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  心と健康

                       

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“心の近代化”と新しい精神文化の興隆

〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ

2004.7.2

 

<目次>

はじめに

第1章 近代化とは合理化である〜ウェーバーの視点

(1)近代文明の矛盾と限界

(2)近代化はどのように進んだか

(3)近代化は文化から社会・政治・経済に広がった

(4)ウェーバーは「合理化の進展」に本質を見た

(5)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

(6)経済的合理主義の成立

(7)宗教の合理化から全般的合理化へ

(8)近代化・合理化の中での生き方

(9)合理化を極度に進めた共産主義の破綻

10近代的理性の変質と可能性

11ウェーバーはカリスマに注目した

(12) トッドの近代化論と心の深層

第2章 抑圧された無意識の力〜ユングの視点

(1)無意識の発見による視点の転回

(2)ユング心理学から見た西欧の近代化

(3)自然崇拝・祖先崇拝の否定

(4)「呪術の追放」は何を追放したのか

(5)魔女狩りの中で、合理主義が誕生した

(6)啓蒙主義による自己過信

(7)「呪術の追放」の侵略的拡大

(8)ニーチェはニヒリズムの時代を予言

(9)ユングは世界大戦の時代をどう見たか

10ヒトラーとナチズムの深層心理

第3章 現代の危機解決を求めて〜トランスパーソナル運動

(1)現代世界の精神的危機

(2)平和のために「影との戦い」を戦え

(3)自己実現から自己超越へ

(4)個を超え、時空を越える体験

(5)人類の危機に現われた霊性復興運動

(6)地球を守るために意識改革が必要

(7)エコロジーの根底を深く問う

(8)トランスパーソナル・エコロジーへの展開

(9)人間中心のおごりを捨てるべし

10霊性に基づく精神的・道徳的向上を

結びに〜新しい精神的指導原理の出現

 

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はじめに

 

人類がこの地上に棲息するようになってから、数百万年が経過した。人類の歴史を振り返ると、わずかここ400年ほどの間に、過去の時代とは、比較のできないほど急激に文明が発達している。この画期的な変化は、近代化と呼ばれる変化によっている。とりわけその核心には、17世紀に起こった科学革命がある。近代科学の発達は、人類の知識を一挙に広げた。人類に内在していた知能が、あたかも季節が来て木々の花が咲くように、一気に開花し始めたかのようだ。科学によって発見された新しい知識は、技術に応用された。それが、物質的生産力を飛躍的に高め、産業の推進力となり、経済や社会や政治や文化のあり方を大きく変えた。まさに科学革命を中心とした近代化の進行によって、人類文明は大変化しつつある。

私は、文化・社会・政治・経済の全般に起こっているこの変化を、「近代化革命」と呼びたいと思う。

人類史の中でこの「近代化革命」がどういう位置にあるかについては、別の拙稿「人類史に対する文明学の見方」の2「人類文明史の6つの転換期」に記したので、そちらに譲ることにする。

「近代化革命」というこのかつてない大変化が人類にもたらしたものは、良いことばかりではない。反面に、多くの矛盾を生み、人類は自ら生み出したものによって、生存の危機に直面している。その最大のものは、核兵器の開発と地球環境の破壊による危機である。それゆえ、現代世界の諸問題を解決するためには、西欧から始まった大変化、「近代化革命」を総合的かつ根本的に把握しなければならない。そのうえで、具体的な取り組みを行っていかねばならない。

世界の近代化には、進歩と退歩、向上と低下、創造と破壊という両面がある。いわば、光と影がある。小論では、近代化に関し、“心の近代化”という角度から検討していくことにする。つまり、近代化における心の変化を跡付け、その探求から危機解決の道を見出そうとするわけである。

“心の近代化”の検討を行うには、近代化の影響を、心の表層と深層に分けて見る必要がある。そこで、心の表層を見る眼をマックス・ウェーバーに、同じく深層を見る眼をカール・グスタフ・ユングに借りて、心の近代化の過程を考察してみたい。その考察の後に、心の近代化が生み出した矛盾を解消する道を、トランスパーソナル学を始めとする、現代の新しい動向の中に探り、危機解決の方向を明らかにしよう。

 

 

第1章 近代化とは合理化である

〜ウェーバーの視点

 

1)近代文明の矛盾と限界

 

近代化とは何か。「近代化革命」は、どのように始まり、近代化の中で、人間の心は、どう変化したのか。そして、それが何を生み出したのか。

近代文明が発達する中で、人々は新しい多くの知識を得た。物質的な豊かさを手に入れた。個人という観念が確立し、自由と権利を自らのものにした。しかし、その一方で、自我意識が発達するとともに、多くの人々は心のバランスを取れなくなった。心の安定が失われ、人格の分裂や、精神病が増加した。自己と他者の分化と対立が生まれた。共同体の解体と都市社会の形成によって、個人と個人は相互扶助ではなく、競争原理によって動く関係となった。いまや家族・男女の間にまで、対立・抗争が広がっている。

さらに視野を広げると、西欧と非西欧の間には、支配・搾取の構造が作られ、世界規模で国家・民族・文明の対立・抗争が常態となった。そのつまるところが、世界戦争であり、核兵器による人類滅亡の危機である。また、科学技術と産業の無統制な発達は、自然を破壊・汚染し、地球環境の悪化を生み出した。急激な物質文明の発達は、かえって人類の精神的・道徳的な低下をもたらしている。これらの矛盾を解決しなければ、もはや人類の将来はないところまで来ている。

この危機を乗り越えるためには、前例のない大変化をもたらした近代化について、その始まりにさかのぼって振り返ってみることが必要だろう。人類に潜在していた知能が開花する時は、まず西欧の地に訪れた。これは偶然ではなく、その地で起こるべき条件が整っていたからと考えられる。

近代化の最大の推進力は、近代科学である。この科学は近代西欧の科学であり、西欧においてこそ現われた知の形態である。その西欧的な知は、ヨーロッパ文明の宗教的原理であるキリスト教の中から生まれた知の形態である。科学革命は、最初、神の偉大さを知るために、宇宙や物質について知ろうという知識欲の追求だった。実験や観察や数学的計算によって得られた新知識は、技術に応用することが可能だった。それによって、知識は単なる知識ではなく、自然を改変する力となった。その技術が物質的な生産を行う産業の推進力となった。生産への利用を可能としたのは、科学技術を産業に利用できる経済社会が西欧に生まれていたからである。それが、資本主義である。近代資本主義もまた西欧近代資本主義であり、西欧においてこそ現われた生産様式である。西欧では、資本主義的生産様式が生まれるべく、共同体の解体やそれによる労働者の都市への集中などが進んでいた。経済社会はそれを方向付け、管理する仕組みが働くことによって、計画的で組織的な生産を推進できるが、西欧にはそうした政治社会もまた生まれていた。近代国家や官僚制がそれである。こうした諸条件がそろった場所が西欧だった。その西欧において、近代化が始まり、科学革命・産業革命が起こり、他の地域に強い影響を広げていった。

西欧から北米に広がった近代文明は、地理的には欧米文明というべきものとなったが、ここではアメリカ独立(1783年)以後、これを近代西洋文明と呼ぶことにする。近代西洋文明は、ギリシャ=ローマ文明から一直線に発展したものではなく、ギリシャ=ローマ文明が滅び、その文化的要素を一部継承したヨーロッパ文明が北米にも発展した文明である。

近代化の波は、近代西洋文明の伝播という形で、アジアにも押し寄せた。19世紀中半には、ユーラシア大陸の東端にあるわが国にも、大波がやってきた。日本は、ペリーの黒船の来航によって、近代西洋文明と遭遇した。近代西洋文明の科学技術と産業経営に基づく軍事力に圧倒され、鎖国政策を止め、開国せざるをえなくなった。そしてわが国は独立を守るため、明治維新を成し遂げ、文明開化により、積極的に近代西洋文明を取り入れた。日本は非西洋社会ではじめて近代化を成し遂げた。いまや、日本文明は欧米に伍し、近代文明の先端を行っている。わが国に続いて、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国も近代化の道を歩みつつある。

こうして世界に広がった近代文明は、人類的な規模の進歩と、地球的な規模の危機を同時に生み出した。前者を象徴するものは、アポロ11号による月面踏破であり、後者を象徴するのは、核兵器と地球環境破壊である。近代文明は、発展・拡大するとともに、矛盾と限界をさらけだしている。

ここで今日の世界の矛盾・危機の解決に取り組むには、近代に始まった大変化、「近代化革命」を総体的に把握しなければならない。本稿は、“心の近代化”という角度からこれを試みるものである。ページの頭へ

 

(2)近代化はどのように進んだか

 

「近代化革命」は、人類の文明史における画期的な現象であり、人間生活の全般にわたって世界的に進行している大変化である。近代化は西欧に始まり、世界に広がってきた。いまや非西欧社会の大半が近代化しつつある。

近代化は四つの領域において進行した、と社会学者の富永健一氏はいう。近代化を総体的に把握するために大変有効な説である。氏の説を要約すると、以下のようになるだろう。(1)

 

1.文化的近代化: 宗教・思想・科学等における合理主義の形成

2.社会的近代化: 共同体の解体とそれによる近代的な核家族、機能集団である組織や市場の成立、近代都市の形成

3.政治的近代化: 近代主権国家の成立、近代官僚制と近代民主主義の形成

4.経済的近代化: 近代資本主義・産業主義の形成

 

こうした文化的・社会的・政治的・経済的の四つの側面を持つ近代化は、どのように始まり、どのように進んできたのだろうか。次に、西欧における近代化の過程を概観してみよう。

本稿では、近代西洋文明をギリシャ=ローマ文明の継承及びヨーロッパ文明の発展という側面からとらえるとき、便宜的に一般に西洋史で使われている時代区分を使用する。紀元前の古代ギリシャ文化の時代から476年のゲルマン民族の侵攻によるローマ帝国の滅亡までを古代とし、476年から1453年のイスラーム文明の攻撃による東ローマ帝国滅亡までを中世とする。中世を前期と後期に分け、前期は1096年のヨーロッパ文明によるイスラーム文明への反攻である十字軍の開始まで、後期は1096年から1453年までとする。1453年以後を近代とする。

さて、近代化の始まる以前、つまり中世後期の西欧は、キリスト教が支配する世界だった。人々は教会の教えを世界観・価値観として生活していた。そこに異質なものをもたらしたのが、14〜15世紀にイタリアで始まったルネサンスだった。ルネッサンスは、当時、西欧よりはるかに文明が進んでいたイスラーム文明の強い影響のもとに起こった。アラビア経由で摂取した古代ギリシャ=ローマ文明の遺産に刺激を受け、文芸・絵画・彫刻・建築などに活発な文化活動が行なわれた。中世キリスト教とは異なる人間観が再発見され、人間中心の考え方が芽を吹いた。それが、ヒューマニズムである。この思想には、中世キリスト教とは異なる思想が含まれていた。ギリシャ=ローマの古典を通じ、グノーシス主義、新プラトン主義、錬金術といった思想が知られるようになった。これらの古代的知識の復活が、やがて中世のキリスト教世界をゆるがすようになっていく。

古代ギリシャ=ローマ文明の知識は、聖書の研究に新局面を開いた。中世の西欧では、聖書はラテン語訳のみであり、それがカトリック教会の定訳として権威をもっていた。ところが、ギリシャ語の知識が深まると、従来の定訳に含まれる誤訳がしだいに明らかになった。そのことによって、定訳聖書への信頼が揺らぎ、ひいてはカトリック教会そのものの権威が失墜することになった。

15〜16世紀の西欧では、キリスト教会の腐敗・堕落が深刻となっていた。これに対し、ルター・カルヴァンらが異議を申し立てた。彼らはカトリック教会の権威を否定し、聖書のみによる信仰を唱えた。キリスト教内で、新教派と旧教派の対立が起こった。特に17世紀はじめの三十年戦争(1618-48)は、ドイツを中心に新教国・旧教国が戦いを繰り広げる大戦争となった。そのため、ドイツの人口の3分の1までが死亡したという。カトリック教会の権威は益々低下して教勢が衰えた。一方、新教の宗派は分派を続けていった。

こうして、西欧に大きな変化が起こった。それが近代化の始まりである。つまり、近代化は「中世世界を精神面において支配していたカトリック教会からの離脱という内発的運動として始まった」(富永氏)といえる。近代化の四つの領域という見方で見ると、近代化が最も早く起こったのは、文化的な領域だった。より具体的に言えば、心の世界、宗教や思想の部分から、近代化が始まったのである。この過程で非常に注目すべきことが起こった。「呪術の追放」という出来事である。心の近代化は、「呪術の追放」に始まる。この点は重要な論点であるので、後に詳しく触れることにしよう。ページの頭へ

 

(1)富永健一著『近代化の理論』『日本の近代化と社会変動』『マックス・ウェーバーとアジアの近代化』(講談社学術文庫)

 

(3)近代化は文化から社会・政治・経済に広がった

 

西欧における文化的な変化において、最も重要なことは、近代科学の発生である。ルネッサンスによる失われた知識の回復は、世界観の変化を生み出した。中世においては、キリスト教の教義は絶対だった。人々は、神が七日間で宇宙を創造し、太陽が地球の周りを回っていると素朴に信じていた。この世界観を覆したのは、古代ギリシャ=ローマの知識の復活だった。プロティノスらによる新プラトン主義の思想に触れたコペルニクス、ティコ=ブラーエ、ケプラー、ガリレオらは、太陽を中心とする幾何学的な宇宙観に魅せられ、天体観測と数学的計算を試みた。その結果、彼らが明らかにしたのは、驚天動地の事実だった。太陽が地球をではなく、地球が太陽の周りをまわっていると彼らは言い出した。天動説から地動説への転換である。このいわゆるコペルニクス的転換が、科学革命を引き起こした。科学史家トマス・クーンのいう「パラダイム・チェンジ」である。パラダイムとは、科学上の問題を取り扱う場合に前提となるような、一時代に支配的な思考の枠組みである。より一般的に、ある時代の人々に共通するものの見方や考え方についても使われる。こうした認識の大きな枠組みが変化することをパラダイム・チェンジ、あるいはパラダイム・シフトともいう。

西欧においては、ものごとの探求において、実験と計算が重んじられるようになり、神話的・教義的な意味付けは駆逐されていった。その中心となった時期が、17世紀である。フランシス・ベーコンは「知は力なり」と説き、科学の力による自然の征服・支配を説いた。ルネ・デカルトは新しい科学の方法論を提唱し、ロバート・ボイルは実験科学を確立し、アイザック・ニュートンが機械論的世界観を樹立した。近代科学の知識は、人々に合理主義的な考え方を促した。それが、西欧人の宗教・思想・生活態度を合理的なものに変えていった。こうした変化を総体的に、文化的近代化ということができる。近代科学の知識は、やがて生産技術に応用され、産業や軍事に利用されて、圧倒的な力を発揮することになる。

文化的近代化に次いで、西欧で起こったのは、社会的近代化である。家父長制家族としての「家」共同体、血縁を基礎とする氏族共同体、封建領主による村落共同体の解体が進んだ。生産と消費の主体が分裂し、消費生活の場所としての核家族と、生産の場所としての経営組織とに分離した。両者をつなぐものとして市場が形成された。市場の発達に伴い、西欧の各地に近代都市が形成された。都市には近代的な組織が生まれ、機能集団である企業や組合等が成立した。こうした社会的変化が、市民革命や資本主義の発達の社会的基礎となった。

共同体の解体によって、ゲマインシャフト(協同社会)からゲゼルフシャフト(利益社会)への変化が起こった。つまり、人々の結合が、それまでの互いに感情的に融合し、全人格をもってする結合から、各自の利害関心に基づく人格の一部のみでの結合に変わった。伝統的な社会が崩壊して、近代的な個人が出現した。個人と個人は、互助原理で助け合う関係ではなく、競争原理で競い合う関係となった。

第3番目に進んだ近代化は、政治的近代化である。ドイツ三十年戦争の結果、結ばれたウェストファリア条約(1648)が、近代主権国家とその集合による国際社会を生み出した。近代国家は、封建領主に代わった国王の下に、軍事・行政の必要から高度な官僚制を発達させた。そして、17世紀のイギリスでは、清教徒革命、名誉革命によって、王権への制限と新興階級・市民の権利の確保という形で、市民革命が起こり、近代民主主義が発生した。市民革命と民主主義を理論的に裏付けたのが、ロックらによる啓蒙思想であり、個人主義的な原理に基づく社会契約説である。その影響を受けたイギリスの植民地アメリカでは、本国からの独立革命が起こった。そして、フランスにおいては、啓蒙思想が急進化し、フランス革命が起こった。しかし、「自由と平等」の実現のための革命は、ギロチンによる虐殺と、200万人ともいわれる大殺戮を引き起こした。フランス革命の前夜に、機械論的な唯物論が優勢となり、革命の中で、人間理性を信仰対象とする人工的な宗教、市民宗教が現われたことは、文化面においても特筆すべき出来事だった。

近代化の四つの側面において最後に位置するのが、経済的近代化である。これは、近代資本主義の発達として進行した。この過程は、後ほど詳しく見ていくが、西欧に発生した近代資本主義は、18世紀末のイギリスにおいて、強大な推進力を獲得した。すなわち、産業革命である。産業革命こそ、「近代化史を完成した出来事」(富永氏)といえる。それまでの人力や畜力に代わる機械の力によって、動力革命が起こった。石炭という化石燃料がエネルギーに利用された。こうした技術面の進歩と、近代資本主義の合理的な産業経営が結びつき、経済と社会を大きく変えた。産業主義と工業社会が出現した。近代西欧科学は、18世紀の産業革命後、資本主義的生産に応用されることによって、文明を大変化させる力となった。

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(4)ウェーバーは「合理化の進展」に本質を見た

 

西欧における「近代化革命」つまり近代化の過程を、文化・社会・政治・経済の四つの領域に分けて概述したが、ここに起こった変化は、実に多様である。一体、こうした多様な変化の総体である近代化を貫く本質的なものは何か。

近代化の本質をとらえ、近代化について総合的に研究しようと試みたのが、マックス・ウェーバー(1864-1920)である。ウェーバーは、ドイツが生んだ社会科学の巨人である。ウェーバーは近代化という問題に対し、極めて広い視野からアプローチした。また、西欧だけではなく、西洋の近代化対東洋の近代化という比較を行い、近代化について世界史的な視野で考察した。そこで、ウェーバーの所論を導きとして、近代化の本質について考察することにしよう。

ウェーバーは、我々の分け方による文化・社会・政治・経済の諸領域における変化を貫くものとして、「合理化」を挙げる。ウェーバーによれば、近代化とは、価値観の合理化が進むことである。

合理化とは、合理性が増大することである。合理性とは、ウェーバーによると、恣意、衝動、呪術、神秘主義、伝統、特殊関係などの「非合理的なもの」による判断や、これにもとづく慣習を排して、効率的で、かつ計算可能なルールや生活慣行を重視する傾向である。したがって、合理化とは、こうした非合理的なものが、生活の全般にわたって、しだいに合理的な思考方法や生活慣行に取って代わられていくことである。そして、一般に理性を重んじ、生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする態度を、合理主義という。

ウェーバーは、合理化こそは「西洋の生活方式の根本性格」であり、「運命」そのものであり、「西洋的なエートス」であるとする。「エートス」とは、「生活態度、生活信条または道徳的性格」を意味する。ウェーバーは、さらに「西欧世界にはじめて出現したこの歴史的趨勢は近代社会の本質を形作るばかりではなく,今や人類全体の共通の運命となる」と言う。合理化こそ、近代以降の地球に広がっている人間の思考・行動の起動力であると、ウェーバーは見たわけである。それゆえ、ウェーバーによれば、近代化とは、合理化の進展なのである。文明学的に言い換えると、近代化とは、ある文明の文化要素の全般にわたって合理化が進むことである。

さて、価値観の合理化の出発点として、ウェーバーが注目したのが、「世界の呪術からの解放」または「呪術の追放」と彼が表現した出来事である。

これは宗教改革を通じて起こった出来事である。プロテスタントはカトリックのサクラメント(秘蹟)を否定し、「呪術」として追放した。そして、プロテスタンティズムの倫理が、「資本主義の精神」を生み、近代資本主義が発生・発達した。その過程で近代人のエートスが形成された。「呪術の追放」によって、宗教の合理化が行なわれた。このことを出発点として、合理性が社会の全般において追求・実現されるようになった。すなわち、文化や社会や政治や経済の諸領域を貫いて、価値観の合理化が人間生活の全般にわたって進行したというのが、ウェーバーの近代化についての分析である。

本稿の主題に引き寄せて言えば、心の近代化は、「呪術の追放」に始まり、宗教の合理化をはじめとする全般的合理化として進行したというわけである。以下の節で、この点を、より具体的に見ていこう。ページの頭へ

 

(5) 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

 

ウェーバーの近代化の研究は、近代資本主義の研究に始まる。その成果が名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である。この書は、明確なテーマを持っていた。すなわち「インド・シナ・イスラームなど高い文明をもっていた文化圏がいくつもあったのに、なぜ西欧世界にのみ近代資本主義が成立したか?」である。

彼の真の問題関心は、西欧近代資本主義だけでなくそれを含む西欧の壮大な合理化過程にある。そのエートスつまり人間的な起動力の解明をウェーバーは構想している。その手始めとして近代資本主義の研究がされた。

ウェーバーは、社会の分析において、宗教と経済の関係に注目した。古代ユダヤ・シナ・インドなどの研究に取り組み、それぞれの社会には異なった社会構造に基づく、独自の宗教倫理・経済倫理があることを明らかにした。そして、これらと西欧を比較して、西欧でのみ近代資本主義が発生・発達した原因を追求した。

ウェーバーは技術進歩と資本蓄積、商業の発達が資本主義をつくるという通説に反対する。資本主義の発生・発達には、それを推進する機動力が必要だった。言い換えると、「資本主義の精神」が成立しなくてはならない。近代資本主義の特徴は、勤労の精神、利潤の正当化、合理的な経営の確立である。こうした特徴を持つ資本主義は、西欧にのみ成立した。その原因を、ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理に見出した。

中世後期の西欧は、キリスト教が支配していた。修道院における修道士たちの労働が富を生み、聖職者が金貸しをしたりするようになっていた。カトリック教会は、さらに免罪符を発行し、金銭によって罪を免ずるという道を与えた。これに対し16世紀にルター、カルヴァンらは、カトリック教会に異議を唱えた。彼らプロテスタントの挙げたスローガンは「聖書のみ」「恩寵のみ」「信仰のみ」の三つにまとめられる。プロテスタントは、信仰とは教会に従うことではなく、各個人が神と直接に向かい合うことであり、それによってこそ福音はもたらされると主張する。

