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オ ピ ニ オ ン ● 祝日の意味

 

題 目

目 次

■01 2月11日は、日本が始まった日

■02 ひな祭りの由来を知ってる

■03 春分と秋分にこめられた祈り

■04 4月28日は主権回復開始の日

■05 「昭和の日」に日本を思う

■06 「海の日」って何の日?

■07 11月3日を考える

■08 勤労感謝の日を、自然への感謝の日に

 

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2月11日は、日本が始まった日

2005.2.1初掲、2014.2.12加筆

 

2月11日は現在、建国記念の日という祝日になっています。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「建国をしのび、国を愛する心を養う」ことを趣旨としています。しかし、学校教育や新聞、マスコミなどの情報の中で、この日の意義は、ほとんど伝えられていません。

2月11日は明治時代から昭和23年(1948)までは紀元節と呼ばれていました。紀元節が設けられたのは、明治維新の後のことです。幕末の日本は、西欧列強の植民地にされるおそれがあり、その危機感の中で、日本人は、新しい国民結集の政治体制をつくろうとしました。その方向性を決定づけたのが、慶応3年(1867)12月に出された「王政復古の大号令」でした。その中には、「諸事神武創業のはじめにもとづき……」という文言があります。初代・神武天皇の建国をモデルにすることが謳われ、新国家建設が進められたのです。

神武天皇は、建国にあたり「八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」つまり「天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにする」という理念を掲げました。そして、奈良県の橿原の地で、天皇の御位におつきになったと『日本書紀』に記述されています。それは、「辛酉(かのととり)年春正月」の一日のことだといいます。この日を太陽暦に換算すると2月11日となります。そこで、明治6年(1873)に、2月11日が紀元節と定められたのです。「元」とは元始の義であり、また年号のことにも用います。そこで、日本の紀元の始まる日であるとして、紀元節と名づけたものでした。

アメリカは独立後に独立記念日、フランスは革命後に革命記念日を設け、毎年、国を挙げて祝っています。これにならい、日本は明治維新後に紀元節が定められたのです。そこには、国の伝統、建国の理念を踏まえつつ、新しい近代国家を建設しようという志が込められています。

こういう意義ある日ですので、明治憲法を発布する際にも、この日が選ばれました。帝国憲法は明治22年(1889)の2月11日に発布されたのです。国の初めの日に、新しい憲法を発布して、立派な国づくりをしようとしたわけです。

戦前、紀元節は国民的な祝祭日として祝われ、「雲に聳(そび)ゆる高千穂の……」という『紀元節』の歌が小学校などで歌われました。

 

ところが、大東亜戦争の敗戦後、わが国を占領したGHQは日本の伝統を破壊しようとしました。占領軍の資料『降伏後における米国の初期対日方針』には、「日本国が再び米国の脅威となり、または、世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にする」と、占領の目的が書かれています。すべて、この目的に沿って占領行政が行われました。

独立国同士の関係にあって、未来永劫に決して脅威とならなくするためには、米国の属国状態に置かない限りあり得ないことです。GHQはまさにそれをめざしました。

GHQは占領政策の一環として、昭和23年(1948)に祝祭日を変える方針を打ち出しました。これによって、紀元節はこの年をもって廃止されました。2月11日という日を否定することで、日本の神話、歴史、天皇と国民のつながりを破壊しようとしたのです。

昭和26年(1951)、日本はサンフランシスコ講和条約を結びました。国の独立回復にあたり、わが国の伝統を保ちたいとする政府は、世論調査を実施しました。その結果、祝日に残したい日の第1位は正月、第2位は4月29日の昭和天皇誕生日でした。この日は当時、天長節と呼ばれていました。今は「昭和の日」と呼ばれています。そして、残してほしい祝日の第3位が2月11日でした。

当時の吉田茂首相は、「紀元節の復活から手を付けていきたい」と国会で答弁しました。そして、昭和27年(1952)4月28日の主権回復以降、紀元節復活運動が行われました。法制化の努力が続けられた結果、昭和41年(1966)6月の国会で、ついに祝日法(国民の祝日に関する法律)の改正がなりました。この時、紀元節は、「建国記念の日」と名を変えて復活することになりました。昭和42年(1967)2月11日には、第1回の「建国記念の日」が祝われました。

このように、建国記念の日は、敗戦後、日本人の努力で取り戻した日です。国民の努力によって、日本の歴史の原点を取り戻すことができたものです。

 

戦後の日本は、6年8ヶ月に及ぶ占領が行われ、この間、日本弱体化政策が強行されました。昭和27年に主権を回復した後には、二つの動きがあります。一つは、占領軍の意志を引き継ぎ、日本の主権を制限されたままにし、固有の歴史観や国家観を否定しつづけようとする動きです。こちらは、「進歩的文化人」を代表とする近代化主義者や、社会主義者、共産主義者による動きです。これに対し、日本を再び独立自尊の国として立て直そうという動きもありました。その運動の代表的なものが、失われた2月11日を取り戻す努力、紀元節復活運動でした。担い手は、日本の伝統や文化を愛する人たちです。

昭和42年に、「建国記念の日」が制定されて以降、昭和49年(1974)には元号法制化の運動が起こり、昭和53年(1978)に法制化がなりました。また、昭和50年(1975)には昭和天皇のご即位50年奉祝運動が行われました。昭和60年(1985)には同じくご即位60年奉祝運動が行われました。また、「日の丸」「君が代」の法制化運動も行われ、これは平成11年(1999)に国旗国歌法が制定に結実しました。このように、日本再建に向けての努力は、戦後ずっと続けられてきたのです。その努力のきっかけとなったのが、紀元節の復活運動であり、2月11日の意義を知ることは、日本の伝統と文化を理解することになるのです。

 

