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  憲法・国防

                       

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ber117

 

■憲法第9条は改正すべし

2007.9.11

 

<目次>

1.憲法と安全保障に関する基本的な考え
2.第9条を論じるなら、前文から
3.第9条の目的と内容
4.第9条をどう解釈するか
(1)完全武装放棄説

(2)自衛的戦力保持可能説

(3)非戦力的自衛力是認説(政府見解)

(4)三つの解釈のまとめ

結びーー解釈変更ではなく、憲法の改正を

 

ber117

 

平成19年8月15日夜、NHKスペシャル「日本の、これから〜憲法第9条」が放送された。

この番組は、有識者・政治家などのほか、市民40人程を招いて、本音で討論しあうという番組である。このたびは憲法第9条が主題だった。討論は、第1部が午後7時30分から8時45分、第2部が9時から11時29分にかけて、生放送で行なわれた。

 

私は、市民の一人として、この番組に参加した。私のインターネットの意見掲示を読んだ人たちが、私を推薦したとのことで、NHKの担当者から出演を依頼されたものである。

 ゲスト・スピーカーは、次ぎの6名だった。

 

  漫画家 小林よしのり氏

  慶應義塾大学教授 小林節氏

  元経済同友会憲法問題調査会委員長 高坂節三氏

  一橋大学大学院教授 渡辺治氏

  東京外国語大学教授 伊勢崎賢治氏

  ジャーナリスト 斎藤貴男氏

 

安倍晋三首相は、憲法改正を政策目標に掲げ、国民投票法を制定した。国民投票法は、憲法改正を3年間は凍結する内容になっている。その期間に、首相は、集団的自衛権の行使について、従来の政府解釈を見直し、一定の枠内での行使を可能とすることを図っている。焦点は、来る11月1日に期限が来るテロ対策特別措置法を延長するか、終了するかだ。

憲法、国防、集団的自衛権は、日本のこれからにとって極めて重要な案件であり、国民が真剣に考え、議論すべき事柄となっている。こうした問題状況において、今回のNHKの番組は、非常にタイムリーな企画だったと思う。

今回の番組出演を機に、憲法第9条に関する私の意見を以下に述べたい。

 

ber117

 

1.憲法と安全保障に関する基本的な考え

 

先の番組の中で、私は市民の一人として、大意次のような発言をした。


 「憲法第9条は、改正する必要がある。第9条は、『戦争の放棄』という題名の章に置かれた条項だが、憲法に定めるべきものは安全保障である。現在の憲法は、国家の主権を制限する内容となっているから、これを改正しなければならない」
 「なぜ日本は、アメリカのアフガン侵攻やイラク戦争で、付き従わざるを得ないのか。わが国の憲法は、自力で国を守るだけのものを持てないようになっている。国民は、自らを守る技術も訓練も持っていない。いま他国に攻められたら、若者の7割は『逃げる』と答えている。そうなった時、女性や子供や高齢者を誰が守るのか」
 「私は、憲法を改正して、国防を充実させ、国民が自らを守る体制を整えて、初めてアメリカにNoも言える、政策に選択肢を持てるようになる、と思う」
 「アメリカ軍を矛(ほこ)とし、自衛隊を盾とする仕組みになっていることに問題がある。小林よしのりさんが北朝鮮の問題があるから、アフガンやイラクに出て行かざるを得ないと言った。北朝鮮がミサイルを撃てば、10分で東京に着弾する。そういう国際社会の厳しい現実をみていかねばならない」

 

番組の最後は、「憲法第9条を考える時に、何を大切にしたいか」という問いに対し、参加者が各自ボードに一言書くという趣向だった。私は「日本人の精神」と書いた。三宅アナウンサーの指名を受けたので、私は、「自分の国のありようを自分たちの意思で決め、自分の国を自分たちで守り、そのうえで国際社会において責任ある役割を果す。そのために、日本人の精神を大切にしたい」という趣旨の発言をした。

これらは、討論の流れの中で発言したものであり、限られた時間で述べたことだが、こうした発言は、私の憲法及び安全保障に関する考えに基づくものである。

 私は、現行憲法は、GHQによって押し付けられたものであり、真に日本人が作った憲法ではないと考える。戦後、占領期間を経て、独立と主権を回復した後、日本国民は、この憲法を改正し、日本人自らの手で自国の憲法をつくらねばならなかったと考える。それが、60年以上もの間、放置されてきたことに、わが国の根本問題がある。国家、社会、企業、地域、家庭等に現れている様々な危機の根本に、憲法の影響がある。
 このように考える私にとって、憲法の問題は、第9条に限らない。前文からはじまって、日本人自身が全体を徹底的に検討し、新しい日本の憲法をつくらなければならないからである。

 番組の第1部冒頭で簡単に述べたが、第9条は、「戦争の放棄」という題名の章に置かれた条項である。だが、憲法に定めるべきものは安全保障である。安全保障の内容として、戦争や戦力に関する規定を置くのでなくてはならない。新憲法には、現在の「戦争の放棄」に替わって、「安全保障」という章を設け、独立主権国家の安全保障に必要なことを定める必要がある。最も重要なことは、国家の自然権としての自衛権を確認し、国民が自ら自国を守る意思を示し、そのうえで、国際社会においてわが国はどうあろうとするかを、明らかにすることである。これが私の憲法及び安全保障に関する基本的な考えである。
 このような考えの下に、これから、憲法、国防、集団的自衛権について考えてみたい。まず憲法第9条について、私見を述べたい。
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2.第9条を論じるなら、前文から

 

