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210-10   心と宗教・哲学

                       

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宗教は消滅せず、新たな発展へ向かう

〜島田裕巳氏の宗教消滅論批判

2018.10.13

 

<目次>

はじめに

1.島田氏の宗教消滅論

(1)先進国における宗教の急速な衰退

(2)発展途上国での福音派の拡大とその後の衰退

(3)イスラム教の拡大と資本主義への適応による変容

(4)世界的な宗教の現状と今後の予想

2.宗教消滅論への批判

(1)世俗化の進行イコール宗教の消滅ではない

(2)宗教事情と経済との関係も検討を要する

(3)宗教には担うべき人類的課題がある

3.宗教は存続し、新たな発展へ向かう

 

 

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はじめに

 

 宗教学者の島田裕巳氏は、平成28年2月に『宗教消滅』(SB新書)を刊行し、宗教界をはじめ、日本の社会に衝撃を与えた。島田氏は、我が国の新宗教の専門家であり、本書においても、近年の新宗教の衰退について経緯・原因・予想を書いている部分には専門的な知見が示されている。島田氏は、本書で、さらに現在の世界における宗教事情を書き、人類社会における宗教の将来を予想している。その予想とは、世界的な宗教の衰退・消滅、社会の無宗教化である。本稿は、氏の所論を分析・批判し、宗教は消滅せず、新たな発展へ向かうことを論じるものである。

 

1.島田氏の宗教消滅論

 

●宗教の消滅を予想

 

島田氏は、現在の世界における宗教の状況について、三点を指摘する。

 第一は、「ヨーロッパや日本などの先進国で起こっている宗教の急速な衰退という現象である。それは、伝統的な既成宗教に起こっていることだが、同時に新宗教にも起こっている。要は、先進国の社会は世俗化、無宗教化の方向に向かっているのである」と島田氏は言う。本書において、世俗化(secularization)とは、島田氏によると、「社会から宗教の影響力が失われていくこと」を意味する。

第二は、「経済発展が続いている国では、プロテスタントの福音派を中心に、新しい宗教が勢力を拡大している」。これは「産業構造の転換による都市化が決定的な要因となっている」。ただし、「経済成長に歯止めがかかると、福音派などの新宗教の伸びが止まる可能性が高い」「低成長の時代に入れば、今度は宗教の衰退という局面が待っているのだ」という。

なお、島田氏がいう「経済発展が続いている国」とは、先進国を除いた国々をいうものであり、一般的には発展途上国と呼ぶので、本稿では以下そのように称する。

第三は、「イスラム教の拡大」である。移民を中心としたイスラム教徒が増えているヨーロッパでは、「ヨーロッパのイスラム化」が危機感を以て語られている。イスラム教はこれからも拡大し、キリスト教を抜いて世界第一の宗教になるだろう。だが、島田氏はイスラム教の社会では現代社会に適応するため、「イスラム法の現代化、あるいは資本主義化」が進み、「イスラム教のあり方を変容させていくに違いない」という。

私は普段、「イスラーム教」と表記するが、島田氏が「イスラム教」と表記しているので、本稿では混乱を避けるために、「イスラム教」に統一する。

さて、島田氏は、上記の三点を指摘したうえで、世界における宗教の現状と将来について、次のように述べている。

「世界全体において、宗教はその力を失い、無宗教化していく傾向が著しくなっている」。「人類は、今や宗教なき世界へ向かっている。その動きは、近代に入ってから生まれたものだが、それが近年になって勢いを増している。人類は、宗教をすでに必要としなくなっているのかもしれないのだ」と。

次にこうした島田氏の見方をより詳しく述べたうえで、批判を行いたい。島田氏は、上記の三点を「三つのポイント」と書いているが、本稿では、これを三つの動向と言い直すことにする。

 

(1)先進国における宗教の急速な衰退

 

島田氏は、ヨーロッパや日本などの先進国における宗教の急速な衰退を、第1の動向として指摘する。「それは、伝統的な既成宗教に起こっていることだが、同時に新宗教にも起こっている。要は、先進国の社会は世俗化、無宗教化の方向に向かっているのである」と言う。

「ヨーロッパを中心とした先進国では、キリスト教の教会離れが急激な勢いで進行している。これは、近代社会になって以降、それに伴って必然的に起こる世俗化が勢いを増していることを意味する」として、先進国では近代化に伴う世俗化が勢いを増し、キリスト教における教会離れが急激に進行していると島田氏はいう。

日本は欧米諸国と違い、非キリスト教的な先進国であるから、世俗化が進行するとすれば、キリスト教だけでなく、それ以外の宗教においても、宗教離れが進んでいると言うのでなければ、先進国全体の傾向ということはできない。島田氏は現代日本の宗教の専門家として、日本では新宗教をはじめ、既成宗教である仏教・神道も衰退しつつあることを指摘している。

まずヨーロッパの動向から、島田氏のいうところを整理してみよう。


 

●ヨーロッパにおけるキリスト教の教会離れ

 

ヨーロッパでのキリスト教における教会離れは戦後になって始まり、1950年代から目立ち始めたが、近年、「急激な教会離れが進行している」と島田氏は言う。

 1970年代から、イスラム教における「宗教復興」の陰で、ヨーロッパでは世俗化が大幅に進行してきて、「ここに来て、底なしの気配を見せている」と言う。

特に顕著なのはフランスである。「フランスでは想像を絶する規模で、教会離れ、カトリック離れ、さらに言えば宗教離れが起こっている」と島田氏は指摘する。

 世俗化の度合いを示す数値として、ミサの参加率と聖職者の人数がある。島田氏が挙げるデータによれば、フランス人の中で日曜日にミサに参加する人は1958年には35%、すなわち3分の1以上いたが、2004年には、わずか5%にまで低下した。さらに、2011年には毎週1度は教会に通っている人は0.9%だったという調査結果もある。

 聖職者については、1950年代のフランスでは、司祭になろうとする人が、毎年1000人程度いたが、現在では毎年100人程度と、10分の1程度に減っている。

 2010年の時点でフランスの人口のうち、キリスト教徒の割合は44%だった。それに対して、無宗教あるいは神の存在に対して懐疑的な不可知論が29%おり、神の存在を否定する無神論も13%いた。この両者を合わせると42%となり、キリスト教の信仰を持つ人間の割合と拮抗している。

 島田氏は、ドイツでは、2014年にカトリック教会を正式に離脱した人の数が、21万7116人にのぼったと伝える。ドイツの総人口は同年の時点で8108万人であり、その30.8%に当たる2047万人がカトリックである。そのうち、0.88%が離脱したことになる。2013年に比べると、離脱者の数が21%増えており、毎年、離脱者の数は増え続けている。この傾向は、人口の30.4%を占めるプロテスタントでも同様であり、2014年には20万人が離脱した。カトリック教会では、日曜日にミサに出席する信者は12%に過ぎないという調査結果もあるという。

ドイツの場合、今、多くのキリスト教徒が教会から離れているのは、教会税の存在が大きい。教会税は、アイスランド、オーストリア、スイス、スウエーデン、デンマーク、フィンランドなどにもある制度である。ドイツでは「教会税を支払いたくないがために、教会を離脱する人間が増えている」と島田氏は言う。ドイツでは、所得税とともに、所得税の8%ないし10%を教会税として徴収される。徴収するのは教会ではなく、政府である。住民票の宗教に関する欄にキリスト教と記入すれば、自動的に教会税が徴収される。こうした教会税を払いたくないので、教会を離れる人が増加しているのである。

イギリスでは、2001年の国勢調査でキリスト教と答えた人が72%だったが、2011年には59%へと減少した。10年の間に13ポイント低下したことになる。また、4人に1人が「無宗教」と答えている。こうしたなか、英国国教会では、1年に25の教会が閉鎖されているという。

 島田氏は、ヨーロッパでは「年を追うごとに、各国において教会を離脱する人間の数が増えている。このままいけば、どの国でもキリスト教の教会は深刻な危機に遭遇する可能性が高い」と述べている。信者が教会から離れれば、教会の運営は成り立たず、教会が売却されることになる。こうした事例が増えており、最も多いのはイスラム教のモスクに転用されるケースであると島田氏は伝えている。

 

●アメリカでもキリスト教離れが見られる

 

 こうした傾向がヨーロッパだけであれば、特殊な地域事情ということになるが、アメリカでも変化が起こっている。ヨーロッパに比べてアメリカでは神を信じている人間が多い。ギャラップの2011年の調査では92%に上っている。だが、島田氏は1967年には、その割合は98%だったので、「アメリカ人でさえ、神を信じる人間の割合は減少の傾向を見せていると言える」と言う。44年間に6ポイント低下したことになる。

