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210-09   心と宗教・哲学

                       

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宗教の諸相と発展可能性

2018.4.18初版/2018.7.24第2版

 

<目次>

はじめに

1.宗教の発生と発達

2.宗教の種類

3.宗教と哲学及び科学

4.宗教と社会

5.宗教と政治

6.宗教における体験

7.宗教と自己実現

8.科学と宗教の融合

結びに

 

 

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はじめに

 

私は近年、文明と宗教に関するものを多く書いている。宗教については、いずれ概論を書きたいと思っているが、その準備作業としてこれまで拙稿に書いてきたことを取りまとめておきたい。本稿は、先に書いた「宗教、そして神とは何か」に続いて、宗教の発生と発達、宗教と哲学・社会・政治・科学の関係、宗教における体験と実践、今後の発展可能性について書くものである。

 

1.宗教の発生と発達

 

●宗教の起源

 

現在知られている人類の歴史において、一般に最も古い時代とされるのは、旧石器時代である。旧石器時代は、約300万年ないし約200万年前に始まって約1万年前まで続いた。この時代に宗教的な意味を持つと考えられる遺跡が現れるのは、約10万年前から約3万5千年前までの旧石器時代中期である。ネアンデルタール人などの旧人の遺跡から、死体の埋葬や狩猟の儀式が行われたことがわかる。続いて、約3万5千年前から約1万年前までの旧石器時代後期には、クロマニョン人などの新人による遺跡から、宗教的な観念や儀式の存在を想像させるものが発見されている。すなわち、死に関わるものとしては墓地や埋葬物等、生命や生殖力に関わるものとしてはヴィレンドルフのヴィーナス像等、狩猟に関わるものとしてはラスコーやアルタミラの洞窟の壁画等である。

旧石器時代以降、宗教がどのように発生したのか、宗教の起源について様々な研究がされてきたものの、確定的な答えには至っていない。宗教の原初形態として、宗教学では、アニマティズム、アニミズム、シャーマニズム等が挙げられるが、それらの相互関係や発達の段階についても、定説といえるものは、まだない。

 

●神話的信仰

 

原初的な宗教の諸形態は、その重要な要素に神話を持つ。神話は、宇宙の始まり、神々の出現、人類の誕生、文化の起源等を象徴的な表現で語るものである。

人間は、他の動物よりも知能が発達している。その知能、言い換えれば知恵を以て、人間は自分の住む世界や自分自身を認識する。また、世界の成り立ちや人間の由来、生きることの意味等を考え、理解する。その認識と理解が最初に言語によって表現されたものが、神話である。

神話は、共同体の儀礼において、人類の遠い記憶を呼び覚まし、人間の自己認識、世界の成り立ち、生きることの意味等を確認するものだった。神話は、象徴的な思考によって、一つの社会の持つ人間観や世界観を表し、時には実在観をも示している。またその中に、その世界で生きていくための規範が定められている。

世界の様々な氏族・部族・民族は、それぞれが生み出した神話を世代から世代へと伝承してきた。神話の伝承は、神話に基づく儀礼の伝承でもある。神話に基づいて神々や祖霊を祀る祭儀を行うことは、人類に広く見られる営為だった。宗教の原初形態は、こうした神話と不可分であり、宗教の起源に神話が関係していることを推定することができる。

 

●アニミズムとアニマティズム

 

宗教の原初形態のうち、最も広く見られるものは、アニミズムである。アニミズムは精霊信仰、霊魂信仰などと訳される。シャーマニズム、フェティシズム、動物崇拝、トーテミズム、天体崇拝、自然崇拝は、どれも霊的存在を前提にしており、アニミズムの諸形態と考えられる。

19世紀後半のイギリスの文化人類学者エドワード・タイラーは、「宗教を最も狭義に解釈すれば、単純に、霊的存在への信仰というのが妥当である」と説いた。そして、アニミズムを宗教の最も単純で原始的形態とした。彼は、原初形態としてのアニミズムが段階的に一神教に進化したのだと考えた。そして素朴なものから複雑なものまで、宗教はすべて、なんらかの形でアニミズムを含んでいると主張した。

私は、その点には同意するが、タイラーの考え方には、「進化」=「進歩・向上」という価値判断が含まれており、また唯一神教を最高の形態とし、多神教を下位の形態とみなす西洋中心・キリスト教中心の姿勢が見られることを指摘したい。その後の人類学や宗教学では、西洋中心・キリスト教中心の見方への反省がされるとともに、様々な社会の研究が行われてきた結果、宗教の発生・発達は一元的ではなく、様々な発生・発達の仕方があり得るという考え方が有力である。この考え方に立てば、原初的な宗教の諸形態は、段階的に並べるべきものではなく、並列的な類型となる。私は、その判断が妥当である可能性を認めつつ、宗教の発生・発達について、論理的な思考に基づく仮説を抱いている。

まず私は、宗教はすべてなんらかの形でアニミズムを含んでいるとするタイラーの主張を評価する。タイラーの考え方から「進化」=「進歩・向上」という判断を除いて価値の相対化をすると、宗教の様々な形態は、アニミズムの特殊化であると考えることができる。つまり、アニミズムの特殊な形態が多神教であり、さらに非常に特殊な形態が一神教であると見るのである。

また、私は、アニミズムの根底には、アニマティズムがあると推測する。アニマティズムとは、タイラーの弟子ロバート・マレットが、アニミズム以前のプレアニミズムの一形態として唱えたもので、自然界の事物に霊的な力や生命力が秘められていると考え、この力を人間生活に取り込もうとする信仰である。私は、これを宇宙・生命の根源的な力への信仰と考える。力は物事を生起させる原因に係る概念である。日常的な言語では、目には見えないが人やものに作用し、何らかの影響をもたらすものを力という。特にその力に意思の働きを認めるとき、これを霊力という。それゆえ、アニマティズムは、霊力信仰と訳することができる。そして、私は、アニミズムの精霊信仰の基底には、アニマティズムの霊力信仰があると考える。

例えば、わが国では古来、何かしら尊いもの、偉大なものに触れると、それを「カミ」と呼んで崇めたり、畏れたり、親しんだりしてきた。「カミ」と呼ばれるものは、自然の事物や現象だったり、人間の霊魂だったり、生きている人間だったり、対象は様々である。そうした「カミ」は、それぞれの事物に宿っている霊的存在というより、すべてのものの根源にある力を指すものと考えられる。ポリネシア・メラネシア等の太平洋諸島に見られる「マナ」や東南アジアの諸民族における「ピー」と、「カミ」は、同じ対象を指すものだろう。この宇宙・生命の根源的な力への信仰がアニマティズムであり、それが最も原初的な宗教の形態であると私は想定する。

アニマティズムとしての霊力信仰は、全体としての宇宙を未分化のままに本能的・直観的にとらえたものと思われる。そこから個々の事物が差別化され、名前が付けられると、事物それぞれに霊的存在が宿るという考え方に変化したのだろう。また、遠方または異界からやって来るものが、人や物に憑依するという考え方も現れる。それがアニミズムであると私は考える。

アニマティズムと異なり、アニミズムにおいては、対象が個別化している。それゆえ、アニミズムは、精霊信仰であるとともに、人間の祖先の霊を祀れば祖先崇拝となり、また自然の事物の霊を崇めれば自然崇拝となる。祖先崇拝・自然崇拝は、人間や自然の根底にある宇宙・生命の根源的な力への信仰を否定するものではない。祖先の霊や自然の霊を祀ったり、交流することを通じて、根源的な力の存在を確認したり、その力を受け直することができるからである。それゆえ、私はアニミズムの根底にはアニマティズムがあり、アニマティズムとアニミズムは重層的な関係にあると考える。

 この仮説に立つならば、アニマティズムの特殊な形態がアニミズムであり、そのまた特殊な形態が多神教であり、さらに特殊化が進んだ形態が一神教であるという関係になる。アニミズムにしても、多神教にしても、一神教にしても、それらにおける宗教的な実践は、崇拝や信仰の対象が何であれ、宇宙・生命の根源的な力の存在を確認したり、その力を受け直したりするための試みだろう。

 

●シャーマニズム

 

 宗教の原初形態において、祈りや祭儀を行うために、特殊な能力を持つ人間が必要とされる場合がある。そのような例の一つとして、シャーマニズムを挙げることができる。

シャーマニズムは、シャーマンと呼ばれる特殊な霊的能力を持つ宗教的職能者を中心とした宗教である。シャーマンは、トランス(trance)状態と呼ばれる特殊な心的状態において、神・精霊・死者等の霊的存在と直接に交渉し、その力を借りて託宣・予言・治病・祭儀などを行う。

シャーマンの語源は、ツングース系諸族の言語に求められる。かつて宗教学者は、シャーマニズムをシベリアの原初宗教に限定していたが、類似した現象は中央アジア・北米・東南アジア・オセアニアなど世界各地に見られる。日本やシナ・朝鮮では巫術・巫俗といい、呪術とも訳し得る。それゆえ、地域的な概念であるシャーマニズムを普遍的な概念として拡大使用することが可能である、と私は考える。

 シャーマニズムは、アニミズムすなわち精霊信仰の表れの一つであり、アニミズムが人間の霊を対象とするとき、祖先崇拝となる。子孫は、祖先の霊に呼びかけ、祖先の霊を慰め、祖先の霊に加護を祈念する。氏族・部族・民族の共同体において、その祖先の霊に対する儀式を執り行う者が、シャーマンである。シャーマンは、祖先の霊を呼び寄せ、それと接触・交流し、その意思を共同体の成員に伝える。そのような能力を持つ者、または役割を持つ者を通じて、子孫と祖先が霊的につながり、また共通の祖先をもつ者の集団としての共同体意識が形成・維持されてきた。

 

●多神教と一神教

 

私の仮説によれば、アニミズムの特殊な形態の一つが、多神教である。多神教は、精霊信仰が発達したもので、多数の神々を祀る宗教である。多神教は、自然の事象、人間・動物・植物等を広く対象とする。精霊信仰では、個々の崇拝や信仰の対象にはあいまいな性格のものが多い。多神教では、それぞれの対象がはっきりした性格を持つ傾向がある。

一神教は、多神教における複数の神格を信仰の対象から排除することによって現れたものである。一神教には、単一神教、拝一神教、唯一神教がある。単一神教は、自己の集団において多くの神々を認め、その中に主神と従属神があるとし、他の集団の神格は、これを認めるものである。19世紀イギリスのインド学者マックス・ミュラーが、古代インドのヴェーダの宗教(バラモン教)をこのように名づけた。拝一神教は、単一神教と違って、自己の集団においては唯一の神しか認めない。だが、他の集団における神格は認めるものをいう。単一神教と拝一神教は、従属神を認める点または他の集団の神格を認める点においては、多神教に近い性格を持つ。

これらに比べ、唯一神教は、唯一の神のみを神とし、自己の集団においても他の集団においても、一切他の神格を認めないものである。これが純然たる一神教である。唯一神教は、ユダヤ教を元祖とする。これをキリスト教・イスラーム教が受け継いだ。これら三つの宗教を、セム系一神教またはセム系唯一神教という。

一神教に対する多神教という概念は、セム系の唯一神教を基準にした概念である。近代ヨーロッパの学者が生み出したもので、ユダヤ=キリスト教を優位に置き、多数の神格を持つ宗教を劣位に置く発想が根底にある。これに対し、私は、逆にアニマティズムから、アニミズム、多神教、一神教へと特殊化が進んだと考える。この特殊化の進んだ一神教をキリスト教文化圏の学者が最も進歩した宗教とし、それを基準に他の宗教を評価したところに、宗教に対する大きな誤解が生じたのである。

 私の見方では、アニマティズムは、究極の実在を直観的に「一なるもの」ととらえたものである。いわば原初的な一元論である。その後、差別化・対象化によってアニミズムが現れ、アニミズムが特殊化して、多神教が発達した。多神教は実在を「多なるもの」ととらえる多元論である。多元化したことによって、もとの一元性が失われがちになった。そこで多神教において、神々の本源が思考され、再び究極の実在を「一なるもの」ととらえる論理的な一元論が現れたと考える。

一神教における単一神教・拝一神教は、多神教的な性格を持っており、多元論的な一神教である。純粋な一神教であるセム系の唯一神教は、究極の実在を「一なるもの」ととらえるから、一元論的一神教である。

多神教は、アニミズムの特殊形態としては多元論的だが、根底にアニマティズムが存在しており、その基底面では一元論的であるものもある。それゆえ、多神教には、アニマティズムから離れた多元論的多神教と、アニマティズムに近い一元論的多神教があると私は考える。

多元論的多神教とは、多くの神々や霊的存在が並列しており、それらを統合する神または原理が存在しないか、現象の後ろに隠れてしまったものである。これに対し、一元論的多神教とは、多数の神々や霊的存在のもとに、根源的な神または原理が想定されるものである。例えば、ヴェーダの宗教は多神教だが、神々の本源に万有創造の根源力にして宇宙の根本原理でもあるブラフマンを想定する。このブラフマンが「一」の側面を表す。そこには、本質において「一」であるものが、現象において「多」であるという「一即多、多即一」の構造が見られる。宗教学では、こうした哲学的な考察がされずに、「一」の側面を見て一神教、「多」の側面を見て多神教と単純に分ける傾向がある。私は、宗教をより深くとらえるには、哲学的思考が不可欠と考える。

一神教には、多元論的な単一神教・拝一神教と一元論的な唯一神教があり、また、多神教には、一元論的多神教と多元論的多神教があると書いた。私は、こうした一神教と多神教は全く別のものではなく、根本に「一即多、多即一」という立体的な構造があって、そこから様々な宗教が差異化したと考える。そして、私はこうした「一即多、多即一」の構造に、一神教と多神教を包摂し、融合・進化させ得る可能性を見出す者である。

 

●ユダヤ教と仏教の特異性

 

古代から続く宗教の発生・発達の過程で、特異な形態の宗教として出現したのが、ユダヤ教と仏教である。

ユダヤ教は、ユダヤ民族の神話的信仰をもとに、多神教を否定する一神教として発生した。発生の時期の特定はできないが、紀元前6世紀には、第2イザヤらの預言者によって、神ヤーウェが世界を創造した神であり、唯一神であると位置づけられ、唯一神教が確立されていたと考えられる。唯一神教では、神が宇宙の外にあって、無から宇宙を創造したと考える。多神教を否定することでアニミズムを否定し、同時にその根底にあるアニマティズムをも否定し、超越的な人格神が宇宙と人間を創造したとする。唯一神教としてのユダヤ教の発生は、人類の宗教の歴史において画期的な出来事だった。純粋な一神教が誕生したからである。

ユダヤ教からは、さらに二つの宗教が形成された。まず紀元1世紀にキリスト教が派生し、地中海地域に広がり、古代ローマ帝国の国教となった。ローマ帝国の末期から、アルプス以北のヨーロッパにも広がった。また、ユダヤ教、キリスト教の影響を受けて、7世紀のアラビア半島にイスラーム教が発生し、中東、西アジア、北アフリカ等を席巻することになった。これらのキリスト教、イスラーム教は、世界宗教となった。

