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213-22   人類の展望

                       

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ber117

 

■キリスト教の運命

〜終末的完成か発展的解消か

2018.7.21

 

<目次>

はじめに

第1部 キリスト教とは何か

第1章 概要

宗教学的位置づけ/文明学的位置づけ/世界宗教/選民思想の否定/人口/イエス/救世主信仰/奇跡の伝承/神ヤーウェ/三位一体の神/啓示宗教/啓典宗教/契約宗教/終末論的宗教/個人救済の宗教/聖書/聖地/教派

第2章 教義

教義の形成・内容/実在観/世界観/人間観/楽園追放/原罪/愛/救いと自由意志/悪/神義論/大安楽往生解放と自由の観念/天国/地獄/最後の審判/イエスは再臨するか/時間論/マリア/神秘主義/自然法/科学とキリスト教

第3章 組織

信仰の共同体/教会/使徒/聖職者/聖人/列聖・列福/教会と国家の法/政治と宗教の関係

第4章 実践

目的/悔い改め/内心と行動の区別/信条/祈り/十字架/神の死と再生/中心とマンダラ/信徒の務め/修行/サクラメント/施し/主日と礼拝/祝祭日

第5章 生活

清貧の理想と富の蓄積/契約と処罰/家族/性愛と結婚/離婚/人工妊娠中絶と避妊/同性愛/夫婦の姓/労働/食事と飲酒/埋葬/自殺/暦

第2部 キリスト教の歴史

第1章 イエスの活動と教会の発展〜古代

約5百年ごとの変化/ユダヤ教とユダヤ人の歴史/イエスの活動とキリスト教の誕生/パウロ/ローマ帝国での迫害から公認、国教へ/プラトンとアリストテレス/ギリシャ哲学の摂取/ギリシャ教父/正統と異端/アウグスティヌス

第2章 東西教会の対立・分裂〜中世

ゲルマン民族の改宗/東西教会の違い/皇帝教皇主義対教皇皇帝主義/修道院/十字軍/カトリック教会の分裂/異端審問/スコラ神学/普遍論争/反ユダヤ主義/ユダヤ人の追放/東方諸教会/東ローマ帝国の滅亡/東方正教会

 

※以下、ブログに連載中

 

ber117

 

はじめに

 

私は、現代の世界を覆っている近代西洋文明には、ユダヤ人・ユダヤ教・ユダヤ文明の影響が大きいことを認識し、その影響の考察と対処のために、拙稿ユダヤ的価値観の超克〜新文明の創造のためを書いた。

私は、ヨーロッパ文明が北米にも広がったものを西洋文明と呼ぶ。ヨーロッパ文明は、古代ギリシャ=ローマ文明、ユダヤ=キリスト教、ゲルマン民族の文化という三つの要素が融合してその骨格が出来上がった。それらのうち、ユダヤ=キリスト教が文明の宗教的な中核になっている。ここで、ユダヤ=キリスト教と書くのは、キリスト教におけるユダヤ教の影響を強調するためである。ヨーロッパ文明及び近代西洋文明の中核となったキリスト教には、ユダヤ教に基づく価値観が深く浸透しており、そのため、ユダヤ的価値観が近代西洋文明を強く性格づけており、近代西洋文明の欠陥・弊害のかなりの部分はユダヤ的価値観によっている、と私は考える。

ユダヤ的価値観とは、ユダヤ教の教えに基づいて発達した価値観であり、近代西洋文明に浸透し、全世界的に普及しつつある物質中心・金銭中心の考え方、自己中心的な態度、対立・闘争の論理、自然の管理・支配の思想である。

人類が未曾有の危機を乗り越えて、この地球に物心調和・共存共栄の新文明を創造するには、ユダヤ的価値観の超克が必要不可欠の課題である。

ユダヤ的価値観の超克については、先の拙稿に書いた。本稿では、その超克という課題のもとに、ユダヤ教から派生して世界に広がり、またそれによってユダヤ的価値観の浸透・普及をもたらしているキリスト教について主題的に考察する。ユダヤ的価値観の超克という課題は、キリスト教に浸透したユダヤ的価値観の超克を伴う課題である。

人類は、21世紀において飛躍的な発展を遂げる段階に近づいている。その段階までの歴史を人類の前史と呼ぶならば、キリスト教は人類の前史を導いてきた世界諸宗教のうち最大のものである。キリスト教は終末論を説く宗教である。通説によると、世の終わりにイエス・キリストが再臨し、最後の審判が行われる際、イエスが創建した教会が完成するという。これを「終末的完成」という。果たして、イエス自身が実際に再臨するのか、再臨は壮大な誤報だったのか、人類はその問いの答えを待っている。

私は、イエス自身の再臨を信じる者ではない。人類が物心調和・共存共栄の文明を実現するためには、キリスト教はキリスト教を超えたものに融合して発展的解消すべき段階にある、と考えている。また、新文明の創造のために、日本の精神文化が果たす役割が大きい、と私は考えている。日本の精神文化が世界に広まる過程は、キリスト教の発展的解消が日本から促進される過程となるだろう。本稿は、キリスト教の概要を記し、その歴史と現在を考察し、この21世紀にキリスト教は終末的完成に至るのか、それとも発展的解消を遂げるのか、その将来を予測することを目的とする。

なお、本稿における聖書の引用は、日本聖書協会の新共同訳による。

 

 

第1部 キリスト教とは何か

 

第1章 概要

 

●宗教の定義

 

 最初に、宗教とは何かについて簡単に述べる。

宗教とは、人間や自然を超えた力や存在を信じ、それに関わる体験を共有する集団によって、教義の内容、組織の仕組み、実践の方法が発達したものをいう。

宗教には、独自の構造と機能がある。構造的要素には教義、組織、実践、体験があり、個人及び社会に対する様々な機能を持つ。教義の中心となるのは、人間や自然を超えたもの、神、仏、霊、理法、原理等の超越的な力や存在の観念である。その観念は、体験によって形成されたものであり、体験に基づく思想や感情が、儀礼によって象徴的に表現され、信仰によって内面化され、また修行によって深められる。そうした実践を行う集団は、独自の組織を形作り、生活の様式を生み出し、制度を整える。宗教は、社会を統合し、集団に規範を与えるとともに、個人を人格的成長に導き、心霊的救済を与える。宗教は、また社会を発展させる推進力となり、国家の形成や興隆を促進し、諸民族・諸国家にまたがる文明の中核ともなるなど、多くの機能を発揮する。

今日宗教と呼ばれるものの多くは、古代に発生し、幾千年の年月に渡って継承され、発展してきたものである。それらの宗教には、その宗教を生み出した社会の持つ習俗・神話・道徳・法が含まれている。

わが国を代表する宗教学者の一人、岸本英夫は、宗教を「神を立てる宗教」と「神を立てない宗教」に分ける。「神を立てる宗教」とは、神観念を中心概念とする宗教である。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教、神道等は、これに属する。そのうち神に関する考え方によって、一神教、多神教、汎神教等に分けられる。「神を立てない宗教」とは、神観念を中心概念とはしない宗教である。マナイズムやいわゆる原始宗教・根本仏教などがこれに属する。私は、「神を立てる宗教」を有神教、「神を立てない宗教」を無神教と呼ぶ。

 

●キリスト教の宗教学的位置づけ

 

キリスト教は、約2000年前、パレスチナでナザレのイエスが始めた教えである。ユダヤ教から派生した宗教だが、ユダヤ教から分かれて、イエスを救世主(キリスト)を信じる別個の宗教として発展した。だが、キリスト教は、ユダヤ民族の神ヤーウェを信仰対象とする一神教であり、ユダヤ教の聖書を旧約聖書として共有している。そのことによって、キリスト教は、ユダヤ民族の習俗、神話、道徳、法を基本的に継承している。さらにユダヤ教の教義、組織、信仰、生活についても一部継承している。また、ユダヤ教の実在観、世界観、人間観は、キリスト教の実在観、世界観、人間観のもとになっている。

それゆえ、キリスト教の宗教学的及び文明学的位置づけは、ユダヤ教のそれを踏まえたものでなければならない。ユダヤ教の宗教学的及び文明学的位置づけは、拙稿ユダヤ的価値観の超克〜新文明の創造のためにに書いた。

ユダヤ教は「神を立てる宗教」すなわち有神教であり、そのうちの一神教である。一神教は、一つの神のみを祀る宗教である。これには、単一神教、拝一神教、唯一神教がある。ユダヤ教は唯一神教の元祖であり、唯一の神のみを神とし、自己の集団においても他の集団においても、一切他の神格を認めない。唯一神教は、地理学的・環境学的には、砂漠に現れた宗教という特徴を持つ。砂漠の自然が人間の心理に影響したものと考えられる。
 ユダヤ教は、唯一神教であるとともに、その唯一の神の啓示を受けたとする啓示宗教、神と結んだという契約による契約宗教、また神の言葉を記したとする啓典を持つ啓典宗教である。創唱者を持たない自然宗教であり、ユダヤ民族の民族宗教である。また、ユダヤ民族という集団を救う集団救済の宗教である。こうした性格のうち、キリスト教は、啓示宗教、契約宗教、啓典宗教である点を、ユダヤ教から継承している。その反面、キリスト教は、ナザレのイエスによる創唱宗教である点が大きく異なる。また、ユダヤ民族だけでなく、その教えを信じる者を救うという点で個人救済の宗教であり、また民族の違いに関わらずそれを信じる者を救う脱民族的な集団宗教でもある。

キリスト教は、ユダヤ教を母体とすることによって、古代ユダヤ民族の神話と歴史を継承している。ユダヤ民族は、宇宙を無から創造した神が人間を創造したとし、最初の人間をアダムと呼ぶ。その子孫であり大洪水で生存したノアには、セム・ハム・ヤペテの三人の子があったとする。長子セムは、アッシリア人、アラム人、ヘブライ人、アラブ人の祖先とされている。言語学では、セム語族という言語系統の集団があるとする。セム語族には、アッカド語、バビロニア語、フェニキア語、アッシリア語、アラビア語などが所属する。ユダヤ民族は、セム語系のヘブライ語を話す。

ユダヤ民族は、セムの子孫であるアブラハムをユダヤ民族の始祖とする。そしてアブラハムが契約した神ヤーウェを信仰している。そのユダヤ民族の信仰がユダヤ教である。キリスト教は、ユダヤ教から派生し、神ヤーウェの信仰を継承している。イスラーム教は、ユダヤ教、キリスト教の影響を受けて発生した。そこで私は、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教を、総称してセム系唯一神教、略してセム系一神教と呼んでいる。この場合のセム系は、言語学的な系統ではなく、そのもとになった観念的な民族の系統を表す。キリスト教は、このセム系一神教の一つであり、そのうちの最大のものである。

 

関連掲示

・本稿は、私の宗教論の第5作となる。既に書いたものは、発表順に次の通りである。

「日本文明の宗教的中核としての神道」

「イスラームの宗教と文明〜その過去・現在・将来」

「宗教、そして神とは何か」

「ユダヤ的価値観の超克〜新文明の創造のために」

 

●キリスト教の文明学的位置づけ

 

文明学者アーノルド・トインビーは、文明は、誕生、成長、挫折、解体を繰り返すという文明の周期論(サイクル論)を説いた。文明の成長段階で「世界国家」が登場し、その末期に、征服された地域の抑圧された民族の間に「高度宗教」を生み出す。「高度宗教」は、「世界国家」の崩壊後も生き続け、やがて蛮族がこの「高度宗教」に改宗し、そこに受け継がれた「高度宗教」が、次の文明の発生の中核になるとトインビーは説いた。この理論は、ギリシャ・ローマ文明の過程をモデル化したものであり、「高度宗教」がキリスト教を想定していることも明らかである。

私は、トインビーの説を踏まえつつ、文明と宗教の関係を一般化する必要があると考える。文明は、トインビーの注目した例に限らず、その中核に宗教を持つ。宗教は、社会を統合する機能を持ち、集団に規範を与え、社会を発展させる駆動力ともなり、国家の形成や拡張を促進する。さらに、諸民族・諸国家にまたがる文明の中核ともなるものである。

世界の諸文明は、そのような宗教を、その精神的な中核に持っている。文明には、その文明の独自の文化から生まれた固有の宗教を持つものと、他の文明が生み出した宗教を摂取したものとがある。トインビーが注目したのは後者の例である。

国際政治学者サミュエル・ハンチントンは、文明の中核には宗教があるとするトインビーの説を受けて、宗教をもとにして諸文明を特徴づけている。また、冷戦終結後の世界には、7または8つの主要文明が存在すると説く。すなわち、キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする西洋文明(西欧・北米)、東方正教文明(ロシア・東欧)、イスラーム文明、ヒンドゥー文明、儒教を要素とするシナ文明、日本文明、カトリックと土着文化を基礎とするラテン・アメリカ文明。これに今後可能性のあるものとして、アフリカ文明(サハラ南部)を加え、7または8と数える。

 私は、世界の諸文明を主要文明と周辺文明に分ける。主要文明とは、独自の文明の様式をもち、自立的に発展し、かつ文明の寿命が千年以上ほどに長いか、または現代世界において重要な存在であるものである。また周辺文明とは、主要文明の文化的刺激を受けて発生し、これに依存し、宗教・政治制度・文字・芸術・技術等を借用する文明である。

現代の主要文明は西洋文明、東方正教文明、イスラーム文明、インド文明、シナ文明、日本文明、ラテン・アメリカ文明、アフリカ文明の8つと考える。ハンチントンが可能性として挙げたアフリカ南部を今日、一個の文明とみなす。そして、これら以外に多くの周辺文明が存在すると考える。

私は、世界の主要文明を宗教をもとにして、大きく二つのグループに分けている。セム系唯一神教を文明の中核とする一神教文明群と、人類に広く見られる多神教を文明の中核とする多神教文明群である。

 一神教文明群に属する主要文明は、ハンチントンのいう西洋文明、東方正教文明、イスラーム文明、ラテン・アメリカ文明の四つである。多神教文明群に属する主要文明は、日本文明、シナ文明、インド文明に新興のアフリカ文明を加えて四つと私は数える。

トインビーは、世界史において、「充分に開花した文明」が過去に23あったとし、その一つとしてユダヤ文明を挙げた。ユダヤ教社会は、古代シリア文明にさかのぼる。シリア文明は、紀元前1200年頃のフェニキア文明以来、中東で発展してきた文明である。ユダヤ民族は、シリア文明の一弱小民族だった。その後、ユダヤ民族はその周辺文明として独自の文明を創造したが、ローマ帝国によって滅ぼされた。その過程で、ユダヤ文明からキリスト教が誕生した。

キリスト教は、ユダヤ教から出たことによって、ヘブライズムの思想・文化を継承している。ギリシャ文化社会に伝道する過程で、ヘレニズムの思想・文化を吸収した。キリスト教には、ヘブライズムとヘレニズムの融合が見られる。ユダヤ的な宗教の教義をギリシャ哲学を用いて整備することで、普遍的な性格を獲得していった。

キリスト教はローマ帝国で急速に広がり、国教の地位を得た。ユダヤ民族の亡国離散、ローマ帝国の東西分裂及びそれぞれの帝国の滅亡の後も、世界宗教として伝播し続けた。西方のキリスト教は、ギリシャ=ローマ文明を継承したヨーロッパ文明の宗教的な中核となった。ヨーロッパ文明は北米・南米にも広がり、近代西洋文明へと発展した。また東方のキリスト教は、ビザンティン文明を経て、東方正教文明の宗教的中核となった。

ハンチントンが説くように、キリスト教はラテン・アメリカ文明にも影響を与えている。彼の言う西洋文明、東方正教文明、ラテン・アメリカ文明は、私の分類における一神教文明群に属する。私は、古代に滅亡したユダヤ文明は、第2次世界大戦後、イスラエルの建国によって、現代のユダヤ文明へと蘇ったと見ている。そしてそのユダヤ文明を、一神教文明群に属する周辺文明の一つとして位置づける。ユダヤ教及びユダヤ文明は、キリスト教系の諸文明に大きな影響を与えてきている。それゆえ、私は西洋文明、東方正教文明、ラテン・アメリカ文明、ユダヤ文明を、ユダヤ=キリスト教諸文明とも呼ぶ。一神教文明群は、ユダヤ=キリスト教諸文明とイスラーム文明に分けられる。

ユダヤ=キリスト教という名称は、私がユダヤ教とキリスト教が同根であることを強調する時に使用するものである。また、私は、キリスト教とユダヤ教の違いを認めつつ、欧米の宗教の基底にはユダヤ教の要素があることを強調する時にも、ユダヤ=キリスト教と書く。ハンチントンは西洋文明に対し、「キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする」と表現しているが、ここにユダヤ教という要素を明記すべきである。つまり、西洋文明はユダヤ=キリスト教を基礎とする、という形容こそふさわしい。そして、ユダヤ=キリスト教のユーラシア西方での表れが西洋文明、東方での表れが東方正教文明ととらえることができる。

本稿は、キリスト教を上記のように宗教学的及び文明学的に位置づけるものである。

 

●ユダヤ教から現れた世界宗教

 

キリスト教は、イエスを創唱者とする一個の宗教である。だが、もともとキリスト教は、ユダヤ教から派生した宗教である。ユダヤ民族の神ヤーウェを信仰対象とし、ユダヤ教の聖書を旧約聖書として啓典の一部とする。ユダヤ教はキリスト教の母体となっており、決してその出自とつながりを消去することはできない。

紀元1世紀の前半にパレスチナに、ユダヤ教の改革者としてイエスが登場し、彼の教えを信じる者は神によって救済されるという脱民族的な教えを説いた。この時点では、ユダヤ教の異端・分派であり、キリスト教はユダヤ教イエス派から始まったということができる。それが、ユダヤ教から分離して独自の宗教へと発展した。

キリスト教は、ユダヤ教と神をともにし、ユダヤ教の聖書を旧約聖書、イエスの言行録や弟子たちの手紙等を新約聖書とする。この「約」は、神との契約を意味する、それゆえ、ユダヤ教はキリスト教の母体となっている。

だが、ユダヤ教は、イエスを救世主とは認めない。独自の救世主の到来を待っている。イエスを救世主と認めないのがユダヤ教の正統であり、イエスを救世主と仰ぐキリスト教は、ユダヤ教の異端・分派である。

しかし、ユダヤ教が民族宗教であるのに対し、キリスト教は、ユダヤ教から脱民族化して、人類的・普遍的性格を持つに至った。歴史の特定の時点、世界の特定の場所、人類の特定の民族において出現した宗教でありながら、特定の民族・人種・地域に限定されない。その点で本質的に世界宗教である。また、古代から広範な地域に布教・公布され、民族の違いを超えて受け入れられ、信者が世界各地に広がっている。その点で現実的にも世界宗教となっている。それゆえ、本質的にも現実的にも、キリスト教は世界布教ということができる。

ユダヤ教から一定の影響を受けて世界宗教となったのには、別にイスラーム教がある。これらユダヤ教及びそれを元祖とする宗教であるセム系一神教は、それ以外の諸宗教と実在観・世界観・人間観が大きく異なる。人類の共存調和のためには宗教間の相互理解・相互協力が必要だが、それにはセム系一神教同士の対話と協調が強く求められている。その対話と協調において、欧米を中心に世界に広がるキリスト教の役割は大きい。また、全く別の系統から世界宗教になった仏教や、今後、世界宗教に発達する可能性のある神道との対話と協調においても、キリスト教の果たすべき役割は大きい。

 

●選民思想の否定とユダヤ的価値観の浸透・普及

 

キリスト教は、ユダヤ教と同じ唯一の神を仰ぎながら、選民思想を否定した。それによって、世界宗教となった。一方、ユダヤ教は、民族宗教にとどまった。

ユダヤ教は、その教義に基づくユダヤ的価値観を生み出した。それが、ヨーロッパで西方キリスト教に浸透し、キリスト教が広まるとともに世界に広まり、人類に広く深く浸透してきた。ユダヤ的価値観については、拙稿ユダヤ的価値観の超克〜新文明の創造のためにに書いた。

ユダヤ的価値観を持つ者は、ユダヤ人に限らない。非ユダヤ人であって、ユダヤ的価値観を持つ者が近現代の世界史を通じて、増加してきている。欧米を中心に、キリスト教徒でありながら、ユダヤ的価値観を持つ者が増えている。私は、人類がユダヤ的価値観を超克するとともに、ユダヤ教が排他的・闘争的な選民思想から脱却することができなければ、人類の対立・闘争は続き、地球に共存共栄・物心調和の新文明を実現することは困難である、と考える。このユダヤ教の選民思想の脱却において、キリスト教には、大きな役目がある。ユダヤ的価値観の超克は人類の課題である。本稿は、ユダヤ的価値観の超克〜新文明の創造のためにと同じ課題認識のもとに書いているものである。

 

●人口 

 

世界の諸宗教の人口について、百科事典『ブリタニカ』の年鑑2009年版の「世界の宗教人口割合」は、キリスト教が22億5400万人(33.4%)で最大とし、続いてイスラーム教が15億人(22.2%)、ヒンドゥー教が9億人(13.5%)、仏教が3億8400万人(5.7%)としている。

キリスト教の教派の内訳については、2002年の統計になるが、当時キリスト教徒の人口を世界で約20億4000万人としていた時点で、ローマ・カトリック教会が約10億8000万人を有し、52.9%を占める。プロテスタント諸派は合計で約3億5000万人で17.2%、東方正教会(ギリシャ正教等ともいう)が約2億2000万人で10.8%等である。プロテスタント諸派では、英国国教会(聖公会)が約8500万人、メソディストが7500万人以上、ルター派が7000万人以上、バプテストが4000万人以上である。

次に、世界のキリスト教徒の動態については、米国ワシントンに本拠を置くピュー・リサーチ・センターの2010年の調査によると、キリスト教は欧米など伝統的なキリスト教圏では不振であるのに対し、発展途上国では信徒数が急増しており、キリスト教の中心と呼べる大陸や地域はなくなっている。1910年には、世界のキリスト教徒の3分の2は欧州に住んでいた。それが、100年後の時点では、欧州居住者の比率は25%にまで低下した。一方、世界のキリスト教徒のうち、南北アメリカが37%、サハラ砂漠以南のアフリカが24%、アジア・太平洋地域が13%等となっている。キリスト教が発生し、初期に発達した中東・北アフリカでは、住民のわずか4%に過ぎなくなっている。最もキリスト教徒が増加しているのは、サハラ砂漠以南のアフリカで、1910年には人口の9%だったのが、2010年には63%にまで増加した。これに比し、ヨーロッパでは、1910年に94%だったのが、76%にまで減少している。キリスト教に比べ、イスラーム教徒は倍以上の速度で増加しており、2070年には、キリスト教徒とムスリムの人口は同数になり、2100年には、ムスリムが世界最多となる。

ピュー・リサーチ・センターの2012年の調査によると、世界人口69億人のうち、約11億人、16%が無宗教者である。無宗教者は無神論者に限らず、特定の宗教を持たないが何らかの精神的信仰を持つ者を含む。無宗教者の6割が中国に存在する。その一方、中国では、共産党員によるキリスト教信仰を禁止する政策にも関わらず、信者が増えており、人口の5%、6700万人と推定される。

 

●一神教の中の唯一神教

 

キリスト教は、唯一神教的な一神教である。そのことを、ユダヤ教から継承している。

ユダヤ教が出現する前、人類の諸社会は、アニミズム、シャーマニズム、多神教、ユダヤ教以前の一神教等の諸宗教が並存していた。ユダヤ民族は、アニミズム、シャーマニズム、多神教等を否定し、従来の一神教を排斥した。そして、新たな形態の一神教を生み出した。それが唯一神教である。

ユダヤ民族の唯一神教は、唯一の神のみを神とし、自己の集団においても他の集団においても、一切他の神格を認めない。その点が、従来の一神教すなわち自集団・他集団とも多くの神格を認める単一神教や、自集団では神格は一つだが他集団では多数の神格を認める拝一神教と異なる。

ユダヤ民族は、全知全能の唯一神という観念を確立した。ユダヤ教の神は無限の偉大さを持つとされ、図像によって神の姿を限定的に表現することを禁止した。他の人間神、自然神、宇宙神を一切認めず、偶像として非難し、それらの崇拝を禁止する。アニミズム、シャーマニズム、多神教等にみられる祖先崇拝・自然崇拝を全否定するものだった。こうした排他的な唯一神への信仰は、それまでの諸宗教が並存する状態に挑戦するものである。さらに、これに選民思想が加わり、ユダヤ教を極めて排他的で闘争的な宗教にしている。

歴史家・評論家のポール・ジョンソンは、著書『ユダヤ人の歴史』において、ユダヤ教は「その誕生においては、最も革命的な宗教であった」と書き、全知全能の唯一神への信仰は、「それまでの人類の世界観を打ち砕くほどの変革力を持っていた」と見ている。

全知全能の神という観念にいたったユダヤ人にとっては、宇宙全体が神の被造物に過ぎない。神以外に力の源はどこにもない。神は無から宇宙を創ったとする。こうした神の概念を超越神という。この点でユダヤ教は神を一元的に抽象化している。この思考は一元的な原理に基づくものであり、その原理に依拠する合理性を示す。

私は、ユダヤ教で唯一神とされた観念的存在は、もともとユダヤ民族の祖先神だったのだろうと推測する。その祖先神は他の諸民族の祖先神と並存・競合したものだった。だが、自己の民族の祖先神が他の民族の祖先神より優れているという観念が強まり、天地創造の主体という原理的存在へと抽象化された。原理的存在ゆえに唯一の神であるとされ、唯一の実在とされた。その結果、他の民族の神々は否定されるべきものとされた。このような過程を経て、唯一神への信仰が形成されたと考える。

ユダヤ民族の神がもともとは彼らの祖先神だっただろうことは、神は人間を神の似像として創造したという観念にも窺われる。人間の子孫は祖先と同型である。同じ人間である祖先から生命を継承して誕生したからである。祖先を神格化した祖先神を原理的存在へと抽象化した後も、その神が生命の源であるという観念は維持される。もともと祖先神であるから、その神が創った人間は、神に似ていると考えられたのだろう。

私の推測では、本来は祖先神として子孫と血のつながりを持ったものだった神が抽象化され、人間の創造者とされた。祖先ではなく絶対的な支配者とされた。そして、ユダヤ民族に求められるのは、祖先への自然な崇敬ではなく、支配者と結んだ契約の順守とされた。ここで神と人間の関係は、祖先と子孫の関係ではなく、主人と奴隷の関係に転換された。神に対する義務は、祖先に対する子孫の義務ではなく、主人に対する奴隷の義務となった。こうした観念が発生したのは、ユダヤ民族が他の民族の支配下に置かれ、長い年月のうちに奴隷的な思考が定着したからだろう。神に対して奴隷のように従い、従わねば奴隷のように殺されると信じることになったと思われる。

ナザレのイエスは、こうしたユダヤ民族の宗教を継承し、その改革を行った。何を継承し、何を改革したのか。それを押さえたうえで、キリスト教を理解しなければならない。

キリスト教は、キリスト教だけを見てもよく理解することはできない。まずユダヤ教を理解し、それとの対比の中で、キリスト教を理解する必要がある。


 

●教祖とされたイエス

 

ナザレのイエスの誕生は、紀元前7年から紀元後4年の間、また十字架刑に処せられて死んだのは、紀元後30年から32年の間と推定されている。

キリスト教暦(西暦)で紀元前をBCと言うのは、before Christ(キリスト以前)、紀元後をADと言うのは、anno Domini(わが主の年)を意味する。

イエスは、ユダヤのベツレヘムにマリアの子として誕生した。マリアは許婚者に大工のヨセフがいたが、「聖霊によって身籠った」とされる。これを処女懐胎という。

イエスはナザレで育ち、家業の大工に従事していた。30歳のころにバプテスマのヨハネから洗礼を受けた。ヨハネは神の国が近づいたことを人びとに伝え、人びとに悔い改めを迫って、罪のゆるしに至る洗礼を授けていた。ヨハネは、悪女サロメの切望を受けたヘロデ王によって斬首刑にされた。イエスはヨハネの悔い改めの説教を受けつぐ形で、ガリラヤ地方を中心に伝道活動を始めた。この点は重要である。イエスは、はじめから独創的な教えを説いたのではない。ヨハネの教えを受け継ぎ、それを発展させたのである。いわばユダヤ教ヨハネ派から出て、独自にイエス派を立てたものである。

イエスの言行を描く福音書のうち、最も古く書かれたマルコによる福音書は、イエスの教えを次のように約言した。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ書1章15節)。

イエスは、やがてユダヤ教の重視する煩瑣な律法を斥け、律法に現れた神の意思そのものに従うことを人々に教えるようになった。これによって、正統的なユダヤ教と決定的な相違が現れた。イエスは、ユダヤ教の律法主義・形式主義を乗り越えるものとして、人類に対する神の愛を強調した。また、神の力によって奇跡を起こしたとして、新約聖書には約40の話が書かれている。こうしたイエスの教えと活動は、ユダヤ教の正統派であるファリサイファリサイ派(ファリサイ派とも書く)やサドカイ派の反感を買った。そのため、伝道生活わずか2年で捕えられた。

『マルコによる福音書』は、イエスが捕囚と死と復活を予言していたとして、次のように書いている。「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(マルコ書8章31節)。

イエスはまずローマ帝国でユダヤ人に許されていた自治機関である最高法院の裁判にかけられた。ここでイエスは「神を冒涜する者」として、死刑に値するという判決を受けた。最高法院は、死刑を執行する権限をローマ帝国から与えられていなかった。続いて、イエスはローマ領ユダヤの総督ピラトのもとで裁判を受けた。ピラトは、イエスがローマの支配に反抗する謀反者という罪状でイエスの死刑を決定した。イエスは、エルサレム門外のゴルゴダの丘の上で十字架刑に処せられた。

『マルコによる福音書』は、十字架上のイエスについて、次のように書いている。「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」。(マルコ書15章34節)。

 これはイエスが絶望して神に訴えたものではない。イエスが口にしたのは、旧約聖書の詩篇22の冒頭の言葉であり、最後は神への信頼を以って終わるものだからである。 イエスの遺体は墓に納められたが、3日目に婦人たちが墓に行くと遺体がなくなっていた。誰もイエスが墓において蘇った瞬間を目撃した者はいない。ただ墓が空になっていることが確認された。

 その後、イエスは弟子や信徒らの前に姿を現したとされる。イエスの奇跡のうち、最大のものは、この復活の奇跡である。人類の歴史において、死んだと思われた者が埋葬後、よみがえったという話はまれにあるが、イエスのように自らの復活を予言し、その通り復活したと伝えられている例は、他にない。さらにイエスは、40日間にわたり弟子や信徒の前に姿を現して復活を証明し、最後にオリーブ山から弟子たちの見守るなかで昇天したと信じられている。

イエスはユダヤ教徒であり、ユダヤ教の改革者だった。イエス自身に、ユダヤ教徒は別の新しい宗教を開くという考えがあったかどうかはわからない。マルコ、マタイ、ルカによる福音書では、イエスは、自分を「人の子」と言っている。周りが彼を「神の子」と呼んだり、「神の子」なのかと疑っても、イエス自身は「神の子」だとは自称しない。だが、ヨハネ福音書では、イエスの言葉として自分を「神の子」という文言が次の箇所など3か所ある。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」(ヨハネ書5章25〜26節) しかし、これはヨハネが書いている文言であり、イエスが自分は「神の子」であると自称し、また救世主であると認識していたかどうかは、明確ではない。

イエス本人がどうだったかは別として、イエスを「神の子」と崇める信仰は、彼の死後間もなく、弟子たちの間に芽生えた。イエスが起こした奇跡、特に死と復活を目撃した弟子たちは、イエスこそユダヤ教で待望されるメシア(救世主)だと信じるようになった。弟子たちがイエスを救世主と信じ、そのことを伝える活動を行ったことによって、キリスト教が誕生した。それゆえ、イエスは自らキリスト教を創設したのではないが、キリスト教の教祖とされる。

 

●救世主信仰

 

キリスト教では、ナザレのイエスをキリスト(救世主)とする。キリストとはヘブル語のメシア(救世主)のギリシャ語訳である。メシアの語源は「油注がれた者」である。油を頭から注ぐというのは名誉ある地位に、多くは王位に、任ずる儀式である。油は当時、燃やすと明かりをもたらすところから、喜びをもたらすものと考えられていた。

キリスト教では、ユダヤ教で待望されるメシアは既にイエス・キリストとして現れたとする。キリスト教の主流では、イエスに神性を認め、イエスは神が人となり、磔刑にかけられたことで人類の罪を贖い、原罪から人間を解放したとする。これに対し、ユダヤ教では、イエスをメシアとみなさない。またイエスを「主」とも「神の子」ともみなさない。イエスは人間であり、律法に背いた犯罪者とみる。

キリスト教は、イエスをキリストだとする最大の根拠として、『イザヤ書』53章を挙げる。そこには、第2イザヤの預言として、主すなわち神によって、人々の咎を負い、主の御心を成し遂げる者が現れることを述べた一節がある。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書53章4〜5節)とあるのが、それである。キリスト教徒は、この預言はイエス・キリストの出現を述べたものと解釈する。

だが、ユダヤ教徒は、キリスト教徒の解釈は間違いであり、その記述はイエスの出現を預言したものではないと断じる。ユダヤ教では、メシアは主すなわち神ではない。人間であり、ダビデの子孫とされる。メシアは王として現れると考えられている。それゆえ、メシアは「救済者」であって、救世主と訳すのは、厳密には誤りとなる。

ユダヤ教では、21世紀の今もまだメシアは現れていない。今後、メシアが出現することが期待されている。出現するメシアは、神と新しい契約を結び、王国を復興して神殿を再建する。離散したユダヤ人を世界各地から呼び集める。イスラエルを率いて、世界を統治する。このような役割を果たすべき宗教的指導者であり、また政治的指導者が、メシアである。ユダヤ教におけるメシアの概念によれば、イエスをメシアとすることはできない。

 

●奇跡の伝承

 

イエス・キリストは、神の力によって奇跡を起こしたとして、聖書には約40の奇跡の話が書かれている。このキリストの業によって、神と人とが再び結び付いたとする。

 具体的には、イエスはハンセン氏病患者やその他の病気の人間を治癒したとされる。また、聾唖者が健常になったり、盲人の目が見えるようになったりしたとされる。さらにイエスは、死者を蘇生させたり、水の上を歩いたとされる。 ヨーロッパでは17世紀の「科学の世紀」、18世紀の「啓蒙の世紀」以降、キリスト教徒の中には、こうした話を奇跡とは信じない者が増えてきている。しかし、キリスト教が成立し、維持・継承されてきたのは、イエスの弟子たちがイエスの業を奇跡と信じ、またそれを伝え聞いた者たちがその話を奇跡と信じ、そこに神の業を感じてきたことにある。

 

●神ヤーウェ

 

キリスト教の神をヤーウェという。ヤーウェは、ユダヤ民族の祖先であるアブラハムが契約を結んだとされる神である。一部で使われているエホバは誤読で、ヤーウェが正しいとされる。ヤハウェとも書く。キリスト教の神は、本来ユダヤ民族の神であるという出自を持つ。

神ヤーウェは、古代ギリシャ語ではΘεός テオス、ラテン語ではDeus デウス、英語ではGodとも呼ばれる。英語のgodは普通名詞で多神教の神々を意味するが、大文字のGodは唯一神教の神に使われる。英語のGodは、キリスト教、ユダヤ教、イスラーム教の神に用いられる。

god は印欧語族中のゲルマン語族系の語である。rufen(呼ぶ)を意味する印欧語のghauか、gießen(注ぐまたは供え物の意味として)を意味する印欧語のgheuhかのどちらかに由来すると考えられている。呼びかける対象か、供え物を捧げる対象かということになる。

ヤーウェは、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(『出エジプト記』3章14節)と述べる。唯一神であり、人格神であり、その性格は男性神であり、父とされる。

キリスト教がユダヤ教と共有する神ヤーウェは全知全能であり、神聖にして完全な存在、永遠の生命あるものである。また、神は、自らの意志によって、宇宙を無から創造したとされる超越的な存在である。これを超越神という。神はまた人間を創造し、正義によってこれを支配する。神は宇宙を超越した存在でありながら、同時に宇宙に遍在している。

神ヤーウェは絶対的な存在とされる。だが、男性神であり、父とされるということは、父母・男女の両性を満たしていないことであり、絶対的ではなく相対的な存在であることを示している。

超越神は観念的な存在だが、同時にユダヤ民族の歴史において人間に介入したと信じられている。ユダヤ民族を選び、その民族指導者や預言者に啓示を与えたとされる。そして、神とユダヤ民族が結んだという契約の観念が、ユダヤ教の信仰の核心になっているとともに、キリスト教の信仰の核心にもなっている。ユダヤ民族の神という出自を消して、キリスト教の神を普遍的な神とすることは、決してできない。

ユダヤ民族は神に選ばれた民族であるという選民思想がユダヤ教の特徴となっているが、キリスト教はこの思想を否定していない。もしこの思想をすべて否定するならば、キリスト教はユダヤ教を全面的に否定することになる。キリスト教は、ユダヤ民族が神に選ばれた民族であるという思想を肯定しつつ、神の愛はユダヤ民族にのみ注がれるものではないとして、脱民族化している。

ユダヤ教では、神ヤーウェは愛の神とされる。『レビ記』19章18節に「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」とある。

だが、ヤーウェの愛は、自らが選んだユダヤ民族にしか注がれない。ヤーウェは、自らと契約した民のみを守護する。その愛は、特定的で排他的な愛である。また、その愛は無条件のものではない。

神は自ら選んだユダヤ民族に服従を求め、従わねば厳しく罰し、時に大量に滅ぼしさえする。それゆえ、ヤーウェは単に愛の神ではなく、愛の反対感情である妬みや憎しみを表す神でもある。

また、ヤーウェは、ユダヤ民族のために他の民族と戦う。これを最もよく表すのは、「万軍の神なる主」または「万軍の主」という尊称である。神ヤーウェは、ユダヤ民族に対しては愛を注ぐが、他民族に対しては憎しみを向ける。ヤーウェは、怒る神であり、また復讐の神である。

キリスト教はユダヤ教とともに神ヤーウェを信仰する。それゆえ、いかに神は愛であると説いても、ヤーウェから妬み、憎しみ、怒り、復讐という愛とは別の感情を除去することはできない。

キリスト教では、神について、ユダヤ教でのとらえ方に加えて、次のような性格を加える。

 

(1)霊: 「神は霊である。」(ヨハネ書4章24節)とする。

(2)ロゴス: 神は言葉(ロゴス)により万物を創造したとする。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ書1章1節)、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ書1章3節)とする。イエス・キリストも言葉が受肉したものとする。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ書1章14節)という。

(3)愛: 神の本質は愛(アガペー)であるとする。『ヨハネの手紙一』4章16節に、「神は愛です。」とある。

(4)三位一体: 神は一つの実体と、父、子、聖霊の三つの位格を持つ。(主な教派。異論あり)

(5)イエスは子なる神: イエスは、位格の一つである子なる神であるとされる。父なる神、聖霊と同格であるとし、イエスは主ともされる。(同上)

(6)聖霊を発する: 神は、位格の一つである聖霊を発する。(同上)

 

(1)〜(3)には、ギリシャ哲学の影響が色濃い。(4)〜(6)には、イエスを救世主とする独自の思想が加わっている。(4)〜(6)は、次の項目に記す三位一体と関係する。

 

●三位一体の神

 

キリスト教は、超越神ヤーウェを唯一の神とする唯一神教である。それと同時に、キリスト教の主流では、この神を三位一体の神とする。

キリスト教では、宗派のことを教派という。ローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタント諸派の多くは、三位一体説を信奉する。三位一体(Trinity)とは、唯一の神が、創造主としての父なる神、贖罪者イエス・キリストとして世に現れた子なる神、信仰経験に顕示された聖霊の三つの位格を持ち、それぞれが同格に存在するとする教義である。神は、実体(希語ウーシア、羅語スブスタンティア)は一つで、三つの位格(希語ヒュポスタシス、羅語ペルソナ)を持つと説く。実体はそれ自身によって存在するもの、位格は知性と意志とを備えた独立の主体を意味する。

三位一体説は、キリスト教の主流の考え方の中心をなす教義の一つである。だが、キリスト教徒にとっても難解な教義であり、理性をもって理解する対象ではなく、信仰をもって信じる対象としての神秘であると強調されてきた。

三位一体説を信奉する教派に関しては、キリスト教は、唯一神を信じ、かつ神の三位一体を信奉する宗教ということができる。三位一体の神を信じる唯一神教ともいえる。

日本の東方正教会では、三位一体ではなく至聖三者、聖霊ではなく聖神という用語を使う。

三位一体説を認めない者は、4〜5世紀に異端とされた。だが、異端とされた教派の多くは、今日も存続している。また、19世紀以降に現れたエホバの証人、モルモン教、世界基督教統一神霊協会(統一教会、現・世界家庭平和連合)は、三位一体を認めない。これらは、伝統的なキリスト教の枠から外れているが、キリスト教を自称しており、現代の異端とされる。

三位一体説の思想内容については、教義の項目で述べる。

 

●啓示宗教

 

キリスト教は、啓示宗教である。人間の理性・感情・宗教性に基づく自然宗教に対し、啓示宗教とは、神の啓示に基づく宗教である。啓示とは神が人間に表し示すことである 

キリスト教は、ユダヤ教から啓示宗教であるという性格を受け継いでいる。神ヤーウェが特定の時・場所において歴史に介入し、ユダヤ民族に教えや奇跡をもって真理を示したと信じ、モーセや預言者が神の言葉として伝えたものを教義の要素として受け継ぐ。そのうえで、ナザレのイエスを神が遣わした救世主とし、イエスの言葉を神の言葉として信じる。イエスによる啓示を以って、神の啓示の完成とする。それゆえ、キリスト教は、神のユダヤ民族への啓示と、イエスによる人類への啓示をともに信じる啓示宗教である。

 

●啓典宗教

 

キリスト教は、啓典宗教である。そのことをユダヤ教から受け継いでいる。神の言葉を記したとされる啓典を持つ。単に聖典ではなく、啓典と書くのは、神の啓示を記録したものと信じられているからである。

ユダヤ教との違いは、イエスの言行を記録した福音書及び彼の弟子たちの言行を記録した諸書等をも啓典とすることである。

 

●契約宗教

 

キリスト教は、契約宗教である。そのことをユダヤ教から受け継いでいる。契約とは、神と人との契約である。

ユダヤ民族の祖先アブラハムが神ヤーウェと契約を結び、神からカナンの地を与えるという約束を受けたとする。これをアブラハム契約という。

また、ユダヤ民族の指導者モーセは、シナイ山において神と契約を結んだ。これをシナイ契約という。この契約によって、アブラハム=モーセの神はイスラエル人の唯一の神とされ、後世のユダヤ民族は神ヤーウェに選ばれた唯一の民族と信じられた。

また、古代の王ソロモンは、エルサレムのシオンの丘に神殿を建立した。神ヤーウェはダビデ家をイスラエルの支配者として選び、シオンを神を祀る唯一の場所に定める約束をしたと理解された。これをダビデ契約という。

これら神との三つの契約――アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約――が、ユダヤ教の信仰の核になっている。

神ヤーウェとユダヤ民族の契約は、神からの一方的なものである。人間は神との契約を拒否することはできない。神と人間の関係は、主と僕の関係であり、対等の関係ではない。こうした契約を上下契約という。契約の相手は絶対神であり、契約は絶対神の命令(commandment)である。

ユダヤ教は、神との契約に基づく律法主義の宗教である。律法を守る以外に罪からの救いはない。だが、キリスト教徒は律法を守れなくても、罪からの救いがあると考えた。それは、神が独り子イエスを遣わし、イエスが人類のためにみずからの身を十字架にかけて死んだことで、人類の罪が購われたからだとする。キリスト教徒は、神はモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれたが、その契約をイスラエルの民が守らなかったので、キリストを通して新しい契約を全人類との間に結ばれたと考える。「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」(『ヘブライ人への手紙』9章15節)。また、その根拠として、旧約聖書の『エレミヤ書』の「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」(エレミヤ書31章31節)という記述を挙げる。そして、キリスト教ではユダヤ教の律法を神との古い契約とし、イエスの贖罪を新しい契約と考える。それゆえ、キリスト教は契約宗教だが、ユダヤ教の契約を旧約とし、イエスによる契約を新約とする点が、ユダヤ教と異なる。キリスト教は、これら旧約・新約の両方を信じる契約宗教である。

ユダヤ教では、人と人との間の契約も、神の前に誓い、これを証人とすることで有効とされる。キリスト教は、この慣習を受け継いだ。近代西欧の契約観念は、ユダヤ教を根底に持つキリスト教に根差すものである。

 私の理解するところでは、イエス・キリストは神ではなく一人の優れた霊覚者である。神の本源が地球に接近しつつあることを優れた霊覚で感知し、自分が感得したことを民衆に伝えた。ところが、イエスの弟子や信徒はイエスを神の子であり、子である神だととらえ、イエスの言葉を神の言葉と理解した。実際には、真の神は、ユダヤ民族に対してもイエスに対しても、啓示をしてはいない。ユダヤ教の預言者もイエスも、真の神の言葉を伝えていない。彼らが伝えたのは、神の言葉そのものではない。イエス以前の預言者も、イエスも各々、霊覚によってとらえたことを、自分の言葉・表現で勝ったに過ぎない。

 

●来世志向的かつ将来志向的宗教

 

キリスト教は、現世的欲望を否定し、来世の天国に入ることを目的とする教えである。現世救済より死後救済に重点を置く来世志向的な宗教である。ユダヤ教は、現世志向が強く、来世についてあまり具体的に説いていない。これに比べ、キリスト教では、人間は死後、神の裁きを受けて、魂はただちに天国へ行くか、地獄へ行くとする。魂が来世に行くのに対し、肉体は墓の中で腐敗する。しかし、この死は一時的な状態だとされる。人間はいつか、神の恵みによって、再び肉体を与えられて復活する。それは、深い眠りからの目覚めのようなものと考えられている。

そして、ユダヤ教と同じく、最後の審判が行われ、救いを得られた者は永遠の生命を得る、得られなかった者は永遠の死に置かれると説く。その点では、将来志向的な宗教である。ただし、最後の審判の後に実現される「神の国」は地上に建設さるものとされており、最終的に目指すべき場所は、死後の霊界の天国ではなく、将来の地上の天国である。

 

●終末論的宗教

 

 キリスト教は、一回限りの歴史の直線的な進行を前提とし、その歴史の終わりの到来を説く終末論的宗教である。終末論とは、世界の滅亡・消滅を説くものではない。メシアの到来によって、最後の審判が行われ、新しい世界が始まることを説くものである。キリスト教は、この点をユダヤ教から継承している。違うのは、イエスをメシアと信じ、人間が最終的に救済されるか否かは、再臨したイエス・キリストが行う最後の審判によって決定されると考えるところである。

 

●個人救済の宗教

 

キリスト教のもとになったユダヤ教は、集団救済の宗教である。神が奇跡を起こして救うのは、ユダヤ民族という集団である。集団を救うことによって、その集団を構成する個人をも救う。集団から切り離された個人の救済は、目的としていない。ユダヤ教徒は、神が自ら選んだ民族のみを救済すると信じる。言い換えれば、自らを選民と信じる民族が神に集団救済を求める宗教が、ユダヤ教である。こうした観念を否定して、信奉する個人を直接対象にして救うという考え方は、ユダヤ教では成り立たない。

これに対し、キリスト教は、個人救済の宗教であり、個人の救済を通じて集団を救う宗教である。キリスト教は、ユダヤ民族であるかないかに関わらず、イエスの教えを信じる者は救われると説く。また個人の救済を通じて救われる集団は、ユダヤ民族ではなく、イエスを信じる信徒の集団である。それゆえ、キリスト教は、ユダヤ教を脱民族化し、またそれによって個人に志向した宗教である。

 

●聖書

 

キリスト教の啓典を聖書(バイブル)という。聖書は1200余りの言語に翻訳され、世界のほとんどの人が、自国語で神のことばを読むことができる。また、常に世界的なベストセラーとなっている。

キリスト教は、ユダヤ教と聖書の一部を共有している。ユダヤ教の聖書は、律法(トーラー)、預言書(ネビーイーム)、諸書(ケスービーム)に区分され、その順に並べられている。キリスト教は、これらの書物を旧約聖書とし、これに独自の文書を付け加えて、新約聖書としている。旧約はユダヤ民族と神との古い契約、新約はイエスによる神との新しい契約を意味する。

 旧約聖書は、ヘブル語(一部はアラム語)から当時、ローマ帝国の共通語になっていたギリシャ語に翻訳された。それをもとにラテン語訳が作られた。

ユダヤ教では、モーセは神と契約を結んだ時、神から十戒を中心とした律法(トーラー)を与えられたとする。律法は、神から与えられた宗教上・生活上の命令や掟である。同時にそれが書かれているモーセ五書を指す。モーセ五書は、聖書の最初に置かれているもので、『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』をいう。律法は、広義ではこれら以外に口伝のものも含む。

ユダヤ教では、神ヤーウェが定めた律法は、神と人間との間にある大きな断絶を埋め、橋渡しをするものとされる。敬虔なユダヤ教徒は、律法を厳格に守ることによって、神の前に義とされ、神の国に入る資格を得る。それが彼らの人生最大の目的である。これに対し、キリスト教では、イエスは律法主義からの脱却を説いた。律法を否定するのではなく、これを完成させるのだとし、神への愛と隣人への愛の実践を強調する。愛を実践することが目的ゆえ、律法とそれに基づく戒律の順守は重視されない。

旧約聖書には、16巻の預言書がある。預言書とは、預言者に関する書物である。預言者の原語ナービー(nabi)は「呼び出された者」を意味する。神によって呼び出され、神の意思を理解し、またそれを自覚できた人間が預言者である。

紀元前9世紀ころに現れたエリヤを最初とする。旧約聖書の預言書のうち、代表的な預言者の名を冠した『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』『ダニエル書』の各書は、大預言書といわれる。その外は小預言書という。旧約聖書のうち、律法、預言書以外のものを、諸書という。

イエスや弟子・信者たちは、しばしば旧約聖書の言葉を引用する。旧約聖書あっての新約聖書である。キリスト教は、イエスの教えであり、かつユダヤ教をもとにした宗教である。ユダヤ教の異端・分派であり、ユダヤ教イエス派から発展したものできる。

新約聖書は、ギリシャ語写本からラテン語に訳されたとされる。イエスが日常的に話していたのは、古代シリア語であるアラム語だった。そのイエスの言葉をそのまま伝える文書は残されていない。

新約聖書は、イエスの弟子がイエスの言行や教えを書いた四つの福音書、ペトロ(ペテロとも書く)、パウロの事跡を中心にした『使徒言行録』、パウロの書簡及びパウロ以外の初期指導者の文書、ヨハネによる黙示録から成り立っている。最後の黙示録の黙示は、隠された真理の開示を意味する。

新約聖書のうち最初に書かれたのは、紀元49年頃のパウロによる『ガラテヤの信徒への手紙』」とされる。四つの福音書は、紀元65年頃から95年頃にかけて書かれた。また使徒や初期指導者による手紙の大部分は、1世紀末頃までに書かれた。

マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4人の筆者によって書かれた福音書の権威が確立したのは、2世紀末だった。福音書を含む新約聖書が正典として確立されたのは、397年のカルタゴ公会議においてである。この時、4つの福音書は統一されないまま正典とされた。

カルタゴ公会議では、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻の聖書が確定された。旧約については、教派によって、外典(がいてん)を含むとしている。ローマ・カトリック教会は、7つの第二正典(外典)も旧約聖書の一部として認める。東方正教会は、旧約聖書に入典書(正典39巻)以外に不入典書(外典)を含む。

キリスト教では、聖書の著者は神であり、聖書は神の言葉そのものとされる。イエスは「神の子」また「主」とされる。だが、そのイエスについて書き記したのは、人間である。新約聖書の中心となる福音書は、4人によって別々の書として書かれており、記述はそれぞれ部分的に異なっている。

神イエスの言葉や行いとされるものが、四書によって異なり、一本化されずに併録された。そのことが、キリスト教徒の間に見解の相違をもたらすことになっている。神の言葉が四書四様に書かれていることには、矛盾がある。

福音書の中で最初に書かれたのは、『マルコによる福音書』である。マルコは説教者として福音書を書いたが、マタイは同じ立場から部分的に異なる内容を記した。ルカは、マルコ、マタイとは異なり、歴史家としてキリストの生涯を描こうとしている。出来事のつながりを整え、イエスの誕生や洗礼者ヨハネの出現の時期を定め、世界史と年代記的に関連させようとしている。

