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ber117

 

■冨田メモの徹底検証

2006.9.29

 

<目次>

はじめに

第1章 昭和天皇がA級合祀に「不快感」?

第2章 冨田メモ公開の経緯と報道の結果

第3章 昭和天皇のお言葉か

第4章 他の史料との比較

第5章 徳川元侍従長の発言かも

第6章 4月28日に何があったか

第7章 徳川元侍従長の虚言?

第8章 改憲を提案する

補説1 靖国問題と元「A級戦犯」合祀の経緯

補説2 松本健一氏に説明を求める

補説3 立花隆氏に反論する

 

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はじめに

 

 平成18年7月20日、昭和天皇のお言葉だとされるメモが報道された。元宮内庁長官・富田朝彦の私的メモが、わが国に衝撃をもたらした。その報道の仕方、公開の経緯、報道の結果、そして、発言者は誰なのか。私は、最初の報道以来、約2ヶ月、様々な見解・情報を読み解きながら、検証を試みた。ここにその試みを集成して掲載する。

 

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第1章 昭和天皇がA級合祀に「不快感」?

 

(1)日経7月20日号のスクープ

 

 平成18年7月20日、『日本経済新聞』は、大スクープを掲載した。それが以下の記事だ。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

◆『日本経済新聞』(平成18年7月20日号朝刊)

 

昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ

 

 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての価値も高い。(略)

 靖国神社に参拝しない理由を昭和天皇が明確に語り、その発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。「昭和天皇が参拝しなくなったのはA級戦犯合祀が原因ではないか」との見方が裏付けられた。

 富田氏は昭和天皇と交わされた会話を日記や手帳に克明に書き残していた。日記は同庁次長時代も含む75-86年まで各一冊、手帳は86-97年の二十数冊が残されていた。

 靖国神社についての発言メモは88428日付で、手帳に張り付けてあった。昭和天皇はまず、「私は、或る時に、A級(戦犯)が合祀され、その上、松岡、白取(原文まま)までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と語ったと記されている。

 「松岡」、「白取」はA級戦犯の中で合祀されている松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、「筑波」は66年に厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら、合祀しなかった筑波藤麿・靖国神社宮司(故人)を指すとみられる。

 さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々(やすやす)と。松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」と述べている。

 この部分の「松平」は終戦直後に最後の宮内大臣を務めた松平慶民氏(故人)と、その長男で78年にA級戦犯合祀に踏み切った当時の松平永芳・靖国神社宮司(同)を指すとみられる。(略)

 昭和天皇は靖国神社を戦後8回参拝したが、7511月の参拝が最後となった。参拝しなくなった理由についてはこれまで、「A級戦犯合祀が原因」「三木首相の参拝が『公人か私人か』を巡り政治問題化したため自粛した」との二つの見方があった。現在の天皇陛下も89年の即位以降、一度も参拝されていない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

報道の仕方は、センセーショナルだった。まるで歴史的な大事件を伝えるかのごとき扱いである。

この記事は、富田朝彦元宮内庁長官が残したメモは、昭和天皇のご発言を伝えるものという前提で書いている。メモの内容は、昭和天皇がいわゆるA級戦犯を靖国神社に合祀したことに「強い不快感」を示したものとし、昭和天皇が靖国神社にご親拝されなくなったことにつき、「A級戦犯合祀が原因ではないか」との見方が「裏付けられた」と決め付けている。

 日経の記事が出た当日、『朝日新聞』は、夕刊で、富田メモは昭和天皇のお言葉、ご親拝の中止は、A級戦犯合祀が原因と断じる報道をした。全国紙のうち『産経新聞』のみは「昭和天皇のお言葉とされる」として断定を避ける表現をした。他紙は、日経・朝日の論調を受けた報じ方をした。

 日経の記事には、秦郁彦氏・半藤一利氏などの著名な学者や作家が、このメモを信頼性の高いものとするコメントを載せた。

こうした報道に対し、有識者やインターネット利用者が富田メモに疑問を呈した。貼り付けられた紙と本体との色の違い、インクの色の違い、メモが本体に糊付けられていること、筆跡鑑定の必要、入手の経路、提供者、公表の経緯など、疑問点は、史料分析に関わることに始まり、メモの書かれた状況、内容へと広範囲にわたった。これらの検証がまず必要だろう。きちんとした史料分析をせずに、断定的で一方的な報道をするのはおかしいし、それに協力する歴史家も、歴史家としての根本態度が違っている。

 メディアは、事実を報道するだけでなく、事実を構成し、一定の解釈を流す能力を持っている。それによって世論を操作し、政界を動かし、政治を方向付けることが可能であるのが、新聞でありテレビである。そのことをよく認識する人々は、報道をうのみにせず、独自に検討を行った。

公表のタイミングも疑問を感じさせた。いかにもこの時期にというタイミングだった。任期終了間近の小泉首相が最後に8月15日に靖国神社に参拝するかどうかが関心を高めていた。また、次の自民党総裁は靖国参拝をする人物となるかどうかが注目を集めていた。こういう時期に、わが国はあった。

 国内では、自民党の内部には、いわゆるA級戦犯分祀論、国立追悼施設の建設論、千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充論などの意見がある。宗教界では、東郷神社宮司の分祀受け入れ発言が論議を呼んでいる。財界では、首相の靖国参拝に反対する意見と、賛成する意見とが分かれている。

 国外では、中国が首相の靖国参拝を強く批判し、8・15参拝や次期首相の選出をけん制している。中国共産党政権に従順な政治家や財界人が優勢になれば、中国は外交上、多くの利益を得る。それは、今後起こりうる台湾侵攻、尖閣諸島占領に有利な情勢を作り出す。

 こうした状況において、富田メモは公表された。首相の靖国参拝に反対する勢力は、富田メモを利用して主導権を握ろうと動いた。

このメモをどう扱い、どう理解するかは、慎重に検討すべき事柄である。とりわけ、富田メモを天皇のお言葉として政治利用することは、厳に慎まねばならない。しかし、公表した日経の記事自体が強い政治性を感じさせた。

 

(2)ネット利用者が挙げた疑義

 

 7月20日の日経の記事は、富田資料のごく一部しか公表していない。全体を公表せず、部分だけを公開し、しかも断定的な報道をした。

 日経が報道した部分とそのページの上の部分及び前ページに何が書いてあるのか。ネット利用者が、報道された画像を反転させて、文字を解読した。そのデータがネットに流された。それによると、前のページの裏側には、概ね次のように読めることが書いてあることがわかった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――Pressとの会見                            

[1] 昨年は

  (1) 高松薨去間もないときで

    心も重かった

  (2) メモで返答したのでつく

  していたと思う

  (3) 4.29に吐瀉したが その前で

   やはり体調が充分でなかった

  それで長官に今年は記者

  印象があったのであろう

    =(2)については記者も申して

    おりました

 

[2]  戦争の感想を問われ

  嫌な気持を表現したが

  それは後で云いたい

  そして戦後国民が努力して

  平和の確立につとめてくれた

  ことを云いたかった

  "嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長

  の靖国発言中国への言及にひっかけて

  云った積りである

 

 

               4.28 C

  前にあったね どうしたのだろう

  中曽根の靖国参拝もあったか

  藤尾(文相)の発言。

 =奧野は藤尾と違うと思うが

  バランス感覚のことと思う

  単純な復古ではないとも。

 

  私は 或る時に、A級が

  合祀され その上松岡、白取

  までもが、

   筑波は慎重に対処して

  くれたと聞いたが

                      

〇   松平の子の今の宮司がどう考

 えたのか 易々と

りう  松平は平和に強い考が

閣で あったと思うのに 親の心子知

僚す らずと思っている

もが だから 私あれ以来参拝

知か していない。それが私の心だ

ら多

すい

    関連質問 関係者もおり批判になるの

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 最後の数行は、左の欄外に縦に「余り関係も知らず」「そうですがが多い」と書いてある。

 [1](2)は「メモで返答したのでごつごつしていたと思う」であることが、日経によって後日明らかにされた。

 

 日経の7月20日号朝刊は、1面に、Cというページの「私は或る時に」から「私の心だ」までの部分を、写真で紹介した。記事の本文中には、前のページの[2]の一部「戦争の感想を問われ、嫌な気持を表現した」という文言のみ引用していた。

 21日号朝刊では33面に、富田の日記・手帳を並べ、Cのページの全体が見えるように展示した写真を載せている。前のページは、裏面が映っているので、そのままでは読めない。また、Cのページの上半分の内容については、記事で具体的に触れていない。

 もう一つ見逃せないことがある。Cのページは、右角にCと書いてあり、これが4枚目。前のページは3枚目に当たる。そうすると、1枚目と2枚目があることになる。多くの国民の批判を浴びた日経は、その後、8月3日号で、1枚目の一部を画像で公開した。2枚目はなお公表されていない。皇室の家庭の事情に関わることが書いてあるからだという。

 3枚目を反転させて解読したものには、[1][2]とある。4枚目には[ ]の表記はない。4枚目は[2]の続きの部分なのか、3枚目とは別の内容または別の発言者の記録なのか、確定はできない。

 

 多くの疑問を生じさせる報道のなかで、日経をはじめとするマスメディアは、以下の部分を昭和天皇の御言葉として強調して伝えた。

 「私は 或る時に、A級が合祀され その上松岡、白取までもが、

 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが

 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と

 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている

 だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」

 

(3)史料としての分析をしていない

 

 最も重要なことは、富田メモは、史料としての科学的な分析がされないまま報道されていることである。7月20日の報道後、すぐこの指摘がインターネットに上がった。主に以下のような指摘がある。どれも現在まで未解決のままである。

 

@紙の変色具合

日記のページは黄色く変色しているが、メモの用紙は真っ白であり、書かれた時期が違う可能性がある。第2章(2)で詳しく触れるが、富田夫人によると、メモのほうは「日記帳の上に輪ゴムでまとめて載せてあった」という。紙の質や保存状態の分析が必要である。

 

Aインクの変色具合

ブルーインクで書かれた文字が、経年劣化で退色したり、かすれたりせず、綺麗なままである。日経が掲載した写真を見たインクの専門家によると、左側のページは、ブルーブラック・インキが経年劣化でブルーからブラックに変色した状態であるが、右側のページは、書いて日が浅く、ブルーのままで、まだ何年かしないとブラックに変色しない。左頁と右頁の時間は、相当の年数の開きがある可能性があるという。

 

B筆跡鑑定

史料として扱うには、専門家による筆跡鑑定が必要である。仮に富田自身の筆跡だとしても、氏の筆圧はかなり高く、次の紙に跡がつくはずだが、その跡がないように見える。本来そこに別の紙があって、それが切り取られた可能性がある。

C数字の筆跡

4枚目の右上にある数字は、書き直しがされているように見える。もともと書いてあった数字を直して、Cと書いた可能性がある。また、4の字の特徴が、富田の癖とは違うように見える。

 

D貼り付けた者

 日経の7月20日の記事は、「靖国神社についての発言メモは88年4月28日付けで、手帳に貼り付けてあった」という。ところが、富田夫人は、自分も読んだことのない「輪ゴムのメモ」を手渡したという。日経によって昭和天皇の発言と報道されたメモは、その中にあったことになる。そのため、4月28日のメモは、日経の記者が貼り付けたのではないかという疑惑が生じている。

 

E貼り付けの方法

経年劣化で接着剤は変色する。セロテ−プは変色する上に、溶けて切れやすくなる。その形跡が冨田メモにはない。後日貼り付けたものである可能性がある。本来別のメモがあったのにそれを切り取り、代わりのメモを貼り付けた可能性もある。

これだけ疑問があり、しかも内容は昭和天皇のお言葉だとされている。国会は、各分野の専門家を入れた調査委員会をつくり、徹底的な検証を行なうべきである。日本経済新聞社及び富田家は、調査に応じて、富田資料一式を提供すべきである。それができないのであれば、富田メモは、史料として価値のないものと見なさざるを得ず、これを政治や歴史研究・皇室論議等に利用すべきでないと思う。

 

(4)日経8月3日号の続報記事

 

日経は、批判・要望が集中したにもかかわらず、日記・手帳を公開せず、噴出する疑問に応えることもなく、8月3日から「昭和天皇との10年 富田メモから」という連載を行なった。その第1回の8月3日号に、7月20日・21日に報道した部分について書いた。多くの有識者やネット利用者による疑問や要望に圧されて、続報で釈明したような形である。

 記事は以下の通りである。

 

 「宮内庁長官の重要な職務の一つは天皇の呼び出し(「お召し」)に応じて、必要事項を報告・説明する「言上」。通常、言上は天皇と長官の「一対一」の形式をとる。昭和天皇がA級戦犯合祀(ごうし)に言及したのが八八年四月二十八日の言上時だった。

 当日の富田メモは計四枚。一枚目の書き出しに「63.4.28 1117−1153(吹上)」とあり、富田氏が午前十一時十七分から同十一時五十三分までの間、吹上御所で昭和天皇と会ったことが記されている。スケジュールを書き留めた別の手帳にも同日午前に言上と丸で囲んだ表記がある。

メモ四枚のうち一、二枚目はこの年の三月に腸の手術を受けた昭和天皇の三女、鷹司和子さんの退院の見通しなど、報告内容の個条書きとなっている。

 次いでこの日、最大の話題の天皇誕生日前の記者会見に話が移る。冒頭に「Pressとの会見」とある三枚目のメモには会見についての天皇の感想が生の言葉でつづられており、それが靖国神社のA級戦犯合祀に言及するきっかけとなった。

 二十九日の誕生日前の宮内記者会との会見は数日前に行われるのが通例で、八八年は二十五日に実施。昭和天皇は翌年一月に崩御したため、最後の記者会見となった。

 まず前年(八七年)の会見を振り返り「高松(宮)薨去(こうきょ)間もないときで心も重かった」「メモで返答したのでごつごつしていたと思う」(この年の会見はメモを読み上げる形だった)などが書かれている。

 続けて八八年の会見について「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現したー」「“嫌だ”と言ったのは(当時の閣僚の名)の靖国発言 中国への言及に引っ掛けて言った積(つ)もりである」などとある。当時、閣僚の発言に中国が反発したことがあり、これを気にかけていたことがうかがえる。」

 

 ここで名前が伏せられているのは、奥野誠亮(せいすけ)国土庁長官である。先に述べたように、ネット利用者が画像の反転をして解読済みである。

 

 「当時の一部報道によると、宮内庁内部で打ち合わせた回答原案では、「つらい思い出」と表現する予定だったが、天皇が「嫌な」と言い換えていた。その真意については定かでなかった。

 これを受けて四枚目のメモで「前にあったね」として、過去にも首相の靖国公式参拝や数年前の閣僚の戦争に関する発言に触れている。」

 

 「首相」とは中曽根康弘首相、「閣僚」とは藤尾文相であることも、反転で得たデータから明らかになっていた。しかし、日経は、これらの政治家の名を報じようとしない。

 

 「この話の流れの中で、メモ後半部分に「私は或る時に A級が合祀されーだから私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などとする靖国不参拝の理由を述べた発言が記述されていた。

 記者会見では事前に提出された質問の後、記者が自由に質問する「関連質問」があり、この年の会見で「戦争の最大の原因は」と問われた天皇は「人物の批判になるので述べることは避けたい」と答えている。四枚目のメモの末尾に「関連質問 関係者もおり批判になるの意」とあり、この事実と符合している。

 この年五月二十日のメモにも「靖国のことは多く相当の者も知らぬ。長官が何らかの形でやって欲しい」とあるほか、八六年七月二十三日付の日記で「靖国のこと、教科書問題などでお召し言上しきりである」などの記述がある。これらの問題について昭和天皇が常に気に掛けていたことがうかがえる。このメモは天皇と富田氏の信頼の証しであるかもしれない。

 富田氏のスケジュール手帳には一日ごとに、会った人たちの名がこまめに記されている。それによると、八八年四月二十八日に富田氏が会ったのは午前中に外務次官と昭和天皇、午後は皇太子(いまの天皇陛下)、夜は新聞記者の取材を受けている。それ以外の名は一切記載されていない。」

 

 この記事は、冨田メモに出てくる「=」という記号について、「=は富田氏の発言を示すメモの特徴」としている。

 

 日経8月3日号の記事によって、数々の疑義、疑惑は解消したか。否。依然として多く残っている。

 

 この続報記事で明らかになった主なことは、

 

●富田は28日午前、吹上御所で昭和天皇に言上したこと。

●メモの1、2枚目は鷹司和子氏、礼宮に関する天皇への報告内容が個条書きされていること。

●当日富田が会ったのは午前中に外務次官と昭和天皇、午後は皇太子(いまの天皇陛下)。夜は新聞記者の取材を受けていること。

●同年5月20日のメモに「靖国のことは多く相当の者も知らぬ。長官が何らかの形でやって欲しい」とあり、61年7月23日付の日記で「靖国のこと、教科書問題などでお召し言上しきりである」などの記述があること。

 

などである。

 

 日経は、8月3日号でも、富田メモは昭和天皇のお言葉であるという前提で書いている。しかも、「天皇の感想が生の言葉でつづられて」いるものと書いている。「生の言葉」と断定する根拠は何か。

 富田が天皇に言上した際、録音をとってはいないだろう。複数の人間が同時にメモを取ったのであれば、メモを付き合わせれば、ほぼ正確な文言が記録できるだろうが、富田以外の者によるメモは、存在していないようである。日経の記者自身が、言上の場に立ち会っているわけでもない。

 富田のメモは、あくまで富田個人が理解し、また書き留めた文言である。また富田は、天皇の御前で、聴きながら記録したとは限らない。退席してから記憶をもとに書き記したものかもしれない。これを天皇の「生の言葉」と言うのは、不見識だろう。

 

 記事は、富田メモに対する一定の解釈を書き連ねている。どうしてそういう解釈に至ったのか説明がない。社内でどう解釈してよいか議論はされていないのか。

 7月20日のスクープ記事以来、多くの人が日経の解釈に疑問を呈し、別の可能性を提示していた。にもかかわらず、8月3日号の日経の記事には、異論・異見を紹介し、それらを比較検討して自社の見解を伝えるのではない。そういう客観的で公正な報道姿勢がない。断定的な解釈を一方的に流すのみである。民主的な報道というより、一つの政治的主張の宣伝のような感じである。

 

 第5章(1)で詳しく触れるが、富田メモに出てくる「松岡」「筑波」「松平」に関する表現には、徳川元侍従長が、それによく似た発言をしている。また、他の史料と比較すると、昭和天皇のご発言とは思われないような片言隻句が並んでいる。冨田メモを昭和天皇のご発言と断定する報道に対し、徳川元侍従長の発言である可能性のあることを、多くの人々が指摘している。

 一体、冨田メモは昭和天皇のご発言を書き留めたものか、それとも徳川の発言を書き留めたものか、徳川を通じて聞き知ったことを書き留めたものか、あるいは天皇と徳川の両者の文言が含まれているのか、この検証は、最大の重要事項である。

 ところが、日経8月3日号の記事は、徳川の存在を排除しているかのようである。徳川発言説を斥けるために、あえて無視しているのかもしれない。また、昭和天皇に関する他の史料との対比を行おうともしていない。

 

 日経の8月3日の続報記事によっても明らかになってないことが、多数ある。第2章以降で詳しく述べることを含めて書いておくと、以下が主なことである。

 

●28日の貼付メモは、最初から貼ってあったのか、富田夫人から預かってから日経側が糊付けしたのか。

●なぜこの時期に公開したか。8月15日小泉首相の靖国参拝、9月に選出されるポスト小泉は靖国参拝をするか否か、それによって日中関係はどうなるか。こういう政局においてスクープ記事を出した理由。

●公明党・北側国交相と「隠れ学会員」という噂のある風岡宮内庁次長が、富田メモの公開に関わっているのではないかという情報がある。彼らが日経に富田メモを書かせたのか。

●日経の杉田社長は、4月に訪中して唐家せん(註 王+旋)氏と、靖国問題について話し合っていたことがわかっている。帰国後、杉田社長から社内で何か指示が出されたのか。

●28日、言上の際、天皇と会見したのは富田一人か。

●当日、富田は徳川元侍従長と会ったか。

●夜の新聞記者の取材に参加したのは富田だけか。

●当日、徳川の記者会見があったという情報がある。その真偽はどうか。

●会見に富田は同席してメモを取っていたか。

●記者会見に参加した各社の記者は、どういう記録を残しているか。

 

など多数ある。

 

(5)新聞協会賞で既成事実化

 富田メモ報道には、平成18年度の新聞協会賞が贈られた。7月20日の日経の報道以来、冨田メモの公表や報道の仕方に対し、多方面から疑問の声が上がった。日経と富田家は、富田資料を公開せず、公表の経緯等についても食い違ったまま、時が経過している。最も重要なことは、冨田メモを天皇のお言葉だとして政治利用しないことだが、日経・朝日等のメディアや一部の政治家は、自己の主張のために冨田メモを利用し、日経の報道内容を既成事実としようとしている。
 こうしたなかで、新聞協会は、富田メモを報道した日経の記者に新聞協会賞を授賞したのである。以下に引用する授賞理由は、日経の報道内容をそのまま事実として断定する内容となっている。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
2006年度新聞協会賞

<編集部門>

「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感」
  を記した富田朝彦・元宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)に関する特報

日本経済新聞社
編集局社会部 井上 亮

授賞理由
 日本経済新聞社は、昭和天皇が昭和63年、靖国神社へのA級戦犯合祀に不快感を示していたことを、平成18720日付の朝刊1面トップで特報した。
 昭和天皇の靖国神社参拝は5011月以来途絶え、理由について公式発表は一切なかった。今回の特報は、A級戦犯14人が合祀されたことに昭和天皇が強い不快感を示し「だから私はあれ以来参拝していない」と、63年、当時の富田朝彦宮内庁長官に対し語っていたことを、富田氏のメモによって明らかにした。
 地道な取材の成果として第一級の史料を発掘したこの特報は、首相の靖国神社参拝問題、靖国神社のあり方そのものの議論を喚起し、政治、社会、外交など各方面へ大きな影響を与えた極めて衝撃的なスクープであり、新聞の力を再認識させる報道として高く評価され、新聞協会賞に値する。

 井上 亮(いのうえ・まこと)=昭和36429日生まれ。昭和61年日本経済新聞社入社、整理部、社会部、長岡支局長などを経て平成183月から現職。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 あきれた話しである。冨田メモ報道への新聞協会賞は、わが国のマスメディアの多くが、真実の追究よりも、世論の操作を行う集団となっていることを露骨に示した出来事だと思う。 心ある日本人は、良識を結集してこの現状を打ち破らねばならない。ージの頭へ

 

ber117

 

第2章 冨田メモ公開の経緯と報道の結果

 

(1)意に反した公開

 

  冨田メモの検討にあたり、まず公開に関する問題点から見てみよう。

 富田メモの3枚目は、昭和63年4月28日「Pressとの会見」と題されている。その内容は、昭和63年4月25日の昭和天皇の記者会見に関わるものと見られる。

 25日の天皇記者会見では、次のような質疑があったと、『読売新聞』が報じている。

 

 ご質問:日本が戦争に進んだ最大の原因は何だと思われますか。

 お答え:「そのことは、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今ここで述べることは避けたいと思います」

 

 昭和天皇は、公の場で、特定の人物の氏名を上げて批評することを固く避けておられた。公正・中立に徹されており、ひいきの力士の名前やや好きなテレビ番組さえ、明らかにされなかった。ところが、富田メモには、中曽根・藤尾・奥野・松岡・白鳥などの個人名が出てくる。とりわけ松岡・白鳥には、厳しい見方がされている。その点でも、このメモが本当に昭和天皇のご発言であるのかと疑う人が多い。少なくとも昭和天皇は、この種のご発言が、直接的はもちろん伝聞であっても、公になることを決して望んでおられなかっただろう。

 

 『朝日新聞』平成18年7月22日夕刊の「窓」に次のような文章が載った。

 「当時の宮内庁長官は富田朝彦氏である。取材にはいつも応じてくれたが、天皇との話の内容には固く口を閉ざした。『宮中のことは親にも申すまじく候。昔はそう言われたものだ』と繰り返した。富田氏の退官後も何度か自宅にうかがい、その度に『昭和天皇のお話はメモを取っているのですか』と質問した。メモの存在は認めたが、『私が死んだら一緒に焼いてもらうつもりだ』と語っていた」

 

 記事によると、富田は、自分の記録を自分の棺とともに焼却されることを希望していた。ところが、その意思に反して焼かれずに残り、日経によって一部が公開されたことになる。日経は、記録を入手した経緯、提供者を明らかにせず、富田の日記・手帳を独占している。日記・手帳の全体が公開されていないので、どのような記録がされているのか、現時点では全体像は不明である。

 

 日経が富田メモを入手した経緯と提供者については、『週刊文春』が8月3日号に取材記事を載せている。

 それによると、作家の丸谷才一氏が3年ほど前、富田夫人の知子氏から日記を編集したものを見せられ、出版する価値があるか判断して欲しいと頼まれた。丸谷は、「差し障りがなくなったら、すぐに出版できるようにしておいたらいい」とアドバイスしたと言う。

 今回の記事をスクープした井上亮記者は、かつて宮内庁を担当し、富田やその家族と親交を深めていた。富田は、平成15年11月に亡くなった。その後、記者は平成18年に、地方勤務から再び宮内庁の担当に戻った。その後、富田家と接触を続け、5月に遺族から日記と手帳を託された。そして、秦郁彦氏・半藤一利氏・丸谷才一氏らに取材を行い、7月20日のスクープ記事となったということらしい。

 

 これが事実だとすると、夫人は富田の意思に反して、日記・手帳を公開したのであり、さらに出版まで考えていたことになる。宮内庁長官という富田の職務の重大性を理解していれば、守秘義務にかかわる私的記録の公開を図ったのは、安易な判断だった。また、この記録を目にして、公開を示唆・協力した人たちも見識が疑われる。

 

(2)4月28日のメモを貼付したのは誰か

 

 富田の日記・手帳の所有権は、知子夫人及び富田家にある。夫人は、富田資料を日経に預け、日経は「報道の自由」をもって、これを公開した。資料に関して多くの疑問がある。日経には、その疑問に答える説明責任がある。中でも、富田メモは、もともと日記に貼り付けてあったのか、それとも後から第三者が糊付けしたものなのか。これは重大な疑問である。

 もし第3者が貼付したのであれば、内容に関わることにも捏造や作為がされている可能性がある。

 

 『週刊文春』8月3日号の記事は、「半藤氏によれば、手帳に貼ってあるメモは靖国のくだりだけでなく『あちこちにメモが貼られていた』という。」と書いている。しかし、問題の4月28日の貼付メモについて、『AERA』7月31日号は、次のように伝えている。

 「富田氏が03年11月13日に亡くなった後、ベッドでふさがれた戸棚の中に、40冊から50冊の日記やメモが残されていたのを妻が見つけた。一部は一周忌の際に故人をしのぶCD−ROMに収めて知人等に配ったが、戸棚に立ててあった日記帳の上に輪ゴムでまとめて載せてあったメモについて妻は言った。『何が書いてあるかわからないから、そのCD−ROMには入れなかった』。昨年秋ごろ、日経新聞の記者が久しぶりに自宅にやってきた。懐かしさも手伝って、一周忌のCD−ROMを見せ、日記の現物と自分も読んだことのない『輪ゴムのメモ』を手渡したという。(略)今回の昭和天皇の発言はこの中にあった」

 ところが、日経の7月20日の記事は、「靖国神社についての発言メモは88年4月28日付けで、手帳に貼り付けてあった」という。この説明と、富田夫人の話は、食い違っている。夫人は自分も読んだことのない「輪ゴムのメモ」を手渡し、今回の昭和天皇の発言はその中にあったというのだから。

 そこから、4月28日のメモは、日経の記者が貼り付けたのではないかという疑惑が生じているのである。日経が8月3日から「昭和天皇との10年 富田メモから」と題して行なった連載では、糊付けの疑惑について一切触れていない。頬かむりのつもりだろうか。

 一体、富田メモは、もともと日記に貼り付けてあったのか、それとも後から第三者が糊付けしたものなのか。評論家の上坂冬子氏は、月刊『正論』10月号に、「『富田メモ』、夫人を訪ねて」と題した一文を載せた。氏は、富田夫人を訪問し、直接富田メモについて、話を聞いたのである。
夫人から聞いたところに基づき、上坂氏は次のように書いている。
 「日記の種類は二つあって一つは家庭内での出来事も克明に書いた日記帳、もう一つはメモと手帳をゴムで括ったものが二束だったという」「日記帳はさておき、ゴムで括った手帳のほうは殆ど手をつけずに同じところに放置してあったのを、そのまま記者に渡したという。メモについては用紙もバラバラで扱いにくかったため一度も読んだことはなかったそうだ。内容を知らぬまま渡したその束の中に、話題となったメモがあったものと思われる」。

 富田夫人は、『AERA』に語ったことと基本的に同じことを、上坂氏に語っている。富田夫人の語ることが事実であれば、日経の記者は、富田の日記に、バラバラだったメモを糊付けしたことになる。これは、資料の改ざんである。この疑惑が晴れなければ、冨田メモは、「第一級の史料」どころか、史料として扱うことすらできないものなのである。

 貼付の目的は何か。また、日時の異なるものを貼り付けたり、順番を変えていたり、間を抜いたりなどの作為はないのか。事の重大性はいくら強調しても強調しきれない。

 一旦公開した以上、富田夫人と日経新聞社は、すべての事実関係を明らかにすべきである。

 

(3)公開の時期と政治利用

 

 冨田メモの公開には、歴史研究者の秦郁彦氏、半藤一利氏が協力している。7月20日の日経の記事に対して、さまざまな反応が出た。それに答える形で、月刊『文藝春秋』9月号で、両氏は、保坂正康氏と鼎談を行ない、経緯の説明や冨田メモに対する評価・判断等を述べた。基本的に、日経の報道内容を支持し、裏づけするような内容となっている。

その鼎談のなかで、公表の時期について、秦氏・半藤氏は、日経の資料入手・検討の過程に触れ、たまたまその時期になった旨、述べている。しかし、公表のタイミングは、いかにもこの時期に、という印象を与えるものだった。

 当時、任期終了間近の小泉首相が最後に8月15日に靖国神社に参拝するかどうかが関心を高めていた。また、次の自民党総裁は靖国に参拝する人物になるかどう考えるかに注目が集まっていた。靖国参拝が総裁選の争点と見られていた。
 自民党内には、いわゆるA級戦犯分祀論、国立追悼施設の建設論、千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充論などの意見があり、宗教界では、東郷神社宮司の分祀受け入れ発言が論議を呼んでいた。財界では、首相の靖国参拝に反対する意見と、賛成する意見とが分かれていた。反対意見は、中国との関係の深い財界人に多く見られた。
 国外では、中国が首相の靖国参拝を強く批判し、8・15参拝や次期首相の選出をけん制していた。中国共産党政権に従順な政治家や財界人が優勢になれば、中国は外交上、多くの利益を得る。それは、今後起こりうる台湾侵攻、尖閣諸島占領に有利な情勢を作り出す。

 こうした状況において、富田メモは公表された。そして、厚顔な政治家やマスメディアは、冨田メモを昭和天皇のお言葉として、盛んに政治利用した。利用するのは目的があるからであって、公表の時期が7月20日だったことが、偶然とは私には思えない。

 冨田メモ公開の直前、日経は、社員によるインサイダー株取引が報道され、信用上まずい事態になった。そこで、冨田メモの報道で、世間の目をそらしたという見方がある。ありそうな話だが、せいぜい掲載日を何日に決めるか、最後の調整の範囲であって、7月20日またはそれ以降の近いうちにスクープ記事を載せることは、既定の方針だったはずである。そして、冨田メモを政治利用しようという計画があっただろうと、私は考える。

 富田メモによって、首相の靖国参拝に反対したり、「A級戦犯」の分祀、国立追悼施設の新設、千鳥ヶ淵霊園の拡張などを唱える者が勢いづいた。しかし、このメモをもって、首相は参拝すべきでないとか、分祀すべきだなどと主張するのは、天皇を政治的に利用しようとするものである。しかも彼らの動機は、中国をはじめとする周辺諸国への配慮である。言語道断である。

 国家における慰霊という厳粛な行為に、外国による内政干渉を許してはならない。外国の内政干渉に、天皇のご発言だとするメモが悪用されてはならない。

 

 富田メモの政治利用に関しては、興味深い情報が二つある。

 

 一つ目は、ドイツ在住のジャーナリスト・クライン孝子氏によるものである。氏のブログから転載する。

 

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2006/07/31 () 今一つ『富田メモ』について公明党がらみ説(4)

http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=119209&log=200607

 

 「今、親しい知人から『富田メモ』に関して次のようなレポートが届きましたので、ご紹介いたします。

 

<<富田元宮内庁長官のメモに関する特別情報があります。この内容については、目下の段階で誰からの報であるということについては、極めて難しい状況がありますので、お知らせできないのが残念ですが。

 

(1)このメモの存在については、現宮内庁の高官が知っていた。

 この人は創価学会に関わっている人で、現内閣で公明党から出ている閣僚とは建設省の出身なので特別の間柄である。

 公明党は分祀を主張しているが、福田の総裁選不出馬によって、何らかの手を打つべく相談し、このメモを利用することを考えたようである。

 この公明党閣僚はつい先日中国を訪問して、靖国問題については何とかしますというような話をこっそりして来たようであり、靖国参拝反対を提唱している財界の動きから見て、日経のスクープとすれば効果もあり且つ2人の策動を表に出すことがなく、大きな影響を与えられると思策し、日経にその役を振ったようである。(略)」

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 二つ目は、『産経新聞』8月4日号2面の記事である。

 

◆日経 4月に杉田社長訪中 唐氏との会談 報じず

 日本経済新聞社の杉田亮毅社長が4月13日に中国の唐家せん(ほそかわ註 王に旋)国務委員と会談していながら、その事実を同紙がまったく報道していないことが3日、分かった。唐国務委員は席上、日本のメディアが中国の対日政策を日本国民が正しく認識するよう導くことを期待すると述べたという。

