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オ ピ ニ オ ン  歴史再考

 

題 目

目 次

01「日本弱体化政策」の検証(長文)

02 日本は無条件降伏などしていない(長文)

03 教科書を改善し、誇りある歴史を伝えよう(長文)

04 満州国建国の真相――『紫禁城の黄昏』

05 南京での「大虐殺」はあり得ない(長文)

06 南京事件の真実を伝える写真(長文)

07 ユネスコの記憶遺産問題は断固対応すべし

08 「東京大虐殺」を忘れるな

09 「百人斬り」訴訟の争点と展望

10 マッカーサー証言をTV放送し学校で教えよう

11 日本を操る赤い糸〜『田中上奏文』・ゾルゲ・ニューディーラー等(長文)

12 『日本解放綱領』の残影〜中国の対日政治工作(長文)

13 映画『ムルデカ 17805』を推す

14 日本は分割占領を避けられた

15 「昭和の日」に日本を思う

16 渡部昇一氏の『日本の歴史』賛

17 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」が描いていないこと

 

別項の「歴史」にも掲示があります。

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●歴史再考

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説明: 説明: 説明: ber117

 

■満州国建国の真相――『紫禁城の黄昏』

2005.4.20

 

 『紫禁城の黄昏 完訳』が祥伝社から刊行された。岩波文庫の『紫禁城の黄昏』は、満州における日本の活動の正当性に触れた部分を中心に、大幅にカットして刊行されたために、悪名高く知られているが、今度の完訳である。本書の重要性を世に知らしめてきた渡部昇一氏が監修している。

 

 『紫禁城の黄昏』は、映画「ラストエンペラー」の原作になった本である。本書は、満州国皇帝・溥儀(ふぎ)の家庭教師だったイギリス人、レジナルド・F・ジョンストンの回想録である。

 ジョンストンは、当代一流のシナ学者であり、帰国後はロンドン大学教授、同大学東方研究所所長となった権威ある学者である。

 

 清朝は、満州の女真族がシナを征服して立てた王朝である。溥儀にとって、満州は父祖の地である。辛亥革命(1911)によって清朝が倒され、紫禁城に閉じ込められた溥儀は、シナ人に愛想を尽かし、父祖の地に戻り、父祖の位につくことを熱望した。そのことを知ったジョンストンは、満州国の誕生を心から喜んだ。そして、満州国建国の2年後、昭和9年(1934)に『紫禁城の黄昏』を出版した。

 

 ジョンストンは、この回想録で、満州事変勃発以前に満州独立運動は存在しなかったとするリットン報告書に対し、それはリットン調査団が知らなかっただけだ、と反論している。また、溥儀は、蒋介石の国民党革命軍が母・西太后の遺骸を暴いた蛮行に対して激しく怒り狂い、これが復辟(ふくへき=退位した君主が再び位につくこと)への決意につながったと述べている。

 満州事変・満州国の真相を知るために、実に貴重な本である。ところが、東京裁判においては、本書は証拠としての採用を却下された。そして、この裁判もどきの場において、溥儀の満州国皇帝への即位は日本の関東軍の脅迫によるものと決め付けられ、日本を一方的に断罪する歴史観が形成されていった。

 

 日本としては、満州事変(昭和6年)は、日本軍人が中央政府の指示なく、独断で起こした事件である。このことは弁解の余地がない。国際連盟において、国内の不一致を語る日本国代表の説明はしどろもどろだ。外国から「二重政府」と見られ、誤解されてもやむをえない。昭和8年、意気揚揚と国際連盟を脱退した外相・松岡洋佑は、続いて独伊との三国同盟を推進・締結した。私は、満州国問題でわが国が国際社会から孤立する道を選択したことが、独伊との三国同盟という最悪の選択につながっていったと思う。

 しかし、 国際連盟は、満洲事変・満洲国建国を、侵略行為とは認定せず、中国側の対日制裁発動要求を斥けている。それゆえ、わが国は国際連盟を自ら脱退する必要などなかったのである。

 

 東京裁判において検察側(連合国側)は、満州事変をきっかけとする満州国の建設は、日本の指導者たちの共同謀議による中華民国への侵略行為とし、その共同謀議の第一段階が柳條湖事件であると主張した。この筋書きづくりには、「田中上奏文」(註 1)が使われた可能性がある。この文書はまったくの偽書だが、今も中国では本物として日本断罪に利用している。

 東京裁判において、検察側は、溥儀を証人として呼んで証言させた。彼は、「満州国の建設は全く日本軍の脅しによるもの」であり、「自分はしぶしぶ従った」「私の行動はすべて日本の脅迫である」と証言した。ソ連に抑留され、身の危険を感じていた溥儀は、ただただ自己弁護に努め、偽証したのである。

 これに対し、弁護側(日本国)は、満州国独立とその手続きとしての清王朝復辟運動は、満州の住民の間に生じた自発的な運動であり、日本の謀略に発するものではないことを立証しようとした。辛亥革命後の中国は、無政府状態に近い混乱を呈し、軍閥相互の内戦が続き、住民は悪政に苦しんでいた。大正15年(1926)には既に清朝の「ラストエンペラー」であった宣統帝溥儀を擁立して、君主国を復活させようという動きが各地に生じていたのである。

 

 この事実が立証されると、検察側にとっては、満州国政府は関東軍によって作られた傀儡政権にすぎなかったという起訴状の筋書きが崩れてしまう。そこで、不利な証拠はすべて、証拠能力なし、重要性なしとして却下されたのである。その却下された最も重要な資料こそ、『紫禁城の黄昏』である。

 

 ジョンストンは、溥儀の身近で激動の歴史を見てきた目撃者である。また彼はイギリス人として中立的な立場で日中関係を見ていた。それゆえに、『紫禁城の黄昏』は、検察側には極めて不利となる内容を含んでいるので、不採用とされたのである。

 小堀桂一郎氏らが監修した『東京裁判却下未提出弁護側資料』(国書刊行会)から重要部分を抜粋にて掲載する。

 

<引用開始>

 

D177 却下

22.4.10(3)

 

1. 満州独立運動の立証

2. 溥儀帝の満州行は自由意志

 

1.満州独立運動の立証

 

 1934年(105〜106項)若し満人が満州に退き、且つ彼等の勢力が支那に於て決定的に完全に凋落して居たることが明かにされたならば、支那とは全然独立に17世紀前半に存在した様な満州朝廷の復興を吾吾が見ることも不可能のことではなかったであろう。

 幾多有能の漢人勤王家達はその様な朝廷に官を得、彼等の下に正しい新しい民国の情勢に不満の支那人たちはあらゆる階級を網羅して集ったであろう。若しその様な朝廷が成立したとしたならば、日ならずして熱河、内蒙古の残部(注)等を風靡したであろうことも想像出来ぬことではない。支那に於ける革命が漸く危険視されるに至った時、満州に退く事の可能性は決して満人朝廷によって看過されていたわけでは無かった。否それは真剣に論議され、支那及び満州に於ける王室中心主義者達はそれが現在採る可最善の道であることを説いたのであった。しかし摂政及び王族の大半をして北京に留まることを最後的に決定さしたものは、袁世凱から与えられた恩恵条約の条項の素晴らしさに対する愚なとは謂へ正直な信頼であった。2人の王族がこの決定に且つ驚き且つ怒りこれを摂政及びその同胞の王族達の恥ずべき怯懦となしたのであった。これら2王族は己等が採決に敗れ、袁世凱の与えたる将来の予約や面を冠った威迫やらがあらゆる反対を押し潰し、摂政及び西太后等は己の意思よりも強い他の意思に屈服し、王家の存立が完全に失われたことを知ると、若し彼等が北京に還ることあら、その時 は北京城頭に再び龍旗の翻る日か、或は彼等が棺のうちに眠る日であることを誓いながら北京を去って流寓の人となったのであった。これら2名の王族とは恭親王専偉と蕭親王善耆であった。

 恭親王は長い年月の間日本の租借地大連に住み唯唯その王朝の栄光の回復されるのを夢想しながら暮していた。蕭親王は1922年北京に還った。棺に納められて。

 

注:1911年支那が民国となると同時に蒙古は独立を宣言し、且満人皇帝の下に王国制度が支那に復活したならば、蒙古は何時でも自発的にその治下に還ると宣言した。

 

(257項)

