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■日本文明の宗教的中核としての神道

2015.10.11

 

<目次>

はじめに

第1部 神道とは何か

第1章 神道の概要

第2章 文明学的に見た神道

第3章 神話と神道

(1)神話の神々を祀る

(2)三種の神器の由来

(3)米に関する神勅

第4章 儒教・道教・仏教の摂取

(1)シナの宗教・思想の日本化

(2)道教の概念体系の摂取

(3)儒教による先祖崇拝の発達

(4)仏教との共存

(5)東洋諸宗教の総合

第5章 ユダヤ教との比較

第6章 哲学的・心理学的考察

第2部 日本文明における神道の歴史

第1章 日本文明と神道史の概要

第2章 日本文化と神道の形成

(1)原始時代と縄文時代

(2)弥生時代

第3章 国家の形成から奈良時代までの展開

(1)小国の形成と大和朝廷の成立

(2)仏教の伝来と神道の保持

(3)儒教的な制度の摂取

(4)『古事記』『日本書紀』の編纂

(5)言霊信仰と和歌

第4章 平安時代から安土桃山時代までの展開

(1)本地垂迹思想と仏教的神道

(2)反本字垂迹説と伊勢神道

(3)日本的仏教の開花

(4)貞永式目と神仏の尊信

(5)元寇と神国思想の高揚

(6)吉田神道と神国思想の浸透

第5章 江戸時代の展開

(1)儒家神道と国柄の再確認

(2)渡会神道・吉川神道・垂加神道

(3)神儒仏の道徳的総合

(4)お伊勢参りの隆盛

(5)国学と古学神道

(6)幕末の危機への対処

第6章 明治期の展

(1)発展期の日本文明と国家神道

(2)明治初期の政教政策

(3)神社は非宗教として政府の管理へ

(4)大日本帝国憲法と教育勅語

第7章 大正期の展開

(1)加藤玄智による広義の国家神道論

(2)大正デモクラシーと天皇機関説

第8章 昭和戦前期の展開

(1)統帥権干犯問題と軍部の専横

(2)『国体の本義』の発行

(3)昭和14年に教科書が変化

(4)大東亜戦争

第9章 敗戦による占領期の展開

(1)神道指令

(2)新日本建設の詔書

(3)日本国憲法

第10章 広義の国家神道論は誤り

(1)戦後の国家神道に関する常識

(2)村上重良の学説とそれへの批判

第11章 日本文明の世界への貢献のために

第3部 世界の中の日本神道

(1)「明日への挑戦は神道への復帰」〜トインビー

(2)「神道は世界へのメッセージを持つ」〜メーソン

(3)「日本を待望する」〜ジェルマントマ

(4)「将来の世界の霊性は神道から出る」〜ピッケン

結びに〜神道はこの21世紀に開花する

 

補説 戦後の神社神道を統括する神社本庁

 

 

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はじめに

 

 わが国は、四季の変化に富んだ豊かな自然のなかで、家族的・生命的な共同体が集合し、天皇を中心とした一大家族のような社会を構成してきた。この社会に自ずと発生・成長したのが、人と人、人と自然が調和して生きる「日本精神」である。

日本精神は敬神崇祖を宗とし、親子・夫婦・祖孫の一体を実践する大調和の精神として、日本文明の精神的背骨となっている。その日本精神の宗教的な表現が、神道である。

 神道というと、原始的な宗教だと思う人もあるだろう。また、戦前の軍国主義と結びついた「国家神道」を思い浮かべる人もあるだろう。しかし、神道はもっと豊かなものである。世界中のどの民族も、相通じる世界観を持っていた。それは人間本来の生き方とも言えるものである。

トインビーは、文明の中核には宗教があると説いた。日本文明の中核となるのは、日本固有の宗教である神道である。その意味では、日本文明は神道文明と呼ぶこともできる。

 本稿は、日本文明の宗教的中核である神道の概要を述べ、日本文明における神道の歴史を振り返って、神道の特徴と課題を確認し、この21世紀に神道に潜在する可能性が開花する将来を展望するものである。

 

 

第1部 神道とは何か

 

第1章 神道の概要

 

 最初に、神道の概要について、項目を列記する仕方で記しておきたい。

 

●語義

 

 神道は「神の道」と書く。「かみ」の語源については、「上」「かがみ」「隠り身」等の説がある。これに漢字の「神」を充てた。「神」のつくりの「申」は稲妻の伸びるさま。へんの「ネ」は祭壇を意味する。そこから「神」は、不可知な自然の力や、目に見えぬ心の働きを言う。一方、「道」は、道教・儒教・仏教で教えや理法、本体、根元等の意味で使われる。これを「神」と組み合わせて、神道という。

 神道の語は「しんとう」と読む。シンドウとは濁らない。神道という漢語は、シナの『易経』や『晋書』にみえるが、これは「神(あや)しき道」の意味であり、日本における神道の意味とは異なる。

 日本における神道の語の初出は、『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」である。ここでは、外来の宗教である仏教に対して日本固有の信仰を意味した。

神道は、大和言葉では「かむながらのみち」という。「かむながら」とは、森羅万象を神々の体現として享受し、神とともにあるという意味といわれる。「かむながら」は「神ながら」「惟神」とも書く。森羅万象を神々の体現として享受し、神とともにある生き方が、「かむながらのみち」すなわち神道である。

 

●歴史

 

神道の由来と歴史は、日本民族の由来と歴史と重なり合う。日本民族は、アジア・太平洋の東西南北からさまざまな民族が流入して、日本列島で融和・混交し、一個の民族を形成した。この過程は3万年以上の歳月をかけて進行したと考えられる。

日本列島に集ったさまざまな民族はそれぞれの神話を伝承し、また各々の祭儀を行ってきた。原始的な共同体から古代的な国家が形成される過程で、共同体ごとの神話と祭儀が統合され、民族の形成とともに民族の神話と祭儀が形成された。様々な系統の神話は、『古事記』『日本書紀』等に編集された。また皇室の祭儀を中心として祭儀が整備された。こうして日本固有の宗教が形成された。それが神道である。

 民族の形成の過程はまた民族の言語としての日本語の形成の過程でもあった。形成された日本語によって、記紀等が編纂された。これらは、神話と歴史を伝える国民的な古典となっている。同時に記紀等は、神話にもとづく神道の宗教的な文献となっている。

 原始時代から現代までの神道の歴史については、第2部で概説する。

 

●宗教的特徴

 

 神道は、日本古来の伝統的な宗教であり、民族宗教である。仏教・キリスト教・イスラーム教は、世界宗教と呼ばれるように民族や文化を超えた強い普及力を示してきた。これに対し、神道は民族宗教であり、そうした普及力をこれまでは発揮していない。

神道は、自然宗教であり、創唱宗教ではなく、明確な教祖はいない。神道は、神話とそれに伴う祭儀が発達したものである。セム系一神教における神の啓示を記した啓典はない。仏教の経典やキリスト教の聖書にあたる聖典がないとされることが多い。ただし、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』等の古典を「神典」と称し、仏教・キリスト教等の文書に相当するという主張もある。また、これらの書物の神話の部分には、神勅と呼ばれる神々の言葉が記されている。

 神道は、自然崇拝・祖先崇拝を行う多神教であり、信仰対象は八百万(やおよろず)の神々と呼ばれる。山や川などの自然の事象、また神話に語られる祖霊たる神、敬うべき偉人、怨念を残して死んだ者等を祀って敬う。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ行為が祭儀となっている。

 

●アニマティズム・アニミズム・シャーマニズム

 

神道は、自然崇拝・祖先崇拝を行う多神教である。そこには、アニミズムとシャーマニズムの要素が見られる。

 まず、アニミズムについてだが、アニミズムは精霊信仰、霊魂信仰などと訳される。人類学者のエドワード・タイラーは「霊的存在への信仰」と定義している。

私は、アニミズムの根底には、アニマティズムがあると考える。アニマティズムとは、タイラーの弟子ロバート・マレットが、アニミズム以前のプレアニミズムの一形態として唱えたもので、自然界の事物に霊的な力や生命力が秘められていると考え、この力を人間生活に取り込もうとする信仰である。私は、これを宇宙・生命の根源的な力への信仰と考える。訳すならば、霊力信仰である。

わが国では古来、何かしら尊いもの、偉大なものに触れると、それを「かみ」と呼んで崇めたり、畏れたり、親しんだりしてきた。それが自然の事物や現象だったり、人間の霊魂だったり、生きている人間だったり、対象はさまざまである。だが、ここで「かみ」と呼ばれるものは、それぞれの事物に宿っている霊的存在というより、すべてのものの根源にある力を指すものと考えられる。ポリネシア・メラネシア等広く太平洋諸島に見られる「マナ」や東南アジアの諸民族における「ピー」と、「かみ」は、同じ対象を指すものだろう。この宇宙・生命の根源的な力への信仰がアニマティズムであり、それが最も原初的な宗教の形態であると私は考える。

アニマティズムにおける根源的な力への信仰は、個々の事物に名前が付けられると、事物それぞれに霊的存在が宿るという考え方に変化する。また、遠方または異界からやって来るものが、人や物に憑依するという考え方も現れる。それが何々の「かみ」、何々の霊などと個別化されたものが、アニミズムであると私は考える。

アニミズムは、精霊信仰を通じての自然崇拝でもある。それは、アニミズムは、アニマティズムの対象が個別化したものだからである。またそのことによって、アニマティズムとアニミズムが重合しているのが、自然崇拝である。

 アニミズムの様々な形態のうちの一つが、多神教である。多神教は、一神教と対比される分類概念である。唯一の神ではなく、多数の神々を祀る宗教である。多神教は、自然の事象、人間・動物・植物等を広く対象とする。一神教的な側面や汎神論的な傾向を持つものもある。それゆえ、多神教という言葉で括るのは必ずしも適当ではないが、ここでは一般的な用語に従う。

神道は、森林や海洋に囲まれた環境で発達した多神教だが、単なる多神教ではなく一神教的な側面を持っており、一神教と多神教を総合し得る構造を内在している。一神教的な傾向を持つというのは、多元的なアニミズムの根底に、一元的なアニマティズムがあるからである。この点については、第6章で哲学的・心理学的考察を行う。

次に、神道は、シャーマニズムの要素も持っている。シャーマニズムは、シャーマンと呼ばれる特殊な霊的能力を持つ宗教的職能者を中心とした信仰・宗教である。シャーマンは、トランス(trance)状態と呼ばれる特殊な心的状態において、神・精霊・死者等の霊的存在と直接に交渉し、その力を借りて託宣・予言・治病・祭儀などを行う。シャーマンの語源は、ツングース系諸族の言語に求められる。宗教学者の中には、シャーマニズムをシベリアの原始宗教とする者がいるが、類似した現象は、中央アジア・北米・東南アジア・オセアニアなど世界各地に見られる。日本やシナ・朝鮮では巫術・巫俗といい、呪術とも訳し得る。

わが国では、邪馬台国の卑弥呼はシャーマン(巫女)だったと考えられる。祭儀において「神ががり」になり、神や霊の言葉を宣べる神職や霊能者も、シャーマンと言える。

シャーマニズムは、アニミズムすなわち精霊信仰を背景にする。アニミズム及びシャーマニズムは、人間の霊を対象とするとき、祖先崇拝となる。子孫は、祖先の霊に呼びかけ、祖先の霊を慰め、祖先の霊に加護を祈念する。氏族・部族・民族の共同体において、その祖先の霊に対する儀式を執り行う者が、シャーマンである。シャーマンは、祖先の霊を呼び寄せ、それと接触・交流し、その意思を共同体の成員に伝える。

神道は、こうしたアニミズム及びシャーマニズムに基づいて祖先崇拝を行う宗教である。祖先崇拝は部分的に自然崇拝と一体のものともなっている。皇室において、太陽神である天照大神が皇室の祖先神ともなっているのが、その典型である。この場合は、皇室の祖先の霊に対する祖先崇拝が、太陽に対する自然崇拝と習合したものと考えられる。

 

●神々の関係

 

神道で祀る神々の多くは、『古事記』『日本書紀』等の神話に語られる神々である。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)等がそれである。

神話における神々の社会では、天照大神が中心と考えられている。天照大神は「天を照らす神」であり、太陽神である。天空に存在するとされる高天原の主宰神とされている。それゆえ、神道の最高神とする考え方が広く見られる。同時にまた皇室の祖先神とされている。

 天照大神は高天原を治める神だが、唯一神ではない。始源神ではなく、男性神の伊弉諾尊が生んだ三人の子供のうちの一人である。男性神ではなく女性神である。神々の中の中心的存在だが、専制的・独断的でない。物事の決定は、他の神々を集め、衆議によって行う。また、天照大神は、しばしば高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の助力を受けている。この神は、高木神(たかぎのかみ)ともいう。

 天照大神は、孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊(すめみまあまつひこひこほのににぎのみこと、以下瓊瓊杵尊)をわが国に遣わしたとされる。それによって皇室の祖先とされ、民族の中心となっている。記紀等では、ほかの神々、諸氏族の氏神は、天照大神を中心とした一大親族を形成するような関係とされている。

 

●神聖な場所と神社

 

原始時代の日本では、巨木の周辺や近くの丘、山、巨岩等に神が降りたり、宿ったりすると考えられた。これらを取り囲む広場が神聖な場所とされ、普段は立ち入ることのできない場所だった。広場は同時に、集団的な祭りの場であり、集会・宴会の場でもあった。

聖別された場所に関するものに、「ひもろぎ(神籬)」と「いわさか(磐境)」がある。「ひもろぎ」は、神が宿っている山・森・木などの周囲に常盤木を植えて、玉垣を結って神聖を保った場所である。「いわさか」は、神の鎮座する施設・区域であり、磐は強固な基礎を意味する。

 『日本書紀』によると、天孫降臨に際し、高御産巣日神は随行の天児屋根命(あまのこやねのみこと)と太玉命(ふとだまのみこと)に、次の神勅を下した。

 「吾は即ち天津神籬および天津磐境を起こし樹てて、常に吾孫(すめみま)の為に斎奉るべし。汝(みまし)天児屋根命、太玉命宜しく天津神籬を持ちて、葦原中国(あしはらのなかつくに)に降りて、亦吾孫の為に斎奉れ」

 この神勅が「ひもろぎ」と「いわさか」の由来とされる。天孫瓊瓊杵尊に随行した天児屋根命は、中臣氏・藤原氏の祖先とされる。また太玉命は、忌部氏の祖先とされる。

神道では祭儀の際、聖別された場所に仮設の建物を立てて、氏神等の神を呼び寄せて祈る儀式や神をもてなす祭りを行い、終わったら仮設物を取り除いた。やがてそれが常設化されて神社となった。

 神道では、各地で土地の守り神も祀られてきた。農耕によって定住生活をするようなると、祖霊を祀るとともに、土地の自然物を習合的に神として祀るようになったものである。人の生まれた土地の守り神を、産土神(うぶすながみ)ともいう。これは血縁ではなく地縁の神であり、氏族の祖先である氏神とは異なるものだが、同族結合が薄れるに従ってこれらが混同され、ともに村の守護神とされるようになった。

 

●「みこと」と「みこともち」

 

 神道では、神々の名前に「かみ」以外に「みこと」が使われる。尊・命の漢字を充てる。この場合の「みこと」は、神、天皇、貴人の尊称である。元は「御言(みこと)」であり、「こと」の尊敬語が、神や人に使われた。「こと」の尊敬語としての「みこと」は本来、神の言葉を意味する。その神の言葉を伝える者を「みこともち」という。「みこともち」の第一は天皇である。天皇の言葉を「みことのり」という。詔・勅の漢字を充てる。天皇に仕えて、「みことのり」を伝える者も「みこともち」という。

 天皇は、「すめらみこと」に宛てた漢字である。「すめらみこと」は「すめらぎ」「すめろぎ」ともいう。「すめら」は、極端に尊敬を表す時の接頭語である。「すめらみこと」は、最高位の「みこともち」である天皇への尊敬語である。

 「みこと」を重視する思想は、言霊の信仰につながる。言霊信仰については、第2部第3章(5)に書く。

 

●「まつる」と「まつりごと」

 

 神道は、祭りを行う。「まつる」には、祭・祀・奉の漢字を充てる。「まつる」とは、供物・奏楽などをして神を慰め、祈願することをいう。供物を立てて置いて供えることを「たてまつる」という。霊的存在を神として崇め、一定の場所に鎮め奉ることも、「まつる」という。

「まつる」は本来、神の言葉すなわち「みこと」を伝えることを意味したという説もある。この説によれば、「まつりごと」は、神の言葉を実現することだった。「まつりごと」には、祭事・政治の漢字を充てる。「命令通りに執行いたしました」と神に奏上することも「まつる」と言われるようになった。

 

●「おろす」と「つく」

 

 神道では、神を呼ぶ。神を呼ぶための方法の一つが、音を鳴らすことである。そのための祭具が、銅鐸や鈴である。柏手も、両手を打って神を招き寄せる行為である。人の呼びかけに神が応えて、何かの現象を表す。このようにして神が気配を示すことを、神を「おろす」という。神が降りたともいう。神を呼ぶための別の方法が、祭具を振ることである。祭具には、木や布、紙などが用いられる。

人は、呼びかけた神に祈る。捧げ物を供えて、もてなす。そうした神と人が交流する聖なる時間の後、神は元の場所に帰っていく。

 神はまた人や物に、憑くとも考えられている。憑く対象物を、依代(よりしろ)という。依代には、木・岩などの自然物や人形・供物・祭具などの人工物がある。

神は、人に降りて、人に憑き、人を通じて言葉を述べることがある。先に書いた「みこと」は本来、そのようにして宣べられた神の言葉を意味するものだったと考えられる。

 

●神への捧げ物

 

神道では、神に捧げ物をする。捧げ物は、神饌(しんせん)と幣帛(へいはく)に分けられる。

神饌とは、神に供える供物である。御饌(みけ)、御贄(みにえ)とも呼ばれる。米、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の食物、祭神と所縁のあるものなどが供えられる。儀式終了後に捧げたものを神とともに食する。その儀式を直会(なおらい)という。供物の共食によって、神との一体感を持ち、加護と恩恵を得ようする。

神饌以外のものを総称して、幣帛という。弊(みてぐら)とも呼ばれる。「帛」は布を意味する。古代では貴重だった布帛が神への捧げ物の中心だった。衣服、武具なども捧げられた。幣帛は捧げ物であると同時に神の依代(よりしろ)であるとも考えられた。依代とは、神霊が依り憑く対象物である。

 幣帛の中に、大麻(おおぬさ)、御幣(ごへい)と呼ばれるものがある。大幣(おおぬさ)は、修祓つまりお祓いに使う道具の一つで、榊の枝または白木の棒の先に紙垂(しで)または麻苧をつけたものである。幣(ぬさ)とは神への供え物や、罪を祓うために使用する物を意味する。主に麻や木綿(ゆう)が使われ、後に布帛や紙が使われた。御幣は、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串(へいぐし)に挟んだものである。紙垂は白い紙で作る場合が多いが、御五色の紙や金箔・銀箔が用いられることもある。元は、布帛を木に挟んで供えていたが、社殿の中に立てて神の依代あるいは御神体とした。それが不浄を祓う祓具として用いるようになった。

 また神に捧げるものに、玉串(たまぐし)がある。玉串は、神事において参拝者や神職が神前に捧げる紙垂や木綿をつけた榊の枝である。玉串に榊の枝が使われるのは、榊は「栄える」に通じるからとされる。常緑樹が用いられる。

玉串の由来は、神霊の依代と考えられている。神話では、天照大神が天岩戸に隠れた時、太玉命が玉や鏡などをつけた五百津真賢木(いほつのまさかき)を捧げ持ったことが、玉串の由来とされる。

玉串が神饌と異なるのは、玉串は神事において参拝者が気持ちを込めて供え、拝礼をすることである。玉串は神に敬意を表し、且つ神威を受けるために祈念をこめて捧げるものとされる。捧げる人の祈念が込められることにより、神と人との仲立ちをする供物とも考えられる。玉串を捧げることを、玉串奉奠(ほうてん)という。

「たまぐし」の語源について、本居宣長は、神前に手向ける「手向串(たむけぐし)」とし、平田篤胤は、木竹(串)に玉を着けたものだったからとしている。「たま」は「魂」の意だとする説もある。

 

●神と霊

 

 神道の神々は、霊的存在である。神々を神たらしめているのは、霊的な作用である。その作用には「あらみたま」と「にぎみたま」があるとされる。「あらみたま」すなわち荒魂は、霊魂の活動・猛威・闘争の働きであり、「にぎみたま」すなわち和魂は、霊魂の守静・恩恵・平和の働きである。これらは、一つの神の働きの両面とされる場合と、別々に祀られる場合がある。

 神道の修行には、自分自身が荒魂を奮い起こしたり、和魂を養い育てたりするものがある。前者は「みたまふり」、後者は「みたましずめ」と呼ばれる。

 

●「むすび」と「けがれ」

 

 仏教・キリスト教・イスラーム教は、現世を否定し、来世の救済を願う傾向が強い。これに対し、神道は現世を肯定し、生命を肯定し、子孫の繁栄を願う。その点で、道教・儒教・ユダヤ教と類似している。この現世肯定・生命肯定・子孫繁栄の特徴がよく表れているのが、「むすび」と「けがれ」である。

 神道は、自然の生命力を肯定し、その活動を願う。生命力は、「産霊(むすび)」に象徴される。「むす」とは「生む」であり、生産・生成である。神話の神々のうち、高御産巣日神、神産巣日神等の名は、この「むすび」を含んでいる。「ひ」には、霊と日の字が充てられる。

神道の祭儀では、「むすび」に象徴される生命力の発揮や増大を願う。子孫繁栄、五穀豊穣、国家隆昌等が祈念される。私は、「むすび」の観念は、神道の根底にあるアニマティズム、すなわち宇宙・生命の根源的な力への信仰が表れているものと考える。

 「むすび」は、しばしば異質なものの結合による生産・生成を意味する。陰と陽の結合が、新たなものを生み出すという考えによると思われる。

 神道では、生命力が枯れた状態を「け」という。生命力を枯らすものを、「けがれ」という。穢れを除き、生命力を発揮することが目指される。穢れを除くために行われる儀式が、祓いであり、その代表的なものが禊である。

 

●罪の観念

 

 神道には、ユダヤ=キリスト教における原罪の観念がない。キリスト教では、アダムとイヴの堕罪以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるとし、その罪を原罪と呼ぶ。神の子であるイエスの死は原罪を贖い、イエスをキリスト(救世主)と信じる者は罪の赦しを得て永遠の生命に入る、と説く。

神道には、こうした考え方はない。人間は罪を負って生まれてくる罪びとではなく、神々の子孫である。神と人間は、先祖と子孫として連続している。

 神道には、原罪とは異なる宗教的な罪の観念がある。天つ罪と国つ罪である。延喜式に記された大祓詞に挙げられており、前者は神事の神聖性を侵したり、農耕を妨げる行為などを罪とし、後者は傷害・病気・近親相姦・獣姦等を天変地異を引き起こすものであるがゆえに、罪としている。これらの罪を祓い清めるための儀式が重要な意味を持つ。

 日本に仏教が伝来すると、仏教の罪の観念が神道に流入した。仏教では、人間の苦悩の原因を、因縁果の法則で説明する。因は原因、縁は条件・環境、果は結果である。釈迦は八正道を説き、解脱の道を示した。

仏教は、死後、魂は輪廻転生すると説く。生まれ変わりは人間に限らず、様々な生命体が想定される。輪廻を繰り返す六道と呼ばれる世界から抜け出ることが、信仰の目標であり、解脱または涅槃を目指す。そのために出家して戒律を守って修行することが、もともとの教えだった。それが変化して、仏や菩薩に帰依すれば救済され、その法則に反した行為は不幸や災厄の原因となるとする。輪廻転生説により、前世(過去世)の行いが原因となって、現世の自分に結果するとし、苦悩の原因を過去世に求める。

神道では、明確な輪廻転生の観念はなく、先祖から子孫への生命の継承が重視される。因縁果の法則についても、自分の前世から現世への影響ではなく、先祖から子孫への影響が重視される。それゆえ、先祖供養を行うことが、苦悩の解消につながるとされる。

 

●死後の世界

 

 神道には、ユダヤ=キリスト教のように死後、神の裁きを受け、永遠の天国または永遠の地獄へ行くという観念はない。神道は、現世肯定、生命肯定、子孫繁栄の生き方であり、基本的に死は、忌み避けるべき穢れである。死後については、あまり煩悶せず、また観念的に考えない。

 神道の死後の世界は一様ではなく、根の国または黄泉の国と呼ばれる地下の世界、常世(とこよ)の国と呼ばれる海の彼方の世界、山の奥にあるとされる祖霊の世界等がある。空間的には、垂直性と水平性の両方向に想定されている。

 古代の日本人は、人間は死後、魂は消滅せず、天地を自由に翔け回ることができると考えた。日本武尊が死ぬと、白鳥になって「天翔り」したという伝説は、そうした観念を表したものだろう。祭りをすることによって、こうした魂を呼び寄せ、交流することができると信じた。

 また、死んだ親等の霊は近くで家族を見守っているという観念が広く見られる。それらの霊は、盆や彼岸の時に帰ってきてまた霊の世界に戻っていく。亡くなった親や家族等の霊は時間が経つと集合化して祖霊となり、子孫を加護していると考える。来世で救済を得るとか、来世の幸福が目標であるというのではない。あくまで現世肯定的・生命肯定的である。

 神道の神々には、人間が神として祀られる人間神がある。氏神は祖先を神として祀ったもの、または氏に由緒のある神である。氏神を祀る神社の代表的なものに、藤原氏の春日大社、平氏の厳島神社などがある。偉大な首長や優れた人間は死後、神として祀られ、人間を加護することを期待される。天皇を祀る神社の代表的なものに、応神天皇の宇佐八幡宮、明治天皇の明治神宮、偉人・英雄を祀る神社の代表的なものに、豊臣秀吉の豊国神社、乃木希典の乃木神社、東郷平八郎の東郷神社などがある。また、非業の死を遂げたり、恨みを残して死んだりした者を神として祀り、その祟りによる疫病や天災を鎮めようとする御霊信仰(ごりょうしんこう)によるものがある。祟りをもたらすほどの者には、その霊威を頼んで、加護が祈念されたりする。代表的なものに、菅原道真の北野天満宮、平将門の神田明神などがある。

 

●徳目と日常的実践

 

神道は、浄明正直を徳目とする。「浄く明るく正しく直く」ということである。「清き明き直き心」とか清明心ともいわれる。穢れを除いて本然の心に帰ることが、目標とされる。

とりわけ重視されるのが、正直である。正直は、書経の「王道正直」をはじめ古代シナの多くの文献に見える語で、偏邪虚偽がなく廉潔なことをいう。わが国では、奈良時代の宣命で「清明正直心」が語られ、以後、神への意識を背後にした公正さの観念として、神道では大切な徳とされてきている。

 浄明正直を目指す生き方とは、「けがれ」を作らず、「むすび」の力を発揮する生き方である。その力が単に個人の発展だけでなく、家族・氏族・民族の繁栄、さらに人類・万物の調和をもたらすことを願い、実践する生き方が、浄明正直を目指す生き方と言えよう。

神道は日本の共同体の生活文化である。自然の恵みに感謝し、先祖の祭りを行い、子孫の繁栄を願う。その生活がそのまま宗教的実践となっている。

戦後のわが国で神社神道を取りまとめている神社本庁は、『敬神生活の綱領』を発表し、次のことを実践するよう説いている。

 

一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと

一、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと

一、大御心をいただきてむつび和らぎ、国の隆盛と世界の共存共栄とを祈ること

 

●神道の分類

 

 今日、神道は、主に次のように分類される。

 

皇室神道: 天皇が古代から主宰してきた宮中祭祀。明治時代以降、恒例祭祀・即位儀礼・喪葬儀礼等の法制化が行われた。大東亜戦争の敗戦後は、天皇の私事とされている。

神社神道: 氏子・崇敬者等の組織によって神社で行われる祭祀儀礼を信仰の中心とするもの。明治以降、教派神道と区別するために用語としてつくられた。現在、全国各地に約8万社の神社があるとされる。そこにさまざまな神が祀られ、時々の祭りが行われている。

 民俗神道: 民間で行われてきた信仰行事。道祖神・田の神・山の神・竈神等がこれであり、道教・密教・修験道と習合している場合もが多い。民間神道ともいう。

 神道系新宗教団体: 上記の神道の諸系統とは別に、主に大東亜戦争の敗戦後、宗教法人法のもとで宗教法人として認可され、「神道」に分類されている諸団体がある。

 

 歴史的には、両部神道、山王一実神道、伊勢神道、吉田神道、儒家神道、吉川神道、垂加神道、古学神道、平田神道、国家神道、教派神道等の宗派または団体がある。これらについては、第2部の歴史篇で述べる。(ページの頭へ)

 

第2章 文明学的に見た神道

 

文明学者アーノルド・トインビーは、文明の中核には宗教があると説いた。彼は、文明の誕生と存続に宗教が重要な役割を果たすことを明らかにした。文明学的国際政治学者サミュエル・ハンチントンもその説に従っている。日本ではこれにあたる自生の宗教に、神道がある。日本文明の中核となるのは、日本固有の宗教である神道である。

 私は、現代世界の主要文明を、セム系一神教文明群と非セム系多神教文明群に分ける。前者のセム系一神教文明群には、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教に基づく文明がある。それらのうち、西洋文明・東方正教文明・ラテンアメリカ文明は、他の文明の宗教を摂取して信奉している。また、イスラーム文明は古代中東諸文明の宗教に替わる創唱宗教が伝播してできた文明であり、イスラーム教は古代シリア文明のユダヤ教、古代ローマ文明のキリスト教を包摂する教えを説いている。

後者の非セム系多神教文明群には、道教・儒教・ヒンドゥー教等に基づく文明がある。シナ文明、インド文明、アフリカ文明がそれである。それぞれ固有の多神教的な宗教に基づいている。日本文明は非セム系多神教文明群に属し、神道を固有の宗教とする。道教・儒教等の異文明の宗教が伝来するとこれを摂取してきたが、固有の神道が失われることなく、逆に神道が主体となって東洋諸宗教を総合してもいる。その点で、日本文明は神道を宗教的中核に持つ神道文明である。

日本文明の特徴の一つに、「一国一文明」であることがある。これは現代世界においてそうであるだけでなく、日本文明が自立な文明として形成されて以来の特徴である。日本文明の精神的基盤は、原始時代から縄文時代・弥生時代を通じて発達してきた神道にある。古代に神道に基づく皇室を中心とした宗教的政治制度がつくられ、以後、民族全体が一大家族国家のような社会を構成してきた。これら神道・皇室・家族国家は、シナ文明の影響を受けながらも、一貫して失うことのなかった日本文明の三大文化要素である。この三大要素は、日本文明の誕生時に自生していた。そして、若い日本文明は、こうした独自の要素を個性として保持しつつ、シナ文明の文化要素を吸収・消化しながら成長した。そして、7〜8世紀から自立性を発揮し、遅くとも13世紀には一個の主要文明として確立した。この間、インド文明、シナ文明から仏教・儒教・道教等が流入しても、文明の宗教的中核が入れ替わることはなく、一貫して中核には神道があった。

また、神道・皇室・家族国家という特徴的な文化要素を持つ日本文明は、有史以来一つの社会として持続している。この事実は、シナやヨーロッパにも見られないことである。これらは、日本文明が一個の独立した文明であることを示して余りある。

日本文明は、古代から一系の皇室が継続し、それを中心とする国家が発展してきた文明である。ギリシャ、ゲルマン、シナ、インド等では早くに最初の王朝が消滅し、次々に王朝や政体、支配民族が変わっている。皇室の存在は、日本文明の稀有の特徴である。そして皇室が古代から継承する宗教が、国民の間でも継承されてきており、これが神道なのである。それゆえ、神道・皇室・国家・文明は切り離すことができない関係にある。

神道が他の主要な宗教と異なる点は、海洋的な要素を持っていることである。ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教や道教・儒教・ヒンドゥー教・仏教は、どれも大陸で発生した。大陸的な宗教を中核にすることによって、セム系一神教文明も非セム系多神教文明の多くも、どれも大陸的性格を持っている。21世紀の世界で対立を強めている西洋文明、イスラーム文明、シナ文明、東方正教文明には、大陸的な性格が共通している。

これに比べ、神道は海洋的な要素を持ち、日本文明に海洋的な性格を加えている。明るく開放的で、また調和的・受容的な性格である。これは、四方を世界最大の海・太平洋をはじめとする海洋に囲まれた日本の自然が人間の心理に影響を与えているものと思う。

神道の海洋的要素として、次のものが挙げられる。

 

(ア) 国生み神話: 天之御中主神の命を受けた伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神は、天空から「天沼矛(あめのぬぼこ)」を用いて国生みをした。それが日本の国土の始まりとされる。大八洲は海の中から誕生した。ここには日本列島は海に囲まれた島国だという認識が見られる。また、イザナギ・イザナミの名は、海の凪と波を連想させるものである。そこには、静と動、陰と陽という対比が見られる。

 

(イ) みそぎ: 伊弉諾尊は、黄泉の国から戻ると、体についた穢れを祓うために、筑紫日向(つくしのひむか)の橘の小門之阿波岐原(おどのあわぎはら)で禊を行った。その禊によって伊弉諾尊の身体から、天照大神、素戔嗚尊、月読命の三神が生まれたとする。ここで禊には、水の浄化力とともに、生命の源である母なる海の生産力が象徴されている。

 

(ウ) 海による浄化: 日本人は古来、水はあらゆる罪や穢れを浄化する力があると信じてきたが、朝廷の大祓の行事でよまれる祝詞は、海の果てに住む女神・速佐須良比刀iはやさすらひめ)がすべての罪・穢れを消してくれるとしている。大祓では本来、形代(かたしろ)とう人形を海に流し、速佐須良比唐フもとに送った。これは、川から罪・穢れを海に流すと、海の果てで浄化されるという考えによる。海からとれる塩は、水の代用品として清めに用いられた。

 

(エ) 海の彼方の来世・故郷または海底の理想郷: 神道の来世は、地下・山・海に想定されている。古来、日本の一部では、海の彼方に母なる国があり、常世国と呼ばれ、またそこが来世ともされてきた。沖縄や奄美諸島では、ニライカナイという。ニライカナイは、海の底や地下とも考えられている。瓊瓊杵尊の息子たち海幸彦・山幸彦の物語には、海底の理想郷として海神(わたつみ)の宮殿が出てくる。この宮殿は、竜宮でもある。似た神話は、太平洋・インド洋の島々から北米・南米の海岸地方にもある。

 

(オ) 海から来る訪問者: 神話や伝承に語られる海の彼方から来る訪問者は、恩恵をもたらす者として、歓迎や尊崇の対象だった。少名毘古那神(すくなひこなのかみ)は、『古事記』では、大国主命の国土造成に際し、天乃羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って波間より来訪し、大己貴(おほなむち)大神の命によって国造りに参加した。『日本書紀』にも同様の記述がある。民俗信仰のマレビトという来訪神にも、海の彼方から来るという考えがみられる。

 

これらの点が、神道の海洋的要素として挙げられよう。こうした海洋的要素は、大陸的な宗教には見られない特有のものとなっている。

私は、日本文明のユニークな海洋的性格が、現代世界における大陸的文明同士の摩擦を和らげ、大いなる調和を促す働きをすることを期待する。特にセム系一神教文明を中心とした争いの世界に、非セム系多神教文明群が融和をもたらすために、日本文明の役割は大きいと思う。(ページの頭へ)

