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210-16   心と宗教・哲学

                       

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■哲学とその周辺に関する論考集

2018.3.20

 

<目次>

はじめに

1.哲学と神話・宗教・科学

2.古代ギリシャ=ローマ文明の哲学

3.ヨーロッパ文明の中世哲学

4.近代西洋文明の哲学とその周辺

5.19世紀の哲学とその周辺

6.20世紀以降の哲学とその周辺

 

 

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はじめに

 

 私は、マイサイトに掲示している拙稿において、しばしば哲学とその周辺の思想について書いている。何かの主題について述べた文章の中で、その主題に関係する範囲で書いているものである。それらの中から、哲学とその周辺の思想について書いている部分を抜粋して、ここに掲載する。本稿はこのような性格上、一貫した体系的な著作ではなく、収集した文章を歴史的に区分し並べて整理したものである。

 元の原稿へのリンク集は文末にまとめて掲載する。

 

1.哲学と神話・宗教・科学

 

●神話から宗教、哲学、科学へ

 

人間は、他の動物よりも知能が発達している。その知能、言い換えれば知恵を以て、人間は自分の住む世界や自分自身を認識する。また、世界の成り立ちや人間の由来、生きることの意味等を考え、理解する。その認識と理解が最初に言語によって表現されたものが、神話である。

神話は、共同体の儀礼において、人類の遠い記憶を呼び覚まし、人間の自己認識、世界の成り立ち、生きることの意味等を確認するものだった。神話は、象徴的な思考によって、一つの社会の持つ人間観や世界観を表し、時には実在観をも示している。またその中に、その世界で生きていくための規範が定められている。

世界の様々な氏族・部族・民族は、それぞれが生み出した神話を世代から世代へと伝承してきた。神話の伝承は、神話に基づく儀礼の伝承でもある。神話に基づいて神々や祖霊を祀る祭儀を行うことは、人類に広く見られる営為だった。宗教の原初形態は、こうした神話と不可分であり、宗教の起源に神話が関係していることを推定することができる。

(「宗教の諸相と発展可能性」より)

 

旧石器時代から認められる原初的形態の宗教を、原初宗教という。アニマティズム、マナイズム、アニミズム、シャーマニズム、フェティシズム、動物崇拝、トーテミズム、天体崇拝、自然崇拝等がそれである。こうした原初宗教を基盤として、独自の理論と実践方法を持って発達したものが、高度宗教である。今日まで続くユダヤ教、キリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教、神道等のほか、歴史的には、ピュタゴラス教、ゾロアスター教、ミトラ教、マニ教等も挙げられる。

(「宗教の諸相と発展可能性」より)

 

原初宗教から高度宗教への発達過程で、象徴的な思考から概念的な思考への変化が現れた。ここで象徴的な思考とは、例えば善悪について善の神と悪の神の物語を語るような思考の仕方である。概念的思考とは人格化された神々の話ではなく、善悪という概念を以て思考するものである。前者にも一定の論理があるが、通常その論理は明確に意識されずに物語の筋道として理解される。後者では概念的な思考に伴う形で反省が行われ、論理が発達する。

神話に基づく古代的な宗教は、象徴的思考のなかに概念的思考を併せ持っている。しかし、その思考は神話を完全に脱却したものではない。そこから概念的思考がさらに発達したところに、哲学が出現した。

哲学とは、古代ギリシャで、紀元前6世紀頃に発生した知的な活動である。「フィロソフィア」(英語philosophy等)は、「知を愛すること」を原義とする。イオニア学派のヘラクレイトスやエレア学派のパルメニデス等は、神話的信仰を基盤としつつ、万物の始源(アルケー)を追求して、「永遠に生ける火」「存在(ト・エオン)」などの概念で表した。彼らに続く者たちは、物事の法則や論理に当たる「ロゴス」を論じた。プラトンは「イデア(形相)」の概念を用いて、物事の合理的認識を進めるとともに、「善(アガトン)」の概念をもって人間の徳の追及を行った。プラトンを始め、これらの哲学者は、当時の古代的な宗教を否定したわけではない。プラトンは、オリュンポス神殿の神々やダイモンと呼ばれる守護霊を仰いだ。また輪廻転生を説くオルフェウス教や数の理法を説くピュタゴラス教団の影響が指摘されている。彼の弟子アリストテレスは、形相―質料、類―種―個等の概念を用いた哲学を説いた。プラトンより神話的信仰は薄くなっているが、アリストテレスの哲学の中心には神があり、神を「質料を持たない純粋形相」であり、「不動の動者」等と概念的かつ論理的にとらえている。

哲学は、ギリシャからローマ帝国を経て、イスラーム文明で発展した。ムスリムの神学者たちは、古代ギリシャの多神教の社会で発達した哲学を、ユダヤ民族に始まる天地・人間を創造したとされる唯一神の信仰に応用した。イスラーム文明で発展した哲学は、12世紀からヨーロッパで摂取され、カトリック教会の神と子と聖霊の三位一体の信仰に応用された。スコラ神学が哲学的な基礎として採用したのは、アリストテレスの哲学だった。

近代西欧では、哲学をキリスト教の神学から自立したものとし、知の純粋形態とみなす。しかし、近代西欧においても、キリスト教と哲学の関係は続いている。物心二元論・主客二元図式・要素還元主義等によって近代哲学の祖とされるデカルトは、キリスト教の神への信仰を否定しておらず、神の存在証明を行っている。また、自由主義・民主主義・資本主義等の基礎理論を打ち立てたロックは、キリスト教の神の信仰に基づく政治社会理論を展開した。18世紀啓蒙主義の代表的存在であるカントは、人間の認識能力を根本的に検討した批判哲学を、キリスト教の信仰による心霊論的信条の上に構築している。19世紀以降の科学的合理主義を経た20世紀以降においても、欧米を中心にキリスト教の信仰に基づく哲学が脈々と受け継がれており、神学的哲学、哲学的神学が展開されている。

このような歴史を持つ哲学は、西洋文明に固有の知の形態である。だが、哲学を概念的思考によって物事の合理的認識や人間の道徳の考究を行う知的な活動と規定するならば、そういう学問は、西洋文明に限らず、他の文明でも発生し発達してきている。

例えば、古代シナでは、天地・宇宙・万物を創造し支配する神を天帝とする天命思想があり、それを背景として、紀元前5〜6世紀から儒教・道教が発達した。これらは、仏教に対比されて「教」の文字をつけて呼ばれるように、古代的な宗教である。例えば、孔子は葬礼を行う巫術者の集団の指導者だったと考えられ、老子は神仙伝説と結びつけられる伝説的な存在である。そうした宗教的な思想の中で、古代ギリシャの哲学と比較し得るような概念的な思考が行われた。孔子の「仁」「忠」「孝」「礼」等の徳目や老子の「道」、易経の「陰陽」等は、その概念的思考の産物である。

また、古代インドでは、ヴェーダの宗教の奥義書ウパニシャッドは、宇宙の根本原理としてのブラフマン(梵)と人間の本質としてのアートマン(我)が同一であるという梵我一如を中心思想とする。ここでも古代ギリシャの哲学と比較し得るような概念的かつ論理的な思考が行われた。ヴェーダの宗教は、そうした合理的認識を含みつつ、輪廻の世界からの解脱を説き、ヒンドゥー教の基礎となった。ヒンドゥー教では、六派哲学が真理に関する様々な見解を示し、高度な哲学的考察を行った。その存在論・認識論・論理学は、ギリシャ系の哲学と双璧をなす。インド文明に特徴的なのは、哲学はあくまで究極の目標である解脱を達成するための手段であり、宗教的実践を伴うものだったことである。

こうした例を見るならば、哲学はギリシャ=ローマ文明、イスラーム文明、西洋文明に限らず、シナ文明、インド文明等においても発生し発達したということができるのである。

宗教と哲学を比較すると、宗教は何らかの体験に基づいている。儀礼、信仰、修行等の実践を通じて得た体験が、宗教における不可欠の要素である。これに比し、哲学は経験一般に基づくことなく、純粋な思考によって真理の認識に到達しようとする傾向がある。宗教の認識は直観的・体得的であり、その表現は象徴的であることが多く、しばしば非言語的である。これに対して、哲学の認識は論理的・対象的であり、表現は概念的であり、常に言語的である。こうした特徴を持つ宗教と哲学は、真理の探究において相補的な関係にある。ただし、真理の究極は、哲学的な認識によっては到達し得ないものであり、宗教的実践によって究極の境地に到達する以外に、悟り得ないものである。

次に、宗教・哲学と対比されるものに、科学がある。科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識をいう。古代から近代の初期までの長い歴史において、科学は宗教と不可分であり、また哲学とも不可分だった。宗教から哲学が分かれ、またそこから科学が発達した。科学もまた古代ギリシャに限るものではなく、シナ、インド、イスラーム等の諸文明においても発達した。近代西欧科学は、それらの諸文明で発達した前近代的な科学を土台として発生したものである。

近代西欧科学は、自然の研究において、客観性・再現性のある現象を対象とし、数学と実験を用いて法則を見出す点に特徴がある。その根本にあるのは、観察と分析であり、仮説を立てて証明を行いながら、理論を構築する。社会に関しても、観察と分析を行い、仮説を立てて論理的に説明を行う方法によって、経験的に実証可能な知識を体系化することが可能であり、自然科学に対して社会科学が発達した。

こうした科学と宗教は相いれないものではなく、科学的な理論と方法を以て、宗教の研究を行うことは可能である。ただし、そのためには、自然を対象とする科学、社会を対象とする科学とは別に、精神を対象とする精神科学が発達しなければならないだろう。特に宗教に不可欠である体験の研究が重要となる。

                (「宗教の諸相と発展可能性」より)

 

●古代シナの天命思想と政治哲学

 

人類学者のジェームズ・G・フレイザーによると、未開人は、王の生命力が旺盛な時には、この世はすべてうまくいくが、王の力が衰え、死に至ると、世界も同時に終わると考えた。王と自然界の現象との間に因果関係があるという考え方は、古代の世界では広く見られる。

特にシナでは、こうした観念が発達して、天人(てんにん)相関思想が生まれた。天と人との間、すなわち自然界と人間界との間には、因果関係があり、君主の政治の善悪が、自然界の吉祥や災異を招くという思想である。

古代シナ人は、君主とは、フレイザーのいうところの生命力よりも、徳を備えた人でなければならないと考えた。君主が徳を持ち、徳のある行いをしていれば、天はこれに呼応して、世の中は平和で作物も豊作となる。しかし、君主に徳が欠けると、飢饉となり疾病が蔓延し、地震などが起こると考えた。こうした天命思想は、自然崇拝・祖先崇拝に基づくもののであり、シナ特有のものと言える。

こうした思想が、わが国の道と徳に、深く影響している。

(「日本における道と徳〜日本人の美徳を取り戻すために」より)

 

儒教は、古代シナの天命思想を政治哲学として洗練させ、有徳者王の思想を築いた。儒教は、天の道とそれに基づく徳の体得・実践を説く。天は人間界を統治するために、多数の民衆の中から傑出した人物を選び出す。そして、その人物に「人民を治めよ」という命令、すなわち天命を与える。天命を受けた人物は、天の子とされ、天子と呼ばれる。ここで天が傑出した人を選ぶ条件が、徳である。

徳とは、天の道つまり天の意思であり天の法則であるところの道を踏み行うことによって、身に得たものである。

孔子及びその継承者は、こうした徳を完全に体得した理想的な人間は、聖人と呼ぶ。完全とまではいかないが、徳を身につけている為政者は、君子と呼ぶ。聖人君子は、道を行うことによって、徳を身につけた人間である。
 天の道とは、現代的な概念で言えば、宇宙の理法・法則・摂理を含意するものだろう。儒教では、神話・伝説における理想的な帝王が行ったことが「先王の道」とされ、その復活が目標とされる。「先王の道」は、天命を受け、天の道に従った為政者のあり方である。

儒教における道は、天の道を根底にしつつ、人の道つまり人間が守り行うべき人間社会の倫理の原則、行動や実践の規範を、主に意味する。それゆえ、儒教の教えは、「修己治人の道」といわれる。己を修めて徳を身につけ、その徳をもって国を治めるのが、「修己治人の道」である。

この道を踏み行なって身につけるべき徳は、智・勇・仁の三徳、仁・義・礼・智・信の五常、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五倫等とされてきた。

(「日本における道と徳〜日本人の美徳を取り戻すために」より)

 

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2.古代ギリシャ=ローマ文明の哲学

 

●古代ギリシャの神話

 

西洋思想の源の一つは、古代ギリシャにある。古代ギリシャの最も古い思想は、神話に表現されている。
 神話は、宇宙の始まり、神々の出現、人類の誕生、文化の起源等を象徴的な表現で語る物語である。一つの世界観の表現であり、またその世界で生きていくための規範が表現されている。神話においては、宗教・道徳・法は未分化であり、それらが分かれる前の思考が象徴的な形式で表現されている。しかし、その思考には、独自の論理が見られる。
 古代ギリシャの神話が表すのは、多神教の世界である。ヘシオドスの『テオゴニア(神統記)』は、ギリシャの神々の系譜を記している。神々は様々な権能と領域を与えられている。最高神ゼウスは世界の統治を担当しているが、絶対的な存在ではなく、神々の世界の秩序(コスモス)を守らなければならない。ゼウスはヘラを本妻とするが、その他に娶っている女神の中にテミス(掟の神)がいる。神々や人間は、時に傲慢(ヒュブリス)によって神聖な秩序を乱す。すると、ゼウスとテミスの子であるディケー(正義の神)が傲慢と対決する。神聖な秩序を保つ掟を踏み越えた者は、やがて報復を受けることになる。こうした神話に、古代ギリシャ人の世界観と規範が表現されている。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●ギリシャ哲学

 

 ギリシャ哲学は、紀元前6世紀にイオニアで生まれ、プラトン、アリストテレスが発展させた。キリスト教は、聖書に基づく人間観、世界観、実在観を教義として整備していくために、主にプラトンとアリストテレスの哲学を摂取して利用した。

 キリスト教は、唯一神教であり、神による無からの創造を説き、人間の楽園からの堕落とキリストによる救済を説く。ギリシャ哲学は、多神教の文化を背景としており、世界の成り立ちや人間の本質について、キリスト教とは異なる考え方をする。しかし、キリスト教徒は、彼ら異教の哲学者の学説を巧みに取り入れて、キリスト教の教義の整備を行った。その取り組みは、古代から中世まで、1世紀から16世紀までに及ぶ長期間にわたるものだった。

(「キリスト教の運命」より)

 

 

 古代ギリシャ人は、人間が動物と区別されるのは、言葉を持つことによると考えた。言葉に当たるギリシャ語はロゴス(logos)であり、ロゴスは理性・理法をも意味した。ギリシャ語には、理性を意味するヌース(nous)という別の言葉もある。そして、人間は理性の働きによって、自然法を理解することができるとされた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●古代ギリシャの正義とノモス

 

 紀元前6世紀ころから、古代ギリシャには、世界には神聖な秩序があり、踏み越えてはならない掟(ノモス)がある。それを踏み越えると世界や社会の秩序が乱れる。そうした時には、これを元に戻さなければならないという考え方があった。ソクラテス以前の哲学者であるエンペドクレスやアナクシマンドロス(註 タレスの弟子)は、このような思想をそれぞれの言葉で語っている。政治や社会だけではなく、医学においてもそうである。西洋医学の祖とされるヒポクラテスは、人間の体は秩序を守っている時には健康だが、バランスが崩れた時には病気になる。それを元に戻すのが医学の役割だということを説いている。
 政治学者の佐々木毅によると、こういう考え方が「ギリシャ思想の原型というべきもの」であり、その後いろいろな変化をこうむったけれども、古代ギリシャでは「一つの基本的な原則」だった。佐々木は、「よき秩序をどのようにして実現するか、あるいはそれが乱された場合、どのようにして戻すかということが、病気の人を健康にし、乱れた政治をよき政治に持っていくことであり、これをもとにものの考え方の基本的な枠組みがつくられていた」という主旨のことを述べている(『よみがえる古代思想』)

(「人権――その起源と目標」より)

 

 不自然な状態を自然な状態に戻す。秩序を欠く状態を秩序ある状態に戻す。調和の無い状態を調和のある状態に戻す。そのように考えた古代ギリシャ人の理法(ノモス)は、シナ文明の道(タオ)、日本文明の道(みち)または道理に通じるものである。特に日本の神道及び和の精神には、古代のギリシャやシナの考え方に通じるとともに、生き方として、より深めた姿を見出すことができる。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●ソクラテス

 

 古代ギリシャでは、始めは、神々と人間を貫く掟、言い換えれば自然と社会と心身を貫く理法(ノモス)に従うことが、絶対的な規範だった。ところが、社会の変化によって、絶対的とされてきた理法の権威が疑われるようになった。正不正、善悪の価値観や人間のあり方について大きな動揺が広がった。そういう時代に現れたのが、賢者ソクラテスだった。
 ソクラテスが生きた古代ギリシャは、ポリスの社会だった。ポリスは都市国家であり、政治・祭祀・軍事の共同体だった。ポリスは、自由民と奴隷から成り立っていた。自由民と奴隷は大体1対4〜5の比率だった。特権的な市民は奴隷ではないという意味で自由だった。だが、ギリシャには、今日われわれがいうところの自由に正確に対応する言葉はなかった。ギリシャ人たちが深い関心を持っていたのは、「善い生き方」「善い活動」などの「善い」ということ、善(アガトン)だった。自由民は、参政権を含む権利を持つ自由な状態にあったから、それ以上に自由を望むことはなく、自由な立場で追求したのが、「善い生き方」を実現することだったわけである。
 「善い生き方」とは、個人的私的な意味で善い生き方ではなく、ポリスにおいて集団的公的な意味で善い生き方だった。ここにおける重要な概念が、正義(ディカイオシュネー)だった。
 当時の古代ギリシャでは、正義とは、人々がそれぞれのアレテーを発揮することを意味するようになっていた。アレテーは、「徳」または「卓越性」と訳される。卓越性とは、人より優れた能力や性質である。そして、正義は、各人がそれぞれの身分や職能において卓越性を発揮し、ポリスの秩序を維持し、調和することだった。いわばすべてのものが、その所を得た状態である。ポリスという国家共同体にとっての善、公共善が正義だったのである。
 ここで注意したいのは、絶対的とされてきた理法の権威が疑われるようになった後に、人間の間での相対的な状態としての卓越性の概念が現れ、それを基にしたものへと正義の概念が変化したことである。
 ソクラテスは、正義と善について深く考察した。ソクラテスは、プラトンの著作の中に登場する。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●プラトン

 

プラトンは、世界をイデア界と現象界に分けた。現象界の事物はイデア(観念)を原型・模範とする似像・模像だと説いた。イデアは超感覚的で永遠不変の真実在であり、道徳、存在、自然等の統一的で超越的な原理だった。プラトンは、魂はかつて天上界にあったが、地上の世界に追放されて、肉体に閉じ込められているとし、真の認識とは魂の解放のために、天上界で見たイデアを「想起」することだとした。

キリスト教神学は、プラトンのイデア説を取り込んで、人間の認識は生まれながらに備わる観念に基づくという説を教義とした。

(「人権――その起源と目標」より)

プラトンは、師のソクラテスの言葉を通じて、イデア(形相)こそが真の実在とし、万物は最高のイデアである「善のイデア」を目的として秩序づけられているという世界観を説いた。そして、その世界観のもとに、国家や魂における調和として正義を説いた。プラトンの主著『国家論』は、同時に正義論でもある。プラトンは、国家にあっては、統治者たる政治家、守護者たる軍人、そして一般大衆がそれぞれのアレテーを発揮し、分に応じた役割を果たして調和することを正義とした。また個人の魂においては、理性的部分、気概的部分、欲求的部分がそれぞれのアレテーを発揮して調和することを正義とした。調和とは、諸要素・諸部分の関係に秩序のある状態である。

(「人権――その起源と目標」より)

 

プラトンは、前5世紀後半から前4世紀前半のギリシャの哲学者である。プラトンの哲学の中心にあるのは、イデア論である。イデアの語の原義は、「見えているもの」「すがた」である。形相と訳す。プラトンの師ソクラテスは、たとえば「美とは何か」という問いに対し、その答えとなるべき「まさに美であるもの」をイデアと呼んだ。

プラトンは、師の考えを発展させて、生成変化する現象界の原因として、現象界とは別の世界に、現象界の事物の原型・模範となっているイデアが存在すると説いた。イデアは、超感覚的で永遠不変の真実在であり、道徳・自然等のすべてに一貫する超越的な原理とされた。そして、プラトンは、万物は最高のイデアである「善のイデア」を目的として秩序づけられているという世界観を説いた。また、その世界観のもとに、道徳や政治のあり方を述べ、国家や魂における調和として正義を説いた。

 プラトンによると、イデアは発見するものではなく、想起すべきものである。彼の人間観は、人間の魂は何度か生まれ変わるという輪廻転生説に立つ。これは、オルフェウス教やピュタゴラス教団の影響と見られる。プラトンによると、魂はこの世に生まれる前、神々に従って天界を飛翔し、天の外にあるイデアの世界を見ようとした。その後、地上に墜ちて、人間の肉体に宿った。生前にイデアの世界を垣間見た人間は、イデアの世界を想起し、その世界に憧れる。肉体(ソーマ)は墓場(ソーマ)であり、哲学者はイデアの世界に最も強く憧れる人間である。ここには、肉体からの魂の離脱、不死にして永遠なるもの、魂が戻っていくべき場所といった考え方がある。

キリスト教の神学者たちは、プラトンが、現象界とは異なる世界があること、魂が肉体に対して自律性を持つこと、魂は地上に転落して永遠の場所に帰るべきものであること、人間には本質的に真実在を認識する能力があることなどを説いていることを認め、そうしたキリスト教と共通点・類似点を通じて、彼の哲学を摂取した。その上で、プラトンのイデアは、キリスト教の神が創造したイデアとし、プラトンのギリシャ神話的な天界は神ヤーウェの世界とし、魂は自らの努力によって天界に戻るのではなくキリストによって救われるとし、輪廻転生ではなく一回限りの生の結果、死後天国か地獄かに分けられるとするなど、キリスト教の人生観、世界観、実在観の枠組みの中に、プラトンの思想を変換して取り入れていった。

(「キリスト教の運命」より)

 

●アリストテレス

 

西洋文明は古代ギリシャ=ローマ文明を継承したとされるが、自由の由来を振り返ると、古代ギリシャには、今日われわれがいうところの自由に正確に対応する言葉はなかった。古代ギリシャは、奴隷制の社会だった。ポリスは、自由民と奴隷から成り立っていた。その比率は1対4〜5だった。特権的な市民は奴隷ではないという意味で自由だった。自由民は、参政権を含む諸権利を所有していた。彼らが深い関心を持っていたのは、自由の獲得や拡大ではなく、「善い生活」「善い活動」などの善の実践だった。

アリストテレスは、ポリスの生活について「私の領域」と「公の領域」を二分した。20世紀の哲学者ハンナ・アーレントの指摘によると、「私の領域」とは、奴隷所有者が家庭で奴隷を使役してその生産によって生活する領域だった。市民は自ら労働する必要がなく、ポリスの広場(アゴラ)で行われる政治に参加した。それが「公の領域」である。市民は私的な利益のための経済については語らず、ポリスの公共善について議論した。ポリスの政治は身分制秩序の社会における支配集団のものだった。政治参加をしていたのは、各家族の家長であり、女性や奴隷、外国人には参政権がなかった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

アリストテレスは、プラトンの弟子だが、認識は感性的経験に基づくという立場を取った。アリストテレスは、師のイデア論を継承しながらも、イデアが個物とは別に実在するという考えを批判した。エイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱し、形相が質料と不可分に結合した個物が基本的実在であるとした。以後の西洋思想史は、プラトンとアリストテレスを二極として展開した。何らかの意味でイデアが真の実在だとする思想を、観念主義または観念論(idealism)といい、イデアを否定し、ヒュレーはそれ自体で存在するという思想を、質料主義または唯物論(materialism)という。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 プラトンの弟子アリストテレスは、万物は一つの目的のもとに、自らの自然・本性を実現すべく運動しているという目的論的な世界観を表した。アリストテレスは、プラトンの正義をより明確に公共善の実現として打ち出した。アリストテレスは、著書『政治学』で人間をポリス的な動物と定義した。人間が家族を形成するだけでなく、政治的な共同体をつくるのは、共通の善を目指すためである。正しい国制を構築するには、人間の自然・本性を完成するための「善い生き方」とはどういうものかを、まず考察する必要がある。正義とは最高の善にふさわしいあり方を示すものだとした。
 アリストテレスにとって、最高の善とは、幸福(エウダイモニア)だった。十分に恵まれて善い行為をすることのできる状態である。この幸福という目的を追求するために必要とされる特質が、徳だった。アリストテレスは、徳は個人の生活の中だけでなく、ポリスの生活の中に見出され、また養成されることを説いた。
 アリストテレスは、道徳・法に適っていることが正義だとした。正義は、法と道徳と一体のものだった。その究極の目的は、ポリスの中で、ポリスの一員として善く生きる有徳の人物を養成することにあった。
 アリストテレスは道徳・法に適うことを一般的正義とする一方、これとは別に特殊的正義という概念を立てた。特殊的正義には、配分的正義と矯正的正義がある。配分的正義は共同体の目的のもとにおける貢献に比例した地位・名誉等の配分をいい、矯正的正義は損害に対する補償等を均等に実現することをいう。こうしたアリストテレスの正義論は、古代ローマの思想に影響を与え、さらにヨーロッパ文明の伝統的な正義論の基礎となった。同時にこうした正義論が近代西欧発の人権思想に影響を与えてきた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

プラトンの弟子アリストテレスは、前4世紀の哲学者である。「万学の祖」と呼ばれるように、イスラーム文明及びヨーロッパ文明において、数々の分野で大きな影響を与えた。

プラトンは、イデアと語源的に同根のエイドスという言葉を、イデアとあまり区別せずに使った。アリストテレスは、現象界とは別の世界に実在する客観的なものという師のイデアには否定的であり、現実世界の中に見出される形をエイドスとした。本稿では、形相と訳す。アリストテレスは、形相に対して素材となるものを質料(ヒュレー)とし、事物を形相と質料の二つの概念で説明しようとした。

アリストテレスの考えによれば、形相はただ個物、すなわち人間が実際に認識できる物のなかにしか存在しない。プラトンのイデア論のように、現象界とその原因とを分離してしまうと、事物の原因を説明できない。アリストテレスの研究の方法は、感覚的経験によって知られうるものから、それ自体において本来知られうるものへ向かうという方法だった。後者は、宇宙(コスモス)の万物を貫くロゴス(法則)による合理的な秩序(コスモス)を意味する。人間は自己の本質としてロゴス(理性)を分有することにより、真理の探究を成し遂げることを保証されていると彼は考えた。

アリストテレスは、形相は動かすもの、質料は動かされるものであり、形相は質料を生成変化させるとした。たとえば、人間の形相は魂であり、魂が目指す善は、人間の形相である魂を動かす「形相の形相」である。このようにして、自然界のあらゆる運動や変化の究極の原因・根拠を探求していくと、自らは動かされることなく、他のものを動かす「不動の動者」に至る。「不動の動者」は、純粋な形相であり、質料を持たないから変化することのない永遠の存在である。プラトンのイデアに当たるものである。アリストテレスは、この「不動の動者」が神だとした。

アリストテレスは、今日形而上学(メタフィジックス)と言っているものを、「第一の哲学」と呼んだ。第一哲学は、著作の順序において、自然学(フィシジカ)の後(メタ)に置かれたので、メタフィシジカともいう。第一哲学は、存在者を存在者として考究し、存在者に本質的に備わっている属性や性質すなわち一と多、同と異、先と後、類と種、全と個、範疇、真と偽等について、また存在者の区別を一般的に扱う。最高の存在者としての神的なものを扱う神学を含む。ここで神的なものとは、キリスト教の神のような人間世界に介入する人格神ではない。万物の原因・根拠としての存在を神格化したものである。アリストテレスの形而上学は、存在及び存在者に関する学問ゆえ、存在論と呼ばれるようになった。

プラトンは、現世での生活よりもイデア界に憧れ、肉体的な経験よりもイデアの想起を重んじる理想主義的な哲学を説いた。これに対し、アリストテレスの哲学は、経験主義的・現実主義的であり、現実世界に強い関心を向け、自然や生物等についても幅広い研究を行った。彼の形相−質料論的・存在論的な神の概念を、ユダヤ的な人格的唯一神に置き換えれば、その哲学をキリスト教が教義の体系化や教義の補強に利用し得るものだった。

(「キリスト教の運命」より)

 

#サンデルのアリストテレス論

 サンデルは、基本的にロールズらの自由主義に批判的であり、コミュニタリアニズムに一定の賛意を示す。正義と善の関係についてもそうである。だが、コミュニタリアニズムが、何が正義で何が正義でないかを定義するのはコミュニティの価値観であると考える点は、間違っているという。そして、上記の「二つ目の方法」、つまり正義の原理はそれが資する目的の道徳的価値や内在的善に応じて正当化されると考えることへの支持を述べる。ここでサンデルは、他のコミュニタリアンと異なり、アリストテレス的な目的論の考え方への賛同を表明する。
 サンデルの理解によると、「アリストテレスにとって、正義について判断することは、問題となっている物の目的(テロス)あるいは性質に基づいて判断することである。正しい政治的秩序について考えるためには、善い生き方から論じなければならない。最善の生き方がどんなものかをまず知らなければ、正しい国制を構築することはできない」。そして、次のように言う。「現代の正義論は、公正さや正しさに関する問いを、名誉、徳、道徳的真価をめぐる議論から切り離そうとする。すべての目的にとって中立的な正義の原理を探り、人々が自ら目的を選び追求できるようにしようというのである。だが、アリストテレスは、正義がそのように中立的なものだとは考えない。彼の考えでは、正義をめぐる論争は必然的に、名誉、美徳、善い生き方をめぐる論争になるのである」と。
 サンデルは、こうしたアリストテレスの正義と善に関する考え方を高く評価する。そして、正義には美徳を涵養することと公共善について判断することが含まれるという見解への支持を明らかにしている。
 道徳的・宗教的な信念の違いによって意見が対立する事柄だが、社会的に重要な課題は多くある。サンデルは、それを回避すべきではない、積極的に取り組む必要があると説く。そして、「公共の文化」を創り出すために、サンデルは、教育や政治参加の推進が必要だとし、「公共哲学」を説いている。
 サンデルは、公共哲学において、未だ共同体または国家の目的をはっきり示していない。それは、アリストテレスのいうところの「最も望ましい生き方の本性」を明確にし得ていないからだろう。アリストテレスは、「それが曖昧なままであるうちは、理想の国制の本性もまた曖昧なままであるしかない」と説いているからである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●アウグスティヌス

 

教父アウグスティヌスが5世紀に『神の国』にて、「神の国には完全無欠な神の永遠法が支配するが、地の国には罪ある人間の不完全な人定法しかありえない。しかし愛の神は、人間に理性の能力を授け永遠法の一部を認識して人定法の模範とさせるようにした。これが自然法である」と書いた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

ギリシャ教父に対して、ラテン語で著述した神学者たちをラテン教父という。ラテン教父のうち「教会の三博士」と呼ばれたのが、アンブロシウス、ヒエロニウス、アウグスティヌスである。

アンブロシウスは、教会が世俗の国家から独立することを主張し、教会の政治家として優れた能力を発揮した。ヒエロニムスは、ヘブライ語聖書からラテン語訳聖書を作り、それが後のカトリック教会唯一の公認聖書(ウルガタ)のもとになった。アウグスティヌスは、ギリシャ教父によって東方の教会で形成された神学を、西方の教会に適用されるものに作り変えた。彼は、ローマ・キリスト教会最大の教父であり、西方キリスト教における正統的信仰の完成者とされる。

アウグスティヌスは、10代から肉欲に溺れた放縦な生活を送った。16歳ころマニ教に入信し、9年間とりこになっていた。マニ教は、2世紀にペルシャでマニが始めた宗教で、ゾロアスター教の基本的な考え方である善と悪の二元論に立つ。やがてマニ教に疑問を感ずるようになったアウグスティヌスは、ラテン教父アンブロシウスの説教を聞き、キリスト教に改宗した。

アウグスティヌスも、近代的な神学者とは異なり、北アフリカ、ヒッポの司教として実務に精励しながら、神学と聖書の研究を行った。また異教・異端との論戦を通じてキリスト教の理解を深めた。

アウグスティヌスの思想の根幹は、キリスト教的プラトン主義である。彼は、プロティノスの書物を通じて、超越的存在ないし霊的存在への目を啓かれ、自己の内的経験を通じて真理を求める途を取った。真理は神にほかならず、単に事物のイデアではなく、創造と摂理をもって世界を支配するものであり、神の力・愛・正しさであると説く。また精神の自己認識については、知の形式と構造を示すだけでなく、愛と意志をもって存在し働くものであることを説く。世界を悪としてそこから離脱するのではなく、世界を神が創造したものとして理解し、その中に神の働きを見つつ、他者との共同に生きることを求めた。

アウグスティヌスは、ペラギウス論争で活躍した。5世紀初め、ペラギウスは、人間は神からの恩寵を必要とはせず、自分の自由意志で功徳を積むことによって救霊に至ることができると説いた。これに対し、アウグスティヌスは、人間に選択の自由はあるが、神の恩寵と結びついた選択によってのみ道が開けると説いた。その結果、ペラギウス主義は、異端として排斥された。自由意志の否定と関係することとして、アウグスティヌスは、パウロの救霊予定説を継承し、教義として整備した。ローマ・カトリック教会は、それをもとに教義として確立した。詳細は、教義の救いと自由意志の項目に書いた。

410年にローマは西ゴート族の王アラクリスによって略奪された。この軍事的敗北はローマ帝国の政治的・経済的混乱を結果した。そのような時代にあって、アウグスティヌスは『神の国』を書いた。アウグスティヌスは、本書で、歴史は善の意志を持つ天使と人間による「神の国」と、悪の意志を持つ天使と人間による「地上の国」との対立・抗争の過程であり、最後の審判へと向かっているととらえた。そして、「神の国」における神の正義を説くとともに、人々が遍歴の途上にある「地上の国」においては、平和と秩序をもたらすために国家の法には一定の正義があり、それに従わねばならないと説いた。このようにして、アウグスティヌスは、キリスト教神学において初めて歴史を教義の中に位置づけ、歴史における教会の目標を明らかにした。

ここでプラトンの哲学とアウグスティヌスの神学の決定的な違いを指摘しておきたい。プラトンにおいては、人間の歴史は、天界から地上に墜ち、そこから天界へ帰還する過程であり、人間は自分の力で天界へ帰郷することができた。これに対し、アウグスティヌスにおいては、人間は原罪によって楽園を追放され、神と断絶しているため、自力で天国へ昇ることはできない。イエス=キリストの贖罪と愛が必要であり、神の国は歴史の目標となっている。

上記のように、2世紀末から5世紀にかけて、ギリシャ教父、ラテン教父らによって正統の教義が整備された。彼らによる教父神学は、中世のスコラ神学のもとになった。

教義の整備の過程で、古カトリック教会は多くの異端的思想を排斥した。だが、例えば、キリスト教の主流が信奉する三位一体説は、理性による理解を超えた信仰によってのみ成り立つ教義である。その信仰を正統とするものは、教会の権威である。この過程で行われた公会議の決議は、必ずしも決議の内容が真理だからではなく、その時々の宗教的な権威を持つ者の意向が強く反映したものである。決議内容が真に納得のいくものであれば、皆がそれに従うだろうが、そのようにはなっていない。そのため、キリスト教は、古代から多くの教派に分裂し、教議論争がやまないのである。キリスト教に関心を持つ者は、既成の権威に盲従することなく、自ら真理を求め、教義の検証を行うべきだろう。その検証においては、真理の実証の有無を以って判断することが、最も確実である。

(「キリスト教の運命」より)

 

●ピロン

 

ユダヤ哲学は、紀元前2世紀に、アレクサンドリアでギリシャ人と接触したユダヤ人によって始められた。古代の代表的なユダヤ人哲学者は、紀元前後のピロンである。ピロンは、プラトンの影響を受け、神を永遠不変で純粋な物質的知性とし、叡智界におけるイデアのような存在と考えた。また、神と世界をつなぐロゴスを神より劣った第2の神または神の子と考え、聖書をプラトン主義的に解釈した。

ここでいう聖書はキリスト教のいう旧約聖書だが、1世紀後半に編纂された新約聖書の『ヨハネによる福音書』は、「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」「言は肉となった」と書いている。ヨハネは「神の子」イエスの出現を、永遠のロゴス(言葉)である神が人間となってこの世界に入った(受肉)と理解した。一般にヨハネにはギリシャ哲学の影響が指摘されるが、ピロンにおいて既にロゴスの概念がユダヤ哲学に摂取されていたのである。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

古代の代表的なユダヤ人哲学者は、紀元前後のピロンである。ピロンは、プラトンの影響を受け、神を永遠不変で純粋な物質的知性とし、叡智界におけるイデアのような存在と考えた。また、神と世界をつなぐロゴスを神より劣った第2の神または神の子と考え、当時の聖書である旧約聖書をプラトン主義的に解釈した。これによってユダヤ思想とギリシャ思想の調和を図った。こうしたユダヤ教におけるギリシャ哲学の摂取が、キリスト教に影響を与えた。

(「キリスト教の運命」より)

 

●グノーシス主義

 

 1世紀後半からキリスト教に影響を与えたのが、当時振興したグノーシス主義だった。グノーシスは、ギリシャ語で知識・認識を意味する。グノーシス主義は、救いをもたらす神の認識を求める宗教思想運動である。世界の構成を精神と物質、霊と肉の二元論で捉える点に特徴がある。キリスト教においても、グノーシス主義によってキリスト教を解釈するものが現れた。彼らは、物質や肉体は不完全であり、キリストは霊と精神の世界を知った者としてその知を地上の肉の世界に啓示したと理解し、人間が肉の世界から浄化され、自分が神であることを認識することで救われると説いた。原始キリスト教団は、グノーシス主義的な一派を異端として排斥した。

キリスト教のグノーシス主義派は、ロゴスが受肉してロゴスの真理を人々に啓示したものがキリストであると説いた。共観福音書の後に書かれた『ヨハネによる福音書』は、ギリシャ哲学の影響が見られ、グノーシス主義派の思想と似たところがある。同書は、「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1章1節)、「言は肉となった」(1章4節)、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1章14節)と書いている。ヨハネは「神の子」イエスの出現を、永遠のロゴス(言葉)である神が人間となってこの世界に入った(受肉)と理解した。

ヨハネは、当時流行した仮現論に反対した。仮現論は、キリストは神が仮の姿をとって現れた姿であって本当の人間ではないとするものであり、グノーシス主義を背景にして生まれた説だった。ヨハネは、仮現論に反対し、イエスは「神の子メシア」(20章31節)とした。

グノーシス主義派は異端とされたが、『ヨハネによる福音書』の思想は、正統の教義の要素となった。それによって、キリスト教にギリシャ哲学が摂取され、教義の整備が進められた。

(「キリスト教の運命」より)

 

●ギリシャ教父

 

 イエスの死後、使徒の時代には、終末が近いと信じ、イエスの再臨を待望する信仰がされていた。しかし、終末はすぐ訪れず、イエスは再臨しなかった。そのため、終末論的な信仰から、安定的・継続的な信仰へと移行していった。安定的・継続的な信仰は、より一層教義の整備を必要とした。そこに発達したのが、教父神学である。

2世紀後半に、キリスト教の正統的信仰を守るために信条がまとめられた。最初にローマ信条がつくられ、それがわずかに増訂されて使徒信条がつくられた。この信条には、イエスを神の独り子にして「主」とすること、聖霊による処女懐胎、死と復活といった要素が入っている。

 2世紀末ごろから、教義の整備のため、ギリシャ哲学をさらに摂取して、キリスト教とギリシャ哲学を総合する試みが行われた。その試みを行い、ギリシャ語で著述を行った神学者たちをギリシャ教父という。彼らの中心となったのは、エジプトのアレクサンドリアを中心とするアレクサンドリア学派だった。

アレクサンドリア学派のクレメンスは、3世紀前半にギリシャ哲学、特にプラトンを擁護し、プラトンは不完全ではあるが、神の本質について真理を語っていると説いた。また、クレメンスの弟子、オリゲネスは、最初のキリスト教教義学の書とされる『諸原理について』、及び古代で最も説得力のあるキリスト教擁護論とされる『ケルソス駁論』を書いた。また、万人救済論を説いた。オリゲネスは東方正教会の性格を決定したといわれる。同教会の神学は、キリスト教とギリシャ哲学の総合、特に福音と新プラトン主義の総合に特徴がある。

プラトンの思想がキリスト教神学に取り入れられたのは、プラトンの思想を独自に発展させた新プラトン主義によるところが大きい。プラトンの思想は、様々なイデア、魂の輪廻転生、神々の天界を説く点において、キリスト教の教義と本来、相いれないものがある。しかし、3世紀半ばから後半に活躍したプロティノスは、プロティノスは、プラトンの哲学をキリスト教が摂取しやすいものへと発展させた。彼が実質的に新プラトン主義の創始者となった。

プロティノスは、万物の根源は一者(ト・ヘーン)であるとした。一者は万物の彼方にあり、一切の価値を超えたものである。それが流出して精神(ヌース)が生まれる。精神は真実在の世界にあって、一者を観照し、その光に満たされて霊魂(プシュケー)を生む。霊魂のうち世界霊は、影の世界としての感性界を創り出す。一方、人間の霊は感性界の美しさに魅惑されて、真実在の世界から降下し、肉体に宿った。しかし、人間は感性界にとらわれずに、真実在の世界に帰るように努めねばならないとして、一者への還帰を説いた。

新プラトン主義の目的は、自己を脱して、一者と合一することである。一者はプラトンの善のイデアに由来し、善なるもの(タガトン)とも呼ばれる。プラトンが、個々の魂の帰郷を説いたのに対し、新プラトン主義は万物の流出と還帰の構造の中で、一者との合一を説いた。一者は、これを一神教的な人格神に置き換えることも可能である。こうして新プラトン主義は、ギリシャ哲学の成果を宗教的な思想にまとめあげ、キリスト教に提供した。キリスト教は、新プラトン主義の人間観、世界観、実在観を自らの枠組みの中に取り入れることで、プラトン哲学を利用することができた。プラトン及び新プラトン主義は、後にアウグスティヌスを通じて、キリスト教の教義形成に大きな影響を与えることになる。

 キリスト教神学のアレクサンドリア学派は、新プラトン主義を摂取した。4世紀にその学派で活躍したアタナシオスは、三位一体の教義の確立に大きく寄与した。

 ギリシャ教父は、近代的な大学の研究者のような存在ではない。信仰指導や教会運営の実務に携わりながら教理・教学の研究をし、異議ある者と論争をしながら、教義の整備を進めていった。彼らは、ユダヤ民族の宗教に由来するヘブライズムのキリスト教思想を、ギリシャ哲学で理論化し、神学を発達させた。ギリシャ文化は多神教の文化であり、ユダヤ文化の唯一神教の文化とは異なる。後者の無から万物を創造したという超越神の観念は、ギリシャ文化の思想とは全く異なるものである。だが、ギリシャ哲学は、ヘブライズムとヘレニズムを総合し得る理論を発達させており、キリスト教はそれを活用した。

(「キリスト教の運命」より)

 

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3.ヨーロッパ文明の中世哲学

 

●スコラ神学

 

西洋史にいう中世は、西方キリスト教の思想史では、教父神学からスコラ神学への移行と後者の完成の時代である。

スコラ神学の「スコラ」は学校または学院を意味する。スコラ神学は、神学を中心として哲学、法学、自然学等を包摂した学問の総称である。9世紀から16世紀に及ぶキリスト教神学の主流であり、キリスト教とギリシャ哲学の総合を試み、信仰の内容を学問的に根拠づけ、教義を組織し、体系化しようとしたものである。

 その萌芽は、9世紀のカロリング・ルネサンス期に始まる。ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナは、新プラトン主義にもとづくキリスト教哲学を展開した。彼によると、神はイデアと自然を創造した。すべての運動はその端緒である造物主の神へと向かい、そこへ戻ろうとする。目的となる神への還帰は、キリストの復活を以って始まった。キリストにおいて成就したことは、すべての人類において、普遍的復活によって成就されるだろう。こうした思想によって、エリウゲナは、スコラ神学の先駆と言われる。ただし、その汎神論的な著作は発行を禁止された。

スコラ神学が開花したのは、「12世紀ルネサンス」においてだった。十字軍を通じてアリストテレス哲学がイスラーム文明経由で摂取され、先進的なイスラーム思想が西欧に流入した。また、古典古代の学問研究を行う大学が各地に創られた。

そうしたなか、「スコラ神学の父」と称せられるアンセルムスは、理性に対する信仰の優位を主張し、「知解を求める信仰」を説いた。教会の教義を信仰をもって受け入れ、それをプラトンとアリストテレスの哲学の助けを借りて理解しようとするものであり、信仰と理性の総合をめざす学問的企てだった。また、アベラール(アベラルドゥス)は、詳細な文献批判と厳密な論理的検討を行うスコラ的方法を確立し、スコラ神学の論理的体系化への道を整えた。

スコラ神学が哲学的な基礎として採用したのは、アリストテレスの哲学だった。アリストテレスの主要な著作が逐次翻訳され、影響を広げていった。それまでの神学は、プラトン主義的なアウグスティヌスの思想に基づくものだったので、伝統的なアゥグスティヌス主義と外来のアリストテレス哲学の融合が、スコラ神学の根本的課題になった。

スコラ神学は、13世紀に盛期を迎えた。ドミニコ会のアルベルストゥス・マグヌスは、本格的にアリストテレスの研究を行い、学問的水準を高めた。その弟子トマス・アクィナスが、スコラ神学を完成に導いた。

(「キリスト教の運命」より)

 

●キリスト教的プラトニズムとアリストテレス主義

 

中世西欧では、キリスト教的プラトニズムが支配的だった。プラトンは、世界をイデア界と現象界に分けた。現象界の事物はイデア(観念)を原型・模範とする似像・模像だと説いた。イデアは超感覚的で永遠不変の真実在であり、道徳、存在、自然等の統一的で超越的な原理だった。プラトンは、魂はかつて天上界にあったが、地上の世界に追放されて、肉体に閉じ込められているとし、真の認識とは魂の解放のために、天上界で見たイデアを「想起」することだとした。キリスト教神学は、プラトンのイデア説を取り込んで、人間の認識は生まれながらに備わる観念に基づくという説を教義とした。
 アリストテレスは、プラトンの弟子だが、認識は感性的経験に基づくという立場を取った。アリストテレスは、師のイデア論を継承しながらも、イデアが個物とは別に実在するという考えを批判した。エイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱し、形相が質料と不可分に結合した個物が基本的実在であるとした。以後の西洋思想史は、プラトンとアリストテレスを二極として展開した。何らかの意味でイデアが真の実在だとする思想を、観念主義または観念論(idealism)といい、イデアを否定し、ヒュレーはそれ自体で存在するという思想を、質料主義または唯物論(materialism)という。
(「人権――その起源と目標」より)

 

●トマス・アクィナス

 

 トマスは、1266年から筆を起こして未完に終わった『神学大全』で、キリスト教神学において、新プラトン主義、アウグスティヌス、イスラーム哲学、ユダヤ哲学などを総合する独自の思想を作り上げた。彼の神学の拠り所は、万物の始源からの発出と還帰という新プラトン主義の原理である。トマスはこの原理に基づいて、宇宙を第一原理・創造主なる神から発出して、究極目的なる神へ還帰する運動として捉えた。そのうえで、神への還帰の「道」としてのキリストを考察している。

トマスの業績を、「トマス的総合」という。信仰と理性とを分離したうえで、どちらかの優越を主張するのではなく、両者の内的総合を追究し、神を中心とする信仰の超越性と人間理性の自律性とを両立させたものとされる。そこにおいては、理性と啓示は矛盾せず、理性と信仰の間に断絶がない。

トマスは、アリストテレスの形相と質料という二つの概念を使って自然を分析した。それによって、啓示に基づく啓示神学とは異なる、自然的理性によって神の存在や属性を考察する自然神学の研究の道を開いた。

スコラ神学はトマスによって頂点に達したが、13世紀末から14世紀に入ると、教皇権の衰退と教皇庁の頽廃によって、中世社会の秩序は崩れ始めた。その秩序を支えていたトマス神学への批判が起った。

アウグスティヌス主義を保守するフランチェスコ会のドゥンス・スコートゥスは、理性の一貫性が保持されて神学と哲学の間に断絶がないトマス神学に対して、その両者を区別し、信仰と理性の融合は困難だと強調した。神の理解に関して理性は無効だとして、直観すなわち神秘的認識を主張した。彼の思想は、16世紀の宗教改革で現れる福音主義的な立場の先駆と見られる。福音主義とは、儀礼・制度・伝統などを重んずる立場に対し、イエス=キリストの伝えた福音にのみ救済の根拠があるとする思想である。

ローマ・カトリック教会では、パウロ、アウグスティヌスによって、救霊予定説を教義とした。だが、中世においては予定説を緩め、因果説を加えた折衷論に変化した。その論を提示したのが、トマスである。

 トマスは、救済を得るには人間の努力や善行が必要であるとした。神の恩恵を得て回心する過程において、信仰だけではなく、人間の努力や行為が意味を持つ。また、努力に応じてより高い水準に至るという考え方である。これは、人間の自由意志を認める立場である。自由意志を認めるならば、人間の努力が救いに結び付くという因果説になる。それでいてトマスは予定説を否定していないから、予定説と因果説の折衷であり、一部に因果説を含む予定説になる。トマスは、人間の自由意志を認めていながら、人間は放っておいて倫理的に行動するものではないと見た。では、誰がその不断の指導と援助とを与えるのか。トマスの理論によれば、それは教会である。この論理を得たカトリック教会は、秘蹟の行使、教会・修道院規範の確立といった本来の教義と異なる方向にひた走り、腐敗を招いたのだった。16世紀の宗教改革で、ルターやカルヴァンがパウロ、アウグスティヌスの救霊予定説の復活となるような主張をしたのは、カトリック教会への批判において、重要な争点となったわけである。

ところで、話を中世の14世紀に戻すと、ドゥンス・スコートゥスによるトマス的総合への批判を徹底して、純粋な信仰と経験的・実証的な学問とが分離する道を開いたのが、同じくフランチェスコ会のウィリアム・オッカムである。

(「キリスト教の運命」より)

 

 

ユダヤ教から生まれたキリスト教は、ローマ帝国の国教となり、近代西洋文明の一要素となった。人間の尊厳という観念は、キリスト教の神学に、受け継がれてきた。教父アウグスティヌスやトマス・アクィナスは、著書に人間の尊厳という観念を表している。

彼らの思想は、古いようでいて、決して過去の遺物ではない。21世紀の現代においても、カトリックを中心として、信心深いキリスト教徒に、基本的な世界観・価値観を与えているからである。そこでは、人間の理性は、キリスト教的な全知全能の神の英知を、不完全な形で分有したものとされる。この観念がキリスト教神学にとまるものであったなら、非キリスト教社会に広がることはなかっただろう。キリスト教を信じない者には、そもそも人間は神(ヤーウェ)の被造物という考えは認められない。私は、人間の尊厳という観念が非キリスト教社会に受け入れられるものとなったのは、カントの哲学によるところが大きいと考える。

(「人権――その起源と目標」より)

 

トマス・アクィナスは、13世紀に『神学大全』にて、聖書が啓示し教皇が命ずる法を神法とし、自然法の上に置いた。人間は神の叡智を理性として分有しており、自然法を理解できるが、人間には神の栄光に浴すには決定的な限界があり、これを超えられるのは信仰によってのみであるとした。トマスの思想はトミズムと呼ばれ、21世紀の今日でもキリスト教文化圏で影響力を持っている。

(「人権――その起源と目標」より)

 

トマスの自然法論には、自然法則(lex naturalis)と自然的正(ius naturale)という二つの領域があった。前者は、神の根本法則である永遠法の人間理性における分有であり、人間の道徳の原理を含む概念である。後者は、事物の本性に基づく正しい状態・事柄である。前者のlexは英語にもある単語でlawと同義、後者のius(ユス)はjusと書かれることもあり、jusiticeの語源である。 これらを区別せずに lexiusも「法」と訳されるため、混同しやすい。「法」と「正しい状態、公正」は、通底する概念だが、区別した上で理解する必要がある。独語・仏語では「法=権利(Recht/droit)」であり、英語では「正当性・正義=権利(right)」である。そこから、「法=正しい状態=公正=正当性=正義=権利」という概念の連続性を読み取ることができる。

トマスにおいて、自然法則は、人間の事物・生物・理性という三相に基づく本性の傾向、すなわち自己保存、種の保存、神の認識と共生の傾向から導かれ、モーゼの十戒に集約される。法的な正義は「共通善」(bonum commune)を基準とした。古代ギリシャでは、プラトン、アリストテレスが公共善を正義としたが、共通善はその公共善を継承したもので、神、教会、共同体への義務が強調された。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●自然法

 

西方キリスト教は、ギリシャ・ローマ思想の自然法の考え方を取り入れ、独自の考察を行った。自然法は、人間がつくった人定法とは異なり、時と所を超越した普遍的な法を意味する。自然法の概念は、古代ギリシャのポリスの枠組みを越えたコスモポリタン(世界市民)の思想に始まる。

古代ギリシャ人は、人間が動物と区別されるのは、言葉を持つことによると考えた。言葉に当たるギリシャ語はロゴス(logos)であり、ロゴスは理性・理法をも意味した。ギリシャ語には、理性を意味するヌース(nous)という別の言葉もある。そして、人間は理性の働きによって、自然法を理解することができるとされた。

ギリシャの異邦人ゼノンを始祖とし、ローマではキケロらによって発展されたストア派は、人間の意志を超越した宇宙の法則を意味するものとし、宇宙と人間をともに貫く自然法に従って生きる哲学を説いた。

キリスト教は、教義を体系化するために、プラトンやアリストテレス、ストア派の哲学を取り入れた。自然法は、それによって理論化されたものである。だが、キリスト教では、神は言葉によって天地を創造したとし、自然は神の被造物であり、神の支配下にあると考える。また人間は神の似像として造られ、知恵を与えられているとする。中世西欧では、こうした教義のもとに、自然法は神の意思による宇宙と社会の秩序とされた。自然法は、神が定めた宇宙の法則であるとともに、神が人間に与えた道徳の原理を意味する。わが国では「法」と訳すので、後者の原理でもあることが、理解しにくい。法というより掟。法と道徳が分離する前の宗教的な掟と考えたほうがよいだろう。

中世西欧では、教父アウグスティヌスが5世紀に『神の国』にて、「神の国には完全無欠な神の永遠法が支配するが、地の国には罪ある人間の不完全な人定法しかありえない。しかし愛の神は、人間に理性の能力を授け永遠法の一部を認識して人定法の模範とさせるようにした。これが自然法である」と書いた。またトマス・アクィナスは、13世紀に『神学大全』にて、聖書が啓示し教皇が命ずる法を神法とし、自然法の上に置いた。人間は神の叡智を理性として分有しており、自然法を理解できるが、人間には神の栄光に浴すには決定的な限界があり、これを超えられるのは信仰によってのみであるとした。

トマスの自然法論には、自然法則(lex naturalis)と自然的正(ius naturale)という二つの領域があった。前者は、神の根本法則である永遠法の人間理性における分有であり、人間の道徳の原理を含む概念である。後者は、事物の本性に基づく正しい状態・事柄である。トマスにおいて、自然法則は、人間の事物・生物・理性という三相に基づく本性の傾向、すなわち自己保存、種の保存、神の認識と共生の傾向から導かれ、モーセの十戒に集約される。法的な正義は「共通善」(bonum commune)を基準とした。古代ギリシャでは、プラトン、アリストテレスが公共善を正義としたが、共通善はその公共善を継承したもので、神、教会、共同体への義務が強調された。トマスの思想はトミズムと呼ばれ、21世紀の今日でも西方キリスト教の文化圏では影響力を持っている。

中世のヨーロッパは、世界的に見れば後進地帯だった。中世の世界において、先進的だったのはイスラーム文明とシナ文明であり、それぞれ独自の科学を発達させていた。イスラーム教もまたキリスト教と同じくユダヤ教の天地・人間・万物の創造説を継承しているが、自然の科学的研究を妨げることはなかった。『ハディース』は「男女を問わず知識を求めることは信者の義務である」というムハンマドの言葉を伝えている。信徒は常に自らの知識を増やし、その質を高めるために、知識の獲得に励むべきとされる。その際、自然の科学的研究は、決して宗教の妨げとはならないのである。イスラーム文明は、9世紀ころから17世紀ころまで、科学的研究において世界の最先端に立っていた。ヨーロッパ文明は、十字軍によって先進的なイスラーム文明に触れ、「12世紀ルネッサンス」や14世紀以降のルネッサンスを通じて、イスラーム文明の科学を摂取した。それが、西欧近代科学の興隆の土台となった。

中世西欧では、カトリック教会の権威によって、人定法、自然法の上にある神の永遠法や神法の解釈は教会に委ねられていた。教会が説く世界観は、天地・人間・万物の創造説に基づくものである。聖書は、神が6日間で天地を創造し、土くれから人間を創造し、またすべての動植物の種を創造したとする。また、天動説の宇宙観に立つ。コペルニクスが1543年に『天球の回転について』を出版して地動説を説くと、ローマ・カトリック教会は、地動説を厳しく弾圧した。ジョルダーノ・ブルーノは異端尋問にかけられ、火刑に処せられた。ガリレオ・ガリレイは宗教裁判で地動説を捨てることを誓わされた。だが、科学的観測と数理的な計算は地動説の正しさを裏付け、天動説から地動説へのコペルニクス的転換が起った。それによって、教会の権威は揺らぎ出した。

また、ルターやカルヴァンらは、16世紀の前半に宗教改革を起こし、西方キリスト教の内部で対立・分裂が生じた。対立・分裂は拡大し、1616年から新教・旧教に分かれた勢力が激突するドイツ30年戦争が繰り広げられた。その戦争の最中、フーゴー・グロティウスは、1625年に『戦争と平和の法』を刊行し、自然法を「正しい理性の命令」と定義した。自然法は神の意思に基づくものだが、たとえ神が存在しないと仮定しても妥当するし、その定めは神さえ変えることができない不変なものであると主張した。ルターやカルヴァンは、信仰のあり方について教会の権威に抗議したが、グロティウスは信仰より理性を重視する自然法論を説くことで、教会の権威を相対化したのである。これは、近代西欧的理性の発達において画期的な事柄だった。

グロティウスに続いて、ホッブスは、独自の自然法論を展開した。ホッブスの思想は、自然法論におけるコペルニクス的転回といわれる。トマスの自然法論における「自然的正」は、「自然法則」に基づく事物の本性に基づく正しい状態・事柄だが、ホッブスは著書『リヴァイアサン』(1651年)で「自然的正」を「自然権」だとし、「各人の自由」だと主張した。ホッブスは、人間は自然状態において、生まれながらに自然法によって認められる永久かつ絶対的な権利、自然権を持つとした。そして、人間は自然権によって契約を結び、国家を設立したと説いた。社会契約論の始めである。ホッブスを受けたロックは、独自の論理で社会契約説を発展させて人民の抵抗権・革命権を認め、イギリス市民革命の理論を提供した。また、アメリカ独立革命やフランス市民革命に強い影響を与えた。

こうしてローマ・カトリック教会の自然法に関する教義への反論から、近代的な政治的・社会的な変動が起った。この変動には、近代西欧科学の発達が深く関係している。

(「キリスト教の運命」より)

 

●普遍論争

 

普遍論争とは、普遍つまり類と種は実在するか、それとも人間の知性が構成するものにすぎないかということをめぐって行われた前代すなわち中世の神学における最大の論争である。

普遍は実在するという主張を、実念論または普遍実在論(レアリズム)という。これに対し、普遍は名目的なものでしかないとする主張を、唯名論または普遍唯名論(ノミナリズム)という。

普遍論争は、プラトンとアリストテレスの哲学に淵源を持つ。プラトンは、イデア(形相)は個物を離れて存在する真の実在であると説いた。彼の弟子アリストテレスは、エイドスはただ個物のなかにしか存在しないとした。この違いを仮に普遍の概念に当てはめると、普遍は個物から独立し、個物に先立って実在すると説くプラトン主義的な説と、普遍は個物においてのみ実在すると説くアリストテレス主義的な説が成り立つ。そうした違いはあるが、プラトン派もアリストテレス派も普遍が実在するという点は、共通している。

ところが、プロティノスの弟子ポルピュリオスは、普遍概念を存在論的な根拠から切り離して、純粋に論理学的に理解しようとした。ここに普遍は客観的に実在するものではなく、単に論理学的な概念だという考え方の萌芽が現れた。その説が西方キリスト教社会に紹介され、普遍に関する論争が生ずるようになった。

スコラ神学の先駆エリウゲナは、実念論を強く主張した。彼は、新プラトン主義の流出説を用いて、自然全体が神より出て神に帰るという構図のもとに、普遍は特殊を含み、個物は自然から出るとした。

カトリック教会は、実念論を取った。アダムにおいて普遍的人間が存在するのでなければ、その子孫である人類はみな原罪を負うという教義は成立しない。またイエス=キリストがその人性において普遍的人間として「教会の頭」であるのでなければ、普遍的教会としてのカトリック教会の権威の根拠がなくなると考えたからである。

しかし、11世紀末から唯名論が登場した。ロスケリヌスは、実在するものは個物のみで、普遍はたんなる音声にすぎないと説いた。ロスケリヌスの弟子、アベラールは、普遍とは言葉または名辞が指し示す意味だとした。アベラールの主張から、普遍は概念だとする概念説と言表だとする言表説が展開した。

これに対し、13世紀にトマス・アクィナスは、実念論に立って次のように説いた。万物の本質は、神による創造に先立ち、イデアとして神の中に先在する。万物は、創造によって神から固有の本質を受け、実在界に個別化されて存在する。それが人間の知性によって抽象されて類・種の普遍概念が得られる、と。

 14世紀前半、唯名論の側に、オッカムが出現した。オッカムは、普遍は神あるいは事物の中に存在するのではなく、ただ精神の中に語として存在するに過ぎないとした。普遍は記号であるとする記号説である。この説では、普遍の問題は形而上学的・存在論的な問題ではなく、記号の機能分析の問題となる。従来のキリスト教神学では、神は普遍的なものとされてきたが、唯名論の考え方を徹底すれば、普遍の概念を以て神の存在や神による創造を説くことはできなくなる。しかも、オッカムは「直観的に知られるのでなければ、いかなるものも本来自然的に知られない」と説いた。直観的認識は世界に関するすべての認識の基礎であり、またこの認識は経験によって初めて成立するとした。これは、形而上学的独断を排する経験主義の態度である。ここには、スコラ神学の観念体系を脱する近代西欧哲学への道が見られる。

ただし、オッカム自身は、神学と哲学は別だとし、教会の信条はただ信仰されるべきと説いた。そして、神の絶対的な超越性を確立し、神以外のすべての実在の根本的な偶然性を示すことを試みた。このようにオッカムの思想は、キリスト教神学の枠内のものだったのだが、ローマ教皇庁から異端の宣告を受けることになった。

中世を通じて繰り広げられた普遍論争は、唯名論が登場して論争が激化し、中世神学の体系を揺るがし、さらにそれに基づく世界観そのものを揺るがすことになっていったのである。

 ただし、中世のローマ・カトリック教会は、神学においては緩やかさがあり、教会全体を制約するような確定した神学は存在していなかった。スコラ神学も、当時のそれは、個々の学者の教えの寄せ集めだった。アウグスティヌス主義とアリストテレス主義、実念論と唯名論、教会主義的傾向と神秘主義的傾向等は相反した思想でありながら、それらがみなカトリック教会の神学に含まれていた。ところが、16世紀にプロテスタントによる宗教改革が起こると、これに対抗するカトリック側の改革が必要となり、トリエント公会議でプロテスタンティズムに対抗するために神学の強化がされることになった。

スコラ神学最大の学者トマス・アクィナスの思想がカトリック教会の正統な教義となったのは16世紀であり、宗教改革の後だった。トマスへの評価は、カトリック教会側からは、理性と信仰の調和を確保したものだが、プロテスタントは、信仰・啓示を軽視した主知主義・理性主義としてこれを批判している。

(「キリスト教の運命」より)

 

●主権

 近代西欧に発生した主権の概念は、キリスト教の神の観念に由来する。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 ユダヤ=キリスト教では、「主=神」は「完全な自由とすべてを支配する力」を持つとされる。古代のローマ=カトリック教会では、こうした神の権利と権力を地上において代行する組織が「教会」とされた。教皇は、神の代理人とされる。教皇は、主イエスの弟子にして代理人とされたペテロの後継者である。ローマ帝国の皇帝の権力と結びついた教皇は、中世西欧において、宗教的世界と世俗的世界の両方に絶大な権限を持っていた。
 ローマ帝国では、今日の主権にあたる統治権は、皇帝アウグストゥスの後継者としてのローマ皇帝にあった。帝国末期の391年にキリスト教が国教化されたが、その後、間もなく帝国は東西に分裂し、476年には西ローマ帝国が滅亡した。以来、南ヨーロッパを中心に、ローマ教皇が宗教的な権威と一定の世俗的な権力を保った。中部ヨーロパ・北ヨーロッパでは、ゲルマン民族の諸部族が各地に国家を設立した。その最大のものが、フランク族によるフランク国である。
 教皇レオ3世は、西ローマ帝国の復活を願い、800年にフランク国王カールを西ローマ帝国の皇帝として戴冠した。皇帝とは諸王の上に立つ王であり、教皇から戴冠された王である。皇帝戴冠により、以後、西欧は教皇と皇帝が併存する社会となった。962年にオットー1世が皇帝となった。それが神聖ローマ帝国の始まりとされる。復活した西ローマ帝国、またその継承者である神聖ローマ帝国が成立した後、西洋文明は、ローマ・カトリック教会の教皇の持つ宗教的な権威と、神聖ローマ帝国皇帝の世俗的権力の二元構造をもって発達した。
 中世の西欧では、ローマ教会が精神的権威を放ち、同時に広大な領地を持って、政治的な権力を振るってもいた。神の代理人としての教皇の権利と権力は強大だった。近代西欧に現れる絶対王政の君主の原型は、ローマ教皇に見出される。
 西欧における権利と権力の根源は、ユダヤ=キリスト教の神に求められる。この思想は、権利と権力は、神に授ったものとする思想であり、権利・権力の神授説と言える。神授説と言えば、一般に知られるのは、王権神授説(divine right of kings)である。王権神授説は、中世以来の教皇権・皇帝権に対して、国王権の独自性を主張するものだが、元は教皇権の神授説にさかのぼる。これを教権神授説(divine right of the Pope)と呼ぶ。皇帝は教権神授説を真似て、皇帝権の神授説を唱えた。これを帝権神授説(divine right of the Emperor)と呼ぶ。先の王権神授説は、帝権神授説の応用でもあった。
 西方キリスト教文化圏における権利・権力の神授説は、<教権→帝権→王権→民権>という順番に展開した。そして、一部否定されるに至った。その展開は、概ね次のようだった。

(1)教権神授説〜ローマ・カトリック教会の教義。教皇は神の代理人とされ、教皇の権利と権力は神に与えられたものとする。教会の正統性の根拠とされる。
(2)帝権神授説〜12世紀半ば皇帝フリードリッヒ1世が教皇に対抗して唱え、14世紀初めイタリアのダンテ・アリギエリ等が主張した。
(3)王権神授説〜16世紀後半フランスのジャン・ボダンが唱え、17世紀前半イギリスのロバート・フィルマー等が主張。絶対王政の国王の多くが援用した。
(4)民権神授説〜17世紀後半ロックが唱え、アメリカ独立宣言に表現された。フランス人権宣言では、キリスト教の神が「至高の存在」に置き換わった。
(5)民権互認説〜19世紀以降の世俗化・脱キリスト教化した社会思想で、人民に権利と権力の根拠を置き、人民が相互に権利と権力を承認するという思想。

 民権神授説とは、王権が神授とされるのに対抗して、民権も神授だと唱えられたものである。民権互認説も、私の造語である。神が授けるという思想を否定すれば、人が認め合うというものとなる。ただし、非西欧で多く見られる先祖から受け継いだという考え方ではなく、同時代の人間同士が認め合うというところに、19世紀以降の西欧における民権互認説の特徴がある。
 ともあれ、西方キリスト教の文化圏では、教権神授説に対抗して帝権神授説が現れ、次に教皇権と皇帝権に対して王権の強化を図るところに、王権神授説が現れた。王権の強化が、近代的な国家主権の形成に至った。国王の主権に抵抗し、王権に対して民権の確保・拡大を図る中で、王権神授説に対して民権神授説が主張され、人権の思想が発達した。市民革命は、国王の主権の全部または一部を、国民が獲得する運動だった。国によって、君民が主権を共有する体制あるいは国民が主権を奪取した体制になった。この過程で、国民の権利が拡大された。その権利が、普遍的・生得的な人権という観念で表現された。それゆえ、主権と民権と人権は、相互関係の中で発達したものである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 主権は英語 sovereignty等の訳語であり、国境で区画された領域内における最高統治権である。主権は統治の権利であり、その作用を力の観念でとらえれば、統治の権力である。実際、近代西欧では、主権は「最高の力」と呼ばれてきた。

西欧における権利と権力の根源は、ユダヤ=キリスト教の神に求められ、神の代理人としての教皇の権利と権力は神に授ったものとされた。この教権神授説に対し、帝権神授説、王権神授説が現れ、民権神授説、民権互認説が続いた。人権は、国王が神から授かったとする主権に人民が参与する過程で唱えられるようになった。ここで民権とは「国民の権利(rights of people)」であり、その一部が普遍的・生得的なものと想定されて人権すなわち「人間の権利(human rights)」と唱えられることになった。

近代的な国家主権には、原型がある。先行形態と言ってもよい。それは、ローマ・カトリック教会の教皇権である。古代ローマ帝国は、395年に東西に分裂した。その後、東西の帝国でキリスト教の教会は独自の道を歩み、1054年に最終的に東方正教会とローマ・カトリック教会に分離した。ローマ教皇の教皇権は、神授のものとされた。教権神授説は、キリスト教の教会組織が成立して以来、唱えられてきた思想だった。
 教皇グレゴリウス7世は、1075年に教皇教書を発布した。教皇教書は絶対的教皇権を確立するものだった。ここでの絶対的とは、一人に権威と権力が集中した状態をいう。立法・司法・行政のすべてにわたる権限が一個の権限となり、それが教皇によって保持された。教皇は、聖書に記された神の法と自然法とにのみ従う普遍的な立法者であるとした。神の法と自然法にのみ従うとは、人間が作った人定法を超えた存在ということである。また、教皇は聖職者及び君侯を補助者として使用する統治者、そして教皇令その他教会法に関する審判者であるとした。これによって教皇は、立法・司法・行政を貫く至上権を得た。私は、この絶対的教皇権が近代的な国家主権の原型と考える。
 教皇権はやがて皇帝権と相対的なものとなり、中世の西欧は、宗教的な教皇と世俗的な皇帝を二つの頂点とし、様々な封建勢力が各地に所領を持って混在する社会となった。近代的な国境は存在しなかった。その教皇権と皇帝権が並立する構造を打破したところに、国王の主権が成立した。これが近代的な国家主権の誕生となった。そして、国王の主権は、国王と貴族や新興階級、国王と国民が共有するものとなったり、国民が共有するものとなったりした。主権に国民が参与する過程で、国民の権利が獲得・拡大され、その権利が人権と呼ばれるようになる。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●教皇権に対する皇帝権の独立

絶対的教皇権を確立した教皇グレゴリウス7世は、1075年に俗人による高位聖職者の任命を禁止した。それによって、教皇と皇帝の間で叙任権闘争が起こった。皇帝ハインリヒ4世は闘争に敗れ、破門寸前となった。これをカノッサの屈辱という。それほど教皇は強大な権限を持っていた。
 だが、12世紀半ばになると、皇帝フリードリッヒ1世は、教皇ハドリアヌスに反抗して、皇帝は神に直接、世俗の統治を委託されており、帝国は神に直接、聖別されている。教皇には世俗に介入する権利はもともとない、と主張した。フリードリッヒ1世は、1157年に「神聖帝国」の名を使用した。これは世俗権の所有者である皇帝が、教権神授説に立つ教皇による政治を斥ける決意表明だった。その後、1254年から、「神聖ローマ帝国」の国号が使われるようになった。同帝国は、962年オットー1世の皇帝戴冠に始源が求められ、ドイツを中心に19世紀の初めまで800年以上続いたとされる。
 フリードリッヒ1世以後、皇帝は権利・権力を強めた。1303年には、教皇ボニファティウス8世がフランス王フィリップ2世にローマ郊外で捕えられるというアナーニ事件が起こった。この事件以降、教皇権は次第に衰退していく。
 14世紀初め、『神曲』で知られるイタリアの詩人ダンテ・アリギエリは、「神の代理者である教皇は霊の世界を管轄するだけ」「現実の諸国家の上に平和を維持するべき皇帝の権限は、神から直接授けられたものであるから、教皇権と並立して俗界の至上権たるべき」と帝権神授説を説いた。
 神聖ローマ帝国は、ローマが中心ではなく、実態は今日のドイツを中心とした地域に存在した。皇帝は諸王の上に立つ王ではあるが、帝国の各地では諸侯が領地を持っていた。諸侯とは、カトリックの大司教等の高位聖職者、公爵・伯爵の貴族等である。また帝国の外の各地には、様々な封建制国家が存在し、諸国の国王が存在した。
 教皇権に対する皇帝権の強化は進んだ。1508年にハプスブルグ家のマクシミリアンが、教皇の戴冠を受けずに皇帝を名乗った。以降、教皇による皇帝戴冠の制度がなくなった。これは皇帝権が教皇権から独立したことを意味する。
 補足として、ここに登場するハプスブルグ家は、1282年にオーストリア・ハプスブルグ家が誕生して以後、約700年にわたって、ヨーロッパ史を彩った名家である。1438年にアルプレヒト2世が神聖ローマ帝国皇帝に即位したのが、ハプスブルグ王朝の開幕だった。オーストリアを根拠に、途中から系統が分かれたスペイン・ハプスブルグ家を含めて、西欧に広大な領地を持ち、各国の王族・貴族と婚姻関係を結び、栄華を誇った。皇帝権や国王権が、実はこうした有力家系の持つ家族的な権利及び家族的な権力でもあることに注意しなければならない。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●西欧における暴政・圧政の宗教的な理由