一方、仏教は、インドのヴェーダの宗教を背景として、紀元前6〜5世紀にゴータマ・シッダールタすなわち釈迦が開創した。仏教は、ヴェーダの宗教と同じく輪廻転生を教義とする。輪廻転生は、古代のエジプト、ギリシャ等にも見られる思想だが、仏教は輪廻の世界から抜け出るための知恵と方法を説いた。即ち、解脱を目指すために、法(ダルマ)を明らかにし、それに基づく実践を説く。法と訳すダルマは、真理・理法の他に存在者・規範・生き方等も意味する。仏教によって、氏族的・部族的・民族的な共同体の宗教ではなく、個人の魂の解放を目指す宗教が誕生した。また、仏教がヴェーダの宗教やその発展としてのヒンドゥー教と異なる点は、「神を立てない宗教」であることである。釈迦の教えを守り伝えた原始仏教・根本仏教は、その原型を保っている。無神教としての仏教の発生もまた人類の宗教の歴史において画期的な出来事だった。

仏教は、インドから東北方面はシナ、朝鮮、日本等へ、東南方面は東南アジアへと広がった。それによって、世界宗教へと発達した。

人類の多数が信仰してきた多神教から現れた唯一神教、すなわちユダヤ教から出たキリスト教、イスラーム教が広域的な宗教に発展し、世界宗教となった。また多神教から現れた無神教、すなわち仏教も、民族宗教の枠を超え出て、世界宗教となった。各地の多神教が民族宗教までにとどまったのに対し、多神教を否定した唯一神教及び無神教が、世界宗教となったのである。

仏教は、インドでは一時、隆盛を誇ったが、13世紀に衰滅した。この間、ヒンドゥー教や伝播した地域の多神教の影響を受けた。その結果である大乗仏教の多くの宗派や密教は、法を人格化したり、仏陀や如来・菩薩等を神格化している。法身仏、久遠本仏、阿弥陀如来、観世音菩薩等である。こうした宗派は、神を仏教的な名称で呼ぶ有神教と見ることができる。私は、有神教的な仏教を多神教に分類する。今日も続く南伝仏教は上座部仏教の系統の無神教だが、土俗的な信仰の多神教を許容しており、その点では多神教に近い性格を持つ。

なお、大乗仏教では、仏には法身・報身・応身の三身があるという三身観が発達した。このうち法身は、永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえた仏のあり方である。報身は過去の修行によって成就した仏のあり方、応身は救済のために仮に相手に応じて出現した仏のあり方である。こうした考え方は、有神教であるヒンドゥー教の神に関する考え方の影響を受けたものである。

仏教は、多神教を否定することで民族宗教の枠を超え出たが、そのうえで無神教から有神教化したことによって、世界宗教となり得たのである。ページの頭へ

 

2.宗教の種類

 

●様々な分類

 

これまで触れてきたものを含めて、人類の歴史に現れ、また現代世界にも存続する宗教には、様々な種類がある。主なものを整理すると、次のようになる。

 

@  原初宗教/高度宗教

A  アニマティズム/アニミズム/シャーマニズム

B  フェティシズム/動物崇拝/トーテミズム/天体崇拝

C  祖先崇拝/自然崇拝

D  自然宗教/創唱宗教

E  神を立てる宗教/神を立てない宗教

F  有神教/無神教/無神論

G  多神教/一神教/汎神教

H  聖典を持つ宗教/聖典を持たない宗教

I  啓典宗教/啓典なき宗教

J  啓示宗教/非啓示宗教

K  契約宗教/非契約宗教

L  氏族的・部族的宗教/民族宗教/世界宗教

M  救いを求める宗教/解脱を目指す宗教/浄化を願う宗教

N  集団救済の宗教/個人救済の宗教

O  古代的宗教/近代的・現代的宗教

 

@原初宗教/高度宗教

 

旧石器時代から認められる原初的形態の宗教を、原初宗教という。アニマティズム、マナイズム、アニミズム、シャーマニズム、フェティシズム、動物崇拝、トーテミズム、天体崇拝、自然崇拝等がそれである。

こうした原初宗教を基盤として、独自の理論と実践方法を持って発達したものが、高度宗教である。今日まで続くユダヤ教、キリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教、神道等のほか、歴史的には、ピュタゴラス教、ゾロアスター教、ミトラ教、マニ教等も挙げられる。

 

Aアニマティズム/アニミズム/シャーマニズム

 

ポリネシア・メラネシア等の太平洋諸島には、「マナ」という不思議を起こす超自然的な力への信仰がある。これをマナイズムという。東南アジアの諸民族における「ピー」や、日本における「カミ」も、同じ対象を指すと考えられる。これらに共通するものは、宇宙・生命の根源的な力への信仰である。それを一般化して、アニマティズムという。霊力信仰と訳される。

アニミズムは、世界に広く見られる精霊や霊魂に対する信仰である。精霊信仰、霊魂信仰等と訳される。アニマティズムの対象が個別化したものと考えられる。シャーマニズム、フェティシズム、動物崇拝、トーテミズム、天体崇拝、祖先崇拝、自然崇拝は、どれも霊的存在を前提にしており、アニミズムの諸形態と考えられる。

シャーマニズムは、シャーマンと呼ばれる特殊な霊的能力を持つ宗教的職能者を中心とした宗教である。シャーマンは、トランス(trance)状態と呼ばれる特殊な心的状態において、神・精霊・死者等の霊的存在と直接に交渉し、その力を借りて託宣・予言・治病・祭儀などを行う。

 

Bフェティシズム/動物崇拝/トーテミズム/天体崇拝

 

フェティシズムは、呪物信仰であり、宝石・金属片・文字・図像等の物体に超自然的な力が宿るという信仰である。動物崇拝は、動物の持つ霊力に対する信仰である。崇拝の対象には、蛇、牛、犬、狐等のほか、空想上の動物である龍等もある。トーテミズムは、ある個人または集団がそれぞれ特定の動植物と超自然的な関係で結ばれているという観念及びそれに基づく制度をいう。その特定の動植物をトーテムと呼ぶ。天体崇拝は、太陽、月、金星、北極星等に超人間的な聖性と霊的な力を認める信仰である。

 

C祖先崇拝/自然崇拝

 

祖先崇拝は、氏族・部族・民族などの祖先の霊を祀るものである。崇拝の対象となる祖先には、始祖・氏神・祖霊等がある。自然崇拝は、自然物や自然現象を崇めるものである。崇拝の対象は、天空、大地、太陽、月、山、川、風、雷、火、岩石、動物、植物等がある。フェティシズム、動物崇拝、トーテミズム、天体崇拝は、自然崇拝の諸形態でもある。

 

D自然宗教/創唱宗教

 

明確な教祖のいない宗教を自然宗教、創唱者のいる宗教を創唱宗教という。原初宗教は、みな自然宗教である。高度宗教の中では、例えば、ユダヤ教は自然宗教であり、イエスを教祖とするキリスト教、ムハンマドを教祖とするイスラーム教は創唱宗教である。ヒンドゥー教は自然宗教であり、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)を教祖とする仏教は創唱宗教である。神道は自然宗教であり、孔子を教祖とする儒教は創唱宗教である。道教は、自然宗教が老子を教祖と仰ぎ、創唱宗教を装ったものと見られる。

 

E神を立てる宗教/神を立てない宗教

 

宗教学者・岸本英夫は、宗教を崇拝・信仰の対象として「神を立てる宗教」と、神観念を中心概念としない「神を立てない宗教」に分ける。弟子の脇本平也は、前者を有神的宗教、後者を無神的宗教と呼ぶ。

宗教の多くは「神を立てる宗教」だが、仏教は本来、法(ダルマ)の教えであり、「神を立てない宗教」である。

 

F有神教/無神教/無神論

 

「神を立てる宗教」を有神教、「神を立てない宗教」を無神教と私は呼ぶ。

有神教の神の概念には、人間神、自然神、宇宙神、超越神、言語神、理力神等がある。無神教は、力、法、道等を中心概念とするが、それを人格化する場合は、有神教に近づく。また有神教のうち、神を非人格的で理法や原理ととらえるものは、無神教に近づく。

無神教の代表例は、原始仏教・根本仏教である。無神教は宗教の一形態であり、無神論とは違う。無神論は、狭義ではセム系唯一神教の神の存在を否定する思想をいう。無神論の代表例は、近代西欧のラ・メトリー、マルクスらの唯物論であり、霊的存在や来世をも否定するものである。

 

G多神教/一神教/汎神教

 

有神教のうち、一つの神のみを祀る宗教が一神教、多数の神々を祀る宗教が多神教である。また、神と万有を同一視する宗教を汎神教という。

神と万有を同一視する考え方は、宗教だけでなく哲学にも見られる。哲学において神と万有を同一視する考え方は汎神論と呼んで、宗教としての汎神教と区別する。

 

H聖典を持つ宗教/聖典を持たない宗教

 

神話・教義・儀礼等を文字に書いた聖典を持つ宗教と、持たない宗教がある。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教は、聖典を持つ宗教である。神道は、仏教の経典やキリスト教の聖書にあたる聖典がないとされることが多い。ただし、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』等の古典を「神典」と称し、仏教・キリスト教等の文書に相当するという主張もある。私は、この説を支持する者である。

これに比し、文字に書いた聖典を持たない宗教は、氏族的・部族的な宗教に多い。

 

I啓典宗教/啓典なき宗教

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の聖典は、単なる聖典ではなく、啓典と書く。これらの一神教では、聖典は唯一の神の啓示を記録したものと信じられているからである。

啓典なき宗教が一概に啓典宗教に劣るということにはならない。啓典ではない聖典を持つ宗教は、神や実在に関して異なった考え方に立っているからである。

 

J啓示宗教/非啓示宗教

 

 ユダヤ教、キリスト教、イスラームで教は、預言者または開祖が唯一の神の啓示を受けたと信じている。そうした宗教を、啓示宗教という。これに対し、啓示に基づかない宗教を、非啓示宗教という。

ただし、非啓示宗教であっても、多神教の中には、それぞれが信じる神々の言葉が記されている聖典を持つものがある。ヒンドゥー教や神道がその例である。そうした神々の言葉を一神教における神の言葉と同じように位置づけることは可能である。また祭儀や卜占において神の意思が示されるとか、特異な事象を神の知らせと理解する宗教もある。それゆえ、啓示宗教のみが神の意思を伝えるものであり、非啓示宗教はそうでないとは言えない。

 なお、啓示宗教と自然宗教という対比もある。この場合、自然宗教は、神の啓示ではなく、人間の理性・感情・宗教性に基づく宗教を意味する。

 

K契約宗教/非契約宗教

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は、預言者または開祖が唯一の神と契約を結んだと信じ、その契約が信仰の核心となっている。そうした宗教を、契約宗教という。これに対し、唯一の神との契約に基づかない宗教を、非契約宗教という。

例えば、神道では、人は契約によって神と結ばれるのではなく、神々の子孫としてもともと神々とつながっているとされる。この考え方は、世界の諸民族に広く見られるものであり、キリスト教化する以前の古代ギリシャ人やゲルマン民族もそのように考えていた。

 

L氏族的・部族的宗教/民族宗教/世界宗教

 

氏族・部族の範囲で信仰されている宗教が、氏族的・部族的宗教であり、民族の範囲で信仰されているのが、民族宗教である。民族宗教における民族とは、エスニック・グループを意味する。エスニック・グループは、一般にしばしば民族と訳される近代的なネイション(国家・国民)と区別される。ネイションを持たないエスニック・グループや、複数のエスニック・グループで構成されるネイションもある。

氏族的・部族的宗教や民族宗教に対し、特定の集団の範囲を超えて広がった宗教を、世界宗教という。世界宗教といっても、現実に地球全体に広がった宗教という意味ではない。実態としては、古代の帝国や一つの文明の範囲を超えたものをいう。こうした広域的な宗教は、その地域内及び周辺の諸民族に浸透し得る普及力を持っている。さらに民族や文化を超えた強い普及力を持つ宗教は、世界的に伝播し得る可能性を持つ。その水準に達した宗教こそ、世界宗教と呼ばれるにふさわしい。仏教、キリスト教、イスラーム教がそうである。これらの宗教では、民族の枠組みを超えた教義が説かれている。

 

M救いを求める宗教/解脱を目指す宗教/浄化を願う宗教

 

宗教には、救いを求める宗教、解脱(モークシャ、ムクティ)を目指す宗教、浄化を願う宗教がある。例えば、キリスト教、イスラーム教は、原罪の消滅による救いを求める宗教だが、ヒンドゥー教、仏教は、業の消尽による解脱を目指す宗教であり、神道は、穢れの除去による浄化を願う宗教である。

これらのうち解脱を目指す宗教には、厳しい修行を行い、自分の努力即ち自力によって解脱を目指すものと、神・仏・如来等への信仰を通じて恩寵を受け、それらの助力即ち他力によって解脱を目指すものがある。後者には、救いを求める宗教との類似性がある。

 

N集団救済の宗教/個人救済の宗教

 

 主に集団を救済の対象とする宗教を、集団救済の宗教という。集団を救うことによって、その集団を構成する個人をも救うことを目的とする。ユダヤ教、儒教はその例である。これに対し、主に個人を救済の対象とする宗教を、個人救済の宗教という。仏教、キリスト教、イスラーム教はその例である。個人の救済を通じて集団を救うことを目的とする。

前者の一つであるユダヤ教は、自らを選民と信じる民族が神に集団救済を求める宗教である。そこでは、神が個人を直接対象にして救うという考え方は、成り立たない。後者の一つであるキリスト教では、個人の救済を通じて救われる集団は、ユダヤ民族ではなく、イエスを信じる信徒の集団である。ユダヤ教を脱民族化し、またそれによって個人の救済に志向した宗教が、キリスト教である。

 

O古代的宗教/近代的・現代的宗教

 

宗教の多くは、古代に現れた。その後に現れた宗教は、ほとんどが古代的な宗教が発展または変化したものである。近代以降においても基本的には同傾向であるが、わずかながら科学の知見と矛盾しない合理主義的な教えを目指すものが出現した。20世紀後半以降に現れた現代的な宗教も、大部分はキリスト教、ヒンドゥー教、仏教、道教、神道等の既存の宗教に根差し、これらの宗教の教義の混交や総合を試みたものが多い。現代的な宗教には、科学的な知見を積極的に取り入れ、科学と宗教の融合を試みるものがある。ページの頭へ

 

3.宗教と哲学及び科学

 

原初宗教から高度宗教への発達過程で、象徴的な思考から概念的な思考への変化が現れた。ここで象徴的な思考とは、例えば善悪について善の神と悪の神の物語を語るような思考の仕方である。概念的思考とは人格化された神々の話ではなく、善悪という概念を以て思考するものである。前者にも一定の論理があるが、通常その論理は明確に意識されずに物語の筋道として理解される。後者では概念的な思考に伴う形で反省が行われ、論理が発達する。

神話に基づく古代的な宗教は、象徴的思考のなかに概念的思考を併せ持っている。しかし、その思考は神話を完全に脱却したものではない。そこから概念的思考がさらに発達したところに、哲学が出現した。

