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  心と宗教

                       

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宗教、そして神とは何か

2017.3.16

 

<目次>

はじめに

1.宗教とは何か

2.神の定義

3.神の分類

4.宗教における神概念の違い

5.神と人間の関係

6.天皇、キリスト、現神人

7.生と死の問題

8.大安楽往生と魂の救い

結びに

 

 

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はじめに

 

 科学の進歩が単純に信じられた時代には、科学が進めば、宗教の迷信や不合理が明らかになり、宗教はやがて消滅すると考えられた。ところが、21世紀の今日でも、多くの人は、神や仏を信じたり、祖先の霊に手を合わせたり、祭りや儀礼に参加したりしている。

 人間が生きる意味や、生と死、愛と苦悩等の問題について、科学は指針を与えてはくれない。こうした問題は、理性的・客観的な認識とは、別のアプローチを必要とする。最先端の研究をしている科学者の中にも、信仰を抱いている人は少なくない。宇宙や生命や心の研究が進むにつれ、宇宙や生命や心の世界はまた新たな奥深さを見せる。その神秘に畏敬の念を覚える時、宗教には独自の価値があることが感得されるのだろう。

 世界的には、1970年代以降、宗教回帰の傾向が起っている。近代西洋文明の行き詰まりの中で、キリスト教、イスラーム教等の従来宗教の復興の動きが見られる。そうした宗教運動が国際関係の動向に強い影響を及ぼしている。また、科学的な知見を否定せず、それと矛盾しない合理性を持つ新しい宗教へのシフトも起こっている。従来の宗教の枠組みを超えて、超個人的な研究を行うトランスパーソナル学も発達してきている。

 私は、これまで文明学の観点から宗教について書き、個別の宗教論としては神道、イスラーム教について書き、現在、ユダヤ教について連載しているところである。それぞれの拙稿で宗教と神の概念について書いてきたが、あらためて私見を本稿に整理して記したい。

 

1.宗教とは何か

 

 宗教とは何か。多くの宗教学者・宗教研究者らが宗教の定義を試みてきた。それらを簡単に集約すれば、宗教とは、人間の力や自然の力を超えた力や存在に対する信仰と、それに伴う教義、儀礼、制度、組織が発達したものをいう。宗教の中心となるのは、人間を超えたもの、霊、神、仏、理法、原理等の超越的な力や存在の観念である。その観念をもとにした思想や集団的な感情や体験が、教義や儀礼で表現され、また生活の中で確認・再現・追体験されるのが、宗教的な活動である。宗教は、社会を統合する機能を持ち、集団に規範を与える。また社会を発展させる駆動力ともなる。国家の形成や拡張を促進し、諸民族・諸国家にまたがる文明の中核ともなる。同時に、個人を人格的成長に導き、心霊的救済を与えるものでもある。

 今日わが国で使われている「宗教」という漢字単語は、西欧言語の英語・独語・仏語のreligionの訳語として作られた言葉である。religion は、ラテン語の religio に由来する。religio は「再び(re)」「結びつける(ligio)」を意味する。漢字単語の「宗教」は、もともと仏教において「宗の教え」つまり究極の原理や真理を意味する「宗」に関する「教え」を意味していた。その「宗教」の語が、幕末期に西洋言語の religion 等の訳語として、宗教一般をさす語に採用され、明治初期に広まり、現在に至っている。究極の原理や真理を解き明かすものゆえ、それに基づきあらゆる分野に通じる綜合的な教えともなり得るのが、宗教である。

 さて、今日宗教と呼ばれるものの多くは、古代に発生し、幾千年の年月に渡って継承され、発展してきたものである。それらの宗教には、その宗教を生み出した社会の持つ習俗・神話・道徳・法が含まれている。

 習俗とは、ある社会で昔から伝わっている風習や、習慣となった生活様式、ならわしをいう。その起源はきわめて古く、人類諸社会の文化の発生と同時に生じたものが、世代から世代へと継承され、伝統を形作ってきている。習俗の一部は、その社会で伝承されてきた神話で語られる物語に起源を持つ。

 神話は、宇宙の始まり、神々の出現、人類の誕生、文化の起源等を象徴的な表現で語る物語である。一つの世界観の表現であり、またその世界で生きていくための規範が表現されている。神話は、共同体の祭儀において、人類の遠い記憶を呼び覚まし、人間の自己認識、世界の成り立ち、そして生きることの意味を確認するものだった。神話においては、宗教・道徳・法は未分化であり、それらが分かれる前の思考が象徴的な形式で表現されている。その思考は、不合理のようでいて独自の論理が見られる。

 宗教は、こうした習俗や神話をもとにしながら、人間の力や自然の力を超えた力や存在に対する信仰と、それに伴う教義、儀礼、制度、組織が発達したものをいう。

 宗教から人間の力や自然の力を超えた超越的な要素をなくすか、または薄くすれば、道徳となる。道徳は、集団の成員の判断・行動を方向づけ、また規制する社会規範の体系である。善悪の判断や行動の可否の基準を示すものである。道徳のうち、制裁を伴う命令・禁止を表すものが、法である。法は、集団の成員に一定の行為を命じるか、禁じるかし、これに違反したときには制裁を課する決まりごとの体系をいう。