●GHQのアメリカ軍人が英文で起稿


 今回のNHKの番組は、焦点を第9条に絞っていた。第9条は、前文の内容と深い関係がある。番組製作者は、そこまで問題を掘り下げ、論点を広げることを制していた。しかし、前文から論じなければ、本当は第9条を論じられない。

 前文には、日本国憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」して制定され、日本国民は、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれている。
 また、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と書かれている。

 こうした内容を含む前文を起案したのは、日本人ではない。GHQ民生局の一員であるアメリカ軍人ハッシー海軍中佐である。

 いま要約した前半の趣旨を具体化するために、現行憲法は、第2章「戦争の放棄」に第9条を定めているものである。前文は、わが国が第2次世界大戦において、「政府の行為」によって「戦争の惨禍」を起こした侵略国であると認め、「平和を愛する諸国民」つまり連合国の「公正と信義に信頼」して、「われらの安全と生存を保持しようと決意した」として、占領下の従属・被保護を認める内容となっている。
 同時に、注目すべきは、後半の引用で、「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする」とある部分である。ここには、わが国が独立回復後は、主権を維持し、他国と対等の関係に立つことを目指しうることが盛られている。当然そこには、独立主権国家として、自国の軍備をどうするかという課題を孕んでいたわけである。

●前文は、英文草案の翻訳・微修正

 先に憲法前文の内容を一部引用した。現行憲法は、基本的にGHQが英文で作った草案を英訳し、GHQの検閲・管理のもとに若干の修正を加えたものである。だから、立法者の意思を知るには、現行憲法の英文とマッカーサー草案を比較する必要がある。
 繰り返しの引用になるが、前文には、日本国憲法は、
@「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」して制定され、日本国民は、A「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とし、また、B「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と書かれている。

 これらの部分につき、現行憲法の英文をマッカーサー草案と比較してみよう。比較のために、番号を振っておいた。

 マッカーサーは、GHQのアメリカ人に、日本国民に成りすませ、日本国民を詐称して、英文で草案を書かせた。それを日本の外務官僚に和訳させた。その翻訳草案を日本の国会に審議させ、そこで出た修正案は、英訳させたものを読んで承認したのである。

@「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」

マッカーサー草案
 We, the Japanese People, resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government,

現行憲法の英文
 We, the Japanese people resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, .

 一箇所大文字を小文字にした以外、完全に一致する。

A「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

マッカーサー草案
 Desiring peace for all time and fully conscious of the high ideals controlling human relationship now stirring mankind, we have determined to rely for our security and survival upon the justice and good faith of the peace-loving peoples of the world.

現行憲法の英文
 We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.

 主語を「日本国民」と明示し、いくつかの単語を換えている。for our security and survival が preserve our security and existence となり、rely upon が trust in となっているが、趣旨は同じである。修正は、意味をより強くしている。

B「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」

マッカーサー草案
 We hold that no people is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all peoples who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other peoples.

現行憲法の英文
 We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

 hold が believepeople が nationに変わっているだけで、趣旨は完全に一致する。

 現行憲法は、GHQによって押し付けられたものであり、真に日本人が作った憲法ではない。その理由は、上記の対照だけで十分明らかだろう。納得の行かない人は、同じやり方で、憲法の全文を比較して見ると良い。
 こうして作られた前文との関係の下、第2章「戦争の放棄」に第9条が、GHQの意思と管理と承認によって定められている。
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参考資料
・憲法の原文・英文等を掲載したサイト
http://homepage3.nifty.com/constitution/materials.html

 

3.第9条の目的と内容

 

●第9条の目的


 第9条は、「戦争の放棄」という題の章に置かれた条項である。しかし、一国の憲法に定める必要があるのは、安全保障であって、安全保障の内容として、戦争や戦力に関する規定を置くべきものである。独立主権国家は、固有にして自然の権利として自衛権を持つ。自衛権の具体化として軍隊を持ち、必要に応じてこれを行使する。ただし、その戦力は、他国を侵攻する戦争には用いず、自国の防衛と国際平和の実現のために使用する。このように定めるのが、一国の憲法にふさわしい規定であると私は考える。

 現行憲法の第9条は、こういう規定ではない。
 日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。軍隊を武装解除し、連合国軍の占領統治を受けた。占領下の日本は、軍事的保護の下に置かれた。マッカーサーは、日本は侵略戦争を起こした国家であるとして一方的に断罪し、再びこの国がアメリカをはじめとする連合国の脅威とならないように、弱体化しようとした。
 マッカーサーは、武装解除・被保護の日本をなるべくその状態に近い形で、占領終了後も持続しようと図った。非武装化は、日本の主権を否定し、国家でなくしてしまうことに等しい。そこまでは、できない。そこで、日本の主権を制限するために置かれたのが、第9条である。ここにいう主権の制限の核心は、強い軍隊を持たせないようにすることである。
 そこに、第9条の最大の目的があると私は思う。

●第9条の内容

 現行憲法の規定は、次のようになっている。

―――――――――――――――――――――――――――――――
第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
―――――――――――――――――――――――――――――――

 原案は、GHQによる英文である。それと、上記の日本文の英訳を対比したい。

―――――――――――――――――――――――――――――――
マッカーサー草案
CHAPTER II. Renunciation of war
Article VIII.
 War as a sovereign right of the nation is abolished.
 The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.
 No army, navy, air force, or other war potential will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon the State.