 

第3章 神話と神道

 

 神道は、神話が宗教に発達したものである。神話の物語の中には、神道の祭儀や思想の重要部分を形成したものがある。その例として、神話の神々への信仰、天皇の御位を象徴する三種の神器、日本文明の文化要素である稲作文化について記す。

 

(1)神話の神々を祀る

 

 神話をそのまま歴史的事実と考えるのは、誤りである。また単なる空想や象徴的な物語と考えることも、誤りである。何らかの重要な歴史的事実や語り継ぐべき民族的な体験が反映した物語と考えるべきものである。そうでなければ、千年以上もの長い年月、世代から世代へと語り続けられるはずがない。

 日本の場合、神話は古代の伝承を集めた書物の中に書かれている物語ではなく、今日も神話に登場する神々が皇室や各地の神社で祀られ、その神々に係る祭儀が行われている。神話が宗教に発展し、神話が神道という形で、現代に生きている。

 古代ギリシャのパルテノン神殿は、遠い過去の文明の廃墟となっている。ゲルマン民族の神々は、物語の中にしか存在しない。そうした神々を祀る遺跡も、破壊されて久しい。だが、日本の神話に由来する神社では、今日も多くの参拝者があり、地域の人々が集って祭りを行っている。

 神話が宗教に発展したものの一つが、ヒンドゥー教である。ヒンドゥー教では、紀元前15世紀から紀元前5世紀に成立したヴェーダに現れるブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ等の神々が今日も信仰されている。ゾロアスター教、イスラーム教、キリスト教等の意文明の宗教が伝来しても、インドでは固有の宗教が消滅することなく、神話的な信仰が継続してきている。ヒンドゥー教もまた神道と同じく多神教である。多神教というと宗教的な理論を欠く低級な宗教という偏見を持つ人が少なくないが、ヒンドゥー教には、シャンカラやラーマーヌジャらによるヴェーダーンタ哲学など、高度で深遠な宗教哲学がある。

 ユダヤ=キリスト教の場合も、いわゆる旧約聖書の創世記は、ユダヤ民族が伝承した神話を記載している。神が7日間で世界を創造したという天地創造や、神が土くれから最初の人間であるアダムを創造したという人間創造等の記述は、他民族の神話にも類例の見られる宇宙や人間の起源に関する神話である。ユダヤ=キリスト教の場合は、その天地万物を創造したとされる神を、ヤーウェと呼んで唯一神としている。ユダヤ教徒、キリスト教徒は、この神話に由来する神を今日も信仰している。創世記の記述をそのまま事実と信じる人々は少なくなっているが、何らかの象徴的な物語として神への信仰の内容に含めている。

 日本神道にも、天地万物創造の物語がある。そして、そこに登場する多くの神々が現在も各地の神社に祭神として祀られ、人々の信仰や祈願の対象となっている。

日本神話の主な内容は、次の通りである。高天原での天之御中主神以下三神の誕生。伊弉諾尊、伊弉冉尊による国生み。国土を経営する神生み。伊弉諾尊の禊による天照大神、月読命、素戔嗚尊等の神々の誕生。天照大神をめぐる天岩戸の物語。素戔嗚尊の高天原からの追放と八岐大蛇退治。大国主命を盟主とする出雲の神々の話。高天原の神々と出雲の神々との争いと外交交渉。天孫瓊瓊杵尊の降臨。大綿津見神の住む竜宮の神話まで、天地創造、日本列島の誕生から皇室の由来に及ぶ壮大な神々の物語が記されている。

 こうした物語に現れる天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、国常立神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大神、素戔嗚尊大国主命、少名毘古那神、大山津見神、木花佐久夜姫、天児屋根神、太玉命、猿田彦神、大山祗神、大山咋神等の神々への信仰は、古代から21世紀の今日まで、日本人によって神話とともに祭儀によって受け継がれてきている。この生命力・持続力は、実に驚異的である。

 

(2)三種の神器の由来

 

 記紀によると、皇室の祖先神とされる天照大神は、天孫瓊瓊杵尊を、葦原中国(あしはらのなかつくに)すなわちこの日本国に遣わす際、「三種の神器」を授けたとされる。つまり八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三種である。

天照大神は、天孫降臨に当たって瓊瓊杵尊に対し、八咫鏡について神勅を下された。『古事記』には「此れの鏡はもはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごとく、斎(いつ)き奉れ」と、また『日本書紀には「吾が児(みこ)、此の宝鏡を視(み)まさむこと、まさに吾を視るがごとくすべし」と記されている。

三種の神器のうち、鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に、それぞれ祀られている。八坂瓊曲玉だけは神璽(しんじ)として宮中に安置されてきた。

また、分霊された鏡が宮中の天照大神を祀る賢所(かしこどころ)に奉安されている。剣の分身と曲玉は、天皇のお側近くに常に安置されていると伝えられる。

これら三種の神器は、代々の天皇により皇位の証として継承され、天皇が一日以上の行事に出かけられる時は、剣璽御動座(けんじごどうざ)といって剣と曲玉が陛下と共に渡御(とぎょ)される。

 我が国は、シナの孔子・孟子らの思想を消化吸収し、発展深化させてきた。その過程で三種の神器を「知仁勇」の象徴と解釈する試みが現れた。これを昭和天皇の帝王学に生かしたのが、杉浦重剛(しげたけ)だった。

 杉浦は、昭和天皇が皇太子の時代、数え16歳から21歳まで、天皇の倫理を説く重任にあたった。その際、ご講義のために書いたのが、『倫理御進講草案である。(大正3年〔1914〕)

 杉浦は『草案の序文において、御進講の基本方針を掲げる。

 「今進講に就きて大体の方針を定め、左にこれを陳述せんとす。

一、三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。

一、五條の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。

一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと」

 杉浦は、この方針の第一について、次のように述べる。

 「三種の神器及び之と共に賜はりたる天壌無窮の神勅は我国家成立の根底にして国体の淵源また実に此に存す。是れ最も先づ覚知せられざるべからざる所なり。

 殊に神器に託して与えられたる知仁勇の教訓は、国を統べ民を治むるに一日も忘るべからざる所にして、真に万世不易の大道たり。故に我国歴代の天皇は、皆此の御遺訓を体して能く其の本に報い、始に反り、常に皇祖の威徳を顕彰せんことを勉めさせ給へり。是れ我が皇室の連綿として無窮に栄え給ふ所以、また皇恩の四海に洽(あま)ねき所以なり。左れば将来我国を統御し給ふべき皇儲殿下は先づ能く皇祖の御遺訓に従ひ皇道を体し給ふべきものと信ず」

 ここには神器を「知仁勇」の三徳をもって解釈する通説が述べられている。

昭和天皇が受けた最初の講義は、三種の神器についてだった。

 御進講の最初の項目、「三種の神器」は、次のように始まる。

 「…三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証(みしるし)として授け給いたるのみにあらず、此を以て至大の聖訓を垂れ給ひたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹、山鹿素行、頼山陽などの皆一様に説きたる所にして、要するに知仁勇の三徳を示されたるものなり。

 例へば鏡は明らかにして曇り無く、万物を照して其の正邪曲直を分ち、之を人心に比すれば則ち知なり。知は鏡の物を照すが如く、善悪黒白を判断するものなり。玉は円満にして温潤、恰も慈悲深き温乎たる人物に比すべし。是れ仁の体にして、仁とは博愛の謂なり。又剣は勇気決断を示すものなることは殆ど説明するまでも無く、若し之を文武の道に比すれば、鏡は文、剣は武なり。

 詮じ来れば三種の神器は知仁勇の三徳を宝物に託して垂示せられたるものなること益々明瞭なりとすべし」と。

 鏡・玉・剣はそれぞれ、「知」「仁」「勇」の徳を示すという儒教的な解釈が述べられている。もっともただ「知仁勇」を説くのであれば、シナ思想の崇拝・模倣にとどまる。私は、三種の神器に込められた神意を体現するための道具として、儒教の概念が借用されたに過ぎないと考える。

 話を戻すと、続いて杉浦は、「知仁勇」の来歴をシナにさかのぼる。

 「之を支那に見るに、知仁勇三つの者は天下の達徳なりと、『中庸』に記されたるあり。世に人倫五常の道ありとも、三徳なくんば、之を完全に実行すること能はず。言を換ふれば君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せらるべきものなりとす。支那の学者既にこれを解して、知は其の道を知り、仁は其の道を体し、勇は其の道を行ふものなりと云へり」

 杉浦は、「知仁勇」はシナの四書の一つ『中庸から来ていることを述べ、「人倫五常の道」は、「知仁勇」の「三徳」があって、初めて実行できる徳目であるとする。そして、人倫の「道」を「知る」のが「知」、「体する」のが「仁」、「行う」のが「勇」と説明している。いわば、認識、体得、実行である。

 シナに続いて、杉浦は西洋について述べる。杉浦は、西洋における「知情意」は、シナの「知仁勇」と同じであるという解釈を示す。そして、「完全なる知情意」という三種の神器を「有する」のが「優秀なる人格」であると定義している。

 このように杉浦は、三種の神器は「知仁勇」の徳を象徴するものと解釈するだけでなく、「知仁勇」は、シナにも西洋にも通じる普遍的な根本道徳であると説いている。

 『草案の「三種の神器」と題された項目を結ぶにあたり、杉浦は、以下のように記している。

 「支那にても西洋にても三徳を尊ぶこと一様なり。能くこれを修得せられたらんには、身を修め、人を治め、天下国家を平らかならしむるを得べきなり。皇祖天照大神が三種の神器に託して遺訓を垂れ給ひたるは、深遠宏大なる意義を有せらるるものなれば、宜しく此の義を覚らせ給ふべきなり。…凡そ倫理なるものは、唯口に之を談ずるのみにては何の功もなきものにて、貴ぶ所は実践躬行の四字にあり」と。

 このように、杉浦は、将来の天皇に対して、第一に三種の神器を説き、神器が象徴するものを「知仁勇」の三徳と解して、この徳を身につけられるように、申し上げた。そこで、最も強調されたのは、「実践躬行」だった。「実践躬行」とは、口で言うだけでなく、自分で実際に行動することである。

 倫理御進講とは、将来の天皇への御教育だった。天皇が自ら学び、実践すべき君主の倫理を明らかにしようとしたものである。一方、国民には、明治天皇による「教育勅語」が、国民の倫理を示していた。

 この勅語は、天皇が国民に道徳的実践を命じたものではなく、天皇自らが実践するから、共に実践しようと、国民に親しく呼びかけるものだった。「教育勅語」の末尾の部分には、次のようにある。

 「朕爾臣民と倶に挙挙服膺して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶(こ)い幾(ねが)う」と。

その大意は、「私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを常に胸に抱いて、その徳を一つにすることを、心から念願します」という主旨である。

 天皇は、神意を体するために、神器が象徴すると解される「知仁勇」を「実践躬行」する。その天皇の呼びかけに応えて、国民は徳を養おうと努める。こうして君民が徳を一つにする道義国家を目指すところに、明治日本の理想があったと言えよう。

 その忘れられた理想を想起すること。それによってわが国は、活力を取り戻し、より豊かな精神文化を生み出してゆくことができるだろうと、私は思う。

 以上、三種の神器について伝統的な解釈を紹介したが、三種の神器には、「知仁勇」というような道徳的な観念では、到底とらえられない、もっと深遠なものが象徴されている。その点を初めて解明されたのが、我が生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生である。時が来れば、「三種の神器」に込められた真に深遠な意味が一般の多くの人に知られるようになることだろう。

 

(1) 「まがたま」は勾玉とも曲玉とも書く。『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られる。剣の名称は、もとは天叢雲剣だが、この剣が日本武尊(やまとたけるのみこと)に授けられたと伝えられており、その故事から草薙剣とも呼ばれる。熱田神宮に祀られている剣は、草薙剣と称する。(ページの頭へ)

 

(3)米に関する神勅

 

日本神話の物語の一つに、天孫降臨の話がある。天照大神(あまてらすおおみかみ)は、孫の瓊瓊杵尊を日本に派遣する時に、次のような言葉を与えたと『古事記』により伝えられている。

 「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほのあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべく地(くに)なり。宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)いて治(しら)せ、行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、まさに天壌(あめつち)とともに窮(きわま)りなかるべし」

 この神勅では、日本は、稲穂が豊かに稔る国だと表現されており、皇室の祖先は、この国で末永く繁栄するように、天から遣わされてきたと信じられてきた。

 天孫降臨の際、天照大神は、次のように命じたと伝えられる。

 「吾が高天原きこしめす斎庭(ゆには)の稲を以てまた吾が児(みこ)に御(まか)せまつる」

 すなわち、天照大神は、自ら高天原で作った稲を、瓊瓊杵尊に与え、日本へ行って、米を作るように命じたというのである。このことは、水田稲作を行っていた民族が、もともと住んでいた場所から、日本へ移住してきたことを示唆するものである。その場所は、高天原と天空にある場所のように表現されているが、シナ・朝鮮・東南アジア等のどこかである。

天孫降臨神話は、天孫瓊瓊杵尊らは日向の高千穂の峰に降り立ったとする。この神話を持つ集団が、いつからか日向地方(現在の宮崎県)に定住したことの反映だろう。やがて彼らの子孫は、南九州から大和地方に進出した。その指導者が瓊瓊杵尊の孫に当たるとされ、わが国の最初の天皇となった神武天皇である。神武天皇は、記録によると、日向(ひゅうが)の国を出て、瀬戸内海を通り、紀伊半島経由で大和地方に入った。そして奈良県の橿原(かしはら)の地で、天皇の御位(みくらい)に就いた。

 このとき、神武天皇は建国の理想を掲げた。それは「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉に表されるようになったもので、「天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにする」ということを目標とした。

 神武天皇の即位を西暦紀元前660年と考える説がある。紀元前660年は、弥生時代と考えられる。教科書では弥生時代はBC3世紀からと書かれてきたが、炭素同位体による土器等の研究により、現在弥生時代のはじまりはBC800年頃〜BC1000年頃とされている。神武天皇の伝承の内容からも、縄文時代より弥生時代と言えよう。

仮にこの年を起点とすると、今年(2015年)は2675年に当たる。西暦紀元前後とか紀元3世紀ごろという説もある。現在の天皇陛下は第125代であるが、神武天皇以来、少なくとも千数百年もの間、一つの家系が皇室としてずっと続いていることは、世界に類例がない。日本人が誇りとすべきことである。

 神武天皇は、大和の地で米作りをし、4年間の苦労の末に、立派な収穫を得たことが、『日本書紀』に書かれている。その節には、「天神を郊祀(まつ)りて用(もっ)て大孝(おやにしたが)ふことを申ぶ可しと、乃(すなわ)ち霊時(まつりのには)を鳥見(とみ)の山中に立つ」と記されている。これは神勅に従って大和に国を定めて農耕に励み、みるべき収穫を得たことを感謝する祭りを鳥見山で行ったことを意味するものだろう。このようにして、神武天皇は、瓊瓊杵尊が仰せつかった天照大神の神勅に従って、国づくり、米作りを行なったわけである。

 その後、私たち日本人の祖先は、2千年以上もの年月に渡り、米を作り、米を食べながら生きてきた。わが国の稲作は、潅漑水田稲作である。四季の変化に応じて、もみを蒔き、苗を育て、稲を刈らねばならない。そこに自然と調和して生きる生き方が育まれた。

 また、わが国の稲作は、集約的な労働を要する。村人が総出で、農作業をしなければ、豊かな実りは得られない。人の和が必要である。そこに、日本人の正直、勤勉、約束を守る、人に思いやりを持ち、気配りをする美質を持つ民族性が形作られた。

 こうして日本人には、人と人、人と自然の調和を重んじる精神が自ずと発展した。家族にあっては、親子・夫婦・祖孫が一体となって共に生きる。また、その家族が寄り集まって、社会を形成する。民族の全体は、皇室を中心として団結する。これが、伝統的な日本人の精神、日本精神ということができよう。一般に「和」の精神と呼ばれるものである。そして、その日本精神の宗教的な表現が神道であり、神道では米作りに係る祭りが古代から営々と行われてきている。

神武天皇が大和で米作りに成功した際、感謝の祭りを行ったと先に書いたが、その鳥見山の祭りが、日本の祭りを代表する新嘗祭(にいなめさい)、大嘗祭(だいじょうさい)の起源とされる。

 新嘗祭は毎年、勤労感謝の日に行われる。天皇が神武天皇以来の皇霊や天神地祇、八百万の神々に新穀を供えて祀り、神々に収穫を感謝し、かつ自らも試食をする祭儀である。特に、新しく即位した天皇が初めて行う新嘗祭を、大嘗祭という。大嘗祭は、新天皇が即位後初めてとれた新米(初穂)を神に供え、収穫を感謝するとともに、即位を報告し、新しい世に対する神の加護を祈る儀式である。

 今日、天皇は、皇居で自ら田植えや稲刈りをされている。そして、神に収穫を感謝し、神の加護を祈っておられる。これは昭和天皇が始められ、平成になってからは今上陛下が引き継がれたものである。天皇は、5月末ころに皇居内の水田で、五穀豊穣を祈る「お手植え」を行い、稲の苗を植えられる。そして、10月初め頃、「お稲刈り」をされている。収穫された稲は、新嘗祭に使われる。

 このように天皇は、自ら米作りをすることによって、人間と自然との調和のために、象徴としての役割を担っておられるのである。

 

 以上、本章では、神道は神話が宗教に発達したものであり、神話の中には神道の祭儀や思想の重要部分を形成したものがあることを述べた。神話の否定は神道の否定であり、神道の否定は日本文明の宗教的中核の否定である。日本文明の理解は神道の理解を必要とし、神道の理解は神話の理解を必要とする。

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第4章 儒教・道教・仏教の摂取

 

セム系一神教社会では、キリスト教とイスラーム教の間の十字軍戦争、西方キリスト教社会での新教・旧教間の宗教戦争等の教義の違いによる宗教戦争が繰り返されてきた。これに対し、日本の歴史には、こうした宗教戦争がない。これは、特筆すべき事実である。

日本で宗教戦争がなかったのは、多様なものを受け入れ、共存させる神道の性格によっているところが大きいだろう。神道はすべてのものと調和的で、他宗教に対して許容的である。仏教が渡来するとそれと共存して摂取し、やがて融合した。日本文明に摂取された仏教は、シナ文明を経由したもので、インドで発生した仏教そのものではなく、既にシナ化されていた。仏典を翻訳した過程で、漢字に伴うシナ思想が混入した。日本文明はまた儒教・道教が渡来すると、これらも摂取した。また逆にこれらを神道化した。

神道は、外来の宗教や思想を取り入れることで、自らを豊かにし、また自らを理論的に表現することを可能にした。この点について記す。

 

(1)シナの宗教・思想の日本化

 

シナ文明には、古くから天人相関思想がある。この思想は、天と人すなわち自然現象と人事との間に因果関係を認め、君主の政治の善悪が自然界の吉祥や災異を招くと考えるものである。

天とは、大地に対する天空である。天ないし天空を神として崇拝する信仰は、世界各地に見られる。大地母神に対して、天空父神と表象されることが多い。大地母神が農耕文化を背景にするのに対し、天空父神は狩猟遊牧文化を背景とする。

天を至上神とする思想が最も発達したのは、シナ文明である。シナ文明では、天の観念が理論的に深められて、宇宙の理法を意味するようになり、また天地万物の主宰者として人格化された。北極星は天空の中心にあって、すべての星はその周りを回る。そこから君主のあるべき姿を表すものとされた。『論語』に「政(まつりごと)を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰の其の所に居て而して衆星の之に共(むか)うが如し」とある。また北極星自体が神格化された。これを北辰信仰という。

シナ文明では、歴史の早い段階から多数の国家が興亡し、様々な王朝が交代し、また種々の支配民族が入れ替わった。そこで、統治者の正統性を明らかにすることが重大課題となった。

シナ文明の正統性の理論は、儒教の創始者である孔子、その継承者である孟子によって完成された。その理論によると、統治者は北極星を中心として整然と運行される天の秩序を地上に実現すべき存在であり、それが可能なのは最も徳の高い者であるから、天がその者を天子に任命する。これを天命という。徳とは、道の働き・作用であり、またその人格的表現である。統治者は、徳によって天命を受けた者として、統治の正統性を持つとされる。この思想を天命思想という。それが、儒教の根本にある思想である。

天命思想は、有徳者王の思想である。これは、一方で有徳者が王者になるべきだということを意味するとともに、他方で王者は有徳であるべきだということを要求する。孔子は「政を為すに徳を以ってす」、孟子は「徳を以って仁を行う者は王たり」と説いた。それゆえ、儒教において、政治と道徳は一致すべきものである。

だが、実際の統治者は、徳によって王座に就いた者とは限らない。シナ文明の歴史では、王位の簒奪、異民族(夷狄)の支配が多く起こった。伝説上の聖王である尭・舜・禹の家系など既に伝説の時代に消滅している。天命思想は、権力を掌中にした者が、自分が王座に就いたのは徳が高かったからだと正当化し、家臣や人民に服従を求めるために利用された。

シナ文明は、易姓革命の文明である。易姓革命とは、天命によって統治者の姓・家系が替わることをいう。例えば、「李」の一族から「朱」の一族に易(か)わることである。有徳者王思想は、易姓革命の思想と表裏の関係にある。孟子は、帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲る「禅譲」と、徳を失った君主を討伐して放逐する「放伐」による革命を認めた。

儒教は、仁・義・礼・智・信の五常の徳性を拡充することにより、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信を五倫の道を全うすべきことを説いた。これに対し、道家の祖・老子の言葉を記したとされる『老子』は、「大道廃れて仁義あり」と述べ、儒教の説く道徳は、真の道に背反する人為のものであり、真の道は人為以前の無為自然であるとした。『老子』の説く道は、宇宙の本体であり、根源的な真理を示唆するものである。

道教は、シャーマニズムを基盤として、老荘道家の形而上学、儒教の祭礼、仏教の解脱・救済思想等を取り入れた宗教である。道教にも、天人相関思想が見られる。宇宙の最高神は天上皇帝・太上老君等と呼ばれ、天上の神仙世界にある紫宸殿に住む。地上の皇帝と同じように天上にも官僚がおり、高級官僚が「真人」、下級官僚が「仙人」とされる。天上皇帝は、官僚たちに命じて常に地上を監視させ、その人の善を賞し、悪を罰していると信じられた。

日本文明は、シナ文明から上記のような宗教・思想を摂取し、また日本化した。シナ文明と日本文明の最も大きな違いは、わが国では古代から一系の皇室が継続しており、易姓革命の国柄ではないことである。また天皇の御位は、徳性による天命ではなく、血統によって継承されてきた。皇位の継承においては、三種の神器が皇位の象徴として受け渡された。また、天皇は仁徳を養い、発揮すべきものとされてきた。これら血統・神器・仁徳の三つの要素を満たしてこそ、天皇は尊崇される。

歴史を振り返ると、皇位継承をめぐって親子・兄弟等の骨肉の争いが行われた時もあった。暴虐や不倫を非難された天皇もいた。皇室の乱れが豪族や貴族、武士を巻き込んだ事件に発展し、それによって政治的社会的変動も起こった。だが、それにもまして、歴代の天皇が皇室の神道を実践しつつ、天皇としての務めに勤しむことにより、国民の敬愛と信頼を得てきたこともまた事実である。そして、神話の時代から今日の今上陛下まで125代にわたり、男系継承で皇位が継承されてきている。これは、人類文明史における奇蹟というべき事柄である。(ページの頭へ)

 

(2)道教の概念体系の摂取

 

日本の神道は、道教的な論理概念である道、陰と陽を取り入れており、陰陽五行説も摂取している。

シナ思想史、特に老荘思想・道教研究の権威である福永光司は、神道への道教の影響が非常に大きいことを指摘している。福永には多数の著書があるが、『世界大百科事典』(平凡社)の道教の項目に、簡潔にその影響を書いている。

福永によると、まず「神道」という漢語は、古代シナの道教の用語だった。初見は『易』の観卦の彖 (たん) 伝である。日本神道で使われる「大神」「神宮」「斎宮」「神器」「天皇」「紫宸」「大極」等も、道教に由来する。

福永は、養老4年(720)に成った『日本書紀』神代の巻冒頭の「古天地未剖、陰陽不分」「古(いにしえ)、天地未だ剖(わか)れず、陰陽分かれず」等の叙述は、道教の教義を踏まえたものとする。また、『古事記』が開巻冒頭に、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の造化三神を記し、これらの三神は独り神で身を隠したと書いているのは、シナの南北朝期、6世紀に成立した道教の経典『九天生神章経』に「空洞の中に隠れた三気の尊神」と書かれていることなどに基づくとする。

さらに古く道教の教義の影響が見られるのは、天武天皇13年(684)に天武天皇が「八色 (やくさ) の姓 (かばね)」を定めた際、その第1位と第5位に道教の用語である「真人」と「道師」を用いていることを福永は指摘する。

天皇という語もまた漢語がもとになっている。道教の天上皇帝から来ており、大和言葉の「おおきみ」「すめろぎ」「すめらみこと」に当てたものである。福永は、『万葉集』巻二の柿本人麻呂が天武天皇の草壁皇太子の死を悼んで詠んだ歌、すなわち「飛鳥 (とぶとり) の浄 (きよみ) の宮に 神ながら太敷きまして 天皇 (すめろき) の敷きます国」において、「すめろき」に代わって天皇の語が用いられていることを指摘している。

わが国では、皇位の継承の際に、三種の神器が継承される。福永は、『日本書紀』の持統天皇4年(690)春正月の部分に、神璽の剣鏡を奉上されて天皇の位に即()くと書かれており、道教の神器である「剣鏡」が天皇の神璽とされていることを指摘している。わが国の三種の神器は、これに曲玉が加わる。鏡・玉・剣とも神話において、その独自の由来が語られており、日本化されている。この件は、第3章(2)に書いた。

皇室が最も重要とする神社は、天照大神を祀る伊勢神宮である。伊勢神宮は、天照大神が天孫瓊瓊杵尊に授けたとされる八咫の鏡を御神体とする。その伊勢神宮では、祭儀の際、「太一」と書かれたのぼりが使われる。「太一」は、宇宙の根源的な原理を表す道教の概念である。易経に由来する「太極」と同様である。

荘子』天下篇に、道家が重んじたものとして登場する。また『呂氏春秋』大楽篇では、道は形がなく、名づけることはできないが、強いて言えば「太一」であるとし、太一から始まって、両儀・陰陽・万物と展開する宇宙生成論を記した。

「太一」は、漢代以降、天の中心に位置する北極神と解され、宇宙の至高神ともみなされた。わが国では、これが天照大神と同定された。それゆえ、伊勢神宮ののぼりの「太一」は、天照大神を意味する。民俗学者の吉野裕子は、著書『隠された神々』で、伊勢神宮の内宮は北極星を祀り、外宮は北斗七星を象徴していると説いている。北極星の象徴的な意味については、先に書いたところであり、北斗七星はその周りを回る星座である。(ページの頭へ)

 

(3)儒教による先祖崇拝の発達

 

儒教の神道に対する影響は、祭礼の制度や道徳思想等、様々な点に及ぶ。東洋学者の加地伸行は、日本の先祖供養への儒教の影響を強調する。

 加地は、著書『家族の思想』で、「人間が他の動物と決定的に異なる特徴は、仲間の死体をきちんと処理する点にある」と指摘する。処理の方法は、気候・風土・民族・慣習・歴史等の相違によってさまざまである。仏教が発生したインドでは、火葬を行う。「酷熱のインドにおいては、死者の腐敗の速度が速い」。それゆえ、「遺骸を火にかけて焼き払うのが、最も適した死体処理法である」。遺骨は、聖なる川、ガンジス川に流す。こうして「火葬して遺骨を捨てるから、墓はない」。

インドでは、魂は輪廻転生すると考えるから、親や先祖の魂は他の生命体に生まれ変わっていくので、墓には意味がない。また、死者の供養をする必要もないわけである。

墓は土葬を主とした日本古来の風習であり、これが宗教的に発達したのは、儒教による。

加地は、東北アジアではインドと違い、「気温が低いので、死者の肉体は、すぐには腐敗しない」。そこで死者と一歩一歩少しずつ別れを惜しむ。その一歩一歩の別れが葬儀の原型であり、「その究極が土葬となる」と説明する。

そして、生者と死者のつながりを意識するところに生まれてきたのが、「招魂再生」すなわち「魂降ろしして、死者が生者の世界によみがえるとするシャーマニズム」となる。これが生者によって死者の招魂が崇められる「祖霊崇拝の原型」であると説く。

加地は、「先祖供養の本質はシャーマニズムである」とし、「シャーマニズムを基礎にして、中国において、理論・歴史・実践三者ともに含んだ一大体系を作り上げ、登場したのが儒教なのである」と説いている。

インドの諸宗教は、輪廻転生の死生観に立つので、死者の霊魂を現世に呼び戻すシャーマニズムを認めない。

儒教は、人間を精神と肉体との二つに分ける。精神を支配するものを魂(こん)、肉体を支配するものを魄(はく)と呼び、両者の一致している時が生きている状態とする。

加地によると、「死者の魂(精神の支配者)は、空中に浮遊している」。一方、「死者の魄(肉体の支配者)は、地上あるいは人間が到達しうる範囲の地下にいる」。魄とは、死者の遺体、その極致は白骨のことである。白と魄とは音が通じる。魄としての白骨を管理する場所が墓である。

 儒教では、「祖先祭祀のために、魄(実質は白骨)を納める墓を大切にし、魂・魄を呼び戻して依り憑かせるところ、すなわち木主(ぼくしゅ)に敬意を表する」。この木主が仏教に取り入れられて位牌となった。

 加地によれば、シナの仏教は儒教を取り込んでおり、儒教を取り込んだ仏教が日本に入ったことになる。私見を加えると、この儒教を摂取した仏教は、神道の祖先崇拝と親和性があった。日本人は、墓で祭りを行い、死者や祖先の霊を呼び寄せる。この時に依代となるものが、儒教に由来する木主であり、日本仏教の位牌は、祖先崇拝の祭具となっている。神道では、霊代(たましろ)または霊璽ともいう。仏壇は、儒教で木主を納めるものであり、神道では御霊屋(みたまや)または祖霊舎という。

 漢字学者の白川静によると、孔子は葬儀を執り行う集団の指導者だった。儒教には、こうした宗教的な祭儀を行う部分の他に、国家・社会・家庭にける道徳を説く部分がある。わが国では、儒教の宗教的な部分はよく知られず、仁義礼智忠信孝悌の徳目を説く道徳的な教えとして理解されてきた。儒教は祖先崇拝に基づく家族道徳を中心とした道徳を説く教えであり、神道はその道徳も摂取した。

シナ文明では、徳目の中心は家族・宗族の間の孝にあった。日本文明では、各家族における孝と、民族の中心である天皇への忠は、別のものではなく、忠孝一本とされてきた。シナ文明では、人民と皇帝とは、血縁で結びついていないだけでなく、多くの王朝は漢民族と異なる民族が支配したから、日本文明におけるような忠孝一本にはなり得ない。(ページの頭へ)

 

(4)仏教との共存

 

 私は、日本文明は、神道の伝統を核とし、道教の概念体系で骨格を強化し、儒教の制度・徳目で筋肉を養成したと考える。神道の歴史においては、外来の要素を排除しようとする試みが何度も行われたが、過度の排除は骨格を外し、筋肉を削ぐようなもので、神道の生命を損ねてしまう。

道教・儒教は、日本文明の歴史において、教団として活動した痕跡はほとんどない。制度や思想、作法等が摂取されたのみと言っても過言ではない。これに比し、日本の仏教は、21世紀の現在においても活発に組織的な活動を行っている。多くの宗派は、神道と共存し、また日本化されている。

仏教は、公式には6世紀にわが国に伝来した。神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体を守ることを目的に信仰されてきた。これに対し、仏教は個人の安心立命や魂の救済を求める目的で信仰される。この点が大きく相違する。神道と仏教が共存することにより、共同体の祭儀と個人の精神的な救済が両立し得た。

仏教は、死後、魂は輪廻転生すると説く。人間に限らず、様々な生命体への生まれ変わりが想定される。輪廻を繰り返す六道と呼ばれる世界から抜け出ることが、信仰の目標であり、解脱または涅槃を目指す。そのために出家して戒律を守って修行することが、もともとの仏教の教えだった。それが変化して、仏や菩薩に帰依すれば救済されるという教えが現れた。前者を小乗仏教、後者を大乗仏教という。東南アジアでは小乗、東北アジアでは大乗が主に広まった。日本では大乗仏教が民衆化した。また、阿弥陀信仰・観音信仰等の如来信仰・菩薩信仰と神道の先祖崇拝が混交した。仏教は、日本で神道と習合して神道化した。

仏教は、インド的な輪廻転生を説くが、日本ではその論理が脱落した。「仏」は、仏教では、もともと覚者(ブッダ、悟りを得た者)という特別の境地に達した者を意味する。それが、神格化された。日本では凡夫まで死ぬと「ほとけ」と呼ばれる。これは、祖霊を神として祀る風習による。

仏教は、日本で先祖供養中心の神道的な仏教へと変化した。盆は、日本的風習を仏教が取り入れたものである。仏壇、位牌なども同様である。後者には、儒教の影響もある。この点は、第4章(3)に書いた。

 仏教は、日本で布教するために仏教を主体に神道を説明することによって、神道を包摂しようとした。そのための理論が、本地垂迹説である。これは、仏や菩薩を本地(本体)とし、神道の神々をその垂迹(化身)として説明する。この仏等の化身を権現(ごんげん)という。鎌倉時代初期に、空海を開祖とする真言宗に両部神道、最澄を開祖とする天台宗に山王一実神道が現れ、本字垂迹説を説いた。だが、逆に鎌倉時代末期に、反本地垂迹説が唱えられるようになり、渡会家による伊勢神道は、仏が日本の神々の化身で、神が主で仏が従とした。これは単なる逆転ではなく、諸宗教に共通する根底を求め、諸宗教を共存させ、総合する論理へと進み得る可能性を秘めた取り組みだった。

反本地垂迹説は、異文明から伝来した宗教の勢いを押し返すものだった。その試みは、江戸時代において国学に基いて神道から外来的要素を除去しようとした古学神道へとつながっていく。古学神道は、明治維新の思想的な推進力の一つとなった。こうした神道の反発力や復元力は、他文明に対して自立性・独自性を発揮する日本文明の底力を表している。詳しくは、第2部第3章・第4章で述べる。(ページの頭へ)

 

(5)東洋諸宗教の総合

 

日本文明は、異文明の宗教を受容し、共存させてしまう。さらに、総合までも行う。日本では、神道を基盤として道教・儒教・仏教が融合され、それぞれの宗教の合理的・実際的な要素を取り入れて総合した道徳思想が発達した。鎌倉時代から思想的に発達した武士道がそうであり、江戸時代に成立し、庶民に浸透した石門心学や二宮尊徳の報徳思想もまたそうである。

神道を基盤とした宗教的な総合の例の一つに、七福神がある。シナ、インドからの外来の神々や宗教的尊崇対象を受け入れて、並列化した。またその中に日本古来の神を入れて、オール・アジアンのチームへと総合している。男性神だけでなく女性神も一柱入れて、女性の登用も図っている。

七福神のうち、日本代表の神が恵比寿である。伊弉諾尊・伊弉冉尊の間に生まれた子供を神として祀ったもので、古くは大漁追福の漁業の神だった。その後、商売繁盛や五穀豊穣をもたらす福の神となった。

