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213-05   人類の展望

                       

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説明: ber117

 

人類史の中の日本文明

2005.2.1初版/2018.2.4一部修正

 

<目次>

はじめに

第1章 日本文明の位置づけ

(1)人類史における「新人類革命」

(2)文明を単位として歴史を見る

(3)日本文明は主要文明の一つ

(4)人類文明史における日本文明

第2章 日本文明の展開

(1)第1期 黎明期〜人類革命から日本文化の誕生へ

(2)第2期 準備期〜日本の農業革命

(3)第3期 形成期〜日本の都市革命と精神革命

(4)第4期 確立・熟成期

(5)第5期 発展期〜日本の近代化革命

(6)第6期 飛躍期〜新人類革命の推進

結びに〜新しい指導原理の出現と日本文明への期待

 

説明: ber117

 

はじめに

 

ユーラシア大陸の東端に位置する日本には、1万年程前から独自の文化が生まれ、大陸の文明から恩恵を受けつつ、確かな個性を持つ文明が発達してきました。日本文明は、いまでは世界の主要な文明の一つとして、人類社会に確かな存在感を示しています。

本稿では、日本文明を、人類の歴史の中に位置づけて、その誕生・形成・発展の跡をたどってみたいと思います。また、そのうえで、人類史上かつてない転換期に直面する世界における日本文明の役割について述べたいと思います。

 

 

第1章 日本文明の位置づけ

 

(1)人類史における「新人類革命」


 最初に人類史についての私の見方を簡単に示したいと思います。人類が地球に出現して、数百万年が経ったといわれます。その間、人類の文化は、幾度かの変化を遂げてきました。人類史を概観すると、以下のようになります。

第1期 人類革命
 時期: 数百万年前
 内容: 言語・道具・火の使用による人類の誕生

第2期 農業革命
 時期: 1万年前頃〜1万年1千年前頃
 内容: 農耕の開始

第3期 都市革命
 時期: 紀元前3500年頃〜前2500年頃
 内容: 都市の形成と古代帝国の建設

第4期 精神革命
 時期: 紀元前800年頃から前400年頃
 内容: 高度宗教や哲学の誕生による精神文化の向上

第5期 近代化革命
 時期: 15〜19世紀
 内容: 生活全般の合理化の進展による世界の変容

 人類は以上の六つの段階を経てきて、現在は第6の転換期にあります。この第6期を私は「新人類革命」と呼びます。人類が人類になって以来、最大の転換期です。そういう意味では第6の転換期というより、これまでの小転換期に対し、大転換期と言ってもよいものです。( 1)
 「新人類革命」の時期は、1945年(昭和20年)に始まります。私はこの年以降をもって現代と区分します。21世紀の人類は、20世紀半ばに始まった「新人類革命」の過程にあります。この大転換期の内容は、人類発生以来の危機と飛躍です。同時に「新人類革命」は、これに先立つ「近代化革命」の延長上に展開しているものであり、また近代化からの脱却の過程でもあります。(註 2

「新人類革命」を成功させること、それが人類の課題です。そして、日本文明はその課題の一端を担っています。この点は、日本文明の歴史を概観したうえで述べたいと思います。ページの頭へ

 


(1)
文明学による人類史の見方について、詳しくは拙稿「人類史に対する文明学の見方」をご参照下さい。
(2)近代化については、拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆」をご参照下さい。

 

(2)文明を単位として歴史を見る

 

人類の歴史を振り返ると、幾多の国家・民族が盛衰興亡を繰り返してきました。アーノルド・J・トインビーは、歴史をとらえるには、次々に現れては消える国家よりも、数百年あるいは千年以上の長さで生滅する文明を単位として歴史を見ることを提唱しました。彼は世界の諸文明を研究し、1934年から61年にかけて、『歴史の研究』全12巻を著述しました。本書によって、文明を単位として歴史を見る歴史観が成立しました。

文明と文化の違いについて述べると、まず文化とは、民族の慣習、さまざまな社会の知識の形態、そこでつくられるいろいろな制度、科学、芸術などをいいます。そして、文化が発展していって、ある程度の高度のもの、広範囲に制度化されたものに達したものを文明といいます。これは比較文明学者の伊東俊太郎氏の定義にならったものです。
 私見を加えると、文明は、ある程度高度に発達した文化を持つ“社会”を意味するのに対し、文化はその社会の持つ“生活・活動”の総体、つまり慣習・知識・制度・科学・芸術等を意味する点が異なります。前者は、行為の主体であり、後者は行為の対象や内容です。ただし、文明段階以前の社会を、文化の語で表わす場合もあるので、私も必要に応じてこれにならいます。

さて、トインビーは、文明が誕生する原因を考察し、「挑戦と応戦」の理論を提示しました。「挑戦(challenge)」とは、ある社会が環境の激変や戦争などによって、その存亡にかかわる困難な試練に直面することであり、「応戦(response)」とは、この課題に対して、創造的に対応しその脅威を乗り越えようとすることをいいます。文明は、この「挑戦」に対する「応戦」によって発生するとトインビーは考えました。発生後の文明は、その後の過程のどの段階においても「挑戦と応戦」は行われ、その繰り返しが文明を成長させます。

トインビーはまた、文明の興亡盛衰には、ひとつの法則性があり、文明は「誕生成長挫折解体」を繰り返すと説きました。これを文明の周期論(サイクル論)といいます。トインビーによると、文明の解体後は、先行文明の刺激を受けて発生した新たな文明に継承されることが多いが、継承されずに滅亡する場合もあり得ます。トインビーは、歴史家として、自然または他の文明による「挑戦」に対して有効な「応戦」ができなかった文明は滅亡した事実を指摘しています。(註 1

文明の成長は、哲学者アンリ・ベルグソンの説く「生命の飛躍(エラン・ヴィタール elan vital)」の一種だとトインビーは考えました。「エラン」とは、生命の進化をもたらすエネルギーの表れであり、人類においては「愛の飛躍(エラン・ダムール elan damour)」として働き、道徳と宗教の源泉となった、とベルグソンは『道徳と宗教の二源泉』で説いています。トインビーは、この「エラン」によって、人類が利己心を超え、精神的に向上することを願いました。

トインビーは、世界史において「充分開花した文明」の数を23としました。また、それらを5つの系統と3つの世代に分け、諸文明間の空間的・時間的な影響を論じました。しかし、諸文明の関係については、十分考察ができていませんでした。これに対し、文化人類学者のフィリップ・バグビーは、諸文明を「主要文明(major civilization)」と「周辺文明(peripheral civilization)」に分けるべきだと主張しました。独立した主要な文明と、その文明の刺激を受けて発生し、これに依存し、宗教・政治制度・文字・芸術・技術等を借用する周辺文明とを区別して研究しなければならないというのです。バグビーが主要文明に数えるのは、バビロニア、エジプト、ギリシャ=ローマ、インド、シナ、近東、西洋、中米、ペルーの9文明です。他方、それぞれの文明に派生する周辺文明として、28の文明をあげています。周辺文明の特徴は、基礎的な制度の自己展開がないこと、独創性の欠如、持続性が短いこととしています。(註 2) 

この批判を受けて、トインビーは、諸文明を「独立文明(independent civilization)」と「衛星文明(satellite civilization)」に区別しました。「衛星文明」とは、「独立文明」の刺激を受けて発生し、独立文明に依存し自立していない文明です。こうした区別によって、周辺文明・衛星文明の比較研究が行われるようになりました。ページの頭へ

 

(1)トインビー著『歴史の研究』(社会思想社)、『世界の名著 61 トインビー』(中央公論社)

(2)バグビー著『文化と歴史』(創文社)

 

(3)日本文明は主要文明の一つ

 

 日本文明については、トインビーやバグビーは、日本文明を独立した主要な文明とはみなしていませんでした。トインビーは当初、日本文明をシナ文明の分派、つまり本体から枝分かれした「側枝(offshoot)」とし、その後、「衛星文明」に格下げしました。バグビーは、日本文明はシナ文明の周辺文明として発生したが、その後、かなり独立性を持つにいたったと注目しました。山本新氏は、バグビーを受けて具体的に研究し、シナ文明の周辺文明として成長した日本文明は、遣唐使廃止後の9世紀末〜10世紀初め頃から相当の独立性を持ったことを強調します。ただし、周辺文明の地位のまま、近代においては新たに西洋文明の周辺文明となっていると説いています。(註 1

これに対し、伊東俊太郎氏は、日本文明はシナ文明の周辺文明から自立して、「基本文明」に成長したと説いています。伊東氏にいたって、日本文明は、一個の独立した文明であるという見方が、明確に出されたわけです。

伊東氏のいう「基本文明」とは、「それみずからのユニークな文明のスタイルをもち、自立的に発展し、かつ文明の寿命が長いもの(千年以上のもの)」です。伊東氏は、「基本文明」は、文明の発生の時代順に、17あるとします。メソポタミア、エジプト、エーゲ、インド、シナ、ギリシャ=ローマ、ペルシャ、アフリカ、中米、アンデス、ビザンツ、アラビア、スラブ、日本、西欧、アメリカです。また、現代世界における基本文明として、アフリカ文明、西欧文明、アラビア文明、ロシア文明、インド文明、シナ文明、日本文明、アメリカ文明の8つを挙げます。