現行憲法の英文
CHAPTER II. RENUNCIATION OF WAR
Article 9.
 Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
 In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
―――――――――――――――――――――――――――――――

 「戦争の放棄」という章題は、Renunciation of warを和訳したものである。日本人が自らの発案で放棄したのではない。

 マッカーサー草案で第9条にあたる条項は、三つの文が、すべて受動態で書かれている。これでは、誰がそうするのか主体がはっきりしない。そこで現行憲法では、1項に、主語=主体として、「日本国民 the Japanese people」が置かれた。マッカーサー草案では、2項も受動態であり、主体が隠れていた。日本国民かもしれないし、占領軍かもしれない。現行憲法では、「前項の目的を達するため In order to accomplish the aim of the preceding paragraph」が加筆されたことで、主体は一貫して日本国民となっている。

 マッカーサー草案は、いきなり「War as a sovereign right of the nation is abolished.(国家の至高の権利としての戦争は廃止される)」と規定していたが、現行憲法は、1項冒頭に、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order」という節が加筆された。戦争、武力による威嚇及び武力の行使の放棄に、目的または条件を加えたものである。
 また、マッカーサー草案では、陸海空軍またはその他の戦力は「authorize(認可)」されず、交戦権は政府に「confer(授与)」されないとしていた。これらの述語は、拒否する主体が、他者としての占領軍でありうる動詞である。現行憲法では、これを「保持 maintain」しない、「認め recognize」ないと規定し、主体が日本国民であるようなニュアンスに変わっている。

 最も重要な変更は、第2項冒頭の「前項の目的を達するため In order to accomplish the aim of the preceding paragraph」を加筆したことである。これは、芦田条項と呼ばれるもので、わが国の自衛権を確認し、自衛力の回復の根拠となったものである。マッカーサーは、この加筆を承認した。ただし、現行憲法第9条は、積極的に自衛権を認め、自衛のために戦力を持つことを明記した表現にはなっていない。

 こうして作られた第9条は、どのように解釈すべきか。次章では、その点について述べる。

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4.第9条をどう解釈するか

 

 第9条の規定は、一義的に明確ではない。そのため、いろいろな解釈を生じている。これをおおまかに分けると、三つになると思う。

@戦争も戦力も一切放棄(完全武装放棄説)
A自衛のための戦力は持てる(自衛的戦力保持可能説)
B戦力は駄目だが自衛力なら持てる(非戦力的自衛力是認説)(政府見解)

 これらについて、以下説明する。

(1)完全武装放棄説


@戦争も戦力も一切放棄(完全武装放棄説)

 この説には、大きく分けて二通りある。

 
@−(a) 第1項はすべての戦争を放棄したもの、第2項は一切の戦力を保持せず、交戦権も認めないことを規定したものと解釈する説。
 
@−(b) (a)の変形として、第1項は侵攻戦争のみを放棄したもの、だが第2項で一切の戦力及び交戦権を否定したと解釈する説。

 私見: 
@−(a)は、非武装平和主義や無抵抗主義となる。二度と戦争はしたくない、武器のない世界平和を願うという心情の現われだろう。国家の独立や主権、国際社会の現実について考えることなく、素朴な願いとして抱く考えだろう。
 これに対し、
@−(b)は、自衛権は認めるが、自衛のためにも一切の戦力を持たず、また交戦権も持たないとするもの。武力によらない自衛のみが許されるとする。いずれにしても、第9条完全武装放棄定めたものと解釈する説である。

 私本説誤りだと考える。その理由は4点ある。
 第一の理由は、第9条の文言は完全武装放棄説を生じるような曖昧さを持っているが、第9条を英文で起草したケーディス中佐は、第9条は自衛権を否定したものではないと言う。連合国は日本を永久占領しようとしたのではなく、一定の占領期間を経て、講和条約を締結し、独立主権国家として国際社会に復帰せしめようとした。国家の自然・生得の権利また固有の権利としての自衛権までも否定するということはありえない。
 第二の理由は、日米安保条約の締結である。わが国はサンフランシスコ講和条約を締結して国際社会に復帰した際、講和条約(12カ国参加)は、日本の個別的自衛権と集団的自衛権を認め、日米安全保障条約の締結を認めた。また、講和条約と同時に発効した日米安保条約は、個別的・集団的自衛権を認めており、憲法の規定と手続きによってという条件付きであるが、一定の相互防衛の義務を定めている。日米安保の締結は、わが国が自衛のための戦力または実力を持つことを前提としている。わが国の憲法が、もし
@の説のように、完全武装放棄を定めたものだとすれば、日米安保条約を締結することは、ありえない。
 第三の理由は、国際連合への加盟である。わが国は、国際連合に加盟を許されたが、国連憲章は、第51条で、個別的・集団的自衛権を国家の固有の権利と認めている。国際連合は正しくは「連合国」であり、第2次世界大戦中に作られた軍事組織が国際機構に発展したものであり、加盟国に軍事力を提供し、共同防衛を行う義務を課している。こうした組織に加盟を認められるということは、わが国が自衛権の具体化としての戦力または実力を持ちうる独立主権国家であることを前提としている。
 第四の理由は、現行憲法の規定である。憲法自体に、完全武装放棄説は誤りであることを示す規定がある。第66条に「首相は文民でなければならない」という文民条項があるが、これは当然、武官・軍人の存在を想定した表現である。つまり、日本には軍事官僚がいるという前提に立った規定である。それゆえ、第9条は本来、自衛権と自衛力を認める規定なのである。
 以上四つの理由により、私は第9条を完全武装放棄と解釈する説は、誤りと考える。
 