さて、わが国の政府は一時、「建国記念の日」の建国記念式典を後援していたのですが、平成18年(2006)以降は記念式典そのものが行なわれていません。せっかく長年の努力によって回復した記念日が形骸化していることは、大変残念なことです。

「建国記念の日」が制定された昭和41年(1966)以降、「建国記念の日奉祝会」という民間団体が建国記念式典を開催し、本来は首相出席の上、政府が記念式典を主催すべきことを訴えてきました。昭和53年(1978)に総理府の後援が実現し、以後、文部省・自治省も後援に加わったのです。ところが、昭和59年(1984)、中曽根康弘政権は、式典プログラムから「神武建国」を削除すること、及び「天皇陛下万歳」を「日本国万歳」に変更することを、首相出席の条件として提示しました。民間側はこの政府の要求を拒否したため、昭和63年(1988)からは政府後援の「『建国記念の日』を祝う国民式典」と、民間側の「建国記念の日奉祝中央式典」が別個に開催されるようになりました。

民間主催の集会は、現在も一貫して「神武建国」「天皇陛下万歳」のある形で行われています。政府後援(主催ではない)の集会は「神武建国」「天皇陛下万歳」のない形で行われていましたが、平成17年(2005)に役員の高齢化を理由に式典が中止になり、翌18年(2006)には一切の行事が取り止めとなってしまいました。以後、記念式典そのものが行われていません。こうした現状を改善すべく国民運動が行われています。
 日本の建て直しは、日本建国の由来を知り、その伝統に誇りを持つことから始まります。政府が式典を主催するとともに、建国の由来を教科書に記載し、青少年に教育すべきであります。

 平成26年2月10日安倍晋三首相は、建国記念の日を迎えるにあたり、メッセージを発表しました。首相が建国記念の日に合わせてメッセージを出すのは、歴代政権で初めてのことでした。
 安倍首相のメッセージは次の通り。

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 「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨により、法律によって設けられた国民の祝日です。
 この祝日は、国民一人一人が、わが国の今日の繁栄の礎を営々と築き上げたいにしえからの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を誓う、誠に意義深い日であると考え、私から国民の皆様に向けてメッセージをお届けすることといたしました。 
 古来、「瑞穂の国」と呼ばれてきたように、私たち日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈り、美しい田園と麗(うるわ)しい社会を築いてきた豊かな伝統があります。
 また、わが国は四季のある美しい自然に恵まれ、それらを生かした諸外国に誇れる素晴らしい文化を育ててきました。
 長い歴史の中で、幾たびか災害や戦争などの試練も経験しましたが、国民一人一人のたゆまぬ努力により今日の平和で豊かな国を築き上げ、普遍的自由と、民主主義と、人権を重んじる国柄を育ててきました。
 このような先人の努力に深く敬意を表すとともに、この平和と繁栄をさらに発展させ、次の世代も安心して暮らせるよう引き継いでいくことはわれわれに課せられた責務であります。
 10年先、100年先の未来を拓(ひら)く改革と、未来を担う人材の育成を進め、同時に、国際的な諸課題に対して積極的な役割を果たし、世界の平和と安定を実現していく「誇りある日本」としていくことが、先人からわれわれに託された使命であろうと考えます。
 「建国記念の日」を迎えるに当たり、私は、改めて、私たちの愛する国、日本を、より美しい、誇りある国にしていく責任を痛感し、決意を新たにしています。
 国民の皆様におかれても、「建国記念の日」が、わが国のこれまでの歩みを振り返りつつ先人の努力に感謝し、自信と誇りを持てる未来に向けて日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望いたします。

 平成26年2月11日
 内閣総理大臣 安倍晋三
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この首相によるメッセージは、非常に意義深いものである。その趣旨を受け、国民が心を合わせて、「誇りある日本」の発展を目指していきたいものである。ページの頭へ

関連掲示
・マイサイト「国柄」のページ

 

ber117

 

■ひな祭りの由来を知ってる

2001.3.1

 

 2月には外来のバレンタイン・デーが大流行ですが、3月には、もっとはるかに意義の深い、わが国伝統の雛祭りがあります。その由来をご存知でしょうか。

 

●雛祭りの起源

 

 「雛祭り」の「雛」とはもともと雛形のことで、人間の雛形を意味します。古代の人々は、人形(ひとがた)を作ってそれで身体を撫で、自分の病や罪・汚れを背負わせて、川や海に流して祓い清め、健康や安寧を祈るという行事を行っていたようです。こうした古代の行事と、子供の人形遊びが結びついたことが、雛祭りの始まりと言われます。

 源氏物語にも、人形流しの故事が描かれています。今でも、各地に「ながしびな」の習俗が残っています。ここには、「汚れと清め」という日本文化の核をなす観念が見られます。

 「汚れ」とは、生命力を衰弱させるものであり、「清め」とはそれを祓い清めて、生命力をよみがえらせることです。この生命観は、日本文化の深底にあるものです。そして、わが日本人は、清らかで明るく素直な心を理想としてきました。それは清明心とも呼ばれます。もし「汚れと清め」の観念を否定するならば、日本文化の重要部分を破壊することになるでしょう。それは、近代化=合理化とともに、固有の伝統を否定し、脱日本化することです。これは、自らのアイデンティティを自ら否定する愚かな行為です。

 

●雛人形の由来

 

 雛人形の由来を振り返りますと、平安時代の貴族の女の子は、人形遊びのことを「ひいな遊び」と呼んでいました。「ひいな」は雛型人形のことですが、小さくてかわいいという意味もありました。今日のような雛人形は、室町時代ごろ宮中や貴族の間で始まり、江戸時代に武家、やがて国民全体に広まったといわれます。