それまでは、カトリック教会が福音の施しを権威的に独占していた。その権威の核が、サクラメント(秘蹟)であり、洗礼・堅信・告解(ざんげ)・ミサなど7種類ある。サクラメントの中で最も中心となるのは、ミサである。ミサでは、パンとワインを用いる。これらは、イエス=キリストの肉体と血を象徴するものとされる。パンとワインを使用することによって、イエスの磔刑による死と復活を象徴的に再現し、追体験するのが、ミサの核心であろう。これは救済のための象徴儀礼である。しかし、ルターは、サクラメントは救済を保証するものではないと否定した。

さらにカルヴァンは、パウロ以来の救霊予定説を徹底した。予定説は、天国に行くか地獄に行くかは、人間の意思や行動には無関係で、神は永遠の生命を与えた人間をすでに選び、他の人間は永遠の死滅に予定したと説くものである。ルターもこの説を継承した。カルヴァンは、予定はアダム・エバの堕罪以前にすでになされていたとし、堕罪前に神が予めすべての人間を、ある者は救いに、ある者は滅びに予定したという二重予定説(堕罪前予定説)を説いた。

予定説は、神の自由意志を絶対的なものとし、人間の道徳的努力は一切無力なものと断じた。誰が永遠の生命に予定されているかは、人間には知りえない。しかも人間がそれを変えることは絶対不可能だとする。カルヴァンは、これを徹底した。この教説は、人々を絶対的な孤独と不安に陥らせた。ウェーバーは「個々人のかつてみない内面的孤独の感情」とこれを表現する。信仰の仲立ちとしての組織を否定したとき、その一切を引き受ける主体は個人でしかないからだ。ここに、死後の救済を保証するものは何もなくなった。神と人が絶対的に向き合い、自分が一人で神に対面して結果を受けるしかないという、厳しい個人主義的な宗教が成立した。西欧の個人主義は、こうした宗教的信念に基づくものであって、その点を見定めない個人主義の輸入は、単なる自己中心・自己本位の利己主義に堕するだろう。

さて、プロテスタントにとっては、自分が神から選ばれているか否かが最大の問題であった。この時、彼らに残された道は一つしかない。自分は神に選ばれているのだと考えて、すべての疑惑を斥けること、つまり自己確信をもつこと。そして自己確信を獲得するためには、職業労働に専念することであると考えられた。

職業労働への専念は、ルターの「天職」という概念に基づく。世俗の職業は神が各人に与えた使命であり、「神の道具」となって職業労働に勤めることが「神の栄光を増す」こととされた。こうして救済を求める切実な宗教的欲求が職業労働に向けられることになった。

ここで重要なのが、「禁欲」という概念である。ひたすら神の意志に従って、みずからの職業を天職として、職業労働に打ち込むこと。これは欲望や快楽や気まぐれや怠惰に流れる普通の生き方では実現できない。「神の道具」になるために、禁欲的に日常の生活をすみずみまで管理しなければならない。

かつてカトリックの修道院では、厳しい禁欲的生活が行なわれていた。「祈りかつ働け」と説いた。その修道士たちの行動的禁欲の生活が、今度は修道院の中ではなく、世俗的な社会で行なわれるようになった。これを「世俗内禁欲」という。来世を目指しつつ世俗の中で行う生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだった。

ウェーバーは、書いている。「宗教改革は、合理的なキリスト教的禁欲と組織的な生活態度を修道院から引き出して、世俗の職業生活の中に持ち込んだ」と。(註1

プロテスタンティズム、特にカルヴァンの説いた予定説のもと、職業を天職として、労働に救済の確証を求めるという世俗内禁欲の倫理が、「資本主義の精神」となった。こうした精神があってこそ、資本主義は発生したとウェーバーは説く。神の栄光を増すための「道具」として、世俗的職業のために進んで刻苦精励するというこの精神こそが、近代資本主義の発展の重要な推進力であった、とウェーバーは考えたのである。ページの頭へ

 

(1)ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(中公『世界の名著』版)

 

(6)経済的合理主義の成立

 

世俗内禁欲の職業労働は、中小商工業者に富をもたらした。なぜなら、彼らは利益の少ない低価格で良い商品を販売し、正直な取引をしたからだ。良い物を安く提供することは、キリスト教的な隣人愛の実践だった。それによって得られた利益は、神から与えられた天職に励んだ結果だから、神の恩恵として認められた。彼らは倹約による質素な生活をしていたので、この富は必然的に投資に向けられることになった。こうして期せずして、資本が蓄積されることになった。

ウェーバーは、次のように書いている。「富を目的として追求することは邪悪の極致としながらも…‥天職である職業労働の結果として富を獲得することは神の恩恵だ…‥この宗教思想からの経済的結論として、禁欲的節約強制による資本形成がなされる…‥」。(註1

中小商工業者は、やがて資本家と労働者に分化していく。そうなると、世俗内禁欲による職業労働による資本主義の精神は、必要でなくなる。資本主義の精神がなくても、それが存在したときに作り出されたのと同型の「禁欲」的な経営者と労働者を作り出す仕組みが存在するからである。救済の自己確証のために勤勉に働くという勤勉の道徳が、単に経営者だけでなく労働者にもひとしく分有されたところに、近代資本主義的生産様式を担う主体が確立したと考えるのである。

興味深いことに、資本主義の精神は、欲得の追求に徹底的に反対する経済思想が支配してきた地域にのみ発生した。すなわち、宗教改革後のイギリス、ネーデルランド、北フランス、アメリカ合衆国のニューイングランドなど、禁欲的プロテスタンティズムが支配していた地域である。富を目的として追求することに反対していた場所で、富が蓄積され、近代資本主義が成立したのである。これが、「禁欲」が「欲得」に変じた資本主義のパラドックスである。この変転が、世代が二代目、三代目へと交代する過程で進行した。

勤勉と倹約は、結果として利潤を生み、資本が蓄積される。一旦、資本が形成されると、資本は利潤を要求し、利潤を上げるための経営をしなければならなくなる。そのことが合理的な産業経営による近代資本主義を生んだ。資本主義の機構ができあがると、それを生み出した宗教的な倫理は忘れられた。利潤の追求が肯定され、価値観が大きく転換する。そして、利潤追求を目的とする資本の論理が、経済活動を貫くようになる。こうした経済生活を基盤として、生活の全般に合理化が進展していく。

ウェーバーによると、合理性には、「価値合理性」と「目的合理性」がある。価値合理的行為とは、倫理・芸術・宗教など固有の絶対的価値を信じることによって生じる行為である。これは予想される結果にとらわれない行為である。これに対し、目的合理的行為とは、目的・手段・副次的結果を予想し考慮した行為である。

ウェーバーは「目的合理性」を、さらに「形式合理性」と「実質合理性」の二つに分けた。「形式合理性」とは、目的・計画・結果を数値化し、計算可能な形で、目的を追求する態度という意味の合理性である。これに対し、「実質合理性」とは、特定の場合に、特定の目的や理想の実現にとって適合的であるという意味の合理性である。「形式合理性」は一義的に明白であり、一段と合理的である。

近代資本主義の産業経営における合理性とは、目的合理的で、かつ形式合理的である。近代資本主義の特徴の一つは、複式簿記を土台とした合理的な産業経営にある。企業は、明確な数値目標を設定し、目的を実現するために、具体的な計画を立てる。さまざまな資材、労働を効率的に組み合わせ、利潤を最大にすべく計画・実行し、その結果を数値的に確認する。近代資本主義は、こうした形式合理的な態度によって、目的合理的な産業経営を行うことを最大の特徴とするといえよう。

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(1) ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(中公『世界の名著』版)

  

(7)宗教の合理化から全般的合理化へ

 

ウェーバーの問いは、なぜ西欧社会でのみ、近代資本主義は成立したのか、であった。しかし、もとよりその問いは、近代資本主義にのみ向けられていたのではなく、西欧でのみ発達した近代化の本質を問うものであった。ヨーロッパ文明を規定している特質とは何かという問いの一環だった。

近代資本主義を生み出したヨーロッパ文明の特質を浮き彫りにするために、ウェーバーは、古代ユダヤ教の世界へと歴史をさかのぼる。また、アラビア、インド、シナそして日本の文明を比較考察した。各文明の社会的特性には、宗教が強く作用していることに着目し、古代ユダヤ教やイスラーム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教などと、それぞれの社会の特性との関係を分析した。そこでウェーバーが注目したのは、キリスト教的なヨーロッパ文明においてのみ、「世界の呪術からの解放」が進展したことである。「呪術」を追放して、合理的禁欲と計画的自己統制の生活態度を強調するような合理的宗教は、ただ近代西欧にのみ発達した。そこに、ウェーバーは、ヨーロッパ文明の重要な特質を見出した。

ウェーバーによれば、合理化が出現する以前の人間は「呪術」を用いて周囲の世界に適応していた。その「呪術の園」を打ち破ったのが、プロテスタンティズムの倫理である。プロテスタンティズムは、カトリック教会の象徴的な儀礼(サクラメント)は救済を保証するものではないと否定した。サクラメントを「呪術」として退けたのである。そして、サクラメントを否定したことによって、呪術を退け、宗教を合理化した。救済の確証のためには象徴的な儀礼は必要でなく、目的のために一貫した生活態度をもって職業労働にいそしめばよいという合理的な思想を打ち立てた。

ウェーバーは、この西欧での宗教における合理化の源を探った。そして、源を古代ユダヤの預言者に見出す。彼らは偶像崇拝を否定し、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥し、道徳的な規律による救済を説いた。ウェーバーはこうした態度が、西欧の宗教改革者に受け継がれたと見る。そして、プロテスタンティズムによる「世界の呪術からの解放」を「宗教史上の偉大な過程」と呼び、「世界の脱呪術化」をよしとした。

私の見方によれば、キリスト教というより、ユダヤ=キリスト教が、呪術を否定し、宗教の合理化を生み出したのである。カトリックが支配していた中世の西欧では、民衆は聖書を読むことが出来なかった。プロテスタントは、各国語に訳された聖書の旧約の部分を読むことを通じて、ユダヤ教の思想の影響を受けた。これは、ユダヤ教のキリスト教への流入であり、プロテスタンティズムには、キリスト教の再ユダヤ教化という側面がある。この点は、別に改めて検討したい。

さて、呪術から解放された世界では、合理化が生活全般にわたって進行していく。合理化は、文化的領域から始まった。トインビーが指摘したように、文明の中核には、宗教がある。その宗教の合理化から近代化が始まった。そして、合理性が、西欧社会の文化的、社会的、政治的、経済的な諸領域のすべてを支配するに至る。

例えば、正確な計算を可能にし、経験的に立証し得る真理を生み出す合理的な科学。これにもとづく合理的な生産技術。営利衝動を自ら抑制し、資本計算と賃金労働者の組織的使用によって営利をめざす合理的な資本制的生産様式。合理的抽象的に制定された実定法の体系や、専門的訓練を受けた行政官僚による官僚制支配。芸術における合理的な和声音楽や合理的構成をもつ造形美術等々。

これらは、世界史上、近代西欧において、はじめて発生したものである。部分的には類似したものが他の文明にも見られるとしても、これらはみな厳密には、ただ近代西洋文明においてのみ発達した。そして、これらの根底には、「呪術」を追放し、禁欲的で計画的な自己統制の生活態度を強調する合理的宗教が、人々の意識を教導したという事実がある。

「呪術の追放」によって宗教における合理的態度が形成された。そして、宗教の合理化が、生活全般の合理化を推し進め、全般的合理化を「根底において規定している要因」となった。すなわち、ウェーバーによれば、「世界の呪術からの解放」こそ、西欧における合理主義の発生の出発点となったものであり、全般的合理化の原因である。そして、ウェーバーは、合理化とは「西洋の生活方式の根本性格」であり、「運命」そのものであり、「西洋的なエートス」であるという。

本稿の心の近代化という主題から言えば、心の近代化とは、「呪術の追放」によって、宗教における合理的態度が形成され、合理主義が思考・行動・制度の全般を支配していくことだといえる。近代化は、文化・社会・政治・経済の四つの領域にわたって進んだ。その出発点であり、また根本となる点は、宗教の合理化による心の近代化にある。

ウェーバーの生きた20世紀初頭の西欧は、心の近代化が進んで、合理化が生活全般に進展して合理主義が支配的となった社会だった。それと同時に、近代西洋文明の産業と科学技術の力によって、心の近代化と生活全般的な合理化が非西洋社会にも広がっていった。それが世界規模で進行しているのが、われわれの生きるこの21世紀の現代世界である。ページの頭へ

 

(8)近代化・合理化の中での生き方

 

合理性の増大は、人間生活を大きく変えつつある。一面ではこれは確かに、かつてない人類の進歩である。しかし、合理主義がすべてよい結果を生み出すとは限らない。ウェーバーは20世紀の初頭の西欧において、既にこのことを深く洞察していた。

ウェーバーによると、目的合理的行為とは、目的・手段・副次的結果を予想し考慮した行為であり、目的と手段の関係が合理的であるような行為である。ところが、ウェーバーは、合理化は、「手段と目的の転倒」という現象をもたらすことがあるという。

例えば、生活のための金儲けは「合理的で理解可能」である。しかし、「金儲けのための特有に合理化された金儲け」、いわば「自己目的」となったそれは「特有に非合理的」である。「まさにあらゆる合理化は、運命の必然性によって、非合理性を創り出す」ことにウェーバーは気づいた。合理性の持つこのような非合理性とは、手段と目的の転倒にほかならない。単なる手段であったものが、「自己目的」となったわけである。

そして、生活全般の合理化の結果、生み出されたのは、「全面的な依存の体系」であり、「隷属」の「鋼鉄のような堅固な外皮」、人間の一般的な「装置化」であり、「各人がそのつど規範的な経営の中へと不可避的に組み込まれているあり方」である。「生活状況の合理的な徹底的組織化」が、それ自身のうちから、「組織の非合理的固有力」を生み出してしまった、とウェーバーは論じる。

全般的合理化の進行の中で、ウェーバーが特に注目したのが、官僚制化である。ここにいう「官僚」とは、国の役人という意味ではない。国家・企業・団体の経営に携る知識人のことをいう。経営の大規模化は必然的に専門的職能の合理化を進め、合理的組織を確立させる。公的行政組織であれ、民間私企業であれ、組織の大規模化は人間を専門的職能の網の中に組み込む。

合理化の逆説(パラドックス)によって、手段が目的を支配する。事物が人間を支配し、人間が事物化される。そして、知識人が官僚化して、国家・社会・企業を経営・管理すると同時に、知識人自身が巨大な官僚組織のなかで専門化され、拘束されるという結果が生ずる。ここにウェーバーは、現代人の運命を見た。近代西欧人が追求してきた最高の価値である自由が、合理化の進展によって、逆に失われる。

ウェーバーはこうした「自由と合理化の抗争」という近代社会の根本事態を見つめていた。合理性は、「近代特有の成果」であるとともに「その成果の全面的疑わしさ」をも表わしている。

しかし、ウェーバーは「人間は羊ではない」と主張する。呪術から解放された、この「世界の脱呪術化」のなかに立って、幻想を捨て、学問的に公平に、日常とその要求を冷静に肯定し、「あらゆる超越者」を拒否し、「進歩」という超越者をも拒否して、合理化という「運命の軌道」のなかを「情熱と諦念」をもって生き続けることが肝要である。この社会では「自己自身に対する個人の純粋な自己責任という合理的責任の主体性」が大切になった、とウェーバーは考えた。官僚化は人間を「精神なき専門人」とし、「細分化された人間性」をもたらす。その中で「個人全体の自己責任への自由」をいかに確保しうるかをウェーバーは問うた。

ウェーバーは、官僚的な合理化の進行のただなかにあって、人間性の残余を守り、自由の残余を救い出すことを、生涯の課題とした。官僚は官僚なりに「制度に帰属する者としての自分自身」に対し責任を有するし、また指導的政治家や企業家は「自己責任」をもって新たな視界を切り拓かねばならない。指導者のない民主主義は機能せず、また、合理的組織を欠いた指導は無意味である。合理的組織と専門化された官僚制の中に身を置きつつ、しかも各自がその部署において目的合理的に自己責任をもって行為して生きねばならないというのが、ウェーバーの提示する近代人の生き方である。この生き方は自己を意識的に合理化する合理主義の生き方であり、心の近代化が生み出した近代的な生き方といえよう。

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(9)合理化を極度に進めた共産主義の破綻

 

ウェーバーがいうところの、手段が目的を支配し、事物が人間を支配し、人間が事物化されるという事態は、カール・マルクス(1818-1883)の理論で言えば、疎外と物象化である。

マルクスは、人間が自己の作り出した生産物や制度などによって支配される状況を、疎外と呼んだ。また、人間と人間の関係が、商品や貨幣など物の属性であるかのように現われる事態を、物象化と呼んだ。マルクスは、疎外と物象化を生む究極の原因は、生産手段の私的所有にもとづく他人労働の搾取と領有にあると考えた。彼の理論によれば、生産手段の私的所有を撤廃して、社会的所有とするならば、階級的不平等は消滅し、万人に自由と平等が保障される無階級社会が到来することになる。

ウェーバーは、マルクスの理論に批判的だった。マルクスの唯物史観によると、物質的生産力の発展段階に照応する生産関係の総体が、社会の経済的土台を成す。その上に法制的・政治的な上部構造がそびえたつ。また、経済的土台に一定の社会的意識諸形態が照応し、物質的生活の生産様式が社会的・政治的・精神的な生活過程全般を制約するという。これに対し、ウェーバーは、マルクスの歴史認識の意義を認めつつも、人間の理念や精神が、歴史において大きな役割を果たしてきたことを強調する。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神は、その主張の提示である。上部と下部(土台)には相互作用があり、かえって人々の意識が経済に影響を与える。資本主義の発達自体がそうだった。人間は観念によって動く部分が大きく、観念体系には、下部構造に対し、相当の独立性がある。宗教や道徳による価値観が経済活動の動因ともなる。マルクスの定式では、意識の問題の重要性をとらえることができないことを、ウェーバーは明らかにした

さらに、ウェーバーは、近代化・合理化の研究を通じて、マルクスの説く共産主義革命は、「官僚制的合理化」の問題を免れないことを指摘した。マルクスは、この近代化による宿命的な問題を軽視していた。実際、生産手段の社会的所有を行ったソ連などでは、マルクスが描いたのとは正反対に、自由は抑圧され、社会的不平等が広がった。そして革命後、わずか70年にして共産主義国家は崩壊した。(註1

ウェーバーは、ロシア革命の翌年の1918年6月、ドイツにも革命の危機が迫る中で、講演を行った。そこで社会主義(共産主義はその一部)の問題点を全般に論じている。彼が説いていることは明快である。唯物史観の経済決定論の欠陥や、マルクスが社会主義実現は必至と扇動した窮乏化論、両極分解論、恐慌論の破綻が、端的に示されている。また、社会主義は官僚の独裁を生み、人々の自由が奪われること、そして官僚による計画経済は失敗に終わることが、不可避のものとして説かれている。

ウェーバーは講演において、以下のように語っている。

 「近代民主主義が大国家の民主主義であるところでは、どこでもそれは官僚制化された民主主義となるのであります」

 「長年にわたる専門的訓練、不断に進展してやまぬ専門分化、およびそのように教育された専門官僚群による管理の必要という事実は、社会主義といえども考慮に入れなければならない第一の事実なのであります。近代経済を例外の方法で管理することはできません。

 だが、別して、この不可避的な全般的官僚化は、しばしば引き合いに出される社会主義的標語ー『労働手段からの労働者の分離』という標語ーの背後にひそむものにほかならないのです」

 マルクスは、生産手段からの労働者の分離に、人間疎外の原因を求める。ウェーバーは、この分離は近代社会で進行している経営手段からの分離という全般的な現象の一つにすぎないのだと見る。

 そして、社会主義者のように「経営手段からの労働者の分離をもって、経済、そればかりか私経済だけに固有な現象であるとするならば、それはゆゆしい誤謬であります。あの機構の首長の挿げ替えがなされたとしましても、私的工場主のかわりに、国家の大統領や大臣がこれを管理する場合でありましても、根本の事態にはまったく変わりがないのであります。いずれの場合にも、経営手段からの分離は存続いたします」と語る。

 つまり、ウェーバーは、社会主義においても、労働者の生産手段からの分離は変わらず、官僚制化は回避し得ないと予測する。マルクスが考えたほど単純な話ではないのである。

 そして、社会主義について次のように、ウェーバーは述べる。

 「社会主義とは、‥‥第一に、利潤というものがない経済、従いまして、私的企業家が自己の責任で生産を指導する状態がない経済のことであります。その代わりにこの経済は、‥‥管理の任にあたる人民団体の官僚の手に委ねられるでありましょう。その結果として、第二に、いわゆる生産の無政府状態、言い換えますと、企業家相互間の競争は存在しません」

 「ある鉱山で働く労働者の運命は、この鉱山が私営であろうと国営であろうと、いっこうに変わらない‥‥鉱山の管理がうまくいっていないと、したがって収益がよくないと、工員たちの状態も悪くなります。ただ違う点は、国家に対してはストライキが不可能であるということ、それゆえ、この種の国家社会主義(註 当時のドイツ)にあっては、労働者の隷属性がまったく根本的に強められるということであります」

 同様にして社会主義社会でも、人間に対する人間の支配はなくならず、プロレタリア独裁は官僚独裁にすりかわり、人間の解放はおろか労働者の自由はますます抑圧されるほかはないことを、ウェーバーは予測していたのである。

 ウェーバーの講演は、ロシア革命の7ヵ月後のものである。第1次大戦の末期にあたり、敗色の濃いドイツでは、ロシアに連動した共産主義革命の危機が迫っていた。当時ウェーバーは、混沌としたソ連の事情はよく知りえていなかっただろう。むしろ、当時のドイツの社会主義の理論と実態をもとに、社会主義の将来を考察したのが、この講演である。また講演ということで、十分論理が展開されているとはいえない点がある。

ウェーバーの主旨を敷衍すると、共産主義革命によって私的所有を撤廃したとしても、経済の計画的経営・管理とそのための組織・機構は欠かせない以上、その経営・管理にたずさわる人間、いわゆる「官僚」や官僚機構は存在し続ける。そればかりか、計画経済の実行によって官僚支配はさらに一層強化されざるをえないから、そこに生じるのはプロレタリア独裁でも人間の自由の増大でもなく、官僚の独裁となる。そして、官僚独裁の下に、人間が隷属する社会が生まれる。所有関係の変更は、権力のありかや利害状況を変えるだけで、労働者大衆の状態はいっこうに改善されず、むしろ悪化する一方となる。生産手段を管理・運用し労働者を指導する集団が、「新しい階級」となり、その権力と支配は強まるばかりとなる。それが、マルクスの理論を実践したソ連等で、まさに現実となったわけである。(註2