 宗教は、習俗・神話とともに道徳・法を含むものであり、これらを抽出して完全に分離することはできない。宗教はまた生活の知恵や技術、制度、芸術をも中に含む。現代においては、宗教と無関係であり、むしろ対立するものと考えられる傾向のある科学でさえも、そのよって立つ基本的な人間観や世界観は、宗教に深く根ざしている。人間が創り出した精神文化を最も総合的に表しているのが、宗教である。

 今日の宗教の多くは、その宗教を生み出した社会の持つ習俗・神話・道徳・法を含んでいる。また、それぞれの実在観、世界観、人間観を表現している。20世紀後半以降に現れた新しい宗教も、ほとんどはキリスト教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教、神道等の既成の宗教に根差したものである。これらの宗教の教義の混交や総合を試みたものが多い。

 宗教の集団には、氏族・部族・民族のような血縁的・地縁的な共同体が同時に宗教的な集団でもあるものや、信仰を基にした社縁的な共同体であるものがある。後者は、しばしば教団または宗教団体と呼ばれる。わが国の宗教法人法は、宗教団体を「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする」団体と定義している。

 宗教学者・岸本英夫によれば、宗教には「神を立てる宗教」と「神を立てない宗教」がある。前者は崇拝・信仰の対象として神を立てるもので、一神教・多神教・汎神教等である。後者は、神観念を中心概念はしない宗教で、霊力を中心概念とするマナイズムや、法を中心概念とする原始宗教・根本仏教等である。岸本の弟子・脇本平也は、前者を有神的宗教、後者を無神的宗教と呼ぶ。前者の神の概念には、人間神、自然神、宇宙神、超越神、理力神等がある。後者は、力、法、道等を中心概念とするが、それを人格化する場合は、前者に近づく。また前者のうち、神を非人格的で理法や原理ととらえるものは、後者に近づく。

 仏教は本来、無神的宗教だが、大乗仏教や密教では、法(ダルマ、真理、法則)を人格化したり、仏陀や如来・菩薩等を神格化している。法身仏、久遠本仏等である。こうした宗派は、神を仏・如来・菩薩等という名で呼ぶ有神的宗教と見ることができる。ページの頭へ

 

2.神の定義

 

 宗教は、神を立てるか立てないか、有神的か無神的かで大別することができる。それゆえ、宗教において神の概念は、中心的な概念である。

 神とは何か。何を以って神と呼ぶのか。これまで、神について様々な定義が試みられている。代表的な事典・辞典は、次のように書いている。

 『世界大百科事典』(平凡社)第2版は、神を次のように解説している。「神観念の内容は、それを分類し整理し定義する方法のいかんによって大きな変化を示す。哲学者はそれを万物の存在根拠であり絶対者であると考え、神学者は超越的な救済神であるとみなした。また神話学者はそれを自然神とか擬人神といった枠組で分類し、宗教人類学者は死霊や精霊や祖霊、あるいはマナのような呪力と神々との相互連関の問題をとりあげた。そのほか一神教と多神教の両極をたてて、その中間領域にさまざまな神観念の変化型を指摘する宗教学者もいれば、神観念の発達にも進化と退化があったとする社会学者もいた」と。

 『ブリタニカ国際百科大事典』は、神を「宗教信仰の対象」とし、一般に絶対的、超越的な存在とされる、と指摘している。また、原始信仰では人間を超えた力と考えられていて、高度な宗教では超越的な力を有する人格的存在とされることが一般的としている。

 『広辞苑』第五版は、概略次のように解説している。@「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以ってはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの」、A「日本の神話に登場する人格神」、B「最高の支配者。天皇」、C「神社などに奉祀される霊」、D「人間に危害を及ぼし、怖れられているもの」、E「キリスト教で、宇宙を創造して支配する、全知全能の絶対者。上帝。天帝」。

 本稿において、神には法を人格化したり、仏陀や如来・菩薩等を神格化していたりしている場合を含む。それらの事例は、上記の様々な定義における「万物の存在根拠であり絶対者」「絶対的、超越的な存在」「超越的な力を有する人格的存在」「人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの」等に当てはまる。ページの頭へ

 

3.神の分類

 

 2のように定義が試みられてきた神の概念は、大きく五つに分類できる。(1)人間神、(2)自然神、(3)宇宙神、(4)超越神、(5)理力神である。

 人間神は実在の人間を神として尊崇するもの、自然神は自然の事物・事象を神格化したもの、宇宙神は宇宙全体、一切万有を神格化したもの、超越神は宇宙を無から創造したとする神、理力神は宇宙の根本的な原理にして万有一切を生ぜしめる原動力を神とするものである。次にその概要を記す。

 

(1)人間神

 人間神とは、実在の人間を尊崇するものである。祖先・首長・偉人・英雄・聖者等が神として崇拝される。生前から神格化されている場合と、死後、神格化される場合がある。前者は生き神であり、後者は霊的存在である。ともに元は人間が神に成り上がったものである。<人間の神格化>である。

 アニミズム、シャーマニズムでは、祖先の霊を神と祀る祖先崇拝が広く見られる。神道におけるミコト(命・尊)やカミには、祖先の霊を神とするものがある。祖先神の祭りを司る王を、祭祀王という。祭祀王は世界各地の原始宗教・古代宗教に見られたが、しばしば人にして神とされてきた。日本ではオオキミ(大王)をスメラミコト(統治者)と呼び、シナの天命思想を摂取した後は、天皇と尊称するようになった。天皇はアキツミカミ・アラヒトガミ(現人神)とされ、死後は歴代の天皇霊とともに神として祀られる。これは、祭祀王の神格化の一例である。