 わが国には、第9条を世界に広げようと唱える人がいる。先のNHKの番組でも、その意見を述べた人がいた。これは完全武装放棄説に立つ運動だろう。具体的には、どの国から始めるのか。この条項を押し付けたアメリカは、自国に取り入れてはいない。中国・韓国・北朝鮮が取り入れる可能性は、現実的にありえない。国際連合は、非武装の組織ではなく、集団安全保障の軍事組織である。
 非武装・無抵抗の国家や民族は、簡単に他国・他民族に侵攻され、支配される。日本が一切の戦力を保持しない事にした場合、戦力不保持が他国にも及んで世界が非武装化され、国境なき世界が実現するのではない。日本のみが他国に支配され、国家として消滅させられ、他国の国境の中に併呑されるだけである。日本は、連合国の占領下において、独立と主権を失っていた。その状態に戻ることともいえる。
 素朴な非武装平和主義・無抵抗主義は、日本を侵攻・支配しようとする勢力には都合がいい。旧日本社会党は、非武装中立論を唱え、自衛隊の解散、日米安保の破棄を説いた。その背後には、旧ソ連があり、ソ連が社会党に多額の資金を与えていた。ソ連は、非武装化し日米同盟を解消した日本を共産化して、東欧諸国のような衛星国にすることを狙っていた。現在であれば、日本が非武装化し日米同盟を解消すれば、中国軍が侵攻し、内モンゴルのような自治区とする、またはチベットでのように大量殺戮や文化破壊、断種出術の強制等を行なうことが予想される。

 第9条を完全武装放棄説で解釈する人たちには、他国に攻められれば、自分は逃げるという人がいる。NHKの番組では「逃げて、何が悪い」とまで言い放つ人がいた。
 逃げるというが一体、どこに、どうやって逃げるというのか。国民が各自自分だけ生き延びようとしてバラバラに行動すれば、パニックとなるだけである。北朝鮮が日本に向けてミサイルを撃てば、10分で着弾する。ニュースを聞いて逃げようとしても、対象地域の人は、逃げられない。中国が、わが国の主要都市を数十箇所、ミサイルで攻撃したらどうなるか。わが国では、核シェルターは整備されておらず、防毒マスクも配給されていない。
 仮に日本を出て海外に逃亡する人がいたとしても、多数の難民を受け入れ、生活を保証してくれる国など、わが国の周辺には存在しない。国を失い、財産を失い、互いの信頼も失った日本人は、個々呆然と流浪するだけだろう。
 日本が滅びれば、第9条も滅びる。日本が滅びれば、世界平和を実現しうる国がなくなる。第9条を戦争も戦力も一切放棄したものという誤った解釈で理解する人は、理想のもとに自滅・崩壊の道を進もうとしているのである。
 世界平和の実現を目指すには、逆に日本を守り、日本を滅ぼしてはならない。日本を国際社会で指導的な国に高めてこそ、世界を平和に導く道が開ける。そのためには、自国を守り、他にものを言えるだけの力を保たねばならない。
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(2)自衛的戦力保持可能説

 

A自衛のための戦力は持てる(自衛的戦力保持可能説)

 この説には、大きく分けて二通りある。

 
A−(a) 第1項は侵攻戦争のみを放棄したもの、第2項は侵攻戦争のための戦力は保持せず、交戦権は否認したもの。それゆえ、自衛のための戦力は保持できると解釈する説。
 
A−(b) 第9条は平和への意思を示した政治的宣言であって、法規範としての効力はない。独立主権国家として自衛権を持つ限り、自衛のための戦力は保持できるとする説。

 私見: 
Aは、独立主権国家として自衛権を持つ限り、自衛のための戦力は保持できるという説になる。自衛軍または国防軍を持ち、また自衛のための交戦権は行使できるという理解となる。このうち、(a第1項自衛のための戦争まで放棄したものではないとする。これに対し、(b)は第9条に法規範的効力を認めないとする点で、無理がある。憲法は国家の基本法であって、市民憲章ではない。

 第1項については、「国権の発動たる戦争 war as a sovereign right of the nation」という用語は、不戦条約第1条の「国家の政策の手段としての戦争」を放棄するという規定を踏まえたものだろう。また「武力による威嚇又は武力の行使 the threat or use of force」という用語は、国連憲章第2条の「武力による威嚇又は武力の行使」を「慎まなければならない」としているものの引用だろう。
 現行憲法の英文は、マッカーサー草案の英語がそのまま使われている。GHQの起草者は、第2次大戦終結直後の国際社会の共通認識として、不戦条約と国連憲章の内容を想起して、こうした用語を使ったものと思う。
 その点から、第1項は、侵攻戦争をしないと公言した規定であり、自衛権まで放棄したものではないと理解するのが適切と私は思う。

 次に第2項についてだが、その冒頭に、「前項の目的を達するため、」という文言がある。これは、芦田条項と呼ばれる。芦田条項は、自衛のための実力の保持が認められるように、芦田均元首相が発案したものである。この文言を原案に加筆したことにより、第1項は侵攻戦争を放棄したもので、第2項の戦力不保持・交戦権否認は侵攻戦争を行なうための戦力や交戦権を否定したもの、と立法者は理解していた。
 芦田は、昭和21年(1946)11月の憲法公布の日に発刊した著書『新憲法解釈』(ダイヤモンド社)に、次のように書いている。

「第9条の規定が戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であって、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争ということになる。従って、自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争もこの条文の適用以外である」

ここに明らかなように、芦田は、第9条で禁止されているのは侵略戦争であり、自衛戦争と侵略を制裁する戦争のための「戦力」は保持できるとの見解である。そして、芦田条項は、日本が独立と主権を回復した後に、再び軍備を持てる余地を確保したものだった。

 

昭和26年に調印されたサンフランシスコ講和条約及び日米安保条約は、日本の自衛権を認めている。その自衛権は、個別的自衛権と集団的自衛権を含んでいる。講和条約と日米安保は、わが国の独立回復と同時に発効した。また、わが国は、昭和31年(1956)に国際連合に加盟したが、国連憲章は、個別的及び集団的自衛権を国家の固有の権利として認めている。国連は第2次世界大戦の連合国が国際機構に発展したものであり、加盟国には共同防衛の義務がある。わが国も当然、その一員として義務を果たすべきメンバーとして加盟している。

