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  心と宗教

                       

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フロイトを超えて〜唯物論的人間観から心霊論的人間観へ

2005.8.13

 

<目次>

はじめに

自己保存本能と性本能

エディプス・コンプレックス

心の構造

死の本能と破壊性

批判と継承

結びに〜フロイディズムを超えて

 

 

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はじめに

 

フロイトは精神病の臨床医だった。彼の考察は、精神分析の分野を超え、社会・文化・宗教等にまで及んだ。それによって、19世紀末から20世紀初頭の欧米の人々に強い衝撃を与えた。近代西洋文明を根底的に問う点において、フロイトはしばしばマルクス、ニーチェと並べ評される。

しかし、フロイトの思想の根本は、機械論的唯物論である。本稿はフロイトの人間観の限界を明らかにし、唯物論的人間観から心霊論的人間観へと転換すべきことを述べるものである。

 

 

1.自己保存本能と性本能

 

ジークムント・フロイト(1856-1939)は、精神病の臨床医として、人間の心には、意識だけでなく、容易に意識化し得ない無意識の領域があることを発見した。人間の諸行動を規定する真の動機は無意識である場合が多いと考えた。「無意識」の存在は、ただ推論されるか、本人自らの抵抗を克服してはじめて意識化されるものであり、日常では失錯行為と夢とにその片鱗をのぞかせるにすぎない。

フロイトは、ヒステリーや神経症の治療において、性欲の抑圧が病気の重要な原因となっていると考えた。そして、人間の心理的行動を、自己保存本能と性本能をもとに説明し、独自の理論を展開した。

フロイトは、自己保存本能は飢えのように待ったなしだが、性本能は、意識から無意識の世界に押しこめたり、他の対象に向けたり、社会的に価値あるものの形に表れたりするとした。この押し込めを「抑圧」、他に向けるのを「置換」、社会的に価値あるものの形に表れたりする過程を「昇華」と呼んだ。

 

フロイトの人間観は、唯物論的だった。フロイトは、精神分析において、ニュートン物理学をモデルとした。フロイトは唯物論者であると自称し、人体を物体として扱う外科医のように、患者に接することを理想とした。

唯物論的人間観は、人間の精神現象は、すべて物質的な現象だと考える。これに対し、心霊論的人間観は、人間は単に身体的・精神的存在ではなく、霊的存在でもあると考える。心身に対して自立性を持った霊魂の存在を認めるかどうかが、これらの人間観を分ける。

フロイトの考え方は、19世紀の機械論的唯物論によっていた。エネルギー保存の法則を生物学の分野にもあてはめ、精神現象にもてはめた。そして、性本能の基底となるエネルギーをリビドーと名づけた。

フロイトは、ショーペンハウアーの影響を受けた。ショーペンハウアーは、カントが現象界と物自体を分け、物自体は認識できないとしたのを批判的に継承し、物自体は意志であるとした。人間の意志は、生を意欲する衝動の中にこそある。盲目的な「生きんとする意志」が世界全体を形成する動因であるとした。フロイトは、リビドーをショーペンハウアーの説く意志と同じものと考えた。ただし、フロイトはショーペンハウアーの意志の形而上学を機械論的唯物論に転換した。

フロイトは精神障害の根幹にリビドーの流れの異常があることを発見した。彼は、リビドーは、対象と自我との間を往来すると考え、そのエネルギーの移動と増減によって、すべての精神現象を説明しようとした。リビドーの発達を妨げる障害物は、さまざまな葛藤を生む。その障害物を取り除いて、性エネルギーを解放すれば、病気は治ると考えた。

このようにフロイトの発想は、基本的に機械論的で生物学的なものだった。フロイトは当初、性エネルギーの解放を説いたが、間もなくエネルギー論的なリビドーの概念を捨てた。リビドーを、生物学的な源泉に発する心理的な性欲動と見て、「エス」(本能)の欲求に置き換えた。

 

フロイトは、性本能を自己保存本能と対抗して働く、無意識生活の基本動因とみなした。

1911年、フロイトは、自己保存本能と性本能の対立・葛藤を、快感原則と現実原則という、相対立するニ原則という形で発表した。

フロイトによると、人間の心は、緊張に基づく不快を回避し、緊張を低下させることによって快感を得ようとする。そこには不快を避け、快を求める本能的な欲求がある。新生児は、この快楽原則のみに支配されているのだろうが、自我の発達につれて現実原則が優位を占めるようになる。現実原則とは、外界の現実に適応しながら、無理なく不快な緊張を解消し得るように、緊張解消を延期したり、多少我慢したりしつつ、最後には快感に達することを目ざすものである。

人間がこの世の中で生存するためには、外的現実を支配している現実原則にまず順応しなければならない。そのためには生まれつきの快感原則を抑制し、現実原則に従わせねばならない。そして、この課題を達成するのが自我の仕事である。性本能についても、自我は自己保存本能を代表し、快感原則を追及する性本能を現実原則に従わせる。それが性的抑圧の成立であるとフロイトは考えた。ページの頭へ

 

2.エディプス・コンプレックス

 

フロイトは、乳幼児にも性欲があるという「汎性欲論」を唱えた。彼は乳幼児期の性欲活動のことを幼児性欲と呼んだ。幼児性欲は、生物学的な源泉に発する性欲動、つまりリビドーに由来し、口唇愛、肛門愛、男根愛の段階に分かれる。幼児性欲はしだいに発達して、自分以外の対象をも性欲の対象とするようになる。主な対象は、前エディプス期では、男女いずれにとっても母親であり、エディプス期に入ると、異性の親が対象となり、エディプス・コンプレックスが起こると考えた。

