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■イスラームの宗教と文明

〜その過去・現在・将来

2016.5.11

 

<目次>

はじめに

第1部 イスラーム教とは何か

第1章 概要

世界に広がる巨大宗教/名称/アッラー/アッラーが与えた宗教/天地創造と人間誕生/『ハディース』/聖地

第2章 教義

六信五行/ジハード/信仰のあり方/キリスト教の重要教義の否定/シャリーア/愛/他宗教への態度と異教徒の処し方/罪と罰/予定説と因果説/奇蹟/自然と科学/神学の発展

第3章 組織

後継者問題と二大宗派の発生/宗派の違いと対立/聖職者は存在しない/礼拝施設

第4章 生

世界観/個人と共同体/性と結婚/死と死後の考え方/暦

第2部 イスラーム文明の展開

第1章 歴史

イスラーム教の誕生/正統カリフの時代/カリフの世襲化とイスラーム帝国の成立/イスラーム文明の分裂/モンゴル帝国・オスマン帝国の興亡/広域的な伝道/イスラーム文明の栄光と停滞

第2章 現代(1945年〜2010年代初め)

イスラエルの建国と中東戦争/石油危機/エジプトとイスラエルの和平/イスラーム教原理主義とイラン革命/イラン・イラク戦争/湾岸戦争/一神教文明群における文明間の戦争/テロリズムの脅威

第3章 現在(2011年以降)

アラブの春/移行期の危機/過激組織ISIL//パリ同時多発テロ事件/トルコとロシアの対立/サウディアラビアとイランが断交/中東複合危機から第3次世界大戦へ/イスラーム文明全体の課題

第4章 将来

近代化から脱イスラーム化へ/イスラーム文明の人権に関する動向/イスラーム文明と異文明の関係

結びに〜イスラームに関わる日本文明の役割

イスラーム文明と人類の将来/セム系一神教文明は脱皮すべき時/日本文明の役割

 

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はじめに


 イスラーム教は、キリスト教に次ぐ信者数を有する巨大宗教である。また世界で最も信者数が増加しつつある宗教である。イスラーム教はセム系一神教に属するが、同じ一神教であるユダヤ教・キリスト教とは、教義や価値観に大きな違いがある。イスラーム教を宗教的な中核とするイスラーム文明は、現代世界の主要文明の一つである。今日、イスラーム文明とユダヤ=キリスト教諸文明は摩擦・対立を強めている。この状況が一層深刻化していくか、それとも協調・融和へと向かうかが、人類の将来を左右するほどの大きな影響力を及ぼす。そのうえ、イスラーム文明におけるイスラーム教諸国や宗派間の対立・抗争が人類に大きな混乱を引き起こすおそれもある。
 2015年(平成27年)11月13日パリで同時多発テロ事件が起こった。スンナ派過激組織ISILが犯行声明を出すと、国際社会はISILを壊滅すべく連携して軍事行動を行っている。そのような状況で、今年(2016年)1月2日サウディアラビアが同国内シーア派指導者らを処刑したことがきっかけで、サウディとイランが国交を断絶するという事態に発展した。ここには、イスラーム文明内のサウディアラビア、湾岸諸国、イラン、イラク、シリア、トルコ等の諸国家の複雑な関係があり、7世紀から続くスンナ派とシーア派の対立、またそれぞれの宗派から派生した過激組織のテロ活動が絡んでいる。
 イスラーム教とはどういう宗教か、イスラーム文明はどういう歴史を辿り、これからどうなっていくのか。本稿はイスラームの宗教と文明を概説し、その歴史を振り返り、現状をとらえ、将来を展望するものである。なお、本稿におけるいわゆる『コーラン』こと『クルアーン』の引用は、日本ムスリム協会の翻訳版による。

 

 

第1部 イスラーム教とは何か

 

第1章 概要


●世界に広がる巨大宗教

 イスラーム教は、約1400年前にアラビア半島でムハンマドが始めた教えである。アッラーを信仰対象とする一神教であり、『クルアーン』を啓典とする。
 イスラーム教は、世界宗教の一つである。2010年の時点で約16億人の信者を有する。この信者数は、キリスト教の信者数21億7千万人に次ぐ。人類の総人口のおよそ4分の1を占める。4人に1人に近い。主に西アジア、アフリカ、インド、東南アジアを中心に分布する。
 イスラーム教は、世界で最も信者数が増えている宗教である。急速な人口増加の傾向のある発展途上国に多く分布するため、人口の自然増加に伴って、信者数が急激に増えつつある。2050年ころには、キリスト教の信者数にほぼ近くまで増加すると予測されている。
 地域的には、中東やサハラ砂漠以北のアフリカの国々は、ほとんどがイスラーム圏に属する。だが、世界で最もイスラーム教徒が多い国は、インドネシアである。人口約2億4千万(2010年)の約90%に当たる約2億2千万人を有する。東南アジアでは、マレーシアもイスラーム教徒が多く、人口の約50%を占める。また東南アジア地域では、イスラーム教が最も信者数の多い宗教となっている。西アジアにもイスラーム教徒が多く、パキスタンはインドネシアに次いで世界第2位となる約1億9千万人のイスラーム人口を有する。バングラデシュにも約1億4千万人のイスラーム教徒がおり、さらにそれを上回る世界第3位のイスラーム人口を持つのがインドである。ヒンドゥー教の社会に約1億6千万人のイスラーム教徒がいる。これは約12億2千万のインド人口の約13%を占める。
 旧ソ連から独立した中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン等の6つの共和国は、国民の多数がイスラーム教徒である。ロシアにも約2千万人のイスラーム教徒がいる。中国では、新疆ウイグル自治区のウイグル族が、イスラーム教徒である。
 わが国には日本人のイスラーム教徒が1万人、外国人のイスラーム教徒が10万人ほどいるといわれる。
 
●名称

 わが国では「イスラム」という表記が多く使われるが、これは本来、アラビア語で「イスラーム」と発音する。中東の専門家の多くはこの表記を使うので、本稿は基本的にこれを使う。
 イスラームという語の字義通りの意味は、世界的なイスラーム研究の泰斗・井筒俊彦氏によれば、「人が己れのこよなく大切に思う所有物を他人に無条件に引き渡すこと」である。そこから、「自分自身を同じく絶対無条件的に神に引き渡すこと」という宗教的な意味が派生した。一言でいえば、イスラームは「絶対帰依」を意味する。
 イスラーム教研究や中東事情の専門家は、イスラームはそれ自体が宗教の名であるから、イスラーム教と「教」をつける必要はないという。だが、わが国では宗教に対しては「教」をつける表記が一般的なので、本稿では「教」をつける。仏教、儒教、道教、キリスト教等に「教」をつけて、イスラーム教に「教」がないのは、日本語でのバランスがよくない。また、外国語の表記に従うと、例えばブッディズム、ヒンドゥイズム、シントウイズムは「イズム」で、イスラームやクリスチャニティは「イズム」ではないのかというような議論にもなる。
 イスラーム教徒をムスリムという。本稿では、主に「イスラーム教徒」と表記する。

●アッラー

 アッラーは、「アル・イラーハ」が詰まってできた言葉である。「イラーハ」は一般に神を意味する。「アル」は定冠詞である。それゆえ、アッラーは、英語で言えば、定冠詞つきの「ザ・ゴッド」に当たる。絶対唯一の神を意味する。ヘブライ語の「ヤハウェ」と同じである。
 『クルアーン』は、イスラーム教もユダヤ教もキリスト教も唯一絶対の神を崇拝する本質的に同じ宗教だと説いている。アッラーと、ユダヤ教の神、キリスト教の神は、名称は異なるが、同じ神を表していると考える。神は一つであり、一体異名という考え方である。
 アッラーは、天地万物を無から創り出し、人間を造った創造主であり、一切万有の生成消滅を主宰し、すべてを意のままに動かす絶対者である。男性の人格的唯一神である。このようなアッラーの性格は、セム系一神教の神観に共通する。
 アッラーは「慈悲あまねく慈愛深きアッラー」と形容され、愛の神であることが強調される。その一方、信者の上に奴隷に対する主人のように臨み、神の命に背く者を厳しく処する「怒りの神」でもある。限りなくやさしい愛と慈悲、恐ろしい憎悪と怒りと復讐という相反する二つの面を持つ。
 イスラーム教では、アッラー以外のものを神として崇拝することは、許されない。多神崇拝、偶像崇拝は排撃される。

 

●アッラーが与えた宗教

 『クルアーン』は、イスラーム教は神が宗教を完成させて、人間に与えたものとする。第5章第3節に次のようにある。「今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである」。
 このアッラーによる宗教とは、アッラーを絶対唯一の神とする教えである。第3章83節に次のようにある。「アッラーの宗教の外に、他(の宗教)を求めるというのか、天と地にあるものは、好むと好まざるとを問わず、只かれに服従、帰依し、かれ(の許)に帰されるのである」。
 こうした言葉を伝えるムハンマドには、新たな宗教を創始しようという気持ちはなかった。彼が意図したのは、ユダヤ民族・アラブ民族が共通の祖先とし、ムハンマドが預言者の一人とするイーブラヒーム(アブラハム)の宗教の復活である。イーブラヒームは、神は唯一であり、宇宙の創造者であって、この神だけが信仰の対象たるにふさわしいものであることを明確に規定した。ムハンマドは、そのような純粋な一神教を復活させようとした。

●天地創造と人間誕生

 イスラーム教は、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)とキリスト教の新約聖書を神の啓示の書、啓典と認める。それゆえ、天地と人間の創造については、大筋においてユダヤ民族の神話を継承している。
 『クルアーン』によれば、永遠の昔、神は天地を創造し、天には日月星辰を、地には人類をはじめとする生命を創造した。
 人間の起源について、『クルアーン』は、ユダヤ神話のアダムとエバの物語を基本的に継承する。ただし、その記述には違いもある。旧約聖書では、邪悪な蛇がエバを唆し、エバが禁断の実に手を伸ばすのだが、『クルアーン』では、男のアーダムアダム)がサタンに唆されて、禁断の実に手を伸ばす。禁断の実を食べたアーダムとその妻(註 『クルアーン』には名は記されてしない)は過ちに気づき、アッラーに赦しを乞う。アッラーは二人を赦し、それから二人を楽園から追放する。ここも旧約聖書と違う。
 楽園追放は、旧約聖書では人間の原罪と堕落を意味する。だが、イスラーム教では、人間が地上の世界に来ることになったことに積極的な意味を見出している。なぜなら、二人が地上に遣わされたのは、罪が赦され後のことだからである。アーダムはアッラーの導きに従えば必ず成功すると約束され、子孫に神の教えを伝えた。こうしてアーダムは最初の預言者となったとされる。
 神は自然には天体の運行や四季、風雨、昼夜の変化などの秩序を与えたが、人類には、来世の天国に行けるように現世で守るべき規範を授けた。神が人類に授けた規範をシャリーアという。シャリーアについては、教義に関する項目で述べる。

●『ハディース』

 『クルアーン』に次ぐ聖典とされているものに、『ハディース』がある。『クルアーン』は、神の言葉そのものであるのに対し、『ハディース』は、ムハンマドの言行を記録したものである。この点で『ハディース』は、イエスの言行を記した福音書に比すべきものといえよう。
 『クルアーン』に書かれていないことを知り、物事の是非を判断するには、ムハンマドの発言や行動がよすがとなる。例えば、『クルアーン』には、礼拝の仕方は書いていない。メッカ巡礼も、具体的なやり方はすべて『ハディース』に書かれたムハンマドのやり方に従う。その他イスラーム教徒のあり方やなすべき行動は、この書をもとに体系化されている。

●聖地

 イスラーム教には、メッカ、メディナ、エルサレムなどの聖地がある。メッカはムハンマドの生地であり、啓示と創唱の地である。またカーバ神殿がある。メディナはムハンマドが迫害を逃れて移住し、信仰共同体を築いた地であり、また没した地である。メッカ、メディナとも、サウディアラビアにある。これに対し、イスラエルにあるエルサレムは、イスラーム教、ユダヤ教、キリスト教の三つの宗教の聖地である。
 ユダヤ民族とアラブ人の先祖とされるアブラハム(イーブラヒーム)は、神から一人息子のイサクを犠牲にするように命じられた。アブラハムは丘の上の岩にイサクを横たわらせ、刃物で殺そうとした。神はそれを見て、アブラハムが忠実であることを認め、イサクを殺すのをやめさせた。許されたアブラハムは、子供の替わりに犠牲の羊を捧げた。その場所を、ユダヤ教では「聖なる岩」という。ユダヤ人はそこに神殿を建てた。だが、神殿は紀元70年にローマ帝国によって破壊され、神殿の西側のみが残っている。これを「嘆きの壁」という。
 ムハンマドは、この「聖なる岩」の上に手をついて、そこから天に昇り、かつて神の声を聞いた預言者たち(アーダム、イーブラヒーム、ムーサー、イーサー)に会って、再びエルサレムに降りてきたとされる。イスラーム教では、ウマイヤ朝時代に「聖なる岩」を覆い、「岩のドーム」を建造した。
 また、キリスト教では、イエスが十字架にかけられた「ゴルゴダの丘」に、聖墳墓教会が建設されている。
 このように、エルサレムはイスラーム教、ユダヤ教、キリスト教の聖地となっている。同市旧市街のわずか1キロ四方ほどの場所に、これらの宗教の聖地が集中している。エルサレムは、1947年国連で国連永久信託統治区と決議されたが、第1次中東戦争の結果、イスラエルとトランス・ヨルダンの休戦協定で東西に分割された。さらに第3次中東戦争でイスラエルがヨルダン川西側を占領した際、全市を押さえた。イスラエルは、エルサレムを「統一された首都」と宣言した。国連決議を完全に無視した行動である。そのため、世界の多くの国は、エルサレムを首都と認めず、大公使館をティルアビブに置いている。
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第2章 教義


●教義の根本

 『クルアーン』は、唯一の神アッラーとその最後の預言者ムハンマドとを信じ、神に仕え、神のよしとする正しい人間関係を結び、来世は天国に迎え入れられよと教える。
 『クルアーン』の第1章(開扉)に、次の主旨の言葉が記されている。
 「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ、慈悲あまねく慈愛深き御方、最後の審きの日の主宰者に。わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。わたしたちを正しい道に導きたまえ、あなたが御恵みを下された人々の道に、あなたの怒りを受けし者、また踏み迷える人々の道ではなく。」
 ここに『クルアーン』の大切な内容がすべて含まれているといわれる。祈りの際には必ずこの一章が読み上げられる。

●六信五行

 イスラーム教徒は、天国に行くために、六つのことを信じ、五つのことを守らねばならない。これを六信五行という。
 六信とは、(1)アッラー、(2)天使、(3)啓典、(4)預言者、(5)来世、(6)天命を信じること。五行とは、(1)信仰告白、(2)礼拝、(3)喜捨 (ザカート)、(4)断食、(5)巡礼を行うことである。
 六信のうち、(1)アッラーと(4)預言者については、ここまでに詳しく書いた。それ以外のものを中心に記す。
 (2)天使(マラク)は、アッラーと地上を取り持つ存在である。神が光から創造し、神の補佐役として様々な役割を遂行する。ジブリール、ミーカーイール、イズラーイール、イスラーフィールの四大天使等がいるとされる。
 (3)啓典(キターブ)は、『クルアーン』だけではない。モーゼに下された五書(『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』)やイエスの言行を記した福音書も啓典とされる。
 イスラーム教で「聖なるもの」とされるのは、アッラー、天使、啓典であり、(4)預言者はただの人間であって崇拝の対象ではない。
 (5)来世(アーヒラ)は、神による最後の審判を受けた者が行く世界である。信仰を持ち正しい行いをした人は天国で平安な生活を、信仰せず不義をなした者は地獄で永劫の罰を受けるとする。
 (6)天命(カダル)は、予定とも訳される。イスラーム教徒は、人類の興亡、栄枯盛衰など、現世で起こるすべての出来事は偶然ではなく、あらかじめ定まっており、天命であると考える。

 次に、五行について記す。五行は、五柱と呼んだほうが、イスラーム教の信仰を支える五本の柱の意味で良い。しかし、わが国では、六信五行がという用語が定着しているので、本稿はそれに従う。
 (1)信仰告白(シャハーダ)は、アラビア語で「アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒である」という簡潔な言葉 (カリマ) を唱えることである。 イスラーム教への入信または改宗の際や礼拝のたびごとに唱えられる。
 (2)礼拝(サラート)は、神への服従と感謝の念の行為による表明である。義務としての礼拝は1日に5回、夜明け、正午、午後、日没、夜半に、聖地メッカの方角に向かって、定められた方法で祈る。ほかに自発的礼拝を行うことが推奨される。
 イスラーム教では一切の偶像が否定されている。したがって、日常生活の中で、目に見えない神を常に意識し、崇拝し続けるために、1日5回もの礼拝が行われていると考えられる。
 礼拝において、イスラーム教徒は、一心に神に祈りを捧げる。義務としての祈りでは、神への感謝を表す。願いごとを入れてはいけない。これとは別に、個人個人が自分の望みを神に呼びかける祈りをすることができる。その祈りは、ドゥアーと呼ばれる。
 (3)喜捨(ザカート)は、シャリーア(イスラーム法)の定める信徒の義務であり、貧しい者の救済・援助のために寄付を行う。義務化された施しなので、実質的な宗教税、救貧税である。所有する財産によって率が決められている。金銭は2.5%、穀物は10%等となる。ザカートの本来の意味は浄めである。ザカートによって、貧者は困窮から救われ、富者は魂の犯す物質的欲望から救われると考える。
 施しには、これとは別にサダカと呼ばれる自発的な喜捨がある。  
 (4)断食(サウム)は、1年に1ヶ月、イスラーム暦(ヒジュラ暦)の第9月(ラマダーン月)に行う。日の出から日没までの間、飲食や喫煙を禁止する。日没後は許容される。
 (5)巡礼(ハッジュ)は、聖地メッカへ巡礼することである。イスラーム暦第12月(ズー・アルヒッジャ月) の8日から10日までの間、定められた順序と方法でメッカのカーバとメッカ東方の聖地を訪れる。一生に一度は巡礼することが望ましいとされる。

 六信五行は、『クルアーン』と『ハディース』に基づくものである。『クルアーン』に記されたイスラーム教の教義は、イーマーン、イバーダート、ムアーマラートからなる。イーマーンは信仰内容、イバーダートは神への奉仕、ムアーマラートは行動の規範、特に信者同士の人間関係を意味する。
 イーマーンは、六信に対応する。イバーダートは、五行のうちの礼拝、喜捨、断食、巡礼を含むが、『クルアーン』は、それ以外にジハード(聖戦)を特に強調している。この点は重要なので、後で別途記す。イバーダートは、宗教学的には儀礼に当たるが、イスラーム教の儀礼には祭りもある。宗派の別なくイスラーム法に定められた二大祭 (イード) は、断食明けの祭 (イード・アルフィトル) と犠牲祭 (イード・アルアドハー) である。このほかに、数種の祭りがある。またムアーマラートには、姦淫をしないこと、孤児の財産をむさぼらないこと、契約を守ることなどの倫理的なおきてのほか、婚姻、離婚、遺産相続、ハッド (犯罪) に関する規定から利子の禁止、孤児の扶養と後見、酒を飲まないこと、豚肉を食べないこと、豚肉以外でも正しい屠殺法によって殺された動物の肉以外は食べないこと、日常の礼儀作法の心得までが含まれている。

 

●ジハードの義務

 六信五行の義務以外に、『クルアーン』はジハードに参加することを、信徒の義務とする。ジハードは、もともと「奮闘努力」を意味する。それが、「聖戦」の意味で使われる。
『クルアーン』は、しばしば聖戦について言及している。アッラーは、信徒の勇気を鼓舞し、激しい表現で決然と「戦え」「殺せ」と命じる。
 たとえば、第2章第190節「あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え」。同第191節「本当に迫害は殺害より、もっと悪い。だが聖なるマスジドの近くでは、かれらが戦わない限り戦ってはならない。もし戦うならばこれを殺しなさい。これは不信心者ヘの応報である」。同193節「迫害がなくなって、この教義がアッラーのため(最も有力なもの)になるまでかれらに対して戦え」などである。
 そのうえ、次のような言葉もある。第8章第17節「あなたがたがかれらを殺したのではない。アッラーが殺したのである。あなたが射った時、あなたが当てたのではなく、アッラーが当てたのである」
 アッラーは、聖戦で死ぬ者を救うことを約束する。たとえば、第22章第58節「アッラーの道のために移住し、その後(戦いで)殺され、または死んだ者には、アッラーは必ず善美な糧を与えるであろう」。第4章第74節「来世のために、現世の生活を捨てる者に、アッラーの道のために戦わせなさい。アッラーの道のために戦った者には、殺害された者でもまた勝利を得た者でも、われは必ず偉大な報奨を与えるであろう」などである。
 聖戦で殉教した者は、最後の審判を待たずに天国に直行すると信じられている。その反対に、イスラーム教の戦士と戦う敵に対し、アッラーは容赦ない仕打ちをし、地獄行きの懲罰を下す。たとえば、第5章第33節「アッラーとその使徒に対して戦い、または地上を攪乱して歩く者の応報は、殺されるか、または十字架につけられるか、あるいは手足を互い違いに切断されるか、または国土から追放される外はない。これらはかれらにとっては現世での屈辱であり、更に来世において厳しい懲罰がある」などである。
 『ハディース』に基づく預言者ムハンマドの伝記によって、ムハンマドの生涯がジハードの連続だったことが分かる。イスラーム教徒がジハードと聞いて第一に思い浮かべるのは、ムハンマド自身が行ったジハードそのものの事績である。そのため、信仰に熱心であれば、聖戦への献身に熱烈になる。

●信仰のあり方

 イスラーム教の信仰のあり方は、絶対唯一とするアッラーへの絶対的な帰依に尽きる。神と信徒との関係は、神は主人(ラッブ)、信徒は奴隷(アブド)とされる。アブドは、文字通り奴隷を意味する。
 アッラーを信じる信徒が神に対して取るべき態度は、ただ感謝あるのみとされる。「慈悲あまねく慈愛深き」と形容されるアッラー無限の恩恵に対し、人は常に感謝の念をもって応えなければならないとされる。『クルアーン』の言語用法では、感謝(シュクル)は信仰(イマーム)の同義語である。逆に、感謝の心をわすれた状態、すなわち忘恩(クフル)は無信仰と同義語である。
 キリスト教はただ内心の信仰だけあればよいとするが、イスラーム教は、正しい信仰が行為によって具体的に表現されなければならないとする。心の中で思うだけでなく、行動に表さなければならない。

●キリスト教の重要教義の否定

 キリスト教は、325年にニカイアで行われた宗教会議で、イエス・キリストは「唯一の主」にして「神の子」であると規定した。また父と子は「同質」だとし、父と子と聖霊の三位一体を規定した。
 三位一体は、カトリック教会、東方正教会、プロテスタント諸派に共通する中心的な教えの一つである。これは神が三つ存在するということではなく、神の実体(サブスタンシア)は一つ、神の位格(ペルソナ)は三つと概念化されている。三位一体はキリスト教徒にとっても難解な教義であり、理性をもって理解する対象ではなく、信仰をもって信じる対象としての神秘であると強調されてきた。
 イスラーム教は、このキリスト教の教義の重要部分を否定する。『クルアーン』は、イーサー(イエス)は「神の子」ではないことを強調する。神ではなく、単なる人に過ぎない。優れた預言者であるに過ぎないと断じる。
 『クルアーン』は、次のようにイーサーが「神の子」であることを否定する。第19章第35節「アッラーに子供が出来るなどということはありえない。かれに讃えあれ。かれが一事を決定され、唯『有れ。』と仰せになれば、即ち有るのである」。
 イーサーは「神の子」ではないと否定するから、当然三位一体説も明確に否定する。第4章第171節に次のようにある。「啓典の民よ、宗教のことに就いて法を越えてはならない。またアッラーに就いて真実以外を語ってはならない。マルヤム(註 マリア)の子マスィーフ・イーサー(註 イエス)は、只アッラーの使徒である。マルヤムに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である。だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。『三(位)』などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯―の神であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。天にあり、地にある凡てのものは、アッラーの有である。管理者としてアッラーは万全であられる」。
 ムハンマドは、このように三位一体説を否定したが、三位とは神とイエスと聖母マリアだと誤解していた。当時そのように説くキリスト教の一派があった。この誤解を補正し、聖母マリアを聖霊に替えたとしても、イエスは「神の子」ではないと否定するので、基本的な論理は変わらない。
 イエスをどうとらえるかは、キリスト教では大問題である。古代にその点を中心とする論争が起こり、正統と異端に分かれ、また諸宗派・諸教会が発生した。
 325年のニカイア公会議では、父なる神と子なるイエスは「異質」だというアリウスの説が否定され、アタナシウスの「同質」論が正統と決定された。また、同会議で三位一体説が正統とされたため、神性と人性の二つの位格しか認めないネストリウス派は異端と認定され、排斥された。ニカイア公会議で採択された信条を原ニカイア信条という。
 この後、381年の第1コンスタンティノポリス公会議において、ニカイア信条は拡充され、聖霊・教会・死者たちの復活についての教義の詳細が文章化された。これをニカイア・コンスタンティノポリス信条という。
 451年のカルケドン公会議では、受肉したイエス・キリストは単一の本性(ナトゥーラ)を持つとする単性論が否定され、キリストは神性と人性という二つの本性を持つとする両性論が正統と決定された。カルケドン会議の決議を拒絶する者たちは、非カルケドン派と呼ばれる。アルメニア使徒教会、エチオピア正教会、コプト正教会、シリア正教会などがある。これらのうちコプト教会は、マリアを「神の母」として熱心に崇敬する。
 こうした教義論争の結果、ムハンマドが生きた時代には、キリスト教はイエスやマリアを巡って様々な主張が諸宗派・諸教会として存在していた。ムハンマドは、それらに対して、イエスが「神の子」ではなく、ただの人間であり、預言者の一人に過ぎないと説いた。ユダヤ教では、イエスを救世主としても預言者としても認めない。この点、イスラーム教はイエスを預言者の一人と評価している点が異なる。
 ユダヤ教は、唯一絶対の神を信仰する。これに比し、キリスト教は、神と人間の間に「神の子」としてのイエスを仲介者として置くことで、唯一神の絶対性・超越性を弱めたという見方が成り立つ。イスラーム教は、神に子などないとして、これを否定する。それゆえ、イスラーム教は、セム系一神教の神観念を、もともとのユダヤ教の考え方に戻し、これを徹底・純化しようとしたと言えよう。

 

●シャリーア

 イスラーム教では、神は人間を創造し、人間が従うべき規範を与えたとする。この規範がシャリーアである。神が人類に授けた規範をシャリーアという。シャリーアは、何を信じ、いかに行動すべきかを、神が人類に指示した命令の総体である。シャリーアに従って生きることがイスラーム教の教えである。
 シャリーアを「イスラーム法」と訳す。本稿では一般的な訳語に従うが、この訳語は法という語を用いるために、シャリーアを単なる法の体系という誤解を与えやすい。
 イスラーム法は、啓示によって表された神の意志に立脚する宗教法である。立法者はアッラーであり、信者たちは唯一人としてこれに違反して命令を下す権利を与えられていない。この点で世俗法を基本とする近代西欧の法体系とは、全く異質のものである。
 シャリーアは近代西欧の実定法が対象とするものや政治に関することばかりでなく、さまざまな宗教儀礼の細則や道徳の範疇に属するものまでを含んでいる。すなわち、宗教・道徳・法・政治等が一体となって規範の体系である。宗教・道徳・法・政治等が一元的・一体的になっているのが、イスラーム教の特徴である。聖と俗を切り離すことなく、政教一致を原則とする。
 シャリーアは、第一法源が『クルアーン』、第二法源がムハンマドの言行に基づくスンナ、第三法源がイジュマーと呼ばれるウラマー(法学者)の合意であり、第十法源まである。シーア派は歴代イマームの言行も法源として重んじる点が、スンナ派と異なる。

●神の愛と人の愛

 『クルアーン』によればアッラーは「愛の神」であり、その点では、イスラーム教は愛を説く宗教である。ただし、キリスト教とはここでも異なる。キリスト教は、イエスを「神の子」としたうえで、神の愛を説く。神は原罪を犯し、神から隔絶した人間を救うために、独り子・イエスを遣わしたとして、神の愛を強調する。またイエスは人類の罪を贖うために、磔刑に処されるという自己犠牲的な行為を通じて、人類を再び神と結びつけてくれたとする。
 キリスト教は、三位一体論によるアガペー的な愛を説き、「神は愛である」「愛は神である」と愛そのものを絶対化、普遍化する傾向が強い。また、「汝の敵を愛せよ」と説き、絶対無抵抗の姿勢での極限的な理想を説く。
 アッラーは、自分を絶対唯一の神と崇拝しない者を愛さない。他の神を崇拝する者を、最後の審判で永遠の地獄に落とす予定である。アッラーの愛は、絶対的に帰依するアッラーの信者にしか与えられない。
 イスラーム教における人間同士における愛は、こうしたアッラーを信じる共同体における愛である。その限りで、イスラーム教は愛を単なる理想とせず、共同体においていかに具体化するか、について説いている。『ハディース』には、「あなた方は信仰を持つまで天国に入ることはできない。また他人と愛し合うまでは信仰を持ちえない」とある。信者同志が互いに愛し合わぬ限り、信仰を持ったとは言えず、天国に入ることはできないと教えている。
 この一方、イスラーム教では「汝の敵を愛せよ」とは説いていない。アッラーの敵は、愛すべき対象ではなく、敵として戦い、殺すべき対象とされている。キリスト教は「汝の敵を愛せよ」と説きながら、異教徒を大量に殺戮してきた。この点、ジハードを信徒の義務としているイスラーム教の方偽善少ないとは言えるだろう。

●他宗教への態度と異教徒の処し方

 イスラーム教の他宗教に対する態度は寛大である。イスラーム教徒が異教徒に対して、暴力的だったり、排他的だったりしたことは、歴史的に少ない。『クルアーン』は、イスラーム教の宣教にあたっては、強制しないこと、叡智と立派な説教によって説得することを条件としている。「右手に『クルアーン』、左手に剣」という文言は、改宗するか殺されるかという脅迫で改宗を迫る言葉のようだが、これはキリスト教徒が作ったもので、実際とは異なる。
 改宗は強制ではなく、イスラーム教の支配地域では、支配に従い、税金を納めていれば、他宗教の信仰を続けることが認められた。この点、キリスト教の方が異教徒を激しく迫害したり、大量に殺戮したりしてきている。ナチスによるユダヤ人の迫害も、キリスト教国での出来事である。
 イスラーム文明圏にあった時には、パレスチナの地でユダヤ教徒もイスラーム教徒も平和に共存していた。だが、第2次世界大戦後、イスラエルが建国されたことにより、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラーム教徒の間の宗教紛争が生じている。
 イスラーム教は他宗教に寛容だと言っても、信者同士と異教徒とで態度を変えている。イスラーム教徒は、異教徒は神の言葉を他の預言者によって説かれていたり、偶像を崇拝していたりしており、いわば敵だから騙してもいいと考える。騙しても、最後の審判では罪とならない。異教徒を騙すことで、イスラーム教徒の得になれば良い行為なのだと考える。そのため、イスラーム教徒は異教徒に対しては約束を守らなかったり、嘘を言ったりすることに罪悪感を覚えないようである。
 ところで、ユダヤ教では、旧約聖書の『申命記』に「外国人には利息を付けて貸してもよいが、同胞には利息を付けて貸してはならない」と定めている。異教徒には利息を取っていいということである。これは、古代メソポタミア文明における古代バビロニア王国のハンムラビ法典で、食料・種などに貸付利子が定められていたこと以来の西アジア諸文明の伝統である。
 だが、イスラーム教では、イスラーム教の信徒であるかないかに関わらず、利息を取ることを禁じている。その教えに従い、イスラーム金融に基づく銀行では、利息が付かない。だが、金利が付かないと金融業は成り立たない。そこで、イスラーム金融の銀行では、利息ではなく、手数料を取るという形にしている。

 

●罪と罰

 イスラーム教の罪には、神の命に背いた罪と、人間同士の間の罪がある。
 アッラーの命にそむいた罪として、『クルアーン』に明記されているものは、まず(1)姦通、(2)姦通についての中傷、(3)飲酒、(4)窃盗、(5)追剥ぎである。
 しかし、これらの罪は、アッラーによって赦されることがあるとされる。絶対許されない罪とは何か。それはアッラー以外のものを神として崇拝することである。アッラーを唯一神とするイスラーム教では、アッラー以外の神々はすべて偶像だとし、偶像崇拝は大罪とされる。
 『クルアーン』には、第4章48節に「本当にアッラーは、(何ものをも)かれに配することを赦されない。それ以外のことに就いては、御心に適う者を赦される。アッラーに(何ものかを)配する者は、まさに大罪を犯す者である」などとある。
 アッラーは、他のいかなるものとでも一緒に並べられたら絶対に赦さない。それ以外の罪なら、気が向けば赦すこともある。だが、アッラーに並ぶものを祀ることだけは、赦されない大罪だという主旨である。この大罪を「シルク」という。シルクを犯した者は、最後の審判において、永遠の地獄に行かされるとする。ここには、寛容のかけらも一切ない。
 次に、人間同士の間の罪については、イスラーム教の教えとして知られるのが、「目には目を、歯には歯を」である。しかし、この格言は、イスラーム教独自のものではなく、ユダヤ教のものである。ムハンマドが出現した時代のアラブ社会では、もっと酷い報復が通常、行われていた。それをムハンマドは「目には目を、歯には歯を」の同害報復にまで減免したのである。

●予定説と因果説

 セム系一神教では、神は全知全能である。無から宇宙を創造し、宇宙を超越した存在である。このような神観念のもとに、この宇宙におけるあらゆる出来事は、神によってあらかじめ定められ、神の意志に支配されているという考え方が成立する。この考え方を予定説という。
 キリスト教では、このような世界観を人間の救済に適用したものを、救霊予定説、略して予定説という。予定説では、人間が天国に行けるかどうかは神の意志によるものであり、死後救われるか救われないかは、予め神が決定しているとする。キリスト教の信仰を持ってさえいれば必ず救われるのではない。信仰が篤く善行を積んだ者でも、救われるとは限らない。神は絶対であり、人間の行為が神の意志に影響を与えることはないとする。
 このような教義が確立される前には、重大な論争があった。5世紀のペラギウスは、神は人間を善なるものとして創造したのであり、原罪は人間の本質を汚すものではない、人間は神からの恩寵を必要とはせず、自分の自由意志で功徳を積むことによって救霊に至ることができると説いた。これに対し、教父アウグスティヌスは、人間に選択の自由はあるが、選択の自由の中にも神意の采配が宿っており、人間単独の選択では救いの道は開けず、神の恩寵と結びついた選択によってのみ道が開けると説いた。416年のカルタゴ会議、431年のエフェソス公会議でペラギウス主義は異端として排斥された。

予定説はパウロに始まり、ローマ・カトリック教会だけでなく、プロテスタントのルターも説いた。この説を論理的に徹底したのが、カルヴァンである。カルヴァンの教説は、堕罪前予定説または二重予定説と呼ばれる。
 ところで、宗教学者・岸本英夫氏によれば、宗教には「神を立てる宗教」と「神を立てない宗教」がある。前者は崇拝・信仰の対象として神を立てるもので、一神教・多神教・汎神教等である。後者は、神観念を中心概念はしない宗教で、マナイズムやいわゆる原始宗教・根本仏教等である。岸本氏の弟子・脇本平也氏は、前者を有神的宗教、後者を無神的宗教と呼ぶ。後者は、法、力等を中心概念とするが、それを人格化する場合は、前者に近づく。また前者のうち、神を非人格的で理法や原理を意味するものは、後者に近づく。
 予定説は、「神を立てる宗教」において、神が人格的であり、かつ人間世界に介入するという神観念のもとでのみ成り立つ。「神を立てない宗教」では、予定説は成り立たない。これに替わる論理が因果説である。物事の生成・消滅は、原因―条件―結果の関係において起こるという考え方である。
 仏教の縁起の理法は因果律であり、悟りは修行という行為が原因となって得られる結果であるとするのが、因果説である。煩悩を消滅しようとする人間の努力なくして解脱には至れない。大乗仏教では、如来や菩薩が想定されるようになり、彼らに帰依すれば救済されると説く。称名念仏や唱題をするだけでみな極楽往生できると説く宗派もある。この場合も、そうした行為が原因となって結果としての救いを得られるとするものである。
 イスラーム教は、本質的には予定説である。六信の一つに天命があり、信徒は神の意志による予定を信じる。イスラーム教徒の慣用句に、「イン・シャー・アッラー」がある。文字通りには「もしも神が欲し給うならば」を意味する。しかし、イスラーム教は、人間の自由意志を認める。この点が、キリスト教と異なる。
 現世の物事の大筋は神によって定められているが、信徒は自らの自由意志によって、現世を生きねばならぬ義務を与えられている。イスラーム教では、アッラーは人間が自ら運命を変えぬ限り、人間の運命を変えることがないとしている。信徒にとって現世は試練の場であり、そこで彼が自らの意志で選び取ったことの結果によって、来世での地位が定められると考える。
 イスラーム教の救済の論理は、アッラーを信ずる者は、みな来世の天国に行けるというものである。キリスト教と違い、神が予め救う者を選別しない。ただし、来世で天国へ行くか地獄へ行くかは、現世でよいことをするか悪いことをするかによって決まるとする。この部分は因果説であり、仏教に似たところがある。ただし、仏教は因縁果の法則によって結果が生じるのに対し、イスラーム教では、最終的にはアッラーの意志によって決定される。またイスラーム教では、現世で罪を犯しても、他の神を信じることがなければ、最後はアッラーの赦しを受けて天国に行くことができるとする。この赦しへの期待は、アッラーを慈悲あまねく慈愛深き神と信じることによっている。

 

●奇蹟

 イスラーム教では、旧約聖書のモーゼの奇蹟、新約聖書のイエスの奇蹟等を認める。これに比べ、ムハンマドには、彼が起こした奇蹟の話はない。イスラーム教の奇蹟は、基本的にはムハンマドが預言者であることを証明しようとして、神がある事象を生起させることをいう。マホメットを通じて『クルアーン』が啓示されたことが、マホメットの預言者であることを証明している。『クルアーン』が与えられたことが、奇蹟だとする。

●自然と科学

 ユダヤ=キリスト教では、神が6日間で天地を創造し、土くれから人間を創造し、またすべての動植物の種を創造したとする。キリスト教では、これらに加えて、マリアは処女懐胎をし、イエスを神の子とする。また、天動説の宇宙観に立つ。ローマ・カトリック教会は、こうした教義を堅持するため、地動説が現れた時には、これを厳しく弾圧した。ジョルダーノ・ブルーノは異端尋問にかけられ、火刑に処せられ、ガリレオ・ガリレイは宗教裁判で地動説を捨てることを誓わされた。そのため、西欧社会では、中世から17世紀前半まで科学的精神の興隆は、教会の権威と衝突した。
 これに比べ、イスラーム教では、基本的にユダヤ教の天地・人間・万物の創造説を継承しながら、自然の科学的研究を妨げることがなかった。たとえば、12世紀のユダヤ人哲学者マイモニデスは、偏狭なヨーロッパから移住を余儀なくされた時、イスラーム文明の中に寛容な避難所を見出した。アイユーブ朝のアッディーン帝の宮廷で名誉と影響力のある地位を得たのである。アッディーン帝とは、十字軍と戦ったイスラーム文明の英雄サラディンである。
 イスラーム文明は、9世紀ころから17世紀ころまで、科学的研究において世界の最先端に立っていた。西洋文明は、十字軍によって先進的なイスラーム文明に触れ、「12世紀ルネッサンス」や14世紀以降のルネッサンスを通じて、イスラーム文明の科学を摂取した。それが、西欧近代科学の興隆の土台となった。
 なぜ、同じ一神教でありながら、イスラーム教では、科学的研究が発達し得たか。イスラーム学者の黒田壽郎氏によると、イスラーム教は「一方で人間の能力を持って知り得ないものが存在する事実を容認すると同時に、可知のものをあらゆる努力を払って知ることを美徳とする」「科学的追及を奨励こそすれ、決してこれを妨害してはいない」「いわゆるサラセン帝国興隆期におけるイスラームの科学技術の発展は、その何よりの証拠」(『イスラームの心』)である。
 『ハディース』は「男女を問わず知識を求めることは信者の義務である」というムハンマドの言葉を伝えている。信徒は常に自らの知識を増やし、その質を高めるために、知識の獲得に励むべきとされる。その際、自然の科学的研究は、決して宗教の妨げとはならないのが、イスラーム教なのである。
 セム系一神教では、人間は神の似姿として創造され、天地や他の全ての種を支配するように命じられたと考える。そこから、西方キリスト教では、人間が自然を征服・支配するという思想が生まれた。西欧では、科学技術の発達によって、人間は宇宙のすべてを知り、自然を支配することが可能だという考えが出現した。16世紀後半のフランシス・ベーコンに始まって、ホッブス、サン・シモン、コント等が主張し、18世紀以降、こうした科学万能の思想が影響力を強めていった。
 だが、イスラーム教では、人間が自然を征服・支配することは不可能であり、征服・支配の思想は、自然を創造した神への冒涜だと考える。と同時に、厳しい砂漠の自然の中で生まれた宗教ゆえ、自然を人間が容易に調和できる対象だと考えてもいない。森林の自然の影響を受けて発達した宗教とは、この点が大きく異なる。
 イスラーム教では、自然と人間の間には階層性はなく、森羅万象は人間と対等の立場で存在していると考える。人間は強者として自然を支配するのではなく、自然の一部として、その中で神の意志に絶対服従して生きるべきものとされる。

●神学の発展

 イスラーム教の神学の発展には、古代ギリシャの哲学が作用した。特にアリストテレスの影響が大きい。アリストテレスの哲学書は、9世紀から相次いでアラビア語に翻訳された。アリストテレス、万物は一つの目的のもとに、自らの自然・本性を実現すべく運動しているという目的論的な世界観を表した。その哲学は唯一神の信仰に基づくものではないが、論理構成は、セム系一神教に応用できる。それを行った代表的な学者が、11世紀のイブン・シーナ(アヴィケンナ)と12世紀のイブン・ルシュド(アヴェロエス)であり、彼らのギリシア哲学に関する著作が、キリスト教のスコラ哲学の形成に大きな影響を与えた。ヨーロッパではトマス・アクィナスが、13世紀に『神学大全』を著してキリスト教神学とアリストテレス哲学の総合を図った。イスラーム文明を経由して摂取されたアリストテレス哲学がキリスト教の教義の整備に利用された。
 宗教を構成する教義・儀礼・教団の三つの要素は、人間における内的な宗教体験という第4の要素を源泉とし、そこから発展したものである。宗教体験のうち神や宇宙等の究極的実在を直接的に体験することを、神秘体験という。神秘とは、通常の感覚によってとらえたり、言葉で合理的に語ったりすることのできないものをいう。
 イスラーム教では信仰の形式化・慣習化に対する反動として、8世紀からスーフィズムと称されるイスラーム神秘主義が興った。9世紀から10世紀にかけて、神への愛、神との合一であるファナー、神についての神秘的知識であるマーリファという三つの要素を統合し、その境地にいたるための修行の方法が整えられた。
 西方キリスト教には、ローマ・カトリック教会という強固な教団組織があり、宗教会議で定められた教義と異なる主張は異端として厳しく弾圧された。神学は公認の教義の枠内で体系化された。その一方、神秘主義は合理的な神学の体系からはみ出すものとして、西洋文明の歴史の表層ではなく、深層を流れる隠れた伝統となった。
 この点、イスラーム教では、哲学の方法を取り入れた神学と、神秘体験を重視する神秘主義の間に隔壁がなく、神学が神秘主義を考慮したり、神秘主義が神学を摂取したりすることが、自由に行われた。
 なかでも11〜12世紀の神学者ガザーリーは、スンナ派を代表する学者として活躍し、のちイスラーム神秘主義に傾倒し、これを体系化した。ガザーリーは、「神学者の敬虔さと哲学者の厳密な方法論、そして神秘主義者のひたむきな神への情熱を一身に統一し、 イスラーム思想に完成をもたらした人」(嶋田襄平)といわれる。こうした学者が神秘主義思想を哲学的概念で理論化し、また神秘主義の教団も聖者崇拝を宗教的社会運動の範囲にとどめたので、イスラーム神秘主義はスン二派の信仰から逸脱するものとならなかった。宗教活動が形式化・慣習化したときに、本来の勢いや生命を呼び起こすものとして、神秘主義が社会的に機能し得る環境にあったといえよう。
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第3章 組織