 それゆえ、この時点で、憲法第9条を
Aのように解釈して、独立回復後、自衛のための戦力として自衛軍または国防軍を保持することは可能だったと私は思う。ところが、日本の再武装化は、アメリカの主導で行なわれ、日本が独自の軍隊を持つのではなく、米軍を補完するために自衛隊が創設された。この経緯は、占領下の昭和25年(1950)に警察予備隊が創設され、27年独立回復後に保安庁・海上警備隊、次いで保安隊を経て、昭和29年(1954)に陸・海・空の3自衛隊が発足した。この間、アメリカは、日本はアメリカに基地を提供するが、アメリカは日本を防衛する義務はないという片務的な旧安保条約を結んだ。
 こうして、アメリカは、日本との間に、宗主国と従属国、保護国と被保護国の関係に近い構造を築き、日本に独自の軍隊を持たせず、アメリカの国益にかなう形に制限して武力を持たせるようにしたわけである。憲法解釈としては自衛のための戦力を持つことが可能であっても、日米関係において、それは許されなかったわけである。

 わが国は、日米安全保障条約のもとで、アメリカに従属する形で、役割を分担してきた。米軍が攻撃面、自衛隊が防御面を受け持つ。いわば米軍が「矛」、自衛隊が「盾」の役割を果すという関係にある。自衛隊の実力は、米軍を補完するために整備されてきた。そのため、自衛隊には、世界的にも高いレベルに達している部分もあれば、全く整備されていない部分もある。それゆえ、日本は、独立主権国家として、自主的な防衛力を持っておらず、極めてアンバランスな状態にある。

 事の本質は、第9条の解釈にあるのではない。日本国憲法そのものに問題の本質がある。日本国憲法は、占領下で占領軍によって押し付けられた憲法であり、占領基本法とでも言うべき性格のものだった。それが独立回復後も放置されれば、憲法は日本弱体化政策の効果を継続し、日本国を呪縛し続ける働きを持つ。
 憲法全体を改正することなく、第9条を
Aのように解釈するのみでは、根本問題が解決しない。わが国は、独立回復後、すみやかにこの憲法を改正し、独立主権国家にふさわしい憲法を日本人自身の手で制定すべきだったのである。しかし、日本人はこの最大課題の実行を怠ってきた。そして、GHQから押し付けられた憲法のもとで、第9条を次に述べるBのように解釈して、今日まで進んできたのである。

 これまで、憲法解釈としては自衛のための戦力を持つことが可能であっても、日米関係において、それは許されなかったと述べた。関連することを補足する。

 仮にわが国が独立回復後、自衛軍または国防軍を保持する場合、最大の課題は、シビリアン・コントロール(非軍人による軍の行政管理)をどのようにして実効あるものとするかにあっただろう。
 大日本帝国憲法では、軍の最高指揮権つまり統帥権は、天皇にあるとして、内閣の関与する一般国務から独立していた。軍部や右翼の一部は統帥権干犯と称してこの仕組みを利用し、軍人が政治に介入し、国の進路を誤らせた。帝国憲法には内閣総理大臣の文言がなく、首相は戦後の首相に比べて、権限が小さく、立場が弱かった。戦後は、日本人自らこうした歴史を反省し、シビリアン・コントロールの仕組みを整えることが課題だった。
 また、戦前の日本では、軍の暴走が起こったが、国会が結局これを追認してしまった。たとえ、軍が事前の承諾なく作戦行動をしても、国会が追認せず、予算をつけなれば、軍はそれ以上動けない。戦後は、この反省にいて、国会議員がしっかり国政に取組む自覚を持つことが求められた。それは、国会議員を選ぶ国民の意識の向上という課題に帰着する。

 軍隊を持てば、即侵攻戦争を起こすというのは、脅迫的な思い込みか、ためにする悪宣伝である。軍隊をコントロールする法的な仕組みをつくり、政治が軍隊をコントロールできるように、国民が国政に意思を反映させるところに、デモクラシーの政治体制は維持しうる。
 「日本人はそれができない。だから自衛軍・国防軍は持つべきでない」という人もいる。そういう人々は、主権在民のデモクラシーを担うことはできない。国際社会において、独立と主権を守ることができず、他国に従属して、他国民を主人とする奴隷の地位に甘んじるしかないだろう。軍隊をなくせば平和でいられる、という人々を待ち受けているのは、他国の軍隊による侵攻と搾取なのである。

 ともあれ、わが国は、憲法第9条を
Aのように解釈して、独立回復後に自衛軍または国防軍を保持する道を進まなかった。実際にわが国の政府が選択したのは、第3の解釈だった。
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(3)非戦力的自衛力是認説(政府見解)


B戦力は駄目だが自衛力なら持てる(非戦力的自衛力是認説)(政府見解)

 第1項は侵攻戦争のみを放棄したもの、第2項は侵攻戦争のための戦力は保持せず、交戦権を否認したものとし、そのうえで、戦力とは「自衛のための最小限度を超えるもの」と定義し、戦力は保持できないが、自衛のための最小限度を超えない実力は保持できると解釈する説。

 私見: アメリカ主導のもとで自衛隊が創設されて以来、政府が一貫して取ってきた見解。
Aの「自衛のための戦力は持てる」という自衛的戦力保持可能説との違いは、自衛のために持てるのは、戦力ではなく、最小限度の実力とするところである。Aを取らなければ、こういう解釈をするしかないだろう。ただし、その解釈のもとで、政府は集団的自衛権や防衛戦略を、より制約的に規定する道を進んできた。以下、4点に絞って問題点を指摘したい。