教派別にみると、アメリカのプロテスタントは、1948年の時点で人口の69%を占めていた。それが次第に減り始め、2000年に52%、2010年に45%と減り、2014年のギャラップの調査では37%へと減少した。島田氏は「2010年代に入って激減していると見ることができる」と述べている。

カトリックは、ギャラップの2014年の調査では、23%を占めた。1948年には22%だったので、プロテスタントが百分率を顕著に減らしているのに比べ、大きな変動はない。問題は、その中身である。アメリカは、1950年に人口が1億5千万人を超え、2010年には3億人を突破した。この60年間で人口が倍増したわけである。増加した人口のうち、最も多いのはメキシコ等から流入するヒスパニックである。2010年の時点で人口の16.3%を占め、5000万人を超えた。そのヒスパニックにはカトリックが多い。だが、島田氏は、アメリカではヒスパニックの人口が増加している割には、カトリックの割合が増えていないことを指摘する。その理由は、「ヒスパニックにおけるカトリックからプロテスタントへの改宗が起こっているから」だと言う。

ヒスパニックではカトリックからプロテスタントの改宗が起っているといっても、全米の人口に占めるプロテスタントの割合は減り続けている。1948年に人口の69%だったのが、2014年には37%へと減少している。

ここに見られるのは、アメリカにおいても、ヨーロッパほどではないが、キリスト教離れの傾向が出てきていることである。

 

●日本における宗教の衰退

 

 島田氏は、欧米だけでなく、日本でも宗教が衰退しつつあると見ている。特に新宗教の衰退が、年を追うごとに顕著なものになってきていると指摘する。

 島田氏が依拠するのは、文化庁が発行する『宗教年鑑』である。本書には、各宗教団体が信者数として公称する数値が掲載されている。島田氏は、代表的な新宗教団体における信者の激減を指摘する。PL教団の信者数は、『宗教年鑑』平成2年版では181万2384人となっていたのが、平成26年版では92万2367人と大きく減少した。「この24年間に、PL教団の信者数は、ほぼ半減している」と島田氏は指摘する。ちなみに平成29年版では81万人となっており、27年間に半減以下、約100万人の減少となっている。立正佼成会では、平成2年版から26年版へという同じ期間に、633万6709人から308万9374人とほぼ半減した。これも平成H29年版では272万人であり、27年間に半減以下となった。霊友会では、平成2年版316万5616人から26年版136万9050人へと半分以下に縮小していることを、島田氏は指摘する。

 島田氏は創価学会の研究で知られる。創価学会では、信者数を個人単位ではなく、本尊を受けている世帯を単位として公表している。島田氏は、「その数はずっと827万世帯のまま」であり、「世帯数がここのところ全く増えていない」と言う。「数が増えていないということは、少なくとも、新しい信者を獲得できていないことを意味する」と解説する。

 ここで島田氏は、創価学会の発展の過程と現状について、次のように書いている。

創価学会の急速な拡大が始まったのは、日本が高度経済成長に突入した1950年代に入ってからである。高度経済成長は産業構造の転換を伴った。第2次産業・第3次産業が発展する都市部では大量の労働力を必要とした。それによって、地方から都市への大規模な労働力の移動が起った。日本の農業は規模が小さく、農地を分割すれば、経営が成り立たないから、次男以下の人間は働き口を求めて都市部へと出ていかざるを得なかった。その典型が集団就職だった。中卒・高卒など学歴が低いと、労働者になっても、労働組合がしっかりと組織されているような職場に入ることができない。未組織の労働者として寄る辺ない生活を送らざるを得なかった。そうした人間たちを吸収していったのが、日蓮系新宗教であり、とりわけ創価学会だった。

創価学会に入会すれば、都市に出てきたばかりの人間でも、仲間を得ることができた。村での人間関係のネットワークを失って「孤立」している人間が、創価学会に入会すれば、都市部に「新たな人間関係のネットワーク」を見出すことができた。

また、高度経済成長によって経済格差の拡大が続き、社会的に恵まれない階層が生み出されていった。創価学会はこの階層を信者に取り込んだ。

2代会長の戸田城聖は、「現世利益」の実現を掲げ、信仰し、折伏を実践すれば、それで「功徳」を得ることができると宣伝し、都市に出てきたばかりで貧しい暮らしを余儀なくされていた人間には強くアピールした。それによって、教団が巨大な組織に発展していった。

創価学会と同じ日蓮系、法華系の新宗教団体である立正佼成会、霊友会なども同じ時期に、現世利益の実現を掲げて、大量の会員を獲得して、巨大教団へと発展した。

だが、こうした日本の新宗教が、今や先に事例を挙げたように信者数が激減し、衰退の途をたどっていることを島田氏は強調している。

島田氏は、資本主義の高度経済成長の時代には、都市への人口の集中と格差拡大という状況において、新宗教が信者を獲得して発達するが、低成長の時代に入ると、宗教は衰退するという。なぜ低成長の時代に入ると、宗教が衰退するのかについては、相関関係が具体的に述べられていない。

島田氏の論理に基づくならば、高度成長期には、都市部で低学歴層の人口が増え、彼らを信者に獲得できたが、低成長期になると、都市部で低学歴層が増えないので、新たな信者を獲得できなくなるということになるだろう。だが、むしろ高度成長によって社会全体が豊かになり、経済格差はありながらも、中下層も豊かな生活を送れるようになったことが信者獲得数に影響していると考えられる。新宗教が発展した時代には、入信する動機は「貧・病・争」すなわち貧困、病気、家庭内等の争いといわれた。しかし、日本が経済的に豊かになり、所得が増え、国民健康保険で医療を受けられ、生活保護・老齢年金等の社会保障も充実して、世俗的な意味での幸福が一定程度得られるようになった。教育の面でも高校に進学する者が大半となり、大学への進学率も高くなると、高度成長期以前のように、教育を受けられなかったために能力を発揮できず下層に留まるという事情の人が減ってきた。こうした豊かな社会においては、貧・病・争という人々のかつての悩みは少なくなり、それに伴って新宗教に救いを求める人々が減少してきたと考えられる。

 次に、新宗教団体内での衰退の原因については、島田氏は次のように書いている。

 「新宗教の場合、どこでも運動が盛り上がっている時代には多くの人間が入信し、彼らが教団の中核を占めていく。ところが、その後、運動の熱気が次第に醒めていくと、入信者も減っていき、若い世代は入って来なくなる。となると、時間が経つとともに、信者全体の年齢が上がり、教団は活力を失っていく。そうなると、若い世代が入ってくることが余計難しくなる。世代が違うために、年齢が上の人間たちのなかに溶け込むことが難しくなるのである」

 新宗教教団が「一時期に急速に信者が増えることは、かえって後に問題を生むことになる」「特定の世代の人間たちが教団の中心を占めているために、その後の世代はその輪の中に入りにくい」「組織としての新陳代謝は進まず、運動は停滞し、よけい新しい世代が入信してくることはなくなる」「新しい信者が入って来ないのだから、高齢化した時には、ますますそれが難しくなる。そうなれば、もう打つ手はない。ただ、高齢化の一層の進展を手をこまねいて見守っていくしかないのである」と島田氏は言う。その理由は何か。「新宗教の場合、信仰を獲得した第一世代から、その子どもである第二世代に継承が進まないからでもある」と島田氏は説明する。「第一世代には、その宗教に入信するに至る強い動機がある。ところが、第二世代にはそれがない。それでは、親の信仰を子どもが受け継ぐということが難しいのである」「既成宗教の場合には、信仰は代々受け継がれていくものであり、現在信仰している人間は、個人的な動機からその宗教を選択したわけではない。親が信仰しているからそれを受け継いだだけである。信仰に対して強い情熱を持っていないために、かえってそれを自分たちの子どもにも伝えやすい。信者になっても、熱心に信仰活動を実践する必要がないからである」と。

 上記の島田氏の分析は、すべての新宗教団体にあてはまるものではない。指導者のカリスマ性や組織運営能力、企画実現力等によって、信者数を増やし、活発に信仰活動を行っている団体もあるからである。ただ、それらの団体より規模の大きい創価学会をはじめとする有名教団の多くに、衰退の傾向があるということだろう。

 また、島田氏は、衰退しているのは新宗教だけではなく、既成宗教である仏教や神道にも衰退の兆しが表れていると指摘する。真言宗の本山である高野山は、1984年には参拝者が100万人に達していたが、開創1200年を迎えた2015年には、参拝者は約60万人だった。約30年間で4割も減少している。伊勢神宮では、2013年に式年遷宮が行われ、参拝者は1400万人に達し、史上最高の参拝者数だった。だが、2015年には1000万人を大きく下回ったという。島田氏は、この二つの事例しか挙げていない。そのうち、伊勢神宮については、20年に一度の式年遷宮という特別の年とその後の年との比較だけでは、説得力を欠く。