●後継者問題と二大宗派の発生

 ムハンマドは、632年に自分の後継者を指名することなく死んだとされる。ただし、シーア派ではこの説を否定する。
 ムハンマドが死亡した時。彼の子供のうち男子はみな死亡し、娘のファーティマだけが健在だった。
 ファーティマは、ムハンマドの従弟アリーと結婚した。彼らの支持者は、アリーがムハンマドの後継者にふさわしいと考えた。しかし、その他の信者多数は、ムハンマドの妻ハディージャの父で、信者の信頼の篤いアブー・バクルを指導者に選出した。後継者をアリーとするか、アブー・バクルとするかの違いは、血統で選ぶか能力で選ぶかの違いだった。
 選出された指導者の役職名をハリーファという。英語読みでは「カリフ」である。言葉の原義は「代理人」である。カリフは「神の使徒の代理人」とされるイスラーム共同体の最高指導者である。
 第2代カリフは別の義父のウマル、三代目カリフは別の娘婿のウスマーンが選ばれた。ウスマーンは、その統治に反対する兵士に殺害された。そこでアリーが4代目となったのだが、彼も内紛のなかで刺客によって殺害された。その息子も殺害された。
 これ以降、アリーの血筋を引く者こそが正統な後継者と主張する者たちは、「アリーの党派」(シーア・アリー)と呼ばれた。アラビア語で党派は、シーアという。それが単にシーアと呼ばれるようになったのが、シーア派の由来である。
 一方、血筋とは関係なく、能力で後継者を決めるべきだと考える人々は、『クルアーン』と預言者ムハンマドの言葉と行為とによって確立された慣行すなわちスンナを参考にすべきだとし、スンナに関する情報を収集した。彼らはスンナ派と呼ばれるようになった。ここに、イスラーム教の二大宗派が誕生した。
 イスラーム共同体の最高指導者を「イマーム」ともいう。スンナ派では、イマームはカリフの尊称とする。スンナ派は、カリフは預言者ムハンマドが併せもった宗教・政治の両権限のうち、政治的権限だけを継承したとする。立法および教義決定にかかわる宗教的権限を認めない。
 これに対し、シーア派は、イマームはアリーの血統を継ぐ者でなければならないとする。イマームはムハンマドの併せもった宗教・政治の両権を継承するとした。シーア派は、アリー以前の三代のカリフはマホメットの正統な後継者アリーがいるのに、その地位を横取りした簒奪者とする。アリーが登場してようやく正しい後継者ができたとする。その正しい後継者がイマームだとする。イマームには立法権と教義決定権があるとする。スンナ派のカリフでは、このような教義決定権や立法権はない。
 二つの宗派に分かれたのは、ムハンマドの死後、約30年たった660年代の出来事だった。9世紀にはシーア派が担いだアリーの血統は絶えてしまった。この時点で、両派の対立は、現実的な根拠を失った。だが、いったん分かれた宗派は解消することなく、今日まで対立を続けている。
 イスラーム教における宗派の起源は、後継者の選出は血統によるべきか、能力によるべきかの対立に発する。キリスト教には、正統と異端があるが、これは教義上の違いによる。古代では公会議における神学論争の結果、裁定された教義と異なる主張をする者が、異端とされた。また中世では確立されたローマ・カトリック教会の権威や公認された教義に服従しない者が、異端とされた。これに対し、イスラーム教にはローマ・カトリック教会のような宗教的権威を持つ聖職者の集団がなく、また宗教会議もないので、宗派の一方を正統、他方を異端と断定することはできない。

●宗派の違いと対立

 現状としては、世界のイスラーム教徒のうち約85%がスンナ派、約15%がシーア派である。それ以外の宗派が1%弱である。スンナ派にはワッハーブ派、シーア派には十二イマーム派・イスマーイール派・アラウィー派等がある。他にハワーリジュ派、カルマト派、ドルーズ派等がある。
 サウディアラビアは、ワッハーブ派というスンナ派の中でも特殊な、かなり過激な宗派を国教とする。ワッハーブ派はシーア派を諸悪の根源とする。
 シーア派の最有力国は、イランである。イランはシーア派のうちの十二イマーム派を国教とする。イランの隣国イラクもシーア派が人口の約60%で多数派を占める。バハレーンは約70%、レバノンは40%以上がシーア派である。パキスタンにも多い。
 シリアの山岳部には、分布するアラウィー派というシーア派系の少数宗派があり、アサド政権の支持母体となっている。
 スンナ派は、意見の相違は信仰の内容を豊かにするもので、むしろ神の恩寵であるとする寛容さを特徴とする。逆に言うと、シーア派等の諸宗派を統合する力を持っていないということである。
 スンナ派とシーア派を除く宗派は、どれもごく少数派だが、ムハンマドは「自分の死後、イスラーム教は73派に分裂するであろう。そのうちの一派に属する者を除いて、残りの72派の信者は地獄に堕ちる」と予言したという伝承がある。その真偽には異論があるが、伝承を信じる人々がおり、イスラーム教徒は、宗派の対立を間違いと考えず、自分たちこそが正しいと主張して譲らない傾向がある。

●聖職者は存在しない

 イスラーム教は、「神の前ではすべての人間は平等」と説く。神を主権者と認めるイスラーム共同体の成員は、理念的にはすべて平等であった。ただし、8世紀後半までは、アラブ人が特権を持っていた。その特権を廃止した後、イスラーム教では、あらゆる民族は、アーダムとその妻の子孫として平等だとし、血筋、階層、皮膚の色、言語等の相違によって人間を差別しないという原則を保持した。
 また「神の前ではすべての人間は平等」という考え方から、イスラーム教には、信者と神を媒介するものとしての聖職者は存在しない。キリスト教の神父・牧師にあたる聖職者はいない。信者はその信仰心によって直接神へとつながれると考える。
 イスラーム教の社会で、宗教上指導的な役割を担っているのは、ウラマーである。「法学者」または「宗教法学者」と訳される。元の意味は、宗教的知識を持った人々のことである。訳語に法の文字を使うが、イスラーム教では宗教・法・道徳等が渾然としており、法の文字で集約することはできない。そこで本稿では、ウラマーを主として表記する。
 ウラマーが果たす役割は、(1)宗教的諸施設の維持管理、(2)礼拝などの宗教儀式の指導、(3)信徒の指導、イスラーム教の教理に関する信徒の疑問に答えること、(4)信徒の教育、(5)異端の教えや他宗教の攻撃からイスラーム教を護ること、(6)シャリーアの解釈と適用などとされる。
 ウラマーの多くは、信者の援助で生活を賄っているが、世俗的な職業を持ちながら務めている者もいるという。実際のウラマーの職業は、学者、宗教教育機関(マドラサ)の教師、イスラーム法廷の裁判官)、モスクの管理者などという。
 ウラマーは、『クルアーン』や『ハディース』を勉強し、さらに法的な手続きを学習する。宗教教育機関で学ぶ場は、ウラマーの資格を得るためにはおよそ12年間の勉強が必要であるとされる。
 ウラマーは、新たに発生した問題について、『クルアーン』や『ハディース』等の法源に照らして判断し、合意を形成していく。一般の信者は『クルアーン』や『ハディース』に通暁しているわけではないから、ウラマーの見解に従って生活しないと神の意思に反することになるので、ウラマーの指導に従うという関係にあるという。

●礼拝施設

 礼拝施設をモスクという。その中には、メッカの方向を示す壁龕(へきがん、ミヒラーブ)という壁のくぼみがある。その横には説教壇(ミンバル)が設けられている。またムハンマドのための玉座があるが、これには誰も座ることがないという。
 モスクは、礼拝の場所だけでなく、信徒の交流の場としても重要な機能を果たしてきた。200世帯ごとに設置されるという。
 1日5日の礼拝のうち、金曜日の正午過ぎの礼拝には、地域の住民がモスクに習合して一斉に礼拝するのがよいとされている。
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第4章 生活


●世界観

 イスラーム教の世界観では、現世は不可視界(ガイブ)と可視界(シャハーダ)の二つの領域に分かれる。不可視界とは、現世の一部だが、人間の五感ではとらえられない領域であり、「この世に関わる限りでの神の意志の本来的場所」(井筒俊彦氏)である。可視界とは「その不可知・不可測である神の意志が徴となって実際に発現する場所」(同上)とされる。不可視界と可視界を合わせたものが現世であり、この世とは全く別の次元の世界として来世が存在するとされる。ただし、来世は、世界の終末に初めて顕現するものとされる。
 イスラーム教は、現世を否定しない。現世を神の経綸の場所として、宗教的共同体によって宗教的秩序を創り出していこうとする。性愛を肯定し、結婚を義務とし、信徒に共同体の成員としての責任を果たすように求める。

●個人と共同体

 信徒は、まず自らの信仰を通じて、自らの救済が得られるように努力しなければならない。ただし、イスラーム教では、個人と共同体は切り離すことができない。ウンマと呼ばれる宗教的共同体を離れて個人の信仰と生活は成立しない。個人は、イスラーム教の教えを受け入れて信徒になった時から、自分の所属するウンマの命運について、責任を持たねばならない。
 ウンマでは、聖と俗を切り離すことなく、政教一致を原則とする。個々の信徒は、単なる個人としてではなく、共同体の成員としてはじめて、聖なるものと関わりを持つことができるとされる。
 イスラーム教では、原則的に修道院制度を否定する。共同体における社会的責任を逃れて、出家することを認めない。

●性と結婚

 イスラーム教は、性愛に対して肯定的である。性愛は人間の根源的な喜びで、十分楽しむべきものと教えている。ただし、性愛は婚姻関係の中で楽しめ、と言う。
 アッラーがアーダムアダム)とその妻を創造したのは、二人が夫婦になり、子供を生み、家庭をつくり、子孫を増やすためである。男と女がいて、その間に愛情が生まれるのは神の思召しである。
 アッラーの教えを忠実に守る者にとって、正式な男女の交わり、つまり結婚は、必要だから許されているのではなく、積極的な義務とされる。ムハンマドの言葉として。「結婚はわが教えの一部である。わが道から離れる者は、わが仲間ではない」と伝承されている。
 これとともに、結婚以外のあらゆる性行為、すなわち婚前交渉や夫婦間以外の性関係は厳禁である。なぜなら、婚姻とそれによって作られる家庭は、人間が作り出した形式ではなく、アッラーがこの世を創始した時から人間に課せられた規範として考えられているからである。
 イスラーム教における性愛の肯定は、キリスト教と著しい対照をなす。キリスト教は極めて現世否定的で来世志向的である。そこから、キリスト教では性行為を罪としてとらえる傾向が強い。旧約聖書の「創世記」によると、アダムとエバが蛇に誘惑されて、神によって禁じられた「善悪の知識の樹」からとった実を食べたために、神によって楽園を追放された。ユダヤ教では、神の教えを守れない人間の愚かさが強調されるのに対し、キリスト教では、誘惑した蛇が悪魔としてとらえられ、誘惑は性的なものとして解釈された。すなわち、人類の始祖は悪魔に誘惑されて、神から禁じられた性愛を行うようになったとして、原罪の観念が強調されるようになった。そしてキリスト教は性愛に対して極めて禁欲的な宗教になった。ユダヤ教には、基本的に性愛に結び付けた原罪の考え方はない。
 キリスト教が禁欲を重視する点は、聖職者のあり方に反映されている。カトリックでは、聖職者に生涯独身であることの誓いが求められる。妻帯する聖職者はいない。修道士、修道女も生涯禁欲を守る。一般の信徒も、性交は子供を作るためだけに許され、性の快楽を追求することは否定される。婚前交渉や夫婦以外の性行為は罪になると考える傾向が強い。
 イスラーム教は、一夫多妻を肯定する。イスラーム法では、同時に4人までの女性と結婚することが許されている。これは、「やむをえない場合には、4人まで妻を娶ってもよい」という教えによる。その現実的な理由は、イスラーム教ではジハード(聖戦)を信者の義務とするので、聖戦で戦い、死んだ者が残した未亡人や孤児の養育のために救済策をとらなければならなかったことが挙げられる。一人の妻以外の女性との性愛を奨励するのではなく、社会政策的な意味が大きい。
 セム系の民族では、一夫多妻はごく一般的な慣習であった。ユダヤ教は妻の数を制限してない。イスラーム教は、その数を4人までに限定した。4人まで妻帯してもよいという教えに対し、実際に複数の妻を持つ男性はそれほど多くない。イスラーム国家でも、複数婚は少なくなり何人も妻を持つことは悪習であると考えることが常識化しつつある。

 

●死と死後の考え方

 イスラーム教の来世観には、ユダヤ教、キリスト教と同じく、最後の審判という教えがある。この審判は、個々人に対して死後に下されるのではない。人類の歴史の最後において、全人類に対して審判がなされるのである。
 最後の審判の日に、死んだ者は全員が生き返り、神の審判を受けるとする点は、ユダヤ教、キリスト教と同じである。ここで天国に行く者と、地獄に行く者とに分けられる。イスラーム教では、魂だけが天国に昇ったり、あるいは地獄に堕ちたりするのではない。現世の時と同じ肉体のままで、天国または地獄に行くとされる。また、最後の審判の時に復活する人間には肉体が必要だとして、死者を土葬にするのが、イスラーム教の特徴である。火葬は、地獄に堕ちた者に対して、神が下す処罰だと考えられている。したがって、火葬は人間が行うべきものではないとされ、遺体を火葬にしない。
 イスラーム教では、地獄(ゲヘナ)は火のイメージで描かれる。『クルアーン』には、そのイメージによる言葉が多く記されている。たとえば、第4章56節「本当にわが印を信じない者は、やがて火獄に投げ込まれよう」。第22章22節「苦しさのため、そこから出ようとする度に、その中に押し戻され、『火炙りの刑を味わえ。』(と言われよう。)」などである。
 この地獄の責め苦は永遠に続くとされる。第5章第37節「かれらは、業火から出ることを願うであろうが、決してこれから出ることは出来ない。懲罰は永久に続くのである」。第43章74節「罪を犯した者は、地獄の懲罰の中に永遠に住む」という具合である。
 仏教では地獄を一定期間の贖罪の場と考えている。もっとも一番短い刑期は、1兆6200億年である。気の遠くなるような時間だが、有限であって無限ではないのが特徴である。これに対し、キリスト教やイスラーム教では、地獄は永遠の責め苦を受ける場所である。いったん地獄に堕ちたら、二度と帰ることはできない。
 だが、キリスト教やイスラーム教は、有限の刑期の場所も設けている。これを煉獄という。煉獄は、罪の浄めのために一時的に服役する場所である。キリスト教では、もともと天国と地獄だけだったが、中世のカトリック教会は天国と地獄の間に煉獄を置くようになった。プロテスタントは煉獄を言わない。
 イスラーム教は、現世については非常に禁欲的な生活を説くが、来世については極めて肉体的な快楽と官能的な欲望の実現を説く。魂の精神的な喜びとは、異質である。
 イスラーム教の天国は、緑園といわれる。緑や水の豊かな場所がイメージされている。砂漠の民にとっての憧れの地なのだろう。緑園では、現世で禁じられている酒は飲みたい放題である。食物も美味で食べたい放題である。多数の美女と性交することができ、いくら交わってもその美女は処女のままだとする。
 イスラーム教は、欲望の追求を否定しない。だが、現世での欲望など大したものではなく、善行を積めば来世の天国で遥かに大きく欲望が実現される、と教えている。この点、欲望の追求こそが迷いであるとして最も罪悪視する仏教とは、根本的に異なっている。
 イスラーム教徒であっても、現世で大きな罪を犯した者は、最後の審判を受けて地獄に落とされる。ただし、いったんは地獄に落とされるけれども、最終的には、アッラー以外の神を拝まない限り最後はアッラーが許して天国へ入れてくれることになっている。イスラーム教徒である限り、最後はみな天国に行く。そこで家族みなで暮らせるというわけである。アッラー以外の神を信じることは最大の罪とされ、永遠の地獄に送られる。
 イスラーム教徒は、死後、最後の審判の時を待つ。その審判がいつ行われるかは、具体的に説かれていない。ひたすら時の到来を待つ。ただし、例外がある。それはジハード(聖戦)で死んだ者である。聖戦で殉教した者は、最後の審判を待たずに天国に直行すると信じられている。こうした教えによれば、戦闘に当たり死など恐れるに足らぬものとなる。日本では、浄土真宗の門徒は、阿弥陀如来に帰依すれば死後必ず極楽浄土に行けると信じたので、一向一揆で死を恐れずに奮闘し、織田信長さえもさんざん苦しめた。イスラーム教は、異教徒との戦いを聖戦とし、これを信者の義務とし、戦士に来世の救済を約束することで、勇猛果敢な軍隊を組織し得た。そこに、イスラーム教が短期間に広域に宣布された最大の理由がある。

●暦

 イスラーム教諸国では、イスラーム暦を使っている。ヒジュラ(聖遷)の622年を、イスラーム暦の元年とする。一部の国では新聞等に西暦が併記されている。
 イスラーム暦は純粋な太陰暦である。月の運行だけで暦をつくる。1年の日数は354日しかない。閏年も4年に1回ではなく、30年に11回である。そのため、太陽暦とは毎年約11日ずつずれていく。
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第2部 イスラーム文明の展開

 

第1章 歴史


●イスラーム文明とは

 イスラーム教では、宗教・道徳・法・政治等が一体しており、宗教と国家が一致している。それゆえ、イスラーム教の歴史は、そのままイスラーム教の国家の歴史と重なる。ただし、個々の国家・民族は興亡盛衰を繰り返すから、イスラーム教の歴史は国家や民族を単位としてとらえるのではなく、文明を単位としてとらえる必要がある。
 イスラーム文明は、イスラーム教を宗教的中核とする文明である。イスラーム教は、7世紀前半にムハンマドによって創唱され、はじめアラブ社会に広がった。アラブ帝国は、瞬く間に中東・北アフリカ等に広がり、8世紀半ばにはイスラーム帝国になった。私はこの時点を以て、イスラーム文明が成立したと考える。以後、イスラーム文明は世界の主要文明の一つとして、今日まで存続し、発展している。
 イスラーム文明では、いくつものイスラーム国家が誕生し、多くの王朝が交代した。この文明は、古代の諸文明が繁栄を誇った地域で発展したので、古代オリエント文明やギリシャ=ローマ文明、インド文明など優れた文明の成果を摂取し得る環境にあった。
 イスラーム文明の主要な文化は、イスラーム教を生んだアラブ文化である。イスラーム教の啓典は、アラビア語である。だが、広大な範囲に征服地を広げ、多数の民族を改宗させ、多様な社会を支配下に置いたことにより、多くの文化を組み入れてきた。その主なものは、イラン文化、トルコ文化、シリア文化である。またインド文明、東方正教文明とは歴史的・地域的に一部重なり合う。このように豊かな多様性を持ちながら、イスラーム教という共通の宗教的中核を持っているのが、イスラーム文明の特徴である。

●イスラーム教の誕生

 アラビア半島には、古代よりセム語系のアラブ人が住んできた。セム語族とは、アッカド語、バビロニア語、ヘブライ語、フェニキア語、アッシリア語、アラビア語などの言語系統の集団である。私は略してセム系という。
 セム系から、ヘブライ語を話すユダヤ民族が唯一神教を生み、ユダヤ教からキリスト教が派生し、さらにこれらの宗教の影響を受けてアラビア語地域にイスラーム教が誕生した。私は、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教を、セム系一神教と呼んでいる。

なお、セム系以外の系統を非セム系と呼ぶ。非セム系の諸民族では多神教が主だが、一神教もある。前者は非セム系多神教、後者は非セム系一神教である。ユーラシア大陸の遊牧民族における天空信仰は、天空を信仰対象とする一神教であり、後者の例と考えられる。
 アラブ人は、砂漠の民ベドウィンとして、オアシス都市を中心にラクダや羊の放牧、ナツメヤシなどの栽培を生業としていた。部族の生存・繁栄のために生きる部族中心主義の考え方を持ち、また過去の慣行を守ることを規範とする伝統主義が支配していた。宗教は、部族ごとに神を祀る多神教だった。こうしたイスラーム教成立以前の時代を、ジャーヒリーヤ(無道の時代)という。
 6世紀後半にアラブ人たちの生活に、大きな変化が現れた。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)とササン朝ペルシャの抗争が激しくなり、シナとヨーロッパを結ぶシルクロードが分断されてしまった。そのため、シナやインドなど東方の商品は、船でインド洋から紅海へ入り、アラビア半島の西海岸沿いを北上する「海のシルクロード」で運ばれるようになった。その中継都市として、メッカが繁栄するようになった。また、アラブ人の中に中継貿易を独占して莫大な富を得る商人が現れ、アラブ社会に貧富の格差が生じた。
 ムハンマドは、そうした時代のメッカで、570年に名門クライシュ族のハーシム家に生まれた。ムハンマドは成功した商人だったが、40歳の時、啓示を受け、自らを預言者にして神の使徒であると自覚するようになった。当時、メッカは多神教の社会だった。諸部族がそれぞれ固有の神を崇拝していた。それらの部族神は日本の氏神に似たものと考えられる。多神教の中心拠点となっていたのがカーバ神殿であり、数百を超す各部族の偶像が祀られていた。この神殿の起源は分かっておらず、有名な黒石の由来も不明である。
 多神教社会の真っただ中で、ムハンマドは多神教を否定し、厳格な一神教のイスラーム教を創始した。ムハンマドは、アッラーが最高の神であり、また絶対唯一の神だと説いた。アッラーはアラブの古い神であり、ムハンマドの出自であるクライシュ族の部族神でもあった。アッラーは、カーバ神殿の主神だった。最高の神とはされながら、多数の部族神の中の一つとされていた。だが、ムハンマドは、アッラーの至高性だけでなく、その絶対唯一性を主張した。その教えには、商人として訪れたシリアなどで知ったユダヤ教とキリスト教の影響が色濃く表れている。ムハンマドは、アッラー以外の神々は偶像だとして、偶像崇拝の禁止をも説いた。
 こうしたムハンマドの主張は、多神信仰を行っているアラブ人から強い反発を受けた。当時のアラブ社会の構成原理は、徹底的な部族中心主義だった。部族の血のつながりが、人間の社会的統一性の絶対的な原理だった。これに対し。ムハンマドは、アッラーの前で人はみな平等と説いて、部族中心主義を真っ向から否定した。また、貧富の格差、社会の荒廃を正そうとした。その点で、イスラーム教は、アラブ社会を根底から変革しようとする新興宗教だった。
 ムハンマドがメッカで布教を始めると、自分たちの地位や利益が脅かれることを恐れたメッカの有力者や大商人は、ムハンマドやイスラーム教徒を迫害した。特にムハンマドの出身部族であるクライシュ族による迫害は激しかった。
 ムハンマドは迫害を逃れるため622年、メッカを脱出し、北方のヤスリブに移住した。これを、ヒジュラ(聖遷)と言う。622年は、イスラーム暦の元年とされる。
 ヤスリブへの移住は、単なる避難ではなかった。当時、ヤスリブにはユダヤ教徒とアラブ人の二つの部族が住んでいて、彼らの間で長年にわたって対立、抗争が続いていた。ムハンマドを訪れたヤスリブの住民が彼の教えを聞き、部族対立を乗り越えようとするムハンマドの教えと人格に強い感銘を受け、ムハンマドに自分たちの問題の調停者となるよう依頼した。ムハンマドは、彼らの要請を入れて、ヤスリブに調停者という肩書で乗り込んだ。
 ヤスリブは「預言者の町」という意味のメディナに改名された。メディナの町の内外には古くから多くのユダヤ人が住んでおり、また付近にはキリスト教を奉じるアラブ部族もいくつか居住していた。メディナの住民は、ユダヤ教・キリスト教の教えに触れていたので、唯一神を説く教えを受け入れる土壌があった。また、アラビア古来の多神教はメディナではその頃すでに衰微していた。メディナでムハンマドはウンマと呼ばれるイスラーム教徒の宗教的共同体を結成した。ウンマの統一性を保持するものは、部族の血統ではなく、信仰の共通性だった。ムハンマドが布教を進めると、短期間に住民の多数がイスラーム教に帰依した。
 ムハンマドを脅威に感じたメッカの支配層は、軍を送ってメディナを攻めて来た。軍隊を組織したムハンマドは、624年にパドルの戦いで勝利した。ムハンマドは非凡な戦略家としての才能を示し、機を見て戦い、折を見ては和議を戦術に取りいれる采配を振るって、630年にメッカをほとんど無血で占領した。ムハンマドは、カーバ神殿に祀られていた数百体の偶像を破壊し、アッラーの神殿に変えた。これによって、メッカはイスラーム教の聖地になった。
 その後、ムハンマドは敵対的な部族を次々に平定し、632年アラビア半島の統一を成し遂げた。ムハンマドは、各地の部族集団と盟約を結んで、これらを個々にウンマに結びつけた。それによって形成された緩やかな政治構成体をウンマの支配のもとに統合した。ここにイスラーム国家の原初形態が認められる。大半の部族はイスラーム教に改宗した。アッラーを唯一の神と信仰することにより、部族ごとの多神信仰でバラバラだったアラブ人は、民族として団結するようになった。
 半島統一の年、ムハンマドは聖地メッカへの大巡礼を行ったが、その後、急に体調が悪化し、メディナで死亡した。

 

●正統カリフの時代

 ムハンマドは後継者を指名せずに亡くなったといわれる。彼の死後、信徒たちは後継者を選挙で決めることにし、ムハンマドの妻ハディージャの父アブー・バクルが「カリフ」に選出された。この初代カリフから4代目までの時代を正統カリフ時代と呼ぶ。632年から661年までの約30年間である。この時代の首都はメディナだった。
 カリフは、アラビア語のハリーファの英語読みである。「後継者」「代理人」を意味する。イスラーム教では、「神の使徒の代理」を意味する。カリフは、ムハンマドが持っていた宗教的権限と政治的権限のうち、政治的権限だけを継承した。イスラーム教徒の最高指導者として権力を行使するが、立法権と教義決定権は有しない。イスラーム教では、法律や教義はアッラーが決めるものであって、人間が決めるべきではないという考えだからである。
 カリフ体制の国家に対し、離反する部族が現れた。盟約はムハンマド個人との契約によるものと考えていたからである。これに対し、アブー・バクルは、離反者や異教徒を征服するジハード(聖戦)を開始した。ジハードはイスラーム教の組織の防衛と拡大のために行われた。ジハードの戦死者は天国に直行するという教えを受けた戦士の士気は高く、イスラーム教徒の軍隊は圧倒的な強さを誇った。
 634年にアブー・バクルが病死すると、第2代カリフに勇者ウマルが選出された。勇猛果敢なウマルは積極的にジハードを行い、ササン朝ペルシャを滅亡に追いやり、ビザンティン帝国からシリア・パレスチナを奪い、エジプトも征服して、西アジア一帯を支配下に置いた。
 こうしたイスラーム圏の拡大は、ムハンマドの教えを信奉する者たちの死をもいとわぬほどの情熱によるところが大きい。ビザンティン帝国、ペルシャ帝国の装備充分の正規軍を、その兵力10分の1、15分の1にも満たない集団が撃破していったのは、ただならぬ精神的な高揚があったからだろう。
 各征服地にミスルという軍営都市が次々に作られ、アーミルという徴税官とアミールという総督(軍事責任者)が派遣された。イスラーム教徒は、税金を納めれば、異教徒に改宗を迫ることはしなかった。ウマルは、各地から徴収された税をアター(俸給)として、イスラーム共同体の有力者やイスラーム戦士たちに支給する中央集権的な国家体制を築いた。だが、ウマルは暗殺されてしまう。イスラーム共同体の長であるカリフが殺害されたのである。
 ウマルの死後、第3代カリフには、ムハンマドの義父の一人、ウスマーンが即位した。ウスマーンの時代に『クルアーン』の編纂が行われ、イスラーム教の教義の確立が進んだ。『クルアーン』はムハンマドの死後に記録された。初代カリフのアブー・バクルが、相次ぐ戦争で啓示を記憶している者が多数戦死したので、このままでは神の啓示が砂に埋もれてしまうと考えて、ムハンマドの秘書をしていたサイド・イブン・サービトに命じて記録・編集をさせた。しかし、この時にまとめられた『クルアーン』には不備な点が多く、また別の者たちが編集した異本もあったようで、紛争が生じた。そこで第3代カリフのウスマーンの時代に、今日の版の『クルアーン』が編集されたといわれる。だが、ウスマーンは同族を優遇したことで反感を買って、これまた暗殺された。
 ここで第4代カリフに即位したのが、ムハンマドの従弟で、ムハンマドの娘ファーティマを妻とするアリーである。ムハンマドの死後、彼の血統を受け継ぐアリーを後継者とすべきだという集団が存在した。その集団が熱望していたアリーが、ここでようやくカリフの地位に就いた。
 だが、征服地シリアの総督ムアーウィヤがアリーと敵対した。ウスマーンの暗殺にアリー関わっていたとしてムアーウィアが内乱を起した。アリー側とムアーウィア側がスイッフィーン血を洗う戦いをした。この戦いの収集を巡ってアリーが融和的な態度を取ると、これに不満としてイスラーム教で最初の分派となるハワーリジュ派が結成された。アリーはハワーリジュ派の刺客によって暗殺された。

ハワーリジュ派はアリーを殺害し、共同体の外に出ていくと高言し実践したことから「ハワーリジュ」(外に出た者、退去した者)」と呼ばれる。
 アリーが暗殺された661年以後、選挙によるカリフの選出が行われなくなった。初代カリフから第4代のカリフまでは、神に正しく導かれたカリフの時代ということで、正統カリフ時代という。だが、この神聖とされる時代において、カリフが3名続いて暗殺されるという深刻な事件が連続していた。そして、正統カリフ時代以降は、カリフが世襲制になったり、イスラーム教社会が分裂して複数のカリフが並立したりしていく。そうしたイスラーム文明の質的低下は、すでに正統カリフ時代に始まっていたのである。

 

●カリフの世襲化とイスラーム帝国の成立

 アリーが暗殺されると、ウマイヤ家出身のムアーウィアがカリフとなり、ウマイヤ朝を創始した。
 この過程も複雑である。アリーの死後、アリーの長男のハサンがカリフを名乗った。だが、ハサンはムアーウィアとの争いに勝てる見込みがなかったので、ムアーウィアの死後はハサンの弟でアリーの次男であるフサインにカリフを譲ることを条件として、ムアーウィアにカリフ位を譲った。アリーの息子が世襲のようにカリフを名乗ることも、それを条件付きで政敵に譲位することも、カリフの本来のあり方とは違っている。
 ハサンはムアーウィアとの約束を信じて故郷のメディナで隠退した。だが、ムアーウィア側は、このハサンを暗殺する。そして、ムアーウィアは約束を破って、カリフの位を自分の息子のヤジードに譲った。以後、ウマイヤ朝でカリフは世襲となった。
 ヤジード1世がカリフに即位すると、アリーの次男でムハンマドの孫であるフサインが怒り、父と兄の仇を討つため、挙兵した。ところが、フサインの軍は敵の流したデマに引っかかって、680年10月10日、カルバラーの地で全滅した。勝者ヤジード1世は、フサインの一族を奴隷にした。
 アリーの支持者は怒り、アリーとその子孫のみを正統の後継者とする党派を作った。これをシーア派という。一方、大多数のイスラーム教徒は、ウマイヤ朝の代々のカリフを正統と認めた。彼らをスンニ派という。このスンニ派とシーア派の宗派対立によって、イスラーム教の分裂が起こった。
 後で述べるが、ウマイヤ朝以降、様々なイスラーム王朝が成立する。そのうちイドリース朝、ファーティマ朝、ブワイフ朝、サファヴィー朝の四つがシーア派の王朝である。
 正統カリフの暗殺が続いたうえに、カリフの継承をめぐって武力闘争をして宗教集団が分裂するとは、すさまじいことである。イスラーム教徒にとっては、これもアッラーの意思ということなのだろうか。
 ウマイヤ朝は猛烈にジハードを展開し、領土を急速に拡大した。最大時の支配領域は、中央アジア、西北インド、北アフリカ、イベリア半島にまで広がった。ウマイヤ朝時代は単独のイスラーム王朝としては最大の領土を誇っている。
 732年にイスラーム教軍はピレネー山脈を超えて、フランク王国に侵攻したが、トゥール・ポアティエの戦いで、メロビング朝の宮宰カール・マルテルに撃退された。この戦いに勝った西方のキリスト教徒はヨーロッパ文明を発展させることができた。
 ウマイヤ朝は、これほどの勢いを示しながら、100年もせずに崩壊する。その原因はアラブ人優遇政策に対する民衆の不満だといわれている。
 正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけて、アラブ人が征服・支配に活躍した。アラブ人は、さまざまな特権を持っていた。この時代のイスラーム教国家はアラブ人中心のものだったので、アラブ帝国と呼ばれる。
 アラブ人は、ジズヤという人頭税と、ハラージュという土地税が免除されていた。イスラーム教徒の義務である喜捨(ザカート)を行うだけで良かった。この一種の救貧税は、収入の2.5%程度だった。同じイスラーム教徒でも、非アラブ人には、異教徒と同じくジズヤとハラージュが課せられた。イスラーム教に改宗しない者は、税金を支払えば自分の宗教を維持できるから、それで納得する。だが、イスラーム教に改宗してもアラブ人でなければ、異教徒と同じく税金を取られる。彼ら非アラブ人のイスラーム教徒をマワーリーという。マワーリーたちは、アラブ人の特権はイスラーム教の平等の教えに反するとして、不満を強めていった。遂に750年、その不満が爆発し、革命が起こった。この動きに、シーア派が加わった。
 ウマイヤ朝を打倒した革命の指導者は、アブー・アルアッバースだった。彼はムハンマドと同じくハーシム家の出身だった。自らカリフに即位して、アッバース朝を創始した。アッバース朝では、アッバース家がカリフ位を独占した。
 アッバース朝ではアラブ人優遇政策は廃止された。イスラーム教徒ならば人種に関係なく人頭税を払う必要はなく、土地税のみとなった。アッバース朝がイスラーム教徒の平等を実現したことにより、イスラーム教社会はそれまでのアラブ人中心のアラブ帝国から真の意味でのイスラーム帝国になった。私は、750年のアッバース朝の成立を以て、アラブ文明はイスラーム文明となり、かつ当時の世界の主要文明の一つになったと考える。ここで文明とは、独自の文化を高度に発展させた大規模な社会をいう。
 第2代カリフのマンスールは、首都をバグダードに移した。バグダードは、最盛期に人口が150万人いたとされる。当時世界最大の都市であり、8世紀半ばに人口が100万人を超えたのは、他にシナの唐王朝の長安のみだった。

『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』は、アッバース朝時代にインド・ルシャ等の物語がアラビア語に訳されたものが原形とされ、以後増補され、16世紀ごろに集大成された。

 広大な領域の征服・支配によって莫大な富がカリフに集中されるようになると、カリフの権力は著しく強大化した。また、9世紀ころまでにはシャリーア(イスラーム法 ) の体系化が行われ、その執行にあたるカリフの権限は著しく強化された。カリフは「神の使徒の代理」から「神の代理」とみなされるようになり、ウラマー(法学者)もカリフ権は神から直接委ねられたとするカリフ権神授説を唱えるにいたった。
 だが、9世紀以降、アッバース朝は次第に衰退し、最後は1258年にモンゴル軍に滅ぼされてしまう。

 

●諸王朝の乱立によるイスラーム文明の分裂

 アッバース朝の衰退の原因は、ウマイヤ朝の残党が王朝を復興したり、イラン人・トルコ人などが独立王朝を作ったりしたことによる。
 ウマイヤ朝の残党は、アッバース朝創始の6年後にイベリア半島でウマイヤ朝を復興した。これを後ウマイヤ朝という。首都はコルドバだった。キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)や政治的内紛が原因で1031年に滅亡するまで続いた。
 後ウマイヤ朝の成立によって、イスラーム文明は分裂の時代に入った。8世紀末にはモロッコにシーア派のイドリース朝が建国された。909年にはチュニジア地方にファーティマ朝が興った。ファーティマはムハンマドの娘の名前であり、その子孫と称する者が建国した。過激シーア派であるイスマーイール派を信じ、成立当初からカリフの称号を使用した。そのため、アッバース朝との間で、カリフが2人並存することになった。932年には、イラン人のブワイフ家が独立してシーア派のブワイフ朝を建てた。バグダードを占領し、アッバース朝のカリフから政治的・軍事的権限を奪って「大アミール」の称号を受けた。そのため、アッバース朝のカリフは名目的なものになった。もともとカリフは宗教的な権限を持たないが、宗教的に一定の権威はある。後ウマイヤ朝でも、929年に3代目君主のアブド・アッラフマーン3世がカリフの称号を使用した。これにより、イスラーム文明に3人のカリフが並存することになった。これ以降、イスラーム文明における諸国家の分裂が速まった。
 カリフ制国家は、多数のイスラーム教徒が集まってイスラーム共同体をつくり、1人のカリフを選び定め、カリフにイスラーム法の施行の全権限を委ねることを前提とする。ところが、イスラーム文明に3人のカリフが並び立ち、さらにアッバース朝のカリフが他の王朝の統治下に置かれるという事態が生じた。ここでイスラーム法学者は、法を現実と一致させるという妥協を行うか、それとも神授の法の純粋性を護持するかという選択を迫られた。彼らは後者を選び、その後の新たな立法の道を固く閉ざした。これを「イジュティハードの門は閉ざされた」という。イジュティハードとは、イスラーム法の専門用語のことをいう。この選択が、スンナ派の神学の固定化を招いたといわれる。
 10世紀後半から13世紀にかけて、イスラーム文明では、各地で王朝が乱立した。 そのうち主なものを書くと、11世紀半ばにトルコ系でスンナ派のセルジューク朝が興った。ブワイフ朝を打倒してアッバース朝のカリフを解放したトゥグリル・ベクは、「スルタン」という称号を贈られた。「スルタン」はアラビア語で「政治的支配」を意味するスルタと同根の語であり、「政治的支配者」を意味する。以後、スルタンはイスラーム教国家の君主の呼び名となった。聖俗の分離は、すでにウマイヤ朝の時代から実質的に始まっていたが、セルジューク朝の時代には、明確に聖なるものの長としてのカリフと、俗なるものの長としてのスルタンが別に存在するようになったのである。
 セルジューク朝は、内部分裂の結果、1194年に滅亡した。その少し前に1169年にアイユーブ朝を建国したサラディンは、クルド人の武将で、ファーティマ朝の宰相だった。ファーティマ朝を滅ぼした後、1187年に聖地エルサレムをキリスト教徒から奪還した。サラディンは第3回十字軍と戦って勝利し、エルサレムを防衛した。イスラーム文明の英雄として名高い。アイユーブ朝は第5回十字軍を壊滅させたが、1250年トルコ系のマムルーク朝に滅ぼされた。マムルーク朝のスルタンとなったバイバルス1世は、アッバース朝がモンゴル軍に滅ぼされると、カイロにアッバース朝カリフの後裔を招いてカリフ位に就かせ、イスラーム文明の盟主となった。マムルーク朝は第6回・第7回十字軍と戦い、またモンゴル軍を敗退させた。十字軍は、一般に11〜13世紀に8回行われたと数えられる。14世紀以降も続けられたが、後述のオスマン帝国に阻まれ、すべて失敗に終わった。

●モンゴル帝国・オスマン帝国の興亡

 13世紀の半ば、イスラーム文明に侵攻したモンゴル軍についてここで書くと、チンギス・ハンの孫フラグは、アッバース朝を滅亡させて、1258年にイル・ハン国を建国した。イル・ハン国は当初イスラーム教を弾圧したが、1295年皇帝ガサン・ハンが自らイスラーム教に改宗し、国教に定めた。キプチャク・ハン国、チャガタイ=ハン国などもイスラーム教を擁護するようになり、モンゴル人のイスラーム化が進んだ。ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国は、14世紀に入ると分裂し、各国が独立するなどして解体してしまう。
 イベリア半島では、13世紀初めにナスル朝が興った。首はグラナダだった。アルハンブラ宮殿で知られる。スペインのレコンキスタによって、1492年に滅亡した。
この過程でキリスト教徒が失地を奪回した際のイスラーム教徒に対する処遇は、苛酷をきわめた。彼らは改宗を迫られ、改宗しない者は殺害されたり、徹底的に追放されたりした。こうした蛮行は、十字軍においてもみられたものであり、十字軍がエルサレムを占領した際には、住民4万人老幼男女問わず皆殺しにした。逆に、十字軍を迎え撃ったり、ヨーロッパに進軍したりしたイスラーム軍は、そこまでの殺戮や迫害を行っていない。
 1370年には、チャガタイ・ハン国の豪族ティムールがイスラーム王朝を建て、中央アジアの広大な地域を領土にした。首都はサマルカンドだった。ティムールの死後、息子たちが争い合い、1507年にトルコ系のウズベク人によって滅ぼされた。生き残ったティムール朝の残党は、後にインドでムガル帝国を作った。イスラーム文明は13世紀半ばから、ユーラシア大陸を広く覆ったモンゴル帝国の支配下に入ったのだが、帝国の周辺部では、モンゴル人の力に服することを潔しとしないトルコ民族が立ち上がり、1299年にオスマン朝を創建した。セルジューク朝の後裔であるルーム・セルジューク朝の傭兵部隊の指導者だったオスマン・ベイが、初代皇帝オスマン1世となった。
 モンゴル帝国は14世紀には衰退・崩壊に向かい、オスマン帝国はイスラーム文明の中心となった。また以後、600年以上も続くイスラーム文明で最長の国家となった。
 オスマン帝国は、積極的に征服戦争を行い、領土を拡大していった。強大化するオスマン帝国は、1453年にコンスタンチノープルを陥落し、東ローマ帝国を最終的に滅亡させた。コンスタンチノープルをイスタンブールと改称して首都とした。セリム1世の時代には、イランのサファヴィー朝と抗争する一方、エジプトのマムルーク朝を滅ぼし、メッカとメディナの支配権を得た。オスマン帝国のスルタンは、マムルーク朝に亡命していたアッバース朝のカリフからカリフ位の譲渡を受けたとして、自らカリフと称した。スルタンがカリフになるので、これをスルタン=カリフ制という。世俗的な君主であるスルタンが、一定の宗教的権威を持つカリフを兼ねるという新たな体制の始まりである。
 オスマン帝国が最盛期を迎えた16世紀には、中央ヨーロッパ、北アフリカにまで領土を広げた。皇帝スレイマン1世は、1529年に神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲した。だが、寒波の到来でオスマン軍は、攻撃をあきらめた。それによって、ヨーロッパ文明はイスラーム文明の支配を免れた。
 このころ、インドでは1526年にムガル帝国が作られた。インドでは、13世紀初から16世紀初めまで、5つのイスラーム王朝ができ、デリー=スルタン朝と総称する。ムガル帝国は、これを倒したティムールの子孫のバーブルが建国したものである。第3代アクバルは、ジズヤを廃止するなど、ヒンドゥー教徒との融和政策を行った。だが、第6代のアウラングゼーブはシーア派のモスクやヒンドゥー教の寺院をことごとく破壊し、多くの民族・宗教集団の反乱を招いた。これに付け込んだイギリスによって、1858年に征服され、植民地にされた。
 一方、オスマン帝国は、18世紀以降、様々な方面から攻撃を受けた。なかでも不凍港を求めて南下政策を取るロシアとの露土戦争は12回に及んだ。軍事費が膨らむオスマン帝国では、物価が上昇し、貧富の差が拡大して、民衆の不満が募った。1876年西洋的な近代化をめざし、二院制議会・責任内閣制などを盛り込んだミドハト憲法を発布したが、翌年ロシアとの戦争に敗れ、東ヨーロッパの領土の大部分を失った。「瀕死の重病人」と呼ばれるまでに衰退した。第1次世界大戦では同盟国側で参戦するが、降伏した。
 大戦後、イギリス、フランス、イタリアがオスマン帝国の西アジアの領土を直接または間接的に統治することになり、残ったのはトルコ地域だけになった。イスラーム文明の諸国は、近代化した西洋文明の列強に圧倒された。1920年(大正9年)には、非イスラーム教徒に支配されていないイスラーム教諸国は、トルコ、サウディアラビア、イラン、アフガニスタンの4カ国のみになった。トルコでは、1922年ムスタファ・ケマル・アタテュルクの革命によってオスマン帝国は滅亡した。ケマルは、22年にスルタン制、24年にカリフ制を廃止して政教分離を行い、西洋化を進めた。ここに初めて近代化されたイスラーム教共和国が出現した。

