くすると、道徳となる。道徳のうち、制裁を伴う命令・禁止を表すものが、法である。人権は人間の尊厳と個人の人格に基づくものであり、単に法的な権利ではなく、道徳的な側面がある。また、人権は道徳的な側面から宗教にも開かれている。宗教を否定し、道徳を排除したところで、人権を考えるならば、人間の尊厳と個人の人格を見失うことになる。
 非西洋文明の諸社会では、宗教の内に道徳と法を含んだ社会規範を保っている社会が、今日も多く存在する。イスラーム教やヒンドゥー教はその典型である。そして、超越的存在の観念を堅持し、それを中心とした社会規範を保ちながら、近代化を進めている文明が複数存在する。近代西欧における宗教・道徳・法の分離形態は、非西洋文明の諸社会で広く承認された形態ではない。そのことをよく踏まえて、人権の考察は行われねばならない。
 センは、インドに生まれ、インド文明を土壌としながら、欧米で西洋文明を吸収し、西洋文明と非西洋文明の比較の上に立って、人権を論じている。センは、人権を道徳的要求とし、人権を主張する様々な政治的・社会的な運動への支持を表明する。
 センは、『正義のアイデア』で、「世界のどこでも、人はすべて、ある基本的な権利を持ち、他者はそれを尊重しなければならないという考え方には非常に訴えかけるものがある」と述べ、「人権に対する道徳的要求は、拷問や恣意的な投獄や人種差別への抵抗から、世界中の飢餓や飢饉、あるいは医療サービスの不足を終わらせる要求に至るまで、様々な目的で用いられてきた」と評価する。
 センは、『人間の安全保障』の「人権を定義づける理論」において、「人権の宣言とは(略)道徳的な要求の表明とみなすべきだというのが、私の考えである。人権の宣言は本質的には倫理上の表明であって、何よりも、一般に考えられているような法的な主張ではない」と言う。『正義のアイデア』でも、次のように言う。「人権に関する宣言は、人権と呼ばれるものの『存在』を承認するような形で述べられていたとしても、実際には何をすべきかに関する強力な倫理的宣言である。それは、義務を承認することを求め、それらの権利によって特定される自由を実現するために何かがなされるべきことを示している」と。
 人権と自由との関係については、「人権の妥当性を検討する出発点として適切なのは、それらの権利の背後にある自由の重要性でなければならない」と述べている。
 こうした考えを持つセンは、人権を道徳的要求として擁護しようと試みる。人権を道徳的要求とする考え方は、実定法に定められた法的な権利のみが権利だとする考え方と対立する。センは、後者に反論するために、ベンサムを批判する。ベンサムはフランス市民革命期に人権を自然権とする思想を批判し、1791年から92年にかけて、人権の主張を完全に放棄するよう提案するために、『無政府主義的誤謬』を書いた。そこで、ベンサムは「自然権は全くナンセンスである。自然の絶対的権利は大げさなナンセンスであり、大言壮語のナンセンスである」と主張した。センは、『正義のアイデ』で、ベンサムは権利を法的にのみ解釈していたと指摘する。ベンサムは、人権を彼の説く功利主義的アプローチと代替的であり、また競合する倫理的アプローチと理解せず、人権宣言と実際の法制化された権利の法的地位の比較だ、と考えた。その結果、彼は、前者は決定的に法的根拠を欠いており、後者には明らかにそれがあると考えてしまった、とセンは述べる。
 センによれば、人権は道徳的要求が政治的・社会的な運動を通じて、法的な権利として実現されてきたものである。そして、道徳的要求は、単なる主張ではなく、道徳的な権利であるとする。必ずしも法制化する必要はなく、法制化されていなくとも、権利として擁護されるべきだという考え方である。社会的な規範には、実定法に定めたものだけでなく、掟や慣習等もある。むしろ、そうした規範が伝統としてあって、必要に応じて法制化されてきた。
 そうした歴史を踏まえると、センが次のように述べていることが理解し得るだろう。
 「人権を倫理的に理解することは、明らかに法的な要求と見ることに反し、またベンサムのように、法的に不当な主張と見ることにも反する。倫理的権利と法的権利は、もちろん、動機の点で関連している。実際、法志向的で、かつ、ベンサムの誤解を回避するアプローチが存在し、それは、人権を、法制化の根拠として用いる道徳的提案と見なす」と。(『正義のアイデア』)
 ここでセンが賛同を表明するのは、イギリスの法哲学者ハーバート・ハートの理論である。『正義のアイデア』でセンは、ハートについて、次のように書いている。
 「1955年の有名な論文『自然権は存在するか』でハーバート・ハートは、人々は『それを法制度に組み込むことを主張するとき、道徳的権利について主に語っている』と論じた。そして、彼は、権利の概念は、『道徳の一分野に属し、そこでは、どのようなときに、ある人の自由が他者の自由によって制限され、そして、どのような行為が強制的な法的規則の対象となるのかが決められる』と付け加えている。ベンサムは、権利を『法の子ども』ととらえたが、ハートは、人権を、事実上、『法の親』と見なした。それは、特定の法制化を動機付けるものである」と。
 ハートは論文の中で人権については何も触れていないが、センは、自然法の役割は法律を生み出すことだとする彼の理論は、人権の考え方にも当てはまると考えている。
 そして、センは次のように言う。「ハートは明らかに正しい。道徳的権利というアイデアが、新しい法律の基礎となり得ること、そして、実際にしばしばそうなってきたことに疑問の余地はない。それは、しばしばそのように用いられてきたし、それが、人権の主張の重要な使い方である。人権の言葉が用いられるか否かにかかわらず、特定の自由を尊重すべきであり、もし可能なら保障されるべきだという主張は、過去において、強力で効果的な政治運動の基礎であった。例えば、女性の投票権を要求する参政権拡張運動は最後には成功した。法制化を進める刺激となるという点は、人権の倫理的力が建設的に用いられる一つの方法であり、この特定の文脈において、人権という考え方とその有用性についてのハートの適切な擁護論は啓発的であり、影響力の大きなものである」と。
 センは、ハートの道徳的権利という概念に基づいて、今日の世界で人権の実現・拡大を目指す理論を説き、また活動している。

 

●世界人権宣言に基づく人権拡大の推進

 人権を道徳的要求とするセンは、世界人権宣言を高く評価する。『人間の安全保障』の「人権を定義づける理論」で、センは次のように書いている。
 「世界人権宣言は、人権に関する世界的な活動を促進するために、おそらく20世紀で最も重要な方法」だった。「その後も、国際的な宣言は主に国連を通じて相次ぎ、法的な、あるいは強制するような位置づけではなく、多岐にわたる一般的な要求として承認された」。
 それらの宣言とは、女性差別撤廃宣言、子どもの権利宣言、拷問等禁止宣言、発展の権利宣言等をいう。
 センは「これらの発端となったのは、人権が持つ倫理的な影響力を社会的に認知し、その位置づけを承認すれば、強制する制度がなくても、実際にはその効力は増すだろうという考え方である」と言う。『正義のアイデア』では、人権に関する宣言における国連の役割を高く評価し、次のように書いている。
 「世界人権宣言の後、多くの宣言が行われた。その中で国連は、しばしば主導的な役割を果たしてきた。そのアプローチは、人権の倫理的力は、たとえ強制力が伴っていないとしても、それを社会的に承認させて、その地位を認めさせることによって、現実にはもっと強力なものとなるという考えに動機付けられている」と。
 センはまた国連以外の国際団体の活動を積極的に評価する。同じく『正義のアイデア』で、この点について、次のように述べている。
 「人権を強力な道徳的主張と見なすなら、それらの道徳的要求を促進するうえで異なる手段を考えることに寛容であるべき理由が存在する。人権の倫理を進める方法と手段は、たとえ、しばしば法制化が進むべき正しい道であるとしても、必ずしも新しい法律を作ることに限定される必要はない。例えば、社会的監視や、異なるタイプのNGOを挙げれば、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、アムネスティ・インターナショナル、オックスファム、国境なき医師団、セーブ・ザ・チルドレン、赤十字社、アクションエイドのような組織によって行われる活動家の支援は、承認された人権が有効に届く範囲を広げていく助けとなる」と。
 人権については、次々に新しい権利が主張され、それが人権だとして実現が要求される傾向がある。権利としての根拠があいまいなまま、人権というラベルを貼り付ければ、実現されなければならない権利のような響きを持ち、権利を主張する者と反論する者との間で、争いが生じもする。この点について、センは、ロールズの説く公共的推論を行っていくことが重要だとする。理性を公共的に使用して討論することである。
 公共的な理性を用いて人権について討議するためには、人権を定義づける理論を構築することが必要である。道徳的要求を主張しても、主観的な要求、政治的な主張に過ぎなければ、広く合意を得ることはできない。
 センは、『人間の安全保障』で、次のように述べている。「人権を定義づける理論の構成要素」は「社会倫理における主張であり、開かれた公共的推論によって持続可能となるものである」「人権の実現可能性と普遍性は、広く一般からの公共的推論による批判の目をくぐり抜けられるかどうかにかかっている」と。
 また、センは、次のように述べている。「人権が世間に訴える力を知ることも非常に大切だが、人権を論理的に正当化し、多くの人の目で精査して適用することも、また重要である。したがって、なんらかの理論は必要であるし、すでに提示された人権を定義づける理論を擁護することも求められている」と。
 そして、センは、今日の世界で人権を定義づける理論を構築するうえで、重要な概念を二つ提示している。それが「人間開発」と「人間の安全保障」である。これらについては、次の項目に書く。

 

●「人間開発」と「人間らしい生活」

 21世紀の国際開発協力の新しい理念となりつつあるのが、「人間開発(人間的発展 human development)」と「人間の安全保障(human security)」である。
 まず「人間開発」という概念は、国連開発計画(UNDP)の『人間開発報告書』1990年版に登場した。同報告書は「人間開発とは人間の選択の幅を広げることであり、とりわけ長寿で健康な生活を送ること、教育を受け人間らしい生活を送ることが重要である」と書いた。
 人間開発は、パキスタン出身の経済学者マーブブル・ハクが、国連開発計画の後ろ盾を得て提唱した概念である。この概念は、従来の経済開発中心の路線から新しい人間中心の発展路線への方向転換を促した。国内総生産(GDP)や国民総生産(GNP)に反映されるような商品の生産に偏りすぎていた人々の目を、人間の生活の質と豊かさに向けさせるものとなっている。
 センはハクの考えに賛同している。センは、『人間の安全保障』で、「人間開発の概念は、GNPを基準に発展のプロセスを理解するのではなく、人間の自由と潜在能力を全般的に高めることに焦点を絞るべきだ、とする考え方である」と言う。また、「人間開発の目的は、人間の生活に制限や制約を加えたり、その開花を妨げたりする様々な障害物を取り除くことである」と述べている。障害物を取り除くことによって、人間としての自由を高め、潜在能力を身につけそれを活用できることを目指すものである。
 センはハクに協力し、「人間開発指数(Human Development Index、HDI)」を作成した。GDP等のような数値化された経済指数に対し、人間開発を定量化し、客観的に評価できるように考案したものである。具体的には、出生時平均余命、識字率、購買力平均で調整した一人当たりGDPという三つの指数を立てる。三つの指数のうち、長寿と知識を人間の潜在能力形成、所得を能力を発揮する選択の尺度とし、これらを一本化した合成指数が人間開発指数である。数値によって、上位国、中位国、下位国に分ける。
 センのいう「開発(発展)」とは、単に経済的でなく、生命と教育に重点を置くもので、、「力を与える(empower)過程」(『正義のアイデア』)を意味する。Empowerとは、powerを与えることである。powerは以前書いたように多義的な言葉であり、empowerは「人に何かをする権限・機能・能力を与えること」を意味する。この用語は、権力論の観点からも注目すべきものである。
 人間開発という概念は、人権の発達に寄与するものとなった。国連開発計画が2000年に「人権と人間開発」を主題とした『人間開発報告書』を発行した際、センはこの報告書に人権と人間開発の関係を書いた。センによれば、人間開発は以下の4つの点で、人権発達の取り組みに貢献する。

(1)人間開発の分析には明瞭な表現と明確さという伝統があり、その量的・質的指標が人権の分析に具体性を付与する。
(2)一つの権利の実現を促進するには、政策の選択の違いがどのような影響を与えるかについての評価が必要となり、これは、人間開発の分析と類似した試みである。
(3)人権は究極的には個人の権利を確立させることであるが、その実現は適正な社会条件の有無にかかっており、これには多元的な因果関係や相互作用に注目する人間開発の取り組みが参考になる。
(4)人間開発の理念は変化を伴うものであり、既存の人権概念に欠けているダイナミズムを備えているから、人権を長期的に考え、開発段階に応じた優先順位をつける上で有益である。

 以上である。こうしてセンは、人権を人間開発指数で具体化・定量化し、政策の優先順位づけや評価を行えるようにした。
 センは、『貧困の克服』で、人間開発(人間的発展)について、次のように言う。「私は発展というものを人間のさまざまな自由の拡大のプロセスとして理解している」「自由こそは発展の重要な手段であると同時に主要な目的であると見なされなくてはならない」と。
 ここでもセンは、自由を最高価値とする近代西欧の伝統思想を継承している。個人の自由を目的とするので、アリストテレス的な共同体の公共善を目的とする考え方とは違う。センのいう自由は、ケイパビリティの概念によって深められた実質的な自由である。またロールズのように常に自由を優先するのではなく、ケイパビリティの拡大を目指す点に特徴がある。私がセンをケイパブリストと呼ぶ所以である。ただし、大きく見ると、センの思想は、自由主義の変形ということができる。人権についても、『正義のアイデア』で、次のように書いている。「人権の妥当性を検討する出発点として適切なのは、それらの権利の背後にある自由の重要性でなければならない」と。ケイパブリズムは自由主義の一種であり、ケイパビリティによる自由主義である。
 自由の拡大を目指す人間開発について、センは「人間らしい生活」の質の向上を目指すという考え方を示す。「人間らしい生活」とは、単に物質的な豊かさによって得られるものではない。『貧困の克服』でセンは、カントを引用しながら言う。「『人間性は目的自体であり、断じて手段と見なされてはならない』のであって、現在においてさえ、この言葉はその力を失っていない。言うまでもなく、このことは、私たちの未来の世代に対して背負う義務にもまたあてはまる。人間らしい生活の物質的な基礎の維持や促進のための人間的な資質の手段としての重要性に注目するかたわら、私たちは目的自体としての人間らしい生活の質を実現することの重要性を視野から見失ってはならない」と。
 ここで「人間らしい生活」という考え方は、物質的な発展を否定するものではないが、物質的な発展は手段であり、目的そのものではない。目指すべき目的は「人間らしい生活」であり、センによれば「人間らしい生活」の主要な要素は自由である、ということになるだろう。
 人権の観念と結びつけるならば、人権とは「人間らしい生活」を送る権利、「人間的な権利」であり、「人間らしい生活」の質の向上を実現することが人間開発であり、人間的発展とは自由の拡大だということになるだろう。「人間らしい生活」の質の向上は、自由の拡大としての人間的発展によって得られるものであり、それが人権の獲得・拡大となることにもなるだろう。
 ここで私見を述べると、センが説くような「人間らしい生活」は、個人の自由の拡大のみによって得られるものではない。人間は集団で生活する動物であり、集団生活が向上して初めて、集団の構成員である個人の生活も向上する。個人の生活の質が向上するためには、集団全体の生活の質が向上しなければならない。個人の自由は、私的な善である。個人の自由の拡大は集団の目的ではあるが、それが最高目的ではなく、最高目的は公的な善である。公共善が実現されることによって、私的な善も同時に実現される。人間開発は、集団的な人間開発が進むにしたがって、個人個人の人間的発展も進んでいくことになるだろう。
 なお、「人間らしい生活」は今日の人権論における主要な概念の一つになっている。「人間らしい生活」とはどういう生活かという問いの答えは、「人間とは何か」という問いの答えから導かれるものである。これらの問いについては、第12章の人権の内容に関する項目で、私見を述べる。ここでは、正義論の論者の所論の検討を続けることにする。

 

●「人間の安全保障」と人権の発達

 人間開発とともに、もう一つセンが提案して現代世界に重大な影響を与えているのが、「人間の安全保障」という考え方である。センは、1994年次の国連開発計画による『人間開発報告書』で、「人間の安全保障」を打ち出した。この考え方は短時日に世界中に広がった。冷戦終結後の世界において、地域紛争の多くは発展途上国で起こっており、その状況に対応するために、人間の安全保障は不可欠の概念となった。
 2000年(平成12年)9月、国連でミレニアム・サミットが開催された。このサミットで当時のコフィ・アナン事務総長が「人間の安全保障委員会」の設置を提案した。同委員会は翌年1月、国連の独立委員会として、2名の共同議長と10名の委員で発足した。センは、わが国の緒方貞子とともに共同議長を務めた。同委員会は、2003年(平成15年)に最終報告書『安全保障の今日的課題』を提出した。そのなかで、人間の安全保障とは「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」と定義された。この定義にも、ケイパビリティ・アプローチが活かされている。
 人間の安全保障論は、発展途上国における貧困、階級や所得格差に基づく不平等などが内戦・紛争を引き起こす主な原因であり、社会や政治における民主的な発展が、平和を実現する道であることを主張する。伝統的な安全保障は国家安全保障だが、人間の安全保障は個々の人間の安全を保障しようとする。これらは対立するものではなく、相補的な関係にある。
 わが国の政府は、「人間の安全保障」の実現に貢献してきた。センは、『人間の安全保障』で次のように述べている。
 「故小渕恵三首相は、新たな議論を日本などで始めるにあたり、人間の安全保障とは『人間の生存、生活、尊厳を脅かすあらゆる種類の脅威を包括的にとらえ、これらに対する取り組みを強化するうえで』鍵となる考え方だと述べた。小渕首相は『人間は生存を脅かされたり、尊厳を冒されたりすることなく、創造的な生活を営むべき存在である』という確信がそこに反映されていると考えた」。
 「人間の安全保障は、人間の生存と生活を(おそらくは早死にや、避けられる疾病、読み書きの不自由による多大な不利益などから)守り、維持するものである」「それはまた私たちの人生に危害や侮辱、軽蔑を与え得るさまざまな苦難(貧困、困窮、投獄、追放、あるいは読み書きや計算ができないことに関連して受ける冷遇など)を回避することでもある」と。
 センは、「人間の安全保障」の概念には、少なくとも次の要素がきちんと含まれる必要があると述べている。

(1)「個々の人間の生活」に、しっかり重点を置くこと(例えば、「安全保障」を軍事的な意味に解釈しようとする「国家の安全保障」という、専門官僚的な概念とは対照的に)。
(2)人間が、より安全に暮らせるようにするうえで、「社会及び社会的取り決めの果たす役割」を重視すること(一部の宗教で強調されるような、個々の人間の苦境と救済を社会とは切り離したかたちで考えようとはせずに)。
(3)全般的な自由の拡大よりも、人間の生活が「不利益をこうむるリスク」に焦点を絞ること(人間開発を推進する広義の目標とは対照的に)。
(4)「より基本的な」人権(人権全般ではなく)を強調し、「不利益」に特に関心を向けること。

 人間の安全保障の主たる対象は、発展途上国の貧困層である。貧困層の中でも女性は社会的に弱い立場にあり、女性に対する安全保障の強化は、人間全体の安全保障の強化につながる。
 センは、女性の幸福と権利について、『人間の安全保障』で次のように述べている。
 「女性の幸福(well-being)について考慮され尊重される度合いは、その女性独自の収入があるかどうか、家庭外で雇用されているか、所有する権利を認められているか、識字力が身についているか、教育を受けた者として家庭の内外で意思決定に加われるかどうかに大きく左右される」。そして、女性が収入を得る能力、家庭外での経済的役割、識字力と教育、所有権などは、「女性の独立と自己決定能力を通じて、それらが女性の発言力と主体性を高める貢献をしている」と。ここで「自己決定能力」と訳した原語は、empowerment、つまり power (能力・権限)を与えることを意味する empower の名詞形である。エンパワーメントは、社会的に弱い立場にある人々が、必要なものを入手し利用できる法的・社会的・経済的能力を含む諸能力や資格を備えること、またそれによって開発への参加を実現することをいう。
 「女性のエンパワーメントの確立により、出生率は急速に下がる。()度重なる出産と子育てで最も悲惨な生活を強いられているのは、若い女性たちである」「彼女たちの自己決定能力を増し、その利害にもっと関心を向けさせるものはなんであれ、過度にわたる出産を減らす一般的傾向がある」「女性(特に若い女性)の生存率の低さを改善し、子どもの死亡率を減らし、適度の出生率を保つようにすることなどはいずれも、生活と尊厳を脅かされ、『不利益をこうむるリスク』の排除に関連した根本の問題である」とセンは書いている。
 最後の文における「不利益をこうむるリスク」の排除とは、人間の安全保障の概念が包含する要素であり、女性のエンパワーメントの確立は、人間の安全保障の強化において、重要なポイントとなることをセンは主張している。

 人間の安全保障は、人権の概念と深い関係がある。その点について、センは『人間の安全保障』で次のように述べている。
 「人権の概念と人間の安全保障の考えとの間」には、「補完し合う関係」がある。「人間の安全保障を人権の一部とみなす利点の一つは、権利にはそれに応じた義務が人々や機関に生じることである。こうした義務は特定の人または行為者(エージェント)に課される具体的な要求として『完全義務』の形を取ることもあれば、援助し得る立場にいる人の誰もが要求される『不完全義務』になることもある」と。
 まずセンは、人間の安全保障を人権の一部とみなすという見解を明らかにしている。人権を擁護する方法として、人間の安全保障という概念が打ち出されたと考えられる。次に、センは、人間の安全保障を人権の一部とみなす利点の一つとして、権利にはそれに応じた義務が生じることを挙げている。単に権利の実現・拡大を説くのではなく、権利の実現・拡大のために、人々が果たすべき義務を説いている。ここでセンは、カントに基づき、義務には完全義務と不完全義務があるとしている。
 センは、『人間の安全保障』で次のように述べている。完全義務とは、「特定の人が行わなければならない特別な行為として、すっかり明確化された義務」である。これに対し、不完全義務は、「完全義務を超えた倫理的な要求」であり、「人権を脅かされている人に適切に支援をほどこせる立場にいる人すべてに、真剣な考慮を求める要求が含まれている」と。
 完全義務とは、契約や約束、法律の規定等によって課される義務である。これに対し、不完全義務とは、道徳的に要求される義務である。サンデルは、普遍的な義務を自然的義務、個別的な義務を自発的義務と呼ぶが、この前者が不完全義務、後者が完全義務に対応する。センは、不完全義務の履行を促すことが、世界の貧困問題や不正義等の解決のために有効だと考えている。サンデルが強調する家族・民族・国民等の間での「連帯の義務」は、関心の対象となっていない。
 カントにおいては、道徳的に要求される普遍的な義務は、キリスト教的な文化に基づくものだった。センの場合は、仏教の教えを参考にしている。
 『正義のアイデア』でセンは、次のように書いている。
 「我々の行為は自己利益を目的とする協力だけに限られるのではない。もし、ある人が、この世における不正義を取り除く力を持っているなら、それを行うことを支持する社会的議論が存在する。この一方向的な責任は『有効な力の責任』と呼ばれ、協力における相互責任とは異なる」。
 「力の義務という視点は、ゴータマ・ブッダの『スッタニパータ』で強力に展開されている。そこでブッダは、人間が動物に対して義務を負うのは、まさに両者の間の非対称性のためであり、協力の必要性に導く対称性のせいではないと論じている。人間は他の生物より非常に強力なので、力の非対称性に結びつく他の生物に対して我々は義務を負うとブッダは論じている。ブッダはこの点を説明するために次のような喩えを用いている。すなわち、子どもに対して母親が義務を負うのは、子どもを産んだからという理由ではなく、子どもの命に関わることで、子どもが自分ではできないことを母親にはできるという理由からである」と。
 カントの場合は、力のあるなしに関わらず、人間には誰しも同胞に対する普遍的な義務があるという考え方である。センは、これとは違い、力のある者は力のない者に対して責任があると言っているから、特定の者が特定の相手に対して担うべき責任を言っている。人間と動物の間の責任という喩えは、人間と人間の間に当てはめるには不適切だが、世界的な富裕層が世界的な貧困層に対して、または豊かな先進国の国民が貧しい発展途上国の国民に対して意識すべき責任を示唆するものだろう。
 ここでセンが、母親の子どもに対する義務を、一般的な「力のある者の責任」ととらえていることも、不適切である。なぜならば、母親が子供に対して持つ義務は「不完全義務」ではない。センは、不特定の人間に対して人間同胞として持つ普遍的な義務と、子どもを産んだ母親が子供に対して持つ特別の義務を同様のものと考えてしまっている。そのため、キリスト教、仏教等の宗教や様々な道徳思想、価値観の違いを超えて、説得力のある主張にはなっていない。そういう欠陥はあるが、人々に道徳的に要求される義務の履行を求めるセンの思想は、人類の道徳的な向上を呼び掛けるものである。

●人間開発と人間の安全保障

 以上述べてきた人間開発と人間の安全保障は、ともにセンが深く関与している概念である。これらの関係について、センは次のように述べている。
 「人間の安全保障は、『不利益をこうむるリスク』とも呼ばれるものに直接、目を向け、拡大傾向の強い人間開発を効果的に補う」「開発を中心としたアプローチは、『公正な成長』に集中しがちである」「対照的に人間の安全保障は『安全な下降』に真剣に目を向けることに重点を置いている」
 「安全な下降」とは、景気の下降による貧困層への影響をできるだけ小さくしようとすることである。
 「私たちは人間開発を重視する取り組みから手を引くことなく、現在、世界が直面していて、これからも長年、直面し続ける人間の安全保障の難題にも立ち向かわなくてはならない」とセンは主張している。
 人間の安全保障と人間開発は相補的なものであり、大まかに言うと、人間開発が自由の拡大を目指すもので、人間の安全保障が平等に考慮するものという関係にあると言えよう。これらはロールズの正義論を国際的な場面で批判的に応用したものであり、前者が第一原理を、後者は第二原理のうち格差是正原理を発展させたものと見ることができる。
 国連では、2006年(平成18年)に総会の補助機関として国連人権理事会が設置されて以来、国連の人権活動は新たな局面に入り、国連では人権の主流化が進んでいる。その中で、人間開発と人間の安全保障は活動の柱となる重要な概念となっている。それゆえ、現代世界におけるセンの思想の重要性は、非常に大きなものとなっている。人権の考察においても、センの思想の検討は欠かせない課題である。
 本章では、正義の概念とその歴史を振り返り、第2次大戦後の人権と正義に関する議論として、ロールズ、彼の批判者及び継承者の理論と主張について述べた。その中で、リベラリズム、コミュニタリアニズム、ケイパブリズムについて書いた。次章では、それを踏まえて国際社会における正義について検討する。
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第11章 国際的正義とグローバル正義

 

(1)ロールズの「諸国民衆の法」

 

●ロールズは「諸国民衆の法」を構築

 

本章では、前章を受けて、人権論の観点から、今日の国際社会における正義について検討する。その中で再びロールズについて書くとともに、新たにコスモポリタニズムとリベラル・ナショナリズムについて述べ、現代正義論における諸思想を比較する。そのうえで、人権について正義論を踏まえた考察を行う。

前章では、ロールズの項目の最後に、「諸国民衆の法」について書いた。ここで、彼の著書『諸国民衆の法』における国際的正義の理論を概観し、これに対する批判者及び継承者の理論と主張を検討する。

ロールズは、『諸国民衆の法』では、「諸国民衆の法」という言葉を「各国の民衆の間の相互的政治関係を規制するための、一定の政治的諸原理を意味するものとして用いる」と述べている。

ロールズは、『正義論』で「公正としての正義」を提示した。「諸国民衆の法」を考察するに当たり、ロールズは、一つの政治社会の正義原理をそのまま世界に拡張することはできないと考え、「公正としての正義」よりも「一般的なもの」として、「自由(リベラル)な正義」という概念を用いる。これは、正義の原理のうち、第一原理の平等な自由原理に絞って国際的正義を考えるものである。第二原理には公正な機会均等原理と格差是正原理の二つの要素があるが、これらを合意事項から外す。「公正としての正義」にあった平等への配慮の側面を、国際社会における正義の検討から除くわけである。ロールズは、国際社会の領域では、修正自由主義から古典的自由主義に近い方に立ち位置を変えている。治的な自由主義の立場を取る点は、変わらない。

ロールズは、「諸国民衆の法」の構築においても、社会契約説の手法を用いる。一つの国家社会について想定した「原初状態」という仮説や「無知のヴェール」という条件を、多数の国家が併存する国際社会についても用いるわけである。果たして国際社会においても、社会契約説の手法が適用可能かどうか。その点については、理論の内容を見てから論評しよう。

ロールズは、世界の諸社会を5種類に分類する。第一は、「道理をわきまえた自由な諸国の民衆(reasonable liberal peoples)」、第二は「良識ある諸国の民衆(decent peoples)」、第三は「無法国家(outlaw state)」、第四は「重荷を背負った社会(burdened society)」、第五が「仁愛的絶対主義(benevolent absolutism)の社会」である。

名称に日常的またはやや文学的な表現が使われたり、民衆・社会・国家が並列されるなど、政治学の用語としては厳密さを欠くが、第一は自由な社会、第二以下は自由ではない社会に分かれる。「自由な」は liberalであり、「自由主義的な」とも訳し得る。「自由ではない」は illiberalであり、「反自由主義的な」とも訳し得る。

 「諸国民衆の法」の考察に当たり、ロールズは、2回原初状態を仮設する。第一の原初状態は、自由な社会におけるものであり、人々は宗教的・哲学的・道徳的に異なる複数の包括的教説が併存できるように、緩やかに「重なり合う合意」を成立させる。そうした「重なり合う合意」が成立し、人々の間で幸福追求のための社会的協働が可能になっている社会が、ここでいう自由な社会である。正義の原理から言うと、自由を優先し、平等は考慮されない社会である。次に、自由な諸社会の民衆の代表者が集まり、第二の原初状態において、自由な諸社会の関係を公正なものにするための「諸国民衆の法」を制定する。そこでできた「諸国民衆の法」を、次には自由ではない社会へと拡張する。自由な社会の内部が第1段階、自由な諸社会の間が第2段階とすると、自由ではない社会への拡張は第3段階ということになる。

 ロールズは、自由ではない社会の中には、「道理に適った(reasonable)」とまでは言えないが、「良識ある(decent)」社会があるとする。decentは「まともな」「かなり立派な」「まあまあの」等とも訳し得る。ここでは「良識ある」という訳語とする。「良識ある社会」とは、「自由ではないが、政治的な正しさや正義に関する一定の条件を満たす基本的諸制度は有しており、諸国民衆の社会に関する相当程度に正義に適った法を尊重するべくその市民たちを導いていくような社会」だという。

良識ある社会の中には、政教分離がされておらず、宗教的性格を強く帯び、階層制を持つ社会がある。これを「階層社会(hierarchical society)」と呼ぶ。その中には、集団の代表者が政府に意見を述べる全体集会の行われている社会もあり、ロールズはこれを「諮問階層社会(consultation hierarchical society)」という。民主的つまり民衆が政治に参加しているとまでは言えないが、討議による統治がある程度行われている社会と言えるだろう。

ロールズは、「良識ある階層社会(decent hierarchical society)」として、カザニスタンというイスラーム教国家を仮想し、イスラーム教国家でも諮問階層社会であり、イスラーム教以外の宗教を信仰する者にも公民権を与えるなどしている国家であれば、国際的正義を共有できるという考えを示している。

ロールズはまた自由な社会と良識ある社会を併せて、「秩序ある社会(well-ordered societies)」と呼ぶ。秩序ある社会とは、「平和を好み、膨張主義的でなく、法体系が民衆から見て正当と判断され、基本的人権が尊重されている社会」である。

ロールズの分類はややこしいが、自由な社会と自由ではないが良識ある社会の間では相互理解が可能であり、双方が受け入れることのできる「諸国民衆の法」を制定することが可能だ、とロールズは考えるわけである。私なりに想像すると、第1段階として「自由な社会」である米国で作った法を、第2段階で同類のイギリス、フランス、ドイツ等と合意し、第3段階で「良識ある社会」として親欧米的なイスラーム教国家に拡張するというようなイメージとなる。

ロールズは、上記のようにして社会契約説の手法を国際社会に応用するのだが、もともと均質的な一つの社会を想定した社会契約説を、質と価値観の異なる複数の社会の間にも応用するのは、無理があると言わざるを得ない。それにもかかわらず、ロールズの理論は世界的に多大な影響を与えてきている。詳細な検討を要する所以である。

 

●公共的理性の使用

 

『公正としての正義 再説』において、ロールズは、正義の原理を採択する人々は、正義感覚への能力と善の構想への能力を持つことを前提した。これに比し、「諸国民衆の法」において強調される能力は、公共的理性である。

 著書『諸国民衆の法』は、論文「諸国民衆の法」と論文「公共的理性の観念・再考」を併録している。その意図について、ロールズは次のように述べている。

「この二つの論文を一緒にすれば、道理をわきまえた市民たちと道理をわきまえた各国の民衆が、正義に適った一つの世界のなかでともに平和に暮らすにはどうすればよいかということに関する、私の省察を完成させるものとなる」と。

公共的理性とは、公共的に使用される理性である。この理性を公共的というのは、自由で平等な市民たちの理性であり、道理に適った政治的正義の構想を用いた公共的な「推論=理由づけ(reasoning)」という形で表現されるからである。ロールズは、公共的理性を働かすことによって、異なる社会の間でも「重なり合う合意」を得ることができるとする。ここでロールズは、公共的理性のあり方は、単一ではなく様々なあり方が可能だとし、だからこそ、それらの間で重なり合う部分を見出していけばよいのだと考えるわけである。

なお、ロールズは、文明・文化・宗教・伝統等の違いを越えて、「重なり合う合意」が可能となるような人間の理性(reason)とはそもそも何なのか、という点については掘り下げた考察をしていない。reasonから派生し、「道理に適った」「筋が通っている」「穏当な」等と訳される形容詞reasonableについても、特に考察なく多用している。「推論する」「理由づける」「説得する」等と訳される動詞reasonについても同様である。これらの用語は定義がされずに使われている。そのため、人間の本質及び認識能力についての哲学的な考察を欠く粗雑な理論になっていると私は思う。


 

●「諸国民衆の法」の8つの構成原理

 

ロールズは、「自由な社会」と「良識ある社会」の間で制定される「諸国民衆の法」の構成原理として、以下の8つを挙げる。

 

(1)各国民衆は自由かつ独立であり、その自由と独立は、他国の民衆からも尊重されなければならない。

(2)各国民衆は条約や協定を遵守しなければならない。

(3)各国民衆は平等であり、拘束力を有する取り決めの当事者となる。

(4)各国民衆は不干渉の義務を遵守しなければならない。

(5)各国民衆は自衛権を有しているが、自衛以外の理由のために戦争を開始するいかなる権利も有すものではない。

(6)各国民衆は諸々の人権を尊重しなければならない。

(7)各国民衆は戦争の遂行方法に関して、一定の制限事項を遵守しなければならない。

(8)各国民衆は、正義に適った、ないしは良識ある政治・社会体制を営むことができないほどの、不利な条件の下に暮らす他国の民衆に対し、援助の手を差し伸べる義務を負う。

 

 これらの構成要素については、「自由な社会」と「良識ある社会」の間で合意がされる、とロールズは考えるわけである。ここでロールズの示す主体は、「民衆(peoples、人民)」である。だが、一般に国際法においては、これらの諸原理のうち、(2)〜(5)及び(7)の主体は、国家である。一方、(1)及び(6)〜(8)の主体は、政府と国民個人の両方になる。ところが、ロールズは、集団と個人、政府と国民に関する権利と権力の理論を提示することなく、8つの構成要素を列記し、主体をみな民衆としている。この点でも、ロールズの理論は政治哲学の理論としては厳密さを欠く。

 

●歴史的事実と現実の国際社会を軽視

 

ロールズは、「自由な社会」と「良識ある社会」の間では、「諸国民衆の法」の制定が可能だと考えた。そして、自分が理論的に考えた「諸国民衆の法」こそ、実定法である国際法が「正しいかどうかを判断するための諸概念と諸原理」を提供するものだと考えた。だが、この政治的諸原理の考察において、歴史的な事実と現実の国際社会をほとんど考慮に入れていない。そのため、非常に抽象的な議論になっている。

実際には、「諸国民衆の法」の理論がなくとも、国際法は発達してきており、国際人権法もまた発達してきている。世界人権宣言は、ロールズ風に言えば、主に英米仏を中心とした「自由な社会」の国々が合意した考え方に、自由ではないが「良識ある社会」の国々が賛同して作成されたものと言うことができる。宣言の理念は、国際人権規約に法として具体化されてもいる。世界人権宣言及び国際人権規約は、今日の国際法及び国際人権法の重要な柱となっている。これらが制定された時代には、ロールズが試みたような国際的正義の基礎理論は存在しなかった。しかし、国際的な討議を行うことで、人権に関する合意は重ねられてきた。人権に関する宣言がされ、規約が作られた。さらに個別的な条約や地域的な条約が結ばれてきた。そういうことが実際に行われてきたということは、文明や文化の違いを超えて、正義に関して一定の共通認識を持つことが可能だったからと考えられる。国際的正義の共通認識を形成できなければ、異なった文明・文化を持つ国家の間で、人権という概念を共有することもできない。ロールズは、歴史的な事実や現実の国際社会を踏み込んで考察することなく、仮想の思考空間で理論を組み立てていく。そのため、実際と合わない抽象的な議論に陥りがちになっている。


 

●「諸国民衆の法」における人権

 

 次に、「諸国民衆の法」における人権の概念について述べたい。「諸国民衆の法」の構成原理の中には、(1)各国民衆は自由かつ独立であり、その自由と独立は、他国の民衆からも尊重されなければならない、(6)各国民衆は諸々の人権を尊重しなければならない、という項目におけるように、人権の尊重が含まれている。

政治的自由主義を標榜するロールズは、人権は「人間本性に関する、いかなる特定の宗教的・哲学的な包括的教説に依拠するものでもない」とする。たとえば、「諸国民衆の法」は、「人間は道徳的人格である」とか、「人間は神の前では同じ価値を持つ」といったことを主張しないという。また「人間には一定の道徳的能力や知的能力が備わっており、それゆえに人権を享受する資格が与えられる」などと主張するものでもないという。その理由は、「もしもこうした仕方で議論を進めるならば、その場合には、良識ある階層社会の民衆の多くが自由な、ないし民主的であるとして拒絶するような、あるいは、ある意味で西洋文明の政治的伝統に固有なものであり、他の諸文化にとっては不利になる考え方だとして拒絶するような宗教的・哲学的教説が、すでに前提に含まれていることになってしまうだろう」。だから、人格・価値・能力・資格について主張しないのだという。ただし、「それでも依然として、諸国民衆の法は、こうした諸々の教説を否定するわけではないのだが」と補足しており、主張はしないが、否定もしないという姿勢を取っている。

 では、人権とは何を根拠とするものなのか。何に基づいて人は人権を持つとするのか。ロールズは、その根拠を示さない。そのため、特定の宗教的・哲学的・道徳的な包括的教説に依拠することなく提示でき、「自由な社会」と「良識ある社会」の間で合意し得るような人間の権利という程度のことしか、第三者にはわからない。

 では、どういう権利が、ロールズのいう人権なのか。具体的には、次のようにロールズは言う。

 「諸国民衆の法における人権とは、奴隷状態や隷属からの自由、良心の自由(しかし、これは必ずしも、良心の平等な自由ではないのだが)、大量殺戮やジェノサイドからの民族集団の安全保障といった、特別な種類の差し迫った権利を表している」と。

 この規定は、非常に限定的で、人権を、自由権のうちのごく一部と特殊な状況にける集団の生存に関する権利に限っている。自由権のその他の権利や参政権及び社会権は、「諸国民衆の法」における人権に含めていない。

これを最低限の人権と呼ぶこととしよう。これと、世界人権宣言が定める諸権利を比べると、どうなるか。ロールズの世界人権宣言への言及は少ないが、『諸国民衆の法』では、註(第U部23)で触れている。そこでは、先の規定よりは広く、同宣言における人権を、「固有の人権に該当すると見ることができる」もの(第3〜18条)、そのグループの諸権利から「明確な含意から導かれる諸々の人権」(ジェノサイドやアパルトヘイトなどに関する特別な条約に示されるような、極端なケースを扱う)ものに分ける。これら二つのグループは「共通善とつながりを持つ諸々の人権」であるとする。その他に「自由な要求の表明として説明するのが適切であると思われるもの」があるとする。

当該の註において、宣言における人権のうち、ロールズが「固有の人権に該当すると見ることができるもの」としているのは、第3〜18条である。世界人権宣言の条文については、第3部第8章で全文を掲載したが、条文のうち第3〜21条はすべての人間が共有すべきとする市民的、政治的権利を規定している。ロールズは、そのうち、第19〜21条を除外している。それら3つの条項は、意見と表現の自由に対する権利、平和的集会と結社の自由に対する権利、政治に参加し公務に就く権利及び選挙に関する権利を定めている。自由権及び参政権に分類される権利である。第22〜27条は経済的、社会的、文化的権利であり、社会権に分類され権利である。第28〜30条は、社会的および国際的秩序についての権利、権利が制限される場合、社会に対する義務を規定する。また、権利及び自由の国連の目的及び原則との関係、破壊活動との関係を定めている。ロールズは、これらは第3〜18条の条文の諸権利から導かれる権利または自由な要求の表明と見る。

 ここで第3〜18条の諸権利と第19条以下の諸権利を区別する理由について、ロールズは具体的に語っていない。どうして自由権の一部である意見と表現の自由に対する権利、平和的集会と結社の自由に対する権利、また参政権である政治に参加し公務に就く権利及び選挙に関する権利を「固有の人権」に該当するものと見ることができないのか、理由は述べられていない。

 大まかに言えば、ここでのロールズは、人権を自由権の大半と特殊な状況における集団の生存に関する権利に限定し、自由権の一部と参政権及び社会権は、人権に含めていない。先に引用した「諸国民衆の法における人権」と自由権の範囲は異なるが、基本的な考え方は共通している。

「諸国民衆の法」における人権と世界人権宣言における人権に関する上記の見解を比較すると、前者は後者より範囲を狭く限っている。ロールズは、非西洋文明の諸国を含む国際社会では、前者程度の範囲の権利しか合意できないと考えているのだろう。だが、世界人権宣言は、国連加盟国の多くが賛同しているものであり、賛同国にはイスラーム教諸国もある。宣言の理念を具体化した国際人権規約は、加盟国を直接に拘束する効力を持つ条約だが、現在、自由権規約、社会権規約とも160か国以上が締約している。個別的人権条約である女性差別撤廃条約などは、187か国も締結している。ロールズの考え方は、歴史的事実とも国際社会の現実ともかなり異なり、範囲の狭いものとなっている。


 

●人権は主権を制限する役割を持つ

 

ロールズは、人権を最低限のものに限ったうえで、次のように言う。

「人権とは、道理に適った諸国民衆の法において特別な役割を演じる、諸々の権利の集まりである。人権は、戦争やその遂行方法の正当化理由を制限するとともに、政治体制の国内自治権に諸々の限界を定める。第二次世界大戦以降、主権の権能に関する理解は二つの大きな、そして、歴史的にも意義深い変化を被ることになったが、諸々の人権はこうした仕方で、その二つの変化を反映しているのである。まず第一に、戦争は政府の政策実現の手段としては、もはや容認されていないものとなり、自衛や、人権侵害に対する介入のうちの深刻な事案においてのみ、正当化可能なものとなっている。そして第二に、政府の国内自治権も、今日では制限されるものとなっている」と。

ここでは、第2次世界大戦後の国際社会における主権への二重の制限という歴史的・現実的な事実をもとに、人権はその主権を制限するものになっているという。

続けて、次のように言う。

「人権は、憲法上の諸権利とは明確に区別されるものである。また自由で民主的な市民権とも区別されるし、あるいは、個人主義的なものであれ、結社主義的なものであれ、特定の政治制度に属するその他の諸権利とも区別される。人権は、国内の政治的・社会的諸制度が良識あるものか否かに関する、十分とまではいかないが、必要不可欠な規準を設定する。諸々の人権はこのような仕方で、道理に適った諸国民衆の社会において好ましい状態にある、諸々の社会の許容可能な国内法に、制限を加えるのである」と。そして、次のように結論付ける。

「したがって、人権という特別な権利の集まりは、次の三つの役割を有することになる。

 

(1)諸々の人権の実現は、ある社会の政治制度やその法秩序が良識あるものであるための必要条件である。

(2)諸々の人権の実現は、他国から、正当な理由のある強制的介入――たとえば、外交的制裁や経済制裁による介入、また深刻な場合には、軍事力による介入――を受ける余地をなくすための十分条件である。

(3)諸々の人権は、各国民衆の多元性に一定の制限を課す。」と。

 

 ロールズの人権は、実定法に定める法的権利ではなく、道徳的権利と考えられる。そして、主に国内法に対して制限を加え、国際社会でも一定の制限を課すものと理解される。ロールズの最低限の人権とは、最低限の道徳的権利であり、各国の国内法及び国際法に最低限の制限を加えるものと言える。では、そのような人権の根拠とは何か。何に基づいて人は人権を持つのか。この点は明示されない。ただ、「自由な社会」と「良識ある社会」の間では、最低限の合意が可能となるとロールズは考えていると推察されるのみである。

 

●「自由な社会」「良識ある社会」以外への対処

 

ロールズは、「自由な社会」と「良識ある社会」の間で「諸国民衆の法」を制定する指針を示すだけでなく、「無法社会」や「重荷を背負った社会」「仁愛的絶対主義の社会」に対処する指針も考察している。最後の「仁愛的絶対主義の社会」については言及が少ないので省くこととし、まず「無法国家」への対処について述べる。

「無法国家」はアウトローの国家である。ロールズは、拡張主義的な政策を取る無法国家に対しては、「諸国民衆の法」を支持する諸国民衆の社会が、自らの安全と安定を守るための交戦権を有すると主張する。そのうえで、「諸国民衆の法」による「正戦」の条件、つまり正戦の目的と手段を規定することを試みている。ロールズは、戦争は秩序ある諸国の民衆の安全と平和を守ることのみを目的として遂行すべきであるとし、無法国家の指導者、兵士、民間人を明確に区別し、民間人を標的にしてはならないとともに、一般兵士と民間人の人権を尊重しなければならない、との旨を説いている。

ここで注目すべきことを一点記しておきたい。ロールズは、1995年の「ヒロシマから50年」というシンポジウムで、国際的な正義を考察する立場から、次のように述べている。

「私の見解では、1945年春から始まった日本各地への無差別爆撃と8月6日のヒロシマ原爆投下とは、ともにきわめて大きな過ちであって、不正行為として受け止めてしかるべきである」と。

この主旨は、これらの攻撃の全てが民間人を狙った攻撃だった点で、極めて甚大な過ちだったというものである。ロールズは第2次大戦末期における米国の日本への無差別殺戮攻撃について、当時の戦時国際法に定められた戦争遂行の法規に照らして、その過ちを指摘している。米国人であり、また現代世界で正義を論じる学者として、誠実な姿勢だと私は思う。

さて、ロールズは、国際関係に関しては、主に戦争と平和の問題に関心を集中している。経済的な格差是正は、「重荷を背負った社会」への自立支援に限定している。ロールズは「諸国民衆の法」の制定に当たり、正義の原理のうち第一原理の平等な自由原理に合意事項を絞っており、第二原理のうちの格差是正原理の国際社会への適用は考えていない。

ここで「重荷を背負った社会」とは、主に旧植民地としての歴史を持ち、貧困、不衛生、教育の未発達等の問題を抱えた発展途上国をいうものと考えられる。「重荷を背負った社会」は、秩序ある社会を築くために必要な政治的・文化的伝統、人的資源、物質的・技術的資源等を欠いている。ロールズは、「自由な社会」と「良識ある社会」がそうであるような「秩序ある社会」はこうした社会に対して「援助義務」を負っている、と説く。ロールズのいう「援助義務」とは、グローバルな配分的正義を目指すものではなく、「重荷を背負っている社会」が自らの政治文化を変化させ、正義に適った制度を自らの力で確立できるようになるまで、各種の援助を提供することである。その社会が、「自由な社会」または「秩序ある社会」になれば、それ以上の援助を続けて、全面的な平等を目指す必要はないとする。

「世界市民的な見方は、諸個人の福利に関心を持ち、それゆえ、全世界で最も困窮している人の状況を改善することができるか否かということに関心を持つ」が、「諸国民衆の法にとって重要なものは、秩序だった諸国民衆社会の一員として生きる自由な社会と良識ある社会の正義、並びに正しい理由による安定性である」というのが、ロールズの見解である。

ここで世界市民的な見方というのは、ロールズの批判者の一部が取っている見方である。彼らの思想であるコスモポリタニズム(世界市民主義)については、後の項目に書く。

 

●ロールズの思想と手法の限界

 

ロールズの「諸国民衆の法」について書いてきた。私は、人権とは歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」という考えだが、その視点から見て、ロールズの考え方は、人権の発達と国際的正義の実現を結びつける注目すべきものではある。だが、ロールズの基本的な思想や手法には限界があり、理論は粗雑であり、また現実の国際社会においては、あまり役に立たないものに終わっている。

まずロールズは、「諸国民衆の法」において、「人間は道徳的人格である」とか、「人間は神の前では同じ価値を持つ」といったことを主張せず、また「人間には一定の道徳的能力や知的能力が備わっており、それゆえに人権を享受する資格が与えられる」などと主張するものでもないという。ここでロールズが斥けるのは、もともと彼が多くを負っていたカントに源を持つ考え方である。世界人権宣言、国際人権規約には、カント思想が色濃く影響している。そして、国際社会の大多数の国々は、既に宣言・規約に賛同している。ロールズは人権を「道理に適った諸国民衆の社会において好ましい状態にある、諸々の社会の許容可能な国内法に、制限を加える」ものとし、その役割を三つに限定しているが、これは歴史的に発達してきた人権の思想の広がりを考慮せずに、自らの政治理論を作成しようとしたため、と私は思う。

人権の思想は、17世紀以来、ロック、ルソー、カント、J・S・ミル等によって、それを担う人間の考察とともに展開されてきた。20世紀以降の世界的な人権の発達においても、彼らの思想が影響を与え続けている。人権は、法的な権利となる、ならないにかかわらず、道徳的な権利として主張される傾向にある。そして、人権は道徳的な権利として主張された要求の一部が、権利として認められ、法に規定されることによって、歴史的・社会的・文化的に発達してきたものである。その発達は、国家の枠を超え、国際的な次元でも継続・拡大されている。人権の確保・拡大は、ある種の政治的・社会的運動の目的となっており、今日の国際社会においても様々な新たな要求が出されている。それらの要求は、議論の末に、条約に盛り込まれたり、国内法で法的権利とされたり、逆に採用を斥けられたりしている。

だが、ロールズは、「諸国民衆の法における人権とは、奴隷状態や隷属からの自由、良心の自由(しかし、これは必ずしも、良心の平等な自由ではないのだが)、大量殺戮やジェノサイドからの民族集団の安全保障といった、特別な種類の差し迫った権利を表している」等として、人権を非常に狭く限定する意見を表明している。人権の内容をどういう範囲にするかは、本稿の重要な課題だが、ロールズに関しては、彼の考え方は、歴史的事実や国際社会の現実とはかなり異なっている。その原因は、ロールズの基本的な思想や手法にあると私は考える。具体的には、個人主義的で政治的な自由主義と社会契約説である。

まず彼の個人主義的で政治的な自由主義という思想について言うと、ロールズは、国際的正義の考察では各国民衆を主体としているが、そのもとになった正義論では個人を主体としていた。人間の個人性と社会性を踏まえた集団の権利あっての個人の権利というとらえ方をしていない。あくまで個人主義的自由主義の立場から正義を説き、それを国際社会に拡張しようとする。その際に、国際的な場面では主体を個人から人民・民衆に切り替える。実際の国際社会において、各国は国内では諸個人の自由と平等の均衡を図っても、対外的には国家という集団としての国益を追求する。その点では、ロールズにおける主体の切り替えは、国際社会の実態に合ってはいる。ただ、ロールズにおいては、個人と集団の関係について理論的に考察することなく、この主体の切り替えを行っている。人間の個人性と社会性を掘り下げて考察することなく、個人主義の立場で国内的な正義の原理を立て、それを民衆に主体を切り替えて国際社会に拡張しようとするから、理論的に無理を生じているのである。

ロールズは、包括的な哲学を追求せず、自由主義の中でも政治的自由主義に立場を限定する。限定した後は、人間の政治的側面を論じるのみで、人間そのものを考察しない。そもそも人間とは何か、という問いの考察を避けて、政治の諸原理を打ち立てようとしている。そのため、議論が皮相なところにとどまっている。そこにロールズの個人主義的かつ政治的自由主義の限界があると私は考える。

 次に、社会契約説を用いる手法について、ロールズは18世紀にはすでに歴史的事実と異なるとして実証的に否定された社会契約説を、現代の正義論に応用しようとする。現実の国家は、社会契約によって成立したものではない。その国家における正義は、権利関係・権力関係を通じて優位者によって形成されたものである。諸国家において、歴史的・社会的・文化的な条件によって、正義の原理は異なる。社会契約説は、市民革命や人権思想の発達に一定の歴史的な役割は果たしたが、その過程で解体された残骸である。

にもかかわらず、ロールズはあくまで社会契約説にこだわり、これを一般化し、抽象度を高めようと試みた。そのため、思考実験が恣意的・独断的なものになっている。国内的な正義の追求において既にそうだが、国際的な正義の追及に社会契約説を用いて、歴史的事実とも国際社会の現実ともかけ離れた理論を作り上げた。なぜロールズは、もともと欠陥のある社会契約説を今日において用いようとしたのか。私は、ロールズが米国人であり、米国において社会的な正義を構築しようとしたことに理由があると考える。米国においては、様々な宗教・哲学・道徳が併存しており、それぞれのコミュニティのローカルな集団内的な正義を越えて、ナショナルな連邦国家全体の社会の統合力を確保しようとするならば、米国憲法に依拠するしかない。米国憲法は、18世紀末において社会契約説に基づいて制定された。その憲法以外に、米国の社会的統合力のもとにし得るものがない。それがロールズの事情だと私は考える。

だが、米国憲法の社会契約説は、旧宗主国のイギリスには立憲君主国として受け入れられるものではないし、様々な歴史と政体を持った国々が統合を目指している欧州連合にとっても、そのまま採用し得るものでもない。米国憲法は米国憲法であり、これをいかに一般化しても、そのまま国際的正義の基本原理になるものではない。

次に、国連憲章については、ロールズはこれを重視しない。第2次世界大戦の連合国の代表が議論して合意した国連憲章は、国際的正義に係る歴史的な資料だが、大戦中の連合国、後の戦勝国の論理が一貫しており、これもやはりいかに一般化しても、そのまま国際的正義の基本原理になるものではない。ロールズの「諸国民衆の法」は、抽象的な理論構築に傾き、これらの歴史的な文書の成立過程の検討や内在な分析を怠っている。そのこともまた社会契約説へのこだわりに原因がある。

