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  日本精神

                       

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日本における道と徳〜日本人の美徳を取り戻すために

2006.11.21

 

<目次>

はじめに

第1章 シナにおける道と徳

(1)古代シナの天命思想

(2)儒教における道と徳

(3)シナでは、徳は理想に終わった

(4)老子における道と徳

(5)老子の道と儒教の道の異同

第2章 日本における道と徳

(1)わが国固有の道

(2)「神ながらの道」が歴史を一貫

(3)日本人の美徳

(4)日本精神の発達と武士道

第3章 教育勅語における道と徳

(1)勅語が説く日本の徳

(2)「親祖先皇室神」という連なり

(3)徳目と実践

(4)教育勅語が示す道

(5)「和」の精神

(6)時を超えて貫くもの

結びに〜日本人の美徳を回復するために

 

ber117

 

はじめに


 平成18年9月、安倍晋三新首相は、「活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、『美しい国、日本』」を目指すと所信を述べた。首相は、その「美しい国」の姿の第一に、「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」を挙げる。これは、日本のよき伝統を取り戻した姿といえよう。

かつて日本人は、外国人から、正直、勤勉、誠実、約束を守る、親切、清潔、礼儀正しさ等、その道徳性の高さを賞賛された。こうした特徴は、日本人の美徳ということができよう。しかし、現代の日本人は、その美徳を失いつつある。
 「美しい国・日本」は、国民が、かつて日本人が持っていた徳を取り戻し、徳を身につけてこそ実現できるものだろう。

 

徳とは、「善い行いをする性格、身についた品性、人を感化する人格の力」をいう。さらに「美しい徳、ほめるべき立派な徳」を、美徳という。(『広辞苑』)
 徳は、道と対になっている概念である。シナの儒教の五経の一つである『礼記(らいき)』に、「徳は得なり、身に得るなり」とある。すなわち、徳とは、何かを行うことにとって得られるものである。何かとは、道である。道を踏み行なうことによって、身につくものが徳である。それゆえ、道と徳は対のものとして説かれてきた。
 日本人の美徳は、何が源になっていたのか。今日の私たちは、どうすればその美徳を取り戻すことが出来るのか。「日本における道と徳」という観点から考えてみたい。

 

1章 シナにおける道と徳

 

(1)古代シナの天命思想


 道と徳は、古代のわが国にシナから文化が流入してきた際に、漢字の文献とともに伝わった観念である。わが国における道と徳について考えるには、シナの思想を概観することからはじめるのがよいだろう。
 儒教の五経の一つ『詩経』には、周の時代を中心とした詩歌が編纂されている。『詩経』には、わが国の神道に似た自然崇拝と祖先崇拝が歌われている。
 自然崇拝とは、天神地祇への信仰である。天という宇宙的な人格神、また社稷(しゃしょく)つまり土地の神(社)、と五穀の神(稷)等を祀るものである。
 祖先崇拝とは、鬼神を祀るものである。鬼といっても、「オニ」ではない。亡くなった祖先の霊のことである。祖霊は、近くに存在するものと考えられ、祖霊に供え物をして饗応すると、祖霊が子孫を守ってくれるという信仰が、古代シナでは行われていた。

 こうした自然崇拝・祖先崇拝を基盤としてシナで発達したものが、天命思想である。天命思想は、天への信仰に基づいている。
 天は最初、北方遊牧民族の天空神だったが、遊牧民族が農耕民族の文化に融合するに従い、万物を主宰する最高神になった。天空父神と大地母神を総合したような存在と言えよう。
 『詩経』には、天命思想も歌われている。すなわち、徳のある者が天の命を受けて、天子となり、徳を持って国を治めるという思想である。天命思想は、神話・伝説と結びついている。シナには、伏羲・神農・黄帝・堯・舜・禹ら三皇五帝と呼ばれる伝説的な帝王の話がある。彼らは聖王とされ、その治世の時代が理想とされた。

 人類学者のジェームズ・G・フレイザーによると、未開人は、王の生命力が旺盛な時には、この世はすべてうまくいくが、王の力が衰え、死に至ると、世界も同時に終わると考えた。王と自然界の現象との間に因果関係があるという考え方は、古代の世界では広く見られる。
 特にシナでは、こうした観念が発達して、天人(てんにん)相関思想が生まれた。天と人との間、すなわち自然界と人間界との間には、因果関係があり、君主の政治の善悪が、自然界の吉祥や災異を招くという思想である。
 古代シナ人は、君主とは、フレイザーのいうところの生命力よりも、徳を備えた人でなければならないと考えた。君主が徳を持ち、徳のある行いをしていれば、天はこれに呼応して、世の中は平和で作物も豊作となる。しかし、君主に徳が欠けると、飢饉となり疾病が蔓延し、地震などが起こると考えた。こうした天命思想は、自然崇拝・祖先崇拝に基づくもののであり、シナ特有のものと言える。
 こうした思想が、わが国の道と徳に、深く影響している。

(2)儒教における道と徳

 儒教の根底には、古代シナの自然崇拝・祖先崇拝・天命思想がある。儒教の祖・孔子は、原初的な自然崇拝・祖先崇拝・天命思想を合理化し、政治倫理として発達させた。その言葉は『論語』に書きとどめられている。
 孔子は、約二千五百年前、春秋時代の人だが、当時のシナは麻のごとく乱れた社会だった。その中で孔子が理想と抱いたのは、かつて西周時代に行なわれていた徳治の政治だった。孔子自身は、その時代を知らない。彼が心に描く理想は失われた過去のものであり、彼の教えは理想の回復をめざすものだった。孔子は諸国をまわり、仁と礼による政治を説くが受け入れられず、辛酸を嘗(な)めた。
 五経のひとつ『書経』は、わが国ではあまり読まれないが、シナでは非常に重んじられてきた古典である。内容は、君主や重臣の訓告を主とする。孔子は『書経』を読んで、そこに盛られている古代の政治倫理の理想を受け継ぎ、これを思想として発展させた。

 『書経』は神話を排除し、堯(ぎょう)から歴史を始め、舜・禹(う)に続いて、湯・文・武と聖王の系譜を書く。
 堯は王位を息子ではなく、有徳者の舜に譲った。これを禅譲という。禹への譲位も同じである。一方、伝説的な王朝である夏(か)、それに続く殷(いん)、周への王朝の交替は、武力による政権の奪取だった。これを放伐という。夏の桀王(けつおう)は暴君だった。そのため、殷の湯王に滅ぼされた。殷の紂王(ちゅうおう)もまた暴君だった。そのため、周の武王に滅ぼされた。
 注目すべきは、シナでは歴史のごく早い段階で、血統による王位継承が途切れたことである。また、武力による王朝の交替が繰り返されてきたことである。これは、わが国の歴史と著しい対照をなす。