 このように論述が粗雑で不備もあるなかで、島田氏は新宗教・既成宗教ともに「日本の宗教は確実に衰退の兆候を示しているのだ」と主張している。

なお、島田氏は、新宗教と既成宗教という分け方をしているが、新宗教の代表例として挙げる日蓮系・法華系の団体は、仏教の団体である。厳密にいうと、新宗教ではなく、従来宗教の中の新しい団体である。新・宗教団体ではあっても、まったくの新宗教ではない。

日本の仏教は、葬式仏教といわれるように慣習化・形骸化して久しい。そうした中で、活発に信仰活動を行ってきたのが、日蓮系、法華系の新宗教団体である。それらの団体が活力を失い、衰退の局面に入っているということは、日本の仏教が全体として衰退の傾向にあると見ることはできる。葬式仏教化している既成宗派でも、家族葬・直葬など簡略な葬儀を求める人が増え、寺院の収入の減少を招いている。

このような観点に立てば、先進国において、欧米、特にヨーロッパでキリスト教が衰退しているのと対比される形で、日本においては仏教が衰退していると見ることができる。(ページの頭へ)


 

(2)発展途上国での福音派の拡大とその後の衰退

 

 島田氏は、現在の世界における宗教の状況の第2の動向として、発展途上国におけるプロテスタント福音派等の新宗教の拡大を挙げる。

 島田氏によれば、この現象は、戦後の日本社会で起こった日蓮系新宗教の拡大と共通した現象であり、産業構造の転換による都市化が決定的な要因となっている。だが、経済成長に歯止めがかかると、新宗教の伸びが止まる可能性が高いと島田氏は予想する。

 韓国では、戦後経済成長が進み、地方から都市部への人口の移動が起った。経済成長が始まる1960年から2000年の間に、ソウル首都圏の人口が519万人から2135万人へと4倍近くに増えた。同地域は総人口の46.3%を占めるようになり、地方出身者が圧倒的多数を占めるに至った。

当時韓国の地方では、社会道徳としては儒教の影響が強く、信仰としては仏教が主体だった。仏教は地域共同体の中で信仰されたものであり、それを個人が都市に持ち込むことは難しかった。そのような状況で、都市に流入した地方出身者を信者として取り込んでいったのが、キリスト教だった。

韓国では、キリスト教はシャーマニズムの文化と融合し、習合することによって、知識層だけでなく庶民層にまで広がった。島田氏は「とくにプロテスタントの宣教師の中には、説教壇で神憑りする、日本で言えば新宗教の教祖に当たるような人間たち少なくない。あるいは、宣教師の熱狂的な説教によって、信者たちが神憑り状態に陥ることもある。そうしたシャーマニズムと習合したキリスト教は、病気治癒などの現世利益の実現を約束して庶民の信仰を集めていった。

「日本の戦後社会においては、現世利益の実現をうたい文句に新宗教が勢力を拡大したように、韓国では、同じような主張を展開したカリスマ的聖職者に率いられた庶民的なキリスト教が急成長したわけである」と島田氏は解説する。ここで庶民的なキリスト教とは、シャーマニズムと習合したプロテスタントの福音派のことである。

私見を挟むと、日本は、1971年(昭和46年)のニクソン・ショック、73年(48年)のオイル・ショックによって高度経済成長の時期が終り、安定成長期に移った。ニクソン・ショック、オイル・ショックの影響は、外力によるものである。86年(61年)からバブル景気となったが、1991年(平成3年)2月にはバブルが崩壊した。大打撃を受けた日本経済が回復途上にあった1998年(平成10年)、今度は財政金融政策の誤りによって、デフレに陥った。その後も失政が続き、デフレが約20年続いた。島田氏のいうように単に高度成長から低成長の時代に移行したのではない。人間が年を取って、青年期・壮年期から老年期に自然と移っていくような変化とは違う。

韓国の場合は、1997年(平成9年)のアジア通貨危機経済危機に陥り、IMFの管理下に置かれるようになった。以後、経済の低迷期に入った韓国では、戦後急成長したキリスト教の伸びが止まった。島田氏は、韓国のプロテスタント福音派は驚異的な経済成長による都市部への人口集中によって巨大化したものであるとし、「経済成長が限界に達して、低成長の時代に入れば、それまでと違って信者を増やしていくことができなくなる」と述べている。だが、これも単に経済成長が限界に達して、低成長の時代に入ったわけではない。アジア通貨危機は、欧米の機関投資家らが人為的に仕掛けたものであり、外圧による出来事である。

島田氏は、プロテスタント福音派の拡大は、共産主義を標榜する中国にまで及んでいるという。中国は、共産党が支配する国である。唯物論的共産主義によって、宗教に対して否定的な思想が教育されている。また、日本の内閣に相当する国務院直属の組織である国家宗教事務局を設けて、宗教管理政策を行っており、国家が認めた宗教しか活動が許されない。

中国は、1990年代から改革開放政策により、急激な経済成長を続けている。それによって、資本主義社会以上に経済格差が拡大している。島田氏は、経済格差の拡大によって、「社会の発展から取り残された人々が存在する」と指摘し、「政治に期待することができないときには、宗教に頼らざるを得ない」と述べている。

そのような状況で勢力を拡大しているのが、「地下教会と呼ばれる、政府に公認されていないキリスト教の教会」である、と島田氏は言う。それらの教会は「指導者がカリスマ性を発揮し、病気治しなどを行う福音派」である。

だが、中国では、これまでの驚異的な経済発展にブレーキがかかる状況が生まれている。島田氏は、そのことが宗教にも大きな影響を与えるだろうと予想する。ここでも島田氏は、「低成長の時代に入れば、今度は宗教の衰退という局面が待っているのだ」と持説を繰り返している。だが、再び私見を挟むと、共産国の場合、経済が行き詰まると、それまで政府によって抑えられてきた宗教への信仰心が高まり、それが体制を揺るがすことが起り得る。ポーランドがその良い例であり、労働組合「連帯」による民主化運動は、国民の大多数を占めるカトリックへの信仰の高揚に裏付けられたものだった。

次に、島田氏は、中南米の動向を挙げる。島田氏によると、世界に12億人いるとされるカトリック教徒のうち、4割を中南米の信者が占めている。中南米は「カトリックの牙城」である。ところがその中南米において、「カトリックの信仰を捨ててプロテスタントの福音派に転じる人間がかなり増えており、牙城も危機の様相を呈しているのである」。その事例として、島田氏は、中南米最大の国家・ブラジルの例を挙げる。ブラジルでは、カトリック教徒の割合が1980年には90%を超えていた。だが、プロテスタントの福音派に改宗する人間が多く、現在カトリックは60%に低下しているという。3分の2への減少は、劇的な変化である。

第1の動向の項目で、アメリカではヒスパニックの人口の増加の割に、カトリックの割合が増えていないことを書いた。ヒスパニックの間でさえ、若年層を中心にプロテスタントの福音派に宗派替えする例が増え、信者の老齢化を招いていると島田氏は補足している。

島田氏は、中南米と北米におけるプロテスタント福音派の増加を、戦後日本における日蓮系・法華系の新宗教団体の拡大と同じパターンのものと見て、今後、経済成長に歯止めがかかると、新宗教の伸びが止まる可能性が高いと予想している。

なお、なぜキリスト教内で、カトリックからプロテスタント、それも福音派への改宗が、発展途上国で激増しているのか、その原因・理由について、島田氏は具体的に書いていない。ここでいう福音派は、主にアメリカにおけるキリスト教の信仰復興運動の中で生まれた新しい教派を意味するはずである。アメリカでは、プロテスタントは、主流派(mainline)と福音派(evangelical)に分けられる。主流派は、宗教改革以来の伝統的なプロテスタントであり、福音派はこれに対する反主流派である。新興宗教的な教派といわれることがある。アメリカでは、福音派の方が主流派を信者数で上回り、勢いを増している。発展途上国において経済発展が進み、格差が拡大する過程で、どうしてカトリックから福音派への改宗が多く起こるのかという点には、カトリック、伝統的プロテスタント、新興的プロテスタント、それぞれの教派の教義や社会経済問題への姿勢、信者の階層等が関係してくるが、本書ではこの点は、論述されていない。また島田氏は、中国に関して福音派が拡大していると書いているが、地下教会には、政府支配下のプロテスタント系教会への協力を拒否するものだけでなく、共産党の統制管理に反抗しローマ教皇に忠誠を誓うカトリック系のものがあり、後者の信徒も増加していると見られる。(ページの頭へ)

 

(3)イスラム教の拡大と資本主義への適応による変容

 