マルコ、マタイ、ルカによる福音書を、共観福音書という。『ヨハネによる福音書』は、これらと、明らかに論調が異なる。同書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ書1章1節)、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(同書1章14節)と書いている。

ヨハネは、ギリシャ哲学のロゴス論の影響を受けていた。ヨハネはイエスの出現を、永遠のロゴス(言葉)である神が人間となってこの世界に入った(受肉)と理解した。ここにはイエスは受肉したロゴス(言葉)であるという考え方が見られる。

ここには、他の三書とは異なる思想が入っている。四書四様の上に、異質は思想が加わっていることで、混乱が深まっている。

 こうした福音書において、最も重要なのは、イエスの教えをイエス自身の言葉によって、またそれに近い言葉で伝えていると考えられる部分だろう。しかし、イエス自身が書き残した文書は存在せず、伝えられているのはすべて弟子や信徒が口伝で継承したことであり、かつそれを福音書家が記述者の理解と表現で書き記したものである。聖書の研究者たちが言語学的・書誌学的な方法によって学術的な分析を行ってきているが、何が本当に「イエス自身の言葉なのか、何が本当にイエスの説いたことなのかは、厳密には確認の仕様がない。

そこで重視されるのが、ケーリュグマと呼ばれるものである。ケーリュグマは、宣教を意味する。原始教会におけるイエス・キリストについての説教のことで、新約聖書の中心的伝承を継承する主要素とされている。福音書家の関心は、いかに正確にイエス自身の言葉を書き記すかということよりも、むしろイエスをキリストと信じる原始教団の信仰告白にあったと見られる。イエスの言葉として伝えられてきた伝承に基づいて、自分たちの信じることをイエスが語ったとして脚色しているとも考えられる。啓典に基づきながら、その啓典に記された言葉が、真に神の言葉、イエスの言葉であるかどうかを証明することができないというところに、キリスト教の大きな矛盾がある。キリスト教では、聖霊が人間に現れなければ、神の言葉を正しく理解することはできないという考え方がある。聖霊の存在と働きを客観的に示すことはできないから、突き詰めて言えば、聖書の理解は、読む者の個人的または集団的な主観と信念によるしかないのである。

 

●聖地

 

キリスト教は、エルサレムを聖地とする。エルサレムは、もともとユダヤ教の聖地である。紀元前10世紀にソロモン王は、エルサレムのシオンの丘に神殿を建立した。その神殿は、約1000年後の紀元70年にローマ帝国によって破壊された。国を失い、離散民となったユダヤ人にとって、エルサレムは帰るべき場所となった。その後、エルサレムは、キリスト教にとっての聖地となった。

エルサレムがキリスト教にとって聖地であるのは、イエスが磔刑に遭い、そこから昇天したゴルゴダの丘がそこにあるからである。エルサレムは、さらにさらにイスラーム教にとっても重要な場所となった。同市旧市街のわずか1キロ四方ほどの場所に、これら三つの宗教の聖地が集中している。

キリスト教徒は、11世紀から13世紀にかけて、イスラーム教徒の支配下にあったエルサレムを奪還するために、十字軍戦争を起こした。しかし、1260年にエルサレムはモンゴル軍の侵入により完全に破壊された。1517年以降は、オスマン帝国の統治下に置かれ、それが1918年の第1次世界大戦の終了まで続いた。第1次大戦後は、イギリスの委任統治下に置かれた。

第2次世界大戦後、エルサレムは、1947年、国際連合(連合国)で国連永久信託統治区と決議された。だが、翌年の第1次中東戦争の結果、イスラエルとトランス・ヨルダンの休戦協定で、エルサレムは東西に分割された。さらに1967年の第3次中東戦争でイスラエルがヨルダン川西側を占領した際、全市を押さえた。エルサレムを含む地域を軍事占領したイスラエルは、エルサレムを「統一された首都」と宣言した。国連決議を完全に無視した行動である。そのため、世界の多くの国は、エルサレムを首都と認めず、大公使館をテルアビブに置いている。

2017年、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認め、大使館をテルアビブからエルサレムに移転すると発表したことにより、大きな国際問題となっている。

 

●教派

  

キリスト教には、多くの教派がある。大きく分けるとローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタントの三つである。私は、ローマ・カトリック教会、プロテスタントを合わせて西方キリスト教、東方正教会及び東方諸教会を東方キリスト教と呼ぶ。

ローマ・カトリック教会の「カトリック」とは、「普遍」「公」等を意味する。ペトロが殉教したローマの地の教会が、各地の教会の上に立つ教会とされ、ローマ司教が教皇を務める。教皇の首位権と無謬性を主張する。教会の伝統である聖伝を重視する。聖伝は信仰宣言書、教皇教書、教父の著書、祈祷書、典礼書、殉教書、古代キリスト教の美術、碑銘等に含まれるものとされる。信徒にとって信じ得る書物は、聖書よりもむしろ聖伝の簡潔な要約書であって教育的な書物でもある公教要理(カテキスム)であるとされる。サクラメント(秘跡)として、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻を行う。原罪を強調する。煉獄の存在を説く。マリアの無原罪と被昇天を信じる。

当時の古カトリック教会は、自らの教義と異なる説を説く者を認めず、異端として厳しい弾圧を行った。教義の争いは、主にイエスの神性と人性、三位一体を巡るものだった。古代に異端とされたものには、イエスの神性を否定するアリウス派、イエスの人性を重視するネストリウス派(景教)、イエスに神性のみを認めるキリスト単性論派等があり、まとめて東方諸教会という。単性論派には、アルメニア使徒教会、ヤコブ派教会、エチオピア正教会、コプト正教会、シリア正教会などがある。これらのうちコプト教会は、マリアを「神の母」として熱心に崇敬する。

ローマ帝国は395年に東西に分裂した。その約600年後の1054年に、ローマ・カトリック教会と東方正教会が分かれた。東方正教会は、古代ギリシャの文化的伝統を背景に、コンスタンチノープルを首都とするビザンティン帝国で発展した。ギリシャ正教とも呼ばれるのは、ローマ帝国の共通語で、新約聖書が書かれ、初代教会で使われたギリシャ語に由来する。

東方正教会は、信条の改変を禁じたエフェソス会議(431年)の原則を厳格に守ることを旨とし、一貫して教父時代以来の習わしを堅持する。正教会というのは、正統(Orthodox)を継ぐという意味である。原罪やキリストによる十字架上の贖罪よりも、キリストの復活によって実現した救いの喜びを強調する。聖霊は父からのみ発出するとする。サクラメントを機密といい、洗礼、傅膏、聖体、痛悔、神品、婚配、聖傅の7つがある。ローマ司教(教皇)の首位権や不可謬性、煉獄の存在、マリアの無原罪懐胎・被昇天を認めない。イコン(聖像)を崇敬の対象とする。三位一体を至聖三者、聖霊を聖神、マリアを生神女と呼ぶなど、独自の用語を多く使う。ギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、ジョージア(グルジア)正教会等の他、東欧・北欧・西欧・米国・東アジア等に諸教会がある。

教会の東西分裂の約500年後の16世紀、西方キリスト教では宗教改革が起り、プロテスタント諸派が誕生した。代表的な教派には、ルター派、英国国教会(聖公会)、改革派・長老派、会衆派・組合派、バプテスト、メソディスト、ペンテコステ派、クエーカー、ユニテリアン、ユニヴァ―サリスト等がある。

ルター派(ルーテル教会)は、マルティン・ルターが、1517年にカトリック教会が贖宥状を販売することに反対して、「95箇条の提題」を発表したことに始まる。聖伝を認めず、聖書のみを信仰の唯一の根源とする聖書中心主義を取る。善行や功徳ではなく、ただ神の恵みのみ、個々の信仰のみによって救われるとする信仰義認を説く。神と人の媒介として、キリスト以外の仲介者を認めず、万人祭司主義を取る。聖職以外の世俗の職業も、神に召された天職とする。聖職者である牧師には、位階がない。サクラメントは、洗礼、聖餐の二つのみとする。ドイツ、スカンジナビア諸国で支配的である。

英国国教会(聖公会)は、1534年、イングランド国王ヘンリー8世が離婚を認めないローマ・カトリック教会から離脱し、自らを首長とする国教会を創ったもの。ローマ教皇のような単一の支配者を認めない。現在も国王(女王)を首長とする。聖母マリアや聖人を崇敬しない。聖書のほかに伝統と理性を重んじる。そのため特定の教義を定めず、教派的な信仰告白を掲げていない。プロテスタント諸派の中で、最もローマ・カトリック教会に近い。二派を橋渡しするブリッジ・チャーチとも呼ばれる。サクラメントは、洗礼、聖餐の二つのみとする。この系統に監督派がある。

改革派・長老派(プレスビテリアン)は、ジャン・カルヴァンの系統である。改革派の名称は、16世紀半ばにカルヴァンがルターの改革は不十分だったとして、改革を徹底しようとしたことに由来する。スイス、オランダに多い。スコットランドの長老派の名は、長老を代表とする教会政治に基づく。聖書のみを人間の思想と行動の唯一絶対の指針とし、呪術的要素を徹底的に排除した。神はアダム・エバの堕罪以前に、予めすべての人間を、ある者は救いに、ある者は滅びに予定したという二重予定説(堕罪前予定説)を説く。天国に行くか地獄に行くかは、人間の意思や行動には無関係で、すべて神が決定するとする。サクラメントは、洗礼、聖餐の二つのみ。ルター派等と異なり、幼児洗礼を認めない。

会衆派・組合派は、16世紀後半にイングランド国教会からの分離を主張した司祭ロバート・ブラウンに始まり、ピューリタン革命時に長老派から分離・独立した。会衆派の名称は、会衆全体の合意に基づく教会政治に由来する。日本では、組合派ともいう。1620年にメイフラワー号に乗って北米のプリマスに入植したのは、この派の信徒である。ピューリタン革命の推進力となり、クロムウェルのもとで共和制を樹立した。カルヴァン主義を基本とするが、特定の信仰箇条を持たず、自由・寛容の傾向を示す。サクラメントは、洗礼、聖餐の二つのみとする。

バプテストは、1609年にイングランド国教会から離脱したジョン・スマイスに始まる。洗礼(バプテスマ)は、全身を水で浸す浸礼が聖書にある方式であると主張する。自覚的な信仰告白に基づく者のみを信者とし、幼児洗礼を認めない。国家と教会の公的な結びつきに否定的で、信教と良心の自由を重んじる。一部の信徒は、天地創造、ノアの方舟、イエスの処女降誕と復活を文字通り信じる。学校で進化論を教えることに反対する。米国プロテスタントの最多数を占め、黒人にも信徒が多い。キリスト教原理主義の有力部分となっている。サクラメントは、洗礼、聖餐の二つのみとする。

メソディストは、18世紀半ば、イギリス国教会司祭ジョン・ウェスリーに始まる。「聖書に言われている方法(メソッド)に従って生きる人」を意味する。1795年に正式に国教会から分離して一個の教派となった。カルヴァンの予定説とは対照的に、すべての人間の自由意志による救済を説く。16世紀後半のオランダの改革派神学者アルミニウスが、人間は自らの意志で神の救いを受けることも、拒絶することもできると説いたのに基づく。人間の主体的な決断や回心体験、聖霊の働きを重んじ、信仰義認の後の聖化を強調する。道徳的で清廉な生活を心がける。サクラメントは、洗礼、聖餐の二つのみとする。1795年に正式に英国国教会から分離した。イギリス産業革命で生じた社会的弱者の救済に尽力した。この派から救世軍が派生した。

ペンテコステ派は、19世紀末アメリカで起こった聖霊の働きを追い求める運動に由来する。名称は、使徒たちに聖霊が降った聖霊降誕の日(ペンテコスト)に由来する。聖霊降臨は、すべての時代のキリスト教徒に開かれ、今も働く神の恵みと信じる。神に関する知識や教義の習得よりも、神の霊による導きを自分の内に感得できる能力を養うことを重視する。異言を語ることが、聖霊のバプテスマを受けたしるしと考える。集団的恍惚状態や治癒の奇跡を積極的に評価する。20世紀後半に急速に成長し、現在キリスト教諸教派の中で最も勢いがある。サクラメントは、洗礼、聖餐の二つのみとする。

クエーカーは、キリスト友会(Religious Society of Friends)の一般的な呼称である。1650年にイングランドでジョージ・フォックスが創設した。名称は「神を畏れ震える者」に由来する。真理は、各自の魂に呼びかける神の声の中に見出されるとする。その神の声を「内なる光」と呼び、すべての人に内在すると考える。またその考えによって性別・人種などの差別を否定する。カルヴァンの予定説とは対照的に、万人が救済され得ると説く。形式・象徴・権威を否定する。すべての人は霊的に平等だとし、教職制度がない。霊性と感性を重んじ、虚栄を嫌う。宣誓や兵役を拒否する。非戦主義・非暴力主義で知られる。他の教派と違い、洗礼や聖餐はない。

ユニテリアンは、17世紀イギリスに始まる。三位一体を認めない。イエスの神性を否定し神の単一性(Unity)を唱えた初期教会時代のアリウスの説を継承する。同じころ、アルミニウス主義に立って予定説に反対し、すべての者が例外なく救われるとする万人救済説を主張するユニヴァ―サリストも現れた。これら二派は北米で1961年に合同した。自由と理性と寛容を重んじ、原罪やイエスの贖罪、処女降誕、復活等の奇跡を認めず、科学上の諸発見を尊重する。人間はみな神の子であり、イエスは神ではなく最も神に近い存在であるとし、究極の師と仰ぐ。他宗教にも救いはあると認め、他宗教との交流にも積極的である。サクラメントはない。(ページの頭へ)

 

第2章 教義

 

●教義の形成

 

 宗教は、それぞれ独自の教義を持つ。教義は、主に言語によって説かれるが、象徴によって暗示されたり、儀式によって表現される場合もある。

古代から続く宗教には、神話の人間観・世界観に基づき、独自の教義を発達させたものが多い。ユダヤ教はその一つである。

ユダヤ教は特定の創唱者を持たない自然宗教である。幾世代もの間に様々な精神的指導者の説いたことが、部族や民族の知恵として蓄積されて教義が形成された。教義は、宗教的な共同体である民族や教団が存続し、発達していくにつれて、制度的に明確に規定されていき、信仰や生活の規範として確立された。

ユダヤ教では、民族の神話がそのまま教義の一部となっており、それに加えて先祖や預言者などの精神的指導者たちの言葉が教説となり、教義が形成・確立された。

これに対し、キリスト教は、ナザレのイエスを創唱者とする創唱宗教である。創唱者イエスの説いた思想が教説となり、教説がもとになって教義が形成された。イエスの教説は、イエスがその場その場で説いた言葉やその時その時に行った行為の記憶や記録を主とする。そのため、十分に体系化されたものではない。その創唱者の教説を弟子が体系化・組織化し、キリスト教の教義となった。

 

●教義の内容

 

キリスト教の教義の核心は、イエスをキリスト(救世主)とすることである。ユダヤ教は、イエスをメシアと認めない。キリスト教では、神は人間を愛するゆえに独り子イエスを遣わし、神の子であるイエスの死は原罪を贖った。イエスの犠牲によって人間は、再び神と結び付いた。イエスをキリストと信じる者は罪の赦しを得て永遠の生命に入る。神にいたる道は一つでイエスによるのみであると説く。これが、キリスト教の教義の要約である。

 キリスト教の教義には、さらに宗教一般がそうであるように、人間観・世界観・実在観が含まれている。すなわち、人間とは何か、世界とは何か、究極的な実在とは何かという問いへの答えとなる考え方である。それらの人間観、世界観、実在観は、ユダヤ教の考え方に基づいている。

 ユダヤ教の教義は、聖書に表現されている。この啓典に、人間観・世界観・実在観が示されており、主に『創世記』に描かれている。『創世記』はユダヤ民族の神話ないし神話に基づく物語であり、ユダヤ教の教義は神話に目指したものである。聖書の続く諸書には、先祖や預言者などの精神的指導者たちによる教説が記されており、それらが教義の内容を構成している。

 キリスト教は、こうしたユダヤ教の教義を継承し、これにイエスに基づく独自の教義が加えられている。その教義の一部は、ユダヤ教の教義に対する新たな解釈を示すものであり、また部はユダヤ教にはない新たな教義である。その点について、実在観、世界観、人間観の順に見ていきたい。

 

●実在観〜実在は唯一の神

 

キリスト教の実在観は、唯一の神を実在とするものである。その神は、ユダヤ教の神と共通する。神ヤーウェは、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(『出エジプト記』3章14節)と述べる。ここで「ある」とは、真の実在であることを示唆する。「ある」という神の規定は、神を有(存在)とし、有(存在)を神とする西洋思想の元になっている。

ユダヤ教は、一元的なものが多様に現れているとし、一元的なもののみを実在とする。それがセム系一神教の基本的な論理となっている。キリスト教は、この論理を継承している。一に対する多としての万物は、神が無から創造したものとするので、神そのものではない。神と万物を一体とらえる汎神論とは異なる。神は創造主であり、万物は神の被造物である。被造物のうち人間のみが神の似像として、特別の存在である。ただし、人間は神の一部ではない。実在は、唯一の神のみである。

こうしたユダヤ教の考え方に加えて、キリスト教は独自の実在観を持つ。キリスト教の主な教派は、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊の三位一体を信奉する。神の実体(希語ウーシア、羅語スブスタンティア)は一つであり、三つの位格(希語ヒュポスタシス、羅語ペルソナ)を持つとする。また三つの位格は同格とする。このことがキリスト教の実在観に、世界の諸宗教の中でも特に複雑な様相を与えている。キリスト教では、三位一体は人知ではとらえられず、神の定めたものとしてただ信仰するのみと教えられている。

キリスト教の実在観がさらに複雑なのは、イエスを主とし神としていることである。それゆえ、イエスの存在・活動・教え等がそのまま働きとされる。すなわち、イエスは神の独り子で、神が遣わした救世主であり、マリアの処女懐胎で誕生し、数々の奇跡を起こし、磔刑で死んだ後、3日後に復活し、弟子たちの前に何度も現れたというイエスの物語がそのまま実在の働きとされる。ユダヤ教では、このような実在観はあり得ない。

 

●世界観〜神による天地創造

 

キリスト教の世界観は、ユダヤ教のそれと同じく、実在としての神によって、世界が創造されたという考え方に立つ。神すなわち創造主が初めに存在し、世界は神の意志で無から造られたとする。さらに動植物などの万物も神の働きで造られたとする。キリスト教は、こうした世界や万物の起源に関する創造論をユダヤ教から継承している。

『創世記』1章1節から2章3節にかけて、天地創造が概略次のように描かれている。初めの日に、神は天と地を創造した。地は混沌とし、水面は闇に覆われ、聖霊がうごめいていた。神は光を生み出し、昼と夜とを分けた。2日目に神は、水を上と下とに分け、天を造った。3日目には大地と海とを分け、植物を創った。4日目には日と月と星が創られた。5日目には水に住む生き物と鳥が創られ、6日目には家畜を含む地の獣・這うものが創られ、海の魚、空の鳥、地のすべての獣・這うものを治めさせるために人間の男と女が創られた。7日目に神は休んだ。

ユダヤ教では、神は言葉によってすべてのものを創造したとする。ヘブル語のダバルという語は言葉を意味するとともに、行動、出来事をも意味する。こうした言語において、神の言葉はそのまま神の行い、神の業と考えられることになったのだろう。

 天地創造の時期については、ユダヤ教では紀元前3761年10月7日としているが、キリスト教では諸説ある。今から5千数百年程度する点は共通する。

16〜17世紀に、西欧で聖書の説く天動説の誤りが指摘され、地動説へのコペルニクス的転換が起った。その後、宇宙の科学的研究が進み、地球の発生はキリスト教の説く年代より、はるかに古く、現在は45億年ほど前というのが定説になっている。キリスト教の主な教派は、長くこれを認めてこなかったが、2014年10月、ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコは、世界の創造についての科学理論は神の存在論に矛盾するものではなく、逆にこれは相互に結びついたものだという考えを述べ、今日、世界の存在を説明するため用いられているビックバーン理論も創造主の存在と矛盾するものではなく、逆に「創造主の存在を必要とするもの」だと語った。

 

●人間観〜神の似像

 

 キリスト教の人間観は、神によって、世界とともに人間もまた創造されたという考え方に立つ。この考え方もユダヤ教から継承している。

人間創造については、『創世記』1章26〜30節に、概略次のように記されている。神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言った。自分にかたどって人を創造し、男と女を創造した。神は彼らを祝福して言った。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と。また言った。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」と。

 『創世記』2章7〜9節には、より詳しく次のように記されている。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。最初の人間アダムの次に女が造られたとし、同2章22〜24節に次のように記されている。「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから』。こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」

 ここでは女にはまだ名がない。後に、アダムは女にエバと名付けて妻とした。キリスト教は、こうした人類の誕生に関する神話をユダヤ教と共有している。人間観に関する詳細は、後に項目を改めて書く。

 ここでは世界観と人間観に共通することを書いておきたい。19世紀半ば、チャールズ・ダーウィンが種は進化するという進化論を唱えた。聖書は、神が種を創造したと説くので、進化論は天動説から地動説への転換に次ぐ大きな影響を西方キリスト教社会にもたらした。進化論は人間がサルから進化した可能性を説くものゆえ、これを認めることは、キリスト教の世界観・人間観を根本から揺るがすものとなる。キリスト教会は、キリスト教の教義に反するものとして、これを否定する。今日でも米国では、キリスト教原理主義と呼ばれる保守的な勢力が学校で進化論を教えることに反対しており、教育を禁止している州もある。

2014年教皇フランシスコは、ビックバーン理論を認める演説をした際、生物は進化を遂げる前にまず、何者かによって作られたと説明し、その後は、進化をしてきたとして、進化論を肯定する見解を述べた。

 

●神に背いて楽園追放に

 

 次に人間観について詳しく述べる。

 キリスト教の人間観において特徴的なのは、原罪と楽園追放の思想である。これもユダヤ教から継承したものである。

 『創世記』は、神によって創造されたアダムと女は、罪を犯し、楽園から追放されたとする。同書3章1〜6章に概略次のように記されている。

「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』。女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです』。蛇は女に言った。『決して死ぬことはない』。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」

 アダムと女の行為は、神の知るところとなる。続いて、3章8〜24節に概略次のように記されている。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』。アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』。主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか』。女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました』。

神はアダムに言われた。『お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く』。神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する』。神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ』。

アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。神はこうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」

 『創世記』4章では、アダムとエバの間には、カイン、アベル、セトが生まれたことが記され、続いて子孫の物語が綴られている。

これまで書いたように、ユダヤ教では、人間は神ヤーウェが神に似せて創造したものであるとする。神は土くれから、最初の人間アダムを創造した。次にアダムの肋骨からエバを造った。神の似像として造られた人間は、他の生物とは異なる存在であり、地上のすべての種を支配すべきものとされる。この考えもキリスト教はユダヤ教から継承している。

年老いた蛇に唆されたエバは、禁断の知恵の実を食べた。そのために、人間は神に罰せられ、エデンの楽園から追放された。それゆえ、人間は罪を負っている。最初の人類が神の命令に逆らったことが人間の罪の始まりであるから、これを原罪という。原罪によって、人間は互いに敵意を抱き、男には食べ物を得るための労働、女には産みの苦しみが課せられたとする。こうしたユダヤ教の人間観も、キリスト教に受け継がれている。この人間観には、自由の肯定と知恵の発達による禍、人間の尊厳と原罪という相反する要素の認識が見られる。そこには、人間に対する深い洞察が見られる。

神は、自らの意志によって天地万物や人間を創造する自由を持つ。人間が神に似るということは、人間にも意志の自由が与えられているということを意味する。自由は、人間における神に似た要素として最も価値あるものであるとともに、また神への背反の原因ともなりうるものである。

もう一つ、原罪の結果と考えられているのが、人間の死である。神の命令に逆らった罪に対する罰として、人間は死すべきものとなった。原罪によって、人間はみな死に、土に還る定めを負ったと理解する。このことは、人類が知恵を持つことによって、死を意識するようになり、また死を意識することによって、生きることの意味を問うようになったことを象徴的に表しているものだろう。ただし、ユダヤ教は、死を以って終わりとせず、この世の終りに、すべての死者はよみがえり、生前の行為に応じて最後の審判を受けるとしている。キリスト教は、この観念を継承している。詳しくは、後に最後の審判、死生観の項目で述べる。

キリスト教では、ユダヤ教に基づき、先に書いたように人間は神によって神の似像として創造され、神から自然を支配し、これを利用することを使命として与えられていると考える。同時に、この項目に書いたように、人間は自らの過ちにより原罪を負っており、そのために争い、労働と産みの苦しみ、そして死を免れないと考える。これがユダヤ教から受け継いだキリスト教の人間観の主要な内容である。

 

●原罪論と堕落論

 

ユダヤ教では、人間は原罪を負っているが、神から自由意志を与えられており、人間の自由意志により神の命令を守ることができるとする。律法や戒律を実践し、よいことをすることができると考えるので、原罪はそれほど強調されない。これに対し、ローマ・カトリック教会は、明確な原罪論を説き、原罪を強調する。

ジョン・ハードン編著『カトリック小事典』は、原罪について、次のように書いている。「人間の頭としてのアダムが犯した罪、あるいはアダムが子孫に伝えた罪を意味し、キリストとその母を除いて、すべての人類はこの罪をもって受胎し生まれる」と。注意すべきは、イエスの贖罪によって人類の原罪が消滅し、以後の人類には原罪が受け継がれなくなったとは説いていないことである。イエスの犠牲にもかかわらず、人類はその後の世代も、今の世代も、これからの世代も生まれながらに原罪を受け継いだ罪びとである、というのが、カトリック教会の原罪論である。そして、カトリック教会は原罪を強調することにより、カトリック教会で洗礼を受け、その教会の指導を受けることによってのみ罪から救われると説く。

だが、キリスト教のすべての教派が原罪論を説くのではない。東方正教会は、罪に対する罰が死と考えることについては、カトリック教会と共通している。しかし、カトリック教会のような原罪論はない。教父時代以来の習わしを堅持する東方正教会は、人間の罪と死について、堕落の概念を中心に説く。これを本稿では、原罪論と対比して堕落論と呼ぶ。

東方正教会では、神は人間を善なる者として創造したことを強調する。また、人間に自由意志があるとする。人間が堕落するのは、自由意志によって神に背を向ける行為をするからであり、罪は人間が堕落の行為をすることによって生じると考える。カリストス・ウェアは、著書『私たちはどのように救われるのか』で、次のように解説する。東方正教会は、堕落とその結果について、人間は神の像をかろうじて保持しているだけでなく、善と悪の選択の自由も保持していると理解する。人間の選択の自由の能力は、堕落によって傷つき、限界はあるが、決して絶滅されてはいない。堕落の状態にあって人間の意志は病んではいるが、死んではいない。健康な時より、はるかに困難だが、人間は依然として善を選択することができる、と。

東方正教会では、イエスの死による犠牲よりも、復活の喜びを強調する。イエスは人類の原罪を購ってくれた救世主というより、死を克服して復活したことで人類に死を克服することを示してくれた指導者ということが強調される。この場合、イエスは人間が目指すべき目標であり、神を信じる者は修行によって神との合一を目指す生活が理想となる。

ところで、イスラーム教もユダヤ教の聖書を聖典の一つとし、アダムとエバの物語を継承している。しかし、『クルアーン』の記述には、聖書との違いがある。ユダヤ教・キリスト教の聖書では、邪悪な蛇がエバを唆し、エバが禁断の実に手を伸ばすのだが、『クルアーン』では、男のアーダム(アダム)がサタンに唆されて、禁断の実に手を伸ばす。禁断の実を食べたアーダムとその妻(註 名はない) は過ちに気づき、アッラーに赦しを乞う。アッラーは二人を赦し、それから二人を楽園から追放する。ここも聖書と違う。
 楽園追放は、聖書では人間の原罪と堕落を意味する。だが、イスラーム教では、人間が地上の世界に来ることになったことに積極的な意味を見出している。なぜなら、二人が地上に遣わされたのは、罪が赦された後のことだからである。アーダムはアッラーの導きに従えば必ず成功すると約束され、子孫に神の教えを伝えた。こうしてアーダムは最初の預言者となったとされる。

ユダヤ教、キリスト教のローマ・カトリック教会、東方正教会、イスラーム教で、原罪に関する考え方が異なる。これは原罪の観念自体に矛盾があるからだろう。そして、その矛盾のもとは、唯一神が最初の人間を神の似像として土から創造したという考え方に発していると考えられる。原罪をめぐる考え方の違いは、人間の自由意思や救済の原理に関わる事柄である。この点は、もう少し教義について述べたうえで考察する。

私見を述べると、人間には知恵と自由が与えられている。人類は長い歴史の中で、知恵と自由の働きによって、自然の状態から離れてきた。知恵と自由はその用い方によって、自らに不幸や災厄を招く。アダムとエバの話は、このことを神話的に表現したものだろう。

キリスト教では、原罪の他に自分が行ったことの罪を自罪と呼んで、その罪の告白と赦しの大切さを説く。しかし、物事には原因と結果の法則があり、最初期の人類が行ったことが悪い原因となるだけではなく、続く世代が行ったこともまた悪い原因となって、自らの将来や子孫の運命に悪い結果をもたらすと考えられる。だが、キリスト教には、悪い原因が世代間で継承されて積み重なっていくという考え方は見られない。


 

●律法の順守より愛の実践

 

キリスト教は、ユダヤ教から律法を受け継いでいる。律法は、ユダヤ教で教義の中心をなすものである。律法は、神ヤーウェが決め、モーセに与えられたものを主とする。

モーセが受けた律法を十戒という。十戒は、神からユダヤ民族に一方的に下された命令である。神がシナイ山でモーセに石板二面に書いて示したとされる。神は、エジプトで奴隷になっていた古代イスラエルの民を救い出した。だから、神に全面服従しなければならないとする。もし守らなければ、人間は神の怒りに触れて、たちまち滅ぼされてしまうというのが、ユダヤ教の考え方である。

十戒は、『出エジプト記』20章と『申命記』5章に記されている。大意は次の通りである。

 

(1)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

(2)あなたはいかなる像も造ってはならない。

(3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

(4)安息日を心に留め、これを聖別せよ。

(5)あなたの父母を敬え。

(6)殺してはならない。

(7)姦淫してはならない。

(8)盗んではならない。

(9)隣人に関して偽証してはならない。

(10)隣人のものを欲してはならない。

 

キリスト教は、これらの十戒を継承する。ただし、ローマ・カトリック教会とルター派では、()()を合わせて1項目とし、偶像崇拝の禁止を除く。また(10)を「隣人の妻を欲するな」と「隣人のものを欲するな」という二項に分ける。

キリスト教では、十戒に独自の解釈を行う。ユダヤ教が律法の宗教であるのに対して、キリスト教は愛の宗教である。それは、イエスが律法を乗り超えるものとして、「神に対する愛」と「隣人に対する愛」を基本の掟とし、その実践を説いたことによる。

イエスは、律法を否定してはいない。イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言っている(マタイ書5章17節)。これは安息日をめぐってユダヤ教正統派のファリサイ派と論争した時の言葉である。律法を自己目的化してしまうファリサイ派の独善を批判したのである。

イエスは、『マタイによる福音書』において、ファリサイ派の律法学者から律法の中でどの掟が最も重要かと問われたとき、次のように答えたとされる。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と(マタイ書22章37〜40節)。

この第二の掟について、イエスは、『ヨハネによる福音書』では、次のように語ったとされている。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ書15章12〜14節)と。イエスは、律法と預言者は、この二つの掟に基づいていると理解する。こうした教えによって、イエスは「神に対する愛」と「隣人に対する愛」を説き、ユダヤ教の律法主義・戒律主義を乗り超えようとした。

イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ書5章43〜44節)と教えた。「隣人を愛し、敵を憎め」というのはユダヤ教の教えである。ユダヤ教史上最高のラビと言われる紀元後2世紀のラビ・アキバは、ユダヤ教を一言で言うと、『レビ記』19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」であると述べている。ただし、ユダヤ教における隣人とは、ユダヤの宗教的・民族的共同体の仲間である。仲間を愛する愛は、選民の間に限る条件付つきの愛である。人類への普遍的・無差別的な愛ではなく、特殊的・差別的な愛である。なぜなら彼らの隣人愛のもとは、神ヤーウェのユダヤ民族への愛であり、その神の愛は選民のみに限定されているからである。イエスは、このユダヤ民族の隣人愛は、同時に敵への憎悪と結びついていることを指摘する。それが「隣人を愛し、敵を憎め」である。これに対し、イエスは、ユダヤ教の隣人愛を普遍的・無差別的な人類愛に高めようとした。「を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とうのが、その教えである。その高められた愛が、キリスト教の愛である。ただし、キリスト教徒の歴史は、ごく一部の例外を除いて、この理想の愛とはかけ離れている。

イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説いた。隣人として仲間や共同体の所属員を愛することは、比較的容易である。だが、敵を愛することは、困難である。自分を虐げ、親や子、妻や友を殺し、祭壇を破壊し、神を冒涜するような敵を、どうやって愛することができるか。パウロは、『ローマの信徒への手紙』に次のように書いている。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『“復讐はわたしのすること、わたしが報復する”と主は言われる』と書いてあります」(ローマ書12章19節)と。ここでパウロが述べているのは、自分が敵に報復するのではなく、神の怒りに任せることである。

注意すべきは、まずこの神は敵に対して怒り、報復する神であることである。また、パウロは復讐心を捨てよ、とは説いていないことにも注意を要する。この神は、敵を赦し、愛する神ではない。復讐心を捨て、敵を赦せと諭す神ではない。無差別的な愛ではなく、罪人を裁き、滅びをもたらす神である。パウロは、そうした神が復讐してくれるから、自分たちは復讐しなくてよいのだと説いている。この考え方は、最後の審判に関する信仰に基づく。人間は最後の審判で真の裁きを受ける、悪人は必ずその時に罰せられるから、いま自分たちが悪人に報復する必要はないと考えるものである。

また、これに加えて、イエスの弟子は、神の本質と愛とする思想を説いた。ここでいう愛は、ギリシャ哲学におけるアガペーにあたる。性愛的なエロスではなく、精神的な愛である。キリスト教では、アガペーの語を神の人間への愛に充てる。さらに『ヨハネの手紙一』4章16節には、「神は愛です。」と書かれている。これは、イエスの言葉ではないが、弟子たちが創ったキリスト教の特徴的な思想の一つとなっている。

キリスト教は神は愛であると説く一方で、その神が怒り、裁く神であることを信じる宗教である。また「を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説きながら、神がその敵に報復してくれると信じる宗教である。ここには信念の矛盾が見られる。その矛盾は、キリスト教の神はユダヤ教の神ヤーウェと同一であり、ヤーウェは無差別的な愛の神ではないことに起因している。いかにイエスが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説いて、無条件の愛の実践を諭しても、そのイエス自身が捕えられ、磔刑にあっている。そして、イエスを救世主と信じてその教えに従った者の多くが迫害を受け、惨殺された。ペトロやパウロは、宣教活動の中で殉教している。こうした事実は、イエスの教えに矛盾があるからだろう。

 

●ユダヤ教の戒律は重視しない

 

ユダヤ教では、律法以外に、細かい戒律が定められている。紀元前5世紀から約1000年の間に、律法学者(ラビ)が形成した「ラビのユダヤ教」では、613の戒律を定める。戒律には、「〜してはならない」という禁忌戒律と「〜すべき」という義務戒律がある。禁止戒律は365戒、義務戒律は248戒あり、計613である。これらの戒律は、狭義の宗教的戒律のほかに、倫理的戒律と生活的戒律を含む。

福音書の描くイエスは、戒律や規則については、たいていの場合はそれを尊重する態度を取ってはいるが、場合によっては、躊躇せず反対の態度を取ることもある。祭儀の規則や、何世紀もの信仰の伝統によって認められた慣習に対しては、イエスは自由に批判した。いざとなれば、律法から自分を解放し、また弟子たちも自由にさせることを辞さなかった。またイエスは、新たな戒律を決めていない。

キリスト教では、キリスト教成立までにユダヤ教で定められた戒律を重視しない。そのまま守っている教派はない。ユダヤ教の戒律主義から脱却することによって、戒律に含まれているユダヤ民族の生活文化を相対化し、民族を超えて伝道できる普遍性の高い教義の形成が可能になった。

キリスト教会が発達すると、教会や修道院が様々な規則を定めた。特に修道院では、修道生活に関わる規則を定めて戒律としている。

 

●奇跡の位置づけと理解

 

一般に奇跡とは、常識や理性でもっては判断できず、説明のできない出来事をいう。キリスト教で奇跡とされるものは、神が、通常の自然法則を無視して、あるいは通常の自然法則を乗り越えて起こした現象を意味する。イエスによる病者の瞬間的な治癒や死者の蘇生は、そういう現象として理解される。またイエスは聖霊による処女マリアの受胎で生まれたとされており、これも同様に理解される。キリスト教では、神はこうした奇跡を通じて、人類に神の存在を啓示している、と考えられてきた。また、キリスト教における奇跡は、神の力が加わったことの立証とされてきた。

奇跡について、教父アウレリウス・アウグスティヌスは、奇跡は神の意志によって起こるものであり、自然それ自体も神の意志にほかならないから、奇跡と自然は矛盾しないとした。自然と奇跡との間には調和がとれているが、人間が自然について知る範囲が少ないので、その範囲の知識と奇跡が一見、矛盾してしまうと考えた。

中世スコラ神学の代表的な学者であるトマス・アクィナスは、自然には人間に知られている秩序と、神に知られている秩序があるとした。そして、奇跡は、人間に知られている低い秩序とは矛盾するが、神に知られている高い秩序とは矛盾しないと説明した。

 近代西欧科学が発達した後も、奇跡を認める科学者は、少なくない。キリスト教を信じる科学者は、次のように考える。神は、宇宙を創造し、万物を創造した。神はまた、宇宙万物を貫く法則を創造した。この法則は神の定めたものだから、人間が変更することはできない。しかし、神は法則を自由に変更して、通常とは異なる現象を起こすことができる、と。

キリスト教における奇跡は、新約聖書に記された出来事だけでなく、稀にではあるが、ローマ・カトリック教会が公式に奇跡と認める出来事が現れている。中でも最も有名なのは、ルルドの泉における奇跡である。1858年2月11日、フランス南西部のルルドの町にある洞窟で、少女ベルナデットに聖母マリアの姿が現れた。その後、洞窟内に泉水が湧き出し、それに浸った者が病気の奇跡的な治癒を体験した。その報告が相次ぎ、調査が行われ、ガン、結核、骨折などの治癒例が、医学的に確認されている。泉の水には、特別の鉱物や放射能を含有していないことが検査結果で明らかになっている。

フランスの外科医アレキシス・カレルは、ルルドの泉における治癒を奇跡だと主張している。カレルは頑固な懐疑主義者だったが、1903年にルルドで下腹部腫瘍の奇跡的治癒の現場に立ち会い、これを契機に奇跡の問題に取り組んだ。こうした奇跡を確認したカレルは、のちにカトリックに入信した。また1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

ルルドの泉は世界的に有名になり、毎年数百万人が奇跡的治癒を期待して、この地を訪れている。カトリック最大の巡礼地となっている。ルルドには医療局が存在し、ある治癒をカトリック教会が奇跡と認定するための基準は大変厳しい。「医療不可能な難病であること、治療なしで突然に完全に治ること、再発しないこと、医学による説明が不可能であること」という科学的、医学的基準のほか、さらに患者が教会において模範的な信仰者であることが条件となっている。そのため、これまで百数十年間で約2500件が「説明不可能な治癒」とされるが、奇跡としてカトリック教会が公式に認定した症例は68件に過ぎない。

キリスト教では、奇跡を起こすものは、イエス・キリストとその権威を受けたもののみであるとする。だが、奇跡は、キリスト教以外の宗教でも起こりうるし、また宗教に限らず、宇宙の根本法則の下に起こるべき条件が満たされたときには起こり得る現象である。奇跡の科学的研究が進めば、他の宗教における奇跡を認めないキリスト教の偏狭な姿勢はあらためられることになるだろう。

 

●真実か荒唐無稽か

 

 キリスト教における最大の奇跡の伝承は、イエスの復活である。イエスは磔刑に処された。ローマ帝国の百卒長が十字架上のイエスの左の脇腹を槍で刺して、死亡を確認したことを聖書は伝えている。だが、イエスは自らの予言通り死後3日目に復活したとされている。

ユダヤ教の伝統では、契約の締結や更新のために、動物の犠牲を捧げる儀式が執り行われた。イエスはこの伝統を受けて、自分自身が契約の犠牲になる、自分の死を通して新しい契約が結ばれると考えたものだろう。

復活したイエスは、40日間にわたり弟子や信徒の前に姿を現した。『コリントの信徒への手紙一』は、イエスについて「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」(コリント書15章4〜6節)と記している。この復活信仰がキリスト教の始まりとなった。

 荒唐無稽な話と考えれば、これほど荒唐無稽な話は、ほかにほとんどない。だがそうした宗教が急速に広がり、ローマ帝国の国教となり、ヨーロッパ、ロシア、アジア等にも伝わった。今日も世界の22億人以上の人々が、イエスを救世主と信じている。そのうち多くの人々はイエスが処女懐胎で誕生し、世の終わりに再臨すると信じている。どうしてこういうことが起ったのか。これは、世界史上、最も大きな謎の一つである。

一番のポイントは、死者が復活したという点である。だが、使徒や信徒が復活したイエスを見たり、教えを受けたと主張するだけで、イエスは磔刑に処した役人やローマの総督ピラト、エルサレムの有力者らに会って、自らの復活を示したわけではない。そのため、使徒・信徒側の伝承以外に、第3者による客観的な記録が残っていない。もしイエスが復活によって神の意思や愛を伝え、多くの人々を悔い改めさせようとするのであれば、磔刑に処した役人やローマの総督ピラト、エルサレムの有力者らに会って、奇跡を示し、教えを説くとよかっただろう。40日後に昇天する際も、使徒や信徒以外のエルサレムの人々多数の前で、それを行えばよかったのである。イエスは、そうしていない。少なくともそうしたという記録はない。客観的な目撃者がいて、それを記録したものが残っているわけではないので、使徒や信徒の伝承を無批判に真実と見なすことは難しい。集団的な幻影を見たのだろうという仮説も成り立つ。

 30歳前半の若者が、宗教的な言動をとがめられて逮捕され、有罪とされて、磔刑に処された。死後、その若者は、実は「神の子」だった、神が遣わした救世主だった、その死によって人類の罪を贖ってくれた、と使徒たちが信じるようになり、多くの人々もそれを信じるようになった。これは、見様によっては、その若者に途方もない責任と役割を担わせたことになる。人類のすべての罪を一人の若者に負わせて、救世主だと仰ぎ奉ったことになる。

 イエスは、再臨して自身がキリストだということを人類に対して証明するのか。それとも、人々が過剰な願望の投影だったと気づいて、真のキリストを求めるようになっていくのか。21世紀は、その歴史的な結末を迎える時になっている。

 

●三位一体説

 

キリスト教は、超越神ヤーウェを唯一の神とする唯一神教である。それと同時に、キリスト教の主流では、この神を三位一体の神とする。次に、三位一体に関する教義について書く。

『マタイによる福音書』は、イエスは弟子たちへの「山上の教訓」で、次のように語ったと記している。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と(マタイ書28章18〜20節)。

ここにイエスの言葉として「父と子と聖霊の名によって」という三位一体に関する文言が出ている。しかし、イエス自身が父と子と聖霊の三位一体を説いたとは考えられない。この三位一体の文言は、使徒時代には全く知られていなかったものである。三位一体の考え方は、その後に、原始教団において発生・発達し、『マタイによる福音書』が書かれた時期には、一個の思想として成立していたものだろう。その思想を福音書家がイエスの言葉として記したと見ることができる。

三位一体(Trinity)とは、唯一の神が、創造主としての父なる神、贖罪者イエス・キリストとして世に現れた子なる神、信仰経験に顕示された聖霊の三つの位格を持ち、それぞれが同格に存在するとする教義である。

 

(1)第1の位格:父なる神

 

三つの位格のうち、父なる神は、ユダヤ教の神ヤーウェと同じ神である。神ヤーウェについては、先に書いた。キリスト教では、その神のとらえ方が、霊・ロゴス・愛を強調したり、三つの位格を持つとしたり、独り子・イエスを遣わしたとしたり、聖霊を発するとしたりする点が独自の点である。

 

(2)第2の位格:子なる神イエス

 

 キリスト教はイエスをキリストとする宗教であり、イエスをどうとらえるかがキリスト教の根本問題である。古代にその点を中心とする論争が起こり、正統と異端に分かれ、また諸教派が発生した。

 325年のニカイア公会議では、父なる神と子なるイエスは「異質」だというアリウスの異質説が否定され、父と子は「同質」だとするアタナシオスの同質論が正統と決定された。キリストの神性と父なる神との本質的同一性を確認したものであり、イエスは完全な人間であり、同時に完全な神であるという理解である。また、この決定によって、同会議は、父なる神と子なる神であるイエスと聖霊の三位一体を規定した。ここにキリストは人にして神であるとするニカイア信条が成立した。信条(credo)とはキリスト教の教義を要約したものである。ニカイア公会議で採択された信条は、後に拡充されたので、それと区別して、原ニカイア信条という。

  原ニカイア信条は、381年の第1コンスタンティノポリス公会議において拡充され、聖霊・教会・死者たちの復活についての教義の詳細が文章化された。これをニカイア・コンスタンティノポリス信条という。

続いて、431年のエフェソス会議で、イエス・キリストの神性と人性が問題になった。イエス・キリストは、人間と同じ肉体を持ちながら神であり、人性と神性の二つの本性(ナトゥーラ)を持つとする説を両性論という。これに対し、受肉したイエスは神性のみを持つとする説を単性論という。同会議では、両性論を説くネストリウス派は異端とされた。

ところが、451年のカルケドン公会議では、イエスは完全な人間であり、同時に完全な神であるという主旨が再確認されたうえで、単性論が否定され、両性論が正統と決定された。イエス・キリストにおいては唯一の位格しか存在しないが、その一つの位格のなかに人性と神性との二つの本性を備えるとしたものである。そのうえで、両者の関係を、「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」と規定した。これが、カルケドン信条である。会議の結果、単性論が異端とされるとともに、両性論で部分的に見解の異なるネストリウス派が再度異端とされた。

ニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条は、ローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタント諸派の多くで信奉されている。内容は信条告白の項目で述べる。

イエスを子なる神とすることは、イエスは「神の子」であるだけでなく、「主」ともすることである。「主」であるとは、イエスは超越神が人間の姿を取って現れた存在ということである。イエスの受けた迫害や磔刑は、その超越神が体験したことという考え方が成り立つ。またイエスは天地創造の前から父なる神の右に坐していたとも信じられている。これを先在説という。

当時の古カトリック教会は、自らの教義と異なる説を、異端として厳しい弾圧を行った。だが、父なる神とイエスの異質説を説くアリウス派の考え方は、ニカイア公会議で異端とされた後も存在し続けた。現代の教派の中では、ユニテリアンは三位一体を認めず、イエスの神性を否定し神の単一性(Unity)を唱えたアリウスの説を継承する。また、カルケドン公会議等で異端とされたネストリウス派は、シナにまで伝道され、そこで景教と称した。ヨーロッパでは18世紀の啓蒙主義の時代以降、イエスの神性を否定し、人性を強調する説が、プロテスタントの一部で有力になっている。この説は、近代西欧科学の諸発見と矛盾しないので、信奉者が増加する傾向にある。カルケドン公会議の決議を拒絶する者たちは、非カルケドン派と呼ばれる。単性論を取る少数教派である。アルメニア使徒教会、ヤコブ派教会、エチオピア正教会、コプト正教会、シリア正教会などがあり、その多くが今日も存続している。

 さて、キリスト教より約600年後に現れたイスラーム教は、イエスを「神の子」とするキリスト教の重要教義を否定する。イエスは神ではなく、単なる人に過ぎない。優れた預言者であるに過ぎないと断じる。それゆえ、三位一体説も明確に否定する。もっともムハンマドは、三位とは神とイエスと聖母マリアだと誤解していた。当時そのように説くキリスト教の一派があった。この誤解を補正し、聖母マリアを聖霊に替えたとしても、イスラーム教はイエスは「神の子」ではないと否定するので、基本的な論理は変わらない。ユダヤ教では、イエスを救世主であるとも預言者であるとも認めない。この点、イスラーム教はイエスを預言者の一人と評価している点がユダヤ教とは異なる。
 ユダヤ教は、唯一絶対の神を信仰する。これに比し、キリスト教は、神と人間の間に「神の子」としてのイエスを仲介者として置くことで、唯一神の絶対性・超越性を弱めたという見方が成り立つ。イスラーム教は、神に子などないとして、子なる神を否定する。それゆえ、イスラーム教は、セム系一神教の神観念を、もともとのユダヤ教の考え方に戻し、これを徹底・純化しようとしたと言えよう。

 

(3)第3の位格:聖霊

 

 イエスをどうとらえるかということともに、聖霊をどうとらえるかが、またキリスト教では、大きな問題である。

 三位一体説は、創造神を父とし、その子を男子とする。男性原理によるとらえ方である。いわば神聖なる父子家庭である。母や女性的なものは存在しない。ここで父と子の間にあるとされるものが、聖霊である。

聖霊について、『ヨハネによる福音書』15章26節には、「父のもとから出る真理の霊」とある。もともとは父から発出するものとされていた。その説を継承する東方正教会では、発出するのは父のみとしている。しかし、ローマ・カトリック教会では、父と子の両方から発出されるという説に変わった。この点が両教会の分裂の教義上の要因の一つになった。

アウグスティヌスは、聖霊について「位格的な統一、聖性、愛」であり、父と子を「結び合わせているもの」と説いた。岩下壮一は著書『カトリックの信仰』で、聖霊は「父と子の愛の関係」とし、「父と子との間にはとこしえの愛がーー聖霊がーー漲っている」と書いている。聖霊とは愛であるという理解だが、この愛は父性愛であり、男性的な愛である。

 聖霊は、父なる神と子なる神の間でのみ働くものではない。イエスの死と復活後、使徒たちに聖霊が降誕し、使徒たちが異国の言葉を語るなど不思議な現象が起ったことが、『使徒言行録』に書かれている。一般的な見方をすれば、一種の集団的なトランス状態または憑依現象である。この聖霊降誕がキリスト教の教会の始まりとされる。それゆえ、聖霊は父と子の間における愛というだけでなく、使徒に対しても作用するものであり、可能性としては広く信徒にも作用し得るものと考えられる。

 一般に霊とは、身体や生命体から独立して働く精神的な存在をいう。古代の多くの宗教では、祖先の霊、動物の霊、植物の霊等の存在が信じられ、人間と霊との交通が儀礼や祈りにおいて重要な要素となっていた。キリスト教は自然崇拝・祖先崇拝を否定している。その一方で、神から発する聖霊を位格の一つとする。父なる神は霊的な存在ゆえ、霊である神が発する霊的な働き、力、エネルギーと考えることができる。聖霊を愛とするならば、霊的な働き、力、エネルギーが愛と感じられるものである。愛は感情であり、結合や統一をもたらす感情である。そうした感情のこもった働き、力、エネルギーを聖霊ととらえるものと考えられる。単なる物理的な力、エネルギーではなく、精神的な力、エネルギーである。

 

●救いと人間の自由意志

 

 ユダヤ教を祖とするセム系一神教では、神は全知全能であり、無から宇宙を創造し、宇宙を超越した存在であるとする。このような神観念のもとに、この宇宙におけるあらゆる出来事は、神によって予め定められ、神の意志に支配されているという考え方がある。この考え方を予定説という。宇宙全体についての一種の決定論ゆえ、本稿ではこれを宇宙予定説と呼ぶ。

 宇宙予定説に立てば、人間に自由意志はあり得ない。すべては神が定めたとおりに進行し、人間が自らの意志で行動して、神の計画と異なることをする余地はない。ところが、ユダヤ教では宇宙予定説をとりながら、人間は神の似像として創造され、それゆえに意志の自由が与えられているともする。そして、律法に従い、戒律を守るかどうかは、人間の自由意志によるとする。人間に自由意志がなければ、律法や戒律は必要ない。行為は動物と同じくほとんど本能的な行動の反復に過ぎないからである。自由意志があるからこそ、それへの規制が定められていると考える。人間は自由意志により神の命令を守り、律法や戒律を実践することができる。そして律法と戒律を義務として遵守すれば、よい結果が、遵守しなければ、悪い結果が現れるとする倫理的応報主義を取る。ここには、神の絶対性と人間の自由意志は矛盾しないという考え方がある。

