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  憲法・国防

                       

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■慰霊と靖国〜日本人を結ぶ絆

2004.12.3

 

<目次>

第1章 問題の根本

第2章 靖国神社とは何か

第3章 国家と慰霊

第4章 政治と宗教

第5章 世界の中の靖国神社

第6章 宗教観の違いを超えた大同和の精神

 

補説 いわゆる戦犯の靖国合祀は政府が主導

 

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第1章 問題の根本

 

戦没者の慰霊と靖国神社を巡る問題は、日本という国の根幹にかかわる問題である。日本人は自分の国をどういう国でありたいと考えるか。自主独立の国でありたいと考えるか否か。自ら自分の国を守ろうとする意思を持つか否か。独自の文化と歴史を持つ国として、その文化と歴史を継承・発展させていこうとするか否か。単なる個人の寄せ集めではなく、一つの共同体としてまとまった国であろうとするか否か。先祖と自分たち、そして将来を担う子孫との間に、生命と愛情の絆のある国であろうとするか否か。これらの問いに深く関係する問題なのである。

独立自尊の精神を持ち、国家主権を堅持しようとする国民は、自ら国を守ろうという意思を持つだろう。他国への依存や隷従をよしとしない国民は、そのために努力を惜しまないだろう。自国の文化や伝統を大切にし、それを継承・発展させようと考える国民は、先祖や先人に対し、感謝と尊敬を抱くだろう。自分達の子供や孫、さらに将来それに続く子供達への責任と愛情を持つ国民は、先祖や先人への愛情を持つだろう。そういう意思を持つ国民は、過去の歴史において自国を守るために命を捧げた人々に感謝と尊敬を禁じえないだろう。そして、国を挙げて、心から戦没者の慰霊を行うだろう。

逆に独立自尊の精神を失い、自ら国を守ろうという意思を持たない国民は、過去の世代の貢献に対して鈍感となり、戦没者の慰霊に無関心となるだろう。それによってますます独立心を失い、国家主権を保とうとする意志の弱い国となる。自国の文化を粗末にし、歴史を忘れ、単に自分達の世代の快楽や繁栄をのみ追い求める国民は、先祖や先人に恩義を感じることがなくなるだろう。こういう国は、諸外国の圧力によって、平時からじわじわと溶解してゆく。一旦、戦いとなれば、侵略者に対してあっけなく敗れ、占領・支配され、下手をすると滅亡にいたる。それが現在の日本という国の姿ではないか。

過去において我々の先祖や先人が国のために命を捧げたということは、自分の命を犠牲にしてまでも、国を守ろうとしたのである。自分の家族やその時代の国民のためだけではない。これから生まれてくる子孫や、将来の国民のためでもある。しかし、戦後のわが国では自分を犠牲にして国のために尽くした人々の行為が正当に評価されず、名誉も与えられていない。だとすれば、今後、国民が窮地にぶつかった時、評価されることもなく、誇りも名誉もない死とわかっていながら、誰が貴い生命を賭けて国を守ろうとするだろうか。そして、自分が命を賭けてでも守る値があると感じるのでなければ、この国の文化や精神を本気で守ろうとする人はどれほどいるだろうか。

戦没者の慰霊という問題は、過去に亡くなった人たちの慰霊という問題だけではなく、現在、そして将来に渡って、自国をどのように国を維持し、発展させていくかという問題につながるのである。

わが国では、戦後、公より私、全体より個人を尊重する考えが優勢になってきた。個人主義・利己主義が蔓延し、長年にわたり倫理道徳が低下してきた。この傾向の背後には、国のために命を捧げた人々の存在への軽視がある。

わが国は、幕末の危機を乗り越えるために明治維新を成し遂げ、近代国家を建設し、主権国家として国際社会を歩んで来る過程で、多くの人々が尊い命を国の将来のために捧げた。その人々への感謝や恩義が忘れられていることが、国民道徳の崩壊の要因となっている。国民道徳の究極の拠り所を失ないつつあるからである。

靖国神社は、こうした国事に命を捧げた人々を追悼するための施設である。それゆえ、靖国神社への正しい理解なくして、日本という国のあり方を根本的に考えることはできない。それとともに、日本人の公共心、社会道徳の再建もまた考えられない。

戦没者の慰霊と靖国神社を巡る問題とは、日本という国が、一つの共同体であろうとするか否かという問題でもある。すなわち、日本国民が共通の先祖を持ち、その先祖から受継いできた生命を共有し、独自の文化と歴史を継承してきたことを自覚し、今後とも生命と文化と歴史を共有する社会であり続けようという意思を持つか否かという問題である。

慰霊と靖国という問題は、国家、主権、道徳、生命、文化、歴史、伝統等が結集する国家・国民の重要問題である。言い換えると、日本人が互いを結ぶ絆に関わる問題なのである。ページの頭へ

 

参考資料

・本稿全体の参考として、以下の拙稿をご参照下さい。

日本の公と私

 

 

2章 靖国神社とは何か

 

(1) どういう施設か

 

靖国神社は、明治2年(1869)、明治天皇によって、現在の東京都千代田区九段に創建された。初めは「東京招魂社」と呼ばれたが、明治12年1879に靖国神社と改称された。

創設の目的は、戊辰戦争で戦没した官軍の兵士たちの霊を慰めるためであった。その後、ペリー来航から明治維新までの間、国事に奔走・殉難した志士や、明治の内戦である佐賀の乱から西南戦争で亡くなった政府軍の兵士たちや日清戦争・日露戦争から支那事変・大東亜戦争に至る戦争において日本の国を守るために亡くなった人たちも、ここに祀ることになった。

例えば、安政の大獄では吉田松陰や橋本佐内らが、その後の内戦では高杉晋作らが殉難しており、靖国神社に祀られている。また、大政奉還直後に暗殺された坂本竜馬もいる。明治2年に討たれた大村益次郎は、靖国神社の創建に功績が大きいとして境内に銅像が立てられている。

創建後、戦前戦後を通じ、国民の大多数は靖国神社を「戦没者追悼の中心的施設」であると認識してきた。これは今日においても基本的に変わっていない。

今日、靖国神社に参拝する多くの人々の目的は、国のために生命を捧げた人々に感謝と敬意を表し、その霊を慰めるためであろう。当然その中には、自分の親・兄弟や友人・親族・先祖が祀られているという人々もいる。そういう人々にとっては、とりわけかけがえのない意味のある場所となっている。

しかし、国民の多数は靖国神社に行ったことがないのではないか。そして、自ら参ったことのないままに、是非を口にしている人がかなりいるように思う。

 

(2)祀られているのはどういう人々か

 

現在、靖国神社には、246万6千人以上の人々が祀られている。この人々は神社の祭神(さいじん)であり、柱という単位で数えられる。神といっても、この場合、天地創造の神(キリスト教のGod等)とは違い、死者の霊魂のことをいう。これらの人々の霊(みたま)は、合祀(ごうし)といって、社に一緒に祀られている。宇宙神も自然神も人霊(じんれい)も「かみ」と呼び、「神」の文字を当てるのは、わが国独特の宗教観によっている。(註1

祀られている人々のうち、特に多いのは大東亜戦争の戦没者であり、現在のところ213万3千余柱である。現在も、新たに身元が判明した戦死者の遺族から合祀の依頼が続いている。

祀られているのは、軍人ばかりではない。大東亜戦争に限って言うと、戦死、戦傷死、戦病死もしくは公務殉職した軍人、軍属、およびこれに準ずる者が、合祀の原則となっている。軍属とは、軍人(武官)以外の軍に所属する文官・文官待遇者のことをいう。従軍看護婦などが含まれる。
 また軍人・軍属以外に、主婦、小中学校の児童・生徒、それに2歳にも満たない童女も、祀られている。
女性も約5万7千人含まれている。例えば、沖縄から鹿児島へ強制疎開する途中、撃沈された輸送船に乗っていた生徒達、ひめゆり部隊、終戦後、ソ連軍の侵攻を内地に通報し命を絶った樺太真岡(まおか)の女性電話交換手、ソ連軍の侵攻で虐殺された満州開拓の従事者といった人々も祀られている。

当時は日本国籍だった朝鮮人約2万1千人、台湾人約2万8千人も含まれている。民間人や外国人も祀られていることは、銘記に値しよう。

これらの人々も含まれているのは、なんらかの形で国のための任務を与えられていたか否かが、選考の際の基準となっているからである。それゆえ、米軍の空襲による犠牲者などは、基本的に含まれていない。
 東京裁判で「A級戦犯」と断罪され、処刑された者も祀られている。わが国は、昭和20年8月15日に戦闘は停止したが、昭和27年4月28日に独立を回復するまでは、引き続き国際法上の戦争状態にあった。この間、東京裁判以外にも「B・C級戦犯」の軍事裁判が国内外で行われた。この時期に連合国によって有罪・処刑された者は、公務に殉職した者と国が認めている。その基準に基づいて、彼らも合祀されている。

靖国神社に祀られている人々の86.5%は、大東亜戦争における戦没者である。それゆえ、靖国神社は戦争と結びついて考えられることが多い。しかし、本章第1節に書いたように、創建の目的は、ペリー来航以来の近代日本の歩みにおいて国のために命を捧げた人々、つまり国事殉難者を祀ることにあり、その一部として外国との戦争における戦没者も含んでいるのである。

 

(1)靖国神社の根底にある宗教観については、第6章の第1〜5節をご参照下さい。

 

(3)「靖国」という言葉

 

「靖国」という名称には「国の平和を願う」という思いが込められている。

古くは『日本書紀』の神武天皇の条に「安国」の文字が見える。「昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、此の国を目(なづ)けて曰(いわ)く、日本は浦安国(うらやすくに)、細(くはし)戈千足国(ほこちたるくに)、磯輪上秀真国(しわかみのほつまくに)」とある。「浦安国」の「うら」は心を意味し、「安国」は安らかに治まる国、泰平の国の意味である。『延喜式祝詞』の「祈念祭」には、「四方(よも)の国を安国と平らけく」とある。国の内外の平和を祈る言葉として、「安国」が使われている。

靖国神社の名称を「安国」ではなく「靖国」と表記したのは、わが国では重要な漢語は、シナの古典に典拠を求める慣習による。『春秋左氏伝』に、「吾は以て国を靖んずるなり」「以て国を靖んぜんと曰へり」とある。これが出典とされる。

このように、「靖国」という名称には、平和への願いが込められている。命名は、明治天皇によるとされる。

(4)どのように維持されているか

 

戦前、靖国神社は国の管理下にあったが、戦後は民間の宗教団体となっている。昭和20年(1945)12月15日に、GHQの「神道指令」によって、「国家神道」(State Shinto)が廃止された結果、やむなく一宗教法人となったものである。

靖国神社は、全国8万社といわれる神社を統括する神社本庁には所属していない。単立の宗教法人である。

しかし、靖国神社は、戦後も政府とまったく無関係となったのではない。占領終了後、靖国神社の合祀は、国や都道府県と靖国神社との共同作業で行われてきた。膨大な数の戦没者の調査は、一民間団体のできることではない。靖国神社に祀られる人々の選考は厚生省(現・厚生労働省)・都道府県が行い、靖国神社が祭神として合祀するかどうかを決定する。すなわち官民一体の共同作業である。ただし、靖国神社は戦後、財政的には、戦没者遺族を中心とする人々の献金によって維持されてきた。国の財政的な援助は行われていない。(註1

 

(1)国家と靖国神社のかかわりについては、第3章をご参照下さい。

 

(5)千鳥ヶ淵戦没者墓苑・護国神社との関係

 

 靖国神社とは別に、千鳥ヶ淵戦没者墓苑がある。東京都千代田区にあり、靖国神社からは徒歩5分ほどの場所である。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、国立の合葬墓地として昭和34年(1959)に建設された。ここは昭和12年に勃発した支那事変以降の戦没者を対象としている。戦没者の遺骨のうち、名前が不明だったり、あるいは名前は分かっていても遺族が不明のため引き取り手のなかったりする遺骨を収容している。

これに対し、靖国神社は、支那事変より前、明治維新以来の内戦・事変・戦争等で亡くなった人々を対象としている。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は墓であるから、遺骨が納められているが、靖国神社には遺骨は納められていない。位牌もない。戦没者の氏名が記載された霊璽簿(れいじぼ=和紙をとじたもの)が置かれているのみである。遺骨は各家族が自家の墓地に納め、位牌は主に家庭の祭壇で祀っている。

基本的な違いは以上であるが、靖国神社は遺骨を収容する場所ではないから、別に氏名・遺族不明の戦没者のための墓苑が必要である。千鳥ヶ淵に埋葬されている人々の霊も靖国神社に祀られている。それゆえ、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、どちらも必要な施設であり、また相補的である。

 一方、護国神社は全国各地にある。これは、東京招魂社を前身とする靖国神社とは別個に、各地方の藩などが創建した地方招魂社を起源とする。それゆえ、靖国神社と護国神社は、本社と分社の関係にはない。分社とは、本社以外にその分霊を分け祀った神社をいう。しかし、靖国神社と護国神社は、ともに国事殉難者の霊を祀っており、靖国神社は全国、護国神社は主としてその地域を対象としている。祭神を一部同じくするので、互いに提携しながら、慰霊・顕彰のための活動を行っている。