 第1点は、第1項の後半の構文についての問題である。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という部分だが、日本語をそのまま読めば、放棄するのは、戦争と武力による威嚇と武力の行使という三つとなる。その三つを放棄するに当たって、「国際紛争を解決する手段としては」これを放棄するという意味に、この節が全体にかかると解釈するのが、文法的には正しいだろう。
 しかし、マッカーサー草案では、「War as a sovereign right of the nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.」となっている。「国際紛争を解決する手段としては」がかかるのは、武力による威嚇と武力の行使のみである。戦争は、そもそも別の文である。現行憲法の英文でも、「renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.」となっている。「A as and as Y」を放棄するという構文だから、「国際紛争を解決する手段としては」がかかるのは、武力による威嚇又は武力の行使のみである。こういうとき、普通の日本人は、「国家主権の発動としての戦争と、国際紛争解決の手段としての武力による威嚇又は武力の行使は、永久にこれを放棄する」と表現するだろう。
 このように見ると、第9条第1項は、趣旨は良いとしても、そのまま捧持すべき日本語ではないことがわかるだろう。

 また、重要なことだが、「A as and as Y」を放棄するという構文において、「国際紛争を解決する手段」がかかるのは、武力による威嚇又は武力の行使のみである。ここで放棄しているのは、「国際紛争解決の手段としての武力による威嚇又は武力の行使」であって、それ以外の場合の武力による威嚇又は武力の行使は放棄していない。すなわち、自衛のための武力による威嚇又は武力の行使は、可能である。
 「武力による威嚇又は武力の行使 the threat or use of force」という用語は、国連憲章第2条の「武力による威嚇又は武力の行使」を「慎まなければならない」からの引用だろう。その一方、国連憲章は、集団安全保障体制の下で、個別的自衛権及び集団的自衛権を国家の固有の権利とし、自衛権の発動としての武力行使を認めている。自衛権を認める以上、その発動としての武力行使を認めるのは、当然である。そして、わが国の憲法を同様に解釈するのは、至極適切である。自衛権は正当防衛権であり、攻撃されたら自分を守るために力を使うのは、個人も国家も同じである。

 第2に、戦力の定義を「自衛のための最小限度を超えるもの」としてきた政府見解の問題がある。
 戦力とは「自衛のための最小限度を超えるもの」とし、戦力は保持できないが、自衛のための最小限度を超えない実力は保持できるというのが、政府見解である。
 「戦力」は、マッカーサー草案で「war potential」と書かれた英語を和訳したものである。現行憲法の英文でも、同じく「war potential」としている。「戦争を起こしうる潜在的能力」「戦争をし得る能力」である。
 一般に戦力と言うときは、英語では force である。実力も武力も force である。軍隊も force である。政府は、戦力と実力を分けて、最小限度を超えるか超えないかという基準を出しているが、実態はどちらも force であって、その量的度合いを言っているにすぎない。漢字を一字替えて別のものであるかのようにしているところに、修辞的技巧がある。
 自衛隊は、「self-defense force」と言う。そのまま訳せば、「自衛軍」である。それを「自衛隊」と漢字を一字替えて別のもののようにしているのも、同じ技巧である。
 自衛のための戦力として軍隊(force)を持つが、それを自国の防衛のためにのみ用い、他国の侵攻には用いないと表現すれば、すっきりする。しかし、
Aにて私見を書いたように、わが国の政府は、第9条を自衛のための戦力は保持できると解釈する説を取らず、アメリカもまたそれを許さなかった。そのため、わが国の政府は、こういう詭弁すれすれのレトリックを弄してきたのである。

 ところで、「自衛のための最小限度」というときの「最小限度」とは、量的な概念である。科学兵器の発達や国際情勢によって、自衛に必要な戦力=実力(force)は、変化する。
 現行憲法と日米安保条約による昭和憲法=日米安保体制が敷かれた当時、わが国の周辺諸国の戦力は、第2次大戦時代と大差なかった。しかし、昭和34年(1964)に中国は核実験に成功し、47年(昭和45年(1970)年4月、人工衛星を打ち上げ、IRBM(中距離弾道ミサイル)を完成させた。それにより、中国は、日本とわが国にある米軍基地を攻撃することができるようになった。このときからわが国は、中国の核ミサイルの標的になっている。
 その後、北朝鮮がミサイルや核兵器の開発を進め、平成8年(1996)には、数発の核爆弾を保有したと見られる。平成10年(1998)にはテポドンが日本列島を超えて三陸沖に着弾した。昨年平成18年(2006)7月には、ミサイルを乱射し、10月には核実験を強行した。中国は、SLBMを搭載した原子力潜水艦を持ち、さらに航空母艦の保有・建造を進めている。
 こうした周辺諸国の軍事力の増大は、わが国に自衛能力の向上を余儀なくするものである。
 ただし、このようにして向上していくわが国の軍事的能力を、戦力(force)ではない、自衛隊は軍隊(force)ではないと言うのは、無理を承知で無理を重ねているものと言わざるを得ない。そもそも第9条の解釈をAではなくBとしたことに無理があり、出発点がずれていたから、無理に無理を重ねているのである。