次にインド系の神が三柱いる。まず大黒天で、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神がもとで、日本古来の大国主命と習合し、食物・財福を司る神となった。次が毘沙門天で、ヒンドゥー教のクベーラ神がもとになっている。本来は戦いの神だったが、仏教に取り入れられてから、福徳増進の神として民衆に信仰されるようになった。ヴァイシュラヴァナを毘沙門天と表した。次が弁財天で、七福神の中の紅一点である。元はヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神で、仏教に取り入れられ、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女となった。

次にシナ系の神が二柱ある。まず福禄寿で、道教の宋の道士である天南星がもとである。長寿と福禄をもたらす。次が寿老人で、道教の神で南極星の化身の南極老人がもとで、七福神の一人としては白鬚明神とされることもある。最後が布袋(ほてい)だが、これは唐の末期の明州(現在の浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の禅僧がもとである。坊主が神になったわけである。太って大らかな風貌を持ち、手にした袋から財を出し与えてくれる。弥勒菩薩の化身ともいわれる。

これら七福神のチームが編成された過程は、大略次のようである。最澄が比叡山でヒンドゥー教の神である大黒を台所の神として祀った。これが民間に広まり、土着信仰の神である恵比寿とセットで信仰されるようになった。これに平安時代以降、京都の鞍馬で信仰の始まった毘沙門天が加わり、三神として信仰されるように変わった。さらに室町時代に、仏教の弁財天・布袋、道教の福禄寿・寿老人がシナから入ってきた。これらをまとめて七柱の国際チームができたのは、室町時代末頃、近畿地方だったとされる。そして、江戸時代にはほぼ現在の顔ぶれに定まった。

日本神話の天つ神、国つ神は日本民族へと形成されたアジア・太平洋の諸民族の神々であり、それらが日本神話の中で、チームとして編成されたと考えられる。それゆえ、日本の神道には、もともと諸宗教や諸神格を共通の根底に根差して、共存させ、総合させる器があり、それが七福神というチームも生み出したと考えられる。

神道、ヒンドゥー教、道教、仏教が総合し得るということは、これらの諸宗教には、根底において共通するものがあると考えられる。その共通するものを、究極の次元と呼ぶならば、その究極の次元を指し示すために、「かみ」「ブラフマン」「道」「太極」「久遠の本仏」等の名が与えられた。非セム系多神教は、究極の次元を根底として現れたものとして多種多様の神格を肯定する。これに対し、セム系一神教は、その次元を超越的な唯一神としてとらえ、その唯一神以外の神格を認めない。後者は支配と排除の論理であり、前者は包摂と共存の論理である。神道は包摂と共存の論理を以て、多様なものを総合し得る宗教である。(ページの頭へ)

 

第5章 ユダヤ教との比較

 

神道は、民族宗教という点で、諸民族の宗教と並べられるが、特にユダヤ教と比較されることが多い。

神道とユダヤ教の根本的な相違点は、多神教と一神教という点である。ユダヤ教は、中東の砂漠で生まれた一神教である。ヤーウェという男性の唯一神を信仰する。ユダヤ教は、啓示宗教である。神(ヤーウェ)が人間に教えや奇跡をもって真理を示すことを信じ、アブラハムが契約を結んだ神の言葉を記した啓典を持つ。ユダヤ教の社会では、ヤーウェを唯一神とする信仰を保つため、農耕や大地の神と考えられるバアル神等の異民族の神々への信仰を排除する指導がされた。

神道は、唯一神による啓示宗教ではない。人は契約によって神と結ばれるのではなく、神々の子孫としてもともと神々とつながっているとされる。神道では、祖先・首長・偉人等の人間神のほかに、天体・海・山等の自然神が多数仰がれている。人間と自然的事物の間に隔壁がなく、連続している。こうした多神教的現象は、ユダヤ教の社会では考えられない。

神道は、ユダヤ教のように対立的・闘争的でなく、協調的・融和的である。神々の性格は寛大で温和である。また、罪を犯した悪神も穢れが清められれば、善神となって世のために活躍する。その典型が、素戔嗚尊である。これに対し、ユダヤ教の神は厳格であり、契約に反する時は、自らの選民であっても容赦なく罰する。また対立するものを悪魔として、徹底的に闘争する。

このように宗教の本質や形態が大きく違うのだが、神道とユダヤ教には類似点もある。類似点には、現世肯定、水による清め、神殿の構造、装束等が挙げられる。これらの類似点を強調する意見があるが、類似の程度は、さまざまである。

 神道もユダヤ教も、来世でなく現世を重んじる。来世の救済ではなく、現世の幸福や繁栄を志向する。生を肯定し、性愛をよしとし、聖職者に独身生活を課さない。酒を禁じず、祭儀において酒を飲む。

ユダヤ教には、神道のみそぎと似た水による清めの儀式がある。ユダヤ教では死体に接した者、月経や出産後の女性は、ミクベ(沐浴場)で首まで水に浸かって身を清める。これは穢れを清めるために川や海で行う神道の禊と似ている。

ユダヤ教のラビ(律法学者)として日本で有名なマーヴィン・トケイヤーは、神殿の形式の類似点を指摘した。多くの神社では、手前に拝殿、その奥に本殿がある。拝殿には、通常神職だけが入る。本殿には、普段鍵がかけられていて、神職も特別な時しか入らない。トケイヤーによると、古代イスラエルの幕屋や神殿も、聖所と至聖所から成り、聖所には祭司だけが入った。至聖所には、大祭司が年に一度だけ入ることができたという。

 神社には、鳥居をくぐった先に手水舎(ちょうずや)がある。古代イスラエルの神殿にも、聖所の手前に洗盤が置かれていた。神社の入り口には、狛犬がある。古代イスラエルの神殿にも、獅子の像や獅子のレリーフがあったという。ユダヤ教には、神道の神輿に似たものがある。神殿の至聖所には、契約の箱が置かれていた。ユダヤ人がパレスチナに定住する前の時代には、二本のかつぎ棒を基部に通して担いで運んだ。箱の上には、2人の天使ケルビムの像が羽を広げて置かれていた。

 トケイヤーは、神道の神職の白装束と、古代イスラエルの祭司が着た白い亜麻布の衣が似ていることを指摘する。神職が着する袴も上衣も前にたらす布等も、古代イスラエルの祭司が身につけていた衣服に、非常によく似ているという。神職の装束の袖には房がついているが、古代イスラエルにおいても祭司の衣服の両袖に房がつけられていた。また、神職が烏帽子をかぶるように、古代イスラエルの祭司も帽子をかぶったという。

 これらについてまとめて私見を述べると、禊については、水による清めは、日本とユダヤだけでなく、古くはスコットランドなど他の地域でも行われていたらしい。「ひもろぎ」と「いわさか」の項目に書いたが、神道では原初期には建物はなく、広場や神木等を中心として祭儀を行った。建物は、先に拝殿のみが建てられ、後に本殿も建てるようになったという説とその逆の説がある。大和朝廷の初期から続く三輪山の信仰では、拝殿だけで、山を神体とする。朝廷が伊勢に作った大神宮には、拝殿がない。神社が現在広く見られるような建築物で構成されるようになったのは平安時代以降、仏教の寺院の影響である。神道では、もともと川で身を清めて、境内に入った。手水舎は、川の代用である。狛犬に似たものは、古代オリエントで広く見られ、エジプトのスフィンクスもその一種と考えられる。わが国には、インドから朝鮮を経て伝来した。朝鮮の国名である高麗(こま)が、狛犬の名になった。神輿にも二本のかつぎ棒があり、上部には鳳凰と呼ばれる鳥を飾る。神輿は神の乗り物だが、古くは馬や車が使われた。座を担ぐ形になったのは、8世紀半ばに天皇の乗り物である鳳輦を神の乗り物としたのが起源とされる

それゆえ、神道とユダヤ教には、部分的によく似た類似点もあるようだが、古代イスラエルの宗教文化が、直接、日本の神道に影響したとは考えられない。

神道とユダヤ教の何らかの類似点を挙げて、日本人とユダヤ人がともにヘブライ民族の子孫であり、皇室の歴史は古代イスラエル王家の歴史を継承したものであると説いたり、太古の日本にユダヤ人が渡来し、彼らと先住民の混血により今日の日本人が誕生したと説いたりする説がある。日猶同祖論という。だが、歴史学や考古学の研究によっては、証明されていない。

それでも日本とユダヤの民族的・宗教的なつながりを強調する人は、伊勢神宮参道の石灯籠に、菊の御紋とともに、ダビデの星と同じ六芒星が刻まれていることを挙げる。だが、六芒星は、決してユダヤ教独自のシンボルではない。古代・中世には様々な民族の間で幅広く用いられていた。キリスト教の教会にも、刻まれているものがある。ユダヤ民族が民族のしるしとして使うようになったのは、19世紀に現れたシオニズム運動においてである。

 

次に上記とは別の類似点として、神道とユダヤ教は、ともに直系家族の社会で発達した宗教であることが挙げられる。日本民族とユダヤ民族は、ともに直系家族が支配的な社会を持つ。直系家族は、相続における家長の権威と兄弟の不平等を価値とする。また、日本民族とユダヤ民族は、婚姻が族内婚である。

 家族人類学者・歴史学者・人口学者であるエマヌエル・トッドによると、外婚型直系家族は外部に対して開放的だが、冷厳な差異主義を示す。内婚型直系家族は閉鎖的だが、温和な差異主義を示す。

 日本は族内婚的な直系家族の社会であり、これと同様なのはユダヤである。直系家族では兄弟は不平等だが、族内婚の場合、いとこ同士つまり兄弟同士の子供か孫同士の結婚は、兄弟同士の愛情の絆が続く。日本の伝統的社会はいとこ婚に対して寛大であり、その慣習は近代化・都市化によっても消えなかった。ユダヤもまた兄弟を不平等としながら、族内婚であることによって、兄弟関係に温かさを持っており、集団間の関係についての見方は穏和である。
 日本人がユダヤ人に親近感を抱く理由の一つとして、教育の重視、質素・倹約を尊ぶ精神などの伝統的日本社会の美徳が、ユダヤ社会の美徳と共通している点がある。この美徳は直系家族社会の特徴と見ることができる。直系家族的集団は、伝統的な社会が近代化し、さらに脱工業化社会になっても、親子の結びつきが強く、家族が団結する。それが、子供の勉学には有利に働き、社会的職業的な上昇を促す。ユダヤ人や日本人が、アメリカ社会で、大学に多数進学しているのは、そのためである、とトッドは指摘する。

 日本民族とユダヤ民族は、同じく内婚制直系家族の社会だと言っても、違いもまたある。

ユダヤ教は、選民思想を特徴とする。ユダヤ人は神に選ばれたユダヤ民族以外をゴーレムと呼んで人間と認めず、周辺異民族への報復・虐殺を宗教的に正当化している。日本民族は、この点が大きく異なる。同じ内婚型の直系家族社会に現れた宗教であっても、神道には、こういう思想はない。この違いは、家族形態より自然環境の違いによる点が大きい、と私は考える。

日本は四方の海が天然の要害となっている。日本人は、ユダヤ人のように周辺異民族から迫害を受けたり、国を失い、故郷を追われて流浪したりした歴史を持たない。日本においても、古代から異民族との間の差別・対立はある。しかし、大規模な虐殺もなく、激しい排除はなく、比較的寛容であり、同化が進んできた。そのことは、神話によく表れている。ユダヤ=キリスト教のいわゆる旧約聖書に見るような異民族の大量虐殺は、日本神話には存在しない。出雲大社の由来ともなっている大国主命の国譲りの話は、対決の後の和解・譲渡の物語だろうが、勝者は敗者を迫害するのではなく、敗者の信仰に深甚な敬意を払う。これは何らかの具体的な歴史的事実を反映しているものだろう。

 日本は海に囲まれているから、異民族は一気に多数攻め入ることができない。むしろ故郷を追われたり、故郷を捨ててたどり着いた文化と技術を持った少数者がときどき渡来すると、日本人は渡来人に寛容で、渡来人の文化を摂取し、共存しながら、ゆるやかに同化させてきた。移民の数が少なく、わが国の共同体が堅固だったから、それが可能だった。

 大陸のように陸続きで多量の侵略者や移民が流入する環境では、これは考えられない。こうした日本社会の特徴は、家族型という対内関係とは別の対外関係・自然環境という側面の影響が大きいと考えられる。日本では、元寇を除いて、海の彼方から外敵が攻めて来ることがほとんどなかった。大陸の諸民族が、繰り返し遊牧騎馬民族に侵攻され、略奪・支配されたのとは対照的である。

ユダヤ民族の宗教観には、中東の社会的・地理的環境における歴史的な経験が深く影響し、一方、日本民族の宗教観には、海洋に囲まれた島国という環境における経験が深く影響していると考えられる。

 次に、家族形態における父系・母系という点では、日本の社会は基本的に父系だが、国民の家族においては、父系が一元的・支配的ではなく、母系の役割が大きい。婿養子の慣習が示すように、血統が主だが、家族集団の維持が優先される場合がある。また、天照大神が女性神とされるように、日本の社会には母系的な要素がある。私は父系・母系の双方のバランスを重んじた双系社会と考える。その中の例外が、皇室である。皇位は男系継承である。男系男子を主とし、男系女子を補助的として皇位は継承されてきた。神武天皇以来、第125代の今上陛下まで、男系で継承されてきている。

ユダヤ民族においては、最初の王朝は早くに消滅した。紀元前9世紀に、ダビデ・ソロモン父子の王国が繁栄したが、これも滅びた。その後も他民族の侵略・支配を受けてきており、古代から一貫して続く皇室のような中心的な家系を持っていない。ユダヤ民族は、王家ではなく啓典を中心とし、ラビを指導者として団結してきた。

 ユダヤ民族の社会も、基本的に父系社会だが、現代イスラエルではユダヤ人の認定条件の一つに、母親がユダヤ人であることと法に定めている。これは、母親による教育の影響の大きさを重視するもので、血統よりも信仰の継承に重点を置いているものと考えられる。

 神道とユダヤ教の価値観の世界的な影響力を考えると、ユダヤ教は、近代西洋文明において物質中心で拝金主義的な考え方を助長した。自然を支配し、自然を物質として利用し、金銭的な利益を上げるという考え方である。ユダヤ教に基づくユダヤ的価値観が、近代から現代にかけての世界で支配的になっている。これに対し、神道に基づく日本的価値観は、自然と共生し、物心調和・共存共栄のあり方をよしとする。21世紀にあって、ユダヤ的価値観からの脱却を世界的に進めるためには、日本的価値観の普及が必要である。(ページの頭へ)

 

第6章 哲学的・心理学的考察

 

●一神教・多神教とアニミズム

 

 宗教学では、宗教を一神教と多神教、啓示宗教と非啓示宗教、有神論と無神論等に分類する。これらの分類は、もともとユダヤ=キリスト教を基準としている。そこには、唯一的な超越神、男性的な人格神、神との契約と神の啓示による啓典を、価値的に上のものとする価値判断が入っている。ユダヤ=キリスト教を優位に置き、多数の神格を持つ宗教を劣位に置く見方が、そこには含まれている。

神道は一般に多神教といわれる。また神道はアニミズムを基礎としているととらえられる。アニミズムは精霊信仰、霊魂信仰などと訳される。人類学者のエドワード・タイラーは、アニミズムを「霊的存在に対する信仰」と定義し、宗教の最も単純で原始的形態とした。彼は、原初形態としてのアニミズムが段階的に一神教に進化したのだと考えた。そして素朴なものから複雑なものまで宗教はすべて、なんらかの形でアニミズムを含んでいると主張した。

タイラーの考え方には、「進化」=「進歩・向上」という価値判断が含まれている。この価値判断を除いて価値の相対化をすると、宗教のさまざまな形態は、アニミズムの特殊化であると考えることができる。つまり、アニミズムの特殊な形態が多神教であり、さらに非常に特殊な形態が一神教であり、アニミズムがこのように特殊化したと見るのである。

セム系一神教の文明やそれを否定した無神論の社会でも、アニミズム的な基層の文化は決してなくならなっていない。ユングの深層心理学による西洋文明の研究はそのことを明かしている。(1)

第1章に書いたように、私は、アニミズムの根底には、アニマティズムがあると考える。個別的な精霊信仰の基底に根源的な力への信仰があると見るのである。わが国におけるアニマティズムは「かみ」という言葉に内在している。わが国では古来、何かしら尊いもの、偉大なものに触れると、それを「かみ」と呼んで崇めたり、畏れたり、親しんだりしてきた。

 本居宣長は、『古事記伝』に「さて凡て迦微(かみ)とは(略)人はさらにも云ず、鳥獣木草おんたぐい海山など、其余何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云うなり」と書いた。

ここで「かみ」と呼ばれるものの根源には、宇宙・生命の根源的な力が存在する。アニマティズムはその霊力を信仰するが、個々の事物が差別化され、名前が付けられると、事物それぞれに霊的存在が宿るという考え方に変化する。それが何々の「かみ」と個別化されたものが、アニミズムである。

アニマティズムの特殊な形態がアニミズムであり、そのまた特殊な形態が多神教であり、さらに非常に特殊な形態が、一神教と考えられる。

神道の場合は、単なる多神教ではなく、これから述べるように一神教的な傾向も合わせ持ち、一神教と多神教を総合し得る構造を内在している。それは、多元的なアニミズムの基底には、一元的なアニマティズムがあるからである。

 

(1)ユングについては拙稿「心の近代化と新しい精神文化の興隆」をご参照下さい。

 

●中心を象徴する天之御中主神

 

 アニミズムは「霊的存在に対する信仰」であり、世界の諸社会では、その霊的存在をそれぞれの名称で呼んできた。日本においては、その名称の代表的なものが「かみ」である。他に「みこと」「もの」「たま」などの語も使われる。神道において信仰の対象とされる霊的存在は多数ある。八百万の神々という言葉は、それを表現するものである。その点では、神道は、まさに多神教である。だが、神道が単なる多神教ではないことを示唆するものがある。天之御中主神という神格である。天御中主命等とも書く。

 天之御中主神は、『古事記』の冒頭に現れる神格である。「あめのみなかぬしのみこと」という名前の通り、宇宙の中心に存在するとされる神である。

 この神は、記紀が編纂された時代に、シナの道教の影響により、道(タオ)・陰陽の思想に合わせて、人為的に作られたものではないかといわれている。名称は、天の中心にあってすべての星々がその周りを回り、それ自体は不動である北極星を連想させる。シナの天上皇帝や北辰信仰に通じるものと考えられる。ただし、北極星そのものではなく、現実の宇宙における北極星に象徴される中心の観念に意義がある。天之御中主神は、鎌倉時代の度会家が創始した伊勢神道、江戸時代の平田篤胤が創始した平田神道など、様々な神道思想の中で、宇宙の中心の神、根元の神として崇拝されてきた。

 宗教学者ミルチャ・エリアーデは、神話・宗教における象徴の研究をした。エリアーデが象徴の中で重要なものとしたものの一つに、中心がある。深層心理学者のカール・グスタフ・ユングもまた象徴の研究をし、重要な象徴の一つに、マンダラを挙げた。マンダラは円または4の倍数の要素を持つ図形である。私は、エリアーデの中心とユングのマンダラは、同じものをとらえたものと考える。マンダラにおいて重要なのは、中心である。例えば、キリスト教の十字架も4の倍数の要素を持つマンダラだが、これは縦横の線が交差して中心を示している。

 ユングが研究したように、個人においては、精神的な危機の克服の過程で、しばしばマンダラが描かれる。またエリアーデが研究したように、集団においては、共同体の祭儀の中で、聖なる中心が表れ、すべてのものの再生が体験される。

中心は「死と再生」が起こる聖なる場所であり、生命と宇宙の源である。そこでは対立物が一致する。また、すべてのものの差異が還元される。エリアーデが他に重要な象徴としたもののうち、「死と再生」と「対立物の一致」も、マンダラが示す中心において実現する。それによって、すべてのものの秩序と調和が確認され、世界と自己に存在する意味が与えられる。天之御中主神は、まさにこうした聖なる中心を名称とする神格である。

 

●無にして有、ゼロにして無限大

 

 天之御中主神は、宇宙をその外から創造したり、人間の世界に介入したりする超越神ではない。その点で、ユダヤ=キリスト教的な神の観念とは異なる。

天之御中主神は、「有」の世界にある者には、見ることのできないもの。言わば、「無」の神である。『古事記』では、天之御中主神が最初に記され、高御産巣日神・神産巣日神が続く。『古事記』神代記は、大意次のように書いている。「天地が開闢したとき、高天原でお成りになった神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神 (かみむすひのかみ)だった。この三柱の神は、独りでお成りになる神だったので、身を隠し窺い知ることはできない」と。

これらの神は「独神(ひとりがみ)」で身を隠したと表現される。隠れているということは、存在しないのでない。存在するが、人間には感知できない。相対の次元にある存在者には対象化できない絶対の次元を象徴するものと思われる。対象化した時には「有」であり、相対的になっている。

私は、天之御中主神は、道教における道(タオ)または易における太極に相当し、高御産巣日神、神産巣日神は、陰陽の両極に相当すると考える。それらの概念を神話的に表現したものだろう。こうした原理的な概念が受容されたのは、陰陽は昼と夜、男と女、天と地、海と陸等の両極性を抽象化した概念であり、日常的な経験から理解しやすいものだからだろう。しかもわが国では、天の中心や「むすび」のような日本的な概念に置き換えて、独自の表現をしたものと思う。

ところで先の『古事記』神代記の一節には続きがある。「次に、国土が幼く脂のように浮かび、クラゲのように漂っているときに、葦が芽吹くように勢いよく生まれた神の名は宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)があり、次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)だった。この二柱の神も独りでお成りになる神なので、身を隠し窺い知ることはできない。上記五柱の神は別天の神である」と。

宇摩志阿斯訶備比古遲神と天之常立神は、原理的な概念を象徴したものではなく、諸氏族・諸部族の持つ神話を体系化する際に、別の系統の神格をここに組み込んだものだろう。

 私は、天之御中主神という名で呼ばれる神は、「有」ではなく「無」の象徴であり、有形的な「1」というより、無形的な「ゼロ(0)」にしてかつ「無限大(∞)」というべきものを象徴したものと考える。単なる「無」ではないので、仏教にいう「空sunya)」にあたるだろう。

「空」の概念は、西洋における有無の概念を内包する。「空」は、単なる無ではなく、宇宙の全体性を生み出す根源的な創造性である。また、創造は一回限りではなく、宇宙は常に創造と還元を繰り返している。あらゆる瞬間において創造と還元が起こっている。そうした宇宙の真相を概念化した「空」は、有形的な「1」ではなく、無形的な「ゼロ(0)」にしてかつ「無限大(∞)」というべきものである言語や論理を超えているが、まさにそれによって、自己があり、他者があり、世界があるような根本的な次元を指し示していると思われる。

 天之御中主神がその名において直接象徴するのは、天の中心である。中心とは、一個の点である。点とは位置だけあって、面積のないものと定義される概念である。点は、位置的には「有」だが、空間的には「無」である。「有」にして「無」である。

ここに30センチのものさしがあるとする。その30センチの中に、点は何個入るだろうか。面積がないのだから、点は無数に入る。ものさしは有限だが、そこに入る点の数は無限である。「有」でもあり「無」でもあるものが、有限のものの中に無数に存在することになる。

 不思議なことだが、これが、私たちが生き、死にしている、この世界の真相である。有限と無限、相対と絶対は、不思議な関係を以て、日常の世界を形づくっている。

 その日常の世界において、日本人は古来、何かしら尊いもの、偉大なものに触れると、それを「かみ」と呼んで崇めたり、畏れたり、親しんだりしてきた。その「かみ」とは、一神教の世界観でも多神教の世界観でもとらえられないものであり、一神教の神も多神教の神々も、みなそこから発生するところの本源、絶対の次元を象徴するものと考えられる。私は、先に多神教はアニミズムの一種であり、アニミズムの根底にはアニマティズムがあると書いた。アニマティズムとは、宇宙・生命の根源的な力への信仰である。私は「かみ」とは、その根源的な力を指し示す語と考える。そして、「かみ」への信仰と現代科学の最前線の知見は、実は非常に近いところにあるのではないかと考えている。

 作家の天外伺朗(本名・土井利忠、工学博士)によると、現代の物理学の主流は、超ひも理論(Superstrings theory)に移ってきている。超ひも理論は、素粒子の根源は、長さが10のマイナス33乗cmという極微のひもであるという理論である。ひとつの微細なひもが、いろいろな振動モードを振動することにより、異なる素粒子としての性質を示すとし、この理論の方程式を解くと、宇宙は10次元ないしは26次元という結論になるという。

10のマイナス33乗cmという長さは、プランク・スケールと呼ばれる。物理学者のデイビッド・ボームは、大意次のように述べている。「プランク・スケールとは、そこまでは通常の時間・空間の概念が通用するという、一種の限界値に過ぎない。それゆえ、この限界を超えた精妙な世界には、何物も存在しないとするのは独断だろう。むしろそれを超えたところには、いまだにわれわれがその本性を、ほとんど、あるいはまったく知らないさらなる領域が、そのような一群の領域が確実に存在すると考えられる」「プランク・スケールを最小の波長として、1立方センチの中の空間エネルギーを計算すると、それは現在知られている宇宙の全物質が持つエネルギーより、はるかに大きくなる」と。

 現代物理学では、点粒子のエネルギーは1/0になると表す。1を0で割ると無限大になってしまう。分母を限りなく小さく、分子を限りなく大きくしていくと、無限大に近づくことから理解できる。概念的には「1」を「有」、「0」を「無」と考えることができ、「有」と「無」の相互作用に無限大が関係する。これらの関係の全体を表す概念が、「空」ということになるだろう。

天外は、著書『ここまで来たあの世の科学』で、大意次のように解説する。量子力学によれば、粒子は波動としての性質を持っている。その周波数は粒子の寸法が小さいほど高くなる。エネルギーは周波数に比例するので、小さな粒子ほどエネルギーが高いということになる。量子力学では、粒子の存在は確定できず、つねに存在確率しかない。このことを突き止めていくと、結局、空間と粒子の区別があいまいになり、空間そのものがエネルギーを持つ、という結論に達してしまう。そして空間が小さいほど高いエネルギーを保有する可能性が高いことになる。これをゼロ点エネルギーという。正確には、量子的な電磁場のゆらぎからエネルギーが発生すると考えられている、と。

ゼロ点エネルギー、すなわち宇宙空間を満たしているエネルギーは、莫大である。時間も空間も定義できない領域、何も存在しない「空」の世界が莫大なエネルギーを秘めている。これが、現代の物理学が描き出している宇宙の姿である。

物理学者のフリッチョフ・カプラは、現代物理学の世界観が、東洋に伝わる伝統的な世界観に非常によく似ていることを発見した。『老子』や『易経』や仏典に表わされている宇宙の姿と、量子力学や相対性理論が描く世界像とが近似しているという。20世紀の名だたる物理学者たち、不確定性原理のウェルナー・ハイゼンベルグや波動方程式のエルヴィン・シュレーディンガーが、かつては単なる神秘思想と思われていたインド哲学に深い関心を持ち、コペンハーゲン解釈のニールス・ボーアは晩年シナの易学の研究に没頭した。カプラの師、ジェフリー・チューは自分の靴ひも理論が大乗仏典の内容とそっくりなことに驚愕している。

現代物理学の世界観が驚くほど似ているという仏教・道教・ヒンドゥー教等の世界観は、優れた霊覚者が修行によって到達した境地において悟った宇宙の真相を、空・道・梵等の言葉や様々な比喩や象徴的な物語を以て伝えようとしたものである。日本固有の宗教である神道においては、天之御中主神という神格が、最もよくそれらが表現する宇宙の姿を象徴している、と私は考える。

 

●天照大神と本源の神の関係

 

天之御中主神は、単に神話に書き並べられた多くの神々の中の一柱ではなく、本源の神であり、宇宙の根本理法であり、かつ万有顕現の原動力を象徴したものととらえることができる。ここで象徴されるのは、科学的に言えば、実在の原理であり、哲学的には真理、宗教はこれを神として人格的にとらえるところが、科学・哲学と異なる。

神道の諸思想の多くで、最高神と考えられているのは、天照大神である。天照大神は太陽神であり、また皇室の祖先神とされる。神話では、天に存在する天原の主宰神として描かれている。それゆえ、神道の最高神とされる。だが、天照大神は、神話における始源の神ではない。

 神々の物語において、天之御中主神以下、天神七代の神々は、ほとんど具体的な役割を果たしていないものが多い。最初に大きな役割を果たすのは、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)である。『古事記』の場合は、伊弉諾尊・伊弉冉尊は、国常立神に始まる天神七代代の最後に現れる。

伊弉諾尊・伊弉冉尊は、天津神または天之御中主神の命令を受けて、天にあって、日本を形成する大八洲島と呼ばれる島々を生む。その物語は、国生み神話と呼ばれる。天照大神は、その後に、男性神である伊弉諾尊から誕生したとされる。その時点で、伊弉諾尊の妻である伊弉冉尊は死んでおり、黄泉の国にいる。天照大神は、父神・伊弉諾尊から生まれた娘と位置づけられている。つまり、神々の系譜では、かなり後の代に現れた神なのである。そのため、天照大神を神道の神々の体系において、始源の神とすることはできない。明らかに系譜上、元があるためである。

天照大神が伊弉諾尊から誕生した際、素戔嗚尊と月読命も同時に誕生したとされる。これらの三神は、それぞれ太陽・風・月に当たるとされ、自然神の性格を持つ。天照大神は、三神の中の一柱であり、ここでも相対的な存在である。

このように日本神話には複雑な要素があるのだが、天照大神は、皇室を中心とする日本民族の諸氏族の氏神の中では、最高位とされている。その意味では最高神である。

だが、天照大神は、高御産巣日神から助力・助言を受けている。高御産巣日神は「むすび」を象徴する二神のうちの一柱である。天照大神は、何か重大な決定をする時に、父神・伊弉諾尊ではなく、別の男性神であり祖先神のようでもある高御産巣日神に相談したり、指示を受ける。この点からも、天照大神は最高神ではあり得ないことが明らかである。

 高御産巣日神については、この神が天照大神以前の皇祖神であり、真の皇祖神ではないかという説がある。天之御中主神と神産巣日神は、神話の最初に登場した後、ほとんど話に出てこないのだが、高御産巣日神は、天岩戸、天孫降臨、国譲り、神武東征等の重要な場面に繰り返し登場する。皇祖神であれば、これを天之御中主神に次ぐ高い位に置き、神産巣日神と対にして、道・太極に対する陰陽という原理的な概念を象徴させたと考えられる。高御産巣日神は葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神という名で現れる。この別名の通り、本来は高木が神格化されたものとも考えられている。その場合、高木という自然物への信仰と祖先の霊への信仰が習合したものだろう。天照大神が太陽神でありながら、皇祖神でもあるのと同様である。

日本神話における神々の中に宇宙的な原理・原動力を象徴した神格を求めるならば、天照大神は不適格である。天照大神は、宇宙の根本理法にして万有顕現の原動力を象徴した本源の神では、あり得ない。また、高御産巣日神も、伊弉諾尊、伊弉冉尊、素戔嗚尊大国主命等も、同様に本源の神とはできない。これらの神々もまた、なにものかの現れまたは作用であって、本体そのものを象徴してはいないからである。

 神道において、本源の神にして始源神、また最高神と考え得るのは、天之御中主神のみである。哲学的に考察すると、神道における八百万の神々は、すべて天之御中主神という本源の神の現れと位置づけることができる。天之御中主神を本源の神と見る時、神々の体系は、一神教か多神教かという単純な論理では把握できないものとなる。

 

●「一即多、多即一」の論理

 

天之御中主神を本源の神とすれば、「多」であるところの神々は、「一」であるところの本源の神の現象または姿作用と理解することができる。このように考える時、神道は「多」の諸相を見れば多神教的だが、「一」の本源を見れば一神教的でもあるものとなる。

 こうした関係は、唯一神を基準におく「一」か「多」か、という西洋の古典的な形式論理ではとらえられない。これをとらえることを可能にするは、西田哲学の場所的論理だと考える。西田哲学とは、近代日本の代表的な哲学者・西田幾多郎の哲学のことである。

西田は『善の研究』で主客未分の純粋経験から思索を始め、カントの近代的自我意識の立場を超え、また西洋の主語的論理を述語的論理に転換した。そして、「絶対矛盾的自己同一」の場所的論理による独創的な哲学を展開した。

西田の場所的論理とは、「一即多、多即一」という論理である。「一即多、多即一」とは、「一」が「一」でありつつ同時に「多」であり、「多」が「多」でありつつ同時に「一」であることを表す。形式論理では矛盾律に背く。事物を運動の相でとらえる弁証法の論理においては、過程的には「一」が「多」となり、「多」が「一」となる。しかし、場所的論理における「一即多、多即一」は、単に過程的でなく、同時に構造的である。集合の概念で考えれば、「多」を一つの集合ととらえるとき、「一」であり、「一」の集合の要素は「多」である。概念のレベル差に注意することで、一神教的でありかつ多神教的でもあるような世界観へのアプローチが可能になる。

西洋哲学は、「有」の哲学である。神を「有」の概念でとらえる。ユダヤ=キリスト教の神ヤーウェは「われはあり、あるものなり」を意味する。過去・現在・未来を通じて有るものである。古代ギリシャのパルメニデスもプラトンも、近代西欧のデカルトもヘーゲルも、「有」の哲学を説いた。西田は、西洋的な「有」の哲学に対して、東洋的な「無」の哲学を説いた。ここにいう「無」とは、単なる「有」の否定または欠如ではない。「有」のもとにあり、「有」がそこから生み出される次元を指す。「有」の根拠に「無」があり、「無」の自己限定として「有」が生じる。形なきものから形あるものが生まれる。無限のエネルギーから有限の存在者が生まれる。「一」ととらえられるものは、「無」を対象化したものである。絶対に対象化できないところに、「一」ととらえられる真の実在がある。これを西田は「絶対の無即有」という。それゆえ、「一即多、多即一」の論理は、絶対無でありかつ絶対有である絶対的次元においてのみ成立する。

 欧米の宗教学では、こうした哲学的な考察がされずに、現象的な「多」の側面を見て、神道などの宗教を多神教としている。だが、多神教の多様な神格は、対象化することのできない絶対的な神性を、個々の事物や現象に即してとらえたものであり、これを統一的にとらえれば、その統一性の側面においては、一神教に通じるものとなる。

 ところで、西方キリスト教のうち、ローマ・カトリック教会では、「父なる神と子なる神と聖霊」の三位一体を説き、イエスを唯一の神としながら、聖母マリアへの信仰や聖人への崇拝が見られる。プロテスタントの多くの教派は、これを批判する。マリア信仰や聖人崇拝は偉人の霊を祀るものであり、神道の考え方で見れば、人間神の神々に相当する。イエスもまたそのように見ることができる。言わば、「イエスのかみ」「マリアのみこと」等と称し得る。このように考えるならば、ローマ・カトリック教会の一神教には、多神教的な要素があり、その要素を包摂し得る論理が必要だとわかる。それは、「一即多、多即一」の論理となるだろう。

 

●汎神論と万有在神論

 

神道の世界観は、「一即多、多即一」の論理でとらえる必要がある。神道は単なる多神教とはいえない。一神教的な側面があるからである。私は、万有在神論(panentheism)が神道の世界観に最も近いものと考える。万有在神論について述べるには、汎神論(pantheism)から語らねばならない。