 中国の新華社電によれば、会見は北京の釣魚台国賓館で行われた。唐国務委員は「中日関係は国交正常化以来、これまでにない困難に直面している」という認識を示したうえで、「われわれは『日本経済新聞』はじめ日本のメディアが現在の中日関係と中国の対日政策を日本国民が正しく認識するよう導き、中日関係の改善と発展のために積極的かつ建設的役割を果たすよう期待している」と発言。

 これに対して杉田社長は「日中関係は、現在、重要な時期にあり、日本経済新聞は両国民の理解増進、日中関係改善のために積極的に努力したい」と表明したという。

 唐国務委員は外交部長時代の平成13年、日中外相会談で当時の田中真紀子外相に「(小泉首相の)靖国参拝はやめなさいと”厳命”しました」と発言した人物。

 『産経新聞』の取材に対して日経新聞社長室は会談の事実を認めたうえで、「公式のインタビューではなく、かつ発言には特段のニュース性がないと判断し、記事にしませんでした」とコメントしている。

 外交評論家の田久保忠衛さんは「新聞社の社長が中国首脳と会った事実を紙面で1行も報道しないことなどあり得るか。しかも相手は靖国問題で中国側の司令塔といわれている唐家せん国務委員だ。記事にしていないという事実は、会談の内容が外に漏れてはならない性格のものだったと考えないわけにはいくまい」と強い疑問を投げかけている。

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 一つ目の情報にある「公明党閣僚」は、北側国土交通大臣以外いない。他に閣僚はいないからである。一つ目の「日経のスクープとすれば効果もあり且つ2人の策動を表に出すことがなく、大きな影響を与えられると思策し、日経にその役を振った」ということと、杉田社長の訪中には何か関係があるだろうか。

「創価学会に関わっている」「現宮内庁高官」といえば、私の知る範囲では、風岡典之氏がいる。風岡氏は、国土交通省次官から宮内庁次長になった。平成16年9月から現職にある北側国土交通大臣とは、国交省時代から関係が深い。

 風岡氏が宮内庁次長となった人事については、平成17年4月12日付で、各マスコミに怪文書がばらまかれたという。ジャーナリストの山岡俊介氏によると、「その内容とは、風岡氏は“隠れ学会員”故に、本当はもっと適任者がいたにも拘わらず、その政治力で持って、学会の意思を体現して送り込まれて来たというもの」だったという。

http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2005/04/post_e306.html

 

 真偽の程はつまびらかでないが、点と点を結ぶと、いろいろな絵が見えてくるかもしれない。

 

(4)事前に今上天皇のご了承はない

 『文藝春秋』9月号の鼎談で、作家の半藤一利氏は、次のように語っている。
 「日経によると、記事を出す前日には、宮内庁を通じて今上天皇にも、富田元長官のメモを報じることと、靖国メモの内容をお伝えしたそうです。宮内庁からは、わかりましたという返事があったという」
 この発言を読んで、富田メモは昭和天皇のお言葉であるという印象を強くした人が多いに違いない。決定的と思った人もいるだろう。
 日経は、こういうことを自社の記事には書いていない。半藤氏を通じて、社会に流そうとしたのだろう。半藤氏は、日経のスポークスマンなのだろうか。日経の立場を代弁し、日経の報道姿勢や報道内容を正当化するのに、協力しているようなものである。私はそのことに引っ掛かりを覚えた。
 「宮内庁からは、わかりましたという返事」だったというが、日経の記者が、直接天皇陛下に申し上げたわけではない。仮に「わかりました」といったところで、宮内庁の内部で天皇陛下に報告がされたかどうかは、わからない。宮内庁の責任ある立場の人間が、語らない限り、半藤氏の言うことをそのまま鵜呑みにはできない。

 この半藤発言について、日本文化チャンネル桜が8月19日に放送した「報道ワイド」という番組で、キャスターの高森明勅氏(拓殖大学客員教授)が、重大な報告をした。
 番組は、最初に半藤発言の載った雑誌の一部を移した。それに続いて、半藤発言について、高森氏はこの番組のキャスターをしている高森だと名乗って、宮内庁に質問をしたという。これに対する宮内庁の答えは、「メモの公表に関して、事前の相談や事実関係の確認はなく、天皇陛下のご了承ということはありえません」という返事だったと言う。
 半藤氏は、日経の言っていることを「わかりましたという返事があったという」と伝聞形で述べているが、高森氏は「事実を捻じ曲げる誤った発言」であるとして、番組を通じて半藤氏に訂正を求めた。

 半藤氏は、速やかに意思を明らかにすべきである。また、責任は当然、日本経済新聞社にある。日経の杉田社長は、国民の前に立って、訂正・謝罪をすべきである。

 

(5)報道の結果

 冨田メモ公表の結果は、どうだったのか。

 自民党総裁選については、安倍氏の優勢は動かず、氏の圧勝となり、9月26日、首相指名が行われた。この点では、冨田メモの公表は、自民党内の首相の靖国参拝に反対する勢力、公明党、中国寄りの財界人の希望する人間を日本の首相に押し出すほどの影響力はなかったといえる。中国指導部は、画策が不首尾に終わり、切歯扼腕しているだろう。
 自民党総裁選の争点の一つはアジア外交の修復だった。核心は首相の靖国参拝の是非であるから、冨田メモ報道は、参拝反対派には相当の利益があっただろう。首相の靖国参拝に一定の圧力が加えられたことは、プラスと受け止めているだろう。
 冨田メモは昭和天皇がA級合祀に「不快感」、合祀以後はご親拝なし、と断定する報道を、多くの国民はそのまま受け止めている。こうした状況では、安倍氏にしても、彼以後の首相にしても、小泉元首相のようには参拝しにくくなっただろう。国家の大義を貫く信念が試されるだろう。

ちなみに、冨田メモの報道後、7月23日の人民日報は、靖国神社は日本の「軍国主義者」が大衆を洗脳するために使う「アヘンだ」と批判する署名論文を掲載した。同紙は、冨田メモを昭和天皇の発言とし、「A級戦犯の合祀に強烈な不満を示したものだ」と指摘、「メモが明らかになったこの機会に、日本は天皇の真意を真剣に受け止め、軍国主義の芽を摘み取るべきだ」などと主張している。小泉首相の靖国参拝を阻止できなかったものの今後の首相参拝への圧力に使うだろう。


 A級戦犯分祀論者、国立追悼施設の建設論者、千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充論者にとっては、冨田メモ報道は、強い追い風になっているだろう。報道後、広田弘毅や東郷茂徳の遺族が発言し、合祀に異論を呈した。このことも、好材料となっているだろう。追い風と言っても、実態は大陸から来る黄砂の交じった風である。その黄砂には、吸い込んだ人間の心を冒す細菌が付着している。
 
 事実であってもなくても、一度、世に広まったものを打ち消すのは、容易でない。人々の意識に押された刻印は、それに代えうる確かな事実がなければ、打ち消すことは出来ない。そこに宣伝というものの力がある。

 一方、冨田メモ報道によって、被害を受けたのは誰か。直接被害を受けたのは、靖国神社と元「A級戦犯」の遺族である。

靖国神社は、元「A級戦犯」の合祀について、同社としての見解を表していない。靖国神社のサイトでは、神道政治連盟の冊子を掲載することで、説明に代えている。立場上、そういう姿勢を取っているのだろう。冨田メモについても、弁明を控えているようである。そのため、客観的に見ると、言われ放しという形勢である。反論しない者は、事実を認めたものと見なされる。特に合祀の経緯の詳細については、昭和天皇のご内意の伝達の有無にかかわらず、合祀を実行したわけだから、その点の非をいわれ続けるだろう。

 次に、元「A級戦犯」の遺族の多くにとっては、昭和53年に合祀がされて30年近く経ってから、合祀が問題になるのは、心穏やかでないだろう。仮に冨田メモが昭和天皇のお言葉をなんらかの形で伝えるものだとしても、松岡・白取と、東条らとは区別され得る。後に具体的に述べるが、元「A級戦犯」全員の合祀について「不快感」を述べられたものとは理解できない。そのようなメモであるのに、元「A級戦犯」全員の合祀を問題にした報道は、遺族の多くにとって心外だろう。

 毎年8月15日に武道館で行なわれる全国戦没者追悼式において、昭和天皇、今上天皇は、元「A級戦犯」を含むすべての戦没者に哀悼の意を表しておられる。昭和天皇は、戦前の国家指導者が東京裁判で起訴されたとき、彼らを国家にとっての功労者と言っておられたと伝えられる。また処刑された元「A級戦犯」の遺族に対して心を配られ、東条家には毎年使者を遣わして下賜品を賜っていたという。
 日経による冨田メモの報道は、こうした側面を考慮しない一面的な解釈を国民に与えるものであり、報道というより、思想宣伝に近い。

 冨田メモ報道によって、最も大きな被害を蒙られたのは、昭和天皇だろう。冨田メモ報道は、過去に国民が昭和天皇に抱いていたお姿とは、大きく異なるイメージを国民に与えた。報道によって、昭和天皇の権威と信頼は、貶められた。
 また、天皇のお言葉を政治利用しないという良識は崩された。今後、自己の目的のために、天皇・皇族のお言葉なるものを平然と政治利用したり、噂を作り出して世論を操作する動きが、増えるだろう。
 天皇のお言葉だとして、非公式の私的なメモが公表されたことによって、今後、皇族方は、側近に対しても、心おきなく発言できなくなっただろう。その結果、皇室と国民を結ぶ心の絆に傷がつけられたとも言えよう。
 こうした結果を喜んでいるのは、誰か。皇室の存在をよく思わず、皇室の衰退や廃絶を願う人間たちだろう。その核には、共産主義者やフェミニストがいる。また在日外国人のうち反日的な思想を持った者、また反日的な姿勢の周辺諸国の指導層は、最も喜んでいるだろう。冨田メモの報道は、皇室の衰退や廃絶を願い、日本の亡国を画策する勢力を助長する行為だったと思う。

日本経済新聞は、「日本株式会社の新聞部」と呼ばれるビジネス紙である。近年、親中的な姿勢が目立っているとはいえ、こういう新聞が今回のような報道をしたことに、わが国のメディアと政財界の病の深さがある。

 私は、報道の結果について、現時点では、以上のように考えている。
 次に、では、もし冨田メモは昭和天皇のご発言だとする報道が間違っていたとしたら、どうか。私は、冨田メモを独自に検討することにより、冨田メモは、その全部が昭和天皇のご発言を直接または間接に伝えるものではなく、一部は徳川元侍従長の発言である可能性が高いと考えている。メモを詳細に分析し、他の史料・情報に照らして検討を進めるほどに、その可能性を高く感じる。その点は、次章で詳しく述べたい。
 もし冨田メモ報道が「世紀の大誤報」だったら、上記の報道結果は大きく変動する。日本経済新聞社は、社運が傾くだろう。日経の報道に関わった学者、有識者、政治家、政党、官僚等は、大きな打撃を受けるだろう。新聞協会の信用は、地に落ちるだろう。
 それだけに、冨田メモ報道に関わった者達は、反論を封じ、客観的な調査を拒み、天皇ご発言説を既成事実とするため躍起になっているのではないか。
 私は、真相解明のために、良識あるメディアには、徹底的な取材・報道の継続を期待する。また、国会議員には、国会で冨田メモを取り上げ、公開の場で質問を行なうことを強く要望する。国会は、各分野の専門家を入れた調査委員会をつくり、徹底的な調査を実施すべきである。これは、日本の伝統・文化・国柄を守るためにも、重要な課題だと思う。

ージの頭へ

 

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第3章 昭和天皇のお言葉か

 

(1)ずさんなメモの取り方

 

 本章から内容の検討を行う。まずメモの性格について述べたい。

 冨田メモは、逐一録音を書き起こしたり、発言要旨を議事録にまとめたりするような詳細な記録ではない。その場に誰がいて、誰が発言しているのかす明記されていない。その場の会話のうち、どの程度の量を、どの程度正確に書き留めているのかも、わからない。ところが、秦郁彦氏・半藤一利氏等は冨田メモを「第一級」の史料だという。彼らがお墨付きを与えたことが、日経にスクープ報道をさせた要因になっている。

 しかし、冨田メモは、あまりに不明なことが多い。メモのうち最重要の部分からしてそうである。すなわち、4枚目に、次の文言がある。

「私は 或る時に、A級が合祀され その上松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」

 メモ中の最重要部分である。この文中の「私」とは、誰であるのか。富田メモには記されていない。

 仮にこれは富田が昭和天皇のご発言を、直接または間接に書き留めたものだとしよう。そうだとしても、メモには、全部が天皇のお言葉とは考えられない部分がある。3枚目の「=(2)については記者も申しておりました」は、天皇のお言葉ではあり得ない。4枚目左下欄外の縦の2行「余り閣僚も知らず」「そうですが多い」も、そうである。

 一体、どの文言が天皇のお言葉であり、どの文言が他の人間の言葉であり、または筆者富田の意見であるのか。それを完全に区別できるのは、書いた本人以外にはいないだろう。こういうメモを「第一級」の史料とはいえないと思う。

 

 私も貴人・要人の言葉をメモした経験があるが、こういうずさんな記録はしたことがない。仮にとりあえずキーワードを書き留めた場合でも、後で記憶をもとに話者の主旨を構成する。また、重要な内容の場合は、清書しておく。その場に、複数の話者がいた場合は、誰の発言か記録する。そうしておかないと、少し時間がたつと、記憶があいまいになり、自分が聴いた主旨がわからなくなったり、誰の発言だったかさえ混同したりするからだ。

 

 富田は、天皇に仕える宮内庁長官という要職にあって、私的とはいえ、天皇のご発言を記録するという重要なことをしていたわけだが、このようなメモの取り方は、私の感覚で言うと、姿勢や方法がずさんである。

 万が一、自分の死後、この記録が天皇のお言葉として、世人の目に触れるかもしれないと意識すれば、いい加減なメモの残し方はできないはずである。

 富田は、戦前は海軍主計大尉、戦後警視庁に入り、宮内庁長官になる前は、警視庁警備局長だった。経歴を見る限り、相当優秀な官僚だし、危機管理のプロといってよい。そうした人間が、このようにずさんな記録の残し方をするとは、私は富田という人物に疑問を感じる。

しかも富田資料には、皇室の公表しがたい事情や、富田家の私的な出来事が、混在しているらしい。そうであれば、公私混同である。私的な記録と職務に関わる記録ははっきりわけ、職務に関わる記録は、死後に公開されぬよう自ら処理しておくのが、当然の心構えである。その当然のことをしていなかったような富田という人物が伝えることには、十分注意する必要があると思う。

 

(2)3枚目第1の部分

 

 日経が報道したように、富田メモは昭和天皇のご発言を直接または間接に記録したものである可能性はあるが、部分的に徳川元侍従長の発言を記録したものという可能性もある。以下、具体的に私見を記すが、誰の発言を判定するには、真に決定的なものが必要である。

 

 富田メモの3枚目には、昭和63年4月28日の日付があり、「Pressとの会見」と書かれている。第1の部分は、次のように書かれている。

[1] 昨年は

 (1) 高松薨去間もないときで心も重かった

  (2) メモで返答したのでごつごつしていたと思う

  (3) 4.29に吐瀉したが その前でやはり体調が充分でなかった

  それで長官に今年は記者印象があったのであろう

  =(2)については記者も申しておりました」

 

この部分は、「昨年」つまり昭和62年にも、63年と同じような記者会見が行なわれたことを示す。昭和天皇は毎年、天皇誕生日の前に記者会見をされていた。62年には4月21日に行われた。この年の2月3日に高松宮宣仁殿下が薨去されている。

また、発言者はそのころ体調が悪く、会見後の4月29日に「吐瀉」(嘔吐と下痢)したという。この日、昭和天皇が吐瀉された事実がある。『週刊朝日 緊急増刊 昭和逝く』(1989125日号)のP24に「皇居の宮殿『豊明殿』で午後零時五十分から開かれた天皇誕生日を祝う宴席で、朝食に食べたものを吐き戻された。美智子、華子両妃殿下に支えられながら、予定より十五分早い一時十五分に退席され、車いすで別室へ」とある。

 その後、昭和天皇は昭和62年の8月の末頃から、食べたものを戻されるなどの異常を訴えられ、9月22日に、宮内庁病院で手術をお受けになった。富田メモが記す昭和63年4月25日の記者会見は、大病をされた後の昭和天皇のご会見だった。

記者会見の内容は、マスメディアで報道された。『読売新聞』は、同年4月29日朝刊に「陛下、誕生日の記者会見 大きなお声、メモも見ず 今後も無理なさらずに」と題して報じた。天皇は、メモを見ずに大きなお声で、質問にお答えになったという。
 この点について、『吹上の季節―最後の侍従が見た昭和天皇』(中村賢二郎、文藝春秋)には、「どうも忘れたりしていけないね。思い出すのに時間がかかって」と昭和天皇が仰っていたと書かれている。
 富田メモの上記引用に、「メモで返答したのでごつごつしていたと思う」と読める文言がある。この文言は、天皇はメモも見ずにお答えになったが、メモを記憶して思い出しながら返答したのでスムーズに話せなかったとお気にされていた、という意味に取ることができると思う。

それゆえ、冨田メモ3枚目の第1の部分は、昭和天皇が何かお話しされたものがもとになっていることは、間違いないと思う。それを富田が昭和天皇から直接聞いたか、あるいは徳川から伝え聞いたかのどちらかになるだろう。

 

(3)3枚目第2の部分

 

 3枚目の続く第2の部分には、次のようにある。

[2] 戦争の感想を問われ 嫌な気持を表現したが それは後で云いたい そして戦後国民が努力して 平和の確立につとめてくれたことを云いたかった

"嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて云った積りである」

 

日経は、8月3日号の記事で、奥野個人名を伏せて引用する形で、この部分を報じた。この部分は、4月25日の天皇記者会見のご発言に似た表現がある。戦争の感想に関する部分がそれである。同時に、会見でのご発言にはないことも書かれている。

 記者会見における戦争に関する部分とは、以下の質疑である。『読売新聞』の当時の記事から引用する。

 

 ご質問:陛下が即位式(昭和三年十一月)をされてから六十年になりますが、第二次世界大戦について、改めてお考えをお聞かせ下さい。

 お答え:「何と言っても、大戦のことが、一番いやな思い出であります。戦後、国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後とも、そのことを国民が忘れずに、平和を守ってくれることを期待しています」

 

 記者会見で昭和天皇が「大戦のことが、一番いやな思い出」と述べ、「戦後、国民が相協力して平和のために努めてくれたこと」をうれしく思うとお答えになったことと、富田メモの上記引用には、共通の言葉がある。「嫌な気持」「戦后国民が努力して平和の確立につとめてくれたこと」である。

 それゆえ、上記引用は、記者会見の後に、天皇が会見の場でお答えになったことの主旨・含意を側近に漏らされた内容と見ることができる。

 皮肉なことに、日経が強調していない部分に、最も天皇のお言葉に近く思える文言がある。日経がそこを強調しないのは、なぜか。おいおい述べるが、ここに注目すると、日経の解釈とは異なる理解が開けてくるからだろう。

 

 戦争の思い出について、「悲しい」とか「つらい」ではない。「嫌な」というご表現である。記者会見が報道された昭和63年当時、私は、昭和天皇のお言葉としては、特異な印象を受けた。富田メモには、「”嫌だ”と云ったのは奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて云った積りである」とある。

 仮にこの文言が昭和天皇のお言葉だとすると、どうして、奥野の発言にひっかけて、あえて「嫌な」というご表現をされたのだろうか。

 

 「奥野国土庁長の靖国発言中国への言及」とは、奥野誠亮(せいすけ)国土庁長官のことに違いない。奥野は昭和63年の4月22日、靖国神社公式参拝についてのケ小平の発言を批判し、大東亜戦争について日本には侵略の意図がなかった等と発言した。

朝日新聞4月22日夕刊は、次のように伝えている。

「奥野国土庁長官は22日の閣議後の記者会見で、靖国神社参拝問題について「戦後43年たったのだから、もう占領軍の亡霊に降り回されることはやめたい」と述べ、閣僚の参拝を問題視する傾向を批判した。
 奥野氏はまた、中国への外交的配慮については「ケ小平氏が言っていることを無視することは適当ではないが、日本の性根を失ってはならない。中国とは国柄が違う。占領軍は国柄、国体という言葉を使わせず、教科書からも削除したが、教科書で神話、伝説をもっと取り上げた方がよい」と所信を語った。
 奥野氏は自民党の「みんなで靖国神社に参拝する会」会長を務めたこともあり、閣僚の公式参拝を控えることにはかねて批判的な立場。この日の会見では「占領軍は昭和20年に『公務員の資格でいかなる神社も参拝してはならない』と指令を出した。
 憲法とともに、日本が二度と米国に立ち向かえないよう、日本の団結力を破壊したい、ということだった。しかし、(戦前は)白人人種がアジアを植民地にしていたのであり、だれが侵略者かといえば、白人人種だ。それが、日本だけが悪いということにされてしまった」との歴史観を展開した」

 

富田メモの4月28日の時点では、国会でこの発言について奥野長官に質問がされ、政治問題化していた。結局、奥野は同年5月13日に国土庁長官を辞任した。
 仮に富田メモの3枚目第2の部分の文言を昭和天皇によるものとすると、天皇は、ここで戦争自体を嫌だと言われたのではない。奥野のような発言をする人間がいるのが嫌だと言われたのでもない。大東亜戦争を侵略戦争だとする見方や、英霊の祀られている靖国神社について中国の指導者が批判的に言うことについて、「嫌な気持」を持っておられた、それを奥野の発言にひっかけてご発言されたのだ、と理解することが可能だろう。

 ひとつの可能性としてこういう理解を立て、4枚目の内容との関係を考えたい。

 

(4)4枚目の上半分

 

富田メモの4枚目には、次のように書かれている。

「前にあったね どうしたのだろう 中曽根の靖国参拝もあったか 藤尾(文相)の発言。

 =奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも。」

 

3枚目と4枚目がそのまま順番で続くものであるのか、別々のものを貼り付けたのかという疑問が出されている。同じ28日に書かれたものだとしても、書いた時間帯が違う可能性もある。例えば、夜の記者の取材の準備として、3枚目は午前中に昭和天皇に「言上」した際に伺ったもの、4枚目は、富田の記者の取材か徳川の記者会見の場で書き留めたものというようなことが考えられる。3枚目も、徳川が昭和天皇に当日またはそれ以前に伺ったことを、富田が28日に伝え聞いたとも考えられる。いろいろな可能性が存在する。

ここでは、3枚目と4枚目は、内容が連続しているものと仮定して検討を続ける。

 

 上記引用には、「中曽根の靖国参拝もあったか 藤尾(文相)の発言」という文言がある。日経は、報道において中曽根・藤尾という政治家の名前を伏せて報道している。8月3日号で「「前にあったね」として、過去にも首相の靖国公式参拝や数年前の閣僚の戦争に関する発言に触れている。」としか述べていない。

私はこの部分は重要だと見ている。まず「中曽根の靖国参拝」とは、昭和60年8月15日に中曽根首相が靖国神社に公式参拝したことに対し、中国政府が抗議し、中曽根氏がその後、参拝を取りやめたことを指すものだろう。この問題は、4枚目の下半分、冨田メモの最重要部分に関わるので、後ほど詳しく触れる。

 続く「藤尾(文相)の発言」という部分には、報道された画像では赤線が引かれている。何を強調するものなのかはわからない。

「藤尾(文相)の発言」とは、昭和61年7月から秋にかけての藤尾正行文部大臣の発言を指すものだろう。藤尾発言のきっかけは、「日本を守る国民会議」(現・日本会議)が編集した高校日本史教科書『新編日本史』の内容を、韓国政府が批判したことにある。この時、藤尾文相は、南京虐殺はなかったとし、日本の韓国併合は韓国の合意のもとに行われたものであり「韓国側にもやはり幾らかの責任なり、考えるべき点がある」等と発言した。これに対して周辺諸国の再批判が高まるなかで、中曽根首相は藤尾を罷免した。

 『新編日本史』は一旦、文部省の検定に合格していたにもかかわらず、追加修正をさせられた。これは、昭和57年の教科書誤報事件以後、「近隣諸国条項」によって、はじめてわが国の教科書に外国の内政干渉を許した事件である。この事件は、近隣諸国に関する近現代史の記述について、外国からの圧力によって教科書が変更されるという前例を作った。

 中曽根氏は、周辺諸国の抗議に屈し、首相の靖国公式参拝を中止しただけでなく、わが国の歴史教科書の内容に外国の内政干渉を許し、以後、これが定着するという屈辱的な失政をした。

 

 3枚目の第2の部分に出てくる奥野発言、4名目の上半分に出てくる中曽根氏の靖国参拝と藤尾発言、これらの事件に共通しているものはなにか。わが国の歴史の評価と、それに関する周辺諸国の批判である。すなわち、靖国参拝、歴史教科書、日韓併合・南京事件・大東亜戦争等に関する認識と、周辺諸国、特に中国・韓国による批判、それに対するわが国の政府の内政干渉を許すような対応。これらが、一貫したテーマなのである。

 そして、昭和天皇と側近との間で奥野・中曽根・藤尾の名前が出たとするならば、昭和天皇は、中国・韓国の政府のわが国に対する批判や干渉を、快く思っておられないことをお述べになったり、側近がそのように申し上げたりすることを、首肯的に聞いておられた可能性があるということである。

 それゆえ、私は、もし富田メモを昭和天皇のお言葉とするならば、全体の流れを踏まえて理解しないとならないと考える。そして、全体の流れを踏まえるならば、昭和天皇は、戦前・戦後のわが国の歴史、周辺諸国との関係、わが国の国としてのあり方について、強い関心をお持ちだった。その中で、靖国問題を考えておられた、と推察することが出来る。そのような試みをしないと、真意を表面的にしかとらえられず、場合によっては誤解してしまうおそれがあると思う。

 

 すべて昭和天皇のご発言を伝えるものだとすれば、という仮定の上で言うのだが、戦前・戦後のわが国の歴史、周辺諸国との関係、わが国の国としてのあり方について強い関心を持っておられた昭和天皇が、日経をはじめとするメディアの報道のように、元「A級戦犯」の合祀だけをもって、靖国ご親拝の可否をお考えになるものだろうか。

 私には、昭和天皇が、卑屈な謝罪外交をよしとし、近隣諸国の内政干渉への譲歩をよしとされていたとは、非常に考えにくい。天皇の御心は深い。国民を思い、遺族をいたわり、戦前からの歴史を見すえ、諸外国にも目を配っておられる。部分のみを取り出して引用し、これが天皇の「心」だと断定的に報じるのは、重大な誤りを生むと思う。

 

(5)「=」の部分

 

 富田メモの文言に話を戻すと、「藤尾(文相)の発言。」という言葉に続いて、「=奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも」と記されている。

 メモの前のページには、「=(2)については記者も申しておりました」という言葉があり、これはどう見ても天皇のお言葉とは考えられない。そこで「=」ではじまる部分は、天皇とは別の人間の発言と考えられる。日経は、8月3日の記事において、「=」は、富田元宮内庁長官が自分の意見を記すときの印としている。富田資料の全体を見ているのは、日経の関係者などごく限られているから、とりあえず日経の見方に従うことにしよう。

 冨田メモの「=」の部分は、昭和63年の奥野の発言を、61年の藤尾の発言と比較して、「バランス感覚」とか「単純な復古ではない」などと論評しているわけである。これは何を意味するものだろうか。

昭和63年2月16日の日本経済新聞夕刊が、奥野国土庁長官の発言を伝えている。記事によると、奥野長官は「建国記念の日の式典が様々な形に割れているのは、どこの国でもやっている神話や伝承について教科書で取り上げていないからではないか」と指摘し、「戦後、占領軍が神話教育を否定したのはやむを得ないとして、独立後復活させるべきだった。復活しなかったのが問題だ」と強調したという。
 続いて、4月22日には、先に引用したように奥野は、靖国神社公式参拝についてのケ小平の発言を批判し、大東亜戦争について日本には侵略の意図がなかった等と発言した。その発言の中で、「占領軍は国柄、国体という言葉を使わせず、教科書からも削除したが、教科書で神話、伝説をもっと取り上げた方がよい」とも語っている。国会会議録にも、この発言をめぐる質疑があったことが記録されている。

 

「=」の記号は、富田自身の発言・意見とすれば、富田が「奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも。」と書いているのは、奥野のこの発言を肯定的に述べているものと考えられる。

私がここで注目するのは、3枚目の第1の部分にある「=」では、「申しておりました」と謙譲語を使っているのに、4枚目の上半分の「=」では、使っていないことである。それゆえ、富田が書き留めている発言者が異なる可能性がある。この点は、また後に述べる。

 

(6)全体の流れを踏まえた理解を

 

 先に私は、富田メモの奥野発言に関する部分について、天皇は、大東亜戦争を侵略戦争だとする見方や、英霊の祀られている靖国神社について中国の指導者が批判的に言うことについて、「嫌な気持」を持っておられた、と理解することができると書いた。そのことと、藤尾発言の部分とを対照してみると、興味深いことが浮かび上がってくる。

 仮にこの部分が昭和天皇のお言葉を書き留めたものだとすると、昭和天皇は側近との間では、中国政府や韓国政府のわが国に対する批判や干渉を、快く思っておられないことをお述べになったり、側近がそのように申し上げることを肯定的に聞いておられた可能性があるということである。

 

 日経は、富田メモを報道するに当たり、3枚目を画像では公表せず、また4枚目の上半分を重視していない。その理由について、私は次のように推測する。

 富田メモは、奥野発言、藤尾発言、靖国参拝や歴史認識、教科書問題等に絡んだ重要な内容を含んでいる。だから、国民や周辺諸国に対して、その部分は伏せたいのである。政治家の個人名は載せていない。その部分を伏せて、靖国神社の元「A級戦犯」の合祀の問題だけに国民を誘導し、天皇のお考えがこうだから、分祀や別施設等がよいのだと意識操作をしようとしたのだろう。

 

 私は、昭和天皇が靖国ご親拝を中止されていたのは、昭和50年の三木首相の私人参拝表明によって、天皇の靖国ご親拝が憲法問題になったことが、主たる原因だと見る。53年秋の元「A級戦犯」の合祀も関係があったとしても、それが決定的なものではない。副次的なものだと考える。

 その観点から見ると、富田メモが、昭和60年の中曽根首相の靖国公式参拝、61年の藤尾発言、63年の奥野発言に言及していることは、重要な意味を持つ。

 これらの事件に共通しているものはなにか。わが国の歴史の評価と、それに関する周辺諸国の批判である。すなわち、靖国参拝、歴史教科書、日韓併合・南京事件・大東亜戦争等に関する認識と、周辺諸国、特に中国・韓国による批判、それに対するわが国の政府の内政干渉を許すような対応。これらが、富田メモの文言を貫くテーマとして浮かび上がってくる。

 

 それゆえ私は、多くのマスメディアが強調して報道している部分は、3枚目と4枚目の上段からの全体の流れを踏まえて理解しないとならないものだと考える。そして、全体の流れを踏まえるならば、昭和天皇は、戦前・戦後のわが国の歴史、周辺諸国との関係、わが国の国としてのあり方について、強い関心をお持ちだった。その中で、靖国問題を考えておられた、と推察することが出来ると思う。

 

 以上は、すべて富田メモが昭和天皇のご発言を伝えるものだとするならば、という仮定の話である。その限りで言うのだが、戦前・戦後のわが国の歴史、周辺諸国との関係、わが国の国としてのあり方について強い関心を持っておられた昭和天皇が、一体、元「A級戦犯」の合祀だけをもって、靖国ご親拝の可否をお考えになるものだろうか。

 天皇の御心は深い。国民を思い、遺族をいたわり、戦前からの歴史を見すえ、諸外国にも目を配っておられる。部分のみを取り出して引用し、これが天皇の「心」だと断定的に報じるのは、重大な誤りだと思う。

 

なお、奥野誠亮元国土庁長官、中曽根康弘元首相、藤尾正行元文部大臣――日経8月3日号の記事は、彼らの名前を伏せて報道している。政治家の公人としての言動だから、名前を出さないのはおかしい。現役の政治家は中曽根氏だけゆえ、主に彼への配慮だろう。そのため、多くの読者は、奥野・中曽根・藤尾という名前が、どういう問題にかかわっているか、気づかないだろう。しかし、そこを貫いているのは、わが国の歴史認識や独立主権国家としての根本にかかわる重大問題なのである。

 

(7)4枚目の下半分〜最重要部分

 

 私は、先に書いたように、天皇の靖国ご親拝中止は、憲法問題を含む政治問題を生じることを避けるためと考えている。元「A級戦犯」の合祀に問題があるのではなく、天皇の靖国ご親拝が憲法上の問題と問われる状況、またご親拝を政治問題化する動きや、外国からの干渉に同調・譲歩するような政府の姿勢に問題があると見ている。

 昭和天皇が靖国ご親拝を中止されていたのは、昭和50年の三木首相の私人参拝表明によって、天皇の靖国ご親拝が憲法上問題になる状況となったことが決定的原因だ、と私は思う。53年秋の元「A級戦犯」の合祀も関係があったとしても、それが決定的なものではないと考えている。前者が主要因、後者が副次因と言ってもよい。副次因が原因として機能するのは、主要因に条件付けられる。

 憲法上問題になる状況で、合祀がされたので、ご親拝を差し控えられた。憲法上の問題が解決すれば、合祀についても問題がなくなる。ご親拝を可能とする憲法解釈が確定されるか、または憲法の関係条項が改正されるか、どちらかの実行が、根本的な課題である。

 私はこのように考えている。改正私案は、本稿の最後に述べる。

 

 それはさておき、冨田メモの最重要部分、4枚目の下半分には、次のように書かれている。

 「私は 或る時に、A級が合祀され その上松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」

 

 日経の報道によって、強い衝撃力をもった部分である。

 私の観点から見ると、この部分の前に、3枚目から4枚目の上半分に、戦争の思い出、「奥野」「中曽根」「藤尾」への言及があることは、重要な意味を持つ。富田メモは、4枚目の下半分だけでなく、3枚目からの全体の流れを踏まえて理解を試みるべきだと思う。

 