 

 エディプス・コンプレックスは、フロイトの精神分析論の核心である。社会・文化・宗教・芸術等がすべてこれを巡って論じられる。

 幼児は、男根愛の段階(男根期)に入ると性の区別に目覚め、異性の親に性的な関心を抱くようになる。とくに男の子は、母に対して性欲の兆しを感じ、父を恋敵とみなして父を嫉妬し、父の不在や死を願うようになる。反面、彼は父を愛してもいるために、自分の抱いている敵意を苦痛に感じ、またその敵意のせいで父によって処罰されるのではないかという去勢不安を抱くに至る。このような異性の親に対する愛着、同性の親への敵意、罰せられる不安の三点を中心として発展する観念複合体を、フロイトはエディプス・コンプレックスと名づけた。エディプスは、知らずに父を殺し、母と結婚していたというギリシャ悲劇の主人公の名である。

 

 エディプス・コンプレックスには、陽性エディプス・コンプレックスと陰性エディプス・コンプレックスがあるとされる。

陽性エディプス・コンプレックスは、男の子が母に愛着して父を憎悪し、女の子が父に愛着して母を憎悪する。この場合は、正常な幼児の発達過程で経験されるものであって、男の子はこの後、父に対する敵意の抑圧を経て父同一化を行い、男性化の道を進んでいく。

これに対し、陰性エディプス・コンプレックスでは、陽性の場合と関係が反対になり、男の子が父に愛着して母を憎み、女の子が母に愛着して父を憎む。たとえば男の子が女性性(feminity)に向かう強い本能素質を持っている時には、去勢不安に脅かされると、母を愛して父と競争するよりは、自ら進んで父への敵意や男性らしさを放棄し、母に同一化することによって父に愛されようとするようになり、男性性は失われて同性愛傾向が強まっていく。

フロイトは、6歳ころになると男根期が終わり、それとともにエディプス・コンプレックスも消えていくとした。しかし、この解消のされ方が、性格形成、性的同一性の確立、超自我の形成、神経症の発症などの重大な要因になるとフロイトは主張した。

 

エディプス・コンプレックス論について注目したい点を2点書きとめておく。まず陰性エディプス・コンプレックスは、女子の場合、どのように表れるのかという問題がある。単純に男子を女子に置き換えると、女の子が男性性に向かう強い本能素質を持っている時には、父を愛して母と競争するよりは、みずから進んで母への敵意や女性らしさを放棄し、父と同一化することによって母に愛されようとするようになり、女性性は失われて同性愛傾向が強まっていくと考えられる。ただし、女子の場合は、男根がなく、去勢不安というものがありえないから、男根を処罰で切り取られるという不安は生じない。こういう場合、男子の場合のように道徳意識の成長が進むのか、女子の男性化または同性愛的傾向が起こりやすくなるのか。近年の女性の男性化・中性化に鑑みて、興味深いところである。

次にエディプス・コンプレックスは父権制の社会にのみのもので、母権性社会では見られないという批判がある(フロム)。日本の場合、双系性社会といわれるように、母権制的な要素があり、また欧米の近代人のように独立した自我が明確には形成されない傾向があって、エディプス・コンプレックスが日本人一般に形成されるとは、いえない。ただし、臨床例はあると報告される(河合隼雄)から、家庭によって、極度に父権が強い場合、また逆に極度に父権が弱い場合は、エディプス・コンプレックスが形成されると考えられる。

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3.心の構造

 

1910年代にフロイトは、無意識の心理学の体系をほぼ完成した。この段階では、人間の心を意識、前意識、無意識という三層に区分した。前意識とは、容易に思い出して意識化できる内容である。無意識は、通常に意識化できない内容である。この場合、無意識内容の意識化を妨げているのが、抑圧の作用である。

フロイトは、無意識を生物学的・衝動的なものととらえ、意識によって洞察され、打ち克たれるべきものと考えた。意識としての自我とは理性であり、フロイトは、理性的な自我を中心とし、意識が無意識を支配すべきものとした。この点で、フロイトの思想は、近代西欧の理性的自我に基づく、啓蒙主義的合理主義の立場に立っている。

フロイトは1923年、『自我とエス』を著し、それまでの意識、前意識、無意識の局所論に加えて、人間の心が「エス(イド)」「自我」「超自我」という三つの心的な組織から成るという構造論を提示した。それまでは、「抑圧するもの=意識=自我」、「抑圧されるもの=無意識=欲動的なもの」と考えていたが、自我の働きの多くはそれ自体、無意識であるという認識に変わったためである。

 

フロイトの心の構造論において、エスは、生まれたばかりの新生児のような、未組織の心の状態である。その時、その時の衝動で動く本能のるつぼである。

このエスが外界と接触する部分は、特別な発達を示し、エスと外界とを媒介する部分となる。これが自我と名づけられる。自我は、母体であるエスとは正反対の性質をそなえるにいたる。すなわち、合理的・組織的で、時空間を認識し、現実を踏まえた動きをする。

この自我の一部として形成されるのが、超自我である。子どもはエディプス期に入ると、父親の存在に対しての葛藤を経験する。この時期を通じて、両親像が心の中に摂取されて内在化して、超自我が形成される。超自我は、両親を通じて内面化された社会的な道徳や規範の意識に相当する。

 いわば「エス」は本能、「自我」は理性、超自我は良心にあたる。

 

