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  人類の展望

                       

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ber117

 

■西欧発の文明と人類の歴史

2008.9.9

 

<目次>

はじめに

第1章 人類史の中の近代西洋文明

(1)人類史と文明の諸相

(2)システムを織り成す概念

第2章 西欧発の文明の形成

(1)ヨーロッパ文明の特質

(2)辺境に始まる

第3章 近代化のはじまり

(1)ルネサンスから地理的拡大へ

(2)資本主義の構造と精神

(3)近代主権国家の成長

第4章 市民革命・国民国家・合理主義

(1)先駆けるイギリス

(2)啓蒙の光と影

(3)アメリカという挑戦者

(4)フランス革命の功罪

(5)呼応するナショナリズム

第5章 産業革命による近代西洋文明の膨張

(1)産業革命の変革力

(2)近代西洋文明は伝播した

(3)後進国の台頭と帝国主義の時代

第6章 第1次世界大戦と世界の動揺
(1)戦争と革命による混迷

(2)強者は抑圧し、弱者は反抗する

(3)世界恐慌が招いた対立

第7章 人類の危機と第2次世界大戦

(1)戦火は欧州から

(2)世界規模の大戦へ

 

 

ber117

 

はじめに

 

今日の世界で支配的な文明は、西欧で発達した文明が世界全体に拡大し、影響を与えているものである。西欧発の文明は、どのように誕生し、発達してきたか、その特質は何か。こうした問いの探求は、人類の歴史と将来を考えるうえで、重要な課題である。本稿は、私の人類史についての見方に基いて、近代化の起点となった西欧で発達した文明と、その強い影響を受けながら進んできた人類の歴史を概述することを主要な目的とする。

私は「近代西洋文明において、ユダヤ人はどういう役割を果してきたか」「現代世界においてユダヤ的な価値観はどういう影響を及ぼしているか」という問題に関心を持っている。この問題を考えるには、近代西洋文明の特質とユダヤ人の歴史や文化についての考察が必要である。本稿は、その下準備の一つとして、西欧発の文明と人類の歴史について、自分の見方を整理しておくことを、副次的な目的とする。それゆえ、本稿は、副次的な目的と関係の深いところは重点的に、関係の浅いところは軽めに書いている。

本稿は、西欧発の文明の誕生から第2次世界大戦までを対象期間とする。私は第2次世界大戦の終了以後の時代を現代と区分しており、現代については、続編の「現代の眺望と人類の課題」に記している。

 

 

第1章 人類史の中の近代西洋文明

 

(1)人類史と文明の諸相


●人類史を画する近代化革命

 最初に人類史についての私の見方を簡単に示したい。人類が地球に出現して、数百万年が経ったといわれる。その間、人類の文化は、幾度かの変化を遂げてきた。人類史を概観すると、以下のようになる。

第1期 人類革命
 時期: 数百万年前
 内容: 言語・道具・火の使用による人類の誕生

第2期 農業革命
 時期: 1万年頃〜1万年1千年前頃
 内容: 農耕の開始

第3期 都市革命
 時期: 紀元前3500年頃〜前2500年頃
 内容: 都市の形成と古代帝国の建設

第4期 精神革命
 時期: 紀元前800年頃から前500年頃
 内容: 高度宗教や哲学の誕生による精神文化の向上

第5期 近代化革命
 時期: 15〜19世紀
 内容: 生活全般の合理化の進展による世界の変容

 人類は以上の六つの段階を経てきて、現在は第6の転換期にある。この第6期を私は「新人類革命」と呼ぶ。人類が人類になって以来、最大の転換期である。そういう意味では第6の転換期というより、これまでの小転換期に対し、大転換期と言ってもよい。

 「新人類革命」の時期は、1945年に始まる。私はこの年以降をもって現代と区分する。21世紀の人類は、20世紀半ばに始まった「新人類革命」の過程にある。この大転換期の内容は、人類発生以来の危機と飛躍である。同時に「新人類革命」は、これに先立つ「近代化革命」の延長上に展開しているものであり、また近代化からの脱却の過程でもある。

●文化と文明

 次に、文化と文明という概念の定義を述べておきたい。文化とは、民族の慣習、さまざまな社会の知識の形態、そこでつくられるいろいろな制度、科学、芸術などをいう。そして、文化が発展していって、ある程度の高度のもの、広範囲に制度化されたものに達したものを文明という。これは比較文明学者の伊東俊太郎氏の定義にならったものである。
 私見を加えると、文明は、ある程度高度に発達した文化を持つ“社会”を意味するのに対し、文化はその社会の持つ“生活・活動”の総体、つまり慣習・知識・制度・科学・芸術等を意味する点が異なる。前者は、行為の主体であり、後者は行為の対象や内容である。但し、文明段階以前の社会を、文化の語で表わす場合もある。

●主要文明と周辺文明

 次に、文明について使う用語について述べる。文明は二種類に大別される。この分類のため、私は、主要文明(major civilization)と周辺文明(peripheral civilization)という概念を用いる。
 主要文明とは、独自の文明の様式をもち、自立的に発展し、かつ文明の寿命が千年以上ほどに長いか、または現代世界において重要な存在であるものである。周辺文明とは、主要文明の文化的刺激を受けて発生し、これに依存し、宗教・政治制度・文字・芸術・技術等を借用する文明である。
 周辺文明には、基礎的な制度の自己展開がなく、独創性が弱く、持続性が短いという特徴がある。しかし、周辺文明が自立して、主要文明に成長する場合がある。それゆえ、私は、主要文明を、自生的に発展した自生型(じせいがた)と、周辺文明から成長した後成型(こうせいがた)に分けることにしている。

関連掲示
・上記のような私の人類史及び文明のとらえ方について、詳しくは拙稿「人類史に対する文明学の見方」をご参照下さい。

●西欧発の文明に関わる諸文明

 西欧発の文明と人類の歴史を概観するにあたり、本稿でしばしば触れる諸文明について述べておきたい。
 古代ギリシャ・ローマに発達した文明は、ギリシャ=ローマ文明と呼ぶ。これは、一個の主要文明である。ギリシャ=ローマ文明は、さらに世代の古いメソポタミア文明、エジプト文明の周辺文明として発生した。エーゲ文明の影響も受けている。そうした周辺文明の地位から成長して主要文明と成った後成型の主要文明が、ギリシャ=ローマ文明である。
 ヨーロッパ文明は、はじめはそのギリシャ=ローマ文明の周辺文明として発生し、その遺産を継承しながら成長した。これも後成型の主要文明である。私は、ヨーロッパ文明が南北アメリカ大陸に伝播し、アメリカ合衆国が独立して、欧米にまたがる文明になった時点から、近代西洋文明と称する。時代的には、ヨーロッパ文明は4世紀末から18世紀中半まで、近代西洋文明は18世紀後半から今日までと分ける。近代西洋文明の側から、ギリシャ=ローマ文明とヨーロッパ文明を一括りにとらえる必要のある時は、便宜的に西洋文明ともいう。
 ギリシャ=ローマ文明の後期は、ローマ帝国の時代だった。ローマ帝国は395年に、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂した。西ローマ帝国は476年に滅亡した。これに対し、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は1453年まで千年以上も続いた。ギリシャ=ローマ文明の直接の継承者ではあるが、ギリシャ=ローマ文明から分かれた文明として、東方正教文明と呼ぶ。この文明は、北方のロシアにも広がり、東ローマ帝国の滅亡後はロシアが中心となった。

 次に、関係の深い他の諸文明について述べる。
 7世紀初めにムハンマド(マホメット、571頃―632))がアラビア半島で開教したイスラーム教は、西アジア、北アフリカ等に広がり、8世紀半ばには一個の主要文明を形成した。これをイスラーム文明と呼ぶ。イスラーム文明には、アラブ系が中心となった時代(アッバース朝等)、トルコ系が中心となった時代(セルジューク朝、オスマン帝国等)がある。
 イスラーム文明は、第1次世界大戦でオスマン帝国が敗退するまで、長くヨーロッパ文明に圧力と刺激を与えた。ヨーロッパ文明は、イスラーム文明による「試練」(challenge)に対し、創造的に「対応」(response)することで、独自の文明を確立した。12世紀ルネッサンス、14世紀イタリア・ルネッサンスがそうであり、17世紀科学革命もそうだった。
 15世紀末からヨーロッパ文明が「大航海時代」に入ると、ヨーロッパ文明は南北アメリカ大陸に進出した。この時、ヨーロッパ文明によって滅ぼされたメキシコの文明はアステカ文明、ペルーの文明はインカ文明と呼ぶ。続いて、ヨーロッパ文明は、アフリカで黒人奴隷を購入し、アメリカ大陸に移送して強制労働をさせた。当時のアフリカ大陸には、さまざまな文化が存在したが、文明と呼べる規模のものは存在しなかった。
 次に、インド大陸に発生・発達した文明は、インド文明と呼ぶ。インド文明は、紀元前から今日に至るまで継続している。インド文明には、ヒンドゥー教が主となった時代だけでなく、イスラーム教が支配した時代(ムガル帝国)がある。後者は、インド文明の性格を根本的に変えるには至っていないので、イスラーム的インド文明と呼ぶことにする。インド文明は、17世紀からヨーロッパ文明に安価で良質の木綿を輸出した。ヨーロッパ文明はこの外圧に対抗するために、綿工業を発達させ、その過程で産業革命が起こった。産業革命は、近代西洋文明に他の諸文明に対し、圧倒的な優位をもたらした。
 紀元前から今日に至るシナ大陸の文明は、シナ文明と呼ぶ。シナ文明は、トルコ系、モンゴル系、満州系等の非漢民族に支配された時期が長い。しかし、それによって文明の性格が根本的に変わることはなく、諸王朝・諸帝国を総括して、シナ文明ととらえるものとする。シナ文明が、ヨーロッパ文明と直接深く関わるようになったのは、17世紀からで茶の交易による。19世紀半ばのアヘン戦争により、近代西洋文明はシナ文明を植民地化した。
 日本文明は、シナ文明の刺激を受けて周辺文明として発生した後成型の主要文明である。日本文明は、7世紀から自立性を発揮し、9世紀の遣唐使の廃止以降、独創性を強く発揮して、遅くとも13世紀には一個の独立した主要文明になったと私は考える。1543年の種子島での鉄砲伝来以後、日本文明とヨーロッパ文明の交流が続いたが、日本文明が近代西洋文明の挑戦を受けたのは、19世紀の後半からである。

(2)システムを織り成す概念


●都市と国家と文明

 人類史を記す際には、文化と文明だけでなく、都市と国家が重要な概念となる。次にその点を記したい。
 都市とは、比較的狭い地域に多数の人口・住居が密集し、農業以外のおもに商工業等が経済生活の主体をなす集落をいう。都市の起源については、要塞、市場、神殿等、さまざまな説がある。また都市の性格は、時代や地域、また社会的背景によって異なる。古代オリエントのオアシス都市、シナの専制帝国の計画的都市、古代ギリシャのポリス、産業革命以後の産業都市等、その様相は多様である。しかし、多数の人口・住居が密集した非農業的な集落をもって、都市ということが出来るだろう。
 これに比し、国家という概念は、さらに多様で複雑である。古代メソポタミアの都市国家、シナの中華帝国、中世ヨーロッパの神聖ローマ帝国、アフリカのダホメ王国等、さまざまな地域、異なる時代に現れた国家を、近代西欧に現れた主権国家と同様のものととらえることは出来ない。私は、前近代の国際交流史の研究者・宮崎正勝氏の説が示唆に富んでいると思う。

 宮崎氏は、都市は神経細胞のように、本体と触手(ネットワーク)から成り立っているとする。ネットワークとは「人と人、集団と集団、人と集団の間の結びつき」をいう。都市は、周辺の農業集落に触手を延ばして結びつきを作る。そして、そのネットワークを安定させるために、道路網・法律・官僚制・軍隊・宗教・交易などのシステムを複合化して、ネットワークの構造化を図る。そうしたシステムの複合体となったのが、国家である。
 宮崎氏によると、国家とは、「都市を中心とするシステム化されたネットワークの総体」である。その国家というシステムの中核となるのが、都市である。国家においては、首都と、それに従属する都市と、その周辺の農業集落が、ネットワークで結ばれていると見ることができる。
 こうした説を説く宮崎正勝氏は、「『都市』と『都市を支えるネットワーク』の変容とその変化に伴うシステムの組み換えが『世界史』を作り上げてきた」とする仮説を基礎にして、文明の形成からグローバリゼイションが進む現代における「世界史」を、一貫したプロセスとして描き出そうと試みている。氏は、この仮説を「ネットワーク論」と称し、ネットワーク論に基づく世界史を描いている。(註1

 氏の説に私見を加えると、都市を中核として構造化された地域社会では、特徴のある文化が生まれる。その文化が発展して、ある程度高度なもの、広範囲に制度化されたものに達した社会が文明となる。
 文明は、国家より大きな社会であり、共通の文化を持つ複数の国家を包含するものである。その文明の政治的・経済的・文化的な中心地域には、都市が存在する。そして、都市を結節点としたネットワークの構造体が国家であり、その国家の集合が文明である。

●都市と農村の依存と対立

 近代西洋文明も、共通の文化を持つ複数の国家を包含している。この状況は人類史に多く見られることである。近代西洋文明と、この文明以前またはこの文明以外の文明との構成上の違いは、近代西洋文明の主要な社会単位は、主権国家である点である。近代主権国家は、西欧独自に発達した封建制が解体する過程で、有力な封建領主に権力が集中することによって、同時に複数出現した。近代主権国家は、領土と国民と主権を、三つの要素とする。近代主権国家に特徴的なことは、国家間で相互に領土と国民と主権を認め合い、条約を結んで秩序を維持していることである。この秩序をもたらしているのが、国際法である。
 ヨーロッパ文明は、15世紀末から諸文明の間に支配・収奪の構造を作り上げた。その形成の過程で、近代主権国家は発達した。近代主権国家間の関係は、都市と都市の競合の関係でもある。それと同時に、国際的な都市間のネットワークが、西欧の外部では南北アメリカやアジア、アフリカの農村地帯を従属させ、西欧の内部では都市周辺の農村地帯を従属させながら発展した。文明と文明、国家と国家の関係には、都市と農村の依存と対立という要素が加わる。

 近代主権国家は、17世紀から西欧で政治体制として普及し、近代西洋文明が世界を制覇したことにより世界的に広がった。今日世界には、約190カ国の主権国家が存在する。文化と文明の多様性によって、それぞれの国家の性格は異なるが、近代主権国家の国際関係の場に参入することによって、自身を近代主権国家でもあるものに転換している。その転換の最初の例が、明治の日本である。
 今日の国際社会では、それぞれ首都とそれに従属する都市、その周辺の農業集落がネットワークで結ばれている。また同時に、国家間においては、各国の首都をはじめとする主要都市が相互にネットワークで結ばれている。こうした国際的な都市間のネットワークが、各文明・各国家・各地域の農村地帯を従属させている。この構造は、人工による自然の支配、商工業の農業への圧迫という関係となっている。


(1)
宮崎正勝著『文明ネットワークの世界史』(原書房)

 

●文明と世界システム

 人類の歴史を見る際の社会の単位は、文明が最も重要なものと私は考える。興亡盛衰の著しい国家という単位では、地球規模の歴史はとらえられない。ただし、近代の西洋と世界の歴史をとらえるには、近代西洋文明の特殊性にそった概念が必要である。文明には、その物質的な基礎として経済がある。近代西洋文明が、それ以前及びそれ以外の文明と異なる点の一つは、経済的な原理が資本主義であることにある。資本主義は、ヨーロッパ文明の内部で自生的に発生・発達したのではなく、アジア、ラテン・アメリカ、アフリカの諸文明との関係の中で発生・発達した。その構造と過程を把握するには、ウォーラーステインの「世界システム」(world-system)という概念が有効だと私は思う。

 アメリカの社会学者イマヌエル・ウォーラーステインは、人類の歴史の最も規定的な単位として、史的システムという概念を用いる。史的システムは、三つに分類される。第一は、規模のきわめて小さいシステムで、「ミニシステム」と呼ぶ。これは経済的、政治的、文化的ともに一元的な史的システムである。第二は、経済的、政治的には一元的だが、文化的には多元的なシステムであり、「世界帝国」(world-empire)と呼ぶ。第三は、経済的にのみ一元的で、政治的、文化的には多元的なシステムであり、これを「世界経済」(world-economy)と呼ぶ。
 ウォーラーステインは、世界帝国と世界経済の二つを併せて、世界システムと呼ぶ。世界システムとは「一つの世界であるようなシステム」である。世界とはいっても、文字通りの地球規模の世界ではなく、それぞれの社会がひとつの世界をなしているような単位を言う。
 世界帝国は、人類史においてさまざまな地域で多数興亡したものである。文化的には多元的な要素を含みながら、強力な政治権力がそれらを統一し、租税の徴収と再配分によって分業体制の根幹を握るシステムである。ところが、15世紀の後半から17世紀の初頭、ウォーラーステインが「長期の16世紀」と呼ぶ時代に、ユーラシア大陸の西端に、文化的にも政治的にも統一されていないにもかかわらず、それらを越えて、ひとつの分業体制が成立した。これは世界帝国とは異なるシステムであり、ウォーラーステインは世界経済と呼ぶ。そして、世界経済に立脚した史的システムを「近代世界システム」と称する。

 「近代世界システム」では、システムの統一性を保つ論理は、資本主義である。資本主義については、マルクスが『資本論』でその原理及び歴史を研究・分析した。マルクスの基本思想は唯物論であり、『経済学批判』で唯物史観の公式といわれるものを提示している。

その公式によると、「生産諸関係の総体が社会の経済構造、実在的な土台をなし、これのうえに法制的・政治的な上層建築がそびえたち、またその土台に一定の社会的意識形態が照応する」とされる。土台が基本的な規定要因であるとしても、上部構造が土台を反作用的に規定する可能性もあるのだが、マルクス=エンゲルスの信奉者たちは、物質的土台が社会的意識形態を決定するという硬直した解釈に陥った。これに対し、マックス・ウェーバーは、経済に対する精神、特に宗教の影響を重視し、近代資本主義の成立には、プロテスタンティズムの倫理が重要な役割を果たしたことを主張した。彼は、さらに西欧でのみ近代資本主義が発生・発達した原因を、非西欧社会との比較を通じて考察した。

マルクスは、社会は原始共同体、奴隷制、封建制、資本主義の各生産様式を段階的に発達するという社会発展論を唱えた。また、原始共産制と古代奴隷制の間に、アジア的生産様式があると指摘した。しかし、これらは西欧の歴史をもとに定式化したものであり、アジア的生産様式に関しては1920年代以降論争が起こり、その存在の独立性に関しては解決していない。

 

マルクスもマルクス主義者も、ウェーバーも彼を後継する近代化論者も、西欧に中心を置く視野から抜け出ることができなかった。この点で画期的な見方を提示したのが、アンドレ・グンター・フランクやサミール・アミン等による従属理論である。従属理論は、資本主義は、西欧を中核部とし、非西欧を周辺部とする構造の中で発達したのであり、非西欧は低開発の発展を余儀なくされていることを明らかにした。
 ウォーラーステインの「世界システム論」は、従属理論の成果を取り入れ、さらに精緻な理論に発展させている。ウォーラーステインによると「近代世界システム」は、中核―半周辺―周辺の三層に構造化された「資本主義世界経済」として形成されたものである。詳細は後に触れるので、ここでは文明と世界システムの関係についてのみ記しておきたい。

 世界システムの一類型である世界帝国は多数、盛衰興亡を繰り返した。たとえば、西アジアに興亡したアッバース朝、セルジューク朝、オスマン帝国は、それぞれ世界帝国だが、これらはイスラーム文明の中で生滅した世界帝国である。シナでは漢、唐、明、清等が世界帝国だったが、みなシナ文明において興亡したものである。これに比し、近代世界システムは世界経済として形成された。それが近代西洋文明の政治経済的な特徴である。近代西洋文明は資本主義世界経済として発達しつつ、他の諸文明つまりアステカ文明、インカ文明、インド文明、シナ文明、イスラーム文明等を包摂していった。
 それゆえ、文明という概念と世界システムという概念は併用が可能であり、文明が世界システムより上位の概念となる。私は、比較文明学は世界帝国・世界経済という概念を取り込むことにより、特に西欧発の文明と人類の歴史をより明確に描くことができると思う。
 ただし、ウォーラーステインの「世界システム」の実態は広域システム(wide-area system)であり、「世界帝国」も実態は地域帝国(regional empire)である。また「資本主義世界経済」が実現したのは19世紀後半のことであって、15〜17世紀においてはまだ域際経済(inter-regional economy)にすぎない。最初から一元的に構造化された世界経済が誕生したのではなく、資本制的生産様式が主導的な経済が、文明間に支配・収奪の構造を生み出し、各地域の地域経済を包摂していったのである。その帰結が現在のグローバル資本主義である。こうした補正を加えることが必要だと思う。
 以上を前置きとして、これから本題に入りたいと思う。
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第2章 西欧発の文明の形成

 

(1)ヨーロッパ文明の特質

 

●ギリシャ=ローマ文明とヨーロッパ文明の連続性と非連続性

 現在は世界的に近代西洋文明が広がっているので、ヨーロッパが昔から世界の中心であったかのように錯覚しがちである。しかし、今から5百年ほど前には、文明の最も進んだ地域はユーラシア大陸の主要部であるインドやシナ、イスラーム地域であった。西欧は長く、こうした諸文明に対し、ユーラシア大陸の西端という辺境に位置する後進的な地域だった。
 ヨーロッパ文明はギリシャ=ローマ文明の継承者というイメージを持っている人が多い。確かに継承してはいるが、単純に連続しているものではない。両文明には明らかに断絶がある。ローマ帝国は395年に、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂した。西ローマ帝国は、476年に滅亡した。これによって、ギリシャ=ローマ文明は滅んだ。ヨーロッパ文明は、この文明を生み出した民族とは異なる民族が中心となって、生み出した別の文明なのである。
 ギリシャ=ローマ文明は、環地中海圏を舞台として興亡した。ヨーロッパの南東部を中心とした。これに対し、ヨーロッパ文明は内陸部であるアルプス以北のヨーロッパ西部を中心に発生し、南部または地中海地域だけでなく、北西部や大西洋地域で独自の発達をした。この二つの文明の間には、連続性と非連続性がある。

 ヨーロッパ文明の主たる担い手は、ゲルマン民族である。ゲルマン民族は、ローマ帝国の衰退期に、帝国各地に流入した。今のフランスの辺りであるガリア地方では、フランク族のクローヴィスが、481年にフランク王国を建国した。メロビング朝の始まりである。クローヴィスは496年に、自らカソリックに改宗した。王の改宗によって、ゲルマン民族は徐々にキリスト教化していった。
 8世紀前半になると、宣教師ボニファティウスがドイツに布教した。キリスト教は、ゲルマン民族の固有の信仰を否定した。自然崇拝・祖先崇拝を排除したのである。このことが、ヨーロッパ文明に自然支配や個人主義という特徴を与えた。

732年に、ウマイヤ朝のイスラーム教軍がピレネー山脈を超えて、フランク王国に侵攻した。だが、トゥール・ポアティエの戦いで、宮宰カール・マルテルがこれを撃退した。この戦いに勝ったことで、西方のキリスト教徒はヨーロッパ文明を発展させることが可能になった。

751年にメロビング朝に代わってピピン3世が即位し、カロリング王朝が始まった。800年に、シャルルマーニュはローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受け、カール大帝として西ローマ帝国の理念を復興した。カール大帝は、カソリック世界を統一し、また教育・文化の発展に尽力して、「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化再生運動を起こした。ここにギリシャ=ローマ文明とユダヤ=キリスト教とゲルマン民族の文化という三つの要素が融合し、ヨーロッパ文明の骨格が出来上がった。

●統合力としてのユダヤ=キリスト教

 ヨーロッパ文明は、文明を統合するための原理・制度・機構をギリシャ=ローマ文明に学んだ。たとえば、ヨーロッパ文明は、ローマ法による国家・社会を目指した。その点で、ギリシャ=ローマ文明とヨーロッパ文明は、「親文明」と「子文明」の関係にある。親子といっても、主たる担い手となる民族が替わっており、文字通りの世代交代ではない。また、ヨーロッパ文明が発生したときは、西欧ではギリシャ=ローマ文明は消滅している。そのため、「子文明」であるヨーロッパ文明は、「親文明」に学びつつも、親の模倣に終わることなく、独自の文化を発達させることができた。
 とはいえ、諸民族・諸部族が一個の文化的統一体として結合するには、統一をもたらすものが必要である。その統合力として働いたのが、キリスト教とラテン語である。「子文明」としてのヨーロッパ文明は、「親文明」としてのギリシャ=ローマ文明が残した文化的統合の象徴によって、緩やかな統一性を得た。ヨーロッパ文明は、外来の宗教・言語以外に、固有の統合力を持たなかった。キリスト教とラテン語による統合は、弱い統合であるにもかかわらず、西欧諸社会に文明としてのまとまりをもたらすには十分であった。それによりヨーロッパ文明は、約千年にわたり分解することなく持続した。
 ヨーロッパ文明は、ギリシャ=ローマ文明に対し、その周辺文明として発生したが、ギリシャ=ローマ文明の遺産を継承しつつ、地中海圏の他の主要文明から文化要素を摂取して成長し、主要文明の一つになったといえる。

 私は、ヨーロッパ文明の三要素のうち、キリスト教がヨーロッパ文明の精神的中核となったことが、この文明の根本的な性格を定めたと思う。キリスト教は、ユダヤ教の中から、それへの批判として出現した。そしてユダヤ教から分かれ、異なる宗教として発展した。しかし、キリスト教の元祖はユダヤ教である。どこまで差別化しても、母体がユダヤ教であることは変わらない。
 ゲルマン民族がキリスト教化していく過程は、ギリシャ=ローマ文明を摂取していく過程だったが、キリスト教化を通じて、ユダヤ教の思想文化を間接的に摂取することでもあった。すなわち、ヘブライズムがヨーロッパの内陸部・北西部に伝播する過程でもあったのである。キリスト教を通じてヨーロッパ文明に流入したユダヤ教の要素が重要な作用をするようになるのは、貨幣経済が発達し、またプロテスタンティズムが台頭した16世紀以降である。
 私は、キリスト教とユダヤ教の違いを認めつつ、西欧の宗教の基底にはユダヤ教の要素があることを強調する時には、ユダヤ=キリスト教と書くことにしている。ユダヤ教そのものについては、ここでは触れない。別稿で改めて書く予定である。

(2)辺境に始まる

 

●イスラーム文明によって陸地に封じられたヨーロッパ

 フランク王国がユーラシア大陸の西端で成長していたころ、ヨーロッパの東方にある西アジアでは、イスラーム文明が勃興した。ムハンマドはユダヤ教・キリスト教を学び、独自の宗教を創唱した。それがイスラーム教である。
 ムハンマドは、アラビア半島にあって、622年にメディナに聖遷し、630年にメッカを征服した。彼の死後、イスラーム教の教勢は全アラビアに広がった。8世紀後半にはアラブ系のアッバース朝が樹立された。それにより、イスラーム教の諸社会は、一個の文明として発展した。イスラーム文明は、周囲の諸文明を包摂していった。そのひとつは、紀元前1200年頃のフェニキア文明以来、中東で発展してきたシリア文明である。ユダヤ民族は、かつてシリア文明の一弱小民族だった。イスラーム文明は、ローマ帝国滅亡後、地中海東部に存続した東ローマ帝国を中心とする東方正教文明を通じて、ギリシャ=ローマ文明の文化要素を摂取した。イスラーム文明の繁栄は8世紀から15世紀末まで約8百年間も続いた。

 イスラーム文明が興隆すると、かつてはローマの海だった地中海が、「イスラームの海」になった。その結果、ヨーロッパは、地中海から閉め出されてしまった。ヨーロッパは、イスラーム文明の圧力によって、陸地に封じ込められた。そうした条件の下、初期のヨーロッパ文明は、内陸的な性格をもって成長した。
 ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、「文化的統一体としてのヨーロッパ」を誕生させたのはイスラーム化した地中海だと言う。「イスラームなくして、疑いもなくフランク王国は存在しなかったであろうし、マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることができないであろう」と彼は記している。
 陸地に閉じ込められたヨーロッパでは、土地を唯一の富の源泉とする経済秩序が生まれた。ギリシャ=ローマ文明の影響により、ヨーロッパ文明では、部族制度をやめて、血縁集団構造を解体しようとしたのだが、統合のための諸制度の継承や、軍事的・文化的な統合力の摂取は不十分だった。家産制による官僚統合国家をめざしたものの、中央集権化は成功せず、封建制が出現した。

 封建制は8世紀末から9世紀の初め、カール大帝の時に形成され、11〜13世紀にその最盛期を迎え、以後解体していった。
 封建制では、財の分配は、主として当事者間の社会的交換によって定まった。主君は臣下に土地を与えて、保護下に置き、臣下は主君に忠誠を誓い、騎士として軍務を負う。こうした主従関係は、授封された者がさらに土地の一部を従者に与えることで重層化した。封建制の経済的基盤は、荘園制だった。領主は所領に農奴を抱え、農奴には生産物の一部を領主に納める貢納と、労働を提供する賦役が課せられた。
 封建制は、日本文明とヨーロッパ文明でのみ発達した制度である。封建制は、ユーラシア大陸の中心部で発達した古代帝国の多くに見られる家産制と違って、中央集権による専制体制ではない。そのため、生産力が向上すると、各地の領主が自立性を強め、急速に社会変動が進んだ。商品経済が発達すると、農村共同体が解体し、都市化が進み、資本主義が発達した。封建制は、西欧で近代化革命が起こった経済的・社会的条件であり、日本が後発的な近代化を成功できたのも、封建制社会だったからだといえる。
 封建制の下、日本では武士道、西欧では騎士道が発達した。武士道は領主と武士が親子のような情で結び合ったが、騎士道は相互の意思の一致による契約関係であった。そこに違いはあるが、ともに個人を重視する気風が育った点では共通性がある。封建制は、近代化を担う主体が育成される土壌ともなったのである。

 ヨーロッパ文明では9世紀にはいると、フランク王国が相続争いによって衰退した。843年のヴェルダン条約で三分割され、数年後のメルセン条約により再分割された。西フランク王国では、987年にカロリング朝に代わってカペー朝のフランス王国が成立した。一方、東フランク王国では962年に、オットー1世が教皇より帝冠を受けて神聖ローマ帝国が成立した。
 神聖ローマ帝国は、ローマ帝国→西ローマ帝国→フランク王国に続く帝国としての名称を持っていた。そして帝国の長にふさわしいとみなされた者が、ローマで戴冠し、皇帝に就任した。
 神聖ローマ帝国の領域は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に広がっていた。帝国とは言っても、実質的には大小の国家連合体であって、古代ローマ帝国の栄光にあやかった理念的な国家だった。それにも関わらず、神聖ローマ帝国は、1806年に消滅するまで、8百年以上も存続した。

●十字軍と北イタリア諸都市の繁栄

 ヨーロッパ文明がイスラーム文明に反攻したのが、十字軍だった。十字軍は、イスラーム文明の圧力によって陸地に封じ込められたヨーロッパが、その外圧をはねかえそうとした動きだった。この二つの文明の間の戦いは、キリスト教とイスラーム教との宗教戦争であり、またユダヤ教を元祖とする一神教、聖書を共有する啓典宗教同士の争いだった。
 11世紀になると、西欧では、農業生産力の向上によって人口が増加した。生活に余力が生まれ、聖地巡礼が盛んに行なわれるようになった。ところが、エルサレムは異教徒に支配されていた。
 聖地を支配するイスラーム文明では、11世紀にトルコ民族がアッバース帝国に侵入して、セルジューク朝を築いた。ローマ帝国崩壊後、地中海東部では、東ローマ帝国が、ギリシャ=ローマ文明を継承して独自の発展を続けていた。セルジューク朝は、東ローマ帝国を圧迫した。セルジューク朝の進出を抑止できない東ローマ帝国の皇帝は、ローマ教皇に援軍を求めた。
 教皇ウルバヌス2世は、この求めに応じ、1095年に十字軍遠征を提唱した。ヨーロッパの諸侯や騎士たちは、教皇の呼びかけに応え、十字軍を結成した。遠征は、聖地回復という理想の下、1096年から1291年まで、約2世紀の間、8回繰り返された。

 第1回十字軍はエルサレムの奪回に成功した。この時、聖地では5万人のうち4万人が殺戮され、略奪が行なわれたという。ソロモン神殿では、兵士たちがくるぶしまで血につかって進むほどの殺戮がなされたと伝えられる。
 第1回十字軍の遠征に協力した見返りとして、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサの3都市は、占領地域での貿易特権を獲得した。十字軍の経済効果は大きかった。度重なる遠征で兵士や物資の輸送が行なわれることにより、これら北イタリアの港湾都市が発達した。それによって、西ローマ帝国滅亡後、沈滞していた商業がヨーロッパに復活した。
 当時はイスラーム文明の方が、ヨーロッパ文明よりはるかに高い文化を持っていた。イスラーム文明は、西ローマ帝国滅亡後も繁栄を続ける東ローマ帝国の文明から文化要素を摂取した。イスラーム地域に侵入したキリスト教徒たちは、そこに保存されていたギリシャ=ローマ文明の遺産を持ち帰った。このことが大きな刺激となり、ヨーロッパに「12世紀ルネサンス」と呼ばれる知的運動が起こった。古典古代の哲学・科学・法学・文学等の文献が翻訳された。

 イタリア商人は、やがて地中海東部の交易を支配するようになった。そのきっかけは、1202年〜1204年に行われた第4回十字軍である。
 第4回十字軍では、北イタリア諸都市の商人が十字軍の軍事力を利用して、イスラーム教徒(ムスリム)の商人、ビザンティン商人を排除し、東地中海交易の支配権を握ろうとした。ヴェネチア商人は、兵士たちに借金の代償としてアドリア海に面した都市ザラへの攻撃を求めた。兵士たちはザラで多くのキリスト教徒を殺害した。怒った教皇は兵士たちを破門にした。
 東ローマ帝国では帝位をめぐる争いが起こり、支援を求められた十字軍は、コンスタンチノープルを陥落し、ラテン帝国(ロマニア帝国)を築いた。これにより、地中海東部の商業権は、ヴェネチア商人に移った。
 一方、ヴェネチア商人に対抗して、ジェノヴァ商人は、東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国を助けた。ジェノヴァ支援のニカイア帝国は、1261年にヴェネチア支援のラテン帝国を滅ぼし、東ローマ帝国を復活させた。こうしてヴェネチア商人から主導権を奪い取ったジェノヴァ商人は、当時大発展していたモンゴル帝国のムスリム商人と積極的に結びつきを進めた。
 ヴェネチアやジェノヴァは、地中海の制海権がセルジューク朝やモンゴル帝国に握られている時でも、ムスリム商人と取引を行なっていた。政治や宗教と経済活動は別である。この東方交易による経済的繁栄が、後のイタリア・ルネサンスの物質的基礎となっていく。

 十字軍遠征は13世紀末まで続けられたが、エルサレムはイスラーム教軍に奪い返され、結局当初の目的である聖地奪回は失敗に終わった。その結果、教皇の権威は失墜した。また参戦した諸侯や騎士の多くが没落し、封建制が変動するきっかけとなった。

●モンゴル帝国による13世紀の「世界システム」

 ヨーロッパ文明とイスラーム文明の間で十字軍による戦いが繰り広げられていた13世紀。世界を揺るがす大事件が起こった。モンゴル民族によるユーラシア大陸の制覇である。
 ヨーロッパの騎士たちは当時、イスラーム地域に遠征するほどの武力を誇っていた。しかし、モンゴルの強さは圧倒的だった。モンゴル帝国は、ユーラシア大陸の中央部に勃興し、大陸の北部、西アジア、東アジアにわたる史上最大の帝国となった。モンゴルの騎馬軍団は、豊富な地理的知識を持つムスリム商人の助けを得て征服活動を積み重ねた。
 怒涛のように押し寄せる騎馬軍団によって、ハンガリーが占拠され、ポーランド・ドイツ騎士団諸侯連合軍も敗れた。1242年には、モンゴル軍が神聖ローマ帝国のウィーン郊外まで達し、ヨーロッパは恐怖のどん底に陥った。ところが、ここでモンゴル帝国の皇帝オゴタイ(チンギス・ハンの三男)が逝去し、モンゴル軍は撤退を始めた。もしオゴタイの死がなければ、ヨーロッパはモンゴルの征服・支配を受けたことだろう。
 西欧は、モンゴル民族の侵攻を受けずに済んだ。ユーラシア大陸の西端に位置するという地理的条件も幸いした。そのため、西欧は独自の文化を維持し、発達させることができた。まったく文化の違う異民族による支配を千年以上も受けなかったことが、西欧に確かな個性の保持を可能にした。この点は、元寇によるモンゴル民族の侵攻を斥けた日本文明と共通する。

 モンゴル帝国が拡大すると、ユーラシア大陸の広大な地域が政治的に結合され、その版図に多くの文明が包摂された。それによって、文明間の交流が行なわれた。モンゴル帝国は、陸と海の交通路を一体化した。草原の道は、大西洋、地中海、黒海、ペルシャ湾、紅海、アラビア海、ベンガル湾、シナ海等につながった。各地域の交易圏がネットワーク化され、史上かつてない大交易網が展開された。
 十字軍によって発展した北イタリアの諸都市は、モンゴル帝国がユーラシア大陸を覆った時代にも繁栄を続けた。繁栄は、モンゴル帝国の大交易圏と結びつくことで得られていた。モンゴル帝国の広大なネットワークは、黒海、地中海東部に至り、ヨーロッパ南部の交易活動とも連結していたのである。
 『東方見聞録』で知られるマルコ・ポーロ(1254〜1324)は、ヴェネチア商人だった。ポーロは、モンゴル帝国の中核部シナの元の首都において、フビライ・ハンに仕えた。
 14世紀になると、モンゴル帝国は分裂・衰退していった。この史上最大の帝国は、わずか100年しか持続しなかった。直接の原因は二つある。人口の減少、その帰結としての生産力の低下と収奪の強化、及び政治的統一の喪失である。しかし、モンゴル帝国の発展によって、ユーラシア大陸が一体化された歴史的意義は大きい。またその結果、世界的規模の歴史という意味での世界史が成立する基盤が築かれた。

 ここでウォーラーステインの世界システムという概念を用いると、世界システムとは「一つの世界であるようなシステム」である。世界とはいっても、文字通りの地球規模の世界ではなく、それぞれの社会がひとつの世界をなしているような単位を言う。世界システムのうち、経済的、政治的には一元的だが、文化的には多元的なシステムを世界帝国という。
 モンゴル帝国はそれまで地球上に興亡した世界システムに比べ、比較にならないほど大規模な世界システムであり、また世界帝国だった。13世紀にこうした世界システムがユーラシア大陸に実現したことは、15世紀末に西欧発で形成される「近代世界システム」の先行条件となった。

●14世紀のグローバルな危機

 モンゴル帝国は、14世紀には分裂・衰退した。その背景には、14世紀から15世紀にかけて、ユーラシア大陸を襲った寒冷な気候があった。モンゴル帝国での人口減少、生産力の低下は、ペストなどの疫病の流行、小氷河期の到来が影響したものだった。14世紀は世界的に、急速な社会経済の収縮が起こった。いわばグローバルな危機だった。西欧にとってもまた14世紀は危機の時代だった。危機とは、技術進歩のない封建制のもとでの土地の疲弊、戦争の勃発、そしてヨーロッパ全土を間欠的に襲った疫病である。
 特に疫病の社会的影響は、大きかった。ペストは、モンゴル帝国の中央部である中央アジアで発生し、西はクリミア半島からシチリア島に広がり、ヨーロッパを北進・西進した。疫病により、ヨーロッパ人口の4分の1、約2500万人が死亡したといわれる。
 疫病によって人口が減少する中で、労働力を確保するため、封建領主は農奴への支配の手を緩めた。その結果蓄えた富を領主に支払うなどして農奴から解放される独立自営農民が出現した。こうして封建制の基盤である荘園制が解体されるに従い、封建領主は段々没落していった。また、独立自営農民が増えるにつれ、徐々に農村で商品経済が発達し、やがて社会全体に大きな変化を生み出していく。14世紀の危機は、西欧で社会的・経済的な近代化が進む前の、暗黒の序章となったといえよう。
 疫病の蔓延は、社会的経済的な変化だけでなく、文化的な変化をももたらした。ペストは、信心の浅い者も熱心な者も無差別に襲った。そのことが、中世ヨーロッパの絶対的な権威であったキリスト教への懐疑を生んだ。宗教的権威が揺らぐなかで、14〜15世紀にはイタリアでルネサンスが起こり、16世紀には内陸部で宗教改革が進むことになる。また同時にその揺らぎのなかから、科学的精神が復興し、西欧の思想・文化に大きな変化を生み出していった。

 14世紀のグローバルな危機、世界規模での社会的経済的な収縮は、15世紀の半ばごろから反転し始めた。西欧においても経済的・社会的な回復と新たな発展が進んだ。そして、海洋に積極的に乗り出して、「大航海時代」を切り開いていくことになる。それとともに、ウォーラーステインのいうところの「近代世界システム」つまり資本主義世界経済が発生・発達する。ウォーラーステインはシステムの形成期を「長期の16世紀」と呼ぶ。1450年ごろから1640年ごろ、16世紀を中心としてその前後を合わせた約2百年間である。この時期は、世界が14世紀の危機を脱して、社会的経済的な拡大が進んだ時期である。ページの頭へ

 

 

第3章 近代化のはじまり

 

(1)ルネサンスから地理的拡大へ

 

●イタリア・ルネサンスと近代化の兆候
 
 14世紀は世界的にもまた西欧にとっても危機の時代だったが、同時にこの世紀からヨーロッパ文明には、新しいいのちが芽吹いていた。十字軍と東方貿易によって莫大な富を得たイタリアの新興商人たちは、新しい文化を生み出した。それが、イタリア・ルネサンスである。

 ルネサンスは、フランス語で「再生・復興」を意味する。文化的な再生・復興には、下地があった。12世紀以来、イスラーム文明経由で摂取して来たギリシャ=ローマ文明の遺産である。その遺産は、東ローマ帝国と交流することによっても、西方にもたらされた。
 ルネサンスの知識人は、キリスト教的な神観念を中心とした世界観とは異なる人間中心の世俗的な世界観を展開した。古典古代の文献の研究が、人間と世界について新たな知識をもたらしたのである。
 ルネサンス勃興の地の一つフィレンツェでは、メディチ家が繁栄していた。メディチ家は14世紀後半から15世紀の初め、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの代に銀行業で大きな成功を収めた。彼の子や孫のもとで、メディチ家は最盛期を迎えた。メディチ家は、芸術家や学者を保護した。他の富裕なイタリア市民もそれにならった。彼らの保護のもとで、文芸のダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、美術のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロら、綺羅星(きらぼし)のような天才たちが活躍した。

 ルネサンスはやがてイタリアから北方へと広がった。商業や毛織物工業で繁栄していたネーデルラントでは15世紀初めから文化が花開いた。その後、フランス、イギリス等にも広まった。経済的に豊かになった地域では、富を持つ新興階級が新しい文化を生み出していく。その現れである。
 ルネサンスによって西欧は、千年近い低迷から抜け出し、ようやく一つの文明としての個性を表わした。私は、ルネサンスが西欧に広まった時期をもって、ヨーロッパ文明は周辺文明から主要文明に成長・到達したと考える。

 ルネサンスは、西欧の近代化の始まりだった。近代化とは、「生活全般の合理化」(ウェーバー)である。西欧では「呪術の追放」(ウェーバー)によって合理化が進展した。宗教・思想の合理化に始まり、近代科学が生まれ、民主主義・近代官僚制・資本主義等が発達した。
 近代化は、文化的領域に始まり、社会的領域、政治的領域、経済的領域で進行していった。ルネサンスは、文化的領域における近代化の開始となった。これに続いて、16世紀には宗教改革、17世紀には科学革命が起こり、文化的近代化が進んだ。さらに、17〜18世紀には市民革命、18世紀には産業革命等が起こり、西欧の近代化は、他の文明にも大きな影響を与えるものとなり、人類史における「近代化革命」をもたらした。その「近代化革命」の兆候が、ルネサンスだった。

 ルネサンスは、キリスト教的なヨーロッパ文明においては、世俗化の始まりでもあった。世俗化とは、その文明の中核にある宗教が影響力を弱め、非宗教的な思想や価値観が発達することである。
 ルネサンスは、中世キリスト教の神観念を中心とする世界観に対し、人間を中心とする世界観を生み出した。この思想を「ヒューマニズム」という。人間中心主義である。人間中心主義は、近代化とともに脱キリスト教化された西欧の価値観が、非西欧社会に伝播することによって、世界的に広まった。世俗化は、キリスト教的な神観念や超五感の世界の否定という意味では、ニヒリズムの進行とも言える。
 西欧においてキリスト教の価値喪失を招いた最大の原因は、科学の発達だった。近代科学による新しい知識が、それまでのキリスト教的な世界観・価値観を倒壊させた。そして、実証主義的で数理計算的な物質科学の絶対化こそ、ニヒリズムの一典型である。こうした西欧発のニヒリズムは、近代西洋文明の伝播とともに非西洋文明の諸社会にも広がっている。そして、各文明において固有の宗教(仏教、儒教、神道、イスラーム教、ヒンドゥー教等)に基づく価値観を破壊し続けている。こうした世俗化・ニヒリズムは、ルネッサンスの思想の中に潜在していたと言えよう。