哲学とは、古代ギリシャで、紀元前6世紀頃に発生した知的な活動である。「フィロソフィア」(英語philosophy等)は、「知を愛すること」を原義とする。イオニア学派のヘラクレイトスやエレア学派のパルメニデス等は、神話的信仰を基盤としつつ、万物の始源(アルケー)を追求して、「永遠に生ける火」「存在(ト・エオン)」などの概念で表した。彼らに続く者たちは、物事の法則や論理に当たる「ロゴス」を論じた。プラトンは「イデア(形相)」の概念を用いて、物事の合理的認識を進めるとともに、「善(アガトン)」の概念をもって人間の徳の追及を行った。プラトンを始め、これらの哲学者は、当時の古代的な宗教を否定したわけではない。プラトンは、オリュンポス神殿の神々やダイモンと呼ばれる守護霊を仰いだ。また輪廻転生を説くオルフェウス教や数の理法を説くピュタゴラス教団の影響が指摘されている。彼の弟子アリストテレスは、形相―質料、類―種―個等の概念を用いた哲学を説いた。プラトンより神話的信仰は薄くなっているが、アリストテレスの哲学の中心には神があり、神を「質料を持たない純粋形相」であり、「不動の動者」等と概念的かつ論理的にとらえている。

哲学は、ギリシャからローマ帝国を経て、イスラーム文明で発展した。ムスリムの神学者たちは、古代ギリシャの多神教の社会で発達した哲学を、ユダヤ民族に始まる天地・人間を創造したとされる唯一神の信仰に応用した。イスラーム文明で発展した哲学は、12世紀からヨーロッパで摂取され、カトリック教会の神と子と聖霊の三位一体の信仰に応用された。スコラ神学が哲学的な基礎として採用したのは、アリストテレスの哲学だった。

近代西欧では、哲学をキリスト教の神学から自立したものとし、知の純粋形態とみなす。しかし、近代西欧においても、キリスト教と哲学の関係は続いている。物心二元論・主客二元図式・要素還元主義等によって近代哲学の祖とされるデカルトは、キリスト教の神への信仰を否定しておらず、神の存在証明を行っている。また、自由主義・民主主義・資本主義等の基礎理論を打ち立てたロックは、キリスト教の神の信仰に基づく政治社会理論を展開した。18世紀啓蒙主義の代表的存在であるカントは、人間の認識能力を根本的に検討した批判哲学を、キリスト教の信仰による心霊論的信条の上に構築している。19世紀以降の科学的合理主義を経た20世紀以降においても、欧米を中心にキリスト教の信仰に基づく哲学が脈々と受け継がれており、神学的哲学、哲学的神学が展開されている。

このような歴史を持つ哲学は、西洋文明に固有の知の形態である。だが、哲学を概念的思考によって物事の合理的認識や人間の道徳の考究を行う知的な活動と規定するならば、そういう学問は、西洋文明に限らず、他の文明でも発生し発達してきている。

例えば、古代シナでは、天地・宇宙・万物を創造し支配する神を天帝とする天命思想があり、それを背景として、紀元前5〜6世紀から儒教・道教が発達した。これらは、仏教に対比されて「教」の文字をつけて呼ばれるように、古代的な宗教である。例えば、孔子は葬礼を行う巫術者の集団の指導者だったと考えられ、老子は神仙伝説と結びつけられる伝説的な存在である。そうした宗教的な思想の中で、古代ギリシャの哲学と比較し得るような概念的な思考が行われた。孔子の「仁」「忠」「孝」「礼」等の徳目や老子の「道」、易経の「陰陽」等は、その概念的思考の産物である。

また、古代インドでは、ヴェーダの宗教の奥義書ウパニシャッドは、宇宙の根本原理としてのブラフマン(梵)と人間の本質としてのアートマン(我)が同一であるという梵我一如を中心思想とする。ここでも古代ギリシャの哲学と比較し得るような概念的かつ論理的な思考が行われた。ヴェーダの宗教は、そうした合理的認識を含みつつ、輪廻の世界からの解脱を説き、ヒンドゥー教の基礎となった。ヒンドゥー教では、六派哲学が真理に関する様々な見解を示し、高度な哲学的考察を行った。その存在論・認識論・論理学は、ギリシャ系の哲学と双璧をなす。インド文明に特徴的なのは、哲学はあくまで究極の目標である解脱を達成するための手段であり、宗教的実践を伴うものだったことである。

こうした例を見るならば、哲学はギリシャ=ローマ文明、イスラーム文明、西洋文明に限らず、シナ文明、インド文明等においても発生し発達したということができるのである。

宗教と哲学を比較すると、宗教は何らかの体験に基づいている。儀礼、信仰、修行等の実践を通じて得た体験が、宗教における不可欠の要素である。これに比し、哲学は経験一般に基づくことなく、純粋な思考によって真理の認識に到達しようとする傾向がある。宗教の認識は直観的・体得的であり、その表現は象徴的であることが多く、しばしば非言語的である。これに対して、哲学の認識は論理的・対象的であり、表現は概念的であり、常に言語的である。こうした特徴を持つ宗教と哲学は、真理の探究において相補的な関係にある。ただし、真理の究極は、哲学的な認識によっては到達し得ないものであり、宗教的実践によって究極の境地に到達する以外に、悟り得ないものである。

次に、宗教・哲学と対比されるものに、科学がある。科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識をいう。古代から近代の初期までの長い歴史において、科学は宗教と不可分であり、また哲学とも不可分だった。宗教から哲学が分かれ、またそこから科学が発達した。科学もまた古代ギリシャに限るものではなく、シナ、インド、イスラーム等の諸文明においても発達した。近代西欧科学は、それらの諸文明で発達した前近代的な科学を土台として発生したものである。

近代西欧科学は、自然の研究において、客観性・再現性のある現象を対象とし、数学と実験を用いて法則を見出す点に特徴がある。その根本にあるのは、観察と分析であり、仮説を立てて証明を行いながら、理論を構築する。社会に関しても、観察と分析を行い、仮説を立てて論理的に説明を行う方法によって、経験的に実証可能な知識を体系化することが可能であり、自然科学に対して社会科学が発達した。

こうした科学と宗教は相いれないものではなく、科学的な理論と方法を以て、宗教の研究を行うことは可能である。ただし、そのためには、自然を対象とする科学、社会を対象とする科学とは別に、精神を対象とする精神科学が発達しなければならないだろう。また、特に宗教に不可欠である体験の研究が重要となる。宗教における体験については、「6.宗教における体験」の項目に書く。ページの頭へ

 

4.宗教と社会

 

●社会を統合する力

 

宗教は、多くの社会的機能を持つ。特に重要なのは、社会を統合する力である。
宗教は、その社会を統合する機能を発揮することで、共同体の精神的な中核となってきた。氏族的・部族的な社会で執行されていた儀礼は、共同体を挙げて行うものであり、政治・軍事の指導者である首長が中心となって執り行った。そうした社会において、神話的信仰に基づく原初的な宗教は、集団生活の最重要部分を構成していた。

氏族的・部族的な社会が発展すると、氏族・部族の連合に基づく国家が形成された。さらに氏族・部族より大きな規模の集団として民族が形成されていった。古代的な国家は、政治・軍事・祭儀の共同体であり、国家の首長である王が中心となって祭儀を執り行った。そうした王を祭祀王という。王の権力のもとで諸氏族・諸部族の神話が編集されて、民族的な神話が生み出された。

神話は、象徴的な思考に基づく物語である。その象徴的な思考から、概念的思考が発生した。そして、原初的な宗教が発展して、首長のもとに儀礼を司る専門職が置かれ、儀式や慣習が制度化された。そこに発達した民族宗教は、その民族の国家を統合するものであり、国家の精神的な中核となっていた。

ある国家が周辺の国家や氏族・部族を征服・支配して勢力を拡大する過程で、支配集団の宗教が被支配集団に強制されることが、多く起った。被支配集団の神殿・祭壇・聖地等が破壊されたり、祭祀王・シャーマン・神官・僧侶等が殺害されたりして、集団固有の宗教が奪われる。逆に、被支配民族が高度な宗教を発達させていた場合には、その宗教が支配民族に浸透し、これに帰依せしめることもしばしば起こった。

一定の地域で諸民族・諸国家が興亡盛衰を繰り返しながらも、他の地域とは異なる文化を維持・継承している場合、その社会は文明と呼ぶべき社会である。文明とは、ある程度高度に発達した文化を持ち、一般に一つ以上の国家や複数の人種・民族を含む大規模な社会である。

軍事的には優れているが文化的には劣っている民族は、征服・支配した社会の文化を摂取し、それに同化していくことが多い。それによって支配民族は替わっても、文化が継承されることによって文明が持続した。シナ文明の場合は、遊牧民族の侵入により、支配民族の交替が頻繁に起こったが、漢字や儒教等の文化を保持する文明として持続した。

文明が保持する文化の中核には、宗教がある。軍事的な征服や政治的な支配によって勢力を拡大した国家においても、支配集団は、単なる力による支配のみでは、社会の秩序を維持していくことが困難である。そこに異なる文化を含む社会を統合する絹尾を持つ宗教の重要性がある。

古代のメソポタミア文明、エジプト文明、エーゲ文明、ペルシャ文明、ギリシャ=ローマ文明等では、主に支配集団が信奉し、制度的に発達した多神教が存在したと見られる。インド、シナ、日本では、それぞれの原初的な宗教から高度宗教が発達し、今日まで続いている。すなわち、ヒンドゥー教、儒教、道教、神道である。これらは、高度に発達した多神教であり、それぞれの地域で発生・発達した文明の宗教的中核となっている。そうした文明が、インド文明、シナ文明、日本文明である。これらの文明は、古代から存続する文明であり、現代世界においても主要文明に数えられる。また、ヒンドゥー教、儒教、道教、神道は、現代まで続く民族宗教となっている。そして、それらの宗教は、その社会を統合する機能を発揮して働いている。このことは、直接宗教による政治が行われていることを意味しない。その社会の伝統となって、家族・地域・国家を精神的に統合し、さらに諸国家に広がる広域的な社会を文化的に統合する力として働いているということである。

同じことは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教においても指摘することができる。ユダヤ教はユダヤの民族宗教として、古代から今日まで社会を統合する機能を発揮している。キリスト教はユダヤ教から派生し、民族・文化を超えて広がる強い普及力を現し、ローマ帝国の国教となって社会的統合力を発揮した。ローマ帝国の滅亡後は、キリスト教の教会が広大な地域を統合する精神的な権威となった。その統合力は、中世の神聖ローマ帝国を経て、現代の欧州連合にまで続いている。ユダヤ教・キリスト教の影響を受けたイスラーム教は、アラブ系、トルコ系等のイスラーム帝国の精神的中核となり、広大な地域を統合する機能を発揮した。オスマン・トルコ帝国の崩壊後、西洋文明の影響で近代国家が群立するようになった後も、イスラーム教の統合力は失われず、イスラーム文明の中核であり続けている。

 

●宗教と道徳及び法

 

 宗教の社会的な機能の一つに、集団に規範を与える働きがある。人間は、生物的存在として生存・繁栄していくため、また文化的存在として文化を継承・発展させるために、集団生活を営む。集団生活には、社会的な秩序が必要である。秩序とは、物事の規則だった関係である。社会的な秩序を維持するためには、何らかの決まりごとがなければならない。決まりごとがあることによって、集団の成員に「してよいこと」「してはならないこと」「なすべきこと」「なすべきでないこと」等の認識が共有される。

決まりごとには、行為や判断や評価を行う際の基準が必要である。それを規範という。規範には、集団的なものと個人的なものがある。集団的な規範を、社会規範という。社会規範は、集団において共同生活を行うため、成員が行為・判断・評価を行う際の基準として共有されている思想である。個人規範は、これをもとに集団の中で個人が自らに対して定めるものである。

社会規範を示す主なものには、習俗・神話・宗教・道徳・法がある。これらのうち、習俗は最も広い概念であり、ある社会で昔から伝わっている風習や、習慣となった生活様式、ならわしをいう。神話は、宇宙の始まり、神々の出現、人類の誕生、文化の起源等を象徴的な表現で語る物語である。象徴的な思考によって、それを生み出した人々の世界観、人間観、実在観を表している。人間は、神話によって、世界の成り立ちや人間の由来や生きることの意味等を考え、理解し、継承してきた。また神話は、その世界で生きていくための規範を示すものともなっていた。

神話においては、宗教・道徳・法は未分化であり、それらが分かれる前の思考が象徴的な形式で表現されている。しかし、その思考には、独自の論理が見られる。神話は、共同体の祭儀において、人類の遠い記憶を呼び覚まし、人間の自己認識と生きることの意味を確認するものでもあった。

 習俗や神話には、祖先から受け継がれてきた規範が含まれており、それが社会に秩序を与えてきた。宗教は、習俗や神話をもとにして、人間の力や自然の力を超えた力や存在に対する信仰と、それに伴う教義、儀礼、制度、組織が発達したものをいう。宗教の中心となるのは、人間を超えたもの、霊、神、仏、理法、原理等の超越的な力や存在の観念である。その観念をもとにした思想や集団的な感情や体験が、教義や儀礼で表現され、また生活の中で確認・再現・追体験されるのが、宗教的な活動である。宗教は、社会を統合する機能を持ち、集団に規範を与えるとともに、個人を人格的成長に導き、心霊的救済を与える。宗教は、また社会を発展させる駆動力ともなる。国家の形成や拡張を促進し、諸民族・諸国家にまたがる文明の中核ともなる。

 宗教から超越的な要素をなくすか、または薄くすると、道徳となる。道徳は、集団の成員の判断・行動を方向づけ、また規制する社会規範の体系である。善悪の判断や行動の可否の基準を示すものである。道徳のうち、制裁を伴う命令・禁止を表すものが、法である。法は、集団の成員に一定の行為を命じるか、禁じるかし、これに違反したときには制裁を課する決まりごとの体系をいう。法は、成員の間で争いが起こった時は、裁定の基準ともなる。

 近代西欧以前及び以外の多くの社会では、宗教は道徳や法をそのうちに含むものだった。古代のローマ文明やシナ文明では、宗教からある程度自立した道徳思想や法の体系が発達したが、人類史全体では数少ない事例である。近代西欧で初めて宗教から道徳や法が明確に分離し、独自性を持つようになった。

ただし、近代西欧においても、道徳・法が完全に宗教から自立したのではない。道徳や法が示す社会の規範の根底には、ユダヤ=キリスト教の教義や観念があり、根拠を突き詰めると、そこに帰着する。

非西欧では、宗教の内に道徳と法を含んだ社会規範を保っている社会が、今日も多く存在する。イスラーム教やヒンドゥー教はその典型である。そして、超越的な力や存在の観念を堅持し、それを中心とした社会規範を保ちながら、近代化を進めているのが、イスラーム文明とインド文明である。近代西欧における宗教・道徳・法の分離形態は、非西欧社会で広く承認された形態ではないのである。ページの頭へ

 

5.宗教と政治

 

●政教の関係

 

 宗教の社会的機能には、政治との関係を除いて論じることができないので、次にその点について述べる。宗教と政治には、不可分の関係がある。政治は集団における秩序の形成と解体をめぐる相互的・協同的な行為であり、とりわけ権力の獲得と行使に係る現象をいう。権力とは、他者または他集団との関係において、協力または強制によって、自らの意思に沿った行為をさせる能力であり、またその影響の作用である。その根底にあるのは、集団における意思の決定と発動である。