このようにロールズには、個人主義的自由主義、社会契約論へのこだわり、歴史的な事実と国際社会の現実の軽視等の問題がある。それでもなお現代において自由と平等の均衡という課題を提起するために、米国から正義論を発した意義は大きい。また、個人単位のグローバルな正義ではなく、集団単位の国際的正義を追求している点も評価できる。国際正義論では、個人ではなく国民国家を主体とし、穏当な多元性を認め、自立への支援であって分配による平等の実現までは行わないことなど、概ね妥当な見解を示してもいる。しかし、それは彼の正義論の正しさによるものではなく、自らの正義論の基本的な考え方を転換したからである。それゆえ、個人主義でなく集団主義へ転換し、社会契約説でなく歴史的事実と国際社会の現実を踏まえたアプローチを取れば、もっと有効な正義論を構想し得ただろう、と私は思う。

さて、ロールズの「諸国民衆の法」には、様々な批判がある。なかでも、世界市民的な見方を持つコスモポリタニズム及びそれを批判するリベラル・ナショナリズムの論者たちは、注目すべき存在である。次に彼らの思想について検討する。(ページの頭へ)  

(2)コスモポリタニズムの正義論

 

●コスモポリタニズムとは

 

ロールズの正義論は、原初状態を想定する社会契約説に立つものゆえ、本来一個の政治社会すなわち国民国家の枠内での議論である。これに対し、ロールズの理論を継承しつつ、国民国家の枠組みを破って国際社会における正義を論じる動きが現れた。ロールズもこれに応え、自身の理論を国際法の領域へと拡大することを試みた。その結果として刊行されたのが、『諸国民衆の法』だった。

『諸国民衆の法』への批判のうち、最も注目すべきは、コスモポリタニズムよる批判である。コスモポリタニズムとは、古代ギリシャ、ローマに現れた世界市民主義である。近代政治学ではこの用語はほとんど使われていなかったが、1990年代にグローバリゼイションの進行の中で、新たなコスモポリタニズムが登場した。

代表的なコスモポリタン(世界市民主義者)の一人、トマス・ポッゲは、現代のコスモポリタニズムは、三つの要素を共有しているという。第一は個人主義である。「私たちが関心を向ける究極の単位は人間や人格であって、家族的、部族的、民族的、文化的あるいは宗教的共同体や国民国家ではない。これらの共同体は間接的に、つまり個々人がその構成員または市民であるという点でのみ関心の対象となるだろう」。第二は普遍性である。「個々人が関心の究極の単位であるという地位は全ての生存する人間に平等に与えられる」。第三は一般性である。「この特別な地位はグローバルな力を持っている。個々の人格は、自らの同胞や同じ信徒にとってだけでなく、全員にとっての関心の究極の単位なのである」とポッゲは言う。(『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか』)

これら三つの要素――個人主義、普遍性、一般性――を共有する現代のコスモポリタニズムは、個々の人間を価値単位とし、すべて人間は平等な価値を持ち、それは国家・地域等を越えて普遍的であるとする。

ロールズはコスモポリタンではなく、コスモポリタンによる正義論の批判者である。ロールズは、彼の正義の原理を国家の枠を超えて普遍的に適応することに賛成せず、国際社会における「諸国民衆の法」の制定に取り組んだ。それは、諸国の民衆を主体とした国際的正義の理論である。

 コスモポリタニズムの代表的な論者には、ポッゲのほかにチャールズ・ベイツ、マーサ・ヌスバウムがいる。ベイツとポッゲは、ロールズの正義論を出発点としながら、ロールズの国際正義論に批判的であり、個人を単位としたグローバルな正義を目指して、それぞれ独自のコスモポリタン正義論を提示した。またヌスバウムは、ロールズの正義論をセンのケイパビリティの概念を用いて批判し、グローバル正義の原理を提示している。

 

●世界の現状をどうとらえ、対処するか

 

 ロールズとコスモポリタンの論争は、単に学者による理論的な論争ではなく、世界の現状をどうとらえ、それに対してどう対処すべきかという現実的な課題につながっている。その論争は、人権をめぐる議論ともなっている。

現代の世界では、地球的な不平等や極端な富の偏在が顕著になっている。これらの現象は、産業革命以降、とくに西欧で機械化や産業化が推進された19世紀以降に現れたものである。経済史学者アンガス・マディソンの試算によると、1820年に西欧の一人当たりの所得平均はアフリカの平均の2.9倍でしかなかった。その後、地域間の所得格差が急速に拡大した。第2次世界大戦後、旧植民地が独立し発展の道を歩んできたが、格差の拡大は続いている。

ロールズとコスモポリタンの論争は、1980年代に始まり、活発に行われてきた。1980年代は、新自由主義・市場原理主義的な経済活動が米国から世界に広がった時期でもあった。資本主義の強欲的・投機的な活動によって、先進諸国でも国内の不平等が拡大したが、それ以上に地球的な不平等が拡大した。2008年にリーマン・ショックが起こる直前、先進国グループと最貧国グループの格差は、一人当たりのGDPで80倍以上となっていた。それは、地球上の富の偏在の進行を意味する。

国連開発計画の『人間開発報告書』2004年版によると、21世紀初頭、世界の富裕層の上位から5パーセントの所得合計は、下位から5パーセント、つまり最貧層の所得合計の114倍だった。最も富裕な1パーセントは、下位57パーセントの合計と所得額が同じだった。米国の上位2500万人の所得合計は、世界で最貧の状態にある20億人の所得合計に相当していた。1日1ドル以下で暮らす人々が11億7千万人、慢性的栄養不良にある人々が8億3千万人、衛生的な水を利用できない人々が11億6千万人、適切な衛生設備をもたない人々が23億6千万人だった。さらに当時地球の約60億人の人口のうち、約10億人が適当な住まいがなく、9億人の成人が識字能力を身に付けていなかった。

 2000年には、国連でミレニアム・サミットが開催され、各国の代表者によって、ミレニアム宣言が採択された。宣言の最大の目標は、「2015年までに世界の貧困を半減する」というものである。各国、国際機関、民間団体及び諸個人による取り組みが行われてきたが、2015年となった現在、世界の状態は目立った形では改善されていない。

一体、こうした世界の現状をどうとらえ、どのように対処すべきか。この現実的な課題に取り組む上で、ロールズとコスモポリタンの論争は、今日いっそう重要性を増している。ロールズの「諸国民衆の法」を受けて、これからベイツ、ポッゲ、ヌスバウムの論を概観し、ロールズと彼らの見解の違いを明らかにして、現代世界で目指すべき正義と人権のあり方について述べたい。


 

●ベイツは正義原理をグローバルに拡張

 

ロールズは「諸国民衆の法」の制定に当たり、正義の原理のうち、第一原理の平等な自由原理に合意点を絞った。だが、現実の国際社会では、経済的な格差の拡大や貧困が重大な問題となっている。その問題に取り組むために、第二原理の公正な機会均等原理と格差是正原理の適用を求める考え方が現れた。

 その先鞭を切ったのが、アメリカの国際政治学者チャールズ・ベイツである。ベイツは1979年に国際関係論の視点から正義を論じる『国際秩序と正義』を刊行した。ベイツは、ロールズの正義論が事実上、国民国家を前提にしていることを批判し、民衆を単位とした国際的正義ではなく、個人を単位としたグローバル正義を説いた。本書は、現代世界でコスモポリタニズムを発展させる最初の試みだった。

 ベイツは、現代世界では国際的な相互依存の深化によって、国際関係は国内社会の諸関係に類似したものとなりつつあるととらえる。ロールズの正義論を「自己充足的な国民共同体」を前提にしているとして批判し、国境に重要性を認めず、国家は目的をもった自律的存在と見なさない。ベイツが目的をもった自律的存在と見なすのは個人のみである。

ベイツは、ロールズの国内的な原初状態をグローバルな場面でも想定する。ロールズの正義の原理の議論が成功しているとするならば、原初状態の範囲をグローバルに拡大しても、正義の2原理の内容に変化はない。格差是正原理が国内の原初状態で選択されるなら、同様にグローバルな原初状態でも選択されるであろうとする。

こうしてベイツは、国内社会の正義の原理をそのまま国際社会に適用し、国際的分配の原理として格差是正原理をグローバルに拡張する。それによって、世界的な貧困問題の解決を図ろうとする。その際、地理的に偶然的な要素の強い天然資源の配分における公正を追求する。

ベイツによると、ロールズは「諸国民衆の法」を作成する段階で、第二の原初状態すなわち「国際的原初状態」の参加者たちが、天然資源の地表における不均衡を考慮に入れない、と想定している。しかし、天然資源に恵まれているかどうかによって、その社会の繁栄が左右される。原初状態における契約当事者たちが、自らが生まれ落ちた場所についても無知であると仮定すると、自分自身の社会にどんな天然資源が与えられているかを知らず、彼らはどの国にとっても公正なグローバルな諸原理を要求するはずである。それゆえ、国際的原初状態の参加者たちは、「資源再分配原理」に同意するだろう、とベイツは考える。

ベイツは、現代世界で諸国家は自己充足的ではなく、国家間の社会的協働が行なわれ、グローバルな経済的相互依存が深化しているために、国家中心的な世界観は規範的有意性を失っているとする。そして、「分配的正義の原理は、まず世界全体に、次いで副次的に国民国家に適応しなければならない」と説く。ベイツはこの立場から、援助は分配の不公正を是正するために行われ、その際、最も恵まれない人々を代表する個人の福祉こそ極大化されなければならないとする。援助を与える側は、世界の最下層の人々の福祉の向上に特別な配慮を払わなければならない。そして、発展途上国に対し、国内の不平等を減らす目的で政策や社会構造の変革がもたらされるよう圧力をかけるべきである、グローバルな格差是正原理の観点から国際経済秩序を改革しなければならない、とベイツは説く。

 ベイツは、コスモポリタニズムの立場から、ロールズの「諸国民衆の法」を批判する。第一に、ロールズが国際社会では道徳的関心の根本単位を個人ではなく民衆とすること、第二に、人権を人間自体に帰することができるものではなく、人権の実現は社会の政治制度やその法秩序が良識あるものであるための必要条件としていること、第三に、国際社会に格差是正原理を適用せず、分配の正義ではなく援助義務を課すことである。

 ベイツは、『国際秩序と正義』で、正義の義務は「大規模な制度改革に向けた努力を求める」ものだとしており、2005年の『コスモポリタニズムとグローバル正義』でも、「グローバルな分配的正義の理論が関心を持つべきは、国際社会の基本構造、すなわち、利益のグローバルな分配に影響を与える経済的、政治的、法的諸制度と実践」だと主張している。

 一方、ロールズもベイツを批判し返した。ベイツのコスモポリタン正義は、グローバルな原初状態を想定するが、原初状態の契約当事者が第一原理を採用するとすれば、政治的構想によって直ちに人権が基礎づけられることになる。そのことは、自由でない社会も、最終的にはすべて自由な社会になるという考え方になる。すると、自由な社会は自由でない社会に対して寛容でなくなる。自由でない社会は制裁を受けるのが当然の対象と考えることになりかねない、としてロールズは、ベイツを批判した。

 格差是正原理に関して、ロールズとベイツの考えは全く違う。ロールズは、『諸国民衆の法』でベイツを主対象としてコスモポリタンを下記のように批判する。

「世界市民的な見方の究極的な関心は、諸個人の福利にあり、諸々の社会の正義ではない。世界市民的な見方によれば、各々の国内社会が正義に適った諸制度をその内部で確立した後になってもなお、さらなるグローバルな分配の必要をめぐる問題が存在することになる。()世界市民的な見方は、諸個人の福利に関心を持ち、それゆえ、全世界で最も困窮している人の状況を改善することができるか否かということに関心を持つからである。だが、諸国民衆の法にとって重要なものは、秩序だった諸国民衆社会の一員として生きる自由な社会と良識ある社会の正義、並びに正しい理由による安定性である」と。


 

●ポッゲは人権の視点から世界の貧困改善策を提案

 

アメリカの倫理学者トマス・ポッゲは、1990年代からロールズの正義論を現実的な政治的構想として読み直すことを試みた。ポッゲは、ベイツ同様、ロールズの正義論が事実上、既成の国民国家を前提にしていることに関して批判的で、ロールズの原初状態説を拡大して解釈することによって、グローバルな正義を論じる。もし契約当事者たちが、自らが生まれ落ちた場所についても無知であれば、どの国にとっても公正なグローバルな諸原理を要求するはずであると仮定する。そして、格差是正原理をグローバルに展開して貧困問題を解決しようとする。

ポッゲのグローバル正議論は、ロールズの理論に従って、社会構造、とりわけ社会制度の観点から提起されている。世界的な不平等の原因は、個人間の行為にではなく、制度秩序にあるという見方である。

 ポッゲは、主著『世界的貧困と人権』(2008年、邦題「なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか」)で、コスモポリタニズムを「法的コスモポリタニズム」と「道徳的コスモポリタニズム」に分け、さらに道徳的ポリタニズムを「相互行為的コスモポリタニズム」と「制度的コスモポリタニズム」に分ける。

ポッゲによれば、法的コスモポリタニズムは、すべての人が同等な法的権利義務を持つコスモポリタンな制度秩序を提唱するものである。これに対し、道徳的コスモポリタニズムは、すべての人が互いを道徳的な関心の根本単位として尊重し合うために、コスモポリタンな道徳的規準を提唱するものである。道徳的コスモポリタニズムのうち、相互行為的コスモポリタニズムは、人権を実現するための直接的責任が個々の行為者や集団的行為者にあるとするものである。これに対して、ポッゲは、自らの思想を制度的コスモポリタニズムと称する。制度的コスモポリタニズムは、人権を実現するための直接的な責任は制度的枠組みにあり、個人の責任は間接的だとする。

制度的コスモポリタニズムは、人権の制度的理解に基礎を置く。ポッゲは、次のように言う。人権は「あらゆる強制的に課された制度秩序への道徳的要求」である。言い換えれば「強制的な社会制度への要求」であり、そして二次的に「その制度を支持する人に対する要求」である。ポッゲはこのように人権を制度的に理解する。

ポッゲによれば、現在の根源的不平等は、豊かな社会や集団がその有利性をさらに拡大するために、数十年、数世紀にわたって資本と知識における有利さを利用してきたことの累積的な結果である。

ポッゲは、欧米の富裕な人々が形成するグローバルな制度秩序がグローバルな貧しい人々に対して危害を加えているという。それは、歴史的に形成された現在の世界の制度秩序のもとで、世界的な貧困や不平等が生じているからである。

ポッゲによると、1990年代初めからの15年間で貧困が原因で2億7千万人が早死にした。この数字は、20世紀のあらゆる戦争、内乱、虐殺、弾圧の犠牲者を合計した2億人よりも多い。2004年の時点では、25億3300万人あるいは人類の39.78パーセントが厳しい貧困下で生活していた。毎年、貧しい人々の約1800万人が貧困と関連した原因で早すぎる死を迎えている。これはすべての人間の死の3分の1にあたる、とポッゲは指摘する。貧困や不平等の対策は、戦争や紛争の予防や解決とともに重要な地球的課題となっている。

 こうした世界の現状に対し、ポッゲは、権利ではなく義務の問題を提起する。ポッゲは、道徳的義務を積極的義務と消極的義務に分ける。積極的義務とは、不当な取り扱いから他者を守ることである。たとえば、途上国の人々に援助を惜しまず、さらに途上国に行って井戸を掘り、インフラ整備を手伝うことである。これに対し、消極的義務とは、他者に不当に危害を与えないことである。たとえば、世界的な不平等が不正だと理解したら、それに加担しないことである。

ポッゲは、欧米の富裕な人々が形成するグローバルな制度秩序が、世界の貧困国の人々に対して危害を加えているとし、欧米の富裕な人々には、危害を加えないという消極的義務があると主張する。危害を加える制度秩序を支える人々は、危害を被る人々の人権の擁護と制度改革の推進に努力をしなければ、その制度秩序に協力しているとみなされる。ポッゲは、欧米の富裕な人々にとって、消極的義務を認めることは積極的義務を認めることよりも重要であると主張する。そして、積極的義務を果たさないという意味で不道徳であるより、むしろ「不正に加担しない」という消極的義務すら果たしていないことに、倫理的な問題があると主張する。


ポッゲの立場は、一見社会民主主義に近いものと思われよう。だが、彼の理論の特徴は、リバータリアンの規範を前提に構築されていることにある。すなわち、ポッゲは「人権は消極的義務のみを伴う」として、リバータリアン的な制約のもとで人権を考えるのである。この点で、限りなく分配の平等の実現を求めていく平等主義的な考え方とは異なる。

 ポッゲは、積極的義務を無視しているわけではない。実際、積極的義務の対象を、自分の近親者、自分の同胞、無関係な外国人と三つに分け、その順に義務を履行すべきことを説く。段階的・差別的である。また、外国人が自国で生じた不正義と他の不当な取り扱いに苦しんでいる場合でも、自国や自らのコミュニティにおける義務を優先することを認める。しかし、われわれが形成するグローバルな制度秩序によって外国人が危害を加えられている状況については、自国や自らのコミュニティにおける積極的義務を果たすよりも、外国人に対する消極的義務を果たすことを優先すべきだと説く。そして貧困国の人々に危害を与えるグローバルな制度秩序を課す先進国の富裕な人々に、制度改革の推進を求めるのである。

制度改革について、ベイツが偶然的な要素の強い天然資源の配分における公正に重点を置くのに対し、ポッゲは国際的な財の移転に関わる既存の制度の不公正を指摘し、人権という視点をしっかり反映したものにすべきだと主張する。彼らのように格差是正原理をグローバルに拡張するならば、配分は天然資源に限らず、財一般についてなされるべきだろうから、この点はポッゲの方が説得的である。

ポッゲは、グローバルな制度秩序の改革案として、先進国の富裕な人々の生活を悪くすることのない程度の穏健な方法を提案する。これは「地球資源配当」と呼ぶ基金であり、先進国の国民総所得の1パーセントを貧困国の支援に充てようというものである。ポッゲの試算によると、年間で総額約3000億ドルになる。一人当たりの地球資源配当金は約120ドルになる。約3000億ドルという金額は、貧困国の25億3300万人が厳しい貧困から逃れるのを妨げている総消費不足に、おおよそ一致する。現在の富裕国による途上国への援助総額の86倍に相当する。この基金により、地球のすべての人々に良質の水と電力へのアクセスを与えることができる、とポッゲはいう。ポッゲは、石油の採掘に1バレル当たり3ドルの地球資源配当を提案し、それによって約30パーセントの歳入を見込んでいる。こうした改革案を実現することによって、欧米の富裕な人々は、消極的義務を果たすことができる、とポッゲは説く。

次に、ポッゲとロールズの理論の違いについて述べたい。ポッゲはコスモポリタニズムの要素の一つに、個人主義があるとする。より正確にいうと、規範的個人主義である。規範的個人主義とは、道徳的関心の根本的な単位は「人間」あるいは「人」であるとし、家族、部族、民族、国民、国家等はその構成員にとって間接的にのみ道徳的関心の単位となり得るとする考え方である。ポッゲによると、ロールズは国内的には規範的個人主義を是認するが、国際的にはそれを拒否している。ロールズの正義論は、国内社会では、集団の利益は独立したものとして重視されず、個人が集団を選択しそれと一体とする場合に限って集団の利益が検討される。一方、国際社会では、民衆が道徳的関心の根本単位とされ、個人の利益に還元されない利益を持つ集団として認識されている。ロールズの国際正義論は、集団としての民衆を主体とするため、規範的個人主義を拒否するのである。民衆は集団的な平等と独立の保持のみを考慮して、「諸国民衆の法」を選択する。この場合、グローバルな経済秩序は自由な交渉によって形成されるために、不平等な秩序となる。それは、ロールズの国際正義論が制度的でなく相互行為的である結果である、とポッゲは批判する。もし規範的個人主義に基礎を置き、制度的アプローチによって国際正義論を組み立てるならば、国際的な経済的不平等を和らげるコスモポリタンでグローバルな制度秩序が構築される、とポッゲは主張する。

ロールズは、2002年に死去した。ポッゲの『世界的貧困と人権』は、ロールズの死後に刊行されたので、ロールズはポッゲに直接反論することがなかった。しかし、ロールズの基本的な考え方は、ベイツの項目の最後に書いたように、格差是正原理をグローバルに拡張し、グローバルな分配を図るコスモポリタンの思想とは相容れない。ロールズの「援助義務」とは、グローバルな配分的正義を目指すものではなく、「重荷を背負っている社会」が自らの政治文化を変化させ、正義に適った制度を自らの力で確立できるようになるまで、各種の援助を提供することである。その社会が「自由な社会」または「秩序ある社会」になれば、それ以上の援助を続けて、全面的な平等を目指す必要はないというのが、ロールズの立場ゆえ、ポッゲの説く地球資源配当は、ロールズの賛同するところではないだろう。


 

●ヌスバウムはケイパビリティによるグローバル正義を構想

 

アメリカの倫理学者マーサ・ヌスバウムもまたロールズの正義論をグローバルに拡張する。ヌスバウムは、著書『正義のフロンティア』(2006年)で、社会正義の「三つの未解決の問題」を取り上げる。第一に「身体的精神的障害をもった人々に正義を行うという問題」、第二に「正義をすべての世界市民に拡大するという緊急の問題」、第三に「動物をわれわれ以下に取り扱うかということに含まれる正義の問題」である。ヌスバウムは、これらの問題はロールズによって解決されていないものであり、これらへの取り組みは正義論のフロンティアを開拓する試みとしている。

 ヌスバウムは、三つの未解決問題について、ケイパビリティ・アプローチがより良い解答を提示できると主張する。ケイパビリティは、センが創出した概念であり、ヌスバウムは彼に協力し、これを哲学的に発展させている。ヌスバウムは、センとともにケイパブリストである。それとともに、ヌスバウムはコスモポリタンであり、ケイパビリティによるコスモポリタンである。

センはケイパビリティのリストを示していないのに対し、ヌスバウムは10項目のリストを揚げる。リストには詳細な説明が付されているが、簡単に要約すると、次のようなものである。

 

(1)生命: 早死にを免れ、生きるに足る人生を送ることができること。

(2)身体の健康: 身体の健康を維持できること。

(3)身体の不可侵: 身体の持つ能力を発揮できること。

(4)感覚・想像力・思考力: 識字能力を身に付け、思考力を展開できること。

(5)感情: 愛情、友情等の情緒を育むことができること。

(6)実践理性: 宗教的・道義的生活を営むことができること。

(7)連帯: 他者との平等な関係のもとで社会生活を営むことができること。

(8)他の種との共生: 動植物とともに、ないし自然環境の中で生活できること。

(9)遊び: リクリエーション活動を行うことができること。

(10)自分の環境の管理: 政治参加、所有などが確保されること。

 

上記のリストは能力と自由と権利が混在しているように見える。ヌスバウムはこれらのリストは完成したものではなく、議論に開かれており、「変更可能」としている。ヌスバウムは、ロールズから政治的自由主義の立場と「重なり合う合意」の考え方を継承しており、包括的な教説を説くことをしない。

ヌスバウムによると、ロールズは古典的な社会契約論にならい、体力、知力、能力においてほぼ等しい当事者たちによる相互利益のための契約という発想をしている。その発想のためにロールズは、女性、障害者、外国人、動物を正義の主題から排除せざるをえなかった、とヌスバウムは批判する。ヌスバウムは、社会契約説ではなくケイパビリティ・アプローチを取ることによって、より広い正義の構想が可能になるとする。そして、ロールズが排除したものを正義の主題に含めている。

次に、ヌスバウムの独自の主張について私見を述べる。ヌスバウムは、ロールズが古典的な社会契約論にならい、体力、知力、能力においてほぼ等しい当事者たちによる相互利益のための契約という発想をしたため、女性、障害者、外国人、動物を正義の主題から排除せざるをえなかったと批判する。そして、社会契約説ではなくケイパビリティ・アプローチを取ることによって、ロールズが排除したものを正義の主題に含めたとされる。私見を述べると、これは女性・障害者・外国人の権利の拡大を主張し、さらに動物へと対象を広げているものと理解される。だが、女性・障害者・外国人・動物の権利について、その内容及び人間一般の権利の内容との違いについて、ヌスバウムは具体的に論じていない。私は、特定の集団にのみ認める権利は、普遍的な権利ではなく、特殊的な権利だと考える。女性、障害者、外国人はそれぞれ特定の集合であり、その権利は特殊的な権利である。また一国の国民の中における女性・障害者の権利と、非国民である外国人の権利は、区別されねばならない。動物の権利については、動物を権利の主体と考えるのか、動物を対象とする人間の権利と考えるのかによって議論の方向が異なる。

 ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチの中核にある規範的価値は、「人間の尊厳」である。ヌスバウムは、ケイパビリティ・アプローチとは「人間の尊厳に対して敬意を払うために必要とされる最低限なものとして、すべての国の政府によって尊重されそして履行されるべき中核的な人間の権原(entitlements)を説明するための哲学的支柱を提供するアプローチ」だという。

 近代西欧的な「人間の尊厳」はカントに源を発し、世界人権宣言に盛りこまれた考え方だが、宣言もその後の各種国際文書も「人間の尊厳」について何も語っていない。一般には、「人間の尊厳」は、人間が事物または動物とは異なり、精神、良心、自由意思等を持つという事実を根拠とするものとされ、その価値は近代西欧で発見されたが、人類の起源とともに人間に備わっていたものと想定されている。だが、「人間の尊厳」とは何か、なぜ人間は尊厳を持つのかについて、人類は共通の理解をまだ確立できていない。

ヌスバウムは、ケイパビリティの概念を以て、「人間の尊厳」を哲学的に掘り下げようとしている。ただし、自ら価値とは何か、尊厳とは何かを定義するのではなく、ケイパビリティのリストを揚げることで議論を呼びかけ、国際的に「重なり合う合意」を作っていくという手法を取っている。ケイパビリティに関する合意の内容が、「人間の尊厳」という観念に実質的な内容を与えるものとなるということだろう。

「人間の尊厳」は、20世紀以降の人権思想における重要な要素である。ヌスバウムは言う。「人権という考えは、今日までに、深く根付きそして広範に広がってきた結果、時の経過とともに、それが重なり合う合意を達成することができないとはいかなる国もいうことができない。そして世界人権宣言は国際社会の薄い基礎を提供するにすぎないが、実行への協力と相互関係が示唆しているように、この考えが国際的な合意、制度、そして組織の基礎の中心的な位置を徐々に占めてきている」と。ヌスバウムは、ケイパビリティによる「人間の尊厳」の具体化によって、人権の擁護・拡大を図っている。正義論のフロンティアの開拓の試みが、同時に人権の擁護・拡大の試みとも構想されているわけである。

 ヌスバウムの思想の支柱には、ロールズ以外にアリストテレスとカントがある。彼女は、もともとアリストテレスの研究者だった。ヌスバウムの人間観は、第一にアリストテレスに多くを負っている。例えば、次のように言う。

「アリストテレスの構想は、『政治的動物』として人間を見る。すなわち、それは、道徳的政治的存在であるだけでなく、動物的肉体を持ち、そして人間の尊厳はその動物的本性に対立するものよりはむしろそれに本来備わっており、そしてその時間の経過と軌道において備わっている。人間は愛情を必要とする赤ん坊として始まり、ゆっくり成長し、そして成長するにつれ多くの世話を必要とする」

 「ケイパビリティ・アプローチは、『独立』としたものとして人々をイメージしない。人々は政治的動物であるため、その関心はその生活全般にわたり他者の関心と結び付けられている。その目標は共有された目標である。また生活の局面をとおして非対称的に他者に依存し、そしてある者はその生活全般にわたって非対称的に依存する状況にある」と。

このようにヌスバウムは、アリストテレスの人間観を継承している。ただし、サンデルのように、正義を認定する論拠はそれが促進する目的や目標の道徳的重要性にあるというアリストテレスの目的論的な考えを明示的には支持していない。この特徴は、次のカントの理解とも関係する。

 ヌスバウムの思想における第二の支柱は、カントである。ケイパビリティ・アプローチはカントの「目的の国」の理念を具現化するものだ、とヌスバウムはいう。そして、次のように大意述べている。

「ケイパビリティは、あらゆる国において、一人ひとり、そしてすべての人のために追及されるべきであり、一人ひとりを目的として扱い、そして誰も他者の目的の単なる道具として扱われてはならない。『一人一人を目的とする原理』に基づくものが、ケイパビリティである」と。

 ヌスバウムは、政治的動物である人間が一人ひとりを目的とする社会を目指すならば、女性、障害者、外国人のケイパビリティを拡大する取り組みを行うことになる、と考える。ヌスバウムは、コスモポリタンの特徴として国民国家の役割を否定するから、現実の国際社会では急進的で観念的な仕方で制度の改革を唱える論者となっている。

だが、私見を述べると、ヌスバウムの思想には矛盾がある。まずアリストテレスの政治的動物は、ポリスというコミュニティにおける人間のあり方をいうものである。アリストテレス的な共同体は、支配集団に関する限り、親子・夫婦・祖孫等の家族的血縁的なつながり、集団における生命の共有と共同性に基づく社会である。そのような共同体においてこそ、共同体の防衛とともに、その構成員である子ども・女性・老人・障害者の支援ができる。古代ギリシャのポリスを近代西欧の国民国家と比較することはできても、現代世界のコスモポリタンの集合体の範例とすることはできない。コスモポリタニズムは、ポリスで参政権を与えられなかった異邦人の思想に源流を持つものであって、アリストテレスの政治倫理思想とは相容れない。

次に、ヌスバウムは、カントに基づいて「一人一人を目的とする社会」の実現を説くが、ある社会が「目的の国」を目指し得るとすれば、その社会は家族的生命的な基礎を持つ共同体であって、コスモポリタンの集合体ではあり得ない。現代においてそうした共同体があり得るとすれば、歴史的・社会的・文化的に形成され、正義の体系としての法を持ち、人々が権利義務の関係の中で自らの役割を果たしている社会、即ち国民国家以外にはない。

カントの永遠平和論にコスモポリタン的な側面があるのは確かであるけれども、カントは近代国家を否定していない。永遠平和の構想においても、「法の支配」が行われている自由な諸国家による国家連合を提唱している。それゆえ、カントについても、ヌスバウムの思想は矛盾を呈している。

ここで「人間の尊厳」と「目的の国」について補足すると、カントは、人間は、個人個人が尊厳を備えていると説いている。個人は、何かの目的を実現するために、単に手段とされてはならない。その実現すべき目的そのものでなければならない。だが、また単に目的とされるのではなく、互いがその目的を実現する手段となって、協力し合わなければならない。カントは、すべての人が人格的存在として尊敬され、単に手段ではなく、目的とされる社会を「目的の国」と名付けた。「目的の国」は、自由で自律的な人格の共同体であり、市民社会のあるべき姿である。そしてカントは、「目的の国」を地上に建設するため、人々に理性に従って普遍的な道徳法則と一致するように実践するように説いた。カントにおける人間は、感性的であると同時に超感性的であり、市民社会の一員であると同時に、霊的共同体の構成員である。「目的の国」は、感性界・現象界で完結するものではなく、超感性界・叡智界につながっている社会である。現代の世俗化された福祉国家、物質中心に偏った文明が、そのままでカント的な「目的の国」を目指し得ると考えるのは、カントに対する大きな誤解だろう。


ヌスバウムは、ケイパビリティによって人権と正義を結合し、人権の発達によるグローバルな正義の実現を目指している。

ヌスバウムは、ケイパビリティ・アプローチをグローバル化する際に、制度の役割を重視する。この点は、ポッゲに通じる。そしてケイパビリティ・アプローチに基づくグローバルな正義の原理として、次の10個を提示している。

 

(1)責任の所在は重複的に決定され、国内社会も責任を負う。

(2)国家主権は、人間の諸々の可能力を促進するという制約の範囲内で、尊重されなければならない。

(3)豊かな諸国はGDPのかなりの部分を比較的貧しい諸国に供与する責任を負う。

(4)多国籍企業は事業展開先の地域で人間の諸々の可能力を促進する責任を負う。

(5)グローバルな経済秩序の主要構造は、貧困諸国及び発展途上中の諸国に対して公正であるように設計されなければならない。

(6)薄く分散化しているが力強いグローバル公共圏が涵養されなければならない。

(7)すべての制度と(ほとんどの)個人は各国と各地域で、不遇な人々の諸問題に集中しなければならない。

(8)病人、老人、子ども、障害者のケアには、突出した重要性があるとして、世界共同体が焦点を合わせるべきである。

(9)家族は大切だが「私的」ではない領域として扱われるべきである。

(10)すべての制度と個人は、不遇な人々にエンパワーする(能力・権限を与える)際の鍵として、教育を支持する責任を負う。

 

 これらの原理から、ヌスバウムは、グローバルな正義をケイパビリティ・アプローチのグローバル化として考察していることが見て取れる。ヌスバウムは、ベイツ、ポッゲよりはるかに急進的に諸個人の実質的自由の拡大を求める。そして、女性、障害者、外国人、さらに動物へと正義の対象を広げようとする。

ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチの特徴は、「重なり合う合意」と言っていながら、結果志向であることにある。ヌスバウムは、人間の尊厳に必要なものとして、特定の内容を直観的に把握して、結果から始める。その後に手続きを追求する。この点で、コスモポリタニズムの持つ一元的で独善的な傾向を最もよく表しているのが、ヌスバウムである。それだけに、ヌスバウムは地球市民論やフェミニズム、動物愛護運動等に強い影響を与える一方、国際社会の現実を政治、経済、外交、安全保障等の観点から多角的にとらえる人々からは、厳しい批判を受けている。

ヌスバウムは、一人ひとりのケイパビリティの向上を目標とし、グローバルな正義の10原理を提示しているが、現実の国際社会の制度秩序の分析を欠いており、グローバリゼイションとグローバル制度秩序という現実に対して、それらの原理でどの程度の改革を為し得るかについては、明確でない。

コスモポリタンの中には、正義の実現を目指すより、ひどい不正義を除くという考え方に立って最低限、貧困死をなくすという目標を掲げる論者がいる。これに比べ、ヌスバウムの場合は、正義の原理を多く示すことで、目標が多くなり、また分散している。しかも主体が国家ではなく個人ゆえ、諸個人が非力でいながら、あれもこれもめざす傾向に陥り、どれも中途半端に終わることが懸念される。人類の社会はグローバル化しつつあるが、まだ地球共同体を形成する段階には程遠い。仮に正しい目標であっても、急いては事を仕損じる。超長期的な構想と段階的な戦略が必要である。

また、仮に動物にまで正義を広げるのであれば、「人間の尊厳」ではなく「生命の尊厳」を説く必要があるだろう。その際には、動物だけでなく植物を含む「生きとし生けるもの」を対象としなければならないだろう。日本人及びアジア人の多くには、なじみ深い考え方だが、そこに感謝や慈悲の心ではなく、正義の概念を持ち出すのは、西洋人特有の発想である。

ヌスバウムはアメリカ人だが、ヌスバウムという姓は、ユダヤ人である彼女の夫の姓である。ヌスバウムはコスモポリタンの思想を説くが、脱国家的なコスモポリタニズムは、迫害されたユダヤ人が西欧で発展させた思想である。同時にユダヤ教は近代西洋文明における選民思想と自然征服思想の源泉でもある。ヌスバウムの思想には、こうした複雑な背景がある。国際的正義またはグローバル正義の観点から、ユダヤ思想及びシオニズムをどのように評価するかということは、世界的に重要な政治的・倫理的な課題だが、ヌスバウムの理論と主張を検討する際には、こうした背景と課題にも留意する必要がある。


 

●ロールズとコスモポリタンの論争

 

ロールズの「諸国民衆の法」に対する代表的なコスモポリタンの批判を概説した。もしロールズの社会契約説による正義論が正しいとすれば、その正義論を国際社会に当てはめる場合は、主体を民衆に切り替えるロールズの方法と、これを批判し主体を個人で一貫するコスモポリタンの方法のどちらが正しいかという議論になるだろう。

ベイツ、ポッゲ、ヌスバウムは、ロールズの正義論を支持・継承しながら、ロールズが国際的正義の主体を個人ではなく民衆とすることについては、三者とも批判的である。その一方、三者には次のような違いがある。

ベイツは、ロールズの原初状態に着目し、グローバルな原初状態を仮設することで、国内社会の正義の原理をそのまま国際社会に適用し、国際的分配の原理として格差是正原理をグローバルに拡張する。それによって、世界的な貧困問題の解決を図ろうとし、偶然的な要素の強い天然資源の配分における公正を追求する。

ポッゲは、ロールズの正義論が社会の基本構造を重視したことを受け、国際的な制度に焦点を当てる。国際的な財の移転に関わる既存の制度の不公正を指摘し、人権の侵害をグローバル制度秩序に起因するものとして、消極的義務の実行による制度改革で貧困を改善するため、地球資源配当を提案する。

ヌスバウムは、ロールズが体力、知力、能力においてほぼ等しい当事者たちによる相互利益のための契約を想定したことを批判し、ケイパビリティ・アプローチによるグローバル正義論を主張する。一人ひとりのケイパビリティの向上を目標とし、グローバルな正義の10原理を提示している。

こうしたコスモポリタンによる批判に対し、ロールズが直接反論したのは、主にベイツに対してである。これは批判者との年齢・年代の違いによる。ロールズの主張はベイツの項目に書いたが、ベイツ、ポッゲ、ヌスバウムに共通することとして、ロールズはコスモポリタンを次のように批判した。

「世界市民的な見方の究極的な関心は、諸個人の福利にあり、諸々の社会の正義ではない。世界市民的な見方によれば、各々の国内社会が正義に適った諸制度をその内部で確立した後になってもなお、さらなるグローバルな分配の必要をめぐる問題が存在することになる。()世界市民的な見方は、諸個人の福利に関心を持ち、それゆえ、全世界で最も困窮している人の状況を改善することができるか否かということに関心を持つからである。だが、諸国民衆の法にとって重要なものは、秩序だった諸国民衆社会の一員として生きる自由な社会と良識ある社会の正義、並びに正しい理由による安定性である」と。

 このようにロールズが説くのに対し、コスモポリタンは反論する。その結果が、ベイツ、ポッゲ、ヌスバウムそれぞれの主張となっている。今日、彼らコスモポリタンの主張は、世界的に影響力を増しつつある。人道的な行為を普遍的な義務とし、人々の道徳心に訴える主張は、一定の説得力を持つ。特に社会民主主義者、アナキスト、フェミニスト、動物愛護運動家等への影響が目立つ。

 私見を述べると、ロールズのコスモポリタン批判には、十分な説得力がない。その原因は、個人と集団の関係に関する考察が浅く、特にネイション(国家・国民・民族)の独自性を把握できていないことにある。ロールズは、基本的に個人主義的自由主義の思想を持ち、社会契約説に固執する。歴史的な事実と国際社会の現実を軽んじ、抽象的な理論の構築を志向する。個人主義的自由主義は個人を単位とする思想であり、社会契約説は抽象的・原子的な個人が集まって国家を形成するという仮説である。そのため、親子・夫婦・兄弟等による家族の生命的なつながり、共有生命に基礎を持つ親族・部族・民族・国民のつながりを把握できない。そのため、ロールズは、「諸国民衆の法」で主体を個人から人民・民衆に切り替える際、もともとの個人単位の思想の問題点を見直すことができていない。コスモポリタンは、ロールズの個人主義的自由主義を国際社会で徹底しようとする立場だから、ロールズ及び「諸国民衆の法」の支持者は、コスモポリタンの批判に対して、有効な反論ができないのである。

そもそもロールズが採用した社会契約説は歴史的事実と異なる仮想の理論であり、社会契約説を一般化して正義の原理を考案したのは、公共的理性を持つ者なら誰でも当然考えることだとして自己の主張を正当化しようとしたものである。その社会契約説を、個人から民衆へと主体を替えて、国際社会に適用したのは、無理のある手法である。ましてやコスモポリタンがそれをグローバルに拡張するのは、無理の上に無理を重ねている。人権と正義は、歴史的事実と国際社会の現実に基づいて考察されるべき事柄である。また、世界の貧困と不平等の改善は、国連に加盟する国民国家を主要な主体とし、国際機関や民間団体、諸個人の活動を補助的なものとして、進めていくべきものである。

国連は基本的に国家を単位とし、加盟国は190以上にのぼる。各国は、政治的自由によって国連に加盟し、一個の集団的主体として討論や投票に参加している。この主体を個人単位にすると、70億人もの個人を等しく国連の参加者とすることになる。これは、現実的に不可能である。人権条約は諸個人が直接採択しているのではなく、諸政府が採択している。個人の人権を擁護するのは、基本的に各国の政府が行うべきことである。その国の政府ができない場合やどの国の政府もできない場合に、国際機関や民間団体、篤志ある個人等が補助するという副次的なものでなければならない。

コスモポリタニズムは、国民国家を政治的単位とすることに反対する思想ゆえ、こういう現実的な考え方を認めない。国境を越えて徹底した個人主義を追求する。国民国家に所属していながら、あたかも無国籍者のような諸個人の連帯を作ろうとする。だが、国連で2000年に採択されたミレニアム宣言は、各国代表の討議の末に合意された。その実行の主要な主体は、国家である。主体を個人へと個別化していくと、大きな国際的な取り組みはできない。(ページの頭へ)  


(3)リベラル・ナショナリズムの正義論

 

●リベラル・ナショナリズムとは

 

コスモポリタニズムを批判するコミュニタリアニズムは、地域的(ローカル)、民族的(エスニック)またはナショナル(国民的)な共同体に関心を集中する傾向がある。その中でも特にネイションの役割を重視する考え方に、リベラル・ナショナリズムがある。続いて、リベラル・ナショナリズムについて述べたい。

リベラル・ナショナリズムは、コミュニタリアニズムと同様、個人主義的な自由主義や国家否定のコスモポリタニズムを批判する。ネイションは、各種の共同体のうち、政治的な共同体の最大のものである。リベラル・ナショナリズムは、個人主義的自由主義を批判する集団主義的自由主義の立場から、ネイションに特別の価値を認める。そしてリベラル・デモクラシーは連帯意識や相互信頼感を備えた共同体としてのネイションを基礎としてはじめて成り立つ、と考える。自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値も、ネイションを通じてこそ実現されるとする。こうした考え方によって、リベラル・ナショナリズムは、リベラリズム(自由主義)とナショナリズム(国家・国民・民族主義)の融和・総合を図るものとなっている。

歴史的には、ヒュームやアダム・スミスにおいて、自由主義とナショナリズムは不可分のものだった。彼らは自由貿易を説きながら、個人や私的資本の利益の追求だけではなく、各国のネイションの国際的な繁栄を目指した。中野剛志のいう「経済ナショナリズム」である。またケインズは、1920〜30年代のイギリスの深刻な不況の際、自由を守るために自由に一定の制限をかけ、雇用を創出する失業対策を打ち、ネイションの繁栄を目指すナショナリズム的な経済学を構築した。私は、リベラル・ナショナリズムをこの系統に立つ現代の思想と見ている。

ナショナリズムは、ともすると偏狭になったり、排外的になったりしやすい。リベラル・ナショナリズムは健全な愛国心や国民の誇りを肯定しつつ、ナショナリズムにリベラリズムという制約をかけ、他のネイションの自決権を尊重し、自国のマイノリティ(少数者)の権利に配慮する。

リベラル・ナショナリズムは、リベラリズムによってナショナリズムに制約をかけるという点だけでなく、ナショナリズムによってリベラリズムの欠陥を補正するという点も持っている。リベラリズムは、18世紀「啓蒙の世紀」に発達した。啓蒙思想は理性を信奉し、近代西洋文明における理性の擬似的な普遍性を前提としていた。啓蒙思想の影響を受けたリベラリズムは、文化的に中立であると考えられた。いわば無色透明なものと想定された。この発想は前期ロールズの『正義論』にまで貫かれている。しかし、実際のリベラリズムは、イギリス、アメリカ、フランス等で異なる特徴を示す。コミュニタリアニズムは、文化的多様性を認め、コミュニティによって価値観が異なり、価値観は文化的文脈(context)によって異なることを指摘する。リベラル・ナショナリズムは、ネイションの独自性に注目してこの点をより明確にとらえる。そして、リベラリズムは文化的に中立ではなく、ナショナルな特色を持つと考える。

文脈という言葉は、まさに言語を前提にした概念だが、文化の中核的要素には言語がある。人間は、言語があって初めて有意味な思考が可能になる。個人の自由は、言語を中核とする文化的な共同体という枠組みにおいて、確保され、拡大される。国家は、文化的な共同体を基礎とする政治的な共同体である。政府は公用語を用いて国民を統治する。言語は多様であり、その言語を中核とする文化もまた多様である。それゆえ、政府が文化的に中立であることはありえない。

リベラリズムの要素である自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等は、各国や各文化によって異なる特色を持つ。リベラル・ナショナリズムは、それらの特色はネイションによるものであり、それぞれのネイションにおける伝統・文化・習慣と関連があるとする。この見方は、トッドが家族型による自由/権威、平等/不平等の価値の組み合わせの違いを明らかにしたことによって、人類学的にも確認できる。リベラル・ナショナリズムは、自由・デモクラシー等の発達はネイションが役割を果たしてこそ、可能になると考える。仮にあるネイションにおけるリベラリズムを文化的に中立、無色透明なものと考えて、ほかのネイションに押し付けるならば、それは一つの文化の押し付けとなり、他のネイションの文化的自己決定権を侵害するものとなる。

リベラル・ナショナリズムは、文化的な多様性を認め、相互の文化の尊重を原則とする。ロールズの「穏健な多元性の事実」の認識は、包括的な宗教的・哲学的・道徳的教説の多元性、広く言うと文化的な多様性を認め、そのうえで社会を統合する原理を求めるものだが、リベラル・ナショナリズムは、これをネイション重視の姿勢で追及する。

ロールズの『正義論』は個人主義的自由主義に立ち、コスモポリタンな志向を孕んでおり、ベイツやポッゲは、その志向性を理論的に追求した。これに対し、リベラル・ナショナリストは、前期ロールズを継承したコスモポリタンを批判する。ロールズ自身はその後、政治的自由主義による「重なり合う合意」の考え方に転じ、「諸国民衆の法」では主体を個人から人民・民衆(ピープル)に変更した。この時、ロールズはネイションを積極的に評価しようとはしなかった。これに対し、リベラル・ナショナリストは、ロールズが軽んじたネイションの役割を再評価する。ロールズは民衆を主体とする立場からコスモポリタンを批判したが、リベラル・ナショナリストはネイションを重視する立場から、ロールズとコスモポリタンをともに批判する。

リベラル・ナショナリズムはコミュニタリアニズムの一種だが、コミュニタリアニズムのうち地域的・民族的な共同体に焦点を合わせるものは、国際的な問題やグローバルな課題に対する関心が低い。リベラル・ナショナリストは、国際的な問題やグローバルな課題への関心を示し、コスモポリタンと対話しつつ、コスモポリタンに対してネイションの再評価を迫る。正義については、ネイションを越えたグローバルな正義ではなく、各ネイションの自己決定と協調に基づく国際的正義を追求する。人権については、脱国家的な個人の人権ではなく、ネイションを基礎とする国際社会での個人の人権を保障しようとする。私は、こうしたリベラル・ナショナリズムには、様々な文明・文化が共存共栄できる世界を目指す政治理論に発展し得る可能性があると考えている。次にその代表的論者であるデイヴィッド・ミラー、ウィル・キムリッカ、ヤエル・タミールの思想を見ていきたい。

 

●ミラーはネイションを踏まえて国際的な正義を検討

 

イギリスの政治学者デイヴィッド・ミラーは、コミュニタリアンであり、またリベラル・ナショナリストである。もっともミラー自身はリベラル・ナショナリストと呼ばれることを好まず、「ナショナリスト」または「ソーシャル・ナショナリスト」を自称する。

ミラーは、社会民主主義による社会正義論からナショナリズムの研究に進んだ。その研究をもとに、ネイションとしての責任という観点から、グローバルな正義を論じている。

第2部第6章で人権と国民国家とナショナリズムの関係に関する項目に書いたが、アーネスト・ゲルナーは、ナショナリズムとは「第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければいけないと主張する一つの政治的原理である」と定義した。ナショナリズムは、民族的な集団が政治的な集団でもあろうとし、政治的権力を獲得し、維持・拡大しようとするものである。アンソニー・スミスは、ネイションとは「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通する経済、構成員に対する共通する法的権利義務を共有する特定の人々」と定義した。一個の集団が、このように定義されるところのネイションを形成し、発展させようとする思想・運動が、ナショナリズムである。

ミラーは、著書『ナショナリティについて』(1995年)で、ゲルナー、スミス等の業績を踏まえて、ネイションに関する研究を発展させた。リベラル・デモクラシーの前提であるデモクラシー、平等、個人の権利という要素を分析し、これらが実現できるのはネイションにおいてであることを明らかにした。ネイションは党派的対立を含みながらも公共の利益を追求し、また財産を社会正義のために再配分し、さらに最低限の個人の自由や権利を保障するために必要な連帯意識を提供する。それゆえに、ナショナリティつまり国民・国家・民族・国籍は肯定されるべきものであると説く。

ミラーによると、ナショナリズムはアイデンティティを創造し、人々に自分が独自の性格と文化を持つ世代を超えた共同体の一員であることを認識させる。ナショナル・アイデンティティは、人々の自己理解のなかで発展する。ただし、ネイションの構成員の基準は変わり得るし、人種的あるいはエスニックな基準で理解される必要はない。ナショナリティは人格的アイデンティティの重要な要素だが、排他的である必要はなく、またそうあるべきでない。あるネイションに所属することは、多くの下位集団つまり郷土的・文化的・宗教的等の集団の一員であることを排除することではなく、むしろそれらによって補完される。ネイションへの所属によって人は同胞に対して特別の義務を負うが、このことは外部の人々への義務を負うことと矛盾しない。すべてのネイションは自己決定権を持つので、いかなるネイションも自決の名のもとに同様の権利を他のネイションに認めないような政策を進める権利を持たない。ネイションには他のネイションの自己決定を尊重する義務がある。相互尊重の態度から、国民国家による国際秩序が導き出される。

ちなみに、ミラーの説くネイションにおける特別の義務は、サンデルの説く「連帯の義務」に当たる。ただし、サンデルは、家族における連帯の義務とネイションにおける連帯の義務の質的な違いを明確にしていない。ミラーのいう国民以外の人々への義務は、サンデルの説く「自然的義務」に当たる。サンデルはこの普遍的な義務を認めるが、積極的には論じていない。この点でミラーの義務論は、サンデルより具体的で優れている。

ミラーは、グローバル化によって人間の連帯意識が低下し、ネイションの文化が後退して、福祉や教育の弱体化が生じることにより、社会的格差が拡大すると指摘する。グローバル化の中でこそナショナリティの機能を回復・強化しなければならないと主張する。この点は、伝統的な価値の回復を説く佐伯啓思に通じる。ちなみに佐伯は、ネイション重視のコミュニタリアンに近いが、自由主義への批判を徹底し、自由民主主義からの脱却と「日本的な価値」の回復を説いている。自由主義的な側面を持つリベラル・ナショナリストとは一線を画す。

 ミラーは、閉鎖的なコミュニタリアンでも、偏狭なナショナリストでもない。グローバルな貧困や不平等の問題に関心を持ち、この問題を論じるために『国際正義とは何か』(2007年、原題「ネイションとしての責任とグローバルな正義」)を著している。本書でミラーは、ネイションとしての責任という概念を基に、ナショナリズム、コスモポリタニズム、及びグローバルな正義について、詳細かつ綿密な検討を行っている。

ミラーはこの検討に当たり、最初に三つの一般的な指針を示す。第一の指針は、「人間をつねに行為の受け手であり、また主体でもあると見なすこと」である。つまり、人間を「他人の助けなしには生存し得ない貧しく傷つきやすい存在」であるとともに、「自らの生のために選択をなし責任を取ることのできる存在」であるとして、これらの両面から見ることである。この指針は、貧困者は単に救済されるべき対象ではなく、支援することによって自立を促すべき対象であるという認識に導く。第二の指針は、正義の要請に関して「個人としての観点」に立つ個人倫理的アプローチと、「国家を含めて大規模な人間的組織への参加者としての観点」に立つ制度的アプローチの双方から理解することである。この指針は、制度的なアプローチに個人倫理的なアプローチを結びつけたグローバルな正義の理論への方向を指し示す。第三の指針は、「国内的文脈と国際的文脈との大きな違いを考慮に入れ、それゆえたんに社会正義のよく知られた原理を拡大するのではない形で、グローバルな正義を理解すること」である。この指針は、正義は一元的なものではなく多元的であり、また文脈によって決定されるという理解に基づく。

これらの三つの指針は、どれも重要なものである。今日、国際的な正義を検討する上で、欠かせない指針と言えよう。なお、ミラーが説く「グローバルな正義」は、コスモポリタンの言う意味とは異なり、ネイションを単位とした国際社会における国際的な正義を意味する。混同しやすいので注意を要する。


 

●ミラーによるコスモポリタニズムの分類とその検討

 

 ミラーは、ネイションを重視する立場から、コスモポリタニズムを批判する。先にコスモポリタニズムに関するポッゲの分類を書いたが、それはコスモポリタンによる分類だった。ミラーは、コスモポリタニズムを批判する立場から、コスモポリタニズムを「政治的コスモポリタニズム」と「道徳的コスモポリタニズム」に分ける。ミラーによると、道徳的コスモポリタニズムとは、「最も一般的に定式化すれば、人間はすべて同じ道徳法則に服するとだけ述べる。すなわち、私たちは他者が世界のどこに住んでいようが、彼らをこの法則に従って処遇しなければならないし、同様に彼らもこれと同じやり方で私たちを処遇しなければならない」と主張するものである。一方、政治的コスモポリタニズムとは、「全員がこの法則を強制する権力を持つひとつの権威に最終的に服しているときにのみ、このような処遇が実現できる」と主張するものである。

ミラーは今日、政治的コスモポリタニズムによる世界政府・世界連邦というような強固な制度的枠組みを支持する意見は少ないとして、これを検討の対象から除く。私は、この点は安易だと思う。グローバリズムを推進する巨大国際金融資本家には、世界単一市場を実現し、ごく少数の富裕層が残りの人類を統治する世界政府の建設を目指す思想があると見るからである。その思想は、アングロ=サクソン・ユダヤ的な世界観に基づくものである。ミラーは、この点を考慮せず、道徳的コスモポリタニズムに議論の焦点を絞っている。

ミラーによると、道徳的コスモポリタニズムには、弱い形態と強い形態がある。

「弱いコスモポリタニズムはどこにいる人間に対しても平等な道徳的関心を示すことを求めるのに対して、強いコスモポリタニズムはこれを越えて実質的な意味でどこにいる人間に対しても平等な処遇の提供を求める」

ミラーは、後者の「平等な処遇の提供」を求めるグローバルな平等主義に反対する。その理由について、「私たちが本来同胞に負っている特別な責任を無視し、自己決定という価値を適切に説明できず、文化的な差異に十分敏感ではないからであって、言い換えれば政治的のみならず哲学的に欠陥を抱えているからである」と述べている。ネイションにおいては国民の間で相互に特別の責任があり、また文化的に多様な世界では政治共同体が自分自身の将来を決定する能力を持つべきだ、とミラーは考えるわけである。