このように伊東氏は、日本文明を「基本文明」の一つに数えています。日本文明のように、後から自立した文明の例として、他にアメリカ文明は西欧文明の直系の子であるが独自の文明に成長した、ロシア文明もビザンツ文明の周辺文明から自立したとします。(註 2

比較文明学の研究が進んだ今日では、日本文明を一個の独立した文明とする見方が優勢です。ハンチントンは、冷戦後の現代世界の主要文明を7または8とし、その中に日本文明を数えます。7または8とは、キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする「西洋文明(西欧・北米)」、ギリシャ正教を基礎とする「東方正教文明(ロシア・東欧)」、イスラーム教を基礎とする「イスラーム文明」、ヒンドゥー教を基礎とする「ヒンドゥー文明」、儒教を要素とする「シナ文明」、「日本文明」、カトリックと土着文化を基礎とする「ラテン・アメリカ文明」。これに今後の可能性のあるものとして、「アフリカ文明(サハラ南部)」を加えています。そして、これらの中で、日本は「一国一文明」という他にない特徴を持っていると指摘しています。(註 3

文明史学者の中西輝政氏も、日本文明の独立性を明らかにし、日本文明では「国=文明」となっていることを強調しています。(註 4

論者によって主要文明・独立文明・基本文明、周辺文明・衛星文明というように用語が異なるわけですが、私は、主要文明(major civilization)と周辺文明(peripheral civilization)という用語を用いることにしています。私の定義では、主要文明とは、独自の文明の様式をもち、自立的に発展し、かつ文明の寿命が千年以上ほどに長いか、または現代世界において重要な存在であるものです。周辺文明とは、主要文明の文化的刺激を受けて発生し、これに依存し、宗教・政治制度・文字・芸術・技術等を借用する文明です。周辺文明には、基礎的な制度の自己展開がなく、独創性が弱く、持続性が短いという特徴があります。しかし、周辺文明が自立して、主要文明に成長する場合があります。それゆえ、主要文明を、自生的に発展した自生型(じせいがた)と、周辺文明から成長した後成型(こうせいがた)に分けることにします。日本文明については、後成型の主要文明であると私は評価します。理由は、後で述べます。ページの頭へ

 

(1) 山本新著『周辺文明論』(刀水書房)

(2)伊東俊太郎著『比較文明』(東京大学出版会)

(3)ハンチントン著『文明の衝突』(集英社)、『文明の衝突と21世紀の日本』(集英社新書)

(4)中西輝政著『国民の文明史』(産経新聞社)

 

(4)人類文明史における日本文明

 

文明の発生以来、人類史の各時代には、各地域の中心となったいくつかの主要文明が並存しました。また、主要文明の周辺を衛星のように取り巻き、主要文明に依存する幾多の周辺文明が生滅してきました。わが日本文明は、古代東アジアの主要文明であったシナ文明の刺激を受けて、その周辺文明の一つとして発生しました。始めのうちはシナ文明に依存し、宗教・政治制度・文字・芸術・技術等を借用していましたが、7世紀から自立性を発揮し、9世紀の遣唐使の廃止以降、独創性を強く発揮し、遅くとも13世紀には一個の独立した主要文明になったと私は考えます。そして、文明の独自の様式を保ち、基礎的な制度も自分に合ったものに変え、自立的に発展し続けました。

トインビーやバグビーは、日本語を読めず、日本文化を深く研究することが出来ませんでした。しかし、17世紀から19世紀にかけて、日本列島で爛熟した江戸文化は、当時の世界でまぎれもなく個性的な輝きを放っています。それは、世界の主要文明に肩を並べる独創性の表れです。日本文明は、19世紀や20世紀に初めて独立した文明になったのではなく、その600〜700年前には既にそうなっていたのです。しかも、日本社会は、千年どころか有史以来、発展し続けており、非常に長い持続性をもっています。

近代西洋文明が、15世紀末から他の大陸の諸文明に侵攻し、支配・収奪を進めたとき、この「挑戦(challenge)」に対し、創造的な「応戦(response)」を行ったのが、日本文明です。日本文明は、それまで蓄えてきた潜在力を大きく発揮し、物質科学文明の成果を摂取して大きく成長しました。それが明治維新であり、近代国家の建設であり、日露戦争の勝利でした。ここから有色人種の解放運動がはじまります。

現代の日本文明は、シナ文明の周辺文明でも、西洋文明の周辺文明でもありません。シナ文明から受けた恩恵を保持し、西洋文明から多くを摂取しつつ、なおかつ自己本来の精神・個性を創造的に発揮している一個の主要文明が、日本文明です。だからこそ、明治維新以後、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの諸文明・諸国家・諸民族をリードして来ているのです。

これを可能にしているのは、文明化する以前の段階から、日本文化が固有の要素を持ち、それを保ってきていることによります。トインビーは文明の誕生と存続に宗教が重要な役割を果たすことを明らかにしましたが、日本ではこれにあたる自生の宗教に、神道があります。神道は縄文時代から受け継がれてきた日本文明の精神的基盤です。さらに、神道に基づく宗教的政治制度として、皇室を中心とした制度がつくられ、民族全体が一大家族国家のような社会を構成しています。神道・皇室・家族国家は、シナ文明の影響を受けながらも、一貫して変化することのなかった日本文明の特徴です。それに基づいて、和歌・茶道・武士道等の独創的な文化が生まれました。また日本社会は、有史以来一つの社会として持続しています。この事実は、シナやヨーロッパにも見られないことです。これらは、日本文明が一個の独立した文明であることを示して余りあります。

また、日本は、世界の諸文明の中で、一国で一文明をなすという他にない性格を持っています。西洋文明もイスラーム文明も数多くの国々で構成されています。シナ文明には大陸の諸国家・諸民族が多く含まれます。ところが日本だけは、一国でひとつの文明をなしているのです。

次に、人類史の各段階に、日本文明史を対応させてみたいと思います。以下の整理も、伊東氏の説に修正を加えています。年代は大体の数字です。

 

時 期

名 称

人類文明史との対応

西暦年代

時 代

第1期

日本文明の黎明期

人類革命から日本文化の誕生へ

約3万年前〜前900年頃

岩宿時代〜縄文時代中期

第2期

日本文明の準備期

日本の農業革命

 

BC900年頃〜AD3世紀頃

縄文時代後期、弥生時代

第3期

日本文明の形成期

日本の都市革命と精神革命

3世紀頃〜1200年頃

古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代

第4期

日本文明の確立・熟成期

上記の進展

1200年頃〜1868年

鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代

第5期

日本文明の発展期

日本の近代化革命

 

1868年〜1945年

明治大正時代、昭和時代前期

第6期

日本文明の飛躍期

新人類革命の推進

1945年〜現在

昭和時代後期、平成時代〜21世紀

 

現代の第6期、この新人類革命の時代は、日本人が世界人類とともに、存亡の危機を乗り越えて、飛躍すべき時です。それが21世紀の私たちが生きている時代です。

次に、こうした人類史的な視野の中で、日本文明の歴史を概観し、それを踏まえて、今日の日本文明の課題を述べます。

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第2章 日本文明の展開

 

1)第1期 日本文明の黎明期

〔=人類革命から日本文化の誕生へ〕

(約3万年前〜前900年頃、岩宿時代・縄文時代中期)

 

人類が言語・道具・火の使用などにより、人類となったことを「人類革命」といいます。それ以来、数百万年の歳月が過ぎ、現在、日本列島となっている地域にも、人間が住み着くようになっていました。今のところ、日本では牛川人と呼ばれる旧人(静岡県豊橋市で発見)が一番古いとされています。およそ10万年前の旧石器時代人です。そして、この土地で、アジアの南方・北方や太平洋の各地から来たモンゴロイドを中心とする様々な民族が、混血を繰り返して融合し、日本民族の先祖となりました。

日本にも旧石器時代があったことが、岩宿遺跡(群馬県笠懸町)によって確認されています。少なくとも約3万年前のものです。その後、日本は新石器時代に入り、縄文時代となります。この時代は今から約1万2〜3千年前に始まり、約2千3百年前に終わったとされます。日本は、約1万年前に大陸から切り離されて列島になったといわれていますから、その時期は縄文時代の初期にあたります。世界的には、「農業革命」が起こった時代です。

縄文時代は、氷河期終了後の後氷期にあり、世界の可住地帯に乾燥化が始まりました。しかし、日本では雨量に恵まれ、豊かな森林が形成されていました。照葉樹林を中心とした日本の森には食料となるドングリなどの堅果類が豊富でした。川や湖での漁労の技術も進み、かなり豊かな生活が営まれていました。それは定住を伴った狩猟採集文化という、人類史上にユニークな文化です。それが縄文文化です。縄文文化は、世界最古の高度土器文化として異彩を放っています。また、その生活の中で、共通の言語(日本語)も作り出されていったと考えられます。ここに、後に日本文明に発展することになる日本文化が誕生したといえます。

近年、縄文時代の遺跡発見が続いていますが、その中で、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡は現在のところ、最大級の縄文集落跡です。この遺跡は、紀元前3500年前〜2000年前のものです。イギリスのストーンヘンジ、エジプトのクフ王のピラミッド、パキスタンのモヘンジョダロなどとほぼ同時代です。世界的には、「都市革命」の時代に当たります。

三内丸山では長年月、定住生活が営まれていました。竪穴住居跡、墓、掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑などが見つかり、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、装身具、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石などが出土しています。さらに、ヒョウタン、ゴボウ、豆などの栽培植物が出土し、DNA分析により栗の栽培が明らかになるなど、数多くの発見が、縄文文化のイメージを大きく変えつつあります。