 これら王政主義者たちは日本と支那との間、或は満州に於ける支那代表を装うものとの間に衝突が起れば彼等の欲する機会が得られるものと信じていた。そして若し彼等が外国の勢力と結ぶことに対して支那への反逆であると非難するものがあるならば彼等は支那が既に彼等を外国人(夷子)と呼び、その故に彼等を王権から追ったことをもって答えることが出来た。外国人、外国人の家族は支那と何等の連関なき故に。

 

(262項)

 かかる事情を知っていて見れば、リットン報告中の「1931年9月以前に於てはかつて満州独立運動等と云うことは満州に於て聞かれなかった」(リットン報告書97項)とある文は、旧王国の為にする運動の存在すると云う証拠が、全然リットン卿並びにその同僚の人々に提供されなかったと仮定するより説明の仕様がない。

 

(443項)

 王室の陵墓(北京東方の東陵)に対する暴行と蹂躪とが1928年7月の3日から11日の間に亘って行われた。

 

(443〜445項)

 如何なる行為−侮辱、嘲弄、死を以って脅かすこと、財産の没収、合意の破棄−と雖も忍ぶことは出来たであろう。だがこの野蛮と神聖への冒涜の恐るべき行為だけは許すことが出来なかった。この時以来皇帝の支那に対する或はその秕政に責任あるものに対する態度が全く変った。性格からいえば皇帝は寛容であってその最も暴慢な敵に対してすら怒った言葉を投げるのを聞いたことが無かった位であった。然しこの事だけは到底彼の黙過し得ぬ所であった。この時までは皇帝は満州に於ける独立運動が相当の勢を得て居るのを知りつつこれに加わる事をせず、祖先の地満州に招かれて還ると云うことも少しも真面目に考えていなかった。彼は常に支那が正気に戻り全てがよくなる望みを棄てなかった。しかしその望みが絶えた今、私が皇帝をその次に訪れた時彼の上に現れた変化は実に著しいものがあった。その変化は実に激しいものであったので私は皇帝が陵辱された祖先の霊と交霊しているのではないかと疑い、且その祖先の霊達が(そそのかして)己を汚し祖先を辱めた支那から面をそむけ、かつて3百年の昔王朝の強固な礎が築かれた国をしっかり凝視するように皇帝を促している様に思われた。

 

(448項)

 1930年10月11日英国政府を代表して私は威海衛の還付を取行なった。殆そ(ママ)20万の人口を有、ウァイト島(Isle of Wight)の約2倍の面積を有するこの領土は1898年以来植民相に直接責任を有する英委員によって治められて来た。今この土地は支那に還され領内の人民は全く初めて民国支那の管轄の下に入ることになった。と云うのはそれが英国に"租借"されたころ支那まだ王国だったからである。

 威海衛還付の後30年以上の歳月を送った土地を後にして、たとへ返れるとしても何時の日又其処に返れるという当もなく私は英国に返ったのであったが、思いもかけず丁度1年後に私は舞戻って来た。団匪事件に関連する賠償の事務やら、その年は支那で行われることになっていた隔年毎の太平洋会議に出席する英人団の一員としてやであった。

 1931年9月18日の彼の有名な奉天事件は私の往路の旅の船で日本に着く2、3日前に起ったのだった。私は支那への旅を続け上海に着くや否や直ちに天津へ汽車で赴き10月7日に到着した。皇帝は私を待ち設けて居て駅で私は彼の随員の1人に会う様にされた。天津では彼がもう満州へ発ったと云う噂が専らであったが、私は勿論それが確かなものでないと謂うことを知っていた。次の2日を私は彼と共に過し将来起る可こと予見するに足る情報を与えられたのであった。彼自身私に与えて呉れた情報は鄭考胥によって確認された。その夜私と彼は皇帝の正賓の客となった。他の客と云えば鄭垂、陳宝著、錫良等であった。予想された通りその夜の話の題目は唯一つであった。

 

2.溥儀帝の満州行は自由意志

 

(656項)

 11月13日に私が上海に帰ったとき、ある非公式の電報により帝は天津を去って満州に向われた事を知った。支那人は、日本人が帝の意思に逆らってその身を奪い誘拐し去ったものだという風に知らせんと努めた。この話は欧州人間に広く流布され、多くの人々はそれを信じた。しかしそれは全然でたらめであった。帝並に妃が南京の蒋介石と、北京の張学良にあてて、彼等の忠誠を求め、避難所を要求する電報を打ったという事を最近実際に発表した驚くべき話も、同様に偽である。帝は又満州の国主となる事を承諾されない内に自殺し様と、妃と誓を結ばれたとか言う事も勝手にいいたてられた。帝が避難所を求められたかも知れない世界中で最後の人物は、蒋介石や張学良ではない、という事をいう必要はあるまい。尚仮令、皇帝が満州へ奪衣誘拐される危険から逃れる事を欲して居られたなら、彼がなさねばならぬ全ての事は上海行きの英国船へ上船されて行かれる事であるのはいうまでもない。帝に忠実とその身をささげた鄭考胥の様な人が帝の獄卒であるという様な事は全く絶対に、あり得からざる事である。帝が天津を去って満州へ行かれたのは御自身の自由意志である。帝の信頼のあつい同伴者は現在国務総理の鄭考胥とその息子であったのである

 

<引用終了>

 

 『紫禁城の黄昏』には、溥儀の親書が序文と写真版で掲載されている。この親書には、「宣統御筆」という皇帝の判子が押してある。玉璽(ぎょくじ)である。それゆえ、溥儀が本書の内容を認めていたことは明白である。しかし、ソ連に脅されていた溥儀は、東京裁判において、これは自筆ではなく、内容には関知しないと言った。東京裁判は、もとより真実を明らかにする場ではなく、裁判の名を借りた戦勝国による見せしめの儀式だった。溥儀の証言への追求は、適当に終了した。

 マッカーサーや蒋介石やスターリンらの思惑のもと、ジョンストンの『紫禁城の黄昏』は証拠として生かされることなく、日本の戦時指導者たちは処刑された。それと同時に、日本という国そのものが一方的に断罪されたのである。

 

 日本と中国の歴史認識の違いには、上記のような問題がいくつも存在する。そのことの再検証なくして、歴史認識の見直しはありえない。中国側が一方的に日本に謝罪・反省を求めることは、フェアーではない。

 今回、本書の完訳版が発行されたことは、日中関係史の見直しや、東京裁判史観の打破のために、有意義なことだと思う。ページの頭へ

 

(1)田中上奏文については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「日本悪玉説のもと、『田中上奏文』

 

説明: 説明: 説明: ber117

 

■「東京大虐殺」を忘れるな

2012.3.15

 

 南京での「大虐殺」はあリ得ない。「大虐殺」を証す事実はどこにもない。目撃者がいない。フィルムもない。写真1枚ない。これに比し、東京大空襲には多数のフィルムがあり、写真がある。遺骨があり、遺品がある。東京では「大虐殺」が間違いなく行われた。このことを忘れてはならない。

 昭和20年(1945)3月10日、午前0時8分。約300機のB29が東京に飛来し、焼夷弾の雨を降らした。当時の東京区部の3分の1以上が焼失するという壊滅的被害を受けた。この「東京大空襲」によって、無辜の一般市民、老若男女8万人以上が、火の海の中で亡くなった。被災者は100万人を超えた。米軍による組織的・計画的な非戦闘員への攻撃であり、無差別大量殺戮だった。「東京大空襲」は、空襲による「東京大虐殺」とこそ呼ばねばならない事件である。

 日本本土への空襲は、昭和17年(1942)春ごろから始まった。19年末ごろからB29による爆撃が激化した。当初、米軍は軍事施設を狙った精密爆撃を中心にしていたが、20年初めに日本空爆の司令官にカーチス・ルメイ少将が就任すると、住宅密集地などを標的にした無差別爆撃が行われるようになった。

 東京への空襲は、昭和20年3月10日だけではなかった。東京には昭和19年11月から、終戦間際にかけて100回以上にわたって空襲が繰り返された。木造建築の弱点を突き、人口密集地域を狙った執拗な攻撃が続けられた。東京だけではなく、全国66の主要都市に空襲が行われた。約40万人がその攻撃によって亡くなった。戦争だからそうなったのではない。戦時国際法違反である無抵抗の一般市民への攻撃によって、日本人が虐殺されたのである。そして、こうした空襲による「大虐殺」の作戦の延長上に行われたのが、広島・長崎への原爆投下である。