集団における意思の決定と発動によって、権力が発生し、行使される。また、権力の行使によって集団の統合力が働く。その権力的な統合を意味づけるものとして、宗教がある。古代から、宗教に表現される人間観、世界観、実在観をもとに、権力の根拠づけがされてきた。

 近代西欧以前及び以外の社会では、政治は共同体の宗教と不可分のものだった。氏族・部族やその連合による国家では、祭儀と政治は一体のものとして行われた。意思決定のための評議は、神や祖霊の前で行われ、神聖な儀式を伴っていた。世界各地において、古代の国家では国王は祭祀王つまり政治のために祭儀を司る王だった。

集団の統合力が脱宗教化したのは、近代西欧においてである。西欧独特のものであるローマ・カトリック教会の教皇権の支配から、教皇権と皇帝権の並立、国王権の伸長、王権から民権への移動が歴史的に継起した。そして、18世紀後半のフランス革命を通じて、国民主権の国家が生まれ、国家の統合力が脱宗教化した。

18世紀以降、近代西欧では社会の世俗化が進むにつれ、宗教的な基盤を持たない政治的な集団が多く出現した。政治が他の社会現象に対し、相対的な自律性を持つようになった。これに伴い、政治を独自の社会現象と見る学問が発達した。

ただし、フランスにおける統合力の脱宗教化の過程は複雑である。市民革命によって、カトリックを国教とすることが廃止され、いわゆる人権の一つとして信教の自由が保障された。しかし、革命の過程で一時、理性が神格化されたり、「至高の存在」が祭壇に祀られたりして、疑似宗教的な動きがあった。ナポレオンは、カトリック教会と協約(コンコルダート)を結び、カトリック教会は国教ではないが、それに近い「フランス人の最大多数の宗教」という立場になった。これを公認制度という。その後、1870年に成立した第三共和政のもと、共和主義者・社会主義者が台頭し、国家の宗教からの中立を求める政教分離(セキュラリズム)を主張し続けた。その結果、1905年に政教分離法が成立し、政教分離が制度化された。政教分離法は、国家が信教の自由を認める一方、いかなる宗教も国家が特別に公認・優遇・支援することはなく、また国家は公共秩序のためにその宗教活動を制限することができることを明記した。また、公共団体による宗教予算の廃止、教会財産の信徒への無償譲渡、公教育での宗教教育の禁止等を定め、ナポレオン以来のコンコルダートは破棄されることになった。こうしてフランスでは、政教分離法によって、政教分離の原則が確立された。ただし、同法は、礼拝への公金支出禁止の特例として学校の寄宿舎・病院・監獄・兵営には司祭の配置が認められるなど、厳密な政府と教会との分離ではなかった。

フランスの政教分離は、国家の非宗教性・宗教的中立性を意味するライシテ (laïcité) の原則に基づく。ライシテが憲法に規定されたのは、さらに遅く1946年の第四共和制憲法においてである。以後、その原則がフランス憲法に引き継がれている。

わが国では、一部の憲法学者が日本国憲法は国家と宗教の厳格な政教分離を定めたものだと解釈している。だが、フランスの例が近代国家の典型ではない。むしろ彼ら憲法学者に影響を与えているのは、左翼の思想である。ロシア革命後のソ連では、フランスより脱宗教化が徹底された。唯物論的共産主義の体制がつくられ、それが東欧・中国等に広がった。ソ連の崩壊後、旧ソ連圏には、ロシアを中心とした独立国家共同体(CIS)が存在するが、これは非宗教的な政治的統合による。また、今やソ連に替わって、唯物論的共産主義の旗手となっている中国は、共産党の支配のもとで、脱宗教的な体制を維持している。わが国の一部の憲法学者は、共産主義の影響のもとに、厳格な政教分離こそ国家のあるべき姿と主張しているのである。

だが、政教分離は、もともと政府とキリスト教の特定の教会(Church、教派)の分離を定めるものである。すなわち、国教を設けることを否定したり、特定の教会(教派)を政府が公認・優遇・支援することを禁じるものである。政教分離を定めている国は、わが国のほか、アメリカ合衆国、オーストラリア等である。ただし、政教分離といっても、国家と宗教の関係を全くなくすものではなく、それぞれの国家の伝統が維持されている。

例えば、アメリカ合衆国は、かつてイギリスの植民地だった。イギリスは英国国教会を国教としている。イギリスからの政治的な独立は、事実上、国教会からの離脱を伴った。その独立当時の宗教的事情を考慮し、アメリカは緩やかな政教分離とする限定分離をとっている。国家行事では、しばしばユダヤ=キリスト教の儀式が行われる。大統領の宣誓においては、大統領が聖職者の介添えを得て、聖書に左手を載せて宣誓する。どの教会(Church)の聖職者を採用するかは大統領の選択によるが、宣誓において宗教(Religion)は不可欠の要素となっている。また、歴代大統領はしばしば演説の最後に“God bless America.”(神よアメリカに祝福を与えたまえ)と述べる。このように、宗教が政治と結びついて社会的な統合力を一定程度発揮している。このことと、米国における政教分離は矛盾しない。

また、アーリントン国立墓地には、「無名戦士の墓」があり、その前で年3回、大統領が参加して、ユダヤ=キリスト教式の戦没者追悼式を行う。このようにアメリカでは、国家と宗教(Religion)は不可分の関係を持つ。ただし、特定の教会つまりキリスト教の特定の教派(プロテスタント諸派、ローマ・カトリック等)とは関係を持たないようにし、複数の教派の教会(Churches)と緩やかな関係を持つ形をとっている。

ヨーロッパに目を転じると、まずEUは現代の世界で政治的統合力による広域共同体の最大のものだが、根底には西方キリスト教による統合力が働いている。また、ヨーロッパでは、歴史的にキリスト教の特定教派を国教としてきた国が多く、現在も政治と宗教が密接な関係を保っている国が少なくない。

イギリスは、信教の自由を保障しつつ、英国国教会を国教とし、国王(女王)が国教会の首長を務めている。また。英国の国歌は“God Save the Queen”(神よ女王陛下を守り給え)であるように、宗教が政治と結びついて、社会的な統合力を発揮している。

20世紀後半から国教の規定を止めた国が増えているが、今もデンマークは福音ルーテル派を、フィンランドはフィンランド福音ルター派教会とフィンランド正教会を国教としている。アイスランドもルーテル教会を国教に定めている。これらの国では、信教の自由を認めながら、特定の教会を国教に定め、その教会に対してのみ政府は保護・支援を行なっている。こうした国では当然、政治と宗教は切り離せない。

イタリアは、第2次世界大戦後に制定された憲法でカトリック教会を国教に定めた後、1985年以降、政教条約(コンコルダート)方式に替わった。スイス、ベルギー等は、優勢な宗教を尊重する寛容令方式を取っている。

それゆえ、国家と宗教の厳格分離は、国際標準では全くない。各国は自らの国の伝統に基づいて、国家と宗教のあり方を定めているのである。

 

●わが国における政教分離

 

わが国では、日本国および日本国民統合の象徴である天皇は、神道の儀礼を司る。国民の多くは、新年には神社に初詣に参り、地域の神社の祭りに参加する。天皇が神道の伝統を保っていることを国民の多くは、わが国の文化として理解している。国家と神道の結びつきを徹底的に排除しようとしているのは、共産主義者や一部のキリスト教徒等に限られる。

そうした中で、しばしば政治と宗教の問題として論じられるのが、戦没者の慰霊と靖国神社を巡る問題である。その論議で自明のことのように語られるのが、政教分離である。憲法にそういう言葉が使われているのではない。条文を見るならば、日本国憲法で国家と宗教の関係を定めているのは、第20条と第89条である。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

これらの条文の規定を併せて、一般に政教分離規定というのである。政教分離とは、第20条の冒頭に明らかなように、信教の自由の保障を目的とする制度である。その手段として、国家と宗教団体との過度の関わりを排するものである。現行憲法に定める政教分離とは、国家と宗教の分離ではない。つまり、国家と宗教を厳密に分離して国家が宗教と一切の関係を持たないということを定めているのではない。国家が特定の宗教団体に対して援助・助長、又は圧迫してはならないということを定めたものである。この点は、日本国憲法の制定にあたったGHQの当事者が、政教分離規定は国家と宗教の分離(Separation between State and Religion)ではなく、国家と宗教団体の分離(Separation between Church and State)であると明言している。Churchはキリスト教の教会または教派を意味する言葉だが、ここではキリスト教以外の宗教に一般化して、宗教団体と理解できる。また、ここにいう国家とはStateつまり政府であり、Nationつまり共同体としての国民国家ではない。つまり、現行憲法の規定の趣旨は、政府(State)と宗教団体(Church)の分離であって、国民国家(Nation)と宗教(Religion)の分離ではない。

現に第20条1項は、宗教団体について、国から特権を受けたり、政治上の権力を行使したりしてはならないとしている。また第89条も、宗教団体への助成禁止条項である。つまり、日本国憲法は、政府と宗教団体の分離を謳っているのであって、条文を素直に読めば、国家から宗教を完全に排除するという発想は出てこない。

ところが、これに異説を唱えたのが、憲法学者・宮沢俊義である。宮沢は、わが国の憲法解釈に多大な影響を与えてきた。宮沢の著書『日本国憲法「コメンタール」』は、政教分離についてフランスをモデルにしている。フランスは、先に書いたように、1905年の政教分離法により厳格な政教分離をとってきた。宮沢は日本国憲法の政教分離規定もフランスと同じに解釈していいと、唐突に厳格分離説を主張した。彼の影響を受けた学者や法律家は厳格分離説を取っている。だが、ヨーロッパでも厳格分離を取ってきたのは、フランスのみであり、他に政教分離を定める国は緩やかな分離としている。

もしわが国で厳密に政教分離を適用するなら、多くの面に混乱を生じる。例えば宗教法人が経営する学校や、特定の宗教を信奉する私立学校には、政府からの補助が禁止されることになり、経営が困難になる。また、国宝や重要文化財に指定されている神社や仏閣等の宗教的文化財への補助金も支出出来なくなる。それゆえ、宮沢説は、歴史や伝統に基づくわが国の現実を無視した観念論に過ぎない。

司法においては、最高裁が昭和52年(1977年)7月の津地鎮祭訴訟で、三重県津市が市立体育館の起工に当たり、神道式地鎮祭を行ったことに関する訴訟において、市が神職への謝礼と供物料を公金から支出したことを合憲とした。その際、判決の中で、次のような判断基準を示した。すなわち、目的が宗教的な意義をもち、その効果が特定の宗教を援助、または他の宗教を圧迫するような場合でない限り、憲法に違反しないという、いわゆる「目的効果基準」である。

この規準は、仮に憲法が国家と宗教の完全な分離を理想としていたとしても、現実の国家制度としては、自国の社会的・文化的諸条件に照らして、国家と宗教とのある程度のかかわり合いは認めざるを得ないという判断に基づくものである。

「目的効果基準」は、わが国の現実を踏まえて、国家と宗教との関わりを一定限度容認する緩やかな分離主義に則っている。これを限定分離説という。宮沢らによる厳格分離説を退けるものである。その後、国や地方自治体と宗教との関係をめぐる各地の玉串料訴訟、忠魂碑訴訟などで、この法理論が踏襲されている。これは国民の常識に合致するものである。

どこの国でも、宗教的な伝統があり、それを尊重している。尊重していないのは、宗教を否定・敵視する唯物論的共産主義の国だけであろう。わが国には、わが国の宗教的伝統があり、それに基づいて国家と宗教の関係を定めればよい。日本国憲法も、国家と宗教の関係を完全に断ち切るものではない。むしろ国民の多くは家族の葬儀や先祖の慰霊において、神道や仏教の伝統に則っており、葬儀や慰霊を国家行事として行う際、神道や仏教の伝統に則って行うことは、多くの国民感情にかなっている。靖国神社の儀式についても当然、日本固有の宗教性を保持して良いのである。

国家と宗教の厳格分離説は、西洋近代の思想である合理主義によって、わが国の伝統・慣習・文化・歴史・道徳を否定するものである。それはかえって、特定の思想によって、信教の自由を抑圧するものである。厳格分離説は極端化すると、唯物論的共産主義による宗教の否定に行き着く。厳格分離を説く論者には、容共的な近代化主義者や左翼とそのシンパが多いことに注意すべきだろう。

先に書いたアメリカ、イタリア、スペイン、北欧等の欧米諸国の例を見ると、宮沢の説が、いかに極端な説かがわかるだろう。

仮に戦前のわが国が神道を特別に位置づけていたとしても、それをもって反近代的とか非民主的とはいえない。イギリス並みということだろう。また、仮に現在のわが国において、国家と神道または仏教のいくつかの宗派とが緩やかな関係をもったとしても、それはアメリカ並みということになろう。

それゆえ、わが国はわが国の文化・伝統に基づいて、国家と宗教の関係を定めればよいのである。現行憲法は、占領下にGHQによって押し付けられた憲法であり、日本の歴史を断ち切り、伝統を破壊するためにつくられたものである。そのことを認識し、日本人自らの手で、新しい憲法をつくり、その中で、わが国に合った政教関係を定めればよいのである。

 

関連掲示

・拙稿「慰霊と〜日本人を結ぶ絆

 

●宗教と政治活動

 

次に、宗教と具体的な政治活動の関係について述べると、わが国では、公明党が創価学会を母体とした政党として知られている。同党は、直接党名や政策に創価学会を出してはいないが、事実上の宗教政党である。そうした政党が政権与党になっているが、この点は現行憲法において違憲ではない。

欧米において、米国では主要な政党は宗教政党ではないが、宗教勢力を有力な支持団体に持つ。これに比し、ヨーロッパではキリスト教政党が政治に参画している国が多数ある。

キリスト教政党が政権に参加している代表的な例を、ドイツとイタリアに見ることができる。ドイツでは、歴史的にカトリック政党の中央党が活動した。現在政権与党であるキリスト教民主同盟(CDU)は、第2次世界大戦後に設立された。特定教派によらないキリスト教政党であり、キリスト教民主主義・自由主義・社会保守主義を掲げる。CDUの姉妹政党にバイエルン州のみを地盤とするキリスト教社会同盟(CSU)があり、連邦議会では統一会派 (CDU/CSU)を組んでいる。イタリアでは、第2次世界大戦期にキリスト教民主党が結成され、大戦後、冷戦終結後まで常に第1党の地位にあった。同党は、キリスト教民主主義とも言った。その後、自治によるキリスト教民主主義、キリスト教中道民主連合、欧州民主連合・人民に分かれた。どれもカトリック主義の政党である。2017年11月現在、政権与党の一角を、キリスト教民主主義の政党連合「アレア・ポポラーレ」が占めている。

他にヨーロッパにおける主なキリスト教政党ないしキリスト民主主義に近い政党として、次のようなものが挙げられる。一部は消滅したり別の政党に改編されている。

西欧では、イギリスのキリスト教民主党・キリスト教人民同盟、アイルランドのフィネ・ゲール、フランスの旧社会民主中道派・旧フランス民主連合、オランダのキリスト教民主アピール・キリスト教同盟、ベルギーのフラームスキリスト教民主党・中道民主人道党、ルクセンブルクのキリスト教社会人民党、スイスのキリスト教民主人民党等である。