関連掲示
・拙稿「心の近代化”と新しい精神文化の興隆

●香辛料を銀で買う東方交易

 イタリアでルネサンスが開花した14〜15世紀、西欧は、依然としてユーラシア大陸西端にある後進的な地域だった。大陸とその周縁部には、東方正教文明(東ローマ帝国、ロシア帝国)、イスラーム文明(オスマン帝国)、インド文明(デリー=スルタン朝)、シナ文明(明)、日本文明(鎌倉時代・室町時代)等が併存し、個性的な文化を誇っていた。
 ヨーロッパ文明にとっては、14〜15世紀においても、イスラーム文明との関係が重要だった。イスラーム文明は、13世紀にユーラシア大陸を広く覆ったモンゴル帝国の支配下に入った。しかし、帝国の周辺部では、モンゴル人の力に服することを潔しとしないトルコ民族が立ち上がり、1299年にオスマン朝を創建した。モンゴル帝国は14世紀には衰退・崩壊に向かい、オスマン朝は、帝国の解体により、イスラーム文明の中心となった。
 モンゴル帝国でもまたオスマン帝国でも、通商ではムスリム商人が活躍した。彼らは、ユーラシア大陸の諸文明をつないで、西アジア、東南アジア、東アジアを結ぶ壮大な商業圏を作り上げていた。西欧人は、ムスリム商人から、東南アジア香料諸島の胡椒・香辛料を買っていた。西欧人にとって、胡椒・香辛料は貴重品だった。肉食中心ゆえ、肉の保存や、長期保存でまずくなった肉の味付けに、胡椒・香辛料が必要だった。さらに、胡椒は疫病が猛威を振るう西欧社会で、医薬品としても珍重された。

 当時、インド洋圏では、中東―インドー香料諸島を結ぶ三角貿易が展開されていた。西欧人はその三角貿易のネットワークにつながる形で、胡椒・香辛料を手に入れていた。その代価には、銀を支払っていた。フランドルなどで生産されていた毛織物は、熱帯・亜熱帯のアジアでは売れなかった。そのため、アジアから物産を輸入するには、銀で支払う以外になかった。
 銀の産地は、南ドイツのティロル地方だった。銀は、そこから北イタリアに運ばれた。ムスリム商人は、その銀を用いて、インドで木綿を購入した。インド木綿は香料諸島で香辛料と交換され、それが中東に運ばれた。こうして運ばれる香辛料を、西欧人は銀で買っていたわけである。
 西欧の側から見れば、こうした交易は東方交易となる。交易の中心になっていたのは、北イタリアの諸都市の商人たちだった。ヴェネチアとジェノヴァの間では、抜きつ抜かれつの戦いが続けられていた。1261年にラテン帝国が滅ぼされると、ヴェネチアは東方交易の主導権をジェノヴァ商人に奪い取られた。しかし、ヴェネチアは、ジェノヴァが復活させた東ローマ帝国との貿易に積極的に乗り出した。そして、1378年、キオジアの海戦でジェノヴァを破り、地中海東部の通商権を独占した。

●オスマン帝国の圧力で大西洋へ

 イスラーム文明の中核となっていたオスマン帝国は強大化を続け、1453年にコンスタンチノープルを陥落し、東ローマ帝国を最終的に滅亡させた。オスマン帝国は、コンスタンチノープルをイスタンブールと改称して首都とした。そして、北イタリアの商人を黒海海域から駆逐して、黒海、地中海東部を押さえた。
 東ローマ帝国は、古代ローマ文明を継承し、千年以上も存続した。東方正教文明の中心だった。ギリシャ語が使われ、ローマ・カトリックから分かれたギリシャ正教が信仰された。それゆえ、東ローマ帝国こそギリシャ=ローマ文明継承の主体だったと言えよう。東ローマ帝国で発展した東方正教文明は、その後、ロシアに中心が移る。ロシアはスラヴ化した東方正教文明の主役として、ヨーロッパ文明と交流していく。

 オスマン帝国により、イタリア商人はユーラシア諸地域との直接的結びつきを断たれてしまった。するとジェノヴァの商人はジブラルタル海峡を越えて、大西洋海域へと進出した。彼らは北方のフランドル地方との交易を行なった。フランドル地方は、早くから毛織物生産が盛んだった。
 大西洋を行き来するジェノヴァの船は途中で、ポルトガルの港に寄る。次第にジェノヴァ人がポルトガルに居住するようになった。その中には、航海者のみならず、富裕な商人や銀行業者も含まれていた。ポルトガル人は、彼らから航海術や造船術、貿易の仕方などを学んだ。
 15世紀の初めには、ポルトガルの貿易は、ヴェネチアやジェノヴァに次いで活発なものとなっていた。このポルトガルに刺激を受けて、スペインもまた海洋に積極的に乗り出すようになった。やがてポルトガル・スペインによる「大航海時代」が切り開かれることになる。

●大航海時代〜西欧の地理的拡大

 西欧人は、15世紀後半から「大航海時代」に入った。西欧人は、地表の7割を占める海洋に航路を拓き、七つの海を結びつける広大なネットワークを作り上げた。ヨーロッパ文明における地理的発見は、人類史の大変動をもたらした。その影響は、イスラーム文明の躍進やモンゴル帝国の拡大より、はるかに大きなものとなった。

 ポルトガルはイベリア半島の西部に位置する。イベリア半島は、8世紀からイスラーム文明の支配下にあったが、半島の諸国はイスラーム教勢力に対して、レコンキスタと呼ばれる国土回復運動を行なっていた。11世紀からキリスト教徒による失地回復が進み、1251年にはグラナダを除く半島のほとんどを取り戻した。すると、彼らは、東洋の富への憧れをもって、当時貴重品だった胡椒・香辛料を直接入手するため、探検航海を試みた。
 航海王子と呼ばれたポルトガルのエンリケは、アフリカ探検や西回り航路の開拓を進めた。1488年には、バルトロメウ=ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達し、98年には、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回って、インドに到達し、香辛料を持ち帰った。これによりポルトガルはインド洋に進出し、東南アジアを中心とする海洋アジアから直接、胡椒・香辛料等を輸入できるようになった。
 当時西欧人は、海洋アジアを東インドと呼んだ。東南アジアは、イスラーム文明、インド文明、シナ文明等が活発に交流する世界経済の一大中心地の様相を呈していた。「東西諸文明の海の交叉路」(川勝平太氏)となっていたのである。そこにヨーロッパ文明が直接参入した。
 喜望峰回りの新航路による貿易が盛んになると、胡椒の価格が暴落した。その結果、イスラーム文明との東方貿易で栄えていたイタリアは大きな利益を失った。

 ポルトガルは、インド洋圏で行われていた中東―インドー香料諸島を結ぶ三角貿易を、自国に有利なものにしようと考えた。ムスリム商人の莫大な利益に目を付け、これを武力で奪い取ろうとしたのだ。ポルトガルは、1507年にペルシャ湾とアラビア海を結ぶホルムズ海峡を占領し、1543年にその関税権を手に入れた。このことは、インド洋圏における力関係に決定的転換をもたらした。
 ポルトガルは、ヨーロッパではヴェネチアの覇者の座を奪った。その結果、三角貿易の西方での展開は、地中海の中東―ヴェネチア経路から、大西洋のリスボンーアントワープ経路に移った。
 ポルトガルは、アジアの海でも活動を広げ、1511年にはマラッカを領有した。さらにモルッカ諸島に到達して、香辛料交易の一角を占めた。1543年には、ポルトガル人がわが国の種子島に漂着し、鉄砲を伝えた。さらに平戸を拠点として対日交易を行ない、宣教師たちがキリスト教の布教を展開した。

 イベリア半島の東部では、1479年、カスティリア国とアラゴン国の王家の結婚により、スペイン王国が誕生した。ポルトガルの活動に刺激を受けたスペインも、探検航海に力を入れた。スペインは、1492年にグラナダを陥落し、レコンキスタを完了した。この年、イザベラ女王の命を受けたコロンブスは、西回りでインドを目指した。コロンブスが到着したのは、カリブ海のサン・サルバドル諸島だった。やがてそこに広がるのは未知の大陸だとわかり、アメリカと名付けられた。
 ポルトガルもこれに続き、大西洋に西部では、1500年にカブラルがブラジルを発見し、植民を進めた。

 スペインは、アメリカ大陸からさらに西へと広大な太平洋を横断して、探検航海を続けた。スペイン王室の派遣したマゼランは、1519年に、フィリピンに到達した。彼の船隊は、1522年にスペインに帰還した。こうした探検航海の成功は、スペインに栄光をもたらした。

 スペイン王家は、オーストリアのハプスブルグ家と姻戚関係をつくることで、いっそうの権勢を得た。スペイン王家の娘とハプスブルグ家のフィリップが結婚した。その子がカール5世として神聖ローマ帝国の皇帝となった。そのカール5世に東方から強敵が向かってきた。
 再びイスラーム文明である。イスラーム文明ではオスマン帝国が強大化していた。スレイマン1世は、1529年に神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲し、カール5世を危機に陥れた。しかし、例年より早い寒波の到来が、ヨーロッパ文明には幸いした。オスマン軍は、攻撃をあきらめた。それによって、西欧は異文明の支配を免れた。1242年にモンゴル軍がウィーン郊外まで達した時も侵攻を避けられたから、これが二度目だった。
 危地を逃れた西欧において、スペインは、カール5世の子フェリペ2世が、アメリカ大陸やネーデルラント等を領有し版図を広げた。

 ポルトガルとスペインは、地理的拡大を続けた。環大西洋圏においては、1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約で、両国の勢力が東西に分けられていた。1529年には、サラゴサ条約によって、モルッカ諸島の東方を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約によって、ポルトガルとスペインは、理念的に世界を二分割した形となった。
 スペインは1571年にレパントの海戦でオスマン軍を破り、地中海の制海権を握った。フェリペ2世は、80年にはポルトガル王位を継いで、ポルトガルが開拓したアジア貿易をも掌中にした。これによりスペインは「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた。
 しかし、16世紀の世界でも、ユーラシア大陸では、東方正教文明(モスクワ大公国)、イスラーム文明(オスマン帝国)、インド文明(イスラームによるムガル帝国)、シナ文明(明)、日本文明(戦国時代・安土桃山時代)等が並存し、自律した文明を発達させていた。白人種が主に支配していたのは、アメリカ大陸に限られていた。

●ラテン・アメリカにおける支配と収奪の構造

 スペイン人は大西洋に乗り出すと、最初は黄金を求めてカリブ海域から、アメリカ大陸の南北に進出した。中米に侵攻したコルテスは、1521年にメキシコでアステカ文明を滅ぼした。南米に侵攻したピサロは、1533年にペルーでインカ文明を滅ぼした。スペインの領土は、北米南西部からブラジルを除く南米全体に及んだ。
 スペイン支配のラテン・アメリカでは、エンコミエンダ制の下で、先住民が大農場や鉱山で酷使された。エンコミエンダ制は、インディオのキリスト教化と保護を条件に、国王が植民者に征服地の土地・住民の統治を委託する制度である。国内法では奴隷を否定していたスペインは、この制度を使ってインディオを実質的に奴隷化し、土地・資源・労働力を支配下に組み入れた。エンコミエンダ制の根底には、キリスト教徒以外は人間と見なさないという偏狭で傲慢な発想があった。有色人種への虐待・虐殺は、教皇の権威と聖書の文言によって正当化された。宣教師は、異文明への侵攻、異教徒の支配の先鋒となった。

 苛酷な労働と、外来の天然痘等の伝染病によって、先住民の人口は激減した。ヨーロッパ文明と出会う前、中米の人口は7千万人から9千万人あったと推定されているが、15世紀末にスペイン人が侵入してから、わずか1世紀の間に、350万人に激減したと見積もられる。インディオ人口が激減する中で、1720年にエンコミエンダ制が廃止されると、土地の所有権をもつ大地主が多くの債務を負わせたインディオを債務奴隷として支配するアシェンダ制に変わった。この一方、労働力不足を補うために、アフリカ大陸から黒人奴隷が輸入された。
 黒人奴隷の奴隷貿易は、1530年ころ始まった。その後、カリブ海域を中心に砂糖のプランテーションが広がると、黒人奴隷が多数売買されるようになった。アフリカから拉致された黒人は、3千万人から6千万人に及び、その3分の2が航海途上で死亡して、大西洋に捨てられたといわれる。有色人種の犠牲者数は、20世紀の近代兵器による世界大戦の死亡者数をも上回る。

●新大陸からの銀の流入と価格革命

 新大陸の開拓は、ヨーロッパに途方もない僥倖をもたらした。ラテン・アメリリカでの銀鉱山の発見である。1545年、現在のボリビアで、南米最大のポトシ銀山が発見された。スペイン人は、奴隷を使って銀を掘り出した。アメリカ大陸の鉱山で産出された大量の金銀は、その5分の1がスペイン国王のものになると定められていた。巨大な銀鉱脈はスペインに巨万の富をもたらした。スペイン王は、一時ヨーロッパで最も富裕な王となった。
 南ドイツのティロル地方の銀の生産は、年30トン程度だった。これに比し、新大陸からスペインに流入した銀は、年200トンを超えた。極めて短い期間に大量に流入した安価な銀は、ヨーロッパの銀価を押し下げた。そのため物価が3倍以上に急騰した。これを価格革命という。
 西欧では、貨幣の増量により、経済規模が急速に拡大した。インド、東南アジア等から多くの物産が輸入され、生活用品の変化が起こった。また、都市の成長と社会的分業化が同時に進行した。これは西欧における社会的近代化と経済的近代化の進展となった。

(2)資本主義の構造と精神

 

●近代世界システムの形成

 大航海時代において、西欧人は、ヨーロッパと南北アメリカ大陸、アフリカ大陸を結びつける構造を作り出した。世界システム論の提唱者ウォーラーステインは、この構造を「近代世界システム」と呼んでいる。先に簡単に紹介したが、ウォーラーステインによると、近代世界システムは、「長期の16世紀」(1450〜1640年頃)に、大西洋を囲む地域に成立した。
 ウォーラーステインによると、この期間に西欧をラテン・アメリカやアフリカに結びつける分業体制が成立した。近代世界システムは、世界帝国と違って、中央に強力な政治権力が存在しない。経済的にのみ一元的で、政治的、文化的には多元的なシステムである。それゆえ、ウォーラーステインは、これを世界経済と呼ぶ。近代世界システムを統一する論理は、資本主義である。資本主義的な世界経済に立脚する世界システムとして形成されたものが、近代世界システムである。

 資本主義世界経済は、中核部をより豊かにし、周辺部をより貧しくしていく二極分解的な国際経済の構造として発展した。この構造を明らかにしたのが、フランク、アミンらの従属理論である。こうした見方では、基本的に世界システム論は従属理論と同じである。ウォーラーステインもまた近代世界システムを、中核部が周辺部から富を搾取するシステムとして描いている。ウォーラーステインは、この構造をさらに歴史的に研究し、近代世界システムは、西欧を中核とし、その他の地域を半周辺、周辺とする三層構造に編成することによって成立したとする。
 この三層構造における各層の基本的な関係を、ウォーラーステインは「生産過程」という概念でとらえる。近代世界システムにおける生産過程には、中核的生産過程と周辺的生産過程があるとする。資本主義世界経済の発達において、中核的生産過程は西欧の特定の諸国に集中した。逆に周辺的生産過程はラテン・アメリカ、アフリカの諸地域に集中した。こうした生産過程の偏在という意味で、ウォーラーステインは中核部、周辺部という簡略な言い方もしている。

●価値の移転が起こる仕組み

 ウォーラーステインは、中核的生産過程と周辺的生産過程の分業を、「垂直的分業」ととらえる。垂直的は水平的の反対語である。単に地理的に中核―周辺というのでなく、上が下を支配し下から収奪するという支配―服従の権力的な関係を含意したものだろう。
 ウォーラーステインは、著書『入門世界システム分析』(藤原書店)で、次のように分析する。「中核―周辺という概念が意味しているのは、生産過程における利潤率の度合いである。利潤率は独占の度合いに直接関係しているわけであるから、『中核的生産過程』という表現の本質的内容は、独占に準ずる状況に支配されているような生産過程ということであり、『周辺的生産過程』は真に競争的な生産過程ということである。交換が行われる際、競争的に生産される産品は弱い立場に置かれ、独占に準ずる状況で生産される産品は強い立場を占める。結果として、周辺的な産品の生産者から中核的な産品の生産者への絶え間ない剰余価値の移動が起こる」「中核的産品と周辺的産品の交換の最終的な帰結は、中核的生産過程が多数集積している諸国への剰余価値の流入となる」と。
 ウォーラーステインは、ここで剰余価値という用語を使っているが、この用語は「生産者によって獲得される実質利潤の総額という意味でしか用いていない」と断っている。

 アルギリ・エマニュエルは、周辺的産品が中核的産品と交換されるときに、剰余価値の移転を伴うとし、これを「不等価交換」と呼んだ。これについて、ウォーラーステインは、「不等価交換は、政治的に弱い地域から政治的に強い地域への資本蓄積の移転の唯一の形態ではない。たとえば収奪というかたちもあり、近代世界システムの初期の世界=経済に新しい地域が包摂される際には、広い範囲でしばしば行われた」と述べている。すなわち、「政治的に弱い地域から政治的に強い地域への資本蓄積の移転」には、収奪、不等価交換等の形態があるとしている。
 私見をのべると、不等価交換は、市場での交換における価値の移動の非対称性をいう。形式的には等価交換に見えるが、実質的には不等価交換になっているために、一方的に価値が移動していくわけである。これに比べ、収奪は、強制的に奪い取ることである。売買という経済的な行為ではなく、権力による政治的な行為である。多少の対価が支払われても、極度に非対象的な場合は、収奪という。例えばアメリカ大陸の征服者がインディオから銀を奪取したような事例である。ウォーラーステインが「政治的に弱い地域から政治的に強い地域へ資本蓄積の移転」と書いているのは、価値の移転は、経済原理論的なものだけではなく、政治学的な権力関係による場合があることを認識しているからだろう。
 上記のウォーラーステインの所論については、マルクスの労働価値説とそれに基づく剰余価値説の批判をし、そのうえで考察すべき点がある。同時に生産関係と権力関係、所有と支配についての考察も必要である。これらの考察に入ることは本稿の目的を逸脱するので、別の機会に改めて述べることにしたい。

●外的拡大と内的変動、及び半周辺

 「長期の16世紀」に発達し始めた資本主義世界経済は、中核と周辺との二極的な関係を構造的に維持しつつ発展していく。話を先取りすることになるが、もしこのシステムとしての資本主義が、中核と周辺の不平等の構造を拡大・強化する一方だと、周辺は早晩荒廃し、周辺の荒廃がシステム全体を行き詰まらせてしまうはずである。
 ところが、資本主義は、このシステムの矛盾を、ひとつはシステムの地理的な拡大によって解決していく。ウォーラーステインは、システムの外部にある社会を内部に組み込むことを、「包摂」と呼ぶ。資本主義世界経済は、システムが行き詰まる前に、包摂によって新しい周辺を作り出し、システムを拡大することによってシステムを維持・発展させていく。

 これとともに注目すべきは、資本主義世界経済においては、一方向的に二極分解が進んだのではないということである。二極化が進むと同時に中間領域が生まれ、中間領域がシステムの維持と発展に一定の役割をしてきた。ウォーラーステインは、この中間領域を「半周辺」と呼ぶ。半周辺は、資本主義世界経済において、三層構造の中間層をなしている。
 ウォーラーステインは「垂直的分業」と言っているから、中核ー半周辺ー周辺という三層構造は、上層ー中層ー下層という垂直的な階層構造と見るとわかりやすいと思う。いわゆる「低開発(underdevelopment)の発展」(A・G・フランク)とは、下層としての発展である。
 半周辺は、中核と周辺の中間領域である。そして、生産過程の中核的産品と周辺的産品の生産過程がほぼ相半ばしているような領域である。ウォーラーステインは、半周辺に位置している国家を、「半周辺国家」と呼ぶ。「半周辺的国家の中心的関心は、中核諸国からの圧力のもと、周辺諸国に対しては逆に圧力をかけつつ、なんとかして周辺的地位への転落を回避し、かつ中核的地位をめざして、そのなしうることをなすことにある」とウォーラーステインはいう。
 私流に言うと、半周辺は、中核的上層と周辺的下層の間の中層であり、上昇と下降の両方向の流れが錯綜する流動的な領域である。

 中核部においても、諸国の地位は固定的なものではない。各国は競争関係にあり、中核的な国家が富と力を失って半周辺的な地位に転落したり、覇権国家が他国に派遣を奪われたりする。たとえば、16世紀に世界を二分したポルトガルは、その後、半周辺的な地位に転落していった。後ほど述べるが、17世紀にはオランダは覇権国家となり、覇権はその後、イギリス、アメリカへと移動した。
 資本主義世界経済は、システムの外部にある社会を「包摂」しながら拡大するとともに、システムの内部では、既存の中心―半周辺―周辺の階層的編成が揺らぐような「複合状況」が作り出される。それによって、システム内で、個々の社会が占める地位の組み換えが生じる。また、新たに包摂された社会が、半周辺的な地位を獲得しつつシステムに参入してくる可能性もある。私の理解を述べると、たとえば、わが国が19世紀後半に鎖国政策を改めて開国し欧米諸国と通商を始めた時、わが国は近代世界システムの中に半周辺的国家として参入した。そして、明治維新と近代化政策の成功によって、中核的国家に成長した。
 周辺部においても、諸国の地位は絶対的に固定的なものではない。下層的な低開発の発展をした諸国の中から、中層的な半周辺に上昇し、さらに上層的な中核へと上昇し続ける国もある。BRICSと呼ばれる21世紀の新興大国であるインドやブラジルがその典型といえよう。

 資本主義世界経済は、外的拡大と内的変動を伴いながら発展してきた。ウォーラーステインは、次のように述べている。「われわれが生きている世界、すなわち近代世界システムは、16世紀にその起源を有している。その当時、この世界システムは、地球のごく一部――主としてヨーロッパの諸部分と両アメリカの諸部分―ーを覆っているにすぎなかった。時とともにこの世界システムは拡大し、全地球を覆うようになった」(『入門世界システム分析』)
 この全地球を覆うようになった近代世界システムが、グローバル資本主義である。本稿では、この後、そのグローバル資本主義の発達過程を、西欧発の文明と人類の歴史の一要素として、たどっていくことになる。

●資本主義世界経済における労働の多様性

 もう一点、本稿の記述のために補っておきたい。近代世界システムが大きく発展した19世紀の後半、マルクスは、『資本論』で資本制的生産様式が支配的となった社会の原理を究明し、またこの社会が形成された歴史を描こうと試みた。彼のとらえた資本とは、資金とか生産設備とかいった物象ではなく、生産関係にほかならない。「資本とは、物象ではなく、物象を介した人と人との間の社会的関係である」(『資本論』)「資本は一つの社会的生産関係である」(『賃労働と資本』)とマルクスは明言する。賃金労働者は、労働力商品を資本家に売り、資本家は、労働力という他人の所持する商品を買うという関係にある。マルクスは、この資本家と労働者の関係を、階級という概念でとらえ、階級関係は、政治的な支配関係をも伴うが、本質的・基本的には生産の場における経済的関係であることを洞察した。
 このマルクスの分析は、近代西欧社会、特に産業資本が発達しつつあったイギリスにおける資本家―労働者の関係をモデルに分析したものだろう。歴史的に発生・発達した資本主義の全体像を十分把握したものではない。

 資本主義世界経済が発生したとき、システムの中核部にあるイングランドや北フランス等の地域では、荘園制が解体し、自立的な富農が現れ、その蓄積が、復興してきた商業資本と結びついて農村工業が起こった。しかし、ウォーラーステインは、「賃労働は資本主義システムのなかに多数存在する労働管理の形態のうちのひとつにすぎず、しかも決して資本の立場からして、最も利潤の得られるものではない」と主張する。
 私見を加えると、周辺部と中核部の間の社会的分業は、農業と工業、第1次産品の生産と第2次産品の生産、原料または半加工品の生産と加工品の生産の間の分業である。こうした分業における生産諸過程には、それぞれの生産関係がある。資本制的な生産関係は資本家―労働者の関係だが、資本主義は主人―奴隷、領主―農奴等の生産関係をも、そのシステムの中に組み込むことができる。「近代世界システム」の形成においては、それが実際に行われた。

 資本主義世界経済は、西欧における賃労働だけで成り立っていたのではない。資本主義は、非西欧における奴隷労働や農奴労働をも生産過程の中に組み込んで発生・発達した。たとえば、先に書いたように、ラテン・アメリカにおいては、奴隷労働が行われ、安価で大量の銀が西欧に莫大な富をもたらした。また東欧においては、中世的な農奴制が拡大され、西欧に食糧を供給した。奴隷にして農奴にしても、非経済的強制を伴う形態で労働力を再編成したものである。
 ウォーラーステインは、こうした資本主義世界経済における奴隷労働や農奴労働を、「労働力の強制度」を高めたものとしている。第1次産品で利潤率が高ければ高いほど、また周辺的な位置にあって消費市場からの距離が遠ければ遠いほど、利潤の確保のために、より厳しい強制が労働に課せられた。後に触れる西インド諸島の奴隷制プランテーションや、ドイツやポーランドに現れた再版農奴制は、周辺的労働編成の典型である。ウォーラーステインは、これを「長期の16世紀」における「農業資本主義」の成立と言っている。
 西欧を中核部とする近代世界システムは、諸国の国王や資本家が、西欧の賃労働者が生み出す価値だけでなく、非西欧における奴隷労働や農奴労働が生み出す価値をも取得し、その価値を資本として蓄積したのである。

「近代世界システム」では、システムの統一性を保つ論理は、資本主義である。資本主義については、マルクスが『資本論』でその原理及び歴史を研究・分析した。マルクスの基本思想は唯物論であり、社会の構造と発達を歴史的にとらえる史的唯物論である。マルクスは、『経済学批判』で唯物史観の公式といわれるものを提示している。次のようなものである。

「人々は、その生の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立な、諸関係に入りこむ。すなわち、物質的生産諸力の一定の発展段階に照応する生産諸関係にはいる。この生産諸関係の総体が社会の経済構造、実在的な土台をなし、これのうえに法制的・政治的な上層建築がそびえたち、またその土台に一定の社会的意識形態が照応する。

 物質的生活の生産様式が、社会的、政治的、精神的、生活過程一般を規制する。人びとの意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。

 社会の物質的生産諸力は、その一定の発展段階で、現存の生産諸関係と、ないしはこの法律的な表現にすぎないのであるが、(略)財産所有諸関係と矛盾に陥る。これらの諸関係が生産諸力の発展を容れる形式からその桎梏へと一変する。そのとき社会革命の時代が始まる。経済的基礎の変化にともなって、巨大な上層建築全体が、徐々にせよ急激にせよ覆る」

社会的存在が意識を規定するという際、その社会的意識形態は思想・道徳・宗教・芸術・学問等に当たる。エンゲルスは土台が基本的な規定要因であるとしたうえで、上部構造が土台を反作用的に規定する事実をも強調している。

しかし、マルクス=エンゲルスの信奉者たちは、物質的土台が社会的意識形態を決定するという硬直した解釈に陥った。これに対し、マックス・ウェーバーは、経済に対する精神、特に宗教の影響を重視し、近代資本主義の成立には、プロテスタンティズムの倫理が重要な役割を果たしたことを主張した。続いて、その点について述べたい。

●宗教改革から生まれた「世俗内禁欲」の倫理

 西欧は15世紀末から地理的に拡大したことを述べた。この時期、ルネサンスはイタリアから北方へと広がった。そのルネサンスと時期を重ねながら進んだ重要な変革が、宗教改革である。宗教改革は、西欧の文化的近代化の一過程となった。同時に、経済的近代化にも深い関係がある。西欧における資本主義の発生・発達は、宗教改革を抜きに考えられない。そのことをここに記しておこう。
 中世の西欧では、修道院における修道士たちの労働が富を生み、聖職者が金貸しをしたりするようになっていた。カトリック教会は、さらに免罪符を発行し、金銭によって罪を免ずるという道を与えた。これに対しルター、カルヴァンらは、教会に異議を唱えた。彼ら16世紀に現れたプロテスタントの挙げたスローガンは「聖書のみ」「恩寵のみ」「信仰のみ」の三つにまとめられる。プロテスタントは、信仰とは教会に従うことではなく、各個人が神と直接に向かい合うことであり、それによってこそ福音はもたらされると主張した。
 それまでは、カトリック教会が福音の施しを権威的に独占していた。その権威の核が、サクラメント(秘蹟)だった。しかし、ルターは、サクラメントは救済を保証するものではない、とこれを否定した。これは宗教の合理化への重要な契機となった。同時に宗教儀式における象徴の排除は、西欧人の精神に深刻な危機をもたらすことにもなった。

 カルヴァンはさらに予定説を説いた。カルヴァンによると、神は永遠の生命を与えた人間をすでに選び、他の人間は永遠の死滅に予定したという。永遠の生命と永遠の死滅という二重の予定であるので、二重予定説ともいう。
 予定説は、神の自由意志を絶対的なものとし、人間の道徳的努力を一切無力なものと断じた。誰が永遠の生命に予定されているかは、人間には知りえない。しかも人間がそれを変えることは絶対不可能だとする。プロテスタントにとって残された道は一つしかない。自分は神に選ばれているのだと考えて、すべての疑惑を斥けること、つまり自己確信をもつことである。自己確信を獲得するためには、職業労働に専念することであると考えられた。
 職業労働への専念は、ルターの「天職」という概念に基づく。世俗の職業は神が各人に与えた使命であり、「神の道具」となって職業労働に勤めることが「神の栄光を増す」こととされた。こうして救済を求める切実な宗教的欲求が職業労働に向けられることになった。
 かつてカトリックの修道院では、厳しい禁欲的生活が行なわれていた。その修道士たちの行動的禁欲の生活が、今度は修道院の中ではなく、世俗的な社会で行なわれるようになった。これを「世俗内禁欲」という。ウェーバーは、書いている。「宗教改革は、合理的なキリスト教的禁欲と組織的な生活態度を修道院から引き出して、世俗の職業生活の中に持ち込んだ」と。来世を目指しつつ世俗の中で行う生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだった。

 ウェーバーは、商品経済の発達、資本の蓄積、技術の発達等だけでは、近代資本主義は成立しなかったと考えた。プロテスタンティズムの職業を天職として、労働に救済の確証を求めるという世俗内禁欲の倫理が、「資本主義の精神」となった。こうした精神があってこそ、近代資本主義は発生したとウェーバーは説いた。

  資本主義の精神へのユダヤ教の影響


 神の栄光を増すための「道具」として勤勉に働き、倹約に努めれば、結果として利潤を生む。資本が蓄積される。一旦、資本が形成されると、資本は利潤を要求し、利潤を上げるための経営をしなければならなくなる。

 近代資本主義の特徴の一つは、複式簿記を土台とした合理的な産業経営にある。企業は、明確な数値目標を設定し、目的を実現するために、具体的な計画を立てる。さまざまな資材、労働を効率的に組み合わせ、利潤を最大にすべく計画・実行し、その結果を数値的に確認する。近代資本主義は、こうした形式合理的な態度によって、目的合理的な産業経営を行うことを最大の特徴とする。

 産業資本の形成によって、資本は、利潤の獲得を目的とした価値増殖の運動体に転じた。資本の価値増殖運動は、人間の欲望を拡張する活動である。資本主義の機構を生み出した宗教的な倫理は忘れられ、利潤の追求が肯定されて、価値観が大きく転換した。人々は来世の救済より、現世の利益を求める。もはや宗教的な禁欲ではなく、富と快楽を追求する欲望こそが、経済活動の推進力となる。


 ここで注目すべきは、ユダヤ教の影響である。この点は、本稿とは別に主題的に検討する予定なので、ここでは簡単に述べる。

産業資本の確立期以降の資本主義の精神は、キリスト教よりもユダヤ教に近いものに変貌している。ユダヤ教は、現世における利益の追求を肯定し、金銭の獲得を肯定する。プロテスタンティズム的な「世俗内禁欲」とは正反対の価値観である。そして、ユダヤ教的な価値観が非ユダヤ教徒の間にも広く普及したものこそ、今日に至る資本主義の精神だと私は考えている。

近代資本主義は、産業資本の形成をもって、初めて資本主義となった。産業資本が出現する以前、資本は商人資本、高利貸し資本という形態を取った。経済史学者は、これらを前期的資本と呼ぶ。そして商人資本、高利貸し資本からは近代資本主義は生まれないとする。

しかし、経済活動は生産だけでなく、消費と流通と金融なくしては成り立たない。近代資本主義においては、商人資本は商業資本となり、高利貸し資本は銀行資本となった。産業資本は、生産によって利潤の獲得をめざす資本である。これに対し、商業資本は流通、銀行資本は金融において価値増殖を行う資本である。生産だけでなく、消費・流通・金融がバランスよく発達してこそ、経済規模が拡大する。それによって、資本の価値増殖運動は持続的に発展する。生産は消費と結びつくことで、継続・拡大する。この生産と消費を結びつける流通と金融に巧みなのが、ユダヤ人だった。

産業資本の発達による貨幣経済の拡大は、ユダヤ人の活躍の場を広げ、彼らに膨大な富をもたらした。それとともに、資本主義世界経済の発達によって、ユダヤ教の価値観がヨーロッパ文明のみならず、非ヨーロッパの諸文明にも浸透していった。ユダヤ人だけでなく、ユダヤ的な価値観を体得した非ユダヤ人が、ともに世界的に資本主義経済を推進しているのである。


●資本主義の精神の根底にあるものとは

 さて、近代資本主義は、結果として、利潤追求・欲望拡大の文明を生み出した。その資本主義の発達は、産業資本の形成による。ウェーバーは、産業資本形成期におけるプロテスタンティズムの倫理の役割を強調した。しかし、産業資本の発生期より以前にさかのぼると、
ヨーロッパ文明の海外進出には、利潤追求・金銭獲得にもっとむき出しの欲望が働いていた。
 資本の本源的蓄積の時期となった15世紀末以降、西欧人は有色人種を非人間視し、インディオに強制労働をさせて銀を収奪し、黒人に奴隷労働をさせて砂糖や綿花で富を得た。マルクスは、西欧社会の労働者をプロレタリアと呼んだが、生産手段たる土地から引き剥がされ、鉄鎖以外には失うことのないプロレタリアとは、白人種に奴隷にされた有色人種こそがそうだった。そして、私はこうした異教徒を奴隷化し、彼らを使役して富を得る欲望こそが、近代資本主義の精神の最も根底にあるものではないかと思う。また、そこには、周囲の異教徒を敵視し、自らの神観念を絶対化するユダヤ教に通じるものがあると思う。

 そのうえ、カトリックもプロテスタントも、西欧において魔女狩りを行なった。魔女狩りは非キリスト教的なものを排除する社会現象だった。魔女狩りは、ルネッサンス期に嵐のように吹き荒れたが、その最盛期は、宗教改革時代と共に訪れ、1600年を中心とした1世紀がピークだった。
 魔女狩りはカトリック信者だけでなく、プロテスタントも行った。ドイツのプロテスタントも、アメリカのピューリタンも、魔女狩りに熱狂した。これは、プロテスタンティズムの倫理の暗黒面であり、ユダヤ=キリスト教自体の持つ暗黒面でもある。
 イエス=キリストの教えは、隣人愛を説く。使徒パウロは、神は愛であると説いた。しかし、キリスト教徒の愛は、異教徒には及ばされなかった。いやキリスト教社会の内部ですら、他宗派には及ばされなかった。それをよく表すのが、旧教・新教の間の宗教戦争である。私は、異なるものを徹底的に排除し、破壊しようとするのは、イエス=キリストの教えというより、ユダヤ的なものではないかと思う。

 プロテスタントは、それまでラテン語で書かれ、ラテン語の知識のない者は読むことのできなかった聖書を各国語に訳した。これは、ギリシャ=ローマ文明の遺産であるキリスト教の土着化をもたらした。各国語訳の聖書は、印刷技術と紙の使用によって、民衆に普及した。民衆は、自分たちが日常使っている言葉で聖書を読めるようになった。
 私は、このことがキリスト教の再ユダヤ教化をもたらす一要因になったのだろうと考える。イエス=キリストが教えを説く前に書かれた旧約聖書の思想は、ユダヤ教のものである。各国語訳聖書の学習は、キリスト教の教えの習得と土着化とともに、間接的なユダヤ教の摂取ともなったのだろう。
 こうした問題については、いずれ改めて別稿で検討してみたい。

(3)近代主権国家の成長

 

●スペインの没落

 話を16世紀の西欧に戻す。
 以前書いたように、新大陸の銀によって、スペインは巨万の富を得た。スペインは1571年のレパントの海戦でオスマン軍を破って地中海の制海権を握り、フェリペ2世が80年にポルトガル王位を継ぎ、アジア貿易をも掌中にした。これにより、スペインは「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた。しかし、絶頂は長く続かなかった。その後、勃興したのが、オランダである。
 現在のオランダ・ベルギーのあたりは、ネーデルラントと呼ばれる。この地域は、中世以来、北海・バルト海交易による商業と毛織物業で繁栄していた。宗教は、プロテスタントのカルヴァン派が多数を占める。カルヴァン派は、キリスト教でありながら、利潤の追求を認めるので、商工業者に信者が多かった。カルヴァン派には、ユダヤ教の影響が指摘される。
 ネーデルラントは、1556年にスペインのハプスブルグ家の領地となった。フェリペ2世は、当地の住民にカトリックを強制し、重税を課した。これに対し、貴族やカルヴァン派の商工業者等が反発して、1568年に独立戦争を起こした。フェリペ2世は、これを鎮圧しようとしたが、戦いは長引いた。
 スペインは膨大な富を得ていながら、イスラーム教諸国との戦争、宮廷での浪費等によって富を消失した。国内産業も育たなかった。こうしたスペインを脅かしたのが、イギリスである。エリザベス1世は、ホーキングやドレークに私掠特許状を与え、海賊行為を奨励した。主に対象としたのは、スペインの輸送船である。新大陸から運んできた銀を船ごと奪おうというのである。そのイギリスが、ネーデルラントの独立戦争で独立運動側を支援し、ネーデルラントで北方10州が1581年に独立を宣言した。
 フェリペ2世は、イギリスを征伐するために無敵艦隊を派遣した。しかし、無敵艦隊は、逆に惨敗する。これが1588年のアルマダ海戦である。レパントの勝利からわずか17年後のことだった。スペインは、大西洋の制海権を失って弱体化し、以後急速に没落していく。

●オランダの興隆

 ネーデルラントで独立を宣言した北部10州は、オランダとなった。オランダは、最先端の造船技術を持っていた。優秀な船を操るオランダ人は、海外に積極的に乗り出した。大西洋圏では、17世紀初めに、南アメリカのガイアナやブラジル等に植民地を築いて、砂糖のプランテーション栽培を始めた。やがて労働力を求めて、アフリカの黒人を奴隷とする奴隷貿易を本格的に行うようになった。
 イギリスは1600年に東インド会社を設立し、インド洋交易に進出するが、オランダはその2年後に東インド会社を設立し、バタヴィア(現在のジャカルタ)を拠点として海洋アジアに進出した。それによりオランダは、香辛料貿易でポルトガルを抜いた。当時、香辛料と交換しうる唯一の国際商品は、インド木綿だった。ムスリム商人は、インド木綿を香辛料と交換して利益を上げていた。オランダはこれに対抗し、インドに商館を開き、木綿を手に入れて貿易を行った。
 オランダは、鎖国時代のわが国でも、西欧諸国で唯一、交易を許されていた。新教国のオランダは、ポルトガル・スペインと違って、キリスト教の布教を企図していなかった。交易のみを目的としたので、徳川幕府は来航を許可したのである。

 こうして17世紀前半には、ヨーロッパ文明における経済的繁栄の中心は、スペインからオランダに移っていった。
 スペインは、自国に経済センターを作れなかった。アメリカ大陸の銀は、1568年以降、スペインからジェノヴァに回送されていた。ジェノヴァは国際決済の場所であり、西欧経済の中心都市となった。新興のアムステルダムは、これに対抗し、ヴェネチアに学んで経済システムを整えた。1609年に、ヴェネチアのリアルト銀行にならってアムステルダム為替銀行が設立され、預金口座を持つ商人間の取引が手形の無料交換で、銀行の帳簿上で行われるようになった。1613年には、株式取引所も設立された。オランダ東インド会社は、航海ごとに出資者に利益を分配するのではなく、株式を発行して配当を分配する方式で運営されて繁栄した。
 その結果、半世紀続いた「ジェノヴァの世紀」は終わりを告げ、アムステルダムがヨーロッパの金融取引の中心となった。そのうえ、オランダのレヴァント貿易会社は、ヴェネチアに代わって地中海貿易の主導権をも奪った。
 こうしてオランダは、西欧諸国の中で、圧倒的な地位を確立した。ウォーラーステインは、オランダを、近代世界システムの最初の「覇権国家」と呼んでいる。ちなみに彼によると、オランダの次の覇権国家はイギリス、その次はアメリカである。

●ドイツ三十年戦争とウェストファリア条約

 15世紀末から、外に向かって拡張し続けた西欧諸国は、同じ文明の内部でも抗争が絶えなかった。その争いには、宗教の対立が絡んでいた。
 ルター、カルヴァンらは、カトリック教会に異議を唱え、信仰とは教会に従うことではなく、各個人が神と直接に向かい合うことであり、それによってこそ福音はもたらされると主張した。彼らプロテスタントの思想は各国に広がった。
 同じキリスト教徒でありながら、カトリックとプロテスタントは、各地で血みどろの戦いを繰り広げた。17世紀前半に新教国・旧教国が参戦して大戦争となったドイツ三十年戦争(1618-48)は、キリスト教の宗教戦争の最たるものである。カトリック擁護のハプスブルグ家とプロテスタント支持の諸侯の対立で始まった内戦に、デンマーク、スウェーデン、フランス等の諸国が参戦し、皇帝・教会・諸侯が入り乱れて争った。主な舞台となったドイツでは、人口が3分の1になるというほどの悲惨な戦いだった。

 三十年戦争は「長期の16世紀」(1450頃〜1640年頃)の最終期に起こっている。オランダが覇権国家としてヨーロッパ経済を主導していた時期である。ヨーロッパ文明は近代世界システムの形成をほとんど終えようとし、そのシステムが作動し、異文明を支配・収奪していた時期に、西欧の内部では、激しい抗争が繰り広げられていたのである。
 三十年戦争のさなか、当時、覇権国家となっていたオランダで、グロチウスが『戦争と平和の法』(1625)を刊行した。同書は戦争と平和という観点から世界秩序を構想するものだった。グロチウスは、神的理性による自然法の理論に基づいて、国家間にも法のあることを力説した。その理論をもとに、1648年にウェストファリア条約が結ばれ、三十年戦争に終止符が打たれた。
 ウェストファリア条約によって、ドイツではプロテスタントの信仰が公認されるとともに、ドイツの各領国に主権が認められた。これが発展して西欧に国家が多数並立する状況が秩序として定着された。こうした多国間関係の中で形成されたのが、近代主権国家である。

●近代主権国家の出現

 戦争は、技術や組織を発達させる。西欧では14世紀以降、火器と傭兵制が登場し、騎士の存在意義は失われた。大砲や鉄砲の技術が進むと、傭兵軍隊を維持できる者でないと、戦いに勝ち残れない。封建領主の中の第一人者に過ぎなかった国王が、他に抜きん出た存在になっていった。
 16世紀には、封建制の崩壊が進んだ。商業の活性化によって地域間の結びつきが強まり、諸国の国王は、地方の諸侯を支配下に組み込んでいった。王権の強大化は、経済活動に都合がよいので、都市の大商人から支持された。
 30年にも及ぶ宗教戦争は、教皇の権威や皇帝の威信を著しく低下させた。そのなかで、国王に権力が集中し、官僚制と常備軍を備えた絶対主義体制が確立していった。近代主権国家は、最初こうした国家として姿を現した。

 近代主権国家は、領土と国民と主権を、三つの要素とする。中心的な要素は、主権である。主権とは、英語 sovereignty の訳語であり、「最高の力(puissance souveraine)」を意味する。主権とは、国の内外に対する統治権の最高性を形容したものである。
 「主権」=「最高の力」は、発生的には、ユダヤ=キリスト教の唯一男性神つまり「主」が持つとされる、完全な自由と力を言う。ユダヤ教の経典でもある旧約聖書では、この神の性格として軍事と裁きが強調されている。この神の力を地上において代行するものは、かつてはカトリック教会だった。いまや国王が権力を強め、教会に対して、宗教的・世俗的な権利を主張して、王権を「最高の力」=「主権」と称したのである。ユダヤ=キリスト教の神の権力が、地上の国王の権力となったものとして正当化された。
 実際は主権といっても、主権を主張する国家が隣接していくつも並立しているわけだから、絶対的なものではありえない。もともと相対的な存在である。理念と現実の間に開きがある。
 近代主権国家は、17世紀から西欧の政治体制として普及し、19世紀に西欧が世界を制覇したことにより世界化した。