 東京裁判の終結期となる昭和23年(1948)、米国で科学者、聖職者、ジャーナリスト等から広島・長崎への原爆投下に対する批判が高まった。原爆による無差別大量殺戮は、史上前例のない非人道的なもので、死亡者は当時20万人以上となっていた(広島で14万人以上、長崎で7万人以上)。良心的なアメリカ人にとっては、自国の戦争犯罪は絶えがたいものだった。民主主義の国、アメリカでは世論による政府批判は、政権をゆるがす。米国政府は原爆投下を正当化し、罪悪感をぬぐうために、原爆に匹敵するような日本による20万人規模の「大虐殺」を必要とした。そこで、「南京大虐殺」として誇張され、ねつ造されたのが、南京事件だったのではないか、と私は考えている。

 「人道に対する罪」は、ニュルンベルグ国際軍事裁判で、初めて出されたものだった。それが東京裁判にも適用された。だが、これは事後法であり、近代法の原則に反するものだった。その後、両裁判の反省を踏まえて、今日の国際法では、「人道に対する罪」は、文民たる住民に対して行われる広範または組織的な攻撃と定義されている。仮にこの定義をもって、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下を評価するならば、作戦を指示命令した指導者は、「人道に対する罪」によって断罪されねばならない。

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「百人斬り」訴訟の争点と展望

2005.9.9

 

 南京にある「南京大屠殺記念館」は、入り口に30万という数字を掲げている。そして、展示内容の中で特に日本軍の「残虐さ」を強調しているのが、「百人斬り」の話であるという。

 「百人斬り」とは、昭和12年12月の南京攻略戦で、旧日本軍の二将校、野田毅、向井敏明両少尉が、日本刀でシナ人の「百人斬り」を行ったという話である。当時、東京日日新聞(現・毎日新聞)は、野田・向井両少尉が前線で中国兵を斬り倒し、「百人斬り」の競争をしているという記事を、4回にわたって掲載した。戦後、この記事を唯一の根拠として、両少尉は捕虜・住民虐殺の罪で起訴され、昭和22年11月南京軍事裁判所で即日死刑を言い渡され、同年12月銃殺された。

 私は最初、朝日新聞の本多勝一記者の著書『中国への旅』で知った。昭和40年代の終わりごろ、20歳前後のことである。当時の私はそれを真に受け、憤りを感じた。その後、山本七平氏が、自分の陸軍体験に基づく知識と、南京戦の実態、日本刀の性能等から、「百人斬りは虚構」と論じているのを読んだ。鈴木明氏が、著書『「南京大虐殺」のまぼろし』で克明な検証を行い、冤罪と断じたものも読んだ。他にもいろいろな人たちが書いている。
 それらを読めば、「百人斬り」の記事は、戦意高揚のために書かれた虚偽・誇張の記事である可能性が非常に高いことが、誰にもわかる。しかし、事の真偽は確かめようもなく、年月が打ちすぎた。

 「百人斬り」事件をめぐる新たな動きが現れたのは、平成12年のはじめだった。月刊「正論」に、向井少尉の次女・田所千恵子さんが、両少尉を死刑に処した判決文等の資料を公開した。60年以上たって真相の一端が、ようやく公になったわけだ。資料は、南京軍事裁判の不公正さを明らかにしていた。
 また、翌年、同じ「正論」に、野田少尉の手記が掲載された。手記は少尉の遺品の中から発見されたもので、話は東京日日新聞の浅海記者に持ちかけられた創作であったことが記されていた。
 平成12年の後半だったと記憶するが、都内で行われたある講演会で、向井少尉の娘・田所千恵子さんの訴えを聴いた。千恵子さんは、中学時代に「戦犯の子」と呼ばれて苦んだ。父の話は、いつかは忘れ去られるだろうと思って耐えていた。しかし、昭和46年、本多氏が朝日新聞に書いたことで世に知られるようになり、「百人斬り」を事実とする本が出版され、遺族の生活はすっかり変わってしまったという。涙ながらの訴えは、満場の人々の心を打った。

 平成15年4月、千恵子さんは、父と野田少尉の無念を晴らすために、訴訟に踏み切った。裁判は、東京地裁で行われた。

原告は、向井少尉遺族(娘の田所千恵子さん、エミコ・クーパーさん)、野田少尉遺族(妹の野田マサさん)。被告は、本多勝一氏、朝日新聞社、毎日新聞社(元東京日日新聞社)、柏書房。訴因は、東京日日新聞の浅海記者による記事、朝日新聞の本多記者による記事、本多氏の著書「南京への道」「南京大虐殺13のウソ」の中で、百人斬りに関する記述が、原告等遺族の名誉を毀損しているから、出版の差し止め、謝罪広告の掲載、損害賠償(計3600万円)を求めるという訴訟である。


 平成17年8月24日の報道によると、東京地裁は「当時の記事内容が一見して、明白に虚偽であるとまでは認められない」として、遺族側の請求を棄却した。
 土肥章大裁判長は、判決で、「記事は二将校が東京日日の記者に百人斬り競争の話をしたことをきっかけに連載され、報道後に将校が百人斬りを認める発言を行っていたこともうかがわれる」と指摘。その上で「虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとは言えないが、何ら事実に基づかない新聞記者の創作とまで認めるのは困難」とし、「百人斬り」の真偽については、「さまざまな見解があり、歴史的事実としての評価は定まっていない」と判決理由を述べたという。
 遺族側は、判決を不服として、控訴する方針だという。是非、一審の結果に気を落とさずに、頑張っていただきたいと思う。

 裁判所は、この国際的にも重要な意味を持つ歴史的事件について、どこまで真剣に取り組んでいるのか。
 「百人斬り」の話が極めて疑わしいことは、多くの識者が指摘している。
 南京攻略戦は銃撃戦が主で、日本刀による殺人競争のできる状況ではない。野田毅少尉は大隊副官、向井敏明少尉は歩兵砲小隊長であり、日本刀による白兵戦に参加することはあり得ない。日本刀の性能から言って、連続して百人を斬ることは不可能である。記事を書いた記者自身が、「この記事は、自分が目撃したものではない」と明言している。目撃者・遺体などの証拠が全くない。
 それにもかかわらず、新聞記事を唯一の根拠として、両少尉は処刑された。
 このような新聞報道の過ちが訂正されず、死者に鞭打つような報道・出版がされ、遺族に多大な苦痛を与え続けている。

 

産経新聞は、判決に関する本多勝一氏の話として、「当然の結果。この歴史的事実がますます固められたというべきだ」というコメントを載せたが、氏のこの主張はおかしい。
 本件訴訟は民事裁判である。請求の適否を判断するために、「百人斬り」の記事が事実か虚偽かが審理されるわけだが、「百人斬り」の話が事実であるかどうか、どこまでが事実で、どの点が虚偽か等を、裁判所が決めるわけではない。裁判所が行うのは、あくまで原告の請求は、法に照らして理由があるかどうか、相当であるかどうかを判断することのみだと思う。
  朝日新聞の記事によると、裁判所は、表現行為が違法となるのは「一見して明白に虚偽」である場合」との基準を示し、問題の記事は「一見して明白に虚偽だとはいえない」と判断したにすぎない一見ではなく、しっかり読んでよく考えると、かなり誇張や創作が含まれているという解釈まで否定したわけではない。
 一審の裁判官は、何か先入観を持っていたか、事実と虚偽を見抜く見識や経験の不足があるのかも知れない。書いた記者やカメラマン、取材を受けた野田少尉が「創作」だと言っているのだから、すべて事実ではないと判断するのが常識だろう。別の裁判官が担当すれば、記事にはかなり誇張や創作が含まれているという理解を示す可能性が十分あると思う。
 

東京日日の記者は、両少尉を称賛しつつ戦意を発揚するという意図で記事を書いた。創作や誇張であっても、誹謗中傷の意図はない。しかし、その記事が原因となって、両少尉は敵国の軍事裁判で無罪を主張しながら処刑された。それによって、記事は英雄賛美から戦犯断罪へと効果を反転した。その反対効果を引き出したのは、南京軍事裁判所であって、東京日日ではない。死者の名誉は地に落ち、いまも貶められ続けている。また、遺族は戦犯の子として、多大な苦痛を受け、いまもなおこの記事に発する虚偽・誇張の報道・出版によって苦痛を受け続けている。
 こういうおそらく類例のない訴訟において、今後、控訴審で原告側がどのような主張をしていくか、注目したいと思う。

 