 当初の雛人形は、立ち姿つくられたようなものでした。人形は、はじめは男女一対でした。江戸時代初期の寛永時代(17世紀)に、寛永雛と呼ばれる公家風の雛人形が表れました。これが改良されて、元禄雛、享保雛と、徐々に大型化し、優雅な人形になっていきました。また、雛祭りの習俗が、大名家を始めとする武家にも広まっていきました。そして、18世紀の半ば、1755年頃に、有職故実にのっとった正確な装束を着た人形が、つくられました。これは、有職雛と呼ばれるものです。

 江戸時代の後期には、豪華な装束を身につけた雛人形を祀り、雛壇に調度品を飾る今のようなスタイルが出来上がりました。そして、雛祭りは、商家や地方にも普及し、国民的な行事となっていったのです。

 

●江戸庶民の皇室への憧れ

 

 ここで注目すべきは、江戸時代には、今日想像する以上に、多くの人々が皇室への憧れを抱いていたことです。皇室への憧れは、明治になって初めて、政府が上から浸透させたというようなものではありません。江戸年間に、庶民の間に広く行き渡っていたものなのです。だからこそ、幕末の危機の時代には、天皇を中心とする国をつくろうという目標が、明治維新の原動力となったのです。

 江戸時代には、雛祭りだけでなく、百人一首なども民間で広く親しまれています。また皇室の仁愛や優美に憧れる心は、一部の階層や一部地域のことではなく、国民全体に浸透していたのです。皇室への憧れが、いかに広く深いものであったかは、江戸時代のあらゆる庶民文学や娯楽の中に、はっきりと表現されています。

 

●天皇・皇后の結婚を象徴

 

 こうした皇室への意識を背景として、雛人形は、江戸時代後期には、今日のような親王飾りとして完成されていきました。

 お内裏様とは、内裏つまり宮中ですから、天皇陛下のことを意味します。これに対するお雛様は、皇后陛下のことを意味します。そうした雛人形が、全国に広まったのです。

 雛祭りは女子の祭であり、健やかな成長、幸福な結婚、子孫の繁栄を願う行事となりました。親王とは、本来、皇子のことですから、お内裏様とお雛様は、皇太子の結婚の儀を表したものといえましょう。より広く言えば、天皇・皇后両陛下がご結婚されたときの姿と解せましょう。

 ちなみに三人官女、五人囃子等の人形は、皇室に仕える女官や雅楽の楽師等に当たります。また、雛壇に飾られる調度類は、結婚の際の嫁入り道具に当たります。

 

●現代に再現される「みやび」の文化

 

 現代においても、私たち国民は、皇太子殿下のご結婚の際に、平安絵巻さながらの装束を目の当たりにしました。また、昭和天皇から皇位を継承された今上陛下のご即位の儀式においても、天皇・皇后両陛下に、雛人形の源である「みやび」の姿を見ました。こうした模様は、世界中の国々に報道され、驚異・賛嘆の声が寄せられました。

 皇室の「みやび」の文化が、自然と庶民の生活に浸透し、皇室と国民が一つの文化を作り上げているところに、わが国の国柄が表れています。このことを最もよくとらえていた一人が、三島由紀夫でしょう。三島は、次のように書いています。

 「日本の民衆文化は概ね『みやびのまねび』に発している。そして、時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、『幽玄』『花』『わび』『さび』などを成立せしめたが、この独創的な新生の文化を生む母胎こそ、高度で月並みな、みやびの文化であり、文化の反独創性の極、古典主義の極致の秘庫が天皇なのであった。… 文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、ついに『みやび』の中に包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、というのが、日本の文化史の大綱である」(『文化防衛論』)

 

●桃の節句と神話の世界

 

 最後に、雛祭りが3月3日に行われる由縁についてです。これは、シナ伝来の3月上巳 (じようし)の行事と、上記のような人形による清めの習俗や、貴族の女子の人形遊びとが結合したものといわれます。

 3月3日は、桃の節句とも呼ばれます。古来、桃は桃源郷という理想郷に生えるものといわれ、邪悪なもの(=これも汚れ)を祓い清める霊力が宿るとされてきました。『古事記』には、妻のイザナミを亡くしたイザナギが黄泉国(よみのくに 死の国)から逃げ帰るときに、追ってくる黄泉醜女(よもしこめ 黄泉国の女、死の力が擬人化されたもの)に桃の実を投げ付けるくだりがあります。これは、桃のもつ霊力を物語っています。死の汚れを祓う「清め」の力です。

 この話に出てくるイザナギ・イザナミは、日本列島の「国生み」をした男女両神とされます。またイザナギの「みそぎ」(=水による清め)によって、天照大神・須佐之男命や自然の神々が生まれたと、日本神話は伝えています。

 こうして、3月3日の桃の節句に雛祭りを祝うことは、私たちの先祖が数千年もの間、語り継いできた神話の世界にも、つながっているのです。そこにも、「日本の心」を感じることができるでしょう。ページの頭へ

 

ber117

 

■春分と秋分にこめられた祈り

2002.3.20

 

 3月の春分、9月の秋分は、昼と夜の長さが同じ日です。どうして、こういう日が祝日になっているのでしょうか。祝日法には、次のように規定されています。春分の日は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」と。これら二つは、一見、全く関連がありません。片や自然賛美や生物愛護、片や崇祖・慰霊。昼と夜の長さが同じという日に、何の関係があるのでしょうか。

 

実は春分の日、秋分の日は、戦前にはそれぞれ春季皇霊祭(こうれいさい)、秋季皇霊祭という祭日だったのです。そして、その祭日の意味を振り返るとき、はじめて祝日法にあある「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことと、「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」こととが結びつくのです。

 