心の三層構造においては、快楽原則に支配されているのが、無意識的なエスであり、現実原則に従うのが、意識的な自我である。フロイトは、現実原則に従う理性的な自我意識が、快楽原則に支配される本能的・衝動的な無意識を制御すべきものとした。そしてフロイトは、人間の発達上、現実原則の支配を重要視し、現実原理の確立こそ成人の健康人の条件であるとした。

フロイトは、この理論を、人類の文化にあてはめ、自然人としての人間の社会化・文明化の過程を、快楽原則の支配から現実原則の支配への移行としてとらえた。

この点で、フロイトは、理性優位の合理主義的な倫理観を持ち、科学を信奉した啓蒙主義的な進歩観を持っていた。

心の近代化、つまり合理主義の進展は、フロイトの心的構造論では、「自我」において、主に進行する。フロイトは、理性的な「自我」を中心として、「意識」が「無意識」を支配すべきものとする。合理化を担う心の機能は、「自我」であり、合理的な自我意識が、非合理的な無意識を支配していくのが、合理化の過程といえよう。それゆえ、フロイトの考えは、近代西欧の合理主義の枠内にある考え方である。フロイトは性本能を理性や道徳で自制し、昇華つまり社会的に価値ある行動に変化させることによって、文化が発展すると説いた。この時に重要なのが、「超自我」の働きである。

 

ここで私が最も注目するのは、超自我である。超自我は、両親を通じて内面化された社会的な道徳や規範の意識に相当するとされる。フロイトによると、人間は、各世代を通じて継承されるさまざまな社会的・道徳的・宗教的な価値規範を、超自我を「核」として、自己の中に取り入れていく。『続精神分析入門』(1933年)では、超自我について、さらに、「子供の超自我は、本来両親を規範としてではなく、むしろ両親の超自我を規範として組み立てられる」「それは伝統の担い手になる。世代から世代へと伝えられるあらゆる不変の価値観の担い手になる」と語り、「人類は決して現在にばかりは生きていない。超自我のイデオロギーの中に過去が、種族及び民族の伝統が生き続け、この伝統は現在の影響や新しい変化には、ただ徐々にしか譲歩しない」と言っている。

私見を記すと、超自我が伝統の維持・継承を担うものだとすると、ある社会で成員の超自我が上手く形成されないと、伝統の維持・継承ができなくなる。この点、戦後の日本人は、家庭における親の権威、特に父性の権威が低下したため、本来の伝統継承的な超自我がうまく形成されていないといえよう。社会的・道徳的・宗教的な価値規範が、戦後世代には伝わっていない。逆に、外国人に代わって、日本人を監視し、問責・処罰するような超自我がされてしまったと思われる。この反日的・自虐的な超自我の形成が、GHQによる「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」によって行われ、戦後日本人のマインド・コントロールの心理的メカニズムとなっているように思う。一つの民族が伝統的な価値観を継承していくには、家庭において父性の働きが重要であり、国家において父性の権威が必要だということの歴史的な実例ではないか。今日も家父長的な文化の弊害を是正することは必要だが、父性が一層低下し、喪失されるようなことになれば、民族の伝統は受け継がれなくなり、その民族は自らのアイデンティティを失うと思う。ページの頭へ

 

4.死の本能と破壊性

 

1920年頃までのフロイトは、基本的には自己保存本能と性本能の対立・葛藤という見地からその本能論を語っていた。

 しかるに、1920年の『快感原則の彼岸』で彼の本能論は、決定的な転換点に至った。すなわち「死の本能(タナトス)」の着想である。

死の本能の着想は、運命神経症、道徳的マゾヒズムにおける自己破壊行動の臨床経験からきている。

無機体を有機体に構成し、発展・成長させる基本傾向が、生の本能(エロス)である。これは、生体を保存し、それをより大きな単位に結合させようとする本能である。これに対し、死の本能は、有機体を、本来の無機的状態に還元しようとする基本傾向である。生の本能によって結合されたものを解体し、最初の無機物の状態すなわち死に戻そうとする本能だとした。ただし、死の本能は、生の本能との拮抗・葛藤の形をとってしか観察できないとする。

 

フロイトは30年に『文化の不満』を刊行した。本書でフロイトは、自己保存本能と性本能をあわせたものを「生の本能(エロス)」と呼び、これに「死の本能(タナトス)」を対置して、人類の文化を考察し、文明の将来に悲観的な見通しを述べた。

死の本能は外部に向けては攻撃性となる。この攻撃性が強力な障害に出会うと、それは自分に戻ってきて自己破壊を起こす。それゆえ、死の本能は、無機物の状態に戻ろうとする肉体の傾向と、自分または他人を破壊しようとする傾向の二つから成り立っているとフロイトは考えた。

この生と死の二大本能論によれば、人類の社会・文明は、人類が生きていく途上で死の本能に逆らって生み出し、作りあげ、組織づけていく生の本能(エロス)の産物である。しかし、エロスが生み出し、作りあげ、組織づけるものが大きく、高度なものになればなるほど、内に秘める潜在的なタナトス、つまり自己破壊力もそれだけ大きいものになる。

私見を記すと、エロスによる組織の成長は、一個の文明の成長に似ている。文明は、誕生後、成長を続け、巨大は社会組織にまで成長する。しかし、挫折し、解体にいたる。このように文明は、誕生・成長・挫折・解体を繰り返すというのが、トインビーのとらえた文明のパターンだった。このパターンは生物モデルのアナロジーであり、フロイトのエロスータナトス論に類似点がある。また、熱力学の用語で言えば、エントロピー(無秩序性)の増大は、タナトスの働きに比せられる。生命の発生・成長・繁栄は、エントロピーの減少であるから、エロスの働きに比せられるだろう。