●重商主義による貨幣の蓄積

 ウェストファリア条約で西欧に確立された近代主権国家は、当初国王に権力が集中し、官僚制と常備軍を備えた絶対主義国家だった。
 絶対主義国家は、王家同士の政略結婚で王族・貴族の姻戚関係を広げ、また国家間の同盟政策で勢力の均衡を図った。それとともに、重商主義政策を取った。西欧諸国は資源が乏しく、国内では限られた収入しか期待できない。王権が官僚制・常備軍を維持するためには、海外での経済活動に力を入れる必要があった。海を媒介とする交易ネットワークの開発、植民地の拡大、金銀鉱山の開発、輸出増加のための産業の振興などが推進された。こうした政策が、重商主義である。

 重商主義の基本にあるのは、富とは貨幣であり、国力の増大とは貨幣の蓄積であるという思想である。重商主義は、初期の重金主義と後期の貿易差額主義に分けることができる。
 重金主義は、金銀鉱山を開発して貨幣を蓄えようとするもので、16世紀のスペイン、ポルトガルの代表的な政策である。国家間での金塊等の争奪や私掠船の横行、輸出規制合戦の様相を呈した。貿易差額主義は、輸出を進めて輸入を制限することにより国内産業を保護育成し、貨幣蓄積をはかるもので、17世紀以降のイギリスで、中心的な政策となる。ページの頭へ

 

 

第4章 市民革命・国民国家・合理主義

 

(1)先駆けるイギリス

 

●オランダからイギリスへの覇権の移動

 近代世界システムの覇者は、スペイン、ポルトガルから17世紀前半にはオランダに移行した。しかし、最初の覇権国家オランダの栄華も永続しなかった。後を襲ったのは、イギリスである。
 後に触れるピューリタン革命の後、オリヴァー・クロムウェルが1651年に航海法を出して、オランダ人をイギリスから締め出した。これがきっかけで両国は戦争状態に入り、1652年から74年にかけて、3次にわたる英蘭戦争が行われた。その結果、オランダの海上覇権はイギリスに奪われた。この間、オランダ領ニュー・アムステルダムを獲得したイギリスは、ニュー・ヨークと改称して支配した。
 イギリスでは、エリザベス1世の時代、1566年にトマス・グレシャムによってロンドンに王立取引所が作られた。イギリスでは、国内産業が成長して、産業資本の形成が進み、1780年〜1815年頃には、資本主義世界経済における主導的地位は、アムステルダムからロンドンに完全に譲った。

 オランダの衰退には、さまざまな原因がある。そのひとつは、オランダは連邦制を取っていたため、軍事面で強大化し得なかったことである。英蘭戦争、フランスのルイ14世による軍事的圧力によって国力を消耗した。また、中継貿易に専念したことから近代工業の体系を築けなかった。オランダの毛織物工業は、仕上げ工程を中心としていた。イギリスの羊毛を原料とし、イギリスから未仕上げの毛織物を輸入していた。ところが、イギリスの農村でマニュファクチュアによる毛織物生産が盛んになり、オランダに材料が入ってこなくなった。また、東南アジアで行なっていた胡椒・香辛料の貿易の重要性が低下した。
 こうしたいくつもの原因が複合して、オランダの衰退が進んだ。

 オランダからイギリスへと覇権が移行する間、西欧では、文化・社会・政治・経済に及ぶ文明の大変化が起こった。
 イタリアで花開いたルネサンスは、北方のヨーロッパ諸国に伝播し、16世紀には広く西欧ルネサンスを生んだ。イギリスでは、エリザベス1世の時代に、ウイリアム・シェイクスピアが優れた演劇作品を生んだ。
 16世紀に大陸で起こった宗教改革はイギリスにも上陸し、プロテスタントの政治的な活動が社会に変動をもたらした。17世紀には、イギリスで西欧諸国に先駆けて市民革命(ブルジョワ革命)が起こった。またイギリスを中心に科学革命が起こった。また近代資本主義が本格的に発達して、18世紀には産業革命が勃興する。
 西欧の近代化は、イギリスにおいて、文化・社会・政治・経済の全領域で、明確かつ総合的な変化として拡大・加速された。私は、西欧の近代化を、人類史における近代化革命と呼ぶ。17〜18世紀において近代化革命はイギリスを主たる舞台として進行する。本稿では、市民革命・科学革命・産業革命を順に概述していきたい。

●イギリスにおける市民革命

 イギリスでは、封建制の解体が西欧で最も早く進んだ。17世紀のイギリスでは、絶対王政が敷かれる一方、ヨーマン(独立自営農民)やジェントリ(郷紳)が市民階級を形成し、議会に進出して政治的な影響力を持つようになっていた。彼らの多くはカルヴァン派プロテスタントのピューリタン(清教徒)だった。
 1603年にエリザベス1世が死ぬと、ジェームズ1世が即位し、スチュアート朝を開いた。ジェームズ1世は、王権は神に授けられたものだとする王権神授説を唱えて、王権を絶対的なものだとする絶対王政を敷いた。ジェームズ1世とその子チャールズ1世は議会を軽視し、ピューリタンを弾圧した。これに反発した議会は、1628年に権利請願を提出した。国債の強制、勝手な課税、不法な逮捕・投獄等を、国民の歴史的権利に反するものとし、これらに反対する請願を国王に出したのである。

 イギリスでは、1215年に、イングランド王ジョンの圧政に反抗して要求書を出し、マグナ・カルタが発布されている。国王の専制に貴族や新興階級が抵抗し、権力の行使を制御する約束を取り付けたものである。権利請願は、こうした伝統に基づいて、議会が国王に出した請願書である。
 これに対し、チャールズ1世は議会を解散して対応した。その後、1640年にチャールズ1世は、スコットランドで起きた反乱に対する戦費調達のために、議会を召集したことにより、ピューリタン革命が始まった。ピューリタン革命は、17〜19世紀の西欧で勃発した市民革命の嚆矢となる。市民といっても都市生活者とか国家否定の国際人という意味ではない。歴史的意味での市民であり、ブルジョワジーのことである。
 イギリス議会では王党派と議会派が激しく対立し、42年に内乱状態になった。議会派は長老派、独立派、水平派に分かれ、当初は王党派が有利だった。しかし、独立派から徹底抗戦を主張するクロムウェルが台頭し、鉄騎兵を組織して、王党派軍に圧倒的な勝利を収めた。49年に、クロムウェルは、議会の前で国王を斬首刑に処し、共和制を樹立した。
 クロムウェルは、王党派の強いアイルランドやスコットランドを征服する一方、51年に航海法を出してオランダと刃を交えた。53年に残部議会を解散し、護国卿となったクロムウェルは独裁政治を行った。クロムウェルが58年に病没すると、長老派が王党派と組み、前王の子チャールズ2世を迎えて、1660年に王政復古が行われた。

 チャールズ2世は、国民の権利を制限し、親カトリック政策を取った。続くジェームズ2世は、国王大権を乱用し、カトリック化を推進した。国民の不満が高まり、1688年、議会のトーリー党(王権擁護派)とウイッグ党(王権制限派)が結束して、ジェームズ2世の娘でプロテスタントのメアリと、その夫のオランダ統領ウィレムに援助を要請した。ウィレムが軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世は戦わずしてフランスに亡命し、名誉革命が成し遂げられた。
 ウィレム夫妻は、イギリスでそれぞれウィリアム3世、メアリ2世となり、共同統治者として王位に就いた。その時、即位の条件として、議会は権利宣言を承認させ、これを権利章典として制定した。その結果、議会を中心とする立憲君主制が確立した。この革命が、名誉革命と呼ばれる。無血革命とは言うが、スコットランドとアイルランドでは戦闘が行われ、多くの血が流れた。
 ちなみに、ジョン・ロックは、ウィレムが渡英する際、亡命先のオランダから帰国した。彼がオランダで書いた『統治二論』は、名誉革命の理論となった。

 メアリ2世の後、妹のアンが即位し、女王在位中にイングランドとスコットランドの併合が成り、グレート・ブリテン連合王国が形成された。アンが夭折するとスチュアート朝は絶え、1714年、ジェームズ1世の血を引くドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として即位した。今日まで続くハノーヴァー朝の始まりである。
 ジョージ1世は英語を解さず、政治に無関心だった。そのため、議会の多数派が内閣を形成して政治を行うようになった。1721年、ウイッグ党のウォルポールが首相となり、内閣が国王ではなく議会に対して責任を負う責任内閣制が確立した。イギリス独特の「君主は君臨すれども統治せず(The sovereign reigns but does not rule.)」という伝統が生れたのである。その後、イギリスの社会は安定し、繁栄の道を歩んだ。

 

ところで、近代主権国家は、貨幣経済を管理するために、その国の信用制度の中心となる銀行を必要とするようになった。それを中央銀行という。最初の中央銀行は、1694年にロンドンに設立されたイングランド銀行である。
 15世紀末、スペインからオランダに移ったユダヤ人は、アムステルダムでアムステルダム銀行を作り、銀行業務を発展させた。名誉革命以後、オランダからイギリスに多くのユダヤ人が移住した。彼らは、金融の知識・技術を発揮して、ロンドンを金融の中心地に変えていく。イングランド銀行は、ユダヤ人が銀行をさらに高度に発達させたものである。民間銀行だが、政府に巨額の貸付を行うことで、銀行券の発券特許を得た。これにより、政府は財政の維持や戦費の調達のために国債を発行し、銀行はそれをもとに貨幣を発行するという仕組みが作られた。


●リベラリズムとデモクラシーの融合

 イギリス市民革命は、ヨーロッパ大陸の知識人に影響を与えた。イギリス市民革命は、急激な変革は国民を分裂させて内戦を生じ、過激な権力批判はかえって独裁者の登場を許すという歴史的な教訓を残した。フランスの知識人は、その教訓を学ばず、イギリスの悲劇を繰り返した。

 後に改めて述べるが、フランスでは絶対王政への反発から思想が急進化した。そして、ルソーや百科全書派らの思想によって、フランス市民革命が勃発した。イギリス同様、国王が処刑されて君主制が廃止され、共和制が実現した。ロベスピエールが登場して独裁が行われ、ギロチンによる処刑や反対派の殺戮が繰り広げられた。対立抗争は内戦に発展し、さらに対外侵攻戦争へと拡大した。まるでイギリスの悲劇の再演である。フランス革命では、ギロチンによる虐殺や総計200万人の殺戮が繰り広げられた。研究が進むにつれ、フランス国内でも、革命の狂熱を批判する学者・専門家が増えている。
 わが国では、フランス市民革命が理想とされ、イギリス市民革命は中途半端な変革として、あまり評価されない傾向にある。しかし、西欧には、フランス革命の共和主義・暴力主義を批判する国が多い。イギリスだけでなく、スペイン、スェーデン、オランダ、ベルギー等がそうである。

 イギリスでは、リベラリズム(自由主義)とデモクラシー(民衆参政制度)が発達し、それらが近代西洋文明の政治思想の柱となった。リベラリズムとは、国家権力から権利を守るため、権力の介入を規制する思想であり、デモクラシーとは民衆が政治に参加する制度またそれを求める思想である。もともと別の思想だったリベラリズムとデモクラシーが、17〜18世紀のイギリスで融合し、政治的近代化の中心思想となった。リベラル・デモクラシーは、近代西洋文明の拡大とともに、世界的に広がった。
 発生地のイギリスでは、いまも君主制が維持され、そのもとで立憲議会政治が行われている。イギリスから独立したアメリカは、王政から離脱し、国民主権の国家を建国した。主権在民のリベラル・デモクラシーは君主制と相容れないのではなく、その後、アメリカはイギリスを最も友好的な同盟国としている。西欧発の文明と人類の歴史を俯瞰するとき、アメリカ・フランスの政治体制を模範とする見方は、大きなゆがみを生じる。ほとんどの世界史・近現代史の本は、この点のゆがみがあり、共和主義ないし共産主義の宣伝普及の文書となっている。

●国民国家の発生

日本語の国家には、政治的・文化的・歴史的な共同体という意味と、その共同体が持つ統治機構つまり政府という意味との二つの意味がある。英語では前者を Nation 、後者を State という。

Nationは「国家・国民・民族」と訳される多義的な言葉である。ネイションの語源は、古代ローマ帝国において用いられた「生まれ」を意味するラテン語ナチオ(natio)である。ナチオは、郷土を同じくする集団だった。そのナチオ=ネイションが国家と結びつけられたのは、17世紀の西欧においてだった。
 イギリスの政治学者アンソニー・スミスは、ネイションとは「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通する経済、構成員に対する共通する法的権利義務を共有する特定の人々」と定義している。言語・宗教・歴史・出自等の共有意識を持ち、文化的単位と政治的単位がほぼ一致した集団である。政治的・文化的・歴史的な共同体である。

一方、nationに対する stateは、国家・政府・国政等と訳されるような政治的組織及びその統治機構を意味する。国民共同体が持つ統治機構つまり政府である。ただし、stateは統治機構を持つ政治的共同体としての国家を意味する時や、米国の州を意味する時があり、注意を要する。

 イギリスは、1066年にノルマン・コンクェストで征服され、王族・貴族はフランス系だが、大衆はアングロ・サクソン系やケルト系という階層社会となった。異なる民族・文化・言語の融合によって、今日の英語が生まれた。中世の英仏は、王家が血族も所領も不可分の関係にあり、14〜15世紀の百年戦争をはじめとする戦争を繰り返しながら、イギリスには独自の集団意識が形成された。
 イギリスは、宗教的には、王族・貴族はカトリックだったが、宗教改革後、新興階級を中心に、カルヴァン派が広がった。旧教・新教の対立の中から、イギリスには1534年、英国国教会という独自の宗派が生まれる。国教会の創設は国王の私的な都合によるものだったが、結果としてローマ・カトリックから自立した宗教を持ったことが、イギリスに独自性の核を与えた。こうしてイギリスでは、近代西欧特有の nation が形成された。

 

 絶対王政の下で中央集権化が進み、ウェストファリア条約をきっかけに、主権国家体制が生じた。さらにそれらの国家が、市民革命を経て17世紀後半〜19世紀に西欧で成立したものが国民国家(nation-state)である。

 Nationは政治的・文化的・歴史的な共同体であり、stateは主に政府を意味するのだが、ややこしいことに、この二つの西欧語を組み合わせたものが、nation-stateである。nation-stateの場合、stateは政府ではなく統治機構を持つ政治的共同体としての国家を意味する。

国民国家とは、他国と領域を区別する国境を持ち、領域内の全住民を国民という単位に纏め上げて成立した国家をいう。領域内の住民は、政治的・文化的・歴史的に共通の意識を持つ集団すなわちnationとして形成され、国民としての意識を持つ。

 

 通説では、フランス市民革命によって身分制社会が解体され、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトが、自由かつ平等な国民の結合による国民国家を打ち立てたとされる。国民国家は、単一の法体系と政治体制、固有の領土、共通の民族・文化を持つ。政府は国民に対して徴兵制、課税権などを行使できる。こうした国民国家は、従来の主権国家とは比較にならないほど集団としての優位性を示した。その優位性は、ナポレオンの軍事行動によって実証された。そこでヨーロッパ各国は、フランスに対抗するため、次々と国民国家へと移行したとされる。

しかし、破竹の勢いのナポレオンを打ち破ったのは、イギリスだった。イギリスでは、17世紀のピューリタン革命・名誉革命を通じて社会階層の融和が進んだ。またイングランドとスコットランドの併合によって、連合王国が形成された。私は、国民国家はイギリスで誕生したと見るべきであり、イギリスへの対抗において、アメリカ・フランス等の諸国に国民国家が形成され、普及したと考える。19世紀を通じて政体の変遷を繰り返すフランスや、プロシアを中心にようやく国家建設をしたドイツに比べ、イギリスは国民国家の確立においても、先進的だったと見るべきだと思う。

●ホッブスとロック

 近代西洋思想の骨格を成すリベラリズム・デモクラシー・個人主義・資本主義の思想は、どれも源を探ると、ジョン・ロックにたどり着く。
 ロックを語るにはトマス・ホッブスから語るのが常である。
 17世紀前半の西欧では、三十年戦争(1618-48)が起こり、既成の秩序が失われ、教皇も皇帝も領主も社会を安定させることができなくなっていた。イギリスでは、先に書いたように1640年にピューリタン革命が起こり、政治的・宗教的混乱の中で内戦が続き、クロムウェルがチャールズ国王を処刑するという事態となった。王制が廃止され、共和制となるが、独裁者が死ぬと王政が復古し、またそれが腐敗するという混迷が続いていた。人間が相争い、いつ殺されるかわからない。そういう状況で生命の安全、生存という最も基本的な権利を確かなものとするにはどうすればよいか。この深刻な状況において、1651年、ホッブスの『リヴァイアサン』は書かれた。
 ピューリタン革命の最中、王党派のホッブスは、フランスに亡命していた。当地で彼は、政治的・宗教的混乱を収めて、生命を最低限確保する原理を説明しようとした。フランシス・ベーコンの秘書であり、ルネ・デカルトを信奉していたホッブスは、近代西欧科学的な論理的思考で、この説明を試みた。彼の結論は、個人の権利と個人の権利がぶつかり合うのを、上から抑えたり、折り合いをつけさせたりするには、絶対的な権力が必要だ、それがないと、社会は万人の万人に対する闘争が繰り広げられる自然状態に戻ってしまうということだった。ホッブスの理論が先駆けとなって、ロックが出現した。

 ロックは医者であり、近代科学思想に通じ、王立協会の会員ともなった。その新知識に基づき、中世的プラトニズムを排して生得観念を否定し、感覚に基づく経験論を説いた。ホッブスの理論を批判的に継承して、自由・平等な個人の自発的同意に基づく契約によって政府が設立されたとする社会契約論を発展させた。ロックはまた労働による所有を意義づけて、私有財産を肯定し、近代資本主義を正当化した。近代世界システムの政治学・経済学は、ロックに多くを負っている。
 ロックの政治的主著『統治二論』(1690)の眼目は、「人間は生まれながらにして完全な自由をもつ。人間はすべて平等であり、他の誰からも制約を受けることはない」という一文にある。ロックは、絶対主義王政に対して、リベラリズム・デモクラシーを唱え、自然権の実現をめざす。そして、「民衆の信頼に反するような法律や政令を発見した場合は、民衆にはその法律を改廃させる優越的権利が依然としてある」として抵抗権・革命権を認めている。
 ただし、ロック自身は共和主義者ではない。ロックもまたピューリタン革命の悲惨を見ており、共和主義の危険性を知っていた。専制君主の権力を制限して、民衆が政治権力に参加し、君民共治を図るという思想である。ロックは名誉革命の理論家といわれるように、君主制の下での議会制デモクラシーを理論化した。議会政治においては、ウイッグ党(王権制限派)だった。

 ロックの契約国家論は、実際のイギリスの歴史とは一致しない。しかし、歴史的権利や伝統を尊重する立場から一定の修正を加えれば、彼の思想は保守主義の理論的基礎となる。一方、抵抗権・革命権を徹底すると、急進的な共和主義になる。これがフランス革命やアメリカの独立運動の思想に発展した。それゆえ、ロック以降の政治社会思想は、ロックをどのように解するかによって分かれているともいえる。
 ロックの思想は17世紀以降、この21世紀まで、世界に甚大な影響を与えている。その重要性は、マルクスやニーチェやフロイトの比ではない。わが日本国憲法も、根本思想はロックである。世界人権宣言も、ロックが基底にある。西欧発の文明と人類の歴史を俯瞰し、今日の世界を論じるには、ロックをどのように評価し、また批判するかが一つの重要なポイントになると思う。この点は後に、啓蒙思想とフリーメイソンについて述べる際に、改めて触れたい。

●砂糖生産のための奴隷貿易

 イギリスは市民革命を経て、政治的近代化を成し遂げ、繁栄の道を歩んだ。その繁栄に触れるには、17世紀における近代世界システムの発展から語らねばならない。
 近代世界システムが形成された「長期の16世紀」すなわち1450年ころから1640年ころ、西欧における主要な輸入商品は、胡椒・香辛料だった。胡椒・香辛料をめぐって、西欧の諸都市・諸国家は交易に競い合った。しかし、17世紀中半は、胡椒・香辛料は社会的需要において重要性をなくした。それに替わって新たな需要を生んだのは、砂糖や茶、コーヒー、タバコ等だった。
 胡椒・香辛料は食品・医薬品であり、西欧では生活必需品だった。それに比べ、砂糖は食品ではあるが、生活に不可欠なものでは全くない。その砂糖が普及したことによって、茶やコーヒー等を飲む習慣がはやった。タバコをふかしながら、舶来の飲料を味わう。生きるうえでは有っても無くてもよいものだが、こうした贅沢品が人々の欲望を引き出し、貿易や経済を変え、有色人種への支配・収奪を強化させた。さらに国家と文明に争いを生み、地球の環境までも破壊していくことになった。

 サトウキビの原産地は、南太平洋の島々である。そこから東南アジアを経て、インドに伝わった。サトウキビから砂糖を作ったのは、インドが最古とされる。インドの砂糖やサトウキビは、アラビアに伝えられた。ヨーロッパには、11世紀に十字軍が持ち帰ったのがはじめである。
 1520年代にスペインが、セント・ドミンゴで砂糖農園を開始した。続いて、ポルトガルがブラジルで砂糖農園を始めた。ブラジルでは、1580年頃からサトウキビ栽培が進んだ。ここでプランテーション経営が広まり、労働力として、アフリカ西岸から運ばれてきた黒人奴隷が利用された。
 奴隷貿易は1530年頃、始まった。最初は小規模だったが、ラテン・アメリカで砂糖のプランテーションが行われるようになった16世紀後半から、急激に拡大した。砂糖の栽培・収穫・製糖には、多くの労働力が必要だったからである。
 17世紀に入ると、西欧で茶やコーヒーが流行し、砂糖の需要が増加した。オランダは南米のガイアナでプランテーション経営を行った。イギリス人は砂糖の製法をオランダ人から学び、バルバドス、次いでジャマイカ島へと砂糖プランテーションを拡大した。フランスもこれに続いた。18世紀には、紅茶やコーヒーの飲用が普及して、砂糖の需要がますます増大した。イギリス支配下のジャマイカ島は、ブラジルを抜き、世界有数の砂糖の産出地になった。

 砂糖の需要が増大した背景について、ゾンバルトは、『恋愛と贅沢と資本主義』において、「女性崇拝と砂糖の結合は、経済史的にはきわめて重要な意味がある。なぜなら、(略)女が優位にたつと砂糖が迅速に愛用される嗜好品になり、しかも砂糖があったために、コーヒー、ココア、紅茶といった興奮剤がヨーロッパでいちはやく広く愛用されるようになった」と書いている。

 イギリスは、1714年、スペイン継承戦争の結果結ばれたユトレヒト条約で、スペイン植民地での奴隷貿易独占権を獲得した。これによって、イギリスは奴隷貿易の主導権を握った。イギリス商人は、奴隷の大量輸送方式を実現し、オランダなど他国の奴隷貿易を遥かに凌ぐに至った。僅か2〜3ポンドで購入した奴隷を25〜30ポンドの10倍の値段で売却し、大きな利益を上げた。
 1709年に開始されたリバプールの奴隷貿易は、1795年にはヨーロッパ全体の奴隷貿易の7分の3を占めるに至った。リバプールからは、武器や雑貨がアフリカに輸出された。これらの商品は、西アフリカの海岸で黒人奴隷と交換された。黒人奴隷は、西インド諸島やアメリカ大陸に運ばれた。そこでの人身売買の代金で砂糖や綿花等が購入され、イギリスに搬送された。イギリスからアメリカ大陸には、毛織物等が輸出された。フランスのボルドーも、奴隷売買による三角貿易で栄えた港だった。こうしてヨーロッパーアフリカーアメリカ大陸を結ぶ三角貿易が活発に行われた。西欧先進諸国を中核とし、アフリカ西海岸と南北アメリカ大陸を周辺とした近代世界システムの新たな展開となった。

●17世紀の科学革命

 17世紀は、市民革命だけでなく、科学革命の起こった時代でもある。ホッブスやロックは、近代西欧科学の知識や論理を、政治社会思想に応用している。
 ユダヤ=キリスト教は、一神教である。男性的唯一人格神の宗教である。神は超越的存在であり、無から宇宙を創造したとされる。人間も自然も同じく、神の被造物とし、自然崇拝や祖先崇拝を否定する。しかし、中世のキリスト教は、異教的な文化を許容する寛大さを保っていた。これに対し、プロテスタンティズムは、一神教の論理を徹底し、偶像崇拝を被造物神化として否定した。
 ウェーバーの言う「呪術の追放」は、単にキリスト教から象徴的儀式を追放することにとどまらない。聖書信仰以外のものを「呪術」と決めつけ、非ユダヤ=キリスト教的なゲルマン神話や民俗を否定し、象徴的なもの、心霊的なものを徹底的に排撃する運動が展開された。それが、魔女狩りである。

 宗教改革に先行して進んだルネッサンスにおいては、失われた古代の知識が回復され、世界観の変化を生み出した。中世においては、キリスト教の教義は絶対だった。人々は、神が七日間で宇宙を創造し、太陽が地球の周りを回っていると素朴に信じていた。この世界観を覆したのは、古代ギリシャ=ローマ文明の知識の復活だった。
 プロティノスらによる新プラトン主義の思想に触れたコペルニクス、ティコ=ブラーエ、ケプラー、ガリレオらは、太陽を中心とする幾何学的な宇宙観に魅せられ、天体観測と数学的計算を試みた。その結果、彼らが明らかにしたのは、驚天動地の事実だった。
 太陽が地球をではなく、地球が太陽の周りをまわっていると彼らは言い出した。天動説から地動説への転換である。このいわゆるコペルニクス的転換が、科学革命を引き起こした。科学史家トマス・クーンのいう「パラダイム・チェンジ」である。
 パラダイムとは、科学上の問題を取り扱う場合に前提となるような、一時代に支配的な思考の枠組みである。より一般的に、ある時代の人々に共通するものの見方や考え方についても使われる。こうした認識の大きな枠組みが変化することをパラダイム・チェンジ、あるいはパラダイム・シフトともいう。

 西欧においては、ものごとの探求において、実験と計算が重んじられるようになり、神話的・教義的な意味付けは駆逐されていった。その中心となった時期が17世紀である。魔女狩りの集団的熱狂や旧教・新教の対立抗争が行われるなか、フランシス・ベーコン(1561-1626)、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)、ルネ・デカルト(15961650)、アイザック・ニュートン (1642-1727)らが活躍した。
 ベーコンは、実験と観察にもとづく帰納法的学問こそが、人類に大きな利益をもたらすことを強調して、近代科学の論理学・方法論を発表した。ガリレオは、望遠鏡を製作し、木星の衛星、太陽の黒点等を発見し、地動説を唱えた。彼は、1632年に出版した『天文対話』によって宗教裁判を受け、著作は禁書となり、刑罰を受けた。デカルトは、精神と物質の徹底した二元論、数学による幾何学的な自然観などによって近代科学の理
論的枠組を打ち出した。ロバート・ボイルは、物質の基本構成要素として元素の存在を認め、化学の礎を開き、また実験科学を確立した。そして、アイザック・ニュートンが万有引力の法則を発見して地動説を完成させるとともに、機械論的世界観を確立した。
 近代西欧科学の機械論的な世界観は、自然は数理的な法則に従って運動する物質とみなす。人間と自然の間の霊的なつながりは決定的に失われ、人間には自然を征服・支配する力が与えられているという考えが強くなった。物質科学によって得られた知識は、西欧人に合理主義的な思考を促し、宗教・思想・生活態度を合理的なものに変えていった。
 やがて近代科学の知識は、産業革命を通じて生産技術に応用され、圧倒的な力を発揮する。キリスト教的
ヨーロッパ文明が脱呪術化・合理化し、その文明が世界に広がることによって、人類の文明は、自然を対象化し、道具化する文明に変貌することになる。

(2)啓蒙の光と影


●合理主義を進展させた啓蒙思想

 17世紀の科学革命によって西欧に合理主義が発達した。特に18世紀以降、啓蒙思想が合理主義を進展させた。
 啓蒙思想は、自然的・人間的理性を尊重し、伝統的な権威や既成宗教を批判し、合理的思惟の自律によって人間生活の進歩をめざす思想の総称である。その思想とそれによる運動を総称して、啓蒙主義(illuminism)ともいう。啓蒙思想は、17〜18世紀の西欧で、近代市民階層の台頭に伴って広がり、市民革命の推進力となった。啓蒙(enlightenment)は、光ないし光によって明るくすることを意味する。反対語は、野蛮(barbarism)である。

 啓蒙思想は、17世紀イギリスに芽ばえ、ロック、ヒューム、アダム・スミス等を生んだ。イギリス啓蒙思想は、内容的には概ね穏健で、認識論では経験論、宗教については理神論が大勢を占めた。理神論は、キリスト教において、世界の創造者、合理的な支配者としての神は認めるが、啓示・奇跡をなす神は認めないという思想。キリスト教を合理化するとともに、科学と信仰の両立を図るものとなった。
 フランスでは、モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、ルソー等が啓蒙主義を展開した。彼らの社会思想に最も強い影響を与えたのは、ロックである。絶対王政の重圧下にあったフランスでは、ロックの政治理論は急進化し、とりわけルソーは人民主権の共和主義を説いて、フランス市民革命の思想的原動力となった。フランス知識人はカトリックに強く反発し、理神論から唯物論、無神論が現れた。
 啓蒙思想は、植民地アメリカにも広がり、ここでもロックの思想が強い影響を与えた。ロックの抵抗権・革命権は、ジェファーソン等によって、王政からの独立と共和制の実現をめざす思想に転換された。
 ドイツでは、ウォルフ、レッシング等が主に哲学・文学の方面で啓蒙主義を展開した。その頂点に立つのが、カントである。カントはアメリカ独立革命やフランス革命を同時代として生きた。大陸合理論とイギリス経験論を批判的に総合し、科学と宗教を両立させたカントは、市民社会の目指すべき姿や国際社会の永久平和を説き、「啓蒙の完成者」といわれる。

 ドイツ観念論哲学はやがてヘーゲルによって体系化され、ヘーゲルの弁証法を批判的に継承したマルクスが史的唯物論を唱導する。マルクス=エンゲルスの共産主義こそ、啓蒙思想を極限まで推し進めたものであり、極度の合理主義としての共産主義は人類に大きな災厄をもたらしたと私は認識している。

ヨーロッパ文明の深層流

 啓蒙思想について見逃してはならないのは、フリーメイソンとの関係である。啓蒙思想とフリーメイソンは深く融合しており、切っても切れない関係にある。しかし、ほとんどの学術的な歴史書や思想史には、フリーメイソンは登場しない。その一方、フリーメイソンは、陰謀理論家がどうとでも使える格好の題材となっている。
 キリスト教化された西欧では、自然崇拝・祖先崇拝が失われ、さらに宗教改革・魔女狩り等を通じて、「呪術の追放」がされた。しかし、ルネサンスにおいて古代ギリシャ=ローマ文明の遺産を摂取する過程で、グノーシス主義、新プラトン主義、錬金術といった思想が知られるようになった。それらの非キリスト教思想は、知識人の間で密かに受け継がれた。
 キリスト教を中心とした文化を表層流とすると、こうした思想は深層流となって潜伏した。実は近代西欧科学を生み出した科学者の多くは、深層流から知識と発想を汲み上げていた。例えば、ケプラーが惑星の運動法則を発見したのは、新プラトン主義の世界観を抱いていたからであり、ニュートンは数理物理学の法則を追及する一方、錬金術の実験に熱を上げていた。元素の研究で実験科学を確立し近代化学の祖とされるボイルも錬金術師だった。

 深層流に流れ込んだ思想は、近代西欧科学が発達するにつれ、科学的合理主義の側から、ほとんど排除されていった。その中で顕著な例外が、啓蒙思想と結びついたフリーメイソンである。

●ロック思想を伝播したフリーメイソン

 近代資本主義の発達の地であり、科学革命の中心地、啓蒙思想の発祥の地でもあるイギリスは、また近代フリーメイソンの発祥地でもあった。フリーメイソンの起源には諸説あるが、学術的に有力なのは中世の石工つまり建設業者の職人組合に起源を求める説である。石工組合が近代的な結社に変わったとするものである。
 近代フリーメイソンは、1717年にイギリスに始まったとされる。この年、ロンドンにあったロッジ(支部)が集まって、グランド・ロッジ(本部)が結成された。ただし、それ以前からメイソンは、オランダ、イギリス等で活動したことが知られている。
 「近代フリーメイソンの父」と呼ばれるジャン・デザキュリエは、牧師で自然科学者、権威ある王立協会の会員だった。デザキュリエはニュートンの友人であり、ニュートンはロックの友人だった。ロックは名誉革命の前は、オランダに亡命していた。1680年代のオランダでは既にメイソンが活動していた。ロックがメイソンだった確証はないが、周囲にはメイソンが多くいた。ロックがメイソンと交わり、メイソンの思想をよく知っていた可能性は高い。

 「自由・平等・友愛」というと、誰もがフランスの三色旗を思い浮かべるだろうが、これらはフリーメイソンの標語だった。ただし、この標語はメイソンが発案したものではない。もとはロックの『統治二論』である。ロックは、本書で、自然状態において完全に自由かつ平等である人間が、自然法と理性に基づいて行動し、正義と友愛という原理に導かれると説いている。それゆえ、フリーメイソンがロックの思想を摂取したと考えるべきだろう。

 

 メイソンの活動が広がると、カトリック教会は1738年にフリーメイソンを破門に処した。同じ反カトリックではあっても、象徴を排除してキリスト教を合理化したプロテスタンティズムとは異なり、フリーメイソンには象徴的な儀式や思想に満ちている。メイソンの象徴や知識には、古代エジプトや古代ギリシャからの継承を思わせるものがある。その一方、フリーメイソンは、当時の先端思想である自然科学や理神論的な道徳思想を取り入れていた。そこには、古代的神秘的象徴的なものと、近代的合理的科学的なものとが共存していたのである。彼らの活動の広がりは教権の秩序を揺るがすものだった。

 

 カトリックから破門にされたとはいえ、フリーメイソンはイギリスからフランス・アメリカ・ドイツ等に組織を広げた。それによって、イギリスの啓蒙思想を、大陸の貴族や上層市民階層に伝える役割をした。フリーメイソンの活動は啓蒙思想を欧米に伝播し急進化させた。啓蒙思想とフリーメイソンは分かちがたく結びつきつつ、アメリカ独立思想やフランス革命思想の源泉となった。


●フランス啓蒙思想とメイソンの関係

 フランス啓蒙思想は、イギリス啓蒙思想を源流として発達した。その発達には、フリーメイソンの組織と活動が関係している。
 フランス啓蒙思想の成果の一つが、『百科全書』である。1751年に第1巻が刊行された『百科全書』は、イギリスのチェインバーズ百科事典のフランス語訳を、ディドロが行ったことを契機とする。チェインバーズ百科事典は、編纂者も版元もフリーメイソンだった。ディドロは不明だが、盟友のダランベールはメイソンだった。百科全書派は、総じてメイソンの影響を強く受けている。

 ディドロは、イギリス経験論、特にホッブスの影響を受けて、「隠れたる神は無用の神」という表現で、無神論を表明した。彼の「神を無用なもの」とする考え方は、キリスト教的な神の啓示や現実を超越したものを否定し、人間の理性に一切の根拠をおく思想を産み出していく。
 百科全書の執筆者の一人、モンテスキューはメイソンだった。モンテスキューはイギリスに2年間滞在して政治制度や社会制度を見学し、ロックの政治理論を継承した。イギリスの議会制度をもとにして、近代政治の原理となる三権分立や両院制による権力の抑制理論を説いた「法の精神」で知られる。
 別の執筆者であるヴォテールは、晩年メイソンに加入した。イギリス滞在期に、ホッブスやロック、ベーコン、ニュートン等の書を読破し、イギリスの啓蒙思想家たちと親しく交わった。彼が最も刺激を受けたのが、リベラル・デモクラシーの政治制度だった。ヴォルテールの思想は、アメリカの独立運動やフランス市民革命に多大な影響を与えた。

 ルソーも百科全書に執筆した。ルソーは、当時最も急進的な思想を提唱し、フランスのフリーメイソンに影響を与えた。1750年ごろから、『人間不平等起源論』『エミール』『社会契約論』等を発表したルソーは、自由と平等ができるだけ抑制されない人民主権に基づく共和制の樹立を主張した。ここに初めて共和主義が理論として登場した。
 ルソーは、国家は「一般意志」を持ち、政府が一人の市民に対して「君が死ぬことが国家のために必要だ」と判断するなら、その市民は死なねばならないとする。またルソーは立法ができるのは抜きん出た「神的人物」だけだと説いた。こうした思想は、全体主義や独裁制に転じうるものである。
 ルソーの思想に心酔する者は、ジャコバン・クラブに多かった。その一人が、ロベスピエールである。ルソーの思想は、ロベスピエールを始め、レーニン、ヒトラー等の専制政治を正当化する危険性を持っていた。
 フリーメイソンがフランス市民革命にどの程度まで関与したかは、よく解明されていない。ただ言えることは、啓蒙思想とフリーメイソンは分かちがたく融合して、フランス市民革命の思想的推進力になったということである。この点は、先行したアメリカ独立革命について述べた後で、具体的に触れたい。

(3)アメリカという挑戦者


●アメリカ独立革命の達成

 絶対王政下のフランスでは、変革的な社会思想が広まりはしても、変革の実現には時間がかかった。そのうち、イギリスの植民地であるアメリカで独立戦争が勃発した。ここでも啓蒙思想とフリーメイソンが変革の思想的推進力となった。まずアメリカ独立革命の経過を概述し、その後、啓蒙思想とフリーメイソンの影響を述べたい。

 1620年、イギリスからメイフラワー号に乗ってやってきた者たちが、北米への最初の移民者とされる。彼らはジェームズ1世の宗教弾圧に絶望し、新天地を求めたピューリタンであり、ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)と呼ばれる。その後、オランダ、イギリス、フランス等からの移民が続き、先住民であるインディアンを駆逐していった。
 18世紀中ごろまでに、北米東岸ではイギリスの13植民地が成立し、それぞれ議会を設けて自治を行っていた。黒人奴隷が人口の2割を占め、その9割は南部に集中した。1755年、英仏間で北米での覇権を巡ってフレンチ=インディアン戦争が勃発し、イギリスが勝利した。
 北米の仏領植民地は英領となったものの、イギリスは戦費のため多くの負債を抱え、広大な植民地の経費もかさんだ。財政難を改善するため、植民地への課税を強化した。植民地側は「代表なくして課税なし」と本国政府に反発し、イギリス製品の不買運動を起こし、印紙税を撤廃させた。このころ独立を唱える声はまだ少数で、政策変更を迫るという程度だった。

 しかし、1773年、経営難に陥っていた東インド会社に茶の独占販売権を与える茶法が制定されると、植民地側は、ボストン茶会事件を起こした。急進派が先住民の扮装をし、港に停泊していた東インド会社の船に乗り込んで茶箱を海に捨てるという直接行動をしたのである。
 これに本国が強硬な姿勢を示したので、74年植民地の代表らが集まって大陸会議を開いて抗議した。イギリスはこれを無視した。そこで、75年4月、レキシントンで両者はついに武力衝突した。ここにアメリカ独立戦争が始まる。
 ジョージ・ワシントンが総司令官に選ばれ、本国との戦いが繰り広げられた。ただし、なお植民地人の間には国王への忠誠心や英国人意識が強かった。世論が一挙に独立に傾いたのは、76年1月、トマス・ペインが刊行した『コモン・センス』がベストセラーになったことによる。7月4日、トマス・ジェファーソンが中心となって起草した独立宣言が大陸会議で採択・公布された。

 独立宣言公布の翌年、大陸会議は連合規約を採択し、13植民地の連合によるアメリカ合衆国の成立を詠った。
 独立戦争では、当初アメリカ側は苦戦したが、フランス・スペイン・オランダがアメリカを支援したことで戦局が逆転した。特にフランスの支援が大きかった。植民地が独立すればイギリスが弱まると考えたフランスは財政・軍事の両面で植民地側を援助した。
 81年10月、ヨークタウンの戦いで、米仏連合軍が英国軍に大勝し、勝敗は決定的となった。83年のパリ条約でアメリカの独立が承認された。87年には国民主権、連邦主義、三権分立を柱とする合衆国憲法が採択され、89年にはワシントンを初代大統領とする連邦政府が成立した。
 アメリカ独立宣言は、トマス・ジェファーソンが中心となって起草した。宣言には、ロックの政治理論の影響が強く見られ、リベラリズムとデモクラシーの要諦が表現されている。

宣言前文の一文は言う。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主(Creator)によって、一定の不可譲の天賦の権利を与えられており、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」。

 ここに「造物主」とあるのは、ユダヤ=キリスト教的な神であり、またその神観念を合理化した神である。人間はその神によって創造されたとしており、創造説に立つ。また、人間の基本的な権利は神から与えられたものとし、権利の源泉は神による付与に置かれている。アメリカ型のリベラル・デモクラシーは、ユダヤ=キリスト教的な神の観念に基づくものであり、その観念を除くならば、根底から崩れるものである。また人権という概念は、ユダヤ=キリスト教の宇宙創造説及び人間創造説とそれによる人権神授説に基づくものであり、その所説を外すならば、それに替わる根拠を持たない未成熟の概念である。その点を指摘しておきたい。

●アメリカの独立と建国の思想

 ここで、先に書いた啓蒙思想とフリーメイソンとのアメリカ独立への影響を述べたい。
 ロックの政治理論は、植民地アメリカでは本国への抵抗権の論拠となり、さらに連合王国からの独立を求める思想へと急進化した。革命前のフランスと同様、アメリカでもフリーメイソンがロックの政治理論の普及を担った。
 フリーメイソンは、本国のイギリスから植民地アメリカに入って、各地にロッジを開設した。各地に組織されたロッジは情報交換や人材交流の場となり、13に分かれていた植民地を共通の理想のもとに結びつける役割を果たした。独立戦争の導火線となったボストン茶会事件は、「自由の子ら」というグループの仕業だが、そこには多くのメイソンが加わっていた。
 『コモン・センス』を書いたトマス・ペインは、確証はないがメイソンだった可能性がある。ペインには「フリーメイソン団の起源」という論文があり、相当の関係があったことは間違いない。
 独立宣言の起草の中心となったのは、ジェファーソンだが、起草委員会にはメイソンのフランクリンが一員となっている。また独立宣言に署名した56人の中にもメイソンがおり、フランクリンを含め9人から15人がメイソンと見られる。
 
●ベンジャミン・フランクリンとメイソン人脈

 アメリカ独立期のフリーメイソンのうち、最も重要なのは、フランクリンとワシントンである。
 ベンジャミン・フランクリンは、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、自身の理論の論拠として挙げた代表的なピューリタンである。フランクリンは敬虔なプロテスタントであると同時に、雷が電気現象であることを実験によって明らかにした自然科学者であり、また当時のアメリカの代表的なフリーメイソンでもあった。
 フランクリンは、1731年ロンドン滞在中にフリーメイソンに加入した。アメリカ独立革命では、独立宣言の起草委員として、ジェファーソンに協力した。またジェファーソンとともに、植民地アメリカ代表としてフランスに派遣された。独立戦争におけるアメリカの勝利は、フランスの支持が得られるかどうかにかかっていた。フランクリンは、フランスでアメリカ独立運動への理解を得るのに成功し、フランスはアメリカを支援した。フランクリンは、このとき、フリーメイソンの人脈を活用した。フランクリンは、フランスで当時最も有名な「九人姉妹」のロッジに加入した。フランクリンは、代表的な啓蒙思想家ヴォルテールを、このロッジに加入させた。
 フランクリンは、「九人姉妹」ロッジを中心としてメイソンに協力を要請した。最大の協力者は、ラ・ファイエット公爵である。ラ・ファイエットは、独立運動に共感し、1777年、アメリカ独立戦争を助けるため、自費で軍隊を率いて渡米し、独立戦争に参戦した。
 フランクリンは、アメリカにおいては、当時の最新のメディアである新聞を通して、啓蒙思想とフリーメイソンの理念を訴え、また他の新聞人を経済的に援助して、新聞のネットワークを作った。メイソン関係の書物や冊子の出版もしており、知識人だけでなく、一般大衆にも愛読者を獲得した。
 マックス・ウェーバーは、資本主義の精神の典型としてフランクリンを挙げた。もしフランクリンを典型とするならば、資本主義の精神の要素として、プロテスタンティズムの倫理だけでなく、18世紀啓蒙思想とフリーメイソンに共通する倫理に言及しなければならないだろう。

●ジョージ・ワシントンとアメリカの国家象徴

 先に触れたジョージ・ワシントンは、当時の代表的なフリーメイソンだった。独立軍の総司令官に選ばれたワシントンは、独立軍の兵士に俸給を出し、精神的にも結束させた。軍にはメイソンの軍事ロッジ(軍隊の中のフリーメイソン結社)が作られ、13植民地から来た兵士たちは啓蒙思想とメイソンの理想をともにした。
 ワシントンの周辺には、その後のアメリカ政治・経済の中枢を担う人材が集まっていた。その多くがメイソンに加入していた。先にラ・ファイエットについて書いたが、フランクリンの要請で独立戦争に参戦したラ・ファイエットは、ワシントンの主催する参入儀式を受けて、ワシントンの軍事ロッジに加入した。
 大統領府が置かれたホワイトハウスの設計者は、フリーメイソンだった。また、議事堂の礎石を置く儀式は、メイソンのロッジと提携して行われた。ワシントンはメイソンの象徴が描かれたエプロンをつけて儀式に臨んだ。周りの列席者もすべてメイソンの礼服と標章を身に付けていた。メイソンの正装をしたワシントンの肖像画が残されている。