 『詩経』でも『書経』でも、周の開祖は文王。その偉業を継いで完成したのは、子の武王とする。『書経』は、聖王の系譜の最後に周公旦を置く。周公旦は武王の弟で、武王を助けて殷の紂王を討った。その後、天子ではないが、王を補佐して後代の理想となる政治を行ったとされる。
 孔子は、周公旦を最も尊敬し、自分の政治倫理の理想は、すべて周公旦の遺訓を演述するものにほかならないと説いた。しかし、周は既に滅亡し、王統は断絶している。孔子は、滅亡した周王朝の政治倫理の理想を、当代に別の王朝で実現しようとしたわけである。この点は、古代より一系の皇室を仰いできたわが国の歴史とは、全く違う。

 孔子の死後、弟子たちは師の遺志を継ぎ、儒教の普及に努めた。戦国時代には、孟子が出て新たな思想的展開を見せた。南宋の時代には、程明道・程猪川などが出て、朱熹が儒教を大成した。
 この間、漢王朝は、儒教を国教とした。また隋王朝以後、清王朝まで、官僚を登用するために科挙の試験が行われ、儒教が官僚の基礎的教養とされた。シナの知識人が指導層に上がるには、儒教の経典に精通していなければならなかった。

 儒教は、古代シナの天命思想を政治哲学として洗練させ、有徳者王の思想を築いた。儒教は、天の道とそれに基づく徳の体得・実践を説く。天は人間界を統治するために、多数の民衆の中から傑出した人物を選び出す。そして、その人物に「人民を治めよ」という命令、すなわち天命を与える。天命を受けた人物は、天の子とされ、天子と呼ばれる。ここで天が傑出した人を選ぶ条件が、徳である。
 徳とは、天の道つまり天の意思であり天の法則であるところの道を踏み行うことによって、身に得たものである。
 孔子及びその継承者は、こうした徳を完全に体得した理想的な人間は、聖人と呼ぶ。完全とまではいかないが、徳を身につけている為政者は、君子と呼ぶ。聖人君子は、道を行うことによって、徳を身につけた人間である。

 天の道とは、現代的な概念で言えば、宇宙の理法・法則・摂理を含意するものだろう。儒教では、神話・伝説における理想的な帝王が行ったことが「先王の道」とされ、その復活が目標とされる。「先王の道」は、天命を受け、天の道に従った為政者のあり方である。
 儒教における道は、天の道を根底にしつつ、人の道つまり人間が守り行うべき人間社会の倫理の原則、行動や実践の規範を、主に意味する。それゆえ、儒教の教えは、「修己治人の道」といわれる。己を修めて徳を身につけ、その徳をもって国を治めるのが、「修己治人の道」である。
 この道を踏み行なって身につけるべき徳は、智・勇・仁の三徳、仁・義・礼・智・信の五常、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五倫等とされてきた。

 わが国には、6〜7世紀にシナ文明の思想・宗教が伝播したが、儒教はその一要素として流入した。一部の知識人や僧侶が学ぶ時代が長く続いたが、画期をなすのは、徳川家康が朱子学を幕藩体制の正統性を裏づける教学として採用したことである。そのため、儒教の道と徳は、わが国の道と徳に強い影響を与えてきた。
 

(3)シナでは、徳は理想に終わった

 シナでは、漢王朝以後、儒教が統治の教えとして採用され、為政者に道徳が説かれてきた。その後の歴史で、最も模範的な治世とされるのは、唐の第二代皇帝・太宗の時代である。その太宗と名臣の間の質疑をまとめた書に『貞観政要』がある。四書五経が政治倫理の理念を説くものであるのに対し、本書は、政治の具体的な実践を書き記したものである。本書はシナの諸王朝で帝王学の教科書とされた。わが国でも、平安時代から歴代天皇が本書を学び、北条政子や徳川家康らが座右の書とした。

 書物に書かれている儒教の「修己治人の道」が、君主や官僚によって実践されていれば、シナ文明は世界に稀な道義の文明となっただろう。ところが、シナの現実社会は、虚言や詐術、賄賂、汚職が横行する、世界に稀なほど腐敗した社会となっている。孔孟の教えといい、『貞観政要』といい、儒教の理念や模範例は書物には書き記されていても、現実のシナの歴史においては、ほとんど理想の実現を見なかった。立派な思想が説かれれば説かれるほど、実際との開きが目立つ。

 一体その理由は何か。素人ながら思うに、主に三つの理由が挙げられるだろう。

 第一の理由は、儒教の政治倫理は、易姓革命を正当化したことである。易姓革命とは、王が天命にそむき、失政が続けば、天はその地位を奪い、他の姓を持つ有徳者を天子とするという思想である。シナでは、権力の簒奪による王朝の交替が幾度となく繰り返された。古代の殷、周への王朝の交替からそうだった。
 徳のある者が天命を受けて王となるという有徳者王の思想は、権力者が自己を正当化するために利用された。王の座を得た者は徳があるから天の命を受けたのだ、と逆転が行われた。形式的には王位の継承はしばしば禅譲で行われた。しかし、力のある者が皇帝に譲位を迫り、皇帝が徳のある者に譲ったと表明し、後継者が新たな王朝を開くということが多い。禅譲という形式を取ってはいるが、力による簒奪である放伐に近い。
 そのうえ、シナの歴史は、異民族の侵攻・支配が何度も繰り返えされた。北魏・金・元・清等は、異民族の王朝だった。隋・唐も、モンゴル系またはトルコ系の鮮卑人と鮮卑人化した漢人の集団が支配層を占めていた。また、漢民族と北方遊牧民族の王朝が並存した時代も多く、特に華北は北方民族の支配が長い。異民族が漢民族を支配する体制は、力による統治である。徳による統治は、漢民族向けの粉飾となる。こうした歴史を持つシナでは、権謀術数の政治・外交が、高度に発達した。それが、シナ文明の特徴となっている。

 第二の理由は、儒教の道徳は、基本的に家族や宗族の道徳であり、真の公共性を持たなかったことである。孝悌つまり父母に孝行を尽くし、よく兄に仕えて従順であることが、儒教の徳目の基本になっている。シナの社会は、家族や身内は非常に親しいが、家族や身内以外は敵という社会である。外の人間には、嘘を言い、人を欺き、盗み・殺しを平気で行う。仇敵となれば、墓まで暴いて、死肉を食らい、徹底的にさらしものにする。
 シナの古代帝国は家産制国家だった。統治者が私的な価値観を国家経営に持ち込めば、国土・国民は皇帝の私物となる。家臣は皇帝に私的に仕える者となる。多くの民族が闘争・略奪を繰り返す場所では、生き残りのために私的な価値観が優先される。こういう社会では、公的な価値観が形成されない。そのため、シナでは、社会が広く共有する倫理が存在し得なかったのだろう。シナに生れた儒教は、発生の地では、家族や宗族の私的な道徳を越え切れなかったのだろう。