フロイトは死の本能を説くことによって、人類の将来を悲観的に見た。彼は第1次世界大戦やその後の世界情勢を深刻に受け止めていた。フロイトは警告した。「破壊本能の支配に成功しないままの盲目的な科学技術の進歩は、人類の自己破壊を招く」と。その後の第2次大戦、原水爆、環境破壊等を考えると、彼の指摘するものは重い。

フロイトは言う。「全人類が、文化的努力の影響によって神経症になっている」「人類の宿命的課題は、人間の攻撃ならびに自己破壊欲動による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだ」「いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩を遂げ、自然力の助けを借りれば、たがいに最後の一人まで、殺し合う事が容易である。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っているから生じている。そして、われわれの期待は、天上の二つの力のいま一方である永遠のエロスが、自分と同じく不死身であるこの相手との戦いに負けないよう一生懸命に頑張ってくれることにかかっている」と。ページの頭へ

 

5.批判と継承

 

フロイトの理論は、完成したものではない。むしろ、さまざまな反論・異論を引き起こした。それが、人間の心の研究を多様化し、また深めることになった。フロイトには多くの弟子がおり、またフロイトを独自に研究し、そこから独創的な理論をつくりあげた者もいる。ここでは、その中から、フロム、ユング、ソンディ、マズローの4人の説を概観し、フロイト理論の意義と限界を見ておきたい。

 

(1)フロム

 

エーリッヒ・フロム(1900-1980)は、フロイトの弟子の一人だった。彼は、マルクスとフロイトの統合を試みた。

フロイトの発想は、基本的に機械論的で生物学的である。これに対し、フロムは、個人の病理を社会的背景から洞察した。そして、性的なものより、人間同士の関係を重視し、社会的・経済的因子が個人に及ぼす影響に注目した。

フロイトは、人間が社会的存在であるのは、自己保存本能と性本能、特に後者をみたすに他人が必要だからと考えた。生理的欲求を互いに満たすために他人と関係を持つ。他人は自己の目的を達成するために二次的に必要なものに過ぎない。フロイトの考えでは、他人は自己の目的のための手段に過ぎないのである。

 これに対し、フロムは、心理学の中心問題は、生理的な欲求の充足・不足ではなく、個人と外界の関係だとした。そして、欲求から人間をとらえるのではなく、実存から人間の心理をとらえようとした。人間存在は死ぬことを知っており、孤独・無力・不安を感じている。人間のこの特有のあり方のため、個人は他人や外界と関係を持つ。そして、フロムは、フロイトに欠けていたところの、経済構造や社会構造が個人に及ぼす影響を重視した。彼は、経済的下部構造(土台)が上部構造(社会的意識形態)を規定するというマルクスの図式を、精神分析で補完し、また精神分析をマルクス主義で補完しようとした。

 

また、フロムは、バッハオーフェンの研究によって母権制社会の存在を知り、父権制社会をモデルにするフロイトを批判した。フロイトは、異性の親子、特に父と子の関係においてエディプス・コンプレックスが生まれ、それが神経症の重要な原因であると説いた。これは、父性中心的な西洋の家父長制家族、ユダヤ=キリスト教社会に特有の病理である。しかし、フロイトは、エディプス・コンプレックスを絶対視した。このコンプレックスは本来家父長制社会の男性にだけ見られるものなのに、フロイトは人類一般に見られる心理と考えた。社会体制が異なれば、家族の構造も異なることを考慮しなかった。

これに対し、フロムは、エディプス・コンプレックスは父性中心的な社会の人間にだけ見られるとし、エディプス・コンプレックスの普遍性を否定した。母性中心の社会もありうると考え、母性原理の意義を説き、また人間には、男女の別なく愛と理性に基づく自己実現の能力があると主張した。この主張は、男性中心で父権の強い西洋の文化を相対化し、また補正するものだった。

 

 また、フロムはフロイトの死の本能論を批判した。たいていの生物は生きるために執拗に戦う。自殺・自害のような自己破壊は例外的である。破壊性には個人差があり、死の本能が内に向いたとか外に向いたとかでは説明できない。そこで、フロムは、生の本能と死の本能という二元性は、「死の本能が最後に勝利を納めるまでたえず戦う生物学的な二つの本能の二元性ではなく、生命を保存したいという一次的で、もっとも根本的な生命の傾向と、この目標に失敗したとき生ずるその矛盾(生命の否定)とのあいだの二元性である」と考えた。つまり死の本能は、生の本能が成長しなければしないだけ成長し、それに取って代わる悪性の現象であると見た。

破壊性は、対象を排除することである。これも実存的な心理であるところの、外界に対する無力感や孤独感に基づいている。外界に対する無力感は、外界を破壊すれば、癒すことができる。破壊は、外界の恐怖を除く自暴自棄的な最後の試みである。もし他人が破壊の対象にならないと、破壊性は自分に向かい、病気を起こしたり、自殺をはかったりすると説明した。

私の理解によれば、死の本能の表れとは、生体に発生するガン細胞のようなものである。人類文化を破壊するタナトスとは、いわば「百ガン」のようなものだろう。

 

(2)ユング

 