 アメリカの独立と建国にいかに深くフリーメイソンが関わっていたか、消しようもないほど確かなものは、アメリカ合衆国の国璽である。国璽の裏には、フリーメイソンの象徴のひとつであるピラミッドが表されているのである。国璽とは、国家を表す印章である。大統領の署名した条約批准書、閣僚や大使の任命書など公式文書などに押印されるものである。それが、1ドル紙幣の裏側に印刷されている。
 国璽のピラミッドは、13段まで積み上げられた未完成のもので、13は独立時の13植民地を意味する。冠石に相当するところには、三角形の中に書かれた「万物を見る眼」が置かれている。古代エジプトを思わせるもので、ユダヤ=キリスト教発祥以前の文明を象徴している。
 1884年ワシントン市に、ジョージ・ワシントン記念塔が建てられた。古代エジプトの太陽神信仰を表すオベリスク風の塔である。その建設にもメイソンが深く関与し、建築儀礼はメイソンの儀式で行われた。86年、アメリカ合衆国独立百年を記念して、フランス政府が「自由の女神」を贈った。製作者フレデリック・バルトルディもメイソンだった。ワシントン以後、歴代のアメリカ合衆国の大統領のうち、F・D・ルーズベルト、トルーマン、レーガンなど16人がメイソンだったという。政治的な主張、政策、所属教会等が違う政治家が加入しているということは、フリーメイソンは秘儀集団とか政治結社という性格を失い、緩やかな親睦交流団体となっていることを意味するだろう。
 私は、18世紀啓蒙思想を欧米で伝播し急進化させたところに、フリーメイソンの歴史的役割を認める者である。またロックの政治理論の浸透における英米仏のメイソンの活動を強調したい。


●アメリカ建国の文明史的意義

 アメリカ合衆国の建国が人類文明史において持つ意義は大きい。
 第一の意義は、近代西洋文明の形成である。
ヨーロッパ文明は、ヨーロッパ西部を中心に発生し、ギリシャ=ローマ文明の遺産を継承しながら成長して主要文明のひとつとなった。そのヨーロッパ文明が南北アメリカ大陸に伝播して、地理的に拡大した。さらに北米植民地が独立したことによって、欧米にまたがる文明になった。
 私は、この時点から
ヨーロッパ文明を地理的にヨーロッパに限定されない文明として、近代西洋文明と称する。時代的には、ヨーロッパ文明は4世紀末から18世紀中半まで、近代西洋文明は18世紀後半から今日までと区分する。近代西洋文明の形成によって、過去を振り返り、ギリシャ=ローマ文明とヨーロッパ文明を一括りにとらえる必要のある時は、便宜的に西洋文明ともいう。
 第二の意義は、近代世界システムの内部における重要な変化である。近代世界システムは、西欧を中核とした中核―半周辺―周辺の三層構造をもって形成された。アメリカの建国によって、中核が西欧に所在していた体制から、北米にまで広がっていくことになった。植民地時代のアメリカは、半周辺的地位にあった。しかし、独立によって半周辺から中核的地位へと向上していく。後ほど触れる南北戦争、工業化を経て、アメリカは19世紀末に世界最大の工業国に成長し、二度の世界大戦を通じて、イギリスに勝る覇権国家となり、さらに超大国に成長していく。その過程は、近代世界システムの内部における重要な変化と重なり合う。
 第三の意義は、
ヨーロッパ文明と異文明・異文化の出会いである。ヨーロッパ文明は、アメリカ合衆国に広がったことによって、アメリカ先住民の文化、ユダヤ文化、アフリカ文化、アジア諸文明等と遭遇し、相互に影響を与え合ってきた。多民族・多文化の国家ゆえの出来事である。本稿の前提となっている問題においては、ヨーロッパ文明とユダヤ文化の融合が重要である。問題とは「近代西洋文明において、ユダヤ人はどういう役割を果してきたか」「現代世界においてユダヤ的な価値観はどういう影響を及ぼしているか」という問いである。この点を考察する上で、アメリカ合衆国におけるヨーロッパ文明とユダヤ文化の融合は、大きな関心を引く文明史的な出来事である。

(4)フランス革命の功罪


●フランス市民革命

 アメリカで独立と建国がなされたことは、西欧諸国に大きな影響を与えた。最も早く反応が現れたのがフランスであり、フランス市民革命はアメリカ合衆国の独立革命に強い刺激を受けたものである。
 フランスはイギリスに比べて絶対王政が長く続いた。ブルボン家のルイ14世(1643-1715)の時代には、その絶頂に達した。王権は神に授けられたものだとする王権神授説が唱えられ、君主専制が行われた。重商主義政策を推進し、強力な常備軍を作り、ヨーロッパ随一の陸軍力を誇った。しかし、ルイ16世(1754-1793)の時代になると、イギリス等との植民地獲得戦争や宮廷の浪費が財政の悪化を招いた。そのうえ、アメリカ独立戦争を支援したことにより、財政は一挙に悪化した。
 ルイ16世が特権階級への課税で財政を改善しようとしたところ、これに貴族が反発した。国王は事態打開のため、1789年に三部会を召集した。当時のフランスは、封建的特権を持つ聖職者(第一身分)と貴族(第二身分)、そして参政権がなく課税の義務を負う農民や市民(第三身分)に分かれていた。三部会は封建制のもとでの身分制議会だが、平民の代表も参加していた。
 それまで175年間招集されていなかった三部会が開催されると、会議は議決方法をめぐって紛糾した。シェイエス神父が『第三身分とは何か』を著し、「第三身分はこれまで無であったが、これからは力を持つべきだ」と訴えた。シェイエスに呼応した第三身分は、独自に国民議会を結成した。

 ルイ16世は軍隊をもって国民議会に圧力をかけた。怒ったパリ市民は武装蜂起を図り、7月14日、武器・弾薬の保管所となっていたバスティーユ監獄を襲撃した。蜂起の成功を受けて、国民議会はアメリカ独立宣言を参考にしながら、「人間及び市民の権利宣言」を採択した。主権在民、法の前での平等、表現・出版の自由、財産権の不可侵等が謳われた。さらに91年、一院制の立憲君主制、有産市民に選挙権等を盛り込んだ憲法を制定して、国民議会は解散した。
 これに代わって立法議会が発足した。立法議会では、共和制を主張するジロンド派が台頭した。ジロンド派は、ジャコバン修道院に集うジャコバン・クラブから自立した穏健共和主義者だった。
 立法議会は、92年、亡命者送還の要求に応じないオーストリアに宣戦を布告した。ここでフランス市民革命は、国内の変革だけでなく、対外戦争を伴うものに拡大した。フランス軍は苦戦したが、「祖国の危機」が叫ばれ、義勇兵が結集した。この時歌われた「ラ・マルセイエーズ」がフランス国歌となっている。

 抗争と戦争の中で民衆はチュイレーリ宮を襲撃し、王権の停止を宣言した。また男子普通選挙による国民公会の招集が決定された。9月20日、国民公会は、王政の廃止と共和制の成立を宣言した。以後、革命前の体制は、アンシャン=レジーム(旧制度)と呼ばれる。
 翌93年、ルイ16世と王妃マリー=アントワネットは、断頭台(ギロチン)で処刑された。このことは、諸外国の王族・貴族に衝撃を与えた。イギリスが中心となって第1回対仏大同盟が結成された。外圧による危機が高まるなか、国民公会でジャコバン・クラブの急進共和主義者が主導権を握った。より急進的なコンドリエ・クラブからも合流した。彼らをモンターニュ派と呼ぶ。その中心指導者のロベスピエールやダントンは、ジロンド派等の反対派を次々に断頭台に送って処刑した。
 この恐怖政治の最中、「理性の祭典」が行われた。ロベスピエールは、過激派やダントン等を処刑した。独裁者ロベスピエールは「最高存在の祭典」を行った。

 恐怖政治への反発は強まった。94年7月27日、クーデタが決行された。今度は、ロベスピエールが襲われた。その死が銃殺か自殺かは不明である。これをテルミドールの反動というのは、急進共和主義をよしとする立場からの言い方である。95年には穏健な共和派によって、5人の総裁による総裁政府が成立したが、不安定な政局が続いた。

●ナポレオンの専制と革命の終焉

 混迷と戦争のなか、革命軍の将校として目覚しい功績を挙げていたナポレオン・ボナパルトが国民の支持を集めていった。ナポレオンは、99年、ブリュメール18日にクーデタを起こして総裁政府を倒して、統領政府を樹立し、自らが第一統領となった。
 次いで1802年、ナポレオンは国民投票によって終身統領となった。民衆が多数決で独裁者を選んだのである。ナポレオンは、中央銀行の設立、教育制度の整備、ナポレオン法典の制定、国民皆兵制、宗教協約(コンコルダート)の締結等を進めた。これらは、市民革命の成果を政策的に実現したものと言える。国民の圧倒的な支持を得たナポレオンは、王党派と共和派をともに弾圧し、04年、自ら皇帝の地位に就いた。皇帝とは、教皇から帝冠を授かった王をいう。王政を倒し共和制を目指したはずの革命が、王以上の独裁者を生み出したのである。フランス皇帝と神聖ローマ帝国皇帝が並立する事態となった。

 ナポレオンは、フランス革命の理念を伝えるという大義のもと、対外的な大戦争を推し進めた。攻撃される側にとっては、侵攻戦争である。イギリスは、大陸諸国と結び、05年第3回対仏大同盟で対抗した。ネルソン提督率いるイギリス海軍は、トラファルガー沖の海戦で、ナポレオンを破った。海戦に分なしと悟ったナポレオンは、大陸制圧を図り、神聖ローマ帝国を解体してライン同盟を結成させた。イギリスに反攻するため大陸封鎖令を出し、各国にイギリスとの通商を禁じた。
 当時イギリスは、産業革命が進行する先進国である。イギリスからの物産が入らないことは、フランス国民にとっても生活苦を生んだ。破竹の勢いのナポレオンは、スペインで思わぬ苦戦をした。封鎖令で経済的に打撃を受けたロシアが、イギリスと密貿易を行なっていることがわかると、ロシア遠征を敢行した。しかし、さしものフランス陸軍も、ロシアの冬には耐えられず、退却するしかなかった。

 ナポレオンが戦域を北方に拡大している間、イギリスは諸国と連携を強め、総反攻の準備を進めた。フランス軍に侵攻された国々では、ナショナリズムに目覚めた諸民族が各地で一斉に蜂起した。ここに至ってナポレオンは、14年に退位し、エルバ島に流刑となった。
 フランスは王政に復古し、ルイ18世が即位した。反仏諸国はウィーンに集まって戦後処理を話し合ったが、会議は進まない。こうした内外の情勢を見たナポレオンは、15年エルバ島を脱出して再起し、皇帝に復位した。諸国連合軍は再びナポレオン軍に立ち向かい、ウェリントン将軍の下、ワーテルローの戦いでこれを破った。ナポレオンは百日天下に終わった。今度は、大西洋の孤島セントヘレナ島へ送られた。そこで波乱万丈の生涯を閉じた。

●フランス革命とナポレオン時代の思想と心理

 フランス革命とナポレオン時代には、さまざまな思想が現れ、また民衆は群集心理を示した。特徴的なものを数点挙げたい。

 1789年三部会開催のときシェイエス神父は、『第三身分とは何か』で民衆に大きな影響を与えた。シェイエスは「国民はすべてに優先して存在し、あらゆるものの源泉である」「その意思は常に合法であり、その意思こそ法そのものである」と訴えた。シェイエスの主張は、神から与えられたとする主権を、君主から国民に移そうというものである。さらに国民の意思は「至上至高の法」であるとする。立法のできるのは抜きん出た「神的な人物」だけだとしたルソーと違い、シェイエスは民衆そのものを神格化した。
 シェイエスは1795年総裁政府が出来ると総裁に指名され、ナポレオンと組んでクーデタを起こすと、統領政府でも統領となった。統領政府のもとで行った国民投票で、国民はナポレオンを終身の第一統領に選んだ。さらに国民は、彼を皇帝に選んだ。賛成357万余票、反対わずか2579票。国民の意思は「至上至高の法」だとしたシェイエスの主張は、独裁者の誕生に結果した。

 1789年の人権宣言は、正式には「人間及び市民の権利宣言」という。人権宣言は、ホッブス、ロックを継承した自然法・自然権の思想に基づく。宣言は「人間は生まれながらにして自由で平等な権利を持つ」という一文で始まる。アメリカ独立宣言では、この権利の歴史性が否定され、神による付与とされていた。人権宣言では、さらに権利の神与性が否定された。人権宣言は、独立宣言と異なり、「造物主」による権利付与を明記していない。その論理構造は維持しつつ、神の存在は除去されている。ユダヤ=キリスト教的な神観念は背景に隠れ、ある種、普遍的な論理が残った。
 自然法の思想にひそむ、神の意志という人格性が縮小され、自然の理法という非人格性が拡大した。この非人格化された自然法を認識するもの、あるいは構成するものは何であるか。それは、「理性」(reason)である。理性とは、ユダヤ=キリスト教文化においては、神の似姿として創造された人間に、神から与えられた能力であり、神の理性が分与されたものが人間の理性である。理性は、霊感的な「叡智」(intellect)とは異なる。それを排除して残るところの五感に基づく、現実的な比較や推量の能力である。自然法の思想から、神の理性を排除すれば、残るのは人間理性の絶対性となる。言い換えれば、人智への自己過信、思い上がりである。

 人間理性が絶対化されるなか、93年、エベール等の過激派によって「理性の祭典」が行われた。「理性の祭典」とは、人間理性を神格化した儀式である。会場のノートルダム寺院では、「理性の女神」を女優が演じた。ヴォルテール、ルソー、フランクリン等の胸像が並べられた。過激派は、カトリック教会の破壊や略奪を強行した。ロベスピエールやダントンは、無秩序が広がるのを恐れ、エベール派を逮捕・処刑した。その後、ロベスピエールは、盟友ダントンをも処刑した。人間理性の崇拝と、虐殺に熱狂する野蛮とは、表裏一体だった。
 独裁者となったロベスピエールは、94年「最高存在の祭典」を行った。ロベスピエールは無神論に反対し、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と主張した。そして、カトリックの神観念に代わるものとして、「最高存在」を祭壇に祀った。祭典はチュイルリーの庭園で行われた。ロベスピエールが主催し、「最高存在」への崇敬を表した。「最高存在の祭典」は、ルソーが唱えたキリスト教に代わる市民宗教の実現を試みたものである。

 市民革命が生んだ独裁者は、ロベスピエールに終わらなかった。99年、クーデタを起こして統領政府の第一統領となったナポレオン・ボナパルトは、国民投票を使って終身第一統領、さらに皇帝に成り上がった。市民革命は、絶対王政を倒し、共和制を目指したはずである。ところが、流血と破壊の革命は、国王に勝る皇帝を国民自身が選定するという結果に帰着した。
 ナポレオンは、確かに「革命の子」であり、市民革命の成果をさまざまな政策に実現した。その一方、彼の心中では、権力欲がむくむくと湧き上がった。皇帝就任の儀式は、ローマではなくパリに教皇を呼んで行い、戴冠はナポレオンが自らの手で行った。さらに皇帝ナポレオンは、大規模な対外侵攻戦争を繰り広げ、自身の帝国を全ヨーロッパに広げようとした。権力欲は、果てしなく強まった。人民の自由と平等を求めた革命は、とてつもなく自我膨張のした権力者を生み、人民を戦争と破壊に駆り立てた。

 革命のさなかに現れた最も過激な思想は、バブーフによるものである。市民革命は、所有権を確立しそれをもとに自由と権利を獲得するものだった。所有権は生存権を含む諸権利の基礎であり、財産を奪われた者は生存をも脅かされる。しかし、バブーフは私有財産を否定し、財産を共同管理する社会を構想した。こうした構想は、やがてマルクス=エンゲルスによって共産主義として理論化される。
 バブーフは陰謀組織をつくり、民衆の運動によらずに権力を奪取する方法を試みた。この方法は、ブランキを通じて、レーニンに取り入れられる。職業革命家による前衛党が行うクーデタである。このようにフランス市民革命には、共産主義の理論・戦術の萌芽が見られた。

●革命の中でメイソン同士が争った

 私は、先に18世紀の啓蒙思想とフリーメイソンの結びつきを指摘し、その結合がアメリカ独立革命やフランス市民革命の思想的推進力となったと書いた。続いてアメリカの独立と建国、フランスの市民革命とナポレオン帝国について概説した。アメリカではメイソンの活動は顕著であり、国家象徴にも定着した。一方、フランスでは、一旦革命が始まった後の社会の動きと変化は複雑多様で、メイソンの団員はバラバラになっていった。組織としての活動は語るに及ばないほどである。しかし、話の結びとして触れておきたい。
 フリーメイソンは1738年カトリック教会から破門されたため、フランスではカトリック教徒はメイソンの結社を脱退し、残った者は無神論者の政治的結社として潜伏した。そこで結成されたのが、フランス大東社(グラン・トリアン)である。ド・シャルトル公爵が中心となり、後のオルレアン公ルイ=フィリップを長とした。大東社は、イギリスの組織から1756年正式に独立した。以後、フランスのメイソンは独自性を強め、また急進化した。
 百科全書派にメイソンが多くいたことは以前書いた。彼らが集まり「百科全書家のロッジ」とも呼ばれたのが、「九人姉妹」ロッジである。このロッジは、1769年に結成された。ラ・ファイエット、シェイエス、メーヌ・ド・ビラン、コンドルセらが属していた。訪仏したフランクリンも所属し、ヴォルテールを加入させた。
 彼らのうち、ラ・ファイエットについては、アメリカ独立戦争に参戦し、ワシントンの軍事ロッジに加入したことを以前述べた。ラ・ファイエットは、帰国後、フランスの市民革命運動に参加し、人権宣言の起草に加わった。また国民議会が結成した国民軍の司令官となった。

 大東社系のロッジは、1789年には700近くに増え、パリだけでなく、各地に広がっていた。国民議会の代表者には、多くのメイソンがいた。ジャコバン・クラブに集った者には、フリーメイソンが多かった。シェイエスは、コンドルセ等とともに、ジロンド派に属していた。ジャコバン・クラブより急進的なコンドリエ・クラブには、ダントン、マラー等が属していた。ロベスピエール、ダントンは不明だが、マラーはメイソンだった。
 「ラ・マルエイエーズ」を作曲したルジェ・ド・リールもメイソンだった。この歌を歌いながらマルセイユから来た義勇軍の隊長もメイソンだった。断頭台にその名を留めたギロチン博士もメイソンだった。

 このように、フランス市民革命でフリーメイソンは活動した。しかし、団員の中には、さまざまな人物がいた。個々に思想や立場が異なっていた。メイソン同士が意見の違いから対立・抗争した。大東社の中心的存在だったド・シャルトル公爵はギロチンで処刑、急進派のマラーは暗殺され、穏健派のコンドルセは服毒自殺した。
 それゆえ、18〜19世紀のフリーメイソンを強固に団結した陰謀団体と見るのは、不適当である。参加者はフリーメイソンの教義や規約よりも、各自の抱く思想や利害で行動した。ロシア革命を遂行したボルシェヴィキ、後のソ連共産党や、ワイマール共和国で権力を掌中にしたナチス等に比べ、フリーメイソンはもっと緩やかな集団と見るべきである。

●共和制と国民主権がはらむもの

 フランス市民革命を、人類の進歩として語る意見がわが国では多い。市民革命によって、主権が国王から理念的に国民に移った。特にそのことが評価されている。しかし、それは、単純な見方である。
 国民主権とは、国民の意思によって、政体を変え得るということである。またそれはその時々の国民の感情や気分によって、政体が変わり得るということである。革命によって主権者となったフランス国民は、選挙によってナポレオンという独裁者を選任した。多数決で独裁者が生まれたのである。ナポレオンが失脚した後は、王政復古、七月王政、第二共和制、ナポレオン3世による第二帝政などと、フランスの政体はめまぐるしく変化した。イギリスが、ピューリタン革命の後、君主制議会政治を確立し、安定した体制を形成したのとは、まったく対照的である。

 共和制と国民主権を手放しでよいものとすることはできない。ロシアでは第1次世界大戦後、革命によって帝政が廃止されて共和制に移った後、クーデタによって社会主義となった。理論的にはプロレタリア独裁だが、実態は共産党による官僚独裁となった。しかも、その中から独裁者スターリンが登場し、個人崇拝が行われた。思想警察と収容所による統制が行われた。ドイツでは、第1次大戦後、帝政が廃止され、共和制となった。当時最も進歩的といわれたワイマール憲法のもと、国民投票によって、ナチスが第1党となり、議会で合法的にヒトラーに独裁権が与えられた。それゆえ、共和制と国民主権を無批判に理想化することは、歴史的経験を無視した愚論である。

●フランス市民革命を批判したバーク

 フランス市民革命には、革命の最中から批判的な見方があった。1789年、フランスで革命が勃発すると、イギリスでも共和主義に同調する者が表れた。その中で、フランス革命を敢然と批判したのが、イギリスの政治家、エドマンド・バークである。
 バークは革命の最中である1790年に『フランス革命の省察』を書いた。フランスやドイツなどで翻訳されて読まれた。西欧諸国は、フランス革命の波及から自国の伝統・体制を守ろうとしていた。バークの思想は、各国の保守の形成に影響を与えた。それによって、バークは保守主義(コンサーヴァティズム)の元祖とされている。
 バークは、著書でフランス革命を次のように見る。貴族・僧侶による伝統的な秩序を打破して自己の利益を拡大するため、新興の貨幣所有階級が啓蒙思想家と手を組み、民衆を扇動して起こした破壊行動であると。いまや「騎士道の時代は永遠に過ぎ去り、詭弁家・守銭奴・計算屋の時代がそれに続くであろう」とバークは言う。しかし、「恥知らずの純粋デモクラシー」たる暴徒の支配によって、最後は社会そのものの崩壊と荒廃にいたるだろうと予測した。

 バークが守ろうとするのは、13世紀のマグナ・カルタ以来、400年、500年とかけて熟成されたイギリスの政体であり、伝統である。リベラリズムとデモクラシーの融合である。すなわち、権力の介入への規制と、民衆の政治への参加のバランスである。また、近代科学による知識と、人間を超えたものへの信仰との共存である。すなわち、理性と感情のバランスである。
 バークは、イギリスでは国王と貴族と民衆、教会と国家、私有財産と社会的義務、自由と服従、理性と愛情などの諸要素が調和し、美しい統一的秩序を為していると説く。この秩序ある体制は中世以来の騎士道精神と、宗教改革を経た国教制のキリスト教が結合し、長い歴史の中で生まれてきたものだとバークは主張した。そういう祖先の英知をバークは尊重し継承しようとする。
 バークの主張の背後には、「知は力なり」と言ったF・ベーコン流の科学的楽観主義に対し、人間理性による進歩への懐疑があった。また人間は放任されると際限なく利己主義と無秩序に走るものであり、社会の秩序のためには権威と権力が不可欠だという人間観察があった。この点において、彼は同時代の哲学者ヒュームに通じる。
 ヒュームは、人知の限界を思索し、自然科学や形而上学が学として成り立つかどうかを疑った。その深い洞察は、カントに衝撃を与え、彼を批判哲学に向かわせた。ヒュームはフランスでの革命の到来を予見し、頭の中で考えた観念的な理論は破壊・混乱をもたらすことを警告していた。人間は現実的な経験を重んじ、歴史的に培われてきた英知を大切にすべきことを説いていた。


●保守主義の広がり

 バークがフランス市民革命を批判した後、革命は、誰もの予測を超えた展開を続けた。国王の処刑の後、王党派も共和派も、穏健派も急進派も、首切り機械に送られた。独裁者の登場、恐怖政治、穏健派の巻き返し、軍人によるクーデタ、皇帝の誕生、そしてヨーロッパ規模の大戦争へ。フランスの進軍は、周辺諸国にとっては侵攻戦争である。フランスに対抗する諸国でのナショナリズムの高揚。最終的に、イギリス中心の諸国連合軍は、ナポレオンを破った。ナポレオン軍は、自由と平等を中心とした一種普遍的な価値を他国に普及しようとした。これに対し、各国は、自国の伝統や既成の制度を守ることに努めた。
 バークの死後、保守主義という言葉が一般化するのは、イギリスで1830年代初めにトーリー党が、「保守党」に改名したことによる。「保守党」という名称は、保守は単なる守旧ではなく、「秩序ある変革の擁護者」という意味で名づけられた。続いて19世紀後半以降、西欧諸国で保守を名のる政党が多くなる。もっともバークは、ホイッグ党だった。19世紀のホイッグ党は、バークの思想からは離れ、「自由党」となった。この点、ややこしいが、ここに「保守」と「リベラル」の対立の原型が生まれた。

 西欧諸国の保守政党が維持しようとしたものの内容は、一様ではない。各国の伝統や事情が異なっていたからである。そのため、保守主義は、普遍的な政治理論を否定し、それぞれの固有文化の価値を主張することが多い。しかし、保守主義の根底に共通するのは、フランス革命に対する批判である。人間の知恵と力を過信した、近代西欧の啓蒙思想・合理主義に対する西欧人自身による反省である。そこには、近代西洋文明に対する一定の内在的批判を読み取ることが出来る。
 近代世界システムにおいて、フランス革命を通じて生まれた諸思想は、半周辺部や周辺部にとっても、重要な意味を持つ。中核部で生まれた一種普遍的な価値、自由、平等、人権等は、半周辺部・周辺部では、中核部の支配・収奪に対抗する思想に転換された。また、保守主義は、中核部が押し付けてくる西洋的・近代的な価値に対し、個別的な伝統や固有の文化を守る運動に応用された。

●ウィーン体制とそのほころび

 話を19世紀前半の西欧に戻す。ロシア遠征に失敗したナポレオンに、対仏同盟軍が挑み、1814年、パリは陥落。ナポレオンは退位し、エルバ島に流された。戦勝各国は戦後秩序作りのため、ウィーン会議を開催したが、互いの利害が対立してまとまらない。ナポレオンはエルバ島を脱出して、皇帝に復位。再び同盟軍が結成され、ワーテルローの戦いでようやく決着がついた。ウィーン会議は、ようやく15年に議定書が交わされ、閉幕した。
 会議では、オーストリア帝国の宰相メッテルニヒやロシア皇帝アレクサンドル2世等の思惑がぶつかり合ったが、結局は大陸諸国の勢力均衡を図るイギリスの外交が上回った。勢力均衡とは、突出した強国が出ないよう、相互にけん制させるやり方である。大陸諸国は正統主義を打ち出し、フランス革命で広がった自由や政治参加を求める運動を押さえ込み、革命以前の体制の維持を図った。
 しかし、リベラリズムとナショナリズムの台頭を抑えることは、もはや困難だった。

 1830年、現状維持の原則に亀裂が入った。ナポレオン失脚後、ブルボン朝の王政に戻っていたフランスでは、民衆の反発が強まり、七月革命が起こった。パリで民衆が決起して市街戦となり、シャルル10世はイギリスに亡命した。新政体は立憲君主制が取られ、オルレアン公ルイ=フィリップが国王に選ばれ、七月王政となった。七月革命の影響は周辺地域に飛び火し、ベルギーがオランダから独立した。イタリアやドイツでは立憲政治を求める運動が起こったが、これは鎮圧された。
 48年、再びフランスで民衆が蜂起した。普通選挙の実現を求める民衆を前に、ルイ=フィリップは亡命。臨時政府が樹立され、第2共和制に移行した。これを二月革命という。またも革命の火は各地に広がった。ウィーンでは市街戦から暴動が起こり、メッテルヒッヒが退陣。ベルリン、ヴェネチア等でも蜂起が起こったが、いずれも失敗に終わった。
 フランスでは、臨時政府が憲法の改正を行い、大統領選挙が実施され、ナポレオンの甥ルイ=ナポレオンが当選した。民衆の間には、英雄ナポレオンの記憶が残っていた。民衆の幻想を利用した大統領はクーデタを行い、国民投票で承認を得て憲法を改正し、さらに帝政復活を国民投票にかけ、圧倒的支持を得て、皇帝ナポレオン3世となった。第二帝政の始まりである。

 ウィーン体制後、各国では多少の動揺があったものの、約半世紀の間、ヨーロッパでは勢力均衡が保たれ、イギリスの優越的地位が確立された。近代世界システムの中核部では、「パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)」が続いた。その間、イギリスでは、産業革命が進展し、圧倒的な経済力を誇るようになっていった。
 二月革命の直前、ロンドンで共産主義者同盟が結成され、マルクスとエンゲルスが起草に加わった『共産党宣言』が発表された。共産主義はやがて成長して、世界を闘争と混乱に引き込むようになっていく。

(5)呼応するナショナリズム


●国民国家の普及とラテン・アメリカの独立

 七月革命と二月革命をきっかけに、フランス型の国民国家(ネイション・ステイト)が、ヨーロッパに広がった。アメリカ独立やフランス革命の影響を受けたラテン・アメリカ各地では、スペイン・ポルトガルからの独立の気運が高まり、1810年代から20年代にかけて、18の独立国家が誕生した。
 アンドレ・グンター・フランクが「低開発の開発」と言ったように、ラテン・アメリカ諸国は独立を得たとはいえ、近代世界システムにおける周辺部の地位を脱しえなかった。植民地時代の大土地所有制が存続し、極端な貧富やカウディーリョ(軍事的実力者)の抗争などで社会は安定せず、現在にいたるまでクーデタが頻発している。
 そうした中で、21世紀に入り、ラテン・アメリカ最大の国民国家ブラジルが、BRICSの一角として、中国・インド・ロシアと並んで、急速に成長しつつあることは、地域全体の成長可能性を表すものとして注目される。BRICSの成長は、近代世界システムの三層構造における新たな組み換えをもたらすだろう。

 さて、通説では、ナショナリズムもまた18世紀後半のフランスで勃興し、ナポレオン戦争によって、西欧にナショナリズムが広がったという。確かに展開的にはそうなのだが、その前に、イギリスでナショナリズムが発生・発達している。それへの対抗において、フランス等の諸国にナショナリズムが普及したと考えたほうが、大きな流れが見えると思う。

ナショナリズムは、独立したネイションを創りたいという人々の欲求、また自らの属するネイションを優れたもの、強いもの、誇らしいものとしたいという願望に基づく思想・運動・政策である。
 イギリスの社会人類学者アーネスト・ゲルナーは、ナショナリズムを「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義している。この定義によれば、ナショナリズムには二つの大きな作用がある。すなわち、文化が共有されると考えられる範囲まで政治的共同体の領域を拡大しようとする作用と、政治的共同体の統治する領域内に存在する諸文化を支配的な文化に同化しようとする作用である。これらの作用は、それぞれの社会集団によって、現れ方が異なる。

 わが国では、共和制・国民主権を理想とするアメリカ・フランス系の思想が世界標準のように錯覚されている。実際は、リベラリズムもデモクラシーも、個人主義も資本主義も、国民国家もナショナリズムも、君主制・議会主権のイギリスにおいて発達した。今日の福祉国家の理念を生んだ漸進的な社会改良主義もまたイギリスで発達した。それらの主義が、イギリスから近代世界システムの中核諸国に広がったことが見逃されやすいのは、共和主義及びその過激な形態としての共産主義を進歩的とする思想の影響である。

 なお、ナショナリズムと似たものに、パトリオティズムがある。パトリオティズムは、郷土(パトリア)への愛情、郷土愛である。ここでいう郷土には、生まれ育った土地だけでなく、故郷に住む人々、その先祖を含む。
 パトリオティズムは、近代以前から存在している。郷土愛は、各地域ごとに多数存在した。そうしたパトリオティズムがもともとあり、諸地域を統合しながらネイションが形成される過程で、パトリオティズムの発展形態としてナショナリズムが登場した。
 社会集団の規模が拡大し、郷土愛の対象が祖国に一致したものが、祖国愛である。祖国愛は、必ずしもその時々の政体や政府への支持・忠誠とは一致しない。ナショナリズムは、祖国愛に基づくものであるが、その中には、郷土愛が含まれている。


●「想像の共同体」と運命の共同体

 アメリカの政治学者ベネディクト・アンダーソンは、ネイションを「想像の共同体」ととらえた。著書『想像の共同体』によると、ネイションは言語、文化、遺伝的近親性(人種)などを共通点として形成される。しかし、ネイションの内部にも文化的差違があり、また全構成員が血で結ばれているネイションはほとんど存在しない。むしろ何かの要素を共有していると想像し、構成員がその意識を共有することでネイションは成立する。すなわち、ネイションとは「心に描かれた想像の政治的共同体」であるとアンダーソンは言う。


 「想像の共同体」において、ある思想や観念が人々に共有されるには、それだけの説得力が必要である。ネイションは、自分がある集団に帰属しているというアイデンティティの対象の一つである。アイデンティティは「自分は○○である」という自己意識・自己規定である。自己同一性と訳す。ネイションは「自分は○○人である」「自分たちは○○人である」という意識を共有するところにのみ成立する。共通意識を醸成できればネイションは成長拡大する。共通意識が拡散すれば、ネイションは衰退縮小する。

 ある地域に存在するさまざまな集団がネイションになっていくには、自分たちが、より大きな集団に帰属しているというアイデンティティの共有が必要となる。
 近代化の過程で、市場の拡大、都市の発展、国家の建設等が進み、それまで郷土への帰属を意識していた人間が、より大きな社会集団への帰属に、強い意義を感じるようになる。この変化は、アイデンティティの対象の変化である。
 アイデンティティの共有の際の重要な要素の一つは、国語である。言文一致運動と印刷技術の発達、義務教育等によって、共有の言語が創造され、共用されるようになった。その結果、言語共同体的なネイションが生まれた。また、別の要素は、歴史である。自分たちは共通の祖先の体験を共有しているという意識が成立したところに、歴史共同体的なネイションが生まれた。また、別の要素は、経済生活である。生産・消費・流通・金融のネットワークが地理的に拡大し、一つの政府のもとに経済を営み利害を共有するという意識が成立したところに、経済共同体的なネイションが生まれた。その他にも、宗教や血統など、いくつかの要素が考えられる。それぞれのネイションによって、こうした要素のどれが主要であるかは異なる。

 私はそのうえで、ネイションの最も強固なあり方は、運命共同体としてのネイションであると思う。ネイションでありながら、複数の言語が使用される多原語社会、複数の文化が混在する多文化社会、複数の宗教が併存する多宗教社会、階級で利害が違う階級社会など、ネイションの実態はさまざまである。しかし、こうした違いを超えて、自分たちは運命を共有している。生死、存亡をともにしているという意識が、ネイションを強固にする。そして、運命共同体としての自覚は、侵攻・外圧・課税等、外からの力に対する防衛・反発において最も強まると私は考える。そのとき「想像の共同体」は、イマジナリーなものを超えて、リアルな生々しい現実の運命共同体となる。 国民の社会が家族や氏族のような共有生命的な共同体と意識される。
 ネイションはアイデンティティの対象の一つであるから、それよりも強い求心力を持つ対象があれば、人々の帰属意識の優先度はそちらに移る。たとえば、企業、民族(エスニック・グループ)、宗教、結社などである。ネイションは国家と規模が一致することで、法による忠誠義務を課し、権力による強制を施すことができる。その点が他の集団と異なる。ネイションは、他の集団を私的なものとし、公的な秩序に組み込むことが可能となる。単なる政治的共同体ではなく、運命共同体となったネイションは、他の集団を組み込み、アイデンティティを序列化できるか否かに、その興亡がかかっている。


●国民国家の発達過程

 

 先に国民国家、ネイション・ステイトnation-stateの発生について書いたが、ここでその発達過程を簡単にたどってみたい。

 私はイギリスに最初の国民国家の出現を見る。イギリス市民革命において、ネイションは聖職者やある特定の集団のみを指すのではなく、幅広く人民を含むようになった。それは、リベラリズムによって王権が制限され、デモクラシーによって民衆の政治参加が拡大したからである。この点が、それ以前の封建制国家との違いである。こうした政治的社会的変化が進んだ基礎には、経済力の発展、特に資本主義の発達がある。それにより、中産階級が成長し、政治的な発言力を増したのである。

 ここで見逃されがちなのは、対外的な戦争や外圧による危機が、イギリスの国民意識の形成を促進したことである。17世紀後半、ピューリタン革命後の3度にわたる英蘭戦争、続いて18世紀前半にかけて各地で繰り広げられた英仏植民地戦争、そして決定的なのは19世紀初頭の対ナポレオン戦争だった。

 イギリスの対外戦争は、14〜15世紀の英仏百年戦争のように何度かあったが、17世紀半ばから19世紀初頭の戦争は、ちょうどネイションの形成の時期と重なり、その形成を促進したのである。

 市民革命後の中央集権的なフランスと違って、イギリスは連合王国という権力構造を持つ。君主制であり、封建貴族が残存している。共和制と身分制の廃止をこそ進歩と見る見方からすれば、理念型として概念化しにくいだろう。しかし、歴史的現実としては、そうした国イギリスが近代世界システムの中核部に、群を抜いて強力な覇権国家として出現したのである。一旦そういう国家が出現すると、それへの対応として、他地域や他国で変革が行われた。

 

 最初にイギリス・ネイションに対応したのは、イギリスの植民地アメリカである。アメリカは、本国にネイションが形成されていたからこそ、王政から離脱して、別のネイションを創ろうとした。対英独立戦争によって13の植民地が結びつき、ネイションが形成された。

 アメリカ合衆国は連邦制の国家である。連邦制は、画一的・中央集権的ではないので、わかりにくい。しかし、各州を結合したものは、ネイションとしての自覚であり、憲法が制定され、連邦政府が樹立された。私はここに一つの国民国家の誕生を見る。アメリカ合衆国は、the United States of Americaである。この時の state は政府の意味ではなく「州」と訳される政治的共同体であり、合衆国はその「州(state)」の連合国家である。米国の場合は、この連合国家の全体を nation という。米国では national は全米的・全国的であるがゆえに国家的・国民的である。

 

 こうしたイギリス・アメリカにおける国民国家の形成の後に、フランスで国民国家が誕生する。私は、フランス市民革命は、先進国イギリスへの憧れと反発が変革の推進力になったと思う。ディドロ、モンテスキュー、ヴォテールらの英国かぶれは、半端でない。

 革命後のフランスでは、ネイションは近代市民社会の普遍的諸理念を共有する個人・市民によって構成される共同体と考えられた。確かにフランスでは、自由・平等・友愛が、諸階層や諸地方を結びつけた。

 しかし、フランスで市民革命から生まれた国家は、国民国家の一つの類型にすぎず、模範や基準ではない。先に見たようにフランスの国民国家は、共和制に始まり、帝政、王政、再び共和制、また帝政等と政体がめまぐるしく変化した。イギリスやアメリカでの政体の安定性と比べると、とても典型といえるようなものではない。

 

 フランスにおける国民意識の形成も、対外戦争抜きに考えられない。市民革命の混乱の中で対立・抗争が激化していた。そこに諸外国の干渉が迫った。そこで、階層・地域・思想・利害等を超えネイションとしての自覚が生まれた。繰り返される対仏大同盟が、フランスのネイションを鍛えた。自由・平等・友愛という普遍的な理念以上に、“共通の敵と戦う友”という運命共同体の意識が、ネイションを強固にした。“敵と友”は、政治学者カール・シュミットが政治的なものの固有の指標としたものである。

 

 ナポレオン軍に侵攻された諸国、諸地域も同様である。敵の侵入、占領、支配に対し、団結して戦う中に、ネイションが発生・成長した。ナショナリズムに覚醒したドイツでは、ネイションは固有の言語や歴史を共有する民族共同体として考えられた。ネイションが、ある普遍的な理念に基づいて形成された政治的な共同体なのか、歴史・伝統に根ざした民族に基づく文化的な共同体なのか、さらに別の要素が絡んでいるものなのかは、多様である。だが、私は、他の国家との戦いの中で、共同性が強まったことを強調したい。

 

 近代世界システムの半周辺―周辺で、植民地とされた地域では、独立と民族の解放が求められた。ラテン・アメリカ各地では、1810年代から20年代にかけて、18の独立国家が誕生した。これらは中核部におけるネイション・ステイトに対抗して、建設された国家である。中核部の国民国家とは出生が異なり、周辺部=下層に位置する国家としての特徴を持っており、フランス型を模範や基準として見ることは出来ない。

 

●ディアスポラと国家との関わり

 

 近代主権国家及び国民国家について述べてきたが、西欧における国家形成の過程で、特異な存在はユダヤ人である。古代において国家が崩壊し、国土を失ったユダヤ人は離散民(ディアスポラ)として各地に広がった。

 近代の西欧においては、イタリア、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス等の発展と衰亡は、実はユダヤ人の存在なくして語ることが出来ない。彼らは、ある時は商人として国王に重用され、ある時は国王によってその国を追われ、ある時は宮廷で財務を取り仕切り、ある時は国境を越えて金銭を獲得し、ある時は政府を動かして富を蓄積し、ある時は国家によって権利を剥奪され、ある時は国家を創って元の地域住民を駆逐し、ある時はその国家をもって他国を侵攻する。国家に隔離され、国家に追放され、国家を利用し、国家を超越し、また国家に執着する。ユダヤ人の国家との係わり合いは、極めて複雑である。

 彼らの歴史と近代西洋文明における役割については、別の主題となる。ここでは、ネイション・ステイトとは別の要素としてのディアスポラの存在についてのみ記しておきたい。ページの頭へ

 

 

第5章 産業革命による近代西洋文明の膨張

 

(1)産業革命の変革力

 

●イギリス社会の内部的な変化

 しばらく政治・社会の側面のことが続いた。ここで視点を変え、経済の側面における重要な変化について述べたい。
 15世紀末から、西欧を中核とした近代世界システムが創られ、中核―半周辺―周辺の三層構造の中で、ラテン・アメリカ、アフリカからの収奪によって、西欧に富が蓄積されていった。これと併行して、西欧の社会では、内部的な変化が進んだ。西欧では、中世末期に封建制の農村において家内制手工業が発生した。商品経済の発達は、徐々に封建制を突き崩し、封建制から資本主義への移行が進んだ。この先端を行ったのがイギリスである。イギリスについては、17世紀の市民革命から19世紀の対仏戦争まで触れたが、ここで少しさかのぼってイギリスの経済史をたどることにする。

 16世紀中半、新大陸で銀鉱山が発見され、ヨーロッパに極めて短い期間に安価な銀が大量に流入した。そのため価格革命が起こり、物価が3倍以上に急騰した。同時に、貨幣の増量により、経済規模が急速に拡大した。西欧は、新大陸から銀を略奪することによって、欲求を満たし、富を蓄えていった。
 当時の西欧では、最大の産業は毛織物業だった。西欧諸国で購買力が増大したのみならず、多くのヨーロッパ人が移住したアメリカ大陸などにも市場が拡大したために、毛織物の生産規模が急激に拡大した。毛織物産業が急成長し、羊毛価格が高騰した。ヨーロッパを代表する羊毛の産地だったイギリスでは、地主たちが牧羊地を広げるエンクロージャー(囲い込み)を強行し、貧しい農民たちの手から土地が取り上げられた。地主のうちジェントリーは郷紳と訳される。騎士が封建領主から地主化したものが多い。また農奴から自由を得た独立自営農民が、地主として成長したヨーマンもいた。エンクロージャーで富を蓄えた地主層は、17世紀になると政治的な発言力を強めていった。

 イギリス農村部では、自前の羊毛で毛織物を生産するようになり、毛織物を大量に生産するマニュファクチュア(工場制手工業)が発達した。当初は技術が低く、高級毛織物を作るオランダに半完成品を送っていた。しかし、やがて自国で完成品を作れるようになった。その毛織物をアメリカ大陸に輸出した。輸出された毛織物は、そこで新大陸の銀と交換された。これによってイギリス社会に貨幣が流通し、商品交換が一般的になった。
 この過程で、農村社会に大きな社会的変化が起こった。伝統的な共同体が解体され、中間生産者層が資本家と賃金労働者に両極分化していったのである。産業資本が発生し、資本主義的な生産関係が生まれた。そのため、イギリスでは資本の本源的蓄積が自生的かつ典型的に行われたといわれる。しかし、毛織物は最初から輸出品・外国貿易のために生産され、それが産業資本の発達をもたらしたことに注目したい。資本は、自己完結的な局所的な経済圏で発達したのではないのである。