 さて、上記引用であるが、ここにある「A級」という語に、多くの人々は強い違和感を覚えた。仮に富田が発言者の言葉をそのままメモしたのだとすれば、こうしたぞんざいな言葉遣いを、昭和天皇がなさるとは、私にも思えない。この点は、第4章で他の史料と対照して詳しく述べる。

 上記引用には、「松岡」「白取」「筑波」「松平」という個人名が書かれ、「松岡」「白取」には批判的な意味合いがあり、「松平」に対しては、強い批判がされている。昭和天皇は、戦前は立憲君主として、戦後は象徴天皇として憲法の規定に忠実であろうとなされた。ご自分のお言葉が政治に影響を与えることのないように固く自制されていた。そうした天皇のお人柄を思うと、個人名を挙げて批判されていたと決め付けた報道に、私は違和感を覚える。そう言う人も多い。

 なぜ相当数の有識者やネット利用者が、富田メモを昭和天皇のお言葉と見ることに疑問を出すのか、日経は、スクープ後の続報となった8月3日号の記事でも、積極的な検討をしていない。

 

 もし富田メモが昭和天皇のご発言を直接または間接に伝えるものだったとすれば、他の史料と対照して真意を探ることが必要だろう。この点も、日経の記事は、積極的な検討を行っていない。

 様々な史料の示すところによれば、昭和天皇は松岡に対しては厳しい見方をされていた。この点のみは、富田メモと符合する。しかし、東条に対しては相当の評価をされている。また戦後は東条の遺族に心遣いをされていたという。天皇は、戦前の国家指導者を「戦争犯罪人」ではなく「功労者」と言われてもいた。天皇の大戦観は、まったく日本国の立場に立ったものであり、アメリカの太平洋戦争史観や東京裁判史観とは相容れない。当然、東京裁判に対しても、戦後多くの国民が抱いているものとは異なった見方をされていただろう。

 それゆえ、昭和天皇が元「A級戦犯」の全員について、靖国への合祀に「反対」だったとは、非常に考えにくい。少なくとも「反対」の理由が、彼らが「戦争犯罪人」だからだということは、あり得ない。

 元「A級戦犯」の一部の合祀について、何かを感じておられた可能性は否定できないが、合祀に「問題を感じておられた」とは言えても、「不快感」(マスメディアの表現)を示しておられたという日経の解釈は、妥当とは言えない。

 あたかも昭和天皇が元「A級戦犯」は「戦争犯罪人」だから合祀されていることに「不快感」を表し、靖国から外すべきだと示唆されていたかのように印象づける報道は、ほとんど犯罪に近いと思う。

 冨田メモの最重要部分である4枚目下半分の左欄外には、縦に書かれた部分がある。「余り閣僚も知らず」「そうですが多い」の2行である。私はこの2行に鍵があると考えている。この点は、いろいろな検討を加えた後に、第6章(6)で述べる。

 

(8)靖国行啓と勅使差遣・護国神社・全国戦没者追悼式等との関係

 

 『産経新聞』8月7日号は、靖国神社に元「A級戦犯」合祀の行なわれた昭和53年を最後に、昭和天皇の各地の護国神社へのご親拝が途絶えていたことがわかったと報じた。今上天皇が平成14年栃木県護国神社にご親拝をされた際、宮内庁が元「A級戦犯」合祀の有無を事前に問い合わせていたことも明らかになった。この事実は、靖国ご親拝の中止理由は、元「A級戦犯」合祀であるという説を補強する。

 しかし、昭和天皇は、昭和53年の元「A級戦犯」合祀後も、靖国神社の例大祭には、勅使を欠かすことなく差遣されていた。今上天皇も同様にされている。また、三笠宮殿下や寛仁親王殿下をはじめ他の皇族方は靖国に参拝を続けておられる。皇族のご参拝は、天皇のご意思に反して行なわれているはずはない。むしろ事実上の代拝とも考えられる。

 毎年8月15日に、日本武道館で全国戦没者追悼式が行われる。この追悼式は、天皇・皇后両陛下をお迎えして政府主催で行なわれている。追悼対象には、元「A級戦犯」を含んでいる。昭和27年の第1回以来、その基準は変わっておらず、昭和天皇も今上天皇も元「A級戦犯」を含む戦没者の追悼をすっとされてきている。

 

 この一見、一貫性のない事態は、どのような理由によるのか。昭和天皇のご意思か、宮内庁など官僚の意思か。この点も、日経は、積極的に検討していない。

 私は、天皇の靖国ご親拝中止は、憲法問題を含む政治問題を生じることを避けるためと考えている。元「A級戦犯」の合祀に問題があるのではなく、天皇の靖国ご親拝が憲法上の問題と問われる状況、またご親拝を政治問題化する動きや、外国からの干渉に同調・譲歩するような政府の姿勢に問題があると見ている。

 だから、政治的に大きな問題にはなっていない靖国ご親拝以外の勅使差遣や、全国戦没者追悼式へのご臨席等は、そのまま続けておられるのだろう。元「A級戦犯」の合祀自体に問題があるのであれば、靖国への勅使差遣も皇族のご参拝等も一切やめられたはずである。

 冨田メモを昭和天皇のご発言とし、天皇が元「A級戦犯」の合祀に「強い不快感」を示し、合祀以後、ご親拝がなくなったと断定する報道に、私は強い疑問を感じるのである。

 

(9)昭和63年天皇記者会見後の説明


 ここで、昭和63年4月25日の天皇記者会見について補足する。記者会見の模様は、昭和天皇のお誕生日である4月29日の各紙朝刊で報道された。そのうち、天皇が「何と言っても、大戦のことが、一番いやな思い出であります」」と述べたことについて、毎日新聞は、「内部の事前打ち合わせでは『つらい思い出』とお答えになる予定だったという。」と書いている。これは、会見後、記者にこういう事情を伝えた者がいたことを示している。

 徳川義寛は、この年、4月13日に侍従長職を勇退した。その後、引き続き、侍従職参与となった。天皇記者会見の後、徳川は、記録によると、4月26〜27日は出勤していない。侍従職参与として初出勤したのは、28日であるという。この28日、富田が記者の取材を受けたとともに、徳川が記者会見をしたという情報がある。いずれにしてもこのような場で、誰かが、天皇のお言葉は回答原案があり、そこでは「つらい思い出」となっていたのが、天皇は「いやな思い出」とお話しになったのだ、と記者に説明したのではないか。その可能性が最も高いのは徳川だと私は思う。

 説明を聴いた各社の記者のうち、毎日の記者のみがそれを記事に書いた。記事は、一語原案と違ったことを書いただけで、「いやな思い出」という文言の含意には触れていない。
 もし富田メモが徳川の記者への発言だとすれば、徳川は、「いやな思い出」という言葉について、昭和天皇は、奥野国土庁長官の発言に「ひっかけて言ったつもり」だったということも、記者に語ったのだろう。
 ただし、この点は、記事に書かれなかった。記事に書くほど注意を引かなかったのだろうか。否、おそらく昭和天皇が御在世中だったから、書くのを自制したのではないか。書けば大きなスキャンダルになるのは確実だった。陛下がご体調を崩されているなかで、お言葉だと出し抜いて書くのは、さすがにはばかられたのだろう。
 昭和天皇には「ひっかけて言ったつもり」という含意があったらしいことが知られたのは、このたびの富田メモの報道によってである。

 私は、昭和天皇のお言葉には回答原案があったとか、一部それとお言葉が違っていたとかということは、側近が新聞記者に漏らすべきことではないと思う。天皇に対して大変失礼なことだろう。公の場で語られたお言葉が、天皇のお言葉である。原案は原案であって、表に出るべきものではない。
 昭和天皇の晩年、側近に気持ちのゆるみがあり、それが口のゆるみを生じたのではないかと私は想像する。
ージの頭へ

 

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第4章 他の史料との比較

 

(1)昭和天皇のお言葉との対照

 

 「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、

 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と

 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」

 

 私は、この文言について、昭和天皇のご発言を直接または間接に書き留めたものである可能性はあると思う。その場合、先に書いたように、この部分の前には、中曽根・藤尾・奥野への言及があり、そこからの全体の流れを踏まえて理解を試みるべきだと思う。

 仮に昭和天皇のご発言を反映したものだとすれば、天皇は戦前・戦後のわが国の歴史、周辺諸国との関係、わが国の国としてのあり方について、強い関心をお持ちだった。その中で、靖国問題を考えておられた、と推察することが出来る。そのような試みをしないと、真意を表面的にしかとらえられず、場合によっては誤解してしまうおそれがある。当然、書きとめた富田という人間のフィルターを通ったものゆえ、その人間の歴史観・国家観・政治意識等による色づけがあることも承知しなければならない。

 

 上記の引用については、徳川元侍従長の発言である可能性もある。私は、後に第5章で詳しく述べるが、可能性は高いと考えている。また、もし昭和天皇のご発言を、富田が間接的に書き留めたのであれば、徳川元侍従長を通じてだろう。この場合も、昭和天皇のご意思をどこまで正確に反映したものかの検証が必要である。徳川の個人的な意見が強くにじみ出ているかもしれない。

 そこで、富田メモをとらえるには、不可欠の補助として、昭和天皇のお言葉の他の記録と対照して精査する必要がある。

 

 富田メモは、一人の人間が私的にメモした非公式の記録である。限定的に公開されている問題の部分は、簡略な覚書を、そのまま日記に貼り付けたものである。書き留めた言葉の整理や清書もされていない。文中の「私」が誰かが明記されていない。複数の人間の発言を記録したようであるが、「私」以外が誰なのかも明記されていない。

 これに比べ、『木戸幸一日記』(東京大学出版会)や『昭和天皇独白録』(文春文庫)は、まさに第一級の史料である。史料としての評価が定着している。これらと富田メモを比較して検討することは、有益だろう。

 

 『木戸幸一日記』は、戦前の内大臣・木戸幸一が残した日記である。木戸は大東亜戦争の以前から戦争の終結まで、最も近い側近として昭和天皇を輔佐した。敗戦後「A級戦犯」として東京裁判で終身禁錮の判決を受けたが、昭和30年に仮釈放され、ついで自由の身となった。富田朝彦より、はるかに重要な歴史上の人物である。『木戸幸一日記』は、昭和史を研究する際の重要文献として、多くの歴史書に引用されている。

 

 富田メモには、「A級」「松岡」「白取」等と書かれているが、いわゆる「A級戦犯」に関して、『木戸幸一日記』は、次のように書いている。

 昭和20年8月29日、昭和天皇は「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」と語られた。また同年12月10日には、「米国より見れば犯罪人ならん我国にとりては功労者なり」と発言されたとしている。

 これらの記載から、昭和天皇が東京裁判で起訴された戦争責任者を「犯罪人」とは見ていなかったことがわかる。これは、非常に重要な情報である。

 

 富田メモには「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」とあるが、もし「A級」の語が発言者の言葉を富田がそのままメモしたのだとすれば、こうした言葉遣いを、昭和天皇がなさるとは考えにくい。また、仮に元「A級戦犯」の合祀について、昭和天皇が「不快感」を持っておられたとしても、それが元「A級戦犯」全員に対してのものとは、言えないだろう。

 

(2)松岡洋右への厳しいお言葉

 

 次に『昭和天皇独白録』を見てみたい。本書は、昭和天皇の通訳官をしていた寺崎英成が、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道男侍従次長、稲田周一内記部長と共に、昭和21年の3月から4月にかけて、4日間計5回にわたって昭和天皇から直接うかがったことを、まとめたものという。

 政府の要職にある複数の人間が聴取し、慎重に記録したもので、富田メモのような一人の人間だけが聴いて私的に書き留めたものとは違う。英訳されてGHQに提出され、昭和天皇の訴追の可否を検討する際に重要な資料とされたようである。史料としての価値は極めて高く、昭和天皇のお言葉として歴史書に引用されることが多い。

 

 『昭和天皇独白録』には、いわゆる「A級戦犯」とされた個人についてのお言葉が掲載されている。そこでは、昭和天皇は、松岡洋右には、非常に厳しい見方をされている。

 

 「松岡は二月の末にドイツに向かい四月に帰ってきたが、それからは別人の様に非常なドイツいきになった、恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」。

 「現に帰国した時に私に対して、初めて王侯のような歓待を受けましたと云って喜んでいた。一体松岡のやることは不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」

 「松岡はドイツから帰朝の途ソ連と中立条約を結んだ。これは独伊ソを日本の味方として対米発言権を強める肝に過ぎない、それ故シベリア鉄道を東行してイルクーツクを通過する頃には早や沿線の兵備を視察して他日の戦争を夢想していたし又露都でスタインハート米大使と懇談した事が日米交渉の端緒となったと思って得意になっていた頃にはこの交渉にも乗気でいたが、帰朝后、この交渉が重臣方面の手で開かれたと聞くや急に横車を押す様になった」

 「五月(正しくは六月。ドイツのソ連侵攻直後)松岡はソ連との中立条約を破る事に付いて私の処に云って来た。これは明らかに国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様云ったが、近衛は松岡の単独罷免を承知せず、七月に内閣閣僚刷新を名として総辞職した」

 「日米交渉はまとまり得る機会は前後三回あった。第1回は16年4月、野村大使の案に基づいて米国から申し出て来たときである。先方の条件は日本にとり大変好都合のもので陸軍も海軍も近衛も賛成であったが、松岡只一人自分の立てた案でないものだから、反対して折角のものを挫折せしめた。

 第2回は近衛ルーズベルト会談何とか話し合いがつくかと思ったが、之は先方から断ってきた。第3回は第1回と比べると日本にとり余程不利な案だが、この案を日本から提出したのに対し、例の11月26日のハルの最後通牒が来たので遂に交渉の望を絶って終った」

 

 以上の通りである。

 昭和16年7月16日、近衛内閣は、アメリカに対し、強硬姿勢を取り続ける松岡外務大臣を除くために総辞職する。松岡は、事実上罷免され、国政の場から外された。

 12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃した。病床にあった元外相・松岡洋右はそのニュースを聞き、すすり泣きながらこう語ったといわれる。「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを痛感する……死んでも死にきれない」と。松岡は、日米戦争を避けるために同盟を締結したつもりだった。しかし、それは全く反対の結果となったからである。

松岡罷免後も、わが国のアメリカとの外交は、うまくいかなかった。ルーズベルトは、対日戦争を希望していたからである。彼は日本が先に手を出すように追い込み、ハル・ノートで挑発した。その背後には、日米を戦わせようとするスターリンの画策があった。当時の日本の指導層は、このことを見抜けず、ハル・ノートをもって、戦争に突入してしまった。

 

(3)日独伊三国同盟に対するご見解

 

 富田メモには、「松岡」とともに「白取」として、白鳥敏夫らしき名が出てくる。松岡は外務大臣、白鳥は外務官僚として、日独伊三国同盟の締結を推進した。背後には、陸軍の親独的な勢力があった。

 昭和天皇は、ドイツ駐在の大嶋大使、イタリア駐在の白鳥大使が、天皇のご意思と関係なく、独伊が第三国と戦う場合に日本が参戦する意を表したことを、お怒りになった。そして、天皇は、両大使を支援するかのような態度を取った板垣征四郎陸軍大臣と衝突をされた。

 

 『昭和天皇独白録』には、次のお言葉が掲載されている。

 「私は板垣に、同盟論は撤回せよと云った処、彼はそれでは辞表を出しますと云ふ、彼がいなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので遂にそのままとなった」

 昭和天皇が松岡だけでなく、白鳥に対しても厳しい見方をされていただろうことがうかがえよう。なお、板垣陸相は東京裁判で「A級戦犯」の一人として絞首刑にされた。靖国神社に関する運動で知られる板垣正元参議院議員の父親である。

 

 三国同盟が締結された当時、昭和天皇は、時の首相・近衛文麿に対して、次のように問い掛けておられた。

 「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」

 天皇は、独伊のようなファシスト国家と結ぶことは、米英両国を敵に回すことになり、わが国にとって甚だ危険なものだと見抜いておられた。また、近衛首相に対して、次のようにも言っておられた。

 「この条約のために、アメリカは日本に対して、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後、長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちに置かれるかもしれない」と。

 

 実際、日独伊三国同盟の締結で、アメリカの対日姿勢は強硬となり、経済制裁が加えられ、石油等の輸出が止まり、窮地に立った日本は戦争へ追い込まれていった。同盟が引き起こす結果について、昭和天皇は実に明晰(めいせき)に予測されていたことがわかる。

 天皇の予見は不幸にして的中した。当時の指導層が、もっと天皇のご意向に沿う努力をしていたなら、日本の進路は変わっていただろう。

 

 それゆえ、昭和天皇は日独伊三国同盟の締結を推進した松岡・白鳥のような人間に対して厳しい見方をされていただろうことがわかる。この点は、富田メモが「松岡」「白取」を挙げていることと符合する。メモを昭和天皇のご発言だと見る人は、この点を根拠のひとつとして挙げる。

 

 ここで十分注意しなければならないのは、昭和天皇はあくまで日本の立場に立って、三国同盟の締結を失策だと見ておられることである。対米交渉についても、日本の立場からアメリカとの関係を見ておられる。

 戦後世代の多くの日本人は、無意識にアメリカの側に立って独伊と組んで対抗してきた日本という国の指導者を断罪するような心理が働く。倒錯である。これは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争犯罪周知宣伝計画)」によるマインドコントロールの結果である。

 昭和天皇は、透徹した目で、しかし深い愛情をもって、わが国の歴史の明暗や、国家指導者の功罪を見ておられる。それは、日本国の君主としてのお立場の観点である。このことに十分注意しないと、知らぬ間に倒錯した心理に陥る。

 

 昭和天皇は、元「A級戦犯」全員に対して、松岡らに対するような評価をしていたわけではない。その点は、最重要人物である東条英機に対する評価を合わせて見なければならない。

 

(4)東条英機への評価

 

 東条英機について、最初に私見を述べておくと、私は、東条の首相としての開戦責任及び敗戦責任は重大だと考えている。また彼が敗戦後、自決しようとしたことは、卑怯だったと思う。しかし、近衛と違い絶命できなかった彼が、東京裁判の法廷では、戦争指導の全責任は自分にあると証言し、昭和天皇を訴追から守ろうとしたことは、一個の日本人として立派だったと評価している。

 さて、昭和天皇は、東条について『昭和天皇独白録』では、次のように語っておられる。

 

 「この男ならば、組閣の際に条件さえつけておけば、陸軍を抑えて順調に事を運んでゆくだろうと思った。それで東条に組閣の大命を下すにあたり、憲法を遵守すべき事、陸海軍は協力を一層密にする事及び時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふという事を付け加えた。時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事は、9月6日の御前会議の決定を白紙に還して、平和になるよう、極力尽力せよと云ふ事なのだが、之は木戸をして東條に説明させた」

 「元来東条と云う人物は、話せばよく判る、それが圧政家のように評判が立ったのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持ちが下に伝わらなかったことと又憲兵を余りに使い過ぎた」

 「東条は一生懸命仕事をやるし、平素云っていることも思慮周密で中々良い処があった」

 「参謀総長を兼ねたこと、大東亜省を設けた事は、私は賛成出来ないことであったが、その外の事例えば支那との約束を守る考えでいた事などは良い事であった」

 

 上記のような東条に対する見方は、松岡に対する厳しい評価とは、大きく異なる。昭和天皇は東条をかなり信頼していたが、よくない点、賛成できない点があったことも指摘されている。

 

 昭和天皇が、東京裁判における東条の証言をどのように評価されていたのか、私は確かな資料を知らない。しかし、昭和21年に上記のように述べておられる昭和天皇が、昭和63年になって、東条を松岡らと同様にみなし、靖国神社への合祀に「反対」(マスメディアの表現)されていたとは考えにくい。私は、一定の信頼をおいていた臣下が戦勝国によって処刑されたのに対し、死後も捨て置くようなことを、昭和天皇がなさるとは思えない。

 

 富田メモが報じられた3日後の7月23日、テレビ朝日の「ワイド・スクランブル」という番組で、東条英機の孫娘である由布子氏は、インタビューに応えた。そこで概略次のように語った。東条英機の死後、昭和天皇の使いの者が何度か氏の自宅まで来て手土産を下賜された。使いの者は、昭和天皇から遺族は元気かどうかなどご心配なさっているというようなお言葉があったことを、遺族に伝えた。昭和天皇は東条ら戦犯扱いしておらず、冨田メモの内容もありえない、と。

 

 冨田メモと比較対照すると、『昭和天皇独白録』は、政府要職にある複数の者が、さまざまな事柄について昭和天皇にご質問をし、そのお答えをまとめたものである。一つの事柄について、いろいろな観点からご質問をし、そのことについての昭和天皇のお考えがまとまって第三者に理解できるように書かれている。

 これに対し、富田メモは、仮に天皇のご発言を書き留めたものだとしても、一つの事柄について全体的にどういうお考えなのかは理解できない。例えば、大東亜戦争について全体的に見てどういうお考えなのか、敗戦後の東京裁判についてどういうお考えなのか、その裁判で国家指導者が「A級戦犯」と判決され処刑されたことについてどうお考えなのか、そのうえで松岡・白鳥についてはどうお考えなのか等々。

 だから富田メモの文言をもって、天皇のお考えをそのまま表すものだと断定するのは、性急だろう。

 

 富田メモの検討は、大東亜戦争そのものをどう認識するかにかかわる。次に、昭和天皇の大東亜戦争に関するお言葉をみてみたい。

 

(5)昭和天皇の大戦観

 

 富田メモには、大東亜戦争の認識にかかわる文言が多く出ている。それだけを読み、これが昭和天皇のご発言だという報道に触れると、昭和天皇は、大東亜戦争について、東京裁判で戦勝国が打ち出した歴史観と同じような見方をされていたように誤解する人が出るだろう。そこで、補足のために、『昭和天皇独白録』を中心に、昭和天皇の歴史観をうかがっておきたい。

 

 昭和16年9月、日米交渉が行き詰まり、緊張が高まっていた。6日の御前会議の前日のことについて、昭和天皇は次のように述べられたと伝えられる。

 「近衛が来て明日開かれる御前会議の案を見せた。之を見ると意外にも第一に戦争の決意、第二に対米交渉の継続、第三に10月上旬頃までにいたるも交渉のまとまらざる場合は開戦を決意すとなっている。之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛それ不可能ですと云って承知しなかった」

 翌日の御前会議において、昭和天皇は明治天皇の御製を読み上げられた。近衛文麿首相の手記によると、「余は常にこの御製を拝唱して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めておるものである」と語られた。

 この一言は、陸軍を震撼させた。当時陸相だった東条は、「聖慮は平和にあらせられるぞ」と叫び、杉山参謀総長は蒼ざめた顔面を小刻みにけいれんさせた。しかし、天皇の平和意図は具現されなかった。政府、すなわち近衛首相は原案の廃棄は愚か、改訂をすら実行しなかった。

 

 近衛の後、首相となった東条は、御前会議の決定を白紙還元すべく努力した。しかし、昭和天皇は「問題の重点は石油だった」と述べておられる。アメリカに石油の輸出を止められては、「日本は戦わず亡びる」と。

 「実に石油輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦ったほうが良いという考えが決定的になったのは自然の勢いといわねばならぬ。若しあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ちながら、むざむざ米国に屈服するというので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろう」

 

 天皇は11月31日に、高松宮に開戦すれば「敗けはせぬかと思う」と述べ、「それなら今止めてはどうか」と質問されると、次のように語られたという。「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条は辞職し、大きなクーデタが起こり、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであろうと思い、戦争を止める事については、返事をしなかった」。12月1日の御前会議で開戦を決定した。天皇は「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も言わなかった」と語られている。

 

 英米相手に開戦した日本は、緒戦は華々しい戦果を上げたが、戦争が長引くにつれ、戦況は不利になった。遂に、昭和20年8月14日、御前会議において、昭和天皇は終戦の御聖断を下された。

 『独白録』は、次のように天皇のお言葉を伝えている。

 「開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異なる所はない。終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし。廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族のために私が是なりと信じる所に依て、事を裁いたのである」

 「私が若し開戦の決定に対してベトー(ほそかわ註 拒否権の行使)をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私は信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それは良いとしても結局強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる結末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う」

 

 わが国は敗れた。未曾有の大敗だった。昭和天皇は、敗戦の原因について、次のように語られている。

 「敗戦の原因は四つあると思う。

 第一、兵法の研究が不充分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知れば、百戦からずという根本原理を体得していなかったこと。

 第ニ、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視した事。

 第三、陸海軍の不一致。

 第四、常識ある首脳者の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛という様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂下克上の状態を招いた事」

 

 上記のような昭和天皇の歴史観は、純粋に日本の立場に立つ見方である。アメリカが日本人に植えつけた「太平洋戦争史観」とは、全く異なっている。戦後教育を受けた多くの日本人は、自分があたかも連合国の一員でもあるかのように、わが国の国家指導者を断罪する。昭和天皇には、そうした姿勢は、微塵もない。富田メモを読む際は、この点にしっかり注意しなければならない。

 

(6)東京裁判の「戦犯」への見方

 

 先に引いたように『木戸幸一日記』は、次のように書いていた。昭和20年8月29日、昭和天皇は「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」と語られた。また同年12月10日には、「米国より見れば犯罪人ならん我国にとりては功労者なり」と発言されたとしている。

 これらの記載から、昭和天皇が、東京裁判で起訴された戦争責任者を「犯罪人」とは見ていなかったことがわかる。

 

 東京裁判は、昭和21年5月3日に開廷され、23年11月4日から12日に判決が下された。A級被告28人を起訴したのは昭和天皇の誕生日(昭和21年4月29日)、東条英機・広田弘毅等7人の絞首刑は、当時の皇太子(今上陛下)の誕生日(同23年12月23日)に実施された。

 この日程の選び方は、偶然ではない。日本を敵として戦った戦勝国の強い憎悪が感じられる。天皇に対して、また日本に対しての呪詛といった方がよいかもしれない。

 

次に冨田メモにおける「A級」と「松岡」「白取」という分け方について述べたい。

 徳川元侍従長は、「私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったです」、「靖国神社には軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったですから」などと語っている。

 富田メモの報道に従って、元「A級戦犯」として合祀された者の中に、松岡や白鳥が入っているのはおかしいという理解に、仮に立ってみよう。その場合、例えば広田弘毅、平沼騏一郎、東郷茂徳をどう考えるか。

 

 職業に基準を置き、軍人(武官)以外の者が合祀されるのはおかしいとすれば、広田・平沼・東郷は文官であるから、彼らの名も挙げて、合祀を問題にしなければならないだろう。

 死に方に基準を置くとすれば、松岡は拘留中、判決前に病死した。白鳥は終身刑を宣告され獄死した。ともに絞首刑ではない。しかし、小磯国昭、梅津美治郎は軍人だが、絞首刑ではなく終身刑で獄死した。平沼は文官で、終身刑に服し仮釈放中に病死した。東郷は、終身ではなく禁固20年で服役中に獄死した。終身と禁固刑の違いを捨象すると、白鳥と東郷はほぼ同じ要件だ。なぜ富田メモで白鳥の合祀は問題になって、東郷の名前は出ないのか。

 行動に基準を置くとすれば、東郷は日米開戦を回避しようとして外交努力を続けた政治家である。終戦の時には、ポツダム宣言の受諾を主張し、昭和天皇は御前会議で東郷の主張と同じ意見だとして、終戦の御聖断を下された。だから東郷はよしとするのか。だとすれば、東郷を「A級戦犯」とされたこと自体に反論すべきだろう。

 広田の行動については、どうか。広田は文官で唯一絞首刑とされた。広田は複数の内閣で外務大臣をし、昭和11年3月から12年2月まで内閣総理大臣をした。広田が積極的に戦争を推進しようとしたのではなく、軍部の専横に押され、打つ手なく追認していったようなところがある。連合国は文官から一人見せしめに広田を処刑したのだろうという見方があるが、文官の広田が、軍人職である「軍事参議官」という肩書きで処刑されている。

 広田の判決は、6対5だった。本来死刑判決は、判事の全員一致を原則とする。オランダのレーリンク判事は広田の極刑に疑問を投じている。

 

 こうやって「A級戦犯」の個々について検討すると、問題はどんどん出てくる。

 荒木貞夫陸軍大将は、法廷で「この被告席にいる28名の中には、会ったことも、言葉を交わしたこともない人物が半分ほどいる。顔も知らず、会ったこともない人間とどうして共同謀議などできようか」と証言した。そう言った荒木が共同謀議を行ったとして終身刑に処された。荒木の肩書きには「内閣総理大臣」とついていた。彼は総理になったことがない。弁護側がそのことを何度指摘しても、修正されずにその肩書きで判決が下された。めちゃくちゃである。

 

 こういうめちゃくちゃな裁判で、松井石根陸軍大将は絞首刑とされた。南京事件の際の監督責任、不作為を問われたものだった。しかし、「南京大虐殺」なるものは、極めて誇張されたもので、市民を含む10数万、20万の虐殺などあり得ない。このことは今日、学術的に徹底的に検証されている。

 松井も含めて「A級」は分祀すべきだと主張する政治家や論者がいるが、私は強く警告する。松井を分祀なり取り下げなりすることは、日本国は、日本軍が「南京大虐殺」をしたという虚偽の事実を改めて認めることになる、と。南京事件について、少しでも疑問を持っている人は、松井の分祀を容認してはならない。これは、日本人の名誉と誇りがかかった問題である。

 

 富田メモに「A級」と書かれているのは、東京裁判で、敵国が起訴し有罪と判決したわが国の国家指導者のことである。

 東京裁判は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」で日本の国家指導者を裁こうとしたが、そもそもこれらの罪は、当時国際法上に存在しない罪だった。東京裁判は、罪刑法定主義、「法は遡及せず」の原則という「近代法最大のタブー」を破った。

 「人道に対する罪」があるとすれば、広島・長崎に原爆を落としたトルーマン大統領や、無辜の市民を焼き殺したカーチス・ルメイらこそ裁かれねばならない。私は、そう思う。

 

 果たして昭和天皇が、元「A級戦犯」を「A級」などというぞんざいな言い方でお呼びになるだろうか。「A級戦犯」とされた臣下の多くをご存知だった天皇が、松岡と白鳥だけを特別視されるだろうか。

 天皇のお言葉と断定することには、疑問が大きく膨らむのである。その一方、徳川元侍従長の個人的な意見だというなら理解しやすい。徳川は冨田メモと細部までよく似た発言を、しているからである。この点は、第5章で述べる。

 

参考資料

・東京裁判については、拙稿「日本弱体化政策の検証」第6章をご参照のこと。

・南京事件については、拙稿「南京での『大虐殺』はあり得ない」をご参照のこと。

 

(7)昭和天皇論者は、疑問に答えよ

 

 富田メモを読んでこれは昭和天皇のお言葉だと最初に判断したのは、日経の記者・関係者と秦郁彦氏と半藤一利氏らである。特に秦氏と半藤氏の影響が大きい。
 『文藝春秋』平成18年9月号は、富田の日記・手帳の全体を見たという半藤一利氏と秦郁彦氏、これに保坂正康氏が加わって、富田メモについて鼎談を行った。それまでの日経の報道にはない情報が多く語られている。疑問についてもある程度答える内容となっている。日経の記事とは異なり、中曽根氏らの氏名も掲載している。しかし、私が日経の記事で明らかになっていないこととして挙げり多くの点には、触れていない。

 「世紀の大誤報か」という疑いが出るほど疑問が吹き出ているメモを、昭和天皇のご発言だと断定して報道した日本経済新聞社には、国民に対する説明責任がある。

 半藤氏・秦氏・保坂氏には、日経にそれを求めていく姿勢がない。基本的に日経と同じものの見方をしているからだろう。

 

 秦氏と半藤氏が、富田メモは昭和天皇のお言葉だと判断したのは、もともと彼らの見方にあっていたからだろう。彼らは、天皇が靖国ご親拝をされなくなったのは、いわゆる「A級戦犯」が合祀されたことが理由だろうという見方をしていた。その見方に一致する文言を富田メモの中に見出し、これで自分たちの見方が裏付けられたと考えた。このことが、判断の前提にあると思う。

 靖国ご親拝中止はA級合祀が理由とする見方は、天皇の側近から伝聞した複数の情報が、それを暗示しており、合祀が理由なのだろうという推察に基づく。その伝聞の一部には、徳川元侍従長によるものがあるらしい。しかし、徳川の著書『侍従長の遺言―昭和天皇との50年』(聞き書き・解説・岩井克己、朝日新聞社)では、そのように明言してはいない。本書については、第5章(1)で詳しく触れる。

 伝聞による推察は、根拠の不確かなものである。あまりよい例ではないが、仮に刑事事件であれば、本人に聴取することなく、物証もなく、周囲の者が言っているというだけでは、立件できないだろう。ところが歴史的な事象については、推察にそれなりに筋が通っていれば、なるほどということになる。ひいては、「史実」にまで飛躍してしまう。秦氏、半藤氏は、日経とともに、これに近いことをやってしまったと思う。
 彼らは、日記・手帳を全部見たというが、厳密な史料分析は行っていない。メモに使われている糊、紙、インク等の分析をせず、真贋の検討を意識することもなく、昭和天皇のお言葉と判断した。これは、歴史家として失格だろう。

 富田メモの公表後、まもなく厳密な史料分析を行なう必要があるという批判が出た。専門家からだけではない。一般人・素人からも噴出した。しかし、秦氏・半藤氏ら昭和天皇発言説を取る人々は、まともに応じようとしない。
 また、天皇発言説への数々の疑問――なぜ4月28日の「Pressとの会見」と題された紙にその文言が書かれているのか、欄外の縦の2行目をどう解釈するのか、昭和天皇のほかの史料との相違、勅使差遣継続の理由等――に、秦氏・半藤氏らは、まともに答えていない。疑問や反論の一部のみ取り上げて、これに答えることで済ませたようにして、自分たちの主張を繰り返し述べている。
 自分たちの過失を認めたくないのか、それとも自分たちの主張を宣伝したいためなのか。秦氏・半藤氏には、言論人としての誠意が見られない。両氏は、富田メモに関する疑問・反論に対して、きちんと答えるべきである。

また今後、他の専門家によるさらなる検証に期待したい。

 

(8)仮にお言葉だったとしても

 