 主権とは統治権であり、統治権とは統治する権利である。権利には協同的権利と闘争的権利があり、権力にも協同的権力と闘争的権力がある。家族的権力が発達した氏族的・部族的権力は本来、協調的だった。それゆえ、統治権にも協同性と闘争性がある。だが、近代西欧に発達した国家主権は、闘争的権利であり、闘争的権力である点に特徴がある。
 西欧では、16〜18世紀の絶対王政期に、諸国の国王が主権を保有して無制約の権力を振るい、専制を行った。宗教宗派を弾圧したり、信教を押し付けたり、重税を課したりした。諸国の国王は、王権神授説を援用して王権を強化した。国王は神の代理人にして王権は神授のものとする説の根拠は、ユダヤ=キリスト教の教義である。国王の専制は、ユダヤ=キリスト教の神を模倣するものである。私はそこに地上における神の代理人を自認する諸国の国王が暴政・圧政を行うことになった宗教的な理由があると考える。
 ところで、西欧の近代化は、魔女狩りと有色人種の奴隷化の上に進展した。これらを正当化したのは、キリスト教である。魔女狩りは非キリスト教的なものを排除する社会現象だった。魔女狩りは、ルネッサンス期に嵐のように吹き荒れたが、その最盛期は、宗教改革時代と共に訪れ、1600年を中心とした1世紀がピークだった。魔女狩りはカトリック信者だけでなく、プロテスタントも行った。ドイツのプロテスタントも、アメリカのピューリタンも、魔女狩りに熱狂した。これは、プロテスタンティズムの倫理の暗黒面であり、ユダヤ=キリスト教自体の持つ暗黒面でもある。
 中世の西欧は、農奴制であって、奴隷は存在しなかった。ところが非西欧を征服・支配した西欧白人種は有色人種を奴隷化・家畜化した。新大陸と呼ばれる北米、南米、そしてアフリカでは、非キリスト教徒である有色人種は、人間とみなされなかった。植民帝国の国王は、その大陸間帝国の頂点にあって、有色人種の奴隷を持つ専制君主だった。カトリック教会は、非キリスト教徒である有色人種を奴隷とすることを、教義的に正当化した。イエス=キリストの教えは、隣人愛を説く。使徒パウロは「神は愛である」と説いた。しかし、キリスト教徒の愛は、異教徒には及ばされなかった。むしろ、ユダヤ教の神の専制性と選民思想が、キリスト教の教義を突き破って、近代西欧に現れたというべきだろう。この構造は、主権の形式にも貫かれている。
 魔女狩りと有色人種の奴隷化を正当化するキリスト教のもとに、西欧の近代主権国家は出現した。主権国家の最初の形態が絶対王政国家である。絶対王政の君主は、しばしば暴政・圧政を行った。その理由の一つは、ユダヤ=キリスト教の神は、「戦う神」「裁く神」であり、「嫉む神」「復讐の神」であることにある。旧約聖書に書かれているヤーウェは、自らと契約する民をのみ守護する。その民に服従を求め、従わねば厳しく罰し、時に大量に滅ぼしさえする。王権神授説に依る西欧の絶対君主は、その地上における神の代理人である。「戦う神」「裁く神」「妬む神」「復讐の神」から無制約の権力を与えられていると考える国王は、権力を恣にすることになる。
 専制君主への激しい反発として、市民革命が起こった。専制的な王権の権力を、貴族・市民階級が闘争によって共有または奪取した。主権は君主の主権から君民共有の主権または国民所有の主権へと移行した。そして、人権は、この過程で、国王の主権に対抗するものとして唱えられ、主権に参画した国民の権利として、確保・拡大されてきた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●中世のユダヤ哲学

 

 ピロンの後、900年ほど、ユダヤ哲学には見るべき発達がなかった。ようやく10世紀になって、バビロニアのサアディア・ベン・ヨセフによって復興された。ギリシャ文化がイスラーム文明に流入した時期である。イスラーム文明では古代ギリシャ哲学を取りいれ、イスラーム教を合理的に解釈するイスラーム哲学が発達した。サアディアは正統派の「ラビのユダヤ教」の立場に立ち、イスラーム哲学の方法を用いて、ユダヤ教を哲学的に基礎づけようとした。ユダヤ哲学の父と呼ばれ、啓示と理性の相補性を説き、啓示は理性の疑惑を解き、理性は啓示の真理を明らかにすると説いた。

 11世紀には、スペインにソロモン・イブン・ガビロルが現れた。彼はプロティノスによる新プラトン主義の流出説を採ったが、流出を神の意思によるものとし、事物が流出の最初の一つとした。キリスト教社会ではアヴィケブロンと呼ばれ、スコラ哲学に影響を与えた。

 ユダヤ哲学は、12世紀にモーセス・マイモニデスで頂点に達した。彼はコルドバ生まれだが、1148年に同地を征服したイスラーム文明のムワッヒド朝のユダヤ人弾圧を避け、エジプトに移住した。カイロのユダヤ教団をラビとして指導した。著書『迷える者達の手引き』は、ユダヤ哲学全体の基礎になったとされる。信仰と伝統の合理的解釈をアリストテレス哲学に求めたが、人間の論証には欠陥があり、真理の究極の基準にはなりえないとして、結局は啓示に拠らざるを得ないとした。このような立場から、聖書の中にある本質的なものと非本質的なものを区別し、非本質的なものは理性の導きに委ねることができるが、本質的なものは啓示に訴えざるを得ないと説いた。

 スペインのユダヤ人は、15世紀に徹底的な迫害を受け、迫害に耐えかねたユダヤ人哲学者はユダヤ教を棄てたため、信用を失った。ユダヤ教を合理的に理解しようとするユダヤ哲学は、その後、カバラーの神秘主義思想に取って代わられ、終焉を迎えた。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

●カバラー神秘主義

 

カバラー神秘主義は、世界的な中世におけるユダヤ教内の新しい動きである。ヨーロッパから中東に及ぶ地域で発達した。カバラーの原義は口伝・伝統であり、口伝の秘儀を意味する。南プロヴァンスで3世紀から6世紀頃に始まり、厳格な参入儀礼を経た弟子だけに教えられ、長い間、秘密にされていた。13世紀のスペインで世に知られるようになった。15世紀末にユダヤ人がスペインから追放されると、その多くが中東各地に移住し、パレスチナのツファットは、16世紀にカバラー神秘主義の中心地となった。

カバラー神秘主義は、ユダヤ教の伝統に基づく創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。3柱、4界、10のセフィロト(数)による「生命の樹」で象徴的に表現される流出説的な世界像を示す。また、現在の世界は悪が支配しているが、やがて到来する世の終りに、メシアが来臨し、悪の力を滅ぼして正義を確立し、民族と宇宙を救うという終末論を抱く。そこには、ヘレニズム・ローマ時代の黙示思想への強い共感が見られる。

カバラー神秘主義は、終末の救済の秘儀にあずかるために、律法を順守することを説き、また神から律法の真意を学ぶことを目的とした。それゆえ、正統的な「ラビのユダヤ教」から外れるものではないと見られた。

16〜17世紀には、カバラー神秘主義の影響下に、自称メシアが各地で出現した。なかでもサバタイ・ツビは、一時各地のユダヤ教社会に影響力を振るった。だが、1666年にトルコのスルタンに逮捕されると、イスラーム教に改宗した。

サバタイ騒動は、深刻な精神的危機をもたらした。その危機を克服する試みの中から、18世紀に東ヨーロッパでハシディズムが興った。バール・シェム・トーブが、法悦状態に没入し、祈祷において神と交わる神秘的体験の重要性を説き、カバラー神秘主義を大衆へ広めた。正統派は、これを異端とした。だが、19世紀初頭に両者は和解し、ハシディズムも正統派に位置づけられた。

カバラー神秘主義は、西方キリスト教の神秘主義に影響を与えた。キリスト教の神秘家は、ユダヤ教の集団救済の伝統とは異なり、個人的な神秘体験を追究した。ローマ・カトリック教会は、自らを正統とし、その教義と異なることを唱える者を異端として、徹底的に弾圧した。そのため西方キリスト教圏では、カバラー神秘主義の影響はヨーロッパ文化の表層ではなく深層に作用し、地下水脈のように受け継がれた。そして、カバラー神秘主義は、オカルティズムの理論的根拠にも用いられることになった。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

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4.近代西洋文明の哲学とその周辺

 

●西方キリスト教の宗教改革

 16世紀初め、西欧で宗教改革が起こった。宗教改革は、信教の自由を求める運動だった。信教の自由の希求が、社会に巨大な変革を引き起こした。宗教改革とは言っても、キリスト教内、しかも西方キリスト教における改革にすぎないが、この改革によって、ドイツ30年戦争が起こり、教皇権と皇帝権の並立状態が打破され、近代主権国家が登場した。また、イギリスでは、市民革命が起こり、国家主権の権力主体が君主から君主と国民に拡大され、君主の主権が君民共有の主権へと変化した。こうした権力の変動の中で、人権の観念が発達した。ドイツ30年戦争を終結させたウェストファリア条約とイギリスのピューリタン革命は、主権と民権と人権の歴史におけるメルクマールとなった。
 人権の核心には自由がある。人権の観念は、自由への権利意識に基づく。信教の自由の獲得が、近代西欧的自由の発達の初めとなった。プロテスタンティズムであれ、カトリックであれ、英国国教会であれ、国王や領主による信教の強制に対しては、人民から反発が起こった。信教の自由の希求なくして、人権観念の発達はない。
 宗教改革は、どのようにして起こったか。西欧では、13世紀末からイタリアでルネサンスが始まった。文芸復興をきっかけに、それまで古代ギリシャ=ローマ文明の思想や技術を継承・発展させていたイスラーム文明から、多くの文化要素が摂取された。それによって、聖書の言語学的研究が進んだ。教会が独占するラテン語の公定聖書への疑問が湧いた。また、教義だけでなく、教会のあり方に対する疑念が深まった。その焦点となったのが、罪の償いが免じられるとして乱用された免罪符だった。
 1517年、マルティン・ルターが免罪符に関する95か条の提題をヴィッテンブルグの教会の門扉に掲げた。これが西方キリスト教改革の初めとなった。ルターに続いて、カルヴァンも1536年からスイスで教会の権威に異議を唱えた。彼らの改革運動は、各国に広がった。
 プロテスタントは、それまでラテン語で書かれ、ラテン語の知識のない者は読むことのできなかった聖書を各国語に訳した。各国語訳の聖書は、印刷技術と紙の使用によって、民衆に普及した。民衆は、自分たちが日常使っている言葉で聖書を読めるようになった。それによって、古代ギリシャ=ローマ文明の遺産であるキリスト教の土着化が進んだ。また、キリスト教の民族化やナショナリズムの形成にも発展した。
 キリスト教改革が本格的に開始された場所は、神聖ローマ帝国だった。この事実は、重要である。教皇が戴冠する皇帝が統治する地域で、カトリック教会批判が起こったのである。帝国内の各地で、プロテスタンティズムに改宗する諸侯や都市が現れた。1529年、シュパイアー帝国議会でルターを支持する5人の帝国諸侯と14の帝国都市が、皇帝5世の「異端根絶」の提案に激しく抵抗つまりプロテストした。以来、諸侯と皇帝カールの戦いは、政治的抗争となった。
 教皇と皇帝は、諸侯の要求を入れざるをえなくなり、1555年にアウグスブルグの宗教和議が調印された。和議のスローガンは、「領主の宗教は領民の宗教!」だった。ルター派の主張が全面的に認められ、新教徒と旧教徒は同権であり、互いに相手の立場を尊重することが合意された。各領邦の宗教は、君主が選択することとなった。人権の重要な要素である信教の自由は、まずこうした限定的な形で獲得されることになった。このとき、プロテスタント諸侯は、領地にあるカトリック教会をプロテスタント教会にし、莫大な財産を自分のものにした。和議にいう宗教はカトリックとルター派に限定された。カルヴァン派は異端のままだった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●西欧における王権の強大化

 権利論的に見ると、中世西欧における王は、領主の一人で、貴族の中で「対等なる者のうちの首席(primus inter pares)」に過ぎなかった。封建制の身分社会において、王の権利は、王の身分に伴う特権(privilege)だった。王権(prerogative)は、王国(realm)の根本法である慣習法によって定められていた。貴族や聖職者も特権を持っていた。王の持つ大権も特権の一種であり、大権をもっても彼らの特権を否定することはできなかった。
 だが、王権が次第に強大になり、他の諸侯権(the privileges)を圧倒し、国王の主権(sovereignty)という概念が生じた。国王の主権は、それまでの王の大権が他の特権に比べて大きいという相対的なものだったのに対して、絶対的な権利を意味する。ここでの絶対的とは、一人の統治権者がすべての権力と権威を独占する状態をいう。国王の主権が確立されると、諸侯・聖職者・大商人は、王の命令には絶対服従しなければならない。王は自由に法律を作り、家臣や領民の生命,財産、自由を任意にでき、税金を課し、自ら信奉する宗教宗派を強制することさえした。
 国王はカトリック教会の教皇に対して、宗教的・世俗的な権利を主張するようになった。国王の宗教的権利は、自ら自由に信仰を持ち、領民にそれを信仰させることが究極の権利である。実際、イングランドでは国王がカトリック教会から離脱して国教会を創設し、北欧でも国王がプロテスタンティズムに改宗して、スウェーデン国教会やデンマーク国教会等が創設された。国王が統治する領域においては、教皇をさておいて、国王が神の権利と権力の代行者となろうとした。領域内という限られた範囲ではあるが、神の代理人が教皇から国王に代わりつつあったわけである。これは教皇権の縮小と国王権の拡大である。こうした変化が、神聖ローマ帝国の外で進んでいたのである。
 教皇権は教会の勢力圏における権利と権力だが、国王権は国家の統治領域における権利と権力である点が異なる。教皇権は宗教的権威に基づくものだが、国王権は世俗的実力に基づくものである。組織された武力が国王の権力の中核をなす。教皇権は教義の論戦で打ち破ることができるが、国王権は実力によって奪取しなければ移行しない。
 こうした中央集権化、実力の独占、宗教的自立という傾向が西欧で顕著になりつつあったところに、ドイツ30年戦争が起こった。それを通じて近代主権国家が誕生し、今日の世界に似た主権国家が並立する国際社会が西欧に形成されることになっていった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●絶対王政と国王の主権

 近代主権国家は、国王に権力が集中し、官僚制と常備軍を備えた絶対王政国家として姿を現した。王権の強大化によって形成された政治体制を、絶対王政(absolute monarchism)という。「絶対」は、英語 absolute 等の訳語として作られた漢字単語である。absolute は「〜から完全に自由な」を意味する。そこから「無制限の、無条件の」を意味する。また、政治的には「専制の、圧政の、独断的な」を意味する。必ずしも哲学における絶対と相対という対概念における絶対を意味しない。王政について、絶対と形容されるのは、王が絶対者(the Absolute)すなわち神の代理人を任じ、絶対的すなわち専制的な政治を行って、無制約に権力を振るう様を表すものと言えよう。
 絶対王政は、16〜18世紀の西方ヨーロッパに現れた。その政治形態を、絶対主義(absolutism)という。絶対主義は、君主に至上の権利と権力を付与する専制的な政治形態である。絶対主義は、一人の支配者に統治権と権力と権威が集中し、独占された状態である。アリストテレスの国家の区分によれば、君主政治に当たる。君主政治は堕落すると暴君政治になる、とアリストテレスは説いたが、近代西欧の多くの国で、それが起こった。
 絶対王政では、国王は中央集権的統治のための官僚と直属の常備軍を所有した。国王は、封建制の崩壊で弱体化する貴族階級と資本の本源的蓄積の過程で成長途上の市民階級を押さえ、無制約の権力を振るった。宗教宗派を弾圧したり、信教を押し付けたり、重税を課したりした。王権の強化のため、多くの場合、王権神授説を援用した。経済政策は金銀の取得を目的とする重商主義を採り、富の増大を進めた。
 絶対王政の王権の確立によって、近代的な主権が登場した。同時に、近代的な主権を持つ国家が形成された。近代国家は、国境によって区画された領域、国家に所属する人民、国家を統治する主権という3要素を備えた政治団体である。
 絶対王政は、封建制国家から資本主義的な近代国家への過渡期に位置付けられる政治体制である。封建制国家は、アリストテレスの国家の区分と比較すると、君主政治と貴族政治の中間に位置すると考えられよう。統治権は君主と貴族が分有する。ただし、その上に教皇がおり、神聖ローマ帝国には皇帝がいるという複雑で多元的な関係になっていた。西欧の中世から近代への政治的変化は、まずこの多元的な封建政治から専制的な君主政治へ移行した。そして、教皇の主権、皇帝の主権に替わって、国王の主権が地域的に確立していった。正確に言えば、それらが新たな近代主権国家体制に組み直されたのである。

(「人権――その起源と目標」より)

●ボダンの主権論

 16世紀前半、宗教改革の旗手ルターは、カトリック教会を厳しく批判する傍ら、王権については、神授なるがゆえに人民の抵抗を許さない絶対のもの、と説いた。ルターの同時代のイタリアの政治思想家マキャベリは、『君主論』で、国家の君主は、平和を招来し維持するため、狐の策略と獅子の勇気を以て権力を行使すべきである、と説いた。そして、その世紀の後半、国家には最高の権力が存在しなければならないとして、国家と主権を制度論として論じる思想家が、フランスに現れた。それがジャン・ボダンである。
 当時フランスでは、国王への中央集権化が顕著に進んでいた。だが、宗教改革によってユグノー戦争が起こり、カルヴァン派プロテスタントとカトリック派が争っていた。この戦争を収拾するため、ボダンは、国王を中心として、分裂した国家の統一を図ろうとした。そして、国家の権力を確立することを目指して執筆したのが、『国家論』(1576年)である。
 ボダンは『国家論』において、神意実現のために国家の最高絶対権を説いた。目的は人民の自由と財産を守ることである。国家権力の主体は、国王という個人ではなく、主権という制度概念だった。ボダンは、対外的な意味における主権を「国家の絶対的で永続的な権力」であると定義した。国家は自らの国法を定め、他の権力に従うことなく、独立して国政を行うことができるということである。国内的な意味における主権は、ラテン語版の『国家論』で「市民や臣下に対して最高で、法律の拘束を受けない権力」と定義した。
 ボダンは、「主権的支配者」の上に立つ「世界中のすべての支配者に対する絶対的支配者」である神の存在を強調した。国家における「最高の力」の持ち主も、神の命令である神法・自然法には従わねばならず、それに違反すると、神罰が下る。君主が自らの自由意志に基づいて法律を作っても、神法・自然法に合致しないものは、法律としての有効性を持たないとした。そして、「人民が君主の法律に服し、君主が自然法に服して、人民の自然的自由と財産の所有権を保障する」という政治が「正しい統治」である、と説いた。
 ボダンの理論は、国家主権を理論的に強化すると同時に、制約もするという二面性を持っていた。ボダンは、無制約の主権を説いたのではなく、主権者を制約するものとして神法・自然法、契約、慣習法を挙げた。制約条件があるということは、ボダンの説く主権は、絶対的なものではなく、相対的なものだったことを示している。相対性の中での最高性を強調することが、ボダンの主張だったといえよう。
 彼の時代は、アンリ3世の治世だった。国王は、彼の思想に従って政治を行ったわけではない。公式にはカトリックだったアンリ3世は、プロテスタントに改宗を強要したり、逆に過激なカトリックから反発されたりした。宗教内戦の解決を図りながら、最後はカトリックの修道士によって暗殺された。主権の担い手である国王が絶対的支配者でないことは、その事件にも現れている。
 ボダンの死後、ウェストファリア条約で、諸侯の主権が確立された時、フランスでも国王の主権が制度的に確立された。ブルボン家は、神聖ローマ帝国が死に体となった西欧で、覇権を目指した。そして、フランスの絶対王政は、18世紀後半に絶頂に達した。国王はボダンが考えた制約を無視して、権力をほしいままにした。その頂点に立つのが、「朕は国家なり」の句で名高いルイ14世である。
 絶対王政は、これに反発する市民の蜂起によって倒された。主権は国王から国民の手に移った。国王を倒し、新たな主権者となった国民は、ボダンが君主に対して示したような制約を、顧みることはなかった。市民革命後の国家にあっては、キリスト教の神もキリスト教的な神法・自然法も、もはや主権と結び付けられることはなかった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●近代西欧科学の発達

 

 16世紀後半、フランシス・ベーコンが、科学技術の発達によって、人間は宇宙のすべてを知り、自然を支配することが可能だという考えを表した。この科学万能思想は、「科学革命の世紀」といわれる17世紀を通じて広がった。デカルトの物心二元論・要素還元主義、ニュートンの機械論的自然観等が打ち出され、様々な分野で自然の研究が進み、実験と観察、数理的な計算にもとづく近代西欧科学的な世界観が形成された。その世界観は、合理主義を発展させた。合理主義とは、一般に理性を重んじ、思想や生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする態度をいう。こうした態度が実験・観察・計算によって裏づけられたものが、科学的合理主義である。

(「キリスト教の運命」より)

 

近代西欧科学は、ヨーロッパの近代化の進行の中で発達した。近代化とは、「生活全般における合理化の進展」(マックス・ウェーバー)を意味する。合理化は、文化的領域から始まった。文化的領域における近代化とは、宗教・思想・科学等における合理主義の形成である。14世紀から16世紀にかけてルネサンス、16世紀に宗教改革、17世紀に科学革命が起こり、文化的近代化が進み、世界観が大きく変わった。世界を合理的な考え方で理解する態度が支配的になったのである。

この世界観の変化において大きな作用をしたものの一つが、天動説から地動説へのいわゆるコペルニクス的転換である。この転換は、16世紀の半ばから17世紀の初めにかけて、コペルニクス、ティコ=ブラーエ、ケプラー、ガリレオらが天体観測と数学的計算によって、もたらされた。世界観の転換は、西欧での科学革命を引き起こした。実験と計算が重んじられるようになり、神話的・教義的な意味付けは駆逐されていった。フランシス・ベーコンは、実験と観察にもとづく帰納法的学問こそが、人類に大きな利益をもたらすことを強調して、近代科学の論理学・方法論を発表した。ルネ・デカルトは、精神と物質の徹底した二元論、数学による幾何学的な自然観などによって近代科学の理論的枠組を打ち出した。ロバート・ボイルは、物質の基本構成要素として元素の存在を認め、化学の礎を開き、また実験科学を確立した。そして、アイザック・ニュートンが万有引力の法則を発見して地動説を完成させるとともに、機械論的世界観を確立した。

近代西欧科学の機械論的な世界観は、自然は数理的な法則に従って運動する物質とみなす。人間と自然の間の霊的なつながりは決定的に失われ、自然は物質化・手段化された。そして人間には自然を征服・支配する力が与えられているという考えが支配的になった。物質科学によって得られた知識は、西欧人に合理主義的な思考を促し、宗教・思想・生活態度を合理的なものに変えていった。そして、合理主義的な思考の強化によって、近代科学は急速に発達した。物質科学の発達は、近代化の過程で決定的な役割を果たした。物質科学こそ近代文明の中心であり、近代西洋文明は物質科学文明と呼ぶことができる。

ただし、科学は、近代西欧で突然発生したものではなく、近代西欧科学はイスラーム文明で発達していた科学を継承して、さらに発達させたものである。数学や医学、天文学、建築学、土木学、水理学、農学、植物学等は、古代のメソポタミア、エジプト、インド、シナ、ギリシャ、ローマ等で、様々な形で発達していた。私は、こうした近代西欧科学以前の科学を、伝統科学と呼ぶ。かつては科学と言えば、近代西欧で発生・発達したものという見方が定説となっていたが、それは西欧中心、西洋中心の偏った見方であり、またおごった見方である。近代西欧科学はそれまでのインド・シナ・ギリシャ・イスラームの諸文明における伝統科学を受け継ぎつつ、それが秘めていた可能性を爆発的に現実化したものである。

近代西欧科学の発達は、人類の知識を一挙に広げた。人類に内在していた知能が、あたかも季節が来て木々の花が咲くように、一気に開花し始めたかのようである。まさに科学革命を中心とした近代化の進行によって、人類文明は大変化しつつある。

西欧で発達した近代科学が、それ以前の非西欧的また前近代的な伝統科学と異なるのは、人間が自然を支配し、利用するという思想の上に立っている点にある。自然を征服・支配し、物質化・手段化し、資源として利用して、人間の生活や文化を豊かにするという考え方は、ヨーロッパ文明の特徴である。この特徴は、キリスト教に基づくという見方が、多くの論者の説くところである。確かにヨーロッパ文明のもとになった他の文化要素であるギリシャ=ローマ文明やゲルマン民族の文化には、こうした明瞭な特徴は見られない。

キリスト教に基づくとされる根拠は、旧約聖書の『創世記』に、神が人間を自分に似たものとして創造し、人間に対して「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と命じたと記されていることによる。それが、自然を支配し、これを利用することが神から与えられた人間の使命であるという思想のもとになっている。多くの論者は、それをキリスト教の教えによると説いてきたが、『創世記』の記述はユダヤ教の教えであり、それがキリスト教にそのまま継承されているものである。それゆえ、人間が自然を支配し、利用するという思想は、キリスト教というより、ユダヤ教に基づくものであると言わなければならない。また、それゆえ、近代西洋科学を批判的に考察するには、ユダヤ教の研究が必要なのである。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

●近代西欧科学とキリスト教

 

 近代西欧科学が発達する前、世界の最先端を行っていたのは、イスラーム教を中核とする文明だった。イスラーム教では、人間が自然を征服・支配することは不可能であり、征服・支配の思想は、自然を創造した神への冒涜だと考える。イスラーム教では、自然と人間の間には階層性はなく、森羅万象は人間と対等の立場で存在していると考える。人間は強者として自然を支配するのではなく、自然の一部として、その中で神の意志に絶対服従して生きるべきものとされる。

 これに比し、西方キリスト教による近代西洋文明では、16世紀後半から科学万能の思想が発生し、18世紀以降、影響力を強めていった。その結果が、科学技術の発達による人間生活の飛躍的な進歩と、その反面としての自然の破壊・汚染による人類の危機の深刻化である。そこには、キリスト教の教義の影響が見られる。

 中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会は、地動説を弾圧するなどしたが、教会の権威が低下すると、科学者や知識人はキリスト教の文化を基に自由に思考するようになった。そして、キリスト教の文化が科学的探求に積極的な影響を及ぼすという現象が現れた。その理由の第一は、キリスト教は全知全能の神が宇宙を創造したと教えることによって、自然には神の意思による秩序が見いだされるはずだという確信を生み、それが科学的研究の導きとなったことである。第二は、キリスト教は、人間は神の似像として創造され、天地や他のすべての種を支配するように命じられたと説くことにより、そこから科学技術を用いて人間が自然を征服・支配するという思想が発達したことである。第三は、キリスト教は神の超越性を強調することにより、被造物としての自然を物質ととらえる考え方を生み、人間が自然を利用・搾取するという姿勢が現れたことである。

(「キリスト教の運命」より)

 

●機械論的世界観の広がりと社会観の変化

 

 17世紀から西欧で支配的になっていった機械論的な世界観は、機械をモデルとする世界観である。それまでの西欧の世界観は、有機体論的な世界観であり、生物をモデルにしたものだった。生物は目的論的な性質を持つから、有機体論的な世界観は総じて目的論的である。これに対し、機械をモデルにする機械論的世界観は、因果論的である。
 機械論的な世界観は、自然を外から与えられる力によって動くものであり、様々な部分の集合ととらえる。西欧で機械論的な世界観が確立すると、社会観にも変化が起こった。新たに登場した社会観では、個人は原子(アトム)のようにそれ自体で存在するものと考え、互いに自由で独立した個人の集合が社会とされる。親子・夫婦・祖孫等の家族的血縁的なつながり、集団における生命の共有と共同性は、よく考慮されていない。
 こうした社会観の広がりは、近代化の進行に伴うものだった。近代化は、生活全般の合理化であり、文化的・社会的・政治的・経済的の四つの側面をもって進行する。近代化の進行とともに、それまでの共同体を中心とする考え方から、個人を中心とする考え方への変化が加速された。
 近代化の進行は、正義に関する考え方にも変化をもたらした。アリストテレスは、古代ギリシャのポリスという共同体において正義を説いた。その思想がヨーロッパ文明の正義観に大きな影響を与えたのだが、近代化とともに伝統的な共同体が解体して市民社会が成立し、また市場経済が支配的になると、西欧では契約に基づく交換における正義という考え方が確立された。交換的正義は、アリストテレスの配分的正義に替わる概念である。配分的正義は、共同体の目的のもとにおける貢献に比例した地位・名誉等の配分をいい、共同体の目的である公共善を前提としたが、交換的正義は、個人と個人の契約に係る正義である。
 近代西欧では、共同体の解体とともに、共同体全体にとっての公共善を正義とする古代的・中世的な価値観に替わって、個人の私的な善を実現する枠組みを正義とする近代的な価値観が現れた。この変化は、正義観における重大な変化である。諸個人がそれぞれ私的な善を実現し得る状態が自由であり、それを実現する能力・正当性が権利であるという考え方が優勢になった。近代西欧的な交換的正義の考え方と不可分のものである。こうした変化の過程で、人権の思想が現れた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●人間の尊厳

 

 近代西欧から世界に広がった人権の観念のもとにあるのは、ユダヤ=キリスト教の教義である。ユダヤ民族が生み出した宗教では、人間は神(ヤーウェ)が創造したものであると教える。神は偉大であり、人間は神の似像として造られた。それゆえ、人間は尊厳を持つと考えられている。人間は他の生物とは異なる存在であり、地上のすべてを支配すべきものとされる。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●自由の希求

 

#自由の由来

 人権の思想は、近代西欧で、宗教から現れ、自由を求める動きとともに発生し、発達した。人権は、世界人権宣言・国際人権規約等の国際人権文書では、「人権と基本的自由」という対で使用されることが多い。そこで、自由とは何かという問いから、人権に関する基礎理論的な検討を行いたい。

 「自由」という日本語は、英語の liberty freedom、独語の Freiheit、仏語の liberte 等の西欧単語の訳語である。近代西欧において、自由は主要な理念の一つとなっている。自由は、西欧発の人権という観念の核心にあるものである。

西洋文明は古代ギリシャ=ローマ文明を継承したとされるが、自由の由来を振り返ると、古代ギリシャには、今日われわれがいうところの自由に正確に対応する言葉はなかった。古代ギリシャは、奴隷制の社会だった。ポリスは、自由民と奴隷から成り立っていた。その比率は1対4〜5だった。特権的な市民は奴隷ではないという意味で自由だった。自由民は、参政権を含む諸権利を所有していた。彼らが深い関心を持っていたのは、自由の獲得や拡大ではなく、「善い生活」「善い活動」などの善の実践だった。

アリストテレスは、ポリスの生活について「私の領域」と「公の領域」を二分した。20世紀の哲学者ハンナ・アーレントの指摘によると、「私の領域」とは、奴隷所有者が家庭で奴隷を使役してその生産によって生活する領域だった。市民は自ら労働する必要がなく、ポリスの広場(アゴラ)で行われる政治に参加した。それが「公の領域」である。市民は私的な利益のための経済については語らず、ポリスの公共善について議論した。ポリスの政治は身分制秩序の社会における支配集団のものだった。政治参加をしていたのは、各家族の家長であり、女性や奴隷、外国人には参政権がなかった。

19世紀前半フランスの思想家バンジャマン・コンスタンは、『近代人の自由との比較における古代人の自由』において、古代ギリシャのポリスでの政治への参加の自由を「古代人の自由」と呼び、人身の自由、良心・思想・言論の自由、所有の自由、結社の自由等からなる一連の自由を「近代人の自由」と呼んで、これらを峻別した。「近代人の自由」は、法の支配のもとに私的な領域への政治権力の不介入を求めるものであり、この私的な自由が、近代のリベラリズム(自由主義)の枢要をなす。

近代西欧の社会は奴隷制ではなく、封建的な身分から解放された市民が、まず私的な自由を求め、次に政治権力に参加する自由を求めた。その結果、生まれたのがリベラル・デモクラシー(自由民主主義)の社会である。ただし、西欧諸国はアジア・アフリカ等の諸民族を支配し、その一部を奴隷として所有し使役した。この中核部が周辺部を支配・収奪する構造において、上層の西欧社会で自由と権利が拡大された。

 私は、近代西欧における自由の希求は、古代ギリシャの思想よりも、ユダヤ=キリスト教に深く根差すものだと考える。キリスト教の新約聖書では、パウロが書簡の中で自由を意味する語を用いた。パウロが自由の語を使うのは、イエスの使命は人間を罪と死と律法から「解放」することにある、という教義を説く場面である。「解放」という観念は、ユダヤ教の聖典でもある旧約聖書の「出エジプト記」による。モーゼの率いるユダヤ民族は、エジプトにおける強制労働の苦役から神(ヤーウェ)によって救出された。この隷属からの解放の物語は、キリスト教の教義に大きな影響を与えた。キリスト教では、人間は、神に背き原罪を犯して、神から断絶した。だが、神は人間を愛するゆえにひとり子イエスを使わし、その犠牲によって人間の罪があがなわれ、再び神と結び付いた。神にいたる道はただ一つ、イエスによるのみである、と説く。この原罪からの「解放」が、キリスト教の教義の柱の一つとなっている。

 自由を意味する言葉である英語の liberty freedomは、「出エジプト記」の「解放」の観念に関わる。liberty の語源は、ラテン語訳聖書で「解放」を意味する言葉として使われた libertas である。ルターは聖書のドイツ語訳を作る際、「解放」を意味する言葉に frey(現代綴りではfrei)を用いた。frey は英語の free に通じる。英語の freedom と独語の Freiheit は元が同じである。近代英語の元はアングル人・サクソン人が伝えた中世の独語の方言であり、freedom はこちらから来ている。一方、ノルマン・コンクェストでイギリスを征服・支配したノルマン人は、ノルマン・フレンチというフランス語方言を伝えた。そちらからラテン語系の liberty が英語に入った。ともにユダヤ=キリスト教的な「解放」に源を発するものである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 近代西欧では、自由を求める思想・運動が起こり、自由は権利として確立されていった。それには、主に四つの理由があると私は考える。第一にキリスト教の分裂、第二に核家族的な価値観、第三に近代資本主義の発達、第四に圧政への反抗・反発である。

 第一の理由は、キリスト教の分裂である。英語のliberty freedom の語義を述べたところで書いたように、ユダヤ=キリスト教には、隷属からの解放と原罪からの解放という解放のイメージがある。それが、近代西欧における自由のイメージとなっている。自由の希求は、宗教改革において信教の自由を求める運動の中で出現した。

キリスト教の母体であるユダヤ教は、神(ヤーウェ)と契約したユダヤ民族が、選民として救世主による集団的な救済を受けるという民族宗教である。そのユダヤ教の改革者としてイエスが登場し、彼の教えを信じる者は神によって救済されるという脱民族的な宗教を開いた。それがキリスト教である。古代ローマ帝国で国教となったキリスト教は、神の代理人である法王を中心とした教会に所属する信者が、聖職者の秘儀を通じて救済される宗教である。キリスト教は、ローマ帝国の滅亡後、西欧に広く定着した。だが、カトリック教会は大きな富と権力を得たことによって腐敗していった。

 16世紀半ばから17世紀にかけて、教会の権威に反抗するプロテスタントが宗教改革を起こした。ルターやカルヴァンは、聖書に基づき、ただ信仰によってのみ神の救いを求める道を説いた。彼らは、教会の秘儀による救済を否定した。彼らの教えに従う信者は、自己一人で直接、神と対面することになった。ここに個人の信教の自由を求める思想が出現した。

 近代西欧諸国では、専制的な国王や政府によって宗教や信仰を強制されたり、自分の信じる宗教・信仰を奪われたりした。宗教戦争や市民革命を通じて、信教に対する「寛容の原理」としての自由が求められた。そして、宗教的寛容によって、プロテスタンティズムやユダヤ教の信仰が許容されるようになった。イギリスのような国教を持つ国でも、英国国教会以外の宗派・宗教を持つことに干渉されなくなった。

 救霊予定説は、近代西欧的な自由を理解するうえで、重要な教説である。予め選ばれた者と選ばれていない者には、絶対的な不平等が存在する。人間は生まれながらに平等だという思想とは、完全に対立する。また、予定説では、人間の自由意思による行いが将来の救いをもたらす余地がない。予定の観念は、究極の不自由である。この不自由から逃れるには、救霊予定説の否定またはキリスト教そのものの否定しかない。キリスト教によって自由を求めるとき、キリスト教からの自由に至るという逆説がここに生じる。

 第四の理由は、圧政への反抗・反発である。イギリスでは、1215年にマグナ・カルタが発布され、国王の専制に貴族や新興階級が抵抗し、権力の行使を制御する約束を取り付けた。1640年には国王への反発からピューリタン革命が始まった。クロムウェルは、議会の前で国王を斬首刑に処し、共和制を樹立した。王政復古の後、再び国王が王権を乱用し、カトリック化を推進したのに対し、1688年名誉革命が行われ、議会を中心とする立憲君主制が確立した。

 イギリスから北米に移民したピルグリム・ファーザーズは、国王の宗教弾圧に絶望し、新天地を求めたピューリタン(清教徒)だった。18世紀後半、イギリスは植民地への課税を強化した。植民地側は本国政府に反発し、ボストン茶会事件を起こした。これに本国が強硬な姿勢を示したのでアメリカ独立戦争が始まった。1776年独立宣言が公布された。フランスでは絶対王政への反発から思想が急進化した。ジャン・ジャック・ルソーや百科全書派らの思想によって、1789年フランス市民革命が勃発した。イギリス同様、国王が処刑されて君主制が廃止され、共和制が実現した。マクシミリアン・ド・ロベスピエールが登場して独裁が行われ、ギロチンによる処刑や反対派の殺戮が繰り広げられた。英米仏に共通するのは、国王の圧政への反抗・反発から、政治的な自由が求められ、闘争の中で自由が獲得・拡大されたことである。抑圧の強さが、自由への熱望を掻き立てた。

 イギリスでは、国王への請願や市民革命を通じて、リベラリズム(自由主義)とデモクラシー(民衆参政主義)が発達した。リベラリズムは国家権力から権利を守るために権力の介入を規制する思想・運動であり、デモクラシーは民衆が政治に参加する制度またそれを求める思想・運動である。これらがイギリスで融合し、それらが近代西洋文明の政治思想の柱となった。自由とその実現のために政治参加を求めるリベラル・デモクラシー(自由民主主義)が、西洋文明の拡大とともに、世界的に広がった。これのもとは、圧政が生み出したものである。

 近代西欧で、自由を求める思想・運動が起こり、権利として確立されていった主な理由として四つ挙げた。キリスト教の分裂、核家族的な価値観、近代資本主義の発達、圧政への反抗・反発である。これらは、それぞれ文化的、社会的、経済的、政治的の領域における出来事である。これら4点が重なり合ったことが、近代西欧で自由が希求され、権利として発達した条件であると私は考える。近代西洋文明以外の諸文明では、こうした条件を併せ持つ持つことがなかった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#自由が主要な理念に

 近代西欧における人権の観念の核心には自由がある。またその自由が、自由な状態への個人の権利として希求されたところに、近代西欧の特殊性があると私は考える。

 近代西欧的な個人のあり様を哲学的に表現したのは、ルネ・デカルトである。「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」というデカルトの命題は、方法的懐疑の末に到達した原理である。あらゆるものを疑えるが、そのように疑い考える我の存在は疑えない。この考える我の確実性を表す命題である。デカルトのコギトは、西洋の従来宗教の神や共同体の歴史・伝統・慣習から離脱した近代的な個人の自覚となった。デカルトは、この認識のうえに、西欧近代科学の方法を打ち立てた。その方法を要素還元主義という。当時の科学思想は幾何学・機械論・原子論を枠組みとするものだった。デカルトの影響を受けたホッブスは、彼の方法や枠組みを社会に応用し、個人を原子(アトム)的な要素とし、社会をその集合ととらえる社会観を打ち出した。それが社会契約論の理論である。

 ホッブスは、近代西欧で自由の思想を最初に公表した思想家である。ホッブスは、自由とは「運動の外的障害の欠如」であると定義した。自らの意思に従ってなすところを妨げられないことを「自由」と考えた。障害・拘束からの自由である。そして、あらゆることに先んじて「個人の自由」が存在すると発想した。『リヴァイアサン』において、ホッブスは、人間が生まれながらに持つ権利として、「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて各人が持っている自由」を説いた。

 ホッブスに続いてロックは、デカルトのコギトの認識に立ちながらも、個人を社会関係の中でとらえ、ホッブスの社会理論を批判的に発展させた。ロックが説いた自由に関する思想が、今日まで世界に影響を与え続けている。ロックは、『統治二論』で、「自然状態とは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人よりも多く持つ者は一人もいない」と書いた。そして、ロックは、生命・身体・自由の権利を説いた。生命も身体も財産も所有物とし、所有に関する権利を強調した。これは、自由に所有する状態への諸権利と理解できる。

 自由な状態への権利という意味での自由は、英語では複数形で liberties と記される。わが国では、これが権利であることを強調するために、しばしば自由権と訳す。自由権は、自由な状態を維持・獲得する権利である。より積極的に自由に物事を行う権利ともなる。

 ロックにおける人間は、ホッブスと異なり、夫婦の結びつきをもとにした家族的結合を基礎とする社会で、他人とのつながりの中で生活する人間である。そのような人間が、ロックの自然としての人間(human nature)、自然人である。人間はまず自分の生命・身体・自由を所有する。それゆえ、身体を自由に使って労働して得たものは、その人間の所有物である。この論理によって、ロックは私有財産を正当化した。この自由は、所有の自由ということができる。

 ロックは、当時道徳の原理とされた自然法には他人に要求することを自分もまた受け入れ、自分の主張することを他人にも認めるという相互性が基礎にあるとし、その相互性の最も典型的なものが契約であるとした。自然状態における人間は、生命・身体・自由を持ち、自由に契約を結ぶ。このことによってのみ契約が成立する。この自由は、契約の自由ということができる。

 ロックは、これら所有の自由と契約の自由を説いた。この思想こそ、私有財産と市場経済に基づく近代資本主義を理論的に基礎づけた点で、画期的なものである。この思想は、近代西欧法を所有と契約に係る権利と義務の体系として基礎づけた。また、同時に、自由を求める市民に抵抗権を認め、市民革命の理論を提供したりもした。

 イギリスの主要地域は絶対核家族が支配的な社会であり、自由を社会の基本的な価値とする自由主義の価値観を持つ。ホッブスやロックはその社会を背景にして、個人の自由と権利に係る思想を説いた。彼らが生きた17世紀のイギリスで最初の市民革命が起こった。ピューリタン革命・名誉革命は、新興ブルジョワジーを中心とした集団が自由を確保しようとした運動だった。先駆するイギリスに続いて、18世紀後半には、植民地アメリカで自由と独立を求める独立革命が起こり、追尾するフランスで自由・平等・友愛をスローガンとする市民革命が起こった。

 アメリカは、1776年に本国から独立した。初期の北米には、イギリス同様、絶対核家族の移民が多く、自由主義の価値観を共有していた。アメリカ独立宣言は「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の不可譲の天賦の権利を与えられており、その中に生命、自由および幸福の追求のふくまれることを信ずる」と宣言した。ここには、ロックの影響が顕著に表れている。

 フランスでは1789年に市民革命が起こった。フランスは、近代化の先進国イギリスの思想の影響を受け、自由主義的な考え方が発達した。ただし、パリ盆地は平等主義核家族が支配的な地域なので、自由だけでなく自由と平等をともに社会における基本的価値とする思想が展開された。フランス人権宣言は「人間は、自由で、権利において平等な者として出生し、生存する。社会的な差別は、共同の利益のためにのみ設けることができる」と宣言した。ここには、ロックの思想を急進化させたルソーや百科全書派等の思想が反映している。

 ルソーは、『社会契約論』で言う。「人間が社会契約によって喪失するものは、その生来の自由と、彼の心を引き、手の届くものすべてに対する無制限の権利とである。これに対して人間の獲得するものは、社会的自由と、その占有する一切の所有権とである」と。そして、人間本来の自由・平等を回復するためとして独自の理論を説いた。

 ホッブス、ロック、ルソー等が理論的に思考し、英米仏で権利として発達した自由を、哲学的に掘り下げたのが、カントである。今日世界に広がっている人権の思想は、自由を中心に、理性、良心、人格、自己の尊厳、同胞の精神等を説くものとなっているが、そこにはカントの影響があると私は見ている。

 カントは、『人倫の形而上学の基礎づけ』で、「自由こそは、それが普遍的法則に従ってあらゆる他人の自由と調和しうる限りにおいて、この唯一、根源的な、その人間性のゆえに万人誰しもに帰属するところの権利である」と書いている。

 人間の尊厳と個人の人格に関する項目に書いたが、カントは、アメリカ独立戦争やフランス革命を同時代として生きた。西欧近代科学の発達する時代にあって、科学と道徳の両立を図った。宗教の独自性を認め、科学的理性的な認識の範囲と限界を定めつつ、神・霊魂・来世という形而上的なものを志向する人間の人間性を肯定し、理性に従って道徳的な実践を行う自由で自律的な人格を持つ者としての人間の尊厳を説いた。私は、こうしたカントの哲学によって、自由は近代西欧思想の主要な理念の一つとして確立されたと考える。

 カントに続いて、フリードリッヒ・ヘーゲルは、『歴史哲学』で絶対精神の自己展開としての歴史は自由の実現を目的とするとし、「自由はまさに精神の本質である」と説いた。また『法の哲学』で、市民社会は「自由の理念の現実態」である国家へと止揚さるべきことを説いた。ヘーゲルを批判して唯物論的共産主義を唱道したマルクスの盟友フリードリッヒ・エンゲルスは、自由を共産主義革命の目的とした。『反デューリング論』で、建設すべき共産主義社会について、「人間がついに自分自身の社会的結合の主人となり、同時に自然の主人、自分の自身の主人になること――つまり自由になること」「必然の王国から、自由の王国への人類の飛躍である」と書いている。

 その後も、ジェレミー・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、ハーバート・スペンサー、フリードリッヒ・ニーチェ、ヘンリー・シジウィック等、19世紀欧米の思想家は、様々な自由の議論を繰り広げた。また、欧米では、思想的な展開だけでなく、各国で自由を旗印とする政党・団体が活発に活動した。これは、同時期の非西洋社会とは著しく対照的な現象である。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●グロティウス

 

グロティウスは、1625年刊行の『戦争と平和の法』で、自然法を「正しい理性の命令」と定義した。自然法は神の意思に基づくものだが、たとえ神が存在しないと仮定しても妥当するし、その定めは神さえ変えることができない不変なものであると主張した。ルターやカルヴァンは、信仰のあり方について教会の権威に抗議したが、グロティウスは信仰より理性を重視する自然法論を説くことで、教会の権威を相対化したのである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●デカルト

 

 近代西欧的な個人のあり様を哲学的に表現したのは、ルネ・デカルトである。「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」というデカルトの命題は、方法的懐疑の末に到達した原理である。あらゆるものを疑えるが、そのように疑い考える我の存在は疑えない。この考える我の確実性を表す命題である。デカルトのコギトは、西洋の従来宗教の神や共同体の歴史・伝統・慣習から離脱した近代的な個人の自覚となった。デカルトは、この認識のうえに、西欧近代科学の方法を打ち立てた。その方法を要素還元主義という。当時の科学思想は幾何学・機械論・原子論を枠組みとするものだった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

デカルトは、方法的懐疑によって疑い得ぬ確実な真理として、「我思う、ゆえに我あり(cogito ergo sum)」と説いた。そこから神の存在を基礎づけ、外界の存在を証明した。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

デカルトは、神を無限な実体として世界の第1原因とし、それ以外には依存しないものとして、物体と精神という二つの有限実体を立てた。これら「延長のある物体」と「思惟する精神」は相互に独立した実体とする二元論の哲学を樹立した。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

デカルトは、人間の精神の中には生得的な観念があり、理性によって精神自身が観念を演繹して展開することが可能であるとした。これは、プラトンの系統である。デカルトは大陸合理論の祖となり、スピノザ、ライプニッツ、ヴォルフらが続いた。

 これに対比されるのが、ロック。これらは、アリストテレスの系統。ロックはイギリス経験論の祖とされる。バークリー、ヒュームらが続いた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 西欧近代に生まれた個人主義的な人間観は仮構にすぎないと、和辻は説きます。個人主義的な人間観の元祖といえるのは、デカルトです。彼は、すべてのものを疑ったすえに、それを疑っている自己の存在だけは自明であるとし、そこから「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という認識に到達しました。しかし、和辻はデカルトを次のように批判します。

 「この問いの立場は、実践的行為的連関としての世間から離脱し、すべてをただ観照する、という態度を取ることにほかならぬ。従ってそれは直接的に与えられた立場ではなくして人工的抽象的に作り出される立場である。言い換えれば人間関係から己れを切り放すことによって自我を独立させる立場である」。

 すなわち、現実の社会における人間関係から自分を切り離し、ただ世界をながめているだけの自分という、作りものの立場だというのです。

 「疑う我が確実となる前に、他人との間の愛や憎が現実的であり確実であればこそ、世間の煩いがあるのである。言い換えれば観照の立場に先立ってすでに実践的連関の立場がある。デカルトは後者の中から前者を引き出しながら、その根を断ち切ってしまった」。

 和辻はこのように、デカルトの仮構をあばきます。ある面では、常識的な発想による批判です。しかし、西欧近代では、こうした常識的な考え方が、どこかへ行ってしまい、極めて抽象的な人間観に陥ったのです。デカルトの影響を受けたホッブスやロックは、原子(アトム)のようにそれ自体で存在する個人を想定し、そこから出発して社会の成り立ちや国家の由来を考えました。社会契約説がそれです。現代の日本国憲法や人権思想も、基本的にはこうした考えに基づいています。その根本には、デカルトのコギトがあります。彼の影響は20世紀にまでも続き、フッサールやハイデッガーにも、デカルト以来の個人主義の色彩が残っていることを、和辻は見破り、その仮構を暴露しました。

 本来、人間は、決して単なる個人ではありません。人は誰でも自分ひとりで生きているのではありません。親や先祖があるから自分が生まれてきたのです。妻や夫、兄弟や友人、子どもや孫、社会や国家があって、自分はその関係の中にいるのです。この至極当たり前のことを、西欧近代の思想は軽視しています。そこから抽象的で個人主義的な考え方が出ています。しかし、人は、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な間柄の中で生きているのです。これは古今東西変わらない事実です。和辻の言い方によれば、人間とは様々な間柄においてある「間柄的存在」です。こうした生きた関係性において人間を考察することによってこそ、人間の倫理を解き明かすことができると、和辻は主張したのです。(略)

デカルトが考えたような、間柄的存在に先立って存在するという個人を、和辻は否定します。そうしたアトム的(原子的)な個人が契約によって社会をつくったという、ホッブスやロックの社会契約論も否定します。また、国家を個人の利益の擁護を目的とする一つの特殊社会ないし打算社会とする契約的国家論をも斥けます。そのような西洋近代思想は、人間の本質を認識するものではないことを、和辻は明らかにしました。

(「日本的倫理は世界的人倫実現の鍵〜和辻哲郎(1)」より

 

●スピノザ

 

 科学革命の世紀に特異な思想を説き、後世に大きな影響を与えたユダヤ人哲学者がいる。バルーフ・デ・スピノザである。

スピノザは、汎神論的な独創的思想を生み出し、デカルト、ライプニッツとともに、大陸合理論の代表的哲学者となった。その影響はドイツ観念論の発達、無神論唯物論の出現に作用し、現代にまで及んでいる。

 スピノザは、1632年にアムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれた。両親は、ポルトガルのユダヤ人迫害から逃れてオランダへ移住したセファルディムだったスピノザは、ユダヤ人学校でヘブライ語・聖典学を学び、ユダヤ神学を研究した。当時のユダヤ教の教義や信仰に批判的な態度をとったため、スピノザはユダヤ教団から破門され、ユダヤ人共同体から追放された。ラテン語を学び、数学・自然科学・スコラ哲学およびルネサンス以後の新哲学に通じ、とりわけデカルトから決定的な影響を受けた。

 スピノザは、オランダの自由主義の政治思想を支持し、神学の干渉から思想の自由を擁護しようとした。そのために旧約聖書の文献学的批判を行い、1670年に『神学政治論』を出版した。本書は禁書とされ、スピノザは極悪の無神論者とみなされた。

 スピノザの哲学体系は、実体(ウーシア、サブスタンティア)の概念から出発する。実体は、ギリシャ哲学からスコラ哲学で中心的な役割を演じた概念である。変化する諸性質の根底にある持続的な担い手であり、それ自身によって存在するものをいう。デカルトは、方法的懐疑によって疑い得ぬ確実な真理として、「我思う、ゆえに我あり(cogito ergo sum)」と説いた。そこから神の存在を基礎づけ、外界の存在を証明した。神を無限な実体として世界の第1原因とし、それ以外には依存しないものとして、物体と精神という二つの有限実体を立てた。これら「延長のある物体」と「思惟する精神」は相互に独立した実体とする二元論の哲学を樹立した。

これに対し、スピノザは、実体を自己原因ととらえ、無限に多くの属性から成る唯一の実体を神と呼び、神以外には実体はないとした。所産的自然としての個物は、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることができないものとし、すべての事物は神の様態であるとした。そして、神は万物の内在的原因であり、すべての事物は神の必然性によって決定されていると説いた。また、延長と思惟はデカルトの説とは異なり、唯一の実体である神の永遠無限の本質を表現する属性であるとした。延長の側面から見れば自然は身体であり、思惟の側面から見れば自然は精神である。両者の秩序は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとした。

主著『エチカ 幾何学的秩序によって証明された』は、1675年に完成したが、生前は発刊されなかった。副題が示すように、限られた公理および定義から出発し、一元的な汎神論と心身並行論を証明し、それらに基づいて人間の最高の善と幸福を解明する倫理学を展開した。

スピノザの思想の核心は、神即自然 (deus sive natura) の概念にある。彼の哲学は、一種の汎神論であり、また新プラトン主義的な一元論と理解される。人格的な神の観念を否定し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論を提示している。そのため、ユダヤ=キリスト教の側からは無神論者と決めつけられた。だが、むしろ理神論者と見るべきだろう。

理神論(deism)は、キリスト教の神を世界の創造者、合理的な支配者として認めるが、創造された後では、世界は自然法則に従って運動し、神の干渉を必要としないとし、賞罰を与えたり、啓示・奇跡を行ったりするような神の観念には反対する宗教思想である。キリスト教を近代科学と矛盾しないものに改善しようとした試みであり、信仰と理性の調和を目指し、キリスト教を守ろうとしたものである。17世紀前半のイギリスに現れ、18世紀の啓蒙主義の時代に各国に広がった。そうした風潮において、18世紀の後半、ドイツでスピノザの哲学をどう受け入れるかという汎神論論争が起こった。その結果、スピノザ哲学は無神論ではなく汎神論であるという理解が確立された。

スピノザの一元的汎神論や能産的自然の思想は、後の哲学者に強い影響を与えた。スピノザは、自己の個体本質と神との必然的連関を十全に認識するとき、有限な人間は神の無限に預かり、人間精神は完全な能動に達して自由を実現し、そこに最高善が成立すると説いた。その哲学は、フィヒテからヘーゲルに至るドイツ観念論哲学の形成に決定的な役割をはたした。ヘーゲルは、スピノザの唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた。そのヘーゲルの絶対的観念論を打破したところに、マルクスの無神論的な史的唯物論が登場した。

スピノザは、ユダヤ教の側から破門にされ、キリスト教の側からは危険人物視された。だが、その神即自然の思想は、数学・自然科学の知見を踏まえたものなので、ユダヤ=キリスト教の信仰と数理的・科学的な理性との両立を図る科学者には、受け入れやすいものだった。

20世紀最高の天才物理学者でユダヤ人であるアルベルト・アインシュタインは、ニュートンの機械論的世界観の体系を包含する相対性理論を樹立したが、その一方てユダヤ教徒であり、信仰と理性を両立させた世界観を持っていた。彼の神に関する考え方には、スピノザの影響があることが指摘されている。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

 フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらに大きな影響を与えた哲学者に17世紀のバルーフ・スピノザがいる。スピノザは、「延長のある物体」と「思惟する精神」は相互に独立した実体とする物心二元論の哲学を樹立したデカルトに対し、実体を自己原因ととらえ、無限に多くの属性から成る唯一の実体を神と呼び、神以外には実体はないとした。所産的自然としての個物は、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることができないものとし、すべての事物は神の様態であるとした。そして、神は万物の内在的原因であり、すべての事物は神の必然性によって決定されていると説いた。また、延長と思惟はデカルトの説とは異なり、唯一の実体である神の永遠無限の本質を表現する属性であるとした。延長の側面から見れば自然は身体であり、思惟の側面から見れば自然は精神である。両者の秩序は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとした。こうしたスピノザの思想は、一元論的汎神論といわれる。スピノザはユダヤ教の側から破門にされ、キリスト教の側からは危険人物視された。だが、その神即自然の思想はドイツ観念論哲学の形成に決定的な役割をはたした。

(「キリスト教の運命」より)

 

●ホッブス

 

デカルトの影響を受けたホッブスは、彼の方法や枠組みを社会に応用し、個人を原子(アトム)的な要素とし、社会をその集合ととらえる社会観を打ち出した。それが社会契約論の理論である。

 ホッブスは、近代西欧で自由の思想を最初に公表した思想家である。ホッブスは、自由とは「運動の外的障害の欠如」であると定義した。自らの意思に従ってなすところを妨げられないことを「自由」と考えた。障害・拘束からの自由である。そして、あらゆることに先んじて「個人の自由」が存在すると発想した。『リヴァイアサン』において、ホッブスは、人間が生まれながらに持つ権利として、「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて各人が持っている自由」を説いた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#ホッブスとロックにおける権利と権力

 ホッブスは、自然権とは「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて各人が持っている自由」だとした。自由は権利だと言っている。権利は、能力であり、意思であり、また強制力である。ホッブスは、自然状態は戦争状態だと想定した。「全人類の一般的性向」は「次から次へと力を求め、死によってのみ消滅し得るような不断の意欲」である。人間がその意欲によって力を求めて行動し、互いにぶつかり合うとき、「力の合成」が起こる。その結果、合成された力は「人間の力の中で最大のもの」となる。ホッブスは、国家の設立を、こうした物理的な力の合成として説明した。ホッブスの力は物理的な力と表象されているが、その力は意思に基づく能力であり、権力である。それは権利の作用でもある。ホッブスの人間は、生命の自己保存のために、権力を求め続ける者である。また個々人の意思を合成して生まれる国家は、権力の主体である。その権力が主権である。主権は統治権であり、統治の権利であり、また統治の権力である。ニーチェは生命の本質を「力への意志」であるとし、「力への意志」を生の唯一の原理とする闘争の思想を説いたが、その思想は、ホッブスと通じ合う。また、ホッブスは、あらゆる人間関係に「無数の力関係」が存在するとして権力のミクロ分析を行ったフーコーの思想にも通じる。

 ホッブスは、生命の安全のため、絶対的権力への絶対服従を求めた。これに対し、ロックは、生命・自由・財産の所有権の保全のため、人々が政治に参加し、権力を協同的に行使する体制を求めた。ロックは、自然状態は完全に自由で平等な状態だとし、「そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人よりも多く持つ者は一人もいない」とした。ロックは、自然状態において、「権力と支配権」を認めている。「人間は、自分の所有物、すなわち生命・自由・財産を、他人の侵害や攻撃から守るための権力だけでなく、また他人が自然の法を犯したときには、これを裁き、またその犯罪に相当すると信ずるままに罰を加え、犯行の凶悪さからいって死刑が必要だと思われる罪に対しては、死刑さえ処しうるという権力を生来持っている」とロックは言う。ロックは同意によって設立される政治権力の目的を、所有権の調整と保存においた。人々は共同社会に入ることで、自然状態における完全な自由は失う。拘束は受ける。だが、権利は保持する。権力を合成し、合成された権力の行使に参加する。そのようにして生命・自由・財産を共同で防衛する、とロックは考えた。

 権力とは、権利の作用を力の観念でとらえたものととらえると、ホッブスとロックの思想が理解しやすくなるだろう。人権の思想を考察するには、ホッブスとロックの理解が必要であり、権利との関係で権力を把握することが、その近道である。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 人権と呼ばれるようになった権利を最初に提起したのは、ホッブスだった。ホッブスは、イギリスで歴史的に形成された「臣民の権利」とは異なる自然権(natural rights)を主張した。自然権は自然法(the law of nature)という思想に基づくものだった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#自然法論におけるコペルニクス的転回

ホッブスの思想は、自然法論におけるコペルニクス的転回といわれる。

トマスの自然法論には、自然法則(lex naturalis)と自然的正(ius naturale)という二つの領域があった。前者は、神の根本法則である永遠法の人間理性における分有であり、人間の道徳の原理を含む概念である。後者は、事物の本性に基づく正しい状態・事柄である。前者のlexは英語にもある単語でlawと同義、後者のius(ユス)はjusと書かれることもあり、jusiticeの語源である。 これらを区別せずに lexiusも「法」と訳されるため、混同しやすい。「法」と「正しい状態、公正」は、通底する概念だが、区別した上で理解する必要がある。独語・仏語では「法=権利(Recht/droit)」であり、英語では「正当性・正義=権利(right)」である。そこから、「法=正しい状態=公正=正当性=正義=権利」という概念の連続性を読み取ることができる。

トマスにおいて、自然法則は、人間の事物・生物・理性という三相に基づく本性の傾向、すなわち自己保存、種の保存、神の認識と共生の傾向から導かれ、モーゼの十戒に集約される。法的な正義は「共通善」(bonum commune)を基準とした。古代ギリシャでは、プラトン、アリストテレスが公共善を正義としたが、共通善はその公共善を継承したもので、神、教会、共同体への義務が強調された。

だが、自然科学が発達して科学的な世界観が登場し、また宗教改革により個人の意識が発達すると、共通善に替わるものとして、個人の自由と権利が追求されるようになった。自然権は、この個人の自由と権利に係る概念である。その先鞭を切ったのが、ホッブスである。

ホッブスは、著書『リヴァイアサン』(1651年)に、次のように書いている。

「自然法則(a law of naturelex naturalis)とは、理性によって発見された戒律または一般法則である」

「著作者たちが、一般に自然的正(ius naturale)と呼ぶ自然権(the right of nature)とは、各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の欲するままに彼自身の力を用いるという、各人の自由である。したがって、彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段だと思われるあらゆることを行う自由である」。

ここで「自然法則」「自然的正」と訳したlex naturalis ius naturaleは異なる概念である。重要なのは、ホッブスが「自然的正」を「自然権」だとし、「各人の自由」だと主張していることである。ここには飛躍がある。トマスの自然法論における「自然的正」は、「自然法則」に基づく事物の本性に基づく正しい状態・事柄だが、ホッブスは「自然的正」を人間の自由だとする。自由とは自由な状態への権利である。英語で書くとjusticerightに置き換えて、<正しい状態・事柄→正義→権利>と、言葉の中で意味をずらしていって、個人の自由と権利を提起したと考えらえる。

ここに自然法の理解にコペルニクス的転回が起こった。ホッブスは、自然法に基づく自然権によって、人間が契約を結び、国家を設立したと説いた。社会契約論の始めである。その理論は人権論であり、主権論であり、国家論である。

なお、ここで注意すべきは、「自然」という訳語を当てている原語の nature は、東洋的な自ずと生成するものではなく、神が創造した被造物であることである。自然権は、神が被造物に与えた権利である限り、神の存在が前提となる。ホッブスも神による創造を積極的に否定してはいない。しかし、思考からは神を排除し、神の関与の有無にかかわらず、自然法は存在し、自然権は成立するという考え方で、社会契約論を説いているものである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#自由・平等な個人の契約で絶対主義国家が設立
 ピューリタン革命の最中、王党派のホッブスは、国外に逃れたパリで、1651年に『リヴァイアサン』を書いた。本書は近代西欧発の人権論であり、特異な主権論であり、国家論の書である。
 ホッブスは、『リヴァイアサン』で、大意次のように述べる。―――人間はかつて政府や国家がなく、従って法も秩序もない自然状態にあった。人間は自然状態において、生まれながらに自然法によって認められる永久かつ絶対的な権利を持つ。自然状態では、人間は、心身両面において平等であり、自分の生命を守るためには、殺人を含むいかなる手段を用いてもよい。その権利を自然権という。内容は、自己保存の権利である。しかし、人間が自然状態のままにあれば、本来自己保存のために自然権が与えられているのに、自然権を持っているがために、かえってそれを行使することで、「万人の万人に対する闘争」という戦争状態が生じた。「人間が人間に対する狼」となった。これでは、各人の生命そのものが危険にさらされてしまう。そこで人間は、「自己保存のために平和を求めよ」という、人間に内在する理性の声、つまり自然法に従って、自分たちの持つ自然権を放棄し、相互に契約を結び、各人の代表者である主権者を選んで国家(コモンウェルス)を設立した。そして以前は、各自が自然権によって自己保存を図っていた代わりに、主権者が定める法に従って、平和と生命を維持することになった、とホッブスは説いた。
 ホッブスは、人間が自然状態から脱し、国家を設立した際に、自発的な同意による契約を行ったとする。この説を社会契約論という。国家としてのコモンウェルスはcommonwealthであり、「共通善」であり、ホッブスは、設立された国家をリヴァイアサンと名付ける。リヴァイアサンは、旧約聖書に現れる海の怪物である。ここにおける国家は、国家共同体と政府の両義を持つ。怪物としての国家において、政府は頭に当たるだろう。ホッブスは、絶対的な主権者は、一人でも少数者の集団でもよいとする。一人であれば絶対君主であり、複数であれば独裁的な支配集団となる。
 人間は生まれながらに平等の権利を持つという発想は、封建的身分制の特権と異なる新しい考え方だった。またホッブスは、国家の設立は自由で平等な人々の同意によって行われると主張した。ホッブスは、人権とともに、近代西欧で自由の思想を最初に公表した思想家でもある。ホッブスは、人間を幾何学的な空間を運動する原子のような存在とらえ、自由を「運動の外的障害の欠如」と定義した。自らの意思に従ってなすところを妨げられない状態をいう。障害・拘束からの自由である。そして、あらゆることに先んじて個人の自由が存在すると発想した。
 ホッブスは、自然権とは「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて各人が持っている自由」だとした。またそれは「彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段だと思われるあらゆることを行う自由」だとした。ここで自由とは、自由に物事を行う権利である。自由権である。ホッブスは、殺人を含む自由権の行使のために戦争状態が生じ、それを逃れるために人々は主権者に権利を譲渡すると考えた。この論理は、近代主権国家の成立の過程で、国王に権力が集中し、国王が領域における実力を独占するようになった過程を、歴史を無視し、思弁的に考察したものと言えよう。
 ホッブスの説は絶対王政を擁護するものである。自滅に向かう戦争状態より、絶対的主権者の統治による平和を求める思想である。絶対的な権力で生命の安全は得られるかもしれないが、権利を主権者に譲渡するのだから、自由の獲得にはならない。生命は守られるが、自由は失う。そして、自己保存のために他人を殺す自由権を失うとともに、人間が生まれながらに平等に持つ自由と権利を失うのである。
 ホッブスの自然状態は戦争状態である。ホッブスによると、自然状態では正義も不正義も存在しない。正義は法が定められ、共通の権力が発生した後に発生する。社会契約は、公共善の概念に代わって、国家を設立し、正義を実現するためのものである。人間が理性を働かせて戦争状態を終わらせるために定めた自然法の一つが正義の法であり、正義の法は契約を守ることを求めるものである。契約に反することは不正義であり、契約を守らせるように強制する権力は正義の権力である。絶対王政を擁護するホッブスの理論においては、主権者に対するあらゆる反逆は不正義とされる。
 ホッブスは、主権国家における支配と服従を正当化するために、人権と自由を持ち出した。ホッブスの人権と自由の理論が帰結するのは、主権者への絶対服従である。契約を結んだ人々が契約に違反するのは、平和な社会を再び戦争状態に戻す自然法に反する行為だから、主権者の法には絶対服従せよ、と説く。一方、主権者には、軍事権・立法権を基礎とする絶対的権力を与え、処罰という恐怖によって、人々に契約を守らせよ、と主張する。ホッブスの自然権は国家形成以前の権利であり、社会契約によって国家形成後の権利に転じる。また個人は権利を譲渡して国家権力に委ねよ、という主張は、絶対王政の国家における権利と権力の関係の理論化を試みたものといえる。
 実に奇怪な理論である。キリスト教徒同士が殺し合ったドイツ30年戦争や、信教の自由をめぐり人民が国王を斬首したピューリタン革命という悲惨な状況に西欧があった時代に、ホッブスはこうした奇怪な理論を説いた。この理論は、戦争と内戦という修羅場のような状況から生まれたものだったのである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#ホッブスの社会契約論は科学思想の応用だった
 ホッブスの理論は、彼の世界観・人間観に基づいている。17世紀の西欧では、F・ベーコン、デカルト、ボイル、グロティウスなど新たな理論を発表する思想家が多く出たが、ホッブスは特異である。当時、ホッブスほど、キリスト教的な神を思考から排除した思想家はいない。古代ギリシャにはデモクリトスのような唯物論者がいた。ホッブスはその後継者のように突如、キリスト教文化圏に出現した唯物論者である。
 ホッブスの社会観・国家観は、当時の科学思想を社会・国家に応用したものである。デカルトと親交のあったホッブスは、思考方法を彼に学んでいる。ホッブスは、国家を一つの巨大な「人工的人間」として考察し、それがどういう要素をどのように組み立てて出来上がるか、思考実験によって構成した。デカルトは『情念論』(1649年)で、「生きている人間の身体」を自動機械にたとえ、それをあくまでも機構としてとらえるべきことを説いた。ホッブスが『リヴァイアサン』の序説に書いている思考方法は、ほとんどデカルトの方法をなぞったものである。ホッブスはまたデカルトの影響で機械論的自然観を抱き、原子(アトム)的個人を要素とする社会観を描いた。原子(アトム)とは、それ自体で存在する最小の単位である。原子的とは、互いに独立した個人が、運動する原子のように、力を以てぶつかり合う状態である。個人について、親子・夫婦・祖孫等の家族的血縁的なつながり、集団における生命の共有と共同性は、考慮されていない。
 ホッブスに多大な影響を与えたデカルトは、近代哲学の祖である。デカルトは、中世の神学や薔薇十字団の神秘思想等を経て、数学・自然科学を志した。そして方法的な懐疑を通じて、「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」を哲学の第一原理とした。そこから明晰判断を真理の基準とする物心二元論を打ち出した。物心二元論は、思惟を属性とする精神と、延長を属性とする物体とを峻別する。デカルトは精神・物質をともに実体すなわちそれ自身によって存在するものとした。これによって、機械論的自然観の基礎を築いた。またデカルトは、精神の中に生得的な観念があり、理性によって精神自身が観念を演繹して展開することが可能であるとした。その生得的な観念の一つが神であり、デカルトはコギト(思考する我)の根拠として神の存在は自明のものとした。
 デカルトは、大陸合理論の祖でもある。合理論(rationalism)は、合理主義、理性主義とも訳す。すべての確実な知識は生得的で明証的な原理に由来すると説く立場である。ホッブスは、デカルトの形而上学的な部分については、異を唱えた。キリスト教的な神を思考から排除するホッブスは、人間の観念は生得的ではなく、感覚から経験的に生じるとした。この点で、ホッブスは、イギリス経験論の先駆者とも言える。経験論(empiricism)は経験主義とも訳す。その祖はロックとされる。ロックはデカルトと同じく神の存在を肯定しているので、ホッブスの唯物論は当時において際立っている。
 さて、ホッブスによると、物体は実在し、物体と感覚の衝突によって、行動への意思が生じ、意思を実現するための力が求められる。「全人類の一般的性向」は「次から次へと力を求め、死によってのみ消滅し得るような不断の意欲」である。人間がその意欲によって力を求めて行動し、互いにぶつかり合うとき、「力の合成」が起こる。その結果、合成された力は「人間の力の中で最大のもの」となる。ホッブスは、国家の設立を、こうした物理的な力の合成として説明する。
 ホッブスの力は物理的な力と表象されているが、その力は意思に基づく能力であり、権力である。ホッブスの人間は、生命の自己保存のために、権力を求め続ける者である。また個々人の意思を合成して生まれる国家は、権力の主体である。その権力が主権である。ニーチェは生命の本質を「力への意志」であるとし、「力への意志」を生の唯一の原理とする闘争の思想を説いたが、その思想は、ホッブスは通じ合う。また、あらゆる人間関係に「無数の力関係」が存在するとして権力のミクロ分析を行ったフーコーにも、ホッブスは通じる。
 ホッブスは、フランシス・ベーコンの思想の影響も受けている。ホッブスはベーコンの弟子であり、秘書として彼に仕えた。そして、ベーコンを継承し、科学による新しい国家(コモンウェルス)の構築を図った。ベーコンは、「知は力なり」との言葉通り、科学と科学者が王座を占め、科学によって得られた正しい知識によって統治が行われる「ニュー・アトランティス」という文明を構想した。現実の不合理を超える合理的な社会秩序があると考えるベーコンは、人間の理性に無限の信頼を置き、自然と社会の科学が社会を支配すれば、幸福な社会が実現すると考えた。ホッブスの『リヴァイアサン』は、「ニュー・アトランティス」を実現しようとしたものだった。原子的な個人による「力の合成」で設立された国家が、科学によって社会を発展させるという構想である。
 ホッブスは、イギリスの政治的伝統や価値観を否定する。彼の社会契約論は、解析幾何学的な方法で国家を設計するもので、ホッブスは自然科学的思考を国家建設に応用した設計技師と言えよう。ハイエクは、頭の中で考えた理論で社会制度を設計し、それをもって社会を改造しようとする思想を設計主義と呼び、デカルトに始まる設計主義は「合理主義の思い上がり」であり、人間の驕りだとして厳しく批判した。人間は完全な知識を持ち得ないのであり、社会の慣習や伝統を大切にしてこそ、個人の自由が守られる、と説いた。ホッブスは、ベーコンとデカルトを合体することにより、デカルトとサン・シモンを結んだ。私は、そこから百科全書派、マルクス、レーニン、スターリン、ヒトラーという系譜が続くと考える。
 人権概念を最初に提起したホッブスは、人権とともに主権・国家を論じた。その思想は、リベラル・デモクラシーとは正反対の独裁、統制主義を裏付けるものだった。この点、ロックは、ホッブスの社会契約論を継承しながら、個人を家族的な結合による社会関係の中でとらえ、ホッブスとは異なる理論を展開した。次にそのロックの思想を見てみよう。

(「人権――その起源と目標」より)

 

人権の思想は、近代西欧における個人の自由と権利を確保・拡大する運動の中で発達したものである。人権の思想の発達過程で重要なのは、中世西欧の自然法の概念が変化せられ、その中から自然権の思想が現れたことである。人権とは、人間の自然権を人権と呼ぶようになったものである。この自然法から自然権への転換を最初に進めたのが、ホッブスである。トマス・アクィナスは、自然法論において、「自然法則」に基づく事物の本性に基づく正しい状態・事柄を「自然的正」と呼んだ。ホッブスはこの「自然的正」を「自然権」だとし、「各人の自由」だと主張した。ここに個人と自由と権利が自然権として主張されることになった。
 ホッブスは、アトム的な個人を要素とする社会契約説を唱え、人々は自分自身の利益のために社会を形成すると考えた。ホッブス及びその後の社会契約説については
第2部に詳しく書いたが、プラトン、アリストテレス、トマスの公共善に代わる新たな思想を、ホッブスは説いた。ホッブスの自然状態は戦争状態である。ホッブスによると、自然状態では正義も不正義も存在しない。正義は法が定められ、共通の権力が発生した後に発生する。社会契約は、共同体的な公共善の概念に代わって、国家を設立し、正義を実現するためのものである。人間が理性を働かせて戦争状態を終わらせるために定めた自然法の一つが正義の法であり、正義の法は契約を守ることを求めるものである。契約に反することは不正義であり、契約を守らせるように強制する権力は正義の権力である。絶対王政を擁護するホッブスの理論においては、主権者に対するあらゆる反逆は不正義とされる。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●ロック

