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オ ピ ニ オ ン  共産主義

                       

「共産主義」の題目へ 「歴史再考」の題目へ

 

ber117

 

■日本を操る赤い糸〜田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等

2003.6.19/2006.4.7

 

<目次>

 はじめに

第1章 日本悪玉説のもと、『田中上奏文』

第2章 嵌められた日本〜張作霖爆殺事件

第3章 引きずりこまれた日中戦争

第4章 スノー〜反日連共のデマゴーグ

第5章 スメドレー〜女性記者の赤い疑惑

第6章 ゾルゲ〜二つの祖国を持つスパイ

第7章 尾崎秀美と「敗戦革命」戦略

第8章 ハル・ノートにスターリンの謀略

第9章 ヤルタ会談でもソ連スパイが暗躍

第10章 ニューディーラーが日本を改悪

第11章 『日本解放綱領』の残影

 

ber117

 

はじめに

 

20世紀以降、日本は、共産主義の活動によって、大きく進路を狂わされました。実態は、まだ明らかになっていないことが多くあります。その真相を究明することなくして、日本の進路を軌道修正できない点があります。そこで、以下において、『田中上奏文』、ゾルゲらの共産主義者とそのシンパ、「ハル・ノート」、中国共産党による『日本解放綱領』等について考察したいと思います。

 

 

第1章 日本悪玉説のもと、『田中上奏文』

 

東京裁判において、日本は、国家指導者の共同謀議によって、昭和3年(1928)以来、計画的に侵略戦争を行ったとして、断罪されました。その裏付けの一つとされたのが、『田中上奏文』です。

中国語では「田中奏折」と記し、英語では「The Tanaka Memorandum」または「The Tanaka Memorial」と記します。「田中メモ」であれば個人的な覚書ですが、「田中メモリアル」となれば歴史的な価値のある文書という意味となります。この文書が偽書であることは、既に国際的に定説となっています。欧米でも『エンサイクロペディア・アメリカーナ』や『ブリタニカ』に、「偽造文書」と解説されています。しかし、今も中国のみはこれを本物として、対日外交に利用し、南京事件もこの文書に書かれた計画の一例としています。

『田中上奏文』の虚偽を徹底的に明らかにしなければ、日本の汚名をぬぐうことはできず、国際社会における正当な地位を回復し得ないのです。

 この20世紀最大の謀略文書について、最近、ソ連が捏造したものだという新説が出ています。また、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方が主流になりつつあるといいます。もしそうだとすると、わが国は、共産主義の謀略に見事に嵌められたことになります。
 この文書がどういうものかということを振り返りながら、明らかになりつつある実態を確認してみたいと思います。

●あり得ない文書が登場

 

『田中上奏文』には世界制覇の野望に基づく計画が書いてあり、天皇も承認した、それを実行に移したのが昭和3年の張作霖爆殺事件だ、その後の日本の行動はこの文書に書かれた計画に基づいている、という説が流布されています。

文書の一節には、「世界を征服しようと欲するなら、まず中国を征服せねばならない。中国を征服しようと思うなら、まず満州と蒙古を征服しなければならない。わが国は満州と蒙古の利権を手に入れ、そこを拠点に貿易などをよそおって全中国を服従させ、全中国の資源を奪うだろう。中国の資源をすべて征服すればインド、南洋諸島、中小アジア諸国そして欧州までがわが国の威風になびくだろう」とあるとされます。

『田中上奏文』の「田中」とは、昭和初期に首相を務めた陸軍大将・田中義一のことです。田中内閣が発足したのは、昭和2年(1927)4月20日。シナでは、軍閥、コミンテルン、共産党等が絡む事件が続き、わが国のシナへの対応が難しくなっていた時代です。

田中は組閣に当たり、昭和天皇より、外交には特に慎重熟慮するようにとの御言葉を賜りました。そこで、田中は、根本的な大陸政策を確立するために一大連絡会議を開きました。この東方会議の議決に基いて田中首相が天皇に上奏し、天皇が署名したとされるのが、『田中上奏文』です。そして、『上奏文』の計画の実行の第一歩として、昭和3年6月、関東軍は張作霖事件を起こしたとされるのです。

 

しかし、実際は、全く異なります。張作霖事件について、陸軍は真相を隠して事件の揉み消し工作をしたというのが通説です。田中義一首相は責任者を厳しく処分すると天皇に申し上げたのですが、真相究明に一年もの時間を掛けた挙げ句、白川陸軍大臣があれは陸軍が関与したのではないようだったので、行政処分にしましたと上奏したのです。すると天皇は、汝の今言っていることは前回に自分が総理に命じ、総理が約束したところと違っている、そんなことでは軍の規律を維持できない、と激しくお怒りになりました。田中首相は、お目通りもかなわない。そこで田中は非常な衝撃を受け、田中内閣は即日、総辞職。首相は謹慎して3ヶ月足らずの後に、狭心症で亡くなりました。

田中首相が上奏した文書を、天皇が承認して、計画を実行したなどということは、あり得ない話であるわけです。

昭和天皇は自ら立憲君主であろうとされ、政府が決めたことは、ご自分の意思にかかわらず、そのまま承認することに徹しられました。天皇がそのように徹するようになったきっかけこそ、田中義一首相の辞職事件だったことが、『昭和天皇独白録』に記されています。昭和天皇は、「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」「田中に対しては,辞表を出さぬかといったのは、ベトー(=天皇の拒否権)を行ったのではなく、忠告をしたのであるけれども、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふが、ベトーは云わぬ事にした」と『独白録』に記されています。例外は、2・26事件と終戦のご聖断の2回のみです。

 

今日『田中上奏文』または『田中メモランダム』『田中メモリアル』と呼ばれる文書の存在に、日本政府が気づいたのは、昭和4年(1929)の9月でした。その時点で、すでに中国語版と英語版の両方があったようです。そして12月に、初めて中国語版の全文が活字の形で公表されました。漢文では『田中奏折』といいます。文書は、南京で出版された月刊誌『時事月報』の誌上に掲載されました。翌5年2月、わが国の外務省は中国各地の領事館に対し、流布の実況を調査し、中国官憲に抗議、取締りを申し入れるよう訓令しました。

英語版の公刊は、昭和6年(1931)9月、上海の雑誌『China Critic』に出たものが最初とされます。1930年代、米国で英語版のパンフレットが作られ、世界各国に広く配布されました。ソ連に本部のあるコミンテルンは、昭和6年12月、雑誌『国際共産主義者』にロシア語版を発表しました。

 

英訳された『田中上奏文』は、米国で強い反発を呼び起こしました。文書に「日本が世界制覇を達成するためには、まずシナ・蒙古を征服し、その過程で米国を倒さなければならない」という内容があり、米国との戦争が明確に打ち出されていたからです。ルーズベルト大統領もその内容に注目したことが記録されていると伝えられます。この文書は、米国の対日姿勢の硬化に一役買ったと言えましょう。(1)

 

●反日宣伝の材料に

 

実は『田中上奏文』には、本来なら当然あるべき日本語の原典が、現れていないのです。また、内容には、文書内の日付などに矛盾や誤謬が多く、また、殊更どぎつい表現が使われています。到底、日本の首相が天皇に上奏するために書いた文書とは考えられません。昭和5年2月、わが国の外務省は、文書を偽造と断じ、シナの国民党政府に抗議したのです。

ところが、そうした文書が、シナでは絶好の「排日資料」として利用され、繰り返し宣伝されました。たとえば、昭和7年11月、国際連盟の第69回理事会で、満州事変が討議された際、中国の代表は『田中上奏文』に言及しました。日本代表・松岡洋右が、この文書を真実とみなす根拠を追求したところ、中国代表は「この問題の最善の証明は、実に今日の満州における全事態である」と答えました。ひどいこじつけの論法ですが、その後の東京裁判でも、中国は同じ論法を使っています。(2)

『田中上奏文』は10種類もの中国語版が出版され、大陸の津々浦々で流布されました。ロシア語版、英語版、ドイツ語版まで出されて、世界中に「世界征服を目指す日本」というイメージをばらまいたのです。ただし、「日本語訳」はありますが、日本語で書かれたはずの原典はいまだに発見されていません。最初から偽書であるから、原典が存在しないのです。

東京裁判では、米国・旧ソ連・中国などの連合国が日本を裁くうえで、『田中上奏文』を重要な根拠としたようです。

冒頭陳述において、キーナン主席検事は、日本は昭和3年以来、「世界征服」の共同謀議による侵略戦争を行ったとのべました。被告等が東アジア、太平洋、インド洋、あるいはこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的をもって宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したというのです。

なぜ昭和3年以来かというと、この年、張作霖爆殺事件が起こったからです。その事件が起点とされる理由は、『田中上奏文』が日本による計画的な中国侵略の始まりをこの事件としていることによります。

東京裁判で弁護団の中心となった清瀬一郎は、冒頭陳述の内容が、『田中上奏文』に基づいているのではないか、と気づきました。そして弁護団はこの文書が偽書であることを証明する戦術をとりました。

証言に立った蒋介石の部下、秦徳純に対して、林逸郎弁護人は「日本文の原文を見たことがあるのか」と質問しました。「見たことはない」と秦は答えました。ウェッブ裁判長の質問に対しても、「私は、それが真実のものであることを証明はできないし、同時に真実ではないことを証明することもできない。しかし、その後の日本の行動は、作者田中が、素晴らしい予言者であったように、私には見えるのである」と答えました。

結局、キーナン首席検事は、『田中上奏文』を証拠として提出しないことにしました。しかし、こうした信憑性のない文書をもとにして作られていた裁判の筋書きは改められずに、日本は、国家指導者の共同謀議によって、昭和3年以来、中国や英米等に対し、計画的な侵略戦争を行ったとして断罪されました。(3)

その後、『田中上奏文』が偽書であることは、国際的に定説となっており、欧米でも、代表的な百科事典である『エンサイクロペディア・アメリカーナ』や『ブリタニカ』に偽造文書と書かれています。一例として『ブリタニカ1990年版には次のように記されています。

「彼(田中義一)が満洲国の指導者張作霖の暗殺に関与した陸軍将校を処罰しようとした時、陸軍は彼を支持することを拒み、彼の内閣は倒れた。その後まもなく、田中は死亡した。天皇に中国での拡張政策を採用するよう助言したとされる文書”田中メモリアル”は、偽造されたもの(forgery)であることが明らかになっている」と。

 

●中国人の手による偽造が濃厚

 

一体、誰が何の目的で、『田中上奏文』なる文書をつくり、世界にばらまいたのでしょうか。

中国で一般に流布されているのは、『田中上奏文』は昭和2年(1927)7月、昭和天皇に上奏された後、極秘文書として宮内庁の書庫深く納められていたのですが、翌3年6月、台湾人で満洲との間で貿易業をやっていた蔡智堪(さいちかん)という男が宮内省書庫に忍び込んで、二晩かかって書き写したものを中国語訳文にし、昭和4年12月に公表したものだとされています。

外国人が皇居の中にある宮内省に二晩も忍び込んで、訳文で25ページにもなる分量の文書を書き写したというのですから、荒唐無稽な話です。しかも、いまだにその日本語原文は発見さていないのです。

歴史家・秦郁彦氏は、『田中上奏文』が偽書である証拠として、9点を挙げています。そのうち主なものは以下のとおりです。

 

(1)田中が欧米旅行の帰途に上海で中国人刺客に襲われたというが、正確には「マニラ旅行の帰途、上海で朝鮮人の刺客に襲われた」ものである。田中本人が上奏した文書で、自分自身が襲われた事件を、このように書き間違えるはずがない。

(2)大正天皇は山県有朋らと9カ国条約の打開策を協議したというが、山県は9カ国条約調印の前に死去している。

(3)中国政府は吉海鉄道を敷設したというが、吉海鉄道の開設は昭和4年5月で、上奏したとされる昭和2年の2年後である。

(4)昭和2年に国際工業電気大会が東京で開かれる予定というが、昭和2年にこの種の大会はなかった。昭和4年10月の国際工業動力会議のことかと思われる。

 

秦氏は、このように記述の誤りを具体的に指摘し、偽作と断定しています。さらに、日本政府が『田中上奏文』の存在を知ったのが昭和4年9月であり、上記の(3)(4)と併せて、執筆時期を昭和4年6月から8月と見ています。

また、秦氏は、この時期に、張作霖の長男・張学良の日本担当秘書・王家驕iおうかてい)が、「10数回に分けて届いた」「機密文書」を中国語に訳させた上で、「整合性を持った文章」に直して印刷した、という手記を残していることから、王が偽造者だろうと推定しています。(4)

 

●ソ連GPUが関与の疑い


 産経新聞は、平成11年9月7日号で『田中上奏文』について報じました。前田徹ワシントン支局長は、次のようにリポートしています。

 「ソ連国家政治保安部(GPU、ゲーペーウー、KGBの前身)がその偽造に深く関与していた可能性が強いことが、米国のソ連関連文書専門家によって明らかにされた。亡命したソ連指導者の一人、トロツキーが上奏文作成時の2年も前にモスクワでその原文を目にしていたことを根拠にしており、日米対立を操作する目的で工作したと推測している」と。

 この専門家とは、米下院情報特別委員会の専門職員として、ソ連の謀略活動を研究してきたハーバート・ロマーシュタインです。彼は、米国でのソ連KGB活動の実態を明らかにするため、元KGB工作員で米国に亡命したレフチェンコ中尉と共同で調査を行いました。その際に、『田中上奏文』の作成にはソ連の情報機関が関与していたのではないか、との疑惑が浮かんできたのです。そしてトロツキーが、『田中上奏文』について証言した文書を発見したと記事は伝えています。
 ロシア革命の指導者・トロツキーは、レーニンの死後、独裁を狙うスターリンに「人民の敵」というレッテルをはられ、海外に逃亡した先で暗殺されました。ロマーシュタイン氏は、トロツキーが昭和15年(1940)に、その死の直前に書いた遺稿ともいえる論文を、雑誌『第4インターナショナル』に投稿しており、その中に『田中上奏文』に関する重要な記述があることを発見したというのです。
 この論文によると、トロツキーはまだソ連指導部の一人だった大正14年(1925)の夏ごろ、GPUのトップ、ジェルジンスキーから次のような説明を受けました。
 「東京にいるスパイが大変な秘密文書を送ってきた。日本は世界制覇のために中国を征服し、さらに米国との戦争も想定している。天皇も承認している。これが明らかにされれば国際問題化し、日米関係がこじれて戦争に至る可能性もある」と。
 産経の記事は、さらに次のように書いています。

「当初、トロツキーは『単なる文書だけで戦争は起こらない。天皇が直接、署名するとは考えられない』と否定的だったが、その内容が日本の好戦性と帝国主義的政策を説明するセンセーショナルなものだったためソ連共産党政治局の重要議題として取り扱いが協議され、結局、『ソ連で公表されると疑惑の目で見られるので、米国内のソ連の友人を通じて報道関係者に流し、公表すべきだ』とのトロツキーの意見が採用されたと証言している。

 ロマーシュタイン氏はこうした経緯を検討した結果、GPUが25年(註 1925年=大正14年)に日本外務省内のスパイを通じてなんらかの部内文書を入手した可能性は強いが、田中上奏文は、盗み出した文書を土台に二七年に就任した田中義一首相署名の上奏文として仕立て上げたと断定している。

 同氏によると、トロツキーが提案した『米国内の友人』を通しての公表計画は米国共産党が中心になって進めており、30年代に大量に配布された。しかも日本共産党の米国内での活動家を通じて日本語訳を出す準備をしていることを示す米共産党内部文書も見つかっており、実は田中上奏文の日本語版が存在しないことをも裏付けているという。」

 

●日本の孤立を狙って、謀略宣伝に利用

 

『田中上奏文』について、もしロマーシュタイン氏の説が正しければ、次のようになります。ソ連共産党が捏造した文書を、米国共産党が世界にばらまいた、中国共産党は捏造だと分かった後も、今なお反日宣伝に使用し続けているーーそれが『田中上奏文』だ、と。

 ロマーシュタイン氏の説に対し、秦郁彦氏は、年代が違うので基本的に誤りとして斥けています。
 秦氏は、『田中上奏文』を分析し偽作と断定しています。偽作の時期については、日本政府が『田中上奏文』の存在を知ったのが昭和4年(1929)9月であり、執筆時期を同年の6月から8月と見ています。また、秦氏は、この時期に、張作霖の長男・張学良の日本担当秘書・王家驕iおうかてい)が、日本在住の台湾系日本人から「10数回に分けて届いた」「機密文書」を中国語に訳させた上で、「整合性を持った文章」に直して印刷した、という手記を残していることから、王が偽造者だろうと推定しています。

このように考える秦氏は、ロマーシュタイン氏の説、つまり、『田中上奏文』はGPUが、大正14年(1925)に日本外務省内のスパイを通じて盗み出したという何らかの文書を土台に捏造を行い、その素案を昭和2年(1927)に就任した田中義一首相署名の上奏文に仕立て上げたという説を、年代が違うので誤りとして否定するわけです。

 しかし、私はなんらかの形で、この文書の作成と宣伝には、国際共産主義の組織的な連携があった可能性があると考えてきました。その理由は、スターリンが、日米関係をこじらせて日米を戦わせ、その結果、日本を共産化することを狙っていたからです。スターリンは、ことのほか日本での共産革命の実現を重視していました。その手段として、日米を戦わしめようと画策したのです。アメリカとの戦いで消耗しきったところで、日本で革命を起こすというのは、高等戦術です。
 1930年代、スターリンは、この構想を発展させ、ルーズベルトを日米戦争に誘導していったという痕跡があります。その一例が、ハル・ノートです。昭和16年11月26日に提示されたハル・ノートは、日本を米国との戦争に踏み切らせる最後通牒のような役割をしました。この文書は、ソ連の諜報機関が米政府高官のソ連協力者、H・D・ホワイトに示唆して起草させたものでした。

 『田中上奏文』は、最初にシナで発表されました。当時、コミンテルンは中国共産党に指令を出し、シナで次々に謀略事件を起こしていました。その一環としてシナで中国語版を公刊した可能性があります。アメリカでの英語版の出版も、コミンテルンの指示による国際的な展開と考えられます。私は、この可能性に注目してきたのです。

 秦氏の説については、王家驍ェ原資料らしき「機密文書」を中国語に訳して、王自身が「整合性を持った文章」を作文して印刷したというよりも、ソ連共産党が捏造した文書を中国語に翻訳または翻案したと考えられます。その作業の時期を、秦氏のいうように昭和4年(1929)の6月から8月とすれば、それより前、大正14年(1925)以降にソ連でロシア語の原案がつくられ、田中義一が首相に就任した昭和2年以降に田中の上奏文として完成したと仮定すると、二つの説はつながると思います。王は、ソ連による捏造を隠すために、日本からの資料をもとに自分が書いたという説をあえて流布したのでしょう。

●ロシアで、GPUの工作が明らかに


 最近(平成18年3月)、私は衝撃的な新説を知りました。京都大学教授の中西輝政氏が、雑誌に書いたものを通じてです。月刊『諸君!』平成18年4月号に載った『崩れる「東京裁判」史観の根拠』が、それです。関係部分を引用します。
 「2005年春、モスクワのロシア・テレビラジオ局(RTR)が、シリーズ番組『世界の諜報戦争』の中で「ロシア対日本」と題して2回にわたって調査取材番組を放映した。その中で確かな調査の結果として、初めて「『田中メモランダム』(田中上奏文のこと)は、日本の国際的信用を失墜させ日本を孤立させる目的で、ソ連の諜報機関OGPU(オーゲーペーウー、GPUと実体は同じ、KGBの前身)が、日本の公文書として偽造し全世界に流布させたものであると明らかにした」
 「今回ロシア・テレビラジオが『田中上奏文』の製作元を確定させたのは、日露関係史の日本担当者アレクセイ・キリチェンコ氏(彼自身、ソ連時代KGBの日本担当官を務めた)の調査によってであったという。それによると、実際に『田中上奏文』の捏造を実行したのは、旧OGPU偽造部門であるが、その具体的な方法や関係した要員の名前などは今も『非公開』とされている、とのことである」
 この新説が事実であれば、わが国は共産主義の国際的な謀略に、がっちりと嵌められたことになります。

 キリチェンコ氏の調査結果は、前述のロマーシュタイン氏の説とどう絡むのでしょうか。私にはまだわかりません。仮にGPUが捏造したという場合、誰の指示によるのか、捏造の時期、土台にした文書、それとトロツキーが見たという文書の関係、中国語で翻訳と出版を行った組織、中国におけるGPUの工作、英訳とアメリカ等での出版等々――これから明らかにされねばならないことが、多くあります。

●中国では「存在しなかった」が主流に?