なお、東京地裁は、原告側の「死者への敬愛追慕の情を侵害した」との主張や「死者や遺族の名誉を棄損した」との主張について、「死亡によって名誉などの人格権は消滅する」「記述は遺族の生活状況などについて言及していない」などとして退けたとのことである。しかし、「百人斬り」の話は、全国紙が書き、単行本も出版して、国民の大多数の知るところとなり、学校で教えるところもあり、さらには南京の記念館に展示までされて、国際的に大々的に知らされているような重大な問題である。一時的に、ローカルな範囲で報道されたような記事とは違う。
 控訴審では、このあたり原告側の弁護団は、どのような論理構成で臨むのか、頑張ってほしいと思う。

 
 冒頭に、「南京大屠殺記念館」の展示のことを書いた。無罪を主張して銃殺された野田・向井両少尉の巨大な写真が飾られ、日本軍の「残虐さ」が強調されているという。「百人斬り」事件の裁判は、両少尉の名誉がかかっているだけではない。日本人全体の名誉がかかっている。また、「南京大虐殺」という虚偽・捏造を打ち崩す、重要な機会でもあるのだ。

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■マッカーサー証言をTV放送し学校で教えよう

2003.12.8

 

マッカーサーは、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官として、大東亜戦争(太平洋戦争)で日本に勝利した。GHQが日本の占領統治を行っているとき、朝鮮戦争が勃発した。マッカーサーは、連合国軍(国連軍)総司令官として、北朝鮮・中国と戦った。ソ連の支援を受けた中国の参戦で苦しい攻防となり、マッカーサーは、昭和25年(1950)11月中華人民共和国本土への核攻撃を主張した。トルーマン大統領は、戦争の拡大を恐れ、マッカーサーを解任した。

アメリカに帰国したマッカーサーは、昭和26年(1951)5 月3 日、米国議会上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で、質問に答え、次のように証言した。

「日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。彼らには、綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、錫がなく、ゴムがなく、その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。これらの供給が断たれた場合には、日本では、1,000人から1,200万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」と。

この証言は、大東亜戦争(太平洋戦争)の歴史的評価に係る極めて重要なものである。そこで、英語の原文と日本語訳を次に掲載する。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

●米国議会上院軍事外交合同委員会で行われた聴聞会の記録より

 

<原文>

Strategy Against Japan In World War II

 

Senator Hickenlooper.Question No. 5: Isn't your proposal for sea and air blockade of Red China the same strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific?

General MacArthur.Yes, sir. In the Pacific we bypassed them. We closed in. You must understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million people, crowded into 4 islands. It was about half a farm population. The other half was engaged in industry. Potentially the labor pool in Japan, both in quantity and quality, is as good as anything that I have ever known. Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when they are working and constructing than when they are idling. This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on. They built the factories, they had the labor, but they didn't have the basic materials.

There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in the Asiatic basin. They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.

 

<和訳>

第二次世界大戦における対日戦略

 

ヒッケンルーパー上院議員「5番目の質問です。赤色中国に関する海と空からの封鎖という貴官の提案は、太平洋において米国が日本に勝利を収めた際の戦略と同じではありませんか。」

マッカーサー将軍「そうです。太平洋では、米国は日本を迂回しました。そして閉じ込めたのです。日本が抱える8,000万人に近い膨大な人口は、四つの島に詰め込まれていたということをご理解いただく必要があります。そのおよそ半分は農業人口であり、残りの半分は工業に従事していました。潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。いつの頃からか、彼らは労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。このように膨大な労働能力が存在するということは、彼らには、何か働くための対象が必要なことを意味しました。彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。

日本には、蚕を除いては国産の資源はほとんど何もありません。彼らには綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、錫がなく、ゴムがなく、その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。これらの供給が断たれた場合には、日本では、1,000万人から1,200万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」

 

このマッカーサーの証言は、日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障のためだったという見解を明らかにしたものである。マッカーサーは連合国軍最高司令官として日本と戦った。また、彼の権限を持って東京裁判が開廷された。東京裁判では、日本が戦った戦争は世界征服を目的とした侵略戦争と断定され、日本の国家指導者は戦争犯罪人として断罪された。だが、そのマッカーサーは戦後、自分の見解を改め、日本が行った戦争は、大部分が自存自衛のための戦争であったという見方を、米国議会で公言したのである。連合国軍の最高指揮官だった者の証言として、その意味は極めて重い。

米国議会での証言の前年、昭和25年(1950)10月、マッカーサーは北太平洋西部のウェーク島でトルーマン大統領と会見し、「東京裁判は誤りだった」と告白したとも伝えられる。

マッカーサーの見解の変化は、彼が朝鮮戦争で指揮を執り、北朝鮮軍・中国軍と戦って苦戦し、朝鮮半島を守るためには、背後の満州をも押さえねばならないこと、そしてソ連を中心とする強大な共産主義勢力と戦わねばならないとことを、体験によって知ったことによるだろう。その体験によって、戦前の東アジアにおける日本の立場を理解できるようになったのだろう。こうした見方を明確に打ち出し、マッカーサー証言の重大性を世に知らしめたのは、上智大学名誉教授の渡部昇一氏である。

日本人は、今なお東京裁判史観に呪縛されている。その呪縛を解くには、マッカーサー証言を理解し、その重大性を知ることが、近道である。渡部氏は、NHKがマッカーサー証言をテレビの1時間番組で全国放送すれば、日本人の歴史観を一気に変えることができると説いている。NHKの関係者は、ぜひその特集番組を実現してもらいたい。また教科書にマッカーサー証言を掲載し、青少年に大東亜戦争(太平洋戦争)について、複眼的な見方を教えることも必要である。教科書への掲載を進めよう。

 

ところで、これはあまり指摘されないことだが、マッカーサーは、日本が戦争を始めたのは主に安全保障のためだと証言した日、すなわち昭和26年(1951)5 月3 日に、「赤色中国に関する海と空からの封鎖」を提案したマッカーサーの作戦について、米国が日本に勝利を収めた際の戦略と同じではないか、と質問されて、回答したものだった。

当時、米国はアジアに出現した共産中国という新たな敵と戦っていた。マッカーサーは、人民解放軍と戦い、その手強さを感じた。彼が、「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ち」は「共産主義者を中国において強大にさせたことだ」という考えを、上院軍事外交合同委で披歴したことは、重要である。特に「過去百年間」と言っていることに注意したい。アメリカのペリー提督が黒船で日本に来航したのは、1853年。ほぼそれ以降のことである。マッカーサーは、アメリカのアジア太平洋政策が誤っており、その結果、シナの共産化を許してしまったと見ていたわけである。

フランクリン・ルーズベルトを始め、アメリカの歴代指導者には、シナに親近感を持ち、共産主義に同調する者が少なくなかった。この間、東アジアにおける共産主義の侵入・伸展を防ぐために、苦心していたのが日本だった。わが国は天皇を国の中心と頂く国家であり、皇室制度を破壊しようとする共産主義を絶対に駆逐しなければならなかった。わが国を敵視し、決戦へと引き込んだFDRは、こうした日本の立場と共産主義の脅威について、全く理解がなかった。FDRはその甘さ、軽率さをスターリンに利用された。そのため日米は矛を交えることとなった。アメリカが叩いた日本が敗退すると、その空隙を突いて、ソ連・中国が侵出した。共産主義がアジアで大きく勢力を広げ、アメリカ自身の脅威となったのは、アメリカのアジア太平洋政策の誤りによっている。マッカーサーの証言は、日本においてだけでなく、アメリカにおいても再評価され、次世代教育に生かされるべきものである。

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■映画『ムルデカ 17805』を推す

2001.6.2

 

 先の大戦には、戦わずして勝つ道がありました。戦う必要のない無謀な戦争を行ったために多くの犠牲と破壊を生み出してしまいました。しかし、そうした戦争においても、アジア解放の理想に燃え、大義に生きた人々がいました。そのことを忘れてはならないと思います。

 

 大東亜戦争の最中、そして戦後にわたり、多くの日本人が、インドネシアの独立に協力しました。そのことは、生き残った人々によって語り継がれ、書物にも著されてきました。日本に帰らず、インドネシア独立のために戦った日本人は、約2000人。その半分が、命をささげたと伝えられます。しかし、戦後生まれの多くにとっては、知らない話、いや知らされなった話でした。(1)

 このたび、その史実が初めて映画となりました。それが『ムルデカ 17805』です。

 

 印象的だったのは、主役の山田純大の気迫あふれる演技です。

 山田は杉良太郎の息子で、人気テレビ番組『水戸黄門』にレギュラー出演しています。

 