 

 ロックは、デカルトのコギトの認識に立ちながらも、個人を社会関係の中でとらえ、ホッブスの社会理論を批判的に発展させた。ロックが説いた自由に関する思想が、今日まで世界に影響を与え続けている。ロックは、『統治二論』で、「自然状態とは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人よりも多く持つ者は一人もいない」と書いた。そして、ロックは、生命・身体・自由の権利を説いた。生命も身体も財産も所有物とし、所有に関する権利を強調した。これは、自由に所有する状態への諸権利と理解できる。

 自由な状態への権利という意味での自由は、英語では複数形で liberties と記される。わが国では、これが権利であることを強調するために、しばしば自由権と訳す。自由権は、自由な状態を維持・獲得する権利である。より積極的に自由に物事を行う権利ともなる。

 ロックにおける人間は、ホッブスと異なり、夫婦の結びつきをもとにした家族的結合を基礎とする社会で、他人とのつながりの中で生活する人間である。そのような人間が、ロックの自然としての人間(human nature)、自然人である。人間はまず自分の生命・身体・自由を所有する。それゆえ、身体を自由に使って労働して得たものは、その人間の所有物である。この論理によって、ロックは私有財産を正当化した。この自由は、所有の自由ということができる。

 ロックは、当時道徳の原理とされた自然法には他人に要求することを自分もまた受け入れ、自分の主張することを他人にも認めるという相互性が基礎にあるとし、その相互性の最も典型的なものが契約であるとした。自然状態における人間は、生命・身体・自由を持ち、自由に契約を結ぶ。このことによってのみ契約が成立する。この自由は、契約の自由ということができる。

 ロックは、これら所有の自由と契約の自由を説いた。この思想こそ、私有財産と市場経済に基づく近代資本主義を理論的に基礎づけた点で、画期的なものである。この思想は、近代西欧法を所有と契約に係る権利と義務の体系として基礎づけた。また、同時に、自由を求める市民に抵抗権を認め、市民革命の理論を提供したりもした。

(「人権――その起源と目標」より)

 

ロックは、近代科学の知見に基づいて、生得観念を否定した。すべての観念、すべての知識は経験、すなわち感覚と内省に由来する。客観的な物体は不可知体であると説いた。これは、アリストテレスの系統である。こうした認識論の立場によって、ロックはイギリス経験論の祖とされる。バークリー、ヒュームらが続いた。

 これと対比されるのが、デカルト。こちらはプラトンの系統。デカルトは大陸合理論の祖となり、スピノザ、ライプニッツ、ヴォルフらが続いた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 ホッブスの社会理論を批判的に発展させたのが、ジョン・ロックである。ロックはホッブスを受け、自然状態や社会契約について独自の考察を行った。ホッブスの自然権の思想を発展させ、今日の人権思想の最大の源となっている。ロックが説いた自由と権利、権力と国家に関する思想は、21世紀に至るまで世界に広く影響を与え続けている。
 ロックは、ジェントリでプロテスタントの家庭に生まれた。この出自は、ロックの思想形成の基盤となった。ロックは議会制デモクラシーの理論を説き、近代西欧の政治思想を発達させた。労働による所有を権利として打ち立て、私有財産を肯定し、近代資本主義を基礎づけた。キリスト教の諸宗派だけでなく、異教も含む信教の自由を唱え、その実現を図った。ロックの政治・社会・経済・宗教等にわたる思想には、17世紀イギリスの新興階級の意識やプロテスタントの価値観が反映しているところがある。
 ロックは哲学者で政治理論家として知られるが、職業は医者だった。医学を通して観察と実験という近代西欧科学の実証的方法を習得していた。当時の科学思想に通じ、イギリス王立協会の会員ともなった。デカルトを読んで中世キリスト教神学のスコラ的な思弁から脱却した。ボイルの実験に参加し、粒子物理学に関心を持った。ガッサンディの原子論的感覚論にも興味を示した。機械論的自然観を構築したニュートンとも親交を結んだ。ロックの思想は、こうした医学と科学の知見が反映している点もある。
 ロックの思想は、独自の認識論、人間観、世界観に基づくものである。中世西欧では、キリスト教的プラトニズムが支配的だった。プラトンは、世界をイデア界と現象界に分けた。現象界の事物はイデア(観念)を原型・模範とする似像・模像だと説いた。イデアは超感覚的で永遠不変の真実在であり、道徳、存在、自然等の統一的で超越的な原理だった。プラトンは、魂はかつて天上界にあったが、地上の世界に追放されて、肉体に閉じ込められているとし、真の認識とは魂の解放のために、天上界で見たイデアを「想起」することだとした。キリスト教神学は、プラトンのイデア説を取り込んで、人間の認識は生まれながらに備わる観念に基づくという説を教義とした。
 アリストテレスは、プラトンの弟子だが、認識は感性的経験に基づくという立場を取った。アリストテレスは、師のイデア論を継承しながらも、イデアが個物とは別に実在するという考えを批判した。エイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱し、形相が質料と不可分に結合した個物が基本的実在であるとした。以後の西洋思想史は、プラトンとアリストテレスを二極として展開した。何らかの意味でイデアが真の実在だとする思想を、観念主義または観念論(idealism)といい、イデアを否定し、ヒュレーはそれ自体で存在するという思想を、質料主義または唯物論(materialism)という。先に触れたデカルトは前者、ホッブスは後者になる。
 デカルトは、人間の精神の中には生得的な観念があり、理性によって精神自身が観念を演繹して展開することが可能であるとした。これは、プラトンの系統である。デカルトは大陸合理論の祖となり、スピノザ、ライプニッツ、ヴォルフらが続いた。これに対し、ロックは、近代科学の知見に基づいて、生得観念を否定した。すべての観念、すべての知識は経験、すなわち感覚と内省に由来する。客観的な物体は不可知体であると説いた。これは、アリストテレスの系統である。こうした認識論の立場によって、ロックはイギリス経験論の祖とされる。バークリー、ヒュームらが続いた。
 ロックによれば、感覚によるものでも内省によるものでも、すべての観念には快楽と苦痛が伴う。人間は、快楽を追及し、苦痛を回避しつつ自己保存を図る。このような人間観によって、ロックは功利主義の祖とされることがある。しかし、ロックの世界観においては、人間の行動を規制するものとして、自然法が厳然と存在する。ロックの自然法は、神の意思に基づく秩序の原理であり、神が人間に与えた理性(reason)の法である。自然法は人間が生まれ持つ能力を正しく行使することによって認識できる。こういう認識論、人間観、世界観に基づいて、ロックは自由と権利、権力と国家を論じた。この点から見て、ロックを功利主義の祖とは言えない。
 ロックは、ホッブスの思想を批判的に継承したが、ホッブスとは正反対に、絶対王政に対して批判的だった。そのためオランダに亡命していた時に、イギリスで名誉革命が始まった。革命派に請われてオレンジ公ウィレムが渡英する際、イギリスに帰国した。彼がオランダで書いた『統治二論』は、1690年に出版され、時代を代表とする書となった。
 ロックは、社会契約論によって人民に抵抗権・革命権があると主張し、名誉革命における議会による国王の交代を正当化した。君主制の下での議会制デモクラシーを目指し、専制君主の権力を制限して、民衆が政治権力に参加し、君民共治の体制を確立する理論を樹立した。ロックは、政治的にはトーリー党(王権擁護派)と対立するホイッグ党(王権制限派)だった。
 『統治二論』の眼目は、「人間は生まれながらにして完全な自由をもつ。人間はすべて平等であり、他の誰からも制約を受けることはない」という主張である。普遍的・生得的な人間の権利としての人権の思想である。ここに表れているのは、自然法に基づく自然権の思想である。自然法の思想を抜きに、ロックの自由と権利、権力と国家の理論は成り立たない。自然法はキリスト教の世界観に基づくものであり、キリスト教及び自然法という前提を外して、いわゆる人権の理論は成り立たないと私は考える者である。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#自然状態から国家へという理論
 これからホッブスとの比較に重点を置きながら、ロックの思想を概観したい。
 ホッブスは、デカルトのコギトの自己認識に立って、原子的な個人を要素として社会を考察した。自然状態は、他の人々と関わりなしに存在する孤立した個人が自己保存のために争い合い、「万人の万人に対する闘争」が行われている戦争状態と考えた。
 ロックもコギトの認識に立つが、ホッブスと異なり、人間の本性は社会的であるととらえた。そして個人を社会的なつながりを持つものととらえた。そして、社会関係における個人の自由と権利を確保・拡大することを目指した。ロックは、社会の基礎を家族に見た。「男女の結合の目的は、単なる生殖にあるのではなく。種の存続にもある」「夫婦社会は、男と女との間の自発的な契約によってつくられる」とし、「最初の社会は夫と妻の間に存在し、これが両親と子供たちとの間の社会の端緒となり、やがてこれに、主人と召使いとの間の社会が加わるに至った」と説いた。こうした夫婦・親子・主従による家族がもとになった集団を考えるロックは、自然状態を家族的結合による平和な状態と考えた。
 ロックは、人間は生まれながらにして自由・平等であり、他者から制約を受けることはないと説いたが、この点はホッブスの主張を継承したものである。ホッブスは、自然法に基づいて、人間には生まれながらに自然権があるとする。ロックも同様だが、自然法と人間に対する考え方は、ホッブスと大きく違う。
 ホッブスは、自然法から自然権という権利のみを取り出し、制約のない自由を強調し、いかなる道徳的な拘束も存在しないとした。ホッブスの自然状態における人間は、主に自己保存の本能で行動し、生命維持のため殺人を含むあらゆることを行う。自然法による秩序というより、無法状態がホッブスの自然状態の結末である。これに対し、ロックは自然状態における自然法の存在を強調する。ロックの自然状態では、各自が自然権として生命・自由・財産の所有権を持つ。人々は自然法の道徳原理である理性に従って行動する。理性は他人の所有権を侵害すべきでないことを教え、人々はこれに従う。互いに自由・平等で独立して生活し、他人の生命・自由・財産を損ねることがない。これは、ホッブスの戦争状態とは正反対の平和な状態である。
 人権の観念の核心には、自由がある。ホッブスは、自由を「運動の外的障害の欠如」と定義した。自らの意思に従ってなすところを妨げられない状態であり、障害・拘束からの自由である。ホッブスは、自然権とは「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて各人が持っている自由」だとした。またそれは「彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段だと思われるあらゆることを行う自由」だと説いた。そして、殺人を含む自由権の行使のために戦争状態が生じるとした。
 これに対し、ロックは、自然法には、他人に要求することを自分もまた受け入れ、自分の主張することを他人にも認めるという相互性が基礎にあるとし、自由を自他の相互性においてとらえた。ロックは言う。「自然状態とは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人よりも多く持つ者は一人もいない」「人々が理性に従って一緒に生活し、しかも彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者を地上に持たない状態、これこそまさしく自然の状態である」と。
 ここで注目したいのは、ロックが自然状態における「権力と支配権」を認めていることである。ロックは、権利だけでなく同時に権力について論じている。「権力と支配権」といっても、社会に権力による支配が既にあるのではない。自由で平等な個人がそれぞれ権力を持ち、所有物に対する支配権や裁判権・制裁権を持ち、自他の権利関係・権力関係が均衡的になっている。そこにもし「彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者」が現れるならば、その優越者は、法を司る権力者・支配者となるというわけである。
 こうした自然状態に変化が起き、国家が形成された。ここで「国家」と訳した原語は、commonwealth である。Statenationではない。ロックの『統治二論』は、第10章「コモンウェルスの諸形態について」、第12章「コモンウェルスの立法権・行政権及び連合権について」、第13章「コモンウェルスの諸権力の従属関係について」と題している。これらにおけるコモンウェルスを「国家」と訳しているものである。市民社会(civil society)、政治社会(political society)も同義である。
 ホッブスもロックも、人間は自由で平等な権利を持つとし、自由で平等な権利を持つ人々が自発的な同意によって契約を結んで、国家(コモンウェルス)を作ったと考えた。ホッブスは、人々は自己保存のために殺し合いをするようになり、生命を守るために、権利を一人に委譲することで国家を設立したとする。一方、ロックは、生命・自由・財産の所有権を相互防衛するために、共同で権力を行使するために国家を作ったと説いた。
 ホッブスは人間の個人性、権利と権力の闘争性・侵略性に注目し、ロックは人間の社会性、権利と権力の協同性・防衛性に重点を置く理論を構成した。ただし、ホッブスは絶対的主権者への絶対服従を説いたのに対し、ロックは政府が約束に反して権利を侵害するときは、人民には抵抗する権利があるとする。反乱し、革命を起こす権利もあるとした。
 ホッブスの自然状態は戦争状態だが、ロックの自然状態は平和な状態である。ロックは自然状態では、すべての人が自然法を執行する権利を持ち、自然法に違反する者を処罰する権利を持つとし、国家ができる前から、正義の原理が存在する。社会契約が行われるのは、自然状態の正義が失われ、不正な状態になったのを解消するためとされる。しかし、絶対王政は社会契約を締結した人民に対して不正義の体制である。ホッブスは社会契約論で絶対王政を擁護したが、ロックは社会契約論で市民革命を正当化した。
 現実のイギリスはノルマン・コンクェストによる征服国家であって、自発的同意による社会契約で政府を作った国家などでは全くない。私の見るところ、ロックは教養人としてそのことは分かっていながら、社会契約の理論を創作し、あるべき国家を説くことで市民革命を推進したのである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#所有権の強調と労働による生産物の私有
 ホッブスは、生命の自己保存を強調する一方で、生命維持のために必要な物資の所有権を、あまり考慮していない。ホッブスにおいては、所有権は契約によって設立された国家の絶対的権力者の決定に委ねられている。生命の安全と引き換えに、権利を移譲しているからである。絶対君主が人民から富を収奪し、重税を課しても、絶対服従すべきということになる。これに対してロックは、所有権を自然法に基づく自然権として強調し、これを擁護する。
 ロックは、人々は、歴史的・社会的に形成された貴族・庶民の「古来の自由と権利」ではなく、自然権として、諸個人が各自に固有な所有権(property)を持つとする。生命(life)、自由(liberty)、財産(possessions, estate)が、一体として所有物(property)とされる。生命・自由も固有(proper)の所有物とし、所有に関する権利を強調した。英語は have 動詞が多用される言語であり、事物も経験も観念も have(持つ)で表すが、ロックほど have (所有)を中心に思考した思想家はいない。ロックの生命・自由・財産は、後に近代法の権利義務体系において、それぞれ人身の自由または身体の自由、精神的自由、経済的自由として位置付けられることになった。自由な状態への権利または自由に行動する権利である。
 「神はこの世界を人間に共有物として与えたもうた」とロックは言う。神は「人間の利益」となるよう、また「衣食住の便」を最大限に引き出すことができるよう、世界を与えた。では、神が共有物として与えたものを、どうして各人は所有物とするようになったのか。ロックは、「神は土地の開墾を命じることによって、その限りでそれを占有する権限を与えた」という。人々が労働をして土地を開墾することで、私有財産がもたらされた。ロックは、労働によって得られたものは、固有の所有物である身体を動かして得たものゆえ、その人の所有物であるとして、ロックは私有財産を正当化した。この理論は、私有制に基づく資本主義を権利論で基礎づけるものだった。
 ホッブスは、自己保存に必要な自然資源を有限と考え、限定された資源をめぐる争いは必至とした。ホッブスは希少性の世界を想定した。これに対し、ロックは、労働によって生活のための資源を増加できると考えた。労働で生活資源が増え、各人の所有物も増えていくから、ロックの自然状態は、豊かで平和な社会である。

(「人権――その起源と目標」より)

#自然法からの逸脱の原因
 もしロックの自然状態が、人々がみな理性に従って生き、互いの権利を侵害しない平和な状態であれば、争いは生じ得ない。そのため、どこまでも平和な状態で、豊かに、安全に発展していくはずである。だが、ロックは、その自然状態に争いが起こるようになったという。いわば自然法からの逸脱が起こったとするのである。
 ロックによると、自然法は、理性によってのみ認識できる法であり、理性を失っている者、無知な者には見えない。自然状態においては、所有権の享受は「はなはだ不確実であり、絶えず他の者の侵害にさらされている」とロックはいう。自然状態の人間はいつも理性の人であるとは限らず、自然法から逸脱し、これに背いた振る舞いをする。人々のうち勤勉でも理性的でもない人間は、労働を怠り、財産を持たない。人をうらやみ、人のものを奪おうとする。そのため、財産をめぐる争いが起こり、殺し合いにもなる。それによって、自然状態の平和は破れたという見方である。
 ホッブスは、自己保存のための殺し合いを想定したのに対し、ロックは財産をめぐる争いを想定した。平和を取り戻すため、人々は自発的な同意による契約で国家を設立したという部分は、ホッブスとロックの論理は同じである。
 ホッブスにおいては、人々は権利を主権者に譲渡し、生命の安全を確保する。政治権力は、生命の安全を維持するのが、役割である。これに対し、ロックにおいては、盗みや殺人に対して、裁きと処罰を行うものとして、政治権力が求められる。「人間は、自分の所有物、すなわち生命・自由・財産を、他人の侵害や攻撃から守るための権力だけでなく、また他人が自然の法を犯したときには、これを裁き、またその犯罪に相当すると信ずるままに罰を加え、犯行の凶悪さからいって死刑が必要だと思われる罪に対しては、死刑さえ処しうるという権力を生来持っている」とロックは言う。各人の権利を確実に保障するために、財産争いの状態から脱し、自然法を協同で執行する権力を形成する。それによって、政治社会が成立する。自然状態から政治社会への移行が起こるとロックは考えた。ここにおける権力は、主に司法的な権力である。自然法に基づいて裁判・処罰を行う権力である。
 ロックは説く。「すべての人が自然の法の執行権を放棄してそれを公共の手に委ねる」ことで政治社会あるいは国家が成立する。「人々は、すべての争いを裁定する権威と、国家のどの成員に加えられる危害をも救済する権威とを備えた裁判官を地上に打ち立て、自然の状態から国家の状態に入るのである。その裁判官とは、立法部またはそれによって任命された行政者なのである」と。
 ホッブスは、生命の安全のため、絶対的権力への絶対服従を求めるが、ロックは、生命・自由財産の所有権の保全のため、人々が政治に参加し、権力を協同的に行使する体制を求める。ロックにおいては、議会制デモクラシーは、自然法から逸脱してしまった状態を是正する制度であり、逸脱の是正によって自由と権力の保障を実現し得る機構なのである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#所有・契約の自由による資本主義の基礎づけ
 ロックは、資本主義を理論的に基礎づけた。それは、所有と自由と契約の自由の確立を通してである。ロックは生命も自由も財産も所有物とし、所有に関する権利を自然権であると主張した。身体を使って労働して得たものは、その人間の所有物である。私有財産は、神の意思による道徳の原理である自然法に沿って守られねばならない。この論理によって、ロックは私有財産を正当化した。これは、所有の自由の主張である。
 ロックは、自然法には、他人に要求することを自分もまた受け入れ、自分の主張することを他人にも認めるという相互性が基礎にあるとし、その相互性の最も典型的なものが契約であるとした。自然状態における人間は、生命・自由・財産を所有し、自らの意思で契約を結ぶ。これは契約の自由の主張である。
 ロックは、これら所有の自由と契約の自由を説いた。自由とは、自由な状態への権利であり、自由に物事を行う権利である。この権利の思想こそ、私有財産と市場経済に基づく近代資本主義を理論的に基礎づけるものだった。資本主義では、市場の普遍性が必要である。市場の普遍性とは、あらゆるものの所有権が確立しており、双方の合意によって売買契約を結ぶことのできる市場が存在することである。市場の普遍性は、所有と契約の自由の保障によってのみ成立する。
 ロックは、自然権として所有権を打ち出すことで、貨幣経済の発達した近代社会における所有権を正当化した。資本主義的所有権の特徴は、絶対的であることである。絶対的とは、所有者が身分や帰属に関係なく、所有物を自由に処分できることである。所有の自由である。この自由によってあらゆるものが商品化される。生産物だけでなく、土地や労働力までもが所有物として商品と化し、貨幣と交換される。所有物が商品化される社会で、もう一つ必要なのが、契約の自由である。ロックは、人間は生まれながらに自由で平等だとし、人民は契約によって国家を形成したとする。そうした論理で、人々は自由に契約を結ぶことができるとした。この契約の自由によって、所有物の交換がなされる。契約は双方を拘束し、権利と義務が発生する。それによって資本主義的な市場経済が成り立つ。ロックの所有と契約の理論は、資本主義が依って立つ近代西欧法を、所有と契約の自由に基づく権利と義務の体系として発展させることになった。
 ところで、所有の自由と契約の自由の背景には、キリスト教の文化がある。所有の自由は、神の被造物への絶対的権限が、人の所有物への権限へと変換されたものである。所有者は所有物を自由に処分できる。所有する土地の利用は、自然の改造を是認するものでもある。また契約の自由は、神と人との契約が人と人との契約に変換されたものである。神との契約は絶対的な拘束である。背反は罪であり、罰を受ける。人と人との契約も、絶対的な拘束として権利と義務の関係を結び、違反すれば処罰される。

(「人権――その起源と目標」より)

#抵抗権・革命権の肯定とデモクラシーの発達
 次に、政治理論に話を進めると、17世紀のイギリスでは、ロックに先んじてジェームズ・ハリントンが、国王・上院・下院からなる議会に主権があるという議会主権の理論を説いた。ロックは、これを社会契約論を用いて発展させ、国王の行政権を抑制する議会の機能を強化しようとした。特に下院(庶民院)における新興階級の政治活動を有利にしようとしたものだろう。
 ロックは、民主的な「法の支配」を実現する保障として、立法権を最高の権力とするとともに、立法部と行政部の権力分立を説いた。立法部としての議会と行政部としての政府に権力を分立し、国王に対する議会の優位を確保しようとした。
 同時にロックは、「民衆の信頼に反するような法律や政令を発見した場合は、民衆にはその法律を改廃させる優越的権利が依然としてある」として、人民の抵抗権・革命権を主張した。
 ロックは、政府を人民の自発的な同意によって設立された政府とするので、統治者が彼に信託された権力を濫用する時には、国民は法の枠内で抵抗することができるとする。人間が政治社会を結成した目的を全面的に破壊するほど専制支配が極度に進んだときは、反乱を起こしてもよいとした。ロックは、さらに、革命を起こすことも是認した。「彼らが決起して、最初、統治が樹立された時のその目的を、自分たちのために確保してくれそうな人々の手に支配権を移そうとするのは、別に不思議なことではないのである」とロックは述べている。こうしてロックの理論は、名誉革命における議会による国王の交代を正当化した。この抵抗権・革命権の肯定が、近代西欧の市民革命の理論的根拠となった。
 16世紀フランスで、カルヴァン派プロテスタントのユグノーは、暴君放伐論を唱えた。神の法に従わない君主に従う義務はなく、暴君は追放すべきだという主張である。この主張は、ロックの抵抗権・革命権の思想の先駆であり、ロックに影響を与えた。
 ロックの抵抗権・革命権は、政府が人民の自発的な同意によって契約によって設立されたものであるということが前提になっている。実際のイギリス国家は、外来の侵略者による征服国家であり、その政府は人民の同意によって設立された政府ではない。人民は征服支配者とその後継者に対して抵抗し、議会を通じて請願をし、権利の確保や拡大をしてきた。その抵抗の極点において、ピューリタン革命が起こった。それゆえ、人民の抵抗権・革命権を主張するのであれば、征服国家における被支配人民の権利として理論化すべきものだろう。
 ロックは、この点、イギリスの歴史や国家の由来を無視して、架空の理論を説いているように見える。だが、私は、ロックは征服国家イギリスの政治権力の由来を分かったうえで、自己の政治的な主張をしていると推測する。ロックは言う。「正当な権利によらず、暴力によって押し付けられた権力を払いのけることは、それが反乱という名で呼ばれようとも、神の前では罪ではなく、たとえ、そこに力ずくで無理に結ばせられた約束や契約が介在していたとしても、それは神が許し、奨励するものだということである」と。「正当な権利によらず、暴力によって押し付けられた権力」「力ずくで無理に結ばせられた約束や契約」という文言は、ノルマン・コンクェスト以来のイギリスの権利関係・権力関係を暗示するものと私には思われる。
 ロックは抵抗権・革命権を認めるが、共和主義者ではない。ロックもまたピューリタン革命の悲惨を見ており、共和主義の危険性を知っていた。ロックは、水平派の生得権・平等思想の急進性を退け、君主制と共和思想、自由と平等の均衡を図った。ピューリタン革命を徹底してイギリスを共和制にするのではなく、名誉革命で作られた制限君主制を整備しようとした。
 ロックの思想にある共和的な要素は、イギリスでは、議会を通じた政治参加という君主制におけるデモクラシーとして発達した。一方、フランス・アメリカでは、君主制を打倒したり、君主制国家から独立して共和制を目指す思想へと急進化し、アメリカ独立革命とフランス市民革命の駆動力となった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#ロックの政治理論と水平派
 ホッブスからロックへの思想的な展開において、見逃せないものに、水平派の存在がある。人権の思想は、17世紀半ばのイギリスに、二つの起源を持つ。一つはホッブスの自然権であり、もう一つは、水平派の生得権である。ロックは、ホッブスの自然権と水平派の生得権を検討し、独自の政治理論を打ち出した。それによって、人権の思想が発達した。
 水平派とは、ピューリタン革命の中で現れた政治結社である。ジョン・リルバーンらを指導者として、ロンドン市民、小商人、職人、小農間に組織化が進められ、クロムウェルによる「新しい型の軍隊」(New Model Army)の兵士層に勢力を伸ばした。リルバーンは、1647年人民主権論に立つ人民協定と称する成文憲法草案を出して、軍の主流である独立派と対立する平等派を率いたが弾圧を受け、オランダに亡命した。残る水平派は、一時的な妥協によって共和制を成立させたが、1649年クロムウェルの弾圧を受けて消滅した。
 水平派は、自然法に基づく生得権 Birth right を主張した。中世のイギリスでは、生得権とは、身分によって与えられる特権や既得権のことだった。だが、水平派は、人間が生まれながらに神から等しく与えられている権利として生得権を主張した。人間はすべて神の前では平等であり、身分や貧富の差が存在することは聖書に反すると主張した。ここに人権の思想の一つの起源がある。
 水平派の生得権は、生まれながらの権利という点では、ホッブスの自然権に通じる。ただし、水平派の思想は、聖書に基づくキリスト教的な平等思想であって、思考から神を排除したホッブスとは、世界観が基本的に異なる。
 また水平派は、ノルマン人の征服を非難して、アングロ・サクソン時代の自由を回復すべきであると訴えた。彼らは、それを生得権による要求であるとした。ここには、外来の征服者の支配に対する土着民族の抵抗という要素がある。
 水平派は共和政を目指し、普通選挙を要望した。水平派に近い思想を持っていたのは、詩人のジョン・ミルトンである。ミルトンは、ピューリタン革命に参加し、共和政府の秘書官として活躍し、多くの政治文書を書いた。ミルトンは、そうした文書に、生まれながらに神から与えられている権利という意味で、生得権を使っている。共和政崩壊による王政復古後は、失意の中で、聖書に基づく叙事詩『失楽園』『復楽園』(1671年)を書いた。
 ロックは、リルバーンら水平派の運動家の書いた文書や宣言文を読んでいたが、彼らの主張には組みしなかった。君権・民権の均衡を目指すロックは、王政を否定する共和主義を志向しなかった。ロックは、ホッブスの絶対主義、水平派の共和主義をともに否定し、君主制の下での議会制デモクラシーを目指し、専制君主の権力を制限して、民衆が政治権力に参加し、君民共治の体制を確立する理論を樹立した。
 ロックの政治理論は、近代デモクラシーの基本原理を集約的に表現したものと言える。民衆の政府参加、法の支配、議会政治、立法府に最高権力、権力分立、多数決、抵抗権、革命権等である。18世紀のフランス、アメリカの思想家や政治家たち、三権分立論のモンテスキュー、啓蒙思想家のヴォルテール、社会契約論を発展させたルソー、米国独立宣言を起草したジェファーソンらは、ロック思想の影響を強く受け、または独自に発展させた。
 ロックの思想は、抵抗権・革命権を徹底すると、急進的な共和主義になる。イギリスでは、共和主義は、勢いを伸長することはなかったが、アメリカやフランスでは独立運動・革命運動を推進した。またロックの思想は、歴史的権利や伝統を尊重する立場から一定の修正を加えれば、逆に穏健な議会政治や保守主義の理論的基礎ともなる。ヒュームやバークはこの方向にロックの思想を発達させた。
 私は、ロックの社会契約論は、社会発達の学説というより政治革命の理論であり、学説としての妥当性ではなく革命理論としての有効性を追求したものと考える。この点、マルクスの唯物史観と似た性格を持っている。社会契約論と唯物史観は、近代西欧における二大革命理論であり、前者はアメリカ・フランスに市民革命を起こし、後者はロシア・東欧に共産主義革命を起こした。ともに社会発達の学説としては誤りだが、革命理論としては強力な変革力を持ってきた。ロックは私有財産を肯定し、マルクスは否定しようとする。その点は対照的だが、マルクスの思想もまたロックの思想を批判的に発達させたものである。ロック以降の政治社会思想は、ロックをどのように解するかによって、大きく分かれたと言えよう。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#フリーメイソンとの関係と信教の自由の確保
 ロックの思想とその欧米諸国への影響を考える時、フリーメイソンとの関係は見逃せない。イギリスは、近代フリーメイソンの発祥地だった。フリーメイソンの起源には諸説あるが、学術的に有力なのは中世の石工つまり建設業者の職人組合に起源を求める説である。石工組合が近代的な結社に変わったとするものである。 「近代フリーメイソンの父」と呼ばれるジャン・デザキュリエは、イギリス王太子の礼拝堂付牧師で実験物理学者であり、権威ある王立協会の会員だった。デザキュリエはニュートンの友人であり、ニュートンはロックの友人だった。ロックは名誉革命の前、オランダに亡命していたが、1680年代のオランダでは既にメイソンが活動していた。ロックがメイソンだった確証はないが、その周囲にはメイソンが多くいた。ロックがメイソンと交わり、メイソンの思想をよく知っていた可能性は高い。
 「自由・平等・友愛」というと、誰もがフランスの三色旗を思い浮かべるだろうが、これらはフリーメイソンの標語だった。ただし、この標語はメイソンが発案したものではない。もとはロックの『統治二論』である。ロックは、本書で、自然状態において完全に自由かつ平等である人間が、自然法による理性に従って行動し、正義と友愛という原理に導かれると説いている。それゆえ、フリーメイソンがロックの思想を摂取したと考えるべきだろう。
 フリーメイソンは、イギリスからフランス・アメリカ・ドイツ等に組織を広げた。それによって、ロック思想を大陸の貴族や上層市民階層に伝える役割をした。そして、ロック思想とフリーメイソンは分かちがたく結びつきつつ、アメリカ独立思想やフランス革命思想の源泉となった。
 カトリック教会は1738年にフリーメイソンを破門に処した。フリーメイソンの象徴や知識には、古代エジプトや古代ギリシャからの継承を思わせるものがある。その一方、当時の先端思想である自然科学や理神論的な道徳思想を取り入れていた。古代的神秘的象徴的なものと、近代的合理的科学的なものとが共存していた。彼らの活動の広がりは教権の秩序を揺るがすものだった。ロックがメイソンの活動の便宜を図ったかどうかは分からないが、ロックの功績の一つに、信教の自由の確保への貢献がある。
 ロックは宗教的寛容を主張した。ロックが名誉革命期に亡命していたオランダは、16〜17世紀にかけて、ヨーロッパで最も宗教に関する自由が保障されている国だった。16世紀にエラスムスが、「信仰に自由を」と主張し、当時はアルミニウス等の自由主義派も信教の自由を主張していた。ロックはこれらの影響を受けた。オランダは、早くからユダヤ人にも寛容だった。名誉革命は、オランダのユダヤ人の資金提供がなければ、成功し得なかった。オレンジ公ウィレムは、英国侵攻の際、彼らの支援を受け、英国王となったが、この時、多くのユダヤ人がイギリスに移住し、イギリスの銀行業や金融市場を創設した。
 ロックは、『寛容についての書簡』で、キリスト教の中で正統と異端の区別をなくすだけでなく、ユダヤ教やイスラーム教などの異教徒も、キリスト教徒と同じく信教の自由を保障されるべきだと主張した。ただし、社会秩序に反するもの、他の人々の信仰の自由を認めないもの、外国への服従を主張するもの、無神論者には制限を設けるとした。『寛容についての書簡』は1689年にオランダ、イギリスで出版され、同年イギリスではロックの主張に沿って宗教寛容法が制定された。これは非国教徒に対する差別を残し、カトリックやユダヤ教徒、無神論者、三位一体説を否定する者等には、信教の自由を認めないという限定的なものだったが、信教の自由の保障が一部実現した。ロックが直接意図したかどうかはわからないが、ユダヤ人の自由と権利の拡大に寄与したことは間違いない。
 ロックは先の書簡で秘密結社に触れ、秘密結社は陰謀や反乱の温床とされ、実際しばしばそうした集団であるが、もし寛容の法が定められ、良心のための不満や対立の諸原因が取り除かれれば、これらの集団も含めて平和を乱し、国の治安を妨げるものはなくなるだろうと主張した。この主張が直接フリーメイソンを擁護したものかどうかも分からないが、宗教的寛容の実現によって、イギリスではフリーメイソンの活動も一定の自由が得られるようになっていったのである。 

(「人権――その起源と目標」より)

#宗教的寛容の原理の確立

近代西欧諸国では、宗教戦争や市民革命を通じて、信教に対する「寛容の原理」としての自由が求められた。そして、宗教的寛容の広がりによって、プロテスタンティズムやユダヤ教の信仰が許容されるようになった。

ジョン・ロックは名誉革命の理論を提供したことで知られるが、同時にユダヤ教徒等への宗教的寛容を説き、大きな影響を与えた。名誉革命期にオランダに亡命していたロックは、そこで宗教的寛容の思想の影響を受けた。ロックは、『寛容についての書簡』で、キリスト教の中で正統と異端の区別をなくすだけでなく、ユダヤ教やイスラーム教などの異教徒も、キリスト教徒と同じく信教の自由を保障されるべきだと主張した。ただし、社会秩序に反するもの、他の人々の信仰の自由を認めないもの、外国への服従を主張するもの、無神論者には制限を設けるとした。

『寛容についての書簡』は1689年にオランダ、イギリスで出版され、同年イギリスではロックの主張に沿って宗教寛容法が制定された。同法は非国教徒に対する差別を残し、カトリック教徒やユダヤ教徒、無神論者、三位一体説を否定する者等には、信教の自由を認めないという限定的なものだったが、信教の自由の保障が一部実現した点で、歴史的な意義がある。その保障は、やがて拡張されていった。ロックが直接意図したかどうかはわからないが、彼の主張がユダヤ人の自由と権利の拡大に寄与したことは間違いない。

宗教的寛容は、他のヨーロッパ諸国にも広がっていった。私は、ユダヤ人の活動なくしては、西方キリスト教圏で信教の自由を実現し、思想・信条の自由を確立する運動は、それほど進展しなかっただろうと考える。ユダヤ人自身の活動は思想運動ではなく、経済活動として進められた。ユダヤ人は富を生み出して、キリスト教社会の発展に寄与することによって、彼らの自由と権利を拡大した。同時に、それはキリスト教社会にユダヤ的価値観が浸透・普及していく過程でもあった。

(「ユダヤ帝価値観の超克」より)

 

 17〜19世紀の欧米における人権の思想史を振り返る時、最も重要な動きは、ロックの思想の普及であると考える。ロックは近代科学思想に通じ、中世的プラトニズムを排して生得観念を否定し、感覚に基づく経験論を説いた。ホッブスの理論を批判的に継承して、自由・平等な個人の自発的同意に基づく契約によって政府が設立されたとする社会契約論を発展させた。ロックはまた労働による所有を意義づけて、私有財産を肯定し、近代資本主義を正当化した。
 ロックは、「人間は生まれながらにして完全な自由をもつ。人間はすべて平等であり、他の誰からも制約を受けることはない」と主張した。絶対主義王政に対抗して、リベラリズム、デモクラシーの思想を唱え、「民衆の信頼に反するような法律や政令を発見した場合は、民衆にはその法律を改廃させる優越的権利が依然としてある」として抵抗権・革命権を認めた。
 ロックの思想は、イギリス名誉革命を正当化する理論となり、アメリカ独立革命や独立宣言、合衆国憲法の理論的支柱となった。またフランスでは、ルソーや百科全書派によって急進化され、フランス革命の推進力ともなった。そして、イギリス、アメリカ、フランスが先進国・列強として発展するにつれ、ロックの思想は直接的または間接的に欧米の他の諸国へ、さらに非西洋文明の社会へと伝わっていった。この過程は、近代化の進行と西洋文明の非西洋文明諸社会への伝播と相即する。ロックの思想の浸透は、資本主義・自由主義・デモクラシー個人主義の普及と重なる。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 ホッブスと異なり、ロックの自然状態は平和な状態である。ロックによると、自然状態では、すべての人が自然法を執行する権利を持ち、自然法に違反する者を処罰する権利を持つ。国家ができる前から、正義の原理は存在する。社会契約が行われるのは、自然状態の正義が失われ、不正な状態になったのを解消するためである。しかし、絶対王政は社会契約を締結した人民に対して不正義の体制である、とロックは説いた。ホッブスは社会契約論で絶対王政を擁護したが、ロックは社会契約論で市民革命を正当化した。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●ヒューム

 17世紀の市民革命の時代に権利と権力に関する理論を説いたホッブスとロックは、その後、西欧の多くの思想家に影響を与えた。ホッブスの思想はルソーに影響を与え、そのルソーの理論がフランスを革命に向かわせた。ロックの思想はアメリカ人民を本国からの独立に向かわせ、その思想はアメリカ独立宣言に盛り込まれた。だが、18世紀半ばのイギリスで、ホッブス、ロックの社会契約論を根本的に批判した思想家がいた。デイビッド・ヒュームである。懐疑の果てに理性の驕りを戒め、歴史・伝統を尊重するその思想は、バークを通じて、西欧における保守主義の形成に寄与した。
 哲学者としてのヒュームは、イギリス経験論を完成させた哲学者として知られる。経験論の展開から述べると、元祖のロックは、すべての観念、すべての知識は経験、すなわち感覚と内省に由来するとし、客観的な物体は不可知体であると説いた。次にバークリーは、知覚を離れて存在する対象は存在しないとし、真に実在するのは自我とその意識内容のみであるという独我論を説いた。彼らを受けたヒュームは、『人性論』(1739〜40年)で、感覚的な印象によってものの観念ができ、観念の連想によって、高級な観念や知識ができるとした。そこから、自然科学が基礎に置く因果律も、連想の繰り返しという経験に基づくものである。習慣に過ぎないものが、不動の法則と信じられているだけである。それゆえ、自然科学は理論的な学として成り立つか疑わしい。ましてや感覚的に経験することができない神や神の創造を問題にする形而上学は、学として成り立つことはできない、とヒュームは考えた。ここに経験論は頂点に達した。ヒュームは、自然科学と合理論的な形而上学を疑っていなかったカントに衝撃を与え、カントの「独断論のまどろみ」を破った。
 次に、ヒュームの政治的・社会的な思想について述べる。イギリスでは、ピューリタン革命後、王政復古がされた時期の1670年ごろ、近代的な政党であるトーリー党とウイッグ党が出現した。トーリー党は政府の起源を神に求め、王権神授説に基づいて、政府への絶対服従を主張した。ウイッグ党は、政府の基礎は人民の同意にあるとし、原始契約を想定して、人民は抵抗権を持つと主張した。
 ヒュームは、18世紀半ばにあって、両党の党派的対立を憂慮し、両党の基礎となっている理論を批判した。トーリー党が依って立つ王権神授説に対しては、政府という制度は神が奇跡的な介入によって作ったのではなく、人間の目には見えない普遍的な力によって作り出したのであり、君主が神の代理者と呼ばれることに特別の意味はないと論駁した。ウイッグ党が依って立つ契約説に対しては、歴史上の事実に反することを主張した。原始契約は、世界のいかなる時代や国においても、歴史や経験によって正当化されないとして、ヒュームは、論文「原始契約について」で次のように述べる。「現に存在している、あるいは歴史のうちに何らかの記録をとどめている政府は、そのほとんど全部が、権力の奪取かそれとも征服に、あるいはその両方に起源をもっており、人民の公正な同意とか自発的な服従とかを口実にしたものはない」と。
 ヒュームは、理性・歴史・経験の教えるところでは、国家的事件において、人民の同意が最も尊重されなかった時期は、新しい政府が樹立されたときだろう、革命・征服・社会的動乱の荒れ狂う時期には、議論を決するのは普通軍事力か政治的策謀だという。同意によって成し遂げられたとされる名誉革命でさえ、契約説に合致するものではない。「その時、変革されたのは、王位継承だけであり、従って政体といっても王位に関する部分だけに過ぎなかった。しかも、1千万に近い人民に対して、このような変革を決定したのは、多数といってもたった700人に過ぎなかった」と指摘している。こうしてヒュームは、ホッブスとロックの社会契約論を完膚なきまで批判し、これを否定した。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#共感による社会、権威と自由のバランスを提起
 ホッブスは、人間は利己的であり、自然状態においては「万人の万人に対する闘争」が繰り広げられ、生命の危険にさらされていた。そこで人間は自己保存のために平和を求めよという自然法つまり理性の声に従って、自然権を放棄して相互に契約を結び、各人の代表者である主権者を選んで国家を設立したと説いた。
 ヒュームは、そうした契約説の虚構を暴いたが、人間観においては、一部ホッブスと共通する見方をした。ヒュームもまた人間本性の中心が利己心にあるととらえ、次のように述べている。「人間は生まれつき利己的であるか、あるいは単に限られた寛大さを付与されているに過ぎない」。だが、その一方、ヒュームは、ロックと同じように、人間は本来社会的であり、人間は他者との関わりの中に存在しているととらえた。ロックが理性による道徳を説くのに対して、ヒュームは情念の働きを肯定的にとらえ、人間には利己心を抑制する「共感(sympathy)」の能力があることを強調した。ヒュームのいう共感とは、弦と弦が共振するように、互いの心を感じ合う働きである。人間は、共感によるつながりの中で生活しているとヒュームはとらえた。
 そして、ヒュームは、社会の構成原理として、契約ではなく、共感の働きによる黙約を挙げた。黙約とは、暗黙のうちに了解し合った約束であり、「共通利益の一般的な感覚」だとヒュームはいう。ヒュームは、黙約によって利己心を抑制して公共の利益を実現し、諸個人の利己心の充足をもたらす制度を作ることが可能であると説いた。
 ヒュームの共感の概念は、年下の親友アダム・スミスに強い影響を与えた。『国富論』と並ぶスミスの主著『道徳感情論』は、共感論から始まる。スミスは、ロックが基礎づけた資本主義の理論を発展させたが、スミスの政治経済学は、道徳哲学に裏付けられ、共感を原理としている。ヒュームは、共感によって結ばれた社会を経済成長させるためのナショナリズム的な経済思想を説いた。この点でも、ヒュームはスミスに影響を与えた。
 経済官僚・評論家である中野剛志は、ヒュームを「経済ナショナリズム」の創始者とする。「経済ナショナリズム」は、ネイション(国家・国民・共同体)の発展が国力の増大になるとし、国民の生産力を中心とした国力を増大させようとする思想である。ヒュームの影響を受けたアレグサンダー・ハミルトンがアメリカ、フリードリッヒ・リストがドイツで実践し、ヘーゲルが哲学的に深め、マーシャルがこれらを継承し、ケインズが完成させたとする。
 ヒュームは、単に経済の思想を説いたのではなく、むしろ政治の方面に関して、より大きな影響を与えた。論文「王位継承について」で、ヒュームは、名誉革命以来の政体を混合政体ととらえ、君主制と共和制の要素、権威と自由の混合として分析している。二つの要素の相互抑制がそれぞれの長所を引き出し、それによってイギリスの平和と繁栄がもたらされたと見る。論文「政治支配の起源について」では、次のように述べる。「あらゆる政治支配の中に、権威と自由の間に、公然または隠然たる普段の内部闘争が存在する。しかもこの抗争において、権威と自由のいずれも絶対的な勝利を得ることは不可能である」「自由はまさに政治社会の完成であると言われなければならない。しかし、それにも拘わらず、権威が政治社会の存続そのものにとって不可欠であることが承認されなければならない」と。権威なき自由は無秩序となり、自由なき権威は専制となる。ヒュームは、権威と自由のバランスが必要であると説いたのである。
 ヒュームは、名誉革命によって実現した制限君主制を承認し、法の支配のもとに政治の仕組みを改善することで、イギリスに平和と繁栄が得られるように努めた。優れた歴史家でもあったヒュームの著書『イングランド史』(1754〜61年)は、長くイギリス国民に愛読された。ヒュームは、歴史研究をもとに社会契約論を否定した。その後も今日までの人類学的研究では、どんな未開な単一社会でも、契約によって成立した国家は一つも発見されていない。だが、18世紀の欧米では、社会契約論が既存の制度への変革力を発揮した。アメリカでは、トマス・ペインが社会契約論でアメリカの独立運動を宣揚し、フランスでは、ジャン・ジャック・ルソーが社会契約論を独自に発展させて、革命運動を駆動した。ヒュームは、フランス革命での革命の到来を予見し、頭の中で考えた観念的な理論は破壊・混乱をもたらすことを警告した。人間は現実的な経験を重んじ、歴史的に培われてきた英知を大切にすべきことを説いた。ヒュームによる歴史の援用は、バークに引き継がれ、歴史・伝統・慣習を重んじる保守主義が形成された。また今日のイギリスの政治と社会のあり方に、ヒュームは大きな影響を与えている。
 なお、ヒュームについて、後に述べる功利主義の先駆者という見方があるが、その見方には無理がある。功利主義における功利は、物事の効用や有用性を意味する言葉である。ヒュームは『人性論』で、功利(utility)の語を、自己や他者に対する有用性の意味で用いてはいる。しかし、功利主義者は快楽を善、苦痛を悪として、最大多数の最大幸福を目標とし、その実現に貢献する行為を義務とするのに対し、ヒュームは快楽と善を同一視していない。また目的への手段としての行為に価値を認めていない。功利主義は、ベンサムが創始した思想と見るのが適当である。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●アダム・スミス

ヒュームやアダム・スミスは、歴史の研究から社会契約を否定し、市民社会の秩序は自生的に誕生すると説いた。彼らは、人間には利己心だけでなく共感の能力があることを主張し、共感による社会の秩序と繁栄の道を説いた。スミスは、労働が国民の富の源泉であり、分業と資本蓄積が社会の繁栄を促進するとした。市場は、「独占の精神」ではなく「フェア・プレイ」を受け入れる正義感、他人とものの交換をしようとする「交換性向」、及び交換のために人と言葉を交わし理解を得ようとする「説得性向」によって支えられている。これらは、共感の能力に基づいている。それゆえ、市場社会を支える根本は、自愛心とともに共感である、とスミスは考えた。スミスにおける個人は、共感の能力を持ち、心の中の「公平な観察者」によって、行為の適合性を判断する人間である。利己心のみで行動し、利益拡大のために競争する人間ではない。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 人権と呼ばれる自由と権利を担う主体は、人間である。人間について17〜18世紀のイギリスでは、理性を中心にとらえる見方と感情を重視する見方があった。また人間を利己的なものととらえる見方と共助的なものととらえる見方があった。先に書いたヒュームは、理性を疑い、情念を重視した。人間には利己心のあることを認めつつ、共感によるつながりのあることを強調した。アダム・スミスは、ヒュームと基本的な考え方を共にし、道徳哲学を説くとともに、それに基づく政治経済学の理論を構築し、さらに法学・政治学を構想していた。
 スミスは、『国富論』(1776年)の著者であり、古典派経済学の創始者として知られる。人権を主題とする本稿でスミスを取り上げることに、奇異な感じのする人がいるだろう。確かにスミスは、ロックが基礎づけた資本主義の理論を発展させ、国民の労働が富の源泉であると説いた。分業による交換の発生から交換価値の尺度を労働に求めた。文明社会では価値は労働に利潤と地代が加わったものであるとし、資本の分析を行った。彼の理論が出発点となって、マルサス、リカード、J・S・ミルによる古典派経済学が展開された。だが、スミスの政治経済学の根本には、道徳哲学がある。彼の政治経済学は、道徳哲学に基づく政治経済学だった。
 人間には個人性と社会性がある。権利には協同的行使と闘争的行使がある。権力も、協同的と闘争的の両面がある。スミスは、そうした権利・権力の主体である人間を、共感の能力を根本に置いてとらえて、社会の秩序と繁栄の理論を提示した。それゆえに、スミスは人権の思想史で欠かすことのできない思想家である。
 スミスは『国富論』で「独占の精神」に反対し、「自由競争」を主張した。しかし、彼の説く自由競争は、自分の利益のためなら何をしてもよいというような、利己本位のものではなかった。スミスは『国富論』を書く前に、グラスゴー大学の教授として道徳哲学や法学、政治学等を講じていた。そうした講義のうち道徳哲学に関するものをまとめて出版したのが、『道徳感情論』(1759年)である。「道徳感情」は、moral sentiments の訳である。
 『道徳感情論』は、共感論から始まる。スミスは、出だしに次のように書く。「人間がどんなに利己的なものと想定し得るにしても、明らかに人間の本性の中には何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心を持ち、他人の幸福をーーそれを見る喜びの他には何も引き出さないにもかかわらずーー自分にとって必要なものだと感じるのである。この種類に属するのは、哀れみまたは共感であり、それはわれわれが他の人々の悲惨な様子を見たり、生々しく心に描いたりしたときに感じる情動である」と。
 人間には、他人の感情を心の中に写し取り、それと同じ感情を自分の中に起こそうとする能力がある。それが、スミスのいう共感の能力である。人間は、その能力によって、自他の双方の利益に中立な「公平な観察者(impartial inspector)」を心の中に作り上げる。この第三者の立場に立って、行為が適切かどうか、適合性(propriety)を判断する。スミスは、そこに道徳の根本を見出した。この考え方は、キリスト教の神の教えを絶対的な規範とするものではない。また理性を道徳的能力の根源とするものでもない。相手の身になって考え、相手の感情を思いやるという、どのような文化・社会でも見られる心の働きから、道徳を考えるものである。
 家族や友だちの身になって考える能力を養うことは、子育てにおける大切なポイントの一つである。高尚な道徳を教える以前の基礎的な人格形成における要である。シナの孟子は、「惻隠の情」を説いた。赤ん坊が井戸に落ちようとしている時、普通の人間ならそれを放っておけない。助けようと思う。そうした同情心を「惻隠の情」という。孟子は「惻隠の心なき者は、人にあらざる也」とし、「惻隠の心は仁の端なり」と説いた。仁は、孔子が説いた儒教の中心的な道徳観念であり、自己抑制と他者への思いやり、忠と恕の両面を持つ。ヒュームやスミスの説く共感は、孟子の「惻隠の情」に通じるものである。共感は、キリスト教と儒教という文化の違いを超えて、人間に共通する基本的な能力である。動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールは、共感は、人間だけではなく、チンパンジーやイルカ等の哺乳類に共通して認められる特性であることを明らかにしている。文明や文化の違いを超えて、「発達する人間的な権利」を基礎づけようとする時、種としての人類に共通する共感の能力は、注目すべきものである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#道徳と経済を一体的に思考
 スミスは、『道徳感情論』で、個人の利己的な行動は、「公平な観察者」の共感が得られなければ、社会的に正当であるとは判断されない、個人は「公平な観察者」の共感が得られる程度まで自己の行動や感情を抑制せざるを得ない、との旨を説いた。「公平な観察者」は正邪善悪を厳しく判断する。スミスは「胸中の法廷」「神の代理人」という言い方もしている。
 『国富論』にも、この『道徳感情論』における見解は、貫かれている。スミスが「見えざる手」に導かれて市場の秩序が維持されると説いたのは、人々が互いに共感を呼ぶ行動を行うことを想定してのものである。もし人々が利己的一辺倒の行動を取るならば、市場は混乱を免れない、とスミスは予測した。スミスにおいて、道徳哲学と政治経済学は一体のものなのである。
 『国富論』で、スミスは次のように書いた。「われわれが食事ができると思うのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心に期待するからではなく、彼ら自身の利益に対する彼らの関心に期待するからである。われわれが呼びかけるのは、彼らの人間愛に対してではなく、自愛心に対してであり、われわれが彼らに語りかけるのは、われわれ自身の必要についてではなく、彼らの利益についてである」と。だが、スミスは、利己心の無制約な解放を説いたのではない。スミスは、労働が国民の富の源泉であり、分業と資本蓄積が社会の繁栄を促進するとした。分業が進むためには、市場がなければならない。市場は、「独占の精神」ではなく「フェア・プレイ」を受け入れる正義感、他人とものの交換をしようとする「交換性向」、交換のために人と言葉を交わし理解を得ようとする「説得性向」によって支えられている。正義感、交換性向及び説得性向は、共感の能力に基づいている。それゆえ、市場社会を支える根本は、自愛心とともに共感である、とスミスは考えた。
 スミスが「見えざる手」という表現を使ったのは、『国富論』でただ一か所、資本を所有する個人ができるだけ資本を国内に投資しようとすることについての箇所である。ここでスミスは、個人は「見えざる手」に導かれて、「自分の意図の中には全くなかった目的を推進する」「自分自身の利益を追求することによって、個人はしばしば社会の利益を、実際にそれを促進しようと意図する場合よりも効果的に推進する」と書いている。ここで「見えざる手」は、直接的には市場の機能を意味する。私的な利益の追求が、市場の価格調整機能を通じて、公共の利益を促進するというわけだが、ここにおける個人は、共感の能力を持ち、心の中の「公平な観察者」によって、行為の適合性を判断する人間である。利己心のみで行動し、利益拡大のために競争する人間ではない。
 スミスは、自国の経済システム及び国際社会の経済システムの理想を、「自然的自由の体系(system of natural liberty)」という。この体系においては、個人が共感と正義感をもって行動し、その制約の中で利己心に基づいた経済行動を行う。政府は防衛、司法、若干の公共活動のみを行い、個人の経済活動には介入しない。自然的とは、物事の自発的・自動的な成り行きである。ただし、スミスは政府の機能の重要性を認めており、自由放任主義ではない。自由放任(レッセ・フェール)は、後年フランスに現れた思想である。スミスを権威づけのため歪曲して利用したのである。
 スミスは『道徳感情論』と『国富論』を刊行後、それぞれ死の直前まで繰り返し改訂した。これらは、社会の秩序と繁栄に関するスミスの思想を表した一連の書物である。これらを通じて、スミスは相互の共感に基く市民社会を構想した。市民社会においてデモクラシーが発達すれば、国民国家(ネイション・ステイト)の発展となる。ここで自由主義とナショナリズムが結びつく。私は、スミスは自由主義者であり、かつナショナリストだったと理解する。ヒュームもまた同様である。
 スミス以後の古典派経済学・新古典派経済学の主流には、ネイションの概念がなくなってしまう。しかし、本来、経済的な自由を追求することと、ネイションの発展によって国力を増大させることは、矛盾することではない。ヒュームやアダム・スミスは、自由主義者であり、かつナショナリストだった。その主にナショナリズム的な側面を各国において応用・発展させたのが、ハミルトンやリストである。
 人権論において、自由主義とナショナリズムの結合は重要である。本稿は、人権を主権・民権との関係でとらえる見方を提示しているが、個人の権利は集団の権利あってのものであり、国家の主権、国民の権利が発達してこそ、個人の権利は拡大・保障される。先進国イギリスでは、自由主義とナショナリズムが結合し、国民経済を成長させ、国民全体の生活が向上する中で、政治的・経済的・社会的・文化的自由が発達した。人権は「発達する人間的な権利」であり、近代世界システム中核部の先進国イギリスにおいては、自由主義的ナショナリズムが、国民の「人間的な権利」を発達させる思想となったのである。
 だが、スミスの死後、実際の社会は自由放任の資本主義によって、弱肉強食の競争社会となった。利己的な個人、私益追求的な資本が跋扈し、市民社会的・国民国家的な道徳は衰退していった。ヒュームとスミスは、理性中心の考え方に対して情念を重視し、人間には利己心だけでなく共感の能力があることを主張した。だが、こうした考え方は、思想の領域では細々とした傍流となった。スミス以後の経済学は、合理的に行動するアトム的な個人を仮定した理論を構築するに至った。こうした人間像を「経済人(エコノミック・マン)」という。経済人は「なんらの倫理的な影響を受けず、金銭上の利益を細心かつ精力的に、だが非情かつ利己的に追求しようとする人間」(アルフレッド・マーシャル)である。資本主義の発達により、そうした人間が経済学の理論上のモデルにとどまらず、現実の社会で増加していったことにより、「共感」の能力が低下し、利己的な活動が蔓延していった。そのことが、社会に経済的な格差をもたらし、貧富の差を増大させた。自由という価値に対して、平等という価値が求められるようになっていく。そのことについては、後に功利主義と修正自由主義について書く際に述べることにする。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●啓蒙思想

 イギリスで市民革命の起こった17世紀は、科学革命の世紀でもあった。16世紀後半、フランシス・ベーコンが、科学技術の発達によって、人間は宇宙のすべてを知り、自然を支配することが可能だという考えを表した。この科学万能思想は、17世紀を通じて広がった。デカルトの物心二元論・要素還元主義、ニュートンの機械論的自然観等が打ち出され、様々な分野で自然の研究が進み、実験と観察、数理的な計算にもとづく近代西欧科学的な世界観が形成された。その世界観は、合理主義を発展させた。合理主義とは、一般に理性を重んじ、思想や生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする態度をいう。こうした態度が実験・観察・計算によって裏づけられたものが、科学的合理主義である。
 17世紀後半から、こうした科学的合理主義を基礎とする啓蒙思想(The philosophy of the Enlightenment)が出現した。啓蒙思想は、名誉革命からフランス革命にかけての約100年間、西欧で広く影響力を持った。啓蒙(enlightenment)は、啓示の光に対する理性の光、あるいはその光による闇の追放を意味する。
 啓蒙主義(illuminism)は、自然科学の発達を背景に、人間理性を尊重し、封建的な制度や宗教的な権威を批判し、合理的思惟によって社会の変革をめざした思想・運動の総称である。17世紀後半のイギリスで始まり、18世紀にはフランス、アメリカ、ドイツに広まって、宗教思想、認識論、社会思想、経済思想、文学等の多様な領域で展開された。イギリス、アメリカ、フランスでは、人権の思想を発達させた。
 本章では、先にホッブス、ロック、ヒューム、アダム・スミスについて書いたが、彼らはイギリスの啓蒙思想の代表的な思想家でもある。イギリスにおける啓蒙思想は、名誉革命及びその後の政体を支持し、君権・民権の均衡と資本主義国民経済の発展を追求した。認識論では経験論、宗教論では理神論が大勢を占めた。イギリス経験論は学説上、大陸合理論と対比されるが、反合理主義ではない。合理論が思弁的な合理性を追求するのに対し、経験論は経験に基づく合理性を追求する。ただし、経験論者の中から単純な科学的合理主義への疑いが出されもした。
 啓蒙思想は、先進国イギリスからフランスに伝わり、モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー等が展開した。近代科学を推進する思想家たちが百科全書の製作に集い、啓蒙を進めた。彼らの多くは理神論を主張し、カトリック教会の権威に強く反発し、唯物論や無神論を説く者も現われた。ロックの思想は、絶対王政下のフランスでは、王政の打倒を目指すものへと急進化した。啓蒙主義は、フランス革命の原動力となった。
 啓蒙主義は、イギリスの植民地アメリカでも展開され、ここでもロックの思想が強い影響を与えた。ロックの抵抗権・革命権は、ジェファーソン、フランクリン等によって、イギリス王政からの独立と共和制の実現をめざす思想に転換された。独立革命の成功は、フランス市民革命の成功につながった。アメリカ独立革命、フランス市民革命は、いわゆる人権と呼ばれる権利を実現するものとなった。
 一方、後進国のドイツでは、トマジウス、ヴォルフ、レッシング等が主に哲学・文学の方面で啓蒙主義を展開した。その頂点に立つのが、カントである。カントはアメリカ独立戦争やフランス革命を同時代として生きた。大陸合理論とイギリス経験論を批判的に総合し、科学と宗教を両立させたカントは、市民社会の目指すべき姿や国際社会の永遠平和を説き、「啓蒙の完成者」といわれる。
 カントは、論文『啓蒙とは何か』(1784年)に、次のように書いた。「啓蒙とは、人間が自分自身に責任のある未成年の状態から抜け出ることである。未成年の状態とは、他人の指導を受けずに自己の悟性を使用する能力のないことである。自己に責任があるとは、未成年状態の原因が悟性の欠乏にあるのではなく、他人の指導を受けずに悟性を使用する決断と勇気の欠乏にある場合のことである。知ることを敢えてせよ! 自己自身の悟性を使用する勇気を持て! というのが、したがって啓蒙の標語なのである」と。

(「人権――その起源と目標」より)

 

実験と観察、数理的な計算にもとづく近代西欧科学的な世界観は、合理主義を発展させた。合理主義とは、一般に理性を重んじ、思想や生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする態度をいう。こうした態度が実験・観察・計算によって裏づけられたものが、科学的合理主義である。科学的合理主義こそ、キリスト教の聖書の権威と教会の伝統を根底から揺るがし続けているものである。

 17世紀後半から、科学的合理主義を基礎とする啓蒙思想(The philosophy of the Enlightenment)が出現した。啓蒙思想は、名誉革命からフランス革命にかけての約100年間、西欧で広く影響力を持った。啓蒙(enlightenment)は、啓示の光に対する理性の光、あるいはその光による闇の追放を意味する。

 啓蒙主義(illuminism)は、自然科学の発達を背景に、人間理性を尊重し、封建的な制度や宗教的な権威を批判し、合理的思惟によって社会の変革をめざした思想・運動の総称である。啓蒙主義は、17世紀後半のイギリスで始まった。ホッブス、ロックのほか、ヒューム、アダム・スミスらが、イギリスの啓蒙思想の代表的な思想家である。啓蒙思想は、先進国イギリスからフランスに伝わり、モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー等が展開した。近代科学を推進する思想家たちが百科全書の製作に集い、啓蒙を進めた。彼らの多くは理神論を主張し、カトリック教会の権威に強く反発し、唯物論や無神論を説く者も現われた。ロックの思想は、絶対王政下のフランスでは、王政の打倒を目指すものへと急進化した。啓蒙主義は、フランス革命の原動力となった。

 啓蒙主義は、イギリスの植民地アメリカでも展開され、ここでもロックの思想が強い影響を与えた。ロックの抵抗権・革命権は、ジェファーソン、フランクリン等によって、イギリス王政からの独立と共和制の実現をめざす思想に転換された。独立革命の成功は、フランス市民革命の成功につながった。

 「啓蒙の完成者」といわれるイマヌエル・カントは、論文『啓蒙とは何か』(1784年)に、次のように書いた。「啓蒙とは、人間が自分自身に責任のある未成年の状態から抜け出ることである。未成年の状態とは、他人の指導を受けずに自己の悟性を使用する能力のないことである。自己に責任があるとは、未成年状態の原因が悟性の欠乏にあるのではなく、他人の指導を受けずに悟性を使用する決断と勇気の欠乏にある場合のことである。知ることを敢えてせよ! 自己自身の悟性を使用する勇気を持て! というのが、したがって啓蒙の標語なのである」と。

(「キリスト教の運命」より)

 

●理神論

 啓蒙主義は、自由を要求する。とりわけ宗教に関わる事柄において、自らの理性を公的に行使する自由を要求した。啓蒙思想における宗教思想で代表的なものが、理神論である。理神論は、deismの訳である。キリスト教の神を世界の創造者、合理的な支配者として認めるが、創造された後では、世界は自然法則に従って運動し、神の干渉を必要としないとし、賞罰を与えたり、啓示・奇跡を行ったりするような神の観念には反対する宗教思想である。近代科学が発達し、キリスト教の権威が低下する中で、キリスト教を科学と矛盾しないものに改善しようとした試みであり、信仰と理性の調和を目指し、キリスト教を守ろうとしたものである。自然宗教ともいわれる。この場合は、人間理性に基づく宗教を意味する。
 理神論は、17世紀前半のイギリスに現れた。チャーベリーのハーバート卿は、啓示に依存しない自然宗教を説いた。その基本命題として、神の存在、神を礼拝する義務、経験と徳行の重要性、悔悟することの正しさ、来世における恩寵と堕罪の存在を信じることの5点を挙げた。ロックは、宗教的寛容を説く一方、『キリスト教の合理性』(1695年)で、理性の権威と聖書の権威は両立するという証明を試みた。ロックは、キリスト教徒が絶対に信ずべきものは、神が存在することと、イエスを救世主とすることの二つとし、それ以外の教義や儀式、制度等は否定する。本書でロックは、人間は理性の範囲内でのみ啓示を理解できる、それを超えた部分は信仰の領域である、信仰は理性で論じるべきでない、各派は些末な問題での論争を止め真の信仰を取り戻せ、と説いた。ジョン・トーランドは、『キリスト教は神秘的でない』(1696年)で、ロックのキリスト教の合理的性格の論証を援用して、キリスト教の中には理性を超えた神秘的要素は何ひとつ存在しないと強調した。本書の公刊に際し、国教会の護教論者が攻撃を加えたのを機に、理神論者と国教徒の論争が行われた。言論を通じて、イギリスでは宗教的寛容が進んだ。
 カトリック教会の権威の強いフランスでは、理神論は異端邪説とされた。ヴォルテールは、ロックの宗教的寛容論に甚大な影響を受けた。腐敗したカトリック教会、キリスト教の悪弊を弾劾し是正することに情熱を燃やした。生涯、精力的に、理神論の立場から教会を批判した。キリスト教の様々な伝説・聖物を笑い物とし、キリスト教否定の手前まで行った。晩年は「知的十字軍」を自称して、宗教的狭量に激しく反対する活動を行った。
 ドイツでは、レッシングは理神論に基づき、戯曲『賢人ナータン』(1779年)を書いた。ユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーンをモデルにしたナータンを通して、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教は、元は一つであり、どの神が本物かを主張してぶつかり合うのではなく、互いに寛容に相手を受け入れ合うべきであるとの主張をした。本書の前に書いた『エルンストとファルク〜フリーメイソンのための対話』(1778年)という作品では、自己を高めて自由な世界市民となり、諸宗教が統合された世界国家を目指す思想を述べている。
 ライプニッツ、ヴォルフ等による大陸合理論は、数学的な方法で神の存在や霊魂不滅の証明を試みた。カントは、彼らを感性で経験できる範囲を超えた独断として批判した。理神論に対しても、同様の批判をした。科学的認識を行う理性は、超感性的な神や不死を証明できないとする一方、道徳的実践を行う理性は、その行為が意味あるものとなるために、神や不死を要請するとした。カントは、キリスト教を啓示宗教から道徳的宗教に純化、改善することを企て、科学的合理主義と道徳的信仰の両立を図った。
 理神論は、科学からキリスト教を擁護するとともに、他宗教、特にユダヤ教に対する寛容を促すものともなった。西欧における信教の自由の拡大において、理神論は歴史的な意義を持つ。またその一方、理神論からキリスト教を否定する唯物論・無神論も現われた。前者は有神論、後者は無神論だが、科学的合理主義という点は、共通している。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#キリスト教の合理化と「呪術の追放」

 理神論は、プロテスタンティズムによる宗教の合理化の思想的な展開である。マックス・ウエーバーによると、プロテスタントはカソリックのサクラメント(秘蹟)を否定し、「呪術」として追放した。そして、プロテスタンティズムの倫理が、「資本主義の精神」を生み、近代資本主義が発生・発達した。その過程で近代人のエートスが形成された。「呪術の追放」によって、宗教の合理化が行なわれた。このことを出発点として、合理性が社会の全般において追求・実現されるようになった。すなわち、文化や社会や政治や経済の諸領域を貫いて、価値観の合理化が人間生活の全般にわたって進行したというのが、ウェーバーの近代化についての分析である。
 啓蒙思想家たちの多くは、科学的合理主義によってキリスト教の合理化を進めた。ユダヤ=キリスト教は、啓示宗教である。神(ヤーウェ)が人間に教えや奇跡をもって真理を示すことを信じ、アブラハムが契約を結んだ神の言葉を記した啓典を持つ。西方キリスト教は、ユダヤ民族の神話的思考と歴史、イエスの奇跡伝承等をもとに構築された教義体系を持つ。その教義には、天動説に典型的なように、近代科学によって獲得された知識と相容れないものがある。そこで、啓蒙思想家は、キリスト教から科学と相容れない部分を除いたり、科学的合理的な思考で解釈し直したりして、キリスト教を科学と対立する宗教から科学と両立する宗教へと改革しようとした。
 啓蒙主義の高揚によって、近代西洋文明では、アニミズム的・シャーマニズム的な世界観が徹底的に駆逐された。その結果について、20世紀の深層心理学者ユングは、「太古以来、自然は常に霊に満ちたものと考えられてきた。いまはじめてわれわれは神々も霊もない自然のなかに生きているのである」と書いた。呪術の原理である「共感の法則」は否定された。それによって、自然は霊的存在に満ちた世界ではなく、単なる質料、霊魂のない物質の広がりとみなされるようになった。人間と自然との根源的な連続感は失われ、自然は人間が征服・支配すべき対象となった。自然は、科学技術と産業経営によって、欲望の充足のために利用すべき生産手段にすぎなくなった。近代西洋人は、人間理性への自信を強め、自信のあまり、人間の知力でできないことは何もないかのような錯覚を生じ、人間が神に成り代わったかのような傲慢に陥った。これは、ウェーバーの「世界の呪術からの解放」つまり「呪術の追放」が行き着いた結果である。近代化の問題については、拙稿「
心の近代化と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ」に私見を書いているので、ご参照願いたい。

(「人権――その起源と目標」より)

●近代西洋文明の深層流

 啓蒙思想は、科学的合理主義に基づく思想だが、ここで見逃してはならないのは、啓蒙思想とフリーメイソンの関係である。奇妙なことに啓蒙主義とフリーメイソンの思想は深く融合しており、切っても切れない関係にある。しかし、ほとんどの学術的な歴史書や思想史には、フリーメイソンは登場しない。その一方、フリーメイソンは今日、陰謀論者がどうとでも使える格好の題材となっている。荒唐無稽な説も多く、それがカムフラージュになって、実態が見えにくくなっている。だが、18世紀の欧米に限っては、フリーメイソンに触れずして、歴史も思想も語れない。
 キリスト教化された西欧では、自然崇拝・祖先崇拝が失われ、さらに宗教改革・魔女狩り等を通じて、「呪術の追放」がされた。しかし、ルネサンスにおいて古代ギリシャ=ローマ文明の遺産を摂取する過程で、グノーシス主義、新プラトン主義、錬金術といった思想が知られるようになった。それらの非キリスト教思想は、知識人の間で密かに受け継がれた。心理学的には、無意識の領域に係る思想である。
 キリスト教を中心とした文化を表層流とすると、こうした思想は深層流となって潜伏した。実は近代西欧科学を生み出した科学者の多くは、深層流から知識と発想を汲み上げていた。例えば、ケプラーが惑星の運動法則を発見したのは、新プラトン主義の世界観を抱いていたからであり、ニュートンは物理学の一般法則を追及する一方、錬金術の実験に熱を上げていた。物質の基本構成要素として元素の存在を認め、実験科学を確立したボイルは錬金術師だった。

 深層流に流れ込んだ思想は、近代西欧科学が発達するにつれ、科学的合理主義以前のものとして、科学思想から、ほとんど排除されていった。その一方、政治思想・社会思想においては、重要な役割をした。その顕著な例外が、啓蒙思想と結びついたフリーメイソンの活動である。
 ロックの項目の最後に、フリーメイソン及びそのロックとの関係について書いた。先に挙げた啓蒙思想家の中では、モンテスキュー、ヴォルテール、ダランベール、フランクリン、レッシング等がメイソンに加入している。ここでは、啓蒙思想とフリーメイソンの関係を指摘するだけとし、アメリカ独立革命とフランス市民革命の思想を書く際に、独立革命・市民革命にいかに深くフリーメイソンが関わっていたか書くことにする。

(「人権――その起源と目標」より)

 

啓蒙思想は、上記のように科学的合理主義に基づく思想だが、ここで見逃してはならないのは、啓蒙思想とフリーメイソンの関係である。奇妙なことに啓蒙主義とフリーメイソンの思想は深く融合しており、切っても切れない関係にある。

 キリスト教化された西欧では、自然崇拝・祖先崇拝が失われ、さらに宗教改革・魔女狩り等を通じて、「呪術の追放」がされた。しかし、ルネサンスにおいて古代ギリシャ=ローマ文明の遺産を摂取する過程で、グノーシス主義、新プラトン主義、錬金術といった思想が知られるようになった。それらの非キリスト教思想は、知識人の間で密かに受け継がれた。

 キリスト教を中心とした文化を表層流とすると、こうした思想は深層流となって潜伏した。実は近代西欧科学を生み出した科学者の多くは、深層流から知識と発想を汲み上げていた。例えば、ケプラーが惑星の運動法則を発見したのは、新プラトン主義の世界観を抱いていたからであり、ニュートンは物理学の一般法則を追及する一方、錬金術の実験に熱を上げていた。物質の基本構成要素として元素の存在を認め、実験科学を確立したボイルは錬金術師だった。

 深層流に流れ込んだ思想は、近代西欧科学が発達するにつれ、科学的合理主義以前のものとして、科学思想から、ほとんど排除されていった。その一方、政治思想・社会思想においては、重要な役割をした。その顕著な例外が、啓蒙思想と結びついたフリーメイソンの活動である。

近代資本主義の発達の地であり、科学革命の中心地、啓蒙思想の発祥の地でもあるイギリスは、また近代フリーメイソンの発祥地でもあった。フリーメイソンの起源には諸説あるが、学術的に有力なのは中世の石工つまり建設業者の職人組合に起源を求める説である。石工組合が近代的な結社に変わったとするものである。

 近代フリーメイソンは、1717年にイギリスに始まったとされる。この年、ロンドンにあったロッジ(支部)が集まって、グランド・ロッジ(本部)が結成された。「近代フリーメイソンの父」と呼ばれるジャン・デザキュリエは、牧師で自然科学者、権威ある王立協会の会員だった。デザキュリエはニュートンの友人であり、ニュートンはロックの友人だった。ロックは名誉革命の前は、オランダに亡命していた。1680年代のオランダでは既にメイソンが活動していた。ロックがメイソンと交わり、メイソンの思想をよく知っていた可能性は高い。