カール・グスタフ・ユング(1875-1961)は、フロイトの最大の弟子だった。ユングは無意識について、師と異なる見解を明らかにし、1913年に早くもフロイトと別れた。ユングは、無意識を意識によって支配すべきものとは考えなかった。むしろ、「無意識は超個人的な文化的人類的生命につらなる、創造的なもの」であり、「個々人の精神活動は、無意識から生命エネルギーを得て、創造性を発揮する」と考えた。これは、フロイトの理性的自我意識を中心とする合理主義の枠を出る考え方である。

ユングによると、心には、「意識」「個人的無意識」「集合的無意識」の三つの水準がある。フロイトのいう無意識は、このうちの「個人的無意識」のことである。ユングは、個人的無意識の底に、個人を超えた「集合的無意識」を想定した。「集合的」とは、個人だけではなく、民族・人類などに共通する無意識という意味である。そして、ユングは、夢や精神病者の妄想、さらに神話、民話、芸術、宗教などに共通して現われる主題は、集合的無意識に由来するものだと考えた。

集合的無意識が働くときには、特有のイメージが現われる。ユングは、それを「元型的イメージ」と呼んだ。元型的イメージは、無意識の内容となるものである。元型的イメージには、影、アニムス(女性における男性性)、アニマ(男性における女性性)、老賢者、永遠の少年、万物の偉大なる父、大いなる母、マンダラ(本質・自己)などがある。

ユングによると、人間の心は、意識と無意識の相補作用による自動調節的な体系である。彼は、意識の中心点を「自我」と呼び、「心」の中心を「自己」と呼ぶ。フロイトと異なり、理性的な自我意識が、心の中心ではなく、本当の中心は、その底の方にあるというわけである。

ユングの精神療法は、個人が意識的な「自我」の閉じた殻を突き破って、根源的な無意識の領域をも統合した全体的な「自己」を実現することを目指した。これを「自己実現(Self-realization)」という。ユングのいう「自己」は、根源的で人類的な集合的無意識に根ざしている。そして、「自己実現」は、各個人の「意識」の奥にある「本来的自己」が象徴や隠喩を通じて自覚化されていく過程である。

ユングは、個体の自我意識の根底に潜在している本来的自己が顕現し、われわれの自我がそれと一体化することを、「個性化(Individualization)」と呼ぶ。個性化と自己実現は、ユングにおいては不可分のものである。ユングのいう「自己」は、東洋思想にいう「真我」「自性」に類する概念といえよう。西欧思想では、新プラトン主義や錬金術における、内在する「神性」に近いだろう。

フロイトの理論が近代合理主義的であるのに対し、ユングの理論は合理主義の枠を超えている。あるいは、合理主義を、それが生まれ出てきた母体に戻し、基礎付ける可能性を秘めたものともいえよう。近代西欧の合理主義は、ここに相対化されることになった。

ユングは昭和36年(1961)に亡くなった。ユングは生前、風変わりな主張をする心理学者と思われ、あまり評価されなかった。彼が世界的に高く評価されるようになったのは、彼の死後、1960年代からである。彼が発見した集合的無意識の存在が広く認められるようになり、集合的無意識の存在を背景にした自己実現の追求が、現代人の課題として認識された。ユング心理学は、その後、アブラハム・マズローの人間性心理学やスタニスラフ・グロフの精神分析と結びつき、トランスパーソナル学(超個心理学)によって継承・展開されている。

 

(3)ソンディ

 

ソンディ・レハール(1893-1986)は、当時、唯物論の共産主義国だったハンガリーで、人間の心に注目し、科学的な運命心理学を打ち立てた。

フロイトは、晩年、精神分析による臨床経験から「精神分析が見事な治療実績をあげることができるのは、主に精神的外傷が原因である場合だけ」と言い、「素因的なもの」は「分析が終結不可能」つまり治療が困難だと認めた。「素因的なもの」とは、先天的な要因である。個人が誕生時や時や生後に受けた後天的な心の傷(トラウマ)は、個人的な無意識に刻まれたものである。これに対し、先天的な要因とは、遺伝的なものであり、心理学的には個人を超えた無意識に根源を持つものである。フロイトは個人的な無意識よりも深い無意識の層があることを認めていたと考えられる。

ソンディは、「先祖から遺伝する無意識」の統計研究と分析治療を行い、フロイトの個人的無意識と、ユングの民族的・人類的な集合的無意識の間に重要なものがあることを発見した。「家族的無意識」である。

  家族的無意識とは、個人的な抑圧の過程にも、また集合的な無意識の過程にも帰せしめることのできない「潜在的な家族的素質」すなわち、個人のいわゆる遺伝素質である。そして、ソンディは、個人の中に抑圧されている祖先の欲求が、個人の運命を決定するというという理論を打ち立てた。

 ソンディはある男が外見上「健康な」女性にひどく惚れ込み結婚したが、この女は、結婚後数年経ってから、夫の母親がすでに十数年間に亘って悩んできたのと全く同じ症状――自分が誰かを毒殺するのではないかという強迫思考――を示したという実例に関心を持った。そして、この男の無意識の中には、彼の母親の病的な素質が力動的に作用しており、この男の無意識の中にあるこのような潜在的な家族的な素質が、運命的に結婚の対手の選択を規定したのである、と想定した。そして、数百例の結婚を分析して、「家族的無意識」の概念に到達した。

