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  歴史再考

                       

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ber117

 

■日本は無条件降伏などしていない

2006.2.1

 

<目次>

はじめに

ポツダム宣言は降伏条件を明示

「無条件降伏」は作り話

アメリカの思惑

合意による占領

勝者の謀略

結びに〜偽りの歴史を打ち破り、日本の再建を

 

ber117

 

はじめに

 

 「日本はポツダム宣言を受諾して、無条件降伏した」ーこれは○ですか、Xですか?

学校では、○と教えられたと思う。ところが、正解はX。日本は無条件降伏などしていないのである。正しくは「日本国は、ポツダム宣言の条件を受諾して降伏した」と言わなければならない。

  これは、昭和53年「無条件降伏論争」の中で、文芸評論家の江藤淳氏が明らかにしたことである。平成8年から活発になった自虐史観の見直しの中で、無条件降伏論の誤りが、かなり知られるようになった。しかし、まだまだ「日本は無条件降伏した」となんの疑いもなく思っている人が多い。もしあなたもそうであれば、この機会に真実を知っていただきたい。

 

 

1.ポツダム宣言は降伏条件を明示

 

  日本は大東亜戦争に敗れ、昭和20年8月14日、ポツダム宣言を受諾した。それにもとづき、9月2日ミズーリ艦上で降伏文書に調印した。

  このポツダム宣言は、日本に無条件降伏を要求した文書ではなかった。それは宣言をちゃんと読んでみれば、誰の目にも明らかである。

13項目のうちの第5項には、「吾等ノ条件ハ左ノ如シ。吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ右ニ代ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得」(われらの条件は左のごとし。われらは右条件より離脱することかるべし。右に代わる条件存在せず。われらは遅延を認むるを得ず)と、降伏条件が提示されている。

つまりこの宣言は通常信じられているのとは反対に、以下8条にわたって降伏条件を明示した文書なのである。

  高校の教科書や資料集には、「日本はポツダム宣言を受諾して、無条件降伏した」と書いてあって、ポツダム宣言が囲み記事で掲載されているものがある。しかし、なぜかそこには「われらの条件は左の如し」という第5項は抜かれている。第5項が掲載されていれば、これは無条件降伏ではなく、降伏のための条件を書いてある文書であることが、分かってしまうからだろう。せこいトリックである。

  もっとも、宣言の中に「無条件降伏」という言葉が使われていないわけではない。最後の第13項には使われている。すなわち「吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ニ対ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」(われらは日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ、右行動における同政府の誠意につき、適当かつ十分なる保障を提供せんことを、同政府に対し要求する)とある。

ここで無条件降伏を求められているのは、日本の軍隊であって、日本の政府でも国民でもないことに注意していただきたい。この違いが、非常に重大なのである。日本の運命を分けたほどに重大な違いがここにあるのだ。

  江藤氏は、先駆的な名著『忘れたことと忘れさせられたこと』に、次のように記している。

「もし日本が『ポツダム宣言を受諾した』のが客観的事実なのであるなら、それは決して『無条件降伏』ではあり得ない。また逆に、もし日本が『無条件降伏』したというのであれば、それはポツダム宣言の規定に明らかに抵触せざるをえない。なぜならポツダム宣言第5項は、『われらの条件は左のごとし』として、以下第6項から第13項にいたる8項目の『条件(Terms)』を明示しているからである。つまり、ポツダム宣言受諾の結果『無条件降伏』したのは、『全日本国軍隊』であって日本国ではなかったのである。

  宣言第13項には『全日本国軍隊の無条件降伏(the unconditional surrender of all Japanese armed forces)』という文言があるが、『無条件降伏』という言葉が用いられているのは、ここ1個所だけで、それ以外の条項では、この言葉は只の一度も用いられていない。

  これは決して私の恣意的な解釈ではない。宣言発出当時、米国務省はすでに『ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規範によって解釈される国際協定をなすものとなる』という見解を下している。換言すれば、それが一種の『国際協定』である以上、ポツダム宣言は日本のみならず連合国をも拘束する性格をそなえているはずであり、また事実そうだったのである」。

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2.「無条件降伏」は作り話

 