 いずれにせよ『田中上奏文』が偽書であることは、既に国際的に定説となっています。しかし、今なお中国は、これを本物として、対日外交に利用しています。

平成3年(1991)に北京で発行された『民国史大事典』では次のように記載されています。

「田中義一首相兼外相が1927年7月、天皇に奏呈した文書。内容は支那を征服するためには、まず満蒙を征服しなければならず、世界を征服するためには、まず支那を征服しなければならないとし、そのためには鉄血手段を以て、中国領土を分裂させることを目標としたもので、日本帝国主義の意図と世界に対する野心を暴露したもの」

わが国の歴史教科書をめぐる問題においても、人民日報は、『田中奏折』(中国名)を引用して、日本の教科書の内容を批判しています。また、中国政府は、『田中上奏文』は、日本が「支那を征服」するために計画した文書で、その一例が南京事件だと位置づけ、「日本帝国主義の意図と世界に対する野心」を著したものとして、青少年に教育しています。教科書にも『田中上奏文』が掲載され、国民に教育されているのです。


 ところが、これに関し、高崎経済大学助教授の八木秀次氏が最近、興味深いことを伝えています。

昨年(平成17年)12月、当時「新しい歴史教科書をつくる会」の会長だった八木氏らのグループが、中国を訪問しました。その際、一行は中国政府直属の学術研究機関である中国社会科学院の日本研究所のスタッフと懇談しました。懇談の模様が、月刊『正論』平成18年4月号に掲載されました。(八木著『中国知識人との対話で分かった歴史問題の「急所」』)

その記事によると、懇談において、同研究所の所長・蒋立峰氏は、次のように述べたといいます。

「実は今、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方がだんだん主流になりつつあるのです。そうした中国の研究成果を日本側はほんとうに知っているのでしょうか」と。

 

蒋氏は、社会科学院の世界歴史研究所や日本研究所で、日本近現代政治史や中日関係の研究を長年続けてきた中国の日本研究の責任者だということです。
 八木氏は、記事につけた「解説」に、次のように書いています。

「田中上奏文に否定的な発言を引き出せたことは大きな収穫だった。私たちは訪問の翌日、盧溝橋の『中国人民抗日戦争記念館』を見学したが、そこには田中上奏文が、日本が世界征服を計画していたことを証明するものとして展示されていた。蒋立峰所長のいうように『田中上奏文が存在しなかったことが中国の主流になっている』のであれば、是非ともその撤去を申し入れていただきたい」と。


 国際的に偽物と知られている『田中上奏文』を、今も本物と言い張っているのは、中国共産党です。政府の公式見解です。言論統制の極めて厳しい中国において、蒋立峰氏が述べたことは、何を意味するでしょうか。

私がまず思うのは、問題発言として追及され、蒋氏が左遷または弾圧されるのではないか、ということです。他に蒋氏と似た主張をしている学者も、同様でしょう。中国人民抗日戦争記念館からの展示の撤去や、教科書への掲載の取りやめは、簡単に実現し得ることではありません。『田中上奏文』について誤謬を認めることは、共産党の権威にかかわることです。国民に与えている歴史観の全体に影響が出るでしょう。近年最も力を入れて誇張している南京事件も、『田中上奏文』の計画に基づくものだとしているくらいだからです。

だから、中国側に期待を寄せることは、ほとんど意味がないだろうと思います。私が、今なすべきだと思うことは、日本政府が、『田中上奏文』について、知らしめることです。これが偽書であり、ソ連や中国がわが国を貶めるために捏造し、利用してきたことを、世界に伝えることです。それによって、日本人は自ら日本国と日本民族の汚名をそそがねばならないと思います。 『田中上奏文』の虚偽を徹底的に明らかにしなければ、国際社会における正当な地位を回復し得ないのです。

我々の先祖・先人のために、我々自身のために、そしてこれからこの国に生まれ、この国を生きていく子どもたちのために。

 

ところで、『田中上奏文』が今日まで日本を貶めることになったのは、あるジャーナリストの存在があります。エドガー・スノーです。彼は早くも昭和6年ごろから書いた「極東戦線」の中で、『田中上奏文』について触れ、さらに昭和16年に刊行した『アジアの戦争』において、この疑惑の文書を全世界に知らしめました。

彼のこうした行動の背後には、ソ連・中国・アメリカを結ぶ国際共産主義の宣伝工作が浮かび上がってきます。この点は、後の項目で詳しく触れることにします。(6)

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(1)産経新聞平成11年9月7日号

(2)中村粲(あきら)著『大東亜戦争への道』(展転社)

(3)東京裁判については、以下の拙稿をご参照ください。

日本弱体化のための東京裁判

(4) 秦郁彦著『昭和史の謎を追う(上)』(文春文庫)

(5)ハル・ノートについては、第8章をお読み下さい。

(6)エドガー・スノーについては、第4章をお読み下さい。

 

 

第2章 嵌められた日本〜張作霖事件

 

 張作霖事件は、なぞの多い事件です。東京裁判において、パール判事は、この事件について「神秘の幕に覆われたまま」と記しました。

この事件について述べるには、ユン・チアンとジョン・ハリディの共著『マオーー誰も知らなかった毛沢東』(講談社)に拠らなければならなりません。この本は、多くの点で衝撃的な本です。

 

●爆殺は、ソ連GRUの工作か?

 
 『マオ』は、新しい膨大な資料や多数のインタビューをもとに、20世紀屈指の指導者・毛沢東の知られざる実像を描いています。共産党の支配下で、中国は7千万人もの犠牲者が出ているといわれます。その惨禍は、毛沢東という冷酷非情の大量殺戮者、権力欲の権化、恐怖と恫喝の支配者、世界制覇をもくろむ誇大妄想狂によるものでした。本書は、毛の悪行は、スターリンやヒトラーを上回るものであることを、圧倒的な説得力で明らかにしています。

 毛沢東の死後、彼の目指した超大国化、軍事大国化の道を中国共産党は、歩み続けました。そして、21世紀の今日、共産中国は日本への脅威となり、アジアへの、また世界への脅威となっています。憎悪と謀略の反日思想によって。また、核ミサイルの開発、原子力潜水艦の配備、自然破壊、食料不足、エネルギー争奪、エイズの蔓延等によって。
 こうした共産中国の由来と将来を認識する上で、『マオ』は必読の書と言っても過言ではありません。

 それと同時に、『マオ』には、別の価値もあります。それは、本書が、20世紀の世界史の見方に転換を迫る本でもあるからです。
 本書には、東京裁判史観すなわちわが国の指導者を一方的に断罪した東京裁判で作り上げられた歴史観を覆すような記述が、随所に出てきます。京都大学教授の中西輝政氏は、平成18年3月号の雑誌『正論』と『諸君!』で本書を紹介し、「これまでの東アジア現代史や戦前の日中関係史に関して、文字通り根底を揺るがすような数多くの新発見が盛り込まれて」いる、「この本に書かれていることが事実であるならば、20世紀の国際関係史は根本的に再検討されなければならない」と述べています。

 その新発見の一つとして、昭和3年(1928)6月の張作霖爆殺事件があります。この事件は、従来、日本の関東軍の謀略だったと言われてきましたが、『マオ』は旧ソ連のGRU(ソ連赤軍参謀本部情報総局)の工作であった、としています。
 もしそれが事実であれば、非常に大きな意味を持つのです。わが国は、戦後の東京裁判で、昭和3年以降の出来事について裁かれました。その出来事の起点とされたのが、張作霖爆殺事件なのです。
 東京裁判において、米国・旧ソ連・中国などの連合国は、日本を裁くうえで、『田中上奏文』を重要な根拠としました。冒頭陳述において、キーナン主席検事は、日本は昭和3年以来、「世界征服」の共同謀議による侵略戦争を行ったと述べました。東アジア、太平洋、インド洋、あるいはこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的をもって宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したというのです。

 なぜ昭和3年以来なのでしょうか。この年に、張作霖爆殺事件が起こったからです。そして、『田中上奏文』が日本による計画的な中国侵略の始まりをこの事件としているからです。だから、張作霖の爆殺が、本当に日本の関東軍によるものだったのかどうかは、東京裁判の判決全体にかかわるほどに、重要なポイントなのです。
 『田中上奏文』が偽書であることは、既に国際的に明らかになっています。東京裁判の当時でさえその疑いがあり、原告側は証拠資料として提出しなかったのでした。それでいて、日本を一方的に悪者に仕立てるために、この文書の筋書きだけを利用したのです。『田中上奏文』については、第1章に書いたように、最近、ソ連GPUによって捏造されたものという新説が出ています。偽書を中国語や英語に直し、謀略宣伝が行われた可能性が高いと思います。

 では、張作霖爆殺事件の方はどうなのでしょうか。張作霖は、中国奉天派の軍閥でした。東北三省の実権を握り、大元帥となって北京政府を操りましたが、北伐軍に敗れ、奉天への退去の途中で、列車を爆発されて死亡しました。それが満洲の占領を企図する関東軍の謀略によるものではないか、という嫌疑がかかりました。
 時の首相・田中義一は、昭和天皇に対して、責任者を厳しく処分すると奏上しました。真相究明に1年もの時間がかかった後、白川陸軍大臣が、実は関東軍の仕業ではなかったようだとの内奏を行いました。実行者と目されたのは関東軍参謀の河本大作大佐でした。しかし、陸軍は河本を軍法会議にかけることなく、行政処分にしたと報告がされました。従来、この処置は、陸軍が真相を隠し、事件の揉み消し工作をしたものと理解されてきました。

 ところが、『マオ』は、次のように記しています。
 「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」と。
 一瞬、「トンでも本」「際物」の類かと思われる人が多いでしょうしかし、本書の凄いところは、細部まで徹底的な資料研究に基づいて記述している点にあるのです。

●スターリンの指令で日本の仕業に見せかける

 

『マオ』には、膨大な「注」と「参考文献」がついていますが、日本語版ではこれらが省かれています。希望者は、インターネット・サイトからダウンロードできるという方式になっています。

 本書は、張作霖爆殺事件は、スターリンの命令にもとづいて、GRUのナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだと書いています(上巻 P301)。この記述に注目した中西輝政教授は、この件(くだり)の注釈に注意を促しています。資料をダウンロードしてみると、注釈には次のように書かれています。
 「Kolpakidi & Prokhorov 2000,vol.1, pp.182-3(from GRU sources); key role also played by Sorges predecessor, Salnin. indirect confirmation of this is a photograph of the Old Marshals bombed train in Vinarovs book (opposite P.337)captioned: photograph by the author’」
 よほど時間がなかったのか、和訳する意思がないのか、英文のままです。

 中西氏は、この張作霖事件の注釈の重要性を感得し、次のように書いています。
 「該当の注を見ると、その典拠として、アレクサンドル・コリパキディとドミトリー・プロコロフの『GRU帝国』(未邦訳)第1巻182−3頁、が挙げられており、同時にエイティンゴンと共に張作霖の爆殺に『主要な役割を果たしたのは、ゾルゲの前任者であったサルーニンであった』と書かれている。つまり典拠は2000年に刊行されたロシア語の2次資料であるが、それはGRUの公文書に依拠して書かれた本だということである。
 そして従来ごく一部で噂されていたことだが、イワン・ヴィナロフのブルガリア語の本(『秘密戦の戦士』)に掲げられている張作霖爆殺直後の破壊された列車の写真のキャプションに、『著者自らが撮影』とあるのが、爆殺の手を下したのは日本軍ではなくGRUだという、もう一つの間接的根拠だというチアンとハリディによる詳しい記述もある」と。(月刊『諸君!』平成18年3月号)


 中西氏の慧眼が見抜いたように、この注釈は非常に重要なことを述べています。張作霖爆殺の実行者は、日本陸軍ではなく、旧ソ連のGRUである、それが、なんとソ連の公文書に書かれているというのです。
 文中に出てくるゾルゲとは、ゾルゲ事件で有名なリヒャルト・ゾルゲです。(註1) ゾルゲは従来、単なるコミンテルンの工作員とみなされてきました。しかし、近年の研究で、ゾルゲはGRUの極秘の諜報員となって、昭和4年(1929)に中国に行ったことが、明らかになっているといいます。
 張作霖爆殺事件は、ゾルゲが中国に赴く前年の出来事です。事件当時、中国にいた彼の前任者が、サルーニンでした。このGRUの大物スパイが、張作霖の爆殺に「主要な役割を果たした」というのです。そして、ヴィナロフが自著に、張作霖爆殺直後の破壊された列車の写真を載せ、その絵解きに「著者自らが撮影」と書いているというのです。
 実はヴィナロフは、張作霖の乗った列車の隣の車両に乗っていました。そして、爆破直後に現場の写真を撮っているのです。彼はブルガリア人で、1920年代、ゾルゲが上海で活動していた頃、彼と接触していたGRUの工作員の一人です。その後、1940年代にはブルガリアの諜報機関の長となりました。ヴィナロフは、スターリンの指令を受けたエイティンゴンの計画の下、サルーニンの指示に従って、張作霖の爆殺に関わったと考えられます。

 『マオ』を書いたチアンの夫ハリディはロシア語に堪能であり、本書の著述において、旧ソ連の公文書等の文献を調査し、それが本書に強力な論証力を与えていると思われます。

 もし『マオ』の記述通りであれば、張作霖を爆殺したのは日本軍でなかったことになります。旧ソ連の赤軍参謀本部情報総局の謀略だった、それを日本軍の仕業に見せかけたということになります。
 旧ソ連にとって、張作霖の爆殺を行い、それを日本軍の仕業にみせかけることは、どういう目的と利益があったのでしょうか。それは、結果として成功したと言えるものだったのでしょうか。
 従来、張作霖事件は、関東軍参謀の河本大佐が列車を爆破し、国民党便衣隊の陰謀に偽装したといわれてきました。『マオ』の伝える新発見と、このことはどのように関係するのか、『マオ』は何も触れていません。河本とコミンテルンまたGRUの間に、何か関係はないのでしょうか。日本陸軍は、河本の背後に、第3国の存在を感知してはいなかったのでしょうか。
 今後の研究によって詳細が明らかにされていくことに期待したいと思います。

(1)ゾルゲについては、第6章をご参照下さい。

 

●ドミトリー・プロコロフは語る

 

 張作霖事件の見直しは、ロシアからはじまっています。東京裁判で、パール判事が「神秘の幕に覆われたまま」と記した、なぞめいた事件の見直しが。

 月刊『正論』平成18年4月号は、『GRU帝国』の著者の一人、ドミトリー・プロコロフにインタビューを行った記事を載せました。「『張作霖爆殺はソ連の謀略』と断言するこれだけの根拠」という記事です。インタビュアーは、産経新聞モスクワ支局長・内藤泰朗氏です。(註 人名の表記については、この記事はプロホロフ、サルヌイン、エイチンゴンとしているが、統一のため前述にならう)
 この記事によると、プロコロフは、「ソ連・ロシアの特務機関の活動を専門分野とする歴史研究家」です。
 プロコロフは、内藤氏に対し、自分は旧ソ連共産党や特務機関に保管されたこれまで未公開の秘密文書を根拠としているわけではないと断ったうえで、ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合した結果、「張作霖の爆殺は、ソ連の特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と断定したといいます。
 以下、このインタビューで、プロコロフが語った内容を要約して記したいと思います。

 張作霖は大正13年(1924)に、ソ連と中国東北鉄道条約を締結し、鉄道の共同経営を行った。しかし、張は鉄道使用代金の未払いを続け、その額が膨らんでいた。大正15年(1926)、ソ連がこれに抗議して、鉄道の使用禁止を通達した。張作霖軍はこれに反発し、鉄道を実力で占拠して、実権を握った。
 こうした張の反ソ的な姿勢に対し、スターリンのソ連政府は、張作霖の暗殺を、軍特務機関のフリストフォル・サルーニンに命じた。サルーニンは暗殺計画を立案し、特務機関のレオニード・ブルラコフが協力した。
 彼らは、同年9月、奉天にある張作霖の宮殿に地雷を敷設して、爆殺する計画を立てた。しかし、張作霖の特務機関にブルラコフらが逮捕され、第1回目の暗殺計画は、失敗に終わった。 
 その後、張作霖は、モスクワに対してあからさまな敵対的行動に出始めた。昭和2年(1927)4月には、北京のソ連総領事館に強制捜査を行い、暗号表や工作員リスト、モスクワからの指示書等を押収した。中国共産党に対しても、共産党員を多数逮捕するなど、共産主義に対する弾圧を行った。また、亡命ロシア人や土匪部隊を仕向けて、ソ連領を侵犯させるなどしていた。
 その一方、張作霖は、昭和3年(1928)、日本側と交渉を始め、日本政府の支持を得て、中国東北部に反共・反ソの独立した満洲共和国を創設しようと画策した。この動きは、ソ連合同国家保安部の諜報員、ナウム・エイティンゴンがモスクワに知らせた。

 クレムリンには、日本と張作霖の交渉は、ソ連の極東方面の国境に対する直接的な脅威であると映った。スターリンは再び、張作霖の暗殺を実行に移す決定を下した。暗殺計画の立案とその実行には、エイティンゴンとサルーニンが任命された。
 サルーニンは、昭和2年(1927)から上海で非合法工作員のとりまとめ役を行っていたが、満洲においてもロシア人や中国人の工作員を多く抱えていた。暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった。

 昭和3年(1928)6月4日夜、張作霖が北京から奉天に向かう列車は、奉天郊外で爆破された。重症を負った張は、その後、死亡した。

 しかしながら、張作霖の暗殺は、ソ連政府の望んだような結果をもたらさなかった。父の後を継ぐ張学良は、蒋介石と協力し、南京政府を承認した。また、張の軍はソ連軍と武力衝突した。一方、日本は、張作霖の死後、中国北部地方の支配力を失った。しかし、昭和6年(1931)、関東軍が満洲事変を起こし、翌7年、満洲国を建設した。これによって、ソ連は、東北三省での立脚地を失った。

 東京裁判では、元陸軍省兵務局長の田中隆吉が証言した。「河本大佐の計画で実行された」「爆破を行ったのは、京城工兵第20連隊の一部の将校と下士官十数名」「使った爆薬は、工兵隊のダイナマイト200個」などと証言した。
 しかし、日本では、東京裁判後の1940年代後半、日本には張作霖を暗殺する理由がまったくなく、暗殺には関与していないという声があがった。田中隆吉は、敗戦後、ソ連に抑留されていた際、ソ連国家保安省に取り込まれ、裁判ではソ連側に都合のいいように準備され、翻訳された文書をそのまま証言させられていた。

 以上が、プロコロフがインタビューで語った内容の要約です。
 インタビューの最後で、プロコロフは、次のように語ったといいます。
 「当時の中華民国は、北京に軍政府を組織していた張作霖が代表しており、日本の満洲での租借権益も張作霖を通じて維持されていた。その頃の日本の方針は、満洲の張作霖政権を育成、援助し、日本の満洲権益を守らせることだった。関東軍の暴走では説明しづらいものがあるのだ。どう考えても、日本が張作霖暗殺に手を染める理由は、ソ連以上にはない」と。

 プロコロフの談に対し、彼の著書『GRU帝国』から、若干の記述を補っておきたいと思います。

 昭和2〜3年(1927-28)当時、GRUの中国における活動の中心は上海にありました。その組織には表の合法機関とは別に、非合法の諜報組織がありました。後者は昭和2年に着任したサルーニンが長をしていました。サルーニンの部下に、ヴィナロフがいたのです。
 『マオ』は、ヴィナロフが、張作霖の爆殺された列車の写真を「自分が撮った」というキャプション付きで自著『秘密戦の戦士』に掲げていることをもって、張作霖爆殺はGRUの仕業という間接的証拠としています。ヴィナロフはサルーニンの部下であったことが、重要です。
 また、エンティンゴンは、張作霖暗殺計画の遂行のために、GRU本部からサルーニンのもとへ差し向けられていた諜報部員でした。GRUが張作霖暗殺に力を入れていたことがわかります。