 第三の理由は、儒教の道徳は、宗教心に裏付けられなかったことである。道徳の基礎には、宗教心がなくてはならない。言い換えれば、超越的な価値の裏づけがなければ、真の道徳は成り立たない。シナ人は、現世中心の価値観を持ち、関心は健康・長寿・名声・富裕などの実利に集中する。現世を否定し、輪廻からの解脱、浄土への往生を求める仏教は、一時隆盛したもののシナ人の民族性を変えることがなかった。むしろ、こうした民族性を儒教自体が助長した。
 孔子は、天を敬い、天に従うが、そこでいう天は人格神というより、原理的で抽象的な存在となっている。孔子は「怪力乱神を語らず」「鬼神を敬してこれを遠ざく」と語り、その教えは、かなり合理的である。孔子後の儒教の道徳は、宗教心に裏付けられず、外から与えられた規範を守る行為として発達した。社会的に強制される規範は、内面的な良心の働きに裏付けられなければ、形式的なものとなる。それが、道徳の形骸化をもたらしたと思われる。

 儒教の理想は、大陸ではなく、日本においてこそ花開いた。この点は、後述したい。

(4)老子における道と徳


 孔子は実在の人物とされるが、老子は伝説的な存在である。孔子と同時代の年長者という見方もあれば、孔子より後の戦国時代の人という見方もある。

古代シナには、天を人格神として仰ぐ信仰があった。天の意志であり、法則である天の道は、儒教の根底にあるものの一つである。儒教では、天の道は、深く掘り下げられることがなかった。主題が政治であり、天の道に基づく人の道、「修己治人の道」に重点があったからである。これに対し、古代シナの天の道を哲学的・体験的に掘り下げたのが、老子である。


 老子に帰せられる書は、『老子道徳経』と称される。本書は、一人の人物が書いたものではなく、数世紀の間に編纂されたもののようである。相当古い時代に書かれた部分や、孟子より後の時代に書かれたと見なされる部分などが混在している。
 この『老子道徳経』こそ、道と徳を主題とした書である。わが国における道と徳について考えるには、『老子道徳経』を紐解かねばならない。


 『老子道徳経』は、道について、詩的・象徴的・警諭的な表現を書き連ねている。大意を言えば、道とは万物を生み出す根源であり、天地の母でもある。形あるものの背後にあるものである。道の営みは、無為自然である。その営みの中に表われる自然の法則、宇宙の摂理が、道でもある。そして、『老子道徳経』は、道に従って、虚心に徹することが人のあるべき姿としている。


 道と徳の関係はどうか。道と徳について、『老子道徳経』第51章には、次のようにある。

「道、之を生じ徳之を畜(やしな)う。物、之に形(あらわ)れ、勢、之に成る。是を以って万物は、道を尊び徳を貴ばざるはなし。道の尊く、徳の貴き、夫れ之を命ずるなくして、常に自然なり」

すなわち、「道がそれを生みだし、道の偉大な徳がそれを養い、万象の形がそこにあらわれ、形あるものの位置づけがそこにできあがる。だから、万物はみな道を尊び、その偉大な徳を貴ぶのだ。道の尊さとその徳の貴さは、誰がそうさせるわけでもなく、いつもおのずからそうである」(福永光司著『老子』朝日新聞社、以下の引用も同じ)


 ここにおける道と徳の関係は、現代的な概念では、宇宙大自然の法則と万有生成の力、本体と作用、真理と人徳に比せられるだろう。

こうした宇宙大自然の道に従って生きるなかで、人間社会の生活における徳が得られる。道を踏み行うことで得られる徳については、第54章に次のようにある。
 「之を身に修むれ、其の徳乃(すなわ)真なり。之を家に修むれ、其の徳乃ち余り。之を郷に修むれ、其の徳乃ち長く、之を邦に修むれ、其の徳乃ち豊かに、之を天下に修むれ、其の徳すなわち普(あまね)し」

すなわち、「その道を我が身に修めれば、その徳はこの上なく純粋であり、その道を我が家に修めれば、その徳は用いてなお余りあり、その道を郷(むらざと)に修めれば、その徳は久しく、その道を国に修めれば、その徳は豊かに、その道を天下に修めれば、その徳はあまねくゆきわたる」


 この章は、道に沿って生きるときに、その徳を受けて、自分に徳が身につく。またその徳をもって、家族・社会・国家に人格的な感化を及ぼすことができることを書いている。この考え方は儒教に通じる。『老子道徳経』のうち、儒教の影響を強く受けた部分と見られる。


(5)老子の道と儒教の道の異同


 老子の道と儒教の道は、天の道に源を共有し、徳の感化を家族・社会・国家に及ぼす点でも、別々のものではなさそうである。

『論語』にも次のようにある。

「子曰く、政を為すに徳を以ってするは、譬え北辰の其の所に居て、衆星の之に共するが如し」

「先生が言われた。徳をもって政治を行うのは、例えば、北極星が天の中心にあって自分は動かずに、多くの星がそれを中心に回っているようなものである」(ほそかわ訳)


 これは、聖人の境地であろうが、徳のある君主は、その位に座しているだけで、あれこれしなくとも国内が秩序整然と調和した社会となるといった意味だろう。老子の言葉で言えば「無為」の統治である。この点からも、老子の道と、儒教の道は根底的には同じものと言えよう。


 しかし、『老子道徳経』は、第18章で次のようにいう。

「大道廃れて、仁義有り。智恵出でて、大偽有り。六親和せずして、孝慈有り、国家昏乱して忠臣有り」

すなわち、「仁義の道徳が強調されるのは、大いなる道が失われたからで、人為の掟が盛んに作られるのは、さかしらの智恵が発達したからだ。親子の道徳が喧(やかま)しくいわれるのは、家のなかがもめるからで、忠臣の存在が騒ぎ立てられるのは、国の秩序が乱れたからだ」

 

『老子道徳経』のいうところの道が行なわれていた時代には、争い、盗み、欺きなどがなかった。国家が形成され、文明が進んでから、いわゆる道徳がつくられた。儒教の祖である孔子、その弟子の孟子は、こういう社会規範としての道徳を論じた。孔子は仁と礼を、孟子は仁義を強調した。老子を祖とする道家は、「無為自然の道」を理想とし、儒家の説く「修己治人の道」は、人為であるとして批判した。そのため、シナでは、老子の説く道と徳、孔孟の説く道と徳は異なるものであると考えられ、道家と儒家は対立しさえした。