19世紀後半から、西欧社会では中間階級が増え、知識人が官僚化して、国家・社会・企業を経営する構造が形成されていた。知識人であり職業革命家であるマルクスは、こうした知識人の役割を軽視したか、あるいは意図的に伏せていたのだろう。そのため、マルクスの理論によって建設された国家は、知識人による官僚集団が権力を独占し、労働者・農民を支配する国家となった。しかも、レーニンとスターリンというカリスマ的指導者は、この合理的な官僚制を使って、人民を弾圧し、反対派を粛清して、個人崇拝の体制をつくりあげた。

唯物論的共産主義は、近代化・合理化を極限まで推し進めるものだった。人間理性によって人工的に作り出した極度に合理主義的な国家は、逆に最も非合理的な国家に転じた。それが、旧ソ連等の共産主義だったのである。ページの頭へ

 

(1)詳しくは、拙稿「犠牲者1億人を生んだマルクスの欠陥」をご参照下さい。

(2)ウェーバー著『社会主義(講談社学術文庫)

参考資料

・この項目について詳しくは、拙稿「極度の合理主義としての共産主義の崩壊」をご参照下さい。

 

 10)近代的理性の変質と可能性

 

ウェーバーの理論は、革命後のロシアの実態を知った西欧のマルクス主義者に、大きな影響を与えた。フランクフルト学派のマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノは、唯物論の立場でウェーバーの研究を取り入れた。彼らは、ソ連におけるスターリニズムだけでなく、近代化・合理化の進む西欧において、合理化が生み出す非合理性を見た。ナチスによるユダヤ人迫害や世界大戦の勃発である。彼らは、『啓蒙の弁証法1949)で、「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」(註1)と問うた。そして、近代西欧の理性は、近代の初めに持っていた神的意味を失って、目的を実現する手段に変じ、「道具的理性」となっていると批判した。さらに、彼らは西洋文明の発生にまでさかのぼって、合理化について検討した。ここでいう西洋文明は、ギリシャ=ローマ文明からヨーロッパ文明を経て北米にも拡張した文明を言う。

ホルクハイマーとアドルノは、18世紀の啓蒙主義に関して使われた「啓蒙」という概念の意味を拡大した。そして、西洋文明の発生にまでさかのぼって、「啓蒙」つまり「文明」について検討した。彼らによると、「啓蒙」とは、「呪術の追放」によってアニミズムを否定することであり、自然との一体性を失い、自然から分離することである。神話は、ものに名をつけ、起源をいい、説明しようとする。ホルクハイマーとアドルノは、そこに「啓蒙」が発生したとし、「神話は啓蒙である」と述べた。そして、神話に表れた自然の克服の形式は、近代の啓蒙の限界と暗転を示しており、「啓蒙」の中に自己崩壊の芽があったと断じた。「啓蒙」は、人間の自己保存のために、自然を支配する力となり、強者が弱者を支配するものとなった。その結果、「啓蒙」は、ユダヤ人迫害や世界大戦などの野蛮に転じた。この逆説を彼らは「余すところなく啓蒙されたこの地球は、災禍が勝利を誇る場となってしまった」と指摘した。そして、啓蒙の自己崩壊を仮借なく批判できるものもまた、理性の自己批判能力以外にないと論じた。

フランクフルト学派の第2世代であるユルゲン・ハーバーマスは、合理性について違う論点を提起する。彼は、ウェーバー以降、合理性は目的合理性としてのみとらえられてきた、その結果、ウェーバーやホルクハイマー・アドルノは近代合理性に対して悲観主義に陥ることになったという。そして、ウェーバー以後の合理化論は、合理化を「目的合理性の制度化」としてのみとらえていると批判した。ハーバーマスは、そのような「システム的合理化」は近代の一面にすぎず、「生活世界の合理化」を近代の偉大な達成として認めるべきであるという。そして、彼は、近代化はコミュニケーション的な合理性も拡大したと評価する。コミュニケーション的合理性とは、対話と意思疎通によって了解をつくっていくという合理性である。ハーバーマスは、近代の合理主義・啓蒙主義を全否定するのではなく、合理性の良い面を救い出そうと試みている。(註2)

ウェーバーに続くこうしたフランクフルト学派による合理化論は、興味深いものではあるが、近代的理性に中心を置いている点が共通している。人間理性の持つ自己批判能力や、対話による相互了解能力を高めることは、当然必要である。人間に理性がある以上、理性による最善の努力を尽くさねばならない。しかし、近代西欧の理性中心の思考では、理性以外の人間の能力について、あまり考慮できていない。そのため、人間の可能性の全体を見失っている。

この点において、ウェーバーは、近代合理主義の枠を超えて、人間というものを見ようとしていた。ページの頭へ

 

(1)ホルクハイマー+アドルノ著『啓蒙の弁証法(岩波書店)

(2)ハーバーマス著『コミュニケーション的行為の理論(未来社)

 

11)ウェーバーはカリスマに注目した

 

ウェーバーは、晩年、それまでの広範な研究を整理し、主要概念を明確にするために、『社会学の根本概念(註1)を書いた。そこでウェーバーは、社会学が対象とする社会的行為は、本来「意味理解可能」な領域、ないし「意識的合理的に創造された」領域での行為であるとした。しかし、彼はそれ以外に「機械的・本能的」な領域があるともいう。

「機械的・本能的」というのは、第一義的には動物の行動の多くを占める本能的な行動をいうものだろう。人間の行動の相当部分は、本能的である。しかし、ウェーバーは、これに加えて、生命的ではあるが単に本能的ではない領域があることを想定している。そして、この「機械的・本能的」領域は、人類史の初期段階において圧倒的な力を発揮してきた、人類史の「その後の発展段階」においても、この領域は意識領域と並んで作用しており、意識領域との間で「不断の共働作用」を営んでいるとウェーバーはいう。

そうした共働作用の事例としてウェーバーは、すべての「伝統的」行為と並べて「カリスマの大部分」を挙げている。

ウェーバーは、西欧の近代化に関する研究とともに、支配の構造についても研究していた。彼によると、支配の形態には、合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配がある。近代西欧で形成された合理的官僚制は、合法的支配の一類型である。これは法制度による支配であり、最も合理的な支配のあり方である。これに比べると、伝統的支配には、非合理的な要素が多く、カリスマ的支配はさらに非合理的である。

カリスマとは、ウェーバーによって有名になった言葉である。カリスマの原義は「神の賜物」であり、そこから非日常的・超人間的な能力のことをいう。こうした能力は、英雄・預言者等の指導者に現われる。一見合理主義的なウェーバーは、このカリスマを社会学の対象から排除ないどころか、支配の重要な一形態として研究した。

山之内靖著『マックス・ウェーバー入門(註2)によると、ウェーバーのカリスマ概念は、「最晩年の用例の中で‥‥生物学的エネルギーに直接に由来するものと定義」されるようになった。死の直前に書かれた『社会学の根本概念では、カリスマ概念は「生物学レヴェルに根ざす力として理解されるべきことがはっきり確認されている」と山之内氏は言う。

カリスマ現象は、伝統的行為とともに、「生物学的にしか把握できず、意味解釈や動機の解明によっては説明できないか、またはせいぜい断片的にしか説明できないところの、知覚不能な移転をともなう過程のごく近くに位置」しているとウェーバーは言っている。

山之内氏は、このウェーバーの発言を次のように説明する。「伝統的行為とカリスマ現象を分析する場合、意識過程に準拠する意味理解の方法の適用は明らかに限界がある。これらの諸現象については『知覚不能』な無意識的エネルギー、つまりは身体に根ざす文化以前的ないし意味以前的な力の働きを考慮せざるを得ない。…‥ウェーバーは死の直前において‥‥、彼の理解社会学によって解明できる範囲は限られたものでしかないことを公表していたのです。‥‥人間の歴史をつき動かしてきた力には、マルクスがいうところの生産力とは質を異にし、さらにまた、ウェーバーが生涯を通じて解明に取り組んできた宗教的救済に向かう観念の力とも違うところの、いま一つの力が働いている。それは身体に源をもつ力である。ウェーバーは歴史において働く力の中に、この混沌たる無規定的なエネルギーの働きがあることを、最終段階において、はっきりと確認したのでした」と。

山之内氏によると、死の直前において、ウェーバーは、「ついに『知覚不能』な身体領域に目を向けざるを得なくなった」「カリスマという不定形な力に注目し、それがもつ変革の力量に関心を集中していった」のである。

この本能的で無意識的な領域とは、「呪術」の世界と重なり合うものである。「呪術」を行う者の持つ能力は、非日常的・超人間的な能力である。それは、伝統的に神や霊魂による能力とされてきた。その能力を「カリスマ」と呼び、またカリスマとは「呪術」的な能力であるということができるだろう。

カリスマは、生命的・無意識的な領域に源を持つものであり、身体や生命や霊魂と関係を持つ。もともと身体や生命は理性とは異なる領域であり、近代西欧の数理的で機械論的な思考は、それらを思考の対象から排除して進んできたのである。

カリスマは、合理化する近代社会においても、時折、出現する。それは、合理的抽象的に制定された実定法の体系や、専門的訓練を受けた行政官僚による官僚制支配と、相容れないものではない。逆に合理主義的な制度・組織の上に立って、国家や社会を支配する力として働く。カリスマ的な指導者や経営者が、官僚集団を指揮して、国家や企業を発展させてきているのである。

山之内氏によって、ウェーバーは「機械的・本能的」領域、無意識的生命的なエネルギーに注目していたことを述べた。人類史の初期段階においては、「機械的・本能的」領域が圧倒的な力を発揮していたが、「その後の発展段階」においても、この領域は意識領域と並んで作用しており、意識領域との間で「不断の共働作用」を営んでいると、ウェーバーは見ていた。ウェーバーは、晩年にいたって、かつて近代西欧が「呪術の園」として追放したはずの領域について再考察しようとしていたのだろうか。

この無意識の領域の研究に本格的に取り組んできたのが、深層心理学である。

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(1)ウェーバー著『社会科学の根本概念』(岩波文庫)

(2)山之内靖著『マックス・ウェーバー入門』(岩波新書)

 

12)トッドの近代化論と心の深層

 

 フランスの人口学者・歴史学者・家族人類学者であるエマニュエル・トッドは、著書「帝国以後」(1)において、「心の近代化」の主要な成分は識字化と出産率の二つとする。識字化とは、読み書き計算ができるようになることである。西欧においては、識字化によって大衆が聖書を読めるようになり、宗教改革が広がった。これは、私のいう文化的近代化に当たる。近代化が最も早く起こったのは文化的な領域であり、心の世界、宗教や思想の部分から西欧の近代化が始まった。それゆえ、大衆の識字化は、近代化の推進力となったのである。

トッドによると、識字化はほとんどの社会で、男性から始まる。識字率がある水準に達すると、その国では近代化が始まる。この変化は平穏で幸せな伝統的社会との訣別であり、親の世代との断絶である。そのため、政治的不安定が起こり、しばしば暴力と狂信が高揚する。イギリス市民革命、フランス革命やロシア革命等がそれである。トッドは、これを移行期の危機と呼ぶ。私見によれば、若者の世代を中心に、伝統的な世界観・価値観から新しい世界観・価値観へと変化するわけである。この時、宗教・思想の対立だけでなく、政治的な権利をめぐる闘争が起こる。これは、近代化が文化的領域から政治的領域に広がったものである。すなわち政治的近代化に当たる。

トッドによると、識字化は、やがて女性にも及ぶ。読み書き計算の能力を持つことで、女性が個人としての自覚に至ると、受胎調節を行なうようになる。出生率が低下し、子供の数が減少する。その結果、家族構造に変化が及ぶ。大家族が分解し、核家族化が進む傾向となる。また父親の権威が低下し、個人主義的な考えが広がる。これは、社会的近代化に当たるとともに、文化的近代化の進行でもある。トッドによると、出生率の低下は、政治的な安定をもたらし、自由主義的な民主主義の普及に結果する。これは、政治的近代化の一側面となる。

私見によれば、合理的な産業経営は、読み書き計算の能力を必要とする。それゆえ、識字化は経済的近代化を進行させる。また大衆の識字化は、機械工業に従事し得る労働者を多数生み出す。労働者のうち、能力の高い者は、経営者となって、経営管理・技術開発・意匠創作等を行なう。こうして、識字化は資本主義的な生産活動を発達させ、経済的近代化が進行する。

トッドは識字化と出生率の低下は、「心の近代化」の主要な成分だという。私見によれば、「心の近代化」は、人々の精神面において、目的合理的かつ形式合理的な思考・行動が広がっていくことである。こうした心理的・精神的変化は、「生活全般の合理化」を進展させる。それゆえ、近代化=合理化は、読み書き計算の能力の習得あってのものと言える。

 上記のように、トッドの理論と主張は、近代化論に新たな視点をもたらすものである。トッドは、近代化が世界的に進行するとし、世界的近代化が人類の人口を均衡に至らせ、世界に政治的な安定をもたらすと予想している。しかし、トッドのいう「心の近代化」は、私の見るところ、心の表層における現象に過ぎない。心の深層には、近代化=合理化し得ない広大な領域が存在する。心の表層において近代化が進み、世界が近代化されたとしても、心の深層を理解し、人間の全体的な成長・向上を目指さないと、真の世界平和と自然との調和は実現し得ない。

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(1)エマニュエル・トッド著『帝国以後』(藤原書店)

 

 

 

2章 抑圧された無意識の力

〜ユングの視点

 

1)無意識の発見による視点の転回

 

無意識の発見は、合理化する近代西欧における重大な出来事だった。そして、心の近代化、つまり合理主義の進展に対する異質なものの出現だった。

無意識の領域は、病者の治療に当たる精神科医によって発見された。そして、臨床的な研究を通じて発達したのが、フロイトやユングらによる深層心理学である。ウェーバーはフロイトと同時代人だが、深層心理学については、詳しく研究することなく、1920年に亡くなった。その後大きく発展した深層心理学の視点から、西欧の近代化の原因と過程を見直すと、ウェーバーの視点では見えなかったものが浮かび上がってくる。

ジークムント・フロイト(1856-1939)は精神病の臨床医だった。彼はヒステリーや神経症の治療を通じて、人間の諸行動を規定する真の動機は無意識である場合が多いと考えた。そして、人間の心を、「意識」「前意識」「無意識」の三つに区別した。このうち最も広大なのは、「無意識」である。「無意識」の存在は、ただ推論されるか、本人自らの抵抗を克服してはじめて意識化されるものであり、日常では失錯行為と夢とにその片鱗をのぞかせるにすぎない。

フロイトは後年、意識の三層説をさらに発展させ、 「エス (イド)」「自我」「超自我」という心の構造論を提出した。

「エス」は、生まれたばかりの新生児のような、未組織の心の状態である。時空間を知らぬ本能のるつぼであり、「快楽原則」によって支配されている。

「エス」が外界と接触する部分は、特別な発達を示し、「エス」と外界とを媒介する部分となる。これが「自我」と名付けられる。「自我」は、母体である「エス」とは正反対の性質を備えるにいたる。すなわち、合理的・組織的で、時空間を認識し、「現実原則」に従う。

この「自我」の一部として形成されるのが、「超自我」である。フロイトによると、子どもは「エディプス期」という父親の存在に対して葛藤する時期を経験する。この時期を通じて、両親像が心の中に摂取されて内在化して、「超自我」が形成される。「超自我」は、両親を通じて内面化された社会的な道徳や規範の意識に相当する。

「エス」と「自我」に関し、「快楽原則」と「現実原則」について触れたが、この点を少し補足しておこう。人間の心は、緊張に基づく不快を回避し、緊張を低下させることによって快感を得ようとする。新生児は、この「快楽原則」のみに支配されているが、「自我」の発達につれて「現実原則」が優位を占めるようになる。「現実原則」とは、外界の現実に適応しながら、無理なく不快な緊張を解消し得るように、緊張解消を延期したり、多少我慢したりしつつ、最後には快感に達することを目ざすものである。フロイトは人間の発達上、「現実原則」の支配を重要視し、「現実原理」の確立こそ成人の健康人の条件であるとした。

「エス」は「無意識」に、「自我」は「意識」に対応する。「快楽原則」に支配されているのが「エス」であり、「現実原則」に従うのが「自我」である。それゆえ、フロイトは、「無意識」を、生物学的・衝動的なものであり、「意識」によって洞察され、打ち克たれるべきものと考えた。「意識」としての「自我」とは、本能に対する理性であり、理性的な自我意識である。

心の近代化、つまり合理主義の進展は、フロイトの心的構造論では、「自我」において、主に進行する。フロイトは、理性的な「自我」を中心として、「意識」が「無意識」を支配すべきものとする。合理化を担う心の機能は、「自我」であり、合理的な自我意識が、非合理的な無意識を支配していくのが、合理化の過程といえよう。それゆえ、フロイトの考えは、近代西欧の合理主義の枠内にある考え方である。(1)

これに比し、ウェーバーは、近代西欧の合理主義の限界をみすえていた。ウェーバーは、生命的・本能的な領域に注目していた。そこは、フロイトにおいては、「エス」に当たる。フロイトにおいては、無意識的な「エス」は、意識的な「自我」に支配されるべきものでしかない。しかし、ウェーバーは、「エス」的な無意識の領域に、カリスマが潜在していることを見落とさなかった。彼は、世界の政治や宗教の歴史において、生命的本能的な領域に根源を持つカリスマが、非常に重要な役割を果たしてきたことを知っていたからである。こうしたウェーバーの関心は、ユングの研究領域に接している。

カール・グスタフ・ユング(1875-1961)は、フロイトの最大の弟子だった。彼は、師と見解を異にし、「無意識」を「意識」によって支配すべきものとは考えなかった。むしろ、「無意識は超個人的な文化的人類的生命につらなる、創造的なもの」であり、「個々人の精神活動は、無意識から生命エネルギーを得て、創造性を発揮する」と考えた。これは、フロイトの理性的自我意識を中心とする合理主義の枠を出る考え方である。

ユングによると、心には、「意識」「個人的無意識」「集合的無意識」の三つの水準がある。フロイトのいう「無意識」は、このうちの「個人的無意識」のことである。ユングは、「個人的無意識」の底に、個人を超えた「集合的無意識」を想定した。「集合的」とは、個人だけではなく、民族・人類などに共通する無意識という意味である。そして、ユングは、夢や精神病者の妄想、さらに神話、民話、芸術、宗教などに共通して現われる主題は、「集合的無意識」に由来するものだと考えた。「集合的無意識」が働くときには、特有のイメージが現われる。ユングは、それを「元型的イメージ」と呼んだ。「元型的イメージ」は、無意識の内容となるものである。「元型的イメージ」には、影、アニムス(女性における男性性)、アニマ(男性における女性性)、老賢者、永遠の少年、万物の偉大なる父、大いなる母、マンダラ(本質・自己)などがある。

ユングによると、人間の心は「意識」と「無意識」の相補作用による自動調節的な体系である。彼は、「意識」の中心点を「自我」と呼び、「心」の中心を「自己」と呼ぶ。理性的な自我意識が、心の中心なのではなく、本当の中心は、その底の方にあるというわけである。

ユングの精神療法は、個人が意識的な「自我」の閉じた殻を突き破って、根源的な「無意識」の領域をも統合した全体的な「自己」を実現することを目指した。これを「自己実現(Self-realization)」という。ユングのいう「自己」は、根源的で人類的な「集合的無意識」に根ざしている。そして、「自己実現」は、各個人の「意識」の奥にある「本来的自己」が象徴や隠喩を通じて自覚化されていく過程である。ユングは、個体としての自我意識の根底に潜在している本来的自己が顕現し、われわれの自我がそれと一体化することを、「個性化(Individualization)」と呼ぶ。「個性化」と自己実現は、ユングにおいては不可分のものである。ユングのいう「自己」は、東洋思想にいう「真我」「自性」に類する概念といえよう。西欧思想では、新プラトン主義や錬金術における、内在する「神性」に近いだろう。

フロイトの理論が近代合理主義的であるのに対し、ユングの理論は合理主義の枠を超えている。あるいは、合理主義を、それが生まれ出てきた母体に戻し、基礎付ける可能性を秘めたものともいえよう。近代西欧の合理主義は、ここに相対化されることになった。心の近代化の進行の中で、近代化されえない領域の存在とその重大性が、示されたのである。

ユングは1961年(昭和36年)に亡くなった。ユングは生前、風変わりな主張をする心理学者と思われ、あまり評価されなかった。彼が世界的に高く評価されるようになったのは、彼の死後、1960年代からである。彼が発見した集合的無意識の存在が広く認められるようになり、集合的無意識の存在を背景にした自己実現の追求が、現代人の課題として認識された。ユング心理学は、その後、アブラハム・マズローの人間性心理学やスタニスラフ・グロフの精神分析と結びつき、トランスパーソナル学(超個心理学)によって継承・展開されている。この点は、第3章で詳しく触れることにする。

続いてここでは、心の近代化の過程について、表層を中心として見るウェーバーの視点から、深層を中心として見るユングの視点へと、眼を転じることにしよう。

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(1)フロイトについては、拙稿「フロイトを超えて〜唯物論的人間観から心霊論的人間観へ」をご参照ください。

 

(2)ユング心理学から見た西欧の近代化

 

西欧の近代化の歴史は、ウェーバーによると「世界の呪術からの解放」に始まった。言い換えると、「呪術の追放」の過程だった。

ウェーバーは、「呪術」について、主にカトリックにおけるサクラメント(秘蹟)の否定という事実に注目した。ウェーバーは、こうした象徴的儀式を「呪術」とみなし、「呪術の追放」を西欧の近代化、すなわち全般的合理化の過程の出発点と認識した。そして、西欧は今や「普遍的意義と妥当性」をもつ人類的理念に基礎をおく新しい歴史的段階に到達したと考えた。

ユングは、宗教改革におけるサクラメントの否定ないし空洞化が西欧の近代化に決定的役割を果たしたという認識においては、ウェーバーと一致している。しかし、ユングは「呪術の追放」によって、西欧人は人間性にとって本質的なものを見失ったと考えた。そのため西欧人は、次第に集団的な精神異常の兆候を表わし、世界大戦やナチズム、核兵器の開発などによって、全人類の運命をも左右することになったと考察した。

ユングは、『心理学と宗教1937)と題した講演で次のように述べている。

「第1次大戦の破局と、それに続いて起こった精神の根深い欠陥を示す異常な症状によって、一体、白人種の精神というものは健全なのだろうかという疑いが起こらざるを得なくなったのである」