 島田氏が第3の動向として挙げるのは、イスラム教の拡大と資本主義への適応である。

イスラム教は、人口が急増するアジア・アフリカの発展途上国に信者が多い。そのため、それらの国々で人口が増えるととともに、世界的にイスラム教徒が増えている。アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターは、2050年には、イスラム教徒は世界で27億6千万人となり、世界の宗教人口の29.7%を占めるだろうと予測している。さらにその後、キリスト教を抜いて、世界最多の信者数を持つ宗教になると予測している。

島田氏は、2010年代の現在、ヨーロッパにおけるイスラム教徒の増加に注目する。「ヨーロッパで、キリスト教の急激な衰退が起る中で、イスラム教がその勢力を拡大している」とし、移民を中心としたイスラム教徒が増えることで、『ヨーロッパのイスラム化』が危機感を以て語られるようになっている」と述べている。

島田氏が本書で揚げるデータによると、2011年時点のヨーロッパにおいて、人口のうち最もイスラム教徒の割合が多いのは、6.0%のオランダで、人数は100万人である。主要な国におけるイスラム教徒の割合は、フランス4.3%、ドイツ4.3%、イギリス2.8%である。

 ピュー・リサーチ・センターによる2050年の予測では、フランスは10.9%、ドイツは10.0%、イギリスは11.3%となる。すなわち、21世紀の半ばのヨーロッパは、約10分の1がイスラム教徒によって占められると見込まれている。

 島田氏は、今後ヨーロッパのイスラム教徒に変化が起こると予想する。「イスラム教の場合、移民によってヨーロッパに移り住み、そこでヨーロッパ社会に受け入れられないことで、イスラム教に回帰し、宗教の力によって結束を図ろうとしてきた面がある。だが、イスラム教のコミュニティーが拡大し、それが移民先の社会において一大勢力として影響力を増していくならば、より豊かな生活を求めて世俗化への道を歩んでいくことも考えられるのである」と言う。

 この予想の根拠として、イランの例を挙げている。私見を以て補足すると、イランでは、1953年(昭和28年)に、アメリカの支援を受けた国王パフレヴィー2世が政権に復帰し、親米路線を取り、63年(38年)から白色革命と呼ばれる一連の近代化政策を強力に推進した。こうした「近代化=西洋化」の改革に対する反発が高まり、1979年にイラン革命が起り、イスラム教を国家原理とするイラン・イスラーム共和国が発足した。

法学者アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーが最高指導者となり、社会のイスラム化が推進された。島田氏が注目するのは、その後のイランの展開である。革命後のイランは経済発展を遂げ、2000年代前半から2010年代前半にかけての10年間で、国民一人あたりのGDPは3倍に伸びた。島田氏は言う。「そうなると、国民の生活は豊かなものになり、中間層が増大する。街には高層ビルが建ち、若者たちは欧米流のファッションを身にまとっている」「革命への関心は失われ、革命以前のようにイランは世俗国家の道を歩むようになってきている」と。そして、この例を踏まえて、島田氏は「ヨーロッパの移民が今以上に経済的な豊かさを享受するようになったとき、イランと同じ事態が起こる可能性は十分考えられる」と予想する。また、次のようにも書いている。「イスラム教が支配的なイラン以外の国々でも、順調に経済発展が続いていくならば、古いイスラム教のやり方に戻ろうとする傾向は薄れていく。その点で、イスラム教の拡大が、そのまま宗教の力がより強くなることを意味しない可能性が考えられるのだ」と。

このように見る島田氏は、現時点ではイスラム教圏で宗教復興、宗教回帰の動きが起こっているように見えたとしても、「一時的な現象に終わるかもしれない。それが行き着くところまで行き着けば、動きは反転し、世俗化の方向へ向かっていく。ヨーロッパのキリスト教社会や日本の戦後社会がたどったのと同じ道を歩んでいくことになるかもしれないのである」と予想している。

イスラム教の「世俗化」の可能性は、イスラム教の教えの中にあることを島田氏は指摘する。

島田氏によると、イスラム教は「商人の宗教」として出発した。それゆえ、禁欲とは無縁である。人々が豊かさを求めることが肯定される。「利益の追求を禁止しない点で資本主義と親和的である」と島田氏は言う。ただし、イスラム教では利子が禁じられていることを島田氏は強調する。金を貸すことによって利益を得るというやり方は、イスラム教の教えに反している。そのことで「イスラム教を金融資本主義の方向へ向かうことを妨げる力が働いている」と島田氏は述べる。ただし、近年イスラーム金融が生まれ、独自の金融システムが築き上げられつつある。島田氏は、この点に関して、次のように書いている。「もともとイスラム教の世界では、何らかの事業を展開する時、事業の主体を担う側と、それに投資する側が共同で出資し、利益が出ればそれを折半し、損失が出た場合にも、同じように両者が損を被るというやり方がとられてきた。イスラム金融は、その仕組みを現代化したものであり、今日ではさまざま金融機関がイスラム世界に登場している」と。こうしたイスラーム金融の発達は、イスラム教が今日の資本主義経済に適応し得ることを示すものである。島田氏は、イスラム教はこうした適応を通じて、「その姿を変えていくことになるだろう」「その内部において現代化が進んでいくはずで、それは、イスラム教のあり方を変容させていくに違いない」と予想している。それがどういう姿、あり方になるかについて、島田氏は具体的に述べていない。ただ、キリスト教において世俗化と呼ぶ現象と似たような現象が起るだろうと示唆しているに過ぎない。

ところで、イスラム教について世俗化という概念を使うことが適当かという問題がある。イスラム教では、キリスト教におけるように聖と俗が分離していないからである。それゆえ、島田氏がイスラム教の将来について予想する変化を世俗化と呼ぶことが適当かどうかについて、島田氏自身が自問自答している。

「イスラム教の場合、宗教の世界と世俗の世界は一体であり、両者は分かち難く結びついている。現実の世界と神聖な信仰の世界は区別されていない」「イスラム教には出家した人間はいない」。仏教の僧伽、キリスト教の修道院のような「出家した人間だけで構成された集団」がまったくない。「イスラム教徒はすべて俗人であり、厳密な意味では聖職者そのものがいない。イスラム教聖職者というときには、主に礼拝を指導し、説教などを行うイマームのことをさすが、イマームも俗人であり、家庭生活を送っている」

このようにイスラム教では、聖と俗が一体化している。それゆえ、「キリスト教の世界における形では世俗化は進行しない」と島田氏は言う。そして「イスラム教の世界で今起こっていることは、世俗化ということではなく、イスラム法の現代化、あるいは資本主義化としてとらえた方がいいのかもしれない」と島田氏は言っている。(ページの頭へ)

 

(4)世界的な宗教の現状と将来の予測

 

ここまで、島田氏が現在の世界における宗教の状況について挙げる三つの動向を概説した。私の表現でまとめると、

 

@ 先進国における宗教の急速な衰退

A 発展途上国でのプロテスタント福音派の拡大とその後の衰退

B イスラム教の拡大と資本主義への適応による変容

 

である。

 これらの動向を総合して、島田氏は次のように書いている。

「日本の戦後社会で起こったのと同じことが他の国々でも繰り返される可能性がある。つまり、福音派の台頭にしても、イスラム教の勢力拡大にしても、どこかでその伸びや原点回帰の方向性が変わり、運動として退潮するとともに、世俗化の様相を呈していくのではないかと考えられるのである」「世界全体において、宗教はその力を失い、無宗教化していく傾向が著しくなっている」と。

 そして、今後人類社会において、宗教は消滅すると島田氏は予想している。

「人類は、今や宗教なき世界へ向かっている。その動きは、近代に入ってから生まれたものだが、それが近年になって勢いを増している。人類は、宗教をすでに必要としなくなっているのかもしれないのだ」

「それが果たしていつのことになるかは定かではないが、人類社会から宗教は消え去ろうとしている。近代化に伴う世俗化という現象は、どうやら後戻りしそうにはない気配を見せているのである。福音派など、流行している宗教であっても、今が頂点であり、やがては他の宗教と同様に衰退していく可能性が高い。人類は、誕生以来、その生存に不可欠のものとしてきた宗教から根本的に離脱しようとしている」と。

果たして、島田氏のこうした分析と予想は妥当なものだろうか。次に、島田氏の宗教消滅論に対する批判を行いたい。(ページの頭へ)


 

2.宗教消滅論への批判

 

(1)世俗化の進行イコール宗教の消滅ではない

 

最初に、世俗化について述べる。島田氏の主張は、世俗化の進行によって宗教は衰退し消滅するという仮説が前提となっており、その仮説に合うように、現在の世界の宗教の状況や資本主義の動向に関する情報を収集して、その仮説の正しさを示す試みとなっている。ただし、仮説を証明しようとするのではなく、ただ予想として変化の方向性を示唆するのみとなっている。

 島田氏は、世俗化とは「社会から宗教の影響力が失われていくこと」を意味するとしている。宗教の衰退・消滅や無宗教化という用語を併せて使っており、世俗化とは宗教が衰退し、さらに消滅して、社会が無宗教化することであると見ていることがわかる。