これに対し、わが国では、老子の思想と孔孟の思想は、仏教とともに、初めから融合された状態で摂取されてきた。道教の教団や儒家の集団が存在した形跡もない。老子の道と孔孟の道は、相違・対立的なものではなく、相補的なものと受容されてきた。それが、わが国の精神文化を豊かに発展させることとなったと私は思う。ページの頭へ

 

 

2章 日本における道と徳

 

(1)わが国固有の道

 シナの固有の思想・宗教は、儒教であり、道教である。わが国でこれに当たるものは、神道である。わが国における道と徳について考えるに当たり、日本神道のことから始めたい。

 「神道」という言葉は、シナから入ってきた漢語である。漢語でこの場合の「神」は、鬼神つまり死霊の意味である。「神道」の原義は、墓場への道をいう。わが国では、この言葉をまったく違う意味に転用した。「神の道」「神ながらの道」として、わが国古来の信仰を表わす言葉に使ったのである。
 その例を『日本書紀』に見ることができる。聖徳太子の父・第31代用明天皇の段に、「仏法を信じ、神道を尊ぶ」とある。「神道を尊ぶ」とは、日本の神々や皇室の先祖を敬うことである。
 聖徳太子について書いた太子伝では、補註に、「神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華美、人智熟して後に起り、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは私情なり」と記されている。ここで「神道」というのは、日本古来の道を言う。日本固有の宗教を、神道という漢語で呼んでいるわけである。

 漢語の「神道」にある「神」の字を、日本人は「かみ」という大和言葉で読んだ。ただし、日本の「かみ」とシナの「神」は違う。日本人は、人間を超えた力を持つ存在、人知で知りえない働きや現象をすべて「かみ」と呼んできた。自然の事物や現象、祖先や偉人・英雄の霊などを、一様に「かみ」と名づける。漢字であれば、天・霊・鬼・神・社・稷等をすべて「かみ」と呼び、その総称として「神」という漢字を利用した。
 「神道」は、「かみ」としての「神」に「道」という漢字が結合した言葉である。「道」は、シナの文献とともに入ってきた外来の観念であるが、神道という漢語がわが国固有の伝統を表す言葉として転用された。先の太子伝の補註に見るように、儒道・仏道に対比して、神道が使われた。

 「神道」という文字は、「神の道」または「神ながらの道」と読んだのだろう。
 「神ながら」とは、万葉集や祝詞に見える言葉である。「神ながら」は、「神でおありになるまま」「神として」「神の御心のままで人為を加えないさま」(『広辞苑』)を意味する。「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」と大伴家持が歌った句が、万葉集に載っている。「葦原の瑞穂の国」とは、日本のことである。その日本の国とは、「神ながら言挙げせぬ国」である。家持は、そうわが国の特徴を表現している。
 そういうわが国に古来伝わる道が、「神ながらの道」であり、「神の道」、神道である。

(2)「神ながらの道」が歴史を一貫

 6〜7世紀のわが国に、シナから儒教・道教・仏教が入ってきたとき、日本人はわが国固有の神道を保ちながら、外来の思想・宗教を取り入れた。固有の宗教を土台として、その上に、儒教・道教・仏教が融和・総合された。こうして固有の精神を失うことなく、外来の文化を摂取して、精神文化を豊かに発展させてきた。
 神道は、「神の道」「神ながらの道」であり、神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道である。自然崇拝・祖先崇拝を元にした宗教である。
 以前書いたように古代のシナにも、自然崇拝・祖先崇拝の宗教があった。天神地祇への信仰であり、祖先の霊への信仰である。これは、日本風に言えば、シナの神道となるだろう。古代のシナでは、「神ながらの道」を踏んで政治を行った聖王の治世が理想化され、「先王の道」とされた。儒教では「先王の道」の復活を目指して「修己治人の道」が発達した。これに対抗して、老子の「無為自然の道」が思索されもした。

 これに対し、わが国では、神話の神々を祖先に持つ皇室が、建国以来、民族の中心にあって、現代まで脈々と続いている。シナで言えば、三皇五帝が単に神話・伝説上の存在ではなく、彼らの子孫である王家が、古代から一貫して継承され、現代においてなお存在しているようなものである。それゆえ、わが国においては、「神ながらの道」が途切れることなく、歴史を貫いてきた。「先王の道」は失われることなく、代々の天皇に継承・実践されてきた。国民は仏教や儒教、道教を養分として取り入れて、独自の精神文化を発達させてきた。
 このような文化発展が可能となったことには、聖徳太子の功績が大きい。太子は、シナから流入する思想・宗教の文献を読破し、日本独自の理念を打ち立てた。それが「和」である。太子が制定し十七条憲法は、「和をもって尊しとなし」と始まり、「和」をわが国の基本理念に定めた。

 「和」は、シナの儒教では徳目ではない。三徳・五常・五倫には挙げられない。『論語』には、「礼の用は和をもって貴しとなし」とあるが、これは礼という徳目のもたらす効果として和をいうものである。すなわち、礼つまり儀礼は社会に和合をもたらすというのが趣旨である。「和して同ぜず」という言葉」もあるが、協調はするが妥協はしないといった意味で、「和」が徳目とされているわけではない。
 「和」は、仏教の徳目とも言えない。仏教には、「和敬」「和合」等の言葉があるが、そのもとは仏の慈悲である。太子は仏教の興隆に努めはしたが、わが国を仏教国にしようとしたのではない。皇室にも伝わる固有の神道を根本として、外来の思想・宗教を取り入れてわが国の精神文化を豊かにしようとしたのである。

 シナから思想・宗教の入ってくる以前より、わが国の社会では調和が大切にされてきたものと思われる。その中心には、天皇があり、国民全体が一大家族のような共同社会を形成する。
 古代の日本人は、国名を「わ」と言ったものらしい。「わ」は、環濠集落を意味する。「輪」であり、輪になった集団である。「わ」と聞いてシナ人が「倭」の字を当てたのだろう。日本人は、その字を嫌って、「和」の字を当てたものと思われる。太子の「和」は、こうした日本固有の理念を「和」という漢字を借りて表わしたものだろう。

 「和」の国・日本に伝わってきた道が、「神ながらの道」「神の道」であり、神道である。人々は、調和を心がけながら、知らず知らずにこの道を踏み行ってきた。そこに自ずと育成された徳が、日本人の美徳と言えよう。

参考資料
・項目「和の精神」の拙稿

・拙稿「人類史の中の日本文明」の第2章(1)〜(3)
 