ミラーは、このように強いコスモポリタニズムを斥けたうえで、弱いコスモポリタニズムとナショナリズムの関係を検討する。私は、ミラーの「弱い/強い」という対比は、誤解を招きやすいと思う。弱い形態が、道徳的に弱いわけではない。私は、穏健的/急進的とした方がよいと考える。ちなみに道徳的コスモポリタンのうち、この意味で最も急進的なのがプーター・シンガーである。シンガーは、動物の権利や菜食主義を説くオーストラリアの倫理学者である。シンガーは、飢餓で生死の境界をさまよう外国の人々を放置して同国人の福祉を行うことは、「人種差別」にも似た差別を行うことであり、不正だとして批判する。ベイツ、やヌスバウムは、それほど急進的でなく、ポッゲはより穏健である。

 

●結果責任と救済責任を区別する

 

コスモポリタンは、グローバルな不平等の問題に関して、富裕国の市民の責任を問う。これに対し、ミラーは、責任に関して、「結果責任」と「救済責任」を区別することを提案する。結果責任とは、「自らの行為と決断に対して負う責任」であり、「私たちの行動によって帰結する損益についての責任」である。救済責任とは、「助けを必要としている人々の援助に向かわなければならない責任」であり、「それが可能であれば被害や苦痛を取り除く責任」である。この区別は非常に重要である。ただし、私は、この責任論においては、行為者が行為の結果を引き受けること、また要求される行為を実行しない場合には何らの社会的制裁を受けることが、行為者、その行為の対象者及び第三者に認識されていなければならない、と考える。

ミラーは、コスモポリタンが旧植民地に対する欧米先進国の過去の世代の行為や現在の世界の制度に関して責任を説くのは、結果責任を説くものであると指摘する。結果責任には具体的な分析が必要である。また仮に何らかの結果責任があるとする場合、それがどこまで救済責任に結びつくのかが、検討されなければならない、と主張する。「世界の貧困者に対する救済責任はどの程度まで彼らの現在の窮状に対する結果責任に付随するのか」と問うことが必要なのだというのである。

「視点を結果責任に狭く限定しすぎると、人々が絶望的な困窮にあえいでいたとしても、これに対する責任が自ら招いた結果である場合や、他人が関与していないような状況(例えば自然災害)に直面した場合には、そこにある不正の跡を見逃すことになるだろう。視点を救済責任に狭く限定しすぎると、被害者意識だけを増幅させ、助けを必要としている人々に自らの生の統御をやり遂げることのできる、またやり遂げるべき行為主体としての地位を否定してしまうことになりかねないだろう」とミラーは言う。

人間には他者の援助を必要とする側面と主体的に責任を以て行動できる側面がある。これらの両面を総合的に考える必要があることをミラーは強調する。そして、救済責任を以て援助する場合は相手が主体的に行動できるようになるところまでにとどめるべき、とミラーは説く。

コスモポリタンは救済責任を結果責任と区別せずに、救済責任を以て正義の義務と主張する。ミラーはこれに反論し、救済責任は正義の義務ではなく、人道主義的な義務だと説く。「正義の義務がその履行を要求されるものであるのに対して、人道主義的義務は履行を要求されることはない」「正義の義務の履行を怠った者に対しては、第三者が制裁を課しても差し支えないという意味で、正義の義務には強制力があるが、人道主義的義務はそうではない」とミラーは説く。

この論点も重要である。ただし、ミラーは正義と人道主義の違いを具体的に述べていない。私見を述べると、何を以て正義とし、何を以て人道主義とするかを明確にしないと、単に履行を強制されるものとそうでないものとの違いになる。各ネイションであれば、正義は法として制度化されている。履行しなければ、強制的に実行を求められ、実行しなければ罰則が科せられる。人道主義は、個人的な倫理の領域、良心の問題であり、客観的な制度ではない。国際社会で正義の義務と言い得るには、国際的な機関を通じて、正義とは何か、正義の義務とは何かの共通認識が確立し、法制度化されていなければならないだろう。現在の国際社会には、国家における主権に当たる地球的統一的な政治権力はないから、厳密に言うと法執行の強制力は存在しない。履行しなければ刑罰を受けるのではない義務は、法的義務ではなく、道徳的義務である。現在の国際社会における義務は、本質的に道徳的な義務である。救済については、援助を求める側も法的権利として求めるのではなく、道徳的権利として主張するものである。

これに対し、人道主義的な義務というならば、国民道徳的な義務ではなく、人類普遍的な道徳に基づく義務と言わなければならない。だが、人類はそのような人類普遍的な道徳を確立できていない。個人や集団によって異なる様々な道徳観があり、その道徳観を以て人類に普遍的なものとする考え方があるというところまでしか言えない。ロールズの言うところの特定の包括的教説に依拠せずに「重なり合う合意」を作り上げる努力を行わなければ、人類に普遍的な道徳は構築できない。人道主義的な義務という言葉がすべての人に共通した意味を持ち得るのは、そうした人類道徳が確立した時のこととなるだろう。現時点ではミラーが言う人道主義的義務は、様々な個人や集団がそれぞれの倫理観をもとに普遍的なものと意識する義務と言わざるを得ない。道徳に関する緩やかな国際常識といった程度のものである。常識と思う人と思わない人がおり、人間はこうあるべきだ、人間である以上こうすべきだ、と主張する人がいても、同意しない人がいる。拒否・反対する人もいる。そういう意味で、緩やかな国際常識といったところである。


 

●ネイションとしての責任を主張

 

 ミラーは、結果責任及び救済責任を負う主体には、個人だけでなくネイションがある、と主張する。

コスモポリタンは、ナショナリティの「本質的価値」を否定する。だが、ネイションは「本質的な価値」を持ち「特別な義務」の「源泉」となるものであるとミラーは説く。本項目の冒頭で『ナショナリティについて』におけるミラーの見解を書いたが、『国際正義とは何か』では、ミラーはネイションの特徴を5つ挙げている。

第一に、「共通のアイデンティティを備えた集団であり、ネイションへの所属は各構成員のアイデンティティの一部をなす」。第二に、共有しているもののひとつに「公共文化」がある。公共文化とは「自分たちの集団生活をどのように送るべきかについての一連の了解であり、そこには政治結社の条件を定める原則や、大きく見れば政治的意志決定の指針となる原則が含まれる」。第三に、「構成員が相互に特別な義務を負っていることを認識している集団である」。第四に、「ネイションの存続はその構成員にとって価値あるものとしてとらえられている」。第五に、構成員が「政治的に自己決定することへの熱望」を持っている。これらの5点である。

ここでミラーが強調するのが、ネイションとしての責任という概念である。ミラーによると、ネイションの構成員は、その地位によって利益を受けるだけでなく、負債や負担も受け継ぐ。「ナショナルな集団的責任」は、「世代を超えて引き継がれる」。ネイションとしての責任には「ナショナルな過去に対する責任」「祖先が行ってきたこと」まで含まれる。

ミラーは、ネイションの行為が自らの集団や他のネイションに何らかの負担を課すとすれば、その負担についての責任は、それに関わる決定や政策に反対した人々も含めて、すべての構成員が負うべきものと説く。ただし、ネイションが外部の支配もしくは専制的支配に服している場合や文化的な分裂が深刻である場合は、これに当たらないとする。

「世界の貧困者に対する私たちの責任は、原則として同胞市民に対する責任と全く同一であるとするコスモポリタン的見解」にミラーは反対する。急進的なシンガーについては、「最初に結果責任の問題――貧困はどのようにして、また何が原因で発生したのかーーを考えることなく、貧困についての救済責任を富裕国の市民に負わせるのは意味がない」と批判する。穏健的なポッゲについては、「貧困についての結果責任を国際秩序に負わせ、またそれを通して富裕国の市民と彼らの政府にも結果責任を負わせようとするのは妥当でない」と批判する。

ミラーは、「私たちが社会正義の問題として同国人に負っている義務のすべてを、私たちは世界の貧困者に負っているわけではない」「とりわけ、グローバルな正義というものが何を意味するにせよ、それは資源、機会、福祉等のグローバルな平等を意味しない。したがってさまざまな社会の間に存在する不平等が完全に平均化されるようにグローバルな秩序を改変する必要はない」と説く。

さらに具体的に次のように言う。「一方には、貿易、投資の流れ、資源に関する権利、その他諸々のグローバル経済の特徴を規定する規則を定める諸政府及び国際機関がある。また他方には、GDPの大部分を軍事費や大統領宮殿やスイスの銀行口座に流用することによって貧困を再生産している体制を支持または黙認している貧困国の人々がいる。責任はこの両者によって分担されるべきである」と。ミラーは、これは結果責任については正当であるとしながら、救済責任については、「世界の貧困やその他のさまざまな窮乏に対して何事かを行うための資源と能力を持っている人々が負担せざるを得ない」と言う。ただし、「救済責任がグローバルな次元で生じてくる際の根拠を区別する必要がある。このことは、さらにすすんで『世界の貧困者は正義の問題として何を義務付けているか』を問うとき重要になってくるだろう」と述べる。

ミラーは、世界の貧困者への責任と同胞市民への責任を同一視するコスモポリタンの見解に反対するが、ネイションとしての責任には、「一般の市民が正当な形で(たとえば、外国への援助のため徴収された税金を通じて)救済に寄与する義務を負う場合もあり得る」と言う。それゆえ、ネイションの犯罪的行為に個人的には責任がない人々が、ネイションが過去に行った不正に対して賠償するよう求められる可能性があることを認める。また、ある一定のグローバルな不平等を正当化するために、ネイションとしての責任に訴えかけるということが起こり得る。豊かな社会に負担を課し、貧しい社会に利益をもたらす資源の移転や制度の変更を正当化するために、ネイションとしての責任に訴えかけるということも起こり得る、と述べている。

私見を述べると、ネイションについてのミラーの主張は、責任が中心で、権利の考察が軽視されている点で一面的である。ネイションを含む集団一般には、集団として持つ権利がある。私が第1部に書いたように、権利は集団の持つ能力が権利としての承認を受けて行使されるものである。主体―対象の間の権利の相互作用を力の観念でとらえる時、これを権力という。権利・権力を行使する自由には、責任を伴う。それゆえ、ネイションとしての責任という概念は、能力、権利及び権力という点から論じる必要がある。

関連する事柄として移民の問題についてここで述べると、ミラーは、人権を基礎として移住の無条件の権利を正当化することはできないとし、国家には領土への立ち入りを許可するかどうかを決定する権利があるとする。ただし、緊急の状況にはない移住希望者の入国を拒否する場合は、入国拒否の公正な理由を伝えねばならないとする。自分が住みたい国に入国したいという移民の利益と、自国の構成や特徴を形づくる力を維持するというネイションの利益の間で均衡が保たれるべきである、とミラーは説いている。ここでミラーは、国家の主権やネイションの権利を述べている。この部分は、権利関係・権力関係に基づく見解となっている。

個人と個人、集団と集団の間と同じように、富裕国と貧困国の間でも、権利と権力をめぐる関係が存在する。移住権と領土権の問題だけではない。権利関係・権力関係は、基本的に一方の責任・義務の問題ではなく、相互的なものである。ミラーが説くように救済責任が正義の義務ではなく、人道主義的義務であるとすれば、この道徳的義務の実行は、強制ではなく自発的なものであり、援助することのできる主体が、その集団的な能力を自らの意思で発揮するものである。この時、援助を求める側と援助を申し出る側の間で意思の交通と合意が求められる。そして、合成された意思の下で、援助の提供と受容が行われる。援助は、一方の側の責任感と人道主義的倫理意識によってのみ、なされる事柄ではない。このように考えることによって、ミラーの責任志向の議論を、権利関係・権力関係とバランスの取れたものに是正することができるだろう。

 

●グローバル・ミニマムとしての基本的人権の正当化を図る

 

 ミラーは、ネイションとしての責任の概念をもとに国際的な正義、彼の言うところのグローバルな正義を考察する。人権は正義の核心をなすものだとして、グローバル・ミニマムを定めることを提案する。

ミラーは、ネイションとして負う責任がどの程度あるのかを決めるためには、「グローバル・ミニマムという観念を用いる必要がある」と説く。「それは、どのような場所やいかなる状況にある人であっても保障されなければならない一連の基本的人権である。これらの人権は基本的なものであり、いわば人間らしい生活が成り立つための条件に対応するものである」と述べている。ここから本稿の主題である人権に関するミラーの意見を見ていこう。

 ミラーは、基本的人権とは人権と呼ばれる諸権利の「中核をなすもの」だとする。基本的人権は「非常に強く抗しがたい道徳的要求」である点で他の諸権利と区別される、という。自分が基本的人権の理論を目指す目的は、「どこに暮らす人であろうと正義の問題としてその付与を認められるべきグローバル・ミニマムを特定でき、それゆえ特に、豊かなネイションに義務を課すことができるであろう権利の一覧を明らかにすることである」とする。

ミラーは、最低限の人権である基本的人権と、人権に含まれることのある「シティズンシップの諸権利」とを区別し、前者に限ってグローバルに擁護すべきという考えである。ミラーのいう「シティズンシップの諸権利」は市民権・公民権より広く、私のいう「国民の権利」に近い。基本的人権はすべての人に保障すべきものであり、シティズンシップの諸権利はそれぞれの国民国家で政府・国民が保障すべきものと理解される。

グローバル・ミニマムとしての基本的人権は、どのような方法で正当化することができるか。ミラーは、これまで人権一般の正当化に用いられてきた戦略を三つに分類して比較・検討する。

第一の戦略は、「実践に基づく戦略」である。ミラーによると、この戦略は、人権の深遠な哲学的基礎を探求する必要はないと主張する。そのかわり、人権の実践、すなわちさまざまな公的な宣言や協定及び国際法、あるいは諸政府の外交政策、人権諸機関の日常活動において実施されてきたことに直接に目を向けるべきであり、そうした実践から人権理論を抽出すべきだとする。だが、この戦略は、人権について「概ねリベラルな問題関心の表明に過ぎないと見なす非西洋の批判者に対して、真に解答となり得るものではない」とミラーはいう。何が人権と見なされるべきであり、何がそうでないかという「根本問題」をあらかじめ回避しているために、どの人権が確定的なものであるかに関する「高度の実際的合意」が欠けている。それでは、基本的人権の正当化という要求に応えることができないとして、ミラーは実践に基づく戦略を斥ける。

第二の戦略は、「重なり合う合意の探求」である。ロールズの「重なり合う合意」の手法を人権に応用したものだろう。ミラーによると、この戦略は、主な世界宗教、あるいは重要な非宗教的世界観に順次目を向けることを通じて、またこれらがそれぞれ人権の共通の一覧を支持することを示すことを通じて、人権の多様な基礎を発見できるとする。また、人権は哲学的基礎を持つだろうが、その基礎は多様な基本的価値に依拠することになり、支持する人々によって異なるものとなるだろうと想定する。ミラーはこの戦略について、「近年、イスラーム教やユダヤ教、儒教、仏教などで人権はいかに根拠づけられるのかを示すことに多くの努力がされてきた」と言う。センが仏教や儒教について言及していることを想起させる。だが、ミラーは「これらの解釈の努力は、本当にイスラーム教や儒教全体から出発しているわけではなく、こうした文化の最善の読み方が人権の承認や尊重を包含するか否かを問うているわけでもないのであって、人権は何らかの既存の一覧から出発し、その人権の一覧かあるいはその一部を根拠づけるために利用し得る当該文化内の要素を求めているのである」と言う。そして、次のように述べて、この戦略も斥ける。「人権の文化横断支持を示そうとして工夫された解釈実践の政治的重要性は私も認める。けれども正当化そのものを求めるのであれば、とりわけデモクラシーや法の下の平等に対する人権があるかどうかといった論争的な問題の解決につながるかもしれない正当化を求めるのであれば、重なり合う合意戦略は役に立たないであろう」と。

第三の戦略は、「人道主義的戦略」である。この戦略は「人間の基本的なニーズを見出そうとするもの」である。ミラーによると、この戦略は、「宗教的もしくは世俗的世界観がどうであれ、どこに暮らす人々にとっても道徳的に説得力があると認識されるに違いない」と考えるものである。ミラーは、「人権は、人間の基本的ニーズの充足に必要な条件を整えることを示すことによって正当化される」とし、この戦略を擁護する。ミラーは、人道主義的戦略について、「人権の基礎として役立ち得る人類の普遍的特徴に依拠し、人権を確定し、正当化するもの」と言う。そして、「人権は一種の根源的道徳であるーーすなわち他の道徳的要求は弱い義務を課すか、あるいはいかなる義務も課さないかであるが、人権の保障は道徳的命令であるーーと想定されるので、人権は人間的な生命・生活の本質的特徴を参照することによって正当化されるべきである」と述べる。基本的ニーズはこの種の道徳的切迫性を有しているとし、「人権とは全人類に共通の基本的ニーズという観念を通じて最もよく理解され正当化される」とミラーは主張している。

ここでミラーは、人権は「根源的道徳」であり、その保障は「道徳的命令」と想定されると言っている。この発言は、これまで触れてきた彼の人道主義的義務と関係するものである。この発言は人権の根拠に人類普遍的な道徳を想定するものであり、またその道徳的命令はカントの定言命法のような性格を持つものと理解される。ミラーは、ここで明示的に論じてはいないが、彼のいう人道主義的義務は、カント主義的な普遍的義務と考えられる。「全人類に共通の基本的ニーズ」を実現することが、その普遍的義務の実行であり、それは「根源的道徳」に基づく「命令」であるという理解が成り立つ。私は、世界人権宣言にはロック=カント的人間観の影響があると見ているが、人類は宣言を通じて、近代西欧発の普遍主義的かつ個人主義的な道徳哲学に広く合意しているわけではない。それゆえ、ミラーの主張は厳密にいうと、ミラー個人の信条を述べたものと言わざるを得ない。

人道主義的義務は、道徳に関するゆるやかな国際常識と先に書いたが、それを常識と感じる人と感じない人がおり、常識と認める人たちと認めない人たちがいる。人道主義的戦略を擁護するには、人道主義とは何かが問われねばならない。その問いはまた人間とは何かという問いにつながる。ミラーは「人類の普遍的特徴」「人間的な生命・生活の本質的特徴」の理解が人権を確定し正当化するというが、その特徴を具体的に考察することが、人間とは何かという問いの答えの追求となり、また人道主義とは何かという問いの答えの追求となる。だが、ミラーは、その特徴を具体的に考察することなく、またこれらの問いに直接答えることなく、「全人類に共通の基本的ニーズ」を挙げる。その点が、ミラーの理論の大きな弱点である。


 

●基本的ニーズとケイパビリティ

 

ミラーは「人間は生物的存在であると同時に社会的存在でもある」ととらえ、「基本的ニーズと社会的ニーズの区別」を提案する。前者は「いかなる社会でも人間らしい生活の条件として理解されるべきもの」であり、後者は「特定の社会で人間らしい生活の要件として見なされるより幅広いもの」であるとし、「人権の基礎づけとして依拠することができるのは、基本的ニーズだけである」とする。基本的ニーズのリストには、食物や水、衣服や安全な場所、身体的安全、医療、教育、労働と余暇、移動や良心や表現の自由等が含まれるとする。これに対し、社会的ニーズは「シティズンシップの権利」の正当化に用いられるものだとする。シティズンシップの権利については、「人権よりも幅広い権利群であり、特定の社会の完全な構成員としての地位を保障するものであるが、その内容は社会ごとに多少とも異なるであろう」としている。先に述べたように、国民国家における「国民の権利」に近い。

このようにして、ミラーは前項で触れた人道主義的戦略で基本的人権を正当化し、いかなる社会でも人間らしい生活の条件として理解されるべき基本的ニーズのみが人権の基礎づけとして依拠できるものだ、と主張する。

ミラーの人権における基本的ニーズと、ロールズの正義原理における基本財は、どういう関係にあるか。これらを比較すると、前者は「食物や水、衣服や安全な場所、身体的安全、医療、教育、労働と余暇、移動や良心や表現の自由等」とされ、人間が生活・生存するために全人類に共通して必要なものとして考えられている。これに比し、後者は「権利、自由と機会、所得と富、そして自尊心の社会的基礎を含む」とされ、「各自の考える善い生き方をしようとする上で普遍的に必要となるもの」を言う。前者は人間が生きる上で最低限必要なものであり、後者は生活・生存はできているうえで善い生き方をするために必要なものである。この点で、ミラーはロールズの基本財よりもっと基本的で、全人類に共通して必要なものを具体化している。

次に、ミラーの基本的ニーズとセンのケイパビリティ(潜在能力)は、どういう関係にあるか。センのケイパビリティは、ロールズの基本財への批判によってつくられた実質的な自由を意味する概念である。ミラーはケイパビリティについて、次のように述べている。「人間の潜在能力という観念は、人間に備わっている能力のうち重要なものとそれほどではないものに本質的な区別を付けない。潜在能力とは、過度に栄養を摂取する能力を指すかもしれないし、キャビアを食べる能力を指すかもしれない」。センはケイパビリティのリストを提示しない。だが、「貧困についての記述を見ると、センも『基本的潜在能力』とそれ以外の区別を暗黙裡に持ち込んでいる」。このミラーの見方が正しければ、センのケイパビリティには、「基本的潜在能力」とそれ以外の潜在能力があるということになる。ミラーは、センの協力者ヌスバウムについても触れている。ヌスバウムは、センと対照的に「『文化横断的な広範な合意を得られる』と主張する『核心的な人間的機能に関わる潜在能力』の長く綿密なリストを作り出している」と。だが、ミラーはヌスバウムのリストを基本的ニーズと基本的ケイパビリティの関係という観点から具体的に検討していない。

私見を述べると、センのケイパビリティは主体の能力に関する概念であり、ミラーの基本的ニーズは主体が能力を発揮するための条件である。それゆえ、ミラーの基本的ニーズとは、個人の選択によって潜在能力を発揮するための最低限の物質的・社会的条件と考えられる。ただし、基本的ニーズだけでは、個人の選択の幅は限られている。選択の幅としての自由を拡大しようとすればするほど、そのために必要な条件は増加する。特に医療・教育・労働等はそれぞれの社会の文化や技術によって水準が異なる。条件の確保をすべて基本的人権という概念で正当化し得るかどうかは、検討課題となる。もし正当化し得なければ、その条件に関する権利は、基本的ではない非基本的な人権、または普遍的ではなく特殊的な権利ということになる。

ミラーのいう「シティズンシップの権利」は、基本的人権の範囲を超えた特殊的な権利である。「シティズンシップの権利」は「社会的ニーズ」を必要条件とするから、その社会ごとに内容が異なる。基本的ニーズにおける医療・教育・労働等より、もっと内容が異なってくる。特定の社会において、その構成員に付与される権利を普遍的・生得的な権利という意味で人権と呼ぶのはふさわしくない。そうした権利は、エスニックな共同体においては、共同体の構成員の権利であり、ネイションにおいては、国民の権利である。

ミラーは、人権とは全人類に共通の基本的ニーズという観念を通じて最もよく理解され正当化されると説くが、「すべてのニーズが直接的に権利を基礎づけ得るわけではない」という。それは、「人権は、人間の生活における道徳的緊急性の局面を表現しなければならないだけでなく、ある種の実現可能性の条件にも合致しなければならない」と考えるからである。これは、すべての社会のすべての人に基本的ニーズを提供するために無条件また無制限に援助することはできないという、現実主義的な考え方である。実際、基本的人権の実現は、国際社会の現状を踏まえて、政府間・国民間の合意を積み重ねながら、漸進的に実現していくしかないだろう。

 

●世界的な貧困への対応の仕方

 

ミラーは、これまで書いてきたことを元に、世界的な貧困への対応を検討する。まず世界の貧困者の現状に関する結果責任について、具体的に正確に把握することが必要である、と説く。旧植民地であっても目覚ましい経済発展をしている国々もあれば、サハラ以南の国々のように貧困状態にとどまっている国々もある。これらの国々に対し、一律に結果責任を論じるのは、おかしい。また救済責任がどの程度、結果責任に付随するかを検討しなければならない、とミラーは説く。そのうえで、誰にどの程度の救済責任があるかの配分の検討も必要となる。確かにこうした検討をせずに、ただグローバル正義を掲げ、責任の履行を説く議論は、粗雑であるとともに、独善的になりやすい。この点に関して、ミラーの主張は画期的である。

ミラーは、富裕国の国民が救済責任を負うかもしれない場合を三つに分ける。第一は、「過去の不正行為によってその犠牲者を慢性的な貧困状態に放置した結果として生じるかもしれない」場合。第二は、「公正な国際協力関係を築けなかったことから生じるかもしれない」場合。第三は、「富裕国と貧困国の過去の交流がどうであれ、貧困というまぎれもない事実から生じるかもしれない」場合である。それぞれの場合によって、「グローバルな正義の意味合いが幾分違ってくる」とミラーは言う。

 第一の過去の不正行為の結果に関する場合について、ミラーはポッゲの見解を検討する。ポッゲの次の言葉をミラーは引用する。「私たちと世界中の貧困者との間には、少なくとも三つの道徳的に重要な関係がある。第一に、彼らの社会的出発点と私たちのそれはともに、数多くの嘆かわしい悪事に満ちた単一の歴史過程から生じたものである。大量虐殺、植民地支配、奴隷制といった同一の歴史的不正が、彼らの貧しさと私たちの豊かさを共に説明する一因となっている」(『グローバル正義の優先事項』)。「しかしながら」とミラーは言う。「歴史的に見て、現時点で豊かな社会と現時点で貧しい社会との関係が、ポッゲの言うような数々の道徳的悪事によって汚されてきたことは明白な事実であるが、こうした悪事が今日の豊かさと貧しさの説明になるかどうかはずいぶんと不明確である」「以前に植民地化されていた社会の多くが経済的成功を収めている」と。具体例としては、東南アジア諸国やインド等が挙げられよう。「ポッゲのように大した根拠のない断定に依拠するのではなく、具体的な事例を取り上げ、そこに働いている因果関係を示すことが必要であると思われる」とミラーは指摘する。この主張は、事例を具体的に研究し、そのうえで、救済責任の有無と程度を検討すべきという主張と理解される。

 第二の公正な国際協力関係の構築に関する場合について、まずミラーの主張をロールズの理論と比較すると、ロールズは、『公正としての正義 再説』で、公正としての正義とは、社会的協働の公正に関するものであるとし、「正義原理の役割は、社会的協働の公正な条項を明確に示すことである」と述べている。ミラーの国際間の協働に関する主張は、この課題に関わっていると言えよう。ミラーは「貧しい社会に公正な協力関係を提供するという責任」はあるが、その責任は富裕国だけでなく、国際機関や貧困国の側にもあると指摘する。そしてこれらそれぞれについて次のように言う。「IMFのような外部の機関が特定の国に対して、開発融資を受けるための条件として厳しい経済的指針を押し付けることは許されない。また富裕国の政府が発展途上国の攻勢から自国の産業を保護するために関税障壁を設けることは許されない一方で、貧困国については、もし望むのであれば、自国の新しい産業を一時的に保護することを認めなければならない。さらに、特定の社会の主要輸出品になっているような商品については、価格の安定のために対策を講じなければならない」と。この見解は、後進国における関税等による保護貿易を肯定したハミルトンやリストの見解に通じる。ミラーは、「富裕国の市民の責任とは、この様な意味での公正性――貧しい社会に発展のための適切な機会を与えるような規則をそなえた国際秩序――を確保することなのである」と主張する。この主張は、公正な制度への改革に関するものであり、ミラーは富裕国の市民にはこの種の救済責任があり得ると考えるわけである。

ミラーは、グローバルな正義を実現するために「既存の国際秩序を変革すること」を求めるコスモポリタンの主張に関する見解も述べている。国際秩序の変革は、海外援助の総額の増大から、農産物への関税を管理する新たなルール作り等に及ぶが、」「それぞれのネイションにどう責任を分配するのが適切かを不明確にしたままで、救済責任を果たすために社会のある部分に実質的なコストを強いることは、政治的のみならず倫理的にも難しいであろう」とミラーは言う。

 次に、第三の「貧困というまぎれもない事実」に関する場合については、ミラーはあまり具体的に書いていない。第一と第二の場合は、結果責任に伴う救済責任を論じるものだが、第三の場合は、結果責任とは別に考えられる救済責任である。ミラーは、救済責任を「それが可能であれば被害や苦痛を取り除く責任」と定義しており、第三の場合は貧困という事実に対して、援助する能力を持つ者が負うべき救済責任ということになるだろう。ミラーは「救済責任は正義の義務ではなく、むしろ本来的に人道的なものである」としており、純粋に人道主義的な義務として、この第三の場合が考えられる。人道主義的義務については、既に私見を書いたように、人道主義とは何か、人間とは何かが問われねばならない。

上記のようにミラーは、富裕国の国民が救済責任を負うかもしれない場合を三つに分ける。そのうえで、「私たちが世界の貧困者に何をなすべきかを知りたいのなら、まず私たちは、彼らの貧困の根本的原因をもっと正確に、したがってもっと細かく区別して説明できなければならないのである」と述べている。

ミラーは、イギリスの国民である。イギリスは大英帝国とその植民地の歴史を持っている。また、旧宗主国としての責任と現在の立場及び国際関係を持っている。私は、政治哲学者としてのミラーの問題関心と検討姿勢は、このイギリスというネイションに根差したものだと思う。

コスモポリタンは、結果責任と救済責任を分けずに責任を強調する。貧困の原因についての多角的な分析をすることなく、所得の再配分や制度秩序の改革を主張する。そうした態度を批判し、貧困の根本原因を正確・詳細に把握したうえで、富裕国側のなすべきこと、貧困国側のなすべきこと、国際機関のなすべきこと等を検討すべきというのが、ミラーの見解である。私見を述べると、貧困については、国連開発計画が人間開発指数等の指標を使って世界的な調査・報告を行っている。また個々の地域や国家・社会に関する研究もされている。単に過去の不正行為の結果及び不公正な国際制度に、すべての原因があるとは言えない。富裕国と貧困国の関係に限っても、それぞれの責任部分とそれぞれの能力発揮という相互性があり、相互責任・相互協力という姿勢が必要である。


 

●ネイションとしての責任はグローバルな正義の触媒である

 

 ミラーは、『国際正義とは何か』の結論の章で、改めて「強い意味でコスモポリタンでなないようなグローバルな正義の考え方」を示す。そして、「国家やナショナルな境界線を越えた正義の義務がある」と主張する。ここでミラーのいうグローバルな正義とは、「複数のネイションからなる世界のための正義」であり、「それぞれが相当程度の政治的自立性を正当に要求することができる、文化的独自性を持った国民国家によって構成されている世界にとっての正義」を意味する。コスモポリタンはグローバルの語でネイションの役割を否定した世界を表すので、ミラーの場合は、グローバルというよりインターナショナル、国際的な正義と言った方が分かりやすい。

ミラーは、あくまでネイションに基礎を置く正義を説き、またネイションとしての責任による正義の義務があると説く。これは国際社会に地球的・統一的な主権に当たる政治権力が存在していなくとも、正義の義務は存在すると主張することになる。これに対し、正義とは何かというという問いが立ち上がるところである。だが、ミラーは正義とは何かについて考察を進めない。それを進めずに、ネイションとしての責任という概念を以て、国際的の意味でグローバルな正義を述べている。

ミラーは次のように問う。「グローバルな正義は、基本的人権の普遍的擁護以上のことを要請するのだろうか」と。この問いは、グローバルな正義は、グローバル・ミニマムとしての基本的人権の擁護を要請することを前提にしたものである。ミラーは救済責任の三つの場合を検討したところでは、救済責任は正義の義務ではなく、人道主義的な義務だと述べていた。そこでは人道主義的義務を説き、今度は正義の義務を説いているため、矛盾が見られる。しかもミラーは正義とは何か、人道とは何かについて明示的に述べていないので、分かりにくい論述になっている。これはミラーの主張の欠陥である。

「グローバルな正義は、基本的人権の普遍的擁護以上のことを要請するのだろうか」という問いに続いてミラーは言う。「基本的人権の擁護は、最も差し迫った要請ではある。けれどもグローバルな正義はまた、私が言うところの社会間の協働の公正な条件も要請する。とりわけ脆弱で発展途上にある社会に、彼ら自身が選択した道に沿って発展する機会を与えるような協働の条件が求められる」と。既存の国際秩序について、ミラーは「二つの集団間の協働は、協働によって生じる利益がどちらか一方に偏る場合に不公平である」と明言する。これは利益の平等を求めるものであり、国際間の労働が生む価値の等価交換を求めるものである。私は、近現代の世界史において、支配―服従の権力関係によって、形式的には等価交換に見えるが、実質的には不等価交換となり、一方的に価値が移動する国際間の構造が作用してきたと考えるものだが、ミラーは不等価交換についての考察も行っていない。

 ミラーは、ナショナルな次元と同時にグローバルな次元においても、公平さを達成することが重要だとする。ただし、「これをグローバルな平等の要請という意味に取り違えてはならない」という。「この種の公平さは、せいぜいのところ、ネイション間の力の格差を生み出し協働の公正な条件を達成困難にしてしまうような、過度の不平等に立ち向かうための根拠を与える以上のものではない。まさにこの点こそ、私が本書で論じてきたグローバルな正義の構想にほかならない」「もし私たちの想定するように、グローバルな正義が複数のネイションからなる世界のための正義を意味すべきだとすれば、上で述べたような構想だけが唯一実現可能なものであるように思われる」と述べる。

 ミラーの主旨は、ネイションに基礎を置いたグローバルな正義は、基本的人権の擁護だけでなく、それ以上のこととして、国際的協働の条件における過度の不平等を是正することを要請すると理解される。ただし、このうちの後者のみをグローバルな正義の構想であり、また唯一実現可能なものとミラーは述べている。これは、基本的人権の擁護はグローバルな正義の構想とはなしえず、また実現可能なものではないと暗に言っていると考えられるので、基本的人権の擁護をグローバルな正義の要請とすることとは矛盾している、と私は思う。

 私の理解するところでは、ミラーの主張は二重の矛盾――正義の義務か人道主義的義務か、正義の要請は基本的人権の擁護のみか過度の不平等の是正も含むのかーーーをはらんでいる。その状態で、ミラーは、ネイションとしての責任という概念を強調する。

 「もしグローバルな正義が、たとえば貧しい社会に生きる弱者に公平な機会を与えるために、正当に得るはずだったある種の利益を犠牲にするよう人々に求める場合、これを達成する最善の方法は、明らかにネイションとしての責任に訴えかけることである。すなわち、あなたやあなたの祖先がこれまで行ってきたことのために、または現在あなたたちが有している特別な能力のために、あるいはその他の理由から、あなたたちには犠牲を払う集団的責任があると説得することである。そうした決定に正当性を与えるのは、社会の中でなされる民主的な討論である。この種の犠牲を払うことは、豊かなネイションの場合、ナショナルな誇りとしての問題になり得るし、そうなるべきものなのである。これこそまさに、ネイションとしての責任という観念の大きな強みであるように思われる。ネイションとしての責任という観念は、グローバルな正義への障害というよりも、むしろ触媒なのである」と。

 ここでミラーは、ネイションとしての責任という観念は、グローバルな正義への「触媒」だと言う。この主張は、グローバルな正義は実現されるべきものであり、ネイションの責任という観念はその実現を加速するものと評価していることになる。ただし、その正義は、「複数のネイションからなる世界」のための国際的正義である。そういう正義の実現を触媒的に加速するものが、ネイションとしての責任という観念だと説いている、と理解される。

 このようにミラーは、世界の貧困や不平等について深い関心を示し、道徳的コスモポリタンの考え方に理解を示しながら、グローバルな正義のとらえ方、及びネイションの役割については、コスモポリタンとは異なる考え方を示している。ネイションの役割については明快である。しかし、グローバルな正義のとらえ方については、先ほど指摘した矛盾と欠陥を露呈している、と私は思う。

 ネイションとしての責任が結果責任に応じた救済責任だとすると、この救済責任は正義の義務ではなく人道主義的な義務である、とミラーは先に述べていた。また救済責任の第二の場合として、国際間の協働の公正な条件を挙げていた。それゆえ、過度の不平等の是正も、正義の義務ではなく人道主義的義務と理解される。履行しなければ、第三者が制裁を課しても差し支えないという強制力を持つ正義の義務ではない。ところが、結論の章でミラーは、グローバルな正義とその義務を説いている。これは、私には混乱と見える。それゆえ、ミラーは正義と人道主義、正義の義務と人道主義的な義務という2点について、再検討すべきである、私は思う。


 

●ネイション間の正義をめぐるズレを小さくする

 

 『国際正義とは何か』の最後に、ミラーが重要な事柄として述べるのは、「正義をめぐるズレ」という問題である。

「ネイションからなる世界においては、グローバルな正義の要請がいわゆる正義をめぐるズレの問題を引き起こすだろう」とミラーは言う。「正義をめぐるズレ」とは、「貧しい国の人々が正義の問題として正当に要求し得ること(とりわけ彼らの人権の擁護)と、豊かな国の市民が正義の問題としてそうした要求を満たすために捧げられねばならない犠牲との間にあるズレ」だという。私見を述べると、ここでミラーは「正義の義務」ではなく、「正義の問題」と書いている。双方が義務という共通の認識を持っていれば、求められるのは義務の履行である。双方が共通の認識を持っていない状況では、正義は自明の価値ではないから協議すべき問題となるだろう。「正義の問題」としての要求は道徳的要求であって、法的権利ではない。またその要求に応えるための犠牲は法的義務ではなく、道徳的な行為である。

 ミラーは続ける。「私たちの最も重要な責任は、現在貧困にあえいでいる社会が貧困から抜け出す発展への道を自分で選択できるような国際秩序を創造することである。けれどもこのことは、発展への道を選ぶ責任を貧しい社会の手に委ねることをも意味する」と。

 前半の「発展への道を自分で選択できるような国際秩序を創造すること」とは、前項に書いた過度の不平等の是正に通じる課題である。また後半は、人間を「他人の助けなしには生存し得ない貧しく傷つきやすい存在」であるとともに、「自らの生のために選択をなし責任を取ることのできる存在」でもあると見るミラーの人間観による表現である。

 ミラーは、「グローバルな正義」は「グローバルな政府(註 世界政府)が存在しないせいでいっそう実現しにくいものになっている」。「正義をめぐるズレ」は「完全に埋めることはできない。けれどもそのズレを小さくすることはできるに違いない」と言う。

 この「正義をめぐるズレ」を小さくすることが、本書を締めくくる主張である。私見を述べると、正義の問題として一方が掲げる要求と他方に求められる責任の間にズレがあることを認め、そのズレを小さくしていくには、ネイション間の対話の積み重ねが必要である。

 ミラーの見解は、ネイションを基礎に国際的な正義を考えることで、ネイション間の対話を行いながら、富裕国の国民がネイションとしての国際的な責任を実現可能な範囲で果たそうとする現実主義的な考え方と言えよう。

国際社会における行為主体には、ネイション、国際機関、非政府団体、諸個人等がある。これらの行為主体には、それぞれの能力と特性がある。現在国際社会で論議になっている主権を越えた人道的介入にしても、また国際秩序の改革にしても、ネイションの能力と特性を評価し、ネイションの果たすべき役割を明確にして、その役割の実行を推進しなければ、国際機関、非政府団体、諸個人等だけで実現可能なことではない。それゆえに、ミラーが主張するネイションの結果責任と救済責任の明確化、及び救済責任の分担は、重要な課題である。

 

●具体的な方策とその実行へ

 

ミラーのいう貧困国の側が正義の問題として要求することと、富裕国が正義の問題として引き受ける責任の間のズレは、正義の観念に源を持つと私は考える。ミラーはグローバルな正義とか正義の問題と言っていながら、救済責任は正義の義務ではなく人道主義的な義務だという。人道主義的な義務であれば、正義の問題ではなく、人道の問題である。正義とは何か、人道とは何か。この点が哲学的に考察されていないので、議論が空回りしていると思う。

ちなみにセンの場合は、何が理論的に完全な正義なのか、どうすればそのような正義に適った制度を構築することができるのかを考えることは、現実の問題を考える上であまり意味がないとし、もっと役に立つアプローチは、実際の世界に存在する明らかな不正義を取り除くにはどうすればよいかを考えることだとする。比較によって不正義を取り除くことに合意できれば、理論を持たなくても前進することができるという姿勢である。ミラーは、社会間の協働の公正な条件整備のための過度の不平等の是正がグローバルな正義の唯一実現可能な構想だと述べているが、この構想はセンの不正義の除去という課題に近いものになるだろう。

ミラーは、基本的人権の擁護について、必要な世界的なコストを試算していない。基本的ニーズに医療・教育・労働・基本的自由等まで含めているので、コストはミレニアム宣言が基準とした1日1ドルという生活水準の場合より高くなるだろう。それに加えて過度の不平等を是正するために必要なコストもかかるはずだが、ミラーはこれも試算していない。当然、そのコストの分担の基準と実行の方法についても検討していない。ミラーの提案を実行するためには、試算の上で総額を出し、分担と方法を考える必要があるが、ミラーはそれを行っていないので、政策レベルの提案になっていない。ミラーが批判するポッゲの場合は、総額3200億ドルの地球資源配当を提案しているが、ミラーはこれに替わる対案を提示していない。こうした姿勢は、批判の的になる。

私は、ミラーにせよ、他の論者にせよ、既に国連のミレニアム宣言が、2015年までの世界の貧困の半減だけでなく、教育・医療等にも係る8つの目標に対して、先進国にGNIの0.7パーセントの拠出を義務付けていることを重視すべきだと思う。これは参加各国が決め、受け入れたことである。その拠出義務をネイションとしての責任で履行する仕組みを補強すれば、ミラーの説くグローバル・ミニマムとしての最低限の基本的人権の保障や過度の不平等の是正を進めることは可能だろう。また、その実行のためには、国民総所得の主体であるネイションの役割が不可欠である。コスモポリタンのようにネイションの本質的な価値を否定すると、ネイションの責任担当能力を軽視することになる。ミレニアム宣言の実行は、先進国でネイションの役割の回復・強化を行うことなしには、現実のものとならない。この点で、ネイションとしての責任を説くミラーの見解は、広く評価されるべきだと思う。

私見を続けると、ミレニアム宣言は、合意を履行しない国に対し、履行を強制し、罰則を科すものではない。強制的な徴収や差し押さえ等は、規定されていない。このような義務は、法的義務ではなく、道徳的義務である。ネイションとしての道徳的責任は、ネイションによって異なる。大国と小国では、能力が異なる。GNIという経済的な能力だけでなく、政治的な影響力の違いもある。具体的に国連安保理常任理事国のような拒否権という特権を持つ国や、GDPの大きい国の責任は大きい。

私はまずこうした国々、米・英・仏・ロ・中の特権的な5大国と経済大国の日本・ドイツ、合わせて7か国の責任の具体化と履行を確実なものとするための相互的な体制の構築が必要だと思う。そのためには、まず米国が国連分担金の未払い分を支払うこと、及び国連憲章の敵国条項を廃止することが先決問題である。次に、ミレニアム宣言で合意したGNI0.7%の移転だけでなく、IMF・WTO等の国際的な経済機構の改革へと議論の枠組みを広げて、国際的な合意を作っていくべきである。グローバリゼイションを規制して、発展途上国が「発展の権利」を行使でき、諸国諸民族が共存共栄できる仕組みを創出しなければならない。その際、制度を作ることが先か、道徳的な向上が先かという根本的な課題が浮上する。私は、人類の道徳的な向上なくして制度改革は成功しないと考えており、道徳的向上を促す新しい人間観の構築が必要だと考える。


 

●キムリッカは政治と文化的多様性の問題を論じる

 

 次に、他のリベラル・ナショナリズムの論者として、キムリッカとタミールについて述べる。

 カナダの政治哲学者ウィル・キムリッカは、リベラル・ナショナリズムの理論家として、多文化主義の問題に取り組んでいる。

キムリッカは、「人々は『私たちの一人』だと思われる他者に対して犠牲を払う傾向が強い。ゆえに、ナショナル・アイデンティティの感覚を促すことが、リベラルな正義を維持するために必要な相互責務の感覚を強化する」と述べている。そして、正義論の観点から、政治と文化的多様性の問題を論じている。『多文化時代の市民権 ―― マイノリティの権利と自由主義』、『リベラルな多文化主義は輸出され得るか』等の著作で、概ね次のような主張をしている。

キムリッカは、ネイションを「制度化が充分に行きわたり、一定の領域や伝統的居住地に居住し、独自の言語と文化を共有する、歴史的に形成されてきた共同体」と定義する。そして、ネイションを社会構成的文化(societal culture)の担い手ととらえる。社会構成的文化とは、彼独自の概念であり、「公的及び私的生活における広範な社会制度で使用されている共有の言語を中核とする、領土的に集中した文化」をいう。キムリッカは、社会構成的文化の共有は「薄い(thin)」共同性であり、より広い意味での文化・宗教・生活習慣その他多様な要素の共有まで含む「濃い(thick)」共同性ではないとして、文化的多様性が容認されねばならないとする。このようにしてキムリッカは、ナショナリズムを肯定しつつ、ネイション及びエスニック・グループの間のリベラルな関係を実現するために、リベラリズムとナショナリズムを融合させたリベラル・ナショナリズムを説く。

彼の定義では、ネイションは文化的共同体であって、必ずしも政治的共同体ではない。それゆえ、一個の国家に複数のネイションが存在する場合があり得る。複数の文化共同体が存在する国家で、多数者の集団は自分たちの言語及びそれを用いた制度によって、国民形成を行う。市民権政策、公用語法令、義務教育、国民の休日の制定、兵役等を通じた国民形成によって、多数者集団は主要なネイションとなる。その際、他のネイションとの間で問題を生じることがあり得る。

そこでキムリッカは、正義論の観点から、多文化社会における政治のあり方を論じる。キムリッカは、文化は「基本財(primary goods)」であるとみなす。ロールズは、人間は各自異なる善い生き方の構想を持つが、その構想がどのようなものであれ、各自の考える善い生き方をしようとする上で普遍的に必要となるものを、基本財とした。基本財は権利、自由と機会、所得と富、そして自尊心の社会的基礎を含む。キムリッカはこのリストに文化を含むべきだと主張する。

キムリッカは、文化の要素のうち、言語を重視する。これは重要な視点である。キムリッカによれば、文化の中核的要素として言語があり、言語があって初めて有意味な思考が可能になる。言語なくしては、目的や価値を表現したり理解したりすることは不可能である。また、個人が選択を行うには、具体的な選択肢が必要であるが、文化はそうした選択肢を与え、また選択肢の意味や価値を教える。文化を理解することなくして、有意味な選択はなし得ない。それゆえ、文化を基本財に含むべきだとキムリッカは考える。

従来のリベラリズムは、個人が自分で目的を選択できる自由を確保するためには、政府は価値に対して中立でなければならないとしてきた。だが、国家には公用語が必要であり、国民は公用語を習得し、また公用語で表現される憲法等の基本的な制度を受容している必要がある。すなわち、国民は社会構成的文化を共有していなくてはならない。それゆえ、文化的には政府が中立であることはありえない。「自由民主主義国家(あるいは公民的ネイション)がエスニック文化的に中立であるという考えは明らかに誤りである」とキムリッカは断言する。

その点を明確にしたうえでキムリッカは、主要なネイションは、民族的少数者集団(national minorities)の文化を基本財として保障しなければならないと主張する。これは、正義論としては、分配的正義を実現しようとするものと言える。また主要なネイションの行う国民形成は、民族的少数者集団に破壊的な影響を与え得るので、不正義を最小化するために、彼らに一定の権利付与をすべきだ、とキムリッカは主張する。これは矯正的正義を実現しようとするものと言える。

ただし、キムリッカは、民族的少数者集団と、主として移民からなるエスニック・グループを区別し、自治の権利を持つのは前者のみとし、後者に認められるのは、エスニックな文化権及び特別代表権だとする。また、集団間の公平という点から「対外的保護」のための要求は認められるが、集団内の個人の自由という点から「対内的制約」となる要求は認められないとする。

 少数者集団の中に、さらに極少数派の集団が存在する場合がある。ある少数者集団に特定の権利を与えると、その集団内の極少数派の権利が抑圧される可能性がある。この問題について、キムリッカは、次のように主張する。主要なネイションが全国的な国民形成を行う際には、少数者集団の権利がこれに制約をかける。それと同じように、全国的には少数派だが地方では多数派だという集団が、地方でネイションを形成する際には、極少数派の権利がこれに制約をかける。このようにして、一つの国家において、多数派、少数派、極少数派の間の権利の均衡をとるべきだ、と。

複数のネイションを持つ国家で、民族的少数者集団や移民の集団等に無制限に権利を認めると、国家は国家として存立できなくなる。すべてのネイションが分離独立してそれぞれの政府を持とうとするのは、経済的軍事的に現実的でない。だが、主要なネイションが他のネイションの文化を破壊し、自らの文化に同化させて単一の文化共同体を作ることは、少数者の自由と権利を抑圧するものとなる。複数ネイション国家が、領土内に存在する複数のネイションの間で、一方的な支配でもなく、とめどない分裂でもなく、国民としての協調を図るには、社会正義の追求が必要である。ナショナリズムを肯定しつつ、ネイション及びエスニック・グループ間のリベラルな関係を実現しようとするキムリッカの問題関心は、多くの国々で現実的な課題となっている。

なお、私は、キムリッカの主張には、英語文化圏と仏語文化圏が併存するカナダの事情が関わっていると思う。フランス語地域のケベック州では分離独立運動が起こり、1980年と1995年に住民投票が行われた。二度とも否決されたが、1995年には賛否の差が約1%にまで縮まった。現在のところ多数原語の英語文化と少数言語のフランス語文化が協調する形で、国民的な統合がなされているが、分離独立を求める動きは収まっていない。

 

●タミールはリベラル・ナショナリズムの旗を掲げて広域機構を説く

 

 リベラル・ナショナリズムという言葉が定着したのは、イスラエルの政治哲学者ヤエル・タミールの著書『リベラルなナショナリズムとは』による。そこでタミールについても触れておきたい。タミールは、キムリッカとは異なる視点から、ネイション間の協調のための理論を説いている。

先の書でタミールは、大意次のように説く。リベラリズムは個人の自立・反省・選択を尊重し、ナショナリズムは所属・忠誠・連帯を強調するから、互いに排他的だという見方が広まっている。だが、実はこれらの潮流は相互に包摂し合える関係にある。リベラリストは、所属・成員性・文化的な帰属の重要性とそれらに由来する道徳的義務の重要性を認めつつ、リベラリストであり続けることができる。また、ナショナリストは、個人の自立・自由・権利の尊さを認めつつ、ナショナリストであり、また国民内部と諸国民間における社会正義に関与し続けることができる、と。

 タミールによると、ナショナリズムとリベラリズムは、自由で合理的かつ自律的な人間は自らの生き方について完全な責任能力を持つという見解を共有する。また、自己支配・自己実現・自己開発を達成する人間の能力への信仰も共有する。ところが、ナショナリズムとリベラリズムは、こうした人間の特質について極端なほど相違する解釈を展開してきた。リベラリズムは「原子的な自己」、ナショナリズムは「状況づけられた自己」という対照的な人間観を示す。これに対し、タミールは「文脈づけられた個人」(contextual individual)という人間観を対置する。この人間観は、人間の個人性と社会性を等しく真正かつ重要な特徴として結びつける。それによってリベラリズムとナショナリズムの諸理念を相互に近寄せるという。

 このような主張はリベラル・ナショナリズムの思想であり、実際、タミールは一般にリベラル・ナショナリストと見なされている。これに加えて彼女は、ナショナリズム(国家主義・国民主義・民族主義)を踏まえたリージョナリズム(広域機構主義)というべき提案をしている。この点が独自のところである。

タミールは、「ナショナルな運動は、単に国家権力を掌握したいという欲求ではなく、個別の共同体の存続や繁栄を確保したいという要求や、その共同体の文化、伝統、言語を保存したいという欲求によって動機づけられている」と述べる。そして、各々のネイションが国民国家よりも上位の統治主体に参加し、平等に文化的自治権を付与されることにより、独立国家への願望を、地方自治や連邦的・連合的な協定といったより穏健な解決策に置き換えることが可能になると考える。

そして、タミールは、次のように述べる。「主権国家を持ちたいという要求は、領土や住民を巡って相互に競合する。しかし、どのネイションの主張を取り上げるべきかという選択を不要にして、多くの国籍、文化的伝統、また文化集団を包摂するトランスナショナルな共同体を作り、そこにおける政治権威の配分を調整できるようにすれば、さらに、そのような配分の選択がある種の補完性原理により導かれるのであれば、ネイション相互の二者択一性は大きく緩和される。つまり一者のアイデンティティが必然的に他者のアイデンティティの犠牲の上で承認される、という状況は解消されるだろう」と。

この主張は、ネイションの自己決定を絶対的な原則とするものではない。トランスナショナル(国家横断的)な広域機構を作り、その中で複数のネイションが共存することを提案するものである。彼女は、次のように述べている。「国民国家は経済・戦略・エコロジーに関する決定権力を広域機構に譲渡し、文化政策を構築する権力をローカルなネイションに譲渡するのである。広域的な傘に保護されることで、すべてのネイションはその規模・資源・地理的条件・経済的持続可能性にかかわりなく、文化的・政治的な自治を達成できる」と。

 こうしたタミールの主張は、ネイションの価値を再評価するリベラル・ナショナリズムの枠組みを越え、ネイションの文化的・政治的な自治能力を保持し得るようなトランスナショナルな広域共同体を志向する。

広域機構において各ネイションが平等に文化的自治を達成できるようにするためには、機構内部における財の配分が適正に円滑になされなければならないが、タミールは配分の原理については何も説いていいない。タミールは、ネイションにおける配分的正義を論じる時は、構成員の間に社会的文化的特質に基づく「関係性の感情」が不可欠であると述べているのだが、広域機構における「関係性の感情」の醸成については、何も触れていない。これでは、各ネイションが広域機構に参加するに当たって、自治権は担保されないおそれがある。

タミールは、どこの地域でトランスナショナルな共同体を築こうとしているのか。誰しもまずヨーロッパ連合(EU)を連想するだろうが、タミールはヨーロッパ人ではない。タミールはユダヤ人であり、イスラエル国民である。また単なる学者ではなく、同国労働党の著名な政治家でもある。中道主義のカディマの党首オルメルトを首班とする連立政権で教育大臣も務めたことがある。このような背景を持つタミールがリベラル・ナショナリズムをもとに提案するのは、中東における広域的な国際機構の創出である。

 タミールは、消極的自由と積極的自由の区別を説いたアイザイア・バーリンの弟子である。バーリンはラトビア生まれのユダヤ人哲学者である。イスラエルには帰化せず、主にイギリスで活動した。バーリンは、私的領域の不可侵性を守ろうとする消極的自由主義を唱えるとともに、排他的・攻撃的なナショナリズムを批判しつつ、ナショナル・アイデンティティのもとになる文化的ナショナリズムを提唱した。タミールは、こうしたバーリンの思想を継承し、これを政治理論として発展させている。

タミールはバーリンとともに、パレスチナとの平和共存を目指す運動を行うイスラエルのNGO「ピースナウ」に関わってきた。「ピースナウ」は、イスラエル政府による入植政策には反対しているが、イスラエルというシオニスト国家そのものは肯定している。ユダヤ人かつイスラエル国民として、パレスチナ人との平和共存を説く点を私は評価できるが、またそれゆえに、タミールはイスラエルの右派から批判を受け、また世界のシオニズム反対者からも批判を受ける立場にある。タミールの主張は、国際的正義の議論にイスラエルとパレスチナの関係という難問を浮かび上がらせている。