 プロコロフの説は衝撃的です。とはいえ、どの程度の妥当性を持つのか、次にその検討を行いたいと思います。

 

●ゆらぐ定説、深まるなぞ

 

張作霖爆殺事件は日本軍の仕業というのが定説でした。その定説が揺らぎだしている。定説は東京裁判でつくられたものです。
 この「満洲某重大事件」とされた事件の詳細は、東京裁判の時まで、国民には知らされていませんでした。東京裁判で検察側証人として立った田中隆吉が、突如この事件について証言しました。田中は、関東軍の元参謀でした。田中は「河本大佐の計画で実行された」「そのことを河本自身から聞いた」「これが事実だ」と断定しました。田中は実行の詳細を述べたが、弁護側は多くの資料を却下されたり、未提出に終わったりしたために、十分事実を争うことができなかったのです。

 田中が証人として現れたとき、日本人の被告や傍聴席から驚きの声が上がったと伝えられます。田中は「日本のユダ」と呼ばれました。田中自身、いわゆる「A級戦犯」として、連合国から訴追されてもおかしくない過去を持っていました。実は田中は、検事団から免責の約束を取り付けた上で、軍上層部の機密事項をまことしやかに次々と述べたのでした。
 月刊『正論』が掲載したプロコロフの談によると、田中は戦後抑留されたソ連で、国家保安省に取り込まれて、ソ連に都合のいいように証言させられたといいます。私は、田中自身が、祖国への裏切り、または同胞を責める意思をもって偽証したのではないか、という疑いを抱かざるを得ません。

 次に、プロコロフ説の検討を行いたいと思います。

 拓殖大学客員教授の藤岡信勝氏は、張作霖事件にいろいろ疑問を抱いてきた学者の一人です。氏が『正論』平成18年4月号に書いたものによると、田中義一を首相とする日本政府は、「張作霖を支援して満洲支配の支柱にしようとしていた」。北京で勢力を張っていた「張作霖を満洲に引き上げさせたのも、蒋介石の北伐軍から張作霖を守り彼を温存するためだった。爆破は、その帰満の途上で起こったのだ」。だから「日本にとって彼を殺害して得られる利益は何もない」。しかし、日本軍の実行行為は、詳細まで明らかにされている。プロコロフの主張には、この暗殺の実行の詳細がない。

そこで、藤岡氏は、「論理的には次のどれかが真実であるということになろう」と言います。

@ソ連の特務機関が行ったという情報そのものがガセネタである場合。
 例えば、二回目の暗殺計画は、実行する前に関東軍が同じ事を実行したので、自分たちがやったように報告したなど。
Aプロホロフの情報が正しく、河本以下の証言がすべて作り話である場合。
B河本以下の関東軍軍人が丸ごとソ連の特務機関の配下、または影響下にあった場合。

 以上の三つです。藤岡氏は、今後の研究によってどうなるか、余談を許さないと言っています。

 中西輝政氏は、『諸君!』平成18年4月号で『GRU帝国』のロシア語の原書を検討した結果を記し、その上で、「重要な疑問の一つ」として、次のことを挙げています。「張作霖爆殺の直後から、日本政府や軍関係者が自ら『関東軍がやったのだ』と思ったほどの偽装工作が、一体どのようにして可能だったのか」。同書は、その具体的な手法については触れていません。河本大佐は、戦前から「自らやった」と公言していました。
 中西氏は、もし『GRU帝国』の叙述が本当だったとすると、可能性は二つしかないといいます。

C河本が、事件が実はGRUの謀略だったことを知らず、ある種の「パーセプション操作」による作られた擬似状況(バーチャル・リアリティ)の中で「自らやった」と思い込んでいた場合。
D河本が「日本に忠実」ではなかった場合。

 以上の二つです。

 中西氏の
Cは、藤岡氏のAと若干似ていますが、Cは思い込みであるのに対し、Aは虚偽である点が違います。Cの思い込みは、「『パーセプション操作』による作られた擬似状況(バーチャル・リアリティ)の中で」と中西氏が書いているように、ある種の「洗脳」の結果という可能性が含意されているでしょう。これに対し、Aは、何らかの目的をもって意図的にウソをついている可能性が含意されているでしょう。
 中西氏の
Dは示唆的な表現ですが、藤岡氏のBと同じ可能性を想定したものと思います。つまり、河本らがソ連またはGRUと何らかの関係があった場合です。
 
CDの違いは、Cは「洗脳」による思い込みであり、Dは祖国に対する裏切りです。中西氏は、「いずれにせよ、この問題は、戦前の日本陸軍の内部にGRUないしソ連・コミンテルン系の工作網がどのくらい浸透していたか、という昭和戦争史全体と諜報史に関わる大テーマにも絡んでくる」と述べています。

●日米を戦わせて、革命を醸成

 

次に、私の考察を述べたいと思います。

プロコロフによって、ソ連のGRUが張作霖暗殺を計画していたことは明らかになりました。一度目の宮殿爆破は失敗しました。続いて、二回目が計画されていました。そして、張作霖は列車ごと爆殺されました。しかし、爆殺の実行については、プロコロフはGRUによることを論証し得ていません。

 私が考えるに、張作霖爆殺には、
(ア)関東軍の一部が実行した。
(イ)GRUが実行した。
(ウ)実行にGRUと関東軍の両方が関与した。
の三つの可能性があります。
 これまでの歴史研究は、(ア)を通説として疑わない者と、その通説に疑問を抱く者とに分かれていました。そこに今回、大きな見直しが必要となったわけです。

 (ア)については、今後、次のように理解されるでしょう。GRUと関東軍には、別々に暗殺計画があった。GRUは、日本軍が先にやったので、自らの計画を実行するまでもなく、同じ結果を得たことになる。日本政府には、張作霖を暗殺する動機はない。暗殺は、国益に反する。しかし、関東軍の一部は、政府の対中政策に反抗して勝手な行動を行った、と。

 (イ)は、今回新たに生じた可能性です。ソ連が張作霖を暗殺する目的は、対日・対中政策を有利に進めることです。しかし、河本大佐は爆殺を自ら計画したと言い、実行の詳細を述べています。実際にはGRUがやったのに、そのことを全く知らずに自分たちがやったと思い込んでいたという場合です。もっとも、すべて作り話だったならば、戦前の陸軍内部で調査する過程で、一部または全部が虚偽と見抜かれたでしょう。

 (ウ)の場合、GRUは関東軍に工作を行い、河本大佐またはその上司のレベルにスパイを獲得していた、このスパイがGRUの指示を受けながら実行したと考えられます。この場合、河本の証言は、日本軍の仕業に見せかけるというスターリンの謀略のもと、その指示に従って行われたことになるでしょう。関東軍の内部に、共産主義に幻想を抱き、ソ連と提携して満洲で行動を起こすような動きがあったのかもしれません。

 私は、これらのうち、(イ)の可能性は非常に低いと思います。これに対し、(ア)は、上記のように通説を修正すれば、あり得ると思います。この場合、張作霖爆殺事件は、日本政府の計画・指示ではなく、関東軍一部の独断専横である。満洲事変の前例となります。陸軍が徹底的な調査と処分を行わなかったことが、その後の関東軍の暴走を許したことになるでしょう。
 いかにスターリンの謀略があったにせよ、日本人が一致団結していれば、その仕掛けに乗せられずに、進むことが出来たはずです。国内に精神的な乱れがあると、他につけこまれるのです。
 (ウ)については、今のところ可能性があるというだけです。今後、旧ソ連の機密文書がどの程度、公開されるかわかりませんが、引き続き専門家には、この可能性も視野に入れて研究を深めてほしいと思います。

 今後の専門家の研究において、是非お願いしたいのは、『田中上奏文』と張作霖爆殺事件の関係の再検証です。
 ソ連による『田中上奏文』の捏造と張作霖の暗殺計画は、別々の事柄ではなく、もともと一つの意思のもとに進められたのではないでしょうか。そこには、スターリンの対日政策及び東アジア政策、つまり日本と東アジアの共産化という革命戦略があったと思われます。

 スターリンは大正11年(1922)4月にソ連の共産党中央委員会書記長に就任しました。レーニンはこの年、病に倒れ、大正13年(1924)1月に死亡しています。レーニンの後継者と目されたスターリンは、ソ連だけで社会主義の建設を行う一国社会主義の理論を掲げて、西欧での革命の追求を続けるトロツキーと争いました。共産党内で権力を自らに集中したスターリンは、トロツキーへの優勢を固め、昭和4年(1929)にトロツキーを国外に追放しました。スターリンは、ソ連の最初の5ヵ年計画を、昭和3年(1928)に開始しました。これは、工業化と農村の集団化を強力に進めるものでした。

 『田中上奏文』が捏造され、張作霖の暗殺が計画・実行された1920年代後半とは、スターリンがソ連で権力を掌握し、独裁者として辣腕を振るうようになっていった時期です。
 ソ連は、革命前のロシアの時代から、東アジアへの進出に力を注ぎ、中国の東北部に触手を伸ばしていました。ここで利害が衝突したのが日本であり、張作霖でした。
 スターリンは、日露戦争でロシアが日本に敗れたことに、復讐心を持っていました。また、日本の天皇をロシアのツアーと同じような存在と誤解し、皇室制度を打倒して日本を共産化し、自らの支配下に納めようと考えていました。そして、かなり早くから、日米を戦わせ、日本が消耗し弱ったところで、共産革命を起こすという戦略を抱いていたのではないでしょうか。その一環として、『田中上奏文』の捏造と張作霖の暗殺計画が進められたとも考えられます。

 ソ連は、日本の首相による天皇への上奏文を捏造し、日本が中国の征服と世界の支配を目指しているという虚偽を宣伝しました。そして、東京裁判では、その計画の第一歩が、張作霖の爆殺だったと思わせようとしたのでしょう。
 客観的に見れば、昭和6年(1931)の満洲事変を起点にしてもよかっただろうと思います。なぜ張作霖爆殺事件からなのでしょうか。ソ連にはその事件からとしなければならない理由があったはずです。それと同時に、『田中上奏文』の捏造と張作霖の暗殺工作があったことを、日本にも他の連合国にも知られてはならなかったのでしょう。だから、関東軍参謀だった田中隆吉を取り込み、法廷で偽証させる必要があったのではないでしょうか。それは、日本の指導者を裁くためであると同時に、アメリカを欺くためでもあったのではないかと思います。
 なぜなら、スターリンは、アメリカに巧妙な諜報工作を行い、日本と戦わせようと画策していたのです。そのことをアメリカに知られないようにしなければならなかったからでしょう。

戦後の多くの日本人は、東京裁判が描いた歴史観を正しいものと思わされてきました。今も小泉首相をはじめ、多くの政治家・学者・有識者は、東京史観の呪縛を抜け出ていません。

東京裁判において、日本の計画的な世界侵略というストーリーが捏造されました。その過程で、『田中上奏文』が利用されたと前述しました。『田中上奏文』の捏造には、中国人が関わったことが明らかになっており、その背後で旧ソ連の共産党や国際的な共産主義組織が暗躍したと考えられます。
 その『田中上奏文』が日本の侵略計画実行の第1弾とするのが、張作霖爆殺事件です。この事件が旧ソ連の諜報組織によるものだったとしたら、わが国は、謀略文書と謀略事件によって見事に嵌められ、東京裁判において、世界の悪者に仕立て上げられたことになります。
 東京裁判では、旧ソ連・中国・国際共産主義に不利になるようなことは、一切取り上げられていません。まだまだ、歴史の闇の中に隠されていることが、多数あるでしょう。今後の研究の進展に期待したいと思います。
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参考資料
・ユン・チアン+ジョン・ハリディ共著『マオーー誰も知らなかった毛沢東』(講談社)
・中西輝政著『「形なき侵略戦」が見えないこの国に未来はあるか』(月刊『正論』平成18年3月号)
・同上『暴かれた現代史――『マオ』と『ミトローヒン文書』の衝撃』(月刊『諸君!』平成18年3月号)

      同上『崩れる「東京裁判」史観の根拠』(月刊『諸君!』平成18年4月号)

・ドミトリー・プロコロフ談『「張作霖爆殺はソ連の謀略」と断言するこれだけの根拠』+藤岡信勝の解説(月刊『正論』平成18年4月号)

 

 

第3章 引きずりこまれた日中戦争

 

 戦前、日本と中国が戦った戦争は、歴史的にはシナ事変といいます。近年、日中戦争といわれることが多いのですが、戦争と事変の違いは、戦争は政府が宣戦布告をした戦闘行為、事変は宣戦布告なき戦争をいいます。日本・中国とも宣戦布告をしなかったので、シナ事変といわれます。
 張作霖爆殺事件について書いたように、『マオーー誰も知らなかった毛沢東』(講談社)には、戦前の日中関係史につき、根底を揺るがすような数多くの新発見が盛り込まれています。その新発見の一つに、シナ事変の展開があります。

●中共のスパイによって全面戦争に


 シナ事変の発端は、昭和12年7月8日、深夜に起こった盧溝橋事件です。その後、日中の全面戦争になったきっかけとなったのは、同年8月13日に起こった第2次上海事件でした。『マオ』は、この事件について、国民党の張治中という将軍が、蒋介石の命令を無視して、日本軍攻撃を指揮して起きたものであることを明らかにしていまし。張治中は、中国共産党の秘密党員であり、スパイ工作員でした。中共とコミンテルンの指令を受けた張の企てによって、日中は全面戦争へと導かれたというのです。
 当時、スターリンは、シナ大陸に駐屯している日本軍が、北上してソ連に侵攻することを防ぎたいと考えていました。それには、日本軍をシナ大陸で国民党軍と戦わせればよいと考えたのです。一方、毛沢東は、国民党軍を日本軍と戦わせながら、中国共産党の勢力を温存し、シナの奥地で勢力を拡大しようと考えていました。スターリンと毛の思惑は一致したのです。
 『マオ』によれば、これを一人で実現したのが、張治中でした。日本は、共産主義の謀略によって、泥沼のような戦争に、引きずり込まれたのだ、ということになります。

 この説の持つ重大性を理解するには、シナ事変の発端から確認する必要があります。昭和12年(1937)7月初旬から8月中旬にかけての展開を追跡しつつ、その重大性を考えてみたいと思います。
 この年7月8日、シナの盧溝橋で日中両軍の衝突事件が起こりました。第1次近衛内閣の時です。当時、日本軍がシナに駐屯していたのは、侵略のためではありません。清国は各国に対して駐兵権を認めていました。日本軍も、その駐兵権に基づいて駐屯していたのです。日本軍は国民党軍と戦う意思はなく、蒋介石も日本軍との戦いを望んでいませんでした。ところが、深夜突如として日本軍と国民党軍に不法射撃をして姿を消した者がありました。
 わが国は事件発生当初から不拡大方針をとりました。現地部隊は数度の不法射撃に対しても、7時間にわたって、一発の応射もせずに隠忍自重したのです。政府も陸軍中央も現地解決を期待して、3週間にわたり、事態の推移を注視しました。決して、中国との戦争を仕掛けたわけではない証拠です。ところが、その後の展開によって、徐々に戦争に引き込まれていってしまいます。

 歴史家の秦郁彦氏は、最初の「なぞの発砲」がシナの第29軍第3大隊第11中隊から行われたことを、第3大隊長だった金振中の回想録から突き止めました。金振中は事件から2年後、中国共産党軍に転じています。第29軍には、ほかにもかなりの中国共産党シンパが潜入していたのです。
 中国共産党は早くも事件の翌日に、日本との開戦を主張する激烈な声明を出しました。そして、蒋介石に対日開戦を強く迫っていたのです。
 今日では、「なぞの発砲」が中国共産党員によって行われたものであることが、明らかになっています。このことは、中国共産党の指導者が、自ら明らかにしていることです。

 昭和24年(1949)10月1日、中華人民共和国宣言の際、周恩来首相は誇らしげにこれを語りました。「あの時、我々の軍隊が日本軍と中国国民党軍の両方に鉄砲を撃ち込み、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨げたのが、我々に今日の栄光をもたらした起因である」と。
 また、毛沢東に次ぐナンバー2だった劉少奇(後に国家主席)は、「盧溝橋事件によって、蒋介石と日本の軍国主義を両方とも滅亡させることができた。中国軍にとってはまさに思うつぼであったのである」と演説しました。劉少奇の部下が、「なぞの発砲」を工作したことが、中国側の資料によって、わかっています。それでもなお盧溝橋事件は、日本軍が発砲したものという説を唱えている学者がいます。どちらが発砲したかわからないという説を唱える学者もいます。これでは学問の名を借りて、真実を隠し、国民を誤導するものといわざるを得ません。

 中国共産党の謀略に背後には、スターリンからの指令があったのです。盧溝橋事件の後、モスクワのコミンテルン本部は、直ちに次のような指令を発しました。(興亜院政務部『コミンテルンに関する基本資料』による) 

一、あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならない。
ニ、右目的の貫徹のため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって、支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい。
三、下層民衆階級に工作し、彼らに行動を起こさせ、国民政府として戦争開始のやむなきにたち到らしめねばならない。
四、党は対日ボイコットを全支那に拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ。
五、党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。

 毛沢東率いる中国共産党は、この指令に従って行動し、幾度も停戦協定を破りました。そして、日本側から働きかけた事変解決のための和平交渉をすべて失敗に帰さしめたのです。

●停戦への努力が水泡に

 

昭和12年7月8日、盧溝橋事件の勃発後、日本政府は不拡大方針をとり、早期解決に努力しました。その最中に、同月29日、悲惨極まりない日本人虐殺事件が起こりました。通州事件です。
 この日、中国保安隊約3千名が突如、日本軍守備隊を攻撃しました。同時に、日本人居留民を襲撃しました。在留邦人385名のうち、女性、子供を含む224名が惨殺されました。ある者は耳や鼻を削がれ、女性は陰部に棒切れを挿し込まれ、あるいは生き埋めにされ、手をワイヤーロープにしばられ、つながれ、素裸にされて池に投げ込まれたのです。居留民の家屋はすべて焼かれ、家財は略奪されました。これこそ、まさに虐殺、つまりむごたらしい殺し方です。

 通州邦人虐殺事件は、シナの冀東保安隊第一、第二総隊の計画的行動であることが、中国側資料によって明らかになっています。
 邦人虐殺が報道されると、わが国の国民の憤慨は頂点に達しました。日本人がかつて知らない地獄図絵でした。「悪逆無道の支那を討つべし」という声が全国に轟々と巻き起こりました。
 しかし、それでも政府は不拡大方針を変えませんでした。昭和天皇は外交解決を希望しておられました。その御意思を体して、政府・軍部は一致協力し、中国との交渉を開始しました。
 ところが、その開始当日の8月9日、上海で大山中尉虐殺事件が発生しました。中国兵によって、大山勇夫海軍中尉と斎藤一等水兵が惨殺されたのです。この事件によって、交渉は即日中止されました。 一体、誰が何のためにこんな時に、事件を起こしたのでしょうか。なぞのまま今日まで数十年が経過しています。

 当時、日本側が用意していた和平案は、簡単に言うと満洲国だけを認めてくれれば、満洲事変以降に発生した中国における日本の権益はすべて白紙に戻す、そして共同で共産勢力の防止にあたり、経済面では両国の貿易を促進しよう、という内容でした。中国側が塘沽停戦協定で実質的に満洲国を認めていたことを考えれば、中国に対する新たな要求は何もありません。その上、日本の多くの権益を放棄するという、思い切った譲歩案でした。直前に邦人多数が虐殺された通州事件があったにも関わらず、日本側はこのような提案を用意していたのです。

 大山中尉らの惨殺の後も、なお日本側は慎重に対応しました。8月12日、岡本上海総領事の提案により、停戦協定共同委員会において、「日華双方とも、互いに相手より攻撃を受けない限り戦端を開かない旨、日華委員より双方の司令官に申し入れる」との決議を行っています。

しかし、翌13日、中国軍が攻撃を始めたのです。これが、第2次上海事変です。この時点で日本の兵力はわずか4千人でした。それに対し、中国兵は配備された者に限っても3万人にいました。この兵力差を見れば、日本が中国を侵略するどころか、在留邦人を守るのさえ困難な状況にあったことは、明らかです。