 人間神は、宇宙神と一体にまで高められた場合や超越神の現れとされる場合がある。前者の例には法身仏等、後者の例にはイエス=キリスト等がある。

 

(2)自然神

 自然神は、自然の事物・事象を神格化したものである。動物には蛇、犬、熊、狐等、植物には巨木等、天体には太陽、月、北極星等、それら以外の事物・事象には光、海、山、風等がある。<自然の神格化>である。

 自然神は、上記のような事物・事象を擬人化したものだが、龍など想像上のものもある。また獣頭人身、半獣半人とされるものもある。

 自然を天空と大地に分け、神として崇拝する伝統は、世界に広く見られる。天空父神と大地母神として対になっている場合がある。天空父神は、ユーラシアの遊牧民族に広く見られ、宇宙を支配する神と考えられる場合は、宇宙神に近い性格を持つ。

 神道では、天照大神は太陽、素戔嗚尊は海または風を神格化したものである。天照大神は、皇室の祖先神ともされ、人間神と自然神が合体している。天之御中主之命は、宇宙の中心を神格化したもので、北極星をそれに見立てている。

 

(3)宇宙神

 宇宙神とは、宇宙全体、一切万有を神として神格化したものである。自然神との違いは、動物、植物、天体、天地等の個々の事物・事象ではなく、宇宙全体を神ととらえる点である。<宇宙の神格化>である。

 ヒンドゥー教では、宇宙の創造・維持・破壊の働きを神格化している。それらの創造の神ブラフマー、維持の神ヴィシュヌ、破壊の神シヴァは、宇宙神である。本来は一体である最高神が、創造、維持、破壊の三つの役割に応じて現れたとする三神一体論(トリムルティ)が説かれる。ヒンドゥー教では、ブラフマンを宇宙の根本原理(梵)とし、アートマンを個体的原理(我)とする梵我一如の思想も発達した。この場合のブラフマンは(5)の理力神に近い性格を持つ。

 仏教は法の教えであり、本来は神を立てない無神的宗教である。だが、開創後、発祥の土壌であるヒンドゥ―教の影響を受けた。大乗仏教・密教の法身仏は、宇宙の理法そのものにして仏の本身とされる。これも宇宙神の一形態であり、また理力神に近い性格を持っている。

 シナでは、天地・宇宙・万物を創造し支配する神を天帝とする天命思想が発達した。天命思想は儒教・道教・墨家に共通する。この場合の天帝は、自然神というより宇宙神である。元始天尊、上帝、天皇大帝等とも呼ばれる。わが国の天皇は天皇大帝の略称と考えられる。

 神道の天之御中主之命は、単なる「天の中心」という自然神ではなく、宇宙の本源であり、その本源の神の現れとして八百万の神々が現れているとする見方がある。天之御中主神は、道教における道(タオ)または易における太極に相当し、高御産巣日神、神産巣日神は、陰陽の両極に相当する。陰陽は昼と夜、男と女、天と地、海と陸等の両極性を抽象化した概念だが、日常的な経験から理解しやすい。わが国では、天の中心や「むすび」という日本的な概念に置き換えて、道・太極と陰陽を神話的に表現したものだろう。この場合の宇宙神は、宇宙の根本原理に関する考察が行われているので、(5)で述べる理力神に近い性格を持っている。

 

(4)超越神

 超越神は、宇宙を無から創造したとする神である。この場合、宇宙は神ではなく、神の被造物とされる。宇宙神との違いは、宇宙神は宇宙全体、一切万有を神として神格化したものであるのに対し、超越神は宇宙をその外から創造したとする点である。超越神の概念の起源は、祖先神または宇宙神に求められる。前者であれば、<人間の神格化+超越化>であり、後者であれば<宇宙の神格化+超越化>となる。

 ユダヤ教、キリスト教の神ヤーウェ、イスラーム教の神アラーは、超越神である。これらの超越神は、人格神である。人類の歴史に介入し、ユダヤ民族を「神の民」として選び、契約を結び、律法を与え、預言者を通じて人間に語ったとする。

 キリスト教では、この超越神が人間となって現れたものがイエス=キリストであり、イエス=キリストは人となった神だととらえる考え方が主流である。一つの神が父なる神、子なる神イエス=キリスト、聖霊の三つの位格を持つとする三位一体論(トリニティ)が説かれている。これに対し、ユダヤ教、イスラーム教では、神が人となるという考え方を認めない。

 超越神から神話的な要素を除くと(3)の宇宙神に近づき、さらに合理的な考察を行うと(5)の理力神に近づく。

 

(5)理力神

 理力神は、宇宙の根本的な原理にして、万有一切を生ぜしめる原動力を神とするものである。単に法則や力ではなく、それを人格化して神という。<理法・力の神格化>である。最も根本的かつ合理的なとらえ方であり、哲学的・科学的な神の概念とも一致する。これこそが、真の神の概念である。

 理力神は、宇宙の法則・力であるから、すべてのものは、その現われである。その点で、理力神は、宇宙神を単に森羅万象を現象としてとらえるのではなく、根本原理からとらえた概念と見ることができる。

 宇宙の根本的な原理にして、万有一切を生ぜしめる原動力を神とするならば、神は一つであり、一つでしかあり得ない。人間神、自然神、宇宙神、超越神は、神の本質を極めることができていないところで象徴化または概念化またされたものである。天之御中主之命、ブラフマン、法身仏、久遠本仏、元始天尊、ヤーウェ、アッラー等は、みなその絶対唯一の神を、様々な名前とイメージでとらえたもの、一体異名と考えられる。