(3)日本人の美徳

 日本人をよく知る外国人は、日本人の特徴として、正直、勤勉、誠実、約束を守る、親切、清潔、礼儀正しさ等を挙げる。これらは、日本人の具体的な美徳と言えよう。

 日本人は、四季の変化に富む、豊かな自然のなかで、人々が天皇を中心として、一大家族のような社会を構成して生きてきた。そこに自ずと発生・成長したのが、人と人、人と自然が調和して生きる日本精神である。
 日本精神の根底には、自然を愛し、自然を畏れ、また祖先を大切に祀る敬神崇祖の念がある。その宗教的な表現が神道である。「神の道」「神ながらの道」である。

 わが国固有の神道は、自然崇拝・祖先崇拝の生き方である。自然の事物や現象を神と感じ、神を敬い、神を畏れる。また祖霊を尊び、大切に祀る。古代の日本人は、清明心つまり「清き明き直心」を大切にした。自然神・祖先神には心身を清めて向かい、人には邪心なく接する。罪けがれを忌み嫌う。正直、勤勉、誠実、約束を守る、親切、清潔、礼儀正しさ等の日本人の美徳は、「清き明き直心」の働きと言えよう。
 人々が「清き明き直心」をもってともに生きる社会に実現されるのが、「和」である。聖徳太子が基本理念とした「和」は、人々が「清き明き直心」を大切にし、「神ながらの道」に沿って生きる社会の理念と言えよう。
 人々が、人と人、人と自然の調和を心がけて、和をもって日本古来の道を踏み行ってきたところに、徳が育成され、日本人の美徳が豊かに継承されてきたものと思う。

(4)日本精神の発達と武士道

 さて日本人は、聖徳太子の打ち出した指針のもとに、神道を根本として、外来の儒教・道教・仏教を摂取してきた。固有の宗教を保ちながらこれらの思想・宗教を共存させ、時間をかけて融合させてきた。
 儒教は主に思想として学ばれてきたが、儒教の持つ宗教的な要素はわが国の慰霊の習俗に深く溶け込んでいる。道教は、陰陽五行説や庚申信仰など、わが国の文化・習慣の一部になっている。仏教は言うまでもなく、日本人の倫理観・世界観に多大な影響を与えてきた。とりわけ道徳に関しては、仏教の因果応報・罪障消滅の思想が、日本人がもともと持っていた罪・穢れの観念と結びついて、日本人の道徳の深い部分を形作ってきたと思う。
 そして、神道を基盤として、神仏融合・神儒混交等が進み、宗教心に深く根ざした道徳が発達し、正直、勤勉、誠実、約束を守る、親切、清潔、礼儀正しさ等の美徳がよく発揮されてきたものと思う。

 とりわけ平安後期から発達した武士の文化には、神道・儒教・仏教のさまざまな影響が見られる。なかでも道徳面においては、儒教の思想を日本独自に解釈し、これによって徳性を養ってきた。武士には、皇室から分かれた貴族の出身、戦闘のプロフェッショナル、土地に密着した為政者という三つの特徴がある。その特徴は、それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応する。
 こうした特徴と徳目をもつ武士たちは、平安後期から鎌倉・室町・戦国の時代を通じて、独自の倫理と美意識を生み出した。江戸時代に入って、それが一層、自覚的に表現されることになった。これが、今日いうところの武士道である。

 徳川家康は、朱子学を幕府の教学に定めた。それにより、儒教は武士の基本的な教養の一部となった。日本人は、シナの儒教を単に摂取するのでなく、これを深く研究した。山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らは朱子学を出て、直接経書を研究し、古学派と呼ばれる。この過程は、儒教を日本化する過程でもあった。
 武士道は、儒教の概念を使用することによって独自の表現を得、理論化・体系化された。しかし、根本にあるのは、わが国固有の精神であって、武士の潔さ、美意識、敵を愛する心などは、シナの文化には見られない独自の徳性である。

 日本精神は、約700年の武士の時代に、武士道の発展を通じて、とりわけ豊かに成長・成熟した。明治維新は、武士道の発揮によって、成し遂げられた一代改革だった。近代国家の建設の中で、身分としての武士は消滅した。しかし、その後、武士道は国民全体の道徳となった。大東亜戦争の敗戦後、武士道は失われつつあるが、いまなお日本精神の精華として、日本人の精神的指針たるべきものであり続けている。
 日本精神の歴史及び武士道については、いろいろ書いてきたので、ここでは簡単に終えたい。

 上記のような精神的伝統にあって、わが国における道と徳を最もよく表しているものが、教育勅語だと私は思う。続いてその点を中心に書きたい。
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参考資料
・拙稿「人類史の中の日本文明」の第2章の(4)
・拙稿「日本精神の宗教的表現としての神道
・項目「武士道」の拙稿

 

 

第3章 教育勅語における道と徳

 

(1)勅語が説く日本の徳

 教育勅語は、わが国の教育の理念・目標を説くものである。また、日本人が古来受け継いできた自己本来の日本精神が、よく表現されているものでもある。

 教育勅語には、日本における徳の由来・内容・実践が簡潔明快に表現されている。勅語は、「朕惟うに 我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり」と始まる。このように最初に、「徳を樹つること」として「徳」が出てくる。
 続いて、「我が臣民 克く忠に克く孝に 億兆心を一にして 世々厥の美を済せるは 此れ我が国体の精華にして 教育の淵源亦実に此に存す」とある。ここでは、忠と孝という徳目が出てくる。
 第1段に続く第2段では、「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」と始まり、家庭におけるあり方、社会におけるあり方、国民としてのあり方が説かれる。
 第3段では、「斯の道は」と「道」が示される。徳とは道の実践によって身に得るものである。そして、最後は「朕爾臣民と倶に挙々服膺して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶ひ幾う」と、また「徳」が出て締めくくられる。

 このように教育勅語は、最初に「徳を樹つること深厚なり」と「徳」が述べられ、最後に「其の徳を一にせんことを庶ひ幾う」と結ぶ。それゆえ、教育勅語は、日本人の徳の由来と内容、その実践を説いたものだという理解ができるだろう。

 次に、もう少し詳細に見てみよう。
 第1段は、「我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり」と、日本における徳の由来から始まる。この一文は、明らかに記紀神話に基づいている。天照大神を皇祖とし神武天皇を初代天皇とする皇室の祖先が、日本の国を始めた時、「うしはく」ではなく「知らす」という姿勢がめざされた。つまり力による支配ではなく、徳による統治が目指されたのである。神武天皇以来、天皇は国民を「大御宝(おおみたから)」と呼んで大切にし、親が子を思うように慈しみをもって政治を行うことに努めた。