わが国では古来、先祖を祭る祭りが春、秋の2回行われてきました。皇室においては、天皇は春分・秋分の春秋二回、皇室の祖先の霊をお祭りになります。それが皇霊祭です。

この日、天皇は神武天皇をはじめ、歴代天皇・皇族の霊をお祀(まつ)りし、日本国と日本国民の無病息災を祈られます。この日は、春秋のお彼岸の中日にあたっており、私たち国民も祖先の祭りを行います。

こうした春分と秋分の行事の背景には、わが国古来の太陽信仰と祖霊崇拝があります。そして、皇室においては、太陽信仰と祖霊崇拝が一体のものであるところに、この日の意義を理解する鍵があるのです。

 

古代の日本人は、春分・秋分を境に、日が長くなったり、短くなったりする太陽の動きに、自然の摂理を感じたことでしょう。そして、私たちの祖先は太陽に象徴される自然の恵みに感謝し、収穫の豊穣を祈りました。祝日法における春分の日の説明、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」は、このあたりを指すものでしょう。ただし、その説明は、稲作文化に言及しなければピンぼけになってしまいます。「自然をたたえ」るのは、何より稲の実りをたたらす太陽の惠みに感謝することだからです。

次に、太陽の惠みへの感謝と、祖先の霊への崇敬が習合しているのは、どうしてでしょうか。理解の鍵は、皇室においては、太陽神を祖先神としていることにあります。皇室は天照大神(あまてらすおおみかみ)を祖先としています。そして天照大神は太陽の象徴とされますから、皇室では太陽信仰と祖霊崇拝は一致しているのです。それゆえ、春分・秋分の日に太陽(自然)をたたえる神事を行うことと、祖先の霊を祀る行事を行うことは、一つの行事となりうるのです。ここに春分は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、秋分は「祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ」という祝日法の規定が結びつくのです。

 

ところでお彼岸は、仏教の行事とされていますが、もともと仏教にはお彼岸やお盆の習慣はありません。インドの仏教には死者を祭るという考えはありませんでした。今でもインドは概ねそうです。例えば、ガンジス川の辺りでは、人が死ぬと、ガンジス川の川べりへ運び、その死体を焼きます。焼かれた灰はガンジス川に流します。ですからお墓がないし、先祖を祭る習慣もありません。そのインドに生まれた仏教にも、もともとその習慣がなかったのです。

これに対し、わが国には古来、祖先を祭る民俗行事、民間習俗がありました。また、春、秋の2回、先祖を祭る祭りが行われてきました。仏教が6世紀の半ばにシナから渡来しとき、この神道の固有の行事に仏教の考えが入り込んだのです。そして、春分の日を中日として、前後7日間を彼岸会(ひがんえ)と称し、仏教的な意味あいを加えた先祖供養を営むようになりました。

彼岸の法要は、平安初期から朝廷で行われ、江戸時代には庶民の間に年中行事化しました。中日には昼夜が同じ長さとなり、太陽が真東から昇って、真西に沈みます。その西に没する太陽を拝んで、念仏を唱えると西方の彼岸、極楽浄土に行けると信じられるようになりました。古来の神道の太陽信仰が、仏教の浄土信仰と結びついたのです。しかし、基盤となっているのは、神道の太陽信仰と祖霊崇拝です。太陽(自然)をたたえるとともに、祖先の霊を祭るという行事が、土台となっているのです。

 

このように見てきますと、春分の日、秋分の日には、わが国の固有の文化が表れていることがわかります。太陽を中心とする自然の恵みに感謝し、また祖先の霊の平安を祈る。そういう願いが、春分・秋分の日はこめられているのです。

今日では見失われている、一つ一つの祝日の由来を確認し、祝日を意義あるものとしたいものです。ページの頭へ

 

ber117

 

4月28日は主権回復開始の日

2005.4.27初稿、2007.4.27改訂

 

4月29日は、今年(平成19年)から「昭和の日」となった。長年にわたる「昭和の日」実現運動が実ったものである。

この運動とともに、4月28日を「主権回復記念日」にしようという運動が行なわれてきた。発起人は拓殖大学日本文化研究所所長の井尻千男(かずお)氏、東京大学名誉教授の小堀桂一郎氏、明治大学名誉教授の入江隆則氏のお三方である。運動が始まってから、今年で11年目になる。


●主権回復記念日に、という趣旨


 氏等の呼びかけ文によると、昭和20年8月15日は終戦の日ではない。その日に終わったとされるのは、彼我の間の戦闘状態にすぎない。「法的現実としての真の終戦の日は、軍事占領から完全に解放された昭和27年4月28日である」。4月28日は、わが国とその敵国であった連合国との間に結ばれた平和条約が効力を発生した日付である。「従って国際法的に本来の意味での大東亜戦争終戦の日である」。また同時に、「それまで旧敵国支配下の被占領国であった我が国が晴れて独立自存の国家主権の回復を認められた日付」である。「その日、我が国は、連合国による被占領状態が解消し、国家主権を回復した」のである。


 ところが、日本国民は、わが国の終戦手続き中の最重要案件であった国家主権の回復を、それにふさわしく認識し自覚しなかった。そして、「この重要な日を50年近くの年月、然るべく記念することをせずに」「歴史的記念の日の日付」を「忘却」している。そして、「毎年8月15日のめぐり来るたびに、東京裁判の判決趣旨そのままに、過ぐる戦争への反省と謝罪を口にし、5月3日ともなれば占領軍即席の占領基本法たる1946年憲法への恭順を誓う」。こういうことを繰り返している。そのため、政府も国民も、ますます主権国家としての認識を欠き、主権意識の自覚を欠いている。それは、講和条約の締結によって、被占領状態が終ると共に、戦後処理は基本的に終結したという認識を欠くためである。