 理力神は、非人格的、人格的の2つの面を持つ。本来は、法則にして力ゆえ、非人格的だが、これを人間が人格化してとらえると人格神となる。また、理力神が人間の姿をとって現われたものを、他の人間神と区別して現神人(げんしんじん)という。ページの頭へ

 

4.宗教における神概念の違い

 

 神の概念は、3のように大きく五つに分類できる。宗教によって、それらのうち、何を神と認め、仰ぐかが異なる。

 多数の神々を祀る宗教を、多神教という。多神教では、人間神、自然神を多く祀る。宇宙神を祀る場合もある。アニミズム、シャーマニズム、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教、神道等はこれである。

 多神教には、多元的多神教と一元的多神教がある。前者は、多くの神々が並列しており、そこにそれらを統合する神または原理が存在しないものである。後者は、根源的な神または原理があって、その様々な現れとして多数の神々が存在するととらえるものである。

 神道は、一般に多元的多神教と見られているが、私は一元的多神教ととらえるべきと考える。根本的・本源的な神が多数の神々となって現れているという一即多、多即一の構造が見られるからである。一の側面の神は宇宙神であるが、宇宙の根本原理に関する考察が行われており、理力神に近い性格を持つ。

 一つの神のみを祀る宗教を、一神教という。一神教には、単一神教、拝一神教、唯一神教がある。単一神教は、自己の集団において多くの神々を認め、その中に主神と従属神があるとし、他の集団の神格も認める。拝一神教は、自己の集団において唯一の神のみを認めるが、他の集団における神格をも認める。前者は従属神を認める点において、後者は他の集団の神を認める点において、多神教に近い性格を持つ。

 唯一神教は、唯一の神のみを神とし、自己の集団においても他の集団においても、一切他の神格を認めない。これが純然たる一神教である。唯一神教には、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教がある。ユダヤ教とイスラーム教では、唯一の神しか認めず、その性格は超越神である。キリスト教の三位一体論は、イエス=キリストは人間神であり、かつ超越神であるとする考え方である。

 世界のすべてを神の現れとする宗教を、汎神教という。汎神教は、一切万有は神であり、神と宇宙は同一とする。多数の神々を仰ぐことはしない。その点では、一神教の一種と見ることができる。唯一神教は、神は無から宇宙を創ったとし、宇宙は被造物であり、神は宇宙に超越するとするのに対し、汎神教は神と宇宙は同一とする点が異なる。

 理力神を絶対唯一の神とする宗教は、従来の世界の諸宗教の中には存在しない。理力神を神とする宗教であっても、単に教えを説くだけで、理法にして力である神の実証を伴わなければ、観念的な教えにとどまる。理力神を絶対唯一の神とし、その神の実証を伴う宗教は、従来の宗教を超えたものとなる。ページの頭へ

 

5.神と人間の関係

 

 神の概念が異なると、神と人間の関係も異なり、人間が神に対して行うことも異なる。

 

(1) 人間神と人間

 人間神と普通の人間には、神として尊崇される人間と、尊崇する人間という関係がある。普通の人間が将来、生前または死後に、他の人間から仰がれる者となることがあり得る。祖先の霊である人間神に対しては、子孫として崇拝・慰霊することが求められる。首長・偉人・英雄・聖者またはその霊である神に対しては、尊敬し模範とすることが求められる。

 

(2)自然神と人間

 自然神は、自然の事物・事象を神格化したものであり、人間はそれらの神々を崇めるという関係にある。自然神には、人間から見て位の低いものや位の高いものがある。位の低いものの一例である動物霊の神に対しては、その動物特有の能力による加護を祈る。位が高いものの一例である天空父神に対しては、人間はその意思に従うべきものとされる。

 

(3)宇宙神と人間

 宇宙神は、宇宙全体、一切万有を神として神格化したものであり、人間はその一部となる。人間は身体によって限定され、また死すべきものであるが、その本質においては宇宙の一部であり、永遠不死であることの自覚が求められる。そして、宇宙の本源・全体への回帰を目指すことを期待される。その到達を梵我一如、神人合一(ヒンドゥー教)という。

 

(4)超越神と人間

 超越神は、宇宙を無から創造した神であり、人間は神の被造物とされる。神は土からアダムを造り、その鼻から命を吹き込んだ。続いて、男のあばら骨から女(エバ)を造ったとされる。人間は、創造主の意志に従い、律法を実践するか(ユダヤ教)、神の子イエスの教えに従うか(キリスト教)、神の言葉に従うか(イスラーム教)しなければならない。

 

(5)理力神と人間

 理力神は、宇宙の根本的な原理にして、万有一切を生ぜしめる原動力を神とするものであり、人間はその原理・原動力によって生成消滅するものとされる。神に対して、自己は神の一分子、神の一細胞であるという関係にある。人間は、自らを生み出し、その法則に従って生きるべき神の実在に目覚め、神の道に沿った生き方をすることが求められる。ページの頭へ

 

6.天皇、キリスト、現神人

 

 神の概念において、最も混乱しやすいのは、人間神が自然神・宇宙神・超越神・理力神と重なり合っている場合である。その例として、天皇、イエス=キリスト、現神人について述べる。

 