リベラル・ナショナリズムの論者として、ミラー、キムリッカ、タミールについて書いた。

彼らはどの国にも当てはまる理論を目指しているが、ミラーには旧大英帝国と旧植民地の関係が、キムリッカにはカナダにおける英語文化圏と仏語文化圏の関係が、タミールにはイスラエルとパレスチナの関係が、それぞれ深く影を投じている。

人権と正義の議論は、こうした具体的な事情の検討を行いながら議論を深めなければ、抽象論、理想論、観念論に陥る。


 

●ネイション絶対化の弊害

 

 私は、第2部第6章で人権とナショナリズムについて書いたが、ここでリベラル・ナショナリズムの理論を踏まえて、ナショナリズムについて補足したい。

多くの発展途上国においては、エスニック・グループの対立や宗教宗派による分裂、多言語・多文化による統合の困難さ乗り越えて、一個のネイションが形成されることが望ましい。ネイションの形成には、人々にある程度の自由と開かれた討議が必要である。貧困者の声が政治に反映される仕組みと、自らの努力で貧困を解決しようとする自助努力の精神が育っていけば、各国政府による主体的な人権の保障と国際社会の支援を通じて、貧困が徐々に改善されていくことを期待できる。

ただし、私は、ネイションの役割の再評価が必要と考えるとともに、ネイションの形成を絶対的な価値とすることには弊害があることも認識しなければならないと考える。

ゲルナーは、ナショナリズムを「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければいけないと主張する一つの政治的原理」と定義した。仮にこの原理の実現を極度に推し進めるならば、複数のエスニック・グループで構成されている国はみなそれぞれの集団ごとに分割されるべきであり、先住民族が居住する国は、先住民族が分離独立し彼らの祖先からの資源を取り戻すべきだということになる。だが、こうした政治的な変化は、権利関係・権力関係の複雑な変動を伴う。話し合いによって平和的に実現できる場合はよいが、意思と利害が対立すれば、実力のぶつかり合いになる。少数者集団が自ら望む場所で政治共同体の樹立を強く望んでも、一定の領域を占有するには、他の政治権力の排除を必要とする。また集団によって経済力、軍事力、占有する資源の種類・量等が違うから、分離独立しようとする元の国家との間でこれらの差が大きい場合は、独立主権国家になれる集団とそうでない集団が出てくる。すべてのエスニック・グループが無条件に平等に国民国家となる権利を享受することは、事実上達成不可能である。

複数のエスニック・グループで構成されている国家で、民族的少数者集団や移民の集団等に無制限に権利を認めると、国家は国家として存立できなくなる。キムリッカの主張を援用すれば、政治権力に参与する主要な集団は、少数者集団の文化を基本財として保障し、また国民形成において、少数者集団に破壊的な影響を与えるという不正義を最小化するために、彼らに一定の権利付与を考慮する必要があるだろう。ただし、キムリッカが、民族的少数者集団と、主として移民からなるエスニック・グループを区別し、自治権を持つのは前者のみとし、後者にはエスニックな文化権及び特別代表権は認められるとしているように、付与する権利の種類と内容を分けるべきである。少数者集団の中に、極少数派の集団が存在する場合は、そこにおいて同様の検討が必要だろう。複数のエスニック・グループの間で、一方的な支配でもなく、とめどない分裂でもなく、国民としての協調を図るには、社会正義の追求が必要である。その際、特に移民に対する対応は、重要である。違法に滞在する移民に過度の権利を与え、逆に国民の権利を制限する多文化主義政策は、国家主権の自己否定となり、国家の崩壊をもたらす。

事情は国家によってそれぞれ異なる。統合同化を通じた共同発展を目指す場合、一個の国家の中で一定の自治権を与えて協調を図る場合、分離独立をしたうえでネイション間の平和共存を保つ場合など、それぞれの道があるだろう。そうした模索をせずに地理的・社会的・経済的等の諸条件を無視し、ただただ分離独立が実現されるべきものとし、これを推し進める思想・運動は、世界をとめどない分裂と対立に導く。そして、その結果、逆に強大な国力を持ち、強い領土的野心を持つ国家によって支配される恐れもある。覇権主義に対しては、その行動を抑止する十分な実力を持つ国家のみが対抗し得る。そこに米国のようなリベラル・デモクラシーに基づく大国の役割がある。(ページの頭へ)


 

(4)正義をめぐる現代の諸思想の比較

 

●自由主義の諸形態

 

 本章では、正義論の歴史を踏まえて、ロールズの正義論とその批判者及び継承者の理論と主張について概説してきたが、次に概説で触れた自由主義(リベラリズム)、コミュニタリアニズム、ケイパブリズム、コスモポリタニズム、リベラル・ナショナリズムについて総合的な比較・検討を行いたい。

 まず自由主義(リベラリズム)は、もともと権力の不干渉を求める思想・運動である。これを私は「原初的自由主義」と呼ぶ。バーリンは「〜からの自由」と「〜への自由」を区別し、前者を消極的自由、後者を積極的自由と呼んだが、原初的自由主義は消極的自由を確保する思想・運動だった。特に資本主義的な経済活動の自由を求め、政府による市場への介入や増税に反対する。干渉排除型または干渉制限型の自由主義である。

 自由主義と民衆の政治参加を求めるデモクラシー(民衆参政主義)は、歴史的に異なる由来を持つが、議会政治の発達するイギリスでこれらが融合するようになった。その結果、生まれたのが、リベラル・デモクラシー(自由民主主義)である。リベラル・デモクラシーは、自由主義の新たな形態であり、政治参加の権利を政治的自由権として獲得しようとする。私はこの段階の自由主義を「古典的自由主義」と呼ぶ。ロック、ヒューム、アダム・スミス、ルソー、カント等、第2部第7章で述べた思想家の多くが、その代表的な論者である。古典的自由主義の中で、人民主導的な形態は民利追求型の自由主義であり、政府主導的な形態は国益実現型の自由主義である。

古典的自由主義には、自由主義の原初的形態を保持して消極的自由を志向するものと、政治的自由権を拡大する積極的自由を志向するものがある。前者は、リバータリアニズム(自由至上主義)とも呼ばれる。

やがて自由主義の中に、自由を中心価値としながら、平等を考慮する動きが現れる。これを私は「修正的自由主義」と呼ぶ。修正的自由主義はリベラル・デモクラシーの一種であり、社会権の確保・拡大を求める。これが急進的な場合は、議会政治を通じて社会主義を実現しようとする社会民主主義に近いものとなる。

上記のように、自由主義は原初的自由主義、古典的自由主義、修正的自由主義という3段階を経て発展してきた。現代社会の自由主義は、デモクラシーとの融合を終えたリベラル・デモクラシーである。そのうち古典的自由主義を継承するリバータリアニズム以外は、修正自由主義に分類される。修正的自由主義は、平等に対する考慮の仕方によって考え方が分かれる。機会の平等か結果の平等か、所得の再配分をどの程度、またどのように行うか、国内だけで考慮するか、国際的に考慮するか等である。

自由主義には、個人主義的な形態と集団主義的な形態がある。個人主義的形態とは、個人を単位とし、個人の自由と権利の確保・実現を目的とするものである。集団主義的形態とは個人の自由を尊重しつつ家族・地域・民族・国民等の共同性を重視し、集団の発展を目的とするものである。

ロールズは、個人主義的自由主義者であり、国内社会について社会契約論を用いて正義論を説いたが、『諸国民衆の法』では、国際社会での主体を個人から人民・民衆に替えた。カントやヒュームのような包括的世界観に基づく包括的自由主義から離れ、政治の分野に取り組みを限った政治的自由主義を標榜した。後期ロールズは、国際社会に向けた対外的な局面では、個人ではなく民衆を主体とし、集団主義的自由主義に通じる姿勢を見せた。また国内社会では平等を考慮した修正自由主義の姿勢を示していながら、国際社会では自由を中心とし平等を原理としないことにより、修正的自由主義とは異なる態度を示した。このような変遷を見せたロールズは、幅広い議論を巻き起こす反面、様々な立場からの批判を浴びた。

人間には、個人性と社会性の両面がある。個人主義的自由主義は、そのうち個人性の側面を重視するが、その傾向を極度に強く示すのが、リバータリアニズムである。現代におけるその代表的論者が、ノージックである。1980年代に伸長した新自由主義はこの系統だが、対外的に自らの思想を力の行使で実現しようとする新保守主義(ネオ・コンサーバティズム)と親和的である。修正的自由主義も個人主義的自由主義の一形態である。その代表的論者が、J・S・ミルと前期ロールズであり、特に平等を重視するのがドゥオーキンである。

個人主義的な自由主義に対し、集団主義的な自由主義は、個人の自由を尊重しつつ社会性の側面を重視する。ヒューム、アダム・スミスは、個人主義的というより、集団主義的な自由主義者と見るべきであり、ケインズも同様である。集団主義的自由主義の今日的形態が、コミュニタリアニズムである。コミュニタリアニズムは、自由主義の個人主義的形態を批判し、サンデルの用語でいえば「負荷なき自己」に替わる「位置づけられた自己」を主張する。だが、自由を中心価値とする点では自由主義の一種であり、コミュニタリアン(共同体主義的)な自由主義である。

個人主義的な自由主義には、各国家の中での個人の自由に関心を集中するものと、国家を超えた個人の自由を追求するものがある。この後者が、コスモポリタニズムである。修正的自由主義には、不平等の是正や大規模な所得の再配分の実現を求めるものがあるが、ネイションという枠を超えてそれらの実現を主張するのが、コスモポリタニズムである。

自由主義は、自由を中心的な価値とする。その自由の概念を掘り下げたのが、ケイパブリズムである。ケイパブリズムの創始者センは、ロールズが自由を常に最優先すること、及び人によって基本財を利用する能力が異なることを考慮していないとして批判し、ケイパビリティ(潜在能力)という独自の概念を生み出した。センは、これによって、同じ基本財でも、それが実際に可能にする自由は、健常者と障害者、富裕者と困窮者等の間で異なることを明らかにした。ケイパブリズムは、自由主義の一種であり、実質的な自由としてのケイパビリティの拡大を目指す自由主義である。これも修正自由主義の一形態であり、国際的な不平等の是正や世界的な貧困の解決に積極的に取り組む思想である。センの協力者であるヌスバウムは、ケイパブリストであるととともに、代表的なコスモポリタンでもある。

このように、自由主義には様々な形態と展開が見られる。それらに共通するのは、自由を中心価値とする近代西洋文明特有の価値観である。第1部で人権と自由について基礎的な検討をしたが、近代西欧発の人権の核心には自由がある。現代の正義論の諸思想は、そのことを改めて確認させるものとなっている。

 

●コスモポリタニズムとコミュニタリアニズムの比較

 

次に、自由主義のうち、コスモポリタニズムとコミュニタリアニズムの論争について、これまでの記述を補足したい。

前期ロールズの個人主義的かつ修正的な自由主義の思想を継承し、これを国際社会に拡大したのが、現代のコスモポリタニズムである。コスモポリタンは、社会契約論を国際社会に拡張的に適用する。そのため、ロールズの理論的欠陥を引き継いでいる。

コスモポリタンの思想は、個人主義、普遍性、一般性を三つの要素を共有する。ポッゲの分類によると、コスモポリタニズムには、すべての人が同等な法的権利義務を持つコスモポリタン(世界市民主義的)な制度秩序を提唱する「法的コスモポリタニズム」と、すべての人が互いを道徳的な関心の根本単位として尊重し合うためにコスモポリタンな道徳的規準を提唱する「道徳的コスモポリタニズム」があり、道徳的コスモポリタニズムには、人権を実現するための直接的責任が個々の行為者や集団的行為者にあるとする「相互行為的コスモポリタニズム」と、そのような責任は制度的枠組みにあり、個人の責任は間接的とする「制度的コスモポリタニズム」がある。法的・道徳的、相互行為的・制度的の違いはあるが、コスモポリタニズムは、近代西欧的な個人主義的自由主義を徹底し、ネイションの本質的な価値を否定し、国民国家を単位とする国際社会を認めないことを特徴とする。一面において啓蒙主義的なユダヤ思想に似ているが、ユダヤ思想の主流は、諸民族のナショナリズムを否定しながら、ユダヤ民族のナショナリズムのみは肯定するという自己民族中心主義である。コスモポリタニズムは、シオニズムを含むすべてのナショナリズムを否定する点が、これと異なる。

コミュニタリアンは集団主義的自由主義者であり、ロールズ及びその批判者であるノージック、ドゥオーキンらの根底にある個人主義的自由主義を批判する。その批判は、自己のとらえ方の違いによる。近代西欧的な自己を、テイラーは「遊離せる自己」、サンデルは「負荷なき自己」と呼んで斥け、人間の本質を、マッキンタイアは「物語る存在」、サンデルは「位置づけられた自己」ととらえる。ただし、コミュニタリアニズムは自由主義の個人主義的形態を批判するのであって、それ自体は集団主義的自由主義の一種である。コミュニタリアン(共同体主義的)な自由主義である。その立場から、個人主義的自由主義を批判するものである。

コミュニタリアニズムには、コミュニティ一般を重視するものと、コミュニティのうち特にネイションを重視するものがある。前者のコミュニタリアンには、テイラー、マッキンタイア、サンデルらがいる。後者のコミュニタリアンには、ミラー、キムリッカ、タミールらがおり、リベラル・ナショナリストとも呼ばれる。

コミュニタリアニズムには、狭い形態と広い形態がある。狭いコミュニタリアニズムは、コミュニティの自立と併存を求める。場合によっては閉鎖的、排外的、独善的な傾向を示す。コスモポリタンの課題には賛同しない。広いコミュニタリアニズムは、開放的、協調的だが、文化の保持や移民の制限を求める。穏健的な道徳的コスモポリタンとは対話が可能である。サンデルは自然的義務と連帯的義務の両方を認めながら、前者には消極的であり、コミュニタリアニズムの狭い形態と広い形態の中間に位置する。

コスモポリタンとコミュニタリアンの間には、自己像の違いがある。近代西欧的な自己像を批判するコミュニタリアンは、家族・地域・民族・国民等の共同体の社会関係の中にいる自己という自己像を以て、コスモポリタンの思想及びその正義論を批判する。

コスモポリタンとコミュニタリアンの論争は1990年代から活発に行われている。この論争において、コスモポリタンの側から最も激しい主張をしているのは、シンガーである。飢餓で生死の境界をさまよう外国の人々を放置して同国人の福祉を行うことは、「人種差別」にも似た差別を行うことであり、不正だ、とシンガーは批判する。ベイツとポッゲは、シンガーのような極端な主張はしない。外国人と同国人のどちらを優先するかという選択において、無条件で同国人を優先することは倫理的に正しくないと説く。国内社会と同様に国際社会もまた相互依存的な関係を深めているから、外国人と同国人どちらを優先するかという問題は、緊急性や必要性に応じて判断すべき事柄、または公開の理性的な討論によって結論を出すべき事柄であるとする。

コスモポリタンに対し、コミュニタリアンは反論する。テイラー、ウォルツアーらは、人間は文化を共有する人々の権利義務関係の中で生きるのが本来の姿だと見る。また、地球上に複数のコミュニティがあり、コミュニティごとに正義が異なっている状態が自然だと考える。困窮する外国人と困窮する同国人のどちらかしか救えないという状況であれば、権利義務関係で結ばれ、同じ法の下に暮らす同国人を救うという選択は、倫理的に認められるものだと説く。だたし、彼らは、自国以外の困窮者が放置されてよいと言っているわけでも、人道的な援助に反対しているのでもない。この問題を、グローバルな正義の義務として論じることに異議を唱えるのである。

こうしたコスモポリタンとコミュニタリアンの論争は、現在も続いている。コスモポリタンとコミュニタリアンは、グローバルな人類社会を志向するか、ローカル(地域的)・エスニック(民族的)・ナショナル(国民的)なコミュニティを志向するかに分かれて、真っ向から対立しやすい。私は、議論を有意義なものにするためのポイントは、ネイションつまり国家・国民・民族のとらえ方にあると考える。コスモポリタンは、個人を究極的な単位とするグローバルな人類社会という観点から国民国家を国際社会の主要な単位とすることに反発し、コミュニタリアンの一部は、ローカルまたはエスニックなコミュニティに関心を集中し、ネイションの歴史的・文化的・政治的な独自性を見失っている。

 私は、第2部第6章で人権とナショナリズムについて書いたが、私見によれば、コスモポリタンもコミュニタリアンも、ネイションとナショナリズムの歴史的・理論的な把握が弱い。この点では、ネイションに焦点を合わせて、コスモポリタニズムとコミュニタリアニズムに対話の場を開くものとして、私が高く評価できる思想が、リベラル・ナショナリズムである。

 

●リベラル・ナショナリズムのネイション再評価は適切

 

ここで、仮に国境をすべて廃止した世界を想定してみよう。国家と国家を分ける境界のなない世界である。果たしてそうした国境なき世界で、自由・平等・デモクラシー・法の支配等や本稿の主題である人権という価値は実現可能だろうか。

個人主義的な自由主義者(リベラリスト)やコスモポリタンは、ネイションは個人を束縛するもの、個人の権利を妨害するものという意識が強い。政治的単位としても道徳的単位としてもネイションが特別の役割を持つことを否定し、またはその関与を排除しようとする。コミュニタリアンは、それらの思想の根底にある近代西欧的な自己像を批判し、共同体の重要性を主張する。コミュニタリアンの中でリベラル・ナショナリストは、ネイションという共同体の働きなくして、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を実現することはできないと考える。私はこの考えを支持する。

支持する主な理由は二つある。第一の理由は、こうした社会的価値を実現するには、その社会の構成員の間に同胞意識や連帯感、歴史・体験を共有する記憶がなければならないからである。第二の理由は、それらの社会的価値を実現するには、その社会はある程度の閉鎖性と成員構成の安定性がなければならないからである。

第一の理由である同胞意識と連帯感、共通の記憶について。近代西欧の市民社会は、伝統的な共同体が解体され、共同体の紐帯を失った諸個人の集合となった。しかし、市民社会が近代国家を形成する過程で、近代化以前の伝統、文化、神話、宗教等の共有がネイション形成の重要な役割を果たした。出版技術の発達によって国語が創出・普及され、共通の言語を使用する集団が形成された。人々は集団としての歴史・体験を共にし、一個の国民という意識が醸成されていった。戦争や外部からの圧力が社会統合を促進した。近代国民国家では、階級間の対立や民族間の支配等の闘争的な要素を国内にはらみながらも、一個のネイションとして同胞意識や連帯感、歴史・体験を共有する記憶が生まれた。そして人々が同胞意識や連帯感、共通の記憶で結ばれているから、多くの人々は互いの間で自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を共有することを願うようになった。

社会正義に関して最も多く議論になる平等については、人々の間に同胞意識や連帯感、共通の記憶が存在し、貧困者に対する同情や共感の感情が働いていなければ、平等な自由、機会の平等、格差の是正を求める動機は生じない。階級対立の激しい社会や民族支配の厳しい社会においては、優位者は劣位者のために、権利の保障や拡大をしようとは考えない。権利は協同的ではなく闘争的に行使されるのみである。

次に、第二の理由である社会のある程度の閉鎖性と成員構成の安定性について。西欧発の近代国家は、他国との明確な国境、国家に所属する国民、領域における主権を持つ。また国民国家(nation-state)とは、その近代国家が領域内の全住民を国民(nation)という単位にまとめ上げて成立した国家をいう。領域内の住民は、政治的・文化的に共通の意識を持つ集団へと形成され、国民としての自己意識を持つにいたった。そのようにして形成された政治社会としての「国家」または政治的集団としての「国民」がネイションである。ネイションは、一種の共同体である。共同体は、家族的生命的なつながりと一定の土地における協働を基礎とした共同性を持つ集団である。その共同性は、ある程度、他の社会に対して閉鎖的であり、またその社会の構成員が持続的であることによって、維持されている。常に外部から異文化の人間が多く流入し、また構成員が頻繁に入れ替わっているような社会は、共同性を保ちえない。人々は血縁・地縁による結びつきに生活の基盤を持ち、自分たちの社会が戦争、飢饉、大規模災害等の危機に直面した時にも、協力して困難に立ち向かう。そのことによってのみ、互いに生き延びることができる。生活と運命を共有している人々は、社会的な価値の共有を願うようになる。それゆえ、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値の実現には、ある程度の閉鎖性と成員構成の安定性が必要なのである。

私は、これら二つの理由によって、ネイションの働きなくして、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を実現することはできないと考える。国際的にこれらの価値の実現を望むのであれば、グローバル化の動きに対抗して、社会の共同性の回復を進める必要がある。この点で、リベラル・ナショナリズムがネイションの役割を再評価していることは適切だと私は考える。

逆に国境を廃止して完全にボーダーレスとなった世界では、個人を単位とした考え方が強くなり、人々はアトム的な個人へと個別化されていく。家族・親族・地域・エスニックグル―プ等の共同体は、ますます解体される。人々の間で同胞意識や連帯感、共通の記憶は失われていく。また、それまで地理的・歴史的・文化的に分けられていた諸社会は、急速に流動し、とめどなく変化する。常に流動し入れ替わる人々の集合体となった社会では、人々は個人の選好を至高の価値としたり、最も抽象的な価値を表す貨幣を追い求めたりして、それら以外の価値の実現を希求しないだろう。そのような社会にあっては、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を新たに実現するのは、極めて困難である。

自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値の世界的な実現には、国境で区切られたネイションを単位とした国際社会の維持が必要である。国際社会において、個人主義的な自由主義やコスモポリタニズムは、ネイションの役割を否定することにより、観念的に高揚する一方、これらの価値の実現にはあまり寄与できない。コニュニタリアニズムのうち、ローカルまたはエスニックなコミュニティに関心を狭く限っているものは、世界的な課題に対して積極的に関与し得ない。リベラル・ナショナリズムは、ネイションの役割を重視していることによって、これらの価値の世界的な実現を推進し得るものとして期待できる。


 

●リベラル・デモクラシーの押し付けは避けるべし

 

自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を実現しようとする思想を、広くリベラル・デモクラシー(自由民主主義)ということができる。リベラル・デモクラシーは、リベラリズムとデモクラシーの融合によって形成された思想である。今日の自由主義(リベラリズム)、コミュニタリアニズム、ケイパブリズム、コスモポリタニズム、リベラル・ナショナリズムは、社会的諸価値の理解に違いはあるが、リベラル・デモクラシーの諸流派である。

現代のリベラリストの代表的存在であるロールズは、世界の諸社会を「道理をわきまえた自由な諸国の民衆」「良識ある諸国の民衆」「無法国家」「重荷を背負った社会」「仁愛的絶対主義の社会」の5つに分けた。この分類では、リベラル・デモクラシーは「道理をわきまえた自由な諸国の民衆」に共通する思想と言える。「諸国民衆の法」制定の試みは、まずリベラル・デモクラシーの国々で「重なり合う合意」を築き、それによって得られた「自由(リベラル)な正義」に基づく「諸国民衆の法」を、自由(liberal)ではない、イリベラル(illiberal)な社会に拡張しようと考えたものと言える。自由ではない社会とは、反自由主義的であるか、リベラル・デモクラシーを採用していない社会と理解される。民衆の政治参加が広く実現しておらず、政治的自由権が構成員に保障されていない社会である。ロールズは、自由ではない社会のうち、「良識ある諸国の民衆」とは相互理解が可能であり、双方が受け入れることのできる「諸国民衆の法」を制定することが可能だとした。ロールズは「良識ある諸国の民衆」の例としてイスラーム教国家を揚げているが、これはイスラーム教諸国のすべてではない。宗教的伝統を堅持し、欧米的な民主化の行われていないイスラーム教国家は多い。ロールズの理論では、そうした国々との対話は困難であることが認識されている。さらに、自由ではない社会のうち、「無法国家」に対して、ロールズは、「諸国民衆の法」を支持する諸国民衆の社会が自らの安全と安定を守るための交戦権を論じ、「正戦」の条件を規定しようとした。

ロールズに反発するコスモポリタンは、個人主義を規範的な原理とし、非西洋文明の諸社会に対してもリベラル・デモクラシーの実現が可能と考える。ロールズの姿勢に比べると、コスモポリタンの姿勢は安易である。宗教的伝統を堅持し、欧米的な民主化は行われていないイスラーム教国家に、欧米諸国がどのように対応するか。さらには、覇権主義的または冒険主義的な行動を取る国家や国際テロリズムの拠点となっている国家に対して、どのように対応するか。こうした国際社会の現実的な課題が、コスモポリタンには切実な事柄として意識されていない。その上、独善的でもある。

ロールズは、ベイツのコスモポリタン正義論を批判した。ベイツはグローバルな原初状態を想定するが、原初状態の契約当事者が第一原理を採用するとすれば、政治的構想によって直ちに人権が基礎づけられることになる。そのことは、自由でない社会も、最終的にはすべて自由な社会に変わるという考え方になる。すると、自由な社会は自由でない社会に対して寛容ではなくなる。自由でない社会は制裁を受けるのが当然の対象と考えることになりかねない、というのが、ロールズのベイツ批判の理由である。

これに比し、リベラル・ナショナリストは、ロールズ以上にコスモポリタンに対して強い懸念を表明する。コスモポリタニズムは、近代西欧発の政治社会の構成原理を、欧米とは文化や伝統の異なる社会に、画一的に押し付けるものとなってしまうからである。

リベラル・ナショナリストによると、正義は文化的文脈によって異なる。ここでいう文化は言語を中核的要素とし、文脈とは第一義的には言語文化的な脈絡である。ある社会における社会正義は、その社会における正義であって、どの社会にも一律ではない。ネイションが異なれば文化や社会的経験の違いのため、社会正義の構想もまた異なる。それは多元的かつ個別的なものであってしかるべきだ、とリベラル・ナショナリストは考える。

一元的な考え方はリベラル・デモクラシーの押し付けとなり、非西洋文明の諸国の反発を引き起こす。リベラル・ナショナリストは、そうした事態を避けるために、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等といった理念の普遍的重要性を認めつつも、諸文明・諸文化に属する人々が自らの文化・伝統・習慣に合った形で摂取すること、すなわち文化要素の主体的な取り入れを尊重する。このときネイションという政治共同体の役割が重要となる。ネイションを否定すると、近代西洋文明の価値は画一的に普及が推進されることになり、「近代化=西洋化」を推進する新たな圧力となる。文明間・文化間の摩擦が大きくなり、反発が対立・抗争へと進む恐れもある。

 

●コスモポリタニズムにはグローバリズムに利用される恐れも

 

ロールズ、コミュニタリアン及びリベラル・ナショナリストは、程度の差こそあれ、コスモポリタニズムに危険性を認め、これを批判する。

 コスモポリタニズムに潜む危険性をいち早く警告したのは、タミールの師バーリンだった。バーリンは、著書『反啓蒙主義』で次のように述べている。「所与の共同体に属し、共通の言語、歴史の記憶、習慣、伝統、感情などの解き放ちがたい、また目に見えない絆によってその成員と結ばれていることは、飲食や安全や生殖と同様に、人間が基本的に必要とするものである。ある国民が他の国民の制度を理解し、それに共感できるのは、自らにとってその固有の制度がどんな大きな意味を持っているのかを知っているからに他ならない。コスモポリタニズムは、彼らを最も人間らしく、また彼らを彼らたらしめている所以を捨て去ってしまうのである」と。

バーリンは、私的領域の不可侵性を守ろうとする消極的自由主義を唱えた。また、ナショナル・アイデンティティのもとになる文化的ナショナリズムを提唱し、排他的・攻撃的なナショナリズムを批判する一方で、コスモポリタニズムを批判した。自らの拠り所であるユダヤ文化を保持・防衛するとともに、西方キリスト教的・近代合理主義的な普遍主義への警戒を表したものだろう。

コスモポリタニズムは、各国の国民をアトム的な個人へと分解する。その個人に人類の一員としての普遍的な道徳的義務の履行を要求する。そこには、グローバル正義を一元的な価値とし、すべての人がそれに従って行動しなければならないという思想傾向がある。

イギリスの政治学者シャンタル・ムフは、次のように言う。「等しい権利と義務を持つコスモポリタンな市民からなるコスモポリタン的デモクラシーが可能であると信じること、これらは危険な幻想でしかない。仮にこの企図が実現されたとしても、自らの世界観を惑星の全域に押し付け、また、自らの利益を人類の利益と同一視しながら、あらゆる不同意を『理性的な』リーダーシップに対する不正な挑戦とみなす支配的権力による世界大のヘゲモニー状態を意味するであろう」と。

コスモポリタニズムは、ネイションを否定するグローバル化・ボーダーレス化をよしとする。その点では、巨大国際金融資本によるグローバリズム(地球統一主義・地球覇権主義)と思想を共有する。グローバリズムは、ネイションの枠組みを解体し、個人単位の思想を徹底し、世界単一市場、世界政府の実現を目指す。その行き着く先は、ごく少数の資本家・権力者と、彼らに管理される大多数のアトム化された諸個人の集合という二極化した社会となる。

グローバル正義を説くコスモポリタンは、ネイションに基づく国際的な制度を変え、富裕国の政府や多国籍企業の活動を規制しようとするが、逆に巨大な富と権力を持ったグローバリスト(地球統一主義者・地球覇権主義者)に利用される恐れがある。

コスモポリタニズムの中には、アナキズムに近い国家否定の思想がある。そうした急進的なコスモポリタニズムは、ネイションの役割を全否定することによって、グローバリズムの横行を許す。また、全体主義国家の覇権主義的な行動に対抗できず、武力による統治を招く。国民国家の解体と諸個人のアトム化は、強欲資本主義による世界単一市場と、情報管理技術を用いる強権的な統一政府による世界支配を誘導してしまうことになる。

ネイションが解体されてしまえば、グローバリストから集団の権利、個人の権利を守るものはなくなる。私は、急進的なコスモポリタンの目指す社会はグローバルな超高度管理社会に転じかねないと考える。また、コスモポリタンとグローバリストの思想に一神教的価値観の戦闘性や、フランス革命における理性崇拝の狂信の残響を聞く。

 コミュニタリアニズムは、近代西欧的な自己像を転換し、共同体の重視を主張することにより、コスモポリタニズムの対抗思想になっている。しかし、関心をローカルまたはエスニックな共同体に集中することにより、世界的な問題に積極的に関与しようとしない傾向がある。

私は、安易で独善的なコスモポリタニズムに反対し、また偏狭なコミュニタリアニズムに陥ることなく、各ネイションでそれぞれの文化・伝統・習慣に合った形で自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値が実現することによって、世界全体でそれらの価値が実現される道を構想すべきと考える。

欧米に現れた正義をめぐる諸思想のうち、個人主義的なリベラリズムはグローバリズムに対抗できず、また個人主義的なリベラリズムを徹底するコスモポリタニズムは急進化すると、グローバリズムを助長する恐れがある。また、ローカルまたはエスニックな共同体に関心を集中するコミュニタリアニズムも、グローバリズムに対抗できない。私は、ネイションの役割を再評価し、リベラル・デモクラシーとナショナリズムを総合するリベラル・ナショナリズムのみが、グロバーバリズムへの対抗軸となり得る、と考える。

巨大国際金融資本が推進するグローバリズムから、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を守るには、ネイションの役割を再評価し、諸国家・諸民族が共存共栄する世界を目指す必要がある。ネイションを単位とした集団の権利が確保・拡大されてこそ、個人の権利も確保・拡大される。本稿は、人権について、このような考えのもとに、批判的な検討を行うものである。


 

●ネイションの主体性を尊重した支援を

 

 現在の国際社会は、主権国家が集合した社会であり、主権を越える権利義務関係は現実に存在しない。人々の権利の保障には、主権国家の政府やそれに準ずる統治機構が必要である。各国は主権を有するからこそ、独自の正義観に基づいて自国の貧困対策や格差是正を行うことができる。

 コスモポリタンの思想は、個人本位のために、ネイションの独自の役割を認めず、そのため人々の権利の保障や貧困対策、格差是正の実現を危うくするものである。ネイションの自決の権利は、国民的な集団が持つ重要な権利である。コスモポリタンは、自決の権利を否定することで、各ネイションに属する人々が集団のレベルで持つ権利を認めないことになる。

反コスモポリタンのロールズは、「道理をわきまえた自由な諸国の民衆」と「良識ある諸国の民衆」には、「重荷を背負っている社会」への「援助義務」があると説いた。ロールズの援助義務とは、グローバルな配分的正義を目指すものではなく、「重荷を背負っている社会」が自らの政治文化を変化させ、正義に適った制度を自らの力で確立できるようになるまで、各種の援助を提供することである。その社会が、「自由な社会」または「秩序ある社会」になれば、それ以上の援助を続けて、全面的な平等を目指す必要はない、とロールズは説く。

穏健なコスモポリタンに理解を示すミラーは、先進国に対してはネイションとしての責任、すなわち過去の行為と現在の制度等の結果責任、またそれに相当する救済責任の自覚を求め、一方、発展途上国に対してはネイションとしての主体性を発揮するよう促す。

私は、ネイションの自決の権利を認めた上で、ネイションの自助努力を促し、またはそれができるところまでの支援をするという考え方が妥当だと思う。ネイションの役割を再評価し、ネイションの能力を発揮することによって、貧困や不正義の改善を図るべきである。

私見を続けると、ある程度民主化がされ、討議による統治が行われている国家については、その国の政府によって人権が保障されることを期待できる。政府によって国民の最低限の基本的人権が擁護されるようになれば、自然災害や紛争難民の発生などの特別の場合を除くと、国際的な人権の保障の必要性は生じない。他国からの援助は切迫した状態に置かれた人々を救済するための緊急対応や、その国の政府が所得の再配分を行う能力を得られるように支援することに限定される。支援は、ある段階まで直接的な援助を行ったら、後は自助努力を促すことに切り替えるべきである。無制限な支援は、その国の政府が自らなすべきことを果たさずに、他国の援助に頼る恐れがある。ミラーは、人間には他者依存性と自己責任性の両面があるという見方をしているが、自主的な責任遂行能力があることを軽視して、ただただ他者に依存せざるを得ないものと人間を見ることは、間違っている。支援の原則は、自助自立できるように支援することでなければならない。

コスモポリタンの中には、グローバルな不平等や格差の根本的な解消を目標とし、大規模な制度の改革を説く者がいる。貧困死を完全に撲滅するまで、徹底的に資源や所得の再配分を進めるべきだという意見もある。だが、国際社会は、既に2000年のミレニアム・サミットで、世界の貧困を半減する等の目標に合意している。先進国はGNIの0.7%を拠出するという合意がすべての対象国で実行されれば、世界の貧困半減等の目標を実現し得る可能性がある。2015年までという期限までには達成できなかったが、その原因の一つはこの実行を監督し、促進する仕組みがしっかりできていないことにある。まず、そうした仕組みを作ることが急務である。その中心となる国際機関は各国に拠出を履行させる強制力は持たないが、各国の政府と国民に強く呼びかけ、実行を迫る勧告的な影響力は発揮し得るものとすべきである。

もし他国がその国の政府の意思を無視して介入するなら、内政への干渉であり、主権の侵害となる。ただし、ある国が自力で社会正義を実現できない場合、またはその政府自体が大きな不正義を生み出している場合にどうするかという問題がある。ネイションの自決の権利を絶対不可侵の権利とすれば、国際社会は、どのような事態においても問題の当該国に全く関与できないことになる。関与は、内政干渉の原則の否定となる。だが、近年、国際社会では、人権を侵害されている人々を「保護する責任」があるという論理で、「人道的な介入」を肯定する考え方が出ている。仮に介入する場合は、それができるのは、一国ではなく主権国家の連合体となる。個人や民間団体、主権に当たる政治権力を持たない国際機関では、あまり実効性のある活動は展開できない。国家ではなく個人や民間団体なら当該国が受け入れるという場合もある。ただし、その人々の生命を守るためには、ネイションを基礎とした軍隊の力が必要となる。「保護する責任」の実行には、ネイションと非ネイションの団体との連携が必要だろう。

主権も人権も絶対的なものではなく、もとをたどればどちらも人間の権利の相互承認による。主権と人権のどちらを優先するかは、個別具体的な事例に応じて検討されねばならない。国際的な議論を通じて、主権と人権の相互関係のあり方に関する合意を積み重ねていくことが必要だろう。国家の主権を絶対的とすることも、個人の人権を絶対的とすることも、どちらも硬直した考え方であり、現実の国際的諸問題に有効な対応を妨げると私は考える。

 この項目では、正義をめぐる現代の諸思想として、自由主義(リベラリズム)、コミュニタリアニズム、ケイパブリズム、コスモポリタニズム、リベラル・ナショナリズムについて比較・検討を行った。これらの思想は互いに批判をし合いながら、人権と正義に関する議論を繰り広げている。今日人権を論じる上で、これらの思想の検討は不可欠の作業となっている。(ページの頭へ)

 

(5)正義論の理論と展開

 

●正義という価値

 

前章から本章にかけて、人権と正義の関係、国際的正義とグローバルな正義の比較、正義をめぐる現代の諸思想について書いてきた。ここでこれまで正義論について書いたことを総合的に検討し、人権について正義論を踏まえた考察を行いたい。

最初に正義は価値(value)か原理(principle)かについて明確にしたい。

正義は、原理ではなく、価値である。原理とは、認識または行為の根本法則をいう。これに対し、価値とは、物事や行為の望ましい性質、あるいは望ましくない性質をいう。個人の好悪の対象になる性質をいう場合と、個人の好悪とは無関係に誰もが「よい」と認めるべき性質をいう場合がある。後者の代表的なものには、真・善・美・聖がある。正義は、これらのうち、西洋文明では伝統的に善と対で語られてきた価値である。また正義は、現代世界において人権という別の価値と深い関係を持つ。自由と平等という二つの価値と人権を結ぶ位置に、正義がある。

価値は主観的なものである。主観性には、集団的主観性と個人的主観性とがある。集団的主観性とは、哲学者の廣松渉が共同主観性と呼んだものである。近代西洋哲学では、主観―客観の二項図式を立て、主観の側にアトム的な個人を想定した。しかし、個人的主観性は、集団において歴史的・社会的・文化的に形成された共同主観性を、個人の置かれている社会関係から切り離して実体化して想定されたものである。いかなる個人的主観性も、集団的主観性に媒介されている。それゆえ、個人的主観性による価値観も、集団的主観性による価値観を背景とし、その背景をもとに個別化されたものである。

原理は、個人または集団が「よい」と認める性質とは異なり、人間を越えて存在すると想定されるものである。主観―客観の二項図式においては、主観に依拠せずに客観的にそれ自体で存在するものと理解される。その典型は、自然科学によって発見される法則である。だが、自然科学的法則もまた集団において歴史的・社会的・文化的に形成された共同主観性に基づくものであって、全く主観性と無関係のものではない。集団的な主観性をほとんど感じさせないほどに疑似的な客観性を与えられたものである。ニュートン力学の法則は、特殊相対性理論では、新たな枠組みに位置付けられた。そのように自然科学の法則も位置付けによって解釈が変化する。社会科学における法則は、自然科学的な法則ほどの高度の客観性を有していない。ある時代、ある集団における社会科学者の多くが認めている定説に過ぎず、定説は破られる可能性がある。マルクスの歴史法則もフロイトの心理法則も、一時代の定説、むしろ有力説に過ぎなかった。

ロールズは正義の原理を説いたが、彼自身によってその原理は「自由な社会」におけるものと相対化された。正義について、ロールズは原理というが、ローズの正義の2原理は、私のいう意味での原理、すなわち認識または行為の根本法則ではない。平等な自由、機会均等、格差是正は、原初状態において市民たちが選択する諸価値である。これらの価値の総合として正義という価値が想定されている。それをロールズは「公正としての正義」というのだが、公正は価値であって、原理ではない。それゆえ、ロールズのいう原理とは、諸価値の総合の仕方をいうものである。

価値は主観的なものであり、主観性には集団的主観性と個人的主観性があると書いたが、主観性は同時に主体性でもある。西欧言語の元の単語は、英語であれば subjectivityであり、日本語で主観性・主体性と訳し分けているだけである。認識における主観性と実践における主体性は、別のものではない。人間は認識しつつ実践し、実践しつつ認識する。存在するのは、認識的主観性と実践的主体性を合わせ持つ個人及び集団である。人間の認識能力を主観性、実践能力を主体性という用語で区別して訳しているのである。

認識について共同主観性を言い得るように、実践において間主体性を言い得る。また、主体性にも、集団的主体性と個人的主体性がある。そして、共同主観的かつ間主体的な存在が人間であり、人権とはその人間の権利を、また正義とはその人間の正義をいうものである。


 

●古代ギリシャから近代までの正義論の展開

 

次に、古代ギリシャから現代にいたる西洋文明の正義論の展開を改めて振り返り、正義と人権について私見を述べたい。

 紀元前6世紀ころから、古代ギリシャには、世界には神聖な秩序があり、踏み越えてはならない掟(ノモス)がある。それを踏み越えると世界や社会の秩序が乱れる。そうした時には、これを元に戻さなければならないという考え方があった。エンペドクレスやアナクシマンドロスは、このような思想をそれぞれの言葉で語った。政治や社会だけではなく、医学においても、ヒポクラテスは、人間の体は秩序を守っている時には健康だが、バランスが崩れた時には病気になる。それを元に戻すのが医学の役割だと説いた。

こういう考え方が「ギリシャ思想の原型というべきもの」で、古代ギリシャでは「一つの基本的な原則」(佐々木毅)だった。そこでは、神々と人間を貫く掟、言い換えれば自然と社会と心身を貫く理法(ノモス)に従うことが、絶対的な規範だった。

 この絶対的規範は、個人が従う前提として、集団が従うものであり、理法に従った状態・行為が、正義であった。自然の秩序、社会の平和、心身の健康は、理法に従うことによる調和の姿であり、その姿を実現することも正義とされた。

 私は、古代ギリシャの理法(ノモス)は、中世から近代初期にかけての西洋文明における自然法や、シナ文明における道(タオ)、日本文明における道(みち)または道理に通じるものと考える。ギリシャ=ヨーロッパ的な概念を用いれば、道(タオ)に従った状態が正義であり、道(みち)または道理に沿った状態が正義である。

古代ギリシャでは、自然・社会・心身を貫く理法に適った状態が、本来の正義だった。だが、社会の変化によって、絶対的とされてきた理法の権威が疑われるようになった。それが見失われたところに、アレテーとしての卓越性の概念が現れた。人間の間での相対的な状態である。次いでアリストテレスの法的・道徳的正義、配分的正義、矯正的正義が現れた。その後の正義はこの思想の応用である。

ソクラテス、プラトンの生きた時代の古代ギリシャでは、正義とは、人々が社会でそれぞれのアレテー(卓越性)を発揮することを意味するようになっていた。卓越性とは、人より優れた能力や性質である。そして、正義は、各人がそれぞれの身分や職能において卓越性を発揮し、ポリスの秩序を維持し、調和することだった。理法に沿って集団で生きるためには、社会に調和が必要である。集団としての共同性を発揮し、労働における適切な分業が行われなければならない。集団的な協働において、構成員の各々が所を得た状態が、卓越性が発揮された状態としての正義だった。

プラトンは、国家にあっては、統治者たる政治家、守護者たる軍人、そして一般大衆がそれぞれのアレテーを発揮し、分に応じた役割を果たして調和することを正義とした。また個人の魂においては、理性的部分、気概的部分、欲求的部分がそれぞれのアレテーを発揮して調和することを正義とした。調和とは、諸要素・諸部分の関係に秩序のある状態である。

アリストテレスは、プラトンの正義をより明確に公共善の実現として打ち出した。アリストテレスは、人間をポリス的な動物ととらえ、政治的共同体をつくる目的は、公共善の実現にあるとした。彼の思想では、正義とは「善い生き方」にふさわしいあり方を示すものであり、善が正義によりも優先された。

アリストテレスは道徳・法に適うことを一般的正義とし、これとは別に特殊的正義という概念を立てた。特殊的正義には、配分的正義と矯正的正義がある。配分的正義は共同体の目的のもとにおける貢献に比例した地位・名誉等の配分をいい、矯正的正義は損害に対する補償等を均等に実現することをいう。こうしたアリストテレスの正義論は、古代ローマの思想に影響を与え、さらにヨーロッパ文明の伝統的な正義論の基礎となった。

アリストテレスにおいて、正義とはまず道徳・法に適っていることである。道徳・法という共同体の社会的規範に適った状態が、正義である。古代社会では、宗教・道徳・法は不可分のものだった。規範に反すれば罪に問われる。規範に沿った正しい生き方が、「善い生き方」ともなる。共同体の正義が公共善の前提である。それゆえ、正義論は規範論に基づかねばならないものだった。配分的正義においても、また矯正的正義においても、共同体の社会規範あっての個別的な正義だった。

しかし、近代化の過程で、市場経済が発達し、共同体が解体されるにしたがって、正義の条件として存在した伝統的な社会規範が崩壊し、配分的正義は市場における契約に基づく交換の公正性を意味するものに変化していった。

 近代西欧における正義論のうち、現代の正義論者の側から見て重要なのは、カントとベンサムによるものである。現代の正義論者の側から見てと言うのは、ロールズの正義論とそれによる問題状況を踏まえた見方では、という意味である。

ロールズによれば、近代西欧では、アリストテレス以来の公的な善を正義とする考え方に代わって、私的な善を優先する考え方が支配的になった。私的な善を優先する場合、善は個人的な価値となり、私的な善の追求を保障する枠組みが正義となる。私的な善の優先は、さらに善を正義より優先するか、逆に正義を善より優先するかで考え方が分れる。功利主義は、公的な善より私的な善を優先し、かつ善を正義より優先する。ロールズの理解によれば、カントも公的な善より私的な善を優先するが、正義を善より優先する。そこに、正義と善をめぐる功利主義とカント哲学の違いと対立があるとする。

功利主義の正義観は、社会を構成する個人の満足の合計が最大となるように社会制度が編成されている場合に、その社会は正義に適っているとする考え方である。これは、正義から独立に善を規定し、その善の最大化を目標とする理論である。ロールズは、こうした功利主義を、正義を善に還元して正義と善の区別を認めない思想として批判した。


 

●ロールズと現代の正義論の展開

 

第2次世界大戦後としての現代の正義論には、ロールズの影響が大きい。正義と善の関係について、ロールズはカントの考え方を継承した。カントは人間が自由であるのは、道徳的な存在であるからだと考えた。道徳的な存在であるとは、理性によって自らの道徳法則を自由に定めることができることである。それゆえ、カントの正義論では、道徳的な義務はいかなる善の概念にも左右されず、正義が善に対して優先される、とロールズは理解した。

 ロールズの「公正としての正義」の理論では、彼の理解するカントにならって、正義が善に対して優先された。ロールズにおいて正義が善より優先されることには、二つの意味がある。第一に、個人の権利は集団全体の善のために犠牲にされてはならないこと。第二に、権利の枠組みを定める正義の原理は、個々人の「善い生き方」に関する特定の見解を前提にしてはならないこと、である。

 ロールズは、『正義論』で正義の2原理を提示した。正義の第一の原理は平等な自由原理である。平等な自由への権利に関わる原理であり、これには種々の自由権が含まれる。第二の原理は機会均等原理と格差是正原理である。これは、組織のあり方、所得や富の配分に関わる。第一原理は第二原理に優先する。第二原理の中では、公正な機会均等原理が格差是正原理に優先する。すなわち、“平等な自由原理>公正な機会均等原理>格差是正原理”とされる。

こうしたロールズの正義の2原理は、共同体が解体した近代市民社会において、自由を優先しつつ、機会の平等と格差の是正を図ることで、自由と平等の調和的な均衡を実現しようとしたものだった。ここで正義とは、自由を優先しつつ、平等への配慮が社会制度として実現されている状態を意味する。また、ロールズのいう原理とは、諸価値の総合の仕方をいうものである。

ロールズに対するノージックとドゥオーキンの批判は、ロールズよりも自由を重視するか、平等を重視するかの違いによる批判だった。ここには自由を至上の価値としその実現を以て人権の実現とする考え方(ノージック、リバータリアン)、社会的な平等の実現こそ人権の実現とする考え方(ドゥオーキン、社会民主主義に近い)、また自由優先のもとで自由と平等の均衡点に人権の実現を目指す考え方(ロールズ)がある。人権は普遍的・生得的として自明の権利とされるというのに、正義の観点からは、人権について、これだけ違う考えがある。

ロールズは、正義には三つのレベルがあるとした。第一は「ローカルな正義」、第二は「国内的正義」、第三は「グローバルな正義」である。最後の「グローバルな正義」は、ロールズの場合、実質的に国民国家の人民を主体とした正義を考えているので、グローバルというより国際的な正義である。

これに対して、ロールズを批判するコスモポリタンは、国家の枠組みを超えたグローバル正義を主張する。これを加えると、正義は4階層になる。すなわち、(1)ローカルな正義、(2)ナショナル(国内的)な正義、(3)インターナショナル(国際的)な正義、(4)グローバルな正義である。

ローカルな正義及び国内的正義については、ロールズは社会契約説の思考実験に基づく理論を説いた。だが、社会契約説は歴史的事実と異なる仮想の理論であり、社会契約説を一般化して正義の原理を考案したのは、公共的理性を持つ者なら誰でも当然考えることだと自己の主張を正当化しようとしたものである。また、ロールズの自己は「負荷なき自己」だが、実際の自己はサンデルのいう「位置づけられた自己」である。それゆえ、ロールズを批判するコミュニタリアンが説くように、正義は共同体に基づく正義であり、それぞれの社会において文脈によって決まるものである。ただし、私見を述べると、文脈とは単に文化的な文脈ではなく、歴史的・社会的・文化的な文脈である。ある社会における社会正義は、その社会の歴史的・社会的・文化的な文脈における正義であって、一律ではない。ネイションが異なれば歴史体験、社会通念、文化習慣等が違うため、社会正義の構想もまた異なる。また、それは多元的かつ個別的すなわち特殊的なものとなる。

正義の実現の仕方も、それぞれの社会において異なる。サンデルのいう「連帯の義務」は、家族・部族・民族・国民等における特別の義務として強調されねばならない。共同体の重要性を再評価する時、共同体の目的に沿った正義という意味での目的論的な正義観が成り立つ。この正義は近代化以後、再び善と結合した公共善に基づく正義となる。ただし、「連帯の義務」は、人類普遍的な義務という考え方を排除するものではない。共同体の構成員は、共同体の一員としての義務を果たしながら、人類普遍的な考え方に立つ義務を担うことができる。

 次に、国際的正義とグローバルな正義については、コスモポリタンとコミュニタリアン及びリベラル・ナショナリストの論争によって、コスモポリタンのグローバルな正義は、国際社会の現実から乖離した観念性の強いものであることが明らかになっている。

コスモポリタニズムは、各国の国民をアトム的な個人へと分解する。その個人に人類の一員としての普遍的な道徳的義務の履行を要求する。そこには、グローバル正義を一元的な価値とし、すべての人がそれに従って行動しなければならないという思想傾向がある。だが、現代の世界におけるグローバルな正義とは、ネイションを越えたグローバルな正義ではなく、各ネイションの自決と協調に基づく国際的正義と考えるべきである。

 

●現代正義論における妥当な考え方

 

私の観点から、現代の正義論における妥当な考え方を10点にまとめるならば、次のようになる。

 

(1)正義とは、自由と平等の均衡が社会制度として実現されている状態である。

(2)ここで自由とは、ケイパビリティの概念によって深められた実質的自由である。

(3)正義には、ローカルな正義、国内的な正義、国際的な正義がある。

(4)正義と善は不可分であり、正義は共同体の目的による公共善に基づくものである。

(5)正義は、それぞれの社会において歴史的・社会的・文化的な文脈によって決まる。

(6)ある社会における正義は、その社会における正義であって、他の社会にも一律ではない。

(7)集団においては、家族的・部族的・民族的・国民的等の道徳的義務を優先し、そのうえで他の集団への支援を行うべきものである。

(8)正義の実現のための支援は、自立への支援であって分配による平等の実現まで行うべきものではない。

(9)国際的正義は、個人単位ではなくネイション単位で考えるべきであり、ネイションの役割を重視し、各ネイションの自決と協調に基づく正義の実現が目指されなければならない。

(10)国際社会における支援は、ある段階まで直接的な援助を行ったら、後は自助努力を促すべきである。支援の原則は、自助自立できるように支援することである。

 

 

●正義論の根本に置かれるべきもの

 

 正義論の展開を古代ギリシャから現代まで振り返り、現代の正義論における妥当な考え方のまとめを行った。ここで再び古代ギリシャの正義論に目を向けてみよう。すると、現代人がすっかり失ってしまっているのは、自然・社会・心身を貫く理法と、それに沿った状態・行為としての正義という考え方であることに気づくだろう。この考え方は、プラトン・アリストテレスにおいて既に概ね失われていた。以後、ヨーロッパでは中世から近代・現代を通して、再び顧みられることがなかった。

現代人の多くは、自然は自然科学者が研究し、自然法則を見出し、技術的に利用するものと考え、社会は社会科学者が社会法則を見出し、これを政治・経済に利用するものと考え、人間の心身は医科学者がこれを検査し、手術や投薬によって病気を治すものと考えている。これらの間に共通するものは想定されない。自然・社会・心身は、基本的に異なる領域であり、別々の法則が作用していると考えている。また正義は、社会における正義であって、自然の法則や心身の病気・健康には関係のないものと考えられている。カント主義、功利主義、ロールズ、コミュニタリアニズム、ケイパブリズム、コスモポリタニズム、リベラル・ナショナリズム等において、正義は社会における正義であり、自然と文明の調和や人間における心身の健康とは、直接関係のないものと考えられている。正義の観点から人権を論じる場合も、そこにおける権利主体としての人間は、社会関係における人間であって、同時に自然環境の中で生き、心身の働きを以て生きている人間という面は重要視されない。

 私は、この点に根本的な問題があると思う。自然・社会・心身は人間が作り出した区別である。人間が生きる世界の側に、その区別が存在するのではない。人間の認識において区別しているものである。そのため、社会における正義の根本として追求されるべき、宇宙の根本理法が見失われている。人はまず健康でなければ生きていけない。それには心身の調和が必要である。社会において協働しなければ生きていけない。それには社会の調和が必要である。自然に沿っていかなければ生きていけない。それには自然との調和が必要である。これらに共通する調和、すなわち宇宙の根本理法に従った調和という原初的な観念に立ち返り、この考え方を取り戻すことが必要である。

 不自然な状態を自然な状態に戻す。秩序を欠く状態を秩序ある状態に戻す。調和の無い状態を調和のある状態に戻す。そのように考えた古代ギリシャ人の理法(ノモス)は、シナ文明の道(タオ)、日本文明の道(みち)または道理に通じるものである。特に日本の神道及び和の精神には、古代のギリシャやシナの考え方に通じるとともに、生き方として、より深めた姿を見出すことができる。

 このように考えた上で、再度、社会における正義について考察すると、まず社会における人間のあり方を、家族的生命的なつながりを基に考えることの必要性が、より強く認識されるだろう。近代西洋人は、個人主義、合理主義に傾き、人間観が抽象的個人と機能的集団によるものとなっており、生命的個人と共同的集団として人間をとらえることができていない。まずこうした人間観を改めることが必要である。