 「自由・平等・友愛」というと、誰もがフランスの三色旗を思い浮かべるだろうが、これらはフリーメイソンの標語だった。ただし、この標語はメイソンが発案したものではない。もとはロックの『統治二論』である。ロックは、本書で、自然状態において完全に自由かつ平等である人間が、自然法と理性に基づいて行動し、正義と友愛という原理に導かれると説いている。それゆえ、フリーメイソンがロックの思想を摂取したと考えるべきだろう。

 メイソンの活動が広がると、カトリック教会は1738年にフリーメイソンを破門に処した。同じ反カトリックではあっても、象徴を排除してキリスト教を合理化したプロテスタンティズムとは異なり、フリーメイソンには象徴的な儀式や思想に満ちている。メイソンの象徴や知識には、古代エジプトや古代ギリシャからの継承を思わせるものがある。その一方、フリーメイソンは、当時の先端思想である自然科学や理神論的な道徳思想を取り入れていた。そこには、古代的神秘的象徴的なものと、近代的合理的科学的なものとが共存していたのである。彼らの活動の広がりは教権の秩序を揺るがすものだった。

 カトリックから破門にされたとはいえ、フリーメイソンはイギリスからフランス・アメリカ・ドイツ等に組織を広げた。それによって、イギリスの啓蒙思想を、大陸の貴族や上層市民階層に伝える役割をした。フリーメイソンの活動は啓蒙思想を欧米に伝播し急進化させた。啓蒙思想とフリーメイソンは分かちがたく結びつきつつ、アメリカ独立思想やフランス革命思想の源泉となった。

(「キリスト教の運命」より)

 

●ペイン

 

 啓蒙主義は、イギリスの植民地アメリカでも展開された。特にロックの思想が強い影響を与えた。ロックの思想は、アメリカにおいて、専制君主の圧制への抵抗の根拠となっただけでなく、イギリス王政からの独立と共和政の実現をめざす運動へと急進化された。急進化は、キリスト教の聖書に基づいて自由と平等を求めるもので、ピューリタン革命期の水平派の思想に通じるものがある。啓蒙主義は、アメリカにおいては、キリスト教への批判に向かうのではなく、キリスト教の信仰と結合した。フランスでは、カトリック批判から理性崇拝・唯物論・無神論が登場したのとは、対照的である。
 アメリカ独立革命の過程において、決定的な影響を与えた書物がある。トマス・ペインの『コモン・センス』(1776年)である。独立宣言には、ロックの思想とともに『コモン・センス』が反映している。『コモン・センス』の思想は、ペインという人物の行動と深くかかわっているので、ペインの生涯を概観する中で、その内容を述べたいと思う。
 『コモン・センス』は、キリスト教の聖書に基づいて、人間の自由・平等を説き、植民地人の権利を守らないイギリスの支配から脱し、アメリカが独立するという考えは「Common sense」(常識)であると説いた。
 ペインは、ロックの著書を読んでいないとされている。しかし、『コモン・センス』は、ロックの政治理論の要点を理解し、社会契約論に立っている。そのうえで、共和主義の立場から、イギリスの政体と植民地支配を批判するものとなっている。ただし、その主張の根拠は聖書であり、キリスト教原理主義とでもいうべき思想がつづられている。ペインは、ピューリタン革命で活躍したにミルトンの影響を受けたと見られる。また、ミルトンを通じて間接的に水平派の影響を受けたと考えられる。水平派は、人間はすべて神の前では平等であり、階級や貧富の差が存在することは聖書に反すると主張した。ノルマン人の征服を非難して、アングロ・サクソン時代の自由を回復すべきであると訴えた。ペインもまた聖書に基づいて、自由・平等を主張するとともに、ウィリアム征服王による統治権の強奪を非難した。ただし、ペインが水平派と異なるのは、富の平等を要求しなかったことである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●アメリカ独立宣言の思想

 1776年7月4日、大陸会議で独立宣言採択・公布された。独立宣言は、起草委員会でトマス・ジェファーソンが草案を作成、ベンジャミン・フランクリンとジョン・アダムスが若干の加筆修正を行って成案した。
 独立宣言は、前文の主要部にて言う。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主(Creator)によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる。また、これらの権利を確保するために人類の間に政府が組織されたこと、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形体といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、かれらの安全と幸福とをもたらすべしと認められる主義を基礎とし、また権限の機構を持つ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる」と。
 独立宣言は、上記の部分で、自然権、社会契約思想、「合意の支配」、革命権を謳っている。この内容は、ロックの思想を発展させ、自然権と社会契約説に基づいて人民の抵抗権を主張し、圧政下にある植民地の人民が自由独立の国家を建設することを公言したものである。
 独立宣言は、権利の根源を「造物主」に置く。ここにおける「造物主」は、基本的にはユダヤ=キリスト教的な神である。ユダヤ=キリスト教では、神(God)が天地を創造し、人間は神が創造したものであり、神の前で人間は平等であるとする。独立宣言は、その世界観に立って、すべての人間は平等に造られ、造物主によって、一定の不可譲の権利を与えられているとする。これを天賦人権論という。人権は、普遍的・生得的な権利であるという思想が、宣言の形で打ち出された。天賦人権論は、基本的にユダヤ=キリスト教の信仰に基づくものである。その宗教的信条を除くならば、権利の根拠を持たない概念が、独立宣言の人権の概念である。
 植民地アメリカの人民が本国から独立を勝ち取ろうとすると、イギリス本国の歴史や国王の存在から自己を断絶する必要があった。そこで、人々の権利は、歴史的・社会的・文化的に形成されたイギリス臣民の「古来の自由と権利」ではなく、神によって賦与された権利であるという論理が打ち出された。アメリカは、信教の自由を求め、新天地で宗教的理想を追求しようとしたピルグリム・ファーザーズに始まるピューリタンの国である。それゆえ、ユダヤ=キリスト教的な観念が、宣言で強調されたのである。人民の権利からイギリスにおける「臣民の権利」の歴史性が否定された。同時にそれに替わる権利の根拠として、造物主によって与えられたものということが強調された。この思想によって、権利は歴史の所産であり、祖先の英知の結晶であるという考え方を、独立宣言は否定したのである。
 独立宣言には、ロックやピューリタニズム以外にも重要な要素がある。ピューリタン革命における水平派やフリーメイソンである。独立宣言の思想は、その要素を踏まえて理解する必要がある。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 独立宣言は、ジェファーソンが草案を作成、ベンジャミン・フランクリンとジョン・アダムスが若干の加筆修正を行って成案した。ペインも作成に協力した。
 独立宣言は、前文で、圧政下にある植民地の人民が自由独立の国家を建設することを公言し、自然権、社会契約思想、「合意の支配」、革命権を謳った。そこには、ロックの思想が色濃く反映されている。ジェファーソンは、ロックを信奉していた。彼が起草した独立宣言は、「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主(Creator)によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」とあるが、「生命、自由及び幸福の追求」は奪いがたい天賦の権利と書いているのは、ロックが説いた生命・自由・財産の所有権のうち、最初の二つをそのまま取り入れ、最後の財産を幸福の追求に置き換えたものである。また、アメリカ合衆国は、ロックが市民社会の発生段階に想定した社会契約を、絶対王政下の植民地が独立して新たな国を建設するという全く異なる条件において、実現したものである。米国憲法は、前文に「われわれ合衆国の人民は(We the people of the United States)」と書いており、契約をした主体は、アメリカ人民である。人民が相互に契約を結んで作ったのが、合衆国である。ロックの社会契約論は、既存の国家の起源には当てはまらないが、新たな国家の建設には、有効な理論となったのである。
 独立宣言は、権利の根源を「造物主」に置く。ここにおける「造物主」は、基本的にユダヤ=キリスト教的な神である。ただし、この「造物主」は、理神論に立てば、ユダヤ教・キリスト教・フリーメイソンに共通する宇宙の創造者となる。アメリカを建国した指導者たちは、ピューリタンまたはキリスト教を信奉するフリーメイソンだった。独立宣言に署名した56人うちフランクリンを含む9人から15人がメイソンと見られる。独立宣言は、建国の指導者たちが共有し得る世界観に立って、すべての人間は平等に造られ、造物主によって、一定の不可譲の権利を与えられているとしたものだろう。人民の権利は、歴史的・社会的に形成されたイギリス臣民の「古来の自由と権利」ではなく、天賦の権利であるという論理が打ち出された。人民の権利から、権利の歴史性が否定され、権利の根拠として、造物主によって与えられたものということが強調された。この造物主は、単にユダヤ=キリスト教的な神ではなく、ユダヤ教・キリスト教・フリーメイソンに共通する神の理念ととらえたほうがよいだろう。
 独立宣言には、ロック、ピューリタニズム、フリーメイソンという3つの要素が融合していると私は見ている。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●フリーメイソン

 

フリーメイソンの起源には諸説あるが、学術的に有力なのは中世の石工つまり建設業者の職人組合に起源を求める説である。石工組合が近代的な結社に変わったとするものである。
 近代フリーメイソンは、1717年にイギリスに始まったとされる。この年、ロンドンにあったロッジ(支部)が集まって、グランド・ロッジ(本部)が結成された。ただし、これ以前からメイソンは、オランダ、イギリス等で活動したことが知られている。

「近代フリーメイソンの父」と呼ばれるジャン・デザキュリエは、牧師で自然科学者、権威ある王立協会の会員だった。デザキュリエはニュートンの友人であり、ニュートンはロックの友人だった。ロックは名誉革命を裏付ける理論を提示した。革命の前は、オランダに亡命していた。1680年代のオランダでは既にメイソンが活動していた。ロックがメイソンだった確証はないが、周囲にはメイソンが多くいた。ロックがメイソンと交わり、メイソンの思想をよく知っていた可能性は高い。

 「自由・平等・友愛」というと、誰もがフランスの三色旗を思い浮かべるだろうが、これらはフリーメイソンの標語だった。ただし、この標語はメイソンが発案したものではない。もとはロックの『統治二論』である。ロックは、本書で、自然状態において完全に自由かつ平等である人間が、自然法と理性に基づいて行動し、正義と友愛という原理に導かれると説いている。それゆえ、フリーメイソンがロックの思想を摂取したと考えるべきだろう。

ロックは、人民の抵抗権・革命権を認める政治的主張するだけでなく、宗教的な寛容を説いた。イギリスでは、1689年にロックの主張に沿って宗教寛容法が制定された。非国教徒に対する差別を残し、カトリック教徒・ユダヤ教徒等には、信教の自由を認めないという限定的なものだったが、信教の自由の保障が一部実現した。宗教的寛容はイギリス以外でも取りいれられていった。またやがてユダヤ教もその寛容の対象に加えられた。

 フリーメイソンの活動が各地で広がると、カトリック教会は1738年にメイソンを破門に処した。メイソンの象徴や知識には、古代エジプトや古代ギリシャからの継承を思わせるものがある。その一方、当時の先端思想である自然科学や理神論的な道徳思想を取り入れていた。古代的神秘的象徴的なものと、近代的合理的科学的なものとが共存していた。彼らの活動の広がりは教権の秩序を揺るがすものだった。

 カトリック教会から破門にされたとはいえ、フリーメイソンはイギリスからフランス・アメリカ・ドイツ等に組織を拡大した。それによって、イギリスの啓蒙思想を、大陸の貴族や上層市民階層、アメリカの指導層等に伝えた。メイソンの活動は啓蒙思想を各地で急進化させた。啓蒙思想とフリーメイソンは分かちがたく結びつきつつ、アメリカ独立思想やフランス革命思想の源泉となった。

 フリーメイソンの思想は、国家・国民の枠を超える。メイソンの活動は、人間の権利を普遍的・生得的なものとする人権思想の発達を促し、人権思想の発達は、西方キリスト教文化圏で差別の対象とされたユダヤ人を利するものとなった。

フリーメイソンは、組織の原則として、宗教の違いを超えて会員を受け入れるという自由主義の傾向を持っていた。そのため、ユダヤ人が加入するようになり、やがてフリーメイソンの活動とユダヤ人の活動が同一視されるという誤解を生じるほどになっていくのである。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

●アメリカ建国におけるフリーメイソンの活動

 アメリカの独立と建国にいかに深くフリーメイソンが関わっていたか、消しようもないほど確かなものは、アメリカ合衆国の国璽である。国璽の裏には、フリーメイソンの象徴のひとつであるピラミッドが表されているのである。国璽とは、国家を表す印章である。大統領の署名した条約批准書、閣僚や大使の任命書など公式文書などに押印されるものである。それが、1ドル紙幣の裏側に印刷されている。国璽のピラミッドは、13段まで積み上げられた未完成のもので、13は独立時の13植民地を意味する。冠石に相当するところには、三角形の中に書かれた「万物を見る眼」が置かれている。古代エジプトを思わせるもので、ユダヤ=キリスト教発祥以前の文明を象徴している。
 ただし、フリーメイソンは、キリスト教を否定するものではない。フリーメイソンの象徴主義の最も古く、最も確実な基礎は、ヨハネ派のキリスト教的秘教主義とされる。ヨハネ派とは、バプテスマのヨハネと福音史家のヨハネを崇拝する宗派である。フリーメイソンはカトリック教会からは何度も弾圧されているが、イギリスでは上流階級の社交クラブのようなものとなり、国王が代々フリーメイソンの名誉会長を務めているという。

(「人権――その起源と目標」より)

●百科全書派

 

フランスでは1789年に市民革命が起こった。フランスは、近代化の先進国イギリスの思想の影響を受け、自由主義的な考え方が発達した。ただし、パリ盆地は平等主義核家族が支配的な地域なので、自由だけでなく自由と平等をともに社会における基本的価値とする思想が展開された。フランス人権宣言は「人間は、自由で、権利において平等な者として出生し、生存する。社会的な差別は、共同の利益のためにのみ設けることができる」と宣言した。ここには、ロックの思想を急進化させたルソーや百科全書派等の思想が反映している。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#フランス啓蒙主義から市民革命が胎動
 啓蒙主義は、フランス市民革命の原動力となった。フランスでは、モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー等が啓蒙思想を発展させた。
 フランス啓蒙思想の成果の一つが、「百科全書」である。科学や学問が発達しているイギリスでは、1728年に「チェインバーズ百科事典」2巻が刊行された。この事典には、フリーメイソンが関わっていた。編纂者も版元もメイソンだった。フランスの「百科全書」は、この事典を仏訳するという計画から始まった。途中から、ただ翻訳を出すのではなく、独自のものを作ることへと話が発展し、ディドロとダランベールが編集を担当した。「百科全書」は、1751年に第1巻が刊行され、72年まで続いた。総執筆者184人、当時のフランスの知識人が結集した。本文、図版合わせて全28巻となる大事業だった。
 編集者のディドロは哲学者・文学者で、イギリス経験論、特にホッブスの影響を受けて、理神論から唯物的無神論に転じた。「隠れたる神は無用の神」とするその考え方は、キリスト教的な神の啓示や現実を超越したものを否定し、人間の理性に一切の根拠をおく思想を産み出した。盟友のダランベールは数学者・物理学者で、剛体運動の理論を整え、ダランベールの原理を立てた。哲学的には感覚論者で、不可知論的傾向を示し、神の存在を疑った。ディドロは不明だが、ダランベールはメイソンだった。百科全書派にはメイソンが多くいた。
 執筆者の一人、モンテスキューは、ロックの政治理論を継承し発展させた。イギリスに2年間滞在して政治制度や社会制度を見学し、とりわけ深い関心をもって議会政治を学んだ。帰国後20年間かけて、思索と研究を重ね、イギリスの議会制度を模範にしながら近代政治の原理となる三権分立や両院制による権力の抑制理論を説いた理論書『法の精神』(1748年)を発表した。モンテスキューはメイソンだった。
 別の執筆者であるヴォテールは、イギリス滞在期に、ホッブスやロック、F・ベーコン、ニュートン等の書を読破し、イギリスの啓蒙思想家たちと親しく交わった。彼が最も刺激を受けたのが、リベラル・デモクラシーの政治制度だった。ヴォルテールの思想は、アメリカの独立運動やフランス市民革命に多大な影響を与えた。ヴォルテールは、晩年、フランクリンの導きで、「九人姉妹」のロッジに加入した。「九人姉妹」には、ラ・ファイエット、シェイエス、メーヌ・ド・ビラン、コンドルセらが属していた。百科全書派が多く、「百科全書家のロッジ」とも呼ばれた。
 ルソーも百科全書に執筆した。ルソーは、当時最も急進的な思想を提唱し、多くの知識人に対してとともにフリーメイソンに対して大きな影響を与えた。1750年半ばから60年代初めに、かけて、『人間不平等起源論』(1755年)、『社会契約論』(1762年)、『エミール』(1762年)を発表したルソーは、人間の自然・本性の回復を目指して人民主権に基づく政治体制を主張した。
 「百科全書」の執筆者には、他にコンディヤック、エルベシウス、ドルバック等がいた。百科全書派の多くは理神論を主張し、カトリック教会の権威に強く反発した。コンディヤック、エルベシウスは徹底的な感覚論者であり、ドルバックは唯物論者で無神論を唱えた。唯物論的傾向を強めるディドロらに対し、ルソーは異議を唱え、百科全書派から離れた。「百科全書」によって、かつてない規模での知識・情報の集積が進んだ点では画期的な大事業だったが、それを統合する世界観の違いから、百科全書派は分裂していった。

(「人権――その起源と目標」より)

●フランス革命におけるメイソン

 

#革命を主導したメイソンが争い合った

 「百科全書」の項目には、自然状態、自然法、政治的権威、主権者等、政治・社会思想を書いた者がある。百科全書派の政治・社会思想には、ロックの影響が強く見られる。絶対王政下のフランスでは、ロックの政治理論は、王政の打倒を目指すものへと急進化した。ロックの思想が、革命前のフランスで広まったのは、フリーメイソンによるところが大きい。アメリカではメイソンの活動は顕著であり、国家象徴にも定着した。フランス市民革命でフリーメイソンがどの程度まで関与したかは、よく解明されていない。ただ言えることは、啓蒙思想とフリーメイソンは分かちがたく融合して、フランス市民革命の思想的推進力になったということである。
 フリーメイソンは1738年カトリック教会から破門されたため、フランスではカトリック教徒はメイソンの結社を脱退し、残った者は無神論者の政治的結社として潜伏した。そこで結成されたのが、フランス大東社(グラン・トリアン)である。ド・シャルトル公爵が中心となり、後のオルレアン公ルイ=フィリップを長とした。大東社は、イギリスの組織から1756年正式に独立した。以後、フランスのメイソンは独自性を強め、また急進化した。
 百科全書派にメイソンが多くいたが、「百科全書家のロッジ」とも呼ばれたのが、「九人姉妹」ロッジである。1969年に結成され、ラ・ファイエット、シェイエス神父、メーヌ・ド・ビラン、コンドルセらが属していた。訪仏したフランクリンも所属し、ヴォルテールを加入させた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 フランス市民革命は、アメリカ独立革命の影響が旧大陸に波及したものである。ユダヤ人にとっては、アメリカにユダヤ人も自由に活動できる「自由の国」ができた後、フランスで市民革命を通じて、ユダヤ人の解放がされることになった。

 フランスでは、早くからロックの思想が摂取され、急進化していた。また、18世紀後半のフランスでは、フリーメイソンが活動していた。絶対王政やカトリック教会を批判した啓蒙主義者、百科全書の編纂者等には、メイソンがいた。また市民革命の指導者には、多くのメイソンがいた。

 フランス啓蒙思想は、イギリス啓蒙思想を源流として発達した。その発達には、フリーメイソンの組織と活動が関係している。

 フランス啓蒙思想の成果の一つが、『百科全書』である。1751年に第1巻が刊行された『百科全書』は、イギリスのチェインバーズ百科事典のフランス語訳を、ドゥニ・ディドロが行ったことを契機とする。チェインバーズ百科事典は、編纂者も版元もフリーメイソンだった。ディドロは不明だが、盟友のジャン・ル・ロン・ダランベールはメイソンだった。百科全書派は、総じてメイソンの影響を強く受けている。
 ディドロは、イギリス経験論、特にホッブスの影響を受けて、「隠れたる神は無用の神」という表現で、無神論を表明した。彼の「神を無用なもの」とする考え方は、キリスト教的な神の啓示や現実を超越したものを否定し、人間の理性に一切の根拠をおく思想を産み出していく。
 百科全書の執筆者の一人、シャルル・ド・モンテスキューはメイソンだった。モンテスキューはイギリスに2年間滞在して政治制度や社会制度を見学し、ロックの政治理論を継承した。イギリスの議会制度をもとにして、近代政治の原理となる三権分立や両院制による権力の抑制理論を説いた「法の精神」で知られる。
 別の執筆者であるヴォテールは晩年、フランクリンの導きで、メイソンの「九人姉妹」のロッジに加入した。「九人姉妹」には、
ラ・ファイエット、シェイエス、メーヌ・ド・ビラン、コンドルセらが属していた。イギリス滞在期に、ホッブスやロック、ベーコン、ニュートン等の書を読破し、イギリスの啓蒙思想家たちと親しく交わった。彼が最も刺激を受けたのが、リベラル・デモクラシーの政治制度だった。ヴォルテールの思想は、アメリカの独立運動やフランス市民革命に多大な影響を与えた。
 ジャン・ジャック・ルソーも百科全書に執筆した。ルソーは、当時最も急進的な思想を提唱し、フランスのフリーメイソンに影響を与えた。1750年ごろから、『人間不平等起源論』『エミール』『社会契約論』等を発表したルソーは、自由と平等ができるだけ抑制されない人民主権に基づく共和制の樹立を主張した。ここに初めて共和主義が理論として登場した。
 ルソーの思想に心酔する者は、ジャコバン・クラブに多かった。その一人が、マクシミリアン・ロベスピエールである。革命の震源地となったジャコバン・クラブには、フリーメイソンが多かった。ジャコバン・クラブより急進的なコンドリエ・クラブには、ダントン、マラー等が属していたが、うちマラーはメイソンだった。

 フリーメイソンがフランス市民革命にどの程度まで関与したかは、よく解明されていない。ただ言えることは、啓蒙思想とフリーメイソンは分かちがたく融合して、フランス市民革命の思想的推進力になったということである。

 フランス市民革命でフリーメイソンは活躍した。しかし、団員の中には、さまざまな人物がいた。個々に思想や立場が異なっていた。メイソン同士が意見の違いから対立・抗争した。大東社の中心的存在だったド・シャルトル公爵はギロチンで処刑された。急進派のマラーは暗殺され、穏健派のコンドルセは服毒自殺した。

 それゆえ、18〜19世紀のフリーメイソンを強固に団結した陰謀団体と見るのは、不適当である。参加者はフリーメイソンの教義や規約よりも、各自の抱く思想や利害で行動した。ロシア革命を遂行したボルシェヴィキ、後のソ連共産党や、ワイマール共和国で権力を掌中にしたナチス等に比べ、フリーメイソンはもっと緩やかな集団と見るべきである。

 メイソンは一枚岩ではなかった。だが、熱狂と混乱の中で、フランス革命は進んだ。ユダヤ人にとって重要なのは、革命の結果、ユダヤ人解放令が出されたことである。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

●ルソー

 

 ルソーは、『社会契約論』で言う。「人間が社会契約によって喪失するものは、その生来の自由と、彼の心を引き、手の届くものすべてに対する無制限の権利とである。これに対して人間の獲得するものは、社会的自由と、その占有する一切の所有権とである」と。そして、人間本来の自由・平等を回復するためとして独自の理論を説いた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#ルソーの矛盾と言行不一致
フランス革命において、思想の面で重要な役割を果たしたのが、ルソーとシェイエスである。

 ジャン・ジャック・ルソーは、18世紀の西欧で最も急進的な人民主権の思想を説き、多くの知識人に影響を与えた。17世紀以降の人権の思想から、今日世界的に影響を与えているロック=カント的な人間観が生まれたが、ロックとカントを結びつける位置にいるのが、ルソーである。
 ルソーが一貫して主張したのは、人間の本来の姿の回復だった。人間は自然状態では、自由で幸福で善良だったが、自ら生み出した制度や文化によって、かえって不自由で不幸な状態に陥り、邪悪な存在と成り果てている。だが人間は等しく尊い。互いを認め合う自由・平等の秩序こそ、本当の人間の姿であり、それを回復しなければならない、と説いた。
 ルソーは、1755年に出した『人間不平等起源論』で、自然状態を自由で平等な単独者の世界と想像し、それが否定された状態として社会状態を描いた。自然状態から社会状態への移行をもたらした原因は、財産の不平等であり、不平等の起源は私有財産だとした。62年の『社会契約論』では、自由と平等を取り戻すため、社会契約論を独自の論理で展開した。人民主権を主張して法の支配を求め、直接民主政の理想国家を提示した。同年続いて刊行した『エミール』では、当時のフランスの特権階級の教育がいかに人間の自然の発達を歪めているかを告発した。大地の上で額に汗して働く農民の生活こそが教育的機能を果たしていると指摘し、農夫のように働き、哲学者のように思索する人間の育成を教育の目標として示した。
 ルソーが著書に表したことは、絶対王政下のフランスでは危険思想だった。カトリック教会は『エミール』を禁書とし、パリの最高法院は逮捕状を出した。国外に逃れたルソーは、スイス、プロイセン、イギリスを渡り歩いた。お尋ね者の状態でフランスに戻ったルソーは、偽名を使って各地を転々とした。
 ルソーは、同時代及び後世の西洋人に多大な影響を与えた。フランス革命は、ルソーの思想に発奮した市民階級によって遂行された。革命の過程で重要な役割を演じたシェイエス、ロベスピエール、ナポレオンは、ルソーを信奉していた。カントは、ルソーから「人間を尊敬することを学んだ」と書いた。ルソーに啓発されたカントは、人間の研究に向い、ルソーの思想を哲学的に掘り下げ、市民社会や国際社会のあり方を説いた。人権の思想からロック=カント的な人間観が生まれる過程で、カントへのルソーの影響は重要である。
 だが、ルソーの主張には矛盾が多く、言行が一致せず、人格的にも破たんしている。ルソーは、『エミール』で、孤児エミールの成長物語を通して、子どもの本性を尊重して、自由で自然な成長を促すことが教育の根本であると主張した。だが、ルソーは自分が作った5人の子供をすべて孤児院に棄てている。『エミール』は教育理論の古典となっているが、酷薄非情な父親が高邁な子育て論を書いた偽善の書なのである。また、ルソーは、自然状態における人間の善良さを描き、人民の一般意志 volonte generale は常に共通の利益を目指すと強調した。だが、ルソー自身は猜疑心が強く、被害妄想の傾向が顕著だった。そのため、イギリス滞在時に世話になったヒュームと感情的ないさかいをし、非難合戦を繰り広げて、喧嘩別れした。それでフランスに戻ったのだが、その後もヒュームに殺害されるという妄想に取りつかれたまま、最後は悶死した。

(「人権――その起源と目標」より)


#不平等の起源を考察し、文明化を批判
 次に、人権に係る点を中心に、ルソーの思想について、具体的に見てみよう。
 『人間不平等起源論』の主題は、文明社会における様々な害悪は不平等によるとし、不平等の起源を考察し、文明社会を根底的に批判することである。
 ルソーは、自然状態を想定し、それを基準として文明社会を批判する。もっともその自然状態は「もはや存在せず、おそらくは少しも存在したことがなく、多分将来も決して存在しないような状態」だと言う。だが、その「単に仮説的で条件的な推理」による自然状態を基準に、ルソーは激しく文明社会を批判した。
 自然状態における人間、すなわち自然人は、孤立した生活を送る原始人である。その意味で自由と平等と独立を享有していた。ルソーの自然状態は、ホッブスの考えた利己心による戦争状態でも、ロックの考えた人々が理性に従って平和に暮らす状態でもない。自然人は、言葉もなく無知で理性も良心も発達していないから、善悪の観念もない。ただ「自己愛」と「憐憫の情」のみで行動している。ルソーはそこに人間の自然の善性の根拠を置いた。18世紀半ば、西欧には非西洋文明の「未開人」に関する報告がされていたので、ルソーは、そこから未開社会の人間を想像したのだろう。
 やがて自然状態は終結し、人間は社会状態に移行する時を迎えた。その決定的な原因は、私有財産の成立だとルソーは考えた。この点は、ロックと同じである。ルソーは、最初に土地を囲い込み、それを自分のものだとした者が「政治社会の真の創立者」だったという。土地の私有に注目した点も、ロックに通じる。ただし、ロックは、貨幣の発明による変化を重視した。一方、ルソーは、知力の発達と欲求の拡大が大きな役割を果たしたとする。人々が生産技術を高めたことが、忌まわしい富と欲望の増加へ導いたとし、文明化を問題視する。ルソーは、次のように書いている。「冶金と農業とは、その発明によってこの大きな革命を作り出した二つの技術であった。人間を文明化し、人類を滅ぼしたのは、詩人によれば金と銀であるが、哲学者によればそれは鉄と小麦とである」と。ルソーは、その結果、道徳的かつ政治的な不平等が生じたとする。そして、社会状態の最後の段階は専制政体であり、「不平等の最後の到達点」にある現在、もはや主人と奴隷の関係しかないとして、文明社会を激しく弾劾した。
 ところで、ルソーの主張には矛盾が多いと書いたが、それほど文明社会を批判するルソーは、「自然に帰れ」と訴えたのではない。「自然に帰れ」はルソー自身の言葉ではない。文明嫌いのはずのルソーは、文学や芸術を愛し、都市の生活に執着を示した。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#社会契約論を独自に展開
 ルソーは『社会契約論』の開始部に、「人は本来自由なものとして生まれた。だが、至る所で鎖につながれている」と書いた。
 本書の主題は、『人間不平等起源論』における考察を踏まえて、自然人がかつて持っていた自然・本性、すなわち自由・平等・善良等を、いかにすれば取り戻せるか、そのためにはどういう社会に改革すべきか、である。ルソーは、本書で人民主権による社会契約の原理を述べ、奴隷的な状態にある人民が、社会の主人となって政治に参加することにより、精神的・道徳的にも本来の姿を回復し得ることを説いた。
 ルソーは、私有財産が発生し、不平等が拡大したため、人民は契約によって自然状態から社会状態に入ったという。ルソーによれば、契約とは自由にして平等なものとして生まれた人間が、社会生活の必要上、自発的に結ぶものである。
 ルソーは想定する。自然の状態を保つために各個人が使うことができる力が、その自然の状態における保存を妨げる障害に勝つことができなくなった、と。この状況では、「自己保存のためには、力を集合して力の総和を作って、障害の抵抗を克服できるようにし、ただ一つの原動力でこれらの力を動かし、そろって作用させるよりほかに方法はない」。もはや自然状態に止まることができなくなったために、人間は社会契約をせざるを得なくなったとルソーは推測する。
 人々の力の総和によって社会契約が成立するとき問題になることは、「共同の力をあげて、各構成員の身体と財産を防御し、保護する結合形態を発見すること」である。また「この結合形態によって各構成員は全体に結合するが、しかし自分自身にしか服従することなく、結合前と同様に自由である」ことが可能となる、とルソーは言う。
 私見を以て補うと、力とは能力であり、能力は集団において合成される。合成された能力は権力としても働く。権力は権利の相互作用を力の観念でとらえたものである。自由とは、自由な状態への権利であり、自由に行為する権利である。
 社会契約において、究極的な条項は、次の条項に帰着するとルソーはいう。「各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すこと」。
 この時、各人は、すべての人に自らを与えても、結局は誰にも自らを与えないことになる。自らが譲ったのと同じ権利を得ない者はいない。したがって、各人はすべての人と同じものを持ち、また自らが持っているものを保存するためのより以上の力を得ることになる。ルソーは、このような社会契約について、次のように言っている。「われわれの誰もが自分の身体とあらゆる力を共同にして、一般意志の最高の指揮のもとに置く。そうしてわれわれは、政治体をなす限り、各構成員を全体の不可分の部分として受け入れる」と。
 ルソーは言う。「人間が社会契約によって喪失するものは、その生来の自由と、彼の心を引き、手の届くものすべてに対する無制限の権利とである。これに対して人間の獲得するものは、社会的自由と、その占有する一切の所有権とである」と。
 ルソーは、社会契約を権力者との服従契約ではなく、主権者たる人民相互の間の結合契約とした。この分け方ではホッブスはもちろん、ロックも服従契約説になる。ただし、ロックの場合は、君主も服従する。ルソーの契約は、全員一致による約束である。個人個人が結合することで、彼らが主権者であると同時に国家の構成員となる。契約の目標は、平等な構成員による「共和国の建設」である。共和国 republique とは、ルソーの場合、一般意志の表現としての法が支配し、市民の自由と権利を保証する国家を意味する。その条件を満たす限り、君主政でも貴族政でも民主政でも、共和国と呼ばれる。
 社会契約で生まれる国家について、ルソーは、次のように言う。「共同体が形成される時、各構成員は現在あるがままの自己、すなわち彼自身とあらゆる力を共同体に譲り渡す。この時、構成員の占有する財産も彼の力の一部である」「国家に捧げた生命さえ、国家によってたえず保護されている。国家防衛のために生命を危険にさらず時でも、国家から受けたもの国家に戻す」に過ぎない、と。
 共同体国家においては、権利より義務が強調される。「市民は、法が危険に身をさらすことを要求する時、もはやこの危険を云々する立場にはない。施政体が『お前の死ぬのは、国家のためになる』と言えば、市民は死ななければならない。それまで彼が安全に生活してきたのは、そういう条件下においてのみであり、その生命はもはや単に自然の恵みではなく、国家の条件つきの贈り物であるからである」と。
 ルソーは、権力について、「私はあらゆる権力が神から由来することを認める」と書いている。ルソーにおける人民主権という権力は、神に由来するものである。主権とは統治権であり、統治の権利にして統治の権力である。ルソーは、主権者 Souverain について、能動的に法を作る能力を持つことを強調する。主権者は、集合的には人民 Peuple であり、個別的には市民 Citoyensである。人民は主権者であると同時に、臣従者 Sujects である。臣従者とは、この場合、君主に対する臣下ではなく、国法に従う者の意味である。ルソーによれば、主権者と臣従者は盾の両面であり、この二つの言葉の概念は、「市民」という一語に合一する、と。
 ルソーは、国家忠誠の義務、国防の義務を当然のことと説く。ルソーの理論は、デモクラシーとナショナリズムを一体のものとして提示する。国民国家の理論となっている。注意しなければならないのは、ルソーの社会契約論は、一面において現実の国家の由来を説明する仮説であり、他面において現実の国家を変革してこれから建設すべき国家の目標を説く構想であることである。前者の場合、契約は過去に行われたと想像される行為であり、後者の場合、契約は将来行うべきと提案する行為である。歴史が示すところでは、同時代のヒュームが示したように、過去にそのような契約で国家が設立された事実はない。それゆえ、ルソーの社会契約論は、これからなされるべき契約の構想を提示する理論である。
 ホッブスは、社会契約は国家を設立し、正義を実現するためのものだとした。契約に反することは不正義であり、契約を守らせるように強制する権力は正義の権力であるとして、絶対王政を擁護し、主権者に対するあらゆる反逆は不正義とした。ロックは社会契約が行われるのは、自然状態の正義が失われ、不正な状態になったのを解消するためとした。絶対王政は社会契約を締結した人民に対して不正義の体制であるとして市民革命を正当化した。ルソーは、ロックの思想を急進化した。ルソーによると、社会契約は正義を実現するためのものであり、正義が実現されなくなった社会契約は本来の意味を喪失している。そうした社会では、正義のために革命と新たな社会契約の締結が必要だと説いた。
 ここで本稿の主題である人権に関して書いておくと、ルソー流の社会契約による国家においては、自然人が持っていた人間性を回復することが、人間的な権利の獲得となる。人間的な権利が確保されるのは、法治国家においてである。普遍的・生得的な人間の権利の観念は、国民の権利としてのみ現実化される。国家の主権あっての個人の人権である。集団の権利あっての個人の権利であり、集団の権利を守るために個人は献身しなければならない。自由・平等の権利の実現は、同時に善良な徳性の開発となる。このように、整理できるだろう。引き続き、ルソーの思想として、一般意志に基づく理想国家、市民的宗教、法治国家による国際平和について書くが、それらは普遍的・生得的な人間の権利に基づく理論ではなく、発達する人間的な権利の理論として理解されるべきものである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#一般意志に基づく理想国家を提示
 ルソーの政治理論は、国家の形成に関しては社会契約論であり、主権に関しては一般意志の理論である。
 ホッブスは自然状態に「万人の万人に対する闘争」を想定した。戦争状態を克服するために絶対的権力を導き出した。これに対して、ルソーは、人間の自然の善性を前提として、人民の一般意志のみが絶対であり、善であるとする論理で、絶対的権力を導き出した。そして、ホッブスの絶対主義的な主権論を人民主権論へと転換した。一般意志の理論は、徹底した人民主権の理論である。そこから理想の国家が説かれる。
 ルソーによると、一人一人の個別の利害や関心は「特殊意志」である。これを足し合わせたものは、「全体意志」である。全体意志は、個々人の利益の総和でしかないが、一般意志はただ共通の利益を考慮する。人民の一般意志は、常に公共の利益を目指すものであり、絶対的であって、誤ることがないという。
 ルソーにおいて、主権は、一般意志の行使である。主権は譲渡することができない。なぜなら、主権は一般意志の行使でしかなく、一般意志は譲り渡されたり、移されたりすることはできないからである。主権は分割することができない。主権が譲渡できないと同じ理由によってである。一般意志を分割すればそれは特殊意志となり、特殊意志の行使では主権となることができない。主権は一般的約束の範囲から出ることはできない。いかに絶対的であり、神聖で侵すべからざるものであっても、主権は市民に対して理不尽な要求をすることはできない。
 社会契約によって各人は自己の力と自由を全面的に譲渡するが、その国家が一般意志の実現である限り、各人は一構成員として平等の権利を持つ主権者となる。主権者の行為は、公の利益を目指す一般意志に導かれ、「すべての国民のための政治」を実現する行為となるという。
 一般意志が常に正しいと言えるには、公衆の「啓蒙」が不可欠だとルソーは主張した。正しい政治的決断を行うには、理性の働きが必要である。集団の一人一人が、自らの意思を理性に一致させるようにすることによって、はじめて一般意志を論じ得るとした。
 ルソーは、一般意志は、法律に全面的に表現される、法は一般意志の表明である、とする。だが、人民は何が真の共通の利益であり、また何が真の幸福であるかを必ずしも知っているとは言えない。ルソーは、主権者である人民が正しい善の観念を以て行為することができるように啓蒙する役目を持つ者が必要だと考える。それが立法者である。
 立法者は、主権者である人民が議論をして、共通する利益を表す一般意志をもって、法を作る際、それが公共の利益に適っているかどうかを判断する。立法者は、権力も利害関係も持たずに、公平と明知をもって洞察のできる「すぐれた知性の人」「非凡な人間」でなければならない。ルソーは、古代スパルタの「神のような立法者」リュクルゴスを、その模範とする。リュクルゴスは、特異なスパルタの鎖国制や軍国主義的な市民生活を定めた伝説的な立法者である。
 ややこしいのは、立法者と言っても、主体的に法を立案・制定する者ではない。立法者は立法権を持ってはいけない。立法者は主権者でもなければ、行政官でもない。役割は、啓蒙だとする。立法者は、国家の一員でありながら主権者ではなく、立法に関わりながら自分自身は立法権を持たない。外国人の法律顧問のようでもあり、人民を啓蒙する精神的指導者のようでもある。最終的に法を審判する権限があるわけでもない。ルソーは、「人民自ら承認したのでない法律は無効であって、断じて法律ではない」と明言している。主権者としての人民があくまで主体である。
 ルソーにおいて、主権は立法権を主とする。政府は、法を執行する機関である。政府は、従来主権と混同され、絶対の権威を持つと見られてきたが、主権者たる人民の意思の執行機関に過ぎない。首長は、人民の主人ではなくて、「単なる役人」であり、「主権者が彼らを受託者とした権力を、主権者の名において行使しているわけであり、主権者はこの権力をいつでも好きな時に制限し、変更し、取り戻すことができる」とされる。
 ルソーの構想した理想国家は、ロックやモンテスキューが説いた議会制デモクラシーの国家や権力分立による立憲君主制ではなく、全人民を主権者とする直接民主政の国家だった。主権は、全構成員が参加する全体会議、いわば人民総会でのみ行使される。ただし、ルソーは、直接民主政をすべての西欧諸国で実現せよ、と主張したのではない。そもそもルソーは、民主政について「もしも神々から成る人民があるとすれば、この人民は民主政をもって統治を行うだろう。これほど完璧な政体は人間には適さない」と言っている。極限的な理想として提示しているだけなのである。また、ルソーは、租税の負担という点から、「君主政は富裕な国民にのみ適するものであり、貴族政は富から言っても大きさから言っても中くらいの国家に適し、民主政は貧しい小国に適する」と書いている。これらを比較し、それぞれの長所と短所を指摘し、どれも長く続くと欠陥が出てくる。それを防ぐために最低限、立法権と執行権は分けるべきと説いている。
 この論に従えば、フランスは豊かな大国だから、君主政が相応しい。フランスで目指すべきは、君主専制から民衆の政治参加へ、絶対君主政から制限君主政への改革だということになるだろう。しかもルソーは武力によって権力を奪取して社会秩序を打ち立てようとは、まったく考えなかった。ルソーは、武力は権利を与えない、それに屈服する義務はないとした。それゆえ、ルソーはフランスで武力革命を起こして、クロムウェルのように君主を除いて共和政を目指せ、と説いたのではない。だが、君主政の打倒を目指す者は、ルソーは人民主権の共和主義を説いたのだとし、自分たちの主張に利用してきた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#市民的宗教の必要を説く
 ルソーの理論は、単なる政治理論ではない。ルソーにとって、国家の問題は、同時に道徳の問題であり、宗教の問題だった。『社会契約論』には、巻末近くに「市民的宗教」の章がある。社会契約による国家に不可欠のものとして、宗教の必要性を説いている。
 ルソーは、まず宗教を、(1)寺院も儀式も伴わない福音書の宗教、(2)一国に固有の守護神を与える宗教、(3)二人の首長、二つの祖国を与える宗教に分ける。ルソーは、(2)(3)を斥け、(1)のプロテスタント的なキリスト教をよしとする。ちなみに、カトリック教会は(3)であり、悪しきものだと唾棄する。
 次にルソーは、「市民的宗教」の必要性を説く。「市民的宗教」は、市民に対して国家に生命を捧げる義務を愛させるような宗教である。キリスト教は地上の国家より天国を志向しており、それゆえにキリスト教徒の軍隊は弱い。ルソーは、キリスト教的でありながら愛国的であるような宗教が必要だとする。それを国教として強制しようというのではない。そういう宗教を個々の市民が自由に信仰できるようにすることが必要だと説いている。その一方、社会性の意識を欠き、国家への献身の義務を果たせない国民は、追放するという。これは多数による少数の排除を認め、それを以て一般意志の行使と称するわけだろう。
 ルソーは「市民的宗教」の教義について、「全知全能で慈愛に満ち、すべてを予見し配慮する神の存在、来世の存在、正しい者の幸福、悪しき者への懲罰、社会契約と法律の神聖性」を積極的教義とし、「不寛容」を消極的教義として挙げる。キリスト教と社会契約説を融合させた教えであり、それに対して国家献身の義務を説くものである限り、他宗教を許容すべきと説く。ユダヤ教を許容するかどうかは、明言していない。
 ルソーを利用する共和主義者には、キリスト教徒も非キリスト教徒も無神論者もいる。彼らの多くは、ルソーの理論は人民主権の共和主義だとしながら、その理論に不可欠な「市民的宗教」という要素を除去している。だが、デモクラシーとナショナリズムを一体のものとするルソーは、政治と宗教の関係を考察して、国民国家の理論を説いているのである。ナショナリズムと宗教を無視して、ルソーの思想を個人主義的な共和主義や無神論的な社会主義に仕立てるのは、恣意的な歪曲である。

(「人権――その起源と目標」より)

#国際平和への道を素描
 ルソーは、『社会契約論』の結びに、国際平和の実現の検討が残る課題だと記した。この検討における先駆者は、サン・ピエール神父である。サン・ピエールは、18世紀初めスペイン継承戦争を終結させるためのユトレヒト会議に参加し、これを契機に『ヨーロッパの恒久平和』(1713〜17年)を著した。欧州連合の案を示し、フランスを中心とする国際平和組織を構想し、「諸国民の最高法廷」の設置の必要を説き、その権威によって戦争の害悪を除こうとした。
 ルソーは、サン・ピエールの理論を批判した論文で、戦争と平和について書いた。国際社会は、ほとんど戦争状態にある。これを世界国家という高次の社会状態に発展させることを、ルソーは「人類にとってのこのうえもなく偉大で美しく、有益な」課題だと書いた。ルソーが残した素描は、その後の国際平和論の基礎となるものとされてきた。
 ルソーは、戦争は人類の最大の災厄である専制政治と結びついていることを指摘する。国際平和の達成のためには、各国家が人民主権とデモクラシーの政体となり、専制的な統治者の恣意という戦争の原因を取り除かねばならない。しかし、国際社会の現状は、戦争状態に近く、まれに平和状態になっても、一時的な休戦にすぎない。国内では専制を廃止しても、国家間の事情は変わらない。人民主権とデモクラシーの国家が結合して、諸国民が平等な資格で参加し、個人も人民も等しく法の権威に従う国家連合を、ルソーは構想した。カントは、ルソーの国際平和論を発展させて、『永遠平和のために』を書いている。
 18世紀半ばの西欧では、既に近代資本主義が発達し、工業化が進みつつあった。国際社会の主要な構成員となり得るのは、大国である。ルソーは、大国には君主政が適しているというから、専制を廃止したイギリス型の制限君主政の国家が連合を結ぶという構図となるだろう。ルソーが理想とするような農業生産を基礎とする小国が、国際社会の主要な構成員とはなり得ない。小国の平和的併存は、18世紀のヨーロッパでは、もはやまったく現実的でない。
 民主政の国家こそが国際平和を建設し得るのではないかという見方については、ルソー自身が疑問を投じるだろう。ルソーは、民主政について次のように書いている。「民主政もしくは人民政体ほど内乱や国内の動揺を招きやすい政府はない」「なぜなら、これほど激しく、しかも絶え間なく政体を変えようと躍起になっている政体は他にはなく、また現下の形態を維持するために、これほど警戒と勇気を要するものはないからである」と。そのうえ、ルソーは言う。「もしも神々から成る人民があるとすれば、この人民は民主政をもって統治を行うだろう。これほど完璧な政体は人間には適さない」と。
 ルソーは、君主政、貴族政、民主政を是認しているが、この点は人民主権とどういう関係になるか。どの政体もみな自然状態から社会状態への移行の際には、社会契約によって設立された国家が採っている政体である。もとが全員による社会契約であれば、人民主権における人民は、君主や貴族を含む人民となる。
 人民主権の国家においても、政治を行うためには、首長を選任する必要がある。その首長が法の支配による政治を行えば、その国家は自由と平等が比較的保たれた国家となる。仮に古代において、優れた首長を出した家系が代々首長を出すこととなり、その家系が善政に努め、人民の支持を維持し続けた国があるとすれば、理想的な君主政国家となる。皇室を中心とするわが国の国体は、その世界史にまれな実例となっている。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#矛盾多きゆえの影響力
 ルソーの主張には矛盾が多く、ルソーほど解釈や評価の別れる思想家は、珍しい。ルソーは高い理想を説き、読む者の気分を高揚させる。それでいて、その理想がほとんど実現不可能であることを説く。立法者の重要性を強調したうえで、立法者はリュクルゴスのような神的な人物であるべきとする。民主政の素晴らしさを描いておいて、「これほど完璧な政体は人間には適さない」と言う。神的な人物が立法者となり、全国民が神々のように高い徳性を持つ国。それは、政治的な目標というより、宗教的・道徳的な理想である。「神々から成る人民」でもなければ、一般意志に基づく民主政は不可能なのである。そのため、ルソーの理想を吹き込まれて精神が高揚した多くの人は、理想の頂点と現実の深淵の間で、引き裂かれることになる。
 ルソーの社会契約による国家は、家族的結合をもとにした氏族的・部族的共同体のような自然的生命的な集団ではない。族長と成員が生命を共有する共同体であれば、指導者と全員の意思が一致することが考えられる。だが、ルソーが想定するのは、自由で平等な個人が自らの意思で結成した集団である。政治結社であれば、意思の一致する者のみで集団を結成できる。しかし、一定の領域に居住する人々の場合、宗教宗派の違う者や民族の異なる者がいれば、完全な意思の一致は難しい。
 ルソーは、征服・支配による自然状態から社会状態への移行をよく検討していない。移行は内部的な要因だけでなく、外部的要因によっても起こり得る。歴史が示しているのは、主人―奴隷の関係は、多くの場合、異民族間の支配関係である。そのため、武力による支配を正当化し、固定化するために法が作られる。法の強制力は、根本的には権威ではなく、武力による。社会契約説は、ルソーにおいても、国家の起源論としては欠陥理論である。
 立法について、ルソーは、公衆の「啓蒙」と各自の道徳的努力を行えば、全体意志は一般意志と一致し得るとする。それは、極限における一致だろう。意思決定は、多くの場合、多数決となる。全会一致以外は一般意志の表明と認めない。あくまで全会一致をめざせというのかと思いきや、多数決の決定は一般意志の表明だ、とルソーはいう。だが、99対1と51対49は同じではない。99対1であっても、その1がソクラテスであったとすれば、真の賢者のみが反対したということになる。立法の過程では、合意形成のために修正や妥協がしばしば行われる。その結果制定された法は、そのまま一般意志の表明とは、言えない。また、そこで合成された意思が、単なる全体意志ではなく一般意志であるかどうかを誰が判断できるのか、そしてその判断者となる立法者を誰が選任できるのかという問題がある。
 全会一致は、必ずしも最善の意思決定とは限らない。全会一致で愚かな決定や狂気の行動をすることも、集団にはある。逆に意見対立が鋭くなり、双方が絶対に譲歩・妥協できない状況となることもあり得る。対立が激化すれば、集団は分裂する。集団が分裂すれば、権力は変動する。主権は分割される。譲渡も簒奪も起こる。ルソーは、権力の動力学を具体的に把握できていない。
 次に執行については、合成された意思は、最終的に執行者によって発動される。完璧な法ができれば、自ずと理想的な政治が行われるのではない。意思決定の参加者と仕組みがどうであれ、執行する場面では、執行者個人または執行機関の意思が働く。いかなる法であっても、権力者はこれを勝手に解釈できる。法を無視し、実力の行使を以て統治することもできる。意に沿わなければ法の効力を停止して、直接権力による政治を行い得る。クーデタや独裁政治がこれである。選挙による任免だけでは、独裁者の出現を防ぎ得ない。むしろ、人民の支持によって独裁者は現れ、しばしば人民の名のもとに専制を行う。フランス市民革命は、ルソーの思想の欠陥や限界を検証する歴史的な題材となっている。
 フランス革命の権力闘争で、ルソーの思想を独自の理解で実行したのが、ロベスピエールとナポレオンだった。革命過程で最大の権力を振るったこの二人は、ともにルソーを信奉していた。
 ロベスピエールはルソーの最大の賛美者であり、徹底した擁護者だった。ルソーは、農業生産を基盤とする直接民主政の小国家を理想とした。ただし、直接民主政は人民の道徳的向上が必要とし、「神々からなる人民」でなければ、不可能であることを示唆した。だが、ロベスピエールは大国で豊かなフランスで、君主政を倒し、人民主権を実力闘争で実現しようとした。その結果、独裁を行い、恐怖政治を進めた。ルソーの説く市民的宗教を模して、「至高の存在」を祀る祝典を行った。独裁者は反発を買って敗死した。
 ナポレオンは、若年期における知的形成で、ルソーから最大の影響を受けた。ナポレオンは、民主的な選挙によって終身統領になり、さらに自らの意思で皇帝になった。ルソーが大国で豊かな国にふさわしいとした君主政を自らの手で創設し、法治主義の帝国を築こうとしたのだろう。皇帝ナポレオンは、武力によって自由と平等の理念をヨーロッパ諸国に広めようとした。だが、大戦争の果てに、流刑の地で死んだ。ルソーの理論は、一国のナショナリズムの形成を促進するものではあっても、国際社会に広く受け入れられるものではなかった。
 ロベスピエールとナポレオンは、ともにフランス革命が生んだ国家指導者である。ともに民衆の支持を受けて、独裁を行った。彼らが出現する土壌となる思想を提示したのは、これもルソーの影響を受けたシェイエスだった。シェイエスについては、次の項目に書く。もう一人、ルソーの影響を受けた重要な人物が、カントである。カントは、ルソーの矛盾が多く多義的な著作から要点を取り出して、哲学的に発展させた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 ルソーは、ロックの思想を急進化した。ルソーによると、社会契約は正義を実現するためのものであり、正義が実現されなくなった社会契約は本来の意味を喪失している。そうした社会では、正義のために革命と新たな社会契約の締結が必要だ、とルソーは説いた。ロックは抵抗権・革命権を説いて、名誉革命や米独立革命の理論を提供し、ルソーは人民主権を説いて、フランス市民革命に思想的な影響を与えた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

・フランス市民革命と人権宣言

 1793年、ルイ16世と王妃マリー=アントワネットは、断頭台(ギロチン)で処刑された。このことは、諸外国の王族・貴族に衝撃を与えた。イギリスが中心となって第1回対仏大同盟が結成された。外圧による危機が高まるなか、国民公会でジャコバン・クラブの急進共和主義者が主導権を握った。より急進的なコンドリエ・クラブからもこれに合流した。彼らをモンターニュ派と呼ぶ。その中心指導者のロベスピエールやダントンは、ジロンド派等の反対派を次々に断頭台に送って処刑した。国王が処刑されて君主制が廃止され、共和制が実現し、独裁者が登場し、粛清が行われたという展開は、まるでイギリス・ピューリタン革命の悲劇の再演である。
 恐怖政治の最中、エベール等の過激派によって、理性を神格化した「理性の祭典」が行われた。過激派は、カトリック教会の破壊や略奪を強行した。ロベスピエールやダントンは、無秩序が広がるのを恐れ、過激派を逮捕・処刑した。その後、独裁者となったロベスピエールは、94年「至高の存在の祭典」を行った。ロベスピエールは無神論に反対し、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と主張し、カトリック教会の神観念に代わるものとして、「至高の存在」を祭壇に祀った。

(「人権――その起源と目標」より)


 18世紀後半のフランスでは、フリーメイソンが活動していた。ロックの思想は、フランスのメイソンにも影響を与えていた。絶対王政やカトリック教会を批判した啓蒙主義者のモンテスキューやヴォルテール、百科全書を編纂したダランベール等はメイソンだった。革命の指導者には、多くのメイソンがいた。シェイエスはその一人である。メイソンは一枚岩ではなく、意見の違いから対立・抗争し、革命の混乱は深まった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#人権宣言の概要
 1789年の人権宣言は、正式には「人間及び市民の権利宣言(Déclaration des Droits de lhomme et du Citoyen)」という。人間の権利と市民の権利を宣言したものだった。国民会議が改称された「憲法制定国民議会(Assemblee nationale constituante)」が、1789年8月26日に採択した。1791年9月3日のフランス憲法がその一部としてそのままこれを取り入れた。
 人権宣言は、ホッブス、ロックの思想を継承し、ルソー、百科全書派が発展させた自然権や社会契約論に基づいている。作成に当たっては、アメリカ合衆国の独立宣言、米ヴァージニア州の権利宣言及び諸州の憲法における権利宣言が参考にされた。米国の各種の宣言は、アメリカ独立戦争に関係・従軍したフランス人が持ち帰り、多くの翻訳が行われた。国民議会の代表者たちは、これらの翻訳をもとに、人権宣言を起草した。
 人権宣言は、前文と17条で構成されている。前文は「国民議会として組織されたフランス人民の代表者たちは、人権の不知・忘却または蔑視が公共の不幸と政府の腐敗の諸原因にほかならないことに鑑みて、一の厳粛な宣言の中で、人の譲渡不能かつ神聖な自然権を展示することを決意した」と始まる。本文は、第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」と定めた。以下、政治的結合の目的と権利の種類、国民主権、自由の定義・権利行使の限界、一般意思の表明としての法律、法の前の平等、市民の立法参加権、適法手続きと身体の安全、罪刑法定主義、意見表明・表現の自由、行政報告、権利の保障と権力分立、所有の不可侵等を定めている。

(「人権――その起源と目標」より)

#「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」の根拠は何か
 人権宣言は、前文に、国民議会が「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」を宣言の中で展示することを決意したと記している。また第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」と定めた。ここには人間は生まれながらにして自由で平等な権利を持つという認識が示されている。その自然権の根拠は何か。
 人権宣言は、ホッブス、ロックが説いた自然権の思想を継承するものだった。ホッブス、ロックにおいて、自然権の概念は自然法の思想に基づく。自然法は、中世の西欧では神が定めた宇宙の法則であるとともに、神が人間に与えた道徳の原理を意味した。ホッブスは、人間は自然状態において、生まれながらに自然法によって認められる永久かつ絶対的な権利、自然権を持つとした。ロックにおいて、
自然法は、神の意思に基づく秩序の原理であり、神が人間に与えた理性の法だった。その神はユダヤ=キリスト教の神だった。アメリカ独立宣言は、明らかにロックの思想を継承している。独立宣言は、イギリス臣民の歴史的・社会的・文化的に形成・継承されてきた権利を否定し、「造物主(Creator)によって与えられた誰にも譲ることのできない権利」を主張した。ここにおける造物主は、明らかに北米プロテスタントが仰ぐユダヤ=キリスト教の神(God)である。
 これに比し、人権宣言は、独立宣言から権利の歴史性・身分性を否定する態度を継承したが、造物主が権利を付与したとは記していない。造物主には触れずに「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」という表現をしている。人間の権利を「神聖な自然権」としながら、自然権が神聖である所以、自然権の依って立つ自然法、さらに自然法のもとにあるものについても、具体的に述べていない。
 フランス市民革命では、一時カトリック教会が徹底的に弾圧され、教会財産が没収された。その点では、フランス市民革命は反カトリック的である。だが、プロテスタントの教義による新教対旧教という宗派闘争の運動ではない。また、全くキリスト教を否定しているのではなく、「反キリスト」ではない。
 ここで注目すべきことがある。人権宣言は、前文に「国民議会は、至高の存在(Etre supreme)の面前でかつその庇護の下に、次のような人及び市民の権利を承認し、かつ宣言する」と記していることである。「至高の存在」は、神聖な人格的存在にして崇拝の対象のようであるが、具体的な説明はない。ユダヤ=キリスト教の神のようでもあり、必ずしも特定の宗教に依拠しない超越的な存在のようでもある。ここで超越的とは、人間を超えたという広い意味である。「至高の存在」が「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」を人間に与えたとは書いていない。権利の根拠は明示されないまま、権利が承認され、宣言されている。
 そこで仮に自然権の付与者をユダヤ=キリスト教の神と理解すれば、人権宣言は独立宣言に近いものとなる。抽象化された超越的存在と理解すれば、人権宣言は半ば脱キリスト教化したものとなる。あるいはまた、付与者の有無に関係なく人間の権利は自然権であり、宣言はそれを確認したということのようでもある。これらのどれでもあり得るという幅のあるところに、人権宣言の特徴がある。どれかの方向を強調すれば、反発が起こる。反発は、対立・抗争に発展する。そういう可能性を内に秘めていたのが人権宣言だった、と私は考える。
 人権宣言の発布後、宣言の内に秘められていた対立・抗争の可能性は、現実のものとなった。宣言発布後、革命は誰も予想し得なかったほどの激動を続けた。人権宣言自体が書き換えられ、出し直され、また書き改められた。そして権利の付与者は遂に明示されず、「至高の存在」とは何かも明確にされないままとなった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

・理性の神格化と「至高の存在」の崇敬

 フランス市民革命は、啓蒙思想を思想的な原動力としていた。啓蒙思想は、名誉革命からフランス革命にかけての約100年間、欧米で広く影響力を持った思想である。自然科学の発達を背景に、人間理性を尊重し、封建的な制度や宗教的な権威を批判し、合理的思惟によって社会の変革をめざすものだった。啓蒙とは、理性の光を意味する。その啓蒙の時代の頂点にフランス革命は、しばしば位置付けられる。では、革命は、人間理性の光によって、無知の闇を追放するものとなったのか。否。人間理性による政治が行われるべきところ、狂熱の中でギロチンや虐殺、独裁が強行され、彼らが宣言した人権を無視する行為が横行した。
 1792年9月国民公会は王政の廃止と共和制の成立を宣言し、翌年ルイ16世と王妃マリー=アントワネットが処刑された。第1回対仏大同盟が結成されて外圧による危機が高まるなか、ジャコバン・クラブの急進共和主義者が主導権を握り、より急進的なコンドリエ・クラブからも一群が合流した。彼らモンターニュ派の中心指導者ロベスピエールやダントンは、ジロンド派等の反対派を次々に断頭台に送って処刑した。フランスに米国独立革命を伝えたトマス・ペインは、ジロンド派に近く、国王の処刑に反対したため、逮捕・投獄された。
 恐怖政治の最中、1793年、エベール等の過激派は「理性の祭典」を行った。「理性の祭典」とは、人間理性を神格化した儀式である。会場のノートルダム寺院では、「理性の女神」を女優が演じた。ヴォルテール、ルソー、フランクリン等の胸像が並べられた。フランス市民革命は、人間理性を賛美する思想が生み出したものだが、その思想の一つの頂点が「理性の祭典」といえるだろう。理性を神格化する過激派は、カトリック教会の破壊や略奪を強行した。ロベスピエールやダントンは、無秩序が広がるのを恐れ、エベール派を逮捕・処刑した。
 その後、独裁者となったロベスピエールは、94年「至高の存在の祭典」を行った。人権宣言の前文に、「至高の存在(Etre supreme)の面前で、かつその庇護の下に」とある、その「至高の存在」である。ロベスピエールは無神論に反対し、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と主張した。そして、カトリック教会の神観念に代わるものとして、「至高の存在」を祭壇に祀った。人権宣言では文言だけだった「至高の存在」が、崇敬の対象として持ち出された。祭典はロベスピエールが主催し、チュイルリーの庭園で行われた。この祭典は、ルソーが『社会契約論』で市民に国民的な義務を愛させるために必要だとした「市民的宗教」の実現を試みたものだった。
 その一方、パリでは、ギロチンによる断首刑が行われ、多い時は連日50〜60人にも達した。ロベスピエールは、盟友ダントンをも処刑した。闘争は国内各地に広がった。フランス西部のベェンデ地方では、女子供も含めて40万人もの農民が虐殺された。流血と破壊のなかで、革命による犠牲者は総計200万人にのぼったという。人権の主張と追求は、もともと闘争の中で行われてきたものだが、その闘争性が激しく発揮された。フランス市民革命において、理性の光を放射する啓蒙と、処刑と虐殺に熱狂する野蛮とは、表裏一体だった。
 ハンナ・アーレントは、人権宣言について、次のように述べている。「宣言の意味するところは、何が正であり何が不正であるかの基準を与えるのは、今後は人間それ自体であって、神の戒律でも自然法でも伝統によって聖化された過去の慣習や道徳でもない、ということ以上でも以下でもない」と。宣言における人間は、神や自然法からも、歴史や伝統からも離脱した人間である。そうした人間が正・不正の基準を与える者となったということは、いわば人間が神に成り上がったような状態である。
 人間理性を最高のものとすることは、人間の理性が神に近づいたのではなく、近代西洋人が自我膨張に陥ったのである。すなわち、人間の知恵への過信であり、自己過信である。深層心理学的に言うと、近代西洋文明における理性的な自我意識の確立は、無意識の抑圧を生み出した。抑圧された無意識のエネルギーは、時として破壊的な力を発揮することを、フランス革命は示している。

(「人権――その起源と目標」より)

 

シェイエス

 

 シェイエスは、神父だった。ルソーの影響を受けていた。フリーメイソンのロッジ「九人姉妹」に所属していた。ルイ16世が1789年に三部会を召集したとき、会議は議決方法をめぐって紛糾した。シェイエスは『第三身分とは何か』(1789年)を著し、「第三身分はこれまで無であったが、これからは権力を持つべきだ」と訴えた。
 シェイエスの言う国民は、第三身分のみを意味した。第一身分・第二身分は国民ではないとし、国民から除外した。国家の政治権力は第三身分のみに属すべきであると説いた。それゆえ、国民主権を説いても、国民全体の主権ではなく、第三身分による主権の奪取と独占を説くものである。シェイエスに呼応した第三身分は、独自に国民議会を結成した。マルクス=レーニン主義は、労働者階級によるプロレタリアート独裁を標榜したが、シェイエスは国民主権の名のもとに、第三身分という集団による独裁を煽動したのである。
 国民議会が発した人権宣言は、第3条に「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も、国民から明示的に発するものでない権威を行い得ない」と定めた。ここに明確に国民主権の原理が提示された。
 国民主権の原理は、シェイエスの思想に負うところが大きい。シェイエスは、国民主権の原理を次のように述べた。「国民(nation)はすべてに優先して存在し、あらゆるものの源泉である」「その意思は常に合法であり、その意思こそ法そのものである」「国民がたとえどんな意思をもっても、国民が欲するということだけで十分なのだ。そのあらゆる形式はすべて善く、その意思は常に至上至高の法である」と。
 これは明らかにルソーの論理を踏襲している。ただし、国民主権は、ルソーの人民主権と同じではない。人権宣言における主権者は、第三身分という集団であって、国民全体ではない。国王・貴族・聖職者は「国民」ではなく、よって主権者ではないという論理である。「国民」を自称する一部の集団が、権力を掌握したものである。そしてシェイエスは、国民すなわち第三身分の民衆を神のごときものへと理想化している。こういう理想化のもとで、国民主権の考え方が生まれ、国民主権を標榜する政府が誕生したのである。
 16世紀のボダンは、主権論で、「主権的支配者」である君主の上に立つ「世界中のすべての支配者に対する絶対的支配者」である神の存在を強調した。絶対君主は自らの自由意志に基づいて「法律」を作ることはできても、神法・自然法に合致しないものは、法律としての有効性を持たないとした。ところが、シェイエスの国民主権論は、主権者を君主から第三身分に置き換えるだけでなく、第三身分の意思は「常に至上至高の法である」として、もはや規制するものが、なくなっている。
 ルソーの一般意志は、人民全体が主権者であるときの、その人民全体の意思の意味である。ルソーは、一般意志は、常に公の利益を目指すものとし、一般意志に導かれる「主権者」の行為は、「すべての国民のための政治」を実現するものとした。ただし、ルソーは、一般意志が常に正しいと言えるには、「公衆の啓蒙」が不可欠だと主張した。正しい政治的決断を行うには、理性の働きが必要である。集団の一人一人が、自らの意思を理性に一致させるようにすることによって、はじめて一般意志を論じ得るとした。シェイエスは、ルソーの一般意志を自分の「共同意思」という概念に取り入れた。だが、各人が「その意志を理性と一致させる」というルソーの考えを排除した。「公衆の啓蒙」や各自の道徳的な努力もなしに、民衆が欲するものは、すべて善く、常に正しいとしてしまう。ルソーは、一般意志を実現するには「神のような立法者」が必要だとし、民主政について「これほど完璧な政体は人間には適さない」と説いた。しかし、シェイエスはありのままの民衆を神格化した。
 シェイエスは、ジロンド派に属していた。1789年の人権宣言を改定した93年のジロンド権利宣言の起草に当たった。ジロンド宣言は、第25条に「人権の社会的保障は、国民主権の上に基礎を置くものである」、第27条に「主権は、本質的に人民全体に存し、各の市民は、その行使に協力する平等の権利を有する」と盛り込んだ。ジロンド派は、ロベスピエールらのモンターニュ派によって、国民公会から追放・粛清された。シェイエスは、ギロチンを免れたが、幾人ものが断頭台の露と消えた。民衆は、公開処刑に喝さいを送った。
 ロベスピエールは、国民主権ではなく、人民主権を打ち出した。ルソーを信奉し、ルソーの一般意志論をシェイエスよりも徹底した。人民は people である。モンターニュ派憲法における権利宣言では、第25条に「主権は人民に存する。それは単一かつ不可分であり、消滅することがなく、かつ譲渡することができない」と定めた。主権は単一かつ不可分、譲渡不能というのは、その現れである。先に指摘したように、人民主権論では、主権を掌握した権力者は、人民の名において独裁を行うことができる。ロベスピエールは、恐怖政治を行った。人民主権論は、個人独裁の理論に転じ得る。この「人民」を「労働者階級」や「被抑圧人民」に置き換えれば、レーニンや毛沢東が出現する。
 シェイエスは、恐怖政治を生き延びた。1795年に穏健派によって総裁政府が出来ると総裁に指名された。ナポレオンと結んでクーデタを起こして統領政府を樹立すると、統領の一人となった。統領政府のもとで行った国民投票で、国民はナポレオンを終身の第一統領に選んだ。シェイエスは敗退した。国民は、さらにナポレオンを皇帝に選んだ。賛成357万余票、反対わずか2579票。シェイエスは、国民の意思は「常に至上至高の法」だとしたが、国民は選挙によって権利・権力を託した独裁者を、皇帝の座に就かせた。民衆を神格化したシェイエスは、集団の心理のダイナミズムを全く予測することができなかった。
 ロベスピエールとナポレオンは、革命の激動の中で命運尽きた。だが、シェイエスは、革命の初期から王政復古・七月革命の後まで生き延びた。このような人物の説いた国民主権や人権を無批判に受け継いではならない。

(「人権――その起源と目標」より)

 

・啓蒙主義とユダヤ人への影響

 

 アメリカ独立革命、フランス市民革命が起った18世紀は、啓蒙主義の時代だった。啓蒙主義は、自然科学の発達を背景に、人間理性を尊重し、封建的な制度や宗教的な権威を批判し、合理的思惟によって社会の変革をめざした思想・運動の総称である。17世紀後半のイギリスで始まり、18世紀にはフランス、アメリカ、ドイツに広まって、宗教思想、認識論、社会思想、経済思想、文学等の多様な領域で展開され、時代を支配する思潮となった。

 18世紀のドイツでは、啓蒙主義の影響下に、ユダヤ人哲学者モーセス・メンデルスゾーンが、ユダヤ人のキリスト教文化への同化を進めるハスカラー運動を唱道した。同化はユダヤ教の棄教またはキリスト教への改宗を伴う。メンデルスゾーンを精神的父と仰ぐユダヤ人啓蒙主義者は、ユダヤ人固有の文化を捨ててヨーロッパの世俗文化を学ぶことが、中世以来の社会的差別からユダヤ人を解放する前提であると考えた。彼らの唱道により、19世紀にかけて知識人を中心に同化が進んだ。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

●信教の自由を求める運動

 主権・民権・人権の歴史を市民革命の時代から各国別にたどってきた。ここで、この過程を横断的にも見るために、各国共通の要素として、信教の自由を求める運動、課税に反発する戦い、権利・権力の変動、ユダヤ人の自由と権利の拡大、家族的価値観の違いの影響の5点について補足したい。
 第1点は、信教の自由を求める運動である。西欧では、16世紀初めに宗教改革が起こり、17世紀半ばに主権国家が誕生し、絶対王政への反発から市民革命が起こった。この過程で人権の観念が発生し、人権の思想が発達した。この間の抵抗や変革のエネルギーは、主に信教の自由の希求と富の所有権の保守に発している。いわば精神的価値と経済的価値の追求である。
 信教の強制や制約は、人間の内面への介入である。宗教改革後、ドイツでは、16世紀半ばアウグスブルグの宗教和議がなされたが、皇帝がこれを軽視してカトリック教会と結び、皇帝権の強化を図ろうとした。これがきっかけとなって、ドイツ30年戦争が起こった。その結果、新教が全面的に公認された。フランスでは、ユグノーの虐殺への反発からユグノー戦争が起こり、ナントの王令で新教が公認された。イギリスでは、国王がカトリックとピューリタンの両方を弾圧したり、国教会を強制しようとしたりした。信教の自由の希求が、ピューリタン革命につながった。
 主権と民権と人権の歴史において、1648年のウェストファリア条約と1640〜60年のピューリタン革命は、重要なメルクマールである。これらはともに西方キリスト教改革なくして考えられないものである。
 宗教改革に始まる西欧の大変化は、ローマ=カトリック教会の精神的・政治的支配からの解放を目指す自由の希求が生み出したものである。信教の自由の希求が、社会に巨大な変革を引き起こした。人権の核心には自由がある、と
第1部第2章の自由に関する項目に書いた。自由な状態への権利が、人権と呼ばれる諸権利の中核にある。そして、近代西欧的な自由は、まず信教の自由として求められたのである。
 西欧における人権の発生・発達に関する限り、宗教改革はルネサンス、地理上の発見、近代西欧科学や資本主義の発達よりも、重要な出来事だった。宗教改革は、個人の内面の自由の確立をもたらした。教会やその秘儀に依存しない個人が、聖書を手に自ら神と向き合う。この信仰態度は、キリスト教の信仰の純化となる一方、個人の意識の発達、理性的な判断によるキリスト教の相対化、さらにはキリスト教の否定への可能性を開くものだった。
 17世紀後半、ヨーロッパで最も宗教に関する自由が拡大されていたのは、オランダだった。オランダでは16世紀最大のヒューマニストといわれたエラスムスが、「信仰に自由を」と主張した。またアルミニウス等の自由主義派も信教の自由を主張した。イギリスでは、これらの人々から影響を受けたロックが、キリスト教の中で正統と異端の区別をなくすだけでなく、ユダヤ教やイスラーム教などの異教徒も、信教の自由を保障されるべきだと主張した。ロックの『寛容についての書簡』は1689年にオランダ、イギリスで出版され、同年イギリスではロックの主張に沿って宗教寛容法が制定された。これは非国教徒に対する差別を残し、カトリックやユダヤ教徒、無神論者、三位一体説を否定する者等には、信教の自由を認めないという限定的なものだったが、信教の自由の保障が一部実現した。宗教的寛容はイギリス以外にも広がっていった。
 人権は、キリスト教的な神から人間に生まれた時点で付与されている権利として観念された。しかし、それはまた、西欧人のキリスト教からの自由の確保・拡大に伴って発達した。キリスト教の中で発生し、キリスト教から脱して発達したのが、人権の観念である。信教の自由の希求は、思想・信条の自由の希求として、より広い精神的な自由の拡大を求めるものとなった。この延長上に、守るべき自由とは個人の選好である、という現代のリベラリズムの思想が現れる。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●人権の思想史