それゆえ、氏等によると、記念すべきは8月15日ではなく、4月28日である。8月15日は、敗戦による戦闘状態の終結と軍事占領時代の開始の日である。これに対し、4月28日は、連合国との講和条約が発効し、被占領状態の終結と独立の国家主権の回復の日だからである。そして、氏等は、「主権意識の再生と高揚」を推し進め、4月28日を、アメリカにおける独立記念日に当たるような国家的な記念日に制定しようと唱えている。


●主権の全面的回復をめざして

 

次に、私の意見を述べたい。

主権回復記念日運動を進める方々が、主権とその回復の重要性を指摘していることには、異論がない。私は、その主張によって蒙を開かれ、また、この運動を支持する者である。ただし、名称と意義付けは、今のままでは一部の人には混乱を与え、多くの人には中途半端な印象を与えると思う。この運動を広く、国民に知ってもらい、拡大発展させるためには、事実認識をより明確にする必要がある。

私は、4月28日は「主権回復記念日」ではなく、「主権回復開始の日」と改称し、日本人がいまだ成し遂げていない課題を確認する日とすることを主張する。なぜなら、わが国は、昭和27年4月28日に、独立自存の国家主権を完全には回復し得ていなかったし、55年後の現在も今なおそうだからである。

 

日本は、戦後、マッカーサーの占領政策=日本弱体化政策による改変をされ、憲法を押し付けられた。その状態のままで、講和条約が発効した。この時、回復した主権は、限定的であった。GHQ製の憲法は、国際法に違反して制定された占領基本法とでもいうべきものである。これによって、国家主権の重要要素をなす国防権は、大きく制限された。この憲法の改正を成し遂げるまで、わが国は、占領基本法としての憲法を押し頂いている状態である。また、領土権は、ソ連によって北方領土を不法占拠され、米国によって奄美大島・小笠原諸島・沖縄を統治されていた。歴史解釈や教育・信教に関する権利は、形式的には回復したものの、占領期間に大きく破壊・歪曲されたままである。

それゆえ、昭和27年4月28日における「国家主権の回復」とは、部分的限定的回復に過ぎない。この日は、そこから全面的回復に向かうためのスタートとなった日であって、それ以上ではない。憲法を改正して自主憲法を制定すること、自力で自国の国防を行う国軍を持つこと、不法占拠されている領土を回復することである。これらを成し遂げてはじめて、「国家主権の確立」と言える。周辺国による歴史教育や靖国神社首相参拝等への内政干渉をしりぞける外交も、そのうえで初めて真に有効なものとなる。

このように考えると、現在の「主権回復記念日運動」は、その名称及び4月28日の意義付けにおいて、一部の人には混乱を与え、多くの人には中途半端な印象を与えると思う。4月28日は主権回復記念日ではなく、主権の部分的回復を祝うとともに、主権の全面的回復の課題を確認し、主権の確立を決意する日とすべきと思う。


●戦後体制からの脱却を


 昨年(平成18年)10月成立した安倍政権は、「戦後レジュームからの脱却」を掲げている。戦後体制から脱却するには、主権を全面的に回復しなければならない。

昨年12月、教育基本法が改正された。これはその一環である。次は、憲法の改正である。憲法の改正こそが、主権回復の最大の課題である。また、皇室制度の回復・強化が、これと深く関連した課題として実現されねばならない。また、主権を侵害されている領土である北方領土の返還という課題がある。

こうした課題を確認する中で、「4月28日」という日の持つ重要性を、日本国民の一人でも多くの人に知っていただきたいと思う。ページの頭へ

 

ber117

 

「昭和の日」に日本を思う

2007.4.29

 

今年(平成19年)から、4月29日は「みどりの日」から「昭和の日」に、5月4日は「国民の休日」から「みどりの日」に変わった。

「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」と祝日法に、規定された。

 

●昭和という時代を振り返る


 昭和という時代を振り返るに当たり、大塚寛一先生が、昭和の時代をどのように見ておられたかその大意を記したい。

明治時代の日本人は、日本精神を中心として一致団結していた。だから、6億のシナや3億のロシアに勝つことができた。ところが、日本人は、それ以後、段々、日本本来の特質を忘れ、一にも欧米、二にも欧米という考えにとらわれてしまった。大正の初めごろから、さかんに外来思想をとり入れ、それを中心に動いてきた。外来思想とは英米の資本主義、自由主義がそうだし、共産主義も入ってきた。その結果、本来の日本精神がないがしろにされ、政治家も日本の本質がわからなくなってしまった。

 日清・日露戦争に勝った後、アジアは安定し、自分から攻めて行かなければ他から攻撃されるような心配がなくなった。そうなると次第に、政治家が国のことよりも、自分の利益にとらわれて、腐敗・堕落していった。その政界の腐敗ぶりを見かねて、軍人が政治に口を出すようになった。明治天皇は、「軍人は政治に関与してはならない」という勅諭を出しておられるが、軍人がそのお言葉に背き、政治に介入するようになった。そして、青年将校などが、時の政府を倒せばなんとかなると考えて、5・15事件、2・26事件を起こした。また海外では、軍部が満州事変を起こし、支那事変にいたると、シナで泥沼のような戦いに引きずり込まれていった。

 当時、わが国では盛んに日本精神が唱えられていた。しかし、大塚先生は、当時の学者や文化人等が唱える日本精神は、本来の日本精神からはずれてきていると見ておられた。そして、昭和14年9月11日、「大日本精神」と題した建白書の送付を開始された。先生は、独伊と結ぶ三国同盟に反対し、対米英開戦に反対・警告された。奥様の国恵夫人が先生の書いたものを編集・印刷・発行された。毎回千余の建白書を、時の指導層に送り続けた。開戦すれば、日本は大敗を喫し、新型爆弾が投下され、大都市は焦土と化すと予言された。しかし、時の指導層はその建言を受け入れなかった。