  また、ソンディは、ロシアの小説家ドストエフスキ−の『罪と罰』および『カラマ−ゾフの兄弟』を読んで、「ドストエフスキ−は、何故彼の小説の主人公にとくに殺人者を選んだのであろうか」ということを、自らに問うてみた。そして、ドストエフスキ−家の伝記を調べてみると、祖先の系列の中には、実際に殺人者が現れていた。Aは、使用人に命じて、彼女の夫を家の中で殺させた。Bとその息子は、某軍人貴族の殺害に参加した等々。ドストエフスキ−は自らの中に彼の家族的な遺伝素質の中に殺人者を潜在的に担っていた故に、彼は殺人者の精神生活を表現することができたし、また表現せずにはいられなかった。こういうことが遺伝学的な資料によって裏付けられた。

 ソンディは、人間における無意識を構成する根本的な要素は性、感動発作、自我、接触の4つの衝動であり、それを構成するのは、8つの遺伝因子の働きであるとする作業仮説を立てた。そして、個人が帰属する家系的な遺伝圏、遺伝趨性(結婚・職業・友情・疾患・死亡の趨性)、祖先の欲求と祖先像、その自演などの知見と学説を構築し、それを測定し記号化するテストを考案した。それが運命分析テスト(ソンディ・テスト)である。

ソンディは、運命分析テストを用いて、人々の衝動的性向を調べた。その結果、恋愛、友情において特定の人が引き合うことばかりでなく、職業を選ぶ際や、自殺する際の方法にも先祖の傾向が表れることを統計的に研究、発表している。すなわち、人は過去の先祖の行動や性格のパターンを受け継いでおり、恋愛、友情、職業、病気および亡くなり方などにおいて、無意識に祖先の影響を受けた行動をするというわけである。

 ソンディの運命分析は、精神疾患や精神障害を決める遺伝素質が、両面的なものであることを明らかにする。すなわち病的な遺伝素質は、同時に高度な精神能力の素質でもある。例えば、癲癇と宗教的神学的な能力、分裂病と精神医学や精神病理学の能力、躁鬱病と芸術・絵画の能力等が対になる。二つの方向のいずれを選択するかを決めるのは、環境・素質・意思による。ソンディの運命分析は、こうして無意識的選択行動の心理学となった。その応用領域は「運命疾患」と呼ばれるもの、すなわち恋愛、友情、職業、趣味における選択行動障害や、身体的な病気および精神的疾患の選択、特に犯罪形式の選択、神経症の種類の選択、さらに死亡様式(傷害,殺人,自殺)の選択の領域に及んだ。

ソンディは、単に精神だけでなく身体も、衝動や遺伝性質だけでなく魂の作用も、更に現世だけでなく来世の世界の現象も、深層心理学的研究の対象とした。

こうして、ソンディはフロイトの個人的な無意識の層とユングの民族的・人類的な集合的無意識の層との間にあった断裂を、家族的無意識の層によってつないだ。そして、この家族的無意識とは、祖先からの運命情報を伝え、私たちの運命を左右し、さらに子孫にまで影響を与え続ける「祖先から遺伝する無意識」であり、フロイトが手を焼いた素因的なるもののありかと考えられる。

「祖先から遺伝する無意識」は、日本の仏教で「因縁」といわれているものと共通性がある。因縁とは、もともと因・縁・果の法則を指す言葉だが、先祖から受継いだ悪い原因の意味でよく使われる。人々は、経験的に、先祖と子孫が似たような行動や不幸を繰り返していることに気づき、この悪いパターンから逃れようとした。しかし、こうした個人を超えた次元の作用については、現代の医学ではまだ十分研究が進んでいないといえよう。

 

(4)マズロー

 

フロイトの人間観は、機械論的・唯物論的だった。フロイトは、精神分析において、ニュートン物理学をモデルとした。フロイトは唯物論者であると自称し、人体を物体として扱う外科医のように、患者に接することを理想とした。

アブラハム・マズロー(1908-1970)は、これに疑問を呈した。フロイトが対象としたのは、神経症やヒステリーなど精神病者ばかりだった。人間の不健康な部分ばかりを見て、そこから人間観を作り上げていた。そして、人間をすべて心の病を持った精神異常者と見て、文明や宗教を理解しようとしていた。これにうんざりしたマズローは、本当の人間性を知るには、健康な人間の研究をしなければならないと考えた。

そして彼は、「非常に優秀な人々、もっとも健康な人々、見つけ出せる限りの人間の範たる人々」を研究した。この研究は、機械論的な人間観では得られない、豊かな人間観をもたらした。マズローは、リンカーン、アインシュタイン、シュバイツァーなどの偉人の研究をした。また、健康で豊かな精神生活を送っている多数の人々に会って研究を続けた。そこで彼が発見したのは、精神的に健康な人は、例外なく自分の職業や義務に打ち込んでおり、その中で創造の喜びや他人に奉仕する喜びを感じていることである。またこれらの人々には、自由で客観的なものの見方をし、他人に対しては寛容でユーモアがある、という共通点があった。

マズローは、こうした画期的な研究をもとに、健康と成長のための理論をめざした。そして、人間の欲求は、次の5つに大別されるという説を唱えた。

 

1.生理的欲求: 動物的本能による欲求(食欲、性欲など)

2.安全の欲求: 身の安全を求める欲求

3.所属と愛の欲求: 社会や集団に帰属し、愛で結ばれた他人との一体感を求める欲求

4.承認の欲求: 他人から評価され、尊敬されたいという欲求(出世欲、名誉欲など)

5.自己実現の欲求: 個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求。さらに、人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望

 