 正義とは、人間が歴史的・社会的・文化的に作った法や道徳に従っている状態である前に、宇宙の根本理法に順じた状態・行為でなければならない。また配分的/交換的正義及び矯正的正義は、宇宙の根本理法に従って集団として生きるという目的に照らして、配分/交換や矯正がされているかどうかという観点から評価し直す必要がある。

 人権とは「発達する人間的な権利」であり、「人間的な」「人間らしい」という観念は、歴史的・社会的・文化的に変化する。だが、どのような状態を「人間的な」「人間らしい」ととらえるにしても、その人間が自然・社会・心身を貫く調和の理法に沿った生き方をすることが、すべての根本になければならない。そして、すべての国民、すべての人類がこうした生き方をできるようになることを目標とする必要がある。(ページの頭へ)

 

第12章 人権の理論と新しい人間観

 

(1)人権の基礎づけ

 

●人権の基礎づけ

 

第10章及び第11章で人権と正義について考察した。本章では、その考察に基づいて人権の基礎づけ、定義、内容、実践について書き、人権の目標と新しい人間観について述べる。

人権の本質は、普遍的・生得的な権利ではなく、歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利である。普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、発達する「人間的な権利」である。人権に関する思想が発達すれば、その段階において新たな権利が人権のリストに加わり、それもまた人権と呼ばれる。そのようにして、人権は発達してきた。

人権は、17世紀以来、ロック、ルソー、カント、J・S・ミル等によって、それを担う人間の問題とともに考察されてきた。20世紀以降の世界的な人権の発達においても、彼らの思想は影響を与え続けている。人権は社会的権利として主張された要求が、特定の国家で権利として認められ、法に規定されて法的権利になることによって、歴史的・社会的・文化的に発達してきたものである。この人権の発達は、各国で進むとともに国際的にも展開されてきた。

今日では、こうした歴史を踏まえ、権利としての根拠があいまいなまま、次々に新しい権利を主張し、それも人権だとして実現を要求するという傾向が目立っている。人権の確保・拡大は、国際社会における政治的・社会的運動の目的となっており、様々な新たな権利の要求が出されている。人権に関する要求は、議論の結果、一部は条約に盛り込まれたり、逆に権利と認められずに斥けられたり、一部の国でのみ国内法で法的権利とされたりする。

人権というラベルを貼り付ければ、実現されなければならない権利のような響きを持ち、権利を主張する者と反論する者との間で、争いが生じる。何が人権なのか、どこまでが人権なのか、明確な基準の無い中で、新たな主張とそれに対する賛否の議論が繰り広げられている。人権発達史の第3段階の権利が各種主張され、それらをめぐって活発な議論がされている。普遍的・生得的権利という観念が根強く存続しながら、その権利について諸説紛々である状態そのものが、普遍的でも生得的でもない権利を人権と呼んでいることを示すものである。

人権については、基礎づけが必要だという意見と必要ないという意見がある。人権の基礎づけとは、根拠を示して権利を正当化することである。基礎づけが必要だという意見には、人権を正当化する単一の根拠を目指すという意見と、複数の根拠があってよいという意見がある。前者は、思想的・哲学的・宗教的な原理を根拠とするものが多い。後者には、世界人権宣言の条文に盛られた複数の内容を根拠とする考え方がある。これに対し、基礎づけは必要なしとする意見のうちには、世界人権宣言・人権規約・人権条約等で文化・宗教・思想等を超えた合意のもとに権利の保障がされれば、人権を正当化する根拠は必要ないというプラグマティックな考え方がある。また後期ロールズの正義論におけるように包括的な宗教的・哲学的・道徳的教説の議論を避け、人格・価値・能力・資格について主張せず、否定もせずに、「重なり合う合意」を作るという政治的自由主義の立場もある。私は、基礎づけが必要という意見であり、人権を基礎づけるには人間に関する考察が必要だという考えである。

 

●基礎づけに関する正義論者の見解

 

まず代表的な正義論者のうち、人権の基礎づけについて最も特徴的な見解を示したロールズとミラーの見解を再度確認しておこう。ロールズは、主に人権ではなく正義を論じた。だが、正義に関する基礎づけの要否と人権に関する要否には、共通する面がある。そこで、彼の人権の基礎づけに関わる部分について再度、記す。

ロールズは、前期の『正義論』では、カント的な自由で平等な道徳的人格を主体とし、カントにならって正義論を道徳哲学によって基礎づけようとする姿勢を示していた。だが、次第にカントの道徳哲学から離れていき、後期の『政治的自由主義』では、政治の分野に限って社会正義を構想する姿勢に変わった。それゆえ、前期ロールズは、道徳哲学による基礎づけ派、後期ロールズは、政治的自由主義による非基礎づけ派と言える。後期ローズの思想は、ミラーの挙げる人権正当化の三つの戦略のうち、第二の「重なり合う合意の探求」戦略の大元になっている。

後期ロールズは、自分の考える自由主義は、「そもそも人格の概念に基づいていない」とし、人権は「人間本性に関する、いかなる特定の宗教的・哲学的な包括的教説に依拠するものでもない」とする。「諸国民衆の法」は、「人間は道徳的人格である」とか、「人間は神の前では同じ価値を持つ」といったことを主張しない。また「人間には一定の道徳的能力や知的能力が備わっており、それゆえに人権を享受する資格が与えられる」などと主張するものでもない。その理由は、主張すれば、欧米以外の人々が拒絶するような宗教的・哲学的・道徳的教説が前提に含まれてしまうからだという。ロールズは、人格・価値・能力・資格について主張せず、また否定もしないという姿勢を取る。その姿勢のゆえに、人権の担い手である人間の人格に関する考察を行わない。そのため、ロールズは、人間が相互に権利を承認し合う能力を持つという事実を重視していない。

世界人権宣言及び国際人権規約は、今日の国際法及び国際人権法の重要な柱となっている。これらが制定された時代には、国際的正義の基礎理論は存在しなかった。だが、国際的な討議を行うことで、人権に関する合意が重ねられてきた。人権に関する宣言がされ、個別的な条約や地域的な条約が結ばれてきた。それが実際に行われてきたのは、文明や文化の違いを超えて、人権に関して一定の共通認識を持つことが可能だったからと考えられる。共通認識を形成できなければ、異なった文明・文化を持つ国家の間で、人権という概念を共有することもできない。それゆえ、私は、ロールズの姿勢では、今日世界に普及している人権の概念について深く考察することができないと思う。「重なり合う合意」は、これから初めて、政治的分野に限って求めていくものではない。半世紀以上にわたって、歴史的に合意が積み重ねられてきている。また諸文明・諸文化を横断して積み重ねられてきている。その合意はなぜ可能なのかを問わねば、人権を正当化することはできない。

ミラーの場合は、人権をグローバル・ミニマムとしての基本的人権に限定する。人権の正当化に用いられてきた戦略を三つに分類して比較・検討する。第一の戦略、すなわち宣言・協定・国際法・外交政策等で実施されてきたことに直接に目を向け、そうした実践から人権理論を抽出すべきだとする「実践に基づく戦略」と、第二の戦略、すなわち主な世界宗教や重要な非宗教的世界観が人権の共通の一覧を支持することを示すことを通じて、人権の多様な基礎を発見できるとする「重なり合う合意の探求」戦略は、ともに人権を正当化することができないとして、斥ける。そのうえで、第三の「人道主義的戦略」を擁護する。

人道主義的戦略は、「人間の基本的なニーズを見出そうとするもの」であり、「宗教的もしくは世俗的世界観がどうであれ、どこに暮らす人々にとっても道徳的に説得力があると認識されるに違いない」とミラーは述べる。この戦略は、「人権の基礎として役立ち得る人類の普遍的特徴に依拠し、人権を確定し、正当化するもの」であり、人権は「人間の基本的ニーズの充足に必要な条件を整えるということを示すことによって正当化される」と言う。

また、「人権は一種の根源的道徳であるーーすなわち他の道徳的要求は弱い義務を課すか、あるいはいかなる義務を課さないかであるが、人権の保障は道徳的命令であるーーと想定されるので、人権は人間的な生命・生活の本質的特徴を参照することによって正当化されるべきである」と述べる。基本的ニーズは「道徳的切迫性」を有しているとし、「人権とは全人類に共通の基本的ニーズという観念を通じて最もよく理解され正当化される」とミラーは主張している。

この発言は人権の根拠に人類普遍的な道徳を想定するものであり、またその道徳的命令はカントの定言命法のようなものと理解される。この点で、ミラーの思想はカント主義的であり、前期ロールズに通じる点がある。彼のいう人道主義的義務は、カント主義的な普遍的義務であり、「全人類に共通の基本的ニーズ」を実現することが、その普遍的義務の実行であり、それは「根源的道徳」に基づく「命令」であると理解される。

人権は、基本的ニーズの充足に必要な条件を整えることによって正当化されるというミラーの戦略は、人権の正当化の方法として注目されるものである。だが、私は、基本的ニーズを検討するにしても、人間とは何かという問いを掘り下げていかないと、単に生物的に生存するのか、文化的に生存するのかということすら明らかにできないと思う。まして、心霊的存在としての側面までを考慮することはできない。基本的ニーズは、外的な条件を示すのみであり、それを必要とする主体としての人間の考察が必要である。

人権の基礎づけについてロールズとミラーの見解を再度確認したが、二人ともこの課題については、十分な検討を行えていない。

 

●世界人権宣言の起草過程

 

 私は、人権の基礎づけの検討に当たって、世界人権宣言が、どのように起草されたか、を点検することが有益だと考える。世界人権宣言は、今日の人権論が直接間接に拠って立つものだからである。人権論は、具体的な事例と歴史的な経緯を基に論じないと、抽象論に陥る。

政治学者のマイケル・イグナティエフは、人権を正当化する根拠は必要ないというプラグマティックな考え方を取る。その考え方は、ミラーの挙げる人権正当化の第一の戦略、「実践に基づく戦略」に当たるが、イグナティエフの主張は、世界人権宣言の起草過程を踏まえたものである点で注目される。イグナティエフは、著書『人権の政治学』に次のように書いている。

「世界人権宣言の起草に際しては、西洋的伝統だけでなく、それ以外の多くの伝統からも代表が送り込まれた。中国人、中東のキリスト教徒、そしてまたマルクス主義者、ヒンドゥー教徒、ラテンアメリカ人、イスラーム教徒である。そして、起草委員会のメンバーたちは、自分たちの任務は西洋が持つ確信を宣言としてまとめさえすればよいのではなく、メンバーたちの非常に多様な宗教的、政治的、民族的、哲学的背景の内部から、ある限られた範囲での道徳上の普遍を定義しようと試みることである、とはっきりと理解していた。

 このことから、この文書の前文がなぜ神に言及していないのかの説明がつく。共産主義国の代表は、いかなるものであっても、神に言及することは拒否しただろう。また神の被造物であるという私たちに共通した実存のあり方から人権を導き出すような言葉づかいをすれば、反目し合っている宗教的伝統の間で意見が一致することなどとうていありえなかっただろう。それゆえ、この文書の素地が非宗教的なものであるのは、それがヨーロッパによる文化的支配であることのしるしなどではなく、むしろこの文書が、文化的及び政治的見解の幅広い違いを越えて合意を可能にするために構想された、プラグマティックな共通分母であることのしるしなのである」と。ただし、「もちろん西洋の発想――そして西洋の法律家たちーーが、この文書の起草において主導的な役割を果たしたという事実に変わりはない」と、イグナティエフは付け加えている。

宣言の特徴を、イグナティエフは明確に指摘する。「世界人権宣言の第1条は人権を正当化する論拠には全く言及することなく、端的にこう断言する。『すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳及び権利において平等である。人間は、理性及び良心を授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない』。世界人権宣言は権利を謳い上げる。しかし、なぜ人々が権利を持っているのかは説明しない」と。

 そして、次のように解説している。「世界人権宣言の起草をめぐる物語は、この沈黙が熟議にもとづくものであることを明らかにしている。1947年2月、エレノア・ルーズベルトがワシントン・スクエア・アパートメントに初めて起草委員会を招集した時、ある中国人の儒家とレバノンのトマス主義者が、権利の哲学的かつ形而上学的な基礎をめぐって議論を始め、お互いに一歩も引かなかった。ルーズベルト夫人は、議論を先に進めるためには、西洋と東洋とでは意見が一致しないということで意見を一致させるしかない、という結論に到達したのである」「それゆえ人権文化の核には熟議に基づく沈黙が存在している」「世界人権宣言は、権利が存在するのは当然のことであるとしたうえで、さらにそれを詳しく述べる方向へと進んでいくのである」と。

イグナティエフは、このように世界人権宣言の起草過程を踏まえて、人権の基礎づけの必要性を否定する。これに対し、政治学者のエイミー・ガットマンは、イグナティエフを批判する。ガットマンは、世界人権宣言第1条が複数の理由を挙げていることを述べ、根拠は一つではなく、複数認めるのがよいという意見を表明する。ガットマンの見解もまたミラーのいう「実践に基づく戦略」によるものである。

ガットマンの指摘するところでは、宣言における人権の基礎づけは、列挙的な方法となる。文化・宗教・思想の違う起草委員の間で合意のされたものが、宣言の条文には、複数列挙されている。第1条に盛られた自由かつ平等な人格、平等な尊厳、平等な被造物あるいは天賦の資質、人間としての理性、良心、同胞の精神による主体的能力という要素を、ガットマンは人権の複数の根拠とするのである。イグナティエフとの違いは、第1条の文言に人権の根拠を認め、それらをそのまま根拠とする点である。複数の根拠の間の関係や、さらにそれらの基になっている人間については、考察していない。

 

●宣言起草で合意が可能となった理由

 

 私は、世界人権宣言の起草委員の間で合意がされたことが、そのままで人権の正当化の根拠となりえないと考える。根拠とするには、どうしてそういう合意が成立し得たのかを問わねばならない。言語・文化・宗教・思想等が違っても起草委員の間で人権に関して合意が可能だったのは、合意の出来るような共通性を互いに認め合ったからだ、と考えられる。委員会の提案は、国連総会で決議され、各国で承認を得た。そこにも言語・文化・宗教・思想等の異なる多数の国々が賛同できるような共通性を互いに認め合ったからだ、と考えられる。その共通性とは何か、を問う必要がある。

私は、人権の正当化の根拠は、権利を相互に承認する人間の能力にあると考える。権利は、神や宇宙的な原理に直接基づくのではなく、人間が相互に承認することによって成り立つ。人々の間での相互承認が要諦である。主権も人権も絶対的なものではない。もとをたどればどちらも人間の権利の相互承認による。仮に承認する者のうちの一人は、その権利は神によって自分にも異教徒にも与えられたものと考え、一人は宇宙的な原理によって等しく人間に内在するものと考え、一人はそれぞれの先祖から受け継いだものとして尊重すべきものと考え、別の一人は互いの利益のために認め合うべきものと考えた、としよう。それぞれの世界観や価値観は違えども、これらの人々が相互に承認するならば、それで人権と称される権利は成立する。世界人権宣言の起草及び総会決議では、こうした合意による承認が行われた。その点をさらに踏み込んでいかないと、人権論は抽象的な認識をやり取りするだけの皮相な議論になると私は思う。

世界人権宣言の起草の事情を見たとおり、この宣言は、人権の基礎づけをせずに権利を宣言する仕方で発せられた。第2次世界大戦後、世界戦争による自滅、拷問、殺戮等を避けるという目的のもとに、とにかく相互承認の合意が求められたのだろう。この時、宣言に参加した各国の代表者たちは、一方的に権利を主張するのでなく、また一方的に相手の権利を奪うのでなく、相互に権利を認め合う合意をした。この事実が重要である。

人権は、普遍的・生得的な権利ではなく、権利を相互に承認することによって、人権と呼ばれることになった権利である。人間は、相手の権利を認め、その権利を行使することを許容することができる。だが、同時にまた人間は、相手の権利を奪い、それによって自分の権利を拡張することもできる。人間は権利を巡って協調することも闘争することもできる。

権利の相互承認は協調的な行為であり、権利の相互争奪は闘争的な行為である。こうした相反する行為は、人間の個人性と社会性に基づく。個人性とは、差異化・個別化を示す性質である。社会性とは、同一化・全体化を示す性質である。一が多となることを分裂という。多が一になることを統合という。分裂は差異化・個別化の方向である。統一は同一化・全体化の方向である。一の否定によって多となり、多の否定によって一となる。一から多へ、さらにその多から一へは、否定の否定である。否定の作用によって、一が多となり、多が一となる。一が多となって分裂した諸個人の間には、対立・闘争が起こる。多が一となって統合した諸個人の間には、融合・合同が行われる。ここで、一か多かという二者択一的な論理には、差異化・個別化か同一化・全体化か、対立・闘争か融合・合同しかない。だが、もう一つ別の論理が考えられる。それは、多が多のままで調和・並存するという関係である。世界人権宣言で合意された人権の思想が示しているのは、この多が多のままで調和・並存する社会の可能性である。世界人権宣言における権利の承認の合意は、この多元的な論理の可能性を示している。

宣言において、各国の人間が多元的に相互に権利を承認し合ったということは、自分と多くの他者が共通性を持つことを認めたからだろう。多くの他者に自分と同じ権利を認めるということは、相手も自分と同じ能力や欲求を持っていると認めるからである。その認識は、どこから来るのか。共通の文化を持つからでも、共通の神を仰ぐからでも、共通の思想を信じるからでもない。言語・文化・宗教・思想等の違いに関わらず、相互に認め得る共通性が人間に存在するからであり、その共通性を認識する能力が人間にあるからだろう。世界人権宣言は、その共通性を理性と良心と同胞の精神という文言にして条文に盛り込んだ。相手も自分と同様、理性と良心を持つという理解と、同胞の精神を発揮し得る人類家族の一員だという評価が、権利の相互承認のもとになっている、と考えられる。

 ただし、相手も自分と同じ能力を持ち、また人類家族の一員だと認識したとしても、その上で相手と闘争し、自らの権利を拡張・増大し、相手の権利を制限・剥奪するための行動を起こすのも、また人間である。国際連合は、そもそも連合国の軍事同盟だった。国連加盟国の間でも、かつての米ソの対立、現在の米中の競合等のように、権利を巡る闘争が激しく行われている。この人間の協調性と闘争性という両面を踏まえて、人権を論じるのでなければ、現実を離れた理想論に陥る。協調性を伸長し、闘争性を抑制していくところに、人権のさらなる発達と世界平和の実現のための努力がある。

 

●人格的存在の権利として基礎づける

 

前の項目で、人間は相互に権利を認め合う存在であるとともに、相互に権利を奪い合う存在でもあると書いた。人間は、権利を巡って協調と闘争を行う能力を持つ。そうした能力を合わせ持つ主体である諸個人は、人格を持つ存在でもある。人権は、人格的存在の権利として基礎づける必要がある。

世界人権宣言は、諸個人について、人格の語を使っていながら、人格とは何かについて述べていない。人格を認めていながら、なぜ認めるのか、その理由も述べていない。宣言として合意するには、それでよかったとしても、宣言を基に各国で人権の発達を目指す段階においては、人格について考察する必要があると私は考える。

後期ロールズは、人格に基づくことなく、また政治的な範囲に限定した正義論を展開した。その影響でロールズ以降の正義論は、人格を論じず、人間に関する考察を積極的に行わない。現代正義論における人権論は、人格を論じることなく、自由と権利という人格の成長・発展の条件に関する議論を行っている。これに対し、私は、人格の成長・発展の条件を論じるだけでなく、人格そのものを論じ、それを通じて人間の考察を行わなければならないと考える。

人間には、個人性と社会性がある。人格は、個人性の側面を表す。人間性の個別化という論理も可能である。人格について、私は、第1部で基礎的な考察を行った。それを踏まえて述べるならば、人格は、personality 等の訳語であり、「人柄」「人品」を意味する。こうした日常的に使われる人格という用語を、近代西洋哲学では道徳的行為の主体、法学では権利義務が帰属し得る主体の意味で用いている。近代西洋文明では、宗教と道徳と法が分化し、法と道徳が一定の自立性を持つようになったが、法のもとには道徳があり、道徳のもとには宗教がある。宗教は、超自然的な力や存在に対する信仰と、それに伴う儀礼や制度が発達したものであり、宗教から超越的な要素をなくすか、または薄くすると、道徳となる。道徳のうち、制裁を伴う命令・禁止を表すものが、法である。

宗教・法・道徳が分化していない前近代的または非西欧的な社会のあり方を含めて考えるならば、人格とは道徳的または宗教的な行為を行い、法的または道徳的な権利義務が帰属し得る主体であるととらえる必要がある。ここで主体とは、対象や環境に対して、能動的に働きかけるものである。主体は、近代西洋思想の基本概念のひとつで、主体―客体(subject-object)という対をなす。認識を主にする時は、主観―客観という。主体・主観は、歴史的・社会的・文化的に限定されるものであり、間主体的・共同主観的(inter-subjective)である。客体は対象ともいう。主体は相互に客体・対象ともなる。

そのような主体としての人格は、人間の諸性質として生物性と文化性、身体性と心霊性を持つ。個人は、生物的身体的な存在であるとともに、文化的心霊的な存在である。また、そのことによって、人間は人格的存在である。

人格は、人間の心身の発達の過程で形成され、成長・発展を続けるものである。植物は、<種子→芽→葉→花→実>と、生長の過程で形態を変化させていくが、そこに一貫して持続しているものがある。それが植物の生命である。人間は、生命ある存在として、生物性と身体性を持つ。人間は、<精子→受精卵→胎児→幼児→少年→青年→老年→死者>と、成長の過程で形態を変化させていくが、そこに一貫して持続しているものが、人間の生命である。そして、人間においては、生命だけでなく、生命とともに成長するものがある。これを心、精神等という。人間は、精神の活動により、文化を創造・継承し、また心霊的存在であることを自覚する。この生命的かつ精神的な存在が、道徳的または宗教的な行為を行い、法的または道徳的な権利義務が帰属する主体としての人格である。

人間の集団は、人格的存在としての諸個人によって構成される。諸個人は、性差と血縁によって、集団の最小単位である家族を構成する。個人は家族の一員として生まれ、家族において成長する。個人は親子・兄弟・姉妹・祖孫等の家族的な人間関係において、人格を形成する。そして親族や地域、民族、国家等の集団の一員として、社会的な関係の中で、人格を成長・発展させていく。

諸個人は、人格的存在として、社会的な実践を行う。その実践において、さまざまな価値を生み出す。価値の中には、まず生命的な価値がある。生命的な価値とは、健康、生長、長寿、子孫繁栄等である。だが、生命の尊厳を絶対的な価値として、人間の尊厳を説くならば、他の生命体の価値も同様となる。人間は、生命的な価値以外に、文化的な価値や心霊的な価値を生み出す。そのことによって尊厳が認められる。世界人権宣言では英語dignityの訳語であり、dignityは「価値のあること」「尊さ」「貴重さ」などを意味する。尊く敬うべき価値である。文化的な価値には、物質文化的価値と精神文化的価値がある。これらを物質的価値、精神的価値ともいう。前者は富、権力、利便等であり、後者は真、善、美、聖、正義、自由、平等等である。精神的な価値のうち、死後の霊的存続可能性や人間を超えた存在に関わる価値が、心霊的価値である。私は、こうした価値を生命的価値、文化的価値(物質的・精神的含む)、心霊的価値の3種に整理する。

人格は、生命的価値だけでなく、文化的及び心霊的な価値を創造・継承する主体であり、それゆえに人格にも価値が認められる。人権もまた価値の一つであるから、人権の基礎づけにおいて、人格の概念は不可欠である。個人における人格の成長・発展は、社会における価値の創造・増大となる。それゆえ、個人の人格の尊重に基づく権利の相互承認は、社会における価値の創造・増大を促す。人権とは、こうした価値を何らかの形で相互に認め合うところに成立する権利である。

文化的価値及び心霊的価値は、それぞれの集団において創造され、また評価されるものである。それゆえ、普遍的な価値ではなく特殊的な価値であり、その価値を生み出す主体の権利は、それぞれの集団において発達する。近代国民国家で構成される国際社会においては、価値創造の主体の権利は、主としてそれぞれの国民の権利として発達する。

 

●自由と権利に伴う責任と義務

 

人権の要素とされる自由と権利は、それ自体が目的ではない。個人においては、人格の成長・発展こそが、目的である。自由と権利は、人格の成長・発展のために必要な条件であり、また条件に過ぎない。条件と目的を混同してはならない。政府が国民に自由と権利を保障するのは、個人を人格的存在ととらえ、人格の成長・発展のために、国民が政府を通じて相互に自由と権利を保障するものである。

人格は、自己にだけでなく、他者にも存在する。人は他者にも人格があることを認め、互いにそれを尊重し合わねばならない。個人の人格の成長・発展は、自己のためのみでなく、他者のためともなり、また社会の公益の実現につながるものでなくてはならない。ここにおいて個人間の関係とは、抽象化された成人の関係だけではない。子供や青少年は、親の保護と社会の教育のもとに、将来大人となるべく人格を形成する。親や大人には、子どもや青少年の人格を涵養する義務がある。年齢や性別等の違いを超えて、自他は互いに人格の成長・発展を促す共同的な存在であり、自由と権利は相互的・共助的な人格の成長・発展のために、必要な条件として集団によって保障されるべきものである。ここで集団とは、家族を単位とし、血縁・地縁による結びつきを持つ地域・民族・国家等の集団であることに注意すべきである。

 自由の擁護と権利の保障は、個人の欲求を無制限に認めるものではない。人はみな人格的存在であるという認識を欠いたならば、自由は放縦となり、権利は欲望の追求の正当化になる。権利の保障のための相互承認ではなく、権利の拡張・奪取のための闘争となる。だが、人権という言葉は、今日しばしば放縦や欲望の隠れ蓑になっている。私は、人格という概念の掘り下げを欠いたまま、自由と権利を人権条約や各国憲法で保障することは、自由と権利が目的化されてしまい、利己的個人主義を助長するおそれがあると考える。

ここで重要なのが、自由に伴う責任、権利に伴う義務である。個人の権利は集団の権利あってのものであり、権利の行使には、社会的責任を伴う。権利を相互に承認することは、その保障について何らかの社会的義務を負うことである。

人間の能力については、一般に本能、知能、理性、知性、感性、感覚、感情、思考、霊性、徳性等の概念が用いられる。世界人権宣言は、これらのうち、理性、良心、同胞の精神を揚げる。これらの能力を持つ主体が、宣言における人格である。宣言に基づくならば、人格的存在としての諸個人は、これらの能力を発揮して、社会生活を行う。その能力の行使が承認されたものが権利であり、その権利を普遍的・生得的なものと仮定したところに、人権の観念が成立した。

宣言は、理性、良心、同胞の精神を掲げることによって、暗黙の裡に、人間は、人格的存在として理性、良心、同胞の精神を持って、自由に伴う責任、権利に伴う義務を果たすべきものと想定していると理解される。しかし、宣言は、人権に関する宣言であり、責任と義務については、主題的に宣言していない。宣言を踏まえて人権を考察する時、権利を行使するだけでなく、責任と義務を担う人格的存在としての人間を考察する必要がある。

人間は集団生活を行う動物であり、生物としての人間の集団は、生存と繁栄を活動の目的とする。集団の構成員は、集団の目的に沿った行動をしなければならない。諸個人は、それぞれの能力を発揮する際、集団の目的のもとに、集団に貢献するよう、本能によって方向づけられている。この基本は、いかに文化が発達しても、人間が生物である以上、変わらない。人間はまた文化を創造し継承するという人間独自の集団活動を行う。人間は、協力して文化を創造し、親から子へ、世代から世代へと生命とともに文化を継承していく。諸個人の能力は、集団の文化が継承・発展されることに貢献するよう、知能・理性・知性等と呼ばれる能力によって、方向付けられている。こうした集団における能力の行使が社会的に承認されたものが、権利である。それゆえ、権利は本来、集団の目的に沿って、社会的な責任を以て行使しなければならず、またその行使には社会的な義務を伴う。その責任と義務の範囲内で、権利の行使が認められる。権利には、例えば、子供ではなく成人に限るとか、心神耗弱者ではなく健常者に限る等の場合があるのは、そのためである。しかし、近代西欧においては、共同体の解体によって、個人本位の考え方が強くなり、個人の権利を中心に考える傾向が顕著になった。個人の権利は集団の権利あってのものであることや、集団の目的のもとに責任と義務を伴うことが軽視されている。

世界人権宣言の起草においては、西洋的伝統だけでなく、それ以外の多くの伝統を持つ諸社会からも代表が送り込まれて、議論がされた。だが、人権、自由、平等、人格等の価値は、基本的に近代西洋文明で生み出されたものであり、宣言はこれらの概念を十分検討することなく使ったため、自由に対する責任、権利に対する義務の側面が軽視されている。自由の擁護と権利の保障は進んだが、その反面、先進国を中心に個人主義的な権利意識が強まり、社会の共同性が損なわれる傾向に陥っている。この点の反省を踏まえて、権利を行使するだけでなく責任と義務を担う人格的存在としての人間の諸能力が考察されねばならない。

 

●人権は近代西欧的理性で基礎づけ得るか

 

人権の基礎づけは、近代西欧的理性をもって、なし得ることだろうか。

 後期ロールズは、人間や社会について、「道理を理解する」とか「良識ある」という形容を行った。ロールズの項目に書いたが、「道理を理解する」は reasonable の訳語であり、「穏当な」「筋が通っている」等とも訳す。「理性」と訳されるreason から派生した語である。ロールズは、また非西洋文明の諸社会について、「良識ある社会」とそうでない社会を分ける。「良識ある」は、decent の訳語である。「まともな」等とも訳す。「良識ある社会」とは、「自由ではないが、政治的な正しさや正義に関する一定の条件を満たす基本的諸制度は有しており、諸国民衆の社会に関する相当程度に正義に適った法を尊重するべくその市民たちを導いていくような社会」であるとロールズはいう。ここには、このような社会が、decent だというロールズの価値観が表れている。逆に、こうしたロールズの価値観から見ると、decent でない、まともでない社会とその社会の人々がいることになる。それは、近代西洋文明諸国の市民のような理性的思考をしない人々ということになるだろう。だが、その人々が、必ずしも理性を欠いた人々とは言えない。文化的な土壌は異なるが、論理的な思考力や善悪への判断力は、人類に広く認められる。また近代西洋文明諸国の市民の理性的思考には、必ずしもまともだとは言えないところがある。そのうえ、今日、近代西欧的な理性に対する反省が世界的に求められている。

 ともにユダヤ人の哲学者・社会学者であるマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノは、近代化・合理化の進む西欧において、合理化が生み出す非合理性を見た。ナチスによるユダヤ人虐殺や世界大戦の勃発である。彼らは、『啓蒙の弁証法』(1949年)で、「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」と問うた。そして、近代西欧の理性は、近代の初めに持っていた神的意味を失って、目的を実現する手段に変じ、「道具的理性」となっていると批判した。さらに、彼らは西洋文明の発生にまでさかのぼって、合理化について検討した。18世紀の啓蒙主義に関して使われた「啓蒙」という概念の意味を拡大し、「啓蒙」つまり「文明」について検討した。彼らによると、「啓蒙」とは、「呪術の追放」によってアニミズムを否定することであり、自然との一体性を失い、自然から分離することである。神話は、ものに名をつけ、起源を語り、説明しようとする。ホルクハイマーとアドルノは、そこに「啓蒙」が発生したとし、「神話は啓蒙である」と述べた。そして、神話に表れた自然の克服の形式は、近代の啓蒙の限界と暗転を示しており、「啓蒙」の中に自己崩壊の芽があったと断じた。

近代西洋文明における「啓蒙」は、人間の自己保存のために、自然を支配する力となり、強者が弱者を支配するものとなった。その結果、「啓蒙」は、ナチスによるユダヤ人虐殺や世界大戦などの野蛮に転じた。この逆説を彼らは「余すところなく啓蒙されたこの地球は、災禍が勝利を誇る場となってしまった」と指摘した。そして、啓蒙の自己崩壊を仮借なく批判できるものもまた、理性の自己批判能力以外にないと論じた。

哲学者のユルゲン・ハーバーマスは、ホルクハイマー、アドルノの問題意識を継承した。マックス・ウェーバー以降、合理性を目的合理性としてのみとらえてきた結果、後期ウェーバーやホルクハイマー、アドルノは近代合理性に対して悲観主義に陥ることになった、とハーバーマスはいう。そして、ウェーバー以後の合理化論は、合理化を「目的合理性の制度化」としてのみとらえていると批判した。ハーバーマスは、そのような「組織・体制的(システム的)な合理化」は近代の一面にすぎず、「生活世界の合理化」を近代の偉大な達成として認めるべきであると指摘する。そして、彼は、近代化はコミュニケーション的な合理性もまた拡大したと評価する。コミュニケーション的合理性とは、対話と意思疎通によって了解をつくっていくという合理性である。ハーバーマスは、近代の合理主義・啓蒙主義を全否定するのではなく、合理性の別の面に光を当て、これを取り出して、現代社会に生かそうと試みている。この発想は、ロールズの「重なり合う合意」に通じるものである。

人類存亡の危機にある現代人にとって、ホルクハイマー、アドルノのいう理性の持つ自己批判能力や、ハーバーマスのいう対話による相互了解能力を高めることは、必要不可欠のことである。人間に理性がある以上、理性による自己批判や相互了解に、われわれは努力を尽くさねばならない。しかし、近代西洋文明の理性中心の思考では、理性以外の人間の能力について、あまりよく考慮できていない。そのため、人間の能力の全体を見失いないがちになっている。そのため、私は、近代西欧的な理性を以てしては、人権の基礎づけは為し得ないと考える。

 

●人間の諸能力の基礎にある共感の能力

 

世界人権宣言は理性以外の人間の能力として、良心と同胞の精神を揚げる。近代西洋文明が中心としてきた理性だけでは、人権と称される権利の実現はできないという認識があり、良心と同胞の精神を併記していると考えられる。これは、宣言が近代西欧的な思考から一歩、踏み出そうとしていることの表れだろう。

世界人権宣言は、理性、良心、同胞の精神について定義をしていないが、理性は合理的能力、良心と同胞の精神は道徳的能力である。だが、理性、良心、同胞の精神は、人間の諸能力の一部にすぎず、人間の能力については、他に本能、知能、知性、感性、感覚、感情、思考、霊性、徳性等の概念が一般に用いられている。私は、人権を考察するに当たり、これらの諸能力の基礎にあるものを探求すべきだと考えられる。そこで注目したいのが、共感である。

共感は、ヒュームとアダム・スミスが重視したものである。例えば、スミスは、人間には他人の感情を心の中に写し取り、それと同じ感情を自分の中に起こそうとする共感の能力があるとし、人間はこの能力によって自他の双方の利益に中立な「公平な観察者(impartial inspector)」を心の中に作り上げる、と説き、そこに道徳の根本を見出した。だが、共感に関する議論は、近代西洋思想史のエピソード程度にとどまり、人権に関する文脈でも主題的に検討されてこなかった。私は、人格的存在としての個人の権利を集団の権利あってのものと理解し、また集団の目的のもとに権利を責任・義務と合わせて考察する時、種としての人類に共通する基本的な能力として、共感を再評価すべきと考える。共感は、感情・感覚・思考等が未分化な心理現象であり、そこから理性や良心、同胞の精神が発達する共通の根にあるものと考えられるからである。

 物理的な現象に、同調、共振、共鳴がある。共感は、それらの現象に似て、他人の体験する感情や心的状態を自分も同じように感じたり、感じようとしたりする現象である。共感は、感情や感覚に限らず、思考に関しても起こる。他人の意見や主張を、自分も同じように考えたり、発想したりする。イメージやリズムを共有する場合もある。共感は、差異化に対して、相似化または同一化しようとする心理的な現象である。

生物には本能があり、本能には後天的な学習によってプログラムが展開する部分がある。人間は他の生物に比べて非常に高い学習能力を持ち、知能を発達させてきた。学習の原初形態は模倣であり、模倣は親や年長者等の他者への共感の能力に基づく行為である。共感は、人間が知能を発達させ、文化を創造・継承する上で、重要な役割を果たしてきた能力である。

 スミスや彼に影響を与えたヒュームは、独立した個人の間における共感一般を論じた。私は、共感一般のもとには、母子間における共感があると考える。共感は、母親が子供に対して感じる能力が、基礎になっている。母子は、出産・誕生によって、二つの個体に分かれているが、もともと出産前は一体だった。子供の誕生後も、母子は、分離された身体の局所性を越えて、いのちと心の波動の場でつながっている。その波動の場の中に物質的な身体があると考えられる。母親は、子どもの感情や気持ちを、自分の心の一部のように感じる。それは同調・共振・共鳴に似た心理的な現象である。私は、こうした母子間の感情・気持ちの共通性に関わる心的作用を基礎として、共感一般が発達すると考える。

母子間と独立した個人の間の中間に、同じ母親から生まれた兄弟姉妹の間の共感がある。その典型は、双子の場合である。双子は、同じ母親から生まれた独立した個体だが、二人の間には片方の感情や感覚、思考を同じように感じ、考えることが頻繁に見られる。二つの個体が、ほぼ同調・同期している。次に、兄弟姉妹の間は、双子ほどではないが、相手の感情や感覚、思考を同じように感じ、考えることがある。文字通りの同胞の感情である。次に、独立した個人間の関係は、違う母親から生まれた者の間の関係であるが、そうした独立した個人の間でも、相手の身になって感じ、考えることは起こり得る。特に恋愛関係にある男女がそうであり、兄弟姉妹のように非常に親しい友人の間もそうである。超心理学でいう距離を超越したテレパシーは、こうした親子、夫婦、兄弟姉妹、恋愛関係にある男女、非常に親しい友人等の間で、しばしば起こる現象である。

同じ母親の腹から生まれた者は、文字通りの同胞(はらから)であるが、違う母親から生まれた者同士を、同胞と称することがある。これは、同じ父親を持つという腹違いの兄弟姉妹と、父親も母親も違う個人間について言う場合がある。象徴的に言えば、天空を父親にたとえて天父とする場合と、大地を母親にたとえて地母とする場合がある。この天父地母のどちらか、またはどちらをも共通とする場合、人類はみな同胞であり、みな兄弟姉妹ということになる。こうした同胞の階層において、共感の対象・範囲は、親子、夫婦、兄弟姉妹から親族、友人等へと拡大され得る。また、共同体の内部の人々へと拡大され得る。さらに、共同体の外部の人々へも拡大され得る。こうした共通の親、すなわち同じ生命の源を持つもの同士における共感が広く働くならば、世界人権宣言にいう「人類家族」における共感と呼ぶことができるだろう。

 

●人格と共感の概念が人権の基礎づけに必要

 

ロールズは、人権を狭く限定しており、最も狭くする意見としては「奴隷状態や隷属からの自由、良心の自由(しかし、これは必ずしも、良心の平等な自由ではないのだが)、大量殺戮やジェノサイドからの民族集団の安全保障といった、特別な種類の差し迫った権利」と述べているが、これらの権利は、相手が感じる痛み、苦しさ、悲しさ、恐怖等を、相手の身になって感じ、考える能力があってこそ、権利として認め得るものである。人類の間に共感の能力が発達する時、ロールズが「道理」を理解するか否か、「良識」があるか否かという理性的な区別の仕方を超えて、より深い相互理解と権利の相互承認が実現されるだろう。

共感による道徳哲学を説いたアダム・スミスは、「公平な観察者」という概念を提示した。「公平な観察者」という考え方は、キリスト教の神の教えを絶対的な規範とするものではない。また理性を道徳的能力の根源とするものでもない。相手の喜怒哀楽を共にし、相手の身になって考え、相手の感情を思いやるという、どのような社会、どのような文化でも見られる共感という心の働きから、道徳をとらえる考え方である。センは、スミスの「公平な観察者」に注目し、国際化の進む現代世界に必要な考え方であることを強調している。その理由は、「公平な観察者」は、言語・文化・宗教・思想等の違いを超えた理解や判断を可能にする能力を、象徴的に表現する概念だからである。

広く他人の身になって考え、理解する能力が伸長するにつれて、「公平な観察者」としての能力も発達し得る。「公平な観察者」は、共感の能力を基礎として発達する能力であり、自他を客観的に評価して、物事の判断を行う能力である。共感による「公平な観察者」の道徳論は、欧米諸国だけでなく非西洋文明の諸国の間でも合意を形成できる可能性がある。それゆえ、私は、文明や文化の違いを超えて「発達する人間的な権利」を基礎づけようとする際、共感の能力に注目すべきと考える。世界人権宣言について言えば、私は、共感の能力を共通の根として、理性、良心、同胞の精神が発達したと考える。また、集団内及び集団間における権利の相互承認は、理性、良心、同胞の精神による判断であり、それらのもとには共感の能力の働きがある、と私は考える。

共感を感じる主体は、人格的な存在である。人格の成長・発展は、より豊かな共感の能力をもたらす。またそれを共通の根とする理性、良心、同胞の精神の発達をもたらす。相手の身になって感じ、考えることができる能力が大きく発達するならば、人々は相互の権利を承認し合い、また保障し合うようになり、権利は、集団の目的のもとに責任・義務を伴ったものとして発達するだろう。こうして「発達する人間的な権利」としての人権は、人間の人格的な向上とともに発達していくだろう。

私は、このように考えるので、人権を論じるに当たり、人格と共感という二つの概念を用いることが必要だと思う。これらの概念を用いることによってのみ、人権の基礎づけができると考える。人権とは、共感の能力を持つ人格的存在が、互いに承認し合う権利として正当化することができる。

ところで、心理学には、意識は人間の心の一部であり、心には無意識の領域があるという考え方がある。共感に関する研究は、意識の領域だけでなく無意識の領域にわたるものになるだろう、と私は考える。無意識には階層があり、フロイトが研究した個人的無意識、ソンディが研究した家族的無意識、ユングが研究した集合的無意識に分けられる。集合的無意識には、民族的無意識や人類的無意識が想定される。ユングは、集合的無意識から生まれるイメージは、時代や文化、宗教等が違っても共通して現れるとし、そうしたイメージの基に元型があるという仮説を立てた。元型には、マンダラ、老賢者、アニムス、アニマ、影等がある。またユングは、元型が働くときには、物理的な現象と心理的な現象の間に「意味のある偶然の一致(コインシデンス)」が現れることがあるとして、様々な事例を示した。そうした物心並行的な現象を解明するために「共時性(シンクロニシティ)」という概念を提示した。人類的なレベルで共感の研究を行う時、ユングの仮説は再評価されるべきものである。諸個人の心は、人類の心の共通の根から生まれたものであるとすれば、諸個人は集合的無意識のレベルでこそ、共感の能力をよりよく発揮し得るだろう。

本項についてまとめると、私は、人権について基礎づけ、つまり根拠を示して権利を正当化することが必要だと考える。その根拠は、人間が相互に権利を承認し合うこと、相互承認にある。諸個人は生命的価値だけでなく、文化的・心霊的な価値を生み出す人格的存在であり、人格的存在としての人間における権利の相互承認は、理性、良心、同胞の精神の共通の根となる共感の能力に基づく。このように私は考える。

私の考えは、世界人権宣言の条文を踏まえているから、その点でミラーのいう「実践に基づく戦略」と通じる。ただし、人権には基礎づけが必要だという立場からの戦略である。また私は、主な世界宗教や重要な非宗教的世界観もすべて共感の能力に基づくと考えるので、「重なり合う合意の探求」戦略にも通じるものと思う。

21世紀の人権論は、共感の能力を持つ人格的存在という人間観を取り入れるべきである。共感は、単に生物的・身体的な存在としてだけでなく、文化的存在、さらに心霊的存在としての人間の間で交わし得る心の働きであり、教育や社会活動、国際交流を通じて、開発・強化されるべきもの、と私は考える。共感の能力の発達によって、世界人権宣言が掲げた理性、良心、同胞の精神は、その共通の根から養分を吸い上げて、より大きく発達することができるだろう。また、共感の能力に基づくことによって、個人の人格を尊重しつつも、個人本位・権利志向ではなく、家族・民族・国家、責任・義務・目的を重視した人権論の構築が可能になるだろう。(ページの頭へ)

 

(2)権利の種類と内容

 

●人権の内容を検討する時の基本事項

 

いわゆる人権は、人間の相互承認によって基礎づけられる権利であり、そのような権利として歴史的・社会的・文化的に発達してきた。20世紀半ば以降、人類は政府間の国際的な協議によって合意を作り、相互に承認し合うことで、各国及び国際社会で人権を発達させてきた。世界人権宣言、国際人権規約、各種人権条約等は、その成果としての文書である。それらには、様々な権利が人権の名の下に盛られているが、なんでも人権と呼ぶと、人権はとめどなく増殖する。そこで、人権の内容について理論的な検討が必要となっている。

私は、人権の内容を検討する時、まず三つの基本事項を定めることが必要だ、と考える。

第一に、人権を人間に限定した権利とするか、人間以外の生物や存在にも権利を認めるかを決めるべきである。これは、人権すなわち人間の権利と称している以上、人間に限定しなくてはおかしい。もし動物・植物・細胞等にまで権利の範囲を広げるのであれば、人権ではなく別の概念が必要である。それと同時に、人間だけでなく生物または生命体一般に関する理論を提示し、権利という概念が適当であることを論証しなければならない。

動物愛護について言えば、動物に人間から愛護される権利があるかどうかではなく、人間に動物を愛護する権利があるかどうかを考えるべきである。ここにおける権利は、後者の動物を愛護する人間の権利である。その場合、特定の動物だけでなく、あらゆる動物の愛護に対象を広げるべきだろう。そうでなければ、一部の人が自分の愛好する動物を選別して愛護する特殊な権利の主張となる。また愛護する対象は動物だけに限定するのではなく、植物を愛護する人間の権利が同等に主張されねばならない。さらに細胞や生命体一般を愛護する人間の権利もまた同等に主張されねばならない。この場合もまた細胞や生命体に人間から愛護される権利があるのではなく、人間が細胞や生命体一般を愛護する権利があるとして主張されねばならない。だが、人間の生命は、細胞の不断の生滅によって維持されており、また他の生命体を食物として摂取することによってのみ維持し得る。動物の生命を奪うのはよいが、植物の生命を奪うのは構わないというのは、動物中心主義である。私は、人間は生きとし生けるものに感謝し、他の生命体の生命を頂戴することによって生かされていると考える姿勢が必要だと思う。

 第二に、各国の国民の権利と、人間一般の権利を分ける必要がある。私は、人権は主に国民の権利として発達してきたものであり、権利の付与と保障は各国の政府が行い、権利に伴う義務は各国の国民が負うと考える。権利を保障するための労役と費用を誰が負担するかを明確にせずに権利を拡張することは、道徳的な要求に応える努力にはなっても、それを法的権利として保障することはできない。国連の参加国・非参加国を問わず、人権が侵害されている時、人権の回復に要する労役は、各個人には課せられていない。参加国の政府が軍隊や専門技術者等を派遣して、平和維持活動等を行っている。またその費用を含む国連の諸費用は、国連税のような形で、各個人から直接徴収されてはいない。国連は参加国の政府に対して分担金を課している。ただし、分担金を払わない米国のような国に対して、強制的に徴収できる制度にはなっていない。

こうした事実は、今日人権と称されている権利の実態は、主に国民の権利であることを示している。人権とは言っても、主に各国が人権の名の下に国民の権利を国民に保障しているものである。そして、独立主権を持った諸国の政府が協議し、共通の権利の目標を掲げ、互いにその権利の実現に協力するとともに、国家の枠組みを失ったり、その枠組みから外れたりした人々に支援の手を差し伸べるというのが、現代の国際社会の仕組みである。それゆえ、現実的な各国の国民の権利と、理念的な人間一般の権利をしっかり分ける必要がある。

人権の実態は主に人間の権利ではなく国民の権利であるという考え方に立てば、基本的人権とは何かは、まずそれぞれの国民が決めればよいということになる。基本的人権について国によって規定が違ってよい。その規定は、伝統的道徳をもとにしたり、宗教をもとにしたり、社会思想をもとにしたりなどと考え方が違ってよい。なぜならば、権利は、神とか宇宙的理性などの超越的な原理に直接基づくものではなく、人間の能力の行使に関する相互承認によるものだからである。こうして複数の考え方が併存している状態で協議をして、基本的人権について合意を作っていけばよい。実際、人類は概ねそのように進んできたのであり、今後もそのように進んでいくだろう。

第三に、国際社会における人権は法的権利ではなく、社会的権利であることを明確にすることである。

人権は、道徳的要求として主張され、各国で政治的な闘争を通じて、権利として認められ、また定着されてきた。第1部の権利の項目に書いたが、人々の相互承認によって生ずる権利は、社会的権利(social right)である。社会的権利には、習俗的権利や宗教的権利、道徳的権利等がある。これらの権利が法に定められたとき、法的権利(legal right)となる。権利は法に定められることで、社会的な公認が確立され、安定したものとなる。法が集団の成員の権利を保障することは、権利はもともと一定の社会的な制限の枠内でのみ成り立つものであることを示している。自由もまた同様である。自由とは、自由な状態や行為に関する権利だからである。

各国においては、法的権利となった権利は、政府に国民に対して保障する義務があり、国民には相互に権利を守る義務がある。だが、国際社会においては、各国における法体系とは異なる条約・規約等によって政府間で約束がなされる。国際法も法と呼ばれるが、国内法におけるような一元的な統治権力は存在せず、法に違反した場合の物理的強制力も存在しない。その点で、法としては不完全なものである。国際人権規約にしても、そこに定める人権に履行の勧告はされるが、強制はされない。そのため、人権は、国際社会では法と道徳の中間に位置する性格を持っている。そのような権利は、法的権利というより社会的権利である。人権を社会的権利と考えれば、法的義務はないが、道徳的に強く求められ、実現しなければ道徳的に非難されるような権利ということができる。もし現在の国際社会において、人権を法的権利とのみ考えるならば、厳密には各国の国民の権利以外に、人権と呼ばれる権利は存在しないことになる。

人権を、法的義務はないが、道徳的に強く求められ、実現しなければ非難されるような権利だとする時、人類は人権の発達のために道徳的向上を目指して努力しなければならないことになる。この道徳的な課題と人権の保障・拡大は、決して切り離すことができない。道徳的向上は、家族的生命的な関係を基礎とした共同性においてこそ可能である。親が子を産み、育て、しつけをする。その子がまた自分の子にそれを行う。こうした世代間での養育を通じて、道徳は教えられ、また継承され、発展もする。最初から大人であるかのようなアトム的な個人が、世界市民的な意識で道徳的権利を説くのは、人間の基本的なあり方を見失っているものである。

人権の内容の検討は、これら三つの基本事項を定めたうえで行うべきと私は考える。

 

●権利の3類型〜自由権・参政権・社会権

 

ここから、先に掲げた三つの基本事項のもとに、一般に人権と呼ばれる権利について、その種類と内容を検討する。その後、各国及び国際社会において最低限保障されるべき権利について論じたい。

第2次世界大戦後の人権思想の発達の起点となった世界人権宣言は、宣言が「人権」とする諸権利を条文で謳っている。それらの権利が、現代における人権の概念の基礎になっている。

第3条から21条は、すべての人間が享有すべきとするいわゆる市民的、政治的権利を詳細に規定している。すなわち、生存、自由、身体の安全に対する権利、奴隷および苦役からの自由、拷問又は残虐な、非人道的もしくは屈辱的な取り扱いもしくは刑罰からの自由、法のもとに人間として認められる権利、司法的な救済を受ける権利、恣意的逮捕、拘禁または追放からの自由、独立の公平な裁判所による公正な裁判と公開の審理を受ける権利、有罪の立証があるまでは無罪と推定される権利、自己の私事、家族、家庭もしくは通信に対して、恣意的に干渉されない権利、名誉または信用に対して攻撃を受けない権利、そうした攻撃に対する法の保護を受ける権利、移動の自由、避難する権利、国籍を持つ権利、婚姻し、家族を形成する権利、財産を所有する権利、思想、良心および宗教の自由、意見と表現の自由に対する権利、平和的集会と結社の自由に対する権利、政治に参加し等しく公務に就く権利及び選挙に関する権利である。

第22条から27条は、すべての人間が享有すべきとする経済的、社会的、文化的権利を具体的に定めている。すなわち、社会保障を受ける権利、働く権利、同等の勤労に対し同等の報酬を受ける権利、労働組合を組織し、これに参加する権利、休息および余暇を持つ権利、健康と福祉に十分な生活水準を保持する権利、教育を受ける権利、社会の文化生活に参加する権利である。

世界人権宣言後、宣言で謳われた権利は、各国の憲法に定められたり、国際人権規約に定められたり、さらに個別的・地域的人権条約に定められたりしてきた。また、その間、新たな権利が人権として追加されてきている。

わが国の通説では、それらの権利は、その性質と保障の方法の違いによって、三つに大別される。すなわち、自由権・参政権・社会権である。自由権は、英語では civil rights の訳語であり、civil rights は「市民権」「公民権」とも訳す。参政権は political rights、社会権は social rights の訳語である。これらの三つの権利を、「市民的権利」「政治的権利」「社会的権利」と訳すこともできる。参政権に当たる英語単語には、suffrage, franchise もある。国際人権規約について、我が国では自由権規約・社会権規約と呼んでいるが、自由権規約は「市民的及び政治的権利に関する国際規約」の略称であり、International Covenant on Civil and Political RightsICCPR)の訳語である。自由権規約は「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」の略称であり、International Covenant on Economic, Social and Cultural RightsICESCR)の訳語である。ここでは、「市民的及び政治的権利(Civil and Political Rights)」を自由権とし、「経済的、社会的及び文化的権利(Economic, Social and Cultural Rights)」を社会権としている。

自由権、参政権、社会権という権利の三類型が、しばしば「人権」と呼ばれる。だが、もし人権とは人間の生まれながらにして持つ権利であり、時代や社会の違いを超えて普遍的な権利だとすれば、これら自由権・参政権・社会権をまとめて「人権」とするのは、人権の定義と矛盾する。この点を明らかにし、その後に自由権・参政権・社会権の内容を確認し、「人間の権利」とは主に「国民の権利」であることを述べ、各国及び国際社会において最低限保障されるべき権利へと論を進める。

 

●自由権とはどういう権利か

 

人権とは、自由権を中心とする自然権だとする説がある。自由権は、国家(政府)の干渉・制約を受けることなく、個人の自由な意思決定を保障する権利をいう。精神の自由、生命・身体の自由、財産の自由、信教の自由、思想・信条の自由、言論・出版の自由、集会・結社の自由等を含む。

自由権は、国家権力の介入を排除する消極的権利すなわち不作為請求権とされてきた。この点では国家(政府)の存在を前提としている権利である。実際、自由権は近代西欧国家が成立したことにより、政府と国民の間に支配―服従関係を生じたことによって主張された権利である。ところが、17世紀の西欧に現れた社会契約説では、自由は国家成立以前から人間が生まれながらに持つ権利と考えられた。つまり、前国家的・自然権的な権利として主張された。この権利を政府が保障したとき、国家が関与した後国家的権利となったと考えられた。