縄文文化の特徴の一つは、「森の文化」です。縄文人は、照葉樹林を中心とした森の恵みを受けて、豊かな文化を生み出しました。土器や土偶には、原自然のエネルギーを感じさせる生命力が躍動しています。この点は多言を要しないでしょうが、縄文人は陸地に土着していただけではありません。船を使って、かなり自由に日本周辺の海を行き来し、様々な物資を利用してもいたのです。つまり、縄文文化は、「海の文化」でもありました。縄文人が持っていただろう世界観・生命観は、後代の日本神話や伝承・祭儀として受け継がれているはずです。例えば、「国生み神話」や禊、海による浄化、海の彼方の来世または故郷、海から来る訪問者の恩恵等です。これらには、ユーラシア大陸の文明とは異なる海洋的な性格が表れています。ポリネシアや東南アジア等の海洋文化に共通するものがあるのです。太平洋を始め、四方を海で囲まれた日本列島において、大陸性とは違う海洋性の文化が発達したことは、注目すべきことです。

また、縄文人は、環濠集落(堀をめぐらした集落)を作り、円形の場所に中心を広場とし、周囲に丸く竪穴式住居を建てて暮らしていました。この環濠集落を表す言葉が「わ」でした。「わ」とは「環」「輪」を意味し、集団や仲間の意味を表す言葉となりました。外来者はこれを聞いて、国名に「倭」の文字を当てたのでしょう。「輪」を組んで協同的に暮らしていた縄文人の心は、日本の「和の精神」の基底となったともいえましょう。

こうして縄文時代に形成された豊かな文化遺産は、その後の日本文明の基層となっていると考えられます。また、日本文明の色々な時代・様相に、縄文的なものが表出していると見ることができるでしょう。

ところで、日本人の起源については、これまで考古学、人類学、言語学等の専門家が様々な説を発表していますが、遺伝子の研究によって、新たな見方が出てきています。平成30年初め、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのグループが、縄文人の核DNA解析を行った結果を踏まえ、次のような説を発表しました。

 

・縄文人は、2〜4万年前に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だった。

・現代日本人の遺伝情報のうち、縄文人から受け継いだのは12%に留まる。縄文人のDNAはアイヌで50%以上、沖縄の人たちで20%程度。

・日本列島への渡来は、@旧石器時代後期から縄文時代中期、A縄文時代後晩期、B弥生時代以降の三段階。うち、Aの渡来人が日本祖語をもたらした。

 

 今後も科学の発達に従って、日本人の起源に迫る研究が進むことと思います。ページの頭へ

 

(2)第2期 日本文明の準備期

〔=日本の農業革命〕

BC900年頃〜AD3世紀、縄文時代後期・弥生時代)

 

日本人は約3000年前頃から、人類史上にいう「農業革命」を体験します。ここで東アジアの文明先進地域から、稲を作る集約的な水田農耕が導入され、普及しました。また、この過程で日本民族の民族的特徴が確立しました。それゆれ、この時期は、日本文明を形成する準備期と位置づけられます。

稲作は既に縄文時代の後期から、陸稲栽培がされていたようです。そこへ現在わかっているところでは、紀元前900年頃、水田稲作の技術が、シナ大陸の江南地方から直接か、あるいは朝鮮南部から海路あるいは半島経由で日本に伝来しました。先住していた縄文人は、南方系の旧モンゴロイドでした。そこに渡来したのは、北方系の新モンゴロイドです。渡来民は高度な稲作技術とともに金属器を作る技術を日本にもたらしました。彼らは先住民と出会い、そこに弥生文化が生み出されました。その文化が九州から西日本に伝播し、ついで東日本へと浸透していったのでしょう。この過程で、縄文人の方もかなり主体的に新技術を採り入れていったようです。こうして、米を主食とする日本人の生活様式と、米作りを中心とした文化が形成されました。これによって、日本文化には、「森の文化」「海の文化」という特徴に加えて、「米の文化」という特徴が加わりました。これらは、日本文明の個性をよく表わしています。そして、<森・海・米>の文化が育てたのが、「和の精神」つまり人と自然、人と人が調和して生きる日本文化に特徴的な精神です。

『古事記』『日本書紀』には、国家民族の形成が神話の形で語られていると思われます。それによると、日本には、須佐之男之命の子孫である「国神」の民族が先住しており、そこに天照大神の子孫、「天つ神」の民族が渡来しました。「天つ神」の民族は「国神」の民族と争いつつ、これを恭順させて日本を統治するようになりました。両者は前者が姉、後者が弟にたとえられる関係であり、後者が前者に統治を譲渡し、前者は後者敬意もって処遇しています。須佐之男命の子が大国主命とされ、後者は、この系統です。(註 1

この「天つ神」の子孫が伝えたのが、稲作の文化なのです。天孫降臨の神話において、天照大神は、孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を日本に派遣します。その際、次のように命じたと『古事記』は記しています。「吾が高天原きこしめす斎庭(ゆには)の稲を以てまた吾が児(みこ)に御(まか)せまつる」。すなわち、天照大神は、自ら高天原で作った稲を瓊瓊杵尊に与え、日本へ行って米を作るように命じたというのです。また、天照大神は、瓊瓊杵尊に「鏡」を与えます。「鏡」は、現在も皇位を象徴している「三種の神器」(註 2)の中心となっています。

天孫降臨神話は、天孫瓊瓊杵尊らは日向の高千穂の峰に降り立ったとします。この神話を持つ集団が、日向地方に定住したことの反映でしょう。彼らの子孫が、南九州から大和地方に進出し、その指導者が初代・神武天皇となりました。神武天皇は、奈良橿原の地で稲作を行い、収穫を神々に感謝する祭りを催しました。それが、新嘗祭及び大嘗祭の起源となりました。この天照大神―瓊瓊杵尊神武天皇の系統が、今日の皇室の祖先です。一方、須佐之男命―大国主命の系統は、出雲系となります。(註 3

こうした日本神話には、縄文人と弥生人の出会いと融合の過程が反映されているものと思います。今日の日本人の多様性は、南方系モンゴロイド(縄文系)と北方系モンゴロイド(渡来系)の融合によります。渡来民が多く住み着いた近畿地方から遠ざかるにつれて、縄文的つまり南アジア的特徴が濃く残っています。沖縄やアイヌがその典型と考えられます。

縄文時代から渡来した集団や、自らを天孫だと信じる集団について重要なことは、彼らの行動が、ヨーロッパやインドに流入した民族がしたような征服・支配とは異なっていたことです。つまり、先住民を追放・殺戮したりせず、徐々に混血・融合してきたのです。もちろん時として「服(まつ)ろわぬ者」を武力で征服することもありました。しかし、日本では、ギリシャやローマのように敗者を奴隷として大規模な奴隷制を敷くとか、インドのようにバルナ(種姓)によるカースト制度をつくるということはありませんでした。日本の先住民と渡来民は血縁を多く結び、日本列島の住民の多くがほぼ一体化し、一つの民族と化していきました。

この民族形成の原理が「和の精神」であり、後に聖徳太子は「和の精神」を「十七条憲法」の理念としています。「和の精神」は、人と人、人と自然が調和して生きる大調和の精神です。それが、「日本精神」の特徴といえましょう。(註 4)

日本人の祖先は、農業革命後、2千年以上もの年月に渡り、米を作り、米を食べながら生きてきました。わが国の稲作は、灌漑水田稲作です。四季の変化に応じて、もみを蒔き、苗を育て、稲を刈らねばなりません。そこに自然と調和して生きる生き方が育まれました。また、わが国の稲作は、集約的な労働を要します。村人が総出で、農作業をしなければ、豊かな実りは得られません。人の和が必要です。そこに、日本人の正直、勤勉、約束を守る、人に思いやりを持ち、気配りをする美質を持つ民族性が形作られました。こうして集約的灌漑水田稲作を続けるうちに、日本人には、人と人、人と自然の調和を重んじる精神が自ずと発展したと考えられます。

さて、シナの漢王朝の時代、起元57年頃のものとして、「漢委奴国王」という金印が、北九州で出土しています。国名として「倭(わ)」の「奴国(なのくに)」が使われ、その「王」という称号が彫られており、当時の日本がシナ文明の影響下にあることが伺われます。その後3世紀には、邪馬台国という国が存在し、卑弥呼という支配者がいたと伝えられます。シナの歴史書である「魏志倭人伝」に記録され、シナの魏王朝から「親魏倭王」に任命されています。邪馬台国は、小国家の連合体と考えられますが、所在地については北九州説と畿内説があり、論争が続いています。まだ明確な遺跡が発見されておらず、どの程度の規模の国家だったかも確認できていませんので、これを人類史上にいう「都市革命」に相当する段階のものといえるかどうかはわかりません。いずれにせよ、渡来民の一部は、南九州で国をつくり、東進して畿内に勢力を伸ばします。それが神話では、神武天皇の物語に反映しているのでしょう。ページの頭へ

 

(1)日本神話については、下記の拙稿をご参照下さい。

日本神話に現れた大宇宙の理法

日本には、国の理想があるのだろうか?