 

(6)祭神以外の霊のための施設と儀式

 

靖国神社には、幕末から明治初期に、「朝敵」「逆賊」の立場だった日本人の霊は祀られていない。戊辰戦争の幕府側の戦死者、西南戦争の西郷軍の戦死者等の霊は祀られていない。

明治維新における最大の功労者の一人、西郷隆盛は、西南戦争の指導者となったため、「明治の逆賊」といわれた。死後、明治天皇の思し召しにより、正三位を追贈され、その功績を称えられた。しかし、西郷の霊は、靖国神社には祀られていない。創設の目的が、ペリー来航から明治維新までの間、国事に奔走・殉難した志士や、国の命令によって国事のために命を捧げた人々の慰霊にあるので、西郷は対象にならないのである。西郷と西郷軍の霊は、鹿児島の南州神社に祀られている。墓もその地にある。

では、靖国神社は祭神の選考において差別をし、他の霊を無視しているのかというとそうとはいえない。靖国神社には、祭神以外を対象とした鎮霊社という社がある。昭和40年7月に創建された。ここに、靖国神社に合祀されていない死者の霊と、国籍を問わず、万国の戦死者あるいは戦禍犠牲者の霊が祀られている。本殿に向かって左側回廊の外側にある小さな社である。祭神には霊璽簿があるが、鎮霊社には、そういうものはなく、対象が特定されていない。

靖国神社の本殿では毎朝、御饌祭(みけさい)が行われるが、鎮霊社にも本殿とともにお供えがされる。また、鎮霊社では、毎年7月13日に祭事が行われている。この件は、本稿の最後となる第6章第9節で再び触れることにする。

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第3章 国家と慰霊

 

(1)外国における戦没者への表敬と慰霊

 

戦死した将兵らの慰霊・顕彰は、万国共通にみられる普遍的儀礼である。どこの国でも、祖国を守るために命を捧げた人々に敬意を表する場所がある。アメリカのアーリントン国立墓地、イギリスのウェストミンスター寺院、台湾の忠烈祠、韓国の国立墓地、インドネシアのカリバタ英雄墓地等、形は様々であるが、国民の魂のより所ともいうべき場所になっている。

慰霊の方法は、その国の宗教的伝統に基づいて行われている。その国家・民族の伝統にかかわる宗教儀式は、信教の自由を原則としている諸国でも、他の宗派とは違う扱いを受けている。それなしには、公的儀礼である慰霊や追悼はありえないからである。

例えば、アメリカのアーリントン国立墓地には、「無名戦士の墓」があり、その前で年3回、大統領が参加して、ユダヤ・キリスト教式の戦没者追悼式を行っている。戦没者の中に、ユダヤ・キリスト教以外の信者が含まれていても、国家による公的行事として行われる。これが信教の自由を侵すとは考えられていない。ヒンズー教徒やイスラム教徒も、国家の行事として受け入れている。アメリカ国民として当然だからである。

わが国においても、万国共通の儀礼である戦没者の慰霊が、国家による公的行事として行われるべきであり、またそれはわが国独自の宗教的伝統に則って行うことが適当である。

 

(2)近代国家の精神的基盤

 

近代国家において、戦没者の慰霊や鎮魂ということに何の意味があるのだろう。実は、国家の建設や民族独立戦争の過程で国のために命を捧げた人に、感謝と尊敬を表わすことは、近代国家としての国家の存立、民族の自覚にかかわる大切な行為なのである。

戦後のわが国は、アメリカ民主主義の影響を強く受けてきた。リンカーン大統領の「人民の人民による人民のための政治」という言葉は、わが国の民主主義の目標ともされてきた。戦後教育では、この有名な部分しか教えないが、リンカーンは「人民の人民による人民のための政治」の前提として、三つのことを強調している。

 

 一、戦死者が最後の全力をつくして身命を捧げた偉大な主義に対し、一層の献身をするため

 ニ、戦死者の死を無駄に終らしめないように我々がここで堅く決心するため

 三、国家をして神のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるため

 

これは、南北戦争後に、リンカーン大統領がゲティスバークで行った演説の内容である。南北戦争は、アメリカ国民が二つに分かれて戦った市民戦争だった。リンカーンは、この痛ましい戦争の後、アメリカ国家再生の原理を「戦死者が身命を捧げた偉大な主義」に見出し、「神のもとに」自由の国を建設することを呼びかけた。このことは、アメリカという国家が、神への信仰と戦没者への祈りのうえに建設された国であることを示すものだろう。

 南北戦争は、わが国の明治維新における戊辰戦争と比較される内戦である。時期もまた相前後している。わが国においては、戊辰戦争の最中に、戦死者の招魂・慰霊が構想され、それが靖国神社に具現化した。アメリカにおいて、国のために命を捧げた人々に対する儀礼が大切にされ、自国の宗教的伝統に基づいて行われているように、わが国においても、国家の建設・発展の過程で国事に殉難した人々の鎮魂を行い、それを自国の伝統に即した形で行うことは、近代国家としてふさわしいことである。

 

(3)敗戦による靖国神社焼却の危機

 

戦前のわが国において、靖国神社は、国事殉難者の慰霊の中心施設として、国民の崇敬を集めてきた。(註1) また、多くの国々の要人が、靖国神社に参拝し、表敬を行ってきた。(註2) そうした靖国神社に、敗戦後、存亡の危機が襲った。日本を占領した勝者アメリカは日本への復讐心に燃えていた。アメリカ人は日本国民の団結の強さは神道に基づいており、中でも靖国神社が重要な役割を果たしていると考えた。GHQの内部では、靖国神社を「焼却すべし」という意見が優勢だった。跡地はドッグ・レース場にするという案もあったという。最終的判断は、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥に任された。マッカーサーは決断を下すにあたり、キリスト教会の意見を聞くこととし、当時、駐日ローマ法王庁代表・バチカン公使代理であったブルーノ・ビッテル神父に、教皇使節団としての統一見解を出すよう要望した。昭和20年(1945)10月のことである。ビッテル神父は、要旨以下のように答申したという。

「自然の法に基づいて考えると、いかなる国家も、その国家のために死んだ人々に対して、敬意を払う権利と義務があるといえる。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。無名戦士の墓(註 アーリントン国立墓地)を想起すれば、以上のことは自然に理解出来るはずである。もし靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろう。歴史はそのような行為を理解しないに違いない。はっきりいって、靖国神社を焼却する事は、米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。

靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根元であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを、進言するものである」(註3

 この勧告により、マッカーサーは靖国神社の焼却をやめた。昭和20年11月20日には臨時大招魂祭が行われ、昭和天皇が行幸された。靖国神社の存続が公認されたわけである。

靖国神社は存亡の危機を避けられたが、GHQは同年12月15日に、「神道指令」を出した。これは、勝者が他国の宗教に干渉を行うという異例の命令だった。「神道指令」によって「国家神道」(State Shinto)が廃止させられた。日本人自身の意思ではない。この時、特に標的とされたのが、靖国神社だった。焼却まではしないが、制約を課しておくというわけだ。靖国神社は、存続のためには一宗教法人とならざるを得なかった。銃砲の下で選択の余地はなかった。こうして外国の占領軍によって、わが国の戦没者慰霊の伝統は損なわれた。

 

(1)この崇敬の強さについては、第6章第3節をご参照下さい。

(2)詳しくは、第5章第1節をご参照下さい。

(3)木山正義著『靖国神社とブルーノ・ビッター神父』(社報『靖国』昭和56年7月号所収)

 

(4)戦死者の慰霊を国家が行う必要性

 

戦後、GHQの占領政策すなわち日本弱体化政策(1)によって、わが国における戦没者慰霊のあり方は、強制的な制約を受けることになった。しかし、靖国神社に合祀されている人々の多くは、国家の命令によって危険な任務に従事し、殉職した人々である。戦死者と一般の戦没者との違いは、前者に命令への拒否権がないことであり、諸外国でも両者は厳然と区別される。それゆえ、国家には戦死者を慰霊する責任と義務がある。

靖国神社における慰霊は戦死した将兵らに対する国の約束であった。国の命令によって生命を捧げた人々に対し、死後、慰霊をしないということは、無責任である。特に、多くの戦没者は死後、靖国神社に祀られると信じて亡くなっていった。多くの将兵が近親者および戦友たちに「靖国で会おう」と言い残して散華していった。その人々の思いに応えることが、生き残った国民の当為となる。

 

(1)日本弱体化政策については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本弱体化政策の検証

 

(5)皇室は靖国神社を重視

 

靖国神社は、幕末から維新にかけての激動の時期に、国事のために殉難した人々の霊を慰めるために創建された。明治維新は大政奉還・王政復古によって、皇室を中心とした近代国家をつくる改革だった。皇室はわが国の政治的・文化的・精神的中心として、その存在を新たにした。それゆえ、皇室は明治維新とそれに続く近代国家建設の過程で、国に命を捧げた人々の慰霊をねんごろにしてきた。

天皇・皇后は度々、靖国神社に参拝されてきた。明治時代に11回、大正時代に5回、昭和時代には54回の行幸啓(ぎょうこうけい=天皇・皇后のお出かけ)がされた。

戦前戦後を通じて、靖国神社の春秋の例大祭では、皇室の勅使(天皇の使者)が差し遣わされ、「奉幣」が行われてきた。皇室の幣帛(へいはく=神に供える物)を、伊勢神宮と靖国神社に奉(たてまつ)る伝統は、現在に至るまで変更されていない。(註1

敗戦後、昭和天皇は昭和20年11月20日に、初めて靖国神社に参拝された。(ご親拝と呼ぶ) それ以来、30年間ご参拝が続けられていた。しかし、昭和50年(1975)秋の例大祭に昭和天皇が参拝されて以来、ご親拝は途絶えている。同年8月15日、三木武夫首相が私人としての参拝を表明したため、憲法問題として公式か私的かの論議が紛糾した。このことが影響していることは明らかである。(註2

今上天皇(きんじょう・てんのう=現在の天皇)は皇太子時代には5回、参拝された。しかし、天皇に即位されてからは、ご親拝は行われていない。つまり、平成になって一度も天皇は参拝されていない。

死後、靖国神社に祀られると信じて亡くなっていった戦没者は、天皇が参拝されると信じ、そこに栄誉を感じていた。それゆえ、昭和50年以降、天皇のご参拝がないという日本の現状は、その期待を裏切るものとなっている。

これは天皇の責任ではなく、政治の責任である。

 

明治天皇に以下の御製がある。

 

 よとともに 語りつたえよ 国のため

          命をすてし 人のいさをを

(大意=国のために生命を捧げた人たちの功績を、いつの世までも語り伝えて

いって欲しい)(明治37年)

 

また、昭和天皇に以下の御製がある。

 

 忘れめや 戦(いくさ)の庭に たふれしは

          暮しささへし をのこなりしを

 (大意=忘れることができようか。戦場で亡くなったのは、みな家庭のくらしを

支えていた男たちだったことを)(昭和37年)

 

 これらの言の葉にこめた天皇方の思いを、一人一人が受け止めるべきだろう。

 

(1)天皇が靖国神社に参拝される意味については、第6章第4節をご参照下さい。

(2)詳しくは本章第7節をご参照下さい。

 

(6)戦後の歴代首相は参拝していた

 

靖国神社に合祀されている人々の多くは、国家の命令によって命を捧げた人々であり、国家には戦死者を慰霊する責任と義務がある。そして、慰霊が国家の行事として行われるものであれば、その行事に国家の代表である内閣総理大臣が、その資格において参拝するのは、当然である。また、閣僚の参拝も公務員としての義務であり、大臣という公的な立場による参拝が行われなければならない。

戦後、首相による靖国神社参拝は、続けられてきた。終戦まもない昭和20年8月18日に、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこ・おう)が参拝したのを初めとして、昭和60年8月15日に中曽根康弘首相が公式参拝するまで、12人の歴代総理大臣が参拝している。ところがそれ以後、首相の参拝が途絶え、平成8年7月29日に橋本龍太郎首相が参拝したのを除き、平成13年8月13日に小泉純一郎首相が参拝するまで、実質16年間参拝がされていなかった。

昭和20年終戦後から平成16年までの参拝回数は、60回である。以下にその詳細を示す。

 

      昭和20年(1945) 東久邇宮稔彦王(1回)、幣原喜重郎(2回)

      昭和26年(1951)〜昭和29年(1954) 吉田茂(5回)

  ※占領下でも吉田首相は堂々と参拝した

  昭和32年(1957)〜昭和33年(1958) 岸信介(2回)

      昭和35年(1960)〜昭和38年(1963) 池田勇人(5回)

      昭和40年(1965)〜昭和47年(1972) 佐藤栄作(11回)

      昭和47年(1972)〜昭和49年(1974) 田中角栄(6回)