 翌14日、中国側は、自国民、外国権益に対する見境のない空爆を行い、本格的な戦争に発展していきました。その2日後、わが国は「従来とり来たれる不拡大方針を放棄し、戦時態勢上、必要なる諸般の準備対策を講ずる」という閣議決定を行いました。日本側が臨んだのではありません。事ここに至って、望まざれども戦いをせざるをえなくなったのです。

 盧溝橋事件の後、通州事件、大山中尉虐殺事件、第2次上海事変が続いたことによって、日本は泥沼の戦争に引きずり込まれていきました。決して計画的な侵攻ではないのです。事変を拡大したくなかったのです。
 東京裁判では、通州事件に関する日本側の証拠は、7割方、却下されました。大山中尉虐殺事件、無差別誤爆事件に関する証拠も多く却下されました。そんな不公平ななかで行なわれたのが、東京裁判です。しかし、現在も、東京裁判の判決が、多くの日本人の歴史観を拘束しています。
 蘆溝橋事件は、偶発的に起こったと書いている歴史書や百科事典が多くあります。これに対し、第2次上海事変については、ほとんどが日本の「侵略行為」として書いています。果たしてそうなのでしょうか。

 『マオ』は、シナ事変の展開に関する新たな事実を明らかにしています。『マオ』は、当時、日本側も蒋介石側も、衝突を望んではいませんでした。望んでいたのは、ソ連のコミンテルンと中国共産党だったというのです。
 『マオ』は、次のように書いています。「スターリンは、いずれ日本が北へ転じてソ連を攻撃するのではないかと心配していた。スターリンの狙いは、中国を利用して日本を中国の広大な内陸部におびきよせ、泥沼にひきずりこむこと、そして、それによって日本をソ連から遠ざけることだった」と。
 では、スターリンの意思はどのように、実行されたのでしょうか。その点を次に書きたいと思います。

 

●スターリンの謀略を、張治中が実行

 

『マオ』は、日本が中国と全面戦争をするに至ったのは、スターリンの謀略によるところが大であることを明らかにしています。
 先に書いたように、盧溝橋事件の後、全面戦争に至る過程で起こった出来事の中に、大山中尉虐殺事件と第2次上海事変がありました。これらは、実はスターリンの指令を受けた張治中という中国共産党のスパイが起こしたものでした。『マオ』は、第19章「戦争拡大の陰に共産党スパイ」で、このことを詳細に記述しています。

 昭和12年7月8日、中国共産党の仕掛けによって、盧溝橋事件が起こりました。『マオ』によると、この事件後、「日本がまたたく間に華北を占領したのを見て、スターリンははっきりと脅威を感じた。強大な日本軍は、いまや、いつでも北に転じて何千キロにもおよぶ国境のどこからでもソ連を攻撃できる状況にあった。すでに前年から、スターリンは公式に日本を主要敵国とみなしていた。事態の急迫を受けて、スターリンは国民党軍の中枢で長期にわたって冬眠させておいた共産党スパイを目覚めさせ、上海で全面戦争を起こして日本を広大な中国の中心部に引きずり込むーーすなわちソ連から遠ざけるーー手を打ったものと思われる」。

 その「冬眠から目覚めたスパイ」が、張治中でした。張は、1920年代に黄埔軍官学校の教官をしていました。1925年に中国共産党に共鳴し、入党したいと、周恩来に申し出たのでした。周は張に対し、国民党の中にとどまって「ひそかに」中国共産党と合作してほしいと要請しました。そして張は中国共産党の秘密党員として、国民党軍に潜伏し、重要な地位に就くにいたったのです。1930年代半ば頃、国民党軍の南京上海防衛隊の司令官だった張は、ソ連大使館と密接な連絡を取っていたことがわかっています。

 盧溝橋事件の勃発後、「蒋介石は宣戦布告しなかった。少なくとも当面は、全面戦争を望まなかったからだ。日本側も全面戦争を望んではいなかった」。しかし、張は、日本に対して「先制攻撃」を行うよう蒋介石に進言しました。しかも、華北ではなく上海において日本軍を攻撃すべしと繰り返し迫ったのです。

 8月9日、和平交渉の開始日に、大山中尉惨殺事件を起こしたのは、誰だったのでしょうか。張治中だったのです。張が配備しておいた中国軍部隊が、大山中尉と斎藤一等兵を射殺したのです。さらに、それを大山らが先に発砲したように見せかける工作をしたのでした。
 『マオ』は、この事件については、あまり詳しく書いていないので、簡単に補足します。7月29日の通州事件の後も、日本政府は不拡大方針を変えず、中国との交渉を始めました。その当日に、大山中尉らが惨殺される事件が起こりました。事件によって、交渉は即日中止されました。交渉に当たり、日本側は思い切った譲歩案を提示しようとしていました。それを妨害したのが、中国共産党のスパイ、張治中だったのです。
 日本政府は、大山中尉虐殺事件後も、なお慎重に対応しました。8月12日には、停戦協定共同委員会で、「日華双方とも、互いに相手より攻撃を受けない限り戦端を開かない旨、日華委員より双方の司令官に申し入れる」との決議を行いました。日本側は、事態の不拡大に何度も粘り強く努力したのでした。

 ここで、再び『マオ』の記述に戻ると、14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」や海軍陸戦隊、海軍航空機に爆撃を行ったのです。これが、第2次上海事変の初めとなりました。停戦に向かっている動きに逆らうように、爆撃が行なわれたのです。
 この時、総攻撃を命じたのが、張治中でした。蒋介石は「命令を待て」と張を制したのです。待てども命令が来ないのを見た張治中は翌15日、「蒋介石を出し抜いて、日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めた、と虚偽の記者会見をおこなった。反日感情が高まり、蒋介石は追いつめられた」。
 そこで16日、「蒋介石はようやく『翌朝払暁を期して総攻撃をおこなう』と命令を出した。一日戦闘をおこなったところで、蒋介石は18日に攻撃中止を命じた。しかし、張治中は命令を無視して攻撃を拡大した。8月22日に日本側が大規模な増援部隊を投入するに至って、全面戦争は避けがたいものとなった」。

 こうして、第2次上海事変が、日中全面戦争の開始となったのです。『マオ』によると、「蒋介石も日本も上海での戦争は望んでいなかったし、計画もしていなかった」。その双方を全面戦争に引きずり込んだのが、張治中だったのです。
 張は、中国共産党のスパイであるだけでなく、中国駐在のソ連大使館付き武官のレーピンとソ連大使・ボゴモロフらを通じて、スターリンの指令を忠実に実行し成功したのです。スターリンの指令とは、日本軍に攻撃を仕掛け、日中全面戦争を引き起こせ、という指令です。

 『マオ』は書いています。
 「たった一人の冬眠スパイを使ってソ連に対する日本の脅威を交わしたのだから、これはおそらくスターリンにとって大成功の作戦だったと言えるだろう」。
 「張治中は史上最も重要な働きをしたスパイと呼んでも過言ではないだろう。ほかのスパイは大半が情報を流しただけだが、張治中は事実上たった一人で歴史の方向を変えた可能性が大きい」。

 『マオ』によると、「蒋介石が全面戦争に追い込まれたのを見て、スターリンは積極的に蒋介石の戦争続行を支援する動きに出た」。金を融資をして、航空機・戦車・大砲等の武器を売却したのです。「このあと4年間にわたってソ連は中国にとって最大の武器供給国であったのみならず、事実上唯一の重火器、大砲、航空機の供給国であった」。
 またソ連は、空軍と軍事顧問団を派遣しました。「1937年12月から1939年末までのあいだに、2000人以上のソ連軍パイロットが中国で戦闘任務につき、日本の航空機約1000機を撃墜し、日本統治下の台湾に対する爆撃までおこなった」。

 また、補足すると、アメリカは、大東亜戦争に先立って、昭和16年(1941)春、中国国民党を支援する、通称フライングタイガースと呼ばれる部隊を送っていました。彼らは民間義勇軍といわれていましたが、実は米国防総省の承認の下に集められた正規のエリート空軍部隊でした。米国は日本の真珠湾攻撃以前に、すでに対日参戦に踏み切っていたわけです。これも、宣戦布告なき攻撃でした。
 しかし、ソ連は、上記のように、そのまた3年以上も前から中国に空軍を派遣し、日本を攻撃していたのです。つまり、昭和12年末に、早くも対日参戦をしていたのです。ソ連の行動は、アメリカの先を行くものでした。スターリンによる武器・人員の派遣は、英米の援蒋政策の先例をなすものでもあったのです。
 それは、日本を中国との戦争に引きずり込むためだったのです。
 『マオ』によると、ソ連外相リトヴィノフは、フランスのブリュム副首相に「ソ連は中国と日本の戦争ができるだけ長く続くことを望んでいる」と語ったといいます。

 『マオ』は、書いています。
 「黒幕として日中全面戦争を実現させたスターリンは、共産党軍に対して積極的に戦争に関わるよう命令し、中国共産党は国民党に適切に協力して蒋介石に抗日回避の口実を一切与えないよう行動すること、とはっきり指示した」と。

 後は、スターリンが望むように、日本は中国との泥沼のような戦争に深入りしていきました。その広大な泥沼から抜け出せないうちに、アメリカとの関係が悪化し、遂に米英との無謀な戦争に突入しました。
 日本は、スターリンの謀略に、まんまと嵌められたのです。

 

●汚辱の歴史は書き換えられねばならない

 

戦前の中国共産党の活動は、日本と国民党政府を戦わせるというスターリンの方針に基づいていました。そのことを『マオ』は克明に記しています。日中を全面戦争に引きずり込み、その戦争で国民党を弱体化させ、代わりに共産党が勢力を伸ばし、中国を共産化するという革命戦略が、そこにはありました。

 『マオ』は、次のように書いています。
 「毛沢東は、蒋介石の力を利用することなしに日本軍を中国から追い出す戦略など持ち合わせていかなかった。また、蒋介石が敗北した場合に共産党軍が日本の占領軍に対抗できるとも思っていなかった。毛沢東にとって、すべての希望はスターリンにかかっていた」
 「抗日戦争に臨む毛沢東の基本姿勢は、共産党軍の戦力を温存し勢力範囲を拡大していく一方でスターリンが動くのを待つ、というものだった」
 昭和20年、日本の敗戦と国民党軍の消耗、そしてスターリンの中国侵攻は、毛沢東に望みどおりの結果をもたらしました。毛沢東は、中国の共産化という野望を実現しました。
 『マオ』は、記します。
 「後年、毛沢東は、日本が『おおいに手を貸してくれたこと』に対して一度ならず感謝の言葉を口にしている。戦後、訪中した日本の政治家たちが過去の侵略について陳謝すると、毛沢東は、『いや、日本軍閥にむしろ感謝したいくらいですよ』、彼らが中国を広く占領してくれなかったら『われわれは現在もまだ山の中にいたでしょう』と述べたという。これこそ毛沢東の本心だ」と。
 
 『マオ』は、これまで紹介したように、20世紀の世界史の書き換えを迫るような新事実を多く掲載しています。それは、衝撃な内容です。しかし、一つ一つの事実が示すものは、まったく新しい歴史像というわけではありません。これまでにも、相当数の歴史家が、20世紀の国際関係史において、スターリンを司令塔とする国際共産主義の謀略が重大な働きをしてきたらしいことを、述べてきたからです。
 わが国の歴史を振り返る上でも、この視点を欠いてはならないのです。

 例えば、台湾人の歴史家・黄文雄氏は、『大東亜共栄圏の精神』(光文社新書)で、概略、次のように書いています。
 大東亜戦争への突入について見逃してはならないのは、共産主義という巨大な潮流との戦いであったという視点である。明治維新以来、大日本帝国は、はじめ恐露から出発し、日露戦争によりクライマックスにたっした。やがてロシア革命後、『赤化の脅威』という新たな世界情勢の変化により、『防共』なるテーマを含む軍事とイデオロギーが一体となる脅威論が醸成され、『赤化ソ連』との軍事的対決が至上の目標となる。
 日露戦争以後の日本の国家戦略は、主に対ソ戦争を想定して、日本陸軍主力も関東軍に投入し、対ソ戦にそなえていた。満州事変の背景にも、コミンテルンとの戦いがあり、日中戦争の背後にも共産主義の拡大から東アジアを守るという問題意識があった。大東亜戦争にいたるまでの日米交渉と対決にも、中国における防共駐兵の争点があった、と。
 
 最後に、上記の視点を参考にした私の見方を簡単に書いて結びとしたいと思います。
 1930年代、日本はスターリンの謀略に嵌められ、中国との戦争に引きずり込まれました。日中が全面戦争に進むと、英米は蒋介石を支援し、日本には経済圧迫を加えて、シナの抗日戦意をあおり、日中の抗争を長引かせ、泥沼化させました。
 ソ連は中国に戦闘機や爆撃機を与え、軍事顧問団ととともにパイロットを派遣していました。アメリカも中立を装っていながら、軍事顧問団に加え、空軍パイロットを送っていました。これは中立国としては絶対に許されない行為でした。白人諸国は、東洋の黄色人種、日本と中国を戦わせ、アジアでの権益を拡大しようとしていたのです。日本も中国も、この白色人種の魂胆を見抜いて、日中が堅く提携していくべきでした。しかし、それを実行できる指導者ともに欠いていました。

 日本は中国との戦争を解決できないまま、アメリカとの関係が悪化し、遂に米英との無謀な戦争に突入しました。その結果、わが国は開国以来ない大敗を喫しました。この過程で、ソ連の謀略がわが国の進路を狂わせ、日本を破滅へと導く大きな作用をしたのです。

 ソ連の世界共産主義革命戦略の基本方針は、レーニン以来、「帝国主義戦争を革命へ」であったと私は考えています。

戦争によって資本主義国が相打ち、相弱ることは、革命運動に有利な状況を生み出します。この戦略のもと、スターリンは、日中だけでなく、日米をも戦わせようとしていました。W・ビュリット駐ソ大使は、早くも昭和10年(1935)7月、「アメリカを日本との戦争に引き込むのがソ連政府の心からの願望」だと米国政府に知らせています。しかし、ルーズベルト大統領は、スターリンの遠大なスケールの謀略を見抜くことが出来ませんでした。
 ルーズベルトは、ソ連・中国の捏造した『田中上奏文』を真に受けて日本を敵視していました。昭和14年(1941)9月、欧州でナチス・ドイツが電撃的な進撃を開始すると、ルーズベルトは欧州への参戦を願っていました。しかし、選挙では、不参戦を公約しています。そこで日本を挑発して先に手を出させ、それを口実に大戦に参入しようとしていたのです。

この思惑はスターリンの狙いと一致していました。ソ連は大統領の側近にスパイやエージェントをつくって工作し、ハル・ノートの作成にも一部関与しました。スターリンは、アメリカを早く太平洋に誘い出し、力を分散させることで、戦後の欧州やアジアの共産化を狙っていたのでしょう。


 スターリンは、世界革命戦略の中で、日本の共産化を非常に重視していました。スターリンの意思を受けたゾルゲと尾崎秀美は、日本で工作活動を行い、日本軍を対ソ北進から南進政策に転じせしめました。これによって、スターリンは、ドイツと日本による挟み撃ちを免れました。それと同時に、日米を激突させることにも成功したのです。

日本の南進は、アメリカの強い反発を招きました。石油の対日輸出禁止は、日本の喉元を締め上げるものでした。ハル・ノートを突きつけられた日本は、これへの対処を誤り、真珠湾攻撃へと突き進みました。

 

昭和20年(1945)8月9日、日本が原爆投下によって瀕死の状態に陥ったところを見計い、スターリンは日ソ立条約を一方的に破棄して、満州・樺太・千島に侵攻しました。わが国は、辛くも北海道または日本の東部を軍事占領されることは、避けられました。しかし、ソ連は、アメリカによる自由化・民主化に乗じて、共産主義を日本に浸透することに成功しました。日本人の精神は、敗戦による自信喪失と、アメリカ・ソ連から流入した外国思想によって、分裂状態に陥りました。


 大戦後、スターリンは、中国で大成功を収めました。ソ連は満洲から華北にまで侵攻し、中国共産党に武器・人員を直接支援し、共産党軍を国民党軍に勝利せしめました。

一方、アメリカは、日本には勝利したものの、大陸では中国の共産化を許してしまいました。東アジアでの地域支配において、アメリカはソ連より大きく後退しました。欧州でも、ドイツの半分と東ヨーロッパをソ連に共産化されてしまったのです。

 

こうしてソ連は、20世紀半ばに世界の約半分を共産化しました。さらに世界を併呑するかに見えました。しかし、共産主義は、本来矛盾に満ちた思想です。その矛盾は増大を続け、遂にロシア革命の70年後に、ソ連は崩壊しました。

 

ソ連の崩壊後も、共産主義そのものは死んではいません。スターリンがアジアに産み落とした共産中国は、21世紀のこの今も健在です。そして、共産中国は、日本の、アメリカの、アジアの、そして世界の脅威として、ますますその不気味な力を強めています。

共産中国は、日中戦争の中から誕生しました。日本は、中国共産党と、その背後にいるスターリンによって、戦争に引きずりこまれたのでした。こうした観点から歴史の総点検をする必要があります。

また、共産中国の由来と将来を考えることは、現代世界の由来と将来を考えることにつながります。中国を革命へと導き、今日の軍国主義的全体主義国家を建設した最高指導者が、毛沢東です。『マオ』の主題は、この毛沢東の人物・生涯を描くことですが、同時に、共産主義の謀略が現代世界にいかに多くの災厄をもたらしたかを、膨大な資料と多数のインタビューをもとに明らかにしています。本書の内容は、発見と示唆に富んでおり、興味の尽きないものがあります。しかし、その点に触れることは、本稿の目的ではありません。『マオ』によって垣間見られた日中戦争の真相について述べるだけにとめることにします。

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4章 スノー〜反日連共のデマゴーグ

 

 昭和の日本は、共産主義に同調する外国人ジャーナリストの活動によって、大きく進路を狂わされました。そうしたジャーナリストの一人が、エドガー・スノーです。スノーは、偽書『田中上奏文』を世界に伝え、「南京事件」を捏造・誇張して報道し、米国の世論を対日戦争へと誘導しました。(1)(2)

 

●「『虐殺論争』に終止符を打つ、衝撃の発見!」

 

田中上奏文をはじめ、南京事件、東京裁判、中国共産党とそのシンパの動向などについての研究が進んでします。なかでも鈴木明氏の『新・南京大虐殺のまぼろし』(飛鳥新社)は、重要な発見に満ちたものです。

 本書の帯には、「『虐殺論争』に終止符を打つ、衝撃の発見!」とあり、鈴木氏の言葉として、次のような言葉が掲げられています。

 「…僕が今回書いたことは、戦後半世紀以上を通して、世界中の誰もが書かなかったことであり、気づかなかったことでもあり、『南京大虐殺』の、本当の意味での核心にふれたものであるという点だけは、強い自信を持っている…」と。

 鈴木氏は巻頭に、「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、21世紀の世界に最も大きな影響を与えるかもしれない重要な三つの国で、いまでも喉元に突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、未解決のままである。いわゆる南京大虐殺論争である。この不可解な事件の鍵を握っていた人物は一体誰なのか」と書いています。その人物こそ、エドガー・スノーです。

 鈴木氏は本書の「最も大きなテーマ」は、次のようなことだと書いています。「僕がここで、『田中奏折』、つまり『田中上奏文』のことにここまでこだわるのは、実はエドガー・スノーがこの『田中上奏文』の実在を信じ、それが日本軍閥のバイブルである、ということを知ったことと、戦後の『東京裁判』、それに付随して一挙に全世界に知られるようになった『南京大虐殺』事件を結ぶ最も重要なキーワードは、この田中上奏文・田中奏折』であると、信じているからである。そのプロセスを追っていくことがこの本の最も大きなテーマなのだ」と。

 鈴木氏の追求の過程は、ノンフィクションの迫力に満ちています。以下、私の特に関心をもったことをまとめながら、若干の考察を加えてみます。

 

●烈女・宋慶齢との出会い

 

 アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーは、昭和6年(1931)の冬に、中国・上海で、宋慶齢と知り合います。鈴木氏は、次のように書きます。「後にスノーは、『もしあのとき宋慶齢に会わなかったら、私の人生は変わっていたかも知れない』と書いているが、これを『世界情勢が変わっていたかも知れない』と書いても、決して過言ではなかったであろう」と。