「日本の無条件降伏」という言葉は、日本が軍のみならず、国をあげて連合国の膝下に服し、連合国の自由な措置に身を任せたかのような印象を与える。しかし、国際法の権威ハンス・ケルゼン教授によると、「元来降伏という言葉は、法律用語としては軍隊の降伏に対してしか用いないもの」である。それゆえ「日本国が無条件降伏した」と言うならば、国際法上は全く間違った表現である。実際には、日本は、降伏条件の提示されたポツダム宣言を受諾し、条件を取り決めた降伏文書に調印して降伏したのである。その後の連合軍による日本占領は、こうした国際法上の行為を前提として行われるべきものだった。それゆえ、占領は、ポツダム宣言と降伏文書に示された諸条項に基づいて実施されなければならないものであり、恣意的な権力の濫用はできないものだったのである。

  敗戦直後の日本の政治家、法学者、外交専門家などは、ポツダム宣言受諾による降伏を決して「無条件降伏」とは考えず、むしろ「有条件降伏」、つまり合意による協定にもとづいた降伏と考えていた。それに引き続く連合軍による占領も、双方が降伏条項を履行するための合意による占領と考えていた。

  ところが、現実に占領が開始されると、アメリカは降伏条件を著しく逸脱したことを次々に行った。アメリカは、ポツダム宣言及び降伏文書の内容を捻じ曲げ、日本国民に「日本は無条件降伏した」と思わせて、数々の占領政策を強引に押し進めたのである。

  それらの占領政策は、ポツダム宣言・降伏文書に違反するだけでなく、占領軍の権利・義務を規定しているハーグ陸戦規則に照らしても違法なものだった。つまり、国際法には根拠がなく、彼らの一方的な政策を力によって押し付けたものだったのである。

  アメリカは、日本人に対し、日本の降伏を「無条件降伏」であると思わせ、占領政策は一切条件交渉をすることのできない命令であり、連合軍最高司令官マッカーサーは全能の権力を持つという観念を、日本人の脳裏に注入した。それは、天皇の身命の危険をにおわせ、原子爆弾の使用を暗示したおどしと、厳しく巧妙な言論統制によって行われた。

  後に昭和21年5月3日に開始される東京裁判は、国際法になんら根拠を持たない、戦勝国による儀式化された復讐劇だったが、実は20年9月に始まる占領政策そのものが、はなから国際法を無視したものだったのである。そのうえで、日本人は、勝者が作った歴史を、真実と思わされてきたのである。

  江藤氏は、 記している。「われわれは真実を忘れ、かつ忘れさせられてきた。そして巧妙に仕組まれた忘却のうちに安住しながら、偽りの歴史によって今日まで生きてきたのである」と。

  この発言は、 約30年前のものだが、多くの日本人は「偽りの歴史」を疑うことなく、今日まですごしている。いやむしろ、学校教育と多くのマスメディアによって、「偽りの歴史」を教え込まれてきたのである。

  これこそ、アメリカの日本弱体化の謀略(註1)の結果であり、 アメリカの占領政策が生み出したマインドコントロールが、今日も人々の心を縛りあげている姿なのである。

  皇室の存続の危機も、極東有事も、財政破綻も、3歳児崩壊も、ニートの増加も、その他のもろもろの危機は、共通の根にいたる。戦後日本人が受けてきたマインドコントロールから抜け出し、日本人本来の精神を取り戻さない限り、 日本人は、 今日の危機を何一つ解決できないだろう。

  まず「日本は無条件降伏したのではない」という真実に目覚めよう。そこから、別の歴史が見えてくるとき、危機の解決の道が開かれるだろう。ページの頭へ

 

(1)日本弱体化政策については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本弱体化政策の検証

 

 

3.アメリカの思惑

 

  大東亜戦争の終戦にあたり、日本は無条件降伏したのではなかった。アメリカによって、無条件降伏したと同然の状態に、おとしめられたのである。その過程をより具体的に点検してみよう。

第2次大戦の戦時中、アメリカは、日本の「無条件降伏」を前提とした占領政策を立案していた。その当初政策は、戦勝国の意志を一方的に敗戦国に押し付けようとするものだった。

「無条件降伏」方式の構想は、米大統領フランクリン・ルーズヴェルトが南北戦争の戦後処理にヒントを得て、着想したものといわれる。彼の構想は早くも昭和18年1月26日、カサブランカ会談後の記者会見において、対枢軸国方針として声明され、同年11月27日のカイロ宣言においては「日本国の無条件降伏」という表現に特定された。