 仮に富田メモが、昭和天皇のご意思を伝えるものだとしても、それを利用して政治を動かすことは慎まなければならない。

 

 わが国は、天皇の政治利用で重大な失敗をしている。平成元年(1989)天安門事件で言論弾圧・大量虐殺を行なった中国は、国際的な非難を浴びていた。中国がなんら人権問題で改善を示していないにもかかわらず、わが国は友好の手を差し延べた。当時、中国は、尖閣諸島を自国領だと法律に規定したり、今日に至る軍拡を開始したりしていた。ところが、わが国では、それらを黙認し、天皇皇后両陛下の訪中を進めようという動きが起こった。ご訪中積極派は今上天皇が中国をご訪問され、謝罪の意を表すことで日中友好が確立すると説いた。

 これに対しては、有識者から反対意見が出された。小田村四郎氏、小堀桂一郎氏、中村粲氏、大原康男氏らである。彼らは、天皇を政治利用してはならない。とりわけ謝罪外交に利用することは、天皇を政治に巻き込み、天皇の権威を損ね、対外関係に重大な禍根を残す、と指摘した。だが平成4年、天皇ご訪中は実行された。

それによって、日中に真の友好は築かれたか。否。むしろ、中国の反日姿勢は、それ以後強まった。 靖国問題に関しては、元「A級戦犯」合祀は、中国が批判したことによって問題になったのである。昭和60年8月、ケ小平が中曽根首相の参拝を批判したのが初めである。ケは昭和53年に主席になると、翌年、中国の歴史教科書に初めて「南京大虐殺」が現れ、昭和60年から南京大虐殺記念館が建設され始めた。靖国神社参拝に対して抗議してきたのは、この年である。日中間にこのような問題がある中で、天皇ご訪中は行なわれた。平成4年である。

天皇を呼びつけることに成功した中国は、反日愛国主義教育を活発にした。平成5年江沢民が国家主席になった。それから愛国主義の政策が推し進められ、反日的な教育が徹底された。中国指導部は、民衆の不満を外に向けるために、日本の過去の「侵略」や日本軍による「虐殺」を誇大宣伝して、善良な民衆を欺き、誤導してきた。

反日愛国主義が本格化したのは、ご訪中の翌年、江沢民が主席になってからである。平成17年4月、中国主要都市に広がった反日デモは、反日教育の産物である。この結果が示しているのは、天皇ご訪中は、中国共産党に利用されたにすぎないということである。

中曽根氏は、自分が靖国参拝を中止したのは、中国共産党指導部の胡耀邦の立場を守るためだったと後日語っている。それが根本理由とは思えないが、結果として、胡耀邦の失脚を防ぐことにはならず、わが国は靖国参拝で一層、中国共産党から干渉されることになった。この干渉を助長することになったのが、天皇ご訪中である。中曽根氏にはじまる政治家の対中外交の判断ミスは、非常に責任が重い、と私は思う。

 

 富田メモをもとに「A級戦犯」分祀を唱えている人たちは、かつて天皇ご訪中を推進した勢力とかなり重なり合う。わが国の政治家は、中国に対する謝罪外交・土下座外交を続けたうえに、中国が大国化すると事大主義の外交に転じてきた。古代中華帝国への朝貢に似た様相を呈している。そして、再び中国に対する問題で、天皇の政治利用となりかねないのが、富田メモの報道なのである。

 

 富田メモが昭和天皇のご意思を表しているかどうかは別として、これを政治利用することは、断じて許されない。富田メモの政治利用は、中国の属国化の道となるおそれがある。なぜなら、元「A級戦犯」を分祀すれば、中国は、次は「BC戦犯」の分祀を要求してくるだろう。大陸への「侵略戦争」を行なった「戦犯」を外せというだろう。

これに唯々諾々と従うことは、日本が精神的に中国に服従することである。中国は過去に受けた被害の謝罪を求めて靖国問題を持ち出しているのではない。現在の中国の対日政策、膨張政策に有利だから、靖国を利用しているのである。中国共産党は、日本人の誇りを打ち砕き、名誉を地に貶め、精神的に骨抜きにしようとしている。そうしたうえで、中国は尖閣諸島を占領し、東シナ海を我が物とし、南西諸島さらには沖縄へと触手を伸ばしてくるだろう。そこには一貫した国家戦略があると見るべきである。

 

 仮に富田メモが昭和天皇のご意思を伝えるものだったとしても、それによって元「A級戦犯」の分祀を行なうことが、日本を中国の属国と化し、領土・領海を奪われ、日本人が日本人としての精神を失うことにつながるとすれば、それを昭和天皇はお望みになるだろうか。否。ここで日本人は、昭和天皇の終戦の詔勅を思い起こすべきである。

 「宜(よろ)しく擧国一家子孫相伝確(たしけ)神州の不滅を信じ、任重くして道遠き、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)し、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。爾臣民それ克(よ)朕が意を体せよ」(註)

 昭和天皇は、「朕が意を体せよ」と今も国民に訴えておられるのではないか。

ージの頭へ

 

・「終戦の詔勅」及び私の昭和天皇論は、「君と民」の項目をご参照のこと。

 

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第5章 徳川元侍従長の発言かも

 

(1)徳川元侍従長の発言か

2006.10.10修正

 

 富田メモは、昭和天皇のご発言を記録したものだとする報道に対し、早くから徳川義寛元侍従長の発言を書き留めたものだとする説が出されている。かなりの数のネット利用者がこれを主張または支持している。私はこの可能性が高いと思う。文言には、一部徳川の意見と考えられる部分がある。しかし、全部徳川の意見とするには難点がある。次に、そのことについて述べたい。

 

 徳川は昭和63年4月13日に侍従長を退官した。富田メモは、63年4月28日の日付であり、「Pressとの会見」と書いてある。メモの内容から見て、この記者会見は、25日に行なわれた昭和天皇の記者会見と関係のあるものと考えられる。富田は、3日後の28日には、午前中、昭和天皇に「言上」を行なったことが、日経の8月3日号の記事で明らかにされている。

 そこで、富田メモは、25日の天皇記者会見の後、当日から28日の間に、天皇に会見のご感想を、富田か徳川、または二人がうかがい、28日に富田が書きとめたものと考えられる。

 28日に元侍従長としての徳川に対する記者会見が行なわれたらしき情報がある。この確認は、極めて重要である。もし徳川の会見が行なわれていれば、昭和天皇のご発言と思われる内容であっても、徳川が間接的にお言葉を伝えたか、または自分の推察や意見を述べたものとなるだろう。

 

 徳川発言説の場合、@富田メモの全部が徳川自身の意見とする見方、A富田メモの全部が昭和天皇からお聞きしたことを徳川が富田に伝えたという見方、B富田メモの一部は徳川が昭和天皇からお聞きしたこと、一部は徳川の意見という見方の三通りがあり得よう。

 私は、この中では、Bの可能性が最も高いと考える。

 

 富田メモの最も重要な部分は、次の文言である。

 「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、

 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と

 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」

 

 この内容に関わることを、徳川は『侍従長の遺言―昭和天皇との50年』で述べている。本書は、朝日新聞編集委員だった岩井克己氏が、徳川から聞き書きしたものをまとめ、解説をつけたものである。岩井氏は平成6年から7年にかけて徳川に面談し、7年8月に徳川の証言の一部を朝日新聞に連載した。徳川は、8年2月2日に亡くなった。その後、本書は平成9年(1997)2月5日に刊行された。それゆえ、本書は徳川が最終校正をしたものではない。岩井氏が、徳川の死後に編集・刊行したものである。また徳川は録音を取ることを禁じたという。岩井氏は、証言内容は何度も確認したが、誤りがあれば筆者・岩井氏の責任だと書いている。

徳川発言説は、主として本書の記述に依拠している。

 松岡洋右について、徳川は本書で次のように語っている。

 

 「松岡洋右さんはエキセントリックな人でしたね。昭和15年の夏には、大使二人を除く外務省の幹部をほとんど替えちゃった。『外交官はいままでのようじゃだめだ』などと言ってね。(略)スターリンと条約を結んでから帰国した松岡さんはスターリンのことを『さん』づけで呼ぶですから。ご陪食の後のお茶の席で、盛んに『スターリンさん』なんて呼んで、語り草になっていたものです」

 「私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったです」

 「でも当時、『そちらの勉強不足だ』みたいな感じで言われ、押し切られた。私は松岡さんの例を出して『おかしい』と言ったのだが、東条さんのことで答えられ、すり替えられたと感じた。靖国神社には軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったですから」

 

 このように語る徳川の松岡への評価と松岡の合祀への批判は、富田メモの内容に通じるものがある。

 さらに徳川は、元「A級戦犯」の合祀について、次のように語っている。

 「A級戦犯はその十年くらい前に厚生省から『戦争による公務死亡者』として名前が靖国神社に届き、神社では昭和46年6月30日の総代会で合祀する方針を一応決めたのですが、『合祀の時期は宮司に任せる』ということで、宮司の筑波藤麿さんがずっと延ばしてきていたのです。ところが宮司さんが筑波さんから松平永芳さんに代わって、間もなく実施に踏み切られることになった」。

 「筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったですよ。それで中曽根首相が参拝して、ワッと言われたです」。

 

 これらの徳川の発言は、富田メモの内容とよく似ている。松岡に対する厳しい見方、筑波元宮司についての「慎重」という表現、松平元宮司が合祀を行なったことへの批判という三点が、富田メモと共通している。そこで、富田メモは徳川元侍従長の発言を書き留めたものだという見方が成り立つわけである。

 これに対し、「私は或る時に、A級が」以後の部分は、徳川は長く昭和天皇に仕えていたから天皇のご意思をよく理解していた。だから、徳川が語った意見は昭和天皇のご意思を伝えるものであり、富田メモはそのことを明らかしているのだという見方も成り立つ。逆に、あくまで徳川個人の意見であって、仮に昭和天皇のご意思が何らかの形で反映していたとしても、天皇の深い御心を正しく伝えるものとは言えないという反論も当然出る。

 「親の心、子知らず」という言葉も、昭和天皇のお言葉としては、違和感を与える。富田メモの最重要部分に出てくる言葉である。「松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている」と出てくる。その次に「だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」と続く、極めて重要な部分である。
 昭和天皇が人を批評されるお言葉としては、「親の心、子知らず」には、非常にきつい響きがあり、私は違和感を覚える。そう感じると言う人が多い。
 この点について、日本文化チャンネル桜が平成18年8月11日に放送した渡部昇一氏(上智大学名誉教授)の「大道無門」という番組で、岡崎久彦氏(元タイ大使)が、次のように語っている。
 「小田村さんね、拓大の総長をやってた。会ったらね。「いやー、徳川さんは、パーティで会った時、松平さんのことを『親の心、子知らず』だと言ってましたよ」と。(略)『親の心、子知らず』というのは、徳川さんがしょっちゅう言っていたこと」

 小田村氏とは、小田村四郎氏のことである。「親の心、子知らず」は、徳川元侍従長が、松平宮司についてよく言っていた言いまわしらしいのである。

 これに対しては、昭和天皇も「親の心、子知らず」という見方をされていて、徳川はそれを自分の言葉として語っていたのではないかという反論がありうる。印象でしか語れないところではある。しかし、徳川は御三家の一つ、尾張家の出身であり、福井の松平家は家来筋である。この松平の慶民・永芳の父子は、松平春嶽の子孫にあたる。そういう意識が、松平を下に見て批評する言葉使いに表われていると考えられる。

 

(2)単純な侍従長説には難点が

 

 昭和天皇は昭和63年4月25日の記者会見において、徳川前侍従長に関する質問にお答えになっている。(『読売新聞』による)

 

 ご質問:先日、五十年以上にわたり陛下にお仕えした徳川義寛侍従長が退任しましたが。

 お答え:「徳川侍従長に対しては、思い出も深いのでありますが、特に終戦の時に玉音盤をよく守ってくれたこと、戦後、全国を巡遊した時に岐阜の付近で歓迎の人波にもまれてロッ骨を折ったことがあります。裏方の勤務に精励してくれたことを感謝しています。また、ヨーロッパやアメリカの親善訪問の準備をよくしてくれたので、訪問はだいたい成功したように思われます。年齢のためにこのたび辞めることになりましたが、非常に残念に思います」

 

 徳川は退官後、侍従職参与となり、昭和64年1月の天皇崩御まで側近として仕えたという。退官後も富田とは近い関係にあったわけである。天皇記者会見について、後日、富田が徳川に意見や感想を聴く機会があっても不思議はない。この場合、メモの記録は、大部分が徳川自身の発言だという可能性と、なんらかの形で昭和天皇のご意思が反映した言葉という可能性がある。

 後者の場合であっても、それは徳川が理解した内容であり、天皇のお言葉そのものとは、言えない。徳川自身の意見や感情が交じっていれば、正確には天皇の真意は伝わらない。もし記録に残すほど重要なことであれば、徳川自身が記録するのではないか。

 この辺の検討のために、昭和63年4月28日の昭和天皇のご公務の記録、富田と徳川の勤務日誌や日記等を確認する必要がある。この点は、重要なポイントなので、章を改めて、第6章に書く。

 

 ここでは、富田メモをすべて徳川の意見だとする説には、難点もあることに触れておきたい。その一つは、メモの公開部分の前のページに以下の文言があることである。

 「昨年は 高松薨去間もないときで 心も重かった

  (2) メモで返答したのでごつごつしていたと思う

  (3) 4.29に吐瀉したが その前で やはり体調が充分でなかった それで長官に今年は記者

  印象があったのであろう

   =(2)については記者も申しておりました」

 

 この部分は、「昨年」つまり昭和62年にも、63年と同じような記者会見が行なわれたことを示す。昭和天皇は毎年、天皇誕生日の前に記者会見をされていた。62年には4月21日に行われた。この年の2月3日に高松宮宣仁殿下が薨去されている。上記の引用は、この時のことを富田が直接、昭和天皇から聞いたか、あるいは徳川から聞いたかのどちらかになるだろう。

 

 また、発言者はそのころ体調が悪く、会見後の4月29日に「吐瀉」(嘔吐と下痢)したという。

 この日、昭和天皇が吐瀉された事実がある。以前に書いたことの繰り返しになるが、『週刊朝日 緊急増刊 昭和逝く』(1989125日号)のP24に「皇居の宮殿『豊明殿』で午後零時五十分から開かれた天皇誕生日を祝う宴席で、朝食に食べたものを吐き戻された。美智子、華子両妃殿下に支えられながら、予定より十五分早い一時十五分に退席され、車いすで別室へ」とある。

 その後、昭和天皇は昭和62年の8月の末頃から、食べたものを戻されるなどの異常を訴えられ、9月22日に、宮内庁病院で手術をお受けになった。富田メモが記す昭和63年4月25日の記者会見は、大病をされた後の昭和天皇のご会見だった。

 

 上記部分の発言者を徳川とする場合、徳川自身が記者に「メモで返答した」り、62年の4月29日に彼自身も「吐瀉」することがあったのかの確認が必要である。そういう事実がなければ、この部分については、昭和天皇のご発言を直接または間接に伝えるものと見てよいだろう。

 徳川が昭和天皇からお聞きしたことを伝えている場合は、昭和62年4月の昭和天皇のご心境やご体調について、徳川が63年の4月28日に、新聞記者に語ったことになる。

 

(3)「世紀の大誤報?」

 

 冨田メモは昭和天皇のお言葉という報道に対し、メディアとして疑問を投げつけたのが、『週刊新潮』である。新潮は、8月10日号に「『昭和天皇』富田メモは『世紀の大誤報』かーー『徳川侍従長の発言』とそっくりだった!」という特集記事を載せた。

 

 この記事は、「問題は、このメモが書かれたとされる昭和63年4月28日である」として、当時の宮内庁記者に取材したことを書いている。

 その記者によると、「8ヶ月後に崩御される陛下にとって、昭和63年4月29日は、最後の誕生日となりました。その4日前の4月25日に陛下は記者会見をされ、予定されていた時間のほぼ半分の15分くらいで会見を切り上げています。前年に手術をされ、この時もすでに体調が相当お悪かったのです。天皇誕生日に会見記事を出す予定だった各社は、陛下の真意や、お言葉の背景について、富田長官ら幹部にブリーフィングしてもらわねばなりませんでした」と言う。

 徳川侍従長は、直前の4月13日に50年以上務めた侍従の職を退き、宮内庁の侍従職参与に新たに就任した。

 新潮は、徳川に関して、元宮内庁職員の言葉を載せている。

 「会見翌日の4月26日火曜日に侍従職参与となったのです。そして、1週間のうち、火曜と木曜に出勤することになった。口が堅いことで有名な方でしたので、ついたあだ名が火・木をもじって“寡黙の人”。そして、参与になって初めての木曜日が、問題の4月28日でした」

 新潮の記者は、ここで次のように書く。「翌日の朝刊用に天皇の会見記事を入稿しなければならない記者たちのために、富田氏が陛下にお会いし、改めて伺った話を書きとめたのが、問題のメモだとされている。が、富田氏が体調の優れない天皇ではなく、その代わりに天皇のお側に50年余にわたって仕えた徳川氏の意見を聞いていたとしたらどうだろうか」

 そして、再び元宮内庁職員の言葉を引く。

 「陛下の会見の前後に長官と侍従長が話をすることは当然あります。お互い連絡を密にする必要がありますから。富田氏が昭和52年に宮内庁次長に就任してから、二人は10年以上の付き合い、すり合わせも心得ていたはずです」と。

 

 記者会見の翌日に「天皇誕生日に会見記事を出す予定だった各社」の記者が、「陛下の真意や、お言葉の背景について、富田長官ら幹部にブリーフィングして」もらったという事実を伝えている。当時の各社の宮内庁記者が記録を合わせれば、会見の模様と内容が大体、再現されるだろう。

 

 『週刊新潮』の記事富田メモ徳川侍従長の発言である可能性があることを、投げかけている。理由として、記事が挙げていることをピックアップして、以下に記す。

 

@「A級」という言葉

 所功・京都産業大学教授の話:「そもそも昭和天皇が“A級(戦犯)”という言葉を遣われたとは考え難い」「他の確かな資料を見ても、昭和天皇は戦勝国の一方的な判決を容認しておられないから、“A級戦犯”という括り方をされるはずがないのです」

 

A「参拝」という言葉

 神社本庁関係者の話:「一般的には、陛下が神社に行かれることを“行幸”と言い、‥‥靖国神社は‥‥あくまで“行啓”なのです。また、陛下ご自身が謙譲語である“参拝”という言葉を遣うのはおかしいし、陛下の“行く”というお言葉を富田氏が“行啓”でなく、“参拝”と表現するのもおかしいですね」

 

B徳川は「A級戦犯」合祀に反対だった

 記事が引く徳川の本からの引用:「靖国神社の合祀者名簿いつも10月に神社が出してきたものを陛下のお手元に上げることになっていたですが、昭和53(1978)年は遅れて11月に出してきた。『A級戦犯の14人を合祀した』と言う。私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句を言ったが、先方は『遺族にしか知らせない』『外には公にしませんから』と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう」

 記事は、この引用の後に「徳川氏は、A級戦犯合祀に『文句を言った』のである。彼が明快に合祀反対派であったことがわかる」とコメントしている。

 

C徳川は筑波宮司を評価、松平宮司に批判的、松岡の合祀に批判的

 (先に述べたことと重複するので省略)

 

D徳川と松平・筑波との関係

 元宮内省職員の話:「松平宮司の父親は宮内府の長でしたから、侍従職にあった徳川さんは、父親の存在をよく知っていた。ですから、親の心子知らずという表現は理解できます、“筑波がよくやった”という言い方も、筑波宮司は旧皇族でしたから徳川さんはよく知っていたと思いますので、これもわかります」

 八木秀次・高崎経済大学教授:「(略)親の心子知らず、などと非常に強い言い方は天皇にはそぐわず、むしろ松平が徳川家の家来みたいなものだったと考えると、徳川侍従長の方がそういう言い方をしてもおかしくありません」

 

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第6章 4月28日に何があったか

 

(1)4月28日の富田と徳川の行動

 

昭和63年4月28日には、昭和天皇の記者会見は行なわれていない。日経は、8月3日の記事で、富田の手帳の一部を写真で公開した。そして、当日の夜、新聞記者の取材を受けていることを伝えた。その一方、別の筋から、この当日、徳川義寛元侍従長の記者会見があったらしいという情報も伝えられている。その取材と会見は一緒のものか、別々に行なわれたのか、参加者、記者による記録等を調査することが、非常に重要である。
 この点に関し、気になることがあるので、書いてみたい。

 日経の8月3日の記事には、「八八年四月二十八日に富田氏が会ったのは午前中に外務次官と昭和天皇、午後は皇太子(いまの天皇陛下)、夜は新聞記者の取材を受けている。それ以外の名は一切記載されていない。」とある。

 しかし、手帳に書いていないから、他の人物と一切会っていないとは限らない。会社では、会議以外に、社内の人間とちょっとした話し合いをしたり、軽い意見交換をしたりする場合、スケジュール表にも記録にもいちいち書かないだろう。

 富田と徳川は親しい関係だから、手帳に残さないような話し合いをしていても不思議はない。富田のスケジュ−ル表は、時間割が全部埋まっているわけではない。埋まってない時間も、彼は何かをしたり、誰かと会ったりしているのである。電話で、重要なことを連絡したり、話し合ったりすることも、日常的なことである。

 

私の知る限り、4月28日の富田と徳川の行動については、以下のような情報がある。

富田の行動について
@週刊新潮による情報
 当時の宮内庁記者の話:「4月25日に陛下は記者会見をされ、予定されていた時間のほぼ半分の15分くらいで会見を切り上げています。前年に手術をされ、この時もすでに体調が相当お悪かったのです。天皇誕生日に会見記事を出す予定だった各社は、陛下の真意や、お言葉の背景について、富田長官ら幹部にブリーフィングしてもらわねばなりませんでした」(同誌8月10日号より)

Aクライン孝子氏の知人の情報
 当時宮内庁記者をしていた有名な記者の話(7月23日朝の10チャンネルのテレビの番組で):「(4月28日)当日も宮内庁長官の記者会見があったが、富田長官からは何の話もなく、陛下にお目にかかったことにも言及せず、実際としてあの時の陛下のご容態からして、そんな話が出来るような状況ではなかったと思う。」(クライン孝子氏のブログより)

徳川の行動について
B週刊新潮による情報
 元宮内庁職員の話:「(侍従長を勇退した徳川氏は)会見翌日の4月26日火曜日に侍従職参与となったのです。そして、1週間のうち、火曜と木曜に出勤することになった。(略)そして、参与になって初めての木曜日が、問題の4月28日でした」「陛下の会見の前後に長官と侍従長が話をすることは当然あります。お互い連絡を密にする必要がありますから。富田氏が昭和52年に宮内庁次長に就任してから、二人は10年以上の付き合い、すり合わせも心得ていたはずです」(同誌8月10日号より)

C岡崎久彦氏による情報
 「私自身が確かめたわけではなく、ひとから聞いた話であるが」と断って、岡崎氏は、次のように書く。富田メモにある昭和63年4月28日には、「徳川侍従長が、それまで職務上、固く沈黙を守っていられたのが、元侍従長として自由な立場で記者会見を行ったことがある由である。そこには富田氏も長官として同席し、メモを取っていた、という事実があるようである」と。(『産経新聞』8月2日号「正論」より)

(2)重要な28日の出来事の調査


 私は、上記の情報がどの程度正確なのか、わからない。読み合わせて考えられることを書くと、28日の富田の記録には「夜、新聞記者の取材」とある。その「取材」とは、@で「富田長官ら幹部にブリーフィング」、Aで「宮内庁長官の記者会見」と言っているものと同じと思われる。@は「天皇誕生日に会見記事を出す予定だった各社」というから、相当多数の社の記者が参加しただろう。
 奇妙な事に、
Aはその際、「富田長官からは何の話も」なかったという。一体、富田以外の誰が、記者に話しをしたのか。@は「富田長官ら幹部」と書いているから、富田以外の「幹部」が記者に説明なり回答なりをしたのだろう。
 記者は「陛下の真意や、お言葉の背景」について知りたかったのだろうが、
Aは「陛下にお目にかかったことにも言及せず、実際としてあの時の陛下のご容態からして、そんな話が出来るような状況ではなかったと思う」という。
 これが正しければ、25日から当日までの間に、昭和天皇にお会いしてこのようにお聞きしましたという話は、なかったのだろう。では誰が何を話したのか。長官が同席している場で、長官に代わって、次長や課長が記者の質問に答えるものだろうか。山本悟新侍従長か、それとも
‥‥

 
Bによれば、28日、徳川は出勤していた。侍従職参与としての初出勤だった。この日、Cによれば、徳川は「元侍従長として自由な立場で記者会見を行った」らしい。「そこには富田氏も長官として同席し、メモを取っていた」らしい。
 いずれにしても当然、28日に富田と徳川は会っていたことになる。記者会見ゆえ、事前に打合せもしただろう。まったくフリーハンドで会見に臨むとは考えられない。昭和天皇のお誕生日を前にして、記事を書こうとする各社の記者たちに、25日のわずか15分だった天皇記者会見について補足するものとなるような、重要な場なのだから。

 「記者会見」については、富田らの「ブリーフィング」的な「記者会見」と、徳川の「記者会見」は同じものである可能性がある。この場合、「富田長官からは何の話も」なかったというから、徳川が主となって話したのだろう。
 当日、二つの記者会見が行なわれた可能性もある。この場合、富田らの「ブリーフィング」的な「記者会見」と徳川の「記者会見」は、別々に行なわれ、ここにも富田は「同席し、メモを取っていた」ということになろう。

 私の想像で書くと、富田は午前中、昭和天皇から伺ったお言葉をメモにしたものを持って会見に臨んだのかもしれない。しかし、その内容には触れなかった。そして、記者会見では、徳川の言葉をメモした。それを別の紙に書いたとすれば、それは残っているのかどうか。同じ紙に書いたとすれば、富田メモは、前半は昭和天皇のお言葉を書き留めたものだが、後半は記者会見での徳川の発言を書き連ねたという可能性もある。

富田自身は、その内容については、記者に話さなかった。「陛下の真意や、お言葉の背景」も「陛下にお目にかかったことにも」言及しなかった。そのままメモだけが残った‥‥。
 こうやって考察すると、他にも可能性がありそうである。

 4月28日の富田と徳川の行動について、早急に調査すべきである。記者会見は1回なのか、2回なのか。時間帯、場所、参加者等を確認する。そして、参加した当時の宮内庁記者の記録を集め、富田メモとの比較・検討を行う必要がある。

 

(3)4月28日に関する怪情報

 

 一体、4月28日の富田と徳川が参加した記者たちの取材の場では、何が話されたのだろう。確かな情報が出てこないまま日が経過しているが、この間、2チャンネルで見た書き込みで気になっているものがある。以下のようなものである。

――――――――――――――――――――――――――――――
671
名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/10() 22:50:47 ID:t0J41r8E0
朝○皇担取材簿 63/4.28

その後報告終えと後。驚いたが-確かだ。
少なくとも松岡白鳥二方はお祀りの
要件なり・違う意見。その日内。
筑波宮司には伝えてあったので-慮・処と
それは皆も知る事。気取る事は-せぬ。
宮司が終ましてしまわれた。着いて日浅い
伝えた時 何や申されたがあっさりに。
確かめたいと念じても出来ぬ
そうであれば私としてもお参りなどできようもない。
-
率直に申しますとそれに尽きる。-
筑波さんは波風を立てぬよう一々
穏便に
知った時は
宗秩-での辛苦を知るか。疑問
父子であれば-
図っていなく  (強く)
――――――――――――――――――――――――――――――

 「名無しさん」の書き込みゆえ、怪情報の類である。相手に確認のしようがない。いたずらかもしれない。学者やプロのもの書きはこういう情報を相手にしないだろうが、私は素人の気楽さで、思いつくことを書いてみることにする。仮にこの書き込みを「皇担取材簿」と呼ぶ。

 

 皇担取材簿は、「朝○皇担取材簿 63/4.28」と題されている。昭和63年4月28日に朝日新聞の皇室担当記者が取材した記録のような体裁となっている。内容は、手書きで書いたメモを他人が解読して書き写したような文章である。かなり読みにくい文字らしく、全ての文字は判読できないまま、見当のつく範囲で書いたように思える。
 朝日新聞では、清水建宇氏が「昭和の最後の2年間、私は宮内庁を担当していました」と書いている。当時の宮内庁担当記者として4月28日の会見には参加していないのか。清水氏は、このような取材簿をどう見るか。

 皇担取材簿には、「松岡」「白鳥」「筑波」「宮司」「お参り」「父子」等の単語が並んでいる。これらは、富田メモの最重要部分に出ている単語と重複する。以下の部分である。
 「私は 或る時に A級が合祀され その上松岡.白取 までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」

 皇担取材簿は、以下のような内容だった。
 「その後報告終えと後。驚いたが-確かだ。少なくとも松岡白鳥二方はお祀りの要件なり・違う意見。その日内。筑波宮司には伝えてあったので-慮・処とそれは皆も知る事。気取る事は-せぬ。
 宮司が終ましてしまわれた。着いて日浅い伝えた時 何や申されたがあっさりに。確かめたいと念じても出来ぬ。そうであれば私としてもお参りなどできようもない。-率直に申しますとそれに尽きる。-筑波さんは波風を立てぬよう一々穏便に 知った時は 宗秩-での辛苦を知るか。疑問 父子であれば-更 図っていなく(強く)」

 富田メモと皇担取材簿は、単語の出てくる順番もほぼ一致している。これを一人の人間の発言を、二人の人間が別々にメモを取ったものと考えることはできるだろうか。
 私は、いろいろな会議や会合に参加して、発言者のメモを取る。後で自分のメモと他人のメモを比較するような時がある。何かを決議した部分は、記録が、ほぼ一致している。しかし、単なる意見の部分は、主要な単語は同じだが、話しの枝葉やニュアンスが相当違うことがある。だから、私の経験で言えば、富田メモと皇担取材簿は、一人の人間の発言を複数の人間が別々にメモを取ったものと考えることは可能だと思う。

 

(4)一人の発言者を複数が記録?
200610.10修正


 一人の発言者として推定されるのは、だれか。徳川元侍従長である。というのは、皇担取材簿には、「宮司が終ましてしまわれた。着いて日浅い伝えた時 何や申されたがあっさりに。」という表現があるからである。「宮司」とは、松平宮司であろう。その宮司に「しまわれた」「申された」と敬語を使うのは、天皇ではあり得ない。元侍従長である。
 では、富田メモの最重要部分は、徳川自身の言葉なのか、それとも昭和天皇のお言葉を間接的に伝えるものなのか。

 まず、徳川が最初に富田メモの上記部分のような天皇のお言葉を記者に伝え、その後に、皇担取材簿のような個人的な意見を補ったということは考えられるか。これは、あり得ない。
 仮に、徳川が、天皇は「松岡」「白取」「松平」を厳しく見てらっしゃると個人名を挙げてお言葉を伝え、「だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」とお言葉を伝えたとしよう。オフレコだと厳重に言っても、スクープ狙いのどこかの記者が、翌29日の朝刊に「昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感」と大々的に報道しただろう。今回の騒ぎは、昭和63年4月に既に起こっていたはずである。だから、これはあり得ない。
 それゆえ、富田メモと皇担取材簿は、徳川が発言しているのを、富田と記者が別々にメモしたものと考えられる。

 次に、仮に富田メモの3〜4枚目は、すべて昭和天皇のお言葉を富田が書き留めたものだとする。富田は、そのメモを持って記者会見に臨んだ。しかし、メモの内容の一部は、絶対伝えることはできないものだった。語れば、上記と同じ騒ぎになったからである。記者会見の準備のためにメモしたものに、絶対口外できないことが含まれたまま、そのメモをもって会見に臨むという行動は、考えにくい。極秘部分は、「Pressとの会見」という題ではなく、「午前中の言上にて」とでも題しておくだろう。記者には伝えないことなのだから。

 徳川であれば、気楽である。徳川は、この記者会見の約8年後、平成8年(1996)2月2日に亡くなった。晩年の徳川は、朝日新聞編集委員の岩井克己氏に侍従職時代のことを語った。その証言は、徳川の死の翌年、平成9年(1997)2月5日に、『侍従長の遺言〜昭和天皇との50年』(朝日新聞社)として刊行された。そこで語っている内容と、富田メモの最重要部分とが、よく似ていることは周知のとおりである。

 「私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったです」
 「でも当時、『そちらの勉強不足だ』みたいな感じで言われ、押し切られた。私は松岡さんの例を出して『おかしい』と言ったのだが、東条さんのことで答えられ、すり替えられたと感じた。靖国神社には軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったですから」
 「A級戦犯はその十年くらい前に厚生省から『戦争による公務死亡者』として名前が靖国神社に届き、神社では昭和46年6月30日の総代会で合祀する方針を一応決めたのですが、『合祀の時期は宮司に任せる』ということで、宮司の筑波藤麿さんがずっと延ばしてきていたのです。ところが宮司さんが筑波さんから松平永芳さんに代わって、間もなく実施に踏み切られることになった」。
 「筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったですよ。それで中曽根首相が参拝して、ワッと言われたです」。

 この引用は、徳川発言説の根拠となっている。富田メモの最重要部分及び皇担取材簿と、この徳川の発言は、細かく比較するまでもなく、よく似ている。皇担取材簿でも、徳川の本でも筑波宮司を「筑波さん」と呼んでいる点も注目に値する。

(5)テキスト分析が必要

 以上のことを踏まえて、富田メモを再度検討したい。様々な人が富田メモを論じているが、ほとんどの人は印象を語ったり、他の史料との比較を語るだけで、富田メモ自体を一つのテキストとして、詳細に分析していないように思う。

昭和63年4月28日の富田メモは、3枚目に「Pressとの会見」と題している。3枚目の上半分は、次のような内容である。
 「[1]昨年は
  (1) 高松薨去間もないときで心も重かった
  (2) メモで返答したのでごつごつしていたと思う
  (3) 4.29に吐瀉したが その前でやはり体調が充分でなかった
  それで長官に今年は記者  印象があったのであろう
   =(2)については記者も申しておりました」