汎神論は、自然そのものを神とする。西方キリスト教社会では、正統的な一神教に対する異端とされた。スピノザの哲学がその代表的存在である。キリスト教は、唯一男性神を仰ぐ一神教である。キリスト教の神は、宇宙の外に立つ宇宙の創造者である。その意味で、万有に対して超越的である。神は自然に対して外在的であり、自然は単なる被造物である。これに対し、汎神論は、万有に対して神が内在的ととらえ、神と自然は同一とする。スピノザは、そこから神すなわち能産的自然の所産である人間もまた神であり、人間も神になれると考えた。スピノザの汎神論は、シェリングやヘーゲルに影響を与えた。彼らの哲学に対しても正統的キリスト教の教学から汎神論だという批判がある。

神は超越的か内在的かという理論的対立状態において、19世紀の宗教哲学者K・C・F・クラウゼは、神は万有に内在するとともに超越するという説を唱えた。この説を万有在神論という。汎神論では神は内在的だが、万有在神論では神は内在的かつ超越的である。汎神論は「万有=神」であり、万有在神論は「万有⊆神」である。万有在神論は、汎神論とは異なり、神が個物に宿りつつこれを包括し統一すると考える。万有在神論において、個物と一般者は相互包含的であり、「一即全、全即一」の無限の相互関係が生成する。近代西洋哲学では、ライプニッツの説いたモナドが、ここにおける「一」と類似した存在者の単位である。万有在神論は、一神教のイスラーム教文化圏では一つの学説として認められている。また、人間には神性が内在するというインド思想にも通じる。こうした万有在神論は、自然の事物に霊性を認める多神教を根源的な次元から説明する理論となり得るものである。

西田は、「絶対矛盾的自己同一」の場所的論理による自身の哲学を、汎神論ではなく万有在神論であると自認していた。西田哲学は大乗仏教、特に禅宗と浄土信仰を背景に持つ。自力による悟りへの努力を主としつつ、最後は他力による救済を期待する。シナ・日本で発達した禅宗では無を語るが、これは道教の影響がうかがえる。インド発祥の大乗仏教で、主に説かれるのは「空」である。「空」の概念については、「ゼロ(0)」にしてかつ「無限大(∞)」というべきものであると先に書いたが、一切皆空ととらえる仏教の主要な経典の一つ、華厳経は、相即相入・重々無尽の世界を象徴的に表している。万物を照らす宇宙的存在としての毘盧舎那仏(Vairocana)すなわち大日如来を神に置き換えれば、その世界観は万有在神論に通じる。神道においては、この神に当たるのが、天之御中主神であり、神道の世界観は、万有在神論によってこそ、最もよくとらえられる。

ところで、キリスト教にも深い理解を示した西田は、「絶対無」を「絶対の無即有」とも言っている。場所的論理でとらえた一般者を神と呼び、一神教的な神を否定しない。西田哲学は、内在即超越の構造において、内在的に重点を置いた万有在神論と言える。内在的に重点を置くとは、個物から一般者へという方向に重点を置くことである。個物から一般者へとは、人間の側から神という根源性・全体性へ向かうこと、自己の内なる心を究めて神と合一する方向に志すことと理解される。

ここで個物と一般者について、実存と本質という対を為す概念で考えることができる。伝統的な西洋哲学において、実存は普遍的な本質に対して時間・空間内にある個物的存在をいい、可能的な本質が現実化されたものである。現代の実存哲学では、特に人間という自らの存在及び死を意識する存在者のあり方を実存という。内在的に重点を置く万有在神論は、人間的実存の根拠として神を想定する理論として、実存哲学に新たな可能性を提供するものとなるだろう。

 

●「死と再生」のシンボリズム

 

 神道は宗教であり、哲学ではない。論理的思考を超えた直観的把握や体験的合一を目指す活動である。そのため重要なのが象徴である。象徴でしか表現しえない心的エネルギーの活動である。そこで先に触れた「死と再生」のシンボリズムについて補足しておきたい。

神道において、祭りの時は「はれ」と呼ばれ、日常的な時は「け」と呼ばれる。「はれ」と「け」は異なる。祭りの興奮の中で共同体は融合一体化しつつ、存在の始源と生命の本源に還元し、そこから再生する。この過程で、集団的に「死と再生」が象徴的に体験される。

西田幾多郎とその弟子の哲学者たちは、仏教を西洋の弁証法で理解しようとした。その論理を借りれば、祭儀における象徴的な死は「否定」であり、その再生は「否定の否定」である。もともとヘーゲルの弁証法における疎外と回復の論理は、イエスの死と復活を論理化したものであり、イエスの復活劇は人類に広く見られる「死と再生」のシンボリズムの一つと見ることができる。
 弁証法は根本的に運動の論理である。形式論理とは異なり、時間性または歴史性に本質がある。ユダヤ=キリスト教の文化圏では、歴史における神の顕現、神の計画としての世界史という世界観が根本にある。ヘーゲルは、キリスト教的な世界観を表現するために、弁証法を用いた。

これに対し、神道における「死と再生」のシンボリズムは、時間性の否定と始原への回帰に本質がある。エリアーデが明らかにした、多くの文化に見られる「原型と反復」である。現在の「否定」によって永遠または超時空の次元に触れ、そのまた「否定」によって現在に戻るのである。こういう祭儀によって、日常的な生活が再び肯定される。「死と再生」のシンボリズムの基盤のうえに、現世肯定・生命肯定・子孫繁栄の生き方が確固としたものとして継承されていく。

「死と再生」のシンボリズムは、日本の祭りのうち、最も重要なものである大嘗祭においても見られるものである。大嘗祭については、第3章(3)の米に関する神勅の項目に簡単に書いたが、ここで説明を加える。

大嘗祭は、践祚大嘗祭とも言う。新しく即位された天皇が初めて行う新嘗祭である。新嘗祭は、天皇が神々に新穀を供えて祀り、神々に収穫を感謝し、かつ自らも試食をする祭儀である。

大嘗祭では、太古さながらの簡素な様式で建てられた大嘗宮において、新嘗祭の儀式に加えて、天皇が天皇になる儀式、すなわち瓊瓊杵尊と同じく、天照大神の孫として新たに誕生するという象徴的な意味を持った儀式が行われる。天皇にとっては一代一度の盛儀である。

国文学者で民俗学者の折口信夫は、著書『大嘗祭の本義』に、次のように書いている。「大嘗祭の時、悠紀(ゆき)、主基(すき)両殿に中に御寝所が設けられていて、そこには衾(しとね)がある。これは天皇となるべき皇子が、資格完成のために、すなわち天皇の魂が御体にはいるまで、ここで忌み篭りをするためのものである。この衾を『日本書紀』の神代の巻には『真床追衾(まとこおふふすま)』という。これを取り除いたときに正式な天皇が誕生する」「真床追衾は『日本書紀』第2の神代下の一書、『時に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)真床追衾を以て皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊(すめみまあまつひこひこほのににぎのみこと)に覆ひて降りまさし』とあるのを指す」と。

最初に注意したいのは、ここでも瓊瓊杵尊に降りるのは、天照大神ではなく、高皇産霊尊すなわち高御産巣日神であることである。さて、折口は、真床追衾を「忌み篭りのための場所」とする。私は、これは母親の子宮を模したものではないかと思う。始源の子宮に戻って、再度誕生する。一端、象徴的に死に、再度生まれ出る。ここに「死と再生」のシンボリズムが見られると思うのである。

この項目では、哲学的・心理学的考察を行ってきたが、神道の世界は、単純のようで奥深い。もっとも日本の精神文化においては、こういう賢しらなことをあげつらうことは忌み嫌われる。語りえないことは語らず、否定性の局限をただ指し示すのである

 

●民族宗教から世界宗教への可能性

 

 神道において、天之御中主神に注目する見方は、神道を民族宗教から世界宗教へと発展させる可能性を開く。この場合、天照大神は、本源の神である天之御中主神の現れであり、孫の瓊瓊杵尊をわが国に遣わしたことで皇室の祖先となり、民族の中心となった、と位置づけることができる。それを高御産巣日神としても同様である。他の神々、諸氏族の氏神等も、みな本源の神の現れであり、元を同じくし、天照大神を中心とした一大親族の構成員という関係になる。

 また他の宗教との関係では、天之御中主神と、ユダヤ=キリスト教のヤーウェ(エホヴァ)、イスラーム教のアラー、ヒンドゥー教のブラフマン、仏教の久遠の本仏等とは、みな一体異名である。神を宇宙の根本理法にして万有顕現の原動力を人格化したものと考えれば、神は一つだからである。一神教と多神教の争いも、一神教同士の戦いも、人間が勝手に神の名において争っているだけである。

やがて日本の神道のように、世界の神々が一大親族のように結び合って、本源に帰一していく時代がくるだろう。そのときの神に対する理解は、一神教でもなく多神教でもない、「一即多、多即一」の論理による万有在神論的なとらえ方になるだろう。(ページの頭へ)

 

 

第2部 日本文明における神道の歴史

 

第1章 日本文明と神道史の概要

 

 第1部では日本文明の宗教的中核としての神道について、概要を書いた。続く第2部では日本文明における神道の歴史を概術する。

拙稿「人類史の中の日本文明」に書いたが、私は、日本文明の歴史を人類文明史の各段階に対応させて、次の表のように考えている。年代は大体の数字である。

 

時 期

名 称

人類文明史との対応

西暦年代

時 代

第1期

日本文明の黎明期

人類革命から日本文化の誕生へ

約3万年前〜前900年頃

岩宿時代〜縄文時代中期

第2期

日本文明の準備期

日本の農業革命

 

BC900年頃〜AD3世紀頃

縄文時代後期、弥生時代

第3期

日本文明の形成期

日本の都市革命と精神革命

4世紀頃〜1200年頃

古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代

第4期

日本文明の確立・熟成期

 

1200年頃〜1867年

鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代

第5期

日本文明の発展期

日本の近代化革命

 

1867年〜1945年

明治大正時代、昭和時代前期

第6期

日本文明の飛躍期

新人類革命の推進

1945年〜現在

昭和時代後期、平成時代〜21世紀

 

日本文明は、原始時代の後、縄文時代から独自の文化を創造してきた。弥生時代から大陸のシナ文明の影響を受け、その周辺文明として発達した。7〜8世紀から自立性を表し、遅くとも13世紀までに、世界における主要文明の一つとして確立した。以後さらに発達を続け、江戸時代に熟成期を迎えた。江戸時代末期に近代西洋文明と遭遇し、その「挑戦」に「応戦」し、独立を守るとともに、近代化を成し遂げた。そして、明治時代から発展期に入り、昭和時代後期以降は飛躍期にある。

この間、農業革命、都市革命、精神革命、近代化革命を体験してきた。現在の飛躍期は、人類全体では新人類革命の段階であり、日本人が世界人類とともに、存亡の危機を乗り越えて、大きく飛躍すべき時である。それが21世紀の私たちが生きている時代である。

文明の中核には、宗教がある。日本文明は、固有の宗教として神道を持つ。その点では、日本文明は、神道文明ということができる。最初に、神道史の概要を示すと、大略次のようである。

 日本文明の黎明期に、神道の基盤となる部分ができたと考えらえる。その基盤とは、「かみ」に対する崇敬の念である。これは、宇宙・生命の根源的な力への信仰としてのアニマティズム(霊力信仰)である。この基盤から縄文時代にアニミズム(精霊信仰)が発生した。

日本文明の準備期に入り、弥生時代になると、さらにその上に祖霊信仰が発達した。祖霊信仰は、東アジアではシャーマニズムと重なり合うものである。アニマティズムを基底として、アニミズムとシャーマニズムが融合して、日本の神道が発達された。

 日本文明の形成期において、神道は外来の宗教から文化要素を摂取した。3世紀にシナ・朝鮮から渡来した儒教は、その後、日本の精神文化に長く影響を与えた。仏教はインドで発生し、シナ・朝鮮を経て6世紀に渡来した。神道は仏教と当初衝突したが、やがて共存し、習合するようになった。また7世紀には、神道はシナの道教から宗教的哲学的な概念体系を摂取した。

平安時代半ばに、仏教の側から神道を説明する仏主神従の本地垂迹思想が生まれ、やがて真言宗・天台宗からそれぞれ両部神道・山王一実神道が現れた。鎌倉時代には、逆に神主仏従の反本地垂迹思想が登場し、それを基づく渡会氏の伊勢神道が発達した。元寇を機に、神国思想が高揚した。室町時代には、神道を主とし儒教・仏教・道教等の思想が混在した吉田兼倶の吉田神道が現れた。江戸時代初期には、儒教の側から神道を説く林羅山や山崎闇斎等の儒家神道が隆盛した。江戸時代後期には、国学をもとに仏教・儒教等の外来思想からの脱却を図る本居宣長等の古学神道が発達した。だが、またその中からキリスト教との習合を見せる平田篤胤の平田神道が登場した。

明治維新後、政府は一時神道の国教化を目指したが、これに失敗した後、神社は非宗教として政府の管理下に置くようになった。この政府管理下に置かれた神社神道を国家神道と呼ぶ。

大東亜戦争の敗戦後、日本を占領したGHQは、神道指令によって国家神道を禁止した。これにより神社神道は政府の管理下から離れた。占領下に制定された日本国憲法は、信教の自由を保障しており、神道は仏教・キリスト教等と同じく自由な宗教活動を行えるようになった。

日本文明の歴史において、大和朝廷の中央集権国家が成立して以来、神道は皇室の祭祀として今日まで一貫して実践されてきている。また皇室の祭祀を中心として、国民の間に様々な形態、種々の思想の神道が信仰されてきている。神道は、日本文化の基盤となっており、文化の多くの面に神道の影響が見られる。また、飛躍期を迎えている日本文明のより一層の発展と世界の平和と繁栄への貢献のために、日本文明の宗教的中核である神道は、潜在的な可能性を発現することを期待されている。(ページの頭へ)

 

第2章 日本文化と神道の形成

 

(1)原始時代と縄文時代

 

地球は、約7万年前から約1万年前にかけて、ヴェルム氷期と呼ばれる寒冷期にあった。寒冷期には、氷河が発達し、海が後退する。そのため、日本列島は、大陸と陸続きになっていた。

日本文明の黎明期は、約3万年前に始まる。最初の日本の住民は、約3万年前に大陸の北方からマンモスなどの群れを追って、日本にやってきたとされる。約1万4千年前すなわち紀元前1万2千年ごろ、日本の旧石器人類は土器を発明し、縄文文化を生み出した。縄文文化は、同時代のシナや朝鮮半島の文化とは異なる独自性を示している。ここに日本文化が誕生した。

約1万年前すなわち紀元前8千年ごろ、氷期が終わり、海面の上昇がはじまった。その結果、日本列島は大陸から切り離された。海によって日本が大陸と切り離されたことで、縄文文化の独自性は強まった。

 神道の基盤となる部分は、縄文時代よりもっと古い原始時代に誕生し、以後変わらずに続いてきていると考えられる。その基盤とは、「かみ」に対する崇敬の念である。これは、宇宙・生命の根源的な力への信仰としてのアニマティズムである。神道における「むすび」への信仰は、この一種だろう。私は、このアニマティズムという基底から、縄文時代にアニミズムが発生したと考える。アニミズムは、個々の事物に霊的存在が宿るという信仰である。アニマティズムは、宇宙全体に人間を超えた霊力を感じるものだが、アニミズムは言語で名づけた事物に個別化し、事物に霊力が宿ると考えたものだろう。それゆえ、霊力信仰は一元的だが、精霊信仰は多元的である。これは、一つの「かみ」から多くの神々の信仰へと移行したものである。アニマティズムとアニミズムは、合わせて自然崇拝という言ができる。

縄文文化の特徴の一つは、「森の文化」である。縄文人は、照葉樹林を中心とした森の恵みを受けて、豊かな文化を生み出した。

縄文人は、環濠集落(堀をめぐらした集落)を作り、円形の中心部分を広場とし、周囲に丸く竪穴式住居を建てて暮らしていた。この環濠集落を表す言葉が「わ」だった。「わ」とは「環」「輪」を意味し、集団や仲間の意味を表す言葉となった。外来者はこれを聞いて、国名に「倭」の文字を当てたのだろう。竪穴住居の集落には、身分の上下、貧富の差は見られない。平等な立場の人間が、円形に集住し、仲良く生活していたと考えられる。「輪」を組んで協同的に「和」を以て暮らしていた縄文人の心は、日本の「和の精神」の基底となったといえよう。

縄文文化は、主に狩猟採集の文化である。縄文人は、動物・魚類・爬虫類・鉱物・植物・人間、その他のすべての地球の事物を同等の価値観でとらえられていたようである。歴史学者の武光誠は、「縄文人は、考古学者が『円の発想』と名付けた、すべての事物をかけがえのない霊魂を持つ平等のものと見る発想を持っていた」(『図説 日本の神々を知る神道』)という。

「円の発想」とは、「わ(環・輪・和)」の発想である。縄文時代の土器や土偶には、原自然のエネルギーを感じさせる生命力が躍動している。そのデザインには、同心円などの円形が多く用いられている。武光は、弥生時代から身分制度ができても、「日本人の心のなかで平等を重んじる『円の発想』は受け継がれた」と述べている。

 縄文人は陸地に土着していただけではない。船を使って、かなり自由に日本周辺の海を行き来し、様々な物資を利用してもいた。つまり、縄文文化は、「海の文化」でもあった。縄文人が持っていただろう世界観・生命観は、後代の日本神話や伝承・祭儀として受け継がれているはずである。そこにはユーラシア大陸の文明とは異なる海洋的な要素が表れている。日本神話の物語の中には、東南アジアやポリネシア等の神話と同じ起源を持つと思われる話がある。国生み神話や竜宮伝説等である。太平洋を始め、四方を海で囲まれた日本列島において、大陸性とは違う海洋性の文化が発達したことは、注目すべきことである。

こうして森や海の豊かな自然の中で発達した縄文文化の豊かな文化遺産は、その後の日本文明の基層となっている。中でも最も重要なものが、固有の宗教としての神道である。(ページの頭へ)

 

(2)弥生時代

 

日本文明は、縄文時代後期から弥生時代にかけて、一個の文明として発展するための準備期に入った。日本の農耕文化は、稲作を中心とする。稲作は既に縄文時代の後期から、陸稲栽培がされていたようである。そこへ現在わかっているところでは、紀元前9百年頃、水田稲作の技術が、シナ大陸の江南地方から直接か、あるいは朝鮮南部から海路あるいは半島経由で日本に伝来した。同時に先進的な水稲耕作技術を持つ集団が多数、日本列島に移住してきた。これによって日本は弥生時代を迎えた。

縄文時代の社会は、狩猟採集を主とする原始的な共有財産制だから、社会的な平等が保たれたが、弥生時代の社会は、農耕を主とした定住生活に移行し、私有財産制が発達し、階層分化が進んだ。人々は自分の家の領域を囲い込み、家の広さで身分を表すようになった。ここに「円の発想」に替わる「区分の発想」が現れた。指導者や祭司となった人間は、集落の中の最もよい位置に住居を構えるようになった。貧富の差が生じ、首長が力を持つようになった。

 弥生人は、自分たちが生活する農地を開いた祖先たちの霊や集落を取り巻く自然物の霊がまとまって、集落の守り神になると考えた。また祖先の霊は、山に集まって子孫を見守るという世界観が生まれた。これが、祖霊信仰である。弥生時代の祖霊信仰は、紀元前2千年以前と思われるシナの信仰と共通性を持っている。農耕文化に基づく祖霊崇拝であり、シナでは孔子によって儒教へと発達したものである。

縄文人と渡来人の混交によって弥生人が生まれたが、弥生時代になっても、縄文文化の精霊信仰が滅びることはなかった。それに加えて、祖霊信仰が発達した。そして、精霊信仰と祖霊信仰が共存融和した信仰が発達した。その基盤には、原初的な霊力信仰がある。このような構造を持って発達したのが、日本の神道であると私は考える。

弥生時代には、シナ文明の影響で、銅鏡、銅剣、銅矛、銅鐸などの青銅の祭器が広まった。銅鏡は、太陽の光を反射する鏡であり、太陽神の分身として祭壇に祀られた。銅鐸は水の神に供えたものと考えられており、表面に水を表す波模様や渦巻き模様が描かれることが多い。また、銅剣や銅矛は、実用的な武器であるとともに、悪い霊を追い払う力を持つものとされた。

これらのうち、銅鏡・銅剣は、日本神話に現れる三種の神器の要素である。天照大神は天孫瓊瓊杵尊に、三種の神器と稲穂を授けたとされる。シナの道教では、鏡と剣と玉璽を三種の神器とした。わが国では、このうち玉璽が、縄文時代から造られている曲玉に替わった。朝鮮半島での曲玉の出土例は、時期的に日本より古いものが見られないので、日本独自のものと思われる。材料には、新潟県糸魚川上流でしか取れない翡翠(ひすい)の玉が使われた。

弥生文化が生まれた時代に、多数の渡来人がシナないし朝鮮南部から日本に来た。炭素測定法による調査では、朝鮮半島の先進地域における稲作の開始は紀元前1千年ごろである。半島南部などの先進地域で生活していた人々が、稲作を身に着けた後に、大挙して北九州に渡ってきた。

先住していた縄文人は、南方系の旧モンゴロイドだった。そこに渡来したのは、北方系の新モンゴロイドだった。今日の日本人の多様性は、これら南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの混血による。この時に日本に来た渡来人は、ヴェルム氷期に新たに現れた新モンゴロイドであるシナ系民族の血を引くと考えられる。彼らはシナから大挙して朝鮮に移住した。そして朝鮮半島に古くから住むシナ人とやや系統を異にする民族とが混血した。こうしてできたシナと朝鮮の混血民族が日本にやってきたと考えられる。渡来民が多く住み着いた近畿地方から遠ざかるにつれて、縄文的つまり南アジア的特徴が濃く残っている。

自然人類学の研究法の一つに、頭蓋骨の形態を調べるマハラノビス距離の測定がある。それによると、縄文人に最も近いのは、北海道のアイヌ、次が沖縄地方の人。ついで東北地方の人、関東地方の人、九州・中国地方の人、近畿地方の人の順になる。海外では、タイ人、華南人、朝鮮人の順になる。タイ人は九州・中国地方や近畿地方の人より、縄文人に近い。タイ人や華南人が縄文人に近いことは、縄文人が南方系モンゴロイドであることを示している。

渡来人が多数日本に来ると、縄文人との間で戦いが起こったが、やがて縄文人と渡来人は、融和した。渡来民は高度な稲作技術とともに金属器を作る技術を日本にもたらした。縄文人は、かなり主体的にそれらの技術を取り入れて水田を開墾し、また、稲作農耕文化に合った弥生式土器を用いるようになったようである。渡来人が縄文人を滅ぼすのではなく、人口的に優る縄文人と比較的少数の渡来人が混交することによって、新たな日本人が誕生した。それが弥生人である。弥生人は、原日本人である縄文人の特徴を基本的に維持しつつ、そこに渡来人の特徴が加わった者である。

縄文人と渡来人の出会いによって生まれた弥生文化は、九州から西日本に伝播し、ついで東日本へと浸透していったのだろう。こうして、米を主食とする日本人の生活様式と、米作りを中心とした文化が形成された。私は、この過程を「日本の農業革命」と考えている。

 農業革命の結果、日本文化には、「森の文化」「海の文化」という特徴に加えて、「米の文化」という特徴が加わった。稲作が普及しても、森林が守られたから、森の文化が絶えることがなかった。縄文人は航海民だったが、大陸から渡ってきた人々も、また海の文化を持っていた。

「森・海・米の文化」は、日本文明の個性をよく表わしている。また、「森・海・米の文化」が育てたのが、「和の精神」つまり人と人、人と自然が調和して生きる日本文明に特徴的な精神、日本精神である。また、その精神の宗教的な表現が、神道である。

私は、日本神話における国神系の人々は縄文人、天つ神系の人々は渡来人であり、国神系の民族と天つ系の民族が混交して日本民族が形成されたと考える。高天原からの素戔嗚尊の出雲下りは、素戔嗚尊と表現されることになった集団が最も早く渡来し、水害の多い出雲地方で治水を行ったことを伝えるものだろう。八岐大蛇(やまたのおろち)は水害の多い河川、大蛇退治は治水事業、素戔嗚と水田を名に持つ櫛名田比売(くしなだひめ、奇稲田姫とも書く)との結婚は、渡来人と先住集団との融合による潅漑水田稲作の発展、大蛇の尾から出た剣は砂鉄の産地の発見を、物語的に述べたものだろう。また、それに続く天孫による先住集団との外交交渉、建御雷神と建御名方神の力くらべ、大国主命の国譲り、三種の神器と稲穂を持った瓊瓊杵尊の天孫降臨等の一連の物語は、瓊瓊杵尊と表現される集団より先に移住した渡来人がいたことを示し、縄文人と渡来人、また先着の渡来人と後着の渡来人の遭遇、戦い、共存、融和、混交の歴史を反映したものだろう。

神話の物語は、まったく根拠のない空想や深層心理的なイメージではなく、何らかの歴史的事実が物語的に表現されているものと私は考える。(ページの頭へ)

 

第3章 国家の形成から奈良時代までの展開

 

(1)小国の形成と大和朝廷の成立

 

紀元前1世紀末には、北九州に小国が形成されていた。そのころ、シナの江南から北九州沿岸に多数の移住者が入ってきた。彼らは航海民で朝鮮半島南部と交易した。

 その後、3世紀の初め、シナの歴史書である『魏志倭人伝』に、日本に邪馬台国という国があり、卑弥呼という女王がいたことが記されている。同書の記述は粗雑で、位置・習俗等については正確さを欠くが、邪馬台国の名は「やまと」と関係すると考えられる。地域は、北九州説と畿内説がある。約30カ国の小国の連合体だったようである。卑弥呼は「ひみこ(日の子)」または「ひめこ(日の娘)」と考えられる。特定の個人ではなく、巫女を意味する普通名詞とも考えられる。卑弥呼は「鬼道」を行ったとされる。鬼道については、シャーマニズム、初期道教の一種、儒教的価値観と異なる政治体制等の説がある。

その後、広い領域を持つ強大な政権が、近畿地方を中心に誕生した。それが大和朝廷である。大和朝廷は瀬戸内海を西進して、4世紀初めには海外進出の拠点となる北九州の小国群を支配下に治めた。5世紀には、日本の大半を統一的に統治するようになった。

大和朝廷は異民族による征服王朝ではなく、豪族の連合による融合王朝だった。君主は大王(おおきみ)と呼ばれ、天皇の起源と想定されている。大王は人類史における都市国家段階の王に対照でき、大和朝廷の成立は、「日本の都市革命」に相当する。

私は、古墳時代から飛鳥時代、奈良時代を経て、平安時代に至るまでの期間を、日本文明の形成期と考えている。この期間に、日本文明の都市革命と、後で述べる精神革命が起こった。

日本神話は、大和朝廷の最初の首長を神武天皇としている。神武天皇は、南九州の日向地方から瀬戸内海を移動し、紀伊半島を経由して大和地方に入ったことが記されている。この行程の記録には具体的な地名が多く書かれており、また神武天皇が詠んだとされる歌が『日本書紀』に掲載されている。こうした物語がまったくの創作とは、考えられない。私は、神武東征や初代天皇就任の話は、何らかの形で歴史的な事実を反映した物語と考える。何の根拠もない創作であれば、日本の正史に記され、それが広く受容されて何世紀もの間、伝えられるわけがないと考えるのが、合理的である。

統一国家が発展すると、大和朝廷では、その国家の首長である大王への尊崇が強まり、大王の死後もその霊を神としてあがめる首長霊信仰が生まれた。大和朝廷を指導する王家は、皇室の先祖である。歴代天皇と考えられる大王を埋葬する巨大墳墓が造られた。仁徳天皇のものと考えられる前方後円墳は、墓域面積で世界最大を誇っている。

王家は、大和の三輪山にいる神を祀っていた。当時、わが国では、祖霊と集落を取り巻く自然物の精霊を「国魂(くにたま)」と呼んだ。国魂は、土地の守り神を意味する。三輪山の神は、「大和の国魂」とされ、倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)または大物主神(おおものぬしのかみ)と呼ばれた。

大和朝廷の勢力が大きく拡大した6世紀はじめ、王家は三輪山の神に代わって、より格の高い太陽神である天照大神を自家の祖神(おやがみ)とした。三輪山に大物主神の祭りの場の他に、天照大神を拝むところがつくられた。これは祖先神と太陽神が合体したものである。そして天照大神が王家すなわち皇室の祖先神とされた。

6世紀初めから、皇室の祖先神の系譜と功績を説明するために神話の整備が開始された。『古事記』『日本書紀』に結実する取り組みである。この過程で豪族の連合体である大和朝廷では、天皇を中心とした一大家族のような社会へと融合が進んだ。現実世界での家族的融合に伴って、神話や伝承の編集が行われ、氏神や祖霊は系列化された。天皇はこの体系の祭祀を司る祭祀王(priest-king)となり、各氏族の神々や祖霊もまた、体系のなかで所を得て、位置付けられ尊重された。こうした神話と宗教の総合によって、やがて列島のほとんどが一大家族的な社会に包摂されていくことになった。

この過程で、大和朝廷に服従せず、戦いを交わした集団もあった。神話で「まつろはぬ者」と書かれた集団は、朝廷と同じ神を祀らない者という意味でもあっただろう。神武天皇や日本武尊の物語を始め、平安時代初期の坂上田村麻呂の蝦夷征伐等は、戦争・征服・恭順・同化の長い過程を経て、日本全体が一つの文明として統合されていったことを示している。この過程は、また水田稲作文化が狩猟焼畑文化の社会に伝播していった過程だった。米は、うまい。栄養価が高い。人口扶養力が大きい。それゆえ、灌漑水田稲作の技術を学び、米を作れるようになることは、受け入れる側にとって得るものが大きかった。

神武天皇は大和地方で米作りに成功し、大和地方は灌漑水田稲作の先進地帯となった。大和の政権は、豊かな生産力を以て、東西南北の諸地域を統治下に組み入れていった。日本武尊の英雄譚もまた水田稲作文化を九州や東日本へと伝えていった物語である。坂上田村麻呂が用いた武器は、あまり実用的なものではなく、田村麻呂らは、寒冷地で栽培できるよう胆沢城で稲の品種改良を行いながら、東北地方に稲作技術を広めていった。

隼人・蝦夷等と呼ばれる諸集団は、灌漑水田稲作を受容するとともに、稲作に係る神々や祭儀を受け入れることになった。その一方、納税や労役等を課せられた。だが、ここにおいて重要なことは、日本文明においては、被征服民が奴隷階級にされるということがなかったことであり、また被征服民は元々の信仰を奪われることなく、皇室の神々と従来の神々を合祀する形で維持されたことである。祖先の神を祀り、土地の神を祀ることができ、そこに新たな神々を加えることは、祖先伝来の信仰を奪われるのではないから、恭順しやすいのである。

ここには、神道が多神教であり、かつ異質なものを並存させる受容力を持っていたことが、大きく作用したと考えられる。それは、海外から渡来した高度に発達した宗教である仏教・儒教・道教に対しても同様だった。(ページの頭へ)

 

(2)仏教の伝来と神道の保持

 

 大和朝廷の発展・拡大の過程で、渡来人によって仏教が伝来した。仏教の公伝は、宣化天皇3年(538)または欽明天皇13年(552)とされる。神道と仏教は、初めは衝突した。朝廷では、外来の仏教を受け入れるべきかが議論され、政権争いにまで発展した。用明天皇は、仏教を信仰した。用明天皇の崩御後、排仏派の物部守屋が崇仏派の蘇我馬子に攻め殺されると、物部氏は衰退し、蘇我氏の天下となり、仏教は興隆を続けた。

 当時の豪族は、仏教の深遠な教えを理解できなかった。彼らは仏像を外国から来た神、「唐(から)の神」として拝んだ。また、仏事を本来の仏教にはない祖先供養の機会とした。それゆえ、わが国では、仏教は、その受容の時点から祖霊信仰を行う神道と融合し始めたのである。また、神道は、儒教や仏教の概念を取り入れながら、自らを表現するようになっていく。

7世紀前半に聖徳太子が出現した。推古天皇の摂政となった太子は、皇室の神道を堅持しながら、外来の仏教を積極的に採り入れた。同時に儒教・道教なども学んだうえで、日本固有の価値観を表現した。「十七条憲法」(604年)がそれである。その冒頭は「和を以って貴しとなし」と始まる。ここに記されている「和の精神」は、日本固有の精神、「日本精神」をよく表現しているものである。「十七条憲法」は、ものの道理や人間心理への深い洞察に基づいており、太子の業績は、日本における精神革命の独自の展開に当たる。太子による「日本の精神革命」は、日本固有の神道・皇室・家族国家を基盤としたものであり、日本の精神文化の個性を明確に表現したものだった。

 聖徳太子は、十七条憲法で「篤く三宝を敬へ」と説いた。三宝とは、仏・法・僧である。太子は、短期間のうちに仏典を学んで『三経義疏』を著し、仏教の教理への深い理解を示した。同書は、シナでも優れた研究書として読まれるほど高い水準のものだった。しかし、太子は日本を仏教国にしようとしたのではない。聖徳太子の父・用明天皇は、『日本書紀』に「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」と書かれている。「神道を尊ぶ」とは、日本の神々や皇室の先祖を敬うことである。太子もまた、天皇を補佐する立場にあって、神々や祖先の崇拝は当然の前提として、新たに仏教を取り入れようとした。敬神崇祖は、口にするまでもない当然の前提であって、それゆえ太子も十七条憲法では、神道については特に触れていないわけである。

太子は、朝廷の全国統治を確立させるために、地方豪族の祭りを王家の管理の下に組み込もうと考えた。その構想により、推古天皇15年(607)に神祇の祭祀を重んじることを命じる詔が出された。太子伝の補註に、「神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華美、人智熟して後に起り、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは私情なり」と記されている。つまり、太子は、日本古来の神道を根本として堅持しながら、外来の仏教を積極的に採り入れたのである。同時に儒教・道教なども学んだうえで、日本固有の価値観である「和の精神」を思想として表現した。太子は、仏教の受容において、固有の精神文化(神道)を保ちながら、外来の宗教(仏教・儒教・道教)を摂取して共存させるという形を可能にした。これは、わが国が外来文明を受容する際の型となった。外国の文化でよいところは採り入れ、自国に合った形で活用する、また固有のものを保ちながら、外来のものを摂取して共存させる仕方である。

仏教は太子の死後、大化元年(645)に行われた大化の改新の後、しだいに神道に歩み寄りを見せた。そして、長い時間をかけて神道・仏教が互いに浸透していった。神仏習合である。それが可能になったのは、聖徳太子が示した基本姿勢による。

こうして日本文明は、文明の形成期にしっかりしたパターンが定式されたので、外来文化を積極的に採り入れても、自己の特徴を失うことなく、日本の独自性を維持していくことができた。神道もまた同様である。このことの多くは、聖徳太子に負っているのである

聖徳太子は、外交においても、主要文明であるシナの王朝に対して毅然とした態度を示した。太子は、隋の煬帝に充てた国書に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなき」「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に曰(もう)す」と記した。こうした太子の自主的・独立的な毅然とした態度が、その後の朝廷の政治外交に受け継がれた。

7世紀後半の天武天皇は、天皇号と日本の国号を用いた。天武天皇は仏教の写経をして各地の寺院に納めるなど、仏教の興隆に熱心だったが、同時に壮大な伊勢神宮を創建している。