●大塚久雄の理論的欠陥

 19世紀後半、マルクスは、市場で労働力を商品として販売する労働者と、それを購入する資本家の創出をもって、資本主義の成立とする理論を打ち立てた。このマルクス理論によりつつ、西欧の社会経済史を研究したわが国の学者が、大塚久雄である。大塚は、近代資本主義の成立において、イギリスの農村で中産的生産者が両極分解を遂げながら、毛織物工業を発達させたことを強調した。
 大塚は、次のように書いている。「近代史上における産業資本の形成過程は、商品生産者としての中産的生産者層の両極への自己分解の過程にほかならないのであって、したがってこの中産的生産者層の両極への自己分解こそ近代資本主義成立の基本的契機というべきである」(『近代資本主義の系譜』)
 「中産的生産者の両極への自己分解」という概念について、大塚は具体的に説明していない。なぜ中産者的生産者層が労働者と資本家という両極に分解するのかということこそ、問われるべきところ、大塚は単に「自己分解」としている。
 この分解は自然現象のように自動的に進んだのではない。その原因は何か。
 第一の原因は、15世紀末から17世半ばにかけて行われたエンクロージャーである。先にも触れたが、毛織物工業の材料である羊毛を生産するために、地主たちは暴力的に農民を土地から追い出した。開放耕地下の耕地と共同地を垣根などで囲い込み、共同用益権を排除したのである。マルクスは、これを資本の本源的蓄積の一過程としている。経済外的な要素が、中核部の社会でも重要な役割を果たしたのである。
 第二の原因は、生産者間の競争の結果である。商品生産は、能力や努力によって個人間に差が出てくる。勤勉、倹約、才覚、強運等がその差を生む。同業者の中に、成功・繁栄する者と、失敗・没落する者が現れる。前者は資本家に、後者は労働者になっていく。経済的自由は、競争を正当とする。自由競争が正当であれば、その結果も正当としなければならない。機会の平等と結果の平等は違う。大塚の所説は、この点があいまいである。近代化論者の大塚は、戦後日本の近代化を唱導したが、近代化を推進した際にそれに伴って生み出される問題点を明確にしていない。

 もうひとつ大塚の理論には弱点がある。それは、叙述が西欧の事柄に限られており、近代世界システムにおける文明間、大陸間のダイナミックな関係を見る構図が活かされていないことである。
 川勝平太氏の指摘だが、大塚の図式では、アメリカ大陸への毛織物の輸出によっていかに銀を獲得しようとも、その銀は東方の物産である胡椒・香辛料の購入に当てられ、銀は東方に一方的に流出するのみである。これでは、西欧には富が蓄積されていかない。この交易は、西欧にとっては、銀の流出となる。出超による赤字が続いた。
 18世紀にはいっても、イギリス最大の輸出品は毛織物であった。だがその市場は環大西洋圏に限られていた。毛織物の輸出では、いつまでたっても、アジアからの物産の輸入と銀の流出という構造を転換できないのである。そして、資本主義が本格的に発達していくまでにはならない。
 その上、大塚が資本主義の成立の場所として分析した毛織物工業は、産業革命が本格的な発生した場所ではなかった。大塚が精緻な追跡を行ったイギリスにおける商品経済の発展、共同体の解体、資本家と労働者への階級分化、産業資本の発生等の国内的諸条件が整備された上で、産業革命が起こったのは、新しく発展した綿工業からだった。
 綿工業の発達は、近代世界システムのダイナミックな構図の中で見なければ、まったく理解できないものである。

●木綿の流行による衣料の変化

 ヨーロッパは、13〜14世紀のヴェネチア、ジェノヴァの時代から18世紀にかけて、イスラーム文明・インド文明等の栄えるアジアに対し、貿易赤字を続け、経済的外圧に苦しんでいた。この東方からの大波を逆転させたものこそ、産業革命だった。
 ゾンバルトは『恋愛と贅沢と資本主義』(講談社学術文庫)で、贅沢と奢侈が経済発展の原動力となったという見解を表している。西欧が輸入した主要商品は、15C〜17世紀中半ばおいては胡椒・香辛料だったが、その後は木綿となった。胡椒・香辛料は、食品・医薬品として生活必需品だった。しかし、木綿は当初、贅沢品だった。実用性だけでなく、美しく着飾りたいというファッションへの欲望がそこには働いていた。その木綿製品を自力生産しようと努力した結果が、イギリスで産業革命を引き起こした。

 イギリスは、先に書いたように、毛織物工業が発達し、アメリカ大陸への毛織物輸出の主要国になっていた。ところが17世紀半ば、イギリスでは、薄地で軽やかな織物を着る流行が始まった。そこに1660年ごろからインド木綿が流れ込んできた。インド木綿は、流行に乗って急速に普及した。17世紀末までにインド木綿は、他の衣料と比べ物にならない人気を獲得した。
 東インド会社は、王政復古後のイギリス上流階級に取り入って、富裕層に綿製品への嗜好をつくりだした。インド木綿は、着心地よく、美しく、しかも安かった。毛織物価格の3分の1と安価だったのである。だから、近代前半期の世界帝国の一つ、ムガル帝国は、圧倒的な輸出力を誇っていた。イギリスだけではない。オランダ、ドイツ、イタリア、スペイン、フランスなど西欧全域に、インド木綿は浸透した。木綿による衣料革命、ファッション革命が起こった。

●イギリスはインド木綿の輸入代替を図った

 ヨーロッパ文明はインド木綿の制するところとなっていた。木綿の輸入代替をはかることは、西欧諸国のぬきさしならぬ課題となった。その課題を果たしたのがイギリスだった。
 イギリスに大量に輸入されたインド産キャラコは、伝統産業、毛織物工業を脅かした。そのため、1700年に議会はイギリス国内でのキャラコ使用の禁止を決定した。いかに深刻な状態かわかるだろう。
 しかし、輸入を禁止したところで、人々は快適な衣料を欲する。外国製品に対抗するには、国内の製造業の発達を待つしかない。イギリス綿工業は、アジアからの外圧に対抗する輸入代替産業として勃興した。目標は、インド木綿に匹敵する良質・安価の木綿を自力で生産することだった。
 イギリス国内で生産されたキャラコが海外市場で販売されるようになると、急速に販路を拡大した。品質が優れていたからである。原料の確保のため、イギリス人は西インド諸島のプランテーションで大量に綿花を生産させた。
 当時リバプールから武器や雑貨が西アフリカに輸出され、黒人奴隷と交換された。黒人奴隷は、西インド諸島やアメリカ大陸に運ばれた。そこでの人身売買の代金で砂糖等が購入され、イギリスに搬送された。イギリスからアメリカ大陸には毛織物等が輸出され、ヨーロッパーアフリカーアメリカ大陸を結ぶ三角貿易が成立していた。ここに新たな商品としてアメリカの綿花が加わった。

 アメリカからリバプールに戻る奴隷貿易船で綿花を運び、ランカシャー地方で綿布生産を本格化した。綿布需要は急速に伸び、1750年代以降になると生産が追いつかない状態になった。砂糖のプランテーションで富を得ていたイギリスは、今度は綿花のプランテーションによって富を掌中にしていった。食の快楽から衣の快適へという人々の欲求が、富を増大した。
 イギリス綿工業が黒人奴隷の奴隷労働の上に発達したことは、重要な歴史的事実である。奴隷貿易大国イギリスだからこそ、黒人奴隷を酷使して原料の綿花を確保できたのである。

●産業革命は綿工業で起こった

 イギリスでは、毛織物工業でマニュファクチュアが発達し、技術的分業が進んでいた。分業化された生産は、工程の一部を機械に置き換えることができる。機械化は1760年代に、まず毛織物工業で始まった。機械化はまもなく、新興の綿工業で急速に進んだ。まさに革命的な変化だった。この機械化の過程が、イギリス産業革命にほかならない。

 毛織物工業では、ジョン・ケイが考案した飛び梭(ひ)が実用化されていた。飛び梭が綿工業で使用されるようになると、織布能率が倍加して、綿糸不足が深刻になった。この隘路を解決するために、新技術の開発が求められた。

 1769年にアークライトの水力紡績機が、1770年にハーグリーブスのジェニー紡績機が、特許を受けた。1779年には、クロンプトンのミュール紡績機が完成した。こうした紡績機の開発の結果、生産性が飛躍的に上昇した。製品価格が急速に下落し、良質な綿糸の紡績が可能になった。その結果、イギリス木綿は、1802年にはイギリスの輸出高において毛織物を抜き去った。

 イギリスでは綿花の栽培はできない。原料は、すべて輸入に頼っていた。旧大陸の綿花は、繊維の太い短繊維綿だった。アメリカ大陸では繊維の長くて細い綿花が自生していた。イギリス人は、この長繊維綿花を細糸につむぐ機械をつぎつぎに発明した。それによって、アメリカ大陸の綿花を原料とすることができるようになった。アメリカ合衆国南部がイギリスの綿業を支える綿花の一代供給地となり、綿花生産を支える黒人奴隷制が急速に拡大した。ニューヨークは綿花輸出港として成長した。
 リバプールの奴隷貿易は、1795年にはヨーロッパ全体の奴隷貿易の7分の3に上るまでになった。そして、1820年代以降、イギリスの綿花輸入の70%以上が、アメリカ合衆国の綿花で占められるようになった。

 アメリカ大陸の原料、イギリスの紡績技術、環大西洋圏の市場が結びついた。そして、アメリカ綿花のイギリスへの輸出、イギリス木綿のアフリカへの輸出、アフリカ人奴隷のアメリカへの輸出というイギリスを中心とした三角貿易が活発に展開された。

 イギリス産業革命期の近代世界システムは、中核部でイギリスが過去の有力国家・覇権国家をはるかにしのぐ、前例のないほど圧倒的な存在になっていった。
 中核―半周辺―周辺の三層構造を、垂直的な上層・中層・下層に置き換えて言うと、下層では、古代的な奴隷制、上層では近代的な賃労働制を基礎とした生産関係が、大陸間で連結された。
 トインビーは、古代ローマ帝国について、帝国内部の内的プロレタリアートと、帝国外部の外的プロレタリアートが存在したと説いた。この概念を援用すれば、イギリスにおける白人労働者は内的プロレタリアートであり、アメリカ大陸における黒人奴隷は外的プロレタリアートである。
 周辺部の外的プロレタリアートのほうが、中核部の内的プロレタリアートよりも、はるかに劣悪な労働条件と人権状況に置かれていた。イギリス産業資本主義は、周辺=下層の黒人奴隷制からの収奪があってこそ発達したものである。

●インドとイギリス、アジアと西欧の逆転

 イギリス綿工業は、ほぼ1世紀の年月をかけてインド木綿の模倣に成功した。輸入代替化に成功したイギリスは、今度はもとの供給国インドに輸出し始めた。イギリス木綿は、1820年代前後から、怒涛のごとくインドに流入した。インドがイギリスに対してもっていた生産の比較優位がここに初めて逆転した。
 産業革命によって、初めてイギリスはインド洋文明圏に対して生産力で優位に立った。かつてインドからイギリスに流れた木綿が、今度はイギリスからインドへと逆流した。それまでヨーロッパへの輸出に依存していたインド綿業は壊滅的な打撃を受けた。「この窮乏は商業史上に例を見ない。木綿職工の骨は、インドの野を真っ白にそめあげている」と描かれるような事態となった。これがムガル帝国の経済的基盤を掘り崩した。
 インド木綿がイギリス木綿にとってかわられたことは、イギリスにおける近代西洋文明の確立と、インドにおけるイスラーム的インド文明の凋落とを象徴する事件だった。インドは、やがてイギリスの植民地とされ、第三世界に転落することになる。

 産業革命の結果、イギリスはアジアに木綿を輸出し、東方から銀を手に入れられるようになった。それによって、近代西洋文明は19世紀を通じて、ユーラシア大陸の他の諸文明を、次々に中核―半周辺―周辺構造に組み込みながら、発展していく。近代前期のユーラシアの五つの世界帝国と、西欧の世界経済の並立という状況は、産業革命によって大きく変貌する。近代世界システムの中に大英帝国という世界帝国が出現し、この近代化された世界帝国が、他の世界帝国を従えていく。

 川勝氏は、長期の16世紀(15世紀半ば)以降を広義の「近代」とし、その前半となる16世紀から1800年頃までを「近世」、1800年頃以降を狭義の「近代」としている。川勝氏によると、15世紀以来、ヨーロッパはインド洋から、アジアの外圧を受けていた。その外圧をはねのけるのに成功した時期は、ほぼ1800年頃とされる。
 私は、15世紀半ばから1800年頃までを近代前期、1800年ごろ以降を近代後期と二分する。近代後期は、19世紀から20世紀半ばまでとし、1945年以降をもって、現代と私は呼ぶ。

●産業革命による動力・エネルギー・交通の革命

 産業革命は、機械による安価な大量生産を可能にした。紡織機の動力は水力から蒸気力に替わり、化石燃料である石炭が利用されるようになった。これにより、動力革命・エネルギー革命が起こった。
 動力革命・エネルギー革命は、交通革命をも引き起こした。陸では蒸気機関車の発明により、原料や製品が大量に運搬できるようになった。海では19世紀半ばに改良が進んだ蒸気船が高速で安定した輸出を実現した。陸海の交通革命の結果、都市が生活用品の大部分を生産する重要な生産の場に変わった。
 とりわけ鉄道建設は、1840年代から50年代にかけてラッシュとなった。50年代初頭には早くも鉄道網がイギリスを覆い、首都ロンドンを中心とする全国的な鉄道網が出来上がる。鉄道は都市の生活を農村に普及させ、都市と地方の生活の平準化を進めた。鉄道が作り上げた均一性を有する空間が、国民国家・国民経済という新システムの土台になっていく。鉄道建設の波はヨーロッパ大陸へと急速に広がり、国内市場の統一、国民国家の形成に大きな役割を果した。
 
 西欧の市民革命の歴史的な意義を強調するために、都市新興階級であるブルジョワジーの活動が多く語られるが、彼らの舞台は、当時の世界では中規模都市にすぎなかった。産業革命の前まで世界最大の都市は、バグダードだった。17世紀からの西欧の都市化は、世界的に見ると、小規模な変化だった。わが国の江戸は、19世紀には百万都市となり、ロンドン、パリよりインフラが整っていた。西欧は産業革命によって初めて都市化においても、他の文明に抜きん出た。

 近代世界システムの中核部で、都市に人口が集中すると、高速輸送ネットワークを通じて、大量の食料や工業原料が、都市に供給されるようになった。それによって、さらに人口が集中し、都市と都市が結びついた広域的な人口稠密地帯が広がった。これが、都市爆発の時代の始まりとなった。
 産業革命とそれに伴う都市爆発によって、大規模な自然開発が進められた。エネルギー資源、工業原料、食糧等の生産は、森林の伐採、大気・河川・土壌の汚染、CO2の排出等、環境問題も生み出していく。

●科学革命と産業革命の合体

 比較文明学者で科学史家の伊東俊太郎氏は、「世界の近代化に決定的な役割を果たしたのは、近代科学とそれに基づく産業技術であり、結局それを生み出した『科学革命』である」「実に『科学革命』による近代科学の形成・確立こそ、世界史における西欧の優位の真の起源なのである」と述べている。
 科学史家の観点からはこういう見方が出るわけだが、私は、近代西欧科学は産業革命と結びつくことによってはじめて、巨大な威力を発揮するようになったことを主張したい。西欧は中世から16世紀までは、先進的なイスラーム文明やシナ文明より、科学の分野でも遅れていた。その後進的なヨーロッパで、17世紀に「科学革命」が起こった。
 起こったといっても、西欧の近代科学は当初、イスラーム文明やシナ文明の科学と大差なかった。世界観や価値観の違いにより、自然の認識や研究の方法・態度が異なる程度だった。ガリレオの実験、デカルトの数理的方法論、ベーコンの帰納法、ニュートンの機械論等、後から見れば画期的な展開となったが、もし西欧に産業革命が起こっていなければ、どれほどの影響力を持つにいたったか、わからない。

 科学革命はイギリスを中心に展開された。1660年に王立協会(ロイヤル・ソサエティ)が設立され、国王が科学認識を深めるための活動を奨励した。しかし、産業革命前のイギリスは、インドからやってくる木綿に圧倒される程度の国家でしかなかった。西欧的な近代科学のもつ潜在力が現実化されるには、18世紀後半からの産業革命を待たねばならなかった。
 ヨーロッパ文明と他の文明の最大の違いは、西欧では、近代科学の知識を生産技術に応用し得る生産関係が生まれていたことにある。すなわち、資本主義的な経営、目的合理的な産業経営である。近代資本主義による物質的生産力の前に、非西欧諸国は屈服したのである。
 さらに産業資本の生産力と近代主権国家の権力とが結びついたことによって、西欧諸国は強大な力を持った。科学技術と資本の経営体と近代国家の官僚制、これらに共通するものは合理性である。思想や組織等の全般的な合理化が、ものと人に対するかつてない支配力を生み出した。生活全般の合理化としての近代化が、イギリスを初めとする西欧諸国に、他の文明を圧倒する力をもたらした。

 近代西洋文明は、産業革命を成し遂げた結果、資本主義的経営、近代国家、科学技術等が一つに結合して、人類史上かつてない圧倒的な力を生み出した。そして、西欧発の文明が西地球のほとんど全表面を支配下に置くまでになった。産業革命によって、近代世界システムによる中心―半周辺―周辺の三層構造は、地球規模に拡大していった。19世紀後半には、世界各地の文明が近代西洋文明の「周辺文明」と化すがごとき状態となった。

 インド文明は、1820年代後、産業革命を経たイギリス木綿が流入し、綿工業が壊滅に近い打撃を受け、白人の植民地と化した。シナ文明は、アヘン戦争・アロー戦争以後、欧米列強が進出し、利権をほしいままにした。イスラーム文明は、18世紀末以後、オスマン=トルコの衰退に乗じて、中東・バルカン地域にイギリス・フランス・ロシア・オーストリア等のヨーロッパ列強が進出し、19世紀後半までには植民地化された。
 ラテン・アメリカは19世紀前半に独立したものの、資本主義の垂直的分業体制の不可欠の部分として、西洋文明の下層に組み込まれていた。ラテン・アメリカの「低開発の発展」は、三層構造における下層化であり、下層的分業体制の展開ととらえるとよいと思う。
 アフリカは、1880年代から急速に植民地化が進んだ。アジアの大部分が西欧諸国の植民地・半植民地となった。イスラーム文明、インド文明、シナ文明が、近代西洋文明の周辺文明に転落した。残ったのは、日本文明とタイだけだった。
 これらの過程については、後にイギリス資本主義と帝国主義政策のところで具体的に触れる。

●産業資本を成長させた商業資本・銀行資本

 近代資本主義は、産業革命によって、真の意味での資本主義となった。産業化した資本主義の主体は、産業資本である。マルクスやウェーバーに依拠する経済学者・経済史学者の多くは、産業資本を近代資本、それ以前の商人資本や高利貸し資本を前近代的資本とし、前近代的資本からは近代資本主義は発達しなかったという。
 私はこれに異論がある。産業資本が近代資本主義をもたらした資本の形態であることは、そのとおりである。しかし、産業資本は生産、商業資本は流通、銀行資本は金融において価値増殖を行う資本である。生産を行う資本は、流通・金融の資本と結びついてこそ、生産力を発揮できる。作ったものを売る商人がいなければ、産業資本は維持も発展もできない。また、産業資本に投資したり信用を扱う銀行家がいなければ、大きな事業を展開できない。これらの役割を軽視すべきでない。
 産業資本の発生においては、プロテスタントが主要な役割をした。私は、マックス・ウェーバーの説を基本的には承認する。しかし、出来た製品を売ったり、産業資本家に金銭を工面したり、為替で外国貿易を支えるところでは、ユダヤ人が重要な役割をした。ユダヤ人を中心とした商業資本・銀行資本なくして、産業資本はこれほどの発達はできなかったに違いないというのが、私の見方である。14〜15世紀にはイタリア諸都市やスペイン、ポルトガルで、17世紀にはオランダのアムステルダムで、17世後半からはイギリスのロンドンで、ユダヤ人は才能を発揮した。ヨーロッパ経済また資本主義システムのその時々の中心地で、ユダヤ人は活躍した。

 とりわけ重要なのは、ロスチャイルド家である。1743年、モーゼス・アムシェル・バウアーというユダヤ人の金匠が、「赤い盾」という名の古銭商の店を開いた。その息子のマイヤーは、家名を店の名の「赤い盾」、ドイツ語のロートシルトに変えた。ロスチャイルド家は、その時に始まった。
 マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、極めて先見の明のある人物だった。18世紀後半は、資本主義の発達とともに、近代主権国家が成長する時代だった。イギリスでは、産業革命が始まっていた。その時代の先を読んだように、マイヤー・アムシェルは、長男のアムシェル・マイヤーに本拠地のフランクフルトを継がせ、他の四人の息子をウィーン、ロンドン、ナポリ、パリに送った。そして、その地でそれぞれ銀行を設立させた。ロンドンに送られたネイサンは、マンチェスターで木綿製品の直売をして成功し、シティで地歩を固め、イギリス王室と結びついていく。他の息子たちも、その国の王侯・貴族と取引して巨富を得て、その国の主要な銀行家となり、他を圧倒していった。
 18世紀後半の産業革命以後、19世紀の近代後期に入ってからの資本主義世界経済において、ロスチャイルド家を筆頭とするユダヤ人を中心とした資本家たちは、産業と貿易の大規模化、国際化、情報化等を推進した。それなくして、今日に至る欧米諸国の政治的・経済的な発展はなかったと私は考える。20世紀から今世紀の世界で覇権国家となっているアメリカにおいても同様である。

 19世紀後半から産業資本は株式会社化し、銀行が株式の発行を引き受け、銀行資本と産業資本は結合した。それが金融資本である。金融資本によって、近代的な形態の資本が完成する。これが21世紀の世界で価値増殖運動をしている資本の主要形態である。資本は、もともと物を作って売るのが目的なのではない。利潤を上げることが目的なのである。それゆえ、必ずしも物を生産しなくとも、金銭や信用によって利潤を上げられれば、資本の目的は達せられる。物を作る労働に汗を流すより、金銭を動かすことで利潤を上げるファンド・マネージャーが、グローバルな情報金融資本主義の主役となる。

●近代化=合理化の進展と人類の危機

 15世紀半ば以降のヨーロッパ文明の過程を一言で言えば、近代化である。近代化とは、マックス・ウェーバーによれば、生活全般における合理化の進展である。近代化は、文化的・社会的・政治的・経済的の4つの領域で、それぞれ進展した。西欧における近代化、換言すると西欧発の近代文明の発達は、15世紀末から他文明の支配と、それによる収奪の上に起こったというのが、本稿の強調するところである。
 さらに、17世紀に起こった科学革命による諸発見が、18世紀の産業革命によって、資本主義的な産業経営に応用されるようになった。また17世紀前半に形成された近代主権国家が同世紀後半以降の市民革命を経て、国民国家となり、資本主義世界経済の担い手となった。資本と国家、富と力の一体化が進んだ。これが物質科学とそれに基づく技術を生産、戦争、管理等に活用した。資本と国家と科学という三要素の結合が、近代西洋文明にかつてない機能を与えたのである。
 かくして人類史上、最も強力な文明が欧米において確立した。この近代西洋文明が、現代世界を覆うようになっている。21世紀の世界に広がっているグローバルな資本主義は、経済と情報が結びついた思想・政策であり、世界の隅々までを資本主義化し、近代化し、西洋化しつつある。私はこの資本主義化、近代化、西洋化は、同時にユダヤ的なものの普及でもあると考えている。

 近代西洋文明の発達の結果、人類は未曾有の繁栄を謳歌するとともに、深刻な危機に直面している。その危機の始まりは、産業革命だった。今日、人類が危急の課題としている核の問題は、産業革命で機械工業化した産業が、兵器を改良させて生み出した核兵器の使用による人類自滅の危機である。核兵器の開発には、多数のユダヤ人が参加したことが知られている。また、産業革命後に、近代世界システム、近代西洋文明は、化石燃料の大量消費によるCO2の大量排出を続けてきた。それにより、地球の温暖化が進行している。利益の追求を至上目的とするユダヤ的な原理は、持続可能な成長への道を阻んでいる。物質科学に偏った発展を遂げている近代西洋文明は、発展の半面に破壊を伴い、発展すればするほど破壊を広げ、今日もまだ物心の調和、自然と人間の調和を実現できていない。これを是正し、人類にとって真に益する文明を創造することが、現代人の存亡を賭けた課題である。

(2)近代西洋文明は伝播した

 

●イギリスの絶頂期と社会改良政策

 産業革命後のイギリスは、まさに世界経済の中心となった。とりわけ1837年〜1901年の60年余にわたって王位にあったヴィクトリア女王の時代に、イギリスは絶頂期を迎えた。国内では自由党と保守党が交互に政権を担当する議会制デモクラシーが定着した。二大政党は労働者の支持を得て優位に立とうとし、それが政策にも反映された。19世紀後半の選挙法改正で、都市労働者や農業労働者も選挙権を獲得し、教育法の制定、労働組合の合法化など、労働者を体制に取り込む政策が取られた。
 マルクスは、資本主義が発達することによって、労働者が絶対的に窮乏化するという説を説いた。しかし、実際はイギリスでは、資本主義の発達によって、労働者大衆の所得が増大し、生活水準が向上した。マルクス=エンゲルスは、この傾向を追認するようになった。富を増大した中核部のイギリス社会は、資本主義の矛盾を是正しようとする政策が行われた。これは、市場にすべての決定を任せる自由主義を修正した修正自由主義や、キリスト教的な慈善運動に基づく社会改良主義の政策である。そうした政策によって、イギリスの労働者大衆の生活は豊かになり、政治的社会的な権利も拡大した。
 共産主義による革命より、漸進的な社会改良という方法が、西欧の資本主義諸国では主流となっていく。資本主義の矛盾は、闘争と革命という急進的な方法ではなく、融和と改良という漸進的な方法によっても改善することが可能なのである。そして、歴史が示しているのは、急進的な方法は、かえって矛盾を拡大し、目的と結果に巨大な乖離を生み出すということである。

 マルクスは、周期的に訪れる恐慌とそれによる革命という展開を予想した。恐慌はほぼ10年に1度発生していたが、19世紀末期には周期性を失った。また実際に革命が起こったのは、マルクスが理論的に予想した先進国ではなく、後進国のロシアだった。革命のきっかけは恐慌ではなく、戦争とその結果の敗戦だった。
 再び恐慌が国際市場を襲ったのは、1929年の世界大恐慌だった。このときは、アメリカ、イギリス等では政府による経済への介入・管理や失業対策が行われた。ドイツでは、国家社会主義が台頭し、いっそう統制的な政策が行われた。それらもまた資本主義の経済政策である。マルクスが考えたほど、資本主義は単純ではなく、大きな可変性を秘めていたのである。この点は、大恐慌の項目のところで再び触れることにする。

●第2次産業革命と米独の追い上げ

 産業革命後、「世界の工場」として圧倒的な工業力・経済力を持つにいたったイギリスは、自由主義の貿易政策の下で繁栄を誇った。ここで自由主義というのは、経済的自由主義のことであり、政府が経済に介入せず、市場の決定に任せる政策である。資本主義システムの歴史においては、19世紀のイギリスの覇権体制が、自由主義の時代である。経済学には、この時代の世界経済を理念化し、経済を自立した法則の貫徹するシステムとしてとらえようとするものがあるが、政治と経済は決して切り離せない。国家と資本は別々の論理で動いているようでいて、現実には相互依存の関係にある。
 イギリスを覇権国家とする自由主義的資本主義の時代は、長くは続かなかった。1870年代に入ると、イギリスは他国に追われる身になった。70年代からの不況で、各国は保護関税政策に転換した。そのため、イギリス経済は、徐々に力を削がれていく。

 後に触れるが南北戦争を経て工業国として成長するアメリカや、プロイセンを中心として統一を実現したドイツでは、不況を乗り切るため、企業の集中が進み、技術革新が行われた。80年代には、鋼鉄が生産され、化学工業が勃興した。90年代には、新エネルギーとして電力が登場し、内燃機関が使用されるようになった。第2次産業革命である。技術体系の変化と産業の巨大化に伴って、新産業分野では膨大な設備投資が必要となった。巨額の資金を調達するため、銀行・証券会社などを通じて市場で投資を募る株式会社が普及した。
 アメリカでは、「ビッグ・ビジネス」と呼ばれる大企業が登場した。ビッグ・ビジネスとは、1万人を超える筋肉労働者(ブルー・カラー)を雇用し、多数の事務労働者(ホワイト・カラー)による官僚的管理システムを持つ企業をいう。そうした大企業がグループをなす財閥も出現した。
 アメリカに続いて、各国に大企業・財閥が出現し、利潤を求めて競い合った。価値増殖を自己目的とする資本の運動によって、人間の欲望は次々に製品として実現された。商品の登場が新たな欲望を刺激し、多量かつ多様な消費が創出された。新しい製品の開発が、企業の存亡の鍵となる時代が訪れた。

 イギリスの資本は、巨大資産家の私的資本が中心だったため、第2次産業革命の技術革新では遅れをとった。アメリカやドイツの資本の追い上げにより、イギリスの国民経済が低迷した。先進国として賃金水準が高くなっていたため、生産コストが上がり、国際的な競争力が弱まった。
 そこでイギリスは、それまで蓄積した豊富な資金と海上運賃、保険料収入、対外投資収益などを利用して、金融大国として生き残る方法を取った。ロンドンのシティは世界の金融センターとなっていたが、この時代に支配的な地位を確立した。金の価格は現在もシティで決められている。それとともに、イギリス資本は、安価な労働力と資源に恵まれた諸大陸の植民地に資本を輸出した。政府は資本家と協同し、対外投資による利益拡大へと政策を転換し、植民地の拡大を図る帝国主義政策を推進した。

 帝国主義とは、軍事力を背景に他国を植民地や従属国に転化する政策を言う。近代資本主義以前の古代のローマ帝国に見られるような膨張主義、征服主義である。特に1870年代から第1次世界大戦に至る時期は、欧米列強が植民地獲得に狂奔し、数ヶ国で「世界の分割」を完成させたので、この時期を特に帝国主義の時代と呼ぶ。近代世界システムが、中核部で覇権国家と対抗国が競合しながら、地球規模に拡大していく過程であり、近代西洋文明が他の文明を包摂し、周辺文明化していく過程である。
 イギリス以外の国々については、別の項目で書き、その上で、再度、帝国主義の本質と構造について述べたいと思う。

●イギリスがインドを完全支配

 イギリスの帝国主義政策は、インド、アフリカ、シナ等へと展開された。
 まず産業革命と深い関係のあるインドについて述べる。イギリスは、1600年東インド会社を設立し、ポルトガルやオランダに続いてインド洋交易に参加していた。東インド会社は1757年にプラッシーの戦いで勝利してフランス勢力を駆逐した。以後、イギリスはインドの諸国を次々に征服した。1840年代後半にはシク戦争に勝って、パンジャブ地方を併合し、インド征服を完成した。
 1820年代以降、産業革命の進むイギリスから、機械生産による綿布が、インドに大量に流入した。インドの手工業者は圧迫され、インド経済は打撃を受けた。インド人の不満は高まり、1857年セポイの反乱が勃発した。セポイとは、東インド会社が雇ってインド征服の手足としていた傭兵である。反乱は大規模化したが、59年イギリス軍はこれを鎮圧した。この間、イギリス政府は、東インド会社の機能を停止し、直接支配に切り替えた。そしてムガル皇帝を廃して帝国を滅亡させ、77年にはヴィクトリア女王が皇帝を兼ねるインド帝国を創建した。
 こうしてインドは、実質的に植民地化された。これは非常に重大な出来事だった。近代西洋文明が、初めてアジアの文明のひとつを完全に支配下に置いたのである。

●3C政策でアフリカを植民地化

 次に、アフリカについてである。イギリスのアフリカ・アジアへの進出の大きなきっかけとなったのは、スエズ運河の株式を取得したことだった。スエズ運河は1869年に開通。これにより、ヨーロッパの船は、喜望峰を回らずに、地中海からインド洋、海洋アジアへと出られるようになった。世界交通史上の一大転機だった。運河の建設はフランス人レセップスが成功させたもので、管理はフランスとエジプトの共同出資による会社が行っていた。
 ところが、財政難に陥ったエジプトは、同社の株式を売却しようとした。この情報を得たイギリスのディズレーリ首相は、ロスチャイルドから巨額の資金を得て、一挙に同社株式の44%を取得し経営を支配した。さらに82年には、運河地帯を占領した。
 スエズ運河の支配は、イギリスの帝国主義政策を促進した。イギリスは、スエズ運河を通って、中東、インド、シナ等の植民地支配を大々的に展開するようになった。

 さらに、イギリスは、アフリカ大陸に進出した。イギリスに負けじと、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギーなどもアフリカ分割に参加し、1880年代以降、アフリカの植民地化が一気に進んだ。
 イギリスは、北アフリカのカイロと南アフリカのケープタウンを結ぶアフリカ縦断政策を進めた。この線をさらにインドのカルカッタに伸ばそうとした。この政策を、三つの都市の頭文字を取って、3C政策という。

 アフリカ最南端にあるケープ植民地は、16世紀にポルトガル、17世紀中半からはオランダの植民地になっていた。オランダ系移民はボーア人と呼ばれた。1814年、ナポレオン戦争後のウィーン条約で、この地はイギリス領となった。奥地に追われたボーア人は、黒人先住民を征服して、トランヴァール共和国とオレンジ自由国を建国した。
 1870年、オレンジ自由国のキンバリーで、世界屈指のダイヤモンド鉱山が発見された。続いて、81年、トランスヴァール共和国のヨハネスブルグで、世界一の金鉱が発見された。イギリス人セシル・ローズは、若くしてアフリカに渡り、金とダイヤモンドの採掘で巨万の富を築いた。90年、ケープ植民地の首相となったローズは、トランヴァールとオレンジの北方に植民地を拡大し、両国の内政に干渉し始めた。当地は、彼の名前にちなんで、ローデシアと名付けられた。
 若きローズに資金を提供したのは、ロスチャイルド家である。1888年、ロスチャイルド家の支援で南アフリカに作られたデ・ビアス社は、現在も世界のダイヤモンドの8割を支配している。
 ローズは、3C政策を進める本国政府に呼応して、帝国主義的な拡張政策を進めた。彼はその過程で失脚するが、イギリスは99年に金やダイヤモンドの資源をねらって、ボーア戦争を起こした。そして1902年、トランヴァールとオレンジの両国に勝利し、植民地化を完成した。イギリス人は、ボーア戦争でボーア人を大量虐殺し、歴史に汚名を残している。

●アヘンを使ってシナにも進出

 18世紀後半から、欧米列強は、新しい市場と資源の可能性を求め、広大なシナへの進出を開始した。ここでも先頭を行ったのは、イギリスである。
 18世紀末には、イギリスは対清貿易をほぼ独占していた。ところが、シナの紅茶や絹織物等の輸入が増えるばかりで、イギリスの機械製綿布は売れず、大幅な入超に陥り、銀の支払いに困っていた。その一方、インドよりも人口の多いシナで綿布を売ることができれば、その利益は計り知れない。そこで目をつけたのが、シナ人のアヘン吸飲の習慣である。
 インドの大部分を支配下に収めていたイギリスは、インドでアヘンを栽培し、これを清に密輸することを考え出した。イギリスの工業製品をインドへ、インドのアヘンをシナへ、シナの茶をイギリスへという三角貿易である。シナでは、アヘンを売って銀を得て、その銀で茶を購入する。
 これによりイギリスは貿易黒字に転じ、清からは大量の銀が流出した。イギリスは、インドとの間では、木綿生産の技術競争に勝ったのだから、資本主義の論理では正当化される。しかし、アヘンの密輸は、消すことのできない汚点である。

 清国内ではアヘンの広がりが大きな社会的問題となった。清朝政府はアヘンの輸入をたびたび禁止した。しかしイギリス東インド会社は、私貿易商人を通じてアヘンを清に密輸出し続けた。1839年に広東に派遣された林則徐が、アヘン厳禁の布告を出し、イギリス商人のアヘンを没収・廃棄した。これに対し、イギリスは翌40年、軍艦を派遣してシナ沿岸の各地を攻撃。圧倒的な軍事力で清を屈服させ、南京条約を結んで、清の貿易制限を撤廃させた。この時奪われた香港が中国に返還されたのは、1997年のことである。
 アヘン戦争は、幕末のわが国に大きな脅威を与えた。やがてわが国にも白人が攻めてくる、という危機感が、倒幕維新の運動につながっていく。

 南京条約後、イギリスの期待に反し、シナでのイギリス製品の輸出は伸びなかった。この状況を打開するため、イギリスはフランスと組んで、清に戦争を仕掛けた。これがアロー戦争である。第2次アヘン戦争ともいわれる。イギリスは、清の役人が英国国旗を掲げるアロー号のシナ人船員を捕らえ、国旗を引き降ろした事件を口実にした。フランスは宣教師の殺害を理由にした。
 英仏連合軍は、広州・天津・北京を占領し、清と北京条約を結び、開港場の追加やキリスト教布教の自由を認めさせた。これにより、列強による清の半植民地化が決定的なものとなった。近代西洋文明は、アジアの文明をまた一つ支配したのである。

●イギリスでは奴隷制廃止、アメリカでは継続

 さて、こうした展開において、イギリスでは、奴隷貿易・奴隷制への反対運動が起こり、これらの廃止へと進んでいった。
 奴隷貿易は最盛期には、イギリスだけで毎年30万人以上の黒人奴隷が大西洋を越えて運ばれた。19世紀初頭までの間に、推計1,000万人から2,800万人の黒人奴隷が大西洋を渡ったとされる。しかし、イギリス人の中には、奴隷制の非人道性に気づいたものが現れ、1787年に奴隷貿易・奴隷制に反対する運動が始まった。
 まず奴隷貿易廃止のための議会請願運動が行われた。奴隷労働によって生産された砂糖をボイコットする運動も行われた。これを受け、議会では活発な議論が繰り広げられた。その結果、1807年に欧米諸国としては初めて、イギリスで奴隷貿易が廃止された。続いて、1820年代には、奴隷制廃止のための活動が開始された。この時も議会請願運動が起こり、150万人以上の人々の署名が集まった。こうした大衆運動を背景として、1833年には奴隷制そのものが、やはり欧米諸国で初めてイギリスで廃止された。

 こうした奴隷貿易・奴隷制の廃止は、1804年にハイチで黒人奴隷が反乱を起こし、フランスから独立を勝ち取ったことや、重商主義から自由主義への経済政策の転換に伴う奴隷の必要性の減少のためだと考えられてきた。しかし、近年は、奴隷制の非人道性に目覚めたイギリス人が、解放奴隷たちと連携して行った世界初の人権運動の成果と理解されている。
 ただし、この時点では、イギリスが綿花の供給を確保するアメリカ合衆国においては、奴隷制が継続している。イギリスで奴隷貿易・奴隷制が廃止されても、綿花と線製品の生産関係は変わっていない。合衆国における奴隷制の廃止は、南北戦争後まで待たねばならない。また廃止後も解放奴隷は、近代世界システムの下層労働者として、英米の資本主義を支えた。

●アメリカ合衆国は領土を拡大した

 アメリカ合衆国は、イギリスから独立後、1803年にフランスからルイジアナを購入した。これを皮切りに、アメリカ=メキシコ戦争でカリフォリニアを獲得するなどして、領土を拡大していった。合衆国は、ワシントンの「中立宣言」以来、欧州諸国の問題に介入せず、自国の利益を守ることを伝統的な外交政策としていた。これをアイソレイショニズム(不干渉主義)という。
 ナポレオン戦争においてイギリスは、ナポレオンの大陸封鎖令に対抗して海上封鎖を行った。不干渉政策を取っていた合衆国もこれには反発し、12年米英戦争が勃発した。
 合衆国は苦戦した。14年に講和が結ばれたものの、一時は首都ワシントンまで占領される有様だった。しかし、イギリスとの戦争は、合衆国にとって、経済的に自立する機会となった。戦争で貿易が一時中断したことにより、国内工業が保護された。特に北部諸州では綿工業等が発展した。そのことにより、米英戦争は、第2次独立戦争とも呼ばれる。

 北米は、植民地時代から、地域によって産業構造に違いがあった。独立後、違いが一層顕著になった。北部諸州では商工業が発達した。南部諸州は、綿花やタバコを栽培するプランテーションを営み、黒人奴隷を労働力に用いていた。北部は、イギリスの工業に対抗するため、保護関税政策を求め、自由労働を重んじて奴隷制度に反対した。一方、南部は、イギリスの綿工業の発達により綿花の輸出が激増し、自由貿易政策を主張していた。
 私の視点から言うと、近代世界システムの中で、合衆国北部は、半周辺部から中核部に上昇しようとし、南部は周辺部にとどまることを利益とした。北部が第2の西欧を目指していたとすれば、南部は北方の中南米であろうとした。

 このように内部に大きな利害の相違をはらみつつ、連邦国家アメリカは、西部の開拓を続けた。1846年から、太平洋岸側の広大な地域を次々に併合・割譲・買収し、1853年には大陸領土が確定した。先住民を駆逐し、領土を拡張することは、「明白な運命」(マニフェスト・デスティニイ)として正当化された。その運命とは、ユダヤ=キリスト教的な神から与えられた使命と思念された。インディアンに対する姿勢は、15世紀末から中南米のインディオを虐待・殺戮した白人種の姿勢に通じている。
 領土が広がるにつれ、地域間に存在する利害の対立は、激しさを増した。最大の係争点は、奴隷制だった。旧本国イギリスでは、先に書いたように、33年には奴隷制が廃止されている。その影響が合衆国にも及んだ。

●南北戦争を経て世界最大の工業国へ

 西部開拓が進み、新たな州が誕生すると、新しく出来た州に奴隷制の拡大を認めるか否かで南北の対立が深まった。1860年に奴隷制に反対する共和党のリンカーンが大統領に就任した。これを機に、翌61年南部11州が合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国を結成して、北部諸州に対して武力抗争を開始した。北部諸州は分離独立を認めず、ここに南北戦争が始まった。
 この戦争は今日、内戦(シヴィル・ウォー)とされているが、南部諸州は独立国家を結成したのだから、国際紛争と見るべきである。北部側は、かつてイギリスから独立していながら、自国からの独立は認めないというわけである。

 最初は南部が優勢だった。しかし、リンカーンは62年に、国有地に5年間居住・開墾すれば無償で与えるという自営農地法(ホームステッド法)を発布し、これによって、西部農民の支持を獲得した。さらに、63年に奴隷解放宣言を発し、内外世論を味方につけた。ゲティスバーグの戦いで北部が優勢になり、65年北部が南部に勝利した。
 戦死者・戦病死者は合計62万人に達し、南部は戦災により多大な被害を受けた。マーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』は、南北戦争を南部の視点で描いた名作で、題名は、過ぎ去った時代の南部の文明を意味する。
 65年、合衆国憲法に修正第13条が加筆され、奴隷解放が実現した。奴隷制を巡る南北戦争を経験したアメリカ合衆国は、内部にはらむ価値観、利益の違いを越えて、ネイション・ステイトとして国民を統合する原理を、一層強く打ち出す必要を生じた。その原理が、自由、デモクラシー、人権である。しかし、黒人奴隷は法律上解放されたものの、実質的な差別が存続し、社会的地位の向上は1960年代の公民権運動の高揚まで待たねばならなかった。

 南北戦争の結果、工業国として歩むこととなったアメリカ合衆国は、めざましい発展を遂げた。ヨーロッパからの移民によって人口も急増した。1869年には、最初の大陸横断鉄道が開通し、広大な国土に存在する豊富な資源の輸送、工業製品・農業製品の流通、労働者・消費者の移動等が可能になった。そして、1890年代には、合衆国は、イギリスを抜き、世界最大の工業国となった。
 合衆国は、98年の米西戦争でフィリピンやグアムなどを獲得し、さらにハワイを併合して太平洋地域への勢力拡大を本格化させた。カリブ海諸国に対しては、武力で内政に干渉する棍棒外交を展開した。
 近代世界システムの中核部に、イギリスに並ぶ有力国家が確立したのである。これにより、近代西洋文明は、アングロ・サクソン文化、及びそこに深く浸透したユダヤ文化を主要な文化要素とする文明として、世界各地に伝播していくことになった。

(3)後進国の台頭と帝国主義の時代


●分裂半島イタリアの統一

 19世紀後半の近代西洋文明を語るには、イタリアとドイツを登壇者に加えねばならない。
 ルネサンス期から諸都市・諸国家が分立を続けていたイタリアでは、19世紀後半にようやく統一が達成される。統一前のイタリアは、サルディニア王国、ローマ教皇領、フランス・ブルボン家の両シチリア王国などに分かれていた。
 19世紀後半に入ると、サルディニア王国を中心に、統一の気運が高まった。首相のカヴールは、フランスと密かに手を組んで、ハプスブルク家が統治するオーストリア帝国と戦い、ロンバルディアを併合した。フランスには見返りに、サヴォイアとニースを割譲し、その黙認のもとに、中部イタリアを併合した。

 イタリア統一運動には、フランス革命の影響を受けた共和主義者の活動が重要な役割を果たした。政治結社「青年イタリア」出身のジュゼッペ・ガリバルディは、1860年赤シャツ千人隊を組織し、シチリアに上陸し、両シチリア王国を占領して、サルディニア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上した。ここに、61年、イタリア王国が建国された。オーストリアが領有していたヴェネチアと、教皇領を併合し、ほぼイタリア全土が統一された。残るチロルとトリエステは、「未回収のイタリア」と呼ばれた。これらの地域は第1次世界大戦後にイタリアへ編入されることになる。
 統一運動の英雄ガリバルディは、フリーメイソンだった。彼は1872年にこう述べている。「われわれの最終目的は、カトリック信仰の絶滅だ。ユダヤ人がメシアを待望するように、この最終目的に同意する一人のメイソンの法王を待ち望むのだ」と。ここにもローマ・カトリック教会とフリーメイソン、キリスト教と啓蒙思想の複雑な関係の一端が露呈している。