 そして、ヒットラーやムッソリーニ等の覇道をまねた東条英機が、遂に英米と開戦した。そのため、日本は建国以来はじめての敗戦を喫してしまった。

 昭和天皇は、三国同盟に反対され、英米との開戦を避けるよう強く願われていた。当時の軍部は、明治天皇の遺勅に反し、昭和天皇の御心に背いて暴走した。


 戦後は、日本精神そのものが間違っているように教育している。しかし、大塚先生によれば、日本精神が悪いのではない。指導者が日本精神を踏み外したのである。

 戦後の日本は、いま述べたことを根本的に反省して、再出発すべきだった。しかし、その反省をせずに進んできていることに気づかねばならない。


●昭和の残課題を達成し、日本の役割を果たす


 本日(平成19年4月29日)は、初めての「昭和の日」である。この日は、昭和という激動と復興の時代を振り返る意義ある日である。それとともに昭和の残課題を確認し、その課題の遂行に心を新たにする日でありたい。
 私は、残課題の最大のものは、日本人が日本精神を取り戻すことであると考える。自己本来の精神を失った国民・民族は、21世紀の世界で存立・繁栄を保てない。

 まず日本精神を取り戻し、具体的には三つの課題を成し遂げる必要がある。それは、憲法の改正、教育の再生、皇室制度の復活・強化である。これらは、安倍政権が「戦後レジュームからの脱却」と掲げている目標の中心部分と重なる。これら三課題を達成してこそ、経済・外交・安全保障・家庭・脱少子化等の分野でも改善が可能となる。

 これらは、本来昭和の時代になすべきことだった。今、この平成の時代に早期になし終えるべき課題である。


 世界全体で見れば、21世紀の人類の課題は、世界平和の実現と地球環境の保全である。わが国は、これらの地球的課題において、中核的な役割を担う立場にある。

 課題の成就には、時限が見えてきている。前者のタイムスケールは、米中対決であり、後者のタイムスケールは、地球温暖化である。


 米中対決は、2020年代半ばから30年代以降に現実的な可能性が高まる。その時、台湾・東シナ海の覇権をめぐる戦いに、わが国は直面することになるだろう。これは、わが国の存立・興亡に関わる事態となる違いない。
 また、地球温暖化は、NASAゴッダード宇宙研究所のハンセン博士は、人類の努力によって地球温暖化を阻止するには、時間はあと10年しかないと警告する。2010年代半ばが分水嶺となるだろう。イギリス政府に気候変動が経済に及ぼす影響について報告したスターン博士も、温室効果ガスの削減対策を実行しないと、世界の平均気温が2度Cを超えるのは、2035年と予測する。

 これらの米中対決による世界核戦争の危機、地球温暖化による大洪水の危機を乗り越えて初めて、持続可能な人類社会、物心調和・共存共栄の新文明をこの地上に実現できるだろう。


 日本人は、日本精神を取り戻し、日本の再建を進め、世界平和の実現と地球環境保存に最善を尽くすべきである。その努力は、自国を生かし、また人類を善導するための努力となると思う。

 

●昭和天皇の事績を語り継ぐ

 

「昭和の日」となった4月29日は、もともとは、昭和天皇のお誕生日だった。

昭和という時代は、日本の歴史の中で最も濃厚な時代だった。昭和の日本は、昭和天皇の存在抜きに振り返ることができない。昭和天皇の事績を知り、それを語り継ぐことが、昭和という時代の日本を理解し、その時代の努力を今日に生かすことになると思う。

昭和天皇については、「君と民」の項目18〜27の拙稿を、ご参考に供したい。

 

●「昭和の日」の実現をめざした動き

 

※「昭和の日」の実現をめざす運動が行なわれた時期に書いた拙稿を、当時のまま以下に掲載し、記録としてとどめる。(平成17年4月13日記)

 

4月29日は、昭和天皇の誕生日でした。国民多数の心に、昭和天皇の人柄をしたい、激動の昭和を忘れがたい気持ちが強くあったために、祝日として残されたのです。当時「昭和記念日」にすべきという有力な意見があったのですが、結果は「みどりの日」ということになりました。

昭和天皇は植物を愛し、自然環境の保護にも心を注がれたので、その点では「みどりの日」というのもよいのですが、祝日法の条文には「みどりの日」について、「みどりの日」は「自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」とあるだけで、昭和天皇や昭和時代のことにまったく触れていません。制定後、10数年たちましたが、「みどりの日」は植樹など「みどり」に関する行事ばかりで、昭和天皇をしのんだり、昭和時代を論議する行事はほとんど行われていません。そのため、平成も5年、10年とすぎると、この日が昭和天皇の誕生日であったということを知らない国民が増えており、このまま放っておけば、この日の本来の意義は忘れ去られてしまいます。10代はもちろん20代の人たちは、この日の由来すら知らない人が多いようです。

これでは歴史の忘却となり、世代の断絶となりかねません。そこで、この日を、「みどりの日」から「昭和の日」に改めようという運動が湧きあがってきたのです。

 

 主体は「『昭和の日』推進国民ネットワーク」(会長 鈴木英夫 兼松名誉顧問)です。国会議員連盟が組織され、国会での動きが超党派で行われるとともに、地方議会での決議も推進されてきました。昭和の日推進ネットは、170万人の署名を達成し、早期に祝日法の改正をめざす運動を展開してきました。しかし、「昭和の日」成立までの道のりは容易ではありません。

 本年(平成17年)4月5日、三度目の上程となる「昭和の日」法案が、衆議院本会議にて可決されました。次は参議院での審議となります。法案は4月29日を「昭和の日」とし、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ための祝日とするとしています。これまでの「みどりの日」は5月4日の「国民の休日」をこれに換え、「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ための祝日とします。施行期日は「平成19年1月1日」です。