 山田は、映画初出演です。彼を起用した、東京映像の浅野社長は、彼の目に、一目ぼれしたといいます。

 確かに、山田の目には、力がある。目が生きている。しっかり前を見て、揺るぎのない目です。

 山田の演じる島崎中尉には、昔の日本人はこういう風だったのかと、思わせるものがありました。親切で、勇敢で、賢明です。それは、自分を越えて、公に尽くす人間の姿です。

 小堺一機が司会をしている『ごきげんよう』というテレビ番組があります。これに出演した山田は、次のように語っていました。

「オーデションの時、最初に、『この前の戦争に負けて悔しい』と、自分は言ったですよ」。その一言が、藤由紀夫監督の心を捉えたらしい。「彼以外にない」と。確かに、島崎中尉の役は、心からその人になりきれる人でなくては、つくりものになってしまうでしょう。

 

 この映画には、多数のインドネシア人の俳優が登場します。特に、独立運動に参加する青年たちを演じる青年たちは、熱気にあふれた演技をしています。彼らの目も澄んでいる。彼らにとって、この映画は祖国の独立を描いた、父祖たちの歴史そのものだからでしょう。

 日本人の誇りをかけて演じる日本の役者たちと、栄光ある歴史を演じるインドネシア人たち。この連携が、この映画をさわやかなものにしています。

 

 戦争映画と見まがうほど、戦闘シーンに迫力があるのも、この映画の特徴です。インドネシア国軍の兵士たちが、毎日300人もボランティアで参加したのだといいます。現役の兵士たちだけに、ひとつひとつの動きに重みがあります。撮影では、大量の火薬を使ったが、一人もけが人が出なかったそうです。それも、鍛え抜かれた彼らゆえでしょう。

 

 この映画が描くのは、もちろん戦いだけではありません。さまざまな人間のドラマが描かれています。とりわけ私の心に響いたのは、島崎中尉の母子、宮田中尉の夫妻、島崎・宮田とその部下たちの姿です。そこには、心から互いを信じ合う親子や、夫婦や、友人の姿があります。今では見ることが少なくなった、人間らしい人間、そして日本人らしい日本人が描かれています。彼らの演技には、最近の邦画で目に付くような、浮ついたところがありません。

 

 題名の『ムルデカ』は、独立を意味するインドネシア語。副題の『17805』は、皇紀2605年8月17日を意味します。インドネシアの独立運動を指導したスカルノ、ハッタらにとって、欧米支配者の西暦ではなく、わが国の和暦こそ、歴史の基準とすべきものだったのです。インドネシアでは、今日も皇紀が併用されているといいます。

 

 この映画は、『プライド 運命の瞬間』に続く、プライド2とでもいうべき作品として製作されました。前作同様、加瀬英明氏を委員長とする製作者スタッフは、日本人としての誇りを取り戻そう、と訴えています。誇りある国民の歴史を描く映画が制作され、それが一般の劇場で公開されることは、それだけでも意義があります。レンタル・ビデオになっています。一見をお勧めします。

 

●あらすじ

※以下は、これから映画を見ようという人は、読まないほうがいいでしょう。映画を見た人の備忘のために、私なりにとらえたあらすじを、書きます。

 

昭和17年3月1日、日本陸軍第16軍は、オランダ領ジャワに上陸作戦を敢行した。

 

ある村に、主人公・島崎中尉(山田純大)が、進み入る。すると、一人の老婆が、歩み来る。そして、彼の足元にひざまづいて言う。「いつか東方からくる救世主が、白人の支配から、私たちを解放してくれると、私たちは信じてきた。それが、あなただ」と。

 

島崎は、上官(榎孝明)から密命を受ける。オランダ軍に乗り込んで、降伏を勧告せよと。島崎は、愛用の日本刀をもち、部下の通訳1名(六平直政)とともに、オランダ軍総司令部に潜入する。銃口に囲まれても、ひるまない。「大日本帝国陸軍、島崎武夫中尉。司令官に面接を求めてきた」。島崎は即時面談を要求し、降伏を勧告する。敵方は5万、当方は10万、攻撃までの猶予は24時間と迫り、相手を無条件降伏させる。

 

第16軍の司令官・今村均中将(津川雅彦)は、インドネシアの国情を踏まえた統治に努め、独立を推進する方針だ。彼は現地の子供たちに、コンペイトウを配るなど、優しい心をもっている。

 

島崎は、インドネシア青年を育てたいと、情熱を持っていた。彼は、軍上層部の許可を得て、インドネシア青年を独立の志士たるべく鍛えるために「青年道場」を創設する。陸軍中野学校で学んだすべてを、青年たちに伝え、インドネシア独立の原動力に育てていく。

 

島崎は、少年の日から、「アジアの解放」という理想を抱いていた。その理想に、彼の心は燃えていた。彼の盟友が、宮田中尉(保坂尚輝)だ。彼らが道場の青年たちに教えるのは、「サンパイ・マティ」、「死ぬまで戦え」という精神だ。

 

厳しい訓練の日々。一人の青年が道場を脱走する。名は、ヌルハディ(ムハマド・イクバル)。島崎は彼を追い、つかまえ、叱り、殴る。そして言う。「独立は日本軍から与えられるものではない。自分の力で勝ち取るものだ」。ヌルハディは、心打たれ、道場に戻る。

 

脱走者には、炎天下、日没まで立ち続けるという罰が課せられる。島崎は、自分には連帯責任があると、ヌルハディとともに、酷暑の中を立ち続ける。そのとき、二人に、熱い絆が結ばれた。

ところが、大本営は、インドネシア統治の方針を変更する。当初は独立を支援する方針であったのに、日本の都合で、独立への動きを抑圧しようとする。青年道場をも潰そうとする。島崎はこれに抵抗し、廃止は免れた。しかし、日の丸とともに掲げてきたインドネシアの旗は掲揚できなくなった。

 

戦局思わしくない日本は、とうとう昭和20年8月、敗戦に至る。日本軍は、インドネシアを撤退することになった。そのとき、島崎に対し、インドネシアの青年たちは、武器を渡してほしいと要求する。その先頭には、ヌルハディがいた。島崎に鍛えられた彼は、ペタの勇士となり、いまや独立運動のリーダーの一人となっていた。島崎は、日本軍人として軍の規律を守らねばならない。また、部下を祖国に連れて帰らねばならぬ責任がある。武器を渡すことはできない。しかし、渡さねば、自分が育ててきた青年たちを見殺しにすることになる。島崎は苦しむ。しかし、終に、自分の責任で、ヌルハディらに武器を渡す。

 

島崎はこの責任を問われ、蘭軍にとらえられる。インドネシアの青年たちは、敢然と彼を救出する。その戦いの中で、多数の犠牲者が出た。島崎は、これに応えて決意する。「インドネシアの土となって、独立を勝ち取ろう」と。

 

島崎の盟友・宮田中尉は、オランダ人から島崎を逃がしたと嫌疑をかけられ、凄絶な拷問を受ける。しかし、宮田は屈しない。彼は拷問者に問う。「日本軍人であることが罪であるとすれば、350年間、オランダがインドネシアでやってきたことは罪ではないのか」。宮田は銃殺となった。彼が入れられていた牢の壁には、血染めの文字で、「インドネシアの独立に幸いあれ」と書き残されていた。

 

島崎は、独立運動に加わった看護婦アリアティ(ローラ・アマリとともに、仏教の遺跡を訪う。島崎は、インドネシアの大地をながめながら、誓う。「宮田。見ていてくれ。俺は日本人の誇りをかけて、インドネシアの独立のために戦い、必ず勝ち取って見せる」

「一旦は御国の為に捧げた命。異国の土となるも、これ又、男子の本懐。我儘をお許しください」。島崎は、祖国の母(藤村志保)に手紙を書く。手紙を受け取った母は、取り乱すことなく、静かに息子の無事を祈る。

 

オランダ軍との独立戦争の中で、多くの血が流れた。多数の日本人勇士が、壮烈に死んでいく。「サンパイ・マティ」――死ぬまで、戦えの精神だ。

 

勝利を間近にした夜、島崎は、背後から銃で打たれて死ぬ。彼を掻き抱き、泣きくれるアリアティは言う。

「日本は戦争に負けたけれど、あなたは勝ったのよ」――その勝利とは、独立戦争の勝利か。それともアジア解放の勝利か。

島崎の遺体を囲み、ヌルハディら独立をめざす青年たちは歌う。インドネシア・ラヤの歌声が、星空に響き昇っていく。

 

祖国に居る島崎の母は、宮田家を弔問する。宮田の帰りを待っていたのは、若妻(藤谷美和)と幼い娘だった。しかし、もはや宮田は帰ってこない。

 