    ※吉田首相から田中首相にかけては、主として春秋の例祭に参拝した

      昭和50年(1975)〜昭和51年(1976) 三木武夫(3回)

※三木首相は、私人としての参拝を表明したため、政治問題化した

   昭和52年(1977)〜昭和53年(1978) 福田赳夫(4回)

      昭和54年(1979)〜昭和55年(1980) 大平正芳(3回)

※いわゆる「A級戦犯」合祀の後も大平首相は参拝を続けた

      昭和55年(1980)〜昭和57年(1982) 鈴木善幸(8回)

      昭和58年(1983)〜昭和60年(1985) 中曽根康弘(10回)

※中曽根首相は、公式参拝を明瞭化したが、中国から批判を受けると、参拝を

取りやめてしまった

      平成8年(1996)           橋本龍太郎(1回)

※橋本首相は参拝したが、その日は自身の誕生日だった(公私不明)

   平成13年(2001)〜平成16(2004) 小泉純一郎(3回)

※小泉首相は平成13年に中曽根以来絶えていた公式参拝を復活させたが、公約に反し、8月15日ではなく13日に参拝した。

 

(7)首相参拝の中断と復活の経緯

 

戦後の歴代首相のうち、昭和20年の東久邇宮稔彦王から昭和49年の田中角栄首相まではすべて、首相としての公式参拝だった。この四半世紀の間は、内外ともに何ら問題とされなかった。

昭和50年、三木武夫首相は私的参拝を表明した。首相としてではなく、東京都渋谷区南平台に住む一私人としてであるといい、公用車も使わなかった。そのため、首相の参拝が憲法問題となり、公式か私的かの論議が紛糾した。以後、福田・大平・鈴木の各首相は、この点をあいまいにして参拝を続けた。

本件に決着をつけようと考えた中曽根康弘首相は、有識者による「閣僚の靖国神社の参拝問題に関する懇談会」(靖国懇談会)を設けた。靖国懇談会は、首相の参拝は「合憲」との見解を答申した。中曽根首相はこの見解を受けて、昭和60年8月15日、首相としての資格で参拝した。三木首相以来10年間途絶えていた公式参拝だった。ただし、中曽根首相は、答申の勧めを入れ、できるだけ神道色を排した参拝を行おうとした。手水(てみず)をせず、お祓いを受けず、本殿に参らず、正式の二拝二拍手をせずに一礼のみとする等の仕方だった。祭神に対しては、非礼である。

ところが、同年9月20日、中国外務省が抗議した。靖国神社には「A級戦犯」が合祀されており、首相の参拝は「我が国人民の感情を傷つけた」というのである。「A級戦犯」とされた日本人の合祀は昭和53年に済んでおり、以後まったく問題になっていなかった。突如として中国の批判を受けた中曽根首相は、以後の参拝を取りやめてしまった。取りやめの理由は、中国政府内部の権力闘争に配慮したという。自国の戦没者の慰霊という重要な内政問題を、外国の内部事情に配慮して決めるというのは、愚かであリ、独立国の首相としては失格である。

中曽根首相以後、竹下・宇野・海部・宮澤・細川・羽田・村山各首相は、中曽根氏にならって参拝しなかった。中曽根氏は退任後、靖国神社に代わる慰霊施設の必要性を述べたり、「A級戦犯」の分祀を働きかけたりするなどして、政界・世論を誤導している。この戦後屈指の政治家の大きな汚点である。彼の意を体していたのが、後藤田正晴元官房長官・金丸信元自民党副総裁らであり、野中広務元官房長官も同様の考えを明らかにしている。

中曽根首相後、平成8年7月27日、橋本龍太郎首相が11年ぶりに靖国神社に参拝した。再び中国の抗議を受けると、彼は秋の参拝を中止した。橋本氏は、「外からの圧力と必死に戦っている際、党(自民党)の執行部から積極的な支援がなかった」と弁解している。しかし、橋本氏が参拝したのは例祭でも終戦の日でもない。自分の誕生日だった。一国の首相としての見識が疑われる。それ以後、小渕・森首相は参拝せず、小泉首相に至った。

小泉首相は就任前に、8月15日に必ず参拝すると公言した。しかし、中韓の外圧と首相周辺の反対に合い、13日に前倒しして参拝した。この公約違反は国民多数の不信をかった。(註1

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(1)首相の靖国参拝については、第4章第3〜4節をご参照下さい。

 

 

第4章 政治と宗教

 

(1)わが国における政教分離とは

 

戦没者の慰霊と靖国神社を巡る問題は、しばしば政治と宗教の問題として論じられる。そこで自明のことのように語られるのが、政教分離である。憲法にそういう言葉使われているのではない。日本国憲法で、国家と宗教の関係を定めているのは、第20条と第89条である。

 

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 

これらの条文の規定を併せて、一般に政教分離規定という。政教分離とは、第20条の冒頭に明らかなように、信教の自由の保障を目的とする制度である。その手段として、国家と宗教団体との過度の関わりを排するものである。現行憲法に定める政教分離とは、国家と宗教の分離ではない。つまり、国家と宗教を厳密に分離して国家が宗教と一切の関係を持たないということを定めているのではない。国家が特定の宗教団体に対して援助・助長、又は圧迫してはならないということを定めたものである。この点は、日本国憲法の制定にあたったGHQの当事者が、政教分離規定は国家と宗教の分離(Separation between State and Religion)ではなく、国家と宗教団体の分離(Separation between Church and State)であると明言している。また、ここにいう国家とはStateつまり政府であり、Nationつまり共同体としての国民国家ではない。つまり、現行憲法の規定の趣旨は、政府(State)と宗教団体(Church)の分離であって、国民国家(Nation)と宗教(Religion)の分離ではない。(註1

現に第20条1項は、宗教団体について、国から特権を受けたり、政治上の権力を行使したりしてはならないとしている。また第89条も、宗教団体への助成禁止条項である。つまり、日本国憲法は、政府と宗教団体の分離を謳っているのであって、条文を素直に読めば、国家から宗教を完全に排除するという発想は出てこない。

ところが、ここで異説を唱えているのが、憲法学者・宮沢俊義教授である。宮沢は、わが国の憲法解釈に多大な影響を与えている進歩的文化人の一人である。宮沢の著書『日本国憲法「コメンタール」』は、政教分離についてフランスをモデルにしている。フランスは憲法(第5共和制憲法)に自国を「非宗教的」な共和国であると規定し、政教分離法(1905年)により厳格な政教分離をとってきた。宮沢は日本国憲法の政教分離規定もフランスと同じに解釈していいと、唐突に厳格分離説を主張した。彼の影響を受けた学者や法律家は厳格分離説を取っている。

しかし、もし厳密に政教分離を適用するなら、多くの面に混乱を生じる。例えば宗教法人が経営する学校や、特定の宗教を信奉する私立学校には、政府からの補助が禁止されることになり、経営が困難になる。また、国宝や重要文化財に指定されている神社や仏閣等の宗教的文化財への補助金も支出出来なくなる。それゆえ、宮沢説は、歴史や伝統に基づくわが国の現実を無視した観念論に過ぎない。

司法においては、最高裁が昭和52年7月の津地鎮祭訴訟で、三重県津市が市立体育館の起工に当たり、神道式地鎮祭を行ったことに関する訴訟において、市が神職への謝礼と供物料を公金から支出したことを合憲とした。その際、判決の中で、次のような判断基準を示した。すなわち、目的が宗教的な意義をもち、その効果が特定の宗教を援助、または他の宗教を圧迫するような場合でない限り、憲法に違反しないという、いわゆる「目的効果基準」である。

この規準は、仮に憲法が国家と宗教の完全な分離を理想としていたとしても、現実の国家制度としては、自国の社会的・文化的諸条件に照らして、国家と宗教とのある程度のかかわり合いは認めざるを得ないという判断に基づくものである。

「目的効果基準」は、わが国の現実を踏まえて、国家と宗教との関わりを一定限度容認する緩やかな分離主義に則っている。これを限定分離説という。宮沢らによる厳格分離説を退けるものである。その後、国や地方自治体と宗教との関係をめぐる各地の玉串料訴訟、忠魂碑訴訟などで、この法理論が踏襲されている。これは国民の常識に合致するものである。

どこの国でも、宗教的な伝統があり、それを尊重している。尊重していないのは、宗教を否定・敵視する唯物論的共産主義の国だけであろう。わが国には、わが国の宗教的伝統があり、それに基づいて国家と宗教の関係を定めればよい。日本国憲法も、国家と宗教の関係を完全に断ち切るものではない。むしろ国民の多くは家族の葬儀や先祖の慰霊において、神道や仏教の伝統に則っており、葬儀や慰霊を国家行事として行う際、神道や仏教の伝統に則って行うことは、多くの国民感情にかなっている。靖国神社の儀式についても当然、日本固有の宗教性を保持して良いのである。

国家と宗教の厳格分離説は、西洋近代の思想である合理主義によって、わが国の伝統・慣習・文化・歴史・道徳を否定するものである。それはかえって、特定の思想によって、信教の自由を抑圧するものである。厳格分離説は極端化すると、唯物論的共産主義による宗教の否定に行き着く。厳格分離を説く論者には、容共的な近代化主義者や左翼とそのシンパが多いことに注意すべきだろう。

 

(1)ここで「宗教団体」を Churchということについては、次の(2)を参照のこと。

 

(2)近代国家の政教関係は様々

 

政教関係について、他国の例を見てみよう。

政教分離の国の代表とされるのは、先ほど触れたフランスの他は、アメリカと日本のみとされる。しかし、厳格分離制を採ってきたのは、フランスのみである。フランスは伝統的にカトリック教会の力が強く、これへの反発として急進的な啓蒙主義による市民革命(フランス革命)が起こったという歴史がある。20世紀に入ると、政教分離法(1905年)により完全分離政策を採ったが、第1次大戦後には、カトリック教会と和解し、宗教協約を結んで友好的な協調分離に変わっている。

アメリカは、イギリスから独立した。その独立当時の宗教的事情を考慮し、緩やかな分離とする限定分離をとっている。国家行事では、しばしばユダヤ・キリスト教の儀式が行われる。大統領の宣誓においては、大統領が聖職者の介添えを得て、聖書に左手を載せて宣誓する。どの教会(Church)の聖職者を採用するかは大統領の選択によるが、宣誓において宗教(Religion)は不可欠の要素となっている。また、アーリントン国立墓地には、「無名戦士の墓」があり、その前で年3回、大統領が参加して、ユダヤ・キリスト教式の戦没者追悼式を行う。このようにアメリカでは、国家は宗教(religion)は不可分の関係を持つ。ただし、特定の教会つまりキリスト教の特定の教派(プロテスタント諸派、ローマ・カトリック等)とは関係を持たないようにし、複数の教派の教会(churches)と緩やかな関係をもつ形をとっている。

このように政教分離といっても、かなり幅がある。

そもそも近代国家はヨーロッパで発生したわけだが、そのヨーロッパですら厳格分離制を取ってきたのは、フランス一国のみである。それ以外の欧州諸国では、国家と宗教はかなり深い関係をもっている。

近代民主主義は、イギリスに発祥した。そのイギリスでは、イングランドは英国国教会、スコットランドは長老派教会を国教と定め、そのうえで他の宗教に寛容な態度を示している。デンマーク・フィンランドはルター派教会を国教としている。他にも似たような例がある。憲法で国教制は禁じながら、特定の教会には特権を付与して国が保護するという宗教公認制度を取っている国もある。ドイツ、イタリア、スペインなどがそうである。いずれもカトリック教会と宗教協約(コンコルダート)を結び、国家と教会が分離・独立した上で友好的な協力関係を維持している。

ドイツには、新旧両キリスト教諸派を基盤としたキリスト教民主同盟(CDU)がある。イタリアには、カソリック政党であるキリスト教民主党(PDC)がある。こうした宗教政党が国家権力を担うことは、これらの国では憲法上問題がない。実際、CDUもPDCも長く政権政党として活躍してきた。

このように諸外国の例を見ると、本章第1節で触れた宮沢氏の説が、いかに極端な説かがわかるだろう。

仮に戦前のわが国が神道を特別に位置づけていたとしても、それをもって反近代的とか非民主的とはいえない。イギリスやドイツ並みということだろう。また、仮に現在のわが国において、国家と神道または仏教のいくつかの宗派とが緩やかな関係をもったとしても、それはアメリカ並みということになろう。

それゆえ、わが国はわが国の文化・伝統に基づいて、国家と宗教の関係を定めればよいのである。現行憲法は、占領下にGHQによって押し付けられた憲法であり、日本の歴史を断ち切り、伝統を破壊するためにつくられたものである。そのことを認識し、日本人自らの手で、新しい憲法をつくり、その中で、わが国に合った政教関係を定めればよいのである。

 

(3)首相の靖国参拝は合憲である

 

 政教関係というものは、その国の文化・伝統に基づくべきものということを踏まえて、靖国神社について考えてみよう。

靖国神社はその由来・歴史・現状からいって、我が国における特別な慰霊施設であり、そのように扱われるべきものである。首相は政府の代表として靖国神社に参拝すべき立場にある。このことは現行憲法に照らしても、問題ない。