天武天皇のときに、朝廷は、神道の信仰の中心地を近畿地方から伊勢に移した。社殿の建築様式は、シナ文明の様式とはまったく異なり、日本文明の独自性を示している。素朴にして清明である。持統天皇3年(690)、伊勢神宮で、第1回の遷宮が行われた。その後、20年に1度、式年遷宮が行われ、正殿・神宝など全てが新造されてきた。戦国時代には中断した時期もあるが、今日まで約1300年にわたって続いており、世界に比類ない持続力を持っている。主要文明たりうるには、千年以上の持続性が必要だという見方があるが、伊勢神宮は、まさに日本文明の自立性を体現する、生きたモニュメントである。

日本神道の基本的なあり方は、天武天皇の時に固まった。神道をしっかり中心に据えているから、仏教を国内に広布しても、文明の中核は替わらないのである。

天武天皇の時代には、道教の思想の影響も顕著だった。天武天皇が定めた八色の姓には、道教の用語が使われている。「すめらみこと」「すめろぎ」にあてら「天皇」の語は、道教の天上皇帝の概念から来ている。道教の要素は、皇室の神道に深く溶け込んでいる。天武天皇は律令の制定、国史の編纂等も進め、政治と祭事の両面から中央集権国家の発展を進めた。そこには、また次に書くように儒教の影響も色濃く見られる。(ページの頭へ)

 

(3)儒教的な制度の摂取

 

朝鮮半島南端からの渡来人は、5世紀末から6世紀にかけても、多数移住してきた。彼らは、シナの制度と儒教に関する知識を持っていた。儒教は、既に3世紀末から4世紀初め、応神天皇の時代に伝来したとされる。聖徳太子は、仏教だけでなく儒教・法家等の思想も研究した。冠位十二階には、徳・仁・礼・信・義・智という儒教的な名称が使われた。

儒教は、天人相関思想に基づく。儒教は、この思想のもとに、天地の生成化育を体認して、これを人間社会で実践することを説く教えである。孔子は、これを「仁」として徳目の中心とした。後代では義や孝が強調された。わが国では、天皇が身に着けるべき徳として、仁の修養が実践された。

儒教は、また礼を重んじる。礼は社会の秩序を保つための生活規範の総称であり、祭礼を含む。大和朝廷は、渡来人の知識を取り入れて、6世紀から7世紀半ばにかけて、日本古来の神道の習俗を儒教の概念を借りて制度化していった。

朝廷は、シナの律令を摂取し、法・政治・祭祀等に関する制度を作った。これにより、中央集権的な統治の強化を進めた。シナの律令には、儒教的な天神地祇の祭祀が定められている。これにならって、神道の祭りに対する様々な規定が設けられた。

日本の律令は、大宝元年(701)の大宝律令で完成に達する。大宝律令には、皇室の祭祀を規定した詳細な神祇令がつくられた。それとともに、各地の首長が行っていた土地の守り神の祭りが、朝廷の管理下に置かれた。皇室の祭祀が地方の祭りと結びつけられ、国家的な祭祀と位置付けられた。

日本文明の律令制度は、シナ文明のそれと異なり、神祇官を太政官が並置された。これは、我が国独自の祭政一致の制度である。太政官はすべての政務を実質的に代行できる最高議決機関のようになっており、天皇が承認を与えるだけですべての執務を行うことができた。だが、序列は神祇官の方が太政官より上だった。神祇官の長官の権限は太政官に従属していたが、皇室が神祇官を統率し、太政官は神祇に関与できなかった。神祇官は神祇の祭祀を司り、諸国の官社を総管した。こうした日本文明独自の体制は、シナ文明から律令制度を摂取しつつも、古来の日本の伝統を保つことによって生み出された。その制度の核心には、神道があった。

太政官に関しては、藤原氏が摂関制でその機能を独占し、天皇の統治権を代行した。藤原氏が勢力を失うと院政となり、平氏がそれを代行した。ついで源氏の開いた鎌倉幕府が太政官を代行する武家政治を始め、室町幕府・徳川幕府がこれを継承した。一方、神祇官の官職は、特定の氏族が分担し継承した。白川・中臣・斎部・卜部氏らである。(ページの頭へ)

 

(4)『古事記』『日本書紀』の編纂

 

わが国では早くから神話・歴史の編纂が行われ、6世紀前半に『帝紀』『旧辞』(本辞ともいう)が作られた。7世紀初めに聖徳太子が『天皇記』『国記』を編纂したが、大化の改新のクーデターの際に焼失した。7世紀後半、『帝紀』『旧辞』の誤りや乱れを正すべく、天武天皇の命で稗田阿礼が両書の誦習を始めた。天武天皇の遺志を継いだ女帝の元明天皇が太安万侶に命じて阿礼による口述を筆録・編纂させた。その結果、和銅5年(712)に完成したのが『古事記』である。続いて、養老4年(720)に『日本書紀』がつくられた。『古事記』は変体漢文を主としつつ一音表記も使用しているが、『書紀』は正規の漢文で書かれており、対外的に正史として示すために作られた。これら記紀によって、神話の体系化と国史の文書化が完成した。

『古事記』は、神話が約3分の1を占め、残りは歴代天皇を中心とした歴史である。『日本書紀』は、神話の部分は約15分の1であり、残りが歴史である。神話も歴史も物語である。神話は想像的な要素、歴史は事実的な要素が多いが、ともに想像的な要素と事実的な要素がある。神話には幻想的な話だけでなく、何らかの事実がもとにあって、それが物語化されている部分がある。物語化においては、深層心理的な元型的イメージが表れたり、政治的な意図によって創作や改作がされたりする。だが、人々がまったく受け入れないようなものであれば、一代あとの世代にすら伝承されない。何世代も伝承されるには、人々にそれを守り伝えなければならないという強い意思が働くようなものが、そこにあるからだろうと私は考える。

日本神話には、これまで書いてきたように、造化三神の誕生、国生み、神生み、天岩戸の物語、素戔嗚尊の罪と活躍、天孫降臨等、天地創造、日本列島の誕生から皇室の由来に及ぶ壮大な神々の物語が記されている。記紀には、何千年もの間、日本列島で生活してきた様々な民族・氏族・部族等のいくつもの系統の物語が集大成されている。特に『日本書紀』は一つの伝承だけでなく、「一書に曰く」として、他の伝承も併記している。また、自然現象や事物の起源に関する想像力による説明、海洋民族の神話、農耕民族の神話、英雄神話、仙境神話等、豊富な要素が盛り込まれている。こうした神話を編集することによって、朝廷は自己の権威を高め、統治の制度を強化した。

『古事記』『日本書紀』は、天照大神をはじめとする天つ神大国主命はじめとする国神の上位に置いた。国神は高天原で罪を犯し、祓いによって罪を許されて地上に下り、そこで活躍した素戔鳴尊の子孫とされた。素戔嗚尊の子孫である大国主命が天照大神の子孫である瓊瓊杵尊に地上の統治権を移譲するという国譲りの物語によって、何らかの歴史を神聖化し、天照大神を祭る天皇が大国主命を祭る地方豪族を従属させることの正当性を表現した。現在の国家社会における統治者と被治者の関係を、儒教の天神地祇の天と地という上下関係の秩序に基づく神々の系譜をもって固定化した。

それまで各地方で、様々な国魂が大国魂神として祀られていたが、朝廷による神話の体系では、それらの神はすべて大国主命の分身であり、大国主命と同一の神とした。また、皇室の祖先である天照大神が高天原という天の世界を治め、大国主命が地下の死後世界を治めるという神々の役割分担がなされた。豪族らの祖先神はすべて天照大神と関係づけられ、それにより皇室と多くの地方豪族が親族関係にあるとされた。(ページの頭へ)

 

(5)言霊信仰と和歌

 

 神道には、言霊の信仰がある。言霊とは、言葉に宿る不思議な霊威である。古代の日本人は、言葉に内在する霊力が働いて、言葉の内容が実現されると信じた。言霊が霊力を発揮するのは、祈りによる。祈るとは、「斎(い)告(の)る」の意味であり、神の名を呼び、幸いを請い願うことを言う。祈りによって、言葉の霊力が働いて、神々に感応すると考えた。

 『万葉集』で、山上憶良は「神代より言て来らく そらみつ大和の国は 皇神(すめかみ)の厳しき国 言霊の幸(さき)国と 語り継ぎ言継がひけ」と書いた。

 「皇神(すめかみ)の厳しき国」とは「天皇が威厳を以て治める国」、「言霊の幸国」とは「言霊が霊妙な働きによって幸福をもたらす国」を意味する。天皇の威厳と言霊の霊威を並べて、日本国の特徴を表している。

同じく『万葉集』で、柿本人麻呂は、「磯城島(しきしま)の 大倭(やまと)の国は 言霊の助くる国 まさきくあれ」と詠んだ。大意は「日本は、言霊が助けてくれる国である。幸多かれ」である。

わが国の文化を最も良く表わすものの一つに和歌があるが、和歌は言霊信仰を背景に持つ。延喜5年(905)に編纂された『古今和歌集』で、紀貫之は序文に次のように書いた。「大和歌は、人の心を種として、万の言の葉となれける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞く物につけて、言出だせるなり。花に鳴く鴬、水に住む河鹿の声を聞けば、生きとし生ける物、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、はれと思はせ、男女の仲をもやはら、猛きもののふの心をも、慰むるは歌なり」

この序文は、言霊信仰が大和歌(やまとうた)つまり和歌の根底にあることを見事に表現している。

 こうした言霊信仰は、神道の歴史を貫いており、神道では、言霊の信仰によって、言葉を積極的に使って言霊を働かせようとしたり、言葉の使用を慎んだり避けたりする。この態度は、日本人の行動の全般において見られるものとなっている。(ページの頭へ)

 

第4章 平安時代から安土桃山時代までの展開

 

(1)本地垂迹思想と仏教的神道

 

神道は神話に基づく儀礼を中心とする。神道がある程度、体系的な思想を持つようになったのは、仏教の影響であり、平安時代の半ばに現れた本地垂迹思想を通じてのことである。

 仏教は伝来以後、当初は神道としばしば反目、抗争を繰り返した。しかし、7世紀後半の天武天皇の治世以降、仏教と神道が相互に浸潤し合い、神仏習合進むようになった。

奈良時代である8世紀前半、聖武天皇は仏教を信じ、全国に国分寺・国分尼寺、奈良に東大寺を建立し、世界最大の大仏を安置した。国家的に公認された宗派を南都六宗という。法相・華厳・倶舎・三論・成実・律の六派である。奈良仏教は、国家鎮護を目的とした。もともと個が悟りを開くための修行の教えだった仏教は、現世利益をもたらすものに変質した。皇族・貴族からは、特に加持祈祷による治病が求められた。加持祈祷は、シャーマニズムにおいてシャーマンが行う術に通じるものである。これもまた仏教の神道化の一側面である。

仏教においては、8世紀末に弘法大師空海という日本宗教史上、最高の天才が出現した。空海はシナに留学し、短期間のうちに最新の仏教を極め、灌頂(かんじょう)を受けた。そして、世界史に希に見るほど完成度の高い教義・実践体系を作り上げ、真言宗を開いた。空海は、歴史上の釈迦仏を超える法身仏・大日如来(毘盧遮那仏)を真実の仏とする教えを説いた。その宇宙万有を仏の現れとする汎神論的な世界観は、神道の自然崇拝・生命肯定の思想に通じるものだった。また、伝教大師最澄もまたシナから高度の学識を伝え、戒律を簡略化するなど、早くも仏教の日本化を開始した。最澄は、空である宇宙が現実の世界でもあることを説明するために、真・仮・中の三諦(さんたい)の円融を説く一方、延暦寺を開設した比叡山の自然神である山の神を祀りもした。これは、神話に根ざす神道の伝統を実践したものだった。鎌倉仏教の諸宗派は、ほとんどが彼の開いた天台宗に発している。

わが国では本来、輪廻転生の世界からの解脱を目指す教えである仏教が、現世を肯定し、国家鎮護を祈る教えとなった。これは、仏教の目的における神道化と言える。仏教は、仏や菩薩が、国家を守護する神道の神々に取って代わろうとした。そのための理論が必要となった。

平安時代の半ばである10世紀に、密教の学僧の間から、仏・菩薩は何度も生まれ変わって人々を助けるものであり、日本の神々は仏・菩薩の生まれ変わった姿だとする主張が広まった。これを本地垂迹説という。本地とは本体であり、垂迹は迹(あと)を垂れる仮の姿を意味する。この説は、神々は仏の垂迹身であり、本地の仏・菩薩が衆生を救うために権(かり)に神に化身して姿を現したもの、すなわち権現だとする。仏主神従の関係となる。

 本地垂迹説は、インド・シナで既に説かれており、それが輸入されて、日本に適用されたものである。わが国の本地垂迹思想は、平安時代の末期に確立された。この時代は、シナ文明から摂取した外来文化の国風化が進み、日本文明独自の文化形成力が活発になってきたころだった。

本地垂迹説がさらに進むと、本地垂迹説を根幹として、仏教の中から仏教をもとにした神道が生まれた。真言宗からは両部神道が発生し、鎌倉初期までに成立した。真言宗では、究極的実在を金剛界と胎蔵界に分ける。金剛界は、すべての煩悩を打ち破る大日如来の智慧の面を表す。胎蔵界は、大日如来の理性(りしょう)の面を表す。理性すなわち真如・法性が慈悲に包まれ育まれていることを母胎に例えている。両部神道は、この教えに基づき、伊勢神宮の内宮・外宮を胎蔵・金剛両部に見立て、天照大神と天之御中主神を大日如来の垂迹とした。

天台宗からは山王一実神道が、鎌倉初期に興った。山王一実神道は、法華経に基礎を置きながら、比叡山の大宮・二宮・聖真子の神々を釈迦仏・薬師如来・阿弥陀如来の垂迹とした。鎌倉時代後期の山王一実神道の書『耀天記』は、延暦寺の学僧によるもので、本地垂迹思想を最も体系的に説いた書とされる。徳川家康を権現として祀った日光東照宮は、天台宗の僧侶・天海の山王一実神道によるものである。

こうした密教系の神道の教えは、仏教色が強く、仏教的神道である。これらに続いて、鎌倉時代には、親鸞や日蓮の宗旨から真宗神道や法華神道が生み出された。(ページの頭へ)

 

(2)反本字垂迹説と伊勢神道

 

 日本文明は、平安時代までに形成期を終え、1200年ごろから確立期に入った。以後、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、安土桃山時代を経て、江戸時代には熟成期を迎える。この間、神道は大きく成長・発展を遂げた。

この間、日本文明は、シナ文明に対して7〜8世紀から自立性を発揮し、遅くとも13世紀までに一個の主要文明として確立した。その宗教的中核としての神道においては、鎌倉時代末期に、元寇すなわち文永・弘安の役を境に、それまでの両部神道や山王神道などの本地垂迹説とは逆に、反本地垂迹説が勃興するようになった。

反本地垂迹説は、本地垂迹説を仏本神迹とすれば、神本仏迹への逆転である。それまでは、外来思想の側から神道を説明したが、神道が主体となって外来思想を借りて自らを説明するようになったものである。これによって、日本固有の宗教である神道を容器として、仏教・儒教・道教の融合が進んだ。東洋宗教の総合化である。

反本地垂迹説の影響で、伊勢神宮の外宮の神職である度会家行によって、伊勢神道が唱えられた。

伊勢神道は、『神道五部書』を根本教典とする。『神道五部書』は、反本地垂迹説を説いており、神道が初めてある程度体系的な理論を持つに至ったものと言える。本地垂迹思想の神仏習合思想から脱するため、神道はこれらの書物で仏教に対抗しようとした。同時に、伊勢神宮における外宮の位置を内宮と同等の権威あるものに引き上げようとした。五部書の作成には、こうした二重の動機が見られる。

伊勢神道は、インド発の本地垂迹説に対抗するために、シナの思想、特に陰陽五行説に立脚した。それゆえ、純日本的な神道の理論とはなっていない。

伊勢神宮では、外宮の祭神である豊受大神は、内宮の祭神である天照大神に奉仕する御饌津神(みけつかみ)とされていた。食物を司る神である。度会氏は外宮の地位の引き上げを目指し、豊受大神を、天地開闢に先立って出現した天之御中主神や国常立尊と同一視して、天照大神と対等の神格とした。ここにも儒教・道教の影響が見られる。伊勢神道は、宇宙的な理法を体した神の存在を強調することで、神を仏の上位において反仏・排仏の姿勢を示し、同時に、そのような神を祀る外宮の権威を高めようとしたわけである。また、内宮の天照大神と外宮の天之御中主神を、真言宗の唱える金剛界・胎蔵界の両部に模して対等に見立て、これを二宮一光とした。この点では、仏教に対抗するために、仏教の理論を用いている。

伊勢神道は、心身の清浄を説き、正直の徳を強調した。だが、伊勢神道が依拠した『神道五部書』は、もっと古い時代に記されたものを装った偽書だった。正直を強調する宗派が、偽書を作って自らを権威づけたことは、神道の歴史において恥ずべきことである。

 『神道五部書』が偽書であることは、江戸時代に吉見幸和が『神道五部書説弁』で考証するまで、見破られなかった。そのため、吉田神道も垂加神道等もこの偽書の影響を受けた。神道家がこの影響を脱したのは、幸和によって『神道五部書』が偽書であることを知った本居宣長以降である。(ページの頭へ)

 

(3)日本的仏教の開花

 

仏教は、鎌倉時代に、真にこの国の土壌に根をおろし、様々な花を開き、固有の香りを持つ実を結んだ。鎌倉仏教と呼ばれる宗派、すなわち法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗がそれである。これらは、日本の仏教がインド・シナ・朝鮮の仏教とは大きく異なるものとなったことを明らかにしている。鎌倉仏教諸宗派は、その中に日本的要素を持っている。神道を基盤とする精霊崇拝と祖霊信仰である。現世肯定・生命礼賛・万物調和の世界観である。それは現世からの解脱をめざす本来の仏教とは対象的なものであり、神道の精神が仏教を通じて表現されたものともいえる。神道は原始時代に発し、縄文・弥生時代に形成された日本自生の宗教であり、鎌倉仏教は、明らかにこの固有の精神文化の結実という面を持っている。

ヨーロッパにおいては、同じキリスト教の中で新教・旧教による凄惨な宗教戦争が行われた。十字軍では、キリスト教とイスラームの争いが行われ、虐殺・破壊がされた。これに比し、日本では異なる宗教が遭遇していながら、宗教戦争がなかったことは特筆すべきである。これは、日本の「和の精神」には諸宗教を共存させ、融和させる働きがあり、その表れである神道はその働きをよく現したと言えよう。(ページの頭へ)

 

(4)貞永式目と神仏の尊信

 

 武家政権の時代にも律令制度は維持されたが、その下に武家の独自の制度が付け加えられた。

 鎌倉幕府の三代執権・北条泰時は、武士が守るべきことを文書化し、武士に規範を与えた。その文書が、貞永元年(1232)に制定された関東御成敗式目(貞永式目)である。貞永式目は、武家の慣習と道理を成文化したもので、日常的な道徳、御家人の所領に関すること、守護・地頭の権利と義務、裁判、家族制度等を定めている。

律令はシナから継受した法だったが、式目はわが国独自のものだった。武士という戦士の階級が政権を担った歴史は、シナや朝鮮には見られないものである。その武士が初めて日本の固有法をつくったのである。式目の第1条は、神社を崇敬することである。「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う。然れば則ち、恒例の祭祀陵夷(りょうい)を致さず、如在の礼奠怠慢しむことかれ……」。第2条は、仏寺を興隆することである。「寺社異なりと雖(いえど)も、崇敬は之れ同じ。……」。すなわち、式目は、武士に信仰の大切さを示すことから始まっている。

泰時は、式目が定める究極のところは、「従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫に従」ことにより、人の心の曲がったところを捨て、真っ直ぐな心を賞して、人民が安らかな生活をできるようにすることだと言う。忠・孝・和が強調されているところに、武士道の道徳がよく表われている。

貞永式目は、室町幕府にも基本法典として用いられ、戦国大名の分国法にも影響を与えた。庶民には読み書きの手本として、数世紀にわたって活用され、日本人全体に親しまれた。その道徳の中に、神仏を共に尊べという事項がまず挙げられていたのである。そして、武士の道徳は、神道・仏教・儒教が武士という階級において総合されたものだったのである。(ページの頭へ)

 

(5)元寇と神国思想の高揚

 

13世紀の日本を元寇が襲った。当時の元は、世界の3分の2を征服した空前の大帝国だった。文永11年(1274)と弘安4年(1281)、モンゴルとコリアの軍は、二度にわたって日本を侵攻した。鎌倉武士は戦意高く、奮闘を続けた。その戦いの最中、二度とも台風が襲い、蒙古軍は壊滅的な打撃を受けた。その結果、日本は外敵から守られたと信じられた。この時に起こった台風は「神風」と呼ばれた。わが国は「神国」であり、国の危機には神風が吹いて国が守られるという観念が、国中に広まった。神国とは、「神々が基を開き、神々が守護する国」を意味する。神州ともいう。

 ここで神国思想について書くと、神国思想は、わが国が神の生んだ国で、天皇も国民も神の子孫であり、神を祭り、神の守護の下にある国だと信じるものである。

 神国という言葉が古典に出てくる初めは、『日本書紀』の神功皇后紀で、新羅王の言葉として「東に神国あり、日本という」とある。これは異文明から見て不思議な国という意味だろう。その語が、日本人の立場から自国を言い表す言葉となった。延喜元年(901)に完成した『日本三代実録』の貞観8年(866)の節に「日本朝は、いわゆる神明の国なり」とある。また元暦2年(1185)に源義経が頼朝に宛てた「腰越状」に「我が国は神国なり」とある。これらは、明らかに、神話と神道に基づく記述である。

 元寇を予言したといわれる日蓮は、「神国王御書」に「わが日本国は、一閻浮提の内、月氏、漢十にもすぐれ、八萬の国にも超えたる国ぞかし」として、日本が神々の守護する国であることを書き、「高橋入道殿御返事」で「日本国の王となる人は天照太神の御魂の入りかわらせ給う王也」と述べている。

 文永・弘安の役では、亀山上皇が国家安泰・敵国降伏のために祈願された。朝廷も諸国の寺社に命じて祈願をさせた。蒙古降伏祈願文に、「切に冀(ねがわ)くは、明神、貴賎五体の中に入って、運を増し、勢を益し、蒙古の怨敵を斫伏せしむ可し。重ねて乞う、神道(註 神祗のこと)雲と成り風と成り雷と成り雨と成って、国敵を摧破し、天下泰平、諸人快楽ならことを」とある。

元寇が済んだ後、その祈願のおかげで、神風が吹いたという考えが広がった。こうした社会状況において、伊勢神道が広がった。南北朝時代に、渡会氏の門下から南朝の正統を説く北畠親房が出た。親房は『神皇正統記』の冒頭に、「大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝え給。我国のみ此事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神国と云なり」と書いた。わが国が古代より神国と称してきた理由を、「天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝え給。我国のみ此事あり。異朝には其のたぐひなし」と、初めて論理的に主張したものである。また、親房は、神道は天照大神の教えそのものであると説いた。皇位の象徴である三種の神器について、鏡は正直、玉は慈悲、剣は智恵の本源であり、三徳を発揮することでよい統治が行われるという解釈を述べた。

 哲学者の和辻哲郎は、親房の三徳は、儒教の『中庸』による知仁勇の三徳とは違うと指摘した。親房は、伊勢神道の説く「正直」を中心にし、儒教的な仁ではなく仏教的な「慈悲」を挙げ、武勇はなく剛利決断としての「智恵」を挙げた。これは、日本の歴史の考察による「創見」であると和辻は評価した。

親房が三徳の第一に挙げた正直は、万物を照らす鏡のように、万事につけて私心なく是非善悪を判断し行動する徳を意味する。正直は、『書経』の「王道正直」をはじめ古代シナの多くの文献に見える語で、偏邪虚偽がなく廉潔なことをいう。わが国では、奈良時代の宣命で「清明正直心」が述べられ、以後、正直は、神を意識した公正さの観念として、大切な徳とされてきた。親房が学んだ伊勢神道は、正直の徳を強調した。「神は垂るるに祈祷を以て先と為す。冥は加ふるに正直を以て本と為せり」と述べ、正直をもって天照大神の心とし、人もまた正直の徳を身に着けるように説いた。(ページの頭へ)

 

(6)吉田神道と神国思想の浸透

 

室町時代の後期に、吉田兼倶が吉田神道を起こした。応仁の乱(応仁元年〔1467〕〜文明9年〔1477〕)で、わが国の支配層に、東洋史学者の内藤湖南が「いわば日本中の身代の総入れ替え」と呼んだほどの大規模な交代が起こった後、吉田神道は社会的に大きな影響力を持つようになった。兼倶は、代々神祇官の官職を世襲してきた卜部家の出身である。兼倶は、卜部家は天照大神のもとで祭りを司った天児屋命の後胤であり、自家の神道は天児屋根命から伝えられた由緒正しいものと主張し、自らの教えを元本宗源神道(がんぽんそうげんしんとう)と称した。卜部神道・唯一神道とも呼ばれる。

 吉田神道は、『神道五部書』に従って、神本仏迹、神主仏従を根本思想としている。天孫降臨の際に瓊瓊杵尊に随行した天児屋根命の直伝の教えを標榜したが、実態は儒教の朱子学や仏教・道教等の思想を取り入れたものである。

兼倶が書いた『唯一神道名法要集』は、平安時代の中期に書かれたもののように偽作されたものである。『神道五部書』と同じ手法である。兼倶は、神道は万法の根本、儒教は枝葉、仏教は華実に当たり、本地垂迹説は「顕露浅略の義」、反本地垂迹説は「隠幽深密の教え」であるとした。これを根本枝葉果実説という。兼倶はまた、神は「天地に先立ち、しかも天地を定め、陰陽を超えて、しかも陰陽を為す」とし、神は天地の根元であり、万物の霊性を備えているので、神はすなわち心であり、心はすなわち神であると説いた。

 先に書いた神国思想の展開の続きをここに書くと、神国思想は吉田神道でも強調された。『唯一神道名法要集』には、次のような文章がある。

  「国は是神国なり。道は是神道なり。国主は是神皇なり。祖は是天照大神なり。一神の威光、あまねく百億の世界を照らし、一神の附属(註 神勅)、永く万乗の王道を伝。天に二日無く、国に二主なし。故に日神在天の時、月星光を双べず」と。

  神国思想は、国難に遭遇した時に、繰り返し高揚した。この項目より先の時代のことになるが、16世紀半ば、近代西洋文明と一度目の遭遇したことは、その国難の一つだった。天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が渡来した。キリスト教の伝道は、西洋列強による植民地化を招く恐れがあった。それを感知した豊臣秀吉は「伴天連追放令」(天正15年〔1587〕)で「日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、はなはだもって然るからず候事」と発した。秀吉は、ここでキリスト教国に対抗して神国を打ち出した。徳川幕府は、キリスト教の布教を行わないプロテスタント国のオランダと清以外とは交易しないという鎖国政策を取った。

神国思想は、江戸時代に近松門左衛門の「国姓爺合戦」等によって一般庶民に広く浸透した。幕末に黒船来航によって近代西洋文明と二度目の遭遇をした際、神国思想は、国体論や尊王攘夷の思想と結びついて、倒幕維新の思想的推進力となった。

明治維新後は、近代国家の建設・発展の中で、神国思想も近代的な形で発展した。大東亜戦争の総力戦においては、神国意識が非常に強く働き、また強調された。だが、時の指導層は進むべき道を誤っていたため、「神風」は吹かず、わが国は大敗を喫した。敗戦後、GHQが出した「神道指令」は、神国思想は軍国主義や極端な国家主義に連なる危険な要素を持つとして、これを禁止した。独立回復後、日本人は改めて、神道及び神国思想について自由に再検討・再評価できるようになり、今日に至っている。(ページの頭へ)


 

第5章 江戸時代の展開

 

(1)儒家神道と国柄の再確認

 

江戸時代は、日本文明が熟成した時期である。だが、江戸時代の日本の知識人は、当初、シナ文明への慕情を持っていた。徳川幕府は幕藩体制の維持・強化のために、当時シナで官学となった朱子学を統治の教学とした。漢文が読め、漢詩を詠めることは、現代であれば英語ができるのと同じようなものである。当時の儒学者は、進んだ文化を持つ異文明に憧れ、シナの文化の模倣・追従を競う傾向を見せた。その儒教の側から神道を儒教で説明する神儒一致の思想が台頭した。それらをまとめて、儒家神道という。

 シナの南宋で朱熹が説き、明・清王朝で官学となったのが、朱子学である。朱子学は、宋学の創始者・周敦頤の『太極図説』によって、易学に発する太極を宇宙の本体・根元とし、太極を無極ともいう。太極が理と気に分かれ、気は陰と陽に、陰陽は木火土金水の五行に分かれ、五行が交わって万物を生じるという自然哲学を説いた。この自然の原理は社会の原理でもあるとされた。朱子学は万物には理が宿っているとし、人間に分かち与えられた理を性とする。万物がその与えられた性質である天命に従う時、自然も社会も秩序が維持されると説いた。その秩序を実現するために必要なのは、心を治めることである。そこで、人欲を廃し敬(つつしみ)を以て徳性を涵養する居敬と、事物の理を窮める窮理を行い、格物致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下を実践することを説いた。

朱子学者の林羅山は、家康から4代の将軍に仕え、朱子学を幕府の官学にした。羅山は吉田神道を学んで、『神道伝授』を著し、太極・理気・陰陽・五行を以て神道を図解説明し、日本の神は朱子学で説く理に当たると主張した。羅山は、気を生じ、神を生ずるものは理であり、この理を知ることを神道というと説き、善を行って悪を行わず、君に忠、親に孝を実践することを神道の実理とした。それゆえ、羅山にとって神道とは儒道にほかならなかった。

羅山は、日本は神国であるとし、仏教や本地垂迹思想を激しく攻撃した。その思想は、朱子学・陽明学・古学の学者等に大きな影響を与えた。羅山はシナ思想に依拠する傾向が強かったが、陽明学派の熊沢蕃山や古学派の山鹿素行らではこの傾向が弱まり、神主儒従に逆転させた神儒一致論が説かれた。蕃山は、『集義和書』で、シナの聖人も釈迦も日本に来れば神道を崇め、これに従うだろうと説いた。素行は、朱子学を批判し、『中朝事実』を著して、シナではなく日本こそ聖人の道が行われた最も優れた国であると主張した。

江戸時代の初期から、日本の歴史の研究が進んだ。その動きの中心となったのが、17世紀半ば水戸藩にて徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂である。日本神話や古文書が研究され、日本の国柄が明らかにされた。シナ文明では、明は永楽帝以降、臣の王朝であり、清は満州族という夷狄の王朝である。朱子学は、シナ北部が夷狄である女真族の金に支配されている状況で、南宋の朱熹が正統性と抵抗の思想を説いたものである。こうしたシナ文明との対比の中で、日本文明の独自性の自覚が深まっていった。

また、江戸時代には、神道の内部から外来思想の影響を脱却しようとする動きが現れた。(ページの頭へ)

 

(2)渡会神道・吉川神道・垂加神道

 

江戸時代には、幕府が寛文5年(1665)に「諸社禰宜神主法度」を発し、神職は吉田家の許状なしに白張以外の装束をつけてはならないと規定した。これは、実質的に全国の神職を吉田家の監督下に置くものとなった。

一方、伊勢神道は、江戸時代にはかつての勢いを失っていた。17世紀後半、外宮の神職である度会延佳は、林羅山以降の神儒一致論の影響を受けて、神儒一致の思想に基づいて伊勢神道を再興した。本稿では、それ以前の伊勢神道と区別するために、度会神道と呼ぶ。

延佳は、『神道五部書』による神道の思想を儒学、特に易の理論を借りて表現し、従来の伊勢神道から仏教色を排した。

著書『陽復記』で延佳は、神道が易と一致するのではなく、易が神道と一致するのであり、神道も易道も自然に従うから理にかなうと説いた。神道は日本の道、儒道はシナの道、仏道はインドの道と説き、日本人は神道に従うのが「公道」であると主張した。渡会神道は、秘伝や秘儀を事とした吉田神道を非難して、神道は祭儀ばかりでなく、人々の「日用の間」にあり、その心得は「正直」にあると説いた。

 度会延佳の同時代に、吉田神道から吉川惟足(これたり)が出て、吉川神道を開いた。吉川神道は、吉田神道から仏教色を除き、儒教から理気・陰陽五行の説を取り入れたものである。理学神道ともいう。

惟足は、神道とは、君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の五倫の道によってその教えを立てるものと説いた。シナの儒教では孝を五倫の第一とするが、惟足は忠を第一に挙げた。忠が孝より優先されるのは日本思想の重要な特徴の一つであり、この点は、武士道の倫理と一致した。それによって、吉川神道は、有力な大名や一般武士に多くの信奉者を得た。

朱子学の大家・山崎闇斎は晩年、渡会神道・吉川神道を学び、朱子学の学殖を以て垂加(しでます)神道を創設した。

 垂加神道には、全く仏教色が見られない。陰陽五行の理を縦糸とし、居敬窮理を横糸として、その説の権威を『日本書紀』に求めた。『垂加翁神説』で、神代記はそのまま『太極図説』であり、神代記と『太極図説』は「唯一」であると主張した。また、太極とはすなわち皇室の祖先神である天人唯一の天照大神の道であるとし、それを神道と称した。また、神道とは、天日と唯一一体である皇祖天照大神の日徳を学ぶことで、これを学び得たならば冥加を得、万善を身に持ち、一身より家国天下までみな修まり整うと説いた。垂加神道は皇室の守護を本旨とした教えであり、神道の信仰心とともに尊皇心を啓発した。士農工商の身分を問わず各階層に受け入れられ、広く流布した。闇斎の門人は非常に多く、後に述べる古学神道が起こるまで、わが国の神道界を支配するほどの勢いだった。

 闇斎は、朱子学を以て天皇の正統性を強く主張した。幕藩体制を天皇の正統性を以て正当化した。高弟の浅見絅斎は、天皇にのみ正統性があるとして、幕藩体制を認めなかった。絅斎の著書『靖献遺言』は、幕末まで広く読まれて、尊皇心を高揚させた。北畠親房の『神皇正統記』、水戸藩編纂の『大日本史』、山鹿素行の『中朝事実』、頼山陽の『日本外史』等ととともに、幕末の尊皇思想の源流となったものである。絅斎の弟子、三宅観瀾は水戸藩に招かれ、闇斎・絅斎の崎門学を水戸学に注入した。『大日本史』の編纂に始まる水戸学では、会沢正志斎・藤田東湖らが国体論を展開して、わが国の国柄を明らかにし、神国思想・尊皇思想を総合した。水戸学は、西郷隆盛・吉田松陰等の志士に大きな影響を与え、尊皇討幕の運動を促進するものとなった。(ページの頭へ)

 

(3)神儒仏の道徳的総合

 

17世紀初めの商人・石田梅岩は、神・儒・仏の三教を融合した道徳を説いた。それが心学である。梅岩は宗教・思想を広く学び、それを現実に当てはめて、実際生活に合うところを摂取した。生活の役に立たない観念は、採り入れなかった。観念的でなく現実的であり、生命と生活の実際に即した道徳を説いた。