遂に悲願のインドネシア独立はなった。

日本に帰らず、インドネシア独立のために戦った日本人は、約2000人。その半分が、尊い命をささげたという。

 

月日は過ぎ、インドネシア独立50周年の祝賀は盛大に行われる。首都ジャカルタのカリバタ国立英雄墓地には、独立運動の中で斃れた者たちの墓が並ぶ。その一角に、島崎と宮田が、葬られている。二人の墓は隣り合わせだ。

 

その墓に花をたむける人がある。宮田の娘(松原智恵子)だ。宮田の娘に、「青年道場」出身の将校が、軍刀を示す。宮田からもらったものだ。「彼の魂は私とともにある」と将校は言う。宮田が牢の壁に記した、「インドネシア独立に幸いあれ」。その血書は、「インドネシアの独立を求める人々に、勇気を与えたのです」と。

 

将校の妻は言う。「独立のために死んだ人々は、空にあがって星になるのです」と。

「独立の星…」、と宮田の娘は、空を仰ぐ。今夜も、その空には満天の星が輝くことだろう。ページの頭へ

 

(1)以下の拙稿をご参照下さい。

 「インドネシア独立に協力した日本人

 「日本人はインドネシア独立を支援した

 

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日本は分割占領を避けられた

2000.9.22初稿/2016.2.3修正・加筆

 

 戦後の日本占領が、米国一国のみの占領となったことは、幸いでした。米国の自由民主主義は、ソ連の共産主義よりはマシですから。

 昭和20年(1945)4月12日に、ルーズベルトが急死したことが、日本に幸いしたのです。もし彼が戦争指導を続けていたら、日本はアメリカ軍とソ連軍の両方に占領され、ドイツや朝鮮と同じような分断国家になっていたはずです。それがルーズベルトの方針だったからです。ルーズベルトは、共産主義に奇妙なシンパシーを持っていて、スターリンに対しても警戒心が薄かったのです。

 ソ連が日本占領を狙っていたことについて、ジャーナリストの恵谷治(えや。おさむ)氏が、雑誌『サピオ』1996/8/24-9/4号(小学館)に、詳しく書いています。

 それによるとーー

「無条件降伏した日本におけるソ連全権代表であるジェレビャンコに対する1945年8月17日付のスターリン指令書(要旨)は次のようになっている。

 『クリール列島(ほそかわ註 千島列島と北方領土)及び釧路と留萌を含む両市を結ぶ線の北半部の北海道を、ソ連軍占領地区とするよう米国政府に要求した。また、東京におけるソ連軍の駐留地域をソ連に提供する問題をマッカーサー将軍に提起すること』。

 また、ソ連極東軍総司令官のワシレフスキイ元帥の隷下部隊に対する8月21日付の命令書(要旨)には、次のように書かれている。

 『北海道とクリール南部における上陸作戦の開始は最高司令官(スターリン)から追って命令される。南サハリン占領後、第9航空軍と太平洋艦隊をサハリンに移動させ、23日以降は北海道北部の占領態勢に入る。太平洋艦隊は大陸の2個師団を北海道に輸送することも考慮せよ』」

 私は北海道の網走地方の出身です。もしスターリンの指令が実行されていれば、私の故郷はソ連領となっていました。さらに、スターリンは首都・東京の一部にも駐留しようと狙っていましたから、東京にベルリンの壁が築かれた可能性さえあったわけです。共産化された地域は、恐ろしいことになっていたでしょう。

 

ところで、日本全体の占領計画に関して、米国は当初、4カ国による分割占領を考えていました。しかし、ルーズベルトの後を継いだトルーマンによって、単独占領に切り替えられたのです。

 恵谷氏によるとーー

「米統合参謀本部の統合戦争計画委員会(JWPC)は、日本の降伏を前提に連合国による分割占領計画を作成していた。『日本及び日本領の最終的占領』と題された計画書によると、占領計画は次のような3段階となっていた。

 

●第1段階(最初の3ヶ月)=アメリカが単独で日本を占領し、朝鮮は米ソが暫定的に分割占領する

 

●第2段階(第1段階に続く9ヶ月)=日本と朝鮮を米英ソ中の4カ国で分割占領

 @ 日本=東京(4カ国の共同占領)

 A 北海道と東北地方(ソ連=5個師団)

 B 関東甲信越と近畿地方(アメリカ=7個師団)

 C 中国地方と九州(イギリス=4個師団)

 D 四国(中華民国=3個師団)

 E 朝鮮=京城(ソウル/米ソ共同占領)、その他は4カ国の分割占領

 

●第3段階(占領から1年後)=大部分の占領軍は撤収し、朝鮮には4カ国共同管理委員会を設置し、信託統治を経て完全独立をさせる」

 

 しかし、最終段階で、トルーマン米大統領はアメリカによる単独占領を決意したのです。そして、スターリンの北海道と東京をソ連軍の占領地区としたいという要望を退けました。トルーマンには原爆の「成功」によって、ソ連への軍事的優位を確立したという自信があったのでしょう。

 この決断は、日本のためにと、そうしてくれたのではありません。アメリカの国益を追求した、冷徹な、リアリスティックな政治的判断です。それが結果として、わが国にとって幸いしたわけです。

ただし、この決断をしたトルーマンは、「悪魔の兵器」原爆を広島・長崎に落とした張本人であることを、忘れてはなりません。そして、トルーマンを始め、アメリカ大統領の誰一人、原爆投下について日本に謝罪した者がいないことも。

 

ここまで書いたことには、もう一つ日本人が知っておくべき、そして忘れてはならない史実があります。千島防衛戦です。

ソ連は昭和20年(1945)8月7日、日ソ中立条約を一方的に破って、満州・南樺太・千島に侵攻しました。終戦間際で弱りきったところに、背後から袈裟懸けに斬りつけてくるような行為でした。突然襲われた日本人は、大変な目に遭いました。虐殺、強姦、そしてシベリアへの強制連行・・・多くの日本人が犠牲になりました。

日本は8月15日にポツダム宣言を受諾したのですが、ソ連はここぞとばかりに千島から北海道に侵攻しようとしていました。8月18日、千島列島北東端にある占守島(しゅむしゅとう)で日本軍とソ連軍とが激突しました。占守島守備隊にも停戦命令が出ていたのですが、ソ連軍奇襲の報告を受けた樋口季一郎中将は、自衛のための戦いを決断し、ソ連の極東方面軍に応戦したのです。樋口とは、後にユダヤ人の救援によって、杉原千畝とともに世界に知られることになる人物です。(註1)

この戦いで日本側の死傷者は約600名に上りました。一方、ソ連側はそれをはるかに上回る3000名以上の死傷者が出たとされます。決死の防戦を行っていたのですが、日本国政府は弱腰により、占守島守備隊は8月21日に停戦に追い込まれ、23日にソ連軍により武装解除されました。
 この
占守島で5日間の戦いでソ連軍の進軍を食い止めたことは、非常に大きな意義があります。先に書いたように、ソ連が千島に侵攻する前日、スターリンは、日本におけるソ連全権代表であるジェレビャンコに次のように伝えていたのです。「クリール列島及び釧路と留萌を含む両市を結ぶ線の北半部の北海道を、ソ連軍占領地区とするよう米国政府に要求した」と。

トルーマン米大統領はソ連による北北海道占領に反対し、それまでの分割占領を単独占領の方針に変更しました。だが、もし千島で日本軍がソ連軍の侵攻に無抵抗で、アメリカの先遣隊が北海道に来る前に、ソ連軍が北海道に上陸していたら、北海道の北半分はソ連領となっていたことでしょう。日本は南北に分断された分断国家の悲劇を味わうことになったでしょう。樋口中将が占守島ソ連軍の侵攻を遅らせたことは、日本の運命を分けたと言っても過言ではないのです。

私は、北海道出身者として、また日本国民の一人として、占守島防衛に努めた方々に深甚なる感謝の念を抱く者です。ページの頭へ

 

註1 樋口季一郎のユダヤ人救援

昭和13年(1938)3月、約2万人のユダヤ人が、ソ連と満州国の国境沿いにあるシベリア鉄道のオトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するには、満州国を通過しなければならない。しかし、ユダヤ人は零下数十度の中で野宿生活を行っていた。彼らの惨状を見た当時陸軍少将だった樋口季一郎は、部下の安江仙江大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
 大戦末期、樋口は、上記のようにソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与え、北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口の名は、イスラエル建国功労者として、「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、その功績が顕彰されている。