「宗教改革以来、プロテスタンティズムは宗派の分裂の温床になり、それと同時に科学と技術の急速な進歩が人間の意識的な心をとらえてしまい、意識は無意識の制しがたい諸力を忘れ去ってしまった」

「プロテスタンティズムは偉大な賭けであるとともに、偉大な機会だったし、現在もそうである。しかし、もしそれが教会として分裂的傾向を続ける限りは、それは必ず無意識の中にあって解放を待ち受けている諸力のむき出しの経験から身を守ってくれるあらゆる精神的安全保障や防御手段を、人間から奪い取ってしまうに違いない」と。(註1

「精神的安全保障や防御手段」とユングが呼ぶものは、象徴や象徴儀礼などのことを言っている。そして、ユングは、「呪術の追放」によって、人間から象徴的なものを奪うことの危険性を示唆している。

ユングの所論について、哲学者・湯浅泰雄氏は、わかりやすく整理して述べている。氏の著書を導きとさせていただく。(註2

湯浅氏は、ユングの所論を踏まえて、次のようにいう。「ウェーバーは、呪術儀礼から解放され、自己責任の倫理が確立したことをもって、近代ヨーロッパの出発点とみなした。深層心理学的にみれば、この過程は、内心の精神的苦悩や道徳的葛藤に対して、神の応答を得て魂の慰めと救済を得る手段が、一切失われてしまったことを意味するのである」と。

前にも書いたが、ルターやカルヴァンによって、カトリック教会による恩寵の制度が否定された。それによって、人々の来世の運命は全く不確定なものになった。個人の精神のおそるべき内面的孤立がここから生まれる。今や人間は、人生の究極の問題である死後の救いについて、教会から救いを得ることができない。

湯浅氏は言う。プロテスタンティズムにおいて、「人間は今や、教会と聖職者という制度を介せず、ただ自己の内面的良心において神の裁きに直面する。……自己の行為に対する個人の道徳的責任が非常に強められる。特に重要なのは、教会が与えるサクラメント、中でも告解(懺悔)による罪の許しと、ミサによる魂の救済の制度が否定されたことである。カルヴァンの予定説に従えば、各人の霊魂の運命は変更不可能な神の決定に基づくものであって、告解のような儀礼的手段によっては、犯した罪の償いや神の救済にあずかることは決してできない。また人間は、そもそも神の決定内容すら知ることができないのである」

そこに、神からの選びを確信できるのか、という抑えがたい不安が生まれてくる。その不安から逃れるには、神の道具となって、地上に神の意志を実現することに徹する以外にない。与えられた職業を天職として労働に努め、禁欲的な日常生活を行なうことによって、救済を自己確信するしかない。

こうしたプロテスタンティズムの倫理の深層心理学的な意味を、湯浅氏は、次のように考察する。

「カルヴァン的な道徳的禁欲の態度を確立することは、心理学的にみれば、日常的経験の場における自我意識の統制を強化し、無意識下から現われてくる情念(不安)を意識下に追放し、抑圧することを意味する」。

しかし、「深層心理領域のエネルギーは、人間をヒステリー、神経症、精神病的人格崩壊に陥れるほどの強烈なポテンシャルを蔵したものである。その力にとらえられるとき、人は一種の自我膨張の状態におちいる。意識の能力が堪え得ない大きな力とエネルギーに振り回されるのである。

東洋的瞑想の方法や伝統的呪術儀礼に見出される多様な象徴の体系は、魂の深層領域の光景に対する指示であるとともに、その奥に蔵されたエネルギーのポテンシャルを暴力的形態から温和な形態へと引き下げ変換することによって、悪魔的暗黒領域の力を克服し、意識と無意識を統合した魂の全体像を実現する手段なのである。ヨーロッパ世界では、古代以来徐々に築き上げられてきたキリスト教会の儀礼制度がこれと同じ役割を果たしてきたのである」

ところが「ウェーバーのいわゆる『呪術の追放』は、この魂の危険に対する『防御壁』を取り払ってしまったことを意味する。近代ヨーロッパはここに至って、ヨーロッパ的人間の魂の底に潜在する暗黒の情念をコントロールする手段を全く失ってしまったのである。ここに『呪術の追放』の重大な心理学的また精神史的意味がある」

湯浅氏は、次のように述べる。「日常的意識の次元との交流の道をふさがれた無意識領域の力は、暗い情念となって蓄積し、どこかに現われようとする。しかし宗教的儀礼形式はその価値を否定され、あるいは空洞化されているために、そこで情念が宥和される道はすべて閉ざされている。

したがって、無意識領域から突き上げられてくる暗い情念の力は、休みない禁欲的労働(資本主義化)に没頭することによって発散させるか、戦争と革命と階級闘争という暴力的形態をとって解放させるほかない」。

「ヨーロッパ近代の歴史が、キリスト教世界内部における新旧両派の宗教戦争から始まり、革命と階級闘争と国民戦争に至るおそるべき相貌を呈するに至る心理的原因も、そこに求められるのではないであろうか」と湯浅氏は問い掛ける。

すなわち、近代西欧の精神史は、ウェーバーの視点から表層を見れば人間的理性と自我意識の勝利のように見えるけれども、ユングの視点から深層に目を向けると、五感に基づく理性ではとらえきることのできない無意識の力を制御できすに進んできた歴史であることが浮かび上がってくる。ページの頭へ

 

(1)ユング著『心理学と宗教(人文書院)

(2)湯浅泰雄著『ユングとヨーロッパ精神『ユングとキリスト教(人文書院)

 

3)自然崇拝・祖先崇拝の否定

 

ユングは、ウェーバーによって「呪術の追放」と呼ばれた出来事について、宗教改革の時代より、さらに西欧精神史をさかのぼって考察した。

第2次世界大戦の直後に出された『現代史によせて』(1946)所収の『破局の後で』という小論において、ユングは次のように述べている。(註1

「白人は、人類の歴史始まって以来、はじめて、自然の根源的な霊力をみな腹中に飲み下すことに成功した」。キリスト教は、ゲルマン神話の神々を天上から引き摺り下ろした。神々は権威を失い、山野等に出没する「地上のデーモン」(精霊)になっていた。しかし、「おいおい科学による啓蒙の影響が強まると、見る間に縮んでみすぼらしい残骸をさらしたが、やがてはそれさえ消えてなくなった。太古以来、自然は常に霊に満ちたものと考えられてきた。今はじめて我々は神々も霊もない自然の中に生きているのである」。「自然はそれらの霊をなくしたけれども、それらのデーモンを創り出した心の条件は、かつてと少しも変わることなく生き続けている。デーモンたちは実は本当に消滅したわけではなく、ただ形を変えたにすぎない。つまり今日では無意識の心的エネルギーとなったのである。この吸収過程と手をたずさえて、自我の肥大がますますつのってきた。ほぼ16世紀ごろから、このことは顕著に見られるようになった。‥‥なるほど幽霊はすっかり追い払ったつもりでいたが、納戸や廃墟に出なくなった代わりに、一見正常なヨーロッパ人の頭の中にさまよい出ることになった。暴君じみた、憑かれたような観念や、熱狂的で盲目的な観念が人々の間に広まり、しまいにはまさしく狂人そのままに不合理なことを信じ込むようになった」。

全体的に象徴的・暗示的な表現であるが、最後の数行は第1次大戦やナチズムを含意していることがわかるだろう。

次にこうしたユングの所論を踏まえながら、キリスト教改宗以前からのヨーロッパ文明の歴史を概観してみよう。

私の見方では、ウェーバーが考えたよりも遥かに早く、「呪術の追放」への道はつけられていた。そして、そのことが近代西洋文明に重要な特徴を与えている。

近代西洋文明のもとになるヨーロッパ文明の三大要素は、ギリシャ=ローマ文明、ユダヤ=キリスト教、ゲルマン民族の文化である。ヨーロッパ文明の担い手となったゲルマン民族は、ウェーバーのいうところの「呪術の園」に暮らしていた。彼らが持っていたのは、世界各地に広く見られる原初的な信仰だった。それは、わが国の神道に通じるような多神教的な信仰だった。ところが、ゲルマン民族は、4世紀のローマ文明末期にヨーロッパに住み着き、キリスト教に改宗する過程で、それまで持っていた世界観を失ったのである。

その世界観は、アニミズムと呼ぶことができる。アニミズムとは、一言で言えば精霊信仰である。自然界のあらゆる事物には、霊魂や精霊が宿り、諸現象はその意思や働きによるものとみなす信仰である。その信仰の要素に、自然崇拝がある。自然崇拝の形態の一つが、巨木崇拝である。日本の神社には今でもしめ縄を張った神木があるが、古代のゲルマン民族にも似たような信仰があった。森の中の大きな木を、神木として崇めていたのである。これは、世界に広く見られる「世界木」または「生命樹」に通じるものだったのだろう。「世界木」は世界や宇宙の全体を表わすものあり、また天と地をつなぐものという象徴的な意味を持っている。

ゲルマン民族はキリスト教に改宗させられる過程で、巨木崇拝を否定された。8世紀の伝道師ボニファティウスは、ゲルマン人の信仰の対象を破壊した。ゲルマンの雷神トールの神木である樫の木を、彼らの目の前で切り倒してみせたのである。ボニファティウスは、キリスト教の神の力がゲルマンの神よりも強力であることを示して、改宗させたと伝えられる。改宗によって、ゲルマン民族は自然崇拝を失った。自然は崇拝すべきものではなく、人間とともに神の被造物であり、神の似姿として造られた人間が利用すべきものという考えが生まれたのである。

キリスト教への改宗でもう一つ重要なことは、祖先崇拝を否定したことである。祖先崇拝とは、祖先の霊を祀り、霊的に交通することである。祖先崇拝は、シャーマニズムの要素となるものである。シャーマニズムは、祖霊や精霊と接触・交流する能力を持つシャーマンを中心とする信仰である。

英語学者で優れた比較文化論者・歴史家でもある渡部昇一氏は、次のように書いている。「ゲルマン人の元素神にガウタズがいる。ガウタズは『精液を注ぐもの』という意味で、創造の神である。この神話は、古事記の国生みの神話とイメージが通じる。イザナギ、イザナミノ命という男女ニ神は、その矛の先から滴り落ちる塩水によって日本を造った。その後、男女の原理で多くの神々が作られ、それがゲルマン諸族の王家となるというのも古事記そのままである」と。(註2

渡部氏のいうように、わが国の神話では、イザナギとイザナミの二神によって国土や神々が生み出された。神々の中で太陽神・天照大神が、皇室の祖先と信じられている。それゆえ、皇室と神々とは、連続している。古代ゲルマン神話でも、日本と同じく、神の系図と王の系図の間には切れ目がない。ゲルマン人の系図では、先祖は途中から神になってしまう。どの部族にも祖先神があり、王はその子孫だった。

ところが、キリスト教では、神がアダムを「土」から作ったと教える。神と人とは断絶している。そのためキリスト教に改宗したゲルマン民族において、神と人間は断絶してしまった。こうした人間観は、自然との連続意識、一体感を失わせる。自然は人間の帰るべき母体ではなく、対象化し、利用すべきものとなった。科学革命の旗手フランシス・ベーコンやデカルトの思想はこの延長上に現われる。

家族や氏族は、共通の祖先を祀ることによって、互いの結合を維持する。ところが、ゲルマン民族では、キリスト教によって、祖先崇拝は偶像崇拝として排斥された。渡部氏によると、「古代ゲルマン人も、古代日本人と同じく、霊魂の不滅を信じた。死んだ先祖がまだ生き続けて、自分を見ているかのように感じる先祖意識があった。死後、自分の父母や祖父母や先祖の霊と再会する。ところが、キリスト教では、親や先祖の霊ではなく、神やキリストに対面することが強調される。しかも、死後自分一人で絶対の力を持つ全能の神と対決する。このキリスト教の原則は、家族中心であったゲルマン人の心を『家』を絶対視しない個人主義へと真底から変えていった。西洋人の個人主義の根源は、まさにこの点にある」。

アニミズム的・シャーマニズム的な自然崇拝・祖先崇拝が否定されたことによって、西欧では、プロテスタンティズムの出現以前から、「呪術の追放」への道がつけられていたのである。キリスト教への改宗の過程で、ゲルマン民族は、それまでの自然崇拝・祖先崇拝を否定された。それは、我が国の神道と通じる根源的なものを失ったということである。西欧は、こうした世界に広く見られる精神文化を否定・排除することによって、世界の諸文明の中で特異化していった。その特異化の先に、近代文明が誕生し、近代化・合理化が進行することになる。叙述の都合上、本項では、キリスト教への改宗と書いてきたが、これは、ユダヤ=キリスト教への転換である。キリスト教を通じて、その根底にあるユダヤ文化が同時に流入・伝播したのである。

中世の段階では、ユダヤ=キリスト教化によって、自然崇拝・祖先崇拝が完全に消滅したわけではない。アニミズム的・シャーマニズム的な要素は、文化の中枢から周縁に押しやられ、表層からは消えたが、民衆信仰の中に残っていった。これに対し、中世のカトリック教会は、こうした信仰が社会の底辺に存続することを黙認し、それを取り込んでいく寛大さをそなえていた。

ところが、こうした非ユダヤ=キリスト教的な民衆信仰を攻撃したのが、宗教改革だったのである。ページの頭へ

 

(1)ユング著『現代史に寄せて(『ユングの文明論思索社所収)

(2)渡部昇一著『歴史の読み方(祥伝社)

 

4)「呪術の追放」とは何を追放したのか

 

16世紀に現われたプロテスタンティズムは、キリスト教の中から「呪術」を追放した。またそれだけでなく、民衆の中に受け継がれていたアニミズム的・シャーマニズム的な信仰を駆逐した。

ウェーバーは、主としてカトリックにおけるサクラメント(秘蹟)の否定という事実に注目した。サクラメントの中で最も中心となるのは、ミサである。ミサでは、パンとワインを用いる。これらは、イエス=キリストの肉体と血を象徴するものとされる。パンとワインを使用することによって、イエスの磔刑による死と復活を象徴的に再現し、追体験するのが、ミサの核心であろう。ウェーバーは、こうした象徴的儀式を「呪術」とみなしている。しかし、これは、本来の意味の「呪術」より、かなり拡大的な用法である。

呪術的であることと、象徴的であることとは、必ずしも一致しない。呪術は、超自然的な方法によって、目的とする現象を起こそうとするものである。そこでは、対象に客観的な変化を生み出す現実的な効果が期待される。これに対し、象徴的な儀式は、特に客観的な変化を目指さない。主観的な意味の変化による心理的な効果をもたらすのみである。この点を踏まえて、ウェーバーの理論を見直す必要がある。

ウェーバーが読み得た「呪術」についての研究書に、J・G・フレイザーの『金枝篇』(1890)がある。『金枝篇』によると、呪術の理論の基本法則は、ただ一つである。それが「共感の法則」である。「共感の法則」とは、「接触したもの同士には、何らかの相互作用(共感)がある」という法則である。この法則を原理として、フレイザーは、呪術を、類感呪術と感染呪術とに分けた。類感呪術は、「似たものは似たものを生む」という類似の原理に基づくものである。雨乞いのために、火をたいて黒煙を出し、太鼓をたたき、水をふりまくのは、雨雲・雷・降雨の模倣である。もう一つの感染呪術は、「以前一つであったもの、または互いに接触していたものは、別れた後でも神秘的なつながりが存在する。よって、片方に起った事は、他方にも影響を与える」という考え方に立つ。(註1

呪術は、人間同士だけでなく、人間と自然界の事物の間でも行われる。それは、人間だけでなく自然界の事物にも、心ないし意思があるという前提に基づく。そして、人間とそれらの間に「共感の法則」による相互作用を考えるところに、呪術が成立する。

つまり呪術の根底に存在するのは、アニミズムの世界観なのである。アニミズムは精霊信仰であり、自然界のあらゆる事物には、霊魂や精霊が宿り、諸現象はその意思や働きによるものとみなす信仰である。アニミズムでは、人間と霊的存在の間に絶対的な断絶はなく、根底においては連続していると考える。こういう考え方は、近代化される以前の社会・文化には広く見られるものである。

太古の人間は、自然界の様々な霊的存在と交信でき、それらによって自分たちが生かされていると感じていた。しかし、文化が発達し、人間同士の関係を重視するにつれて、その霊的能力の必要性は薄れ、失われていった。そのために、共同体の中で特殊な能力を持った者のみが、霊的交通を担うようになる。それがシャーマンまたは呪術師である。彼らは、人間と自然をつなぐ掛け橋の役割を担う宗教的職能者である。

シャーマンまたは呪術師のいる社会の信仰は、シャーマニズムと呼ばれる。シャーマニズムは、シベリアのツングース族が行う呪術的宗教様式を指すために、宗教学者のミルチャ・エリアーデが使った学術用語である。シャーマンは、精霊や祖霊などと直接的に接触・交流し、その力を借りて、託宣・予言・治病などを行う。現在では、もっと一般的に、こうした能力を持つ職能者によって営まれる信仰形態を、広くシャーマニズムと呼ぶ。

シャーマニズムとアニミズムが共存している社会も多く、そのような社会においては、シャーマンの存在が、アニミズム的な信仰の中心となっている。それゆえ、シャーマニズムは、制度化され、体系化されたアニミズムであると考えられる。

中世の西欧は、世界の他の多くの地域と同様に、民衆がアニミズム的・シャーマニズム的な世界観を持っていた。西欧の民話や童話に見られる精霊や妖精の物語は、その世界観の反映である。そこでは、人間と動物が会話したり、樹木がものを言ったりする。シャーマンまたは呪術師のような職能者がいたかどうかは、わからない。しかし、この科学の発達した現代においても、多数の人の中には、霊感や霊能の強い人がある。民間療法のような治病の業をする人もいる。そういう特殊能力者が、西欧中世の社会にもいたに違いない。そして、彼らは「共感の法則」に基づく呪術を行っていたと考えられる。

ウェーバーのいう「呪術の追放」は、こうした広い意味での呪術、むしろより正確に言えば、アニミズム的・シャーマニズム的な文化を追放しとうとしたのである。ページの頭

 

(1)フレイザー著『金枝篇』(岩波文庫)

 

5)魔女狩りの中で、合理主義が誕生した

 

キリスト教の宣教によって、ゲルマン神話の神々は権威を失い、山野に出没する精霊のような存在となった。しかし、民衆の間では、なおこうした神話的・土俗的な信仰が保たれていた。

湯浅氏は次のようにいう。「中世までのキリスト教はその正統的論理を民衆の底辺まで貫徹させることなく、ヨーロッパ的人間の心の奥底にひそむ異教的魂を黙認し、それを馴化していく寛大さと智恵を心得ていた」(註1

キリスト教では、ローマ帝国の時代から教義を巡る厳しい論争があり、異端にたいする問責・処断が行われていた。中世の後期にあたる12世紀の後半から、独特の制度と目的をもった異端審問が登場した。13世紀には、正式に異端審問制度が発足し、深刻な事態に変容した。イタリアでは、14世紀からルネサンスが起こり、16世紀にかけて西欧に広がっていった。ルネサンスは、ヨーロッパ文明が近代へ移行していく一つの文化的な現象である。ところが、ヒューマニズムの旗を掲げたルネサンスの最盛期には、社会的不安に由来する魔女恐怖が表面化し、魔女狩りの旋風が吹きまくった。

魔女とは、特異な能力をもった女性であり、妖術を行うと信じられていた。そして、疫病・悪天候・凶作などをもたらすと考えられた。しかし、霊能のある人は、この科学時代の現代の社会にもいるし、昔から自然医学的な医師は人々の病気治療を行っていた。キリスト教改宗以前の西欧には、占い師・巫女・薬剤師といった職能者がいたのである。

ところが、中世後期以降、西欧では、常人とは違う能力をもつ女性が断罪の祭壇にまつりあげられた。多くの女性が犠牲となった。ちなみにジャンヌ・ダルクも英仏百年戦争の中で、1431年、魔女と呼ばれて焚刑に処された。イタリア・ルネサンスは14〜15世紀のことゆえ、同時代の出来事である。

中世後期から近代初期の西欧は、異端排撃や魔女狩りに集団的熱狂を示した。集団ヒステリーであろう。ユングは、第1次大戦やナチズムに、集団的な精神異常を見たが、既に異端排撃や魔女狩りに前例があったのである。

ルター・カルヴァンらが宗教改革を起こしたのは、魔女狩りの最中のことだった。ルターはカトリック教会のサクラメント(秘蹟)の効果を否定した。ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理を高く評価したが、実はプロテスタントはカトリック以上に、頑迷で熱心な魔女裁判官だった。たとえば、ドイツで魔女狩りが苛烈になったのは宗教改革時代からであり、それも新教徒の手によって始められた。

プロテスタンティズムには、キリスト教の再ユダヤ教化という側面がある。プロテスタントは、腐敗したカトリック教会の権威を否定し、聖書信仰に徹しようとする。そのことによって、もともとユダヤ教の聖典である旧約聖書の影響を色濃く受けることになった。古代ユダヤ教は、徹底して偶像崇拝を否定し、自己民族の神以外を認めず、他民族の宗教を排斥した。プロテスタントは、ユダヤ=キリスト教の神を絶対化し、人間の努力による救いを否定した。また聖母マリア崇拝を偶像崇拝として否定した。こうした排他性・戦闘性が、魔女に向けられた。

徹底した聖書信仰の唱導者であるルターは言っている。「私はこのような魔女には、なんの同情ももたない。私は彼らを皆殺しにしたいと思う」(『食卓談話』)。

イングランドでは、クロムウェルの清教徒革命(1649)に至って、魔女狩りは絶頂に達した。イギリスのピューリタンこそ、ウェーバーがプロテスタントの典型を見たものだったが、魔女狩りへの集団的熱狂は、理性的・合理的な信仰とは異なる心の領域からわき上がったのだろう。

宗教改革時代の熱狂は、中世のキリスト教が持っていた異教への寛大さを論理的不徹底として斥けた。ヨーロッパにおける「呪術の追放」とは、単にキリスト教の中から象徴的儀式を追放することにとどまらない。聖書信仰以外のものを「呪術」と決めつけ、非ユダヤ=キリスト教的なゲルマン神話や民俗を否定し、象徴的なもの、心霊的なものを徹底的に排撃する運動だった。その運動の一側面が、魔女狩りだった。