 教育勅語は、「仁」の文字を使っていない。しかし、ここにおける徳が意味するものは、「仁」である。
 「仁」は、いつくしみ、思いやりを意味する。孔子は、聖人君子の身につけるべき徳として、「仁」を説いた。「仁」は、忠つまりまごころと恕つまり思いやりを含意する。「仁」は、以後、儒教の道徳思想の中心にすえられた。「仁」の上は「聖」である。「仁」の理念を実現した理想的な状態が「聖」である。
 孟子は「仁」と「義」を合わせた「仁義」を説いた。力による支配ではなく徳による統治、すなわち「覇道」ではなく「王道」を掲げ、君主は「民の父母」であるべきことを教えた。
 さらに宋学では、「仁」を天道の発現と見なし、一切の諸徳を統括する主徳とした。朱子学では、「仁」は観念的に理解されたが、陽明学は「万物一体の仁」を説いた。「草木瓦石」に至るまで自分と一体であると考えれば、それらに対する哀れみが生まれる。それが「万物一体の仁」である。哀れみが生まれれば、何とかしようとして、心が動く。心が動けば人をして行動させることになる。ここに「知行合一」が目標とされる。

 「仁」は、ついにシナでは理想にとどまり、実現できなかった。陽明学もシナでは消滅した。しかし、わが国では古来、天皇は、「仁」の体得・実行に努め、「民の父母」たらんとした。歴代天皇は、常に国民の安寧、世界の平和を祈念してこられた。その伝統は、今日まで続く。
 日本とシナの徳の違いは、公と私の構造と関わる。シナの古代帝国は家産制国家だった。国土・国民は皇帝の私物であり、官僚は皇帝に私的に仕える者だった。日本は7〜8世紀にシナに学び、中央集権的な家産制国家をめざしたようであるが、シナでは帝国全体が皇帝の「私」のものであるのに対し、日本では国全体が「公」のものである点が違う。
 わが国では、天皇は「公」の体現者となり、人民は私的に所有されるのではなく、公民という公的存在になった。シナの皇帝が私利私欲で土地や人民を私有したのに対し、日本の天皇は公民を「おおみたから」と呼び、自らの徳を磨き、人民のために仁政に努めた。シナの理想は、日本において現実のものとなった。しかも、古代から今日までその伝統が続いている。

 こうして、天皇が行う「仁」に対し、国民が応えて行う徳目が「忠孝」である。「忠」とは、偽りのない心、まごころ、まことである。特に、君主に対して真心をもって仕えることを言う。「孝」とは、親を大切にすることである。祖先を大切に祀ることもいう。
 勅語は、「我が臣民 克く忠に克く孝に 億兆心を一にして 世々厥の美を済せるは 此れ我が国体の精華にして 教育の淵源亦実に此に存す」とある。全国民が心を一つに合わせて忠孝の美風を作り上げてきたことが、日本の国柄の最も優れた美点であるとしている。

 勅語は、わが国の美風、「国体の精華」は、国民が忠孝を実践してきたことだというが、実際は、天皇が仁を行なうのに対し、国民が忠孝をもって応えてきたものである。天皇と国民の間に、仁・忠・孝が実践されている姿が、わが国の国柄の特徴をなす。大和言葉で言えば、人々が、清き明き直まことの心、まごころで、互いを思いやり、和をもって生きる国が日本である、と言えよう。

参考資料
・拙稿「教育勅語を復権しよう
・拙稿「日本の公と私〜新しい公民倫理のため
 

(2)「親祖先皇室神」という連なり

 前項で天皇と国民の間に、仁・忠・孝が実践されている姿が、わが国の国柄の特徴をなすと書いた。その背景には、わが国が天皇を中心に国民が一大家族のような社会を形成しているという、わが国独自の特徴がある。
 国民は、親を大切にすることで、祖先をも大切に祀る。これが「孝」の実践である。祖先をさかのぼると皇室につながると日本人は信じてきた。祖先が皇室の分かれだったり、祖先が皇室に仕えてきたりした家系が多い。わが国では、皇室は国民の本家のような存在と考えられてきた。それゆえ、祖先を敬うことは皇室を敬うことにつながる。これが「忠」の実践である。
 また、国民は、祖先のはじめを氏神として祀ってきた。皇室は、天照大神を祖先神としている。さらに、イザナギ・イザナミへとさかのぼる。そこでは、皇室と国民は源をともにする。こうして日本では、神話の神々と人とが連続している。また、皇室と国民がつながっている。すなわち、「親
祖先皇室神」という連なりがあると信じられてきた。

 こうしてわが国では、親と祖先に対する「孝」は、そのまま皇室に対する「忠」につながっていく。自分の家の祖先神に対する敬いは、皇室の祖先神に対する敬いにつながっていく。このような国柄においては、天皇への忠と親・祖先への孝のもとは、一つとなる。これを「忠孝一本」という。
 また、神を敬うことと、祖先を崇めることは、別々の事柄ではない。神を敬えば祖先を崇めることに通じ、祖先を崇めることは神を敬うことになる。これを「敬神崇祖」という。
 「敬神崇祖」と「忠孝一本」が一つのものであることを理解するところに、日本精神を理解する要諦がある。

 教育勅語には、「神」という文字は使われていない。儒教の「天」という文字も使われていない。勅語の起草者は、思想的・宗教的な対立を生みやすい用語を避けた。しかし、文字に表わさなくとも、勅語の背景に、わが国固有の信仰があることは、明治時代の日本人には、常識として理解されただろう。「敬神崇祖」と「忠孝一本」が、ひとつの源から発していることが、戦前までの日本人には、直感的に理解されていただろう。あえて言うまでもない共通認識ということである。
 以上書いたことは、日本文明の鮮やかな特徴であり、シナ文明とは明確な対比をなす。ここまで読んできていただいた人には、そのことがはっきり理解されるだろう。

(3)徳目と実践

 さて、教育勅語の第2段は、「爾臣民」から「〜ニ足ラン」までである。ここでは、 初めに天皇が国民に対して「爾臣民」と親しく呼びかけ、国民が守り行うべきことを示している。そして、具体的な徳目を掲げて、それを実践する意義が明らかにされている。
 ここでは第1段で述べられた忠孝を実践するための徳目が具体的に述べられていく。挙げられた徳目は12ある。「孝行」「友愛」「夫婦の和」「朋友の信」「謙遜」「博愛」「修学習業」「智能啓発」「徳器成就」「公益世務」「遵法」「義勇」である。
 第1段で、日本における徳の由来と内容を述べた教育勅語は、この第2段で徳の詳細を明らかにしているわけである。これらの徳目は、個人的から家族的の私的な道徳にとどまらず、社会的から国家的の公的な道徳に及んでいる。これらは単にシナの儒教の徳目を列挙したものではない。日本人の精神的伝統に基づいて再編されているとともに、近代国家・日本の国民として期待される徳目へと発展されている。