 これは、昭和62年4月の天皇記者会見を振り返って昭和天皇がお話になったことを、富田が直接お聞きして書き留めたものと考えられる。徳川自身の体験ではあり得ない。彼には関連する体験がない。ここに「=」という記号が出てくる。仮に日経の説明に従って、「=」は富田自身の意見を示す記号だとしよう。富田は徳川を通じてではなく、直接陛下から拝聴したのだろう。職務記録を見れば確認できるだろうが、徳川が同席していた可能性はある。同席していれば、昭和63年4月28日の記者会見では、上記の趣旨のことを徳川が語った可能性もある。

 さて、この部分で富田は、「=」で始まる文では「申しておりました」と謙譲語を使っている。3枚目の下半分も、内容から見て天皇のお言葉を書き留めたものと思う(ここでは省略)。
 ところが、4枚目の上半分、奥野・藤尾のところでは、「=奥野は〜と思うが 〜と思う 〜とも思う」と普通の言葉遣いである。
 「前にあったね どうしたのだろう 中曽根の靖国参拝もあったか 藤尾(文相)の発言。
 =奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも。」
 
 私は、ここに注目する。この会話の相手が、3枚目で「申しておりました」と書いたのと同じ人物であれば、この4枚目の「=」もまた「思いますが〜 思います」と書くべきだろう。富田は、謙譲語をここでは使っていない。それゆえ、3枚目の「=」は天皇に対するご返事、4枚目の「=」は同等の者の発言へのコメントと、私は区別できると思う。同等の者とは、だれか。徳川元侍従長と考えられる。

 

(6)欄外の2行に鍵がある

 しかも、もう一点、注目すべきことがある。4枚目の下段に、欄外に縦で「・余り閣僚も知らず ・そうですがが多い」と書かれていることである。富田メモについて、半藤一利氏、秦郁彦氏、保坂正康氏の三氏が『文藝春秋』9月号で鼎談をしたが、そのなかでも、この欄外の2行は不明のままとなっている。半藤氏は「うーん、ここはよくわかりません」と言っている。私は、全体に関わる鍵がここにはあると思う。

昭和63年4月28日には、昭和天皇の記者会見は行なわれていない。だから、「・余り閣僚も知らず ・そうですがが多い」は、この日の天皇と記者のやりとりに関するものではない。誰かと記者のやりとりについて、書いたものである。この日、富田は夜、記者の取材を受けている。また、徳川元侍従長の記者会見があったとも伝えられる。4月28日の記者会見は1回なのか2回なのか、参加者、記者による記録等を調査することが喫緊の要事となっている。

 可能性の第一は、場面は記者会見。発言者は徳川。富田はそこに同席。富田は徳川と記者のやりとりを聴き、記者について「余り閣僚も知らず」「そうですがが多い」などと、さめた感じで欄外に感想を書いているという状況である。
 4月28日の出来事について調査が進まないと判断できないが、富田メモの欄外の縦書きは重要なのである。その2行を解読できないと、いわゆる「A級戦犯」の合祀に関する文言が、昭和天皇のお言葉だとは、断定できない。発言者が徳川元侍従長という可能性がある。

 可能性の第二は、欄外の縦書きも、昭和天皇と富田の一対一の場面での文言を書き留めたものという場合である。これは、どういう状況が考えられるか。28日夜には記者会見があった。翌日の天皇誕生日の朝刊に記事を書く記者たちのためのブリーフィングらしい。その前に、富田は昭和天皇からご意思をお聞きして、書き留めておいた。こうした状況だとすると、「余り閣僚も知らず」「そうですがが多い」のは誰について言っているのか。昭和天皇のことではない。天皇が閣僚のことも知らず、そうですが多く使うなどあり得ないし、富田がそのような無礼な感想を書くわけもない。となると、昭和天皇の記者に対するご感想となるだろう。
 具体的には4月25日に行われた天皇記者会見の時の記者に対する昭和天皇のご感想ということが考えられる。その日の記者会見で、記者たちのご質問に「余り閣僚を知らず」「そうですがが多い」と、天皇が感じられるような場面はあったのか。

 『読売新聞』がこの記者会見を報じた記事によると、記者たちのご質問は以下の通りである。
 「昨年の手術から半年余りたちましたが、最近のご体調はいかがでしょうか」「手術が決定した時、どのようにお思いになりましたか」「皇后陛下のご体調はいかがですか」「生物学の研究も再開されましたが、『皇居の植物』の執筆などで苦心された点をお話し下さい」「先日、五十年以上にわたり陛下にお仕えした徳川義寛侍従長が退任しましたが」「陛下が即位式(昭和三年十一月)をされてから六十年になりますが、第二次世界大戦について、改めてお考えをお聞かせ下さい」「日本が戦争に進んだ最大の原因は何だと思われますか」「沖縄訪問について、お気持ちをお聞かせ下さい」
 最後の三つは関連質問としてされた。それを含めて、ご質問は以上である。

 どこにも閣僚の話は出ていない。「そうですが」というような伝聞に基づく質問も見られない。記事を見る限り、欄外の2行は、4月25日の天皇記者会見に関して書いたものと見ることはできない。録画・録音が残っていれば、「余り閣僚を知らず」「そうですがが多い」と天皇が感じられるようなご質問があったのか、確認できるだろう。

 私は現在のところ、第二の可能性は、ほとんどありえないと思う。第一の可能性つまり、場面は記者会見。発言者は徳川。富田はそこに同席。富田は徳川と記者のやりとりを聴いていて、記者について「余り閣僚も知らず」「そうですがが多い」などと、さめた感じで欄外に感想を書いているという可能性が高いと思う。
 そして、この場合、富田のコメントと思われる第二番目の「=」の部分、つまり「奥野は〜と思うが 〜と思う 〜とも思う」と普通の言葉遣いで書いた部分は、天皇に対するご返事ではなく、同等の立場にある徳川元侍従長の発言に対するコメントと私は考える。

 

以上の考察によって、富田メモの4枚目は、3枚目とは異なる場面での記録と考えられる。3枚目は、富田が記者会見の前に、午前中に昭和天皇からお言葉を伺って書き留めたものだろう。これに対し、4枚目は、そのメモを持って臨んだ記者会見の場で、書いたものではないか。
 3枚目は、[1] [2]と番号が振ってあるが、4枚目にはそういう番号を振っていないことも、時間・場所・状況が異なることを示唆しているかもしれない。
 3枚目の「=」の部分は、午後または夜の記者会見において、徳川が発言した内容について、富田が書いた。「奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも。」と自分の意見を記した。このように考えられる。ただ書いただけでなく、記者に対してそのように富田自身が発言したのかも知れない。

 では、富田メモの最重要の部分、つまり、いわゆる「A級戦犯」の合祀に関する文言は、誰の発言なのか。天皇ではなく、徳川の発言であり、それを記者会見の場で、富田が書き留めたものという可能性が高く浮かび上がってくる。

(7)富田メモ、喫緊の最大課題

 岡崎久彦氏は、聴いた話しとして次のように伝えている。4月28日には、「徳川侍従長が、それまで職務上、固く沈黙を守っていられたのが、元侍従長として自由な立場で記者会見を行ったことがある由である。そこには富田氏も長官として同席し、メモを取っていた、という事実があるようである」。(平成18年8月2日の『産経新聞』「正論」)
 その記者会見の場で、徳川が個人の意見として自由な立場で発言した。それを同席した富田は、以下のように書き留めた。
 「私は 或る時に A級が合祀され その上松岡 白取 までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」
 朝日新聞の記者らしき者は、次のように書きとめた。
 「その後報告終えと後。驚いたが-確かだ。少なくとも松岡白鳥二方はお祀りの要件なり・違う意見。その日内。筑波宮司には伝えてあったので-慮・処とそれは皆も知る事。気取る事は-せぬ。
 宮司が終ましてしまわれた。着いて日浅い伝えた時 何や申されたがあっさりに。確かめたいと念じても出来ぬ。そうであれば私としてもお参りなどできようもない。-率直に申しますとそれに尽きる。-筑波さんは波風を立てぬよう一々穏便に 知った時は 宗秩-での辛苦を知るか。疑問
 父子であれば-更 図っていなく(強く)」

 これは、一つの想定である。先にお断りしたように、皇担取材簿は、2チャンネルの怪情報である。私は怪情報をもとに、素人の気楽さで思いつくことを書いたまでである

 昭和63年4月28日、富田が受けた記者の取材と、徳川元侍従長の記者会見一緒のものか、別々に行なわれたのか、参加者、記者による記録等を調査する。これが、極めて重要である。

 問題を解く、最も近い位置にいるのは、昭和63年4月28日に富田・徳川から話しを聴いた各社の記者たちである。
 わずか18年ほど前のことである。現存の人が、何人かいるだろう。なぜ彼らは、自分の記録を確認し、それを公表しないのか。朝日新聞で当時、宮内庁を担当していた清水建宇氏は、どう考えるか。岩井克己氏は、どうか。また、なぜメディア関係者や有識者は、朝日新聞をはじめ、読売、毎日、産経、東京・中日、日経、共同通信などの社会部または皇室担当班に、徹底的な調査をしないのか。
 その調査と検討なくして、だれも富田メモについて、断定的なことは言えない。そのことを重ねて強調したい。
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ber117

 

第7章 徳川元侍従長の虚言?

2006.10.9修正

 

(1)富田メモと徳川の発言

富田メモの検討のために、角度を変えて、徳川元侍従長の言動について検討してみたい。

 富田メモの最も重要な部分は、次の文言である。
 「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」

 この内容に関わることを、徳川は『侍従長の遺言―昭和天皇との50年』(朝日新聞社)で述べている。本書は、朝日新聞編集委員だった岩井克己氏が、徳川から取材した内容をまとめたものである。刊行は、平成9年(1997)2月5日。徳川はその前年2月に亡くなっており、死後、岩井氏が編集・発行したものだ。
 本書で、徳川は、元「A級戦犯」の合祀について、次のように語っている。
 「靖国神社の合祀者名簿いつも10月に神社が出してきたものを陛下のお手元に上げることになっていたですが、昭和53(1978)年は遅れて11月に出してきた。『A級戦犯の14人を合祀した』と言う。私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句を言ったが、先方は『遺族にしか知らせない』『外には公にしませんから』と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう」
 「A級戦犯はその十年くらい前に厚生省から『戦争による公務死亡者』として名前が靖国神社に届き、神社では昭和46年6月30日の総代会で合祀する方針を一応決めたのですが、『合祀の時期は宮司に任せる』ということで、宮司の筑波藤麿さんがずっと延ばしてきていたのです。ところが宮司さんが筑波さんから松平永芳さんに代わって、間もなく実施に踏み切られることになった」。
 「私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったです」
 「でも当時、『そちらの勉強不足だ』みたいな感じで言われ、押し切られた。私は松岡さんの例を出して『おかしい』と言ったのだが、東条さんのことで答えられ、すり替えられたと感じた。靖国神社には軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったですから」
 「筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったですよ。それで中曽根首相が参拝して、ワッと言われたです」。

 こうした徳川の発言は、富田メモを検討する際、重要な資料となっている。
 富田メモを昭和天皇のご発言だと考える人たちは、徳川は昭和天皇のご意思をよく理解していたので、富田メモと同じようなことを本書で語っていたのだと見なす。これに対し、富田メモは徳川侍従長の発言ではないかと考える人は、徳川のこうした発言は、富田メモは、徳川の個人的な発言を書き留めたものであることを示しているのだと見なす。
 いずれにしても、徳川が『侍従長の遺言』で語ったことは、富田メモの解読に、欠かせない資料なのである。

(2)徳川の発言には事実と異なることがある

 ところが、ここに問題がある。徳川が述べていることには、いくつか事実と異なることがあるのだ。
 徳川発言の最も問題のある部分は、次の部分である。
 「靖国神社の合祀者名簿いつも10月に神社が出してきたものを陛下のお手元に上げることになっていたですが、昭和53(1978)年は遅れて11月に出してきた。『A級戦犯の14人を合祀した』と言う」
 それで、徳川は、「文句を言った」「おかしい」と言ったが、「勉強不足」みたいに言われて「押し切られた」のだと言う。

 徳川が言うところでは、靖国神社は、前もって報告せずに、元「A級戦犯」を合祀し、合祀を終えてから事後報告をしたことになる。これに対しては、以前から事実と違うという指摘がある。今回、富田メモの公表によって、本件の事実関係が改めて注目されることになった。

 徳川は事実誤認をしていたのか、それともウソを言っているのか。事実誤認ならなぜすぐ訂正しないのか。仮にもし徳川がウソをついていたとすれば、その意図・目的は何か。

(3)靖国神社の祭神合祀

 徳川元侍従長は、元「A級戦犯」合祀に関して、ウソを言っていた可能性がある。その検討のために、まず靖国神社の祭神合祀の仕組みと経緯をみておきたい。

 戦後、靖国神社に合祀される人の基準は、法律に根拠がある。国会が制定した戦没者遺族援護法及び恩給法とその関連法が、関係法である。国会は、昭和28年8月、いわゆる戦争犯罪人は国内法的には犯罪者ではなく、法務死者とみなすことを決議した。それによって、国は、元戦犯の遺族にも年金を支払うなどを行ってきた。行政府は、立法府がつくった法律に基づいて、行政事務を行なう。管轄官庁は、厚生省(現厚生労働省)だった。
 厚生省は、日本遺族会からの「戦没者靖国合祀」の要望によって、戦没者の靖国神社への合祀に協力する事業を行なった。この事業は、合祀事務協力事業と呼ばれる。担当部局は、引揚援護局(当時)だった。
 厚生省引揚援護局は、戦傷病者戦没者遺族等援護法と恩給法の適用を受ける戦没者の名簿を作成し、その名簿を靖国神社に提出した。昭和31年から46年まで、名簿提出が続けられた。
 この名簿は、引揚援護局の課長名による通知として送られた。その通知が「祭神名票」と呼ばれる。

 靖国神社は「祭神名票」をもとに、その年に合祀する人々の名簿を作成する。それが「霊璽簿(れいじぼ)」である。この作成の際、もう一つ「上奏簿」を作成する。一定の書式に則って奉書に墨で清書し、絹の表紙でとじたものだという。上奏簿とは、天皇に上奏するための名簿である。
 靖国神社は戦前も戦後も、毎年合祀の前には必ず上奏簿を作成して、上奏簿を宮内庁にお届けし、天皇に上奏してきたという。戦前は、祭神の合祀は天皇の裁可を受けた。戦後も、上奏が慣例として行われた。
 「祭神名票」は、国会が制定した法律を基準として行政当局が合祀されるべき人を選定し、書面として作成したものである。靖国神社は「祭神名票」を受け、それをもとに合祀者の名簿を作る。靖国神社は、「祭神名票」に載っていない人を、独自に合祀するのではない。

 昭和41年、厚生省から靖国神社に祭神名票が提出された。その中に、14柱の元「A級戦犯」の名前が含まれていた。そもそも祭神名票の提出は、事務次官らの承諾を得ずに行われ、元軍人が多かった援護局の独断だったという説がある。しかし、援護局の課長名で出だされた通知は公式文書であり、民間団体は国からの通知として受理する。
 こういう事務に何か問題があれば、厚生省で業務の改善がされるなり、国会で法律が改正されるなりしたはずである。実際には、31年からずっと同じように通知が出されていた。41年の通知も同様にされた。

 祭神名票を受けた靖国神社は、元「A級戦犯」の合祀をすぐ行なわなかった。筑波慶麿宮司は、靖国神社の最高意思決定機関である崇敬者総代会に何度か諮った。そして、協議の結果、数年後に総代会で合祀が決定された。機関決定である。
 決定の時期は、昭和45年6月30日である。46年2月という説、46年6月30日という説があり、徳川元侍従長も45年と言ったり46年と言ったりしている。
 合祀の時期については、宮司預かりとすることが、やはり総代で決定されたという。当時、国会では昭和44年から靖国神社国家護持法案が繰り返し提出されて審議されており、合祀の保留は、こうした国会の動向を見ていたものという説がある。同法案は49年に廃案となった。

 総代会で早期に合祀の実現を求める推進派の中心は、元「A級戦犯」で東条内閣の大東亜相だった青木一男氏や、同じく蔵相だった賀屋興宣氏らだったという。一方、崇敬者のなかには、元「A級戦犯」の合祀は、国家護持が実現してからという意見もあった。宮司の諮問機関である祭祀制度調査会は、その意見で固まっていた。その中心は、戦後の神社界の理論的支柱だった葦津珍彦氏だった。

 筑波宮司の在任中には、合祀は実行されなかった。筑波は、「合祀は自分が生きている間は恐らく無理だろう」とか「宮内庁の関係もある」などと言っていたと伝えられる。
 筑波宮司は、昭和53年3月に急逝した。その後、7月1日に松平永芳氏が宮司に就任した。宮司の選任は、総代会に権限がある。
 松平宮司は就任後、元「A級戦犯」の合祀は「時期は宮司預かり」となっていることを知り、実行を考えた。総代会は、元「A級戦犯」の合祀を行なうことを再度確認した。そのうえで、この昭和53年の年に、元「A級戦犯」の合祀が進められた。松平の独断ではない。(註)

 

  詳しい経緯は、補説1「靖国問題と元『A級戦犯』合祀の経緯」をご参照のこと

 

(4)徳川と靖国側の主張の食い違い

 

さて、ここで徳川元侍従長の発言を再度見てみよう。いわゆる「A級戦犯」の合祀が進められた

昭和53年の年には、徳川は侍従次長だった。侍従長は、入江相政である。二人の侍従長在職期間は以下の通りである。いずれも前職は侍従次長である。

 

 入江相政 昭和44年(1969)9月16日〜昭和60年(1985)9月29日

 徳川義寛 昭和60年(1985)10月1日〜昭和63年(1988)4月13日

 

さて、昭和53年10〜11月の当時、入江侍従長の下で侍従次長だった徳川寛義氏は、著書で次のように語っている。

「靖国神社の合祀者名簿いつも10月に神社が出してきたものを陛下のお手元に上げることになっていたですが、昭和53(1978)年は遅れて11月に出してきた。『A級戦犯の14人を合祀した』と言う。」と。
 もしこの通りだとすれば、靖国神社は、意図的に事前に報告せず、合祀をしてしまってから事後報告をしたことになる。そうであれば、天皇に上奏したうえで、祭神を合祀するという慣例を破る行為である。徳川の発言は、靖国神社または松平宮司が天皇を無視して、独断専横で合祀したという印象を強く与える。

 ところが、靖国神社側の主張は、まったく異なる。靖国神社は、元「A級戦犯」の合祀を10月17日に行い、翌18日に秋の例大祭を挙行した。その前に、例年通り上奏簿をつくって、宮内庁に提出したという。
 松平宮司は、著書『誰が御霊(みたま)を汚したのかーー「靖國」奉仕十四年の無念』に、以下のように書いている。
 「私の就任したのは53年7月で、10月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、9月の少し前でしたが、『まだ間にあうか』と係に間いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって、14柱をお入れしたわけです」

 こうして作成した上奏簿を事前に提出したという。
 以上のような靖国神社の主張は、徳川の主張とは、全然異なっている。

 しかも、この年の秋、上奏簿の提出は、宮内庁からの申し出により、昭和天皇の国内行幸日程を考慮し、通常より日程を早めて行われたという経緯があったらしい。
 10月7日に、池田良八権宮司はじめ三人の職員が宮内庁に行って、上奏簿を侍従職と掌典職に届けた。掌典職のほうは、皇室の祭祀をつかさどる部署である。
 権宮司とは、宮司の次の役職である。宮司が専門の神職でなくともよい靖国神社においては、事実上、神職の最高位である。宮内庁の申し出に応じて、例年より早く上奏簿を提出し、責任ある神職が宮内庁を訪問して担当者に提出したというわけである。この点は、秦郁彦氏が、「靖国神社の社務日記で確認した」と書いている(『靖国神社「鎮霊社」のミステリー』)

 それにもかかわらず、徳川は言う。
 「靖国神社の合祀者名簿いつも10月に神社が出してきたものを陛下のお手元に上げることになっていたですが、昭和53(1978)年は遅れて11月に出してきた。『A級戦犯の14人を合祀した』と言う。」と。
 すべて事後報告だというのである。あまりにも大きな食い違いが、ここにはある。一体なぜ、このような食い違いを生じているのか。私は徳川がウソをついていると考えざるを得ない。

(5)食い違いは、もう一つある

 食い違いと言えば、もう一つある。
 徳川によれば、靖国神社は元「A級戦犯」の合祀をしてから、11月に遅れて提出してきた。その際、「私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句を言ったが、先方は『遺族にしか知らせない』『外には公にしませんから』と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう。そうしたら翌年4月に新聞に大きく出て騒ぎになった。そりゃあ、わかってしまいますよね」と、徳川は著書で語っている。
 先に見たように、靖国神社側は、事後報告ではなく事前に、しかも宮内庁の申し出により、例年より早く名簿を提出した。また、権宮司らが宮内庁を訪れて提出したと言う。しかし、徳川は、違う。靖国神社は、勝手に合祀をして事後報告だったから、「やましいところ」があったのだろう、だから公表しなかったが、自分が懸念していたように、結局わかってしまい、騒ぎになったではないか、と言いたいようである。

 これに対し、松平宮司は、著書『誰が御霊(みたま)を汚したのか』に、次のように書いている。
 「14柱を合祀したときは、事前に外へ漏れると騒ぎがおきると予想されましたので、職員に口外を禁じました。しかし合祀後全く言わないと、これまた文句を言う人が出てくる。そこで合祀祭の翌日秋季例大祭の当日祭と、その次の日においでになったご遺族さん方に報告したわけです。
 『昨晩、新しい御霊を1766柱、御本殿に合祀申し上げました。この中に』−−ここを、前の晩、ずいぶん考えたです。『東条英機命以下
‥‥』というと刺激が強すぎる。戦犯遺族で結成している『白菊会』という集りがありますので−−『祀るべくして今日まで合祀申し上げなかった、白菊会に関係おありになる14柱の御霊もその中に含まれております』
 そういうご挨拶をしたです。すると、白菊会の会長である木村兵太郎夫人が、外に出てくる私を待っていらして、『今日は寝耳に水で、私が生きているうちに合祀されるとは思わなかった』と非常に喜ばれた。
 それから半月後に、14柱のご遺族すべてに、昇殿・参拝いただきたいという通知を出し、お揃いでご参拝いただいたと、こういう経過でございます。」

 木村兵太郎は、東京裁判で「A級戦犯」として絞首刑にされた7人のうちの一人。陸軍大将だった。可縫夫人は、当時白菊会の会長として、例大祭に参列したものだろう。
 松平宮司の言うには、事前に外へ漏れると騒ぎがおきると予想されたので、職員に口外を禁じた。しかし、10月17日に合祀をした翌日、18日の例大祭の宮司挨拶で合祀したことを述べ、元「A級戦犯」の遺族にも報告した。
 事前に伏せておいたのは、神社としては穏やかに神事を執り行いたいという考えだろう。隠しておいて勝手に進めるということとは違う。また、例大祭の宮司挨拶で公表したのであれば、公式の発言である。祭典が終わった後に、遺族にだけ耳打ちしたのではない。

 ところが、徳川は、11月になって名簿を遅れて提出してきた際に、「私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句を言ったが、先方は『遺族にしか知らせない』『外には公にしませんから』と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう」と言う。そして、「そうしたら翌年4月に新聞に大きく出て騒ぎになった。そりゃあ、わかってしまいますよね」と語る。
 靖国神社側には「やましいところがあった」、それは事前に名簿を提出せずに合祀したからである。「やましいところがあった」から、遺族以外には合祀を伝えず、公表しなかったのだという印象を強く与える言い方を、徳川はしている。また結局、世に知られて騒ぎになったのは、靖国神社の姿勢に問題があるという印象を強く与える言い方になっている。
 ここにも食い違いがある。

 独立回復後の国会において、わが国にはA級戦犯を含めて戦争犯罪人はいない、処刑された者は公務に殉じた法務死者とみなすことを決定した。その基準に変更のない限り、彼らを靖国神社に合祀するのは、いずれ実行すべき課題である。
 元「B・C級戦犯」は、昭和34年から合祀が行われた。国は41年の祭神名票に、元「A級戦犯」14柱の氏名を記載した。靖国神社は45年か46年に総代会で合祀を決定した。「時期は宮司預かり」とは言え、機関決定したことを、宮司個人の判断でいつまでも先延ばしにすることは、組織としておかしい。
 松平宮司は就任後、再度、総代会が合祀の実行を確認したのを受けて、合祀の名簿をつくった。それを宮内省に提出した上で、合祀を実行し、例大祭の宮司挨拶で公表した。
 国会の決議、政府の通知、組織の決定、合祀事務の手続き等を経て、元「A級戦犯」の合祀は行われたと理解するのが、適当ではないか。その公表の仕方や時期をどうするかは、靖国神社側の考えですることではないか。
 私は徳川の発言に疑問を感じる。しかも、その主張の大前提は、靖国神社は事前に上奏簿を提出せず、合祀した後の事後報告だったということにあるのである。

(6)徳川と朝日新聞社の関係

 元「A級戦犯」の合祀が、一般に知られるようになったのは、翌年春、昭和54年4月19日の共同通信のスクープ報道による。徳川は「新聞に大きく出て騒ぎになった」というのが、これである。
 当時、朝日新聞は「賛否、各界に波紋」という見出しで報じたが、それほど大きな騒ぎになったわけではない。報道の2日後に、大平正芳首相が靖国神社の例大祭に参拝した。
 大平氏はこの時、「人がどう見るか、私の気持ちで行くのだから批判はその人にまかせる」と述べ、「A級戦犯あるいは大東亜戦争に対する審判は歴史が致すであろうというように、私は考えております」と明言して参拝した。自身はクリスチャンだった。

 その後も大平首相は通算3回、続く鈴木善幸首相は8回参拝し、中曽根首相にいたった。中曽根氏は在任中、最後の回も含めると10回参拝している。国民の間には、元「A級戦犯」が合祀されたことを批判する者もいたが、大多数の国民は彼らが合祀されている靖国神社に首相が参拝することに賛同するか、またはこれを許容していた。元「A級戦犯」の合祀は、既に行なわれたこととして定着しつつあったのである。
 徳川が「一般にもわかって問題になるのではないか」「新聞に大きく出て騒ぎになった」と言うのは、国民の大多数の反応とは異なっている。

 中国からは、この間、何の意志表示もなかった。中国が靖国神社を外交の材料にしたのは、合祀が一般に知られた6年後、昭和60年8月15日に、中曽根首相が公式参拝をした時が初めてである。それまでは、国内では大きな問題にならなかった。
 当時一番問題にしたのは、徳川が後に本を出した朝日新聞である。朝日は、中曽根氏の靖国参拝を前にした8月4日に「『公式参拝』には無理がある」という社説を出し、11日は「『公式参拝』を強行するな」という社説を出した。朝日が問題にしたから、中国共産党が取り上げたのである。そして、このような朝日新聞社から、徳川は本を出している。このことは注目に値しよう。
 徳川は、元「A級戦犯」の合祀が新聞で報道されて騒ぎになったのは、靖国神社の姿勢に問題があったという印象を強く与える言い方をしている。朝日新聞社は、そういう発言の載った本を、自社から出版した。これは、自社の報道を正当化することに益しただろう。朝日の報道は、中国による靖国参拝批判を引き起こし、首相は参拝をやめた。そのことが、昭和天皇の靖国ご親拝を、遠のかせることになった。徳川は、こういう重大な事態を引き起こした朝日の報道を肯定し、支持したようなものである。

 徳川の言動について、もっと検討する必要があると思う。徳川元侍従長や宮内庁担当者の業務記録、靖国神社の業務記録や報告記録等を確認すれば、もっと事実関係が明らかになるだろう。

(7)上奏は、行なわれたのか

 徳川は、靖国神社は事前に名簿を提出せずに、合祀後の11月に遅れて出してきた、その時に文句を言ったが、押し切られたと言っている。
 彼によれば、例大祭の前には名簿は提出されていないのだから、彼は元「A級戦犯」の合祀の予定を知らなかったことになるし、当然、天皇に上奏はされていない。天皇のご意思を踏まえて、靖国神社に合祀を取りやめるように言うわけもない。靖国神社は、事前には合祀の予定を伝えずに勝手に合祀し、後になって言ってきたことになる。

当時、徳川は侍従次長で、侍従長は入江であるから、入江が徳川に知らせずに行動し、徳川は後で知ったという可能性も考えられる。入江が事前に名簿を受け取って上奏もしていながら、徳川には事前には提出されていないと隠していたのだろうか。私は、侍従長と侍従次長の関係から言って、これはありえないと思う。仮に入江が隠していても、徳川が松平宮司に文句を言った際に、松平に、「10月7日に上奏簿を提出した。入江侍従長に聞いてみてください。貴君は侍従長に全く信頼されていないのではないですか」と言われたら、そこでわかったはずである。だから、私は、徳川は、実際の事実関係については、直接間接に知っていたと思う。

そのうえで、私は、徳川の主張には、ウソがあるのではないかと疑っている。

 ウソをつくのは、相手を悪者にしようとする場合と、自分の側のなにかを隠そうとする場合がある。これらが両方含まれている場合もある。
 靖国神社は、上奏簿を事前に提出したという。10月7日に、池田権宮司らが宮内庁を訪れ、宮内庁侍従職と掌典職に上奏簿を届けた。このことは、記録で確認されている。その時会った宮内庁の担当官は誰か。その際には、どういう話があったのか。これでは上奏できないとその場で、担当官は靖国神社側に答えたのか。これらについて、関係者には証言をお願いしたいと思う。

 7日に、宮内庁の担当者が上奏簿を受け取ったのであれば、そこから先は宮内庁内部の問題となる。
 上奏簿は事前に提出された後の展開については、いくつかの可能性があると思う。

@10月7日に応対に出た掌典職及び侍従職の者は、上奏簿を受理した場で回答。上奏簿は侍従職の部署内で止まり、入江侍従長にはあがらなかった。次長の徳川も知らなかったか、逆に徳川が対応に出たか、両方の可能性がある。
A徳川を含む侍従長以外の者が、入江侍従長に伝えずに、天皇に上奏した。

B侍従職が上奏簿を入江侍従長に届けた。入江侍従長は、天皇に上奏せずに、自分の考えで対応した。
C入江侍従長は天皇に上奏したが、元「A級戦犯」の合祀については申し上げなかった。自分の考えで靖国神社に対応した。
D入江侍従長は天皇に上奏し、元「A級戦犯」の合祀について申し上げた。ご意思を賜って、靖国神社にご意思を伝えるように対応した。

 
@の場合は、合祀後まで、徳川は上奏簿が来ていることを知らなかったことがありうる。しかし、もしそうだったとしても、合祀後に始めて合祀を知った徳川が、松平宮司に文句を言った際、松平から10月7日に名簿を提出していると反論されるだろう。宮内庁内部での職務怠慢か連絡不足または自己判断である。そうだとすれば、徳川は、そのように著書で語ればよいのである。ところが、徳川は、10月には提出がなく、11月に遅れて出てきたと言っている。だから、私は、@はあり得ないと思う。

 次に
Aの場合、侍従長以外の者が、侍従長を通さずに天皇に上奏をするということがありうるのかどうかわからないが、仮にそういうことが行なわれたとしても、天皇は侍従長に確認をされるだろうから、勝手なことをしたことがわかってしまう。徳川が上司を無視して、侍従次長の立場で勝手に上奏したならば、重大な規律違反になるだろう。だから、私はAもあり得ないと思う。

 残るのは、
BからDである。BCは、天皇に上奏したかどうかが違う。侍従職レベルが自分の考えで対応したことは同じである。ともに、徳川が入江の考えに従った可能性がある。私は、これらが望ましいとは思わないが、天皇の御心を煩わすことなく、自分の努力で靖国神社に合祀を思いとどまらせようとすることも、臣下の一つの忠義のあり方かもしれない。Dの場合は、入江またはその意思を受けた徳川が靖国神社にご意思を伝えたことになろう。当然、事前に上奏し、事前に伝えたのでなければ意味がない。

(8)元侍従長はウソを語っていないか

 事前に宮内庁に出された名簿を、徳川は出ていないと言う。徳川の言い分の通りなら、徳川は元「A級戦犯」の合祀の予定を知らなかったことになるし、当然、侍従職が天皇に上奏するわけもない。天皇のご意思を、靖国神社に伝えるはずもない。また、事後ではあったが、天皇にご報告したら、こうだったとも言っていない。
 とにかく靖国神社が事前に伝えずに、勝手に合祀し、後から名簿を提出してきたのだという意味のことを徳川は語っている。

 これはおかしい、と私は思う。仮に靖国神社を一方的に悪者にすることが目的だとしよう。その目的のためであれば、事前に提出はあったが、問題があると思ったので、侍従職は
BなりCなりの仕方で対応した。しかし、靖国神社側の意思が固く、押し切られたという書き方もできるだろう。
 たとえば、徳川が、著書で次のように言うのなら、わかる。 「靖国神社から上奏簿が事前に提出されたが、元A級戦犯が記載されており、これでは天皇のご承認は得られませんよ、取り消しを検討してくださいと言った。しかし、考え直してもらえなかった」と。
 その方が、一般人には説得力があるだろう。徳川が書いているのは、こういうことでは、まったくない。

 
BCに比べ、Dは側近として最も望ましいあり方だろう。きちんと天皇に上奏し、ご意思を確認した上で、靖国神社に天皇のご意思が伝わるように対応する場合である。
 もし昭和天皇が、事前に元「A級戦犯」の合祀を知らされていたら、どうだったか。仮にもともと合祀に異論をお持ちであったとすれば、天皇はそれを入江侍従長に語り、侍従長はすみやかに直接かまたは徳川次長なりを使って、靖国神社に「ご内意」として伝えただろう。そして、例大祭の前日17日までの間に、入江または徳川と松平の間で話し合いがされただろう。
 例えば、その際、遣わされた徳川は「松岡洋右さんのように軍人でもなく病死した人も合祀するのはおかしい」などと問いただしたが、押し切られた。「一般にもわかって問題になるのではないか」と文句を言ったが、松平は「遺族にしか知らせない」「外には公にしませんから」と言って押し返された、という具合である。
 こういうやりとりが、すべて事前に、17日の合祀より前に行なわれたこととして、徳川は本に書いただろう。そして、侍従職はすべて慣例どおりに上奏し、ご内意を伝えて説得したのに、それでも松平宮司は、強行に合祀をしたのだと批判しただろう。