キリスト教はユダヤ教から基本的な人間観を継承しているが、救済に関して人間の自由意志を認めるかどうかについては、意見が分かれる。キリスト教における救済とは、神の恩恵を与えられて神の国に入り、永遠の生命を得ることである。その救済を得られるのは、信仰のみによるという考え方と、善行・功徳が必要とする考え方がある。前者は人間の自由意志を認めない立場、後者は認める立場である。救済は信仰のみによるという考え方は、パウロが説いたものである。パウロは、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(『ローマの信徒への手紙』3章28節)と説く。これを、信仰義認という。義とは法廷で無罪であると宣せられることを意味し、義認とは神が人間を義つまり無罪と認めることである。パウロは、人間はすべて罪人であると強調し、イエスの贖いによって義とされると説く。「人は皆、を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のためにを償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯したを見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ書3章23〜25節)。ゆえに、人間は行為によって救済されることはありえない。人間はイエス・キリストへの信仰によってのみ救済されるとする。パウロは、神が人間を義と宣する以外に、人間は救われることはできないとする。それゆえ、パウロは、自由意志による救いを否定する。

パウロは、救いを得るための信仰は内心の信仰のみでよいとする。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(『ローマの信徒への手紙』10章9節)とパウロは説いている。このパウロの思想は、内面において神を信仰すれば、ただそれだけで、神は恩恵を与えて救ってくれるという考え方である。外形的な行為や発言がどうであれ、内心において信じていれば救われると説くものでもある。

ただし、パウロは、信仰のみですべての信者が救われるとは、説いていない。内心の信仰によって、必ず救われるとは限らない。パウロは、誰が救いを得られ、誰が滅びに至るか、神によって予め定められているとする。

このパウロの考え方が、キリスト教の主流となった。この考え方を救霊予定説、略して予定説という。キリスト教は、愛の宗教といわれ、万人を救う宗教というイメージを持っている人が多い。イエスは、求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ書7章7節)と説いており、イエスの教えに従えば、すべての人が救われると考えられる。しかし、パウロの考え方に立つならば、キリスト教は、すべての人を救う宗教ではない。神によって予め選ばれた人だけが救われるという宗教である。その意味は、キリスト教徒だけが救われて、他の宗教の人は救われないという意味ではない。キリスト教徒でも、神によって選ばれている人は救われるが、そうでない人は救われないという教えである。

予定説では、人間が天国に行けるかどうかは神の意志によるものであり、死後救われるか救われないかは、予め神が決定しているとする。キリスト教の信仰を持ってさえいれば必ず救われるのではない。信仰が篤く善行を積んだ者でも、救われるとは限らない。神は絶対であり、人間の行為が神の意志に影響を与えることはないとするものである。本稿では、以後予定説の語は、救霊予定説の意味で用いる。

予定説は、パウロに始まりキリスト教の主流をなす考え方となっている。パウロの説は、アウグスティヌスによって整備され、ローマ・カトリック教会で確立された。宗教改革を起こしたルターもこれを継承し、さらにカルヴァンが論理的に徹底した。

 予定説は、有神教において、神が人格的であり、かつ人間世界に介入するという超越神の観念のもとでのみ成り立つ救済の原理である。神を立てない無神的宗教では、予定説は成り立たない。これに替わる救済の原理の代表的なものが、因果説である。物事は、原因―条件―結果の関係において起こるという考え方である。

因果説によると、人間は善行・功徳を行うと、それが良い原因になって良い結果をもたらし、救済を得られる。善行を積めばそれだけ救われ、悪行を積めばそれだけ救われなくなるという因果応報の論理に基づく。予定説と因果説は、救済の原理として、全く異なる説である。仏教や道教は因果説である。キリスト教にも、こうした考え方はあるが、少数派である。基本的に、予定説は救いにおける人間の自由意志を認めず、因果説は自由意志を認める。ただし、それらを折衷した中間的な考え方もある。

予定説に立ち、自由意志による救いを否定するパウロの思想は、古カトリック教会に受け継がれた。だが、5世紀の始め、重要な論争が起った。ペラギウスは、神は人間を善なるものとして創造したのであり、原罪は人間の本質を汚すものではない、人間は神からの恩寵を必要とはせず、自分の自由意志で功徳を積むことによって救霊に至ることができると説いた。これに対し、教父アウレリウス・アウグスティヌスは、人間に選択の自由はあるが、選択の自由の中にも神意の采配が宿っており、人間単独の選択では救いの道は開けず、神の恩寵と結びついた選択によってのみ道が開けると説いた。単純に言えば、ペラギウスは人間には自由意志があると主張し、アウグスティヌスは自由意志を否定したことになる。この論争を、ペラギウス論争という。416年のカルタゴ会議、431年のエフェソス公会議でペラギウス主義は異端として排斥された。

ローマ・カトリック教会は、アウグスティヌスの自由意志否定説をもとに救霊予定説を教義として確立した。しかし、異端とされた自由意志を認める考え方が絶えることはなかった。

東方正教会は、西方教会に比べ、より積極的に自由意志を肯定する。オリヴィエ・クレマンは、著書『東方正教会』でその要点を次のように書いている。東方正教会では「神は、自らの生命に預からせるために人間を造られた。神の形を持つ者として、神は人間を造られた。言い換えれば、人格的な存在、自由な存在として人間を造られたのである」と考える。しかし「人間が生の根源である生ける神から離れたこと」によって、「死が現世をおおうようになった。以後、死は神によって創造されたよきものをすべて腐敗させ、宇宙は、人間によって悪魔の目くるめくばかりの破壊の中に投げ込まれてしまった。このように悪とは神から離れていることをいうが、これは人格的存在が自由意志をもって選び取った状態である。つまり、悪とは人間が神の愛を拒み、神の手になる愛をナルシシズム的な愛へと転落させてしまうことである」とクレマンは書いている。

「人間は、もはや神へと高まることはできない。そのため、神は自ら人間のもとに降りてこられ、人間になられた」。マリアが神の受肉を受け入れ、イエスが誕生した。「人間は罪に陥り、堕落してしまった。そのため人間が神と一体化し、神化するには、どうしてもキリストによる罪の贖いと苦悩に満ちた救いが必要であった」、「人間を蘇生させるために、神は敢えて死と地獄の苦しみを受けに降りてこられた。この血の十字架を通して、神ははじめて、神と人間とを分け隔てた壁を打ち砕くことができたのである」というのが、クレマンによる東方正教会の教義の核心である。

東方正教会では、西方教会より、積極的に自由意思を肯定するので、人間の努力によって神に近づこうとする修道が発達した。3世紀に聖アントニウスがエジプトで修道生活を行ったのが、修道院のはじめとされる。修道院は、東方で発達した後、西方でも盛んになった。

カトリック教会では、中世になると、修道院が勢力を増していき、修行を含む善行の積み重ねによって救済に至るという考え方が、段々優勢になっていった。ローマ・カトリック教会は、その後、実質的には人間の自由意志を認め、善行や功徳を積むことを奨励している。

 中世スコラ学の代表的な学者であるトマス・アクィナスは、救済を得るには人間の努力や善行が必要であるとした。神の恩恵を得て回心する過程において、信仰だけではなく、人間の努力や行為が意味を持つ。また、努力に応じてより高い水準に至るという考え方である。これは、人間の自由意志を認める立場である。自由意志を認めるならば、人間の努力が救いに結びつくという因果説になる。それでいてトマスは予定説を否定していないから、予定説と因果説の折衷であり、一部に因果説を含む予定説になる。

トマスによれば、自由意志を持つ人間は、ただ放っておいても倫理的な行動するわけではない。そこで、不断の指導と援助を与えるものが必要となる。その指導と援助を行うのが、教会である、とトマスは説く。このトマスの教学理論によって、カトリック教会は、救いをもたらす秘蹟の権威の強化、教会や修道院の規範の厳格化を進めた。その結果、絶対的な権威と権力を持つに至った。だが、それによってまた腐敗・堕落の道を下って行くことにもなった。その下降の行き着く先が、免罪符の発行である。免罪符を購入すれば、天国に行けるという教えは、16世紀のヨーロッパでマルティン・ルターから厳しい批判を受け、西方キリスト教における宗教改革を引き起こすことになった。

ルターは、修道院で厳しい修行を行った。だが、どれほど厳しい修行を行っても、修行では救いは得られないと認識した。そして、救いはただ神の恩寵によるという考え方に至った。人文主義者でカトリックの神学者のデジデリウス・エラスムスが『自由意志論』を著して自由意志を肯定する主張をすると、ルターは『奴隷意志論』を公表して、人間は奴隷と同じで人間の意志の自由など一切ないと説いた。ルターは、人間に意志の自由があるという説は、ペラギウスの説と同じであり、到底、容認できないと反駁した。

ルターは神の絶対性を強調することにより、人間の自由意志を否定した。救済は、人間の善行・功徳によって得られるのではなく、全く神の意思によるとした。ルターはパウロ以来の予定説を継承し、救済における因果説を否定した。これは、ローマ・カトリック教会が古代においてはパウロ=アウグスティヌスの救霊予定説を教義としていながら、中世においてはトマス・アクィナスが因果説と予定説を折衷した教義に変化していたことへの反論ともなっている。

ルターの予定説を極限まで進めたのが、ジャン・カルヴァンである。カルヴァンは、ルターの考え方は不十分だとし、予定説を論理的に徹底した。予定説は、神は予めすべての人間を、ある者は救いに、ある者は滅びに予定したとするが、カルヴァン以前の予定説は、アダムとエバは自由意志によって原罪を犯したのであり、予定は堕罪後の人間に関するものとする。これを堕罪後予定説という。これに対し、カルヴァンは、アダムとエバが原罪を犯したことをも神が予定していたとする。これを堕罪前予定説という。二重に予定されていたと考えるので、二重予定説ともいう。

カルヴァンが予定説を徹底して堕罪前予定説を説いたのは、堕罪後予定説では神はアダムとエバが罪を犯すことを前もって知らなかったことになり、神の全知が否定されるからである。堕罪前予定説には、全知全能の神ゆえ、堕罪も予定していたとして論理的な一貫性がある。しかし、この説は、神の絶対性を強調するあまり、人間の自由意志を完全に否定することになる。

 カルヴァンによると、神は死後永遠の生命を与える人間をすでに選び、他の人間は永遠の死滅に予定した。誰が選ばれているかは、神のみぞ知る。自分が選ばれた人間かどうかは、誰にもわからない。そのうえ、この世における人間の努力は、神の救いを得るためには一切関係ない。つまり人間が神の決定を変えることは、絶対に不可能とカルヴァンは考えた。それは天地創造の時に、予め決まっているのである。カルヴァンによれば、「人間のとるべき態度は、ただこの鉄の必然性たる神の意志に服従するだけ」である。この説に従う場合、イエス・キリストの選びを信じる以外に安心は得られない。

カルヴァンの予定説では、人間は「救われる者」と「救われない者」とに、このうえなく不平等に創造されていることになる。敬虔崇高な善人が救済されず、悪逆非道の悪人が救済されることもあり得る。それほどまでに神を超越的で絶対的な存在とし、また人間を無力なものと考えるのが、カルヴァンの予定説である。

稀代の碩学・小室直樹は、こうしたカルヴァンの予定説こそ「キリスト教の本質」だと主張した。だが、それは一面的な見方である。16世紀後半のオランダの改革派神学者ヤーコブ・アルミニウスは、カルヴァンの神学を学び、人間は自らの意志で神の救いを受けることも、拒絶することもできると反論した。ヨーロッパで最も早く自由主義(リベラリズム)の思想が発生したオランダに現れたアルミニウスの自由主義神学は、自由主義・デモクラシーが発達したイギリスで、非国教会系プロテスタントに影響を与えた。メソディストは、その強い影響のもと、カルヴァンの予定説とは対照的に、すべての人間の自由意志による救済を説く。クエーカーやユニヴァ―サリストは、さらに、すべての者が例外なく救われるとする万人救済説を主張する。キリスト教には、予定説とは正反対のこうした思想があり、現在の世界ではカルヴァン主義者より多くの信奉者がいる。自由意志による救いを否定する主張が主流を占めているが、これに反対する主張も根強く存在するのである。

救いを求める宗教を開いたイエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。」と告げ、「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ書1章15節)と説いた。悔い改めるように説くということは、人間に自由意志があり、その自由意志によって悔い改めるように諭すものだろう。また、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ書7章7節)と説いた。自ら求める者には、救いを与えられる。求めない者は、救いは得られない、と諭すものだろう。自由意志を全く否定するならば、こうしたイエスの教えは意味をなさなくなる。救いを得るには、人間が自由意志を以って努力することが必要である。しかし、救いは人間の努力だけでは得られない。人間の努力だけでは達成できないところに、神の救いが期待されるということでなければならない。

 予定説を拒否し、自由意志による救いを期待するならば、救済の原理は因果説になる。救いを得るために努力し、善行や功徳を積むことが、救いにつながり、また救われる程度に影響するという考え方である。ただし、キリスト教においては、因果説の場合も、人間の努力だけで救いを得られると考えるのではない。最終的に人間が救済されるか否かは、再臨したイエス・キリストが行う最後の審判によって決定されると考える。その点は、予定説と共通している。救済の実現に関して、救い主としてのイエス・キリストの意志を除くならば、キリスト教ではない別の宗教になる。それゆえ、キリスト教における救済の原理は、イエス・キリストにある。イエスに万人を救済する力がなかったり、イエスが自ら再臨しなかったりすれば、キリスト教における救済は成り立たない。

 ところで、キリスト教と同じくユダヤ教から派生したイスラーム教は、本質的には予定説である。六信の一つに天命があり、信徒は神の意志による予定を信じる。イスラーム教徒の慣用句に、「イン・シャー・アッラー」がある。文字通りには「もしも神が欲し給うならば」を意味する。しかし、イスラーム教は、人間の自由意志を認める。この点が、キリスト教の主流の考え方と異なる。
 現世の物事の大筋は神によって定められているが、信徒は自らの自由意志によって、現世を生きねばならぬ義務を与えられている。イスラーム教では、アッラーは人間が自ら運命を変えぬ限り、人間の運命を変えることがないとしている。信徒にとって現世は試練の場であり、そこで彼が自らの意志で選び取ったことの結果によって、来世での地位が定められると考える。
 イスラーム教の救済の原理は、アッラーを信ずる者は、みな来世の天国に行けるというものである。一種の万人救済説である。キリスト教と違い、神が予め救う者を選別しない。ただし、来世で天国へ行くか地獄へ行くかは、現世でよいことをするか悪いことをするかによって決まるとする。この部分は因果説であり、仏教に似たところがある。ただし、仏教は因縁果の法則によって結果が生じるのに対し、イスラーム教では、最終的にはアッラーの意志によって決定される。またイスラーム教では、現世で罪を犯しても、他の神を信じることがなければ、最後はアッラーの赦しを受けて天国に行くことができるとする。この赦しへの期待は、アッラーを慈悲あまねく慈愛深き神と信じることによっている。

宗教には、救いを求める宗教、解脱を目指す宗教、儀礼を行うことを主とする宗教がある。例えば、キリスト教、イスラーム教は、救いを求める宗教だが、ヒンドゥー教、仏教は、解脱を目指す宗教であり、神道は儀礼を行うことを主とする宗教である。

仏教では、真の悟りを得たものを仏(ブッダ、目覚めた者)という。仏教は、仏が説いた教えであると同時に仏になるための教えである。これに対し、キリスト教は、神の子とされるイエス・キリストが説いた教えであり、キリストになるための教えではない。

仏教は法(ダルマ)の真理を解明し、それを実践することで解脱を目指す教えである。世界の成り立ちは、セム系一神教の創造説とは異なり、縁起説を取る。縁起の理法は因果律であり、解脱は修行という行為が原因となって得られる結果であるとするのが、因果説である。煩悩を消滅しようとする人間の努力なくして解脱には至れないと考える。

大乗仏教では、如来や菩薩が想定されるようになり、彼らに帰依すれば救済されると説く。称名念仏や唱題をするだけでみな極楽往生できると説く宗派もある。この場合も、そうした行為が原因となって結果としての救いを得られるとするものである。
 仏教には、自力と他力という概念がある。自力で解脱を目指すのが、仏教の修行である。これは自由意志の働きである。原始仏教や部派仏教(小乗仏教)はこの道である。大乗仏教でも天台宗・真言宗・禅宗等は自力宗といわれる。だが、修行によって解脱を得ようとするには、出家して。多くの戒律を守り、厳しい修行生活を送らねばならない。また、生涯をその道に捧げても、解脱を得られる者は、ごくまれである。そのため、大乗仏教では、他力すなわち仏や菩薩の助力に頼れば救われると説く宗派が現れた。

仏教の中には、キリスト教とは教義、実在観・世界観・人間観が全く違うが、死後に必ず救われると説く宗派がある。浄土系の宗教がそうで、如何なる悪人でも南無阿弥陀仏と唱えるだけで、必ず阿弥陀如来によって救われると説く。人間の究極的な願望を表したものと言えよう。浄土真宗の蓮如は、門徒に対して、極楽往生できることは決まっているから戦闘においてひるんではならない、と説き、門徒集団は強い戦闘力を発揮した。一向一揆の強さは、死を恐れぬ信仰にあった

浄土宗・浄土真宗等は他力宗といわれる。民衆は、俗世間で生活をしながら、救いを願望する。簡単に唱えられる念仏や多少の供養をすれば、救ってもらえるということであれば、心の安らぎや慰めは得られよう。だが、生涯修行に徹する生活を送っても、まれにしか得られない境地に、普通の生活によって到達することは、ほとんど不可能である。そのため、観念的な自己満足に陥りやすい。こうした他力の道であっても、読経や称名念仏等を行うのは、自由意志によるものであり、人間の努力である。自力の道は自由意志による努力が最大限に求められ、他力の道は自由意志による努力が最小限で良いとするという違いがある。ともに自由意志あっての実践である。

自由意志を全く否定するキリスト教の一部の教派は、神の絶対性を強調するあまり、人間の能力を過小評価している。その教派の考え方は、イエスの教えをそのまま伝えているというより、古代ローマ帝国の奴隷制社会や中世ヨーロッパの農奴制社会の支配原理が教義に影響を与えているものと考えられる。近代の社会では、識字率が上がり、個人の意識が発達し、自由と平等が価値として広がるにつれ、自由意志を全く否定する教派で信奉者が減少してきたのは、当然と思われる。

 

●悪の問題

 

自由意志の肯定は、人間における悪の問題を生じる。唯一神教の神が人間を創造したという考え方に立てば、自由は、人間における神に似た要素として最も価値あるものである。また同時に自由は神への背反の原因ともなりうるものである。そのことを象徴的に示すのが、原罪と楽園追放の物語である。ユダヤ教では、人間は神の似像として創造されたものとして、神のように恵み深く、憐れみに富み、正しく完全でなければならない。人生の目的は、今も進行中の神の創造の業に参加し、これを完成して創造主に栄光を帰すことである。しかし、エバが禁断の知恵の実を食べて楽園から追放されたように、人間の本性には悪の衝動が含まれている。ユダヤ教は悪の衝動を抑えて神の創造の業に参加することは、各人が自由意志に基づいて決定しなければならないと教える。

キリスト教で自由意志を肯定する考え方をすれば、ユダヤ教と同じように考えることになる。神の意志に従うのが善、それに反するのが悪だとすると、人間は自由意志を持つことにより、最初の悪としての原罪を犯したが、自由意志によって善を行うことができ、善行・功徳によって救いを得ることができるということになる。

一方、自由意志をまったく否定すると、複雑な問題を生じる。善も悪も人間の自由意志によるものではないことになり、善も悪もみな神の意志によることになる。いかなる極悪非道もすべて神の意志によるとすれば、善も悪も実質的に同じことになってしまう。これは、予定説の深い陥穽である。

悪の問題に関して、ユダヤ教及びキリスト教には、見逃せないものがある。エバが禁断の木の実を食べるように唆した年老いた蛇、堕天使とされるルチフェル(英語読みはルシファー)、荒野で修行するイエスに挑んだ悪魔、世の終わりに出現するとされるアンチキリスト等の存在である。これらは、悪の問題は人間に限るものではなく、人間以前及び人間以外に淵源することを示唆するものである。

 まず蛇についてだが、『創世記』3章に、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」と書いてある。人間創造の時点で、人間より賢く、人間に働きかけるものがあったわけである。『創世記』は、続ける。「蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』。女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです』。蛇は女に言った。『決して死ぬことはない』。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」と。

『創世記』は、続ける。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』。アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』。主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか』。女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました』。」と。

アダムと女は、神から隠れようとした。アダムは、木の実を食べた原因を女のせいにした。女はそれを蛇のせいにした。人間は知恵の実を食べたことで、神の意思に背き、知恵を悪用することを覚えた。だが、悪は人間において、はじめて生じたのではない。既に蛇において悪は存在していたと考えられるからである。また、神が創造したものの中に人間に神の意思に背くように唆すものがあったとすれば、神による創造は完全ではなかったことになる。神の絶対性を強調しようとした堕罪前予定説は、この誘惑者としての蛇の意志と行為をも、神は予定していたかどうかを明らかにしなければならないだろう。

なお、蛇に関しては、人間の根源的な欲望を象徴したものという心理学的な解釈もある。それが性的な欲望であれば動物的な本能であるから、知的生命体の知恵とは結びつかない。自己本位の支配欲であれば、神を中心とした生き方に対する自己中心の生き方への欲望と考えることができる。生物には繁殖・繁栄し、環境を占有しようとする性向がある。そのために知能を発達させて支配を実現しようとする。そうした支配欲に根差した知能の発達を、蛇に象徴したという解釈は可能である。

 さて、悪魔は、悪及び不義の擬人的な表現である。ユダヤ教及びキリスト教では、神の敵対者を意味する。その悪魔の中に、元は大天使だったルチフェルがいるとされる。天使は、悪魔と対照的な善なる存在である。聖書には、セラピム、ケルビム、ミカエル、ガブリエル、ラファエルなどの天使が登場するが、天使は神の被造物であり、人間より先に創られ、人間より優れた能力を持つものである。神の使者として人間に神意を伝えたり、人間を守護したりする霊的存在である。ところが、その天使の中には、神に反逆した堕天使がいるとされる。このアダムとエバ以前に神に背反したものたちの物語は、聖書に記されていない。ルチフェルは堕天使たちの頭領であり、もともとはすべての天使の長であったが、神と対立し、天を追放されて神の敵対者となったとされる。魔王(サタン)とも呼ばれる。サタンの存在は、蛇の場合より深刻である。神が創造したものの中から、自由意志を持ち、神に反逆・敵対するものが現れたとすれば、神の全知全能という観念は大きな疑義を生じる。

 どうしてこういうことになったか。ルチフェルは、もともとラテン語で「光をもたらすもの」を意味し、暁の明星つまり金星を指していた。古代ギリシャ、ローマには、惑星を神々と仰ぐ信仰があった。その異教の神々がユダヤ教の中に取り入れられたのだろう。堕天使たちとは、唯一神教の中に取り込まれ悪者にされた多神教の神々と考えられる。異教の神々を取り入れ、自らの民族の神に敵対する者と位置付けることは、他の古代宗教でみられる現象である。惑星の神々に関しては、極めて古い時代の太陽系の大きな変動の記憶が、神話となって表現されているとも考えられる。

 次に、福音書には、荒野で修行をするイエスの前に現れ、イエスに問いを発する悪魔が登場する。イエスはその問いに答え、悪魔は退散したとされる。これがイエスではなく普通の人間が修行をしている時に悪魔が現れたというのであれば、自らの迷いや疑念、欲望等によって潜在意識から湧き上ったイメージと考えられる。それらの妄見・邪念を払拭した時に、悟りに達する道が開かれるだろう。だが、イエスは煩悩を抱えた凡庸な人間ではなく、神の独り子として処女マリアから誕生したとされるのだから、イエスの前に現れた悪魔は、イエスの心が生み出したものとは言えない。その悪魔は、イエスとは別の存在としなければならない。それがどういうものであるか、福音書は具体的に記していない。エバを唆した蛇や堕天使ルチフェルと関係づけて考えることも可能である。

 最後に、反キリスト(アンチキリスト)の観念がある。反キリストとは、世の終わりにイエス・キリストが再臨する前に出現して教会を迫害したり、世を惑わしたりする偽せ預言者や異端、悪魔などをいう。

『ヨハネの手紙一』は、次のように書いている。「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」(ヨハネ手紙一2章18節)、「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(同書4章1節) 、「イエスのことを公に言い表さないはすべて、神から出ていません。これは、反キリストのです。かねてあなたがたは、そのがやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(同書4章3節) と。

ヨハネの手紙の筆者とはおそらく別人が書いたとされる文書に、『ヨハネの黙示録』がある。この文書は、世の終わりの幻影を描いたものと理解される幻想的な文書である。そこに現れる数666は、アンチキリストの象徴とされる。ここには、神と悪魔の戦いという二元的な世界観が見られる。その世界観には、古代イランの創唱宗教であるゾロアスター教の影響が指摘される。ゾロアスター教は、善霊アフラ・マズダと悪霊アフリマンの対立・闘争を軸とする二元論と終末論を説いた。また、ユダヤ教及びキリスト教における天使の観念は、同教のアムシャ・スバンタ(聖なる不死者)に由来するともいわれる。19世紀ドイツの哲学者ニーチェはゾロアスター教に注目し、その開祖の名のドイツ語読みであるツァラトゥストラを主人公とする『ツァラトゥストラはかく語りき』を書き、また自分をアンチキリストに擬している。

 このように悪の問題は、唯一神教における神の全知全能という観念に破綻をもたらすとともに、ユダヤ教及びキリスト教が独立自生した宗教ではなく、古代中東の宗教の影響を受け、その影響を完全に消化することができず、不純物を抱えた状態の宗教であることを明らかにするのである。

 

●神義論

 

なぜ善人が苦悩や不幸に遭い、悪人が快楽や繁栄を得るのか。この問いにどう答えるかは、宗教や道徳の根本に関わる課題である。この問いは、キリスト教においては、なぜ神は善人が苦悩や不幸に遭うのをそのままにし、悪人が快楽や繁栄を得るのを許すのか、という理由を問うものとなる。その理由を説明し、神が正しいことを証明する方法を、神義論(Theodizee テオディゼー)という。哲学的・神学的に言えば、悪の存在に対して神の義(ただ)しさを弁証する方法であり、弁神論とも訳す。

世界の諸宗教を研究した社会学者マックス・ウェーバーは、キリスト教は、予定説によって、神義論を完全に解決している、と説いた。予定説によれば、神がある人間に恩恵を与えて救済するか、恩恵を与えないで救わないかは、神の自由な選択による。神によって救いに選ばれるか否かは、人間の自由意志には関係がなく、人間の努力は神の意志に影響しない。このような予定説によれば、善人の苦悩や不幸も悪人の快楽や繁栄も、すべて神が決めたことだという説明が成り立つ。それゆえ、キリスト教の神を弁護する神義論は完璧だとウェーバーは考えた。ウェーバーはカルヴァン主義のプロテスタンティズムを高く評価するので、この見方には、彼の主観的な価値観が反映している。決して価値中立的ではない。

ところで、ウェーバーによれば、キリスト教以外ではヒンドゥー教が別の仕方で神義論の課題を解決している。ヒンドゥー教は有神教であるから、先の問いについて、神義論という用語を使うことができる。ヒンドゥー教は、現在の状態は過去に原因があり、その結果であると説明する因果説を説く。また、魂が輪廻転生するという考え方をし、現世における苦悩や不幸の原因は、過去世における自身の行いに原因があると説く。この場合、過去世において自分が積んだ悪いカルマ(業)を消滅することができれば、自分の苦悩や不幸は解決することになる。悪人は、現世において快楽や繁栄を得ていても、来世において自らの悪行の報いを受けると理解される。

仏教は本来、神を立てない無神的宗教であるから、同じ問いについて神義論という言い方は不適当である。仏教は、非人格的な原理である法を解き明かす宗教である。法は、義しいか否かを問い、弁証する対象ではない。だが、仏教の説く因縁果の理法もまたなぜ善人が苦悩や不幸に遭い、悪人が快楽や繁栄を得るのかに合理的な説明を可能にする。インドの仏教は、ヒンドゥー教と同じく魂が輪廻転生するという考え方をするので、現世における苦悩や不幸の原因は、過去世における自身の行いに原因があるとされる。また、ヒンドゥー教と同じく、過去世において自分が積んだ罪障、悪因縁を消滅することができれば、自分の苦悩や不幸は解決することになる。悪人については、来世での因果応報を以って説明する。今は良いようでも、来世において報いを受けるというわけである。

日本の神道は、個々の魂の輪廻転生よりも、祖先から子孫への生命のつながりを重視する。家族的な生命の連続が信仰の目的の一つとなっている。これは儒教と共通する。この考え方が、日本仏教の一部の宗派に強い影響を与えている。その影響下にある宗派では、個々の魂の輪廻転生による因果関係よりも、家族における祖先と子孫の間の因果関係が主要なものとなっている。祖先の行いの結果や霊となった祖先の状態が子孫に影響していると考えるならば、祖先の霊を慰めたり、救ったりできれば、自分の苦悩や不幸は解決することになる。悪人については、現世において快楽や繁栄を得ていても、そこで積んだ罪は、子孫に結果を及ぼすことになると考える。それによって、神義論の問いに、他の宗教とは別の回答が出されるだろう。

ところで、祖先の霊が輪廻転生して別の生命体に生まれ変わるのであれば、わが国で広く行われている先祖供養には意味がなくなる。なぜなら、供養の対象である祖先の霊は既に霊界には存在せず、現在はどこかで別の人間なり、動物なりになっているはずだからである。

ヒンドゥー教、インド仏教、神道の影響を受けた日本仏教に共通するのは、原因と結果の法則の認識であり、人間の自由意志による努力によって、悪い原因を除くことでよい結果が得られるという考え方である。これらに比べ、キリスト教の予定説は、唯一神教ならではの特殊な考え方であり、それをもとにした神義論となっている。

 

●原罪は消滅したか

 

もしイエスが救世主であり、イエスの死は原罪を贖い、それによって人間は再び神と結び付いたとすれば、その時点で人類の悩みは解決しているはずだろう。イエスの贖罪によって原罪が消滅したのであれば、女性の産みの苦しみや男性の食料を得るための労働、そして何より人間の死は解決するだろうが、それらは解決していない。このことは、イエスの贖罪によって人類の原罪は消滅していないことを示している。

ローマ・カトリック教会では、イエスによって原罪が消滅したとはせず、人間は原罪を受け継いでいるとする。イエスはその罪から救われる道を開いた。洗礼を受け、カトリック教会の指導を受けることによってのみ、原罪から救われると説く。だが、もしそれによって原罪から救われるものならば、人類の罪は赦されたことになり、罪に対する罰の死はなくなり、人類は死から解放されるはずだろう。

この点に関してどのように説明するか。ローマ・カトリック教会の説明は、概略次の通りである。人の死は仮の姿である。肉体は腐敗するが、最後の審判の時に神が完全な身体を与えてくれる。そして、無罪の判決が下った者は、神の国で永遠の生命を得る。有罪の判決が下った者は、永遠の死となる。この永遠の死がこそ本当の死であり、もはや復活はない、とする。

この説明は、人類が死から解放されたことを論証するものとなっていない。死そのものは、厳然たる事実として、すべての人間に必ず訪れる。イエスの贖罪は、その事実を変えることにはなっていない。

 

●死の克服を示すしるし

 

 人類は、長い歴史の中で、いつしか死を意識するようになった。死を恐れ、死に備え、死者を弔い、死者のために儀礼を行うようになった。死をどうとらえ、これにどう対処するかは、人間にとって重大な課題である。さまざまな民族の神話や宗教は、死の起源や死後の世界について説明を試みてきた。

キリスト教では、死を原罪に対する罰として、この世に入ってきたものととらえる。原罪によって、人間は死すべきものとなり、死によって土に還る定めを負ったと理解する。これは、ユダヤ教から継承した考え方である。また死後、遺体が腐敗するのは、原罪によるとする。そして、イエスは死を克服して復活した奇跡を現したことで、救世主と仰がれている。キリスト教では、原罪を消滅して死に打ち勝って、天国に上ることを昇天という。

キリスト教では昇天できたしるしとして、遺体が腐敗しないという現象が挙げられてきた。キリスト教において、遺体が腐敗しないことは重要な意味を持っている。『創世記』に神の言葉として「にすぎないお前はに返る。」(創世記3章19節)という言葉が書かれている。これは、アダムが原罪を犯したために人類に死がもたらされたことを告げる言葉である。死の力とは遺体を腐敗させる力だとされ、罪と腐敗を結びつける考え方が見られる。その考え方によれば、腐敗しない遺体は原罪のない身体を意味する。

510年頃コンスタンチノープルでキリストが復活するまでの3日間、墓の中で身体が腐敗したか否かをめぐる論争が起った。キリスト教の教義が確立した451年のカルケドン公会議の約半世紀後のことである。

 ユリアヌスは、原罪なくしてこの世に生まれたイエスの身体は、復活の以前も以後も不朽であり、腐敗しないと主張した。これに対し、セヴェルスは、復活前のイエスの身体は不朽ではなく、腐敗しなかったならば贖罪は無効になるだろうと反論した。前者が腐敗を全く否定したのに対し、後者はイエスの遺体は死すなわち腐敗の力を受けたが、完全な腐敗、分解には至らず、最後に死の力に打ち勝ったと主張した。ローマ・カトリック教会では、イエスの遺体は墓の中で3日間腐敗しなかったとされている。

こうした罪と遺体の腐敗を結びつける考え方は、マリアに関する論争を生んだ。1950年ピウス12世は、マリア被昇天の教義決定書を発表した。それによると、「マリアは無原罪のおんやどりという全く独自の特権によって、罪に打ち勝たれた。そのため墓の中に腐敗したまま、留まらねばならぬ法に服さなかった」とされる。つまり、マリアの遺体は、墓の中で腐敗・分解しなかった、そして神によって昇天させられたとする。

死後遺体が腐敗しないという現象は、キリスト教の歴史において、ごく少数ではあるが記録が見られる。ルルドの泉で知られる聖ベルナデットは埋葬までの4日間死後硬直なく、皮膚はバラ色で、死臭等の腐敗の兆候が見られなかったという。アッシジの聖フランシス、ローマ教皇ピオ五世も同様の例として伝えられている。

 イエズス会の神父で研究者でもあるハーバート・サーストンは、『神秘主義の身体現象』で、「神の恩寵の特別なしるし」として、次のような現象を挙げている。死後硬直が全く起らない。自然な状態で遺体が腐敗しない。少数の報告例として、死後体温がなかなか下がらないなどである。サーストンによると、1400年から1900年の間の聖者42人ののうち、22人の遺体は完全に残存し、7人は一部残存するか芳香を発するなどした。カリック教会では、こうした遺体の状態を列聖の条件としていないが、東方正教会、特にロシア正教会では列聖において極めて重要な要素とされていた。ドストエフスキ−の小説『カラマーゾフの兄弟』は、長老ゾシマの死を描く場面で、民衆が腐敗しない遺体に対する大変根強い信仰を持っていたことを記している。このことは、後にその項目に書く。

 このようにキリスト教では、遺体が腐敗しないことは、身体の上に現れた復活のしるしと考えられ、神の恩寵を受けて原罪から自由になることによって腐敗の力を免れることができるとされた。また、腐敗しないという現象以外に、死後硬直が起らない。死後体温がなかなか下がらない、芳香を発するなどの現象も報告されている。

 

●大安楽往生

 

人間が亡くなった後、遺体が腐敗しない、硬直しない、体温が下がらない等の現象は、キリスト教に限らず、他の宗教にも類例がある。そうした現象を「大安楽往生」という。大安楽往生は、人間が体験できる死の際における最高の現象であり、キリスト教、仏教、道教等の従来の宗教で救済や解脱を示す現象として位置付けられてきた。しかし、その達成は極めて困難であり、大安楽往生現象に相当するか、またはそれに近い事例は、過去の宗教ではごくまれにしか記録されていない。

仏教においては、弘法大師空海や法然の臨終相は、死後、生きているような姿だったと伝えられている。高野山中興の祖、覚鑁は、死後32時間経過しても身体はなお温かで、生きているようで善人至極の相だったと記録されている。原罪という観念のない仏教では、罪障の消滅によって心の妄執がたち切られ、硬くこわばっていた身体が柔らかくなると説いている。

道教においては、葛洪が「顔色は生きているようで、体は柔軟で尸(しかばね)を挙げて棺に入れると甚だ軽く空衣のようだったので、世の人々は彼を尸解仙と言った」と伝えられている。また『高僧伝』神異編にいう保誌は、屍体が柔軟で香りがよく、顔には悦びの色が現れていたとされている。道教では、善行によって罪、悪行の過ちを帳消しにすることで登仙することができると説いている。

キリスト教、仏教、道教は、同じ現象を異なる概念の体系で説明しようとしたものと考えられる。共通しているのは、死後、遺体が腐敗するのは、原罪・罪障・過去の悪行の結果であるとされていることである。逆に遺体が腐敗しなければ、それらを免れていることになる。だが、従来宗教では、ほとんどの人々は死後、遺体が腐敗するので、原罪かの自由、罪障の消滅、過去の悪行の帳消しができていないことを表している。死後硬直なく、体温冷めず、死臭・死斑のない「大安楽往生」の達成は極めて困難であり、過去の宗教ではごくまれにしか記録されていない。聖人・名僧といわれる者でも極くまれな現象である。また自分一人が達成できるのがよほどよいところであって、他の多数の弟子や信者までを大安楽往生させ得たという事例は、人類の歴史に全く見られない。ところが、現代の日本では、こうした極めてまれな貴重な現象を普通の人々が多数体験しているという驚異的な事実が存在する。大安楽往生は「崇高なる転生」ともいう。関心のある方は、次のサイトをご参照願いたい。

http://www.srk.info/library/tensei.html

 

解放と自由の観念

 

原罪の消滅と死の克服に関連することとして、解放と自由について、ここで述べておきたい。

近代西欧では、自由を求める思想が発達した。近代西洋文明が世界に広がったことにより、自由は現代世界における主要な理念の一つとなっている。自由は、キリスト教の「解放」の思想に根差したものである。

新約聖書では、パウロが書簡の中で自由を意味する語を用いた。パウロが自由の語を使うのは、イエスの使命は人間を罪と死と律法から「解放」することにある、という教義を説く場面である。「解放」という観念は、ユダヤ教の聖典でもある旧約聖書の「出エジプト記」による。モーゼの率いるユダヤ民族は、エジプトにおける強制労働の苦役から神ヤーウェによって救出された。この隷属からの解放の物語は、キリスト教の教義に大きな影響を与えた。 

キリスト教では、人間は、神に背き原罪を犯して、神から断絶した。だが、神は人間を愛するゆえにひとり子イエスを使わし、その犠牲によって人間の罪があがなわれ、再び神と結び付いた。神にいたる道はただ一つ、イエスによるのみである、と説く。この原罪からの「解放」が、キリスト教の教義の柱の一つとなっている。

だが、先に書いたように原罪の消滅は実現しておらず、人類は死すべきものとしての運命を背負っている。キリスト教において、死を克服した大安楽往生を達成し得た者は、ごくまれにしか存在しない。
 なお、近代西欧では、自由を求める思想・運動が起こり、自由は権利として確立されていった。詳しくは、拙稿
人権――その起源と目標第1部をご参照願いたい。

 

●天国

 

ユダヤ教は、現世志向が強く、来世についてあまり具体的に説いていない。死後の世界は、明示されていない。死の観念はあるが、現世とは別に存在する死後の世界という考え方がない。死後、別の世界に移り、その来世で報われるという考えがないのである。

ユダヤ教の聖書には、天国という明確な概念がない。天国が空間的・場所的にどこにあるかは、具体的に記されていない。ユダヤ教では、天国は「国」「領域」というよりは、「神の支配」を意味する。神が統治者としてこの地上に君臨すること、あるいは神の意思を地上に実現することが、天国にほかならない。来世の天国ではなく、地上天国である。霊的な次元ではなく、また地球外の場所でもない。

その一方、将来、メシアが出現し、最後の審判が行われ、その結果、永遠の生命を得られる者と永遠の死に置かれる者とに分けられることが強調される。それゆえ、ユダヤ教では、人は死んだ後、メシアの到来と最後の審判までの間、一種の休眠状態または停止状態に入ると理解される。メシアの到来で開かれる新しい世界も、地上に建設される神の王国であって、多くの宗教で死後の世界とされる霊界とは異なる。それゆえ、ユダヤ教の死生観にみられるのは、強い現世志向である。この世での人生を何よりも大切に考えて生き、その一回限りの人生の結果として将来、最後の審判で地上において永遠の生命を得ることを目標にするのが、ユダヤ教徒の生き方と理解される。

 これに対し、これに対しキリスト教では、死後の天国の存在が強調され、人は死んだ後、天国に入ることができるとされる。天国が空間的・場所的にどこにあるかは、具体的に記されていないが、人が死後行くことのできる実在する世界または領域と考えられている。

キリスト教では、人間は死後、神の裁きを受けて、魂はただちに天国へ行くか、地獄へ行くとする。天国については、福音書では『マタイによる福音書』のみ、「天の国」という呼称を使っている。マタイ書は「神の国」も併用している。他の三書は「天の国」ではなく「神の国」を使っている。

マタイ福音書が「天の国」を併用しているのは、ユダヤ人の慣習を重んじてそうと呼んだものである。ユダヤ教で「天国」とは、「国」や「領域」というより、神の支配を意味する。神が地上を統治し君臨する状態、または神の意志が地上に実現された状態が、天国にほかならない。それゆえ、キリスト教でいう天国は、むしろ「神の国」と呼んだ方が良い。

イエスは、次のように説いたと、『ヨハネによる福音書』に記されている。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ書11章25〜26節)と。

ここでイエスのいう死とはどういう状態か、また死んでも生きるとはどういう状態か、いくつかの解釈が可能である。妥当なのは、死後、地獄に行くのが死、天国に行くのが死後の生だろう。

イエスは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針のを通る方がまだ易しい。」(マルコ書10章25節)と説いた。これは、この世の富は天国に行く妨げになると教えである。この教えに忠実であろうとすると、清貧の生活を送らねばならない。また、徹底した来世志向の生き方をよしとすることになる。キリスト教は来世志向の宗教である。『ヨハネの手紙一』は、次のように書いている。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(ヨハネ手紙一2章15〜17節)。こうした生き方を真に実行しようとすれば、世界の終わりを信じて伝道に身を捧げるか、世を捨てて隠遁生活をするか、修道院に入って一生を修業に捧げるしかないだろう。

ところで、キリスト教の主流の教派は、三位一体説を信奉する。そうした教派では、天国に行った魂は、そこで父と子と聖霊の三位一体の神の真の姿を見るという。天国には、神に仕える天使がいるとも考えられている。それゆえ、神聖・崇高な世界が想定されている。

 これに対し、イスラーム教では、天国は緑園といわれ、緑や水の豊かな場所がイメージされている。魂だけが緑園としての天国に昇るのではない。現世の時と同じ肉体のままで、天国に行くとされる。緑園では、現世で禁じられている酒は飲みたい放題である。食物も美味で食べたい放題である。多数の美女と性交することができ、いくら交わってもその美女は処女のままだとする。キリスト教では、天国についてこうした官能的な快楽は思い描かれていない。これら二つの宗教は、ともに唯一神教でありながら、全く対照的な天国像を抱いている。

 

●地獄

 

 ユダヤ教では、天国とともに地獄もまた明確な場所の概念ではない。地獄とは、神から離反している状態と考えられる。この点は、キリスト教でも基本的に同様である。しかし、天国と同様に地獄もまた人が死後行くかもしれない実在する世界または領域と考えられている。ただし、聖書のどこにも、地獄の空間的・場所的な位置について記していない。天国と同様である。

新約聖書は、次のように地獄を描いている。「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ書3章41〜42節)。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」(同書25章41節)。「地獄ではが尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。」(マルコ書9章48〜49節)と。

 地獄における火のイメージは、ユダヤ教はもちろん、仏教にもイスラーム教にも共通している。身体が火で焼かれるというのに、蛆が出るのはおかしい感じがするが、蛆がわくということは、遺体の腐敗を示している。その腐敗する身体が火で焼かれるということだろう。

上記のように描かれるキリスト教の地獄は、神から分離した状態であり、神の恩寵から見放された状態である。キリスト教では、地獄は永遠の責め苦を受ける場所である。いったん地獄に堕ちたら、二度と帰ることはできない。地獄に堕ちるということは、絶対に許されない刑に服すことである。
 イスラーム教でも、地獄は永遠の責め苦を受ける場所である。ただし、永遠の地獄に送られるのは、イスラーム教徒以外である。アッラー以外の神を信じることは最大の罪とされ、永遠の地獄に送られる。イスラーム教徒については、現世で大きな罪を犯した者は、最後の審判を受けて地獄に落とされる。ただし、いったんは地獄に落とされるけれども、アッラー以外の神を拝まない限り、最終的にはアッラーが許して天国へ入れてくれることになっている。イスラーム教徒である限り、最後はみな天国に行く。そこで家族みなで暮らせるというわけである。これに比べ、キリスト教の刑罰は、このうえなく厳しい。イエス・キリストはすべての人を救う救済者ではなく、最後の審判で一部の者には永遠の生命を与えるが、残りの者には永遠の地獄に送る厳格な審判者である。

仏教の場合は、地獄を一定期間の贖罪の場と考えている。もっとも一番短い刑期は、1兆6200億年である。気の遠くなるような時間だが、有限であって無限ではないのが特徴である。

 

●煉獄

 

キリスト教の地獄は、永遠の責め苦を受ける場所である。だが、ローマ・カトリック教会は、中世に煉獄という場所を考え出した。煉獄の原語は、ラテン語で「プルガトリウム(purgatorium)」という。「浄化の手段」「浄化の場所」という意味である。浄罪界とも訳す。

大多数の人間は、死後ただちに天国に入れるほど完全ではない。だが、地獄に堕ちるほど極悪非道でもない。そこで、設けられたのが、煉獄である。この世において、それほど重大ではないが、小さな罪をいくつか犯し、その罪の償いを果たさないままに死んだ者の魂は、そのまま天国に入ることはできない。その罪の償いを果たさねばならない。それまでの間、霊魂が苦しみを受ける場所が、煉獄である。煉獄において、魂は業火によって罪の浄化を受ける。罪が浄化され、天国に入れるだけの完全さを備えたならば、天国に入ることができるようになるというわけである。

ローマ・カトリック教会は、煉獄を正式の教義にした。東方正教会は、煉獄における浄化いよる救いの思想を認めているが、正式の教義にまではしていない。一方、プロテスタントは、煉獄を認めていない。聖書のどこにも記述がないからである。

キリスト教の地獄は、永遠の死であるから、いわば絶対に償いに終わりのない無期懲役である。これに対し、煉獄は有期刑の償いの場所である。それゆえ、煉獄は、同じく有期刑である仏教の地獄に対比されるべきものである。

 

●死者への祈り

 

 キリスト教は、祖先崇拝・自然崇拝を否定し、自らが仰ぐ超越神以外の人間神・自然神・宇宙神をすべて偶像として排斥する。

 ローマ帝国で392年にキリスト教が国境になる前、古代ギリシャ・ローマの民は、祖先の霊魂を崇拝し、家制度をその信仰の上に築いていた。しかし、キリスト教は祖先崇拝を偶像崇拝として排斥した。

 祖先崇拝には、祖先を神または力のある霊と仰ぎ、祖先に感謝するとともに、祖先に対して子孫を加護してくれるように願うという面と、子孫が他の神や霊に祈って祖先の霊の苦しみを救うとか霊を慰める儀礼を行うという面がある。

キリスト教の教えによれば、祖先に対する加護の祈念は、偶像崇拝になるはずである。だが、ローマ・カトリック教会では、死者のために祈り、死者のためにミサを捧げる習慣がある。信者は煉獄にいる家族・親族、友人のために祈り、助けることを勧められている。ミサにも煉獄にいる霊を援ける働きがあると説いている。また亡くなった家族・親族の遺影を飾って、しばしばその人のために祈る。逆に、亡くなった家族・親族や友人の霊に支援を願う祈りも行っている。また、信者が人生の途上でさまざまな試練に遭遇するとき、神のもとに召された近親者や友人の霊が、とりなしの祈りをしてくれることを信じている。こうした実践は、わが国の神道や仏教における祖先崇拝に通じるものがある。カトリック教会と違ってプロテスタントでは、亡くなった霊に加護を祈ることはしない。煉獄の存在を認めず、亡くなった霊は神に任せ、信者が祈ることはしないという態度を取る。

人類社会の多くには、死者が霊界で救われていない場合、遺族や子孫等に頼って憑くという現象が見られる。仏教では、これを成仏できていない霊とみなし、読経をして供養を行う。新約聖書に、イエスが人々から悪霊を追い出し、悪霊が豚に移って海に飛び込むという記述がある。キリスト教では、降霊や憑霊等の霊的現象は悪霊の仕業と見られ、エクソシズム(悪魔祓い)の対象とされる。仮に祖先の霊が救いを求めて子孫に訴えてきても、これを追い払おうとするならば、霊を憤らせ、災いを招く恐れがあるだろう。

 

●最後の審判

 

キリスト教では、神の意思に反することが罪である。これはユダヤ教から継承した考え方である。ユダヤ教における罪とは、具体的には、十戒を代表とする律法に定められた命令への違反である。特に重罪とされるのが、偶像礼拝、姦淫、殺人、中傷の四つである。

ユダヤ教は、人間は罪を犯しやすい弱い存在であるとする。憐れみ深い神は、悔い改めたならば、罪人を必ず許してくれる。しかし、正義の実現を目ざす神は、各人の責任を死後にも追及する。そこで、この世の終りに、神はメシアを派遣して神の王国の建設を準備させる。その後に新しい世界が始まると、すべての死者はよみがえり、生前の行為に応じて最後の審判を受ける。その結果、罪人は永遠の滅びに落とされ、義人は永遠の生命を受ける。義人とは、罪なき人である。新しい世界は死後の来世としての天国ではなく、地上に建設される神の王国である。義人は霊界ではなく、現世において永遠の生命を与えられる。単なる心霊的存在ではなく同時に身体的存在として、地上に永遠に生きると考えられている。

キリスト教は、基本的にユダヤ教の罪と最後の審判の考え方を継承している。キリスト教でも、ユダヤ教と同じく、魂が来世に行く一方、肉体は墓の中で腐敗する。来世での死後の状態は一時的なものとされる。人間はいつか、神の恵みによって、再び肉体を与えられて復活する。復活は、深い眠りからの目覚めのようなものと考えられている。そして天国に行った者も、地獄に行った者も、世の終わりによみがえらせられ、最後の審判を受ける。その結果、はじめて永遠の生命を与えられるかどうかが決まる。個人の死の時の裁きが個人個人の私審判であるのに対し、最後の審判は世の終わりにおける人類全体の公審判である。それによって、永遠の生命を与えられる者と永遠の死に置かれる者に分けられるとする。死後は、二つの段階を持っているわけである。

ユダヤ教との最大の違いは、世の終わりに来る救世主はイエスであり、再臨するイエスが最後の審判を行うとする点である。イエス・キリストによって救いに選ばれた者は、あらためて永遠の生命を与えられる。選ばれなかった者は、永遠の死に置かれる。死後私審判で天国に行った者が必ずしも、最後の審判で永遠の生命を与えられるとは限らない。永遠の死に置かれる可能性はある。

紀元30年ごろにイエスが起こした奇跡は、すでに時が来て「神の国」が到来したことのしるしとされる。しかし、神の国はまだ完全ではない。イエスが開いた教会の完成によって、神の国が完成する。その時は、世の終わりにおいてである。この神の国の完成が天国の実現とされる。それゆえ、完成された神の国は、地上に実現する天国すなわち地上天国である。

個々の魂が死後ただちに行く霊界の天国は一時的なものであり、世の終わりに肉体を持って復活し、永遠の生命を与えられた者が暮らす地上天国こそ永遠だということになる。最終目標は霊界の天国ではなく、地上の天国である。死後行く霊界の天国よりも、将来の地上天国の方が理想的な場所とされている。

 こうした考え方は、救済の時を現在ではなく、将来に置くものである。死ねば天国に行けると説く一方、世の終わりに最後の審判があり、永遠の生命を得るか、永遠の死に置かれるかが決まるとし、真の救済を未来に置いている。これは、現世においては救われないが、来世において、または将来においては救われるという教えである。

 

●イエスは再臨するか

 