(2)「三種の神器」については、次の拙稿をご参照下さい。

  「三種の神器と知仁勇

(3)日本の国柄については、項目「国柄」をご参照下さい。

(4)和の精神については、項目「和の精神」をご参照下さい。

 

3)第3期 日本文明の形成期

〔=日本の都市革命と精神革命〕

(3世紀頃〜1200年頃、古墳時代・飛鳥時代・

奈良時代・平安時代)

 

4〜5世紀には、近畿地方を中心に、大和朝廷による統一国家ができました。これは異民族による征服王朝ではなく、豪族の連合による融合王朝でした。君主は大王(おおきみ)と呼ばれ、「すめらみこと」すなわち天皇の起源と想定されています。大王は人類史における都市国家段階の王に対照でき、大和朝廷の成立は日本の「都市革命」に相当します。

これを裏付けるのが、奈良県桜井市三輪山のふもとにある纏向(まきむく)遺跡です。3世紀初頭から4世紀後半にかけての巨大遺跡で、広さは1.5キロ四方に及び、平城京の規模に匹敵します。瀬戸内海西部から南関東に及ぶ範囲の土器が発掘され、住居は高床式ゆえ住民は都市に住む支配層だったと考えられます。政治や文化の中心地だったことがうかがわれ、この遺跡を日本最初の都市とみる研究者が多くいます。三輪山周辺は、『古事記』『日本書紀』に第10代崇神天皇から垂仁・景行三代の天皇が都とした場所と伝えられ、周辺には天皇稜とされる大型前方後円墳が存在します。

時期については、遅くとも5世紀には、日本は「都市革命」の段階に入ったといえましょう。それをよく示すのが、仁徳天皇陵と考えられる前方後円墳です。5世紀前後のもので、全長約485メートル。エジプトのピラミッド等に匹敵する巨大遺跡で、墳墓としては世界最大です。高度な工事技術が発達し、文字もかなり使用されていたようです。相当の国力と都市機能の存在が想像されます。こうした統一国家は、メソポタミア・エジプト・インド・シナにおける「都市革命」に相当する段階の国家であったことを示しています。それゆえ、3世紀ころからの古墳時代に始まり4〜5世紀の大和朝廷の成立を以って日本の「都市革命」とし、ここに日本文明が誕生したといえます。

この時点での日本文明は、シナ文明の周辺文明として誕生したばかりであって、まだ自立性をもっているとはいえません。しかし、自立をしていける豊かな可能性を秘めていました。まずトインビーは文明の誕生と存続における宗教の重要性を明らかにしましたが、日本は神道という固有の宗教をもっています。神道は縄文時代・弥生時代を通じて形成された精神文化であり、アニミズム的な精霊崇拝と、シャーマニズム的な祖霊崇拝が特徴です。神道による祭りや風習は、21世紀の今日も生き続けています。次に、神道に基づく宗教的政治的制度として、日本文明は皇室を中心とする独自の制度を持っています。さらに、この皇室を中心として、民族全体が一大家族国家のような社会構成となっています。これら神道・皇室・家族国家は、シナ文明の影響を受けながらも、一貫して失うことのなかった日本文明の三大文化要素です。これらは、先に書いた<森・海・米>の文化が育てた日本固有の「和の精神」が、宗教・制度・社会に表れたものともいえます。この三大要素が、日本文明の誕生時に自生していました。そして、若い日本文明は、こうした独自の要素を個性として保持しつつ、シナ文明の文化要素を吸収・消化しながら成長していったのです。

次に、日本における「精神革命」は、いつ起こったのでしょうか。日本文明の「精神革命」は、大陸の主要文明の刺激を受けて誕生したため、既にインド文明やシナ文明で起こった「精神革命」が伝播して、その成果を学習するという形で始まりました。成果とはすなわち、仏教・儒教・道教等の宗教・哲学です。これらは朝鮮半島を経由する漢字文化の流入とともに伝来しました。3世紀から儒教が、6世紀前中半に仏教が、また道教がこれらに融合・混入した形で入ってきました。大和朝廷の時代には、相当広く文字が使われ、外来の「精神革命」の成果が学習されていたと思われます。

そして、7世紀前半に聖徳太子が出現します。太子は、皇室の神道を堅持しながら、外来の仏教を積極的に採り入れました。同時に儒教・道教なども学んだうえで、日本固有の価値観を表現しました。「十七条憲法」がそれです。その冒頭は「和を以って貴しとな」と始まります。ここに記されている「和の精神」は、日本固有の精神、「日本精神」をよく表現しているものです。「十七条憲法」は、ものの道理や人間心理への深い洞察に基づいており、太子の業績は、日本における「精神革命」の独自の展開に当たります。(註 1

太子による「精神革命」は、日本固有の神道・皇室・家族国家を基盤としたものであり、日本の精神文化の個性を明確に表現したものでした。その後、「日本精神」は様々な形で自覚されてきました。「日本精神」は敬神崇祖を宗とし、親子・夫婦・祖孫の一体を実践し、君臣が忠孝で結ばれた大調和の精神として、日本文明の精神的背骨となっています。

さて、「十七条憲法」は、国土も人民も主は天皇であるとし、国民統合の中心が天皇であることを明記しました。この理念は、大化の改新において実現され、公地公民制が創設されました。天皇は公の原理の体現者となり、人民は公民という公的存在になったのです。このことが、日本文明の政治的社会的原理となりました。(註 2

聖徳太子は、隋の煬帝に宛てて国書を送り、その中で、「天皇」という言葉を使用しました。これはシナ文明の中心である皇帝に対し、日本文明の中心である天皇が対等の存在であると表明したものです。「天皇」の称号が大化の改新(645)の後、天武天皇の時代に定着しました。また、この太子の姿勢にならって、大化元年より「日出づる処」を意味する「日本」が、国名として外交文書に使われるようになりました。大化の改新では、年号もわが国独自のものを使うことを決めました。これらを見ると、7世紀とは、日本が日本となった画期的な時代だったことがわかります。7世紀の初めには、君主を「天皇」と呼び、中頃には独自の年号を立て、また新たに国名を「日本」と定めたわけです。その結果、わが国は政治的・外交的に、完全にシナの册封体制から離脱しました。そして、これによって、日本文明は、主要文明であるシナ文明と対等たらんとする志を示し、独自の文化を保持しつつ自立性を強めていく方向が固まったのです。

国名に関して言うと、日本人は古くは自国を「わ」と呼び、それにシナ人が「倭」の文字を与えました。「倭」は背の曲がった小人を意味します。日本人はこの文字を嫌い、調和を意味する「和」の文字を用い、国の中心となる「やまと」に「大和」の文字を当て、日本の別称としました。それは8世紀始めの元明天皇の時からです。これも、聖徳太子の記した「和の精神」の表れでしょう。

日本は、聖徳太子の時代以後も、文化的には、シナから宗教・思想・制度・医学など多くのものを学びました。7世紀初頭からの遣隋使、またその後、9世紀末まで続く遣唐使を大陸に送って、積極的に先進文化を摂取しました。こうして日本は東洋の精神文化を総合する場所となりました。インドの仏教・ヒンドゥー教、シナの儒教・道教等の東洋文化が、極東の日本に到達し、そこで融合・発展したからです。

ただし、日本文明は、周辺文明でありながら、文明の中核である独自の精神を失うことはありませんでした。主要文明の文化的要素を取捨選択し、また摂取したものは自分に合ったものに変えてきたからです。シナの制度習慣のうち、自国に合わないものは採り入れていません。科挙や宦官の制度、族外婚、人肉食など、シナ文明の特色ある要素を拒否しています。政治制度については、律令制度を導入しながら、政治を司る太政官のほかに、シナにはない祭儀を司る神祇官を設け、皇室を中心とする祭政一致の制度を確固としたものにしました。基本的には、この国家制度が、明治維新まで維持されます。また輸入物の律令制度はやがて形式化し、朝廷の政治を藤原氏などの貴族が支えるという形が出来ました。それが摂関政治です。天皇は象徴的権威を担い、政治の実権は太政官なりその権限を委託された臣下(貴族や武士)が担う日本独自の国家構造が出来あがりました。日本文明の歴史には、シナ文明のような易姓革命がなく、皇室が一貫して国の中心となっています。日本文明は、外来の制度を独自のものに変え、それを自立的に発展させたのです。

日本文明は4〜5世紀に誕生し、その後、成長を続ける形成期に入っていました。この時期の主体は、貴族です。朝廷を中心とした貴族文化は「みやびの文化」と呼ぶことが出来ます。

天武天皇のときに、朝廷は、神道の信仰の中心地を近畿地方から伊勢に移しました。社殿の建築様式は、シナ文明の様式とはまったく異なり、日本文明の独自性を示し、素朴にして清明です。7世紀末に伊勢神宮で、第1回の遷宮が行われました。その後、20年に1度、式年遷宮が行われ、正殿・神宝など全てが新造されてきました。戦国時代には中断した時期もありますが、今日まで1300年にわたって続いており、世界に比類ない持続力を持っています。主要文明たりうるには、千年以上の持続性が必要だという見方がありますが、伊勢神宮は、まさに日本文明の自立性を体現する、生きたモニュメントです。
 仏教においては、8世紀末に弘法大師空海という日本宗教史上、最高の天才が出現します。空海はシナに留学し、短期間のうちに最新の仏教を極め、灌頂(かんじょう)を受けます。そして、世界史に希に見るほど完成度の高い教義・実践体系を作り上げ、真言宗を開きました。また、伝教大師最澄も、シナから高度の学識を伝え、戒律を簡略化するなど、早くも仏教の日本化を開始しました。鎌倉仏教の諸宗派は、ほとんどが彼の天台宗に発しています。また10世紀から仏教の側に仏教を中心として神道を取り込む本地垂迹思想(ほんじすいじゃくしそう)が現れ、神道と仏教の習合が行われました。