ケマル・アタテュルクは、イスラーム教を国教とせず、アラビア文字からラテン文字にアルファベットを変え、アラブとつながる歴史を一挙に切断してした。また一夫多妻制を禁止し、1934年には選挙を通した女性の参政権を認めた。こうして、イスラーム文明における二大問題である政教分離と女性解放を一挙に実現したのである。

 

●イスラーム教の広域的な伝道

 イスラーム教の広域的な伝道は、イスラーム帝国の征服・拡大に伴うものである。イスラーム文明の広がりは、オスマン帝国によるバルカン半島の征服、デリー・スルタン朝及びムガル帝国によるインド亜大陸の征服によって頂点に達した。当然、これによって、イスラーム教は異教徒の社会に進出していった。ただし、イスラーム教には、キリスト教のような教会組織がなく、聖職者もいない。そのため、伝道の仕方は独自の特徴を持つ。
 ローマ・カトリック教会では、イエズス会等の修道会の宣教師が、世俗的な国家の権力と一体になって、ラテン・アメリカ大陸で組織的に先住民の征服・教化を行った。また、キリスト教は異教徒に改宗を強制した。宣教師は、有色人種への植民地支配の先頭に立った。これに比し、イスラーム教では、信徒の商人たちが自発的に伝道した。彼らは交易のために遠方の地まで出かけた。彼らの居留地は異教徒にイスラーム教を伝え、改宗を説得するための拠点となった。
 また、もっと重要なのは、神秘主義の修行者による伝道である。イスラーム教では信仰の形式化・慣習化に対する反動として、8世紀からスーフィズムと称されるイスラーム神秘主義が興った。スーフィーと呼ばれる修行者が神秘的な神との合一体験の獲得を追及した。10世紀、11世紀になると、神秘主義の哲学体系が創られた。民衆の間でスーフィーへの崇拝の念が高まった。聖者崇拝はイスラーム教では異端とされているが、民衆の信仰は強く、排斥はされなかった。
 12世紀以降、神秘主義の教団 (タリーカ) が相次いで設立された。伝道に最も熱心な信徒は、それら神秘主義教団の教団員だったといわれる。彼らは殉教を本望とし、異教の地に赴いて、アッラーへの信仰を熱烈に説き聞かせた。インドや東南アジアでは、イスラーム軍は軍事力によって政治権力者をイスラーム教に改宗させたが、民衆はもともとの宗教の信仰を許されていた。その民衆を少しずつイスラーム教に改宗させていったのは、スーフィーたちだった。内陸アフリカ、トルキスタン、バルカンのイスラーム化も、主として彼らの努力に負うところが多いとされる。

●イスラーム文明の栄光と停滞

 イスラーム文明は、宗教・道徳・法・政治等が一体化した文明だが、そのもとで科学や数学・医学・哲学等が発展したことでも知られる。
 西欧で近代化が始まる前、イスラーム文明はシナ文明と並んで世界で最も先進的な地域であり、様々な学問を発展させていた。イスラーム文明には、『クルアーン』に基づく固有の学問として、法学・神学・文法学・書記学・詩学・韻律学・歴史学等があった。また、ギリシアやインドなどから導入された外来の学問は、それを集大成してさらに発展させた。哲学・論理学・地理学・医学・数学・天文暦学・光学・錬金術等である。こうしてイスラーム文明は、古今東西のさまざまな学問を融合し、新しい学問の構築に多大な貢献をした。ヨーロッパ文明は、イスラーム文明から古代ギリシャの哲学や先端的な科学や医学を学び取った。それがヨーロッパの思想・文化の発展のもとになり、近代西洋文明の躍進の礎となった。
 たとえば、ヨーロッパではラテン語名のアヴィケンナで知られるイブン・シーナーは、11世紀のイラン系の医学者・哲学者で、ギリシア・アラビア医学を大成し、西洋医学の発達に寄与した。またアヴェロエスとして知られるイブン・ルシュドは、12世紀イベリア半島の哲学者で、そのアリストテレスの著作への注釈はスコラ哲学の形成に大きな影響を与えた。イスラーム文明固有の学問では、11〜12世紀のイラン系の神学者ガザーリーが重要である。スンナ派を代表する学者として活躍し、のちイスラーム神秘主義に傾倒し、スーフィズムを体系化した。その他、9世紀の数学者・天文学者のフワーリズミー、14世紀の歴史家のイブン・ハルドゥーン、同じく旅行家のイブン・バットゥータ等、その時代の世界で第一級の学者・知識人を多数輩出している。
 だが、イスラーム文明は、ヨーロッパ文明より遥かに文化的に進んでいながら、自生的に近代化することはできなかった。それは、イスラーム教の教義・組織・制度に原因がある。
 近代化とは、マックス・ウェーバーによると「生活全般の合理化の進行」である。近代化は、文化的・社会的・政治的・経済的の四つの側面を持つ。西欧では、最初に文化的な近代化が進んだ。宗教・思想・科学等における合理主義の形成である。次に、社会的近代化が進んだ。共同体の解体とそれによる近代的な核家族、機能集団である組織や市場の成立、近代都市の形成である。次に政治的近代化が進んだ。近代主権国家の成立、近代官僚制と近代民主主義の形成である。最後に、経済的近代化が進んだ。近代資本主義・産業主義の形成である。近代化はこれらの動向が相互に作用しながら進行する。西欧では、ウェーバーが指摘した「呪術の追放」という宗教の合理化が、生活全般の合理化を推し進め、全般的合理化を根底において規定する要因となった。詳しくは、拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆」に書いた。

 イスラーム教ではどうか。小室直樹氏は著書『日本人のための宗教原論』で次のように述べている。
 「イスラム教では、仏教、儒教、キリスト教とは違って、ユダヤ教と共に宗教的戒律、社会規範、国家の法律とが全く同一である。(略)この完璧性こそが近代化を阻んだ」と。
確かに西方キリスト教の場合は、内面的信仰と外面的行動が区別され、宗教的権威と政治的権力が分離し、神聖的価値と世俗的価値が並立するようになっていた。そのことが、西欧における近代化の発生を可能にした。それに比べ、イスラーム教は宗教・道徳・法・政治等が一元的・一体的になっているがゆえに、イスラーム文明では西方キリスト教のヨーロッパ文明のように、自生的な近代化が起こり得なかったと考えられる。
 小室氏は、また同書で次のよう述べている。
 「近代国家を形成するにあたり、イスラム教には決定的な弱点があった。それは、マホメットが最後の預言者であったことである。したがって、新しい預言者が出てきて、マホメットが決めたことを訂正するわけにはいかない。つまり、神との契約の更改・新約はありえない。未決事項の細目補充は可能だが、変更は不可能。このような教義から、イスラムにおいては、法は発見すべきものとなり、新しい立法という考えは出にくくなった。必然的に中世の特徴である伝統主義社会が形成され、そこを脱却できる論拠を持ちえなかった。これが、イスラムが近代をつくれなかった最大の理由である」と。
 ここで「未決事項の細目補充」とはイスラーム法の整備、「法は発見すべきもの」とは法源の解釈の意味と解される。また「伝統主義」とは「過去に行われてきたことは全て正しい。今後も絶対に変えてはならない」という考え方をいう。
 小室氏によれば、ムハンマドが最後の預言者であり、その後預言者現れないというイスラーム教の教義がイスラーム文明の近代化を阻んだことになる。こうした教義に忠実であれば、西洋近代文明を否定し、その流入以前に戻ろうとする思想・態度を取ることになるだろう。
 18世紀を通じてイスラーム文明の諸国家の衰退が進み、19世紀には西洋近代文明による支配が広がり、多くの地域が植民地または半植民地とされた。資本主義、自由主義、デモクラシー、個人主義、西欧法等の侵入は、文化的・社会的・政治的・経済的な変動を引き起こした。とりわけ神授の法としてのイスラーム法およびそれに基づく伝統的社会組織が解体し、「イスラーム世界」という観念や「イスラーム教国家」という思想が崩壊していった。そのことが、「イスラームの危機」という意識を強めた。
 こうしたなか、トルコでは、オスマン帝国が打倒され、西洋化・近代化の改革が進められた。だが、他の地域では、西洋化・近代化への抵抗が強く、積極的な対応ができなかった。この状況に変化が生じたのは、第2次世界大戦の結果、白人種による植民地支配体制が弱まり、アジア・アフリカの諸民族が独立運動を起こしたことによる。その運動の波が、イスラーム文明にも押し寄せ、イスラーム教諸国の近代化を促す時流となった。
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第2章 現代(1945年〜2010年代初め)


●イスラーム文明の現代

 私は、1945年(昭和20年)以降を人類史における現代としている。この年、人類は核時代に入った。人類が自ら生み出した科学兵器によって滅亡す
る危険性に人類が直面している時代が、現代である。現代の人類史については、拙稿「現代の眺望と人類の課題」に概術した。この項目では、その拙稿を踏まえて、イスラーム文明の現代について記す。
 第1次世界大戦まで、イスラーム文明では、オスマン帝国が長く君臨した。オスマン帝国が崩壊した後、現代においても、イスラーム文明では、中小の国家が群立して、文明の中核国家が存在しない。また、イスラーム文明は、宗教的にはスンナ派とシーア派に大きく分かれて対立している。宗派を越えた統一的な権威もない。また、部族支配的な社会構造が続いている国が多く、貧富の差が大きい。
 第2次世界大戦後、石油の産業的利用が世界的に発達した。そのことにより、イスラーム教諸国のうち豊富な石油資源を持つ国は、莫大な富を獲得している。その一方、石油資源に恵まれない国の多くは、貧困と低開発にあえいでいる。貧困の原因は、主に資本主義の世界的な構造によるが、イスラーム文明そのものにも資本主義的な発展に負の作用を宗教的な理由がある。利子を禁止すること、女性の労働を禁じること、教育は宗教教育がほとんどであること等である。西欧発の文明の影響を受けて、近代化が進みつつあるが、イスラーム教という宗教・道徳・法・政治等が一元的・一体的になっている規範体系は堅固であり、イスラーム教諸国では近代化への抵抗・反発が強い。
 そのため、イスラーム文明は、現代世界の主要文明の中では、近代化が進まぬ発展途上国が多く、低迷している文明の側に入る。だが、イスラエルとアラブ諸国の対立、イスラーム原理主義の台頭、イスラーム教の宗派対立に欧米諸国の利害が絡んだ度重なる戦争、テロリズムの国際的活動等によって、イスラーム文明は世界情勢と人類の運命に大きな影響を与える存在であり続けている。
 これより、イスラーム文明の現代を1945年から2010年代初めまでの期間について書き、2010年代初め以降は、イスラーム文明の現在として別の項目に書く。

●イスラエルの建国と中東戦争

 イスラーム文明の中心地域は、中東である。中東は、ヨーロッパから見て、近東、中東、極東等と分ける便宜的な地理的概念である。中東は、世界的に見て20世紀以降、最も大きな問題を抱えるようになった地域の一つである。第1次大戦において、イギリスはユダヤ人とアラブ人の協力を得るため、双方にパレスチナでの国家建設を認めた。それと同時に、フランスと中東地域を分割統治する密約を結んでいた。その大戦後、イギリスはアラブ人、ユダヤ人との約束を反故にし、アラブ諸地域を、フランスと共に分割した。国際連盟の委任統治領という形ではあるが、イギリスはパレスチナを事実上の植民地とした。パレスチナに世界各地からユダヤ人が入植し始めると、先住のアラブ人の間に対立・抗争が起こるようになった。イスラーム文明は、その中心地域にユダヤ教社会とイスラーム教社会との緊張関係を抱えることになったのである。
 アラブ対ユダヤの対立に手を焼いたイギリスは、第2次大戦後の1947年(昭和22年)、パレスチナの委任統治権を国際連合=連合国に返上した。以後、ユダヤ人国家を建設しようとするシオニズムの後ろ盾となる国家は、アメリカに替わった。
 パレスチナにおけるユダヤ人の人口は、第1次大戦の終了時点で約5万6千人。総人口の1割に満たなかった。しかし、第2次大戦終了時点では、約60万人に増加し、総人口の3分の1にまで増えていた。
 47年11月、国連はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家と国連永久信託統治区に分割するパレスチナ3分割案を可決した。シオニズムの後ろ盾となったアメリカは、トルーマン大統領のもと、国連で強力な多数派工作を行った。分割案は、パレスチナの6パーセントの土地しか所有していなかったユダヤ人に、56パーセントの土地を与えるものだったから、アラブ側は激しく反発した。
 翌年5月、ユダヤ人は国境を明示しないままイスラエルの独立を宣言した。それに抗議する周辺アラブ諸国との間に、第1次中東戦争が始まった。イスラエルは独立戦争と呼び、アラブ側はパレスチナ戦争という。
 イスラエルに対抗する勢力となったのは、アラブ連盟である。第1次大戦後、オスマン帝国が解体され、西欧列強が植民地支配を広げた。この時、新たにできたアラブ諸国は、イギリス、フランス等が一部の支配層を利用して作ったもので、家産国家的な性格が強く、国民国家としての基盤は弱かった。そうした国々、イラク、ヨルダン、シリア、レバノン、サウディアラビア、エジプト、チュニジアが第2次大戦後、1945年(昭和20年)にパレスチナのアラブ人代表者とともに結成したのがアラブ連盟である。
 イスラエルの独立を不当とするアラブ連盟は、数万の軍をイスラエルに侵攻させた。しかし、アラブ側は統一的な司令部をもたず、イスラエルは圧倒的な勝利を収めた。49年4月の休戦協定では、イスラエルは国連分割案が示す範囲を超えて、パレスチナ全土の80パーセントを支配した。分割案から休戦協定までの間に、パレスチナ人約130万人のうち100万人が難民となったという。アラブ連盟は、パレスチナ人を真に支援する組織ではなかった。
 47年の国連決議では、エルサレムは、国連永久信託統治区に位置している。エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教というセム系一神教の三つの宗教の聖地である。ところが、第1次中東戦争の結果、49年のイスラエルとトランス・ヨルダンの休戦協定で、エルサレムは東西に分割された。これにより、国連決議は守られなくなった。
 大戦後、イスラエルは、アメリカの援助で軍事的に強化された。これに対抗して、ソ連はアラブ諸国に接近し、軍事援助を増やした。米ソの冷戦の影響という新たな抗争要因が、中東に加わった。
 そのことは、イスラーム文明が米ソという方や西洋文明、片や東方正教文明に根差す超大国によって、自らのあり方を左右されることになったことを意味する。

 

●ナーセルの挑戦と挫折

 1948年(昭和23年)の第1次中東戦争でアラブ連盟がイスラエルに敗北したことにより、中東におけるイスラエルの存在感は強まった。以後、56年の第2次中東戦争、67年の第3次中東戦争、73年の第4次中東戦争と、4度にわたる戦争を繰り返すことになった。この戦争は、ユダヤ教徒とイスラーム教徒の戦争という宗教的な要素を持つ。
 第2次中東戦争後、イラクとシリアでは、1958年(昭和33年)にアラブ復興党とシリア社会党が統一して、バース党が結成された。バース党は、アラブ復興社会党の略称であり、バースは「復興」「再生」を意味する。シリアのダマスカスに本部を置き、アラブ諸国に支部を持つ。アラブ統一・社会主義・自由を基本綱領とし、アラブ・ナショナリズムによるアラブの統一と社会主義社会建設を目指す。共産主義には反対する。後に同党から、イラクではサッダーム・フセインが、シリアではバッシャール・アル=アサドが登場する。

 なお、私は、基本的にネイションを政治社会としての「国家」または政治的集団としての「国民」または「国民共同体」、エスニック・グループを「民族」とし、ナショナリズムを「国家主義」「国民主義」、エスニシズムを「民族主義」と区別する。詳しくは、拙稿「人権――その起源と目標」第6章(2)「人権とナショナリズム」に書いた。
 アラブの盟主を自任するサウディアラビア王国は、1932年(昭和7年)にイブン・サウードがイギリスの支援を受けて建国した。しかし経済的には、33年以降、ロックフェラー系のカリフォルニア・スタンダード石油が石油利権を握り、アメリカ資本の支配下にあった。同社は、44年にアラムコに合併された。同国は、アメリカに石油を供給すると共に、アメリカの中東政策の拠点となっている。
 さて、第2次大戦後の中東に大きな変動をもたらしたのが、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセルである。エジプトは、1882年以来イギリスの占領下にあったが、第1次大戦後、1922年(大正11年)に独立国となった。36年(昭和11年)に条約によりイギリス軍は撤兵したが、スエズ運河は除外され、イギリスによる軍事占領が続いていた。エジプトの将校だったナーセルは、第1次中東戦争の敗北で、自国の王政の腐敗に幻滅した。52年に革命を起こし、54年から政権を掌握し、大統領となった。
 ナーセルはアラブ諸国で初めて農地改革を行い、反英的な非同盟政策を取って、アラブの民衆の支持を得た。こうしたナーセルを警戒した米英両国は、56年世界銀行によるアスワン・ハイダム建設への資金援助を打ち切った。ナーセルは、これに対抗し、同年スエズ運河の国有化を宣言した。イギリスは、フランス、イスラエルとともにエジプトに軍事干渉し、利権の維持を図った。
 ここに勃発したのが、第2次中東戦争である。イスラエルはシナイ戦争と呼び、アラブ側はスエズ戦争という。この時、アメリカは英・仏・イスラエル三国の行動を支持しなかった。ソ連がエジプトを支持して武力介入する可能性があり、それを避けるためアメリカは英仏を非難したのである。国連決議により三国軍は撤退に追い込まれ、57年戦争は終結した。イスラエル軍は一時制圧していたシナイ半島から撤退し、エジプトはスエズ運河の国有を維持した。
 戦争の結果、ナーセルは、一躍アラブ諸国の指導者的存在となり、アラブのナショナリズムは高揚した。ナーセルは、1961年(昭和36年)にはインドのネルーなどとともに非同盟諸国首脳会議を主導した。ここには、近代西欧発のナショナリズム、すなわちネイションの形成・発展を目指す思想・運動の影響がみられる。アラブのナショナリズムは、西欧諸国に多いシビック(市民的)なナショナリズムとは異なる、エスニック・グループ(民族)をもとにしたエスニック(民族的)なナショナリズムである。そして、近代国家を建設して、欧米諸国に対抗しようとするものである。その点で、本来、西欧の国家思想とは異なる伝統的なイスラーム教の国家思想とは別種のものである。
 ナーセルは、イスラエルへの対抗意識を強め、1967年(昭和42年)、イスラエルのインド洋への出口であるチラン海峡の閉鎖を試みた。これにイスラエルが応戦し、第3次中東戦争が勃発した。
 イスラエル空軍は電撃作戦を展開し、エジプト、シリア、ヨルダンの空軍基地を奇襲攻撃によって破壊した。また同陸軍は、ヨルダン川西岸、ガザ地区を占領したことにより、パレスチナの全域を支配下に収めた。さらにシナイ半島、ゴラン高原をも制圧した。わずか6日間で決着がついたので、6日間戦争ともいう。
 戦争の結果、約300万人のパレスチナ人の半分が、イスラエルの支配下に入った。一方、アラブの星だったナーセルの威信は、地に堕ちた。

●エルサレムの占領と紛争の恒常化

 エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の聖地ないし重要な場所である。第3次中東戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸に存在する。エルサレムは、第1次中東戦争後、国連決議を無視した形で東西に分割されていたが、イスラエルが全市を押さえることとなった。イスラエルは、エルサレムを「統一された首都」と宣言した。同市を国連永久信託統治区としている国連決議を完全に無視した行動である。そのため、世界の多くの国は、エルサレムを首都と認めず、大公使館をティルアビブに置いている。
 イスラエルというと、多くの人はユダヤ人だけの国家のように思っている。国民の8割はユダヤ人だが、残りの大部分はアラブ人である。当然イスラエルには、ユダヤ教徒だけではなく、イスラーム教徒もいる。自由主義者もいれば、社会主義者もいる。政党は右翼政党連合のリクード、左翼の労働党の他、少数党がいくつもある。アラブ諸国との対決を主張する勢力もあれば、和平共存を願う勢力もある。そこに複雑性がある。
 一方、アラブ側には、1964年(昭和39年)、パレスチナ解放機構(PLO)が結成された。PLOは、68年にパレスチナ国民憲章を制定した。憲章は、敵はユダヤ教徒ではなく、英米勢力と結びついたシオニストであるとし、パレスチナに民主的、非宗教的国家を建設する方針を出した。しかし、69年アラファトがPLO議長になると、闘争的な組織に変わった。PLO加盟諸派にはテロやゲリラ活動を行うグループがあり、シオニストとの闘争は激化していった。

 

●第4次中東戦争と世界を襲った石油危機

 1970年(昭和45年)エジプトでナーセルが死に、副大統領のサダトが大統領となった。サダトは、イスラエルに占領されていたシナイ半島、ゴラン高原などの奪回を目指して軍事行動を起こした。エジプト・シリア両軍は、73年10月6日、イスラエルに対して奇襲攻撃を行い、第4次中東戦争が始まった。
 不意を衝かれたイスラエル軍は苦戦したが、やがて劣勢を挽回してシリアに攻め込み、スエズ運河を渡ってエジプトに侵入した。これに対し、最初から軍事的劣勢を自覚していたアラブ側が産油国の強みを活かした強力な策を打った。それが石油戦略である。
 同年10月17日、石油輸出国機構(OPEC)に加盟するペルシャ湾岸6カ国が、原油価格の21%引き上げを発表した。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)に加盟する10カ国は、前月の産油量を基準に、イスラエルを支持する国向けの生産量を毎月5%ずつ削減する。逆に、アラブ諸国を支持する国、イスラエルに占領地からの撤退を求める国には、従来通りの量を供給すると発表した。そのうえ、アメリカ・オランダなどのイスラエル支援国には、石油の全面禁輸措置が取られた。こうしたアラブの石油戦略の発動は、先進国の経済に深刻な影響を与えた。これを第1次石油危機という。
 アラブ諸国の石油戦略は、石油を使ってアラブ諸国への支持を広げ、イスラエルを孤立させることを狙ったものだった。アラブの産油国は、石油を武器にすれば、国際社会で強い影響力を持てることに気づいたのである。それまで親米路線をとり、石油戦略の発動に慎重だったサウディアラビアも強硬路線に転じた。
 石油の全面禁輸をちらつかせるアラブ側の前に、日本や西欧諸国は次々と対イスラエル政策の見直しを声明した。これを切り崩そうとするアメリカに対し、サウディも強硬姿勢を示し、アメリカの軍事介入を防いだ。こうして、アラブ側は、日本や西欧諸国に中東政策の見直しを迫ることに成功した。
 1930年代以降、オイル・メジャーと呼ばれる巨大な国際石油企業が、世界の石油を支配していた。これらの企業は、アメリカ、イギリス、オランダ系の7社だったので、セブン・シスターズ(七人姉妹)とも呼ばれた。この7社が生産と価格に関するカルテルを結んで、莫大な利益を上げていた。これに対し、産油国は1960年(昭和35年)9月、OPECを作った。さらにアラブの産油国は、独自に68年1月にOAPECを結成し、メジャーの寡占体制に異議を唱えるようになった。
 産油国のこうした行動は、西洋文明に対するイスラーム文明の応戦であり、非西洋文明の応戦である。また近代世界システムにおける周辺部の中核部への反抗でもある。また国家単位で見れば、旧植民地の旧宗主国への逆襲であり、また資源ナショナリズムの高揚でもある。こうした画期的な行動だった。
 アラブ産油国の主体意識は、強まった。1970年代に入ると、世界の石油生産量の36%を中東が占めるようになっていた。先進諸国は中東への石油依存度を高めており、産油国は発言力を増した。こうした事情を踏まえて、アラブの産油国は、石油戦略を発動したのである。
 第4次中東戦争は1973年(昭和48年)11月に停戦となり、痛みわけに終わった。OPECは、同年12月には石油の削減の中止と増産を決めた。石油危機はひとまず終わった。しかし、アラブ側がこの戦いで取った新戦術が、その後も世界を大きく左右していく。
 アラブの石油戦略は、欧米のオイル・メジャーから、石油の価格と生産量の決定権を取り返すものだった。石油のような地下資源は、いつかは枯渇する。産油国が協調すれば、供給を制限したり、価格を引き上げたりすることができる。そうして得た資金を経済基盤の整備に当てれば、石油が枯渇した後も繁栄を維持できるようになる。石油戦略には、こうした長期的な構想があったとみられる。
 石油の決済は、ドル建てである。アラブの産油国に流れ込んだ大量のドルは、価値の増殖を求めて、世界の金融市場を動きまわるようになった。これをオイル・マネーという。オイル・マネーは、世界経済の動向に一定の影響力を与えるものとなった。

 

●エジプトとイスラエルの和平

 第4次中東戦争後、アラブ諸国の内部に大きな変化が現れた。4度にわたる中東戦争で最も人的・物的損害を被ったエジプトが、イスラエルとの共存の道を模索し始めたのである。
 サダト大統領は、ナーセルを継いだ後、最初は社会主義的経済政策を継承していたが、第4次中東戦争後の1974年(昭和49年)から政策を転換した。外資の導入、輸入の自由化、公共部門の民営化等の自由主義的な政策の採用である。サダトは、これによってアメリカへの接近を図った。そして、アメリカを通じてイスラエルに圧力をかけることで、失地の平和的回復を目指したのである。
 サダトはイスラエルとの間に兵力引き離し協定を結び、77年11月19日にイスラエルを訪問した。これを機会に、エジプトとイスラエルの和平交渉が開始された。
 当時、米国は、カーター政権だった。カーター政権は、ニクソン=フォード両政権におけるキッシンジャーの現実主義的な外交からの転換を図り、アメリカ的価値観を掲げた理想主義的な人権外交を打ち出した。78年9月、カーター大統領の仲介で、サダトとイスラエルのベギン首相が米国のキャンプ・デイヴィッドで会見し、和平合意に達した。翌79年(昭和54年)3月、エジプト・イスラエルの抗争を収拾するための「中東和平会議」が開催された。カーターはみずから中東を訪問し、交渉に当たった。もし決裂すれば、第3次世界大戦へと発展しかねない危険な状況であった。和平交渉は暗礁に乗り上げ、3月10日、11日、12日と難航を続けたが、13日交渉は奇跡的といえる成立を見た。そして26日、エジプト・イスラエル間で平和条約が調印された。歴史的和解と賞賛された。
 中東の国際関係が難しいのは、すべての人民が平和を望んでいるのではないことである。サダトはイスラエルとの融和路線に反対する者によって、81年に暗殺されてしまう。だがエジプトは、サダトの後を継いだムバーラク大統領の下で、念願だったシナイ半島の回復を果たした。領土問題は一応の決着に達した。
 イスラエルとアラブ諸国、ユダヤ人とパレスチナ住民は、4度の戦争を経て、ようやく和平への道を歩みだしたかに見えた。しかし、なおその道は遠く、軍による攻撃とテロの応酬が今日も日常的に繰り返されている。

●アメリカの関与で、中東情勢は一層深刻に

 私は、超大国アメリカの果たすべき役割は、イスラエルとアラブ諸国の対話を促し、中東に和平を実現することにあると思う。そういう試みもされてはきたが、むしろ両者の対立を強める結果を生む動きのほうが多い。ケネディ大統領は、イスラエルが核開発をすることを認めなかった。しかし、彼が暗殺された後、アメリカはイスラエルの核保有を黙認するようになった。1960年代から、イスラエルはアメリカの政界・議会へのロビー活動を活発に行い、アメリカ指導層をイスラエル支持に固めていった。
 カーター大統領の時期には、アメリカはイスラエルとエジプトの和平に努力した。しかし、再び対立的な方向に戻り、今やアメリカの指導層は、イスラエル政府の外交政策を支持する親イスラエル派やシオニストが主流を占めている。アメリカのキリスト教保守派の多くは、イスラエルを守るべき国とし、キリスト教とユダヤ教の結びつきは強化されていく。そのこともユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の対立を激化させる要因となる。
 イギリスの三枚舌外交が生んだ中東の対立構造は、アメリカの関与によって一層深刻になり、そこに石油資源の獲得競争が加わって、中東は世界で最も危険な地域になっている。

●インドとパキスタン・バングラデシュの文明間的関係

 第2次世界大戦後、イスラーム文明と他の文明の間で緊張が高まったのは、中東だけではない。西アジアでもインドを中心に緊張が高まった。
 インド文明にイスラーム教が浸透したのは、13世紀以降である。16世紀に始まるムガル帝国時代にイスラーム教への改宗が進んだ。19世紀からはイギリスの植民地となっていたが、第2次大戦後の1947年(昭和22年)8月、イギリスからインドとパキスタンが分離独立した。ヒンドゥー教徒の多いインドに対し、イスラーム教徒が多数派を占める地域がパキスタンとなったものである。1971年には、同じくイスラーム教徒が多い地域がバングラデシュとして独立した。
 パキスタンは世界第2位となる約1億9千万人のイスラーム人口を有する。バングラデシュにも約1億4千万人のイスラーム教徒がいる。インドのヒンドゥー教の社会にも、約1億6千万人のイスラーム教徒がおり、世界第3位のイスラーム人口となっている。約12億2千万のインド人口の約13%を占める。実にこれら3国で5億人近くのイスラーム教徒がいる。この地域は、世界のイスラーム人口の3分の1弱の信徒を有するのである。
 インドとパキスタンは、分離独立後、1947年10月にカシミールの帰属をめぐり、第1次印パ戦争を行った。以後、65年9月に第2次、71年12月に第3次印パ戦争が起こった。インドのジャンム・カシミール州では、州人口の90%以上を占めるイスラーム教徒が、1990年(平成2年)以来、分離独立運動を起こし、反印闘争を展開している。
 多神教のヒンドゥー教と一神教で偶像崇拝を否定するイスラーム教という宗教対立が根底にあるインドとパキスタンの対立は根深い。1998年(平成10年)5月には両国が相次いで核実験を実施した。対立する双方が核兵器を持っているという点では、中東のイスラエルとイスラーム教諸国の関係よりも、インドとパキスタンの対立は深刻になっている。

 

●イスラーム教原理主義とイラン革命

 19世紀以来の「イスラームの危機」の自覚に基づき、イスラーム文明の歴史を反省し、現状の変革を要求するイスラーム改革運動が起こった。その中から、イスラーム教原理主義が台頭した。イスラーム教原理主義は「イスラームの理想に返れ」という思想・運動である。その源流は、スンナ派の厳格化を求めたワッハーブ派にさかのぼるとされる。ムスリム同胞団はワッハーブから刺激を受けているといわれる。
 中東では、1930年代以来、ムスリム同胞団に代表されるような大衆的社会運動が行われ、公正と正義に基づくイスラーム教国家の再建が追及されてきた。こうしたイスラーム改革運動は、1970年代のイランで大きく高揚した。1970年(昭和45年)頃、中東では欧米文化が流入し、急激な欧米化・都市化が進んだ。これに対し、「イスラームの理想に返れ」という運動が起こった。こうした動きを、欧米ではイスラーム教原理主義と呼ぶようになった。キリスト教の原理主義(ファンダメンタリズム)になぞらえた言い方である。
 イスラーム教原理主義の流派の一つは、イランから現れた。イランは、中東イスラーム教諸国の中では、異色の存在である。イランは、古代にはペルシャ文明が栄えた地であり、イラン国民の多くは、ペルシャ民族である。また最大の特徴は、アラブ諸国にはイスラーム教の多数派であるスンナ派が多いが、イランには少数派のシーア派が多いことである。
 イラン発の原理主義は、シーア派の教義に基づくものである。イランは、16世紀初頭以来、シーア派の中で最も多くの信徒を有する12イマーム派を国教としている。12イマーム派は、アリーを初代イマームと認め、第12代までのイマームを神聖不可侵とする。第12代目のムハンマド・アルムンタザルは、874年に死亡した。彼には子どもがなく、そこでイマームは途絶えた。ところが、12イマーム派では、第12代イマームは死んだのではなく、「隠れ(ガイバ)」の状態に入っていると解釈する。そして、この世の終末に「時の王(マフディー)」となって再臨し、アッラーの教えに沿った日々を送ることを保証する「正義」をもたらしてくれると信じている。一種の救世主信仰と見ることもできる。終末までの間、「イマームの代理人」として「隠れイマーム」と信徒を結び、信徒のために「隠れイマーム」の意志を解釈し伝達する役割を担うのは、ウラマー(法学者)だとする。12イマーム派は、イランだけでなくイラクでも多数派を占め、クウェートやバハレーンなどの湾岸諸国にも多い。
 イランでは、第2次世界大戦において、パフラヴィー朝の国王ムハンマド・レザー・シャーがナチス政権と提携した。戦後、レザー・シャーは南北から進駐してきた英ソ両軍により退位させられて亡命した。シャー・パフラヴィーが後を継いだ。
 イランの石油利権は、イギリスのアングロ・イラニアン石油会社が独占していた。しかし、同社は契約改定交渉で譲歩しなかった。これに対する不満が強まるなか、急進的なエスニック・ナショナリストの集団が政権を握り、議会は石油国有化法案を可決した。1951年(昭和26年)に首相となったモザデクは、世論を背景にアングロ・イラニアン石油会社を国有化した。これに対し、イギリスはタンカーの航路を封鎖し、国際石油資本は石油の買い付けを拒否した。そのため、イラン経済は大打撃を受けた。
 1953年8月、アメリカの支援を受けた国王パフラヴィー2世が、クーデタによりモザデクを倒し、政権に復帰した。翌54年には8大石油資本(米・英・蘭・仏系)の合弁会社イラニアン・コンソーシアムが設立され、国有化された石油会社の運営に当たることになった。こうして、イランにおけるイギリスの石油利権独占体制は打ち破られた。
 パフラヴィー2世は、ソ連やアラブ急進派との関係悪化を承知の上で親米路線を貫き、CIAの援助で秘密警察を設置し、反対派を弾圧して独裁体制を築いた。63年から白色革命と呼ばれる一連の近代化政策を強力に推進した。膨大な石油収入を背景に軍や首都の近代化、農地改革、国営企業の払い下げ、識字運動など、政府主導の近代化が進められた。しかし、他方で貧富の差が拡大し、国家情報治安局(SAVAK)による反対派への監視、弾圧が続いた。75年以降になると復興党(ラクターヒーズ)の一党独裁が強化された。この時期、イランはアメリカの中東における拠点としての役割を果たしていた。21世紀の今日とは大違いである。
 こうした「近代化=西洋化」の改革に対し、イスラーム教シーア派のウラマー(法学者)たちが強く反発して抗議集会を開いた。国王は容赦のない弾圧を加えた。パフラヴィー国王が行った改革を批判して王制打倒闘争を指導する最高指導者ルーホッラー・ホメイニー師を、国外追放にした。
 12イマーム派は、シーア派の中で教義的には穏健派に属するといわれる。だが、その教義をもとに、隠れイマームが「時の王」として出現するまでは公正な法学者が政府を指導・監督すべだという改革の理論を唱えたのが、ホメイニー師である。ホメイニー師は、12イマーム派の最高位であるアーヤトッラーオズマ(大アーヤトッラー)の地位にあった。アーヤトッラーは「神の徴」を意味する。
 1978年(昭和53年)、イランで国王の圧政に反対するデモが起こり、首都テヘランでは数千人の死者が出た。さらに12月には200万人の大デモが起こり、もはや鎮圧できなかった。79年1月にパフラヴィー2世はエジプトに亡命した。すると、2月ホメイニー師がフランスから帰国して革命政府の樹立を宣言した。パフラヴィー朝は崩壊し、3月国民投票でイスラーム教を国家原理とするイラン・イスラーム共和国が発足した。
 この時、制定された憲法は、第5条に「時の王が現れるまでの間、正しく、信心あり、物事をわきまえ、勇気あり、進取の気性に富み、大勢の人々から指導者として尊敬される宗教法学者に国家と社会の指導を任せるものとする」と定めた。以後、ホメイニー師は国家元首である最高指導者の地位にあった。
 ホメイニー師は、イスラーム教的な社会規律の回復など宗教色、民族色の強い政策を追求した。石油を国有化し、一方で産油量を激減させた。オイル・メジャーによるイラニアン・コンソーシアムは利権を失い、石油は1バレルが23ドルへと高騰した。エネルギー・コストの上昇による不況が世界を襲った。そのあおりを受けて中南米諸国は経済に壊滅的な打撃を受けた。これを第2次石油危機という。以後、開発途上国も資源を持つ国と持たない国に分かれ、次第に格差が広がることになった。
 ホメイニー師のもと、イランは反米色を強め、中央条約機構(CENTO)から脱退した。これによって、中東におけるアメリカの拠点は失われた。同じ1979年(昭和54年)にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、イランは反ソ色も強め、独自の姿勢を示した。
 ホメイニー師の改革理論に基づいて、イランにおける革命をイスラーム教諸国に輸出しようとする運動が推進された。この運動は、西洋文明を批判し、とりわけその中心となっている米国を敵視する。だが89年のホメイニー師の死後、ホメイニー理論の解釈を巡って対立が生じ、イスラーム革命を輸出しようとする急進派は、イランではほぼ壊滅したとみられる。
 イスラーム文明において、イランは、サウディアラビアとともに地域大国だが、宗派が少数派のシーア派で、言語はアラビア語ではなくペルシャ語ゆえ、中核国家とはなり得ない条件下にある。またシーア派は、世界のイスラーム教徒の15%程度を占めるにすぎず、その5倍以上の信徒数を持つスンナ派には及ばない。
 イランがイラン革命で宗教と政治が一致した体制を作ると、スンナ派がシーア派の活動を警戒するようになった。ここに、7世紀以来続くスンナ派とシーア派の対立が、再び活発化した。そして、スンナ派の中からも、その宗派の教義に基づく原理主義が出現した。「イスラームの理想に返れ」という点では、イランのシーア派と共通する。
 文明学を活用した国際政治学者サミュエル・ハンチントンは言う。「イスラーム世界全体で、小さな集団と偉大な信仰、部族とウンマ(註 イスラーム教徒の宗教的共同体)が忠誠と献身の第一の中心であり、国民国家の重要性はもっと低い」「主権を持つ国民国家という概念は、アッラーの至高性とウンマの権威への信仰と矛盾する。革命的な運動として、イスラーム教原理主義は国民国家を拒絶してイスラーム国家の団結を尊重した」と。
 そして、イスラーム教原理主義の中から過激な行動をする者たちが出現した。過激組織は、1979年に旧ソ連がアフガニスタンに侵攻したのに対抗するためにCIAによって作られたアルカーイダが、その元祖である。アルカーイダは、スンナ派の原理主義過激組織であり、西洋化・欧米化を批判し、1980年代から武装闘争やテロ活動を行っている。こうした過激組織については、後に項目を改めて書く。

 

●イラン・イラク戦争

 一旦話を1979年(昭和54年)のイラン革命の時点に戻して、イラクの動向を見よう。イラン革命が起きると、アラブ諸国は、米国とともに、革命の波が石油を産出するサウディアラビア、クウェートなどの君主国に及ぶことを恐れた。そして、イラクを「イラン革命の防波堤」と見なして期待をかけた。
 イラクでは、シーア派が人口の約60%を占め、主に南部に居住する。イラクのシーア派は、イランと同じ12イマーム派である。スンナ派は、少数派となっている。
 イラクは、東部・南部でイランに接するほか、多くの国と隣接する。北西部はシリア、最北部はトルコ、中西部はヨルダン、南西部はサウディアラビア、最南部はクウェートという具合である。
 イラクでは、1968年にバース党が、軍部とともにクーデタを起こして政権を奪取し、その政権が続いた。79年にサッダーム・フセインが大統領の地位に就いた。バース党はアラブ統一・社会主義・自由を基本綱領とするが、イラクの社会主義は一党独裁によって軍人・官僚が膨大な石油収入を私益化するものとなり、アラブ・ナショナリズムも最初の理想を失い、アラブ至上主義、領土拡張主義に堕してしまった。
 フセインは、イラン革命当時の国際情勢、革命によるイランの軍事的弱体化などの状況を読んで、領土拡張を図った。イラクとイランの間には、シャトルアラブ川下流の国境を巡る対立がある。フセインは、領土紛争を口実に、1980年(昭和55年)9月イランとの戦争を始めた。これがイラン・イラク戦争である。
 フセインはイランに侵攻した。だが、イランはイラクの3倍の人口を持ち、イスラーム革命を唱えるイラン軍の士気も高かった。イラク軍は82年に追い出され、逆にイラン軍がイラクに攻め込んだ。イランの台頭を恐れる米国など西側諸国、サウディアラビアなど湾岸諸国はこぞってフセイン政権に軍事的、財政的支援を与えた。イラク軍は米国から潤沢な援助を受け、アメリカ製武器による近代装備を誇っていた。これをイランが人海戦術で打ち破ることは不可能だった。戦局は膠着化し、イライラ戦争と呼ばれる長期戦が続いた。
 この戦争には、フセイン政権が、シーア派革命の輸出を夢見るホメイニー師指導下のイランを極度に警戒して、イランに先制攻撃を加えたという宗教的な側面もある。イラクのバース党政権は、少数派のスンナ派を母体としており、最初は「脱宗教主義」を取った。フセイン政権は、イランとの戦争では、イラクをまとめあげるため、声高に「イラク・ナショナリズム」を叫んだ。
 1988年(昭和63年)、ようやく両国は国連の停戦決議を受け入れて停戦した。イラン・イラク戦争で、イランは約500億ドル、イラクは約900億ドルの戦費を使い、両国とも財政の悪化に苦しむことになった。それが、後の湾岸戦争の背景となっていく。