 

関連掲示

・北方領土については、拙稿「領土問題は、主権・国防・憲法の問題」をご参照下さい。(目次からA04へ)

 

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■渡部昇一氏の『日本の歴史』賛

2010.6.9

 

 渡部昇一氏の『日本の歴史』シリーズ(WAC)、全8巻が発刊された。戦後篇、昭和篇、明治篇等と、現在から過去にさかのぼっていく仕方で刊行中である。私はこれまで出た3巻を読み、渡部日本史に新たな感動を覚えた。

 渡部氏は昭和48年から52年(1973〜77)にかけて『日本史から見た日本人』を出した。以後、日本史や日本文明について多数の本を書いている。今回の企画は、渡部日本史の集大成である。ただし、単に過去のもののまとめではなく、新しい研究や見解を取り入れ、これまでの考察と主張をさらに深めている。氏は、昭和5年(1930)生まれであり、当年とって80歳である。この高齢で、日本史の通史を新たに書き上げ、自分の仕事を集大成するとは、驚異的である。多くの人にお勧めしたく、本稿を書くものである。

 マイサイトの自己紹介に書いてあるが、私は10代の半ばから共産主義の影響を受けた。高校に入ったのは、昭和44年(1969)。東大安田講堂の攻防戦に始まった年で、70年安保をめぐる運動に国内が騒然としていた。私は日教組の教育を受け、マルクス主義の理論書や歴史書を読んだ。しかし、マルクス主義を学ぶにつれ、私はその理論に矛盾を感じ、運動に限界を、活動家たちの人格に疑問を感じた。共産主義を克服することが、20代半までの私の最大の課題となった。

 こうしたなかで私の閉塞を破ってくれたのは、パール博士の『日本無罪論』だった。東京裁判の検証を通じて、私は、近代の日本史や世界史を根本から見直すことができるようになった。当時、出会った歴史書の中に渡部昇一氏のものがあった。階級闘争史観・自虐史観が支配的だったなかで、清新な歴史の見方だった。その後、渡部氏の著書は、文化・時事等に関するものを含めて、折々に読んできた。

 渡部氏は、歴史学の専門家ではない。本業は英語学者である。専門の研究において、ドイツ、イギリス、アメリカ等で異なる言語と文化に触れた氏は、日本の文化や歴史を見直した。そして、既成の歴史観にとらわれず、独自の視点で日本の歴史を書いて発表した。それが『日本史から見た日本人』であり、それに続く『歴史の読み方』(昭和54年、1979)も名著である。

 渡部氏は「歴史に虹を見る」という。水滴のような個々の事象を見るだけでは決してとらえることのできない、ものの全体像を「虹」と言っている。だから、氏の日本史は大局的な歴史観を表す。巨視的に見て重要な事柄や、日本文明の他にない特徴について、徹底的に考究する。個々の事象の研究家には見えないものが、氏の展望には現れる。それ確信持って書く。こうした氏の姿勢は、歴史家というより、文明批評家と呼ぶに相応しい。

 

 私が渡部氏の日本史に感ずるのは、第一に、氏の日本の伝統・文化・国柄への愛情と誇りである。第二に、日本文明を西洋文明、シナ文明と比較する視点である。第三に、アメリカ、ドイツ、コリア等の文化・国情を踏まえた国際的な知見である。これらについては、多くの人が挙げる点だろう。

 私がもうひとつ特筆したいのは、渡部昇一という人物の器量である。幅広く様々なものを兼ね備えた人間の持つ豊かさである。渡部氏は学者だが、政治の駆け引き、外交のセンス、軍事への関心、国益についての現実的な判断力、法制度への論理的思考力、文化・文学・人物への理解等を兼ね備えている。だからこそ、渡部氏は、日本史に関し、独創的な意見を多く発表できているのだと思う。

 氏は既成観念や通説にとらわれずに、自分の頭で徹底的に考え抜く。近代史に限っても、氏が独自の視点で考察していることが多くある。明治憲法の欠陥、日露戦争の世界史的意義、日韓併合の協調性、日米戦争の遠因としての排日運動、統帥権干犯問題の原因、満州国建国の合法性、東京裁判の不法性、パール判決書の重要性、南京事件の虚妄、マッカーサーと東条英機の戦争観の一致、等。

 これらに関し、氏の見方は早くから一貫しており、ぶれがない。確固とした視点のもとに、新知見を取り入れ、考察を加えて、自説を掘り下げ、練り直してきている。大東亜戦争の評価については、私は違う見方をしており、氏の説に異論のあることは他にもある。しかし、日本の近代を考える際、一度は渡部史観を読んでみるべきだろう。今日の日本の政治を考える上でも、渡部史観から重要なことが多数読み取れる。

 

 渡部氏の歴史書の特徴の一つに、歴史を動かす人物敬愛もって書いていることがある。近代史においては、西郷隆盛、明治天皇、乃木稀典、昭和天皇等を、氏は尊敬と愛情をもって描く。これらの人物は、どれも「代表的日本人」と言うべき人物である。みな日本人の精神がよく表れている人物である。だから、私たちは渡部日本史を読むことを通じて、日本人の精神をもった日本人の姿に触れることができる。それは渡部氏が、こうした日本人に感動し、敬愛を覚える日本人だからである。

 渡部氏は類稀な独創性をもった当代一流の教養人である。しかし氏の主張は、単に奇抜なものではなく、日本人の常識に裏付けられているところに、素晴らしさがある。ここで日本人の常識と言うのは、江戸時代以前から明治・大正を経て昭和戦前期までは、日本人に代々受け継がれてきた常識である。日本人としてのものの見方、感じ方である。渡部日本史は、こうした日本人の常識に裏付けられているからこそ、真に「国民の歴史」と呼ぶに値する歴史観になっていると私は思う。

  

 これから日本の歴史を学びたい人、日本が好きでもっと日本の歴史を知りたい人、日本の歴史を掘り下げてとらえたい人、日本文明を他文明と比較して理解したい人等、多くの人に渡部昇一氏の『日本の歴史』シリーズをお勧めしたい。ページの頭へ

 

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■映画「杉原千畝 スギハラチウネ」が描いていないこと

2016.1.9

 

 チェリン・グラック監督、唐沢寿明主演の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」を見た。基本的には、通説に基づいて杉原がユダヤ人難民を救ったことを感動的に表現した映画である。杉原が人道主義的な行為をして世界のユダヤ人から感謝される善行をしたことは、日本人が誇りとすべきことである。だが、通説には、いくつかの点で事実と異なることがあり、また見落とされていることもある。杉原はビザ発給の責任で外務省を解雇されたのではない。また杉原の前に日本はユダヤ人2万人を救援していた。杉原への評価はそれらを踏まえて補正する必要がある。