 

 外国の祝祭日は、例えば米国では国父・ジョージ・ワシントンの誕生日や独立記念日、コロンブス・デーなど歴史的な記念日がほとんどです。欧州諸国や中国なども同様です。そこには、祝祭日は、国民がともに歴史について考え、国への思いを深くするためにあるとの発想があるからでしょう。

 その点、わが国で歴史にかかわる日といえるのは、2月11日の「建国記念の日」のみです。明治天皇の誕生日でかつて「明治節」と呼ばれた11月3日も、戦後は「文化の日」と改称され、歴史的意味が失われています。歴史的な意味を失った祝日は、単なる休日にすぎなくなります。

一つの国家が国家として存立するには、国民に自国を維持・発展させようという意思があらねばなりません。国民を国民たらしめる最も決定的な要素は、人種・文化・言語・宗教・居住地が決定的ではなく、同じ歴史を共有してきたという意識です。つまり歴史的アイデンティティが、国民的アイデンティティの核心です。

 ユダヤ民族には、「忘却は亡国につながる」という言葉があるそうです。自国の歴史を忘れた民族は、自国の精神を失って、自ら亡ぶ、というのは歴史の示すところです。4月29日が「みどりの日」のままでは、日本人は「昭和という時代」とともに自国の歴史を忘れ、夢遊病者のように、亡国への道をフラフラとたどりつづけるでしょう。

 逆に、この日を「昭和の日」とすることで、国民の自国の歴史に対する関心を深める一助になるでしょう。また、祖父母・父母・兄弟姉妹が生きた一つの時代を思い起こし、記憶と体験を共有することが出来るでしょう。

アイデンティティを喪失させる自虐的な歴史観によって、国民の歴史意識が失われている現在、「みどりの日」を「昭和の日」と改めることは、日本の元気を取り戻すために有意義なことだと思います。 

「昭和の日」法案は、過去に2度廃案となっています。今度はそういうことのないように、参議院での早期可決に期待したいと思います。

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ber117

 

「海の日」って何の日?

1999.7.15

 

 7月20日は「海の日」です。この日は、どんな意義があって、祝日とされているかご存知でしょうか。

 わが国には、意義のはっきりしない祝日が多く、「海の日」も一般にはわかりにくいものの一つです。

 

 この日の趣旨は、「海の恩恵に感謝し、海洋日本国の繁栄を願う日」とされています。平成8年から、新たに祝日となりました。「働き過ぎ」という欧米の圧力を受けて、休日を増やす意図で設けられたためか、一般には趣旨がよく知られていないようです。海があっての私たちの生命であることを考えると、自然の恵みに感謝し、海の生態系を守ることを、もっと呼びかけるべきでしょう。また、日本は食糧・石油を始め、殆どの物資を海からの輸入に頼っています。海運業や海上防衛には大切な役目があり、それらにたずさわっている人々への感謝の気持ちも、持ちたいものです。

 

 7月20日は、かつては「海の記念日」でした。昭和16年に定められ、以来、海運に関する行事が行われてきました。この日の由来は、明治天皇が北海道、東北巡幸から横浜に帰航された日を記念するというものでした。明治天皇は、日本の新しい国造りにあたり、6度にわたって地方御巡幸をされました。交通手段も未発達で不便ななか、辺境の地に至るまで広く足を運び、各地の国民に親しく御心を注がれました。それが、天皇と国民の「君民一体」の情を、かもし出していったのでしょう。

 

 そうした明治天皇の御製には、気高い精神が感じられます。

 

   千萬の 民の力を あつめなば

     いかなる業も 成らむとぞ思ふ

 

   世の中の 事ある時に ひてこそ

     ひとの力は あらわれにけり

 

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ber117

 

■11月3日を考える

2001.10.29

 

現在、11月3日は「文化の日」となっています。「文化の日」も、何のための祝日なのか、意義がわかりにくい祝日の一つです。

「国民の祝日に関する法律」、いわゆる祝日法によると、第二条に、「文化の日 十一月三日 自由と平和を愛し、文化をすすめる」と記されています。いかにも日本国憲法の理念と合致した規定ですが、ではなぜそういう意義をもつ祝日が、11月3日でなければならないのでしょうか。特にこの日が、「自由」「平和」「文化」と関わる日付なのでしょうか。祝日法には、それを明らかにするような内容は、なにもありません。

 

 実は、11月3日は、戦前、「明治節」と呼ばれる祭日だったのです。「明治節」とは、明治天皇の誕生日を祝う日でした。明治時代には、「天長節」と呼ばれ、今日の天皇誕生日(12月23日)にあたる日であったのです。

 

「天長」といえば、「天長地久」という言葉があります。これは、シナの古典『老子に見える言葉です。「天長節」とは、この文言から取られた言葉で、「天も地もいつまでも変わらずに続くように」といった意味があります。そして、唐の玄宗皇帝の誕生日を「天長節」と読んだのにならって、明治6年に政府が祝祭日を定めたさい、天皇誕生日の名称として正式に使われました。「天長」があれば「地久」があるように、戦前までは皇后誕生日が「地久節」と呼ばれて祝われました。

 この名称から察しられるように、「天長節」は単に天皇の誕生日を祝うというだけの日ではありませんでした。天皇の誕生日を祝うことを通じて、国民が「天長地久」、つまり国家の安泰、民族の繁栄、世界の平和を祈る日であったのです。

 

 この日は、大正時代には、普通の日に戻っていました。大正後期から、明治の「天長節」を祝日にしたいという運動が起こり、大正14年、国柱会の田中智学らによって、請願が出されました。そして、昭和2年、衆議院と貴族院でこの請願が可決され、「天長節」は「明治節」として復活したのです。