●冷戦終結後に、湾岸戦争が勃発

 冷戦時代は、アメリカを盟主とする自由主義とソ連を盟主とする共産主義が世界を二分した。第2次世界大戦が終了した1945年(昭和20年)8月から1989年(平成元年)12月、ブッシュ父とゴルバチョフの米ソ首脳による冷戦終結の共同宣言までの時期が、この時代である。
 ハンチントンによると、冷戦期には、世界が自由主義、共産主義、第三世界と三分されていたが、21世紀初頭の世界は、文化的なアイデンティティの違いにより、7または8の文明によって区分される。また、冷戦時代には、米ソという超大国が二つあったが、今日の世界は一つの超大国(アメリカ)と複数の地域大国からなる一極・多極体制を呈するようになった。そして、ハンチントンは今後、世界は多極化が進み、真の多極・多文明の体制に移行すると予想する。また特に西洋文明とイスラーム文明・シナ文明との対立が強まる。西洋文明対イスラーム=シナ文明連合の対立の時代が来ると警告した。
 冷戦終結後、間もなくイスラーム文明の中心地域である中東で、湾岸戦争が勃発した。イラン・イラク戦争後、イラクは中東の軍事大国となったものの、フランスに約30億ドルという多額の債務を背負っていた。サッダーム・フセインは、経済危機を解決しようとして、1990年(平成2年)8月クウェートに侵攻した。クウェートの石油を押さえて財政を好転させようとしたことが、直接的な要因である。イラクは、国境地帯にあるクウェートのルイメラ油田はイラクの石油資源を盗掘していると非難した。
 イラクはイギリスがオスマン帝国から切り離して作った国だった。イギリスは、オスマン時代の州の一部をイラク、一部をクウェートとした。そのため、イラクにはクウェートはもともと自国の一部だったという見方があった。
 アメリカは、イラク軍のクウェート侵攻で、西側の石油資源が危機にさらされたと判断した。そして、クウェートの解放、サウディアラビアの防衛を目指す大規模な軍事介入を図った。
 国連安保理はイラクにクウェートからの撤退を要求したが、1991年(平成3年)1月、撤退期限が過ぎた。安保理は全会一致で制裁を決議したものの、国連軍は組織されなかった。安保理決議をもとに、アメリカが主導して、ヨーロッパ諸国、エジプト、シリアなど29カ国の多国籍軍を組織し、1月17日イラクへの攻撃を開始した。これが、湾岸戦争である。
 フセイン大統領は、米国など西側に対抗するため、「異教徒の軍隊に対する聖戦」を呼号した。多国籍軍のバクダッド等への空爆に対し、イラクはイスラエルへのミサイル攻撃で応じた。フセインは、湾岸戦争をパレスチナ問題にリンクさせて戦線の拡大を図った。しかし、これには、イスラエル、アラブ諸国が応じず、結局多国籍軍の圧倒的な軍事力により、空爆からわずか42日間でイラク軍は多国籍軍に敗れた。
 湾岸戦争は、冷戦終結後、初めて起こった大規模な国際紛争だった。この戦争は、それまでの米ソ冷戦による二極的な世界秩序に替わり、アメリカ主導の一極的な世界秩序維持の動きの出発点となった。
 湾岸戦争において、パレスチナの主要組織であるPLOのアラファト議長は、イラク支持を打ち出して国際的に孤立した。そのため、湾岸産油国からの援助が受けられなくなり、パレスチナは経済危機に直面した。1993年、ビル・クリントン米大統領の仲介により、アラファト議長とイスラエルのラビン首相の間でオスロ合意がされた。これによってパレスチナの暫定自治の基本合意が成立した。パレスチナ人の多くは当時レバノンに移住していたが、イスラエル軍が占領しているガザ地区とエリコ地区での自治が認められた。PLOは、テロ行為を放棄し、パレスチナの代表として認知されることになった。だが、95年にラビン首相はユダヤ人の過激派に暗殺され、アラファト議長は2004年(平成16年)に亡くなった。イスラエル首相に対パレスチナ強硬派のネタニヤフが就くと、和平への道は閉ざされた。
 パレスチナでは、1987年(昭和62年)イスラーム教スンナ派の原理主義組織ハマスが創設された。ハマスは比較的穏健なPLOを批判し、対イスラエル強硬路線を鮮明にしている。現在も日常的にイスラエルとパレスチナ側の戦いが執拗に繰り返されている。
 イスラエルは、ユダヤ系の巨大国際金融資本と超大国・米国を後ろ盾としている。強い軍事力と高い諜報力を持ち、また核兵器を所有しているとみられる。ユダヤ教は選民思想を説き、異教徒を敵対視する。強硬派政権のイスラエルの存在は、イスラーム文明の諸国にとって大きな脅威である。イランは、イスラエルの核に対抗するために、核兵器を開発・所有しようとしてきたとみられる。
 中東における対立・抗争は、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教のセム系一神教同士の争いである。またユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の争いでもある。その争いは人類全体を巻き込みかねない危険性を秘めている。

 

●米国がアフガニスタン、イラクに侵攻

 2001年(平成13年)9月11日、ユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明が新たな抗争に突入する重大事件が起こった。アメリカ同時多発テロ事件である。この事件については、拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路」に詳しく書いた。
 同時多発テロ事件が起こるや、ブッシュ子米大統領は、「新しい十字軍戦争」を唱導し、国民に支持・協力を呼びかけた。超大国の最高指導者が、「十字軍」というキリスト教諸国とイスラーム教諸国の宗教戦争を宣言するという異常な事態となった。報復に沸騰する世論を後押しにして、アメリカは、アフガニスタンに進攻した。テロはイスラーム教原理主義勢力タリバンによるものとし、アメリカはタリバン政権を倒すとして、2001年10月7日イギリス等とともに、アフガニスタンへの空爆を開始した。
 ブッシュ子政権は、この戦争は従来のような国家と国家の戦争ではなく、テロリスト集団と国家が戦うという新しい戦争だとした。この規定は、従来の戦争の概念を変えた。
 戦争目的は、アルカーイダの指導者オサマ・ビンラディンを庇護するタリバンが活動の本拠としているアフガニスタンに侵攻して、テロの首領を捕らえ、テロリストの巣窟を撃つこととされた。侵攻後、連合軍は圧倒的な優勢のうちに作戦を進め、瞬く間にアフガニスタンを占領し、12月には作戦を終了した。反米的なタリバンを追い払い、親米的なハミド・カルザイを大統領の座につけた。これによって、戦争は12月に終結したことになっている。だが、これで戦争は終わらなかった。その後も米軍が駐留し、米国及びアフガニスタン政府とタリバンとの戦いは、今も続いている。
 アフガニスタンは、西アジアのイスラーム教国である。正式な国名を「アフガニスタン・イスラーム共和国」という。人口の85%がスンナ派、14%がシーア派、それ以外の宗教が1%という構成であり、イスラーム教徒が99%を占める。
 アフガニスタンは、ユーラシアにおける地政学的な要所にある。中東にまさるほどの石油が埋蔵されているというカスピ海沿岸地方から石油を搬送する通路ともなっている。また世界最大のアヘンの生産地でもある。アメリカはここに重大な利権を持っている。アフガン侵攻には、利権の維持という理由もあった。
 9・11後、アメリカは、同時多発テロ事件を計画・実行したとして、オサマ・ビンラディンを主犯に名指した。だが、この人物についてはCIAとの関係など不可解な点がいろいろあり、アメリカの協力者説、替え玉説、死亡説などが飛び交った。
 アメリカは、アフガニスタン侵攻に続いて、2003年(平成15年)3月19日、イラクに侵攻した。サッダーム・フセインを除いて民主化を進めるためとした。ブッシュ子政権は、9・11の前に、イラクの石油目当てに、フセインを追放するための戦争を計画していた。イラクは、石油埋蔵量で世界第2位である。アメリカの計画を知ったフセインは、攻撃を受けないように、国連安全保障理事会常任理事国のフランス・ロシア・中国にイラクの石油を売っていた。安保理がイラク攻撃を決議しないように図ったのである。
 しかし、アメリカは、フセインはアルカーイダを支援しており、大量破壊兵器を渡すおそれがある。テロリストが核兵器を持てば、国家が相手と違って抑止力が働かず、防ぎようがない。だから、脅威が感じられる時点で先制攻撃をしなければならないーーこういう理屈で、自衛権の行使として先制攻撃を正当化した。これは、先制攻撃に関する新しい解釈だった。
 国連安保理でフランスが反対したので、アメリカは安保理決議なく、イギリスなどと共に空爆を開始した。湾岸戦争以来のイラク攻撃だった。第2次イラク戦争とも言われる。
 わが国に続いて、多くの国々が、アメリカを支持して参戦した。北大西洋条約機構(NATO)は、結成後初めて集団的自衛権の行使として参戦した。集団的自衛権は、集団安全保障を補完するのではなく、集団安全保障体制の不在を埋めているという国際社会の実態が浮かび上がった。
 侵攻の翌月には米英連合軍が首都バクダードを占領し、フセイン政権は打倒された。これで正規軍同士の戦闘は終了し、2003年(平成15年)5月ブッシュ子大統領は「大規模戦闘終結宣言」を出した。だが、終戦宣言後もイラクの治安は回復せず、内戦状態が続いた。同年12月13日米軍はサッダーム・フセインを逮捕し、アメリカは囚われたフセインを世界の耳目にさらして勝利宣言を行った。
 ブッシュ子大統領は、開戦理由の第一をイラクの大量破壊兵器保有としていた。ところが、アメリカが派遣した調査団は、2004年10月、「イラクに大量破壊兵器は存在しない」という最終報告を提出した。大量破壊兵器を保有しているというのは、CIAの情報だった。それが誤っていたことが明らかになった。その結果、この戦争の正当性は、根底から揺らいだ。ブッシュ子政権は、誤情報を鵜呑みにしたのか。それとも、核兵器・生物兵器・化学兵器は存在しないことは分かっていて、戦争を始めたのか。真相は明らかではない。アメリカの議会も、国連安保理も、この点を徹底的に追及しなかった。
 イラク戦争の大義は、失われた。それにより、9・11同時多発テロ事件に関する疑問が、アメリカ国民の間に広がった。わが国においても、この事件を疑う人が増えた。イスラーム文明の諸国では、なおさらだろう。アメリカ同時多発テロ事件は、拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路」に詳しく書いたように、非常に謎の多い事件で、真相はほとんど解明されていない。
 フセインについては、イラク特別法廷及びバグダードの高等法廷で裁判が行われ、「人道に対する罪」で死刑と判決された。2006年(平成18年)12月30日絞首刑が執行された。フセイン政権崩壊後、イラクでは議会選挙、憲法制定等が行われ、2006年の選挙でマリーキーが首相に選ばれた。フセイン政権はイラクでは少数派のスンナ派の政権だった。マリーキーは多数派のシーア派で政府や軍の幹部を固めた。強権的な政権運営を行って、スンナ派や元フセイン政権関係者等の反発を買った。イラクの治安は再び悪化し、小規模な戦闘が続くことになった。やがてそこから過激派武装組織が台頭することになる。
 2008年(平成20年)に米国大統領となったオバマは、9・11の真相解明を行うことなく、共和党ブッシュ子政権の中東政策を引き継いだ。若干の政策変更は行いつつも、基本的な方針は変えることなく、進んできている。オバマ政権は、ブッシュ子政権によって9・11の主犯であるとされたオサマ・ビンラディンの追跡を継続した。ようやく2011年5月2日、オサマは、米国海軍特殊部隊が行った軍事作戦によって死亡したと報道された。だが、CIAが本物だと断定した2002年発表のオサマのテープは、スイスの専門機関が声紋分析し、「替え玉による録音」と報告した。本人は既に相当前に死亡しており、この時、死亡が発表されたのは替え玉だった可能性が指摘されている。
 オサマ・ビンラディンの死亡発表後も、アフガニスタンの政情は安定していない。タリバンは反政府武装闘争を続けている。

 

●一神教文明群における文明間の戦争

 ハンチントンは、1996年(平成8年)に『文明の衝突』を出版した。本書でハンチントンは、文明のアイデンティティが、冷戦終結後の世界における人々の結束や分裂、対立のパターンを形成しつつあると説き、特に西洋文明とイスラーム文明の衝突の可能性とその回避の方法を論じた。その理論は、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を予測したものとして世界的に話題を呼んだ。ハンチントンについては、拙稿「ハンチントンの『文明の衝突』と日本文明の役割」に書いた。
 ハンチントンは、異なる文明と文明がぶつかる断層線(フォルトライン、fault line)で文明の衝突が起こると説いた。イスラーム圏においては、1979年(昭和54年)にイラン革命が起こったが、その年は旧ソ連がアフガニスタンに侵攻した年でもあった。ハンチントンは、ソ連の侵攻によるアフガン戦争をもって、「最初の文明の衝突」だとする。この冷戦間に起こった戦争に続き、冷戦終焉後に起こった「第二の文明の衝突」は、湾岸戦争が始めだという。ハンチントンは、これらの戦争がイスラーム文明側にとって持つ意味を重視している。
 アフガン戦争について、ハンチントンは次のように言う。「この戦争におけるソ連の敗北はまた、ソ連の社会や政治権力者全体にある事実を浸透させ、ひいてはソ連帝国が分裂する大きな要因ともなった」。アフガン戦争は「イスラーム教の行動基準にのっとっての、外国勢力にたいして成功した初めての抵抗だった。それはジハード(聖戦)として戦われ、イスラーム教徒の自信と勢力が飛躍的に高まることになった。この戦争がイスラーム世界に与えた影響は、1905年(明治38年)に日本がロシアに勝ったときに東洋世界に与えた衝撃にも劣らぬものだった。西洋は自由世界の勝利だと思ったのだが、イスラーム教徒はイスラーム教の勝利だと考えたのである」「特に重要なのは、自分たちが成し遂げたことから生まれる力と自信に満ちた高揚感と、さらに勝利をおさめたいという突き上げるような願望だった」と。
 続く湾岸戦争については、次のように述べている。「湾岸戦争は、初めはイラクとクェートの戦争だったが、やがてイラクと西洋の戦争になり、ついにはイスラーム圏と西洋の戦争になった」「モロッコから中国にいたる数百万人のイスラーム教徒がサッダーム・フセインを応援し、彼を『イスラーム教徒の英雄』と呼んだ」「イスラーム教原理主義集団は、この戦争を『新十字軍とシオニスト』の連合軍によるイスラーム教とその文明に対する戦争だと非難」し、イラクを支持した。「イスラーム教徒がこの戦争を西洋対イスラーム圏の戦争だと考えたために、イスラーム世界の内部での反目は弱まり、後回しにされた」「アフガニスタンでの戦争と同じように、湾岸戦争はイスラーム教徒を一体化した」と。
 アフガン戦争と湾岸戦争は、ハンチントンが言うように「文明間の戦争」となったが、私は、これらをユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の対立・抗争ととらえた方がよいと考える。また、この文明間の衝突は、同じセム系一神教文明群の中での衝突である。アブラハムの子孫同士の戦いであり、異母兄弟の骨肉の争いである。
 ブッシュ子政権は、9・11をきっかけに、「新しい十字軍戦争」を唱導した。これは、アメリカ=イスラエル連合つまりユダヤ=キリスト教とイスラーム過激派との戦いであり、セム系一神教文明群の中でのユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の戦いである。
 アメリカは、2003年(平成15年)にイラクに侵攻し、フセイン政権を打倒したことによって、多くのイスラーム諸国で反発を買った。イランは、アメリカとイスラエルへの対決姿勢を鮮明にした。親米的なサウディアラビアやクェートでさえ、アメリカべったりの姿勢を変えた。西洋文明とイスラーム文明の対立は、深刻化した。アメリカの策謀や失策が、一神教文明間の争いを激化させてしまった。

 

●イスラーム文明と対立するアメリカ=イスラエル連合

 イスラーム文明の中心地域である中東には、イスラエルというイスラーム教徒にとっては異教徒の強力な国家が存在し続けている。イスラエルは、アメリカにとって、中東で最も重要な国となっている。ユダヤ教とキリスト教の宗教的なつながりとともに、ロスチャイルド家・ロックフェラー家等の巨大金融資本の連携が背景にある。
 カーター大統領の時期には、アメリカはイスラエルとエジプトの和平に努力した。しかし、イスラエルには、和平を目指す勢力と、徹底的な対決を求める勢力がある。イスラエルのシオニストは、アメリカにおいて、同調者・支持者を増やし、アメリカの民衆をイスラエル支持・シオニスト擁護に誘導している。1980年代以降、アメリカの指導層は、イスラエル政府の外交政策を支持する親イスラエル派やシオニストが主流を占めている。キリスト教保守派の多くは、イスラエルを守るべき国とし、キリスト教とユダヤ教の結びつきが強化されている。とりわけ1989年(平成元年)米ソの冷戦が終結したことで、シオニストの対米活動が活発になったとみられる。91年、ブッシュ父政権の時代に、ソ連が崩壊し、アメリカが唯一の超大国になった。この国際構造の変化に対応して、シオニスト=ロスチャイルド家は、地球覇権国家アメリカをイスラエル寄りにし、アメリカの軍事力で自国と利益を守る仕組みを構築しようと図ったのだろう。
 ユダヤ人は世界に約1330万人(2009年現在)いるとされるが、そのうち570万人のユダヤ人はアメリカにいる。その数はイスラエルにおける550万人を上回っている。アメリカには積極的な政治活動を行うユダヤ系団体があり、政府・議会に徹底したロビー活動を行っている。主な政治家はほとんどが親イスラエル的である。親イスラエルでないと、選挙で当選できないと言っても過言ではない。これに比べ、アメリカのイスラーム教徒は、ユダヤ人の3分の1以下の数であり、またロビー活動を活発に展開するほど、組織化されていない。資金力でも、米国にはユダヤ人資産家が多くいるのに対し、イスラーム教徒は大きく劣っている。
 冷戦終結後、アメリカが世界で唯一の超大国となったとき、アメリカの世界的な覇権を確立するために、その圧倒的な軍事力を積極的に使用すべきだという戦略理論が登場した。それが、ネオコンである。ネオコンはネオ・コンサーバティズム(新保守主義)の略称である。
 ネオコンには、ユダヤ人の政治家・理論家が多く存在する。ネオコンは、自由とデモクラシーを人類普遍の価値であるとし、その啓蒙と拡大に努める。近代西洋的な価値観を、西洋文明以外の文明に、実力を用いてでも押し付けようとする。その点では、戦闘的な自由民主主義とも言えるが、そこにユダヤ=キリスト教の世界観が結びつき、イスラエルを擁護するところに、顕著な特徴がある。
 ネオコンは、ブッシュ子政権中枢に多く参入した。9・11は、アメリカ国民に、テロの恐怖を引き起こし、報復への怒りを沸き立たせた。そして、ネオコンの理論をアメリカが取るべき方針だと国民に思わせたのである。
 アフガニスタン戦争及びイラク戦争の開始後、9・11より前に、ネオコンのグループによって戦争が計画されていたことが明らかになった。その計画を実行するために起こされた事件が、9・11の同時多発テロ事件と考えられるのである。
 当時ユダヤ人のネオコンは、イスラエルの極右政党リクードの党首アリエル・シャロンの政策を支持し、シャロンと密接な関係を持っていた。シャロンは戦闘的なシオニストであり、パレスチナ難民の殺戮を容認し、「ベイルートの虐殺者」と呼ばれる人物である。シャロンは、2001年(平成13年)3月にイスラエルの首相となった。ここにアメリカ・ブッシュ子政権のネオコン・シオニストとイスラエルの強硬派政府との連携が出来上がった。ネオコン・シオニストは、アメリカの外交政策がシャロン政権を援護するように働きかけ、超大国アメリカの軍事力で、イスラエルの安全保障を強化しようとした。アメリカを親イスラエル、シオニストの国家に変貌させようと図ったのである。ブッシュ子政権のネオコン・シオニストは、イスラエルを支持し、アラブ諸国を軍事力で押さえ込み、石油・資源を掌中にし、自由とデモクラシーを移植する戦略を推進した。
 今日、イスラエルが核兵器を保有していることは半公然の事実である。イスラエルは、約200発の核兵器を持つとみられており、中東諸国の中では、圧倒的な軍事力を誇っている。アメリカは、イスラエルの核保有を追認しており、イスラエルに対しては、制裁を行なおうとはしない。その一方、イランやイラクの核開発は、認めない。明らかにダブル・スタンダードを用いている。イスラエルが自由とデモクラシーの国であり、アメリカと価値観を共有しているというのが、その理由だろうが、核の問題は別である。アラブ諸国の核開発は認めないが、イスラエルの保有は擁護するというのでは、イスラーム教徒が受け入れないのは、当然である。こうしたアメリカの姿勢が、中東を始め、世界各地でイスラエルへの批判勢力の反発を買っている。
 2008年の大統領選に勝利したオバマ大統領は、イスラエル支持を表明し、ネオコンが多く参加したブッシュ子政権の中東政策を概ね継承した。政権が共和党から民主党へ、ブッシュ子からオバマへと変わっても、根底にある親イスラエルの権力構造は変わっていない。
 イスラーム文明にとっては、アメリカ=イスラエル連合は大きな脅威であり、その連合によるユダヤ=キリスト教及びグローバル資本主義からイスラーム教的な価値観を守ることが、大きな課題となっている。

●イスラーム教徒によるテロリズムの脅威

 冷戦時代には、米ソが、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの国々を、自陣営に引き入れ、その国の支配体制を支援するなどして、勢力の維持を図っていた。しかし、冷戦終結後、二大超大国の対立構造によって保たれていた秩序が消滅した。その結果、それまで自由主義と共産主義というイデオロギーの対立のもとに抑えられていた民族問題や宗教問題、天然資源の分配問題等をめぐる紛争が各地で表面化するようになった。湾岸戦争は、ポスト冷戦時代の典型的な地域紛争の一つである。
 さらに、21世紀にはいると、地域紛争の増加に加えて、国際的なテロリズムの脅威が世界中に拡散した。宗教的・民族的・思想的な理由によるテロが、ヨーロッパ、アジア、ロシア等の各地で破壊や殺害を引き起こしている。1990年代以降、先進国の主導で国際経済の自由化が進められたが、これは発展途上国の一部から途上国をより困難な状況に陥れる政策であるとみられた。とくにイスラーム圏では、こうした先進国主導の国際経済に組み込まれることに強い反発が起こり、純粋にイスラーム的な国家や社会の実現を目指すイスラーム復興運動が民衆の支持を得るようになった。この運動は、欧米でイスラーム教原理主義と呼ぶものより、もっと広く深いものである。
 イスラーム教徒が多数を占める国は発展途上国が多く、人口増加率が高い。国際的な格差の拡大と人口増加によって、貧困層の増大が大きな問題となっている。貧困は乳幼児の死亡率の高さ、識字率の低さ、不衛生、環境破壊等をもたらす。イスラーム復興運動の中で一部の過激な勢力は、暴力によって貧困に伴う問題を解決しようと考えるようになった。特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件をきっかけに、米国とイスラーム教過激派の対立が激化した。こうした事情が国際テロリズムの要因の一つとなっている。
 イスラーム復興運動は、世界的な広がりを持つ宗教によるものゆえ、ナショナリズムやエスニシズムよりも広い地域にわたる。近代西洋的な主権国家を超えた広域的なイスラーム教社会の連帯に基づいており、イスラーム文明による西洋文明や東方正教文明への対抗という性格を持っている。
 現代世界は、グローバリズムが進展する一方、文明、地域機構、ネイション、エスニック・グループ等が重層的に絡み合いながら、闘争と対話を繰り広げている。その中で、宗教を中核に持つ文明間の対立・抗争、または協調・融和は、現代世界の大きな変動の要因となっている。とりわけイスラーム文明は世界情勢と人類の運命に大きな影響を与える存在であり続けている。
 以上で、イスラーム文明の現代について、1945年から2010年代の初めまでの期間の記述を終える。2010年代の初めで区切るのは、2011年(平成23年)に「アラブの春」と呼ばれる出来事が起こり、以後、イスラーム文明に大きな波紋をもたらしているからである。
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第3章 現在(2011年以降)

 

ここからイスラーム文明の現在にはいる。ここで現在とは、2011年の「アラブの春」以降、今日までを意味する。
 本稿では、イスラーム文明の歴史・現代・現在を地図で言えば、縮尺を変えて記述する。たとえて言えば、20万分の1、1万分の1、1千分の1といった感じである。それは私の関心が、歴史より現代、現代より現在にあるからである。

●「アラブの春」でイスラーム文明に激動が

 イスラーム文明では現在、2011年(平成23年)の「アラブの春」と呼ばれる出来事の波紋が続いている。本年2016年1月は、「アラブの春」から5年目を迎えた。
 同年1月、チュニジアで民衆運動が起こり、ベン・アリー大統領の長期独裁体制が崩壊した。チュニジアの動きはエジプトに波及し、やはり長期独裁体制を続けていたムバーラク大統領が辞任した。リビアでは民衆の運動を弾圧しようとした最高指導者カダフィーが、反乱軍によって射殺された。他にもトルコ、イエメン、バハレーン、イラク、サウディアラビア等でデモが起こり、アラブ諸国が大きく揺れた。シリアでは、反政府勢力が活発化し、内戦が始まった。これを「アラブの春」という。1968年の「プラハの春」にならった呼び名である。
 イスラーム文明において、これほど多くの国で政治体制に対する民衆の反対運動が起こったのは、初めてのことだった。各国で事情は異なるが、共通しているのは長年続く独裁体制に反発した民衆が、独裁者の退陣を要求した点である。「アラブの春」をきっかけに、アラブ社会に巨大な地殻変動が起こりつつある。「アラブの春」は、さらにイスラーム文明の激動の開始ともなっている。

●持続・拡大する各国への影響

2010年(平成22年)12月、北アフリカの地中海岸にあるチュニジアで、失業中だった若者が、街頭で野菜を販売しようとして女性警官に殴打され警察に没収されたことに抗議し、憤りを発して焼身自殺を図った。この事件をきっかけに、2011年1月反政府デモが国内全土に拡大した。1月14日、民衆デモの高揚により、23年間独裁体制を続けたベン・アリー大統領が辞任に追い込まれ、国外に逃亡した。この政変は「ジャスミン革命」と呼ばれる。若者による民衆の運動では、ツイッターやユーチューブ、フェイスブックといったネットメディアが大きな役割を果たしたことで注目された。
 革命後の議会選ではイスラーム教原理主義組織ムスリム同胞団系の政党アンナハダ(ナフダ党とも訳す)が躍進して、暫定政府の主導権を掌握した。だが、フランス統治時代の影響から世俗主義が根強いエリート層は、アンナハダと激しく対立し、2014年(平成26年)の大統領選で世俗派エリートの代表格であるカイドセブシが当選した。これによって、アンナハダの求心力は低下した。もっとも政権は大連立政権であり、イスラーム主義のアンナハダも与党の一角を占めている。
 政権移行は、選挙という民主的な方法で行われたが、現在の国家体制を支える世俗派とイスラーム教勢力の権力闘争が続いており、それが過激派の動向にも影響を与えている。民主化によって、独裁政権時代には厳しく監視されていた過激なイスラーム教勢力も活動の自由を得た。彼らは、「アンサール・シャリーア」などの武装組織を結成し、国内外の組織と連携を深めてきたと伝えられる。
 チュニジアの「ジャスミン革命」における民衆運動の成功は、西方のエジプトに飛び火した。2011年(平成23年)2月11日、民衆運動が始まってからわずか18日間で、30年間近く続いた独裁者ムバーラク大統領が辞任した。
 反政府デモは、強すぎる警察権や失業率の高さ、貧富の格差などから閉塞感を抱く若者らの怒りを吸収する形で大規模化したものだった。
 翌年6月、同国初めての公正な選挙で、ムルスィーが民間出身初の大統領に選ばれた。ムルスィーはムスリム同胞団の出身である。
 ムスリム同胞団は、1930年代からエジプトで活動しており、100万人の団員を抱えて全土に根を張る軍と双璧の組織といわれる。1954年(昭和29年)、それまで協力関係にあったナーセル(当時、首相)と対立し、団員が起こしたとされるナーセル暗殺未遂事件を機に非合法化された。当局の徹底弾圧を受け、幹部は軒並み投獄された。再建が進んだのは、1970年に入って、体制内の権力闘争を有利に進めようとイスラーム教勢力に接近したサダト元大統領が、幹部らの釈放を進めてからである。
 ムスリム同胞団を支持母体とするムルスィー大統領は、独裁政権時代の政教分離の原則を崩し、憲法を改正して、イスラーム教色の濃い政策を進めた。そのため、同胞団支持者以外の民心を離反させた。同胞団が権力に加えて利権を握りかねないことへの危機感も強まった。物価高騰、失業者増大、エネルギー逼迫、財政悪化等で経済が行き詰まり、治安も悪化した。
これに対し、民主化勢力の若者たちが不満を強めた。数百万人規模のデモが起こり、政権支持派のデモ隊と衝突を繰り返した。こうした状況で、2013年(平成25年)7月事態鎮静化を図って軍がクーデタを起こした。軍のトップ、シーシー国防相は、辞任を拒否するムルスィー大統領を強制排除した。
 民主的な選挙で選ばれた大統領を軍が追放したので、本来、欧米諸国は「デモクラシーに反する」と強く非難するはずなのだが、ほぼ黙認状態だった。欧米諸国も、エジプトのイスラーム化に懸念を強めていたからとみられる。
 大統領になったシーシーは、ムスリム同胞団のメンバー188人を死刑に処した。民主的に選挙された前大統領を辞任させたうえに、同胞団を弾圧する現政権への反発は根強い。国民の大多数は世俗主義を嫌っている。民主化の推進力と考えられるリベラル派は、まだ政治的な力を得るまでに成長していない。そのため、エジプト社会の分裂は深まった。
 本年(2016年)1月に、2013年のクーデタ以後、初めて議会が招集された。だが、強権的な政権のもと、エジプト議会が民主的な機能を発揮し得るかどうかは疑わしい。
 本年2月、ムバーラク政権が崩壊してから5年が経過した。首都カイロ等でISIL系やムスリム同胞団系によるとみられるテロがたびたび発生しており、シーシー政権はISIL掃討に加え、同胞団や若者ら中心の民主化グループなどを圧迫し続けている。エジプトが治安と安定を実現できるかどうか、先行きは不透明である。

 「アラブの春」は、エジプトから隣国のリビアに波及した。2011年(平成23年)2月、リビアでは最高指導者で国家元首であるカダフィーの退陣を求める反政府デモが発生した。ナーセルにあやかって大佐と称するカダフィーは武力によって民衆の運動を弾圧しようとしたが、軍の一部が反乱を起こした。反政府勢力が首都を制圧し、10月20日カダフィーは射殺された。42年間続いたカダフィー政権は崩壊した。
 カダフィー政権崩壊後、制憲議会が民選された。新たな議会が創設され、シンニー首相が政権に就いた。だが、これに反発するアルカーイダ系組織を含む「リビアの夜明け」連合が独自に首相を擁立し、内戦状態となった。この内戦は、今も続いている。
 「アラブの春」は、トルコでも反政府運動の高揚をもたらした。トルコ共和国は1923年(大正12年)のケマル・アタテュルクの建国以来、政治とイスラーム教を切り離す政教分離の原則のもとに、世俗化と近代化を進めてきた。ところが、2003年(平成15年)に首相となったエルドアンは、敬虔なイスラーム教徒で、夜間の酒類販売禁止などイスラーム教色の強い政策を打ち出した。2011年(平成23年)春、これに反発する若者がイスタンブールなど各地で反政府行動に出て、混乱が広がった。エルドアンは、この混乱を強権的に収めて、2014年8月に大統領となった。だが、政権への反発が続き、政情は不安定である。

 サウディアラビアの南に位置するイエメンでも、「アラブの春」の影響で、市民による反政府デモが発生した。この結果、サーレハ大統領が退陣し、ハディ副大統領が2012年(平成24年)2月の暫定大統領選挙で当選した。しかし、2014年9月、イランが支援するシーア派系の武装組織フーシー派が首都サヌアを占領し、翌年1月22日にはクーデタを起こし、ハディ暫定大統領とバハーハ首相を辞めさせて政権が崩壊した。2月6日にはフーシー派が議会を強制的に解散し、暫定統治機構として大統領評議会を開設し、「憲法宣言」を発表した。これによって、2011年以来の移行期プロセスが崩壊し、国家そのものも崩壊の危機にある。
 「アラブの春」は、他の国々にも波紋を広げた。最大の影響をもたらしたのは、シリアである。
 シリアでは、1970年代から40年以上、アサド大統領が絶対君主として君臨している。シリア人口の80パーセントはスンナ派といわれる。しかし、アサドが主たる支持基盤としているのは、シーア派の一分派であるアラウィー派である。アラウィー派は、シリアの人口の12%を占めるにすぎない。少数宗派がシリアを支配しているのである。

アラウィーは、アリーから派生した言葉である。アラウィー派はスンナ派の迫害を逃れて山岳地帯に居住した。次第にシリアの土着宗教やキリスト教の教えを受け入れるようになり、聖母マリアすら信仰の対象としている。キリスト教的なイスラーム教ともいわれる。
 シリアの軍隊には、アラウィー派が多い。アサドは、そうしたシリアの軍隊に入り、バース党に入党した。1963年(昭和38年)3月に、バース党を黒幕とする軍部がクーデタを起こした。続いてアサドは70年にクーデタを起こして全権を掌握し、71年から大統領としてバース党の支配体制を維持している。アサド政権はスンナ派の蜂起を弾圧して軍事独裁を続けてきた。
 こうしたシリアに「アラブの春」が波及し、アサド政権とこれに反対して民主化を要求する勢力との間で内戦が発生した。当初、反アサド政権の中心となっていたのは、由シリア軍(FSA)という非イスラーム的な世俗勢力だった。「アラブの春」の波及で生まれたもので、米欧が支援したが、多様な政党と分派の寄せ集めであり、まとまりを欠いていた。また、内戦発生当初から、イランがアサド政権を、サウディアラビアがスンナ派主導の反体制派を支援している。
 シーア派の地域大国イランは、イラクのマリーキー政権(当時)、シリアのアサド政権、レバノンのシーア派組織ヒズブッラ(神の党)と同盟関係にあり、その影響範囲は「シーア派三日月地帯」と呼ばれる。イランは、この三日月地帯の中間に位置にするシリアで影響力を拡大すべく、アサド政権を支援している。一方、スンナ派の盟主を自任するサウディは、シリアへのイランの影響力を排除しようとしている。今日のイスラーム文明において、宗派の異なる二つの地域大国が、シリアをめぐって対立している。シリア問題は、国際的な宗派対立の問題へと発展している。
 内戦が続くなか、2013年(平成25年)8月末、米国政府は、アサド政権が化学兵器を使用したことに「強い確信がある」とし、少なくとも1429人が死亡したとする報告書を発表した。化学兵器による大規模攻撃は8月21日に首都ダマスカス郊外で起きたとされる。反体制派は政権側が攻撃したと非難、政権側は反体制派の仕業だと反論し、真相は解明されていない。

オバマ大統領は「シリアでアサド大統領が化学兵器の使用などのレッドラインを越えれば軍事介入する」と公言した。だが、その国際公約を実行しなかった。そのため、アメリカはシリア問題で主導権を握る機会を失った。強硬な警告は口先だけで軍事介入する意志はないと見切ったイランやロシアがシリアへの影響力を増すことになっていく。

 その後もシリアの内戦は、泥沼化している。中東や東南アジア等のイスラーム教諸国や米国、西欧諸国からもイスラーム教徒の義勇兵が反政府側に多く参加している。イラクからは、スンナ派の過激派武装組織「イラクとレバントのイスラーム国家」(ISIL)がシリアの戦闘に参加した。ISILは、シリアで戦闘力や資金力を増強し、イラク国内で反マリーキー政権の武装闘争を展開するようになった。このISILこそ、「イスラーム国」を自称し、カリフ制国家を宣言することになる過激組織である。そして、後に述べるようにISILが急発展すると、ロシアとイランがテロとの戦いを大義として干渉し、シリアの内戦を「シリア戦争」にエスカレートさせた。
 「アラブの春」の波紋の中から浮上したISILの活動及び圏外諸国の軍事介入によって、イスラーム文明の対立・抗争は、新たな局面に入った。東京大学名誉教授で中東・イスラーム地域事情の権威である山内昌之氏は、「アラブの春から5周年を迎えて、ISの緑色テロが猖獗を極める現実は、大アラブ革命の挫折を象徴すると言えるだろう」と述べている。

 

●イスラーム文明は「移行期の危機」にある

 イスラーム教徒は、人口増加の著しいアジア、アフリカに多く存在する。各国の年齢構成は若年層が多く、彼らの失業・社会格差・物価高・行動規制等への不満が政治運動という形で噴出しているとみられる。
 イスラーム文明の現在と将来を考える時、世界的に著名な家族人類学者・人口学者・歴史学者、エマニュエル・トッドの所論は欠かせない。トッドについては、拙稿「家族・国家・人口と人類の将来〜エマニュエル・トッド」及び「トッドの移民論と日本の移民問題」に書いた。
 トッドによると、イスラーム教諸国で起こった「アラブの春」は、かつてヨーロッパ諸国で起こった近代化の過程における危機と同じ現象である。すなわち、17世紀のイギリス、18世紀のフランス、20世紀のロシア等と同じようなパターンが、今日イスラーム教諸国で繰り返されている。トッドは、この危機を「移行期の危機」と呼ぶ。伝統的な社会から、近代化する社会への移行期に伴うものである。
 トッドは、近代化の主な指標として識字化と出生調節の普及を挙げる。識字化とは、読み書き計算ができるようになることをいう。出生率とは、女性が一生の間に産む子供の数の平均である。出生率の低下は、主に女性が出生調節をすることによって起こる。そして識字化と出生調節の普及という二つの要素から、イスラーム教諸国では近代化が進みつつある、とトッドはとらえる。
 識字化について、トッドは、次のように言う。「多くのイスラーム教国が大規模な移行を敢行しつつある。読み書きを知らない世界の平穏な心性的慣習生活から抜け出して、全世界的な識字化によって定義されるもう一つの安定した世界の方へと歩んでいるのである」と。
 出生調節については、次のように言う。「識字化によって個人としての自覚に至った女性は出生調節を行なうようになる。その結果、イスラーム圏でも出生率の低下が進行し、それはアラブ的大家族を実質的に掘り崩す」と。
 こうした識字率の向上と出生率の低下に伴って起こっているのが、1979年(昭和54年)のイランのイスラーム革命であり、また2011年(平成23年)の「アラブの春」だ、とトッドは見る。
 社会の近代化において、識字率が50%を超える時点がキーポイントである。識字率が50%を超えると、その社会は近代的社会への移行期に入り、「移行期の危機」を経験する。50%超えは、ほとんどの社会で、まず男性で起こり、次に女性で起こる。男性の識字率が50%を超えると、政治的変動が起こる。女性の識字率が50%を超えると、出生調節が普及し、出生率の低下が起こる。1970年代のイランは、トッドの言うような50%超えの段階にあった。そして、「アラブの春」はそうした段階に至った北アフリカ・中東諸国で起こった社会現象である。
 イスラーム教諸国では、近年出生率の低下が顕著である。イスラーム教の中心地域であるアラブ諸国では、出生率の低下が伝統的な家族制度を実質的に掘り崩しつつある。また、男性の識字化は父親の権威を低下させる。女性の識字化は、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがす。識字化によって、父親の権威と夫の権威という二つの権威が失墜する。
 トッドは、次のように言う。「この二つの権威失墜は、二つ組み合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。別の言い方をすると、識字化と出生調節の時代は、大抵の場合、革命の時代でもある、ということになる」。トッドによれば、識字化はデモクラシーの条件である。識字化によって、イスラーム教諸国もデモクラシーの発達の道をたどっている、とトッドは指摘する。
 ただし、チュニジア、エジプト、リビア等の国々が今回の政変で民主化に向かうかどうかは、まだ定かでない。
 チュニジアでは、2014年(平成26年)1月制憲議会が新憲法案を賛成多数で承認し、マルズーキ大統領のもと、立憲政治が行われている。エジプトでは、政変後選挙で選ばれたムルスィーを大統領とする政権が、2013年7月7月、軍部によるクーデタに覆された。リビアでは多数の武装勢力が対立し、政府が統治のできない内戦状態が続いている。そのため、多数の難民が発生し、欧州等に流入している。
 これまで北アフリカ・中東のイスラーム圏で、独自にデモクラシーを実現した国は、存在しない。アメリカが侵攻し強権的に民主化したイラクでも、デモクラシーが発展するかどうか、確かな結果は出ていない。トッドが指摘するように識字化の向上と出生率の低下に伴って、長期的にはイスラーム教諸国が民主化の方向に動きつつあると見ることはできるが、現状においては民主化に対する反発も強く、伝統的な心性を持つイスラーム教徒が抵抗したり、過激組織によるテロが横行したりして混乱が拡大している。それが高じれば、無秩序へと進む可能性もある。

 

●「アラブの春」で顕在化した傾向

 

 イスラーム文明において、「アラブの春」から顕在化した傾向が、私の見るところ四つある。民主化、ハイテク化、再イスラーム化、過激化である。

 第一に、民主化は、近代西洋文明が生んだ自由の理念、デモクラシー、人権の擁護、個人の尊重、女性の解放等を求めること、または実現することである。西洋化・近代化・世俗化は、一体となって進むことが多い。これに対して、近代西洋的な価値や制度を文化要素として摂取するか、それとも拒否するか。それは、これは、西洋文明の挑戦への応戦の仕方となる。なお、「アラブの春」の民衆運動は、自然発生的なものではなく、米欧による仕掛けがあった可能性がある。2000年代に、中東欧や中央アジアの旧共産圏諸国で起こった「カラー革命」では、CIAの工作があったことが指摘されている。仮にそうした仕掛けがあったとしても、大衆に民主化の要望がなければ、大きな運動にはならない。

 第二に、ハイテク化は、情報通信のテクノロジーの活用である。民主化を求める民衆運動に参加した若者たちは、ツイッターやユーチューブ、フェイスブックといったネットメディアを活用した。既成の情報通信手段では、民衆運動の中で、互いに連絡を取り合うことも、緊急の集会を呼びかけることも、刻々と変化する状況に関する情報の共有も容易でない。しかし、インターネットやSNS(ソーシャル・ネットワーク・システム)は、10数年前には不可能だった情報通信を可能にした。「アラブの春」は、こうしたテクノロジーの進歩が生み出した出来事だった。ハイテク化した若者の民衆運動は、瞬く間に世界に広がる伝播力を持ってもいる。テロリストもまたハイテクの道具を活用する。

 第三に、再イスラーム化は、西洋化・近代化・世俗化に反対するイスラーム教への回帰または伝統的宗教の復興である。イランではすでに1979年(昭和54年)に、その表れとしてイラン革命が起こった。イスラーム教には、西洋化・近代化・世俗化に抗して、原理主義的な運動が高揚し得るだけの宗教的な潜在力があるとみられる。「アラブの春」では、民主化要求をきっかけに民主的な選挙によって選ばれた指導者が政治権力を行使して、イスラーム教色の強い政策を実施し、それに民主化勢力が反発するという特徴的な展開がみられた。

 第四に、過激化は、再イスラーム化を極端に進めるものである。文明学的には、西欧化に対する国粋化を徹底し、さらに排外化に至る動きに比せられよう。イスラーム文明における過激化は、異教徒との戦いをジハード(聖戦)として正当化し、武装闘争やテロを行う。また、イスラーム教内部でも、スンナ派の正統派対過激派、シーア派対スンナ派の過激派、スンナ派対シーア派の過激派など、宗派的・信条的な対立が絡んで、複雑な構図を産み出している。

 

●非西洋文明の発展と世界の多極化または無秩序化

 

世界は、19世紀末より白人種による西洋文明の隆盛・支配の時代から、有色人種による非西洋文明の復興・発展の時代へと移行しつつある。

第1次・第2次世界大戦を通じて、西欧諸国は衰退に向かい、米国とソ連は最盛期へ進んだ。その一方、第2次大戦後、アジア・アフリカ諸民族が独立し、アジア諸文明は復興・発展へと動き出した。イスラーム文明はそのうちの一つである。まず1960年代に日本文明が成長し、1970年代には日本文明と関係の深い韓国、台湾、香港、シンガポールなど、NIES(新興工業経済地域)または四小龍と呼ばれる国々が急速に発展した。続いて、1980年代からインド文明、1990年代からシナ文明が順に発展の軌道に入った。

これら他のアジア諸文明に比べ、イスラーム文明は、アフリカ文明よりはましだが、ラテン・アメリカ文明には劣るという低迷状態にある。大衆の貧困、格差の大きさ、伝統的宗教の強固さ、独自の近代化の推進力の弱さ等がその原因である。イスラーム文明の最大の特徴は、世界宗教を中核に持っていることである。他のアジア諸文明における神道・儒教・ヒンドゥー教等が民族的または地域的であるのに対して、イスラーム教は民族や地域を越えた伝播力を持っている。それゆえ、イスラーム文明の復興・発展は、イスラーム教の復興やそれによる原理主義や過激思想の伝播という現象が随伴している。

米ソ冷戦の終結後、非西洋文明の復興・発展は加速している。そこには、西洋文明の中核国家でもある超大国アメリカの長期的衰退と世界戦略の変化が関係している。その事実は、イスラーム文明についても重要な意味を持っている。

ソ連の崩壊によって、世界は一時的にアメリカの一極支配体制となったが、間もなくアメリカは衰退の兆候を表すようになった。ハンチントンは1999年(平成11年)の時点で、世界は一つの超大国といつくかの大国からなる一極・多極体制となっていると説いた。21世紀に入ると、ハンチントンの予想通り、この体制は多極化の方向にさらに進みつつある。

2008年(平成20年)の選挙で大統領となったオバマは、外交・安全保障政策では、民主党の特徴である多国間協議を重視し、対話を優先する。これに関してオバマ大統領の最も重要な発言は、「米国は世界の警察官である意思はない」という発言である。米国は、今も超大国ではあるが、経済力・軍事力が相対的に低下してきている。もはや世界各地に米軍を派遣し、地球帝国の盟主のように振る舞うことはできなくなってきている。米国の力の衰えに対し、明らかに挑戦的な姿勢を示している国々が各地域で、勢力を伸ばしている。その代表的存在がシナ文明の中国であり、イスラーム文明ではイランが筆頭に挙げられる。また、従来のような国家という枠組みを超えた領域で、アメリカの覇権、西洋文明の優位に挑戦する勢力が、イスラーム文明の中から現れてきている。それが「アラブの春」の影響で始まったシリアの内戦を通じて台頭したISILである。ISILについては、次の項目に書くが、イスラーム教過激組織の活動が拡大・拡散すると、世界は多極化というより、むしろ無極化または無秩序化に進んでしまうおそれも出てきている。