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●杉原の前に日本はユダヤ人2万人を救援

 まず重要なことは、戦前のわが国はナチスによるユダヤ人迫害に加担せず、杉原のビザ発給以前からユダヤ人の救助をしており、杉原の善行は国家的に許容されるものだったことである。
 1930年代、ナチスは、国家社会主義とユダヤ人を敵視する排外的民族主義とが一体になった特異な運動を推進した。ナチスによる迫害は、政府によって組織的・計画的に行われ、またその規模において、史上に前例がない。迫害は第2次世界大戦前から行われており、戦争による虐待・虐殺とは異なり、人種差別によるものである。
 わが国は、昭和12年(1937)11月、日独伊防共協定を締結した。これは共産主義革命を防止するための政策協力であって、わが国がナチスのユダヤ人迫害に賛同したものではない。
 防共協定の翌年、杉原の輝かしい功績の陰に隠れてしまった重要な出来事があった。オトポール事件である。昭和13年(1938)3月、約2万人のユダヤ人が、ソ連と満州国の国境沿いにあるシベリア鉄道のオトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するには、満州国を通過しなければならない。しかし、ユダヤ人は零下数十度の中、で野宿生活を行っていた。彼らの惨状を見た樋口季一郎陸軍少将は、部下の安江仙江大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
 大戦末期、樋口はソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与え、北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口の名は、イスラエル建国功労者として、「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、その功績が顕彰されている。
 樋口は、杉原とともに日本人が誇りとすべき人物である。だが、樋口のユダヤ人救援は、独断で行われたものではない。満州国通過ビザは、当時関東軍参謀長だった東条英機の許可で発給された。また満鉄総裁だった松岡洋右がハルビンや上海へ移動する特別救援列車を手配した。こうした連携によって、日本国が約2万人のユダヤ人を救ったのである。杉原はビザ発給で約6千人のユダヤ人を救ったとされるが、オトポールで樋口・東条・松岡らが救ったユダヤ人は、その3倍以上である。
 樋口は世界のユダヤ人からその功績が顕彰されているが、東条・松岡のユダヤ人救援への関与は、無視されている。東条・松岡は東京裁判でいわゆる「A級戦犯」とされた。松岡は獄中で病死し、東条は絞首刑とされた。東条の弁護人は、東条のユダヤ人救援には触れていなかった。私は、東条や松岡が親独路線・対米敵対政策で日本の針路を誤ったことを厳しく糾弾するものであるが、そのこととユダヤ人救援とは別である。
 オトポールでのわが国のユダヤ難民救済に対し、ドイツ政府は抗議してきた。これに対し、わが国は昭和13年(1938)12月6日、近衛文麿内閣の五相会議で、日本・満州・シナ大陸におけるユダヤ人政策を決定した。この会議は、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣による国策決定会議である。この時決定された「猶太人対策要綱」は、「ユダヤ人排斥は人類平等の八紘一宇の精神に合致しない」として、ユダヤ人保護のための対策を策定したものである。ドイツの要請を断って、わが国は独自の方針を決めたのである。その方針は、明治維新以来、わが国が取ってきた四海同胞・一視同仁の精神を、ユダヤ人に対しても適用したものである。当時、政府決定でユダヤ人を差別しないと定めた国は、他になかった。この五相会議の時の陸軍大臣は、板垣征四郎だった。板垣も東京裁判で絞首刑にされた。弁護人は板垣のユダヤ人保護についても触れていなかった。板垣についても、日本人は、東条・松岡に対すると同様、独立国の国民として、是々非々の判断と自主的な評価をする必要がある。

●杉原はビザ発給の責任で外務省を解雇されたのではない

 ナチス・ドイツは、昭和14年(1939)9月、電撃的にポーランドに侵攻した。それによって第2次世界大戦が始まった。ドイツの勢いはすさまじく、わが国では、その勢いに幻惑され、「バスに乗り遅れるな」という風潮が強まった。そして、昭和15年(1940)9月、わが国は日独伊三国軍事同盟を締結してしまう。同盟締結へとわが国が向かいつつあるその時に、杉原のビザ発給は行われた。


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 この年夏、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人がリトアニアに逃亡した。彼らは当地で各国の領事館・大使館からビザを取得しようとした。しかし、リトアニアはソ連に併合されており、ソ連政府は各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。第2次世界大戦の開始時、ヒトラーとスターリンには密約があった。その密約の下にドイツとソ連はポーランドを分割し、ソ連がバルト三国を併合したのである。
 ユダヤ難民は日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。リトアニアのカウナスで領事代理だった杉原は、彼らのために日本への渡航ビザを発給した。7月29日から9月5日の期間だった。杉原の職を賭した決断は、本国外務省の訓令に背く職務規定違反とされた。だが、ここで重要なことは、日本政府がビザ発給を拒否したわけではないことである。当時の外務省の杉原宛て訓令電報では、日本通過ビザ発給は、最終目的地の入国ビザを持っていること、また最終地までの旅行中の生活を支え得る資金を保持しているという2点を条件としていた。これらは通過ビザの性格上よくある条件であって、日本政府がビザ発給を拒否したのではない。
 また、仮に杉原がサインしてビザを発給したところで、本国の命令に反して不正に発給されたものであれば、日本政府はそれを持った外国人の入国を拒否する。杉原が政府の基本政策に全く反したことをやったのなら、発給は無意味になる。杉原がビザ発給を行ったのは、政府の方針に反したものではないという信念があったからだろう。
 杉原の勇気ある行動によってリトアニアを出ることのできたユダヤ難民は、シベリア鉄道でソ連を横断し、ユーラシア東岸のウラジオストックに着いた。ここで、日本に船で渡れるかどうかが、次の問題だった。しかし、ウラジオストック総領事代理の根井三郎は、独断でユダヤ難民の渡航を認めた。昭和16年(1941)2月から6月にかけてのことである。根井は後藤新平が校長をした満州のハルピン学院出身で杉原の2年後輩だった。映画は、この点をよく描いていた。
 ユダヤ人難民は、船で敦賀港に向かった。映画は、ユダヤ人難民のその後に触れていないが、杉原と根井の行為が政府として絶対許可できないことであれば、敦賀港に着いたユダヤ人を受け入れないということになったはずである。だが、敦賀についたユダヤ人難民は、ここで温かくもてなされた。そして神戸へ向かった。滞在許可は10日間だったが、ユダヤ文化研究者・小辻節三が政府・自治体に働きかけ、ビザが延長された。
 ここで再び松岡洋右が登場する。当時松岡は外務大臣という外交政策の最高責任者の地位にあった。小辻は松岡が満鉄総裁だった時に、松岡に招かれて総裁顧問をしていた。その縁で、小辻は松岡に会い、「滞在期間の延長は自治体に権限がある」と示唆した。松岡外相は普通電報で訓令を発した。松岡は「わが国に住む限り、一切の心配は無用である」と公言した。こうして、ユダヤ人難民は、わが国で安心して滞在でき、上海やアメリカ、パレスチナ等へ向かっていった。
 昭和60年(1985)、杉原は、イスラエル政府から日本人で唯一、「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞を受賞し、顕彰碑が建てられた。杉原個人がクローズアップされているが、杉原の善行が可能だったのは、わが国が三国同盟締結後もユダヤ人政策を根本的には変えなかったことであり、杉原・根井・小辻・松岡の連携があったのである。杉原のビザ発給後にこの連携がなされなかったら、杉原の善行は実を結ばず、歴史の澱に深く沈んでしまったことだろう。
 さて、通説では、杉原は訓令に違反してビザを発給した責任を問われ、戦後外務省を解雇されたとされている。だが、この点は事実と異なる。まず杉原はカウナス領事館閉鎖の後も順調に昇進した。昭和19年(1944)に杉原は長年の功績を認められ、日本政府から勲五等瑞宝章という勲章まで授与されている。また、敗戦後、杉原は昭和22年(1947)に外務省を退職したが、これは懲戒免職ではない。占領下で外務省の業務が激減したのに伴う人員整理が行われ、約3分の1の職員が解雇された。杉原もそのうちの一人である。仮に辞めざるを得ないように圧力がかけられたとしても、懲戒免職とは全く違う。人員整理による解雇は組織の都合である。杉原は政府から退職金を受け取り、年金を受給している。


●杉原の諜報能力が裏付ける大塚寛一先生の比類ない慧眼

 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」は、杉原のビザ発給の人道主義的行為だけでなく、諜報外交官としての優秀さをも描いている。私はその点が、興味深く感じられた。
 リトアニアでの命のビザ発給後、赴任したドイツで杉原は諜報活動を行い、ドイツがソ連への侵攻を計画していることを察知し、大島浩駐独大使に報告。ドイツのソ連侵攻後も「日本がアジア進出を続ければ、アメリカと戦争になる」と杉原は予測。大使はドイツの動向を日本に伝えるも、本国は動かず。杉原は「アメリカと戦争すれば日本は負ける」との推測を述べ、ルーマニアに転任。ソ連の捕虜収容所で日本の敗戦を知るーーー杉原は自ら集めた情報を分析して、こうした判断をしたというわけだが、当時の我が国の指導層は、海外から伝えられる情勢分析を冷静に理解して総合的に判断する能力を欠いていた。
 戦前の日本の曲がり角は、独伊と三国同盟を結んだことである。わが生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生は、昭和14年9月三国同盟の締結に反対して、時の指導層への建白書の送付を開始し、米英と開戦すれば、必ず大敗を喫すると警告。言論統制厳しいさなかに、逮捕も投獄もされることなく、敗戦の間際まで具体的な対策を建言し続けられた。だが、我が国の指導層は大塚先生の建言を容れることなく、我が国は警告通りの結果となってしまった。先に触れた東条・松岡・板垣らは、残念ながら大塚先生の警告に従わなかった指導者たちの一部である。
 戦後70年たってもまだ多くの人々が、大塚先生の超人的な洞察力、予見力の偉大さ、そして大塚先生が日本再建のために提唱された啓発活動の意義、さらに21世紀に人類が体験するだろう大変化の予告の重要性に気づいておられないのは、残念なことである。大塚先生の比類ない慧眼を知るには、マイサイトの「基調」をお読みください。
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