(1)天皇の場合

 天皇は、もともとシナの道教の用語である。天皇大帝の略称である。天皇大帝は、天帝の呼び名の一つであり、道(理法・法則・本体)を人格化した宇宙神である。日本では、天皇の語を大王(おおきみ)の尊称として取り入れた。大王は、神を祀って政治を行う祭祀王である。

 わが国では、天皇の概念は宇宙神としての本来の性格を失っている。天皇は、天照大神を祖先とする。皇祖神・天照大神は、人間神(皇室の祖先)と自然神(太陽)が重合したものである。天皇は、その子孫ゆえ、道教の宇宙神ではなく、キリスト教の超越神でもない。人間神と自然神が重合した祖先神を中心とする神々に祈りを捧げる立場にある。その面では人間だが、同時に、天照大神と一体の存在ともされる。天皇が天皇になる大嘗祭の儀礼を通じて、天皇は皇祖神の霊を自らの霊としたとされる人間神である。天皇は、アラヒトガミ、アキツミカミと呼ばれる。人間神である天皇の神性を表すのが、アラヒトガミ、アキツミカミにおける「カミ」という言葉である。死後、天皇は、皇祖神や歴代天皇の霊とともに神として祀られる。

 アラヒトガミは「現人神(あらひとがみ)」と書く。歴史学者の津田左右吉は、アラヒトガミの意味を次のようなものととらえた。

 

@ 「日本書紀」は「神代」と「人代」を分け、天皇は「人代」で出現している。

A 天皇は神を祀る者、いわば神祇官であって、祀られる対象ではない。

B 天皇が祈祷の対象であったことはない。困難が来たときには、天皇が神々に祈る。

 

 そこで、津田は、天皇は「あらひと」つまり「ひと」であり、「かみ」がつくのは「統治者への尊称」であるとした。そして、天皇は人間であるが、同時に象徴であると考えた。そして、皇室は「国民的精神の象徴、または国民的統合の象徴」と著書に記していた。

 津田が明らかにしたアラヒトガミは、キリスト教の神とはまった違う概念である。キリスト教の神は超越神であり、キリスト教の主流では、イエスはこの概念のもとに、人にして神であると信じられている。また、イエスは、神の証としての奇跡を起こす力を持つとされる。これに比し、天皇は、決して奇跡によって人々を救済する救世主ではない。天皇は神を祀る者であって、祀られる対象ではない。祈祷の対象ではなく、国家国民が困難に遭遇したときには、天皇が神々に加護を祈る。そのような存在である統治者として、天皇はアラヒトガミという尊称で呼ばれてきた。イエスのように、無から天地を創造した神と同格とされることはない。

 

(2)キリストの場合

 キリスト教の神は、超越神である。超越神は、唯一の神とされる人格神である。宇宙を無から創造したとされる。また人類の歴史に介入し、律法を与え、預言者を通じて人間に語り、また人類を罪から救うために、独り子・イエスを遣わしたとする。

 イエスの生涯・言行を伝える新約聖書の福音書は、イエスは奇跡を以て人々を救ったことを書いている。神の証としての奇跡を起こす力を持つと考えられている。また、イエスは磔刑にあったが、自身の予言通り3日後に復活し、以後40日間にわたって使徒や信徒の前に現れたとされる。この死と復活の奇跡によって、イエスは人となって現れた神、救世主と信じられている。

 キリスト教の主流の考え方では、イエスは「神の子」であり、また「主」ともされる。イエスが「神の子」であるとは、超越神が人間化したものであることを意味する。<神の人間化>である。ここでいう<神の人間化>は、神が主体的な意志を持って人間化するという意味である。人間が神人格持ったものとして、擬人化してとらえるという意味ではない。

 神が人間になるという<神の人間化>は、世界の諸宗教で珍しくない。例えば、ヒンドゥー教では、創造・維持・破壊の三神一体の宇宙神を信仰する。そして、梵我一如の境地に達した聖者を「神の化身」ととらえる。それを生きながらの神(生き神)すなわち人間神と見なせば、宇宙神が主体的に出現したものと理解される。また大乗仏教には、宇宙の本仏を信仰する宗派がある。宇宙の本仏は宇宙神であり、衆生を救うために、種々の姿を取って権(かり)に現れることを権現という。本仏の権現である仏や如来・菩薩は、宇宙神の現れである。それゆえ、これらの例は<神の人間化>である。

 キリスト教がこれらと異なるのは、宇宙神ではなく超越神を信仰する唯一神教であることである。唯一の超越神以外の神を認めず、イエス以外に<神の人間化>を認めない。多神教における宇宙神の人間化とは、根底にある考え方が違う。また、そのために、非常に複雑な教義となっている。

 キリスト教は超越神を信仰する。これを父なる神とする。そして、父なる神が聖霊の働きによってマリアの胎内に入り、処女懐胎のマリアを通じて人性を得て生まれたのが、イエス=キリストだとする。それゆえ、イエスは子なる神とされる。イエスは人にして神であり、また完全な人間であり、同時に完全な神であるとする。イエスは、人間と同じ肉体を持ちながら神であり、人性と神性の二つの本性(ナトゥーラ)を持つとする。聖霊とマリアという要素が加わっているので、他の宗教に比べて複雑な構造になっている。