だが、政府の保障を受けた後の権利は、厳密には自然権とは言えない。その権利は、国家の内部という歴史的・社会的・文化的条件のもとにおける権利である。人間が人間として生まれながらに持っている権利としての普遍的な人権ではない。その国の「国民の権利」である。国民・非国民を問わず、無差別に保障するのでなければ、普遍的・生得的な「人間の権利」としての人権とは言えない。

自由権は、国家(政府)の干渉・制約を受けることなく、個人の自由な意思決定を保障する権利であるから、自己決定に関する権利である。自己決定権は、社会契約説の一部で想定されるような原子(アトム)的な個人の権利ではない。集団においてその成員に認められる権利である。家族・氏族・部族や組合・団体・社団において、成員には、その集団の決まりごとに反しない限りで、自己決定権が認められる。この権利は伝統・慣習・規約等によって社会的に行使を承認された能力であり、資格である。成員は、その社会の規範に沿って、その権利を行使することを求められる。その範囲内の権利として、自己決定権は存在した。集団を離れて、全くの個人の権利は存在しない。国家も一個の集団であるから、他の集団におけるのと同様、国民には成員の権利として、自己決定権が認められる。国家に統合された集団における自己決定権を、国家が保障したとき、自己決定権は、その集団が属する国家の「国民の権利」となる。

なお、自由権に含まれる自由は、内心の自由と行為の自由に分けられる。近代西欧において、内心の自由は信教の自由の確保から思想・信条の自由等の保障へと発展した。こうした精神的自由が重要なのは、人間は生命的・身体的存在であるだけでなく文化的・心霊的な存在であるからである。幸福の必要条件には、精神の安定や安心がある。心理的な脅迫や拷問等によって、精神の健康を害するような状況にあれば、自由な意思決定はできない。また、人間は人格的に成長・発展する存在であり、自己実現・自己超越への欲求を持つ。精神の安定・安心を得て、人格的な成長や欲求の実現を自由に行い得る権利が、精神の自由である。死後の霊魂の存続を信じる人々にとっては、死後肉体と現世の束縛を解かれて、霊魂として自由を得ることが、人生の最大の目標となる。名誉ある死、尊厳ある死、希望ある死、霊魂として成長し続ける死を求める欲求を妨害されることのない自由を保障する権利は、自由権の一つとして保障されなければならない。

 

●集団の利益と個人の自由

 

自由とは、自由な状態への権利であり、自由に行為できる権利である。個人の権利は、その個人が所属する集団の権利が確保されていて、初めて保障される。集団の権利あっての個人の権利である。個人個人の自由権は、その集団が集団の権利としての自己決定権を保持している場合のみ、「国民の権利」として保障される。

ある国が他国の侵攻を受ければ、政府は領土・人民を防衛する。政府が他国の侵犯を防ぎ、排除する。もし自由権とは真に国家の干渉・制約を受けない権利だというならば、他国の侵攻を受けても、政府の支援を受けずに、自力で防衛するものでなければならない。

自由権を求める思想を徹底したリバータリアニズムは、政府の必要を認めるが、その機能を最小に限る。リバータリアニズムをさらに極度に推し進めると、アナキズムになる。個人が自由に生活できる無政府状態をよしとする思想である。だが、リバータリアニズムにせよアナキズムにせよ、それを信奉する人々が一個の国家の国民である限り、その人々の生命・安全・財産等を守るものは、その国の政府である。政府が国民の生命・財産、平和・安全を守っていることが、自由権の暗黙の前提となっている。その前提のもとでの個人の自由である。それゆえ、個人の自由は、政府が統治機関を担う国民の共同体の維持と両立するものでなければならない。そして、国家という集団の利益が個人の自由より優先される。集団の利益を保持し得る限りでの個人の自由と位置付けられなければならない。

自由には責任が伴う。行為の結果が他者や社会に及ぶ場合は、その責任を負わねばならない。また自由の行使は他者の自由を損ねないことであっても、道徳・慣習等の観点から社会的に制約がされる場合がある。たとえば、自殺、堕胎、同性愛等である。それゆえ、自己決定の自由は、社会的な承認を得て初めて、自己決定権となり得る。この社会的承認を実定法に明文化し得るのは、国家という集団においてである。そして国家が保障する自己決定権は、「国民の権利」である。「人間の権利」ではない。

 

●受益権は自由権ではない

 

自由権に関連して述べるべき権利に、受益権がある。受益権は、国民の利益の保障のために権力の積極的な発動を求める権利である。すなわち、作為請求権である。受益権は、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言で認められた権利である。18世紀当時の米仏において、受益権は、裁判を受ける権利、請願権、損失補償請求権などだった。政府に利益の実現を求める受益権は、請求権の一種であり、政府の干渉・制約を排する自由権とは異なる。バーリンの言う「消極的自由」ではなく、「積極的自由」に関わる権利である。それゆえ、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言が定めた権利は、自由権のみであるというとらえ方は、間違いである。

今日、わが国を含む現代の先進国の憲法では、先の受益権のほかに国家賠償請求権、刑事補償請求権なども保障している。それによって、受益権は社会権に似た性格を持つようになっている。

各社会の固有法は、権利の争いが生じたものに対して、裁判を行う際の判断の基準・根拠を示し、また権利を保障するものとして発達した。裁判を受ける権利は、他者と権利の争いを生じたとき、第三者に裁定を求める権利である。権利を制定するのはその集団である。個人一般の権利とは言えない。

第3部第9章で1993年の「ウィーン宣言及び行動計画」が人権の普遍性、不可分性、相互依存性、相互関連性を示したことは、人権の思想の展開において重要な出来事だと書いた。これは、自由権と社会権の一体性を打ち出したものと理解されているが、もともと自由権とされる権利の中に、政府の作為を要するものがあったことに注意すべきである。集団の権利あっての個人の権利であり、自由権もまた集団の権利が確保されていて、初めて集団の成員の権利として保障される。他国の侵攻からの防衛、集団全体の利益の追求等がなされていての個人の自由権である。

このように考えると、自由権とはほとんどが「国民の権利」である。「国民の権利」とは別に非国民をも対象とする「人間的な権利」を考えるとすれば、それは道徳的な目標となる。

 

●参政権はどういう権利か

 

次に参政権について述べる。参政権は、政治に参加する権利である。政治とは、社会において権力を獲得・行使することに関する思想や活動をいう。参政権は、特に国家の政治に参加する権利を言うことが多い。権利を自由権と社会権の二つに大別する場合は、参政権は自由権に含む。自由の獲得は、しばしば政治参加の権利を要求するものとなる。

参政権には、選挙権・被選挙権、公務員になる権利、公務員を罷免する権利等が含まれる。参政権を行使し、国家意思の形成その他の国家活動に参加する方法は、必ずしも直接的参加を意味しない。むしろ多くの国では主に間接的な参加の制度を取っている。

参政権は政治的な権利であり、ある国家の国民として国家権力の一部に参入し、権力を分有することである。基本は、その国家に所属する国民の権利である。国民が国政に参加することによって、よりよい政治を実現しようとするものである。

近代国家以前の西欧社会にも非西欧社会にも、参政権に類した権利は存在した。集団の成員の権利として、集団的意思決定に参加する権利である。意思決定参加権である。政治は、氏族的・部族的な共同体においても行われていた。近代西欧の政治との違いは、政治が宗教または祭儀と一体のものとして行われていた点である。集団の意思決定の仕方としては、首長の独断で行われる社会、族長が寄り集まって評議をして意思決定をする社会、成年男子など一定の資格を持った者が意思決定に参加する社会等が考えられる。それは、共同体内での一種の参政権である。意思決定に参加し得るのは、集団の成員に限られる。他集団の人間は、この権利の承認の対象ではない。

氏族的・部族的な共同体から社会の規模が拡大し、組合・団体・社団等の集団が形成されつつ、国家というより大きな集団が形成された。国家の起源の代表的なものには、征服国家説、階級国家説、家族国家説等があることを第1部に書いた。どのような起源の国家であれ、理論的には、統治権者が一人である単独統治制、統治権者が複数である複数統治制、統治権者が多数である集団統治制があり得る。また統治権者は参政権を持つ者とほぼ一致する。

古代ギリシャのポリスでは、複数統治制である貴族政、単独統治制である君主政、集団統治制である民主政の順に展開した。その後、アレクサンドロスの遠征による領土の拡大が行われ、都市国家から広域国家に発展し、再び君主政が行われた。こうした国家の形態及び統治制度の違いはあるが、古代ギリシャでは支配者集団の成員には、一定の範囲で参政権が保有されていた。

 近代西欧では、資本主義の発達に伴い、台頭した新興階級が市民革命を起こし、近代デモクラシーが実現した。デモクラシーが発達した国家の場合、君主政であれ共和政であれ、国民は何らかの形で政治権力に参加している。言い換えると、国民は形式的であれ実質的であれ、国家の統治権を分有する。そして、国家の政府(統治機構)を成り立たせているのは、国民自身である。この国民の国政参加の権利が、近代的な参政権である。

 

●参政権とリベラル・デモクラシー

 

参政権との関係で、自由権について再度述べておこう。自由権は政府の干渉・制約からの自由に係る権利である。これを追求する思想・運動にリベラリズム(自由主義)がある。リベラリズムは、人民の権利を国家権力から守る思想・運動であり、主に自由権の獲得・確保を求めるものである。デモクラシー(民衆参政主義)は、リベラリズムとは別の由来から発達した。デモクラシーは民衆が国家権力に参加する制度であり、その実現を求める思想・運動である。権利としては、参政権の実現・拡大を求めるものである。これらリベラリズムとデモクラシーが合体したところにリベラル・デモクラシーが成立した。リベラル・デモクラシーは、自由権の確保と参政権の拡大が結合したものである。

参政権は、イギリスでは最初、一定の財産を持つ成人男性に制限されていた。これに対し、政治参加の権利の享受者を広げる運動が続けられた。1792年、フランス革命において国民公会を召集するための選挙で世界初の男子普通選挙が実施された。だが、これは一時的なものだった。1818年に男子普通選挙が制度化された。アメリカでは1870年に全人種の成人男子への選挙権付与が憲法修正第15条で義務付けられた。イギリスでは1918年男子普通選挙が実施された。

各国において、参政権は男性から女性へと拡大されてきた。世界で初めて女性に選挙権が与えられたのは、1869年、アメリカ・ワイオミング州においてだった。合衆国としては、1920年に女性に参政権が付与された。アメリカが1920年、イギリスは1928年、フランスは1945年だった。わが国では、1925年(大正14年)に、イギリスより早く男子普通選挙が実現した。アジアの新興国が、自由と権利の先進国の先を行ったわけで、画期的なことだった。それまでは、やはり納税額によって選挙権が制限されていた。大東亜戦争の敗戦後、占領下の1945年(昭和20年)に男女平等普通選挙権が実現した。GHQの占領行政によるものとはいえ、その実現は人権宣言の国・フランスと同じ年だった。これも、明記すべきことである。

男子から女子へと参政権は拡大されたが、これは大人または成年の権利であって、児童や未成年者を含まない。それゆえ、年齢によって資格が制限される権利であり、普遍的な人権ではなく大人または成年の特権である。特定の犯罪者や禁治産者は、参政権を制限される。その社会が認める有資格者にのみ与えられる特殊的な権利である。

第1次世界大戦後、欧米では、外国人にも一定の条件のもとに参政権を付与する国が出ている。ただし、北欧諸国や英連邦諸国、欧州連合(EU)のほかスイスなど、ごく限られた国々で、地方参政権が、特別な地位をもつ外国人に与えられるにすぎない。北欧諸国の場合は、大昔から「ノルディック・ユニティ」といって、互いを外国人と見なさないほどに、国を越えた交流と一体感があった。そういう国々の関係は、他の地域では珍しい。地方参政権の付与も相互的であり、互いの国内の居住民の数も大体均衡が取れている。超大国アメリカなど、世界の大多数の国々では、外国人に参政権を付与する動向はない。アメリカは参政権に厳しい条件を付けており、その条件を満たして初めて国籍を取得でき、選挙権・被選挙権等を得られる。参政権について、「国民の権利」と「人間の権利」を混同することはない。

外国人に参政権を付与する国の場合も、その国民が自らの意思で一部の外国人に一定の権利を付与するものであって、非国民も普遍的・生得的に持つ権利として承認するものではない。あくまで主体的な付与である。また非国民には一定の条件を課し、国民と非国民の差をつけている。参政権は「人間の権利」ではなく、基本は「国民の権利」である。また、年齢等によって資格が制限される特権である。

参政権については、政治的な権利の一つとしての自治権に係る点がある。その点は、自治権について述べる際に補足したい。

 

●社会権はどういう権利か

 

社会権は、国家に積極的な配慮を求める権利である。個人の生存、生活の維持・発展に必要な諸条件を確保するために、政府に対して権力の発動を求める作為請求権である。社会権の代表的なものが社会保障であり、生存権・教育権・勤労権・勤労者の団結権・団体交渉権・争議権等が含まれる。

社会権は、その国家の国籍を持つ国民の権利である。社会権は、国民の権利として実現・拡大を目指し、その権利は国民が享受すべきものである。近代国家以前の西欧社会及び非西欧社会には、社会権に類した権利は存在しない。為政者による施しや配慮が行われたとしても、法に基づいて請求するものとは違う。また社会的な援助である互助も、宗教的・道徳的な実践であって、近代西欧法に定める義務ではない。

社会権は、近代国民国家でのみ実現し得るものであり、特に近代デモクラシーが発達した国家において発達してきた。それゆえ、社会権を「人間が生まれながらに持つ権利」という意味で人権と呼び、その実現・拡大を求めることは、定義と矛盾する。

社会権は、1919年ドイツで作られたワイマール憲法に、初めて盛り込まれた。以後、各国で憲法が保障する権利に加えられてきた。自由権・参政権より新しく、「20世紀的人権」といわれる。「20世紀的人権」と称する場合の人権は、私のいう「発達する人間的な権利」の意味でなければならない。普遍的・生得的な「人間の権利」であれば、19世紀以前にも存在していなければ、定義と矛盾する。またこの権利は、主に国民の権利として発達する「人間的な権利」である。「人間的な」という概念も、その国の国民が「人間的」とか「人間らしい」と感じる状態をいう。その状態は、集団的及び個人的な人格的成長・発展や社会の持つ価値観の変化、経済・社会・文化・文明の発達とともに変わっていく。

ここで自由権と社会権の違いを確認すると、自由権は主に不作為請求権、社会権は作為請求権である。すなわち、国家に不作為を請求する性質のものか、それとも国家に作為すなわち積極的行為を請求する性質のものか、という違いがある。ただし、社会権のうち生存権は、自由権と比較すべき点がある。生存権は、生活権ともいい、人間にふさわしい生活の保障を国家に要求する権利である。自由権は自助なり互助なりで生存することを政府に干渉されない権利であり、社会権としての生存権は、生存のために公助を求める権利である。

社会権を初めて定めたワイマール憲法は、第151条で「経済生活の秩序は、すべてのものに人間たるに値する生活を保障する目的を持つ正義の原則に適合しなければならない」とした。「人間たるに値する生活」は、集団的及び個人的な人格的成長・発展の程度や社会の持つ価値観、経済・社会・文化・文明の発達度合によって異なる。それゆえ、「人間たるに値する生活」を送る権利は、普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、歴史的・社会的・文化的に発達してきた「人間的な権利」である。

第151条は、近代西欧で人権の一部とされた財産権の不可侵という原則を修正するものである。また第153条3項では「財産権は義務を伴う。その行使は同時に公共の福祉に役立つものでなければならない」と定める。この規定はその原則を修正する規定である。財産の自由への公共的な制約である。主に富裕者の権利に制限をかけることで、貧困者の権利を保障するものである。もしロックの財産に関する所有権が、不可侵の「人間の権利」だとすれば、その否定である。不可侵の所有権が人権か、公共的な制約こそが人権か。ロックの論に立てば、所有権への制約は、人権の侵害である。ワイマール憲法の規定によれば、所有権の無制約こそが、人権の侵害である。もともと生命を共有する集団においては、個人の権利は絶対的なものではなく、集団で承認された範囲で付与され、尊重されてきたものである。また、集団の権利あっての個人の権利であり、所有権についても、集団による所有が個人による所有に先立つ。個人の所有は集団による所有における共有または分有であり、他の集団の侵攻等によって集団の所有権が失われると、個人の所有権も同時に失われる。

1935年、アメリカではニューディール政策の一環として社会保障法が制定された。第2次大戦後、イギリスで「ゆりかごから墓場まで」という福祉国家政策が取られ、社会保障制度が世界的に広がった。世界人権宣言第22条で「すべて人は、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し」とされ、社会保障はいわゆる人権の一つとなったとされる。ただし、その社会の一員としての権利ゆえ、普遍的・生得的な「人間の権利」ではない。主に国家において発達する「人間的な権利」である。

社会権の中に、生活権を含むという説がある。生活権は、生存権ともいう。生活権とは、日本国憲法では、第25条に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と定めるものである。日本国憲法のこの条文は、「すべて国民は」と始まる。すなわち、国民の権利として定められている。これをもし国際法において「すべて人間は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定するならば、その権利を実現し、保障する主体は誰かを明確にしなければならない。

社会権は、その国が豊かで強い国でないと実現できない。社会に、弱者を支援できるだけの経済的な余裕が必要である。富の配分によって、自由に対する平等への配慮を行う。このように、国家の経済的・社会的条件によって、実現の可否・程度が異なる権利は、普遍的・生得的な権利としての人権とは言えない。

 「発達する人間的な権利」は、その社会の人々が「人間らしさ」を感じる生活の実現を図るものであり、集団的及び個人的な人格的成長・発展の程度や社会の持つ価値観、経済・社会・文化・文明の発達度合によって、基準が変わっていく。社会権は「人間的な権利」を「国民の権利」として実現・拡大するものと位置付けられる。

 

●自由権・参政権・社会権に関するまとめ

 

17世紀の西欧諸国において、自由権が確保されたとき、権利の主体は資本家や地主等、新興階級や富裕層に限られていた。彼らは政治的・経済的自由を獲得した。やがて、近代化の進展によって、より多くの国民の政治参加が求められるようになり、参政権が労働者を含む国民多数に拡大した。さらに経済成長によってその国が豊かで強い国に成長すると、社会権が要求され、失業者や困窮者を含む国民全体に権利が拡大した。自由権・参政権・社会権の歴史的発達は、このように国家の政治的・経済的な発展あってのものである。単に権利だけが拡大したのではなく、国家の発展、国民の成長が国民の権利を充実させたのである。集団の権利の拡大が、個人の権利の拡大の条件なのである。

こうした権利拡大の過程において、国民の権利は一部において人権と混同され、普遍的・生得的な権利と誤解されてきた。だが、そこにいう人権は、「人間が生まれながらに平等に持つ権利」ではなく、その社会の人々が「人間らしい」と感じる「人間的な権利」として発達してきたのである。

 

●「発展の権利」等の新たな権利

 

第3部第9章の人権発達史の新たな段階の項目に書いたことだが、人権発達の歴史は、第1段階では自由権を中心とし、第2段階では、これに社会権が加わった。1966年制定の国際人権規約は、自由権(市民的及び政治的権利)・社会権(経済的、社会的及び文化的権利)だけでなく、新たな権利をも定めた。それによって、人権の発達史は第3段階に入った。第3段階の人権は、自由権・社会権に対し、「連帯の権利」と称される。その代表的なものが、「経済的、社会的及び文化的発展」を自由に追求する権利としての「発展の権利」である。

「発展の権利」は、1960年の植民地独立付与宣言において初めて打ち出された。同宣言は、個人の自由権及び社会権の前提として、諸個人の所属する集団の自己決定権を認めた。また、自決権だけではなく、自決権を根本として、「発展の権利」を宣言した。1960年代には個人の権利の成立条件として人民の自決権が強調された。自決権は政治的側面だけでなく経済的、文化的側面にも拡大された。そのうえで、国際人権規約に、人民の自決権とともに、それに基づく「発展の権利」が規定された。

国際人権規約は、共通第1条の1項に「すべての人民は、自決の権利を有する」と述べて、人民(peoples)の自決権を定めた。権利の主体が個人ではなく、集団となっていることが重要である。規約は、その集団の自決権に基づいて、人民が「政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」とした。これは、個人の人権だけを規定した世界人権宣言と著しい対照を示している。これは、人権の発達史において、重大な変化だった。

自決の権利とは、自由に物事を決定する権利として、自由権に含まれるものである。人民の自決権は、集団の自決権である。集団の権利が確立されてこそ、個人の権利が保障されるという思想が、国際人権規約に盛り込まれ、人民の独立がなければ個人の人権なし、という原則が打ち立てられたのである。個人の権利は集団の権利が確保されていて初めて保障される。近代西欧では諸国の独立と主権が確立されていたから、そのもとで個人の権利が発達し得た。集団の自決権の確立のもとに、個人の自由と権利が拡大されてきたのである。

「発展の権利」は、集団が発展する自由への権利である。その点では、自由権の一種と言える。発展途上国の自由権である。1986年に国連総会で採択された「発展の権利に関する宣言」において、一個の権利として強調された。この宣言は、「発展の権利」について、「奪うことのできない人権」とし、権利の主体を個人だけでなく人民を含み、発展は単に経済的発展だけでなく社会的、文化的および政治的発展とした。また発展の権利というだけでなく発展に参加・貢献・享受する権利を宣言した。

「発展の権利」は、自由権及び社会権に対して、権利の主体は個人と集団の双方であり、義務の主体は国家・先進工業国・国際機関・国際共同体であり、実現には、個人・国家・団体等の参加が必要である等の特徴がある。

1993年に「ウィーン宣言及び行動計画」は、人権の普遍性、不可分性、相互依存性、相互関連性を打ち出し、自由権と社会権の一体性を示した。欧米では、自由権のみが普遍的・生得的な「人間の権利」であり、社会権を人権とは認めないという考え方が、今も有力である。自由を最高の理念とし、平等への配慮は個人の自由を侵害しない範囲で最小限にとどめるべきという考え方に立てば、社会権の拡大は人権の侵害となる。だが、「ウィーン宣言及び行動計画」は、自由権と社会権の一体性を打ち出すことにより、事実上こうした考え方の誤りを表明した。

自由権と社会権が一体のものであるとすれば、これらは根源的な権利から分化したものと考えられる。根源的な権利からまず自由権が、次に社会権が展開した。さらにその後に、人権発達史の第3段階として、「発展の権利」を含む「連帯の権利」が展開したということになる。そうした根源的な権利は、権利を個人的なものではなく集団的なものと考えるときにのみ、理論的に成立する。

他の集団に対して優位にある集団において、集団の権利から個人の権利が分化し、その後に個人間の権利の調整が行われるようになった。次に、その集団に対し劣位にあった集団が、集団の権利の回復を求めるようになった。それが「発展の権利」である。もとの優位集団はその「発展の権利」を行使し得ていたから、個人の権利の保障・拡大をなし得たのである。

「ウィーン宣言及び行動計画」は、国家の義務を定めた点でも画期的だった。国家の不介入ではなく、積極的な取り組み、しかも義務としての履行を求めているからである。実は政府のこの役割は、もともと欧米諸国の政府が担ってきたものである。政府が国防や治安維持、司法等を担って集団の権利が確保されているから、その社会で個人の自由と権利の確保・拡大が可能になったのである。

世界人権宣言から国際人権規約が作られ、次の段階として「発展の権利宣言」、さらに「ウィーン宣言及び行動計画」が出されるという展開は、人権の発達史の第3段階の進行だった。この進行そのものが、近代西欧で発達した人権の思想は、根本的に見直されるべきものであることを示している。

いわゆる人権は「発達する人間的な権利」である。しかし、国際社会は、依然として、人権の発達史の第1段階で歴史的・社会的・文化的に形成された「人間が生まれながらに平等に持っている権利」「国家権力によっても侵されることのない基本的な諸権利」という理解をそのままにしている。その状態で、第2段階の権利、第3段階の権利を拡張している。人権の概念について根本的な再検討を行っていないのである。そのために、今日人権については、普遍的と特殊的、非歴史的と歴史的、個人的と集団的、権利と義務といった基本的な概念の関係が、乱雑な状態になっており、これらの基本的な概念の再検討がなされねばならない。本稿は、その検討を進めてきたところである。

 

●政治的な権利

 

 権利の三つ類型である自由権・参政権・社会権及び「発展の権利」について書いた。ここでこれら全体に係るものとして政治的な権利と経済的な権利について補足したい。

 まず政治的な権利については、自由権と参政権の両方にまたがる権利であり、また「発展の権利」の基礎となる権利でもあるものとして、自治権がある。その点を補説する。

自由権の項目で述べたように、自由権の一種に自己決定権がある。自己決定権は「発展の権利」の重要な要素である。自己決定権とは、自ら物事を決定する能力であり、それを実現することのできる資格である。自己決定権は、集団においてその成員に認められる権利である。成員には、その集団の決まりごとに反しない限りで、自己決定権が認められる。この権利は伝統・慣習・規約等によって社会的に行使を承認された能力であり、資格である。成員は、その社会の規範に沿って、自己決定権を行使することを求められる。

集団における個人に自己決定権があるように、集団自体にも自己決定権がある。集団として自集団に関する物事を決定し、それを実現する権利である。集団は他の集団に対して、この権利を主張する。個人及び集団の自律または自活は、人間の生命と知恵と自由による基本的な能力であり、相互の承認を受けて権利となる。こうした集団の自己決定権の一つが、自治権である。自治権は、一定の地域と一定の成員を持つ集団が、自らの意思で自らを統治する権利である。集団が持つ自己統治権である。

自治権は、成員が集団の自己決定に参加する権利を伴う。この集団的意思決定への参加権は、参政権の元になる権利である。参政権の項目に書いたように、意思決定参加権は国家が成立する前から社会に存在していた。この権利は、社会契約説が想定する抽象的・アトム的な個人の権利ではない。集団においてその成員に認められる権利である。また特定の集団の成員のみが所有する権利であり、他集団に対しては自立的かつ排他的である。またその集団内では成員の身分・立場によって権利の有無・程度が変わる。それゆえ、どの集団の個人にも共通する一般的な個人の権利としての参政権は存在しなかった。国家も一個の集団であるから、他の集団におけるのと同様、国民には成員の権利として、一定の範囲で意思決定への参加権が認められる。近代西欧においては、一定の領域内における諸集団の自己決定権を国家が保障したとき、その集団が属する国家における「国民の権利」となった。近代西欧において、最初は貴族や聖職者の身分に限定された特権だった。後に年齢・性別・財産等に基づいて、範囲が拡大されていった。現在も年齢等によって資格を制限する特殊的な権利である。

 

●自治権の諸形態

 

自治権には、家族的自治権、社会的自治権、政治的自治権がある。この分類は私独自のものである。家族的・社会的・政治的に分けるのは、第1部第3章の権力に関する章で、権力の諸形態について、家族的権力、社会的権力、国家的権力に分けたことに対応する。権利と権力は相関するので、同様の分類が必要となる。

集団の最小規模である家族は自己決定権を所有し、家族が自らを治める権利がある。これは、家族の持つ集団として持つ基本的な権利である。この権利を一般には自治権といわないが、広い意味で自治権と呼ぶべきと私は考える。

家族的な自治権は、他の集団における自治権のもとになるものである。家族的自治権は、他の家族に対して、自集団を自らの意思で治める権利である。家族的自治権は、その権利の行使において、家族的権力の行使となる。その自治権の行使は、家族が所属するより大きな集団の中で承認を得て、またその上位集団の利益と両立するものでなければならない。ただし、特定の家族が集団の中で権力を拡大し、集団全体の自治権を主導しようとしたり、これに他の家族が対抗するという闘争的な権力関係が生じることがある。

次に社会的自治権について、氏族・部族における自治権は、家族と同様に集団として持つ基本的な権利である。より大きな集団との関係は、家族の場合と同様である。組合・団体・社団等の契約集団については、自治権は集団の一員にとって、自分の自己決定権の集団を通じて行使することになる。それゆえ、契約集団も自己決定権としての自治権を所有する。社会的自治権は、その権利の行使において、社会的権力の行使となる。ただし、その自治権の行使は、上位集団の利益と両立するものでなければならない。上位の集団の自己決定に、下位の集団は服従する。上位が認める範囲内で、下位の自己決定権は承認される。ただし、特定の契約集団が社会の自治権に関する主導権を獲得しようとして、闘争的な権力関係が生じることがある。

集団と集団の関係において、最も上位の集団が国家である。国家の内部における諸集団の自治権は、国家・国民の利益を損なわず、またその利益に貢献する限りで認められる権利である。その利益に反する行動をする下位集団には、制裁が加えられ、自治権の制限や剥奪が行われることがある。社会的自治権をめぐる権力関係は、次の項目で述べる政治的自治権の問題に連なっている。

 

●政治的自治権

 

次に、政治的自治権について述べる。集団は、対外的に集団として持つ権利を確保・獲得・行使するために、実力を組織し、一定の領域を統治するようになることがある。氏族・部族・組合・団体・社団等の集団のうち、物理的実力を組織し、一定の領域を統治するものを、政治的な集団という。政治的な集団の持つ社会的権力は、同時に政治的権力となる。政治的な権力が国家に係るものとなったものが、国家的権力である。

氏族・部族・組合・団体・社団等の集団が、自らが所属する上位集団の統治機構に対して自己決定権を主張し、物理的実力を保有し、一定の領域を統治することが承認されたとき、政治的な自治権となる。自治の能力がないと、自治の権利は承認されない。実力を伴う自治の権利を主張するには、自治の能力を政府に対して示して承認を得るか、または闘争によって勝ち取らねばならない。

世界に広く存在する氏族的・部族的共同体、西欧の封建制社会における領邦国家、日本の封建制社会における領国や藩、自治都市、自治性を持つ村落等においても、近代国家の成立以前から、集団の政治的自治権が存在し、機能していた。

近代国家は、国家形成の過程で、領域内の自治団体を国家の統治の範囲に取り込み、自治権を剥奪するか、または政府が一定の自治権を与え直すかした。国民国家において、この国家形成を推進した思想・運動が、ナショナリズムである。

第2部第6章に人権とナショナリズムについて書いたが、私は、ナショナリズムを「国家主義」「国民主義」、ネイションを政治社会としての「国家」または政治的集団としての「国民」、エスニック・グループを「民族」、エスニシズムを「民族主義」と区別する。ナショナリズムとは、エスニック・グループをはじめとする集団が、一定の領域における主権を獲得して、またその主権を行使するネイションとその国家を発展させようとする思想・運動である。ナショナリズムに対し、エスニック・グループが独自に示す現象をエスニシズムという。エスニシズムは、ある集団がエスニック(民族的)な特徴を積極的に維持・発揚しようとする思想・運動であり、前近代及び非西欧にも広く見られるものである。ナショナリズムは、エスニシズムとの関係では、エスニシズムの特殊な形態であり、近代西欧的な主権国家の形成・発展にかかるエスニシズムである。

集団が政治的自治権を求める運動と、これを認めない国家権力のぶつかり合いは、時に分離独立運動へと発展する。歴史的には、18世紀アメリカの場合、植民地の住民が参政権を得て本国の英国議会に代表を送ることができたならば、イギリスから独立しなかったかもしれない。またイギリスの統治下にあっても、課税等に自治権を与えられれば、独立しなかったかもしれない。ジョージ3世の暴政・圧制が反発を招き、権利の請願運動が昂進し、独立運動に発展した。20世紀には、15世紀から長く白人種に支配されてきた有色人種が民族独立運動を起こし、次々に独立を勝ち取った。その過程で民族自決権が認められ、各地域で実現してきた。20世紀は一面においてナショナリズムの時代であり、政治的自治権の拡大・普及の時代だった。

1990年代から21世紀にかけて、世界的にアメリカの主導でグローバリゼイションが進められてきた。その一方で、ローカリゼイションも進みつつある。今日、多くの国家で、歴史・文化・宗教・言語等の独自性を持つ地域集団やエスニック・グループが自治権を要求し、政治問題となっている。独立闘争に発展する場合もある。

一国の統治権の枠内で、権限の拡大を求める地方分権論と、自ら主権を持とうとする地域主権権は異なる。分離・独立を求める集団は、要求が政府の承認を得られない場合、闘争を開始する。政府には領域・人民の統治権があるから、分離・独立しようとする動きを封じ、統一を保とうとする。政府と集団の意思と意思のぶつかり合いは、最終的に実力によって決着をつけることになる。

わが国では、現行憲法に言論・表現・集会・結社等の自由を保障し、また地方自治の章を設けて地方公共団体について定めている。地方公共団体による地方自治は日本国民である住人の政治的な自治権の行使である。地域主権を唱える政治家・学者がいるが、もし中央政府と地方政府が対等となり、地域主権が現実になると、国家としての統一が緩み、国家の解体に向かう。国民の権利を保障している国家が解体した時、自治団体が独自の防衛・治安等の機能を持たないと、他国から侵攻・支配される危険性が高まる。また在日外国人については、日本政府が許可する範囲で自己決定権が承認されている。わが国では、外国人に日本国の参政権を与えていない。日本国籍を持たない非国民に参政権を付与しないことは、日本国民の意思であり、統治権の行使である。わが国には人権の観念を振り回して、外国人にも地方参政権を与えようとする動きがあるが、これは自国民の「国民の権利」を侵害し、他国民の権利を拡大して、自国の利益より周辺諸国の利益の追求に加担する動きになり得るものである。

●経済的な権利の発達

 

 次に、人権と呼ばれる権利の種類と内容への補足の第二として、経済的権利について述べる。経済的権利は、財産の自由や契約の自由、営業の自由等の自由権から、生存や勤労等に係る社会権に及ぶ。また政治的権利とも相互に関係する。補説として別に述べるのはそのためである。

近代西欧では、個人の権利意識が発達し、国民の権利の拡大がされた。それとともに、「人間の権利」という観念が誕生した。こうした権利をめぐる展開は、経済活動と深く結びついている。西欧では、近代化の過程で、家父長制家族としての家族共同体、血縁を基礎とする氏族共同体、封建領主による村落共同体等の解体が進んだ。生産と消費の主体が分裂し、消費生活の場所としての核家族と、生産の場所としての経営組織とに分離した。両者をつなぐものとして市場が形成された。市場の発達に伴い、西欧の各地に近代都市が形成された。都市には近代的な組織が生まれ、機能集団である企業や組合等が成立した。こうした社会的変化が、市民革命や資本主義の発達の社会的基礎となった。

共同体の解体によって、ゲマインシャフト(協同社会)からゲゼルフシャフト(利益社会)への変化が起こった。つまり、人々の結合が、それまでの互いに感情的に融合し、全人格をもってする結合から、各自の利害関心に基づく人格の一部のみでの結合に変わった。伝統的な社会が崩壊して、近代的な個人が出現した。個人と個人は、互助原理で助け合う関係ではなく、競争原理で競い合う関係となった。資本主義の発達によって、近代西欧的な階級が生まれ、階級間の格差が広がった。都市の中小商工業者が資本家と労働者に分化し、資本家が代表的な階級に成長した。この過程で発達した近代西欧的な権利の多くは、経済活動に係る権利という側面を持っている。

独語・仏語・伊語等の主要な西欧言語では権利を表す言葉が、法をも意味する。経済活動に係る権利は、法との間に次のような関係をもって発達した。

近代西欧法は、近代国家の成立を背景とし、近代資本主義の経済構造を維持するため、市場の枠組みを整備・保障するという機能を担っている。この点が近代西欧以前、及び近代西欧以外の社会の固有法との大きな違いである。

近代西欧の国家は、政府が一定の領域内で実力を独占し、実力の行使を合法化し、他の政治団体の実力行使を非合法化した。これに対し、物理的実力を行使する組織や装置が恣意的に発動されるのを防ぐため、国家権力の行使が法によって規制される。それによって、政府と国民の権利関係が制度化される。その一方、国民の経済活動は、自由で独立した個人が展開する取引・交渉によって形成・維持される。そこに個人と個人の権利関係が制度化される。こうした近代西欧的な政府と国民、及び個人と個人の権利関係を制度として定めていることが、近代西欧法の特徴である。

近代西欧法における権利と義務の体系は、公法と私法という二元的な法体系に規定された。そのうち、近代西欧法の中枢を占めたのは、個人間の関係を規律する私法の体系だった。一方、政府と国民の関係については、政府は市場に介入せず、社会秩序を損なう事態に対処すれば十分とされた。18〜19世紀には夜警国家観のもとで、国家と国民の関係を規律する法体系は、自由権に関する規定を中心とし、私法体系と区別して観念された。

近代西欧法には、市場における物の売買と取引に関する公正な規則を用意するため、三つの基本原理がある。第1は、市場に参加する主体相互の「人格の対等性」である。第2は、「所有権の絶対性」である。第3は、「契約の自由」である。これら三つの基本原理により、身分制から解放された個人は、法の下で平等とされ、所有物を自由に売買・処分でき、国家の介入なく自由に契約を結ぶ権利を持つ。

経済活動に係る権利は、こうした三つの基本原理のもとに発達した。生まれながらに平等な権利を持つ自由で独立した個人という近代西欧的な人間観は、これら三原理を体現する人間を想定したものである。その人間とは、近代資本主義社会における市場・所有・契約に関する経済的な権利を持つ個人である。近代西欧的な個人の観念は、歴史的・社会的・文化的に形成されたものであり、普遍的な人間類型ではない。

 

●経済的権利の歴史的な拡大

 

経済的権利を思想史的に見ると、まずロックが17世紀に資本主義的な所有権を基礎づけた。ロックは身体を自由な個人の所有物とし、身体的労働による生産物を所有する権利を自然権として正当化した。これによって、近代西欧社会では、所有権を基礎とした財産の自由、契約の自由、営業の自由等の経済的権利が確立された。生まれながらに平等な権利を持つ自由で独立した個人という人間観は、ロックに多くを負っており、近代資本主義社会における市場・所有・契約に関する経済的な権利を持つ個人である。普遍的・生得的な人権を唱えたロックが、同時に近代資本主義社会における経済的権利を理論づけたところに、人権という概念の特殊近代西欧的な性格が表れている。

ロックの思想を受けてアダム・スミスが、資本主義の経済理論となる古典派経済学の礎をすえた。彼の政治経済学的な主著『国富論』は1776年、アメリカ独立宣言発布の年に刊行された。スミス以後の経済学は、自由競争による市場の論理を正当化した。それによって、欧米において資本主義は大きく発達した。だが、欧米諸国における国民の経済的繁栄と個人の権利の拡大は、非西洋文明の諸社会を植民地としたことで可能になった。有色人種の権利を剥奪し、帝国の中核部が周辺部を支配・収奪する構造の上に実現したものだった。

イギリスでは『国富論』の出た1770年代から、産業革命が始まった。1830年代にかけて、動力・エネルギー・交通の革命が連動的に起こった。それによって資本主義は飛躍的に発達した。機械制大工業は、労働者を劣悪な労働条件下に置き、社会における経済的な格差が広がった。これに対し、マルクスは生産手段の私有が階級分化を生んだとして私有制を否定する共産主義を説いた。共産主義は、人権はブルジョワ的な観念だとして否定し、階級闘争を説いた。今日、左翼の政党や市民団体は、普遍的な人権を説くが、これは元祖マルクスの理論に反している。

20世紀初頭以降、市場の機構が理論通りに作動しなかったり、作動の仕方や結果が著しく公正を欠いたりする事態が生じた。そのため、近代法は修正を迫られることになった。それによって、現代法の基本的な考え方が発達した。現代法では、政府は市場に一定の介入を行うべきものとし、国民が政府に給付を請求する権利を認める。

この変化には、ロシア革命の影響がある。ロシアで史上初めて共産主義革命が成功し、ソ連共産党は革命を輸出する活動を展開した。自由主義諸国は共産化を防止するため、さまざまな政策を講じた。イギリスでは、ケインズが1920年代から深刻化した失業の問題に取り組み、有効需要の創出による完全雇用をめざし、国民経済の発展によって自由と道徳を確保する理論を展開した。そこから福祉国家観が登場した。それまで、西欧では政府の役割は、国防と治安の維持だけでよい、経済については自由放任で、市場の機能に任せたほうがよいという夜警国家観が主だった。だが、福祉国家観のもとで、政府は国民の生活の安定と福祉の確保を主要な目標とし、積極的に社会経済政策を行うものに変わった。労働者の権利が保護され、労働条件の改善や勤労権、争議権、政府への給付請求権等の経済的権利が社会権として発達した。

共産主義の旧ソ連・東欧では、労働者は共産党官僚に支配され、自由と権利を制限された。1980年代から民主化を求める運動が起こり、ソ連・東欧の共産党政権は崩壊した。20世紀の世界を揺るがした共産主義は、近代西欧的な自由と権利に関して言えば、それらの後退でしかなかった。

 自由主義諸国で発達した経済的権利は、その国の「国民の権利」であって、人間が生まれながらに持つ権利ではない。すなわち、普遍的・生得的な人権ではない。だが、それらの権利は「人間らしさ」を維持する権利として追及されており、「人間的な権利」という意味では人権と呼ぶことができる。「人間らしい」とか「人間的な」という観念は、集団的及び個人的な人格的成長・発展の程度や社会の持つ価値観、経済・社会・文化・文明の発達度合によって異なる。「人間らしい」「人間的な」の基準は、その国家における国民の常識による。それゆえ、「人間的な権利」は「国民の権利」として追及され、実現されてきたものである。そして、権利を実現した国民は、他国民に対して、その実現を奨励し、支援・助力すべきものである。ただし、本当にすべての人間が生まれながらに平等であり、また現実において平等でなければならないと考えるならば、豊かな国の国民は貧しい国の国民に対して、互いが同じ水準になるまで、富を分かち与えなければならない。だが、そのような実践をしている国は、一つもない。また、国際連合は人権の理念を高々と掲げ、大多数の国々が国際人権条約を締結しているが、豊かな国の国民が貧しい国の国民に対して、互いが同じ水準になるまで、富を分かち与えねばならない、とはしていない。それゆえ、経済的権利は「人間の権利」としてではなく「国民の権利」として発達してきたものであり、「人間が生まれながらに平等に持つ権利」としてではなく、その社会が「人間的な」と考える権利として発達してきたのである。

 

●移民の権利

 

 政治的権利及び経済的権利に関する二次的な補説として、移民の権利及び発展途上国の国家と国民の権利について述べたい。

移民の権利について、基礎となるのは移動の自由であり、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利、迫害を免れるため、他国に避難することを求め、かつ、避難する権利、国籍をもつ権利等がこれに関わる。

 西欧における移民として、歴史的に最大の存在はユダヤ人である。ユダヤ人の自由と権利の拡大については、第2部第5章に書いたので、ここではユダヤ人以外の移民について書く。

ユダヤ人に関してだけでなく非ユダヤ人に関しても、移民の権利で重要なのは、信教の問題である。第2次世界大戦後、中核部の西欧諸国には、周辺部の中東・アフリカ・アジアから多数の移民が流入した。その多くは、ムスリムだった。西欧では、キリスト教以外の宗教に対しても、一定の信教の自由を保障するようになっていた。イギリスにはパキスタン人やジャマイカ人、フランスにはマグレブ人、ドイツにはトルコ人等が増加した。これらの諸国は、国民と非国民を区別し、国民と同等の権利を移民に与えてはいない。国籍の付与には一定の条件を設けており、無差別な平等を実施していない。

欧米の移民問題については、拙稿「トッドの移民論と日本の移民問題」に書いたが、例えば、ドイツは、直系家族が主な社会で、人間は互いに本質的に異なるという差異主義の人間観を持ち、民族混交率が低い。国籍取得は、もとは血統主義だったが、1998年の国籍法改正によって、出生地主義を採用した。ただし二重国籍は認めない。参政権については、ドイツは、「ヨーロッパ連合条約の批准」という要請があったため、1990年に憲法を改正し、EU加盟国民に限って、相互に地方参政権を認めている。EU域外の国の外国人には、地方参政権を与えていない。外国人への国政参政権は認めていない。非国民への国籍の付与と地方参政権の付与を区別している。

フランスは、平等主義核家族が主な社会で、世界中の人間はみな本質的に同じという普遍主義の人間観を持ち、民族混交率が高い。国籍については出生地主義で二重国籍も許容する。フランスもドイツと同様、憲法を改正して、EU加盟国同士では、地方参政権を付与し合っている。対象は、6ヶ月以上の居住、または5年以上直接地方税を納入している者とする。普遍主義のフランスであっても、国政参政権は非国民には与えていない。国籍付与と地方参政権付与を区別している。

 その他の国々も移民に対して権利の制限をしている。だが、それにもかかわらず、ヨーロッパでは移民が増加し続け、それによって、さまざまな社会問題、政治問題が生じている。移民への規制は一部見られるものの、趨勢としては今後ますます移民が流入すると予想される。例えば、平成21年(2009)8月、英「デイリー・テレグラフ」紙は、EU内のイスラーム人口が2050年までに現在の4倍にまで拡大するという調査結果を伝えた。現在の移民増加と出産率低下が持続する場合、2050年ごろにはイスラーム人口がEU人口の20%まで増える。イギリス、スペイン、オランダの3ヵ国では「イスラーム化」が顕著で、近いうちにイスラーム人口が過半数を超えてしまうという。

こうした予測のある中で、もし普遍的・生得的な権利としての人権という観念を移民に広げたら、移民の受け入れ国に対し、破壊的な作用をするだろう。同時に、それは一国内の出来事にとどまらず、ヨーロッパ全体に及ぶだろう。権利の制限という堤防は、一か所で決壊すれば、移民という大水が次々に弱い箇所を飲み崩し、ついには大陸全体を覆うだろう。

 

●発展途上国の国家と国民の権利

 

移民は周辺部から中核部へと流入するが、彼らの出身地である周辺部において、権利の問題状況はどのようであるか。

20世紀末の1990年代からグローバリズムが世界を席巻した。先進国による経済的自由・市場の自由の普及が、中核部が周辺部を支配し、収奪する構造を強化した。その結果、周辺部では伝統的な共同体が解体され、多数の低賃金労働者が生まれるとともに、貧困と不衛生が構造化された。また、周辺部から中核部へと流入する移民労働者が増え、中核部における下層階級となっていく。自由の理念と市場の論理によって、中核部で強者の権利が拡大するとき、周辺部では弱者の権利は縮小される。

 旧植民地の発展途上国では、資本主義の発達と近代化の進行の中で、まず必要なのは近代国家の建設である。独自の国家の建設は、「発展の権利」の実現において、極めて重要な課題である。近代国家の建設は、西欧発の文明が支配的な国際社会において、自国の権利を確保し、国家の権力を強化することである。発展途上国の政府は、自国の国民経済を育成し、集団としての国家の権利を強化しようとする。またグローバリズムの圧力に対し、国民経済と国家の主権を守るため、保護主義・反グローバリズムを取る。これは、その国家の権利の行使であり、集団の権利の行使である。

発展途上国において、ある程度、国家の建設が進み、経済的な豊かさが得られると、国民が国民の権利を求めるようになる。最初に求められるのは、賃金労働者の権利である。たとえば、中国は経済発展が目覚ましく、GDPはアメリカに次いで世界第2位になったが、農村から流入した多数の労働者は産業革命期のイギリスの工場労働者のように、劣悪な労働条件のもとに置かれている。彼らにとっては、労働者の権利の獲得が課題である。その権利は、自由化と民主化による国民の権利の拡大につながっていく。

資本主義が発達し近代化が進行する過程で、周辺部の国々では教育が普及し、識字率が向上する。識字率が上がると、青年層を中心に政治的な意識が高まり、専制政治への反対や民主化の運動が起こる。また国民経済の発達により、中産階級が成長すると、彼らを中心に国民が政治的な権利を求めるようになる。識字率の向上は女性の出生率の低下につながる。それによって、家族関係に変化が生まれ、社会の価値観が変動する。また女性の社会的意識が発達し、女性も政治参加を求めるようになる。

国民が政治的な権利を拡大することによって、国民の経済的な権利も拡大していく。国民経済がさらに成長し、一層の豊かさが得られると、社会権としての経済的権利が実現されるようになる。発展途上国が貧困や不衛生から脱出できるのは、この段階である。そして、発展途上国の国民が先進国の水準から見て、「人間らしい」「人間的な」水準の権利を享受できるのは、国家建設の成功、国民経済の成長、国民の権利の拡大によってであって、最初から「個人の権利」の追求によって得られるのではない。発展途上国において、「人間が生まれながらに平等に持つ権利」としての人権を求めても、単なる理想論に終わる。

 

●新たな権利の主張

 

現在、人権発達史の第3段階の権利の総称として、「連帯の権利」が唱えられている。そのうち「発展の権利」については先に書いたが、他にも新たな権利が主張され、また一部では実現されている。その一つに、「環境と持続可能性への権利」がある。1972年の国連人間環境会議におけるストックホルム宣言に盛り込まれたほか、ギリシャ、ブルガリア、ポーランド、ポルトガル、フランス等の憲法に取り入れられている。ほかに「平和への権利」、「人類の共同財産に関する所有権」、「人道援助への権利」等がある。現在のところ、これらの権利については、否定的な意見が多い。さまざまな権利を人権とすることによって、既成の権利の信頼性・実定性が損なわれる、集団の権利によって個人の権利が侵害される、権利を要求する対象となる義務主体が明確でない、権利主体に集団を含めると義務主体が同一になる等がその理由である。

社会と文化の変化によって、従来当然とされてきたことが正当性を疑われ、既成観念が否定されて新しい権利意識が生まれてくる。社会が複雑化すると、人間の自由や生存にかかわる新しい社会問題も生じてくる。前者の新しい権利意識の例が、児童の権利である。以前は権利の主体と考えられていなかった児童に権利を認めたものである。誕生前の胎児の権利を主張する意見もある。さらには人間の範囲を超えて、動物の権利を主張する意見もある。そのうち植物の権利とか細胞の権利、ミトコンドリアの権利等へまで議論が広がるかもしれない。後者の新たな社会問題の例が、環境権、情報化社会の中でプライヴァシーの権利、国民の「知る権利」である。これらは現代的な権利であるが、普遍的・生得的な権利としての人権ではない。文明が発達してきた段階において初めて生じてきた権利であって、これらを普遍的・生得的な権利という意味で人権と呼ぶのは不適当である。これらは、歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」として考えるべき権利である。

こうした新たな権利について国際的な議論を行うためには、人権の発達史を踏まえて、人権そのものの再検討がなされねばならない。本稿で繰り返し述べてきた課題である。

 

●権利の種類と内容のまとめ

 

 人権と呼ばれる権利の種類と内容に関して書いてきた。ここまでのまとめを述べると、自由権・参政権・社会権を一括して、「人間が生まれながらに持つ権利」という意味で人権と呼ぶことは不適当である。これらの権利は、多くの場合、国家があることが前提になっている。自由権は国家の統治機関である政府の干渉・制約からの自由を確保する権利、参政権は政府の権力に参加する権利、社会権は政府に積極的な給付を求める権利である。これらは、ほとんどは国家と国民の関わりにおける権利である。

現代世界では、ある国でその国の国民であることを示す資格として、国籍がある。一国において非国民に国籍を与えることは、自国の国民と同等の権利を与えることである。国籍は、国民の権利証である。この点を加えて言い換えれば、自由権は、自分が国籍を持つ国の法によって保障される自由への権利である。参政権は、自分が国籍を持つ国の政治に参加する権利である。社会権は、自分が国籍を持つ国家の政府に給付を請求する権利である。そして、それらの権利を保障するものは、その国民が所属する国家の政府である。保障される権利の内容は、当然国によって違う。こういう権利は、普遍的に人間が生得的に持つ権利という意味での人権とは言えない。ここで保障されるのは、あくまで「国民の権利」である。

近代国家における自由権・参政権・社会権以外に、近代西欧以前及び以外の社会にも、権利は存在した。家族・氏族・部族においても、組合・団体・社団等においても、各々その集団の成員に権利が認められてきた。その権利は、ほとんどが集団の成員の権利である。国民の権利は集団の成員の権利が発達したものであって、集団とは別に個人の権利が発達したものではない。

以上で、人権と呼ばれる権利の種類と内容関する検討を終え、次に各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利の考察に移りたい。(ページの頭へ)  

 

(3)最低限保障を目指すべき権利

 

●いわゆる人権の内容をどのようなものとするか

 

各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利の範囲はどこまでとすべきか。次にその点について検討したい。

いわゆる人権を最も狭い範囲に限るのは、@ 自由権の一部のみ、という考え方である。次いで、大まかに言えば、A 自由権全般と参政権まで、B 社会権まで、C 「発展の権利」等の人権発達史の第3段階の権利まで、というように、内容が拡大される。今日の国際社会では、C までを人権と呼ぶことが多くなっている。さらにこれを拡張しようとして新たな権利も主張されている。

人権の範囲について、学者や専門家の間には、様々な意見がある。第10〜11章で人権と正義について書いたところで詳述したが、前期ロールズは、正義を論じる際、自由権の一部と社会権の一部を人権と考えた。後期ロ―ルズは、人権の範囲を自由権の一部を中心とした差し迫った権利のみとし、非常に狭く限定する。ミラーは、人権は基本的ニ―ズに基づくとし、自由権・参政権に社会権の一部を含めており、後期ロールズよりは広い。センは人権を道徳的権利の要求とし、ミラーよりもっと拡張的である。「発展の権利」やさらに新しい権利も、要求として認める。ヌスバウムは、女性・障害者・外国人の権利の拡大を主張し、さらに動物へと対象を広げている。これらの論者は、みな正義論から人権論を説いており、正義論を踏まえて、人権を論じなければいけないという考え方である。

その一方、正義論を説かずに人権を論じる学者・専門家や社会的な実践家もいる。イグナティエフは、人権を消極的自由かつ虐殺・抑圧・残酷等からの自由のみに限定する。ガットマンは、これらにプラス生存に関する権利すなわち飢餓からの自由等とするという意見である。一方、社会権や「発展の権利」等も人権として主張する有識者も多い。

人権に関する国際会議において様々な合意がなされてきながら、その合意を反省的に思考する学者や専門家の間で意見が分かれているのは、人権の協議において、人間観の検討を避ける傾向があることによる、と私は思う。「人間とは何か」という問いについては、第1部以降、折に触れて私見を述べてきたが、そうした人間の考察に基づいて、人権の内容や各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利とは、どのようなものであるべきかを定める必要がある。その際、「人間らしい生活」とはどういう生活かについても検討する必要がある。

最低限保障すべき権利の内容について、主な論者の主張を概観し、その後に私見を述べる。

 

●ロールズにおける最低限の権利

 

今日の人権論に強い影響を与えているロールズは、『正義論』で、正義とは公正である、公正とは正義の2原理が実現している状態である、と考えた。正義の2原理は、自由を優先しつつ、平等に配慮するものである。そこには自由権の一部と社会権の一部が含まれており、これらの権利は一般に人権と称されているものである。それゆえ、ロールズの正義とは人権が公正に実現している状態であり、人権とは公正としての正義の実現を求める権利だと考えられる。これは、人権の定義に正義の概念を入れた定義である。ただし、ロールズ自身は、人権と正義の関係をこのように定めてはいない。私の解釈に基づく正義論の人権論への応用である。

ロールズは、『正義論』で「基本財(基本善 primary goods)」という概念を使用した。基本財とは、善い生き方の構想がどのようなものであれ、各自の考える善い生き方をしようとする上で普遍的に必要となるものをいう。権利、自由と機会、所得と富、自尊心の社会的基礎を含むとされる。これらの「財(善いもの goods)」は、人権の内容に関わるものである。ただし、ロールズは、社会契約説に基づき、実質的に国民国家の人民を主体とした正義を考えたので、基本財に対する権利は、各国の憲法において、その国民の権利として規定されるべきものである。