心学の教えの第一は、「正直」である。正直は、神への意識を背後にした公正さの観念であり、神道で大切とされる徳である。梅岩は、伊勢神道の御師から正直を学んだ。梅岩によると、赤子が自ら行なっているのは呼吸だけだが、呼吸は自分の意志ではなく、意志を超えたものによって、呼吸させられている。それが赤子を生かしている。そこに梅岩は、人間を生かしている宇宙の法則を見出し、同時に、宇宙の法則に沿って生きている人間の姿を見て、赤子は「聖」と言う。梅岩は、そこに人間の「本心」を見て、その本心のとおりにあることを「正直」という。そして、心学とは、心を玉に例え、心を磨くために神・儒・仏の教えを磨き砂として用いる学問だった。梅岩の死後、彼の教えは、弟子の手島堵庵、柴田鳩翁らによって全国各地に広まった。石門心学ともいう。

 19世紀前半の農政家・二宮尊徳は、神道は開国の道であるのに対し、儒教は治国の道、仏教は治心の道とした。尊徳は、神・儒・仏のうちから長所だけを取り出して一つにまとめた報徳思想を説いた。その教えは、神道を中心としており、神が1、儒仏がそれぞれ2分の1で、これらをよく練り合わせた「神儒仏正味一粒丸」と称した。

 尊徳は、自然の道、「天道」は、人間が何もしなくても行われるが、人間は働かなければ生きてゆけない。動物は争い、戦い、奪い合うが、人間は助け合い、融け合い、譲り合うことができる。それが人の道、「人道」であり、世の中をよくするためには、「人道」に徹するほかないと尊徳は説いた。そして、人間の動物にない良いところをのばすための具体的な実践方法として、報徳思想を広めた。報徳思想は、消費と備蓄の度合いを考えて生活をする「分度」、一生懸命働いて収穫を得たらその利益を倹約する「勤倹」、勤倹によって出た余りを自分や他人のために残す「推譲」、支援を受けたら感謝して受けた徳に報いる「報徳」の四つが合わさって、人間の生活を全うできると説いた。尊徳の思想は農民だけでなく、武士や商工民にも学ばれた。

 石門心学、二宮尊徳の報徳思想は、神道的な道徳を中心としている。そうした思想が、片や商人から、また片や農民から、武士や大名等へと身分を超えて広がった。そして、日本人の常識を形成していったのである。(ページの頭へ)

 

(4)お伊勢参りの隆盛

 

伊勢神宮は皇祖神を祀る最高の神社ゆえ、もともと一般人の参拝は許されていなかった。だが、15世紀半ば過ぎに応仁の乱が起こると、戦乱と破壊のために、朝廷は神宮を維持するための貢物を出すことが出来なくなった。そこで、神宮で祭司を執り行う御師たちは、維持策として伊勢神宮参拝の講中を作った。彼らは、日本中を回って講を作り、暦や御祓を配り、参詣者のための案内や宿泊の世話をした。それによって、庶民も伊勢神宮に参拝できるようになり、神宮は全国的に庶民の崇敬の対象となった。

 江戸時代には、お伊勢参りと呼ばれる伊勢神宮への集団参詣が行われた。お蔭参りともいう。参詣者の数には、およそ60年の周期が見られる。徳川幕府は、庶民の移動、特に農民の移動を厳しく制限していた、だが、伊勢神宮参詣のみはほとんどが許される風潮だった。当時、伊勢神宮の祭神である天照大神は商売繁盛の守り神ともされていたので、商家では子供や奉公人が伊勢参詣をしたいと言い出した時は、親や主人が止めてはならないとされていた。

文政13年・天保元年(1830)には、当時の日本の人口が推計3200万人ほどと考えられるところ、427万6500人の参詣者があった。実に8人に1人が参詣した割合である。参詣目的だけでなく、観光を兼ねていたとはいえ、驚くべき熱心さである。

江戸時代に、伊勢参詣を中心にかつてないほど神道の信仰が高揚したことは、特筆すべきことである。明治期以降、神道が国民教化に用いられ、それが国民の受け入れるところとなったのは、民衆の間にこうした土壌が自ずと出来ていたことを見落としてはならない。(ページの頭へ)

 

(5)国学と古学神道

 

 江戸時代の半ばごろから、わが国の古代の文化を研究する国学が盛んになった。その中から、儒教や仏教と習合する前のわが国本来の神道を探究する動きが起こり、古学神道が生まれた。復古神道ともいう。古学神道は、荷田春満によって創唱され、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤等が発展させた。

江戸時代中期の伏見稲荷神社の神職・荷田春満は、儒教で説くもののみが人の道ではなく、神道もまた人の踏み行うべき道であると考えた。神仏習合説や神儒一致論について、今の神道を汚すものはみな陰陽五行家の説だと批判した。『創学校啓』に「古語通ぜざれ古義明らかならず、古義明らかならざれ古学復せず」と書き、語釈を重んじる実証的な方法論を示して古典・国史を研究し、古学に基づく神道を創唱した。

春満の門人・賀茂真淵は、儒教を人為の理屈として排斥した。『万葉集』以前の神代の研究をし、神道はただ自然無為の大道である、「からごころ(漢意)」を清く離れて神をただ敬い拝礼するのが、古(いにしえ)のまことの道である、と説いた。「からごころ」とは、漢籍を読んでシナの思想・文化に心酔し、感化された心である。

真淵の主著『国意考』の「国意」とは、日本の精神を意味する。同書で真淵は、上代には天照大神の大御心を御心とする天皇によって神の道が行われていたが、儒教・仏教が入ったために、世に「ふたごころ」がはびこり、権力の簒奪や下剋上が起こるようになったと断じて、儒仏を排撃した。シナでは大道が失われたから、儒教が仁義礼智の徳目を説いた。道徳を種々に分析して厳しく説くようになったのは、人心が人倫の大本を忘れたからに過ぎない。だが、その道徳は人為的ゆえ空理空論であり、それを実行しようとしたからシナでは社会が乱れた。日本にのみ大道すなわち神の道が伝わっていると説いた。そして、「凡て天が下は小さきことはとてもかくても世々すべらぎの伝わり給ふこそよけれ」「すべらきのもとの如くつたわり給国」等と書き、皇位が連綿と継承されていることは、日本にとって自然で良いことであると主張した。

真淵は、儒教を排除するに当たって老荘思想に依拠した。19世紀の後半にあって真淵を継いだ本居宣長は、老荘思想をも「からごころ」として斥け、ただひたすら古代日本の神の道を求めた。

宣長は、真淵に託された『古事記』の研究を行った。宣長にとって、日本の神の道は、自然無為の大道でも、人為的な道徳でもない。『直毘霊』に「そも此の道は、いかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのずからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此の道はしも、かしこきや、高御産巣日の神の御霊により、神祖、伊邪那岐の大神、伊邪那美の大神の始め給ひて、天照大神の受け給、保ち給、伝え給道なり。故、是を以て神の道とは申すぞかし」と宣長は書いた。神の道とは、神が始め、保ち、伝えた道だという。そして、神孫たる天皇は、神勅に従って私意を加えず、神代のままに国を統治するとして、天皇への尊崇を説いた。

宣長は、『古事記』が作成された歴史的背景や政治的意図を考慮せず、その神話をそのまま信仰した。古事記の文言を盲信して、天照大神は日本に生まれ、太陽として万国を照らしているなどと、常識的な知識を斥ける非合理主義的な傾向を示した。その傾向は、平田篤胤に引き継がれた。

 宣長の死後、19世紀前半において、国学による古学神道を体系づけて大成したのが、平田篤胤である。篤胤の教説は、復古神道の中でも異彩を放っており、平田神道という。

篤胤は、わが国の神道を以て諸宗教の源とし、わが国の神は世界の神、神道は諸宗教の「本教」である、と称した。だが、平田神道は、単に宣長までの古学神道がそのまま発展したものではなく、古学神道とキリスト教を習合したものだった。

篤胤は、主宰神の観念と来世の思想を強調した。これはキリスト教の影響による。著書『本教外篇』の一部は、明末のシナにおけるキリスト教文献、耶蘇会士アレニや宣教師リッチ等の書を翻案したものである。

篤胤は、天之御中主神が大元高祖神として、始めもなく終わりもなく天上にあって、天地万物を生ずる徳をつつしみ、寂然として万有を主宰しているとした。その点では、セム系一神教に似た側面を見せている。だが、天之御中主神の神徳を持ち分けた御産巣日神・神産巣日神が、万物の創造し万物を主宰する天地万有の真主であると主張しており、唯一神教的ではない。そのうえ、現世は天照大神の子孫である天皇が「顕事(うつしこと)」を司って「現民(うつしたみ)」を支配しているのに対し、来世は大国主命が「幽事(かくりごと)」を司り、「幽冥界(かくりよ)」の支配者となっていると説いた。この点でも、唯一神教的ではない。主宰神としての天之御中主神を強調しながら、このように多くの神々の役割分担を認めている。多数の神々の中で一柱の神のみを信仰対象とする拝一神教でもない。それゆえ、平田神道は、キリスト教の影響を受けた多神教である。

次の特徴は、来世の思想の強調である。篤胤は、人は死後ただちに幽冥大神すなわち大国主命の前に導かれ、生前の倫理的行為によってその審判を受けて、善魂は天上に上り、悪魂は夜見に送られて、永劫不滅の福・禍を受ける。現世は「仮の世」であり、来世こそ「本(もと)世」とし、重要なのは現世ではなく死後であると説いた。死後、神の裁きによって、永遠の天国か永遠の地獄へ行くというのは、キリスト教的な発想である。

インド・シナからの外来思想を排除し、純日本的な思想を探究した国学・古学の運動の中から、近代西洋文明の宗教に習合した神道が現れたのである。このような外来的な要素を含んではいたが、平田神道は尊王復古を主張し、国体の尊厳を称揚し、民族的自覚を喚起する教えだった。それゆえ、幕末・維新の志士に強い影響を与えた。また、明治初期に、古学神道や平田神道の側から、政府に対して神道の国教化を求める動きが現れることになった。(ページの頭へ)

 

(6)幕末の危機への対処

 

江戸時代を通じて熟成した日本文明に、再度、西洋文明との衝撃的な出会いが待っていた。嘉永6年(1853)、米国ペリー提督による黒船の来航である。15世紀から西欧で発生した近代化革命の進展する近代西洋文明が、日本に到達したのである。日本はデカルトの時代に、ちょうど鎖国に入り、近代化の外で過ごしていた。欧米列強は、アジアでも植民地化を進め、遂にユーラシア大陸東方の日本も征服・支配の危機に直面した。近代化の進展する近代西洋文明は、強力な軍事力と高い科学技術を持っている。幕末の日本は開国を余儀なくされ、屈辱的な不平等条約を結ばざるをえなかった。ここで外圧という「挑戦」への「応戦」に失敗すれば、白人種に隷属することになりかねない。また、もし日本人同士が分かれて争えば、その隙に欧米諸国に付け入られるおそれがある。シナ文明はアヘン戦争で列強に敗れており、日本人は、非常な危機感を持った。滅亡か、さらなる発展かという重大な岐路に遭遇したのである。

そうした中で、天皇の存在や、わが国の独自性が強く自覚されるようになっていった。幕末の志士たちは、神国思想を常識として持ち、神道的な信仰心を持っていた。彼らは、敬神崇祖・尊皇愛国の意思を以て、尊皇攘夷・倒幕維新の運動に邁進したのである。(ページの頭へ)

 

第6章 明治期の展開

 

(1)発展期の日本文明と国家神道

 

日本文明は、江戸時代の熟成期を経て、明治時代に発展期を迎えた。日本文明は、固有の宗教として神道を持つ。言わば、神道文明である。その文明の宗教的中核が、民族的危機において顕在化したのが、幕末から明治維新の時期だった。

当時の神道の隆盛は、ナショナリズムの興隆の一要素だった。私は、拙稿「人権――その起源と目標」にナショナリズム論を書いており、そこで述べたように、政治学者アンソニー・スミスは、ネイションとは「歴史上の領域、共通の神話と歴史的記憶、大衆的・公的な文化、全構成員に共通の経済、共通の法的権利・義務を共有する、特定の名前のある人間集団」と定義している。近代的なネイションが形成される過程では、しばしばそのネイションのもとになった集団が存在した。それが、エスニック・グループである。ネイションは「国家・国民」、エスニック・グループは「民族」、ナショナリズムは国家主義・国民主義と訳すことができる。

エスニック・グループは、血統・出自・言語・文化・宗教・生活習慣等によって、「われわれ」意識を持ち、自己の集団と他の集団を分ける集団である。そうしたエスニック・グループが核になって、ネイションが形成され、政府を樹立し、独自の国家を持つようになった場合が多い。

わが国の徳川幕藩体制は、皇室から統治権力を委託された幕府が統治する封建社会の体制だった。幕藩体制の藩は一定の自治権をもった封建国家だったが、当時の日本は連邦国家とは言えない。皇室による朝廷があり、その下に幕府、さらにその下に藩があるという単一国家だった。国民は主にシナとの対比により、古代から続く天皇を中心とした国柄の独自性を認識し、幕府の正当性の根拠は天皇による統治権の委託にあることを理解していた。それゆえ、日本の幕末ナショナリズムは、一個のエスニック・グループがネイションを形成しようとしたものだった。日本では、藩ごとのローカル・アイデンティティを、民族としてのエスニック・アイデンティティが上回ったところに、中央集権の近代国家を目指すナショナリズムが興隆した。

こうした日本的ナショナリズムの興隆において、神話・歴史・宗教がネイションの形成に重要な役割を果たした。日本国民としての「われわれ」意識が、民族の神話・歴史・宗教によって生み出されたのである。そして、幕末から明治維新において、神道は興隆する日本的ナショナリズムの宗教的な要素となったのである。

 明治維新以降の神道について、しばしば国家神道という用語が使われ、明治維新から第2次世界大戦の敗戦まで日本を国家神道が支配したといった見方がされる。だが、明治維新から大東亜戦争の敗戦までの約78年間において、始めから一貫して国家神道といわれるような政教政策が行われたのではない。戦前の日本には、国民に神社参拝を強制する法律は存在しなかった。また、国民が神道以外の仏教・キリスト教等の宗教を信仰する自由は、認められていた。

国家神道という言葉は、戦前は神道学、議会、内務省、陸軍省等でのみ使われた専門用語だった。大東亜戦争の敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)による神道指令で使用され、一般化した。

神道指令は、国家神道(State Shinto)を「日本政府の法令によって、宗派神道或は教派神道と区別せられたる神道の一派」「非宗教的なる国家祭祀として類別せられたる神道の一派」と規定した。この規定を狭義の国家神道とすれば、今日のわが国では、国家神道の意味を拡大した広義の使い方が多く見られる。この現状を踏まえて、『神道事典』(弘文堂、平成6年刊)は、「国家神道」を次のように解説している。

「狭義には戦前の国家によって管理され、国家の法令によって他の神道とは区別されて行政の対象となった神社神道を指すが、広義には皇室神道と神社神道が合体した『国教』的地位にあった神道であるとか、『明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至るまで、国家のイデオロギー的基礎となった宗教。事実上の、日本の国教』といった概念規定もある」と。

国家神道を広義で用いる論者は、明治維新から大東亜戦争の敗戦までの間、政府が神道的な思想や実践を一貫して国民統合の核として用いてきたとし、大日本帝国憲法や教育勅語等における非宗教的な要素をも含めて、「国家神道」という語で括る傾向がある。彼らによる広義の国家神道論は、東京裁判史観に基づいて戦前のわが国の歴史や国家体制を断罪し、わが国の国柄・伝統・文化をも否定する自虐史観を構成するものとなっている。その悪影響は、非常に大きい。

私は、東京裁判史観の呪縛を脱し、戦前のわが国の歴史や国家体制を日本人の主体的な立場で理解するためには、国家神道の語を狭義に限定して使用する必要があると考える。そして、狭義の国家神道論に立ち、広義の国家神道論の誤りを明らかにすることによってのみ、明治期から昭和戦前期までの神道の実態及び政府と神道の関係を把握することができる、と私は考える。(ページの頭へ)

 

(2)明治初期の政教政策

 

明治維新は、徳川幕府の大政奉還に応えた王政復古の大号令で始まった。慶応3年(1867)の大号令は「諸事神武創業之始(はじめ)に原(もとづ)き」「至当の公議をつくす」と宣言した。明治維新は、欧米列強に植民地化されぬように近代国家の建設を目指すものだったが、「神武創業」の始めという言葉の通り、古代からの祭政一致の国柄の復活を目指すという側面があった。維新が、西欧的な伝統否定の革命ではなく、日本的な伝統保守の維新である所以である。維新の理念を「神武創業」とする発案者は、岩倉具視の師で国学者の玉松操だった。玉松は、平田篤胤の弟子・大国隆正の門人だった。大号令には、国学や平田神道の影響が見られる。

 王政復古の大号令の翌年である明治元年(1868)、新政府の政治方針として「五箇条の御誓文」が公布された。御誓文は、新たな日本国の国是を示すものだった。その下で、明治政府は、古代からの皇室中心の国柄を明確にしつつ、近代的な中央集権国家を建設するというユニークな国づくりを推進した。御誓文は、明治天皇が天地神明に誓うという方式で発表されたが、五箇条の文言には「敬神」「尊天」等の宗教的な内容は含まれていない。

「広く公議を興し、万機公論に決すべし」「上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし」「官武一途庶民に至るまで各其志を遂げ人心を倦まさらしめん事を要す」という条文には、神話の時代から衆議を重んじ、一致団結を図り、民生の向上を進めてきた日本の伝統が表れている。「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」という条文には、「天地の公道」とあるが、特定の宗教思想によるものではない。「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」という条文には、文明開化への積極性が示され、偏狭な排外主義は見られない。

徳川幕府は、民衆支配のために寺請制度(檀家制度)を敷いていた。神道と仏教の関係は、明らかな仏主神従だった。だが、明治政府は、神道を中心とする政府主導の国民教化を開始した。慶応4年(1868)に神祇官を復興させ、明治元年に神社から仏教色を取り除くよう命じる神仏判然令(分離令ともいう)を発した。同令は薩摩藩等では極端に解釈され、寺院や仏教的文化財が破壊される廃仏毀釈と呼ばれる事態を生じた。政府は過激な行動を慎むよう指示した。政府が廃仏毀釈を断行したのではなかった。

 政府は、明治3年(1870)正月に、神祇鎮祭の詔と大教宣布の詔とを発し、神道を国教とする方針を明らかにした。だが、これには抵抗が大きかった。明治4年(1871)7月廃藩置県が断行されると、平田派の国学者等の発言権が大きく後退し、神祇官は神祇省に格下げされた。翌5年には神祇省に替わって教部省が設けられ、神仏合同で国民教化運動を行うことになった。これを大教宣布運動という。

仏教最大の宗派である浄土真宗は、神主仏従となった状態に不満を持っていた。新政府は、薩長連合が核となったので、両藩の出身者が主導的な地位に多く就いた。薩摩藩では平田神道が浸透していたが、長州藩では浄土真宗が盛んだった。真宗は明治維新の際に長州藩に協力したこともあって、同藩出身の政治家と強い結びつきを持っていた。

もともと神祇不拝という教えを持つ真宗は、大教宣布運動の中心である大教院から脱退する活動を起こし、明治8年に離脱した。その結果、明治10年(1877)に教部省は廃止され、政府の大教宣布運動は失敗に終わった。この間、明治5年(1872)に、政府は神道または仏教で一宗一派を管轄する管長職を制定した。この制度は、浄土真宗の主張により、神道や他の仏教の要求を退けて、政府によって採用されたものであり、真宗の政治への影響力の強さを示している。

教部省の廃止により、神社は、内務省社寺局の管轄下となった。大教院が解散されたので、神道側は神道事務局を設けた。出雲大社を中心とする出雲派は、その祭神に造化三神と天照大神だけでなく、大国主命を加えることを主張した。伊勢神宮を中心とする伊勢派がこの要求を拒否したことから、神道事務局祭神論争が起こった。この論争は、最終的には、政治家に頼んで天皇の勅裁を仰ぐことになった。勅裁により、伊勢神宮の優位が確定した。

このように、明治初期には、政府が神道を国教化しようとしたが、それが失敗に終わり、また政府が宗教の問題に関わると、宗教上の争いを引き起こすことが明らかになった。そこで、政府は、これを教訓として、以後、政府と宗教に関係する政教政策を改め、宗教の教理教学に立ち入ることなく、国民意識を形成し、国民を統合する方針に転換した。

なお、明治2年(1869)、明治天皇によって、現在の東京都千代田区九段に東京招魂社が創建された。創設の目的は、戊辰戦争で戦没した官軍の兵士たちの霊を慰めるためだったが、その後、幕末以降の国事に殉難した者を祀るようになった。明治12年(1879)に靖国神社と改称された。靖国神社は、神道に基づく慰霊施設であり、神道を理解するために欠かすことのできない施設である。詳しくは、拙稿「慰霊と靖国〜日本人を結ぶ絆」に書いたので、ご参照願いたい。(ページの頭へ)

 

(3)神社は非宗教として政府の管理へ

 

明治15年(1882)、政府は「神社は宗教にあらず」という論理で、神社を国家の事務としての祭祀の執行施設と位置づけ、神社を他の諸宗教とは異なる扱いにした。これによって、神社は祭祀のみを執り行うものとされた。以後、国家管理下に置かれた神社が行う神道を、神社神道という。これと区別し、布教活動を行うような神道は教派神道とされ、黒住教・金光教・天理教等の十三派が公認された。

政府は、神社は宗教ではないとすることで、国家の祭祀に国民みなが参加できるようにした。真宗の門徒やキリスト教徒も神社に参拝できるようにすることが、国民統合のために必要だった。一方、神社の側は、神道学者の坂本是丸が述べているように「大部分は宗教的要素を含むものでありながら、国家の行政の対象としては宗教的要素を含まない『国家の事務としての祭祀の執行施設』とされた」(『国家神道形成過程の研究』)。ただし、政府の管理は受けていても、各地の神社に配分される予算はごく少なく、戦前を通じて神社側の不満は大きかった。

ここで、「宗教」という言葉について述べると、現在宗教という言葉は、西欧におけるreligion等の訳語として使われ、習俗的な儀式や行事なども含むものとなっている。それゆえ、「神社は宗教ではない」という規定は、現代日本人には奇異なものと映る。しかし、「宗教」の語は、東洋思想研究の大家・中村元によると、仏教において、「宗の教え」つまり究極の原理や真理を意味する「宗」に関する「教え」を意味していた。宗教の語は幕末期に西洋言語のreligion等の訳語として、今日のような宗教一般をさす語として採用され、明治初期に広まった。それゆえ、明治15年当時、「神社は宗教ではない」という規定には、神社には究極の原理や真理を説く教えがない、それゆえ仏教やキリスト教のような宗教ではないという意味合いがあった。この神社非宗教論が、国家神道(狭義)を成立させる重要要素となった。

ここで注目すべきことは、神社非宗教論は、浄土真宗の僧侶・島地黙雷が提唱したものだったことである。維新後に西本願寺の主導的地位に就いた島地は、長州出身で同郷の政治家に影響力を持っていた。神道研究家の葦津珍彦は、神社非宗教論の「最初の有力な提唱者」が島地であったこと、およびその主張の意図するものは「宗教的神道を封殺するための仏教徒の対神道政略」であったことが「その後の『国家神道史』の推移発展を見て行く上で、もっとも重要な史実」である、と指摘している(『国家神道とは何だったのか』)。「宗教的神道を封殺する」とは、宗教ではないという論理によって、神社神道に布教や葬儀をさせないということである。これは、明治維新以来、神道の後塵を拝していた仏教側からの反撃だった。神社神道は、政府管理下の国家神道(狭義)とされたことによって、政府から宗教活動を制限されたのである。(ページの頭へ)

 

(4)大日本帝国憲法と教育勅語

 

 政府は神社を非宗教と規定したことで、伝統的な祭祀を執り行う皇室を中心としながら、特定の宗教によらずに国民を統合して、近代国民国家の建設を進めるという方針を固めた。

明治22年(1889)2月11日に公布された大日本帝国憲法(以後、明治憲法)は、この方針を踏まえたものだった。近代西洋文明を摂取して成文憲法を制定することは、日本を近代国民国家として確立するうえで、極めて重要な課題だった。

明治憲法は、非西洋社会で初めての近代成文憲法だった。天皇は、専制君主ではなく、統治権を総攬する立憲君主となった。統治権は立法・司法・行政の諸機関によって分掌された。憲法は、議会を創設し、選挙を実施し、内閣が行政を行うなど、近代国民国家としての国家機構を定めた。プロイセンやイギリス等の君主制国家の憲法に多くを学んだものである。ただし、明治憲法の天皇による統治は、権力による支配ではなく、わが国の伝統である「しらす」という徳による統治をめざすものだった。

 明治憲法において、政治と宗教の政教関係をどのように規定するかは、重要な課題だった。最も注意すべきは、この憲法は、天皇をユダヤ=キリスト教に似た一神教的な神とは規定していないことである。明治憲法は、広義の国家神道を定めた基本法ではないし、政府は神道の信仰を国民に強制していない。

大日本帝国憲法第28条は「日本臣民は安寧秩序を妨けず、及び臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信教の自由を有す」と定めている。この「臣民たるの義務」の範囲は立法段階で議論の対象となったが、起草者である伊藤博文・井上毅は神社への崇敬は臣民の義務に含まれないという見解だった。

憲法公布の翌年、教育勅語が発布された。教育勅語にも、「敬天」「尊神」などの直接宗教的な言葉は使われていない。「神を敬え」とか「神社に参拝せよ」などの文言もない。これを以て、広義の国家神道を広めたものとする主張は、こじつけである。

起草に当たった井上毅は草案作成に当たり、7つの前提条件を立てた。まず、今日の立憲主義に従えば、君主は臣民の良心の自由に干渉してはならない。そこで教育の方向を示す勅語は、「政事上之命令」ではなく、「社会上之君主の著作公告」として発せられるべきであるという原則を示した。その上で、宗教上の争いを引き起こす可能性のある「天を敬い、神を尊ぶ」のような語を使用しないこと、必ず激しい論争を招く「幽遠深微なる哲学上の理論」にわたるのを避けること、天皇の真意ではなく時の政治家の示唆によるものと受け取られるような「政治上之臭味(くさみ)」を帯びないこと、「漢学の口吻と洋風の気習」を吐露しないこと等を、前提条件として挙げた。

井上はこれらの前提条件の下に教育勅語を起草した。草案作成に、儒学者・元田永孚(ながざね)が協力した。明治天皇からいくつか要望が出されて、修正が加えられた。そして明治23年(1890)10月30日に発布された。発布形式は井上の構想と異なり、天皇が首相・文相を宮中に召して親しく勅語を下され、文相は直ちに全国に発布するという形となった。

教育勅語は、直接的には教育に関する勅語ゆえ、教育の理念・目標を示したものであり、そのもとに修身の科目を中心とした国民教育がされた。それとともに、この勅語は、国民が思想・信条の違いを超えて踏み行うべき道徳の基準を示したものでもある儒教的な忠孝の徳目が盛られているほか、近代国家の国民として踏み行うべき道徳が説かれている。

教育勅語については、拙稿「教育勅語を復権しよう」に書いたが、勅語の最初の段落は、次のとおりである。「朕惟ふに 我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり 我が臣民 克く忠に克く孝に 億兆心を一にして 世々厥の美を濟せるは 此れ我が国体の精華にして 教育の淵源亦実に此に存す」。

大意は、次の通りである。

「私は、天照大神を皇祖とし神武天皇を初代天皇とする私達の祖先が、遠大な理想のもとに日本の国を始め、また祖先が立てた道徳は、実に奥深く慈しみ厚いものであることを固く信じます。そして、国民がよく君に忠義を尽くし、父母に孝行を励み、全国民が心を一つに合わせて、今日に至るまで、忠孝の美風を作り上げてきたことは、日本の国柄の最も優れた美点であって、私は教育の根本もまた、この点にあると信じます」。

ここには、神道を国教とするというような広義の国家神道論は、述べられていない。神話を背景にしているが、「国体」は国柄を意味する言葉であって、他国にも使うことのできる用語である。

続いて忠孝を実践するための徳目が、後段で具体的に述べられる。それが「孝行」「友愛」「夫婦の和」「朋友の信」「謙遜」「博愛」「修学習業」「智能啓発」「徳器成就」「公益世務」「遵法」「義勇」である。仏教徒もキリスト教徒も非宗教的な思想の者も、国民が等しく実践できるものとなっている。

最後に天皇は、「朕爾臣民と倶に挙々服膺して咸其の徳を一にせんことを庶ひ幾う」、すなわち「私もまた、国民の皆さんとともに、父祖の教訓を常に胸に抱き、この道徳を守り実行して共にすることを、心から念願するものであります」と述べて、自身も国民もともに実践しようと呼びかけている。天皇が一神教的な神で国民はその信者であれば、このような呼びかけはあり得ない。

教育勅語は、起草者の井上の意図と異なり、文部大臣に下賜される形となった。そのため、「政事上ノ命令」と誤解されるようになった。そして文部行政は、勅語の枠外に教育すべき徳目はないという狭量な考えに陥ってしまった。とりわけ、昭和戦前期には学校における勅語の奉読形式が格別重視されたり、全文の暗記・暗写がことさら強調されたりした。当時は、軍部の戦争遂行政策に悪用されたのである。しかし、それは、教育勅語の用い方の問題であって、勅語の内容の持つ価値とは別の問題である。明治時代以来、勅語の中に示された徳目は、わが国の家庭教育の指針ともなっていた。また、社会教育、国民教育の基本でもあった。昭和戦前期に一時、用い方に行き過ぎがあったにせよ、教育勅語は、近代日本の精神的支柱となっていたのである。

さて、明治憲法は国体を明らかにして具体的な国家機構を定め、教育勅語は天皇と国民がともに踏み行うべき道徳を示した。これらによって、わが国の国家体制が確立した。皇室は伝統的な祭祀を行い、政府はそれを国家の祭祀とするが、国民に対しては宗教ではなく、道徳を以て統合するという体制である。

こうした体制のもとで、明治33年(1900)に、政府は、内務省の中に神社局を設け、教派神道を含む神・仏・基の諸宗教とまったく区別する宗教行政を神社に対して行うこととした。葦津は、これを以て狭義の国家神道が「決定的に確立した」とする。この時点から数えると、国家神道はわずか約45年の歴史を残すにすぎないものとなる。

 この政府管理下の神社神道は、世俗的な官僚が作った官製の神道であって、「その精神は、全く空白化してしまった無精神な、世俗合理主義で『無力にして無能』なものであったといふの歴史の真相に近い」と、葦津は述べている。

 神社は、政府の管理のもと、伝統的な信仰の場ではなく、単に偉人を顕彰する記念施設のようなものとして扱われた。

戦前のわが国において、神道が国教だったという見方があるが、私は、国教ではなく準国教と呼ぶのが妥当だろうと思う。なぜなら、政府が国家の事務としての祭祀の執行のために神社を管理していた点では国教と呼び得るが、政府は国民にこの国家管理下の神道の信仰を強制するものではなく、国民は教派神道・仏教・キリスト教等の宗教を選択して信仰することができたからである。(ページの頭へ)

 

第7章 大正期の展開

 

(1)加藤玄智による広義の国家神道論

 

明治・大正の時代の政府管理の神社神道は、狭義の国家神道でしかありえない。ところが、大正期の末期に、今日常識のようになっている広義の国家神道論を唱える学者が現れた。それが、加藤玄智である。加藤こそ、「国家的神道」や「天皇教」という言葉を創り出した人物である。加藤は、「現人神(あらひとがみ)」に独自の解釈を加えて、神道に関して極端な学説を打ち出し、それを英文出版物にして海外に広め、外国人に神道への多大な誤解を与えたのである。

加藤は、陸軍士官学校教授・東京帝国大学神道講座助教授だった。皇学館大学教授の新田均は、加藤について、次のように書いている。加藤は、大正13年(1924)刊行の『東西思想比較研究』で、「神道」を「宗派的神道」と「国家的神道」とに大別し、「国家的神道」をさらに「神社神道」と「国体神道」とに区別した。「国体神道」の本質は、天皇をキリスト教の神と同様の「現人神」として、「絶対服従」することであり、この信仰が教育勅語を中心として全国の教育者によって宣伝されているとした、と。

加藤は、天皇は単に神々の子孫ではなく「神それ自身」だとし、天皇は「バイブルにおける神の位置」を取ってきた、西洋では神に対して「絶対的服従」だが、日本では天皇に対して「絶対的服従」だと説き、こうしたあり方を「天皇教」と呼んだ。

加藤は、浄土真宗の寺院の出身であり、真宗を信仰していた。その信仰が、加藤の広義の国家神道論の背景にあると見られる。神社非宗教論も、真宗の島地黙雷が提唱したものだった。阪本是丸は、真宗は「神社非宗教論に立脚して国家神道の成立を促した原動力のみならず、神道人も顔負けの強烈な『神社崇敬教団』の体質を色濃く持っていた」「真宗教団が国家神道の生みの親であったことは明白」と説いている。仏教でありながら、同時に神社を崇敬するのは矛盾しているようだが、ここには真宗の特徴が現れている。真宗は阿弥陀如来を崇拝する一向専念を信条とし、一神教に似た性格を持っている。一神教といってもセム系一神教のような唯一神教ではなく、多数の信仰対象の中の一つを信仰するというタイプの単一神教に類似している。そうした性格を持つ真宗では、法主を「生き仏」と崇める。こうした崇拝心が天皇に向えば、天皇を現人神として絶対的忠誠を求める思想が生まれ得る。神道と仏教の習合の理論である本地垂迹思想では、神々は仏の権現とされた。阿弥陀信仰と天皇への崇敬が合体することも起こり得るわけである。

加藤は、現実の神道ではなく、彼にとって将来あるべき神道の理想を英語で述べた。それが米国の神道研究家D・C・ホルトムに影響を与え、ホルトムはGHQ民間情報教育局の宗教政策担当者W・K・バンスに影響を与えた。加藤―ホルトムーバンスの神道観が神道指令の基礎となった。詳しくは、神道指令の項目で述べる。

わが国の現人神の観念を、キリスト教の神の観念と同一視するのは、前者についても後者についても、よく理解していないものである。

18世紀後半において、本居宣長は、『古事記伝』に「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のあり、可畏(かしこ)物を迦微(かみ)とは云うなり」と説いたが、人もまた神と呼ばれることを書いている。「人の中の神」は、先ず「かけまくもかしこき天皇」を挙げ、続いて「凡人(ただひと)」よりはるかに優れた「神なる人、古も今もあることなり」とし、「一国一里の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし」と書いている。わが国の「現人神」は、こういう文化に生まれた観念である。

大正末期において、歴史学者の津田左右吉は、「あらひとがみ」の意味を次のようなものととらえた。

 

(ア) 「日本書紀」は「神代」と「人代」を分け、天皇は「人代」で出現している。

(イ) 天皇は神を祀る者、いわば神祇官であって、祀られる対象ではない。

(ウ) 天皇が祈祷の対象であったことはない。困難が来たときには、天皇が神々に祈る。

 

 そこで、津田は、天皇は「あらひと」つまり「ひと」であり、「かみ」がつくのは「統治者への尊称」であるとした。そして、天皇は人間であるが、同時に象徴であると考えた。そして、皇室は「国民的精神の象徴、または国民的統合の象徴」と著書に記していた。