 イエスは「主」と呼ばれる。「主」とは超越神を意味する。「主・イエス」とは、イエスは人間神であると同時に超越神であることを意味する。これを表す教義が、三位一体説である。三位一体説とは、父なる神、子なる神としてのイエス=キリスト、聖霊の一体をいう。神の実体(スブスタンティア)は一つ、神の位格(ペルソナ)は三つとする。ローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタント諸派の多くは、三位一体説を教義とする。

 三位一体説において、イエスが神であるということは、イエスが三位一体における子なる神であることを意味する。イエス=キリストにおいては唯一の位格しか存在しないが、その一つの位格のなかに人性と神性との二つの本性を備えるとする。また、子なる神は父なる神、聖霊と同格とすることから、イエスは父なる神としての超越神でもあるとする。

 三位一体説について、キリスト教徒は、理性では理解できない事柄であり、ただ信じるのみとしている。

 イエスは、人にして神であり、かつ超越神とされ、奇跡を以って人を救ったとされるので、(3)の現神人と似たものと考えられやすい。しかし、神のとらえ方から違う。

 

(3)現神人の場合

 理力神は本来、宇宙の根本原理にして、一切万有を生ぜしめる原動力ゆえ、非人格的な存在だが、これを人間が人格化してとらえると人格神ともなる。さらに理力神が人間の姿をとって現われたとされるものが、現神人である。現神人は、神と人が一体となって出現した存在である。<神の人間化>である。ここでいう<神の人間化>は、神が主体的な意志を持って人間化することを意味である。

 理力神は、宇宙の根本的な原理にして力を人格化して、神と呼ぶものである。この神に対するとらえ方は、神道における自然神・宇宙神、キリスト教における超越神と異なる。そのとらえ方の違いによって、神道やキリスト教における人間神と、現神人は異なる。

 現神人は、宇宙の根本的な原理にして力である神と一体の存在ゆえ、神の力を以って奇蹟を起こす能力を持つ。その奇蹟は、確率、範囲、大きさにおいて、人類史上に前例がないものとなる。わが生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生は、現代日本に現れた現神人である。関心のある方は、次のサイトをご参照願いたい。

http://www.srk.info/sinreikyo/kyouso.html

 現神人と天皇は、人間を神と仰ぐ点は共通する。だが、天皇は人間神と自然神が重合した祖先神を中心とした神々に祈りを捧げる人間である。決して奇跡によって人々を救済する救世主ではない。神々に加護を祈る存在である。祈祷の対象ではなく、国家国民が困難に遭遇したときには、天皇が神々に加護を祈願する。天皇は伝統的にはそのような役割を持つ統治者であり、日本民族の中心として、国民が尊崇すべき存在である。

 現神人とイエス=キリストは、神が人となったという考え方は共通する。神性と人性の両面があるという考え方も共通する。だが、神のとらえ方が、片や理力神、片や超越神である点が異なる。また、現神人に関しては、父と子と聖霊という位格の概念は、必要ない。現神人における神と人の関係は、父と子の関係ではなく、神人一体である。また現神人には父と子を結び合わせる聖霊の概念は不要であり、直接神の力を放射する。

 イエスは、神の証としての奇跡を起こす力を持つとされ、聖書にイエスによる奇跡が記されている。だが、約2000年前、科学が未発達の時代のことゆえ、科学的で客観的な裏付けとなる記録がない。伝説の域を出ない。イエスは世の終わりに自ら再臨すると述べたとされ、キリスト教徒はイエス=キリストの再臨を待望している。しかし、むしろイエスの真意は、将来、真の救世主が出現することを民衆に知らせたものと考えられる。

 現神人と他の人間神との違いは、真の神が人間化したという意味での<神の人間化>か、それとも<人間の神格化>をしたものを、逆方向から<神の人間化>ととらえているかーーこの違いである。イエス=キリストの他、ヒンドゥー教の聖者、大乗仏教の本仏の権現である仏や如来・菩薩の実態も、後者である。真の<神の人間化>か、<人間の神格化>を逆方向から<神の人間化>ととらええているかどうかの違いは、現実世界に発揮される力の違いとして現れる。神の実在を証明する実証の違いを以って、確認することができる。

 神の力は、宇宙の根本原理に沿って働き、一切万有を貫く原動力である。人間には、偉大な生命の力として感じられる。その力を受けて生命力を発揮することができれば、人は医薬に頼らずに健康に過ごせる。また大抵の病気は治る。極度に生命力が発揮されるときには、ガン・難病等も治癒する。お産にしても、自然分娩で無痛安産ができる。脳細胞が活性化し、頭部が隆起する。不慮の事故や災難から守られ、安心した生活を送られる。健康で寿命を全うし、死後硬直なく、体温冷めず、死臭・死斑のない大安楽往生ができる。人間だけでなく、動植物・無生物にまで奇蹟は及ぶ、等々がその実証となる。これらのうち、大安楽往生は、特に重要なので、以下の項目に詳しく書く。ページの頭へ

 

7.生と死の問題

 

 人間はいかに生きるべきか。この問いを中心として、三つの問いが、神話から宗教、哲学、科学を貫いて問われ続けている。すなわち、人間とは何か、世界はどういう構造か、実在とは何かである。これらの問いの探求は、それぞれ人間観、世界観、実在観を形成する。人間とは何かという問いの答えによって、世界観・実在観は変わる。人間が人間である以上、この問いが、探求の中心となる。