本章第1節にも書いたが、最高裁は昭和52年7月の津地鎮祭訴訟の判決で、目的が宗教的な意義をもち、その効果が特定の宗教を援助、または他の宗教を圧迫するような場合でない限り、憲法に違反しないという「目的効果基準」を示した。その後、国や地方自治体と宗教との関係をめぐる各地の玉串料訴訟、忠魂碑訴訟などで、この法理論が踏襲されてきた。それゆえ、首相の靖国参拝の合憲性は明らかである。小泉首相の靖国参拝は、多くの遺族・国民が靖国神社を戦没者慰霊の中心施設と考えている社会的事実に基づくものであり、特定の宗教団体を支援する目的ではない。また浄土真宗やキリスト教プロテスタント諸派等を圧迫するものでもない。

政府は、昭和60年中曽根首相の時代に、三木首相の私的参拝以降、「憲法上疑義がある」としていた見解を改め、「公式参拝は合憲」とする見解を打ち出している。昭和60年8月の中曽根首相の靖国神社公式参拝に関しても、大阪地裁、福岡地裁などにおいて、公式参拝を違憲とする原告側の訴えは退けられた。公式参拝を合憲とする答弁は、旧社会党党首による村山内閣ですら認めている。首相の靖国神社参拝を合憲とする判断は、既に定着していたのである。

ところが、平成9年4月2日、愛媛県が靖国神社・護国神社に玉串料を公費から支出したことについて争われた「愛媛玉串料訴訟」の上告審で、最高裁大法廷は「たとえ戦没者遺族の慰藉が目的であっても県知事が靖国神社などに玉串料を公費から支出したことは憲法が禁止した宗教活動にあたり、違憲である」という判決を下した。最高裁の判事15人のうち13人が違憲と判断した。さらに判決文は、靖国神社を特別扱いすることに疑問を呈し、国家としては別の戦没者追悼のあり方を模索すべきだと問題提起している。

これは戦前・戦中はもちろん戦後も靖国神社が国家の戦没追悼の中心施設であり続けている現実を無視したものである。日本大学の百地章教授は、以下のように反論している。

明治2年に、国事に斃れた戦没者を祀るため、靖国神社の前身である東京招魂社がつくられた。明治12年に靖国神社と改称して、以後、現実に国家の慰霊施設として戦没者が祀られてきた。戦後も、靖国神社に誰を祀るかということには厚生省がかかわってきた。また、地方自治体も遺族に対する慰藉を理由に、靖国神社参拝のための旅費を支援したり、護国神社への玉串料を公費から支出したりしてきた。外国要人の参拝も明治20年代から戦後の今日までずっと続けられている。外国の元首や軍人あるいは大使、公使が訪日したり着任したりする際には、靖国神社に多く参拝しており、諸外国も靖国神社を公的な戦没者慰霊の中心的施設として評価している。(1) つまり、たとえ宗教的性格を帯びていようとも、靖国神社は我が国における公の戦没者追悼の施設として内外に認められてきたのであって、その現実に即して国や地方自治体が相応の関与をすることは合憲であると、百地教授は反論している。

百地教授の主張のとおり、靖国神社はその由来・歴史・現状からいって、我が国における特別な慰霊施設であり、そのように扱われるべきものである。仮に憲法に上記のような解釈の余地があるとすれば、それは憲法の条文の方に問題があるのである。憲法とは国家・国民のためのものであって、憲法のための国家・国民ではない。憲法には、自国の歴史・伝統・文化を踏まえ、それを明記すべきものである。その中に、国家のために命を捧げた人々への慰霊や追悼について具体的に規定することも可能である。

 

(1)外国人による靖国参拝については、5章第1〜2節をご参照下さい。

 

(4)小泉靖国参拝違憲訴訟の課題

 

平成13年8月13日、小泉首相は靖国神社に参拝した。すると、これに反対する人たちが、6つの地方自治体で、8つの訴訟を起こした。この小泉首相の靖国神社参拝を違憲だと訴えたのである。この訴訟を、簡単に小泉靖国訴訟と呼ぶことにする。

原告の代表は、浄土真宗の僧侶や、プロテスタントの牧師がほとんどである。また、原告団には、左翼の市民運動家や在日コリア人が多数含まれており、思想的・政治的な性格が強い。

首相の靖国参拝は、憲法の政教分離規定に何ら反するものではない。戦死した将兵らの慰霊・顕彰は、万国共通にみられる普遍的儀礼である。祖霊や死霊の祭祀は「お盆」などにみられるように我が国古来の宗教的伝統に基づく儀礼である。政教分離が、国家と宗教団体との過度の関わりを排し、信教の自由の保障を目的とする制度であることに照らしても、万国共通の儀礼である戦没者の慰霊をわが国独自の宗教的伝統に則って行うことまで排斥するものではないことは明らかである。また、靖国神社における慰霊は、国家の命令によって国に命を捧げた将兵らに対する国の約束であった。多くの将兵が近親者および戦友たちに「靖国で会おう」と言い残して散華していった。政府を代表する首相が、靖国神社に参拝し、「英霊」に感謝と敬意を捧げて慰霊することは、その約束の履行である。これは、人道上の義務であり、当然の責務である。

実際、国民の多数が、靖国神社はわが国の戦没者追悼の中心的施設であると認めている。だからこそ、政府見解は首相の靖国参拝を合憲としてきた。小泉靖国訴訟において、政府は当然、首相の靖国参拝は公式参拝であって合憲であるという根拠を示して、堂々と争わなければならない。ところが、この訴訟で、国側は、「参拝は内閣総理大臣の職務として行われたものではない」と「私的参拝」を主張している。これは、首相の参拝は公式参拝ではないと主張するのと同じであり、従来の政府見解を曲げるものである。戦没者の慰霊は国家の義務である。だからこそ国民の代表である総理大臣がその立場において参拝し、戦没者に対し、感謝と敬意を表すのでなければならない。小泉首相自身、参拝の記帳に「内閣総理大臣 小泉純一郎」と署名している。私的参拝などというのは詭弁である。

小泉靖国訴訟において、これまでの判決は、平成16年2月の大阪地裁、4月の福岡地裁、11月の千葉地裁が「公的参拝」と判断した。千葉地裁判決は、小泉首相が自身の参拝について「『私人』であると発言したことはなく、記帳や献花にあえて『内閣総理大臣』の肩書を記載した」、「客観的に職務行為の外形を備えた、国家賠償法の職務行為に該当するもの」としている。逆に5月の大阪地裁(2月とは別の訴訟)は「私的参拝」と指摘した。3月の松山地裁は参拝の性格について判断を避けた。地裁のレベルでは、見解が分かれている。

憲法解釈については、同年2月と5月の大阪地裁、3月の松山地裁、11月の千葉地裁の判決は、憲法判断に踏み込んでいない。だが、4月の福岡地裁判決は、原告の請求を棄却したものの、判決理由の中に「参拝は憲法で禁止された宗教的活動にあたる」との文章を盛り込んでいる。今後、敗訴した原告があくまで争うという場合は、最高裁で憲法判断がされる可能性がある。そのことも視野に入れて、国側は、首相の公式参拝の合憲性を理論的に明確に打ち出す準備をすべきだろう。ところが、国側にはそういう積極的な姿勢が見られない。「私的参拝」だという主張には、憲法判断を避けようという姿勢がうかがわれる。

小泉靖国訴訟において、もう一つ重大な問題は、国が訴えられたことの基礎的事実に関して、国側の代理人は一切反論していないことである。原告側の証言に対して、国側は一切反対尋問をしていない。裁判では、たとえ虚偽の事実であっても、反論しないことは、争わないとして、事実と認定されてしまう。国側は、戦術を改めるべきである。

大阪靖国訴訟では、原告らは訴状において、靖国神社を、国民を戦闘に駆り立てる「軍事施設」であり、「血ぬられた天皇の祭殿である」などと述べ、戦没者を「英霊」として慰霊・顕彰することが、憲法の「個人の尊厳」原理に反するかのように批判し、靖国神社と「英霊」に対して侮辱的な言葉を投げつけている。そこには、国のために命を捧げた人々に対する一片の感謝も敬意もみられない。原告の主張は、裁判という場を利用した政治的信条の宣伝であり、靖国神社と「英霊」に対する冒涜にほかならない。

こうした暴論に対し、国側は明確に反論し、司法の判断を仰ぐべきである。ところが、小泉首相並びに政府には、真剣に戦おうという姿勢が見られない。当面の裁判をしのぎ、外国の批判をかわせればそれでいいというような姑息な仕方では、後顧に憂いを残す。

政府は、戦没者の慰霊と靖国神社の関係について、早急に法理論を構成し、首相の靖国神社参拝は公式参拝であり合憲であるということを主張し、確固とした判決を勝ち取るべきである。これは、わが国の伝統・国柄を守る重要な戦いなのである。

万が一敗れた場合はどうするか。恐れることはない。国民の良識をもって、憲法を改正すればよいのである。

 

(5)国家が護持すべき理由

 

靖国神社について、「戦前は戦没者慰霊の中心的施設だったが、戦後は単なる一神社、一宗教法人になったので、特別扱いする必要はない」という考え方がある。しかし、靖国神社には、本来、国家が護持すべき正当性がある。このことは、これまでの節に書いたことから導き出されることである。

戦後長い間、靖国神社を国家が護持すべきという運動が続けられた。占領終了後、戦没者の靖国神社への合祀は官民一体の作業によって進められた。しかし、遺族の間には、根強い不満が残った。戦没者は国の命令に従って国のために死んだ公的な死者であるのに、それを祀る靖国神社は民間の一宗教法人という地位にとどまっているからである。そもそも靖国神社がやむをえず一宗教法人となったのは、いわゆる国家神道、特に靖国神社を標的にしたGHQの占領政策によるものである。日本人自身の自主的な考えではない。

そこで、独立回復後、靖国神社に本来の公的性格を回復すべきだという議論が起こった。これが靖国神社国家護持運動である。この運動は昭和40年代には一段と活発になった。昭和45年(1970)には、わずか数ヶ月で2000万人にも及ぶ国家護持要求の署名が集まった。国会では、自民党が中心となって靖国神社国家護持法案が6回も提出された。しかし、自民党自体がもう一つ法案成立に熱心ではなく、しばしば野党との交渉の道具にされた。結局、同法案は廃案となり、運動は挫折した。

その後、昭和50年に三木首相が私人としての参拝を主張したのがきっかけで、憲法論議がされるようになった。昭和60年にはせっかく公式参拝という政府見解を出したのだが、周辺諸国から首相の靖国参拝に批判を受けるようになると、首相が参拝をやめ、国家と靖国神社の関係について否定的な意見が増えてきた。事の本質が見失われがちになった

しかし、靖国神社が国のために命を捧げた人々を慰霊する施設として、明治以来存続してきたことを考えれば、本来、国家が護持すべき施設なのである。仮に現状では宗教的には難しい点があるとしても、靖国神社の持つ公共的な性格は、慰霊という宗教的な要素だけにとどまらない。神道家の葦津珍彦(あしづ・うずひこ 註1)は、靖国神社には国民道徳的な要素があると主張している。靖国神社に祀られている戦没者の霊は、国のためにかけがえのない尊い命を捧げた人々であり、国民の道徳的崇敬の対象である。靖国神社は国民道徳の一つの規範という点からも、国家護持の施設となり得るというのである。(2)

この説によれば、靖国神社は、公共心や社会貢献の大切さを国民に想起させる教育的施設という性格を持つことになる。国は、この国民道徳的崇敬の側面に対して財政的援助を行うことがされてよい。それは神社仏閣に文化財保護のために公金が支出され、宗教団体設立の私学にも国庫から研究助成がされるのと同じ性格の援助となるからである。(註3

 

(1)葦津珍彦については、以下の拙稿をご参照下さい。

ナチス迎合を神道家が批判〜葦津珍彦

(2) 小堀桂一郎著『靖国神社と日本人』(文春新書)

(3)国家護持については、第6章第5節もご参照下さい。

 

(6)「全国戦没者追悼式」との関係

 

毎年8月15日に、政府主催により、日本武道館で「全国戦没者追悼式」が行われている。これと靖国神社の関係は何か。

この追悼式は、年1回限りの行事であて、恒久的な慰霊施設ではない。追悼の対象は、空襲の犠牲者や終戦時の民間人自決者などをも含むすべての戦没者である点では、靖国神社の祭神より対象が広い。いわゆる「戦犯」(A・B・C級)とされた人々も含まれており、その遺族が追悼式に招待されている。

「全国戦没者追悼式」には、天皇陛下が参列し、歴代の首相は主催者として参列し、追悼の意を表してきた。また閣僚、衆参両院議長、最高裁判所長官などが参列している。政教分離や「A級戦犯合祀」を理由に靖国への参拝に反対する政党の代表も参列している。