こうした外来の精神文化の土着化・日本化において、日本文明が独自の文字をもったという事実が大きな役割を果たしました。8世紀に『古事記』『日本書紀』、9世紀は『万葉集』という日本文明を代表する文献が編纂されました。最初は漢文で表記されましたが、やがて漢字から表音文字を取り出して音を表わす道具にします。さらに9世紀には片仮名・平仮名が発明・使用されました。アルファベットはフェニキア文字を改良したものであり、フェニキア文字はオリエント諸族の文字を改良したものですから、日本の仮名文字も見事な文化創造といえます。

なお、『万葉集』には、5世紀ころからの天皇・貴族から防人・乞食までの歌が載っており、みな同じ言葉を用いています。このことは、縄文時代以来、様々な民族が融合し、一つの民族を形成したこと、社会階層の違いに関わらず、同じ日本語を使い、しかも歌を詠み味わうことが出来ていたことを示します、ここにも世界史に比類ない日本文明の特徴があります。

9世紀末の寛平6年(894に遣唐使を廃止して、シナ文明からの文化輸入をやめると、外来文化の土着化が進みました。いわゆる国風文化の創出です。遣唐使廃止のわずか9年後の延喜5年(905)には、醍醐天皇の勅命により、わが国初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編集が開始されました。ここに漢字か混じり文が登場しました。これによって、日本語(やまと言葉)を自由に表記できるようになりました。10〜11世紀には仮名文字を自在に用いた、華麗なる王朝仮名文学が花開きました。世界的にもこの時代に、紫式部・清少納言らの女性作家が活躍したことは驚異的です。ヨーロッパで女性による小説が登場したのは、その約7百年も後のことでした。日本文学の研究者サイディンステッカーは、『源氏物語』の心理描写を20世紀の文学に比較できるほど高度なものだと評価しています。

シナ文化の土着化・日本化は広く進み、建築では寝殿造り、彫刻では寄木造、絵画では大和絵、服装では衣冠束帯・十二単(じゅうにひとえ)等が出現しました。

こうして日本文明は、固有の精神文化を保ち、主体的に外来文化を摂取・変換しつつ、独創性を発揮し、一個の主要文明として形成されていったのです。

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(1)聖徳太子については、次の拙稿をご参照下さい。

聖徳太子に学ぶ政治・外交・文化のあり方

(2)日本における公と私については、次の拙稿をご参照下さい。

日本の公と私

 

4)日本文明の確立・熟成期

1200年頃〜1868年、鎌倉時代・南北朝時代・

室町時代・安土桃山時代・江戸時代)

 

日本文明は、早ければ9世紀末から10世紀、遅くとも12世紀末〜13世紀には、精神的にも制度的にも主要文明となった、と私は考えます。前者の指標は遣唐使の廃止・仮名文字の使用・律令制の形式化、後者の指標は公武の二重構造化・元寇の克服・封建制の発達です。9世紀末から13世紀にかけての時期を移行期間とすると、日本文明は、遅くとも13世紀には、後成型の主要文明として確立しました。以後、一層個性を明確にし、まぎれもなく独立した一個の主要文明として、極東の地に大きく開花しました。この日本文明の確立期の主体となったのは、武士でした。武士は、シナ文明にはない日本独自の集団です。彼らが政治・社会・文化の担い手となって以降、日本文明の個性顕現が促進されました。

日本文明が誕生し形成された過程で、千年以上もの間、シナ文明が流入し続けました。しかし、シナ文明の周辺文明の一つである朝鮮文明のように、儒教文化に凝り固まった「小中華」となることなく、いつしか外来文化を土着化・日本化してきました。これは、四方を海に囲まれているという地理的条件により、外敵の侵略が防がれたからでしょう。自然の守りにより、大陸における諸文明のパターンとは異なる、独自の発展が可能になったのです。しかし、一度だけ、重大な危機がありました。元寇です。日本文明の個性顕現は、この日本文明史上かつてない試練を乗り越えたことによって、可能になったのです。

元は人類史上、空前の大帝国でした。世界の3分の2を征服した蒙古は、朝鮮半島を手に収め、次は日本を狙いました。そして文永11年(1274)と弘安4年(1281)の二度にわたり、わが国に侵攻してきました。この時、鎌倉幕府を中心として、全国の武士が国防に努めたことにより、蒙古軍を打ち破ることが出来ました。もし蒙古に屈し、その支配を受ければ、日本文明の確立などなかったでしょう。世界史上、数多く見られる死滅した文明、衰亡した国家の一つとなったかもしれません。この「挑戦」を克服したことにより、日本文明は確固としたものとなって、人類史に光輝を放っているのです。

日本文明の確立期において、注目すべきものが封建制です。大化の改新で創られた公地公民制は、奈良時代には崩れ始め、平安時代・室町時代には私的な領有地に基づく荘園制が発達しました。貴族の文化はこの荘園制を基礎とするものでしたが、鎌倉時代には、武士による封建制が発展し、江戸時代にはそれが完成しました。封建制は日本文明とヨーロッパ文明にのみ発達したものであり、シナ文明には見られません。シナ文明の周辺文明として発生した日本文明が、シナ文明とは異なる独立した文明になったことを示す指標の一つが、封建制の発達です。

日本文明の確立期において、精神文化の土着化・独自化が一層進みました。その主体である武士たちは当初、朝廷・貴族による「みやびの文化」に憧れる「ねびの文化」を発達させました。しかし、元々、縄文文化の特色を色濃く持つ東国出身者が多く、また本質的に戦闘者である武士たちは、武士独自の文化を創造しました。

仏教は、鎌倉時代に、真にこの国の土壌に根をおろし、様々な花を開き、固有の香りを持つ実を結びました。鎌倉仏教と呼ばれる宗派、浄土宗・浄土真宗・時宗・禅宗・日蓮宗がそれです。これらは、日本の仏教がインド・シナ・朝鮮の仏教とは大きく異なるものとなったことを明らかにしています。鎌倉仏教諸宗派は、その中に日本的要素を持っています。神道を基盤とする精霊崇拝と祖霊崇拝です。現世肯定・生命礼賛・万物調和の世界観です。それは現世からの解脱をめざす本来の仏教とは対象的なものであり、神道の精神が仏教を通じて表現されたものともいえます。神道は縄文・弥生以来の日本的な世界観です。鎌倉仏教は、明らかにこの固有の精神文化の結実という面を持っています。

とりわけこの時期で重要なことは、元寇では二度とも台風によって奇跡的に国が守られたことから、日本は神国だとする神国思想が高まったことです。神国思想は、神道の思想とともに発展しました。

神道においては、鎌倉時代末期に伊勢神宮の外宮祠官・渡会家による伊勢神道が創唱されました。これは、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹思想 (しんぽんぶつじゃくしそう)に基づくものでした。次いで、室町時代には、吉田兼倶が吉田神道を開き、神儒仏三教を樹木にたとえて、神道が根本で、儒教・仏教はその枝葉・果実であるとする根本枝葉果実説を説きました。こうして、日本固有の宗教である神道を容器として、仏教・儒教・道教の融合が進みました。東洋宗教の総合化です。

ヨーロッパにおいては、同じキリスト教の中で新教・旧教による凄惨な宗教戦争が行われました。十字軍では、キリスト教とイスラーム教の争いが行われ、虐殺・破壊が行われました。これに比し、日本では異なる宗教が遭遇していながら、宗教戦争がなかったことは特筆すべきです。日本の和の精神には、諸宗教を共存させ、融和させる働きがあったのでしょう。

次に、日本文明に豊かさを加えたのが、茶道です。シナから入った喫茶が禅寺においてたしなまれ、15世紀にはいると、より精神的に深まった茶道(さどう)が生まれました。茶道は、武士たちに好まれ、武将達にたしなまれました。茶道はやがて16世紀に千利休が「わび茶」を完成したことにより、日本文化の総合的な発展の場所となりました。茶室で用いられる建築・造園・花道・陶芸等に、日本文明の独自性が総合的に表現されたからです。

現存世界最古の舞台芸術とされる能・狂言が発達したのも、この時期です。南北朝時代に、観阿弥(かんあみ)が将軍足利義満に認められ、武士の保護を受けるようになりました。その子・世阿弥(ぜあみ)は幽玄美を追求する夢幻能を確立させ、能を高度な舞台芸術に育てました。これはギリシャ悲劇に比せられるほど深い芸術性を持っています。

このように日本文明を主要文明として発達させるに功多かった武士たちは、武士独自の精神文化を生み出しもしました。それが武士道です。武士道は10世紀頃に武士が登場して以来、武士の倫理と美意識が深められたものです。12世紀末の源頼朝の鎌倉幕府設立より約700年間、武家政権が続く間に洗練され、完成されました。武士道が数世紀かけて深化されたことが、日本文明に比類ない精神的な輝きを加えています。(註 1