 宋慶齢は、近代シナを代表する大富豪・宋家の次女です。彼女は、シナ革命の父・孫文の夫人兼秘書となり、国民党左派の指導者として共産党と反日で共闘し、革命後は中華人民共和国の国家副主席にまでなりました。

 ロシア革命後、孫文はソ連と接近しました。大正12年(1923)には、ソ連から孫文のもとに、レーニンの愛弟子・ボロディンが、国民党顧問として送り込まれました。宋慶齢はボロディンと親密となり、国民党で誰よりもよく、共産主義を理解しました。

 翌年、孫文が死去すると、宋慶齢のソ連への思いはさらに強くなり、昭和2年(1927)4月に、モスクワに行きました。その後、彼女は、昭和6年8月までの約4年間を、ソ連で過ごしました。

 鈴木氏によると、ソ連滞在中、宋慶齢は、「中国における民主・自由の実現のために、国民党に対する敵意を燃やしつづけ、『日本帝国主義』を憎悪しつづけ」ました。そして、帰国後は、蒋介石や日本と戦う決意をします。そして彼女は、中国共産党指導部と通じ、国民党内で反日・連共路線を推進しました。

 20歳代だった若きスノーは、こうした宋慶齢と出会い、大きな影響を受けました。宋慶齢は、幼少から英語教育を受け、米国に留学もしており、英語に堪能でした。スノーは、宋慶齢から中国や、孫文や、中ソ関係などについて、多くの話を聞きます。

 鈴木氏は書きます。その結果として「スノーはここで、宋慶齢を苦しめ、中国人民に被害を与えているのは、まぎれもなく、隣国の日本である、と確信するようになった。これはもう『信念』などという言葉を超えて、『信仰』という概念に近いものであった」と。「この二人は、日本のことを全く知ろうともしなかったし、日本の中にある恥部だけを強調することに熱中していた、という点でも共通している」と、鈴木氏は見ています。

 昭和11年(1936)5月、スノーは、宋慶齢に、「共産地区に行き、毛沢東に会いたい」と言いました。当時、国共合作を進めようとしていた中国共産党指導部は宋慶齢に対し、アメリカ人の新聞記者を求めていたのです。中共と通じ合っていた宋慶齢は、スノーを、中国ソビエト地区にある延安へ行かせることにしました。

 この時、もう一人の候補がいました。それは、やはり彼女と長くつきあっていたアグネス・スメドレーでした。スメドレーもまた日本の進路に重要な影響を与えた人物であり、別の項目に書くことにします。(3)

宋慶齢は、中国共産党への理解も少なく、党員との交わりもなく、色のついていないスノーの方を敢えて指名しました。彼がアメリカ人であり、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』など、アメリカの広い読者層に読まれる背景を持っていたことも理由でした。この宋慶齢の選択は、親中反日の国際工作に、またとない効果を生み出すことになりました。

 

●米国民を親中に変えた『中国の赤い星』

 

 スノーは、宋慶齢の力添えによって、中国共産党指導部のいる延安に取材に行きます。そこで、スノーは世界ではじめて、毛沢東らの中共指導者にインタビューをしました。その体験取材をもとに書いたのが、有名な『中国の赤い星』です。これは、米英で大ヒットとなりました。昭和12年(1937)に、この本が出版されると、アメリカのマスコミは口をそろえて称賛しました。そして、「アカ嫌い」のアメリカ人を、中国寄りに変えてしまったのです。

 読者は、スノーを通じて、中国の共産主義者たちは、ロシアの革命家たちと違って、「血に飢えた権力主義者」ではないと理解しました。スノーの描く毛沢東は、日本帝国主義は「中国の敵であるだけではなく、太平洋に利害を持つ国、つまりアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエトの敵でもある」と言い、「日本の脅威を恐れている国」を「友邦と考え、その協力を望んでいる」と語ります。そして、読者には、毛沢東は、蒋介石らの敵に対しても協力を呼びかける、穏健な「やせたリンカーン」として映ったのでした。

 スノーは、共産主義者ではなく、ソ連や米国共産党とは距離があったと見られています。この点は、共産主義との関係が濃いスメドレーと違います。鈴木氏は『中国の赤い星』は、「非共産主義者が描いた共産主義世界の物語であればこそ、これほど多くの共感の賞賛をあびた」と書いています。

 『中国の赤い星』の出版は、ちょうど南京攻防戦の前、日本がアメリカの砲艦を誤爆した「ペネー号事件」が起こって、アメリカ人の中国への関心と同情が高まっていた時期でした。このタイミングが、本書の効果をより大きなものとしました。アメリカの世論は、圧倒的に親中反日となってしまいました。日本にとっては、不幸な誤爆が、さらに大きな禍を生んでしまったのです。

 

●『アジアの戦争』が田中上奏文を広宣

 

 スノーは昭和16年(1941)、日米開戦の年の春に、『アジアの戦争』をアメリカで刊行しました。そして本書は、実に強烈な反日宣伝効果をもたらしました。

 本の扉、つまり表紙には、次の言葉が掲載されています。

 「20世紀の中ごろ、日本はアジアの平原でヨーロッパと出会い、世界の覇権をもぎとるであろう(大隈伯爵、1915年)」と。

 大隈とは、宰相・大隈重信です。また、第1篇第1章の最初の一行には、次の言葉が書かれています。

 「世界を征服するには、まず中国を征服しなければならぬ(田中手記)」と。

 「田中手記」とは、『田中上奏文』のことです。今日、ソ連による偽造という可能性が高いと見られている、かの謀略文書です。

田中上奏文が初めて世界に登場したのは、昭和4年(1929)、シナで、漢文版としてでしたが、スノーは早くからこの文書に言及しています。 昭和6年ごろから書いた『極東戦線』の中で、スノーは、田中上奏文の主旨を次のように書いています。

 「日本の繁栄のためには、まず資源豊富な満州を手に入れなければならず、また将来中国を初めとするアジア諸国を征服するためには、過去に日露戦争でロシアと戦ったように、まずアメリカをつぶさなければならない」と。

 スノーは、昭和16年に刊行した『アジアの戦争』において、この疑惑の文書を全世界に知らしめました。しかもスノーは、ここで一つの犯罪的な誇張を行っています。鈴木氏によると、前著『極東戦線』では、田中上奏文を「田中メモランダム」と呼んでいました。メモランダムは「個人的なメモ」を意味する言葉です。しかし新著『アジアの戦争』では、「田中メモリアル」という全く意味の違う言葉を使っています。メモリアルは、鈴木氏によると「ある歴史的な価値を持つ」ものにしか使わない言葉です。私は、スノーは、明確な目的意思をもって、この言葉を選び、親中反日の国際宣伝工作を行ったのだと思います。

 また、ここでも反日・連共の烈女・宋慶齢が、スノーに重大な影響を与えたと考えられます。鈴木氏によると、宋慶齢は、昭和12年10月、日中の上海戦の中で、英語によるラジオ放送を行いました。この放送において、「宋慶齢は、『日本軍閥が行っている侵略行動は、日本軍閥が、そのバイブルともいうべき<田中奏折>(=上奏文のこと)に従って行動している、ということを示すだけで、それ以上、どのような説明をする必要があるでしょうか』と言ったのである。『田中奏折』という四つの漢字は、『それ以上何の説明もする必要はない』と断言できるほど、強いインパクトで外国人に訴える力がある、と宋慶齢は信じていたのである」と、鈴木氏は書いています。

 私は、スノー自身は中国語・漢文はほとんどわからないでしょうから、そもそもスノーが田中上奏文の存在を知り、それに注目したのは、宋慶齢によるだろうと考えます。スノーは、田中上奏文に対する彼女の激しい反発を聞かされ、大いに共鳴したのだろうと思います。

 鈴木氏は、「スノーがこの『田中上奏文』の実在を信じ、それが日本軍閥のバイブルである、ということを知ったこと」を重視しています。そして、「戦後の『東京裁判』、それに付随して一挙に全世界に知られるようになった『南京大虐殺』事件を結ぶ最も重要なキーワードは、この田中上奏文・田中奏折である」と、見ています。

 ここで、田中上奏文について、私の認識を再整理しておくとーー田中上奏文は、おそらくソ連GPUによって偽造され、コミンテルンを通じて漢文版が中国で出版された。そして宋慶齢によってスノーが大いに注目するところとなり、「アジアの戦争』で全世界に報道された。アメリカ共産党による英語版の頒布が、相乗効果を上げた。そして、後に述べるように、この偽造文書が、東京裁判における日本断罪のシナリオのもととされた。スターリンの謀略は、こうしたルートでも貫徹していたのかも知れない。

 

●「南京大虐殺」を誇張・捏造

 

 鈴木氏は、スノーの『アジアの戦争』(昭和16年春刊行)こそ、「南京大虐殺」を全世界に悪宣伝した本だったことを明らかにしました。

 私の理解では、スノーが、昭和12年12月の南京事件を、田中上奏文に書かれた世界制覇計画の一環としてとらえていたことが、重要です。そして、彼は、反日・連共の推進のために、南京事件を敢えて「大虐殺」事件として誇張・捏造したのだろうと思います。これはジャーナリストのモラルを超えた、デマゴーグ(悪質な宣伝・扇動をする者)の仕業です。

 『アジアの戦争』での、南京事件に関するスノーの記述は、大意、次のようになります。これは鈴木氏の訳をまとめたものです。

 「南京虐殺の血なまぐさい物語は、今ではかなり世間に聞こえている。南京国際救済委員会の人たちが私に示した資料から、私が見積もった結果によれば、日本は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した。しかもこの大部分は婦人、子供だったのである」

 スノーはまた、「いやしくも女である限り、10歳から70歳までの者は、すべて強姦された」とも書いています。

ここで、スノーがこのように書くまでの経過を記します。昭和12年12月の日本軍の南京攻略について、最初に大規模な虐殺があった報道したのは、英国『ノースチャイナ・デイリーニュース』でした。その数は1万人でした。この数字を4万人にまで拡大したのが、南京大学教授で宣教師でもあるM・S・ベイツ教授でした。ベイツは「非武装の4万人近い人間が殺された。そのうち約3割は非戦闘員だった」と主張しました。ベイツの主張は、昭和13年7月に刊行された『戦争とは何か』という本に掲載されます。この本の編集を行ったのは、英マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員H・ティンパーリでした。ティンパーリは、中国国民党宣伝部に雇われたエージェントであったことが、立命館大学の北村稔教授によって明らかにされています。国民党国際宣伝部は、宣伝目的のために、ティンパーリに『戦争とは何か』の執筆を依頼したのでした。(4)

そのうえ、4万人虐殺説を唱えたベイツ自身も、国民党中央情報部顧問でした。南京事件は、中国国民党による反日工作のために作り上げられたのです。

ところがその後、中華民国の公式記録は、どれもベイツの「4万人虐殺説」を削除し、公式に再三、その説を否認していました。亜細亜大学の東中野修道教授は、ティンパーリが報じた死者約4万人という数字が、その後数年間、現地の刊行物の再録記事のなかからことごとく削除されていたことを明らかにしています。(5)

 この否認されていた「虐殺説」を改めて持ち出した者がいます。その人物こそ、エドガー・スノーだったのです。

スノーは、日本軍は「少なくとも4万2千人を殺害した。その大部分は女子供だった」と書きました。ベイツの説では、約4万人のうち1万2千人ほどが市民だったのに、スノーは、4万2千人の大部分は女子供だったと、改ざんを加えたわけです。数字と割合を変え、しかも犠牲者は、単に市民ではなく、女子供、と言い換えたわけです。また、「10歳から70歳まで、すべて強姦」などと書くのは、ほとんど事実を確かめられるわけもない、無責任な表現です。

 しかし、『アジアの戦争』における南京事件の表現は、インパクトが強く、アメリカを中心に、親中反日の国際世論をつくるうえで、絶大な効果を生んでいきます。これに便乗して、一気に桁を上げて「20万人虐殺」としたのが、アグネス・スメドレーです。(『シナの歌ごえ』昭和18年刊)

 スメドレーは、スノー以上に、中国共産党に深く関わり、ソ連共産党の影の濃い人物です。ここから、東京裁判の20数万、30万という数字のうそまでは、もう一声です。彼女については、別項目に譲ることにして、話を続けます。(6)

 

●米国民を対日戦争に扇動

 

 鈴木氏によると、昭和16年にスノーは『アジアの戦争』を刊行したころ、「日本が中国に対して行っている侵略行為の最終目標は、東アジアに新しい秩序を創ることにある。日本は中国に存在している一切の資本保有者を排除するのが目的である。つまり、最初の相手は中国だが、やがてその目標は必ずアメリカにも及ぶ」と、繰り返しアメリカ国民に訴えました。

 そして、ナチス・ドイツの動向と、日本軍国主義は同じように危険である、と訴えたのです。そして、アメリカ人に対して、アジア問題において「中立、不干渉」はあり得ないことを説いて回りました。

 鈴木氏は書いています。「『アジアの戦争』は…頭の先から爪先に至るまで、ひたすらに『軍国主義日本』を憎悪し、ただ憎悪するだけではなく、アメリカ政府がその『中立政策』を捨て、世界平和の敵・日本に対して、武力介入を余儀なくさせることを目的とした『政治的』な著作だった…ここで使われた形容詞、エピソード、結論などは、常識をこえた激しいものであり、特に日本に対しては、『日本という国を、この世から抹殺する』という目的がはっきりしている…アメリカ人が『アジアの戦争』を読めば、アメリカはすぐにでも日本に宣戦布告をし、中国を救わなければならないという気持ちにさせられる。その意味では『アジアの戦争』は、完璧といってもいい、見事な内容になっていた」と。

 私は、『アジアの戦争』は反日プロパガンダ、対日戦争の扇動文書と見てよいと思います。ルーズベルトの周辺にはソ連のスパイがいました。その書が出された昭和16年には、スパイたちが暗躍していたのです。真珠湾攻撃より以前の対日先制攻撃計画を推進したカリーや、ソ連の指令を受けてハル・ノートを起草したホワイトらがそれです。彼らは大統領に対して対日戦争工作を行っていました。(7)

 スノーの著書は、スターリンがアメリカを対日戦争に引き込み、日米を戦わせようとした謀略と、基本的な方向において一致しています。それが単にスノー個人の考えなのか、それとも彼に巧みに働きかける宋慶齢や、あるいはその背後にいる共産勢力の意思を反映したものなのか、今後の研究が期待されます。

 

●ルーズベルトと個人的に面談

 

 スノーについて重要なことは、スノーはルーズベルト大統領と会見し、彼の対中・対日政策にまで影響を及ぼしたほどの権威あるジャーナリストだったことです。

 昭和12年に『中国の赤い星』が出版されると、大統領の情報秘書官ハロルド・イキスが徹夜でこの本を読み通し、早速ルーズベルトにその内容を報告したという話は、有名です。

 そのことがもとで、日米戦争がはじまったすぐ後に、ルーズベルトは多くのアメリカ人ジャーナリストの中で、特にスノー個人を大統領執務室に招きました。スノーの言葉を借りれば、「私が大統領を取材するのではなく、大統領のほうが、私を取材した」のでした。

 鈴木氏によると、ルーズベルトは「全面的にスノーに賛成の意向を表明」し、スノーはルーズベルトへの「個人的情報提供者の一人」となったということです。

 興味深いことに、第2次大戦中、スノーは昭和17年(1942)10月から2度にわたって、延べ3年近くをモスクワで送っています。そして書いた本は、鈴木氏によると、「本音よりも美化されたソ連に関する本」でした。

 スノーは、昭和19年5月に、ソ連から一度アメリカに帰ったときにも、ルーズベルトに会っています。そして、昭和20年2月、ルーズベルトは、クリミア半島のヤルタで、チャーチル、スターリンと第2次大戦の終結方法と戦後の世界秩序のあり方を協議しました。ヤルタ会談から帰ると、ルーズベルトはすぐスノーを招いて、長い時間語り合いました。これが三度目で最後の会談となりました。

 一体彼らは、何を語り合ったのでしょう。著書には書かれないこともあったでしょう。素人の気楽な推測を述べますと、スノーは、戦時中、ルーズベルトから依頼を受けて、米ソ関係にかかわる行動をした可能性があると思います。また、同時に中ソ間のパイプとなっていた可能性もあると思います。

 ひとつの仮説を挙げるならば、スノーを中心として、

 

 スターリン⇔毛沢東⇔宋慶齢⇔スノー⇔ルーズベルト⇔ソ連スパイ⇔スターリン

 

という円環があったのかも知れません。

 

●日本における『わが闘争』!?

 

 さて、スノーの『アジアの戦争』は、東京裁判においても、重大な役割を果たしていたと見られます。鈴木氏は次のように書いています。「僕は東京で行われたこの軍事裁判は、スノーの1冊の本『アジアの戦争』の存在なくしては、あのような形で進行しなかったと確信している」と。これも氏による重大な発見です。

 以下、鈴木氏の記述をまとめてみますとーーアメリカの首席検事キーナンが、東京裁判の冒頭陳述を作るに当たって、何を参考にしたのか、具体的な資料は残っていません。しかし、当時アメリカ人が日本を理解するに当たって、アメリカ国内にそれほど多くの参考書があったわけではありません。

 スノーの著作は、その数少ないものの一部でした。しかも、そこには田中上奏文が引用されており、満州事変から真珠湾までが系統的に描かれていたのです。こうした本は、当時のアメリカでは、スノーの著作しかなかったのです。

 鈴木氏は書きます。昭和20年、東京裁判の「日本にやってきたアメリカ検事団が、このとき既に進行していたドイツのニュルンベルグ裁判を参考にして日本という国が、『計画的且つ組織的』に『世界征服』という野望を持って『共同謀議』し、その結果が『真珠湾攻撃』に結びついた、というシナリオを描こうと思っていたことは、当然である」と。

 ニュルンベルグ裁判では、ナチス・ドイツは、ヒトラーの著作『わが闘争』をバイブルとして「計画的且つ組織的」なヨーロッパへの侵攻、さらに千年も滅びることのない「第3帝国」の完成を夢見て、白人至上主義、民族の優位性、ユダヤ人の撲滅、民族浄化政策を「計画的且つ組織的」に行ったと見なされました。

 『わが闘争』は、1925年に書かれており、1935年のベルサイユ条約破棄、1938年のオーストリア併合、さらにチェコスロバキアを保護領にし、1939年にはポーランドを手に入れるなど、ナチスの行動を、『わが闘争』をもとに裁くことは、筋が通っていました。しかし、アメリカ検事団は、日本の中には「わが闘争』のような、適当な本を探し出すことができませんでした。

 鈴木氏によると、「この中で信頼できる1冊の本が『日米戦争』の数ヶ月前に発行された、エドガー・スノーの『アジアの戦争』である。このときスノーは既に『日米戦争』を予言(注:昭和16年の年内に、と)し、事態はまさに、その通りになったのである。その内容は、文字通り日本の『軍国主義政策』の根幹を描いたものであり、文章も内容も、簡潔で要を得ていた」というわけでした。

 

●日本断罪のシナリオを提供

 

 鈴木氏によると、「スノーはアメリカ人にとって、神格化された地位にあったルーズベルトと三回も個人的な会談の時間を持った知識人であり、充分に信頼されている人物であった」のです。

 それゆえ、スノーの著作は、米国人には信憑性が高く、東京裁判における日本断罪のシナリオの原本とまでされたようです。

 キーナン首席検事の冒頭陳述を鈴木氏は、次のようにまとめています。

 「日本の目的は世界征服であった。そのために、日本は侵略のための殺人教育を続けてきた。それは組織的、且つ計画的な共同謀議によって行われた。そして、そのターニングポイントとなった年月は、1927〜28年であった」と。

 この筋書きは、スノーが構成した論理そのものです。「1927〜28年」とは、田中上奏文を暗示する年代です。私見を述べますと、キーナンは偽書の疑いのある田中上奏文の名前はあげずに、この文書をスノー、そして宋慶齢が広く宣伝したように理解し、日本の罪状をつくりだすタネ本としたのでしょう。

 鈴木氏によると、スノーの『アジアの戦争』は、初めの部分は、日本では長年、「殺人教育」が行われ、その最初の成果が「南京虐殺事件」であるという構成になっています。これと同様に、東京裁判の検事側は、まず「日本の軍事教育」を最初に出しました。そして、「南京事件」は「日本人の度肝を抜く事件」として、裁判初期の段階で、とりあげられたのです。