●ドイツの統一と躍進

 ナポレオン戦争により神聖ローマ帝国が滅亡した後のドイツでは、ナショナリズムが高揚し、統一への機運が高まった。諸邦のうち有力なのは、北方のプロイセン王国と南方のオーストリア帝国だった。ドイツの統一をリードしたのはプロイセン王国である。
 プロイセンは、オーストリアを除いた統一を目指した。首相となったビスマルクは、工業化による経済成長、文化闘争と呼ばれるカトリック教徒への抑圧、社会主義者への弾圧と社会保障制度の拡充を合わせた政策などにより、国力増強と国民統合を図った。それをもとに、ビスマルクは鉄血政策による統一を進めた。
 鉄血政策は、ビスマルクが首相就任直後の演説で、「現下の問題は言論や多数決ではなく、鉄と血によって解決される」と言明したことに由来する。鉄つまり鉄製の武器と、血つまり兵士の血による軍備増強をもって、ドイツ統一を進める決意を表したものである。

 ビスマルクは、1866年、ライバルのオーストリア帝国と矛を交えた普墺戦争に勝利を収めた。ビスマルクは、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を設立した。これにより、オーストリアと南ドイツを除いて統一が進んだ。このプロイセンの強大化を恐れたフランスの皇帝ナポレオン3世は1870年7月、プロイセンに宣戦を布告し、普仏戦争が開始された。しかし、プロイセン軍はセダンの戦いでナポレオン3世を捕虜とし、フランス第二帝政は崩壊した。プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国の成立が宣言された。戦勝により、プロイセンはアルザス=ロレーヌ地方を獲得した。

 フランスを屈服させた後、ビスマルクは三帝同盟、三国同盟、独露再保障条約と次々に同盟を結び、露土戦争の紛争収拾では、どの国の恨みも買わぬよう「公正な仲裁人」を演じた。
 こうした外交政策の目標は、フランスを孤立させ、それ以外の国と良好な関係を作るが、かと言ってあまり親密な関係は作らないというやり方である。列強各国の利害を把握し、各国間に軽い緊張状態を作りながら、どの国もうかつに戦争を起こせない状態を作り出そうとした。これがいわゆるビスマルク体制である。
 ビスマルクの外交戦略は成功し、ヨーロッパには第1次世界大戦まで小康状態が続いた。その間、ドイツは資本主義を発展させ、工業力を伸張していった。

 88年にヴィルヘルム1世が死去すると、息子のフリードリヒ3世、次いですぐさらにその息子のヴィルヘルム2世が後継した。この若き皇帝は、ビスマルク外交の手練手管が理解できず、単純で直線的な植民地拡大政策を欲した。また、社会主義者鎮圧法の更新に反対し、ビスマルクと度々衝突した挙句、90年にはビスマルクを解任した。
 ビスマルクを排除したヴィルヘルム2世は、単純に力で植民地を奪い取ろうと3B政策を推進した。3B政策とは、ベルリン、ビザンティウム(イスタンブール)、バグダードという三つの都市の名に由来する。目的は、これら3都市を結ぶ鉄道を建設し、バルカンから小アジアを経てペルシャ湾に至る地域を経済的・軍事的にドイツの勢力圏にすることにあった。この政策は、アフリカの南北からインドまでを押さえようというイギリスの3C政策と対立した。
 ドイツは、1882年にオーストリア、イタリアと三国同盟を締結した。ロシアとは、独露再保障条約の更新を拒否したことにより、対立した。一方、イギリスは、1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、07年の英露協商によって、英仏露の三国協商を結んだ。
 こうして、19世紀末から20世紀の初頭における西欧の国際関係は、イギリス対ドイツの対立を主軸として進んでいく。英独にロシアやフランス等が絡む形で植民地争奪戦が行われ、それが高じて世界大戦へと大規模化していく。

●日本文明と近代西洋文明の遭遇

 前項でイタリアとドイツの統一について書いたが、19世紀後半において、もっとはるかに大きな意味を持つのは、日本の国際社会への登場である。日本の登場によって、欧米中心の時代から東洋・アジアが興隆する時代への移行が始まり、物質科学偏重の文明から物心調和の文明への飛躍が準備されることになる。

 ユーラシア大陸の西端では、4世紀末からヨーロッパ文明が発生・発達した。これと並行するように、ユーラシア東方においては、日本文明が発生・発達していた。
 日本文明は、古代シナ文明の影響を強く受けたが、早ければ9世紀末から10世紀、遅くとも12世紀末〜13世紀には、精神的にも制度的にも、主要文明となったと私は見ている。詳しくは拙稿「人類史の中の日本文明」に書いたので、ここでは、本稿に関係する範囲で簡単に書く。


 ヨーロッパ文明は15世紀末から地理的な発見の時代に入り、東南アジアにも進出した。日本文明もまた同時期に海洋アジアに進出した。わが国は鉱山を開発して金・銀を輸出し、アジアの物産を輸入した。こうしたわが国に1543年(天文12年)、ヨーロッパ文明が到来した。種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝えられ、続いてフランシスコ・ザビエルがキリスト教宣教師として日本の土を踏んだ。これまでと異なる文化・機械技術・宗教などとの出会いは、日本文明に大きな刺激を与えた。
 しかし、日本人は、キリスト教に対して伝統・国柄と相容れないものを感じ、その伝道によるヨーロッパ文明の侵入を防ぐため、17世紀前半に鎖国政策を取った。そして欧州支配の近代世界システム」から離れて、自給自足の体制を築いた。このことが、日本文明を熟成せしめることになった。

 約220年間の鎖国期間を中心とする江戸時代に、日本文明は、人と自然、人と人の間に、最高の「和」を実現した文明として大成した。
 江戸時代の日本人は、シナから摂取した儒教の日本化を行い、また国学を打ち立て、シナ思想からの自立を進めた。またシナとは異なる自国の歴史の研究を通じて、日本文明の独自性の自覚を深めた。創造力豊かな個性溢れる文化を発達させ、また和算による微積分の発見など同時代の西欧に匹敵する科学的業績も生んだ。江戸時代を通じて、日本固有の精神、「日本精神」は、より豊かなものへと成長した。
 こうして熟成した日本文明に、再度、西洋文明との衝撃的な出会いが待っていた。アメリカからの黒船の来航である。

 15世紀から西欧で発生した近代化革命の進展する近代西洋文明が、日本に到達した。わが国はデカルトの時代に、ちょうど鎖国に入り、近代化の外で過ごしていた。その間、近代西洋文明は、ラテン・アメリカ、アフリカ、アジアへと支配と収奪の構造を広げていた。そして遂に日本もまた征服・支配の危機に直面した。この文明の「挑戦」に対し、わが国は世界史上に残る見事な「応戦」を成し遂げた。
 江戸時代には、鎖国下ではあったが、蘭学者によって西欧の学術が学ばれていた。幕末には、幕府や西南雄藩が積極的に軍事技術や化学工業等を採り入れるようになった。西欧における近代化の成果は、極東にも伝播していたのである。
 近代化の進展する近代西洋文明は、強力な軍事力と高い科学技術をもっている。その前に、幕末の日本は開国を余儀なくされ、屈辱的な不平等条約を結ばざるをえなかった。ここで外圧への「応戦」に失敗すれば、白人種に隷属することになりかねない。また、もし日本人同士が分かれて争えば、その隙に欧米諸国に付け入られるおそれがある。シナ文明はアヘン戦争で列強に敗れており、日本人は、非常な危機感を持った。滅亡か、さらなる発展かという重大な岐路に遭遇したのである。
 そうした中で、天皇の存在や、わが国の独自性が強く自覚されるようになり、尊皇倒幕の運動が高まった。

●近代国家建設に日本は成功

 1867年(慶応3年)、徳川慶喜は、約700年続いた武家政権から朝廷に大政奉還を行った。明治天皇は王政復古を宣言し、ここに明治維新が始まった。1868年(慶応4年、明治元年)、新政府の政治方針として「五箇条の御誓文」が公布された。御誓文の示す根本方針下、明治政府は、古代からの皇室中心の国柄を明確にしつつ、近代的な中央集権国家を建設するというユニークな国づくりを推進した。
 1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、同4年には廃藩置県が断行された。武士の時代に発達した封建制をやめ、近代西洋の制度を採り入れて近代国家を建設するための改革である。廃藩置県の成功は、世界史上比類ない無血革命という快挙だった。

 明治政府は、富国強兵・殖産興業・文明開化をスローガンとして、日本の近代化を図った。日本の近代化は、近代西洋文明の「挑戦」に対する「応戦」の一環だった。近代化は、同時に西洋化の過程でもある。進歩発展した欧米に追いつくために、総力をあげて、西洋の思想・文化・知識を採り入れた。とりわけ近代西洋文明の科学技術の輸入は、日本に本格的な科学革命をもたらした。
 1889年(明治22年)には帝国憲法の公布、91年には教育勅語の発布ついで帝国議会の開設が行われた。政府によって資本主義が導入され、90年代半ばの日清戦争前後には製糸・紡績などの軽工業を中心に産業革命が本格化した。さらに1900年代半ばの日露戦争前後には軍需部門を中心に重工業が発達して、産業革命が達成された。わが国は、この資本主義的工業生産力をもって、近代国家としての発展を確固としたものにした。

 こうして日本は、非西洋社会ではじめて近代化に成功した。それは、古代から東洋精神文化の総合場所となっていた日本が、今度は東洋文明と西洋文明の総合の場所となったことを意味している。
 近代世界システムという観点から言えば、わが国は半周辺国としてシステムに参入し、急速に中核部へと上昇していくことになった。

●日露戦争で日本を支えた日英同盟

 この間、日本が体験した日清・日露戦争は、新興日本の国運を賭けた戦いだった。日本と清国とロシアの国益は、朝鮮半島をめぐってぶつかり合った。
 まずわが国は、1894〜95年(明治27〜28年)の日清戦争で大国シナを打ち破った。その結果、東アジアにおける日本とシナの地位が逆転し、日本文明のほうが、シナ文明に影響を与える関係になった。一方、清国が「眠れる獅子」ではないことを知った欧米列強は、シナの分割を行った。特に極東への南下政策を取るロシアの野心は露骨だった。日本は、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉を受け、遼東半島を返還させられた。
 ロシアの影響が朝鮮半島に及ぶのを恐れた日本は、イギリスと同盟を結ぶことを希望した。イギリスも極東でロシアの南下を食い止めてくれる相手を探していた。交渉相成り、1902年(明治35年)、日英同盟が締結された。日本が初めて結んだ平等条約であり、しかも当時世界最強のイギリスが条約の相手としたことにより、日本の国際的地位は向上した。
 日清戦争の勝利は、強国ロシアとの戦いを余儀なくするものだった。幕末以来、北から迫ってくるロシアは、日本の独立を脅かす最大の脅威だった。1904年(明治37年)に勃発した日露戦争で日本が勝つと、世界は驚嘆した。15世紀以来の西洋白人種の優位を、初めて有色人種が打ち砕いたのである。日露戦争における日本の勝利は、被抑圧民族を奮い立たせ、独立への情熱を駆り立てた。近代西洋文明の世界支配体制は崩れ始めた。日露戦争は、世界史を西から東へと動かす、歴史的な出来事だった。

 日露戦争での勝利は、日英同盟あってのものであり、またユダヤ人の経済力・金融力の支援あってのものだった。戦争が始まると、イギリスから提供された情報がわが国の軍事・外交に大きな力となった。イギリスのメディアが、日本の勝利とロシアの連敗を世界中に大きく報道したことが、国際世論を日本の側にひきつけた。黒煙を出さず燃費もいい良質な英国炭を、イギリスは日本には売るが、ロシアには売らなかった。イギリスがフランスに圧力をかけたため露仏同盟が有効に働かなかった。またバルチック艦隊は英仏の港に入れず、船の修理・整備が出来ないまま、日本海海戦に入ったため、軍艦の戦闘力を完全に発揮できなかった。
 私は、これらが日本の勝利に貢献した以上に、戦争継続のための資金に不足するわが国が、ユダヤ人資本家の協力を得たことが大きかったと思う。特命を受けてロンドンに行った高橋是清は、アメリカのクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフから外債の大量購入の申し出を受ける。2億ドルという巨額の融資だった。シフの背後に、ロスチャイルド家がいたことは想像に難くない。
 日英同盟時代のイギリスの政策は、ロスチャイルド家の意向と切り離せない。イギリス王室とロスチャイルド家の利害は、ほぼ一致していた。日露戦争は、そうしたイギリスとの同盟を支えとして展開され、わが国は元寇以来の存亡の危機に勝利した。

 わが国が二度の戦争を通じて参入した国際社会は、欧米列強が激しく争い合う帝国主義の時代だった。新興国日本は一個の近代国家、ネイション・ステイトとして生き残りをかけて、国策を展開することになった。
アメリカは、日露戦争に勝った日本の台頭を警戒し、対日戦争に備える「オレンジ計画」の策定を開始した。シナ大陸への進出を狙うアメリカは、日本がイギリスと同盟関係にあることを嫌った。第1次世界大戦後、アメリカはワシントン会議を主導し、四国条約(アメリカ・イギリス・日本・フランス)を成立させる。この条約は日英同盟を不要なものとして破棄させ、日本の後ろ盾をなくすものだった。

●世界を分割した帝国主義の時代

 19世紀前半のアジアでは、西アジアにはオスマン帝国、インドにはムガル帝国という二つの中心を持つ巨大なイスラーム文明が存在し、東アジアには清帝国というシナ文明史上最大の版図を持つ中華帝国が存在していた。ところが、それらが、いずれも急速に揺らぎ、崩壊していくのが19世紀後半のアジアの姿だった。
 帝国主義は軍事的な膨張主義である。これに資本の利潤獲得という経済的理由が重なっているのが、資本主義的帝国主義の特徴である。帝国主義の時代に西欧諸国が世界の大部分を征服・分割することが出来た理由は、強力な新型兵器にあった。圧倒的な軍事力がアジア・アフリカの人々の抵抗を押さえつけ、近代西洋文明の受容を強いたのである。その軍事力を生み出すものは、近代資本主義による経済力であり、物質科学による工業技術である。

 帝国主義(インペリアリズム)という言葉は、1870年代から英国で使われ始めた。イギリス植民帝国の拡大強化を意味した。1900年ごろには重点は政治的な植民主義から、市場・原料資源・投資のはけ口のための経済的な浸透と支配へ移った。この経済政策の推進力となったのが、ロスチャイルド家だった。イギリス王室とロスチャイルド家の共通利益を政策的に追求したのが、イギリスの帝国主義なのである。資本と国家の相互依存の典型がここにある。
 イギリス自由党員で経済学者のジョン・アトキンソン・ホブソンは、1902年に初版を出した『帝国主義論』で、当時のヨーロッパの状況を描き、帝国主義政策による植民地獲得や戦争の背後にいるのは、主として国際資本勢力だと主張した。ホブソンは、次のように書いている。
 「銀行、証券、手形割引、金融、企業育成などの大型ビジネスが、国際資本主義の中核を形成している。並ぶもののない強固な組織的絆で束ねられ、常に密接かつ迅速な連絡を互いに保ち合い、あらゆる国の商業の中心地に位置し、ヨーロッパに関して言えば過去何世紀にもわたって金融の経験を積んできた単一の、そして特異な民族によってコントロールされている。こうして国際金融資本は、国家の政策を支配できる特異な地位にある。彼らの同意なくしては、また彼らの代理人を通さずには、大規模な資本移動は不可能である。もしロスチャイルド家とその縁者が断固として反対したら、ヨーロッパのいかなる国も大戦争を起こしたり、あるいは大量の国債を公募したりできない。この事実を疑う者は一人としていないのである」と。
 上記引用において、「過去何世紀にもわたって金融の経験を積んできた単一の、そして特異な民族」とは、言うまでもなくユダヤ人のことである。そして、ホブソンは、その代表格としてロスチャイルド家を挙げているのである。
 1904年までに、ロスチャイルド家は、ヨーロッパ諸国に13億ポンドの債権を持つにいたった。ホブソンが、彼らなしに、戦争を起こすことも、国債を募集することもできない、といっているのは、そのような状況を指す。

●レーニン帝国主義論の予想は外れた

 ホブソンの理論はレーニンの『帝国主義』(1917年)の理論的中核となった。レーニンは「ホブソンの著作を細部にいたるまで使わせてもらった」と記している。
 レーニンは、ホブソンによりつつ、資本主義は独占資本の段階に入った時にその最高形態としての帝国主義に転化すると規定した。レーニンは、資本主義は独占資本主義の段階に達すると、利潤率の低下と生産力の著しい上昇の結果、国内消費が不足するため海外投資と過剰製品の販売市場を求めて植民地獲得競争が激化せざるをえないとした。そして、帝国主義の五つの特徴として、生産の集中・独占、金融寡頭支配の確立、資本輸出、国際カルテルによる国際市場の分割支配、世界分割の完成を挙げた。
 レーニンは、こうした帝国主義を資本主義の最高にして最後の発展段階とし、社会主義革命への準備段階と位置づけた。そして帝国主義の不均等発展は、戦争を不可避とすると主張した。その部分は予想が当たり、列強は世界大戦に突入した。レーニンの指導するボルシェヴィキは「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」というスローガンを掲げた。そして、第1次世界大戦の戦争による混乱に乗じて、ロシアで革命を実現した。
 第1次大戦やロシア革命については、この後に書くので、話を先取りすることになるが、革命はロシア以外の帝国主義国では起こらなかった。世界大戦は再度起こったが、やはり先進資本主義国では革命は起こらなかった。そして、レーニンの予想とは異なり、帝国主義は資本主義の最高の段階でも最後の段階でもないことが、歴史によって示された。レーニンが挙げた帝国主義の特徴の多くは、独占資本主義の特徴であり、経済学的な分析によるものである。しかし、帝国主義は、基本的には対外政策であり、もともと経済外的な動機による。経済外的な政策によって、資本主義経済が国際的に管理・統制されれば、各国の対外政策は変わりうる。
 事実、資本主義は、20世紀半ばから21世紀にかけて、大きく変貌した。19世紀的な軍事偏重の帝国主義政策は、維持されなくなった。国際連合の設立、IMF=GATT体制、植民地の独立、国家間の平等・互恵の重視等は、資本主義世界経済に新たな可能性を与えることになった。近代西洋文明が生み出した資本主義世界経済というシステムは、柔軟な可塑性と堅固な持続性を持っているのである。

●科学技術の発達が帝国主義を促進した

 以前、本稿で、科学革命と産業革命の合体や第2次産業革命について書いた。科学技術の発達は、人間生活を豊かに、また便利にする。しかし、物質文明は発達すれば発達するほど、用い方を誤れば、それだけ大きな損害を生み出しもする。
 19世紀後半は、重工業・化学工業が成長し、人間の生活を変え、今日に至る文化生活を実現するとともに、一旦戦争になれば、多数の人命を殺傷し、文明そのものを破壊するものとなっていった時代である。帝国主義による膨張政策も、交通や動力の革新、重化学工業の発達に裏付けられたものだった。この点をここで補足したい。

 イギリスを嚆矢とする鉄道建設は、40年代〜50年代にヨーロッパ各地や北米大陸に急速に広がり、国内市場の統一、国民国家の形成に大きな役割を果した。鉄道は植民地でも敷設され、原料と商品の大量輸送が行われた。
 鉄道建設が世界各地で進んだことが、重工業の急速な成長をもたらした。鉄道は、機関車、レール、鉄橋等、大量の鉄製品を必要とする。56年にベッセマーが転炉、64年シーメンズが平炉による製綱法を発明し、銑鉄より丈夫な鋼鉄が生産されるようになった。鋼鉄は、精巧な機械や兵器の製造を可能にした。鋼鉄は、科学革命と産業革命の合体を確固たるものとした。

 科学革命と産業革命の合体において画期的だったのが、1851年にロンドンで開かれた第1回万国博覧会である。
 第1回万博は、産業革命で工業生産と国際貿易に支配的地位を確立したイギリスが、その繁栄を誇示する一大イベントだった。会場は、鉄とガラスで初めて作られた巨大な建築物「水晶宮」だった。場内には、参観者を驚嘆させる当時最先端の工業製品が数々展示された。ロンドンを中心に発達した鉄道網を利用して、延べ600万人もの入場者が集まった。

 62年には、第2回ロンドン万博が開催された。開会式には、七人の侍が参加した。イギリスの蒸気船に乗って日本から来た幕末遣欧使節団の代表たちである。使節団の一員には、通訳の福沢諭吉がいた。会場には、兵器や軍事用品も多数展示され、新製品のアームストロング砲や蒸気力による軍艦が使節団の度肝を抜いた。
 わが国は、明治初期にも岩倉使節団を欧米に派遣した。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らが、1871年から73年にかけて、近代西洋文明の実態を見聞した。彼らは、日本と欧米の経済力、技術力、軍事力のあまりの大きな差を実感した。明治政府が、国家の興廃を賭けて文明開化、富国強兵、殖産興業を進めたのは、こうした海外調査活動に基づく。

●進歩と破壊は表裏一体

 19世紀末からロンドンは、人口100万人を越える大都市となっていた。街灯、上下水道、ガスの供給等が整備された。63年には地下鉄が開通し、ボストン、パリ等に広がった。
 ジーメンスは、67年にダイナモ発電機を発明した。ここに蒸気機関に替わる新たなエネルギー源として電気が登場した。ジーメンスは、81年にベルリンで電車の営業運転を開始した。発明王エジソンは、79年に電気を使った白熱灯を発明した。電灯は、夜でも昼のように町を明るくし、人々の生活を変えた。82年には、ニューヨークで世界初の発電所が稼動した。

 70年代から人工染料、人工繊維を製造する化学工業が興隆した。電気が工業に利用されるようになると、電気化学工業と窒素工業が確立され、様々な製品が生産されるようになった。鋼鉄と化学製品の結合は、さらに多様な製品の生産を可能にしていく。
 電気とともに重要なのは、石油の利用である。21世紀の今日でも、電気と石油が現代生活の主要なエネルギー源となっている。1862年に内燃エンジンが作られ、86年にはダイムラーが自動車を発表した。1902年には、フォードが自動車会社を設立し、大量生産方式で生産を進めた。

 陸上交通だけでなく、海上交通でも技術の進歩は著しかった。船舶は、1860年代に、木造船から鉄製の船に変貌した。90年代には、ディーゼルエンジンが登場し、石炭に替わって重油が使用されるようになった。冷凍法の利用によって、世界各地からヨーロッパの諸都市に食肉等の食糧が輸送することが可能になった。
 こうした科学技術に発達によって、近代世界システムの中核部は、ますます工業を発達させ、半周辺部・周辺部は、農業地帯、食糧供給地に固定されるという分業体制が強化された。

 産業の発達は、情報の発達を促す。1840年イギリスで発達した郵便組織は各国で成長し、74年に万国郵便連合が結成された。71年に諸大陸を結ぶ電信網が商業利用されるようになった。76年にはベルが電話を発明し、欧米で急速に普及した。96年にはマルコーニが無線電信技術を開発し、大陸間に通信ネットワークが形成された。70年代以降、大量印刷技術が改良され、機械による活字製版が標準化した。さらに電力による輪転機が用いられるようになると、新聞、雑誌の大衆化が進んだ。
 
 最初に、科学技術の発達は、人間生活を豊かにまた便利にするが、物質文明は発達すれば発達するほど、用い方を誤れば、それだけ大きな損害を生み出しもする、と書いた。上に書いた科学技術の進歩は、人間生活を一新し、近代的な生活を実現した。それと同時、重化学工業に応用される科学技術は、軍事力の飛躍的な強化を成し遂げる。兵器だけではない。電気や自動車や電気通信技術等、新しい技術の多くが、戦争をより殺傷力、破壊力のあるものとする。
 世界の各地に進出する帝国主義は、重化学工業の生産力に裏付けられた膨張政策である。帝国主義のぶつかり合いは、戦争を招く。科学革命と産業革命が合体した重化学工業の底知れない威力が発揮されることになったのが、第1次世界大戦である。ページの頭へ

 

 

第6章 第1次世界大戦と世界の動揺

 

(1)戦争と革命による混迷

 

●バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」に

 1800年には、欧米は地球の陸地の35%を支配したに過ぎなかったが、1914年になると実に84%がその支配下に入った。植民地獲得競争が世界各地で展開され、激化した列強の勢力争いは、やがて第1次世界大戦へとエスカレートすることになる。
 この勢力争いの主たる舞台が、バルカン半島だった。ナポレオン戦争後、オスマン帝国が衰退するに伴い、バルカン半島では次々に国民国家が誕生した。しかし、今日も民族紛争が繰り返されているように、多くの民族が混在する地域であったため、これらの国々はしばしば領土をめぐって対立した。

 東方正教文明の担い手であるロシア帝国は、陸続きのバルカン半島に目をつけ、この地域の国際関係に介入した。ロシアは、スラヴ系民族の文化的一体性を強調し、その統合をめざす運動を推進した。これをパン=スラヴ主義という。
 これに対し、オーストリア=ハンガリー帝国はドイツの後ろ盾で、パン=ゲルマン主義を唱え、パン=スラヴ主義の拡大を抑えようとした。オーストリア=ハンガリー帝国とは、複雑な民族問題を抱えるハンガリーに一定の自立性を与える代わりに、オーストリア皇帝がハンガリーの皇帝を兼ねる形で設立した二重帝国である。
 パン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義は、ナショナリズムの拡大版ではある。ただし、大国・大民族が中心となって、小国・小民族を系列化しようとする文化的帝国主義の思想である。

 1908年、オーストリア=ハンガリー帝国は、突如としてボスニアとヘルツェゴビナを併合した。これに対し、ロシアは、12年にセルビアを中心とするバルカン同盟を結成して対抗しようとした。しかし、ロシアの意に反し、バルカン同盟の諸国は、オスマン帝国に戦争を仕掛け、半島のオスマン帝国領のほとんどを奪い取った。これを第1次バルカン戦争という。バルカン同盟内では、獲得した領土の分配をめぐって、ブルガリアと周辺国との間に、第2次バルカン戦争が起こった。敗れたブルガリアはドイツ、オーストリアに接近し、バルカン半島は大国、小国の利害がますます複雑に絡み合う地域となり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。

●暗殺の銃弾から世界大戦は始まった

 1914年6月28日、事件は起こった。陸軍演習の観閲のためボスニアの州都サラエボを訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フェルディナンド夫妻が、セルビア人青年に暗殺されたのである。南スラヴ統一国家建設を目指す秘密組織が背後にあった。オーストリアは、ドイツの支持を得て、セルビアに宣戦を布告した。ライバルのロシアはセルビアを支持して、これに応戦した。続いてドイツがロシアとフランスに宣戦し、さらにイギリスも参戦した。
 こうして14年月、かつてない規模の戦争が勃発した。各国はドイツ、オーストリア、オスマン・トルコ、ブルガリアの中央同盟国(同盟国)と、三国協商に基づくイギリス、フランス、ロシアを中心とした連合国(協商国)に分かれて戦った。イタリアは開戦の翌年、三国同盟を破棄して協商国側についた。日本は、日英同盟によって、ドイツに宣戦し、シナ大陸で矛を交えた。ヨーロッパだけでなく、アジアを含む30カ国以上が参戦する最初の世界戦争となった。

 短期決戦を目論んでいたドイツは、西部戦線ではベルギーの中立を侵してフランスに攻め込み、パリ近郊まで迫った。しかし、9月のマルヌの戦いで進撃を阻止され、戦闘は塹壕戦に突入した。東部戦線では、ドイツ軍がロシア軍の進撃をタンネンベルグの戦いで破り、ポーランドやリトアニアを占領した。しかし、こちらでも戦闘は膠着状態となった。
 多くの人々は、戦争は「クリスマスまでには終わる」と楽観していた。ところが、第1次世界大戦は、1918年11月まで、約4年4ヶ月もの間、繰り広げられた。

●第1次世界大戦の展開と終結

 戦争は誰もの予想を裏切って長期化し、国民全体の協力体制を必要とする史上初の総力戦となり、女性や植民地の住民までもが動員された。社会主義者の多くも自国の戦争に賛同したので、各国で挙国一致体制が成立した。

 大戦初期は、昔ながらの歩兵・騎馬戦が主流だった。しかし、機関銃の登場は、突撃を困難にしたので、塹壕を掘りながら陣地を進める塹壕戦が主流となり、戦線は膠着した。さらに特筆すべき点は、毒ガス、戦車、飛行機などの新兵器が開発され、戦い方が大きく変化した。
 莫大な人員と物量が戦場に投入されることにより、犠牲者の数は飛躍的に増大した。1916年のヴェルダン要塞攻防戦と、続くソンムの戦いでは、双方合わせて70万人以上ともいわれる戦死者を出した。
 しかし、果てしない消耗戦が続くと、各国の国民の間に厭戦気分が広がりはじめた。イギリスの海上封鎖により物資の欠乏に苦しむドイツでは、17年に入ると、戦争継続に反対する一派が社会民主党から分かれて独立社会民主党を結成し、大規模なストライキを起こした。

 膠着状態に陥った戦争が転機を迎えたのは、1917年だった。ドイツが中立国の商船をも警告なしに攻撃する無制限潜水艦作戦を宣言すると、それまで中立の立場を取っていたアメリカがドイツに宣戦した。世界最大の工業国アメリカの参戦によって、戦局は連合国側の優勢へと大きく傾いた。
 ロシアでは、同年11月レーニンが率いるボルシェヴィキがクーデタを起こし、世界初の共産主義革命が起こった。革命政権は翌18年3月単独でドイツと講和した。革命政権はドイツと単独講和を結び、ロシアが戦線から離脱した。西部戦線で最後の攻勢に出たドイツは、戦局を打開できず、国内の政情は悪化した。4月、キール軍港で起きた水兵の反乱をきっかけにドイツ革命が起こり、ヴィルヘルム2世が退位し、休戦条約が結ばれた。

●大戦による人類文明史的な変化

 こうして第1次世界大戦は終結した。大戦によって、ヨーロッパは疲弊した。戦争の悲惨は、キリスト教的な価値観に揺らぎをもたらした。終戦の年、オズワルド・シュペングラーが『西洋の没落』を刊行した。啓蒙や進歩を無条件によしとする思想に、懐疑が生まれた。欧州列強による近代世界システムの支配は揺らぎ、アメリカが躍進した。欧州中心的な見方が相対化されはじめた。
 当初、第1次世界大戦は、ヨーロッパ列強のオスマン帝国の分割を巡る戦争だった。この点では、第1次大戦は、西洋文明とイスラーム文明が戦う文明間の戦争だった。1229年にオスマン朝が創建されてから1917年まで、実に700年を越える両文明の対立に、終止符が打たれた。
 オスマン帝国は敗戦により解体され、フランスがシリア、イギリスがイラク・パレスチナを、国際連盟の委任統治領という名目で、実質的な植民地にした。すでにイギリスにスエズ運河周辺を占領されていたエジプトは、大戦中にイギリスの事実上の植民地とされた。オスマン帝国の領土で辛くも残った小アジアでは、ケマル・アタテュルクがトルコ共和国を樹立して、西欧をモデルにした近代化=西欧化を進めた。その結果、イスラーム文明はオスマン帝国という中心を失って分裂の道を進み、西欧諸国の進出が急速に進んだ。
 それゆえ、第1次世界大戦は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アジアの諸文明やアフリカ諸文化のほとんどを周辺文明化してきた近代西洋文明が、その過程の最終段階において、最大のライバル、イスラーム文明を富と力で打ち破った出来事だった。

 サミュエル・ハンチントンは、1996年に刊行した『文明の衝突』で、米ソ冷戦終焉後の20世紀末から21世紀の世界について、西洋文明とイスラーム文明・シナ文明の対立を予想した。しかし、既に20世紀は「文明の衝突」によって世界戦争が2度起こり、文明間の変動が続いた世紀だった。
 第1次世界大戦においては、大戦期間から戦後にかけて、近代世界システムの中核部では、覇権国家がイギリスからアメリカに移動した。半周辺部では、東方正教文明の中心であるロシア帝国で革命が起こり、共産主義国家が初めて実現した。周辺部の諸文明では、植民地・従属国でナショナリズムが勃興し、独立運動が広がった。戦争は、それまでの構造を大きく揺り動かす。その変動の第1段階が、第1次世界大戦だったのである。

●帝政ロシアの動乱

 東方正教文明の継承者ロシアでは、18世紀からロシア帝国が勢力を伸ばした。封建制が続くロシアでは、1861年にようやく農奴解放がされたものの農民の生活は向上せず、社会体制への不満が鬱積した。
 そうしたロシアで、日本より早く近代化が行われた。近代化とは西洋化であり、近代西洋文明の摂取である。異文明の到来には、これに反発し土着的な文化を保守しようとする志向と、その文明から進んだ文化要素を取り入れることでこれに対抗しようとする志向とが生まれる。もともと西欧とユダヤ=キリスト教文化を共にし、王族・貴族が西欧文化の影響を強く受けていたロシアは、わが国とは違う近代化の道を進んだ。
 19世紀末、産業革命が始まると、近代化=西洋化の進展による矛盾が増大した。土着的な思想のナロードニキと西欧的な思想の社会主義者は、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)に反発した。行動は過激化し、81年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。
 明治の日本が、天皇を中心とし、その下で旧武士集団が積極的に近代国家建設を進めたのとは違い、ロシアの知識人の多くは帝政の打倒に向かった。

 近代西洋文明の周縁で近代化を進める日本とロシアは、日露戦争で対決した。ロシア帝国は、日本に苦戦した。1905年、生活の困窮をツァーリに訴えるデモ隊に軍隊が発砲した血の日曜日事件が起こった。事件を機に、労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィエト(労兵評議会)が結成された。皇帝ニコライ2世は、ドゥーマ(国会)の開設と憲法制定を発表した。
 国会開設後、首相ストルイピンによる改革が図られたが、社会の根幹は変化せず、ストルイピンは11年に暗殺された。16年には、宮廷で力を誇っていた怪僧ラスプーチンが暗殺された。

 第1次世界大戦が始まり、長期化すると、政府の戦争指導に対し、兵士と民衆の不満が増大した。もともと経済的基盤の弱かったロシアは、深刻な食糧不足に陥った。
 1917年3月(ロシアのユリウス暦では2月)、食糧暴動が起こり、窮状に耐えかねた労働者が首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)でゼネストを敢行した。兵士たちもこのゼネストを支持した。国会では、中道派の立憲民主党を中心とした臨時政府が樹立され、事態を収拾できなくなったニコライ2世は退位した。この2月革命により300年余りに及ぶロマノフ朝は終わりをつげた。
 無政府主義者、社会主義者の活動が活発になった。その中から主導権を得ていくロシア社会民主労働党は、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党(エスエル)と共に積極的な活動を展開した。
 社会民主労働党は、レーニンが指導するボルシェヴィキ(多数派)と、プレハーノフらのメンシェヴィキ(少数派)に分裂していた。ボルシェヴィキは、フランス市民革命のジャコバン主義とブランキの戦術を継承し、前衛党が暴力で権力を取る方法を追求するのに対し、メンシェヴィキは西欧型の大衆政党を目指していた。

●ボルシェヴィキは権力を強奪した

 2月革命後、各地でソヴィエトが設置され、臨時政府とソヴィエトが対立する二重権力状態が生まれた。社会革命党のケレンスキーが指揮する臨時政府は、対独戦を継続する方針だったが、戦局は好転せず、民衆の支持は低下した。4月、亡命先のスイスからレーニンが帰国した。レーニンは封印列車に乗ってドイツを通過して来た。
 「平和とパンの要求」(四月テーゼ)を掲げたレーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」と訴えて、臨時政府との対決姿勢を明らかにした。各地のソヴィエトで、権力奪取のために戦争反対策を取るボルシェヴィキが伸張した。

 レーニンは、暴力革命を指導した。17年11月(ユリウス暦10月)、労働者・兵士がペトログラードで蜂起して臨時政府を倒し、ボルシェヴィキと社会革命党左派からなる革命政権が樹立された。蜂起の軍事面は、メンシェヴィキから合流したトロツキーが指揮した。これが10月革命と呼ばれる。
 レーニンを最高指導者とする新政府は、即時停戦と無併合・無賠償による和平、地主の土地の没収、少数民族の自決権の承認等を宣言した。新政府は憲法制定議会の選挙を実施した。選挙の結果、農民を支持基盤とする社会革命党が第一党になった。

 ところが、レーニンは選挙の結果を踏みにじった。18年1月レーニンは武力で議会を解散し、社会革命党を政権から追放して、ボルシェヴィキによる一党独裁体制を敷いた。少数派が暴力で権力を強奪したのである。
 議会制デモクラシーとは、自由で公正な選挙によって選ばれた議員によって政治が行われることである。ところが、ロシアで起こったのは、デモクラシーを否定し、武力で政権を奪うクーデタだった。
 ボルシェヴィキは18年に共産党と改称する。ソ連共産党は、ロシア革命の過程をすべて正当化し、権力の正統性を偽装した。しかし、共産党による一党独裁は、プロレタリア独裁を騙った官僚専制であり、共産主義者が労働者・農民を支配する体制だった。
 革命の約70年後、ソ連は崩壊する。人民の心は、共産党から離れていた。ソ連崩壊という結末は、革命の出発時から避けがたい帰着点だったのである。

●レーニンの下での反乱・戦争・弾圧・処刑

 話を10月革命の直後の時点に戻す。権力を強奪したボルシェヴィキは、土地改革、重要産業・銀行の国有化等を進めた。これに対し、各地で反乱が起こった。レーニンは武力で鎮圧を図った。
 レーニンにとって、戦争の早期終結は、権力の維持のために必須の課題だった。1917年12月、ボルシェヴィキ政権は同盟国との休戦交渉を開始した。翌年2月ウクライナ国民共和国が同盟国と結んだため、政権は窮地に立った。レーニンは3月、ドイツとの単独講和に踏み切り、ブレスト=リトフスク条約を締結した。条約は、多額の賠償支払い義務を負い、ポーランド、バルト海沿岸地域等の領土を割譲するという厳しい内容だった。しかし、この条約は、ドイツが大戦に敗れたため、破棄されることになった。

 18年3月講和によりロシアが戦線を離脱すると、革命が自国に波及することを恐れた列強諸国は、干渉戦争を開始した。英仏は北ロシアに軍隊を派遣し、日本もアメリカ等とともにシベリアに出兵した。連合軍は、各地で蜂起した白軍(反共軍)を支援した。赤軍(共産軍)は圧倒され、ボルシェヴィキ政権は、一時は国土の大部分を占領された。
 しかし、外国軍の侵入は、かえって民衆のナショナリズムを覚醒させる結果となった。外敵からの自己防衛意識が高揚すると、国内での不満や反発は二の次となる。勢いを取り戻した赤軍は、各地の敵対勢力を屈服させ、22年には外国軍の干渉を排除した。
 この間、ボルシェヴィキ政権は、1918年9月から、国有化を全工業に拡大し、また農民から食糧を徴発するなど、戦時共産主義と呼ばれる政策によって政治・経済の統制を図った。レーニンは、国内では、秘密警察チェーカーを使って、他党他派を裁判なしに大量処刑して独裁を固めた。ニコライ2世とその家族は、チェーカーに命じて全員銃殺した。

 ボルシェヴィキ政権は、ドイツでの革命に期待をかけていた。ドイツでは、18年11月に水兵の反乱に端を発し、各地に労兵レーテ(評議会)が結成された。しかし、社会民主党による臨時政府は、議会制デモクラシーの確立を目指し、革命運動を鎮圧した。他の先進的な西欧諸国でも、共産主義革命は進展しなかった。国際的に孤立したボルシェヴィキ政権では、一国だけで社会主義を建設することが可能だという一国社会主義論が提唱された。

 19年3月、ボルシェヴィキ政権は、コミンテルン(第三インターナショナル)を設立した。コミンテルンは、国際共産主義運動の本部組織である。だがその実態は、ソ連共産党を盟主とする世界革命のための謀略機関だった。各国の共産党は、コミンテルンの支部として作られ、「社会主義の祖国」ソ連の防衛と世界戦略に奉仕させられた。
 内政では21年、戦時共産主義で国民経済が崩壊寸前になっていたところ、ネップと呼ばれる新経済政策に転換した。ネップは農民層の不満を緩和するため、余剰農産物の自由販売や小商工業の私営を認め、外資の導入、技術者の優遇を図るなど、資本主義的要素を取り入れたものだった。社会主義の原則に反する政策を取ることで、レーニンは経済復興に成功した。

●共産主義国家における独裁の完成

 22年12月、ボルシェヴィキ政権は、全国ソヴィエト大会で国家樹立を宣言し、一党独裁を国是とするソヴィエト社会主義共和国連邦が誕生した。ソ連は、当初はロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカスの4つの共和国の連邦だった。
 1924年1月にレーニンが死ぬと、一国社会主義を主張するスターリンと、西欧先進国での連続革命の必要性を説くトロツキーとの対立が表面化した。晩年のレーニンは、粗暴で野心家のスターリンの資質に疑問を抱き、遺書となった書簡で、書記長更迭の必要性を書いていた。しかし、書簡は封殺され、5月の党大会でスターリンの書記長留任が決定した。スターリンは、トロツキーの権威失墜を謀り、個人独裁の体制を確立していった。トロツキーは、亡命先のメキシコで暗殺された。
 スターリンは、28年5ヶ年計画に着手し、集団的所有と計画経済に基づく工業の社会主義化、農業の集団化を進めた。それとともに、スターリンは、共産党幹部多数を粛清し、恐怖政治を行った。チェーカーに代わったGPU(ゲーペーウー、国家政治保安部)は、OGPU(オーゲーペーウー、統合国家政治保安部)を経て、34年にNKVD(エヌカーペーデー、内務人民委員部)に統合される。秘密警察と強制収容所、赤軍の諜報機関がスターリンの個人崇拝体制を支えた。

 ロシア革命の過程は、いろいろな点でフランス市民革命に似ている。ルイ16世とニコライ2世、モンターニュ派とボルシェヴィキ、ロベスピエールとレーニン、ギロチンによる粛清と銃殺による粛清、外国の干渉戦争に対するナショナリズムの高揚等である。そして、フランス革命の最後に登場したナポレオンに当たるのが、ロシア革命においてはスターリンである。流血の革命の成果を守るため、最後には強大な権力を持った独裁者が現れる。ナポレオンは、自ら皇帝の座に就いた。スターリンは、自身をイワン雷帝になぞらえた。
 ロシア革命を総括する者は、フランス革命をも総括すべきであり、フランス革命を批判する者はロシア革命をも批判すべきである。

●最初から「裏切られた革命」

 私は、ロシア革命は決して共産主義の理想を純粋に追求したものではなかったと思う。そう思う理由の一つとして、クロンシュタットの反乱がある。
 1921年3月、クロンシュタットの水兵たちが蜂起した。彼らは、ボルシェヴィキ政権に対し、「全ての権力をソヴィエトヘ」と唱えて、自由選挙の保障、言論・出版の自由、政治犯の釈放、個人の財産の所有権等を要求した。
 共産党政治局員でペトログラード・ソヴェトの議長ジノヴィエフは、トゥハチェフスキー司令官を派遣して、反乱を鎮圧した。赤軍兵士の中には、反乱軍に同情して攻撃命令を拒否する者がいた。司令部は、命令に従わない兵士を形だけの裁判で銃殺した。さらにチェーカーが兵士の側に付いて、戦闘中に逃亡する兵士を射殺するよう命令した。反乱軍の生存者は死刑または投獄に処された。

 レーニンの死後、スターリンとの権力争いに敗れたトロツキーは、ロシア革命を「裏切られた革命」と呼んだ。しかし、彼自身、クロンシュタットの反乱を「何の展望も持たない反革命蜂起」とし、「ソヴィエト政府による鎮圧を擁護する」と述べている。トロツキーもまた人民を裏切ったのである。
 私は、選挙で第1党になった社会革命党を排除して独裁制を敷き、クロンシュタットの反乱を圧殺したボルシェヴィキが、労働者・農民のために革命を起こしたとは、思えない。ロシアの職業革命家たちは、人民大衆のためではなく、自分たちの思想のために革命を起こし、国家権力奪取の後は、権力を用いて共有財産を私物化し、革命貴族に成り上がった。そうした国家が腐敗し、崩壊したのは、必当然である。

 19世紀末ロマノフ朝圧制下のロシアで、ユダヤ人は「ポグロム」と呼ばれる虐待虐殺を受けた。多数のユダヤ人が、国外に出国してアメリカ等に移民するか、国内に残っては帝政打倒の政治運動に参加した。ボルシェヴィキの幹部には、ユダヤ人が多かった。先に書いたトロツキーやジノヴィエフがそうである。スターリンは、彼らユダヤ人幹部を次々に粛清した。
 そこに垣間見えることだが、ロシア革命における資本と国家、民族と国民の関係は、極めて複雑である。
 レーニンは、1917年4月、亡命先のスイスからロシアに帰国し、強力に革命を指導した。この時、レーニンは封印列車に乗ってドイツ経由で帰国した。列車は、ロスチャイルド家のドイツにおける代理人、マックス・ウォーバーグが準備したものだった。
 クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフは、1917年にレーニンとトロツキーに対し、活動資金としてそれぞれ2000万ドル(当時)を与えている。同商会は、アメリカのユダヤ系資本で、ロスチャイルド家との関係が深かった。
 トロツキーは、アメリカに亡命していた時期、ロックフェラーの援助により、ニュージャージー州のスタンダードオイル社の所有地で、革命用の私兵集団の訓練を行っていた。