政教分離を厳密に追求する立場をとれば、この追悼式を政府が主催して行っていることも批判の対象とすべきだろう。しかし、そういう批判はない。

「全国戦没者追悼式」が無宗教の儀式だからだろうか。いや献花式と呼ばれるこの官製の儀式は無宗教式を目指しているようだが、宗教的要素は存在する。祭壇の中央に「全国戦没者之霊」という標柱が立てられるが、これは儒教研究者の加地伸行・大阪大学名誉教授によると、儒教における拠り代・位牌に相当する。わが国では、こうした儒教の要素が、神道や仏教に入って完全に融合している。だから、追悼式は。神道・仏教の信者にも違和感がないのである。

靖国参拝反対派も、中国政府も韓国政府もこの点は問題にしないのは、矛盾している。この追悼式まで批判すると、大多数の日本国民の反感を買うだろうことを予想して、政治的な計算をしているのだろう。

靖国神社についても、わが国政府・指導層が、内外の批判に対し、毅然として対処すれば、相手側の論拠の薄弱さが明らかになるのである。ページの頭へ

 

 

第5章 世界の中の靖国神社 

 

(1)靖国参拝に参拝する外国要人は多い

 

戦前戦後を通じ、多数の国々の要人が靖国神社に参拝している。それは、靖国神社がわが国の戦没者慰霊の中心施設であることへの敬意の表現である。神道は他宗教に対し、寛容であるので、各国要人はそれぞれの宗教の礼拝の仕方で参拝している。

靖国神社に初めて公式参拝した外国要人は、タイ(シャム)の国王の弟で外務大臣のデヴァウォングセである。明治20年のことである。日露戦争の勝利によって、わが国が国際社会で近代国家として認知されると、外国要人の参拝は増えた。イギリス・スウェーデン・デンマーク他の王族や、ロシア・フランス他の軍人などが訪れた。また、昭和12年2月18日には、国賓待遇で来日したローマ法王代表使節カーディナル・ドハティ師が参拝した。キリスト教カソリック教会の代表者が、宗教の違いを超えて、靖国神社に参拝したのである。

大東亜戦争の敗戦後、占領期には外国要人の参拝は限られていたが、日本が主権を回復した昭和27年4月28日以降は、元首・首相級を含め多くの外国人が靖国神社を訪れている。昭和54年(1979)に、いわゆる「A級戦犯」合祀が明らかになってからも、この傾向は変わらない。参拝者の国籍も、インドネシア・スリランカ・インド・ドイツ・スイス・フィンランド・ポーランド・ルーマニア・リトアニア・スロベニア・エジプト・イスラエル・トルコ・アメリカ・チリ・ブラジル・オーストラリア等、旧敵国を含め全世界にまたがっている。政治家・外交官・宗教家・軍人など立場もさまざまである。このように世界各国の人々が靖国神社に参拝しているなかで、首相の靖国参拝に執拗に反対しているのは、中国と韓国の二国に過ぎない。

特筆すべきは、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領が、平成14年2月に来日した時、靖国神社の参拝を希望したことである。大統領側は小泉首相と一緒に参拝することを打診した。しかし、わが国の方でこれを断り、参拝場所を明治神宮に変更した。そのうえ、18日ブッシュ大統領が明治神宮に参拝した際、同行した小泉首相はその間、車を出ず車中で待っていた。この時、もし日米首脳がともに靖国神社に参拝していたら、靖国問題は劇的な変化を遂げていただろう。アメリカは東京裁判で、かつての日本の指導者を「戦犯」として裁き処刑したが、彼らが祀られている靖国神社に大統領が参拝したならば、そうした英霊に対しても敬意を表することになったわけである。首相の靖国神社参拝を非難する中国・韓国等も態度を変えざるを得なかっただろう。

この絶好の好機を逃したことは、小泉首相及び日本政府の重大な失策である。今後、米国大統領が来日する際には、わが国の首相がともに靖国神社に参拝することが期待される。

 

(2)靖国神社に熱い思いを寄せる外国人

 

靖国神社の首相参拝に反対しているのは、中国と韓国だけに過ぎないと書いた。それどころか、世界には、日露戦争から大東亜戦争に至る我が国の歴史を評価し、靖国神社に熱い思いを寄せる人々が少なくない。大東亜戦争において、日本軍は、アジア諸国の民族独立を支援した。インドネシア・ビルマ(現ミャンマー)・インド等では、各民族の若者を独立運動の戦士に育てた。また日本人自身もその国の独立のために戦い、多数が命を捧げている。これらの国の人々は、現在も日本の貢献を忘れることなく、国家の要人が靖国神社に参拝し、感謝と敬意を表わしている。

例えば、平成10年(1998)にインド国民軍(INA)全国委員会は、靖国神社に感謝状を奉納した。そこには「インド国民は、日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本帝国陸軍によってもたらされました。ここに日印両国の絆がいっそう強められることを祈念します」と書かれてある。(註1

パラオ共和国は、大正9年(1920)から昭和19年(1944)まで日本領だった。この間、日本はパラオで鉱山開発、農園、漁業、貿易などを進め、学校を作って教育を施した。この諸島を守るため、日本軍は米軍との戦いで壮烈な玉砕を遂げた。戦後、パラオ共和国の大統領特別顧問をしたイナボ・イナボ氏は、こうした日本人に感謝し、来日すると必ず靖国神社に参拝していた。そして、「日本人は靖国神社をあまりにも粗末に扱いすぎる」「靖国神社に行ったほうがいいよ。手を合わせるだけでいいから」と訴えている。パラオは、日の丸に似た国旗を持っているが、それも日本への感謝の表れである。(2)

日本人は一部周辺諸国の批判にばかり気をとられるのではなく、もっと広く国際的な観点から、世界の中の靖国神社を考えるべきでなのである。

 

(1)アジア諸国の独立への協力については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本人はインドネシア独立に協力した

インドの独立にも日本人が活躍

(2)パラオについては、以下の拙稿をご参照下さい。

パラオの国と『日の丸』の話

 

(3)近隣諸国の靖国参拝批判は内政干渉

 

ある国における戦没者の慰霊の仕方は、その国の純然たる国内問題である。その国が、自ら国の伝統・習俗・宗教等に基づいて行うことであり、他国はそれを尊重するのが、国際社会のマナーである。わが国における慰霊の仕方や首相の靖国参拝も、他国が口を差し挟む事柄ではない。事実、大東亜戦争で日本と戦ったアメリカ・イギリス等の諸国は一切干渉していない。それだけでなく、国家の要人が靖国神社に参拝している。

中国の場合、戦後、わが国の首相が靖国神社に参拝を続けていたことに対し、まったく抗議していなかった。昭和53年にいわゆる「A級戦犯」が合祀され、昭和54年4月19日の新聞報道で一般に明らかになった。(註1) その直後に、大平首相が参拝した。大平首相はこの時、「人がどう見るか、私の気持ちで行くのだから批判はその人にまかせる」と述べ、「A級戦犯あるいは大東亜戦争に対する審判は歴史が致すであろうというように、私は考えております」と明言して参拝した。自身はクリスチャンだった。

中国は、この際には、何の意志表示もしなかった。ところが、その6年後になって、中曽根首相が参拝した時、わが国に対して初めて抗議した。こうした中国の対応には、一貫性が見られない。ちなみに、わが国は昭和47年(1972)に中国と「日中共同声明」を結び、その第6条に「内政に対する相互不干渉」を謳っている。すなわち、「日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する」とある。日本の首相が靖国神社に参拝するかどうかは内政問題であり、中国の非難は「日中共同声明」違反に当たる。こういうことをはっきり言っていくことが、成熟した日中関係の構築となっていくと思う。

 

(1) 合祀の経緯は第5節をご参照下さい。

 

(4)「戦犯」とは誰のことか

 

「戦犯」とは戦争犯罪人の略称である。大東亜戦争後にアジア・太平洋の各地で開かれた軍事裁判は、戦犯をA・B・Cの級に分けた。「A級戦犯」とは、戦時の政治・外交・軍事指導者で、「侵略戦争」を計画・実行したとして起訴または有罪とされた者、「BC級戦犯」とは、非戦闘員や捕虜の虐待など戦時国際法に違反する行為を行ったとして起訴または有罪とされた者をいう。司令官などの責任者の場合はB級、命令を請けて実行した者はC級とされた。

靖国神社には、A・B・C級を問わず、軍事裁判によって処刑された1,068人の日本人が合祀されている。軍事裁判も裁判である以上、法に基づいて厳密に行われなければならない。法といっても、一国の国内法ではなく、国家間で取り決めた国際法である。ところが、大東亜戦争後に行われた裁判は、日本が主権を喪失していた時期に戦勝国が一方的に裁いたものだった。裁判では、ずさんな起訴・審理によって有罪ありきの決め付けがされ、日本人の生命が奪われた。日本と連合国がまだ講和に至ってない状態で行われたので、国際法的には、まだ戦争状態が継続している最中の出来事である。それは、裁判の形式をとった戦争の延長であり、日本人に対する復讐、敗者の見せしめだった。

特に東京裁判では、「A級戦犯」の起訴理由として、「平和に対する罪」「人道に対する罪」という罪状が持ち出された。これらは、当時の国際法になかった新たな概念であり、近代法の不遡及の原則に反する事後法による処罰だった。そこには、法の正義は存在しなかった。(註1

「A級戦犯」の容疑者とされた日本人は28名。そのうち有罪判決を受けたのは、14人である。内訳は、軍人が9人、あとの5人は文民だった。14人のうちで処刑されたのは、東条英樹元首相等の7人である。唯一文民でありながら処刑されたのが、広田弘毅元首相である。広田は、「侵略戦争」を「共同謀議」で計画したどころか、外交官時代から一貫して平和外交をねばり強く進めた人物である。これに対し、当時の軍部は統帥権を盾に暴走し、広田首相の融和路線、不拡大路線をことごとく妨害し、戦争拡大へ走った。しかし、東京裁判では、広田は終始、自己弁護をしなかった。絞首刑の判決に対し、キーナン主席検事は「何という馬鹿げた判決か」と嘆いたと言われる。

処刑された7人以外に、無期あるいは有期の禁固刑になった者が7人いる。その中に、東郷茂徳(しげのり)がいる。東郷は、東条内閣の外相として最後まで開戦を避けようとした。また鈴木貫太郎内閣の外相となって終戦に向けて尽力した。それにもかかわらず禁固20年の刑とされ、獄中で病死した。東京裁判は勝者による敗者への見せしめであると述べた所以である。旧敵国によって刑死・獄死した自国の指導者たちに対して、日本人は日本人としてどのように処するかが問われている。

 

(1)東京裁判については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本弱体化のための東京裁判

パール博士の『日本無罪論』

(2)BC級裁判について補足する。

東京裁判ではA級戦犯とされた7人の日本人が絞首刑とされたが、これ以外にBC級戦犯とされた人々、1,061名が処刑された。BC級戦犯裁判とは、特定地域で「通例の戦争犯罪」を行った者に対して、連合国各国が行った軍事裁判をいう。連合国は米、英、仏、豪、フィリピン、オランダ、中華民国の7カ国が、49の法廷でこの裁判を実施した。この他にソ連も裁判を行った。その実態は闇に閉ざされている。

BC級戦犯裁判のうち、日本国内では、唯一、アメリカが横浜地方裁判所を接収して行った。これを、BC級横浜裁判という。事件総数は327件、起訴人員は合計1,037名で、各地のBC級裁判の中でも最大規模であり、判決では112名ないし123名あるいは124名に絞首刑が言い渡され、うち51名の絞首刑が執行された。

それゆえ、約千名の人々が、東京・横浜以外の法廷で裁かれ、処刑されたわけである。そのうちの多くは、外国でずさんな形で起訴され、弁護らしい弁護も受けられずに、戦勝国による見せしめ、復讐として処刑された。

 

(5)「A級戦犯」の合祀は国民の総意

 

昭和60年に突如として始まった中国の批判によって、「A級戦犯」の合祀が問題にされるようになった。「A級戦犯」を分祀すべきだという意見も出てきた。これはおかしな話である。「戦犯」とされた人々の合祀は、日本国民の願いの実現だったからである。

戦後6年8ヶ月に及ぶ異常に長い占領期間が終わり、昭和27年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効した。しかし、「戦犯」とされた日本人1,224名は、講和条約の第11条(註1)によって、引き続いて服役しなければならなかった。そこに、国民の同情が集まった。同年7月から、その人々の早期釈放を求める一大国民運動が起こった。署名は大多数の国民の及び、最終的には約4千万人もの署名が集った。こうした国民世論を背景にして、昭和28年8月から国会で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(遺族援護法)および「恩給法」の改正が重ねられた。この時に中心となった一人が、右派社会党の堤ツルヨ衆議院議員だった。堤氏は、戦犯とされたうち服役中の人々の留守家族は保護されているのに、処刑または獄死した者の遺族は国家の補償を受けられないという矛盾を指摘した。また「その英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえない」という遺族の嘆きを代弁して訴えた。この主張が認められ、遺族援護法の改正が行われた。旧社会党及び社民党の支持者は、よく知っておくべきである。