 

●イスラーム文明を分裂させる過激組織ISIL

 ISILは、イラクのスンナ派過激派武装組織である。「イラク・レバントのイスラーム国」(Islamic State in Iraq and the Levant)の略称である。レバントとはシリア、レバノン等を中心にギリシャ、トルコ、エジプトを含む地域の名称である。
 ISILは、2014年(平成26年)6月以降、名称からイラクとレバントを除き、「イスラーム国」(Islamic State)を自称している。これを「イスラーム国」と呼ぶと一個の国家と認めているという誤解を生じ、またイスラーム教諸国一般との混同を招く。そこで、ISIL(アイシル)またはIS(アイエス)という呼び方が多く使われている。本稿では、ISILを使用する。
 イスラーム教過激派の元は、国際テロ組織アルカーイダである。その中から地域組織である「イラクのアルカーイダ」が生まれ、ISILとなった。この組織は、イラク戦争後に現れた反米武装集団を起源とし、宗派間の敵対意識を扇動して、マーリキー政権に対抗することで頭角を現した。2007年(平成19年)から翌年にかけての米軍の増派攻勢でいったんは活動が下火になったが、「アラブの春」の影響で内戦が起こったシリアで息を吹き返した。シリアの反アサド政権側には、各国からイスラーム教のジハード(聖戦)義勇兵が終結し、軍事訓練と実践で戦闘力を高めている。なかでもISILはシリアでの戦闘で勢力を増大した。そして、本国イラクでの戦闘を拡大していった。
 ISILは、残忍な行動で知られる。ISILは、クルド人の一部が信仰するヤズィード教という民族宗教の信徒を多数殺害している。イスラーム教の信者、同じスンナ派の信者さえ大量殺害している。また、奴隷制を復活し、キリスト教徒など非イスラーム教徒の女性や子供を拉致して奴隷としている。人身売買を行ったり、少女を含む女性を性奴隷化したりしている。これらを、すべてイスラーム教の教義に対する彼ら独特の解釈によって正当化している。
 こうしたISILは、イラクだけでなく、シリアにおける反アサド政権との闘争でも主導権を握ろうとしてアルカーイダから2014年(平成26年)2月に絶縁宣言を出された。

●カリフ制イスラーム教国家を宣言

 アルカ―イダから絶縁されたISILは、そのわずか4か月後の2014年(平成26年)6月中旬、イラクの北西部各地を制圧し、6月12日にイラク第2の都市モスルを制圧した。さらに首都バグダッドに向かって進撃し、イラク政府軍との戦闘を行った。政府軍は、かろうじて首都を防衛したものの、世界にISIL恐るべしという印象を与えた。
 6月29日、ISILは、指導者のアブー・バクル・アル=バグダーディーを、イスラーム教共同体の指導者「カリフ」として奉じるイスラーム教国家の樹立を宣言した。
 このカリフ僭称者が、初代カリフのアブー・バクルと同じ名であるのは、カリフとしての正統性を装うものだろう。本稿では、主にバグダーディーを使用する。
 ISILは、組織名から「イラク・レバント」を外して「イスラーム国」と名乗ると発表した。バグダーディーは、「カリフ・イーブラヒーム」と呼ばれている。
 スンナ派では、オスマン帝国解体後の1924年(大正13年)にカリフ制が廃止されて以降、カリフは「空位」の状態とされてきた。ところが、ISILは勝手にカリフの名称を使い、「カリフに忠誠を誓うのはイスラーム教徒の義務だ」として、全イスラーム教徒に「イスラーム国」拡大のためのジハード(聖戦)への参加を要求している。
 カリフはイスラーム文明では精神面でも政治・軍事面でも最高の指導者と位置づけられるから、バグダーディーのカリフ僭称は多くのイスラーム教徒の反発を買った。その一方、これを支持する者も増えている。各国からシリアに行ってISILの戦士となる者が続出し、中東諸国だけでなくインドネシア、マレーシア、オーストラリア等からも戦闘参加者がいると報道されている。

●ISIL急発展の事情

 ISILは、カリフ制イスラーム教国家を宣言してから、わずか数か月の間に急発展し、世界的に脅威を与える存在となった。
 東京大学先端科学技術研究センター准教授の池内恵氏によると、ISILはジハードの理念を掲げることで少数の強硬な信奉者を集め、その他の多数派のイスラーム教徒を威圧し黙認を得ている。本来のシャリーア(イスラーム法)におけるジハードとは、イスラーム教を受け入れない異教徒に対して行うものである。しかし、「近代のアラブ世界には、名目上はイスラーム教徒であっても実際には政治的・軍事的に欧米の異教徒と同盟を結んでいるアラブ世界の政治指導者をこそ、まずジハードの対象にすべきだとするジハード主義的な政治思想が根強くある」。その延長線上に発展したのが、「アラブ世界の不正な支配者・体制を支える欧米の中枢あるいは海外資産に攻撃を加えることを重要な作戦とするグローバル・ジハードの思想」だと池内氏はいう。
 グローバル・ジハードの思想に基づくグローバル・ジハード運動を推進しているのが、アルカーイダである。池内氏によると、2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件をきっかけに始まった米国の世界規模の対テロ戦争で、アルカーイダは追い詰められた。そこで、アルカーイダは組織を分散化・非集権化し、「各地で諸勢力・個人が、インターネット上で拡散されるイデオロギーに感化されて自発的に行動を行うネットワーク型の運動」へと組織・戦略を変えた。グローバル・ジハード運動の共鳴者たちは、ローンウルフ(一匹狼)のテロを扇動して存在感を維持しつつ、アラブ世界で政権が揺らいで「開放された戦線」が生じてくれば、そこに世界各地からジハード戦士を集結させ、大規模に組織化・武装化するという展開を待ち望んでいた。
 「アラブの春」により、「シリアやイエメンやリビアなどで中央政府が揺らぎ、周縁地域に統治されない領域が広がってグローバル・ジハード運動が活動の機会を得た」と池内氏は言う。ここで、アルカーイダ系組織は内戦を機にシリアで拠点を確保し、それを背景にイラクでの勢力拡大につなげた。池内氏は、「イラクやシリアで周縁領域を実効支配する土着の政治勢力としての実態とともに、その掲げる理念や組織論により、世界規模でのジハードへの共鳴者を引きつけている」と言う。ここで台頭したのが、アルカーイダから派生したISILである。
 イラクでフセイン政権が崩壊すると、フセイン派の残党はシリア等に逃れた。ISILは、フセイン政権で行政・司法等を担っていた者を誘って、組織力を強めて急成長した。スンナ派同士という宗派的基盤を持つ。
 ISILは、新自由主義・市場原理主義によって格差が拡大していることに不満を持つアラブ諸国や欧米・アジア等の若者を引き付けている。2015年(平成27年)の始めの時点では約2万人の戦闘員が各国から集結しているとみられた。ISILは、戦闘によって支配地域を拡大し、原油関連施設を奪取し、シリア、トルコ、イラン等への密売ルートを通じて原油を売って豊富な資金を獲得している。人質の身代金や寄付・寄進等もあり、管理する資金は20億ドルにも上ると推定された。ISILと戦うイラク政府軍は上層部が腐敗し、兵士は士気が低く、敗走を続けた。ISILは、イラク軍が残した武器を手に入れ、戦闘力を拡大してきた。地対空スティンガー・ミサイル、中国製対戦車ミサイル、ロシア製戦車、ミグ型戦闘機約100機等を保有するとみられる。
 このようにISILは、フセイン派残党の加入による組織力の強化、各国からの戦闘員の増加、原油の密売等による資金の獲得、イラク軍からの武器の奪取等によって、わずかの期間のうちに急発展したと考えられる。
 米国のテロ情報分析会社インテルセンターの調査では、ISILにつながる過激派のネットワークは、2015年(平成27年)の始めの時点で少なくとも15カ国29組織に達しており、ISILに呼応したテロの危険性が高まっていると警告した。ISIL系の過激派組織は、中東・北アフリカ各地のほか、南アジアのインドやパキスタン、アフガニスタン、東南アジアのフィリピンやインドネシアにも存在する。
 ISILは、欧米が中東・アフリカ等に作った国家を否定する。近代西洋的な国家の概念を認めないだけでなく、サウディアラビアなどの伝統的な君主制国家の合法性も認めない。今日の国際社会における国境を否定し、自分たちに従属する者が活動する土地を、自称「イスラーム国」の「領土」と宣言する。そして、各国における傘下組織の存在を理由に、過激派武装組織が支配する地域を「イスラーム国」の「州」と勝手に主張する。
 東京大学名誉教授の山内昌之氏は、ISILの出現こそ「冷戦後の前提だった大国間の平和や国際秩序の枠組みを解体しかねない緊張を増大させ、『ポスト・冷戦期の終わり』を画する異次元の危機をもたらす」と述べている。
 元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏は、かつてコミンテルンが全世界で共産主義革命を起こそうとしたように、ISILは「それぞれの国内でテロを起こさせ、世界イスラーム革命を起こすことが彼らの目的となっている」と述べている。こうしたISILは、イスラーム文明が生みだし、その文明を分裂させるだけでなく、さらに人類全体を果てしない対立・抗争の道にひきずり込む、底なしの砂地獄のような存在となっている。

 

●クルド人がISILに対抗

 2014年(平成26年)6月中旬、イラクではISILが進撃するだけでなく、その混乱に乗じて、イラク北部のクルド自治政府(KRG)が、近隣の油田都市キルクークを掌握し、勢力圏を広げた。またISILの「イスラーム国」樹立宣言を受けて、KRGはイラクからの独立を目指す住民投票を行うと発表した。
 ISILのカリフ制国家樹立宣言、クルド自治政府の独立に向けた住民投票の実施発表によって、イラクの統治体制は大きく揺らぎ出した。宗派間・民族間の内戦が拡大し、イラクが3つに分裂しかねない状況が生まれている。
 イラク情勢が複雑なのは、シーア派とスンナ派の対立、各宗派内の対立だけでなく、アラブ人とクルド人の対立があることである。イラクは、宗派的にはシーア派が約60%、スンナ派が約35%といわれるが、民族的にはアラブ人が80%に対し、クルド人が約15%を占める。アラブ人のシーア派が南部、同じくスンナ派が西部に、クルド人が北部に分布する。
 クルド人はイラク北部の他、トルコ南東部、イラン西部、シリア北部にまたがる地域に居住する民族である。ヨーロッパに名をとどろかせたサラディンを民族の英雄に持つ。宗教は大半がイスラーム教スンナ派だが、一部はシーア派に属している。イスラーム文明におけるイスラーム教徒間の最大の民族問題が、クルド問題である。
 第1次世界大戦後、中東では英仏等により、新たな国境線が引かれた。そのため、クルド人が住む地域は分断された。それぞれの国では少数派だが、民族全体では2000万人以上いるとされ、「国家を持たない世界最大の民族」といわれている。クルド人は、連携しながら各国で自治や分離・独立を求める運動をしている。イラクでは、北部3県で自治政府を構成し、自治権を行使している。
 クルド人は、フセイン政権時代には、虐殺や差別の対象とされた。今は、ISILと敵対関係にある。シーア派主導のマリーキー政権、その後継のアバディー政権と同じく、クルド人にとって、ISILは共通の敵となっている。
 もしイラクの中央政府側が巻き返してISIL側が後退した場合、クルド自治政府と中央政府またはスンナ派の諸勢力との緊張が高まる可能性がある。また、仮にクルド自治区がイラクからの独立を宣言すれば、トルコ、イラン、シリア各国に住むクルド人が編入を求める動きを活発化するだろう。

●アメリカがISILに限定的空爆を開始

 イラクでISILが台頭し、クルド人の活動も活発化するという状況において、オバマ米大統領は、2014年(平成26年)8月有志連合を形成し、ISILが自称する「イスラーム国」に対する限定的な空爆を開始した。
 オバマ大統領は、その4年前の2010年(平成22年)8月にイラクでの「戦闘終結宣言」を出し、軍の撤退を始め、2011年12月に完全撤収し、同月14日大統領はイラク戦争の終結を正式に宣言していた。
 この撤退の背景には、米国が経済的にも軍事的にも、中東に本格的に介入する力がなくなってきていることがある。米国は2008年(平成20年)のリーマン・ショック後、それまでの財政悪化が一層進み、海外で大規模な軍事作戦を展開する力を失いつつある。オバマ大統領が「世界の警察官」を辞めると表明したことは、このことを象徴的に示している。
 米軍のイラク撤退後、イラクでイラク人自身の手で民主化が進み、中東が安定するようになるかどうかについては、当初から否定的な予想が多かった。フセイン独裁政権を倒した米国には、その後、米国の指導で築いた政権を支え、イラクの民主化と安定化を実現する責務がある。だが、それはうまくいっていない。
 アメリカが去った後、イラクの内政は安定せず、マリーキー政権への反発が強まり、治安は再び悪化し、小規模な戦闘が続くことになった。オバマ政権は、イラクの政権が自らの手で民主化を進め、社会的な統合を行えるようにするという構想の実現に失敗した。
 2014年(平成26年)8月、失政で支持を失ったマリーキー政権が退陣し、アバディー政権に替わった。これもシーア派の政権である。この政権が内戦を終息し得るかどうか、国際社会の期待は高まらなかった。逆にイラクの内戦が深刻化し、大規模な中東紛争に拡大する可能性が懸念される状況だった。
 アメリカは再びイラクに軍事的に関与せざるを得なくなった。それが同年8月に開始されたISILへの限定的空爆である。空爆にはサウディアラビア、ヨルダン、アラブ首長国連邦等の中東諸国も加わった。重要なのは、アメリカ単独ではなく、サウディをはじめとするイスラーム教諸国、しかもイラクのシーア派政権とは宗派の異なるスンナ派の諸国が参加したことである。だが、地上軍を投入しない限定的空爆で、どの程度の効果が上がるかは疑問視された。

●イランとイラク及びISILの関係

 イラク戦争でフセイン政権が崩壊した後、多数派を占めるシーア派が政治の主導権を握ったことで、イラクではイランが影響力を増した。米国はフセインを叩いたことで、より強大なイランを勢いづけたことになる。
 イランは中東最大の地域大国である。独自に核開発を進めており、米国の盟友イスラエルとは、敵対関係にある。だが、米国としては、イラク国内ではイランと立場を同じくしなければならない。その一方、シリア国内では反イランの行動を取らなければならないという複雑な立場にある。
 イランは、同じシーア派であるイラクのアバディー政権と緊密な協力関係にある。また、シリアのシーア派系アサド政権やレバノンのシーア派組織ヒズブッラとは同盟関係にある。「シーア派三日月地帯」と呼ばれるその影響範囲で、イラクは枢要部をなす。
 シーア派を「信仰上の敵」として、イラクやシリアでジハード(聖戦)を展開するISILは、イランにとって自らの勢力圏を脅かす存在となっている。イランは、ISILの攻勢でシ−ア派政権が揺らぐことを何としても阻止しようとしており、イラクへの関与増大を図っている。だが、その動きは、サウディアラビアなどスンナ派湾岸諸国から強い反発を受けることが確実であり、事態をさらに複雑化させることになる。

 

●ISILが各国で連続テロ

 2014年(平成26年)8月以来、米国を中心とする有志連合によるISILへの空爆は、2015年初頭の時点で、2000回以上に及び、打ち込まれたミサイルは7000発以上に上った。ISILは拠点を攻撃され、戦闘員が数千名死亡し、戦闘員の士気が低下したり、残虐な行為に疑問を感じて離反する者が出たりしているとみられた。空爆で原油関連施設が破壊されていることにより、資金源である原油の輸出量が減少した。石油市場での原油の値下がりも、資金獲得にマイナスになった。追い込まれたISILは、外国人を人質にとって脅迫したり、有志連合の結束を乱そうと揺さぶりをかけたりする新たな行動を起こした。
 2015年(平成27年)1月から2月にかけてISIL及びそれに繋がりがある者によるテロ事件が世界を震撼させた。1月7日のフランス風刺週刊紙襲撃事件、1月20日の日本人人質斬首事件、その後明らかになったヨルダン軍中尉焼殺事件である。

●フランス風刺週刊紙襲撃事件

 2015年(平成27年)1月7日フランスの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」のパリ市内の本社が銃撃され、同紙の編集者や風刺画家を含む12人が死亡、20人が負傷した。
 「シャルリー・エブド」は、たびたびイスラーム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載し、イスラーム教徒の反感をかっていた。事件当日発売された最新号は、イスラーム教の聖戦を風刺する漫画と記事を掲載していた。また襲撃を受ける直前には、ISILの指導者バグダーディーを風刺する漫画をツイッターに掲載していた。
 犯人らはフランス生まれのイスラーム教徒で、アルカーイダ系武装組織が事件に関与しているとともに、犯人らはISILへの忠誠を表明してもいた。
 フランスは、米国を中心とする有志連合の一員としてISILへの空爆に参加している国の一つである。それがイスラーム教過激派の襲撃を受ける理由の一つである。
 風刺週刊紙銃撃事件によって、宗教への批判を含む表現の自由を重んじる欧米諸国の価値観と、神や預言者のあらゆるものへの優先性を認めるイスラーム教の価値観の対立が、改めて鮮明になった。事件によって、テロの連鎖的な発生、報復に継ぐ報復、キリスト教とイスラーム教との文化的摩擦等の増大、EU諸国における移民政策の見直し等が起こった。

●日本人人質斬首事件

 続いて、2015年(平成27年)1月20日、ISILのグループが日本人2人の殺害を警告するビデオ声明を発表した。人質の身代金として、3日間の期限で日本国政府に2億ドルを要求した。わが国政府は、人質の解放を目指して努力したが、ISILは湯川遥菜氏、次いで後藤健二氏を斬首して殺害した。残念な結果となったが、日本国政府はテロに屈しない姿勢を貫いた。身代金の要求を拒否し、友好諸国の協力を得ながら人質解放のために可能な限りの努力をしたと評価できる。
 2月1日に公開した映像で、ISILは、日本国民へのテロ攻撃宣言を行った。この宣言は、極めて独善的かつ激しく狂信的なものだった。破壊衝動、殺戮願望に取り憑かれた異常な集団心理の表現と思われる。わが国は、仏教やヒンドゥー教の教えと全くかけ離れた思想でテロを正当化したオウム真理教の事件を経験している。宗教的な文言によって破壊・殺戮を説く指導者と、それに同調して集合し、サリンを撒くなどして無差別大量殺人を行う者たち。私はISILにオウム真理教と同じ異常心理を感じる。人間の心の中に潜む悪魔性が活動しているとも言える。

●ヨルダン軍中尉焼殺事件

 わが国は、先の日本人人質事件の際、ヨルダンに協力を求めたが、そのヨルダン軍のパイロット、カサスベ中尉が生きたまま火を付けられて殺害された映像が、2015年(平成27年)2月3日に公開された。
 ヨルダンは、米国を中心とするISILへの空爆に参加し、ISILの殲滅を図っている。その空爆に参加したカサスベ中尉は、ISILの人質にされていた。ISILは、中尉とテロリストの交換を求めていたが、中尉は既に約1か月前の1月3日に殺害されていたことが判明した。
 中尉の殺害は、欧米や日本等の異教徒ではなく、敬虔なムスリムを処刑するものだった。ISILの戦いは米欧の西洋文明に対する戦いとして、アラブ諸国をはじめ世界各国のイスラーム教徒の一部に共感を呼んできた。だが、カサスベ中尉の焼殺は、多くのイスラーム教徒の反感を買った。生きたまま焼殺するという方法は、アッラー以外に火あぶりの刑を認めないイスラーム法に反する。
 ヨルダン政府は、ISILへの報復を行うことを発表し、ヨルダン空軍は、2月5日から3日間集中的に空爆を行い、「復讐」を実行した。アブドゥッラー国王が自ら空爆に参加した。国王はヨルダン軍の特殊部隊のコマンダーの経験もあり、また攻撃ヘリのパイロットでもある。
 ヨルダンでは、「アラブの春」の影響でムスリム同胞団による反王制デモが起こり、その後もデモが頻発している。ISILへの断固たる処置は、国内の統治のためにも必要とみられた。
 ヨルダンは、イスラエル、パレスチナ暫定自治区、サウディアラビア、イラク、シリアと隣接しており、中東の心臓部ともいえる地政学的位置にある。中東の国ではあるが、石油は少量しか産出していない。経済は、リン鉱石やカリ鉱石の輸出、海外からの送金等に多くを負っており、米国・日本・EU等の財政支援なしには、国力を維持できない。最大の援助国である米国の意向を無視することはできない。空爆への参加には、そうした事情もあるだろう。
 ヨルダンは、ハーシム家の王制国家だが、人口の7割近くを王家と関係のないパレスチナ人が占めている。さらに、この人口約630万人の小国に、近年イラクから約40万人、シリアから約70万人、合わせて100万人を超える難民が流入している。政権は民主化を求めるパレスチナ人の宥和を図りながら、統治の安定を目指している。それに失敗すれば、王制が揺らぐ可能性がある。
 ISILは内政不安定な国を狙って戦略的にテロを行っている。ヨルダンは、そのような国の一つあり、テロの標的にされかねない。もしISILの攻撃で穏健親米国のヨルダンが崩れれば、ISILは、次にヨルダンの西側に位置し、長い国境で接するイスラエルに攻撃を仕掛けるおそれがある。

 

●チュニジア国立博物館襲撃事件

 2015年(平成27年)3月19日北アフリカの地中海岸にあるチュニジアの首都チュニスで、武装したイスラーム教過激派集団が国立バルドー博物館を訪れた外国人観光客を襲撃し、観光客21人が死亡した。うち日本人は3人が犠牲になり、他に3人が負傷した。
 ISILは事件当日、インターネット上で音声による犯行声明を公表した。声明は、「十字軍と背教者どもを多数殺傷した」とテロの成果を誇示し、新たなテロを予告した。
 テロを実行したのは、ISILにつながる「アンサール・シャリーア」とみられる。チュニジアではジャスミン革命後、独裁政権時代には厳しく監視されていた過激なイスラーム教勢力が活動の自由を得て、武装組織を結成し、国内外の組織と連携を深めてきた。その中心的存在が、「アンサール・シャリーア」である。厳格なイスラーム法解釈による原理主義的な統治を目指す過激組織で、組織名は「イスラーム法の支援者」を意味する。チュニジアやリビア、イエメン等に同名を称する組織があり、ISILやアルカーイダに忠誠を誓うグループもあるという。
 イスラーム教過激派は、西欧発の現代国家を非イスラーム教的なものであり、破壊対象とする。イスラーム教過激派の論理では、非イスラーム教的な政府を支える外国人観光客を殺害することは、ジハード(聖戦)として正当化される。国立博物館を訪れた多数の国々からの外国人観光客を無差別に射殺すれば、世界各国に事件が報道され、過激組織が注目を浴びる。それによって、過激派内での評価や地位を高めたり、戦士や資金を多く集められたりするという効果をもたらす。こうした狙いをもって、襲撃事件は行われたと考えられる。
 チュニジアからは約3000人がシリアに渡り、そのうちの多数がISILに参加している。500人ほどがすでに帰国したとされる。東側に隣接するリビアが内戦状態にあることなどから、戦士や武器の流入を防ぐことは難しい。
 外国人観光客襲撃事件は、欧米諸国に衝撃を与えた。米国にとって、「アラブの春」による民主化が唯一成功しているチュニジアが不安定化することは、中東・アフリカ政策に大きな痛手となる。
 欧州ではこの年、1月のフランス風刺紙襲撃事件後、同月に再びフランスで、また2月にデンマークで連続テロが起きており、欧州連合(EU)域内の対策強化に努めていた。チュニスでの襲撃事件では、域外で多くのEU出身者が犠牲となった。EUは、中東などの戦闘に参加した欧州出身の若者が帰国後にテロを起こすことへの警戒を高め、これへの対処のため、中東や北アフリカ諸国との協力を強化する方針を決めた。だが、地中海の対岸にある北アフリカが不安定化すると、その波は地中海からアルプスを越えて、ヨーロッパを深く浸食するおそれがある。
 特にリビアでは、2014年(平成26年)以降、イスラーム教勢力を中心とする軍閥とこれに対抗する勢力との戦闘が激化し、多数の難民が発生し、欧州等へ流入している。地中海を粗末な船で渡ろうとして、沈没・水死する者も多数出ている。内戦状態で政府が機能しておらず、多くの武装組織の武器調達ルートとなっている。また、リビアでもISIL系過激組織が勢力を拡大している。ISILは、世界中のジハード戦士たちにリビアに集まるように呼びかけている。リビアには石油資源があり、ここを活動の拠点とすることを狙っている。ISILは、既にリビアの首都トリポリからスィルトを含む広範なエリアを「タラーブルス州」と勝手に宣言している。今後、混乱が続けば、リビアが欧米に対するテロの拠点となり、地中海を渡る難民に過激派が紛れ込んで欧州に侵入するおそれもある。
 また、ISILは、リビアで勢力を伸ばす一方、リビアに影響力を振るい得るエジプトをも標的にしている。同時にシナイ半島でのテロを活発化させており、東西の両側からエジプトのシーシー政権を揺さぶっているとみられる。

 

●パリ同時多発テロ事件

 2015年(平成27年)11月13日パリで同時多発テロ事件が起こった。130人が死亡し、約350名が負傷した。フランスでは第2次世界大戦後、最悪のテロ事件となった。何よりISILへの空爆に参加している主要国の首都で大規模なテロが起こったことが、世界に衝撃を与えた。
 ISILが犯行声明を出した。ISILの壊滅をめざし、国際社会は連携して対応を行っている。本件については、拙稿「パリ同時多発テロ事件と国際社会の対応」に詳細を書いた。
 実行犯は少なくとも10人に上るとみられる。彼らは、コンサートホールやカフェで自動小銃を乱射し、一般市民を無差別に殺戮した。その犯人たちは自爆死した。サッカー競技場でも爆弾を爆破したテロ犯も、自爆死した。
 テロリストたちは、最大限の被害をもたらすため、同一の爆発物を身に着けていた。自動小銃の扱いに慣れているようにみえ、身のこなしも軽かったと伝えられる。計算し尽くした作戦とみられる。
 主犯格は、ベルギー国籍のアブデルハミド・アバウドというモロッコ系のベルギー人で、2014年(平成26年)に内戦中のシリアに渡航し、ISILに参加した。フランス警察が、犯行グループの潜伏先の拠点を急襲して銃撃戦を行った際、アバウドは死亡した。
 犯人のうち少なくとも2名は、シリアのパスポートで難民の波に紛れてヨーロッパに渡っていたことがわかった。そのことによって、フランスやEUで移民政策の見直しが活発に議論されるようになった。
 パリ同時多発テロ事件後、フランスは速やかに非常事態宣言を発令し、国内の警備を強化した。ISILのテロリストは、劇場やカフェなど文化的・思想的に象徴的な場所で大量殺戮を企てただけではない。フランス経済の心臓部であるパリ西郊のデファンス地区への攻撃も画策していた。この地区は、フランスの石油や電力、保険、銀行など、同国を牽引する大手企業が本社を置く経済の中心地である。こうした計画は、イスラーム教過激派のテロは、無差別殺戮で人々を恐怖に陥れるだけでなく、国家の経済的中心部を破壊しようとしていることを意味する。このことにより、ISILによるテロは、テロというより戦争というべき水準、テロリストというより都市ゲリラというべき水準に来ていると考えられる。

●フランスにおけるイスラーム関係の事情

 拙稿「家族・国家・人口と人類の将来〜エマニュエル・トッド」に詳しく書いたが、家族人類学は、人類の家族型には八つの型があり、ヨーロッパには平等主義核家族、絶対核家族、直系家族、外婚制共同体家族の四つがあることを明らかにしている。
 トッドによると、これらの家族型には、主に相続の仕方に違いがある。親が慣習に従って長子相続等を行うか、自由意志で子のうちから相続者を指名するか、兄弟間で特定の者が相続するか、平等に相続するか。こうした相続の仕方の違いが、価値の違いを生む。平等核家族は自由と平等、絶対核家族は自由と不平等、直系家族は権威と不平等、共同体家族は権威と平等を価値観とする。また、遺産相続における兄弟間の平等・不平等から、普遍主義と差異主義という二つの態度が生まれる。兄弟間の平等から諸国民や万人の平等を信じる傾向を普遍主義という。兄弟間の不平等から諸国民や人間の間の差異を信じる傾向を差異主義という。前者は、世界中の人間はみな本質的に同じという考え方であり、後者は、人間は互いに本質的に異なるという考え方である。
 フランスには、平等主義核家族と直系家族という二つの家族型がある。これら二つの家族型には、共通点がある。ひとつは、女性の地位が高いことである。フランスの伝統的な家族制度は、父方の親族と母方の親族の同等性の原則に立っており、双系的である。双系制では、父系制より女性の地位が高い。もう一つの共通点は、通婚制度が外婚制であることである。フランス人は普遍主義的だが、移民を受け入れるのは、双系ないし女性の地位がある程度高いことと、外婚制という二つの条件を満たす場合である。この最低限の条件を満たさない集団に対して、フランス人は「人間ではない」という見方をする。第2次世界大戦後、フランスに流入した移民の中で最大の集団をなすマグレブ人は、この条件を満たさない。マグレブ人とは、北アフリカ出身のアラブ系諸民族である。アルジェリア人、チュニジア人、モロッコ人の総称である。宗教は、イスラーム教徒が多い。マグレブ人の社会は共同体家族の社会である。女性の地位が低く、また族内婚である。フランス人が要求する最低条件の正反対である。そのため、フランス人は、マグレブ人を集団としては受け入れない。
 マグレブ人は共同体家族ゆえ、権威と平等を価値とする。フランスは、主に平等主義核家族ゆえ、自由と平等を価値とする。ともに平等を価値とするから、普遍主義である。世界中の人間はみな本質的に同じだと考える。フランス人が人間の普遍性を信じるように、マグレブ人も人間の普遍性を信じる。ただし、彼らが持つ普遍的人間の観念は、正反対のタイプの人間像なのである。フランス人もマグレブ人も、それぞれの普遍主義によって、諸国民や万人を平等とみなす。しかし、自分たちの人間の観念を超えた者に出会うと、「これは人間ではない」と判断する。双方が自分たちの普遍的人間の基準を大幅にはみ出す者を「非人間」とする。ここに二種類の普遍主義の「暗い面」が発動されることになった、とトッドはいう。
 第2次世界大戦後、フランスの植民地アルジェリアで独立戦争が起こった。戦争は、1954年(昭和29年)から62年(昭和37年)まで8年続いた。アルジェリア人の死者は100万人に達した。その悲劇は、正反対の普遍主義がぶつかり合い、互いに相手を非人間扱いし合ったために起こった、とトッドは指摘する。
ただし、フランス人には、集団は拒否しても、その集団に属する個人は容易に受け入れる傾向がある。実際、マグレブ人は婚姻によって、個人のレベルではフランス人との融合が進んでいる。
 今日、フランスは、欧州諸国の中でもイスラーム教徒の絶対数が多いことで知られる。比率も、人口の8%ほどを占める。トッドは、フランスは普遍主義に基づく同化政策を取るべきことを主張しているが、私は、どこの国でも移民の数があまり多くなると、移民政策が機能しなくなって移民問題は深刻化すると考える。その境界値は人口の8〜10%と考える。フランスの人口比率は、その境界値に入っている。

 

●フランスのISILへの対応

 戦後、フランス政府は、移民として流入するマグレブ人イスラーム教徒に対して、フランス社会への統合を重視してきた。だが、彼らの中には、差別や就職難などで不満を持つ者たちがいる。そうした者たちの中から、ISILなどが流し続ける「自国内でのテロ」の呼び掛けに触発される者が出てきている。こうした「ホームグロウン(自国育ち)」と呼ばれるテロリストの増加が、パリ同時多発テロ事件によって浮かび上がった。
 フランスでは、移民の多くが今日、貧困にさらされている。失業者が多く、若者は50%以上が失業している。イスラーム教徒には差別があると指摘される。宗教が違い、文化が違い、文明が違う。そのうえ、イスラーム教過激派のテロが善良なイスラーム教徒まで警戒させることになっている。
 貧困の中で生活し、失業と不安にさらされている若者たちに、ISILが近づき、イスラーム教過激思想を吹き込む。シリアへと勧誘する。また、自国でのテロを呼びかける。ある者は、シリアに行って軍事訓練を受け、戦闘にも参加する。ある者は自国でテロを起こす。若者たちの不満は貧困層だけでなく、インテリ層にも広がっている。
 フランスやベルギー等の社会である程度、西洋文明を受容し、ヨーロッパの若者文化に浸っていた若者が、ある時、イスラーム教の過激思想に共鳴し、周囲も気づかぬうちに過激な行動を起こす。貧困や失業、差別の中で西洋文明やヨーロッパ社会に疑問や不満を抱く者が、イスラーム教の教えに触れ、そこに答えを見出し、一気に自爆テロへと極端化する。
 こうした文明の違い、価値観の違いからヨーロッパでイスラーム教過激思想によるテロリストが次々に生まれてくる。これを防ぐには、貧困や失業、差別という経済的・社会的な問題を解決していかなければならない。これは根本的で、また長期的な課題である。
 同時多発テロ事件後、フランスが移民政策の見直しをするかどうかが、注目されている。フランス人権宣言による個人を中心とした自由・人権等を価値とする普遍主義的な価値観を信奉する限り、移民の受け入れはその価値を堅持するものとなる。移動の自由の保障も同様である。だが、この価値観とは異なる主張もフランスにはある。
 2015年(平成27年)12月にフランス全土で実施された地域圏議会選挙で、極右政党といわれる国民戦線(FN)は、年間20万人の移民受け入れを1万に減らす、犯罪者は強制送還する、フランス人をすべてに優先、社会保障の充実等を訴え、支持率を伸ばした。多くの地域圏で勝利確実とみられるなか、危機感を持った右派・共和党と左派・社会党が共闘して、FNの躍進を阻んだ結果、FNは全選挙区で敗北した。だが、マリーヌ・ルペン党首は次期大統領選挙の有力候補であり、大多数の世論調査において第1回投票で最多票を獲得することが確実視されている。FNが大統領選挙及び今後の国政選挙の台風の目となることは確実とみられる。
 フランスは、同時多発テロ事件後、すみやかにISILに反撃を開始し、米露等と国際的な連携の拡大を進めた。オランド大統領は、事件をISILによる「戦争行為」だと非難した。事件の2日後の11月15日、フランス空軍は、ISILの拠点であるシリア北部ラッカを激しく空爆し、テロに屈しない断固たる姿勢を行動で示した。
 オランド大統領がISIL掃討作戦で米露との協力態勢を強化すると表明すると、オバマ米大統領は直ちに「フランスとともにテロや過激主義に立ち向かう」と表明した。安倍晋三首相は、テロの未然防止に向けて国際社会と緊密に連携する決意を示した。英国のキャメロン首相もシリア空爆に参加する意向を示した。またロシアのプーチン大統領は、テロリストへの対抗に関してフランスとの連携を発表した。
 とりわけオランド大統領がISILに対する攻撃で、ロシアとの協力に乗り出したことが注目された。フランスは、アサド政権との対決を後回しにして、まずISILを殲滅するためにロシアとの協力を選択した。フランスは、ロシアとの連携を得るや原子力空母シャルル・ドゴールを派遣して艦載機による激しい攻撃を浴びせた。ISILの二大拠点である北部のモスルとラッカ、戦略的要衝の中部ラマディ等への空爆を実施し、ISILの司令施設や整備施設を破壊した。
 パリ同時多発テロ事件は、フランスでの出来事であるだけでなく、欧州の中心部で起こった事件でもある。2014年(平成26年)から欧州では、中東や北アフリカから流入する移民や難民が急増している。その49%がシリアから、12%がアフガニスタンから、その他の多くがリビア等のアフリカ諸国からといわれる。それぞれ内戦と政情不安が原因である。こうした移民・難民に紛れてイスラーム教過激派のメンバーが欧州諸国に潜入している。パリ同時多発テロ事件で、そのことが浮かび上がった。事件が起こったのはパリだが、テロリストはベルギーやオランダ等にネットワークを広げていた。
 EUの場合、域内での「移動の自由」が保障されている。テロリストは、EUの域内に入ってしまえば、各国の国境を越えて自由に移動できる。地球上でこれほどテロリストが行動しやすい地域はない。こうしたEUの「移動の自由」が、パリ同時多発テロ事件のテロを許した背景にある。
 パリ同時多発テロ事件後、「移動の自由」を定めたシェンゲン協定の定期用を停止して、国境の検問等を再開した国は、8カ国に上る。中東や北アフリカからの難民・移民の受け入れに最も積極的なドイツも、国境検問を行っている。
 EU諸国には、フランスの国民戦線と同様に、移民政策の見直しを主張する政党が存在する。そうした政党への支持が増加傾向にある。EUは、国民国家(nation-state)の論理を否定する広域共同体の思想に基づく。だが、異文明からの移民を抱えて社会問題が深刻化し、さらに国境の機能を低めたことでテロリストの活動を許していることによって、広域共同体の思想そのものが根本から問い直されつつある。

 

●大規模テロに転じたISILの事情

 ISILは、2014年(平成26年)6月にカリフ制国家樹立を宣言し、支配領域の拡大を図った。当時、その基本戦略は、シーア派が主導するイラク政府や、イランを後ろ盾とするシリアのアサド政権といった地理的に近い敵を主な攻撃対象として宗派対立を煽り、域内外から戦闘員を吸収して支配地域を拡大させることにあったと考えられる。
 この段階では、欧米への攻撃は、ISILの過激思想に共鳴した個人や少数グループが敢行するローンウルフ(一匹狼)型や、各地の傘下勢力によるものが主体だった。欧米への直接攻撃は、ISILの最優先事項とまではいえなかった。
 だが、パリ同時多発テロ事件は、標的の選定や犯行の手際の良さ、ISILの組織がフランスや隣国のベルギーに浸透していた点などから、これまでとは一線を画している。このことから、ISILは大規模テロの実行へ方針を転換したと推測される。
 どうしてこのような方針の転換が起こったのか。まず欧米主導の有志連合による軍事作戦によって、ISILはシリアやイラクでの支配地域の拡大が行き詰まっており、支配地域外でも活動を本格化させる方針に転換したのだという見方がある。また、パリで同時多発テロを行ったのは、有志連合の空爆で追いつめられたISILが、フランスを有志連合から脱落させようとして決行したという見方もある。
 確かに空爆は、一定の効果を上げているとみられる。空爆でISILのナンバー2や著名なテロリストであるジハーディ・ジョン、また多数の戦闘員が死んでいる。相当の打撃になっているはずである。だが、それでも次々に戦闘員の補充がされるのが、ISILの特徴である。世界各国から支持者・賛同者が集まってくるからである。2014年(平成26年)前半に約1万5千人とされたISILの外国人戦闘員は、2015年初めには2万人に増え、同年末では3万人に上ると推計された。また、ISILの資金源は、人質の身代金、アラブの富豪等の寄付、石油の販売等だが、空爆は、こうした資金源を断つには至っていない。
 過去に空爆によって雌雄を決した戦争はない。地上戦で相手を殲滅することなくして、決着をつけることはできない。ISILに対しても、これを制圧するには、最後は大規模な陸上部隊を派遣し火力で圧倒するしかない。大規模地上戦は、大量の犠牲者が出るから、欧米はこれを避けようとする。実際、有志連合は地上戦には参加していない。周辺のアラブ諸国も、ISILへの対応のために地上軍を送っている国は一つもない。
 当事者であるイラクとシリアは、中央政府の統治能力が低く、正規軍が事実上ないに等しいほどに、地上部隊が弱い。その中で最も戦果を挙げているのは、クルド人の部隊である。ISILの壊滅のためには、こうした有志連合による空爆と地上戦が相乗効果を上げることが期待される。しかし、仮にこれらが効果を上げても、ISILが普通の国家のように敗北を認め、講和に応じるとは思われない。国家ならざる過激組織だからである。ここにテロリスト集団との戦いの難しさがある。戦争における国家の論理が通用しないのである。

●テロの「拡大」と「拡散」

 2015年(平成27年)11月パリ同時多発テロ事件の発生の直後、池内恵氏は、次のように述べた。「テロをめぐって今、『拡大』と『拡散』が起きている。中東では政治的な無秩序状態がいくつも生じ、『イスラム国』をはじめ、ジハード(聖戦)勢力が領域支配を拡大している。そして、そこを拠点にして世界に発信されるイデオロギーに感化され、テロを起こす人々が拡散していくメカニズムができてしまった」と。
 ここで拡大というのは、「地理的、面的な拡大」である。イラクやシリアのように、中央政府が弱くなって、ある地方を中央政府が統治できなくなっている所では、面的な領地支配をして、そこに大規模な組織を作って武装し、公然と活動する。
 しかし、そのような活動ができないエリアでは、小規模な組織が勝手に社会の中から出てくることを刺激する。それによって、テロを自発的に行わせるという形で、テロを拡散させる、と池内氏は説明する。
 グローバルなジハードを掲げる勢力は、支配地域の「拡大」とテロ活動の「拡散」という2つのメカニズムで広がっている。拡大と拡散は、別々の動きではない。「拡大がうまくいかない時、軍事的に不利になれば、拡散に向かう。拡散しながら社会を撹乱し体制の動揺を待って、また地理的・領域的な拡大を目指す」と池内氏は述べている。
 世界的には、2000年代以降、活発さを増すグローバル化は、ヒト、モノ、カネ、情報の流れを加速させているが、その動きはテロ組織をも利している。グローバリゼイションの進行の中で、グローバル・ジハード運動が展開されている。世界各国で起こったテロの件数、それによる死者数は増加の一方であり、過去最悪となっている。この傾向に歯止めがかからない状態であり、ホームグロウン(自国育ち)のテロリストを含め、イスラーム教過激思想と過激派ネットワークの拡散、テロのリスクが増大している。
 世界には、ISILを支持・連携している組織が、2016年1月現在で、17か国35組織あるとされる。これらは、決して大規模な国際組織ではなく、各地の小規模な組織の緩やかな連合体とみられる。地域的な過激組織がISILを支持するとか連携するなどと表明すると、そのことによって、その地域での格が上がり、勢力を伸ばせる。各地で頻発するテロは、地域的な組織や個人の集団が行っている。だが、そうした行動をする者がISILと称することで、国際的に大きな組織が存在するかのように錯覚しやすい。
 それぞれ地域的な過激組織が、ナイジェリアでは「イスラーム国西アフリカ州」、エジプトでは「イスラーム国シナイ州」等と名乗っている。そのうえ、パリ同時多発テロ事件は「イスラーム国フランス州」を称する者が犯行を宣言した。これは実際に「イスラーム国」が諸国家にまたがって存在しているのではない。単に「イスラーム国○○州」と自称する組織が点在しているに過ぎない。
 イスラーム教過激派には、国境の概念がない。国境は西洋諸国が引いたものだとして認めない。彼らの観念の中では、国境のないイスラーム世界が広がっているのだろう。地域組織の過激派には、もともと領土的な野心はない。自国の政権を打倒したいということのみである。それゆえ、独立国家を宣言するのではなく、「イスラーム国○○州」と名乗ることに抵抗はない。
 ISILにとっては、各地の地域的な組織が「イスラーム国○○州」と称することは、「イスラーム国」という国家が世界に広がっているようなイメージを与えられる。大きな宣伝効果を生み、各地に支持者・賛同者を増やすことができる。そうした支持者・賛同者の一部は、シリア・イラクのISIL本拠地にやってきて戦闘員になる。そして訓練を受けたり、実践経験を積んだりした者が、各国に帰り、行動を広げる。そこにホームグロウン(自国育ち)のテロリスト志願者が加わり、テロ事件を起こす。こうした関係があると思われる。

●ISILとアメリカ、そしてイスラエル

 ISILについては、アメリカやイスラエルが育成・支援してきたのではないかという見方もある。アルカーイダは、旧ソ連がアフガニスタンに侵攻していた時代、CIAが育てた武装抵抗組織だった。それが反米に転じたのだが、指導者のオサマ・ビンラディンはずっと米国の支援を受けていたという疑惑がある。この点は、拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路」に書いた。
 現代世界における国際関係の深層には、常識を覆すような不可解なことがいくつもある。その点については、拙稿「現代世界の支配構造とアメリカの衰退」に書いている。
 ISILについても、疑惑の可能性を排除することはできない。
 パリ同時多発テロ事件以後、国際社会のISILへの攻撃は格段と強化されている。追い込まれたISILが今後、イスラエルへの攻撃を行い、イスラエルを挑発して、アラブ対イスラエルという対立構図を生み出そうとする可能性がある。イスラエルまでが絡む事態になると、中東地域の更なる混乱、長期にわたる不安定化につながる。こうした展開を防ぐため、国際社会にはISILとイスラエルの間にあるヨルダンを支援し、ISILの攻撃から守って政情を安定させる必要もある。