 ところが、徳川が著書で語っているのは、こうした対応でもないのである。何度も引くが、徳川が語っているのは、「靖国神社の合祀者名簿いつも10月に神社が出してきたものを陛下のお手元に上げることになっていたですが、昭和53(1978)年は遅れて11月に出して来た。『A級戦犯の14人を合祀した』と言う。私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句を言ったが、先方は『遺族にしか知らせない』『外には公にしませんから』と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう」ということなのである。

 私の疑問は、膨らむ。徳川の姿勢には、問題があるのではないか。

(9)側近としての姿勢を問う

 いろいろ検討してみて強く浮かび上がってくるのは、事前に提出された上奏簿を提出されていないと語る徳川の姿勢。天皇にお伺いをせずに自己判断で対応しているらしき侍従職、入江・徳川の姿勢。これである。私は、天皇の臣下・側近の姿勢としては問題があるのではないかと思う。

 徳川の著書は、彼の死後、平成9年に公刊された。生前、彼は朝日新聞の岩井克己氏に侍従職にあった時代のことを語った。まず朝日新聞に連載された。その後は単行本として出版されることは当然考えていただろう。新聞記事や本になれば、今上天皇もお読みになる。他の皇族方もお読みになる。宮内庁の関係者も読む。そうしたとき、徳川は、自分が在職中に行なったことと、文字になって公になることが矛盾してはならないと考えたのではではないか。
 そうすると、最もありそうな事態は、
Bとなる。つまり、侍従職が上奏簿を入江侍従長に届けた。侍従長は、天皇に上奏せずに、自分の考えで対応したという場合である。名簿は入江の手元に留め置いた。入江は名簿を見て、天皇に上奏せずに、自分の判断でもって、自身で、または徳川を遣わせて靖国神社に意見を伝えた。しかし、うまくいかなかった。合祀は行なわれた。そこで、徳川は事前には名簿は届いていない、11月になって遅れて来たのだと、ウソをつくことにした。

 天皇に事前に上奏簿をお届けしていないから、本でも事前に提出されていないと言い張ることができる。天皇のご意思を伺わずに自分の考えで対応しているからなのか、本では上奏したかどうかには触れず、天皇のご意思はどうであるかも書かれていない。徳川は、侍従職が天皇に上奏せず、官僚の立場の考えで行動したことを隠し、一方的に靖国神社に責任を負わせようとしてはいないか。

 10月7日から17日までに間に、靖国神社と宮内庁の間で、どういうやりとりがあったのか。宮内庁から承諾的な返事は、なかったものと思われる。元「A級戦犯」を合祀すれば、天皇の靖国ご親拝はなくなるおそれがあることは、どこかの段階で宮内庁の担当官が述べた。それが、本当に昭和天皇のご意思であるのか、ないのか、不透明なところがある。
 いずれにしても、靖国神社は10月17日に、元「A級戦犯」14柱の合祀を行なった。18日には秋の例大祭が行なわれた。そして、この例大祭に、従来どおり宮内庁から天皇の勅使が差遣された。いつものように幣帛を賜った。
 勅使の差遣は、新たに合祀のあるなしにかかわらず、毎回行なわれてきた。事前に名簿の上奏はされずとも、勅旨の差遣は行われる。侍従職が名簿の上奏を保留にしていても、勅旨の差遣のみの裁可を受けることは可能だろう。
 昭和天皇は、元「A級戦犯」の合祀が行われることを知った上で、例年通り勅旨を差遣されたのか。それとも、上奏は、元「A級戦犯」の合祀について触れずに、行われたのか。そうであれば、天皇は、元「A級戦犯」の合祀について、何も知らされずに、勅旨を差遣されたのかもしれない。
 このあたりのことは、部外者には、わからない。侍従職の経験者や宮内庁の関係者に、どういうものなのか、明らかにしていただきたいと思う。

昭和53年10月17日、靖国神社は元「A級戦犯」の合祀を行なった。これに先立って、7日に靖国神社の池田権宮司ら3名が宮内庁を訪れた。この場またはその後、17日までの間に、昭和天皇の「ご内意」は伝えられたのか。

日本文化チャンネル桜の8月12日の番組「討論・討論・討論2006」で、高森明勅氏は、大意次のように語っている。

「昭和53年10月7日に、『ご内意』があったといわれているが、ご内意のような重要なお言葉があれば、必ず靖国神社は、社務日記に記録するという。もしかしたらこれで天皇陛下のご親拝がなくなるかもしれないのだから。靖国神社の社務日記を調べてもらったら、全くそういうことは記載されていないという」

私は、徳川元侍従長の言動に疑いを持っている。靖国神社の記録で見る限り、合祀の実行の前に、昭和天皇への上奏がされ、それがご内意として、伝えられたという記録がない。これは、徳川が著書に事前に侍従職が上奏をしたとも、ご内意をうかがったとも、それを伝えたとも書いていないことと一致する。徳川元侍従長の言動を精査する必要があることを強調したい。


10)万が一にも取り違えがあってはいけない

 基本的な事実関係がいくつか明らかにならなければ、確かなことは言えない。現状では、私は、上記の考察を通じて、元「A級戦犯」の合祀について、侍従職の入江・徳川が昭和天皇に正確な報告をしていたのか、疑問を感じる。自分の考えや感情を強く出して、天皇に申し上げてはいなかったのか。そして、そういう報告が、何か天皇に誤解を生じ、靖国ご親拝を控えられるということに結果していないかどうか、と案じるのである。

 徳川は、著書で次のように語っていた。
 「私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったです」
 「でも当時、『そちらの勉強不足だ』みたいな感じで言われ、押し切られた。私は松岡さんの例を出して『おかしい』と言ったのだが、東条さんのことで答えられ、すり替えられたと感じた。靖国神社には軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったですから」
 「筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったですよ。それで中曽根首相が参拝して、ワッと言われたです」。

 ここには、天皇のお使いとして、ご意思をお伝えしようという姿勢が感じられないのではないか。私は、徳川個人の見方や感情が色濃く出ていると思う。言葉遣いの全体に品がない。富田メモから受ける印象と似たものを、私は感じる。
 富田メモを昭和天皇のお言葉と断定する人々は、次のように言う。徳川がメモと似たことを言っているのは、徳川が長年、お側近くで昭和天皇のご意思をうかがっていたからだ、と。
 私は、逆に、次のように思う。徳川は、筑波宮司や松平宮司について、偏りのない情報と冷静な認識を持ち、それを天皇に正確にお伝えしていたのだろうか。徳川が天皇に対して、筑波や松平について、自分の見方や感情の色濃い報告をしていたために、靖国ご親拝の問題が複雑化してしまったという可能性はないだろうか。

 さらに、もし富田メモのあの最重要の部分が、もし徳川の言葉を書き留めたものだったとしたら、どうか。昭和天皇は、ご自分のご本心とは大きく違うことを、天皇のお言葉として、世に伝えられたことになる。
 「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」

 徳川元侍従長の言動について、一層検討を行う必要があると思う。慎重に検討せずに、万が一、彼の発言であるものを、天皇のお言葉だと取り違えるというようなことが起こったなら、途方もない間違いを日本人はおかすことになる。

11)昭和天皇の靖国ご親拝中止の時期

 

 徳川元侍従長の本『侍従長の遺言』において、昭和天皇が靖国ご親拝を中止されたのは、元「A級戦犯」合祀が原因だと明言していない。松岡洋右や筑波宮司や松平宮司らへの彼自身の見方を語ったり、昭和天皇の御製に関することなどを述べて、全体としては、元「A級戦犯」合祀が原因だろうという印象を与える。しかし、そう明言はしていない。
 また、ご親拝中止に、昭和50年11月に国会で靖国参拝が憲法との関係で問題になったことが、影響しているかどうかについて、徳川は本で語っていない。当然、憲法問題と合祀問題との関係についても、何も触れていない。

 『侍従長の遺言』の第13章「靖国神社」の「解説」には、次のように書かれている。
 「天皇は昭和50年11月21日を最後に同神社には参拝しておらず、春秋の例大祭には他の皇族が出席している。天皇が『今後、参拝せず』の意向を示したのは、A級戦犯合祀が報道され、内外の批判が出る前からだったと証言する元宮内庁幹部もいる。」

これは、徳川自身の発言ではない。徳川の聞き書きをした岩井克己氏が書いた文章である。

この宮内庁幹部とは、富田だという見方がある。その可能性が高いと私も思う。昭和50年11月21日、昭和天皇が靖国神社の秋の例大祭に参拝された。その前日、参議院内閣委員会で日本社会党がこれを問題にした。追及を受けた吉国一郎内閣法制局長官は、天皇のご親拝は、「憲法第20条第3項の重大な問題になるという考え方である」と答えた。同項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。この答弁によって、天皇の靖国ご親拝は憲法問題になってしまった。
 この質疑において、富田は宮内庁次長として答弁に立った。この時の経験から富田は、天皇が靖国に行啓されれば、必ず国会で問題になることを、心底よく知っていただろう。昭和50年の国会質問以来、昭和天皇のご親拝が難しくなったことを、富田は認識していたに違いない。
 富田メモの最重要部分を書き留めたとき、富田は、どのように感じていただろうか。その部分とは、次の文言である。
 「私は 或る時に、A級が合祀され その上松岡、白取までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」

 これがもし徳川の発言だった場合、書き留めている富田は、「いや徳川さん、憲法の問題が先ですよ。また国会で憲法問題を追及されたら大変なことになりますよ」と内心思っていたのかもしれない。

 

12)天皇発言説は、推定が先入観になっていないか

 秦郁彦氏は、現代史の実証的な研究家として名高い。秦氏は、日経による最初の報道にはじまり、『文藝春秋』9月号の鼎談等において、富田メモについて積極的に見解を明らかにしている。
 日本文化チャンネル桜の8月12日の放送にて、秦氏は、次のような趣旨の発言をした。

秦氏は、言う。「私は侍従長を通じ、あるいは側近を通じてですね、A級合祀について松平さんが一応宮内庁にお伺いは立てたわけですよね。で、その時に祀るなという意向であるという御内意が大体分かったわけですよね。(略)
 御内意がこうであるということと、それからその時に釘を刺されてるんですよね。こういうことをすれば陛下の御参りはできなくなりますよと、宮内庁から言われてるわけです」と。

 秦氏は「侍従長を通じ、あるいは側近を通じてですね、A級合祀について松平さんが一応宮内庁にお伺いは立てた」「その時に祀るなという意向であるという御内意が大体分かった」と述べている。しかし、徳川侍従長の語っていることは違う。
 「合祀者名簿いつも10月に神社が出して来たものを陛下のお手元に上げることになっていたですが、昭和53年は遅れて11月に出して来た。『A級戦犯の14人を合祀した』と言う。
 私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句を言ったが、先方は『遺族にしか知らせない』『外には公にしませんから』と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう。そうしたら翌年4月に新聞に大きく出て騒ぎになった。そりゃあ、わかってしまいますよね」
 
 秦氏は、『靖国神社「鎮霊社」のミステリー』(『現代史の対決』文春文庫所収)で、このように発言を引用し、「この記述には徳川の記憶ちがいかと思われる部分がある」と書いている。そして、「『遅れて11月に出して来た』のくだりは、10月17日に予定されていた例大祭への勅使参拝に間に合わなかったかに読めるが、私は10月7日に池田権宮司が宮内庁侍従職と掌典職へ合祀者名簿を届けていることを靖国神社の社務日記で確認した」と書いている。続けて、秦氏は次のように書いている。
 「それにしても、松平宮司がA級戦犯という重要事について、事前に昭和天皇の『内意』をたしかめず、また徳川から文句を言われると、木で鼻をくくったような返事をしたのは事実のようだ」と。

 私は、徳川の「記憶ちがい」ではなく、徳川がウソをついているのではないかと疑っている。その理由は、徳川は「『A級戦犯の14人を合祀した』と言う」と書いているからである。「合祀した」とは、合祀を終えたという意味である。事後報告だと言っているのである。この件について事前に上奏簿が出されていたのか、事後報告だったのかは、重大な相違である。過去形で「合祀した」と言っているのを、本人の「記憶ちがい」と見るのは、安易ではないか。
 また、秦氏が「それにしても、松平宮司がA級戦犯という重要事について、事前に昭和天皇の『内意』をたしかめず、また徳川から文句を言われると、木で鼻をくくったような返事をしたのは事実のようだ」と書いているところも、問題を孕んでいる。
 どうして、秦氏は10月7日に靖国神社は合祀者名簿を出したという事実を挙げながら、「事前に昭和天皇の『内意』をたしかめず」と書くのだろう。松平宮司が名簿を出したのは、ご内意を確認する意思があるからではないのか。
 また、秦氏は「また徳川から文句を言われると、木で鼻をくくったような返事をしたのは事実のようだ」と書いているが、この文章は、徳川が文句を言った時点が事前なのか、事後なのかどちらにもかかるような書き方になっている。さらに「返事をしたのは事実のようだ」と書いているが、これは徳川と松平の双方に直接確認したのか。秦氏は、徳川の言うことは一部記憶ちがいだろうと見た上で、徳川の発言の方に立って全体を推断している。何を根拠に「事実のようだ」と言うのか。そのやり取りが、事前なのか事後なのかについて、確認してはいないのだろう。

 私の見るところ、徳川の言うことにそのまま従えば、靖国神社が事前に上層簿を出していないから、上奏は行われていないことになる。秦氏が、「A級合祀について松平さんが一応宮内庁にお伺いは立てた」と言うなら、秦氏も、徳川はウソを言っている可能性があると考えてみるべきだろう。また、10月の上奏簿提出の時点では、天皇のご意思を確認することなく、宮内庁の誰かが自分の判断で伝えた可能性もある。その誰かとは、秦氏も「侍従長」あるいは「側近」と言っているように、入江または徳川自身であったのに、事後報告だったと作り事を言っているものかも知れないのである。

 秦氏は、先の番組において、「(水島キャスター)御内意というのこれ確かなんですか」という質問を受け、おおむね次のように答えている。
 「えー、ですから普通はですね、天皇が直接ね、言われるということはまあないわけです、戦前でもそうですね。しかしね、侍従長とか侍従武官長とか宮内大臣とかそういう人達がいるわけです。そういう人が発言をするということについてはですね、これは御内意だろうなと思うのが常識でしてね。
 で、ひょっとして君側の奸がね、勝手なことを言ってるんじゃないかということであれば、ちょっと時間を置いてですね、いろいろ手を廻してね、調べればいいですよ。」と。

 私が強調しているように、徳川自身は、侍従職が天皇にお伺いしたとは言っていない。徳川は11月に名簿の提出を受けたと言っている。事前の10月は、彼の意識の外である。事後の11月についても、徳川は、天皇にご報告したとか、ご意思を伺ったとは言っていない。
 私が疑うのは、事前にも事後にも、侍従職がきちんと上奏せず、ご意向を改めてうかがうことなく、徳川は自分の考えを松平宮司に伝えたのではないかということである。以前から天皇のお考えはわかっているからと考え、相手に「ご内意」と感じられるように伝えようとしたのかもしれない。徳川が著書で語っていることには事実と異なる点があるので、私はこのように疑うのである。
 徳川が著書で語っている表現には、徳川個人の意見や感情が色濃く出ている。仮に天皇のご意思がなんらかの形で反映していたとしても、聴いた相手がそのまま天皇の「ご内意」だとは感じられないような狭雑物が多く混じっている。狭雑物とは、徳川の思いであり、感情である。徳川の話を聴いた相手は、そこから天皇のご意思を感じ取るというより、むしろ不審や反発を覚えるではないか。

 秦氏は、先ほどの番組の続く部分で、次のようにも言っている。
 「宮内庁幹部がすね、駄目だと、言うことはね、それであれじゃないですかね。それはね、おそらく天皇の御内意があってだろうというね、そういう推定も成り立つわけです。」と。

 これは推定である。天皇に上奏がされ、ご意思を受け、それが正確に靖国神社側に伝えられたかどうか。その点は、不明である。むしろ、私は、徳川の著書から、侍従職が上奏をせず、ご意思を確認せず、個人の意見や感情を強く出した伝え方をした可能性を感じる。
 元「A級戦犯」の合祀の問題については、この経緯の事実関係を明らかにする必要がある。私がそれを強く求めるのは、徳川の発言には事実と異なる点があり、ウソをついているという疑いがあるからである。

 秦氏は、先ほどの引用で「そういう推定も成り立つ」と述べている。「おそらく天皇の御内意があってだろう」という推定である。その推定が、富田メモによって裏付けられたと秦氏は考えている。
 秦氏は、番組で、次のような質問を受けている。「(東条由布子氏)秦先生、今『あっただろう』とおっしゃいましたよね。だから宮内庁が松平さんに言われただろう、と。全部これ『だろう』ですけど、御内意というのは何月何日なにか書面か何かに出てるんですか
 秦氏は、答える。「いや、それはありません。それはないですが、ですから今までは推定だったわけです。そしたら今度はこれがどうやらすね、御内意だった、ぴったり一致するだなという見当が今回の見たメモで分かった。」

 私がこれを読んで思うのは、秦氏は、自分の「推定」に合うことを、富田メモに見出したので、これが「御内意だった、ぴったり一致するだな」と感じたのだろう。しかし、「推定」という先入観を持っていたから、秦氏は、富田メモを読んだとき、これは昭和天皇のお言葉だと思い込み、歴史家として基本的な史料批判をすることもなく、報道の勢いに乗ってしまったのではないか、と私は思う。
 秦氏の推定が、もともと事実と違っていたらどうだろうか。天皇ではなく徳川の考えを、秦氏が天皇のご意思なのだろうと思い込んでいたらどうか。徳川の発言であるものを、天皇のお言葉と取り違えてしまうということが起こりうるのである。
 重要なことは、徳川元侍従長の発言には、事実と違う点があることである。秦氏は、「ひょっとして君側の奸がね、勝手なことを言ってるんじゃないかということであれば、ちょっと時間を置いてですね、いろいろ手を廻してね、調べればいいですよ。」と言う。

私は、秦氏が言うところの「君側の奸がね、勝手なことを言ってるんじゃないか」という可能性も含めて精査すべきだと思う。これは、徳川元侍従長について言うのである。

 

13)根本は、憲法放置が引き起こした問題

 

その一方、ご内意の伝達のなかったとすれば、元「A級戦犯」合祀を実行した松平永芳元宮司の進め方にも、問題があることになろう。

昭和53年10月7日、靖国神社は上奏簿を宮内庁に届けた。それが速やかに上奏され、ご内意が伝えられたかは、不明である。入江か徳川が直接、松平に伝えるということがあったのかも知れないが、徳川が著書に書いているのは、事後報告・事後指摘である。いずれにせよ、靖国神社は、この年、秋の例大祭の先日夜、元「A級戦犯」の合祀を実行した。秦氏の事実認識には混乱が見られるが、「ちょっと時間を置いてですね、いろいろ手を廻してね、調べればいいですよ」という意見のように、慎重な進め方をする余地はあったのではないか。

秦氏は、松平元宮司が合祀を実行したのは、以後、昭和天皇のご親拝がなくなってもいい、という考えがあったからだろうと推察している。松平氏は、天皇に諫言することをもって忠義と考え、あえて元「A級戦犯」の合祀を実行したのだろうか。合祀はご内意によるご了承を得なければならない、と定めた法規はない。戦後、天皇は国家的な祭祀に関してどのような権能を持つかは、憲法上に規定されていない。また、靖国神社は民間の一宗教法人となり、天皇と靖国神社の関係は、外形的には戦前からの慣習が続いているものの合祀は、裁可か、報告かについては、あいまいである。

松平元宮司は、次のように言っている。

「私の在任中は天皇陛下の御親拝は強いてお願いしないと決めていました。天皇さまに公私はない。天皇陛下に私的参拝も公的参拝もない、陛下は思召しで御参拝になられただ、と言えばそれで済むですが、総理も宮内庁長官も侍従長も毅然とした態度で、天皇陛下に公私はないだという、それだけのことをキッパリと言い切るとは思えない。そこでモタモタして変なことを言われたら、かえって後々の害となる。変な例を作ってしまうと、先例重視の官僚によって御親拝ができなくなってしまう恐れがある。それで私が宮司の間は絶対にお願いしないことにしてきました。
 その代わり春秋の例大祭には、キチンと勅使の御差遣を戴いてきています。それに御直宮の高松宮・三笠宮を始め若い皇族様方に極力御参拝に来ていただくようお願いしまして、よくお務めくださっています」(『日本青年協議会』平成5年1月号)

 松平氏は、天皇の靖国行啓が憲法上、問題になっていることを理解しているわけである。天皇のご親拝は、公人としての行為か、私人としての行為か。この点が国会で議論されたのが、昭和50年10月である。その問題状況は、53年も現在も続いている。松平は、この点について彼なりの理解をもって、天皇ご親拝を「強いてお願いしないと決めていました」と言うのだろう。

根本問題は、現行憲法をそのまま放置した状態で、靖国問題は解決できないことにある。GHQに押し付けられた憲法を改正することのないまま、天皇と首相の靖国参拝が問題となり、その状況で元「A級戦犯」の合祀が実行された。行き着くところは、憲法問題であることを、私は主張したい。ージの頭へ

 

 

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第8章 改憲を提案する

 

(1)靖国問題は国家根幹の問題

 

富田メモについては、今後、さまざまな検証が行なわれていくことと思う。とりあえず私の検討はここで終える。また検討すべき点が出てきたら、改めて考えたい。

 敗戦後、昭和天皇は昭和20年11月20日に、初めて靖国神社に参拝された。それ以来、30年間ご親拝が続けられていた。しかし、昭和50年(1975)秋の例大祭に昭和天皇が参拝されて以来、ご親拝は途絶えている。同年8月15日、三木武夫首相が私人としての参拝を表明したため、憲法問題として公式か私的かの論議が紛糾した。このことが決定的な原因となっていることは明らかである。その後、昭和53年秋に元「A級戦犯」の合祀が行われたことが、さらに天皇のご親拝を遠ざけた。今上天皇は皇太子時代には5回、参拝された。しかし、天皇に即位されてからは、ご親拝は行われていない。つまり、平成になって一度も天皇は参拝されていない。

 死後、靖国神社に祀られると信じて亡くなっていった戦没者は、天皇が参拝されると信じ、そこに栄誉を感じていた。それゆえ、昭和50年以降、天皇のご参拝がないという日本の現状は、その期待を裏切るものとなっている。

 日本人は、日本国の国民は、富田メモをきっかけに、わが国における国家と慰霊、天皇と国民のあり方について認識を深めたいものと思う。その点については、拙稿「慰霊と靖国〜日本人を結ぶ絆」をご参照願いたい。

 

 私が富田メモを通じて改めて思ったのは、靖国問題は、日本の国のあり方の根幹にかかわる問題だということである。

 靖国参拝について議論になるのは、憲法の規定であり、いわゆる「A級戦犯」の合祀である。これらは、戦後の日本が独立主権国家としての要件を完全には回復できていないがための議論である。このたびの昭和天皇のご発言に基づくとされるメモは、そのことを改めて浮かび上がらせた。

 戦後は終わっておらず、昭和は終わっていないのである。

 

 まず憲法についてだが、現行憲法は、わが国が占領下で主権を失っていたときにつくられた。GHQが秘密裏に作成した原案をもとにしたもので、占領基本法・属国憲法としての性格をもっている。その憲法を改め、日本人自身の手で新しい憲法をつくるという課題を、戦後の日本人は実行してこなかった。

 現行憲法には、政教分離を定めた条項があるが、他の条項と同じく、日本人が自由に議論できる環境で規定したものではない。そのため、我が国の伝統や文化にそぐわない内容となっている。

 ところが、この条項を、国家と宗教の厳密な分離を定めたものと解釈する意見が有力になり、首相の靖国参拝が憲法問題として議論されるようになった。

 もとは、憲法に問題がある。わが国は、この憲法を放置したまま今日に至っている。

 

 元「A級戦犯」合祀について言えば、根本的な問題は、「戦争による公務死者」の合祀を進めていた時点でのわが国のあり方にあると私は考える。すなわち、自主憲法の制定はなされておらず、東京裁判についても検証がされないまま、合祀が行なわれた。

 本来は、憲法の改正、東京裁判の見直しが先になされなければならない課題である。そこに、天皇の靖国ご親拝が政治問題化してしまう事態が生じたのである。そのため、天皇は、慰霊の誠を捧げるために、心静かに靖国に参られないお立場に置かれたのである。

 

新憲法を制定し、東京裁判の見直しを行なうことなくして、わが国は国家としてのあり方を回復し得ない。昭和天皇の御代にはそれをなし得なかった。そのため、先帝は靖国神社にご親拝をなされないままとなった。さらにそのことが、周辺諸国の内政干渉を許している。

 新憲法を制定し、東京裁判の見直しを行ない、主権独立国家としての要件を整えることが、日本人のなすべき課題である。

 また、この課題を実行することによって、天皇が、日本国の象徴にして日本国民統合の象徴として、靖国神社にご親拝を再開される環境がはじめて整うと思う。

 

(2)改憲の提案――根本解決のために

 

 最後に、問題解決のために、提案をさせていただく。昭和天皇が靖国神社ご親拝を中止されていた決定的な原因は、憲法問題であると書いた。憲法問題が解決しない限り、今上天皇もまた靖国には参られない。首相もまた本来の内閣総理大臣としての資格による参拝を打ち出せない。その状況をとらえて、中国をはじめとする周辺諸国が内政干渉をしてくる。それが靖国問題を複雑化している。これらを解決し、わが国が独立主権国家としての要件を回復し、日本人が自らの精神を保守するには、憲法を改正する以外にない。

 靖国問題、言い換えれば国家における慰霊の問題解決のため、私は「天皇の国事行為」及び「信教の自由」に関する条項を、以下のように改正することを提案する。

 

◆ほそかわ私案

 

(天皇の国事行為)

第五条 天皇は、統治権の象徴的な行使として、次に掲げる国事に関する行為を行う。

一 伝統にく祭祀及び儀礼を行い、国民の安寧と世界の平和を祈ること。

二 (略)

 

(信教の自由)

第三十二条 信教の自由は、公共の利益に反しない限り、これを保障する。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。

3 政府及び公共団体は、特定の宗教または宗派を布教、宣伝、援助または促進するような宗教的活動をしてはならない。ただし、冠婚葬祭、慰霊、建築及びこれに類する社会的儀礼の範囲内にある場合を除く。

4 政府及び公共団体は、特定の宗教または宗派を弾圧してはならない。

5 いかなる宗教団体も、政府から特権を受け、または政治上の権力を行使して、その特定の宗教または宗派の信仰を、国民に強制してはならない。

6 政府及び公共団体は、特定の宗教または宗派の布教、宣伝、援助または促進になるような教育をしてはならない。ただし、宗教・宗派の違いを超えた宗教的情操を養う教育を妨げるものではない。

 

 第五条では、一号として祭儀に関することを追加する。他にも追加すべき号があるが、ここでは省略する。

 第三十二条は全文を示したが、これは信教の自由を保障するとともに、いわゆる政教分離については、わが国の伝統・慣習に基づきゆるやかな政教分離を定めるものである。第3項但し書きの「慰霊」と「社会的儀礼の範囲内」という文言に注目していただきたい。このような但し書きをつけることで、天皇の靖国ご親拝、首相の公式参拝は可能となる。形式も儀礼にそって二拝二拍手で行う。

 このような改正を行うことで、わが国における国家と慰霊の関係を一貫したしたものとできると思う。また、それによって、歴代天皇の御心に応え、英霊に平安を取り戻し、また日本人を結ぶ絆を確固としたものとできると思う。

 

(3)新憲法の下での靖国神社

 

 改憲をせずに現行憲法のもとで靖国神社の地位を改めようとする試みは、うまくいかないと思う。昭和40年代に靖国神社国家護持法案が国会で5回提出された。49年には、衆議院では可決したが、そのまま廃案となった。その法案は、靖国神社を非宗教化するものだった。そのため、最後の段階で、国家護持を希望する側の中に不満が出て、推進力を失った。

 今日また靖国神社を国立の追悼施設にするという案が出ている。宗教法人であることをやめ、特殊法人または独立行政法人にするという案である。その狙いは、国が運営・管理することで、遺族の高齢化・減少が進み経営が苦しくなるだろうところ、財政的に維持することができること。また、政府の判断で、合祀者の基準を見直したり、選別したりできることのようである。しかし、この案は、靖国神社を非宗教化するものとなる。無宗教施設に変えることに他ならない。現行憲法の政教分離規定のもとでは、ゆるやかな分離という解釈を取っても、これが限界である。

 だから、私は、現行憲法のもとで靖国神社の地位を改めようとする試みは、根本的な課題を解決せずに部分的に補修しようというようなものだと思う。昭和40年代の国家護持法案の時に、その試みの限界は既に明らかになっている。

 

 私は、先に示したような憲法の改正を行うことが、根本課題だと思う。そして、新しい憲法のもとで、改めて靖国神社をどのような機関とするかを、国会で審議したほうがよいと思う。私の新憲法案は、国民に国防の義務を規定する。国民自身が国を守るという近代国民国家のあり方と、国家における慰霊は、一体の課題である。慰霊が先ではなく、安全保障が先である。

 この点をしっかり位置づけた上で、靖国神社は一般の宗教法人とは区別し、慰霊と追悼のみを目的とする特殊法人とする。新憲法に定める「特定の宗教または宗派」とは異なり、民族的な伝統・慣習と規定する。名称・儀式・参拝形式・鳥居・神殿等は従来どおりとする。日本国民として既に合祀された者は、従来どおりとする。

 ただし、国民は靖国神社への参拝を強制されない。参拝において、神道・仏教・キリスト教・イスラム等の諸宗教による祈りの形式は自由とする。大まかには、このような方向で検討してゆくとよいと思う。ージの頭へ

 

参考資料

・靖国問題の基本的なことについては、拙稿「慰霊と靖国〜日本人を結ぶ絆」をご参照のこと。

 

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補説1 靖国問題と元「A級戦犯」合祀の経緯

 

(1)元「A級戦犯」の合祀の是非〜私の見解

 戦前のわが国の指導層は、独伊のファシズムを模倣して、無謀な戦争に突入し、わが国は大敗を喫した。開戦及び敗戦の責任は、戦勝国が勝手に選んだ「A級戦犯」に限らず、当時の指導層の多くにある。
 私は、このサイトの「歴史」項目に、戦前のわが国の指導層の誤りを書いたものを掲載している。そこに掲示しているように、私は日独伊三国同盟に絶対反対、日米開戦に絶対反対という見解である。三国同盟を推進し、開戦を決めて戦争に突入した当時の指導者を厳しく批判している。万死に値すると思う。しかし、彼らの行為への批判と、彼らの合祀の問題は、厳密に別の事柄である。

 この点を区別できていない人が多い。それは、無意識に東京裁判史観に呪縛されているからだと思う。


 私は、日本人の立場に立って彼らの行為を指弾するのであって、戦勝国が「A級戦犯」と断罪したことに追従して言っているのではない。

 戦後、本来であれば、日本人自身が国家指導者の責任を追及すべきところ、東京裁判が行なわれたため、その機会のないまま、戦勝国が一方的に裁き、断罪した。結果として、処刑または受刑した指導者達は、判決に甘んじることで、開戦責任・敗戦責任を負った形となった。
 しかし、独立回復後、わが国は昭和27〜28年の国会において、彼らを含むすべての「戦犯」の死は、法務死であるとして、遺族への年金や恩給を支払うことにした。この時点で、日本人は国家指導者をさらに重ねて裁くのではなく、恩讐を超えて、遺族の救済、名誉の回復を行なうことを決めたのである。28年8月の国会決議は、全員一致である。この事実を後世の日本人は、よく受け止めるべきである。

 また、国家指導者の政治的責任・法的責任・道義的責任という問題と、慰霊とは別の問題である。靖国神社に元「A級戦犯」が合祀された後、日本人でこれを批判し、反対した人はごく少数だった。昭和53年10月の合祀から、60年8月、中国が批判するまでの間、むしろ合祀は定着してきていたのである。
 日本人は、日露戦争等で、敵国の兵士であっても、墓を作って弔ってきた。これは「敵を愛する」という武士道の伝統でもある。敵国の兵士すら弔うのだから、まして自国の指導者に対しては、死者に鞭打つことをしない。墓を暴いて屍肉を食らうシナ人とは、考え方が違う。これも日本精神の表れだと私は思う。
 元「A級戦犯」合祀の問題は、以上のような観点からも考えてみるべき問題だと思う。

 また、合祀は、厚生省が提出した名簿に基づくものであり、厚生省の名簿は、国会の決議や諸外国の承認を踏まえて作成されたものである。だから、靖国神社が元「A級戦犯」を「戦争による公務死亡者」として合祀したことは、法律に基づき、行政の通知に従って実行したものである。このこと自体は、靖国神社が批判を受ける立場にない。

 元「A級戦犯」の合祀を不適当と言う者は、厚生省の名簿への記載、さらにその元になっている国会決議を批判すべきであろう。そこまでしないで分祀・新施設等をいう政治家は、国民を欺くものである。

 

 「戦犯」として処刑された者のうち、B・C級だった者は靖国神社に合祀してよいが、A級だった者はだめとする法的な根拠はない。また、元「A級戦犯」のうち刑死者は合祀してよいが病死者は除くという法的根拠もない。これは、東条・松岡・白鳥らの行いへの評価とは、全く別の問題である。

 処刑された東条英機は戦場で戦死したのではないが、戦争状態における公務死者である。松岡洋右や白鳥敏夫は、武官ではなく文官だが、公務死に軍人か否かは関係ない。戦争では看護婦や電話交換手なども多数亡くなった。その死も、戦争による公務死である。

 白鳥は獄死、松岡は判決前に病死した。病死であっても、「A級戦犯容疑者」として拘留されている期間に病死したのだから、これも戦争による公務死とみなされる。

 それゆえ、厚生省の提出した名簿に、元「A級戦犯」が含まれていたこと、また東条や松岡・白鳥らが含まれていたことは、国会決議に基づく「戦争による公務死亡者」の基準によるものであって、妥当なのである。