 津田が明らかにした「あらひとがみ」は、キリスト教の神とはまった違う概念である。イエスは、神と子と聖霊の三位一体説において、「神・イエス」として信じられている。イエスの生涯・言行を伝える新約聖書の福音書は、イエスは奇跡を以て人々を救ったことを書いている。イエスは、神の証としての奇跡を起こす力を持つとされている。これに比し、天皇は、決して奇跡によって人々を救済する救世主ではない。天皇は神を祀る者であって、祀られる対象ではない。祈祷の対象ではなく、国家国民が困難に遭遇したときには、天皇が神々に祈る。そのような存在である統治者として、天皇は「あらひとがみ」という尊称で呼ばれたのである。(ページの頭へ)

 

(2)大正デモクラシーと天皇機関説

 

 加藤の広義の国家神道論は、「国体神道」とは天皇をキリスト教の神と同様の「現人神」として「絶対服従」することを求めるものとしている。この見方が成り立つとしたら、天皇は近代西欧のキリスト教の王権神授説に基づく絶対君主となる。すなわち、絶対的な主権者である。その主権は、神の主権が地上の王に与えられたものである。国民との関係は、主人と奴隷である。

だが、わが国はキリスト教国ではなく、天皇はキリスト教に基づく主権を持つ支配者ではない。天皇の統治権を、西欧的な主権の概念でとらえることは不適切である。わが国では、神話の時代から衆議を重んじる伝統があり、天皇は国民を「大御宝」と呼んで大切にしてきた。また、明治維新は、天皇を絶対的な主権者とする絶対主義国家を建設したものではなく、絶対主義国家には不必要な憲法を制定し、近代西欧的な議会を設け、天皇が招集する議会を衆議院と名付けた。また、専制君主が人民に与えるわけのない自由と権利を恩賜として付与している。

明治憲法の施行後、主権はどこに属するかが議論された。当初、統治権としての主権を持つものは国家であるとする国家主権説が有力だった。法学者の穂積八束・上杉慎吉は、国家主権説を批判し、統治権は国家ではなく天皇に属するとして、天皇主権説を説いた。西欧絶対主義の君主主権説の系譜に立つ説である。これに対し、一木喜徳郎は、国家は一つの団体であり、法律上の人格を持つという国家法人説に立ち、統治権は法人たる国家に帰属し、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるという天皇機関説を説いた。これは、天皇を絶対的な主権者ではなく、一個の国家機関ととらえる法理論である。

大正期には、議会政治が定着し、大正デモクラシーと呼ばれる比較的自由な言論が行われる時代が実現した。憲法学者の美濃部達吉は、大正デモクラシーの旗手の一人であり、議会の役割を拡大する方向で、天皇機関説を発展させた。美濃部の機関説は、統治権の意味では国家主権、国家意思の最高決定権の意味では君主主権を唱えた。そして、統治権は法人としての国家に属し、天皇はその最高機関すなわち主権者としてその国家の最高意思決定権を行使する、と説いた。美濃部の天皇機関説は学界の通説となり、1920年代から1930年代前半にかけては、政府公認の憲法学説となった。昭和天皇は、美濃部の天皇機関説に賛意を示していた。

明治憲法における天皇の地位は、イギリスにおける「君臨すれども統治せず」という制限君主であって、昭和天皇は、自らをそのような地位にある者と理解していた。昭和天皇は政府が決定したことを形式的に承認することに徹していた。例外は、2・26事件で首相らの主要閣僚が殺害されて政府が機能しなくなった異常事態で天皇が直接鎮圧にあたった時と、大東亜戦争の終戦を協議した御前会議で、鈴木貫太郎首相から求められて御聖断を下された時の2回のみである。こうした明治憲法における天皇の地位は、天皇主権論では決して正しく理解することができない。

だが、天皇機関説は、昭和時代に入って、軍部から排撃されるようになる。(ページの頭へ)

 

第8章 昭和戦前期の展開

 

(1)統帥権干犯問題と軍部の専横

 

明治・大正期のわが国のあり方が、広義の国家神道論への方向に変わったのは、昭和5年(1930)の統帥権干犯問題がきっかけである。

明治憲法は、「天皇は陸海軍を統帥す」と規定していた。これを天皇の統帥大権という。明治の元勲は、統帥権は三権と別の独立したものではないと認識していた。だが、昭和初年代になると、軍部が統帥大権は軍の作戦そのものであり、政府や議会とは関係ないという解釈をし、ロンドン会議で軍縮を決めた政府を統帥権の干犯だと批判した。以後、軍部は統帥権の独立を振り回して、政治への発言力を強めた。

当時、昭和4年(1929)に発生した世界恐慌の影響が我が国も押し寄せていた。欧米諸国は、経済のブロック化を進めた。これによって、日本経済は大きな打撃を受け、閉そく状態に陥っていく。そのような中で昭和6年(1931)に軍部が暴走して満州事変を起こし、7年に満州国が建設された。政府は国際連盟の対応に不満を示し、8年にわが国は国際連盟を脱退した。その結果、国際的に孤立するようになった。こうした中で、国家的な危機意識が高まるとともに、独善的・排外的な思想が強まっていた。

そのような状況でやり玉に上げられたのが、天皇機関説だった。昭和10年(1935)、国体明徴問題が起こり、天皇機関説が排撃された。機関説の否定は、天皇主権説の復興となる。軍部は、機関説を否定することで、天皇の権威を強化し、天皇の権威を笠に着て、政治に干渉するようになった。軍部とそれに結びついた政治家・官僚・学者らによって、天皇の権威の絶対化を進めた。これを「天皇の神格化」ととらえる学者がいるが、神格化といっても伝統的な神道の考え方によるものではなく、またキリスト教の教理に基づくものでもない。権威を強化して神聖化し、絶対服従を強いるものである。軍部を中心とした勢力が、天皇の権威を利用するために行ったものだった。

軍人が政治に介入することは、明治天皇の違勅である軍人勅諭に反していた。だが、軍部が実権を握るに従い、軍部の行動を自由に批判できない社会になっていった。

昭和初年代から、神社参拝に変化が起こった。そのきっかけになったのが、昭和7年(1932)の上智大学靖国神社事件である。

明治維新以降、神社参拝が法的に国民個人に強制された事実はなかった。大正期に小学校における参拝などをめぐって「神社問題」が発生した。この時、政府は国民に崇敬は奨励するが参拝は強制せず、小学校では神社崇敬の訓練として行うが、上級学校では神社参拝を実施しないとの立場だった。ところが、昭和7年にカトリック系の上智大学で、学校教練のために配属されていた陸軍将校が、学生を引率して靖国神社を参拝した際、カトリック信者の学生が参拝を拒否するという事件が起こった。陸軍は、同大学への将校の配属を拒否した。これに対し、カトリック教会は、神社参拝を非宗教行為だとする公式見解を出した。

この事件以後、従来小学校までだった神社参拝が上級学校へと拡大された。昭和10年代に入ると、参拝拒否は事実上不可能になっていった。また、宗教への統制を強化する宗教団体法が昭和15年(1940)に施行されるに際して、参拝を拒否する宗教団体は認可しないとの方針が打ち出された。ただし、それでも戦前のわが国において、法的に神社参拝が国民個人に強制されることはなく、参拝拒否に対する罰則はなかった。(ページの頭へ)

 

(2)『国体の本義』の発行

 

昭和戦前期のわが国では、ソ連の共産主義が大きな脅威となっていた。資本主義の矛盾を明らかにし、階級闘争を説くマルクスの思想は知識人・学生らに浸透したため、共産主義に対抗するための思想体系が必要となった。その思想体系となり得るものとして期待されたのが、国体思想である。

国体は、西洋言語のconstitutionの訳語に当てられた語で、政治学・法律学では主権の帰属によって国家を区別する時に用いられ、君主国体と共和国体に分けられる。だが本来、国体はより広く国柄を表し、わが国では、一系の天皇によって統治される国柄を意味する。

シナでは易姓革命で王朝が替わったり、異民族支配が繰り返されたりした。これに比し、わが国では古代から皇位が途切れることなく、連綿と継続している。江戸時代には儒学・国学・水戸学等でこうした独自の国柄への自覚が深まり、国体思想が発達した。国体思想は幕末の尊王攘夷論を生み、明治維新の一つの原動力となった。西郷隆盛も吉田松陰も坂本竜馬も横井小楠も、みな国体思想によって、日本の変革を目指して行動した。広義の国家神道論は、思想としての国体思想と宗教としての神道をよく区別せずに、国家神道の語で括って非難する傾向がある。その傾向を推し進めると、日本という国そのものを否定することになる。

大政奉還・王政復古は、国体を護持する改革だった。明治憲法の制定で立憲政治に移行したが、これは政体の変更であって国体の変更ではない。伊藤博文による公認の憲法解釈書『憲法義解』にその旨が明記された。明治憲法は、国体の基礎原理を規定し、教育勅語は国体の精華としての徳目を教育の理念・目標とし、国民道徳の実践を国民に呼びかけるものだった。

昭和初年代までは、国体についてかなり自由な言論が行われた。天皇機関説を説く美濃部達吉は、国体は文化的概念であるとして法学の領域から除外した。民本主義を提唱した吉野作造は、日本の国体の優秀性は特別の君臣情誼関係という民族精神の問題であるとして政治学の対象から除き、国体とデモクラシー(民本主義)は矛盾しないとした。明治期から御用学者と見られた井上哲次郎でさえ、君主主義と民主主義の調和にこそ国体の安全があると説いた。

こうした状況に変化が起こったのは、満州事変、特に国際連盟脱退の後である。昭和10年(1935)に天皇機関説を排撃する国体明徴問題が起こり、政府は国体明徴声明を出した。そこで12年に発行されたのが、『国体の本義』である。

昭和12年(1937)5月、文部省が国民教化のために、『国体の本義』を配布した。教育勅語に「国体」の語が使われて以来、国体は国民の常識となっていた。これを明徴するのが、本冊子の目的だった。

本冊子は、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない」と説いた。

本冊子は、共産主義・社会主義・無政府主義を批判するともに、民主主義・個人主義・自由主義も国体に合わないものと断じた。その一方、新日本の建設のためには「欧米文化の摂取・醇化」が必要であるともしており、単純に排外主義とは言えない要素もあった。

この広く国民向けに作られた冊子に、天皇は「現人神」と記された。注意すべきは、「現人神」とは「所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神」とは異なると明記されていることである。では、どういう意味で天皇を「現人神」というのか。「皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊い畏き御方であることを示す」と、本冊子は書いている。セム系一神教的な意味の神とは違う。皇祖皇宗と一体であるというわが国独自の意味で「現人神」と尊称することをはっきり述べている。それゆえ、『国体の本義』を以て、天皇を一神教的な神と規定したものとみなすのは、誤りである。

『国体の本義』はまた「天皇は億兆臣民を御一人の臣民とはせられず、皇祖皇宗の臣民の子孫と思召され給ふのである」とか、「我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである」とも述べている。ここには、天皇も国民もともに神々の子孫であり、皇室の祖先や歴代天皇が国民を大切にしたように、今日の天皇もまた国民を大切にするという天皇と国民の関係が表現されている。近代西欧キリスト教の絶対王政国家では、君主と国民の関係は、神から絶対的な主権を与えられた者と、それに服従すべき者、すなわち主人と奴隷の関係だった。だが、天皇はキリスト教的な神の地上における代理人ではなく、ともに神々の子孫である国民の安寧を神々に祈る君主だった。

『国体の本義』が配布された約7か月後、中国共産党の謀略によってシナ事変が勃発した。わが国は収拾に努めたが、容易に解決できず、事態は泥沼化した。戦時において国民統合を強化するために、軍部を中心に、天皇の権威を絶対化し、国民に天皇への絶対的な忠誠を求める政策が推し進められた。(ページの頭へ)

 

(3)昭和14年に教科書が変化

 

新田均が戦前の修身や歴史の教科書の天皇に関する記述を調べたところ、初めて全国同一の教科書が使用された明治37年(1904)以降の教科書に書かれていたのは、天皇は天照大神の子孫であるという天皇神孫論と、天皇の徳と臣民の忠義で日本の歴史が続いてきたという君臣徳義論だった。大正10年(1921)以降、これに皇室は本家で臣民は分家、天皇は親で臣民は子のようなものであるという家族国家論が加わった。昭和14年(1939)になって、はじめて教科書に「現御神(あきつみかみ)」という語が登場した。これは、12年発行の『国体の本義』が、天皇をわが国独自の意味で「現人神」としたのを受けたものである。

「現御神」は「現人神(あらひとがみ)」と同じである。これ以前の教科書は、天皇は天照大神の直系の子孫だが、国民もまた天照大神とゆかりのある神々の子孫であるから、神々の子孫同士のうち特別に尊い存在が天皇であり、そのような天皇と国民が仁慈と忠義の徳や親子のような情愛で結ばれているという認識を教えていた。そこに大きな変化が起こった。

だが、天皇はセム系一神教における神ではない。『国体の本義』が「所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神」とは異なると明記しているとおりである。天皇は、天照大神の直系の子孫として、また「皇祖皇宗と一体」の存在として「限りなく尊い畏き御方」であるとしても、神ではなく人である。神々を祀る者であって、祀られる対象ではない。祈祷の対象ではなく、国家国民の困難の時には、天皇が神々に祈る。また国民は、イエス=キリストに対するキリスト教徒のように、天皇に奇蹟救済を求めたりしない。それゆえ、昭和14年以降の教科書の記述を以て、天皇を一神教的な神と教育したとみなすのは、誤りである。

 この時期においてさえ、国民に神社参拝を強制する法規は存在しなかった。また、国民が神道以外の仏教・キリスト教等の宗教を信仰する自由は、認められていた。神社崇敬を憲法上の臣民の義務とすることは、内務省の公式見解として示されることは、なかった。明治憲法に定める信教の自由は、確保されていたのである。この点は、昭和10年代においても、わが国では立憲議会政治が行われており、政府の統制のもとではあるが国政選挙が行われていたことと合わせて理解する必要がある。

昭和15年(1940)、わが国は、独伊と三国同盟を結んだ。国家総力戦体制を構築するため、独伊のファシズムが模倣された。独伊のファシズムは、武力による政権獲得、一党独裁、政治指導者への個人崇拝等を特徴とする。昭和戦前期の日本を「天皇制ファシズム」とか「軍ファシズム」等の用語でとらえる学説があるが、当時のわが国の政治体制には、これらのファシズム特有の要素はない。ファシズムの概念をあいまいに拡大して使用してわが国に当てはめるのは、弊害が多い。私は、統制主義の概念でとらえるべきと考える。また政府による統制は、戦時体制の一環として行われたものであり、戦時の統制主義である。だが、戦時の統制は、程度の差はあるが、リベラル・デモクラシーの国家の米英でも行われた。独立主権国家において、独立と主権を保持するために、政府が一定の統制を行うのは当然必要なことである。

米英では共産主義による革命が起こる可能性はなかった。だが、わが国では、共産主義によって国家が転覆される恐れがあった。共産革命を防ぐために厳しい統制が行われた事情がある。(ページの頭へ)

 

(4)大東亜戦争

 

わが国は、日独伊三国同盟を結んだことで、米英から敵対視され、米国から石油の禁輸等の厳しい経済制裁を受けた。わが国の政府は、事態打開のために日米交渉に望みを託していたが、昭和16年(1941)11月、ハル・ノートを突き付けられ、これを最後通牒とみなして、米英との戦争に突入した。

大塚寛一先生は、戦前日独伊三国同盟の締結に反対し、また米英と開戦すれば大敗を喫すると警告して、時の指導層に毎回千余通の建白書を送付し、厳正中立・不戦必勝の大策を建言された。この点については、拙稿「大東亜戦争は戦う必要がなかった」「大東亜戦争は、こうすれば回避できた」に書いた。

http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/j-mind06.htm(目次から05〜06へ)

だが、当時の国家指導層は、大塚先生の説かれる人類史の大局が見えなかった。緒戦の華々しい勝利は長続きせず、ミッドウェー海戦の敗北から戦況は逆転し、物量に勝る米国に押しまくられた。昭和18年(1943)10月には学徒出陣が行われた。戦局が悪化すると、軍部は、天皇のために死ぬことが忠君愛国だと強調した。特攻作戦では、10〜20代の若者を中心に4千名以上が散華した。

大塚先生は、戦争を早期に終結させるため、終戦の間際まで、建白書を送り続けられた。言論統制厳しいなかで堂々と建言をされながら、先生は一度も逮捕・投獄されることがなかった。この事実は、実に驚異的なことである。

大東亜戦争は、大塚先生が警告された通り、木造建築の弱点を突かれて空襲により大都市は焦土と化し、最後は新型爆弾を投下されて、降伏を余儀なくされた。

大東亜戦争は、20世紀に人類が迎えた総力戦時代の戦争だった。この国家・民族の興亡をかけた戦争において、神国意識が国民に強調された。日本は「神国」だから、元寇の時のように「神風」が吹いて米英を撃滅できると強調された。だが、大塚先生は、日本は神国といえども最善の努力なきところに神助なしと建白書で警告されていた。

大東亜戦争当時の国家指導層は、米国との物量の差についての科学的な思考を失い、非合理的な精神主義に陥っていた。戦局が悪化すると、国民に対して、正確な情報を与えず、虚偽の戦果発表を繰り返した。そのため、わが国が米国に敗れた時の国民の衝撃は大きかった。「神国」に関する信念は打ち砕かれて、神道に対する幻滅が広がった。だが、それは、当時の国家指導層が戦争遂行のために作り上げた官製の神道であって、本来の神道とは異なるものだった。

昭和戦前期のわが国の政策が、神道の思想によって推進されたという見方があるが、神道そのものは独善的・好戦的なものではない。独伊のファシズムを模倣した軍部・政治家・官僚・学者・言論人らが、戦争遂行に神道を利用したのである。

当時、親独路線に強く反対した神道家がいた。葦津珍彦は、官製の「国家神道」に異を唱えた。また、ゲルマン民族の優秀性を説き人種差別を行うナチスの思想は、わが国の精神とは相容れないと論じた。葦津は政府から弾圧を受け、著書は細かく検閲を受け、発行できなくなった。

葦津は敗戦後、神道の復興に活動した。著書『明治維新と東洋の解放』に、次のように書いている。「大東亜戦争は、文字通りの総力戦であり、日本人のあらゆる力を総動員して戦われた。……日本国をして『東洋における欧州的一新帝国』たらしめたいとの明治以来の征服者的帝国主義の精神が、この大戦の中で猛威を逞しくしたのも事実である。それは同盟国ドイツのゲルマン的世界新秩序論に共感した。しかし日本人の中に、ゲルマン的権力主義に反発し、あくまでも、日本的道義の文化伝統を固執してやまない精神が、根よく生きていたのも事実であった。日本人の中にあっても、概していえば政府や軍の意識を支配したものが主としてナチス型の精神であり、権力に遠い一般国民の意識の底にひそむものが、日本的道義思想であったということもできるであろう」と。(ページの頭へ)

 

第9章 敗戦による占領期の展開

 

(1)神道指令

 

大東亜戦争は、日本建国以来かつてない大敗に終わった。わが国は、戦勝国によって占領された。連合国軍総司令部(GHQ)は、日本が再び米国及び世界の脅威にならないようにするという占領政策の目的に従って、日本を弱体化する政策を強行した。日本弱体化の重要なポイントは、天皇の権威を引き下げ、天皇と国民の心情的な結びつきを弱めることにあった。そのために、GHQは昭和20年(1945)12月、日本政府に神道指令を発した。今日、わが国で一般常識のようになっている国家神道観は、神道指令によって、日本人に植えつけられたものである。

GHQは、戦前のわが国の政教体制を「国家神道(State Shinto)」と呼んで危険視した。神道指令は、国家神道を「日本政府の法令によって、宗派神道或は教派神道と区別せられたる神道の一派」「国家神道ないし神社神道として一般に知られたる非宗教的なる国家祭祀として類別せられたる神道の一派」とした。そして、政府・自治体・公務員等による神道の保証、支援、保全、監督並びに弘布を禁止し、国家と神道の分離を図り、神社の国家管理を廃止して、政教分離の徹底的な実施を命じた。

神道指令は、「軍国主義的乃至過激なる国家主義的イデオロギー」の宣伝・弘布を禁止した。第2条(ホ)の(2)に「神社神道は国家から分離せられ、その軍国主義的乃至過激なる国家主義的要素を剥奪せられた後は……」と記し、()に次のように規定している。

 

「本指令中に用いられている『軍国主義的乃至過激なる国家主義的イデオロギー』なる語は、日本の支配を以下に掲げる理由のもとに他国民、乃至、他民族に及ぼさんとする日本の使命を擁護し、或は正当化する教え、信仰、理論を包含するものである。

 

(1)日本の天皇はその家系、血統、或は特殊なる起源の故に、他国の元首に優るとする主義

(2)日本の国民はその家系、血統、或は特殊なる起源の故に他国民に優るとする主義

(3)日本の諸島は神に起源を発する故に、或は、特殊なる起源を有するが故に、他国に優るとする主義

(4)その他、日本国民を欺き侵略戦争へ乗り出さし、或は、他国民との論争の解決の手段として武力の行使を謳歌せしめるに至らしむるが如き主義」

 

 神道指令が上記引用のように「軍国主義的乃至過激なる国家主義的イデオロギー」を、家系・血統・特殊な起源のゆえに天皇・国民・国土が他国の元首・国民・領土に優るとする主義を理由として、日本人の支配を他国民・他民族に及ぼそうとする「日本人の使命を擁護し、あるいは正当化する教え、信仰、理論を包含するもの」と規定したのは、ナチズムの人種差別主義や世界征服思想との同類視があったと思われる。

神道指令の起草は、民間情報教育局教育宗教課宗教班の責任者であるバンスが当たった。バンスは、ホルトムの神道観に全面的に依拠した。ホルトムは、加藤玄智の著書を種本としていた。昭和18年(1943)刊行の著書『日本と天皇と神道』で、「1868年に神道は国教」となり、「今日までずっと国家宗教の地位を保っている」とし、これを加藤に従って「天皇教」と呼んだ。加藤の「国家的神道」はState Shintoと英訳され、そのState Shintoが神道指令では「国家神道」と和訳された。バンスは、ホルトムの影響によって、わが国で天皇はキリスト教的な神として信じられており、国民は天皇に絶対的な忠誠を表していると理解した。

ホルトムは、また「天皇と国民を結びつけるものは、相互的な信頼とか愛情とかいったものからは、およそ遠い。財閥と何ら異なるところのない通例の資本主義的搾取の機能であった」と書いた。天皇を一方では、キリスト教的な神であるとし、一方では、財閥と変わらぬ搾取者だというのだから、極めて歪んだ見方である。それが神道指令の背後にあったのである。

神道指令によって、神社は国家管理から離れた。だが、神道そのものが禁止されたのではない。またGHQは、占領期の途中から神道に対する認識を改め、神道に関する政策を緩和した。戦前の宗教団体法は廃止され、昭和20年(1945)12月の宗教法人令を経て、昭和26年(1951)4月宗教法人法が施行されると、神社の大半は宗教法人となった。またその多くは新たに結成された宗教法人神社本庁の傘下に入った。これによって、神道系の宗教法人は、戦前にはできなかった布教活動を自由に行えるようになった。(註1)(ページの頭へ)

 

註1 詳しくは、補説「戦後の神社神道を統括する神社本庁」を参照のこと。

 

(2)新日本建設の詔書

 

神道指令は、日本人から奪うべき思想として、神聖な天皇・国民・国土の三つを挙げた。このうちGHQが天皇神聖視の否定を最も重要だと考え、特にその部分だけを取り出した「人間宣言」の渙発を強く求めた。

 GHQの圧力によって、昭和21年(1946)元旦、昭和天皇は「新日本建設の詔書」を発布された。この詔書が「人間宣言」と宣伝されたのは、最後の部分に基づく。その段落は、次の通りである。

「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依り結ばれ、単なる神話と伝説とに依り生ぜるものに非。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念にくものにも非

大意は、次の通りである。

「私と国民の皆さんのとの間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛によって結ばれており、単なる神話と伝統によって生じたものではありません。天皇を現御神とし、かつ日本国民は他の民族に優越した民族であり、世界を支配すべき運命を持つとの架空の観念に基づくものではありません」

ここで天皇は「現御神」であることを否定したが、天皇が日本神話の神々の子孫であることを否定してはいない。天皇と国民の紐帯は、神話と伝統によって生じたものだが、単にそれだけではなく、終始相互の信頼と敬愛によって結ばれていることを強調している。相互の信頼と敬愛を強調したのは、天皇と国民の関係についてのホルトムーバンス的な見方を否定するものだろう。

昭和天皇は、昭和52年(1977)8月23日、その詔書の真意について記者団に述べられたた。

 「民主主義を採用したのは、明治大帝が思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもとになって明治憲法ができたで、民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要が大いにあったと思います」と。

これによれば、詔書の主な目的は、近代日本のデモクラシーは五箇条の御誓文に始まることを示すことにあり、日本の復興は五箇条の御誓文に立ち返って行われるべきことが示唆されたと言えよう。(ページの頭へ)

 

(3)日本国憲法

 

 神道指令及びいわゆる「人間宣言」に続いて、日本国憲法が昭和21年(1946)11月3日に公布、昭和22年(1947)5月3日に施行された。日本国憲法は、占領下にGHQが極秘裏に起草した英文の原稿がもとになっている。その草案が日本政府に押し付けられ、日本語に翻訳された。そして、占領軍の管理による厳しい情報統制のもとで行われた国会決議によって制定された。

ハーグ陸戦法規は、占領下における憲法の改正を禁じている。GHQによる憲法の押し付けは、国際法に違反する行為だった。

現行憲法の本文は、天皇に関する条文から始まる。ここで天皇は国家及び国民統合の象徴とされ、政治的に実質的な権限を持たない立場とされた。天皇は、戦前と同じく皇室の祭祀を行っておられる。ただし、皇室の祭祀は、私事とされた。国民は、憲法によって、基本的人権の一つとして、信教の自由が保障された。ただし、公共の福祉に反しない限りにおける自由と権利の保障であって、無制約ではない。この点は、明治憲法における信教の自由が、「安寧秩序を妨けず、及び臣民たるの義務に背かざる限りに於いて」という条件付きであったことと基本的には同じである。日本国憲法は、納税・勤労・教育の三つの義務を定めるのみで、国防の義務や国家忠誠の義務等を定めておらず、権利に対して義務が非常に少ない。これと違い、明治憲法は兵役の義務として国防の義務を課していた。それゆえ、日本国憲法では相対的に信教の自由が拡大された状態となっていることにも注意しなければならない。(ページの頭へ)

 

第10章 広義の国家神道論は誤り

 

(1)戦後の国家神道に関する常識

 

 神道指令以後の一連の占領政策の結果、わが国では、明治維新から昭和戦前期まで「国家神道」が行われ、その宗教思想が日本の「侵略戦争」を推進するものだったという誤った認識が社会的に定着している。

 例えば、岩波書店の『広辞苑』第3版は、国家神道を次のように定義・解説している。

 「明治維新後、神道国教化政策により、神社神道を皇室神道の下に再編してつくられた国家宗教。軍国主義・国家主義と結びついて推進され、天皇を現人神とし、天皇制支配の思想的支柱となった。第二次世界大戦後、神道指令によって解体された。」

 この定義・解説には、大きな問題がある。第一に、神道国教化政策は、明治維新後、昭和戦前期まで一貫して行われた政策であったという誤解を与える。実際はそうではなかった。第二に、わが国の政府は、明治15年(1882)に「神道は宗教ではない」という見解のもとに政教政策を行ったので、神社神道を含む神道を単純に「国家宗教」とは規定できない。第三に、「軍国主義・国家主義と結びついて推進され、天皇を現人神とし、天皇制支配の思想的支柱となった」という部分は、昭和10年代の数年間にはある程度当てはまるとしても、それ以前の約70年の期間には、当てはまらない。「現人神」という言葉は、明治・大正期・昭和初期には、政府の文書で使われていない。第四に、「天皇制」という言葉は、旧ソ連のコミンテルンの用語であり、正しくは「皇室制度」という。コミンテルンは、わが国の皇室制度をロシアのツァーリ専制と同様のものとみなして、革命によって打倒すべき対象とした。

 『広辞苑』がこうした問題の多い定義・解説を載せているのは、基本的にGHQの神道指令の内容に従っているからである。また、戦後、広義の国家神道論を発展させた宗教学者・村上重良の影響が強いと思われる。(ページの頭へ)

 

(2)村上重良の学説とそれへの批判

 

 村上は、著書『国家神道』で、「明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約80年間、国家神道は、日本の宗教はもとより、国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼした」と書いた。この本が現在の国家神道のイメージを作り出した。

村上は、「国家神道」は「神社神道と皇室神道を直結して形成された特異な民族宗教」だったとし、明治憲法によって、日本の諸宗教は「天皇制」の枠内での信教の自由を与えられたが、国家神道が「超宗教の国家祭祀として神仏基の公認宗教に君臨」する「国家神道体制」が成立したとする。さらに、教育勅語が「天皇制的国民教化の基準」として発布され、国家神道の「イデオロギー的基礎」となった。この段階で、国家神道の教義は「敬神崇祖を主軸とする国体の教義」として完成したとする。このように村上の国家神道論は、国家神道のなかに明治憲法や教育勅語等の非宗教的要素までを含めている。そして、「国体の教義」として完成された国家神道は、日露戦争後、「侵略の教義」ともなったと断じた。

村上は、『天皇の祭祀』では、「国家神道」の中核に「一神教的な現人神」「絶対神としての天皇」という観念があったとする。それは明治憲法によって法的に基礎づけられ、教育勅語が「事実上の教典」だったという。だが、明治憲法は「一神教的な現人神」「絶対神としての天皇」を法的に基礎づけてなどいないし、教育勅語で天皇を「一神教的な現人神」「絶対神」と述べていない。ひどい決めつけである。

また、ここには、戦前のわが国の国家体制を、近代西欧の絶対王政に類したものとし、絶対王政の根拠とされたキリスト教に当たるものが国家神道だとする見方がある。村上は、明治維新がイギリスの市民革命に似た性格を持ち、封建制が廃止されて資本主義が発達したことや、帝国憲法によって近代議会政治が開始され、天皇が立憲君主となったことを評価しない。明治維新以来の日本の歴史を、「国家神道体制」が一貫して強化され続けた時代ととらえ、「一神教的な現人神」という天皇観が「侵略戦争」と宗教弾圧の原因だったと断罪している。村上の国家神道論は、皇室の廃絶と日本の共産化を目指すコミンテルンの理論の影響を強く受けている。

村上の国家神道論は、広義の国家神道論を極限まで推し進めたものである。広義の国家神道論には、加藤―ホルトムーバンスー神道指令村上という系譜がある。加藤玄智は、「国家的神道」「天皇教」という言葉を創り出し、「現人神」にわが国の伝統にはない意味を与え、神道に関して極端な学説を説いて海外に広めた。加藤が信仰した浄土真宗は一向専念で阿弥陀如来を信仰する一神教に似た性格を持っており、法主を「生き仏」とあがめる。加藤は、こうした真宗の思想を背景にして、天皇を一神教的な神のようにあがめ、天皇への絶対的忠誠を求める思想を生み出したと考えられる。それを読んだホルトムは、加藤が「理想」として書いたものを、昭和10年代の日本の「現実」として理解した。GHQのバンスは、ホルトムの本で神道を理解し、その理解に立って神道指令の作成に当たった。村上の学説は、この系譜の延長線上にある。そして、広義の国家神道論は、村上によって、戦勝国による東京裁判史観及びコミンテルンの革命理論に沿ったものとして完成されたと言えよう。

こうした村上の国家神道論が、その後の世間一般の常識的な国家神道観を形成してきた。だが、戦前のわが国の歴史や神道に関する実証的な研究が進むにつれ、村上の国家神道論に対する異論が多く出されてきている。

 村上らによる広義の国家神道論を批判している論者の一人が、神道学者の新田均である。

新田は、葦津の研究を継承・発展させ、『近代政教関係の基礎的研究』において、次のように主張した。「近代日本の政教関係の二大原則である『神社非宗教』論と管長制とが、いずれも浄土真宗の主張にそって、神道や他の仏教の要求を退けて、政府によって採用された事実を指摘し、政府に対して強い影響力をもった真宗の存在を国家との関係において適切に表現し得ない『国家神道』を、『近代日本の政教関係全体を包含する用語として用いることは不適切であると考えられる』と『広義の国家神道』論を批判し、『公認教制度』または『日本型公認教制度』として捉え直すべきではないか」と。

 続いて、『「現人神」「国家神道」という幻想』では、「『現人神』思想の出現過程を検証した結果、その出自も内実も神・仏・基の習合色の濃いものであること、しかも、それが社会へ浸透していった原因が神話教育や神社参拝などではなく、共産主義への恐怖、総力戦思想の普及、東亜新秩序構想の有力化などであったこと、一般国民への神社参拝の強制といえる現象も満州事変以降のものであること、などが明らかとなり、『現人神』『神社神道』『神社参拝の強制』などを主要な構成要素とする『広義の国家神道』論は成り立たないことが明白となった」と主張した。

 新田らの論者が言うように、実証的な研究の結果、広義の国家神道論は、根拠が崩れている。また、国家神道を近代日本の政教関係全体を包含する用語として用いることはできない。明治維新以後、大東亜戦争敗戦までの政教関係を、国家神道の概念で一貫して総合的にとらえることはできない。国家神道は、狭義でのみ使われるべき用語である。この語については、本稿の冒頭に掲げた「戦前の国家によって管理され、国家の法令によって他の神道とは区別されて行政の対象となった神社神道」(『神道事典』)という定義が、最大公約数的な定義と言えよう。

東京裁判史観の呪縛を脱し、戦前のわが国の歴史や国家体制を日本人の主体的な立場で理解するためには、国家神道の語を狭義に限定して使用する必要がある。そして狭義の国家神道論に立ち、広義の国家神道論の誤りを明らかにすることによってのみ、明治期から昭和戦前期までの神道の実態及び政府と神道の関係を把握することができると私は考える。(ページの頭へ)

 

第11章 日本文明の世界への貢献のために

 

 日本文明は、その中核に固有の宗教としての神道を持つ。その意味では、日本文明は神道文明である。大東亜戦争の敗戦と占領期の日本弱体化政策を以てしても、文明の中核である神道は揺るがなかった。もし神道が衰滅していたら、日本文明は西洋文明の周辺文明に成り下がっただろう。

日本文明の社会的な中心は、皇室である。皇室は、古代から神道の祭祀を行う。昭和天皇は敗戦後も皇位にあり続け、国民の敬愛を集めた。他の国の君主のように亡命したり、処刑されたりしていない。国民は同じ天皇を中心として、敗戦のどん底から復興を成し遂げた。押し付けられた日本国憲法のもとでも、国家(政府)と皇室の祭祀との結びつきは、全面的に否定されたのではない。天皇の祭祀は私事とされたとはいえ、天皇は、常に国民の安寧と世界の平和を祈っておられる。その祈りの内容は、公的な性格を持つ。そのような祈りを捧げる天皇を、国家及び国民統合の象徴と仰ぐのが、戦後の日本である。

昭和天皇が崩御された時、大葬の礼は神道の形式で行われた。海外から多くの首脳が参列した。古式ゆかしい日本の伝統的な祭儀が海外に放送され、世界に驚きを与えた。また今上陛下が践祚した際、神道で最も重要な祭儀である大嘗祭が執り行われた。これらの祭儀は、戦後日本においても、国家と神道には伝統に基づく結びつきがあることを示している。