世俗化とは、文明学的にはその文明の中核にある宗教の社会的・政治的・精神的な影響力が弱まっていくことである。世俗化は近代化に伴う現象である。島田氏は近代化とはどのような変化であるか、具体的に述べていない。マックス・ウェーバーは、近代化とは生活全般の合理化の進展であるととらえた。ウェーバー以後、宗教社会学には、世俗化とは近代化・合理化の進展によって宗教の社会的役割が衰退していくことであると認識し、世俗化の進行の結果、宗教の消滅は不可避であるという見方がある。島田氏はこうした古典的な世俗化論に基づいて、宗教の衰退・消滅、社会の無宗教化を予想していると思われる。

だが、世俗化に関する上記のような見方は、今日まで多くの宗教社会学者たちによって批判されてきている。批判の理由は、イスラム教社会や日本など、西方キリスト教と異なる宗教的伝統を持つ社会については、こうした見方では説明できないことが多くあること。また、西方キリスト教社会についても、うまく説明できない点があることである。

そもそも世俗化とは、西方キリスト教社会のように、聖と俗の分離が進んでいる社会に関して言い得る現象である。すなわち、聖とされるものに基づく制度や文化が俗なるものに基づくものに置き換っていく過程をいうものである。いわば聖から俗へという変化である。聖と俗の分離という状態があってはじめて、こうした変化が起こり得る。

だが、近代の西方キリスト教社会を除くと、人類社会の多くでは聖と俗は不離一体であり、政治と宗教も祭政一致だった。ヨーロッパで始まった聖俗分離の方が、例外的な現象である。この例外的な現象を他の社会にも適用し、一般化することには無理がある。

島田氏が第3の動向として挙げるイスラム教の社会は、聖と俗が分離していない。それゆえ、イスラム教の将来について予想される変化を世俗化と呼ぶことが適当かどうかについて、島田氏自身が自問自答している。

 世俗化については、これを宗教の個人化ないし私生活化ととらえる見方が、宗教社会学者から出されている。例えば、トーマス・ルックマンは、世俗化とは宗教が社会において公的機能を失い、私的な事柄となり、社会的には「見えない宗教」となることであるとした。彼の所論によれば、宗教は伝統的な形態とは違う形で存続すると予想される。いわば公から私への移行である。このような見方に立てば、制度化された宗教のあり方より、個人の宗教意識の変化が注目されるべき対象となる。ルックマンと共同研究をしたピーター・バーガーは、多元主義とグローバリゼイションの進展によって個人の信仰のあり方が根本的に変化したため、宗教が予め受け容れられているものから個人が探究し嗜好に応じて選択するものに変わったと述べている。これは、政治と宗教が一定程度分離し、宗教に関する選択の自由が拡大していく社会の傾向をとらえたものである。

また、ジャン・ボベロは、世俗化という概念だけでは複雑な宗教の社会的・歴史的発達を把握できないとして、世俗化と脱宗教化(laïcisation)を区別する。ボベロは、世俗化とは宗教の社会に対する規範的作用が低下していく過程であるとし、脱宗教化とは政治権力が宗教的権威に対し自律性を確保していく過程とする。ボベロは、トルコやイランでは、世俗化という基盤を欠いたまま権威主義的な体制下で行なわれた脱宗教化が様々な批判や挑戦を受けていると見る。一方、日本やフランスでは、世俗化が支配的となり、その負の側面が認識されるようになった社会において、脱宗教化の流れに逆行しようとする動きがあることを指摘する。世俗化という概念だけでは、こうした動きをとらえられない。

島田氏は、世俗化について「社会から宗教の影響力が失われていくこと」という単純なとらえ方をしているが、世俗化には上記のような視点を加えることが必要である。世俗化には、宗教の個人化ないし私生活化という側面があると見るならば、世俗化の進行は、宗教の新たな形態への変化を意味する。また、宗教の社会に対する規範的作用が低下していっても、それによって政治が脱宗教化するとは限らない。政治と宗教がその国の伝統的な関係を緩やかに保ちながら、国民の信仰が多様化していく可能性があるからである。それゆえ、現代世界で起こっている宗教における変化を3点取り上げて、古典的な世俗化論を以て将来を予想し、宗教が衰退・消滅し、社会が無宗教化に向かうと決めつけることはできない。

私見を述べると、これまで既成の宗教は政治的・社会的な権力と結びついて、人々を束縛してきた。しかし、今、世界は大きな転換期にあり、それに伴って既成宗教が流動化し、人々がその束縛から自由になりつつある。今後、人々は既成観念から脱却して、新しい宗教や精神性を求めるようになっていくという全く別の予想が成り立つのである。(ページの頭へ)


 

(2)宗教事情と経済との関係も検討を要する

 

島田氏は、古典的な世俗化論をもって現在の世界における宗教の状況をとらえているが、そのとらえ方にもいくつか問題がある。次にその点について述べる。

島田氏のいう宗教の衰退は、現在の時点では第1の動向である「先進国における宗教の急速な衰退」についてのみ言えることである。具体的にはヨーロッパにおけるキリスト教、日本における新宗教及び既成宗教の信者減少等である。第2の動向である発展途上国でのプロテスタント福音派の拡大は現在、その真っ最中であり、第3の動向であるイスラム教の拡大はそれ以上の勢いで世界的に進行している。

島田氏は、第1の動向のうち、戦後日本の新宗教の拡大と衰退の過程を見て、これを法則化し、発展途上国やイスラム教社会にも当てはめ、第2、第3の動向の将来を予想している。そして、発展途上国で盛んに伸長しているプロテスタントの福音派や、世界的に人口が急増しているイスラム教は、「今が頂点」であり、やがては「衰退していく」と予想する。だが、近い将来に関する限り、中南米等でのカトリックからプロテスタント福音派への宗旨替えは今後、益々拡大すると予想される。またイスラム教は「今が頂点」ではなく、これから頂点へと向かっているところである。それゆえ、発展途上国のプロテスタント福音派やイスラム教が衰退の局面に移るとすれば、それはそれらが拡大し切った後のことになる。島田氏はそれがいつ頃起こるかという具体的な時期については述べていない。いつか将来という漠然としたものである。また、現在の話と近未来の予想と、さらに先の未来の話がごちゃごちゃになっている。

次に、三つの動向について、島田氏の見方を検討したい。

 

●先進国の動向論に対する批判

 

 島田氏は、「先進国における宗教の急速な衰退」という動向に関して、宗教と経済には深い関係があるとし、資本主義の高度経済成長の時代には、都市への人口の集中と格差拡大という状況において、新宗教が信者を獲得して発達するが、低成長の時代に入ると、宗教は衰退すると説く。

確かに戦後日本では、高度経済成長に伴う都市化と格差拡大の中で、新宗教が教勢を拡大し、低成長の時代に入ると信者の減少と高齢化が起っている。島田氏は、この日本における事例を一つのパターンとしてとらえ、これを一個の法則として、ヨーロッパやアメリカの社会についても当てはめようとしている。

しかし、注意すべきは、日本と欧米では事情の違いがあることである。戦後日本の高度経済成長は、大東亜戦争の敗戦からの復興に続くものだった。ヨーロッパでも大戦による荒廃からの復興がなされたが、日本のような高度経済成長は起っていない。高度成長から低成長への移行という戦後日本における変化を、そのまま欧米に法則のように当てはめるのは、安易である。

振り返ると日本は、明治維新によって近代化が開始され、明治・大正・昭和初期まで急速な経済成長がなされた。この間、新しい宗教運動はあったものの、島田氏が指摘するような、戦後日本におけるほどの顕著な新宗教の発展は見られない。また、1929年の世界大恐慌とそれに続く1930年代の世界的な経済危機の中で、日本も経済的な苦難を経験した。この時期は、戦後日本のオイル・ショックやデフレ、リーマン・ショックの時期と比較できようが、戦前の日本では、経済の変動による大衆の宗教離れは見られなかった。逆に、国家的な危機において、政府の宗教政策が強化され、いわゆる国家神道、すなわち「戦前の国家によって管理され、国家の法令によって他の神道とは区別されて行政の対象となった神社神道」(『神道事典』)が発展した。敗戦後は、GHQの占領下で神道指令が出され、国家神道が禁止された。また、GHQが秘密裏に起草した憲法が押し付けられ、政治(国家)と宗教(神道)の分離が強行された。こうした歴史的な過程を、すべて近代化に伴う世俗化の進行というとらえ方で論じることは大雑把すぎるし、無理がある。