 第3に、自衛権についてだが、自衛権には個別的自衛権と集団的自衛権がある。サンフランシスコ講和条約及び日米安保条約は、わが国が集団的自衛権を持つことを認めている。またわが国が旧敵国でありながら加盟を認められた国際連合(=連合国)は、国連憲章第51条で、加盟国すべてに対し個別的かつ集団的自衛権を「固有の権利」として認めている。
 わが国において、鳩山一郎内閣・岸信介内閣の時代には、集団的自衛権は、一定の制限はあるいが行使できるという見解だった。ところが、政府見解は段々制約的になり、現在のような解釈になった。
 すなわち、集団的自衛権とは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」(昭和56年政府見解)と定義し、わが国は集団的自衛権を、国際法上は保持するが、憲法解釈上行使できないという見解である。その理由は、「自衛のための必要最小限の範囲を超える」ためだという。持ってはいるが行使はできないという権利を、権利と言えるだろうか。
 集団的自衛権は、現行憲法が明文的に行使を否定しているものではない。しかし、政府は、戦力は駄目だが自衛力なら持てるという非戦力的自衛力是認説を取っている。政府がこの
Bの説を取っている限り、集団的自衛権は憲法解釈上、行使できないという見解を取るしかないだろう。

 今日、安倍首相は、現行憲法の下でも集団的自衛権を行使できるものとし、具体的な事例に応じて、行使可能な範囲を定めようとしている。私は、現行憲法の解釈を
Bとしたままで、集団的自衛権の行使を可能とするのは、無理があると思う。また、そのやり方は、アメリカの意思に追従し、自衛隊をアメリカ軍の補完物にとどめ、わが国の従属国的地位を固定するおそれがあると思う。
 解釈をBからAに改める必要がある。より望ましいのは、自主的に憲法を改正し、条文に安全保障について規定し、その中に集団的自衛権の保有と行使について明記することである。

 第4に、防衛戦略についてだが、今日、専守防衛は国是であり、現行憲法の規定から当然の防衛戦略とする理解が広まっている。これは、誤りである。専守防衛は、昭和40年代に編み出された言葉である。それまでは、戦略守勢という軍事用語を使用していた。戦略守勢は、全般的にみれば守勢であるが、戦術的な攻撃を含んでいる。敵から攻撃を受けた場合は、敵基地へも反撃を行う。また、明らかに攻撃を受けることが予測される場合は、先制攻撃を行うことも含む。

 昭和45年版の防衛白書は、他国を侵略する兵器は持てないが、自衛のために攻撃する兵器は持てるという見解を示していた。B52のような長距離爆撃機、攻撃型航空母艦、ICBM等は保有しないとしているが、世界最高級のB52まではいかない長距離爆撃機であれば、保有しうるということである。モスクワまで届くミサイルは持てないが、シベリア、北京に届くミサイルを持つことは可能。シーレーンを往く艦船を護衛する小型空母は可能。こういう余地があったわけである。
 核兵器についても、次のように述べている。
 「(註 わが国は)核兵器に対しては、非核三原則をとっている。小型の核兵器が、自衛のため必要最小限度の実力以内のものであって、他国に侵略的脅威を与えないようなものであれば、これを保有することは法理的に可能ということができるが、政府はたとえ憲法上可能なものであっても、政策として核武装しない方針を取っている」と。

 ところが、わが国の防衛政策は、昭和40年代後半から大きく後退する。この後退には、米中接近・日中国交回復という戦略・政略の一大変化が関係していた。 日中国交回復の翌月、昭和47年の10月31日、田中角栄は、衆院本会議で次のように答弁した。
 「専守防衛ないし専守防御というのは、防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行うということでございまして、これはわが国の基本的な方針であり、この考え方を変えるということは全くありません。」と。
 田中は、ここで受動的な防御を専らとするあり方を、国家の基本方針とした。わが国は共産中国と国交を結んだ後に、自国の防衛に一層の制約を加えたのである。まったく守り一辺倒の防衛戦略では、他国の攻撃から自国を守りきれない。相手が攻めてくるのを防ぐのみでは、相手はこちらが防ぎきれなくなるまで攻め続けるだろう。よほど守備がしっかりしていないと、執拗な攻撃を防ぎきれず、敗北する。スポーツでも武道でも、彼我の力に大差がない限り、防御だけで守り通すことは、できない。田中以後、わが国は敵基地を攻撃し得る兵器を持つ意思を否定した。これは、防衛戦略の大きな後退である。憲法の規定は、変わらない。同じ第9条2項のもとで、国防の制約を自ら行ったものである。
 平成10年(1998)北朝鮮がテポドンを発射した後、わが国の防衛政策は見直され、平成15年(2003)に有事関連三法が制定された。 新設された武力攻撃事態法では、先制的自衛権が認められている。また自衛権を行使できる範囲は日本の領空・領海にとどまらないことが、政府答弁で明らかになっている。この点は、受動的な防御に徹した専守防衛と違う。田中角栄以前の戦略守勢の概念に戻したものと思う。北朝鮮が核ミサイルを開発していることにより、現実離れした防衛思想を取っていられなくなったのである。法的には、戦術的攻撃が可能になった。しかし、現時点では自衛隊にその能力はない。受身の専守防衛に徹するための装備しかない。この約30年の政策の誤りは深刻である。

 この危機的装備不足を補うために、現在ミサイル防衛システム(MD)を導入し、1兆円を投じてその完成を図っている。しかし、MDの実効性には、当のアメリカの専門家が疑問を呈している。仮に完成しても、その時には中国が現在のMDを上回る性能の兵器を完成させるという。北朝鮮はそこまでの技術はないとしても、ダミーを含むミサイルを同時に多数発射されれば、かならず撃ち落せずに着弾するものが出てくる。それが核弾頭であれ、生物化学兵器であれ、被害は相当のものとなろう。空中で核爆発を起こされた場合は、わが国の防衛システムは電磁的に機能マヒに陥る。
 MD一本やりでは、だめである。核シェルターや防毒マスクの整備、避難訓練など総合的に防衛力を高めるのでなくてはならない。