ところがアメリカの意図に反し、昭和20年7月26日のポツダム宣言は、降伏条件を提示して日本に「有条件降伏」を求める内容となった。それは「日本国の無条件降伏」ではなく「全日本国軍隊の無条件降伏」を求めるものであり、アメリカの当初政策とは多くの点で著しく異なっていた。

アメリカにすれば当初の狙いから大幅な後退を余儀なくされたわけである。その理由には、@ルーズヴェルトの病死、 A日本軍の予想外の抵抗、B連合国間の思惑の変化などがあげられる。

米国務省は、当初の「無条件降伏」方式が、ポツダム宣言によって重大な修正を加えられたことを認めていた。 ここにしっかり注目する必要がある。国務省は『1945年7月26日の宣言と国務省の政策との比較検討』において、次のように分析している。

「この宣言は日本国及び日本国政府に対して降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規範によって解釈されるべき国際協定となるはずである。国際法では国際協定は双務的なものであり、不明確な条件は受諾した国に有利に解釈され、条件を提示した国はその意図を明確にする義務を負うものとされている。

  一方、国務省の政策は、従来、無条件降伏とはなんらの契約的要素を含まぬ一方的な降伏のことだと規定してきた」と。

  ここに明瞭に記されているように、ポツダム宣言は、日本国を無条件降伏させるものではなかったのである。それは日本国のみならず連合国をも拘束する双務的な協定だった。したがって日本は、 占領中といえども、一方的に政策を押し付けられる立場ではなく、協定の相手方に対して、降伏条件の実行を求める権利を留保していたのである。

  ところが、アメリカ政府は、ポツダム宣言による双務契約を無視して「日本国は無条件降伏した」と言い張り、占領政策を強行しようとした。その意思は、昭和20年9月6日のマッカーサーへの『連合軍最高司令官の権限に関する通達』によって明確に打ち出された。

この通達の第1項には「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである」と明記されている。これはポツダム宣言からの逸脱であり、米国の当初政策に復帰させようという傍若無人な企てだった。

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4.合意による占領

 

ポツダム宣言に対し、日本政府は、8月10日付で申し入れをし、宣言の意図を確認した。これに対し、翌11日バーンズ米国務長官による連合国側の回答があった。それは、降伏と同時に天皇と日本政府の「国家統治の大権」が「連合国最高司令官の制限の下に置かれるもの」とし、「最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に従い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せられるべきもの」とする旨の回答だった。

  そこで、日本は、ポツダム宣言は国体を変更するという要求を含まないとの了解の下に受諾する用意がある旨を回答し、8月14日に同宣言を受諾した。そして、翌15日に、昭和天皇の「終戦の詔勅」(註2)が発せられ、全日本軍はいっせいに連合軍に降伏したのである。

  当時の鈴木貫太郎首相(註3)は、15日のラジオ放送で、次のように述べている。

「帝国の存立の根基たる天皇陛下の統治大権に変化なきことを条件として、米、英、支並びにソ連の7月26日付共同宣言を受諾する用意のある旨を通告するに決し、政府は直ちにその手紙を採りましたところ、先方よりも回答が参りその回答を検討いしたしましたところ、天皇陛下の統治大権に変更なきことを確信致しましたので、ここに共同宣言を受諾することになりました」と。

  鈴木首相は、ポツダム宣言を受諾する過程で日本側からも条件を提示し、双方が了解したことを明らかにしている。また、日本政府とこれを提示した米英ソ中4国政府との関係が対等であることを示している。このような放送が、日本国民になされたのである。

  ポツダム宣言受諾当時、日本のジャーナリズムは、日本の降伏を無条件降伏などとは、全く考えていなかった。アメリカのジャーナリズムもまた、ドイツは無条件降伏であるのに対し、日本の降伏は有条件降伏と理解し、日本とドイツでは占領の態様も異なるものとなることを十分認識していた。

  終戦には、交戦国の合意による終戦と、勝者の征服による終戦があり、それによって合意による占領と、征服による占領とは、全く異なるものとなる。ドイツの場合は、国内での戦闘によって壊滅し、ヒトラーは自殺し、ナチスの幹部は自殺や国外逃亡などして、政府が存在しないという無政府状態となっていた。その占領は「征服」によるものであり、全国土が占領され、占領軍による直接の軍政がしかれた。