ヨーロッパでのキリスト教離れは、15世紀からの近代化の進展に伴うものだが、まずカトリックの腐敗に対するプロテスタントによる宗教改革が起こり、キリスト教の改革が行われた。これが同時に、キリスト教の衰退の開始ともなった。新教と旧教の間での宗教戦争は、ドイツで30年も続いた。イギリスはカトリックから離脱し、ピューリタンによる市民革命が起り、政治体制が改変され、キリスト教を合理的に理解する啓蒙思想が普及した。フランスでは、イギリスの影響のもとに啓蒙思想が急進化し、フランス革命が起こり、政治と宗教の分離が進められた。そのうえに、19世紀半ばに進化論を説くダーウィン、唯物論的共産主義を説くマルクス、「神は死んだ」と説くニーチェが登場し、キリスト教に否定的な思想が広がった。こうした展開において最も重要な出来事は、ヨーロッパで第1次世界大戦が起り、さらに第2次世界大戦が起ったことである。かつてない規模でキリスト教徒同士が戦い、血を流し合った。二度にわたる大戦は、人々の心にキリスト教への疑問や失望を生み出した。大戦後、1950年代以降に顕著になったヨーロッパにおけるキリスト教離れは、こうした歴史があってのものである。高度経済成長から低成長に移行したからではない。

戦後日本においては、敗戦後のどん底からの復興の過程より、新宗教が発展した。新宗教に信者が入信する動機は、貧・病・争が代表的とみられた。その後、経済成長によって、所得の増大、社会保障の発達、医療の利用の拡大等が実現し、社会全体としては、豊かな社会になった。貧しさや医薬を利用できないことによる悩みは、こうした現実的な方面の変化によってある程度改善に向かった。それによって、貧と病による新宗教への入信は減少傾向に変わったと見られる。

島田氏は、高度経済成長から低成長に移行すると、宗教は衰退すると説く。確かに日本においては、その時期から新宗教の多くの団体で信者が減少している。島田氏は、この傾向を将来に延長し、宗教は衰退し消滅すると予想する。だが、低成長の社会においては、高度経済成長の時代とは異なって、経済の停滞による社会的な問題が現れる。日本では20年に渡ってデフレが続くなかで、自殺者が増大、いじめが深刻化、家族間の殺人の頻発、ニートの増加など深刻な問題が発生した。これらは、いずれも人々の心の荒廃を表す出来事である。宗教は、こうした心の問題について、様々な取り組みをしている。

ところで、コンピューターの普及は、経済活動、特に金融を大きく変えた。国境を超えた市場では、ある通貨が安くなったら大量に買い、高くなったところで売る。これだけで大儲けが出来る。逆に裏目に出たら大損をする。こうした為替差益を狙う通貨の売買は、一種のギャンブルと化す。世界の金融市場を結ぶコンピューターのネットワークが、このギャンブルを超高速で行うことを可能にした。こうした段階の資本主義を、情報金融資本主義という。今日の資本主義は、この情報金融資本主義がグローバリズムと一体となったものとなっている。そのけん引力となっているのが、アメリカである。

日本がデフレに陥っていた間、アメリカでは情報金融資本主義が発達した。また移民の増加、外国からの頭脳の吸引等によって経済成長を続け、世界最大の経済大国である地位を維持した。だが、アメリカでは、その豊かさの中で、銃の使用による無差別殺人事件が頻発、覚せい剤の使用が蔓延、人種間の格差が拡大するなど、社会問題が深刻化している。ここでも、宗教は様々な取り組みをしている。島田氏の経済中心の見方では、こうした問題に対する宗教の社会的な役割が見逃される。


 

●発展途上国の動向論に対する批判

 

次に、島田氏は、中南米等の発展途上国でプロテスタント福音派が拡大していることについて、発展途上国もまた先進国と同じく、経済成長に歯止めがかかり、低成長の時代に入れば、宗教は衰退すると予想する。

この点については、経済成長によって社会が豊かになれば、人々の関心は宗教から現世的・物質的な利益の獲得に向かい、宗教離れが進むと考えられる。所得の増大、中間層の増加、教育の普及等は、人々の価値観や関心に変化をもたらすからである。ただし、それが、宗教の衰退・消滅、さらに社会の無宗教化に至るとは決めつけるのは、早計である。

発展途上国には、中南米諸国のようなキリスト教国だけでなく、ヒンドゥー教徒が多数を占めるインド、東洋の伝統宗教である儒教・仏教が存在する韓国、いくつかの宗教が併存する国等があり、一様には論じられない。また、次の項目に書くイスラム教の国も多い。宗教によって経済とのかかわりは異なる。その国の宗教的な伝統の違いによって、経済発展に対して、異なる動きを示す可能性がある。

 

●イスラム教社会の動向論に対する批判

 

次に、島田氏は、世界的に拡大しているイスラム教は、今後、資本主義への適応によって変容していくと予想する。

 西方キリスト教は、既に15世紀から資本主義への対応をしてきた。ヨーロッパでキリスト教が衰退の局面に入ったのは、1950年代以降である。それまでに約500年が経過している。この間に、キリスト教は富の獲得・蓄積、利子を取る金融等を肯定するように変わった。そして、資本主義の世界化に伴って、世界各地に布教し、信者を増加させた。

これに比し、イスラム教は、島田氏が指摘するように、もともと利益の追求を禁止していない。利子を取ることは禁じているが、この点を現代の情報金融資本主義に適応するものにすれば、資本主義の発達とイスラム教の増勢は、矛盾しないものとなると予想される。

もしイスラム教が今後、資本主義への適応によって変容していくならば、資本主義の動向に関わらず、資本主義化した宗教として存続していく可能性がある。この点で、注目すべきは、ユダヤ教である。ユダヤ教は、もともと富の獲得・蓄積を肯定する。資本主義の発生・発達は、ユダヤ的価値観のキリスト教社会での浸透と切り離せない出来事である。ユダヤ的価値観とは、こうしたユダヤ教の教えに基づいて発達した価値観であり、近代西洋文明に浸透し、全世界的に普及しつつある物質中心・金銭中心の考え方、自己中心的な態度、対立・闘争の論理、自然の管理・支配の思想である。

ユダヤ教は、資本主義の発達とともに増勢し、キリスト教の再ユダヤ教化を進めてきた。現代世界において、ユダヤ人は、大資本家でありつつ、熱心なユダヤ教徒であり得ている。ユダヤ教では、資本主義と宗教は、両立するのである。これは、情報金融資本主義の発達とグローバリズムの進展という資本主義の現段階においても変わらない。また、イスラエルは、主にユダヤ教徒の国家であり、世界最大の資本主義国・アメリカに、強い政治的影響力を振るようになっている。先進国におけるキリスト教離れの一方で、ユダヤ教徒は世界的に経済的影響力を及ぼし、またユダヤ的価値観は世界的に普及・浸透しつつある。島田氏は、本書でユダヤ教に全く言及していない。ユダヤ的価値観の普及と世界の宗教動向を全く見落としている。私は、ユダヤ教を最大のライバルとするイスラム教が、こうしたユダヤ教に対抗して、資本主義化した宗教として存続していく可能性があると考える。

ところで、家族人類学者で歴史人口学者のエマニュエル・トッドは、識字率が上がり、出生率が下がることを近代化の指標としている。若い世代を中心に、識字率が上がって、知識が増え、合理的な考え方が進む。また、女性の意識が変わり、出産を制限するようになる。こうした変化とともに、個人の意識が明確になると、伝統や因習を批判する思想が発達する。政治意識が高まり、政治的・社会的な変革を目指す運動が活発化する。トッドは、17世紀のイギリスや18世紀のフランスで起こった市民革命を、このような変化における出来事ととらえる。そして、これはキリスト教社会だけでなく、イスラム教の社会でも同じように起こると分析し、イラン革命の例を挙げている。アラブの春も、また同様の例と見ている。

17〜19世紀の西方キリスト教社会では、識字率の向上と出生率の低下は、キリスト教批判による自由主義や社会主義の運動につながった。これに対し、イスラム教社会では、西洋文明の影響による近代化への批判として現れ、イスラム教への回帰や、イスラム教過激派への急進化という現象が起こっている。イスラム教の社会では、近代化が進展しつつも、西洋文明及びキリスト教に対抗する形で宗教が社会の規範であり続ける可能性がある。


 

●資本主義と宗教の関係は単純ではない

 

島田氏の宗教消滅論は、今日の資本主義の動向を以て、資本主義は終焉に向かっていると決めつけ、その資本主義と深く連動してきた宗教も終焉に向かっていると二重に決めつけるものである。

島田氏は、古典的な世俗化論に基づいて、「なぜ近年になって世俗化に勢いがついたのかということは大きな問題である」という。「そこには、先進国の高度資本主義が、行き着くところまで行き着いたということが関係している可能性がある。あるいは、資本主義自体が新しい段階に入ったということなのかもしれない」と。