当時の国会は、「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者とはみなさないことにした。大東亜戦争後の戦勝国による軍事裁判は、日本が主権を喪失していた時期に一方的に裁いたものだからである。「戦犯」とされた人々の遺族も一般戦没者の遺族と同様に扱うように法規を改正した。決定は全会一致だった。国民の要望に応えるものだった。まさに国民の総意による改正だった。その結果、「戦犯」とされた人々の遺族にも遺族年金・弔意金・扶助料などが支給され、さらに受刑者本人に対する恩給も支給されるようになった。そこにはA級とB・C級の区別はなく、刑死者はすべて「法務死」と呼称した。戦争犯罪人ではない。国のために亡くなった殉難者として扱われたのである。これによって、「戦犯」とされた人々も、A・B・C級の区別なく、靖国神社に祀られることになった。

昭和34年(1959)に最初の合祀が行われた。まずBC級の人々からだった。「A級戦犯」とされた14人については、昭和53年秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀された。この合祀が、一般に知られたのは翌54年4月19日の新聞報道だった。その後のいきさつは、本章第3節に既述したとおりである。

 

(1)講和条約については、次の第6節をご参照下さい。

 

(6)合祀は講和条約に違反しない

 

靖国神社の「A級戦犯」合祀は、講和条約に違反するのではないかという意見がある。関係する条文は、第11条である。そこには、次のように書かれている。

「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判(judgements)を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない」

ここで「裁判」と訳されている原語のjudgementsは、「判決」と訳すべきものである。これを「裁判」という曖昧な言葉に訳したために、日本は、東京裁判における事実認定、いわゆる東京裁判史観を受け入れたという誤解が生まれた。「裁判」であれば、trialが使われるところだろう。

しかし、第11条の目的は、いわゆる「戦犯」を裁いた連合国の軍事法廷が日本人被告に言い渡した刑の執行を、日本政府に引き受けさせるとともに、赦免・減刑等の手続きを定めることにある。その趣旨は、本来ならば講和と同時に失効するはずの判決の効力を条約発効後も持続させ、日本政府の判断だけで刑の執行を停止させないということを意味するに過ぎない。世界の国際法学者の多くは、この第11条に関して、「日本政府は、東京裁判については、連合国の代わりに刑を執行する責任を負っただけで、講和成立後も、東京裁判の判決理由によって拘束されるものではない」と解釈している。それゆえ、講和条約の規定は、いわゆる「A級戦犯」の合祀の是非とは、まったく関係がない。

また、「A級戦犯」とみなされた日本人がみな刑死・獄死したのではない。政界に復帰し、国際的に活躍した人もいる。東条・小磯内閣等で外務大臣を勤めた重光葵(まもる)は、禁固刑7年の刑を受けたが、減刑されて出獄し、外務大臣になって、日本が国連に加盟する時の代表を勤めた。重光は戦後の功労によって勲一等の勲章まで授賞している。同じく東条内閣の大蔵大臣・賀屋興宣(かや・おきのり)は、終身禁固刑となったが、講和独立後に釈放され、その後、法務大臣となった。なお、東条内閣の商工大臣・岸信介の場合は「A級戦犯容疑者」として逮捕されたが、起訴されずに昭和23年12月に釈放され、その後、首相になっている。こうした「A級戦犯」の復帰・活躍について、当時国際社会からの批判はなかった。それどころか日本の代表・首相・閣僚として広く認められていたのである。このことは、独立後の日本政府は、もはや東京裁判の判決に拘束されないことを明らかに示している。

問題は、中国である。しかし、中華人民共和国政府は、サンフランシスコ講和会議に招請されておらず、従って出席も調印もしていない。それゆえ、中国は講和条約を楯に取って権利を主張することはできない。また日中平和友好条約にも「戦犯」条項はない。後になって、「A級戦犯」の合祀を問題にするなど、中国指導部には全く理がないのである。(註1

 

(1)中国の姿勢については、第6章第7節をご参照下さい。

 

(7)分祀論は国家の介入、他国への阿り

 

日本の政治家の中には、靖国神社からいわゆる「A級戦犯」のみを別に分ければよいという意見がある。宗教団体が祀っている対象に対し、一部の霊のみを別に分けよと国家が指示するならば、国家による宗教への介入である。

そもそも神道には、神社に祀られている神(人霊を含む)を分離して、別に祀るという考え方がない。分祀する場合は、もとの神社(本社)には引き続き祀られ、別の神社(分社)にも祀られることになる。例えて言えば、ろうそくに灯っている火を、別のろうそくに移しても、元のろうそくの火は消えず、新たなろうそくと両方に火が灯るようなものである。それゆえ、分祀という考え方は、神道と相容れない。もし国家が靖国神社に対し、「A級戦犯」を分祀せよと指示するならば、憲法違反であるとともに、近代法の原則にも反する。

「A級戦犯」の分祀を説く政治家は、中国の外圧に気圧されて、中国指導層の言いなりになっているように見える。仮にA級を分祀したとすれば、中国指導層は、今度はBC級を外せ、次は中国に「侵略」した兵士を全部外せと、要求してくるだろう。「A級戦犯」分祀論は、小手先の発想による愚かな主張なのである。ページの頭へ

 

 

第6章 宗教観の違いを超えた大同和の精神

 

1)靖国神社の根底にある祖霊信仰

 

戦没者の慰霊と靖国神社について考えるには、日本人の宗教観について理解を深める必要がある。

わが国の宗教観の中心には、自然崇拝と並んで祖霊崇拝がある。前者はアニミズムに、後者はシャーマニズムに分類される。ともに現代人が近代化・西洋化の中で失いつつあるものである。しかし、学際的な研究として近年発達が著しいトランスパーソナル学では、霊性という観点からアニミズム・シャーマニズムの再評価が行われている。それらは人間性の本質にかかわる重要な精神文化だからである。トランスパーソナルとは、「個を超えて」という意味である。個人が個を超えて、宇宙や他者や過去の世代や生きとし生けるものにつながっていることを自覚するのが、トランスパーソナルである。(註1

祖霊崇拝とは、先祖の霊を祀るものであり、祖先崇拝ともいう。わが国では、人は死ぬと一定期間を経て祖霊となり、この国土にとどまって、子孫の暮らしを見守っていくと信じられてきた。日本の年中行事で最大のものは、正月とお盆であるが、これらはともに祖霊崇拝の行事である。正月は本来、新年をもたらす祖霊を迎えるための年始の行事であった。お盆も、来訪する祖霊をもてなす行事であり、古くは年末に行われたらしい。

こうした祖霊崇拝をもとに生まれたのが、人を神に祀る習俗である。平安期には、非業の死をした人の祟(たた)りを恐れ、その霊を慰める「御霊(ごりょう)信仰」が流行した。その信仰に基づいて、菅原道真の霊が北野天満宮に祀られるようになった。これは人の霊が、神社の祭神として祀られた最初の例といわれる。近世に入ると、現世で尊敬を受けた偉人や英雄を、現世の守護神として神社の祭神に祀る信仰が表れた。その最初の事例が豊臣秀吉の豊国神社であり、徳川家康を祀る東照宮がそれに続く。そして、江戸時代には、公のために傑出した活躍をした人や、地域や子孫のために身命を捧げた人を、神として祀る風習が広がった。こうした人々は、この世に霊を留め、子孫に加護をもたらすものと信じられた。

民俗学者の柳田国男は、昭和20年戦争末期に執筆した『先祖の話』に、次のように書いている。「私がこの本の中で力を入れて説きたいと思ふ一つの点は、日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まつて、さう遠方へは行つてしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、可なり根強くまだ持ち続けられて居るといふことである。是が何れの外来宗教の教理とも、明白に喰ひ違つた重要な点であると思ふ‥‥(以下略)」(註2

こういう信仰が柳田の生きた時代には、国民の間に根強く存在していたらしい。戦後、GHQにより家制度が否定され、家督相続の廃止とともに、祖先祭祀の継承が衰退した。そのため、現代人は家庭で伝承されてきた伝統的な信仰を失いつつある。かつては、先祖の「霊(みたま)」は、子孫が日々祭りを行うことによって臨在し、守護してくれるものと信じられてきた。祖霊は子孫を護るもの、子孫は先祖を祀るものという関係にあった。この祖孫の関係は、日本全国の村落に見られる氏神と氏子の関係に相似している。氏神とは、主に祖先神であり、遥か昔の神話的な世代にさかのぼる。これに対し、祖霊は父母・祖父母など親しい世代である。その点では異なるものの、自分と生命を継承・共有し、本質において繋がっている霊的存在という点では、氏神と祖霊は同じである。こうした日本固有の祖霊信仰は、トランスパーソナルな世界観を形づくってきた。この信仰が仏教の形を借りれば、家庭で毎日行われる仏壇へのお供えや読経ということになる。仏教といっても、自分の先祖の霊、神道でいう神を祀っているわけである。日本の仏教の相当部分は祖霊崇拝であり、先祖供養の実践である。

上記のような日本固有の先祖観や人を神と祀る習俗が、戦没者を祭神として祀る靖国神社の背景となっている。大東亜戦争で国のために命を捧げた人々の遺書には、死後もこの国土に魂を留めて子孫の行く末を見守っていこうという思いが表れている。そこには、日本人が持ちつづけてきた独自の信仰が示されている。これは祖霊崇拝の一側面である。

わが国の宗教的な伝統を理解することなくして、靖国神社を語ることはできない。それと同時に、日本という国、日本人の共同体、その文化・精神を理解することもできないのである。

 

(1)トランスペーソナル学については、以下の拙稿をご参照下さい。

“心の近代化”と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ

第3章(5)「人類の危機に現われた霊性復興運動」

(2)柳田国男著『先祖の話』(『定本柳田國男集第十巻・新装版』所収 筑摩書房)

 

(2)日本的霊魂観のシャーマニズム的要素

 

本章第1節で説明した祖霊信仰に関して、大阪大学名誉教授・加地伸行氏の意見は興味深い。

インドや東南アジアに伝わるヒンズー教や小乗仏教の死生観は輪廻転生であり、死者はどういう世界へ生れ変るかわからないので、慰霊という考えはない。キリスト教の場合は、自然崇拝や祖霊崇拝を否定してきた。それどころか、シャーマニズムを行う者を「魔女」として弾圧し、異教徒を虐殺してきた。これらの宗教には、シャーマニズム的な霊魂観が認められない。

これに対し、加地氏は、「東北アジア(儒教文化圏)は、亡魂を招き慰霊するシャーマニズムが基本的宗教感覚であり、儒教がそれを体系化した。そのためインドから渡来した仏教も、儒教的慰霊観を取り入れ、先祖供養を重視する。日本仏教はその典型である。日本古来の神道もまたシャーマニズムが根核である」という。

儒教では、死とは人間の精神を司る「魂」と、肉体を司る「魄」が分離することである。加地氏によると、東北アジアの場合、「われわれの宗教的感覚は、魂(こん=精神の象徴)・魄(はく=肉体の象徴)を招きわれわれと出会うことを重視する。亡魂は天空に雲のように漂い、死魄は白骨となって墓に管理されている。この魂を招き降したときに依りつく場所が、たとえば日本仏教における位牌であり、神道における依(よ)り代(しろ)である。その魂と出会い慰霊する。魄は、本来儒教的には魂と同じところに依りつくのであるが、そのことを日本仏教も神道も取り入れなかったので、日本では家族(遺族)だけが墓参りをして魄(白骨・遺骨)そのものを招き出し直接に出会い慰霊している」。(註1)

靖国神社の慰霊の根本にも、こうしたシャーマニズム的な霊魂観が存在すると考えられる。加地氏は、「靖国神社は墓地ではない。あくまでも、参拝者の一心の祈りの下に霊魂が天空から帰り来て、依り代(しろ)に憑()りつく。そして英霊と参拝者との出会いがある。これが参拝者の慰霊である。それは、霊の内の魂との出会いである。 一方、霊の内の魄は墓に眠っているので、墓参によって魄と出会い、慰霊する。その墓は各人の郷里その他のところにあり、遺族は各自に墓参し魄と出会っている。魂のほうは、各自の家の仏壇に祭られた位牌を依り代として、遺族が祈れば帰り来る。すなわち、英霊の魂は、実家の仏壇にも、靖国神社にも一心の祈りの下に帰り来るのである」という。(註2

以上のような加地氏の説は、靖国神社の慰霊についての理解を一層深めさせてくれるものといえよう。

 

1加地伸行著『A級戦犯分祀論の宗教的意味 根核としてのシャマニズム』(産経新聞平成11 (1999) 30日号の「正論」)

2加地伸行著『中韓の「靖国参拝」非難はなぜ 墓参と誤解しているところに原因』(産経新聞平成13年 (2001) 6月18日号の「正論」) 

 

(3)小泉八雲が注目した宗教的伝統

 