 人間とは何かという問いに対して、神話、宗教、哲学、科学は、さまざまな答えを示し、または探り続けている。いったい人生の根本問題とは何か。成長して大人になること、自分に合った伴侶を得ること、子供を産み育てること、よい死に方をすること。私はこれらに集約されると思う。そして、よい死に方をするためには、自分が生まれてきた意味・目的を知ること、生きがいのある人生を送ること、自己の本質を知ること、死後の存在について知ることが必要になる。人生の根本問題の前半は、なかば生物学的・社会学的なものである。しかし、死の問題は違う。死の問題は、哲学的であり、宗教的な問題である。

 死んで終わりなのか、死後も存在しつづけるのか。死の認識で思想は大きく二つに分かれる。死ねば終わりと考えるのを唯物論と呼び、死後も続くと考えるのを心霊論と呼ぶことにしよう。世界の諸宗教のほとんどは、心霊論に立っている。唯物論は宗教ではごく少数であり、哲学や科学で有力である。現代の科学はまだ霊の領域まで研究が進んでいないので、霊魂の存在を認めるところまでいっていないが、科学者にも祖先や近親等の霊の存在を信じる者は少なくない。

 心霊論的な宗教には、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教のような人格的唯一神による創造説や、仏教のような縁による発生説がある。死後霊魂が永遠不死であることは、有限の人間には証明できない。だが「神を立てる宗教」、有神的宗教であれ、「神を立てない宗教」、無神的宗教であれ、多くの宗教で、人々は死後の霊魂の存続を信じ、来世への移行を期待してきた。死後の存在を想定して人生を生きる点は、ほとんどの宗教に共通している。

 生命の形態については、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教や神道のような生死は一回きりという単生説と、ヒンドゥー教、仏教のような生死を幾度か繰り返すという多生説がある。後者の場合、人間は人間としてのみ輪廻転生すると考えるか、人間に限らず動物を含む他の生命体にも再生すると考えるかの違いがある。単生説と多生説については、科学によってこれらの説を客観的・実証的に解明するに至っていない。今後、霊の領域の研究が進めば、単生か多生かの決着がつく時が来るだろう。

 唯物論的人間観は、心は脳の生理的な現象であり、人間は死後、物質に分解するのみとする。これに対し、心霊論的人間観では、死は無機物に戻る過程ではなく、霊魂が別の世界に移るための転回点であると考える。身体は自然に返る。しかし、霊魂は、死の時点で身体から離れ、死後の世界に移っていく。人生においては、この死の時に向かっての準備が重要となる。霊魂を認め、来世を想定する心霊論的な人間観に立つと、フロイトの「死の本能(タナトス)」とは違う意味での「死の本能」が想定される。来世への移行本能と言っても良いし、別の次元の生に生きる再生本能と言っても良い。

 世界は、見えるものと見えないもので成り立っている。見えるものとは、五感でとらえられるものであり、見えないものとは五感を超えたものである。死は、後者の見えないものの存在を意識させ、見えない世界、見えるものの領域を超えた次元の存在を予想させる。宗教は、そうした見えるものと見えないもので成り立っている世界の全体へのアプローチの仕方である。人間が死すべきものである限り、いかに科学が発達しても、宗教が消滅することはない。

 身体から独立した霊魂を認めるという考え方は、特異なものではない。近代西洋の唯物論的人間観が有力になるまで、ほとんどの人類は、そのように考えていた。唯物論的人間観の優勢は、物質科学・西洋医学の発展やダーウィンの進化論、マルクス、ニーチェ、フロイトらの思想によるところが大きい。だが、近代西洋にあっても、カント、ショーペンハウアー、シジウィックらの哲学者、ウォーレス、クルックス、ユングらの科学者は、霊的現象に強い関心を示したり、心霊論的信条を明らかにしたりしてきた。20世紀の代表的な知性であるベルグソンは、特にテレパシーの事例に注目した。ベルグソンは「心は体からはみ出ている」として、身体と霊魂の関係を「ハンガーと洋服」の関係にたとえている。テレパシー以外にも臨死体験や体外離脱体験等には、否定しがたい多数の事例があり、それらをもとに、霊魂が身体と相対的に独立し、死後は別の仕方で存在することを主張することができる。

 心霊論的に見た人間の成長と変化は、蚕における「蚕―サナギー成虫」の成長と変化に例えることができる。この世における人間の生活は、蚕の段階に当たる。人間は、この世界に生まれ、成長し、活動を行い、やがて死ぬ。息を引き取った後、しばらくの期間における遺体は、サナギの段階に当たる。そして、蚕がサナギから抜け出て、成虫となって飛び立つように、人間の霊魂は次の段階に移っていく。蚕には、成虫の世界は分からない。これと同様に、現世の人間には、来世の存在は分からない。寿命が尽きたとき、初めて次の段階に入る。蚕の段階にある人間が、来世に関心を寄せても、時が来なければ、真相はわからない。自ら経験できる段階になった時に、初めて経験できるようになる。蚕は蚕として成長・活動していけば、やがて時が来て、サナギになり、成虫になる。人間も現世においては、現世において成長・活動することに専念していけば、やがて時が来て、次の段階に移り、その段階でなければ経験できないことを経験するようになる。

こうした人間が体験できる死の際における最高の現象が、「大安楽往生」という現象である。ページの頭へ

 

8.大安楽往生と魂の救い

 