この見方は、宗教と経済の間には深い関係があるという理解に基づく。そして、現代世界の宗教の動向は資本主義の今日的な状況が深くかかわっていると見るものである。島田氏が資本主義の今日的状況としてとらえるのは、経済学における市場の拡大の限界論である。島田氏は言う。「資本主義は市場を拡大することで発展していくもの」である。「資本主義は、絶えず市場の拡大をめざし、世界全体を生産のための、そして消費のための市場とする方向に突き進んできた」。だが、「市場の拡大には限界がある」。今日、「資本主義は行き着くところまで行き着いた。さらなる市場の拡大は、現実的には不可能なところまで来ている」。この資本主義の市場の拡大の限界が、宗教の衰退を生み出していると見るのである。

また、島田氏はもう一つ、「資本主義自体が新しい段階に入った」という見方を書いている。島田氏は言う。「ある程度の豊かさが実現されれば、高度な発展には終焉がもたらされる」と。これは、資本主義の高度な発展が終ること、すなわち低成長の段階に入ることをいうものだろう。だが、島田氏は、同時にこのことを資本主義そのものの終焉と言い直している。資本主義が高度成長の段階から低成長の段階に移ることは、資本主義そのものの終焉とは違う。経済成長率の低下に過ぎない。ところが、島田氏はこの経済成長率の低下をもって、資本主義の終焉と言っている。ここには、明らかに論理の飛躍がある。

その論理の飛躍のうえで、島田氏は次のように言う。「資本主義が終焉を迎えるということは、それと深く連動してきた宗教にも根本的な変化がもたらされることを意味する。それはどうやら、宗教の消滅という方向に向かいつつあるのである」と。

 島田氏は、資本主義の終焉をいうが、資本主義の定義を示しておらず、資本主義の終焉とは、どういう状態をいうのかの説明もない。高度成長から低成長への移行や市場拡大の限界を以て、資本主義の終焉と言っているようだが、高度成長の終焉や市場拡大の終焉と、資本主義そのものの終焉は違う。

例えば、恐慌もまた資本主義の現象である。低成長は低率ではあっても価値の増大だが、恐慌は価値の大幅な下落または喪失である。世界は1920年代末から、資本主義の深刻な危機を経験した。だが、それは資本主義の終焉ではなく、資本主義のある段階の出来事だった。恐慌による経済危機を乗り越えた資本主義は、新たな段階に進んだ。1930年代には、それまでの自由貿易とは反対のブロック経済が流行し、利益の対立からヨーロッパで国家間の生存を賭けた戦いが発生し、第2次世界大戦が勃発した。戦争もまた資本主義の現象である。戦争は、大規模な価値の破壊である。第1次大戦はロシアで共産主義革命を招き、資本主義の反対勢力の国家が出現した。第2次大戦はソ連圏の拡大を許した。しかし、自由主義の世界は、資本主義の仕組みを再建し、復興を成し遂げ、新たな成長へと進んだ。米ソ冷戦は、資本主義の勝利に終わった。旧ソ連圏は再び資本主義の側に組み入れられた。資本主義はさらなる発展を続けた。

21世紀の今日、世界は、情報テクノロジーを用いた金融とグローバリズムの進展という資本主義の新たな段階にある。島田氏が強調する市場拡大の限界への到達は、歴史的に初めての出来事だが、世界が一個の市場に統合され、もはや市場開拓の余地がないように見える世界で、経済は成長し続けている。とりわけ中国、インド、ブラジル、南アフリカのBRICSやASEAN諸国等は、急成長を続けている。市場拡大限界論は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの成長可能性を軽視しすぎている。

また、経済成長は、市場の拡大だけでなく、イノベーション(技術革新)によるところが大きいものである。新しい技術が新しい商品、新しいサービスを生み出し、新たな市場を生み出す。資本主義の歴史は、その繰り返しだが、20世紀後半以降の世界では、経済成長におけるイノベーションの役割が一層大きくなっている。自動車、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、クーラー、ビデオ、コンピューター、携帯電話、ゲーム、新素材製品等の登場が、新たな消費を生み、富を創出してきた。今後も、新技術による新商品、新サービスの登場が準備されており、イノベーションは加速しつつある。発展途上国で国民所得が上がり、中間層が増え、購買力が増大すれば、世界経済の規模はますます拡大していくだろう。

島田氏は、もし資本主義そのものの終焉をいうならば、資本主義以後の社会経済体制がどうなるかを示さねばならない。島田氏は、社会主義や共産主義の社会を想定しているのだろうか。かつて1970〜80年代まで、資本主義の次には歴史的必然を以て社会主義・共産主義が実現するという理論が流行した。また、社会主義・共産主義の国家では、科学的・進歩的な思想により、宗教は消滅すると予想された。だが、結果は全く違った。ソ連・東欧では、社会主義・共産主義の体制が崩壊してしまった。ソ連の解体のきっかけとなったのは、ポーランドで民主化を要求する運動が起ったからだった。その運動の支えとなったのは、カトリックへの信仰だった。ソ連解体後のロシアでは、ロシア正教が復興した。消滅したのは、宗教ではなく、共産党独裁政権の方だった。

この歴史的事実を同時代で目の当たりにして、なお資本主義から社会主義・共産主義へという思想を固持する者は、ごくわずかな左翼知識人のみである。ただし、ソ連・東欧の民主化の後も、中国では共産主義の体制が続いている。今日、資本主義以後の社会経済体制として社会主義や共産主義を想定する者は、現代中国を目指すべき国家体制と評価するのだろうか。中国は改革開放政策に切り替え、社会主義的市場経済という理論のもとに、共産党独裁による資本主義国家に変貌した。今日、中国では、急速な経済成長の中で極度に格差が拡大し、キリスト教の信者が急増している。これは、共産国で起こっている現象ゆえ、単に経済成長による格差拡大に伴う現象とは言えない点がある。唯物論的共産主義を教育された人々が、あらためて宗教を求めるという動きが起っているのである。

私は、島田氏は資本主義の終焉による宗教の消滅というセンセーショナルなことをいう一方、資本主義終焉後の社会経済体制を示すことが出来ていないことを指摘したい。

宗教の動向と関係するものとしての資本主義について、島田氏は高度成長から低成長への移行や市場拡大の限界を指摘するが、資本主義の動向は、それだけにとどまるものではない。

先進国の資本主義社会では、経済成長率の上昇・低下の変動に関わらず、近代化・合理化の進展が続き、人々の間に合理的な考え方が広がっている。特に1990年代からは近代化・合理化の最先端の現象としてグローバリゼイションが、地球規模で進んでいる。コンピューターの発達によって強欲的・投機的な投資行動が激化している。それによって、人々の価値観が一層経済中心・物質中心となり、人々は現世的欲望の追求に向かっている。それが宗教離れの原因になっていると考えられる。

発展途上国においても、急速に経済成長し、国民の所得が上がり、中間層が増え、国民に教育が普及し、多くの人々がさらに多くの富を得られるようになると、経済中心・物質中心の考え方が広がり、現世的欲望の追求へ向かい、宗教離れが起る可能性がある。ただし、発展途上国の中には、イスラム教が支配的な国、キリスト教が支配的な国、仏教が支配的な国、ヒンドゥー教徒が多い国、複数の宗教が併存する国などがあり、国によって宗教事情が異なる。その違いによって、社会と意識の変化の仕方も、一律ではないだろう。

 

(3)宗教には担うべき人類的課題がある

 

●ユダヤ的価値観の超克

 

こうした先進国及び発展途上国の動向において、重要なのはユダヤ的価値観が世界的に普及・浸透しつつあることである。先に、第3の動向のイスラム教の項目に、ユダヤ教のことを書いたが、西方キリスト教社会において資本主義が発達し、人々が経済的利益を追求するようになったのは、ユダヤ的価値観が浸透したからである。ユダヤ教は、現世における利益の追求を肯定し、金銭の獲得を肯定する。ユダヤ的価値観とは、こうしたユダヤ教の教えに基づいて発達した価値観である。その価値観が、近代西洋文明に浸透し、全世界的に普及しつつある。それによって物質中心・金銭中心の考え方、自己中心的な態度、対立・闘争の論理、自然の管理・支配の思想が拡大している。