かつての日本人が靖国神社に寄せた思いは、現代の私たちが思うより遥かに強いものだった。そして、その根源は深いものであった。そのことをうかがわせるのが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の一文である。小泉八雲は明治37年9月、日露戦争のさなかに急死した。当時、日本は大国ロシアを相手に驚くべき善戦をしていた。八雲は、絶筆となった『神国日本』の最終章にて、次のように書いている。
 「日本のこの度の全く予期しなかった攻撃力発揮の背後に控えている精神力というものは、もちろん、過去のながい間の訓練のおかげであることは全く確かである。……そしてすべてのあの天晴(あっぱ)れな勇気 ―― 生命を何とも思わないという意味ではなく、死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表わす勇気なのである。現在戦争に召集されている何千何万という若者の口から、名誉を荷ないながら故国に帰りたいなどという表現を一言も聞くことはできない。 ―― 異口同音にいっている希望は『招魂社』(註 靖国神社)に長く名をとどめたいということだけである。 ―― この『社』は『あの死者の霊を迎える社』で、そこには天皇と祖国のために死んだ人すべての魂が集まるものと信じられているところなのである。この古来の信仰が、この戦時におけるほどに強烈に燃え上がった時はない。……日本人を論じて彼らは宗教には無関心だと説くほど、馬鹿げた愚論はまずあるまい。宗教は、昔そうであったように、今なお相も変わらず、この国民の生命そのものなのである。―― 国民のあらゆる行動の動機であり、指導力なのである」
 小泉八雲は、「死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表わす勇気」と書いている。彼が感じた日露戦争における日本人の精神力、勇気の源泉は、天皇を中心とする忠誠心・団結心であり、それと結びついた日本人の宗教的伝統だというのである。

「東京招魂社」が創建されたのは明治2年(1869)。これが靖国神社と改称されたのは、明治12年1879)である。創建から日露戦争までは、わずか30年ほどである。その短い期間に、これほど強い信仰が国民の心に醸成されたとは考えられない。もっと古くから受継がれてきた国民の心情に、よほど適ったものが、靖国神社にはあったと考えるべきだろう。

そこで思い起こされるのは、わが国の民族的な伝統である。わが国の基本的な宗教観については、本章第1節に書いた。ここで書くのは、その宗教観を基本とした天皇と国民の関係である。

わが国では、古代から皇室を中心として国民が団結してきた伝統がある。その表れの一つとして、「万葉集」における大伴家持の歌がある。家持の「陸奥国より金(くがね)を出(いだ)せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌」の一節に、「海行かば 水浸(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の 辺(へ)にこそ死なめ 顧みは せじ」とある。この文言はそのまま戦前、「海行かば」という歌の歌詞として歌われた。日本神話によると、大伴氏は、天孫ニニギノミコトがわが国に天下ってきた時に随従してきた天忍日命(あめのおしひのみこと)を先祖とする。また、大伴氏は、皇室への忠誠心において国民の模範とされてきた。そして、大伴家持の上記の歌は、靖国神社の前身である東京招魂社創建の際の祝詞に詠み込まれている。ここに、小泉八雲が注目したところの「死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表わす勇気」の淵源を見ることが出来るだろう。

本章第1節に述べた祖霊崇拝と、上記の皇室中心の団結心とは、別のものではない。日本人は、皇室を民族の中心と考え、自らの先祖と皇室の先祖とはつながっていると考えてきた。それゆえ、自家における祖霊崇拝は、さかのぼると皇室への崇敬とつながっていく。さらに、皇室の先祖とされる天照大神は、太陽神と信じられてきたので、自然崇拝ともつながっている。これを要約すれば、日本人の宗教的伝統は、敬神・崇祖・尊皇が一体になったものといえる。靖国神社に表れているのは、こうした伝統の一端ということができる。

 

()天皇が靖国に参拝される意味

 

 本章第3節に、日本人の宗教的伝統は敬神・崇祖・尊皇が一体になったものであると書いた。自然崇拝・祖霊崇拝・皇室崇敬が分かちがたく結びついているのが、日本的宗教観である。その民族的中心に天皇が存在する。

 第3章第5節に、天皇が靖国神社に参拝されてきたことを書いた。ここでその意味を改めて考えてみたい。

天皇は「現人神(あらひとがみ)」または「現御神(あきつみかみ)」と呼ばれてきた。戦前の歴史学者・津田左右吉は、「現人神(あらひとがみ)」の意味を次のようなものととらえている。

 

(1)「日本書紀」は「神代」と「人代」を分け、天皇は「人代」で出現している。

(2)天皇は神を祀る者、いわば神祇官であって、祀られる対象ではない。

(3)天皇が祈祷の対象であったことはない。困難が来たときには、天皇が神々に祈る。

 

こうした神の観念は、キリスト教におけるGodとは、全く違う。一神教的な天地創造神・宇宙主宰神の観念をもって理解することの出来ないものである。

また、天皇は、人の姿を持ち、生きながら祀られる「神人(しんじん)」とは異なる。奇蹟救済を祈願する対象でもない。

天皇は「神を祀る者」であり、「神々に祈る者」として、靖国神社に参拝する。そして、その祭神に拝礼する。それは、天皇が皇室の祖先神を祀る伊勢神宮や、歴代天皇霊を祀る宇佐八幡宮・岩清水八幡宮等に参拝するのと、似た行いである。われわれが注目すべきことは、こうした天皇が、国民である死者の霊を祀る社に参拝し、感謝と敬意を表わしてきたという事実である。

わが国では、天皇は民の父母のようであろうとし、国民は天皇を大親のように慕ってきた。戦前のわが国では、戦地に赴く国民にとって、もし自分が戦死した時は、死後、靖国神社に神として祀られ、そこに天皇が参拝して、自分達に向かって拝礼することが、大きな心の支えであり、慰めであったのだろう。

戦後、こうした天皇と国民の結びつきは、自然に衰弱したのではない。敗戦によって外部の力によって断ち切られようとされたものである。GHQによって強行された日本弱体化政策は、今日に至るまで日本人をマインドコントロールしている。そして、この心理的支配が最も深部にまで及んでいるのが、靖国神社への感情である。それによって、日本人は、固有の宗教観を忘れ、天皇と国民、またひいては先祖と子孫との生命と霊性による結びつきを忘れさせられてきたのである。(註1

 

(1)日本弱体化のマインドコントロールについては、以下の拙稿をご参照下さい。

日本弱体化政策の検証

 

(5)祀られているのは共同体全体の祖霊

 

 靖国神社に祀られているのは、特定の個人の霊である。その個人の多くには遺族がいる。戦没者の妻や親や子や孫、甥や姪といった人々にとって、靖国神社は自家の墓と同様に重要な場所である。

 しかし、靖国神社は、こうした国民の私的な慰霊の対象を集合した場所であることにとどまらない。むしろ、戦没者は国の命令によって、公のために生命を捧げた人達であるので、靖国神社は根本的に国家公共の施設である。公的な慰霊を行う中において、個々の私的な慰霊を同時に行う場所なのである。

 わが国に伝わる子孫が祖霊を祀り、祖霊が子孫を守護するという関係に照らして考えれば、靖国神社に祀る戦没者の霊とは、個々の国民の先祖だけではなく、日本人による共同体全体の祖霊でもある。また、その祖霊が守護するものも、個々の子孫だけではなく、日本という国家共同体の成員の全体でもある。

それゆえ、靖国神社を護持すべき立場にある者とは、戦没者の遺族だけではなく、国民全体なのである。

ここで重要な問題が一つある。それは、遺族をもたない霊の存在である。戦没者の中には、若くして独身のまま、あるいは子孫を持つことなく亡くなった人々がいる。こうした人々は、自分の子孫に慰霊をしてもらうことができない。民俗学者の柳田国男は、『先祖の話』において、日本の祖霊信仰の伝統について研究した。わが国の敗色が濃くなっていた昭和20年の4〜5月頃の執筆である。柳田は、本書でとりわけ子孫を持つことなく亡くなっていく青年達の慰霊について、その必要性を強調した。国のために死んでいった人を無縁仏にしてはならないというわけである。(註1) 柳田の訴えはもっともであり、戦争において家族がすべて死に絶えた人々、いわゆる絶家になった人々もいる。これらの人々に対しては、国民が共同体の祖霊として、公的に慰霊をしていく必要がある。

国家公共の行為としての慰霊とは、日本という国が、単に独立した個人が集合しただけの社会であるのか、それとも生命・文化・歴史を共有した共同体としての社会であるのか、を明らかにするものである。そして、これは家族愛や友人愛といった私的な愛を超えた、死者への愛、公共社会の一員としての博愛を、日本人個々が持つことができるかどうかという課題でもある。

第4章第5節に靖国神社の国家護持について書いたが、本節に書いた理由によっても、全国民が靖国神社を護持すべき理由があるのである。これは、個々人がいかなる宗教・思想をもっていても日本人として為すべき事柄であり、またこのことは信教の自由を侵すものでもない。

補足であるが、個々の家で先祖代々の霊の救済を神に祈願する先祖供養は、私的な営みである。これに対し、国家による慰霊の儀式を行うことは、公的な営みである。前者は霊の真の救済を求める営みであり、後者は儀式による感謝と尊敬の表現である。また、靖国神社に祀られている人霊は、奇蹟救済を祈願する対象ではない。この点は明確に区別する必要がある。

 

(1)柳田国男著『先祖の話』(『定本柳田國男集第十巻・新装版』所収 筑摩書房)

 

(6)日本と中国・韓国との宗教の違い

 

 わが国の宗教的伝統に基づく慰霊の仕方と靖国神社の参拝に対し、周辺諸国が口出しをするようになっている。これは明らかに内政干渉であるが、そこには宗教観の違いによる誤解も見られる。

 靖国神社参拝をめぐる対立の本質は、「死ねばみな神となり、敵も味方もなくなる」という日本文明の精神文化と、「末代まで憎しみ続ける」というシナ文明の精神文化との摩擦ともいえる。

日本人は死者については敵も味方もなく「死後は神になる」として平等に扱うという寛容の精神を持っている。日本人は死者に鞭(むち)打つことをしない。死者に対して悪口を言う人間を軽蔑する。

また、日本人には、古来、敵味方の差別なく死者を祀る習わしがあった。例えば、愛媛県松山市には、日露戦争の捕虜で故国へ帰ることなく異郷で亡くなったロシア兵の墓があり、慰霊祭が毎年行われている。また、昭和20年4月、F・ルーズベルト大統領が逝去した時には、鈴木貫太郎首相が、敵を愛する武士道の精神にのっとり、交戦中のアメリカ国民に向けて弔意を表す談話を発表した。(註1) 靖国神社では、境内の鎮霊社において、世界各国の戦死者が祀られている。これらは日本人の博愛の精神の表れといえよう。

ところがわが国と異なり、中国人と韓国人は、敵に対して絶対不寛容である。「生きてその肉を喰らい、その皮で寝る」ことを願うほど憎み、死後は「その魂を喰らう」と誓うほどである。敵は死後も永遠に敵であり、どこまでも和解がない。死者の墓をも暴いて死体を破壊する。それが伝統文化でもある。

中国と韓国の宗教観の根底には、儒教がある。特に韓国は20世紀初めまで、李氏朝鮮の時代に500年以上の間、儒教が国教だった。本章第2節に書いたように、儒教の死生観では、死とは人間の精神を司る「魂」と、肉体を司る「魄」が分離することである。「魂」は中空を漂い、さ迷っていると信じられている。「魄」は骨として墓に納められる。この「魂」と「魄」が合体すれば、死者が蘇(よみがえ)ると信じられてきた。いわばゾンビのようなものである。それを防ぐには、墓を暴き、死体を破壊しなければ、安心できないらしい。そのため、「招魂」という言葉は中国人にとって特別な意味を持つ。それは、死者の霊を蘇らせて、敵に復讐するという意味となるようである。それゆえ、中国人は日本が戦没者を慰霊することを、自国の死生観で解釈し、「日本が軍国主義を復活させようとしている」という意味に誤解しているのだろう。靖国神社には墓も位牌もないのだが、こういう基本的な点から誤解を解いていく必要がある。

 子々孫々の代まで憎み続け、復讐しなければならないという掟は、中国・韓国の独特の伝統文化である。しかし、こういう思想では、どこまで行っても相互理解や国際協調は実現できない。下手をすれば、東アジアが、中東のように復讐が復讐を呼ぶ民族紛争の場所になりかねない。東洋には、仁愛・慈悲の心、大同和の精神もまた受継がれている。そうした伝統を取り戻すことが、東洋人として世界の平和に貢献する道だろう。

 

(1)鈴木貫太郎については、以下の拙稿をご参照下さい。

忠義の心で終戦に導く〜鈴木貫太郎

 

(7)中国は国内統治に反日を利用

 

中国はいまも共産党が支配する国であるが、もはや共産主義のイデオロギーでは国内を統治していけなくなっている。資本主義的市場経済の導入によって、貧富の差が拡大し、指導層は賄賂・汚職で腐敗し、農村を離れて都市に流入する多数の貧民を生み出している。そこで国内の矛盾に目を背けるために、共産主義に替わって強調されているのが、愛国主義である。