魔女狩りは、ルネッサンス期に嵐のように吹き荒れたが、その最盛期は、宗教改革時代と共に訪れた。ピークは、1600年を中心とした1世紀だった。この1世紀とは、フランシス・ベーコン(1561-1626)、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)、デカルト(15961650)らが生きた時代だった。魔女狩りの集団的熱狂の嵐の中で、ベーコンは、実験と観察にもとづく帰納法的学問こそが、人類に大きな利益をもたらすことを強調して、近代科学の論理学・方法論を発表した。ガリレオは、望遠鏡を製作し、木星の衛星、太陽の黒点等を発見し、地動説を唱えた。彼は、1632年に出版した『天文対話』によって宗教裁判を受け、著作は禁書となり、刑罰を受けた。デカルトは、精神と物質の徹底した二元論、数学による幾何学的な自然観などによって近代科学の理論的枠組を打ち出した。そして、17世紀後半には、ボイル(1627-1691)が物質の基本構成要素として元素の存在を認め、化学の礎を開くとともに実験科学を確立し、ニュートン(1642-1727)が万有引力の法則を発見して地動説を完成させるとともに、機械論的自然観を確立した。

宗教改革と魔女狩りの混沌の中から、西欧の近代科学と科学的な合理主義が出現したのである。ページの頭へ

 

(1)湯浅泰雄著『ユングとヨーロッパ精神』(人文書院)

 

6)啓蒙主義による自己過信

 

合理主義とは、一般に理性を重んじ、生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする態度をいう。こうした態度が実験と観察に裏づけられたものが、科学的合理主義である。

17世紀後半から、こうした科学的合理主義を基礎とする啓蒙主義が出現した。啓蒙主義は、中世的な思想を打破し、合理的な思想を確立しようとする運動である。名誉革命からフランス革命にかけての約100年間、ヨーロッパで強い影響力を振るった。啓蒙とは、啓示の光に対する理性の光を言う。啓蒙主義者は、人間的理性の尊重によって、権威主義や専制主義を批判し、合理的思考によって人間生活の進歩をめざした。啓蒙主義者には、イギリスのロック、ヒューム、フランスのヴォルテール、ディドロ、ルソー、ドイツのカント、レッシング等が挙げられる。

 啓蒙主義は、とりわけ宗教に関わる事柄において、自らの理性を公的に行使する自由を要求した。啓蒙思想における宗教思想で代表的なものが、理神論である。キリスト教の神を世界の創造者、合理的な支配者として認めるが、創造された後では、世界は自然法則に従って運動し、神の干渉を必要としないとし、賞罰を与えたり、啓示・奇跡を行ったりするような神の観念には反対する宗教思想である。近代科学が発達し、キリスト教の権威が低下する中で、キリスト教を科学と矛盾しないものに改善しようとした試みであり、信仰と理性の調和を目指し、キリスト教を守ろうとしたものである。自然宗教ともいわれる。この場合は、人間理性に基づく宗教を意味する。理神論からキリスト教を否定する唯物論・無神論も現われた。前者は有神論、後者は無神論だが、科学的合理主義という点は、共通している。

「啓蒙の完成者」といわれるカントは、経験に基づく範囲で理性による科学的認識を基礎づけるとともに、理性に従う道徳的実践を説く批判的観念論を展開した。カントは、現象は主観が経験に与えられた感覚内容を総合構成したものであり、物自体は感覚の源泉として想定はできるが、認識はし得ないとした。また西洋中世の知性に含まれていた知的直観を排除し、理性を認識能力の上位に置いた。理性は概念的思考を行う悟性を統御する主体の能力であるとする一方、最高善を目指す実践のために、神の存在や霊魂の不滅を要請して、キリスト教を啓示宗教から道徳的宗教に改善しようとした。それによって、カントは科学的合理主義と道徳的信仰の両立を図った。

カントは、理性を中心とし、心をほぼ意識に限定し、無意識の領域を論議の対象から除外した。プロテスタンティズムによる宗教の合理化は、「世界の呪術からの解放」を進めたが、「呪術の追放」は、カントによって、哲学の分野でも推進された。カントの理性に基づく道徳的な宗教は、キリスト教の合理化を進めたものである。ただし、カント自身は霊魂との交流や来世の存在を独断的に否定しておらず、誰もが経験することのできない事柄については、語るのを控えるという姿勢だった。(1)

後年カント哲学を継承したショーペンハウアーは、物自体を意志とする形而上学を説いた。インド哲学や仏教の影響を受けていたショーペンハウアーは、西洋における東洋思想への関心を高め、その理解を助ける役割をした。また脱キリスト教的な心霊論哲学の可能性を開き、キリスト教的な人間観・世界観を相対化することによって、東西の対話と相互理解を促進することにも貢献した。彼の哲学は、ニーチェやフロイト、ユングに強い影響を与えた。

18世紀の啓蒙主義は、フランスでは、唯物論・無神論を生み出した。近代科学を推進する思想家たちが、百科全書の製作に集い、急進的な革命思想を生み出した。啓蒙主義は、フランス革命の原動力となった。自由・平等の理念の下に、理性の光による変革が進められた。ところが、奇妙なことにその革命の展開の中で、過激派によって理性を崇拝する儀式が行われたり、「至高の存在」を祀る祝典が行われたりした。権力闘争の中で、自由は専制に転じ、理性は野蛮に転じ、ギロチンによる粛清や、200万人といわれる殺戮が行われた。人間理性への自信とは裏腹に、非合理的な集団心理がフランスに混乱をもたらした。ここに合理主義の矛盾の一つがある。心の近代化の逆説(パラドックス)の典型として記憶されよう。

革命の後に登場したのは、ナポレオンだった。この19世紀最大のカリスマは、周辺諸国を侵略し、欧州大戦争を繰り広げた。フランス革命の帰趨を見た後進国ドイツでは、観念の中で理性と自我の優位を追求する思想が発達した。カントの哲学を継承したフィヒテとヘーゲルは、全体知と絶対的真理を所有し得ると思い込んだ。特にヘーゲルは、理性を絶対精神として神格化し、絶対精神の自己展開としての体系的哲学を構築した。この絶対的観念論による自我の膨張の頂点から一転して、マルクスの史的唯物論が登場した。マルクス主義は、神や霊魂や死後世界を全面的に否定する。人間理性によって社会の制度を設計し、計画経済が可能だとした。これこそ、近代合理主義の極致と言える。しかし、この合理主義的な唯物論的共産主義の実験は、20世紀の世界で1億人もの犠牲者を出すことになる。

18世紀を中心とした啓蒙主義の高揚は、人間理性への自信のあまり、人間が神に成り代わったかのような傲慢に陥った。これは、宗教改革以来の「呪術の追放」が行き着きついた結果である。

啓蒙主義は、キリスト教を批判しただけではない。啓蒙主義の高揚によって、アニミズム的・シャーマニズム的な世界観が徹底的に駆逐された。ユングの言葉を再度引くならば、「太古以来、自然は常に霊に満ちたものと考えられてきた。いまはじめてわれわれは神々も霊もない自然のなかに生きているのである」。呪術の原理である「共感の法則」は否定された。それによって、自然は霊的存在に満ちた世界ではなく、単なる質料、霊魂のない物質の広がりとみなされるようになった。人間と自然との根源的な連続感は失われ、自然は人間が征服・支配すべき対象となった。自然は、科学技術と産業経営によって、欲望の充足のために利用すべき生産手段にすぎなくなった。それとともに、人間理性への自信が強まり、人間の知力でできないことは何もないかのような錯覚が生じた。

アニミズム的・シャーマニズム的な世界観や心霊的な知覚や能力の排除は、17世紀から19世紀の西欧において、徹底的に行われた。しかし、完全に消滅したのではない。人々の心の中に潜り込み、無意識の領域に隠れていったのである。それが時々、太古的なイメージとして、文学や夢や精神病者の妄想の中に姿を表わしては、また深い底へと潜んでいった。啓蒙的な理性は、自らの底で脈動する無意識のエネルギーを自覚することができなかった。ページの頭へ

 

(1)   カントと心霊論的人間観については、拙稿「カントの哲学と心霊論的人間観」をご参照ください。

 

7) 「呪術の追放」の侵略的拡大

 

さて、話はさかのぼるが、注意したいことがある。魔女狩りの嵐がヨーロッパに吹き荒れていたとき、スペイン・ポルトガルなどの西欧諸国は、非西欧社会への大規模な侵略を展開していたことである。15世紀以来、スペイン・ポルトガルが、ラテン・アメリカ、アジア、アフリカを侵略していった時、キリスト教は法王の許可によって国王による虐殺・略奪を正当化した。修道士はキリスト教の布教という目的の下に、異民族・異教徒の虐殺・支配の尖兵となった。

フランシスコ=ザビエルらのイエズス会は、アジア侵略の手先となった。インド・シナから日本に進出した宣教師達は、日本をキリスト教化する野望を抱いていた。このキリスト教の大布教の時代に、彼らの本国のある西欧では、魔女狩りが行なわれていたのである。

そして、非ヨーロッパ地域に侵出した西欧諸民族は、アメリカ大陸やアジア、アフリカで、原住民を虐殺・奴隷化し、非ユダヤ=キリスト教的な精神文化を圧殺した。ユングは、西欧人としては、早くにこの事実を率直に認めていた。彼は、『現在と未来』(1956)に次のように書いている。

「ヨーロッパの歴史を覆う、キリスト教国民による数々の残虐と大量殺戮に始まって、異郷の民族のもとでの植民地建設が犯したところに対しても、ヨーロッパ人は責任を取らねばならない」(註1

ウェーバーは、イギリスのピューリタンを、プロテスタンティズムの典型とした。ピリグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタンたちは、1620年、北米に移住し、ここで厳格な倫理的生活をした。その子孫が、ピューリタンの典型であり、ウェーバーによって資本主義の精神の権化とされたベンジャミン・フランクリンである。彼らプロテスタントは、北米大陸でも魔女狩りを行った。魔女狩りによって、非ユダヤ=キリスト教的なものの排除が行われた。それとともに、白人はアメリカの原住民であるインディアンを大量殺戮した。アフリカから強制連行した黒人を、奴隷として酷使した。北米インディアンらが持っていたアニミズム的・シャーマニズム的世界観は、キリスト教徒によって異教とみなされ、否定・排除された。ユングは、アメリカ・インディアンの酋長が「白人は恐ろしい」と言って挙げる白人の特徴が、狂人の特徴と一致すると書いている。

西欧の近代化は、西欧における内なる魔女狩りと、外なる異教徒の虐殺・支配と並行して進んだのである。ウェーバーのいう「呪術の追放」は、西欧におけるだけでなく、非西欧においても、アニミズム的・シャーマニズム的な文化を抹殺する行動だったのである。

それは、キリスト教の圧倒的な勝利をもたらしたかに見える。しかし、「呪術の追放」の徹底は、キリスト教の本質的な部分を否定することになってしまった。というのは、新約聖書は、イエスの起こしたとされる約40の奇跡談を記述している。近代西欧の合理主義、特に18世紀を中心とする啓蒙思想は、聖書の奇跡談を奇跡とは認めず、寓意的な物語と解釈した。これは、イエスの持っていたあろうなにがしかの霊的能力の否定である。言い換えると、イエスの呪術の否定であり、カリスマの否定である。こうして「呪術の追放」は、キリスト教の本質的な部分を追放することになった。これもまた、近代科学と資本主義を生み出したキリスト教の運命と言うべきものかもしれない。

呪術というと、近代化の進む社会では、迷信・非科学という見方が一般的となった。しかし、20世紀の半ばから、人間の霊的感覚や霊的な能力についての研究が進んできた。心霊科学や超心理学の発達によるものである。かつては、単なる儀式かトリックと見られていたものが、そうではなく、精神は物質に作用し、対象に何らかの検証可能な物理的な変化をもたらすことが、明らかにされつつある。旧ソ連やアメリカ・イギリスなどの諸国で、近代科学的な実験と数理的統計によって、ESP(超感覚的知覚)、すなわちテレパシー、念動、透視、予知、霊視、治癒などの研究が徐々に進みつつある。これらは、しばしば「超能力」と呼ばれるが、近代以前には、世界的に広く認められていたものである。すなわち、シャーマンや呪術師が発揮していたものが、心霊的な超能力なのである。現代人は、ようやく20世紀後半から、近代合理主義が対象から除外してきたこうした領域の重要性を再認識できるようになってきた。

しかし、15世紀から20世紀前半にかけて、近代人は、科学的実験や観察によって確かめうるもののみを信じ、それ以外のものを信じない態度を確固としたものとした。「呪術の追放」によって、神話的・象徴的な考え方を否定し、心霊的な感覚や能力を認めず、五感に基づく人間理性のみによる考え方を推し進めた。五感によって確かめ得るもののみを信じ、五感でとらえられないものは、信じない。そして、神あるいは超五感的な存在を排除し、人間中心の考え方を高唱した。

現実生活に限定された生き方は、見える世界と見えない世界、この世とあの世の掛け橋となるものを必要としないという考え方である。しかし、もとより人間の五感は極めて限られた範囲のものしかとらえることができない。皮一枚下の自分の病気の原因もわからなければ、紙一枚向こうも見通せない。近代人は、こうした限りのある五感に基づく浅薄な人知を過信した。その結果が、合理化の進展が生んだ非合理的な状況である。核兵器や地球環境破壊は、その結果の最悪のものである。現代世界の諸問題の発生源には、近代化・合理化があり、その出発点は「呪術の追放」にある。すなわち、アニミズム的・シャーマニズム的な世界観の排除にある。

ここで本稿を振り返ると、近代化は西欧で始まった現象であり、西欧の近代化は心の近代化に始まった。心の近代化とは、「呪術の追放」つまりアニミズム的・シャーマニズム的な世界観の駆逐を皮切りとして、宗教における合理的態度が形成され、合理主義が思考・行動・制度の全般を支配してきつつあることである。その進展に伴い、生活全般の合理化が進んだ。すなわち、文化的・社会的・政治的・経済的な近代化が全般的に進行してきた。心の近代化は、全般的合理化の開始点であり、また中心点である。この原因と展開を明らかにし、近代化を超克する方向を示すことが、本稿の目的である。その目的を成し遂げるには、次にニーチェとユングを見ていく必要がある。ページの頭へ

 

(1)ユング著『現在と未来』(『ユングの文明論』思索社所収)

 

8)ニーチェはニヒリズムの時代を予言

 

「呪術の追放」は、18世紀の啓蒙主義の高揚によって、一層推進されたが、民衆にまで広く徹底されたのは、19世紀の半ば以降である。ここに21世紀の今日まで直接的な影響を及ぼしている思想家が登場する。それが、ダーウィンとマルクスとニーチェである。彼らに共通するのは、闘争の思想である。

ダーウィンは進化論を唱え、マルクスは共産主義的唯物論を唱えた。彼らの思想は、近代科学的合理主義に立ち、キリスト教を否定し、同時に神や霊を認める伝統的な精神文化を否定するものであった。ダーウィンは自然淘汰・適者生存を原理とする闘争の思想を説き、マルクスは人類の歴史は階級闘争の歴史であるとする闘争の思想を説いた。ここでは、彼らの思想には立ち入らないこととし、もう一人の人物、フリードリッヒ・ニーチェ18441900についてのみ、述べることにする。ニーチェは、ダーウィン・マルクス以上に徹底した無神論を説き、「力への意志」を生の唯一の原理とする闘争の思想を説いた。

ニーチェはプロテスタントの牧師の家に生まれた。父母ともに代々牧師の家庭である。「呪術の追放」を行ったプロテスタンティズムの家系から、キリスト教そのものを否定する思想が出現したわけである。

ニーチェは、19世紀後半の西欧において、キリスト教によって代表される伝統的価値が、人々の生活において効力を失っていると洞察した。この状況を「神は死んだ」と表現した。彼は、西洋思想の歴史は、プラトンのイデアやキリスト教道徳といった、彼にとっては本当はありもしない超越的な価値、つまり無を信じてきたニヒリズムの歴史であるという。そして、このニヒリズムが表面に現われてくる時代の到来を予言した。ニーチェは、このニヒリズムを克服しなければならないと考えた。ニヒリズムが表面に現われてくる時代とは、「次の2世紀」とする。これは20〜21世紀にあたる。ニーチェは、既にその時代が到来しつつある場所を、機械文明の国・アメリカに見ていた。

ニーチェによれば、キリスト教による伝統的価値は「奴隷道徳」を体現している。この道徳は、強者に怨念や恨み(ルサンチマン)を抱いた弱者が作り上げたもので、やさしさとか温情といった言葉で形容される行動をほめあげる。しかし、こうした行動は弱者の利益にかなうものでしかない。彼はこうした伝統的価値にかわる新しい価値の創造を提唱した。

「神の死」によって人間が直面したニヒリズムを克服するために、新しい価値の創造が必要とされる。この困難な課題に耐えうるのは、人間を超えた「超人」のみである。超人は、弱者に対する強者であり、奴隷に対する君主である。超人が生み出すものは、「奴隷道徳」に替わる「君主道徳」である。超人のみが新しい価値の体現者として、ニヒリズムを克服しうる。ニーチェは「人間は動物と超人との間に張り渡された一本の綱なのだ」と言って、人間存在の危うさを強調した。

超人の価値創造力は、「力への意志」と呼ばれる。ニーチェは、神や霊や死後の世界、不可視界を否定する一方、現実世界における生を肯定し、生命の本質を「力への意志」であるとする。「力への意志」こそ、生の唯一の原理であると、ニーチェは説いた。

ニーチェは、ショーペンハウアーから深甚な影響を受けていた。ショーペンハウエルは、カントが認識し得ないとした物自体とは、意志であるとした。意志とは、盲目的な「生きんとする意志」である。この「生きんとする意志」が現象世界全体を形成する動因であるとした。インド哲学や仏教の影響を受けたショーペンハウアーは、衝動的な盲目の意志を否定することで、解脱の境地へと達することができるという思想を説いた。ニーチェは、ショーペンハウアーの意志を、否定すべきものから肯定すべきものへと逆転させた。それが「力への意志」である。

「力への意志」を原理とする思想は、ダーウィンやマルクスに共通する闘争の思想である。ダーウィンは種の間の、マルクスは階級や男女の間の、ニーチェは個人の間の闘争を説いた。

ニーチェは、デカルト以来の近代西欧哲学が確実性の拠点としてきた「自我」や「意識」を疑う。それは、人間と世界との隔たりをもたらし、人間の「究極の拠り所」を亡失させるものであるという。これに対し、ニーチェが憧れた生は、人間の「究極の拠り所」である「一にして全」であるものであった。ニーチェはこの根源的な存在を「ディオニュソス的なもの」と呼ぶ。

ディオニュソスとは、ギリシャ神話に現われる陶酔と熱狂の神であり、死して再生する神である。ニーチェは、この根源的な「一者」との汎神論的な同一化を求めていく。そして、超人のイメージと、古代ギリシャの陶酔と熱狂の神・ディオニュソスのイメージは重合していく。キリスト教的な西洋文明を批判し、西洋文明の根源を古代ギリシャに遡るニーチェは、さらに神話的な思考に立ち戻った。(註1

ニーチェには、永劫回帰という思想もある。永劫回帰とは一切のものが永遠に繰り返すという考え方で、神話的思考における「祖型と反復」(エリアーデ)に通じるイメージである。ニーチェは、永劫回帰を「無が永遠に続く」というニヒリズムととらえる。それを運命として肯定する者は、世界に意味を与える者となる。いわば無意味から有意味への反転である。このような極の反転は、神話的思考に見られる「対立物の一致」のイメージに通じる。
 ニーチェの思想は、このように複雑で、論理とイメージが混在し、矛盾を孕む。だが、その所論には鋭い洞察があり、欧米やロシアの知識人に重大な影響を与えてきた。そして、ニヒリズムという言葉は、ニーチェの思想から離れ、より広い意味で使われるようになった。ニヒリズムは、しばしば伝統的な秩序や価値を否定し、規制の文化や制度を破壊しようとする態度の意味で使われる。

ニーチェのいう根源的な存在、「ディオニュソス的なもの」は、近代西欧が否定し、退けてきた合理化し得ない領域である。すなわち、理性に対する情念に当たる。身体・生命に基礎を置くものである。これを心理学的に見れば、無意識に当たる。ニーチェは、1883年から『ツァラトゥストラはこう語った』を書いた。この書でニーチェは意識せずに、無意識の探検を行っている。ユング心理者の林道義氏の著書『ツァラトゥストラの深層』によると、ツァラトゥストラはニーチェの心である。そこには、死と再生の物語があり、影・アニマ・老賢者が登場し、自己の象徴がマンダラ(註 円や4とその倍数を要素とする象徴図)として現われる。しかし、近代人ニーチェは、理想的な自我だけが正しいとして、無意識をすべて抑圧する。そこに自我膨張の症状が現われ、肥大した自我はついに破綻する。(註2

後に改めて触れるが、ユングは、ニーチェのいうディオニュソスとは、実はゲルマン神話の神・ヴォータンのことであるという。ニーチェは、ヴォータンの子孫・ゲルマン人を「金髪の野獣」といって賛美した。この言葉は、「超人」や「力への意志」といった言葉とともに、ナチスのイデオロギーの中で悪用されることにもなった。ページの頭へ

 

(1)ニーチェ著『権力への意志』(河出書房『世界の大思想』所収)

(2) 林道義著『ツァラトゥストラの深層』(青土社)

 

9)ユングは世界大戦の時代をどう見たか

 

ニーチェは、来るべき2世紀をニヒリズム到来の時代といったが、西欧には確かに大きな精神的変化が表れた。

ユングは、第1次世界大戦から西欧は明らかに正常ではなくなったという。この大戦は「流行病的狂気にほかならない」と、ユングは1916年に書いた。こうした集団的狂気の突発は、長い西欧精神史の結果として現われたものだ。われわれが追跡してきた、キリスト教による自然崇拝・祖先崇拝の否定、「呪術の追放」による無意識の抑圧、合理主義の徹底による理性的自我意識の増強などの長い過程の結果である。

『現在と未来』(1956)において、ユングは次のように述べている。

「人間の生得そなわっている機能のどれかが、意識や意図による活動から閉め出されて損なわれると、全般的な障害が生じるものである。したがって、理性の女神の勝利とともに、現代人に一般的なノイローゼが、すなわち今日の世界の分裂に見合った人格の分裂が始まったのも、ごく自然のなりゆきにすぎない」

「文明こそが無数の心の障害や困難の源になるわけだが、それは人間が本能の基盤からますます疎遠になって根無しとなり、自分について意識的に認知できる部分、すなわち意識だけを自分だと思い込み、無意識を閉め出してしまうことになるからである」

「本能的自然からの分離は、文明人を必然的に意識と無意識との、精神と自然との、知識と信仰との葛藤にひきずりこまずにはいない。ここに至って彼の存在は二つに分裂し、意識が本能の存在をもはやないがしろにしたり、抑圧したりできなくなった瞬間に、その分裂は病理学的な様相を呈するのである」(註1