 南京事件について、『アジアの戦争』がどのように誇張・捏造したかは、既に述べた通りです。スノー=キーナンの筋書きの中で、「南京大虐殺」という稀代の大嘘は、実に効果的に日本の断罪に用いられたわけです。

 

●思い入れによる悪宣伝

 

 東京裁判が終了した約1年後、昭和24年(1949)に、スノーが支援し続けた中国共産党は、「中華人民共和国」の成立を宣言しました。スノーはこの国に、限りない期待と希望をもっていました。そして、昭和35年(1960)に初めて、共産中国を訪れました。

 2年前から推進されていた毛沢東の「大躍進」政策は、当時、中国の農工業を混乱させ、大量の餓死と破壊をもたらしていました。しかし、スノーは、現実を見ることなく、人民公社を肯定し、粛清のうわさを否定し、毛沢東の個人崇拝をも肯定しました。

 昭和45年(1970)8月、スノーは戦後3回目の中国行きを行いました。全中国は、41年(1966)からの文化大革命の嵐におおわれ、国中が揺れ動いていました。毛沢東らは、最高の礼を以って、スノー夫妻を迎えました。そして建国21周年記念日に当たる10月1日、天安門前に作られた舞台の上で、スノー夫妻は、舞台の中心に、毛沢東と共に並び立ちました。

 百万人にのぼる若者たちは、口々に「毛沢東主席万歳!」を叫び、赤いネッカチーフを風になびかせながら行進します。スノーは毛沢東と共に、熱狂的な紅衛兵たちに応えました。

 毛沢東とスノーが天安門前で紅衛兵に手を振る写真は、11月19日、毛沢東の77歳の誕生日の人民日報に、大きく掲載されました。その写真説明には「中国に友好的なアメリカ人」と書かれていました。

 こうしてスノーは、毛沢東の個人崇拝と強権政治に荷担し、文化大革命という権力闘争を美化することにも貢献したわけです。

 今日、私たちは、中国の「大躍進」から「文化大革命」にいたる20年間とは、毛沢東の失政・暴虐による、混乱と破壊の時代に過ぎなかったことを知っています。

 毛沢東は、スノーが描いた「やせたリンカーン」ではなく、「言葉巧みなスターリン」だったのです。

 スノーの共産主義に対する思い入れが、全く誤ったものだったことは、明らかです。しかし、こうした根本的な誤りを犯していた人物が、戦前、わが国を、世界に向けて悪宣伝していたのです。

 

●超克のための新発見

 

 スノーの悪宣伝は、清算された過去の逸話ではありません。冒頭に、鈴木明氏の言葉を引きました。「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、21世紀の世界に最も大きな影響を与えるかもしれない重要な三つの国で、いまでも喉元に突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。いわゆる南京大虐殺論争である」と。この南京事件の虚構の鍵を握っていたのは、スノーでした。

 南京事件だけではありません。現在も我が国の教育や歴史認識を支配している東京裁判史観もまた、少なからず、反日・連共のデマゴーグ、エドガー・スノーが生み出したものでした。

 今日、南京での「大虐殺」という冤罪を晴らし、東京裁判とそれに基く戦後日本の歪みを克服するために、反日的な国際宣伝工作の実態を明らかにしていく必要があると思います。ページの頭へ

 

(1)『田中上奏文』については、第1章をお読み下さい。

(2)南京事件については、以下の拙稿をお読み下さい。

 「南京『大虐殺』はあり得ない

(3)スメドレーについては、第5章をお読み下さい。

(4)北村稔著『「南京事件」の探求』文春新書

(5)東中野修道著『『南京虐殺』の徹底検証』展転社

(6)(3)と同じ。

(7)カリーとホワイトについては、第10章をお読み下さい。

 

5章 スメドレー〜女性記者の赤い疑惑

 

 「南京事件」は、エドガー・スノーによって、女子供を含む4万2千人が虐殺されたと宣伝されました。さらにそれをもっと誇張したのが、アグネス・スメドレーです。彼女は「日本軍は20万人を虐殺した」と拡大宣伝しました。この女性ジャーナリストの行動には、背後にある組織の意図・目的がうかがわれます。

 

●「南京大虐殺」として虚報

 

南京事件について、4万人虐殺説を言い出したのは、M・S・ベイツ博士でした。ベイツは中国国民党中央情報部の顧問でした。彼の所説は、「非武装の4万人近い人間が殺された。そのうち約3割は非戦等員だった」というもの。国民党は宣伝部に雇ったエージェントのH・ティンパーリを使い、『戦争とは何か』にベイツの説を載せて宣伝しましたが、中華民国の公式記録では、どれもベイツの「4万人虐殺説」を削除し、公式に再三、その説を否認していました。

ところが、これを改めて反日宣伝に持ち出したのが、エドガー・スノーでした。スノーは、昭和16年(1941)刊行の『アジアの戦争』に、日本軍は「少なくとも4万2千人を殺害した。その大部分は女子供であった」と書きました。ベイツの説では、4万人のうち1万2千人ほどが市民だったのに、スノーは、4万2千人の大部分は女子供だったと、改ざんを加えたわけです。数字と割合を変え、しかも犠牲者は、単に市民ではなく女子供、と言い換えたのです。

さらに、そのうえを行ったのが、アメリカの女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーでした。スメドレーは、昭和18年(1943)に出した『シナの歌ごえ』で、「日本軍は、20万人を虐殺した」と、拡大宣伝しました。死者の数は、5倍に増やされました。東京裁判で出される数字に、一挙に跳ね上がったわけです。

スノーもスメドレーも、南京事件の現場を目撃・検証したわけではありませんから、全くジャーナリストのモラルが疑われます。むしろ、彼等は、客観的な第三者の立場を装って、シナの事情に疎い欧米の読者に対し、意図的に、悪質なデマ宣伝をしたと見るべきでしょう。スメドレーについては、スノー以上にその可能性が高いと思います。

 

●ソ連・インド・シナを結ぶ糸

 

アグネス・スメドレーは、アメリカ人でしたが、インド独立運動に関心を抱くようになりました。そして、ベルリンで勉強していた時、インド人のチャットパディアと出会い、結婚します。

チャットパディアは、単なる愛国的な独立運動家ではありませんでした。ロシア革命後、共産主義者となったからです。彼はインド共産党の創立に加わり、またドイツ共産党でも活動しました。そして、共産主義による国際的な民族解放運動を推進していました。

スメドレーは、そうした人物と数年間、共同生活をしているのです。チャットパディアはソ連=コミンテルン系の共産主義者ですから、スメドレーの方も、共産主義運動に献身あるいは協力していたと見るべきでしょう。仮に二人の目的は、インド人民の悲願、民族独立だったとしても。

スメドレーは、昭和3年(1928)に、ドイツの新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の記者となります。この新聞は、フランフルトに本社があります。その都市こそ、西欧マルクス主義の牙城・フランクフルト学派の本拠地でした。

スメドレーは、ドイツでは珍しかっただろうインド人の共産主義者と生活を共にしながら、よくこうした職を得られたものです。さらに彼女は、なぜかシナにも関心を持つようになり、昭和4年、特派員として、シナへ行きます。

その翌年、上海に、コミンテルンの大物スパイが現れます。その名は、リヒャルト・ゾルゲ。かのゾルゲ事件で名高い人物です。ゾルゲは、ドイツ人ジャーナリストの肩書で、ソ連からシナに派遣されたのです。そこでゾルゲは、スメドレーと会い、彼女から尾崎秀実を紹介されます。尾崎は、ゾルゲ事件に連座した新聞記者です。

昭和8年(1933)1月、ドイツにナチスのヒトラー政権が成立しました。すると、ゾルゲは、コミンテルンから日本行きの指令を受けます。彼はまずドイツに入って、偽装ナチ党員となり、同年9月には『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の東京特派員の職を得ます。この新聞社は、スメドレーが勤めている新聞社です。

ゾルゲは来日すると、尾崎と共に、国際スパイ活動を展開します。一方、スメドレーはシナに残り、中共軍と行動を共にします。

どうも、どこかに筋書きが書かれているような気がします。素人の気楽さで、仮説を立てるとーーコミンテルンの支部組織がベルリンやフランクフルトにあり、『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の幹部に共産主義者がいた。チャットパディア=スメドレー=ゾルゲは、同じ指示系統で活動した。スメドレーは使命を受けてシナに派遣され、現地のコミンテルンの指示を受けて、ゾルゲに協力し、尾崎秀実を紹介した。また彼女はチャットパディアと協力してインド・シナの共産化を画策したーー。

スメドレーは、実際、チャットパディアとともに、毛沢東・周恩来・朱徳と、ガンジー・ネルーをつなぐ役目をしています。しかし、インドの賢者たちは、チャットパディアと異なり、ソ連・中共の共産主義とは一線を画しました。これは、インドの運命にとって、賢明な判断だったと思います。チャットパディアの路線を行っていれば、インドは東欧と同じ悲惨を味わっただろうからです。

 

●「20万人虐殺説」を唱えた容疑者

 

昭和8年(1933)にドイツでナチスが政権を取ると、チャットパディアは、ソ連に亡命します。レニングラードの大学で教鞭をとっていたといいますから、相当な評価を受けていたのでしょう。しかし、最後は、スターリンに粛清されてしまいます。

一方、スメドレーは、シナで活動を続けました。彼女は日中戦争の間、中共軍に従軍して各地を転戦し、中国共産党の代弁者のようになって、欧米に著述を書き送りました。

彼女は、昭和16年(1941)に帰米しましたが、のちアメリカ政府からスパイという告発を受けます。彼女は抗弁して、逆に政府に謝罪させましたが、結局、国を追われ、昭和24年(1949)に渡英します。そして、困窮のうちに、ロンドンで客死。遺骨は、北京に葬られたとのことです。彼女の思いは、シナにあったのでしょう。共産主義に骨まで献身したというわけでしょう。

冒頭に、「南京大虐殺」についてのスメドレーの記述を書きました。私は、スメドレーの「20万人虐殺説」は悪意あるデマ宣伝であり、その背後に、なんらかの組織の意図・目的があると考えます。

スメドレーの足跡には、赤い疑惑がつきまといます。専門家の方々のさらなる研究に期待しています。ページの頭へ

 

6章 ゾルゲ〜二つの祖国を持つスパイ

 

共産主義者は、日本でもスパイ活動を行いました。わが国でのソ連のスパイ活動は、昭和16年10月、大東亜戦争直前に発覚しました。これが有名なゾルゲ事件です。背後にいるのは、スターリンです。スターリンは、ソ連を盟主とした世界の共産化を目論み、世界各国に国際共産党の支部を設け、スパイや協力者を作り、ソ連の国益に奉仕させました。彼のために日本で暗躍したスパイが、リヒャルト・ゾルゲでした。

 

●二つの祖国を持つ男

 

 リヒャルト・ゾルゲは、1895年、ロシアのバクーに生まれました。父アドルフはドイツ人の石油技師、母ニーナはロシア人でした。3才のおり、家族とドイツに転居し、少青年期をベルリンで過ごしました。

  ゾルゲは、厳格でドイツ国家主義的な考え方の強い父親に反発しました。祖父は、ドイツ社会民主党の活動家で、マルクスやエンゲルスとは同僚のような関係でした。ゾルゲは子供のころから、そんな祖父への強いあこがれを抱いていました。第1次大戦に従軍した彼は、戦争の悲惨さを痛感し、社会の変革を強く願うようになったのでしょう。1917年に、母の国ロシアで起きた共産主義革命に感激したゾルゲは、1919年に、ベルリン大学を卒業すると直ちに、ドイツ共産党に入党しました。(1)

ゾルゲは女性共産主義者ローザ・ルクセンブルグの著書の出版などで頭角を現しました。ゾルゲはまた、フランクフルト学派の一員でもありました。1924年、フランクフルト大学に西欧マルクス主義の牙城となる「社会研究所」が創立された時、彼はその所員となり、しばらく在籍したのです。そして同年、共産党の指令でモスクワへ派遣されました。ソビエト共産党に入ったゾルゲは、コミンテルン本部でも優れた才能を示し、赤軍第4本部(情報局)に引き抜かれました。彼の持つ強い信念、豊かな能力、冷徹な性格は、スパイに向いていると評価されたのです。

  ゾルゲは生涯ドイツの国籍を保ちました。その一方、母の国ロシアを「革命の祖国」として尽くしました。父の国での革命を夢見て……しかし、その夢は無残に裏切られることになります。

 

●宿命の出会い、そして日本へ

 

 昭和5年(1930)、シナの情勢は緊迫していました。満州をめぐる日ソの利害は鋭く対立しました。ゾルゲは、ドイツ人ジャーナリストの肩書で、ソ連から上海に派遣されました。ここでゾルゲは、赤い疑惑のジャーナリスト、アグネス・スメドレーと会いました。そして、彼女の紹介で、当時、朝日新聞上海特派員だった尾崎秀実(ほつみ)に近づきます。尾崎は、中国共産党や抗日組織と関係していました。ゾルゲは、尾崎にシナでの情報収集に協力を求めました。これが、彼等による日本でのスパイ活動につながります。

 昭和8年(1933)1月、ドイツにナチスのヒトラー政権が成立しました。指令を受けたゾルゲはモスクワに戻り、ドイツに入って、偽装ナチ党員となりました。

 ゾルゲは、独特の魅力を持つ人物だったようです。長身でエキゾチックな容貌、社会学博士という高い知性、東洋文化への深い造詣などは、ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッルスをも魅了しました。そして、同年9月には、ドイツで『フランクフルター・ツァイトング』紙の東京特派員の職を得ることに成功し、日本行きの指令を実行しました。盛大な送別会には、彼の正体を知らぬゲッペルスの姿もありました。

 ゾルゲの来日の目的は、昭和6年の満州事変以降の日本の対ソ政策・対ソ攻撃計画を探知し、日本のソ連への侵攻を阻止することにありました。ゾルゲは、駐日ドイツ大使らに接近するとともに、大阪朝日本社に転勤していた尾崎と再会して、日本での協力を求めました。尾崎は「宿命的なもの」を感じました。彼等は、画家宮城与徳らを加えて情報組織を確立し、ソ連と国際共産主義に奉仕する活動を開始しました。

 

●「革命の祖国」ソ連への献身

 

 ゾルゲと尾崎らの活動は、昭和11年(1936)の二・二六事件以降に本格化します。ゾルゲはドイツ大使館の信頼を得、オットー大使の私設情報官に就任し、重要な情報を手に入れられる立場となりました。オットー大使とは一心同体の仲となり、ゾルゲが大使名で本国向けの報告を書くことさえありました。

  一方、尾崎は昭和12年4月に、近衛文麿のブレーンである昭和研究会に加わりました。翌年7月朝日新聞社を退社し、第1次近衛内閣の嘱託となり、14年1月満鉄東京支社に移りました。15年7月の第2次近衛内閣の成立前後には、国民再組織案を練るなど、国策に参与する機会をつかみました。こうして尾崎は高度の情報と正確な情報分析を提供して、ゾルゲのソ連防衛のための活動を助けました。こうしてゾルゲは大東亜戦争開戦に関する御前会議決定の機密情報などまでを入手して、ソ連に送っていました。

  ゾルゲはオットー大使から、昭和16年6月のドイツ軍のソ連侵攻日時など機密情報を入手し、モスクワに通報しました。独ソ開戦後、オットー大使はヒトラーの意を受け、日本とドイツが共同でウラジオストクを攻撃し、ソ連を東西から挟撃する計画を松岡洋右外相らに持ち掛けました。しかし、日本は南進論や日米開戦方針などから難色を示しました。(2)

 

●諜報発覚

 

 ドイツの進攻を受け、苦戦するソ連を防衛する活動の最中、ゾルゲらの活動は、昭和16年10月15日、日本共産党員・伊藤律を通じて発覚し、終止符を打たれました。ゾルゲ、尾崎を始め、情報提供者、情報機関員らのグループは、スパイ行為の嫌疑で次々に逮捕されました。そして、治安維持法、国防保安法等の違反で起訴されました。ゾルゲのグループは、日本人32人のほか、ドイツ人4人、ユーゴスラヴィア人2人、英国市民1人が加わった巨大組織でした。

 ゾルゲ事件は、日本国内に衝撃を与え、一大スキャンダルとして大々的に報じられました。日本政府は在京ドイツ大使館との対話を停止するなど、日独同盟関係は一時、冷え込みました。ヒトラーはオットー大使を更迭せざるをえませんでした。

 日本はヒトラーが提案したソ連挟撃構想には、終に乗りませんでした。 しかしゾルゲ事件の翌月、11月26日、ルーズベルトからハル・ノートを突きつけられた日本は、対米決戦に突入しました。ハル・ノートの背後には、日米を戦わせようとするスターリンの謀略があることなど、わが国の指導層は知る由もありませんでした。

 日米開戦後の昭和18年にゾルゲ、尾崎に死刑判決が下されました。処刑は19年11月7日に行われました。それは、日本の敗色が濃くなり、特攻作戦が開始されたころでした。苦境にあった日本は、ソ連に和平交渉の仲介を依頼していました。しかしそのソ連から、突然の侵攻を受けました。昭和20年8月9日のことです。日本が弱ったのを見たスターリンは、好機到来と、日ソ中立条約を一方的に破棄し、赤軍を進撃させたのです。背後から袈裟懸けに斬り付ける非道の行いでした。

 

●スパイたちの夢、まぼろし

 

 共産主義に夢を抱き、命を捧げ、そして共産主義に裏切られた者は、多数、歴史の闇の中に眠っています。

  大物スパイ・ゾルゲは、共産主義の首領スターリンに命をかけて尽くしました。しかし、猜疑心の強いスターリンは、ゾルゲに二重スパイの疑いをかけていました。

 スターリンは、ゾルゲが日本で処刑されたあと、ロシアに残る妻と12歳の長男を強制収容所に送り、処刑しました。長男については、当時の国内法では年齢が低くて処刑の対象にならないことが分かると、法改正まで行って処刑しました。「革命の祖国」ソ連のために死んだゾルゲに、「同志スターリン」は、かくも冷酷だったのです。

  ゾルゲは、祖国ドイツに革命の夢を抱いていました。彼が夢見た革命は第二次大戦後、ソ連による東ドイツの「解放」という形で、実現しました。しかし、共産主義による「解放」とは、欺瞞そのものでした。支配と搾取の別名でしかなかったのです。「解放」の45年後、ソ連の圧政に耐えかねた東ドイツは、共産主義を捨て、民族統一の道を選びました。続いてゾルゲが命を捧げたソ連自体も、内部から崩壊しました。

  ゾルゲの共犯者・尾崎秀美には、今なお漠然としたロマンや共感を抱く知識人が多いようです。治安維持法による尾崎らの逮捕・処刑を、民主主義への弾圧、人権の侵害だとする意見さえあります。

  実際はどうでしょうか。尾崎が死を賭して守ろうとしたソ連は、「労働者・農民の国」を自称していました。しかしその実態は、労働者・農民が共産党官僚に支配される国でした。ソルジェニーツインが明らかにしたように、ソ連は弾圧と虐待が横行する「収容所列島」の国でした。そして、他国を侵略して下部構造に組み込み、人民を搾取する「赤色帝国主義」「社会帝国主義」の国だったのです。終戦間近に参戦したソ連は、満州や樺太で、逃げ惑う日本人婦女子を暴行・虐殺し、男たちをシベリアに連行して強制労働させました。

 そうした国のために、尾崎はスパイ行為を行いました。彼の行為は、祖国と同胞を裏切った、史上類例のない反逆罪として記憶されるべきものです。

  今日の日本には、スパイ法はありません。日本は「スパイ天国」と呼ばれています。毛沢東や金日成・正日父子の国に幻想を抱き、諜報・協力している人間は少なくないようです。政治家・官僚・ジャーナリスト・大学教員の中にも。彼らの夢もまた、ゾルゲや尾崎らと同じように、まぼろしに終わるだけでしょう。

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(1)『20世紀特派員〜暴走する大衆(23)』(産経新聞社)

(2)産経新聞平成9年12月28日号『ゾルゲ事件、日独同盟に亀裂』

 

 

7章 尾崎秀美と「敗戦革命」の謀略

 