イエスは、人々に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ書1章15節)と説き、世の終わり、最後の審判の時が迫っているので、悔い改めるよう勧めた。だが、イエスはわずか2年ほどの伝道活動の後に、磔刑に処された。彼の復活を信じる使徒たちは、世の終わりにイエス・キリストが再び地上に来て、神とともに全人類を裁く最後の審判を行うという教えを広げた。

世の終わりには、前兆が現れる。戦争や飢饉、地震、迫害などであり、偽キリスト、偽預言者が横行して人々を惑わせるという。そのあとで本物のキリストが雲に乗って来臨し、彼を信じてその教えを実践した者を救い、そうしなかった者を滅ぼすという。福音書は、イエスが世の終わるに再び自分が来ると言ったと伝えている。肉体を持ったイエスが救世主として帰ってくるというのである。

例えば、『マタイによる福音書』には、次のように記されている。

「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ書24章30節)。

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ書24章36節〜39節)

 イエスの教えに目覚めたパウロは、紀元後1世紀半ば、イエス・キリストが間もなく再臨し、最後の審判が行われ、神の国が実現すると信じた。極めて切迫した将来の認識である。一刻も早く悔い改めなければならない。悔い改める前に最後の審判が行われたら、取り返しがつかない。即刻悔い改め、他人も悔い改めさせなければならない。そういう切迫感、使命感がパウロを突き動かしていたと思われる。パウロは火事場のたとえを用いる。今は火事場にあるようなものである。火事場では必死になって、逃げ道を探さねばならない。他のことをしたり、考えたりしている場合ではない。このような非常事態の認識に立てば、現世的な欲望は妨げでしかない。こうした切迫感、使命感がキリスト教的な禁欲のもとにある。

 パウロは、熱心にキリスト教の伝道をしたが、迫害に遭って紀元62〜64年の間に殉教した。彼の時代には、「世の終わり」は到来しなかった。以後、何度も「世の終わり」の到来が説かれつつ、2000年近くの時間が過ぎている。世代にすれば、60世代以上の人間が生き、死んで来た。第1次世界大戦においては、人類史上初めての世界規模の戦争がヨーロッパを中心に4年も続いた。キリスト教徒同士が数百万人も殺し合った。イエス・キリストの再臨を熱望するキリスト教徒もいたが、イエスは現れなかった。「神の沈黙」は、キリスト教徒に失望や疑念をもたらした。さらに、再びヨーロッパから第2次世界大戦が起こった。大戦の最後には、核爆弾が使用された。だが、イエスは再臨していない。

キリスト教は、今日もキリストの再臨と最後の審判の教えを説いている。そして、最後の審判で救われるための条件は、イエス・キリストを信じることであり、イエス・キリストを信じさえすれば救われると説いている。

イエスが実際に何を語ったかは、確かめることができない。福音書は弟子たちが書いた記録であって、イエスが自ら書いたものではない。当然、録音も録画もない。福音書がイエスの言行を正確に記録しているかどうかを確かめることはできない。

キリスト教は、それを信じない者にとっては、荒唐無稽なことを説く宗教である。キリスト教の荒唐無稽な教義の中でも、イエス自身の再臨はひときわ信じがたい教えである。いったいイエスは、キリスト教徒の多くが信じているように、最後の審判を行うために再臨するのか。それともイエスの再臨は、使徒や信徒が作り上げた荒唐無稽な話の一環なのか。21世紀の人類は、その答えを待っている。

私見によれば、イエスの出現の時点では、まだ時が来ていなかったので、彼の犠牲によって神と人間が結びついたとはいえない。ただ将来、救われる時が来ると予言したのみである。それが、長い歴史の果てに、時来たって、ユダヤ=キリスト教では原罪ととらえられた悪因縁を消滅することが、初めて可能になっている。その証は産みの苦しみを伴う出産ではなく、自然分娩による無痛安産が実現していること。また、死後硬直なく、体温冷めず、死臭・死斑のない大安楽往生が実現していることなどによって、確認することができる。

それゆえ、イエスが語ったことの真意は、イエス自身ではない真の救世主が将来現れることを予言したものだったと考えることができる。そのように考える方が、合理的である。またキリスト教徒以外にも広く受け入れられ、人類に希望を与えるだろう。

 

●終末論と直線的・一回的な時間論

 

 キリスト教の終末論は、直線的・一回的な時間論に基づくものである。その点について書いておきたい。

宗教は、それぞれ人間観・実在観と結びついた世界観を持つ。世界観を構成する要素の一つに、時間論がある。時間は、空間と結びつけられて、時空または時空間と呼ばれる。また時間は、生命と切り離すことができず、生きられる時間ととらえられる。前者は宗教の世界観、後者は宗教の人間観に関係する。人間が生活する時空間において、人類にとって生きられる時間を、宗教はどうとらえているか。また、その中でキリスト教の特徴は何か。

古代に現れた宗教には、神話がもとにある。宗教の時間論もまた神話の世界観に根差している。神話の物語は、世界と人間の始まりの記憶を呼び覚ます。神話に基づく祭儀は、始源への回帰を象徴的に体験するものとなっている。宗教学者ミルチャ・エリアーデは、それを「永劫回帰の神話」と呼んだ。人間は宇宙の本源から離れ、非本来的な状態にある。すべてのものは差別化されている。人間は時間的・空間的に限定されている。こうした日常の世界を否定し、始源のカオス、無差別、未分化の状態に戻ろうとする。このために行われる行為が、祭儀である。祭儀を通じて、人間は始源への回帰を象徴的に体験する。その体験を経て、日常の世界を意味づけ直し、人生を意味づけ直す。

 始源への回帰は、死と復活の体験でもある。祭儀を通じて、集団が死に、始源に回帰し、新たな生命を受けて、再生する。世界もまたいったん終焉し、新たな意味を持って再現する。

こうした死と再生が起こる特別の場所が、中心である。中心は、円の中心、4またはその倍数の要素が交差する点である。始源への回帰とは、中心への回帰であり、中心において死に復活するものである。この点については、十字架の項目で詳しく述べる。

古代の世界で、神話に基づいて様々な宗教が発達した。それらの宗教の時間論には、大きく分けると、円環的かつ反復的な時間論と直線的かつ一回的な時間論がある。円環的かつ反復的な時間論は、神話に始まり、ヒンドゥー教、仏教、神道、儒教、道教等に見られる。直線的かつ一回的な時間論は、ユダヤ教に始まり、キリスト教、イスラーム教等に見られる。

 円環的かつ反復的な時間論を持つ宗教のうち、ヒンドゥー教、仏教は、魂の輪廻転生の思想を持つ。生は一回のみのものではなく、何度も繰り返される。また人間的な生だけでなく、動植物等の生を生きることもある。ヒンドゥー教では、宇宙は創造と維持と破壊を繰り返す。宇宙は一回だけのものではない。生命あるものは、死と再生を限りなく繰り返す。その輪廻転生からの脱却を主題とする。時間からの脱却であり、永遠または静止への移行である。仏教は基本的にこの思想を受け継いでおり、それを理論的に発展させた。解脱、涅槃がその目標である。こうした宗教では、現世は脱却すべき場所であり、脱却のための修行の場所となる。

 ギリシャの哲学には、神話的世界観とインド的な宗教思想とに共通する点がある。代表的哲学者であるプラトンは、人間を死すべきものととらえ、その生命的な時間から超出して、永遠に至ることを目標とした。プラトンは、インド思想に通じる輪廻転生を教義とするピタゴラス教団の影響を受けていた。時間的な現実世界のもとに、非時間的なイデアの世界があると仮定し、真理を究めることで、イデア界に至ろうとした。プラトンの哲学は、キリスト教やイスラーム教に影響を与え、それらの教義の整備に活用された。キリスト教やイスラーム教は、プラトンの哲学から輪廻転生説を除き、古代ギリシャの多神教的な背景を捨てて、一神教の論理に取り込んだ。

古代の世界で、特異な時間論を説いたのが、ユダヤ教である。その時間論が直線的かつ一回的な時間論である。ユダヤ教は、直線的に時間が進行する歴史の中で、世の終わりを想定し、終末における救済を求める。ここに、歴史に意味を見出し、将来に目標を置く宗教が出現した。キリスト教は、そうしたユダヤ教の直線的・一回的かつ終末論的な時間論を継承している。イスラーム教も同様である。

人類の歴史において、直線的かつ一回的な時間論の登場は、画期的なことだった。この世界には終わりがあるという考え方は、インドにもギリシャ等にもある。ユダヤ教の終末論が独特なのは、世の終わりに救世主が出現し、最後の審判が行われ、救われて永遠の生命を与えられる者と、永遠の死に置かれる者とに分けられるとしたことである。この思想によって、前進的・進行的な歴史に意味がもたらされた。キリスト教は、この救世主がイエスだとし、最後の審判が近づいていると説く。その教えによって、キリスト教は、時間の進行を肯定し、それにともなう文化の進歩を肯定し、向かっていく先に救済の時が来るというビジョンを与えた。最後の審判の後に、地上に「神の国」が実現するとする。地上天国の実現である。こうした思想によって、人類の歴史に意味を見出し、救世主の到来を現実的な将来に起ることとして予言したところに、キリスト教の世界史的な重要性がある。

近代西洋文明が世界に広がるとともに、キリスト教が初大陸に伝道された。キリスト教は、神話的世界観や円環的かつ反復的な時間論に基づく世界観を持って生きる人々に、直線的かつ一回的な時間論に基づく世界観を浸透させてきた。歴史の肯定は、科学による進歩を無批判に信奉する考えを生み出し、地球の自然を破壊・汚染する結果を生んでいる。

キリスト教では、終末においてキリスト教が世界に広まり、教会が完成することを終末的完成という。キリスト教の人類に対する責任は、キリスト教が終末的完成に至り、自らこの世界史を終結させるか、それともキリスト教を超えたものに融合して発展的に解消し、それによって新しい世界が始まることに協力するか。そのどちらかにある。――終末的完成か、発展的解消か。それが、21世紀のキリスト教の最大のテーマであると私は考えている。それが本稿の題名の意味するところである。

 

●イエスの母マリア

 

キリスト教の信仰の対象は、イエス・キリストだが、イエスに次いで重要な存在であるのが、イエスの母マリアである。

福音書は、イエスの母マリアについて記している。『ルカによる福音書』は、次のように書いている。天使はマリアの問いに答えて言った。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ書1章35節)と。ここには、三位一体説における第3の位格である聖霊の働きが書かれ、マリアは聖霊によって身ごもり、神の子イエスを産んだとされている。

初期のキリスト教会では、マリアを崇敬することはなかった。しかし、次第にマリアを「聖母」として崇敬する傾向が出てきて、431年のエフェソス公会議において、マリアは「神の母(テオトコス)」であることが宣言された。これによって、ローマ・カトリック教会では、マリア崇敬が公式に教義の一つとなった。マリア崇敬は、ローマ帝国において絶大な信仰を集めていたエジプトの大地母神イシスを、キリスト教が取り込んだものだと考えられる。

その後、マリアはイエスとほとんど同等に扱われ、マリアによっても救われる、恵みを与えられるとする傾向が現れた。しかし、現在は、救うのはイエスのみであり、マリアはイエスへの取り次ぎを願う対象であるとする。

今日、ローマ・カトリック教会では、マリアに次のような四つの特質を認めている。

 

(1)無原罪懐胎:マリアはその母のアンナの胎内(註 イエスの祖母)に宿ったときから原罪を免れていたとする。1854年に無原罪の御宿り(註 イエスの受胎)が教義とされた。

(2)無罪性及び童貞性:イエスを産む前も、産んだ後も処女であるとする。

(3)被昇天: マリアは無原罪ゆえ、その身体は原罪の結果である死の腐敗を免れている。したがって、マリアの身体は霊魂とともに被昇天した。イエスは自らの力で死に打ち勝って昇天した。マリアは神によって昇天させられたとする。マリアの被昇天は、1950年11月1日、教皇ピウス12世によって宣言された。(註 英語ではイエスの昇天はthe Ascension、マリアの被昇天はthe Assumptionと区別する)

(4)聖寵の仲介者: マリアは「神の母」であると同時に全信徒の霊的な母であり、天国においてすべての信徒のためにキリストへのとりなしを果たしているとされる。

 

ローマ・カトリック教会では、マリアへの崇敬は、礼拝の対象としての崇敬でないとし、イエスや聖人と区別して「特別崇敬」という。ラテン・アメリカでは、先住民の女神信仰とマリア崇敬の重合を容認したことで、カトリックは深く浸透し得た。

ルターはマリア崇敬の弊害を戒めたが、マリア崇敬を根本的に否定してはいない。カルヴァンは、あらゆるマリア崇敬を偶像崇拝として排斥している。聖書にはマリア崇敬はないというのがその理由である。

東方正教会では、マリア崇敬を肯定しているが、「無原罪懐胎」と「被昇天」は否定している。日本の正教会では、マリアを聖母ではなく、生神女(しょうじんじょ)と呼ぶ。「神を産んだ女」の意味である。東方正教会の教義では、人間が生の根源である生ける神から離れたことによって、「死が現世をおおうようになった。人間は、もはや神へと高まることはできない。そのため、神は自ら人間のもとに降りてこられ、人間になられたとする。オリヴィエ・クレマンによると、ここで、一人の女性が人間全体を代表して、神の受肉を受け入れた。それがイエスの母となったマリアである。東方正教会の考え方では、神の構想は穢れを知らぬマリアの同意と信仰があってこそ、はじめて実現した。マリアは罪のけがれなく生まれてきたわけではなく、すべての人と同じように、アダムの子孫には避けられない死の宿命を担っていた、と東方正教会では考えている。

キリスト教は、男性原理の宗教である。その主流は唯一の神を父と子と聖霊の三位一体の神とするが、その神は父であって、母は存在しない。古代の多くの民族では、天空父神と大地母神、つまり天の父と地の母が一対になっているが、キリスト教は後者を否定した形である。

キリスト教において、子なる神は男子であり、またひとり子である。イエスは、男性一人でキリスト教を始めた。ここには女性原理、母なるものが欠けている。男性的・父性的なものと女性的・母性的なものが、アンバランスである。そこで、信仰における女性原理、母なるものを求める心理が働くようになった。こうした動きは、仏教にも見られる。釈迦は仏教を一人で始めた。男性原理だけである。そこで、後から女性原理が補われ、観世音菩薩を女性、慈母ととらえる心理が現れたと考えられる。

男性原理と女性原理のバランスを重んじるのは、シナの思想である。シナの思想では、物事にはすべて陰陽があると考える。陰は女性原理、陽は男性原理を象徴する。宇宙の理法・法則・本体である道が働くときには、陰と陽の両面を現す。『易経』繋辞伝には、「易有太極、是生両儀」、「一陰一陽之謂道」とある。太極とは、天地創造、混沌としている元気のことで、至高、至極、絶対、唯一の意味である。太極が両極である陰陽を生み、一陰一陽、これを道という。『太極図説』には「無極而太極、太極動而生陽、動極而静、静而生陰」とあり、無極から太極となり、太極が動き陽を生じ、動き極まり静となり、静より陰を生じるとしている。朱子学では、道を太極ととらえ、万物に内在する個別の理を統べる大いなる理とする。本体である道または太極が、現象として現れるときは、必ず陰陽の両極または両性を表わすととらえられる。

人間には、男女両性がある。深層心理学者のカール・グスタフ・ユングは、心の深層から現れる元型的イメージの中に、男性的なアニムスと女性的なアニマがあるとした。それらの調和的・相補的な向上が心の成長・向上につながっている。

アニムスは女性の無意識人格の男性的な側面、アニマは男性の無意識人格の女性的な側面を意味する。男性性(陽性)と女性性(陰性)の両面を象徴するイメージと考えられる。ユングは、アニマには四つの発達段階があるとし、肉体的な段階、ロマンティックな段階、霊的な段階、叡知的な段階とする。 聖母マリアは霊的な段階のイメージであり、母の愛を持ちながら処女の清らかさを併せ持つ。その上の叡智的な段階には、観世音菩薩などの中性的なイメージが挙げられる。

ユングは、キリスト教におけるマリア崇敬に注目した。男性原理が支配するキリスト教の欠陥を認識し、マリア崇敬によって、「三位一体」が「四位一体」に修正されたと理解した。男性的なものと女性的なもののバランスをとろうという深層心理の働きと理解される。

こうしたシナ思想やユング心理学から見るとき、キリスト教でマリア崇敬が現れて、公式に認められ、さらにマリアの位置づけが高められてきたのは、ものの道理と人間の心理にかなっている。仏教における観世音菩薩も同様である。最初から、男女一対の指導者によって始められた宗教があるとすれば、ものの道理と人間の心理にかなった宗教ということができる。

 

●無差別的な道徳

 

キリスト教の道徳は、イエスの教えに基づくものである。使徒や弟子たちが伝道したギリシャ・ローマ文明は、多神教の社会だった。ギリシャ・ローマ文明では哲学が発達し、徳に関する考察がされていた。ギリシャ・ローマ思想では、知恵、正義、勇気、節制の四つが枢要な徳とされた。その思想を取り込んだキリスト教は、これらの徳の上に、信仰、希望、愛の三つを加えた。そして、それによってはじめて真実の徳が成立する、と説く。キリスト教は、ギリシャ・ローマの賢者や哲学者が知ることの出来なかった福音を伝える。それを受け入れ、それに従うならば、救いを得られ、神の国に入られる。この栄光に達するためには、信仰、希望、愛による魂の浄化と向上が必要であるというのが、その理由である。

イエスは「神に対する愛」と「隣人に対する愛」を基本の掟とし、その実践を説いた。神への愛は、宗教的な実践である。隣人への愛は、宗教的な教えに基づく道徳的な実践である。後者の実践について、イエスは、弟子たちに「山上の教訓」を説いた。その中で、イエスは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ書7章12節)と説いている。この教えを、キリスト教では「金の道徳律」という。「金の道徳律」は、積極的な行為を勧めるものだが、道徳律には、儒教の開祖・孔子が説いた「己れの欲せざる所、人に施すこと勿れ」(『論語』)という消極的な抑制を勧めるものもある。キリスト教では、これを「銀の道徳律」という。キリスト教では、これらの「金の道徳律」と「銀の道徳律」をともに実践することを説いている。

 道徳には、差別的な道徳と無差別的な道徳がある。道徳的行為の対象による分け方である。差別的道徳とは、血縁・地縁・社縁等の相手との関係によって、義務の程度が異なるとするものである。関係の近い/遠い、濃い/薄いに応じて、段階的に程度を分ける。無差別的道徳とは、相手との関係に関わらず、人間として為すべき義務があるとするものである。キリスト教の道徳は、一般的に無差別的な道徳と考えられている。

ユダヤ教における隣人愛は、同じ宗教的・民族的共同体に所属する者への愛である。しかし、イエスは、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ書5章43〜44節)と説き、あらゆる人間への無差別的な愛を説いた。この極限的なあり方が、見ず知らずの他人への自己犠牲的な救援行為である。それが道徳的行為の理想目標とされる。だが、差別的道徳の側から見ると、親や妻、子、祖先等を軽視して、それらより関係が遠く薄いか、またはまったく無関係な者に行う自己犠牲的な行為は、本末転倒となる。年老いた親の面倒を見ずに、外国で人道主義的活動を行っているようなあり方は、人倫に悖る行為となる。

 シナ文明では、孔子が仁の徳を説いた。仁は、礼に基づく自己抑制と他者への思いやりであり、忠と恕の両面を持つ。儒教は、孔子の教えを継承し、己を修めて徳を身につけ、その徳をもって国を治める「修己治人の道」を説いた。その実践によって身につけるべき徳は、智・勇・仁の三徳、仁・義・礼・智・信の五常、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五倫等とされた。子の親に対する愛である孝の実践が、仁を実現する第1段階とする。身近なものへの愛から出発して,その愛の及ぶ範囲を順次拡大していく考え方である。

これに対し、墨家は、孔子による仁愛は、家族や長たる者のみを強調する差別的な愛(別愛)、限定的な愛(偏愛)であるとして批判した。天が万物を公平無私に愛するように、人もまた自分の国・家・身を愛すると同様に、他人の国・家・身を愛するならば、この世は平和になるとして、兼愛を説いた。兼愛は自他・親疎の区別なく、人々を全く同じように愛する無差別愛である。キリスト教に近い考え方である。儒教の孟子は、墨家の説は君父を無視するものとして批判した。シナをはじめ日本を含む東アジアでは、家族的生命に基づく道徳観が強く、墨家の思想が広まることはなかった。

差別的な愛は、人類愛的な同胞愛を否定するものではない。儒教の経典である孝経には、「博愛」の語がある。博愛は「広く平等に愛すること」をいう。わが国の教育勅語は、博愛を徳目の一つとしている。戦前のわが国で教育と道徳の指針となっていた教育勅語は、父母への孝、夫婦の和、兄弟の友という家族愛に始まり、朋友の信を説いて、「博愛衆に及ぼし」と続く。戦前の尋常小学校の「修身」の教科書には、「博愛」という表題がつく単元が3種類あった。「博愛」は、わが国の国民だけでなく、他国の国民にも及ぼすべきものということが、幼い子どもたちにしっかり教育されていた。国民には明治天皇の一視同仁、四海同胞の精神が国民によく浸透していた。教育勅語にみられるのは、家族愛、祖国愛から人類愛への段階的に愛の対象を拡大していく考え方である。キリスト教の無差別的な愛の思想が、理想主義的な傾向が強いのに対し、現実主義的な特徴を持つ。

 

●神秘主義

 

宗教学者は、宗教を構成する要素として、教義・儀礼・教団・宗教体験を挙げる。教義・儀礼・教団の三つの要素は、人間における内的な宗教体験という第4の要素を源泉とし、そこから発展したものである。ここで宗教体験に関することを、この教義の項目に書いておきたい。宗教体験は教義と深く関係するからである。

 宗教体験には、体験をする主体、感得される対象、体験を通じた人格変換の意味という三つの要素がある。感得される対象は、理性的な理解が可能とは限らない。究極的な実在や超自然的な力は、人智による理解を超えている。主体は、人格の全体をもって対象を感得する。その体験の結果、体験者の人格になんらかの変化が起こる。新しい自己にめざめるとか、人格が成長・成熟するというような人格変換である。その過程で、通常の意識では感知できないものを感じ取ることがある。アブラハム・マズローのいう「至高体験」(peak experience)や、局所的な身体を超えた意識の広がりを体験することもある。それゆえ、宗教体験には、日常的な体験とは異なる何らかの神秘的な側面がある。神秘とは、通常の感覚、普通の認識を超えた事柄である。言葉によって合理的に表現・説明できない性質・状態である。

宗教の信仰活動の中で、特に強烈な神秘体験を重視し、それを中心として成立する宗教現象やそれを積極的に求める思想・活動を、神秘主義(ミスティシズム)と呼ぶ。神秘体験の後にその体験者が自分の体験を解釈して表現したものが、神秘思想である。「光り輝く闇」「沈黙の声」など比喩や逆説や象徴による表現が多く使われる。通常の言語表現では表現できないものを示唆するものである。

体験に基づく神秘主義を全く否定するならば、その宗教は形式化・形骸化し、精神・生命を失う。一方、理性に基づく合理主義を全く否定するならば、その宗教は迷信と妄想に陥り、社会に混乱を生み出す。

 キリスト教にも、神秘主義がある。神との合一や、自分がキリストの花嫁となって合体するといった体験が典型的である。その根源は、パウロの言葉にある。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(『ガラテヤの信徒への手紙』2章19〜20節)。こうした言葉は、神であるキリストと人間であるパウロが合一するという心境を語るものだろう。

キリスト教神秘主義の思想・活動は、熱烈な祈りや厳しい修行などによって、こうした心境への到達を目指す。しかし、キリスト教は、イエス・キリストという神と人間を取り結ぶ仲介者を崇拝することで成り立つ宗教である。イエス・キリストを通じてのみ、人間は、原罪と自罪を許され、神と結びつくことができるとする。それゆえ、神秘主義者が、イエスを介さずに神と直接合一することを求めるならば、イエス・キリストの存在が無意味になってしまう。

 キリスト教の神秘主義は、修道院を中心に実践されてきた。修道院は東方正教会で発達し、西方にも広がった。東方正教会では、宗教体験を重視するので、その教義は、神秘主義と親和的である。これに対し、ローマ・カトリック教会では、公認の教義である神学の体系をはみ出す神秘思想を厳しく取り締まった。そのため、神秘思想は、西洋文明の表層ではなく、深層を流れる隠れた伝統となった。13世紀後半から14世紀初期のドミニコ会士であるマイスター・エックハルトは、神との神秘的合一を果たすには神の想念を離れるべきとし、神性の無を説いた。異端告発を受け、死後に異端宣告が下され、著書の発行・配布が禁止された。宗教改革後のドイツでは、17世紀前半のヤーコブ・ベーメが、靴屋だったが啓示を受ける体験をした後、聖書・カバラー・錬金術等を独学し、象徴的な表現で独自の神秘思想を説いた。プロテスタントの信仰復興運動である敬虔主義やロマン主義、シェリング、ヘーゲルなどに影響を与えた。

カバラーは、ユダヤ教のカバラーという神秘主義思想の文献である。カバラー神秘主義は、ユダヤ教の伝統に基づく創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。終末の救済の秘儀にあずかるために、律法を順守することを説き、また神から律法の真意を学ぶことを目的とした。それゆえ、正統的なユダヤ教から外れるものではないと見られている。西方キリスト教社会では、深層の潮流に隠然とした影響を与えた。

他の宗教では、イスラーム教には、スーフィズムと称されるイスラーム神秘主義がある。哲学の方法を取り入れた神学と、神秘体験を重視する神秘主義の間に隔壁がなく、神学が神秘主義を考慮したり、神秘主義が神学を摂取したりすることが、自由に行われた。

ヒンドゥー教では、ウパニシャッド哲学で、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と人格的な自己の原理であるアートマン(我)が同一無差別であると説かれる。そして、梵我一如の体得が信仰の目標とされる。瞑想やヨーガなどを実践して、その体得を目指す。この場合、イエス・キリストのような仲介者は必要ない。ヒンドゥー教から出た仏教では、禅定(ディヤーナ)を実践して解脱を目指す。仏教は本来、「神を立てない宗教」であり、法(ダルマ)の真理を理解・体得するために修行する。仏陀は、真理に目覚めた人、悟りに達した人を意味する。釈迦は、イエス・キリストのような仲介者ではなく、修行者の目標である。イエス・キリストは唯一人の特別の存在だが、仏陀は誰もが成り得る。釈迦牟尼仏陀は、人類史上初めての仏陀でも、最後の仏陀でもないとされる。

 

●自然法の教義とそれへの反論

 

教義の項目の最後に、近代西洋文明が世界化したことで、キリスト教に基づく近代西洋の思想が世界的な影響を与えていることについて、自然法と科学の2点に関して書きたい。

西方キリスト教は、ギリシャ・ローマ思想の自然法の考え方を取り入れ、独自の考察を行った。自然法は、人間がつくった人定法とは異なり、時と所を超越した普遍的な法を意味する。自然法の概念は、古代ギリシャのポリスの枠組みを越えたコスモポリタン(世界市民)の思想に始まる。

 古代ギリシャ人は、人間が動物と区別されるのは、言葉を持つことによると考えた。言葉に当たるギリシャ語はロゴス(logos)であり、ロゴスは理性・理法をも意味した。ギリシャ語には、理性を意味するヌース(nous)という別の言葉もある。そして、人間は理性の働きによって、自然法を理解することができるとされた。
 ギリシャの異邦人ゼノンを始祖とし、ローマではキケロらによって発展されたストア派は、人間の意志を超越した宇宙の法則を意味するものとし、宇宙と人間をともに貫く自然法に従って生きる哲学を説いた。

キリスト教は、教義を体系化するために、プラトンやアリストテレス、ストア派の哲学を取り入れた。自然法は、それによって理論化されたものである。だが、キリスト教では、神は言葉によって天地を創造したとし、自然は神の被造物であり、神の支配下にあると考える。また人間は神の似像として造られ、知恵を与えられているとする。中世西欧では、こうした教義のもとに、自然法は神の意思による宇宙と社会の秩序とされた。自然法は、神が定めた宇宙の法則であるとともに、神が人間に与えた道徳の原理を意味する。わが国では「法」と訳すので、後者の原理でもあることが、理解しにくい。法というより掟。法と道徳が分離する前の宗教的な掟と考えたほうがよいだろう。
 中世西欧では、教父アウグスティヌスが5世紀に『神の国』にて、「神の国には完全無欠な神の永遠法が支配するが、地の国には罪ある人間の不完全な人定法しかありえない。しかし愛の神は、人間に理性の能力を授け永遠法の一部を認識して人定法の模範とさせるようにした。これが自然法である」と書いた。またトマス・アクィナスは、13世紀に『神学大全』にて、聖書が啓示し教皇が命ずる法を神法とし、自然法の上に置いた。人間は神の叡智を理性として分有しており、自然法を理解できるが、人間には神の栄光に浴すには決定的な限界があり、これを超えられるのは信仰によってのみであるとした。

トマスの自然法論には、自然法則(lex naturalis)と自然的正(ius naturale)という二つの領域があった。前者は、神の根本法則である永遠法の人間理性における分有であり、人間の道徳の原理を含む概念である。後者は、事物の本性に基づく正しい状態・事柄である。トマスにおいて、自然法則は、人間の事物・生物・理性という三相に基づく本性の傾向、すなわち自己保存、種の保存、神の認識と共生の傾向から導かれ、モーセの十戒に集約される。法的な正義は「共通善」(bonum commune)を基準とした。古代ギリシャでは、プラトン、アリストテレスが公共善を正義としたが、共通善はその公共善を継承したもので、神、教会、共同体への義務が強調された。トマスの思想はトミズムと呼ばれ、21世紀の今日でも西方キリスト教の文化圏では影響力を持っている。

中世のヨーロッパは、世界的に見れば後進地帯だった。中世の世界において、先進的だったのはイスラーム文明とシナ文明であり、それぞれ独自の科学を発達させていた。イスラーム教もまたキリスト教と同じくユダヤ教の天地・人間・万物の創造説を継承しているが、自然の科学的研究を妨げることはなかった。『ハディース』は「男女を問わず知識を求めることは信者の義務である」というムハンマドの言葉を伝えている。信徒は常に自らの知識を増やし、その質を高めるために、知識の獲得に励むべきとされる。その際、自然の科学的研究は、決して宗教の妨げとはならないのである。イスラーム文明は、9世紀ころから17世紀ころまで、科学的研究において世界の最先端に立っていた。ヨーロッパ文明は、十字軍によって先進的なイスラーム文明に触れ、「12世紀ルネッサンス」や14世紀以降のルネッサンスを通じて、イスラーム文明の科学を摂取した。それが、西欧近代科学の興隆の土台となった。

 中世西欧では、カトリック教会の権威によって、人定法、自然法の上にある神の永遠法や神法の解釈は教会に委ねられていた。教会が説く世界観は、天地・人間・万物の創造説に基づくものである。聖書は、神が6日間で天地を創造し、土くれから人間を創造し、またすべての動植物の種を創造したとする。また、天動説の宇宙観に立つ。コペルニクスが1543年に『天球の回転について』を出版して地動説を説くと、ローマ・カトリック教会は、地動説を厳しく弾圧した。ジョルダーノ・ブルーノは異端尋問にかけられ、火刑に処せられた。ガリレオ・ガリレイは宗教裁判で地動説を捨てることを誓わされた。だが、科学的観測と数理的な計算は地動説の正しさを裏付け、天動説から地動説へのコペルニクス的転換が起った。それによって、教会の権威は揺らぎ出した。

また、ルターやカルヴァンらは、16世紀の前半に宗教改革を起こし、西方キリスト教の内部で対立・分裂が生じた。対立・分裂は拡大し、1616年から新教・旧教に分かれた勢力が激突するドイツ30年戦争が繰り広げられた。その戦争の最中、フーゴー・グロティウスは、1625年に『戦争と平和の法』を刊行し、自然法を「正しい理性の命令」と定義した。自然法は神の意思に基づくものだが、たとえ神が存在しないと仮定しても妥当するし、その定めは神さえ変えることができない不変なものであると主張した。ルターやカルヴァンは、信仰のあり方について教会の権威に抗議したが、グロティウスは信仰より理性を重視する自然法論を説くことで、教会の権威を相対化したのである。これは、近代西欧的理性の発達において画期的な事柄だった。

グロティウスに続いて、ホッブスは、独自の自然法論を展開した。ホッブスの思想は、自然法論におけるコペルニクス的転回といわれる。トマスの自然法論における「自然的正」は、「自然法則」に基づく事物の本性に基づく正しい状態・事柄だが、ホッブスは著書『リヴァイアサン』(1651年)で「自然的正」を「自然権」だとし、「各人の自由」だと主張した。ホッブスは、人間は自然状態において、生まれながらに自然法によって認められる永久かつ絶対的な権利、自然権を持つとした。そして、人間は自然権によって契約を結び、国家を設立したと説いた。社会契約論の始めである。ホッブスを受けたロックは、独自の論理で社会契約説を発展させて人民の抵抗権・革命権を認め、イギリス市民革命の理論を提供した。また、アメリカ独立革命やフランス市民革命に強い影響を与えた。

こうしてローマ・カトリック教会の自然法に関する教義への反論から、近代的な政治的・社会的な変動が起った。この変動には、近代西欧科学の発達が深く関係している。その点については、項目をあらめて書く。

 

●近代西欧科学とキリスト教

 

天動説から地動説への転換によって、西方キリスト教の教会の権威は揺らいだ。近代西欧科学は発達を続け、思想や社会に大きな変化をもたらした。

16世紀後半、フランシス・ベーコンが、科学技術の発達によって、人間は宇宙のすべてを知り、自然を支配することが可能だという考えを表した。この科学万能思想は、「科学革命の世紀」といわれる17世紀を通じて広がった。デカルトの物心二元論・要素還元主義、ニュートンの機械論的自然観等が打ち出され、様々な分野で自然の研究が進み、実験と観察、数理的な計算にもとづく近代西欧科学的な世界観が形成された。その世界観は、合理主義を発展させた。合理主義とは、一般に理性を重んじ、思想や生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする態度をいう。こうした態度が実験・観察・計算によって裏づけられたものが、科学的合理主義である。

西欧では17世紀後半から、こうした科学的合理主義を基礎とする啓蒙思想(The philosophy of the Enlightenment)が出現した。啓蒙思想は、名誉革命からフランス革命にかけての約100年間、西欧で広く影響力を持った。啓蒙(enlightenment)は、啓示の光に対する理性の光、あるいはその光による闇の追放を意味する。
 啓蒙主義(illuminism)は、自然科学の発達を背景に、人間理性を尊重し、封建的な制度や宗教的な権威を批判し、合理的思惟によって社会の変革をめざした思想・運動の総称である。17世紀後半のイギリスで始まり、18世紀にはフランス、アメリカ、ドイツに広まって、宗教思想、認識論、社会思想、経済思想、文学等の多様な領域で展開された。

啓蒙主義は、自由を要求する。とりわけ宗教に関わる事柄において、自らの理性を公的に行使する自由を要求した。啓蒙思想における宗教思想で代表的なものが、理神論である。理神論は、deismの訳である。キリスト教の神を世界の創造者、合理的な支配者として認めるが、創造された後では、世界は自然法則に従って運動し、神の干渉を必要としないとし、賞罰を与えたり、啓示・奇跡を行ったりするような神の観念には反対する宗教思想である。近代科学が発達し、キリスト教の権威が低下する中で、キリスト教を科学と矛盾しないものに改善しようとした試みであり、信仰と理性の調和を目指し、キリスト教を守ろうとしたものである。自然宗教ともいわれる。この場合は、人間理性に基づく宗教を意味する。
 理神論は、17世紀前半のイギリスに現れた。チャーベリーのハーバート卿は、啓示に依存しない自然宗教を説いた。その基本命題として、神の存在、神を礼拝する義務、経験と徳行の重要性、悔悟することの正しさ、来世における恩寵と堕罪の存在を信じることの5点を挙げた。ロックは、宗教的寛容を説く一方、『キリスト教の合理性』(1695年)で、理性の権威と聖書の権威は両立するという証明を試みた。ロックは、キリスト教徒が絶対に信ずべきものは、神が存在することと、イエスを救世主とすることの二つとし、それ以外の教義や儀式、制度等は否定する。本書でロックは、人間は理性の範囲内でのみ啓示を理解できる、それを超えた部分は信仰の領域である、信仰は理性で論じるべきでない、各派は些末な問題での論争を止め真の信仰を取り戻せ、と説いた。ジョン・トーランドは、『キリスト教は神秘的でない』(1696年)で、ロックのキリスト教の合理的性格の論証を援用して、キリスト教の中には理性を超えた神秘的要素は何ひとつ存在しないと強調した。本書の公刊に際し、国教会の護教論者が攻撃を加えたのを機に、理神論者と国教徒の論争が行われた。言論を通じて、イギリスでは宗教的寛容が進んだ。
 啓蒙思想家たちの多くは、科学的合理主義によってキリスト教の合理化を進めた。ユダヤ=キリスト教は、啓示宗教である。神ヤーウェが人間に教えや奇跡をもって真理を示すことを信じ、アブラハムが契約を結んだ神の言葉を記した啓典を持つ。西方キリスト教は、ユダヤ民族の神話的思考と歴史、イエスの奇跡伝承等をもとに構築された教義体系を持つ。その教義には、天動説に典型的なように、近代科学によって獲得された知識と相容れないものがある。そこで、啓蒙思想家は、キリスト教から科学と相容れない部分を除いたり、科学的合理的な思考で解釈し直したりして、キリスト教を科学と対立する宗教から科学と両立する宗教へと改革しようとした。
 啓蒙主義の高揚によって、近代西洋文明では、アニミズム的・シャーマニズム的な世界観が徹底的に駆逐された。その結果について、ユングは、「太古以来、自然は常に霊に満ちたものと考えられてきた。いまはじめてわれわれは神々も霊もない自然のなかに生きているのである」と書いた。呪術の原理である「共感の法則」は否定された。それによって、自然は霊的存在に満ちた世界ではなく、単なる質料、霊魂のない物質の広がりとみなされるようになった。人間と自然との根源的な連続感は失われ、自然は人間が征服・支配すべき対象となった。自然は、科学技術と産業経営によって、欲望の充足のために利用すべき生産手段にすぎなくなった。近代西洋人は、人間理性への自信を強め、自信のあまり、人間の知力でできないことは何もないかのような錯覚を生じ、人間が神に成り代わったかのような傲慢に陥った。これは、ウェーバーの「世界の呪術からの解放」つまり「呪術の追放」が行き着いた結果である。

 近代西欧科学が発達する前、世界の最先端を行っていたのは、イスラーム教を中核とする文明だった。イスラーム教では、人間が自然を征服・支配することは不可能であり、征服・支配の思想は、自然を創造した神への冒涜だと考える。イスラーム教では、自然と人間の間には階層性はなく、森羅万象は人間と対等の立場で存在していると考える。人間は強者として自然を支配するのではなく、自然の一部として、その中で神の意志に絶対服従して生きるべきものとされる。

 これに比し、西方キリスト教による近代西洋文明では、16世紀後半から科学万能の思想が発生し、18世紀以降、影響力を強めていった。その結果が、科学技術の発達による人間生活の飛躍的な進歩と、その反面としての自然の破壊・汚染による人類の危機の深刻化である。そこには、キリスト教の教義の影響が見られる。

中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会は、地動説を弾圧するなどしたが、教会の権威が低下すると、科学者や知識人はキリスト教の文化を基に自由に思考するようになった。そして、キリスト教の文化が科学的探求に積極的な影響を及ぼすという現象が現れた。その理由の第一は、キリスト教は全知全能の神が宇宙を創造したと教えることによって、自然には神の意思による秩序が見いだされるはずだという確信を生み、それが科学的研究の導きとなったことである。第二は、キリスト教は、人間は神の似像として創造され、天地や他のすべての種を支配するように命じられたと説くことにより、そこから科学技術を用いて人間が自然を征服・支配するという思想が発達したことである。第三は、キリスト教は神の超越性を強調することにより、被造物としての自然を物質ととらえる考え方を生み、人間が自然を利用・搾取するという姿勢が現れたことである。

ローマ・カトリック教会は、長く近代科学の知見に対して否定的な態度を取ってきた。1992年に教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ・ガリレイの異端裁判の判決を「教会の過ち」と認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことだった。また、2014年に教皇フランシスコは、世界の創造についての科学理論は神の存在論に矛盾するものではなく、逆にこれは相互に結びついたものだという考えを述べ、今日、世界の存在を説明するため用いられているビックバーン理論も創造主の存在と矛盾するものではなく、逆に「創造主の存在を必要とするもの」だと語った。また、生物は進化を遂げる前にまず、何者かによって作られたと説明し、その後は、進化をしてきたとして、進化論を肯定する見解を述べた。

こうした変化は、科学の発達した時代におけるキリスト教の変化として注目される。だが、キリスト教の基本的な世界観・人間観は、科学の未発達だった約2000年前に創設されたものである。目覚ましい進歩を続ける科学の成果と、キリスト教の教義の間の隔たりは、大きくなる一方である。『創世記』の天地創造・人間創造の記述は、神話であって科学とは一致しようがない。21世紀が進むにつれ、キリスト教は時代遅れの宗教と言う性格を強めている。(ページの頭へ)

 

第3章 組織

 

●信仰の共同体

 

 ユダヤ教は民族の宗教ゆえ、もともと民族的共同体がそのまま宗教的共同体だった。これに対し、キリスト教徒の集団は、イエスを救世主と仰ぐ弟子・信者の集団であり、信仰の共同体である。

原始キリスト教団は、ユダヤ教イエス派とでもいうべき異端の改革派から出発した。イエスは、ペトロにキリストの代理者の資格と教会指導の権限を与えたとされる。イエスは、次のように説いたと伝えられる。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ書16章18〜19節)。

イエスの死と復活の後、ペトロを中心とする弟子たちは、イエスの教えを伝道した。ローマ帝国の東部に位置する東地中海沿岸、小アジア半島、バルカン半島等を経て、帝都ローマに至った。この伝道の活動によって、各地に教会ができた。ペトロは、紀元64年にローマで殉教したとされる。その地にあるローマ教会は、各地の教会の中心的な教会とされた。また諸教会をまとめる普遍性を表すカトリックと称するようになった。キリスト教は、ローマ帝国での激しい弾圧を生き延びて発展を続けた。皇帝テシオドシウス1世は、392年に異教を禁じ、キリスト教はついに国教となった。これによって、信仰の共同体が同時に政治的な共同体ともなった。395年にテシオドシウス1世が死ぬと、ローマ帝国は東西に分裂し、西のローマ帝国と東のビザンティン帝国が並立するようになった。西ローマ帝国は476年に滅亡した。その後、カトリック教会は、西方のローマ・カトリック教会と東方の正教会に分かれ、1054年に互いに相手を破門にして分裂した。コンスタンティノポリスを中心とする東方正教会は、ギリシャ正教会とも呼ばれる。ローマ教会は古代から他の教会に対する首位権を主張したが、東方正教会はローマ教皇の首位権を認めていない。

 ローマ・カトリック教会では、16世紀に宗教改革と呼ばれる抗議活動が高まり、プロテスタント諸派が誕生した。プロテスタントは、信仰に関する様々な考えの違いから、多くの教派・教会に分かれている。

これらさまざまな教派のキリスト教集団は、基本的には信仰の共同体であるという性格を保持している。ローマ・カトリック教会は、西ローマ帝国滅亡後、諸国家を超えた広域にわたる信仰の共同体であり続けた。一方、東方正教会は、1453年の東ローマ帝国の滅亡まで、帝国の国教であり続け、信仰の共同体が同時に政治的な共同体でもあった。プロテスタントの教派では、イギリスでのように一国の国教になったり、ドイツでのように領邦の宗教になったりして、信仰の共同体が同時に政治的な共同体となった例が見ある。

様々な信仰の共同体において、家族や民族、地域の共同体の宗教となったものは、個人の自発的な意思とは関係なく、集団によって継承されてきた。

 

●教会

 

 キリスト教の信仰共同体を教会(英語church)と呼ぶ。教会と訳されるもとの言葉は、ギリシャ語のエクレシアである。エクレシアは、「呼び集められた者たち、その集まり」の意味で、ポリスの市民の集会すなわち民会を指した。キリスト教では、この語の持つ人々の集まりの意味から、信者の集団を意味する言葉となった。

キリスト教は、教会を地上に実現された唯一の救済機関であるとする。そして「キリストの体」(corpus Christi)と呼ぶ。これは、パウロが、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(『ガラテヤの信徒への手紙』2章20節) と述べたことに基づく。イエス・キリストが頭で、教会はその体にあたる。信者は洗礼を受けることによって、「キリストの体」の一部となる。教会とは、キリストと信者が一つになる所と考えられている。キリストと信者の集団は心理的に一体だという認識が、教会は「キリストの体」という表現となっている。

こうした信仰共同体が建物・施設を保有したものが、今日一般に教会と呼ばれている。宗教施設としての教会は、礼拝を行う祭事場・集会場であり、祈りを行う場所である。また宗教的・社会的活動の拠点であり、社交・娯楽・教育・教養形成・相互扶助を行う場所でもある。

 キリスト教の教会は、東方を向いて建てられている。世界中どこでも東に向ける。東方正教会でも同様である。東は太陽の上る方向であり、生命の本源である太陽とイエス・キリストが重合されている。「日が昇るところ」の意味するオリエントの語には、「教会を東向きに建てる」という意味がある。また、そこから転じて「方位を定める」「自分の進む方向を決める」という意味が派生している。

教会には、祭壇や説教壇等が設けられる。教派によって、祭壇の作り方、設置物の内容等が異なる。ローマ・カトリック教会では、十字架に架けられたイエスの像が中心となっている。その他に、聖母マリアや聖人の像等が設置されている。それゆえ、信者はマリアをはじめ、聖人たちの画像を自室の壁にかけたり、机の上に飾ったりする。それは決して画像を偶像として拝むことではなく、目に見える形を通して目に見えないものへの信仰を助けることとされている。

こうした画像の崇敬は、キリスト教会における第7回の公会議となる第2ニカイア公会議で教理として定められた。この会議では、画像の崇拝と礼拝を区別し、崇拝の対象としては画像を認め、かつ画像に燈明を献じ、香を焚くことを是認した。

東方正教会も、この東西両教会が認めた最後の全地公会議の決定に基づいて画像の崇拝を行う。特にイコンと呼ばれる聖像が祀られるのが特徴的である。イコンの基本にあるのは、神の言葉が「受肉」によってイエスとなって現れたという考え方である。イコンは神の受肉を証明し、物質的なものが究極的には神的なものになり得ることを示している、と東方教会では考える。イコンの中心的画像はイエス・キリスト、聖母子、至聖三者、預言者、聖人などである。見えざる神の世界を可視化したものとされる。イコンは典礼に不可欠なものである。祝日には、儀式の意義が一日で分かるように、聖堂の中央にイコンが置かれる。

プロテスタント諸派の教会では、聖書を置く場所が中心となっている。十字架にはイエスの像はない場合が多い。マリアや聖人の像は設置されない。そのような画像に対する信心が偶像崇拝への誘惑となりがちであり、イエス・キリストへの信仰を曇らせがちであるとして、これを避けるのが通例である。「聖書のみ」「キリストのみ」という思想の表れである。

ユダヤ教では、神は無限の偉大さを持つとされ、図像によって表現することは、神を限定的に表現することになるとして、これを禁止した。それゆえ、キリスト教の教会におけるこれらの設置物は、ユダヤ教では決して認められない。偶像崇拝の禁止を徹底したイスラーム教の立場からは、もっと厳しく批判される。

 

●使徒

 

イエスの主な弟子12人を使徒という。パウロを加えて使徒という場合もある。使徒の原語は、ギリシャ語のアポストロスapostolosで「派遣された者」を意味する。

『マタイによる福音書』に、次のように書かれている。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」(マタイ書10章1節)と。だが、弟子たちはイエスを救世主と信じるまでにはならなかった。イエスが予言通り死に復活を遂げたのを見て、救世主と信じるようになった。『使徒言行録』は、弟子たちに聖霊が降誕し、弟子たちが異語を語るなどするようになり、彼らがイエスほどではないが、奇跡を起こして、人々に伝道していったことを書き記している。この聖霊降誕の日がキリスト教の始まりとされる。

12人の使徒の人となりについて、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、ユダを除いては、ほとんど知られていない。

使徒筆頭者のペトロは、名前が岩を意味する。イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタイ書16章18〜19節)と言った。だが、ペトロは、イエスが捕えられた時、イエスのことを知らない、無関係だと3度も否定した。そのようなペトロが復活したイエスと会い、その奇跡に驚嘆し、イエスはキリストであると述べる証人として立ち上がった。ペトロはユダヤ人に対する伝道者として活躍した。ネロ皇帝の迫害により、64年に殉教の死を遂げたとされる。ローマで死んだとされ、ペトロ殉教の地にあるローマ教会が各地の教会のうち中心的な教会となった。ただし、ペトロがローマに来たかどうかは確証されてはいない。

ヤコブには、ゼベダイの子のヤコブとアルファイの子ヤコブがおり、前者を大ヤコブ、後者を小ヤコブという。大ヤコブはイエスの使徒の一人で、使徒ヨハネの兄弟である。これに取って代わったのが、小ヤコブでイエスの異母兄または従兄あるいは実弟とされる。もともとは懐疑的だったが、復活したイエスに出会ってから積極的になり、母マリアや他の兄弟らとともにエルサレムの初期キリスト教団に参加した。イエスの近親であるという威光によって、12弟子と対等になり、エルサレム使徒会議までにはペトロに代わって、教団の最高指導者となり、同会議の結論をまとめた。エルサレム教会の初代総主教となった。62年に処刑され、殉教した。『使徒言行録』15章13節などにもヤコブという名が出てくるが、これは小ヤコブとは別の人物とみられる。

ヨハネは、ヨハネの名を冠した福音書、手紙、『ヨハネの黙示録』のすべて、またはその一部の作者と考えられている。

ユダは、イスカリオテのユダと呼ばれる。イエスを裏切り、銀30枚でユダヤ教の祭司長に売り渡した。これを悔いて、後に自殺した。ユダの裏切りは、イエスがユダヤ教で救世主に期待される政治的な活動を一向に行わないので、失望のあまり敵に売り渡したとする説が有力である。

パウロは自分自身に使途の称号を与えることを強く要求した。使徒にパウロを加えると13人になる。パウロは、イエスに会ったことも、直接指導を受けたこともなかった。もともとユダヤ教のファリサイ派に属し、その博士としてキリスト教徒を迫害していた。しかし、ある時、復活したイエスが現れ、「目からうろこが落ちる」体験をしてから、熱烈なキリスト教伝道者となった。ユダヤ人だけでなく、多くの非ユダヤ人に福音を伝えた。小アジア、ギリシャ、ローマにまで多くの教会を建てた。またキリスト教の教義の確立に大きな貢献をした。パウロは「不安を与える新奇な事を教唆した者」として斬首刑に処せられた。時期は早くて62年、遅くとも64年とされる。ペトロとともに殉教したという言い伝えがあるが、根拠は薄弱である。

直弟子に続く世代の信者たちが、地中海世界でさらにキリスト教を広めていった。

 

●聖職者

 

使徒たちの活動によってエルサレム、アンティオキア、アレクサンドリア、ローマ等の各地に教会ができた。使徒に続く世代は、イエスに直接会い、指導を受けた世代ではなくなった。各地の指導者は、聖職者として使徒の役割を後継した。

ローマ・カトリック教会では、イエスがペトロに授けた神の代理人としての権限は、ローマ司教でもある教皇に代々受け継がれているとする。教皇を全カトリック教会の首長として尊敬する。

カトリック教会の聖職者は、人と神の中間に位置し、神へのとりなしを果たす役割を持つとされる。教皇の下位には、司教―司祭―助祭という三つの位階がある。司教は、教区管理の最高聖職者である。司祭職(祭儀の執行)、教導職(教えの保持)、司牧職(信者の指導)の三つを、教皇の下において管理することを任務とする。司祭は、司教に従属してその任務に預かる職である。一般に神父と呼ばれる。男性に限られる。ミサを執行し、信徒に洗礼、告解、病者の塗油の秘跡を授け、福音の宣教を行う等の権能と責務を持つ。結婚は認められていない。司教・司祭には、使徒の後継者として神的権威が与えられているとし、また、福音を宣教する使命を受け継いでいるとする。司祭を補助する職位が、助祭である。