こうした人格の分裂をきたした典型が、ニーチェだろう。ニーチェこそ、臨床医ユングが診断した近代西欧人の病理を、最も早く表わした先触れだった。ユングは、ニーチェの思想が、20世紀のドイツで現実になったことを目撃した。

『現代史によせて』所収の『破局の後で』(1945)において、ユングはいう。

「第1次世界大戦よりもはるか以前から、ヨーロッパの精神的な変化の最初の兆候は現われていた。中世の世界像は崩れ去り、この世界の秩序を統べていた形而上の権威は消えてしまい、やがて今度は人間の姿で浮かび出た。ニーチェが予言したのは、ほかでもなく神の死であり、その後裔たる超人の出現であり、あの死に至る綱渡り、愚者なのである。‥‥一国民全体が、そればかりか何百万という他国の人間までが、絶滅戦争という血なまぐさい狂気に引きずり込まれた。‥‥ドイツ人にいたっては、催眠術にかかった羊さながら、精神異常の指導者に追い立てられてみずからのと屠殺場へと赴いた」。(註2

ここにいう「超人」「精神異常の指導者」とは、言うまでもない。ヒトラーのことにほかならない。

既にユングは、1918年にもこう書いていた。「キリスト教的世界観の絶対的な権威がうすれるに従って、『金髪の野獣』が地下の牢獄から首をもたげ、いつでもあばれ出てやろうと機をうかがうようになる」(『無意識について』)。

「金髪の野獣」とはニーチェの用語だが、ユングによれば、西欧人のうちなる未開人を指す。

西欧人の獣性は、非西欧社会の侵略において獰猛に発揮されたが、今度は、西欧その地、特にドイツにおいて、劇的に発現した。第1次大戦の敗戦国ドイツは、同じ白人種の間でひどい扱いを受け、極度に自尊心を傷つけられ、また経済危機による生活困難に陥った。追い込まれたドイツ人は復讐を誓い、他国への敵愾心を燃やした。その結果が、ナチズムの登場となる。ユングはこれを「民族の孤立と求心的秩序による集団化」といっている。そこまでドイツを追い込んだ西欧諸国にも、責任がある。ナチスの牙が直接向けられたのは、ユダヤ人だった。ヒトラーは、ニーチェの思想を通俗化して、利用した。差別と迫害、優位と攻撃、支配と美化等が、ニーチェの言葉で粉飾された。

ユングは、ドイツにおける集団心理について、当時の社会学・心理学の研究も踏まえて、次のように書いている。

「群集本能の激発は無意識の補償的な動きの兆候だった。このような動きが出てきたのは、民衆の意識状態が人間存在の自然法則にそぐわなくなったからである。工業化のおかげで人口の大部分は根なしの浮動層となって、大都市に集中した。この新しい存在様式――群集心理で動き、市場や賃金の変動に左右されるという存在様式が、不確かで保障のない、暗示に弱い個人を生み出したのである」(註3

同じ現象をフロイトの弟子の一人であるエーリッヒ・フロムは、有名な『自由からの逃走』において詳細に分析している。ユングもフロムの所論は承知しているが、集合的無意識の理論に基づいて考察しているところに、深さがある。

ユングは、第1次大戦後のドイツ人の集団心理の中に、集合的無意識の作用を見て取った。ユングは、「呪術の追放」によって抑圧されていたゲルマン民族の無意識が、大きく働いていると考察したのである。

キリスト教に改宗する前、ゲルマン民族は、独自の神話を持ち、その神々の中心にはヴォータンという神がいた。ヴォータンは、遊牧民族であり、民族大移動を行ったゲルマン民族の心性を反映した暴力と闘争に特徴がある。

ユングは、1936年に次のように言った。「ヴォータンこそドイツの魂の基本的特性であり、非合理的な心的『要素』である」。(註4

ユングによると、ヴォータンは、ゲルマン民族の集合的無意識から現われる元型の一つといえる。ヴォータンの元型は、無意識にあって影響を及ぼし、集団心理を生み出すとユングは考えた。

「休むことを知らない彷徨の神ヴォータンは、平安を掻き乱す者として、ここかしこで争いを引き起こし、あるいは魔術を弄してきたが、キリスト教によって悪魔とされ、その後はただ従者を率いた幻の狩人として、嵐の夜などに鬼火となって仄輝くばかりとなったが、それもいまは、地方の失われていく伝統のなかで生きているのみである」。ところが、「中世をはるか彼方にしたと思われていたれっきとした文化国家で、熱狂と陶酔の太古の神が、すなわち、歴史のなかにとっくの昔に安置されていたはずのヴォータンが、死火山のよみがえるようにふたたび目覚め、活動をはじめようとは、これは珍事というもおろかな、スリリングな事件ではある」(註5

ユングは、このヴォータンの元型の働きが、ヒトラーとナチズムに現われたと見たのだ。ユングはいう。「ヒットラーは文字通り全ドイツを立ち上がらせ、民族大移動のスペクタクルをその場に繰り広げて見せたのである。放浪する者、ヴォータンが目覚めたのだ」

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(1)ユング著『現代と未来』(『ユングの文明論』思索社所収)

(2)同上『現代史によせて』(同上)

(3)同上『影との戦い』(同上)

(4)(5)同上『ヴォータン』(同上)

 

10)ヒトラーとナチズムの深層心理

 

「ヒットラーが政権を握ったとき、私には、ドイツに集団精神異常が始まりつつあることがはっきりわかった」とユングは書いている。(註1

ユングはこの集団病理を「集合的憑依現象」「心理的伝染病」とも言っている。確かに病的である。ヒトラーは、アーリア人種の遺伝学的優位を説き、ユダヤ人の撲滅を行った。しかし、その大量殺戮は、科学的な手段により、組織的に進められたとされる。最も非合理的な思想が、極めて合理的な方法によって実行されたことになる。ここにも、心の近代化、合理化の進展による逆説(パラドックス)の一つがある。

ユダヤ人撲滅という思想は、ヒトラーに始まったものではない。キリスト教的西欧において、長い歴史をもった思想である。ルターの反ユダヤ主義は、有名である。ルターは、魔女とユダヤ人はともに虐殺すべき対象と考えていた。

1932年の講演でユングは述べた。「われわれを脅かしている巨大な破局は、物理的あるいは生物的な不可抗力の事件ではなく、心の出来事である。われわれを恐怖に陥れる戦争や革命は、心の流行病にほかならない。いつ何どき、何百万もの人間が一つの狂気にとり憑かれるかわからないが、そのときはまた、世界大戦や破壊的な革命が起こる。野獣や落石や洪水の危険にさらされなくなった代わりに、いまは自身の心の暴威にさらされているのである。心の領域は、地上のあらゆる勢力をはるかに上回る強国である。自然や人間の風習から神を追放した啓蒙思想も、心の中に住む恐怖というもう一つの神は見逃している。神への畏れとは、心のもつ圧倒的な力に直面したことの表現にほかならないのである」と。(註2

ユングはまた、ヒトラーについての分析を行っている。集合的無意識の中から現われる元型的なイメージの一つに「影」というものがある。

「影」とは、ユング心理学における元型の一つであり、人格の劣等な部分を意味する。人は、自分の中にある劣等な部分を他者に投影し、その他者に軽蔑や怨恨や憎悪や敵意を向ける。この劣等に見える他者の姿とは、実は自分自身の一面なのであるが、自分では気づかない。

ユングは、この影という概念を使いながら、臨床医としての所見を述べる。

「ヒトラーは影、すなわち誰しもの人格が持つ劣等部分を、人並み外れたスケールで体現している」「彼はあらゆる人間的劣等の巨大な権化にほかならない」(註3

ユングが同時期に書いた『破局の後で』(1945)から略述しよう。ユングによると、ヒトラーは、「ヒステリー患者」である。ヒステリーの病理学的な兆候は「自分の性格に対する完全な盲目、自己色情的な自画自賛や自己の美化、同胞への蔑視とテロ、みずからの影の他への投影、嘘による現実の歪曲、格好だけの見栄っ張り、はったりやいかさま等々」であり、「ヒットラーをもっと詳細に見立てるならば、空想虚言といえるだろう。つまり自分の嘘を自分で信じ込むという特殊な能力で知られるヒステリーの一形態である」。ヒットラーは「ドイツ人全般のヒステリーの似姿」である、とユングは考察した。

ヒトラーという「超人」的な指導者は、数世紀の間、抑圧されていたゲルマン民族の無意識のエネルギーが、闘争的・破壊的な形で表れたものだ。ユングにとって、ナチズムは、近代西欧史あるいは西欧精神史そのものの「運命的帰結」を示しているのである。

ここでウェーバーのカリスマ論を思い返しておこう。ヒトラーは、ウェーバーが注目していたカリスマ的指導者の典型だった。カリスマは、真に神のごとき善や愛の力として働く場合と、逆に悪や破壊の力として働く場合がある。それは、その非日常的・超人的な能力の持ち主の道徳性の度合いによって、正反対に分かれるのである。ページの頭へ

 

(1) ユング著『現代史によせて』(『ユングの文明論』思索社所収)

(2)同上『心理学と宗教』(人文書院)

(3)同上『現代史によせて』(『ユングの文明論』思索社所収)

 

 

3章 現代の危機解決を求めて

〜トランスパーソル運動

 

1)現代世界の精神的危機

 

ここで「現代」と呼ぶ時代は、人類が自ら生み出したものによって、生存の危機に陥った時代を指す。近代と現代を区別する年次を、1945年(昭和20年)とする。現代は近代と異なる時代ではなく、近代の延長にある時代であり、近代の生み出した危機が人類の存亡に関わる段階に入った時代である。そして、この危機を乗り越えて、人類が新たな時代に入るべき転換の時代でもある。人類は現在も「近代化革命」のただなかにある。このような認識を持って、以下の論考を続けたい。

さて、近代から現代への移行となったのは、第2次世界大戦である。ヒトラーに率いられたドイツは、1939年9月にポーランドに侵攻し、この大戦が始まった。キリスト教国はまたも大戦争を繰り広げた。この戦争は彼らが植民地や利権を持っていたアジア太平洋にも広がった。白人種同士が戦っただけではない。15世紀以来、白人種に支配されてきた有色人種が白人種に抗するという戦いも繰り広げられた。これは、キリスト教的欧米対非キリスト教的アジアの戦いである。戦いの最後は、アメリカが核兵器を開発し、日本に投下して決着をつけた。しかし、この戦争を通じて、4百年以上もの間、虐げられてきたアジア・アフリカ・ラテン・アメリカ諸民族は独立を勝ち取ることができた。

大戦終結後、アメリカに続いてソ連も核開発に成功し、世界人類は日々核戦争の脅威におののく身となった。こうして、現代は、核兵器の開発・使用による人類滅亡の危機の到来と、有色人種の独立によって始まった。日本人は、核兵器による悲惨を人類ではじめて体験した民族であり、また戦勝国の占領政策に甘んじる国民として、この時代を歩み始めた。

現代の危機について、ユングは次のように書いている。

「真の危険信号は、ドイツに上がった火の手ではなく(註 ナチズムのこと)、原子エネルギーの解放であり、これによって人類は、完璧な自己壊滅の手段を手に入れた」

「人類の良識は挑戦を受けている。この事実はもはや、もみ消すことも、バラ色に塗り替えることもならない。この認識が動機となって、大きな内面の方向転換をきたし、より高次の成熟した自覚と責任感をもたらすことはないだろうか?

時は次第に迫ってくる。いまや一刻の猶予なく、文化を担った人類はその根源に思いを致し、生存か滅亡かの問題に立ち入った討議を加えなくてはならない。なぜなら、いま人類を脅かしているものは、先のヨーロッパの破局なぞほんの開幕前の前奏として、いずれ舞台の片隅へ押しのけてしまうだろうからである」(註1

ユングは、大戦後、自由主義圏と共産主義圏に分裂した世界において、共産主義にナチズムに似た危険性を感じ取った。そして、核開発競争が行われる世界で、東西が対立している状態を非常に危惧した。

この核危機の世界において、新たに進行してきたのが、地球環境の破壊である。自然を物質化・手段化し、征服・支配し、資源として利用しようとする近代西洋文明の威力は、人類の生存の前提である地球の自然を破壊し、人類の生存そのものを脅かすに至った。

かつてウェーバーは、20世紀の初頭に、合理化によって非合理な状況が生まれる事態を見て、自己責任をもって生きることを説いた。しかし、単に理性的な生き方をしていることは、現代を生きる最善の努力とは言えない。ウェーバーのいう専門人・官僚は、カリスマ的な指導者の下で、非合理的な行動、ユダヤ人の迫害や世界戦争を、計画的かつ合理的に行った。放射能兵器は、近代的な機能集団による合理的な研究開発の産物である。また近代的な企業や主権国家の合理的な経営は、地球環境の破壊を組織的にもたらした。

こうした危機の中に、わが国もまたさらされている。わが国の場合は、これらに加えて、敗戦国として受けた日本弱体化政策の結果、道徳的後退、個人主義の蔓延と家族解体思想の席巻、結婚しない青年、子育てのできない若い親の増大等の精神的危機が加わっている。(註2

こうした危機のすべてをもたらした近代化・合理化の矛盾と限界を見極め、文明のあり方を根底的に改めるべき時に来ている。核兵器・地球環境破壊・精神的荒廃等は、科学技術と産業経営に基づく近代文明の産物である。まぎれもなくこれらは、人間の心が生み出したものである。知識欲や物欲や闘争心や権力欲が、こうした危機の原因にある。そして、より深く危機の根底を見すえるならば、現代の根本問題は、近代科学の急速な発達によって、欧米人を始めとする人類が人知を過信し、傲慢不遜になっている事実にあることが浮かび上がってくる。近代から現代にかけて、人間は知恵ばかり発達して、道徳的にはほとんど進歩していない。いやむしろ、後退しているとすら言える。この点を反省し、自己過信の愚を改めなければならない。

このように反省を進める時、現代を生きるわれわれは、人間の心の表層だけでなく、深層にも目を向け、自らのあり方を正さねばならないことに、改めて気づくのである。ページの頭へ

 

(1)ユング著『現代史によせて(『ユングの文明論思索社所収)

(2)拙稿「日本弱体化政策の検証」「家族の危機を救え」「猛威のジェンダー・フリーと過激な性教育」をご参照ください。

 

2)平和のために「影との戦い」を戦え

 

核支配の時代を生きるわれわれに対し、ユングは「影との戦い」を戦えと諭す。

「唯一戦うに値する戦いとは、すなわち影の持つ圧倒的な力と衝動に対する戦いである」(註1

「影」とは、ユング心理学における元型の一つであり、人格の劣等な部分を意味する。人は、自分の中にある劣等な部分を他者に投影し、その他者に軽蔑や怨恨や憎悪や敵意を向ける。実は、劣等に見える他者の姿とは、自分自身の一面なのである。人は、自己の「影」を投影した相手を悪い人間だと感じ、相手の言葉や行動に邪悪な意思を読み取る。さらにエスカレートすると、相手を「悪魔」であるとか、「悪の権化」などとみなす。そこに、自己と他者との戦いが生じる。ユングは、こうした無意識の働きが、世界大戦にまでいたる人類の争いの原因にあることを指摘する。

ユングは、次のように言う。

「最悪の敵はまさしくおのれの心の中にある」(註2

「われわれ一人一人が、この時代の人間の背後からむっくりと身を起こした影を認めなければならない」「この影を背負ってどう生きていけばよいかという疑問に答えねばならない。悪を担ってしかも生き続けるためには、どういう心構えがいるのだろうか。 この疑問に対する正しい答えを見出すには、徹底的な精神の入れ替えが必要だが、それも外から与えられるわけはなく、各自が努力して達成するほかない」と。(3)

「影との戦い」は、各自がそれぞれ行わねばならない。自分と向き合って、自分の無意識の内容として現われる影を認識し、それに打ち克つ内面的な努力。それを一人一人が行うしかない。こうした個人個人の努力なくして、世界の平和は実現できない。

ユングは言う。「個人の徳性における微々たる一歩の前進だけが、真に達成されうることのすべてである」と。(註4

「影との戦い」とは、自分自身との戦いである。この戦いを戦うには、心について知ること、特に無意識について知ることが必要である。単に合理的・理性的な考え方だけでは、自らの内なるものを知ることができない。

ユングによると、「集合的無意識の内容、すなわちさまざまな元型は、これこそ心的な集団現象の核心を成すものだが、つねに両極性をもっている。つまり肯定的な面と否定的な面とを併せそなえているのだ。元型が表面に浮かんでくるとき、事態は常に危機をはらんでいる。それが一体どちらの方向に行くのか、あらかじめ知ることはできない。それは普通、意識がそれに対してどう対処するかによって決まる」

「集団心理学的現象の駆動力は、元型的な性質のものである。元型というものはどれも、最高と最低、悪と善とを併せ持っていて、だからこそ、およそ矛盾に満ちた働きをするのである」(註5

つまり、無意識には両極性があり、元型は肯定的にも否定的にも働く。元型には、最高と最低、悪と善の両面がある。神のような力としても、悪魔のような力としても働くのである。

ユングは『影との戦い』に次のように書く。

無意識は意識に対してこれを補償するように働く。「この種の補償的な働きが出てくるのは、何らかの悪い点が意識の態度にあるからに違いない。何かがうまくいかなかったり異常に肥大したりしているはずである。なぜなら無意識の側から反動を呼び起こすのは、意識が不完全な場合に限るからである」とユングは説明する。そして、「無意識の補償的な働きが個人の意識の中に統合されないと、神経症やさらには精神異常が起こるが、同じことが集団にも当てはまる」と述べる。

ユングはまた、「無意識それ自体は、破壊的ではなく、アンビヴァレントなもの(註 両面価値的)であって、それが災禍を来たすか、恩恵をもたらすかは、ひとえにそれを受け止める意識にかかっている」と言う。(註6

われわれは、自分の意識をしっかり持って、無意識の働きを受け止め、意識と無意識を統合できるよう努めることが必要なのである。そして、無意識のエネルギーを、自分自身や他者に対してよい結果をもたらすように、方向付けをしなければならない。それには、理性や道徳心というものが求められる。

無意識の存在と働きを知って、それを理性的また倫理的に制御・管理することが大切となる。宗教や倫理は、こうした意識の働きを強めるものとして機能してきた。宗教・倫理の多くは、人間に我や欲望を抑えることを教える。利己心の抑制である。それと同時に、他者への思いやりや助け合いを勧める。利他心の発揮である。

倫理が意識のレベルで、思考と行動の善悪を教えるのに対し、宗教は、それ以上の働きを担ってきた。ユングは、宗教を次のように評価する。

「宗教とは、ある目に見えず制御することもできない要素を、慎重に観察し顧慮することであって、人間に固有の本能的な態度である。‥‥それは明らかに心のバランスを保つのに役立っている」(註7

様様な宗教に見られる修行法・修養法は、意識と無意識を統合し、心のバランスを保つための精神技術であるといえるだろう。

ユングは、『影との戦い』で次のように吐露する。

「無意識内容の統合とは、個人による体得や理解や道徳的な評価といった行為である。それは高度の倫理的な責任を必要とするきわめて難しい仕事である。それを達成できそうなのは比較的少数の人にすぎない。そしてその人たちは、政治的な指導者ではなく、人類の道徳上の指導者なのである。文明の維持とさらなる発展は、これらの人々にかかっている」

ユングは、「影との戦い」を各自が戦うことを勧め、「個人の徳性における微々たる一歩の前進だけが、真に達成されうることのすべてである」とも言う。それと同時に、この課題が極めて困難な課題であることも指摘する。そして、こうした努力を成し遂げることができるのは、「人類の道徳上の指導者」に限られ、そうした指導者に「文明の維持とさらなる発展」がかかっているという。(註8

道徳性に優れた指導者は、自分の自己を実現するだけでなく、他の多くの人々の自己実現に助力することができるだろう。個人個人の内面的努力を促進し、これを善導する精神的指導者の役割が期待されるのである。こういう意味で、現代ほど真の精神的指導者が求められる時代はない。

指導者、とりわけ強い影響力をもった指導者には、カリスマがある。あのウェーバーが注目した非日常的・超人間的な能力である。カリスマは無意識的な力ゆえ、元型と同じく、善悪どちらにも働く。カリスマはヒトラーやスターリンのような人間だけに現われるのではない。人類はかつてイエス=キリストや釈迦のような、道徳的に優れた精神的指導者をもった。そして、この現代ほど、最善の指導者の出現が待ち望まれる時代はない。そうした倫理性の高い指導者の下で、個々人が徳性の向上に努力し、相互に自己実現を図り、自他一如・共存共栄の社会を実現することが、現代人の目標であろう。ページの頭へ

 

(1)(2) ユング著『影との戦い』(『ユングの文明論』思索社所収)

(3)同上『現代史によせて』(同上)

(4)同上『影との戦い』(『ユングの文明論』思索社所収)

(5)(6)同上『現代史によせて』(同上)

(7)同上『現在と未来』(同上)

(8)同上『影との戦い』(『ユングの文明論』思索社所収)

 

3)自己実現から自己超越へ

 

ユングは、人間心理の深層を探求した。そのユングの発見を踏まえて、今日の人類の心の危機に取り組んでいる運動がある。トランスパーソナル学の運動である。トランスとは「超える」、パーソナルとは「個人的な」を意味する。すなわち、トランスパーソナルとは、「超個的」という意味である。

トランスパーソナル学は、心理学者アブラハム・マズローと精神医学者スタニスラフ・グロフの出会いによって生まれた。

アブラハム・マズローは、人間の心には、自己実現を求める欲求が、生まれつき備わっていることを発見した。ユングが自己実現を説いたことは既に述べたが、マズローは自己実現の理論をさらに発展させた。(註1

彼は、それまでの心理学が精神病者や異常心理を持つ人々ばかり対象にしていたの対し、健康な人々、模範的な優秀な人々の研究を行った。その結果、マズローは、人間の欲求は、次の5つに大別されるという説を唱えた。

 

1.生理的欲求: 動物的本能による欲求(食欲、性欲など)

2.安全の欲求: 身の安全を求める欲求

3.所属と愛の欲求: 社会や集団に帰属し、愛で結ばれた他人との一体感を求める欲求

4.承認の欲求: 他人から評価され、尊敬されたいという欲求(出世欲、名誉欲など)

5.自己実現の欲求: 個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求。さらに、人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望

 

マズローは、このような人間の欲求が階層的な発展性を持っていることを明らかにした。生理的な欲求や安全性の欲求が満たされると、愛されたいという欲求や自己を評価されたいという欲求を抱くようになり、それも満たされると自己実現の欲求が芽生えてくる。そして、自己実現こそ人生の最高の目的であり、最高の価値であるとマズローは説く。