 政府は、自衛のため「必要最小限度」という表現で、自衛隊の実力を正当化している。第9条の解釈において、侵攻戦争は放棄するが、自衛権の行使は当然の権利とするのであれば、憲法は自衛のための武力行使を禁止していないと解釈するのが自然である。自衛隊の武器使用について、隊員個人の正当防衛用の武器の携行ではなく、部隊自衛用の部隊装備を実現しなければならない。これは「必要最小限度」を超えるものではない。
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参考資料
・わが国の防衛政策の変遷については、以下をご参照下さい。
 拙稿「核大国化した中国、備えを怠る日本〜日中戦後のあゆみ」の第2章「日本は対米依存で、非核・専守防衛に

(4)三つの解釈のまとめ

 

第9条の解釈について、以下の三つの説を検討してきた。

@戦争も戦力も一切放棄(完全武装放棄説)
A自衛のための戦力は持てる(自衛的戦力保持可能説)
B戦力は駄目だが自衛力なら持てる(非戦力的自衛力是認説)(政府見解)

 
@の説は、誤解である。素朴な思い込みか、日本を非武装にして侵攻・支配しようとする策略である。
 基本的には、
Aの説が正しいと私は考える。第9条は、侵攻戦争を放棄し、そのための戦力は持たす、交戦権は否認する。しかし、自衛戦争は国家固有の権利として保持し、自衛のための戦力は保持できる。このように解釈することが適切である。
 戦後のわが国は、アメリカとの関係において
Aの自衛のための戦力は持てるという自衛的戦力保持可能説を取って独自の軍隊を持つことが、できなかった。自衛隊は、アメリカの管理のもと米軍を保管するものとして創設・編成された。
 こうした条件のもと、政府は、
Bの説を取り、自衛力を最小限度という量的条件をつけて正当化した。この説を取ったため、集団的自衛権の行使は最小限度を超えるので、憲法の規定上できないという見解となる。それゆえ、もし集団的自衛権を行使できるようにするのならば、第9条の解釈を変更する必要がある。それは、Bの説を止めて、Aの説を取るという解釈変更である。この変更は、私の見解では、変更というより是正である。もともとそう解釈すべきだったものに正すということである。

 そもそも自衛権は、国家の正当防衛権である。そのうち個別的自衛権は、自国のためにする正当防衛権であり、集団的自衛権は自他相互のために行なう正当防衛権である。
 第9条第1項は、国権の発動としての戦争、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇及び武力行使を放棄することを定めているが、これは不戦条約及び国連憲章と同旨である。不戦条約では、実質的な集団的自衛権が留保され、国連憲章において始めて明文化された。国連憲章では、個別的かつ集団的自衛権の行使は、単に国家固有の権利であるにとどまらず、同時にまた国際的責務ともなっている。したがって、これと同旨の第9条1項が集団的自衛権を否定するという解釈は、無理がある。

 憲法第9条が禁止しているのは侵略戦争及び侵略的な武力による威嚇及び武力行使であり、これを目的とする陸、海、空軍ならびに他の戦力の保持、ならびに交戦権である。第9条は自衛権を認めており、自衛のための戦力の保有を禁じてはいない。そう解するならば、国内法上その行使が禁止されていると解すべきでない。集団的自衛権の行使は可能である。ただし、その行使は無制限のものではない。実は、サンフランシスコ講和条約及び日米安保条約の締結、国連への加盟の時点では、わが国の政府は、そのような解釈を取っていた。
 現在の日米安保条約の第5条は日米両国が自衛権行使、集団的自衛権行使を相互に義務付け合ったものである。したがって、日本の施政権内での米国への攻撃には日本も共同行動をとる義務があり、日本がこの行動をとる根拠は、日本の集団的自衛権に基づく。ただし、この規定は日本の施政権外で米軍が武力攻撃を受けた時にも、日本が集団的自衛権を行使して正当防衛援助の行動に出ることを約束したものではない。この点を、アメリカの世界戦略に言いなりになってしまうと、わが国の独立主権国家としての主体的意思を失う。

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結びーー解釈変更ではなく、憲法の改正を


 第9条について述べてきたが、私自身は、もとより憲法全体をできるだけ早く改正すべしという考えである。第9条の解釈をAに是正して、集団的自衛権の行使を可能としても、それだけではアメリカの世界戦略に追従することになりかねない。憲法を放置して、集団的自衛権だけを論じるべきではない。
 
Aに関するところで書いたように、事の本質は第9条の解釈にあるのではない。日本国憲法そのものに問題がある。日本国憲法は、真に日本人が作った憲法ではない。占領下で占領軍によって押し付けられた憲法であり、占領基本法とでも言うべき性格のものだった。それが独立回復後も放置されれば、憲法は日本弱体化政策の効果を継続し、日本国を呪縛し続ける働きを持つ。

 憲法全体を改正することなく、第9条を
Aのように解釈するのみでは、根本問題は解決しない。わが国は、独立回復後、すみやかにこの憲法を改正し、独立主権国家にふさわしい憲法を日本人自身の手で制定すべきだった。それが、60年以上もの間、放置されてきたことに、わが国の根本問題がある。国家、社会、企業、地域、家庭等に現れている様々な危機の根本に、憲法の影響がある。
 憲法改正を成し遂げて初めて、日本人は自らの意思で自らの国のあり方を決めることができる。そこに日本再建の鍵がある。日本の再建は、憲法の改正なしには、達成できない。憲法全体に関する問題は、別に書いた。現行憲法の問題点と改正私案である。詳しくはそちらに譲ることにして、本稿はこれで終える。
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関連掲示

・拙稿「日本国憲法は亡国憲法〜改正せねば国が滅ぶ
・拙稿「日本再建のための新憲法〜ほそかわ私案」第4章が安全保障

 

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