 巨大国際金融資本がロシアの革命家を支援した理由の一つは、ユダヤ人の地位向上を期待したものだろう。しかし、彼らの期待は、反ユダヤ主義者スターリンによって、裏切られた。もう一つ別の理由は、ロマノフ朝を倒し、広大なロシアの資源と市場を開放させようとしたものだろう。革命後、巨大国際金融資本は、共産党政府からバクー油田の権益を得て、莫大な利益を上げた。共産党政府のほうも、外国資本家に石油を売ることで外貨を獲得して、経済危機を乗り越え、社会主義の国家建設を進めていった。

 20世紀は「戦争と革命の世紀」といわれた。マルクス=レーニン主義者は、資本主義から社会主義への移行は歴史的必然であり、現代世界は資本主義から社会主義への過渡期にあると吹聴した。社会主義は共産主義の低い段階であり、やがて高次の段階としての共産主義に入ると宣伝した。だが、国際共産主義の根拠地・ソ連は、自ら共産主義段階に入ったとブレジネフ書記長が発表した後に、崩壊した。
 それは、一部の共産主義者が今なお主張するように、ブルジョワジーの巻き返しによる一時的な後退なのか、それとも共産主義そのものが理論的に欠陥を持ち破綻の避けられないものだったのか。私は後者の見方である。詳しくは、本サイトの「共産主義」の項目を参照願いたい。

(2)強者は抑圧し、弱者は反抗する


●報復と抑圧のヴェルサイユ体制

 第1次世界大戦後の混乱を収拾するため、1919年1月から連合国によるパリ講和会議が開かれた。アメリカ合衆国のウィルソン大統領は、秘密外交の廃止や軍備縮小、民族自決、国際連盟の設立などを唱えた「14か条の平和原則」を提案した。しかし、英仏はドイツへの報復を主張し、平和原則は実現を阻まれた。採用されたのは、国際連盟の設立のみだった。その提案も、自国の議会の反対を受けたため、ウィルソンはアメリカの国際連盟加入を実現できなかった。
 19年6月にヴェルサイユ条約が締結された。敗戦国ドイツは、不利な条約を結ばざるを得なかった。ドイツ以外の中央同盟国も、個別に連合国と講和条約を結び、ヴェルサイユ体制と呼ばれる戦後国際秩序が形成された。
 講和条約により、ドイツは海外の全植民地を失った。「持たざる国」への逆戻りである。また軍備を制限され、ラインラントの一部は大戦後も連合軍によって占領された。さらに1320億マルクという巨額の賠償金を課せられた。こうした厳しい条件を強いられたドイツ人は、英仏に恨みを抱いた。報復は、復讐を招く。それがナチスの台頭となる。キリスト教は、愛と赦しを説く。しかし、同じ教えを信奉する国々が、互いに憎み、争い、世界を闘争に引き込んでいく。

 特筆すべきことがある。パリ講和会議において、わが国が画期的な提案をしたことである。日本代表・牧野伸顕は、人種差別を廃止する人種平等案を規約に盛り込む提案をした。当時、アメリカに移民した日本人は、この自由の国で、人種差別を受けていた。日本政府は、そうした人種差別の廃止を望んだのである。アメリカの黒人をはじめ、世界各国の有色人種が、日本の提案を歓迎し希望を抱いた。
 講和会議において、日本は提案に関する採決を求め、挙手が行われた。賛成が11、反対が5。多数決の原則によれば、可決のはずである。しかし、議長のウィルソンは、全会一致でないので提案は否決とした。「このような重要な問題は、全員が賛成しなければ認められない」というのである。もし人種平等案が国際連盟の規約の中に盛り込まれると、アメリカ国内の人種問題が激化することを、ウィルソンは恐れたのである。

 近代世界システムの周辺部では、植民地の住民たちがパリ講和会議で、民族自決の要求が実現することを期待した。しかし、宗主国は植民地の独立要求を無視した。ドイツの旧植民地やオスマン帝国等の領土は、国際連盟の委任統治領という形で戦勝国の間で分配された。
 独立要求を無視された植民地では、各地で民族主義運動が起こった。朝鮮の3・1運動、中国の5・4運動、エジプトのワフド党による反英運動、インドのガンディーの非暴力抵抗運動などである。ヴェルサイユ体制は、こうした有色人種のナショナリズムを抑圧するものだった。その一方、白人種の住む東欧諸国だけは、民族自決の原則が適用された。
 ドイツ、オーストリア、ロシアの各帝国の崩壊により、ポーランド、チェコスロヴァキア、バルト三国、ユーゴスラビア等の諸国が誕生した。しかし、東欧は民族分布が複雑であり、国民国家の形成は困難を極めた。また、ポーランド、チェコスロヴァキア、リトアニア等では、ドイツ、オーストリアが講和条約で喪失した地域が領土に組み込まれたが、これらの地域にはドイツ系住民が多数居住しており、民族紛争の火種となる可能性があった。実際、ドイツでナチスが台頭すると、これらの国々は、ドイツ系住民の保護を理由に掲げるヒトラーによって、併合または侵攻されるのである。

●東アジア・太平洋地域ではワシントン体制

 ヴェルサイユ体制と並んで、第1次世界大戦後に成立したのが、ワシントン体制である。ワシントン体制とは、1921〜22年にかけて開かれたワシントン会議と、そこで成立した一連の条約による国際秩序である。東アジアや太平洋地域での国際秩序を確立させたものである。
 第1次世界大戦から第2次世界大戦の間の国際秩序は、ヴェルサイユ=ワシントン体制と呼ぶことができる。二つの大戦の戦間期は、ヴェルサイユ=ワシントン体制を維持しようとする戦勝国と、打破しようとする敗戦国の間の力学で、国際関係が動いていく。
 ヴェルサイユ=ワシントン体制は、第2次世界大戦の戦後秩序であるヤルタ=ポツダム体制に相当する。ヤルタ=ポツダム体制に疑問を抱く者は、ヴェルサイユ=ワシントン体制から検証する必要がある。

 第1次世界大戦は、参加国のほとんどが共倒れに近い状態になった戦いだった。戦勝国のイギリスは、巨額の戦費支出により債務国に転落した。主戦場となったフランスの被害も大きかった。ロシア、ドイツ、オーストリアでは帝政が倒れ、革命や混乱を生じた。
 これに比し、アメリカは、大戦中、世界最大の工業力を発揮して、連合国に武器を供給して儲け、また戦後は各国に債権を持つ世界最大の債権国となった。戦争は海外で行われたので、国土への影響はまったくなかった。アメリカの参戦が連合国の勝利に大きく貢献したので、国際的な発言力も高まった。
 しかし、アメリカ国民の間では、伝統的なアイソレイショニズム(不干渉主義)が根強かった。ヴェルサイユ条約の批准も、国際連盟の加盟も、議会は否決した。アメリカの不干渉主義は、ヨーロッパの争いに関わらないことが独立と繁栄を維持する最善の策であるという考えに基づく。ただし、それはヨーロッパとの間の不干渉であり、他の地域に対しては、アメリカは積極的に進出した。こうしたアメリカが東アジアや太平洋地域での国際秩序の形成を主導したのが、ワシントン会議である。

●アメリカは日本をけん制した

 ワシントン会議におけるアメリカの狙いは、主に三つある。東アジアと太平洋地域で高まるナショナリズムへの対処、宿願であるシナの門戸開放、そして日本へのけん制である。
 そのうち最も注目したいのは、日本へのけん制である。わが国は、第1次大戦が始まると、日英同盟を根拠として、ドイツがシナから租借した山東省の膠州湾に進出した。また、中華民国の袁世凱政権に対して、21か条要求を突きつけた。ヨーロッパで消耗戦を続けている列強の隙を衝いて、シナ大陸での権益を拡大した。また、大戦後は、旧ドイツ領の南洋諸島の統治を国際連盟から委任された。国際連盟の常任理事国ともなり、有祝人種の国でありながら、列強の一員となった。
 こうしたわが国に対し、アメリカは警戒感を表した。かつてペリー提督やハリス領事が開国させた日本が、東アジア、太平洋地域で勢力を増すのは、目ざわりだった。ワシントン体制は、日本に対処するアメリカ外交の成果だった。

 ワシントン会議の結果、アメリカには海軍軍縮条約により、イギリスと同等の海軍力を保有することが認められた。また、米英仏日の間で太平洋諸島の現状維持を確認する四カ国条約が結ばれた。四カ国条約によって、日英同盟は解消され、アメリカは、日本の外交的な孤立を図ることに成功した。また、イタリアや中国などを加えた九カ国条約で、シナに対する門戸解放や機会均等を確認した。九カ国条約によって、アメリカは、日本がドイツから奪った山東省の権益を中華民国に返還させることに成功した。
 アメリカの巧妙な外交を前に、わが国はほとんどなすすべがなかった。私は、特に日英同盟の喪失が大きかったと思う。日露戦争後、アメリカは日本を仮想敵国の一つとし、日米対決の時に備えて、長期的な戦略を練っていた。その一環として、日本とイギリスの関係を絶ち、自国とイギリスの結束を強めた。

●アメリカの排日移民法

 欧米では、黒人奴隷制の廃止後、黒人奴隷に替わる安価な労働力として、シナ人やインド人を利用していた。しかし、第1次大戦後、アメリカは日本人に対しては、差別を厳しくした。
 カリフォルニアでは、日露戦争後、排日運動が激しくなり、1913年には大統領の立法阻止を無視して、日本人の土地所有権、一部借地権が否認された。さらに20年には借地権を完全に否認する排日土地法が制定された。これが各州に広がりを見せた。
 22年には、アメリカの連邦最高裁は、帰化権剥奪に関する訴訟において、「黄色人種は帰化不能外人であって、帰化権はない」との判断を示した。この場合の黄色人種は、日本人を指す。しかも、この判決は、適用を過去に溯るという近代法の原則を無視したものだった。既にアメリカに帰化した者であっても、日系ということを理由に、その権利を剥奪された。第1次大戦でアメリカ軍兵士として従軍し、帰化権を得た日本人までが、権利を剥奪された。合衆国憲法の修正第14条「アメリカ合衆国で生まれた子どもは、すべてアメリカ人である」という条項には、ただし「日本人移民の子はアメリカで生まれてもアメリカ人とはしない」という補助第19条が付記された。さらに、24年には、日本人の移民を完全に禁止した。

 こうした露骨な排日政策は、日米戦争の遠因の一つとなる。排日政策は人種差別的なものとはいえ、根本動機はワシントン体制の形成と同じものだと私は思う。すなわち、シナへの本格的な進出をめざすアメリカが、競争相手と成り得る日本を抑え込もうというものである。
 わが国は、ヴェルサイユ=ワシントン体制のもと、アメリカによって外交的に孤立させられ、また排日運動を蒙るという厳しい風を受けることになった。

●西南アジアでの独立運動

 第1次世界大戦後、世界各地でネイション・ステイト(国民国家)の建設を目指すナショナリズムが盛んになり、民族自決の期待を裏切ったヴェルサイユ体制への抵抗が始まった。この動きと、第2次世界大戦を通じたアジアの民族解放・独立運動とは、延長関係にある。
 大戦後、敗北したオスマン帝国は、20年連合国とセーヴル条約を結んだ。条約の内容は、ダーダネルス海峡の開放、メソポタミアとパレスチナはイギリスの委任統治領、シリアはフランスの委任統治領、エジプトはイギリスの保護国、軍事制限、治外法権の復活等を定めた。これに対し、トルコの指導者ケマル・アタテュルクが決起し、条約を批准せず、23年に連合国とローザンヌ条約を締結して治外法権等を撤廃させた。

 ケマル・アタテュルクは、トルコで22年イスラーム王朝の君主であるスルタン制を廃止し、23年には独立を回復して、トルコ共和国を建国した。政教分離や法律改革、婦人のベール著用禁止等、西欧をモデルとした近代国家の建設を進めた。トルコが独自の道に進んだため、オスマン帝国は統合力を失い、解体に向かった。イスラーム文明は、長い繁栄の時を終え、低迷の時代に入った。トルコの建国は、ヴェルサイユ=ワシントン体制のほころびの始まりでもあった。有色人種のナショナリズムを促進したのである。

 民族自決を目指す運動が、インドでも起こった。第1次世界大戦中、イギリスは1919年にインドに自治権を約束するインド統治法を制定した。しかし、戦後は約束を反故にし、令状なしの逮捕・投獄を認めるローラット法を制定して、治安維持を強化した。国民会議派の指導者ガンディーは、これに抵抗し、納税の拒否やイギリス商品の排斥による非暴力・不服従の抵抗運動(サティヤーグラハ)を指導した。民族運動が高まり、武力闘争が頻発すると、ガンディーは運動の中止を指示した。その後、国民会議派の主導権は左派のネルー等に移り、29年から単なる自治ではなく完全な独立(プルーナ=スワラージ)を要求するようになった。ガンディーは、再び指導者として登場し、「塩の行進」を組織して運動を続けた。
 こうしたナショナリズムの高揚に対し、イギリスは、インド側との妥協点を見出すため、英印円卓会議を開催した。35年には各州ごとに一定の自治を認める新インド統治法を制定した。老獪なイギリスの統治政策によって、インドのナショナリズムは抑え込まれ、第2次世界大戦を経るまで、独立を勝ち取ることは出来なかった。

 第1次世界大戦の結果、最も大きな問題を抱えるようになった地域が、中東である。今日に至る深刻な情勢を生み出したのは、イギリスである。イギリスは大戦でユダヤ人とアラブ人の協力を得るため、双方にパレスチナでの国家建設を認めた。

イギリスは、オスマン帝国を後方からかく乱するためにアラブの民族運動を利用するため、フサイン・マクマホン協定を結んで、アラブ国家の独立を約束した。

一方、イギリスは、ロスチャイルド家からの資金援助を期待して、ロスチャイルド家の要望に応え、パレスチナにユダヤ人が国家を建設することを支持するバルフォア宣言を発表した。
 その上で、イギリスは、フランスとの間で中東地域を分割統治するサイクス・ピコ協定という密約を結んでいた。それゆえ、イギリスは三枚舌外交を行っていたのである。こうしたイギリスの矛盾した外交が、現在のパレスチナ問題の発端となった。

 イギリスは第1次大戦後、アラブ人、ユダヤ人との約束を反故にし、旧オスマン帝国のアラブ諸地域を、フランスと共に分割した。国際連盟の委任統治領という形ではあるが、パレスチナ、イラクはイギリスが、シリアはフランスが、事実上の植民地とした。これに対し、アラブ人の反発が強まり、イギリスは徐々に自治・独立を認めることとなる。イギリスの委任統治領となったパレスチナに世界各地からユダヤ人が入植し始めると先住のアラブ人の間に対立・抗争が起こるようになった。

●シオニズムとナショナリズム

 ここで、ユダヤ人のナショナリズムであるシオニズムについて、簡単に記しておきたい。
 別稿で改めて書くが、ユダヤ人は西欧やロシア、東欧で苦難の歴史を味わった。一部成功者はいたものの虐殺と迫害は各地で繰り返された。フランス市民革命では、宗教にかかわらず平等の権利が保障され、ユダヤ人の地位は向上した。しかし、1870〜71年に勃発した普仏戦争後、西欧に不況が長期的に続くと、ユダヤ人に原因があるという主張が現れた。従来のユダヤ人への差別は、ユダヤ教を信奉しているという宗教的な理由だった。しかし、この時代にアンチ・セミティズムという言葉が登場し、ユダヤ人を一つの人種として差別する運動が起こった。改宗してキリスト教徒となっても、人種としての差別を免れない。生物学的根拠はないが、一旦そういう運動が拡大すると、差別は強化されていく。

 アンチ・セミティズムは、東欧、ロシア、フランス、オーストリア等に広がり、1884年パリでアンチ・セミティズムの会議が開かれた。そして1894年、フランスでドレフュス事件が起こった。ユダヤ人砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスがスパイ容疑の冤罪で、終身刑の判決を受けた。それがきっかけでフランス全土に反ユダヤの嵐が吹き荒れた事件である。
 このとき
、ウィーンから新聞社の特派員としてパリに赴任していたテオドール・ヘルツルが、その裁判を傍聴していた。ユダヤ人への不当な裁判に衝撃を受けた彼は、『ユダヤ人国家』を著した。ドレフュス事件は多くのユダヤ人にとって大きな転機となった。どこかにユダヤ人が安全に暮らせる国を建国しなければならないと彼らは願った。これがシオニズムの初めとされる。シオニズムとは、エルサレムの古称であるシオンを目指すというユダヤ人の帰郷運動である。
 シオニズムは、ヨーロッパ各地で高揚したナショナリズムに対抗したユダヤ人のナショナリズムである。イギリスはユダヤ人にはバルフォア宣言で、パレスチナでの建国の支援を約束した。その一方、アラブ人にはフサイン・マクマホン協定で、アラブ国家の独立を約束した。そのため、ユダヤ人のナショナリズムと、アラブ人のナショナリズムがぶつかり合うようになった。第2次世界大戦後、イスラエルが建国されると対立が激化し、中東の紛争が世界を揺るがすような構造が生まれた。その原因を作ったのは、イギリスの利己的外交である。

●「黄金の20年代」を生み出したアメリカの財閥

 第1次世界大戦後、アメリカ合衆国は、世界経済を主導する大国となった。1920年代のアメリカは、大戦期の輸出で発展した重工業の成長、ベルトコンベアで生産される自動車の大衆化、洗濯機・掃除機・冷蔵庫等の電気製品の普及、ラジオ・映画等の大衆文化の発達等によって「黄金の20年代」と呼ばれる空前の繁栄を手にした。ここに、今日に至る大量生産・大量消費の社会が出現した。近代西洋文明は、アメリカにおいて、物質的、拝金的、享楽的な性格を強めていく。

 20世紀初頭のアメリカの繁栄は、新興の財閥抜きに考えられない。アメリカ経済界の双璧となっていたのは、ロックフェラー財閥とモルガン財閥である。

ロックフェラー家の先祖は、フランス系ユグノーに起源を持つ南ドイツのプロテスタントの家系とされる。ロックフェラー財閥の基礎を築いたジョン・デイヴィソン・ロックフェラーは、ニューヨーク州の貧しい薬の行商人の子だった。農産物の仲買などで資金を蓄えたデイヴィッドは、南北戦争中の1862年に、石油精製事業を始めた。徹底した合理化で競争に打ち勝ち、短期間に同業者の施設を次々に買収していった。彼が設立したスタンダードオイル社は、1878年には合衆国の精油の90%を支配するに至り、石油帝国を築いた。
 一方、ジョン・パイヤーポイント・モルガンは、1871年にドレクセル・モルガン商会を設立し、鉄道への金融支配の拡大、ジェネラル・エレクトリック社の設立への関与、カーネギー製綱の買収によるUSスチール社の設立等を行って各分野で大発展し、アメリカの産業界・金融界に君臨した。息子のジョンは、第1次大戦を通じて事業を拡大し、戦後は賠償問題会議委員を務めて外交面でも活躍した。

 ロックフェラー財閥、モルガン財閥等の巨大国際金融資本は、共同して、1913年に連邦準備制度(FRS)を設立した。これはアメリカ独特の中央銀行制度で、連邦準備制度理事会(FRB)のもとに、全国を12の連邦準備区に分け、各区に1行ずつ連邦準備銀行を置く。FRBは公定歩合や支払準備率の変更等の権限を持つ。そのうえ、アメリカでドルの発行権を持っているのは、政府ではない。FRBが握っている。それゆえ、巨大国際金融資本がアメリカ経済を支配する仕組みが、連邦準備制度だといえる。
 アメリカ合衆国は、選挙で選ばれた大統領が組織する連邦政府が行政を担っている。しかし、その政府から独立した連邦準備制度理事会が経済を動かしている。大統領と言えども、巨大国際金融資本の意思を無視することは難しい。むしろ、巨大国際金融資本が望む政治家が大統領に推され、彼らの利益を実現するための政治や外交、時には戦争をも大統領が行う。必要であれば、資本家・企業家自身が政府の要職に就いて、国家を動かす。それがアメリカの政財界上層部の構造となっている。近代世界システムの歴史を貫く資本と国家の関係は、アメリカにおいて最も高度な形態を実現したと言える。

●国際金融の中心はニューヨークに

 第1次世界大戦後、国際金融の中心は、ロンドンのシティからニューヨークのウォール街に移った。近代世界システムの中心都市となったニューヨークは、1920年には、人口800万人を超える世界最大の都市となった。ウォール街では、全盛期のアムステルダムやロンドンがそうだったように、今日もユダヤ人が多く活躍している。
 1830年代にドイツ語圏の中央ヨーロッパからアメリカに移住したユダヤ人の中には、商人、銀行家、卸売業者等で成功した者が多くいる。そのうちの一人に、ゴールドマン=サックス社の創業者であるマーカス・ゴールドマンがいる。マーカスは行商から始めて衣服店を開き、資金を増やし、ウォール街の金融界で屈指の大物となった。またクーン・ローブ商会の創設者エイブラハム・クーンとソロモン・ローブは、ドイツ系ユダヤ人で、共同で雑貨商を営み、金融界で名を上げた。日露戦争の時にわが国の外債を多量に引き受け、またレーニンやトロツキーに活動資金を提供したジェイコブ・シフは、クーン・ローブ商会の代表だった。

ドイツのユダヤ人銀行家ウォーバーグ家のポールとフェリックスの兄弟は、1902年にアメリカに渡り、クーン・ローブ商会の共同経営者となって活動した。ポールはローブの娘と、フェリックスはシフの娘と結婚した。
 ウォール街のユダヤ人金融家の多くが、同じくユダヤ人であるロスチャイルド家と深い関係にあることは、想像に難くない。国家としての英米の連携の背後には、国境を越えた英米資本の連携があり、その連携の一部はユダヤ人の連携による。そして、ユダヤ的な価値観・行動規範を身に付けた非ユダヤ人が、ユダヤ人資本家と競争または協調しながら世界経済システムを牽引していく体制が、第1次大戦後に欧米で完成したと言えよう。

●ワイマール体制下のドイツの復興

 第1次世界大戦後、アメリカが空前の繁栄を享受したのと対照的だったのが、敗戦国ドイツである。
 ドイツでは帝政崩壊後、社会民主党による臨時政府が樹立され、共和制が実現した。以後のドイツの政体を首都の名にちなんで、ワイマール体制という。
 1919年、ドイツ国民議会でワイマール憲法が採択された。起草者は、ユダヤ人フーゴー・ブロイスだった。この憲法は当時世界で最も民主的な憲法といわれた。議会制デモクラシーに拠るとともに、マックス・ウェーバーの提案により、大統領制が取られた。しかし、共和国政府の権力基盤は不安定で、危うさを秘めていた。
 ドイツは、ヴェルサイユ条約で莫大な賠償金を課せられたうえに、経済破綻と天文学的なインフレに見舞われた。国民の多数が失業し、生活不安が広がった。ドイツ人のヴェルサイユ体制への反感は高まった。賠償金の支払いは困難で、22年後半、政府は支払いの履行政策を放棄した。賠償の一部である石炭の引き渡しが遅れると、フランス、ベルギーは実力行使に出て、23年工業地帯のルール地方を軍事占領した。これによってドイツ国内では社会不安が起こり、ハイパーインフレーションが発生した。

 こうしたドイツの混乱を望まなかったのが、アメリカである。アメリカは、大戦を通じて世界最大の債権国となっていた。債権国としては、ドイツの経済が回復し、ドイツが英仏等に賠償金を支払い、その支払いを受けて英仏等の経済が活性化し、その英仏等がアメリカに債務を履行するという流れを作らねばならない。
 そこでアメリカは、24年にドーズ案を提示した。ドーズ案は、ドイツの賠償金支払いに具体策を示し、ヨーロッパ全体の安定を図るものだった。多額のアメリカ資本がドイツに投資され、ようやくドイツ経済は回復の兆しを見せた。それとともにドイツは、26年に国際連盟に加盟し、国際社会への復帰も果たした。
 しかし、復興過程にあるドイツを、世界恐慌が襲った。世界恐慌は、大津波のように、すべてを押し流してしまった。

(3)世界恐慌が招いた対立


●世界恐慌の深刻な打撃

 世界恐慌は、繁栄の絶頂にあったアメリカ合衆国で始まった。1920年代のアメリカは、世界最大の工業国としての地位を確立し、大戦後の好景気を謳歌していた。好景気でだぶついた資金は株式市場に流入した。投機熱によって、ダウ平均株価は24年からの5年間で5倍も高騰した。29年9月3日、ダウ平均株価は過去最高価格を記録した。
 しかし、その一方、アメリカでは、農業不況の慢性化、鉄道や石炭産業部門の不振、合理化による雇用抑制等が生じていた。29年に入ってからは、工業製品が生産過剰に陥っていた。
 これらの要因が複合して、10月24日ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した。株価は投資家の買い支えで、一時安定したものの29日には再び大暴落した。
 もはや手の打ち様がなかった。株価は、9月のピーク時の約半分にまで下がった。わずか1週間で、当時のアメリカの連邦年間予算の10倍にも相当する富が消失した。銀行や工場は次々と閉鎖に追い込まれ、かつてない恐慌に発展した。

 アメリカの投資家は、世界各国に投資していた資金を引き上げた。そのため、恐慌は世界に波及し、史上最大規模の世界恐慌となった。アメリカ経済への依存を深めていた各国経済は、連鎖的に破綻した。その中で特に深刻な打撃を受けたのが、ドイツである。
 ドイツは、アメリカの多大な資本投資に支えられて、ようやく復興に向かいつつあるところだった。アメリカ資本が引き上げると、すさまじいインフレが起こり、ドイツ国民の約半数が失業状態に陥った。それを見たアメリカのフーバー大統領は、賠償等の支払いを1年間停止するモラトリアムを実施した。それでも、事態は好転しなかった。
 かつてマルクスは、恐慌による資本主義の破局を予想した。世界恐慌は、その予想が現実になったものという見方が広がった。1930年代、先進国の知識人の多くが共産主義に共鳴し、共産主義への移行は歴史の必然であると考えるようになった。しかし、各国で様々な施策が行われ、資本主義は、回復力を発揮した。世界恐慌は開始後約5年を経て、33年にはようやく沈静化した。

●アメリカではニューディール政策

 世界恐慌の発生後、各国はそれぞれの仕方で、恐慌に対応した。まずアメリカ合衆国の場合から見ていきたい。
 恐慌後、フーバー大統領は、従来の不況対策程度の政策しか行っていなかった。混迷を打開するため、大胆な政策を提案したフランクリン・ルーズベルトが、現職大統領を破って、1933年に大統領に就任した。
 就任後、ルーズベルトは、議会に働きかけて矢継ぎ早に法案を審議させた。3ヶ月ほどの間に、各種法案が可決された。ルーズベルトは、全国産業振興法(NIRA)で労働時間の短縮や最低賃金の確保、農業調整法(AAA)で生産量の調整、民間資源保存団(CCC)による大規模雇用、テネシー川流域開発公社(TVA)等の公共事業による失業対策等を、強力に進めた。これらの一連の政策を、ニューディール政策という。
 ニューディール政策は、政府は市場に介入せず、経済政策は最低限なものにとどめる自由主義的な経済政策から、政府が積極的に経済に関与する統制主義的な経済政策へと転換したものだった。

 この政策は、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズの理論を初めて実施した政策だといわれる。しかし、ルーズベルトが大統領選挙で政策を訴えていた時点では、ケインズの理論が深く影響を与えていたとは考えにくい。私は、ルーズベルトのブレーン・トラストには、マルクス主義者やユダヤ系知識人が多かったことに注目する。初期のニューディール政策には、ケインズよりもソ連の統制主義経済政策の影響が濃いのではないかと思う。
 なお、ケインズは、完全雇用実現のためには、政府による有効需要の創出が重要であると主張した。ケインズ自身が自分の理論をまとめて発表したのは、1936年公刊の『雇用、利子と貨幣の一般理論』である。その学説は、ニューディール政策に理論的裏づけを与えた。また第2次世界大戦後の資本主義国の修正資本主義的な経済政策に大きな影響を与えた。

 世界恐慌後、1933年に、アメリカの失業率は25.2%という最悪の数字を記録した。ニューディール政策は効果を上げ、37年には14.3%に失業率が下がった。景気も回復の兆しが現れた。しかし、35年には、政策のいくつかに対し、最高裁が違憲判決を出した。また、統制主義的な政策には、反対勢力が根強く存在した。そのため、ルーズベルト政権は、中途半端な形でしか政策を実行できなかった。38年、累積債務の増大を憂う財政均衡論の意見に押されて、政府は連邦支出を削減した。すると、GNPは6.3%減少、純投資はマイナスに転化、失業率は19.1%に跳ね上がって、危機的な状況に陥った。
 この間、ドイツでは、ヒトラーが全体主義的な政策を行って、45%にも達していた失業率を着実に下げ、39年には失業者数を20分の1にまで減らした。アメリカの政治は議会制デモクラシーであり、ルーズベルトは、全権力を掌中にしたヒトラーのようには、大胆な公共投資を行えなかった。
 結局、アメリカが失業問題を解決できたのは、第2次世界大戦が始まってからである。軍需の増加によって初めて完全雇用を実現できたのである。そのうえ、アメリカの工業生産は、戦争中かつてない規模に拡大した。私は、ニューデュール政策は壁にぶつかっていた、だからルーズベルトは大戦に参戦するチャンスを得ようとしていたのだと思う。

●「持てる国」と「持たざる国」とが対立

 世界恐慌後、植民地や従属国を多く持つイギリスは、1932年保護関税政策を始め、さらにイギリス連邦内に特恵制度を取って、スターリング・ブロックを設定した。フランスもこれに対抗して、植民地を基盤として、自国中心のフラン・ブロックを形成し、域外からの輸入品に高い関税をかける等の措置を講じた。アメリカは、33年からニューディール政策を実施するとともに、関税引き上げなど保護主義的な政策を行い、ラテン・アメリカ諸国との外交を強化し、通商の拡大に努めた。資本主義列強が取ったこうした経済政策を、ブロック経済という。
 排他的な経済圏の成立は、第1次世界大戦で植民地を失ったドイツや、もともと経済基盤の弱い日本、イタリア等の経済を一層悪化させるものとなった。これらの国々では、危機を打開しようとして、排外的なナショナリズムや全体主義が台頭する。
 こうして、第1次世界大戦後、戦勝国によって築かれた国際社会の秩序、ヴェルサイユ=ワシントン体制は、世界恐慌によって大きく動揺した。各国は自衛と生存のために、自己本位の政策を推し進めた。その結果、アメリカ、イギリス、フランス等の「持てる国」とドイツ、イタリア、日本等の「持たざる国」との対立が深まっていった。

●イタリアではファシスト独裁

 世界大恐慌後、ドイツ、イタリア、日本等の「持たざる国」はどのように対応したかについて、次に記したい。
 まずイタリアであるが、イタリアは、第1次世界大戦では、途中から連合国側で参戦した。その点では戦勝国なのだが、戦後のイタリアは、インフレ、失業が蔓延し、共産主義運動が活発に行われていた。連合国間で約束していた領土の獲得はかなわず、それを不満とする群小の極右団体が結成された。そのうちの一つが、ムッソリーニによるファシスト党である。
 ムッソリーニは、1922年にイタリア全土から4万人を動員して、ローマに進軍した。軍事的圧力によって内閣を倒したムッソリーニは、国王から首相に指名された。ファシスト政権は一党独裁体制を確立し、言論・裁判・労働組合を監督下に置き、総力戦を効果的に行うための総動員体制を日常化した。
 ここで見逃せないことは29年、ファシスト政権は、イタリア王国建国以来、絶縁状態にあったローマ法王庁とラテラノ条約を結んで和解したことである。法王庁は、ヴァチカン市国として独立が認められたうえに、イタリア国内での特権的地位も与えられた。ローマ・カトリックは、ファシズムと共存する道を取ったのである。

 世界恐慌後、イタリアも経済的混乱に襲われた。国民の不満をそらすため、ムッソリーニは、36年にエチオピアに侵攻した。そして、国際連盟の非難と経済制裁を押し切って、これを併合した。国際的な批判が高まると、イタリアは国際連盟を脱退した。
 ムッソリーニは、最初イタリア社会党左派に属していた。社会主義から学んだものを、ナショナリズムに取り入れたのが、ファシズムである。ムッソリーニによって、民族社会主義ないし国家社会主義と呼ばれる思想・運動が始まり、「持たざる国」であるドイツや日本に影響を与えた。

●マルクス=レーニン主義とファシズムの共通性

 共産主義者の信奉者や同調者は、ファシズムを「反革命の最も先鋭な最も戦闘的な形態」(丸山真男)、「国際的反革命の鉄拳」(ディミトロフ)等と定義する。ロシア革命後、「持たざる国」では、共産主義革命を防ぐことが重大課題だった。経済危機は、労働者・大衆の不満を増大する。共産主義者は、その不満のエネルギーを革命へと方向付けようとする。そうした状況で、共産主義革命を防止する運動の一形態として出現したのが、ファシズムである。
 マルクス=レーニン主義とファシズムには、共通点が多い。私有財産制への制限、武力による権力の奪取、一党独裁、個人崇拝、統制経済等である。私は、マルクス=レーニン主義とファシズムは、全体主義の二つの形態ととらえる。
 マルクス=レーニン主義とファシズムについて一般に言われる違いを三点挙げると、まず第一は所有形態に関することである。ファシズムは、共産主義から私有財産制を守るための対抗暴力の発動形態である。しかし、ファシスト政権は、私有財産制を神聖化するのではなく、私有制に一定の制限を課し、統制経済を行う。一方、ボルシェヴィキ政府の方も、革命後、主要な生産手段を国有化してみたものの、私的所有を一定の範囲で復活せざるを得なかった。この点で、マルクス=レーニン主義とファシズムの違いは、社会的所有を広範囲に行うか、私的所有の領域を多く残すかの程度問題である。
 次の違いは、運動の主体に関することである。マルクス=レーニン主義は階級を運動の主体とし、ファシズムは民族を主体とすることである。しかし、これとて実態は、ソ連の国家体制は、共産党による労働者・農民への支配であり、支配集団は共産主義を信奉する知識人だった。その支配集団が、国境を越えた労働者階級の利益よりも、自国の国益を優先する政策を行うならば、マルクス=レーニン主義とファシズムとの違いは、見極めがつかないほどになっていく。
 最後に第三の違いは、ナショナリズムに関することである。ソ連共産党は、インターナショナリズムに立ち、国際的な労働者の団結を説いた。しかし、実態は、各国の共産党はソ連共産党の支部として設立され、ソ連の指導に従って行動した。ソ連共産党の世界戦略は、自国中心・自国本位のものだった。周辺の中小国に武力で侵攻し、傀儡政権を立て、資源や労働力を利用した。これは、インターナショナリズムの旗の下に、ソ連の国益を追求したものであって、ロシア・ナショナリズムの拡大版と見ることができる。この点でのマルクス=レーニン主義とファシズムの違いは、インターナショナリズムを利用したナショナリズムか、むき出しの露骨な排外的ナショナリズムかの違いに過ぎない。

 後の項目でナチスのことを書くが、上記のような視点に立つと、ヒトラーは、マルクス、レーニンをかなぐり捨てたスターリンであり、スターリンは、マルクス、レーニンで粉飾したヒトラーと見えてくる。

 権力を奪取するための思想、理論、方法の違いに関わらず、権力を一旦掌中にした者は、自己の権力の維持・拡大に努める傾向があり、その究極の形態は個人崇拝となる。

 

●ドイツではナチスが全権を掌握

 世界恐慌で深甚な打撃を受けたドイツは、底なしの経済危機に陥った。生活苦にあえぐ国民の間には、ヴェルサイユ体制への不満と連合国への恨みが鬱積していた。連立政権で権力基盤の不安定な共和国政府は、有効な打開策を打ち出せなかった。大衆は、既成政党による政治への不信を募らせていた。そうした感情を吸収して急速に勢力を拡大したのが、ナチスである。
 ナチスは、国家社会主義ドイツ労働者党の略称である。21年にアドルフ・ヒトラーが指導者となり、突撃隊(SA)による宣伝・示威・暴力活動を展開した。23年ヒトラーは、ムッソリーニのローマ進軍に習ってベルリン進軍を目指したが、ミュンヘンで鎮圧された。党は非合法化され、ヒトラーは投獄された。このとき、獄中で書いたのが『わが闘争』である。本書でヒトラーは、極端なナショナリズムを掲げ、ユダヤ人の排斥とドイツ民族の生存圏の確立、ヴェルサイユ体制の打破と再軍備等を唱えた。

 ヒトラーは25年に出所すると、大衆組織を利用した合法活動で党勢を伸ばした。同年右翼・軍部の支持で就任したヒンデンブルグ大統領は強権を発動して内閣を入れ替えるなど、議会政治は形骸化していた。世界恐慌後、30年の選挙でナチスは、社会民主党に次ぐ投票を獲得し、32年の選挙では第1党に躍り出た。
 33年、首相に就任すると、ヒトラーは、国会放火事件を利用して共産党を非合法化した。さらに国会で全権委任法を可決させ、ワイマール憲法は事実上その効力を失った。ナチスは、議会制デモクラシーの正当な手続きによって一党独裁体制を確立した。
 ナチスは、国名を「第三帝国」と称し、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国を継承するものと自らを位置づけた。33年、国際連盟を脱退し、34年ヒンデンブルグ大統領が死ぬと、ヒトラーは大統領を兼任する総統に就任した。これにより、ヒトラーの個人崇拝体制が完成した。

●ヒトラーの野望とユダヤ人への迫害
 
 ヒトラーは、内政では、アウトバーンの建設を初めとする公共事業の推進、軍需産業の振興により、雇用を創出して失業問題を解決した。また、映画・美術・文学・スポーツ等を利用して、民族精神の高揚と思想の一元化を図った。こうしたヒトラーをドイツ国民は、熱狂的に支持した。
 外交では、33年に国際連盟を脱退し、35年にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して、再軍備を宣言した。36年にはフランス、ベルギーとの間の非武装地帯ラインラントに軍隊を進駐させた。この年、ベルリン・オリンピックを開催し、復興したドイツ民族の姿を誇示した。
 同年スペインでは、人民戦線政府が成立し、これに反対するフランコが反乱を起こした。このスペイン内戦に対し、英仏は不干渉政策を取ったが、ヒトラーはムッソリーニとともにフランコを支持し、空軍を主体として軍事支援した。政府軍は、ソ連や国際義勇軍の支援を受けて応戦したので、スペインは、ファシズム対自由主義・共産主義の戦いの場所となった。
 内戦は39年まで続くが、人民戦線政府が国外に亡命し、フランコ軍が首都マドリードを占領して終結した。もしこの時、英仏が積極策を取っていたら、第2次世界大戦は、数年早く開始されることになっていただろう。

 36年、ヒトラーは日本と日独防共協定を結び、翌年イタリアがこれに参加した。日独伊三国防共協定は、共産主義インターナショナルに対する協定であり、コミンテルンの活動に関する情報交換と防衛措置の協議を定めたものだった。世界恐慌で資本主義国が打撃を受けたのに対し、統制主義的な計画経済を進めていたソ連は、恐慌の影響を受けなかった。猛烈な速度で工業生産力を伸ばすソ連は、資本主義諸国にとって大きな脅威だった。このソ連及び共産主義への対応の仕方が、大戦間期の各国の動向において重要な要素となった。ヒトラーは、ソ連及び共産主義との対決の道を突き進んだ。
 ヒトラーは、さらにもっと大きな野望を抱いていた。ナチスによる世界制覇である。その野望の実現のために、わが国を利用しようと画策した。そして、防共協定を足がかりに、日本を日独伊三国軍事同盟の締結へと誘い込んでいく。

 ワイマール共和国時代のドイツは、それまでの歴史で、ユダヤ人が最も活躍した社会だった。物理学者アインシュタインをはじめとして、ノーベル賞受賞者が11人も続出した。“ワイマール憲法の父”プロイス、外務大臣ラーテナウ、法学者イェリネック、フランクフルト学派のホルクハイマー、アドルノ等、科学、政治、経済、文学、美術、報道等、多彩な分野で、ユダヤ人の才能は大きく開花し、驚異的な活動を行った。
 ところが、それゆえにこそドイツ人のユダヤ人への反感が強まった。ドイツでも中世以来、ユダヤ人への差別・迫害が行われていた。ナチスは、そうした国民の伝統的な反ユダヤ感情を増幅させ、ユダヤ人に対する迫害を行った。多くの優秀なユダヤ人が国外に亡命した。
 第2次世界大戦開始後、ナチスによる人種差別的な迫害はさらに激しくなった。通説によると、強制収容所への収容、強制労働、毒ガス等によって、600万人のユダヤ人が犠牲になったとされている。毒ガスの使用や犠牲者の数等、通説には多くの疑義が出されている。ワイマール時代のユダヤ人及び「ホロコースト」については、別稿に書くことにし、ここでは割愛する。

●日本の苦境と迷走

 第1次世界大戦後、日本への欧米諸国の風当たりが強くなった。日本は、新たな「挑戦」にぶつかることになった。それは、西洋文明と非西洋文明、白人種と非白人種の文明間のぶつかり合いでもあった。
 明治時代の日本人が大国シナや強国ロシアに勝つことができた要因には、国民が精神的に結束していたことが挙げられる。江戸時代に熟成した日本文明は、日本固有の精神を豊かで力強いものに育て、幕末・明治の危機がそれを鍛えた。しかし、日本人は、近代化・西洋化を進める中で、徐々に自己本来の精神を忘れ、ひたすら欧米文化を採り入れて、これに追いつこうという考えにとらわれてしまった。その結果、本来の「日本精神」がないがしろにされ、すぐれた国民性が失われた。国家指導層にある政治家や財界人も、段々日本の本質というものがわからなくなっていったのである。

 日清・日露戦争に勝利すると、東アジアは安定し、日本は他から攻撃される憂いがなくなった。ここで日本人は、次に目指すべき国家目標を見失った。政治家は、国益に基づく政治よりも、個人的な利益の追求に傾き、腐敗堕落していった。資本主義の発達によって、財界にも私利私欲をほしいままにする傾向が生じた。
 こうした中で、わが国は、第1次世界大戦に参戦した。連合国側の一員として戦ったわが国は、列強の間に確乎たる地歩を固めることができた。しかし、そのわが国の前に立ちふさがったのが、アメリカである。わが国は、1921〜22年(大正10〜11年)のワシントン会議の結果、アメリカ主導の四カ国条約によって日英同盟を解消され、国際社会で不利な立場となった。また、24年には、完全排日移民法がアメリカで成立し、わが国は露骨な人種差別政策の対象とされた。

 1929年(昭和4年)に世界を襲った大恐慌は、わが国にも深甚な影響をもたらした。その中で、翌年浜口雄幸内閣が行った金解禁が裏目に出て、不況は深刻化した。同年政府がロンドン海軍軍縮条約に調印すると、右翼・軍部が反発し、統帥権干犯という論理を振りかざして政治に口を出すようになった。
 内外の諸問題に政治が対応できずにいるなか、軍部が台頭し、独断専横で動き、1931年(昭和6年)には満州事変を起こした。これは、シナ人のナショナリズムの抵抗にあった。翌年、わが国が満州国を建設すると、国際連盟はこれを承認せず、わが国は33年(昭和8年)に国際連盟を脱退し、国際的孤立化の道を進んだ。この状況において、政治経済など総合的な視野を持たない青年将校が中心となって、32年(昭和7年)に5・15事件、36年(昭和11年)に2・26事件を起こした。その結果、軍部が政治を左右し、国の進路が軍部の意向によって引きずられていくようになった。

●指導層における日本精神の喪失

 わが国の国内においては、ロシア革命後、共産主義が知識人や学生を中心に浸透していた。1922年(大正11年)、コミンテルンの日本支部として、日本共産党が結成された。スターリンは、日本における革命を重視し、「27年テーゼ」「32年テーゼ」を発して運動方針を指示した。共産主義は、わが国の皇室制度を廃止しようとする。これは、わが国の伝統・文化・精神を破壊するものとなるので、共産主義からわが国の国体を守ることは、重大な課題だった。わが国は36年(11年)、日独防共協定を結び、協定は翌年日独伊三国防共協定に発展した。
 時代の先の先を見通す慧眼の持ち主、大塚寛一先生は、世界的に見て、1936年(昭和11年)のスペイン内戦は重要な時期だったと言われている。スペイン内戦は、第2次大戦の前哨戦といわれ、英仏独伊ソの思惑が交錯した国際紛争でもあった。この時が、ヒトラーの行動をよく観察できる好機だった。大塚先生は、ここで彼の野望を見抜いてドイツと防共協定を結ばず、ソ連とは中立を厳守していれば、やがてヨーロッパで英ソ対ドイツの間で大戦が勃発し、これにアメリカも参戦する展開になっただろうと説いておられる。大戦になれば、米英は援蒋政策を行う余裕はないから、日本はシナとの問題を解決し、共存共栄の道を進むことができた可能性があった。
 しかし、1930年代半ば当時のわが国の指導層は、世界の大局を把握できなかった。逆に陸軍を中心に、ドイツを友邦と頼む者が多くいた。ヒトラーは著書『わが闘争』において、日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用で小利口で役に立つ民族と侮蔑していた。またユダヤ人を差別し、迫害を行って、国際的な批判を浴びていた。こうしたヒトラーと手を結び、行動を共にしようとしたことは、日本の国家指導層が、幕末・明治までの日本人が持っていた自己本来の精神、日本精神を半ば喪失していたことの現れだろう。