彼によると、人間が最も人間的である所以とは、自己実現を求める願望にある。自己実現の欲求は、まず個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求である。さらに、この欲求がより高次になると、自己の本質を知ることや、宇宙の真理を理解したいという欲求となり、人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望となる。

マズローは、こうした人間観をもって、人間性心理学を樹立した。彼の心理学によって、自己実現の欲求は、低次の欲求と同じく、人間の中に本能的に内在しているものであり、無意識の衝動の一部をなすことが、広く理解されることになった。

晩年のマズローは、自己実現の欲求を超えた、自己超越の欲求があることをはっきりと認めるようになった。自己超越の欲求とは、自己を超える欲求である。それは悟り、宇宙との一体感などといったより高い目標に向かうものである。

1968年(昭和43年)、マズローは、精神医学者スタニスラフ・グロフと出会い、それまでの人間性心理学は過渡的なものだとみなすようになった。マズローは、それまでの自己実現の心理学から、自己超越の方向に進み、個を超える、より高次の心理学を提唱した。これがトランスパーソナル心理学である。マズローは、「トランスパーソナル」とは「個体性を超え、個人としての発達を超えて、個人よりもっと包括的な何かを目指すことを指す」と規定している。

マズローは、グロフらとともに、トランスパーソナル心理学会を設立した。1969年(昭和44年)のことである。初代会長には、グロフが就任した。ページの頭へ

 

(1)マズロー著『人間性心理学』(産業能率大学出版部)『完全なる人間−魂のめざすもの』『人間性の最高価値』(誠信書房)

参考資料

・マズローについては、拙稿「人間には自己実現・自己超越の欲求がある」をご参照下さい。

 

4)個を超え、時空を超える体験

 

グロフは、当時共産主義国だったチェコで精神医学を修めた。1950年代、彼は、フロイトの理論に基づいた精神分析を発展させるため、LSDを用いた精神治療を試みた。LSDは覚せい剤の一種だか、当時は合法的だった。LSDを使った治療は20年間にわたり、5000回以上の臨床例がとられた。これを通じて、グロフは、フロイトが扱った領域を遥かに越える、広大な意識の深層をかいまみた。彼自身、LSDを自ら服用して、非日常的な意識状態を体験している。(註1

自らの体験と多数の臨床例を通じて、グロフは、LSDによってもたらされる現象を、三つのカテゴリーに分けている。

 

1.自伝的領域: 出生以降の個人の体験の記憶から成り立つ領域。フロイトの精神分析で扱われる領域。

2.基本的分娩前後の領域: 出生時の体験の記憶から成り立つ領域。胎内にいたときの記憶や産道を通過した時の記憶がよみがえり、これを再体験する。自分が死んで生れ変わるという「死と再生」の体験として語られることが多い。

3.トランスパーソナルな領域: 個人という観念を成り立たせている日常的な時間的空間的な枠組みを超えた体験の領域。ユングの集合的無意識の領域であり、元型体験が起こるほか、動植物や細胞の意識との同一化、臨死体験、体外離脱体験、霊的存在との交信、地球や宇宙との合一感など、通常では考えられないような体験も起こる。

 

上記の2にあたる基本的分娩前後の領域は、グロフによってはじめて発見された。この領域が、人の性格や行動に重大な影響を及ぼしていることがわかってきた。また、3のトランスパーソナルな領域が、ユングが示唆していた以上に、途方もなく広大で多様な領域であることも、グロフによって発見された。そして、この領域の体験は、世界の諸宗教やシャーマニズムなどの精神的伝統が伝えてきたものと一致することがわかっている。

LSDが法的に規制されると、グロフは、呼吸のコントロールと音楽、ボディ・ワークを組み合わせたホロトロピック・セラピーと呼ばれる療法を開発した。ホロトロピックとは、「全体に向かう」という意味である。これをグロフは、アメリカで約10年間実践し、数千人のデータを得た。その結果、LSDを使用しなくとも、使用した際と同様の結果が得られ、それらの体験が、意識の深層に根付いていることが明らかとなった。

グロフは、トランスパーソナルな体験は、人間が閉じられた存在ではなく、開かれた存在であることを示しているのだという。彼は、人間は決して個人として孤立しているのではなく、周囲の人々や、祖先や、動植物や、宇宙とつながっており、目に見えない次元で互いに影響し合っているという。人間は、個人という枠を越え、時間や空間を超越して、過去や未来に通じることができ、祖先の霊魂と同化したり、地球や宇宙との一体性を自覚したりすることができる。

グロフは、もともと唯物論者でかつ無神論者だった。しかし、彼は、多数の非日常的な体験事例を通じて、霊魂の現象を認めるまでに至っている。

ユングは、無意識には「衝動的情緒的な面と直感的霊感的な面」とがあると述べている。ユングは、後者の「直感的霊感的な面」について深い洞察を持ってはいた。しかし、彼の時代の近代合理主義的風潮の中では、霊的次元について、あまり積極的に主張することはできず、「無意識」という概念を拡張することによって対処しようとした。

これに対し、グロフ以後のトランスパーソナル心理学は、無意識の一面には霊的次元があることを認め、「霊性」を含めて、人間の心を全体的に理解しようとする。そして、人間を単に現世的な生物的存在としてではなく、現世と来世、彼岸と此岸、見える世界と見えない世界の両方にまたがって生きる霊的存在と理解する。こうした人間の全体性をとらえようとするのが、トランスパーソナル心理学である。

トランスパーソナル心理学によって、近代合理主義の世界観・人間観は、根底から転換され始めた。デカルトの物心二元論や主客対立図式、彼やニュートンによる機械論的世界観、また理性的自我意識を中心とした人間観などは、もはや根底から覆される時を迎えたのである。ページの頭へ

 

(1)グロフ著『深層からの回帰』(青土社)『自己発見の冒険』(春秋社)

 

5)人類の危機に現われた霊性復興運動

 

今やトランスパーソナル心理学は、心理学という枠組みを超え、さまざまな学問を統合するものとなり、包括的な視点に立って人間のあり方を探求する学際的な運動となっている。これをトランスパーソナル学と呼ぶ。

トランスパーソナル学は、心理学者や精神医学者にのみよるものではない。「暗在系」の理論を樹立した理論物理学者デヴィッド・ボーム、靴ひも理論の研究チームに所属した原子物理学者フリッチョフ・カプラ、コンピュータの普及による「地球頭脳(グローバルブレイン)」の出現を予測する数理科学者ピーター・ラッセル、脳のホログラフィー理論を提唱する大脳生理学者カール・プリブラム、形態形成場理論の生物学者ルパート・シェルドレイク、地球外空間で地球と一体化する体験をした宇宙飛行士ラッセル・シュワイカート、「死の瞬間」の研究で名高いキュブラー=ロス、臨死体験の研究者ケネス・リングなどトランスパーソナル学に加わっている人々は、実に多彩である。

彼らが学問や専門の枠を越えて集結しているのは、人類の生存を憂える危機意識による。なんとかしてこの危機を乗り越えなければならないという切実な思いが、彼らを新しい世界観や人生観の探求に駆り立てているのである。

ユング派の心理学者ジョン・ワィア・ペリーは、黒船で来航したかのペリー提督のひ孫である。彼は、現代の精神的状況を、「スピリチュアル・エマージェンシー」と呼ぶ。この言葉には、二重の意味がある。一つは「精神の危機」であり、もう一つは「霊性の出現」である。近代化・合理化がもたらした人類の精神的危機において、これまで見失われていた無意識の領域から霊性が出現しようとしているのだ。

菅(すが)靖彦氏は、わが国のトランスパーナル学の推進者の一人である。菅氏によると、現代社会は大衆レベルでの「スピリチュアル・エマージェンシー」にある。

「現代の危機が単に社会的レベルのものではなく、霊的な領域に根を持ち、その危機を契機として、霊的な発達を遂げようとしている人間が現代社会のいたるところに出現している」。

「現代は根本的な変容期にあり、人類は今、次の意識進化の入り口に差しかかっている」とも言う。(註1

そして、菅氏は、トランスパーソナルは「現代の霊性復活運動」であると称する。

霊性の復活運動などというと、現実世界を否定し、ひたすら精神世界を探求する内向的で個人的な運動と理解されるかもしれない。しかし、現代の霊性復活運動は、政治的・社会的・環境的な問題を回避するのではなく、むしろ人類が直面する危機の根本的な解決を模索する運動となっている。

現代の危機の一つとして、世界的な戦争・紛争とテロリズムがある。ユングの節に、ユングが「影との戦い」を戦えと言っていることを書いた。世界平和のためには、個人個人が自分の「影」と戦わねばならないとユングは言う。グロフは、これを受けて、もっと掘り下げて「影」の問題に取り組んでいる。そのことに、ここで触れておこう。

非日常的な意識の状態を「変性意識状態」と呼ぶ。グロフは、変性意識状態に現われる人間の攻撃性や欲望に注目する。人間の深層には、邪悪な攻撃性と果てしない貪欲さが存在することをグロフは強調する。そして、戦争やその他の闘争・虐待等の根源は、無意識の基本的分娩前後の領域にあると説く。かつてフロイトは、神経症・ヒステリー等の分析治療を通じて、誕生時における精神的外傷すなわち出生外傷が、抑圧の原因の一つとなっていることに注目した。グロフは、LSDによる臨床研究や、呼吸法等を用いたセラピーを通じて、誕生時の体験の記憶が、フロイトが想定した以上に、はるかに大きな影響を人間の意識や行動に与えていることを、明らかにした。

彼によると、無意識の分娩前後の領域には、出産を通じて自分が誕生する時に体験した、死にそうなほどの苦痛や恐怖が記憶されている。グロフによると、分娩前後の領域に存在する無意識的記憶は、「個人的なレベルでは、暴力、サディズム、犯罪行為、殺人、集団レベルでは独裁制、戦争、血なまぐさい革命、虐殺、強制収容所」などのイメージを生み出す。この分娩前後の記憶から、人の心に、元型的な「悪」が立ち現われる。ユングの「影」に当たるものである。人は、この「悪」の元型的イメージを、他者に投影してしまう。そのため、人は相手に激しい憎悪や敵意を抱き、争いはやむことがない。だから、心の深部にある根元的な「悪」と対決しなければ、戦争や闘争や虐待などの問題は根本的に解決されないとグロフは訴える。この無意識のレベルに働きかけるのでなければ、人間社会の惨状を解決することはできないというのである。(註2

さらにグロフは、「権力、地位、名声、財産に対する飽くことのない渇望」「自然(母なる自然)に対する攻撃的、支配的姿勢」などにも、分娩前後の記憶が反映している、と考察する。(3)

グロフのいうところを敷衍すれば、基本的分娩前後の領域にある記憶、つまり出生の際の苦痛の記憶によって、人類は、邪悪な攻撃性と果てしない貪欲さに突き動かされている。出産と誕生の苦しみとその記憶から解放されない限り、人類は世界の平和も、家庭や社会の安寧も実現することができない。また、さらには自然と調和した文明も実現できない。それほどまでに、苦痛を伴う出産・誕生は、人類の文明と運命に深刻な影響を与えている。実はこうした苦痛を伴う出産は、文明の発達の中で普通のこととなった。人間が不自然な生活をするようになるに従って、女性の出産は重くなった。それゆえ、陣痛等による出生外傷の少ない、自然で楽なお産が強く求められる。また同時に、出生の際の悪い記憶を解消するものが待望される。

ここにおいて、現代日本に現われている、陣痛の苦しみから母と子を解放する「自然分娩による無痛安産」(註4)の持つ意義は計り知れないほど大きい。また、無意識に潜在する悪い記憶から、人々を解放し、抑圧されていた脳細胞を活性化する「頭部隆起」現象(註5)の持つ意義もまた計り知れない。これらによって、人類ははじめて、無意識の破壊的自滅的な力から解放され、愛と調和の世界を建設できるようになるだろう。

出産と誕生の問題だけではない。トランスパーソナル学は、人の生と死に関わるタナトロジーをもその一部としている。近代は、現世の問題に集中し、死の問題を避けてきた時代だった。しかし、いつの時代にも、人間は死を恐れ、苦しみの中で死ぬ。この死の恐怖が、自己保存のための闘争や攻撃を生む。それゆえ、人類が真の平和を得るには、死の恐怖と苦痛から解放するものが強く求められる。ここにおいて、やはり現代日本に現われている、死の恐怖や苦しみがなく、自ら死期を悟り、寿命を全うする「崇高な転生」(註6)の持つ意義もまた計り知れないほど大きい。「崇高な転生」によって、大安楽往生をした人の遺体は、死後硬直がなく、体温が冷めず、死臭や死斑が現われない。こうした聖人・高層にしてなお希な現象が、多数の人々の上に起こっている事実がある。「崇高な転生」は、トランスパーソナル学が研究しているタナトロジーを突き破る驚異的な出来事である。

「自然分娩による無痛安産」・「頭部隆起」・「崇高な転生」などは、トランスパーソナル学が追求している人類の不幸の原因を解消するものである。生と死の苦悩を根本的に解決するもののみが、人類を真の世界平和と調和のある文明に導くことができるのである。ページの頭へ

 

(1)菅靖彦著『心はどこへ向かうのか』(NHKブックス)

(2)グロフ著『深層からの回帰』(青土社)

(3)グロフ他著『宇宙意識への接近』(春秋社)

(4)(5)(6) 「自然分娩による無痛安産」 「頭部隆起」「崇高な転生」については、以下のサイトの「奇蹟の実証」をご参照下さい。

http://www.srk.info/

 

6)地球を守るために意識改革が必要

 

われわれ人類は、世界の混乱を鎮めて平和な世界を建設するという課題とともに、地球環境の破壊を食い止め、文明と自然の調和を実現するという課題を負っている。これらの課題に取り組むには、人類的な規模で、大きな意識改革を行うことが必要だろう。それを推進しているものの一つが、トランスパーソナル学である。トランスパーソナル学は、人と人の間における戦争・闘争・虐待等の問題だけでなく、人と自然の間における環境問題においても、重要な役割を果たそうとしている。

地球環境問題は、1972年(昭和47年)にストックホルムで開かれた国連人間環境会議によって、世界的な関心事となり、1992年(平成4年)にリオデジャネイロで行われた「環境と開発に関する国連会議」(地球サミット)によって全人類の課題となった。1972年には「人間環境宣言」、1992年には「環境と開発に関するリオ宣言」が出された。そして、フロンガスによるオゾン層の破壊や、二酸化炭素増大による地球温暖化、森林乱伐、土壌の流出・家畜の過放牧等による沙漠化等を防ぐため、各国の努力が行われている。

ところが、「人間環境宣言」や「環境と開発に関するリオ宣言」には、重要なことが欠けている。近代文明に対する考察や、環境保全のための新しい世界観の必要性や、われわれ先進国民の生活のあり方の見直しなどは、ほとんど説かれていないのである。これらの宣言は、先進国の生活文化や社会制度には大きな変更を加えないことを前提としており、その枠内で国家間の利害関係を調整し、環境問題の政治的・経済的な解決を目指そうとしている。

しかし、今日の地球環境問題は、それで解決できる程度のことなのか。この問題に真剣に取り組むならば、おのずと近代西洋文明に対する反省に入らざるをえない。地球環境問題は、近代化がもたらした科学技術と産業経営の所産だからである。自然環境の破壊は、自然を物質化・手段化し、征服・支配し、資源として利用しようとする考えから生じている。こうした考えは、近代西欧において発生し、科学技術と産業経営によって実現されてきた。

ユングは、まだ地球環境問題が認識される前であった第2次世界大戦直後に、次のように述べていた。「太古以来、自然は常に霊に満ちたものと考えられてきた。いまはじめてわれわれは神々も霊もない自然のなかに生きているのである」。

ユングのいう「われわれ」とは、近代西欧人である。西欧における近代化の過程で、自然は、単なる物質とみなされ、人間の生活資材の生産のための手段であり、搾取や管理の対象とされた。「神々も霊もない自然」とは、キリスト教の布教によって、アニミズム的・シャーマニズム的世界観が駆逐された結果、西欧人の心に映る自然が変貌した姿である。

キリスト教においては、神は超越的存在であり、宇宙の外から宇宙を創造したとされる。人間も自然も同じく、神の被造物である。近代化の過程で、人間と自然の間の霊的なつながりが決定的に失われると、キリスト教的西欧人は、人間には自然を征服・支配する力が与えられているという考えを強くした。もともと一神教には、多様性を許容しにくく、異なるものを排除する傾向がある。これを論理的に徹底したのが、ルターやカルヴァンによる宗教改革であり、「呪術の追放」であった。そして、これを背景にして誕生したのが、近代西欧科学である。デカルト=ニュートンの機械論的な世界観では、自然は数理的な法則に従って運動する物質とみなされた。こうして、キリスト教的なヨーロッパ文明が脱呪術化・合理化したことによって、人類の文明は、自然を対象化し、道具化する文明となった。この過程で、人間の理性も道具的な理性に堕した。

ユングは、早くから近代西洋文明の危機を深くとらえ、すべての存在に霊が宿るというアニミズム的な考え方を、よみがえらせようとした。彼はその時、環境問題を憂えたのではない。西欧人の心の危機を思ったのである。

ユングが発見した集合的無意識とは、単に人間の間でのみ共有されているのではない。人類から、他の生物へ、人間が生活する生活環境としての自然へ、さらには宇宙全体へと果てしなく広がっていくものである。このユングの想定は、グロフによって、実験的・臨床的に確認された。無意識の領域は、想像を絶するほど広大かつ多様だった。

ユングやグロフの研究は、今日、トランスパーソナル学に引き継がれている。そして、トランスパーソナル学は、地球環境の問題と、人間の心の問題を一つの問題としてとらえている。地球環境問題を解決するには、近代西洋的な考え方を脱して、人間の心は自然や宇宙の全体に通底しているという認識を取り戻すことが必要である。その認識をもって、われわれ人類は大きな意識改革をしなければならない。トランスパーソナル学は、こうした意識改革を促進するものの一つとなっている。そして、その下に、自然保護や環境保全を進める運動が展開されている。

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7)エコロジーの根底を深く問う

 

トランスパーソナル学は今日、エコロジーと一体化しつつある。エコロジーすなわち生態学は、もともと生物と環境の関係を研究する自然科学である。しかし、環境問題が世界化するに従い、科学的研究を踏まえて自然保護や環境保全をめざす運動をも意味するようになった。

エコロジーに哲学的な検討を行って、エコロジー運動に大きな影響を与えているのが、ノルウェーの哲学者アルネ・ネスである。ネスは、1973年(平成 5 年)に、エコロジーを「浅い(シャロウ)エコロジー」と「深い(ディープ)エコロジー」とに区別した。

シャロウ・エコロジーは、今日の環境問題を政策や経済で解決すべき問題としてとらえる。「人間環境宣言」や「環境と開発に関するリオ宣言」はこれである。これに対し、ディープ・エコロジーは、エコロジーの根底を深く問うものである。そしてネスは、問いの掘り下げを通じて、問題の根底には人間の心のあり方があることを明らかにする。彼は、意識改革のための規範として、「自己実現」と「生命中心的平等主義」を掲げている。

「自己実現」とは、ユングやマズローが説く人間生来の潜在的欲求である。ネスは、この「自己実現」を、単に個人の可能性の開花や、より良い死のための準備ではなく、文明の変革のために成し遂げるべき課題とする。

ネスのいう「自己」は、近代的な自己、つまり狭い、アトム的な個人の、自我的な自己のことではない。彼のいう「自己」は、広い、拡張された、場(フィールド)のような、非自我的な自己であり、彼は前者を小文字のselfで、後者を大文字のSelfで表わす。ユングの理論で言えば、ネスのselfは「自我」、Selfは「自己」に対応しよう。東洋の伝統的な言い方で言えば、「小我」と「大我」にあたる。「大我」は、「空なる自性」ともいえる。

ネスの仮説によると、「その人の<自己実現>が進むほど、他者との自己同化が広がり、深くなる」。ここで<自己実現>と表記したのは、大文字のSelfの実現という意味である。「<自己実現>のレベルが高まるほど、さらなる向上は他者の<自己実現>にかかってくる」「完全なる<自己実現>は全体のそれにかかっている」。さらにこの<自己実現>は、人間だけでなく、「生きとし生けるものの<自己実現>」を目指すものとされる。

このことをネスは、次のように表わしている。

「他者と喜びや悲しみを共有することなくして、大文字の<自己実現>などありえない。もっと根本的にいえば、子どものころの狭いエゴが、全人類を含むような大きな<自己>にまで広がらない限り、それは不可能なのだ。(ディープ)エコロジー運動は、さらにもう一歩踏み込んで、個人が全生命と自己同化するような発達を求める」

ネスともに行動するディープ・エコロジスト、ディボールとセッションズは、次のように書いている。

「ディープ・エコロジーの掲げる<自己実現>の規範は、近代西洋の『自己』の枠組みにはおさまらない。近代の『自己』は、もっぱら享楽的満足か、この世ないしあの世における狭い個人的救済を求める、隔絶された自我(エゴ)と定義できる」

「スピリチュアル(精神的・霊的)な成長ないし発展は、われわれが自分を他と競合する隔絶された狭い自我(エゴ)と見ることをやめ、家族や友人から人類全体にまで自己同化できるようにならなければならない。しかし、ディープ・エコロジー的な自己感覚を獲得するには、人類の枠を超え、人間以外の世界にまで自己同化を広げるという、さらなる成熟と成長が必要だ。‥‥われわれの本題を象徴的に要約すると、『<自己>のなかの自己』を悟ること、といえるだろう。ここでいう大文字の<自己>とは、有機的な全体性にほかならない。また自己のこの全面的発展は、『全体が救われない限り誰も救われない』という表現でも要約できる」

一方、ネスの「生命中心的平等主義」とは、人間中心主義に対比されるものである。ネスは、「地球上における人間及び人間以外の生命の健康と繁栄は、それ自体で価値がある」と考える。「こうした価値は、人間以外の世界が人間にとって有益かどうかにかかわらない固有のものである」「生命の豊かさと多様性は、こうした存在価値の実現に不可欠であるとともに、それ自体で価値を持つ」「人間は生存にどうしても必要な場合以外、この豊かさと多様性を損なう権利を持たない」という。

ネスのいう「生命」とは、単に生物学的にいって生きている存在だけを意味するのではない。「個体、生物種、生物集団、生息地のほか、人間や人間以外の文化」を含むほど広い意味を持つ。それゆえ、「生命中心的」とは、人間中心的な考え方をやめようというものである。これは、近代西洋の人間中心主義ないし人間至上主義を脱しようとするものである。