 人権の思想は、西欧の近代化の過程の中で発達した。私は、西欧の近代化は、心の近代化に始まったという見方をしている。心の近代化とは、マックス・ウェーバーの「呪術の追放」つまりアニミズム的・シャーマニズム的な世界観の駆逐を皮切りに、宗教における合理的態度が形成され、合理主義が思考・行動・制度の全般を支配してきつつあることである。その進展に伴い、西欧では生活全般の合理化が進んだ。すなわち、文化的・社会的・政治的・経済的な近代化が全般的に進行した。心の近代化は、全般的合理化の開始点であり、またその過程の中心部分でもある。心の近代化の過程で、人権の思想は発達した。人権の思想の発達は、心の近代化の過程の一部である。心の近代化について詳しくは、拙稿「心の近代化と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ」をご参照願いたい。その論稿は、人類の文明に巨大な変化をもたらした近代化を、“心の近代化”という角度から検討し、世界的な危機の解決の道を見出そうとしたものである。本章は、その論稿を土台として、人権の思想について検討するものである。
 人権の思想の起源は、トマス・ホッブスの自然権とピューリタン革命期の水平派の生得権にあり、ジョン・ロックがこれを政治理論化した。ロックの思想はフリーメイソンと結びつき、アメリカ独立革命、フランス市民革命の推進力となった。人権の思想は独立宣言・人権宣言に盛り込まれ、イマヌエル・カントによって哲学的に掘り下げられた。世界人権宣言のもとには、こうして形成されたロック=カント的な人間観がある。その人間観は、キリスト教に基づくものであり、新たな人間観を創出し、真に地球的な人類文明を創造することが人類の課題である。本章はこのような認識と問題意識を以て書くものである。
 さて、人権の思想は、17世紀イギリスに発生した。17世紀は、科学革命の世紀としても知られる。西欧では、ルネッサンスの時代から実験と数式による科学が発達し、天動説から地動説へのコペルニクス的転回が起こった。トマス・クーンのいうパラダイム・チェンジである。それによって中世のキリスト教の教義による世界観は破綻を始めた。17世紀には、フランシス・ベーコンが帰納法による学問方法論を打ち立てるとともに、科学万能の思想を説いた。ルネ・デカルトは物心二元論・要素還元主義による認識方法を提示した。アイザック・ニュートンは機械論的自然観を完成した。機械論的自然観は、機械をモデルとする世界観であり、自然を外から与えられる力によって動く部分の集合ととらえるものである。また、化学・医学等様々な分野で自然の研究が進み、実験と観察にもとづく近代西欧科学的な世界観が形成された。こうした世界観の変化が、人権の思想の発生・展開の背景にある。ホッブスもロックも当時の科学に通じた思想家だった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●カント

 

 ホッブス、ロック、ルソー等が理論的に思考し、英米仏で権利として発達した自由を、哲学的に掘り下げたのが、カントである。今日世界に広がっている人権の思想は、自由を中心に、理性、良心、人格、自己の尊厳、同胞の精神等を説くものとなっているが、そこにはカントの影響があると私は見ている。

 カントは、『人倫の形而上学の基礎づけ』で、「自由こそは、それが普遍的法則に従ってあらゆる他人の自由と調和しうる限りにおいて、この唯一、根源的な、その人間性のゆえに万人誰しもに帰属するところの権利である」と書いている。

 人間の尊厳と個人の人格に関する項目に書いたが、カントは、アメリカ独立戦争やフランス革命を同時代として生きた。西欧近代科学の発達する時代にあって、科学と道徳の両立を図った。宗教の独自性を認め、科学的理性的な認識の範囲と限界を定めつつ、神・霊魂・来世という形而上的なものを志向する人間の人間性を肯定し、理性に従って道徳的な実践を行う自由で自律的な人格を持つ者としての人間の尊厳を説いた。私は、こうしたカントの哲学によって、自由は近代西欧思想の主要な理念の一つとして確立されたと考える。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#人間の尊厳

ユダヤ教から生まれたキリスト教は、ローマ帝国の国教となり、近代西洋文明の一要素となった。人間の尊厳という観念は、キリスト教の神学に、受け継がれてきた。教父アウグスティヌスやトマス・アクィナスは、著書に人間の尊厳という観念を表している。彼らの思想は、古いようでいて、決して過去の遺物ではない。21世紀の現代においても、カトリックを中心として、信心深いキリスト教徒に、基本的な世界観・価値観を与えているからである。そこでは、人間の理性は、キリスト教的な全知全能の神の英知を、不完全な形で分有したものとされる。この観念がキリスト教神学にとまるものであったなら、非キリスト教社会に広がることはなかっただろう。キリスト教を信じない者には、そもそも人間は神(ヤーウェ)の被造物という考えは認められない。私は、人間の尊厳という観念が非キリスト教社会に受け入れられるものとなったのは、カントの哲学によるところが大きいと考える。

 私は先に、ロックの思想は17世紀以降、この21世紀まで、世界に甚大な影響を与えており、その重要性は、マルクスやニーチェやフロイトの比ではないと書いた。ロックの思想が世界に広まり、そのうえにカントの哲学が浸透している。象徴的に言えば、ロック=カント的な人間観が今日の世界に普及した人間観のもとなっている。ロック=カント的な人間観とは、人間は、生まれながらに自由かつ平等であり、個人の意識とともに、理性に従って道徳的な実践を行う自律的な人格を持つ、という人間観である。

 カントは、18世紀西欧の「啓蒙の世紀」を代表する哲学者であり、アメリカ独立戦争やフランス革命を同時代として生きた。西欧では、天動説から地動説への転回をきっかけに、中世的な世界観が大きく揺らいだ。カントは、科学と道徳の両立を図って、宗教の独自性を認め、科学的理性的な認識の範囲と限界を定めつつ、神・霊魂・来世という形而上的なものを志向する人間の人間性を肯定し、理性に従って道徳的な実践を行う自由で自律的な人格を持つ者としての人間の尊厳を説いた。

 このようにカントは、人間の尊厳を伝統的なキリスト教の教義から離れて、近代的な哲学によって意味づけ直した。それによって、人間の尊厳という観念は、世俗化の進む西欧社会でも維持され、同時に非キリスト教社会にも伝播し得るものとなった。その観念は、今も世界に広まりつつある。

 ところが、その一方、大元の欧米では、19世紀半ば、ダーウィンの進化論が登場し、人間は神が創造したものではなく、猿から進化したものだという理論が広まった。また、西洋とキリスト教の歴史と現状を考察したニーチェが、「神は死んだ」と言い、ニヒリズムの到来を予言した。こうして、キリスト教的な神の存在を疑ったり、否定したりする思想が社会に影響を及ぼすようになった。ここで、仮に神という超越的な観念を排除すれば、そこには、人間の尊厳という観念のみが残ることになる。

 近代西欧には、科学技術の発達によって、人間は宇宙のすべてを知り、自然を支配することが可能だという考えが、早くから存在した。16世紀後半のフランシス・ベーコンに始まって、ホッブス、サン・シモン、コント等が主張してきた。18世紀以降、こうした科学万能の思想が影響力を強めていった。19世紀後半から20世紀へと進むに従って、欧米では人間の理性への過信や傲りが高じた。とりわけ二度にわたる世界大戦、そして核兵器の登場は、科学と理性について、深刻な反省を要する出来事だった。

 だが、非キリスト教社会は、近代西洋文明が直面している根本問題を徹底的に議論することなく、人間の尊厳という観念を受け入れ、国連憲章や世界人権宣言に賛同・参加してきている。世界の大多数の国々が西欧における近代化の成果、すなわち科学技術や資本主義、主権国家や合理主義等を摂取するのと同時に、人権という観念を輸入したのである。そして、人間の尊厳という観念は、深く検討されることのないまま、21世紀に入った後も、時が経過しているのである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

*カントによる啓蒙の完成
 人権の思想の起源は、トマス・ホッブスの自然権とピューリタン革命期の水平派の生得権にあり、ジョン・ロックがこれを政治理論化した。ロックの思想はフリーメイソンと結びついて、アメリカ独立革命、フランス市民革命の推進力となった。人権の思想は独立宣言・人権宣言に盛り込まれ、イマヌエル・カントによって、道徳的に掘り下げられた。その際、ルソーが重要な作用をした。世界人権宣言のもとには、こうして形成されたロック=カント的な人間観がある。
 イマヌエル・カントは、18世紀西欧の「啓蒙の世紀」を代表する哲学者であり、「啓蒙の完成者」といわれる。カントはアメリカ独立戦争やフランス革命を同時代として生き、当時の政治思想・社会思想を哲学的に掘り下げた。現代の人権の思想には、ロックと並んでカントが重要な影響を与えている。
 若き日のカントは自然の科学的研究に優れた業績を現した。数学・自然科学の論文を多く書き、特に宇宙の発生に関する星雲説は、ニュートン物理学を宇宙発生論にまで拡張適用したもので、カント=ラプラス仮説として名高い。カントは、数学・自然科学だけでなく、論理学・形而上学・自然地理学等、広い範囲にわたる科目を大学で講じていた。しかし、ヒュームによって「独断論のまどろみ」を破られた。
 ヒュームは、感覚的な印象によってものの観念ができ、観念の連想によって、高級な観念や知識ができるとした。自然科学が基礎に置く因果律も、連想の繰り返しという経験に基づく習慣に過ぎない。自然科学は理論的な学として成り立つか疑わしい。ましてや感覚的に経験することができない神や神の創造を問題にする形而上学は、学として成り立つことはできない、と考えた。カントは、ヒュームの懐疑論に衝撃を受け、それまで影響を受けていたライプニッツ、ヴォルフ等の思弁的形而上学を見直した。そして、人間の認識能力について根本的な検討を行うことにした。
 またカントは、ルソーの著書から人間を尊敬すべきことを学んだ。「私は無知の民衆を軽蔑していた。しかし、ルソーが私の誤りを正してくれた。目のくらんだ優越感は消え失せ、私は人間を尊敬することを学んだ」とカントは書いている。そして「人間を尊敬するというこの考え方こそ、すべての他の人に一つの価値を与えることができ、その価値からこそ、人間らしい諸権利は由来する」と信じ、自然の研究から人間の研究に向かった。
 こうした時、カントが強い関心を示したのが、視霊者スヴェーデンボリである。スヴェーデンボリは、数学者、科学者として著名であるとともに、霊魂との意思交通、遠隔視を行うことで、当時西欧で評判だった。カントは、スヴェーデンボリを研究し、1766年刊行の『視霊者の夢』に自らの見解を書いた。この書でカントは、霊魂との意思交通や共同体的なつながり、来世の存在を信じる考えを書く一方、スウェーデンボリの語ることを幻想であると否認する見方も書くという二面的な態度を見せる。そして霊界を語る視霊者と独断的な形而上学者はともに夢想を述べているとし、自らは、経験に基づく立場から人間理性の限界を定める新しい形而上学へと向かう。
 その後、カントは、1781年の『純粋理性批判』で経験に基づく範囲で理性による科学的認識を基礎づけるとともに、88年の『実践理性批判』等で科学の理論的認識の対象とはならない道徳の実践を説き、科学と道徳・宗教の両立を図った。さらに、市民社会の目指すべき姿を提示し、また国際社会に永遠平和を実現する道を論じた。その哲学は、批判哲学または批判的観念論と呼ばれる。
 すべての哲学はカントに流れ込み、それ以後のすべての哲学はカントから発するといわれるように、カントは西洋思想史で最大級の思想家である。カントの思想の後世への影響は大きく、今日にまで及んでいる。

(「人権――その起源と目標」より)

#三つの問い
 カントは、批判哲学の嚆矢となる『純粋理性批判』に、三つの問いを挙げた。(1)人間は何を知り得るか、(2)人間は何を為すべきか、(3)人間は何を望んでよいか、の三つである。三大批判書をはじめとするカントの主要著作は、これらの問いへの彼の解答である。
 第1の問い、人間は何を知り得るかについて、カントは形而上学を検討した。カントは、第一の批判書『純粋理性批判』で、理性による理論的な認識について検討した。批判とは、認識能力の適用範囲と限界を吟味することをいう。批評というより裁判に近い。当時、ライプニッツ、ヴォルフ等による合理論的形而上学は、数学・自然科学を用いて、神の存在、霊魂の不滅、人格の自由を証明しようとしていた。カントは、ヒュームの懐疑論に啓発されて、すべての認識は感覚的経験によるという経験論と、確実な認識は生得観念によるとする合理論は、ともに正しくないとし、人間は対象をア・プリオリ(先験的)な形式に基づいて感覚し、思考するのだとした。
 これは、古代ギリシャ従来の西洋哲学史で、認識は対象に依存するとしてきた考え方を、対象こそ認識により構成されるという考え方に転換したもので、カントのコペルニクス的転回と呼ばれる。この転回によって同時にカントは、大陸合理論とイギリス経験論を総合したとされる。
 カントは、人間の認識能力を感性・悟性・理性に分け、その検討を行った。現象は主観が経験に与えられた感覚内容を総合構成したものであり、物自体は感覚の源泉として想定はできるが、認識はし得ないとした。物自体は、物そのものというより、物事の真相というのに近い。こうして、カントは現象界・感性界と物自体の可想界または叡智界を厳格に区別した。ヒュームが成立を疑った自然科学及び数学については、感性のア・プリオリな直観形式としての空間・時間と悟性のア・プリオリな思考形式としてのカテゴリーの協同によって確実な学的認識たり得ているとして、学としての基礎づけをした。
 ア・プリオリは経験から論理的に独立したものを意味し、その基準は必然的かつ普遍的であることである。必然的かつ普遍的とは、必ずそうなり、誰にでもまたどういう場合でもあてはまるということである。反対語は、ア・ポステリオリで、経験によって得られるものを意味する。
 カントは、悟性による認識を体系づけ、統一する理性による理論的な認識は、感性による経験に基づくものに限って可能だが、感性を超えたものは知り得ないとして、その適用範囲と限界を明らかにした。一方、神、不死、自由という超感性的な対象に関する形而上学は、これらの学と同等な資格をもつ確実な理論的学としては成立しえないとした。

 第2の問い、人間は何を為すべきかについて、カントは道徳を検討した。理性には理論的な機能とは別に、実践的な機能があるとして、第二の批判書『実践理性批判』において、道徳法則の客観的な確実性を論じ、『人倫の形而上学』で道徳哲学の体系を示した。カントは、人間は、自分の行為の個人的・主観的な規則である格率を、普遍的な道徳法則と一致するように行為すべきものとした。無条件に「△△せよ」と命じる定言命法に従って実践すべきことを説いた。道徳の最高原則は、「同時に普遍的法則としても妥当しうるような格率に従って行為せよ」である。人間は幸福を求めるべきではなく、幸福を恵まれるにふさわしい人間をめざして努力すべきものであるとした。神の存在、霊魂の不滅、人格の自由については、理論理性は決定不可能である。だが、これらは人間の道徳的な行為が意味あるものとなるために不可欠であり、実践理性はこれらを要請するとした。道徳的実践の目的は善であり、究極目的は最高善であるが、人間は最高善を実現するには力不足である。そこで最高善の実現を根拠づけ、徳性と幸福の一致を恵み与えるものとして神が要請される。また最高善に到達するには無限の努力が必要であるので、霊魂の不滅が要請される。また人間は、単に感官的存在者ではなく、叡智的存在者であり、理性が課す義務を負う人格とみなさなければならない。互いに、単に手段ではなく、目的そのものとして尊重されねばならないと説いた。
 第3の問い、人間は何を望んでよいかについて、カントは宗教を検討した。カントは、第三の批判書『判断力批判』で、悟性と理性を媒介する判断力について検討した。判断力は、特殊が普遍に包含されていると思考する能力である。特殊的なものだけが与えられ、そこから普遍的なものを見出す能力は、反省的判断力と呼ばれる。自然は必然的な法則に支配されているが、最高善を目指す道徳は意思の自律に基づく。感性界において自由を実現するには、自然に合目的性がなければならないとカントは考えた。そして、反省的判断力は、自然に合目的性を見出すとして、美、崇高の感情、有機体における合目的性を論じた。そのうえで、われわれは世界を目的に従って脈絡づけられた一つの全体また目的因の体系とみなす根拠または主要条件を持っているとして、一切の存在者の根源にある存在者は叡智体であり、全知にして全能、寛仁にして公正であり、また永遠性・遍在性を持つものでなければならないと説いて、目的論によって神学を基礎づけた。一方、カントは啓示宗教としてのキリスト教から、啓示の部分を除き、道徳的宗教へと純化、改善することを試みた。人間は本能や衝動で行動する動物的な感性的存在者であるが、自由で自律的な理性的存在者でもある。人間は、欲望の誘惑に負けやすいが、理性は人間を超感性的な世界へと向かわせる。人間は理性の声に従って道徳を実践する者として、神・不死を望んでよいとした。

(「人権――その起源と目標」より)

#第四の問い
 カントは、三つの問いの検討のため、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三大批判書や『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785年)『人倫の形而上学』(1797年)『単なる理性の限界内における宗教』(1793年)等の多くの著書を書いた。晩年のカントは、三つの問いに加えて、第四の問いを立てた。それは、人間とは何かという問いである。
 カントは『論理学』(1800年、死後編纂刊行)の序論に次のように書いた。「第1の問いには形而上学が、第2の問いには道徳が、第3の問いには宗教が、第4の問いには人間学が、それぞれ答える。根底において、これらすべては、人間学に数えられることができるだろう。なぜなら、はじめの三つの問いは、最後の問いに関連を持つからである」と。
 人間とは何かという問いは、形而上学、道徳、宗教の検討を踏まえて、人間を総合的に研究するものである。これこそ実はカントの中心主題だったものであり、晩年のカントは『実用的見地における人間学』(1798年)を著した。カントは、本書に次のように書いている。
 「人間は、人々と一つの社会をなし、その社会において、芸術及び学問を通して自己を陶冶し、市民化し、かつ道徳化するよう、自らの理性によって定められている。幸福と呼ばれる心の安逸と歓楽へ受動的に身を任そうとする動物的傾向がいかに強くとも、むしろ能動的に、人間の自然の粗野のために人間につきまとっている妨害と戦いつつ、自らをば、人間性にふさわしいものとなすよう、その理性によって定められている」と。
 こうした思想によるカントの人間学は、近代西欧の人間観に大きな影響を与えてきた。私は、世界人権宣言の根底には、ロック=カント的な人間観があると見ており、人権の思想の考察において、カント哲学とその影響の検討は不可欠の課題と考えている。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#カントによる認識能力の検討
 カントの人間観は、彼による認識能力の検討を通じて形成されたものである。そこでカントによる認識能力の検討について、具体的に記したい。
 カントは、三大批判書で、人間の認識能力である感性・悟性・理性のうち、理性を最上位に置いた。感性は、独語Sinnlichkeit、英語 sensibility、仏語Sensibilite等の訳語であり、身体に基づく感覚的な能力である。理性は、独語Vernunft、英語reason、仏語raisonの訳語である。ギリシャ語のlogosnous、ラテン語のratioも理性と訳す。理性は、古来西洋で、人間と動物を区別する能力とされた。今日一般には、概念的思考の能力をいい、感性的欲求に左右されず思慮的に行動する能力をも意味する。これに対し、カントの悟性は、カント及びドイツ哲学に特有の用語である。独語 Verstandの訳語であり、英語ではunderstandingである。
 中世西欧では、人間の認識能力は、神に関わる知性intellectus、被造物である自然に関わる理性ratio、身体的感覚による感性 stomachus に分けられていた。知性は、キリスト教の信仰をもとに、人間の魂の最高段階にあって、実在を直接把握できる能力を意味した。またそれ自身が現象界を超えた形而上学的実在、不死の精神とされた。現代の言葉で言えば、霊性に近い。これに対し、理性は、ratioが比・比率を意味するように、比較・推量や論証の能力を意味した。現代で言う知性に近い。
 ドイツでは、ルターが聖書の独語訳を行って、独語による思考が普及すると、中世的な知性にVerstand、理性に Vernunftの語を充て、Verstand(知性)は心の最高で内的な働きとして、Vernunft(理性)より上位に置いていた。ところが、カントは、Verstandの能力は直接実在を把握することではなく、感性が受容した素材に概念を適用することにあるとして、その能力を限定した。そこでカントのVerstandは、中世的な知性と区別するため、「悟性」と訳される。カントにおいては、理性が上位で悟性が下位に逆転した。
 カントの悟性は、感性と協同で認識を行う。感性は、対象を直観する受容的な能力であり、悟性は対象を概念で思考する能力である。カントによると、感性には空間・時間というア・プリオリ(先験的)な直観形式、悟性にはカテゴリーと呼ばれるア・プリオリな思考形式がある。感性に基づく素材は、悟性の思考形式が適用されることで表象が可能になるとした。カテゴリーは純粋悟性概念とも呼ばれ、量・質・関係・様態にそれぞれ3つ、合計12あるとされた。
 カントは悟性の最も重要な機能は、自我が感覚的多様性を自己の内で結合させて統一することであるとし、この機能を統覚Apperzeptionと呼ぶ。統覚は、「我思う」という形式で現れる自我の同一性である。コギトをカントの立場で解釈した根源的な自己意識である。カントは経験的統覚と超越論的統覚を区別し、超越論的統覚を経験以前に経験による認識を可能にするものとして強調した。カントは感性・悟性・理性の他に構想力・判断力・共通感覚を挙げて認識能力の一致を追求したが、それらの諸能力を最も下で支えているのが、超越論的統覚だという理解が成り立つ。
 カントは、統覚を最重要機能とする悟性を、広義の悟性としている。そして、広義の悟性をさらに概念・規則の能力である狭義の悟性、判断の能力である判断力、推理の能力である理性に分ける。この分類では、理性は、根幹ではなく枝葉に置かれる。だが、カントは、理性は悟性に対しては、悟性を統御し、体系的統一的な認識を行う能力だとしている。また、理性には理論的な機能だけでなく実践的な機能があるとし、認識に関するものを理論理性、行為の原理となるものを実践理性とした。そして、実践理性の優位を説いた。
 理性は、そもそも中世の西欧では知性より下級の能力だったが、カントは科学的認識から道徳的実践にまで関わる上級の能力に格上げした。これは、近代西欧の理性中心の考え方を押し進めたものである。これとともに、カントは知性に含まれていたより高次の能力を検討の対象から除いた。中世的な知性は直観的な能力だったが、カントは、人間の悟性・理性には直観を認めず、知的直観は神の知性に特有のものとした。直観的知性は思惟において対象を産出するものであり、原型的知性とされる。原型的知性の反対は、派生的知性である。カントは、本来悟性は能動的であるので、実在に関与する感性と一つになれば、主観が実在を創造するのと同じことになると考え、その機能を否定する。カントは、知的直観の有無に、神と人間、絶対者と有限者の区別を置いた。この点でカントは人間が独断や傲慢に陥ることを戒めている。
 カントは世界を Sinnenwelt Verstandeswelt とに分けた。前者は感性界と訳し、後者は悟性界ではなく叡智界または知性界と訳す。実はこの場合の Verstand は、中性的な知性の意味を保持しているからである。カントは、人間を単に感官的存在者ではなく、叡智的存在者であるとしており、知的直観は持たないが、最高の叡智的存在者である神と理性によってつながっているとした。この点は、カントが宗教否定・霊魂否定の合理主義者とは、異なる点である。カントは三大批判書の前に『視霊者の夢』を出したが、その書でカントは霊魂との意思交通や共同体的なつながり、来世の存在を信じる考えを記していた。私は、この心霊論的な信条がカントの道徳哲学の根底にあるものだと考えるのだが、人間が単に感官的存在者ではなく叡智的存在者でもあり、神と理性によってつながっているとカントが説いたのは、この信条をもとにした主張である。
 ここで複雑さを加えているのは、カントが人間は知的直観を持たないとする一方で、判断力という悟性・理性とは別の能力に注目したことである。カントの哲学は、感性界と叡智界の区別もそうだが、現象界と物自体、自然界と道徳界、自然と自由、実在と観念等が峻別され、一見二元論の構成を示す。しかし、カントは、その断絶をつなぐもの、二元性の根源にあるものを探求した。認識能力においては、それが判断力(Urteilskraft)とされる。判断力は、感性に対する広義の悟性が、狭義の悟性、判断力、理性に分けられるうちの一つである。
 判断力については、後に自然に関する項目に詳しく書くが、人間の根源的な認識能力ではなく、悟性と理性を媒介する能力である。カントが認識能力で最上位に置いているのは理性であり、それに変わりはない。人間は理性的存在者と呼ばれる。叡智界における叡智的存在者も、理性的存在者と呼ばれる。判断力的存在者とは言わない。人間は理性的存在者であるから、道徳的実践を行う人格的存在者とされるのである。私は、カントは理性中心であって、構想力や判断力に「未知の根」を求めるのは、無理があると思う。
 深層心理学の観点からは、こうしたカントの哲学は、理性を中心として、心をほぼ意識に限定し、無意識の領域を論議の対象から除外したものと見られることになる。これは別稿に書いた心の近代化に関わることだが、プロテスタンティズムによる宗教の合理化は、「世界の呪術からの解放」を進めた。「呪術の追放」は、カントによって、哲学の分野でも推進された。カントの理性に基づく道徳的な宗教は、キリスト教の合理化を進めたものである。ただし、カント自身は霊魂との交流や来世の存在を独断的に否定しておらず、誰もが経験することのできない事柄については、語るのを控えるという姿勢だった。
 カントの哲学に対して、彼の死後、中世的な知性の復権を目指す動きや、反対に宗教的・心霊的な要素を排除しようとする動きが現れた。前者は観念論や唯心論、後者は唯物論の系統である。

(「人権――その起源と目標」より)

#自由と人格
 近代西欧における人権の観念の核心には自由があり、その自由が、自由な状態への個人の権利として希求されたところに、近代西欧の特殊性がある。ホッブス、ロック、ルソー等が理論的に思考し、イギリス・アメリカ・フランスの市民革命を通じて、権利として発達した自由を、哲学的に掘り下げたのが、カントである。今日世界に広がっている人権の思想は、自由を中心に、理性、良心、人格、自己の尊厳、同胞の精神等を説くものとなっている。そこにおける人間観を、ロック=カント的人間観と私は呼ぶ。そこにはロックとともにカントの影響があると私は見ている。ただし、この2世紀の間にカントの思想は種々の批判を受け、大半は風化し、それでもなお残って半ば常識化した概念のみが用いられ、カントの影響はほとんど忘れられているという状態である。まして、カントにおける心霊論的な信条は忘れ去られている。そのため、世界人権宣言におけるロック=カント的な人間観には、心霊論的な前提が見失われている。
 さて、自由は、カントの道徳哲学で「要石」となる概念である。他の概念や神や不死は、自由から導き出されるからである。カントによれば、人間は、本能や衝動によって行動する動物的な存在者であるとともに、道徳的な義務を実践する理性的な存在者である。ここで重要なのが、意志の自由である。
 カントは、自然と自由を対比させ、自然は必然的な法則に支配されており、自然には自由は存在しないとした。理論理性は、自然法則を認識することはできるが、感性によって与えられる現象界を超えることができず、自由の実在性を証明することはできない。自由は、道徳の領域にのみ存在する。実践理性は、本能や衝動の克服を命令し、最高善をめざすために人格の自由という理念を要請するとした。
 人間は、自分の意志で行為する。その限りでのみ人間は自由である。カントは、次のように説く。「自由の概念は意志の自律の説明のための鍵である」「意志の自由は、自律すなわち自己自身に対する法則であるという意志の特質以外の何ものでありえようか」「自由はあらゆる理性的存在者の意志の特質として前提されねばならない」と。またカントは「生得的な権利はただ一つである」として、「自由こそは、それが普遍的法則に従ってあらゆる他人の自由と調和しうる限りにおいて、この唯一、根源的な、その人間性のゆえに万人誰しもに帰属するところの権利である」と書いている。(『人倫の形而上学の基礎づけ』)
 カントの自由は、拘束や束縛のない状態、外的障害の欠如という消極的な概念ではなく、自らの意志で法則を制定するという積極的な概念である。積極的概念の自由は、自律と同義である。カントは、意志の自律とは「意志が彼自身に対して法則となるという、意志のあり方のこと」であるとする。自律の反対は、他律である。他律とは「対象が意志との関係を介して意志に法則を与えること」であるとする。(『人倫の形而上学の基礎づけ』) 自律は、単に自分で自分を規制するという程度のことをいうのではない。自らの意志で自己の法則を制定できることである。道徳の領域における立法者であることである。
 カントの自由は、現代人の多くが考える自由とは、大きく異なっている。現代人の多くは、自分の感性的な欲求のままに行動できることを自由と考える。カントにおいては、この状態は、本能や衝動によって行動している動物的な状態であり、自然法則に支配されている状態である。私見を述べると、ここには、自然界・現象界に存在することは不自由であり、自然界・現象界から超え出ることが自由であるという考え方がある。自然のままに生きるのが自由なのではない。自然のままに生きるのは不自由である。本能や衝動を規制し、自己に規律を課す道徳的実践は、不自由な世界から抜け出るという目的のための行為であり、自由への道になるというわけである。
 カントの自由は、意志が感性的な欲求に束縛されずに、理性の道徳的な命令に服することである。命法には、二種類ある。「○○ならば、△△せよ」と何かの条件付きで命じる仮言命法と、単に「△△せよ」と無条件に命じる定言命法である。定言命法は、何かのための義務ではなく、義務のための義務である。カントの道徳法則は、定言命法で表現される。道徳の最高原則は、「同時に普遍的法則としても妥当しうるような格率に従って行為せよ」だと説く。そして、自分の行為の個人的・主観的な規則である格率が、普遍的な道徳法則と一致するように行為することが、真の自由であるとカントは言う。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#人間の尊厳と「目的の国」、そして永遠平和への道
 意志の自由を持つ人間は、物件ではなく人格として扱われなければならない、とカントは説く。人は自分を「自分自身の理性が自らに課する義務を身に負っている一個の人格」とみなさねばならないともいう。カントによれば、人間らしさ、すなわち人間性は、理性に従う意志の自由に基づく人格にある。人間性を「善い意志」とも言っている。
 「人格として見た人間、すなわち道徳的な実践理性の主体たる人間は、一切の価格を越えて尊いものである」とカントは述べる。価格とは、物件の商品としての値段をいうものである。「人間には尊厳が備わっている」とカントは説く。尊厳とは、絶対的内的価値をいう。マルクスであれば、資本主義社会では、人間は疎外され、労働者は労働力商品となっているというだろう。労働力商品ではあっても、人間には道徳的な主体性があり、尊厳があるというのが、カント的な考え方である。カントは、こうした人格尊重の道徳哲学を説いて、すべての人の人権を守ることを正義とした。
 カントは、人間は「どのような人によっても、他人によっても、自分自身によってさえも、単に手段として利用されることはできず、つねに同時に目的として用いられねばならない」。「この点にこそまさに人間の尊厳がある」と説いた。(『人倫の形而上学の基礎づけ』)
 人間は、個人個人が尊厳を備えている。個人は、何かの目的を実現するために、単に手段とされてはならない。その実現すべき目的そのものでなければならない。だが、また単に目的とされるのではなく、互いがその目的を実現する手段となって、協力し合わなければならない。
 カントは、すべての人が人格的存在として尊敬され、単に手段ではなく、目的とされる社会を「目的の国」と名付けた。「目的の国」は、自由で自律的な人格の共同体であり、市民社会のあるべき姿である。カントにおいては、ホッブス、ロックと同様、市民社会は国家と同義であるので、「目的の国」は、カントの提示した国家の目標である。個々人が理性の道徳的な命令に服し、自己の格率が普遍的な道徳法則と一致するように行為する国家が、カントの理想国家である。この国家は、単に自由・平等な独立した個人の集合体ではない。人々が協同的に道徳的な実践を行う共同体である。
 カントは、ルソーから人間を尊敬することを学んだ。ルソーは、自由な人格をもつ自律的人間の形づくる国家を理想とした。カントはこの理想を道徳的に掘り下げた。ルソーは人民主権を説いたが、彼を信奉したシェイエスが民衆を神格化したのとは異なり、一般意志が常に正しいと言えるには「公衆の啓蒙」が不可欠であり、一人一人が自らの意思を理性に一致させるようにすることによって、はじめて一般意志を論じ得るとした。カントは、「目的の国」を地上に建設するため、人々に理性に従って普遍的な道徳法則と一致するように実践するように説いた。それは、必然的法則に支配された自然界に、自由を実現することである。カントは、自然とは感官の対象の総体とするが、自然に合目的性のあることも認めており、自然界において自由を実現することが可能だとした。またカントは自然の一切は人間の文化のために存在するとし、文化は道徳の準備であり、自然の究極の目的は道徳的な人間を出現させることだと考えた。この場合の自然は、単なる被造物ではなく、創造力を持つ能産的な自然である。
 カントは、上記のような道徳哲学を構築するとともに、キリスト教を啓示宗教から道徳的な宗教へと純化、改善することを試みた。ルソーは、人民主権の国家には新しい市民的宗教が必要だと説いたが、カントは「目的の国」における、あるべき理性宗教の姿を示そうとしたのだろう。
 カントは、個人と国家の目標を示しただけでなく、国際社会に永遠平和を実現する道をも説いた。ルソーは、国際平和論を説いたが素描にとどまった。カントはこれを継承して発展させた。
 カントは、18世紀にありながら、人類は永遠平和を実現するか、さもなければ戦争によって絶滅するかどちらかだと、人類の将来を予想した。戦争による自滅を避けるために、カントは国家連合を提唱した。その後、人類は二度の世界大戦を経て、人類絶滅の武器・原子爆弾を持つに至った。国際連盟・国際連合という国際機関を作りながら、大量破壊兵器を使用する戦争によって、地球の文明が崩壊する危険は減っていない。こうした人類にとって、カントの永遠平和論は、重要な古典である。
 カントは、『永遠平和のために』(1795年)で、まず永遠平和の予備事項を六つ挙げる。平和条約は偽りのものであってはならないこと、独立国は他国に領有されてはならないこと、常備軍は漸次全廃されるべきこと、対外戦争のための国債発行を行わないこと、実力を以て他国に干渉してはならないこと、戦争中であっても卑劣な手段を取らないことである。
 カントは続いて永遠平和のための確定事項を三つ挙げる。第一は、各国家の体制は「共和的」でなくてはならないこと。カントの「共和的」とは、立法権が執行権から厳しく区別せられ、それが代議士を通じてすべての公民の手にあるという意味である。言い換えれば「法の支配」である。君主制でもこの意味での共和的であり得る。第二に、国際法は、自由な諸国家の連合に基礎を置かなくてはならないこと。カントは世界共和国を究極の到達点とする。だが、現状では世界を一つの強い権力でまとめることになるとして、消極的代用物として国家連合を提案した。第三に、人間は世界のどこにおいても客人として友好的に扱われる権利を持たなくてはならないこと。訪問権ないし友好権が一般化することによって、人類は永遠平和へとたえず近づくことができるだろうと説いた。
 カントは、国家の起源については、基本的には社会契約論に立っている。ただし、社会契約を歴史的事実ではなく、「理念」としている。契約をしたという事実がないのに契約論を採るとすれば、理念とするしかないだろう。カントは、社会契約を突然廃止して結び直す革命は契約の原理から認められないとするが、根源的契約の精神から共和的な政体が望ましいとする。カントの「共和的」とは、立法権が執行権から厳しく区別せられ、それが代議士を通じてすべての公民の手にあるという意味である。言い換えれば「法の支配」である。カントは、共和政体の実現を漸進的連続的に進めるべしと説く。共和政体はすべての政治体制の目的であり、そこでこそ国民は自由で平等となり、完全な正義が実現されるだろうとする。カントは、共和的な国家で形成される国家連合が永遠平和の実現の基礎となると考えた。また国内法と国際法を補う世界公民法をつくることによってのみ、世界的な正義と永遠平和の実現が期待できるとした。
 カントの哲学全般を通じて注意すべきは、カントの思想は、あくまでキリスト教の信仰に基づくものだったことである。理性の絶対的命令は、キリスト教の権威があってのものである。そのキリスト教の権威が低下すると、定言命法による道徳法則は、人々が無条件で従うべきものではなくなる。それが、19世紀以降の欧米諸国の状態となる。永遠平和への提言など、まずヨーロッパで実行してもらえば、2度にわたる世界大戦は起こらずに済んだかもしれないが、現実はカントの説く理想とはかけ離れた歩みをしてきている。カントの現代への影響については、カント以後のドイツ観念論の展開とマルクスについて書いたのちに、改めて書く。
 カントとフリーメイソンについては、直接的な関係は見られない。ただし、間接的な関係を想定する必要はある。啓蒙主義とフリーメイソンの思想は深く融合し、切っても切れない関係にあるので、メイソンの思想は啓蒙思想とともに、カントに流れ込んでおり、カントはそれらすべてを含めて、啓蒙を完成に導いた。この項目に書いた「目的の国」、自然の目的、道徳的な宗教、永遠平和、世界共和国等は、フリーメイソンの説くところに通じるものがある。カントより5歳年少のレッシングはメイソンだった。カントはレッシングを読んでいた。彼らより、下の世代ではヘルダー、ゲーテ、モーツァルト、フィヒテ、クライスト等がメイソンだった。メイソンの思想は、時代の教養の一部だったのである。

(「人権――その起源と目標」より)

 カントは、今日人格を尊重する道徳哲学を構築し、すべての人の人権を守ることが正義としたという評価を受けている。カントの思想は、現代の通説によると、公的な善より私的な善を優先し、かつ正義を善より優先するものと理解されている。カントは、国家の起源については、基本的には社会契約論に立つ。ただし、社会契約を歴史的事実ではなく、「理念」としている。契約をしたという事実がないのに契約論を採るとすれば、理念とするしかないだろう。カントは、社会契約を突然廃止して結び直す革命は契約の原理から認められないとし、根源的契約の精神から共和的な政体が望ましいとする。カントの「共和的」とは、立法権が執行権から厳しく区別せられ、それが代議士を通じてすべての公民の手にあるという意味である。言い換えれば「法の支配」である。カントは、共和政体の実現を漸進的・連続的に進めるべきと説く。共和政体はすべての政治体制の目的であり、そこでこそ国民は自由で平等となり、完全な正義が実現されるだろうとする。カントは、共和的な国家で形成される国家連合が永遠平和の実現の基礎となると考えた。また国内法と国際法を補う世界公民法をつくることによってのみ、世界的な正義と永遠平和の実現が期待できるとした。
 社会契約説の展開の中で形成されたロック=カント的人間観が、世界人権宣言等に盛られた人権思想の背後にある。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#カント主義

カント主義は、ロックの自由で独立した個人に人格の尊厳を認め、すべての人間を目的とする社会の実現を目指す。カントは、科学と道徳の両立を図って、宗教の独自性を認め、科学的理性的な認識の範囲と限界を定めつつ、神・霊魂・来世という形而上的なものを志向する人間の人間性を肯定し、理性に従って道徳的な実践を行う自由で自律的な人格を持つ者としての人間の尊厳を説いた。その思想は、18世紀という科学的合理主義が楽観的に信じられていた時代の思想だった。カントの死後、カントを批判する思想は多く表れたが、19世紀後半から「カントに帰れ」と説く新カント派によって、カントの思想が継承され、哲学・政治学・法学・歴史学等の諸分野で影響を保った。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#サンデルのカント論

 サンデルは、カントや前期ロールズにならって、普遍的な人権を尊重する。また人類には、普遍的な自然的義務があることを肯定する。サンデルは、カントの『道徳形而上学原論』(別訳は『人倫の形而上学の基礎づけ』、1785年)について、本書は「18世紀の革命主義者が人間の権利と呼んだもの、そして21世紀初頭のわれわれが普遍的人権と呼んでいるものの強固な礎となっている」という。
 カントについて、サンデルは、次のように述べている。「カントによれば、人間はみな尊敬に値する存在である。それは自分自身を所有しているからではなく、合理的に推論できる理性的な存在だからである。人間は自由に行動し、自由に選択する自律的な存在でもある」「われわれはもはや、誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものである。この能力が人格と物とを隔てているのである。カントにとって、人間の尊厳を尊重するのは、人格そのものを究極目的として扱うことである」「カントのいう尊厳は、人間性そのものへの尊敬であり、すべての人に平等に備わっている理性的な能力への尊敬である。だから自分自身の人間性を侵害するのは、他者の人間性を侵害するのと同じように好ましくない。だからこそカントの尊敬の原理は、普遍的人権主義に一役買っているのである。カントにとっては、すべての人間の人権を守ることが正義である。相手がどこに住んでいようと、相手を個人的に知っていようといまいと関係ない。ただ相手が人間だから、合理的推論能力を備えた存在だから、したがって尊敬に値する存在だから、人権は守られるべきなのである」と。
 今日の普遍的人権という観念にカントが強い影響を与えていることを、これほど明確に述べているものは他になかなかないほど、サンデルはカントの思想に従っている。

(「人権――その起源と目標」より)

●カント以後のドイツ哲学の展開

 カントは、感性界と叡智界、自然と自由、実在と観念を厳然と区別した。断絶をつなぐもの、根源的なものが探求されてはいるが、その哲学は結論の出ないままに終わった。彼の哲学に不満を持つ思想家たちは、自我を中心とした一元論による形而上学的な体系を樹立しようとした。そのうちの一人が、アルトゥル・ショーペンハウアーである。
 ショーペンハウアーは、現象界と叡智界に二分するカントの思想を継承して、世界は表象であるとしたが、カントの物自体とは意志であるとする独自の説を唱えた。人間だけでなく動植物・無機物も「生きんとする意志」の表れだとし、意志による一元論を打ち出した。20代からインド哲学や仏教の影響を受けたショーペンハウアーは、この衝動的な盲目の意志を否定することで、解脱の境地へと達することができるという思想を説いた。ショーペンハウアーは、意志という概念で無意識の領域を示唆した。また霊魂との交流やテレパシーの可能性を認めることにより、脱キリスト教的な心霊論哲学の可能性を開いた。ショーペンハウアーは、同時代のヘーゲルと対立したが、後代のニーチェ、フロイト、ユング等に大きな影響を与えた。また欧米における東洋思想への関心を高め、また理解を助ける役割をした。本稿の主題である人権に関して言うと、ショーペンハウアーは、キリスト教的な人間観・世界観を相対化することによって、東西の対話と相互理解を促進することに貢献したと言える。
 ショーペンハウアーとは異なる仕方で、自我を中心とした一元論による形而上学的な体系を樹立しようとした思想家たちがいる。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらである。カントから彼らの思想への系譜をドイツ観念論という。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの思想は、それぞれ主観的観念論、客観的観念論、絶対的観念論と呼ばれる。フィヒテとシェリングは、カントが斥けた知的直観を認め、中世キリスト教教学的な知性を復権させ、個性的な思想を創造した。ヘーゲルは、彼らが開拓した観念論の可能性を最大限に追求し、壮大な哲学体系を築いた。
 英仏に比べて近代化の遅れていたドイツでは、後進的であるがゆえに、個我の解放は個人主義ではなく能動的自我の絶対化を目指すものとなり、キリスト教批判は無神論ではなく汎神論に傾き、市民社会の建設は革命による実現ではなく理念化された道徳や法の哲学の構築へ向かった。
 ドイツ観念論は、人権の発達史において重要な役割を果たした。その哲学的展開から、マルクス主義とナショナリズムの思想が登場したからである。マルクス主義は、ヘーゲルの観念論への批判からマルクスの唯物論が誕生した。ナショナリズムの思想は、カント哲学の批判的継承の中から生み出された。

(「人権――その起源と目標」より)

 1789年に起ったフランス市民革命は、当初、自由とデモクラシーを実現する画期的な変革と理解され、ドイツでも支持・賛同が高まった。だが、政体の変遷と虐殺・混乱が続くなか、期待は冷めていった。さらに革命の中から登場した独裁者ナポレオンがドイツを襲った。ナポレオンは神聖ローマ帝国の西部・南部諸侯にライン同盟を結成させた。そのため、1806年皇帝フランツ2世は帝国の解散を宣言した。

 フランス革命の帰趨を見たドイツでは、自国の後進性を理解し、観念の中で理性と自我の優位を追求する思想が発達した。カントの批判哲学は一種の二元論である。カントは、感性界と叡智界、自然と自由、実在と観念を厳然と区別した。その上で、断絶をつなぐもの、根源的なものを探求した。だが、その哲学は結論の出ないままに終わった。彼の哲学に不満を持つ思想家たちは、自我を中心とした一元論による形而上学的な体系を樹立しようとした。

フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらである。彼らの思想は、それぞれ主観的観念論、客観的観念論、絶対的観念論と呼ばれる。フィヒテとシェリングは、カントが斥けた知的直観を認め、中世キリスト教教学的な知性を復権させ、個性的な思想を創造した。ヘーゲルは、彼らが開拓した観念論の可能性を最大限に追求し、壮大な哲学体系を築いた。

 フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらに大きな影響を与えた哲学者に17世紀のバルーフ・スピノザがいる。スピノザは、「延長のある物体」と「思惟する精神」は相互に独立した実体とする物心二元論の哲学を樹立したデカルトに対し、実体を自己原因ととらえ、無限に多くの属性から成る唯一の実体を神と呼び、神以外には実体はないとした。所産的自然としての個物は、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることができないものとし、すべての事物は神の様態であるとした。そして、神は万物の内在的原因であり、すべての事物は神の必然性によって決定されていると説いた。また、延長と思惟はデカルトの説とは異なり、唯一の実体である神の永遠無限の本質を表現する属性であるとした。延長の側面から見れば自然は身体であり、思惟の側面から見れば自然は精神である。両者の秩序は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとした。こうしたスピノザの思想は、一元論的汎神論といわれる。スピノザはユダヤ教の側から破門にされ、キリスト教の側からは危険人物視された。だが、その神即自然の思想はドイツ観念論哲学の形成に決定的な役割をはたした。

 ドイツ観念論の哲学者のうち、最もキリスト教神学の発展に影響を与えたのは、フリードリヒ・シェリングである。シェリングは、自然に対して深い関心を示し、自我と自然の相互浸透を論じる自我哲学と、有機体を自然の最高形態と見なす自然哲学を説いた。また、「人間の意識も自然も同じ『世界精神』の現れであり、この絶対者は芸術的、知的直観によってとらえられる」として、神と人間、絶対者と有限者は「あらゆる媒介なしに根源的に一つである」とする同一哲学を説いた。だが、無差別の絶対者からどうして人間や自然という有限者が生まれるのか、という問題が残る。絶対者から人間や自然が分離された瞬間、絶対者は有限者となってしまう。この点を掘り下げたシェリングは、『人間的自由の本質』(1809年)で、神の実存と実存の根拠を分け、実存の根拠を「神のうちの自然」と定義し、諸事物は神の実存の根拠から生成するとした。そして、人間の自由に悪を行う可能性があるのは、神の実存の構造に基づくとした。

 1830年代のシェリングは、従来の哲学は「あるものが何であるか」に関わるのみで、「有るとはどのような事態であるか」について答えていないと指摘した。そして、事物の本質を論じるだけの理性の哲学を消極哲学として、これを批判し、事物の実存を解明する積極哲学を標榜した。

 こうしたシェリングの哲学は、ロマン主義神学及び自由主義神学の祖とされるシュライエルマハーに影響を与えた。また、彼の実存に関する思考は、20世紀に入ってハイデッガー、ヤスパース等に大きな刺激を与え、またティリッヒの実存主義的神学にも影響を与えている。

(「キリスト教の運命」より)

 

●ショーペンハウアー

 

カントの哲学を継承しつつ、独創的な思想を展開した哲学者のショーペンハウアーは、幼くして欧州諸国を回り、各地で強制労働、貧困等の悲惨さを見た。それによって、ペシミズム(最悪観)の世界観を持った。プラトンのイデア説、カントの批判哲学を学んだ後、20代でインド哲学に出会って、ウパニシャッドや仏教の影響を受けた。その影響のもとに、カント哲学を独自に解釈し、発展させた。31歳にして、主著『意志と表象としての世界』(1819年)を刊行した。

カントが物自体は認識できないとし、叡智界と同一の領域と考えたのに対し、ショーペンハウアーは物自体は意志であるとし、「世界は私の表象である」と説いた。現象として経験する一切のものは我々が生んだ表象であり、知覚に内在するア・プリオリなカテゴリーに従って生起する。知覚のカテゴリーは、時間、空間及び因果性である。因果性というのは、カントの12のカテゴリーを因果性に包含させたものである。さらに「表象は根拠律に従属する」とし、時間、空間、因果性は根拠律の三つの特殊形態であり、表象を成立させる形式とみなした。「表象としての世界」では、物自体を理性によって認識することはできない。だが、物自体はこの原理を超越しており、現象界の背後にあって自存しているとした。こうしてショーペンハウアーは、カントの物自体を意志と規定することによって、別に「意志としての世界」を構想した。

「意志としての世界」という観点に立つと、現象とは、世界における意志の客観化であるとされる。意志は、人間のみならず動植物・無機物の中にも等しく存在する。ショーペンハウアーはここで身体に注目し、身体運動は直接的に認識される意志であり、意志の客観化であるとした。人間の意志は知性から生じたものではなく、生を意欲する衝動の中にこそある。意志とは、盲目的な「生きんとする意志」である。この「生きんとする意志」が世界全体を形成する動因である。物質・精神はともに意志の表れであり、重力、磁気、電気等の自然の諸力も、みな意志の表れである。ショーペンハウアーは、このように考え、万物の根源としての意志を「原意志」と名付け、世界とは原意志の現象、客観化であるとした。そして、衝動的な盲目の意志を否定することで、解脱に達することができるという思想を説いた。意志の否定は、原意志の否定ではなく、個人における意志の否定である。意志の否定には、他者に自己と同じ苦悩を認識することで純粋な愛が生じる「共苦(同情)」と、また自己の死さえも意志からの解放とみなす「禁欲」という二つの道があるとした。これらの道は道徳的実践であり、解脱ということから東洋人が連想する修行、例えば瞑想、ヨガ等の具体的な方法は、説かれていない。

 ここでインド哲学との関係を述べると、ショーペンハウアーは、自分の説く意志を、インドのバラモン教における最高原理、ブラフマン(梵)と同一視した。もともと一つである意志は、時間と空間の形式によって多数の個体に分離して現れる。ショーペンハウアーはこれを「個体化の原理」とし、「マーヤー(幻影)のベール」と呼んだ。この考え方は、ヴェーダーンダ哲学に通じるものである。ヴェーダーンダ哲学では、自然界の諸事象も、個体の人格的な意志やその行動も、すべて虚妄のものとし、人生の目的はブラフマンとの合一による解脱であると説く。だが、ショーペンハウアーの意志とブラフマンは同じではない。ブラフマンは非人格的な宇宙の最高原理であり、アートマン(我)という個体的原理と対をなす。アートマンは、気息を原義とし、生命や自我・霊魂を意味する。ブラフマンとアートマンは同一無差別であると説くのが、梵我一如の思想である。これに対し、ショーペンハウアーの意志は、自然の諸力や人間の意欲あるいは行動となって現れるものだから、ブラフマンとは異なる。ショーペンハウアーにはアートマンに当たるものがない。輪廻の観念もない。

またショーペンハウアーは解脱への道を説くが、その意味は仏教の教えと異なっている。仏教では、輪廻転生を繰り返している世界から抜け出ることを解脱という。もとにあるのは、因縁生起すなわち縁起の理法である。縁起説は、キリスト教の人格神による宇宙創造説とは、相容れない。仏教の代表的な教説の一つである唯識説は、あらゆる存在や事象は心の本体である識の作用によって仮に現れたものに過ぎないとし、阿頼耶識を万物の展開の根源であり、万物発生の種子であると説く。これに対し、ショーペンハウアーは、「客観的世界は単なる脳の現象である」「我々によってア・プリオリに認識された法則は、()単に直観並びに悟性の形式から、つまり脳の諸機能から発生する」とし、表象を脳が生み出す現象と考えている。この場合、身体の器官としての脳が失われれば、表象は消滅することになる。その場合、表象の記憶は残存するか、どこに保持されるかという問題がある。

西欧でウパニシャッドや大乗仏典の本格的な翻訳が出たのは、ショーペンハウアーの死後のことだった。ショーペンハウアーがインド哲学と仏教を同じようなものと理解していたのは、時代による制約が大きい。

さて、ショーペンハウアーは、カントと同じく視霊現象に強い関心を持った。主著刊行の32年後となる1851年に『視霊とこれに関連するものについての研究』という論文を発表している。本書でショーペンハウアーは、「今日では動物磁気ならびに透視が明白な事実であることを疑う者は、単に信仰がないばかりか無知であるといわれる」と述べている。動物磁気説は、当時西欧で催眠術療法が評判だった医師メスメルの唱えたもので、人体は宇宙に充満しているガスの一種である動物磁気の支配下にあり、病気は体内における磁気の不均衡から生ずるとする説である。メスメルは、霊魂は意志を持つので科学実験は成立しにくいが、動物磁気は物理学的な存在であり、適切な条件が設定できれば、操作可能であると考えた。ショーペンハウアーは、動物磁気は自己の意志が直接他者の精神や身体に働きかけることだと考えた。

ショーペンハウアーは、「人間の内的本質」を意志とし、死後も意志は存続するものとした。一般的に言えば、霊魂の存続である。ショーペンハウアーによると、幽霊の幻視は、自然現象ならびにその法則には拘束されない物自体と結びついている。ショーペンハウアーは、次のように書いた。「空間と時間の観念性についてのカントの教説にしたがって、われわれは、知性の二形式から自由であってあらゆる現象の中でこれだけが真実であるもの、つまり物自体は、遠近や過去、現在それに未来の間の区別を知らないということを理解する」と。物自体は、人間を含む万物の本質を形成する意志であって、空間や時間の制限下に置かれていないから、これによって遠方にいる個人間の直接の作用や生者―死者間の相互作用は可能であると考えたのである。

ショーペンハウアーは、先の論文に次のように書いている。「かつて生存した人と現に生きている人との間の区別は絶対的なものではなく、両者の中にはともに、同一の生きんとする意志が現れることをはっきりさせるべきである。これによって生存中の人は回想によって死者からの連絡として示されるもろもろの記憶を明るみに出すことができるであろう」。また「各人の意志は個体化のいかなる制限によっても妨げられることなく、したがって直接、遠方から他人の意志に作用するばかりか、他人の生体にも作用を及ぼす」とも述べた。

こうしてショーペンハウアーは、意志という概念で無意識の領域を示唆し、予知夢、夢遊病者の知覚、霊魂との交流、テレパシー、念力等の説明を試みた。この点、カントがスヴェーデンボリの霊的交通や遠隔視に関心を示しながら、これを統一的に説明することができなかったのに対し、総合的な仮説を提示し得ている。

私は、カントは『視霊者の夢』以降、一貫して心霊論的信条を持ち、それが批判哲学の前提となっているという見方をしている。カントにおいて、その心霊論的信条は、キリスト教の信仰に基づくものだった。物自体は認識できないとする不可知論であっても、キリスト教の信仰を持つ限り、道徳的実践は成り立つ。神、不死、自由を要請するのは実践理性だが、その根底にあるのは信仰である。定言命法も、キリスト教の敬虔な信仰集団における道徳規範である。カントの哲学はこの点、信仰による飛躍があった。飛躍なしに成り立たない哲学である。これに比し、ショーペンハウアーは、物自体を放置せずに徹底的に考究した。インド哲学を学び、キリスト教を相対化していたショーペンハウアーは、論理的思考によって一貫性を追求した。ただし、物自体は意志であるというのは、彼の直観的な理解であり、なぜ物自体が意志であるのかという点について、説明はどこにもされていない。

ショーペンハウアーは、物自体を意志ととらえたことにで、カントが斥けた独断的形而上学に逆戻りしたという批判も成り立つ。だが、万物の根源を精神性を持たない物理的な力とすれば、唯物論に陥る。「人間の内的本質」が死後も存続するという理論を立てるには、宇宙の根源的な存在は、物質と精神をそのうちに含むものと想定しなければならない。ショーペンハウアーもまた心霊論的な信条を持っていたが、彼においては、カントのようにキリスト教信仰による飛躍はあり得ない。それゆえに、ショーペンハウアーにおいては、視霊現象や超能力等の研究は非常に重要な課題であり続けた。ショーペンハウアーの視霊現象や超能力等の考察は、思弁的・空想的でなく、自らの経験と観察及び古今の豊富な記録文献に基づき、当時の医学・生理学等の知識も踏まえて、さまざまな角度から検討を行ったものである。彼の観察力は鋭敏であり、思考力は強靭である。

 ショーペンハウアーは、カント以後のドイツ観念論において特異な存在だった。ドイツ観念の主流は、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルである。彼らの観念論哲学は、キリスト教を基盤としていたが、ショーペンハウアーはインド哲学を学び、キリスト教的な人間観・世界観を相対化し得ている。ヘーゲル哲学の全盛期には不遇だったが、晩年になってから高く評価されるようになった。そして西洋における東洋思想への関心を高め、その理解を助ける役割をした。また脱キリスト教的な心霊論哲学の可能性を開き、東西の対話と相互理解を促進することにも貢献している。

(「カントの哲学と心霊論的人間観」より)

 

ショーペンハウアーは、後代のニーチェ、フロイト、ユング等に大きな影響を与えた。ニーチェは、カントとは正反対に神や霊、死後の世界、不可視界を否定する一方、現実世界における生を肯定し、生命の本質を「力への意志」であるとした。「力への意志」こそ、生の唯一の原理である、とニーチェは説いた。これは、ショーペンハウアーの意志を、否定すべきものから肯定すべきものへと逆転させた思想である。

ショーペンハウアーは、フロイトとユングを啓発し、無意識の研究を促した。

(「カントの哲学と心霊論的人間観」より)

 

 

●キルケゴール

 

マルクスは、ヘーゲルのキリスト教的観念論に対して、無神論的共産主義を樹立した。これに比し、ゼーレン・キルケゴールはマルクスとは正反対にキリスト教の信仰を深化する思想を展開した。西方キリスト教の宗教改革によって、神と人が絶対的に向き合い、自分が一人で神に対面して結果を受けるしかないという、厳しい個人主義的な宗教が成立した。キルケゴールは、そのプロテスタンティズムにおける信仰のあり方を徹底的に突き詰めた。彼の単独者の実存の哲学は、19世紀後半以降、プロテスタンティズムを中心にキリスト教における信仰のあり方に深刻な影響を与え続けている。

キルケゴールは、1813年にデンマークに生まれた。20歳代初めまでに5人の兄姉と母とが相次いで死亡した。その不幸を父が先妻の死亡以前に暴力的に実母を犯した罪と結びつけて、自ら「大地震」と呼ぶ深刻な体験をした。以後、死の意識と憂愁の気分のとりこになった。レギーネという女性と婚約したが、苦悩の結果、婚約を一方的に破棄した。しかし、彼女への愛は変わらなかった。こうした家系的な罪の意識と、恋人への愛の内的反復という複雑な心理から、「いかにして真のキリスト者になるか」ということが、生涯の課題となった。

キルケゴールは、近代西欧哲学が人間の本質を論理の能力たる理性に限定し、真理を合理的客観性として追及してきたことに反発する。本質規定に尽くされない人間の自由な生に注目し、思惟能力だけでなく、人間の生き様全体をとらえようとしで、そのような具体的な人間を「実存」と呼ぶ。そして、「人間は無限性と有限性との総合、時間と永遠なものとの総合、要するにひとつの総合なのである」(『死に至る病』)と説く。これらの総合は、相反する概念の一致をいうものである。だが、それは理性的な思惟によって、実現するものではない。人間は一つの本質に限定されない自由のもとにあり、常にそのつど自分なりの関係を自己の人格として生成させる実存的課題を負う。そして、「大切なのは、私にとって真理であるような真理を見出し、それのために私が生き、そして死にたいと思うようなイデーを見出すことなのだ」(『日記』)と書く。

キルケゴールは、人間の生き方を三つに分ける。第一は、無神論的で享楽的な段階である、第二は、職業や家庭において善悪を正しく判断しつつ生きる倫理的な段階である。だが、人間が罪を負っており、こうした生き方は挫折せざるをえない。そこに、第三の宗教的な段階が開けてくる。絶対的な神を前にした畏れ、慄き、罪への自覚が、信仰へと人を導く。主体性は、本質としては無である自己を自覚し、存在の根拠を欠く無の不安の中から存在の根拠である超越的な神との関係で課題を示される宗教的実存において、はじめて成立すると説いた。

ヘーゲルは、近代理性主義の哲学を体系的に展開した。キルケゴールによれば、ヘーゲルは、人間の思惟の論理で神的な絶対精神を論証したが、その神は理性の神格化であって、不安を抱えた実存に対面する人格的な神ではない。それゆえ、ヘーゲルの弁証法は、主体的な真理を求める道ではない。真理を知るための人間の弁証法は、絶望の中にある人間に語りかけてくる人格神と交わす対話であり、神と人間の異質的断絶を真の現実と認めるところに始まるとして、キルケゴールは質的弁証法を説いた。

キルケゴールは、唯一人で神の前に立ち、自己の無力と自己の責任を自覚する。そうした彼にとって、歴史はヘーゲルの世界史のように客観化されたものではなく、永遠の神が介入する瞬間において、そのつど始まる歴史である。その瞬間において、人間は論理を越えた逆説の神に出会う。キリスト教の原点であるイエスの受肉を歴史的に一回限りの過去の出来事ではなく、この現在の瞬間における同時性としてとらえ、それを主体的に反復することが、真のキリスト者のあり方だ、とキルケゴールは考えた。

『あれか―これか』『不安の概念』『死に至る病』等の一連の文学的・哲学的・宗教的な著作を発表した後、キルケゴールはルター派の教会の牧師になろうとした。しかし、レギーネ問題を中傷する人身攻撃にあい、衆人のそしりと嘲笑を受けた。この経験から、キルケゴールは、時代の客観性にあえて逆らう単独者の道こそが真理へ通じる道であるという確信を持った。

その後、キルケゴールは、デンマーク国教会を激しく批判した。国教制度を取るデンマークでは、生れた者は幼児洗礼を受けて教会員となる。キルケゴールは、そのことの是非を問い、キリスト者は常に単独者として、真理の証人として、殉教者になる姿勢を持たなければならないと主張した。国教会の偽善を糾弾する活動を行っている中で、1855年のある日、キルケゴールは路上で倒れて、意識不明となった。その数週間後に死亡した。38歳だった。

こうした彼の人生には、幸福も安らぎもない。自分の主観でとらえた限りの神、イエスの愛と恩寵を求めながら、挫折と屈辱の中で人生を終えている。そこに救いを見出すことはできない。だが、キルケゴールの思想は、20世紀西欧の危機の時代において高く評価され、ニーチェとともに実存哲学の先駆とみなされた。今日まで、プロテスタントを中心とするキリスト教徒に大きな影響を与えている。その影響は、ハイデッガー、ヤスパース等の哲学者や、バルト、ティリッヒ等の神学者に顕著である。

(「キリスト教の運命」より)

 

●ニーチェ(その1)

 

19世紀の半ば、ダーウィンは進化論を唱え、マルクスは共産主義的唯物論を唱えた。彼らの思想は、近代科学的合理主義に立ち、キリスト教を否定し、同時に神や霊を認める伝統的な精神文化を否定するものであった。ダーウィンは自然淘汰・適者生存を原理とする闘争の思想を説き、マルクスは人類の歴史は階級闘争の歴史であるとする闘争の思想を説いた。彼らの後、フリードリッヒ・ニーチェが登場した。ニーチェは、ダーウィン・マルクス以上に徹底した無神論を説き、「力への意志」を生の唯一の原理とする闘争の思想を説いた。

ニーチェは、1844年にドイツでプロテスタントの牧師の家に生まれた。父母ともに代々牧師の家庭である。「呪術の追放」を行ったプロテスタンティズムの家系から、キリスト教そのものを否定する思想が出現したわけである。

ニーチェは、19世紀後半の西欧において、キリスト教によって代表される伝統的価値が、人々の生活において効力を失っていると洞察した。この状況を「神は死んだ」と表現した。彼は、西洋思想の歴史は、プラトンのイデアやキリスト教道徳といった、彼にとっては本当はありもしない超越的な価値、つまり無を信じてきたニヒリズムの歴史であるという。そして、このニヒリズムが表面に現われてくる時代の到来を予言した。ニーチェは、このニヒリズムを克服しなければならないと考えた。ニヒリズムが表面に現われてくる時代とは、「次の2世紀」とする。これは20〜21世紀にあたる。ニーチェは、既にその時代が到来しつつある場所を、機械文明の国・アメリカに見ていた。

ニーチェによれば、キリスト教による伝統的価値は「奴隷道徳」を体現している。この道徳は、強者に怨念や恨み(ルサンチマン)を抱いた弱者が作り上げたもので、やさしさとか温情といった言葉で形容される行動をほめあげる。しかし、こうした行動は弱者の利益にかなうものでしかない。彼はこうした伝統的価値にかわる新しい価値の創造を提唱した。

「神の死」によって人間が直面したニヒリズムを克服するために、新しい価値の創造が必要とされる。この困難な課題に耐えうるのは、人間を超えた「超人」のみである。超人は、弱者に対する強者であり、奴隷に対する君主である。超人が生み出すものは、「奴隷道徳」に替わる「君主道徳」である。超人のみが新しい価値の体現者として、ニヒリズムを克服しうる。ニーチェは「人間は動物と超人との間に張り渡された一本の綱なのだ」と言って、人間存在の危うさを強調した。

超人の価値創造力は、「力への意志」と呼ばれる。ニーチェは、神や霊や死後の世界、不可視界を否定する一方、現実世界における生を肯定し、生命の本質を「力への意志」であるとする。「力への意志」こそ、生の唯一の原理であると、ニーチェは説いた。

ニーチェは、ショーペンハウアーから深甚な影響を受けていた。ショーペンハウエルは、カントが認識し得ないとした物自体とは、意志であるとした。意志とは、盲目的な「生きんとする意志」である。この「生きんとする意志」が現象世界全体を形成する動因であるとした。インド哲学や仏教の影響を受けたショーペンハウアーは、衝動的な盲目の意志を否定することで、解脱の境地へと達することができるという思想を説いた。ニーチェは、ショーペンハウアーの意志を、否定すべきものから肯定すべきものへと逆転させた。それが「力への意志」である。

「力への意志」を原理とする思想は、ダーウィンやマルクスに共通する闘争の思想である。ダーウィンは種の間の、マルクスは階級や男女の間の、ニーチェは個人の間の闘争を説いた。

ニーチェは、デカルト以来の近代西欧哲学が確実性の拠点としてきた「自我」や「意識」を疑う。それは、人間と世界との隔たりをもたらし、人間の「究極の拠り所」を亡失させるものであるという。これに対し、ニーチェが憧れた生は、人間の「究極の拠り所」である「一にして全」であるものであった。ニーチェはこの根源的な存在を「ディオニュソス的なもの」と呼ぶ。

ディオニュソスとは、ギリシャ神話に現われる陶酔と熱狂の神であり、死して再生する神である。ニーチェは、この根源的な「一者」との汎神論的な同一化を求めていく。そして、超人のイメージと、古代ギリシャの陶酔と熱狂の神・ディオニュソスのイメージは重合していく。そして、ニーチェは、自らを聖書に記された「反キリスト」と同定するに至った。

キリスト教的な西洋文明を批判し、西洋文明の根源を古代ギリシャに遡るニーチェは、さらに神話的な思考に立ち戻った。

ニーチェには、永劫回帰という思想もある。永劫回帰とは一切のものが永遠に繰り返すという考え方で、神話的思考における「祖型と反復」(エリアーデ)に通じるイメージである。ニーチェは、永劫回帰を「無が永遠に続く」というニヒリズムととらえる。それを運命として肯定する者は、世界に意味を与える者となる。いわば無意味から有意味への反転である。このような極の反転は、神話的思考に見られる「対立物の一致」のイメージに通じる。

 ニーチェの思想は、このように複雑で、論理とイメージが混在し、矛盾を孕む。だが、その所論には鋭い洞察があり、欧米やロシアの知識人に重大な影響を与えてきた。そして、ニヒリズムという言葉は、ニーチェの思想から離れ、より広い意味で使われるようになった。ニヒリズムは、しばしば伝統的な秩序や価値を否定し、規制の文化や制度を破壊しようとする態度の意味で使われる。ニーチェが予言したように、19世紀末から欧米では、ニヒリズムが蔓延するようになった。世界的なキリスト教史について言えば、キリスト教徒のキリスト教離れ、キリスト教の衰退の進行である。

ニーチェのいう根源的な存在、「ディオニュソス的なもの」は、近代西欧が否定し、退けてきた合理化し得ない領域である。すなわち、理性に対する情念に当たる。身体・生命に基礎を置くものである。これを心理学的に見れば、無意識に当たる。ニーチェは、1883年から『ツァラトゥストラはこう語った』を書いた。この書でニーチェは意識せずに、無意識の探検を行っている。ユング心理学者の林道義の著書『ツァラトゥストラの深層』によると、ツァラトゥストラはニーチェの心である。そこには、死と再生の物語があり、影・アニマ・老賢者が登場し、自己の象徴がマンダラ(註 円や4とその倍数を要素とする象徴図)として現われる。しかし、近代人ニーチェは、理想的な自我だけが正しいとして、無意識をすべて抑圧する。そこに自我膨張の症状が現われ、肥大した自我はついに破綻する。

深層心理学者のユングは、ニーチェのいうディオニュソスとは、実はゲルマン神話の神・ヴォータンのことであると説いた。ニーチェは、ヴォータンの子孫・ゲルマン人を「金髪の野獣」といって賛美した。この言葉は、「超人」や「力への意志」といった言葉とともに、ナチスのイデオロギーの中で悪用された。

19世紀前半のキルケゴールと後半のニーチェは、対照的な思想を説いた。前者は、「真のキリスト者」となることをめざし、後者は「反キリスト」の思想を説いた。その点では正反対なのだが、彼らには共通している点がある。既成のキリスト教への激しい批判である。また、その批判は、近代西洋文明の発展に苦悩する個人の生きざまから発している。20世紀の西欧に、彼らの苦悩をともにする哲学者が現れる。それが、ハイデッガーとヤスパースである。

(「キリスト教の運命」より)

 

フィヒテとシェリング

 

 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、カント哲学から、一切の人間の行為の必然性を人間の意志の自由によって根拠づけ、そこから説明しなければならないという考えを学んだ。その考えを進めるため、カント哲学をさらに展開して体系化することを試みた。フィヒテは、フランス革命に感激し、ルソーの『社会契約論』を読んで思想・表現の自由と革命権の擁護を説いた。そして、自由への思いをカントの実践理性に託して、能動的自我を絶対化する思想を構築した。自我の内に非我もまた定立されるとし、「絶対我は、我と非我とを内に含み、しかもこれを超越するところのものである」とし、一切の存在者は純粋な絶対我が自ら定立した非我を通じて自己を展開する事行(Tathandlung)に他ならないと説いた。
 このようにしてフィヒテは、自我の外に物自体を残す二元論を、自我の一元論に統合しようとした。その際、フィヒテは、カントが認識能力の一つとしていた構想力を、すべての認識能力に通底する根源的な機能とした。構想力は、自己を越えていこうとしながら障害にぶつかって折れ曲がることを余儀なくされる自我の活動であるとして、構想力から直観、悟性、判断力、理性という認識諸能力を導出し、同時に、実践能力の根底にあるものともした。
 その哲学はまさに主観的観念論だったが、同時に行動の思想でもあった。フィヒテは、ドイツがナポレオンに占領されると、「ドイツ国民に告ぐ」と題した講演を行い、ドイツの独立と統一を達成するため、国民的自覚を高める教育の重要性を訴えた。この講演によって、フィヒテは、ナショナリズムの思想を樹立した。フィヒテ哲学のその部分及びナショナリズム思想については、マルクス主義の後に別項目として書く。
 フィヒテは、自然を他我とみなして、原理的に哲学の対象とみなさなかったが、フリードリヒ・シェリングは、自然に対して深い関心を示した。シェリングは、自我と自然の相互浸透を論じる自我哲学と、有機体を自然の最高形態と見なす自然哲学を説いた。また、「人間の意識も自然も同じ『世界精神』の現れであり、この絶対者は芸術的、知的直観によってとらえられる」として、神と人間、絶対者と有限者は「あらゆる媒介なしに根源的に一つである」とする同一哲学を説いた。ヘーゲルは、『精神現象学』(1807年)で、「すべての牛を黒く塗りつぶす闇夜」として、シェリングの思考の無媒介性を批判した。無差別の絶対者からどうして人間や自然という有限者が生まれるのか、分離された瞬間、絶対者は有限者となってしまう。この点を掘り下げたシェリングは、『人間的自由の本質』(1809年)で、神の実存と実存の根拠を分け、実存の根拠を「神のうちの自然」と定義し、諸事物は神の実存の根拠から生成するとした。そして、人間の自由に悪を行う可能性があるのは、神の実存の構造に基づくとした。
 1830年代のシェリングは、従来の哲学は「あるものが何であるか」に関わるのみで、「有るとはどのような事態であるか」について答えていないという。そして、事物の本質を論じるだけの理性の哲学を消極哲学として、これを批判し、事物の実存を解明する積極哲学を標榜した。シェリングの思考は、理性に定位するドイツ観念論を抜け出るものであり、20世紀に入って、ハイデッガー、ヤスパース等によって再発見されることになった。彼らの系譜による実存の哲学は、世界戦争と核の時代において、人間の実存を問い、自由と人間性の発展を求めるものであり、今日の人権の思想に影響を与えている。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●へーゲル

 