田中上奏文、スノー、スメドレー、ゾルゲ等をたどっていくと、ソ連・中国・アメリカの共産主義者及びわが国の共産主義者の間の連携には、これまで知られている以上に、広く深いものがあるに違いないと感じられます。最も気になるのは、近衛文麿の上奏文の内容です。
 「これら軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及民間有志(略)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに躍らされたりと見て大過なしと存候。‥‥彼等の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」
 これは単なる一政治家の回想録の一部ではありません。昭和天皇にあてた元首相の赤裸々なお詫び文の一節です。そにに、重みがあります。敗戦を覚悟した近衛は、戦後に共産革命の起こることを深刻におそれ、自責の念に駆られていました。近衛を操っていたのは、彼を取り巻くブレーンの中核だった尾崎秀美です。尾崎の暗躍はゾルゲ事件で露呈しました。その尾崎の背後には、一般に認識されているより、はるかに重大なものがありそうだと私は感じていました。

 そうしたところに、三田村武夫氏の著書『大東亜戦争とスターリンの謀略』(自由社)を知り、一読。ズシンと腑に落ちるものがありました。戦前、”満州の三スケ”といわれ、東条内閣の商務大臣を務めた岸信介氏は、三田村氏の著書に寄せて、次のように書いています。
 「支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。
 近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる」と。
 岸氏は戦後首相になった人物で、その気骨と頭脳の優秀さには定評があります。三田村氏の書著が単なる謀略史観の類であれば、自ら序文をしたため、「操り人形」などと自嘲しはしないでしょう。

 三田村氏によると、尾崎は「最も忠実にして実践的な共産主義者」(尾崎自身の言葉)であり、レーニンの「帝国主義戦争を革命へ」という戦術に基づき、軍部の中枢や近衛の政策ブレーンに入り込んで、日本を無謀な戦争に駆り立て、かつ戦争を長期化させて敗戦に至らしめ、「敗戦革命」を起こそうと画策していたのでした。つまり、資本主義国同士の戦争を革命の好機とし、これを醸成し、敗れて弱った国から革命を起こしていって、最後は世界共産主義革命を完成させるという戦略の実践です。
 尾崎の最大の仕事は、陸軍を北進論から南進論に転換させたことです。この転換で、日本は英米と戦わざるを得なくなる道に進みました。スターリンは、日本軍をシベリアから南方へと向けさせることで、ドイツの侵攻から命拾いをし、日米を決戦に引き込むことで、漁夫の利を得たのです。

 戦後の日本では、コミンテルンの32年テーゼの二段階革命論の第一段階・ブルジョワ革命に当たる変革が実行されました。実行者は、ソ連ではなくアメリカ、日本の共産主義者ではなくGHQの官僚たちでした。GHQには多くのニューディーラー左派がいました。彼らはケーディスを始め、共産主義者ノーマンの書いた日本史・日本論を「聖書」のようにして読み、日本弱体化の参考にしました。GHQのブルジョワ革命的な占領政策には、日本の共産主義者や容共的な近代主義者が多数協力したのでした。

尾崎の目的は「敗戦革命」による日本の共産化でした。戦後日本では、それは押し留めることができています。しかし、共産化の前段階としてのブルジョワ革命的な変革は、こうした形で遂行されてきたのです。ページの頭へ

 

 

第8章 ハル・ノートにスターリンの謀略

 

日米戦争について、近年二つの重大な新事実が明らかになっています。一つは、米国は日本の真珠湾攻撃の前に日本本土爆撃計画を立てており、その計画を推進したロークリン・カリーは、ソ連のスパイだったこと。もう一つは、ハリー・デクスター・ホワイトも、ソ連の諜報組織と関係があり、ハル・ノートの原案はホワイトがソ連の指示に従って起草したものだったこと。これらの二つです。特に、ハル・ノートに関する関与は重大です。

 

●ハル・ノートに対する「不戦必勝」の道

 

カリーとホワイトは、時代を代表するエコノミストでした。共にケインズ主義者でした。カリーはニューディール第2期に、左派色の強い経済政策をデザインした「ケインズ革命」の立役者でした。ホワイトは戦後、ブレトンウッズ協定を立案し、英国代表のケインズと渡り合い、米国主導による戦後の世界通貨金融システムを構築した人物で、経済学の入門書にも載っているほどです。かくも優秀抜群なる米政府高官が、スターリンの世界共産化の謀略に関与していたとすれば、驚きです。

そこで、ハル・ノートとその背後のソ連の謀略、そして対米戦争を回避しえた道について、以下に書くことにします。

まず私は、日米開戦の引き金となったとされるハル・ノートに対しては、「即、交渉打ち切り、対米開戦」ではない「別の道」があったと考えています。昭和10年代の日本は「厳正中立・不戦必勝」の策 (1)をとるべきだったという考えです。そして、それゆえ、私は大東亜戦争肯定論ではなく、いわば大東亜戦争本来不要論です。

日本側は、ハル・ノートをつきつけられた時、撤退すべしという中国には満州を含むと受け留めました。この受け留めによって、ハル・ノートは事実上の最終通告と理解され、日本の指導層は対米決戦へと決断しました。しかし、ハル・ノートは、満州を撤退の範囲に含むか否か明示していないのですから、この点を問いただして、外交交渉を続けるべきでした。

ハル・ノートに関して、私の知る限り、傾聴すべき意見を表明している方に、小室直樹氏、日下公人氏、片岡鉄哉氏がいます。

まず小室直樹氏、日下公人氏の共著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社、1995)から要点を引用します。

 

小室: 戦争をしない方法の「一番簡単なのは、ハル・ノートを突き付けられた時に『はい、承知しました』って言ってしまえばよかった。そうすれば戦争をする必要は無かった」

日下: 「実行はズルズル将来へ伸ばせばいいんだから」

小室: 「ハル・ノートには日程はついていなかったんだから」。「国際法の無理解」のため「ハル・ノートを理解できなかったから日本は対米戦争に突入した」

日下: 「ハル・ノートの内容を世界に公開すべきでした」

 

大変、示唆に富んだ意見だと思います。これをさらに推し進めた意見が、片岡鉄哉氏の意見です。

片岡氏は、フーバー研究所員、元筑波大学教授。戦後日本外交史の国際的な権威です。上記産経新聞の報道を受けて書いた雑誌論文で片岡氏は、概略、次のように論じています。(『アメリカに真珠湾を非難する資格はない!』 月刊誌『正論』平成11年10月号)

 

大東亜戦争についてーー「クローゼビッツの戦争論に、戦争の第一原則というのがある。ひらったくいうと、戦争とは勝つためにはなんでもするものだというのである。しかし日本政府はそれを理解していなかったようである。日本にとって勝つとは、戦争を回避することだった。そのために政府は手段を選んではならなかった。名誉ある不戦を求めて手段を選んではならなかった。

日本政府が真珠湾への決定を下したのは、アメリカ政府が最後通牒で、理不尽な要求をしてきたからである。日本が受け入れるはずのない要求をしてきた。ただし、アメリカ政府はこれを最後通牒と呼ぶことを避けた。事実上の最後通牒を最後通牒と呼ぶのを避けることで、日本を先制攻撃に追い込んだのである。しかしそれだったら日本政府は、その最後通牒の内容を暴露すべきだった。ルーズベルトが、ハワイの司令官にも、誰にも知らせないで、最後通牒を出した事実を暴露すべきであった。…

 夏から秋にかけて、共和党はルーズベルトが戦争を求めている理由の一つを薄々感じ取っていた。32年に当選して以来、彼はあらゆる手段で大恐慌と闘ってみたが、失敗していた。…あとは戦争しかない、という実感が空気としてあったのである。…

 日本が名誉ある不戦をとるとすれば、彼らに頼る以外なかった。彼らに、FDRが最後通牒をだしたことを知らせるべきだった。それも単に知らせるだけでは足りない。ルーズベルトは真珠湾攻撃を両院議員総会で発表して、メディア・イヴェントにしたが、あれくらいの派手なことをやって、誰が戦争を求めているのかを、全世界に印象付けるべきだった。…」

 

小室・日下・片岡各氏が述べるような、極めて高度な外交を、果たして、当時の日本の政府が展開できたかどうかは、疑問を感じる方も多いでしょう。しかし、「ハル・ノート」への対応は、「即、交渉打ち切り、対米決戦」のみではなく、米ソの謀略に乗らない道が、一つの可能性としてあったことは、ご理解いただけるでしょう。実際、ハル・ノートを突きつけられてから開戦までの11日間、挑発に乗らず、あくまで戦争を避けるべきだという意見が、指導層の一部からは出されたのです。しかし、指導層の多くは、クラウゼヴィッツ流の西洋白人戦法を信奉していたため、東洋・孫子流の「戦わずして勝つ」最高の戦略があることを理解できなかったのでしょう。

 

●H・D・ホワイトに関する疑惑

 

日米戦争によって、戦後、漁夫の利を得たのが、スターリンでした。彼は、かなり早くから日米戦争謀略を構想していたようです。アメリカのW・ビュリット駐ソ大使は早くも昭和10年(1935)7月19日に「アメリカを日本との戦争に引き込むのがソ連政府の心からの願望」だと米国に知らせていたのです。昭和10年つまり1935年とは、ルーズベルトが大統領に当選した年です。スターリンは策謀の一環として、ルーズベルト政権の高官の中にスパイをつくり、彼等を使って、ルーズベルトを操り、日米を戦わせようとしたのだろうと思います。

そして、この線上に浮かび上がってくるソ連への重要な協力者の一人が、H・D・ホワイトだったのです。当時、彼は財務省のエリートでした。ルーズベルト大統領に強い影響力を持つ財界の大物・財務長官モーゲンソーの右腕であり、頭脳でした。ホワイトの書いたものは、そのままモーゲンソーが署名し、モーゲンソーの文書として大統領に提案されたといいます。

戦後、IMFの理事長という要職にあったホワイトに疑惑が起こりました。昭和23年(1948)7月です。共産党の女性スパイであることを告白したエリザベス・ベントレイが、下院の非米活動委員会で、「ホワイトはワシントンの共産党エリート分子の一人だ」と証言したのです。ホワイトは、自ら同委員会に出席し、委員の質問に逐一答え、自分は共産党員だったことはないし、いかなる反米活動に従事したこともないと誓いました。ところが、それから2週間もたたずに、ホワイトは自分の農場で死亡しました。死因は心臓発作とされています。当時、スパイの容疑をかけられた者たちが、次々に自殺したり、亡命したりしたので、ホワイトの死は謎を残しました。

彼の死後も疑惑は続き、以前に共産党員だったウイタカー・チェンバースが、ホワイトは、戦争中ソ連のスパイ網の一員であったと証言しました。しかし、ベントレイやチェンバースの証言以外に、ホワイトを安全保障違反に問える証拠は何も出ませんでした。

彼の死後、50年近くたって、元ソ連NKVD(内務人民委員部、KGBの前身)工作員であるビタリー・グリゴリエッチ・パブロフが、ホワイトに関する証言を行いました。彼は、ホワイトに接触し、ホワイトがハル・ノートの母体となる文書を書くに当たって参考にするようメモを見せたといいます。ホワイトを利用した作戦は、彼の名にちなんで「雪」作戦と呼ばれたことがわかりました。

平成9年(1997)、パブロフは、NHKのインタビューに応じて、当時の事情を明かしました。パブロフは、ホワイトに見せたメモには、「関東軍はソ連に一定の警戒心と脅威をもたらしていた。ですから、一部の警察力のみを残してこの軍隊を撤兵させることが、日本にとっても適切であると考えさせるような」内容があったことを示唆しています。「われわれの目的は、極東のソ連地域を日本の攻撃と侵攻の可能性から守り、安全にすることでした」とパブロフは語っています。この点こそ、尾崎秀美とゾルゲが、最も力を注いだところでした。ソ連からすれば、日本とアメリカの両方に働きかけて、日本軍の北進を阻止する工作を行っていたことになります。

パブロフは、日米を戦わせるという考えは「まったく考えになかった」と述べています。しかし、これは疑ってみる必要があります。最高指導者のスターリン、またはパブロフの上司であるベリヤが、工作員のパブロフに世界革命戦略の全体像を明らかにしていたとは、考えにくいからです。パブロフよりはるかに優秀な尾崎秀美は、日本を米英と戦争させ、「敗戦革命」を起こすという戦略の実行を自己の使命としていました。彼の行動と証言を見れば、スターリンが日米戦争を強く望み、日本と米国の両方の指導層に工作をしていた可能性は十分あるのです。

 

●スターリンが日米を戦わせようとした理由

 

ではスターリンは、なぜ日米を戦わせようとしたのでしょうか。この理由は、これから歴史家や戦略論の専門家によって本格的に分析されていくことでしょう。浅学を顧みず、私は、現時点で、主な理由として以下の4点が挙げられるだろうと考えています。

 

(1)スターリンは日本を米国の力をもって叩くことにより、満州・朝鮮を奪い、また中国の共産化を実現しようとした。中国共産党は、スターリンの指示を受けて、日本軍と国民党軍を戦わせ、両者の弱ったところで、共産化を成し遂げるという革命戦略を実行していた。(昭和12年〔1937〕のろ溝橋事件以後の一連の謀略など) 米国による対日戦争は、アジアにおける共産勢力を援護するものとなると謀ったのだろう。

 

(2)さらに対米・対中戦争で弱ったところで、日本を共産化することを目標とした。スターリンは、日本革命を、世界の共産化における最大の課題としていた。日本の「国際共産党日本支部」(=日本共産党)に対してのみ、他国の支部には見られないほど多数のテーゼ(運動方針)を指示していた。ソ連軍の「日本解放」の際には、日本共産党がスターリンの手先・傀儡となるよう育成したのだろう。(実際、米軍の日本占領の際に、その成果が現れた)

 

(3)スターリンは、昭和15年9月に日独伊三国軍事同盟を結んだ、日本がドイツと協同して、対ソ攻撃を行うことをおそれた。日本軍部では、北進論(=対ソ)と南進論(=対米英)の両方面の作戦計画が拮抗していた。結局、昭和16年10月のゾルゲ事件によって、明るみに出たように、日本人スパイの尾崎秀美は、日本の「敗戦革命」をめざして、コミンテルンのドイツ人スパイ・ゾルゲに協力し、日本軍を北進から南進へと方針転換させた。これによってソ連は挟撃を免れ、ドイツの侵攻から九死に一生を得た。同時に、日本を南進させたことにより、スターリンは日本を米英と戦わせる道に誘導したのだろう。

  

(4)特に昭和16年6月からのヒトラーの侵攻に圧倒され、危機にあったスターリンは、米国を第2次大戦に参戦させ、米国をドイツと戦わせようと謀った。大統領選挙で、大戦に参加しないことを公約していたルーズベルトを、対独参戦させることは、スターリンにとって死活をかけた課題となった。そこで彼は、米国の対日開戦が対独参戦のきっかけとなるように画策したのだろう。ルーズベルト自身、対独参戦を行う口実を得るために、日本を挑発し、日本から仕掛けさせようとした。この点、スターリンとルーズベルトの目的は一致していた。スターリンは、ルーズベルトを刺激して対日工作を促進したとも見られる。

 

私は、昭和戦前期、1930年代〜40年代の世界において、最高の戦略家かつ最凶の謀略家は、スターリンだったと思います。

 

●独ソ戦の情勢を見て「別の道」へ

 

さて、上記のような理由で、日米を戦わせようとするスターリンは、諜報員を用いて、アメリカ政府高官であるホワイトに、日本に対して強硬な要求をつきつける文書の起草を指示したと考えられます。ホワイトの書いた原案は、財務長官モーゲンソー案として提出され(19411117日)、それをもとに検討がされました。この過程では、内容が段階的に変更され、最終的に成案なったのが、ハル・ノートです。その完成は、手交前日の昭和16年11月26日でした。

ハル・ノートの解釈で最大のポイントとなったのは、アメリカが日本に軍隊の撤退を求める範囲に満州国を含むのか否かでした。成案寸前の案では、中国と満州は別とされ、撤退範囲に満州は含まれていませんでした。しかし、最後の数日の間に、単に中国というだけで、満州を含むか否かが明示されない表現に変えられました。一体この変更がどういう理由で行われたのかは、まだ解明されていません。ハル自身の考えなのか、ルーズベルトの指示なのか、はたまたスターリンの意思を受けたソ連のスパイによる働きかけがあったのか、まだ真相はわかりません。

ホワイトの関与についていえば、彼の原案は幾度かの変更を加えられているので、成案なったハル・ノートは、ホワイトが書いたものとはいえません。しかし、ハル・ノートが、日本を対米開戦に追い込んだことを考えると、所期の目的は達成されたといえるでしょう。

いずれにせよ、日本側は、ハル・ノートをつきつけられた時、撤退すべしという中国には満州を含むと受け留めました。この受け留めによって、ハル・ノートは事実上の最終通告と理解され、日本の指導層は対米決戦へと決断しました。しかし、ハル・ノートは、満州を撤退の範囲に含むか否か明示していないのですから、この点を問いただして、外交交渉を続けるべきだったのです。

それと同時に、日本政府がこの時、独ソ戦について正確な情勢判断をしていれば、「不戦必勝」の道を受け入れることは可能だったと、私は考えます。

その説明に代えて、再び、小室+日下共著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』から要点を引用します。

 

日下: 「昭和16年の11月26日にハル・ノートが出た頃、ソ連に攻め込んでいたドイツ軍の進撃が、モスクワの前面50キロというところで停止したんです。そのことは、大本営もわかっている。ただ、大本営は『この冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる』と考えていた。

 『本当に大本営はそう思っていたんですか』って瀬島さん(=龍三、元大本営参謀)に聞いたら、『思っていた』と。

 その頃、『これでドイツはもうダメだ』という駐在記者レポートが各地から来ていた。イギリスにいた吉田茂(大使、のちの首相)も、ダメだと見ていた。それなのに、ベルリンからのだけ信用した。そりゃあ、ベルリンの大島浩(大使)はヒットラーに懐柔されちゃっているから、いいことしかいわない。それを信じたのです。…

 瀬島さんに聞いたんです。『もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか』って。そうしたら『日下さん、絶対そんなことありません。私はあの時、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやると言う人なんかいません。その空気は、私はよく知っています』と」

 

再び、こうした歴史を繰り返さないように、歴史の検証を深め、その教訓を、今日に生かしたいものだと思います。ページの頭へ

 

参考資料

対米戦争を始めなければ、日本は全く別の道を行くことができました。

詳しくは以下をお読み下さい。

 「大東亜戦争は戦う必要がなかった

     須藤眞志著『ハル・ノートを書いた男〜日米開戦外交と「雪」作戦』(文春新書)

 

 

9章 ヤルタ会談にソ連スパイが暗躍

 

第2次大戦によって、最も多くの果実を得たのは、どの国でしょうか。明らかにソ連です。開戦直後、スターリンは、ヒトラーとの合意のもとに、ポーランドをドイツと分割しました。さらに、フィンランドやバルト三国を掌中にしました。さらにヤルタ会談をきっかけに、欧州の東半分を分割支配し、大陸から日本を排除しました。ソ連の覇権の拡大は、同時に国際共産主義運動の拡大です。大戦後、中国が共産化し、また朝鮮半島の北半分が影響圏となり、ソ連はアジアにおいても一気に勢力を拡大しました。こうしたソ連の躍進を許したのは誰か。アメリカのルーズベルトでした。


 ルーズベルト政権には、アメリカ共産党やソ連の秘密警察であるソ連人民内務委員会(NKVD)の工作員が多数、潜入していました。彼らは、第2次大戦や戦後処理の政策決定に重大な影響を与えていたのです。

先に書いたように日本を開戦に追い込んだハル・ノートは、ソ連の協力者の一人、ハリー・デクスター・ホワイトが起草したものでした。そして、日本にとどめをさすソ連の参戦を決めたヤルタ会談では、アルジャー・ヒスが暗躍しました。

ヒスは国務省の高官として、ルーズベルト政権に仕え、ステティニアス国務長官の首席顧問としてヤルタに随行しました。彼は、国務省を代表してほとんどの会合に出席し、ルーズベルトを補佐したのです。

昭和20年(1945)年2月4日から11日まで、クリミア半島ヤルタで米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相による連合国3カ国首脳会談が開かれました。そこで合意・署名されたのが、ヤルタ協定です。ヤルタ協定は条約ではなく、連合国首脳が交わした軍事協定です。秘密の議定書ゆえ、ヤルタ密約とも呼ばれます。