教皇は、司教の中から枢機卿という補佐役を自由に任命する。教皇は、定員120名の枢機卿の選挙(コンクラーベ)によって決定する。カトリック教会は、教皇を頂点としたピラミッド型の組織を取る。

東方正教会は、ローマ教皇の首位権を認めていない。東方正教会の聖職者は、主教―司祭―輔祭に分かれる。コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの各教区やロシア、セルビア、ルーマニア等の独立教会があり、それぞれ総主教がいる。ピラミッド型ではなく、独立性・自主性を重んじる連携型の組織となっている。教皇のように全体を統合する職位はない。ただし、コンスタンティノポリス総主教は、名誉上、すべての主教の首座にある。

プロテスタントのうちルター派は、神と人の媒介者として、キリスト以外の仲介者を認めず、すべての信徒が福音を伝える責任を持つとする万人祭司主義を取る。カトリック教会の位階制を否定し、聖職者を牧師と呼び、牧師には位階がない。他の教派にも司教制度がなく、聖職者を牧師と呼ぶ例が多い。牧師の任務は、それぞれの教会の統括と伝道である。頭に置く按手礼によって任命される。按手とは、人の頭の上に手を置いて祝福し、また霊的力(カリスマ)の授与を神に乞う儀礼である。牧師は、基本的には一般信徒と変わりはなく、単なる指導者にすぎない。結婚することができ、結婚した者の方が指導者にふさわしいと考えられている。

ユダヤ人は、人間を羊、指導者を羊飼いに例えた。キリスト教でも、この考え方を受け継いでいる。イエスが自身を羊の群れを守るよき羊飼いに例えた。プロテスタントの牧師の名は、このことに由来する。

ユダヤ教では、モーセ等の一握りの牧人が大多数の人々を指導するための司牧の技術が発達した。その技術は、キリスト教社会に継承された。さらにヨーロッパでは、牧人が個々の羊である信者の状態を把握し、信者の内面をも掌握しなければならないとされた。その結果、内面の管理としての告白、糾明の手段が発達した。
 司牧の技術は中世西欧ではよく機能しなかったが、16世紀末以後、近代国家が、新しい政治形態の中に、キリスト教の指導技術である司牧者方式を導入した。そこに発達した権力を、哲学者のミシェル・フーコーは、「司牧者権力(pouvoir pastoral)」と呼ぶ。そして、近代西洋文明における権力のあり方の原型とみなしている。国家権力が国民の内面までを管理するという近代国家の統治形態は、キリスト教の指導技術に由来するという見方である。

 

●聖人

 

一般に知恵や徳が優れ、人々の模範と仰がれる人物や、修行を積んだ偉大な信仰者を、聖人という。特に後者は聖者とも呼ばれ、世俗の穢れを超越し、心が清らかでどのような誘惑にも負けない心や、奇跡を行う超能力等を備えた人物をさすことが多い。

聖人は、ヒンドゥー教、仏教、儒教、ユダヤ教、イスラーム教等で崇拝・崇敬の対象とされており、キリスト教においても同様である。キリスト教では、カトリック教会、東方正教会、東方諸教会のように、聖書とともに聖伝を尊重する教派では、聖人崇敬は信仰の一部となっている。聖人は、神と人間を仲介し、人々の祈りを執り成す役割を担うとされる。プロテスタントでは英国国教会(聖公会)、ルーテル教会以外は、聖人崇敬を行わない教派が多い。

聖人崇敬を行う教派では、神への崇拝と聖人への崇敬を区別し、神への信仰と聖人への敬意は別とする。聖人のうちマリアを第一とする場合も、マリアは信仰の対象ではなく、崇敬の対象とされる。

カトリック教会・東方正教会・東方諸教会などでは、聖人の像や生涯を表した絵や像を、崇敬の対象とする。聖人崇敬を行う教派では、聖人の祝日があり、その聖人が死亡した日などの特定の日が記念日とされている。カトリック教会・東方正教会では、ある聖人が特定の個人や団体、地域に対して特別な加護を与えているとする守護聖人の概念がある。洗礼名をつける場合、受洗者は聖人にちなんだ洗礼名を与えられる。その名の由来となる聖人が、受洗者の守護聖人となる。

聖人であることを示すしるしとして、遺体が腐敗せずに残ることが重視される。聖人の遺骸は、カトリック教会では聖遺物、東方正教会では不朽体と呼ばれる。古代から中世にかけて、聖人の遺骸また毛髪などが強い崇敬の対象となり、それに関連する奇跡が多く伝えられている。かつてカトリック教会では、教会の祭壇の下には、聖人の遺骸または遺物を納めることが必要としていたが、今はそれを条件としていない。東方正教会では、今でもそれが望ましいという考え方がある。

 

●列聖・列福

 

聖人崇敬を行う教派では、教会によって公式に認定されなければ聖人と認められない。聖人に認定することを、列聖という。列聖は、対象者の調査が数十年、場合によっては数百年かけて行われ、厳しい審査を経て決定される。

カトリック教会の場合、聖人(Saint)に次ぐの下の地位として、尊者(Venerabile)・福者(Beato)がある。東方正教会には、尊者・福者の概念はない。

カトリック教会では、生前、徳と聖性を示していた人物について、死後、申請があれば列聖・列福の調査が行われる。調査の結果、その人物の生涯が英雄的、福音的な生き方であったことが認められると、尊者に認定される。さらに尊者が「徳ある行為あるいは殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられたもの」であると認められると、福者に認定される。この認定を列福という。さらに福者が「生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人」と認められると、聖人に認定される。

列聖においては、その人物の取次ぎによる最低の一つの奇跡(超自然的現象)が必要とされる。ただし、殉教者にはその必要はない。列聖が適当と判断されると、教皇によって列聖が宣言される。

 

●教会と国家の法

 

ユダヤ教は、律法主義の宗教であり、律法は十戒を中心とし、そのもとに613の戒律が定められている。ユダヤ教社会ではこうした宗教的・道徳的規範を基に、法律が作られている。律法の注解書であるタルムードは、律法学者(ラビ)が書いたもので、その中に損害に関する法律なども定められている。

キリスト教は、ユダヤ教の宗教的・民族的共同体から独立した信仰共同体ゆえ、ユダヤ教の法律から自由である。キリスト教が各地で広まると、キリスト教徒は、それぞれの社会の法律に従いながら、生活し伝道を行った。福音書には、それらの社会に共通するような法律は書かれていない。ローマ帝国で激しい迫害を受けると、帝国の国法に従って活動し、国教の地位を勝ち取った。その後もキリスト教がローマ帝国の法体系にとってかわる法体系を打ち出すことはなかった。逆に、ローマ・カトリック教会は、ローマ法の体系により運営された。教会に独自の教会法は、教会の組織と活動を規制する規範の体系であって、国家社会の法体系ではない。また教会法はローマ法を継受したものだった。

ラテン語を公式言語とし、教会の伝統を基準とするカトリック教会が普遍志向であるのに対し、プロテスタントは特殊志向を示す。聖書を自国語に翻訳し、また各国各民族の特徴を重んじる。そうしたプロテスタントの教派を国教とする国やプロテスタント信者の多い国で、近代西欧法が発達した。

ルター、カルヴァンは予定説に立ち、自分たちは腐敗堕落したカトリック教会と違って、神から救いに選ばれているという確信を持っていた。彼らは、そうした自分たちは神の御心に適う法律を作ることができると考えた。そえゆえ、近代西欧の新しい法律は、プロテスタントによって制定されることになったと考えられる。

 

●政治と宗教の関係

 

古代から政治と宗教には深い関係がある。かつて氏族・部族の首長は、集団を統率する指導者であるとともに、祭祀を司る祭祀長だった。古代国家においても、多くの場合、国王は統治者であるとともに祭祀を主宰する祭祀王だった。そうした王を人間神と仰ぐ信仰も広く存在した。キリスト教が発生した時代のローマ帝国では、皇帝を神と仰ぐ皇帝崇拝が行われていた。キリスト教徒は皇帝崇拝を拒否するので、弾圧を受けた。だが、それに屈せずに教勢を拡大し、帝国の国教となった。皇帝と教皇が並立する体制での政教一致だった。

ローマ帝国の東西分裂後も、ビザンティン帝国では、古代キリスト教の伝統を守る東方正教会のもとで、政教一致の伝統が続いた。聖と俗の区別もなかった。皇帝と総主教はそれぞれの立場で、キリスト教国家の発展に尽くすものとされていた。この体制は、ビザンツ・ハーモニーと呼ばれる。しかし、イスラーム教のオスマン帝国によってビザンティン帝国は滅亡し、東方正教会はイスラーム教の支配下に組み入れられた。

一方、西ローマ帝国では、皇帝と教皇の間に権力と権限の争いが生じた。西ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパでは、皇帝権に代わって国王権が主張され、教皇権と国王権の権力関係が長く続いた。近代社会に移行する過程で、教皇権から国王権が独立し、主権国家が形成された。しかし、その後も、国家と宗教がかなり深い関係を持つ国が、ほとんどである。

フランスは伝統的にカトリック教会の力が強く、これへの反発として急進的な啓蒙主義による市民革命が起こった。20世紀に入ると、フランスは第5共和制憲法に自国を「非宗教的」な共和国であると規定し、政教分離法(1905年)により厳格な政教分離をとった。だが、第1次大戦後に、共和国政府はカトリック教会と和解し、宗教協約(コンコルダート)を結んで、政教の友好的な協調分離に変わっている。

アメリカは、英国国教会を国教とするイギリスから独立した国家である。独立当時のアメリカ社会には、多くのプロテスタント教派が並立しており、国教会系の教派も存在した。そうした宗教的事情を考慮し、米国は、政教を緩やかな分離とする限定分離をとっている。国家行事では、しばしばユダヤ=キリスト教の儀式が行われる。大統領の宣誓においては、大統領が聖職者の介添えを得て、聖書に左手を載せて宣誓する。どの教会(Church)の聖職者を採用するかは大統領の選択によるが、宣誓において宗教(Religion)は不可欠の要素となっている。また、アーリントン国立墓地には、「無名戦士の墓」があり、その前で年3回、大統領が参加して、ユダヤ=キリスト教式の戦没者追悼式を行う。このようにアメリカでは、国家(state)と宗教(religion)は不可分の関係を持つ。ただし、特定の教会(church)つまりキリスト教の特定の教派とは関係を持たないようにし、複数の教派の教会(churches)と緩やかな関係をもつ形を取っている。

一般に政教分離の代表的な国は、フランスとアメリカとされるが、それら2国においても、政教の対立的な分離とはなっていない。むしろヨーロッパの多くの国では、国家と宗教(religion)の関係はもちろんのこと、国家と特定の教派がかなり深い関係を持っている。近代デモクラシーの発祥の国、イギリスでは、イングランドは英国国教会、スコットランドは長老派教会を国教と定め、そのうえで他の宗教に寛容な態度を示している。デンマーク・フィンランドはルター派教会を国教としている。他にも似たような例がある。憲法で国教制は禁じながら、特定の教会には特権を付与して国が保護するという宗教公認制度を取っている国もある。ドイツ、イタリア、スペインなどがそうである。いずれもカトリック教会と宗教協約を結び、国家と教会が分離・独立した上で友好的な協力関係を維持している。

そのうえ、キリスト教の宗教政党が自由に政治活動を行っている。今日、ドイツには、新旧両キリスト教諸派を基盤としたキリスト教民主同盟(CDU)がある。イタリアには、カトリック政党であるキリスト教民主党(PDC)がある。こうした宗教政党が国家権力を担うことは、これらの国では憲法上問題がない。実際、CDUもPDCも長く政権政党として活躍してきた。

ここでわが国について書いておくと、わが国は大東亜戦争の敗戦後、占領期間中において連合国軍総司令部(GHQ)が発した神道司令により、国家と神道の関係を断ち切られた。また英文で秘密裏に起草した憲法を押し付けられ、第20条に政教分離を定めている。この条文は、条文の冒頭に明らかなように、信教の自由の保障を目的とする制度である。その手段として、国家と宗教団体との過度の関わりを排するものである。現行憲法に定める政教分離とは、国家と宗教の分離ではない。つまり、国家と宗教を厳密に分離して国家が宗教と一切の関係を持たないということを定めているのではない。国家が特定の宗教団体に対して援助・助長、又は圧迫してはならないということを定めたものである。この点は、日本国憲法の制定にあたったGHQの当事者が、政教分離規定は国家と宗教の分離(Separation between State and Religion)ではなく、国家と宗教団体の分離(Separation between Church and State)であると明言している。また、ここにいう国家とはStateつまり政府であり、Nationつまり共同体としての国民国家ではない。つまり、現行憲法の規定の趣旨は、政府(State)と宗教団体(Church)の分離であって、国民国家(Nation)と宗教(Religion)の分離ではない。

現に第20条1項は、宗教団体について、国から特権を受けたり、政治上の権力を行使したりしてはならないとしている。また第89条も、宗教団体への助成禁止条項である。つまり、日本国憲法は、政府と宗教団体の分離を謳っているのであって、条文を素直に読めば、国家から宗教を完全に排除するという発想は出てこない。

ところが、憲法学者の宮沢俊義は、厳格な政教分離説を説き、わが国の憲法解釈に多大な影響を与えてきた。宮沢の著書『日本国憲法「コメンタール」』は、政教分離についてフランスをモデルにしている。憲法学界には、宮沢の学統が強い影響力を持ち、厳格な政教分離説を説く学者が多い。そのため、極端な解釈が横行している。欧米のキリスト教国の実態に照らすならば、明らかに間違った学説である。(ページの頭へ)

 

第4章 実践

 

●目的

 

キリスト教は、人間はイエス・キリストを通じてのみ神と結びつくことができるとし、イエスをキリストと信じ、それによって永遠の生命を得ることを、宗教的実践の目的とする。

 

●悔い改め

 

宗教において、信仰に入る行為は、それまでの生活を止め、新たな生活を始めることである。キリスト教では、この時に、悔い改めを求める。イエスは、「神の国は近づいた。悔い改めよ」と説いた。悔い改めとは、神に対して罪を悔い、心を改めて霊的生活に蘇る誓いをすることである。ここには、人間は罪人であるという人間観がある。罪の自覚によって、滅びに向かっていたのとは正反対の方向に転換し、神に向かって歩み始める。そうすれば、罪の赦しは実現すると考えられている。

 

●内心と行動の区別

 

ユダヤ教は、律法に従い、戒律を守るために、実践を重視する。キリスト教は、ユダヤ教の律法主義を批判し、内心で信じるだけで救われると説いた。

この態度は、パウロによって確立された。内心と行動の区別によって、キリスト教徒は、内面において堅くイエス・キリストを信じていれば、外面はローマ帝国の市民として帝国の規律に従ってよいとした。

ユダヤ教では、こういう考え方はあり得ない。心の中で神を信じるだけでなく、神の定めた律法に従い、戒律を守る行動を行うことが、必要である。だが、キリスト教は、ローマ帝国の法律に反するとの理由で大弾圧を被った。そこで生き延びるためにパウロが取ったのが、この内外の二分法である。心の中でイエスの教えを信じていれば、外面的にはそれに反する行動をとっても許されるということである。こうした考え方によって、キリスト教徒は信仰を失うことなく、外面的行動を変え、ローマ帝国で生き延びることができることができた。もし内心と行動を一致させなければならないとしたら、キリスト教は弾圧によって絶滅していただろう。

 

●信条

 

 ユダヤ教徒は、信仰告白を書いた羊皮紙を収めた革の小箱 (テフィリン)を、一つは左上腕に、もう一つは額に巻きつけて、神に祈りを捧げる。一日に朝、昼、晩の3度、祈祷をするのを原則とする。

キリスト教の教義を要約したものを、信条という。信条は、ローマ帝国の皇帝が開催した公会議で裁定された教義である。代表的なものに、ニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条がある。ともにローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタント諸派の多くで信奉されている。

 ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、381年に採択された。ローマ・カトリック教会で使用される訳文は、次の通りである。

わたしは信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。アーメン」

上記の文章で「聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され」という部分は、もとは、父と子からではなく、父から出てとなっていた。それがローマ・カトリック教会では、父と子に修正された。古代キリスト教の伝統を守る東方正教会では、聖霊(聖神)は父からのみ出るとしている。

 カルケドン信条は、451年に採択された。ローマ・カトリック教会で使用される訳文は、次の通りである。

 「われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである。神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた。彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。子の結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の位格、唯一の自立存在に共存している。彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである」

プロテスタントでは、信条に当たるものを信仰告白という。信仰告白とは、イエス・キリストに対する自己の信仰を明白に言い表すことである。その内容は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条をもとにする教派が多い。

古代において異端とされ、ニカイア・コンスタンティノポリス信条ないしカルケドン信条とは異なる信条を持つ教派もある。また、自由意思を肯定するために異端とされた教派もある。これらについては、(2)教義の三位一体説の項目に書いたので、ここでは省略する。

 

●祈り

 

祈りには、成文による祈りと自由な祈りがある。成文化された祈りの代表的なものは、新約聖書に基づく「主の祈り」である。英語では「Our Father which art in heaven(文語)」で始まるもので、ローマ・カトリック教会と英国国教会(聖公会)の日本語共有口語訳は、次の通りである。

 「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン」

最後のアーメンは、ヘブライ語で「まことに」「たしかに」「かくあれ」という意味の言葉である。祈りや信条等の最後に唱える。最後にアーメンを加えるのは、その真実性を神に誓い、また他人の祈祷に同意するためとされる。

 プロテスタントでは、教派によって、成文による祈りに加えて、自由祈祷を行う。また定形化された祈祷文を用いず、自由な祈祷のみを行う教派もある。

 

●十字架

 

 宗教は、儀礼や教義において様々な象徴を用いる。言語で表現できないものを、図像で表す場合が多い。キリスト教における最も重要な象徴は、十字架である。

多くの宗教においては、主な象徴は、光、力、豊饒、調和等を感じさせるものである。だが、十字架は、磔刑の道具である。磔刑は、古代ローマ帝国で最も残酷な重刑だった。十字架は、古代オリエント諸国で広く使われていた刑具で、極悪な犯罪と恥辱のしるしである。ローマ軍は反抗するユダヤ人のグループを徹底的に弾圧し、彼らを捕えると、十字架に架けて殺した。十字架刑は、謀反者に対する見せしめの刑罰だった。イエスは、磔刑に処されたユダヤ人の一人として殺害された。

こうした磔刑の道具を信仰上最も重要な象徴とするところに、キリスト教の特異な性格が表れている。陰惨、暗鬱である。他の世界宗教で、絞首台や獄門台等を象徴とする宗教はない。だが、この極悪な犯罪と恥辱のしるしである十字架が、キリスト教では、イエスの死と復活の象徴とされている。

十字架には、教派によって様々な形式がある。ラテン十字架、ギリシャ十字架、ロシア十字架等である。

ローマ・カトリック教会では、復活祭の前の金曜日をイエスが十字架にかけられた受難の日とし、十字架を礼拝する。十字架には、血を流し、苦しむ生々しいイエスの像が付されている。プロテスタントでは、十字架のみで、イエスの像はないのが普通である。また十字架を崇拝の対象にすることはない。

祈りの時に、手で十字を切るのは、十字架を模した儀礼である。ローマ・カトリック教会では、右手で指をそろえて、額―胸―左肩―右肩の順に象る。東方正教会では、右手の親指・人差し指・中指の三本の指を合わせ、薬指と小指の二本を握る。前者の三本は三位一体、後者の二本は神性と人性の両性を表す。手の動きは、カトリックとは逆で右肩―左肩の順になる。プロテスタントは、十字を切らない。

 

●神の死と再生

 

キリスト教の信仰は、イエスは磔刑にあって十字架の上で死に、3日後に復活し、40日間にわたって使徒らに出現したという伝説に基づく。この伝説は、何かしらの事実に基づくものだろう。そうでなければ、このような荒唐無稽な話が広まり、多くの人に受け入れられ、信じ受け継がれるはずがない。しかし、またこの伝説は、古代オリエントに広く見られた神の死と再生のシンボリズムと重合している可能性がある。世界諸民族の神話や古代の宗教には、神が死んで再生することにより、世界に豊穣がもたらされるという信仰が見られる。農耕文化の社会に多く、大地や植物を象徴する神が死に、その身体から作物が生まれるというイメージが語られたり、演じられたりする。また、太陽は生命の源であり、特に農耕生活では太陽の光の放射は、作物の栽培に最も必要なものである。そこで太陽が衰弱し続けた後に、回復することを願う儀礼が、世界的に広く見られる。太陽を神とすれば、その神の死と再生である。儀礼を通じて、太陽の再生によって世界全体が再生することが、象徴的に体験される。十字架上におけるイエスの死と再生は、こうした大地や植物、太陽等の自然神の死と再生とパターンが同じであり、象徴が重合していると考えられる。

哲学者フリードリッヒ・ニーチェは、キリスト教を奴隷道徳だとして非難し、19世紀末のヨーロッパで「神は死んだ」と宣告し、衝撃を与えた。プロテスタンティズムを背景に持ち、近代科学の知識に触れたニーチェは、イエスの復活と再臨を信じず、来たるべき2世紀におけるニヒリズムの到来を予言した。そして、ニヒリズムを超克する超人の思想を説いた。神の死のイメージに固執するニーチェは、古代ギリシャの神ディオニューソスに注目した。ディオニューソスは豊穣とブドウ酒と酩酊の神であり、別名をバッカスという。この神は死んで再生し、生命の高揚と熱狂をもたらす。ディオニューソスは、古代オリエントにおける死んで復活する神、農耕文化の大地と植物の神の例の一つである。だが、ニーチェは、さらに広く世界の諸宗教を比較研究することも、さらに深く人間の宗教心理を把握することもできず、発狂の末に死亡した。

イエスが大地や植物、太陽等の自然神と異なるのは、まず彼が象徴的にではなく実際に肉体を持つ人間として死に、肉体を以って復活したとされることである。また、彼の復活によってその年の農作物の豊穣が実現したとするのではなく、神と人間の結びつきが復活したとされることである。また、それによって即、救済と世界の再生が実現するのではなく、将来に終末が迫っているとされることである。これらの3点は、キリスト教の独自の教義に基づく。十字架は、こうしたキリスト教の教義と信仰の独自性をよく表している。

 

●十字架における中心とマンダラ

 

宗教学者のミルチャ・エリアーデは、世界の宗教史を研究し、多くの宗教で「聖なる中心」が強調されていることを明らかにした。「聖なる中心」とは特別の意味を持つ場所であり、この中心に関する象徴現象を、中心のシンボリズムという。中心は、死と再生、始源への回帰と世界の再生が起こる特別の場所とされる。神とされたり、神の座とされたりする。時間を超えた永遠を象徴するものでもある。神道では、この中心を神格化し、天之御中主之命と尊称する。道教では、北極星が宇宙の中心と同定され、不動の中心であり、天帝の座ともされる。

深層心理学者のカール・グスタフ・ユングは、精神病者が描く特徴的な図像が、世界の諸宗教に広く見られることを発見し、これをマンダラと呼んだ。マンダラとは、サンスクリットで円を意味する言葉である。ユングは、マンダラを自己の超越性と統合象徴ととらえた。マンダラの図像は、円に加えて、しばしば4または4の倍数を要素とする。3の要素がさらに加わるものもある。円と4または4の倍数は、安定・永遠を暗示し、これに加わる3は、躍動・変化を暗示する。それゆえ、最も総合的なマンダラは、円、4または4の倍数及び3が一個に組み合わさった図像である。

私は、マンダラで最も重要なのは、その図像が強調する中心であると理解している。それゆえ、中心のシンボリズムとマンダラは、同じものを異なる仕方で表現したものと考えている。

このような見方に立つと、キリスト教の十字架は、中心のシンボリズムとマンダラが重合した象徴の一類型である。十字架は、縦横二本の木の交わる点を強調する。その交差点が「聖なる中心」を示している。十字が示す四方は、円を伴わない変形されたマンダラである。福音書に描かれたイエスは十字架の上で死に、遺体は墓に納められ、その墓から消え、使徒や信者たちの前に復活した姿を見せたとされる。それゆえ、十字架の上で直接復活したのではない。だが、象徴化された十字架は、中心のシンボリズムとマンダラが重合することによって、イエスが処刑された刑罰の道具であるだけでなく、そこで死に復活する「聖なる中心」を示すものとなっているのである。歴史的事実と心理的イメージが重合したものと理解される。

 

●信徒の務め

 

キリスト教では、総じて信徒の務めとして、日々祈ること、毎日聖書を読むこと、日曜日には礼拝に行くこと、教会における集会や奉仕活動に参加すること、教会の維持・活動のために献金をすることなどが挙げられよう。

最大多数派のローマ・カトリック教会では、最低限の義務を定めている。伝統的な「教会のおきて」に、次のように定めている。

 

(1)主日を守るべき祭日にミサにあずかり、肉体労働を休むこと。

(2)毎年少なくとも一度罪を告白すること。

(3)少なくとも復活節の間に聖体の秘跡を受けること。

(4)教会が定めた大斎と小斎の日を守ること。

(5)教会の維持費を負担すること。

 

(1)における主日とは、イエスが復活した日曜日のことである。(2)に関して、カトリック教会では、細かく罪の規程を設けている。ただし、後にサクラメントの項目で述べる赦しの秘跡を受けることで、すべて赦される。規程にないものは、とがめられない。(3)の聖体の秘跡についても、サクラメントの項目で述べる。(4)の大斎と小斎とは、教会で定められた特定日における食事制限である。(5)について、プロテスタント教会の中には収入の10分の1を献金することを信者に義務づけているところが少なくないが、カトリック教会にはこうした義務がない。

プロテスタントの中には、非常に規則が緩やかで、ほとんど個人の自由に委ねられている教派もある。特に世俗化したリベラルな教派では、洗礼さえ受ければ、祈り、聖書の学習、礼拝等を行わなくても、責められることがない。逆に一番規則が厳しいのは、プロテスタントの厳格で保守的な教派である。米国中西部やカナダのオンタリオ州等にいるアーミッシュは、現代文明を否定して開拓時代の生活を守り続けている。

イスラーム教には、信者が宗教的義務として行うべきこととして六信五行があり、イスラーム教徒はそれらの義務を果たすよう厳しく定められている。それに比べると、キリスト教徒の義務は、一般にかなり緩やかである。外面的な行動よりも、内面的な心のあり方を重視するからであり、また、個人の自発性を重んじる傾向がある。

 

●修行

 

仏教は、仏(ブッダ、目覚めた者)が説いた教えであると同時に、仏になるための教えである。これに対し、キリスト教は、神の子とされるイエス・キリストが説いた教えであり、キリストになるための教えではない。キリスト教の信仰は、イエス・キリストによる救いを求める信仰である。

 キリスト教において神に救われるために修行が必要かどうかというのは、教義上の大問題である。救済に関して人間の自由意志を認めるかどうかに関わるからである。そのことについては、教義の項目に詳しく書いた。

 ローマ・カトリック教会では、ペラギウス論争を通じて、自由意思を認める考え方は異端とされた。だが、イエスの教えを徹底的に実行しようとすれば、世俗社会から離脱して、修道の生活に入り、一生を修業に捧げるしかないだろう。3世紀に聖アントニウスがエジプトで修道生活を行ったのが、修道院のはじめとされる。修道院は、東方で発達した後、西方でも盛んになった。教父アウグスティヌスは、「貞潔・清貧・従順」を理念として、修道院の規則を定めた。

中世になると、修道院が勢力を増していき、修行を含む善行の積み重ねによって救済に至るという考え方が、段々優勢になっていった。トマス・アクィナスは、救済を得るには人間の努力や善行が必要であるとした。神の恩恵を得て回心する過程において、信仰だけではなく、人間の努力や行為が意味を持つ。また、努力に応じてより高い水準に至るという考え方である。自由意志を持つ人間は、ただ放っておいても倫理的な行動するわけではない。そこで、不断の指導と援助を与えるものが必要となる。その指導と援助を行うものが、教会である、とトマスは説く。このトマスの教学理論によって、カトリック教会は、救いをもたらす秘蹟の権威の強化、教会や修道院の規範の厳格化を進めた。その結果、カトリック教会は絶対的な権威と権力を持つに至ったが、それによって腐敗・堕落の道を下って行ったのである。

ローマ・カトリック教会を厳しく批判したルター、カルヴァンは、救いにおける人間の自由意思を認めない。この考え方に立てば、修行や善行には意味がない。そうした人間の努力は、救いと滅びを決める神の意思には何ら影響しないからである。その一方、現実社会で職業を召命とし、労働に励むことが自分が救いに選ばれていることの確信になるという世俗内禁欲の思想を説いた。職業的労働を道徳的修行とする考え方である。勤勉に働き、倹約に努めれば、富が蓄積される。そのため、富を得たことによる堕落が始まり、営利追求を肯定するユダヤ的価値観の浸透を許すことになった。

キリスト教徒には、基本的には修行は必要ないと考えるのが主流の考え方であるが、人間の自由意思による努力・善行を全く否定することは、教会の強い権威によって信者を統治するか、または信者の世俗化、さらにキリスト教離れを招くかの両極端に結果するだろう。

 

●修行で目指すもの

 

 キリスト教は、神の子とされるイエス・キリストが説いた教えであり、キリストになるための教えではない。イエスは、どこまでもその教えに従うべき対象である。だが、キリスト教の中にも、神と人間の合一を目指す考え方がある。神秘主義に見られるものである。自分がキリストの花嫁となって合体するといった体験もある。キリスト教神秘主義の思想・活動は、熱烈な祈りや厳しい修行などによって、神人合一の心境への到達を目指す。

東方正教会では、イエスは人類の原罪を購ってくれた救世主というより、死を克服して復活したことで人類に死を克服することを示してくれた指導者ということが強調される。この場合、イエスは人間が目指すべき目標であり、神を信じる者は修行によって神との合一を目指す生活が理想となる。

 仏教は、仏陀(真理に目覚めた者)が説いた教えであると同時に、仏になるための教えである。釈迦は、イエス・キリストのような仲介者ではなく、修行者の目標である。イエス・キリストは唯一人の特別の存在だが、仏陀は誰もが成り得る。釈迦牟尼仏陀は、人類史上初めての仏陀でも、最後の仏陀でもないとされる。これは、ヒンドゥー教の梵我一如の考え方に由来するものである。ヒンドゥー教では、誰もが梵我一如を目指し得るし、また人間は人生においてその道を歩むべきものとされている。仏教は、この思想を理論的に説いている。

 人間には、誰にも神性または仏性と呼ばれるような本質がある。人性を生きている間に、その本質に気づき、その本質が実現するように努めるのが、人間の生きるべき道である。この本質が実現することを神性開顕、仏性開顕という。

神性開顕、仏性開顕の努力は、広大無辺の宇宙の中である限られた空間に局在し、ある限られた時間を生来ている人間が、自分の根底において、宇宙の本源とつながっていることを自覚し、本来の全体性を回復しようとする努力である。本来の全体性を神ととらえるならば、人間の局所性・有限性について、人間は、神の一分子であり、神の一細胞であるということができる。大宇宙に対する小宇宙ということも出来る。単なる部分ではなく、その中に全体を映し、宿しているような部分である。

しかし、キリスト教は、イエス・キリストという神と人間を取り結ぶ仲介者を崇拝することで成り立つ宗教である。イエス・キリストを通じてのみ、人間は、原罪と自罪を許され、神と結びつくことができるとする。それゆえ、神秘主義者が、イエスを介さずに神と直接合一することを求めるならば、イエス・キリストの存在が無意味になってしまう。ここに、キリスト教神秘主義の教義上の特徴がある。キリスト教における修行も、あくまでイエス・キリストを仲介者とする限りでの神人合一を目指すものとなる。

 

●サクラメント

 

キリスト教には、サクラメントと呼ばれるものがある。サクラメントは、ギリシャ語で救いの神秘や秘儀を意味するミュステリオンがラテン語に翻訳されてサクラメントゥムとなったのが語源である。サクラメントは、神の見えない恩寵を具体的に見える形で表すことであり、様々な儀式の形で表される。イエスによって定められた神の恩恵を受けるための手段・方法のほか、教会で伝統の中で形成された儀礼がある。

ローマ・カトリック教会では秘跡(かつては秘蹟)、東方正教会では機密、英国国教会(聖公会)では聖奠、プロテスタントでは聖礼典などと言う。

ローマ・カトリック教会では、トリエント公会議(1545〜63年)で、サクラメントを洗礼、堅振、聖体、悔悛、終油、品級、婚姻の7つと定めた。この時代のものを秘蹟と書く。約400年後の第2バチカン公会議(1962〜65)で、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻という表現に改め、一部の儀礼を改革した。また秘蹟を秘跡と書くようになった。東方正教会では、古代のキリスト教会の伝統を維持しており、聖体を中心に、洗礼、傅膏、痛悔、神品、婚配、聖傅の7つを機密とする。

カトリック教会・正教会に比べ、プロテスタントの教派の多くでは、サクラメントを洗礼、聖餐の2つのみとする。洗礼と聖餐は新約聖書に記述があり、イエスに由来するが、それ以外は聖書に根拠がないというのが、理由である。また秘跡ではなく礼典または聖礼典と呼ぶことが多い。神の救いは人間の行いによるのではなく、信仰のみによるという考え方から、儀式の執行を救いの要件とはしないためである。

 

●洗礼

 

洗礼は、入会の儀式として行われるサクラメントである。洗礼は、ギリシャ語のバプテスマの訳語で、元の意味は「水に浸す」ことである。

イエスが定めた儀礼とされるが、イエスが初めて行ったことではない。もとはユダヤ教の清めの儀式に由来する。洗礼式は、数多くのユダヤ教の宗派で行われていた。イエスは若い時にバプテスマのヨハネによって洗礼を受けた。直接的にはイエスはヨハネ派の洗礼の儀礼を継承したのである。

キリスト教の洗礼の独自の特徴は、イエス・キリストの名において授けられ、その後で聖霊の発出を呼び求めるという2点にある。水の中に浸されることでイエスの死に預かり、そこから引き上げられることによってイエスとともに復活するという意味が込められている。イエスの死と復活を、水を通じて追体験するものである。洗礼を受けることにとって、原罪と自罪およびその罰を赦され、恩寵によって永遠の生命を受け継ぐ者となる、としている。また洗礼を受けなければ、神の救いは得られないとする。

洗礼は、共同体への入会儀礼ともなっている。洗礼を受けることによって、信者は、「キリストの体」とされる教会という神秘的な共同体の一員となると考えられている。

ローマ・カトリック教会では、幼児洗礼がある。これは誕生に伴う儀式である。誕生から数日ないし数十日の間に水による清めを受けることで、原罪の穢れから清められ、天国に行くことができるとされる。カルヴァン系の改革派・長老派では、幼児洗礼を認めない。洗礼を受けるのは、キリスト教徒の自覚を以って自ら信仰に入る者でなければならないと考えるからである。

 

●聖体/聖餐

 

サクラメントのうち最も重要なのは、聖体または聖餐である。聖体とは、祭儀で食するために特殊なパンが聖別され、キリストの体の実体として信じられ、食べられるものをいう。聖体または聖餐の儀式は、イエス・キリストが使徒たちとともに行った最後の晩餐を再現・追体験するものである。単にイエスと食事をともにするというだけでなく、その後に磔刑で犠牲になって死に復活したイエスの肉体を象徴するパンと、イエスの血液を象徴するぶどう酒を、飲食するという意味を持つ。それゆえ、神が計画する人間の罪からの救いの成就となる儀式であり、イエスの死と復活を思い、イエスの現存、神と信者また信者同士の絆を確認する儀式でもある。

聖体または聖餐の儀式もキリスト教独自のものではなく、ユダヤ教の共同の食事の典礼に由来する。その典礼では、前もって祝別した同じパンを食べ、同じ盃のぶどう酒を分け合う。これをイエスはこれを差し迫った自分の死と関連付けた者と考えられる。

原始的・古代的な宗教の祭儀では、古くは人身御供が行われ、遊牧民族では家畜、農耕民族では米等の作物が神に捧げられた。いけにえ(犠牲)になったものや神に供えたものを、儀式に参加した者がともに食するという行為も広く見られる。この行為は、祭壇で浄められたものを食することで、神の恵みや生命をともに受けるという意味を持つ。そうした神前共食の儀式が、キリスト教では聖体または聖餐という形で取り入れられたものといえよう。

古代ユダヤ教では、子羊を殺し、神への生贄としていた。キリスト教では、子羊にあたるのがイエスである。聖体または聖餐は、生贄となって捧げられたイエスの肉と血を象徴するパンとぶどう酒をともに飲食することで、神の恩恵を受ける儀式となっている。それゆえ、この儀式は、古代ユダヤ教や原始宗教の儀礼の変形と理解される。

聖体または聖餐において、聖別によってパンとぶどう酒は、キリストの体と血の実体に変化するとされる。このことを聖変化という。ローマ・カトリック教会では、司教・司祭が聖体の秘跡で祭儀の中で聖変化を行い、信者に聖体を与える聖体拝領が行われる。それがミサの中心となっている。ミサは毎日行われている。

カトリック教会では、パンとぶどう酒は実際にキリストの体と血に変化すると解釈する。これを実体変化という。東方正教会では、聖体はパンとぶどう酒の両形色で、キリストの尊体尊血に実体変化すると解釈する。ルター派では、聖体について実体論的な共在説を取り、キリストの体はパンとぶどう酒「のなかに、とともに、の下に」あると解釈する。改革派では、共在説を否定し、主は霊的に臨在すると考える。いずれの解釈を取るにせよ、象徴的なものを言語による概念でとらえようとすると諸説に分かれ、対立を生じ、収拾がつかなくなるだろう。

 

●そのほかのサクラメント

 

 洗礼と聖体/聖餐は、ローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタントの主な教派に共通するサクラメントである。それら以外のものについては、カトリック教会を中心に簡単に書く。

 ローマ・カトリック教会では、洗礼を受けた後の自罪の赦しのために、告解がある。罪を司祭に個人的に口頭で告白し、償いを果たすことを条件に赦免を受ける。教会には告白室が設けられている。告白を聞いた神父は、信者に「再びかかる罪を犯すことのないように・・・」と諭し、その上で神の名によってその罪を赦す。神父は告白の秘密を守らねばならない。

プロテスタントでは、聖書に根拠がないとして告解を否定する。牧師には、神の名によって信者の罪を赦す権利があるとは考えていない。個人の内面的な悔い改めを勧める。告解がないため、プロテスタントの多い米国では、その代替物として精神分析やカウンセリングが求められているという見方がある。精神分析医やカウンセラーが、神父に代わる役割をしているというわけである。

サクラメントのうち、洗礼、聖体/聖餐、堅信、婚姻及びかつてカトリック教会で行われていた終油は、人生儀礼でもある。

幼児洗礼は、誕生に伴う儀式である。誕生から数日ないし数十日の間に水による清めを受けることで、原罪の穢れから清められ、天国に行くことができるとされる。

初めての聖体は、7〜8歳で行われ、聖別されたパン、すなわちキリストの命に預かり、共同体との交わりと一致を確認する。

堅信は、分別のつく年齢になった者(7〜8歳、日本では10歳)が聖霊の賜物を受ける儀式である。キリスト教信徒として一人前になったと認められる。

婚姻は、結婚する男女が聖職者を証人として神前で互いに愛を誓い合う儀式である。

現在は病者の塗油として、繰り返し受けることができるようになっているが、伝統的には一生に一度の終油が行われていた。終油は、臨終の宣告であり、油を塗ることにより、臨終間際に最後の罪の許しを受けるという死に伴う儀式である。現在では、サクラメントとしてではなく、ミサによる葬儀が行われている。

これらが人生儀礼でもあるということは、例えば神道におけるお宮参り、七五三、成人式、結婚式、葬式等と比較すると分かりやすいだろう。ローマ・カトリック教会では、もともと諸民族の素朴な儀礼だった風習を変形して取り入れ、キリスト教の教義によって重く意味づけているものと考えられる。

 

●施し

 

イエスは、不幸な同胞への施しは、イエスに対する業に他ならないと説いている。それによって、施しはイエス・キリストに対する信仰表明とされている。キリスト教社会では、信仰に基づく慈善活動が活発だが、そのもとには、イエスの教えがある。

イスラーム教の場合は、六信五行の五行の一つに喜捨(ザカート)がある。喜捨は、シャリーア(イスラーム法)の定める信徒の義務であり、貧しい者の救済・援助のために寄付を行う。義務化された施しなので、実質的な宗教税、救貧税である。これとは別にサダカと呼ばれる自発的な喜捨がある。

これに比し、外面的な行為よりも、内面的な心のあり方を重視し、個人の自発性を尊重するキリスト教では施しを法的な義務としていない。

 

●儀礼に伴う音楽

 

 古来宗教は、救いや解脱を求める精神的な活動であるとともに、技術と芸術を総合する文化的な活動でもある。多くの宗教では、礼拝や修行のための建築物が発達し、その時代の高度な建築技術が用いられ、宗教的な意味を持つ事物・図形・絵画・彫像等が建物を装飾する。また聖職者や教職者は特別な衣服や装身具を身にまとい、象徴的な祭具を用いる。この点は、キリスト教も同様である。

 キリスト教において特徴的なことは、とりわけ音楽が高度に発達したことである。初期のキリスト教会の伝統を継承している東方正教会では、中心的な儀礼を奉神礼という。奉神礼では聖歌が歌われる。もとの歌詞はギリシャ語だが、初期から各地の教会では現地の言葉で儀礼が行われていたので、シリア語、エジプト語、ロシア語等に訳されて歌われている。

 ローマ・カトリック教会では、中心的な儀礼を典礼と呼び、典礼で歌う歌を聖歌と呼ぶ。歌詞はラテン語である。プロテスタントの教派では、中心的な儀礼を礼拝と呼ぶ。礼拝で歌われる歌は讃美歌と呼び、それぞれ自国語による歌が作られている。

 聖歌や讃美歌の歌詞は、聖書による。聖書の単なる奉読ではなく、言葉に旋律やリズムや和声をつけた歌を参拝者が一緒に歌ったり、または合唱団が歌うのを聴いたりすることによって、歌詞が信者の感情に深く作用する。特に西方キリスト教では、教会音楽が大きく発展した。6世紀末から7世紀初にかけての教皇グレゴリウス1世は、聖歌を集成し、自らも作曲したという。彼の名にちなんだグレゴリオ聖歌は、長く教会で歌い続けられている。中世・ルネッサンスの時代に、ミサや儀礼の音楽が発達し、複雑な構成の合唱曲が多く作られた。バロック時代以降は、機械工業によって作られた多種類の楽器を用いる大規模な器楽が歌唱に加わり、高度な構造を持つ宗教音楽が創作された。そうした楽曲の多くは、教会のミサや儀礼とは関係なく、商業的な演奏会で演奏されるようになっている。バッハのマタイ受難曲、ハイドンのオラトリオ「天地創造」、モーツァルトのレクイエム、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲、ブラームスのドイツ・レクイエム等は、キリスト教の宗教音楽でありながら、彼らによる世俗的な作品と同様に、今日世界各地で頻繁に演奏され、鑑賞されている。

 クラシック音楽と総称される近代西洋音楽は、合理的な音楽理論を発達させた。その理論が、19世紀以降に世界各地発達した音楽、すなわちジャズ、リズム・アンド・ブルース、ロック、ポップス、テクノ・ミュージック、歌謡曲等のもとになっている。現代社会は、あらゆる音楽にあふれているが、この音楽の豊穣の源泉には、キリスト教の教会音楽があると言えよう。

 

●主日と礼拝

 

『創世記』は、神が6日間で天地と人間を創造し、7日目に休んだと記している。それに基づいて、ユダヤ教には安息日(シャバット)が設けられている。安息日は、神の恵みの業を思い起こすため、すべての労働を休む神聖な日とされる。金曜日の日没に始まり土曜日の日没に終わる。

キリスト教では、この安息日の次の日の日曜日にイエスが復活したことから、これを特別の日としている。神の創造で言えば8日目である。イエスの復活により、彼の弟子たちは、イエスが救世主であることを認識したので、この日を旧約聖書に預言されていた神の日または主日であるとする。この日を休みとし、教会に集って礼拝することを基本とする。ユダヤ教では、安息日には、その主旨のもとに多くのタブーがあるが、キリスト教ではそうした戒律はない。

主日を日曜日とも呼ぶようになったのは、正式には4世紀からである。それまでローマ帝国では、日曜日は太陽神の日だった。ローマ帝国がキリスト教を国教としたとき、キリスト教ではキリストを光とするところから、真の太陽はキリストであるとして、日曜日を主キリストの日としたのである。

近代西洋文明の世界的な普及によって、多くの国が西暦(キリスト教暦)を取り入れ、日曜日を定休日とする慣例が広がっている。もとはキリスト教の主日であるので、非キリスト教圏では、これに従う必要はない。

 

●祝祭日

 

キリスト教には、クリスマス(降誕祭)、イースター(復活祭)、ペンタコステ(聖霊降誕祭)等の祝祭日がある。

イエスが生まれた日を祝うのが、クリスマスである。クリスマスは「キリストのミサ」を意味する。降誕祭と訳す。イエスの誕生日がいつだったかは、不明である。誕生日を12月25日としたのは、古代農耕社会で行われていた冬至の祭りに由来する。ローマ人は12月25日に「冬至の祭」を行っていた。キリスト教以前にローマ帝国で普及していた太陽神を祀るペルシアのミトラ教による。一日の長さが最も短くなる冬至は、太陽が最も弱った時点であり、その状態から一日の長さが回復していく。太陽が再び光と熱を取り戻す日である。いわば太陽が一度死に、復活する「死と再生」の時である。それが12月25日をキリスト降誕の日にした起源と見られる。354年にこの日と定められた。イエスの磔刑による死と復活と、太陽の衰弱と回復が、象徴的な意味において重なり合ったものである。

東方正教会では、降誕祭の日を1月7日としている。また、プロテスタントの中には、クリスマスの行事や風習の起源は異教のものであって、キリスト教本来のものではないとして、これを認めない教派もある。

キリスト教の最大の祝日は、クリスマスではなくイースターである。復活祭と訳す。イエスが磔刑に処されたのは金曜日で、復活したのは日曜日だった。そこでキリスト教会では、初期から日曜日を主の日とし、イエスの復活を記念する。この毎週の主日の上に、1年に一回、イエスの復活を祝う復活祭が盛大に祝われる。キリストの死という側面によりも、復活という喜びの側面が強調される。復活祭は、春分の後の最初の満月のあとの日曜日(イースター・サンデー)に行われる。年によって日付が変わる移動祝日である。西方では3月下旬から4月下旬の間になる。春の訪れを告げる祭りともなっている。ここにも農耕儀礼との集合が見られる。イエスという個人の死と復活と、農耕文化において重要な季節の変化が重ね合わされている。

イースターの日に合わせて毎年日付が移動する平日の祝日に、主の昇天日とキリストの聖体日がある。前者はイースターから40日後の木曜日である。後者はイースター後の第8日曜日直後の木曜日である。

イースターから50日後(5〜6月)には、ペンタコステが祝われる。聖霊降誕祭等と訳す。5〜6月に行われる。イエスの昇天後、使徒たちに聖霊または聖神が降ったことを記念する。キリスト教会の誕生日でもある。

毎年11月1日の全聖徒の日は、墓参の日とされ、祝日にしている地域が多い。これらの他、聖人にちなんだ祝日などがある。(ページの頭へ)

 

第5章 生活

 

●清貧の理想と富の蓄積

 

イエスは「神の国は近づいた。悔い改めよ」と述べ、現世的な欲望を否定し、天国に入ることを目指すように説いた。また、イエスは、富める者が天国に入るのは、ラクダまたは太綱が針の穴をくぐるより難しいと説いた。これは、富は天国に行く妨げになると教えである。この教えに忠実であろうとすると、清貧の生活を送らねばならない。

だが、世の終わりは到来せず、キリスト教の教会では、土地の寄進や寄付等によって教会が富を蓄積し、聖職者が高価な衣服や装身具を身に着け、贅沢な暮らしをするようになった。アッシジのフランチェスコは、これを厳しく批判して、イエスの教えに帰るように説き、清貧の修行生活に努めた、だが、彼のような修道者は、ごく一部に限られる。

西方キリスト教では、金貸しは賤業とされ、中世までユダヤ人がこれに従事した。『申命記』に、「外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。」(23章21節)と定めている。また「外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。」(15章3節)としている。外国人からは利子を取ったり、取り立てをしたりしてよいという教えである。タルムードには、「義人の目に麗しく、世間の目に麗しいものが七つある。その一つは富である」と記され、富は美徳とされている。

 営利欲求を肯定するユダヤ教の教えは、ユダヤ的価値観の根本にあるものの一つである。ヨーロッパでは、貨幣経済と資本主義の発達にともに、ユダヤ的価値観がキリスト教社会に浸透するようになった。それによって、近代資本主義社会のキリスト教は、イエスの教えから離れていった。キリスト教の再ユダヤ教化である。キリスト教徒には、外観はキリスト教を信仰しつつ、内面ではユダヤ的価値観を追求する者が多くなっている。キリスト教徒がイエスの教えに帰り、ユダヤ的価値観を超克できるかどうかは、現代世界の諸問題の解決に大きく影響するところである。

 

●契約と処罰

 

 近代西欧の契約観念は、キリスト教に根差すものである。その源には、ユダヤ教がある。ユダヤ教は、ユダヤ民族の祖先アブラハムが神ヤーウェと結んだ契約が信仰の核になっている。ユダヤ教では、人と人との間の契約も、神の前に誓い、これを証人とすることで有効とされる。キリスト教は、こうしたユダヤ教の契約観念を継承している。キリスト教では、神の前で相互に約束を交わし、証拠を以てこれを固め、これによる責任を遂行し、実行できなければ制裁や処罰を加えられる。契約に違反したり、破ったりすることは、罪である。このキリスト教的な契約観念において、神ヤーウェが人間個人の良心に取って代わったものが、近代西欧の契約観念である。またこの契約観念が、近代西欧法における権利義務の観念のもとにある。

 

●家族との関係

 

キリスト教では、現世的な家族、親子・兄弟等の関係よりも、永遠の霊的な父なる神とこの関係を重く見る。イエスは、次のように説いたとされる。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ書10章29〜30節)。「わたしは対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者がとなる。」(マタイ書10章35〜36節)と。イエスは家と家族・家財を捨てることを呼びかけており、多くの弟子は、家と家族・家財を捨ててイエスに従った。これは、家族愛を道徳の根本に置く思想から見れば、非道徳的・反社会的な思想である。だが、これがキリスト教の思想である。

好意的な見方をすれば、利己的・限定的な家族愛ではなく、家族を超えた普遍的な兄弟愛を呼びかけているものとなろう。だが、自分の親や子や兄弟等を捨てるような者に、人類愛を語る資格があるのか。抽象的な愛を理念として説くのは簡単だが、身近な者、血のつながった者、育ててもらった恩のある者への愛の実践に裏付けられていなければ、独善的になる。

 

●家族型の影響

 

 ユダヤ人の家族人類学者・歴史人口学者であるエマヌエル・トッドは、家族型における父性の権威の強弱と、キリスト教における神のイメージには相関性があることを指摘する。権威の強い父からは厳格な神がイメージされ、全能の神のもとで人間の自由意志は否定される。逆に権威の弱い父からは寛容な神がイメージされ、非全能の神のもとで人間の自由意志が肯定されるとした。

父の権威が強い家族型の一つが、直系家族である。直系家族は、子供のうち一人のみを跡取りとし、結婚後も親の家に同居させ、遺産を相続させる型である。その一人は年長の男子が多い。他の子供は遺産相続から排除され、成年に達すると家を出なければならない。こうした婚姻と相続の慣習によって、父子関係は権威主義的であり、兄弟関係は不平等主義的である。この型が生み出す基本的価値は、権威と不平等である。ユダヤ人の家族形態は直系家族である。また、キリスト教化したヨーロッパでは、直系家族が広く見られる。ドイツ、オーストリア、ドイツ語圏スイス、ベルギー、チェコ、スウェーデン・ノルウェーの大部分、イギリスのスコットランド、アイルランド、イベリア半島北部、フランス南部のオック語地方、及びフランスが植民活動をしたカナダのケベック地方に分布する。

直系家族の権威の強い父からは厳格な神がイメージされ、全能の神のもとで人間の自由意志は否定される。直系家族を母体としたルターやカルヴァンのプロテスタンティズムがこれである、とトッドは説く。トッドは、ユダヤ教の神も直系家族の権威の強い父から厳格な神がイメージされたとする。私は、ユダヤ教は自由意志を否定していないと考えるので、トッドがその父のイメージによってユダヤ教では自由意志が否定するという点には、異論がある。