フリードリッヒ・ヘーゲルは、『歴史哲学』で絶対精神の自己展開としての歴史は自由の実現を目的とするとし、「自由はまさに精神の本質である」と説いた。また『法の哲学』で、市民社会は「自由の理念の現実態」である国家へと止揚さるべきことを説いた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 ゲオルク・W・F・ヘーゲルは、フィヒテの絶対我、シェリングの同一性を批判しつつ、独自の思考を展開した。ヘーゲルは、『精神現象学』において、「絶対知」という概念を提出し、人間理性は精神の弁証法的な上昇運動によって神的理性に達し得ることを主張した。そして、絶対精神の自己展開としての体系的な哲学を構築した。
 ヘーゲルは、感覚から始まる人間知の歩みは、絶対知にまで到達しなければならないと考えた。「宗教の最高段階であるキリスト教は、人間知の絶対性を内容としながらも、神人一体の理念をイエスという神格に彼岸化し、その内容を表象化している。この彼岸性・表象性・対象性を克服したところに絶対知が成り立つ」とした。宗教と哲学とは同一内容の異なった形式であり、宗教はまだ絶対知ではない。「哲学は人間知の絶対性にまで達成しなければならない」と説いた。
 啓蒙主義によって、近代西洋人は、人間理性への自信を強め、自信のあまり、人間の知力でできないことは何もないかのような錯覚を生じ、人間が神に成り代わったかのような傲慢に陥った。人間がすべてを知り得るという思想は、人間理性が全体知と絶対的真理を知り得るというヘーゲルでその頂点に達した。カントによる悟性に対する理性の優位は、ヘーゲルで徹底された。
 ヘーゲルは、理性を悟性と区別される弁証法的思考の能力とした。分析的な悟性が固守する有限なものの対立を融解させ、相互の一面性を否定して制限から解き放ち、高次の統一の新たな契機としてそれらを高め保存する働きを、理性とした。また、心の能力としての静的で同一な従来の理性を、歴史において自らを展開し実現する理性へと転換させ、悟性をこの生成する理性の契機とみなした。
 弁証法は、もともと対話・弁論の技術の意味だったが、ヘーゲルは、現実世界の一切の運動の原理とした。有限者はすべて自己に内在する矛盾を動因として対立物を生み出し、それを媒介として共により高次の段階へ止揚されると主張するヘーゲルは、弁証法を思考と存在の統一的な論理とした。それゆえ、ヘーゲルの理性は、弁証法的かつ歴史的な理性である。
 ヘーゲルは、「これまでの哲学史を貫く一本の『太い糸』を発見して、これを合理的法則によって説明しなければならない」と考え、その「太い糸」をイデー(理念)と名づけた。イデーは、プラトンのイデア(観念)を継承したものである。
 プラトンのイデアは、現象界の事物の原型・模範であり、超感覚的で永遠不変の真実在を意味した。イデアは道徳、存在、自然等の統一的で超越的な原理だった。ヘーゲルのイデーは、「人間の理性によって到達し得る最高の真理」を意味し、その点ではプラトンのイデアに通じるが、人間の歴史において顕現し、自己発展するとした点が独特である。叡智界に想定されるイデアが現象界に歴史的に展開するというヘーゲルの発想は、キリスト教から来ている。キリスト教は始源から終末に向かう直線的な歴史における救済を説く。ヘーゲルはその宗教的な歴史観を哲学で表現したのである。
 ヘーゲルのイデーは、人類の歴史の中に顕現して弁証法的に自己発展していく絶対精神とされた。ここで弁証法的とは、神の原初的同一性が疎外(外化)され、これが止揚されてより高い同一性に還帰するという過程的な構造をいう。また絶対精神については、『歴史哲学講義』(1831年、死後出版)の序論に、ヘーゲルは次のように書いた。「魂を導くヘルメスに似て、イデーこそが、まさに民族や世界の真の導き手であり、精神の持つ理性的かつ必然的な意思は、いつの時代にあっても現実の事柄を導くことにある。この精神が世界を導くさまを認識するのが我々の哲学的な歴史の目的である」と。また同書の末尾では、「日々の歴史的事実は、神なしに起こり得ないということのみならず、歴史的事実がその本質からして神自らの作品であることを認識する」と述べている。このように、ヘーゲルの絶対精神とは、人間の精神を通した思想や行動によって自己表現されていく精神のことである。歴史哲学の一部をなす『宗教哲学』では、「人類の歴史発展の根底には、人間が絶対精神にまで自らを向上させたいという願望と、その理想を実現したいという営為努力があった」と述べている。
 本稿の主題である人権との関係では、自由と国家の関係についての所論が注目される。ヘーゲルは、絶対精神の自己展開としての歴史は自由の実現を目的とするとし、「自由はまさに精神の本質である」と説いた。歴史において個々人の動きを通して自己を主張しているのは、理性であるとし、それを世界精神と呼んだ。世界精神は歴史の主体であり、自由の真の領域である国家においてのみ具体的に自己を実現する、とした。ヘーゲルは、『法の哲学』(1821年)で、家族、市民社会、国家を即自、対自、即自かつ対自の弁証法的な三段階とし、市民社会の諸矛盾は国家においてすべて止揚されると説いた。ヘーゲルがとらえた市民社会は、個々人の欲求の体系であり、「人間を原子的孤立状態に解体させ」「個人的私益を求める万人の万人に対する戦場」だった。ヘーゲルは、個人と全体は有機的組織を形づくるのであり、個人の実体は国家であるとし、市民社会は「普遍的究極目的と諸個人の特殊的利益との一体性」であり、「自由の理念の現実態」である国家へと止揚されるべきことを説いた。
 知識の範囲と限界を示したカントと、絶対知に到達しようとするヘーゲルは、哲学的な立場は大きく異なる。だが、自由を追求する点は共通する。彼らは、現実の社会で自由を実現しようと運動したのではなく、道徳や法に関する哲学の中で自由の理念を追求したのである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 ドイツ観念論を極限まで進めたのは、ゲオルク・W・F・ヘーゲルである。ヘーゲルは、スピノザの唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた。ヘーゲルは、『精神現象学』において、「絶対知」という概念を提出し、人間理性は精神の弁証法的な上昇運動によって神的理性に達し得ることを主張した。そして、絶対精神の自己展開としての体系的な哲学を構築した。

 ヘーゲルは、感覚から始まる人間知の歩みは、絶対知にまで到達しなければならないと考えた。「宗教の最高段階であるキリスト教は、人間知の絶対性を内容としながらも、神人一体の理念をイエスという神格に彼岸化し、その内容を表象化している。この彼岸性・表象性・対象性を克服したところに絶対知が成り立つ」とした。宗教と哲学とは同一内容の異なった形式であり、宗教はまだ絶対知ではない。「哲学は人間知の絶対性にまで達成しなければならない」と説いた。

 啓蒙主義によって、近代西洋人は、人間理性への自信を強め、自信のあまり、人間の知力でできないことは何もないかのような錯覚を生じ、人間が神に成り代わったかのような傲慢に陥った。人間がすべてを知り得るという思想は、人間理性が全体知と絶対的真理を知り得るというヘーゲルでその頂点に達した。

 ヘーゲルは、「これまでの哲学史を貫く一本の『太い糸』を発見して、これを合理的法則によって説明しなければならない」と考え、その「太い糸」をイデー(理念)と名づけた。イデーは、プラトンのイデアを継承したものである。

 プラトンのイデアは、現象界の事物の原型・模範であり、超感覚的で永遠不変の真実在を意味した。道徳、存在、自然等の統一的で超越的な原理だった。ヘーゲルのイデーは、「人間の理性によって到達し得る最高の真理」を意味し、その点ではプラトンのイデアに通じるが、人間の歴史において顕現し、自己発展するとした点が独特である。ヘーゲルのイデーは、人類の歴史の中に顕現して弁証法的に自己発展していく絶対精神とされた。ここで弁証法的とは、神の原初的同一性が疎外(外化)され、これが止揚されてより高い同一性に還帰するという過程的な構造をいう。

 こうしたヘーゲルの思想の核心は、キリスト教の信仰に基づくものであり、彼流にキリスト教の教義を哲学的に体系化したものである。その教義とは、父と子と聖霊の三位一体説を核心とし、原罪による楽園追放、神の独り子イエスによる贖罪、神と人の再結合という展開を持つ。ヘーゲルは、神は実体にして主体であると規定して、その疎外(外化)と還帰の弁証法の論理による絶対的観念論を体系化したのである。

叡智界に想定されるイデアが現象界に歴史的に展開するというヘーゲルの発想も、キリスト教から来ている。キリスト教は始源から終末に向かう直線的な歴史における救済を説く。ヘーゲルはその宗教的な歴史観を哲学で表現したのである。ただし、ヘーゲルにおいて、歴史の目標は終末論的な未来にはない。絶対精神が哲学的思惟によって自己自身に到達得るところの歴史の過程そのものなのである。その点では、歴史の見方において、根本的にはキリスト教的でありつつ、実質的に脱キリスト教化しつつあるものである。それゆえ、ヘーゲルの絶対観念論による壮大な体系は、キリスト教に関する基本的な理解が変わると、崩壊に向かう可能性を秘めていた。

(「キリスト教の運命」より)

 

●シュライエルマハー

 

 カントの批判哲学の二元論的思考に不満を抱く者たちは、18世紀末から19世紀の初めにかけて、カント哲学を超える一元論を生み出そうとした。その取り組みの一つが、先に書いたフィヒテ、シェリング、ヘーゲルらによるドイツ観念論であり、もう一つが、ゲーテ、ノバーリス、ヘルダーリンらによるロマン主義だった。ロマン主義は、文学を中心に展開されたが、プロテスタント神学にも影響を与えた。

ロマン主義神学の代表的存在がへーゲルとほぼ同時代を生きたフリードリヒ・シュライエルマハーである。シュライエルマハーは、フスの系統のヘルンフート兄弟団で育ち、敬虔主義やシェリングの影響のもとに宗教哲学を展開した。シュライエルマハーが説いたのは、形式的な教義学や信条から離れた信仰論、宗教論であり、宗教の本質は学問や道徳の問題ではなく、神に対する直観と感情であるとした。彼は、自己と対象との対抗関係が統一され合一されるものに対する「絶対的な依存感情」が、信仰であると説いた。神との神秘的な結合を強調し、神と人間の直接的な関係を主張した。彼によって、絶対的依存感情としての敬虔の体験を記述することが神学の課題となった。

シュライエルマッハーの神学は、直観と感情を基本とし、体験と価値判断を重視する。彼以後、彼における理性より体験を重んじる側面を継承するか、主観的な価値判断を重んじる側面を継承するかによって、異なる神学の系統が続いた。

体験重視の側面を継承したのが、保守主義の神学である。これには正統主義と敬虔主義が含まれる。すなわち、ルター、カルヴァン以来の堅固な聖書主義から、歴史的・批評的な立場をある程度受け入れるものまでの幅があった。一方、価値判断重視の側面を継承したのが、自由主義の神学である。そして、この側面において、シュライエルマハーは、自由主義神学の祖ともされ、また近代神学の祖ともされる。

自由主義(リベラリズム)は政治学の用語であり、これをキリスト教神学に用いる時は、政治的な思想・運動をいうのではない。自由主義神学とは、伝統的・組織的な教理体系に縛られずに個人の理性や感情によって教義を自由に再解釈する神学である。

シュライエルマハー以後、自由主義神学というくくりの中で、様々な研究と主張が現れた。代表的なものは、ダーフィト・シュトラウスによる聖書の批評的研究、アルブレヒト・リッチュルによる道徳的宗教論、アドルフ・フォン・ハルナックによる原始キリスト教におけるギリシャ哲学の影響の研究、エルンスト・トレルチによる宗教史研究に基づくキリスト教の相対化などである。

19世紀前半以降の自由主義神学には、次のような特徴を指摘できよう。聖書について科学的な見方を許容し、聖書に記されている物語を、必ずしも科学的または歴史的な事実とは主張せず、宗教的・道徳的に意味のある寓話と理解する。聖書の批評的な研究や解釈を支持する。聖書の無謬説や言語霊感説を採らない。旧約聖書では、モーゼ五書、イザヤ書等の成立に関する伝説を無批判に採用しない。新約聖書では、イエスの言葉とされる文言を含めて、福音書家の意図や教団における読まれ方を解釈の第一義とする。古文書学、考古学、歴史学の成果を活用して、原始キリスト教団の信仰のあり方を分析し、そこからキリスト教信仰を再構築しようとする、などである。

 ここには明らかに啓蒙主義の影響が現れている。その点では。カント以後のプロテスタント神学ということができる。

(「キリスト教の運命」より)

 

●功利主義

 

西方キリスト教は宗教改革を行い、それが文化的近代化の推進力となり、近代資本主義の発達にも寄与した。しかし、近代化の進行に対し、キリスト教は対応することができなくなっていった。そして、キリスト教に基づきつつ、キリスト教に替わって、近代社会における価値観や規範を提供する思想が現れた。それが先に述べた啓蒙思想や合理主義であり、19世紀にはそれらを発展させた新しい思想が現れた。功利主義、社会主義、共産主義である。

まず功利主義(utilitarianism)は、19世紀にイギリスでジェレミー・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル等によって唱えられた思想である。功利(utility)とは、物事の効用や有用性を意味する言葉である。その功利を倫理的な価値とする思想が、功利主義である。

ベンサムはいう。人間は、快楽の総計を増大させ、苦痛の総計を減少させようとする。その結果、得られるものが、個人の幸福である。個人の幸福は、社会全体が幸福である時に最大になる。そこで、「最大多数の最大幸福」が目標となる。ベンサムはこれを「功利の原理」とした。ベンサムにおいては、効用の最大化が正義とされた。

 ベンサムに特徴的なのは、快楽を量的に表現し、計算することができるとした点である。ベンサムは、この計算を快楽計算とよんだ。計算の基準には、強さ、持続性、確実性または不確実性、遠近性、多産性、純粋性、範囲または影響を受ける人数を挙げた。この定量化は、ニュートンが万有引力の法則を発見し、自然を統一的にとらえる力学を完成させたのを受けて、精神科学を自然科学と同じような精密科学としようとする試みである。

 ベンサムは、「功利の原理」を、後に「最大幸福の原理(the greatest happiness principle)」と言い換えた。それゆえ、功利主義は、最大幸福主義と呼ぶことができる。

 ベンサムの功利主義(最大幸福主義)には、重大な欠点があった。どんな人間でも快楽を求め、苦痛を避けるものだとするのは、事実を単純化し過ぎていること。快楽の追求、苦痛の回避が善なら、すべての行為が正しいことになること。自分の幸福と他人の幸福とは衝突することがあること。快楽計算の実例が挙げられていないこと。快楽計算は、実際には非常に困難であること。最大多数の最大幸福のためには少数者の犠牲はやむを得ないとすると、個人の自由と権利が侵害される場合があること、等々である。

 これらの欠点を踏まえて、ベンサムの理論の修正を行ったのが、J・S・ミルである。ミルは、ベンサムが快楽を量的にとらえたのに対し、質の相違を認めた。ミルの「満足した豚であるよりも、不満足な人間である方がよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスである方がよい」という言葉は、食欲の満足のような質の低い快楽と、真理の探究のような質の高い快楽を区別したものである。

 ミルは功利主義者であるとともに、修正的自由主義者でもある。修正自由主義とは、17〜18世紀のイギリスで発達した自由のみを価値とする古典的な自由主義に対して、自由とともに平等の価値を尊重する思想である。ミルは、功利すなわち社会全体の最大幸福を主要な原理とし、自由と平等の調和を補助的な原理としている。ミルは最大幸福を目的として、古典的自由主義を修正し、自由と平等の調和を図った。労働者の団結権を擁護し、所有・相続・土地等の制度改革を承認した。また労働者の選挙権の拡大、婦人参政権を主張した。さらにサン・シモン、フーリエらの社会主義に共感を示した。ただし、社会主義に対しては、理念には賛成するが、個々の理論には反対するという立場だった。

 ミルは、最大幸福という目標の下で自由と平等の調和を図ったが、その思想は19世紀後半のイギリスで広く影響を与えた。私見を述べると、イギリスの社会主義が、マルクス=エンゲルスの共産主義と一線を画し得たのは、ミルの思想の影響によるところが少なくない。イギリスの社会主義は、イギリスの伝統的な個人主義や相互扶助的な要素を保持した。議会主義に基づく漸進的な社会改良を目指すウエッブ夫妻、バーナード・ショーらのフェビアン協会が社会主義の主流となった。

ミルの修正自由主義的な功利主義(最大幸福主義)は、キリスト教の道徳思想とも親和的だった。ミルの思想は、利己的個人主義や利害打算的な考え方とは、大きく違う。そのことを最もよく明かすのは、ミルが次のように書いていることである。「ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読み取る。おのれの欲するところを人に施し、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、功利主義道徳の理想的極致である」と。ミルはまた人類の社会的感情の根底には、「同胞と一体化したいという欲求」があるとし、社会全体における人格の向上が最大幸福の実現となることを説いている。ここにおけるキリスト教の理解は、キリスト教を啓蒙主義的に道徳的宗教ととらえる見方である。

 政治思想では、ミルはイギリス伝統の個人主義の立場に立ち、「権力からの自由」を強調しつつ、この政治的自由に加えて、新たに社会的自由を主張した。これは、多数者の横暴からの自由であり、少数者の権利を保護するものである。ミルはまた婦人問題に強い関心を示し、産業革命後のイギリスで悲惨な婦人が増大したのに対し、婦人の権利の拡大を追求した。さらに、ミルはイギリスの植民地支配に反対し、イギリスは植民地を独立へと導くよう主張した。ここにも道徳宗教化されたキリスト教の思想を見てとることができる。

(「キリスト教の運命」より)

 

●ベンサム

 

先進国イギリスにおける思潮として、功利主義と修正自由主義について書く。具体的にはジェレミー・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、トマス・ヒル・グリーンの思想である。彼らが生きた時代は、ほぼカント、ヘーゲル、マルクスと重なっている、ベンサム(1748-1832)は、カント(1724-1804)より20年以上後に生まれたが、没年はヘーゲル(1770-1831)の1年後。ミル(1806-1873)はマルクス(1818-1883)より早く生まれて、早く亡くなっている。グリーン(1836-1882)はマルクスより20年近く後に生まれたが、1年早く亡くなっている。フィヒテ(1762-1814)、リスト(1789-1846)とも重なり合う。
 19世紀にイギリスでベンサム、ミル等によって唱えられた思想が、功利主義(utilitarianism)である。功利(utility)とは、物事の効用や有用性を意味する言葉である。その功利を倫理的な価値とする思想が、功利主義である。
 功利主義のもとになったのは、イギリス経験論である。ロックは、認識の源泉は感覚であるとし、感覚によるものであれ、内省によるものであれ、すべての観念には快楽と苦痛が伴う。人間は快楽を追及し、苦痛を回避しつつ自己保存を図る、と説いた。ヒュームが『人性論』で、功利(utility)の語を、自己や他者に対する有用性の意味で用いている。快楽をもたらす行為が善で、苦痛をもたらす行為が悪だとして、善悪を有用性で判断する考え方は、18世紀イギリスでは常識の一部になっていた。ベンサムは、こうした考え方を学問的な原理に高めた。
 ベンサムは、ロックの思想における社会契約論や自然法論を批判し、「功利の原理(the principle of utility)」を提示した。イギリスでは経験論の伝統から理神論や懐疑論が現れたが、ベンサムは、この原理を宗教的な道徳に依拠せずに打ち出した。主著『道徳と立法の諸原理序説』(1789年)で、ベンサムは「功利の原理」を体系的に説明した。
 「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである」とベンサムはいう。人間は、快楽の総計を増大させ、苦痛の総計を減少させようとする。その結果、得られるものが、個人の幸福である。個人の幸福は、社会全体が幸福である時に最大になる。そこで、「最大多数の最大幸福」が目標となる。ベンサムはこれを「功利の原理」とした。ベンサムにおいては、効用の最大化が正義とされた。
 ベンサムに特徴的なのは、快楽を量的に表現し、計算することができるとした点である。ベンサムは、この計算を快楽計算とよんだ。計算の基準には、強さ、持続性、確実性または不確実性、遠近性、多産性、純粋性、範囲または影響を受ける人数を挙げた。この定量化は、ニュートンが万有引力の法則を発見し、自然を統一的にとらえる力学を完成させたのを受けて、精神科学を自然科学と同じような精密科学としようとする試みである。
 ベンサムは、「功利の原理」を単に理論として説いたのではなく、現実社会で実践して、法や政治を改革しようとした。ベンサムは、「功利の原理」を立法に適用し、法で禁止されるべき有害な違反行為、違反行為と罰との平衡等を考察した。これは従来の政治が自然法や共感等の主観的な原理に基づく法に依拠していたのを、客観的な原理を以て是正しようとしたものである。ベンサムは、「功利の原理」を、後に「最大幸福の原理(the greatest happiness principle)」と言い換えた。
 ベンサム及びその支持者たちは、社会における「最大幸福」を実現するために、積極的に政治活動を行った。最大幸福を目標とし、その実現に貢献する行為を義務とした。彼らは、ベンサム主義者または政治的急進派と呼ばれた。政治的には代議制デモクラシーの確立を目指し、経済的には自由放任主義を主張し、これらを立法による改革で実現しようとした。彼らは1832年のイギリスにおける選挙法改正に寄与した。この改正は中産階級の政治的発言権を拡大するものとなった。また1834年の救貧法の改正にも寄与した。この改正は、産業革命後の労働者や社会的弱者を保護するものとなった。本稿の主題である人権論の観点から見ると、ベンサム主義者は、デモクラシーの発達や労働者の権利拡大に貢献した。
 『道徳と立法の諸原理序説』は、1789年に刊行された。カントの『実践理性批判』が刊行された翌年である。ベンサムの功利主義は、行為の善悪の基準を理性や客観的な真理ではなく、経験的な快楽や苦痛に置くから、理性に基づく普遍的な道徳法則を説くカントの道徳哲学とは、相容れない。ベンサムは幸福の実現を道徳や法、政治の目標としたが、カントは人間は幸福を求めるべきではなく、幸福を恵まれるにふさわしい人間をめざして努力すべきものであると説いた。ベンサムは宗教に基づく形而上学的な理念を前提せず、カントはキリスト教の信仰と心霊論的信条に基づく道徳哲学を構築した。今日もベンサムの支持者とカントの支持者の論争は続いている。
 ところで、わが国では、功利主義を利己的個人主義や利害打算的な考え方であり、感覚的な快楽を追求するものだという見方がある。これは誤解である。ベンサムは個人を要素として社会をとらえる方法論的個人主義を用いているが、彼が想定する個人は自分だけでなく社会全体の幸福を望む人間である。最大幸福を望む動機は、「善意(good will)」や「慈悲心(benevolence)」だとベンサムは述べている。また彼の快楽は物欲や性欲、権力欲等より、精神的な喜びに重点があった。この点で、先の誤解はアダム・スミスに関する誤解に通じるものがある。わが国では、アダム・スミスについて、「神の見えざる手」を説いて自由放任を唱導し、利己的個人主義を正当化したという見方がある。これも、間違いである。彼の「神の見えざる手」は、人々の「共感(sympathy)」を原理とする道徳哲学に基づく観念である。「共感」は、ヒュームとアダム・スミスに共通する道徳的能力である。ベンサムの場合、彼らのように、個人と個人を結ぶ原理は明確でないが、社会に生きる人々の善意への信頼が功利の原理の前提になっている。だから、個人が幸福の極大化を図ることが、社会全体の最大幸福になるという理論が成り立つ。誤解を避けるためには、功利主義の語を止め、「最大幸福主義」と呼んだ方が良い。
 私見では、ヒューム、アダム・スミスやベンサムは、18世紀イギリスにおいて、伝統的な共同性が残存していた社会にあって、その中で思想を構築し、表現した。だが、資本主義の発達、特に産業革命によって、社会が本格的に共同性を失っていった時に、利己的個人主義や快楽主義が顕著になった。これは彼らの思想の影響というより、社会の変化に伴う現象である。逆に言えば、ヒュームやアダム・スミスの「共感」、ベンサムの「最大幸福」は、土台としての社会の共同性あってのものだった。カントの「定言命法」も同様である。個人主義的な自由主義者の思い込みとは異なり、歴史的・社会的・文化的に継承されてきた共同性があってこそ、道徳は成り立つのである。そして、国民の間に同胞意識や連帯感があってこそ、人権の思想は発達する。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 ベンサムは、社会契約説否定の系統から現れた。最大多数の最大幸福を目指す功利主義を打ち出し、快楽を量的に表現して計算することができるとし、効用の最大化を正義とした。ベンサムの思想は、公的な善より私的な善を優先し、かつ善を正義より優先するものである。
 功利主義の正義観は、社会を構成する個人の満足の合計が最大となるように社会制度が編成されている場合に、その社会は正義に適っているというものである。これは、正義から独立に善を規定し、その善の最大化を目標とする理論である。その理論は、神や超越的な理念に根拠を置く宗教的・道徳的な規範を排除し、当時の科学的合理主義に適う社会理論となった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#功利主義と資本主義

功利主義は、ロックの経験論を徹底し、最大多数の最大幸福を目指す理論を構築した。功利主義は、資本主義の経済学と親和的である。効用の最大化と経済的利益の最大化は、重なり合う部分があるからである。アダム・スミス以後の経済学は、合理的に行動するアトム的な個人を仮定した理論を構築した。こうした人間像を「経済人(エコノミック・マン)」という。経済人とは「なんらの倫理的な影響を受けず、金銭上の利益を細心かつ精力的に、だが非情かつ利己的に追求しようとする人間」(マーシャル)である。この人間像は、1870年にジェボンズ、メンガー、ワルラスが行った「限界革命」を経た新古典派経済学に受け継がれた。新古典派経済学は、価値判断を排除することによって、経済学から倫理を放逐した。功利主義は新古典派経済学と結合し、自由主義的資本主義の発達に寄与した。

カント主義は、人間は理性的で人格的存在として尊厳を持つがゆえに、すべての人間の人権を尊重すべしと説く。これに対し、功利主義は法に規定された権利のみが権利であるとし、人権の主張の根拠について批判的である。また、神や形而上的なものを排除し、カント的な道徳的人格性を否定する。

(「人権――その起源と目標」より)

 

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5.19世紀の哲学とその周辺

 

●ヘーゲル以後〜シュトラウス、フォイエルバッハ

 

 ヘーゲルは壮大な観念論哲学の体系を構築した。その思想は、キリスト教の信仰に基づくものであり、彼流にキリスト教の教義を哲学的に体系化したものである。その教義とは、父と子と聖霊の三位一体説を核心とし、原罪による楽園追放、神の独り子イエスによる贖罪、神と人の再結合という展開を持つ。ヘーゲルは、神は実体にして主体であるとしてその疎外(外化)と還帰の弁証法の論理による絶対的観念論を体系化した。それゆえ、キリスト教に関する基本的な理解が変わると、その体系は崩壊に向かう可能性を秘めていた。

ヘーゲルの死後、ダーフィト・シュトラウスが『イエスの生涯』(1835〜36年)で、福音書は事実の記録や故意の創作ではなく神話であり、原始キリスト教団の宗教的理念の象徴的な表現だとする聖書神話説を打ち出すと、激しい論争が起こった。その結果、へーゲル学派は左派、中間派、右派に分裂した。新たな思想を生み出したのは左派で、シュトラウスの解釈を支持する集団で、青年ヘーゲル派とも呼ばれる。
 左派に属したルートヴィヒ・A・フォイエルバッハは、『キリスト教の本質』(1841年)で、キリスト教で神として崇拝されてきたものは、人間の「類的本質」を対象化したもので、人間の自己疎外を示している、人間が自己の願望の対象を理想化した幻影にすぎない、と説いた。フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の本質は神の彼岸性を否定する点にあるとし、「神学の秘密は人間学であり、神学の本質の秘密は人間の本質であること」を知らねばならない、「神の主体は理性である。しかし、理性の主体は人間である」と述べた。ヘーゲル批判を通じて、フォイエルバッハは唯物論に転じた。

 フォイエルバッハの説について私見を述べると、宇宙には万物を生々流転させる理法にして力が実在する。科学はこれを対象的に認識しようとするが、これを人格化してとらえることは可能である。神話や宗教の多くは、宇宙の理法にして力を人格化し、象徴的に表現している。ユダヤ民族も日本民族もアーリア民族も同様である。とらえ方や表現の仕方は異なるが、対象は同一である。キリスト教はユダヤ民族が人格化した神を、唯一男性神として崇拝する。その人格化された神を否定しても、理法にして力は宇宙に実在する。それをカミと呼ぼうが、存在と呼ぼうが、ブラフマンと呼ぼうが、人間の認識に関わらず実在する。このように考えると、フォイエルバッハのキリスト教批判は、キリスト教が人格化した神(God)を否定し、その人間学的または心理学的な解明をしたことにはなっても、人格化される前の本源の神(the godhead)を否定するものにはならないのである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

 ドイツ観念論はヘーゲルで頂点に達したが、その体系哲学への批判を通じて、フォイエルバッハはキリスト教を批判し、唯物論に転じた。マルクスは、フォイエルバッハの説を受けて史的唯物論を説き、キリスト教を含む宗教を否定した。こうした唯物論哲学の登場には、自由主義神学が大きな影響を与えている。

 ヘーゲルの死後、ダーフィト・シュトラウスが1835〜36年に『イエスの生涯』を刊行した。シュトラウスは、自由主義神学の立場に立ち、福音書は事実の記録や故意の創作ではなく神話であり、原始キリスト教団の宗教的理念の象徴的な表現だとする聖書神話説を打ち出した。彼は、福音書を歴史的・批判的に取り扱う場合、その神話的要素を削除しなければならないと説いた。イエスは歴史の発展段階に属し、その時代を代表する一人の人間であるとし、キリストの理念とイエスの人格を分離して、イエスはその理念を具現した、偉大ではあるが一人の人間であるとみなした。このイエス論は、キリスト教史において、画期的なものだった。

『イエスの生涯』は、当時のドイツでヘーゲル学派に激しい論争を巻き起こした。その結果、へーゲル学派は左派、中間派、右派に分裂した。新たな思想を生み出したのは左派で、シュトラウスの解釈を支持する集団で、青年ヘーゲル派とも呼ばれる。

 左派に属したルートヴィヒ・A・フォイエルバッハは、『キリスト教の本質』(1841年)で、キリスト教で神として崇拝されてきたものは、人間の「類的本質」を対象化したもので、人間の自己疎外を示している、人間が自己の願望の対象を理想化した幻影にすぎない、と説いた。フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の本質は神の彼岸性を否定する点にあるとし、「神学の秘密は人間学であり、神学の本質の秘密は人間の本質であること」を知らねばならない、「神の主体は理性である。しかし、理性の主体は人間である」と述べた。ヘーゲル批判を通じて、フォイエルバッハは唯物論に転じた。

 フォイエルバッハの説について私見を述べると、宇宙には万物を生々流転させる理法にして力が実在する。科学はこれを対象的に認識しようとするが、これを人格化してとらえることは可能である。神話や宗教の多くは、宇宙の理法にして力を人格化し、象徴的に表現している。ユダヤ民族も日本民族もアーリア民族も同様である。とらえ方や表現の仕方は異なるが、対象は同一である。キリスト教はユダヤ民族が人格化した神を、唯一男性神として崇拝する。その人格化された神を否定しても、理法にして力は宇宙に実在する。それをカミと呼ぼうが、存在と呼ぼうが、ブラフマンと呼ぼうが、人間の認識に関わらず実在する。このように考えると、フォイエルバッハのキリスト教批判は、キリスト教が人格化した神(God)を否定し、その人間学的または心理学的な解明をしたことにはなっても、人格化される前の本源の神(the godhead)を否定するものにはならないのである。

 だが、フォイエルバッハ以降、キリスト教の人格神を否定することで無神論に転じ、同時に宗教一般を否定できたつもりの唯物論者が、近代西欧には多く現れた。その代表格が、カール・マルクスである。

(「キリスト教の運命」より)

 

●マルクス

 

 マルクスは、フォイエルバッハの説を受けて観念論を批判し、史的唯物論を唱導した。ヘーゲルが依拠した宗教については「宗教は、悩める者のため息であり、心ある世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である」として、現実の変革を主張した。(『ヘーゲル法哲学批判序説』) そして、歴史はヘーゲルの説くような絶対精神の自己展開ではなく、階級闘争の歴史であるとする唯物史観を打ち出した。その思想は、マルクス主義と呼ばれる。

 マルクスは『経済学批判』(1859年)の序言で、唯物史観を定式化している。「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的生活諸過程一般を制約する」「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。そのとき社会革命の時期がはじまるのである」と。こうした歴史観を以て、マルクスは、社会的不平等の根源を私有財産に求め、私有財産制を全面的に廃止し、生産手段を社会の共有にすることによって経済的平等を図り、人間社会の諸悪を根絶しようとする理論を説いた。

 マルクス=エンゲルスは、共産主義を科学的社会主義と自称した。彼らによる共産主義こそ、啓蒙思想の一つの帰結である。無神論・唯物論・物質科学万能の思想は、合理主義を推し進めたものである。マルクス主義は、神や霊魂や死後世界を全面的に否定する。人間理性によって社会の制度を設計し、計画経済が可能だとした。これこそ、近代合理主義の極致と言える。しかし、この合理主義的な唯物論的共産主義の実験は、20世紀の世界で1億人もの犠牲者を出すことになる。

(「キリスト教の運命」より)

 

 フォイエルバッハ以降、キリスト教の人格神を否定することで無神論に転じ、同時に宗教一般を否定できたつもりの唯物論者が、近代西欧には多く現れた。その代表格が、カール・マルクスである。マルクスは、市民革命の後の時代になるが、市民革命の時代に現われた思想の影響範囲になるので、ここに記しておく。
 マルクスは、フォイエルバッハの説を受けて観念論を批判し、史的唯物論を唱導した。マルクスは、ヘーゲルが依拠した宗教については「宗教は、悩める者のため息であり、心ある世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である」として、現実の変革を主張した。(『ヘーゲル法哲学批判序説』) そして歴史はヘーゲルの説くような絶対精神の自己展開ではなく、階級闘争の歴史であるとする唯物史観を打ち出した。その思想は、マルクス主義と呼ばれる。近代西洋文明では、キリスト教以後、最大の影響力を振るった。
 マルクスは『経済学批判』(1859年)の序言で唯物史観を定式化している。「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的生活諸過程一般を制約する」「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。そのとき社会革命の時期がはじまるのである」と。こうした歴史観を以て、マルクスは、社会的不平等の根源を私有財産に求め、私有財産制を全面的に廃止し、生産手段を社会の共有にすることによって経済的平等を図り、人間社会の諸悪を根絶しようとする理論を説いた。
 ロックは、所有権を自然権とした。だが、マルクスは、所有権が自然権であることを否定する。私有財産制は、生産力の発達段階において現れたものとする。ロックの説く普遍的・生得的な権利はブルジョワジーの階級意識の表現として、これを批判した。権利は階級闘争によって発達してきたものであり、人間一般の権利を認めない。権利は、共産革命によってプロレタリアート(無産階級)が戦い取るべきものとした。
 マルクスと盟友のフリードリヒ・エンゲルスは、プロレタリアートとなった労働者階級を組織し、革命を起こすことによって、共産主義社会を実現することを目標とした。共産主義とは、コミュニズムの訳語である。コミュニズムとは、コミューンをめざす思想・運動を意味する。コミューンとは、私有財産と階級支配のない社会であり、個人が自立した個として連帯した社会であるとされる。それは、新しい人的結合による社会だという。エンゲルスは、『反デューリング論』(1878年)で、建設すべき共産主義社会について、「人間がついに自分自身の社会的結合の主人となり、同時に自然の主人、自分の自身の主人になること――つまり自由になること」「必然の王国から、自由の王国への人類の飛躍である」と書いた。マルクス=エンゲルスは、その社会について、具体的には語っていない。むしろ語れなかったというべきだろう。想像の中にしかない社会であり、空想に近いものだったからである。
 しかし、マルクス=エンゲルスは、共産主義を科学的社会主義とも自称した。彼らによる共産主義こそ、啓蒙思想の一つの帰結である。無神論・唯物論・物質科学万能の思想は、合理主義を極端に推し進めたものである。極度の合理主義としての共産主義は、人類に大きな災厄をもたらすことになる。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#マルクスは痛烈にユダヤ教を批判した

 19世紀後半から20世紀にかけて、世界に最も大きな影響を与えたユダヤ人の一人が、カール・マルクスである。

資本主義の発達は、貧富の差を拡大し、社会的な矛盾を増大させた。サン・シモン、フーリエ、オーエンなどの社会主義者が改革・変革の思想を説き、バクーニンらの無政府主義者が破壊的な行動を起こした。そうした思想・運動を主導していったのが、カール・マルクスとその盟友フリードリッヒ・エンゲルスだった。

マルクスは、1818年にユダヤ人弁護士の子として、プロイセン(現ドイツ)に生まれた。祖父はユダヤ教指導者のラビだった。だが、父が1817年にキリスト教に改宗したので、マルクスは、非ユダヤ教的な教育を受けた。

マルクスは、脱ユダヤ教化したユダヤ人として、政治的・社会的な活動を行った。1844年刊の『ユダヤ人問題によせて』で、マルクスはユダヤ人問題を論じた。そこで、大略次のように述べている。

ユダヤ教の現実的な基礎とは何か。実際的な欲求つまり私利である。ユダヤ人の「世俗的な祭儀」は何か。あくどい行商である。彼らの世俗的な神は何か。貨幣である。「貨幣はイスラエルの嫉妬深い神であって、他のどんな神もそれとは共存できない。貨幣は人間のあらゆる神々の品位を貶め、それらを商品へと変えてしまう」。ユダヤ人は、この神を崇める宗教を広めて、「キリスト教徒を自分たちとそっくりに変えてしまっている」。ユダヤ人は資金力を使って自らを解放し、次にキリスト教徒を虜にした。ユダヤ教崩れのキリスト教徒は、隣人よりも金持ちになること以外にはこの世に何らの使命もなく、「現世は株式取引所」だと確信している。政治は資金の奴隷となっている。それゆえに「市民は自らの内部から、絶えずユダヤ人を生み出す」。「貨幣に対するユダヤ的な態度を廃止すれば、ユダヤ人とその宗教、ユダヤ人が世俗世界に押し付けてきたこのキリスト教の改悪版は消えてなくなるだろう」。

このように述べるマルクスは、「ユダヤ人の解放は、ユダヤ教からの人類の解放なのである」「あくどい商業主義と貨幣、つまり現実的で実践的なユダヤ教から自らを解放すれば、われわれの時代はおのずと解放されるだろう」と書いている。脱ユダヤ教化したユダヤ人による痛烈なユダヤ教批判である。

当時のドイツでは、カント以来のドイツ観念論哲学を究極まで進めたゲオルグ・W・F・ヘーゲルの哲学が権威を誇っていた。ヘーゲルはキリスト教に依拠し、神は実体にして主体であるとしてその疎外(外化)と環帰の弁証法の論理による絶対的観念論を体系化した。これに対し、ルートヴィッヒ・フォイエルバッハは、キリスト教の神は人間の類的本質を対象化したもので、人間の自己疎外を示しているという説を打ち出した。マルクスはその説を受けて観念論を批判し、史的唯物論を唱導した。宗教については、「宗教は、悩める者のため息であり、心ある世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である」として、現実の変革を主張した。(『ヘーゲル法哲学批判序説』) 

マルクスは、近代西欧に発生した資本主義が生み出した貧富の差の拡大、苛酷な労働、不平等・不自由、疎外などの問題に取り組んだ。そして、究極の原因は、生産手段の私的所有にもとづく他人の労働の搾取と領有にあると考えた。マルクス=エンゲルスは、1848年に『共産党宣言』を出した。彼らの理論によれば、生産手段の私的所有を撤廃して、社会的所有とするならば、階級的不平等は消滅し、万人に自由と平等が保障される無階級社会が到来することになる。

ヘーゲルは、絶対的観念論の哲学において、歴史を絶対精神の自己展開とした。マルクスはこれを批判し、実際の歴史は人間の階級闘争の歴史であるとする唯物史観を打ち出した。『経済学批判』(1859年)の序言で、マルクスは唯物史観を、次のように定式化した。

「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまり彼等の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を取り結ぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的生活諸過程一般を制約する」。「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階に達すると、今までそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。そのとき社会革命の時期がはじまるのである」と。

こうした歴史観を以て、マルクスは、社会的不平等の根源を私有財産に求め、私有財産制を全面的に廃止し、生産手段を社会の共有にすることによって経済的平等を図り、人間社会の諸悪を根絶しようとする理論を説いた。

 ロックは、所有権を自然権とした。だが、マルクスは、所有権が自然権であることを否定する。私有財産制は、生産力の発達段階において現れたものとする。ロックの説く普遍的・生得的な権利はブルジョワジーの階級意識の表現として、これを批判した。権利は階級闘争によって発達してきたものであり、人間一般の権利を認めない。権利は、共産革命によってプロレタリアート(無産階級)が戦い取るべきものとした。

 マルクスは、「万国の労働者は団結せよ」と呼びかけ、1864年に国際労働者協会の設立を実現した。これは第1インターナショナルと呼ばれ、以後社会主義・共産主義の運動を国際的に進める中心的な組織となった。

 マルクスとエンゲルスは、プロレタリアートとなった労働者階級を組織し、革命を起こすことによって、共産主義社会を実現することを目標とした。共産主義とは communism の訳語である。コミュニズムとは、コミューン(commune)をめざす思想・運動を意味する。コミューンとは、私有財産と階級支配のない社会であり、個人が自立した個として連帯した社会であるとされる。それは、新しい人的結合による社会だという。エンゲルスは、『反デューリング論』(1878年)で、建設すべき共産主義社会について、「人間がついに自分自身の社会的結合の主人となり、同時に自然の主人、自分の自身の主人になること――つまり自由になること」。「必然の王国から、自由の王国への人類の飛躍である」と書いた。マルクス=エンゲルスは、その社会について、具体的には語っていない。むしろ語れなかったというべきだろう。想像の中にしかない社会であり、空想に近いものだったからである。

マルクスは、資本主義社会の経済的運動法則を解明すべく『資本論』を書き、第1部を1867年に刊行した。第2部の執筆中、1883年にロンドンで死去した。遺稿は、エンゲルスによって、1894年に刊行された。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

#共産主義と自由

ヘーゲルを批判して唯物論的共産主義を唱道したマルクスの盟友フリードリッヒ・エンゲルスは、自由を共産主義革命の目的とした。『反デューリング論』で、建設すべき共産主義社会について、「人間がついに自分自身の社会的結合の主人となり、同時に自然の主人、自分の自身の主人になること――つまり自由になること」「必然の王国から、自由の王国への人類の飛躍である」と書いている。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#唯物論的共産主義は人類に大災厄をもたらした

マルクスは、資本主義の発展によって共産主義社会が実現することを歴史的な必然と説いた。資本主義が発達した国では、生産力の増大により生産関係の矛盾が高じ、階級闘争が激化して革命が起ると考えた。だが、西欧先進国では革命は起らず、実際に彼の理論に基づく革命が成功したのは、後進国のロシアにおいてだった。そのロシアでは、共産党官僚が労働者・農民を支配・搾取する社会が生まれ、自由は抑圧された。マルクス=エンゲルスは、共産主義を科学的社会主義と自称した。彼らによる共産主義こそ、啓蒙思想の一つの帰結だった。無神論・唯物論・物質科学万能の思想は、合理主義を極端に推し進めたものである。極度の合理主義としての共産主義を実行したソ連では、社会的・経済的矛盾が高じて、革命の70年後に共産主義体制は崩壊した。20世紀の世界で、共産主義は、最盛期には世界人口の約3分の1が信奉するほどだった。また、その共産主義によって、革命・内戦・弾圧を通じて、約1億人が犠牲になった。そうした思想が、ユダヤ人マルクスを中心として生み出されたのである。

こうした結果を招いたのは、マルクス=エンゲルスの思想に欠陥があったからと言わねばならない。私は主な欠陥は、次の点にあると考える。

 

 第一に、マルクスの唯物論的な世界観は、自然と人間を物質ととらえ、神・霊魂などの観念を否定する。そのことによって、人間の人格的・道徳的欲求が見失われた。

第二に、マルクスが定式化した唯物史観は、経済を中心に社会をとらえ、経済的土台が人間の思想や観念を制約するとする。そのため、社会の分析が一面的となり、将来の予想にも大きな狂いを生じた。

第三に、共産主義は、階級闘争を社会発展の原動力とする。社会を対立・抗争という面からのみ見るため、物事には調和・融合という方向もあることを忘れている。

第四に、マルクス=エンゲルスの思想は、近代西欧の合理主義・啓蒙思想を極度に推し進めたものである。理性への過信によって、理性の限界に気づかず、また情念の暗黒面を見落としている。

第五に、マルクス=エンゲルスは、近代を貫く「全般的合理化」についての認識が浅く、プロレタリア独裁が「官僚制的合理化」を極端化することを予想できなかった。

 

こうした欠陥のうち最大のものは、マルクスの人間観が唯物論的人間観だったことにある。唯物論的人間観は、人間を単に物質的な存在ととらえる。共産主義は communism の訳語であり、コミュニズムとは、commune(コミューン)という共同体の回復を目指す思想である。共同体という人的結合体を考えるには、人格という概念が必要になる。だが、唯物論的人間観では、人間の人格的・道徳的欲求が見失われてしまう。人格的成長、精神的向上は、親子・夫婦等の家族関係の中で、基礎が作られるものだが、マルクス=エンゲルスは、私有財産制に基づく近代家族を憎むあまり、家族が人格形成に対してもつ意義をも否定してしまった。人格形成のための基本的な場所を消してしまったならば、新しい人的結合体を構想することもできなくなる。家族がバラバラになり、自由になった個人とは、愛と生命の共同体を失った孤独な人間である。その人間に、どういう社会の建設が可能だというのか。マルクス=エンゲルスは、まったく間違った方向に、理想を求めたのだった。

マルクス=エンゲルスの共産主義は、しばしばユダヤ教の終末思想に比較される。ユダヤ教では、世の終わりに救世主が出現し、ユダヤ民族が苦難から解放され、地上天国が実現すると説く。共産主義の理論では、プロレタリアートが救世主に似た役割を担い、自らを解放するとともに人類を解放し、人類が理想とする共産主義の社会が実現すると説く。マックス・ウェーバーは、宗教とはエートス(ethos)であると説いた。エートスとは「生活態度、生活信条または道徳的性格」を意味する。心理学的に言えば、人間の行動を意識的及び無意識的に突き動かしている行動様式である。このような理解によれば、神、仏、霊等を認めない世界観でも、宗教と呼びうる。そこから、共産主義とユダヤ教の類似性を指摘し、共産主義を一種の宗教ととらえる見方がある。ただし、それは本来の宗教とは異なる疑似宗教や、疑似的な宗教性を持った世界観である。近代西洋文明では、本来の宗教が衰退し、社会が世俗化したことによって、それに代わって人々を信奉させる世界観が出現した。これをしばしばイデオロギーという。共産主義は、その典型である。

マルクスの理論を継承・実行したマルクス主義者・共産主義者には、ユダヤ人が多い。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

●J・S・ミル

 

 ベンサムの功利主義(最大幸福主義)には、重大な欠点があった。どんな人間でも快楽を求め、苦痛を避けるものだとするのは、事実を単純化し過ぎていること。快楽の追求、苦痛の回避が善なら、すべての行為が正しいことになること。自分の幸福と他人の幸福とは衝突することがあること。快楽計算の実例が挙げられていないこと。快楽計算は、実際には非常に困難であること。最大多数の最大幸福のためには少数者の犠牲はやむを得ないとすると、個人の自由と権利が侵害される場合があること、等々である。
 これらの欠点を踏まえて、ベンサムの理論の修正を行ったのが、J・S・ミルである。ミルは、若い時からベンサムの功利主義を信奉していた。『自由論』(1859年)を刊行した後に『功利主義論』(1863年)を出して、功利主義に対する種々の批判に反論した。ミルは「行為は、幸福を増す程度に比例して正しく、幸福の逆を生む程度に比例して誤っている。幸福とは快楽を、そして苦痛の不在を意味し、不幸とは苦痛を、そして快楽の喪失を意味する」と書いている。基本的な考え方は、ベンサムと同じである。ただし、ミルは、ベンサムが快楽を量的にとらえたに対し、質の相違を認めた。ミルの「満足した豚であるよりも、不満足な人間である方がよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスである方がよい」という言葉は、食欲の満足のような質の低い快楽と、真理の探究のような質の高い快楽を区別したものである。ベンサムの功利主義は量的功利主義、ミルの功利主義は質的功利主義と呼ばれる。ただし、ミルは快楽計算を否定はしなかった。またミルは、当時の連想心理学における「観念連合」の原理を導入し、快楽を追求する利己的個人には利他的行動を起こす心理的要因があるとし、もともと人間には共感や慈善の衝動が存在すると説いた。これは、ベンサムの理論では、個々人の幸福と社会全体の幸福をつなぐものが明確でなかった点を補強したものである。
 ミルは功利主義者であるとともに、修正的自由主義者でもある。功利主義と修正自由主義の関係については、功利すなわち社会全体の最大幸福を主要な原理とし、自由と平等の調和を補助的な原理としている。この点を踏まえて、ミルの思想を概観すると、ミルは最大幸福を目的として、古典的自由主義を修正し、自由と平等の調和を図った。労働者の団結権を擁護し、所有・相続・土地等の制度改革を承認した。また労働者の選挙権の拡大、婦人参政権を主張した。さらにサン・シモン、フーリエらの社会主義に共感を示した。ただし、社会主義に対しては、理念には賛成するが、個々の理論には反対するという立場だった。
 経済思想では、ミルは、アダム・スミス、マルサス、リカードの古典派経済学の完成者とされる。ミルは、生産面では自由放任を説きつつ、分配面では政府の関与によって正義を実現するという社会改良策を提案した。この点で、ミルの思想は、自由放任主義からケインズ主義や福祉国家論に向かう過渡的な性格を示している。
 政治思想では、ミルは代議制デモクラシーの確立を目指した。ミルが代議政治を最善の政治形態であるとしたのは、それが人々の人格の陶冶、知性と徳性の向上、自由の実現という目的に適合すると考えたからである。そして、選挙権を拡大しつつ、大衆政治に陥らない制度を構想した。またイギリス伝統の個人主義の立場に立ち、「権力からの自由」を強調しつつ、この政治的自由に加えて、新たに社会的自由を主張した。これは、多数者の横暴からの自由であり、少数者の権利を保護するものである。ミルはまた婦人問題に強い関心を示し、産業革命後のイギリスで悲惨な婦人が増大したのに対し、婦人の権利の拡大を追求した。さらに、ミルはイギリスの植民地支配に反対し、イギリスは植民地を独立へと導くよう主張した。
 ミルは、最大幸福という目標の下で自由と平等の調和を図ったが、その思想は19世紀後半のイギリスで広く影響を与えた。私見を述べると、イギリスの社会主義が、マルクス=エンゲルスの共産主義と一線を画し得たのは、ミルの思想の影響によるところが少なくない。イギリスの社会主義は、伝統的な個人主義や相互扶助的な要素を保持した。議会主義に基づく漸進的な社会改良を目指すウエッブ夫妻、バーナード・ショーらのフェビアン協会が社会主義の主流となった。この社会民主主義の運動から、1900年に労働党が結成される。また、第2次世界大戦後には、福祉国家の思想が発達することになる。ミルの思想は、自由党の政治家にも影響を与え、二大政党を対立より協調に向ける働きをしてきている。そこには、次に書くような人格主義的な態度も関係している。

 ミルの功利主義(最大幸福主義)について補足すると、ミルの思想は、利己的個人主義や利害打算的な考え方とは、大きく違う。そのことを最もよく明かすのは、ミルが次のように書いていることである。「ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読み取る。おのれの欲するところを人に施し、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、功利主義道徳の理想的極致である」と。ミルはまた人類の社会的感情の根底には、「同胞と一体化したいという欲求」があるとし、社会全体における人格の向上が最大幸福の実現となることを説いている。こうした主張によって、ミルの功利主義は、人格主義的功利主義とも呼ばれる。
 私見を述べると、ミルの質的かつ人格主義的な功利主義は、快楽に質的な差異を認め、食欲のような基本的な欲求から人格向上の欲求までを「最大幸福」という目標の下に一元的にとらえている。この点で、心理学者マズローの欲求の5段階説に通じるものがある。
 自己実現は基本的には個人個人がそれぞれ追い求めるものだが、人々は互いに自己実現を促し合い、精神的に高め合うことができる。マズローは、互いに自己実現のできる社会の状態を「サイナジック」(synergic)と呼んだ。「サイナジック」とは、文化人類学者ルース・ベネディクトが北米インディアンの部族社会について作った造語で、協同的・相互扶助的を意味する。マズローの考えでは、「ハイ・サイナジー」の社会では、すべての個人が高次元の自己実現に到達し、しかも他の誰の自由とも抵触しない。人間が本性として備えている潜在能力が充分に考慮されれば、個人の自由は他者の自由を侵害する必要がなくなる。あり余るまでの自由が社会に行き渡ると考えられると説いた。
 ミルは、自由について、『自由論』に、次のように書いた。「その名に値する唯一の自由は、われわれが他人から彼らの幸福を奪おうとしたり、幸福を得ようとしたりする彼らの努力の邪魔をせぬ限り、われわれ自身の幸福をわれわれ自身の仕方で追求する自由である」と。これは、個人の自由の条件と限界を定式化したものである。ミルはまた次のように書いている。「各人は、その個性の発展に応じて、自分自身にとってますます貴重なものとなり、したがって、他人にとってもいっそう貴重なものとなることができる。彼自身の存在にはより充実した生命が満ち、また個々の単位より多くの生命がみなぎると、それから構成されている全体にも、より多くの生命がみなぎるのである」と。
 この点について私見を述べると、ここでの自他の関係は、まず家族間関係から説かれねばならない。すなわち、親子・夫婦・祖孫のつながりによって、家族的な生命が充実してこそ、家族を単位とする社会が共有する生命が発展する。高度にサイナジックな社会では、人々は、互いに自己実現を促し合い、自他ともに自己実現をする。協同的・相助的に自己実現が行われる。夫婦、親子、祖孫などの家族同士、また師弟、老幼、個人と個人などの人間同士が、お互いを高め合い、お互いに向上・成長していくことができる。

(「人権――その起源と目標」より)

 ベンサムの思想は、効用最大化を目指す画期的な思想だったが、個人の尊重や少数者の権利の保護を欠いていた。この点について、古典的自由主義者からも修正自由主義者からも批判の声が上がった。ベンサムを継承したJ・S・ミルは、最大幸福を目的としつつ、古典的自由主義を修正し、自由と平等の調和を図った。労働者の団結権を擁護し、所有・相続・土地等の制度改革を承認した。また労働者の選挙権の拡大、婦人参政権を主張した。経済思想においては、生産面では自由放任を説きつつ、分配面では政府の関与によって正義を実現するという社会改良策を提案した。政治的自由に加えて、新たに社会的自由を主張した。これは、多数者の横暴からの自由であり、少数者の権利を保護するものである。こうしてミルは、平等に配慮して修正的自由主義を発展させた。

(「人権――その起源と目標」より)

#自己決定権と個人の自由の限界

 自由についてもう一つ重要なことは、自己と他者の関係である。自己は自由を持ち、他者もまた同じ自由を持つ。自他の関係において、個人の自由には、一定の制限が必要となる。すなわち、他者の自由と権利を侵害しない限り、という条件が付く。この点をJ・S・ミルは、19世紀の半ばに、『自由論』で次のように述べた。「その名に値する唯一の自由は、われわれが他人から彼らの幸福を奪おうとしたり、幸福を得ようとしたりする彼らの努力の邪魔をせぬ限り、われわれ自身の幸福をわれわれ自身の仕方で追求する自由である」と。

 これは個人の自由の社会的な条件と限界を定式化したものである。社会において自他が相互の幸福追求を承認し合うところに、個人の自由が相互的に成立する。このことは本来、自由権は、人間が個人的存在であるとともに社会的存在であり、集団で共同生活を営んでいることを前提とするものであり、また集団の共同性を保つ範囲で認められる個人の権利であることを示している。人間の個人性と社会性という両面の中間に家族がある。個人は単に社会的な存在ではなく、家族的な存在である。自由の相互制約性は、自他を抽象的な個人と個人の関係ではなく、親子・夫婦・兄弟・姉妹・祖孫等の家族関係に置き換えれば、一層明確になる。また、自由は根本的に共同性を持つ自他の間で、相互的に成立するものであり、ある程度、平等に配慮したものでなければならないこともわかる。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#自由を主とする価値観の広がりと変化

 これと併行して、自由中心の思想の側にも変化が現れた。イギリスで発達したリベラリズム(自由主義)は、国家権力の介入を排し、個人の自由と権利を守り、拡大していこうという態度のことである。これを古典的自由主義と私は呼ぶ。古典的自由主義は、個人の自由を中心価値とする。これに対し、19世紀イギリスで新たな自由の思想が出現した。それまでの自由主義を修正したもので、修正的自由主義と私は呼ぶ。修正的自由主義は、社会的弱者に対し同情的であろうとし、社会改良と弱者救済を目的として自由競争を制限する。名前は同じ自由主義だが、古典的自由主義は国権抑制・自由競争型、修正的自由主義は社会改良・弱者救済型で、思想や政策に大きな違いがある。先に引用したミルは、修正的自由主義を発展させた思想家である。

 修正的自由主義が現れた背景には、自由とともに平等を求める思想・運動の広がりがある。はじめは極少数の人間の自由と大多数の人間の不自由という対比の中で、後者の自由が拡大されてきた。不自由な状態にある大多数の側が自由を求めるとき、それは平等への志向となる。17世紀イギリスの市民革命では、急進的に平等を求める水平派(レヴェラーズ)と呼ばれる集団があった。18世紀後半のイギリスやフランスでは平等を暴力的に実現しようとする共産主義の思想が出現した。イギリスに始まった産業革命は、それまでの社会を大きく変え、階級分化を促進した。フランス革命では、共産主義者が革命運動に加わり、1848年には、マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を発表した。共産主義は、社会の不平等は私有財産制によるとし、階級闘争によって私有制を廃止し、平等な社会を実現しようとする。これに対抗して、労働条件や社会的格差を改善し、平等に配慮するところに、修正的自由主義が現れた。修正的自由主義は、議会を通じて漸進的に社会を改良しようとする社会民主主義と親和的であり、自由を中心としながら自由と平等の両立を図ろうとする態度である。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●科学的合理主義

 

 ロック思想が諸方面に浸透していった17〜19世紀は、科学の発達によってキリスト教が権威を失い、世俗化が進み、科学的合理主義が支配的になった過程でもある。17世紀の「科学の世紀」、18世紀の「啓蒙の世紀」を経て、様々な分野で自然の研究が進み、実験と観察に基づく近代西欧科学的な世界観が形成された。それに加えて、ダーウィンが1859年に『種の起源』で、生物の種は神の創造によるという聖書の記述を揺るがす理論を説いたことは、重要である。ダーウィンの仮説は、天動説から地動説への転回以来の衝撃を、キリスト教文化圏にもたらした。
 西方キリスト教文明は根底から揺らぎ出した。その動揺を最も鋭く、深く捉えたのが、ニーチェだった。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●価値相対主義

 

 19世紀後半以降の欧米では、自然科学をモデルとする科学的合理主義が支配的になり、社会科学では事実と価値が峻別されるようになった。事実の領域では、認識や判断の客観性や合理性が厳格に問われる一方、価値の領域では、価値は状況や判断者によって異なり得る相対的な観念であるとする考え方が現れた。価値相対主義によると、価値は主観的なものであり、突き詰めれば個人の選好の問題だということになる。こうした風潮において、正義もまた相対的なものとされ、規範的な理論の追求が重要視されなくなった。政府は多様な価値観に対して中立的でなければならないという主張が優勢になり、政治の役割は個人主義的で価値中立的な自由主義を保障することとされる。
 正義は、もともと宗教的・道徳的・法的な規範に沿っている状態またはその規範を実現する行為に関する概念である。文明の中核には、宗教がある。その宗教が精神的な指導力・統合力を失い、文明が世俗化すると、その社会の規範が揺らいだり、失われたりする。それとともに、正義の概念も揺らぎ、さらに正義の感覚も失われる。近代西欧において、この傾向を最も深くとらえた概念が、ニーチェのニヒリズムである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●ニーチェ(その2)

 

 西方キリスト教文明は根底から揺らぎ出した。その動揺を最も鋭く、深く捉えたのが、ニーチェだった。

ニーチェは、1883年の『ツァラトゥストラ』で、キリスト教によって代表される伝統的価値が、西洋人の生活において効力を失っていると洞察し、この状況を「神は死んだ」と表現した。彼は、西洋思想の歴史は、本当はありもしない超越的な価値、つまり無を信じてきたニヒリズムの歴史であると断じ、ニヒリズムが表面に現われてくる時代の到来を予言した。そして、ニヒリズムを克服するため、新しい価値を体現し得る超人の思想を説いた。
 ニーチェが予言したように、19世紀末の欧米では、ニヒリズムが蔓延するようになった。ニヒリズムは、広義の場合は従来の宗教的価値観の喪失や否定・破壊を意味する。
 だが、科学的合理主義の増勢やニヒリズムの浸透が進むなかにおいても、ロックの思想は普及し続けた。それはイギリス・アメリカ・フランス等での資本主義的な生産力の増大、軍事力の強大化、帝国主義政策の展開による。資本主義の発達によって、各国・各地域に自由主義・デモクラシー・個人主義が広がった。それとともに、これらを基礎づけるロックの思想が普及していった。そして、ロック思想の普及によって、人権の思想が発達し、各国において国民の権利が拡大されていったのである。

(「人権――その起源と目標」より)

「呪術の追放」は、18世紀の啓蒙主義の高揚によって、一層推進されたが、民衆にまで広く徹底されたのは、19世紀の半ば以降である。ここに21世紀の今日まで直接的な影響を及ぼしている思想家が登場する。それが、ダーウィンとマルクスとニーチェである。彼らに共通するのは、闘争の思想である。

ダーウィンは進化論を唱え、マルクスは共産主義的唯物論を唱えた。彼らの思想は、近代科学的合理主義に立ち、キリスト教を否定し、同時に神や霊を認める伝統的な精神文化を否定するものであった。ダーウィンは自然淘汰・適者生存を原理とする闘争の思想を説き、マルクスは人類の歴史は階級闘争の歴史であるとする闘争の思想を説いた。ここでは、彼らの思想には立ち入らないこととし、もう一人の人物、フリードリッヒ・ニーチェ18441900についてのみ、述べることにする。ニーチェは、ダーウィン・マルクス以上に徹底した無神論を説き、「力への意志」を生の唯一の原理とする闘争の思想を説いた。

ニーチェはプロテスタントの牧師の家に生まれた。父母ともに代々牧師の家庭である。「呪術の追放」を行ったプロテスタンティズムの家系から、キリスト教そのものを否定する思想が出現したわけである。

ニーチェは、19世紀後半の西欧において、キリスト教によって代表される伝統的価値が、人々の生活において効力を失っていると洞察した。この状況を「神は死んだ」と表現した。彼は、西洋思想の歴史は、プラトンのイデアやキリスト教道徳といった、彼にとっては本当はありもしない超越的な価値、つまり無を信じてきたニヒリズムの歴史であるという。そして、このニヒリズムが表面に現われてくる時代の到来を予言した。ニーチェは、このニヒリズムを克服しなければならないと考えた。ニヒリズムが表面に現われてくる時代とは、「次の2世紀」とする。これは20〜21世紀にあたる。ニーチェは、既にその時代が到来しつつある場所を、機械文明の国・アメリカに見ていた。

ニーチェによれば、キリスト教による伝統的価値は「奴隷道徳」を体現している。この道徳は、強者に怨念や恨み(ルサンチマン)を抱いた弱者が作り上げたもので、やさしさとか温情といった言葉で形容される行動をほめあげる。しかし、こうした行動は弱者の利益にかなうものでしかない。彼はこうした伝統的価値にかわる新しい価値の創造を提唱した。

「神の死」によって人間が直面したニヒリズムを克服するために、新しい価値の創造が必要とされる。この困難な課題に耐えうるのは、人間を超えた「超人」のみである。超人は、弱者に対する強者であり、奴隷に対する君主である。超人が生み出すものは、「奴隷道徳」に替わる「君主道徳」である。超人のみが新しい価値の体現者として、ニヒリズムを克服しうる。ニーチェは「人間は動物と超人との間に張り渡された一本の綱なのだ」と言って、人間存在の危うさを強調した。

超人の価値創造力は、「力への意志」と呼ばれる。ニーチェは、神や霊や死後の世界、不可視界を否定する一方、現実世界における生を肯定し、生命の本質を「力への意志」であるとする。「力への意志」こそ、生の唯一の原理であると、ニーチェは説いた。

ニーチェは、ショーペンハウアーから深甚な影響を受けていた。ショーペンハウエルは、カントが認識し得ないとした物自体とは、意志であるとした。意志とは、盲目的な「生きんとする意志」である。この「生きんとする意志」が現象世界全体を形成する動因であるとした。インド哲学や仏教の影響を受けたショーペンハウアーは、衝動的な盲目の意志を否定することで、解脱の境地へと達することができるという思想を説いた。ニーチェは、ショーペンハウアーの意志を、否定すべきものから肯定すべきものへと逆転させた。それが「力への意志」である。

「力への意志」を原理とする思想は、ダーウィンやマルクスに共通する闘争の思想である。ダーウィンは種の間の、マルクスは階級や男女の間の、ニーチェは個人の間の闘争を説いた。

ニーチェは、デカルト以来の近代西欧哲学が確実性の拠点としてきた「自我」や「意識」を疑う。それは、人間と世界との隔たりをもたらし、人間の「究極の拠り所」を亡失させるものであるという。これに対し、ニーチェが憧れた生は、人間の「究極の拠り所」である「一にして全」であるものであった。ニーチェはこの根源的な存在を「ディオニュソス的なもの」と呼ぶ。

ディオニュソスとは、ギリシャ神話に現われる陶酔と熱狂の神であり、死して再生する神である。ニーチェは、この根源的な「一者」との汎神論的な同一化を求めていく。そして、超人のイメージと、古代ギリシャの陶酔と熱狂の神・ディオニュソスのイメージは重合していく。キリスト教的な西洋文明を批判し、西洋文明の根源を古代ギリシャに遡るニーチェは、さらに神話的な思考に立ち戻った。

ニーチェには、永劫回帰という思想もある。永劫回帰とは一切のものが永遠に繰り返すという考え方で、神話的思考における「祖型と反復」(エリアーデ)に通じるイメージである。ニーチェは、永劫回帰を「無が永遠に続く」というニヒリズムととらえる。それを運命として肯定する者は、世界に意味を与える者となる。いわば無意味から有意味への反転である。このような極の反転は、神話的思考に見られる「対立物の一致」のイメージに通じる。
 ニーチェの思想は、このように複雑で、論理とイメージが混在し、矛盾を孕む。だが、その所論には鋭い洞察があり、欧米やロシアの知識人に重大な影響を与えてきた。そして、ニヒリズムという言葉は、ニーチェの思想から離れ、より広い意味で使われるようになった。ニヒリズムは、しばしば伝統的な秩序や価値を否定し、規制の文化や制度を破壊しようとする態度の意味で使われる。

ニーチェのいう根源的な存在、「ディオニュソス的なもの」は、近代西欧が否定し、退けてきた合理化し得ない領域である。すなわち、理性に対する情念に当たる。身体・生命に基礎を置くものである。これを心理学的に見れば、無意識に当たる。ニーチェは、1883年から『ツァラトゥストラはこう語った』を書いた。この書でニーチェは意識せずに、無意識の探検を行っている。ユング心理者の林道義氏の著書『ツァラトゥストラの深層』によると、ツァラトゥストラはニーチェの心である。そこには、死と再生の物語があり、影・アニマ・老賢者が登場し、自己の象徴がマンダラ(註 円や4とその倍数を要素とする象徴図)として現われる。しかし、近代人ニーチェは、理想的な自我だけが正しいとして、無意識をすべて抑圧する。そこに自我膨張の症状が現われ、肥大した自我はついに破綻する。

後に改めて触れるが、ユングは、ニーチェのいうディオニュソスとは、実はゲルマン神話の神・ヴォータンのことであるという。ニーチェは、ヴォータンの子孫・ゲルマン人を「金髪の野獣」といって賛美した。この言葉は、「超人」や「力への意志」といった言葉とともに、ナチスのイデオロギーの中で悪用されることにもなった。

(「心の近代化と新しい精神文化の興隆」より)

 

●グリーン

 T・H・グリーンは、ミルより30歳年少のイギリスの哲学者である。資本主義の発達に伴って貧富の差が拡大し、階級間の対立・闘争が激化した19世紀後半のイギリスで、コモンウェルス(国家)を修復し救済するために、グリーンは独自の思想を展開した。
 グリーンは、原子論的個人主義とベンサム的な量的功利主義を批判し、ドイツ観念論からカントの人格倫理やフィヒテの自我哲学、ヘーゲルの国法哲学を摂取し、国家を積極的に認める有機的国家の思想を説いた。グリーンによれば、絶対我(絶対意識)がまずあり、自我はそれに向かって人格を形成する。絶対我は自我の自由の実現であり、国家はその実現のための道徳的共同意志の表われである。人間は、国家において、人格を完成させることができる。国家の倫理的目的は個人の自由の保障にあり、各個人の自発的な人格的成長の支援にある。市民社会の矛盾は、国家において、また国家によってのみ解決され、止揚される。こうして、グリーンは、個人対国家の対立ではなく、個人に対する国家の価値を主張して、自由放任主義を改め、公共性を重んじる社会改革の道を開いた。
 グリーンは、イギリスの伝統的なリベラリズムが要求する国家の不干渉を求める自由を「消極的自由」とし、人格の発展のために国家に積極的な役割を求める自由を「積極的自由」とした。そして「積極的自由」の実現を説いた。ただし、グリーンは、国家の積極的関与が認められるのは、個人の人格的完成を妨げる「障害の除去」に限定されるべきとし、個人の内面生活への国家の干渉は断固として否定した。
 グリーンが目指したのは、人々が自己実現としての自由を享受し、人格の完成を図ることのできる共同体だった。グリーンは、国家の成立や人民の政府の服従の根拠は、社会契約・武力・恐怖等ではなく、人々の「公共善(common good)」への関心にあるとし、政治と道徳を一体のものとして道義国家の建設を構想した。その哲学は、人格的自由主義と呼ばれる。人格的自由主義は、ミルの修正的自由主義とは異なる形態の修正的自由主義である。グリーンの哲学は、また国家発展段階のナショナリズムの思想でもある。国家形成段階のナショナリズムの思想であるフィヒテやヘーゲルの哲学の発展形を、ここに見ることができる。重要なのは、それが後進国ではなく、先進国で展開されたことである。
 グリーンの哲学のナショナリズム的な側面は、セシル・ローズやアルフレッド・ミルナーらを心酔させ、大英帝国の帝国主義の思想的裏づけの一つとなった。彼ら大英帝国の帝国主義者は、グリーンの理想とは正反対に、道義国家の建設ではなく、イギリスの国家権力が支配する領域を世界に拡大・発展させる活動を行った。その活動は、ロスチャイルド家等のユダヤ系巨大国際金融資本と結合したものだった。中核部における自由主義的ナショナリズムは、対外拡張を図る国家においては、世界政策としての帝国主義の推進力ともなり得るのである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#消極的自由と積極的自由

 自由については、「消極的自由」と「積極的自由」に分ける考え方がある。消極的・積極的に分ける考え方は、19世紀後半イギリスの哲学者トマス・ヒル・グリーンが提示したものである。グリーンは、イギリスの伝統的なリベラリズム(自由主義)が要求する国家の不干渉を求める自由を「消極的自由」とし、人格の発展のために国家に積極的な役割を求める自由を「積極的自由」とした。グリーンは「積極的自由」の実現を説き、国家の倫理的目的は個人の自由の保障にあり、各個人の自発的な人格的成長の扶助にあることを主張した。

 グリーンは、ドイツのカントの人格倫理やヘーゲルの国法哲学を摂取して、原子論的個人主義、ベンサム的功利主義に替わって、国家を積極的に認める有機的国家の思想を説いた。グリーンによれば、絶対我(絶対意識)がまずあり、自我はそれに向かって人格を形成する。絶対我は自我の自由の実現であり、国家はその実現のための道徳的共同意志の表われである。国家は人間を自由にし、生活を向上するために積極的に関与すべきものである。こうして、グリーンは、個人対国家の対立ではなく、個人に対する国家の価値を主張して、自由放任主義を改め、公共性を重んじる社会改革の道を開いた。その哲学は人格的自由主義と呼ばれる。グリーンの思想は古典的な自由主義を修正する修正的自由主義の一形態となった。わが国では、1930〜40年代にマルクス主義とファシズムを批判し、戦闘的自由主義者を自称した河合栄治郎に影響を与えた。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●教育勅語

 

教育勅語は、わが国の教育の理念・目標を説くものである。また、日本人が古来受け継いできた自己本来の日本精神が、よく表現されているものでもある。
 教育勅語には、日本における徳の由来・内容・実践が簡潔明快に表現されている。勅語は、「朕惟うに 我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり」と始まる。このように最初に、「徳を樹つること」として「徳」が出てくる。
 続いて、「我が臣民 克く忠に克く孝に 億兆心を一にして 世々厥の美を済せるは 此れ我が国体の精華にして 教育の淵源亦実に此に存す」とある。ここでは、忠と孝という徳目が出てくる。
 第1段に続く第2段では、「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」と始まり、家庭におけるあり方、社会におけるあり方、国民としてのあり方が説かれる。
 第3段では、「斯の道は」と「道」が示される。徳とは道の実践によって身に得るものである。そして、最後は「朕爾臣民と倶に挙々服膺して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶ひ幾う」と、また「徳」が出て締めくくられる。
 このように教育勅語は、最初に「徳を樹つること深厚なり」と「徳」が述べられ、最後に「其の徳を一にせんことを庶ひ幾う」と結ぶ。それゆえ、教育勅語は、日本人の徳の由来と内容、その実践を説いたものだという理解ができるだろう。
 次に、もう少し詳細に見てみよう。
 第1段は、「我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり」と、日本における徳の由来から始まる。この一文は、明らかに記紀神話に基づいている。天照大神を皇祖とし神武天皇を初代天皇とする皇室の祖先が、日本の国を始めた時、「うしはく」ではなく「知らす」という姿勢がめざされた。つまり力による支配ではなく、徳による統治が目指されたのである。神武天皇以来、天皇は国民を「大御宝(おおみたから)」と呼んで大切にし、親が子を思うように慈しみをもって政治を行うことに努めた。
 教育勅語は、「仁」の文字を使っていない。しかし、ここにおける徳が意味するものは、「仁」である。
 「仁」は、いつくしみ、思いやりを意味する。孔子は、聖人君子の身につけるべき徳として、「仁」を説いた。「仁」は、忠つまりまごころと恕つまり思いやりを含意する。「仁」は、以後、儒教の道徳思想の中心にすえられた。「仁」の上は「聖」である。「仁」の理念を実現した理想的な状態が「聖」である。
 孟子は「仁」と「義」を合わせた「仁義」を説いた。力による支配ではなく徳による統治、すなわち「覇道」ではなく「王道」を掲げ、君主は「民の父母」であるべきことを教えた。
 さらに宋学では、「仁」を天道の発現と見なし、一切の諸徳を統括する主徳とした。朱子学では、「仁」は観念的に理解されたが、陽明学は「万物一体の仁」を説いた。「草木瓦石」に至るまで自分と一体であると考えれば、それらに対する哀れみが生まれる。それが「万物一体の仁」である。哀れみが生まれれば、何とかしようとして、心が動く。心が動けば人をして行動させることになる。ここに「知行合一」が目標とされる。
 「仁」は、ついにシナでは理想にとどまり、実現できなかった。陽明学もシナでは消滅した。しかし、わが国では古来、天皇は、「仁」の体得・実行に努め、「民の父母」たらんとした。歴代天皇は、常に国民の安寧、世界の平和を祈念してこられた。その伝統は、今日まで続く。
 日本とシナの徳の違いは、公と私の構造と関わる。シナの古代帝国は家産制国家だった。国土・国民は皇帝の私物であり、官僚は皇帝に私的に仕える者だった。日本は7〜8世紀にシナに学び、中央集権的な家産制国家をめざしたようであるが、シナでは帝国全体が皇帝の「私」のものであるのに対し、日本では国全体が「公」のものである点が違う。
 わが国では、天皇は「公」の体現者となり、人民は私的に所有されるのではなく、公民という公的存在になった。シナの皇帝が私利私欲で土地や人民を私有したのに対し、日本の天皇は公民を「おおみたから」と呼び、自らの徳を磨き、人民のために仁政に努めた。シナの理想は、日本において現実のものとなった。しかも、古代から今日までその伝統が続いている。
 こうして、天皇が行う「仁」に対し、国民が応えて行う徳目が「忠孝」である。「忠」とは、偽りのない心、まごころ、まことである。特に、君主に対して真心をもって仕えることを言う。「孝」とは、親を大切にすることである。祖先を大切に祀ることもいう。
 勅語は、「我が臣民 克く忠に克く孝に 億兆心を一にして 世々厥の美を済せるは 此れ我が国体の精華にして 教育の淵源亦実に此に存す」とある。全国民が心を一つに合わせて忠孝の美風を作り上げてきたことが、日本の国柄の最も優れた美点であるとしている。
 勅語は、わが国の美風、「国体の精華」は、国民が忠孝を実践してきたことだというが、実際は、天皇が仁を行なうのに対し、国民が忠孝をもって応えてきたものである。天皇と国民の間に、仁・忠・孝が実践されている姿が、わが国の国柄の特徴をなす。大和言葉で言えば、人々が、清き明き直きまことの心、まごころで、互いを思いやり、和をもって生きる国が日本である、と言えよう。