北欧では、スウェーデンのキリスト教民主党、デンマークのキリスト教民主党、ノルウェーのキリスト教人民党、フィンランドのキリスト教民主党、リトアニアの祖国同盟=キリスト教民主党等である。

東欧では、スロヴェニアの新スロヴェニアキリスト教人民党、セルビアのセルビアキリスト教民主党、チェコのキリスト教民主同盟=チェコスロヴァキア人民党、モルドヴァのキリスト教民主人民党、ルーマニアのキリスト教民主民族農民党等である。

また、ヨーロッパ規模の政党として、ヨーロッパ人民党があり、欧州諸国中40か国の保守主義政党およびキリスト教民主主義政党のうち、74の政党が加盟している。また、同党より左寄りのヨーロッパ民主党があり、キリスト教の左派が参加している。このようにヨーロッパでは、キリスト教と政治の間には深い関係がある。

非西洋社会のキリスト教国では、ブラジルはヨーロッパのスイス、ベルギーと同じく、優勢な宗教を尊重する寛容令方式を取っている。

次に、非キリスト教文化圏では、中東・北アフリカ等のイスラーム教国の多くで、聖典『クルアーン(コーラン)』に基づく宗教政治が行われている。

また、わが国は古来、祭政一致の国柄であり、天皇は祭儀を行い、神意に沿った政治を心がけてきた。戦後は憲法で緩やかな政教分離が取られているが、天皇が国家と国民統合の象徴とされ、国会開会式に天皇が臨席し、三権の長は天皇が親任するなど、独自の伝統が息づいている。

これらの多くの事例が示しているのは、政治的権力は、集団の共同性に基づき、またその宗教的伝統を保ちつつ行使されてきたことである。

以上のように宗教と政治には、現代の世界でも深い関係がある。そのことを認識し、宗教の持つ社会的な機能を再評価する必要がある。ページの頭へ

 

6.宗教における体験

 

●宗教的な体験の諸種

 

宗教は何らかの体験に基づいており、体験は宗教における不可欠の要素である。宗教的な体験には、様々なものがある。ここに主なものを記す。

 

@  一体感

 儀礼を執り行ったり、それに参加することによって、自分を超えたものとの一体感を体験する。その一体感は、集団としての一体感であったり、精神的指導者との一体感であったり、祖先の霊との一体感であったりする。

 また、祈りや瞑想を行うことによって、宇宙との一体感を感じたという体験が報告されている。しばしばその体験は悟りとか神人合一などと呼ばれる。一種の変性意識状態であり、日常的な意識では見えないものが見えたり、五感では感じられないものが感じられたと主張される。それが真実であるかどうかの確認・証明の方法は、未だ確立されていない。

 

A再生感

 自己が一度死に、再生することを象徴的・疑似的に体験する。通過儀礼には、加入儀礼のように、この意味が含まれているものがある。胎内に回帰し、この世に再び誕生する体験としてイメージされる場合もある。

神話に基づく始源回帰儀礼では、死と再生が、単に個人的な体験ではなく、世界の終焉と再生としても体験される。

 

B罪の自覚と回心

 自己の由来や過去の行為への反省を通じて、罪を自覚し、神仏等の超越的な存在への信仰に心を向けることを体験する。しばしば宗教的な信仰に入るきっかけとなる。

 

C自己を超えた力や意思

 自己を超えた何者かによって導かれているとか、守られているという感覚を体験する。そこに超越的な力や意思を感じる。導きや守りをする他者は、神・仏・霊等とイメージされる。

 自分の意思に関わらず、身体が動く不随意運動や、言葉を話す不随意発話を、宗教的に意味づける体験もある。

 

D生命の自覚

 自己が自己を超えるものによって生かされているという事実を自覚する。呼吸、心拍、自然治癒等の自らの意識を超えた生命活動の不思議を深く実感する。その生命の働きに、宗教的な意味を見出す。

 

E超越的なもの

 自己や人間を超えたものへの感動、驚き、畏れを体験する。その力や存在の源については、可視的・可触的な自然として感じる場合と、自然を超えたものとして感じる場合がある。この体験は、歓喜や慰め、安心をもたらしたり、超越的な人格から愛や慈悲を受けていると理解されたりする。父や母のイメージと結びつけられることが多い。

 

E  超能力

普通の人間にはできないことを実現できる特殊な能力で、今日の科学では合理的に説明できないものを、超能力という。ジョセフ・バンクス・ラインが創始した実験科学的な超心理学では、超能力をESP(Extrasensory perception、超感覚的知覚)とPK(Psychokinesis念力)に分ける。ESPは、五感や論理的な類推等の通常の手段を用いずに、外界に関する情報を得る能力をいう。ヒーリング(医療によらない癒し)、テレパシー、予知、透視、遠隔視等を含む。PKは、物体が既知のなんらの物理的原因なしに、心に念じるだけで動く現象をいう。PKには、目の前の物体の移動、自己の身体の遠方への移動、遠隔地にある物体の移動、写真への念写等がある。

こうした超能力は、しばしば宗教的な観念を以て意味づけられる。霊力、神通力、法力等と呼ばれる。

ESPやPKを持つ者を、超能力者という。超能力者ならぬ普通の者でも、虫の知らせ、胸騒ぎ、嫌な予感、幸先の良い予兆、正夢、火事場の馬鹿力等を体験することがある。こうした現象の中には、しばしば因果律では説明のできない意味深い偶然の一致が認められる。そして、宗教的に意味付けられることがある。

 

G人間以外のものとの意思疎通

 動物・植物等の実在するものと、心が通うとか意思が通じると感じる体験をする。動物や植物を愛する人にはよくある体験だが、普通の人より強く、深く感じる人は、その体験に宗教的な意味づけをする場合がある。

対象が、実在の確認されていない宇宙人や高次元の知的生命体、天使、妖精等とイメージされることもある。

 

H霊的感覚

 亡くなった家族や先祖、友人等の霊を見たり、その存在を感じたり、それらの霊と意思を交わすことを体験する。対象は、直接自分と関わりのない霊的存在と考えられる場合もある。他者にまつわりついたり、取り憑いたりする霊について述べたり、霊界が見えるなどとしてその様子を語る体験もある。

 こうした体験が、何らかの客観的存在とのかかわりを意味するものか、幻想・錯覚であるかどうかを判別する科学的な方法は、未だ確立されていない。

 死に瀕して生と死の境をさまよったり、いったん死んだとみなされた後、再び生き返った者が語る体験を、臨死体験という。自分の魂が体外に離脱して、自分や周囲を見たり、死後の世界への過程またはその場所に行ったと述べるものが多い。こうした体験を宗教的に意味づける場合がある。

 

I奇跡

 常識では考えられない神秘的な出来事や既知の自然法則では説明のできない現象を、奇跡という。原因不明や有効な治療法のない病気の治癒、致死的な事故災難における無事、絶対不可能と思われることの実現等が挙げられる。

 こうした体験は、しばしば宗教的な観念を以て意味づけられる。また、宗教的な信仰が奇跡の起こる要因と考えられることが多い。

 奇跡と呼ばれる現象の中には、単なる幸運な偶然ではなく、客観性、再現性が認められる現象がある。そうした現象は、現代の科学が解明できていない自然界の力や法則の存在を暗示している。

 とりわけ特定の集団において、奇跡が多く起り、その奇跡の起こる確率が大きく、範囲が広く、質が高い場合には、その奇跡は科学的にいう実在の原理、宗教的にいう真理の働きと考えられる。

 

J感謝と調和

 上記のような様々な体験は、しばしば深い感謝の気持ちを引き起こす。感謝の対象は、超越的な力や存在、自然、親や家族、周囲の人々等と多様である。その感謝の思いから、自分の存在や世界の成り立ちの意味を深く理解する。また、多くのものに調和を見出し、また自らをそれらと調和して生きようと考えたり、宗教的な観念でこれを意味づけたりする。感謝と調和の体験によって、この上ない歓喜を覚えたり、人々や万物への愛を感じるようになったりもする。

 

 以上、主な宗教的体験を記した。これらの体験は、何か客観的な力や存在の作用によってもたらされたものであるかどうかに関わらず、体験する主体にとっては、重要な意味を持つ。その人の人生の転機となったり、人格の変容をもたらしたりする例が多くある。

 

●祈りの効果は確認されている

 

 宗教的な体験において、科学的にその効果が確認されているものが、祈りである。

祈りについては、既に多数の実験が行われており、アメリカでは、厳密な実験環境の下で行われ、正統な科学の基準を十分満たした百を超える実験のうち、実に半数以上で、祈りが様々な生物に多大な影響をもたらすという結果が出ている。
 祈りにはある程度の治癒効果があることを示すことに成功したのは、元カリフォルニア大学の心臓学の権威ランドルフ・ビルド教授である。ビルド教授は、心臓治療ユニットに入院した393人の患者に対し、次のような実験を行った。患者を、祈りを受けるグループ(192人)と、祈りを受けないグループ(201人)とに、振り分けた。振り分けはコンピューターで無作為に行われ、患者、看護婦、医師は、どのグループにどの患者が入るかは知らされない。いわゆる二重盲検法という厳密な実験方法が採られた。
 ビルドは、患者のために祈る人たちとして、アメリカ全土のローマ・カトリック教会とプロテスタント教会から募集して、患者の名前と病状を教え、毎日その人たちのために祈るように依頼した。しかし、祈り方についてはなんの指示も与えなかった。祈る人は患者一人につき、5人から7人という割合だった。
 その結果は、大きな反響を呼んだ。祈りを受けた患者のグループ(A群)は、祈りを受けなかったグループ(B群)とは驚くほど異なる結果を示したからである。

@抗生物質を必要とした人は、A群はB群に比べて5分の1。
A心臓疾患の結果、肺気腫になった人は、A群はB群に比べて3分の1。
 (6人に対して18人)
B喉に人口気道を確保する気管内挿管を必要とする人は、A群ではゼロ。
  B群では12人が人口気道を必要とした。
C死亡した人は、A群では少なかった。

 この実験は、祈りには効果があることを示した。ある人の祈りが、遠くいる人の健康状態に影響を及ぼすことができること、しかも何百マイルあるいは何千マイルも離れていても、距離的なへだたりは障害にはならないことも明らかになった。
 こうした祈りの実験は、人間を対象としたものだけでなく、マウス、ひよこ、酵母菌、バクテリア、その他様々な種類の細胞などにまでわたっている。
 中でも、オレゴン州セーラムにある研究機関スピンドリフトが行った実験は、広く知られている。スピンドリフトでは、様々な祈りの効果を客観的に評価するという試みが、十年以上にもわたって行われた。例えば、ライ麦の種子をそれぞれ同数の二つのグループに分ける。それらを、植木屋が使う軽土、バーミキュライトを満たした浅い容器に入れる。その容器の真ん中には紐を張り、種子を二つに分ける。そして一方の側の種子についてのみ、発芽をするように祈る。もう一方の側の種子については、祈らないようにする。
 こうして、ライ麦の種子が育ってくると、発芽した数を数える。すると、何度実験しても、祈りをした側の種子の方が、祈らなかった側よりも、はるかに多く発芽したのである。この実験は、多くの人によって何度も繰り返し確認されている。
 この実験は、祈りという人間の行為が、人間や人間以外の生命体に対して影響をもたらすことを、明らかにしている実験の一つである。しかも、この影響は、測定可能であり、また再現可能である。
 筑波大学名誉教授・村上和雄は、最近の祈りに関する実験の結果を報告している。村上は国際的な分子生物学者であり、1983年、世界に先駆けてヒト・レニン遺伝子の解読に成功したことで知られる。村上は平成30年1月11日付の産経新聞に寄せた記事に、次のようなことを書いている。
 すべての生き物は、生命活動に必要な遺伝情報を、DNAの塩基配列として暗号化している。また、時間や環境の変化に応じて必要な遺伝情報を取り出す仕組みとして、遺伝子の発現をスイッチのようにオン・オフしながら調節している。「オン」とは遺伝子の発現が活性化している状態、「オフ」とは遺伝子の発現が弱まる、あるいは停止した状態である。個々の状態もオン・オフに影響する要因の一つである。
 村上らは、宗教的な祈りや瞑想を研究対象にしている。祈りや瞑想は単なるリラクセーションや集中力アップの手段ではなく、大自然と調和した一体感や神仏との合一体験などの意識状態の変性を伴うものであり、そこに「祈りや瞑想」の本質があると考えたからだという。
 村上らは、まず、祈りや瞑想が身心にどのような影響を及ぼしているかを調べるため、高野山真言宗の僧侶における遺伝子発現の活性化の検討を行った。その結果、僧侶のグループには、「僧侶型オン遺伝子」が見出された。その遺伝子はいずれもI型インターフェロン関連遺伝子だった。I型インターフェロンは、ウイルスの増殖を抑えたり、感染した細胞を除去したりすることによって、ウイルスから身体を守っているタンパク質である。僧侶のグループにI型インターフェロン関連遺伝子が見出されたことは、僧侶になるための修行か、あるいは日常の行において獲得・維持された資質であり、また僧侶では自然免疫系が全体に活性化していると考えられる。
 また、村上によると、僧侶のグループは他人の感情や行動に対する共感の度合いが高かった。これは、僧侶の心理的な感受性の強さの表れといえる。また、共感性と僧侶型遺伝子に一定の関連が見い出された。ここから、共感という心理的な感受性と、自然免疫機能という身体的な感受性に共通の基盤があることが推測される。村上は、瞑想や祈りによって共感性や慈悲の心を育むことが、免疫機能の強化につながったのではないかと考えている。日々の生活の中で行じられた祈りや瞑想が、ある心理状態を作り、その状態が積み重なることで、遺伝子を介して体に影響を及ぼしたのではないかと推察されるというのである。
 私見を述べると、この実験結果とそれに基づく推察は、仏教の一宗派に限らず、広く宗教一般の修行者にも見出される可能性がある。また、出家者や専従者に限らず、祈りや瞑想を日常的に実践している一般人においても、同様の傾向が見出されることも想定できる。優れた祈りや瞑想の方法があれば、より効果的なものとなるだろう。特に祈りの対象に、強い治癒力や感化力があれば、実践の効果が明確に実証されるだろう。祈りの際に唱える言葉の効果の違いも明らかになるだろう。今後、さらなる研究が進むことを期待したい。

 

●宗教的な救済

 

宗教的な体験において、体験者にとって重要な意味を持つのは、それが救済と感じられる場合である。宗教的救済にもまた様々なものがある。その主なものを記す。

 

@  精神的な救済

 心を救われるもの。現実は変わらないが、心のあり方や感じ方が変わる。心の支えや慰め、安心、勇気、喜び、解放感等が得られる。単なる気休めという程度のものもあるが、ストレスが減少することは、心に余裕をもたらす。さらにストレスに対する耐性が強まれば、人生の諸問題に冷静に、タフに対応できるようになる。また、無益なもの、無意味なもの、あるいは有害なものへのとらわれが取れると、考え方が柔軟になる。思考や感情が転換されるならば、行動が変化したり、逆境を乗り越えたり、ピンチをチャンスに転じることができるといった場合がある。