さて、日本文明がユーラシア大陸の東端で独自の発展をしていたころ、同じ大陸の西端では、これに並走するように、ヨーロッパ文明が成長していました。ヨーロッパは15世紀に大航海時代に入り、諸大陸を結ぶ支配・交易・商業に基づく「近代世界システム」(ウォーラーステイン)を築いていきます。これは、人類史上初めての真に世界的なシステムであり、西欧に発した文明が地球全体を覆うものとなりました。この形成過程で、西欧において宗教改革・科学革命・市民革命・産業革命が起こり、近代化が進んでいきます。

ヨーロッパと同じくわが国も、15世紀から海洋アジアに進出し、ここでアジアの豊かな物産と出会いました。わが国は鉱山を開発して金・銀を輸出し、これらの物産を輸入しました。こうしたわが国に、いよいよヨーロッパ文明がやってきたのが、天文12年(1543)でした。種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝えられたのです。その6年後には、フランシスコ・ザビエルが、キリスト教宣教師として日本の土を踏みました。これまでと異なる文化・機械技術・宗教などとの出会いは、日本文明に大きな刺激を与えました。日本人は新たな外来文化に強い関心を示し、とりわけ鉄砲はすぐさま国産化され、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が、戦国の世を治め、天下統一を成し遂げるのに役立ちました。

しかし、日本人は、キリスト教に対しては日本の伝統・国柄と相容れないものを感じ、その伝道による西洋文明の侵入を防ぐため、17世紀前半に鎖国政策を取りました。そして欧州支配の「近代世界システム」から離れて、自給自足の体制を築きました。このことが、日本文明を熟成せしめることになりました。約220年間の鎖国期間を中心とする時期は、まさに日本文明の熟成期です。この時期に、幕藩体制による平和統治システムと、高度のリサイクル社会が作上げられました。これは「江戸システム」(鬼頭宏氏)と呼ばれます。ここで日本文明は、人と人、人と自然の間に、最高の「和」を実現した文明として大成したのです。

江戸時代には、自給自足による豊かな生産力を基盤として、日本固有の芸能である歌舞伎、人形浄瑠璃、浮世絵、俳諧などが発達・完成しました。確立期の主体が武士だったのに対し、熟成期の主体には町人が加わりました。それは、百万もの人口を抱える江戸、これに次ぐ大阪等の世界的大都市の存在によります。そして、生産力の向上に伴って、地方や農民にも高度な文化が広まりました。それを示す事実の一つは、全国に多数の寺子屋が作られ、青少年が文字を学習し、和漢の文献を読んでいたことです。

江戸時代の日本人は、当初、シナ文明への慕情を持っていました。徳川幕府が幕藩体制を維持するための教学とした儒教の学者には、シナ文明の模倣・追従が見られます。朱子学者の林羅山は、儒教をもとにした神儒一致の神道説を説き、広く影響を与えました。

江戸時代の初期から、日本の歴史の研究が進みました。その動きの中心となったのが、17世紀半ば水戸藩にて徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂です。日本神話や古文書が研究され、日本の国柄が明らかにされました。それによって、日本文明の独自性の自覚が深まっていきました。さらに、17世紀中後期に活躍した山崎闇斎・山鹿素行とその弟子たちは、シナ模倣ではなく日本主体の思想を展開しました。それが水戸学に流入していったのでした。

朝鮮半島で14世紀から518年間続いた李氏朝鮮では、儒教は絶対の規範・制度でしたが、日本では儒教を学問ととらえ、日本化が行われました。伊藤仁斎を初めとする古学派は、シナの官学である朱子学を批判して、孔子に帰ることを訴え、日本人独自の解釈をしました。17世紀前半に中江藤樹が注目した陽明学は、シナではほとんど忘れ去られますが、日本では武士道と結びついて社会変革のエネルギーとなりました。本居宣長は「からごごろ」を排して国学を打ち立て、シナ思想からの自立を推し進めました。『古事記』や『万葉集』『源氏物語』が再発見され、日本文明のアイデンティティ(自己同一性)が確認されました。さらに、和算による微積分の発見など、同時代の西欧に匹敵する科学的業績も生まれました。日本人は、創造力豊かな個性溢れる文化を発達させたのです。そして、江戸時代を通じて、日本固有の精神、「日本精神」は、より豊かなものへと成長しました。

こうして熟成した日本文明に、再度、西洋文明との衝撃的な出会いが待っていました。黒船の来航です。15世紀から西欧で発生した近代化革命の進展する近代西洋文明が、日本に到達したのです。日本はデカルトの時代に、ちょうど鎖国に入り、近代化の外で過ごしていました。欧米列強は、アジアにも植民地化を進め、遂にユーラシア大陸東方の日本も征服・支配の危機に直面しました。しかし、この文明の「挑戦」に対し、わが国は世界史上に残る見事な「応戦」を成し遂げました。

江戸時代には、鎖国下でありましたが、蘭学者によって西欧の学術が学ばれていました。幕末には、幕府や西南雄藩が積極的に軍事技術や化学工業等を採り入れるようになりました。西欧における近代化の成果は、極東にも伝播していたのです。近代化の進展する近代西洋文明は、強力な軍事力と高い科学技術をもっています。その前に、幕末の日本は開国を余儀なくされ、屈辱的な不平等条約を結ばざるをえませんでした。ここで外圧への「応戦」に失敗すれば、白人種に隷属することになりかねません。また、もし日本人同士が分かれて争えば、その隙に欧米諸国に付け入られるおそれがあります。シナ文明はアヘン戦争で列強に敗れており、日本人は、非常な危機感を持ちました。滅亡か、さらなる発展かという重大な岐路に遭遇したのです。

そうした中で、天皇の存在や、わが国の独自性が強く自覚されるようになっていきました。『大日本史』の編纂の中から生まれた水戸学が、「国体」という日本の国柄を表わす概念を練り上げ、国際的危機に対処するため尊皇攘夷を唱えました。幕末の志士たち、西郷隆盛・吉田松陰などは、みな水戸学の強い影響を受けています。彼らによって、尊皇倒幕の運動が高まりました。ページの頭へ

 

(1)武士道については、項目「武士道」をご参照下さい。

 

5)第5期 日本文明の発展期

〔=日本の近代化革命〕

1868年〜1945年、明治大正時代・昭和時代前期)

 

慶応3年(1867)、徳川慶喜は、約700年続いた武家政権から朝廷に大政奉還を行いました。明治天皇は王政復古を宣言し、ここに明治維新が始まりました。ここからが、日本文明の発展期といえます。この発展期の主体は、国民です。特定の階層ではなく、国民的規模で文明を国際的に発展させる時期に入ったのです。

慶応4年、明治元年(1868)、新政府の政治方針として「五箇条の御誓文」が公布されました。御誓文は、新たな日本国及び日本文明を創造する根本方針を示したものです。この方針の下で、明治政府は、古代からの皇室中心の国柄を明確にしつつ、近代的な中央集権国家を建設するというユニークな国づくりを推進しました。明治2年(1869)に版籍奉還が行われ、同4年には廃藩置県が断行されました。武士の時代に発達した封建制をやめ、近代西洋の制度を採り入れて近代国家を建設するための改革です。廃藩置県の成功は、世界史上比類ない無血革命という快挙でした。また、明治政府は、富国強兵・殖産興業・文明開化をスローガンとして、日本の近代化をはかりました。日本の近代化は、近代西洋文明の「挑戦」に対する「応戦」の一環でした。近代化は、同時に西洋化の過程でもあります。進歩発展した欧米に追いつくために、総力をあげて、西洋の思想・文化・知識を採り入れました。とりわけ西洋近代科学技術の輸入は、日本に本格的な「科学革命」をもたらしました。

明治22年(1889)には帝国憲法の公布、23年には教育勅語の発布、次いで帝国議会の開設が行われました。政府によって資本主義が導入され、日清戦争(1894-95)前後には製糸・紡績などの軽工業を中心に産業革命が本格化しました。さらに日露戦争(1904-05)前後には軍需部門を中心に重工業が発達して、産業革命が達成されました。わが国は、この資本主義的工業生産力をもって、近代国家としての発展を確固としたものにしました。こうして日本は、非西洋社会ではじめて近代化に成功しました。それは、古代から東洋精神文化の総合場所となっていた日本が、今度は東洋文明と西洋文明の総合の場所となったことを意味していました。

この間、日本が体験した日清・日露戦争は、新興日本の国運を賭けた戦いでした。まずわが国は、日清戦争で大国シナを打ち破りました。千年以上もの間、文明の源と仰いできたシナに優ったのです。その結果、東アジアにおける日本とシナの地位が逆転しました。かつては遣隋使・遣唐使を送っていた日本に、シナから日本に留学生が来るようにもなりました。日本文明のほうが、シナ文明に影響を与える関係になったのです。

日清戦争の勝利は、強国ロシアとの戦いを余儀なくするものでした。幕末以来、北から迫ってくるロシアは、日本の独立を脅かす最大の脅威でした。日本が日露戦争に勝つと、世界は驚嘆しました。15世紀以来の西洋白人種の優位を、初めて有色人種が打ち砕いたのです。日露戦争における日本の勝利は、被抑圧民族を奮い立たせ、独立への情熱を駆り立てました。近代西洋文明の世界支配体制は崩れ始めました。日露戦争は、世界史を西から東へと動かす、歴史的な出来事だったのです。

その後、間もなく世界は20世紀に入りました。この世紀の前半は、近代西洋文明が繁栄と腐敗の頂点に達した時期でした。世界は、欧米諸国の争闘の場となり、第1次世界大戦が勃発しました。科学工業技術による戦争は、かつてない破壊と犠牲を生み出しました。大戦後、大正6年(1917)、ロシアでは共産革命が起こり、共産主義による世界革命運動が本格化しました。(註 1