大安楽往生とは、健康で寿命を全うして、死の恐怖や苦痛から解放されて安らかに亡くなり、遺体には死後硬直がなく、長時間体温が冷めず、死臭・死斑の現れない現象をいう。

大安楽往生は、従来の宗教で救済や悟りを示す現象として位置付けられてきた。しかし、その達成は極めて困難であり、大安楽往生現象に相当するか、またはそれに近い事例は、過去の宗教ではごくまれにしか記録されていない。

仏教においては、弘法大師空海や法然の臨終相は、死後、生きているような姿だったと伝えられている。高野山中興の祖、覚鑁は、死後32時間経過しても身体はなお温かで、生きているようで善人至極の相だったと記録されている。こうした現象は、罪障が消滅したことによって現れるとされる。道教では、葛洪が「顔色は生きているようで、体は柔軟で尸(しかばね)を挙げて棺に入れると甚だ軽く空衣のようだったので、世の人々は彼を尸解仙と言った」と伝えられている。また『高僧伝』神異編にいう保誌は、屍体が柔軟で香りがよく、顔には悦びの色が現れていたとされている。こうした現象は、過去の悪行が消滅したことによって現れるとされる。

キリスト教においては、ルルドの泉で知られる聖ベルナデットは埋葬までの4日間死後硬直なく、皮膚はバラ色で、死臭等腐敗の兆候が見られなかったという。アッシジの聖フランシス、ローマ教皇ピオ五世も同様の例として伝えられている。東方正教会において、ロシアでは遺体の状態が列聖において極めて重要な要素とされていた。ドストエフスキ−の小説『カラマーゾフの兄弟』は、長老ゾシマの死を描く場面で、民衆が腐敗しない遺体に対する大変根強い信仰を持っていたことを記している。こうした現象は、原罪が浄化されたしるしとされる。

現代の科学に照らして考えるならば、普通の場合、呼吸が止まり、心臓の鼓動が停止すれば、やがて肉体は腐敗を始める。大安楽往生現象において、遺体が腐敗しないということは、通常の生化学的な現象の法則が働いていないことを意味する。腐敗が進行しなければ、腐敗に伴う死臭が発生しない。生体において体温が維持されているのは、内臓・筋肉等の活動によって熱が発生するからである。それらの活動が停止すれば、遺体は普通の物体と同じく、室温またはそれに近い温度にまで冷たくなる。大安楽往生現象において、遺体の体温が長時間冷めないということは、生命活動が停止しているにもかかわらず、体温が維持されているのであるから、通常の生命現象の法則が働いていないことを意味する。遺体の下部に死斑が表れるのは、心臓が止まって血液が循環しなくなったので、重力の法則に従って血液が下方に沈降し、皮膚の表面に血斑を生じるものである。大安楽往生現象において、心臓が停止し血液が循環しなくなったのに、死斑が表れないということは、宇宙で最も普遍的な物理法則である重力の法則が働いていないことを意味する。このように、大安楽往生現象は、これまでに科学が発見した法則を超えた現象であり、現代の科学が発見できていない法則の存在を示唆する現象である。

大安楽往生現象は、宗教的には、罪障・過去の悪行・原罪等が浄化されて、魂が救済や解脱を得たしるしと考えられてきた。救済または解脱を得た魂が極楽・仙界・天国等と呼ばれる場所または次元に移る時に、現代の科学による物理や生命の法則を超えた法則または力が働くと考えられる。

大安楽往生現象の事例は、高僧・名僧、聖者・福者といわれた者でも極くまれ現象である。今日世界的に有名な宗教家や霊能者においても、確かな記録を以って知られる例は、ほとんどない。またその極少数の事例であっても、自分一人が達成できるのがよほどよいところであり、他に多数の弟子や信者までを大安楽往生させ得たという事例は、人類の歴史に全く見られない。ところが、現代の日本では、こうした極めてまれな貴重な現象を普通の人々が多数体験しているという驚異的な事実が存在する。それは本稿に書いた現神人・大塚寛一先生のもとで、既に70年間以上起こり続けている出来事である。大安楽往生は「崇高なる転生」ともいう。関心のある方は、次のサイトをご参照願いたい。

http://www.srk.info/library/tensei.html

今後、世界の科学者・医学者が大安楽往生現象を研究するならば、宗教に関する認識・評価が刷新され、同時にこれまでの様々な神の概念は、一つの神の概念に収斂していくことになるだろう。ページの頭へ

 

結びに

 

 21世紀は、宗教の価値が再認識・再評価されつつある時代である。人類が物心調和・共存共栄の新文明をこの地球に建設するためには、人間の精神的な向上が必要であり、宗教にはこれまで以上に大きな役割が期待されている。従来の宗教は既成の観念を脱却して、より高度なものへと進化すべき時を迎えていると言えよう。ページの頭へ

 

関連掲示

・拙稿「日本文明の宗教的中核としての神道

・拙稿「イスラームの宗教と文明〜その過去・現在・未来

・拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ

・拙稿「カントの哲学と心霊論的人間観

参考資料

・岸本英夫著『宗教学』(大明堂)

・脇本平也著『宗教学入門』(講談社)

・柳川啓一著『宗教学とは何か』(法蔵館)

・ミルチャ・エリアーデ著『聖と俗〜宗教的なるものの本質について』(法政大学出版会)『生と再生』(東京大学出版会)『エリアーデ著作集』(せりか書房)

・小室直樹著『日本人のための宗教原論』(徳間書房)

・大塚寛一著『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)

・田尻惠保+木村雄吉著「比較往生思想の研究』比較思想研究』第6号所収)

 

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