ロールズは、後期の著作では、人権の内容を非常に狭く限定した。ロールズは「諸国民衆の法」の構成原理の中に、人権に関する事項を含めている。彼に関する項目で揚げたリストにおいて、@ の「各国民衆は自由かつ独立であり、その自由と独立は、他国の民衆からも尊重されなければならない」、E の「各国民衆は諸々の人権を尊重しなければならない」がそれである。そして、ロールズは、次のような意見を述べた。

 「諸国民衆の法における人権とは、奴隷状態や隷属からの自由、良心の自由(しかし、これは必ずしも、良心の平等な自由ではないのだが)、大量殺戮やジェノサイドからの民族集団の安全保障といった、特別な種類の差し迫った権利を表している」と。

 この「特別な種類の差し迫った権利」を以て、最低限の人権、基本的な人権とすべきという意見は、基本的人権を、自由権のうちのごく一部と特殊な状況における集団の生存に関する権利に限っている。自由権のその他の権利や参政権、社会権は、「諸国民衆の法」における人権に含めていない。ロールズは、この意見より自由権を広くする考えも示しているが、いずれにしても人権の内容を狭く限定する考えである。前期ロールズは、国内的な正義原理では、自由を優先しつつ、機会の平等と格差の是正を図ることで、自由と平等の調和的な均衡を実現しようとした。そこでは、実質的に社会権の一部が含まれていたが、後期の国際的な正義に係る「諸国民衆の法」には社会権が含まれていない。

ロールズは、このように基本的人権の内容を非常に狭く定めたうえで、人権の政治的・社会的な役割を限定している。次の三つである。

 

@ 諸々の人権の実現は、ある社会の政治制度やその法秩序が良識あるものであるための必要条件である。

A 諸々の人権の実現は、他国から、正当な理由のある強制的介入――たとえば、外交的制裁や経済制裁による介入、また深刻な場合には、軍事力による介入――を受ける余地をなくすための十分条件である。

B 諸々の人権は、各国民衆の多元性に一定の制限を課す。

 

ここにおいて、ロールズの人権は、実定法に定める法的権利ではなく道徳的権利であり、主に国内法に対して制限を加え、国際社会でも一定の制限を課すものである。彼の道徳的権利は、私のいう社会的権利の一種である。ロールズの最低限の人権とは、最低限の道徳的権利であり、各国の国内法及び国際法に最低限の制限を加えるものと理解される。

ロールズの考え方は、基本的に歴史的に発達してきた人権の思想の広がりを考慮せずに、社会契約説の応用により、自らの政治理論を設計しようとしたものである。「諸国民衆の法」における人権と世界人権宣言における人権を比較すると、前者は後者より範囲を非常に狭く限っている。ロールズは、国際社会では、前者程度の範囲の権利しか合意できない、またはそのように非常に限定された権利であれば、諸国民衆の間で合意が可能と考えたのだろう。だが、世界人権宣言は、国連加盟国の多くが賛同しているものであり、賛同国にはイスラーム教諸国もある。宣言の理念を具体化した国際人権規約は、加盟国を直接に拘束する効力を持つ条約であるが、現在、自由権規約、社会権規約とも160か国以上が締約している。個別的人権条約である女性差別撤廃条約などは、187か国も締結している。ロールズの考え方は、歴史的事実とも国際社会の現実ともかけ離れた狭いものとなっている。

 ロールズは、人権を非常に狭く限定するが、人権に含む自由と権利について、なぜ奴隷状態や隷属からの自由、良心の自由、大量殺戮やジェノサイドからの民族的安全保障を、最低限の人権、基本的な人権とすべきかを、明示しない。当然ロールズの所論は、人間はこうあるべきであるとか、またはこうあるべきではないという観念が前提となっているはずであるが、ロールズは、そのことに触れない。なぜ奴隷状態や隷属はあってはならないのか、なぜ良心の自由が求められるのか、なぜ大量殺戮や民族浄化はあってはならないのか。人間は隷属を受けるべきではなく、良心を働かせることができるべきであり、集団的に殺戮・抹殺されてはならない、とロールズが考えているからだろう。そこには、一定の人間観が存在するはずである。ロールズは、「道理を理解する(reasonable)」とか「良識ある(decent)」という形容詞で、その人間観を暗示してはいる。だが、それだけである。哲学的思考に必要な反省的思考が行われていない。

ロールズは、前期の社会契約説が想定した近代西欧市民社会の市民やカント的な自由で平等な道徳的人格という人間観から離れ、人格・価値・能力・資格について主張せず、また否定もしないという姿勢を取った。それによって、幅広い合意が可能になると考えたのだろうが、人権という権利の承認と保障の主体にして対象でもある人間そのものの考察が足りないために、人権の内容を掘り下げて検討することができなくなっている。また、その結果、彼の説く最低限保障を目指すべき権利、基本的な人権の内容は、説得力を欠いている、と私は思う。

 

●ミラーにおける最低限の権利

 

ミラーは、人権の内容を後期ロールズより広い範囲で定めようとする。また、人権発達の実践につながる具体的な議論を展開している。

ミラーは、人権は正義の核心をなすものとし、正義の観点から基本的人権のグローバル・ミニマムを定めることを提案する。ミラーは、グローバル・ミニマムとは、「どのような場所やいかなる状況にある人であっても保障されなければならない一連の基本的人権」であるとし、「いわば人間らしい生活が成り立つための条件に対応するもの」であると述べている。基本的人権とは人権と呼ばれる諸権利の「中核をなすもの」だとし、「非常に強く抗しがたい道徳的要求を持つ」という点で他の諸権利と区別される、という。

ミラーは、人間を「生物的存在であると同時に社会的存在」でもあるととらえる。そして、グローバル・ミニマムとして保障されるべき最低限の権利とはどういうものかを検討する。ミラーは「基本的ニーズと社会的ニーズの区別」を提案し、基本的ニーズとは「いかなる社会でも人間らしい生活の条件として理解されるべきもの」であり、社会的ニーズとは「特定の社会で人間らしい生活の要件として見なされるより幅広いもの」であるとする。そして、「人権の基礎づけとして依拠することができるのは、基本的ニーズだけ」として、ミラーは、基本的ニーズのリストを示す。食物や水、衣服や安全な場所、身体的安全、医療、教育、労働と余暇、移動や良心や表現の自由等である。そして、「いかなる社会でも人間らしい生活の条件」となるこれらの基本的ニーズのみが、人権の基礎づけとして依拠できるものだと主張する。

私見を述べると、ミラーが基本的ニーズに含める医療・教育・労働等は、それぞれの社会や文化によって内容や水準が異なる。もし基本的ニーズに含めるなら、医療・教育・労働等について「いかなる社会でも人間らしい生活の条件」となる最低限の内容・水準を定め、そのうえでそれ以上の部分は、社会的ニーズだと分ける必要があるだろう。最先端の高額医療、大学教育、高度な精神労働等は、基本的ニーズとはいえない。だが、ミラーは、医療・教育・労働等を一括して基本的ニーズに含める。そのため、基本的ニーズ全体が曖昧になっている。

ミラーが基本的ニーズを挙げて目指すものーーそれは、「人間らしい生活」である。だが、その「人間らしい生活」とは、どのような生活かについて、ミラーは具体的に述べていない。「人間らしさ」は、私のいう「発達する人間的な権利」の「人間的な」にも対応する状態や性質である。人間とは何かという人間の本質の考察を行うことなしに、「人間らしさ」「人間的な」の内容を論じることはできない。「人間らしい生活」を定義できなければ、その「人間らしい生活」が成り立つための条件である基本的ニーズを具体化し、それらに対する権利としての基本的人権の内容を定めることもできない。

ミラーは、国際社会における正義の実現のために、基本的人権のグローバル・ミニマムを定めることを提案している。この時、ミラーは、正当にも個人だけでなく集団、具体的にはネイションの責任を指摘する。そして、ネイションとして負うべき「責務」がどの程度あるのかを決めるために、グローバル・ミニマムという観念を用いる必要があると主張している。そうであれば、各ネイションが国際的に擁護すべき最低限の人権とは何かを、人間とは何か、人間らしい生活とはどういう生活かを明らかにしたうえで、示すべきである。道徳的な責務の履行を求める道徳的要求もまた、人間とは何か、人間らしい生活とはどういう生活かを明らかにしたうえで、その適否が判断されなければならない。

 ミラーは、最低限の人権に限ってグローバルに擁護すべきという考えである。これは、グローバル・ミニマムの擁護を、各ネイションがそれぞれの道徳的責務において行わなければならないという彼の人道主義的な考えである。その一方、基本的人権はすべての人に保障すべきものであるが、「シティズンシップ(公民権)の諸権利」はそれぞれの国家で政府・国民が保障すべきものであるとも主張している。前者は、基本的ニーズの提供であり、後者は社会的ニーズの提供である。これらを提供するには、基本的ニーズと社会的ニーズの明確な区別が必要となる。その時、先に述べたように、ミラーが基本的ニーズに含めている医療・教育・労働等の内容・水準を定める必要がある。それには、「人間らしい生活」とはどういう生活か、そもそも人間らしいという時の人間とは何か、という問いがここにも出てくる。だが、これらの問いの答えは追求されていない。

基本的人権として保障を目指すべき最低限の権利について、ロールズとミラーの主張を概観した。そこから言えることは、人間とは何か、「人間らしい生活」とはどういう生活かという問いを掘り下げることなくして、基本的人権及びそれを中核とする人権の内容は定められない、ということである。

 ところで、本稿では、一般に、citizenshipcivil rights を国民の権利、公民権の意味で「市民権」「市民的な権利」と訳すのが定着しているので、混乱を避けるために、やむを得ず、定訳を尊重しているが、本来、英語の citizencitizenship を「市民」「市民権」と訳すのは、誤訳である。citizen はもともと、君主国の国民を subject というのに対して、共和国の国民を意味する。citizen が単なる特定の都市の住民を意味する場合もあるが、「国民」「公民」の意味で使われている citizen に「市民」の訳語を使うと、国家・国民の概念があいまいになる。日本の左翼は意図的に、この誤訳を使って、国家意識・国民意識を希薄にさせている。だが、例えば、英語には、naturalized US citizens という表現がある。米国に帰化した人をいう。これは、「帰化した米国国民」と訳さないといけない。「帰化した米国市民」は誤訳である。国民というべきところを「市民」と称し、国民の運動を「市民運動」といい、国民の権利の確保・拡大を求める運動を「公民権運動」とせずに、「市民権運動」と称するのも、左翼による意図的な誤訳である。

 

●基本的人権とセンのケイパビリティ

 

人権の内容並びに各国及び国際社会において最低限保障されるべき権利を検討するため、次にセンの理論と主張を再度確認しておこう。取り上げるキーワードは、ケイパビリティ(潜在能力)、人間開発、人間の安全保障である。

人権は権利であり、権利は能力の行使が社会的に承認されたものである。その能力の行使は、一定の条件のもとで可能になる。ここで主体の能力に関わるのがセンのケイパビリティである。

センは、ロールズの基本財は「せいぜい人間の暮らしにとって価値ある目的のための手段でしかない」とし、「何か別のもの、特に自由のための手段に過ぎない」と主張する。そして、ケイパビリティの概念を用いて、同じ基本財でも、それが実際に可能にする自由は、健常者と障害者、富裕者と困窮者等の間で異なることを明らかにした。それによって、ロールズの自由の概念を実質的な自由へと練り直した。

センは、自由の拡大を目的とする。その自由はケイパビリティによる実質的自由である。人権を自由の拡大を求める権利とするならば、センにおいてはケイパビリティの拡大を求める権利である。センは、特に人間生活の基本となる衣食住、社会生活への参加等については可能な限りの平等を図るべきだと訴え、障害者、女性、困窮者等の権利を主張している。内容と主体に触れて最低限の平等の実現を課題として打ち出している。ここでの平等もまたケイパビリティの発揮に関わるものである。

ところが、センは、ケイパビリティについて考え方を示すのみで、具体的なリストを提示しない。それゆえ、人権の内容についても、具体的なリストを提示していない。ミラーは、センのケイパビリティについて、次のように述べている。「人間の潜在能力という観念は、人間に備わっている能力のうち重要なものとそれほどではないものに本質的な区別を付けない。潜在能力とは、過度に栄養を摂取する能力を指すかもしれないし、キャビアを食べる能力を指すかもしれない」と。センはケイパビリティのリストを提示しないが、「貧困についての記述を見ると、センも『基本的潜在能力』とそれ以外の区別を暗黙裡に持ち込んでいる」とミラーは指摘する。この見方が正しければ、センのケイパビリティには、「基本的潜在能力」とそれ以外の潜在能力があるということになる。

ミラーの基本的ニーズは、主体がケイパビリティを発揮するための環境的な条件である。食物や水、衣服や安全な場所、身体的安全、医療、教育、労働と余暇、移動や良心や表現の自由等とされる。これらは、個人の選択によって潜在能力を発揮するための最低限の物質的・社会的条件と理解される。ミラーの主張に従えば、基本的ケイパビリティを発揮するための条件と、それ以外のケイパビリティを発揮するための条件を区別する必要がある。私が思うに、前者の基礎的な条件には、空気、水、食糧、安全な住居、共同体への所属、言語・計算に関する基礎的な教育が挙げられよう。後者の追加的な条件には、より高度な教育、労働のできる環境、健康を維持できる医療、共同体の意思決定への参加等が挙げられよう。

基礎的条件だけでは、個人の選択の幅は限られる。選択肢を増やし、選択の自由を拡大しようとすればするほど、そのために必要な環境的条件は増加する。医療・教育・労働等はそれぞれの社会の文化や技術によって水準が異なる。それらの条件の確保をすべて人権または基本的人権という概念で正当化することはできない。正当化し得ない条件に関する権利は、基本的ではない非基本的な人権、または普遍的ではなく特殊的な権利ということになる。

ここで非基本的または特殊的な権利が、それもまた人権の一部なのか、それとも国民の権利を主とする特定の集団における権利なのかを明確にしなければならない。特定の社会において、その構成員に付与される権利を、普遍的・生得的な権利という意味で人権と呼ぶのは妥当でない。そうした権利は、ネイションにおいては国民の権利であり、エスニック・グループにおいては民族的な共同体の構成員の権利である。センにおいては、ケイパビリティの分析が不十分なため、権利の分析もまた不十分になっている。

 

●ケイパビリティのリストと基本的ニーズの比較

 

センと異なり、ヌスバウムはケイパビリティについて、10項目のリストを示す。繰り返しになるが、簡単な要約を掲げる。

 

@ 生命: 早死にを免れ、生きるに足る人生を送ることができること。

A 身体の健康: 身体の健康を維持できること。

B 身体の不可侵: 身体の持つ能力を発揮できること。

C 感覚・想像力・思考力: 識字能力を身に付け、思考力を展開できること。

D 感情: 愛情、友情等の情緒を育むことができること。

E 実践理性: 宗教的・道義的生活を営むことができること。

F 連帯: 他者との平等な関係のもとで社会生活を営むことができること。

G 他の種との共生: 動植物とともに、ないし自然環境の中で生活できること。

H 遊び: リクリエーション活動を行うことができること。

I 自分の環境の管理: 政治参加、所有などが確保されること。

 

これらは、ケイパビリティのリストであるが、能力と自由が混在している。「〜できること」を「〜する権利」という文言にすべて置き換えると、権利のリストと見ることもできる。それらの権利のうち、人権の内容とすべきものとそれ以外とに分けることにより、ケイパビリティに基づく人権の内容を検討することができるだろう。

上記のリストとミラーの基本的ニーズを比較すると、ヌスバウムの @AB は、ミラーの食物や水、衣服や安全な場所、身体的安全、医療に関わる。C は、ミラーの教育に関わる。H は、ミラーの余暇に関わる。一方、DEFGI は、ミラーの基本的ニーズに対応物を見出すことができない。逆に、ミラーの労働、移動や良心や表現の自由等は、ヌスバウムのリストに対応物を見出すことができない。もっとも全く対応しないというのではなく、緩やかに関係するという見方も可能だろう。

ミラーは、ヌスバウムについて、センと対照的に「『文化横断的な広範な合意を得られる』と主張する『核心的な人間的機能に関わる潜在能力』の長く綿密なリストを作り出している」と述べている。だが、ミラーは、ヌスバウムのリストを基本的ニーズと基本的ケイパビリティの関係という観点から具体的に検討していない。

ミラーとセン及びヌスバウムの主張には、かなり隔たりがある。その隔たりの原因は、どこにあるのだろうか。私は、人間とは何か、また「人間らしい生活」とはどういう生活かという問いについて、掘り下げた検討がされていないことにあると考える。

 

●人権の内容に関わる人間開発と人間の安全保障

 

人権の内容を検討し、各国及び国際社会において最低限保障されるべき権利の範囲を考えるためには、センが提案した「人間開発」と「人間の安全保障」についても検討が必要である。

センは、人権の内容と実践に関する理論を構築するために、これらの概念を打ち出した。

まず人間開発について、センは以下の4つの点で、人権発達の取り組みに貢献するとする。

 

@ 人間開発の分析には明瞭な表現と明確さという伝統があり、その量的・質的指数が人権の分析に具体性を付与する。

A 一つの権利の実現を促進するには、政策の選択の違いがどのような影響を与えるかについての評価が必要となり、これは、人間開発の分析と類似した試みである。

B 人権は究極的には個人の権利を確立させることであるが、その実現は適正な社会条件の有無にかかっており、これには多元的な因果関係や相互作用に注目する人間開発の取り組みが参考になる。

C 人間開発の理念は変化を伴うものであり、既存の人権概念に欠けているダイナミズムを備えているから、人権を長期的に考え、開発段階に応じた優先順位をつける上で有益である。

 

このように述べてセンは、人権を人間開発指数(HDI)で具体化・定量化し、政策の優先順位づけや評価を行えるようにした。センは、人間開発は「GNPを基準に発展のプロセスを理解するのではなく、人間の自由と潜在能力を全般的に高めることに焦点を絞るべきだ、とする考え方」であると言う。また、人間開発の目的は「人間の生活に制限や制約を加えたり、その開花を妨げたりする様々な障害物を取り除くこと」であると述べている。

センは、「自由こそは発展の重要な手段であると同時に主要な目的であると見なされなくてはならない」「人権の妥当性を検討する出発点として適切なのは、それらの権利の背後にある自由の重要性でなければならない」と述べる。それゆえ、人間開発は自由の拡大、ケイパビリティの拡大を目指すものである。

次に、人間の安全保障について、「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」とセンは定義する。中枢部分とは何かについて、センは具体的に説明していない。その内容を明らかにするには、人間とは何か、「人間らしい生活」とは何か、を問わねばならない。これらの問いを回避するのでは、人権を深く考察することはできない。だが、センは、こうした問いを回避したまま、「人間の安全保障」という課題を提示している。

センは、「人間の安全保障」の概念には、少なくとも次の要素がきちんと含まれる必要があると述べている。

 

@ 「個々の人間の生活」に、しっかり重点を置くこと(例えば、「安全保障」を軍事的な意味に解釈しようとする「国家の安全保障」という、専門官僚的な概念とは対照的に)。

A 人間が、より安全に暮らせるようにするうえで、「社会及び社会的取り決めの果たす役割」を重視すること(一部の宗教で強調されるような、個々の人間の苦境と救済を社会とは切り離したかたちで考えようとはせずに)。

B 全般的な自由の拡大よりも、人間の生活が「不利益をこうむるリスク」に焦点を絞ること(人間開発を推進する広義の目標とは対照的に)。

C 「より基本的な」人権(人権全般ではなく)を強調し、「不利益」に特に関心を向けること。

 

ここで C の「より基本的な」人権とは、どういうものか。センは具体的には提示していない。最も狭く解釈すれば、生存のための最低限の条件を享受できる権利と理解される。例えば、毎日世界中で3万人を超える子供が、脱水症、飢餓、疾病などの予防可能な原因で死亡しているとう現状を考えると、それらの子供たちが生存・成長できる条件を整えることが、権利の保障となる。

センは、「人権の概念と人間の安全保障の考え」には「補完し合う関係」があるとする。大まかに言うと、人間開発が自由の拡大を目指すもので、人間の安全保障が平等を考慮するものという関係にある。ロールズに基づいて人権とは公正としての正義を求める権利であると定義するならば、人権とは正義の実現のために人間開発と人間の安全保障を求める権利である、と言うことができる。これを自由と平等の概念を用いて言い換えるならば、人権とは、自由の拡大と平等への配慮を求める権利であり、人間開発は実質的な自由としてのケイパビリティの拡大を、また人間の安全保障は生存のための最低限の条件の平等を実現しようとするものである。

人間開発と人間の安全保障に共通するのは、人間である。センはその人間とは何かについて、深く考察していない。ただ実質的な自由の拡大を目指すべきと説き、また、より基本的な人権を保障するため、不利益をこうむるリスクの除去が必要であるとし、生存のための最低限の安全を保障しようとする。センにおいて、自由の拡大とは、自由意志による選択の幅の拡大である。拡大された自由を以て、何をすべきかについては、個人の選択に委ねられている。選択しないという自由もあるとする。選択する、または選択しないという意思決定の結果が、社会の公共善の実現に寄与するかどうかについては、積極的に論じられない。個人の私的な善の実現が優先されるからである。また、生存の実現を目指す場合に、生命的価値と文化的価値、心霊的価値の区別と位置づけについては、主題的に考察されていない。

私は、人間開発と人間の安全保障を組み込んで人権の内容を論じ、各国及び国際社会において最低限保障されるべき権利の範囲を検討するためにも、人間とは何か、「人間らしい生活」とはどういう生活か、が問われねばならないと考える。

 

●人間とは何か

 

人権の内容並びに各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利に関して、主な論者の主張を概観した。次に私見を述べる。

これまでの項目で私は、人権の範囲を定めるには、人間とは何か、人間らしい生活とはどういう生活かが問われねばならないと書いた。人間とは何かという問いについては、本稿の第1部で基礎的な考察を行い、この第4部では折に触れてそれに基づく見解を述べてきた。ここで人権に関することに絞って、あらためて要点を書くことにする。その後、人間らしい生活について述べる。

私は、人権との関係で、人間とは何かを問う際、次に述べることが考慮されるべきだと考える。キーワードは、個人性と社会性、生物性と文化性、身体性と心霊性、人格、共感である。

人間には個人性と社会性、生物性と文化性、身体性と心霊性という三つの対で示される性質がある。個人性とは、身体的に自立し、個々に性別・年齢・世代等の違いがあるという性質であり、社会性とは、そうした個人が社会を構成して集団生活を行っているという性質である。生物性とは、生物であり動物であるヒトとしての性質であり、文化性とは、高度に発達した言語・技術・知能を持つという性質である。身体性とは、物質的な肉体を持ち、脳の機能によって生命活動を行うという性質であり、心霊性とは、肉体と脳と相関関係にありながら一定の独立性を示す精神的な霊魂を持つという性質である。

人間は、個人的存在であるとともに社会的存在である。人間には、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求があり、さらに自己実現・自己超越の欲求がある。人間はこれらの欲求の充足を求めるが、欲求の実現は個人だけでは為し得ない。実現のためには、家族的な生命のつながりを基礎とした集団における協力を必要とする。近代西欧的なアトム的な個人という考え方は、生命の共有に基づく共同性を以て修正されねばならない。人間は、集団を形成し、また集団に所属しなければ、生存・生活できない。単体では生命の再生産ができない。人間は、雌雄の性に分かれており、両性の生殖活動によってのみ子孫が生まれる。男女の結合によって、父・母・子からなる家族を構成し、家族間で生命が共有され、集団的に生命の継承がされる。そうした家族を単位として、社会が構成され、国家が組織される。その国家を主要な単位として国際社会が組織されている。

人間はまた生物的存在であるともに文化的存在であり、身体的存在であるとともに心霊的存在である。生物的・身体的存在としての人間は、生きていくために、空気や水や食料を必要とする。空気は誰もが自由に呼吸できるけれども、水や食料は集団的な活動を行わなければ、獲得できない。文化的存在としての人間は、言語を話し、道具を使う。言語や技術は、家族を中心に、親から子へ、世代から世代へと教育・継承される。そうした集団的な活動によって文化を創造・継承し、宗教・科学・技術・芸術を発達させる。心霊的存在としての人間は、自己を心霊的存在だと自覚し、死後の世界を考えたり、宇宙との一体性の回復や生命の本源への回帰を願ったりする。死は個人の終わりというだけでなく、集団における見取り、弔い、追想を伴う。それゆえ、人間は、単に生物的・身体的な存在としてだけでなく、文化的・心霊的存在として、互いに尊重されねばならない。

人間にはまた各個人が人格を形成し、成長・発展させるという特徴がある。人格とは、道徳的または宗教的な行為を行い、法的または道徳的な権利義務が帰属し得る主体である。個人は家族の一員として生まれ、家族において成長する。諸個人は親子・兄弟姉妹・祖孫等の家族的な人間関係において、人格を形成する。そして親族や地域、民族、国家等の集団の一員として、社会的な関係の中で、人格を成長・発展させる。

諸個人は、人格的存在として、社会的な実践を行う。その実践において、さまざまな価値を生み出す。人間は、生命的価値だけでなく、文化的・心霊的価値を生み出すことによって、尊厳が認められる。人格は、文化的及び心霊的な価値を生み出す主体であり、それゆえに人格にも尊厳が認められる。

人格的存在としての個人は、その能力の行使を社会的に承認される。権利は、集団の権利あってのものであり、個人の権利は集団によって付与され、また保護される。権利の行使には責任が伴い、相互的な義務によって裏付けられる。権利は、それを保障する集団の目的に沿って用いられねばならない。

人間には上記の欲求を実現する能力があるが、その能力を分析的に捉えるために、本能、知能、理性、知性、感性、感覚、感情、思考、霊性、徳性等の概念が一般に用いられる。それらの諸能力の共通の根にあるものの一つに、共感がある。共感は、人間が知能を発達させ、文化を創造・継承する上で、重要な役割を果たしてきた能力である。欲求のうち、所属と愛の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求は、共感の能力の養成や発揮によってこそ、実現される。共感の対象・範囲は、親子、夫婦、兄弟姉妹から親族、友人等へと拡大され得る。また、共同体の内部の人々へ、さらに共同体の外部の人々へも拡大され得る。共感が広く諸集団を貫いて人類全体に働くならば、世界人権宣言にいう「人類家族」における共感と呼ぶことができるだろう。

人格の成長・発展は、より豊かな共感の能力をもたらす。またそれによって共感を共通の根とする諸能力も発達する。相手の身になって感じ、考えることができる能力が大きく発達するならば、人々は相互の権利を承認し合い、また保障し合うようになり、権利は、集団の目的のもとに責任・義務を伴ったものとして発達するだろう。そして「発達する人間的な権利」としての人権は、人間の人格的な向上とともに発達していくだろう。

21世紀の人権論は、人間は、共通の根に共感を持つ諸能力を集団的に発揮する人格的存在であるという人間観を取り入れるべきである。共感の能力に注目することによって、個人の人格を尊重しつつも、個人本位・権利志向ではなく、家族・民族・国家、責任・義務・目的を重視した人権論の構築が可能になるだろう。

 ところで、本稿でしばしば書いてきたように、諸文明・諸社会における価値観・人間観には、家族型による価値観が深く影響している。家族型のうち平等主義核家族、絶対核家族、直系家族、共同体家族の4つの主な類型における自由・権威、平等・不平等の価値の組み合わせによる価値観及びそれに基づく人間観の違いが、人類の相互理解を阻み、誤解や対立を生む一つの原因となっている。これらの家族型を、絶対核家族なり共同体家族なりに強制的に統一することはできない。それゆえ、家族型的な価値観に違いがあることを互いに認識し、自らの価値観を相対化して、家族型のレベルの価値観より、もっと基本的な、人類として共通している価値のレベルに立って、相互理解を進める必要がある。そのためにも、本稿に書いた個人性と社会性、生物性と文化性、身体性と心霊性、人格、共感という要素を考慮した人間観を目指す必要がある。

 

●人間らしい生活とはどういう生活か

 

次に、人間らしい生活とは、どういう生活か。それは、人間らしさが保たれているか、または実現している生活である。人間らしさは、人間とは何かという問いから導かれるべきものである。私はその問いについて先に私見を述べたが、人間の本質についての認識が異なれば、人間らしさについての考え方も変わる。人間の自己認識は、歴史的・社会的・文化的に多様であり、また変化してきている。人間らしさという価値観も同様に多様であり、また変化する。人類は、それぞれの時代やそれぞれの文明・文化の違いを超えて、普遍的なものとしての人間らしさという概念に、未だ到達していない。このような現状において、人間らしさ及び人間らしい生活について考える時、私が一つのポイントと考えるのが、世界人権宣言に記された「人間の尊厳」の概念である。

人間の尊厳については、第1部で基礎的な考察を行った。人権の内容並びに各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利との関係で改めて述べるならば、人間らしさとは人間の尊厳が保たれている状態、人間らしい生活とは人間の尊厳が実現している生活ということができよう。だが、なぜ人間は尊厳を持つのかについて、世界人権宣言は記していない。諸文明・諸民族の代表が集まって合意した宣言の発表後、67年以上たつが、未だ人類は共通の認識を確立できていない。

私見を述べると、尊厳は価値に関する概念である。人間は生命的な価値以外に文化的な価値や心霊的な価値を生み出す。そのことによって尊厳が認められる。人間の尊厳は、人間が生物的・身体的存在であるということのみからは、出てこない。生物的・身体的存在自体に価値があるとすれば、動物・植物・細胞等に至るまでの尊厳を言わねばならない。人間としての、動物・植物・細胞等とは異なる、人間自体の価値を言うのであれば、生物的・身体的存在の次元ではなく文化的・心霊的存在の次元に価値が認められねばならない。文化的・心霊的な価値を生み出す者としてこそ、他の事物や動植物等の生命体とは異なる人間の尊厳が認められる。そしてそれらの価値を生み出し、受け継ぐものとしての人格についても価値が肯定されねばならない。人間の尊厳は、個人の人格の価値と切り離しては成立しない。

人間を単なる生物的・身体的存在と認識するなら、必要なものはミラーが基本的ニーズに挙げるうちの食物、水、衣服、安全な場所、身体的安全、医療だけでよいだろう。しかし、人間は文化的・心霊的存在でもあると認識する時、ミラーが基本的ニーズに含めるそれ以外の要素、すなわち教育、労働と余暇、移動や良心や表現の自由等が注目される。これらは文化的または心霊的な次元に関わるものである。セン及びヌスバウムのケイパビリティも、単に生物的・身体的次元の潜在能力ではなく、文化的・心霊的次元の潜在能力でもある。文化的・心霊的次元の潜在能力の発揮のためにも、その発揮に必要な条件として、最低限保障を目指すべき権利を明確化することが求められる。その際、ポイントとなるものもまた、人間の尊厳である。

ミラーの基本的ニーズに関して私見を述べると、文化的・心霊的な存在としての人間には、家族的生命的な集団への所属が必要である。その教育は、家族的な人間関係を持つ集団において行われる。そうした集団に所属しなければ、言語・習慣等は習得できない。教育は、人間の特徴である言語による学習を含む。文字と数字を理解・使用する識字力の習得が教育の基礎をなす。セン及びヌスバウムのケイパビリティにおいても、集団における教育が重要である。ミラーの挙げる移動・良心・表現等の自由は、センが人間開発の目的とする自由の一部となるものである。ミラーは、これらの自由も基本的ニーズとする。これらの自由は、文化的・心霊的存在の次元のものである。人間は、自由を得ることで、文化的・心霊的な諸価値を生み出す活動を行う。

ここで重要なのは、人間の尊厳が実現しているという意味での「人間らしい生活」は、個人の自由の拡大のみによって得られるものではないことである。人間は集団で生活する動物であり、集団の生活が向上して初めて、集団の成員である個人の生活も向上する。個人の生活の質が向上するためには、集団全体の生活の質が向上しなければならない。個人の自由は、私的な善である。個人の自由の拡大は集団の目的の一つではあるが、最高目的ではない。最高目的は公的な善である。集団の公共善が実現されることによって、個人の私的な善も同時に実現される。

人間には、単に健康に成年まで生きられ、読み書き計算ができ、労働や生殖ができるというだけではなく、精神的・心霊的な目標を持って生きることが必要である。そして、人々が個々に自己実現・自己超越を目指すだけでなく、相互的・共助的に自己実現・自己超越を目指すサイナジックな社会が実現すれば、公共善と私的な善が同時に実現されることだろう。

人間が互いに権利を認め、これを尊重し、保障し合うとすれば、その権利は人間の生み出した価値を尊重し、さらに創造的に発展させるために、行使されねばならない。人権は、権利のための権利ではなく、その行使には責任が伴い、義務によって裏付けられ、集団の目的に沿って、活用されねばならない。多くの人がそのような認識を以て、権利の行使をし、義務を実行するならば、人々が求める「人間らしい生活」が広く実現するだろう。

ところで、人間が生み出すものに価値を認め、人間に尊厳を認める者は、人間自身である。仮にこの宇宙に人間以外に人間の尊厳を認める知的生命体及び霊的存在があったとしても、人間が人間自身に尊厳を認め、それを保持しようとしなければ、人間は自ら生み出した価値を見失い、破壊さえするだろう。自ら生み出した価値の破壊を行う時、人間は精神的に退化し、滅亡に向かうだろう。人類は未だ成長・発展の途上にある。さらなる精神的な進化の道を進むか、逆に退化・自滅の道を進むかーー人類の運命は人類自身の意思にかかっている。

 

●人権の定義の拡張

 

さて、人間とは何か、人間らしい生活とはどういう生活かという問いについての項目を結ぶに当たり、これらの問いを踏まえて、人権に関して拡張した定義を記しておこう。

基本的な定義としては、人権とは普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、歴史的・社会的・文化的に発達してきた「人間的な権利」である。このような権利として、人間が相互に権利を承認してきたのが人権の実態であり、人権とは人間の相互承認によって基礎づけられる権利である。

この基本的な定義に正義論を踏まえた要素を加えるとすれば、人権とは公正としての正義を求める権利であり、自由の拡大と平等への配慮を求める権利である。また人権とは公正としての正義の実現のために人間開発と人間の安全保障を求める権利である。人権とは、人間の尊厳が実現されて「人間らしい生活」を送る権利である。「人間らしい生活」の質の向上を実現することが人間開発であり、また不利益を被るリスクを除き、生存のための最低限の安全を保障しようとするのが、人間の安全保障である。

「人間らしい生活」における「人間らしさ」の観念は、集団的及び個人的な人格的成長・発展や社会の持つ価値観の変化、経済・社会・文化・文明の発達とともに変わっていく。一定不変のものではない。これと同様に、「発達する人間的な権利」としての人権における「人間的な」という観念もまた一定不変ではなく、同様に変化していく。

人間とは自らに「人間とは何か」と問いながら、成長していく存在であり、「人間らしい生活」の実現に努めながら、その生活の中で成長していく存在である。

 

●最低限保障を目指すべき権利

 

 人間とは何か、人間らしい生活とは何かという問いについて述べたところで、各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利について、私見を書きたい。

最低限保障を目指すべき権利を検討するには、最初に人間の欲求とそれを実現する能力、能力を発揮するための条件について述べる必要がある。

権利とは、能力の行使が社会的に承認されたものであり、能力に関する考察は、そのまま権利論につながる。

 人間は生物的・身体的・文化的・心霊的存在としての欲求を持つ。アブラハム・マズローは、多くの事例研究を基にして、人間の欲求は5つに大別されるという欲求段階説を唱えた。

 

@ 生理的欲求: 動物的本能による欲求(食欲、性欲など)

A 安全の欲求: 身の安全を求める欲求

B 所属と愛の欲求: 社会や集団に帰属し、愛で結ばれた他人との一体感を求める欲求

C 承認の欲求: 他人から評価され、尊敬されたいという欲求(出世欲、名誉欲など)

D 自己実現の欲求: 個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求。さらに、人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望

 

マズローは、このような人間の欲求が階層的な発展性を持っていることを明らかにした。生理的な欲求や安全性の欲求が満たされると、愛されたいという欲求や自己を評価されたいという欲求を抱くようになり、それも満たされると自己実現の欲求が芽生えてくるというのである。そして、自己実現こそ人生の最高の目的であり、最高の価値であるとマズローは説いた。また、人間が最も人間的である所以とは、自己実現を求める願望にあるとした。

 人間には、これら5つの欲求を実現する能力がある。その能力は、生きるための能力であり、かつ、よりよく生きるための能力である。人間は、集団生活を送る動物であり、協同して能力を発揮して、欲求の実現に努める。集団における各個人は、能動的に自己及び相互の欲求を実現する能力を持つ。同時に、受動的に欲求実現に助力を求める他者を支援する能力を持つ。支援を求める者には、幼児、病者、貧困者、障害者、高齢者等がある。

 センのケイパビリティ(潜在能力)とは、人間の欲求を実現する能力である。人間の能力は、それらの欲求を相互的・共助的に実現するために備えられている。また、能力を発揮できるように親が子を養育し、男女が協力し、年長者が年少者を教育し、成員が相互的・共助的に支援するのが、人間の生活であり、活動である。

 ミラーの基本的ニーズとは、欲求を実現するケイパビリティを発揮するための基本的な条件である。ミラーは、基本的ニーズは、食物や水、衣服や安全な場所、身体的安全、医療、教育、労働と余暇、移動や良心や表現の自由等を含むとする。ケイパビリティには、基本的潜在能力とそれ以外の潜在能力がある。私は、基本的潜在能力を発揮するための基礎的な条件には、空気、水、食糧、安全な住居、家族的生命的集団への所属、言語・計算に関する基礎的な教育があると考える。基本的以外の潜在能力を発揮する追加的な条件には、より高度な教育、労働のできる環境、健康を維持できる医療、共同体の意思決定への参加等を挙げる。基礎的な条件は、ニーズのうち must つまり必ず必要な条件であり、追加的な条件は want つまり、できれば欲しい条件である。

 これらの能力発揮条件は、欲求を実現するための条件である。欲求のうち、生理的欲求と安全の欲求の充足は、人間が生物的・身体的存在として生存・生活していくために最低限必要な条件である。だが、人間は単なる生物的・身体的存在ではない。人間は文化的・心霊的存在でもある。文化的・心霊的存在として、物質的及び精神的な文化を継承・創造し得るには、家族的生命的な集団に所属し、言語・習慣・道徳等の基礎的な教育を受けられる環境が必要である。これは、所属と愛の欲求に関わる。空気、水、食糧は生理的欲求、安全な住居は安全の欲求、家族的生命的集団への所属及び言語・計算に関する基礎的な教育は所属と愛の欲求を実現するために不可欠の条件である。

私は、これらの欲求を実現するための基本的条件に関する権利を以て、各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利と考える。人間は、家族を形成し、集団生活を送る動物ゆえ、そこまでが他者・他集団の支援の範囲としての目標となる。家族的生命的な集団を形成し得ないと、集団としての活動もできない。家族を中心とした集団の形成、あるいは集団への所属が出来れば、あとはその集団が成員の権利を保障すればよいのである。承認の欲求、自己実現の欲求は、その集団が実現を図るべきものである。もちろん集団が既に形成されている場合は、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求を含めて、集団が成員の権利を保障すべきである。支援は、集団がそれを為し得るように助力するものである。他者・他集団による支援の範囲は、最低限保障を目指すべき権利として、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求に関する権利まで、と私は考える。

承認の欲求は、集団を形成する人々の間で実現すべきものである。自己実現の欲求も同様である。これらの欲求に関する権利は、各集団において保障されるべきものである。ここにおける形成と所属の対象としての集団とは、基本的には家族であり、ネイションが形成されている場合はネイション、エスニック・グループが形成されている場合はエスニック・グループである。そうした集団は、家族の協力に重ねて成員の欲求の実現を支援し、欲求実現の権利を保障する。その集団が機能していなかったり、崩壊していたりする場合に、他者や他集団が支援して最低限保障を目指すべき権利の実現を支援すべきというのが、私の主張するところである。そしてその範囲を、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求に関する権利まで、と考えるのである。

次に、各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利について、権利論の観点から検討したい。先に書いた欲求と能力の関係は、そのまま権利論の前提となる。まずあらためて強調したいのは、権利の種類及び内容の項目で述べた自由権・参政権・社会権及び「発展の権利」等を一括して、「人間が生まれながらに持つ権利」という意味で人権と呼ぶことは不適当だということである。人権とは「発達する人間的な権利」であり、ここでいう最低限保障すべき権利は、その意味での「人間的な権利」と言える。

自由権・参政権・社会権は、国家(政府)があることが前提になっている。自由権は国家の統治機関である政府の干渉・制約からの自由を確保する権利、参政権は政府の権力に参加する権利、社会権は政府に積極的な関与や給付を求める権利である。これらは、ほとんどが国家と国民の関わりにおける権利である。また「発展の権利」は、集団が発展する自由への権利であり、多くの場合、ネイションの形成・発展を目標とする。

ある国の国民であることを示す資格として、国籍がある。一国において非国民に国籍を与えることは、自国の国民と同等の権利を与えることである。国籍は、国民の権利証である。この点を加えて、権利について言い換えれば、自由権は、自分が国籍を持つ国の法によって保障される自由への権利である。参政権は、自分が国籍を持つ国の政治に参加する権利である。社会権は、自分が国籍を持つ国家の政府に関与や給付を請求する権利である。そして、それらの権利を保障するものは、その国民が所属する国家の政府である。それゆえ、保障される権利の内容は、当然国によって違う。こういう権利は、普遍的に人間が生得的に持つ権利という意味での人権とは言えない。ここで保障されるのは、あくまで国民の権利である。

近代国家における自由権・参政権・社会権以外に、近代西欧以前及び以外の社会にも、権利は存在した。家族・氏族・部族においても、組合・団体・社団においても、各々その集団の成員に権利が認められてきた。その権利は、ほとんどが集団の成員の権利である。国民の権利は集団の成員の権利が発達したものであって、集団とは別に個人の権利が発達したものではない。

こうした事情を踏まえたうえで、私は諸国民の権利とは別に、最低限保障を目指すべき権利を検討すべきと考える。最低限保障を目指すべき権利として、私は、空気、水、食糧、安全な住居、家族的生命的集団への所属、言語・計算に関する基礎的な教育を得られる権利を挙げる。なぜこのように考える必要があるのか。人々が権利として主張し得るのが各国における「国民の権利」だけであれば、専制国家・独裁国家における人民の権利の擁護や拡張を訴えることはできない。私は、それぞれの国の国民の権利とは別に、所属する国家の違いを超えて、広く保障を目指すべき権利を設定し、各国及び国際社会は、その実現に努力することが必要だ、と思うのである。

最低限保障を目指すべき権利とは、国家または集団がその成員に対して保障すべき権利であり、またそうした保障を受けられない例外的な状況にある人々に対しても最低限追求されるべき権利である。この権利は、「人間が生まれながらに平等に持つ権利」ではない。普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、人類が道徳的な目標として実現すべき「発達する人間的な権利」である。

ここで道徳的とは、法律的と対比したものである。道徳とは、ある集団で、その成員の集団に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体である。道徳には、集団の規模と原理の及ぶ範囲によって、家族道徳、社会道徳、国民道徳があるが、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の実現を追求するには、人類規模における道徳、人類道徳を構想する必要がある。

道徳的目標とは、法律的課題とはできないことを意味する。国家間の条約等を国際法と呼ぶが、国際法は各国が定める国内法より上位の法とは言えない。国際法は、国内法に比べて、実力による強制装置が組織化されておらず、制裁の実施も国家間の力関係や政治的な駆け引きに左右される傾向がある。条約等は加盟国に一定の影響力はあるが、執行に関して、物理的実力の行使による強制力がない。違反した場合の罰則がない。各国に属する個人にも、直接的な義務がない。こうした規範は、法律的規範ではなく、道徳的規範である。主権国家の上に立つ地球的・統一的な政府は、存在しない。こうした国際社会の現状においては、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の実現は、道徳的目標でしかありえない。

「国民の権利」とは別に「発達する人間的な権利」として、人権を設定するとすれば、その定義や範囲を明確にしなければならない。現在の世界でどこの国でも最低限保障されるべき「人間的な権利」と、各国において国民が定めるべき「国民の権利」とを区別し、混同や不当な侵食を防ぐ必要がある。

人権を広く保障すべきという方向は、権利を主に参政権・社会権へと広げる方向であり、人権の内容を限定すべきという方向は、主に自由権に限定する方向である。私は、歴史的に拡大してきた人権の概念を再定義し、自由権を主としたものに改めるべきと考える

国際人権規約は、「経済的、社会的、文化的権利に関する国際規約」(A規約)と「市民的、政治的権利に関する国際規約」(B規約)に分かれている。わが国では、A規約に定める権利を社会権と総称し、この規約を社会権規約と呼ぶ。またB規約に定める権利を自由権と総称し、この規約を自由権規約と呼ぶ。自由権と訳される「市民的権利(civil rights)」は civil という市民・公民・国民に関する形容詞を付す権利である。国家・政府の存在を前提としている。また「政治的権利(political rights)」は参政権と訳され、自由権と区別することができる。それゆえ、B規約に定める権利は、自由権と参政権に区別し、また自由権を「人間的な権利」と「国民の権利」に分けて検討する必要がある。それによって、狭義の自由権を最低限保障を目指すべき「人間的な権利」とし、広義の自由権並びに参政権及び社会権を「国民の権利」に分類し直すべき、と私は考える。

最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の内容として、私が考えるのは、空気、水、食糧、安全な住居、家族的生命的集団への所属、言語・計算に関する基礎的な教育を得られる権利である。これらは、一般的にいう自由権の一部であり、自由権の主要部分をなす精神・生命・身体・財産の権利に当たる。これに比し、言論・表現・集会・結社等の自由権は、社会的な活動に関する権利であり、国民社会に参加しなければ保障されない。これらが本来の「civil rights(市民権・公民権)」である。前者を狭義の自由権、後者を広義の自由権とすれば、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」は、狭義の自由権に当たる。欲求と能力の関係から言うと、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求を実現する能力の発揮に関する権利である。私は、先に挙げた権利を最低限保障を目指すべき権利と考えるが、それらは基本的潜在能力を発揮し得る必要条件を得られる権利であり、またその能力の発揮を妨げる生存への脅威、奴隷・性的暴行・拷問・略奪等からの自由への権利でもある。これらの権利の保障は、生きる上で最低限必要な物資と環境を提供することである。それゆえ、私の挙げる最低限保障を目指すべき権利は、「発達する人間的な権利」の基本的なものとして、基本的人権と呼ぶことは可能である。

これに対し、広義の自由権とともに参政権・社会権は、「人間的な権利」に含めることはできない。集団が解体・消滅もしくは孤立していれば、集団の意思決定に参加する権利、つまり参政権に当たる権利は、存在し得ない。また社会権は、国家を前提とした国民の権利ゆえ、当然、存在し得ない。自由権のうち精神・生命・身体・財産に関する権利が、「人間的な権利」として最低限保障を目指すべきもの、と私は考える。この権利を最低限保障を目指すべき権利として、各国の国民だけでなく例外的な状況にある人間をも対象として実現を図ることを、人類は道徳的な目標とすべきである。

最低限保障を目指すべき「人間的な権利」を超える権利については、各国家や各集団がそれぞれ「人間らしい」「人間的な」と考える権利の発達を目指すのでよい。目指す内容は、集団的及び個人的な人格的成長・発展の程度や社会の持つ価値観、経済・社会・文化・文明の発達度合によって異なる。また、この権利は、集団外の人間や非国民に対して、無差別に与える権利ではない。

 

●例外的状況の人間への対応

 

私は、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」について、各国で国民に保障するとともに、諸国家間でその保障を支援し合うべきものであると考える。また、例外的な状況にある人間に対して、諸国家が一定の条件のもとに恩恵として付与すべきものと考える。

例外的状況とは、奴隷状態にある者、難民、無国籍者、国内避難民、国内被迫害者、人身売買・誘拐等の被害者等に係る状況である。

第1の例は、奴隷状態にある者である。古代ギリシャやローマの奴隷制社会には奴隷がいた。その多くは征服・支配された異民族と考えられる。また、15世紀末以降、西欧諸国が非西欧社会に進出して、白色人種が有色人種を奴隷とした。これは征服・支配による。奴隷には、支配集団の成員と同じ権利はない。それは、奴隷にされる前の集団における権利を剥奪された状態である。アメリカでは、南北戦争後、憲法修正第13条で奴隷解放の布告が明文化され、奴隷制度が廃止された。それによって、奴隷に普遍的・生得的な人権を認めた。だが、正しくは、もともとの集団的な権利の回復を図るという論理で行うべきものだった。奴隷にされる前の状態に戻せば、元の集団における権利を回復し得る。普遍的・生得的な権利を「人間の権利」として認めるのではなく、集団の権利、及びその成員の権利を回復することが、奴隷解放である。

今日の世界では、イスラーム教スンナ派過激組織ISIL(自称「イスラーム国」)が、奴隷制の復活を唱え、異教徒を奴隷としている。許しがたい蛮行である。それを宗教の教義の恣意的な解釈によって正当化することは、その宗教内において厳しく糾弾・是正すべきことである。また、奴隷とされている異教徒の所属国及び国際社会は、その救出・解法に努めねばならない。

 第2の例は、難民である。難民条約(1951年)は、難民について、第1条A(2)に「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」と規定している。

 要約すると、難民の要件は、迫害、国籍国の外にあること、及び国籍国の保護の喪失の3つである。国籍国とは、自分が国籍を持つ国をいう。迫害の理由は、人種、宗教、国籍、特定の社会集団または政治的意見の5つとされる。こうした要件を満たす者を、狭義の難民という。条約難民とも呼ばれる。

 国内にとどまっている者は、難民条約がいう難民ではない。戦争や内乱、自然災害によって国を追われる者も、難民条約がいう難民ではない。また、たとえ、難民条約に照らして、難民と認定されても、国家は当該難民を受け入れる義務を負うわけではない。受け入れるかどうかは、各国が領域国として独自に主権的判断に基づいて決定し得る事項とされている。

 これに対し、外国からの軍隊の侵攻や内戦、食糧危機などにより生じた国内避難民、人道上の難民等を、広義の難民という。国内避難民とは、武力紛争や内乱、自然災害、大規模な人権侵害等によって、移動を強いられているものの、国境を越えていないために難民と分類されない者をいう。国籍国の保護を期待できないという点では、国外に出た難民と同じ境遇にある。私は、迫害・戦争・内乱・政府崩壊・災害等によって、国籍を剥奪されたり、喪失したりした無国籍者を難民に加えるべきと考える。

 人道上の難民は、何を以て「人道」また「人道的」というかによって、基準が大きく異なる。「人道主義」は、英語であれば humanitarianism の訳であり、近代西洋思想に現れる humanism (人間主義、人間中心主義)とは区別される。「人道的」は humanitarian の訳であり、humanitarian aid は「人道援助」と訳す。humanitarian は「人道主義的」と訳され、「人間として為すべき」「人間としてあるべき」という道徳的な意味を含む。これらの概念の中核には、human という形容詞がある。ロングマンの英語辞典は、human について「belonging to or relating to people, especially as opposed to animals or machines」と説明する。すなわち「動物や機械ではなく、人間に所属すること、または人間に関すること」である。だが、human には、価値の概念が含まれている。何を以て、human というかについては、何を以て「人間的な」「人間らしい」とするかという価値的な基準と関係する。それゆえ、先に書いた「人間とは何か」「人間らしい生活とはどういう生活か」という問いにどう答えるか、と human 及び humanitarian の意味は、深く関係している。

難民条約の規定によると、人種、宗教、国籍、特定の社会集団または政治的意見により、国内で迫害を受けている者は、難民ではない。多くの場合、国内において大規模な迫害が行われている結果、国外に逃亡する者が出るのだが、国内にいる限り、難民とはみなされない。例えば、中国において弾圧を受けているチベット族・ウイグル族、北朝鮮で政治的犯罪によって収容施設に収容されている者は、難民ではない。私は、国内被迫害者と呼ぶ。これは、例外的状況の第3の例となる。

第4の例は、人身売買されて他者の所有物として拘束されている国籍不明の人間、外国に誘拐された身元不明の子供等を挙げることができる。彼らは、国籍国や所属する集団から切り離されている点で、難民とはまた異なる状況にある。その多くは、無国籍者である。

難民の集団は、もともと集団としての権利を持っていた。難民の権利を擁護することは、「人間が生まれながらに平等に持つ権利」の擁護ではなく、集団の権利及び集団の成員の権利の擁護である。

所属していた集団が解体または消滅しているか、もしくは集団から全く孤立している状態にある個人にも、人間として生きる能力はある。動物でも機械でもなく、人間として持つ欲求を実現する潜在能力を持ってはいる。だが、能力の行使を承認し、それを擁護する他者や集団との関わりを欠いた状態では、生きる能力を権利として発揮し得ない。能力は、能力の行使を承認する人間がいて、初めて権利となる。人間として生きる能力の承認を受けたとき、その個人は生きる能力を権利として持つ。誰かが例外的な個人に権利を認めると主張したとき、その人が承認した権利を相手は持つ。ただし、この権利付与が私人間にとどまれば、安定的な権利とならない。これを公的に承認して保障し得るものは、特定の国家の政府である。その政府がその個人を難民とか亡命希望者として受け入れた場合、一時的に一定程度の権利を保障する。この場合、多くは元の集団で権利を回復できるように支援する。それが不可能な場合で、またその国家の定める一定の条件を満たす場合は、その国家の政府の判断で、継続的な保護または国籍を与えることができる。その個人に国籍を付与するならば、それと同時に国民の権利を与えることになる。その権利は、普遍的・生得的な人権ではなく、その国の国民の権利、国民の特権を与えたものである。

 「人間の権利」を保障するのではなく、「国民の権利」を与えるのである。逆に、その国家の判断として「国民の権利」を与えないという自由もある。それは、その国家を形成する人々が集団として持つ権利であり、他の集団及び個人によって、尊重されなければならない。

 

●恩恵として「人間的な権利」を与える

 

例外的な状況にある人間は、生きる上で最低限必要な物資と環境を自力で得ることができない。食べるもの、水、着るもの、居る場所等を自分で得ることができず、生きる能力は持ってはいるが、自力で生活する能力を発揮できない。また、家族的生命的な集団に所属できないか、またはその集団が機能しておらず、集団において生存・生活することができない。こうした状態の人間は、他者から支援や保護を受けなければ、生存することや幸福を追求することができない。

 一方的に支援や保護を受けるのみという状態にある人間の中には、乳幼児、重病患者、極貧の困窮者、重度の障害者、要介護の高齢者等があるが、彼らは家庭や集団や国家において、家族の一員、集団の一員、国民の一員として権利を保障される。その点が、例外的状況にある人間とは異なる。