 宗教的な信仰を通じて、性格的な欠点が直ったり、学業・職業等の能力が伸長したり、天分を発揮できるようになる体験もある。

 さらに、生きていることの意味を肯定し、生きがいを感じたり、世界の有意味性を実感したりする。それによって、人格の成長や向上を体験する者もいる。

 

A  身体的な救済

 病気や健康上の問題を救われるもの。多くの場合は、医療や訓練を受けながら、心の持ち方を明るく、前向きにすることで、免疫力が高まったり、病気や障害に負けない意志力を発揮できるようになる。

 顕著な場合には、現代医学では原因不明の病気や、有効な治療法のない病気が治癒した体験例が多く報告されている。治癒の原因は、本人の意志の力によるものと、信仰を通じた他者の助力によるものがある。後者は、宗教独自の救済の典型の一つである。

 

B  家族的な救済

 家族関係の悩みが好転または解決されるもの。夫婦、親子、兄弟、親族等の間の対立・抗争が収まる。家族間に調和が生まれ、家庭が円満になる。

 子供が授かりにくい家系に子供が授かったり、生まれる子供に心身の問題がありがちな家系に健康な子供が生まれたりする。身体的な救済とも関係するが、難産の傾向のある女性が安産できる場合もある。

 

C  社会的な救済

 人間関係の問題を救われるもの。学校・職場・地域等で周囲の人々との間で起こる摩擦・軋轢が収まる。周辺に調和が生まれ、集団の意志疎通が改善される。

 

D  運命的な救済

 精神的、身体的、家族的、社会的な諸問題がいくつも重なり合っている場合、人はそれを自分の運命として受け止めたり、宿命と悲観したりする。そして、それを超越的なものの意思やそれによる定めと考えたり、自分の輪廻転生における過去世の行為の結果と推測したり、先祖から受け継いだ悪い原因の結果等と考える。

 宗教的な信仰がこうした諸問題に解決をもたらすとき、これを運命的な救済と呼ぶことができる。不運を幸運に、不幸を幸福に転じる。個人や家系における悪いパターンを断ち切る。宿命を転換して、運命を好転させる。こうしたことを実現する運命的な救済は、宗教的な救済の典型の一つである。

 

E  死後的な救済

 人生最後に迎える死からの救いは、宗教の最大の課題である。死に意味を見出し、死の恐怖や苦痛を除き、死後について安心を与えることは、宗教の大きな役割である。この点については、拙稿「宗教、そして神とは何か」の「7.生と死の問題」、「8.大安楽往生と魂の救い」に書いたので、そちらを参照のこと。

 

F  民族的・国家的な救済

 戦争、他の民族や国家による迫害や支配、大規模な災害等から、人民を救うことは、宗教に期待される救済の一つである。

 

G  世界的・人類的な救済

世界平和の実現、人類全体の幸福の実現は、宗教的な救済の究極のものである。

 

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7.宗教と自己実現

 

●マズローの欲求段階説

 

 宗教は何らかの体験に基づいているとともに、また何らかの実践を伴うものである。宗教的実践には、実践の目的とその結果がある。目的と結果には、それぞれ受動的な側面と能動的な側面がある。受動的側面とは、他者から与えられることを目的とし、またその結果、得られるものである。能動的側面とは、自ら体得することを目的とし、またその結果、得られるものである。受動的側面の目的と効果は、先に書いた宗教的な救済の内容と一致する。すなわち、精神的・身体的・家族的・社会的等の救済である。一方、能動的側面の目的と効果は、伝統的に解脱、悟り、神人合一等といわれてきたものだが、本稿では非宗教的な実践を含む広い概念として、自己実現を用いる。

自己実現について考えるには、人間の総合的理解を深める必要がある。そのためには、心理学者アブラハム・マズローの理論を参考にすべきと私は考える。

マズローは、本当の人間性を知るには、健康な人間の研究をしなければならないと考えた。そして彼は、「非常に優秀な人々、もっとも健康な人々、見つけ出せる限りの人間の範たる人々」を研究した。リンカーン、アインシュタイン、シュバイツァーなどの偉人や健康で豊かな精神生活を送っている多数の人々を研究して彼が発見したのは、精神的に健康な人は、例外なく自分の職業や義務に打ち込んでおり、その中で創造の喜びや他人に奉仕する喜びを感じていることである。またこれらの人々には、自由で客観的なものの見方をし、他人に対しては寛容でユーモアがある、という共通点があった。マズローは、こうした画期的な研究をもとに、健康と成長のための理論をめざした。

マズローは、この理論において、人間の欲求は、次の5つに大別されるという説を唱えた。

(1)生理的欲求: 動物的本能による欲求(食欲、性欲など)
(2)安全の欲求: 身の安全を求める欲求
(3)所属と愛の欲求: 社会や集団に帰属し、愛で結ばれた他人との一体感を求める欲求
(4)承認の欲求: 他人から評価され、尊敬されたいという欲求(出世欲、名誉欲など)
(5)自己実現の欲求: 個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求。さらに、人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望

 マズローは、このような人間の欲求が階層的な発展性を持っていることを明らかにした。生理的な欲求や安全性の欲求が満たされると、愛されたいという欲求や自己を評価されたいという欲求を抱くようになり、それも満たされると自己実現の欲求が芽生えてくるというのである。
自己実現は、self-actualizationの訳語である。
 自己実現こそ人生の最高の目的であり、最高の価値である、とマズローは説く。そして、人間が最も人間的である所以とは、自己実現を求める願望にあると説く。自己実現の欲求は、まず個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求である。「ある個人にとってこの欲求は、理想的な母親たらんとする願望の形を取り、またある者には運動競技の面で表現されるかもしれない。さらに別の者には、絵を描くことや発明によって表されるかもしれない」とマズローは言う。さらに、この欲求がより高次になると、自己の本質を知ることや、宇宙の真理を理解したいという欲求となり、人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望となって、より高い目標に向かっていく。

マズローによると、自己実現をした人とは「人生を楽しみ、堪能することを知っている人間」であり「苦痛や悩みにめげず、辛い体験から多くのものを悟ることができる人間」である。そうした人は「感情的になることが少なく、より客観的で、期待、不安、自我防衛などによって、自分の観察をゆがめることが少ない。また創造性や自発性に富み、自ら選択した課題にしっかり取り組む姿勢を持っている」。また「開かれた心を持ち、とらわれの少ない積極的存在だ」とマズローは言う。これに比し、現代人に多い神経症は、自己実現への道が閉塞した状態だとマズローは見た。
 マズローの研究によると、自己実現の欲求は、他の欲求が満足させられたからといって必ずしも発展するとは限らない。食欲・性欲や名誉欲など、下位の欲求の段階でとまっている人が多いからである。
 マズロー以前の心理学は、研究の焦点を下位の欲求に合わせ、より高次の欲求にはあまり注目していなかった。例えば、マルクスの人間観は、19世紀の唯物論的心理学に基づき、「生理的欲求」と「安全の欲求」を中心としている。そのため、人間の幸福の実現には食物と安全が重要だとし、より高次の欲求には否定的だった。
一方、フロイトは無意識の研究を行い、それまでの人間観に画期的な変化をもたらした。彼は性の問題を通じて、より上位の欲求である「所属と愛の欲求」の研究をしたといえる。しかし、性の観点からすべてを理解しようとしたために、人間理解を狭くしてしまった。マルクスとフロイトの唯物論的人間観は、下位の欲求に焦点を合わせ、上位の欲求を軽視したものである。

マズローによって、高次の欲求は、低次の欲求と同じく、人間の中に本能的に内在しているものであり、潜在意識下の衝動の一部をなすことが、広く理解されることになった。彼の研究は、青年教育や経営管理などに応用されている。
 マズローの理論は、単なる欲求とその充足の理論ではなく、人格の成長・発展に関する理論と理解することができる。人間は人格的存在であり、人格を形成し、人格的に成長・発展することを欲求として潜在的に持つ。人格は、親の愛情、言語・習慣・道徳等の教育を通じて形成される。人格の基礎が出来れば、さらに成長・発展したいという欲求が働く可能性が生まれる。
 自己実現の欲求は、この人間に内在する人格的な欲求であり、道徳的な能力の発現である。人間には自己実現を達成する能力が潜在しており、その能力が発揮されることによって、人格の高度な成長・発展が可能となる。自己実現の欲求が働くとき、人は自己実現を目指して、自らの人格を成長・発展させようとする。この欲求は、基本的には下位の欲求が充足された後に追及されるが、人によっては、下位の欲求の充足如何に関わらず、自己実現の欲求の実現を求める。例えば、宗教的修行者、賢者等にそれが見られる。

自己実現には、具体的な人格的目標が必要である。父母、祖父母、教育者、集団の指導者等が目標となり得る身近な存在である。また、しばしば釈迦、孔子、プラトン、イエス、ムハンマド等の精神的な指導者が目標とされる。それらの指導者への感動、敬服、憧憬等の感情を通じて人格的感化を受ける。人格的感化は、近代西欧的な理性の働きだけでなく、感性の働きによるものであり、相互間の共感の能力によるところが大きいと考えられる。

 マズローの事例研究によると、自己実現を成し遂げた人は、しばしば、さらに自己超越を求めるようになる。自己超越の欲求とは、自己を超え、もっと包括的なものを求める欲求である。そして、他の多くの人々のために尽くしたり、より大きなものと一体になりたいと願ったりする。自己超越とは、自己が個人という枠を超えて、超個人的(トランスパーソナル)な存在に成長しようという欲求である。それは、悟り、宇宙との一体感、宇宙的な真理や永遠なるもの、社会の進化や人類の幸福などの、より高い目標である。古今東西の宗教や道徳でめざすべき精神の状態とされてきたものである。

 マズローは、自己実現の心理学から、自己超越の方向に進み、個を超える、より高次の心理学を提唱した。これがトランスパーソナル心理学である。マズローは、「トランスパーソナル」とは「個体性を超え、個人としての発達を超えて、個人よりもっと包括的な何かを目指すことを指す」と規定している。(註 1

 人間には、こうした自己実現を経て自己超越に向かう人格的な欲求が生得的に内在している。その欲求は、アニミズム・シャーマニズム等の宗教の原初的な形態にもさまざまな形で表れている。人類史に現れた諸文明は、原初宗教から発達した高度宗教をその中核に持ち、その多くの宗教は死後も人間は霊的な存在として存続することを説いている。

マズロー以後、トランスパーソナル心理学は、心理学という枠組みを超え、さまざまな学問を統合するものとなり、包括的な視点に立って人間のあり方を模索する学際的な運動となっている。これをトランスパーソナル学と呼ぶ。トランスパーソナル学では、人間は霊性を持つ存在であることを認めている。霊性は心霊性と同義である。人間に生死を超えた心霊性を認めてこそ、人間観は身体的な局所性を超えて、真に時空に開かれたものになる。死をもって消滅するものは、真の人格とは言えない。

 21世紀に確立されるべき人間観は、19世紀以来の唯物論的人間観を脱却し、こうした霊的な存続可能性を持つ人格を中心にすえた心霊論的人間観でなければならない。ただしそれは、単に伝統的な人間観への回帰ではなく、科学に裏付けられた新しい心霊論的人間観でなければならない。トランスパーソナル学は、そうした科学時代の心霊論的人間観の形成を推進するものと期待される。(註 2ページの頭へ

 

(1)マズロー、トランスパーソナル学については、拙稿「人間には自己実現・自己超越の欲求がある〜マズローとトランスパーソナル学」をご参照下さい。

  目次から06へ

(2)心霊論的人間観については、拙稿「フロイトを超えて〜唯物論的人間観から心霊論的人間観へ」「カントの哲学と心霊論的人間観」をご参照下さい。

 

●ユング心理学における自己実現

 

 マズローが提唱したトランスパーソナル学は、カール・グスタフ・ユングの心理学を一部摂取し、継承し、発展させている。ユング心理学は、宗教的実践を通じて自己実現をめざす際にも、多くの示唆に富んだものである。

ユングは、精神分析学者ジークムント・フロイトの最大の弟子だった。フロイトは、人間の心を、「意識」「前意識」「無意識」の三層に区別し、これを発展させて、 「エス (イド)」「自我」「超自我」という心の構造論を説いた。フロイトは、無意識を、生物学的・衝動的なものであり、意識によって洞察され、打ち克たれるべきものと考えた。意識としての自我とは、本能に対する理性であり、理性的な自我意識である。フロイトは、理性的な自我を中心として、意識が無意識を支配すべきものと考えた。

ユングは、無意識を意識によって支配すべきものとは考えなかった。むしろ、無意識は超個人的な人類的生命につらなる創造的なものであり、個々人の精神活動は無意識からエネルギーを得て創造性を発揮すると考えた。

ユングによると、心には、「意識」「個人的無意識」「集合的無意識(collective unconscious)」の三つの水準がある。フロイトのいう無意識は、このうちの個人的無意識のことである。ユングは、臨床心理学者として患者の治療に当たりながら、世界諸民族の神話、宗教、文学、美術等を研究し、宗教や民族・文化等の違いを超えて共通して現れる象徴があることを発見した。そして、個人的無意識の底に、個人を超えた集合的無意識を想定した。「集合的」とは、個人だけではなく、民族・人類などに共通する無意識という意味である。そして、ユングは、夢や精神病者の妄想、神話、宗教、芸術等に共通して現われる主題は、集合的無意識に由来するものだと考えた。

「集合的無意識」が働くときには、特有のイメージが現われる。ユングは、それを「元型的イメージ」と呼んだ。元型は、archetypeの訳語である。元型的イメージは、集合的無意識の内容となるものである。元型的イメージには、影、アニマ、アニムス、老賢者、太母、神聖な少年、自己などがある。

ユングによると、人間の心は、意識と無意識の相補作用による自動調節的な体系である。彼は、意識の中心点を「自我(ego)」と呼び、意識・無意識を合わせた心全体の中心を「自己(self)」と呼ぶ。そして、個人が意識的な自我の殻を突き破って、無意識の領域をも統合した全体的な「自己」を実現することを目指した。ユングは、これを「自己実現(Self-realization)」という。ユングのいう自己は、集合的無意識に根ざしている。そして、自己実現は、各個人の意識の奥にある自己が象徴や隠喩を通じて自覚化されていく過程である。この過程は、自我と自己が一体化し、不可分な状態になっていくことであり、これをユングは、「個性化(Individualization)」とも呼んだ。

自己実現の過程は、個人に内在する可能性を実現し、人格を完成していくことである。ユングは、それが「人生の目標」であるとし、「すべて良いものは高くつくが、人格の発展は最も高価なものである」と述べている。ユングによれば、意識的な自我と集合的無意識に内在する自己とが不可分化することが、人格の発展である。

 ユングは、自己実現には二つの主要な側面があると言う。一つは、「内的・主観的な統合の過程」であり、他の一つは「客観的関係の過程」であり、「時として、どちらか一方が優勢となることもあるが、どちらも欠かすことができない」と言う。自己実現とは、自分の中に引きこもったり、隠遁者のように孤立した環境で追及するものではなく、家族や社会において他者との関わり合いの中で、自他ともに相助的に努力していくべきものである。この点において、ユングの心理学は医師が精神病者の治療に用いる理論であるとともに、宗教的実践において健常者が自らの人格の発展のために参考にできる理論ともなっている。