 そもそも靖国神社の祭神は、戦場において戦死した者に限られていない。明治2年の創建の初期より、戦死者以外も合祀された。維新に功績のあった者として祀られた吉田松陰は刑死、坂本竜馬は暗殺、高杉晋作は病死である。

 この点からも、元「A級戦犯」14人の合祀は、それ自体としては、妥当である。それが行なわれた状況・手順等は、別の話である。

 

(2)元「A級戦犯」の合祀の経緯


 いわゆる「A級戦犯」とは、戦争を起こして、国民や他国民を苦しめた極悪犯罪人という意味ではない。東京裁判において、「A級」の「戦争犯罪人」として判決を受けた日本人のことである。

 容疑者の選定はずさんであり、軍人は陸軍軍人ばかりであり、海軍軍人はいない。昭和3年以降のわが国の指導者の行動を裁いていながら、満州事変の首謀者だった石原莞爾という重要人物が入っていない。この間の歴代首相を全部選んでいるわけでもない。選考の規準があいまいなのである。

 東京裁判は、国際法に根拠を持たないもので、戦勝国によるリンチ、見せしめのための儀式にすぎなかった。東京裁判は、マッカーサーに与えられた権限によって開廷されたが、当事者のマッカーサーは裁判後、ウェーキ島で「東京裁判は誤りだった」とトルーマン大統領に語ったと伝えられる。また米上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争を行なったのは、「概ね安全保障(security)のためだった」と証言している。これはわが国が主張した「自存自衛」の戦いというのと等しい。侵略戦争という見方を否定したのである。

 わが国は昭和27年4月28日に独立を回復したが、その後、東京裁判を検証し、その不当性を明らかにすることを行なっていない。そのため、日本人自身による主体的な歴史観の回復ができていない。

 

 戦後、靖国神社に合祀される人の基準は、国会で制定された法律に根拠がある。昭和27年4月28日に独立を回復すると、わが国の国会は早速、戦没者遺族援護法及び恩給法とその関連法を制定した。これらが、靖国合祀の関係法である。

 昭和28年8月から国会で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(遺族援護法)および「恩給法」の改正が重ねられた。当時の国会は、「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者とはみなさないことにした。「戦犯」とされた人々の遺族も一般戦没者の遺族と同様に扱うように法規を改正した。決定は全会一致だった。31年にかけて改正・整備が行われた。

これらの関係法を根拠に、国は、元戦犯にも恩給を支払い、元戦犯の遺族にも年金を支払うなどを行ってきた。

 

 当時の国会が東京裁判で刑死した者を「法務死者」と見なしたことは、法的に正しい。敗戦後、独立を回復するまで、わが国は連合国と戦争状態にあった。戦闘は停止したが、国際法上にいう戦争は継続していた。

 東京裁判は戦争状態において行なわれた軍事裁判である。それゆえ、この裁判で処刑された者は、戦争状態において、連合国によって生命を奪われた者である。彼らの死を、戦争による公務死としたことは、主権独立国家として正当な決定である。「A級戦犯」も「B・C級」もこの点では変わらない。

さらにこれに加えて、サンフランシスコ講和条約第11条第2項には、東京裁判を行った国の過半数の同意を得た場合は「戦犯」を赦免できることになっていた。わが国はこの規定に基づき、国会で「戦犯」の免責を決議し、関係各国に働きかけた。「A級戦犯」は昭和31年(1956)3月末までに、「B・C級戦犯」は昭和33年(1958)5月末までに、全員赦免・釈放を勝ち取った。この釈放により、刑死した者の遺族にも恩給が支給されることになった。

その結果、わが国には、「戦争犯罪人」はいなくなった。既に「A級戦犯」は存在しない。私が、元「A級戦犯」と書くのは、このためである。

 

 こうした経緯を経て、元「戦犯」は靖国神社に合祀されたのである。昭和34年(1959)に最初の合祀が行われた。まずB・C級からだった。元「A級戦犯」であった14人については、昭和53年に合祀された。

 靖国神社の祭神は、国から送られてくる名簿に基づいて合祀される。行政府は、立法府がつくった法律に基づいて、行政事務を行なう。管轄官庁は、厚生省(現厚生労働省)だった。
 厚生省は、日本遺族会からの「戦没者靖国合祀」の要望によって、戦没者の靖国神社への合祀に協力する事業を行なった。この事業は、合祀事務協力事業と呼ばれる。担当部局は、引揚援護局(当時)だった。
 厚生省引揚援護局は、戦傷病者戦没者遺族等援護法と恩給法の適用を受ける戦没者の名簿を作成し、その名簿を靖国神社に提出した。昭和31年から46年まで、名簿提出が続けられた。
 この名簿は、引揚援護局の課長名による通知として送られた。その通知が「祭神名票」と呼ばれる。

 靖国神社は「祭神名票」をもとに、その年に合祀する人々の名簿を作成する。それが「霊璽簿(れいじぼ)」である。この作成の際、もう一つ「上奏簿」を作成する。一定の書式に則って奉書に墨で清書し、絹の表紙でとじたものだという。上奏簿とは、天皇に上奏するための名簿である。
 靖国神社は戦前も戦後も、毎年合祀の前には必ず上奏簿を作成して、上奏簿を宮内庁にお届けし、天皇に上奏してきたという。戦前は、祭神の合祀は天皇の裁可を受けた。戦後も、上奏が慣例として行われた。
 「祭神名票」は、国会が制定した法律を基準として行政当局が合祀されるべき人を選定し、書面として作成したものである。靖国神社は「祭神名票」を受け、それをもとに合祀者の名簿を作る。靖国神社は、「祭神名票」に載っていない人を、独自に合祀するのではない。

 昭和41年、厚生省から靖国神社に祭神名票が提出された。その中に、14柱の元「A級戦犯」の名前が含まれていた。そもそも祭神名票の提出は、事務次官らの承諾を得ずに行われ、元軍人が多かった援護局の独断だったという説がある。しかし、援護局の課長名で出だされた通知は公式文書であり、民間団体は国からの通知として受理する。
 こういう事務に何か問題があれば、厚生省で業務の改善がされるなり、国会で法律が改正されるなりしたはずである。実際には、31年からずっと同じように通知が出されていた。41年の通知も同様にされた。

 祭神名票を受けた靖国神社は、元「A級戦犯」の合祀をすぐ行なわなかった。筑波慶麿宮司は、靖国神社の最高意思決定機関である崇敬者総代会に何度か諮った。そして、協議の結果、数年後に総代会で合祀が決定された。機関決定である。
 決定の時期は、昭和45年6月30日である。46年2月という説、46年6月30日という説があり、徳川元侍従長も45年と言ったり46年と言ったりしている。
 「合祀の時期は宮司に任せる」と総代会で決定された。宮司預かりとしたのである。

 

 総代会で早期に合祀の実現を求める推進派の中心は、元「A級戦犯」で東条内閣の大東亜相だった青木一男氏や、同じく蔵相だった賀屋興宣氏らだったという。一方、崇敬者のなかには、元「A級戦犯」の合祀は、国家護持が実現してからという意見もあった。宮司の諮問機関である祭祀制度調査会は、その意見で固まっていた。その中心は、戦後の神社界の理論的支柱だった葦津珍彦氏だった。

その後、筑波宮司は、合祀を保留にしていた。当時、国会では昭和44年から靖国神社国家護持法案が繰り返し提出されて審議されており、合祀の保留は、こうした国会の動向を見ていたものという説がある。同法案は49年に廃案となった。
 筑波宮司の在任中には、合祀は実行されなかった。筑波は、「合祀は自分が生きている間は恐らく無理だろう」とか「宮内庁の関係もある」などと言っていたと伝えられる。「B・C級よりA級は後だ」「自分の在任中は合祀しない」という考えを子息に語っていたとも伝えられる。

 合祀の時期は宮司の裁量に任されたとはいえ、国家機関の提出した名簿を踏まえて、総代会が機関決定したことを、一個人である宮司が、いつまでも実行しないのは、組織として問題があるだろう。

 しかし、厚生省の名簿提出から約12年、総代会の合祀決定から約8年、筑波宮司は合祀を実行しないまま死去した。筑波宮司の在任中は、国家護持運動の高揚、国会での法案審議と廃案、首相の参拝の公私問題の生起という時期だった。

 昭和27年4月28日にわが国が独立を回復した後、靖国神社に本来の公的性格を回復すべきだという議論が起こった。これが靖国神社国家護持運動である。この運動は昭和40年代には一段と活発になった。

GHQに押し付けられた憲法を放置した状態のままで、昭和44年から49年まで、国会で靖国神社の国家護持が議論された。昭和45年には、わずか数ヶ月で2000万人もの国家護持要求の署名が集まった。国会では、自民党が中心となって靖国神社国家護持法案が6回も提出された。

 しかし、自民党自体がもう一つ法案成立に熱心ではなく、しばしば野党との交渉の道具にされた。

 最大の問題は、法案の中身だった。それは現行憲法の元で、その政教分離規定を狭く解釈し、靖国神社を伝統とは異なるものに変えてしまう内容となっていた。これに対し、靖国神社側から反対が起こった。靖国神社という名称、神道による祭儀、鳥居などの形状は、現状のまま保ちたいというのが、反対の理由である。

結局、同法案は廃案となり、運動は挫折した。

 

その後、昭和50年8月8月15日に三木武夫首相が靖国神社に参拝する際、「私人」としての参拝であると表明した。これによって、憲法問題が生じた。

 三木の私人表明まで、靖国参拝と現行憲法・東京裁判の間にある問題は、明確には浮かび上がっていなかった。天皇も歴代首相も、当然のこととして靖国に参拝していた。ところが、ここに戦後のわが国の根本問題が浮かびあがった。

 同じ50年の11月21日、昭和天皇が靖国神社の秋の例大祭に参拝された。その前日、参議院内閣委員会で日本社会党がこれを問題にした。追及を受けた吉国一郎内閣法制局長官は、天皇のご親拝は、「憲法第20条第3項の重大な問題になるという考え方である」と答えた。この答弁によって、天皇のご親拝が憲法問題になってしまった。同項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。

 この条項の解釈の問題が解決しないと、天皇のご親拝は政治問題となる事態となった。それ以来、ご親拝は途絶えている。天皇がご親拝されなくなった決定的な原因が、この点にあることは明らかである。

 今回の富田メモがたとえいかなる性格のものであったとしても、これは変わらない。

 

 憲法問題に触れずに、いわゆる「A級戦犯」の合祀に焦点を絞った報道は、全体を見失っていると思う。あるいは国民に全体像を見せずに、一定の方向に国民の意識を操作しようという意図があるのではないか、と私は見ている。

 

 いわゆる「A級戦犯」が靖国神社に合祀されたのは、首相の参拝、さらには天皇のご親拝が憲法問題となった昭和50年より3年後の昭和53年(1978)のことである。この年の3月、筑波宮司が急逝した。

7月1日に松平永芳氏が宮司に就任した。宮司の選任は、総代会に権限がある。松平宮司は就任後、元「A級戦犯」の合祀は「時期は宮司預かり」となっていることを知り、合祀の実行を考えた。総代会は、元「A級戦犯」の合祀を行なうことを再度確認した。そのうえで、元「A級戦犯」の合祀が進められた。松平の独断ではない。
 

松平宮司は、合祀者名簿を作り、権宮司らが10月7日に上奏簿を宮内庁に届けた。そのうえで10月17日に、元「A級戦犯」の合祀を実行した。翌日の例大祭の宮司挨拶で、合祀を行なったことを述べた。

このあたりの詳細は、第7章の(4)以下に書いたので、ここでは省略する。

 

翌年4月に元「A級戦犯」が合祀されたことが、報道された。国民の間にいろいろな意見はあったが、大きな問題にはならなかった。大平首相・鈴木首相は参拝を続けた。

 大きな問題になったのは、三木首相以来生じた憲法上の問題を解決しようとした中曽根首相が、昭和60年に公式参拝をしたことに対し、中国政府が抗議したことによる。中国は、合祀報道からこの時まで、約6年間何も言っていなかった。60年に初めて大きな問題となった。

このとき元「A級戦犯」の遺族の中から合祀の取り下げを申し出る動きがあった。しかし、東条家と松平宮司が反対し、遺族はまとまらなかった。

 中曽根氏は、中国の抗議に態度を翻し、公式参拝をやめた。一国の最高指導者が、外国の内政干渉に屈したのである。首相が公式参拝をしないという状態となるや、天皇のご親拝は、ますます遠のいた。靖国ご親拝に関する憲法問題が、真に決定的な原因となった時期は、この時だと思う。

 富田メモの政治利用は、このことを覆い隠すものともなる。

 

中曽根氏が首相として公式参拝を継続していれば、憲法上の問題は一応の解決に至り、天皇のご親拝はやがて再開されただろう。外国の内政干渉を許さなければ、すべての「戦争による公務死者」の合祀は国民に定着していっただろうと私は思う。それは、死者に鞭打つことをしない日本人の心情にかなっているからである。

 

 ここで仮に富田メモが、昭和天皇のご意思を直接または間接に伝えるものだとしよう。まだ検証が不十分な段階ゆえ、仮の話として述べる。

 もし昭和天皇が靖国ご親拝をされなくなった原因に、「A級戦犯」の合祀、特に松岡・白鳥の合祀や、松平宮司による合祀の進め方が関係していたとしても、それらはご親拝中止の決定的な原因にはなり得ない。副次的な原因とみるべきである。

 昭和天皇が「A級戦犯」・松岡・白鳥の合祀について何か述べられたことがあったとしても、それは私的な感慨を漏らされたものにすぎない。

 合祀後も毎年、昭和天皇は、靖国神社の春秋の例大祭には、勅使を差し遣された。元「A級戦犯」が合祀されている社に、奉幣を行われていた。現在も続けられている。それは、政治的に大きく問題化していないからだろう。

 だから、天皇のご親拝が中止されている決定的な原因は、政治の問題であり、その核心は憲法の問題なのである。私はこのように考えている。ージの頭へ

 

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補説2 松本健一氏に説明を求める

2006.10.04一部加筆・修正

 

(1)松本氏は、冨田メモ報道と似たことを言っていた

 冨田メモが報道される前に、メモの内容と似たことを言っていたのが、松本健一氏(評論家・麗澤大学教授)である。

 日本文化チャンネル桜の8月12日の番組「討論・討論・討論2006」において、評論家の西部邁氏は、大意次のように語った。
 「1年も前に、フジテレビの生番組で、松本健一さんが、天皇はA級戦犯の合祀に反対なさっていたのだ、と言った。私はその横にいた。その場に、中曽根さんもいた」
 この番組とは、平成17年6月26日に放送された「報道2001」である。

 東条英機の孫・東条由布子氏もまた、同じチャンネル桜の番組で、大意次のように語っている。
 「これ(ほそかわ註 富田メモ)は、松本健一さんが去年の秋、おっしゃっていたことと同じだと思った。その根拠は何かと訊くと、徳川さんだと秦先生(ほそかわ註 秦郁彦氏)も横にいらして、おっしゃっていた。(略)松本さんは、同じことをサンデープロジェクト等でおっしゃっていた」
 「私は時事懇話会で講演したが、去年10月21日に、同じ時事懇話会で、松本健一さんが同じことを講演されていた。徳川メモのこともお話になっていたと聞いた」
 東条氏が最後に「徳川メモ」と言っているのは、何かの言い違いだろう。「徳川メモ」なる資料の存在は、知られていない。

 松本氏は、富田メモの公開前に、天皇はいわゆる「A級戦犯」の合祀に反対だった、と公言していた。先ほどのフジテレビ「報道2001」で、松本氏は、次のように語っている。
 「元々合祀したときにすね、靖国がひそかに合祀したわけですね。で、その時にA級戦犯を、こういう名簿を出して天皇、昭和天皇のところに持っていったわけですね。今度こういうふうに合祀するからというふうに言ったら天皇は非常に不機嫌になって、プイッと横を向いてしまって、マー、あれは認可するとか認可しないとかいう問題じゃないですけれども、天皇は不機嫌になって、そして結果とするとその以後天皇は、靖国に行けなくなった、行かなくなったわけですね。そういうことを考えると、神社のやり方というのが非常におかしい」

 松本氏は「靖国がひそかに合祀した」「神社のやり方というのが非常におかしい」と言うが、氏自身が述べているように、靖国神社は事前に上奏簿を宮内庁に提出しているのである。昭和53年10月7日のことである。
 興味深いことに、松本氏は、次のように言う。「A級戦犯を、こういう名簿を出して天皇、昭和天皇のところに持っていったわけですね。今度こういうふうに合祀するからというふうに言ったら天皇は非常に不機嫌になって、プイッと横を向いてしまって、マー、あれは認可するとか認可しないとかいう問題じゃないですけれども、天皇は不機嫌になって、そして結果とするとその以後天皇は、靖国に行けなくなった、行かなくなったわけですね」と。
 まるでその場に、松本氏自身が居合わせていたかのようなもの言いである。「天皇は非常に不機嫌になって、プイッと横を向いてしまって」などと、単なる想像で言っているとすれば、犯罪的である。

月刊『中央公論』2005年8月号所収の座談会「A級戦犯合祀が再燃させた戦争責任問題を検証する」においても、松本氏は「名簿を天皇に見せたら、天皇はえらく不機嫌で、横を向いたという」と語っている。こちらは「という」と伝聞の表現になっている。

いずれも出典や情報源には、触れていない。もし誰かから聞いたことを伝えているとすれば、それが誰なのか、そしていつ、どのように聞いたのかを、松本氏は明らかにすべきである。


 情報源として考えられるのは、徳川元侍従長だろう。しかし、徳川自身は、『侍従長の遺言』で、靖国神社は昭和53年10月には名簿を提出せず、遅れて11月に出して来た旨を語っている。事前には名簿は提出されていない。事後報告だと言っている。だから、私は、当時の入江侍従長、徳川侍従次長は事前に上奏をしていないか、上奏はしたが元「A級戦犯」の合祀については申し上げていない可能性があることを指摘している。靖国神社には、上層簿を提出した10月7日の社務日誌に、「ご内意」の記録はないという。徳川の発言と一致するのである。

 松本氏は、何か他の情報を持っているのだろうか。冨田メモについては、富田夫人が、日経の記者に富田の日記・手帳・メモの束を渡したのは、今年の5月だと言っている。それより前には、誰にも見せていない。資料の一部をCDに焼いて親しい人々に配っただけらしい。当然、松本氏も富田メモを見ていない。
 徳川の本だけで、天皇がいわゆる「A級戦犯」の合祀に反対だったと主張するのは、根拠が弱い。昭和天皇のお言葉を記した『昭和天皇独白録』や『木戸幸一日記』等は、昭和天皇のさまざまなご見解を伝えており、徳川の本によるのみで断定するのは、安易である。
 しかも、松本氏が「報道2001」で語ったその場に居合わせたかのような描写(?)は、徳川の本のどこにもない。冨田メモが、仮に昭和天皇のお言葉を徳川なり富田なりが伝えるものだとしても、メモには、松本氏が語るような具体的な記述はない。

 一体、松本氏は、誰から上記のようなことを聞いたのか。何か資料を持っているのか。発言の根拠や情報・資料の有無を明らかにしてほしいと思う。

(2)富田メモ報道後の松本氏の発言

 

 富田メモの公表後、松本氏は、8月6日、NHK日曜討論に出演した。「政治番組収集家」さんによると、次のようなやり取りがあったという。長文だが、まず全体を記載する。

 松本氏:「この内容はですね、真贋は論争がありますけれども、徳川義寛侍従長に言われたことと殆ど全く同じでありまして、昭和天皇がそのようなお考えを持っていたということは、私は殆ど明らかだというふうに思っていますので、そこにある昭和天皇のお心というものが、やはりA級戦犯という言葉を使われたかどうかは別にして、やはり政治的な責任は彼らが取ってくれただから、私の考えでは天皇というのは日本の大いなる神主だというふうに思っていますので、日本のことを見守り戦没者を追悼するという、そういう私の気持ちを表したいだけれども、政治的な責任を取った人に対しては、それはお参りできないというふうな考え方を示しているというふうに思いますね」
 司会・影山氏:「不快感というような言葉を使うかどうかは別にして、A級戦犯が祀られていることに対してやはりわだかまりを感じておられたじゃないかと・・・」
 松本氏:「そうですね。まさに不快感という形を言われておりますからそういうふうに思われただと思います」
 (他の発言者の見解をはさんだ後)
 司会・影山氏:「資料としてもう少し検証が必要なんでしょうかね」
 松本氏:「資料としての検証は、先程の徳川侍従長の発言にもありましたけれども、検証は必要であろうとも思います。しかし、昭和天皇という方はもう60年以上にわたって“公心(おおやけごころ)”“大御心”というか、常に私的な考えはあるけれども、私的な考えはそのままでは洩らさない。四六時中、言ってみれば日本のことを考えているという存在ですから、それがポロッと洩らされたっていうふうなことでも、たとえば自分の好みの食べ物の話しもしないというふうなことでありますから、そういうふうな形での存在であります。
 ですから、他の資料とのかみ合わせ、他の状況とのかみ合わせっていうのは必要だと思いますけども、たとえば中曽根康弘元首相がすね、中国で外交問題になった首相参拝の問題ですけどもね、その時にそれを取りやめられたという時があります。その時に富田長官がすね、天皇のお考えだけれども今日はよく取りやめたと、よくやったというふうにおっしゃっておられるので、それを伝えてくれというふうに言っておりますから。
 そういう意味で言うと、日本国内の問題が外交問題になるとか、個人の感情とすればA級戦犯に対してこれ中心であるというふうに思われることと、それからこの存在が政治的責任を如何に負っていくべきかというふうなことは充分に考え続けていたということだと思います。その結果として現れている発言だというふうに私は思いますね。」

(3)NHKでの発言の検討

 正直言って、私は、松本氏の言いたいことがよくつかめない。何を主張したいのか、主旨不鮮明なところがある。氏には、昨年来の発言と合わせて、きちんと文章に書いて発表してほしいと思う。
 ここでは、私のとらえられる範囲で、上記の発言について所感を書く。

 まず松本氏は、冨田メモの内容は、昭和天皇が徳川侍従長に言われたことと殆ど全く同じであると言う。しかし、昭和天皇が徳川に何か語ったのかについては、それを裏付ける資料は知られていない。松本氏も、提示していない。あるなら出すべきであり、ないなら裏づけのないことを言うべきでない。

 次に、松本氏は、「昭和天皇がそのようなお考えを持っていたということは、私は殆ど明らかだというふうに思っています」と言う。「そのようなお考え」とは、富田メモを報道した日経の解釈に過ぎない。それを天皇のお考えと同一視するような理解を松本氏は述べている。そのうえ、松本氏は「まさに不快感という形を言われておりますからそういうふうに思われただと思います」と言っている。「不快感」と表現したのは日経であって、冨田メモに「不快感」という言葉はない。松本氏は日経の記事を読んで、その解釈に影響を受けているのか。それとも、日経と一緒になって国民を根拠のない思い込みに誘導しようとしているのか。

 次に、松本氏は、資料としての検証は「必要であろうとも思います」と言う。ところが、「しかし」と続ける部分で、昭和天皇は「私的な考えはそのままでは洩らさない」ようなご存在だ、だから、「他の資料とのかみ合わせ、他の状況とのかみ合わせっていうのは必要だと思います」と述べる。氏が、そう思うのであれば、冨田メモのような非公式の私的なメモには、史料の価値と信憑性について十分慎重でなければならない。
 にもかかわらず、松本氏は、昭和60年秋の中曽根首相の靖国参拝中止の件についての情報をもって、冨田メモ報道の解釈を補強するのである。

 松本氏は、次のように言う。
 「たとえば中曽根康弘元首相がすね、中国で外交問題になった首相参拝の問題ですけどもね、その時にそれを取りやめられたという時があります。その時に富田長官がすね、天皇のお考えだけれども今日はよく取りやめたと、よくやったというふうにおっしゃっておられるので、それを伝えてくれというふうに言っておりますから」と。
 この情報は、昭和天皇が富田長官に中曽根首相宛に、次のように伝言するようおっしゃったとして、伝わっているものである。
 「靖国の問題などの処置はきわめて適切であった、よくやった、そういう気持ちを伝えなさい」

 私は、この情報を鵜呑みにできない。戦後の昭和天皇は、象徴天皇のお立場に徹しておられた。政治に介入するようなご発言は、厳しく自制されていた。中曽根首相の靖国神社公式参拝は、政治の問題であって、そのことに天皇が発言されれば、政治への介入になる。単に政治的な事象について論評するのではない。内政・外交にまたがる重要問題について、天皇が官僚を使って現職の首相に伝言させることになる。私には考えがたい。

 平成4年、今上陛下が中国をご訪問した際、慎重論・反対論があった。天安門事件の後、中国は人権問題で国際的な批判を浴びていた。その状況で、天皇ご訪中は行なわれた。その際、官僚から「ご訪中は、陛下のご希望です」という情報が流れた。後に櫻井よしこ氏が、関係者を調べまわったところ、誰もそのようなお言葉を伺った者は誰もいなかったという。
 上記の中曽根氏へのお言葉なるものについても、精査が必要である。

 このお言葉なるものを伝えているものに、岩見隆夫著『陛下のご意見――昭和天皇と戦後政治』(文春文庫)がある。

 昭和60年、藤尾文部大臣の罷免事件が一段落した後のこととして、「まもなく、富田朝彦宮内庁長官から中曽根のもとに、天皇の伝言がもたらされた。『靖国の問題などの処置はきわめて適切であった、よくやった、そういう気持ちを伝えなさい、と陛下から言われております』」と書かれている。岩見氏は、中曽根氏にインタビューしたと解説しているから、天皇のお言葉とは、中曽根氏自身が語ったものと思われる。

 閣僚等が内奏の時などに天皇から賜ったお言葉は、公表しないのが、暗黙の了解事項である。中曽根氏は総理大臣経験者である。事実かどうかは別として「靖国の問題」について自分のしたことが「きわめて適切だった」というお言葉があった、とメディアに対して自ら語る中曽根氏の姿勢に、私は首をかしげる。自分の立場や事績を守るために、天皇のお言葉なるものを政治利用しているとすれば、絶対あってはならないことだと思う。

 中曽根氏が首相だったとき、後藤田正晴が官房長官を務めた。富田が宮内庁長官だったのは昭和53年からゆえ、富田は中曽根・後藤田の下で働いた。三人に共通するのは、旧内務省の出身であることである。中曽根・富田は海軍経理学校の出身、後藤田・富田は警察庁出身である。昭和46年の連合赤軍浅間山荘事件の時は、後藤田が警察庁長官、富田が警察庁警備局長だった。この三人の関係は、非常に深いのである。靖国問題で窮地に陥った中曽根氏を、後藤田や富田が何らかの形で支えるということが行なわれたとしても、不思議はない。

この点については、ジャーナリストの千葉展正氏が、月刊『正論』11月号で鋭い考察を行なっている。「『富田メモ』はボスたちへの身びいきに満ちた官僚のメモワール」という記事である。

 

(4)別の番組での発言の検討

 

松本氏は、8月9日、CS放送の朝日ニューススターというチャンネルのゴールデンタイムに放送されている「ニュースの深層」、シリーズ「戦後は終わらない3 戦争責任」において、キャスターの宮崎哲弥氏等と、大意次のようなやり取りをした。

 ―富田メモの信憑性は
 松本氏: 「殆ど同じ内容は『侍従長の遺言』に書かれており、符合する。昭和天皇からすれば、誰かが政治責任を取らなければならない、A級戦犯が責任を取らないで神になったということについて不快感を持たれたと言うことだろう。」

 松本氏は「昭和天皇からすれば、誰かが政治責任を取らなければならない」と言うが、昭和天皇は、大東亜戦争における政治的軍事的決定の全責任は、ご自身にあるとマッカーサーに語られたと伝えられている。実際には、明治憲法下において、天皇には法的責任・政治的責任がないにも関わらずある。またご自身と引き換えに元「A級戦犯」を助けたいともお考えだったようである。
 かくも崇高なご精神を持っておられた昭和天皇が、自分の身代わりに誰かに「政治責任」を取らせようと思っていた、松本氏は考える。氏は、昭和天皇のご精神を感じ取ることができないのではないか。
 「政治責任」は、大臣や政治家であれば辞職等の形を取る。東条内閣は、政治責任を取って総辞職しました。政治責任は取っている。絞首刑や懲役刑は「法的責任」に関わるが、国内法には、刑法に開戦や敗戦をもって国家指導者を裁く規定はない。国内法では罪を問う法的根拠がないのである。国際法でも本来、罪を問えないものだった。東京裁判は、裁判の管轄権について国際法に根拠を持たないものだった。松本氏は、こうしたことを、よく理解していないようである。
 「A級戦犯が責任を取らないで神になったということについて不快感を持たれたと言うことだろう」という松本氏の発言は、もっと珍妙な意見である。冨田メモへの日経の解釈は、昭和天皇は「A級戦犯」合祀に「不快感」を持っていたということまでだが、松本氏は、「責任を取らないで神になったということについて」の「不快感」だと言う。人間にとって責任を取る行為としては、死以上のものはない。自殺か刑死である。それ以上の責任の取り様はない。
 「A級戦犯」として処刑されたうち、東条は、天皇には責任がなく、自分に一切の責任があるとして、すすんで責任を受けることを明言して、処刑に臨んでいる。そうではない者もいる。松岡のように拘留中に病死した者もいる。ひとくくりには論じられない。
 昭和天皇は、戦勝国によって7名が責任を取らされる形で処刑されたことに対し、断腸の思いであったことだったろう。「A級戦犯が責任を取らないで神になったということについて不快感を持たれた」という松本氏の発言は、幾重にもおかしな意見だと私は思う。
 はっきりわかることは、この人には、昭和天皇のご精神への理解がないことである。その点が、氏が傾倒する北一輝と似ている。そして、松本氏は、史実も法理も無視して、ただ自分の情念で、ものを言っているような気がする。


(5)松本氏の個性的な思想

 元「A級戦犯」合祀に関する松本健一氏の発言は、靖国神社に関する昭和天皇のご意思を確認し、それに従おうという姿勢に発するものなのだろうか。そうであれば、天皇への忠義ではある。ところが、松本氏は個性的な思想の持ち主であって、話は単純ではない。
 松本氏は、北一輝の研究で世に知られた人である。北は無政府主義者・幸徳秋水の思想の影響を受け、天皇を戴く国家社会主義を唱導した。北の理論は、天皇の権威をもって、自分の思想を実現しようとするものであって、根底には天皇への忠誠が見られない。松本氏は、こうした北一輝に強い共感を示す。
 また、松本氏は、明治維新の際、隠岐で自治政府をつくり、81日間維持した「隠岐島コミューン」に憧れを表す。天皇を中心とした近代国家への反発が、氏の心中にあるのだろう。
 さらに、松本氏は、「君が代」を国歌とすることに反対する。「国歌を定めようとするなら、戦争における無数の死者を忘れないように『海ゆかば』という名曲を選んだ方がいい」と言う。

 私は、松本氏の意見に同意できない。「海ゆかば」は、戦前、海軍等で歌われた歌であるが、当時も国歌は「君が代」である。その国歌を認めずに、軍歌に替えよというのは、屈折した思想を感じる。靖国問題についても、松本氏が昭和天皇のご意思がわかれば、それに従おうという素朴な姿勢から発言しているとは、私には思えない。

 

松本氏は、冨田メモが世に出る前年、月刊『VOICE』平成17年9月号に、「国家神道としての靖国神社」と題した文章を載せた。元「A級戦犯」の合祀の経緯に関することは、本稿では触れていない。注目されるのは、氏の靖国神社と「A級戦犯」に対する意見が述べられていることである。

 

 松本氏は、西郷隆盛が祀られていないことを例にあげ、靖国神社は「ある原理を立てて、その原理に合った人は祀り、そうでない人は祀らない、という政治的イデオロギー性の強い、国家神道の神社といっていいだろう」と言う。また、「幕末・維新以来、天皇=国家のために戦って死んだ人を神として祀る神社なのである。たんに、戦争における死者(ひろくは犠牲者)を追悼する神社ではないのである」と述べる。

 そして、次のように書く。

 「もし靖国が、日本人の歴史的記憶に刻まれたエートスに応えつつ、天皇という“大いなる神主”によって見守られる日本=ネーションの神社本来の姿を取り戻そうとするなら、戦前の国体イデオロギー的な性格をぬぐいさっていかなければならない。

 そのためには、「靖国で会おう」といって死んでいった将兵たちをあの戦争において死なしめた、そういう政治決断をした政治責任者(たとえばA級戦犯)をここに合祀することは避けたほうがいい。政治的責任者はその責任をとってゆくことが、日本というネーションを安んじる道である」と。

 

 「国家神道」という用語は、GHQが使用したもので、State Shintoの翻訳である。当時のGHQ関係者の神道に対する理解には偏見や敵意があり、戦前のわが国の神道を正しくとらえたものではない。松本氏はそういうGHQの使った用語を用いて、「国家神道の神社」と靖国神社を呼ぶ。

 また、「政治的イデオロギー性」「国体イデオロギー」という言葉を使い、明治から戦前までのわが国の国家思想に批判的な論述をしている。その発想には、左翼的または反国家的な色彩がある。

 松本氏は、最後の一節にて、「政治責任者(たとえばA級戦犯)をここに合祀することは避けたほうがいい」と述べる。松本氏は「A級戦犯」のような「政治責任者」の合祀に反対なのである。根底にそういう意見を持っているから、元「A級戦犯」の合祀の経緯について、異を唱えているのだろう。

 問題は、松本氏のこうした個性的な思想が、合祀の経緯に関して歪曲や誇張をした発言を生んでいないか、ということである。

 

 氏は、「もし靖国が、日本人の歴史的記憶に刻まれたエートスに応えつつ、天皇という“大いなる神主”によって見守られる日本=ネーションの神社本来の姿を取り戻そうとするなら、戦前の国体イデオロギー的な性格をぬぐいさっていかなければならない」と書いている。「天皇という“大いなる神主”によって見守られる日本=ネーションの神社本来の姿」とは、理解しがたい表現である。