 この日を祝日に制定するに当って、昭和天皇の詔勅が出されました。そこには「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ、明治ノ昭代ヲ追慕スル所アラムトス」とあります。「昭代」とは「よく治まった時代」という意味です。つまり「明治節」には、明治天皇の遺徳をしのぶとともに、「明治」という「良き時代」を振り返るという意味が込められていたのです。(1)

 

 さて、この「明治節」は、敗戦後、GHQの占領政策によって、廃止されましたが、再び「文化の日」として復活しました。その名称には、もともとの「明治天皇の誕生日」という意味は、全く感じられません。しかし、歴史を振り返ってみると、明治時代は、いわゆる「文明開化」が推し進められた時代です。いいかえると、わが国の伝統の上に、西洋文明を取り入れることにより、わが国固有の文化が大きく発展した時代が、明治時代でした。今日の近代化された日本の社会は、この明治の「文明開化」の結果、生み出されたものです。そして、「文明開化」いいかえるとわが国の伝統に基づく近代化は、明治天皇を中心とする日本国民の団結によって、成し遂げられた文化の維新でした。このように考えると、11月3日という明治天皇の誕生日を、「文化の日」と改称して祝うことには、浅からぬ意義があることがわかります。

 

 そうです。意義不明となっている「文化の日」は、その由来を思い出すならば、生きた意義を取り戻すことができるのです。11月3日とは、文明開化を進めた明治天皇の誕生日を祝う日であり、「天長地久」を祈る日でした。その日を祝うことを通じて、文明開化によって発展してきた日本の文化を更に伸長させ、世界の平和、人類文化の発展に寄与することを心に記す日と、意義付けるとよいと思います。ページの頭へ

 

参考資料

・皿木喜久著『教科書が教えない「みどりの日」』(『産経新聞』平成11年4月27〜29日)

 

ber117

 

■勤労感謝の日を、自然への感謝の日に

2001.11.20

 

11月23日は、勤労感謝の日です。祝日法には、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」日であると規定されています。では、どうして、そのための日が、11月23日であるのでしょうか。

 この日は、わが国の伝統的な行事である新嘗祭(にいなめさい)が行われる日です。そして、戦前、この日は祭日だったのです。戦後、それが「勤労感謝の日」に変わりました。しかし、新嘗祭は、今日も行われています。看板は書き換えられたものの、下にはもとの文字が透けて見えているのです。

 今日、11月23日は、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」、つまり、人が人に感謝する日とされています。しかし、本来は、人が自然の恵みに感謝する日でありました。それは、新嘗祭の意義を考えるとわかります。

 わが国では、米を主食としています。日本人は、稲作を中心とした労働と生活を行ってきました。また日本の文化は、その核となる部分に、米作りの文化をもっています。

稲作は、春にもみをまき、秋に収穫をします。そして、私たちの祖先は、春と秋を主として祭りを行い、神に対して豊穣を祈り、また収穫に感謝するという営みを続けてきたのです。この伝統は、今日も日本の社会の隅々に残っており、とりわけ秋になると、全国各地で行われる秋祭りは、米の収穫を神に感謝する祭りが多いのです。

 こうした米作りの文化を彩る日本の秋祭りの原型となっているのが、新嘗祭です。

 

新嘗祭は、天皇が新しく収穫された米を、天照大神はじめ八百万の神々に供えて祀り、また自らも食して、神々に対して稔りを与えてくれたことを感謝し、来る年もまた豊穣・安寧を与えてくれるように祈願する天皇の祭りです。

 天皇は、皇居内の稲田にて5月にお田植えをされています。モチ米とウルチ米を合計百株植え、9月末頃お稲刈りをされます。お稲刈りは、昭和天皇が昭和2年に赤坂御所に水田に設けられたことに始まり、今上陛下は即位の年からこれを継承され、さらに平成2年からは稲種をお播きになる新例を開かれました。

こうして宮中で収穫された稲は、10月に伊勢神宮で行われる神嘗祭(かんなめさい)と、11月23日の宮中新嘗祭に供えされます。この二つは、神がその年にとれた新米を食する祭儀が神嘗祭、天皇が新米を食する祭儀が新嘗祭という関係にあります。

 そして、戦前は、この新嘗祭が行われる日を祭日と定め、天皇を中心に国民がこぞって、米の収穫を神に感謝する日であったのです。戦後は、こうしたわが国固有の伝統や、天皇と国民の結びつきが損なわれ、「勤労感謝の日」という姿に変わってしまっているわけです。

 

新嘗祭は、毎年行われる行事ですが、天皇が代わったときには、新嘗祭の特別のものである大嘗祭(だいじょうさい)が行われます。大嘗祭は、新天皇が即位後、初めてとれた新米(初穂)を神に供え、収穫を感謝するとともに、即位を報告し、新しい世に対する神の加護を祈る祭りです。大嘗祭は、これほど重大な式はないとされているものです。これは神武天皇の行った鳥見山の祀りに起源があるとされています。

 新嘗祭も大嘗祭も、三千年近く前の神話時代から、今日まで続いている行事です。このように古い歴史をもった行事は、文明国では例がないものです。

 

 日本人は、勤勉な民族として世界に知られています。その勤勉さは、灌漑水田稲作による米作りの労働によってつちかわれたものといわれます。「勤労感謝の日」には、国民互いに勤労を感謝するだけでなく、わが国の伝統と文化を思い返し、自然の恵みに感謝し、神の加護を祈るという心を取り戻したいものです。また、「勤労感謝の日」を、人が人に感謝するだけでなく、人が自然に感謝する祝日とするならば、地球環境を考える時代にふさわしい祝日ともなるでしょう。ページの頭へ

 

参考資料

・米と日本文化については、以下の拙稿をご参照下さい。

米が育んだ和の精神」等の米シリーズ6編

 

ber117

 

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