ユダヤ的価値観は、資本主義が世界に広がるとともに、あらゆる社会に普及しつつある。ヨーロッパでキリスト教が衰退に向かう一方、ユダヤ的価値観の母体であるユダヤ教は、イスラエルを中心に勢力を維持し、アメリカではキリスト教右派を親ユダヤ化して、アメリカの政治・外交に強い影響力を行使している。キリスト教、仏教、イスラム教が今後、資本主義の動向とともに衰退していくことになったとしても、ユダヤ教が同じように衰退の途を歩む可能性は低い。ユダヤ教には利益追求、金銭の獲得を肯定するだけでなく、ユダヤ民族を神に選ばれた特別の民族だとする選民思想がある。ユダヤ教はユダヤ民族という集団を救済する宗教であり、今後メシアが出現することが期待されている。メシアは、神と新しい契約を結び、王国を復興して神殿を再建する。離散したユダヤ人を世界各地から呼び集める。イスラエルを率いて、世界を統治する。このような役割を果たすべき宗教的指導者であり、また政治的指導者としてのメシアの出現が待望されている。こうした選民思想・メシア待望は、ユダヤ教において、資本主義的な富の獲得と矛盾しない。それゆえ、ユダヤ民族が豊かな富を獲得することは、宗教の衰退には向かわず、集団の団結を保ち、メシアによる選民の救済を信じる信仰は維持されるのである。ユダヤ教のみが確固として維持され、他の既成宗教がみな衰退していくという未来像を描くことも可能である。

私は、人類はユダヤ的価値観による破滅の危機を乗り越えなければならないと考える。この課題は、人類全体の課題であるが、宗教が担うべき部分は大きい。この点については、拙稿「ユダヤ的価値観の超克〜新文明創造のために」を、第6部を中心にご参照下さい。


 

●中国共産党による宗教弾圧への対抗

 

宗教の世界的状況を見る時、島田氏の上げる三つの動向以外に、第4の動向として、中国における宗教への弾圧を加える必要がある、と私は考える。中国における宗教弾圧は、旧ソ連におけるキリスト教(ロシア正教)への弾圧に続き、さらに大規模で苛烈な共産主義による宗教弾圧である。チベットでのチベット仏教への迫害、新疆ウイグルでのイスラム教徒への迫害、また法輪功等の新宗教への取り締まりは、深刻な人権問題となっている。今後、中国がアジアから世界へと覇権を拡大していくと、中国の支配下にある諸国では、こうした宗教弾圧が行われることが予想される。

 習近平総書記兼国家主席は、平成29年10月の中国共産党第19回全国代表大会で、習思想を党規約に明記し、独裁体制の確立を進めた。中国共産党は「宗教を僕(しもべ)にしてしまおう」としており、その一方、中国の仏教協会・道教協会には宗教の信念を曲げて政権党に媚びる動きがある。そうした中国の動向について、平成29年10月ジャーナリストの櫻井よしこ氏は、次のように書いた。

 「『中国の特色ある社会主義』の下、各民族は『ザクロの実のように寄り集まり』、宗教は『中国化』され『社会主義社会への適応』を求められる。文化も社会主義イデオロギーに導かれ、社会主義の『核心的価値観』が人々の心にぴったりはまり(アイデンティティーとなり)、行動・習慣に自然に反映されるよう、家庭、子供に至るまで教育を徹底させる。かくして『愛国主義、集団主義、社会主義』の教育が一層強化されるというのだ」

 「習氏は『偉大なる中華民族の復興』を謳い、『中華民族は世界の諸民族のなかにそびえ立つだろう』とし、『人類運命共同体』の構築を提唱した。これからの中国を読み解く上での重要な言葉となるであろう人類運命共同体構想は『世界制覇宣言』と同義語かと思う。人類は皆、中国の下で中国主導の運命共同体の一員として生きることを要求されるのか」と。

 櫻井氏が指摘した宗教の「社会主義社会への適応」は、すでに中国では強力に進められつつある。やがて中国共産党が支配する領域を広げていくにしたがって、中国以外の国でも、宗教の「中国化」が強要されることになるおそれがある。

人類社会における宗教の衰退は、中国の世界的な覇権拡大によってこそ、最も深刻な形で進行する可能性がある。島田氏は、この点も全く視野に入っていない。もし島田氏が予測するように、世俗化が世界的に進行し、宗教が消滅して社会が無宗教化するならば、そのような地球社会は、中国共産党が支配する「社会主義社会」となるだろう。島田氏は、資本主義の終焉の先に、そのような「社会主義社会」が到来することをよしとするのだろうか。私は、世界が唯物論による全体主義に支配されないようにするために、人類は宗教の価値を再発見すべきであると考える。また同時に、世界の諸宗教は旧来の教義や慣習にとらわれずに、真に人類の幸福と発展に寄与する道を真剣に求めるべきだと呼びかけたい。(ページの頭へ)

 

3.宗教は存続し、新たな発展へ向かう

 

島田氏は、宗教の必要性を資本主義経済の成長による経済格差の拡大における弱者への社会的救済としてしか見ていない。島田氏の見方は、戦後日本で新宗教に入信するものの動機として挙げられた貧・病・争のうちの貧を中心とした見方である。貧しさであれば、経済成長で物質的に豊かになり、社会保障が発達すれば、改善される。それによって宗教に対する関心は低下するだろう。だが、宗教の必要性は、貧しさの改善だけではない。宗教は、人間の中にある自己実現・自己超越の欲求に根差したものであり、貧富に関わらず、人々は自己実現・自己超越を求める。宗教は、人々に自己実現・自己超越の方法を示す。また宗教は、人間の実存的な悩みや死の問題について取り組む智恵を与える。これはいかに科学や文化が発達しても、人間にとって逃れられない課題である。そして、宗教の価値の多くは、自己実現・自己超越の欲求の実現や実存的な悩みや死の問題について、独自の役割を担うところにある。島田氏はこうした宗教の価値についての理解が浅く、それを評価できていない。

自己実現・自己超越の要求については、拙稿「宗教の諸相と発展可能性」の「7.宗教と自己実現」に書いた。

また、死の問題とその解決については、拙稿「宗教、そして神とは何か」の「7.生と死の問題」「8.大安楽往生と魂の救い」に書いた。

人間に自己実現・自己超越の欲求があり、また人間が死すべきものである限り、宗教の必要性はなくならない。私は、世俗化によって宗教の個人化ないし私生活化が進むなかで、宗教は社会における役割を変化させながら、これまでとは違う形で宗教独自の価値を発揮していくだろうと考える。

ただし、近代化・合理化の進展のなかで、既成宗教は科学の知見との矛盾を広げ、時代遅れになっている。そのため、これらの課題についても、現代人の要求に応えられなくなっている。先進国を中心に、人々は、自分が生まれた社会の伝統や慣習であるような形式的・制度的宗教から離れて、自分にとって本当に価値あるもの、本物を探し求め出している。そして、この科学が発達し、人々の知識が増大した時代において、現代人の要求に応えられるような新しい宗教、宗教を超えた宗教の出現が待望されている。

従来の宗教は、天動説の時代に現われた宗教である。今では、地球が太陽の周りを回っていることを、小学生でも知っている。パソコンやスマートフォンや宇宙ステーション等がないどころか、電気や電燈すらなかった時代の宗教では、到底、現代人の心を導けない。

伝統的宗教の衰退は、宗教そのものの消滅を意味しない。むしろ既成観念の束縛から解放された人々は、古代的な宗教から抜け出て、精神的に成長し、さらに高い水準へと向上しようとしている。また、より高い精神性・霊性を目指す人々が徐々に増えている。先進国における既成宗教からの人々の離脱は、こうした方向への変化の過程における一つの現象とみることができる。

いまや科学が高度に発達した時代にふさわしい、科学的な裏付けのある宗教の出現が待ち望まれている。また、宗教には、人類が核戦争と地球環境破壊の危機を乗り超えるように、人類を精神的に導く力が期待されている。宗教はこれまでの古い殻から脱け出て、より高度なものへと向上・進化すべき時を迎えている。21世紀に現れるべき新しい宗教は、従来の宗教を超えた宗教、すなわち超宗教となるだろう。そうした宗教に求められる特長は、次のようなものとなるだろう。

 

◆実証性 実証を以て人々の苦悩を救う救済力を有すること

◆合理性 現代科学の知見と矛盾しない合理性を有すること

◆総合性 政治・経済・医学・教育等のすべてに通じる総合性を有すること

◆調和性 人と人、人と自然が調和する物心調和・共存共栄の原理に基づくこと

◆創造性 人類普遍的な新しい精神文化を生み出す創造力を有すること

 

こうした特長を持った超宗教が出現・普及することによって、新しい精神文化が興隆し、現代文明の矛盾・限界を解決する道が開かれることが期待される。そして、従来の宗教を超えた超宗教が出現し、世界に普及することによって、発展的解消に向かうだろうと私は予想する。この点については、拙稿「宗教の諸相と発展可能性」の「8.科学と宗教の融合」、及びユダヤ的価値観の超克〜新文明創造のために」の「第4章 人間観の転換を」に書いたので、そちらをご参照願いたい。(ページの頭へ)

 

関連掲示

・拙稿宗教、そして神とは何か

・拙稿「宗教の諸相と発展可能性

・拙稿「ユダヤ的価値観の超克〜新文明創造のために

 

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