(「日本における道と徳〜日本人の美徳を取り戻すために」より)

 

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6.20世紀以降の哲学とその周辺

 

●フロイト

 

無意識の発見は、合理化する近代西欧における重大な出来事だった。そして、心の近代化、つまり合理主義の進展に対する異質なものの出現だった。

無意識の領域は、病者の治療に当たる精神科医によって発見された。そして、臨床的な研究を通じて発達したのが、フロイトやユングらによる深層心理学である。ウェーバーはフロイトと同時代人だが、深層心理学については、詳しく研究することなく、1920年に亡くなった。その後大きく発展した深層心理学の視点から、西欧の近代化の原因と過程を見直すと、ウェーバーの視点では見えなかったものが浮かび上がってくる。

ジークムント・フロイト(1856-1939)は精神病の臨床医だった。彼はヒステリーや神経症の治療を通じて、人間の諸行動を規定する真の動機は無意識である場合が多いと考えた。そして、人間の心を、「意識」「前意識」「無意識」の三つに区別した。このうち最も広大なのは、「無意識」である。「無意識」の存在は、ただ推論されるか、本人自らの抵抗を克服してはじめて意識化されるものであり、日常では失錯行為と夢とにその片鱗をのぞかせるにすぎない。

フロイトは後年、意識の三層説をさらに発展させ、 「エス (イド)」「自我」「超自我」という心の構造論を提出した。

「エス」は、生まれたばかりの新生児のような、未組織の心の状態である。時空間を知らぬ本能のるつぼであり、「快楽原則」によって支配されている。

「エス」が外界と接触する部分は、特別な発達を示し、「エス」と外界とを媒介する部分となる。これが「自我」と名付けられる。「自我」は、母体である「エス」とは正反対の性質を備えるにいたる。すなわち、合理的・組織的で、時空間を認識し、「現実原則」に従う。

 この「自我」の一部として形成されるのが、「超自我」である。フロイトによると、子どもは「エディプス期」という父親の存在に対して葛藤する時期を経験する。この時期を通じて、両親像が心の中に摂取されて内在化して、「超自我」が形成される。「超自我」は、両親を通じて内面化された社会的な道徳や規範の意識に相当する。

「エス」と「自我」に関し、「快楽原則」と「現実原則」について触れたが、この点を少し補足しておこう。人間の心は、緊張に基づく不快を回避し、緊張を低下させることによって快感を得ようとする。新生児は、この「快楽原則」のみに支配されているが、「自我」の発達につれて「現実原則」が優位を占めるようになる。「現実原則」とは、外界の現実に適応しながら、無理なく不快な緊張を解消し得るように、緊張解消を延期したり、多少我慢したりしつつ、最後には快感に達することを目ざすものである。フロイトは人間の発達上、「現実原則」の支配を重要視し、「現実原理」の確立こそ成人の健康人の条件であるとした。

「エス」は「無意識」に、「自我」は「意識」に対応する。「快楽原則」に支配されているのが「エス」であり、「現実原則」に従うのが「自我」である。それゆえ、フロイトは、「無意識」を、生物学的・衝動的なものであり、「意識」によって洞察され、打ち克たれるべきものと考えた。「意識」としての「自我」とは、本能に対する理性であり、理性的な自我意識である。

心の近代化、つまり合理主義の進展は、フロイトの心的構造論では、「自我」において、主に進行する。フロイトは、理性的な「自我」を中心として、「意識」が「無意識」を支配すべきものとする。合理化を担う心の機能は、「自我」であり、合理的な自我意識が、非合理的な無意識を支配していくのが、合理化の過程といえよう。それゆえ、フロイトの考えは、近代西欧の合理主義の枠内にある考え方である。

(「フロイトを超えて〜唯物論的人間観から心霊論的人間観へ」より)

 

#フロイトは唯物論的に基づいて無意識を研究

マルクスに次いで、19世紀末から20世紀にかけて欧米を中心に大きな影響を与えたユダヤ人に、ジークムント・フロイトがいる。

フロイトは精神分析学者・精神科医であり、1856年にオーストリア=ハンガリー二重帝国に生まれた。家系は白人系ユダヤ教徒のアシュケナジムだった。

フロイトは、精神病者の治療を行う中で、人間の心には、意識だけでなく、容易に意識化し得ない無意識の領域があることを発見した。そして、人間の諸行動を規定する真の動機は無意識である場合が多いと考えた。無意識の存在は、ただ推論されるか、本人自らの抵抗を克服してはじめて意識化されるものであり、日常では失錯行為と夢とにその片鱗をのぞかせるにすぎない。フロイトは、ヒステリーや神経症の治療において、性欲の抑圧が病気の重要な原因となっていると考えた。そして、人間の心理的行動を、自己保存本能と性本能をもとに説明し、独自の理論を展開し、人間の意識と無意識の解明を試みた。

フロイトは、1939年にロンドンで亡くなった。後半生におけるフロイトの考察は、精神分析の分野を超え、社会・文化・宗教等にまで及んだ。その理論と洞察は、19世紀末から20世紀初頭の欧米の人々に強い衝撃を与えた。近代西洋文明を根底的に問う点において、フロイトはしばしばマルクス、ニーチェと並べ評される。

フロイトの人間観は、唯物論的だった。フロイトは、精神分析において、ニュートン物理学をモデルとした。フロイトは唯物論者であると自称し、人体を物体として扱う外科医のように、患者に接することを理想とした。19世紀の機械論的唯物論に基づき、エネルギー保存の法則を生物学の分野にもあてはめ、精神現象にも当てはめた。そして、性本能の基底となるエネルギーをリビドーと名づけた。

フロイトは精神障害の根幹にリビドーの流れの異常があることを発見した。彼は、リビドーは対象と自我との間を往来すると考え、そのエネルギーの移動と増減によって、すべての精神現象を説明しようとした。リビドーの発達を妨げる障害物は、さまざまな葛藤を生む。その障害物を取り除いて、性エネルギーを解放すれば、病気は治ると考えた。

フロイトは、乳幼児にも性欲があるという汎性欲論を唱えた。彼は乳幼児期の性欲活動のことを幼児性欲と呼んだ。幼児性欲は、生物学的な源泉に発する性欲動、つまりリビドーに由来し、口唇愛、肛門愛、男根愛の段階に分かれる。幼児性欲はしだいに発達して、自分以外の対象をも性欲の対象とするようになる。主な対象は、前エディプス期では、男女いずれにとっても母親であり、エディプス期に入ると、異性の親が対象となり、エディプス・コンプレックスが起こると考えた。

エディプス・コンプレックスは、フロイトの精神分析論の核心である。社会・文化・宗教・芸術等がすべてこれを巡って論じられる。幼児は、男根愛の段階(男根期)に入ると性の区別に目覚め、異性の親に性的な関心を抱くようになる。とくに男の子は、母に対して性欲の兆しを感じ、父を恋敵とみなして父を嫉妬し、父の不在や死を願うようになる。反面、彼は父を愛してもいるために、自分の抱いている敵意を苦痛に感じ、またその敵意のせいで父によって処罰されるのではないかという去勢不安を抱くに至る。このような異性の親に対する愛着、同性の親への敵意、罰せられる不安の三点を中心として発展する観念複合体を、フロイトはエディプス・コンプレックスと名づけた。エディプスは、知らずに父を殺し、母と結婚していたというギリシャ悲劇の主人公の名である。

1910年代にフロイトは、無意識の心理学の体系をほぼ完成した。この段階では、人間の心を「意識」「前意識」「無意識」という三層に区分した。前意識とは、容易に思い出して意識化できる内容である。無意識は、通常に意識化できない内容である。この場合、無意識内容の意識化を妨げているのが、抑圧の作用である。

フロイトは、無意識を生物学的・衝動的なものととらえ、意識によって洞察され、打ち克たれるべきものと考えた。意識としての自我とは理性であり、フロイトは、理性的な自我を中心とし、意識が無意識を支配すべきものとした。この点で、フロイトの思想は、近代西欧の理性的自我に基づく、啓蒙主義的合理主義の立場に立っている。

フロイトは、1923年に『自我とエス』を著し、それまでの意識、前意識、無意識の局所論に加えて、人間の心が「エス(イド)」「自我」「超自我」という三つの心的な組織から成るという構造論を提示した。それまでは、「抑圧するもの=意識=自我」、「抑圧されるもの=無意識=欲動的なもの」と考えていたが、自我の働きの多くはそれ自体、無意識であるという認識に変わったためである。

フロイトの心の構造論において、エスは、生まれたばかりの新生児のような、未組織の心の状態である。その時、その時の衝動で動く本能のるつぼである。このエスが外界と接触する部分は、特別な発達を示し、エスと外界とを媒介する部分となる。これが自我と名づけられる。自我は、母体であるエスとは正反対の性質を備えるにいたる。すなわち、合理的・組織的で、時空間を認識し、現実を踏まえた動きをする。

この自我の一部として形成されるのが、超自我である。子どもはエディプス期に入ると、父親の存在に対しての葛藤を経験する。この時期を通じて、両親像が心の中に摂取されて内在化して、超自我が形成される。超自我は、両親を通じて内面化された社会的な道徳や規範の意識に相当する。エスは本能、自我は理性、超自我は良心にあたると言えよう。この心の三層構造においては、快楽原則に支配されているのが、無意識的なエスであり、現実原則に従うのが、意識的な自我である。フロイトは、現実原則に従う理性的な自我意識が、快楽原則に支配される本能的・衝動的な無意識を制御すべきものとした。そしてフロイトは、人間の発達上、現実原則の支配を重要視し、現実原理の確立こそ成人の健康人の条件であるとした。

フロイトは、この理論を、人類の文化にあてはめ、自然人としての人間の社会化・文明化の過程を、快楽原則の支配から現実原則の支配への移行としてとらえた。フロイトは、理性的な自我を中心として、意識が無意識を支配すべきものとする。合理化を担う心の機能は自我であり、合理的な自我意識が非合理的な無意識を支配していくのが、合理化の過程といえよう。それゆえ、フロイトの考えは、近代西欧の合理主義の枠内にある考え方である。フロイトは性本能を理性や道徳で自制し、昇華つまり社会的に価値ある行動に変化させることによって、文化が発展すると説いた。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

#唯物論的人間観の克服が必要

フロイトは、当初、機械論的な唯物論により、エネルギーをモデルにして、性本能を考えた。ニュートン物理学を理想とし、心の物理学を構想した。その後、フロイトは性エネルギー論を捨て、エスの本能的欲求という生物学的な捉え方に変わった。しかし、人間を物質的なものと見ている点では一貫している。

晩年のフロイトは、死すべきものとしての人間に、無機物に戻ろうとする傾向として、死の本能(タナトス)を想定した。タナトスは、生の本能(エロス)についての快感原則・現実原則と異なり、涅槃原則に従うとされる。涅槃原則は、ショーペンハウアーを通じて仏教のニルヴァーナの考えを取り入れたものである。ショーペンハウアーは、生きんとする盲目の意志を否定することで、解脱の境地へと達することができると説いたが、それは死後霊魂が存続することを前提していた。しかし、フロイトは身体から独立した霊魂の存在を認めない。だから、仏教のニルヴァーナをそのままに理解したものではない。仏教は霊魂を西洋思想のように、不変不滅の実体ととらえない。死後も存在し、輪廻転生するものととらえる。そして、この宇宙から解脱し、再び輪廻転生しない状態に入ることを、ニルヴァーナという。フロイトは、霊魂自体を認めないから、涅槃原則とは、単なる無機的な物質の法則に過ぎない。

フロイトの人間観のもとにある唯物論的人間観とは、近代西洋に現れた人間観で、人類はユダヤ=キリスト教的な人格神が創造したものではなく、生物の進化によって誕生した一つの種であり、人間の心理現象は、根本的には物質的な現象であり、人間は死とともに無に返るという考え方である。心理現象の物質的な基盤を、脳と見るか、細胞と見るか、遺伝子と見るか、原子と見るか等の違いがあるが、いずれにしても本質的には物質的な現象と見る。この人間観では、身体から独立して存在する霊魂を認めない。

フロイトは、こうした唯物論的人間観においてマルクスと結びつき得る。人間を労働する者としてとらえたマルクスに対し、人間を性活動を行う者として、その心理面を研究したのが、フロイトである。

心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求には、(1)生理的欲求、(2)安全の欲求、(3)所属と愛の欲求、(4)承認の欲求、(5)自己実現の欲求という5段階がある、と説いた。この説によれば、マルクスは「生理的欲求」と「安全の欲求」を中心とし、それらを社会的に平等な状態で達成することを目指した。フロイトは性の問題を通じて、より上位の欲求である「所属と愛の欲求」の研究をした。しかし、性の観点からすべてを理解しようとしたために、人間理解を狭くしてしまった。マルクスとフロイトの統合が生み出すのは、この段階の欲求の追及である。

 フロイトの直弟子にはエーリッヒ・フロム、ウィルヘルム・ライヒなどユダヤ人が多かった。ユダヤ人でないのはカール・グスタフ・ユングくらいだった。フロイトの理論を継承した精神医学者・心理学者にも、ユダヤ人が多い。マルクスの理論を継承・実行したマルクス主義者・共産主義者にユダヤ人が多いのと好対照である。マルクスとフロイトの総合を試みたフランクフルト学派にも、ユダヤ人が多かった。そのことは、後の項目で述べることにする。

なお、フロイトの甥エドガー・バーネイズは、群衆心理学を活用して、大衆広報の基礎を築き、「広報の父」と呼ばれる。また、第2次大戦後のアメリカでの精神分析ブームの火付け役となった。

ユダヤ教では、ラビ(律法学者)が人生全般の相談を受ける。ユダヤ教を捨てたユダヤ人は、精神科医にラビに代わる精神的指導者を求めたと考えられる。世俗化の進む欧米社会では、宗教的な指導・支援ではなく医学的な治療が求められ、精神科医が非常に多くなっている。特にプロテスタンティズムには、カトリック教会における神父への告白がないので、それに代わる対象を精神科医に求める傾向がある。精神医学的な指導や治療が、宗教の代用品となっているのである。

ユダヤ人マルクスとフロイトが生み出した唯物論的な人間観は、その弟子や信奉者たちによって、欧米諸国を中心に、世界的に大きな影響を与えてきた。その弊害は計り知れないほど大きい。

マルクスとフロイトは、脱ユダヤ教的なユダヤ人だが、ユダヤ教で発達した合理主義を継承している。それが彼らの唯物論的人間観の土台にあるものである。ユダヤ教で発達した合理主義は、西方キリスト教でプロテスタンティズムに影響を与えた後、唯物論的人間観の形成にも影響を与えたのである。

ユダヤ教には、多くの宗教に見られる死後の世界は存在しない。ユダヤ教は、人間が死んだらどうなるのかということについてほとんど触れていない。死後の世界という考え方がないのである。ユダヤ教では、人は死ねばただ死ぬだけである。死は個人にとって、最終的な終わりだと教える。死後の世界、来世で報われるという考えもない。そこから生じるのは、強い現世志向である。この世での人生を何よりも大切に考えるのが、ユダヤ教徒の生き方である。

こうした死生観が一方で、現世での物質的・金銭的な富を追い求めるユダヤ人資本家を生み出し、一方で、唯物論的な人間観に基づく共産主義者や精神分析医を生み出したのである。

唯物論的人間観を克服するためには、人間を単に物質的な存在と見るのではなく、人間には物質的な側面と心霊的な側面の両面があるとする人間観が必要である。その人間観を私は心霊論的人間観と呼んでいる。唯物論的人間観から心霊論的人間観への転換は、ユダヤ的価値観の超克のためにも必須となるものである。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

●ユング

 

カール・グスタフ・ユング(1875-1961)は、フロイトの最大の弟子だった。彼は、師と見解を異にし、「無意識」を「意識」によって支配すべきものとは考えなかった。むしろ、「無意識は超個人的な文化的人類的生命につらなる、創造的なもの」であり、「個々人の精神活動は、無意識から生命エネルギーを得て、創造性を発揮する」と考えた。これは、フロイトの理性的自我意識を中心とする合理主義の枠を出る考え方である。

ユングによると、心には、「意識」「個人的無意識」「集合的無意識」の三つの水準がある。フロイトのいう「無意識」は、このうちの「個人的無意識」のことである。ユングは、「個人的無意識」の底に、個人を超えた「集合的無意識」を想定した。「集合的」とは、個人だけではなく、民族・人類などに共通する無意識という意味である。そして、ユングは、夢や精神病者の妄想、さらに神話、民話、芸術、宗教などに共通して現われる主題は、「集合的無意識」に由来するものだと考えた。「集合的無意識」が働くときには、特有のイメージが現われる。ユングは、それを「元型的イメージ」と呼んだ。「元型的イメージ」は、無意識の内容となるものである。「元型的イメージ」には、影、アニムス(女性における男性性)、アニマ(男性における女性性)、老賢者、永遠の少年、万物の偉大なる父、大いなる母、マンダラ(本質・自己)などがある。

ユングによると、人間の心は「意識」と「無意識」の相補作用による自動調節的な体系である。彼は、「意識」の中心点を「自我」と呼び、「心」の中心を「自己」と呼ぶ。理性的な自我意識が、心の中心なのではなく、本当の中心は、その底の方にあるというわけである。

ユングの精神療法は、個人が意識的な「自我」の閉じた殻を突き破って、根源的な「無意識」の領域をも統合した全体的な「自己」を実現することを目指した。これを「自己実現(Self-realization)」という。ユングのいう「自己」は、根源的で人類的な「集合的無意識」に根ざしている。そして、「自己実現」は、各個人の「意識」の奥にある「本来的自己」が象徴や隠喩を通じて自覚化されていく過程である。ユングは、個体としての自我意識の根底に潜在している本来的自己が顕現し、われわれの自我がそれと一体化することを、「個性化(Individualization)」と呼ぶ。「個性化」と自己実現は、ユングにおいては不可分のものである。ユングのいう「自己」は、東洋思想にいう「真我」「自性」に類する概念といえよう。西欧思想では、新プラトン主義や錬金術における、内在する「神性」に近いだろう。

フロイトの理論が近代合理主義的であるのに対し、ユングの理論は合理主義の枠を超えている。あるいは、合理主義を、それが生まれ出てきた母体に戻し、基礎付ける可能性を秘めたものともいえよう。近代西欧の合理主義は、ここに相対化されることになった。心の近代化の進行の中で、近代化されえない領域の存在とその重大性が、示されたのである。

ユングは1961年(昭和36年)に亡くなった。ユングは生前、風変わりな主張をする心理学者と思われ、あまり評価されなかった。彼が世界的に高く評価されるようになったのは、彼の死後、1960年代からである。彼が発見した集合的無意識の存在が広く認められるようになり、集合的無意識の存在を背景にした自己実現の追求が、現代人の課題として認識された。ユング心理学は、その後、アブラハム・マズローの人間性心理学やスタニスラフ・グロフの精神分析と結びつき、トランスパーソナル学(超個心理学)によって継承・展開されている。この点は、第3章で詳しく触れることにする。

(「心の近代化と新しい精神文化の興隆」より)

 

#ユング心理学から見た西欧の近代化

 西欧の近代化の歴史は、ウェーバーによると「世界の呪術からの解放」に始まった。言い換えると、「呪術の追放」の過程だった。

ウェーバーは、「呪術」について、主にカソリックにおけるサクラメント(秘蹟)の否定という事実に注目した。ウェーバーは、こうした象徴的儀式を「呪術」とみなし、「呪術の追放」を西欧の近代化、すなわち全般的合理化の過程の出発点と認識した。そして、西欧は今や「普遍的意義と妥当性」をもつ人類的理念に基礎をおく新しい歴史的段階に到達したと考えた。

ユングは、宗教改革におけるサクラメントの否定ないし空洞化が西欧の近代化に決定的役割を果たしたという認識においては、ウェーバーと一致している。しかし、ユングは「呪術の追放」によって、西欧人は人間性にとって本質的なものを見失ったと考えた。そのため西欧人は、次第に集団的な精神異常の兆候を表わし、世界大戦やナチズム、核兵器の開発などによって、全人類の運命をも左右することになったと考察した。

ユングは、『心理学と宗教』(1937)と題した講演で次のように述べている。

「第1次大戦の破局と、それに続いて起こった精神の根深い欠陥を示す異常な症状によって、一体、白人種の精神というものは健全なのだろうかという疑いが起こらざるを得なくなったのである」

「宗教改革以来、プロテスタンティズムは宗派の分裂の温床になり、それと同時に科学と技術の急速な進歩が人間の意識的な心をとらえてしまい、意識は無意識の制しがたい諸力を忘れ去ってしまった」

「プロテスタンティズムは偉大な賭けであるとともに、偉大な機会だったし、現在もそうである。しかし、もしそれが教会として分裂的傾向を続ける限りは、それは必ず無意識の中にあって解放を待ち受けている諸力のむき出しの経験から身を守ってくれるあらゆる精神的安全保障や防御手段を、人間から奪い取ってしまうに違いない」と。

「精神的安全保障や防御手段」とユングが呼ぶものは、象徴や象徴儀礼などのことを言っている。そして、ユングは、「呪術の追放」によって、人間から象徴的なものを奪うことの危険性を示唆している。

ユングの所論について、哲学者・湯浅泰雄氏は、わかりやすく整理して述べている。氏の著書を導きとさせていただく。

湯浅氏は、ユングの所論を踏まえて、次のようにいう。「ウェーバーは、呪術儀礼から解放され、自己責任の倫理が確立したことをもって、近代ヨーロッパの出発点とみなした。深層心理学的にみれば、この過程は、内心の精神的苦悩や道徳的葛藤に対して、神の応答を得て魂の慰めと救済を得る手段が、一切失われてしまったことを意味するのである」と。

前にも書いたが、ルターやカルヴァンによって、カトリック教会による恩寵の制度が否定された。それによって、人々の来世の運命は全く不確定なものになった。個人の精神のおそるべき内面的孤立がここから生まれる。今や人間は、人生の究極の問題である死後の救いについて、教会から救いを得ることができない。

湯浅氏は言う。プロテスタンティズムにおいて、「人間は今や、教会と聖職者という制度を介せず、ただ自己の内面的良心において神の裁きに直面する。……自己の行為に対する個人の道徳的責任が非常に強められる。特に重要なのは、教会が与えるサクラメント、中でも告解(懺悔)による罪の許しと、ミサによる魂の救済の制度が否定されたことである。カルヴァンの予定説に従えば、各人の霊魂の運命は変更不可能な神の決定に基づくものであって、告解のような儀礼的手段によっては、犯した罪の償いや神の救済にあずかることは決してできない。また人間は、そもそも神の決定内容すら知ることができないのである」

そこに、神からの選びを確信できるのか、という抑えがたい不安が生まれてくる。その不安から逃れるには、神の道具となって、地上に神の意志を実現することに徹する以外にない。与えられた職業を天職として労働に努め、禁欲的な日常生活を行なうことによって、救済を自己確信するしかない。

こうしたプロテスタンティズムの倫理の深層心理学的な意味を、湯浅氏は、次のように考察する。

「カルヴァン的な道徳的禁欲の態度を確立することは、心理学的にみれば、日常的経験の場における自我意識の統制を強化し、無意識下から現われてくる情念(不安)を意識下に追放し、抑圧することを意味する」。

しかし、「深層心理領域のエネルギーは、人間をヒステリー、神経症、精神病的人格崩壊に陥れるほどの強烈なポテンシャルを蔵したものである。その力にとらえられるとき、人は一種の自我膨張の状態におちいる。意識の能力が堪え得ない大きな力とエネルギーに振り回されるのである。

東洋的瞑想の方法や伝統的呪術儀礼に見出される多様な象徴の体系は、魂の深層領域の光景に対する指示であるとともに、その奥に蔵されたエネルギーのポテンシャルを暴力的形態から温和な形態へと引き下げ変換することによって、悪魔的暗黒領域の力を克服し、意識と無意識を統合した魂の全体像を実現する手段なのである。ヨーロッパ世界では、古代以来徐々に築き上げられてきたキリスト教会の儀礼制度がこれと同じ役割を果たしてきたのである」

ところが「ウェーバーのいわゆる『呪術の追放』は、この魂の危険に対する『防御壁』を取り払ってしまったことを意味する。近代ヨーロッパはここに至って、ヨーロッパ的人間の魂の底に潜在する暗黒の情念をコントロールする手段を全く失ってしまったのである。ここに『呪術の追放』の重大な心理学的また精神史的意味がある」

湯浅氏は、次のように述べる。「日常的意識の次元との交流の道をふさがれた無意識領域の力は、暗い情念となって蓄積し、どこかに現われようとする。しかし宗教的儀礼形式はその価値を否定され、あるいは空洞化されているために、そこで情念が宥和される道はすべて閉ざされている。

したがって、無意識領域から突き上げられてくる暗い情念の力は、休みない禁欲的労働(資本主義化)に没頭することによって発散させるか、戦争と革命と階級闘争という暴力的形態をとって解放させるほかない」。

「ヨーロッパ近代の歴史が、キリスト教世界内部における新旧両派の宗教戦争から始まり、革命と階級闘争と国民戦争に至るおそるべき相貌を呈するに至る心理的原因も、そこに求められるのではないであろうか」と湯浅氏は問い掛ける。

すなわち、近代西欧の精神史は、ウェーバーの視点から表層を見れば人間的理性と自我意識の勝利のように見えるけれども、ユングの視点から深層に目を向けると、五感に基づく理性ではとらえきることのできない無意識の力を制御できすに進んできた歴史であることが浮かび上がってくる。

(「心の近代化と新しい精神文化の興隆」より)

 

#自然崇拝・祖先崇拝の否定

ユングは、ウェーバーによって「呪術の追放」と呼ばれた出来事について、宗教改革の時代より、さらに西欧精神史をさかのぼって考察した。

第2次世界大戦の直後に出された『現代史によせて』(1946)所収の『破局の後で』という小論において、ユングは次のように述べている。

「白人は、人類の歴史始まって以来、はじめて、自然の根源的な霊力をみな腹中に飲み下すことに成功した」。キリスト教は、ゲルマン神話の神々を天上から引き摺り下ろした。神々は権威を失い、山野等に出没する「地上のデーモン」(精霊)になっていた。しかし、「おいおい科学による啓蒙の影響が強まると、見る間に縮んでみすぼらしい残骸をさらしたが、やがてはそれさえ消えてなくなった。太古以来、自然は常に霊に満ちたものと考えられてきた。今はじめて我々は神々も霊もない自然の中に生きているのである」。「自然はそれらの霊をなくしたけれども、それらのデーモンを創り出した心の条件は、かつてと少しも変わることなく生き続けている。デーモンたちは実は本当に消滅したわけではなく、ただ形を変えたにすぎない。つまり今日では無意識の心的エネルギーとなったのである。この吸収過程と手をたずさえて、自我の肥大がますますつのってきた。ほぼ16世紀ごろから、このことは顕著に見られるようになった。‥‥なるほど幽霊はすっかり追い払ったつもりでいたが、納戸や廃墟に出なくなった代わりに、一見正常なヨーロッパ人の頭の中にさまよい出ることになった。暴君じみた、憑かれたような観念や、熱狂的で盲目的な観念が人々の間に広まり、しまいにはまさしく狂人そのままに不合理なことを信じ込むようになった」。

全体的に象徴的・暗示的な表現であるが、最後の数行は第1次大戦やナチズムを含意していることがわかるだろう。

(「心の近代化と新しい精神文化の興隆」より)

 

#ユングは世界大戦の時代をどう見たか

ニーチェは、来るべき2世紀をニヒリズム到来の時代といったが、西欧には確かに大きな精神的変化が表れた。

ユングは、第1次世界大戦から西欧は明らかに正常ではなくなったという。この大戦は「流行病的狂気にほかならない」と、ユングは1916年に書いた。こうした集団的狂気の突発は、長い西欧精神史の結果として現われたものだ。われわれが追跡してきた、キリスト教による自然崇拝・祖先崇拝の否定、「呪術の追放」による無意識の抑圧、合理主義の徹底による理性的自我意識の増強などの長い過程の結果である。

『現在と未来』(1956)において、ユングは次のように述べている。

「人間の生得そなわっている機能のどれかが、意識や意図による活動から閉め出されて損なわれると、全般的な障害が生じるものである。したがって、理性の女神の勝利とともに、現代人に一般的なノイローゼが、すなわち今日の世界の分裂に見合った人格の分裂が始まったのも、ごく自然のなりゆきにすぎない」

「文明こそが無数の心の障害や困難の源になるわけだが、それは人間が本能の基盤からますます疎遠になって根無しとなり、自分について意識的に認知できる部分、すなわち意識だけを自分だと思い込み、無意識を閉め出してしまうことになるからである」

「本能的自然からの分離は、文明人を必然的に意識と無意識との、精神と自然との、知識と信仰との葛藤にひきずりこまずにはいない。ここに至って彼の存在は二つに分裂し、意識が本能の存在をもはやないがしろにしたり、抑圧したりできなくなった瞬間に、その分裂は病理学的な様相を呈するのである」

こうした人格の分裂をきたした典型が、ニーチェだろう。ニーチェこそ、臨床医ユングが診断した近代西欧人の病理を、最も早く表わした先触れだった。ユングは、ニーチェの思想が、20世紀のドイツで現実になったことを目撃した。

『現代史によせて』所収の『破局の後で』(1945)において、ユングはいう。

「第1次世界大戦よりもはるか以前から、ヨーロッパの精神的な変化の最初の兆候は現われていた。中世の世界像は崩れ去り、この世界の秩序を統べていた形而上の権威は消えてしまい、やがて今度は人間の姿で浮かび出た。ニーチェが予言したのは、ほかでもなく神の死であり、その後裔たる超人の出現であり、あの死に至る綱渡り、愚者なのである。‥‥一国民全体が、そればかりか何百万という他国の人間までが、絶滅戦争という血なまぐさい狂気に引きずり込まれた。‥‥ドイツ人にいたっては、催眠術にかかった羊さながら、精神異常の指導者に追い立てられてみずからのと屠殺場へと赴いた」。

ここにいう「超人」「精神異常の指導者」とは、言うまでもない。ヒトラーのことにほかならない。

既にユングは、1918年にもこう書いていた。「キリスト教的世界観の絶対的な権威がうすれるに従って、『金髪の野獣』が地下の牢獄から首をもたげ、いつでもあばれ出てやろうと機をうかがうようになる」(『無意識について』)。

「金髪の野獣」とはニーチェの用語だが、ユングによれば、西欧人のうちなる未開人を指す。

西欧人の獣性は、非西欧社会の侵略において獰猛に発揮されたが、今度は、西欧その地、特にドイツにおいて、劇的に発現した。第1次大戦の敗戦国ドイツは、同じ白人種の間でひどい扱いを受け、極度に自尊心を傷つけられ、また経済危機による生活困難に陥った。追い込まれたドイツ人は復讐を誓い、他国への敵愾心を燃やした。その結果が、ナチズムの登場となる。ユングはこれを「民族の孤立と求心的秩序による集団化」といっている。そこまでドイツを追い込んだ西欧諸国にも、責任がある。ナチスの牙が直接向けられたのは、ユダヤ人だった。ヒトラーは、ニーチェの思想を通俗化して、利用した。差別と迫害、優位と攻撃、支配と美化等が、ニーチェの言葉で粉飾された。

ユングは、ドイツにおける集団心理について、当時の社会学・心理学の研究も踏まえて、次のように書いている。

「群集本能の激発は無意識の補償的な動きの兆候だった。このような動きが出てきたのは、民衆の意識状態が人間存在の自然法則にそぐわなくなったからである。工業化のおかげで人口の大部分は根なしの浮動層となって、大都市に集中した。この新しい存在様式――群集心理で動き、市場や賃金の変動に左右されるという存在様式が、不確かで保障のない、暗示に弱い個人を生み出したのである」

同じ現象をフロイトの弟子の一人であるエーリッヒ・フロムは、有名な『自由からの逃走』において詳細に分析している。ユングもフロムの所論は承知しているが、集合的無意識の理論に基づいて考察しているところに、深さがある。

ユングは、第1次大戦後のドイツ人の集団心理の中に、集合的無意識の作用を見て取った。ユングは、「呪術の追放」によって抑圧されていたゲルマン民族の無意識が、大きく働いていると考察したのである。

キリスト教に改宗する前、ゲルマン民族は、独自の神話を持ち、その神々の中心にはヴォータンという神がいた。ヴォータンは、遊牧民族であり、民族大移動を行ったゲルマン民族の心性を反映した暴力と闘争に特徴がある。

ユングは、1936年に次のように言った。「ヴォータンこそドイツの魂の基本的特性であり、非合理的な心的『要素』である」。

ユングによると、ヴォータンは、ゲルマン民族の集合的無意識から現われる元型の一つといえる。ヴォータンの元型は、無意識にあって影響を及ぼし、集団心理を生み出すとユングは考えた。

「休むことを知らない彷徨の神ヴォータンは、平安を掻き乱す者として、ここかしこで争いを引き起こし、あるいは魔術を弄してきたが、キリスト教によって悪魔とされ、その後はただ従者を率いた幻の狩人として、嵐の夜などに鬼火となって仄輝くばかりとなったが、それもいまは、地方の失われていく伝統のなかで生きているのみである」。ところが、「中世をはるか彼方にしたと思われていたれっきとした文化国家で、熱狂と陶酔の太古の神が、すなわち、歴史のなかにとっくの昔に安置されていたはずのヴォータンが、死火山のよみがえるようにふたたび目覚め、活動をはじめようとは、これは珍事というもおろかな、スリリングな事件ではある」

ユングは、このヴォータンの元型の働きが、ヒトラーとナチズムに現われたと見たのだ。ユングはいう。「ヒットラーは文字通り全ドイツを立ち上がらせ、民族大移動のスペクタクルをその場に繰り広げて見せたのである。放浪する者、ヴォータンが目覚めたのだ」

(「心の近代化と新しい精神文化の興隆」より)

 

#ヒトラーとナチズムの深層心理

「ヒットラーが政権を握ったとき、私には、ドイツに集団精神異常が始まりつつあることがはっきりわかった」とユングは書いている。

ユングはこの集団病理を「集合的憑依現象」「心理的伝染病」とも言っている。確かに病的である。ヒトラーは、アーリア人種の遺伝学的優位を説き、ユダヤ人の撲滅を行った。しかし、その大量殺戮は、科学的な手段により、組織的に進められたとされる。最も非合理的な思想が、極めて合理的な方法によって実行されたことになる。ここにも、心の近代化、合理化の進展による逆説(パラドックス)の一つがある。

ユダヤ人撲滅という思想は、ヒトラーに始まったものではない。キリスト教的西欧において、長い歴史をもった思想である。ルターの反ユダヤ主義は、有名である。ルターは、魔女とユダヤ人はともに虐殺すべき対象と考えていた。

1932年の講演でユングは述べた。「われわれを脅かしている巨大な破局は、物理的あるいは生物的な不可抗力の事件ではなく、心の出来事である。われわれを恐怖に陥れる戦争や革命は、心の流行病にほかならない。いつ何どき、何百万もの人間が一つの狂気にとり憑かれるかわからないが、そのときはまた、世界大戦や破壊的な革命が起こる。野獣や落石や洪水の危険にさらされなくなった代わりに、いまは自身の心の暴威にさらされているのである。心の領域は、地上のあらゆる勢力をはるかに上回る強国である。自然や人間の風習から神を追放した啓蒙思想も、心の中に住む恐怖というもう一つの神は見逃している。神への畏れとは、心のもつ圧倒的な力に直面したことの表現にほかならないのである」と。

ユングはまた、ヒトラーについての分析を行っている。集合的無意識の中から現われる元型的なイメージの一つに「影」というものがある。

「影」とは、ユング心理学における元型の一つであり、人格の劣等な部分を意味する。人は、自分の中にある劣等な部分を他者に投影し、その他者に軽蔑や怨恨や憎悪や敵意を向ける。この劣等に見える他者の姿とは、実は自分自身の一面なのであるが、自分では気づかない。

ユングは、この影という概念を使いながら、臨床医としての所見を述べる。

「ヒトラーは影、すなわち誰しもの人格が持つ劣等部分を、人並み外れたスケールで体現している」「彼はあらゆる人間的劣等の巨大な権化にほかならない」

ユングが同時期に書いた『破局の後で』(1945)から略述しよう。ユングによると、ヒトラーは、「ヒステリー患者」である。ヒステリーの病理学的な兆候は「自分の性格に対する完全な盲目、自己色情的な自画自賛や自己の美化、同胞への蔑視とテロ、みずからの影の他への投影、嘘による現実の歪曲、格好だけの見栄っ張り、はったりやいかさま等々」であり、「ヒットラーをもっと詳細に見立てるならば、空想虚言といえるだろう。つまり自分の嘘を自分で信じ込むという特殊な能力で知られるヒステリーの一形態である」。ヒットラーは「ドイツ人全般のヒステリーの似姿」である、とユングは考察した。

ヒトラーという「超人」的な指導者は、数世紀の間、抑圧されていたゲルマン民族の無意識のエネルギーが、闘争的・破壊的な形で表れたものだ。ユングにとって、ナチズムは、近代西欧史あるいは西欧精神史そのものの「運命的帰結」を示しているのである。

ここでウェーバーのカリスマ論を思い返しておこう。ヒトラーは、ウェーバーが注目していたカリスマ的指導者の典型だった。カリスマは、真に神のごとき善や愛の力として働く場合と、逆に悪や破壊の力として働く場合がある。それは、その非日常的・超人的な能力の持ち主の道徳性の度合いによって、正反対に分かれるのである。

(「心の近代化と新しい精神文化の興隆」より)

 

#現代世界の精神的危機

ここで「現代」と呼ぶ時代は、人類が自ら生み出したものによって、生存の危機に陥った時代を指す。近代と現代を区別する年次を、1945年(昭和20年)とする。現代は近代と異なる時代ではなく、近代の延長にある時代であり、近代の生み出した危機が人類の存亡に関わる段階に入った時代である。そして、この危機を乗り越えて、人類が新たな時代に入るべき転換の時代でもある。人類は現在も「近代化革命」のただなかにある。このような認識を持って、以下の論考を続けたい。

さて、近代から現代への移行となったのは、第2次世界大戦である。ヒトラーに率いられたドイツは、1939年9月にポーランドに侵攻し、この大戦が始まった。キリスト教国はまたも大戦争を繰り広げた。この戦争は彼らが植民地や利権を持っていたアジア太平洋にも広がった。白人種同士が戦っただけではない。15世紀以来、白人種に支配されてきた有色人種が白人種に抗するという戦いも繰り広げられた。これは、キリスト教的欧米対非キリスト教的アジアの戦いである。戦いの最後は、アメリカが核兵器を開発し、日本に投下して決着をつけた。しかし、この戦争を通じて、4百年以上もの間、虐げられてきたアジア・アフリカ・ラテン・アメリカ諸民族は独立を勝ち取ることができた。

大戦終結後、アメリカに続いてソ連も核開発に成功し、世界人類は日々核戦争の脅威におののく身となった。こうして、現代は、核兵器の開発・使用による人類滅亡の危機の到来と、有色人種の独立によって始まった。日本人は、核兵器による悲惨を人類ではじめて体験した民族であり、また戦勝国の占領政策に甘んじる国民として、この時代を歩み始めた。

現代の危機について、ユングは次のように書いている。

「真の危険信号は、ドイツに上がった火の手ではなく(註 ナチズムのこと)、原子エネルギーの解放であり、これによって人類は、完璧な自己壊滅の手段を手に入れた」

「人類の良識は挑戦を受けている。この事実はもはや、もみ消すことも、バラ色に塗り替えることもならない。この認識が動機となって、大きな内面の方向転換をきたし、より高次の成熟した自覚と責任感をもたらすことはないだろうか?

時は次第に迫ってくる。いまや一刻の猶予なく、文化を担った人類はその根源に思いを致し、生存か滅亡かの問題に立ち入った討議を加えなくてはならない。なぜなら、いま人類を脅かしているものは、先のヨーロッパの破局なぞほんの開幕前の前奏として、いずれ舞台の片隅へ押しのけてしまうだろうからである」

ユングは、大戦後、自由主義圏と共産主義圏に分裂した世界において、共産主義にナチズムに似た危険性を感じ取った。そして、核開発競争が行われる世界で、東西が対立している状態を非常に危惧した。

この核危機の世界において、新たに進行してきたのが、地球環境の破壊である。自然を征服・支配し、物質化・手段化し、資源として利用しようとする近代西洋文明の威力は、人類の生存の前提である地球の自然を破壊し、人類の生存そのものを脅かすに至った。

(「心の近代化と新しい精神文化の興隆」より)

 

#平和のために「影との戦い」を戦え

核支配の時代を生きるわれわれに対し、ユングは「影との戦い」を戦えと諭す。

「唯一戦うに値する戦いとは、すなわち影の持つ圧倒的な力と衝動に対する戦いである」と彼は言う。

「影」とは、ユング心理学における元型の一つであり、人格の劣等な部分を意味する。人は、自分の中にある劣等な部分を他者に投影し、その他者に軽蔑や怨恨や憎悪や敵意を向ける。だが、実は、劣等に見える他者の姿とは、自分自身の一面なのである。人は、自己の「影」を投影した相手を悪い人間だと感じ、相手の言葉や行動に邪悪な意思を読み取る。さらにエスカレートすると、相手を「悪魔」であるとか、「悪の権化」などとみなす。そこに、自己と他者との戦いが生じる。ユングは、こうした無意識の働きが、世界大戦にまでいたる人類の争いの原因にあることを指摘する。

そして。ユングは、次のように言う。

「最悪の敵はまさしくおのれの心の中にある」

「われわれ一人一人が、この時代の人間の背後からむっくりと身を起こした影を認めなければならない」「この影を背負ってどう生きていけばよいかという疑問に答えねばならない。悪を担ってしかも生き続けるためには、どういう心構えがいるのだろうか。 この疑問に対する正しい答えを見出すには、徹底的な精神の入れ替えが必要だが、それも外から与えられるわけはなく、各自が努力して達成するほかない」と。 

「影との戦い」は、各自がそれぞれ行わねばならない課題である。自分と向き合って、自分の無意識の内容として現われる影を認識し、それに打ち克つ内面的な努力。それを一人一人が行うしかない。こうした個人個人の努力なくして、世界の平和は実現できない。

ユングは言う。「個人の徳性における微々たる一歩の前進だけが、真に達成されうることのすべてである」と。

「影との戦い」とは、自分自身との戦いである。この戦いを戦うには、心について知ること、特に無意識について知ることが必要である。単に合理的・理性的な考え方だけでは、自らの内なるものを知ることができない。

ユングによると、「集合的無意識の内容、すなわちさまざまな元型は、これこそ心的な集団現象の核心を成すものだが、つねに両極性をもっている。つまり肯定的な面と否定的な面とを併せそなえているのだ。元型が表面に浮かんでくるとき、事態は常に危機をはらんでいる。それが一体どちらの方向に行くのか、あらかじめ知ることはできない。それは普通、意識がそれに対してどう対処するかによって決まる」

「集団心理学的現象の駆動力は、元型的な性質のものである。元型というものはどれも、最高と最低、悪と善とを併せ持っていて、だからこそ、およそ矛盾に満ちた働きをするのである」

つまり、無意識には両極性があり、元型は肯定的にも否定的にも働く。元型には、最高と最低、悪と善の両面がある。神のような力としても、悪魔のような力としても働くのである。

ユングは『影との戦い』に次のように書く。

無意識は意識に対してこれを補償するように働く。「この種の補償的な働きが出てくるのは、何らかの悪い点が意識の態度にあるからに違いない。何かがうまくいかなかったり異常に肥大したりしているはずである。なぜなら無意識の側から反動を呼び起こすのは、意識が不完全な場合に限るからである」とユングは説明する。そして、「無意識の補償的な働きが個人の意識の中に統合されないと、神経症やさらには精神異常が起こるが、同じことが集団にも当てはまる」と述べる。

ユングはまた、「無意識それ自体は、破壊的ではなく、アンビヴァレントなもの(註 両面価値的)であって、それが災禍を来たすか、恩恵をもたらすかは、ひとえにそれを受け止める意識にかかっている」と言う。

危機の時代を生きるわれわれには、自分の意識をしっかり持って、無意識の働きを受け止め、意識と無意識を統合できるよう努めることが必要である。そして、無意識のエネルギーを、自分自身や他者に対してよい結果をもたらすように、方向付けをしなければならない。それには、理性や道徳心が求められる。

無意識の存在と働きを知って、それを理性的また倫理的に制御・管理することが大切となる。倫理・道徳は、こうした意識の働きを強めるものとして機能してきた。倫理・道徳の説の多くは、人間に我や欲望を抑えることを教える。利己心の抑制である。それと同時に、他者への思いやりや助け合いを勧める。利他心の発揮である。この利己心の抑制と利他心の発揮に、危機解決への鍵がある。

この点において、倫理・道徳が意識のレベルで、思考と行動の善悪を教えるのに対し、宗教は、それ以上の働きを担ってきた。ユングは、宗教を次のように評価する。

「宗教とは、ある目に見えず制御することもできない要素を、慎重に観察し顧慮することであって、人間に固有の本能的な態度である。‥‥それは明らかに心のバランスを保つのに役立っている」

様様な宗教に見られる修行法・修養法は、意識と無意識を統合し、心のバランスを保つための精神技術であるといえるだろう。

ユングは、『影との戦い』で次のように吐露する。

「無意識内容の統合とは、個人による体得や理解や道徳的な評価といった行為である。それは高度の倫理的な責任を必要とするきわめて難しい仕事である。それを達成できそうなのは比較的少数の人にすぎない。そしてその人たちは、政治的な指導者ではなく、人類の道徳上の指導者なのである。文明の維持とさらなる発展は、これらの人々にかかっている」

ユングは、「影との戦い」を各自が戦うことを勧め、「個人の徳性における微々たる一歩の前進だけが、真に達成されうることのすべてである」とも言う。それと同時に、この課題が極めて困難な課題であることも指摘する。そして、こうした努力を成し遂げることができるのは、「人類の道徳上の指導者」に限られ、そうした指導者に「文明の維持とさらなる発展」がかかっているという。

(「心の近代化と新しい精神文化の興隆」より)

 

#ユングの「共時性」という仮説

精神分析医のフロイトは、性本能の基底となるエネルギーをリビドーと呼んだ。そのエネルギーの移動と増減によって、すべての精神現象を説明しようとした。フロイトは、リビドーをショーペンハウアーの意志と同じものと考えた。機械論的唯物論的な性向を持つフロイトは、視霊現象やテレパシー等に対しては懐疑的だった。

自身が様々な超常現象を体験していたユングは、師のフロイトと考えが合わず、別の道を進んだ。患者の治療を通じて深層心理の研究を深め、西洋の錬金術等を心理学的に解釈し、また易や道教、チベット仏教等の東洋思想を西洋に広く紹介した。

ユングは、10代後半にショーペンハウアーを読み、『意志と表象としての世界』を通じて仏教に触れた。それが、ユングが東洋の宗教・思想を広く研究するきっかけとなった。ユングはショーペンハウアーには、納得がゆかなかった。カントの物自体を意志とし、意志を形而上学的な実体にしたことは、過ちだと考えた。その一方、視霊に関する小論には強い影響を受けた。カントの『視霊者の夢』にも影響を受け、医学生時代にスヴェーデンボリの大著を読んで、彼を「偉大な科学者にして神秘家」と称えた。カントとの関係で、ユングがスヴェーデンボリをどう見たかを書くに当たり、まずユング独特の仮説である共時性の説明をしたい。

ユングは、自然科学の基本原理である因果律では説明のできない意味深い偶然の一致という現象を自ら体験していた。この現象を説明するために、非因果的でしかも同時的な二つの事象の間を関連づける原理として、「共時性(シンクロニシテイ)」という仮説を立てた。

偶然の一致の例として、ユングは次のような体験を挙げている。ユングの患者に、狭い観念にしばられた若い女性がいた。頑固で現実的な物事以外は認めようとせず、自分の殻に閉じこもり、心の交流ができないため、治療が難航していた。ユングは書く。

「ある日、窓を背にして彼女の前に座って、彼女の雄弁ぶりに聞き耳をたてていたのである。その前夜に、彼女は、誰かに黄金のスカラベ(神聖昆虫)を贈られるという非常に印象深い夢をみたのであった。彼女がまだこの夢を語り終えるか終えないうちに、何かが窓をたたいているかのような音がした。 振り返ってみてみると、かなり大きい昆虫が飛んできて、外から窓ガラスにぶつかり、どう見ても暗い部屋の中に入ろうとしているところであった。筆者はすぐに窓を開けて、中に飛び込んできた虫を空中で捕らまえた。それはスカラバエイデ、よく見かけるバカラコガネムシで、緑金色をしているので金色のスカラベに最も近いものであった。『これがあなたのスカラベですよ』と言って、筆者は患者さんにコガネムシを手渡した。この出来事のせいで、彼女の合理主義に待ちわびていた穴があき、彼女の理知的な抵抗の氷が砕けたのであった」(『共時性について』エラノス叢書2、平凡社)

この出来事をきっかけに、偏狭な合理主義に固まっていた患者の心が和らぎ、新たな世界に心を開くようになり、治療がスムーズにいくようになったという。ユングは、このように因果律では説明のできない意味深い偶然の一致を多く体験・観察していた。それらを説明するために出した仮説が、共時性である。

ユングは、1952年に物理学者パウリとの共著『自然現象と心の構造』を出した。本書の論文「共時性:非因果的連関の原理」で、ユングは、ラインが実験科学的な方法で超能力を研究した報告を引用し、テレパシー、透視、遠隔視、予知、念力等を共時性仮説で説明しようと試みた。そこでユングは、スヴェーデンボリのストックホルムの大火事の逸話について、次のように書いた。
 「例えば、ストックホルムにおいて火事が起こっているという幻視がスヴェーデンボリの内に起こったとき、その二者間に何も証明できるようなもの、あるいは考えられるようなつながりすらもないのに、その時、そこで実際に火事がいかり狂っていた。(略)彼を『絶対知識』に接近させた意識閾の低下が存在したと、われわれは想像する。ある意味で、ストックホルムにおける火事は、彼の心の内でも燃えていた。無意識の精神にとって空間と時間は相対的であるように思われる。つまり、空間はもはや空間でなく、また時間はもはや時間でないような時空連続体の中で、知識はそれ自身を見出すのである。それゆえ、無意識が、意識の方向にポテンシャルを保ち、発展させるならば、そのとき、並行事象が知覚されたり『知られ』たりすることは可能である」と。

こうしてユングは、共時性の仮説によって、スヴェーデンボリの体験の説明を試みた。ユングは無意識の精神にとっては、空間と時間は相対的であり、空間はもはや空間でなく、また時間はもはや時間でないような時空連続体の中で、遠隔視が可能になると考えた。ユングは、共時性を「時間と空間に関して心的に条件づけられた相対性」とも定義している。また「空間と時間は、運動する諸物体の概念的な座標だが、それらは根底においてはおそらく同一なのだろう」とユングは書いている。ユングを受けて、空間・時間が心の状態によって条件づけられる相対的なものだと仮定すると、距離を超えた念力による遠隔操作や因果的継起を超えた予知は起こり得る現象となる。カントは感性のア・プリオリな直観形式として空間・時間を挙げたが、空間と時間が二元的なものではなく、一元的なものの表れだとすれば、特殊な能力を持つ人間においては、時空を超えた認識や行為が可能になるだろう。

ユングは、従来の科学が原理とする時間、空間、因果性に、共時性を加えることを提案した。パウリはユングに賛同し、時間、空間をエネルギーと時空連続体に替えることを助言した。これを容れたユングは、永遠のエネルギー、時空連続体、因果性、共時性という4つの原理を提示している。

(「カントの哲学と心霊論的人間観」より)

 

●ハイデッガー

 

マルティン・ハイデッガーは、1889年に生まれ、1976年に亡くなったドイツの哲学者である。カトリック教会の職員の子として生まれ、大学では、はじめ神学を、次いで哲学を修めた。フッサールのもとでアリストテレス哲学の現象学的解釈に携わり、さらに初期ギリシャ哲学の存在に関する思索を研究し、それによってデカルト以来の近代西洋思想の限界を突破することに取り組んだ。

1914年7月に始まった第1次世界大戦は、近代西洋文明の危機を継げる出来事だった。その危機の時代にハイデッガーは、キルケゴールの実存の哲学に共鳴し、プロテスタントの新約聖書学者ブルトマンと対話を重ねた。またニーチェのニヒリズムの思想を深刻に受け止めつつ、独自の哲学を構築した。1927年に発表した主著『存在と時間』は、ドイツを始めとして西欧諸国に大きな衝撃を与えた。

ハイデッガーは、本書で、西洋における形而上学の主題である「存在とは何か」という問いを根源的に問い直した。だが、第1部の一部が発表されたのみで、その続きの部分及び第2部は発表されずに終わった。発表された部分の大要は、次のとおりである。

ハイデッガーは、人間を現存在と呼ぶ。現存在は自己の存在を問題とする唯一の存在者であるとして、これを現象学的・解釈学的に分析し、存在者がそこから生じてくる存在に至ろうとする。これが彼の基礎的存在論である。

現存在は他者や事象と関わりながら、現に世界の中に存在し、自分の存在をいかに形成すべきかを気遣いながら存在している存在者である。こうした現存在の存在様式を世界内存在という。また、気遣うべき自己の存在を「実存」という。

現存在は世界の中に投げ出されて、死に向かっている存在である。また、無に直面しておののく不安な存在である。人間は、死にさらされた各自の固有な実存を見つめつつ、自分固有の実存であろうと覚悟して世界内存在する時に、実存の「本来性」が実る。これに反して、不安を回避し、あいまいな日常性に安住して自己の実存に目覚めずにいる状態を、実存の「非本来性」という。

これらの二種の実存は、究極的に、現存在の「時間性」に基づいて出現する。本来性を可能とする時間性は、死へと「先駆」し、自分の既在を「取り返し」ながら、他者や事象との関わりにおいて成り立つ自分の世界内存在の状況を見つめ、そこに立ち入っていこうとするあり方をいう。これに対し、非本来性を出現させる時間性とは、現在の周囲の状態の中に自分を見失って引きずり込まれているあり方をいう。そして、自分の死を先取りすることによって、いっそう強く覚醒された本来性への覚悟と決意が、実存の根底を形作ると指摘している。

 第1部の後半では、あらゆる存在の意味了解の地平として時間の現象を取り出すことが予定されていた。また第2部は、存在論史の破壊と名付けられ、伝統的な存在論の基本概念の構造を解体し、かつてその構造の根底に流れていた存在体験の思索的反復を追求しようと構想されていた。

 多くのキリスト教徒は、『存在と時間』を読んで死を思う時、死後、天国へ行くか地獄へ行くか、最後の審判で永遠の生命を得るか、永遠の死に至るかを考えるだろう。また、非本来性とは罪によって神から離れている状態であり、神に心を向けて本来性を取り戻すことが信仰だと考えるだろう。だが、ハイデッガーは、もはやそうした伝都的なキリスト教思想を信じていない。『存在と時間』以後、ハイデッガーはキリスト教思想に戻ることなく、独自の施策に沈潜していく。

 1930年代のドイツは、ナチスの支配下に置かれた。ハイデッガーは、『存在と時間』の課題を抱えつつ、大きな思想的な転回を行った。その変化は、1935年ごろから顕著になった。転回後の思想を後期思想と呼ぶ。後期のハイデッガーは、言葉を「存在の家」であるとして、ヘルダーリンやリルケなどの詩を手がかりにして、存在の解明に取り組んだ。また、ニーチェの思想を徹底的に読み解き、独自の解釈を深めていった。

後期思想では大要、次のような思想が説かれた。万物の根源である「存在」は、さまざまな「存在者」の姿をとって、おのれを顕わにしながら、自らは「存在者」の陰に隠れてしまう。「存在」は、おのれを隠すという仕方によってしか、おのれを顕わにしない。そのため、人間は、自分の周囲に現れるさまざまな「存在者」の修羅場に眼を奪われて、根源の「存在」を見失い、「存在忘却」に陥ってしまう。この根源の「存在」を見失った迷誤の歴史が、「存在の歴史」である。この歴史のなかに人間は置かれており、現代は、その迷誤の極致にある。根源の「存在」を見失ったまま、人間は、存在者の中心の座を占め、その知と意志において、人間中心主義になり、人間が存在者全体を支配し、収奪しようとしている。この迷誤の「存在の歴史」は、プラトンに始まり、近代以降とりわけデカルトを介して展開し、その結果が、現代の「技術」の時代である。この時代においては、存在者全体が利用し尽くされ、収奪されていき、人間の住まうべき「故郷」が失われる故郷喪失が、世界の運命となる。ハイデッガーは、この存在の故郷を喪失した現代という「夜の時代」を超えて、「新しい朝と始まりの時代」を待望している。

こうしたハイデッガーの後期思想は、詩的・象徴的な言葉で語られている。しかし、「存在」を「神」に置き換えれば、その示唆するものが明らかになってくる。存在とは、西洋哲学史において、神を哲学的な概念で表したものであるから、こうした置換が可能である。祖のように置換して読み解くならば、西洋では、キリスト教化された後だけでなく、それ以前の初期ギリシャの時代から、真の神が見失われたまま、歴史が進んできた。その行き着いた先が、現代の科学技術による自然の支配・収奪の文明であり、とりわけ核兵器の脅威にさらされた人類の危機である。ハイデッガー自身は、その真の神を見出し得ていない。だが、彼は、現代という故郷喪失の「夜の時代」に絶望せず、「新しい朝と始まりの時代」の到来を待ち望んだ。夜は光のない闇の世界であり、朝は光の輝く世界である。存在の故郷とは、失われた光の世界であり、朝とは、故郷への帰還の朝である。私は、ハイデッガーの詩的・象徴的な表現を、このように解釈することが可能だと思っている。

ハイデッガーは、キリスト教に新しい朝となる時代の到来を期待していない。聖書の記述を信じるキリスト教徒であれば、イエス=キリスト自身の再臨を待望し、最後の審判の時に臨むところだろう.だが、ハイデッガーは、そうした聖書に基づく信仰をもっていない。また、それに代わる独自の存在論的思考に基づく信仰に達してもいない。この点、次に書くヤスパースがキリスト教を越えた超越者への「哲学的信仰」を表明し、危機にある人類に「信仰と愛」を説いたのとは、異なっている。

(「キリスト教の運命」より)

 

●ヤスパース

 

カール・ヤスパースは、1883年にドイツに生まれた。「実存哲学」の哲学者として、ハイデッガーと並び称される。また、その哲学をもとに人類の歴史を把握し、人類の未来について多くの提言をした。

ヤスパースは、最初は精神病理学者として活躍したが、哲学に転じ、1921年にハイデルベルク大学の哲学教授となった。この年、バルトが『ローマ書講解』第2版を出し、27年にはハイデッガーが『存在と時間』を出した。この二人はキルケゴールとニーチェの思想に触れ、近代西欧の危機を深く感じ取っていた。ヤスパースは1931年に『現代の精神的状況』を出して、機械文明と大衆社会の中に埋没して自己を喪失している現代人を批判し、32年に『哲学』で実存哲学を提示した。ヤスパースによると、人間には、自己の力ではどうすることもできない状況、人間を限界づけている普遍的状況として、死ぬこと、苦悩、争い、罪を犯すことがある。これを限界状況と呼ぶ。人間は限界状況に直面し、自己の有限性を知ったとき、超越者と出会い、実存へと目覚める機会が与えられる。

実存は、伝統的なキリスト教の神学において、本質と対をなす概念である。本質(エッセンシア)とは、そのものが「何であるか」という定義によっていわれるものである。実存(エクステンシア)とは、現実的な存在を意味し、可能的な本質が現実化したものである。言い換えれば、本質とは、「あるものが何であるか」と問う時の「何」のことをいい、実存とは、「何かとして存在すること」をいう。これに対し、ヤスパースの実存は、人間存在を意味し、個としての自己に真に目覚めた人間のあり方をいう。ヤスパースは、実存を「決して客観となることのないもの」、「私がそれに基づいて思考し行動する根源」、「自己自身に関わり、かつ、そのことのうちで超越者に関わるもの」と規定している。そうした実存をヤスパースは、自己「暗黒の根拠」ともいう。しかし、実存は、それだけで自立的に存在する根拠ではない。実存はさらに「一なる超越者」によって支持されているとし、自らが超越者への帰依の関係にあることを真に自覚する時に、実存はいわば初めて実存するのだ、とヤスパースは説く。

ここで実存が関わる超越者とは、キリスト教の超越神がまず連想されよう。だが、ヤスパースの超越者は、聖書に書かれた神と同一ではない。哲学的な思考によって認識された存在である。ヤスパースは、そうした超越者を包越者とも呼ぶ。包括者とは、主観・客観に分裂する前の超越的な全体性であり、われわれがそれを確認しようとすると主客に分裂し、「存在そのものである包括者」と「われわれがそれである包括者」になる、とヤスパースは言う。ここには、主観・客観の二項図式によって自己と世界を認識するデカルト以来の西洋近代思想への掘り下げが見られる。ヤスパースは包越者を神とは呼ばないが、これを神と呼ぶならば、彼の思想は一種の万有在神論である。

ヤスパースは、こうした実存の哲学を、キルケゴールとニーチェの思想の研究を通じて構築した。その際、カントの批判哲学における理性の立場を継承している。著書『理性と実存』で、ヤスパースは次のように説く。「実存はただ理性によってのみ明るくなり、理性はただ実存によってのみ内実を得る」と。ヤスパースが説く理性とは、実存の自覚を組織化し、統合し、集約していく「統一への意志」であり、実存に無限の自省を促すものである。また「無限の公開性」であり、「総体的な交わりへの意志」であるとされる。彼における理性は、神の理性を分有したものでも、個人の自律的な認識能力でもなく、他者との交わりにおいてのみ発揮される意志である。そして、ヤスパースは、他者との交わりによってのみ真理が得られると説いている。このように、個としての自己に真に目覚めた人間のあり方とされる実存を、理性との関係、及び他者との交わりの中でとらえるところに、ヤスパースの哲学の一つの特徴がある。

ヤスパースは、聖書に基づく啓示信仰に対し、自分の信仰を「哲学的信仰」と呼ぶ。彼によると、人間は今日、共通の信仰を内容とする伝統的な支えを失っている。それだけに、われわれは伝統によって与えられた信仰よりもいっそう深い信仰の根源、つまり歴史のうちに現われたあらゆる信仰がすべてそこから発している根源に、その気さえあればたちかえることができる。人間によって生み出された神の表象は、いずれも神そのものではない。だが、また、神性はそうした表象を介してのみ、われわれに意識される。神性は根源であり、目標であり、安らぎであって、ここに人間の庇護がある。人間が人間であることをやめない限り、こうした存在が人間から見失われるということは考えられない。人間への信仰は、むしろ人間の存在の根拠である神性への信仰を前提とする。また人間への信仰は、人間相互の真の交わりが可能であるという信仰であって、その場合真の交わりとは、単なる接触や共感や利害の共通よりも以上のものである。

このように考えるヤスパースの信仰は、聖書に基づく啓示信仰とは、一線を画する。特定の宗教やその教義に関わる信仰ではなく、宗教と無神論の間の立つ哲学的信仰である。それは、人間の心を常にあらゆる可能性に向かって開放し、その中で絶えず真理を求めていく生き方である。

1930〜40年代ナチスが支配するドイツにおいて、ヤスパ―スは、夫人がユダヤ人であることから、大学の職を追われた。苦難と試練の中で、彼はその思索を続けた。第2次世界大戦の終結後、ヤスパースは1949年に『歴史の起源と目標』を刊行し、世界史に基軸時代を想定する独自の歴史哲学を提示した。彼が想定した基軸時代は、イエス=キリストが出現する以前の紀元前800年と前200年の間であり、シナの老子・孔子、インドの釈迦、イランのゾロアスター、パレスチナのエリヤなどの預言者、ギリシャのプラトン等を輩出した時代である。ヤスパースによると、この時代には、シナ、インド、西洋の三つの世界に共通の体験として、「人間が、存在の全体と自己自身と自己の限界とを自覚するに至った」、また「私たちが今日まで物を考えるときの根本カテゴリー」が現れた。また「世界宗教の端緒が創り出され」「あらゆる意味において、普遍的なものへの歩みがなされた」。要するに、人類の「精神化」が起こったとする。

ヤスパースにとって、現代は、世界史の「第一の基軸時代」と、来るべき「第二の基軸時代」の間にある時代である。この時代は、科学と技術に支配された時代であり、大衆化とニヒリズムが進行する時代である。こうした現代において、世界史の新しい基軸時代は、現れ得るのだろうか。ヤスパースに確固とした答えは見出せず、模索と課題の中で、呻吟している。その呻吟のなかから、「未来への問い」として、さまざまな意見を述べている。その意見の一つに「信仰と愛」についての意見がある。

ヤスパースは「人間は信仰なしに生きることはない」と言う。そして、人間は、自己と、その「自己を贈り届けてくれた超越者」と、他者と、世界のなかの開かれた諸可能性とに対する、深い信頼と信念と確信を持つことなしには、この世を生き抜くことはできないのだ、と。そして、人間の「深い存在意識」は「愛」の心となって表れるだろうと説く。「愛」のうちから「存在の内実」が顕わとなり、「愛」の深みの中で「真理」も立ち現れるとヤスパースは述べている。こうした「信仰と愛」のうちからのみ、人類の未来は開かれると、ヤスパースはその信念を明らかにしている。これは、諸宗教の根源、生命の本源、人間存在の根拠でもある超越的存在への信仰と、人類の同胞愛を訴えるものと理解される。詳しくは、拙稿「ヤスパースの「新基軸時代」と日本の役割」をご参照願いたい。

 ヤスパースは、こうした哲学と歴史観を以て、戦後ドイツのあり方や世界平和の実現に関して、積極的に発言を続け、1969年に亡くなった。キリスト教が現代世界で自らを向上・発展させようと意志するならば、彼の思想と提言には、深く傾聴すべきものがあるだろう。

(「キリスト教の運命」より)

 

#世界史に「基軸時代」を設定

カール・ヤスパース(1883-1969)は、ドイツが生んだ20世紀を代表する世界的な知性の一人である。最初は精神病理学者として活躍したが、その後、哲学に転じ、「実存哲学」の哲学者としてハイデッガーと並び称される存在となった。そして人類の歴史を総括し、人類の未来について多くの提言をした。

第二次世界大戦の終結直後に刊行された彼の著書『歴史の起源と目標』(1949)は、現代の視点に立って、人類の歴史について考察した名著である。

ヤスパースは、本書において、最初に、私たちは人類の歴史の起源と目標を知らないと述べている。人類の歴史は「絶対に表象できず考え尽くすことのできない起源」と「私たちがいかなる具体的像においても適切に描き出すことのできない目標」との間で生起しているとヤスパースは言う。これではまるで、心もとない話である。そこで、ヤスパースは、次のような見方を提案する。

起源も目標も決定的には見渡せないとなると、人類史のなかに、なにか「基軸」となる時点を設定しなければ、現代の私たちの立っている地点を見定めることもできない。そこで、ヤスパースは「基軸時代」(Achsenzeit)というものを設定することによって、「世界史の図式」の大枠を構想しようとする。

 ヤスパースは、欧米人だが、世界史を真に世界的な視野で見ようとした。彼によれば、欧米人のキリスト教信仰は、世界的に見ると、ひとつの信仰に過ぎず、「人類の信仰」ではない。それゆえに、「世界史の基軸」があるとすれば、キリスト教を離れて見つけ出さねばならないと言う。それは、あらゆる民族にとって「歴史的自己意識の共通の枠」となるようなものでなければならないからである。

こうしてヤスパースは、自説を開陳する。世界史の基軸は、「紀元前ほぼ500年頃、つまり前800年と前200年の間に起こった精神的過程のなかにあるように思われる」、そこに「今日まで私たちがそれとともに生きている人間というものが生じた」と。

具体的にこの時代の世界を概観すると、シナでは老子・孔子が出現し、インドではウパニシャッドが成立し、釈迦が活躍していた。イランではゾロアスター、パレスチナではエリヤ、エレミヤ、第二イザヤなどの預言者、そして、ギリシャではホメロス、プラトン、アルキメデス等が輩出している。

 ヤスパースによると、この時代には、シナ、インド、西洋(中東より西)の三つの世界に共通の体験として、「人間が、存在の全体と自己自身と自己の限界とを自覚するに至った」、また「私たちが今日まで物を考えるときの根本カテゴリー」が現れた。また「世界宗教の端緒が創り出され」「あらゆる意味において、普遍的なものへの歩みがなされた」。要するに、人類の「精神化」が起こった。このようにヤスパースは、世界史の基軸時代の意味を明らかにしていく。

とはいえ、基軸時代以前に何もなかったのではない。その前に何千年も続いた古い高度文化があった。その高度文化が基軸時代の出現とともに終わり、基軸時代のなかに採り入れられて、発展的に解消していったのである。そして、基軸時代において、「起こり、創造され、考えられた」ことに基づいて、「人類は今日まで生きてきた」とヤスパースは説く。

 ヤスパースは、世界史に基軸時代を設定することによって、「人類全体に共通のもの」が得られ、「果てしない交わりへの要求」が立てられると説いた。「交わり」とは、文明間・民族間・個人間のコミュニケーションのことであり、対話と相互理解を意味する。

こうしたヤスパースの歴史観は、人類に共通の見方を与えたものだと私は思う。基軸時代の設定は、人類の文明史を振り返る時に、もはや不可欠の枠組みと言えよう。

(「ヤスパースの新基軸時代と日本の役割」より)

 

#来るべき「第二の基軸時代」

ヤスパースは、世界史に基軸時代を設定した後、その枠組みのもとに、世界史の図式を描き出す。それは次のようなものである。

 

第1段階: 先史時代

時期: プロメテウス時代の始まり

 

  内容: 言語の発生、道具の発生、火の使用の発生

 第2段階: 古い高度文化の基礎付けの始まり

時期: 西暦紀元前5000年以降

  内容: 四大文明の発生(メソポタミア、エジプト、インダス河流域、

黄河流域)

第3段階: 基軸時代の始まり

時期: 西暦紀元前800〜200年

内容: 諸宗教・哲学の発生、人類の「精神化」(インド、シナ、西洋)

第4段階: 科学技術時代の始まり

 時期: 17世紀の科学革命と18世紀末の技術発展

 内容: 科学と技術による世界の変容

 

すなわち、第1段階の先史時代に「人間は初めて人間となった」、第2段階の高度文化の基礎づけの後、第3段階の基軸時代に「人間は精神的に全面的に開かれた本来的人間となった」、そして、第4段階の科学技術時代に入り、「この時代の変容過程をいま私たちがみずから経験している」と、ヤスパースはとらえる。

 ヤスパースは、このように人類史を4段階に分け、この段階的展開のうちに「二つの息づかい」を見る。「第一の息づかい」は「プロメテウス時代から、古い高度文化を越えて、基軸時代とその帰結へといたる」息づかいである。「第二の息づかい」は「科学技術による新しいプロメテウス的な時代」から、「新しい、私たちにはまだ遠い、見えない第二の基軸時代」への息づかいである。

「息づかい」というのはヤスパース独特の表現だが、これを呼吸ととらえることができるだろう。歴史の大きな波ととらえるとわかりやすいと思う。

 ヤスパースによれば、「第一の息づかい」は地域的であったのに対し、「第二の息づかい」は「普遍的で、すべてを包括」し、「人類全体」を巻き込んだ息づかいである。ただし、ルネッサンス以来の西欧の科学と技術は「純粋にヨーロッパ的現象」であって、到底「第二の基軸」とは呼べないと、ヤスパースは断言する。そして、来るべき「第二の基軸」は、「人類的な、世界を包括する基軸」でなければならないと強調する。

彼によれば、現代の科学と技術のうちから、やがて現れるべき第二の基軸時代は、ヨーロッパのみならず、アメリカとロシア、中国とインド等、要するに世界全体を包括したものでなければならない。しかし、人類の新しい未来の第二の基軸時代は、まだ見えないまま、遠くにある。そして、私たちは、地球全体をおおう、来るべき新しい未来の第二の基軸時代に向かう途上にあり、模索と課題の中で、日夜、呻吟している、とヤスパースは考えた。

第一の基軸時代はもはやなく、第二の基軸時代はまだない、その中間に、現代の私たちの立っている地点がある、それがヤスパースの時代認識だった。

(「ヤスパースの新基軸時代と日本の役割」より)

 

#「基軸時代」と日本の登場

ここで、わが国のことについて補足したい。ヤスパースは西欧人でありながら西欧中心主義ではなく、世界的な視野をもった賢者だったが、『歴史の起源と目標』における彼の視野には、日本が入っていない。これは重大な欠陥と言わねばならない。そこで、日本の存在を加えることによって、彼の歴史観を補正したいと思う。

世界史の基軸時代以前に、わが国には、縄文時代があった。縄文時代は今から約1万2〜3千年前に始まり、約2千3百年前に終わった。その約1万年間の文化を縄文文化と呼んでいる。縄文文化は、世界最古の高度土器文化だった。これは、ヤスパースのいう基軸時代以前の高度文化に比せられる。そして、縄文時代の晩期から弥生時代の始め頃が、ほぼ世界史の基軸時代にあたる。

当時の我が国の宗教や思想については、明確なことはわかっていないが、独自の世界観・価値観をもっていたことは、間違いない。そして、この日本固有の文化が基礎となって、その後の日本文明が発展する。

20世紀最大の歴史家・トインビーは、日本は一個の文明であると認識した。彼は、日本文明はシナ文明を本体とし、そこから「側枝(offshoot)」として発生したと考えた。シナ文明の周辺文明として発生した日本文明には、誕生の当時から独自の文化要素が自生していた。それは、私の見方では、神道・皇室・家族国家である。トインビーは文明の中核は宗教であると説いたが、日本においてはこれにあたる固有の宗教が、神道である。また、宗教的政治制度としては皇室が中心となり、民族全体が一大家族国家のような社会構成となっている。これらは、シナ文明のさまざまな影響を受けながらも、一貫して変化することのなかった日本文明の特徴である。

日本文明が明らかな個性を表現するのは、7世紀の聖徳太子の時代である。太子は、皇室に受け継がれる神道や、固有の価値観である「和」の精神を、思想として表現した。「十七条憲法」がそれである。また8世紀には『古事記』『日本書紀』や『万葉集』が編纂され、ユニークな文化を創造した。こうして、日本は、基軸時代に千年ほど遅れて、世界史にその存在を表わした。

(「ヤスパースの新基軸時代と日本の役割」より)

 

#世界史における日本文明の役割

日本文明は、その後もシナ文明の影響を受けながら、その文化的要素を取捨選択して、自らの文化を豊かなものとしていった。そして、遅くとも13世紀には、一個の主要文明として確立し、より一層、個性を明確にし、まぎれもなく独自の文明として極東の地に開花した。例えば、神道を基盤として、仏教・儒教の共存・融合が行われ、日本的な仏教が出現し、また茶道が発達して建築・造園・花道・陶芸等に、日本文明の独自性が表れた。これらは、武士集団が政治・社会の担い手となって以降、一層促進された。そして武士道という独自の精神文化が、数世紀かけて熟成したことが、日本文明の個性に比類ない輝きを加えている。こうした日本文明は、徳川時代の末期、19世紀に西洋の近代文明と遭遇するのである。