 

(1)フロイトについては、拙稿「フロイトを超えて〜唯物論的人間観から心霊論的人間観へ」をご参照下さい

(2)ユングについては、拙稿「人類の集合的無意識を探求〜ユング」をご参照下さい。

 

●マンダラと「聖なる中心」

 

ユングは精神的な危機にある患者の治療の過程で、しばしば患者の心に、円または4の倍数を要素とする幾何学的な模様が現れることを発見した。ユングも自らの危機において、同じイメージが自分の心に現れることを体験した。ユングは、そうしたイメージが西洋の神秘主義者の幻視に多く描かれ、チベット密教ではマンダラと呼ばれ、瞑想的修行や儀礼の場などで使われていることを知り、これを自己元型によるイメージと解釈した。

 ユングは、マンダラは人が心の分裂や不統合を経験している時に、それを統合しようとする心の内部の働きの表れとして生じる場合が多い、と報告している。彼が治療に当たった患者の心にマンダラが現れると、心に平静や安らぎがもたらされた。マンダラを描くことで、患者は自分の心を客観視し、心の統合に取り組むことができるようになるのだった。

ユングは、マンダラの出現は「明らかに、自然の側からの自己治癒の企てであり、それは意識的な反省からではなく、本能的な働きから生じたものである」と述べている。いわば、心の統合を回復しようとする精神的な自然治癒力の働きである。

マンダラを最も重視してきたのは、インドからチベットに伝わった密教である。解脱を目指す宗教である仏教では、厳しい修行の過程で修行者がマンダラのイメージを抱くことがしばしばあったのだろう。そのイメージは、幾何学的な構図を持つ荘厳な曼荼羅図に描かれている。密教の系統である真言宗では、胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅が有名である。

仏教では、マンダラのmandaは「真髄」「本質」を表し、laは「成就」を表すとし、マンダラは「真髄の成就」を意味すると解釈されている。曼荼羅図は、悟りの境地を平面に表したものと考えられている。

マンダラにおいて最も重要なのは中心であると私は考える。円または4の倍数を要素とする図形は、しばしば中心を強調する。中心は、宗教学者のミルチャ・エリアーデが世界の諸宗教や神話の研究において最も重視した象徴である。「聖なる中心」とか、中心のシンボリズムとも呼ばれる。

「聖なる中心」は生命と宇宙の源であり、「死と再生」が起こる聖なる場所である。そこでは「対立物の一致」が実現する。また、すべてのものの差異が還元される。そして、すべてのものの秩序と調和が確認され、世界と自己に意味が充満される。例えば、日本神道における天之御中主神は、まさにこうした「聖なる中心」を名称とする神格である。

私は、ユングのマンダラとエリアーデの中心は、同じ対象をとらえたものと考える。ユングが研究したように、個人においては、精神的な危機の克服の過程で、しばしばマンダラが描かれる。またエリアーデが研究したように、集団においては、共同体の祭儀の中で、聖なる中心が確認される。そして、マンダラは中心を示し、中心はマンダラの中心であるとの関係があるというのが、私の理解である。例えば、キリスト教の十字架は、4の倍数の要素を持つマンダラであり、これは縦横の線が交差して中心を示している。中心は、イエスが死に復活する聖なる場所を象徴している。

ユングのマンダラとエリアーデの中心は同じものを指示すると仮定すれば、人は自己の象徴を通じて、心の全体性を回復するとき、自分の心の中心と宇宙の「聖なる中心」が合致することによって、宇宙の全体性を自覚し、同時に宇宙における自己の真相に覚醒し得るということができるだろう。これを伝統的な宗教では、梵我一如、悟り、自性開顕、神人合一等と呼んできたと考えられる。

 

●ソンディの家族的無意識の重要性

 

ユングの理論は完全なものではない。むしろ大きな欠陥がある。その欠陥を補うものとして、私はソンディ・レハールの理論に注目している。ソンディは、当時、唯物論の共産主義国だったハンガリーで、人間の心に注目し、科学的な運命心理学を打ち立てた。彼は「先祖から遺伝する無意識」の統計研究と分析治療を行い、フロイトの個人的無意識と、ユングの民族的・人類的な集合的無意識の間に重要なものがあることを発見した。それは「家族的無意識」である。

フロイトは、晩年、精神分析による臨床経験から「精神分析が見事な治療実績をあげることができるのは、主に精神的外傷が原因である場合だけ」と言い、「素因的なもの」は「分析が終結不可能」つまり治療が困難だと認めた。「素因的なもの」とは、先天的な要因である。個人が誕生時や時や生後に受けた後天的な心の傷(トラウマ)は、個人的な無意識に刻まれたものである。これに対し、先天的な要因とは、遺伝的なものであり、心理学的には個人を超えた無意識に根源を持つものである。フロイトは個人的な無意識よりも深い無意識の層があることを認めていたと考えられる。

ソンディが発見した家族的無意識とは、個人的な抑圧の過程にも、また集合的な無意識の過程にも帰せしめることのできない「潜在的な家族的素質」すなわち、個人のいわゆる遺伝素質である。そして、ソンディは、個人の中に抑圧されている祖先の欲求が、個人の運命を決定するというという理論を打ち立てた。それが運命心理学である。

ソンディはある男が外見上「健康な」女性にひどく惚れ込み結婚したが、この女は、結婚後数年経ってから、夫の母親がすでに十数年間に亘って悩んできたのと全く同じ症状――自分が誰かを毒殺するのではないかという強迫思考――を示したという実例に関心を持った。そして、この男の無意識の中には、彼の母親の病的な素質が力動的に作用しており、この男の無意識の中にあるこのような潜在的な家族的な素質が、運命的に結婚の対手の選択を規定したのである、と想定した。そして、数百例の結婚を分析して、「家族的無意識」の概念に到達した。

また、ソンディは、ドストエフスキ−の『罪と罰』および『カラマ−ゾフの兄弟』を読んで、「ドストエフスキ−は、なぜ彼の小説の主人公にとくに殺人者を選んだのであろうか」ということを、自らに問うた。そして、ドストエフスキ−家の伝記を調べてみると、祖先の系列の中には、実際に殺人者が現れていた。Aは、使用人に命じて、彼女の夫を家の中で殺させた。Bとその息子は、某軍人貴族の殺害に参加した等々。ドストエフスキ−は自らの家族的な遺伝素質の中に殺人者を潜在的に担っていたゆえに、殺人者の精神生活を表現することができたし、また表現せずにはいられなかった。こういうことが遺伝学的な資料によって裏付けられた。

 ソンディは、人間における無意識を構成する根本的な要素は性、感動発作、自我、接触の4つの衝動であり、それを構成するのは、8つの遺伝因子の働きであるとする作業仮説を立てた。そして、個人が帰属する家系的な遺伝圏、遺伝趨性(結婚・職業・友情・疾患・死亡の趨性)、祖先の欲求と祖先像、その自演などの知見と学説を構築し、それを測定し記号化するテストを考案した。それが運命分析テスト(ソンディ・テスト)である。

ソンディは、運命分析テストを用いて、人々の衝動的性向を調べた。その結果、恋愛、友情において特定の人が引き合うことばかりでなく、職業を選ぶ際や、自殺する際の方法にも先祖の傾向が表れることを統計的に研究、発表している。すなわち、人は過去の先祖の行動や性格のパターンを受け継いでおり、恋愛、友情、職業、病気および亡くなり方などにおいて、無意識に祖先の影響を受けた行動をするというわけである。

 ソンディの運命分析は、精神疾患や精神障害を決める遺伝素質が、両面的なものであることを明らかにする。すなわち病的な遺伝素質は、同時に高度な精神能力の素質でもある。例えば、癲癇と宗教的神学的な能力、分裂病と精神医学や精神病理学の能力、躁鬱病と芸術・絵画の能力等が対になる。二つの方向のいずれを選択するかを決めるのは、環境・素質・意思による。ソンディの運命分析は、こうして無意識的選択行動の心理学となった。その応用領域は「運命疾患」と呼ばれるもの、すなわち恋愛、友情、職業、趣味における選択行動障害や、身体的な病気および精神的疾患の選択、特に犯罪形式の選択、神経症の種類の選択、さらに死亡様式(傷害,殺人,自殺)の選択の領域に及んだ。

ソンディは、単に精神だけでなく身体も、衝動や遺伝性質だけでなく魂の作用も、更に現世だけでなく来世の世界の現象も、深層心理学的研究の対象とした。

こうして、ソンディはフロイトの個人的な無意識の層とユングの民族的・人類的な集合的無意識の層との間にあった断裂を、家族的無意識の層によってつないだ。

 

●家族的無意識と因縁果の法則

 

私は一般的に言えば人生相談となるだろうことを仕事の一部として37年(平成30年4月現在)になる。相談を受ける相手は精神病の人もいるが、大多数は健常者である。相談の過程でその人々からユングのいう元型的イメージを示されたことは、ほとんどない。逆に相談内容の大多数は、ソンディが研究したような家族的無意識に関わるものだった。

そうした経験に基づき、私は、自己実現の過程に関して、個人的無意識と集合的無意識だけでなく、家族的無意識の存在に注目すべきだと考えている。集合的無意識については本稿に書いてきたが、個人的無意識は、フロイトが研究したような記憶や感情、欲望等のほか、呼吸・心拍・消化・免疫・睡眠等の生命活動を含む、脳及び脳と繋がっている情報系の情報の総体といえるだろう。一方、家族的無意識とは、祖先からの情報を伝え、私たちの人生を左右し、さらに子孫にまで影響を与え続けるものであり、フロイトが手を焼いた「素因的なるもの」のありかと考えられる。この祖先から継承する無意識は、日本で因縁といわれているものと共通性がある。

因縁とは、もともと因・縁・果の法則を指す言葉である。因は原因、縁は条件・環境、果は結果を意味する。インド仏教では輪廻転生の観念により、個人の魂が様々な生命の形態を取って生と死を繰り返し、前世で積んだ原因が現世の運命に影響すると考える。日本の仏教では神道の影響を受け、親から子、祖先から子孫ヘの原因の継承を重視する。そして、因縁は自分が生来、積み重ねた悪い原因や、先祖から受け継いだ悪い原因の意味でも、しばしば使われる。これを悪因縁ともいう。人々は、経験的に、先祖と子孫が似たような行動や不幸を繰り返していることに気づき、この悪いパターンから逃れようとした。そして、因縁果の法則を理解し、悪因縁の消滅・浄化が日本の仏教や神道では修行や供養の重要な目的の一つとなっている。キリスト教は、この世代間に受け継がれる負の原因の重要性をよく認識していない。最初の人類であるアダムとバの原罪だけでなく、その後の世代が積み重ねてきた悪因縁の影響を把握できていない。

日本の仏教や神道で修行や供養の重要な目的となっている悪因縁の消滅・浄化は、自己実現の過程においても、不可欠の課題となる。というのは、自己実現の過程は、個人的無意識における負の要素を解消していくだけでなく、家族的無意識における負の要素を解消していく過程でもあるからである。

個人的な無意識に蓄積された負の要素には、出産時の苦痛、恐怖や不安、憎悪、怨恨、執着等の感情、過剰な欲望等がある。家族的無意識に蓄積された負の要素には、自分が所属する家系における、ある種の病気にかかりやすい傾向、性癖、陥りがちな行動や事故、人間関係の争いのパターン、死の恐怖と苦痛の記憶等がある。

個人的な無意識の中の負の要素は、主に自分が積んだものだが、それらですら自分の努力によって解消することは容易でない。まして世代間にわたり、膨大な人数の先祖に関わる家族的な無意識の中の負の要素は、解消が一層困難である。だが、個人的な無意識に積み重なった負の蓄積と、家族的無意識に積み重なった負の蓄積をともに除去していってこそ、集合的無意識に積み重なった負の蓄積が除去されていくことになると私は考える。仏教的・神道的な概念で言えば、個人的な悪因縁、家族的な悪因縁が消滅・浄化されていくことによってのみ、民族的・人類的な悪因縁が消滅・浄化されていくと考えるわけである。

個人的・家族的な悪因縁の消滅・浄化は、自力つまり自分の努力だけでは容易でない。また、他力の助力を得ても、負の要素が大きいとそれに圧倒されてしまう。その結果、自己実現の過程で、病気や事故、精神の異常等の障害にぶつかって挫折することになる。この点において、フロイトもユングもまたソンディも、東洋・日本の宗教が千年を超える伝統の中で培ってきた知恵と経験に及んでいない。また、現在の段階でのトランスパーソナル学も同様である。自己実現を追求する者は、こうした東洋・日本の宗教の知恵と経験に学ぶ必要があると私は考える。

悪因縁の消滅・浄化がなしえたかどうかは、人生の最後である死の時に結果が出る。理想的な死については、拙稿「宗教、そして神とは何かに書いた大安楽往生をご参照願いたい。

 

●宗教の役割と真価

 

古来、宗教は、それを実践する者にユングの言う自己実現すなわち自我自己不可分化の過程について教え、その過程を歩む者を守り、導く役割をしてきた。

ユングは、「宗教とは、ある目に見えず制御することもできない要素を、慎重に観察し顧慮することであって、人間に固有の本能的な態度である。それは明らかに心のバランスを保つのに役立っている」(「現在と未来」)と述べている。

自己実現の過程で最も重要なことの一つは、元型の一つである「影」への対応である。影とは人格の劣等な部分であり、人間の原始的で本能的な側面である。人は、しばしば自分の中にある劣等な部分を他者に投影し、その他者に軽蔑や怨恨や憎悪や敵意を向ける。この他者に投影されるイメージが、影である。

ユングは、影の中には本当の自分である「自己」が隠れているに違いないと考えた。そして、「自己へ至る道は影を通ってゆく。影――彼こそは『門番』であり、『入口の見張り番』である」と述べている。それゆえ、影の存在に気づき、それが自分の心の一部であることを認めることが、「自己へ至る道」となる。そして、影と戦ってそれを克服することが、自己実現において重要な努力となる。このことを、最も深く認識し、実践の重要課題としてきたのが、従来の宗教である。

 仏教には、釈迦について次のような説話がある。釈迦は難行苦行の後、その愚かさを知り、菩提樹の下で瞑想して悟りに至ったとされる。釈迦が悟りを得る直前に、悪魔マーラが現れ、彼を誘惑して、正しい道から外させようと試みる。

マーラは言う。「ブッダ(目覚めた人)になるとか、解脱を得ることなど、できるものではない。それよりもこの世の支配者として皇帝になればいいではないか。でなければ天上に昇って私の位につくがよい」と。だが、釈迦は心を動かさない。

次に、マーラは若さと美貌を誇る娘たちに対して、「さあ、いっしょに遊びましょう。瞑想して悟るなんて無駄なことよ」と言って、釈迦を誘惑させる。だが、やはり釈迦は全く心を動かさない。

するとマーラがいる間は近づいて来なかった天上の神々が釈迦の周りに現れ、色とりどりの花をまき散らして釈迦を祝福した。マーラとその仲間たちも、神々の間から顔をのぞかせ、一緒に釈迦の心意気を喜んだ、とされる。