これと違い、日本の場合は、天皇を元首とする政府が存在し、降伏条件を確認して、ポツダム宣言を国家の代表者が正式に受諾した。日本の占領は合意によるものであり、要所となる地点のみの占領を条件とし、日本国政府が降伏条件を履行するように国土の一部を担保とする保障占領という性格のものと解釈されていた。このような理解は、当時の日米のジャーナリズムの間に、ほぼ共通していた。

  昭和20年8月30日にマッカーサーは、厚木基地に降り立った。その3日後、米戦艦ミズーリ号の艦上で、日本国と連合国との降伏文書の調印が行われた。日本側は、重光外相と梅津参謀長が降伏文書に調印した。この時、日本国代表は「全日本軍の連合国に対する無条件降伏」を契約した文書に調印した。決して「日本国の無条件降伏」を認める文書に調印したのではない。実際、降伏文書は、日本側より8項目にわたる申し出をし、連合国がこれを受諾した形をとっている。それゆえ、これは一つの国際的合意であることは明らかである。日本が主権喪失したなどとは書かれていない。主権が存在することを前提として、その範囲を限定しているにすぎない。

  マッカーサーも、調印式において、「降伏条件が完全迅速かつ誠実に遵守されるよう、必要な措置を取る決意である」と声明した。彼自身も日本国が無条件降伏したのではないことを明確に認識していたのである。「降伏条件」と言っているではないか。

ところが、かの人類史上初の原爆投下を決定したアメリカの指導者、トルーマン大統領は、日本の降伏を強引に無条件降伏と捻じ曲げようと企んでいた。彼が「無条件降伏」という捏造の主犯である。ページの頭へ

 

(2)終戦の詔勅については、以下の拙稿をご参照下さい。

戦後の原点『終戦の詔勅』〜昭和天皇(6)

(3)鈴木貫太郎については、以下の拙稿をご参照下さい。

忠義の心で終戦に導く〜鈴木貫太郎

 

 

5.勝者の謀略

 

  8月14日、日本政府のポツダム宣言受諾の通告を受けたトルーマン大統領は、同日発表した声明で次のように述べた。

「私はこの回答を日本の無条件降伏を明記したポツダム宣言の完全な受諾と見做すものである。該回答中には留保条件は全く含まれていない」

  ポツダム宣言のどこに「日本の無条件降伏」が明記されているというのか。「全日本軍の無条件降伏」はある。しかも、ポツダム宣言自体が降伏条件を挙げている文書ではないか。ところが、アメリカの最高指導者が書いている。

「日本の無条件降伏を明記したポツダム宣言の完全な受諾と見做す」「留保条件は全く含まれていない」と。

トルーマンが、ポツダム宣言についての国務省の分析を知らないわけはない。トルーマンとは何者か。広島・長崎に原爆を落とし、人類史上かつてない、一般市民の無差別大量虐殺を指示した人間である。この最大の罪悪を敢えて犯したアメリカの指導者が、再び日本への悪意をむき出しにした。大統領自身が、連合国と日本が約したポツダム宣言の法律学的解釈を無視し、宣言の内容を捻じ曲げて、米国の当初政策を強行する意志を示したのである。

江藤淳氏は「米国はこの瞬間より、意識的な協定違反への道を歩み始めていた」と見破っている。ここに、今日に至るまで日本人の精神を支配しているマインドコントロールの起点がある。

昭和20年9月2日、降伏文書の調印後、マッカーサーは、本国からトルーマン大統領の意思を伝える「降伏後における初期対日方針」の草案の内示を受けた。マッカーサーも、その内容には驚いた。そして9月3日付で陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャルに宛てて極秘電報を打った。

「特に内示された指令は、いくつかの点において降伏文書とポツダム宣言に規定されている諸原則を著しく逸脱していると思われるので、小官は所見を貴官に上申しておかなければならないと感じるのである」

  マッカーサーすら「マッサーカー!!」と思うほど、米政府の方針は、ポツダム宣言と降伏文書から「著しく逸脱している」ものだったのである。

それゆえ、当時の日本側が官民の別なく「日本は無条件降伏したのではない、日本の敗北は合意による敗北であり、決して征服による敗北ではない」と理解していたのは、当然だった。ポツダム宣言は第10項で「言論、宗教及思想の自由」を明示的に保障するものだった。それゆえ、本来は、敗者とはいえ日本側には、勝者たる連合国を批判する自由を留保する権利があったのである。