 

●国際社会の連携の強化

 今やISILのテロは、全世界に向けられている。いつ、どこで無辜の人々が無差別自爆テロの犠牲になるかわからない。いかなる宗教的な教義によろうとも、テロを許すことはできない。自由・デモクラシー・人権・法の支配等の価値観とも相いれない。テロリスト集団の壊滅に向け、国際社会が団結する必要がある。
 2015年(平成27年)11月15日からトルコで開かれた20カ国・地域(G20)首脳会合は、2日前に発生した同時多発テロ事件を受けて、テロとの戦いにおける国際連携を謳った。各国首脳からフランスへの連帯が相次いで表明された。同月18日からフィリピンで行われたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議でも、テロへの非難と国際協力が宣言された。また同月22日にマレーシアで開催された日米中や東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国による東アジア首脳会議(EAS)でも、テロ対策の協力が合意された。国際社会がテロに屈せず、わずか1週間の間に相次いで結束を確認したことは極めて重要である。
 この間、国連安全保障理事会は11月20日、パリ同時多発テロを非難するとともに、ISILとの戦いに各国が立ち上がる決意を示す決議案を全会一致で採択した。決議は、ISILが「国際的な平和と安全への世界規模の前例のない脅威」になっていると強調した。ISILへの合流を図る外国人の渡航阻止とテロ資金遮断を加盟国に要求するとともに、テロ活動抑止に向けた各国間の「調整努力」も求めた。
 その後、欧州では、英国もシリア空爆に参加することを決め、軍事行動に慎重なドイツも後方支援のために部隊を派遣した。フランスへの支援で欧州は団結を強めた。

●ISIL掃討作戦でのロシアの思惑

 シリアでは、「アラブの春」以後の内戦が長期化し、ドロ沼化している。2011年(平成23年)以来、人口2200〜2300万人のシリアで、内戦による死者は27万人を超えている。また、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、2015年末の時点で420万人を超える難民が国外へ脱出した。難民は近隣のトルコ、レバノン、ヨルダン、エジプト、リビアに逃れ、約32万人以上が地中海を渡ってヨーロッパへ流入している。ヨーロッパにとっては、第2次世界大戦以来、最も深刻な難民危機の到来である。だが、もっと深刻なのは、中東や北アフリカの諸国である。UNHCRによれば、2015年夏の時点でシリア難民はトルコに180万人、レバノンに117万人、ヨルダンに62万人、イラクに24万人、エジプトに13万人、その他の北アフリカに2万人が避難している。また、シリア国内では、少なくとも760万人が家や故郷を失い、国内避難民となっている。難民と国内避難民を合わせると、2000万人規模の国家で、1000万人状の国民が路頭に迷っているのである。シリアの統治機構が安定しない限り、難民の流出が止まることはなく、また、国民の安寧は得られない。欧米諸国は、反政府勢力への攻撃で一般市民を多数殺害するアサド政権の正統性を認めていない。だが、ロシアは、欧米が非難するアサド政権を支持している。ロシアにとって、シリアは中東に残る最後の重要な資産であり、米欧の圧力でアサド政権が倒壊することを防ぎ、シリアでの地政学的な利益を保持したいのである。
 シリア内戦を舞台にして、ISILが勢力を伸長し、強大化した。2015年(平成27年)9月末、ロシアはISIL掃討として、シリア内戦へ軍事介入した。これは、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻以来の、中東の独立主権国家に対するロシアの公然たる軍事行動だった。
 ロシアが介入した理由の一つは、軍事的なものである。ロシアは、シリアのタルトゥ―スに地中海に面する唯一の海軍基地を持っている。シリアは、ロシアが地中海に出る上で重要な拠り所となっている。また、別の理由は、シリアがイラクやイランなど中東から欧州への石油パイプライン計画の中心になっていることである。その計画が実現してしまうと、欧州はロシアへのエネルギー依存度を下げるだろうから、ロシアは親米欧勢力を抑えて、アサド政権を維持したいのである。
 一方、アサド政権は、ロシアの後ろ盾によって政権の存続を図ってきた。ロシアの軍事介入により、ロシア軍の空爆支援を受けて、劣勢から息を吹き返した。シリア正規軍の実情は、長期化する内戦の結果、多数の欠員や多大な損失を出し、すでに補填が不可能なまでになっていた。かつて25万人いた正規軍は、兵士が2000〜3000人、将校・将軍が200〜300名ほどに減った。大半は、アサド政権維持のために戦う外国人部隊である。そのような政府軍を指揮・監督するのは、イラン革命防衛隊の対外諜報と特殊工作(作戦)を担当する部隊たるクドゥス軍団の将校だと伝えられる。だが、こうしたシリアにロシアがテコ入れをしたことによって、アサド政権は反政府勢力との戦闘を優位に進めるようになった。反政府勢力には、国民連合、イスラーム軍、トルクメニスタン人等がある。ロシアのシリア空爆は、ISILへの攻撃という触れ込みをしつつ、主にこうしたアサド政権に対抗する反政府勢力を攻撃しているとみられる。これに対して、反政府勢力を支援する米国を中心に、ロシアへの批判が上がった。
 アメリカは、トルコ、サウディとともに、反政府勢力のうちの穏健派を支援している。だが、反政府勢力には過激派もおり、アルカーイダ系の組織「ヌスラ戦線」等が活動している。またクルド人もアサド政権と戦っており、アメリカはこれも支援しているという複雑な関係にある。
 パリ同時多発テロ事件後、ロシアはフランスと提携し、一層積極的に空爆を行っている。ロシアとしては、フランスが連携を求めてきたのに応えることで、これまでの米欧諸国の批判を緩和することが出来ることになった。
 ISILは、ロシアが2015年9月に空爆を開始すると、ロシアへの報復を予告していた。そうした中で、10月31日ロシアの旅客機がエジプト北東部シナイ半島で墜落した。乗客乗員224人が死亡した。プーチン政権は、国際社会のパリ同時多発テロ事件への反応を見てから、11月17日になってロシア機墜落が爆弾テロだったとする調査結果を発表した。同日プーチンは、シリアでの作戦強化を国内外に誇示した。また、同日フランスと共同作戦を行うことを提案し、露仏の共同作戦が開始された。
 ロシアは、ロシア機爆破テロの報復として、ISILへの空爆に本腰を入れざるを得なくなり、シリア内戦に深入りした。また、これを奇貨として、プーチン大統領は、シリア空爆の強化やフランスとの共同作戦を進め、対ISILの主導権を握ろうとしているとみられる。
 山内昌之氏は、「アメリカとフランスは、2015年9月のロシア軍の介入以降、11月のパリ同時テロを機に、ISと本格対決するために、アサド氏に宥和的な態度を示すようになった。これは、氏を『最大の犯罪者』と考えるスンナ派アラブの大勢に背を向けており、シリア問題の主導権をさながらロシアとイランに委ねたに等しい」と述べている。
 イランは、米欧の経済制裁に耐える中で、ロシアに接近した。イランにとってロシアは伝統的に敵国であり、領土を占領され、割譲してきた。だが、そのロシアと同盟関係を結ぶという戦略的な判断をした。そして、シリアのアサド政権を支援することによって、シリア内戦の最重要当事国となった。ロシアがシリア空爆に踏み切るに至って、イランにとってのロシアとの関係は、スンナ派諸国への対抗においてもまた米欧諸国への対抗においても一層重みを増すことになっている。アサド政権は、今やロシア=イラン同盟によって支えられているのである。米仏は、シリア問題における主導権を、ロシアとイランに握られている。
 ロシアがシリアへの空爆を強化しているのは、ISIL掃討後を見越して、アサド政権を擁立し、シリアやその周辺諸国への影響力の拡大を目指しているものだろう。このことは、ISILへの有志連合とロシアによる攻撃が奏功し、ISILを弱体化させ得た場合、必ずロシアと欧米・トルコ等の間の対立が顕在化することを意味する。それと同時に、シリアの内戦は、アサド政権と反政府勢力の戦いに重点を移しつつ、なお継続することが予想される。

 

●トルコとロシアの対立が発生

 ロシアがシリア内戦への介入を本格化した後、2015年(平成27年)11月24日トルコ政府は、ロシア爆撃機が領空侵犯を繰り返し警告に従わなかったので撃墜したと発表した。エルドアン大統領は、露軍機撃墜は「交戦規定の枠内だ」と正当性を主張した。これに対し、プーチン大統領は、ロシア機の領空侵犯を否定し、「テロリストの共犯者が後ろから攻撃してきた」とトルコを激しく非難した。逆にトルコのエルドアン大統領は、ロシアがシリアの反政府勢力でトルコ系の少数民族トルクメン人に攻撃を加えているとして、ロシアを非難している。
 トルコによるロシア機撃墜によって、フランスとロシアの連携に始まる大国間の連合の動きは水がさされた。プーチンにとっては、ISIL掃討で国際的な孤立からの脱却を狙っていたところ、思わぬ形で足をすくわれた格好である。
 フランスがロシアとの連携を軸に、連合を拡大するには、米国だけでなく、有志連合に参加するアラブ諸国やトルコの理解も欠かせない。トルコとロシアの反目が続けば、フランス、ロシアがそれぞれ構想する自国中心の大連合の実現は難しくなるだろう。各国の利害に違いが大きく、それぞれの思惑で外交・作戦を行っており、同床異夢の状態である。
 ロシアは、軍機撃墜の報復としてトルコに経済制裁を行って圧力をかけている。トルコにとってロシアは貿易額でドイツに次ぐ2位であり、特にエネルギー供給では最大の輸入国である。それゆえ、経済制裁を受けると苦しい。だが、安易に謝罪すると、エルドアン政権は国民の批判を受ける。そのうえ、ロシアは、トルコが石油密輸などを通じてテロ組織に協力していると主張し、エルドアン大統領、その息子らを激しく批判している。「アラブの春」以降、トルコでは民主化を求める反政府運動が広がり、政権の足下が弱くなっている。政権は、ロシアの強硬姿勢によって窮地に置かれている。
 一方のロシアは、2014年(平成26年)3月にウクライナのクリミア共和国を併合したことで米欧の経済制裁を受けている。そこで、トルコに経済多角化の望みを託していたのだが、ロシア機撃墜でトルコを強く非難して農産品禁輸などの制裁を発動したため、逆に自国の経済を圧迫することにもなっている。こうした誤算がロシア経済の疲弊を早めることになるとみられる。
 また、ロシアには約2000万人のイスラーム教徒がいる。ロシア人口の14%を占める。その多くはスンナ派である。ロシアがISILを掃討したり、トルコに圧力を加えたりすることは、ロシア国内のイスラーム教徒を刺激し、テロを誘発するおそれもある。
 それゆえ、トルコ、ロシアとも引くに引けない対立関係になったものの、互いにあまり深刻化するとまずい状況にあるとみられる。
 トルコはイスラーム文明、ロシアは東方正教文明の国である。この両国の間には、18〜19世紀にオスマン帝国とロシア帝国が数次にわたって争った露土戦争以来の対立の歴史がある。当時トルコは、ロシアの南下政策に苦しめられた。近年、両者の関係は協調的になっていたが、ロシア機撃墜事件で関係が一気に悪化した。関係の悪化が進むと、こうした文明間的・歴史的な対立の感情を掘り起こしかねない。
 トルコ・ロシア関係の焦点は、シリアにある。トルコはアサド政権の崩壊を願っているが、ロシアはアサド政権を支援しているという正反対の立場にある。
 トルコは、ISILの支配地域に隣接する国であり、イラク、シリア等と国境を接している。トルコ政府としては、ISILとの全面対決は避けたい。対ISILの有志連合に加わっているが、軍事面では関与しないとし、ISILとの全面対決は避けてきた。900キロに及ぶトルコ南部の国境から過激派が侵入するのを阻止するのは困難であり、強硬措置を取ればテロによる報復を受け、治安が悪化するおそれがあるからである。だが、ISILの活動が対トルコでも活発化しており、エルドアン政府はISILへの軍事的圧力を強める考えを示している。
 ロシアの主導で仏米英露等が連携を強めることによって、ISILと地上戦を戦っているクルド人がイラクやシリアで勢いを増すことは、国内に多くのクルド人がいるトルコにとって、別の懸念材料である。
 シリアでは、2012年(平成25年)夏に、シリアのクルド人地域(ロジャヴァ)は事実上の自治を獲得した。彼らがイラク北部のクルド人のように独立国家に近い自治区を作れば、トルコ南部に多いクルド人の分離独立機運が高まる可能性がある。トルコには、過激なマルクス主義の流れをくむ非合法組織「クルド労働者党」(PKK)が分離独立を求めてテロを展開してきた歴史がある。また、トルコではクルド人は「山岳トルコ人」と呼ばれ、アイデンティティを否定する政策がとられてきたので、潜在的に深い対立感情がある。
 イラクでのクルド自治政府による独立への動きが活発化すれば、トルコ国内のクルド人がこれに呼応し、それによって、トルコ政府とクルド人独立派の対立が、中東に新たな不安定要因を加えることが予想される。

 

●ISILのテロは米国にも広がる

 パリ同時多発テロ事件後、米国でも国内のイスラーム教過激派によるテロが警戒された。そうしたなか、2015年(平成27年)12月2日、米国カリフォルニア州サンバーナディーノで銃乱射事件が起きた。襲われたのは発達障害がある人の支援を目的とした福祉施設だった。14人が死亡した。
 事件を起こして射殺されたのは、パキスタン系米国人のサイード・ファルークと妻のタシュフィーン・マリクで、妻はパキスタン国籍とみられる。夫はサンバーナディーノ郡職員で、大人しく敬虔なイスラーム教徒だったという。妻はフェイスブックにISILの指導者に忠誠を誓う内容の投稿をしていた。ホームグロウン(自国育ち)かつローンウルフ(一匹狼)型のテロと考えられる。この事件は、パリ同時多発テロ事件以後、米国で初めて起こったISIL関連のテロとして全米に衝撃を与えている。
 米国のイスラーム教徒の数は人口の約1%と推定されており、イギリスの4.5%、ドイツの5%より少ない。2050年までにこの割合は2.1%に増加するとみられている。
 現在、米国のイスラーム教徒は、その63%が移民及びその子孫である。かつて米国に奴隷として連れてこられたアフリカの黒人は、4分の1から3分の1がイスラーム教徒だった。その多くはキリスト教に改宗させられた。1960年代以降の公民権運動の進展によって、自らの意志でイスラーム教に改宗する黒人が現れて注目されるようになった。その後、中東・アフリカ・アジア等の様々な国からイスラーム教徒の移民が米国に流入している。調査機関ピュー・リサーチ・センターの2011年(平成23年)の調査によると、米国のイスラーム教徒は世界77カ国からやって来ている。西欧諸国の多くでは、一つか二つの集団がイスラーム教徒のうちの多数派を占めている。例えば、フランスではアルジェリア人、オランダではモロッコ人とトルコ人である。これに対し、米国ではイスラーム教徒は、特定の宗派や民族が圧倒的な多数派を構成することがない。互いに他の集団と混ぜ合わせたような状態で居住しているとみられる。
 2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件は、イスラーム教過激派の犯行とされ、米国ではイスラーム教徒や中東出身者が警戒されるようになった。2001年から2014年まで、109人の米国人イスラーム教徒が米国を標的として攻撃を行った。また同時期に、米国人イスラーム教徒によるテロで50人が死亡した。その一方、これ以外の銃乱射事件などにより、2014年だけで136人の死者が出ており、イスラーム教徒によるテロが特に多いとはいえない。
 だが、パリ同時多発テロ事件後に起こったカリフォルニア州サンバーナディーノの銃乱射事件によって、ISILの影響が米国でも急速に浸透していることがわかり、テロ活動の拡大が懸念されている。2016年11月に行われる米国大統領選挙では、ISILへの軍事的対応と米国内テロからの防衛が、一大争点となりつつある。

●東南アジアでもISILによるテロ事件が

 2015年(平成27年)12月31日、東南アジア諸国連合(ASEAN)の加盟10カ国は、「ASEAN共同体」を発足させた。6億人の単一市場や共生社会を掲げている。共同体の総人口は欧州連合(EU)を上回り、国家に例えると中国、インドに次ぐ規模となる。
 東南アジアは、総人口のほぼ40%がイスラーム教徒である。イスラーム教は仏教、キリスト教を上回る域内最大の宗教勢力である。世界で最も多くのイスラーム教徒がいるインドネシアは、人口約2億4千万(2010年現在)の約90%に当たる約2億2千万人がムスリムである。マレーシアもイスラーム教徒が多く、人口の約50%を占める。
 東南アジアにイスラーム教が伝来したのは、13世紀初頭とされる。中東でのイスラーム教の伝道は武力を伴うものであったのに対し、東南アジアでの伝道は、西アジア、とりわけインドを経由したイスラーム教徒の貿易商によって行われた。また神秘主義教団の教団員が、この地域にやってきて民衆の改宗を進めた。こうした武力によらない改宗の結果、東南アジアのイスラーム教徒には、穏和性と多様性という特徴がみられる。
 また、東南アジアの多くは亜熱帯雨林気候に属する。その緑豊かな自然環境は、イスラーム教が発生した砂漠地帯とは、大きな違いを示す。その影響と思われる特徴が、マレーシア等でみられるアニミズム的な精霊崇拝、アジア特有の土着慣習への寛容性である。こうした多神教との共存・融和は、しばしば中東のイスラーム教原理主義者からはイスラーム教からの逸脱と非難されている。
 だが、多くの民族、文化、宗教が存在する東南アジアでは、穏和性、多様性、寛容性を表すイスラーム教徒のあり方が、域内の安定と発展にプラスになっている。
 その一方、東南アジアにも、イスラーム教原理主義を信奉する者や過激組織に共鳴・参加する者がおり、近年しばしばテロ事件が起こっている。
 1990年代からアフガニスタンの内戦に東南アジア諸国からイスラーム教徒の若者らが参加した。彼らは帰還後、インドネシア等で大規模テロ攻撃を繰り返すなど、過激な活動を続けている。インドネシアの武装組織ジェマ・イスラミア(JI)は、2001年(平成13年)の9・11の前後からアルカーイダとの関係を強め、タイやシンガポール、マレーシア等に設立した支部組織と連携して、欧米の権益を狙ったテロ路線を取っている。JIによる2002年(平成14年)のバリ島爆弾テロ事件では、多数の外国人観光客を含む202人が死亡した。その後も2009年(平成21年)にかけて、ジャカルタの米系高級ホテルやオーストラリア大使館を標的にしたテロが発生した。
 2010年(平成22年)にJIの精神的指導者アブ・バカル・バシル師がテロ容疑で逮捕されたが、バシル師の指揮下にあるとされる過激組織は、ISILへの忠誠を表している。JIとその関連勢力がシリアやイラクへ「人道支援」の名目で組織的に人員を送り込み、一部は「義勇兵」としてISILなどの戦闘員になっている。ISILは東南アジア諸国の過激組織と連携し、戦闘員の募集や活動資金集めを活発化させている。インドネシアの他、マレーシア、オーストラリア等からの戦闘参加者がいる。インドネシア当局は、ISILに加わるため800人以上が中東に渡り、うち約240人が帰国したことを確認している。
 そうしたなか、2016年(平成28年)1月14日、東南アジアで初めてISILが関与したとみられるテロが、インドネシアで起こった。首都ジャカルタ中心部の商業施設などで連続爆弾テロが発生し、現場周辺では銃撃戦となった。カナダ人ら2人と容疑者5人が死亡した。「インドネシアにいるISIL戦闘員が、十字軍の集まる場所を標的にした」とISILが犯行声明を出した。
 今後、インドネシアだけでなく、他の東南アジア諸国でもイスラーム教過激派のテロが起こることが懸念されている。東南アジアの穏和性、多様性、寛容性を特徴とするイスラーム教の大多数の信徒が、中東の戦闘的・排他的なアルカーイダやISILの影響を受けた過激派にどう対処するか、注目される。
 パリ同時多発テロ事件後、米国や東南アジア等でISILが関与したテロ事件が起こったと書いたが、こうしたテロがロシア、中国、日本等へと広がっていくおそれがある。いつ、どこで、次のテロが起こっても、不思議ではない。

 

●サウディアラビアとイランが断交

 

 ISIL掃討作戦の最中、ロシアとトルコが対立するようになり、対ISILの連携にひびが入った。そのうえ、2016年(平成28年)1月には、イスラーム教国の間でサウディアラビアとイランが断交するという新たな事態が発生した。

 中東では、1979年(昭和54年)のイラン革命後に米国とイランが断交して以降、米国と親米的なスンナ派のアラブ諸国が、シーア派の地域大国イランの影響力を防ぐことで基本的な秩序を形成してきた。スンナ派の盟主を自任するサウディは、反イラン網の一翼を担うとともに、豊富な石油資源を持つ国としてこの秩序から最も大きな恩恵を受けてきた。

 サウディの王家であり、メッカなど二大聖地の守護者を務めるのが、サウード家である。サウード王家の祖イブン・サウードは、1744年、ワッハーブ派の祖法学者アブドゥウル・ワッハーブと盟約を結び、同王家の長が最高宗教指導者であるイマームを兼務するとした。それによって、サウディでは世俗的権力者である国王が宗教上の長ともなっている。

 サウディアラビアは、ワッハーブ派というスンナ派の中でも特殊な、かなり過激な宗派を国教とする。ワッハーブ派は、スンナ派の厳格化を求めるもので、イスラーム原理主義の古典的潮流となっている。

 オサマ・ビンラディンは、サウディの富豪の一族に属し、豊富な資金を以てアルカーイダを結成・指導した。サウディの富裕層には、スンナ派過激組織を支援する者が少なくない。ISILへの資金提供者もいるとみられる。

 ワッハーブ派は、シーア派を諸悪の根源とする。それゆえ、サウディとイランとの対立は、根が深い。そのうえ、2015年(平成27年)からはISILやイエメンへの対応などで対立を強めている。

 サウード王家は従来、極めて穏健な協調外交が信条だった。ところが、「今サウジは大きく変わりつつある」と、イラクでの勤務経験を持つ元外交官で、現在キャノングローバル戦略研究所主幹の宮家邦彦氏は、言う。

 変化の発端は、2015年(平成27年)1月23日親米的なアブドゥッラー国王が死去し、サルマーン新国王が就任したことである。新国王は、ムクリン副皇太子兼第2副首相を皇太子兼副首相に任命した。また、副皇太子兼第2副首相にナエフ元皇太子の息子ムハンマドという55歳の第3世代を任命した。ところが、4月末、国王はムクリン皇太子兼副首相を解任、ムハンマド副皇太子を皇太子兼副首相に、自分の息子で30歳のムハンマド・ビン・サルマーン国防相を副皇太子兼第2副首相に、それぞれ任命した。宮家氏は、「この頃からサウジの対外政策は大きく変わり始めた」という。

 サウディは、同年3月末、内戦が激化した南方の隣国イエメンで、反政府勢力への空爆を開始した。また同年12月15日、サウディ政府はISILなどに対抗するため、イスラーム圏の34の国・地域が「イスラーム軍事同盟」を結成したと発表した。

 宮家氏は、こうした軍事的対外強硬策の裏にいるのがムハンマド・ビン・サルマーン副皇太子兼国防相だという見方を伝えている。副皇太子兼国防相は、サウディの経済開発評議会議長と国営石油会社アラムコ最高評議会議長も兼ねている。

 こうした変化を見せていたサウディアラビアは、2016年(平成28年)1月初め、一段と強硬な行動に出た。サウディアラビア政府が、テロ関与容疑者47人の死刑を執行したのである。47人のうち、大半はアルカーイダ系だが、シーア派の高位法学者ニムル師が含まれていた。サウディの国内にも少数だがシーア派がおり、東部に多い。ニムル師はサウディ王家を批判し、宗派対立を扇動したなどの罪で死刑判決を受けていた。それが執行された。

 これに対し、イランでは、二ムル師の処刑に怒った群衆がテヘランのサウディ大使館を襲撃した。イラン軍で重要な位置を占めるイスラーム革命防衛隊は、1月2日、処刑を問題視し「サウディは重い代償を払うことになるだろう」と強く非難する声明を発表した。これが両国の外交問題に発展し、サウディとイランは断交状態となった。バハレーン、カタール等の湾岸主要国はサウディに同調し断交や大使召還に踏み切った。サウディは、イランに対抗するため、22カ国が加盟するアラブ連盟を舞台にスンナ派各国の糾合を図っている。

 ISIL壊滅はサウディとイランにとっても最優先課題のはずだが、イスラーム文明の二つの地域大国が宗派の違いから対立関係になってしまった。このことで、中東情勢は一層複雑さを増した。サウディとイランの対立は、ISILを利することになる。

 米国とサウディの歴史的な同盟関係がオバマ政権下で弱体化する一方、イランは米欧との核合意で国際社会復帰を実現し、イラクやシリア情勢への発言力を強めている。サウディは、米国のイラン傾斜に不満を抱いているに違いない。イランとの断交は、シリア和平協議にイランが参加することを阻止するためという意図もあったと考えられる。

 折から中東を訪問した中国の習近平国家主席と対談したサルマーン国王は、米国一辺倒の方針を改め、中国を外交の対象として格上げし、関係を深めることに合意した。習主席はイランも訪問し、ここでも関係の拡大を進めた。海外で大規模な軍事作戦を展開する力を失いつつある米国が中東で後退し、またイスラーム教諸国の関係が不安定になっているところへ、中国が巧みに進出している。

 中国は、2030年にアメリカを越えて世界最大の石油輸入国となると予想される。輸入の大部分は中東に依存する。一方、アメリカの中東石油輸入は、シェールガスや国内石油生産によって、2011年の日量190万バレルから、2035年には10万バレルに激減すると見られる。そのため、中東産油国にとって、中国はますます重要な輸出相手国となる。中国と中東産油国はともに相手を必要とする。ここにも、西洋文明対イスラーム=シナ文明連合の対立という可能性を見て取ることができる。

 ところで、サウディアラビアは、隣国イエメンの民主化過程の後ろ盾になってきた。サウディにおける王位交代はイエメンに影響を与えている。

 イエメンにおける2015年(平成27年)1月のフーシー派によるクーデタは、サウディにおける王位交代の隙を突いたものだったとみられる。池内氏は「サウジの内憂と裏庭のイエメンの外患は連動している。そして、サウジが揺らげば、中東の混乱は極まる」と述べている。

 サウディはスンナ派アラブの盟主を自任する。イエメンのフーシー派はシーア派の一派、ザイド派を信奉する。シーア派大国のイランがザイド派を支援しており、サウディはイエメンでイランが影響力を増すことを警戒している。

 2015年(平成27年)2月15日国連安保理は、全会一致で、政府施設を制圧しているフーシー派に即座・無条件で権限を大統領・首相に戻すように要求する決議をした。ただし、決議を主導した湾岸協力理事会(GCC)の求めていた国連憲章第7章の軍事的強制力は盛り込まれなかった。そうしたなか、サウディは、同年3月末、イエメンでの空爆を開始したのだった。

 イエメンでは、サウディの後押しを受けるハディ政権と、イランが支援するフーシー派が激しく対立して、内戦状態になっている。サウディは、フーシー派が首都サヌアを掌握したことなどを受けイエメンへ軍事介入した。そのことによって、サウディはイランとの対立を深めた。このことが、サウディとイランが断交することになった要因の一つとみられる。

 サウディアラビアとイランが断交した情勢について、山内昌之氏は、著書『中東複合危機から第三次世界大戦へ』に次のように書いている。

 「1980年のイラン=イラク戦争で始まったシーア派対スンナ派の対立激化は、次々と新たな衝突ひいては戦争に発展し、宗派と政治の絡んだ文明内対立はこれから深化することはあっても、薄まることはない。政治化したセクタリアン・クレンジング(宗派浄化)の恐怖は、いまや中東の広い範囲に及んでいる。言い換えれば、『宗派戦争』とその脅威は、もはやシリア戦争やイエメン内戦やバハレーン紛争を超えてしまった。2016年のイランとサウディアラビアの危機は、現代中東のいちばん深い『宗派的断層線』(sectarian fault lines)がどこに横たわっているかをまざまざと見せつけたのである」

 ここで、「セクタリアン・クレンジング(宗派浄化)」とは、エスニック・クレンジング(民族浄化)の概念を、イスラーム教の宗派間に応用したものである。また「断層線」は、ハンチントンが使った概念であり、ハンチントンは、文明の衝突は文明間の断層線(フォルトライン)で起こると指摘した。山内氏は、これを文明内の宗派間にも用いているものである。

 

●米国等とイランの核合意

 

 サウディアラビアとイランが断交に至ったより大きな要因は、米欧諸国とイランが核合意をしたことにある。サウディは、この合意に強い不満を持ち、独自の判断で行動した者だろう。

 イラン革命後、米国と断交したイランは、米国に対抗するため、核兵器の開発を進めているとみられた。近年中東で最もアメリカが最も警戒しているのは、このイランの動きである。イランの側からすれば、核大国の米国から自国を防衛するために、抑止力としての核を持つという政策判断だろう。一方、米国は、反米的な国が核を持つことを防ぎたい。その成否は、中東だけでなく世界規模の戦略に関わる。

 2002年(平成14年)に、イランの核兵器開発疑惑が発覚し、米国をはじめとする国際社会が、経済制裁措置などによってイラン封じ込めを行って来た。2008年に米国大統領となったオバマは、イランに対して「核開発疑惑には経済制裁で対処する」と発言し、ブッシュ子政権の方針を引き継いだ。そのうえ、2012年にEUがイラン産原油の禁輸措置を発動し、日本・韓国等も徐々に原油の引取量を削減していったことは、イランの国家財政に大きく響いた。イラン経済は2012年に成長率が約6%のマイナスとなるなど、疲弊してきた。

 2005年(平成17年)から13年(平成25年)にかけて大統領を務めたアフマディーネジャードは、反米的な姿勢を貫いた。イランは石油輸出で得た資金をもとに、近代兵器を購入したり、核開発に取り組んだりしてきた。イランに最も多く兵器を売っているのは、中国である。またイランは同じく反米的な北朝鮮とも密接な関係にあり、中国・北朝鮮から技術支援を受けて、核開発を進めてきたとみられる。ハンチントンの予測する「儒教―イスラーム・コネクション」は、一部イランと中国・北朝鮮の間で現実になっている。中国はインドと対立関係にあるパキスタンにも核技術を提供しており、これも「儒教―イスラーム・コネクション」の一つである。

 しかし、経済制裁の効果が強まるなか、2013年夏に大統領となった法学者ハサン・ロウハーニー師は、最高指導者のハーメネイーのもと、敵対関係にあった米国等との「建設的な関係」を築くことを政策に掲げた。イランを世界市場と国際社会に戻そうとするものである。一方、米国の側もイラク等の駐留経費増大等で財政に影響が出ている。他の要因も重なってデフォルト寸前になっては債務不履行の回避を繰り返しているオバマ政権は、2015年夏、イランとの関係を改善させる方向に転換した。

 1979年のイラン革命後、米国はイランと国交を断交した。イランは経済制裁で窮地に追い込まれたが、ただそれだったのではない。中東で占める地政学的に重要な位置を利用し、政治外交的な力量を発揮してアラブ社会に楔を打ち込み、シーア派の諸勢力を結び、シリア戦争では最重要当事国となって、国際社会に存在感を示しもしている。

 イランは、米欧の経済制裁に耐える中で、ロシアに接近した。イランにとってロシアは伝統的に敵国であり、領土を占領され、割譲してきた。だが、そのロシアと同盟関係を結ぶという戦略的な判断をした。そして、シリアのアサド政権を支援することによって、シリア内戦の最重要当事国となった。ロシアがシリア空爆に踏み切るに至って、イランにとってのロシアとの関係は、スンナ派諸国への対抗においてもまた米欧諸国への対抗においても一層重みを増すことになっている。

 2015年(平成27年)7月、イランと国連安保理常任理事国の米英仏中露に独を加えた6カ国は、「包括的共同行動計画」に最終合意した。今後15年間にわたって、イランは核兵器の製造につながる濃縮ウランの製造を制限され、この点に疑念が生じた場合にはIAEA(国際原子力機関)による査察をイランは受け入れる。その見返りとして、国際社会はイランに対する経済制裁を解除するというものである。この合意は、アメリカとイランの歴史的な合意という評価がある。アメリカが30年以上、国交を断絶して強くけん制してきたイランが核兵器を手にすることをひとまず阻止できたと言えるからである。

 オバマ政権はISILの掃討を最優先課題とする。課題達成にはシリアのアサド政権の退陣によるシリアの和平実現が不可欠と考え、同政権を支えるイランの協力に期待しているとみられる。だが、米国では、イランとの合意に関して、オバマ政権の融和的な姿勢に強い批判が出ている。また、最終合意がイランに一定のウラン濃縮を認めたことについて、米国と同盟関係にあるサウディアラビア、イスラエルは強く反発している。

 実際、イランの核合意は、イランが核兵器を生産できる時間の可能性を2カ月あるいは3か月から1年まで引き延ばしたに過ぎない。10年後の2026年から新型の遠心分離器の開発は自由になり、15年の履行機関が終われば平和利用の名目でウラン濃縮や再処理の核技術を生かして理論的には核兵器製造が可能になる。

 イランを安全保障上の脅威ととらえ、核合意に反対してきたサウディには、同盟国・米国の裏切りと映ったに違いない。また、イランと敵対するイスラエルも、イランの核兵器保有につながるとして容認できないところである。

 2016年(平成28年)1月16日、イランのザリフ外相と6カ国側代表を務めるモゲリーニEU外交安全保障上級代表は、ウィーンで共同声明を発表し、最終合意の履行を宣言した。これに伴い、オバマ大統領は、イランに課していた経済制裁の一部を解除する大統領令に署名し、外国の企業・個人に対するイランとの取引制限などを解除した。EUは、イラン産原油の輸入禁止や国際送金システムからの排除といった措置を解除した。

 イランのロウハーニー大統領は、「イランと世界の関係に新たな一章を開いた」と述べた。イランは約1千億ドル(約12兆円)に上る国外の凍結資産の確保や、制裁前から約6割も落ち込んだ原油輸出の拡大で、疲弊した経済の建て直しを急いでいる。制裁解除はイランの国際社会復帰となり、各国の経済関係強化の動きが加速するとみられる。

 2016年2月下旬、イランで国会議員選挙が行われ、ロウハーニー大統領を支持する改革派及び穏健保守派が議会の過半数を確保した。だが、強硬保守派は、国政に強い影響力を持つ革命防衛隊や、政策が「イスラーム的価値」に合致しているかを判断する護憲評議会を掌握している。政権が改革を進めれば、強硬保守派との対立がいっそう深まる可能性は高いとみられる。

 注意すべきは、今回の最終合意で、イランが核合意を守るという保証はないことである。今後、状況によっては、イランが合意を反故にして、再び核開発を進める可能性を排除できない。もしイランが核開発を進めた場合、米欧等は激しく反発するだろう。これに対し、イランがその制止に反発して強硬な姿勢を貫き、世界各国に石油を運ぶ通路であるホルムズ海峡を封鎖するという手段に出る可能性がある。わが国にとっては、シーレーンによる石油の輸送が脅かされる事態となる。国際社会が封鎖解除を図る際、その中心となるのはアメリカだろう。軍事的には、アメリカが海軍力で優勢ゆえ、比較的短期間で鎮圧される可能性が高い。だが、イランが米軍基地への報復、イスラエル本土へのミサイル攻撃、湾岸諸国の油田や製油所の爆撃・爆破等へと行動をエスカレートすると、新たな中東戦争に発展するおそれがある。

 さらにシリア、トルコ等の問題が重なると、中東情勢の深刻化が第3次世界大戦の火種となることが予測される。この点は、後の項目であらためて述べることにしたい。

 

●シリア内戦を終息させる取り組み

 

 イスラーム文明の現在において、最も深刻なのが、シリア問題であることは間違いない。

 シリアでは内戦発生後、2016年3月で、丸5年となった。この間、27万人以上が死亡し、400万人以上が国外へ脱出したほか、国内避難民は760万人を超すとみられる。

 アサド政権に対抗する反体制派は、内戦当初から、シリア北部や首都ダマスカス周辺で支配地域を拡大し、トルコやサウディアラビアなどに加えて米欧の支持も得て、一時は首都をうかがう勢いもみせた。しかし、2013年秋、政府軍の化学兵器使用疑惑を受けて武力行使を示唆していた米国が空爆を回避した。それによって、潮目が変わった。政権側は、米国が本格介入をしないと見て生き残りへの自信を深めた。

 内戦は、アサド政権を支えるロシアやイランと、反体制派を支援するサウディアラビアやトルコとの代理戦争という構図を示している。弱体化した政府軍に多数の外国人部隊が加わり、それをイラン人将校が指揮・監督している。さらに2015年(平成27年)9月末、ロシアが軍事介入し、アサド政権への影響力を強めた。アサド政権はロシア=イラン同盟によって支えられており、ロシアとイランがシリア問題の主導権を握っている。

 内戦の混乱に乗じる形でイスラーム教スンナ派過激組織ISILが台頭したことも、アサド政権には追い風となった。政権が倒れた場合、シリアが過激派の温床となるとの懸念によって、米欧諸国は政権への圧力に抑制的になったからである。

 2015年11月中旬、米欧露やアラブ諸国等が外相級協議で、アサド政権と反体制派の交渉を同年内に開始し、18カ月以内に民主的な選挙を実施するなどの行程表で合意した。アサド政権の扱いなど主要な対立点は残っているが、内戦への対応が遅れればISILを利するだけであると見て、和平が急がれた。

 翌2016年(平成28年)1月29日、アサド政権と反体制派代表団の対話による和平協議がジュネーブでスタートした。反政府勢力の主要代表組織「最高交渉委員会」(HNC)側は、政権側が一般市民も殺害しているとして批判し、政府軍やロシア軍の空爆や包囲の停止を要求した。こうした人道問題が協議されなければ、協議から撤収する可能性を示唆した。だが、2月3日ロシア軍の空爆支援を受けた政府軍が進撃し、反政府勢力の補給ルートが絶たれ、反体制派は反発を強めた。対話を仲介している国連のデミストゥラ特使は、協議を一時中断せざるを得なかった。

 2月11日米国やロシアなどシリア内戦の関係国は、和平協議の進展を図るため、多国間外相協議を開催し、アサド政権と反体制派の戦闘停止を1週間以内に目指すことで合意した。だが、反体制派を「テロ組織」とするアサド政権は、和平協議が再開されても「テロとの戦いをやめることはない」と述べ、完全な停戦には応じない姿勢をあらためて表明した。

 この間、和平協議の開始直後の1月30日、トルコ政府は、ロシア軍機が領空を侵犯したとして、ロシア側に「強い抗議と非難」の意を伝えた。二度目の領空侵犯問題で、両国は、さらに態度を硬化させた。また、ロシアはアサド政権、トルコは反体制派を支援しているので、両国が対立を深めることは和平協議の進展に濃い影を落としている。

 米国とロシアの関係も緊張を強めた。2月13日ケリー米国務長官は、ミュンヘン安全保障会議で演説し、アサド政権の支援のためにロシアが実施している空爆について、「大半は正統な反体制派を標的にしている」と述べ、民間人も犠牲になっているとロシアを批判した。これに対し、ロシアのメドベージェフ首相が応酬し、ウクライナ危機でNATOが東欧の抑止力を強化していることを受け、「われわれは新冷戦に陥った」と欧米を逆に批判した。

 こうしたなか、2月21日シリアの首都ダマスカスや中部ホムスで自爆テロや自動車爆弾テロが相次ぎ、180人以上が死亡した。ISILが犯行声明を出した。アサド政権を挑発し、内戦をさらに複雑化させる狙いがあるのだろう。

 ISILの暗躍を赦すことは、米露双方にとってマイナスである。米露は強い緊張関係の中ではあるが、シリア内戦の停戦を実現するために協力し、2月27日、米露の主導による一時停戦合意が発効した。

 アサド政権は、できるだけ有利な状況に持っていったところで、和平協議に臨もうと考えて、反体制派への攻撃を続けていたのだろう。内戦発生後で最も優勢となった状態で、アサド政権は3月7日に参加を表明した。一方、反体制派の「最高交渉委員会」(HNC)は、政権やロシアのペースで和平協議が進むことを警戒していたが、11日に協議への参加を決めた。

 和平協議は3月14日にジュネーブで再開された。アサド大統領の処遇などをめぐる両当事者の立場は大きな隔たりがあり、協議は難航することが予想される。

 最も注目されるのは、ロシアの態度である。プーチン政権はアサド政権を支援し、同政権をできるだけ有利な立場で和平交渉に参加させるために、力を入れてきた。それが相当の成果を上げたものと見られる。

 和平協議の再開に当たり、プーチン大統領は、シリアから主要航空部隊を撤収させることを決めた。この時点で和平交渉に重心を移すことが、シリア問題での影響力を保持し、さらに国際的孤立から脱する上で得策だと判断したものと見られる。

 こうしたロシアの思惑通り事が運ぶかどうかは、様々な勢力の絡み合いがどう展開するかによるだろう。

 

●シリア情勢に絡むクルド人とトルコの問題

 

 シリアの和平協議が再開された直後、2016年3月16日、シリア北部を勢力圏とするクルド人組織「民主連合党」(PYD)が、北部地域のクルド勢力などが連合し支配地域での独立性を高める「連邦制」を一方的に宣言する考えを明らかにした。

 クルド勢力は、ジュネーブで再開されたシリアの和平協議に参加資格を与えられていない。和平協議が本格化していない中で、クルド勢力が支配圏確立に向けた動きを強めることは、協議の行方に影響を及ぼす可能性がある。

 また、PYDの連邦制宣言でクルド勢力が独立性を高め、シリアが連邦化に向かう事態となれば、トルコ国内のクルド人を刺激する可能性がある。トルコ政府がPYDを擁護する勢力に強く反発するのは間違いない。

 そのPYDを擁護する勢力の筆頭が米国である。米国は、ISILの掃討に向け、PYDを支援している。PYDは、トルコの非合法組織「クルド労働者党」(PKK)の実質的な傘下にある。トルコ政府はPKKと敵対しており、その傘下のPYDが強大化することを警戒している。トルコにすれば、米国がシリアのPYDを支援することは、自国内のPKKを手助けしていることと同じである。米国は、PKKをテロ組織に指定しているが、PYDをテロ組織とはみなしていない。ここにトルコとの認識の違いがある。米国がトルコの反発を承知の上でPYDを支援するのは、クルド勢力が対ISILで地上戦を担う貴重な存在だからである。だが、トルコとしては、米国のクルド支援を看過できない。エルドアン大統領は、2016年2月10日、米国のクルド支援策が「血の海を作り出す」と警告し、米国に対し、「われわれの側にいるのか、それともテロリスト側にいるのか」と怒りを表した。

 クルド人は、ロシアのシリアへの軍事介入後、米国だけでなくロシアの支援も受けている。そして、ISILとだけでなく、ロシアが空爆を加えている反体制派とも戦ってきた。そのため、トルコのクルド人への警戒は、より一層高まっている。

 トルコは、「アラブの春」以降、政情が不安定になっている。エルドアン大統領を事実上の指導者とするイスラーム系与党、公正発展党(AKP)は、2015年6月の総選挙で過半数割れに追い込まれた。エルドアンは、PKKやISILへの強硬姿勢を打ち出して国民の支持を回復させ、AKPは同年11月の出直し総選挙で絶対多数を獲得し、権力基盤を強化した。

 だが、PKKやISILへの強行姿勢は、これらの組織の反撃を強めることになっている。2015年10月、首都アンカラで大規模テロが起こり、一般市民や観光客らが100人以上死亡した。トルコ政府は、ISILによる犯行とみている。2016年1月には最大都市イスタンブールで、ISILのメンバーによると見られる自爆テロが発生し、観光客ら13人が死亡した。2月18日にはまたアンカラで爆弾テロが起こり、28人が死亡した。トルコのダウトオール首相はPYDとPKKによる犯行と断定した。3月13日にもアンカラで自爆テロが起こり、PKKの分派が犯行声明を出した。3月19日にはイスタンブールでまた自爆テロが起こり、少なくとも5人以上が死亡した。ISILの犯行とみられる。