 明治初期創建の靖国神社は、「天皇という“大いなる神主”によって見守られる日本=ネーションの神社本来の姿」を表しているからである。歴史的現実的に存在する靖国神社を神社本来的な姿ではないとして、どこに神社本来の姿があるというのか。ありもしないものを「本来の姿」とし、それを取り戻すには、「戦前の国体イデオロギー的な性格をぬぐいさっていかなければならない」と説くのは、詭弁である。

 こういう思想と弁論術を持った人物が、元「A級戦犯」の合祀の経緯に関し、根拠も資料も明らかにせずに、昭和天皇のお考えのごとくに発言しているのである。

その裏づけは何なのか、根拠はあるのか、何か資料はあるのか、松本氏には、国民に明らかにする義務がある。ージの頭へ

 

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補説3 立花隆氏に反論する

 

(1)立花氏の基本的な姿勢

 

富田元宮内庁長官の日記や手紙は公開されず、検証は遅々としたままだ。そのなかで、メモは昭和天皇のお言葉だとする見方を定説とし、天皇のお言葉として政治利用する動きが進められている。

評論家・ジャーナリストの立花隆氏も、これを推進している一人だ。氏は日経BP社のサイトに連載している「メディア ソシオ-ポリティクス 第82回 天皇はなぜ参拝しないのか『心の問題』と靖国神社」(8月12日記)にて、富田メモについて書いている。

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060812_tomita_memo/index.html
  
 本稿で立花氏は、富田メモは昭和天皇のお言葉を書き留めたものという理解に立っている。その理解は、日経の記事や『文藝春秋』9月号の半藤一利氏、秦郁彦氏、保坂正康氏の見解を受けたものだ。

 私は、立花氏を現代日本で屈指の評論家・ジャーナリストと評価し、特に問題関心の広さと徹底的な取材力に敬服する者だが、富田メモについて立花氏自ら検証を行なおうという姿勢がないようである。氏の論説は、富田メモは昭和天皇のお言葉という見方を定説化し、天皇のお言葉として政治利用するものとなっている。富田メモに疑念を抱いたり、資料の公開や検証を求めたりする人々に対しては、時に軽蔑し、時に罵声を浴びせている。その姿勢には、彼の思想的な傾向がよく出ていると思う。

 以下、一読者として氏の論理や姿勢を批判したいと思う。


 富田メモは、昭和天皇のお言葉だとする報道について、多くの疑問や異論が出ている。これに対し、立花氏は以下のようにいう。

 「さまざまなメディアを通じて、天皇にそのような発言をしてもらっては困ると考える人々から、メモの信憑性を疑ったり、あるいはそこに記されていた天皇の言葉が天皇の真意を伝えたものではないことを懸命に論証しようとしたりの議論がつづいた。──議論の内容は、もっぱら、富田メモの中身が、実は天皇の言葉ではなくて、富田朝彦元宮内庁長官の個人的な思いをつづったものだったにちがいないなどとする、根拠もなしに自分勝手な推論を述べたてるものだった。」

 このように立花氏は、富田メモに疑問や異論を出す人々をひと括りに「天皇にそのような発言をしてもらっては困ると考える人々」と断定している。その根拠は何か。根拠を示さなければ、「根拠もなしに自分勝手な推論を述べ」ものではないか。

 疑問・異論を述べる人々は、何を言っているのか。日経のジャーナリズムとしてのあり方、日記・手帳を部分的にしか公開しない姿勢、断定的で一方的な報道の仕方、情報の提供または漏洩の経緯、過去の史料における昭和天皇のお言葉、お人柄など、さまざまな点から、富田メモを昭和天皇のお言葉と断定・即断することに、疑念を表したり、検証を求めたりしているのである。またその人々の多くは、メモを天皇のお言葉だとして政治利用することに、最も強く反対している。しかし、立花氏は、「天皇にそのような発言をしてもらっては困ると考える人々」としか見ていないのである。


 立花氏は、さらに上記引用に続けて書く。

 「これに類するものとしては、実はそれが天皇の言葉をメモしたものではなくて、他の人の発言を富田がメモしたが、たまたままぎれこんだとしか考えられないという推論から、これを『大誤報』と断ずる噴飯ものの主張もあった。あるいは、このメモをスクープした日経新聞の記者あるいはその周辺の人物が政治的思惑からメモの内容を改竄したにちがいないなどとする主張もあった。
 それらの議論の特徴を一言で要約すると、もっぱら『にちがいない』『としか考えられない』という論法を駆使することによって、ろくに根拠もなく、自分の願望を客観的な現実ととりちがえてしまうお粗末な議論の羅列といってよい。」


 立花氏は「『大誤報』と断ずる噴飯ものの主張」「内容を改竄したにちがいなどとする主張」「お粗末な議論の羅列」などと言うが、いつどこで誰が何をどう書いたのか、一切具体的な引用がない。ジャーナリズムの基本を無視した揶揄嘲弄の類の書き方である。まさかインターネットに匿名で書かれた文章について言っているのではなかろう。

 大誤報と言えば、誰もが『週刊新潮』の記事を思うだろう。しかし『新潮』の8月10日号の記事は、「世紀の大誤報か」と疑問を投げかけたものであって、大誤報と断定してはいない。この記事は、富田メモが徳川元侍従長の発言である可能性のあることを、数点具体的な疑問点を挙げて書いている。元宮内庁職員、元宮内庁記者、神社本庁関係者、大学教授の所功氏・八木秀次氏・中西輝政氏などの発言が引用されている。それぞれ専門的な知識・経験をもとに意見を述べている。立花氏は、その個々の内容を検討していない。


 一体、立花氏は誰の主張をもって、「自分の願望を客観的な現実ととりちがえて」いるものと言うのか。きちんと引用して自分の意見を述べるべきだろう。それができないなら、氏のいう「客観的な現実」とは、氏自身が自分の願望によって作り上げた“主観的な現実”に過ぎないことになるだろう。

 『週刊新潮』には、桜井よしこ氏も、8月3日号と10日号に書いている。桜井氏は、富田メモを未公開部分も含めて詳細に検討して、疑念を表しているが、「大誤報」とは断定していない。「富田氏が書きとめた言葉の主が万が一、昭和天皇ではない別人だったとすれば、日経の報道は世紀の誤報になる」と、仮定法で述べている。桜井氏は記事の中で、鋭い指摘をいくつも行なっている。

http://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/2006/08/a_1.html
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/2006/08/post_461.html

 立花氏もジャーナリストであれば、桜井氏の意見に論戦をもって応じるべきだろう。それなしに、「噴飯もの」「お粗末」などと言い放つのは、ジャーナリストとしての姿勢を私は疑う。


(2)疑問や要望を斥ける態度

 

 立花氏は、『文藝春秋』9月号の座談会「徹底検証・昭和天皇『靖国メモ』未公開部分の核心」を高く評価している。「有象無象の議論を全部吹き飛ばしてしまうくらいのインパクトを持つもの」と言う。

 座談は、半藤一利氏(作家)、秦郁彦氏(日本大学講師)、保阪正康氏(ノンフィクション作家)の三氏によるものだ。確かにこの鼎談は、富田メモの公開後、最も詳しく日記・手帳・背景・史実等について述べたものである。私自身、多くの新たな情報に触れることができた。しかし、「有象無象の議論を全部吹き飛ばしてしまう」ものとはなっていない。

 

 半藤氏、秦氏、保阪の三氏が私見を述べたところで解決しない類の事柄がある。例えば、報道のタイミング、杉田日経社長の訪中、富田の日記・手帳の一般公開等は、日本経済新聞社が国民に対して明らかにすべき事柄である。

 また、三氏が取り上げていない重要な検討点がある。例えば、昭和63年4月28日の昭和天皇のご公務と、徳川・富田の行動、記者会見の記録の調査である。三氏がこの調査の重要性に気づいていないとすれば、失礼ながら素人に劣る。気づいていて触れていないとすれば、日経と三氏の間に謀議がされていることが疑われよう。

 

 立花氏自身は、上記の事柄や検討点について、自分で考察しているようには見えない。そして、富田メモに対して疑問を呈したり、検証を求めたりする人々をひっくるめて次のように書く。先の引用に続く部分である。

 「なにしろ、それら否定論者たちの発言がおしなべて、現物を見もしない、かつ内容を深く検討したこともない人々の無責任きわまりない発言であったのに対して、この座談会に出ている、半藤、秦の両名は、日経新聞のスクープ(720日朝刊)以前に、原物を見せられ、その信頼性のチェックをした(半藤氏は7月のはじめに、秦氏は発表の1週間前に)ような人物だから、議論のレベルが、有象無象の人々とは比較にならないくらい深い。」

 

 「それら否定論者」と立花氏は言う。だが、「否定論者」と言いうるのは、富田メモは昭和天皇のお言葉ではないと断定する人に対してのみである。疑問を呈し、検証を求める人々を「否定論者」とは言わない。少しでも疑い、物申す者は「否定論者」だと相手にレッテルを貼るのは、共産党か新左翼のような仕方である。かつて日本共産党や中核vs革マルについて書いた人物が、一体どうしたことだろう。

 

 立花氏が言うように半藤氏と秦氏が、富田メモに関して、深いレベルの議論をしていることは、確かである。それを可能としているひとつの理由は、両氏が富田資料を見る機会を得ているからである。その機会を与えられていない人たちに向かって、「現物を見もしない、かつ内容を深く検討したこともない人々の無責任きわまりない発言」と決め付けるのは、フェアーでない。

 「現物を見もしない」のではなく、日経や富田家が見せないのである。公開すべきという声を無視または拒否しているのである。多くの人々は、その姿勢自体に疑問を表している。そして、現物は見られないが、深く検討している人々が、多数いる。その人々が、富田資料の公開を求めているのである。それに大体、立花氏自身も現物を見ていないではないか。

 

(3)異論・異見を持つ論者を加えて、徹底討論を

 

 半藤氏、保坂氏、秦氏は、今日、わが国の近現代史について、よく読まれている書き手である。ここで私の三氏に対する評価を書いておきたい。

 

 半藤氏は、大東亜戦争の末期の状況について、「ほんとうにあの時に負けることができてよかったと心から思わないわけにはいきません。それにしても何とアホな戦争をしたものか(略)ほかの結論はありません」と『昭和史』(平凡社)に書いている。その見方の背後には「国家の基軸に平和憲法をおいている日本は、9条の理想を地球全体に訴え、先頭に立って人類救済の方途を模索すべきであろう」と述べるような思想がある。だから、氏の歴史書は、市民運動家や地球市民派に人気がある。

 保坂氏は『あの戦争は何だったのか』(新潮選書)において、昭和10年代の日本が置かれていた国際情勢を考慮せずに、わが国の軍部と国民を批判している。盧溝橋事件も、氏によると関東軍の謀略によるものであって、ソ連・中共の工作の重要性を理解していない。そのうえ、「『原爆のおかげで終戦は早まった』のだ」とまで書く。そこには原爆や東京大空襲等で無差別大量虐殺をしたアメリカを批判する姿勢はない。日ソ中立条約を破って侵攻したソ連に対しても、それほど責められるものではないという認識を容認している。

 それゆえ、私は半藤氏と保坂氏は、GHQに与えられた東京裁判史観の枠組みを出ていないと思う。むしろ新事実・新資料の出現により、いよいよ破綻している東京裁判史観を、連合国に代わってリニューアルし、日本国民に再教育しようとしているようなところがある。

 

 これらの両氏は作家であるのに対し、秦氏は実証的な歴史学者である。氏は南京事件について「犠牲者4万人説」で知られるが、その説の根拠は論議の的であった。近年、東中野修道氏らによって南京事件の徹底検証が進められているなかで、氏は自説の見直しを積極的に行なってはいないのではないか。歴史学者であれば、文書一葉、写真一枚を洗い出す姿勢が必要だろう。また、氏は、『マオ』などで知られるに至ったコミンテルン・KGBや中国共産党の謀略についても、その重要性を強く意識していないように思う。国際政治や共産主義及びその諜報活動の研究が弱いと思う。

 

 私は、三氏それぞれ立場違うが、昭和天皇や昭和史に関する見解において、もともと互いに近いものがあると思う。そういう傾向の人たちで鼎談を組んだことは、『文藝春秋』編集部の企画に安易さがあると思う。

 鼎談では、疑問・要望を間接的に取り上げているに過ぎない。誰の主張なのかを明記していない。噂、風聞のような扱いである。改めて異論・異見を持つ論者を加えて、徹底討論を行なうべきである。

 

(4)自分の感情による推論

 

 立花氏は、『文藝春秋』の鼎談について次のように続ける。長くなるが、切らずに引用する。

 

 「その他、記述内容から、信憑性、天皇の真意性が疑われた点についても、3人の論者はつぶさに検討を加えているが、そこでも靖国メモを疑う人々の議論は一蹴されている。

たとえば、昭和天皇は東条英機に好意を持っていたはずだから、A級戦犯全体を丸ごと否定するかのごとき富田メモはウソだというような議論があった。

 それに対して、たしかに『昭和天皇独白録』には、『東条と云ふ人物は話せばよく判る』『東条が云ってゐることも思慮周密で中々良い処があった』といったくだりがあるにはあるが、

 

 『秦 頼りにならぬ陸海空軍の統帥部長に比べて、相対的に、東条がマシに見えたのでしょう。能吏だから、こまめに上奏するし、御下問があればごまかさずに答える。しかしながら、戦争末期には東条もまったくアテにならず、天皇は、アメリカの短波放送で戦況を聞いていたですよ。

 保阪 昭和天皇は、終戦後さまざまな事実が明らかになるうち、臣下は私を騙していたのではないか、と気づいたのではないでしょうか。

 半藤 私は怒りというより、天皇の哀しみを感じました。戦争中から騙されていると判っていたと思いますよ。だから最後は「聖断」自分終戦を決断したです』

 

 こういうくだりを読んでいくと、いまA級戦犯の肩を持つ人々への怒りがこみあげてくる。天皇と国民にウソばかりならべたてて、あの無謀な戦争をはじめさせ、戦争の真実の推移をすべて押し隠し、ついには一億玉砕の本土決戦にまで持ち込もうとした、あのA級戦犯たちへの天皇の怒りと哀しみが、あの富田メモの『それが私の心だ』によくあらわれていると思う。」

 

 まず、立花氏が「昭和天皇は東条英機に好意を持っていたはずだから、A級戦犯全体を丸ごと否定するかのごとき富田メモはウソだというような議論があった」としている部分についてだが、ここでもやはり具体的な言及がない。いつどこで誰が「ウソ」だと述べたのか。それを引用せずに「ウソだというような議論」と言っている。実際は、「昭和天皇は東条英機に好意を持っていたはずだから」、A級戦犯全員の合祀について「反対」されたり、「不快感」を持っておられたとは思えない、というのが代表的な意見だろう。

 

 次に、立花氏による引用において、保坂氏が「臣下は私を騙していたのではないか、と気づいたのではないでしょうか」と言っている部分は、『文藝春秋』の原文では、「臣下は私を騙していたのではないか、不誠実だったのではないか、と気づいたのではないでしょうか」となっており、引用文が一部抜けている。校正のミスだろうが、いずれにせよ氏の推論を述べたものである。

 続いて半藤氏が「私は怒りというより、天皇の哀しみを感じました。戦争中から騙されていると判っていたと思いますよ。だから最後は『聖断』自分終戦を決断したです」と言っているが、これも氏が主観的に「感じた」ことや、「と思いますよ」という推論を述べたものである。「だから〜決断したです」というのも、氏の推論である。

 ところが、立花氏はここで、「いまA級戦犯の肩を持つ人々への怒りがこみあげてくる」と自分の「怒り」を述べる。

 

 「天皇と国民にウソばかりならべたてて、あの無謀な戦争をはじめさせ、戦争の真実の推移をすべて押し隠し、ついには一億玉砕の本土決戦にまで持ち込もうとした、あのA級戦犯たち」という文言は、立花氏の感情のこもった表現である。昭和10年代のわが国の国家指導者を「あのA級戦犯たち」と一括するとらえ方は、東京裁判史観に基づく見方である。

 富田メモの最重要部分は、「A級」「松岡」「白取」の部分の後に、「筑波」「松平」とあり、「松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と続くところである。

 立花氏は、この部分を昭和天皇のお言葉を書き留めたものと断定している。そして「あのA級戦犯たちへの天皇の怒りと哀しみが、あの富田メモの『それが私の心だ』によくあらわれていると思う」と書いている。しかし、ここに「A級戦犯」への「怒りと哀しみ」を読み込むのは、半藤氏・保坂氏の推論を延長したものであって、氏の主張もまた推論の上に推論を重ねたものだろう。自分の感情と、あたかも昭和天皇の感情が同じものであるかのように述べている。

 

 立花氏は、昭和15年生まれで、戦後教育の影響を強く受けた世代である。占領期に小学校時代をすごしている。私には、昭和天皇がお持ちであっただろうご見解やご感情が、立花氏と同じような次元のものだったとは、思えない。もっと深く、大きな御心をお持ちだったろうと拝察する。それは富田メモ以外のあらゆるお言葉、御製、史料から受ける総合的な印象である。

 

(5)「身はいかならむとも」

 

 鼎談は昭和天皇が「終戦の御聖断」を下された際のご心境について語っているが、天皇ご自身は、その際のご心境について、次の御製を詠んでおられる。

 

 爆撃に ふれゆく 民のうへをおも いくさとめけり 身はいかならむとも

 身はいかに なるともいくさ とどめけり ただふれゆく 民を思ひて

 

 この「身はいかにならむとも」という言葉は、すべての責任をご自身で受けようという昭和天皇の崇高な御精神の発露であろう。半藤氏・保坂氏の推論、またそれにのっとった立花氏の感情の及ばない次元に、天皇の御心はあると私は感じる。

 

 マッカーサーは、昭和20年9月27日の昭和天皇との最初の会談を次のように語っている。

 「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもって御出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。

 すなわち『私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は、日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います』

 これが陛下のお言葉でした。私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上ることを申出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」

 日本人は、全責任を負って国民を救おうとされた昭和天皇の御心を忘れてはならない。その御心を深く感得しないと富田メモの読み方は誤ると私は思う。

 

(6)天皇を政治利用する立花氏


 立花氏の本稿で最も大きな問題は、氏が富田メモを政治的に利用していることである。立花氏は、富田メモを昭和天皇のお言葉だという報道を定説化し、これを当然のように政治利用する動きに参画している有識者の一人である。その発想や発言には、定説化・政治利用の一つのパターンが見て取れると思う。


 立花氏は、次のように書いている。

 「天皇は、A級戦犯合祀後の靖国神社参拝拒否によって、自分の意思をはっきり表明している。今上天皇も昭和天皇の基本的立場を受け継ぎ、それを貫くことで、自分の意思をはっきり表明している。」

このように、昭和天皇は「A級戦犯合祀後の靖国神社参拝拒否によって、自分の意思をはっきり表明している」と立花氏は言う。まず「合祀後」とは断定できないことに注意しなければならない。天皇のご親拝の最後は、昭和53年ではなく、昭和50年である。

従来、昭和天皇が靖国ご親拝をされなくなったのは、憲法問題が原因という説とA級戦犯合祀が原因という説の二つがあって、後者の説の人は富田メモをその確証とみなす。立花氏は、これに乗っかったものだろう。しかし、仮に富田メモが天皇のご意思を伝えるものだとしても、既に昭和50年に憲法問題が起こっていた。私は二つの原因は二者択一ではなく、前者が主要因、後者が副次因と見る。単純な択一とは思えない。

次に立花氏は、昭和天皇がご親拝をされていない事実について、「参拝拒否」と言っているが、これを「参拝拒否」と言えるかどうか。ご親拝を差し控えておられるとは言えても、拒否されているとまで言うと拡大解釈となる。また、ご親拝がないという事実は、何かを暗示しているとは言えても、「自分の意思をはっきり表明している」と断言すると、恣意的な表現となる。
 昭和天皇は、公の場で言語をもって、私は参拝を拒否しますと表明されたのではない。昭和天皇は、昭和53年秋以降も靖国神社に勅使を毎年差遣されていた。これこそ、天皇としての公的なご意思の表明だろう。ご自分は靖国行啓をされていないが、勅使差遣は変わらずに続けておられた。今上天皇も同様にされている。この事実をどう理解するのか。立花氏は検討を行っていない。


(7)標的は首相の靖国参拝

 

さて、立花氏は、靖国ご親拝のないことを「参拝拒否」「意思をはっきりした表明」と決め付け、これをもって小泉首相の靖国参拝を批判するのである。平成18年8月15日、終戦記念日に小泉首相は、5年前に公約どおり靖国神社に参拝した。立花氏の本稿は、それ以前に書かれたものである。当時、氏は首相の参拝を阻止しようとして、次のように書いた。

 

先ほどの続きの部分である。

「それに対して、小泉首相は、『心の問題ですから』という論理に逃げこむことによって、『自分は自分』とばかり、天皇の意思など全く知らぬげに、今年も靖国参拝を強行しようとしている。

それもおそらくは、今年が最後のチャンスとばかり、8月15日の靖国参拝に踏み切ろうとしている。だが、それは正しいことなのか。『心の問題』であれば、誰でも自分の思うがままの行動をしてよいのだろうか。(略)

天皇は、個人の心情の問題としてではなく、日本国を象徴する最大の公人という立場であるという自覚があるからこそ、A級戦犯を祀る靖国神社に参拝することができないのである。(略)
 小泉首相の『心の問題』論は、この視点を完全に欠落させている。自分が天皇に次ぐ、国家の象徴そのものなのだということを忘れた議論である。」


 立花氏は、小泉首相に靖国参拝をやめさせたいのである。そのために、自分が勝手に解釈した昭和天皇の「意思」を、恣意的に振りかざしているのだ。これは、首相の参拝を阻止するために天皇を政治利用するものである。むしろ、最初から、首相は靖国参拝すべきでないという意見を持っていて、その理由付けに、富田メモの文言を利用しているのではないか。


 私は立花氏の憲法や国家の理解についても疑問を覚える。天皇は日本国の象徴にして、日本国民統合の象徴である。しかし、首相を「天皇に次ぐ、国家の象徴そのもの」と呼ぶのは、天皇の持つ象徴としての特別の性格を理解した物言いではない。

天皇は憲法に規定された“象徴”であるから、選挙権も被選挙権もなく、政治的な発言は控えられる。首相は憲法に規定された“象徴”ではなく、選挙で選ばれた行政の責任者である。立場も権能も違う。天皇が靖国にご親拝をされているか否かは、首相の靖国参拝を拘束するものではない。むしろ、内閣総理大臣は、国民の代表として靖国神社に参拝し、英霊に感謝と追悼の念を捧げるべき立場にある。

小泉首相が立花氏のような意見に惑わされず、8月15日靖国神社に参拝したことは、わが国が立憲議会制デモクラシーの国であることを明らかにしたものとも言えよう。

 立花氏は「天皇は、個人の心情の問題としてではなく、日本国を象徴する最大の公人という立場であるという自覚があるからこそ、A級戦犯を祀る靖国神社に参拝することができないのである」と、ここでも断定をしている。しかし、富田メモは、仮に昭和天皇のお言葉を書き留めたものだとしても、天皇が「日本国を象徴する最大の公人という立場であるという自覚」を述べたものではなく、私的に個人的な感情を述べたと見るべきものだろう。公の場で、私は「日本国を象徴する最大の公人という立場」にありますから靖国神社への参拝を「拒否」します、などとお述べになったのものではないのである。

 

立花氏は、富田メモは昭和天皇のお言葉として、これをできるだけ公的なご発言であるかのように扱って、首相の靖国参拝の阻止に利用したいのだろう。その標的には、次期首相も入っている。氏に限らず、こういう姿勢で、富田メモを昭和天皇のお言葉として定説化し、当然のように政治利用する動きは、決して許されない行いである。

 

 なお、当時の小泉首相の姿勢について補足する。小泉氏は、富田メモについて記者の質問に対し、自身の靖国参拝への影響については、「ありません。それぞれ心の問題ですから。行ってもよし、行かなくてもよし。誰でも自由ですから」と答えた。この発言は、聞き流すべきでない。

 小泉首相靖国参拝訴訟において、国側は、首相の参拝を「私的参拝」だと主張した。首相の公式参拝の合憲性を理論的に明確に打ち出そうとしていないのである。首相の靖国参拝は、国民の代表である内閣総理大臣が、その資格において参拝するのでなければ、参拝の意味は薄い。

 単に小泉純一郎という個人が、自分の「心の問題」として参拝しているだけで、「誰でも自由」だから今後、首相が参拝してもしなくとも自由だという考えは、国家における慰霊の重要性を見失った考えである。

 

(8)「バカ連中」の「泣き言」?


 立花氏の歴史認識、国家観、東京裁判観等は、次の部分によく表れていると思う。
 「日本の戦後の再出発は、すべて、あの戦争の清算の上に立てられたのだから、それを乱すようなことは、国家としてできないのである。

具体的にいえば、ポツダム宣言の受け入れ。その帰結としてのミズリー号上の降伏文書調印。またポツダム宣言受諾の結果として国家主権を全部占領軍のコントロール下に置き、国家システムのすべてを占領軍の命令によって変更していくことの受け入れ。そして同時にあの戦争を清算するための儀式としての東京裁判の受け入れ。その受け入れを表明した上で結ばれたサンフランシスコ講和条約、この一連の出来事のすべてが、どの一つも揺るがせにできない国家の戦争敗北の約束そのものなのである。それは受け入れるしか選択の余地がないものである。」


 これはGHQの占領政策が、立花隆というこの現代日本有数の言論人の意識を、少年時代から今日に至るまで見事に呪縛していることの証だろう。ここには、アメリカの日本弱体化政策を研究し、その違法性や不当性を明らかにしていこうという姿勢がない。わが国の主権を回復し、自立した国家としてわが国を再建しようという意思がない。私はこのように感じる。


立花氏の本稿は、次の部分が続く。

「私にいわせれば、いまさら東京裁判の否定だの、A級戦犯に罪なし論などを並べ立てるバカ連中は、あの戦争に敗北した事実を男らしく受け止めることができない連中だとしかいいようがない。

いまさらそのような泣き言を並べるくらいなら、どうしてあの戦争の最後の場面で、本当の一億玉砕をやってのけるくらいの覇気を見せられなかったのか。

あれだけ文句なしの大敗北を喫した以上、負けのすべて(先のすべてのプロセス)を堂々と認めるべきである。負けたら負けたで、負けっぷりはよくすべきで、あれはいやだの、これはいやだのといった泣き言をいつまでも並べ立てるべきではない。どうしても負けの一部を認めたくないのなら、もう一戦やることを覚悟して文句を並べるべきである。

このあたり前のロジックが、どうして小泉首相にはわからないのだろうか。」

 

「バカ連中」という言葉は、罵詈雑言の類である。議論において相手を説得できないとき、自分の言っていることを理解できないのは、相手がバカだからだとののしる人がいる。しかし、ほとんどの場合、言っていることがおかしいから、相手は疑問を持ったり、反論したりするのである。

東京裁判については、当初からその違法性が指摘されている。違法性をもとに「A級戦犯に罪なし論」を最初に主張したのは、パール判事である。独立回復後、わが国は国会で、「A級」に限らず、「戦犯」は国内法においては「戦争犯罪人」ではなく、彼らの死を「法務死」と見なすことを決議した。当時の日本国民は、敗北を認めた上で、独立の回復に努力した。晴れて独立を回復した後には、敗戦国民ゆえに、占領下で行なわれた軍事裁判によって「戦犯」とされた同胞の釈放や名誉回復を求めた。また、連合国の賛同を得て、減刑や赦免を行なったのである。

立花氏は、昭和28年に「戦犯」釈放のために署名した4千万人もの日本国民を「バカ連中」と軽蔑し、全会一致で遺族援護法等の改正を決議した全国会議員を「バカ連中」と罵倒しているのと同様である。当時の共産党員・共産主義者よりも、さらに反日的な人間がここにはいる。

 

立花氏は、自分と考えの違う人間は「男らしく」ないだの、「負けっぷり」がよくないだのと言いたいようだ。氏は、敗戦の時、昭和天皇の「終戦の詔勅」に従って、一億国民が矛を収め、整然と行動した事実をどう考えているのか。最後まで「本土決戦」を主張した軍人も、陛下の御意思に従ったのである。一部には、徹底抗戦しようとしたり、切腹をした人もいる。現実を受け入れられずに発狂した人もいたと聞く。しかし、国民の大多数は、静かに天皇のご意思に従った。未曾有の大敗を認めた上で、焦土から立ち上がり、塗炭の苦しみに耐えながら、再興の道を歩んできたのである。

立花氏には、こうした日本人同胞の先輩・先祖への感謝も愛情も尊敬も見られない。

「あれはいやだの、これはいやだのといった泣き言」とは何を言いたいのだろう。占領下に行なわれた日本弱体化政策を検証したり、東京裁判が国際法に根拠を持たないことを批判したり、主権を失った状態で押し付けられた憲法を改正したりすることは、「泣き言」などではない。独立主権国家の国民の当然の権利である。

立花氏には、戦勝国を批判したり、占領者を問責したりする勇気も正義もないようである。  

それでいて「どうしても負けの一部を認めたくないのなら、もう一戦やることを覚悟して文句を並べるべきである」とは、何という言い草か。先祖や先輩を愚弄し、自分は国のために命を投げ出して国を守ろうという意思もないのに、「もう一戦やる」などと言うのは、無責任極まりない発言である。

立花氏は、まるで本土決戦・一億玉砕を呼号する軍人のようであるかと思えば、非武装の無抵抗主義者のようでもある。先輩・先祖を罵倒する反抗児のようであるかと思えば、若い者を頭ごなしに怒鳴りつけるオヤジのようでもある。一貫した姿勢、確固たる信念というものが見えてこない。

立花氏が締めくくりに言うのは、「このあたり前のロジックが、どうして小泉首相にはわからないのだろうか。」という言葉である。氏は自分の言うことが「あたり前のロジック」だと思っているようだ。それがわからないのは「バカ連中」だと馬鹿にしている。しかし、「あたり前」でないどころか、立花氏の言い方には、「ロジック」すら存在していない。謗言・妄言を並べ立てているだけではなかろうか。

このような立花氏が言いたいことは、日本国の首相は靖国参拝をやめよ、ということなのである。その政治的な主張のために、富田メモは昭和天皇のお言葉だとして振りかざしているのである。

 

(9)自分で内容を検討しているのか

 

 立花氏は、先の引用にすぐ続けて次のように書いている。

「このような天皇には自明のことがよく理解できていない政治家の出現は、小泉首相にはじまったことではない。」と。

「天皇には自明のこと」というが、それは立花氏が勝手に思い込んでいるものにすぎない。私は、立花氏が自分で富田メモの内容を「深く検討」しているのか、疑問を持っている。その点を指摘したい。

 

まず先ほどの引用は、次のように続く。

「たとえば、昭和61年、中曽根内閣時代に、文部大臣をつとめていた藤尾正行は、教科書検定問題や東京裁判それ自体に異をとなえ、日韓併合を『侵略された側にも責任があった』などとして、中曽根首相から罷免されている。昭和63年には、『みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会』の奥野誠亮国土庁長官が、靖国参拝を『公人としてしたのか、私人としてしたのか』を問われて、『もうそんな質問はやめたらどうですか。何も中国の悪口をいうつもりはないけれど、ケ小平に国民が振り回されているのが残念ですよ』と言って、ついに辞任のやむなきにいたるというような事件が起きている。」

 

この文章は明らかに、富田メモに表われる「中曽根」「藤尾」「奥野」という名前を踏まえて書いたものである。

続けて立花氏は、次のように書く。

「先の『文藝春秋』の徹底検証座談会では、日経新聞に発表された富田メモには、実は6行の欠落部分があって、そこには、

『戦争の感想を問われ嫌な気持ちを表現したかった。(略)“嫌だ”と云ったのは奥野国土相の靖国発言、中国への言及にひっかけて云った積りである。(略)中曽根の靖国参拝もあったか 藤尾(文相)の発言。奥野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも思う』

などと記されていたという驚くべきことが明らかにされている。

昭和天皇は、藤尾、奥野などのこのような復古調の発言をはっきり批判していたのである。昭和天皇は生前、政治家などの個人名をあげて批判することはつとめて避けていたから、そこを慮って、日経新聞もこの部分の発表を抑えたと思われるが、そこが明らかになってみると、富田メモにおける天皇の真意はいよいよ明らかになってくる。」

 

上記の引用には、一箇所重要な欠落がある。「中曽根の靖国参拝もあったか 藤尾(文相)の発言。」と「奥野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも思う」の間には「=」という記号が入るのである。

「=」という記号は、日経によると、富田自身の意見の場合の印だという。『文藝春秋』の鼎談においても、秦氏が「=」について「<記者も申しておりました>と明らかに自分の発言をメモしている部分も、同じように「=」で始まっているです」と述べ、「奥野は〜単純な復古ではないとも思う」までは富田の見解という可能性が高いと思う、と述べている。

ところが立花氏は、この部分もすべて昭和天皇のお言葉と理解しているようだ。だから、「昭和天皇は、藤尾、奥野などのこのような復古調の発言をはっきり批判していたのである」と断定するのだろう。「そこが明らかになってみると、富田メモにおける天皇の真意はいよいよ明らかになってくる」とまで立花氏は言う。

立花氏は、富田の意見まで昭和天皇のお言葉と取り違えている可能性が高い。ここを誤解すると、天皇の真意から、いよいよ離れることになる。

 

このような粗雑な読み方で富田メモを昭和天皇のお言葉だと断定し、それをもって首相の靖国参拝阻止に利用するとは、どういうことか。立花氏の姿勢・主張のいい加減さは、もはや誰の目にも明らかであろう。

本稿では立花隆氏を対象としたが、富田メモについて、自ら調査・検討をせずに、安易な発言をしている有識者は、他に数多くいる。実際は、富田メモについては、調査・検討を要する重要な事柄が多く存在している。真実を求める人々は、マスコミの報道や一部の有識者の言動を鵜呑みにせずに、精査を続けていく必要があると思う。ージの頭へ

 

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