  ところが、アメリカは日本側の一切の批判・抵抗を封じて、一方的に占領政策を押し付けてきた。マッカーサーは、先ほどの電報の中で、米政府の方針を実施しようとすれば、それまでの占領計画を全面的に改訂しなければならず、「予定よりはるかに多数の兵力をはるかに長期にわたって維持しなければならない」と打電した。そして、米政府の占領計画を実行するために、彼に強大な権力を与えるよう要求したのである。

  これに対し、9月6日付でトルーマンは、「連合軍最高司令官の権限に関する通達」を発した。これはトルーマンが合衆国全軍総司令官の資格で、部下の一将軍であるマッカーサーに発した指令である。その内容は、次のようなものだった。

 「1.天皇および日本国政府の権限は、マッカーサー元帥の支配下におかれる。連合国と日本との関係は、契約的基礎の上にあるのではなく、日本は連合国に対して無条件降伏を行ったのである。マッカーサー元帥の権威は日本に対して至上のものであるから、マッカーサー元帥の権威の範囲に対する日本人の質問を許してはならない。

  2.日本の管理は、マッカーサー元帥が速やかにその意図を実行し、必要とあら武力を行使する権利を傷つけずに良好なる結果を生ずる場合にのみ、日本政府によって行われるであろう。

  3.対日戦後処理問題に関するポツダム宣言は、契約上の要求に基づいてなされたものではなく、日本および極東の平和ならびに安全に対して誠意ある政策を実施せんとする意図の下に発せられたものである」

  この通達は「ポツダム宣言及び降伏文書が示す各種の条件を踏みにじり、マッカーサーに『全能の権力』を与えようとする、破天荒な不法文書」(伊藤哲夫氏)だった。トルーマンは、マッカーサーに対し、日本の「無条件降伏」を前提として立案したアメリカの当初政策を強行するように命令したのである。連合国の一国にすぎないアメリカの大統領が、国際的軍隊である連合国軍の最高司令官に指揮権を振るうのも、まったくおかしな話である。また、マッカーサーは、大統領から授けられた権力が、違法・不当なものであることを知っていた。

  かくして強大な権力を与えられたマッカーサーは、10月11日、幣原喜重郎新首相が元帥を訪問した際、声明書を読み上げた。それが、日本国に憲法の改正を要求するものだったのである。これは、重大な国際法違反である。「ハーグ陸戦規則」第43条には

 「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし」

と定められている。この規定に従うならば、連合国軍は、当時の日本の法律を尊重しなければならなかったのである。占領下で敗戦国の憲法を改正することなど、当然許されない。

しかし、マッカーサーは、トルーマンの指令に従い、日本を無条件降伏したと同然の状態におとしめ、現行法の廃止を次々に行うとともに、国家の基本法である憲法の改正を強要していったのである。ページの頭へ

 

 

結びに〜偽りの歴史を打ち破り、日本の再建を

 

  トルーマンは、マッカーサーを、さらに全能の独裁者的存在へと仕立て上げていく。昭和20年11月1日付で下令された「基本的対日初期方針」において、彼は次のような指令をマッカーサーに発した。そこには、次のようにある。

「敵国領土を軍事占領する軍隊に許されている通常の権力に加えて、貴官は降伏条項及びポツダム宣言の諸条項を実施するに当たり、好ましくかつ適当と考えられるあらゆる手段をとり得る権力を有する」

  この指令もまた、アメリカの一方的な声明だった。「通常の権力」とは、「ハーグ陸戦規則」その他の戦時国際法によって認められている権力である。その「通常の権力」以上の権力を、なぜマッカーサーが持ち得るのか。その権原の問題については、なに一つ明示されていない。一体なぜ一国の大統領が、国際社会のルールを超えた内容の指令を発しうるのか。超法規的独断的な決定であり、国際法を無視したものだった。

  こうした一連の米国の態度について、江藤淳氏は、「合衆国政府は、明確な政策的意図をもって自国の一方的国家意志を強引に国際的合意の上位に置き、そのことによって明らかに国際法違反を行ったのである」と断言している。

ドイツは、日本とは異なり、全くの無条件降伏をした。しかし、そのドイツにおいてすら、憲法の改正を要求されることはなかった。この事実は重要な意味を持っている。ここには、あきらかに有色人種に対する人種差別が存在する。