毛沢東の時代には、共産主義のイデオロギーが唱導された。それは破壊と停滞しかもたらさなかった。文化大革命はさらなる混乱を引き起こし、多くの犠牲者を出した。毛が死去すると、共産主義のイデオロギーは後退し、かつて「資本主義の道を歩む実権派」(走資派)として批判された勢力が復権した。その巨頭の一人が、ケ小平である。ケが、昭和53年(1978)に主席になると、市場経済の導入が積極的に推進された。その推進と反日的傾向の増強は並行していることが注目される。昭和54年に、中国の歴史教科書に初めて「南京大虐殺」(中国語では「屠殺」)が現れ、昭和60年から南京大虐殺記念館が建設され始めた。また、同じ60年の9月、中曽根首相の靖国神社参拝に対し、中国外務省は、靖国神社の「A級戦犯」合祀を理由に、首相の参拝は「我が国人民の感情を傷つけた」と抗議した。それまで、靖国参拝の批判などなかったのである。

さらに、平成5年(1993)江沢民が国家主席になってから、愛国主義の政策が推し進められ、反日的な教育が徹底された。中国指導部は、民衆の不満を外に向けるために、日本の過去の「侵略」や日本軍による「虐殺」を誇大宣伝して、善良な民衆を欺き、誤導しているのである。こうした中国指導部の権謀術数による靖国神社参拝批判に惑わされてはならない。

また、中国にとっても他国を敵視し、対立・抗争の道を進むことは、結局は自国のためにならない。東洋の仁愛・慈悲・大同和の精神を取り戻し、世界平和に貢献することが、中国国民の幸福と繁栄のために最善の道である。

 

(8)最大の問題は、わが国指導層の姿勢

 

どこの国でも、祖国を守るために命を捧げた人々に敬意を表する場所がある。戦没者への慰霊は、その国の宗教的伝統に基づいて行われている。

慰霊という重要な問題に関して内政干渉をする現在の中国や韓国の政府は国際社会のマナーを欠くが、それ以上にわが国の政府の外交姿勢が間違っている。

日本には日本の伝統がある。その自国の伝統を堂々と主張すること。少々の摩擦をおそれず、日本の立場を主張し、死生観までの容喙は内政干渉だと指摘し、その姿勢を貫徹すること。はっきりものを言ってこそ、相手もわかってくる。逆の場合は、ますます誤解を深め、相手の言い分に押されてしまう。それは決して自他のためにならない。真の相互理解・共存共栄のためには、誇りをもって毅然とした態度で応対することが必要である。

その点で、最大の問題は、わが国の指導層の姿勢にある。日本の伝統・文化をよく理解し、日本人としての精神を取り戻し、戦没者の慰霊と靖国神社の問題に対して、正しい対応をすべきである。それが日本人として、東アジアの、ひいては世界の平和と安定に寄与する道である。日中は真の相互理解を深め、世界平和実現のために提携すべきであり、日本の指導層こそその志をもって努力・実行すべきなのである。

 

(9)靖国神社の将来

 

結びに一言書く。靖国神社の前身は「東京招魂社」であり、当初は戊辰戦争の官軍戦死者の鎮魂のためにつくられた。それゆえ、幕府側の戦死者の霊は祀られていない。西南戦争を起こした西郷隆盛や西郷軍の死者の霊も祀られていない。大東亜戦争における東京大空襲等の各地の空襲による死者や、広島・長崎の原爆の犠牲者なども祀られていない。創建の目的と、その後の政府の戦没者の基準からいえば、幕軍や反政府軍、国の命令を受けた公務による死亡ではない死者は、祭神の対象とならないからである。

しかし、靖国神社には、宗教的にも道徳的にも、国家が護持すべき十分な理由がある。また、死者に対して、敵も味方もなく慰霊・鎮魂するのが、日本古来の精神である。国民を「おおみたから」として大切にしてきたのが、皇室の伝統である。さらに、靖国神社の慰霊の背景には、生命と文化と歴史を共有する共同体の祖霊を祀るという日本の宗教的伝統がある。これらの点を考えると、今後、靖国神社には、現在の国事殉難者、戦没者の慰霊を中心としつつ、より幅広く、日本人全体にとっての慰霊の場となることが期待される。また、わが国の戦没者とともに、広く万国の戦没者の霊を慰め、世界各国の人々ともに世界平和を祈る場所となることが期待される。

第2章第6節に、靖国神社には鎮霊社という社があることを書いた。ここに靖国神社に合祀されていない死者の霊と、国籍を問わず、万国の戦死者あるいは戦禍犠牲者の霊が祀られてはいる。また、毎朝奉仕がされ、毎年祭事も行われているという。鎮霊社は、昭和40年7月の創建であり、後から設けられた施設である。そうであれば、こうした施設をさらに充実させ、祭事を盛大にしていくことは可能だろう。それが、靖国神社が、真に日本人全体にとっての慰霊の場となり、世界各国の人々ともに世界平和を祈る場所ともなる道ではないだろうか。そして、いつの日か、わが国の総理大臣と、アメリカ大統領、中国首相、韓国大統領等がともに、万国の戦没者の鎮魂と、世界平和を祈る場所となることを願うものである。ページの頭へ

 

関連掲示

・神道については、以下の拙稿をご参照のこと。

日本文明の宗教的中核としての神道

・冨田メモについては、以下の拙稿をご参照のこと。

 「冨田メモの徹底検証

参考資料

    小堀桂一郎著『靖国神社と日本人』(文春新書)

    大原康男編著『靖国神社の呪縛を解く』(小学館文庫)

・加地伸行・新田均・三浦永光・尾畑文正著『靖国神社をどう考えるか―公式参拝の是非をめぐって』(小学館)

・靖国神社のホームページ

 http://www.yasukuni.or.jp/

 

 

補説 いわゆる戦犯の靖国合祀は政府が主導

2012.1.26

 

戦争犯罪に問われた軍人の靖国神社への合祀は、政府が主導し、先に地方の護国神社で合祀が進められていたことを示す新たな資料が出てきた。まずそれを伝える記事を引用する。

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●朝日新聞 平成24年1月24日号

http://www.asahi.com/national/update/0121/TKY201201200767.html
靖国戦犯合祀、国が主導 地方の神社から先行

 戦争犯罪に問われた軍人らの靖国神社への合祀(ごうし)について、旧厚生省が日本の独立回復翌年の1953年に、公的援護制度の拡充などに応じて順を追って無理なく進める、との方針を決めていたことが同省の内部資料でわかった。方針に沿って、先に地方の護国神社での合祀を目指すとの記述もあり、朝日新聞が調べたところ、6カ所でA級戦犯3人を含む先行合祀の記録が残っていた。
 天皇や閣僚の参拝や、戦争責任をめぐる議論を起こしてきたA級戦犯合祀の原点となる方針が、独立回復に際して政府内で練られていたことになる。
 政府は従来、国会答弁などで、戦犯合祀は「靖国の判断」とし、宗教行為である合祀には関与しておらず、政教分離を定めた憲法に反しないとの姿勢を強調してきた。だが、今回の文書で、終戦までと同様、政府が合祀という靖国の根幹領域に立ち入って方針を定め、戦犯合祀の環境をつくり上げたことがわかった。(略)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 この記事によると、これまで政府は靖国神社が独自に合祀を判断したと答弁してきたが、誤りまたは偽りだったことになる。私は上記の記事から、独立回復直後の旧厚生省はまともな考えで行政事務を進めていたと理解するが、朝日新聞は、政府が「戦犯」合祀を進めたと批判するために書いているのだろう。旧厚生省の資料を見て内容を検討する必要がある。

 元「A級戦犯」合祀の経緯については、拙稿「冨田メモの徹底検証」の「補説1 靖国問題と元『A級戦犯』合祀の経緯」等に書いた。

戦後も、靖国神社に誰を祀るかということには旧厚生省(現・厚生労働省)がかかわってきた。選考は旧厚生省・都道府県が行い、靖国神社が祭神として合祀するかどうかを決定する仕方で、官民一体の共同作業が行われた。
 昭和34年(1959)に最初の元戦犯の合祀が行われた。まずB級C級の人々からだった。「A級戦犯」とされた14人については、昭和53年秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀された。この合祀が、一般に知られたのは翌54年4月19日の新聞報道だった。わが国では元「A級戦犯」の合祀が定着していたが、昭和60年に突如として始まった中国の批判によって、問題にされるようになった。
 戦後、靖国神社に合祀される人の基準は、法律に根拠がある。国会が制定した戦没者遺族援護法及び恩給法とその関連法が、関係法である。国会は、昭和28年8月、いわゆる戦争犯罪人は国内法的には犯罪者ではなく、法務死者とみなすことを決議した。それによって、国は、元戦犯の遺族にも年金を支払うなどを行ってきた。行政府は、立法府がつくった法律に基づいて、行政事務を行なう。管轄官庁は、旧厚生省だった。
 今回、旧厚生省の内部資料で新たに分かったというのは、同省は昭和28年に公的援護制度の拡充などに応じて順を追って無理なく進める、との方針を決めていた。そして34年の最初の元戦犯合祀にいたったという点である。

 戦後、旧厚生省は、日本遺族会からの「戦没者靖国合祀」の要望によって、戦没者の靖国神社への合祀に協力する事業を行なった。この事業は、合祀事務協力事業と呼ばれる。担当部局は、引揚援護局(当時)だった。
 厚生省引揚援護局は、戦傷病者戦没者遺族等援護法と恩給法の適用を受ける戦没者の名簿を作成し、その名簿を靖国神社に提出した。昭和31年から46年まで、名簿提出が続けられた。
 この名簿は、引揚援護局の課長名による通知として送られた。その通知が「祭神名票」と呼ばれる。
 靖国神社は「祭神名票」をもとに、その年に合祀する人々の名簿を作成する。それが「霊璽簿(れいじぼ)」である。この作成の際、もう一つ「上奏簿」を作成する。一定の書式に則って奉書に墨で清書し、絹の表紙でとじたものだという。上奏簿とは、天皇に上奏するための名簿である。
 靖国神社は戦前も戦後も、毎年合祀の前には必ず上奏簿を作成して、上奏簿を宮内庁にお届けし、天皇に上奏してきたという。戦前は、祭神の合祀は天皇の裁可を受けた。戦後も、上奏が慣例として行われた。
 「祭神名票」は、国会が制定した法律を基準として行政当局が合祀されるべき人を選定し、書面として作成したものである。靖国神社は「祭神名票」を受け、それをもとに合祀者の名簿を作る。靖国神社は、「祭神名票」に載っていない人を、独自に合祀するのではない。

 昭和41年、旧厚生省から靖国神社に祭神名票が提出された。その中に、14柱の元「A級戦犯」の名前が含まれていた。そもそも祭神名票の提出は、事務次官らの承諾を得ずに行われ、元軍人が多かった援護局の独断だったという説がある。しかし、援護局の課長名で出だされた通知は公式文書であり、民間団体は国からの通知として受理する。
 こういう事務に何か問題があれば、旧厚生省で業務の改善がされるなり、国会で法律が改正されるなりしたはずである。実際には、31年からずっと同じように通知が出されていた。41年の通知も同様にされた。

 靖国神社による元戦犯の合祀は、旧厚生省が提出した名簿に基づくものであり、その名簿は、国会の決議や諸外国の承認を踏まえて作成されたものである。だから、靖国神社が元「A級戦犯」を「戦争による公務死亡者」として合祀したことは、法律に基づき、行政の通知に従って実行したものである。このこと自体は、靖国神社が批判を受ける立場にない。
 元「A級戦犯」の合祀を不適当と言う者は、旧厚生省の名簿への記載、さらにその元になっている国会決議を批判すべきであろう。そこまでしないで分祀・新施設等をいう政治家は、国民を欺くものである。

 先に引用した朝日新聞の記事は、戦争犯罪に問われた軍人らの靖国神社への合祀について、旧厚生省が日本の独立回復翌年の昭和28年(1953)に、公的援護制度の拡充などに応じて順を追って無理なく進める、との方針を決めていたという。この決定は、昭和28年8月に、国会がいわゆる戦争犯罪人は国内法的には犯罪者ではなく、法務死者とみなすことを決議したことによるものだろう。旧厚生省の資料には、その方針に沿って、先に地方の護国神社での合祀を目指すとの記述もあり、朝日新聞が調べたところ、6カ所でA級戦犯3人を含む先行合祀の記録が残っているという。先行合祀は、国会決議に沿った行政事務の一環と考えられる。
 朝日の記事は、「『A級戦犯』合祀の原点となる方針が、独立回復に際して政府内で練られていたことになる」と書いているが、この方針は、国会決議に基づくものであって、政府当局として当然の動きである。また「今回の文書で、終戦までと同様、政府が合祀という靖国の根幹領域に立ち入って方針を定め、戦犯合祀の環境をつくり上げたことがわかった」とも書いている。その文書を読んでみないとわからない部分があるが、先に合祀の経緯を書いたように、合祀は官民一体の共同作業として進められたものである。問題は、政府が元戦犯の靖国合祀を主導したことではなく、昭和60年以降、中国から筋違いの批判を受けて、歴代首相が参拝を自粛したり、政府が誤りまたは偽りの答弁をしてきたことにあるのである。
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関連掲示
・拙稿「冨田メモの徹底検

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