 こうしたテロの頻発は、エルドアン政権がPKKやISILとの対決にかじを切った結果といえる。政権はクルド組織とISILとの「二正面作戦」を展開する形となっている。だが、国境をまたいで活動する両組織の根絶は困難で、政権の苦戦が続く模様である。

 クルド人の動きやトルコの事情は、シリア問題に影響をもたらす多くの要素の一部に過ぎない。シリアを最も熱い焦点として、複雑さを増す中東の情勢は、イスラーム文明の今後を大きく左右する重大な問題となっている。

 

●シリアからの難民・移民とトルコ・EUの関係

 

 ところで、トルコは、シリアと南東で隣接しており、シリアからの難民・移民を最も多く受け入れている国である。また、トルコはシリアの難民・移民がヨーロッパへ流入する最大の通路ともなっている。

 2016年3月18日、欧州連合(EU)とトルコは、難民・移民の流入問題をめぐる首脳会談を開き、トルコから密航した難民・移民らのトルコへの送還など新たな措置で合意した。

 EUは従来、トルコ・ギリシャ間の国境管理強化で流入を抑え、密航でも難民はギリシャで手続きを行った上加盟国受け入れを分担する対策を描いた。だが、実際には機能せず、EUは危機感を強めていた。

 これに対し、今回の措置では密入国者をトルコに原則送還し、シリア難民については送還者と同数を同国内の難民キャンプなどから受け入れる。不正規のルートを遮断し、受け入れを正規ルートのみに制限して密航抑止を図ることを狙いとしている。EUは、トルコから引き取る難民を当面7万2千人に限定する。

 こうしてEUは従来の難民・移民の受け入れを容認する姿勢から、難民・移民の管理・制限に大きくかじを切った。この方向転換が無秩序な流入に歯止めをかける転換点になると期待されている。

 だが、EUは2015年に、ギリシャやイタリアに入った難民ら計16万人の受け入れを加盟国で分担する計画を決めたが、実行されたのはまだ約800人に過ぎない。東欧などが分担に強く反対した経緯もあり、トルコからの受け入れをどう加盟国間で負担するかが課題となっている。法的な問題にも課題があり、危機収束の「決め手」となるかどうかは不透明な状態である。

 トルコ側は、EUに利益を与えることで、EUへの要求を強めている。トルコは、EUから難民対策への資金支援を総額60億ユーロ(約7500億円)に倍増するという条件を引き出した。また、EUへの加盟問題で、EUにトルコの受け入れを積極的に求める材料としている。

 トルコは、イスラーム文明では、最も西洋化・近代化が進んでいる国である。西洋文明との関係では、NATOには入っているが、EUには加盟を認められていない。EUは東方の安全保障上、トルコのNATO加盟は必要としているものの、キリスト教国とは宗教文化の違うトルコをEUに受け入れていない。

 EUはトルコの加盟申請を検討しているが、もしトルコがEUに入った場合、シリア、アフガニスタン、リビア等だけでなく、トルコからも独仏等に移民が行くだろう。EUは人口の数で投票権が決まる。トルコが入るとやがて最大人口国のドイツを抜くことになり、票数に逆転が生じる。それゆえ、EU側にトルコの参加を本当に認める意思はなく、一種のリップサ―ビスとみられる。西欧にとって、トルコは冷戦期には共産主義の防波堤だった。今度は難民の防波堤として利用しようとしているのだろう。

 また、トルコの南方にはイラクがあり、シリアがある。そこではISILが勢力を広げており、トルコやその周辺諸国にはクルド人が居住する。EUがもしトルコの加盟を許可すれば、中東のイスラーム教の宗派や国家の対立・抗争、アラブ民族と他民族の対立・抗争を、ヨーロッパ大陸に呼び込むことになるだろう。

 

●収束の見えないイラクとアフガニスタン

 

 今日のイスラーム文明が対立・分裂の様相を色濃くしているのは、2001年(平成13年)9月のアメリカ同時多発テロ事件後、アメリカがアフガニスタンとイラクに対テロ戦争を仕掛け、それが解決に至っていないことに、大きな原因がある。ここでそのイラクとアフガニスタンの現況について触れておきたい。

 先ずイラクについてだが、2016年(平成28年)1月11日、イラクの首都バグダードやその近郊で商業施設などを標的とする自爆テロや爆発が相次いだ。少なくとも51人が死亡、90人以上が負傷した。同日、ISILがシーア派住民らを狙ったとする犯行声明をネット上に発表した。

 この1月の初め、サウディ等のアラブ諸国とイランが断交し、スンナ派とシーア派の宗派対立の激化が懸念される状況となっていた。ISILは、こうした状況をとらえて大規模なテロを起こすことでこの対立を煽り、イラクのアバディー政権への反攻に利用しようとしているとみられる。

 ISILは、シーア派を「異端者」等として敵視している。イラクのスンナ派には、フセイン政権が崩壊して以降、シーア派主導の政権の下で冷遇されているとの不満を持つ者が多い。ISILはそれらを吸収することで勢力を拡大してきた。

 ISILは2014年(平成26年)6月カリフ制国家樹立の宣言後、急速に発展したが、米国等による空爆を受けて劣勢に転じた。とりわけ2015年11月のパリ同時多発テロ事件後、米仏ロ等による空爆が強化され、司令施設・石油関連施設・石油輸送車両等を破壊されている。こうしたなか、アバディー政権は2015年末、ISILが制圧していた西部アンバール県の県都ラマディを奪還した。サウディも参加する米主導の有志連合やイランも、同政権のISIL掃討作戦を支援している。ISILは同県内や拠点である北部モスル周辺などでなおも強い勢力を維持しているが、一時の勢いはなくなっている。

 こうした中で、ISILは先ほどの2016年(平成28年)1月のテロ事件で、首都及びその周辺で大規模な作戦を遂行する能力があることを改めて示した。イラクの命運は、ISIL掃討作戦の成果いかんに多くを負っている。掃討仕切らなければ、テロによる攻撃が様々な形を変えながら続き、イラクを揺さぶり続けるだろう。

 ところで、イラクの事情が複雑なのは、クルド人が人口の約15%を占め、北部に自治政府を持つことである。クルド人は、民族全体で2000万人以上いるとされ、イラク、トルコ、イラン、シリアにまたがって居住し、「国家を持たない世界最大の民族」といわれる。

 イラクでのISIL掃討作戦は、米軍などの有志連合軍が空爆や情報収集、イラク軍への作戦計画支援などを担い、地上戦をイラク政府軍とクルド自治政府(KRG)の民兵組織「ペシュメルガ」が遂行している。ISILに対する戦いにおいて、オバマ大統領は空爆開始時点から地上戦闘部隊を派遣しない方針を繰り返し表明してきたが、いまだかつて空爆だけで、国際テロリスト組織を殲滅できたことはない。有志連合にとって、高い士気を保つKRGの地上部隊は必要不可欠な戦力となっている。

 地上戦で重要な役割を果たすKRGは、イラク軍とISILの戦いの合間を突いて、勢力圏を広げている。KRGは、ISILとの戦いへの貢献をもとに、今後イラクから独立を宣言する機会をうかがっているとみられる。現在のところは自治区からの石油輸出を開始するなど、財政的な自立を大きな目標としているものの、歳入の大部分はイラク中央政府からの予算配分に頼っており、経済的な基盤が弱い。

 だが、条件が整えば、KRGが独立宣言を発する可能性がある。すでにシリアでは2016年3月に「民主連合党」(PYD)が連邦制を宣言する考えを明らかにした。シリアとイラクのクルド人は、共通の敵としてISILと対決する必要性を感じるようになり、その機運はイラン、トルコのクルド人にも広がっているた。今後、KRGがイラクで独立を宣言すれば、各国のクルド人がこれに呼応するだろう。こうした動きがシリア、イラン、トルコのクルド人地域で相乗的に活発化すれば、中東情勢は一段と複雑化するだろう。

 次に、アフガニスタンについて書く。オバマ大統領は、2014年(平成26年)中にアフガニスタンからの米軍の完全撤退を行うと発表した。だが、タリバン側は停戦の意思を示さず、オバマ大統領は撤退を2016年末に延期した。

 ようやく2015年(平成27年)7月に、政府とタリバンによって、和平を目指す初の公式協議が行われた。だが、タリバンの最高指導者オマル師が2年以上前に死亡していたことが暴露され、話し合いは頓挫した。同年12月、首都カブール北方の米空軍基地近くで自爆テロが行われ、米兵6人が死亡し、タリバンが犯行を認めた。その事件により、不安定な情勢を踏まえて、米国は2016年末までの完全撤退を断念した。

 2016年(平成28年)1月初め、アフガニスタン南部ヘルマンド州でアフガン治安部隊を支援していた米軍特殊部隊が攻撃され、米兵1人が死亡した。同州は反政府武装勢力タリバンの活動が活発な地域とされる。またアフガニスタン北部のマザリシャリフにあるインド領事館が武装集団に襲撃され、また首都カブールの空港付近で自動車爆弾による自爆テロが起こった。アフガン和平やインドとパキスタンの関係改善を模索する動きに対して、イスラーム教過激組織が地域の安定化を妨害しようとしてテロ攻勢を強めている模様である。タリバン内の強硬派など、和平に反対する集団の犯行とみられる。

 そうした中、1月11日に、アフガニスタン和平に向けたアフガン、パキスタン、米国、中国による初の4者協議が、パキスタンの首都イスラマバードで行われた。協議では、アフガン政府とタリバンの公式和平協議再開を目指すことが強調された。だが、タリバンは交渉の席に戻る意思を示していない。そのうえ、アフガン政府側には、実在しないのに給料だけが支払われている「幽霊兵士」が4割ほどもいることが明らかになり、治安維持能力の不足を露呈した。自律的に国家を統治できる状態には、ほど遠い。

 アフガニスタンは、和平実現への道筋が見えない状態が続いている。今後、アフガニスタンに、ISILの影響が広がった場合、米国やパキスタン、中国の対応は、一層困難なものとなるだろう。

 

●中東複合危機から第3次世界大戦に発展するおそれ

 

 イスラーム文明の現在において、中東の情勢は誠に複雑である。これを大局的に捉える見方を提示している専門家の一人が、山内昌之氏である。

 山内氏は、著書『中東複合危機から第三次世界大戦へ』で次のような見方を提示している。山内氏は「中東で進行する第2次冷戦とポストモダン型戦争が複雑に絡む事象」を「中東複合危機」と定義する。

 「シリアの内戦の多重性がイラクに逆流し、バグダード政府(シーア派のアバディー政権)に対する戦争、シリアのアサド政権とイラクのバグダード政府を後援するイラン革命防衛隊との衝突、同じスンナ派のサウディアラビアと、シーア派のイランとの対決など、争いが宗派間と宗派内の対立を複雑に結び付け、それでなくても多重的な内戦に外国を巻き込む多元的な戦争に変質させる構造をつくってしまった」

 こうした状況で「シリア内戦に関与している国々を中心に、世界的規模で第2次冷戦が進行している」と山内氏は見る。

 冷戦とは、もともと第2次世界大戦終了後の米ソ関係を言ったもので、直接超大国同士が砲火を交えはしないが、戦争を思わせるような国際間の厳しい対立・抗争が繰り広げられている状況をいう。米ソ冷戦の終結後、しばらく緊張は緩和したが、2010年代に入って、再び米国と中国、米欧とロシア等の間で、かつての冷戦を想起させるような対立・抗争が生じている。山内氏は、これを第2次冷戦ととらえるわけである。

 そのうえ、山内氏は言う。「シリア戦争には、第2次冷戦とは異質なポストモダン型戦争ともいうべき要素が、別に含まれている」と。

 近代西洋文明が生み出した世界において、戦争とは国家と国家の間で行われる戦争である。これに対し、ポストモダン型戦争とは、国家間の戦争とは異なるタイプの戦争である。2001年の9・11以後の国家とテロ組織の戦いがその典型である。ISILは、前近代的なカリフ制国家を自称することで、テロリストによる疑似国家と既成の国家の戦いという新たな種類のポストモダン型戦争を加えた。山内氏は、「もはや21世紀は、国家が干戈を交える形式だけを戦争と考えられない歴史に入ったのである」という。

 山内氏は、国家がISILのような「テロリズムによって寄生され、軍事力でも圧倒され、国家の骨格が腐朽していく現象が、中東からアフリカにかけてポストモダン的政治現象になっている」「領土や領域、それを画する国境を否定しながら、国家の融解や解体が進展している」という。そして、「第2次冷戦が中東の各地域で熱戦化し、ポストモダン型戦争と結合して第3次世界大戦への道を導く可能性を排除できない」と述べる。

 「トルコとロシアとの間に熱戦が生じるなら、ポストモダン型戦争が結びついて中東複合危機が深まる中で、ますます第3次世界大戦の暗雲が立ち込めるだろう」と山内氏は観測する。またサウディアラビアとイランが正面から事を構えるなら、「肥沃な三日月地帯と湾岸地域を舞台にしたスンナ派対シーア派の宗派戦争に発展するだろう」という。「この最悪のシナリオが実現すれば、中東複合危機は第3次世界大戦への扉を開くことになる。こうなれば米欧やロシアや中国も巻き込まれ、ホルムズ海峡は封鎖されるか、自由航行が大きく制限される。日本はもとより、世界中のエネルギー供給や金融株式市場や景気動向を直撃するショックが到来するのだ」と述べている。

 私はまた別の可能性として、イランが核開発を進めた場合、イスラエルがイランに攻撃を仕掛けることも挙げたい。イランの核開発に最も脅威を感じているのはイスラエルだからである。イランが自前の核を持つ前に叩こうとして、イスラエルが動くかもしれない。

 また、イランが核を持てば、中東では、これに対抗するため、イスラーム教国のパキスタンから核兵器を買って核保有をしようとする国が出るだろう。サウディアラビアは、イランとの断交後、ジュバイル外相が、「イランが核を保有する場合、サウディアラビアも核取得を排除しない」と公言した。その発言の直後にサルマーン国王は中国の習近平国家主席と原子炉建設について協力する合意文書を交わしている。仮にサウディが核を持てば、エジプトは核を自力開発するだろう。こうして核の拡散に歯止めがかからなくなるおそれがある。イスラーム文明の中心地域は、長期的に見て、世界の核開発・核保有の最も深刻な地域になり得る地域である。そして、中東発の第3次世界大戦が、核兵器を主要な兵器として使用するかつてない質の戦争となる可能性が懸念される。

 

●イスラーム文明全体の課題

 

 イスラーム文明は、「アラブの春」によって、大きな地殻変動を起こしつつある。その中から、従来のテロ組織の枠を超え出たISILが台頭し、この地殻変動を非常に深刻なものにしている。

ISILが急激に勢力を伸長した背景には、イラク、シリアが破綻国家になりつつあるという事情がある。イラクは、民主化の進展を見たアメリカが撤退したら、途端に政情が不安定になり、その隙にISILが伸長した。シリアは、アサド大統領率いる軍事政権とこれに対抗する反政府勢力との内戦が泥沼化し、多数の難民が欧州に押し寄せている。これら両国の政府は自国の統治がまともにできていない。正規軍も事実上なくなっている。そういう状態だから、ISILが拡大するのである。これをなんとかしないとISIL問題は解決に向い得ない。とりわけシリアの内戦を終結させることが、ISILを壊滅させるためには、不可欠である。シリア内戦の経過と現状については、先に書いたとおりである。

 ISIL問題は、もはや欧米やロシア、トルコ等が関与する一大国際問題となっている。だが、この問題は、なによりアラブ諸国の問題である。アラブ諸国が自分たちで地域をしっかり統治すべきなのである。だが、それができていない。周辺のアラブ諸国でISILへの対応のために地上軍を送っている国は一つもない。空爆だけでISILを壊滅させることはできない。「国家」を名乗るテロ集団の拡大を許したアラブ諸国のあり方が変わらねばならない。

 宮家邦彦氏は、次のように述べている。「『イスラム国』問題は長期化し、国際社会は難しい対応を迫られる。『イスラム国』が攻撃を続ける以上、短期的には物理的な外科手術が必要だ。さらに、中期的には欧州・関係各国で内外警備を強化する必要もあるだろう。しかし、それだけでは不十分だ。長期的に『イスラム国』のようなテロ集団を根絶するには、中東アフリカの破綻国家を再建し、まともな中央政府と正規軍を再構築する必要がある。これこそ日本が貢献できる分野だが、主要国の足並みはいまだそろっていない。日本の貢献にも限界があることだけは確かである」と。

 中東で破綻国家の再建が進まず、逆に、無政府状態に近い国や果てしない内戦の続く国が増えると、それによってさらにISILが勢力を伸ばすだろう。特に中東の弱い環とみられるイエメン、ヨルダンで政権が倒れ、国内に混乱が広がると、ISILはそこに付け込んで、勢力を伸ばそうとする。それが奏功すれば、各国にいるISILの傘下組織や同調するグループが過激な行動を広げていくおそれがある。各国にまだら的にISILが支配する地域が広がり、各国政府軍、反政府軍、過激組織等が入り乱れて戦闘する。そうした状況において、過激なイスラーム教徒の一部がイスラエルへのテロ攻撃を活発化するならば、ユダヤ教国対イスラーム教諸国という最大最凶の対立が再び現実になるかもしれない。

 さらに、破綻国家の再建と周辺各国の安定化が進まなければ、中東は今後、核拡散の舞台となるおそれがある。元外交官で作家の佐藤優氏は、ISILが核兵器を持つ可能性があると警告している。かつてオウム真理教は核開発を進めようとしていた形跡がある。イスラーム教過激組織も当然核の保有を考えるだろう。ISILが核兵器を持って脅迫したら、欧米の民主主義国は国民の人命尊重のためにテロリストの要求に従う可能性がある。持ち運び可能な核兵器で自爆テロを決行されたら、多大な犠牲者が出る。イスラーム教の過激派は、自爆テロで自分は欲望全開の天国に直行できると狂信しているから、志願者が出るだろう。

 私は、過激組織は核兵器以上に生物兵器・化学兵器を入手する可能性が高いと思う。核より安価だし、取り扱いも核ほど難しくない。オウム真理教は、1995年(平成7年)に地下鉄サリン事件を起こした。アメリカでは2001年(平成13年)にイスラーム教過激派と思われる者が炭疽菌を使ったテロを行った。イスラーム教徒の犯行とみられる。ISILが生物兵器・化学兵器を使って欧米の大都市で自爆テロを行った場合、犠牲者数は、軽機関銃や体に巻きつける爆弾によるテロ事件の比ではないものとなるだろう。

 人類は自ら生み出した宗教と思想と科学技術によって、地球を修羅場に変え、自壊滅亡の道に陥りかねない危険なところに来ている。イスラームの宗教と文明で指導的な立場にある人々は、そのことを深く認識し、イスラームの宗教と文明の中において、問題の解決に叡智を結集すべきである。

 

●無差別自爆テロを防ぐための宗教的課題

 一般市民への無差別テロは非人道的行為であり、また自爆テロも多くの宗教や倫理思想では許容される行為ではない。だが、イスラーム教においては、これらが宗教的に正当化される。
 イスラーム教にも、ユダヤ教・キリスト教と同じく最後の審判の思想がある。アッラーのために戦い、ジハード(聖戦)で死んだ者は、最後の審判の時、イスラーム教徒はすべて肉体を持って生き返り、神の審判を受ける。しかし、聖戦で倒れた者は、すぐに生きたまま天国に入ることができる、と考えられている。これなら、戦闘に当たり、現世の死など恐れるに足らないだろう。こうした他の多くの宗教や倫理思想にはみられない来世観、死生観、そして戦争観が、イスラーム教を特徴づける。そして、それが絶対唯一神の教えとして若者の心をとらえる時、ごく普通の若者が、来世の至福を信じて、自爆による異教徒の無差別殺人を決行することになると考えられる。
 イスラーム教過激派は、自分たちの行動をジハードだと主張し、異教徒の無差別殺戮を行う。その際の特徴的な戦闘行動が自爆テロである。自爆テロは、2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件の直前までは行われていなかった。この9・11は、米国政府によって、アルカーイダの犯行とされている。自爆テロが一般化したのは、レバノンのシーア派過激組織ヒズブッラによる。ヒズブッラは、圧倒的なイスラエルの軍事力と戦うために、自分の体に爆弾を巻きつけて戦う戦法を考え出した。だが、イスラーム教は自殺を禁じているから、これは自殺ではなくジハードだとして正当化した。これによって、ジハードと自爆テロ結び付いた。
 スンナ派過激組織アルカーイダから「イラクのアルカーイダ」が派生し、「イラクとレパントのイスラーム国」(ISIL)を自称するようになった。ISILは、アルカーイダ以上に過激な組織であり、2014年(平成26年)に最高指導者のアブバクル・バクダーティがカリフ制国家を宣言し、イラクやシリアで急速に支配領域を広げた。カリフは、ムハンマドの死後、「神の使徒の代理」とされてきた役職である。オスマン帝国の崩壊に伴い、カリフ制は廃止されていた。だが、ISILはカリフ制国家を復興することで、西洋近代文明に発する国際秩序を拒否し、またイスラーム教の既存の体制に挑戦している。
 宗教に基盤を持つ対立・抗争は、宗教が主な原因だから、その解決には、宗教者が取り組まなければならない。特に、各宗教宗派の内部における問題は、その宗教宗派が解決に努力しなければならない。だが、イスラーム教の宗教的指導者は、スンナ派・シーア派の対立の融和にも、スンナ派内部の正統派と過激派の争いの解決にも、ほとんど無力のように見える。これには、イスラーム教の教義の特徴が関係している。イスラーム教は、ムハンマドを最後の預言者としており、『クルアーン』は神の言葉そのものとされるので、教義の変更が許されない。イスラーム教においては、法は啓典の中に発見すべきものとされ、新しい立法という考えは出にくくなった。シャリーア(イスラーム法)は、教義の枠内での細目の整備を積み重ねてきたものである。黒田壽郎氏は、著書『イスラームの心』に次のように書いている。「8世紀から9世紀にかけて登場した主要法学派の内容が、千年を経過したのちのにもさしたる発展を示していない点に彼らの退嬰性は歴然と浮き彫りにされている」「訓詁の学を煩瑣にするばかりで、創造的活気を失っている」と。特にスンナ派では、ウラマー(法学者)と呼ばれる宗教指導者たちは政治権力に従属的で、政治を正す力を発揮できない傾向がある。ウラマーの多くは、現状の体制と権勢の維持のために改革を望まぬ支配者に迎合する傾向があると指摘される。
 池内恵氏は、2015年(平成27年)11月のパリ同時多発テロ事件後、次のように書いた。「スンナ派では構造的に宗教者の政治・経済的基盤が弱いことで政治支配者への従属は必然的となり、また、宗教解釈権において『イマーム』のような超越的存在がないことにより、教義の根底での変更を行う権限を持つ人間が現れない(過去の人物に託して変えることもできない)。そもそもそのような『法的安定性』こそがスンナ派の強みである。『イスラーム国』はスンナ派の構造的な柔構造から現れてくる。『イスラーム国』の根底を覆そうとするとスンナ派の宗教思想・権威・権力の構造そのものが揺らぎかねないという危機感を多くが抱くだろう」と。
 スンナ派における主流派・穏健派の法学者と過激思想の指導者が論争した場合、前者が教義の解釈において後者を論破できないという指摘がある。そうだとすれば、イスラーム文明において、ISILが自称する「イスラーム国」が各地で拡大していくことを防ぐことは困難だろう。
 私は、イスラーム教におけるジハード(聖戦)という教えの特殊性、及びその極端な解釈に問題があると考える。ジハードの項目に書いたが、『クルアーン』は、しばしば聖戦について言及している。アッラーは、信徒の勇気を鼓舞し、激しい表現で決然と「戦え」「殺せ」と命じる。また、アッラーは、聖戦で死ぬ者を救うことを約束する。聖戦で殉教した者は、最後の審判を待たずに天国に直行すると信じられている。
 こうした教えを極端に解釈すると、自爆テロによる無差別大量殺人の決行ということになるだろう。だが、『クルアーン』は、次のように戒めてもいる。「あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは、侵略者を愛さない」。「だがかれらが(戦いを)止めたならば、本当にアッラーは、寛容にして慈悲深くあられる」。「迫害がなくなって、この教義がアッラーのため(最も有力なもの)になるまでかれらに対して戦え。だがもしかれらが(戦いを)止めたならば、悪を行う者以外に対し、敵意を持つべきではない」(第2章第190節〜193節)。
 またシャリーアの第一法源であり、ムハンマドの言行・事跡を記録した『ハディース』には、ムハンマドが「敵国のいかなる老人、子供及び婦人を殺してはならぬ」「僧院に在る僧侶、礼拝の場に座る人々を殺してはならぬ」と信者に命じたと記録されている。過去の歴史においては、イスラーム教は、迫害を止めた者や戦争で降伏した者には寛大であり、支配地域の諸民族に改宗を強制することもなかった。むしろ、キリスト教の方が、十字軍戦争やレコンキスタでイスラーム教徒を残虐に大量殺戮したり、北米や南米で先住民を大量虐殺したりしている。
 今後、イスラーム教の内部から根本的な改革の動きが出てくるか、あるいはイスラーム教を発展的な解消に進めるような新たな宗教が出現するかでないと、イスラーム教諸国も人類全体も、平和と安定を得られないことになるだろう。これは、ユダヤ教、キリスト教を含むセム系一神教全体に共通する課題でもある。

●キリスト教側の動き

 ISIL等のイスラーム教過激組織のテロによって、世界各地で無辜の人々が多数犠牲になっている。犠牲者には、キリスト教徒が多くいる。特に欧米でのテロでは、そうである。
 こうしたなか、2016年2月12日、ローマ法王フランシスコと、東方正教会の最大勢力であるロシア正教会のキリル総主教が、キューバの首都ハバナの国際空港で会談した。両教会のトップが会談するのは史上初めてという。
 キリスト教は、1054年に教義の相違等から東西に分裂した。13世紀にカトリック教会が派遣した十字軍が東方正教会の中心地コンスタンチノープルを攻略したことで、溝は深まった。20世紀に共産主義が勢力を広げたソ連・東欧では、ロシア正教は弾圧された。共産主義政権の崩壊後、東欧をはじめ旧ソ連圏でカトリックが影響力を拡大した。特にウクライナでの布教をめぐってロシア正教会側が強く反発した。
 しかし、今回、東西のキリスト教会は、本格和解に向けて歴史的な一歩を踏み出した。そのきっかけは、イスラーム教過激組織のテロによってキリスト教徒が犠牲になっていることである。2月12日に署名された共同宣言には、テロリズムや中東でのキリスト教徒迫害に対処する必要性が盛られている。
 総主教は署名後、「2つの教会は今日、世界のキリスト教徒保護のため積極的に協力できるようになった」と述べて対話を継続する姿勢を見せ、法王も「兄弟のように話した」と語ったと報じられる。
 東西の教会の教義に対する見解の相違やわだかまりは依然大きい。今回の会談でも、ウクライナでの布教をめぐる対立を棚上げし、イスラーム過激派によるキリスト教徒迫害といった両教会の共通課題への対応が優先された。
 なお、ロシア正教側には、シリアやウクライナの問題で孤立を深めたプーチン政権に、バチカンとの接近を通じて欧米の態度軟化を引き出したい思惑があるという見方がある。
 カトリック教会の法王とロシア正教会の総主教が共同宣言を出すというこのキリスト教側の動きは、キリスト教徒の保護という限定されたものであり、一面では、イスラーム教とキリスト教の対立を強める方向に進む可能性もある。
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第4章 将来


●トッドの将来予測〜近代化から脱イスラーム化へ

 サミュエル・ハンチントンは、1996年(平成8年)に出版した『文明の衝突』で、冷戦終結後の世界では文明のアイデンティティが人々の結束や分裂、対立のパターンを形成しつつあると説き、特に西洋文明とイスラーム文明の衝突の可能性とその回避の方法を論じた。これに対し、エマニュエル・トッドは、西洋文明とイスラーム文明の将来は、文明の「衝突」ではなく「接近(ランデブー)」となると説いている。トッドの説の根拠は、人口学・家族人類学の理論に基づく。イスラームの宗教と文明の将来を考える時、トッドの説は最も注目すべきものの一つである。
 先に書いたように、トッドは、近代化の主な指標である識字化と出生調節の普及という二つの要素から、イスラーム教諸国では近代化が進みつつあるととらえる。
 トッドによると、識字率が50%を超えると、その社会は近代的社会への移行期に入り、「移行期の危機」を経験する。男性の識字率が50%を超えると、政治的変動が起こる。女性の識字率が50%を超えると、出生調節が普及し、出生率の低下が起こる。イスラーム文明では、1970年代にイラン、2010年代に北アフリカ・中東等の国々が、この50%超えの段階に入った。
 イスラーム教の中心地域であるアラブ諸国では、出生率の低下が伝統的な家族制度を実質的に掘り崩しつつある。また、男性の識字化は父親の権威を低下させ、女性の識字化は、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがしている。識字化によって、父親の権威と夫の権威という二つの権威が失墜しつつある。
 トッドによると、「アラブの春」は、17世紀のイギリス、18世紀のフランス、20世紀のロシアなどで起こった近代化の過程における危機と同じ「移行期の危機」の現象である。イスラーム教原理主義は「移行期の危機」におけるイデオロギーである、とトッドは解釈する。そして、次のように言う。「アラーの名において行なわれるジハード(聖戦)は、移行期の危機を体現しているのである。暴力、宗教的熱狂は、一時的なものにすぎない」と。
 トッドは、イスラーム教諸国は、この人口学的な危機を乗り越えれば、近代化の進行によって、個人の意識やデモクラシーが発達し、やがて安定した社会になると予想する。識字率の向上と出生率の低下で、人口は安定し、政治的・宗教的な過激行動は鎮静化する。そして、イスラーム教諸国は民主化が進む、とトッドは予測している。
 トッドは、2007年(平成19年)に刊行した『文明の接近――「イスラームVS西洋」の虚構』で、次のように言う。「イスラーム圏は現在、人口学的・文化的・心性的革命に突入しているが、その革命こそ、かつて今日の最先端地域の発展を可能にしたものに他ならない。イスラーム圏もそれなりに、世界史の集合点に向かって歩みを続けている」と。
 近代化によって「世界史の集合点」に向かうことが、トッドの言う文明の「接近」である。これに加えて、トッドがイスラーム文明についてもう一つ予測することが、脱イスラーム化である。
 イスラーム教の分布地域は、中東から中央アジア、南アジア、東南アジア、アフリカ等に広がる。各社会の家族型は、地域によって異なる。中東・北アフリカでは、主に共同体家族である。ただし、通婚制度には違いがあり、中心地域のアラブ諸国やイラン、トルコ等は、内婚制共同体家族である。その周縁にある中央アジアは、外婚制共同体家族である。北インドも外婚制共同体家族が多い。東南アジアは、地域的には核家族が多い。最周縁のアフリカ南部には、代表的な型がなく多種の家族型が存在する。
 社会の基礎を成す家族制度の変化は、社会全体に変化をもたらす。トッドは、その変化の方向はデモクラシーの普及だという。識字化はデモクラシーの条件である。識字化によって、イスラーム教諸国もデモクラシーの発達の道をたどっている、とトッドは指摘する。そして、トッドは、その行き着く先にイスラーム教諸国における脱宗教化を大胆に予想するのである。
 トッドは、『文明の接近』の「最も根底的な命題」は、「イスラーム教は、キリスト教と同様に、俗世間の非宗教化と信仰の消滅にまで行き着くことがありうる、というもの」であると言う。
 「あらゆる宗教は公然もしくは暗然の形で、出産奨励的である。何故なら宗教とは人の命に意味を与えるものだからである。識字化と並んで、宗教の動揺と、それに続いた消失が、出生率の低下の条件になったのは、そのためである」。それゆえ、それぞれの宗教の教えの違いにかかわらず、「普遍的法則」が存在するのではないか、とトッドは考えている。そのような考えに立って、トッドは、イスラーム教諸国について、「脱イスラーム化のプロセスもすでに始動している可能性は大いにある。そして人口動態はその痕跡を示しているのである」「やがては脱イスラーム化されたイスラーム圏の可能性が、ほとんど確実なものとして輪郭を現している」と述べている。
 このように、トッドは、イスラーム文明は近代化が進行し、さらに脱イスラーム化するという将来予測を打ち出している。

 

●イスラーム文明の人権に関する動向

 トッドは、識字率の向上と出生率の低下によって、イスラーム文明は近代化が進み、脱イスラーム化する、と予測している。この近代化及び脱イスラーム化の進行は、イスラーム文明における人権に関する考え方にも変化をもたらすだろう。
 人権については、拙稿「人権――その起源と目標」に詳しく述べている。人権は普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」である。
 人権は第2次世界大戦後の世界で中心概念の一つになっている。近代西欧に発した人権の概念は、第2次大戦後、世界に広まり、イスラーム文明においても、これにどう対処するかが課題となった。
 1948年(昭和23年)国際連合で世界人権宣言が採択された際、サウディアラビアは、イスラーム教の教義から宣言の定める自由と権利の一部は受け入れられないとして、採択を棄権した。世界人権宣言音の後、1966年(昭和41年)に宣言の理念を条約に具体化する国際人権規約が国連で採択され、76年に発効した。また、これに続いて種々の国際人権条約が多数の国々の参加で締結されてきた。それら国際人権諸条約に定められた個人の自由及び権利は、国家の体制のかんを問わず、実現すべき価値であるという認識が、世界的に深まりつつある。
 この間、イスラーム教諸国会議機構に加盟する中東、北アフリカの国々は、人権に関する協議を重ねた。そして、これらの諸国は、1993年(平成5年)のウィーン会議を前後して、1990年(平成2年)に「イスラーム教における人権に関するカイロ宣言」を採択し、94年(平成6年)には「人権に関するアラブ憲章」を採択した。
 カイロ宣言及びアラブ憲章は、人権概念とイスラーム教の教義及び国家原理との調和を図るためのものである。イスラーム教諸国の側から欧米に向けて発せられた「どのような人権なら受け入れることができるか」を示すメッセージだったとも理解できる。カイロ宣言では「イスラーム教における基本的権利及び普遍的自由は、イスラーム教の信仰の一部である」ことが確認された。アラブ憲章では、人権が「イスラーム教のシャリーア(イスラーム法)及びその他の神の啓示に基づく諸宗教によって堅固に確立された諸原則」であることが確認された。このことは、イスラーム教諸国は人権が西洋文明の所産であるという見方を否定したことを意味する。移動や居住の自由、表現の自由といった個別的な人権については、シャリーアの優越が強調された。またカイロ宣言は、イスラーム教諸国の地域性を反映して「高利貸しは絶対的に禁止される」とし、アラブ憲章は「アラブ・ナショナリズムが誇りの源泉である」「世界平和に対する脅威をもたらす人種主義とシオニズムを拒否する」等の他地域の人権条約にはみられない規定が盛り込まれた。
 このように、イスラーム教諸国の人権解釈は、イスラーム教の教義に人権の概念に当たるものを見出して、教義と人権概念の矛盾を解消し、それでもなお矛盾の生じかねない部分、たとえば移動・居住・表現等の自由については、シャリーアの規定を優先させている。ここには西欧発の人権思想を一定程度摂取しながら、それをイスラーム教に固有の概念で置き換えて土着化させるという文明間における主体的な対応がみられる。
 今日の世界で、国際人権規約の自由権規約及び社会権規約は、160以上の国が締約国となっている。個別的人権条約についても、締約国が最も多い子どもの権利条約は190以上の国が締約国となっている。また女性差別撤廃条約も締約国は180以上となっている。イスラーム教国も多くがこれらの条約を締結している。だが、サウディアラビアやイランなどでは、キリスト教に根拠を置く人権思想を異教の思想として受け入れられないとする考えが根強い。その一方、イスラーム教諸国も、血の神聖さなどの教義を中心としたシャリーア(イスラーム法)における人権という考え方を持って欧米の人権思想との整合性を図っている。これに対し、イスラーム法の人権は制限が厳しく、欧米から人権侵害であると非難されている。特に女性の権利への制限は、西洋文明と大きな価値観の相違を示している。そこには、宗教だけでなく、家族型による価値観の違いが表れている。むしろ、家族型的な価値観が宗教的価値観の基底にあることを理解すべきである。
 中東・北アフリカに広がるアラブ社会の家族型は、内婚制共同体家族である。また父系的でもあるので、内婚制父系共同体家族と呼ばれる。この家族形態は、アラブ圏全域に加えて、イラン、アフガニスタン、パキスタン、トルコ、トルキスタンに分布する。東アジアのインドネシア、マレーシア等を除くイスラーム圏の大半の地域である。
 共同体家族は、子供が遺産相続において平等に扱われ、成人・結婚後も子供たちが親の家に住み続ける型である。アラブ社会の遺産相続制度は、男子の兄弟のみを平等とし、女子を排除する。それゆえ、女性の地位は低い。女子は家内に閉じこめられ、永遠の未成年者として扱われる。欧米の価値観に立てば、女性の権利が制限されるアラブの文化、ひいてはイスラーム教の文化は、人権侵害となる。逆にイスラーム教徒から見れば、女性が顔や肌を露出し、性的に自由な行動をする欧米の文化は不道徳となる。アラブの族内婚は、伯叔父・伯叔母の家に嫁ぐために、親しく大事にされ、族外婚の女子が体験するような苦労がない。アラブ社会は、西洋的な価値観に立てば、女性が抑圧されているとみられるが、親族内で女子が守られるという一面もある。それゆえ、文明間においては、こうした家族型による価値観の違いを理解し、そのうえで相違の次元の根底にある共通の次元を見出し、それぞれが人民の自由と権利を拡大していくのでなければならない。
 イスラーム教諸国は女性差別撤廃条約その他の条約を締結はしているが、『クルアーン(コーラン)』やシャリーアを根拠とする多数の留保や宣言を付している。その中には欧米諸国や条約実施機関から条約目的と両立しないという異議や懸念を表明されたものが少なくない。イスラーム教徒は、世界人口の4分の1近くを占める。世界の中でごく一部の国々が異論を唱えているのではない。欧米で発達した人権思想は、イスラーム文明ではそのままでは受け入れられない。それは文明、宗教、価値観の違いに根差すものである。
 イスラーム文明は、イスラーム教を宗教的な中核とする文明であり、人間やその権利についてイスラーム教の教義に基づいて、またその枠内で規定する。それゆえ、西洋文明に発する人権についても、これまでのように、イスラーム文明という単位で対応が行われていくだろう。この過程において、トッドが指摘する識字率の向上と出生率の低下による意識と価値観の変化が、イスラーム文明における人権の概念に大きな影響を与えていくに違いない。そして、この意識と価値観の変化が、イスラーム教という教義の変更を許さない宗教の非常に硬直した規範体系をも変化させる段階になった時、トッドのいう脱イスラーム化が、イスラーム文明の全体において進行していくだろう。

 

●イスラーム文明と世界の諸文明の関係

 ハンチントンは、21世紀初頭の世界は一つの超大国(アメリカ)と複数の地域大国からなる一極・多極体制を呈するようになったとし、今後、世界は多極化が進み、真の多極・多文明の体制に移行すると予想した。また特に西洋文明とイスラーム文明・シナ文明との対立が強まり、西洋文明対イスラーム=シナ文明連合の対立の時代が来ると警告した。後者の連合は、「儒教―イスラーム・コネクション」ともいう。このことは、多極化・多文明化する世界において、米国が徐々に衰退する一方、中国が経済的・軍事的な影響力を増すことを予想するものでもある。
 ここで、多極化・多文明化と米中の覇権争いが予想される21世紀の世界において、イスラーム文明と他の主要文明の関係がどのようになっていくかを考察したい。