次に、わが国には、国家のために一命を捧げた英霊を祀る施設として靖国神社がある。靖国神社については、拙稿「慰霊と靖国〜日本人を結ぶ絆」に書いたが、靖国神社は、明治天皇によって創建された招魂社が改称されたものである。靖国神社は、神道指令によって、政府との結びつきを断ち切られ、民間の一神社となった。だが、昭和天皇は敗戦後、昭和20年(1945)11月20日に、初めて靖国神社に参拝されて以後、昭和50年(1975)秋の例大祭までご親拝を30年間続けられていた。首相の靖国参拝が国際的な政治問題化したため、ご親拝が中断された。だが、その後も、靖国神社の春秋の例大祭では、勅使(天皇の使者)が差し遣わされ、「奉幣」が行われている。皇室が幣帛を伊勢神宮と靖国神社に奉る伝統は、現在に至るまで変更されていない。こうした事実は、日本国憲法のもとにあっても、国家と皇室の祭祀の関係が維持されていることを示している。

現在の日本における政教分離のあり方は、占領下に押し付けられた憲法が生み出したものである。日本人が自ら進んでこの様なあり方を定めたものではない。そもそも国家と宗教、政府と宗教団体の関係は、国によって異なる。フランスでは、フランス市民革命の結果、政府とカトリック教会を切り離し、厳格な政教分離がされているが、それが近代国家の一般的原則なのではない。イギリスは、西方キリスト教の独自の教派である国教会を国教とする。エリザベス女王が国教会の首長であり、また国営の慰霊・追悼施設を持つ。だが、そのイギリスこそ、近代的な自由が最も早く保障された国であり、現在も自由主義の主要国の一つである。イギリスから独立したアメリカは、国教を持たないが、大統領の就任式では、キリスト教の聖職者が宣誓に立ち会い、大統領は聖書に手をおいて宣誓する。わが国はわが国としての政教分離のあり方を取っており、フランス型の厳格なものではなく、独自の精神文化と長く維持されてきた伝統を踏まえた緩やかな政教分離となっている。日本は日本のあり方でよいのである。

私は、日本における国家と神道の関係については、天皇が行う皇室の祭祀を御公務の一部とすべきと考える。また靖国神社は英霊を慰霊・追悼するための施設とし、天皇がご親拝できる環境をつくるべきと考える。このようにしても、国民の信教の自由は、政府によって侵害されることはない。昭和10年代のように、天皇の権威の絶対化や国民への過剰な統制が行われないように防止すればよい。

わが国は、世界に比類のない国柄を持ち、固有の宗教である神道を持ち、天皇は古代から今日まで、第125代にわたって一貫して男系で継承されている。日本文明は、一国一文明という他の主要文明にない特徴を持つ。他に類例のない日本文明は、自らの国柄・伝統・文化にふさわしい独自の政教関係を築き上げればよいのである。そして、そのような環境のもとで、神道に潜在する可能性が民間で自由に発揮されるようになる時に、日本文明の世界の平和と繁栄への新たな貢献がなされるだろう。(ページの頭へ)

 

 

第3部 世界の中の日本神道

 

日本文明は、20世紀後半に発展期から飛躍期に移行した。この日本文明の飛躍期において、神道は新たな可能性の開花を期待されている。

従来の神道は多神教的であり、アニミズム的かつシャーマニズム的である。全国各地にある8万社といわれる神社では、さまざまな神が祀られ、その時々の祭りが行われている。また、種々の風習・慣習が守り続けられ、実に多様な姿を示している。その現実が神道の実態であり、また日本の文化である。

神道がこの状態のままに止まっていたら、単なる民族宗教で終わるだろう。神道の中にある価値は、日本文明以外の文明や人類社会に生かされることなく、封じられたままとなるだろう。しかし、今日、外国人の有識者で神道に注目する人々が、次々に現れている。日本人は、彼らの発言に耳を傾け、神道に内在する豊かな可能性をよく自覚すべきである。

 第3部では、日本文明の飛躍期において世界の中の日本神道を考えるために、外国人有識者の神道に寄せる期待を書きたい。

 

(1)「明日への挑戦は神道への復帰」〜トインビー

 

 アーノルド・トインビーは、世界の文明史を書き表した20世紀最大の歴史家である。彼は、日本は明治維新による近代化や日露戦争の勝利によって世界史を転換させた、と高く評価している。そして、次のように述べている。

 「日本はアジアで最初に近代文明を受け入れ、欧米に対等に対抗できたのだから、アジア諸国はその声に耳を傾けるだろう。そして、そこに人類が一つの家族となるための、日本の先駆けとしての役割がある」

 トインビーは、日本文明を一個の文明ととらえた。彼の日本文明の理解は十分なものではなかったが、日本の文化の根源に神道があることを洞察したのは、流石である。彼は、昭和42年(1967年)に来日し、11月29日に伊勢神宮に参拝した。そこで彼は、毛筆で記帳し、次のように書いた。

 ”Here in this holy place I feel the underlying unity of all religions.”(この聖地で私は、すべての宗教の根底にある一体性を感じる)

 トインビーは日本文明の中核にある宗教として、神道の可能性に注目した。

昭和49年(1974年)、日本の国際PHP研究所は、晩年のトインビーの論文を編集し、『日本の活路』と題して刊行した。その中に彼の世界及び日本に関する所見が述べられている。

 本書で、トインビーは、文明史的な視野から、現代世界で今こそ必要なものについて、次のように訴える。

 「今日、人間性が精神的に最もさし迫って必要としているものは、復興(ルネッサンス)である」「現在、世界のどの地域を見ても、精神的復興がいまこそ緊急に必要であることが、広く認識されている」

 トインビーが精神的復興の必要を訴える理由は、技術の発達による自然環境の破壊が進んでいるからである。

 「最初は、人間は自然の奴隷だった。いまでは人間は、自分自身の技術の奴隷である。しかも、人間にとって、人間の技術というものは、かつての自然よりもはるかに恐るべき主人なのである。これこそ、人間が直面している現在の実態にほかならない。それはまさに新たな精神的復興を緊急に必要としている苦境ということができる」と述べている。

 また、「私たちは自然に対して物理的な暴力を加えてきた。そして、私たちはいま、祖先が抱いていた自然への畏敬の念を失ったことに対して、高価な精神的代価を支払っている」と記した。

 トインビーは、母国イギリスにおける産業革命以後の自然環境の破壊について触れ、同じことが日本でも起こっているのを見て、「私はやはり、心をかき乱される」と述べている。続いて、「日本はことのほか美しい自然に恵まれた国で、しかも国民の美的感覚が、世界全体の通例より、はるかに高度に培われている国でもあるからである。自然の汚染は、それ自体が悪い行いであるばかりではない。それはまた、私たちが同じ人間同士の調和を失ってしまったことの徴候であり、象徴なのである」と書いている。

 そして、トインビーは「西洋がどうしても学び、心に留めなければならない教訓を、東洋は持っている」として、その一つに「人間と人間以外の自然との本来の調和を取り戻す方法」を挙げる。

 トインビーは、日本は、「その固有の宗教と哲学の中に、現代人の自然からの疎外に対する、貴重な矯正手段を持っている」と述べ、神道に注目すべきことを説いている。

「神道は、人間とそのほかの自然との調和のとれた協調関係を説く。神道によれば、自然は神聖であり、侵すことのできない権利を持っている。人間には、そうした自然の権利を尊重すべき宗教的義務がある。そして、もし人間がそうした権利を侵したら、その報いを受ける、とされている。日本国民は、自然の汚染によって、すでに報いを受け始めた。彼らは自然を怒らせ、自然に報復を余儀なくさせることによって、わざわいを招き寄せた。しかし彼らは、実は神道の中に、そうしたわざわいに対する祖先伝来の救済策を持っている」

 「自然と調和して生きることは、人間が生き残るための必須の条件である。これはまぎれもなく神道の教えにほかならない」

 そして、また次のように述べている。

 「どん欲ではなく畏敬こそ、自然に対する私たちの態度を支配する感情でなくてはならない。明日への挑戦は、神道への復帰である。西洋の見地からいえば、キリスト教や回教以前のカナン人、ギリシャ人、ローマ人の、宗教への復帰なのである」

 「技術は、全人類に対して同じ精神的挑戦状を突きつけた。私たちは、精神のルネッサンスを達成することによって、この挑戦にこたえなければならない。もし私たちが失敗すれば、人類の前途そのものが暗いものになる」

 人類の精神的ルネサンスを達成するために、トインビーは、神道への復帰を提唱した。神道の復興は、日本にとっても、また西洋諸国にとっても、さらに人類の生存のためにも必要だと訴えたのである。(ページの頭へ)

 

(2)「神道は世界へのメッセージを持つ」〜メーソン

 

 ジョセフ・ウォーレン・ティーツ・メーソンは、アメリカ人でありながら、神道を信奉したアメリカ人だった。1879年生まれのメーソンは新聞記者となり、ロンドンに行って日露戦争の記事を書いた。それが、彼が日本に関心を抱くきっかけとなった。アジアの小国日本が大国ロシアを破ったことが、彼の心を揺さぶったのである。

 メーソンは、日本が急速に近代化できたという事実に驚いた。そして、その理由は、神道にあるのではないかと考えるようになった。昭和7年(1932年)、満州事変の翌年に、彼は初めて来日した。その年、30年間続けた新聞記者を退職すると、その後は晩年まで神道の研究に没頭した。そして自分を「神道イスト」と規定して、神道への信奉を隠さなかった。

 著書『神ながらの道』に、彼はこう書いている。

 「日本が有する永久的進歩の力は、日本民族の創造的精神に基づく。…人類と自然とを、全能の神によることなく、自ら物質的進歩を創造する神霊だと考える一つの原始的直観である。日本を知るには神道を理解する必要がある」

 メーソンは、神道は日本人が原始時代に発見した直観的真理であり、日本民族の創造活動の原動力であるととらえた。メーソンは、神道は一神論・多神論・汎神論ではなく、「汎霊論」であると主張した。そして、一切は神霊であり、神霊は万物を離れては存在しない、万物そのものが神霊であり、物と神とは表裏一体であり、万物は神霊の自己表現である、と考えた。

 しかし、日本人はこれまで「言挙げせず」と言って、神道の真理を言葉で語ろうとはしてこなかった。そのため西洋人にとっては、神道は原始的で低級な宗教と思われている。だが、実際はそうではない、とメーソンは言う。

 「違った霊性を有する西洋人が、日本人に神道の意義を問うたのに対して、日本人がその意義を知らぬと答えたとしても、神道は無意義なものであることにはならぬ。日本人は神道を分析していないというだけのことである。創造的原動力、詳言すれば、日本人に対する神霊的・心意的エネルギーの刺激としての神道の力は、言説的解釈の欠如に関係なく、常に存在しているのである」

 メーソンは、これまで語られることのなかった神道を客観的に解釈し、現代的な説明をしようと試みた。そして、神道は日本民族だけのものではなく、世界に通じるものとして紹介した。メーソンは、「創造的進化」を説いた哲学者アンリ・ベルグソンの「エラン・ヴィタール」(生命の飛躍)とは、神道精神のフランス版にすぎないと言っている。

 とはいえ、メーソンは決して盲目的な神道信奉者ではなかった。昭和11年(1936年)の2・26事件の時、言論弾圧にたえかねた彼は、一時、日本を離れた。そのとき、彼は「日本にはもはや神道は滅亡しつつあるようだ。極端に言論の自由の許されるイギリスのハイド・パークに行って神道を学ぼう」と言った。軍部が推進する神道は、本来の神道の精神とは違う、と彼は見抜いていたのである。

 そして、メーソンは、将来、真の神道が発展することを期待していた。

 「神道は日本の世界文化に対する主要貢献たり得るけれども、日本はまだいかにしてその貢献をなすべきかを知らない。神道は世界に対してメッセージを持っている。しかしこのメッセージ普及の使命は日本の負うべきものである」

 「日本における神道の影響は、あまりにも長く内面的潜在意識的心意の上にのみ局限されていた。知識が現代の如く発達した時代は、直観的意味と同時に自覚的理解としての知識を要求する」

 「もしも日本がその潜在意識的直観力を保持し、しかも同時に自覚的自己表現的分析力を発達せしめ得るとすれば、日本文化はいまだかつて他民族の企ておよばざりし高所にまで達するであろう。しかし、もし日本人が自己の内なる独創性を発展せしめることなく、徒らに海外に自覚的霊感を求むならば、日本精神と神道の創造的精神とは潜在意識的沼地に埋没し、日本の将来における発展を促進する上でますます無力となり行くであろう」

 メーソンは、昭和16年(1941年)にアメリカで没した。亡くなるとき、彼は「遺骨は日本に葬れ」と遺言した。パナマ運河を経て、遺骨が日本に着いたのは、日米開戦の後だった。しかし、彼の遺志は尊重され、遺骨は東京の多摩霊園に葬られた。彼の墓の隣にある記念碑には、「J・W・T・メーソン、米国の新聞記者にして然も神道の信奉者・日本精神の賛仰者なり」と刻まれている。(ページの頭へ)

 

(3)「日本を待望する」〜ジェルマントマ

 

 オリヴィエ・ジェルマントマは、フランスの著名な作家である。またフランス国営文化放送プロデューサーとして、紫式部から三島由紀夫まで、日本文化を紹介する多くの優れた番組を送り出してきた。

 ジェルマントマは、科学の進歩の過程で、「人間と天の間に有史前の最も遠い昔から結びあわされてきた絆」が失われてしまったと考える。そして「いかに、いま、人間が霊性の世界を必要としているのか、そのことは、これを忘却したがゆえに窒息状態にある我々西欧人が誰よりもよく知っている」と著書『日本待望論』で語る。

 そして、この失われた霊性が生き続けているのが日本の神道だ、とジェルマントマは考える。そして、日本の最も貴重なる文化財は神道だという。これは、多くの人にとって意外なことかもしれない。しかし自然に聖なるものを感じ、自然と調和し、自然とともに生きる、それが日本人の生き方だった。そうした生き方が、宗教的な形として現われているのが、日本神道である。神道には、現代人が物質的欲望と自然の征服支配の過程で忘れてしまった、本来の心が、今も生き続けている。

 「神道こそ、あなたがたが世界でユニークなる民族たることの証であり、万邦の繁栄のためにユニークであり続けなければならないことの証である」「神道がその開かれた精神を汲み取る源泉は、その自然の表し方にあり、そして自然は普遍的存在なのである」(『日本の息吹』平成11年1月号)

 こう語るジェルマントマは、何度も来日して、日本各地を旅し、多くの神社、霊地を訪れている。

 「ある雨もよいの日、筑波山神社に詣でた。山中で迷い、そのとき、再び神々の力を感じた。霧のなかにひとりさまよい、風と木々の生きた気配に囲まれたとき、直感として胸に閃いたのである。私共の先祖ゴール人(もっと遡ればケルト人)がキリスト教以前に持っていた信仰は、きっと、神道に近いものだったに相違あるまい、と。

 そして、それこそはまさに、神道のなかに普遍的な姿が感じられる証というべきではないだろうか。この何かが、あなたがた日本人には託されているのである」と著書に書いている。

 近年、欧米では、物質文明への反省や地球環境問題の取組みから、再び自然を聖なるものと感じようとする運動が起こっている。ジェルマントマは、次ぎのように語る。

 「自然の神聖化(sacralisation)への内的欲求がますます高まりつつある今日、神道の霊的影響を日本の国外に及ぼすべき機会がついに到来したといえるだろう」(『日本の息吹』平成11年1月号)

 「日本民族の勇気、万邦安寧の礎たらんとする熱誠、自然や神々との緊密な結びつき、歴史の連続性、文化の奥深い独創性などからして、日本こそ、明日の文明の座標軸の一つとなってしかるべきではないだろうか」(『日本待望論』)

 ジェルマントマは、日本は、自然と調和した新しい文明の実現に貢献すべきだと考えている。そしてそのために、日本は戦後失われた、真の独立を回復すべきだと諸著で訴える。

 「何故、もっと重要な役割を国際場裡で果たし、もっと毅然と、千古脈々たる『大和魂』を発揚しようとはしないのか」

「『我々は積極的に世界の諸問題に介入すべきである』という思考方法を身につけたとき、日本人が日本を見る見方は、一変するだろう」

 ジェルマントマは、日本が自主独立の気概をもって、新しい地球文明のために積極的に活動することを待望しているのである。(ページの頭へ)

 

(4)「将来の世界の霊性は神道から出る」〜ピッケン

 

 スチュアート・ピッケンは、昭和17年(1942年)生まれのイギリス人で、スコットランドの出身である。かつては英国国教会の牧師だったが、日本の神道と出会って、その研究に打ちこむようになった。昭和47年(1972年)から国際キリスト教大学で25年間教鞭を執り、名古屋商科大学の教授等を歴任した。

 ピッケンは、自らの神道観を、次のように語っている。(『日本の息吹』平成11年4月号による)

 「第一は、人間と自然とが一つということである。ここでの自然とは大宇宙、大自然というべきかもしれない。西洋では人間と自然が対立し、離れてしまっている。

 第二は、お祓(はら)い、お清めである。これが非常に大事である。

キリスト教の場合、罪という観念は、自分が直接犯したものにとどまる。つまり、道徳的に懺悔すれば終りである。しかし神道では人間の生活においては、自分の責任でなくても罪穢れが付くと考える。たとえば親戚の死や友達の病気に遭うことは自分にも穢れが付くと考え、それらも含めて清めるのが神道である。だから、とても心がきれいになる。

 第三は敬神崇祖という『縦むすび』と、他者との共存共栄という『横むすび』とがつながっていることである。キリスト教では神を敬うこと(縦むすび)と、他者と良き関係をむすぶこと(横むすび)とはそれぞれ別に考える。これに対して、神道では霊性が神に近くなれば、自ずと他者との関係もよくなる。ひとつにつながっているのである」

 こうしたピッケンの神道観は、彼の体験に基づいたものである。古来の神道には、禊(みそぎ)という行がある。ピッケンは、滝に打たれる禊を百回以上も行っている。そして、神道の禊と同じものが、かつては世界に広く行われていたと言う。

 「旧約聖書でもユダヤ人たちは川で禊をしいるし、スコットランドの古老も最近まで海で禊を行っていた。つまり、古道(こどう、いにしえのみち、Ancient Wayー大自然と人間とが一体になる Wayーーは、かつては世界中どこにでもあった人間本然のものだったのである。しかし、今日それは世界ではほとんど失われて、日本だけにその Way が神道として残っているのである」

神道には世界普遍の「古道」が守り継がれている、とピッケンは考えている。そして、将来の世界の霊性は、日本神道から現われる、と語る。

 「次の千年はどんな時代になるだろうか。現代文明を作り上げた西洋は三つの要素から成っていた。ユダヤ人宗教の霊性、ローマ帝国の法制度、ギリシャの哲学・科学である。

 法制度や科学はそれを引き継ぎ発展させる国はたくさんあるだろう。しかし次の時代の霊性はどこにあるか。キリスト教、ユダヤ教は疲れ果ててしまい、それを担う力はもうない。一方、英国のウェールズ地方では、今、太陽神の祭りが復活し、教会の礼拝の傍ら禊をしている牧師もいるという。

 つまり、今、世界には古道に帰ろうとする気運が起こりつつある。戒律や教義にしばられるのではなく、自然のルーツを発見し、それと一体となることを求めているのである。だから、私は将来の世界の霊性は、神道から出てくると信じている。そしてそれこそが日本の世界への一番の貢献なのである」

 

トインビー、メーソン、ジェルマントマ、ピッケンの神道への理解と期待を書いた。こうしたすぐれた外国人有識者の期待・助言を、私たち日本人は真摯に受け止め、今日に生かしたいものである。

ユダヤ教は、イエスが出るまでは、まったくユダヤ民族の民族宗教だった。今もユダヤ教徒は、まったくユダヤ的である。しかし、その中には、キリスト教という世界宗教が生まれ出てくるような潜在力があった。神道にもまた新たな世界宗教がそこから生まれ得る潜在力がある。

 私は今日の世界において、神道の本質を掘り下げ、その中にある潜在力を発揮することができれば、地球環境の保全や国際社会の共存共栄に資するものとなれるだろうと思う。そういう可能性が神道には眠っている。言い換えれば、日本の精神文化の中には、そういう可能性が潜在している。その可能性を生かすことができれば、日本の再建もできるし、世界の平和・繁栄にも貢献できる。逆に、それを生かすどころか見出すことさえも出来なければ、日本という国と文明は、段々沈み、溶け、消滅していく。そのどちらかであろう。

 今日、外国人の有識者で神道に注目する人々が、次々に現れている。日本人自身が、日本文明の宗教的中核であり、日本精神の宗教的表現である神道と、その中に潜む偉大な発展力に目を向けるべき時である。(ページの頭へ)

 

 

結びに〜神道はこの21世紀に開花する

 

私は、近代化の進行を、人類史における「近代化革命」と呼んでいる。近代化すなわち生活全般の合理化は、西欧に発し、世界に広がっている。現代は、さらに「新人類革命」の段階に入っている。日本文明はかつてない飛躍期にあり、日本人は地球の人類とともに「新人類革命」の時を迎えている。

11年ほど前、拙稿「心の近代化と新しい精神文化の興隆」に書いたことだが、本稿の結びでもそれと同じ主旨のことを述べたい。

近代化は、人間の心にかつてない変化をもたらした。心の表層と深層の両面からとらえるならば、合理化の進展は、個人・社会・人類・地球に、様々な問題を生み出した。

個人的には、意識と無意識の分裂が進み、理性と情念の分化が進んだ。認識論的に言えば、物心二元論、主客対立図式の登場であり、精神と身体・生命の分離、認識と実践が区別された。理性的自我意識の増強は、無意識を抑圧し、近代人は霊性を否定し、現世的で、人間中心的、個人主義的、物質志向的、経済中心主義的な考え方に陥った。理性が圧倒的に優勢になると、意識と無意識のバランスが取れなくなり、人格の分裂が起こり、自我膨張の思想が妄想され、また精神病が増加した。

社会的には、自己と他者の分化と対立が生まれた。共同体の解体と都市社会の形成が、個人主義を増大させた。個人と個人は相助原理ではなく、競争原理によって動くようになった。互いに感情的に融合し、全人格を持ってする結合から、各自の利害関心に基づく人格の一部のみでの結合に変わった。いまや家族・男女の間にまで、対立・抗争が広がっている。

人類的には、西欧と非西欧の間に支配・搾取の構造が作られ、世界規模で国家・民族・文明の対立・抗争が常態となった。そのつまるところが世界戦争であり、核兵器による人類滅亡の危機である。

地球的には、人間と自然の連続性・一体性が失われ、自然は対象化され、手段化された。人間による自然の征服・支配が進み、生態系が破壊され、人類は地球生命圏のガン細胞のような存在になっている。その悪影響は、地球環境の悪化となっている。

近代化の過程を概観して、人間が進歩したように見えるのは、知識の増大と物資の増産による。物質的世界に関する知識や、物質的素材を利用する技術は、急速に発達した。しかし、意識の、特に理性や知性の働きばかりが伸長して、無意識の領域は逆に抑圧され、人間の徳性や霊性はかえって退歩している。近代物質科学の発達が極めて急速だったために、人間の精神面がそれについて来られなかった。

顕著な変化が起こったのは、心の表層においてのみであり、心の深層には、近代人が忘れている広大な領域がある。そこには、人類に共通する集合的無意識が息づいている。人類は、心の近代化の一面性を認識し、内在する大いなる可能性を発現しなければならない。

そしてまさに今、人類は、新たな霊性の発達の段階を迎えている。心理学者のカール・グスタフ・ユングやアブラハム・マズローを継承したトランスパーソナル学は、近代化の過程で失われた人間の全体性の回復を推進している。それと同時に、科学と宗教の総合が実現されつつある。それによって、近代の世界観・自然観・人間観は、大きく転換しつつある。

これは、前近代への逆戻りではない。近代化・合理化の経験を経て、人類が新たな段階へと飛躍しようとするものである。一旦、物質科学の恩恵を受けた人類が、元に戻ることはない。テレビもコンピュータも携帯電話もジェット機も地下鉄も、もはや人類にとって欠かせないものとなっている。これらは、物質科学文明の所産である。課題は、こうした物質文化と精神文化の調和の回復である。物心両面にわたる高次のバランスの達成である。このためには、人類は霊性の実在を踏まえた精神的・道徳的な向上を成し遂げなくてはならない。

現代は科学が発達した時代である。従来の宗教では人々の心は満たされない。従来の宗教は、天動説の時代に現われた宗教である。今では、地球が太陽の周りを回っていることは、小学生でも知っている。パソコンやテレビ電話やスペースシャトルなどないどころか、電気や電燈すらなかった時代の宗教では、到底、現代人の心を導けない。いまや科学が高度に発達した時代にふさわしい、科学的な裏付けのある宗教の出現が求められている。

これからは、新しい精神科学的な宗教を中心とした、新しい精神文化の興隆によって、近代文明の矛盾・限界を解決する道が開かれるだろう。

人類は、この地球において、真の神を再発見し、宇宙・自然・生命・精神を貫く法則と宇宙本源の力にそった文明を創造し、新しい生き方を始めなければならない。そのために、今日、科学と宗教の両面に通じる精神的指導原理の出現が期待されている。世界平和の実現と地球環境の回復のために、そしてなにより人類の心の成長と向上のために、近代化・合理化を包越する、物心調和の精神文化の興隆が待望されているのである。

そして、ここにおいて日本文明が担うべき役割には、大きなものがある。西欧において始まった近代化を、非西洋社会で初めて成し遂げ、独自の展開をしてきた日本文明は、物心調和の精神文化の興隆が待望される時代に、大きな貢献を果たすべく期待されている。そして、この期待に応え得るものの一つが、神道に内在する可能性の開花である。

 21世紀に現れるべき新しい神道に求められる特長とは、次のようなものとなるだろう。

 

◆実証性 実証を以て人々の苦悩を救う救済力を有すること

◆合理性 現代科学の知見と矛盾しない合理性を有すること

◆総合性 政治・経済・医学・教育等のすべてに通じる総合性を有すること

◆調和性 人と人、人と自然が調和する物心調和・共存共栄の原理に基づくこと

◆創造性 人類普遍的な新しい精神文化を生み出す創造力を有すること

 

こうした特長を持った神道は、神道にして神道を超えたもの、また宗教にして宗教を超えたものであり、科学と宗教の両面に通じる精神的指導原理を持った新しい精神科学的な宗教と呼ぶことができよう。その実例については、以下のサイトをご参照願いたい。

http://www.srk.info/

(ページの頭へ)

 

関連掲示

・拙稿「人類史の中の日本文明

・拙稿「教育勅語を復権しよう

・拙稿「慰霊と靖国〜日本人を結ぶ絆

・拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ

参考資料

・安津素彦・梅田義彦監修『神道事典』(堀書店)

・国学院大学日本文化研究所編『神道事典』(弘文堂)

・小野祖教著『神道の基礎知識と基礎問題』(神社新報社)

・阿部正路著『神道がよくわかる本』(PHP文庫)

・武光誠著『日本人なら知っておきたい神道』『図説 日本の神々を知る神道』(青春出版社)

・『古事記』(岩波書店、角川書店等)

・『日本書紀』(岩波書店)

・大倉精神文化研究所編『神典』(大倉精神文化研究所)

・『日本思想大系』(岩波書店)

・『日本の名著』(中央公論社)

・『日本の思想』(筑摩書房)

・『世界大思想全集54日本思想篇』(春秋社)

・折口信夫著「大嘗祭の本義」(中央公論新社、全集所収)

・岩井利夫著『大嘗祭の今日的意義』(錦正社)

・杉浦重剛著『倫理御進講草案(三樹書房)

・加地伸行著『家族の思想』(PHP新書)『儒教とは何か』(中公新書)

・白川静著『孔子伝』(中央公論新社)

・福永光司著『道教と日本思想』(徳間書店

・福永光司+五木寛之著『混沌からの出発』(中央公論新社)

・吉野裕子著『隠された神々』(講談社新書)

・エマヌエル・トッド著『世界像革命 家族人類学の挑戦』(藤原書店)

・佐藤唯行著『日本人が知らないユダヤの秘密』(PHP)

・ミルチャ・エリアーデ著作集(せりか書房)

・カール・ユング著『人間と象徴』(河出書房新社)『心理学と宗教』(人文書院)

・天外伺朗著『ここまで来たあの世の科学』『未来を開くあの世の科学』(祥伝社)

・西田幾多郎著「場所的論理と宗教的世界観」(岩波書店、全集所収)

・樋口清之著『逆・日本史』(祥伝社)

・山本七平著『日本人とは何か。』(PHP文庫)

・渡部昇一著『日本の歴史』(WAC)

・武光誠著『海からの日本史』(青春出版社)

・安岡正篤著『日本精神通義』(エモーチオ21)

・和辻哲郎著『日本倫理思想史』(岩波書店)

・牧英正+藤原明久著『日本法制史』(青林書院)

・柳田国男著『海上の道』(筑摩書房)

・加藤玄智著『東西思想比較研究』(京文社)

・ホルトム著『日本と天皇と神道』(逍遥書院)

・村上重良著『国家神道』『天皇の祭祀』(岩波新書)

・葦津珍彦著+阪本是丸註『国家神道とは何だったのか』(神社新報社)

・坂本是丸著『国家神道形成過程の研究』(岩波書店)

・新田均著『近代政教関係の基礎的研究』(大明堂)『「現人神」「国家神道」という幻想」』(PHP研究所)「最近の動向を踏まえた『国家神道』研究の再整理」(論文)

・島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書)

・小堀桂一郎著『靖国神社と日本人』(文春新書)

・アーノルド・トインビー著『日本の活路』(国際PHP研究所)

・ジョセフ・メーソン著『神ながらの道』(たま出版)

・オリヴィエ・ジェルマントマ著『日本待望論』(産経新聞社)

 

補説 戦後の神社神道を統括する神社本庁

2016.10.23

 

大東亜戦争の敗戦後、GHQの占領下に、神道と政府との結びつきは断ち切られた。神社神道は戦前、内務省神社局、後の神祇院が統括していたが、戦後はその後継的存在として、宗教法人神社本庁が統括している。神社本庁は、全国約7万9000社の神社を傘下に置く包括宗教法人である。伊勢神宮を本宗とする。伊勢神宮も宗教法人であり、正式には、宗教法人神宮という。

 

神社本庁は、昭和21年(1946)2月に設立された。地方機関である都道府県の神社庁を通じて、全国の約97%の神社を包括している。宮司など神職約2万人、信者約8千万人を擁する。

「神社本庁庁規」は、神社本庁の目的を、包括下の神社の管理・指導、神社神道の宣揚・神社祭祀の執行・信者(氏子)の教化育成・本宗である伊勢神宮の奉賛・神職の養成・冊子の発行頒布を通じた広報活動など、としている。

平成28年10月現在、神社本庁の総裁は池田厚子氏であり、伊勢神宮祭主を兼ねている。統理は北白川道久氏で、前伊勢神宮大宮司である。総長は田中恆清氏で、石清水八幡宮宮司を兼ねている。

初代の総裁は北白川房子氏で、明治天皇の第七皇女だった。二代目は鷹司和子氏で、昭和天皇の第三皇女だった。現在の池田総裁は、昭和天皇の第四皇女である。

神社本庁の総裁は、伊勢神宮の祭主も務めてきた。祭主は伊勢神宮にのみ置かれた最高の役職である。神宮の祭祀に奉仕し、天皇の御心を伝えるとともに、伊勢神宮の神職をまとめる立場である。祭主は、明治以来、男性皇族が就く伝統があったが、GHQを意識して女性皇族が就くようにした。最近では、今上陛下の長女・黒田清子氏が臨時神宮祭主を務めた。

神社本庁を実質的に代表する統理を務める北白川道久氏は、初代総裁・北白川房子氏の孫で、旧皇族である。総長は、宗教法人の代表役員を兼ねる。

 

戦前の神社界には社格制度があり、明確な序列があった。戦後は、その名残から旧社格制度で核の高かった神社や規模の大きい約350社が別表神社として規定されている。別表神社の中には、祭礼の際に天皇から勅使が遣わされる神社として勅祭社がある。

勅祭社は16社あり、うち15社は別表神社である。賀茂別雷神社、賀茂御祖神社、石清水八幡宮、宇佐神宮、春日大社、熱田神宮、氷川神社、鹿島神宮、香取神宮、橿原神宮、近江神宮、平安神宮、香椎宮、出雲大社、明治神宮である。これらのうち、明治神宮は、平成16年(2004)に神社本庁を離脱したが、その後復帰している。出雲大社は、別に宗教法人出雲大社教を構える。

勅祭社のうち靖国神社は、別表神社ではない。靖国神社は、「日本国の護持の神社であるため特定の宗教法人の包括下に入るべきではない」ということから、神社本庁に包括されない単立神社となっている。神社本庁とは、協調関係にある。

 

神社本庁が各都道府県に置く神社庁は、各神社との間の事務を代行する。市町村にはその支部を設置している。

本庁と各神社は神宮大麻とその献金で結びついている。各神社には毎年、天照皇大神宮と書かれた神札が頒布される。これを神宮大麻という。神宮大麻は伊勢神宮の神札である。これを各神社が代行して下付する。その際に納める献金を、初穂料という。各神社は初穂料を全額、伊勢神宮に納める。伊勢神宮はその金額の半分を収入とし、残りの半分を神社本庁に交付する。(本宗交付金) 神社本庁はこの金額に多少増額させた額を各神社に配分する(本宗神徳宣揚費)。また、各神社は、神社庁を窓口として神社本庁に納付金名目で会費にあたるものを支払っている。納付金は基本的には氏子の数で決まる。

 

神社本庁は、政治活動のための団体として、神道政治連盟を有する。神政連は、昭和44年(1969)に設立された。神政連の中核は神職たちで、各地の神社庁ごとに地方組織が置かれ、地方議員連盟も組織されている。神政連は政治団体の届け出を行っておらず、政治献金もしない。参議院選挙では近年、自民党の山谷えり子氏、有村治子氏を支援している。

神政連の関連団体である神道政治連盟国会議員懇談会には、自民党を中心に301人(平成28年10月現在)の国会議員が加盟している。28年8月の内閣改造で、安倍首相を含む大臣20人中19人が神道議連のメンバーとなっている。例外は公明党の石井国交相のみである。

神社本庁は、保守系国民団体である日本会議の主要メンバーの一つである。日本会議では神社本庁統理の北白川道久氏が顧問を務め、総長の田中恆清氏が副会長を務めているほか、神政連会長などが代表委員を務めている。日本会議は、宗教的には神道・仏教・新興宗教等が宗教宗派を超えて集う国民組織である。日本会議もまた300人規模の日本会議国会議員懇談会を有しており、その加盟者の多くは神政連国会議員懇談会の加盟者と重複している。

 

大東亜戦争の敗戦後、神社神道はGHQによって危険視され、また左翼からは反動勢力とみなされてきた。しかし、神道の本質は、自然の法則に基づいて、人と人、人と自然が調和して生きる日本精神の宗教的表現である。調和を重んじる日本の伝統が見直され、また文明と自然環境との調和が切実な課題となって来るに従い、神道は日本国内だけでなく、世界的にも再評価されてきている。それとともに、神社神道が復興し、政治的・社会的・文化的な活動を活発化している。今後、伝統的な神道の中に潜在する可能性が、新しい神道の興隆によって、大きく発揮されるようになる時、日本が再建され、日本人は世界の平和と人類文明の調和的発展に貢献する道を力強く進むことができるようになるだろう。(ページの頭へ)

 

参考資料

・雑誌サピオ 「安倍政権を動かす神社本庁の密事」(平成28年(2016)11月号)

 

 

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