同8年(1919)、パリ講和会議が開かれました。この時、日本代表・牧野伸顕は、人種差別を廃止する「人種平等案」を国際連盟規約に盛り込む提案をしました。採決賛成多数でしたが、国内の人種問題が大きく広がることを恐れたアメリカのウィルソン大統領によって斥けられました。しかし、日本が諸人種・諸民族の対等化をめざそうとしたことは、画期的なことでした。

こうして日本が国際社会で頭角を現すと、欧米諸国からの風当たりが強くなりました。日本は、新たな「挑戦」にぶつかることになったのです。それは、西洋文明と非西洋文明、白人種と非白人種の文明間のぶつかり合いでもありました。

明治時代の日本人が大国シナや強国ロシアに勝つことができた要因には、国民が精神的に結束していたことが挙げられます。江戸時代に熟成した日本文明は、日本固有の精神を豊かで力強いものに育て、幕末・明治の危機がそれを鍛えました。しかし、日本人は、近代化・西洋化を進める中で、徐々に自己本来の精神を忘れ、ひたすら欧米文化を採り入れて、これに追いつこうという考えにとらわれてしまいました。その結果、本来の「日本精神」がないがしろにされ、すぐれた国民性が失われました。国家指導層にある政治家や財界人も、段々日本の本質というものがわからなくなっていったのです。

日清・日露戦争に勝利すると、東アジアは安定し、日本は他から攻撃される憂いがなくなりました。ここで日本人は、次に目指すべき国家目標を見失いました。政治家は、国益に基づく政治よりも、個人的な利益の追求に傾き、腐敗堕落していきました。資本主義の発達によって、財界にも私利私欲をほしいままにする傾向が生じました。

20世紀前半の世界は、世界戦争の勃発、共産主義の出現、世界経済恐慌の発生、ブロック経済の推進など激動の連続でした。厳しい国際環境と経済危機に直面したわが国の指導層は、未曾有の事態に、的確な判断と行動ができませんでした。政治が問題に対応できずにいるなか、軍部が台頭し、独断専横で動き、昭和6年(1931)には満州事変を起こしました。これは、シナの民族主義の抵抗にあいました。昭和7年の満州国建設がきっかけで、翌8年には国際連盟を脱退し、日本は国際的孤立化の道を進みました。この状況において、政治経済など総合的な視野を持たない青年将校が中心となって、昭和7年に5・15事件、同11年に2・26事件を起こしました。シナ大陸では、ソ連共産主義の国際的な謀略にあって、昭和12年のシナ事変を皮切りに、大陸深部に誘い込まれ、泥沼に陥ったような状態となりました。

昭和14年(1939)9月、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発しました。ナチス・ドイツの侵攻は目覚しく、その勢いに幻惑された軍部・政治家・官僚が、昭和15年(1940)9月に日独伊三国同盟を締結してしまいました。これは欧米の強い反発を買い、アメリカによる石油輸出禁止などの厳しい経済制裁を受ける羽目になりました。ヒットラーやムッソリー二の覇道をまねた軍部は、ソ連の策謀とアメリカの挑発に引っかかり、無謀にも米英との戦争に突入しました。これは、大調和の精神である「日本精神」に外れた行動でした。その結果、わが国は史上はじめての敗戦を喫してしまったのです。

大東亜戦争は、アジア・太平洋の広域に繰り広げられた、「文明の挑戦と応戦」の一大ドラマでした。それは、白人種西洋文明と有色人種東洋文明という異質な文明同士の激突でした。そして、日本の近代化や日露戦争に見られるように、世界の中心が西洋から東洋へと移行しようとしている時の流れが、そこにはありました。その時の流れを洞察していれば、日本は欧米との戦争に踏み込むことなく、不戦・中立の道を取ることができました。しかし、当時の日本の指導者は、日本とアジアの発展の時を見誤って、戦う必要のない戦争に敢えて突入してしまったのです。東条英機らが描いた「大東亜共栄圏」構想は、花に例えれば、人工的に早咲きさせようとして、かえって散らせてしまったようなものです。それは、西洋文明が産んだ独伊のファシズムを模倣して、力づく無理矢理に進めたために、自然の法則に外れ、狂い咲きとなってしまったわけです。これは誠に残念なことでした。(註 2

わが国は、この戦争の最後に、人類史上初の原子爆弾を投下され、多くの無辜の民が虐殺されました。日本文明の発展期は、また厳しい試練の時期でもあったのです。(註 3

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(1)共産主義については、項目「共産主義」をご参照下さい。

(2)大東亜戦争については、次の拙稿をご参照下さい。

大東亜戦争は戦う必要がなかった

(3)明治以降の歴史については、項目「歴史」をご参照下さい。

 

6)第6期 日本文明の飛躍期

〔=新人類革命の推進〕

1945年〜現在、昭和時代後期・平成時代・21世紀)

 

本稿では、現代は、昭和20年(1945)、原子爆弾の使用によって始まるという時代区分を取っています。核兵器を開発した人類は、自ら生存の危機に陥りました。その威力の恐ろしさを世界で唯一体験しているのが、日本文明です。

日本は大東亜戦争によって莫大な富を失い、何百万という人が犠牲になりましたが、敗戦後は、奇蹟的に復興を成し遂げ、旭日が昇るように繁栄への道を進んできました。

第2次大戦を契機として、白人種に支配・収奪されていた有色人種が、鉄鎖から解放され、アジア、アフリカの諸民族が次々に独立を勝ち取りました。そして、日本を先達として、欧米の科学技術を学び取り、独自の近代化・産業化を進めています。このことは有色人種に活動発展の時が巡ってきたことを、如実に示す出来事です。

戦後世界は、長く資本主義と共産主義の陣営に二分されていました。これらはともに近代西洋が生み出した主義であり、その競争によって、西洋文明の世界化は進みました。それによって、世界の諸文明は西洋文明の「周辺文明」と化しつつあるといえます。同様に、西欧に発した近代化が、非西洋地域にも伝播し、世界全体が近代化しつつあります。

アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ諸国の近代化は、欧米の物質科学文明の「挑戦」に対するそれぞれの地域での「応戦」のドラマにほかなりません。そして、1980年代からシンガポール・香港・台湾・韓国、続いて中国・インド等が躍進し、欧米の優位は絶対的なものではなくなりつつあります。西洋近代文明の世界化は、一方的なものではありません。近代以前には西洋より優位でさえあった非西洋の諸文明が、欧米諸国に逆に影響を与えつつもあるのです。文明の出会いは、相互作用的な過程です。すなわち、日本の仏教や新宗教、シナのタオイズム、インドのヒンドゥー教、中東のイスラーム教など、東洋の精神文化が西洋文明の中心部に流入し、精神的な感化を与えつつあります。また移民の増加により、アメリカでは有色人種が白色人種より多くなりつつあります。ヨーロッパでも北アフリカや西アジアから流入するイスラーム教徒の人口が増えつつあります。これらの現象は、西洋文明に対する非西洋文明の巻き返しです。そして、こうした逆転の道を切り開いてきたのが、日本文明です。

しかし、わが国自体は、敗戦によって、アメリカの「日本弱体化政策」(註 1)を受け、自らの文明の独自性を破壊されかねない事態となりました。その影響は甚大で、国家・社会・家庭の様々な場面に深刻な危機が生まれています。日本人は、日本文明のもつ伝統・文化・精神を再発見し、こうした危機を乗り越えるべき課題を持っています。この課題を解決するためには、「日本精神」を取り戻し、精神的な建て直しをしなければなりません。

人類文明は西洋の時代から東洋の時代へ、物質文明の時代から精神文明の時代へと転換しつつあります。これから創出される新しい地球文明は物心調和・共存共栄の文明とならねばなりません。この人類の画期的な転換期において、日本文明は、極めて重要な役割を担うべき立場にあります。すなわち、日本文明には、諸文明・諸宗教・諸民族の対話と相互理解を促進すべき役割があるのです。

日本文明史を振り返ると、この列島には諸民族が寄り集まり、融合して「大和」の国を築き上げました。諸宗教の交流においては、日本文明は既に神道・仏教・儒教・道教の総合を実現しています。また諸国の平和的統合に関しては、江戸時代の平和秩序とその後の無血革命による廃藩置県を実現しています。また、環境との調和については、江戸日本はほとんど完全なリサイクル・システムを実現していました。これらは、どれも今後の人類文明のモデルとなり得るものです。これからの新時代において、日本文明は世界に貢献できるものを多く持っているのです。この推進力となるのが、「日本精神」なのです。ページの頭へ

 

(1)日本弱体化政策については、次の拙稿をご参照下さい。

日本弱体化政策の検証

 

 

結びに〜新しい指導原理の出現と

日本文明への期待

 

結びとして、人類的な課題における日本文明の役割について述べます。現在、世界と日本は、人類史における第6の転換期にあります。本論で「新人類革命」と称しているものです。人類発生以来の大転換期であり、危機と飛躍の両面において、さまざまな要素が発現しているのが、今日の世界です。