この密約で、ルーズベルトは、ソ連による千島列島と南樺太の領有権を認めることを条件に、スターリンに日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促しました。そして、ドイツ降伏の2〜3カ月後にソ連が対日参戦することが秘密協定としてまとめられました。ルーズベルトは、東欧の一部もソ連に渡すことにしました。ドイツと中・東欧での米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序が規定されました。

ヤルタ会談の当時、ルーズベルトは健全な判断力を持っていたとは考えにくい状態でした。会談の約2ヵ月後に死亡しています。脳こうそくの一種であるアルバレス病だったといわれます。スターリンは、ルーズベルトが脳の病気のため精神がもうろうとして正常な判断ができない状態であることを知っており、会談を有利に進めたのです。またそこには、スターリンの意思を汲んだヒスの働きがあったのです。

ヤルタ協定の草案は、ヒスが作成したものです。ヒスは会談の前に、米国の最高機密文書を与えられ、協定の草案を作成しました。協定は、ソ連の主張は日本の降伏後、異論なく完全に達成されることで合意した、と定めています。対日侵攻を行った後、日本の北方領土の略奪を許すというわけです。これは、当事国が関与しない領土の移転は無効とした国際法に違反しています。

 ソ連は、ヤルタ協定を根拠に、北方領土の占有の正当性を主張しています。しかし、昭和31年(1956)、共和党のアイゼンハワー政権は、「ソ連による日本の北方領土占有を含むヤルタ協定は、ルーズベルト個人の文章であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出しました。ヤルタ密約は、共和党政権によって否定され、無効とされたのです。もともと不法占拠ですが、これによって、ソ連の主張は一切の正当性の根拠を失っています。

 
 ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンは、第2次大戦の終結方法とともに、戦後の世界秩序のあり方を協議しました。彼らの密約に基づいて創設されたのが、国連です。

国連とは、「連合国」のことであり、英語では同じ the United Nationsであす。わが国では戦後、これを「国際連合」と訳するようになりましたが、自己欺瞞というしかありません。中国では、一貫して「連合国」と訳しています。

ルーズベルトは、国連の件でもスターリンに大きく譲歩しました。ここでもヒスが暗躍しました。ヒスはヤルタ会談後、「国連=連合国」の機関としての創設に活躍し、国連憲章の起草にも参加したのです。その結果、「国連=連合国」は、アメリカの国益を実現する機関という以上に、ソ連をこそ利するものとなったのです。

 
 アメリカ共和党は、国連の設立時から強い不信感を持っています。国連が発行していたパンフレット『国連を知ろう』の第1〜2項には、「ヤルタでスターリンが、第二次大戦での援助と引換えに平和のための国連設立をルーズベルトに求め、ルーズベルトはアルジャー・ヒスが用意していた案を受け入れた」との記述があります。つまり国連とは、スターリンがソ連の国益の追求と世界の共産化という野望の下で、ルーズベルトに設立を要求したものだと考えられます。しかも、ソ連のスパイであったルーズベルトの側近ヒスが、その枠組みを考案して設立されたわけです。

共和党を中心とするアメリカの保守層、とりわけ保守系の知識人の中には、国連はソ連・中国の共産主義や、アメリカの左翼に利用されている機関であり、反米的な機構であるという見方があるのです。

戦後、ルーズベルト政権下で暗躍していたソ連のスパイや共産主義者が告発された。アルジャー・ヒスは偽証の有罪判決を下され、5年の懲役が宣告されました。しかし、スパイ行為に関しては、出訴期限が尽きたために訴追を受けませんでした。

平成7年(1995)7月、アメリカ政府は、非公開としてきたソ連の暗号電報を公開しました。暗号の解読は、1943年から陸軍の特殊部隊によって行われていました。最高機密活動で「ヴェノナ作戦」(Venona projectと呼ばれました。その資料公開によって、1940年代から50年代にかけて、米国政府内に、100人以上ものソ連のスパイが潜入していたことが確認されました。彼らは、ホワイトハウス・国務省・財務省・司法省や、CIAの前進である戦略情報局(OSS)、陸軍省等で暗躍していました。

アルジャー・ヒスこそ、そのうち最大級の大物スパイであったことは、疑いのないところです。

 

ところで、ヤルタ協定とともに、わが国に大きな影響を与えているものに、カイロ宣言があります。カイロ宣言は、昭和18年(1943)12月1日にアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、蒋介石の3人が発したもので、ポツダム宣言の基礎となったものです。

平成5年(1993)、中国の江沢民主席は世界に向けて「一つの中国白書(One China White Paper)」を7か国語で発表し、台湾が中国に属する理由を説明しました。白書は、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、蒋介石の3人によって共同署名されたカイロ宣言に基づいて、台湾は中国に返還されるべきだとしています。だが実際は、カイロ宣言には誰も署名はしておらず、蒋介石の署名すらないものなのです。
 チャーチルは、カイロ会談において、台湾を中国に返すことに反対していました。英国議会でソーレンソン議員の質問に対してカイロ宣言の存在を公然と否定しました。ソーレンソンは、チャーチルに対し、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石、スターリンの4か国の元首が共同署名したカイロ宣言に基づいて台湾を中国に返還するべきだと主張しました。だが、それは共産党に騙され、スターリンもカイロ会談に出席したと思い込んでの発言でした。アメリカ国務省は、カイロ宣言はなかったと公に発表しています。
 平成12年(2000)、江沢民は、先の白書を修正しました。「3か国の元首によって共同署名されたカイロ宣言」を「3か国の政府が共同で発表したカイロ宣言」と書き直したのです。署名への言及をやめたわけです。

 台湾人の評論家・黄文雄氏は、「カイロ宣言」には米英中三国の指導者の署名がないと指摘しています。たとえば、『捏造された日本史』(日本文芸社)では、「署名のあるカイロ宣言の公文書を見たことのある人など一人もいないのである」「この宣言は正確に言うと宣言ではなく、正しくは公告(Proclamation)というべきである」「チャーチル首相は、国会ではっきり宣言の存在を否定している」と。
 黄氏は、同書でもう一つ重要なことを述べています。「ポツダム宣言」の第8条に、「カイロ宣言の条項は履行する」と書いていますが、これは「存在しないものについて実行することになる。また、チャーチル首相はポツダム宣言には署名しなかったのである。だから、日本が署名したポツダム宣言は、文章として不完全である…日本は国家として公式に、虚構の上に立つカイロ宣言は否定しなければならない…」と。
 黄氏の論を、論理的に徹底すると、「ポツダム宣言」は無効であるということになってしまいます。なぜならば、「ポツダム宣言」は、存在しない「カイロ宣言」の条項の履行を含み、署名も揃っていないからです。こうした不完全な文書によって、日本軍の降伏と、連合国による占領政策が行われたのです。わが国はポツダム宣言を受諾したので、その点はおくとしても、黄氏が提言するように、日本はカイロ宣言については、国家として公式に否定すべきです。
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10章 ニューディーラーが日本を改悪

 

 日本は大東亜戦争に敗れました。戦後、日本を占領した連合国軍総司令部、GHQには、ニューディーラーと呼ばれる人間が多くいました。彼らは、日本の占領政策において、日本を弱体化させる政策を多く推し進めました。彼らは共産主義に親近感を持ち、その影響を強く受けていました。そして、日本弱体化政策には、ニューディーラーを通じて共産主義者の意図が入り込んでいたのです。

 

●ニューディーラーから出たスパイ

 

  第1次世界大戦とそれに続く混乱によって、資本主義の矛盾が噴出しました。破壊、失業、飢餓……。当時は欧米の知識人の多くが、社会的正義に情熱を燃やし、マルクス、レーニンらによる社会主義が正しいと信じていました。彼等は共産主義国・ソ連への共感を抱いていたのです。1929年の経済大恐慌後、統制経済によってソ連が躍進すると、社会主義的な政策への評価も高まりました。

 世界的大不況の中でアメリカは、ニューディール政策を断行しました。これは、かなり社会主義的な政策でした。このときの政策を立案・推進したリベラル派のグループを、ニューディーラーと呼びます。

ニューディーラーたちは、ルーズベルト大統領に大きな影響を与えました。彼らをブレインに持つルーズベルトは、ナチス・ドイツと戦うために、ソ連と手を結びます。また、日本を敵視し、戦争によって日本を叩く道を取りました。しかし、これは結果として、ソ連を飛躍的に強化せしめ、またシナをも共産化させてしまうという大失策でした。

 近年、米国公文書が公開され、日本の真珠湾攻撃の前に、米国は、昭和16年9月に、日本爆撃計画を策定していたことが明らかになりました。真珠湾攻撃は、卑劣な「スニーク・アタック(奇襲攻撃)」と批判されていますが、なんとアメリカの方が先に先制攻撃を計画していたのです。この計画を推進したのが、ニューディーラーの一人、ロークリン・カリーでした。彼は、ルーズベルト大統領の補佐官でした。そして実はソ連のスパイだったことが明らかになっています。

 カリーは、ニューディール政策の立案時に米国政権に参加し、ルーズベルトの大統領補佐官となりました。当時、米国は東アジアの覇権をめざしていました。そして、日本と対峙するために柱となる政策が、中華民国の蒋介石を支援する「援蒋政策」でした。米国は中立国の立場でありながら、「援蒋政策」として、国際法に反し、さまざまな軍事援助を進めており、事実上、対日戦争に参戦していました。このなかで、ソ連のスパイ・カリーは、蒋介石の政権顧問として、オーエン・ラティモアを推薦したのです。

 

●反日親中の旗手・ラティモア

 

 オーエン・ラティモアは、ジョンズ・ホプキンズ大学の教授で、著名なシナ史学者でした。彼の親中的な姿勢が、ルーズベルトにかなりの影響を与えることになります。

 戦前のアメリカでは、国務省内などに対日非難の世論を形作る中心的役割を果たしたものに、「太平洋問題調査会(IPR=Institute of Pacific Relations)があります。IPRは戦前から戦争直後の時期まで、アジア・太平洋地或に関して非常に権威のある国際的な研究団体でした。太平洋地域やそれに接する地域に関心を持つ、多くの国々の学者・実業家・ジヤーナリストなどからなっていました。

 米国のIPRは、米国がいうところの「太平洋戦争」において、積極的に米国政府の政策立案に協力しました。そのメンバーの中には、シナでの革命に理解を示す学者が多かったのです。なかでもラティモアは、当時の米知識人の親中・反日派のリーダーのような存在でした。彼はIPR機関誌の編集長として「中国を侵略する日本」を追及する論陣を張っていました。

 ソ連のスパイ・カリーは、そんなラティモアを蒋介石政権の政治顧問に推薦し、ルーズベルト政権との直接のつながりを作りました。そこにはスターリンの意志が、なんらかの形で介在していた可能性があります。

 ラティモアは、戦後の日本占領政策の策定では、非常に強硬な姿勢を示し、厳しい占領政策を提案しました。彼が「虎の巻」(片岡鉄哉氏)としていたのが、歴史学者ノーマンの著作でした。

 

●共産党員ノーマンがGHQに影響力

 

 E・H・ノーマンは、日本に生まれ育ったカナダ人で、日本語に堪能でした。彼の著書『日本における近代国家の成立』(邦訳は岩波書店)は、昭和15年(1940)に発行されました。当時、ノーマンは欧米でただ一人の日本史研究者でしたから、米国指導部は彼の著書に注目しました。

 片岡鉄哉氏の名著『日本永久占領』(講談社文庫)によると、ノーマンは「マルクス主義者」で、「れっきとしたカナダ共産党員」でした。彼の著書は、日本弱体化のための占領政策を推進する米国の官僚たちにとって、かけがえのない手引きになりました。それはノーマンの理論が、日本に制裁を加えるという初期占領目的を、イデオロギー的に正当化したからでした。それは、共産主義の日本革命の理論を、占領軍の絶対権力で実行するようなものでした。それを推し進めたニューディーラーは、共産主義に同調していましたから、共産主義の理論を、日本で実践したわけです。

 片岡氏は言います。「なぜ彼がニューディーラーにそんなにもてたのか。それはノーマンが、日本共産党の理論である講座派の理論を、虎の巻にしていたからであった。彼の本は岩波の講座シリーズの綱要とみてよいであろう」と。

 ルーズベルトの対日政策に影響を与えたラティモアがノーマンの著書を「虎の巻」にしていたと述べましたが、そのまたもとになる「虎の巻」が、日本共産党の理論だったということになるでしょう。日本共産党は、ソ連に本部を持つ国際共産党の日本支部として設立された団体です。それゆえ、日本共産党の理論は、スターリンのソ連共産党の理論に通じるものだったでしょう。

 1932年にスターリンは、日本共産化の方針として、「天皇制」打倒のテーゼを出しました。いわゆる「32年テーゼ」です。このテーゼに従って、講座派の学者は、二段階革命論を打ち出しました。二段階革命論とは、最初にブルジョワ民主主義革命を行って、その次に社会主義革命を行うという、日本革命の運動方針のことです。

 スターリンの指令に従う講座派は、明治維新はフランス革命にまで到達していないとみなしました。ブルジョワ民主主義革命の典型は、フランス革命だが、日本では、本物のブルジョワ民主主義革命にならないで、多くの「封建的残滓」が残された。天皇制と華族制度は、その残滓のさいたるものだ、とするのです。だから本当のブルジョワ民主主義革命を実行して、この残滓を取り除いてから、初めて日本は社会主義革命に進むことができるという理論です。日本共産党は、現在もこの理論を堅持しています。

 さて、片岡氏によると、「ノーマンは、徹底的なブルジョワ民主主義革命、つまりフランス革命を売り物にしていたので、ニューディーラーにうけたのである。もっとはっきりいえば、ルイ16世のように天皇をギロチンにかける政策に、学術的な理論体系を提供したから、うけたのである」ということになります。

 GHQは、日本に詳しいノーマンを高く評価し、カナダの外交官だった彼を、GHQに迎えました。ノーマンは、マッカーサーの右腕となり、日本占領政策に大きな影響を与えたのです。そのため、マッカーサーは奇妙な容共政策を行っています。

 ノーマンは、マッカーサーの命を受けて、府中の刑務所から日本共産党員を釈放しました。また、彼は、「戦犯容疑者」の調査を担当した。彼の事務所には、日共の幹部たちが、日参して入り浸っていました。ノーマンは、彼らの供述を基礎に「A級戦犯」の起訴状を書いたのです。共産党員ノーマンが、東京裁判に一定の方向付けをしていたのです。

 片岡氏によると、「日共幹部は府中を出るや否や『連合軍は解放軍である』というテーゼを打ち上げている。もちろん『天皇制打倒』と背中合わせになっている。そしてGHQが背後についているとおおっぴらに吹聴して歩いた。これは、ジョージ・アチソン(国務長官の政治顧問、親中・反日派)が本国への報告で認めている。つまりGHQは黙認していたのである」という状態でした。

 

●GHQにはニューディーラーが多かった

 

 GHQには、多数のニューディーラーがいました。彼らは米国で実現できなかったリベラルな理想を、日本の占領政策で実現しようとしたのです。特にGS(民政局)には、多くのニューディーラーが集まっていました。その民政局で次長となり、辣腕を振るったのが、チャールズ・ケーディス中佐です。

 ケーディスは、GHQの官僚たちがそうだったように、ノーマンの本を「聖書」のように考えていました。共産主義者であり、スターリン=日本共産党=講座派の理論を「虎の巻」としていたノーマンの本を、です。

 ケーディスは、GHQによる日本弱体化政策の重要な実務を掌握しました。「日本国憲法」の起草においても、彼は要の一人でした。第9条は、彼が起草したものです。「日本国憲法」は、GHQが極秘のうちに1週間ほどでつくった草案がもとになっています。この草案には若干の修正が加えられましたが、その過程で、日本の社会主義者・鈴木安蔵らの意見が取り入れられました。鈴木はスターリン憲法を模範とし、戦後憲法に社会主義的な条項を入れ込もうとしました。これに同調するニューディーラーによって、日本国憲法には「勤労の義務」など社会主義色の濃い内容が盛られることになったのです。

 戦後間もない時期、GHQの経済政策は、その多くがニューディーラーによって起案されました。それはアメリカ国内から「左寄り」との批判を受けるほどに偏ったものでした。経済の集中力を排除する目的で、戦後日本を牽引すべき大企業が「民主化」の名の元に分割されました。いわゆる財閥解体です。また、公職追放においても、重要経済人をそのリストに入れていました。こうした政策は、アメリカ本国で「日本経済を破壊する」とまでいわれました。

 こうしたルーズベルトとニューディーラーによる、容共・親ソ・反日の外交は、途方もない過ちであったことが、戦後数年のうちに、明らかになりました。わずかの間に、国際情勢は激変したからです。旧連合国のアメリカとソ連は、世界を資本主義と社会主義の両陣営に二分しました。ソ連は、東欧を侵略し、また日本からも北方諸島などの領土を奪取しました。シナでは、スターリンの指示を受けた毛沢東と中国共産党による共産革命が進展しました。そして1949年10月1日、中国に共産主義の人民共和国が成立しました。同年、ソ連は核実験に成功し、本格的な東西冷戦の時代に突入することになります。

 こうした中で、日本の占領政策は大きく変化しました。GHQの内部では保守派が台頭して、ニューディーラー=リベラル派の影響力が弱まり、GS(民政局)から、反共的な軍人らが多いG2(参謀部諜報・保安担当)へと政策決定の重心が移動しました。

 

●共産主義への幻想による誤導

 

 中国革命や朝鮮戦争の激動への反作用として、1950年代のアメリカでは、マッカーシズムと呼ばれる反共運動が起こりました。国内の共産主義者への取り締まりを徹底するとともに、リベラルな学者や研究もことごとく「共産主義」というレッテルを貼られました。

 米国の「太平洋問題調査会(IPR)」は、中国革命に理解を示す学者が多かったため、激しい批判の対象となり、1961年に解散に追いこまれました。そのグループの中で、特に厳しく追及されたのが、オーエン・ラティモアでした。ソ連スパイ、ロークリン・カリーによって蒋介石の政権顧問となっていた人物です。しかし、結局、ラティモアがスパイだという証拠はあがりませんでした。

 もう一人のキーパーソン、E・H・ノーマンはどうだったでしょうか。ノーマンはGHQでの勤務を離れた後、カナダの駐日公使として、引き続き日本にあって、マッカーサーに影響を与えていました。しかし、アメリカでの「赤狩り」(レッド・パージ)は彼にも及びました。追い詰められたノーマンは、自殺します。自殺を選ぶということは、死を持って隠し通さねばならないことがあったということでしょう。

  やがて、ソ連ではスターリンの恐怖政治が批判され、中国では毛沢東による破壊と殺戮が明らかになり、共産主義の矛盾と限界が暴露されていきます

 ニューディーラーは、共産主義への幻想によって、20世紀の日米関係、さらに世界の運命を大きく誤らせたと言えましょう。特にわが国にとっては、戦前は対日戦争を遂行したルーズベルトに対して、また戦後は占領政策を強行したマッカーサーに対して、ニューディーラーが相当の影響を与えていたのです。そして、戦前の日本の進路を誤らせ、戦後の日本の運命を左右したニューディーラーの背後に、ソ連の共産主義が存在したことを、深く認識する必要があります。ページの頭へ

 

参考資料

ニューディーラーが関与した日本占領政策については、以下の拙稿をご参照下さい。

本弱体化政策の検証

 

 

11章 『日本解放綱領』の残影

 

昭和47年(1972)8月、中国共産党の秘密文書なるものが、出現しました。当時は、田中角栄内閣が成立し、マスコミが日中早期国交のキャンペーンを展開していました。三島由紀夫自決や70年安保収束の2年後のことです。
 故・西内雅(ただし)教授(当時中央学院大学、のち皇学館大学)は、北東アジア各地を旅行中に、中共による『日本解放綱領』という文書を入手したと言います。そして、国民新聞社が日本語の翻訳版を出版しました。それが、『中共が工作員に指示した「日本解放」の秘密指令』という小冊子です。
 その後も中国共産党は、極秘の対日政治工作計画を立て、30年以上にわたって、工作活動を続けているのではないか。そう思われる文書が、この『日本解放綱領』です。

 続きは、『日本解放綱領』のページをお読み下さい。

 

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