●スターリンの対日革命工作

 わが国は、1937年(昭和12年)7月に始まったシナ事変を解決する糸口をつかめなかった。シナ事変は、その前にわが国がシナ大陸に進出し、シナのナショナリズムの抵抗を受け、これに適切に対処できなかったことの結果である。しかし、ここで記しておきたいことがある。それは、スターリンの対日革命工作である。

 大東亜戦争の敗戦後、東京裁判でわが国の国家指導者が断罪された。東京裁判において、米国・旧ソ連・中国などの連合国は、日本を裁くうえで、田中上奏文を重要な根拠とした。田中上奏文とは、26年(昭和2年)に当時の首相田中義一が昭和天皇に上奏して作成されたという文書である。
 裁判の冒頭陳述で、キーナン主席検事は、田中上奏文の内容に基づいて、日本は1928年(昭和3年)以来、「世界征服」の共同謀議による侵略戦争を行ったと述べた。東アジア、太平洋、インド洋、あるいはこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的をもって宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したというのである。
 28年以来というのは、張作霖爆殺事件を指す。東京裁判は、31年(昭和6年)の満州事変や37年(昭和12年)の盧溝橋事件ではなく、張作霖爆殺事件を起点に置いた。それは、世界征服計画を書いた田中上奏文のシナリオに基づいて、日本は侵攻戦争を行ったと仕立て上げるためである。

 田中上奏文といっても、日本語の原書は存在しない。中国語版や英語版が出回っていることにわが国の政府が気づいたのは、29年(昭和4年)だった。何者かが捏造したものであることは明らかであり、現在では、本文書が偽書であることは定説になっている。ただし、中国共産党は、なお本文書をもとに日本の侵攻を非難している。
 近年、田中上奏文の作成・頒布には、ソ連共産党が関わっていたという説が出されている。張作霖爆殺事件についても、従来は日本の関東軍の謀略だったと言われてきたが、ソ連のGRU(ソ連赤軍参謀本部情報総局)の工作であった可能性が浮かび上がっている。もしこれが事実であれば、非常に大きな意味を持つ。

 私は、田中上奏文の捏造や張作霖爆殺事件が計画・実行された1920年代後半という時期に注目する。当時は、スターリンがソ連で権力を掌握し、独裁者として辣腕を振るうようになっていった時期である。スターリンは、日露戦争でロシアが日本に敗れたことに、復讐心を持っていた。また、日本の天皇をロシアのツアーと同じような存在と誤解し、皇室制度を打倒して日本を共産化し、自らの支配下に納めようと考えていた。その目的のために、田中上奏文の作成・頒布と張作霖の暗殺計画が進められたと考えられる。
 私がこのような見方をする理由は、シナにおけるわが国の蹉跌は、わが国の軍部の暴走、政府の失策だけでなく、国際共産主義運動の対日工作という要素を考慮しなければ、原因が十分明らかにならないと思っているからである。

●日本はシナとの戦争で泥沼に

 シナ事変のきっかけは、37年(昭和12年)7月8日に起こった盧溝橋事件である。わが国政府は事件の拡大を防ぐべく、早期解決に努めた。しかし、通州事件、大山中尉虐殺事件に続いて8月13日に起こった第2次上海事件が、日中全面戦争に発展するきっかけとなった。
 ユン・チアンとジョン・ハリディの共著『マオーー誰も知らなかった毛沢東』は、この事件は、国民党の張治中が蒋介石の命令を無視して、日本軍攻撃を指揮して起きたと主張している。張は中国共産党の秘密党員であり、スパイ工作員だった。中共とコミンテルンの指令を受けた張の企てによって、日中は全面戦争へと導かれたという。

 37年9月、蒋介石率いる中国国民党は、抗日戦遂行を目的として、中国共産党と提携した。1920年代に孫文が行った第1次国共合作に対し、これを第2次国共合作という。
 シナのナショナリズムは、日本が大陸に進出するにつれ、抗日という形で高揚したが、共産主義と融合することで抗戦力を強めた。その背後にはスターリンがいた。日本は大陸でシナのナショナリズムとともに、国際共産主義とぶつかったのである。
 1930年代半ば、スターリンは、シナ大陸に駐屯している日本軍が、北上してソ連に侵攻することを防ぎたいと考えていた。それには、日本軍をシナ大陸で国民党軍と戦わせればよいと考えたのである。一方、毛沢東は、国民党軍を日本軍と戦わせながら、中国共産党の勢力を温存し、シナの奥地で勢力を拡大しようと考えていた。目的はシナにおける共産革命である。スターリンと毛の思惑が一致した。こうした国際共産主義の謀略によって、わが国は、広大なシナ大陸に引きずり込まれた。

 戦争は長期化し、泥沼化した。その原因の一つに、スターリンが積極的に蒋介石の戦争続行を支援したことがある。スターリンは、金を融資して、航空機・戦車・大砲等の武器を売却した。ソ連はシナにとって最大の武器供給国であったのみならず、事実上唯一の重火器、大砲、航空機の供給国だった。
 さらにソ連は、空軍と軍事顧問団を派遣した。37年12月から39年(昭和14年)末までの間に、2千人以上のソ連軍パイロットがシナで戦闘任務につき、日本の航空機約千機を撃墜した。日本統治下の台湾に対する爆撃まで行った。ソ連は、この時点で既に対日参戦をしていたのである。そして、スターリンによる武器の供給、人員の派遣は、英米の援蒋政策の先例ともなった。

関連掲示
・拙稿「日本を操る赤い糸〜田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等
 第1章 日本悪玉説のもと、『田中上奏文』
 第2章 嵌められた日本〜張作霖爆殺事件
 第3章 引きずりこまれた日中戦争

 

●英仏の宥和策がドイツの周辺併合を許す

 わが国がシナ問題で苦慮していた時、ヒトラーは着々と野望を実現しつつあった。ヒトラーは、1935年に再軍備を宣言し、ドイツの工業力を駆使して、軍備増強を進めた。36年にはラインラント非武装地帯に軍隊を進駐させた。こうした動きを、英仏の政府は追認した。その理由は、第1次世界大戦の記憶から英仏の国民は平和の継続を求めていたこと、また英仏の指導層は反共を掲げるナチスがソ連への対抗勢力となることを期待したためである。こうした様子を見たヒトラーは、ドイツの周辺国に住むドイツ系住民に関して民族自決権を主張し、ドイツ人居住地域をドイツに併合することを要求した。手始めにヒトラーは38年3月、オーストリアを併合した。
 続いてヒトラーは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を求めた。英仏はドイツとの戦争を避けようとして宥和政策を取った。38年9月のミュンヘン会談で、イギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ首相は、ヒトラーに妥協して、ズデーテン地方の対独割譲を決めた。勢いに乗ったドイツは、同地方を割取しただけでなく、チェコを保護国とした。

 ヒトラーの狙いはこれにとどまらなかった。ヴェルサイユ条約によって、ドイツはポーランド回廊を失った。そのため国土が分断され、ドイツ人は不満を持っていた。ヒトラーは、ポーランド政府に対し、同地での道路・鉄道の敷設を要求した。ポーランドはドイツの圧力に屈しなかった。また、ミュンヘン会談の合意を反故にされた英仏では、世論がドイツとの対決を辞せずという方向へと急速に変化した。
 39年8月、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結んだ。反共のドイツが共産ソ連と握手したのだから、各国指導層は驚愕した。ドイツと防共協定を交わしていたわが国では、平沼騏一郎首相が「欧州情勢は複雑怪奇」と言って総辞職した。もとよりヒトラーとスターリンは、互いを信頼しているわけではない。ヒトラーは当面の作戦のために東方の安全を図り、スターリンは戦争準備のために時間稼ぎをすることが目的だろう。いずれ劣らぬ権謀術数の騙し合いである。

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第7章 人類の危機と第2次世界大戦

 

(1)戦火は欧州から

 

●第2次世界大戦は、独ソの密約で始まった

 ソ連との不可侵条約締結の翌月、1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻した。同月3日英仏はドイツに宣戦を布告し、ここに第2次世界大戦が勃発した。
 ここで重要なことは、ポーランドに侵攻したのは、ドイツだけではないことである。ドイツに続いて、17日ソ連もポーランドに侵攻した。その行動は、独ソ不可侵条約に付属する議定書に基づく行動だった。ヒトラーとスターリンは、密約によってポーランドを東西に分割したのである。

 英仏がドイツに宣戦したのは、ポーランドを守る条約を結んでいたためやむを得ずのものだった。開戦後、西部戦線で英仏は攻勢に出ず、ドイツも軍事行動を起こさなかった。そのため、「奇妙な戦争」と呼ばれる状況が約8ヶ月続いた。
 この間、積極的に侵攻戦争を遂行していたのは、ソ連のみである。ポーランドに続いてスターリンは、同年11月フィンランドに侵攻し、領土を拡張した。フィンランドの提訴により、国際連盟は同年12月ソ連を除名した。日独伊は脱退だが、ソ連は除名である。スターリンは、またラトヴィア、リトアニア、エストニアのバルト三国に圧力をかけ、翌40年これを併合した。これらの侵攻もドイツとの秘密議定書による行動だった。
 ヒトラーは、41年6月スターリンの隙を衝いて攻め、独ソ戦となるが、スターリンは、それまでヒトラーを経済的にも外交的にも支援していた。だから、ドイツは戦線を西に絞り、大胆な作戦を行うことができたのである。
 大戦末期、ソ連は日ソ中立条約を破棄して満州国・日本領に侵攻し、樺太・千島等を略奪する。わが国ではその点はよく論及されるが、スターリンは、この大戦で初めから領土拡張戦争を行ったことを見逃してはならない。戦後の東欧諸国の共産化=従属化は、その延長線上に行われたのである。

●ヒトラーは電撃作戦でフランスを占領

 ついにヒトラーが動いた。40年5月10日、ドイツは電撃的な作戦を開始した。デンマーク、ノルウェーを占領し、オランダ、ベルギーに侵攻した。さらにベルギーから北フランスに攻め入った。これはフランスには想定外のことだった。対独防衛のために構築していたマジノ線は、やすやすと突破された。フランス兵は、なすすべもなくもなく殲滅され、フランスは国防力の大部分を失った。
 6月18日、まさかのパリが占領された。第3共和制は崩壊した。追い詰められた英仏連合軍は、ダンケルクから撤退し、22日、独仏休戦協定が成立した。フランスには、ヒトラーの傀儡、ヴィシー政権が成立した。ドイツの破竹の勢いを見たイタリアは7月10日、正式に英仏に宣戦布告を発して、大戦に参戦した。
 侵攻後、わずか6週間弱で、大国フランスは、惨敗した。市民革命によって自由・平等・友愛の理想を掲げたフランスが、全体主義の支配を受けるはめになった。4年と約4ヶ月にわたって、フランス人は、鉤十字(ハーケン・クロイツ)に服従を強いられた。
 ナチス・ドイツの侵攻に対し、フランスはどうしてあっけなく敗北したのか。文芸評論家のアンドレ・モーロアは、亡命先のアメリカで、痛恨の反省を込めて祖国の敗因を書いた。その書『フランス敗れたり』は、今日の日本人が大いに学ぶべき本である。本書については、拙稿「『フランス敗れたり』に学ぶ〜中国から日本を守るために」をご参照願いたい。

 フランスを占領したヒトラーは、その勢いで9月からロンドンへの空襲を開始する。イギリスは、ドイツの爆撃機、潜水艦の攻撃に耐え得る資源を持っていなかった。しかし、チャーチル首相は、不屈の意思をもって英国民を指導し、イギリスは粘り強く抗戦を続けた。短期決戦をもくろんでいたヒトラーの構想は、くじかれた。
 チャーチルは、一貫してロスチャイルド財閥に忠実だった。ヒトラーは、ユダヤ国際資本との戦いを企図していたが、そのユダヤ国際資本の元締めは、ロスチャイルド家である。強大な資金力と緻密な情報力を持つロスチャイルド=ユダヤ・ネットワークは、徐々に劣勢を跳ね返していく。

●杉原千畝と樋口季一郎

 ここで、日本人とユダヤ人の関係において、特筆すべき事例として、杉原千畝と樋口季一郎のことを記しておきたい。
 1940年(昭和15年)夏、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人がリトアニアに逃亡した。彼らは当地で各国の領事館・大使館からビザを取得しようとした。しかし、リトアニアはソ連に併合されており、ソ連政府は各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。そこでユダヤ難民は日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。この時、彼らのために、ビザを発給したのが、杉原千畝である。先にヒトラーとスターリンの密約について書いたが、杉原の行動は、その密約の下にドイツとソ連がポーランドを分割し、ソ連がバルト三国を併合するという状況におけるものだったのである。
 杉原の職を賭した勇気ある行動によってリトアニアを出ることのできたユダヤ難民は、シベリアを渡り、ウラジオストク経由で敦賀港に上陸した。うち約千人はアメリカやパレスチナに向かった。杉原によって救われたユダヤ人は、六千人にのぼると推計されている。1985年(昭和60年)、杉原は、イスラエル政府から日本人で唯一、「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞を受賞し、顕彰碑が建てられた。

 時期的には杉原より前になるが、樋口季一郎もまた多数のユダヤ人を救出した。1938年(昭和13年)、約2万人のユダヤ人が、ソ満国境沿いのシベリア鉄道オトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するためには、満州国を通過しなければならない。しかし、入国許可は出なかった。彼らの惨状を見た樋口少将は、部下の安江仙江大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
 大戦末期、樋口はソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与え、北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口の名は、イスラエル建国功労者として、「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、その功績が顕彰されている。
 ユダヤ人を迫害したナチス・ドイツと誤った提携をしたわが国ではあったが、こうした人道的な行為をして感謝されている日本人がいることは、わが国の誇りとすべきである。

●痛恨の三国同盟締結

 1939年(昭和14年)9月、ヨーロッパで大戦が開始されると、大塚寛一先生は9月11日、『大日本精神』と題した建白書を認め、わが国の指導層への送付を開始された。比類ない洞察力を持つ大塚先生は、ヒトラーの野望を見抜き、政治家・軍人・官僚等に建白書を送って繰り返し警告した。しかし、当時の指導層の多くは、ヨーロッパを席巻するドイツの勢いに幻惑され、日本人本来の精神を失っていた。松岡洋右らの親独派が中心となって「バスに乗り遅れるな」との掛け声のもと、40年(昭和15年)9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結された。
 ヒトラーは、自己の目的のために日本を利用しようとしていたのだが、当時ほとんどの日本人は、ヒトラーのたくらみに気づかなかった。ヒトラーが最も警戒していたのは、欧州戦線にアメリカが参入することである。そこで、ヒトラーは、アメリカを太平洋に釘付けにしておくために、日本の海軍力をけん制に利用しようとしたのだろう。さらに、戦況が不利になったときにも、日本を利用できると考えていたのではないか。

 三国同盟の締結は、欧米の強い反発を買った。三国同盟調印の4日前、わが国は北部仏印に進駐した。進駐は、シナ事変解決のため、蒋介石政権を支援する「援蒋ルート」を絶つことを目的とした。ナチス占領下のフランスとの合意に基づく行動だったが、わが国はドイツと結んだゆえに、欧米を敵に回すことになった。
 三国同盟は絶対締結すべきでなかった。しかし、締結してしまった以上は、米英とも同盟を結んで害悪を相殺して中立関係を築き、とりわけドイツへの加担というアメリカの懸念を晴らすのが、善後策だったと私は考える。これは、大塚寛一先生の「不戦必勝・厳正中立」の大策の一部をなす独創的な建言による。こうすれば、アメリカは日本に石油を輸出してもドイツに回る恐れはないとして、輸出禁止は回避できただろう。
 この善後策も採用されなかった場合は、次善の策として、独ソ戦の開戦時の1941年(昭和16年)6月または遅くとも同年11月26日のハル・ノート以後に、独ソ戦の展開を見極めて三国同盟を破棄すべきだったと思う。

●石油を巡る角逐

 わが国は1941年(昭和16年)4月に日ソ中立条約を結んだ。ドイツは39年8月に独ソ不可侵条約を結んだから、これにならうものとなった。そこにはノモンハン事件の影響がある。わが国は39年(昭和14年)5月にノモンハンでソ連と矛を交えた。わが国の損失は大きく、陸軍は彼我の装備の差に愕然とした。ソ連も深刻な被害を蒙ったのだが、ソ連はそれを隠していた。わが国は当面ソ連との戦いを避けたい。ソ連は日独による挟撃を望まない。そこで利害が一致し、中立条約が調印されたものだろう。
 わが国は、これを機に南進政策を取る。しかし、南進政策は、東南アジアに植民地や利害関係を持つ英・米・オランダと利害対立を深めることになる。

 アメリカは大戦の開始後、伝統的な不干渉主義によって中立を保っていた。ヒトラーはアメリカの参戦を最も警戒していた。そのアメリカが41年(昭和16年)3月、武器貸与法を制定して、連合国への支援を開始した。7月に入ると、アメリカは在米日本人の資産凍結を発表した。オランダは日蘭石油民間協定の停止を決めた。わが国は石油確保を目指して、南部仏印に進駐した。ところがその行動がアメリカの態度を硬化させた。
 8月1日わが国はアメリカの対日石油輸出禁止という制裁を受けた。石油が入ってこないということは、経済活動が縮小し、ジリ貧に陥ることである。わが国の政府は、米英支蘭の対日政策を、ABCD包囲陣と呼んだ。
 ここで注目すべきことは、アメリカは、大東亜戦争に先立って、1941年(昭和16年)春、中国国民党を支援する、通称フライングタイガースと呼ばれる部隊を送っていたことである。彼らは民間義勇軍といわれていたが、実は米国防総省の承認の下に集められた正規のエリート空軍部隊だった。アメリカは日本の真珠湾攻撃以前に、すでに対日参戦に踏み切っていたわけである。これも、宣戦布告なき攻撃だった。

 ヨーロッパでもヒトラーは、石油を求めていた。戦争が長引くと、大量の石油がいる。石油は戦争継続に不可欠な戦略物資である。ヒトラーは、スターリンにソ連南部の油田の共同開発を申し出たが、断られた。41年4月、ヒトラーは軍隊をバルカン半島に侵攻し、ユーゴスラヴィア、ギリシャを制圧した。
 ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲは、ドイツの侵攻近しと日本から本国に報告した。しかし、スターリンは侵攻を予期していなかった。ヒトラーは、その隙を衝いた。独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、360万の大軍をもってウクライナ等に進撃した。41年6月22日、ここに独ソ戦の火蓋が切られた。全体主義国家同士の激突である。
 ヒトラーは他国との条約を簡単に破った。しかもその相手国を奇襲攻撃した。この時、わが国は、この人物の信義にもとる人格を見抜き、三国軍事同盟を解消すべきだった。しかし、わが国の指導層は、なお目が覚めなかった。

●わが国は対米交渉に努力

 対日石油輸出禁止を続けるアメリカに対し、わが国の政府は、外交による事態の打開を図った。近衛文麿首相は日米首脳会談を決意し、米側に申し入れたがルーズベルトはこれを拒否した。ルーズベルトとチャーチルは、8月14日大西洋憲章と呼ばれる共同宣言を発し、領土不拡大、民族自決、通商・資源の均等解放等の指導原則を明らかにした。この共同宣言が、国際連合憲章の基礎となる。会談で米英両首脳は対日戦争での協力を約束していた。わが国がアメリカ政府と会談を重ねても、交渉は進捗する可能性は低かった。
 わが国は、9月6日の御前会議において、外交努力を継続しつつも、10月下旬を目途に戦争準備を整え、10月上旬に至っても交渉が成立しない場合は対米英開戦を決意するという方針を決定した。昭和天皇は、この御前会議において、ご自分の意見を述べるのではなく、明治天皇の御製を読み上げられた。
 
 よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ

 これは対米英戦争の開始には反対である、戦争を回避するように、という間接的な意思表示だった。

 10月下旬が過ぎても、アメリカはかたくなな姿勢を崩さなかった。近衛に代わった東条英機首相に対し、昭和天皇は「9月6日の御前会議にとらわれず慎重に再検討するように」という意向を伝えた。東条は、シナ・仏印からの撤兵を含む大幅な譲歩を表す甲案と、甲案不成立の場合に戦争勃発を防ぐための暫定協定となる乙案を、アメリカに提示した。

●ハル・ノートへの対処が分かれ目に

 外交努力を続けるわが国に対し、ルーズベルトは11月7日に甲案を拒否、11月20日には乙案も拒否した。そして、国務長官ハルが、いわゆるハル・ノートを突きつけてきた。わが国の指導層は、その要求は到底呑めないと判断し、これを事実上の最後通牒と理解した。そして、対米決戦へと歩を進めた。
 ハル・ノートは、財務省高官のハリー・デクスター・ホワイトが起草した。ホワイトはルーズベルトに強い影響力を持つ財界の大物・財務長官モーゲンソーの右腕であり、頭脳だった。ホワイトの書いたものは、そのままモーゲンソーが署名し、モーゲンソーの文書として大統領に提案されたという。ホワイトは両親がユダヤ人であり、モーゲンソーもユダヤ人だった。
 ホワイトには、戦後、ソ連の協力者という疑惑が持ち上がった。スターリンの指令を受けたソ連のスパイが、ホワイトに接触し、日本を挑発するために強硬な要求を書かせた可能性がある。ソ連はホワイトへの工作を彼の名にちなんで「雪(スノウ)作戦」と名づけていた。
 スターリンは、自国の安全保障と将来の日本の共産化のため、日米開戦を画策していた。ルーズベルトの方も、大戦参入のきっかけを求めていた。参戦はしないと選挙で公約していたので、自分から公約は破れない。しかし、ニューディール政策は、限界にぶつかっていた。財界には、戦争というビジネス・チャンスを待望する者たちがいた。日本を挑発し、先に手を出させる。そうすれば、正当防衛だとして正義の戦争を始められる。私は、こうしたスターリンとルーズベルトの思惑が一致したのだろうと思う。

 わが国がハル・ノートを突きつけられたころ、ドイツ軍は対ソ戦で苦戦する兆しを表していた。ここでわが国の指導層は、独ソ戦の戦況を冷静に見極め、ハル・ノートが要求する三国同盟の空文化を徹底し、百害あって一利なき三国同盟を破棄すべきだった。また、泥沼に陥ったシナ本土や、欧米を刺激する仏印からは撤退するが、満州国は堅持するという方針で対米交渉を続けていけば、そのうち国際関係のバランスが崩れ、欧米列強が相打つ戦況が展開しただろう。そして、わが国は、ルーズベルトの挑発やスターリンの思惑に乗らずに、無謀な対米開戦を避け得る道筋が開けたと私は思う。

(2)世界規模の大戦へ


●日本はついに米英との開戦に突入

 わが国の指導層は、ハル・ノートの詳細な分析や独ソ戦に関する情報の分析を欠いたまま、1941年(昭和16年)12月1日、御前会議で米英に対する開戦が決定された。昭和天皇は、戦後、『昭和天皇独白録』で、「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も言わなかった」と語っている。
 12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。また同日、イギリス領マレーのコタ・バルに対する上陸作戦を開始した。
 こうしてヨーロッパで始まった戦争は、東アジア・太平洋での戦争と結合し、世界規模の大戦となった。わが国は自国の戦争を大東亜戦争と名づけ、アメリカは太平洋戦争と称した。

 真珠湾攻撃は、はなばなしい戦果を挙げた。しかし、在米外交官の失態により、宣戦布告の通知が遅れた。ルーズベルトは、事前に日本外務省の打電内容を解読・承知していながら、ハワイのキンメル将軍に伝えなかった。そして、日本軍に攻撃をさせ、これをだまし討ちとして、最大限宣伝に利用した。米国の世論は一気に対日報復戦争へと沸騰した。大統領が自国民をだましたのである。
 マレー沖海戦では、日本軍の航空部隊がイギリス東洋艦隊の主力戦艦を撃沈した。チャーチルは、深刻な打撃を受けた。わが国は、西太平洋の制海権、制空権を握った。日本軍は、東南アジアの白人植民地や太平洋諸島に進撃を続けた。国民の多くは、連戦連勝の報道に酔いしれた。

 大塚寛一先生は、米英との開戦は、建国以来の大敗を招くと警告していた。そして、厳正中立・不戦必勝の大策を、指導層に建言していた。しかし、当時のわが国の指導層の多くは、先生の慧眼を理解できなかった。
 ヒトラーやムッソリー二の覇道をまねた軍部は、ソ連の策謀とアメリカの挑発に引っかかり、米英との戦争に突入した。これは、大調和の精神である日本精神に外れた行動だった。また、世界の大転換という時の到来を感知せぬ行動だった。その結果、わが国は史上例のない敗戦を喫してしまうことになる。詳しくは項目「歴史再考」の拙稿「大東亜戦争は戦う必要がなかった」「大東亜戦争は、こうすれば回避できた」を参照願いたい。

●緒戦の優勢が翌年には逆転

 日本は12月8日、米英と開戦するや3日後の11日に、三国単独不講和確約を結んだ。同盟関係にある日独伊は、自国が戦争でどのような状況にあっても、単独では連合国と講和を結ばないという約束である。ここでわが国は、ドイツ、イタリアとまさに一蓮托生の道を選んだことになる。昭和天皇は、このことに関し、『昭和天皇独白録』で次のように述べている。
 「三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦後できた三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」「この確約なくば、日本が有利な地歩を占めた機会に、和平の機運を掴(つか)むことがきたかも知れぬ」と。
 米英との開戦はまことに悔やむべきことだったが、戦争を始めた以上、今度はこれを有利に終結するのが、政治の役割である。日露戦争の時は、善戦している間に講和の機会をつくる努力をしていた。もし長期戦となり、第3国に講和の仲介を拒否されていたら、苦しい戦いになっていっただろう。しかし、昭和の指導層は、日露戦争の時の先人の貴重な教訓を生かせなかった。まことに残念なことである。

 1942年(昭和17年)中盤までは、ヨーロッパ、東アジア・太平洋両戦線ともに、日独伊を中心とした枢軸国が優勢だった。しかし、わが国は、42年6月、ミッドウェー海戦で最初の躓きを味わった。米空機の急襲により主力空母を失った日本は、以後、戦争の主導権をアメリカに奪われた。
 戦争が長期化するにつれ、物資や情報の面で勝る連合国側が次第に戦局を有利に展開するようになった。42年秋までには、アメリカの軍需生産は圧倒的な規模に達した。戦争の長期化はわが国に不利であることは、海軍上層部を中心にわが国の軍人の間でも、予測されていた。それが現実になっていく。
 ヨーロッパでは、この年8月、ドイツ軍がソ連第3の工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)に侵攻した。スターリングラード攻防戦は、第2次大戦最大の激戦となった。ドイツ軍は、41年暮れに続いて、再びロシアの冬に直面した。明けて43年(昭和18年)1月、ドイツ第6軍がソ連軍に降伏した。これ以後、ドイツは、各地で敗北を重ねることになる。

●日本軍の苦戦は続く

 ドイツが対ソ戦で惨敗した翌月、43年2月、アジア・太平洋戦線では、ガダルカナル島が陥落した。前年8月に米軍が上陸し、激戦が繰り返されたが、ついに日本軍は撤退した。これにより、戦争の主導権は、完全にアメリカが握ることになった。
 ヨーロッパ戦線では、42年(昭和17年)11月、英米連合軍が北アフリカから反攻を開始し、43年7月にはシチリア島に上陸した。イタリアでは軍部や保守派がムッソリーニを逮捕し、独裁者は失脚した。代わったバドリオ政権は、同年9月無条件降伏した。枢軸国の一角が崩れた。
 ムッソリーニは、その後、一時政権に返り咲くが、45年4月処刑された。

 わが国は、広範囲に軍を展開したため、兵站線が延び切って、武器・弾薬や食糧等の補給が不足した。兵士の死因は、餓死・病死が多くなっていく。
 日本軍は、各地で苦戦した。中でも44年(昭和19年)3月に行ったインパール作戦は、最も失敗した作戦として知られる。作戦は、英軍のビルマ進攻防止と、チャンドラ・ボースの自由インド政府を支援するために発動されたが、英軍の反撃や補給の途絶などにより、日本軍は敗退した。日本軍には、7万人以上の死傷者が出た。しかし、日本軍の支援と共闘がインド人に勇気を与え、インドの独立運動を促進したことも確かな事実である。

 この年6月、米軍はサイパン島に上陸した。日本軍は地上戦を展開したが、7月に部隊は全滅。同島に航空基地を確保した米軍は、日本本土への本格的な空襲を開始した。大塚先生は、米英との開戦前から、警告を入れないならば、わが国は木造建築の弱点を衝かれて、空襲を受け、大都市は焦土と化すと警告されていた。それが不幸にして現実になる。
 東条打倒を目指す動きが、一部の政治家・官僚等によってひそかに進められていた。7月その効あって、東条内閣は総辞職した。しかし、その後を次いだ政権も、約1年以上戦争を終結へと進められなかった。

 10月21日、明治神宮で、出陣学徒壮行会が行われた。訓練不足の学生が戦地に次々に出征していった。
 壮行会の2日後に行われたレイテ沖海戦で、わが国は惨敗を喫した。フィリピン周辺海域での戦闘で、戦艦武蔵を始めとする主力軍艦を失い、連合艦隊は事実上壊滅した。この海戦に際し、神風特別攻撃隊が編成され、体当たり攻撃が実行された。

●大戦は悲劇の終盤へ

 1944年(昭和16年)後半、ヨーロッパでも、戦局は連合軍の側に大きく傾いた。「Dデイ」と呼ばれた6月6日、連合軍は、北フランスのノルマンディーに上陸した。「史上最大の作戦」といわれ、第一波攻撃だけで、約17万6千人の兵士が作戦に参加した。その後3ヶ月で、連合軍はフランスの大部分を奪還した。
 ノルマンディー上陸作戦に成功した連合国は勢力を強め、45年(昭和20年)に入るとドイツ領内に侵攻する。こうした戦争の最中、米英は、戦争の終結と戦後体制の構築を検討していた。
 2月4日からクリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ首脳による会談が行われた。彼らは、ドイツに対する戦後処理として、米英仏ソ4カ国による共同管理、戦犯処罰、非武装化を決めた。また連合国を発展させた国際機構をもって戦後世界を管理する体制に大枠合意した。この会談で、米英首脳は、スターリンに対日参戦を求め、見返りとして千島と南樺太の奪取を認めた。これは領土不拡大を宣言した大西洋憲章を曲げる密約だった。
 スターリンはヤルタ密約を背景に、ドイツに進軍した。ドイツは東西から挟撃された。4月、アメリカ軍とソ連軍がエルベ川近くで合流した。ソ連軍がベルリンを包囲するなか、追い詰められたヒトラーは自殺した。ドイツは正統な政府のない状態で、5月に無条件降伏した。枢軸国側で残る主要国は、日本のみとなった。

 ドイツの敗色が濃くなっていた45年2月13日、ドイツの古都ドレスデンが、英米軍による空襲を受けた。死者は約3万5千人に上った。この攻撃は、軍事施設を攻撃する戦術とは明らかに異なり、一般市民への無差別攻撃である。アメリカはこうした攻撃を日本に対して、徹底的に実行した。

●昭和天皇による「終戦の御聖断」

 3月10日、東京はアメリカ軍のB29による空襲を受けた。一夜で約10万人が犠牲となった。一般市民を対象とした無差別攻撃であり、戦時国際法に違反した行為である。4月、5月にも空襲が行われた。東京は三度の空襲によって、大部分が焼け野原となった。
 4月には、沖縄本島がアメリカ軍の侵攻を受け、多くの島民が犠牲になった。しかし攻撃を受けたのは沖縄だけではない。わが国の66の主要都市が次々に無差別攻撃され、老若男女の無辜の民が斃れていった。

 わが国は、戦争終結の道を探り、ソ連に仲介を期待した。しかし、虎視眈々と参戦の機会をうかがっているスターリンが、それに応じるはずはなかった。
 8月6日、アメリカ軍は広島に原子爆弾を投下した。この人類史上初の原爆投下によって、約14万人の生命が奪われた。そのほとんどは、非戦闘員である。続いて9日には、二発目の原爆が長崎に投下された。約7万人が殺害された。
 9日未明、弱りきった日本の姿を見て、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦した。満州、樺太、千島列島等に、ソ連軍が猛然と攻め込んできた。

 ここにいたって、昭和天皇は、8月9日の御前会議において終戦の御聖断を下された。御聖断に従って、わが国は8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。12日に回答が届いた。そこには「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文が記されていた。天皇は14日に閣僚全員を召集し、御前会議が開かれた。
 日本は、正統なる政府が厳然と存在し、連合国と外交交渉を行ったので、日本の降伏は条件付き降伏である。ポツダム宣言とは、その降伏の条件を示した降伏勧告文書に他ならない。
 9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号の船上にて、日本の降伏文書の調印が行われ、未曾有の大戦争であった第2次世界大戦は終結した。
 
関連掲示
・項目「君と民」の拙稿
  21「国民を思った終戦の御聖断〜昭和天皇(4)
  22「御聖断に込められた願い〜昭和天皇(5)

 

●わが国の開戦と敗戦の背後にあるもの

 第2次世界大戦において、日本は戦前からのシナとの戦争を解決できないまま、アメリカとの関係が悪化し、遂に米英との無謀な戦争に突入した。その結果、わが国は建国以来ない大敗を喫した。この過程で、ソ連の謀略がわが国の進路を狂わせ、日本を破滅へと導く作用をした。ソ連は、同時にアメリカ政府にも深く工作の手を伸ばし、ルーズベルトの政策を大きく左右した。
 20世紀は、共産主義が1億人もの犠牲者を生み出した世紀だった。第2次大戦後、ソ連は共産主義を広範囲に広げ、世界を二分した。ソ連解体後も共産主義は生き延び、21世紀の世界で、中国が新たな大国として力を増強している。ソ連解体後のロシアは、再び統制主義的な政策で復興し、中国との連携を深めている。こうしたことを考えると、20世紀前半、ソ連がわが国やアメリカに及した影響は、もっと明確に認識されるべきものと思う。
 この点を強調するために若干補足したい。

 1930年代、わが国はスターリンの謀略に嵌められ、中国との戦争に引きずり込まれた。日中が全面戦争に進むと、英米はソ連に続いて蒋介石を支援し、日本には経済圧迫を加えて、シナの抗日戦意をあおり、日中の抗争を長引かせ、泥沼化させた。
 ソ連は中国に戦闘機や爆撃機を与え、軍事顧問団ととともにパイロットを派遣していた。アメリカも中立を装っていながら、軍事顧問団に加え、空軍パイロットを送っていた。これは中立国としては絶対に許されない行為だった。白人諸国は、東洋の黄色人種、日本と中国を戦わせ、アジアでの権益を拡大しようとしていたのである。日本も中国も、この白色人種の魂胆を見抜いて、日中が堅く提携していくべきだった。しかし、それを実行できる指導者を、ともに欠いていた。

 ソ連の世界共産主義革命戦略の基本方針は、レーニン以来、「帝国主義戦争を革命へ」であったと私は考える。戦争によって資本主義国が相打ち、相弱ることは、革命運動に有利な状況を生み出す。この戦略のもと、スターリンは、日中だけでなく、日米をも戦わせようとしていた。W・ビュリット駐ソ大使は、早くも1935年(昭和10年)7月、「アメリカを日本との戦争に引き込むのがソ連政府の心からの願望」だと米国政府に知らせている。しかし、ルーズベルト大統領は、スターリンの遠大なスケールの謀略を見抜くことが出来なかった。
 ルーズベルトは、ソ連・中国の捏造した田中上奏文を真に受けて日本を敵視していた。1941年(昭和14年)9月、ヨーロッパでナチス・ドイツが電撃的な進撃を開始すると、ルーズベルトは欧州への参戦を願っていた。しかし、選挙では、不参戦を公約している。そこで日本を挑発して先に手を出させ、それを口実に大戦に参入しようとしていたのである。
 この思惑はスターリンの狙いと一致していた。ソ連は大統領の側近にスパイやエージェントをつくって工作し、ハル・ノートの作成にも一部関与した。スターリンは、アメリカを早く太平洋に誘い出し、力を分散させることで、戦後の欧州やアジアの共産化を狙っていたのだろう。

 スターリンは、世界革命戦略の中で、日本の共産化を非常に重視していた。スターリンの意思を受けたゾルゲと尾崎秀美は、日本で工作活動を行い、日本軍を対ソ北進から南進政策に転じせしめた。これによって、スターリンは、ドイツと日本による挟み撃ちを免れた。それと同時に、日米を激突させることにも成功したのである。
 日本の南進は、アメリカの強い反発を招いた。石油の対日輸出禁止は、日本の喉元を締め上げるものだった。ハル・ノートを突きつけられた日本は、これへの対処を誤り、真珠湾攻撃へと突き進んだ。

 日本にとどめをさすソ連の参戦を決めたヤルタ会談では、ソ連のスパイ、アルジャー・ヒスが暗躍した。国務省の高官として、ルーズべルト政権に仕え、ヤルタに随行した。彼は、国務省を代表して会談に出席し、重病のルーズベルトを補佐した。ヤルタ協定の草案は、ヒスが作成した。ソ連はヤルタ協定によって、堂々と東欧と日本の一部を略取した。その延長線上で中国の共産化、朝鮮北部の従属化にも成功した。
 1995年(平成7年)7月、アメリカ政府は、長年非公開としてきたソ連の暗号電報を公開した。暗号の解読は最高機密活動であり、1943年(昭和18年)から陸軍の特殊部隊によって行われた。「ヴェノナ作戦」(Venona project)と呼ばれた。その資料公開によって、1940年代から50年代にかけて、米国政府内に、100人以上ものソ連のスパイが潜入していたことが確認された。彼らは、ホワイトハウス・国務省・財務省・司法省や、CIAの前進である戦略情報局(OSS)、陸軍省等で暗躍していた。ハル・ノートに関わったホワイト、ヤルタ会談に関わったヒスらは、その一部に過ぎない。

 1945年(昭和20年)8月9日、日本が原爆投下によって瀕死の状態に陥ったところを見計い、スターリンは日ソ立条約を一方的に破棄して、満州・樺太・千島に侵攻した。わが国は、辛くも北海道または日本の東部を軍事占領されることは、避けられた。しかし、ソ連は、アメリカによる自由化・民主化に乗じて、共産主義を日本に浸透することに成功した。
 日本人の精神は、敗戦による自信喪失と、アメリカ・ソ連から流入した外国思想によって、分裂状態に陥った。今日なお、日本人の多くは日本精神を取り戻すことができておらず、国家としての再建もその途上にある。第2次世界大戦という世界規模の戦争の中でわが国が戦った大東亜戦争の影響は、存続しかつ今も甚大である。
 戦後の世界及び日本については、現代史のところで改めて書きたい。

関連掲示
・拙稿「日本を操る赤い糸〜田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等
 第6章 ゾルゲ〜二つの祖国を持つスパイ
 第7章 尾崎秀美と「敗戦革命」戦略
 第8章 ハル・ノートにスターリンの謀略
 第9章 ヤルタ会談でもソ連スパイが暗躍

 

●第2次世界大戦の世界的な意義

 第2次世界大戦は、人類がかつて経験した最大の戦争であり、そして最後としなければならない世界戦争である。
 第2次世界大戦には、いくつか重要な意義がある。私は、人類史的意義、文明学論的意義、国際関係論的意義の三つを挙げたいと思う。

 第一に、第2次大戦の持つ人類史的意義とは、人類史の大きな区切りとなったことである。私は、1945年(昭和20年)以降を現代と呼んでいる。
 第2次大戦での死者は5000万人を超え、なかでも民間人の犠牲者数は3400万人に達したといわれる。それほどの犠牲者を生んだのは、この大戦は第1次大戦以上の総力戦となったからである。高度な総力戦では、相手国の生産力や国民の士気を奪うことが重要となる。爆撃機による無差別攻撃で多くの一般市民が犠牲となった。またこの大戦は、科学技術を大幅に発達させた。科学技術の発達が陸海空の兵器の破壊力を増大させ、犠牲者数を増した。レーダー、航空母艦、ミサイル等が開発され、実戦に使用された。その中でも突出した威力を持つものこそ、原子爆弾である。
 原子力の開発・利用によって、人類は新たな歴史の段階に入った。自然に内在する巨大なエネルギーを人間が使用できるようになったことで、人類は飛躍的に発展することもできれば、核戦争によって自滅することもありうる。そういう段階に、人類は入ったのである。それゆえ、私は、人類史の大きな区切りとして、1945年(昭和20年)以降を現代と呼ぶ。

 第二に、第2次大戦は、文明学的意義を持つ。大東亜戦争は、アジア・太平洋の広域に繰り広げられた、「文明の挑戦と応戦」の一大ドラマだった。白人種の文明と有色人種の文明という異質な文明同士の激突だった。そして、日本の近代化や日露戦争に見られるように、世界の中心が西洋から東洋へと移行していく「時」の流れを、そこに見ることができる。
 その「時」の流れを巨視的に洞察していた大塚寛一先生は、日本が欧米との戦争に踏み込むことなく、厳正中立・不戦必勝の対策を提示された。ところが、当時の日本の指導者は、日本とアジアの発展の時を見誤って、戦う必要のない無謀な戦争に突入してしまった。東条英機らが描いた大東亜共栄圏構想は、花に例えれば、人工的に早咲きさせようとして、かえって花を散らせてしまったようなものである。西洋文明が産んだ独伊のファシズムを模倣して、力づくで無理矢理に進めたため、自然の法則に外れ、狂い咲きとなってしまったのである。これは誠に残念なことだった。
 しかし、その半面、時の勢いはすでにアジアに向かっていたから、大東亜戦争は、アジア諸民族の独立・解放のきっかけとはなった。20世紀後半から21世紀にかけて人類が目の当たりにしているアジアの興隆は、第2次世界大戦で欧米諸国が互いに傷つけ合い、日本が白人種による植民地支配を突き崩し、アジア諸民族が独立運動を行ったことに始まる。わが国が大東亜戦争をアジア解放の戦いとしたことは、その点で意味がある。だが、だからといって、独伊との同盟を正当化することはできないことは強調せねばならない。

 第三に、第2次世界大戦には、国際関係論的意義がある。第2次大戦は、国際社会の構造に大きな変化をもたらした。大戦後の国際秩序は、米英ソ参加国の首脳によるヤルタ会談とポツダム会談によって、大枠が決められた。それゆえ、ヤルタ=ポツダム体制と呼ぶことができる。
 米英ソの連携を支持する者は、第2次大戦を「民主主義対ファシズムの戦い」とする。しかし、ソ連は全体主義であって、自由民主主義ではない。米英とソ連を結んだのは、思想・体制ではなく、主権国家としての利害関係である。第2次大戦は、同盟国群の間の戦争であって、「連合国対枢軸国の戦い」としか言えない。
 「連合国対枢軸国の戦い」とは、近代世界システムの中核部における覇権争いである。その争いにおいて、日独伊は惨敗し、英仏蘭等は後退し、米ソが躍進した。戦後、アジア、ついでアフリカでは、抑圧されていた諸民族の多くが独立した。
 国際社会は、軍事的には、連合国が国際機構に再編され、いわゆる国際連合が国際秩序の要となった。やがて安保理常任理事国の五大国による核の寡占管理体制が形成されていった。
 一方、経済的には、大戦前の数カ国の列強による分割支配・ブロック経済は、大戦後、米ソ二大国の系列支配・体制圏経済に移行した。資本主義対共産主義、自由主義対統制主義の対立が構造化された。資本主義・自由主義の体制圏では、アメリカを中心とする国際経済体制が構築された。ブレトン・ウッズ体制がそれである。共産主義・統制主義の体制圏では、ソ連を中心とする国際経済体制が構築された。こちらでは、共産党による計画経済が試みられた。
 第2次世界大戦は、戦争という破壊によって、こうした新しい国際社会の構造を生み出した。そこに国際関係論的な意義がある。

 引き続き、現代の世界については、拙稿現代の眺望と人類の課題」をご参照願いたい。(了)

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参考資料(主なもの)

・アーノルド・トインビー著『歴史の研究』(社会思想社)、『世界の名著 61 トインビー』(中央公論社)

・フリップ・バグビー著『文化と歴史』(創文社)

・山本新著『周辺文明論』(刀水書房)

・伊東俊太郎著『比較文明』(東京大学出版会)

・サミュエル・ハンチントン著『文明の衝突』(集英社)、『文明の衝突と21世紀の日本』(集英社新書)

・中西輝政著『国民の文明史』(産経新聞社)

・W・H・マクニール著『世界史』(中公文庫)

・河出書房版『世界の歴史』(河出文庫)

・中央公論社版『世界の歴史』(中央公論社)

・山川出版社版『世界各国史』(山川出版社)

・謝世輝著『新しい世界史の見方』(講談社現代新書)

・宮崎正勝著『文明ネットワークの世界史』(原書房)

・『一冊でわかる イラストでわかる 図解世界史』(成美堂出版)

・イマヌエル・ウォーラーステイン著『入門世界システム分析』(藤原書店)

・山下範久著『世界システム論で読む日本』(講談社叢書メチエ)

・アンドレ・G・フランク著『世界資本主義と低開発』(柘植書房)

・湯浅赳男著『第三世界の経済構造』(新評論)

・松岡正剛著『誰も知らない世界と日本のまちがい』(春秋社)

  川勝平太著『文明の海洋史観』(中央公論社)、『日本文明と近代西洋』(NHKブックス)

・ポール・ジョンソン著『ユダヤ人の歴史』(徳間書店)

・ヴェルナー・ゾンバルト著『ユダヤ人と経済生活』(荒地出版社)

 

 

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