父の権威が弱い家族型の一つが、絶対核家族である。親子は自立的であり、子供は成人すると親から独立する。遺産相続では、親が自由に遺産の分配を決定できる遺言の慣行があり、兄弟間の平等には無関心である。この類型は、ヨーロッパに特有の家族型だった。イギリスの大ブリテン島の大部分(イングランド、ウェールズ)、オランダの主要部、デンマーク、ノルウェー南部、それにフランスのブルターニュ地方に分布するのみ。植民によって、アメリカ合衆国とカナダの大部分にも分布を広げた。これらの諸国・諸民族もキリスト教化されている。

絶対核家族の社会における基本的価値は、自由である。平等には重きを置かない。その価値観をもとに、イギリスでは、近代化の過程で自由主義や個人主義が発達した。アングロ・サクソンが主流を占めるアメリカ合衆国でも、この価値観が継承されている。絶対核家族の権威の弱い父からは寛容な神がイメージされ、非全能の神のもとで人間の自由意志が肯定されるとした。絶対核家族を母体としたアングロ=サクソン的なプロテスタントがこれであるとトッドは説く。私見によると、アングロ=サクソン的なプロテスタントのうち、すべての人間の自由意志による救済を説くメソディスト、「神の光」はすべての人に内在すると説くクエーカー、すべての者が例外なく救われるとする万人救済説を主張するユニヴァ―サリストなどが、この典型だろう。

 

●性愛と結婚

 

ユダヤ教では、重要な戒律として、家族を形成するために結婚することが定められている。性衝動や性行為は自然なものとする。祭司にも預言者にも、一般的な戒律としては性愛を禁止していない。

イエスは、「わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ書5章28節)と述べとされる。心の中の姦淫をも禁じたものである。だが、これは他人の妻のことであり、キリスト教は、もともと使徒の結婚を禁止していなかった。ペトロは妻と一緒に伝道をして回ったと伝えられている。だが、後に禁欲を重視するようになった。そして、性衝動は子供をつくるための必要悪と考えるようになり、結婚をしても男女が性愛を歓びとして楽しむことを禁じてきた。

キリスト教では、一夫一妻制の結婚を前提とした性愛のみが、人間に許されるとする。婚前交渉や結婚後の浮気を、悪としている。結婚を前提としない性愛は動物的であって、悪だと考えるものである。

ローマ・カトリック教会では、聖職者に生涯独身であることの誓いが求められる。妻帯する聖職者はいない。東方正教会では、在俗司祭は妻帯を認めるが、それ以外の聖職者は独身を守る。修道士・修道尼は、すべての教派で独身とする。このように伝統的なキリスト教では、聖職者の禁欲が重視されていたが、ローマ・カトリック教会では、ルターが現れる頃の時代には、教皇が子供をつくることが、珍しくなくなっていた。マキャベリが『君主論』で、理想的な君主のモデルにしたチェザーレ・ボルジアとその妹のルクレチア・ボルジアは、教皇アレクサンデル6世の私生児だった。愛妾を囲っていた教皇も少なくない。こうした面でも腐敗・堕落していたわけである。

ルター、カルヴァンは、聖職者独身制を廃止して、自らも結婚した。プロテスタントでは、教職者と一般信徒の間には区別がないと考えるので、教職者も信徒と同様、結婚できる。ただし、プロテスタントでも修道院では、独身を守る。

キリスト教は、一夫一妻婚を原則とする。セム系の民族では、一夫多妻はごく一般的な慣習だった。ユダヤ教は妻の数を制限していなかった。だが、イエスが出現したころのユダヤ社会は、一夫一妻制に近づいていた。そうした中で、イエスは、一夫一妻制を結婚の理想とした。キリスト教がヨーロッパに広がり、また近代西洋文明が世界に広がったことによって、今日の世界では一夫一妻制を取る国が多い。

ただし、一夫一妻制は、夫婦間に子供ができない時には、家の存続が出来ないという問題を生じる。子孫を残すことができず、また財産を相続することができない。一夫多妻制は、この点で、家の継承という目的を達成するためには、合理性と有効性を持った制度だった。 

イスラーム教は、一夫多妻を肯定する。イスラーム法では、同時に4人までの女性と結婚することが許されている。これは、「やむをえない場合には、4人まで妻を娶ってもよい」という教えによる。イスラーム教ではジハード(聖戦)を信者の義務とするので、聖戦で戦い、死んだ者が残した未亡人や孤児の養育のために救済策をとらなければならなかったことが挙げられる。一人の妻以外の女性との性愛を奨励するのではなく、社会政策的な意味が大きい。

 

●離婚

 

キリスト教では、結婚は神が二人を結びつけたものと考える。イエスは神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ書10章9節)と述べたとして、ユダヤ教では認められている離婚を禁止するようになった。ローマ・カトリック教会では、原則として離婚を認めていない。プロテスタントでは、この点は比較的緩やかである。

 

●人工妊娠中絶と避妊

 

人工妊娠中絶は禁じられている。中絶を禁じる理由は、聖書に神の言葉として「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」とあり、また十戒の一つに「殺してはならない」とあることによる。ローマ・カトリック教会では、避妊も原則として禁じている。

現代アメリカ社会では、人工妊娠中絶を認めるか否かが、大きな社会的な問題となっており、大統領選挙・連邦議会選挙でも争点の一つとなっている。キリスト教の教義に基づいて中絶を罪だとする人々と、女性の産む産まないを決める権利を主張する人々の価値観が鋭く対立している。

 

●同性愛

 

同性愛は禁じられている。『レビ記』18章22節に「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。」、同じく20章13節に「女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。」 と記されている。新約聖書の中にも同性愛を禁じるように読める記述がある。『コリントの信徒への手紙一』6章9〜10節に、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」と記されている。これらの記述が禁止の根拠とされている。

同性愛については、アメリカをはじめキリスト教諸国で、これを容認するか否かが大きな社会的な問題となっている。同性婚を社会的・法律的に認めるかどうかということも関係している。人工妊娠中絶と同様、本件でもキリスト教の教義の順守と個人の自由と権利の尊重の間で、意見の対立がある。

 

●獣姦

 

獣姦は禁じられている。『出エジプト記』22章18節に「すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。」と記されている。こうした記述が禁止の根拠とされている。

 

●夫婦の姓

 

結婚による夫婦の姓については、西方キリスト教の文化圏では、もともと夫婦別姓である。イギリスは、夫の姓を名乗る慣習があり、今も続いている。フランスでは、現在まで民法に姓の規定はないが、事実上妻が夫の姓を名乗ることになっている。近年変化の見られるアメリカでは、事実上夫の姓しか選べなかったし、ドイツでは夫婦は夫の姓を名乗るべしと法律で定められていた。欧米でフェミニスト(女権拡張論者)たちが夫婦別姓を主張したのは、フェミニズムはキリスト教的拘束から逃れようとする反キリスト教の要素があるからである。その影響で、欧米諸国では1970年代以降、一部の国に夫婦別姓を認めるところが出てきている。

 

●労働

 

ユダヤ教では、原罪によって、男には食べ物を得るための労働が課せられたとする。これを額に汗を流してパンを得る苦しみという。神はアダムに向かって「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」(『創世記』3章17節)と言ったという。だが、ユダヤ教ではまた、これをより積極的に、人間は創造主の代わりに労働をする存在として作られたとも考える。異民族支配下の苦役であったとしても、労働をしなければ、ユダヤ民族は絶滅していただろう。

キリスト教は、労働に関して、基本的にユダヤ教の考え方を受け継いでいる。イエスは、天国に入るために「悔い改めよ」と説き、パウロは火事場のたとえでひたすら伝道に打ち込むように諭した。だが、労働を否定するならば、人間は生命を維持できない。性愛とともに、労働は人間の生存と繁栄に不可欠の活動である。神に帰依するため、家族を捨て、世俗を離れて修道生活をする者も、生きる糧を得なければ、修行もできない。権力者や大衆の喜捨に頼るか、自ら労働して自活するかしなければならない。

ローマ・カトリック教会は、権力者や富裕者等による土地の寄進によって、次第に巨大な土地所有者になった。各地の司教は、封建領主と肩を並べるような領地を所有した。それによって、莫大な富を得ることになっていった。修道院では、「祈り、かつ働け」と教えた。教父アウグスティヌスが定めた「貞潔・清貧・従順」を規範として、修道者は、修行をしつつ労働した。その結果、修道院には富が蓄積されるようになった。教会は、修道院の院長に修道団以外の者を任命し、それによって修道院の土地や財産を教会のそれに組み入れるなどした。

ルターやカルヴァンは、富に浸りきったカトリック教会を厳しく批判した。労働を原罪による罰とするのを労働懲罰説とすれば、彼らは労働召命説を説いた。ルター派では、聖職以外の世俗的な職業も神に召された天職として肯定した。改革派では、カルヴァンの救霊予定説のもと、神がこの世に定めた職業生活に励み、かつ禁欲的な生活を送ることが、救いに選ばれた者の確かなしるしだとする考えを持つ。こうして、労働が肯定され、宗教的に意味づけられると同時に、労働の結果として蓄積される富もまた肯定された。マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、こうしたプロテスタントの労働観・救済思想が、資本主義の発達において大きな役割を果たしたことを説いた。

近代資本主義は、いったん成立すると、資本の論理により、利益の追求・拡大の機構が限りなく発達した。ここにおいて、富を美徳とするユダヤ的価値観が社会に浸透し、労働は、神の召命に従う労働から、富の獲得を目指す労働へと変化した。

 

●食事と飲酒

 

ユダヤ教には、食べ物について細かい戒律があるが、キリスト教では食べ物についての禁止事項はない。飲酒は、ユダヤ教と同じく禁じられていない。ワインは、サクラメントの一つである聖体拝領でパンとともに用いられる。

喫煙も禁止されていない。

 

●埋葬

 

キリスト教では、原則は土葬である。この慣習は、最後の審判における身体を伴ってのよみがえりの思想と関係している。しかし、19世紀ころから国によって、火葬が増えてきている。土葬をする場所が、限られてきたのが理由である。現在、イギリスでは多数が火葬、カナダでは過半数が火葬である。一方、今でも米国では土葬が多数であり、ヨーロッパでも大陸では土葬が比較的に多い。

 

●自殺

 

 キリスト教は、自殺を罪悪とする。ローマ・カトリック教会では、563年のブラーグ公会議で、自殺者の葬儀をしないことが決められた。また、693年のトレド公会議において自殺を試みた者は破門にすると宣言した。理由は、人がいつどのようにして死ぬかを決めるのは神だけであり、自殺は神の権威への挑戦にして神への冒涜だと考えられているからである。聖書には自殺した者として、旧約に3名、新約に1名の名前が記されている。みな邪悪な人間であり、新約の1名とは、イエスを裏切ったユダである。

 

●暦

 

キリスト教では、イエス・キリストの出現を基準としたキリスト教暦を用いる。これが西方キリスト教社会の暦となり、近代西洋文明の世界化によって、広く世界的に使用されている西暦である。イエスの生年は不明である。紀元の数年前と考えられている。それゆえ、西暦の起点は正確なものではない。

ユダヤ教では太陰暦、イスラーム教ではイスラーム暦、ヒンドゥー教ではヒンドゥー歴を用いている。わが国には、紀元前660年を起点とする和暦があり、また元号を用いている。西暦=キリスト教暦は世界標準ではなく、便宜的なものである。今日も固有の暦を使ったり、それと西暦を併用したりしている宗教や文明が少なくない。ある国が西暦を唯一の暦と定めるならば、その国はキリスト教国になったに等しい。(ページの頭へ)

 

 

第2部 キリスト教の

第1章 イエスの活動と教会の発展〜古代

 

●諸文明の興亡と約5百年ごとの大きな変化

 

世界的なキリスト教の歴史を概観するに当たり、最初に文明学的な見方を簡単に述べる。世界的なキリスト教の歴史の過程において、各地域で多くの文明が興亡盛衰してきた。キリスト教は、古代シリア文明で発生したユダヤ教から現れ、古代ローマ文明において発達した。古代ローマ文明が滅亡すると、キリスト教は東方正教文明とヨーロッパ文明で発達を続けた。ヨーロッパ文明は北米にも広がり、西洋文明となった。また中南米ではラテン・アメリカ文明へと転換した。こうした2000年近い歴史を経て、現代の世界に至っている。

国際政治学者のサミュエル・ハンチントンは、冷戦終結後の世界には7〜8の主要文明があるとした。キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする西洋文明(西欧・北米)、東方正教文明(ロシア・東欧)、イスラーム文明、ヒンドゥー文明、儒教を要素とするシナ文明、日本文明、カトリックと土着文化を基礎とするラテン・アメリカ文明。これに今後の可能性のあるものとして、アフリカ文明(サハラ南部)を加え、7または8と数えた。私は、この説を支持し、21世紀の今日において、アフリカ文明(サハラ南部)は主要文明に成長したと見て、世界の主要文明を8つと数える。これらのうち、キリスト教が宗教的中核になっている文明は、西洋文明、東方正教文明、ラテン・アメリカ文明の三つである。

私の定義では、主要文明とは、独自の文明の様式をもち、自立的に発展し、かつ文明の寿命が千年以上ほどに長いか、または現代世界において重要な存在であるものである。主要文明の文化的刺激を受けて発生し、これに依存し、宗教・政治制度・文字・芸術・技術等を借用する文明を、周辺文明と呼ぶ。

 本稿では、世界的なキリスト教の歴史について、次のような時代区分を行う。

古代を西暦紀元前後とされるイエスの誕生から476年のゲルマン民族の侵攻によるローマ帝国の滅亡までとする。約500年間である。中世を476年から1453年のイスラーム文明の攻撃による東ローマ帝国滅亡までとする。約1000年間である。近代を1453年から1945年の核時代の始まりまでとする。約500年間である。現代を1945年以降、現在までとする。70年間を過ぎたところである。

この間、キリスト教では、だいたい5百年目ごとに新しい動きが現れている。紀元30年頃のイエスの死から最初の約5百年間に、主流となる教義が形成され、それが正統とされる一方、アリウス派、ネストリウス派、単性論派などが異端とされた。その後、約5百年経つと、西方のローマ・カトリック教会と東方の正教会が分れて、それぞれ独自の道を歩み始めた。またその約5百年後、西方キリスト教では、プロテスタンティズムが登場した。さらにその約5百年後には、教会合同運動が起こり、またローマ・カトリック教会では過去の誤りを認めたり、他宗教とも対話したりする動きが出ている。そして、21世紀において、キリスト教は終末的完成に至るか、宗教を超えたより高次元のものへと発展的に解消するかという大きな岐路に立っている。

 

●ユダヤ教とユダヤ人の歴史のはじまり

 

 キリスト教の歴史は、ユダヤ教及びユダヤ人の歴史と切り離すことはできない。キリスト教はユダヤ教から派生した後、ユダヤ教の聖書を旧約聖書として共有し、そこに書かれたユダヤ教及びユダヤ人の歴史を自らの前史としているからである。

旧約聖書によると、ユダヤ民族は、最初の人間をアダムとする。その子孫であり大洪水で生存したノアには、セム・ハム・ヤペテの三人の子があった。その長子セムの子孫であるアブラハムが神と契約を結んだ。契約の時期は紀元前2千年紀の初頭であり、アブラハムは神ヤーウェからカナンの地を与えるという約束を受けた。これをアブラハム契約という。カナンの地のパレスチナはユダヤ民族の「約束の地」になったと信じられている。

アブラハムは、ヘブライ人であり、遊牧民の族長だった。その孫ヤコブには、12人の子があった。その子らは、12部族の名祖となった。ヤコブは、別名をイスラエルといった。ヤコブとその後裔である12部族を総称して、イスラエル人という。

ヤコブらは飢饉を逃れて、エジプトへ移住した。その子孫は、エジプト人の奴隷にされて苦役に服すようになった。紀元前13世紀後半、彼らの指導者であるモーセは、族長の神と名のる神の顕現を受けた。そして紀元前1280年ころ、イスラエル人を率いてエジプトを脱出した。これを、出エジプトという。モーセは、紅海で海が割れる奇跡を起こし、エジプト軍の追跡から逃れたとされる。

モーセは、シナイ山において神と契約を結んだ。これをシナイ契約という。この契約によって、アブラハム=モーセの神はイスラエル人の唯一の神とされ、イスラエル人、後世のユダヤ民族は神ヤーウェに選ばれた唯一の民族と信じられた。これが選民思想である。

モーセが神ヤーウェから与えられた律法が、十戒である。十戒は、ユダヤ教の教義の中核をなすものであり、ユダヤ教徒としてのユダヤ民族の生き方を決定する規範となった。

 


●ダビデ=ソロモンの時代

 

モーセの指導下にカナンに定着したイスラエル人の12部族は、約200年の間繁栄を続けた。彼らは神ヤーウェを王と仰ぎ、人間の王を持たずに、平等な社会を形成していたとされる。

紀元前1000年ころ、ユダ族のダビデがユダ王国を建て、エルサレムを首都に定め、イスラエル・ユダ連合による統一イスラエル王国を築いた。シリア・パレスチナ全域を統治する国家となった。ヘブライ王国ともいう。

ダビデの子ソロモンは、紀元前10世紀にエルサレムのシオンの丘に神殿を建立した。神ヤーウェはダビデ家をイスラエルの支配者として選び、シオンを神を祀る唯一の場所に定める約束をしたと理解された。これをダビデ契約という。この思想から、世の終りにダビデ家の子孫からメシア(救世主)が現れるという信仰が生まれた。

 

●ユダヤ教における預言者の時代

 

ダビデが建設したヘブライ王国では、約400年間、王制が続いた。それによって平等な関係は崩壊して、支配・被支配の構造が生じた。預言者は王制を批判した。その後、ヘブライ王国はイスラエル王国とユダ王国に分裂した。王国が分裂・崩壊する中で、預言者たちは神ヤーウェの掟に背く指導者や民衆に対して、さまざまな形で警鐘を鳴らした。時には奇跡を示して神への帰依を説いたことが、聖書にしるされている。この時代を、預言者の時代という。

ユダヤ民族は、もともと遊牧民だったが、カナン移住後、定住農民ないし都市住民となった。その結果、紀元前8世紀から沃地の神であるバールの信仰が浸透していった。これに対し、預言者たちは、砂漠の神ヤーウェの信仰の伝統を守ろうとした。ここには、遊牧文化と農耕文化の相違、遊牧民の宗教と農耕民の宗教の対立が見られる。

 ここで現れた有力な預言者が、エリヤである。紀元前9世紀ころエリヤは、国王のバール信仰に反対し、ヤーウェ信仰を守護した。エリヤは、農耕儀礼的な呪術に抗して、良心の「静かな細い声」を聞くように説き、個人の良心に訴えた。そのような訴えをしたのは、ユダヤ教の歴史においてエリヤが始めてと見られる。

次に続いたのは、イザヤと呼ばれる預言者である。イザヤには、第1イザヤから第3イザヤまでいる。第1イザヤは、紀元前8世紀後半に現れ、神ヤーウェの正義と救世主の出現を説いて、王と民衆に神への帰依を説いた。エリヤと同じく個人の良心に訴え、倫理的な心の宗教を説いた。紀元前6世紀の第2イザヤは、部族・民族・人種とは切り離された個人こそ、信仰を抱き続ける主体であることを強調した。そこには、集団から自立した個人という新しい観念が見られる。

 このほか、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルらの預言者が著名である。旧約聖書の16巻の預言書のうち、『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』『ダニエル書』は大預言書とされる。

これらの預言者たちは、バール信仰に伴う儀礼を偶像崇拝的な呪術として斥けた。それによって、ユダヤ教の中にあった儀礼的な要素が後退した。そして、紀元前7世紀の『申命記』の時代に、律法に基づく倫理的応報思想が登場した。やがてその思想が確立された。律法を絶対的規範とし、その遵守を義務とする因果律の思想である。

キリスト教のプロテスタンティズムとの関係でこの思想に注目したのが、偉大な社会学者マックス・ウェーバーである。ウェーバーは、ユダヤ教では呪術的な性格を持つ儀礼的要素が後退したことによって、道徳法則にそれがそのまま神の命令であるという絶対的性格が与えられていったとし、そこに厳しい禁欲的倫理が形成される根本的誘因がある、と主張した。

 

●ユダヤ教の改革と発展

 

預言者の時代の途中である紀元前586年に、ユダ王国はネブカネドザル2世の新バビロニア王国に滅ぼされた。エルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人はバビロンに捕虜として連行された。

バビロン捕囚は、約半世紀続いた。圧倒的な政治力・経済力を持つ異郷の地での生活を強いられた。王国はなく、神殿もなかった。この苦難の体験は、ユダヤ人の信仰を堅固なものとした。そこが、ユダヤ民族の非凡なところである。国は滅んでも、宗教的・民族的な共同体として生き続けるための改革が行われた。神ヤーウェとの契約を確認し直し、民族の歴史を振り返って、ユダヤ民族のアイデンティティを確立した。神ヤーウェは、この世界を創造した神であり、唯一神であると位置づけられ、創世記の天地創造の物語が記述された。この時期の代表的な預言者が、先に触れた第2イザヤである。

新バビロニア王国は、アケメネス朝ペルシャに滅ぼされた。紀元前538年にキュロス2世が捕囚民の解放令を発布すると、ユダヤ人の一部はユダヤの地に帰還した。ここでユダヤとは、イスラエル12部族の一つユダ族の居住地の名称である。それが民族全体を表す語となった。

 帰還後、ユダヤ王朝の復興は許されず、ユダヤ人は王国の再建を断念した。捕囚期に改革・強化されたヤーウェ信仰のもとに、エルサレム神殿を再建した。これを第2神殿と呼ぶ。この神殿は、紀元後70年にローマ人によって破壊されることになるが、それまでユダヤ人はエルサレム神殿を中心として結束し、律法の遵守を実行した。

預言者の時代に、ユダヤ人は、律法に基づく倫理的応報思想を確立し、以後、禁欲的で道徳的な生活に努めた。その生活態度は、異民族に対する怨恨の感情と結びついていた。それが、ユダヤ人の顕著な特徴の一つである。ユダヤ人が異民族支配下に置かれた捕囚期以降に成立した聖書の『詩篇』には、支配民族への怨恨が強く表れている。

 ユダヤ人は、次のように考えた。暴虐な支配者は、神を恐れぬ不道徳な生活を送っているから、やがて神の裁きを受けて滅ぼされるに違いない。われわれユダヤ人は、神の命令に背いたかつての罪を悔い改め、律法を守る生活を送っている。それゆえ、神は、われらの祈りと願いに応えて、必ず救ってくださる、と。この思いの底には、復讐心が脈打っている。

復讐心に裏付けられた禁欲的道徳意識は、自らにさらに厳格な戒律を課すことによって強められた。そのような改革を進めたのが、紀元前5世紀中葉の律法学者エズラである。エズラは、バビロニアからモーセの律法の巻物を携えてパレスチナに来た。成分律法は、その時代までに変更不可能な啓典として成立していた。エズラは、それを変化する現実に適用する方法を教えた。エズラ以後、ユダヤ人は、成文律法より広範囲な権威に基づいて決定された法規にも、成文律法と同等の神聖な権威を認めるようになった。これを口伝律法という。広義の律法は、この口伝によるものを含む。

エズラ以後、約1000年の間に、口伝律法は発展・集積された。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者は、ラビと尊称された。そこで、この時代に形成されたユダヤ教を「ラビのユダヤ教」と呼ぶ。中世以後、現代に至るユダヤ教は、「ラビのユダヤ教」が確立した教義に基づく。

 「ラビのユダヤ教」の時代は、ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代だった。紀元前4世紀末、ギリシャのアレクサンドロス大王の東征によってヘレニズム化の波が、ユダヤ人を襲った。その政治的・文化的衝撃は大きく、ユダヤ人共同体は、存立を根底から揺るがされた。大王の死後、その帝国はマケドニア、エジプト、シリアの三つの王朝に分裂し、パレスチナはエジプトの支配下に入り、後にシリアの支配下に移った。紀元前2世紀中葉、ユダヤ人共同体を征服したセレウコス朝シリアの王アンティオコス4世は、ユダヤ教を禁止して神殿をゼウス神殿と呼ばせるなど、ヘレニズム化政策を強行した。ユダヤ人の中にはヘレニズム文化に妥協しようとする態度と、それを排除してヘブライズムの純粋性を保とうとする態度が現れた。アンティオコス4世が宗教的迫害を行うと、紀元前167年、ユダヤ人は信仰を守るために、マカベアスのユダを中心として反乱を起こした。これをマカバイ戦争という。ユダヤ人は長い苦闘の末、自治を獲得し、ハスモン王朝によるユダヤ教国家を建設した。

その後も激動は続いた。地中海地域を支配するようになったローマ帝国が、最大の危機をもたらしたのである。

 

●イエス出現の時代のユダヤ教の宗派

 

紀元前63年、ユダヤ人共同体はローマ帝国の属領となった。紀元前37年から紀元後4年にかけては、ローマの属王ヘロデの過酷な支配を受けた。

ナザレのイエスが出現した時代のユダヤ教には、主に三つの宗派があった。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派である。

サドカイ派は、祭司を中心にした貴族的な集団だった。単なる宗派ではなく、名門の家系による一つの特権階級だった。現状維持派であり、慣例を墨守した。セレウコス朝シリアの支配を受けた時代から、ヘレニズムに妥協的な態度を取り、ローマ帝国の権力に対する態度も同様だった

サドカイ派は、当時イスラエルを統治していたユダヤ人のヘロデ大王を支持し、ローマの支配を背景としてヘロデ王朝がユダヤを統治することを望む人々の中心となっていた。

ファリサイ派(パリサイ派とも書く)は、律法に通じ、これを忠実に守ろうとする宗派である。イエスの時代の後のことになるが、紀元70年にローマ軍によってエルサレムの神殿を破壊された後も、ユダヤ教が存続できたのは、ファリサイ派による。彼らは、儀礼の他にシナゴーグ(会堂)を中心として宗教生活を営むという独自の形態を始め、広めたからである。ユダヤ教は神殿を失い、サドカイ派が消滅した後は、ファリサイ主義とほぼ等しいものとなった。

文明学者アーノルド・トインビーは、劣勢な文明が優勢な文明の侵略を受けた時に、優勢な外来文明に対する態度には、2つの正反対の態度があると指摘した。その典型をヘレニズム文明とユダヤ文明の出会いに見ている。トインビーは、外来文明の優秀なことを客観的に認め、それを積極的に受容しながら自らの劣勢な文明を発展させようとする者を、ヘロデ主義者と呼んだ。また、優勢な外来文明に対してあくまでも伝統文化に固執し、排外的なエスニシズム(民族主義)を取る者を、ゼロト主義者と呼んだ。ヘロデ主義の名はローマ帝国支配下のユダヤ人のヘロデ大王に基づき、ゼロト主義はファリサイ派の中でヘレニズムに反対した熱心党に由来する。ヘロデ主義とゼロト主義は、どの文明同士の「挑戦と応戦」においても現われうる二つの思潮である。先進外来文明に順応する現実的な路線か、固有の文明を保守して抵抗する路線かの違いである。

ゼロト主義の起源は、BC167年のマカバイ戦争に遡る。ユダ王国崩壊後500年以上にわたって被支配の状態に置かれたユダヤ人の多くは、自らの国家の建国を諦め、被支配下で信仰と民族文化を保つために妥協的な考えを取った。その一方、民族独立を切望する人々もおり、その中で暴力的な手段を以って目的を遂行しようとしたのが、ゼロト主義者である。イエスの時代にもゼロト主義者がおり、新約聖書に「熱心党のシモン」の名が記されている。

サドカイ派、ファリサイ派に次ぐ第3の宗派が、エッセネ派である。彼らは、動物犠牲をめぐる対立によってエルサレムの神殿から放逐され、荒野で厳格な共同生活を営んだ。1947年に発見された死海文書は、エッセネ派の一派であるクムラン教団の文書である。

死海文書は、紀元より少し前の文書である。文書中のハバスク書の注解書によれば、その宗派の長である「義の教師」は、紀元前1世紀半ば頃、エルサレムの祭司たちから迫害を受け、死刑に処された。だが、弟子たちは彼が昇天したと信じ、彼が輝かしい復讐のために、世の終わりに再来することを堅く期待した。そして「義の教師」への信仰を、救われて神の国に近づくための条件としていたと見られる。こうした信仰は、キリスト教に通じるものであり、その原型とも考えられる。

エッセネ派に限らずイエスが出現する前、パレスチナではメシア出現への待望が全土に広がっていた。イエスが誕生したのは、こうしたメシア待望が高揚していた時代においてだった。

 

●イエスの活動とキリスト教の誕生

 

ナザレのイエスが誕生したのは、パレスチナがローマ帝国の支配を受けている時代である。イエスの誕生は、紀元前7年から紀元後4年の間と考えられる。バプテスマのヨハネの洗礼を受けたイエスは、紀元30年前後にユダヤ教を改革する独自の教えを説いた。イエスはユダヤの最高法院で裁かれ、ローマ領ユダヤの総督ピラトによって死刑を宣告された。十字架刑に処せられて死んだのは、紀元後30年から32年の間と推定されている。

その生涯については、概要の教祖の項目に書いたので、ここでは省略する。歴史的な人物としてのイエスの実像に迫ることは、極めて難しい。福音書は、伝承に基づくものであり、伝承がどこまで事実を伝えているかの検証は困難である。しかも福音書は客観的な事実のみを書こうとしたのではなく、福音書家らの信仰内容を表現した部分が多くあると考えられる。そこに記されたイエスの言葉にすら、彼らの思想が混じっている。

イエスの死後、彼の弟子たちがイエスを救世主と信じ、その教えを広めた。それがキリスト教となった。エルサレムで最初のキリスト教の信徒共同体、原始キリスト教団が成立したのは、弟子たちによるイエスの復活信仰が確立したのと同時と考えられる。

また、より具体的に言えば、聖霊降臨がキリスト教の始まりと言える。『使徒言行録』に、次のことが記されている。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話した」(使徒言行録2章1〜4節)

これが聖霊降誕である。聖書でいう霊とは、ヘブライ語の「ルアハ」(息吹、風)から来ており、天地万物を造り、生かす神の生命の力、働きのことを意味する。聖霊の降誕によって、使徒たちは、不思議な能力を発揮するようになり、預言や癒しのわざをしたり、異言を語ったりしたことが、『使徒言行録』に記されている。この記述が何らかの事実を伝えているとすれば、キリスト教はイエスだけでなく使徒たちもいくばくか奇跡を起こすことができたことにより、その神秘な働きによって信者を獲得していったと考えられる。

キリスト教は、最初ユダヤ教の一宗派として存在していた。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派の主な三つの宗派に、新たな宗派が加わったような形で始まったのである。いわばユダヤ教イエス派である。

キリスト教の集団には、最初期にすでに複数の小集団があったことが、パウロの手紙などから分かる。そこで指導的立場にあったのは、イエスの弟子と親族を中心に形成されたエルサレム教会だった。

キリスト教はエルサレムで始まり、シリア、小アジア半島、バルカン半島にあるアンティオキア、エペソ、ピリピ、テサロニカなどの都市を経て、ギリシャのアテネに至った。アテネは、バルカン半島のコリント、クレタ島のクレタと並んで、初期キリスト教の重要な拠点となった。キリスト教はこれらの東地中海の諸都市をつないで、帝都ローマに入った。この間、キリスト教はギリシャ文化圏を改宗させ、今日に至るまでこの地域の主要な宗教となっている。

キリスト教が東から伝播していったローマ帝国では当時、エジプト、シリア、小アジア、ペルシャ等のオリエント諸地方に由来する宗教が流行していた。それらの教えの中心には、神話に根差す神々の物語があった。それらの神々は、最初は植物の姿をし、秋になると死に、春に再生する。エジプトの神オシリス、フリギアの神アティス、シリアの神アドニスなどがその代表的なものである。死んで復活した後に、不死に達する神々である。これらの宗教は、農耕文化に基づく植物神または大地の神を信仰するものである。象徴的に言えば、太陽は朝に生まれて、夕方に死に、翌朝に復活する。また季節的には秋から冬にかけて光が弱まり、最も日が短くなる冬至から再び光を強める。いわば、死と復活を繰り返している。ローマ帝国において、イエスの死と復活を信じるキリスト教が宣教を始めたのは、それらの宗教の流行と同時代だった。キリスト教は、多種多様な外来の宗教の一つに過ぎなかった。

当時ユダヤ教は、ローマ帝国の認可を受けた宗教として、帝国内の各都市にあったユダヤ人の共同体であるディアスポラで活動していた。キリスト教もこの各地のディアスポラを中心に活動した。しかし、ユダヤ教との信条の違いが明らかになると、ユダヤ教の他宗派から反感を買うようになった。

キリスト教がユダヤ教から離反すると、ローマ帝国は、帝国の認可のないものとしてキリスト教を迫害し始めた。

 

●パウロの活躍と使徒の時代の終り

 

 ローマ帝国で迫害が始まってからも、キリスト教徒は宣教を広げた。この宣教の拡大は、パウロの活躍によるところが大きい。

パウロについては、概要の使徒の項目に書いたが、もとはユダヤ教のファリサイ派に属し、その博士としてキリスト教徒を迫害していた。しかし、ある時、復活したイエスが現れ、「目からうろこが落ちる」体験をしてから、熱烈なキリスト教伝道者となった。ユダヤ人だけでなく、多くの非ユダヤ人に福音を伝えた。小アジア、マケドニア、ギリシャ等に3回の伝道旅行をして、いわゆる異邦人教会を多く設立した。またキリスト教の教義の確立に大きな貢献をした。

パウロの布教方針は、エルサレム教会の方針と対立した。エルサレム教会の最高指導者ペトロは他の使徒とともに逮捕され、代わりに指導者になったのが、イエスの異母兄または従兄などと考えられている小ヤコブだった。

長老ヤコブを中心とするエルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活するユダヤ人の信仰共同体的な集団であり、エルサレムを離れた布教活動には積極的でなかったと見られる。しかし、パレスチナ以外の各地に離散したギリシャ語を話す国際的なユダヤ人キリスト教徒が積極的な伝道を行い、異邦人の信者が増加していった。彼らの拠点の一つとしてシリアのアンティオキアに教会が設立されて、一定の力を持つようになった。パウロはアンティオキア教会を活動拠点としたが、この教会では、布教のために異邦人の文化への適合や慣習の利用を行った。その一例が、ペルシャの太陽神を崇拝するミトラ教による冬至の祭礼クリスマスの取入れである。ミトラ教は、キリスト教が広まる前、ローマ帝国で大流行した宗教である。詳しくは後に述べる。

パウロとヤコブは、信仰内容やイエスに関する捉え方、洗礼の概念などを巡って、互いに譲らずに対立した。ヤコブは、いわばキリスト教イエス派が持っていたヘブライ主義を保ち、ユダヤ教の伝統を守ろうとした。これに対し、パウロはユダヤ教の民族文化を脱した普遍的な宗教を目指していた。

ヤコブは、紀元49年ころエルサレムで使徒会議を主宰し、エルサレム教会とアンティオキア教会の対立を緩和する案を示めして解決を図った。彼が示したのは、異邦人改宗者は「絞殺した動物、血、偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼等の他の律法の遵守は免除されるという案である。

この案で合意が成立すると、エルサレム教会とアンティオキア教会は別の管区を分け持ち、互いに干渉や越権行為を行わないこととした。その後設置された管区でもそれぞれの独立性と自治性を尊重することが原則となった。

これをパウロの側に立って見れば、パウロはキリスト教を脱ユダヤ化し、異民族にも広く受け入れられる普遍性のある宗教に発展させることに成功したということになる。これは、世界宗教となったキリスト教において、パウロの大きな功績である。

またパウロの別の功績は、内面と外面の二分を行ったことである。キリスト教は、ローマ帝国の法律に反するとの理由で大弾圧を被った。そこで生き延びるためにパウロは、内心と行動を区別し、キリスト教徒は、内面において堅くイエス・キリストを信じていれば、外面はローマ帝国の市民として帝国の規律に従ってよいとした。心の中でイエスの教えを信じていれば、外面的にはそれに反する行動をとっても許されるということである。こうした内外二分法によって、キリスト教徒は信仰を失うことなく、外面的行動を変え、ローマ帝国で生き延びることができることができた。もし内心と行動を一致させなければならないとしたら、キリスト教は弾圧によって絶滅していただろう。その点では、パウロの最大の功績と言えるだろう。

パウロ自身は、ローマ帝国の迫害を受け、「不安を与える新奇な事を教唆した者」として斬首刑に処せられた。その時期は早くて62年、遅くとも64年とされる。ヤコブもまた62年に処刑されて殉教した。

彼らと同じころ使徒筆頭者のペトロもまた殉教した。ペトロは、イエスが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタイ書16章18〜19節)と言ったとして、キリスト教会の権威の起源とされている。ペトロは皇帝ネロの迫害により、64年に殉教したとされる。64年から67年の間という説もある。ローマで死んだとされ、ペトロ殉教の地にあるローマ教会が各地の教会のうち中心的な教会とされた。ただし、ペトロがローマに来たかどうかは確証されていない。

イエスの直弟子である使徒や彼らと同世代のパウロらの死によって、キリスト教の歴史の一つの段階が終わった。イエスの使徒が原始キリスト教団を設立して伝道活動を開始してから、彼らの死までを厳密な意味での原始キリスト教団の時代ということができる。その後は、福音書を中心とする新約聖書という書物に基づく信仰活動を行う時代となる。

ローマ帝国において制度的に教会が整備されるのは、1世紀末から2世紀にかけてだった。その時に成立した教会を古カトリック教会という。そこで、広い意味での原始キリスト教団の時代は、古カトリック教会の成立までとすることができる。古カトリック教会は、ローマ帝国の東西分裂によって東西の教会に分かれるが、最終的に1054年に分裂した。それゆえ、古カトリック時代は、この東西教会の最終分裂までということになる。この間、より細かく見て、使徒の世代以後の時代を、教父時代と呼ぶことができる。教父時代は、後に述べる教父が活躍した時代で、1世紀後半から7〜8世紀までを指すものである。

 

●ユダヤ教におけるエルサレム神殿の崩壊

 

キリスト教徒がローマ帝国で激しい迫害を受けていた時代、ローマ人総督ピラトが悪政の限りを尽くしたため、ユダヤ人は紀元後66年にローマ帝国からの独立を目指して、大反乱を起こした。これを第1次ユダヤ戦争という。だが、反乱は70年に鎮圧され、ローマ軍によってエルサレムの都市と神殿が破壊された。その結果、ユダヤ人は祖国を喪失し、流浪の民となった。

エルサレム神殿の崩壊でサドカイ派が没落すると、ファリサイ派が90年代にラビたちによるヤムニア会議を開催し、聖書はヘブライ語で書かれた39の文書で構成されることを決定した。当時キリスト教では、マルコ、マタイ、ルカの共観福音書ができあがっていた。キリスト教徒は、それ以外にギリシャ語訳の七十人訳聖書(旧約聖書)と使徒による手紙等を持っていた。ユダヤ教でユダヤ教の聖典を定める動きが起ったのは、この動きへの対抗ともなっていた。ヤムニア会議は、七十人訳聖書の一部の文書はヘブライ語がもとになっていないとして、外典とした。また、キリスト教徒は、会堂(シナゴーグ)から追放されることになった。この会議によって、キリスト教はユダヤ教と決定的に分離した。

第1次ユダヤ戦争後、キリスト教ではエルサレム教会の権威が失墜し、ギリシャ語を話す国際的なユダヤ人や非ユダヤ人が活動の中心になっていた。ヤムニア会議の結果、キリスト教がユダヤ教とは別個の宗教となったことにより、一層脱民族的で普遍性の高い宗教へと成長していった。

ユダヤ人は132年に再び反乱を起こした。これを第2次ユダヤ戦争という。この反乱もまた鎮圧された。その結果、ユダヤ人は、共同体の中心地をガリラヤに移した。一方、キリスト教は、ローマ帝国で迫害を受けながらも信者を増やし続けた。1世紀末から2世紀にかけて、原始キリスト教団は、名実ともに教会と呼ばれるべきものへと成長した。ローマ帝国内の制度的な教会となったものを、古カトリック教会という。「古」とつけるのは、後にローマ・カトリック教会と東方正教会に分かれる前のカトリック教会として区別するためである。

 

●ローマ帝国での迫害から公認、国教へ

 

キリスト教がローマ帝国内に広まっていくと、帝国による迫害を受けた。迫害は、1世紀中葉から4世紀初頭まで断続的に行われ、多くの殉教者が出た。迫害の原因は、宗教的なものである。ローマ帝国はもともと多神教の国家であり、その神々を偶像として否定する唯一神の信仰は、弾圧された。また、キリスト教徒は、東方社会の影響でローマでも行われていた皇帝崇拝に従わなかったから、取締りの対象とされた。

皇帝ネロの迫害によって、64年に使徒ペトロとパウロが殉教したという説がある。1世紀後半のドミティアーヌス帝は自分を「主にして神」と称した。自分への礼拝を拒否したキリスト教徒を迫害した。キリスト教信者は、たびたび円形競技場でライオンの餌にされた。それでも信者は増え続け、教会は2世紀末にはローマ帝国の全域に組織を広げていたと推測される。

ディオクレティアヌス帝は、最大の迫害者だった。303年の大迫害は、それまでの迫害が主に聖職者や信者個人に向けられていたのに対し、教会堂の破壊や聖典の焚書によって、キリスト教の撲滅を図るものだった。だが、キリスト教徒は人口の1割に達していたという推計があるほどに増加しており、もはや皇帝の権力を以てしても撲滅はできなかった。

なぜ、迫害をうけたにも関わらず、キリスト教徒は増え続けたのか。小田垣雅也は著書『キリスト教の歴史』に次のように書いている。「その理由は経済的にも精神的にも不安定であった当時のローマ社会にあって、キリスト教会が人々に安らぎを与えたからである。実際、当時教会は失業者に仕事を斡旋し、多少の基金も持ち、教会の中では社会的身分を越えた交わりがあった。要するに教会は信仰を離れても、病気、失業、投獄、死等に直面している人々の力となったのである」と。

 大迫害に耐えたキリスト教徒は、逆にローマ帝国で公認を獲得するようになった。当時、ローマ帝国では、ミトラ教が大流行していた。宗教史家エルネスト・ルナンは、著書『マルクス・アウレリウス伝』で「もしキリスト教がなんらかの致命的な病によって、その成長を止められていたならば、恐らく世界中がミトラ教になっていただろう」と述べている。

ミトラ教の由来は、アーリア人の一族である古代ペルシャ人のミトラ信仰にある。ミトラ神は契約神・軍神・太陽神などの多様な性格を持ち、イランやインドで民衆の信仰の的となっていた。ミトラ神は歴代のペルシャ王朝で国家の守護神として崇拝された。紀元前6世紀にゾロアスターが宗教改革を行い、それによってミトラ信仰は一時下火になった。だが、ゾロアスターの死後、彼の後継者たちは民衆のミトラ信仰に抗えず、ミトラ神をゾロアスター教に取り込んだ。当初ミトラ神は最高神アフラ・マズダより下だったが、やがて同格となり、最後はアフラ=ミトラとして融合一体化した。

ミトラ教は紀元1世紀ころから、ローマ帝国内で教勢を誇った。ローマ人もペルシャ人とともにアーリア人の末裔ゆえ、受容・流行しやすかったのだろう。各地にミトラ神殿が建立され、勢力範囲は北はイングランド、東はパレスチナ・シリア、南はアフリカのサハラ砂漠にまで及んだ。ヘレニズム・ローマの社会で、キリスト教と並ぶ救済宗教として多くの信者を集めていた。

キリスト教がミトラ教に対して優位に立つようになったきっかけは、皇帝コンスタンティヌス1世の改宗である。伝説によると、312年にコンスタンティヌスは、人生最大規模の戦いに臨んでいた時に夢を見た。自軍の倍の軍勢と対峙したコンスタンティヌスは、翌日の戦いで自分は死ぬだろうと覚悟した。ところが、その夜、夢に天使が現れ、十字架の印を携えて、「あなたはこの印を用いれば勝利するだろう」と語った。コンスタンティヌスは、すぐさま自軍の盾を十字架の印で飾るように命じた。翌日彼はミルヴィス橋合戦で勝利を収め、ローマ帝国の支配を確かなものとした。そして、キリスト教への血債を償うことを誓ったという。

もっともコンスタンティヌスの夢に現れたのは、キリスト教的なものではなかったようである。また、彼のキリスト教への改宗は、ずっと後のことで、洗礼を受けたのは、臨終の間際だった。

ともあれ313年に、コンスタンティヌス大帝とリキニウス帝はミラノ勅令を出し、それによってキリスト教は帝国内の公認宗教の地位を得た。

当時キリスト教では、ギリシャ哲学を摂取した神学の発展に伴い、教義を巡る争いが激しくなっていた。特にキリストの位置付けをめぐるアリウス派とアタナシオス派の論争は、暴力を伴う争いを招くまでに過激化していた。コンスタンティヌスは、それを解決するために、325年に宗教会議を招集した。全地のキリスト教会の代表者が初めて集まり、公会議を開いた。これが第1回ニカイア公会議である。皇帝がキリスト教に介入したのはこのときが最初である。コンスタンティヌスの意図は、ローマ帝国の求心力低下という課題解決のためにキリスト教の勢力を利用することにあった。公会議の時点で、コンスタンティヌスはキリスト教徒ではなかった。彼が洗礼を受けたのは、臨終の間際である。なお、ニカイア会議の内容については、後に項目を改めて書く。

コンスタンティヌス帝は、330年に帝国の首都をトルコ北西部に移し、都市名をビュザンティウムから自分の名にちなんだコンスタンティノポリス(現イスタンブール)と改称した。

コンスタンティヌスの後を継いだ甥のユリアヌスは、キリスト教を捨てて、キリスト教への優遇政策を廃止した。ミトラ教に帰依し、ミトラ教の復興に尽力した。キリスト教側からは「背教者」と呼ばれる。

だが、ユリアヌスの死後、キリスト教は再び教勢を上回った。テオドシウス1世はキリスト教徒を保護し、380年にローマ帝国の国教と宣言した。さらに392年にはキリスト教以外の宗教の信仰を禁止した。古代から続くローマの儀礼への国費補助が打ち切られた。ミトラ教などの神殿は破壊され、それまでミトラ神の洞窟神殿だった聖域にキリスト教の教会が建立された。こうしてキリスト教国家となったローマ帝国において、ユダヤ教徒の共同体は弾圧された。

ところで、初期キリスト教徒たちはユダヤ教徒のように土曜日を安息日としていたが、ユダヤ教との対立の中で、徐々にキリストの復活した日とされる日曜日を主の日、主日とし、祝日とするようになった。

主日を日曜日とも呼ぶようになったのは、正式には4世紀からである。321年にコンスタンティヌス帝が日曜日強制休業令を強制し、364年にラオディキア教会会議によって日曜日の安息日化が正式に決定された。それまでローマ帝国では、日曜日は太陽神の日だった。380年にローマ帝国がキリスト教を国教としたとき、キリスト教ではキリストを光とするところから、真の太陽はキリストであるとして、日曜日を主キリストの日としたのである。

 テシオドシウス1世は、395年に没した。それをきかっけに、ローマ帝国は東西に二分された。これに伴ってキリスト教会も東西に二分された。

 西ローマ帝国は、ゲルマン民族の大移動や帝位を巡る内紛などで、没落の道を進んだ。帝国の政治的・経済的混乱の中でキリスト教会は消滅することなく存続し、次の時代を準備した。

 

●プラトンとアリストテレスの哲学の利用

 

1世紀後半、異邦人キリスト教徒が増えるにつれ、イエスの教えをユダヤ教とは別の背景で説明する必要が生じた。その際、ギリシャ哲学が摂取された。

 ギリシャ哲学は、紀元前6世紀にイオニアで生まれ、プラトン、アリストテレスが発展させた。キリスト教は、聖書に基づく人間観、世界観、実在観を教義として整備していくために、主にプラトンとアリストテレスの哲学を摂取して利用した。

 キリスト教は、唯一神教であり、神による無からの創造を説き、人間の楽園からの堕落とキリストによる救済を説く。ギリシャ哲学は、多神教の文化を背景としており、世界の成り立ちや人間の本質について、キリスト教とは異なる考え方をする。しかし、キリスト教徒は、彼ら異教の哲学者の学説を巧みに取り入れて、キリスト教の教義の整備を行った。その取り組みは、古代から中世まで、1世紀から16世紀までに及ぶ長期間にわたるものだった。そこで、ここに、プラトン、アリストテレスについて、基本的なことを書いておく。

プラトンは、前5世紀後半から前4世紀前半のギリシャの哲学者である。プラトンの哲学の中心にあるのは、イデア論である。イデアの語の原義は、「見えているもの」「すがた」である。形相と訳す。プラトンの師ソクラテスは、たとえば「美とは何か」という問いに対し、その答えとなるべき「まさに美であるもの」をイデアと呼んだ。

プラトンは、師の考えを発展させて、生成変化する現象界の原因として、現象界とは別の世界に、現象界の事物の原型・模範となっているイデアが存在すると説いた。イデアは、超感覚的で永遠不変の真実在であり、道徳・自然等のすべてに一貫する超越的な原理とされた。そして、プラトンは、万物は最高のイデアである「善のイデア」を目的として秩序づけられているという世界観を説いた。また、その世界観のもとに、道徳や政治のあり方を述べ、国家や魂における調和として正義を説いた。

 プラトンによると、イデアは発見するものではなく、想起すべきものである。彼の人間観は、人間の魂は何度か生まれ変わるという輪廻転生説に立つ。これは、オルフェウス教やピュタゴラス教団の影響と見られる。プラトンによると、魂はこの世に生まれる前、神々に従って天界を飛翔し、天の外にあるイデアの世界を見ようとした。その後、地上に墜ちて、人間の肉体に宿った。生前にイデアの世界を垣間見た人間は、イデアの世界を想起し、その世界に憧れる。肉体(ソーマ)は墓場(ソーマ)であり、哲学者はイデアの世界に最も強く憧れる人間である。ここには、肉体からの魂の離脱、不死にして永遠なるもの、魂が戻っていくべき場所といった考え方がある。

キリスト教の神学者たちは、プラトンが、現象界とは異なる世界があること、魂が肉体に対して自律性を持つこと、魂は地上に転落して永遠の場所に帰るべきものであること、人間には本質的に真実在を認識する能力があることなどを説いていることを認め、そうしたキリスト教と共通点・類似点を通じて、彼の哲学を摂取した。その上で、プラトンのイデアは、キリスト教の神が創造したイデアとし、プラトンのギリシャ神話的な天界は神ヤーウェの世界とし、魂は自らの努力によって天界に戻るのではなくキリストによって救われるとし、輪廻転生ではなく一回限りの生の結果、死後天国か地獄かに分けられるとするなど、キリスト教の人生観、世界観、実在観の枠組みの中に、プラトンの思想を変換して取り入れていった。

次に、プラトンの弟子アリストテレスは、前4世紀の哲学者である。「万学の祖」と呼ばれるように、イスラーム文明及びヨーロッパ文明において、数々の分野で大きな影響を与えた。

プラトンは、イデアと語源的に同根のエイドスという言葉を、イデアとあまり区別せずに使った。アリストテレスは、現象界とは別の世界に実在する客観的なものという師のイデアには否定的であり、現実世界の中に見出される形をエイドスとした。本稿では、形相と訳す。アリストテレスは、形相に対して素材となるものを質料(ヒュレー)とし、事物を形相と質料の二つの概念で説明しようとした。

アリストテレスの考えによれば、形相はただ個物、すなわち人間が実際に認識できる物のなかにしか存在しない。プラトンのイデア論のように、現象界とその原因とを分離してしまうと、事物の原因を説明できない。アリストテレスの研究の方法は、感覚的経験によって知られうるものから、それ自体において本来知られうるものへ向かうという方法だった。後者は、宇宙(コスモス)の万物を貫くロゴス(法則)による合理的な秩序(コスモス)を意味する。人間は自己の本質としてロゴス(理性)を分有することにより、真理の探究を成し遂げることを保証されていると彼は考えた。

アリストテレスは、形相は動かすもの、質料は動かされるものであり、形相は質料を生成変化させるとした。たとえば、人間の形相は魂であり、魂が目指す善は、人間の形相である魂を動かす「形相の形相」である。このようにして、自然界のあらゆる運動や変化の究極の原因・根拠を探求していくと、自らは動かされることなく、他のものを動かす「不動の動者」に至る。「不動の動者」は、純粋な形相であり、質料を持たないから変化することのない永遠の存在である。プラトンのイデアに当たるものである。アリストテレスは、この「不動の動者」が神だとした。