「近代化革命」を経た人類は1945年、核兵器を使用し、存亡の危機の時代に入っています。核による世界戦争を開始したなら、人類は自滅するおそれがあります。その愚を避けるために、国際協調を進め、核兵器を制限・削減さらに廃止し、また世界平和のための国際的な機構を作り出さなければなりません。世界唯一の被爆国である日本は、ここにおいて重要な役目を負っています。

これに加えて、1950年代から地球環境の破壊が顕著になりました。科学と産業の影響です。地球で人類が生存していくためには、自然環境の保全と経済成長のバランスを維持していかねばなりません。そのためにも、従来の文明・国家・民族の枠を越えて、全地球的な取り組みが必要になっています。自然との調和を重んじてきた日本文明は、この課題への取り組みを積極的に推進することを期待されています。

人類は、1960年代に、宇宙へと進出し、宇宙開発の時代に入りました。同時に、コンピュータの発達による「情報通信革命」が急速に進み、産業革命による産業化とは異なる段階に入りました。従来の科学技術が物質やエネルギーの生産を主としていたのに対し、知識の生産が主となる脱工業文明となり、コンピュータを中心とする知識集約型・知価創造型の文明に移りつつあります。現代社会は情報・通信の発達によって、加速度的に変化しています。

コンピュータの演算速度の向上は、指数関数的な変化を示しています。コンピュータチップの能力は18か月ごとに倍増するといわれます。これを「ムーアの法則」といいます。その法則によると、2045年にコンピュータチップは人間の知能に近づき、凌駕さえするかもしれないと予測されます。人工知能が人間の知能を上回るということです。そのような時代を未来学者レイ・カーツワイル氏は「シンギュラリティ〈特異点〉」と呼んでいます。カーツワイル氏は、その時、「人類は生物的限界をも超える」と予測しています。そして、人類の「黄金時代」が始まるというのです。

世界的な理論物理学者ミチオ・カク氏は、その「黄金時代」について、2014年12月末に概略次のように語っています。

 

・医療技術が進歩して、今では、ガンの正体が分子レベル、遺伝子レベルで解明されるようになってきており、将来、私たちは腫瘍になってからではなく、細胞レベルのうちに、ガンを分析することができるし、遺伝子レベルでガンを特定して、遺伝子療法を行うことも可能になる。

・ナノ医療の分野では、すでに、ガン細胞をピンポイントで攻撃できる「ナノマシン」が開発されていて、臨床実験の段階まで来ている。「ナノマシン」は知能のある爆弾で、個別のガン細胞を一つひとつ退治していく。

・寿命は、今後、飛躍的に延びることが予測される。30年後には、平均的な人であれば100歳まで生きるようになっている。再生医療の進展により、2045年までには主な臓器を実験室で作れるようになっている。内臓を取り替えることができるから、「内臓疾患」という単語が辞書から消える。

・特定の遺伝子が老化現象に作用していることがわかってきている。将来は、それらの遺伝子を遺伝子治療で修復できるかもしれないし、遺伝子操作により抗酸化物質を作り出して酸化を止めて、寿命を延ばせるかもしれない。

・ただ長い期間生きられるだけでなく、「永遠の若さ」を保つためには、「若返り」が求められる。現在、若返りのプロセスを左右する遺伝子を特定しようとしており、いずれは寿命を左右する遺伝子を発見できるだけではなく、若返りを可能にする遺伝子も見つけられるはずである。

・「シンギュラリティ」に突入すると、退屈な仕事はロボットが行うようになる。ロボットは計算がものすごく速く、反復的な仕事は人間より得意だからである。未来に求められるのは、人間の脳を使う仕事である。クリエイティブな仕事、革新的な仕事、科学的な仕事、芸術的な仕事である。

・人間とコンピュータが同化する時代が到来している。私たちの能力を強化するために、コンピュータと同化するのである。たとえば、脳をコンピュータにつなぐことで、人間の能力を強化することができる。記憶を記録したり、記憶をアップロードしたりすることもできるようになる。また、脳が何千ものコンピュータチップを操作できるようになると、考えるだけで物を動かすこともできるようになる。部屋に入って考えるだけで明かりをつけたり、テレビをつけたり、ネットに接続したり、映画のチケットや旅行を手配できるようになる。

 

こうした科学者の予測によれば、今から約30年後の2045年には、コンピュータの指数関数的な進歩によって、人類は「黄金時代」といってよいような新しい時代に入っていくと期待される。

ただし、この情報通信革命は、本質的に近代西洋に発する科学革命の延長線上にあるものであって、これのみで近代文明を超えるものとはいえません。バイオテクノロジー、ナノテクノロジー、ロボティクスなどの新しい科学技術も同様です。これらは、科学技術の高度な発展による物質文明のさらなる発達であることを基本的な性格とします。

 

これに比し、現代という第6の転換期は、もっと人間の生き方の根本的な変革を迫っているものです。「心と物の調和」、精神文化と物質文化の統合が求められているのです。物質や情報のように外面的な部分が豊かになればなるほど、人間は、内面的な部分を充実させて、物質的な豊かさと精神的な価値と結びつけ、総合的に善用してゆかねばなりません。そのようにして物心両面の調和がとれた文明を産みだすことこそ、人類の真の目標でしょう。そこでこそ、物質科学文明は、真に人類を益するものとなるでしょう。

このためには、人類は、かつての「精神革命」を超えるような、新たな精神面の成長・向上を成し遂げなければなりません。19世紀末から、西欧の内部でも、近代の合理主義や唯物主義を批判し、人間の精神面に注目する動向が現れてきました。その一端が深層心理学や超心理学・心霊科学であり、量子力学の領域でも人間の精神面を研究する動きが出ています。西洋近代以外の文化の研究として、文化人類学が発達し、西洋文明・近代文明の相対化が進んでいます。さらにこれらの動向が合流して、1970年代にはトランスパーソナル学という新たな学際的な研究が現れました。(註 1) これは科学と宗教、西洋と東洋、伝統と近代等の相互作用の中で、新たな霊性復興といえる精神文化の運動といえるでしょう。ヤスパースは「真に人類に共通する、人類的な、世界を包括する基軸」を生み出す「第二の基軸時代」の到来を待望しました。第6の転換期が進むに従って、その時代が到来しつつあるといえましょう。

21世紀のページがめくられるにつれ、世界の大転換は加速を続けています。この転換は、図式的には、西洋から東洋へ、物質科学から精神科学へ、人間中心から宇宙との調和へ、という転換です。この巨大な潮流の中で、核兵器、環境破壊等に直面している人類は、滅亡したくなければ、自ら飛躍しなければならないという状況に立っています。今や、世界平和の実現と、文明と環境の調和のために、新たな精神的な進化を、人類は求められているのです。人類は、この地球において、宇宙・自然・生命・精神を貫く法則と宇宙本源の力にそった文明を創造し、新しい生き方を始めなければなりません。現代の転換期は、人類が人類となった「人類革命」以来の大変化の時代であり、「新人類革命」を進めるべき時代なのです。「新人類革命」とは、過去に亜人類から人類となった「人類革命」を超えて、人類が新人類へと自己超越することです。

「新人類革命」とは、ベルグソンの言葉を借りれば、これまでの文明をさらに成長させる「生命の飛躍」であり、精神的な「飛躍(エラン)」による霊性の開花です。この過程は、個々人が自己実現を通じて「自己超越」(アブラハム・マズロー)を成し遂げ、そのような超個的な人間が増えるにつれ、人類全体が自己超越していく過程です。これを先導できるのは、優れた道徳性をもった「人類の道徳上の指導者」(C・G・ユング)のみであり、そうした指導者に「文明の維持とさらなる発展」(同左)がかかっています。最悪の危機に至った現在、人類は最善の指導者を必要としています。その指導者は、新しい指導原理を提示でき、強い生命力と高い霊性を備えている必要があるでしょう。そして、その指導原理のもと、先駆的な人々がその感化を受けて、さらに多くの人々を巻き込んで、大きな運動が起こっていくことが期待されます。(註 2

日本文明が保持している精神的伝統は、この新たな精神的進化を推進し、物心調和・共存共栄の文明を建設することに大いに寄与できるものを秘めています。日本精神は、人と人、人と自然が調和して生きる大調和の精神です。それは、地球の自然と人類の文明の調和、また諸文明・諸国家・諸民族の協調のために求められる理念に通じます。それゆえ、日本文明から時代を導く指導原理の登場が期待されるところです。

新しい指導原理は、東洋と西洋、物質文化と精神文化を総合するものであり、また科学時代の人類の知識に応えうるものでもなければならないでしょう。世界平和の実現と地球環境の回復のために、そしてなにより人類の心の成長と向上のために、既成の思想の違いを超え、従来の宗教の違いを超え、唯物的な科学の限界を超えた新しい指導原理が求められているのです。いわば超科学・超宗教の指導原理です。(註 3

この21世紀において、日本文明が潜在力を大きく発揮し、新しい指導原理が地球上に躍動すれば、人類は、このかつてない大転換期を一大飛躍の時とすることができるでしょう。ページの頭へ

 

(1)トランスパーソナル学については、次の拙稿をご参照下さい。

「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆」第3章「現代の危機解決を求めて〜トランスパーソナル運動」の(3)〜(9)

(2)新しい指導原理については、次の拙稿をご参照下さい。

新しい精神的指導原理の出現

(3)日本に現れている超科学・超宗教については、次のサイトをご参照下さい。

http://srk.info/

関連掲示

・日本文明の個々の主題については、項目「文明と倫理」をご参照下さい。

 

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