例外的な状況にある人間の場合は、自力で生活することができない。恩恵によって、飲食物・衣服・居場所等を提供しなければ生きられない。飲食物・衣服・居場所等の提供は、生存・生活に必要な最低限の物資と環境を恵み与えるものである。また、例外的な状況にある人間は、家族的生命的な集団に代わるつながりをつくるための助力を必要とする。その助力も、支援や保護を受ける側は、当然の権利としてではなく、相手に慈善を請い求めるものである。このような関係において、もし支援や保護を行う側が、その相手に精神・生命・身体・財産の権利を認めるとすれば、それは最低限保障を目指すべき「人間的な権利」を恩恵として与える行為である。恩恵としての精神・生命・身体・財産の権利の付与は、道徳的な行為である。

 こうした道徳的な行為を単に自発的なものにとどめず、例外的状況における個人に最低限保障を目指すべき「人間的な権利」を付与し、それを保障する制度を国際的に作り、迫害、強制労働、性的暴行、虐待虐殺等を防ぐことが必要である。例えば、北朝鮮における政治犯収容所での強制労働、セルビア・ヘルツェゴビナでの民族浄化、中国での法輪功の生体臓器取り出しの防止及び停止等を、当該政府に対して要求し、権利の尊重を図るものである。

例外的な状況にある個人に権利を付与することは、もともとすべての個人に普遍的かつ生得的な権利があるということには、ならない。こうした考え方は、歴史的・社会的・文化的に発達してきたものだからである。それぞれの個人は、集団において生まれ、集団に属し、集団によって権利を与えられる。集団の成員としての権利を持つ。集団において精神・生命・身体・財産の権利は絶対的なものではない。すなわち、不可侵の権利ではない。集団の決まりごとに違反する行為に対しては、法の規定のもとに、精神的自由への権利については規制が、生命的自由への権利については殺害が、身体的自由への権利については拘束が、財産的自由への権利については没収や罰金等が課せられることがある。その集団の決まりごとに従い、秩序を維持するために、こうした権利の制限や剥奪を行う権利が認められる。人間の個人性と社会性の二側面においては、社会性に優位がある。それは、人間は、集団生活を営むことなくして生活・生存できない生物だからである。個人の権利は、集団の秩序・存続・繁栄に寄与する範囲内でのみ、認められる。例外的な状況にある人間に対しての権利の恩恵的付与は、そうした集団が解体・消滅しているか、または集団から孤立している個人への道徳的な支援である。

先に道徳には、集団の規模と原理の及ぶ範囲によって、家族道徳、社会道徳、国民道徳があるが、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の実現を追求するには、人類規模における道徳、人類道徳を構想する必要があると書いた。人類は未だ人類道徳を確立できていない。国家・宗教・文化・文明等を越えて、すべての集団と個人に共通する道徳を形成できていない。「人間の尊厳」という人権思想の要となる観念についてさえ、共通の認識を確立できておらず、集団の権利と個人の権利の関係についても明確な合意を作り得ていないのだから、当然のことである。人類道徳の形成には、人間観の転換が必要である。その課題については、本章の最後の項目で述べる。(ページの頭へ)

 

(4)人権発達のための実践

 

●人権発達のための実践を促進する

 

人権の内容を検討したところで、次に人権の発達のための実践について書きたい。

人権と称される権利は、歴史的・社会的・文化的に発達してきた「人間的な権利」である。その実態は、主として国民国家における国民の権利である。国民の権利は法的権利であり、法的義務を伴う。これに対し、国際社会における人権は、法と道徳の中間に位置する性格を持っており、法的権利というよりむしろ社会的権利である。人権を社会的権利と考えれば、人権保障のための支援は、法的義務ではなく、道徳的義務である。また、人権の発達を目指すには、国際社会の主要な行為主体である各ネイションにおいて、国内的正義に基づいて国民の権利を発達させることが基本である。そこにおいて、各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利の実現に取り組む。そのうえで、ネイションを基礎とする国際的正義に基づき、国際社会での個人の権利を最低限度に保障することを目指すべきである。この最低限度の権利保障は、国際社会では例外的な状況にある人々が主対象となる。その権利は、各国が一定の条件のもとに恩恵として付与すべきものである。各国における外国籍の移民は、本国の政府がその国の国民として権利を保障すべきであり、居住国の政府は自国民と非国民を権利において区別してよい。

このような見解のもとに、私が人権を発達させるための実践にあたって重要と考えることを12点述べたい。既に書いたことと重複する部分もあるが、整理のためにそれも含めて書くことをお断りしておく。

 

@ 権利と主張を区別する

A 法的な義務と道徳的義務を区別する

B 人道主義的義務とは何かを明確にする

C 結果責任と救済責任を明らかにする

D 人間の他者依存性と自己責任性を理解する

E 自立自助を促す支援をする

F 人間開発を促進し、人間の安全保障を強化する

G 現実を踏まえ、漸進的な改善を目指す

H 必要な費用を算出し、分担・管理・運用の仕方を決める

I 国家間の過度な不平等の是正に取り組む

J 国家の役割が重要であることを認識する

K 米国の価値観の変化と中国の民主化を促す

 

 これらについて、次に記す。

 

●人権発達のための実践で重要なこと

 

@ 権利と主張を区別する

 

 人権発達のための実践において、まず権利については、権利と主張を区別することが必要である。

今日人権について世界的に大きな影響力を持つセンは、「人権の宣言とは(略)道徳的な要求の表明とみなすべきだ」と言う。センによれば、人権は道徳的要求が政治的・社会的な運動を通じて、法的な権利として実現されてきたものである。道徳的要求は、単なる主張ではなく、道徳的な権利であり、必ずしも法制化する必要はなく、法制化されていなくとも、権利として擁護されるべきだ、という考えをセンは示す。

センはまた「人権を強力な道徳的主張と見なすなら、それらの道徳的要求を促進するうえで異なる手段を考えることに寛容であるべき理由が存在する。人権の倫理を進める方法と手段は、たとえ、しばしば法制化が進むべき正しい道であるとしても、必ずしも新しい法律を作ることに限定される必要はない」と言う。

こうしてセンは、道徳的な要求を権利とし、それに応じた義務を説く。私は、センの考え方は権利の概念をなし崩しにするものだと思う。道徳的な要求をすべてそのまま権利だとすることはできない。権利は、能力の行使が社会的に承認された時に権利となる。能力行使を権利として承認すれば、その権利を実現する義務が生じるが、承認なき要求は、権利ではなく主張に過ぎない。社会的に承認されていない主張をも権利とするのは、要求する側の一方的な主張に与するものであり、権利に必要な双方の合意を欠いている。たとえ、権利関係・権力関係における劣位者、弱者、困窮者等による切実な主張だとしても、一方的に主張を発するだけで権利となるとするならば、その逆の立場からも、主張すなわち権利という論理が対置されることになる。

世界人権宣言は、単なる宣言であって法的拘束力を持つものではない。宣言を基に作られた国際人権規約も、締約国に対して出される国際的監視機関の所見に法的拘束力はなく、勧告的な効果を持つにとどまり、強制力はない。国際人権規約に定める権利であっても、国内法におけるような法的権利とはなっていない。そのような状況で、主張をそのまま権利とすることは、権利をめぐる見解に対立を生じ、混乱を招く。権利と主張は、区別しなければならない。

 

A 法的な義務と道徳的義務を区別する

 

次に、義務について、法的な義務と道徳的な義務を区別することが必要である。正義の中に、国内的正義と国際的正義がある。各ネイションにおいて、国内的正義の一部は法として制度化されている。「正義=法」を履行しなければ、強制的に実行を求められ、実行しなければ罰則が科せられる。だが、現在の国際社会では、「正義=法」としての法は、確立していない。国際法はある。だが、国家の主権に当たる地球的統一的な政治権力はなく、法執行の強制力は存在しない。法に定められた罰則もない。履行しなくとも刑罰を受けることのない義務は、法的義務ではない。それゆえ、現在の国際社会における義務は、法的な義務ではなく、道徳的な義務である。

センは、義務には完全義務と不完全義務があるとする。完全義務とは、「特定の人が行わなければならない特別な行為として、すっかり明確化された義務」である。これに対し、不完全義務は、「完全義務を超えた倫理的な要求」であり、「人権を脅かされている人に適切に支援をほどこせる立場にいる人すべてに、真剣な考慮を求める要求が含まれている」とする。

完全義務とは、契約や約束、法律の規定等によって課される義務である。法的権利に対する法的義務である。これに対し、不完全義務とは法的義務ではなく、道徳的要求に対する道徳的義務である。センは、不完全義務の履行を促すことが、世界の貧困問題や不正義等の解決のために有効だと考えている。

私見を述べると、世界的な貧困や不正義等の解決のために、富裕国の国民の良心に訴え、慈善行為を求めることは有効である。だが、個々人の慈善行為は、各国の政府及びその国民の自国・自国民に対する努力を前提とし、その努力を外から支援するという補助的なものにとどまる。国際間の過度の不平等の是正も、同じく道徳的義務である。履行しなければ、第三者が制裁を課しても差し支えないという強制力を持つ法的な義務ではない。

 

B 人道主義的義務とは何かを明確にする

 

次に、道徳的義務については、人道主義的義務(humanitarian duty)とは何かを明確にする必要がある。世界には、さまざまな宗教・哲学・思想・信条が存在し、個人や集団によって異なる様々な道徳観がある。道徳的義務は、それぞれの道徳観に基づいて考えられる義務である。

センは、カント主義的な思想に基づいて、不完全義務の履行を促す。コスモポリタンは、グローバルな平等を説いて、普遍的な義務の実行を呼びかける。彼らに共通するのは、人道主義的な考え方であり、彼らの説く義務は、ミラーのいうところの人道主義的な義務に当たる。

人道主義的な義務の実行を説くには、人道主義とは何かを明確化しなければならない。そのうえで、人類普遍的な道徳に基づく義務を説かねばならない。だが、人類はそのような人類普遍的な道徳を確立できていない。

世界人権宣言や国際人権規約等は、その参加国の間では一定の国際的合意を形成したものではあるが、十分な合意には程遠い。ミレニアム宣言において、各国はGNIの0.7%を貧困の撲滅等のために拠出すると取り決めたが、取り決めを実行しない場合に、その国の政府に実行を強制したり、罰則を科すものではない。強制的に拠出金を取り立てたり、取り立てのために資産を差し押さえたりすることは行われない。合意の履行を義務としたとしても、それは、法的義務ではなく、約束したことは実行すべきという道徳的な義務である。だが、約束は必ずしも実行しなくともよいという価値観が国際社会には存在する。状況が変わり、利害関係が変われば、約束を反故にしてもよいという考え方は、国家間の外交において、しばしば見られるものであり、条約も時には一方的に破棄される。

ロールズの言うところの特定の包括的な教説に依拠せずに「重なり合う合意」を作り上げる努力を重ねなければ、人類に普遍的な道徳は構築できない。人道主義的な義務という言葉がすべての人に共通した意味を持ち得るのは、そうした人類道徳が確立した時のこととなるだろう。現時点では、いわゆる人道主義的義務とは、様々な個人や集団がそれぞれの道徳観で普遍的なものと考える義務の実行を促す呼びかけと言わざるを得ない。

人道主義的の意味は、人間とは何か、人間らしい生活とはどういう生活かという問いの答えと相関する。また、人類の道徳的な向上の度合いに応じて、人道主義的義務の内容も変化していくだろう。

 

C 結果責任と救済責任を明らかにする

 

 次に、義務と関連する責任については、ミラーが説く結果責任と救済責任を区別することが必要である。結果責任とは、「自らの行為と決断に対して負う責任」であり、「私たちの行動によって帰結する損益についての責任」である。救済責任とは、「助けを必要としている人々の援助に向かわなければならない責任」であり、「それが可能であれば被害や苦痛を取り除く責任」である。ただし、その責任を問うには、行為者が行為の結果を引き受けること、また要求される行為を実行しない場合には制裁を受けることが、行為者、その行為の対象者及び第三者に認識されていなければならない。

ミラーの言うように、ネイションにはネイションとしての集団的な責任があり、それは結果責任に応じた救済責任としなければならない。結果責任には具体的な分析が必要である。旧植民地であっても目覚ましい経済発展をしている国々もあれば、サハラ以南の国々のように貧困状態にとどまっている国々もある。これらの国々に対し、一律に結果責任を論じるのは、おかしい。また仮に何らかの結果責任があるとする場合、それがどこまで救済責任に結びつくのかが、検討されなければならない。そのうえで、誰にどの程度の救済責任があるかの配分の検討が必要である。救済責任は、法的な義務ではなく、道徳的な義務である。道徳的義務に関する判断は、結果責任と救済責任の質的・量的な検討の上で、なされるべきものである。

戦後補償の問題については、国家間で講和条約・基本条約等で合意がされ、政府間で賠償金が支払われたり、補助金が支払われたりしている場合、これ以外に個人補償を請求することは不当である。政府はネイションの代表であり、政府間で条約を交わし、実行している事柄について、ネイションはそれ以上の責任を負う必要がない。それでもなお救済責任を感じ、実行するとすれば、道徳的な慈善行為としてすべきものである。その際の道徳観は、現状において、それぞれのネイションの道徳観に基づくものである。

 

D 人間の他者依存性と自己責任性を理解する

 

次に、権利・義務・責任を帰すべき主体である人間には、他者依存性と自己責任性があることを理解することが必要である。ミラーが説くように、人間は他者に依存する存在であるとともに、自己の責任を担う存在でもある。自主的な責任遂行能力があることを軽視して、ただ他者に依存せざるを得ないものと人間を見ることは、間違っている。

人間には個人性と社会性があり、また諸個人には親子・男女・長幼等の違いがある。親は子供を保護し、子供はやがて親の世話をする。男女は、それぞれの特徴を認め合い、生殖や子供の養育でそれぞれの役割を担う。年長者は、親が子供を保護することに協力し、年少者はやがて年長者を助ける。こうした家族的な関係を基礎として、諸個人は社会において他者依存性と自己責任性の両面を持って生活している。

自己の責任遂行能力を発揮せずに他者への依存を強めるような権利の主張は不当である。そうした要求に応じることは、道徳的義務ではない。他者に依存せざるを得ない人々に、自己の責任遂行能力を発揮できるように助力することが、道徳的義務の実行の仕方である。

発展途上国を中心に、基本的なニーズを欠き、全く無力で、絶望的な状態の人々が地球上に多数いる。だが、その個人が所属する集団の内部に、構造的な支配・収奪や過度の不平等がある場合は、その集団の構成員が集団のあり方を自ら正すべきである。その取り組みを通じて、国民が実質化され、共同体としてのネイションが形成されなければ、その集団の構成員全体の権利は発達しない。

センは、飢饉が生じるのは、デモクラシーではない国々においてであり、民主的な統治が行われている国々では、飢饉は起こらないことを指摘している。公共的討議を重んじる非西洋文明の様々な社会の伝統に光を当て、デモクラシーを発展すべきことを、センは説く。そして、世界から飢饉をなくしていくためには、デモクラシーの発展が不可欠だ、と主張する。私見によれば、他国が行うべきことは、独裁国家・専制国家で生じた飢饉に対し、その度に人々を救助することではなく、その国が民主的に統治され、飢饉に陥らないように促すことである。集団そのものが持っている課題に自ら取り組むことを抜きにして、個人個人を無条件・無制限に支援することは、人間の他者依存性と自己責任性から見て適切ではない、と私は考える。

 

E 自立自助を促す支援をする

 

 次に、支援の方針を定めることが必要である。後期ロールズは、正義の原理を自由のみにしぼり、対話可能と想定される範囲の国々の間での国際的正義を追求した。そして、国際間では、「重荷を背負っている社会」への援助義務を説いた。援助義務とは、グローバルな配分的正義を目指すものではなく、「重荷を背負っている社会」が自らの政治文化を変化させ、正義に適った制度を自らの力で確立できるようになるまで、援助を提供することである。その社会が、「自由な社会」または「秩序ある社会」になれば、それ以上の援助を続けて、全面的な平等を目指す必要はないという考えに基づく。私の理解では、この援助義務も法的義務ではなく、道徳的な義務である。

発展途上国において貧困・虐待・暴行・虐殺等から人々の権利を守ることは、第一義的にはその人々が所属する国の政府の責任である。その政府の権利保障の取り組みを推奨・促進するものとして、国連等の国際機関やNPO等の国際団体の活動がある。自助が基本であり、次に友好国や支援団体による互助、さらに国際機関による公助がある。

支援のあり方としては、ある程度民主化がされ、討議による統治が行われている国家については、その国の政府によって人権が保障されることを期待できる。政府によって国民の最低限の権利が擁護されるようになれば、自然災害や紛争難民の発生などの特別の場合を除くと、国際的な人権の保障の必要性は生じない。他国からの援助は切迫した状態に置かれた人々を救済するための緊急対応や、その国の政府が所得の再配分を行う能力を得られるように支援することなどに限定される。

集団の外部からの支援が必要な場合、支援は無条件・無制限のものではなく、ある段階まで直接的な援助を行ったら、後は自助努力を促すことに切り替えるべきである。限度のない支援は、その国の政府が自らなすべきことを果たさずに、他国の援助に頼る恐れがある。支援の原則は、自立できるように支援することである。自立できないほど収奪することも、自立できないほど援助することも、ともに間違っている。支援の方針は、自立自助への助力とすべきである。最低限保障を目指すべき権利も、本来、各ネイションが保障すべきものゆえ、国際社会はただ物資と環境を与えるのではなく、そのネイションが自力で成員に保障できるように助力するのでよい。

各ネイションで実現すべき権利まで、国際社会が実現を支援するには、相応の負担が生じる。負担には、費用と労役がある。自発的な道徳的行為であれば、それを進んで担うところである。だが、センは、この世における不正義を取り除く力を持つ者には、一方向的な「有効な力の責任」があるとし、その責任を果たすことを道徳的義務として要求する。こうした要求が強く出される場合、最低限保障を目指すべき権利を明確に定めないと、支援を求められる側の負担が、際限なく増大するおそれがある。その一方、他者に依存する側は、ケイパビリティとしての選択の幅が広がっても、必ずしも支援する側が望ましいと思うような選択をしない可能性がある。不満や誤解が広がりやすい。

個人にしてもネイションにしても、人類社会全体の中での道徳的義務の履行能力に、ある程度対応した権利の内容という、権利と義務のバランスを考慮する必要がある。再提言保障を目指すべき権利についても、達成期間や地域別の取り組み等を具体的に検討しなければならない。そうしないと、どこまでも道徳的権利として支援を要求する者と、どこまでも道徳的義務として支援を要求される者との間に、権利−義務をめぐる争いが生じるだろう。その争いを避けるためには、人類が道徳的に向上できる方法を探求する必要もある。

 

F 人間開発を促進し、人間の安全保障を強化する

 

 人権の発達を目座す実践においては、人間開発を促進し、人間の安全保障を強化することが必要である。ただし、これらの概念の不備を補ったうえで、取り組むべきである。

センは、人権を人間開発指数(HDI)で具体化・定量化し、政策の優先順位づけや評価を行えるようにした。人間開発は「人間の自由と潜在能力を全般的に高めることに焦点を絞るべきだ、とする考え方」であると言う。また、人間の安全保障は、「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」と定義している。

人間開発と人間の安全保障に共通するのは、人間である。人間とは何かを問い、その答えの追求において国際的な合意を作り、その合意をもとに、人間開発の促進と、人間の安全保障の強化が行われねばならない。私は、この問いについて考慮すべき点を先に書いた。人間開発は自由の拡大を目的とするが、自由は責任を伴うものであり、公共善の実現に寄与するように行使されねばならない。また人間の安全保障は、生存のための最低限の条件の平等を実現しようとするものであるが、私は各国及び国際社会が最低限保障を目指すべき権利について先に書いたが、人間の安全保障の取り組みは、人間は単に生命的価値だけではなく、文化的・心霊的価値の創造と継承によって尊厳が認められることを踏まえたものとすべきである。

諸個人のケイパビリティの拡大は、集団全体のケイパビリティの拡大が進められてこそ、その中において可能になる。人類は主にネイションを単位とした集団生活を送っているので、各ネイションにおいてケイパビリティの拡大が進められなくてはならない。また人間の安全保障を実現しようとするには、集団全体が発展しつつあることが必要であり、集団全体が発展し得てこそ、構成員個々の生活の安全をよりよく保障し得る。それゆえ、人間開発においても、人間の安全保障においても、集団の目的と個人の目的の一致が求められる。集団は個人のために、個人は集団のためにという相互的な保障の整備・強化が必要である。

 

G 現実を踏まえ、漸進的な改善を目指す

 

次に、人権発達の実現は、世界の現実を踏まえ、漸進的な改善を目指すべきである。ミラーは、「複数のネイションからなる世界」のための国際的正義は、「基本的人権の普遍的擁護を要請する」と説く。またミラーは、人権は「全人類に共通の基本的ニーズ」という観念を通じて最もよく理解され正当化されると説く。人権の内容については、先に書いたが、私は、人権は主に国民の権利として発達してきたものであり、権利の付与と保障は各国の政府が行い、権利に伴う義務は各国の国民が負うと考える。基本的人権についても、その内容は、まずそれぞれの国民が決めればよいと考える。国によって規定が違ってよい。国際間で様々な考え方が併存している状態で協議をして、基本的人権について合意を作っていけばよいと考える。その際、合意を図るべき最低限保障の権利については、私見を述べたとおりである。

世界的に基本的人権について合意を作るには、センのいうケイパビリティとしての主体的な能力、ミラーのいう基本的ニーズとしての環境的な条件について検討し、ケイパビリティを具体化し、基本的ニーズを絞り込むことが必要だろう。ヌスバウムはケイパビリティのリストを提示しておりミラーは充足すべき基本的ニーズを揚げている。私は私の考えを書いたが、こうした素案をもとにして協議を行い、かつ目標を数量化しなければならない。

ここで注意したいのは、ミラーが「すべてのニーズが直接的に権利を基礎づけ得るわけではない」と言っていることである。彼は、「人権は、人間の生活における道徳的緊急性の局面を表現しなければならないだけでなく、ある種の実現可能性の条件にも合致しなければならない」とし、「すべてのニーズが直接的に権利を基礎づけ得るわけではない」と述べる。

すべての社会のすべての人に基本的条件を提供することを、一挙に実現することはできない。国際社会の現実を踏まえた現実主義的な考え方が必要である。基本的条件の充足は、政府間・国民間の合意を積み重ねながら、漸進的に実現していくしかないだろう。

 

H 必要な費用を算出し、分担・管理・運用の仕方を決める

 

次に、最低限保障を目指すべき権利を保障するために必要な費用を試算して総額を出し、費用の分担・管理・運用の仕方を決める必要がある。ミラーは、基本的ニーズの充足に必要な費用について、具体化できていない。まず国際的支援が必要な国を絞り、人口・年齢構成等を調査することが必要である。基本的ニーズを仮に人類に一律のものとするなら、例えば食糧は1日あたり、カロリーがどれだけとか、必要な栄養素がどれだけとか、水は飲料用に1日何リットル、それ以外の生活用に何リットルなどと計算し、各国の物価や人口構成の違い等を考慮したうえで、要支援国について全体的なコストを試算しなければならない。国連はミレニアム宣言で2015年までに1日1ドルという生活水準の人々を半減するという目標を掲げた。1日1ドル以上で、どれだけの食糧や水を確保できるかは、物価や人口構成等によって異なるだろう。

国連のミレニアム宣言は、2015年までの世界の貧困の半減だけでなく、教育・医療等にも係る8つの目標に対して、先進国にGNIの0.7パーセントの拠出を義務付けるものだった。結果は達成できなかったが、今後も、その拠出義務をネイションとしての責任で履行する仕組みを補強すれば、現在よりは状態を改善できるだろう。

費用を集めるには、集金の仕組みを設計し、資金の管理・運用・評価の主体を決める必要がある。その実行については、これまでのミレニアム宣言に基づく拠出は多くが政府間援助(ODA)だったので、どの国にどれだけ出すかは各国の判断に任されていた。この仕方では、支援国の国益と要支援国の要望とが合致する部分としない部分が出てくる。これを改善するため、国際機関で統一的に行う方を採用すべきである。

 

I 国家間の過度な不平等の是正に取り組む

 

次に、国家間の過度の不平等を是正する措置が必要である。今日国際社会で期待されているのは、富裕国の国民及び発展途上国の富裕層による道徳的な義務の実行である。その際、資源や機会、所得等の全面的な平等ではなく、過度の不平等の是正を進めるという考え方が現実的である。

私は、近現代の世界史において、支配―服従の権力関係によって、形式的には等価交換に見えるが、実質的には不等価交換となり、一方的に価値が移動する国際間の構造が存在してきたと考える。この不等価交換の構造を明らかにしてのみ、過度の不平等を是正することができる。不等価交換の構造は、国際間の権力関係による。経済外的な権力関係において優勢な側が、劣勢な側から富を収奪する。かつては植民地支配がこの構造を形成していた。第二次世界大戦後は、IMF・GUTT・WTO・世銀等の国際的経済機構が、金融や貿易の仕組みを通じて、不等価交換による富の収奪を合法化してきた。経済力・軍事力の差が不等価交換の原因となっている。また、それが世界的な貧困と過度の不平等を生む構造を作り出している。そこで、先進国主導の国際的経済機構を改革し、発展途上国の意見・要望を反映し、発展途上国が「発展の権利」を実現できるようにする必要がある。

これに対して当然、巨大国際金融資本による強い抵抗が起こるだろう。その抵抗を押し返していくには、世界各国でデモクラシーが発達するとともに、共存共栄の指導原理が世界の指導者層に浸透し、富と権力を持つ階層の精神を大きく向上させることができなければならない。

 

J 国家の役割が重要であることを認識する

 

次に、人権発達のための実践において、国家の役割が重要であることを認識する必要がある。現代の世界は、さまざまな国家が並存している国際社会である。国際社会における主要な行為主体は、国家即ち各国の政府である。これに加えて、補助的な行為主体として国際機関・民間団体・諸個人等が活動する。国連は基本的に国家を単位とし、加盟国は190以上にのぼる。各国は、政治的自由によって国連に加盟し、一個の集団的主体として討論や投票に参加する。仮にこの主体を個人単位にすると、70億人もの個人を等しく国連の参加者とすることになる。これは、現実的に不可能である。国家を単位にするのが妥当である。

人権条約は諸個人が直接採択しているのではなく、諸政府が採択している。個人の人権を擁護するのは、基本的に各国の政府が行うべきことである。その国の政府ができない場合やどの国の政府もできない場合に、国際機関や民間団体、篤志ある個人等が、政府の役割を補助するという副次的な役割を担う。その役割も重要だが、人類全体の人権の発達を目指すには、個人や民間団体の活動では、規模が限られている。国家が主体とならなければ、大規模な動きはできない。国家を排除したり、軽視したりする考え方は、大きな計画の実施を困難にするだけである。

人権発達の実践のためには、費用がかかる。費用負担のためには、国民総所得の主体であるネイションの役割が不可欠である。ミレニアム宣言の実行は、先進国でネイションの役割の回復・強化を行うことなしには、現実のものとならない。ネイションの本質的な価値を否定すると、ネイションの責任担当能力を発揮させられない。

ネイションの国内的・国際的な役割を再評価し、諸国家・諸民族が協調し、共存共栄し得る地球社会の指導原理を追求すべきである。国際間の平和と繁栄、諸国家・諸民族の共存共栄のもとでしか、人権の大きな発達は実現できない。

国家の中でも大国の役割が重要である。ネイションとして負う道徳的責任は、ネイションによって異なる。大国と小国では、能力が異なる。GNIという経済的な能力だけでなく、政治的な影響力の違いもある。GDPの大きい国や、国連安保理常任理事国として拒否権という特権を持つ国の責任は大きい。私はまずこうした国々、特権的な米・英・仏・ロ・中の5大国と、それらの国以外でGDPの大きい日本・ドイツ、合わせて7か国について、その結果責任及び救済責任を具体化し、責任の履行を確実なものとするための体制を構築することが必要だと思う。

そのためには、米国が国連分担金の未払い分を支払うこと、及び国連憲章の敵国条項を廃止することが先決である。次に、国際機関の改革が必要である。ミレニアム宣言で合意したGNI0.7%の移転だけでなく、IMF・WTO等の国際的な経済機構の改革へと議論の枠組みを広げて、国際的な合意を作っていくべきである。グローバリゼイションを規制して、発展途上国が「発展の権利」を行使でき、諸国家・諸民族が共存共栄できる仕組みを創出しなければならない。

 

K 米国の価値観の変化と中国の民主化を促す

 

 大国の中でも、特に米国の役割が重要である。ハンチントンによれば、現在の世界の権力構造は、超大国、地域大国、第2の地域大国、その他の国々という四つの階層からなる。国際関係は、それらの国々の権利と権力の力学によって、日々動いている。国際法を無視して地域覇権を目指す国や、核開発をして発言力・影響力を強めようとしている発展途上国もある。西洋文明の価値観による国際秩序を破壊しようとするイスラーム教徒の過激組織もある。こうした国際社会で秩序と平和を維持するには、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等といった理念を尊重するとともに、強い国力を持った国が必要である。

現状において、その役割を担う能力を持つ国が、超大国アメリカである。しかし、米国は世界最大のGDPを持つ豊かな国であり、最も強い政治的影響力を持つ国でありながら、富裕層と貧困層の格差が拡大し、無保険者が5000万人、乳幼児死亡率が発展途上国並みとなっているという現実がある。米国の国民多数が自由至上の価値観を改め、自由と平等の均衡を図る思想に転換しないと、米国は国内で社会正義を実現し得ない。また米国民が自由至上の価値観に固執している限り、世界の発展途上国の諸国民は、貧困と不正義の解消へと進むことができない。それゆえ、国際社会で人権を発達させるための一つの重要な条件は、米国における価値観の変化である。米国にそれを実現する思想及び指導者が現れることが期待される。

米国の役割の一つは、覇権主義的な国々の無法な行動を抑えることにある。なかでも共産中国への対応が重要である。中国共産党政府は急速な軍拡をして、地域覇権どころか宇宙空間を含めて、全地球的に米国に対抗して覇権を獲得しようとしている。その一方で、チベットや新疆ウイグルで、少数民族を弾圧・虐殺している。中国で、人権と正義が実現しなければ、国際社会の取り組みは、その努力の多くが損なわれる。中国は、国連安全保障理事会で拒否権という特権を持つ常任理事国である。世界人口の約5分の1を有する人口大国である。アジア・アフリカの諸国に資源の支配、経済的進出等を強めている。また北米・欧州・オーストラリア・ロシア等に大量の移民を送り出している。中国の問題を抜きにして、世界の貧困と不平等の改善ばかりに関心を向けている人権論者や左翼人権主義者の主張は、間接的に共産中国の覇権主義を容認・助長するものとなっている。中国の民主化を促し、伝統的な東洋の精神文化の復興を進める必要がある。

日本には、米国の価値観の変化と中国の民主化を促す上で特段の役割がある。そして、日本の伝統である和の精神に基づく指導原理を世界に広める使命がある。日本人がそのことを自覚し、人類の平和と発展、精神的進化に貢献しようと決意し、行動するかどうかに、人権の発達もまたその多くがかかっている、と私は思う。物質的な繁栄は、精神的な向上と、ともに進むものでなければ、人間は自らの欲望によって自滅する。物心調和の社会をめざすのでなければ、真の幸福と永遠の発展は得られない。米国と中国が従来の価値観を脱し、物心調和の文明を目指す国に変わらなければ、世界全体もまた人類が生み出した物質文明とともに崩壊の道を下るだろう。

 ただし、この問題は半分以上、今日の日本人自身の問題ともなっている。他国を善導できる日本になるためには、日本人は日本精神を取り戻し、物心調和・共存共栄の道を進む必要がある。日本自体、精神的に復興しなければ、米国の影響によらずとも、自ら衰亡の坂を転げ落ちる瀬戸際にある。自覚と決起、邁進の時である。

 

 以上、人権発達のための実践において、私が重要と思うことを12点述べた。(ページの頭へ)

 

(5)人権の目標と心霊論的人間観の確立

 

●人権の起源と目標

 

人権の起源は、近代西欧発の普遍的・生得的な権利という観念にあるが、人権の実態は歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利である。生まれながらに誰もが持つ「人間の権利」ではなく、主に国民の権利として発達してきた「人間的な権利」である。「発達する人間的な権利」としての人権の目標とすべきものは、個人の自由と選好の無制約な追求ではない。個人においては人格的な成長・発展であり、国家においてはネイションの調和的発展、人類においては物心調和の文明、共存共栄の世界の実現である。ここにおいて、人間が人格的に成長・発展するための条件が、人権と称される自由と権利である。自由と権利は、それ自体が目的ではなく、人格の成長・発展のための条件である。目標とすべき物心調和とは、物質的繁栄と精神的向上の両面の調和であり、共存共栄とは、諸個人・諸国家・諸民族等の調和ある発展である。

人権の目標である個人的・国家的・人類的な三つの目標を目指すには、人間観の転換が必要である。私は、人間とは何かという問いについて、本章の人権の内容に関する項目に見解を書いた。そこで述べたように、人間には個人性と社会性、生物性と文化性、身体性と心霊性という三つの対で示される性質がある。また、人間は、共通の根に共感の能力を持つ諸能力を発揮する人格的存在である。そうした諸能力は、人間の欲求を実現するために集団において協同的に発揮される。だが、現代で支配的な人間観では、こうした人間の全体像をとらえることができない。そこで、私が必要と考えるのが、心霊論的人間観の確立である。

心霊論的人間観とは、人間の持つ諸性質を総合的に把握したうえで、その中の心霊性を重視し、人間を単に物質的な存在と見るのではなく、人間には物質的な側面と心霊的な側面の両面があるとする人間観である。心霊論的人間観は、近代西欧が生み出した人間を単に物質的にとらえる唯物論的人間観の欠陥を是正する。心霊論的人間観においては、個人の人格は死後も霊的存在として存続する可能性を持ち、また共感の能力は、身体的な局所性に限定されず、時空を超越し、波長の異なる領域にも及び得ると理解する。こうした人間観を確立することによって、人権の目標である個人的・国家的・人類的な目標を達成するために必要な人間観の転換を果たし得る、と私は考える。

 

●人間観の転換が必要

 

世界人権宣言の人間観のもとになっているのは、ロック=カント的な人間観であり、それが現代の国際社会の人間観に基本的な枠組みを与えている。ロック=カント的な人間観とは、人間は、生まれながらに自由かつ平等であり、個人の意識とともに、理性に従って道徳的な実践を行う自律的な人格を持つ、という人間観である。今日支配的な人間観は、ロック=カント的な人間観を個人主義的に解釈し、社会を個人中心・個人本位に考える傾向がある。また、人間の諸性質のうち生物性と身体性を重視し、経済的・物質的な欲求の充足を目指す傾向がある。

だが、ロック=カント的な人間観の元になったカント自身の思想は、唯物論ではない。カントは心霊論的信条を抱き、感性界・現象界と超感性界・叡智界を区別し、霊魂の不滅を要請し、人格を死後も霊的存在として存続するものと考えた。カントにおける人間は、感性的であると同時に超感性的であり、市民社会の一員であると同時に、霊的共同体の構成員である。「目的の国」は、感性界で完結するものではなく、超感性界につながっている社会である。今日支配的になっているロック=カント的人間観は、こうした心霊論的側面を排除し、唯物論的に人間をとらえる傾向にあるものである。

今日支配的な個人主義的かつ唯物論的な傾向を持つ人間観の枠組みでは、人間を総合的に理解することができない。私は、人間の総合的理解を深めるには、マズローの理論を参考にすべきと考える。マズローの欲求段階説については、本稿で何度か述べてきたが、マズローは人間の5つの欲求の最上位に、自己実現の欲求を置く。そして自己実現こそ人生の最高の目的であり、最高の価値であるとマズローは説く。また人間が最も人間的である所以とは、自己実現を求める願望にあると説く。

この理論は、単なる欲求とその充足の理論ではなく、人格の成長・発展に関する理論と理解することができる。人間は人格的存在であり、人格を形成し、人格的に成長・発展することを欲求として潜在的に持つ。人格の形成は親の愛情、言語・習慣・道徳等の教育による。人格の基礎が出来れば、さらに成長・発展したいという欲求が働く可能性が生まれる。自己実現の欲求は、人間に内在する人格的な欲求であり、道徳的な能力の発現である。人間には自己実現を達成する能力が潜在しており、その能力が発揮されることによって、人格の高度な成長・発展が可能となる。自己実現の欲求が働くとき、人は自己実現を目指して、自らの人格を成長・発展させようとする。この欲求は、基本的には下位の欲求が充足された後に追及されるが、人によっては、下位の欲求の充足如何に関わらず、自己実現の欲求の実現を求める。例えば、宗教的修行者、賢者等にそれが見られる。

自己実現には、具体的な人格的目標が必要である。父母、祖父母、教育者、集団の指導者等が目標となり得る身近な存在である。また、しばしば釈迦、孔子、プラトン、イエス、ムハンマド等の精神的な指導者が目標とされる。それらの指導者への感動、敬服、憧憬等の感情を通じて人格的感化を受ける。人格的感化は、近代西欧的な理性の働きだけでなく、感性の働きによるものであり、相互間の共感の能力によるところが大きいと考えられる。

マズローの事例研究によると、自己実現を成し遂げた人は、しばしば、さらに自己超越を求めるようになる。自己超越の欲求とは、自己を超え、自分自身を超えたものを求める欲求である。そして、他の多くの人々のために尽くしたり、より大きなものと一体になりたいと願ったりする。自己超越とは、自己が個人という枠を超えて、超個人的(トランスパーソナル)な存在に成長しようという欲求である。それは、悟り、宇宙との一体感、宇宙的な真理や永遠なるもの、社会の進化や人類の幸福などの、より高い目標である。古今東西の宗教や道徳でめざすべき精神の状態とされてきたものである。

マズローは、自己実現の心理学から、自己超越の方向に進み、個を超える、より高次の心理学を提唱した。これがトランスパーソナル心理学である。マズローは、「トランスパーソナル」とは「個体性を超え、個人としての発達を超えて、個人よりもっと包括的な何かを目指すことを指す」と規定している。

人間には、こうした自己実現を経て自己超越に向かう人格的な欲求が生得的に内在している。その欲求は、アニミズムやシャーマニズムと呼ばれる原初的な精神文化にもさまざまな形で表れている。人類史に現れた諸文明は、より発達した宗教をその中核に持ち、多くの宗教は、死後も人間は霊的な存在として存続することを説いている。マズロー以後、トランスパーソナル心理学は、心理学という枠組みを超え、さまざまな学問を統合するものとなり、包括的な視点に立って人間のあり方を模索する学際的な運動となっている。これをトランスパーソナル学と呼ぶ。トランスパーソナル学では、人間は霊性を持つ存在であることを認めている。繰り返しになるが、本稿で霊性は心霊性と同義である。人間に生死を超えた心霊性を認めてこそ、人間観は身体的な局所性を超えて、真に時空に開かれたものになる。死をもって消滅するものは、真の人格とは言えない。人権論の基礎に置くべき新しい人間観は、こうした霊的な存続可能性を持つ人格を中心にすえたものとならねばならない。

 人権の目標を目指すには、人間には自己実現・自己超越の欲求が内在し、また人間は霊的存続可能性を持つ人格的存在であるという人間観に転換する必要がある。

 

●心霊論的人間観の確立を

 

いったい人生の根本問題とは何か。成長して大人になること、自分に合った伴侶を得ること、子供を産み育てること、よい死に方をすること。私はこれらに集約されると思う。これは、様々な宗教・哲学・思想の違いに関わらず、人間に共通する問題だろう。そして、よい死に方をするためには、自分が生まれてきた意味・目的を知ること、生きがいのある人生を送ること、自己の本質を知ること、死後の存在について知ることが必要になる。人生の根本問題の前半は、なかば生物学的・社会学的なものである。しかし、死の問題は違う。死の問題は、哲学的であり、宗教的な問題である。唯物論は、人生の後半の問題については、まったく役に立たない。むしろ、自己の本質について、根本的な誤解を与える。

人間は死んで終わりなのか、死後も存在しつづけるのか。死の認識で思想は大きく二つに分かれる。死ねば終わりと考えるのは唯物論であり、死後も続くと考えるのが心霊論である。心霊論には、キリスト教のような人格的唯一神による創造説や、仏教のような縁による発生説がある。人生は一回きりという一生説と、輪廻転生を繰り返すという多生説がある。また、祖霊の祭祀を行う場合と、行わない場合がある。単に思い出、記憶として親や先祖を思うという場合もある。しかし、心霊論は、死後の存在を想定して人生を生きる点では、共通している。

心霊論的人間観では、死は無機物に戻るのではなく、別の世界に移るための転回点であると考える。身体は自然に返る。しかし、霊魂は、死の時点で身体から離れ、死後の世界に移っていく。人生においては、この死の時に向かっての準備が重要となる。霊魂を認め、来世を想定する心霊論的な人間観に立つと、フロイトの「死の本能(タナトス)」とは違う意味での「死の本能」が想定される。来世への移行本能と言っても良いし、別の次元の生に生きる再生本能と言っても良い。

身体から独立した霊魂を認めるという考え方は、特異なものではない。近代西欧で唯物論的人間観が有力になるまで、ほとんどの人類は、そのように考えていた。唯物論的人間観の優勢は、物質科学・西洋医学の発展やダーウィンの進化論、マルクス、ニーチェ、フロイトらの思想によるところが大きい。だが、近代西欧にあっても、カント、ショーペンハウアー、シジウイックらの哲学者、ウォーレス、クルックス、ユングらの科学者は、霊的現象に強い関心を表したり、心霊論的信条を明らかにしてきた。20世紀の代表的な知性の一人であるベルグソンは、特にテレパシーの事例に注目した。ベルグソンは「心は体からはみ出ている」として、身体と霊魂の関係を「ハンガーと洋服」の関係にたとえている。テレパシー以外にも臨死体験や体外離脱体験等には、否定しがたい多数の事例があり、それらをもとに、霊魂が身体と相対的に独立し、死後は別の仕方で存在することを主張することができる。超心理学の研究によって、超感覚的知覚(ESP)の解明が進められているが、その研究対象は、霊的存在の領域へと向かっていくだろう。

今日の人類は、人権の目標を目指すために、心霊論的な人間観を確立する必要がある。心霊論的な人間観に立つと、社会や文明に対する見方は、現在の常識や諸科学の知見とは、大きく異なったものになる。私は、心霊論的人間観を確固としたものにするために、超心理学とトランスパーソナル学のさらなる発展に期待している。また、それらを補助とする新しい精神科学の興隆が、文明の転換、人類の精神的進化の推進力になる、と私は信じる。

 

●物心調和の文明、共存共栄の世界を築くために

 

「発達する人間的な権利」としての人権が国際的に広く保障される世界を建設するためには、人類は二つの面で飛躍的な向上を成し遂げることが必要である。一つは経済的・技術的な向上、一つは精神的・道徳的な向上である。前者は物の面、後者は心の面である。人類は、これら物心両面にわたる飛躍的な向上を必要としている。そして物心調和の新たな文明を創造し得たとき、初めて「発達する人間的な権利」が諸社会に広く保障され、またさらに発展し続けるだろう。

物質文化と精神文化が調和した物心調和の文明を建設しなければ、人類は自ら生み出した物質科学の産物によって、自滅しかねないところに来ている。この危機を避け、地球に共存共栄の世界を実現するには、心霊論的人間観に基づいて、人格の成長・発展による精神的・道徳的な向上を目指す必要がある。個人個人の人格的な成長・発展なくして、物心調和の文明、共存共栄の世界は建設し得ない。

それとともに私は、この建設過程で、国家の役割は重要である、と考える。諸国家が自国の国民に国民の権利を保障し、さらに拡充していくときに、人類社会全体が物心両面において発展し、新文明の建設が進められていく。国家の役割を排除して、個人個人の努力のみによるのでは、この過程は進行し得ない。また、国際機関は直接、個人個人の人格の成長・発展を支援し得ない。人権は、国家の否定によってではなく、諸国家の調和的発展によってのみ発達し続けることができると私は考える。

地球の人類社会は現在、貧困と不平等だけでなく、食糧・水・資源等の争奪、核の拡散、環境の破壊等により、修羅場のようになっている。各所で対立・抗争を生じている複雑で不安定な国際関係の中では、個人の権利を「人間的な権利」として実現することが、非常に困難な状態にある。国家間の平和と繁栄があってこそ個人の権利の保障・拡大ができる。国家間の平和と繁栄は、国家間の努力によってしか実現し得ない。

国際社会を平和と繁栄の方向に進めるために、近代西欧で発達した自由・平等・デモクラシー・法の支配等の価値は、現在の世界で有効なものと言える。われわれは、各国家・各国民(ネイション)において、それぞれの文化・伝統・習慣に合った形でこれらの価値が実現され、そうした価値を実現しつつある諸国家・諸国民が、それぞれの固有の条件のもとで多種多様に発展し、協調する世界を構想すべきだろう。様々な国家・国民がお互いを尊重しながら協調し、物心調和・共存共栄の新文明が実現されてこそ、人権は大きく発達し、人類はさらに精神的・道徳的に向上する道を進むことができるだろう。

 

●精神的・道徳的な向上を促す力が待望される

 

物心調和の文明、共存共栄の世界を建設する上で、最大の道徳的な課題は、人類はそれぞれの共同体的な集団におけるような、家族的生命的なつながりを基にした同胞意識や連帯感を、ネイション(国家・国民)やエスニック・グループ(民族)を越えて保持し得るかということだろう。

世界人権宣言には、「human family」という用語が使われている。正確に訳すなら、「人類家族」である。人類は、果たして一つの家族としての同胞意識・連帯感を持ち得るだろうか。 現在の世界人口を70億人とすると、70億人で一つの社会とはなっていない。人類社会は、複数の社会の集合である。主権国家及びそれに準ずる政治組織は、190を越える。これらの集団間には様々な差異があるが、その一つとして人口の差がある。この差は非常に大きい。人口10億人以上の国家、1億人以上の国家、1千万人以上の国家、百万人以上の国家、百万人未満の国家と多様である。10億人の人口を持つ国家は、500万人の人口を持つ国家の200倍の規模である。200とは、地球上の国家と地域の数に近い数字である。

人間は血統や地域や生活を共にすることによって、相互扶助・協力協働の関係を築く。また、家族愛や友愛を育む。集団生活における直接的な交流は、数百人から数千人程度が普通である。数百万人、数千万人と直接交流する人は、ごく少ない。多くの人間は、直接的で具体的な経験を超えて、他者への理解や同情を持つことは難しい。直接的で具体的な経験なくして、同胞意識や連帯感を持てるようになるには、共感の能力の開発による大きな精神的・道徳的な向上が必要である。そのために教育・啓発活動の役割は大きい。だが、よほど強力な感化力を持った思想や宗教でなければ、既成観念にとらわれた人々の意識の変革はできないだろう。そこで、多くの人間の自己実現・自己超越を促進する精神的な巨大なエネルギーが求められる。人間の精神に感化を与え、破壊的・自滅的な思考回路を消滅させ、恐怖をもたらすトラウマを癒して、精神を健全に発達させる力が待望されている。

その力はまた人類を物心調和の文明、共存共栄の世界の建設に導く力でもある。宇宙には秩序と発展をもたらす力が存在する。この力は万物を貫く理法に基づいて働く。ここで理法とは、第11章の結びに書いた古代ギリシャのノモスやシナ文明の道(タオ)、日本文明の道(みち)または道理に通じるものである。また、その力は、万物を理法に沿った調和へと導く力である。その力が人類に作用して、人類の知能や文明・科学等が発達してきたと考えられる。子供は成長の過程において、最初は肉体が成長し、後に精神が成長する。それと同じように、人類の文明も、最初は物質文化が発達し、次は精神文化が発達する。人類がその力を求め、受け入れる時、かつてない精神的・道徳的な向上が始まるだろう。

この力とは、宇宙の万物を生成流転させている原動力である。宇宙本源の力である。その宇宙本源の力を受けることによる精神的・道徳的な向上は、一部の人たちから始まり、また一部の国から広がるだろう。経済中心・物質中心の価値観から物心調和の価値観に人々の価値観が変化する。そうした国々で物心調和の文明の建設が始まる。この新たな文明が、その他の国々にも広がる。それによって、共存共栄の世界が実現されていく。諸個人・諸国家・諸民族の調和的な発展によって、国家間の富の収奪が抑制され、過度の不平等が是正されていく。国際間の平和と繁栄が共有され、国家間の格差が縮小される。物心調和の文明、共存共栄の世界が建設される過程で、諸国家における国民の権利が発達する。戦争・内戦等の人為的原因で発生する難民が減少する。こうして諸個人の自己実現・自己超越が相互的・共助的に促進される社会が実現する。このサイナジックな社会において、物心調和の文明、共存共栄の世界の建設は一層大きく進むことになる。それによって、また諸個人の自己実現・自己超越が相互的・共助的に促進される。こうした循環が螺旋的に進行するに従って、人類は飛躍的な進化を体験することになるだろう。

 人権とは、それ自体が目標ではなく、人格の成長・発展、ネイションの調和的発展、物心調和の文明と共存共栄の世界の実現という目標を達成するために必要な条件である。(ページの頭へ)

 

関連掲示

・拙稿「心の近代化と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ

・拙稿「カントの哲学と心霊論的人間観

 

結びに

 

 本稿は、ブログとMIXIに平成24年(2012)7月8日から平成29年(2017)1月13日まで、約4年6か月にわたって連載した原稿を編集したものである。第1部で人権に関する基礎理論、第2部で人権の歴史と思想、第3部で人権の現状と課題、第4部で人権の目標と新しい人間観について書いた。

 全体の要旨を再度記すと、人権の起源は、近代西欧における普遍的・生得的な権利という観念にあるが、人権の実態は歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利である。生まれながらに誰もが持つ「人間の権利」ではなく、主に国民の権利として発達する「人間的な権利」である。「発達する人間的な権利」としての人権の目標とすべきものは、個人の自由と選好の無制約な追求ではない。個人においては人格的な自己実現であり、国家においては共同体の調和的発展、人類においては物心調和の文明、共存共栄の世界の実現である。こうした目標を追求するには、新しい人間観として心霊論的人間観の確立が必要である、と主張するものである。

 本稿が、従来の人権に関する多くの主張の誤りや人権を掲げた左翼的な運動の偏りを正し、日本の再建と人類の調和的発展に、少しでも寄与できるならば幸いである。(ページの頭へ)

 

参考資料(主なもの)

・古典的な文献は、主に『世界の名著』『日本の名著』(中央公論社)、『世界の大思想』(河出書房)、『日本思想大系』(岩波書店)、岩波文庫に所収のもの

・『人権宣言集』(岩波文庫)

・杉原泰雄著『人権の歴史』(岩波書店)

・浜林正夫著『人権の思想史』(吉川弘文館)

・大橋智之輔他著『法哲学綱要』(青林書院)

・平野仁彦他著『法哲学』(有斐閣)

・三島淑世著『現代法律学大系3 法思想史』(青林書院新社)

・田中成明他著『法思想史』(有斐閣)

・佐藤幸治著『現代法律学大系4 憲法』(青林書院新社)

・千葉正士著『世界の法思想入門』(講談社学術文庫)

・中谷和弘他著『国際法』(有斐閣)

・芹田健太郎著『地球社会の人権論』(信山社)『国際人権法T』(信山社)

・渡部茂己編著 『国際人権法』( 国際書院)

・八木秀次著『反人権宣言』(ちくま新書)

・宮崎哲弥篇『人権を疑え!』(洋泉社)

・佐々木毅著『よみがえる古代思想』『宗教と権力の政治』(講談社学術文庫)

・名古忠行著『イギリス人の国家観・自由観』(丸善ライブラリー)

・藤原保信著『自由主義の再検討』(岩波新書)

・小堀桂一郎著『日本における理性の伝統』『日本人の自由の歴史』(文芸春秋社)

・小室直樹著『資本主義原論』(東洋経済)『日本国民に告ぐ』(クレスト社)『悪の民主主義』(青春出版社)『世紀末・戦争の構造』(徳間文庫)

・佐伯啓思著『市民とは誰か』『人間は進歩してきたのか』(PHP新書)『自由とは何か』(講談社現代新書)『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)『欲望と資本主義』(講談社新書)『幻想のグローバリズム』(PHP新書)『欲望と貨幣〜資本主義の精神解剖学』(ちくま学芸文庫)」

・長谷川三千子著『民主主義とは何なのか』(文春新書)

・盛山和夫著『社会科学の理論とモデル3 権力』(岩波書店)

・カール・シュミット著『政治的なものの概念』(未来社)

・チャールズ・メリアム著『政治権力ーーその構造と技術』(東京大学出版会)

・ミシェル・フーコー著『フーコー・コレクション4権力・監禁』『6性政治・統治』(ちくま学芸文庫)

・桜井哲夫著『フーコー 知と権力』(講談社)

・滝村隆一著『国家の本質と起源』(勁草書房)

・萱野稔人著『国家とはなにか』(以文社)『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)

・エリ・ケドゥーリー著『ナショナリズム』(学文社)

・アーネスト・ゲルナー著『民族とナショナリズム』(岩波書店)

・ベネディクト・アンダーソン著『定本 想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』(書籍工房早山)

・アンソニー・スミス著『ネイションとエスニシティーー歴史社会学的考察』(名古屋大学出版会)『ナショナリズムの生命力』(晶文社)

・塩川伸明著『民族とネイション』(岩波書店)

・施光恒他編著『ナショナリズムの政治学』(ナカニシヤ出版)

・渡部昇一著『国を語る作法』(PHP研究所)

・ジョン・ロールズ著『正義論』(紀伊国屋書店)(みすず書房)『公正としての正義 再説』『万民の法』(岩波書店)

・ロールズ他著『人権について』(みすず書房)

・ロバート・ノージック著『アナーキー・政府・ユートピア』(木鐸社)

・ロナルド・ドゥオーキン著『権利論』(木鐸社)

・アラスデア・マッキンタイア著『美徳なき時代』(みすず書房)

・マイケル・サンデル著『公共哲学』(ちくま学芸文庫)『これからの正義の話をしよう』(早川書房)

・アマルティア・セン著『正義のアイデア』(講談社)『人間の安全保障』『貧困の克服』(集英社新書)『合理的な愚か者』(勁草書房)

・チャールズ・ベイツ著『国際正義と秩序』(岩波書店)

・トマス・ポッゲ著『なぜ遠くの貧しい人々の義務があるのか』(生活書院)

・マーサ・ヌスバウム著『正義のフロンティア 障碍者・外国人・動物の境界を越えて』(法政大学出版局)

・ピーター・シンガー著『グローバリズムの倫理学』(昭和堂)

・デイヴィッド・ミラー著『ナショナリティについて』『国際正義とは何か〜グローバル化とネイションとしての責任』(風行社)

・ウィル・キムリッカ著『多文化時代の市民権 ―― マイノリティの権利と自由主義』(晃洋書房)

・ヤエル・タミール著『リベラル・ナショナリズムとは』(夏目書房)

・マイケル・イグナティエフ著『人権の政治学』(風行社)

・押村高著『国際正義の論理』(講談社新書)

・伊藤恭彦著『貧困の放置は罪なのか』(人文書院)

・白井久和他編『新しい国連』(有信堂)

・足立文彦著『人間開発報告書を読む』(古今書院)

・和辻哲郎著『倫理学』(岩波書店)

・総山孝雄著『共有生命の哲学』(国書刊行会)

・フランス・ドゥ・ヴァール著『共感の時代へ〜動物行動学が教えてくれること』(紀伊国屋書店)

 

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