  日本政府は憲法改正の要求に驚いたが、ポツダム宣言が「日本国国民の自由に表明せる意思」を認めていることを踏まえ、日本人としての自主的な憲法改正を試みた。当時わが国有数の憲法学者だった松本丞治博士が国務相に任じられ、博士を中心とした委員会が改正案をつくった。そして、昭和21年2月13日、いわゆる松本案をマッカーサー司令部に提示したところ、GHQ側はこれを拒否し、極秘裏に起草していた英文の憲法草案を突きつけてきた。そして、飲まないと天皇のご身命に関わること、また3発目の原爆攻撃の能力があることを暗示し、心理的圧力をかけてきた。結局、日本は、GHQが1週間ほどでつくった憲法を押し付けられた。それは、日本が無条件降伏したと同然の状態に置かれていたからである。

 日本国憲法は、「無条件降伏」方式の落とし子である。トルーマンとマッカーサーという大ペテン師が、「日本は無条件降伏した」という嘘を言い張り、詐欺と脅迫をもって作り出したのが、日本国憲法なのである。(註4)

もう一つ重大な国際法違反が行われた。皇室典範の改正である。大日本帝国憲法の下では、皇室典範は憲法と同等のものと位置づけられていた。日本国の中心である皇室の弱体化を図ったGHQは、昭和22年1月16日、皇室典範を改正させた。そして、皇室の権威を引き下げ、経済基盤を奪い、また直宮家(じきみやけ)を除く11の宮家を臣籍降下させた。これもすべて、「無条件降伏」方式の強行によるものである。

GHQ製憲法のことに話を戻すと、英文の憲法案が提示された直後、外務省当局は昭和21年3月17日付けで、次のような文書を作成していた。表題は『日本の降伏が無条件降伏なりや否やの問題』ーこの文書で外務当局は「如何程強弁しようとも日本が無条件降伏したりとは言へないのである」と、明確に認識していた。そのうえで、但し書きとして、「但し、現在に於て日本が右の如き主張を連合国に対して為すべきか否かは又別問題であって、最後の結論迄押し進めることは十分の考慮を要するし又之を為す為には為す者の強い自信と之を支持する国民の団結がなければならないのは勿論である」と書いている。

  江藤氏は、この外交当局の政治的判断に関し、次のように述べている。「当時外交当局は、連合国に対してこのこと(註 日本は無条件降伏していないこと)を主張するためには『国民の団結』を期待し得る他日を俟たねばならないと考えていた。そのような『国民の団結』は、サンフランシスコ講和条約のときには実現されなかった。いや、今日なおそれが実現されていないからこそ、私はこの文書を紹介しなければならないのである」と。

  この江藤氏の言葉は、昭和53年のものである。昭和27年4月28日、サンフランシスコ条約の発効で、日本は独立国家としての主権と国際社会での地位を回復した。日本人はこのとき、戦争状態を終えました。そして、6年8ヶ月という異常に長い占領時代における違法な権力の支配を脱することができた。その後は、自らの意思によって、日本人自身の手による新しい国造りをすることができるようになったのである。しかし、今日もなおこの課題は達成されていない。国の根本を定める憲法の改正は、なされておらず、憲法と深い関係のある教育基本法も改正されていない。それどころか、GHQによって改悪を余儀なくされた皇室典範をさらに改悪し、皇室の存続を危うくするような動きが起こっている。

  こうした事態は、日本人が「日本は無条件降伏した」と思わされたことに発する。そして、日本弱体化政策によって、日本人は徹底的に精神を骨抜きにされ、東京裁判を通じて自国を悪とする歴史観を植え付けられたからである。

  しかし、もはや卑屈と無知の時代に、終りを告げなければならない。

「偽りの歴史」を打ち破り、真実に目を開き、日本人としての精神を取り戻し、日本の再建を進めよう。その第一歩が、「日本は無条件降伏などしていない」と明確に認識することなのである。ページの頭へ

 

(4)日本国憲法については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「日本国憲法は亡国憲法〜改正せねば国が滅ぶ

参考資料

・江藤淳著『忘れられたことと忘れさせられたこと』(文春文庫)

・児島襄著『占領政策』(文春文庫)

・伊藤哲夫著『憲法はかくして作られた』(日本政策研究センター)

・勝岡寛次著『抹殺された大東亜戦争』(扶桑社)

 

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