アリストテレスは、今日形而上学(メタフィジックス)と言っているものを、「第一の哲学」と呼んだ。第一哲学は、著作の順序において、自然学(フィシジカ)の後(メタ)に置かれたので、メタフィシジカともいう。第一哲学は、存在者を存在者として考究し、存在者に本質的に備わっている属性や性質すなわち一と多、同と異、先と後、類と種、全と個、範疇、真と偽等について、また存在者の区別を一般的に扱う。最高の存在者としての神的なものを扱う神学を含む。ここで神的なものとは、キリスト教の神のような人間世界に介入する人格神ではない。万物の原因・根拠としての存在を神格化したものである。アリストテレスの形而上学は、存在及び存在者に関する学問ゆえ、存在論と呼ばれるようになった。

プラトンは、現世での生活よりもイデア界に憧れ、肉体的な経験よりもイデアの想起を重んじる理想主義的な哲学を説いた。これに対し、アリストテレスの哲学は、経験主義的・現実主義的であり、現実世界に強い関心を向け、自然や生物等についても幅広い研究を行った。彼の形相−質料論的・存在論的な神の概念を、ユダヤ的な人格的唯一神に置き換えれば、その哲学をキリスト教が教義の体系化や教義の補強に利用し得るものだった。

 

●ギリシャ哲学の摂取による教義の整備へ

 

ここで1世紀後半に話を戻す。当時各地のディアスポラ・ユダヤ人の日常語は、国際語化したギリシャ語だった。ユダヤ教では、儀式がギリシャ語で行われ、教養あるユダヤ人はギリシャ哲学の書物を読んでいた。その影響でヘレニズム化したユダヤ教が広がっていた。紀元前2世紀に、アレクサンドリアでギリシャ人と接触したユダヤ人が、聖書に示された啓示と伝統を理性と経験によって合理的に解釈しようとするユダヤ哲学を始めた。

古代の代表的なユダヤ人哲学者は、紀元前後のピロンである。ピロンは、プラトンの影響を受け、神を永遠不変で純粋な物質的知性とし、叡智界におけるイデアのような存在と考えた。また、神と世界をつなぐロゴスを神より劣った第2の神または神の子と考え、当時の聖書である旧約聖書をプラトン主義的に解釈した。これによってユダヤ思想とギリシャ思想の調和を図った。こうしたユダヤ教におけるギリシャ哲学の摂取が、キリスト教に影響を与えた。

 1世紀後半からキリスト教に影響を与えたのが、当時振興したグノーシス主義だった。グノーシスは、ギリシャ語で知識・認識を意味する。グノーシス主義は、救いをもたらす神の認識を求める宗教思想運動である。世界の構成を精神と物質、霊と肉の二元論で捉える点に特徴がある。キリスト教においても、グノーシス主義によってキリスト教を解釈するものが現れた。彼らは、物質や肉体は不完全であり、キリストは霊と精神の世界を知った者としてその知を地上の肉の世界に啓示したと理解し、人間が肉の世界から浄化され、自分が神であることを認識することで救われると説いた。原始キリスト教団は、グノーシス主義的な一派を異端として排斥した。

キリスト教のグノーシス主義派は、ロゴスが受肉してロゴスの真理を人々に啓示したものがキリストであると説いた。共観福音書の後に書かれた『ヨハネによる福音書』は、ギリシャ哲学の影響が見られ、グノーシス主義派の思想と似たところがある。同書は、「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1章1節)、「言は肉となった」(1章4節)、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1章14節)と書いている。ヨハネは「神の子」イエスの出現を、永遠のロゴス(言葉)である神が人間となってこの世界に入った(受肉)と理解した。

ヨハネは、当時流行した仮現論に反対した。仮現論は、キリストは神が仮の姿をとって現れた姿であって本当の人間ではないとするものであり、グノーシス主義を背景にして生まれた説だった。ヨハネは、仮現論に反対し、イエスは「神の子メシア」(20章31節)とした。

グノーシス主義派は異端とされたが、『ヨハネによる福音書』の思想は、正統の教義の要素となった。それによって、キリスト教にギリシャ哲学が摂取され、教義の整備が進められた。

 

●ギリシャ教父の取り組み

 

 イエスの死後、使徒の時代には、終末が近いと信じ、イエスの再臨を待望する信仰がされていた。しかし、終末はすぐ訪れず、イエスは再臨しなかった。そのため、終末論的な信仰から、安定的・継続的な信仰へと移行していった。安定的・継続的な信仰は、より一層教義の整備を必要とした。そこに発達したのが、教父神学である。

2世紀後半に、キリスト教の正統的信仰を守るために信条がまとめられた。最初にローマ信条がつくられ、それがわずかに増訂されて使徒信条がつくられた。この信条には、イエスを神の独り子にして「主」とすること、聖霊による処女懐胎、死と復活といった要素が入っている。

 2世紀末ごろから、教義の整備のため、ギリシャ哲学をさらに摂取して、キリスト教とギリシャ哲学を総合する試みが行われた。その試みを行い、ギリシャ語で著述を行った神学者たちをギリシャ教父という。彼らの中心となったのは、エジプトのアレクサンドリアを中心とするアレクサンドリア学派だった。

アレクサンドリア学派のクレメンスは、3世紀前半にギリシャ哲学、特にプラトンを擁護し、プラトンは不完全ではあるが、神の本質について真理を語っていると説いた。また、クレメンスの弟子、オリゲネスは、最初のキリスト教教義学の書とされる『諸原理について』、及び古代で最も説得力のあるキリスト教擁護論とされる『ケルソス駁論』を書いた。また、万人救済論を説いた。オリゲネスは東方正教会の性格を決定したといわれる。同教会の神学は、キリスト教とギリシャ哲学の総合、特に福音と新プラトン主義の総合に特徴がある。

プラトンの思想がキリスト教神学に取り入れられたのは、プラトンの思想を独自に発展させた新プラトン主義によるところが大きい。プラトンの思想は、様々なイデア、魂の輪廻転生、神々の天界を説く点において、キリスト教の教義と本来、相いれないものがある。しかし、3世紀半ばから後半に活躍したプロティノスは、プロティノスは、プラトンの哲学をキリスト教が摂取しやすいものへと発展させた。彼が実質的に新プラトン主義の創始者となった。

プロティノスは、万物の根源は一者(ト・ヘーン)であるとした。一者は万物の彼方にあり、一切の価値を超えたものである。それが流出して精神(ヌース)が生まれる。精神は真実在の世界にあって、一者を観照し、その光に満たされて霊魂(プシュケー)を生む。霊魂のうち世界霊は、影の世界としての感性界を創り出す。一方、人間の霊は感性界の美しさに魅惑されて、真実在の世界から降下し、肉体に宿った。しかし、人間は感性界にとらわれずに、真実在の世界に帰るように努めねばならないとして、一者への還帰を説いた。

新プラトン主義の目的は、自己を脱して、一者と合一することである。一者はプラトンの善のイデアに由来し、善なるもの(タガトン)とも呼ばれる。プラトンが、個々の魂の帰郷を説いたのに対し、新プラトン主義は万物の流出と還帰の構造の中で、一者との合一を説いた。一者は、これを一神教的な人格神に置き換えることも可能である。こうして新プラトン主義は、ギリシャ哲学の成果を宗教的な思想にまとめあげ、キリスト教に提供した。キリスト教は、新プラトン主義の人間観、世界観、実在観を自らの枠組みの中に取り入れることで、プラトン哲学を利用することができた。プラトン及び新プラトン主義は、後にアウグスティヌスを通じて、キリスト教の教義形成に大きな影響を与えることになる。

 キリスト教神学のアレクサンドリア学派は、新プラトン主義を摂取した。4世紀にその学派で活躍したアタナシオスは、三位一体の教義の確立に大きく寄与した。彼については、次の正統と異端の項目に書く。

 ギリシャ教父は、近代的な大学の研究者のような存在ではない。信仰指導や教会運営の実務に携わりながら教理・教学の研究をし、異議ある者と論争をしながら、教義の整備を進めていった。彼らは、ユダヤ民族の宗教に由来するヘブライズムのキリスト教思想を、ギリシャ哲学で理論化し、神学を発達させた。ギリシャ文化は多神教の文化であり、ユダヤ文化の唯一神教の文化とは異なる。後者の無から万物を創造したという超越神の観念は、ギリシャ文化の思想とは全く異なるものである。だが、ギリシャ哲学は、ヘブライズムとヘレニズムを総合し得る理論を発達させており、キリスト教はそれを活用した。


 

●正統と異端

 

 ギリシャ哲学の素養のある知識人は、キリスト教に改宗すると、信条の内容を哲学的に解釈しようとした。そうした改宗者が増えることによって、大きな問題となったのが、三位一体論とキリスト論だった。

三位一体論に対する疑問は、父なる神と子なるイエスの異質論として現れた。アレクサンドリアの司祭アリウスがその代表的な論者だった。

アリオスは、イエス・キリストは被造物である、最高の被造物であり神に無限に近い存在だが、神ではないとして、神とキリストと異質性を主張した。これに対し、アレクサンドリアの主教アタナシオスは、キリストは神に無限に近いのではなく、神そのものであるとして、神とキリストの同質性を主張した。前者を異質説、後者を同質説という。いわば相似と同一の違いである。

 アタナシオスがイエス・キリストを神と説くのは、次の事情による。キリスト教では人間はすべて罪人だとし、罪が救われるのはキリストを信じことによってだとする。ここで人間を救うか救わないかを決定する権限を持っているのは神だけだとするならば、キリストは神でなくてはならないのである。

 コンスタンティヌス帝の項目に書いたが、こうした教義論争に決着をつけるために、325年に第1回ニカイア公会議が開かれた。この会議で、アリウスの異質説が否定され、アタナシオスの同質論が正統と決定された。キリストの神性と父なる神との本質的同一性を確認したものであり、イエスは完全な人間であり、同時に完全な神であるという理解である。また、この決定によって、同会議は、父なる神と子なる神であるイエスと聖霊の三位一体を規定した。ここにキリストは人にして神であるとする原ニカイア信条が成立した。

異端とされたアリウス派は、ローマ領内で布教できなくなったので、北方や東方のゲルマン民族への宣教を行った。ゲルマン民族の王たちにとっては、イエスを神とする正統の教義よりも、イエスの神性を否定するアリウス派の教義は理解しやすかった。だが、ローマ教会は、ゲルマン民族への布教を進め、正統へと改宗させていった。その結果、アリウス派は、やがて消滅していった。

同質論の採択後、同質説と同類説の論争が起った。同類説は神とキリストの同質を認めながら、生まれざる神と生まれた子なる神は別の存在であることを主張した。これに対し、カッパドキアの三教父が反駁を行った。三教父とは、東ローマ帝国のカッパドキア州で活躍したバシリウス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオスの三人である。彼らは、ギリシャ哲学の概念を用いて実体(ウーシア)と位格(ヒュポスタシス)を区別し、実体は本質であるから通性を意味し、個体である三つの位格が一つの本質を共有することは理論的に矛盾しないと主張した。この主張が、神は父・子・聖霊の三つの位格でありながら一つの実体であるという三位一体説の骨格を形成した。

だが、三位一体説の確立は、容易ではなかった。教義を巡る論争、正統と異端の対立が続くなか、皇帝テシオドシウス1世は、381年にコンスタンティノポリス公会議を開いた。この会議で「作られざる、同質なる、共に永遠なる三位一体」として三位一体説が前進した。また原ニカイア信条に関しては、聖霊・教会・死者たちの復活についての教義の詳細が文章化された。この改訂版がニカイア・コンスタンティノポリス信条である。

 三位一体論の確立後は、キリスト論が問題となった。「子なる神として神そのものであるキリストが、いかにして同時に人間でありうるか」という問題である。

 当時、ローマ帝国は、ゲルマン人の大移動による侵攻にさらされ、政治的・経済的混乱が深まっていた。そうした時代に、コンスタンティノポリス総主教のネストリウスは、イエス・キリストは、人間と同じ肉体を持ちながら神であり、人性と神性の二つの本性(ナトゥーラ)を持つと説いた。これを両性論という。ネストリウスは、キリストの人格の統一性を認めながら、人性と神性を明確に区別したうえで、それらが共存しているとした。これに対し、アレクサンドリア総主教のキュリロスは、受肉したイエスは神性のみを持つと説いた。これを単性論という。ネストリウスのように考えるならば、キリストが2人となり、1人の人格ではなくなると批判した。

 キュリロスは総主教の地位を利用してユダヤ人の虐殺を教唆したり、新プラトン主義者の女性を私刑にして群衆に殺させたりする人間だった。皇帝テオドシウス2世により開かれた431年のエフェソス(エペソ)宗教会議で、ネストリウス派は異端と決定された。この会議では、先に着いたキュリロス支持者が会場に鍵をかけて、反対派が入れないようにし、一方的に決議を行った。まともに教義論争をした結論ではない。また、この会議は、全地の代表者が集まった公会議ではなかった。

皇帝は決議を支持した。だが、教皇は決議を否認した。そうした中で、451年に皇帝マルキアヌスのもと、カルケドン公会議が開催された。この会議では、キリストにおける人性と神性を巡る論争に決着をつけるために、イエスは完全な人間であり、同時に完全な神であるという主旨が再確認され、単性論が否定され、両性論が正統と決定された。イエス・キリストにおいては唯一の位格しか存在しないが、その一つの位格のなかに人性と神性との二つの本性を備えるとしたものである。そのうえで、両者の関係を、「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」と規定した。これが、カルケドン信条である。

「混ざらず、変わらず」とは、神性のみを主張したキュリロス派の単性論を否定したものであり、「分かれず、離れず」とは、人性と神性の明確な区分を主張したネストリウス派を批判したものである。それゆえ、カルケドン会議は、ネストリウスの両性論を肯定しながら、両性を明確に区分することを以て異端としたものである。この決議には、教皇レオ1世の強い影響力が働いた。

カルケドン公会議の結果、単性論も、両性論のネストリウス派も、異端とされた。だが、会議の決議を拒絶する者は、少なくなかった。それらをまとめて、非カルケドン派または東方諸教会という。単性論派は、アルメニア、エチオピア、エジプト、シリアなどの地で今日も存続している。また、エフェソス宗教会議とカルケドン会議で繰り返し否定されたネストリウス派は、ササン朝ペルシャからシナにまで布教活動を行った。

4世紀前半から5世紀の半ばにかけて、第1回ニカイア公会議からカルケドン公会議に至る諸会議を通じて、キリスト教の主流をなす教義が形成された。今日、ニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条は、ローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタント諸派の多くで信奉されている。内容は信条告白の項目で述べたので省略する。

 

●アウグスティヌスによる西方的神学の発展

 

ギリシャ教父に対して、ラテン語で著述した神学者たちをラテン教父という。ラテン教父のうち「教会の三博士」と呼ばれたのが、アンブロシウス、ヒエロニウス、アウグスティヌスである。

アンブロシウスは、教会が世俗の国家から独立することを主張し、教会の政治家として優れた能力を発揮した。ヒエロニムスは、ヘブライ語聖書からラテン語訳聖書を作り、それが後のカトリック教会唯一の公認聖書(ウルガタ)のもとになった。アウグスティヌスは、ギリシャ教父によって東方の教会で形成された神学を、西方の教会に適用されるものに作り変えた。彼は、ローマ・キリスト教会最大の教父であり、西方キリスト教における正統的信仰の完成者とされる。

アウグスティヌスは、10代から肉欲に溺れた放縦な生活を送った。16歳ころマニ教に入信し、9年間とりこになっていた。マニ教は、2世紀にペルシャでマニが始めた宗教で、ゾロアスター教の基本的な考え方である善と悪の二元論に立つ。やがてマニ教に疑問を感ずるようになったアウグスティヌスは、ラテン教父アンブロシウスの説教を聞き、キリスト教に改宗した。

アウグスティヌスも、近代的な神学者とは異なり、北アフリカ、ヒッポの司教として実務に精励しながら、神学と聖書の研究を行った。また異教・異端との論戦を通じてキリスト教の理解を深めた。

アウグスティヌスの思想の根幹は、キリスト教的プラトン主義である。彼は、プロティノスの書物を通じて、超越的存在ないし霊的存在への目を啓かれ、自己の内的経験を通じて真理を求める途を取った。真理は神にほかならず、単に事物のイデアではなく、創造と摂理をもって世界を支配するものであり、神の力・愛・正しさであると説く。また精神の自己認識については、知の形式と構造を示すだけでなく、愛と意志をもって存在し働くものであることを説く。世界を悪としてそこから離脱するのではなく、世界を神が創造したものとして理解し、その中に神の働きを見つつ、他者との共同に生きることを求めた。

アウグスティヌスは、ペラギウス論争で活躍した。5世紀初め、ペラギウスは、人間は神からの恩寵を必要とはせず、自分の自由意志で功徳を積むことによって救霊に至ることができると説いた。これに対し、アウグスティヌスは、人間に選択の自由はあるが、神の恩寵と結びついた選択によってのみ道が開けると説いた。その結果、ペラギウス主義は、異端として排斥された。自由意志の否定と関係することとして、アウグスティヌスは、パウロの救霊予定説を継承し、教義として整備した。ローマ・カトリック教会は、それをもとに教義として確立した。詳細は、教義の救いと自由意志の項目に書いた。

410年にローマは西ゴート族の王アラクリスによって略奪された。この軍事的敗北はローマ帝国の政治的・経済的混乱を結果した。そのような時代にあって、アウグスティヌスは『神の国』を書いた。アウグスティヌスは、本書で、歴史は善の意志を持つ天使と人間による「神の国」と、悪の意志を持つ天使と人間による「地上の国」との対立・抗争の過程であり、最後の審判へと向かっているととらえた。そして、「神の国」における神の正義を説くとともに、人々が遍歴の途上にある「地上の国」においては、平和と秩序をもたらすために国家の法には一定の正義があり、それに従わねばならないと説いた。このようにして、アウグスティヌスは、キリスト教神学において初めて歴史を教義の中に位置づけ、歴史における教会の目標を明らかにした。

ここでプラトンの哲学とアウグスティヌスの神学の決定的な違いを指摘しておきたい。プラトンにおいては、人間の歴史は、天界から地上に墜ち、そこから天界へ帰還する過程であり、人間は自分の力で天界へ帰郷することができた。これに対し、アウグスティヌスにおいては、人間は原罪によって楽園を追放され、神と断絶しているため、自力で天国へ昇ることはできない。イエス=キリストの贖罪と愛が必要であり、神の国は歴史の目標となっている。

上記のように、2世紀末から5世紀にかけて、ギリシャ教父、ラテン教父らによって正統の教義が整備された。彼らによる教父神学は、中世のスコラ神学のもとになった。

教義の整備の過程で、古カトリック教会は多くの異端的思想を排斥した。だが、例えば、キリスト教の主流が信奉する三位一体説は、理性による理解を超えた信仰によってのみ成り立つ教義である。その信仰を正統とするものは、教会の権威である。この過程で行われた公会議の決議は、必ずしも決議の内容が真理だからではなく、その時々の宗教的な権威を持つ者の意向が強く反映したものである。決議内容が真に納得のいくものであれば、皆がそれに従うだろうが、そのようにはなっていない。そのため、キリスト教は、古代から多くの教派に分裂し、教議論争がやまないのである。キリスト教に関心を持つ者は、既成の権威に盲従することなく、自ら真理を求め、教義の検証を行うべきだろう。その検証においては、真理の実証の有無を以って判断することが、最も確実である。(ページの頭へ)

 

第2章 東西教会の対立・分裂〜中世

 

 本稿では、世界的なキリスト教史の中世を476年から1453年までとする。

 中世を前期と後期に分ける。前期は476年のローマ帝国滅亡から1096年のヨーロッパ文明によるイスラーム文明への反攻である十字軍の開始まで、後期は1096年から1453年のイスラーム文明の攻撃による東ローマ帝国滅亡までとする。1453年以後を近代とする。

 

●西方キリスト教のヨーロッパへの普及

 

西ローマ帝国はゲルマンの民族移動によって、476年に滅亡した。その後、ヨーロッパの南東部からアルプスの北に広がる広大な地域において、キリスト教の教会だけが唯一の組織体として、精神的にも実際的にも地域の統合を担うことになった。

西洋史学では、ギリシャ、ローマの時代を古代とし、4世紀末のゲルマン人の移動から15世紀半ば英仏百年戦争の終結までの時期を中世とする区分がよく使われている。近代については、ルネサンスまたは資本主義化の時期からとすることが多い。だが、ギリシャ=ローマ文明とヨーロッパ文明は、単純に連続しているのではなく、両文明には明らかに断絶がある。ローマ帝国は、395年に西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂した。西ローマ帝国は、476年に滅亡した。これによって、ギリシャ=ローマ文明は滅んだ。ヨーロッパ文明は、この文明を生み出したギリシャ人、ローマ人とは異なる民族であるゲルマン民族が中心となって、生み出した別の文明である。東ローマ帝国は、首都コンスタンティノポリスの旧名にちなんで、ビザンティン帝国ともいう。西ローマ帝国の滅亡後、ビザンティン帝国は、ローマ帝国の正統を維持した。しかし、ここに栄えたギリシャ正教を中核とするビザンティン文明は、1299年に建国されたイスラーム文明のオスマン帝国によって、1453年に滅ぼされた。

ギリシャ=ローマ文明は、環地中海圏を舞台として興亡し、ヨーロッパの南東部を中心とした。これに対し、ヨーロッパ文明は内陸部であるアルプス以北のヨーロッパ西部で発達し、その地域を中心に発達した。

西洋史にいう中世は、西方キリスト教の歴史で言えば、ギリシャ=ローマ文明的なキリスト教の時代に対し、ヨーロッパ文明的なキリスト教の時代に当たる。またその思想史では、教父神学からスコラ神学への移行の時代である。またその教会史では、教皇権が確立され、全盛を誇り、同時に腐敗・堕落が進行した時代である。

なお、私は、ヨーロッパ文明を古代ギリシャ=ローマ文明と区別し、自立した一個の文明としてとらえる時は、文明の開始を481年のフランク王国の建国の時点とし、近代の開始を1453年の英仏百年戦争の終結の時点とする。また、近代の開始までの時代を、前代と呼ぶ。前代は、近代の前の時代との意味である。ヨーロッパ文明の前代は、ほぼ西洋史学における中世と一致する。

 

●ゲルマン民族がヨーロッパ文明の担い手に

 

古代ギリシャ=ローマ文明の滅亡後、新たにヨーロッパ文明の担い手となったのは、ゲルマン民族だった。ゲルマン民族は、紀元前2千年紀中葉には、ヨーロッパの北部、スカンジナヴィア半島中・南部からバルト海・北海の沿岸に多くの部族に別れて、牧畜と農耕を営んでいた。次第に西方や東南方に居住地域を広げ、前1千年紀中葉から前3世紀ごろまでに、西方はオランダからライン川下流域まで、東方はビスワ川流域からドナウ川北岸やドニエプル川下流域までの地域に分布するようになったと見られる。そして、北ゲルマン系、西ゲルマン系、東ゲルマン系の三つの集団を形成するようになった。

ゲルマン民族とは、ゲルマン語を話した部族及び部族連合をいう。ゲルマン語は、インド=ヨーロッパ語族に属し、現在の英語、ドイツ語、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語などの共通の祖先となっている。今日のオランダ人・ドイツ人・デンマーク人・スウェーデン人・ノルウェー人・アイスランド人・アングロ=サクソン人等は、ゲルマン民族の諸部族の子孫と考えられる。ゲルマン民族は、人種的には白人・コーカソイドに分類される。長身、ブロンドの髪、碧眼、高い鼻等を身体的な特徴とする。

ゲルマン民族は、紀元前5世紀頃からローマと接触し、ローマ軍と戦いを繰り返し、帝国領に侵入を繰り返した。前1世紀中葉にガリア(今日のフランス、ベルギー、北イタリア等を指す)のほぼ全域を制圧したカエサルは、『ガリア戦記』にゲルマン民族について書き記した。それによると、当時ゲルマン民族はキヴィタスといわれる小国家を形成していた。そこでは戦争等の重要事は構成員が直接参加する民会で決定された。1世紀末の歴史家タキトゥスは、『ゲルマニア』にゲルマン民族に関することを著し、彼らを「ストイックで質実剛健な民族」と評した。紀元前1世紀から後1世紀ころのゲルマン民族は、定着農耕を営んでいたが、生活において牧畜の占める比重がかなり大きかったと考えられる。

3世紀ごろには、ゲルマン民族の中に傭兵や小作人としてローマ帝国内に移住する者が現れた。ローマ帝国はローマ市民だけで軍隊を維持できなくなっており、ゲルマン民族の侵攻からの帝国の防衛をゲルマン民族の傭兵に依存するようになった。

こうした状況において、375年、ゲルマン民族の大移動が起った。地球的な寒冷化が進むなか、北アジアの遊牧騎馬民族フン族が黒海北岸へ、イラン高原の遊牧騎馬民族サルーマート族が東欧へ侵入した。それらの民族に追いやられるようにして、ゲルマン民族が大移動を開始した。

ゲルマン民族は、ローマ帝国の東西分裂と西ローマ帝国の衰退という混乱に乗じて、次々とローマ領内に移住し建国した。ゲルマン民族の侵入を受けた西ローマ帝国は、476年に滅亡した。ゲルマン民族は、各地における建国の過程で、軍事指揮権を中核とした王権の強化・確立を進め、政治単位としての新しい部族形成を行った。

彼らのうち北海沿岸に暮らしていたフランク族は、フランス地域のほぼ全域を支配下に治め、フランク王国を建国した。フランク族によって西に押し出された西ゴート族は、スペイン地域を支配し、西ゴート王国を建国した。ヴァンダル族は、イベリア半島から北アフリカに入り、かつてローマに滅ぼされたカルタゴの故地に建国した。ドイツ北部のアングル族とサクソン族は、ブリテン島に侵入し、七王国を形成した。東ゴート族は、イタリア半島に進出したが、バルト海沿岸から南下してきたランゴバルド族に支配圏を奪われ、またランゴバルド族のロンバルディア王国は、フランク王国に併呑されることになった。こうして、ヨーロッパ全域がゲルマン民族の支配する地域となった。やがて彼らがヨーロッパ文明を発達させるようになった。

 

●ゲルマン民族のキリスト教への改宗

 

西ローマ帝国滅亡の前後に、帝国の領土に部族国家を建てたゲルマン民族は、ローマの文化に同化し、キリスト教に改宗していった。ゲルマン民族の多くは、当初異端のアリウス派を信仰した。アリウス派の信仰はゲルマン民族の土俗的信仰と結びついて、特に東ゲルマン系の部族集団に広がった。

正統と異端の信仰は相容れない。教派の違いが、ローマ人とゲルマン人の結婚を妨げ、両者は混交しなかった。そこに変化が起ったのは、フランク王国の王クローヴィスが、496年にカトリックに改宗したことによる。クローヴィスは、481年にフランク王国を建国して、メロビング朝を始めた。彼の改宗で、ゲルマン民族のカトリック化が進んだ。フランク王国では、ローマ人とゲルマン人が混交し、ギリシャ=ローマ文明とゲルマン民族の文化が融合し、ローマ系の官吏の登用によって安定した国家運営がされた。その後、800年にシャルルマーニュがローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受けた。それによってゲルマン民族の世俗的権力とローマ・カトリック教会の宗教的権威の提携が成立し、ヨーロッパ文明の骨格が完成した。

ヨーロッパ文明及びそれが北米にも広がった西洋文明は、ギリシャ=ローマ文明、ユダヤ=キリスト教、ゲルマン民族の文化という三つの主要な文化要素を持つ。これらの三要素のうち、ユダヤ=キリスト教が宗教的な中核となったことが、ヨーロッパ文明及び西洋文明の根本的な性格を定めた。

ゲルマン民族の文化は、ヨーロッパ文明の一つの要素となっている。その文化の特徴は、戦闘性と禁欲性である。

北方の厳寒の地に生息するゲルマン人は、過酷な環境で生き延びるために、他部族・他民族との戦いに勝って食料と女と財産を奪う戦闘力を鍛えていた。その気性の激しさは、彼らの神話によく表れている。キリスト教に改宗する前、ゲルマン民族は独自の神話を持っていた。その伝承は北欧、特にアイスランドのエッダに多く保存されている。ゲルマンの神々の中心にはヴォータン(オーディン)がいた。ヴォータンは、休むことを知らない放浪者、彷徨の神であり、ここかしこで争いを引き起こし、魔術を用いる神として描かれている本来は風神、嵐の神だったと考えられる。ヴォータンは、戦闘的な遊牧騎馬民族であり、民族大移動で各地を征服したゲルマン民族の心性を反映した神格ということができ、暴力と闘争性に特徴がある。

ゲルマン民族は、戦いで勇敢に死ぬことが天国に召し上げられる唯一の道であり、平穏な死を迎えることを屈辱的と考えた。天国とはヴァルハラーと呼ばれるオーディンの館で、ここで戦死者は、昼は武芸に、夜は酒宴に明け暮れると信じた。死を恐れず、戦死こそ救いの道とするゲルマン民族は、その勇猛さでローマ軍を戦慄させた。

人類文明史において、各地の農耕民族の文明に攻め入る遊牧騎馬民族は、みな戦闘力が高かった。ギリシャ人、ローマ人も、もとは優れた戦闘性と激しい略奪性を以て広汎な地域を支配するに至り、それによって得た繁栄の上に、高度な文化を築いた。彼らに比べて、ゲルマン民族の特徴は、高い戦闘力を維持するために、快楽を抑制し、集団の規律を保つ禁欲主義的な生活をしたことである。タキトゥスが「ストイックで質実剛健な民族」と評した所以である。ゲルマン民族は、ギリシャ=ローマ文明の文化的な遺産を継承しても、享楽的な生活を避け、質実剛健の気風を保った。こうした民族性は、その後、ドイツを中心に西方キリスト教の宗教改革が起こったときに、勤勉や質素倹約が強調されたことにも表れたと見られる。

 戦闘性と禁欲性の文化を持つゲルマン民族は、キリスト教への改宗を通じて、ユダヤ教の思想・文化を間接的に摂取した。ゲルマン民族のキリスト教化は、ヘブライズム(ユダヤ文化)がヨーロッパの内陸部・北西部に伝播する過程でもあった。キリスト教を通じてヨーロッパ文明に流入したユダヤ教の要素が重要な作用をするようになるのは、16世紀以降である。貨幣経済が発達し、またプロテスタンティズムが台頭した時期からである。ユダヤ教は富を良いものとし、営利欲求を抑制して歯止めをかける教えを持たなかった。ユダヤ教の営利欲求を肯定する教えは、ユダヤ的価値観の根本にあるものの一つである。この価値観は、ゲルマン民族から禁欲性を失わせ、本来の戦闘性は富の拡大の追求と結びつくことになった。ユダヤ的価値観は、ゲルマン民族が中心となって発達させた近代西欧の資本主義と結びついて発展し、キリスト教社会へ、さらに非ユダヤ=キリスト教社会へと広まって、今日に至ることになった。

 

●改宗でゲルマン民族が失ったもの

 

ヨーロッパ文明の担い手となったゲルマン民族は、マックス・ウェーバーのいうところの「呪術の園」に暮らしていた。彼らが持っていたのは、世界各地に広く見られる原初的な信仰だった。それは、わが国の神道に通じるような多神教的な信仰だった。キリスト教は、3世紀からゲルマン諸族に伝道を行った。ゲルマン人を改宗させる過程で、ゲルマン人の古来の信仰を捨てさせていった。ゲルマン民族は、キリスト教に改宗する過程で、それまで持っていた世界観を失った。

その世界観は、アニミズムと呼ぶことができる。アニミズムとは、一言で言えば精霊信仰である。自然界のあらゆる事物には、霊魂や精霊が宿り、諸現象はその意思や働きによるものとみなす信仰である。その信仰の要素に、自然崇拝がある。自然崇拝の形態の一つが、巨木崇拝である。日本の神社には今でもしめ縄を張った神木があるが、古代のゲルマン民族にも似たような信仰があった。森の中の大きな木を、神木として崇めていたのである。これは、世界に広く見られる「世界木」または「生命樹」に通じるものだったのだろう。「世界木」は世界や宇宙の全体を表わすものあり、また天と地をつなぐものという象徴的な意味を持っている。

ゲルマン民族はキリスト教に改宗させられる過程で、巨木崇拝を否定された。8世紀の伝道師ボニファティウス(ウィンフリード)は、ゲルマン人の信仰の対象を破壊した。ゲルマンの雷神トールの神木である樫の木を、彼らの目の前で切り倒してみせたのである。ボニファティウスは、キリスト教の神の力がゲルマンの神よりも強力であることを示して、改宗させたと伝えられる。改宗によって、ゲルマン民族は自然崇拝を失った。自然は崇拝すべきものではなく、人間とともに神の被造物であり、神の似姿として造られた人間が利用すべきものという考えが生まれたのである。

キリスト教への改宗でもう一つ重要なことは、祖先崇拝を否定したことである。祖先崇拝とは、祖先の霊を祀り、霊的に交通することである。祖先崇拝は、シャーマニズムの要素となるものである。シャーマニズムは、祖霊や精霊と接触・交流する能力を持つシャーマンを中心とする信仰である。

英語学者で優れた比較文化論者・歴史家でもある渡部昇一は、次のように書いている。「ゲルマン人の元素神にガウタズがいる。ガウタズは『精液を注ぐもの』という意味で、創造の神である。この神話は、古事記の国生みの神話とイメージが通じる。イザナギ、イザナミノ命という男女ニ神は、その矛の先から滴り落ちる塩水によって日本を造った。その後、男女の原理で多くの神々が作られ、それがゲルマン諸族の王家となるというのも古事記そのままである」と。(『歴史の読み方』)

渡部のいうように、わが国の神話では、イザナギとイザナミの二神によって国土や神々が生み出された。神々の中で太陽神・天照大神が、皇室の祖先と信じられている。それゆえ、皇室と神々とは、連続している。古代ゲルマン神話でも、日本と同じく、神の系図と王の系図の間には切れ目がない。ゲルマン人の系図では、先祖は途中から神になってしまう。どの部族にも祖先神があり、王はその子孫だった。

ところが、キリスト教では、神がアダムを「土」から作ったと教える。神と人とは断絶している。そのためキリスト教に改宗したゲルマン民族において、神と人間は断絶してしまった。こうした人間観は、自然との連続意識、一体感を失わせる。自然は人間の帰るべき母体ではなく、対象化し、利用すべきものとなった。科学革命の旗手フランシス・ベーコンやデカルトの思想はこの延長上に現われる。

家族や氏族は、共通の祖先を祀ることによって、互いの結合を維持する。ところが、ゲルマン民族では、キリスト教によって、祖先崇拝は偶像崇拝として排斥された。渡部によると、「古代ゲルマン人も、古代日本人と同じく、霊魂の不滅を信じた。死んだ先祖がまだ生き続けて、自分を見ているかのように感じる先祖意識があった。死後、自分の父母や祖父母や先祖の霊と再会する。ところが、キリスト教では、親や先祖の霊ではなく、神やキリストに対面することが強調される。しかも、死後自分一人で絶対の力を持つ全能の神と対決する。このキリスト教の原則は、家族中心であったゲルマン人の心を『家』を絶対視しない個人主義へと真底から変えていった。西洋人の個人主義の根源は、まさにこの点にある」。

ボニファティウスがドイツ地方で宣教した際、ラードボードという酋長に改宗を勧めた。ラードボードは、その勧めに従って洗礼を受けようとした時、先祖はどうなるのかを尋ねた。ボニファティウスは「あなたの先祖は洗礼を受けていないので、地獄に堕ちたままです」と答えた。ラードボードは烈火のごとく怒り、改宗をやめたばかりかキリスト教を迫害したという。その後、ローマ・カトリック教会は、煉獄という概念を導入した。煉獄では、異教徒として亡くなった者でも、一定期間の浄化の後に天国に行くことができるとする。この聖書にはない領域を教義の中に設けたことにより、ゲルマン人はあまり抵抗なく、キリスト教に改宗した。

アニミズム的・シャーマニズム的な自然崇拝・祖先崇拝が否定されたことによって、西欧では、プロテスタンティズムの出現以前から、「呪術の追放」への道がつけられていた。キリスト教への改宗の過程で、ゲルマン民族は、それまでの自然崇拝・祖先崇拝を否定された。それは、我が国の神道と通じる根源的なものを失ったということである。西欧は、こうした世界に広く見られる精神文化を否定・排除することによって、世界の諸文明の中で特異化していった。その特異化の先に、近代文明が誕生し、近代化・合理化が進行することになる。叙述の都合上、本項では、キリスト教への改宗と書いてきたが、これは、ユダヤ=キリスト教への転換である。キリスト教を通じて、その根底にあるユダヤ文化が同時に流入・伝播したのである。

ヨーロッパ中世の段階では、ユダヤ=キリスト教化によって、自然崇拝・祖先崇拝が完全に消滅したわけではない。アニミズム的・シャーマニズム的な要素は、文化の中枢から周縁に押しやられ、表層からは消えたが、民衆信仰の中に残っていった。これに対し、中世のカトリック教会は、こうした信仰が社会の底辺に存続することを黙認し、それを取り込んでいく寛大さをそなえていた。それが失われるのは、16世紀の宗教改革を通じてとなる。

 

●東西教会の違い

 

キリスト教史の古代はキリスト教の発生から、395年のローマ帝国の東西分裂までである。中世は前期と後期に分けられ、前期が1054年の古カトリック教会の相互破門による東西分裂まで、後期が1453年の東ローマ帝国の滅亡と英仏百年戦争の終結までとに分けられる。

 ローマ帝国の東西分裂で古カトリック教会が東方の教会と西方の教会に分かれた際、最初は大きな違いはなかったが、段々教義や制度等の考え方の違いが大きくなっていった。

 古カトリック教会は、451年のカルケドン公会議まで4つの管区に分けられていたが、この会議によって、エルサレムが第5総主教区とされた。これにより、総主教区は、ローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの5つになった。このうちローマ総主教区は、後のローマ・カトリック教会の勢力範囲となる。一方、ローマ以外の4つの総主教区を、東方正教会という。地域的には、中近東、北アフリカ、バルカン半島の諸教会である。

ローマ教会が、ローマ帝国滅亡後の西地中海地域において、政治的・社会的な必要に応じて、教義や組織を変化させていったのと異なり、東方正教会は、東地中海地域において、ギリシャ文化圏で発達したキリスト教の伝統を保守し続けた。そのため、時代が進むにしたがって、教義や組織等に関して、東西教会の違いが明瞭になっていった。

こうした東西両教会の違いは、基本的な人間観・世界観・実在観の違いに根差すものである。その違いについては、教義の項目にいくつか書いたが、人間観、世界観、実在観の全般に渡り、そこから教会の組織や政治と宗教の関係等にも生じている。

西方キリスト教は、アダム以来、人間の本性に受け継がれているものとして原罪を強調し、人間を堕落したものと見る。そうした人間を救いに導くのは、規律だとする。規律の重視は、合理的にものを考える人間を生み出す。組織の形態は、規律を指示・保持できる中央集権のピラミッド型となる。教皇を頂点とした教階制度が発達する。また、人間は堕落していることを徹底的に認識させ、その状態から抜けだせるように努力させる。現状を悪とみなし、改革を善とする。そこから、発展を良しとする考えが発達した。

これに比し、東方キリスト教には、人間が神に善なるものとして創造されたことを強調する。堕落という言葉は使うが、西方における意味とは違い、人が自分の意志と力で神の似像を脱いでしまうことを堕落と言う。堕落の罪は人の行為により生じるとする。人が堕落するのは、つねに自分の意志により、神に背を向ける行為や生き方に自分を委ねるからである。人の罪は、一人一人の人間が、人性の中で堕落の行為を取る時に生じる。それによって、死が人に訪れ始めると考える。人間は堕落によって、神から与えられた神のイメージを失ってしまっている。キリストの救いは、人間にこのイメージを回復させるためにあるとされる。神の力と働きに人が預かり、神と交わりを持つとき、はじめて人間と呼ばれ得るものとなると考える。神に向かって生き続けるという上昇志向がなければ、真の人間とは呼ばれない。

これに関連することとして、東方では人間の自由意志を肯定するが、西方では自由意志を否定する傾向がある。西方では、イエスは人類の原罪を購ってくれた救世主とされるが、東方では、イエスは死を克服して復活したことで人類に死を克服することを示してくれた指導者ということが強調される。東方では神と人間の一体化を目指すが、西方では神と人間の隔たりを重視する。

また、西方キリスト教では、精神または霊魂を肉体よりも重視し、霊的な救済を追求する。これに対し、東方キリスト教では、霊肉一致を主張する。

次に、西方キリスト教では、聖と俗をはっきり区別する。来世は聖なるもの、現世は俗なるものとする。教会は、現世という俗界にあるが、来世という聖界の一部である。ここから聖なる教会に対し、俗なる社会という考えが生じる。こうした聖と俗の区別に基づいて、政治と宗教を分離する体制を取る。東方キリスト教では、聖と俗は対立関係ではなく、死と俗は調和の関係にあり、俗は聖を回復し、最終的には一元に復帰するものと考える。俗なる現世と聖なる来世の関係は、キリストによって隔たりが取れたとする。つまり、すでに現世に、来世の力が及んでいると考える。現世は否定されるべきものでなく、来世への橋渡しをするものとする。こうした聖と俗を区別しない考え方から、政教一致の体制を取る。次に、神学においては、西方キリスト教は、合理的知性を以って、論理的に教義の体系化を目指す。その神学は、神について知性的に学ぶという傾向がある。東方キリスト教は、古代の信仰を忠実に受け継ぎ、現実の信仰体験を前提としている。神学者たちは、信仰を、哲学的な言葉で体系化する代わりに、聖書をもとに体験的な言葉で詩的に表現し、信仰の論理を打ち立てる。その神学は、神について体験的に身を以って学ぶという傾向がある。

西方キリスト教では、天国と地獄の中間領域として煉獄を創り出した。だが、東方ではそれを正式の教義とはしていない。聖母マリアに対しても、西方では古代・中世からマリア崇敬が目立つが、東方ではそのような傾向はない。

言語的・文化的な違いもある。東西教会の相違は、分布する地域がギリシア語圏とラテン語圏に分かれ、元来異なる文化圏に属したことにも由来する。東方キリスト教は、古代のギリシャ文化圏で発達し、儀式・神学等では、伝統的にギリシャ語を使用する。西方キリスト教では、ラテン教父の時代からラテン語で神学が展開され、後代になるほどギリシア語を解さない神学者が増えた。儀式は、ラテン語を使用する。また、東方キリスト教の信徒は、南東ヨーロッパ、中近東、西アジアの諸民族が多く、西方キリスト教の信徒は、ラテン系諸民族から北方のゲルマン系諸民族に広がった。後者においては、ゲルマン文化の影響が段々色濃くなっていった。

東西両教会の違いは、こうした様々な点に及んでおり、その違いは時代が進むに従って拡大していった。

 

●皇帝教皇主義対教皇皇帝主義

 

東西教会の組織に関する考え方の違いは、皇帝と教皇の関係やローマ教会と他の教会の関係に強く表れた。

東ローマ帝国のビザンティン政権では、6世紀のユスティアーヌス帝が分裂したローマ帝国の再統一を意図した。皇帝は領土拡張に努め、534年にヴァンダル王国、555年に東ゴート王国を滅ぼし、さらに西ゴート王国を攻撃してイベリア半島南部を占領し、地中海域の全域に対する支配を回復した。また皇帝は、教会はコンスタンティノポリス教会もローマ教会も皇帝に従属するものとしようとした。ここで確立された体制を、皇帝教皇主義という。

皇帝教皇主義とは、皇帝は「キリストに忠実なる支配者」「神の代理人」であり、政治的にも宗教的にも最高の統括者であるとして、帝権(皇帝権)が教権(教皇権または教会権)を支配し、皇帝が教会に君臨する思想・体制をいう。

世俗の最高権力者である皇帝が教会の上に立つとすれば、西方キリスト教のように聖と俗を分ける考え方によれば、政治による宗教への支配となるが、東方正教会では聖と俗を分けず、帝権と教権はともに神に由来するものとし、相互に調和・均衡を保たねばならないという考え方を取った。この東ローマ帝国における帝権と教権の関係を、東方正教会ではビザンティン・ハーモニーという。

高橋保行は、この体制を次のように説明する。国家(政府)と教会は、「互いの立場を尊重しつつ、教会はこの世の救いに専念するものであって、政治的に国家と競う機構ではない。皇帝はその立場を以て政治の面から、この世を来世の写しとし、教会の聖職者は同じことを教会の面から充実させるのである」「敵対するか、断絶か、それともどちらかが一方的に治めるかという問題はここにはない。したがって政教分離という考え方も生じてこない」と。

もっとも、法律上では皇帝と総主教は同格であり、一致・協力するものと規定されていた。また、実態としては、皇帝と言えども教義を決定することは出来ず、教義の決定は公会議に委ねられていた。そのうえ、総主教が帝権に介入した場合もあったとされる。それゆえ、帝権が絶対的に教会を支配していたとはいえない。

さて、こうした東ローマ帝国の政教体制に対し、ローマ教会から反論が出た。ユスティアーヌス帝の死後、教皇グレゴリウス1世は、6世紀末から7世紀の初め、教皇という称号をローマ教会の司教にのみ限り、教皇のみがペトロに由来する使徒的伝承を保持するとし、この権威は他の司教たちのみならず、帝権にも優越すると主張した。ユスティアーヌス帝の皇帝教皇主義に対抗する教皇皇帝主義である。

これには、次のような背景がある。原始キリスト教団の時代から、キリスト教の管区はそれぞれの独立性と自治性を尊重することが原則だった。その中で、ローマ教会は、イエスから指名を受けたペトロに由来する教会としての権威を認められていた。他の四つの総主教区の総主教たちは、どの総主教も平等であることを原則としながら、ローマ総主教区は名誉上、首位にあるものとして、これを尊ぶ態度を取っていた。ただし、ローマ教会が持つ他の地方教会に対する教会法上の権限は、地方教会の上訴を受け付けることに限られた。それも厳格なものではなかった。やがてローマ教会は、各総主教の平等性を無視して、地方教会に対して直接的・法的な権限を持とうとするようになっていく。

ローマ総主教区は、ゲルマン民族の蛮行に対抗するために、政治的な能力を必要とした。ローマ総主教は、教会の統率者というだけでなく、政治権力を持つ指導者とならねばならなくなった。そこに、教皇権の考え方が生まれた。蛮族に対して権力を示すには、神の力を預かる最高権威者という地位を得なければならない。そこでローマ総主教は、教皇権に教義的な理由をつけて、ローマの教皇がすべての権限を持つことを、他の四人の総主教に要求するようになった。

教皇が皇帝の上に立つという主張は、西方キリスト教においては、聖と俗を分け、教会を聖なるもの、国家(政府)を俗なるものと分ける考え方に基づく。聖の領域の指導者である教皇が、俗の領域の指導者である皇帝を指導しなければならないとするものである。

また、現実的には、476年に西ローマ帝国が滅亡してしまい、西地中海地域では教会が、唯一の社会的統合力を発揮し得る組織となっていたことが関係している。教皇は、世俗的な政治権力の上に立って、社会を統合しなければならない。そこから、教皇権は皇帝権に優越するという主張がされたものである。

ローマの教皇がこのような主張をし得る条件には、修道院の発展があった。修道院については、次の項目に書くが、当時、修道院は多くの土地の寄進を受け、大規模な土地経営者となり、混乱した社会の安定要因となっていた。グレゴリウス1世は修道士出身であり、皇帝教皇主義に対抗して教皇皇帝主義を唱え得たのは、修道院の後ろ盾があったからと見られる。

 

●修道院の発生と発達

 

 ここで制度的な教会と対比されるものとして、修道生活について書く。人間には、個人性と社会性がある。それゆえ、宗教にも個人性と社会性がある。宗教の社会性は、集団の組織化、機構の制度化に現れる。宗教集団の規模が大きくなれば、権威と権力による組織運営が必要となる。これに対し、宗教の個人性は、信仰に基づく個人の体験や自覚によって深められる。宗教が社会性に傾き、個人性を軽視したら、形式化、形骸化に陥る。古代・中世のキリスト教において、個人性の方面は、修道生活において実践された。ただし、修道生活もまた集団で行う場合、集団の組織化、機構の制度化が必要になる。

古代のキリスト教では、洞窟や砂漠で一人で修行し、隠遁生活を送る者がいたとされる。東方キリスト教では、西方キリスト教より、積極的に自由意思を肯定するので、人間の努力によって神に近づこうとする修道が発達した。3世紀に聖アントニウスがエジプトの砂漠で修道生活を行ったのが、そのはじめとされる。修道者は隠者だが、独居は困難であるから、集団で暮らすようになった。これがキリスト教の修道制度の起源とされる。その由来は、さらに荒野で厳格な共同生活を営んだユダヤ教エッセネ派などに求められるだろう。

4世紀にローマ帝国においてキリスト教が公認され、さらに国教になると、禁欲的な生活を求める人々が、砂漠や荒野で修道生活を行う運動に加わった。

東方キリスト教において、ビザンティン・ハーモニーに安住することをよしとしない者たちが、都市を離れて荒野に移り住んだ。彼らは、過酷な環境で苦行し、自らキリストの完璧な生きた映しとなることを目的とした。修道士は時に帝権と対立し、民衆の代弁者として発言・行動した。彼らは発言権を増していき、高位聖職位を独占するに至った。東ローマ帝国では、政府が修道士を保護し、ギリシャのアトス半島や北西部のメテオラなどの山岳地には大規模な修道院が造られた。

修道院は、東方で発達した後、西方でも盛んになった。4世紀末〜5世紀初めのラテン教父ヒエロニムスがこれを西方教会に伝えるにあたって大きな役割を果たした。ベネディクトゥスは、529年ごろモンテ・カッシノに修道院を起こした。彼の生み出した修道制度は、会則を定め、所属する修道者が同じ精神を共有することに最大の特徴がある。ベネディクト会では、東方の修道士のように禁欲的な修行をして神秘体験を求めて教会に対立するものではなく、合理性と秩序のある生活を維持しながら、謙卑 (フミリタス) をもって神と教会とに仕えることを旨とした。「祈れ、そして働け」をモットーとし、信仰生活だけでなく労働を重視し、荒れた土地を開墾し、農業技術やそれに伴う醸造・製造技術を発展させた。また貧者の救済や病人の世話などの社会活動を教会のために行った。

ベネディクト会の確立したスタイルにならって、多くの男女修道会が生まれた。そうした修道会では、誓願を立てる。誓願の主な内容は「貞潔、清貧、従順」の三つである。貞潔は、結婚と家庭生活を放棄すること。清貧は、私有財産を放棄し、生活の糧を共有すること。従順は、目上の指導に神の意思を読み取ることである。

厳しい規律を持って信仰・労働・社会活動を行う集団生活は、ウェーバーが「世俗外禁欲」、「行動的禁欲」を実行するものだった。修道僧たちは、そのように生活していれば、神の救済を受けられると信じた。彼らの集団労働は強大な生産力を発揮し、修道院はその生産力によって、経済的に完全な独立を成し遂げた。また、結果として富を蓄積することになった。中世の西方教会の教えは、富を欲して儲けるのは禁止だが、結果として富が得られることは許された。

修道院の瞑想、読書、労働の生活が人々に感化を与え、多くの土地の寄進を受けた。その結果、修道院は次第に大規模な土地経営者になっていった。

 


●イスラームの興隆とキリスト教社会への影響

 

7世紀初め、西アジアで、イスラーム文明が勃興した。ムハンマドはユダヤ教・キリスト教を学び、アラビア半島にあって、新たな唯一神教を創唱した。それがイスラーム教である。

ムハンマドは、622年にメディナに聖遷し、630年にメッカを征服した。632年に彼が死んだ後、イスラーム教は急速に教勢を拡大した。

第2代カリフのウマルは、積極的に聖戦(ジハード)を行い、ササン朝ペルシャを滅亡に追いやり、東ローマ帝国からシリア・パレスチナを奪い、エジプトも征服して、西アジア一帯を支配下に置いた。

ウマルは、638年に、ユダヤ教とキリスト教の聖地であるエルサレムを征服した。エルサレム総主教ソフロニオスと会談して、キリスト教徒がイスラーム教に服従し、その優越性を認めるならば、異教徒の隷属民(ズィンミー)として一定程度の権利を保障することを約束するウマル憲章を発布した。