●西洋文明との関係

 イスラーム文明が歴史的にお最も深い関係を持っている異文明は、西洋文明である。それは、現在から数十年先の将来にかけても変わらない。ハンチントンは『文明の衝突』で、西洋文明とイスラーム文明の衝突の可能性を警告した。これに反論して、トッド文明「衝突」せず「接近」するという将来予測を打ち出している。「接近」とはイスラーム文明における識字率の向上と出生率の低下による近代化、さらに脱イスラーム化の進行に基づく現象である。
 私は、長期的な傾向としては「接近」の可能性を認めるが、現状は、むしろヨーロッパへのイスラーム移民の流入により、ユダヤ=キリスト教的西洋文明とイスラーム文明の対立・摩擦が強まっていると思う。ハンチントンは、文明の衝突は文明の断層線(フォルトライン)で起こるだけでなく、文明の内部でも起こると述べた。ヨーロッパでは、文明と文明が地理的空間的に衝突しているのではない。一つの広域共同体の中で、先住の集団と外来の集団が混在し、その間で衝突が起こっている。ヨーロッパにおける主たるフォルトラインは、ある文明に属する諸国と、別の諸国との国境地帯にあるのではなく、都市の街区や学校の教室の中に立ち現れている。国境のフォルトラインで戦争が起こるのではなく、都市のフォルトラインで、爆弾テロが起こる。地理的空間的に展開する軍隊同士の争いではなく、地下鉄や劇場でゲリラが攻撃を仕掛ける。
 実際、イスラーム教過激派によるテロが都市で頻発している。2004年2月、スペインのマドリードの3駅で列車爆破テロが起こり、約190人が死亡した。2005年7月、イギリスのロンドンの地下鉄3か所、バス1台で同時テロが起こり、52人が死亡した。2015年(平成27年)1月のフランス風刺週刊紙襲撃事件や同年11月のパリ同時多発テロ事件等に見るように、文明の違い、価値観の違いによる対立・摩擦は深刻さを増している。これはハンチントンの予想を大きく超えた事態であるし、トッドはパリで、メトロで、コンサートホールで、無差別自爆テロが起こることを想定できていなかった。
 2016年3月18日ベルギーの捜査当局は、パリ同時多発テロの実行犯の一人、サラ・アブデスラム容疑者を、潜伏していたブリュッセル首都圏のモレンベーク地区で逮捕した。ベルギーは、パリ同時多発テロの実行犯グループがテロを準備する拠点となっていた。
 アブデスラム逮捕への報復が懸念されるなか、3月22日、ブリュッセルの国際空港及び地下鉄駅で連続爆弾テロが発生し、34人が死亡し、230人以上が負傷した。ブリュッセルは、欧州連合(EU)の本部があり、EUの首都とも呼ばれる。テロが起こった地下鉄駅は、EU本部に近くに位置する。
 3月22日の連続テロについて、ISILが犯行声明を出した。犯行声明は、正確に空港や地下鉄を標的にしたと指摘した上、「侵略の代償として十字軍連合は暗黒の日々を迎える」とし、ISIL掃討を目指す欧米諸国に対して警告した。
 フランスのオランド大統領は、「狙われたのは欧州全体だ」と語り、EUの連携を呼びかけた。またバルス首相は、「われわれは戦争状態にある」と述べ、国際社会の団結を訴えた。
ヨーロッパにおけるイスラーム文明と西洋文明の衝突は、ポストモダン型の戦争となっている。ISILは、自らが支配する領域への各国の空爆への反攻として、パリ・ブリュッセル等で大規模テロを行っている。彼らの側からすれば遠隔地の敵国への攻撃であり、遠隔地戦争である。そして、その戦争は手段を選ばずに一般市民を大量殺害することを目的としている。ヨーロッパは、その自由と普遍的人権の観念によって、恐るべきテロリストを地域内に抱えてしまった。
 ベルギーのテロは、2015年11月のパリ同時多発テロ事件より、はるかに過激だった。そのテロは最初、原子力発電所が標的だったのである。その動きを察知したベルギー当局が警備を厳重にしたため、都心部でのテロに変えたのだった。もし原発を攻撃されていたら、かつてない大惨事になった可能性がある。今回は、原発テロを未然に防げたが、今後、最大限の警戒・警備が必要である。
 深刻さを増す一方のイスラーム文明と西洋文明の関係は、将来どのようになっていくのだろうか。2009年(平成21年)8月、英『デイリー・テレグラフ』紙は、EU内のイスラーム人口が2050年までに現在の4倍にまで拡大するという調査結果を伝えた。それによると、EU27カ国の人口全体に占めるイスラーム系住民は2008年には約5%だったが、現在の移民増加と出産率低下が持続する場合、2050年ごろにはイスラーム人口がEU人口全体の5分の1に相当する20%まで増える。イギリス、スペイン、オランダの3ヵ国では、「イスラーム化」が顕著で、近いうちにイスラーム人口が過半数を超えてしまうという。
 近い将来、イスラーム人口が過半数を超えると予想されるイギリスでは、第2次大戦後、非ヨーロッパから多数の有色人種が流入した。主な移民は、ヒンドゥー教の一種であるシーク教徒のインド人、イスラーム教徒のパキスタン人、キリスト教徒のアンチル諸島人である。彼らは当初、イギリス社会に同化する気構えを持っていたが、イギリス人の拒否に会った。イギリスは、絶対核家族を主とする社会であり、自由と不平等を価値観とする。その価値観は、諸国民や人間の間の差異を信じる差異主義の傾向を生む。人間は互いに本質的に異なるという考え方である。移民集団は、イギリスでその差異主義による拒否に出会った。集団によって、それぞれ異なる結果が現れた。受け入れ社会と移民の文化の組み合わせによって、結果が違ったのである。ポイントは家族型の違いにある。
 インド人のシーク教徒の家族型は、直系家族である。彼らにはイギリスの差異主義が幸いし、囲い込みという保護膜に守られた形で同化が進んでいる。しかし、パキスタン人の家族型は、共同体家族である。共同体家族は、兄弟間の平等から諸国民や万人の平等を信じる普遍主義の傾向を持つ。世界中の人間はみな本質的に同じだという考え方である。この普遍主義とイギリスの差異主義がぶつかり、パキスタン人は隔離された。これに対しもともとイスラーム教スンナ派であるパキスタン人は、宗派の異なるイランのシーア派の活動組織と結び、イスラーム教原理主義に突き進んだ。
 イギリスの差異主義と衝突したイスラーム系移民の一部は過激化し、ロンドン等の大都市で、無差別テロ事件を起こしている。また、イギリス社会では、シャーリア(イスラーム法)の導入を巡って摩擦が起き、一つの社会問題となっている。イスラーム系移民の人口は、年々増加している。その過程で、イギリスの社会には、かつて欧米諸国が体験したことのない質的な変化が起こるだろう。
 イギリス以上にオランダの状態は深刻である。イギリス、ドイツ、フランスにおける移民の人口比は7〜9%だが、2010年(平成22年)現在でオランダは10%を大きく超え、20%に近くなっている。オランダは、EUの加盟国以外の外国人にも、地方参政権を与えている唯一の国である。オランダは、この地方参政権付与によって、大失敗した。イスラーム系移民は、オランダ人とは融和せず、都市部に集中して群れを成して居住する。アムステルダムなどの都市部では、彼らが形成するゲットーにオランダ人が足を入れようとすると、イスラーム系住民は敵意を燃やして攻撃する。そういう険悪な状態に、オランダ人も危険を感じるようになった。特に新たに流入したイスラーム系移民たちの暴力、犯罪や組織犯罪が目立ってくると、関係は悪化した。国内に別の国家が作られたような状態となってしまった。人口全体の20%というのは、こういう社会になり得るレベルということである。
 欧州連合(EU)では2014年(平成26年)からイスラーム文明諸国からの難民・移民の流入が急増している。シリアの内戦やアフガニスタン、リビア等の混乱が原因である。2015年11月のパリ同時多発テロ事件後、ヨーロッパの相当数の国々で、こうした難民・移民を本国に帰そうとする動きが起こっている。EUは、2016年3月トルコと密航した難民・移民らのトルコへの送還などの措置で合意した。これらの政策変更によって、イスラーム文明諸国からの難民・移民の流入に一定の制限・抑止が働くだろう。だが、既にヨーロッパには、1000万人以上のイスラーム移民が定住している。今後、そうしたイスラーム移民の多くがヨーロッパ文明に同化するのか、それとも同化を拒否するイスラーム移民がますます対立的闘争的になって文明の「衝突」が深刻化するのか。この問題は、ヨーロッパ文明の運命に関わる大問題である。
 私は、前者つまりヨーロッパ文明への同化よりも、後者つまり文明の「衝突」の深刻化の可能性の方が遥かに高いと考える。かつて第1次世界大戦後、オズワルド・シュペングラーが『西洋の没落』を書いたヨーロッパは、第2次大戦後は、イスラーム教徒という「月と星の民」を多く受け入れることで、没落の道を覆う夜の闇を深くしている、と私には見える。
 ヨーロッパにおけるイスラーム教徒によるテロについて、わが国では、世俗主義・政教分離を強制するからムスリムが屈辱感を感じてテロが起きるという見方がある。だが、池内恵氏は、次のように指摘する。「ベルギーは政教分離を強制するどころか、移民集団の自由に任せ、放置してきた。それなのに(だからこそ)テロが起きている。なお、植民地主義の過去もなく、人道主義で意図的に移民・難民を受け入れてきた北欧ですらテロが起きている、ということも深く受け止めましょう」と。すなわち、移民コミュニティを放置してもテロが起きる、ホスト社会に統合しようと思想信条に介入してもテロが起きる。それが、ヨーロッパの深刻な現実である。
 トッドは、フランスが取るべき移民政策として「率直で開かれた同化主義」を説くが、移民の数が増大すれば、ある段階からその政策は機能し得なくなるだろう。どこの国でも移民の数があまり多くなると、移民政策が機能しなくなって移民問題が深刻化する、その境界値は人口の8〜10%と私は考える。ヨーロッパが自らの西洋文明を守るには、各国で移民の規制をする必要がある。移民を合法的手段で強制的に本国に帰国させる方法があるし、人口の5%以内と上限を定める方法もある。ヨーロッパは、早くそうしないと手遅れになる。西洋文明だけでなく、イスラーム文明の人々にとっても、不幸な結果になるだろう。
 その点、米国の場合は、人口に対するイスラーム教徒の割合は、現在のところ約1%であり、2050年の時点でも約2.1%と予想されているから、ヨーロッパにおけるほど米国内の問題は深刻化しないだろう。しかし、政府による国家間においては、もはや米国とイラク、シリア、イラン、アフガニスタン等の関係が、それぞれ抜き差しならない関係となっている。今後もイスラーム文明との外交は、米国の対外政策において重要な位置を占め続けるだろう。特にイスラエルとの関係とイスラーム教諸国との関係のバランスのとり方がますます重要になっていくだろう。また、イスラーム文明にとっても、米国との関係は一層重要性を増すだろう。その際、世界的規模で米国と覇権を争う中国が中東外交を強化しており、イスラーム文明は、米中の覇権争いの舞台となる。
 先にEU内のイスラーム人口が2050年までに現在の4倍にまで拡大するという『デイリー・テレグラフ』紙の調査結果を記した。人口全体に占めるイスラーム系住民は、現在の移民増加と出産率低下が持続する場合、2050年ごろには20%まで増える。イギリス、スペイン、オランダの3ヵ国では、近いうちにイスラーム人口が過半数を超えてしまうと予想される。
 帝国の中心部(メトロポリス)に、周縁部(ペリフェリ)から移民が流入し、やがてその移民が帝国の運命を左右する。これは古代ローマ帝国で起こった出来事である。周縁部からゲルマン人が流入し、ローマ帝国は大きく傾いていった。帝国中心部の経済力・軍事力を、周縁部の生命力・人口力が徐々に凌駕していく。かつて古代ゲルマン人がヨーロッパ先住民族を圧倒したように、今度はイスラーム教徒が現代ゲルマン人を圧倒していくことが起こりかねない。古代ローマ帝国は部族的信仰を持つゲルマン人をキリスト教に改宗させ得た。それが、キリスト教的なヨーロッパ文明を生んだ。しかし、今日の西洋文明には、イスラーム教徒をキリスト教に改宗し得る宗教的な感化力は存在しない。世俗化の進む欧州諸国では、熱烈な異教徒を信仰転換できる宗教的情熱は、みられない。近代化・合理化は、他の文明から流入する移民の価値観を変え得る。だが、人々が宗教に求める人生の意味、魂や来世の問題については、何ももたらすものがない。イスラーム教はその信徒に近代化・合理化の進む西洋文明がもはや与え得ない宗教的な安心感を与えているようである。そのため、増加するイスラーム教国出身者及びその子孫がそのままイスラーム教の信仰を続け、逆にキリスト教徒をイスラーム教に改宗させる事例が増えていくことが予想される。
 『デイリー・テレグラフ』紙の調査によればイギリス、スペイン、オランダでは人口の過半数がイスラーム系移民になっていく。彼らの人口が増大する過程で、それらの国々の社会には、かつてどの国も体験したことのない質的な変化が起こるだろう。これと並行して、他のヨーロッパ諸国でも、イスラーム系移民の流入・増加による変化が、様々な形で現れるだろう。白人種・キリスト教のヨーロッパ文明から、白人種・有色人種が混在・融合し、キリスト教とイスラーム教が都市部を中心にモザイク的に並存・対立するヨーロッパ文明への変貌である。このまま進めば、やがてユーラシア大陸の西端に、「ユーロ=イスラーム文明」という新たな文明が生息するようになると思われる。ヨーロッパの人々が、それを避けようと欲するならば、早い段階で移民を規制する政策に転換すべきである。

 

●東方正教文明との関係

 イスラーム文明と東方正教文明の関係について書くには、まずロシアの歴史を概述する必要がある。
 ロシアでは、9世紀から東スラブ人がキエフ大公国を中心に、いくつかの公国を形成した。10世紀の末にキエフ・ロシアのウラジーミル1世は、ビザンティン帝国からギリシャ正教を摂取し、これを国教とした。ギリシャ正教はやがて土着化してロシア正教となり、ロシアの文明に東方正教文明と呼ぶべき宗教的特徴を与えた。
 東方正教文明がイスラーム文明と接触し、その影響を受けたのは、モンゴル人による。1240年ごろ、チンギス・ハンの孫バトゥが来襲し、キエフ・ロシアの諸公国が滅ぼされ、キプチャク・ハン国の支配下に置かれた。1480年まで続いたこの時期を「タタールのくびき」時代という。タタールとは、モンゴル軍に従ってきたトルコ系住民の子孫のことで、モンゴル人はこのタタール人と混血し、さらにその宗教であるイスラーム教を自らの国教とした。
 その後、「タタールのくびき」を脱したロシアは、モスクワ大公国を中心にして全土を統一しつつ、専制と農奴制を確立していった。18世紀には、ロシア帝国が成立し、ピョートル1世の改革を経て絶対主義的な政治・経済体制を強化し、ナポレオン戦争に勝って軍事大国として国際政治に登場した。19世紀後半から20世紀初頭にかけて農奴解放に始まる一連の改革が行われ、またそれへの反動期が続いた。日露戦争と1905年(明治38年)の革命を経て、1917年(大正6年)の二月革命でロマノフ朝が崩壊し、さらに十月革命によって史上初の社会主義国ソビエト連邦が成立した。
 帝政ロシアには多くのイスラーム教徒が住んでいた。主な定住地は中央アジア、ボルガ川沿岸、カフカス山地、クリミア地方だった。イスラーム教徒の遊牧民の多い中央アジアでは、1924年(大正13年)から36年(昭和11年)にかけて5つの共和国がつくられ、ソ連を構成する共和国となった。
 旧ソ連は社会主義共和国連邦と称したが、各自治共和国は民族や文化が異なっており、それを共産党が支配する連邦制の国家だった。人口の5割をロシア民族が占めた。スターリンによって、ロシア民族による少数民族への支配・搾取が行われた。
 ソ連では当時、イスラーム教はロシア正教に次ぐ信徒数を有していた。ソ連は、インドネシア、パキスタン、バングラデシュ、インドに次ぐ世界第5位のイスラーム人口を抱えていた。
 1991年(平成3年)12月、ソ連が崩壊すると、イスラーム教徒の多い地域で6つの共和国が独立した。カザフスタン、キルギスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンの中央アジア諸国と、カフカスのアゼルバイジャンである。スンナ派が主流であり、シーア派はアゼルバイジャンだけである。民族的には、タジク人はイラン系で、それ以外はトルコ系である。
 旧ソ連で最も抑圧されていた少数民族は、チェチェン人である。チェチェン人にはイスラーム教徒が多く、チェチェンはイスラーム文明に属する。チェチェン人は、スターリンからナチス・ドイツに協力したと決めつけられ、民族ごと強制移住させられたという苦難の経験を持つ。
 1991年(平成3年)11月、チェチェン独立派が、崩壊寸前のソ連からの独立を宣言し、以後独立運動が続けられている。これに対し、ソ連の後継国であり、東方正教文明の中核国家であるロシアは、94年にチェチェンに武力侵攻を行い、二次にわたる紛争が起こった。チェチェンは石油、天然ガス、鉄鉱石などの地下資源が豊富であり、ロシアは独立を認めようとしない。ロシアは無差別かつ大規模な民間人への攻撃を行い、チェチェン人口の約10分の1が死亡し、5万人のチェチェン人が国外で難民となっている。チェチェン人過激派はモスクワ等で無差別テロを行い、関係は泥沼化している。ロシアにとって、チェチェン人への対処は、独立国家共同体(CIS)に加盟するイスラーム系諸国との関係に影響する。そのため、プーチン大統領は武力でチェチェン人の独立を防ぎ、他に波及しないように画策している。
 ところで、見逃してはならないのは、ロシア共和国にも約2000万人のイスラーム教徒がいることである。ロシア人口の14%を占める。その多くはスンナ派である。ロシア政権は、国内のイスラーム教徒がスンナ派過激組織に同調して、テロを起こすことを警戒している。
 山内昌之氏は、著書『中東複合危機から第三次世界大戦へ』で、シリアへの空爆を行って軍事介入で戦争の当事国になった「プーチンの戦略には大きなリスクも伴う」と指摘する。「ISとのポストモダン型戦争の最前面にロシアが立つと、ISの軍事指導部に多いチェチェン人に、ロシア国内へ戦域と戦線を拡大させる刺激を与えるからである。ISの外国人戦士のうち4分の1が旧ソ連の出身者であり、そのロシア帰還阻止のためにプーチンは空爆に踏み切ったはずだった。彼は、チェチェン人帰国の前に中東現地で徹底的に彼らを殲滅しようという目論見なのだろう。プーチンは、シリア戦争をそのまま北カフカース(北コーカサス)のチェチェニスタンなどのロシア国内問題の延長としてとらえている」と山内氏は述べている。
 ロシアはシリアに軍事介入したことで中東に深く足を組み入れ、ISILへの空爆とともに反アサド政権派への空爆を行う中で、トルコと対立関係を生じた。このようにしてイスラーム教諸国との関わりを深めている。イスラーム文明は、スンナ派の諸国とシーア派の諸国に宗派の違いで別れ、またロシアが支援するシリアのアサド政権を支持するか反対するか、ISIL掃討に積極的か消極的か等によって、複雑な様相を呈している。
 将来的には、中東・北アフリカで平和と安定が実現するかどうかに、イスラーム文明と東方正教文明の関係のあり方が大きく左右されるだろう。

●シナ文明との関係

 シナでは、イスラーム教を回教という。回紇(かいこつ)ことウイグル族を通じてシナに伝播したので、回回教と称したのに基づく。
 シナ文明の中核国家は、中華人民共和国(以下、中国)である。中国には、ウイグル族、回族、カザフ族、トンシャン族など、イスラーム教を信仰する民族が10ほどあり、その大部分が中国西北部に集中している。中国国内のイスラーム人口は2000万人以上とされる。その中心は、新疆ウイグルに居住するウイグル族である。ウイグル族は、トルコ系のイスラーム教徒でアラビア文字を使う。
 中央アジアには、トルキスタンという地域があり、シナでは西域と呼ばれてきた。トルキスタンは、西トルキスタンと東トルキスタンに分かれる。西トルキスタンは、旧ソ連領だった。ソ連解体後は先に書いた中央アジアの5つの共和国になっている。東トルキスタンは、清朝の時代から新疆と呼ばれる。中華民国では新疆省に組み入れられたが、1933年(昭和8年)に第1次東トルキスタン共和国が樹立され、翌年まで続いた。再び中華民国に併合された後、1944年(昭和19年)から46年(昭和21年)にかけて、第2次東トルキスタン共和国が第1次とは別の地域に存在した。だが、1949年に中華人民共和国に併合され、1955年に新疆ウイグル自治区が設置された。自治区とは名ばかりで、実態は北京の支配下にある。
 中国共産党は、1950年(昭和25年)にチベットへの侵攻を開始し、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺以後最大のジェノサイド(民族大虐殺)を行ってきている。その異民族への弾圧・虐殺は、チベット自治区だけでなく、新疆ウイグル自治区でも行われている。
 唯物論的共産主義を信奉する北京政府は、イスラーム教徒であるウイグル人に対して、仏教徒であるチベット人に行っているのと同様の宗教弾圧を行っている。これまでに約50万人のウイグル人を「政治犯」として処刑したといわれる。また、妊婦に対して「計画生育」という名目で胎児の中絶を強制し、犠牲になった胎児は850万に上ると推計されている。これは、宗教弾圧であるとともに、漢民族によるウイグル族への民族支配でもある。
 ウイグル人は中国共産党による迫害・殺戮に抵抗運動を行っている。同じイスラーム教勢力であるISILは、中国共産党によるイスラーム教徒への弾圧に対し、2015年(平成27年)12月、中国語でジハード(聖戦)を呼び掛ける音声の声明をインターネット上で発表した。ISILが習近平国家主席率いる共産党政権に宣戦布告したと考えられる。ISILには、ウイグル族を中心に数百人の中国人が参加し、戦闘訓練を受けて中国に帰国した若者が多数いるとされる。今後、中国ではこうした帰国者やホームグロウン(自国育ち)の過激派によるテロが増えるだろう。
 ハンチントンは、西洋文明の存続・繁栄を願う立場から、イスラーム=シナ文明連合、「儒教―イスラーム・コネクション」の形成を警戒した。
 中国は、2001年(平成13年)に上海協力機構を設立し、中国の他、ロシア・カザフスタン・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタンの6か国による多国間協力組織を構成している。その多くがイスラーム教国であることが注目される。イラン・インド・パキスタンはオブザーバーの地位にあったが、うちインド・パキスタンは2015年(平成27年)に正規加盟が決まった。またトルコやシリア・エジプト等のアラブ諸国も加盟を申請している。
 また、中国は、現在アジア・インフラ銀行(AIIB)とともに、これと一体のものとして「一帯一路」構想を進めている。この構想は、中国とユーラシア大陸および東南アジア、インド、中東・アフリカを海と陸の両方で結ぼうとするものである。「一帯」は「シルクロード経済ベルト(陸上)」、「一路」は「21世紀海上シルクロード」を意味する。中国を起点に内陸と海の2つのルートで欧州まで経済圏を構築する構想である。このAIIB及び「一帯一路」構想においても、イスラーム教諸国を多く傘下に取り込んでいる。
 このような動きを通じて、イスラーム文明とシナ文明との関係は広がり、また深まりつつある。
 中国のAIIB及び「一帯一路」構想は、米国の世界的な覇権への挑戦である。中国は、貪欲に資源と市場を求めて、東南アジア、南アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ等へも経済進出を拡大している。これを文明のレベルで見れば、シナ文明が西洋文明に拮抗し、これを凌駕しようとする動きである。この西洋文明とシナ文明の対立・抗争は、多くの文明を巻き込んでおり、イスラーム文明もまたこれに巻き込まれつつある。
 米中の覇権争いが高じて、米中激突という事態になれば、人類の存亡に係る核兵器使用による世界大戦に発展する可能性がある。また、中東における紛争が米中激突の世界核戦争のきっかけになるおそれもある。

 

●インド文明との関係

 第2次世界大戦後、インド文明とイスラーム文明の間で緊張が高まったことを、先に書いた。
 インドとパキスタンは、分離独立後、カシミールの帰属をめぐり、3次に渡る印パ戦争を行っており、1990年(平成2年)以降、インドのジャンム・カシミール州では、州人口の90%以上を占めるイスラーム教徒が分離独立運動を起こし、反印闘争を展開している。
 2001年(平成13年)12月には、カシミール地方のイスラーム教過激組織によるとされるインド国会議事堂襲撃事件が起こった。2008年11月には、インド西部ムンバイで同時テロ事件が起こり、約170人が死亡した。インド側はパキスタンのイスラーム教過激派の関与を指摘している。2014年10月には、カシミール地方で両国軍が砲撃、銃撃を応酬し、両国の住民ら20人以上が死亡した。
 こうした中で印パ間の対話が進められている。2014年(平成26年)5月モディ首相の就任宣誓式に、パキスタンのシャリフ首相が史上初めて出席した。首脳レベルでの対話を続けた印パ両国は、2015年12月包括的対話の再開で合意した。しかし、カシミール地方のインド支配地域のインドからの分離を目指すイスラーム教過激組織は、インドに有利に引かれた同地方の実効支配線が、印パ関係改善によって固定化されることを妨害するテロを繰り返している。インドは、パキスタン情報機関が過激組織の背後にいると非難しており、包括的対話が順調に進むかどうかが危ぶまれている。ここでも国家間の論理とは違う価値観で行動する過激組織の行動が事態を複雑にしている。
 インドにおけるISILの地域指導者は、ISILのインターネット上の英字機関誌『ダービク』で、カシミール地方に「領土」を拡大すると主張しており、インドでもISILの脅威が強まっている。
 今後、多神教のインドと一神教のパキスタンが協調・融和できるかどうかは、両国を含む多神教文明群と一神教文明群が協調・融和できるかどうかにも関わっている。この点は、イスラーム文明とインド文明が西洋文明・シナ文明等とともに交差・混在している東南アジアにも言えることである。
 先に書いたように、東南アジアではイスラーム教が域内最大の宗教勢力であり、東南アジア的なイスラーム教は穏和性・多様性・寛容性を特徴とする。東南アジア的なイスラーム教がその特徴を発揮すれば、東南アジア共同体の発展に貢献できるとともに、イスラーム文明全体に変化の方向を示すものとなるかもしれない。

●アフリカ文明との関係

 ハンチントンは、1990年代に世界の主要文明の一つとなる可能性のあるものとして、サハラ以南を地域とするアフリカ文明を挙げた。その後、アフリカ文明は発展を続けており、現在の2010年代において、私は主要文明の一つに数える。
 アフリカ大陸の北部にはイスラーム文明が、南部にはアフリカ文明が広がっている。北緯10度線を境に、大きく二つに分かれる。イスラーム文明とアフリカ文明の関係は、第2次世界大戦後に欧米の植民地か独立したアジア・アフリカ諸民族のつながりを基礎とする。
 アフリカ文明には、中核国家が存在しない。唯一地域大国と言えるのは、南アフリカ共和国である。以前はブラジル、ロシア、インド、中国の新興大国4国をBRICsと呼んだが、2011年(平成23年)に南アフリカを加えて、BRICSとSを大文字で表すようになった。南アフリカは、アパルトヘイトを止めて民主化を進めてから、アフリカ最大の経済大国として経済発展を続けている。
 先進国によるG8に対して新興国11か国を含むG20が、世界的な経済政策の調整の場として重要性を増してきているが、南アフリカはG20のメンバーにもなっている。これに比べ、イスラーム文明にはBRICSに加えられる国家はまだ存在しない。G20は、サウディアラビアとトルコがメンバーになっている。
 アフリカ文明で、最大の宗教はキリスト教である。西欧の旧宗主国イギリス、フランス、オランダ、ベルギー等の影響によるものである。キリスト教に次ぐ第二の宗教は、諸部族・諸民族のマナイズム・アニミズム・シャーマニズム等のいわゆる原始宗教である。キリスト教徒が多い地域でも、これらが混在・並存している。第三の宗教は、ヒンドゥー教である。キリスト教以外のほとんどは、多神教である。それゆえ、イスラーム文明とアフリカ文明が協調・融和できるかどうかは、まずイスラーム教とキリスト教の関係の問題であり、またこれら二つの一神教がアフリカ土着及びインド由来の多神教と協調・融和できるかどうかの問題である。このことは、アフリカ大陸全体の将来に関わる事柄だろう。
 ここで注目したいのが、アフリカにおける人権の概念の受容と変容である。世界人権宣言のもと、国際人権規約とは別に各地域で地域的な人権条約が各地域で作られており、フリカでもアフリカ人権憲章が作られた。バンジュール憲章とも呼ばれる。1981年(昭和56年)に採択され、1986年(昭和61年)に発効した。現在の批准国は54カ国であり、アフリカ連合の全ての加盟国が批准している。アフリカ連合には、モロッコを除くアフリカの全ての独立国家が加盟している。イスラーム教諸国やイスラーム教徒の多い国々も皆参加している。それゆえ、アフリカ憲章は、イスラーム文明の諸国家とアフリカ文明の諸国家がともに参加している人権憲章である。
 アフリカ憲章は、西洋文明の価値観に基づく欧州人権条約や、中南米諸国による米州人権条約とは、多くの点で異なっている。第1に、前文に植民地主義、新植民地主義、アパルトヘイト、シオニズムの廃絶が謳われている。第2に、権利のみならず、義務をも宣言している。第3に、個人の権利に加えて人民の権利として民族自決の権利、民族の発展を規定している。第4に、自由権としての市民的及び政治的権利に加えて、社会権としての経済的、社会的及び文化的権利を多く保障している。第5に、条約で保障する権利の行使に対して締約国が非常に広範な制限や制約を課すことができる規定となっている。第6に、環境権が盛り込まれている。
 こうした独自性を持つアフリカ憲章には、イスラームの宗教と文明の価値観が一定程度反映されている。アフリカ大陸においてイスラーム文明とアフリカ文明が協調・融和するために、宗教・文化・家族型等の違いを越えて価値観の共有を図ることのできる人権の発達への取り組みが有効だろうと私は考える。

●ラテン・アメリカ文明との関係

 世界の主要文明の中で、イスラーム文明のかかわりが最も薄いのは、ラテン・アメリカ文明である。
 ラテン・アメリカ文明は、旧宗主国スペイン・ポルトガル等の影響で宗教的にはカトリック教徒が90%以上を占める。21世紀に入って、伝統的な土着の宗教は、急速に小数化しつつある。それゆえ、イスラーム部名との文明間の関係は、基本的にはイスラーム教とキリスト教の関係になる。この点では、アフリカ文明との関係にある程度似ている。
 ラテン・アメリカでは、フランスの1830年の七月革命と48年二月革命をきっかけに、スペイン・ポルトガルからの独立の気運が高まり、1810年代から20年代にかけて、18の独立国家が誕生した。この点が、20世紀後半に民族独立を獲得した国の多いアジア・アフリカと事情が異なる。イスラーム文明とラテン・アメリカ文明の関係は、発展途上国の間の関係となっている。
 ラテン・アメリカ文明にも、中核国家がない。地域大国のブラジルはBRICSの一角をなす。ブラジルが中国・インド・ロシア・南アフリカと並んで、急速に成長しつつあることは、地域全体の成長可能性を表すものとして注目される。またラテン・アメリカ文明から、G20には、ブラジルの他にメキシコ、アルゼンチンが参加している。
 ラテン・アメリカは「米国の裏庭」といわれるように、ラテン・アメリカ文明には米国の強い影響下にある国が多い。その一方、米国の支配に反発する反米的な国家も少なくない。ベネズエラ、ボリビア、キューバ、ニカラグア、エクアドル等である。こうした国々には左派または中道左派政権が多い。イスラーム文明には、イランを代表とする反米的な国家があり、ラテン・アメリカ文明の米政権との間に一定のつながりがある。こうした国々が連携を強め、文明間の反米勢力が増大し、さらにそれが中国と結託する時、米中の世界的な覇権争いに関与するものとなるだろう。

●日本文明との関係

 イスラーム文明と日本文明との関係については、次の項目である「結びに」でイスラーム文明と人類の将来について述べる際に書く。
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結びに〜イスラームに関わる日本文明の役割

 

●イスラーム文明と人類の将来

 

イスラーム文明は世界で最も人口が増加している地域に広がっている。人口増加とともに、イスラーム教徒の数も増加している。そのため、イスラーム教は、今日の世界で最も信者数が増加している宗教である。世界人口のおよそ4人に1人がイスラーム教徒と言われる。今後、ますますイスラーム教徒は絶対的にも相対的にも増えていく。

2015年(平成27年)4月、米調査機関ピュー・リサーチ・センターが、次のような予測を発表した。世界の宗教別人口は2015年現在、キリスト教徒が最大勢力だが、2070年にはイスラーム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年になるとイスラーム教徒が最大勢力になる、と。

 同センターは世界人口をキリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教、仏教、ユダヤ教、伝統宗教、その他の宗教、無信仰の8つに分類し、地域別などに人口動態を調査して、2010年から2050年までの40年間の変動予測を作成した。

 2010年(平成22年)の時点で、キリスト教徒は約21億7千万人、イスラーム教徒は約16億人であり、それぞれ世界人口の31・4%と23・2%を占めた。イスラーム教徒が住む地域の出生率が高いことなどから、2050年になるとイスラーム教徒は27億6千万人(29・7%)となり、キリスト教徒の29億2千万人(31・4%)に人数と比率で急接近する。そして、2070年にはイスラーム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年になるとイスラーム教徒が最大勢力になると、同センターは予測している。

 予測の精度はともかく、これから21世紀が進むにしたがって、イスラーム教徒の人口が増加し、人類の中での比率が上昇していくことは、間違いない。世界的に増加するイスラーム教徒と、発展途上国の集団として成長するイスラーム文明に対して、どのように対応するか。これは、単にそれぞれの国家や地域だけでなく、全世界的な関心事である。

 ところで、私は、2050年前後に人類は未だかつてない大変化を体験するだろうと考えている。これは、我が生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生の言葉に基づく予測である。大塚先生は、人類は長い「夜の時代」を終え、21世紀には「昼の時代」を迎えると説いている。「夜の時代」とは対立・抗争の時代であり、「昼の時代」とは共存共栄・物心調和の新文明が実現する時代である。「昼の時代」の到来は、21世紀の半ばぐらいだろうと語っておられた、と私は伝え聞いている。大塚先生の21世紀を導く指導原理に関する言葉を、本サイトの「基調」(その3)に掲載しているので、ご参照願いたい。

 「昼の時代」への転換は、人類が過去に体験したことのない大変化となる。ちょうど胎児が暗黒と不自由な母親の胎内を出て、この世に生まれると、それまでの胎内生活の段階とは、全く違う生き方を始めるように、2050年前後に人類は現在、想像のできないような新たな段階に入っていく、と私は期待している。

 これに符合するように、情報通信の分野では、2045年に特異点的な変化が起こるという予測が出されている。テクノロジーの進歩は、指数関数的な変化を示してきた。たとえば、コンピュータの演算速度は、過去50年以上にわたり、2年ごとに倍増してきた。これを「ムーアの法則」という。「ムーアの法則」によると、2045年に一個のノートパソコンが全人類の脳の能力を超えると予測される。人工知能が人間の知能を完全に上回るということである。そのような時代を未来学者レイ・カーツワイルは「シンギュラリティ(特異点)」と呼んでいる。カーツワイルは、人間とコンピュータが一体化し、「人類は生物的限界をも超える」と予測している。カーツワイルは、その時、人類の「黄金時代」が始まるという。

世界的な理論物理学者ミチオ・カクは、今から約30年後に迫るこの「黄金時代」について、次のように予測する。

 

・ナノテクノロジー・再生医療等の発達で、寿命が延び、平均100歳まで生きる。

・遺伝子の研究で、老化を防ぐだけでなく、若返りさえ実現する。

・退屈な仕事や危険な仕事は、ロボットが行う。

・脳をコンピュータにつなぎ、考えるだけで電気製品や機械を動かせる、など。

 

これ以外にも、新DIY革命、テクノフィランソロピスト(技術慈善活動家)の活躍、ライジング・ビリオン(上昇する数十億人)の勃興等で、次のようなことも可能になると予想されている。

 

・新種の藻類の開発で石油を生成

・水の製造機でどこでも安全な水を製造

・垂直農場やバイオテクノロジーで豊富な食糧生産

・太陽エネルギーの利用で大気中の不要なC02を除去

 

等である。

こうしたテクノロジーの爆発的な進歩は、人類の生活と社会に想像を越えた変化をもたらすだろう。あまりにも変化が早く、この変化についていくことのできない人も多くなるだろう。だが、若者は、既成観念に縛られず、過去の伝統・慣習・発想から自由である。若い世代は、新しい時代を抵抗なく受け入れ、自然に、来るべき「黄金時代」に入っていくことができるだろう。これは、イスラーム文明においても同じである。既に「アラブの春」では、民主化を求める若い世代がフェイスブックやツイッターなどのSNSを活用していた。

かつてヨーロッパでは、近代科学の発達によって天動説から地動説に転じ、中世キリスト教の世界観に閉じ込められていた人々の世界観が大きく変わった。21世紀の人類は、これから世界観の大変化を体験することになるだろう。だが、人類が過去の歴史で生み出し、受け継いできた宗教・国家・制度等は非常に堅固であり、それらによって生じている弊害は大きい。とりわけ宗教による対立・抗争は、非常に深刻である。この障害をどう乗り越えるかに、人類の将来の多くがかかっている。私は、従来宗教による障害を乗り越えていくのもまた、若者だろうと考える。若い世代は、過去の世代を呪縛してきた既成観念から自由であり、従来宗教の矛盾・限界を見抜いて、新しい指導原理を求め、また受け入れるようになるだろう。これは、イスラーム文明においても同様だろう。

 

●セム系一神教文明は脱皮すべき時にある

 

先に書いたピュー・リサーチ・センターの予測では、2050年ころには、イスラーム教徒の人数がキリスト教徒の人数に迫る状態になっている。特にヨーロッパでは、移民政策に大きな変更がない限り、イスラーム教徒が全人口の20%までに激増している。イギリス、スペイン、オランダでは人口の過半数をイスラーム教徒が占め、ヨーロッパの社会と文化に大きな変化を産み出しているだろう。米国とイスラーム教国の関係についても、イスラーム教徒の人口による圧力が現在より、はるかに大きくなっているだろう。

こうしたキリスト教徒とイスラーム教徒の関係は、西洋文明とイスラーム文明の関係でもある。西洋文明とイスラーム文明の対立は、世界の不安定の要因の一つである。この対立は、より大きな枠組みでは、ユダヤ教を含むセム系一神教の文明群における文明間の対立である。

イスラーム教諸国は、イスラエルの建国後、イスラエルと数次にわたって戦争を行い、またアメリカと湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争等で戦っている。また東方正教文明の中核国家だった旧ソ連とはアフガン戦争で戦い、今日は旧ソ連圏のイスラーム教徒が中央アジア各地で、ロシアと戦っている。これは、イスラエルやロシアを含めたユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の対立・抗争である。アブラハムの子孫同士の戦いであり、異母兄弟の骨肉の争いである。

 中東では、争いが互いの憎悪を膨らませ、報復が報復を招いて、抜き差しならない状態となっている。そして、現代世界は、イスラエル=パレスチナ紛争を焦点として、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教のセム系一神教の内部争いによって、修羅場のような状態になっている。

今後、ユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の対立・抗争が今よりもっと深刻化していくか、それとも協調・融和へと向かっていくか。このことは、人類全体の将来を左右するほどの問題である。その影響力の大きさは、米国と中国の関係が世界にもたらす影響力の大きさと比較されよう。

 中東に平和と安定をもたらすことができないと、世界平和は実現しない。平和を維持するための国際的な機構や制度を作っても、中東で対立・抗争が続いていると、中東における宗教戦争・民族戦争に世界全体が巻き込まれるおそれがある。最悪の場合は、一神教文明群における対立・抗争から核兵器を使用した第3次世界大戦が勃発する可能性がある。

 いかに中東で平和を実現するか。ユダヤ教とイスラーム教の争い、イスラーム教のスンナ派とシーア派の争い、ユダヤ人・アラブ人・イラン人・クルド人等の民族間の争い等を収め、地域の共存共栄を実現する道が求められている。

私は、セム系一神教に基づく文明そのものが、新たな段階へと脱皮しなければならない時期にあるのだと思う。その脱皮に人類の運命の多くがかかっている。

 科学が未発達だった千年以上も前の時代に生まれた宗教的な価値観を絶対化し、それに反するものを否定・排除するという論理では、どこまでも対立・闘争が続く。果ては、共倒れによる滅亡が待っている。自然の世界に目を転じれば、そこでは様々な生命体が共存共栄の妙理を表している。人智の限界を知って、謙虚に地球上で人類が互いに、また動植物とも共存共栄できる理法を探求することが、人類の進むべき道である。宗教にあっても科学・政治・経済・教育等にあっても、指導者はその道を見出し、その道に則るための努力に献身するのでなければならない。

 

●「昼の時代」に向かう世界での日本文明の役割

 

 残念ながら現状において、私は、一神教文明群の宗教・思想の中から、対立・抗争の昂進を止め、協調・融和へと向かう指導原理が現れることを期待できない。一神教文明群の対立・抗争が世界全体を巻き込んで人類が自壊・滅亡に至る惨事を防ぐには、非セム系多神教文明群が、あい協力する必要があると思う。私は、セム系一神教文明を中心とした争いの世界に、非セム系多神教文明群が融和をもたらすために、日本文明の役割は大きいと思う。日本文明には対立関係に調和を生み出す原理が潜在する。その原理を大いに発動し、新しい精神文化が興隆することが期待される。

ハンチントンは、文明は衝突の元にもなりうるが、共通の文明や文化を持つ国々で構築される世界秩序体系の元にもなりうる、と主張した。文明内での秩序維持は、突出した勢力、すなわち中核国家があれば、その勢力が担うことになる、と説く。また、文明を異にするグループ間の対立は、各文明を代表する主要国の間で交渉することで解決ができるとし、大きな衝突を回避する可能性を指摘している。そして、日本文明に対して、世界秩序の再生に貢献することを、ハンチントンは期待した。

ハンチントンは「日本国=日本文明」であり、一国一文明という独自の特徴を持っていることを指摘した。アメリカ同時多発テロ事件の翌年である2002年(平成14年)に刊行した『引き裂かれる世界』で、ハンチントンは日本への期待を述べた。

 「日本には自分の文明の中に他のメンバーがいないため、メンバーを守るために戦争に巻き込まれることがない。また、自分の文明のメンバー国と他の文明との対立の仲介をする必要もない。こうした要素は、私には、日本に建設的な役割を生み出すのではないかと思われる。アラブの観点から見ると、日本は西欧ではなく、キリスト教でもなく、地域的に近い帝国主義者でもないため、西欧に対するような悪感情がない。イスラーム教と非イスラーム教の対立の中では、結果として日本は独立した調停者としての役割を果たせるユニークな位置にある。また、両方の側から受け入れられやすい平和維持軍を準備でき、対立解消のために、経済資源を使って少なくともささやかな奨励金を用意できる好位置にもある。ひと言で言えば、世界は日本に文明の衝突を調停する大きな機会をもたらしているのだ」と。

日本文明は、非セム系多神教文明群の中で独自の特徴を示す。その特徴は、セム系一神教文明群にも非セム系多神教文明群の他の文明にもみられないユニークなものである。

宗教には一神教、多神教等の違いの他に、陸の影響を受けた宗教と海の影響を受けた宗教という違いがある。ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教や道教・儒教・ヒンドゥー教・仏教は、どれも大陸で発生した。これに比べ、神道が他の主要な宗教と異なる点は、海洋的な要素を持っていることである。大陸的な宗教が陰の性格を持つのに対し、海洋的な宗教である神道は陽の性格を持つ。明るく開放的で、また調和的・受容的である。これは、四方を世界最大の海・太平洋をはじめとする海洋に囲まれた日本の自然が人間の心理に影響を与えているものと思う。

21世紀の世界で対立を強めている西洋文明、イスラーム文明、シナ文明、東方正教文明には、大陸で発生した宗教が影響を与えている。これに比べ、神道は、日本文明に海洋的な性格を加えている。こうした日本文明のユニークな性格が、文明間の摩擦を和らげ、文明の衝突を回避して、大いなる調和を促す働きをすることを私は期待する。

また、日本文明には、さらに重要な特徴として、人と人、人と自然が調和して生きる精神が発達した。それは、四季の変化に富む豊かな自然に恵まれ、共同労働によって集約的灌漑水田稲作で米作りをしてきた日本人の生活の中で育まれた精神である。この大調和の精神は、日本民族だけのものではなく、世界の諸民族にも求められるものである。

 21世紀の人類は核戦争と地球環境破壊による自滅の危機を乗り越えて、物心調和・共存共栄の新文明へと飛躍できるかのどうか、かつてないほど重要な段階にある。わが国は、核戦争を回避し、地球環境破壊による自滅の危機を乗り越えて、物心調和・共存共栄の新文明を実現するために、中東におけるイスラエルとアラブ諸国の対立を和らげるように助力しなければならない。世界的にユニークな特徴を持つ日本文明は、西洋文明とイスラーム文明の抗争を収束させ、調和をもたらすためにも重要な役割があることを自覚すべきである。

また、私は世界の諸宗教はいずれ発展的に解消すべきものと考えるが、そのうち最大の課題がイスラーム教だろう。これは人類の運命にも関わる課題だと思う。

人類は、この地球において、宇宙・自然・生命・精神を貫く法則と宇宙本源の力にそった文明を創造し、新しい生き方を始めなければならない。そのために、今日、科学と宗教の両面に通じる精神的指導原理の出現が期待されている。世界平和の実現と地球環境の回復のために、そしてなにより人類の心の成長と向上のために、近代化・合理化を包越する、物心調和・共存共栄の精神文化の興隆が待望されているのである。そして、その新しい精神文化の指導原理こそ、「昼の時代」を実現する推進力になるに違いないと私は確信する。この点は、別の拙稿に書いたところであり、下記をご参照願いたい。

 

拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆」の「結びに〜新しい精神的指導原理の出現

拙稿「人類史の中の日本文明」の「第3章 新しい指導原理の出現〜日本文明への期待

 

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関連掲示

・拙稿「現代の眺望と人類の課題

・拙稿「いわゆる『イスラーム国』の急発展と残虐テロへの対策

・拙稿「パリ同時多発テロ事件と国際社会の対応

・拙稿「ハンチントンの『文明の衝突』と日本文明の役割

・拙稿「家族・国家・人口と人類の将来〜エマニュエル・トッド

・拙稿「トッドの移民論と日本の移民問題

・拙稿「人権――その起源と目標

 

参考資料

・「伊斯蘭文化のホームページ」

http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/index.html

・「イスラーム文化のホームページ」

http://www2s.biglobe.ne.jp/~racket/

・『聖クルアーン 日亜対訳・注解』(日本ムスリム協会発行)

・『コーラン』(岩波文庫版、中央公論社版)

・『ハディース』(中公文庫)

・井筒俊彦著『イスラーム生誕』中公文庫)『イスラーム文化−その根柢にあるもの』(岩波文庫)『イスラーム哲学の原像』(岩波新書)『イスラーム思想史』(中公文庫)

・黒田壽郎著『イスラームの心』(中公新書)

・吉村作治著『聖戦の教典コーランの秘密』(ワニ文庫)

・片倉もとこ著『イスラームの日常世界』(岩波新書)

・ひろ・さちや著『キリスト教とイスラム教』(新潮選書)

・小室直樹著『日本人のための宗教原論』(徳間書店)

・石川純一著『宗教世界地図』(新潮社)

・池上彰著『世界の宗教が面白いほどわかる本』(中経の文庫)『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』(文春新書)

・『世界の歴史』(河出書房版、中央公論社版)のイスラーム関係の巻

・『世界各国史』(山川出版社)のイスラーム関係の巻

・サミュエル・ハンチントン著『文明の衝突』(集英社)『引き裂かれる世界』(ダイヤモンド社)

・エマヌエル・トッド著『帝国以後 アメリカ・システムの崩壊』『アラブ革命はなぜ起きたか』(藤原書店)『シャルリとは誰か〜人種差別と没落する西欧』(文春新書)

・トッド+クルバージュ著『文明の接近―「イスラームVS西洋」の虚構』(藤原書店)

・池内恵著『「イスラーム国」の衝撃』(文春新書)

・山内昌之著『中東複合危機から第三次世界大戦へ』(PHP新書)

NHKスペシャル「NEXT WORLD」制作班著『NEXT WORLD―未来を生きるためのハンドブック』(NHK出版)

・ディアマンディス+コトラー著『楽観主義者の未来予測』(早川書房)

・ミチオ・カク著『2100年の科学ライフ』(NHK出版)

・大塚寛一著『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)

 

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