 マズローは、人間の欲求がこのような階層的な発展性を持っていることを明らかにした。生理的な欲求や安全性の欲求が満たされると、愛されたいという欲求や自己を評価されたいという欲求を抱くようになり、それも満たされると自己実現の欲求が芽生えてくるというのである。

例えば、マルクスの人間観は、19世紀の唯物論的心理学に基づき、「生理的欲求」と「安全の欲求」を中心としている。そのため、人間の幸福の実現には食物と安全が重要だとし、より高次の欲求には否定的だった。フロイトは無意識の研究を行い、それまでの人間観に画期的な変化をもたらした。彼は性の問題を通じて、より上位の欲求である「所属と愛の欲求」の研究をしたといえる。しかし、性の観点からすべてを理解しようとしたために、人間理解を狭くしてしまった。これに比べ、フロイトの弟子の一人であるアドラーは、性格を対人関係からとらえた。彼は、性格は、劣等感を軸とし、その補償としての優越欲と社会的共同感情の相互関係から、社会生活の中で形成されると見た。彼は、人からの尊敬・評価を求める「承認の欲求」を中心に研究したといえる。これに比べ、「自己実現」という用語を初めて使用したのは、ゲシュタルト心理学者のゴルトシュタインである。彼は「すべての人間の行動を取り仕切る決定的要因」は、自己実現だとした。この概念に注目し、具体的に研究を進めたのが、マズローだった。

マズローによれば、自己実現こそ人生の最高の目的であり、最高の価値である。そして、人間が最も人間的である所以とは、自己実現を求める願望にある。自己実現の欲求は、まず個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求である。さらに彼は、晩年、自己超越の欲求についての研究を進めた。そこから、現代のトランスパーソナル学へと発展していった。ページの頭へ

   

結びに〜フロイディズムを超えて

 

私の整理では、フロイトの評価は、主に以下の4点において分かれると思う。

 

(1)性本能に重点を置いて人間心理を見る見方を、どの程度評価するか

(2)理論の核心となるエディプス・コンプレックスを、普通または標準と見るか、特殊または例外と見るか

(3)無意識は個人的なものと考えるか、集合的なものと考えるか

(4)死の本能(タナトス)を一つの本能と見るか、生命の働きの一面である破壊性の現われと見るか

 

私は、(1)については、性本能を根本に置くのは人間の見方を狭くすると考える。人間には、生まれてきた元に帰りたいという欲求がある。それは、母胎回帰という退行的なものではなく、宇宙への回帰、本源への合一等といった存在論的な欲求である。それが宗教的感情のもとの一つにもなっていると考える。これは、(4)の死の問題とも関わっている。

(2)については、エディプス・コンプレックスは、欧米では普遍的かもしれないが、人類全体では普遍的とはいえず、家父長制社会に特殊的なものと見る。わが国の社会は、父系と母系がバランスした双系制が基底にあり、夫婦の和や男女の協力を大切にするところに特徴がある。フロイトのエディプス・コンプレックス理論は、日本人にはあまり当てはまらない。

(3)については、無意識は個人的ではなく、集合的なものであり、家族的・民族的・人類的等の層があると考える。家族的無意識には、宗教的に言う「因縁」的なものがあり、単に記憶の継承ではなく、霊的な作用があり得ると考える。

(4)については、タナトスは一つの本能ではなく、生命の否定であり、破壊性の表れと見る。生命は障害にぶつかった時、外界または他者を破壊しようとする。その抵抗が強いときは、その破壊性が自己に向かう。この破壊性は個人だけでなく、家族や民族・人類のレベルで表れる。自己破壊衝動はゆるやかに表れる場合があり、結婚や出産・子育てを望まず、民族の少子化が進行するのは、これであると思う。

 

 私は、フロイトを上記のように評価する。私の見るところでは、フロイトの核心は唯物論的人間観にある。フロイトの理性的自我意識による無意識の制御と、啓蒙的合理主義的な倫理観は、唯物論に基づいた道徳である。唯物論的人間観とは、近代西洋に現れた人間観で、人類は神(キリスト教的な人格神God)が創造したものではなく、生物の進化によって誕生した一つの種であり、人間の心理現象は、根本的には物質的な現象であり、人間は死とともに無に返るという考え方である。心理現象の物質的な基盤を、脳と見るか、細胞と見るか、遺伝子と見るか、原子と見るか等の違いがあるが、いずれにしても本質的には物質的な現象と見る。この人間観では、身体から独立して存在する霊魂を認めない。そして、フロイトの限界は、まさにこの唯物論的人間観にあると考える。

 こうした唯物論的人間観において、フロイトはマルクスと結びつき得る。労働する人間を、性活動をも行う人間として、その心理面を研究したのが、フロイトとなる。

 マズローの欲求の5段階説によれば、マルクスは、「生理的欲求」と「安全の欲求」を中心とし、それらを社会的に平等な状態で達成することを目指した。フロイトは性の問題を通じて、より上位の欲求である「所属と愛の欲求」の研究をした。しかし、性の観点からすべてを理解しようとしたために、人間理解を狭くしてしまった。マルクスとフロイトの統合が生み出すのは、この段階の欲求の追及である。ところが、マルクスの理論を実行した共産主義の社会では、もう一つ上の第4段階の欲求の表れである権力欲が追求され、全体主義体制の構築と崩壊に終わった。ソ連では、革命後、性解放が行われたが、家庭の崩壊、青少年の非行等が進行し、政策を転換して、家庭の尊重、母性の保護に変わった。

 