 第3段は、「斯の道は」と始まる。すなわち「斯の道は 実に我が皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所 之を古今に通じて謬らず 之を中外に施して悖らず」とまず述べる。
 徳は、道の実践によって身に得られるものである。『老子道徳経』では、道とは「無為自然の道」であった。儒教においては、道とは「修己治人の道」であり、それは天の道に基づくものであった。ともに道を踏み行うことによって得たものを、徳と呼ぶ。
 教育勅語は、道について主題的に説いていないが、「斯の道」とは皇室の祖先が残し、代々受け継がれてきた教訓であり、皇室の子孫も、国民も等しく守ってゆかねばならない道だとする。この道については、項目を改めて書きたい。

 教育勅語は、最後を次ぎの言葉で結ぶ。
 「朕爾臣民と倶に挙挙服膺(けんけん)して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶ひ幾う
 その大意は、「私もまた、国民の皆さんとともに、父祖の教訓を常に胸に抱き、この徳を守り実行して共にすることを、心から念願するものであります」ということであろう。
 これは明治天皇が国民に呼びかけたものである。「拳拳服膺」とは「謹んで捧げ持つように、常に心に抱いて守り実行すること」を意味する。天皇は自ら実行するともに、国民に対して、一緒に実行して、徳をともにしようと呼びかけている。これが、わが国における徳の実践のあり方である。

 教育勅語は、最初に「徳を樹つること深厚なり」と徳の由来を述べ、徳の内容を展開し、最後に「其の徳を一にせん」と徳の実践を呼びかけている。教育勅語は、日本人の徳の由来と内容、その実践を説いたものであるという理解が可能だろうと思う。
 教育勅語には、「徳器を成就し」とあり、徳の器つまり徳の入れ物としての人間の人格完成を説いている。こうした考え方が教育に具体化され、「修身」において、具体的な徳の体得が教育された。それが、日本精神を受け継ぎ、発展させるものとなっていた。「修身」だけではなく、国語、国史(日本史)、音楽等、教科の全体が、日本人の徳を涵養する教育となっていたのである。これは驚くべきことと言わねばならない。

(4)教育勅語が示す道

 徳とは、道を踏み行うことによって身に得るものである。教育勅語は、第3段にて「斯の道は 実に我が皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所 之を古今に通じて謬らず 之を中外に施して悖らず」と述べる。教育勅語における道とは、どのような道なのだろうか。

 シナの儒教では、道とは「先王の道」であった。神話・伝説に伝えられた三皇五帝が天意に基づいて行なった道である。天の道に基づく人の道である。その道を踏んだ先王の行いが受け継ぐべき伝統であり、回復すべき理想だった。
 わが国でこれに相当するものは、なんだろうか。「皇祖皇宗の遺訓」の源には、何があるのだろうか。私は、源は神話に伝わる神勅にさかのぼると思われる。

 日本神話の物語の一つに、天孫降臨の話がある。そこで、天照大神は、孫のニニギノミコトを日本に派遣される時に、次のような言葉を与えたとされる。
 「豊葦原の千五百秋の瑞穂国は、是吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべく地(くに)なり。宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)いて治(しら)せ、行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、まさに天壌(あめつち)とともに窮りかるべし」
 天壌無窮の神勅と呼ばれるものである。ここで日本は、稲穂が豊かに稔る国だと表現され、皇室の祖先は、この国で末永く繁栄するように、天から遣わされてきたとされている。
 教育勅語における「皇祖皇宗の遺訓」とは、この神勅を源として、代々の天皇に受け継がれてきた教訓と考えられる。

 初代神武天皇は、ニニギノミコトの孫とされる。『日本書紀』によれば、神武天皇は、奈良の橿原(かしはら)の地で、初代天皇に即位したとされる。この時、神武天皇は、日本建国の理念を高らかに謳い上げたと伝えられる。その理念は、「橿原建都の詔」に示されている。
 「上はすなわち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、下はすなわち皇孫(すめみま)正しきを養ひたまふ心(みこころ)を弘め。然して後に六合をかねて以て都を開き、八紘を掩(おお)ひて宇と為(せ)むこと、また可(よ)からずや」

 ここに「徳」が出てくる。「うつくしび」という大和言葉に、徳という外来の文字を当てている。「うつくしび」は、いつくしみと同じであり、慈愛を意味する。神における「仁」とも言えよう。現代的に言えば、神の愛である。
 引用部の大意は、「天照大神が日本という国をお与え下さったご慈愛にお応えし、祖先のニニギノミコトが正しさを養われた御心を広めていきたい。そして、それによって、国中を一つにして都を開き、さらに天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにすることは、なんと良いことではないか」と解される。
 ここに表わされた理念を一語にしたのが、「八紘一宇(はっこういちう)」である。この言葉は、日本人の「道徳上の目標」を表す言葉であって、侵略主義とは無縁のものであることが、東京裁判においても認められている。本来は「世界は一家、人類みな兄弟」という意味であり、英語ではuniversal brotherhood と訳されている。

 また、神武天皇の「建都の詔」には、「苟(いやし)くも民に利あら、何聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ」という言葉がある。ここで「民」は、「おおみたから」と読む。そこには、天皇は国民を宝のように大切に考えるという姿勢が表れている。そして、国民の福利をめざす政策を行おうという方針が示されている。以来、わが国では、力ではなく徳、覇道ではなく王道をもって国を治めるという理想が、受け継がれてきた。

 教育勅語における「皇祖皇宗の遺訓」とは、神勅を源として、神武天皇の掲げた理念、努めた態度を受け継ぐものだろう。そして、そこに表われているものが、日本における道であると考えられる。
 日本における道が、単に日本人及び皇室の祖先から受け継がれてきた道なのであれば、特殊民族的なものにとどまる。ところが、教育勅語は、この道は、昔も今も、いつの時代に行なっても誤りがない道であり、日本だけでなく、世界中どこの国で行なっても、間違いのない道であるという。すなわち、日本固有の道であるとともに、時代・場所を超えて普遍的に通じる道だとしている。
 これは、民族的なものをそのまま世界に押し広めて、同化させるという意味ではない。民族的なものの中に、普遍的なものが本質として認められるという意味だろう。すなわち、教育勅語の説く道も、『老子道徳経』の道も、儒教の道も、あるいは世界のあらゆる文化・社会における道も、根本においては、一つの道の現れであり、その普遍的根源的な道が、それぞれに感知・表現されたものと考えられる。
 わが国の道もまた、そのような普遍的根源的な道の現れであり、日本においては、古来の道が途切れることなく守り継がれ、明治維新後、世界の中の日本という時代を迎えた時に、改めてその道の価値が自覚されたということだろう。