イスラーム帝国が支配したシリア、パレスチナ、エジプト等には、東方正教会と対立する東方諸教会が存在していた。彼らは異端として東方正教会から抑圧されていたので、イスラーム帝国を解放者として歓迎した。イスラーム帝国では、異教徒も支配に従い、ジズヤという人頭税とハラージュという土地税を納めていれば、イスラーム教以外の信仰を続けることが認められ、改宗は強制されなかった。そのため、キリスト教内で異端とされた諸派は、東ローマ帝国治下よりも、安全な生活と信仰を保障されたのである。しかし、隷属の続く中で、イスラーム教に改宗するキリスト教徒も徐々に増えていった。

8世紀後半にはアラブ系のアッバース朝が樹立された。それにより、イスラーム教の諸社会は、一個の文明として発展した。イスラーム文明は、周囲の諸文明を包摂していった。また、東ローマ帝国を中心とする東方正教文明を通じて、ギリシャ=ローマ文明の文化要素を摂取し、独自の哲学、科学、文化を発達させた。イスラーム文明の繁栄は、8世紀から15世紀末まで約8百年間も続いた。

 

●西方教会の自立と発展

 

イスラーム帝国では、661年にウマイヤ朝に替わると、さらに領土を拡大した。最大時の支配領域は、中央アジア、西北インド、北アフリカ、イベリア半島にまで広がった。

732年にイスラーム教軍はピレネー山脈を超えて、フランク王国に侵攻したが、トゥール・ポアティエの戦いで、メロビング朝の宮宰カール・マルテルに撃退された。この戦いに勝った西方のキリスト教徒はヨーロッパ文明を発展させることが可能になった。

西方教会は、ゲルマン人の諸地域への宣教を続け、8世紀前半には伝道師ボニファティウスがドイツ地方の大部分を改宗させた。ゲルマン人への布教とアルプス以北のヨーロッパへの拡大によって、西方教会は東ローマ帝国の支配とイスラーム文明の圧迫を排して自立するとともに、ギリシャ=ローマ文明の伝統をヨーロッパ文明に伝え、保持することができた。

751年にピピン3世がフランク国王に即位し、カロリング王朝が始まった。ピピン3世は西方教会に土地を寄進した。それ以降、ローマ教皇庁は北イタリアに徐々に自前の領土と勢力圏を持つにいたった。こうして成立したのが教皇領である。

768年にピピン3世の子、シャルルマーニュが即位した。東ローマ帝国で皇位の簒奪があり、皇帝の血統による継承が途絶えたことを機に、ローマ教皇レオ3世は800年にシャルルマーニュにローマ皇帝の帝冠を授けた。ここにカール大帝が誕生し、西ローマ帝国の理念が復興した。また、この戴冠は、ヨーロッパにおける中世キリスト教の成立を象徴する出来事だった。

カール大帝は、ローマ・カトリック社会を統一し、また教育・文化の発展に尽力して、「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化再生運動を起こした。ここにギリシャ=ローマ文明とユダヤ=キリスト教とゲルマン民族の文化という三つの要素が融合し、ヨーロッパ文明の骨格が出来上がった。

 ゲルマン民族はキリスト教への改宗を通じて、ユダヤ教の思想・文化を間接的に摂取した。ゲルマン民族のキリスト教化は、ヘブライズム(ユダヤ文化)がヨーロッパの内陸部・北西部に伝播する過程でもあった。

こうしたゲルマン民族のキリスト教化、ゲルマン民族を中心とするヨーロッパ文明の発生・発達の過程で、ローマ教会は、宗教的な権威だけでなく政治的・社会的な権力まで持つようになっていった。また、政治的・社会的な必要に応じて、教義や組織を変化させていった。東方正教会が古代の伝統を固守したのに対し、発展の道を進んだ。

ローマ帝国におけるキリスト教会は、都市型の組織的な「司教の教会」だった。これに対し、ゲルマン人の教会は、農民の私的所有権と自主性を保持する「私有教会」だった。そこでは、教会は設立者である君主の支配を受け、司教の叙任や会議の召集もその所有者の意志に従わねばならなかった。そうした教会が、カール大帝のもとで国教となったキリスト教の地方教会となった。こうしたゲルマン人の教会が持つ特質のもとに、中世ヨーロッパの教会と国家の問題が発生することになった。

 

●ヨーロッパの内陸化と封建制の発達

 

 西アジアでイスラーム文明が興隆すると、かつてはローマの海だった地中海が、「イスラームの海」になった。その結果、ヨーロッパは、地中海から閉め出されてしまった。ヨーロッパは、イスラーム文明の圧力によって、陸地に封じ込められた。そうした条件の下、初期のヨーロッパ文明は、内陸的な性格をもって成長した。

 ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、「文化的統一体としてのヨーロッパ」を誕生させたのはイスラーム化した地中海だと言う。「イスラームなくして、疑いもなくフランク王国は存在しなかったであろうし、マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることができないであろう」と彼は記している。

 陸地に閉じ込められたヨーロッパでは、土地を唯一の富の源泉とする経済秩序が生まれた。ギリシャ=ローマ文明の影響により、ヨーロッパ文明では、部族制度をやめて、血縁集団構造を解体しようとしたのだが、統合のための諸制度の継承や、軍事的・文化的な統合力の摂取は不十分だった。家産制による官僚統合国家をめざしたものの、中央集権化は成功せず、封建制が出現することになる。

 封建制は8世紀末から9世紀の初め、カール大帝の時に形成され、11〜13世紀にその最盛期を迎え、以後解体していった。

 封建制では、財の分配は、主として当事者間の社会的交換によって定まった。主君は臣下に土地を与えて、保護下に置き、臣下は主君に忠誠を誓い、騎士として軍務を負う。こうした主従関係は、授封された者がさらに土地の一部を従者に与えることで重層化した。封建制の経済的基盤は、荘園制だった。領主は所領に農奴を抱え、農奴には生産物の一部を領主に納める貢納と、労働を提供する賦役が課せられた。

 封建制は、日本文明とヨーロッパ文明でのみ発達した制度である。封建制は、ユーラシア大陸の中心部で発達した古代帝国の多くに見られる家産制と違って、中央集権による専制体制ではない。そのため、生産力が向上すると、各地の領主が自立性を強め、急速に社会変動が進んだ。商品経済が発達すると、農村共同体が解体し、都市化が進み、資本主義が発達した。封建制は、西欧で近代化革命が起こった経済的・社会的条件であり、日本が後発的な近代化を成功できたのも、封建制社会だったからだといえる。
 封建制の下、日本では武士道、西欧では騎士道が発達した。武士道は領主と武士が親子のような情で結び合ったが、騎士道は相互の意思の一致による契約関係であった。そこに違いはあるが、ともに個人を重視する気風が育った点では共通性がある。封建制は、近代化を担う主体が育成される土壌ともなったのである。


●神聖ローマ帝国の成立

 

 ヨーロッパ文明では9世紀にはいると、フランク王国が相続争いによって衰退した。843年のヴェルダン条約で三分割され、数年後のメルセン条約により再分割された。西フランク王国では、987年にカロリング朝に代わってカペー朝のフランス王国が成立した。一方、東フランク王国では962年に、オットー1世が教皇より帝冠を受けて神聖ローマ帝国が成立した。
 神聖ローマ帝国は、ローマ帝国→西ローマ帝国→フランク王国に続く帝国としての名称を持っていた。そして帝国の長にふさわしいとみなされた者が、ローマで戴冠し、皇帝に就任した。

西ローマ帝国滅亡後、ローマ教皇は東ローマ帝国の影響下に置かれていた。だが、神聖ローマ帝国が成立したことにより、ローマ教皇は、東ローマ帝国の行政上の代理人としての立場から解放され、政治的に独立した。またそれによって、教皇と神聖ローマ皇帝が並立するヨーロッパ独自の政教体制が出現した。

 神聖ローマ帝国の領域は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に広がっていた。帝国とは言っても、実質的には大小の国家連合体であって、古代ローマ帝国の栄光にあやかった理念的な国家だった。それにも関わらず、神聖ローマ帝国は、1806年に消滅するまで、8百年以上も存続した。

 

●東西教会は対立から分裂へ

 

 ここで7世紀以後の東西教会の違いの拡大と対立について書く。東西教会の違いについては、中世の項目の初めに書いたが、人間観、世界観、実在観の全般に渡り、そこから教会の組織や政治と宗教の関係等にも違いが生じた。そうした違いがさらに拡大することになったものに、画像論争、教皇権論争、フィリオクェ論争がある。

7世紀末から9世紀中葉にかけて画像論争が起こった。ユダヤ教、キリスト教では偶像崇拝を禁止する。だが、キリスト教では、各地で教会が建設されていくと、イエス・キリストや聖母マリアの画像を掲げて飾り、かつ礼拝することが行われるようになった。殉教者の聖遺物礼拝も行われるようになった。これに対して、ユダヤ教徒やイスラーム教徒から偶像崇拝だという非難が起った。こうしたなか、古カトリック教会で、画像を巡る論争が行われたのである。

726年に東ローマ帝国の皇帝レオ3世が、画像の使用を禁止する画像禁止令を出した。これは、教会において画像を崇拝することを禁止し、それを破壊することを命じたものである。目的は、一切の偶像を否定するイスラーム教に対抗するためにキリスト教の原則に戻そうとすることであり、また命令に反対する教会・修道院の領地の没収が狙いだったとも見られる。これに対し、ローマ教皇が反発した。それが、東西教会の対立の端緒となった。

 787年に第2ニカイア公会議が行われ、画像の崇拝と礼拝を区別し、崇拝の対象としては画像が認められた。また、画像に燈明を献じ、香を焚くことが是認された。この7回目となる全教会公会議は、東西両教会が認めた公会議の最後のものとなった。

ところが、公会議の決定後、また東ローマ帝国で画像を破壊する政策が行われた。そのため、再度論争になった。今度は、ローマ教皇が画像破壊論者たちを異端と断じた。画像を認めることで、ローマ教皇は東ローマの皇帝の支配下にはないことを示したのである。9世紀に入ると、東ローマ帝国でも、教会側の巻き返しによって画像を認める動きが起こった。その結果、843年に皇太后テオドラによって画像崇拝が認められた。ただし、東方正教会では、立像は禁止され、イコン(聖像)という平面の画像のみが認められた。これによって画像論争は解決した。しかし、この論争によって東西教会の対立は深まった。

9世紀後半、ローマ教皇ニコラス1世は、教皇権を強硬に前面に押し出した。全世界とすべての教会は、教皇の下にあるという主張であり、伝統的な諸教会並立の形態からは全く考えられないものだった。東ローマ帝国下のコンスタンティノポリス総主教区のフォティオス総主教は、これに反論した。この教皇権論争に、フィリオクェ論争と呼ばれる教義問題が加わった。

ローマ教会は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に、公会議の承認なく、「子から出て」と付け加えた。ラテン語でフィリオクェという言葉である。追加によって、その部分は「父と子から出て」と修正された。

西方キリスト教では、6世紀ごろからフィリオクェの考え方が一部の地方で受け入れられていた。9世紀に入ると、ローマ教会はその考え方を受け入れて、教皇権の主張とともに固守するようになった。

東方正教会では、定められた信条の通り「父から出て」を守っていた。父と子と聖霊の関係については、聖霊は「子を通じて父から」と信じていた。これは同時に、聖霊と子は、神性の唯一の源である父から、共に現れてくるという理解である。しかし、ローマ教会では、聖霊は「父と子から」すなわち「父及び子から」出るとしたので、父と子がこの点では同格になる。東方正教会は、公会議で決められた事項の改訂は、公会議でされるべきとし、「フィリオクェを煮詰めると異端となる」と反対した。これは、教義上大きな対立であり、東西の教会の相互の違和感は増大した。

東方正教会では、古代以来の伝統を守り続けた。これに比し、ローマ・カトリック教会では、10世紀ころから伝統の意識が希薄になり、発展をよしとする考え方が強くなっていった。その傾向は、ローマ帝国の滅亡により、帝国とともに教会が分裂して以後、現れていたが、10世紀を境に、初代からの伝統を継承する東方キリスト教と、変化による発展を目指す西方キリスト教の姿勢の違いが明瞭になった。

東方教会と西方教会の違いの拡大と対立の深刻化が進み、遂に1054年に、ローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教が、互いを破門するに至った。これを大分裂(シスマ)という。

相互破門により、2世紀から「聖なる一つの公の使徒の教会」として続いてきた古カトリック教会は、西方のローマ・カトリック教会と東方の正教会に分裂した。東方正教会では、首都コンスタンティノポリスの総主教が全地総主教としての格式を持つようになり、他の東方三管区を指導することとなった。

この東西教会の分裂が決定的な出来事だったのかどうかについては、東西で見解が異なる。十字軍については後に書くが、東方正教会の側では、1204年の第4回十字軍までは分裂は確定してはいなかったと解釈している。教会の東西分裂後も、西方教会では東方教会との再統合を求める声が根強く残り、公会議などで幾度か統合の道が模索された。十字軍が開始されたのは、東の求めに西が答えたからである。しかし、第4回十字軍がコンスタンティノポリスに侵攻したことによって、関係は決定的に悪化した。以後、正教会側のローマ・カトリック教会への反感は収まることなく、再統合への試みは成功しなかった。第4回十字軍以降、東西の教会は全く別の道を歩むことになったのである。

 

●十字軍と東西教会の決定的分裂

 

 1054年の東西教会の分裂後、西方キリスト教のヨーロッパ文明は、イスラーム文明への反攻を行った。それが十字軍である。十字軍は、1096年から1291年まで、約2世紀の間、8回繰り返された。これは、イスラーム文明の圧力によって陸地に封じ込められたヨーロッパが、その外圧をはねかえそうとした動きだった。この二つの文明の間の戦いは、キリスト教とイスラーム教との宗教戦争であり、またユダヤ教を元祖とする一神教、聖書を共有する啓典宗教同士の争いだった。

 11世紀になると、西欧では、農業生産力の向上によって人口が増加した。生活に余力が生まれ、聖地巡礼が盛んに行なわれるようになった。ところが、エルサレムは異教徒に支配されていた。エルサレムは本来、ユダヤ教の聖地だが、イエス・キリストが処刑され、復活した地でもあり、キリスト教にとっても聖地となっていた。

 この聖地を支配するイスラーム文明では、11世紀にトルコ民族がアッバース帝国に侵入して、セルジューク朝を築いた。ローマ帝国崩壊後、地中海東部では、東ローマ帝国が、ギリシャ=ローマ文明を継承して独自の発展を続けていた。セルジューク朝は、東ローマ帝国を圧迫した。セルジューク朝の進出を抑止できない東ローマ帝国の皇帝は、ローマ教皇に援軍を求めた。

 教皇ウルバヌス2世は、この求めに応じ、1095年に十字軍遠征を提唱した。東西教会は1054年に分裂したが、なお外敵に対してはキリスト教徒同士が協力したのである。ヨーロッパの諸侯や騎士たちは、教皇の呼びかけに応え、十字軍を結成した。遠征は、聖地回復という理想の下、1096年に第1回の遠征が行われた。

 第1回十字軍はエルサレムの奪回に成功した。この時、聖地では5万人のうち4万人が殺戮され、略奪が行なわれたという。ソロモン神殿では、兵士たちがくるぶしまで血につかって進むほどの殺戮がなされたと伝えられる。
 第1回十字軍の遠征に協力した見返りとして、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサの3都市は、占領地域での貿易特権を獲得した。十字軍の経済効果は大きかった。度重なる遠征で兵士や物資の輸送が行なわれることにより、これら北イタリアの港湾都市が発達した。それによって、西ローマ帝国滅亡後、沈滞していた商業がヨーロッパに復活した。

 当時はイスラーム文明の方が、ヨーロッパ文明よりはるかに高い文化を持っていた。イスラーム文明は、西ローマ帝国滅亡後も繁栄を続ける東ローマ帝国の文明から文化要素を摂取した。イスラーム地域に侵入したキリスト教徒たちは、そこに保存されていたギリシャ=ローマ文明の遺産を持ち帰った。このことが大きな刺激となり、ヨーロッパに「12世紀ルネサンス」と呼ばれる知的運動が起こった。古典古代の哲学・科学・法学・文学等の文献が翻訳された。

 イタリア商人は、やがて地中海東部の交易を支配するようになった。そのきっかけは、1202年〜1204年に行われた第4回十字軍である。
 第4回十字軍は、教皇権の絶対性を確信する教皇イノケンティウス3世が招集した。この時、東ローマ帝国で帝位をめぐる争いが起こり、支援を求められた十字軍は、コンスタンティノポリスを陥落し、ラテン帝国(ロマニア帝国)を築いた。占領は1203年から61年に及んだ。西方キリスト教徒の十字軍がコンスタンティノポリスに侵攻したことに、東方正教会は憤った。それが東西教会の決定的な分裂に結果した。

第4回十字軍の遠征の際、北イタリア諸都市の商人は十字軍の軍事力を利用して、イスラーム教徒(ムスリム)の商人、ビザンティン商人を排除し、東地中海交易の支配権を握ろうとした。ヴェネチア商人は、兵士たちに借金の代償としてアドリア海に面した都市ザラへの攻撃を求めた。兵士たちはザラで多くのキリスト教徒を殺害した。怒ったイノケンティス3世は兵士たちを破門にした。

 第4回十字軍の結果、地中海東部の商業権は、ヴェネチア商人に移った。これに対抗して、ジェノヴァ商人は、東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国を助けた。ジェノヴァ支援のニカイア帝国は、1261年にヴェネチア支援のラテン帝国を滅ぼし、東ローマ帝国を復活させた。こうしてヴェネチア商人から主導権を奪い取ったジェノヴァ商人は、当時大発展していたモンゴル帝国のムスリム商人と積極的に結びつきを進めた。

 ヴェネチアやジェノヴァは、地中海の制海権がセルジューク朝やモンゴル帝国に握られている時でも、ムスリム商人と取引を行なっていた。政治や宗教と経済活動は別である。この東方交易による経済的繁栄が、後のイタリア・ルネサンスの物質的基礎となっていく。

約200年に渡る十字軍の過程で、新たな修道会が誕生し、聖地巡礼者の防衛、イスラーム教徒への伝道、捕虜交換と傷病者治療の救出等を行った。新たに誕生した修道会の一つ、ドミニコ会は、イスラーム圏からのアラビア語文献の輸入と翻訳を通してアリストテレスの哲学を再発見し、スコラ神学の開花に貢献した。

十字軍の時代、ヨーロッパ文明は一方的に攻勢をかけていたわけではない。1242年には、モンゴル帝国の侵攻を受け、モンゴル軍がウィーン郊外まで達するという危機に直面した。しかし、ウィーン侵攻を避けられ、破壊・略奪を免れた。
 その後も十字軍遠征は、1291年まで続けられた。だが、エルサレムはイスラーム教軍に奪い返され、結局当初の目的である聖地奪回は失敗に終わった。その結果、教皇の権威は失墜した。また、十字軍遠征の繰り返しによって、騎士階級は疲弊し没落した。封建領主の力は弱まり、農奴に貨幣地代の納入を認めた結果、富農や独立自営農民が出現し、封建制が変動することになった。封建領主の地位が相対的に低下したことによって、国王が中央集権化を進め、絶対王政が出現することにもなっていった。

西方キリスト教の十字軍による首都占領を経験した東ローマ帝国は、その後もイスラーム教徒の西方進出によって衰退していった。そして、最終的にオスマン帝国によって1453年に滅ぼされることになる。

 

●聖職叙任権闘争

 

ここで、西方キリスト教のヨーロッパ文明の内部における動きを書く。ヨーロッパ文明では、10世紀末に神聖ローマ帝国が成立したことで、教皇は東ローマ帝国から政治的に独立した。ここで生じたのが、聖職者の任命権をめぐる問題である。

ゲルマン人の教会は、もともとローマ人の教会と異なり、農民の私的所有権と自主性を保持する私有教会だった。教会は設立者である君主の支配を受け、その指導者・管理者である司教の叙任はその所有者の意志に従わねばならなかった。しかし、11世紀に入ると、有能な教皇たちが、それまで世俗領主たちに握られていた聖職者の任命権を獲得することによって、教会の影響力を世俗的な社会においても強めていった。そこで教会と皇帝や各地の君主との間で対立が起こった。これが聖職叙任権闘争である。

1075年以降、教皇グレゴリウス7世は世俗君主による叙任を禁じた。これに、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が反発し、激しい抗争が行われた。1077年皇帝が教皇の廃位を要求したところ、逆に破門された。皇帝は、ドイツ諸侯の反乱を恐れ、北イタリアのカノッサに教皇を訪ね、恭順の意を示した。それによって波紋を解かれた。このカノッサの屈辱と呼ばれる事件は、皇帝権が教皇権に屈服した象徴的な出来事である。

教皇は、宗教上の指導者であり、帝国の政治権力を持たず、軍隊の指揮権も持たない。そうした教皇がどうして、中世ヨーロッパでは皇帝を上回る権限を持つようになったか。その理由は、中世ヨーロッパの社会が信仰を絆とした信仰共同体であることによる。

その社会の価値観によれば、ローマ教皇は、神から与えられた権威を持つ。これに対し、世俗の権力は、人間の堕落と罪の産物である。皇帝は、即位に際して、聖職者によってその役割を聖なるものに高められる。現世の秩序は、教皇の指導によって初めて道義的、宗教的に正しいものにできる。したがって、教皇は皇帝を監督する権利と義務を持ち、皇帝は教皇に服従しなくてはいけない。皇帝がもし教皇の指導を拒むならば、破門された。破門は、信仰共同体から追放されることである。破門になると、家臣は服従義務が解消され、皇帝に従わなくなる。武力・財力等の権力の基盤が消滅する。それゆえ破門によって、すべての権利を失うことになる。そのうえ、破門によって、救いへの道が絶たれる。教皇は天国への扉の鍵を握り、個々の信者に対して天国への扉を開くことも閉じることもできる。そういう宗教上の判断権を持ち、また裁判権も持っている。こういう社会において、皇帝は教皇の宗教的な権威に従わざるを得なかった。

叙任権闘争は以後も続き、1122年には教皇カリトゥス2世と皇帝ハインリヒ5世の間で、ウォルムス協約が結ばれ、ドイツ地方以外での叙任権は教皇に帰属することとなり、皇帝権は後退した。

 

●カトリック教会の分裂と混乱

 

叙任権闘争を通じて、ローマ・カトリック教会では、教皇権は世俗の皇帝権・国王権を超越した権威であるという認識が強まった。13世紀初め、教会法の専門家であり、政治家としても有能だった教皇インノケンティウス3世は、皇帝の選挙に干渉し、イングランド王ジョン、フランス王フィリップを破門にするなど、名実ともに教皇権の優越性を示すことに成功した。1215年に召集した第4回ラテラン公会議で「教皇は太陽、皇帝は月」と演説した。

また、教皇ボニファティウス8世は、1302年に教書「ウナム・サンクタム」を発し、教皇はキリストの代理者として霊界と俗界の二つの剣を持つと説いた。これを両剣論という。彼は、俗界の剣を行使するのは王と騎士であっても、彼らに命令を下すのは教皇の側であると主張し、「すべての人間は霊魂の救いを全うすべく、ローマ教皇に服従すべきである』と宣言した。当時、各国の国王が権力を強めはじめていた。教皇の宣言は、絶対王政を目指すフランス王フィリップ4世に対抗しようとしたものだが、アナーニ事件でこの戦いに敗れ、ボニファティウス8世は憤激のうちに没した。彼の死後、教皇権は衰退した。

一方、国王権はフランスやイングランドなどで増大し続け、教皇庁と各国君主の間で、教皇権の優越という概念をめぐって争いが行われるようになった。教会財産の所有権、聖職者裁判権、司教任命権等が激しく争われた。この状況において、教皇を補佐すべき高位聖職者である枢機卿たちは、自らの出身国や結びつきの強い国家の利益の代弁者のようになって争った。

フィリップ4世は枢機卿団の争いを利用して、教皇庁に介入し、フランス出身の教皇クレメンス5世の擁立に成功した。王の意を受けた教皇は、1309年に教皇庁をフランスのアヴィニョンに移した。以後、1377年にグレゴリウス11世がローマに帰るまで、7代の教皇がフランス王権に屈した。これをユダヤ人のバビロン捕囚にたとえて、アヴィニョン捕囚という。

教皇のローマ帰還後も、アヴィニョンには別の教皇が並立し、西方キリスト教の教会分裂(シスマ)が続いた。事態収拾のために開かれた教会会議は、ローマとアヴィニョンの2人の教皇の廃位を宣言して、新しい教皇を選出したものの、2人が廃位を認めず、3人の教皇が鼎立するという異常な事態になった。

前例のない混乱によって、教皇の権威は低下し、聖職者たちの中で公会議が教会の至上決定権を持つべきだとする考えが強まった。これを公会議主義という。この主張を受け入れた皇帝ジギスムントは、1414年にコンスタンツ公会議を招集した。この会議は3人の教皇の退位に成功し、新たな教皇が選出された。また、教会の抜本的な改革の実施が宣言された。この改革を「頭と体の改革」という。しかし、改革は進まず、公会議によって教会を変えるという理想は潰えた。そのことが宗教改革への一つの伏線となった。

 

●信徒活動と異端審問

 

 ここで、西方キリスト教のヨーロッパ文明の内部における別の動きについて書く。信徒運動と異端尋問である。

10世紀から、ローマ・カトリック教会内に信徒活動という新しい形の運動が生まれた。信徒活動は、一般信徒たちが初めて自発的に、真にキリスト教的な生活を目指した運動だった。村落内の活動から始まって、周辺地域を巻き込む規模に発展したものもあった。背景には、当時広く流布した終末思想や、聖職者の妻帯や聖職売買等の横行への批判があった。その中から、教会から異端とされ、弾圧を受ける集団が現れた。

キリスト教では、ローマ帝国の時代から教義を巡る厳しい論争があり、異端にたいする問責・処断が行われていた。ヨーロッパ文明では12世紀の後半から、カトリック教会で独特の制度と目的をもった異端審問が行われるようになった。この異端尋問の対象とされたのが、信徒活動の集団だった。

その一つが、11世紀から盛んになったカタリ派である。カタリ派の名前は、「清浄なもの」を意味するギリシャ語の「カタロス」に由来する。主にフランス南部とイタリア北部に広がった。ローマ・カトリック教会は、カタリ派がグノーシス主義的色彩の濃厚な特異な教義と組織を持っていたので、異端と認定したと主張している。カタリ派は、グノーシス主義的な二元論的世界観を持ち、この世界は「悪なる存在」によって創造されたと考えた。古代のグノーシス主義と違うのは、造物主デミウルゴスを悪魔(サタン)とする点である。また、カタリ派は輪廻転生の信仰を持っていたと伝えられる。教会は、説教師を派遣してカタリ派を教会に復帰させようとしたが、ほとんどが失敗に終わった。

カタリ派から、トゥールーズ地方のアルビにアルビ派という集団が出た。この集団を弾圧するため、教皇イノケンティウス3世が指令して、1209年にアルビジョワ十字軍が結成された。この十字軍は、アルビ派に対して、暴虐の限りを尽くした。火刑、殺戮、拷問によって3万人の市民が全滅させられた。教皇の命を受けてこの殺戮を行ったのは、主としてドミニコ会の僧兵だった。

もう一つ信徒活動から出て異端とされたものに、ワルドー派がある。ワルドー派の名前は、その創唱者による。12世紀後半、リヨンの豪商ワルドーは、フランス語に翻訳させた聖書を読んでカトリック教会の実態とイエスの教えの違いを知り、イエスの教えに帰ろうとした。「リヨンの貧者」と名乗り、イエスのような清貧の生活を目指した。ワルドー派は、自分たちで福音の精神を学んで説教を行った。信徒による説教の許可を求めたが、カトリック教会は、13世紀初めワルドー派を異端とし、信徒が聖書を読むことを禁じた。ワルドー派には、後に現れるルターの先駆とも考えられる点がある。

カタリ派、アルビ派、ワルドー派に対する迫害は、キリストの名において、キリスト教徒がキリスト教徒を殺戮したものである。11世紀から13世紀といえば、西方キリスト教は、イスラーム教徒と戦うために十字軍の遠征を繰り返していた時期である。十字軍は異教徒を攻撃するものである。だが、その同じ時期に、西方キリスト教では、キリスト教内の異端への迫害が行われていたのである。

ところで、ワルドー会は清貧の精神で人々に説教を行っていたが、同じころ現れたのが、アッシジのフランチェスコである。彼は、1207年に祭壇の十字架からの声に促されて清貧と説教の生活に入った。その生活は、腐敗・堕落したカトリック教会と別の道を行くものだったが、教会の咎めを受けることなく、むしろ教皇の支持を得た。彼が創立した修道会がフランチェスコ会である。同じ頃、教皇の認可を受けて生まれたのが、ドミニコ会である。この二つの修道会は、神学の理論等において対立した。

 さて、カトリック教会がカタリ派、アルビ派、ワルドー派といった異端への対策に迫られたことによって、教皇権と皇帝権・国王権の利害が一致した。そして、1230年代に教皇庁が任命した審問官が各地に出向いて裁判を行い、世俗の権力がそれに基づいて異端者を処罰する異端審問が開始された。この仕組みは、教皇グレゴリウス9世と皇帝フリードリヒ2世が共同で作り出した。以後、南フランスと北イタリアを中心に、異端尋問が盛んに行われた。尋問官は、ドミニコ会士が多かった。

さらに15世紀末にはスペインで異端審問が制度化され、16世紀に猛威を振るった。また16世紀にはローマに教皇庁直属の異端審問所が設けられ、厳しい弾圧がされた。これらスペイン異端審問やローマ異端審問と区別して、13世紀に行われた異端審問は中世異端審問という。

 異端尋問と類似性のある社会現象に魔女狩りがある。魔女狩りは、15世紀から17世紀にかけて起こった社会現象である。前代すなわち中世の後期における出来事であるとともに、近代の初期にかけて起こった事象であるので、魔女狩りについては近代の項目に書く。

 

●ヨーロッパ中世のスコラ神学

 

西洋史にいう中世は、西方キリスト教の思想史では、教父神学からスコラ神学への移行と後者の完成の時代である。

スコラ神学の「スコラ」は学校または学院を意味する。スコラ神学は、神学を中心として哲学、法学、自然学等を包摂した学問の総称である。9世紀から16世紀に及ぶキリスト教神学の主流であり、キリスト教とギリシャ哲学の総合を試み、信仰の内容を学問的に根拠づけ、教義を組織し、体系化しようとしたものである。

 その萌芽は、9世紀のカロリング・ルネサンス期に始まる。ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナは、新プラトン主義にもとづくキリスト教哲学を展開した。彼によると、神はイデアと自然を創造した。すべての運動はその端緒である造物主の神へと向かい、そこへ戻ろうとする。目的となる神への還帰は、キリストの復活を以って始まった。キリストにおいて成就したことは、すべての人類において、普遍的復活によって成就されるだろう。こうした思想によって、エリウゲナは、スコラ神学の先駆と言われる。ただし、その汎神論的な著作は発行を禁止された。

スコラ神学が開花したのは、「12世紀ルネサンス」においてだった。十字軍を通じてアリストテレス哲学がイスラーム文明経由で摂取され、先進的なイスラーム思想が西欧に流入した。また、古典古代の学問研究を行う大学が各地に創られた。

そうしたなか、「スコラ神学の父」と称せられるアンセルムスは、理性に対する信仰の優位を主張し、「知解を求める信仰」を説いた。教会の教義を信仰をもって受け入れ、それをプラトンとアリストテレスの哲学の助けを借りて理解しようとするものであり、信仰と理性の総合をめざす学問的企てだった。また、アベラール(アベラルドゥス)は、詳細な文献批判と厳密な論理的検討を行うスコラ的方法を確立し、スコラ神学の論理的体系化への道を整えた。

スコラ神学が哲学的な基礎として採用したのは、アリストテレスの哲学だった。アリストテレスの主要な著作が逐次翻訳され、影響を広げていった。それまでの神学は、プラトン主義的なアウグスティヌスの思想に基づくものだったので、伝統的なアゥグスティヌス主義と外来のアリストテレス哲学の融合が、スコラ神学の根本的課題になった。

スコラ神学は、13世紀に盛期を迎えた。ドミニコ会のアルベルストゥス・マグヌスは、本格的にアリストテレスの研究を行い、学問的水準を高めた。その弟子トマス・アクィナスが、スコラ神学を完成に導いた。

 トマスは、1266年から筆を起こして未完に終わった『神学大全』で、キリスト教神学において、新プラトン主義、アウグスティヌス、イスラーム哲学、ユダヤ哲学などを総合する独自の思想を作り上げた。彼の神学の拠り所は、万物の始源からの発出と還帰という新プラトン主義の原理である。トマスはこの原理に基づいて、宇宙を第一原理・創造主なる神から発出して、究極目的なる神へ還帰する運動として捉えた。そのうえで、神への還帰の「道」としてのキリストを考察している。

トマスの業績を、「トマス的総合」という。信仰と理性とを分離したうえで、どちらかの優越を主張するのではなく、両者の内的総合を追究し、神を中心とする信仰の超越性と人間理性の自律性とを両立させたものとされる。そこにおいては、理性と啓示は矛盾せず、理性と信仰の間に断絶がない。

トマスは、アリストテレスの形相と質料という二つの概念を使って自然を分析した。それによって、啓示に基づく啓示神学とは異なる、自然的理性によって神の存在や属性を考察する自然神学の研究の道を開いた。

スコラ神学はトマスによって頂点に達したが、13世紀末から14世紀に入ると、教皇権の衰退と教皇庁の頽廃によって、中世社会の秩序は崩れ始めた。その秩序を支えていたトマス神学への批判が起った。

アウグスティヌス主義を保守するフランチェスコ会のドゥンス・スコートゥスは、理性の一貫性が保持されて神学と哲学の間に断絶がないトマス神学に対して、その両者を区別し、信仰と理性の融合は困難だと強調した。神の理解に関して理性は無効だとして、直観すなわち神秘的認識を主張した。彼の思想は、16世紀の宗教改革で現れる福音主義的な立場の先駆と見られる。福音主義とは、儀礼・制度・伝統などを重んずる立場に対し、イエス=キリストの伝えた福音にのみ救済の根拠があるとする思想である。

ローマ・カトリック教会では、パウロ、アウグスティヌスによって、救霊予定説を教義とした。だが、中世においては予定説を緩め、因果説を加えた折衷論に変化した。その論を提示したのが、トマスである。

 トマスは、救済を得るには人間の努力や善行が必要であるとした。神の恩恵を得て回心する過程において、信仰だけではなく、人間の努力や行為が意味を持つ。また、努力に応じてより高い水準に至るという考え方である。これは、人間の自由意志を認める立場である。自由意志を認めるならば、人間の努力が救いに結び付くという因果説になる。それでいてトマスは予定説を否定していないから、予定説と因果説の折衷であり、一部に因果説を含む予定説になる。トマスは、人間の自由意志を認めていながら、人間は放っておいて倫理的に行動するものではないと見た。では、誰がその不断の指導と援助とを与えるのか。トマスの理論によれば、それは教会である。この論理を得たカトリック教会は、秘蹟の行使、教会・修道院規範の確立といった本来の教義と異なる方向にひた走り、腐敗を招いたのだった。16世紀の宗教改革で、ルターやカルヴァンがパウロ、アウグスティヌスの救霊予定説の復活となるような主張をしたのは、カトリック教会への批判において、重要な争点となったわけである。

ところで、話を中世の14世紀に戻すと、ドゥンス・スコートゥスによるトマス的総合への批判を徹底して、純粋な信仰と経験的・実証的な学問とが分離する道を開いたのが、同じくフランチェスコ会のウィリアム・オッカムである。オッカムの中心思想を唯名論という。その説明をするには、普遍論争について述べる必要がある。そこで項目を改めて書く。

 

●普遍論争に始まる中世的世界観の揺らぎ

 

普遍論争とは、普遍つまり類と種は実在するか、それとも人間の知性が構成するものにすぎないかということをめぐって行われた前代すなわち中世の神学における最大の論争である。

普遍は実在するという主張を、実念論または普遍実在論(レアリズム)という。これに対し、普遍は名目的なものでしかないとする主張を、唯名論または普遍唯名論(ノミナリズム)という。

普遍論争は、プラトンとアリストテレスの哲学に淵源を持つ。プラトンは、イデア(形相)は個物を離れて存在する真の実在であると説いた。彼の弟子アリストテレスは、エイドスはただ個物のなかにしか存在しないとした。この違いを仮に普遍の概念に当てはめると、普遍は個物から独立し、個物に先立って実在すると説くプラトン主義的な説と、普遍は個物においてのみ実在すると説くアリストテレス主義的な説が成り立つ。そうした違いはあるが、プラトン派もアリストテレス派も普遍が実在するという点は、共通している。

ところが、プロティノスの弟子ポルピュリオスは、普遍概念を存在論的な根拠から切り離して、純粋に論理学的に理解しようとした。ここに普遍は客観的に実在するものではなく、単に論理学的な概念だという考え方の萌芽が現れた。その説が西方キリスト教社会に紹介され、普遍に関する論争が生ずるようになった。

スコラ神学の先駆エリウゲナは、実念論を強く主張した。彼は、新プラトン主義の流出説を用いて、自然全体が神より出て神に帰るという構図のもとに、普遍は特殊を含み、個物は自然から出るとした。

カトリック教会は、実念論を取った。アダムにおいて普遍的人間が存在するのでなければ、その子孫である人類はみな原罪を負うという教義は成立しない。またイエス=キリストがその人性において普遍的人間として「教会の頭」であるのでなければ、普遍的教会としてのカトリック教会の権威の根拠がなくなると考えたからである。

しかし、11世紀末から唯名論が登場した。ロスケリヌスは、実在するものは個物のみで、普遍はたんなる音声にすぎないと説いた。ロスケリヌスの弟子、アベラールは、普遍とは言葉または名辞が指し示す意味だとした。アベラールの主張から、普遍は概念だとする概念説と言表だとする言表説が展開した。

これに対し、13世紀にトマス・アクィナスは、実念論に立って次のように説いた。万物の本質は、神による創造に先立ち、イデアとして神の中に先在する。万物は、創造によって神から固有の本質を受け、実在界に個別化されて存在する。それが人間の知性によって抽象されて類・種の普遍概念が得られる、と。

 14世紀前半、唯名論の側に、オッカムが出現した。オッカムは、普遍は神あるいは事物の中に存在するのではなく、ただ精神の中に語として存在するに過ぎないとした。普遍は記号であるとする記号説である。この説では、普遍の問題は形而上学的・存在論的な問題ではなく、記号の機能分析の問題となる。従来のキリスト教神学では、神は普遍的なものとされてきたが、唯名論の考え方を徹底すれば、普遍の概念を以て神の存在や神による創造を説くことはできなくなる。しかも、オッカムは「直観的に知られるのでなければ、いかなるものも本来自然的に知られない」と説いた。直観的認識は世界に関するすべての認識の基礎であり、またこの認識は経験によって初めて成立するとした。これは、形而上学的独断を排する経験主義の態度である。ここには、スコラ神学の観念体系を脱する近代西欧哲学への道が見られる。

ただし、オッカム自身は、神学と哲学は別だとし、教会の信条はただ信仰されるべきと説いた。そして、神の絶対的な超越性を確立し、神以外のすべての実在の根本的な偶然性を示すことを試みた。このようにオッカムの思想は、キリスト教神学の枠内のものだったのだが、ローマ教皇庁から異端の宣告を受けることになった。

中世を通じて繰り広げられた普遍論争は、唯名論が登場して論争が激化し、中世神学の体系を揺るがし、さらにそれに基づく世界観そのものを揺るがすことになっていったのである。

 ただし、中世のローマ・カトリック教会は、神学においては緩やかさがあり、教会全体を制約するような確定した神学は存在していなかった。スコラ神学も、当時のそれは、個々の学者の教えの寄せ集めだった。アウグスティヌス主義とアリストテレス主義、実念論と唯名論、教会主義的傾向と神秘主義的傾向等は相反した思想でありながら、それらがみなカトリック教会の神学に含まれていた。ところが、16世紀にプロテスタントによる宗教改革が起こると、これに対抗するカトリック側の改革が必要となり、トリエント公会議でプロテスタンティズムに対抗するために神学の強化がされることになった。

スコラ神学最大の学者トマス・アクィナスの思想がカトリック教会の正統な教義となったのは16世紀であり、宗教改革の後だった。トマスへの評価は、カトリック教会側からは、理性と信仰の調和を確保したものだが、プロテスタントは、信仰・啓示を軽視した主知主義・理性主義としてこれを批判している。

 

●西方キリスト教社会におけるユダヤ人

 

 ここで、古代から中世にかけて、キリスト教社会で行われたユダヤ人への対応、特に迫害について書きたい。

 800年にローマ教皇から皇帝の帝冠を受けたカロリング朝のカール大帝は、西ローマ帝国の理念を復興し、異教徒をキリスト教へ改宗させるべく強制布教を行った。だが、ユダヤ人については「聖書の民」であるとの理由で、ユダヤ教信仰とその祭儀を保持することを許した。また、ユダヤ人を「王の動産」として保護した。王の保護のもとで、ユダヤ人は自由な通商貿易を行うことを許され、優れた能力を表した。

カロリング朝では、ライン地方のケルン、マインツ、ヴォルム、シュパイヤーなどにユダヤ人社会が形成され、以後中央ヨーロッパにおけるユダヤ人の定着地として繁栄した。これらの地方はヘブライ語で東を意味するアシュケナジと呼ばれたので、同地域に住むユダヤ人をアシュケナジムと称するようになった。

ユダヤ人は、どこにおいても類まれな経済的能力を発揮してきた。ユダヤ人は、古代西アジアで興亡した諸文明の経済文化を継承した。モーセ五書の一つ、『申命記』23章21節に「外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。」と定めている。外国人からは利子を取っても、取り立てをしてもよいという教えである。

 故国を失って離散したユダヤ人は、移住した地で生活していくための職能を身につけた。その職能のひとつが商業だった。外国語を習得し、異文明間の交流において通訳と交易を行うことができるユダヤ人は、各地の為政者に重用された。

西ヨーロッパから中央ヨーロッパに広がる当時のヨーロッパ文明において、ユダヤ人は、キリスト教徒から商人としての技量を買われて、支配者たちに招かれた。土地所有者と農民からなる封建社会の枠組みからは、最初から外されていた。土地所有から切り離された結果、ユダヤ人は都市の住民となった。法的地位は王、封建領主あるいは司教たちに全面的に依拠していた。

キリスト教に改宗しないユダヤ人は異教徒として差別され、市民権を与えられなかった。ユダヤ人が携わることのできた職業は極めて限られていた。金貸し業、税の集金、小規模な質屋、古物の売買などである。しかし、一部のユダヤ人は職業選択の制限を逆に生かし、金融と投資に関する専門技術を発達させた。ユダヤ人は、キリスト教徒による迫害・追放のたびに簡単に奪われる不動産・家畜などではなく、容易に持ち運べて隠せるものに財産を変えておく必要があった。それには金銀や宝石が向いていた。そこから彼らは金銀宝石を扱う商業のプロにもなっていった。12世紀から西欧のユダヤ人には銀行業や商業で成功する者や宮廷に出入りする者も出た。社会的地位は低かったものの、経済的な実力によって階層を上昇し得る道を切り開いていった。

また、度重なる追放と強制的な移住で、ユダヤ人はヨーロッパの分散居住するようになったが、その結果、ユダヤ人は各地をつなぐ情報・金融・流通の国際的なネットワークを形成した。それが彼らの集団の他にない強みとなった。

 

●中世ヨーロッパの反ユダヤ主義

 

ユダヤ人に対する抑圧とそれを正当化する思想を、反ユダヤ主義という。反ユダヤ主義は、古代オリエント地方や古代ローマ帝国には存在しなかった。ローマ帝国では、ローマ市民権を持つユダヤ人は、4世紀末まで、帝国内のあらゆる公職に就任できた。しかし、キリスト教の中からユダヤ人を宗教的に非難する思想が発達した。

キリスト教は、パウロによって、「神は愛である」という教義を核心とする愛の宗教として発展した。だが、そのパウロが書いた『テサロニケの信徒への手紙一』2章15〜16節には、次のようにある。「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。」と。

この記述は、イエス殺害の責任を当時、エルサレムにいた特定のユダヤ人だけでなく、ユダヤ人全体に負わせている。また、預言者の殺害やキリスト教徒への迫害、異邦人への布教の妨害についても、ユダヤ人を非難し、神の怒りがユダヤ人に向けられると説いている。

2世紀初めころに成立した『ヨハネによる福音書』8章44節では、イエスがユダヤ人たちに「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」と説く。ここには、ユダヤ人を「悪魔の子」とする思想が表れている。

キリスト教が西欧社会に深く浸透するまで、ユダヤ人はそれほど迫害されていなかった。キリスト教が西欧社会に深く浸透し、カトリック教会の支配が確立すると、カトリックの教義によって、ユダヤ人迫害が激しくなった。「イエスを磔刑に処し、死に至らしめた責任は、ユダヤ人にある」とされたことから、キリスト教の反ユダヤ主義が始まった。

反ユダヤ主義は、ローマ帝国の法制度に影響を及ぼすようになった。438年のテオドシウス法典は、ユダヤ人の公職就任を初めて法的に禁止した。帝国内でキリスト教の勢力が増大するなかで、救世主を死に至らしめたユダヤ人が救世主の救おうとした人々に権威を振るうのはおかしいと考えられるようになったのである。ただし、ユダヤ人は市民権を奪われることはなく、市民権に付随する諸々の基本的権利を法によって保護されていた。

反ユダヤ主義は、佐藤唯行によると、次の4つの現れ方をしてきた。

 

(1)宗教的な敵意: キリスト教の教義自体に内在するユダヤ人への敵意

(2)物理的暴力行使: 身体に直接的危害を加えるもの。ナチスのホロコースト等

(3)反ユダヤ・キャンペーン: 言葉・活字・メディアによる誹謗・中傷

(4)社会・経済的排斥: 就学・就業・昇進の際に加えられる差別や排斥

 

(1)は、キリスト教の形成期から表れているものである。先に記した『テサロニケの信徒への手紙一』『ヨハネによる福音書』の引用部分等に、その思想が書かれている。

(2)(3)(4)は、12〜13世紀になってから出現した。時期は十字軍の時代と重なる。異教徒であるイスラーム教徒への聖戦意識から、ヨーロッパの内なる異教徒であるユダヤ人にも憎悪が向けられた。同じころ、ユダヤ人が金融を通じて影響力を及ぼし始めたことも、反ユダヤ主義が増大する原因となった。

 

●十字軍とユダヤ人迫害の開始

 

11世紀に始まる十字軍は、ヨーロッパ文明を陸地に封じ込めたイスラーム文明の外圧を、はねかえそうとする動きだった。この二つの文明の間の戦いは、キリスト教とイスラーム教との宗教戦争であり、またユダヤ教を元祖とするセム系一神教、聖書を共有する啓典宗教同士の争いだった。十字軍の戦いは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の共通の聖地であるエルサレムを巡る攻防を一つの要素とした。

キリスト教徒とユダヤ人の間は、11世紀末近くまで、安定した関係が続いていた。第1回十字軍が始まる前の1066年に、イギリスでノルマン・コンクエストがあったが、この時、ウィリアム征服王はフランスのルアン地方からユダヤ人を帯同した。彼らは医師、貿易商、金貸しなどとして王家に仕えた。ユダヤ人は、イギリスでも一定の保護を受け、王の動産として扱われた。

ところが、十字軍の動きが始まると、様相は大きく変わった。遠隔地の非キリスト教徒に向けられたキリスト教徒の宗教的憎悪が、身近にいるユダヤ人に対しても向けられたのである。それによって、血腥いユダヤ人迫害の歴史が始まった。

1096年春、第1回十字軍がヨーロッパを横切って東方に向かった時、その最初の犠牲者となったのはライン地方に住むユダヤ人だった。ユダヤ人の大量虐殺と強制改宗が行なわれた。第2回、第3回十字軍の際にも同様の事件があった。

この時代まで、キリスト教徒は、イエス=キリストを殺害した先祖の罪ゆえにユダヤ人が罰せられるべきだとは信じていなかった。彼らは、イエスと同時代のユダヤ人はイエスの行った奇跡を目撃し、預言が実現したのを目の当たりしたのに、イエスが貧しく身分が卑しかったがゆえに彼を承認することを拒絶したことを以て、ユダヤ人の罪だと考えた。

 

●宗教的迫害とその教義の確立

 

西方キリスト教徒による十字軍の遠征が繰り返し行なわれるようになると、ヴェネチアなどイタリアの共和国が地中海貿易を独占するようになった。キリスト教徒が実力を高めるにつれて、貿易におけるユダヤ人の地位は低下した。また、製造業や商業などでは、次第に職能組合であるギルドが支配するようになった。ユダヤ人はこのギルドから通常、排除された。

北イタリアでは、ユダヤ人の経済状況は幾分恵まれていたが、教皇の力が強まるにつれ、ユダヤ人に対する統制が強化された。教皇はたびたび会議を招集して、ユダヤ人の自由と権利を制限する法令を発布した。その中には、ユダヤ人とキリスト教徒を社会的に隔離しようとするものがあった。1179年に開かれた第3回ラテラノ公会議で、キリスト教徒とユダヤ人の混住を禁じることが決定された。また同じ公会議で、キリスト教徒の間では金銭の貸し借りに金利を取ってはならないという法令が出された。この法令は、ユダヤ人がキリスト教徒に金銭を貸す場合には適用されなかった。そのため、ユダヤ人が他の経済活動から排除されつつある状況では、彼らに残された職業は金貸し業だけになったも同然だった。

12世紀の半ばから、ユダヤ人がキリストの受難を冒涜する儀式を行うために、キリスト教徒の幼子を誘拐し、磔刑にして殺害したという告発が現れた。これを「儀式殺人告発」という。1144年にイギリスのノリッジで初めて発生した後、13世紀には西ヨーロッパ全体に飛び火した。中世後期以後はその舞台をドイツ・東欧へ移した。キリスト教徒が儀式殺人を告発した目的は、実際にはユダヤ人金貸しに負った借金の棒引き、ユダヤ人財産没収のための口実づくりが多かったと見られる。

13世紀までには、カトリック教会で、ユダヤ人はイエスを磔刑に処し、死に至らしめた罪により、永久に隷属的地位に置かれるべきだという教えが確立された。

 

●イギリスでユダヤ人の追放が始まる

 

12〜13世紀のヨーロッパにおいて、ユダヤ人はキリスト教徒から迫害を受けながらも、経済的能力を発揮するとともに、文化的な能力を発揮した。古代ギリシャ=ローマ文明の文化的遺産は、ヨーロッパ文明よりイスラーム文明に多く受け継がれていた。ヨーロッパでは、古代の科学や哲学はアラビア語あるいはヘブライ語に翻訳された文献で学ぶしかなかった。アラビア語とヘブライ語のできるユダヤ人学者は、貴重な存在だった。

スペインは、キリスト教徒の学者ユダヤ人学者が共存することにより、古代文化の研究や翻訳の中心地となった。ユダヤ人は、ラテン語を解するキリスト教徒とともに各種文献の翻訳に携わった。その活動は、14世紀以降のルネサンスの先駆けとも言えるものであり、ギリシャ文化がラテン語を使う修道院や西洋の大学に伝達される重要なルートになった。

 しかし、こうしたユダヤ人が13世紀末から、西欧の多くの国で追放されるようになった。追放はイギリスで1290年に始まった。フランスでは1306年から、ドイツでは1340年代の黒死病流行の後、北イタリアでは1480年代から行われた。続いて、スペインでは1492年、ポルトガルでは1496年、プロヴァンスでは1512年、教皇領では1569年に、ユダヤ人追放が行われた。

 本稿は、1453年を世界的なキリスト教史における中世の終わりと近代の始まりの道標としているが、ここに西方キリスト教徒のユダヤ人の迫害をまとめて書いておきたいと思うので、15世紀半ば以降にわたって述べることにする。

中世のヨーロッパ諸国の中で初めて、一国規模でユダヤ人の永久追放が行われたのは、イギリスである。13世紀末のイギリスでは、ユダヤ人の金融活動の結果、王の支持基盤である騎士層が没落する一方、大貴族が土地を集積しつつあった。ユダヤ人は、騎士層から抵当として土地を取得したが、農場経営資格を持たないので、その土地を早急に換金する必要があった。国王に税を納めるためである。ユダヤ人は換金のために裕福な大貴族に抵当を持ち込んだのである。国王は、自分の手足となって働く騎士層の没落に歯止めをかけようとして、騎士層を官僚に登用した。また、王権に反抗的な大貴族に対しては、その力を抑えなければならない。そこで、国王にとってユダヤ人の財力は財源の一つではあったが、権力を集中して強固な封建王制を築くために、窮余の策として1290年からユダヤ人をイギリスから追放したのである。