 フロイトは、当初、機械論的な唯物論により、エネルギーをモデルにして、性本能を考えた。ニュートン物理学を理想とし、心の物理学を構想したのである。その後、フロイトは性エネルギー論を捨て、エスの本能的欲求という生物学的な捉え方に変わる。しかし、人間を物質的なものと見ている点では一貫している。そして、死すべきものとしての人間に、無機物に戻ろうとする傾向として、死の本能(タナトス)を想定した。タナトスは、生の本能(エロス)についての快感原則・現実原則と異なり、涅槃原則に従うとされる。涅槃原則は、ショーペンハウアーを通じて仏教のニルヴァーナの考えを取り入れたものである。ショーペンハウアーは、生きんとする盲目の意志を否定することで、解脱の境地へと達することができると説いたが、それは死後霊魂が存続することを前提していた。しかし、フロイトは身体から独立した霊魂の存在を認めない。だから、仏教のニルヴァーナをそのままに理解したものではない。仏教は霊魂を西洋思想のように、不変不滅の実体ととらえない。死後も存在し、輪廻転生するものととらえる。そして、この宇宙から解脱し、再び輪廻転生しない状態に入ることを、ニルヴァーナという。フロイトは、霊魂自体を認めないから、涅槃原則とは、単なる無機的な物質の法則に過ぎない。

フロイトは心霊論を否定し、ユダヤ=キリスト教の神による人間の創造を否定し、現世すなわち現実世界が唯一の世界だと考えた。この考え方は、人類の思想史においては、少数派である。近代西洋以外には、ごく少ない。ギリシャ、インド、シナ等の一部の唯物論者や、ブッシュマンのみに見られる。

 いったい人生の根本問題とは何か。成長して大人になること、自分に合った伴侶を得ること、子供を産み育てること、よい死に方をすること。私はこれらに集約されると思う。そして、よい死に方をするためには、自分が生まれてきた意味・目的を知ること、生きがいのある人生を送ること、自己の本質を知ること、死後の存在について知ることが必要になる。人生の根本問題の前半は、なかば生物学的・社会学的なものである。しかし、死の問題は違う。死の問題は、哲学的であり、宗教的な問題である。唯物論は、人生の後半の問題については、まったく役に立たない。むしろ、自己の本質について、根本的な誤解を与える。

 死んで終わりなのか、死後も存在しつづけるのか。死の認識で思想は大きく二つに分かれる。死ねば終わりと考えるのを唯物論と呼び、死後も続くと考えるのを心霊論と呼ぶことにしよう。心霊論には、キリスト教のような人格的唯一神による創造説や、仏教のような縁による発生説がある。人生は一回きりという一生説と、輪廻転生を繰り返すという多生説がある。また、祖霊の祭祀を行う場合と、行わない場合がある。単に思い出、記憶として親や先祖を思うという場合もある。しかし、心霊論は、死後の存在を想定して人生を生きる点では、共通している。

心霊論的人間観では、死は無機物に戻るのではなく、別の世界に移るための転回点であると考える。身体は自然に返る。しかし、霊魂は、死の時点で身体から離れ、死後の世界に移っていく。人生においては、この死の時に向かっての準備が重要となる。霊魂を認め、来世を想定する心霊論的な人間観に立つと、フロイトの「死の本能」とは違う意味での「死の本能」が想定される。来世への移行本能と言っても良いし、別の次元の生に生きる再生本能と言っても良い。
 身体から独立した霊魂を認めるという考え方は、特異なものではない。近代西洋の唯物論的人間観が有力になるまで、ほとんどの人類は、そのように考えていた。唯物論的人間観の優勢は、物質科学・西洋医学の発展やダーウィンの進化論、マルクス、ニーチェ、フロイトらの思想によるところが大きい。だが、近代西洋にあっても、カント、ショーペンハウアー、シジウイックらの哲学者、ウォーレス、クルックス、ユングらの科学者は、霊的現象に強い関心を示したり、心霊論的信条を明らかにしてきた。20世紀の代表的な知性であるベルグソンは、特にテレパシーの事例に注目した。ベルグソンは「心は体からはみ出ている」として、身体と霊魂の関係を「ハンガーと洋服」の関係にたとえている。テレパシー以外にも臨死体験や体外離脱体験等には、否定しがたい多数の事例があり、それらをもとに、霊魂が身体と相対的に独立し、死後は別の仕方で存在することを主張することができる。心霊論的な人間観に立つと、社会や文明に対する見方は、現在の常識や諸科学とは、大きく異なったものになる。私は、心霊論的人間観の復権と確立のために、超心理学とトランスパーソナル学の発展に期待している。また、それらを補助とした新しい精神科学の興隆が、文明の転換、人類の飛躍の推進力になると思う。ページの頭へ

 

関連掲示

・拙稿「カントの哲学と心霊論的人間観

拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ

参考資料

・『フロイト著作集』(人文書院)

・小此木啓吾著『フロイト』(講談社)

・ショーペンハウアー著『意志と表象としての世界』(中央公論社「世界の名著版等)

    フロム著『正気の社会』(社会思想社)

    安田一郎著『フロム』(清水書院)

    ユング著『心理学と宗教』(人文書院)『ユングの人間論』『ユングの文明論』(思索社)

    河合隼雄著『無意識の構造』(中公新書)

    ソンディ心理学普及協会のサイト

http://www.edit.ne.jp/~ham/

・マズロー著『完全なる人間−魂のめざすもの』(誠信書房)

・ベルグソン著『精神のエネルギー』(第三文明社)

 

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