キリスト教の新約聖書には、次のような記述がある。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(マタイによる福音書第4章1節〜11節 新共同訳)

 

 これらの釈迦とイエスの話は、非常によく似ている。開祖に関することで仏教がキリスト教に影響を与えたとは考えにくい。それゆえ、集合的無意識から現れた共通したイメージが示されたものだろう。釈迦/イエスは自己実現の過程における最高到達点を象徴している。一方、彼らを誘惑するために現れた悪魔は、影の元型的なイメージである。

釈迦/イエスの話が示唆しているのは、自己実現への道を歩む者は、影としての人間性の劣等な部分、人間の内なる悪魔的なもの、魔性を克服しなければならないということである。人格的に高く向上を続けても、心に隙や慢心を生じ、内なる悪魔的なものに支配されるようになると、物欲・金銭欲・性欲等の欲望を制し得なくなったり、権力欲・支配欲が高じて独裁者や虐殺者に変じたりする。

 宗教的な天才ならぬ凡人が自己実現の過程を堅実に進むためには、確かな指針と優れた指導者が必要である。心の現象について深い知識を持たない者が、独力で進もうとすると、予期せぬ難関にぶつかったり、陥穽におちいってしまう。自分の統合に失敗して精神病になったり、人格が崩壊してしまう場合もある。

人類の長い歴史において、既存の宗教は自己実現への道を導くものとして機能してきた。しかし、宗教の指導者の中にも、修行と善行の実践の過程で、悪や魔の道に迷い込む者がある。明らかに精神に異常をきたしたと見られる者もいる。一切の妄見邪念を払拭して、完全に人間性の負の側面を克服し、精神的な勝利者となり得る者は、極めて希のようである。確実な道を歩むには、その自分を守護し、善導する正しい指針と、人格の発展を促す偉大な力を受けることが、極めて重要となる。

ここで偉大な力とは、個人的無意識・家族的無意識に蓄積した負の要素を消滅・浄化し得る精神的なエネルギーである。単に考え方や方法を示すだけでなく、実際に悪因縁を消滅・浄化し得る力があってこそ、宗教は人々の自己実現への道を照らし、導くものとして、真の価値を発揮するだろう。ページの頭へ

 

8.科学と宗教の融合

 

●科学と宗教が融合する時代へ

 

第2次世界大戦後の現代世界において、西欧発の近代化が、地球規模で加速度的に進行している。私はこの過程を「近代化革命」と呼んでいる。近代化革命の進行は、科学の発達と宗教の後退の歴史だった。西欧では15世紀以降、「呪術の追放」によってキリスト教が合理化され、17世紀の科学革命によって合理主義が進展した。18世紀以降、啓蒙主義の高揚が人知への過信をもたらした。その結果、キリスト教の信仰が後退し、それとともに西欧人の多くは神を見失った。また近代西洋文明の世界的な影響で、人類の多くが神を見失うことになった。神といってもここでいう神は、聖書の物語の中に描かれている神ではない。真の神とは、宇宙・自然・生命・精神を貫く法則であり、万有顕現の原動力のことである。私の神の分類における理力神がこれである。現代人は、こうした意味の神を見失い、自らが神に成り代わったかのように錯覚している。キリスト教をはじめとする宗教は、先進国を中心にますます後退し、人類の精神性・霊性は、物質的な享楽の中に埋没しかかっている。西欧を中心として世界的に、近代化革命の進展とともに「脱宗教化=世俗化」とニヒリズムが広がっている。

ところが驚くべきことに、20世紀に入って以降、科学の側から、この展開を逆転させる動きが現れている。科学の先端において、精神性・霊性への関心が高まってきている。科学の時代から精神の時代へ、あるいは物質科学文化の時代から精神科学文化の時代への転換ともいえるような、巨大なパラダイム・シフトが起こりつつある。

物理学では、20世紀初頭に現れた量子力学と相対性理論によって、パラダイム・シフト、すなわち認識の枠組みの転換が始まった。そのことを明らかにした物理学者の一人が、フリッチョフ・カプラである。カプラは、名著『ターニング・ポイント』(1984年)で、次のように書いている。

「現代物理学から生まれつつある世界観は、機械論的なデカルトの世界観とは対照的に、有機的なホリスティック(全包括的)な、そしてまたエコロジカル(生態学的)な世界を特徴としている。それはまた、一般システム論という意味で、システム的世界観と呼ぶこともできる。そこではもはや、世界は多数の物体からなる機械とは見なされていない。世界は不可分でダイナミックな全体であり、その部分は本質的な相互関係を持ち、宇宙的過程のパターンとしてのみ理解できるとする」

カプラは、こうした現代物理学の世界観が、東洋に伝わる伝統的な世界観に非常によく似ていることを発見した。『老子道徳経』『易経』や仏典に表わされている宇宙の姿と、量子力学や相対性理論が描く世界像とが近似している、とカプラはいう。このことを『物理学の道(タオ)』(1975年、邦題『タオ自然学』)という本で発表し、世界的に話題を呼んだ。

これは決してカプラ個人の見方ではない。20世紀の名立たる物理学者たち、不確定性原理のウェルナー・ハイゼンベルグや波動方程式のエルヴィン・シュレーディンガーが、かつては単なる神秘思想と思われていたインド哲学に深い関心を持ち、コペンハーゲン解釈のニールス・ボーアは晩年シナの易学の研究に没頭した。カプラの師、ジェフリー・チューは自分の靴ひも理論が大乗仏典の内容とそっくりなことに驚愕している。

カプラは言う。「東洋思想が極めて多くの人々の関心を呼び起こしはじめ、瞑想がもはや嘲笑や疑いを持って見られなくなるに従い、神秘主義は科学界においてさえ、真面目に取り上げられるようになってきている。そして神秘思想は現代科学の理論に一貫性のある適切な哲学的裏付けを与えるものという認識に立つ科学者が、その数を増しつつある。人類の科学的発見は、人類の精神的目的や宗教的信条と完全に調和しうる、という世界観である」(『ターニング・ポイント』)

このように説くカプラは、科学と宗教が融合する新しい時代の到来を、世界の人々に伝えているのである。

 

●「心のアポロ計画」を推進する

 

大脳にホログラフィー理論を応用したことで知られる大脳生理学者カール・プリグラムは、次のように語っている。

「従来の科学は、宗教で扱う人類の精神的側面とは相容れないものだった。いま、これが大きく変わろうとしている。21世紀は科学と宗教が一つとして研究されるだろう。このことはあらゆる面でわれわれの生き方に重大な影響を及ぼすだろう」(プリブラム他著『科学と意識』)

科学と宗教が一つのものとして研究され、それが私たちの生活に大きな影響をもたらすーーこうしたことを唱えているのは、カプラやプリブラムだけに止まらない。物理学や生物学や認知科学など、様々な分野の科学者が、科学と宗教の一致を語っている。

われわれは、科学と宗教が分離し対立した近代を経て、あらめて科学と宗教がより高い次元で融合すべき新しい段階に入っているのである。

ここにおいて、再評価されつつあるのが、宗教の存在と役割である。カプラは、次のように書いている。

「われわれが豊かな人間性を回復するには、われわれが宇宙と、そして生ける自然のすべてと結びついているという体験を回復しなければならない。宗教(religion)の語源であるラテン語のreligareはこの再結合を意味しており、それはまさに精神性の本質であるように見える」と。(『ターニング・ポイント』)

まさしく、われわれは、科学の時代から精神の時代、物質科学文化の時代から精神科学文化の時代への転換期にある。この時代の方向指示者の一人として、数理科学者のピーター・ラッセルは、「心のアポロ計画」という注目すべき提案をしている。ラッセルは、名著『ホワイトホール・イン・タイム』(1992年)で、次のように言う。

「今日、人類はまっさかさまに破局へ突っ込んでいく事態に直面している。もし本当に生き残りたかったら、そして私たちの子供や、子供の子供たちに生き残ってほしかったら、意識を向上させる仕事に、心を注ぐことこそが最も大切なことである。破壊的な自己中心主義から人類を解き放つための全世界的な努力だけが必要である。つまり、人類を導くための地球規模のプログラム、”心のアポロ計画”が要求されているのである」

アポロ計画とは、1960年代に宇宙時代を切り拓いた米国の宇宙開発計画である。この計画は、物質科学文化の輝かしい成果を歴史に刻んだ。人類が月に着陸し、月面から撮った宇宙空間に浮かぶ地球の写真は、人々に地球意識を呼び起した。これに比し、「心のアポロ計画」は、この宇宙時代にふさわしい精神的進化を追及するプロジェクトである。

このプロジェクトでは、心理的な成熟や内面の覚醒を促す技術の研究開発に焦点が当てられる。そこに含まれるテーマは、次のようなものである。

 

◆神経科学と心理学に焦点を当て、心の本質を理解する。

◆自己中心主義の根拠をもっと深く研究する。

◆霊性開発のための現在ある方法を全世界的に調査する。

◆新しい方法を探すとともに、現在ある方法の協同化を進め、発見されたものの応用と普及を図る

 

提唱者ラッセルによると、この計画に巨額な資金は必要としない。

「毎年全世界が“防衛”に費やしている1兆ドルの1パーセント足らずで、すべてがうまくいくはずである」と、ラッセルは言っている。

私は、1990年代半ばからこの「心のアポロ計画」に賛同してきた者である。世界の有識者は、早急にこの精神科学発達プログラムを促進すべきである。だが、ラッセルが「心のアポロ計画」を提唱してから、既に30年以上経っているが、世界規模での具体的な取り組みはされていない。国連等の国際機関で、すみやかにその取り組みを開始すべきである。

科学とは、体系的で、経験的に実証可能な知識を言う。科学には、自然を対象とする自然科学と、社会を対象とする社会科学がある。私は、これらに加えて、今後、精神を対象とする精神科学が発達しなければならないと考える。これまで精神に関する学問には、心理学、精神医学、脳科学、認知科学等があるが、これらを総合し、さらに発展させる必要がある。私は、その発達を促すべきものが、超心理学、トランスパーソナル学であると考える。また、体系的で、経験的に実証可能な知識を科学と言うならば、宗教は精神に関する科学の中心に置かれるべきものと考える。ただし、既存の宗教は、非科学的な要素が多く、今後、精神科学へと発展し得る可能性を秘めた段階にとどまっている。われわれは、今日、この21世紀において、既存の宗教を超えて新しい精神科学を発達させるべき地点に立っている。

 

●宗教の改革と進化が求められている

 

21世紀には、科学と宗教が融合する新しい時代が実現すると予想される。また、そうした時代の実現を加速するために、人類の精神的進化を追及するプロジェクトの推進が求められている。

ここにおいて、既成の宗教には大きな改革が求められる。われわれの目を自然の世界に転じれば、そこでは様々な生命体が共存共栄の妙理を表している。人智の限界を知って、謙虚に地球上で人類が互いに調和し、また動植物とも共存共栄できる理法を探求することが、人類の進むべき道である。宗教にあっても科学・政治・経済・教育等にあっても、指導者はその道を見出し、その道に則るための努力に献身するのでなければならない。特にセム系一神教は、これまでの固い殻を破って脱皮しなければならない時期にある。また非セム系多神教には、それを促進すべき役割がある。そして、宗教における変化は、科学・政治・経済・教育等にも大きな変化を促すだろう。

現代は科学が発達した時代である。従来の宗教では人々の心は満たされない。従来の宗教は、天動説の時代に現われた宗教である。今では、地球が太陽の周りを回っていることを、小学生でも知っている。パソコンやスマートフォンや宇宙ステーション等がないどころか、電気や電燈すらなかった時代の宗教では、到底、現代人の心を導けない。

伝統的宗教の衰退は、宗教そのものの消滅を意味しない。むしろ既成観念の束縛から解放された人々は、古代的な宗教から抜け出て、精神的に成長し、さらに高い水準へと向上しようとしている。また、より高い精神性・霊性を目指す人々が増えている。

「近代化=合理化」が一定程度進み、個人の意識が発達し、世界や歴史や宇宙に関する知識が拡大したところで、なお合理化し得ない人間の心の深層から、新しい精神文化が興隆しつつある。新しい精神文化は、既成宗教を脱した霊性を発揮し、個人的(パーソナル)ではなく超個人的(トランスパーソナル)なものとなる。それに応じた政治・経済・社会への改革がされていくだろう。

いまや科学が高度に発達した時代にふさわしい、科学的な裏付けのある宗教の出現が求められている。また、宗教には、人類が核戦争と地球環境破壊の危機を乗り超えるように精神的に導く力が期待されている。21世紀に現れるべき新しい宗教に求められる特長とは、次のようなものとなるだろう。

 

◆実証性 実証を以て人々の苦悩を救う救済力を有すること

◆合理性 現代科学の知見と矛盾しない合理性を有すること

◆総合性 政治・経済・医学・教育等のすべてに通じる総合性を有すること

◆調和性 人と人、人と自然が調和する物心調和・共存共栄の原理に基づくこと

◆創造性 人類普遍的な新しい精神文化を生み出す創造力を有すること

 

これからは、こうした特長を持った新しい精神科学的な宗教を中心とした、新しい精神文化の興隆によって、近代文明の矛盾・限界を解決する道が開かれるだろう。ページの頭へ

 

結びに

 

人類は、この地球において、真の神を再発見し、宇宙・自然・生命・精神を貫く法則と宇宙本源の力にそった文明を創造し、新しい生き方を始めなければならない。そのために、今日、科学と宗教の両面に通じる精神的指導原理の出現が期待されている。世界平和の実現と地球環境の回復のために、そしてなにより人類の心の成長と向上のために、近代化・合理化を包越する新しい精神文化の興隆が待望されているのである。ページの頭へ

 

関連掲示

・拙稿宗教、そして神とは何か

・拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ

・拙稿「カントの哲学と心霊論的人間観

・拙稿「日本文明の宗教的中核としての神道

・拙稿「イスラームの宗教と文明〜その過去・現在・未来

・拙稿「ユダヤ的価値観の超克〜新文明創造のために

・拙稿「キリスト教の運命〜終末的完成か発展的解消か

 

参考資料

・岸本英夫著『宗教学』(大明堂)

・脇本平也著『宗教学入門』(講談社)

・柳川啓一著『宗教学とは何か』(法蔵館)

・ミルチャ・エリアーデ著『聖と俗〜宗教的なるものの本質について』(法政大学出版会)『生と再生』(東京大学出版会)『エリアーデ著作集』(せりか書房)

・小室直樹著『日本人のための宗教原論』(徳間書房)

・カール・グスタフ・ユング著『ユング著作集』(日本教文社)『ユングの文明論』(思索社)『人間と象徴』(河出書房新社)

・ソンディ心理学普及協会のサイト

http://www.edit.ne.jp/~ham/

・アブラハム・マズロー著『完全なる人間−魂のめざすもの』(誠信書房)『人間性心理学』(産業能率大学出版部)

・スタニスラフ・グロフ他著『深層からの回帰』(青土社)

・フリッチョフ・カプラ著『ターニング・ポイント』(工作舎)

・ピーター・ラッセル著『ホワイトホール・イン・タイム』(地湧社)

・大塚寛一著『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)

 

 

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