ここには、東洋思想の影響が色濃く表れているといえよう。

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8)トランスパーソナル・エコロジーへの展開

 

今日のエコロジーは、ネスの唱導の下に、皮相なエコロジーから、深慮するエコロジーへと深化している。

倫理学者の森岡正博氏によると、ディープ・エコロジストは、現在の社会と文明のあり方を前提とした環境保護運動を否定する。地球環境問題は、現在の社会と文明が生み出したものである。それを根本的に解決するには、現在の社会と文明それ自体の変革が必要となる。そのためには、まず現代社会に住むわれわれ一人一人が、自らの世界観や価値観を改め、意識変革を行わなければならない。そして、いまのような生活のあり方を改め、新しいライフスタイルを創り上げていく必要がある。

森岡氏によると、ディープ・エコロジストは、次のような自然観を持つ。地球環境問題は、近代化によって、人間が自然に対して誤った態度を取ってきたことに由来する。自然は、「征服すべき対象」ではない。人間と自然はそもそも一体である。自然のなかで、自然に支えられて生きる人間という世界観を再発見することなくして、環境問題は決して解決しない。そのためには、われわれ自身がまず変わる必要がある。近代人が見失ってきた感性を取り戻し、「自然の声」「地球の声」を聞き、それらに応えることができるような人間へと、われわれ自身が変わっていかねばならない。このような意識改革があってはじめて、真の自然保護が可能となるというのが、ディープ・エコロジストの自然観である。(註1

私見によれば、ネスのいうシャロウ・エコロジーは、人間が自然の上位あるいは外部にあると考える近代合理主義の世界観の延長上にある。そして、合理的・効率的な仕方で資源やエネルギーの利用・管理をしようとするものである。それを「持続可能な開発」という。これに対して、ディープ・エコロジーは、近代化・合理化の過程を反省し、近代西洋文明の克服を行おうとする。そして、近代合理主義の世界観を超え出ようとしている。

ディープ・エコロジーのものの見方は、近代西欧が生んだ機械論的な世界観、要素還元主義的な発想法を脱却している。有機体的な世界観、関係主義的・システム論的な発想法へと、認識の根本的な枠組みが変わっている。近代から現代へのパラダイム・シフトが起こっている。ディープ・エコロジーは、物質科学的な世界観と、近代人の生き方そのものを問いただす。人間を自然環境から切り離さないばかりか、世界を、根本において相互に結びつき依存し合う現象のネットワークであると見る。全生物の本質的な価値を認識し、人間は生命の網の中の一つの結び目に過ぎないと見る。そして、人間相互の関係、現在の世代と未来の世代との関係、人間がその一部である生命の網との関係、そうした関係の視点から、近代文明を根本から問いただすのである。

こうしたディープ・エコロジーが、トランスパーソナル学と融合していくのは、当然であろう。先ほども引用したワーウィック・フォックスは、オーストラリアの認知科学者である。彼はディープ・エコロジストだったが、ディープ・エコロジーを深めていくことで、それまでの「ディープ・エコロジー」を脱したという。そして、フォックスは「トランスパーソナル・エコロジー」を提唱している。和訳すれば、「超個生態学」である。

著書『トランスパーソナル・エコロジー』(1990)において、フォックスは、ディープ・エコロジーをトランスパーソナル心理学と結合させた。そして、以後のエコロジー運動とトランスパール学は、フォックスの影響を受けている。(註2

フォックスは、「トランスパーソナル心理学における多くの理論化が人間中心論的立場で行われており、それゆえトランスパーソナル心理学のエコロジー化が大きな課題」であると言う。そして、「トランスパーソナル・エコロジーの役割は、‥‥自然中心的エコロジー運動の提唱するような見方を支持する仕方を“心理学化”する一方で、まだまだ人間中心論を脱しているとは言い難いトランスパーソナル心理学を“エコロジー化”することにもある」と述べている。ページの頭へ

 

(1)森岡正博著『ディープエコロジーの環境哲学−その意義と限界』(『講座文明と環境14・環境倫理と環境教育』朝倉書店所収)

(2)フォックス著『トランスパーソナル・エコロジー』(平凡社)

参考資料

・日本的なエコロジーについては、「日本の心」の「自然」の項目に掲載した拙稿をご参照下さい。

 

9)人間中心のおごりを捨てるべし

 

ネスに強く共感するフォックスは、ネスが提唱する平等主義的姿勢を、「生命中心的(biocentric)」ではなく、「自然中心的 (ecocentric)」と呼ぶべきだという。「エコセントリック(自然中心的)の「エコ」は、「エコロジー」の「エコ」と同じである。「エコ」という言葉は、ギリシャ語の「オイコス」に由来する。オイコスは「家政」を意味する。それゆえ、フォックスの「自然中心的」という言葉には、「地球は我が家である」という認識がある。ここに、自然を対象化し手段化する、近代の人間中心主義・人間至上主義への根底的批判が込められている。

フォックスは、「エコロジーへのトランスパーソナルなアプローチとは、まかり間違っても人間中心的なものではない。それどころか、エコロジーへのトランスパーソナルなアプローチとは、エコロジカルな気づきの獲得そのもの、つまりエコロジカルな、より広い、カッコつきの大きな<自己>を悟ることを目指す」という。

「カッコつきの大きな<自己>」とは、ネスの Self であり、「大我」「空なる自性」のことであった。こうした<自己>の<自己実現>を、フォックスは、「現世的な形で、できるかぎり拡張された自己感覚を獲得すること」と定義する。フォックスは、この<自己実現>は「自己同化のプロセスを通じて」得られるとする。「自己同化」とは、「自己感覚の拡張」である。

フォックスは、より広く深い自己同化を行う「基盤」を三つあげる。「個人的」「存在論的」「宇宙論的」の三つである。

まず「個人的な基盤に立った自己同化」とは、「ある存在と個人的なかかわりをもつことによって、その存在との共通性を経験することを指す」。「ある存在」とは、家族、友人、ペット、野球チーム、国などである。「われわれはこうした存在を自分の一部、自分のアイデンティティの一部だと感じている」とフォックスは言う。

フォックスは、「個人的基盤に立った自己同化」について、その「プラス面は賞賛に値し、また人間の成長に不可欠なものである反面、もっぱらこの形態でばかり自己同化を行うことのマイナス面によって、いまや地球は壊滅的打撃をこうむっている。それはエゴイズムや執着のもとであり、個人としても、企業としても、また国としても他を排除するという形で、所有や強欲、搾取、戦争、生態系破壊といったものをもたらしている。このような害毒を中和するために、‥‥個人的基盤に立った自己同化を、存在論的および宇宙論的基盤に立った自己同化という背景のもとにしっかりすえ直すことが重要だ」と説く。

これに対して、「存在論的ないし宇宙論的な基盤に立った自己同化」は、「ある人間の個人的な接触や関係を主な足がかりにしない点でトランスパーソナルなものといえる」とフォックスは言う。

「存在論的な基盤に立った自己同化」とは、「ものごとが存在するという事実そのものの深い認識から、万物との共通性を経験することを指す」。その結果、「すべての存在を尊重する」という態度が生まれるとされる。

「宇宙論的な基盤に立った自己同化」とは、「われわれも他のすべての存在もそれぞれ、展開しつつあるただ一つのリアリティの異なった側面にほかならないという事実を深く理解することによって、全存在との共通性を経験することを指す」という。ここにいうリアリティとは、真に実在するものであり、宇宙の実体・真相・本体といった意味であろう。

フォックスは、「存在論的および宇宙論的基盤に立った自己同化を、個人的基盤に立った自己同化のコンテキスト(背景となる脈絡)とみなすことが必要だ」と述べる。

そして、「トランスパーソナル・エコロジーでいう自己同化とは、ものごとが“在る”こと(存在論的基盤に立った自己同化)や、“生命が根本的にひとつ”であり、全存在が生命の木に生えた葉っぱであるということ(宇宙論的基盤に立った自己同化)への深い理解ないし悟りから出発するものなのだ」と言う。

こうした「自己同化」を行いながら、「現世的な形で、できるかぎり拡張された自己感覚を獲得すること」が、フォックスの目指す<自己実現>である。

このように、彼の説くトランスパーソナル・エコロジーは、<自己実現>を、近代的自己のレベルから存在論的または宇宙論的に深めていくものである。それによって、エコロジーは、真に人間中心主義を超えることができるとフォックスは論じている。(註1

さて、フォックスは、<自己実現>を「現世的」なものと限定し、同化すべき「自然(エコ)」を霊的な次元でとらえようとはしていない。彼以後のトランスパーソナル・エコロジーは、さらに心理学的に掘り下げて、人類の自然とのかかわりを精神的・霊的次元からとらえている。

菅靖彦氏は、こう述べている。

「現在の生態系の危機や核の脅威などは、人と人、人と自然、人と宇宙を結び合わせる霊的な自覚を失ってしまった人間の心の持ち方にその根を持っている」「生態系の危機を乗り切るには、まず人間の意識革命が必要がある」「生態系の危機を一人一人の人間の利己的な心の問題としてとらえ返し、そうした心の変容の必要性を説く」、そして、「人と人、人と自然、人と宇宙を結び合わせる霊的な自覚」を促進することによって、生態系や核の問題の解決をめざそうというのが、トランスパーソナルの運動なのだと、菅氏はいう。(註2

トランスパーソナル学は、こうしてエコロジーと一体化しつつ、霊性の復権・復活を促進する運動となりつつある。現代の危機解決を目指す運動として評価できよう。ページの頭へ

 

(1)フォックス著『トランスパーソナル・エコロジー』(平凡社)

(2)菅靖彦著『心はどこに向かうのか』(NHKブックス)

 

10)霊性に基づく精神的・道徳的な向上を

 

さて、「心の近代化と新しい精神文化の興隆」と題した小論は、結尾に近づいた。これまで見てきたように、「近代化革命」は西欧に始まった。マックス・ウェーバーいうところの「呪術の追放」によって、生活全般の合理化が開始された。文化的・社会的・政治的・経済的のそれぞれの側面で合理化は進展した。それが、近代文明だった。近代と前近代の画期となるのは科学革命であり、近代文明はその最大の特徴をとらえて呼ぶと、物質科学文明である。人類は、その恩恵と弊害をともに受けている。そして、今日、恩恵がますます増大する一方、弊害は危険な水準を越え、人類の生存と地球の安寧を脅かしている。

近代化は、人間の心にかつてない変化をもたらした。心の表層と深層の両面からとらえるならば、合理化の進展は、個人・社会・人類・地球に、様々な問題を生み出した。

個人的には、意識と無意識の分裂が進み、理性と情念の分化が進んだ。認識論的に言えば、物心二元論、主客対立図式の登場であり、精神と身体・生命の分離、認識と実践が区別された。理性的自我意識の増強は、無意識を抑圧し、近代人は霊性を否定し、現世的で、人間中心的、個人主義的、物質志向的、経済中心主義的な考え方に陥った。理性が圧倒的に優勢になると、意識と無意識のバランスが取れなくなり、人格の分裂が起こり、自我膨張の思想が妄想され、また精神病が増加した。

社会的には、自己と他者の分化と対立が生まれた。共同体の解体と都市社会の形成が、個人主義を増大させた。個人と個人は相助原理ではなく、競争原理によって動くようになった。互いに感情的に融合し、全人格を持ってする結合から、各自の利害関心に基づく人格の一部のみでの結合に変わった。いまや家族・男女の間にまで、対立・抗争が広がっている。

人類的には、西欧と非西欧の間に支配・搾取の構造が作られ、世界規模で国家・民族・文明の対立・抗争が常態となった。そのつまるところが世界戦争であり、核兵器による人類滅亡の危機である。

地球的には、人間と自然の連続性・一体性が失われ、自然は対象化され、手段化された。人間による自然の征服・支配が進み、生態系が破壊され、人類は地球生命圏のガン細胞のような存在になっている。その悪影響は、地球環境の悪化となっている。

近代化の過程を概観して、人間が進歩したように見えるのは、知識の増大と物資の増産による。物質的世界に関する知識や、物質的素材を利用する技術は、急速に発達した。しかし、意識の、特に理性や知性の働きばかりが伸長して、無意識の領域は逆に抑圧され、人間の徳性や霊性はかえって退歩している。近代物質科学の発達が極めて急速だったために、人間の精神面がそれについて来られなかった。

顕著な変化が起こったのは、心の表層においてのみであり、心の深層には、近代人が忘れている広大な領域がある。そこには、人類に共通する集合的無意識が息づいている。人類は、心の近代化の一面性を認識し、内在する大いなる可能性を発現しなければならない。

そしてまさに今、人類は、新たな霊性の発達の段階を迎えている。ユングやマズローを継承したトランスパーソナル学は、近代化の過程で失われた人間の全体性の回復を推進している。それと同時に、科学と宗教の総合が実現されつつある。それによって、近代の世界観・自然観・人間観は、大きく転換しつつある。

これは、前近代への逆戻りではない。近代化・合理化の経験を経て、人類が新たな段階へと飛躍しようとするものである。一旦、物質科学の恩恵を受けた人類が、元に戻ることはない。テレビもコンピュータも携帯電話もジェット機も地下鉄も、もはや人類にとって欠かせないものとなっている。これらは、物質科学文明の所産である。課題は、こうした物質文化と精神文化の調和の回復である。物心両面にわたる高次のバランスの達成である。このためには、人類は霊性の実在を踏まえた精神的・道徳的な向上を成し遂げなくてはならない。ページの頭へ

 

 

結びに〜新しい精神的指導原理の出現

 

 

近代化は西欧で始まった現象である。西欧の近代化は心の近代化に始まった。心の近代化とは、「呪術の追放」つまりアニミズム的・シャーマニズム的な世界観の駆逐を皮切りとして、宗教における合理的態度が形成され、合理主義が思考・行動・制度の全般を支配してきつつあることである。その進展に伴い、生活全般の合理化が進んだ。すなわち、文化的・社会的・政治的・経済的な近代化が全般的に進行してきた。心の近代化は、全般的合理化の開始点であり、また中心点である。この原因と展開を明らかにし、近代化を超克する方向を示すことが、本稿の目的である。その点を確認して、本稿の結びを述べたい。

心の近代化が多くの問題をもたらし、存亡の危機にある人類は、精神文化の興隆を必要としている。ここにおいて待望されるものが、新しい精神的指導原理の出現である。

「近代化革命」つまり近代化の過程は、科学の発達と宗教の後退の歴史だった。「呪術の追放」によって宗教が合理化され、17世紀の科学革命によって西欧に合理主義が進展した。特に18世紀以降、啓蒙主義が人知への過信をもたらした。その結果、西欧人を始めとして、人類は神を見失った。神といっても、聖書の物語の中に描かれている神ではない。真の神とは、宇宙や自然や生命を貫く法則であり、原動力のことである。人間は、こうした意味の神を見失い、神に成り代わったかのように錯覚している。そして、宗教はますます後退し、精神性・霊性は、物質的な享楽の中に埋没しかかっている。西欧を中心に、アメリカやわが国など近代化した国では、世俗化とニヒリズムが進行している。

ところが驚くべきことに、いまや科学の側から逆転が起こっている。科学の先端において、精神性・霊性への関心が高まってきているのだ。科学の時代から精神の時代へ、あるいは物質科学文化の時代から精神科学文化の時代への転換ともいえるような、巨大なパラダイム・シフトが起こりつつあるのである。

20世紀の新しい物理学、量子力学や相対性理論によって、物理学ではパラダイム・シフトが始まっていることを明らかにしたフリッチョフ・カプラは、名著『ターニング・ポイント1984)で、次のように書いている。

「現代物理学から生まれつつある世界観は、機械論的なデカルトの世界観とは対照的に、有機的なホリスティック(全包括的)な、そしてまたエコロジカル(生態学的)な世界を特徴としている。それはまた、一般システム論と言う意味で、システム的世界観と呼ぶこともできる。そこではもはや、世界は多数の物体からなる機械とは見なされていない。世界は不可分でダイナミックな全体であり、その部分は本質的な相互関係を持ち、宇宙的過程のパターンとしてのみ理解できるとする」(註1

カプラは、現代物理学の世界観が、東洋に伝わる伝統的な世界観に非常によく似ていることを発見した。すなわち、『老子や『易経や仏典に表わされている宇宙の姿と、相対性理論や量子力学が描く世界像とが近似しているのである。このことをカプラは、『物理学の道(タオ)1975、邦題『タオ自然学)という本で発表した。(註2

これは決してカプラ個人の見方ではない。20世紀の名だたる物理学者たち、不確定性原理のW・ハイゼンベルグや波動方程式のE・シュレーディンガーが、かつては単なる神秘思想と思われていたインド哲学に深い関心を持ち、コペンハーゲン解釈のN・ボーアは晩年シナの易学の研究に没頭した。カプラの師、J・チューは自分の靴ひも理論が大乗仏典の内容とそっくりなことに驚愕している。

カプラは言う。

「東洋思想がきわめて多くの人々の関心を呼び起こしはじめ、瞑想がもはや嘲笑や疑いを持って見られなくなるに従い、神秘主義は科学界においてさえ、真面目にとりあげられるようになってきている。そして神秘思想は現代科学の理論に一貫性のある適切な哲学的裏付けを与えるものという認識に立つ科学者が、その数を増しつつある。人類の科学的発見は、人類の精神的目的や宗教的信条と完全に調和しうる、という世界観である」(註3

こうしてカプラは、科学と宗教とが調和・融合する新しい時代の到来を、世界の人々に伝えている。

大脳生理学者・カール・プリブラムも、次のように語っている。

「従来の科学は、宗教で扱う人類の精神的側面とは相容れないものだった。いま、これが大きく変わろうとしている。21世紀は科学と宗教が一つとして研究されるだろう。このことはあらゆる面でわれわれの生き方に重大な影響を及ぼすだろう」(註4

科学と宗教が一つのものとして研究され、それが私たちの生活に大きな影響をもたらすーーこうしたことを唱えているのは、彼らだけに止まらない。物理学や生物学や認知科学など、さまざまな分野の科学者が、科学と宗教の一致を語っている。

われわれは、科学と宗教が分離し対立した近代を経て、改めて科学と宗教がより高い次元で融合すべき新しい段階に入っているのである。

ここにおいて、再評価されつつあるのが、宗教の存在と役割である。

カプラは、次のように書いている。

「われわれが豊かな人間性を回復するには、われわれが宇宙と、そして生ける自然のすべてと結びついているという体験を回復しなければならない。宗教(religion)の語源であるラテン語の religare はこの再結合を意味しており、それはまさに精神性の本質であるように見える」と。(註5

まさに、われわれは、科学の時代から精神の時代、物質科学文化の時代から精神科学文化の時代への転換期にある。この時代の方向指示者の一人として、数理科学者のピーター・ラッセルは、「心のアポロ計画」という注目すべき提案をしている。名著『ホワイトホール・イン・タイム1992)で、次のように言う。

「今日、人類はまっさかさまに破局へ突っ込んでいく事態に直面している。もし本当に生き残りたかったら、そして私たちの子供や、子供の子供たちに生き残ってほしかったら、意識を向上させる仕事に、心を注ぐことこそが最も大切なことである。破壊的な自己中心主義から人類を解き放つための全世界的な努力だけが必要である。つまり、人類を導くための地球規模のプログラム、”心のアポロ計画”が要求されているのである」

「アポロ計画」は、1960年代に宇宙時代を切り拓いた宇宙開発計画である。それは、物質科学文明のピークを歴史に刻んだ。人類が月に着陸し、月面から撮った、宇宙空間に浮かぶ地球の写真は、人々に地球意識を呼び起した。「心のアポロ計画」は、この宇宙時代にふさわしい精神的進化を追及するプロジェクトである。

このプロジェクトでは、心理的な成熟や内面の覚醒を促す技術の研究開発に焦点が当てられる。そこに含まれるテーマは、次のようなものである。

 

●神経科学と心理学に焦点を当て、心の本質を理解する。

●自己中心主義の根拠をもっと深く研究する。

●霊性開発のための現在ある方法を全世界的に調査する。

●新しい方法を探すとともに、現在ある方法の協同化を進め、発見されたものの応用と普及を図る

 

提唱者ラッセルによると、この計画に巨額な資金は必要としない。

「毎年全世界が”防衛”に費やしている一兆ドルの1パーセント足らずで、すべてがうまくいくはずである」とラッセルは言っている。(註6

私はこの「心のアポロ計画」に賛同する者である。世界の有識者は、早急にこの精神科学発達プログラムを促進すべきである。ただし、この計画は、従来の宗教や霊的伝統の再評価にとどまるものであってはならないだろう。現代は科学が発達した時代である。従来の宗教では人々の心は満たされない。従来の宗教は、天動説の時代に現われた宗教である。今では、地球が太陽の周りを回っていることは、小学生でも知っている。パソコンやテレビ電話やスペースシャトルなどないどころか、電気や電燈すらなかった時代の宗教では、到底、現代人の心を導けない。いまや科学が高度に発達した時代にふさわしい、科学的な裏付けのある宗教の出現が求められている。

これからは、新しい精神科学的な宗教を中心とした、新しい精神文化の興隆によって、近代文明の矛盾・限界を解決する道が開かれるだろう。(7)

人類は、この地球において、真の神を再発見し、宇宙・自然・生命・精神を貫く法則と宇宙本源の力にそった文明を創造し、新しい生き方を始めなければならない。そのために、今日、科学と宗教の両面に通じる精神的指導原理の出現が期待されている。世界平和の実現と地球環境の回復のために、そしてなにより人類の心の成長と向上のために、近代化・合理化を包越する、物心調和の精神文化の興隆が待望されているのである。

そして、ここにおいて日本文明が担うべき役割には、大きなものがある。西欧において始まった近代化を、非西洋社会で初めて成し遂げ、独自の展開をしてきた日本文明は、物心調和の精神文化の興隆が待望される時代に、大きな貢献を果たすべく期待されている。この件は、別項にゆずり、本稿はこれをもって結びとする。(註8

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(1)カプラ著『ターニング・ポイント』(工作舎)

(2)同上『タオ自然学』(工作舎)

(3)同上『ターニング・ポイント』(工作舎)

(4)プリブラム他著『科学と意識』(たま出版)

(5)カプラ著『ターニング・ポイント』(工作舎)

(6)ラッセル著『ホワイトホール・イン・タイム』(地湧社)

(7)「新しい精神科学的な宗教」と「新しい精神文化の興隆」については、以下のサイトをご参照下さい。

http://www.srk.info/

(8)人類史における日本文明の歴史的役割については、次の拙稿をご参照下さい。

人類史の中の日本文明

 

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