ここでヤスパースの世界史の図式に戻るならば、日本は世界史の第3段階と第4段階の間に重要な働きをしている。時は、「基軸時代」と「科学と技術の時代」の間の約1千8百年の間である。

インドより東を東洋、中近東より西を西洋とわけるならば、日本は基軸時代に現れた東洋の精神文化を総合する場所となったのである。すなわち、インドの仏教・ヒンズー教、シナの儒教・道教等の東洋文化が、極東の日本に到達し、そこで融合・発展したからである。

こうして東洋精神文化総合の場所となった日本は、世界史の第4段階において、東洋文明と西洋文明の出会いの地となった。すなわち、西欧に発生した近代科学技術文明が東アジアに波及し、19世紀中半に、日本に到達した。その「文明の挑戦と応戦」(トインビー)を通じて、日本は明治維新を成し遂げ、非西洋社会ではじめて近代化を成し遂げた。その結果、わが国はヤスパースのいう現代のただなかにあるわけである。

(「ヤスパースの新基軸時代と日本の役割」より)

 

#現代を特徴づける科学と技術

ヤスパースは、日本もその中にある現代、つまり第4段階の世界をどのようにとらえているだろうか。

 ヤスパースは、現代を「科学と技術」によって規定された時代とし、さらに「大衆」が登場し、「ニヒリズム」が蔓延した状況にあるととらえている。

まずヤスパースは、科学について、科学と技術を峻別し、科学は技術への観点なしに物事を知ろうとするものだとする。彼は、西欧に発生した近代科学は、キリスト教の心構えや衝動なしには考えられないとする。すなわち、すべてのものは神の創造であるから知るに値するという考えが根底にあり、知識欲に駆り立てられ、極限まで徹底して探求しようとするのが、近代西欧科学だと言う。しかし、世界全体というものは人間には知りえないのであって、科学知によって存在のすべてを知り尽くしていると妄信してはならないと警告する。

次に、ヤスパースは、技術について、技術とは手段であるのに、手段そのものが目的となり、絶対的となるという「逸脱」が生じていると指摘する。技術の発達のおかげで、人間に「新しい世界」が生じ、自由を獲得したかに見えるが、その一方で、人間はあらゆる地盤から切り離され、根元を失い、故郷喪失という状態に結果している。いまや「技術の限界についての明察」が必要であるとヤスパースは説く。技術には「魔性」があり、それを克服するためには、技術を役立てるべき「人間的英知の指導性」が必要だと強調力説する。

要約すれば、人間は、科学が発達したからといって、なにもかも知り尽くしているなどと思い上がることなく、自ら手に入れた技術を人間に有益なものとして使うために英知を働かせることが必要だというのが、ヤスパースの主張するところである。

(「ヤスパースの新基軸時代と日本の役割」より)

 

#大衆化とニヒリズムの進行

ヤスパースは、科学と技術の時代である現代において、はじめて「地球上で人類が実際にひとつに」なり、「あらゆる本質的問題が世界中の問題となり、状況は人類の状況となった」とする。そして、こうした状況にある現代世界をとらえ、現代の特徴は「大衆(マス)」の登場と「ニヒリズム」の台頭にあると分析する。

 まず大衆化とは、何か。これは欧米に始まった社会的傾向である。技術の発達が産業と社会を変化させ、大衆を生み出した。ヤスパースは、現代は「大衆が出来事の決定的要因となった」と言う。大衆は民族とは異なる。「民族は自己意識的であるのに対し、大衆は自分自身を意識しない」。そして「大衆は宣伝によって動かされ、合言葉を必要とし、指導者によって操られる」。大衆は宣伝や暗示の対象であり、無責任であるとヤスパースは言う。

大衆とは「人間存在の解体」であるとヤスパースは指摘する。それは非人格的な集団であり、いまや「人間存在の実体」が流動化し、その核心が脅かされている。それゆえ、大衆のあり方の中から人間存在が「再獲得」されなければならない、とヤスパースは主張する。

 次にニヒリズムとは、何か。西欧におけるニヒリズムの到来を唱えたのは、19世紀の哲人ニーチェだった。二ヒリズムは、複雑な概念だが、簡単に言えば、従来の宗教的価値観の喪失や否定・破壊を意味する。ヤスパースはニーチェの主張の重要性を感じ取り、西欧におけるニヒリズムの問題を考察した。

かつて西欧ではキリスト教が人々の日々の生活を導いていた。ところが、いまや「現代の増大する無信仰」はニヒリズムをもたらし、ニヒリズムが「支配的な思考様式」となっている。その結果、欧米では「基軸時代以来の全伝統」が失われ、「ホメロスからゲーテまでの歴史」が忘れられようとしている。そのために人々は、啓蒙による「無信仰」から、「盲目的な信仰」つまり「偽りの科学的全体直観」や精神分析(フロイト)や人種理論(ナチス)に閉じこもっている。加えてイデオロギー的思考(マルクス主義等)がまかり通っている。イデオロギーとは、簡単に言えば歴史的・社会的に制約された観念形態である。ヤスパースは、一切がイデオロギーとされ、真理の意識が見失われたと認識した。

(「ヤスパースの新基軸時代と日本の役割」より)

 

#「現代の精神的状況」の起因と展開

それでは、「大衆化」と「ニヒリズム」を特徴とする現代の精神的状況は、何を原因としているのか。ヤスパースは、起因は、西欧における17世紀以来の啓蒙の登場、フランス革命、ドイツ観念論のあいまいな危機意識と完成意識のうちにあると見る。すなわち、

 

(1)17世紀以来の啓蒙の結果、無信仰が生まれた。キリスト教では、全知全能の神を称える姿勢から自然の研究が進んで知識が発達し、キリスト教自体を否定する思想を生み出した。

(2)フランス革命は、「自由と理性」を要求したが、専制と暴力に転じた。人間理性を信仰する狂信に走る恐ろしさを白日の下にさらし、近代の無信仰の表現と起源となった。

(3)ドイツ観念論哲学において、フィヒテとヘーゲルは、全体知と絶対的真理を所有していると思い込んだ。その仮象の信念が打ち倒されると、無信仰へと急変した。

 

これらが現代の精神的状況を生み出した起因だとヤスパースは指摘する。私見を述べると、(1)〜(3)を要約すると、「無信仰」の発生と拡大ということである。キリスト教の信仰が失われてきたことが、現代西洋の精神的状況の起因だとヤスパースは言うのである。確かに、啓蒙主義は伝統的なキリスト教を批判し、キリスト教を合理化したり、道徳化したりした。またそこから唯物論や無神論が生まれた。フランス革命では、絶対王政と結託するカトリック教会への反発が激化し、理性崇拝の儀式や「至高の存在」を祀る祝典が行われた。ドイツ観念論は、ヘーゲルの絶対精神の自己展開としての哲学に極まったが、フォイエルバッハは「神学の秘密は人間学にある」としてヘーゲルの観念論を唯物論に転倒させ、それを受けたマルクスは、宗教は「民衆の阿片」であると決めつけ、唯物論的共産主義を唱導した。これらに共通するものは、一言でいうと、キリスト教的な神の否定と人知への過度の自信である。ヤスパースは、こうした動向を「無信仰」の発生と拡大ととらえ、現代西洋社会の大衆化状況とニヒリズムの起因となったと主張していると理解される。

大衆化については、現代人は、いやがおうでも大衆の一員となっている。共同体の解体で生まれた都市社会では、さまざまな人々が未組織なまま集合している。大衆社会の中で多くの人は、疎外感を感じている。ヤスパースは、大衆とは「人間存在の解体」であり、「人間存在の実体」が流動化し、その核心が脅かされていると説いたが、技術と産業とメディアの発達、家族や村落などの伝統的な共同体の解体、官僚制の巨大化等によって、本来の人間性を喪失しつつあるのが、現代人である。

次にニヒリズムの登場とは、文明の中核である宗教が力を失い、世俗化が進行していることを意味する現象である。西欧においてキリスト教の価値喪失を招いた最大の原因は、近代科学の発達だった。神の偉業を知る新しい知識が、それまでのキリスト教的な世界観・価値観を倒壊させることになった。そして、実証主義的で数理計算的な物質科学の絶対化こそ、ニヒリズムの典型となっている。

こうした西欧発の大衆化とニヒリズムは、近代西洋文明の伝播とともに非西洋社会にも広がっている。大衆化は、西洋化・近代化を進めて科学技術・産業主義・民主主義等を採り入れた国々で進行し、ニヒリズムは各文明において固有の宗教、すなわち仏教、儒教、神道、イスラーム教、ヒンズー教等に基づく価値観を破壊し続けている。

わが国においても同様である。わが国に19世紀から流入した西洋近代文明は、キリスト教出自のものではあったが、すでに世俗化が進み、ニヒリズムが蔓延した文化の総体だった。こうした外来文明によって、伝統的な神道・仏教・儒教等の価値観が侵食されてきた。とりわけ、ニーチェが西欧以上のニヒリズムと警戒したアメリカニズムが、戦後日本に強引な仕方で移植された。敗戦後の占領政策によるものだった。それにより、国民の民族的団結が失われ、メディアの発達と相乗して、急速に大衆化が進んだ。また、祖先伝来の歴史観や倫理観を否定・剥奪され、急速にニヒリズムが進んだ。その結果、西欧キリスト教文化圏と同様に「無信仰」が広がり、一部には「盲目的な信仰」が席巻している。無批判的な科学信仰や、共産主義・フェミニズムなどの外来思想への盲従がそれである。

日本のみならず、いまや世界の多くの地域で、大衆化とニヒリズムが顕著な傾向となっている。そして、「人間存在」が解体され流動化されつつある。人々は「無信仰」か「盲目的信仰」に陥って、超越的な存在を信じず、祖先の伝統を敬わず、宇宙的な生命の本源との結びつきを見失っている。自らの存在の地盤・根拠を失った現代人は、自ら自己を崩壊させていく自滅的傾向にあると私は思う。しかも、それが進歩であり、流行であると錯覚しながら。

(「ヤスパースの新基軸時代と日本の役割」より)

 

#呻吟の中からの「未来への問い」

 さて、ヤスパースにとって、私たちの生きている現代とは、世界史の「第一の基軸時代」と、来るべき「第二の基軸時代」の間にある時代だった。そして、この時代は、科学と技術に支配された時代であり、大衆化とニヒリズムが進行する時代なのだった。

 では、こうした現代において、世界史の新しい基軸時代は、現れ得るのだろうか。言い換えると、科学技術と大衆化とニヒリズムの時代を生きる精神的原理を生み出しうるだろうか。ヤスパースに確固とした答えは見出せない。彼は、模索と課題の中で、呻吟している。その呻吟のなかから、「未来への問い」として、さまざまな意見を述べている。その中から、二つの点に注目したいと思う。

一点目は、「世界統一」の展望についての意見である。ヤスパースは、現代は「地球的な最終秩序への移行」の段階であると考えている。それが「征服によって得られ統一的に支配される帝国」として成立するのか、それとも「相互理解と契約によって成り立つ諸国家の統合による世界政治」の形で成立するのか、どちらの形を選ぶかが重大な問題である。

前者の形の「世界帝国」であれば、「血と剣」による統一であって、専制・暴力・テロ・全体計画・監視・隷属の世界が地球に出現する。これは、具体的には、共産主義やファシズムによる世界支配を想定しているのだろう。これに比し、後者の形の「世界秩序」であれば、暴力による統一ではなく、「相互の成熟した理解のうちから協議によって成立する秩序」が地上に出現する。そして、協議・多数決・少数者尊重・修正変更の果てしない過程のなかで、万人の共同権利が保障された「世界秩序」が追求されていく。そして、ヤスパースは、将来、地上にどのような事態が展開しようとも、「世界秩序」の理念は消えてなくならないだろうと考えるのである。ヤスパース自身は、晩年、自由と連帯を求める社会民主主義的で世界市民的な発言に情熱を燃やした。

二点目に注目したいのは、「信仰と愛」についての意見である。ここにいう「信仰と愛」とは、もとよりキリスト教に限るものではない。ヤスパースは、世界的な視野でキリスト教を相対化しており、さまざまな宗教・思想・倫理に共通するもの、その根源となるものを求めているからである。ヤスパースは「人間は信仰なしに生きることはない」と言う。そして、人間は、自己と、その「自己を贈り届けてくれた超越者」と、他者と、世界のなかの開かれた諸可能性とに対する、深い信頼と信念と確信を持つことなしには、この世を生き抜くことはできないのだ、と。そして、人間の「深い存在意識」は「愛」の心となって表れるだろうと説く。「愛」のうちから「存在の内実」が顕わとなり、「愛」の深みの中で「真理」も立ち現れるとヤスパースは述べている。こうした「信仰と愛」のうちからのみ、人類の未来は開かれると、ヤスパースはその信念を明らかにする。これは、諸宗教の根源、生命の本源、人間存在の根拠でもある超越的存在への信仰と、人類の同胞愛を訴えるものと理解される。

一点目の「世界統一」の展望についての意見と二点目の「信仰と愛」についての意見を合わせると、平和的な「世界秩序」の形成は、諸国民・諸民族・諸個人が「信仰と愛」をもって、対話と相互理解を重ねることによってのみ可能となると理解される。これは深い人間愛に裏付けられた、理性的な辛抱強い努力である。ヤスパースは、世界史の第二基軸時代は、「信仰と愛」の中から生まれ得ることに期待しているのだろう。

ヤスパースは、本書『歴史の起源と目標』の最後を「歴史の意味」と題する章としている。私たちは歴史的世界において一回限りの人生を生きている。しかし、時に悠久の自然に抱かれたり、時代を超えた真実に触れたり、芸術に結晶した偉大な精神に打たれたりする。こうした時、私たちは、歴史を超えた「永遠の現在」というものに思いを馳せる。そして、永遠不滅の存在に裏付けられてこそ、本当に充実した人生を、この歴史的世界において生きることができる。ヤスパースは、こうしたことを示唆しているのである。

(「ヤスパースの新基軸時代と日本の役割」より)

 

#21世紀の今も同じ状況が続く

 ヤスパースが本書『歴史の起源と目標』を書いて、50年以上が経った。彼が亡くなって30年以上の年月が過ぎた。そして、私たちは21世紀という新たな世紀を生きている。しかし、基本的な状況は、ヤスパースが診断したところと変わってはいない。科学はとめどなく知識の追求を続けている。宇宙や物質や生命や情報について、人類の知識は、拡大しつつある。科学的発見は、技術と産業に利用され、かつてない問題を生み出している。特に地球環境(オゾン層の破壊、地球温暖化、沙漠化等)の問題と生命倫理(人工授精、クローン人間等)の問題は重大である。技術を制御する「人間的英知の指導性」はまだ十分表れていない。人類共通の普遍的倫理はまだ合意に達していない。大衆化は情報通信手段の発達によって、ますます進展している。ニヒリズムは諸文明における既成の価値を破壊し続けている。科学主義・合理主義による世俗化・近代化は、全地球的な規模で進展している。

 第2次世界大戦後、幸い武力による世界統一は避けられている。全体主義的な共産主義による世界革命は挫折した。世界は対立・抗争から対話・協調の方向に徐々に進みつつある。欧州連合(EU)ができ、先進国によるサミットが行われ、さまざまな国際会議や国際交流が行われている。しかし、その一方で、冷戦後の世界では、ハンチントンが「文明の衝突」と名づけたような、文明・宗教・民族間の対立が顕著になっている。その先鋭な現れは、イラク対アメリカの戦争とテロリズムの横行である。そして、地球上で最も激しい対立が見られる中近東では、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の抗争がいつやむとも知れず繰り返されている。核兵器や生物化学兵器がひとたび使用されれば、報復と怨恨の連鎖に陥る可能性は高い。

今日、科学兵器の増大と地球環境の破壊の中で、人類が生存を維持し、「世界秩序」をつくりあげるためには、諸国民・諸民族・諸個人の対話と相互理解が求められる。人種・国境・文化・経済事情などのさまざまな違いを超えて、人間は、諸宗教の根源、人間存在の根拠を共にしているという認識が広がらねばならない。それには、宗教・哲学・心理学・トランスパーソナル学などに大きな期待が寄せられている。宗教的な領域では、従来の宗教を超えた、より根源的、より普遍的な新時代の宗教の出現が期待される。また、非宗教的な領域では、人間には「自己実現」「自己超越」の欲求が内在することが知られ、相互の自己実現・自己超越を促進することが期待される。そして、人種・国境・文化等の違いを超え、互いに同胞愛をもって、対話と相互理解を積み重ねていく、理性的な辛抱強い努力が必要だろう。

(「ヤスパースの新基軸時代と日本の役割」より)

 

●杉浦重剛

 

我が国は、シナの孔子・孟子らの思想を消化吸収し、発展深化させてきました。その過程で「三種の神器」を「知仁勇」の象徴と解釈する試みが現れました。これを天皇の帝王学に生かしたのが、杉浦重剛(しげたけ)でした。

 杉浦は、「真の人格者」と尊敬された偉大な教育者でした。杉浦は、昭和天皇が皇太子の時代、数え16歳から21歳まで、天皇の倫理を説く重任にあたりました。その際、ご講義のために書いたのが、『倫理御進講草案(三樹書房)です。(大正3年、1914

 杉浦は『草案の序文において、御進講の基本方針を掲げます。

 「今進講に就きて大体の方針を定め、左にこれを陳述せんとす。

一、三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。

一、五條の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。

一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと」

 杉浦は、この方針の第一について、次のように述べます。

 「三種の神器及び之と共に賜はりたる天壌無窮の神勅は我国家成立の根底にして国体の淵源また実に此に存す。是れ最も先づ覚知せられざるべからざる所なり。

 殊に神器に託して与えられたる知仁勇の教訓は、国を統べ民を治むるに一日も忘るべからざる所にして、真に万世不易の大道たり。故に我国歴代の天皇は、皆此の御遺訓を体して能く其の本に報い、始に反り、常に皇祖の威徳を顕彰せんことを勉めさせ給へり。是れ我が皇室の連綿として無窮に栄え給ふ所以、また皇恩の四海に洽(あま)ねき所以なり。左れば将来我国を統御し給ふべき皇儲殿下は先づ能く皇祖の御遺訓に従ひ皇道を体し給ふべきものと信ず」

 ここには「神器」を「知仁勇」の三徳をもって解釈する通説が述べられています。

昭和天皇が受けた最初の講義は、「三種の神器」についてでした。

 御進講の最初の項目、「三種の神器」は、次のように始まります。

 「…三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証(みしるし)として授け給いたるのみにあらず、此を以て至大の聖訓を垂れ給ひたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹、山鹿素行、頼山陽などの皆一様に説きたる所にして、要するに知仁勇の三徳を示されたるものなり。

 例へば鏡は明らかにして曇り無く、万物を照して其の正邪曲直を分ち、之を人心に比すれば則ち知なり。知は鏡の物を照すが如く、善悪黒白を判断するものなり。玉は円満にして温潤、恰も慈悲深き温乎たる人物に比すべし。是れ仁の体にして、仁とは博愛の謂なり。又剣は勇気決断を示すものなることは殆ど説明するまでも無く、若し之を文武の道に比すれば、鏡は文、剣は武なり。

 詮じ来れば三種の神器は知仁勇の三徳を宝物に託して垂示せられたるものなること益々明瞭なりとすべし」と。

 「鏡・玉・剣」はそれぞれ、「知・仁・勇」の徳を示すという儒教的な解釈が述べられています。もっともただ「知仁勇」を説くのであれば、シナ思想の崇拝・模倣にとどまります。私は、「三種の神器」に込められた神意を体現するための道具として、儒教の概念が借用されたに過ぎないと考えます。

 話を戻すと、続いて杉浦は、「知仁勇」の来歴をシナにさかのぼります。

 「之を支那に見るに、知仁勇三つの者は天下の達徳なりと、『中庸』に記されたるあり。世に人倫五常の道ありとも、三徳なくんば、之を完全に実行すること能はず。言を換ふれば君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せらるべきものなりとす。支那の学者既にこれを解して、知は其の道を知り、仁は其の道を体し、勇は其の道を行ふものなりと云へり」

 杉浦は、「知仁勇」は四書の一つ『中庸から来ていることを述べ、「人倫五常の道」は、「知仁勇」の「三徳」があって、初めて実行できる徳目であるとします。そして、人倫の「道」を「知る」のが「知」、「体する」のが「仁」、「行う」のが「勇」と説明しています。いわば、認識、体得、実行です。

 シナに続いて、杉浦は西洋について述べます。杉浦は、西洋における「知情意」は、シナの「知仁勇」と同じであるという解釈を示します。そして、「完全なる知情意」という「三種の神器」を「有する」のが「優秀なる人格」であると定義しています。

 このように杉浦は、「三種の神器」は「知仁勇」の徳を象徴するものと解釈するだけでなく、「知仁勇」は、シナにも西洋にも通じる普遍的な根本道徳であると説いています。説くところが世界大であるところに、浩然の気が感じられましょう。

 『草案の「三種の神器」と題された項目を結ぶにあたり、杉浦は、以下のように記しています。

 「支那にても西洋にても三徳を尊ぶこと一様なり。能くこれを修得せられたらんには、身を修め、人を治め、天下国家を平らかならしむるを得べきなり。皇祖天照大神が三種の神器に託して遺訓を垂れ給ひたるは、深遠宏大なる意義を有せらるるものなれば、宜しく此の義を覚らせ給ふべきなり。…

 凡そ倫理なるものは、唯口に之を談ずるのみにては何の功もなきものにて、貴ぶ所は実践躬行の四字にあり」と。

 このように、杉浦は、将来の天皇に対して、第一に「三種の神器」を説き、神器が象徴するものを「知仁勇」の三徳と解して、この徳を身につけられるように、申し上げたのです。そこで、最も強調されたのは、「実践躬行」でありました。「実践躬行」とは、口で言うだけでなく、自分で実際に行動することです。

(「『三種の神器』と知仁勇」より)

●西田幾多郎

 

近代日本の代表的な哲学者・西田幾多郎は、『善の研究』で主客未分の純粋経験から思索を始め、カントの近代的自我意識の立場を超え、また西洋の主語的論理を述語的論理に転換した。西田は、絶対矛盾的自己同一の場所的論理による自身の哲学を、汎神論ではなく万有在神論であると自認していた。西田哲学は、内在即超越の構造において、内在的に重点を置いた万有在神論と言える。西田哲学は大乗仏教、特に禅宗と浄土教を背景に持つ。キリスト教にも深い理解を示した西田は、絶対無を絶対の無即有とも言っている。禅宗では無を語るが、大乗仏教で主に説かれるのは、空である。一切皆空ととらえる仏教の主要な経典の一つ、華厳経は、相即相入・重重無尽の世界を象徴的に表している。宇宙の真理を体する法身仏である毘盧舎那仏 Vairocana を神に置き換えれば、その世界観は万有在神論に通じるものである。

(「カントの哲学と心霊論的人間観」より)

神道において、本源の神にして始源神、また最高神と考え得るのは、天之御中主神のみである。哲学的に考察すると、神道における八百万の神々は、すべて天之御中主神という本源の神の現れと位置づけることができる。天之御中主神を本源の神と見る時、神々の体系は、一神教か多神教かという単純な論理では把握できないものとなる。

天之御中主神を本源の神とすれば、「多」であるところの神々は、「一」であるところの本源の神の現象または姿作用と理解することができる。このように考える時、神道は「多」の諸相を見れば多神教的だが、「一」の本源を見れば一神教的でもあるものとなる。

 こうした関係は、唯一神を基準におく「一」か「多」か、という西洋の古典的な形式論理ではとらえられない。これをとらえることを可能にするは、西田哲学の場所的論理だと考える。西田哲学とは、近代日本の代表的な哲学者・西田幾多郎の哲学のことである。

西田は『善の研究』で主客未分の純粋経験から思索を始め、カントの近代的自我意識の立場を超え、また西洋の主語的論理を述語的論理に転換した。そして、「絶対矛盾的自己同一」の場所的論理による独創的な哲学を展開した。

西田の場所的論理とは、「一即多、多即一」という論理である。「一即多、多即一」とは、「一」が「一」でありつつ同時に「多」であり、「多」が「多」でありつつ同時に「一」であることを表す。形式論理では矛盾律に背く。事物を運動の相でとらえる弁証法の論理においては、過程的には「一」が「多」となり、「多」が「一」となる。しかし、場所的論理における「一即多、多即一」は、単に過程的でなく、同時に構造的である。集合の概念で考えれば、「多」を一つの集合ととらえるとき、「一」であり、「一」の集合の要素は「多」である。概念のレベル差に注意することで、一神教的でありかつ多神教的でもあるような世界観へのアプローチが可能になる。

西洋哲学は、「有」の哲学である。神を「有」の概念でとらえる。ユダヤ=キリスト教の神ヤーウェは「われはありて、あるものなり」を意味する。過去・現在・未来を通じて有るものである。古代ギリシャのパルメニデスもプラトンも、近代西欧のデカルトもヘーゲルも、「有」の哲学を説いた。西田は、西洋的な「有」の哲学に対して、東洋的な「無」の哲学を説いた。ここにいう「無」とは、単なる「有」の否定または欠如ではない。「有」のもとにあり、「有」がそこから生み出される次元を指す。「有」の根拠に「無」があり、「無」の自己限定として「有」が生じる。形なきものから形あるものが生まれる。無限のエネルギーから有限の存在者が生まれる。「一」ととらえられるものは、「無」を対象化したものである。絶対に対象化できないところに、「一」ととらえられる真の実在がある。これを西田は「絶対の無即有」という。それゆえ、「一即多、多即一」の論理は、絶対無でありかつ絶対有である絶対的次元においてのみ成立する。

欧米の宗教学では、こうした哲学的な考察がされずに、現象的な「多」の側面を見て、神道などの宗教を多神教としている。だが、多神教の多様な神格は、対象化することのできない絶対的な神性を、個々の事物や現象に即してとらえたものであり、これを統一的にとらえれば、その統一性の側面においては、一神教に通じるものとなる。

 ところで、西方キリスト教のうち、ローマ・カトリック教会では、「父なる神と子なる神と聖霊」の三位一体を説き、イエスを唯一の神としながら、聖母マリアへの信仰や聖人への崇拝が見られる。プロテスタントの多くの教派は、これを批判する。マリア信仰や聖人崇拝は偉人の霊を祀るものであり、神道の考え方で見れば、人間神の神々に相当する。イエスもまたそのように見ることができる。言わば、「イエスのかみ」「マリアのみこと」等と称し得る。このように考えるならば、ローマ・カトリック教会の一神教には、多神教的な要素があり、その要素を包摂し得る論理が必要だとわかる。それは、「一即多、多即一」の論理となるだろう。

(「日本文明の宗教的中核としての神道」より)

 

神道の世界観は、「一即多、多即一」の論理でとらえる必要がある。神道は単なる多神教とはいえない。一神教的な側面があるからである。私は、万有在神論(panentheism)が神道の世界観に最も近いものと考える。万有在神論について述べるには、汎神論(pantheism)から語らねばならない。

汎神論は、自然そのものを神とする。西方キリスト教社会では、正統的な一神教に対する異端とされた。スピノザの哲学がその代表的存在である。キリスト教は、唯一男性神を仰ぐ一神教である。キリスト教の神は、宇宙の外に立つ宇宙の創造者である。その意味で、万有に対して超越的である。神は自然に対して外在的であり、自然は単なる被造物である。これに対し、汎神論は、万有に対して神が内在的ととらえ、神と自然は同一とする。スピノザは、そこから神すなわち能産的自然の所産である人間もまた神であり、人間も神になれると考えた。スピノザの汎神論は、シェリングやヘーゲルに影響を与えた。彼らの哲学に対しても正統的キリスト教の教学から汎神論だという批判がある。

神は超越的か内在的かという理論的対立状態において、19世紀の宗教哲学者K・C・F・クラウゼは、神は万有に内在するとともに超越するという説を唱えた。この説を万有在神論という。汎神論では神は内在的だが、万有在神論では神は内在的かつ超越的である。汎神論は「万有=神」であり、万有在神論は「万有⊆神」である。万有在神論は、汎神論とは異なり、神が個物に宿りつつこれを包括し統一すると考える。万有在神論において、個物と一般者は相互包含的であり、「一即全、全即一」の無限の相互関係が生成する。近代西洋哲学では、ライプニッツの説いたモナドが、ここにおける「一」と類似した存在者の単位である。万有在神論は、一神教のイスラーム教文化圏では一つの学説として認められている。また、人間には神性が内在するというインド思想にも通じる。こうした万有在神論は、自然の事物に霊性を認める多神教を根源的な次元から説明する理論となり得るものである。

西田は、「絶対矛盾的自己同一」の場所的論理による自身の哲学を、汎神論ではなく万有在神論であると自認していた。西田哲学は大乗仏教、特に禅宗と浄土信仰を背景に持つ。自力による悟りへの努力を主としつつ、最後は他力による救済を期待する。シナ・日本で発達した禅宗では無を語るが、これは道教の影響がうかがえる。インド発祥の大乗仏教で、主に説かれるのは「空」である。「空」の概念については、「ゼロ(0)」にしてかつ「無限大(∞)」というべきものであると先に書いたが、一切皆空ととらえる仏教の主要な経典の一つ、華厳経は、相即相入・重々無尽の世界を象徴的に表している。万物を照らす宇宙的存在としての毘盧舎那仏(Vairocana)すなわち大日如来を神に置き換えれば、その世界観は万有在神論に通じる。神道においては、この神に当たるのが、天之御中主神であり、神道の世界観は、万有在神論によってこそ、最もよくとらえられる。

ところで、キリスト教にも深い理解を示した西田は、「絶対無」を「絶対の無即有」とも言っている。場所的論理でとらえた一般者を神と呼び、一神教的な神を否定しない。西田哲学は、内在即超越の構造において、内在的に重点を置いた万有在神論と言える。内在的に重点を置くとは、個物から一般者へという方向に重点を置くことである。個物から一般者へとは、人間の側から神という根源性・全体性へ向かうこと、自己の内なる心を究めて神と合一する方向に志すことと理解される。

ここで個物と一般者について、実存と本質という対を為す概念で考えることができる。伝統的な西洋哲学において、実存は普遍的な本質に対して時間・空間内にある個物的存在をいい、可能的な本質が現実化されたものである。現代の実存哲学では、特に人間という自らの存在及び死を意識する存在者のあり方を実存という。内在的に重点を置く万有在神論は、人間的実存の根拠として神を想定する理論として、実存哲学に新たな可能性を提供するものとなるだろう。

(「日本文明の宗教的中核としての神道」より)

 

神道において、祭りの時は「はれ」と呼ばれ、日常的な時は「け」と呼ばれる。「はれ」と「け」は異なる。祭りの興奮の中で共同体は融合一体化しつつ、存在の始源と生命の本源に還元し、そこから再生する。この過程で、集団的に「死と再生」が象徴的に体験される。

西田幾多郎とその弟子の哲学者たちは、仏教を西洋の弁証法で理解しようとした。その論理を借りれば、祭儀における象徴的な死は「否定」であり、その再生は「否定の否定」である。もともとヘーゲルの弁証法における疎外と回復の論理は、イエスの死と復活を論理化したものであり、イエスの復活劇は人類に広く見られる「死と再生」のシンボリズムの一つと見ることができる。

 弁証法は根本的に運動の論理である。形式論理とは異なり、時間性または歴史性に本質がある。ユダヤ=キリスト教の文化圏では、歴史における神の顕現、神の計画としての世界史という世界観が根本にある。ヘーゲルは、キリスト教的な世界観を表現するために、弁証法を用いた。

これに対し、神道における「死と再生」のシンボリズムは、時間性の否定と始原への回帰に本質がある。エリアーデが明らかにした、多くの文化に見られる「祖型と反復」である。現在の「否定」によって永遠または超時空の次元に触れ、そのまた「否定」によって現在に戻るのである。こういう祭儀によって、日常的な生活が再び肯定される。「死と再生」のシンボリズムの基盤のうえに、現世肯定・生命肯定・子孫繁栄の生き方が確固としたものとして継承されていく。

(「日本文明の宗教的中核としての神道」より)

 

●和辻哲郎

 

 和辻哲郎は、カントの個人主義的な限界を超える倫理学の構築において、西田哲学を応用した。和辻は主著『倫理学』で個人も全体も「真相は空」であるとし、空を「絶対的全体性」と規定した。空はまた「絶対的否定性」でもある。その自己否定が個別化であり、否定の否定が自己還帰である。この「絶対的否定性が否定を通じて自己に還る運動」が倫理学の根本原理であると和辻は規定している。またこの運動を「不断の創造」とも言っている。和辻の論理を援用すれば、人間だけでなく自然もまた絶対的否定性の創造的な弁証法的自己運動の過程にある。人間は間柄的存在であり、自然は風土的存在である。その人間と自然が時間的空間的に相互作用する過程が、歴史であると言えよう。

(「カントの哲学と心霊論的人間観」より)

 

現代日本屈指の哲学者・和辻哲郎は、主著『倫理学』で、人間は個人性と社会性を持つ間柄的存在だとし、そうした人間の共同態である「人倫的組織」を考察し、国家・人類の目標を示した。和辻は自らの倫理学を構築する過程で、『人間の学としての倫理学』において、カントの人間学を検討した。そこで「目的の国」について述べている。
 和辻によると、カントは人間を「経験的・可想的の二重性格」を持つものとし、それによって「手段的・目的的な二重性格」をとらえており、人間を個別性と全体性において把捉してはいる。だが、カントはそれを自覚し、あらわには説いていないと和辻は指摘する。和辻によると、我と汝が互いに手段となり、目的となり合う関係は、「手段となる側からは自他は差別的であり、目的となる側からは自他は不二」である。カントには18世紀西欧の個人主義の傾向があるため、「本体人としての無差別性を人間の全体性として把握する」ことが、充分遂行できていないと指摘した。ここで本体人とは叡智的存在者のことであり、無差別性とは自他不二性である。和辻は、このようにカントを批評するのだが、カントの心霊論的信条についての考察を欠いている。少なくとも明示的には考察していない。和辻の倫理学は、人間の個人的・社会的の二重性格を具体的に解明した点で優れたものだが、目標とされる「人倫的組織」は、カントの「目的の国」が有する感性的かつ超感性的な二重性格を持っていない。
 和辻は、人倫的組織を家族、親族、地縁共同体、経済的組織、文化共同体、国家の6つに分けて考察し、「確固たる人倫体」を形成した諸国民が「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」を形成するという世界の将来像を提示した。そこにはカントの永遠平和論の影響が見られる。カントの永遠平和論は、和辻を一例として現代にまで広く影響を与えている。

(「カントの哲学と心霊論的人間観」より)

#人は独りでなく間柄的存在

現代文明は行き詰まっており、人類は生存の危機にあります。そうした中で、私たちの生き方が根本から問われています。

 今日、大抵の人は、自分というものがなによりも大切だと感じ、個人の自由や権利を守り、自分らしく生きることが目標だと考えます。実はこうした個人を中心に考える考え方は、人間の歴史から見ると、とても新しい考え方です。わずか300〜400年程前、西欧に始まった考えです。近代西欧から広がったこの思想は、個人や自我が独立して存在するものと考えます。これに対し、根本的な反論を述べたのが、和辻哲郎です。

 和辻は、漢語の「人間」という言葉は本来、人と人の間すなわち「よのなか」「世間」を意味し、「俗に誤って人の意となった」と指摘します。これを踏まえて、和辻は、「人間」とは「世の中自身であるとともにまた世の中における人である」と述べます。言い換えると、人間には「個人性と社会性の二重性格がある」というわけです。性格といっても文字通りの意味ではなく、個人性と社会性の両面があると理解すればよいでしょう。

 和辻は『人間の学としての倫理学』(昭和9年刊)で、自論を展開します。彼によると、「倫理」の「倫」という言葉は、元来「なかま」を意味し、人と人の「間柄(あいだがら)」や「行為的連関」(係わり合い)の仕方や秩序をも意味します。一方、「倫理」の「理」は、ことわり、すじ道を意味します。それゆえ「倫理」とは「人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる」ものです。そして、和辻は、倫理学とは「人間関係、従って人間の共同態の根底たる秩序・道理を明らかにしようとする学問」であると定義します。彼によって、個人ではなく間柄を基本においた、新しい倫理学が誕生しました。

 西欧近代に生まれた個人主義的な人間観は仮構にすぎないと、和辻は説きます。個人主義的な人間観の元祖といえるのは、デカルトです。彼は、すべてのものを疑ったすえに、それを疑っている自己の存在だけは自明であるとし、そこから「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という認識に到達しました。しかし、和辻はデカルトを次のように批判します。

 「この問いの立場は、実践的行為的連関としての世間から離脱し、すべてをただ観照する、という態度を取ることにほかならぬ。従ってそれは直接的に与えられた立場ではなくして人工的抽象的に作り出される立場である。言い換えれば人間関係から己れを切り放すことによって自我を独立させる立場である」。

 すなわち、現実の社会における人間関係から自分を切り離し、ただ世界をながめているだけの自分という、作りものの立場だというのです。

 「疑う我が確実となる前に、他人との間の愛や憎が現実的であり確実であればこそ、世間の煩いがあるのである。言い換えれば観照の立場に先立ってすでに実践的連関の立場がある。デカルトは後者の中から前者を引き出しながら、その根を断ち切ってしまった」。

 和辻はこのように、デカルトの仮構をあばきます。ある面では、常識的な発想による批判です。しかし、西欧近代では、こうした常識的な考え方が、どこかへ行ってしまい、極めて抽象的な人間観に陥ったのです。デカルトの影響を受けたホッブスやロックは、原子(アトム)のようにそれ自体で存在する個人を想定し、そこから出発して社会の成り立ちや国家の由来を考えました。社会契約説がそれです。現代の日本国憲法や人権思想も、基本的にはこうした考えに基づいています。その根本には、デカルトのコギトがあります。彼の影響は20世紀にまでも続き、フッサールやハイデッガーにも、デカルト以来の個人主義の色彩が残っていることを、和辻は見破り、その仮構を暴露しました。

 本来、人間は、決して単なる個人ではありません。人は誰でも自分ひとりで生きているのではありません。親や先祖があるから自分が生まれてきたのです。妻や夫、兄弟や友人、子どもや孫、社会や国家があって、自分はその関係の中にいるのです。この至極当たり前のことを、西欧近代の思想は軽視しています。そこから抽象的で個人主義的な考え方が出ています。しかし、人は、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な間柄の中で生きているのです。これは古今東西変わらない事実です。和辻の言い方によれば、人間とは様々な間柄においてある「間柄的存在」です。こうした生きた関係性において人間を考察することによってこそ、人間の倫理を解き明かすことができると、和辻は主張したのです。

 和辻は、間柄の考察を、「家族」や「親族」、「地縁共同体」や「経済的組織」、「文化共同体」や「国家」へと広げていきます。また、間柄がおいてある空間としての「風土」の研究も行いました。その到達点が、主著『倫理学』全3巻(昭和12年〜24年刊行)です。これは、西欧近代思想に対抗して打ち立てられた東洋的・日本的な倫理学です。また同時に、近代思想を超える新時代の倫理学の試みでもあります。

 個人主義的な考えが多くの弊害をもたらしている今日、和辻の「間柄的存在」という考えは、私たちに大きなヒントを与えてくれています。

(「日本的倫理は世界的人倫実現の鍵〜和辻哲郎(1)」より

 

#「公と私」の体系

人間は、個人個人が独立して存在しているのではありません。人間とは、様々な間柄のなかで生活している間柄的存在です。言い換えると、人間は共同体という「人倫的組織」の中で生きているのだ、と和辻哲郎は言います。

和辻は、人倫的組織を、「家族」「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」「国家」の6つに分けて考察します。そして、「公と私」という問題を解き明かしていきます。人倫組織は、これらの諸段階を経て、私的なものから、公的なものへと高められるというのが、和辻の主張です。(1)

私たちにとって最も身近な私的存在は、男女二人の関係です。男女は心身の全体をもって互いにかかわり合い、二人の間では「私」が消滅します。このプライベートな関係が世間に公認されるのが、婚姻です。これによって、男女関係は夫婦関係となります。婚姻は、男女関係という私的なものを、公的なものに変えるのです。次に夫婦という二人の共同体に子供が誕生すると、親子の関係となり、三人の共同体となります。さらに子供が生まれると、兄弟姉妹の間には同胞共同体が生まれます。

夫婦・親子・兄弟等による「家族」は、さらに「親族」という、より公的な人倫組織の一部に含まれます。親族の間では、それぞれの家族の事情は「私」的なものとなるわけです。次に親族は「地縁共同体」へ、「地縁共同体」から「経済的組織」へ、「経済的組織」から「文化共同体」へと、より高次の段階に包摂されます。どの組織も、前の段階の組織が持つ「私」を超えることによって実現されます。そして、より「公」的で開放的な性格を持ちます。しかし、同時に、後の段階に対しては、より「私」的で閉鎖的な性格を持っています。このように「公と私」は、階層的で入れ子的な構造をもっていることを、和辻は明らかにしていきます。

そして、和辻は、「私」をことごとく超克して、徹頭徹尾「公」であり、「公」そのものである人倫的組織が「国家」である、と説きます。そして次のように述べます。「国家は家族より文化共同体に至るまでのそれぞれの共同体におのおのの所を与えつつ、さらにそれらの間の段階的秩序、すなわちそれら諸段階を通ずる人倫的組織の発展的連関を自覚し確保する。国家はかかる自覚的総合的な人倫的組織なのである」。国家は、さまざまの段階の人倫的組織をすべて「己れの内に保持し、そうしてその保持せるものにおのおのその所を与えることによって、それらの間の発展的連関を組織化しているのである。その点において国家は、人倫的組織の人倫的組織であるということができる」と。

以上のような和辻の社会観・国家観は、西洋近代思想とは大きく異なっています。デカルトが考えたような、間柄的存在に先立って存在するという個人を、和辻は否定します。そうしたアトム的(原子的)な個人が契約によって社会をつくったという、ホッブスやロックの社会契約論も否定します。また、国家を個人の利益の擁護を目的とする一つの特殊社会ないし打算社会とする契約的国家論をも斥けます。そのような西洋近代思想は、人間の本質を認識するものではないことを、和辻は明らかにしました。

さて、その一方、和辻が高く評価したものがあります。それは、教育勅語です。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という家族的道徳に始まり、「朋友相信シ」「進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」という社会的道徳に進み、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という国民的道徳に至ります。和辻は教育勅語を、人倫的組織の各段階の道徳を示し、また諸人倫を包摂する国家の構成員の道徳を示すものとして、高く評価します。そして、教育勅語は、「私」的なものから、より「公」的なものに進み、「私」を超えて「公」に貢献する倫理を体系的に説いていることを、解き明かします。同時に、和辻は、教育勅語には、西洋近代思想を超える、人類普遍的な倫理があることを明示しているのです。

(「日本的倫理は世界的人倫実現の鍵〜和辻哲郎(1)」より

 

#世界的人倫の実現を

和辻哲郎は、「国家」とは、「私」を超克した「公」そのものである人倫的組織と考えました。しかし、国際社会という、より大きな「公」の場においては、国家は新たな公共性を担う存在でもあります。この点に関する所論を見てみましょう。

 和辻は、国家の根本的なあり方とは、すべての国民が「所を得る」ようにすることであるとします。そして、「家族」にはじまり、「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」までのあらゆる人倫的組織の人倫がを実現することです。そのために、国家がなすべきことは、国民に「正義の保証」をすることであり、「仁政」つまり仁愛に基づく政治をすることだとします。そして、全国民が「所を得る」ようにするという国内における道義の実現は、「万邦をしておのおのその所を得せしめる」という国際的な道義の実現につらなっていきます。

和辻は戦前、国家を人倫の至上と考えていましたが、戦後はそれまでの自説を是正しました。戦後世界を見た和辻は、いまや国際社会は「世界的国家」の方向に向かって動こうとしていると考えたからです。そして、過去の世界史の場面は、諸国家・諸民族の対立と争闘の場でしたが、いまや人類は、民族や国家の別なく一つの共同体を形成すべきであるという展望ないし理念を、歴史的に生み出すに至ったという認識を明らかにします。「世界史の意義は世界的な人倫的組織への方向にある」と和辻は述べました。

ここにおいて和辻は、それまでの国家的国民的な倫理学を、世界的人類的な倫理学へと発展させたのです。彼は次のように書いています。

「いかなる民族も、家族を形成し地縁共同体を形成し、そうして言語、宗教、芸術、思想等の共同を実現せざるを得ない。(略)これらの民族におのおのその所を得せしめ、その特殊な形態においてそれぞれその固有の国家を形成せしめることは、正義即仁愛を世界的に実現するゆえんである」と。

続いて和辻は、各国家・各国民はなにをなすべきか、を論じます。「一つの世界」という「課題の解決に参与し得るためには、いかなる国民もまず一つの国民としての人倫的組織の実現に努めなくてはならない」。次に、確固たる人倫体を形成した諸国民が組織を作り、「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」を形成する、という順序となる、と。

こうした和辻の考え方は、近年わが国で流行している、家族や民族や国家から自立した個人が地球市民として連合して地球社会をつくるという個人主義的な考え方とは、対照的な道を指し示しています。和辻は、人間の「個人性と社会性の二重性格」に基づいて、人間の本質をとらえ、家族や民族や国家を肯定するからです。そして、「一つの世界」をめざすためには、それぞれの国民が確固たる人倫組織を実現すべきであるとします。いわば、それぞれの国で、人々が人倫に基づいて家族・地域・組織を形成し、文化を育み、道義に基づいた立派な国づくりをする。そうした国家が寄り集まることによってこそ、「世界国家」が実現できると和辻は説くわけです。

「世界国家」は、世界的なひとつの共同体であり、西欧近代の「個」の原理に基づく近代主権国家という卵の殻を破ってこそ、可能となるものです。和辻は、政治的には各国民国家は主権を放棄すべきとします。しかし、文化的には「諸国民の文化をそれぞれの独自の性格において発展せしめつつ、しかもそれらの異なった文化を互いに補充し合い交響し合うように」すべきだと主張します。各国民は互いに侵すべからざる尊厳と価値をもち、「いかなる国民も、他の国民を支配してはならないとともに、他の国民に支配されてはならない」と、国際社会の倫理的原則を述べます。各国による主権の放棄が、超大国や一部の組織による支配体制を生み出すのではいけない、文化的には多様なものの共存調和が実現されるべきだという考え方でしょう。

それでは、わが日本国民は、どのようにしてこの課題に取り組むべきでしょうか。そのためには「教育勅語の本義に沿うことが肝心である」と和辻は説いています。「教育勅語の本義」とは、間柄的存在である人間が、家族的道徳、社会的道徳、国家的道徳の実践を通じて、万民が所を得る国家をつくり、さらにその道を押し広めて、万邦がその所を得る世界的な人倫組織を実現することにあるからです。一視同仁・四海同胞・共存共栄の理念ということもできます。

和辻は、20世紀後半以降の世界において世界国家実現をめざすために、教育勅語の再評価を促したのです。

 教育勅語は、過去において、日本精神を最もよく表現したものといえます。また、和辻の倫理学は、教育勅語を踏まえつつ、日本精神を学術的に解き明かし、発展させようとした最良の試みのひとつといえるでしょう。和辻倫理学を一言で言えば、日本精神の倫理学です。しかも、国際化時代における日本精神の倫理学として、再評価すべきものです。

今日、国際社会という「公」の場において、日本人がなすべきことを考える際、和辻哲郎の世界的人類的な倫理学には、大いに傾聴すべきものがあるといえるでしょう。

(「日本的倫理は世界的人倫実現の鍵〜和辻哲郎(1)」より

 

#風土と文明と民族の心

 和辻哲郎の名著に『風土』があります。この本は、単に地理学や比較文化論の本ではなく、和辻の倫理学の一環をなすものです。それとともに、この本は、倫理学に基づいて風土と文明の関係を考察した本でもあります。

若き和辻はハイデッガーの著書『存在と時間』に衝撃を受けました。20世紀を代表する哲学者ハイデッガーは「存在とは何か」という問いのもとに、現存在つまり人間の存在を分析しました。その哲学は存在論とか実存哲学として有名です。

人は漠然とではありますが、存在について理解を持っています。そして、自分に過去と未来があり、いつか死ぬことを知っています。ハイデッガーは、そうした現存在を時間との関わりにおいて論じ、さらに存在そのものの意味を時間に見出そうとしました。これに対し、和辻は異論を唱えます。人間存在は時間性だけではとらえられないからです。人が単に個人として生き、また死ぬのではありません。人は個人的とともに社会的な存在であり、他者とかかわり合う空間の中で、生の時間を生きています。それゆえ、人間の存在は、時間性とともに空間性からもとらえねばなりません。時間性とは歴史的、空間性とは風土的ということです。そこで、和辻は人間存在の考察のために、風土の研究を行いました。その成果が、昭和10年(1935)に刊行された『風土―人間学的考察』です。

和辻がいう風土とは、客観的な自然環境のことではありません。風土は主体的な人間存在の表現であり、人間の自己了解の仕方です。例えば、寒気は、我々の外にあって、我々に迫ってくるのではなく、我々が寒さを感ずるのであり、そこに寒気を見出すのです。また、我々は、他者とともに同じ寒さを感じ、日常の挨拶に用います。寒さの感じ方自体が、間柄的で共同存在的です。「だから」と和辻は述べます。「寒さにおいて己れを見出すのは、根源的には間柄としての我々なのである」「すなわち我々は『風土』において我々自身を、間柄としての我々自身を、見出すのである」と。

さて、「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される」と和辻は述べます。そして、海外を旅した自身の体験に基づいて、風土をモンスーン、沙漠、牧場の3類型に分けます。さらに、東アジア、南アジア、西アジア、ヨーロッパの風土的特性と民族・文化・社会の伝統的特質の関係について考察します。

和辻は、日本の風土をモンスーンの特殊形態であるとします。モンスーン型は、インドから東アジア一帯に見られるもので、暑さを素直に受け入れる受容的な性格と、大雨による災害にもじっと耐える忍従的な性格を特徴とします。その中で、日本の風土は、規則的でありつつ、同時に変化にもまれています。日本はユーラシア大陸と太平洋の間にあり、極めて変化に富む季節風が吹き、夏は突発的で猛烈な台風が来て大雨をもたらし、冬は大雪をもたらします。言い換えると、日本の風土は、熱帯的とともに寒帯的であり、また季節的でありつつ突発的であるという二重の性格をもっています。こうした気候の影響により、日本人の国民性には、モンスーンの受容性・忍従性に、熱帯のあきらめ、寒帯の辛抱強さなどが加わっていると和辻は考えます。そして、次のように述べます。

「日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が、変化においてひそかに持久しつつ、その持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が、反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の裏に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられる。それは、“しめやかな激情”“戦闘的な恬淡”である。これが日本の国民的性格にほかならない」と。

 同じようにして、和辻は様々な民族について、風土的特性との関係を考察します。これは、風土と文明の関係を論じ、文明の中核である精神と風土の関係を明らかにしようとしたものともいえます。

さて、和辻によれば、人間存在は時間的と同時に空間的存在であり、歴史的・風土的な特殊構造を持っています。それゆえ、地球上の地理的条件による風土の多様性が、諸文明の多様性の基礎となっています。これを抽象的な普遍思想によって一元化しようとするのは、無理があります。政治的には、「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」をめざすとともに、文化的には多様なものの共存調和を図るべき所以の一つが、風土と文明の関係に求められるのです。

和辻の名著『風土』は、人間学的生態学的な風土論の先駆として不朽の価値をもっています。また、日本学・日本人論に大きな影響を与えています。それと同時に、倫理学に基づいて、風土と文明の関係を考察した本ともいえるのです。

(「風土と文明と民族の心〜和辻哲郎(2)」より)

 

●ケインズ

 

#ケインズの復活と人間観の見直し

 平成20年(2008)9月15日に起こったリーマン・ショックは、世界を揺るがし、資本主義のあり方に反省が迫られた。その反省の中から、ケインズが復活した。そして、自由を守るためには、一定の規制が必要だという思想の再評価が行われている。

 ケインズの復活・再評価は、経済理論・経済政策の見直しにとどまらず、人間観の見直しに至らねばならないものである。経済学者には見逃されがちだが、ケインズは、経済学を道徳科学と考えていた。この考えは、アダム・スミス以来の伝統を受け継ぐものだった。スミスは「自由競争」を主張したが、彼の説く自由競争は、自分の利益のためなら何をしてもよいというような、利己本位のものではなかった。スミスは、『道徳感情論』において、個人の利己的な行動は、「公平な観察者」の「共感(sympathy)」が得られなければ、社会的に正当であるとは判断されない、個人は「公平な観察者」の「共感」が得られる程度まで自己の行動や感情を抑制せざるを得ない、と説いた。古典派経済学を定礎した『国富論』にもこの見解が貫かれており、スミスは「見えざる手」に導かれて、市場の秩序が維持されると説いた。これは、人々が互いに「共感」を呼ぶ行動を行う場合を言ったものである。もし人々が利己的一辺倒の行動を取るならば、市場は混乱を免れない、とスミスは予測した。彼は資本主義における市民社会的・国民国家的な道徳を説いたのである。市民社会とは、市民革命の後に成立したブルジョワジーが政治権力に参加して近代国家を構成する社会である。国民国家とは、nation-stateの訳語であり、他国と領域を区別する国境を持ち、領域内の全住民を国民という単位に纏め上げて成立した国家をいう。

スミスは、近代資本主義の理論を構築するとともに、自由と道徳という対をなす課題を提示した。だが、スミスの死後、実際の社会は自由放任の資本主義によって、弱肉強食の競争社会となった。利己的な個人、私益追求的な資本が跋扈し、市民社会的・国民国家的な道徳は衰退していった。スミス以後の古典派経済学は、スミスにおける自由と道徳という課題を斥け、合理的に行動する原子的な個人を仮定した理論を構築した。こうした人間像を「経済人(エコノミック・マン)」という。ケインズの師、アルフレッド・マーシャルは、経済人を「なんらの倫理的な影響を受けず、金銭上の利益を細心かつ精力的に、だが非情かつ利己的に追求しようとする人間」と定義した。ケインズ以前の経済学は、そうした経済人を想定した理論を展開した。そして、それ以上に、現実の社会においては、他者の「共感」を考慮しない経済人たちの利己的な行動が、強欲資本主義を生んだ。その結果が、1929年の大恐慌であり、2008年のリーマン・ショックだった。これらは、経済の領域で、無制約な自由の追求がされたために起こった事態である。

 ここでスミスが提示した自由と道徳という課題に取り組むうえで、ケインズの思想はよき手引きとなる。ケインズは、経済的自由に一定の規制をかける理論と政策を創出したが、資本主義を否定せず物質的な豊かさを追求することを否定してはいない。むしろ物質的な豊かさを達成してこそ、精神的な豊かさを実現できると考えた。ケインズは倫理学者ではなく、深く宗教的・道徳的な価値を論じたわけではない。しかし、富の追求は、それ自体が目的ではなく、「賢明に、快適に、裕福に」暮らす生活を実現する手段とし、ものの豊かさの達成の上に、心の豊かさの実現を考えた。また、個人の人生や自分の世代を超えて、子孫や将来世代の発展を目指した。

 ケインズは1930年に『孫の世代の経済的可能性』という論文を書いた。ここでケインズは、自分の孫たちの世代には経済的・物質的問題はほぼ解決の目処が立つだろう。人類は史上初めて生存のための闘争から解放される。その時、新しい道徳律が現れるだろう、と予測する。その道徳律とは「目的性」だという。目的性とは「われわれが、自分たちの行動の質や周囲の環境への直接的な効果よりも、自分たちの行動の遠い将来における結果に関心を持つこと」だという。これは、個人の人生を超えて、将来の世代において達成すべき目標を定め、それに向って、世代から世代へと活動を継続することである。こうした道徳は、個人を超えた国民・民族の道徳である。そして、そういう目的性をもって生きることを、ケインズは「良い生活」と言った。経済学は、このような意味での「良い生活」を実現するための手段でなければならない。

 私は、こうしたケインズの思想を継承・発展させるべきだと考える。ケインズの復活・再評価は、経済理論・経済政策の見直しにとどまらず、人間観の見直しに至らねばならないものだと思うのである。経済学においては、合理的に行動する原子的な個人とう「経済人(エコノミック・マン)」のモデルの一面性を認め、「共感」の能力を持ち、子孫や将来世代の発展を願う人間という人間観が再発見されなければならない。

(「日本復活へのケインズ再考」より)

 

#自由を守りつつ道徳を高める人類社会へ

これまで人権観念の核心をなす自由について、人格的な成長・向上と経済活動に関する検討を行った。ここで人間観の見直しについて記す。

 人権を「発達する人間的な権利」とし、人間の尊厳と個人としての人格を持つ人間の権利を考えるには、新たな人間観の構築が必要である。第1章でその際、参考になるものとして、アブラハム・マズローの理論を引いた。

 マズローは、人間の欲求は5つに大別されるとし、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求、そして自己実現の欲求を挙げ、これらの間に階層的な発展性があると説いた。人間には、食欲・性欲のような欲求や、身の安全を求める欲求のような動物的・本能的な欲求だけではなく、愛や名誉や誇りなどの精神的な充足を求める欲求がある。その欲求のより高次の段階には、自己実現の欲求がある。また、自己実現を成し遂げた人は、しばしば、さらに自己超越を求めるようになることを、マズローは明らかにした。

 こうしたマズローの理論は、人格の成長・発展に関する理論である。上位の欲求である自己実現の欲求は、人間の道徳的な能力の発現である。人間には自己実現を達成する能力が潜在しており、これを発揮するとき、人格の高度な発展が可能となる。そして、自己超越へと向かうこともできる。人間には、こうした人格的な欲求が、生得的に内在している。現代人は、旧来の経済的・唯物的な人間観を、人格に基礎を置いた人間観に転換すべきである。そして、本稿が主題にするところの人権は、こうした新たな人間観の上に、基礎づけられねばならない、と私は主張する。

 私の主張は、経済活動を軽視するものでは、全くない。経済活動は、欲求の第1段階である生理的欲求を満たし、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求の実現を可能にするために必要不可欠の活動である。だが、経済活動は、物質的な充足や富に伴う精神的充足をもたらすだけでなく、人がより高次の欲求である自己実現・自己超越に向かうことを可能にするものと位置づけられなければならない。

 私は、このような考えから、ケインズの思想を再評価している。ケインズは物質的な豊かさを達成してこそ、精神的な豊かさを実現できると考えた。富の追求は、それ自体が目的ではなく、「賢明に、快適に、裕福に」暮らす生活を実現する手段とし、ものの豊かさの達成の上に、心の豊かさの実現を考えた。また、個人の人生や自分の世代を超えて、子孫や将来世代の発展を目指した。今日、強欲資本主義の反省に立って、経済的自由とその規制、また自由と道徳について考える際、ケインズの経済理論・経済政策は、彼の道徳思想とともに再検討されるべきものである。

(「日本復活へのケインズ再考」より)

 

●ハイエク

 

#ハイエクと新自由主義の罪過

 資本主義・自由主義と共産主義・統制主義の体制間の争いは、1990年前後に、ソ連・東欧の共産国が崩壊し、自由主義の勝利、共産主義の後退に結果した。後退というのは、東アジアには中国・北朝鮮等、共産主義またはその類似思想による体制の国家が存続しているからである。冷戦の終焉によって、経済学においても、マルクス主義は世界的に勢いを失った。それによってケインズ主義と新古典派経済学の対立が主となり、新古典派が圧倒的な優勢となった。その結果、大恐慌後、行われてきた経済的自由への一定の規制、特に金融に関する規制が取り払われていった。

 「自由」の名の下、アメリカの金融制度は大恐慌以前に戻ってしまった。ウォール街は、さまざまな金融派生商品(デリバティブ)を開発し、サブプライム・ローン、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)等を生み出し、世界中を狂乱のマネー・ゲームに巻き込んだ。再び資本主義は強欲資本主義と化した。そして、平成20年(2008)9月15日、リーマン・ブラザーズの倒産によって、猛威を振るった強欲資本主義は破綻した。リーマン・ショックは、1929年大恐慌の再来であり、規制や管理を排除した自由な経済活動の結果である。こうした世界経済の問題は、自由と道徳という観点から掘り下げて反省を行わねばならない。ここで語るべき自由の思想家が、フリードリッヒ・ハイエクである。

 1970年代からケインズ主義の権威が揺らぐなかで、新古典派経済学に影響を与えてきたハイエクの評価が高まった。ハイエクは1920年代からケインズのライバルだった。1980年代、マーガレット・サッチャー、ロナルド・レーガンがハイエクを称え、ハイエクは彼らの政策の支柱と考えられた。ハイエクの説いた思想は、新自由主義と呼ばれ、ソ連の共産主義と闘うために宣伝された。東欧の民主化運動では、ハイエクの主著『隷従への道』が読まれ、共産主義政権の打倒への力になった。冷戦の勝利は、新自由主義の勝利であるという見方が広がった。

 ハイエクは、自由主義とは、17世紀イギリス市民革命において、君主による恣意的な権力の行使に対抗して、政府の権力を規制する必要性から生まれたものだとする。そして、「自由主義的な自由の要求は、個人の努力を妨げるすべての人為的な障害物を除去せよという要求であって、社会なり国家が特定の善を提供すべきだという主張ではない」という。

 これは基本的に古典的自由主義への回帰を説くものである。グリーンやバーリンの分類でいえば「消極的自由」の立場であって、「積極的自由」の立場ではない。ただし、ハイエクの自由は、自己本位・自己中心的な自由ではない。ハイエクは、自由とは社会的な規則を遵守することのなかではじめて存在し、社会的規則とは特定の個人や集団による専制支配を許さないために存在するとし、自生的秩序を重視すべきであると説く。自生的秩序とは、歴史的な過程において自生的に形成されてきた秩序である。伝統によるルールや慣習による法がこれである。こうした自生的秩序に基づく自由を尊重しようとするのが、ハイエクの新自由主義である。

 ハイエクは、人間は不完全なものであり、伝統と慣習を尊重しながら知恵を働かせるべきだと考え、デカルトに始まりサン・シモンやマルクスに受け継がれた合理主義的な社会観を設計主義として批判した。ハイエクは、自生的秩序の原型を市場社会に見た。市場社会は自由な社会であり、知識の交換の場である。競争によって淘汰が行われる。市場の失敗を人間の意図的な管理や計画によって克服しようという試みは無益であり、また危険である、とハイエクは考えた。そして、自生的秩序としての市場経済に全面的に依拠した思想を説いた。それは、同時に自由を要求する思想であり、ハイエクの考える市場社会の思想は、自生的な秩序による自由な社会を発展させるはずだった。

 だが、ハイエクの説く新自由主義は、ミルトン・フリードマンやロバート・ルーカス等、彼の支持者たちによって定式化され、硬直化した。彼ら新古典派の理論から、市場原理主義が生まれた。市場原理主義とは、単純化された競争均衡モデルに基づき、政府が自由放任的な立場を取っていれば、市場メカニズムが最適な資源配分と秩序の均衡をもたらすという思想をいう。新自由主義・市場原理主義は、自由競争、規制緩和、「小さな政府」を説く。1980年代以降、その政策が、投機的な投資家や巨大国際金融資本に活動の自由を与え、再び強欲資本主義の暴走を許すことになった。伝統や慣習に基づく自生的秩序は破壊され、市場は金融工学によって操作される一大賭博場と化した。ハイエクの思想は、彼の意思を超えて、弱肉強食の闘争世界を生み出す要因となったのである。また新古典派経済学は、自由を世界に広めるという理念のもとに展開されるグローバリズム(地球覇権主義)の中に組み込まれ、超大国アメリカの世界戦略に寄与する経済理論に転じてしまったのである。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●フランクフルト学派

 

#ユダヤ人マルクス主義者によるフランクフルト学派

 ワイマール時代のドイツで1923年、フランクフルト大学に「社会研究所」が設立された。出資者は、ユダヤ人富豪の跡取りだった。当初、研究所の名称を「マルクス主義研究所」とする案があった。そのことに表われているように、この研究所は、ルカーチを先駆とする西欧マルクス主義の研究機関であった。代表的なのは、マックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノ、ウォルター・ベンヤミン、エーリッヒ・フロム、ヘルベルト・マルクーゼ、ユルゲン・ハーバーマスらである。彼らがフランクフルト学派と呼ばれる。左記のうち、ハーバーマス以外はユダヤ人である。

 1931年に哲学者マックス・ホルクハイマーが、研究所の所長となった。彼は、哲学と経験的個別科学との学際的研究を組織した。彼のもと、哲学者、社会学者、経済学者、歴史学者、心理学者などの共同研究が行われた。ホルクハイマーの理論は、批判理論と呼ばれる。その理論の核心はマルクス主義であり、彼の哲学は弁証法的唯物論である。

 ホルクハイマーは、研究所の共同研究のテーマとして、「権威と家族」を選んだ。彼を含め、研究所の主要メンバーはユダヤ人だったので、ナチスの弾圧の手が伸びてきた。1933年、ドイツ議会は授権法によってヒトラーに独裁権を与えた。すると、ナチスは「国家に対する敵性」があるとして研究所を閉鎖してしまった。

 ホルクハイマーは、やむなく34年にアメリカに移住した。そして、資本主義の牙城ニューヨークで、研究所を再建した。コロンビア大学の社会調査研究所がそれである。ここで「権威と家族」の共同研究は続けられ、36年に『権威と家族』が刊行された。

 この研究は、なぜドイツでファシズムが勝利を収めたか、またなぜユダヤ人の大量虐殺が行われたか、その原因を究明するものだった。ナチスを支持し、反ユダヤ主義に走ったドイツ人には、強い者に服従し弱い者を虐げる性格の者が多かった。こうした権威主義的な性格が作られるには、家父長制家族が大きな役割を果たしていることが報告された。家父長制家族は、父性中心のユダヤ=キリスト教的な西洋家族の特徴である。

ホクルハイマー、アドルノ、マルクーゼは、第2次世界大戦後のアメリカで、若者を中心に大きな影響を与えた。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

#ナチスの心理学的・人類学的・哲学的分析

 フランクフルト学派は、マルクスとフロイトの統合を試みた。マルクスとフロイトは、ともにユダヤ人であり、反キリスト教、唯物主義、合理主義において共通している。

社会研究所のマルクス主義的な社会研究と、フロイトの精神分析とを媒介したのは、エーリッヒ・フロムである。フロムは、フロイトの弟子の一人であり、彼もまたユダヤ人だった。

ユダヤ人としてナチスの弾圧を経験したフロムは、1941年刊の『自由からの逃走』で、ナチズムの心理的なメカニズムを考究し、権威主義的性格について分析した。権威主義とは、自我の独立性を捨てて、自己を自分の外部にある力、他の人々、制度等と融合させることである。言い換えると、親と子、共同体等の一次的な絆の代わりに、指導者等との二次的な絆を求めることである。このメカニズムは、支配と服従、サディズムとマゾヒズムという形で表れる。そしてフロムは、サドーマゾヒズム的傾向が優勢な性格を、権威主義的性格と呼んだ。

フロムは権威主義的性格が家庭で作られることを明らかにしたが、その家庭とは、トッドによれば直系家族であり、かつ極度に父権の強いドイツ独特の家庭だった。トッドは、直系家族社会における「排除」が極端な形になったものが、ナチスによるユダヤ人「絶滅の企て」だった、と言う。トッドはこれを「絶滅の差異主義」と呼ぶ。

 トッドは、次のように言う。直系家族の権威と不平等の価値の組み合わせは、「矛盾する二つの願いの共存をもたらす。権威は単一性へ、不平等は差異主義へと導く。還元不可能な差異を感知しながらも、同質性を夢見るならば、可能な解決策として、『異なる』と指名された人間集団の排除を考えるようにならざるを得ない。歴史的危機の局面によっては、こうした論理的過程はその行き着くところ、差異の観念が固着した集団の追放あるいはせん滅にまでいたることもあリ得る」。そして、「これこそナチス問題の核心」だとする。

 一方、フロイトの弟子の一人だが、非ユダヤ人である分析心理学者グスタフ・ユングは、フロムとは別の見方をした。

第1次大戦の敗戦国ドイツは、同じ白人種の間でひどい扱いを受け、極度に自尊心を傷つけられ、また経済危機による生活困難に陥った。追い込まれたドイツ人は復讐を誓い、他国への敵愾心を燃やした。その結果が、ナチズムの登場となる。ユングはこれを「民族の孤立と求心的秩序による集団化」と言っている。「ヒットラーが政権を握ったとき、私には、ドイツに集団精神異常が始まりつつあることがはっきりわかった」とユングは書いている。ユングはこの集団病理を「集合的憑依現象」「心理的伝染病」とも言っている。ナチスは集団精神異常を示しながら、狂った牙を特にユダヤ人に向け、彼らを激しく迫害した。

ユングは、無意識には個人的無意識とは別に集合的無意識があると考えた。そして、当時のドイツ人の集団心理の中に、集合的無意識の作用を見て取った。ユングは、人類や民族の集合的無意識は元型的イメージとして現れるという理論を説いた。キリスト教に改宗する前のゲルマン民族の神話には、暴力と闘争に荒れ狂う放浪の神ヴォータンが登場する。ユングは、ゲルマン民族の集合的無意識から現われる元型の一つにヴォータンがあるとし、ヴォータンの元型の働きが、ヒトラーとナチズムに現われたと見た。

(「ユダヤ的価値観の超克」より)

 

●世界人権宣言

 

 世界人権宣言は、第1条に「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と記した。「宣言」の理念を具体化した国際人権規約は、人権を「人間の固有の尊厳」に由来するものとしている。自由権規約は、次のように始まる。

 「この規約の締約国は、国際連合憲章において宣明された原則によれば、人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等のかつ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものであることを考慮し、これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認め、……」

 この項で言及したいのは、人間の「尊厳」についてである。「尊厳」は、英語dignityの訳語である。dignity の原義は「価値のあること」。そこから「尊さ、尊厳、価値、貴重さ」などを意味する。「尊厳」という漢語については、『広辞苑』は「とうとくおごそかで、おかしがたいこと」と解説している。

 では、なぜ人間には尊厳、言い換えれば価値があるのか。実は、世界人権宣言は、人間の尊厳を謳いながら、その尊厳について具体的に書いていない。それ以降の国際人権規約や各種国際人権条約も、同様である。その状態で、国際人権文書は、人間の尊厳という価値の上に、人権の体系を組み立てている。そして、世界の大多数の国々がその文書に賛同し、参加している。これは奇妙な状態である、と言わねばならない。

 世界人権宣言や国際人権規約は、現在世界的に広く受け入れられている文書である。その文書に人間の尊厳について具体的に書かれていない。そのため、人類は、なぜ人間は尊厳を持つのか、その価値の根拠は何か、という問いに対し、まだ文化・文明・宗教・思想の違いを超えて広く受け入れられる回答を持つに至っていない。哲学、法学、政治学、人類学等において、さまざまな議論がされてきたが、まだ世界的な定説はない。世界共通の認識を確立できていないのである。

 私は、人間の尊厳という観念の背景には、キリスト教及びイマヌエル・カントの哲学があると思う。近代西欧から世界に広がった人権の観念のもとにあるのは、ユダヤ=キリスト教の教義である。ユダヤ民族が生み出した宗教では、人間は神(ヤーウェ)が創造したものであると教える。神は偉大であり、人間は神の似像として造られた。それゆえ、人間は尊厳を持つと考えられている。人間は他の生物とは異なる存在であり、地上のすべてを支配すべきものとされる。

(「人権――その起源と目標」より)

 

●バーリン

 

「積極的自由」を説いたグリーンに対し、20世紀イギリスのユダヤ系政治哲学者アイザイア・バーリンは、「消極的自由」の重要性を主張した。バーリンは、1969年に公刊した著書『自由論』で、その見解を述べた。バーリンによると、「消極的自由」とは「〜からの自由(freedom from 〜)」であり、干渉・束縛からの自由を確保しようとするものである。一方、「積極的自由」とは「〜への自由(freedom to 〜)」であり、理想・目標に向かって権利を拡大していこうとするものである。

 古代ギリシャでは、自由はポリスの市民にとっての公的活動の自由だった。これに比し、近代的自由は、近代国家の国民にとっての私的な自由である。近代的自由は、バーリンの「消極的自由」すなわち「〜からの自由」を中心としている。基本となるものは、国家(政府)の干渉・制約からの自由である。ヨーロッパでは、宗教戦争や市民革命を通じて、信教に対する「寛容の原理」としての自由が説かれるようになった。バーリンが「消極的自由」の重要性を説いたのは、こうした背景を備えたものである。近代西洋人は、「私」の領域は、政治権力の介入から解放された領域として、私的領域の不可侵性を求めてきた。これが、17世紀以来のもともとのリベラリズムである。

 消極的な性格を持つ「〜からの自由」に対し、ある理念の実現を目指して、集団を形成し、運動を通じて、その意思や理想を実現してゆくことにこそ自由があるというのが、「積極的自由」すなわち「〜への自由(freedom to)」である。「積極的自由」は、政治への参加を求める。リベラリズムは本来「〜からの自由」を求めるものだったが、「〜への自由」を求める運動は、民衆が政治に参加する制度を求めるデモクラシーの思想・運動と結びついた。ここにリベラリズムとデモクラシーが融合し、リベラル・デモクラシーが誕生した。リベラル・デモクラシーは「積極的自由」を実現しようとする思想・運動である。

 バーリンによると、「積極的自由」を実現しようとする運動は、理想や正義の積極的実現を図るとき、リベラル・デモクラシーの枠を超えることがある。集団の理想や正義を実現するためには、政治権力に参加し、さらに権力そのものを握らねばならない。その結果、権力の追求そのものが自己目的化してしまう。そのため積極的自由は全体主義に転化する可能性がある。社会主義・共産主義だけでなくファシズムも、積極的自由を徹底して追求した結果である、とバーリンは考える。

 バーリンは「消極的自由」と「積極的自由」を明確に区別すべきだとしたうえで、より重要なのは「消極的自由」だと主張する。なぜなら「積極的自由」は、理想や正義の実現を目指すが、それによって全体主義に転化しかねない。その結果、私的領域の不可侵性という「消極的自由」を脅かすようになるからだ、という。

 ここで私見を述べると、バーリンの自由論は、自由と平等、個人と集団という二つの対立軸が明確でなく、個人の自由の確保に帰結する。平等への配慮または自由と平等の両立への志向をよくとらえていないので、社会権の発達を自由との関係でとらえることができていない。また、社会主義・共産主義・ファシズムが出現した理由を、積極的自由を徹底して追求した結果としか見ることができていない。そのため、社会主義・共産主義・ファシズムの論理に内在した批判になっていない。単に私的領域の不可侵性を唱え、個人の自由を保持することだけに終わってしまう。これは、基本的な人間観が浅いためである、と私は思う。人格及び家族的・共同的な集団生活における人格の形成・成長・発展という概念を加えることによってのみ、この見方の限界を超えることができる。

(「人権――その起源と目標」より)

 

#自由を中心とする西洋思想の限界

 バーリンの自由論に欠けているものーーそれは人格の概念である。第1章の人権の基礎づけの項目に書いたように、人間には人格がある。個人に人格を認め、人格の形成・成長・発展を目指すことは、個人における精神的価値の増大を促すことである。精神的価値とは生命的価値・物質的価値に加えて、理性的・感性的かつ霊性的・徳性的な精神の働きが生み出す価値である。また、人間には自己実現の欲求がある。自己実現の欲求とは、人間に内在する人格的な欲求であり、その欲求