(5)「和」の精神


 道を踏み行うことによって、徳が身につく。教育勅語の説く道を行うことにより、天皇と国民には、徳が共有される。その徳とは、天皇における「仁」であり、国民における「忠孝」である。そして、天皇が「仁」を行い、国民が「忠」を行い、各家庭に「孝」が行われている状態を表す理念が、「和」であると私は考えている。


 古来、日本人は、人と人、人と自然の調和を心がけてきた。古くから国名を「わ」と呼び、「倭」を嫌って「和」の字をあてた。国の中心となる「やまと(山門)」には、「大和」の字をあてた。いかに日本人が「和」を重視してきたかを示すものだろう。

 聖徳太子は、「和」を十七条憲法に明文化し、国家国民の理念として確立した。ここで太子は、「仁」「忠」「孝」を具体的に述べてはいない。第6条に「君に忠」「民に仁」という文言はあるが、「孝」の文字は登場しない。それゆえ、私が、天皇が「仁」を行い、国民が「忠」を行い、各家庭に「孝」が行われている状態を表す理念を「和」というのは、太子の言葉そのものによるのではない。


 十七条憲法において、内容として説かれているのは、「忠」のみである。
 すなわち、第12条に「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以って主と」とある。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。国土も人民も、主は天皇であるとした。また第3条に「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とある。太子は、豪族・官僚たちが天皇の言葉に従うように、記している。これらの条文は、天皇に対する「忠」を具体的に説くものといえる。

 「仁」については、具体的な記述はない。明記されていないが、天皇・皇族が「仁」を行なうことが前提とされていると推察される。というのは、第12条に「兆民(おほみたから)」という語がある。民を意味する言葉を「おおみたから」つまり大切な宝物と呼ぶのは、『日本書紀』の神武天皇のくだりと同じである。
 ちなみに、民を意味する言葉には、「億兆」という漢語もある。教育勅語には、「億兆心を一にして」という文言があるが、これを大和言葉で読めば、「おおみかたら心を一にして」となる。

 「孝」については、十七条憲法では、内容的にも触れられていない。しかし、古代の日本人にとって、親を大切にし、祖先を大切に祀ることは、当然のことだった。
 十七条憲法は、仏教について「篤く三法を敬え」として、仏法僧を挙げている。明示された文言だけ読めば、日本を仏教国にするための憲法かと誤解する。聖徳太子は、用命天皇の皇子であり、推古天皇の摂政を務めた。皇室においては、古来の儀式が行われていた。神々を祀り、祖先を祀る儀式である。それは神道、「神の道」「神ながらの道」の実践であり、同時に皇室における「孝」の実践でもある。太子は、憲法に「孝」を盛り込んではいないが、「孝」は言うまでもない前提だったと考えられる。


(6)時を超えて貫くもの


 聖徳太子の十七条憲法は、日本の国家国民の理念として、「和」を打ち立てたものだった。太子以後、日本人は、「和」の理念のもと、「和」の精神を発展させてきた。
 十七条憲法の約1200年後に発せられた「五箇条の御誓文」にも、聖徳太子の「和」の精神が生きている。第1条の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」がそれであり、第2条の「上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸(けいりん)を行ふべし」も同様である。聖徳太子の説いた「和」の理念は、千年の時を超えて、近代日本の建設にも生かされたと言えまよう。


 教育勅語には、「和」の文字はなく、「和」の理念を明示的に述べた文書ではない。しかし、勅語の全体が「和」の精神を表現したものだと、理解することは出来るだろう。

 第1段に「我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり。我が臣民 克く忠に克く孝に 億兆心を一にして 世々厥の美を済せるは 此れ我が国体の精華にして 教育の淵源亦実に此に存す」とある。天皇が「仁」を行い、これに対し、国民が「心を一つにして」応えて、忠孝を行う。これはまさに、聖徳太子が目標とした「和」の姿だろう。

 また、最後に「朕爾臣民と倶に挙挙服膺(けんけん)して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶ひ幾う」とある。天皇が国民に、道の実践を呼びかけ、天皇と国民が徳を一つにしようとともに努力する。そのあり方は、聖徳太子が、「率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以って主と」と書いたわが国の国柄が、道徳的・精神的にさらに発展した姿だと言えよう。


 日本神話、十七条憲法、五箇条のご誓文、教育勅語等の間には、幾千年幾万年の時を超えて貫かれているものがある。そこに表われているのが、日本人の精神、日本精神なのである。

 歴史や伝統の中から日本精神を学び取ろうとするには、文書の文字に書かれたものだけでなく、文字に記されていない構造を読み取ることが必要だと私は考えている。書いてある文字が思想の全体ではない。日本人は、「言挙げせず」をよしとしてきた。非常に重要なことや、逆に当たり前のことは、あえて書かないできた。文字になっていないことをも、構造として読み取らないと全体を把握できない。私が感得したいと思っているのは、日本神話、十七条憲法、五箇条のご誓文、教育勅語等に通底しているもの、日本人の心の深層に流れてきたものである。思想ではなく、心を感じ取ることなくして、日本精神はとらえられないと思う。ページの頭へ

 

結びに〜日本人の美徳を回復するために


 明治の日本人が持っていた日本精神は、大正、昭和と進むに従って、徐々に失われた。それが大東亜戦争突入の原因にある。戦後の日本人は、敗戦で自信を失って祖先の伝統を否定した。物質科学の発達によって、神を見失い、自己過信に陥っている。「和の精神」、共存共栄の調和の精神を忘れ、利己主義に陥っている。その結果、日本人としての美徳を失ってきた。

 今では日本人には美徳がある、と日本人が自分で言っても、最近の日本人はどうなっているだと外国人に言われてしまう。

 安倍首相は、「活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、『美しい国、日本』」を目指すと所信を述べた。首相は、その「美しい国」の姿の第一に、「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」を挙げる。これは、日本のよき伝統を取り戻した姿といえよう。こうした「美しい国」は、国民が、かつて日本人が持っていた徳を取り戻し、徳を身につけてこそ実現できる。そのためには、日本人が古来踏み行ってきた道を思い起こし、日本人の徳の由来・内容を知り、先祖・先人の美徳に学ぶことが必要だと思う。ページの頭へ


参考資料

  項目「日本精神」の拙稿

・大東亜戦争については、以下をご参照下さい。

基調」のその2「大東亜戦争は、戦う必要がなかった」

・黄文雄著『歴史から消された日本人の美徳』(青春出版社)

・和辻哲郎著『日本倫理思想史』(岩波書店)

 

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