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■核大国化した中国、備えを怠る日本

〜日中戦後のあゆみ

2007.1.16

 

<目次>

 はじめに

第1章 中国はこうして核大国化した

(1)毛沢東は核を求めた

(2)「6億人いるから半数が死んでも」

(3)ソ連と対立しても核を開発

(4)日本は核ミサイルの標的に

(5)日中国交回復後に核大国化

(6)激烈な反日と猛烈な軍拡

(7)中国は核戦争で勝利を目差す

  第2章 日本は対米依存で、非核・専守防衛に

(1)中国とは対照的なわが国の道

(2)憲法を放置し、国防は他に依存

(3)鳩山・岸は自主的かつ現実的だった

(4)国防の回復より経済中心に

(5)非核三原則の欺瞞

(6)70年安保の危機後、中国の核の標的に

(7)米中の密約と専守防衛の変質

(8)中国は工作、北朝鮮も核開発

(9)国防の基本から外れた日本

第3章 わが国の国防の現状と課題

(1)うそ寒い国防の現状

(2)これでは日本を守れない

(3)急がれる根本的な見直し

結びに〜国防の整備を進めよう

 

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はじめに

 

わが国とシナは、19世紀の中半、西洋列強の挑戦を受けた。わが国は明治維新を成し遂げ、アジアで初めて近代国家の建設に成功した。シナでは、清国が列強に半植民地化された。日本と清は激突し、わが国が勝利すると、シナは日本の近代化に学んだ。シナでは、清を倒した中華民国が誕生した。その後、わが国と中華民国との間では、対立・摩擦が続き、昭和12年(1937)7月に日支事変が勃発した。わが国の早期解決の努力はむなしく、日中間では泥沼の戦争が続いた。わが国は、さらに大東亜戦争に突入し、大敗を喫した。

敗戦後、わが国は、連合国軍の占領下に置かれ、「民主化」の名の下に、日本弱体化の政策が強行された。GHQによって憲法が押しつけられ、わが国の国防は制限された。その憲法が放置されたまま、昭和43年(1968)に、わが国は、非核三原則の政策を掲げた。さらに昭和47年(1972)には、国防を受動的な防御に徹する専守防衛に限定した。
 一方、戦後、シナでは、共産主義が勝利し、中華人民共和国が建国された。共産中国は建国後、繰り返しアメリカから核攻撃の威嚇を受けると、1950年代中半に核を保有する方針を決め、国力を集中して核開発を進めた。昭和39年(1964)に最初の核実験に成功し、昭和45年(1970)に、日本を射程に収めるIRBMを完成させた。わが国は、この時点から、中国の核ミサイルの標的になっている。

戦後日本と共産中国は、まったく対照的な道を進んできた。その結果、わが国は、強大化する中国に併合されるおそれが出てきている。

本稿では、最初に、共産中国の歴史と核開発の過程を概観し、その後、戦後のわが国のあり方との対照を試み、最後に、わが国の国防の現状と課題について述べたい。

 

第1章 中国はこうして核大国化した

 

(1)毛沢東は核を求めた

 

●シナでは、6500万人が共産主義の犠牲に

 

平成9年(1997)にフランスで『共産主義黒書』が刊行された。本書は、20世紀の世界を席巻した共産主義の犯罪を厳しく検証している。著者たちは、共産主義による犠牲者を8000万から1億人とする。中でも中国の犠牲者は、6500万人にのぼると推計する。世界の犠牲者のうち、3分の2から8割までが、中国で発生しているというのである。
 この中国の惨禍は、毛沢東という冷酷非情の大量殺戮者、権力欲の権化、恐怖と恫喝の支配者、世界制覇をもくろむ誇大妄想狂によるものだった。毛の悪行は、スターリンやヒトラーを上回るものだった。
 ユン・チアンとジョン・ハリデイの共著『マオ―誰も知らなかった毛沢東』(講談社)は、新しい膨大な資料や多数のインタビューをもとに、このことを圧倒的な説得力で明らかにしている。さらに、そのすさまじさは、20数カ国で翻訳されている『九評共産党』(博大)が、生々しく報告している。

 毛沢東は、中国の軍事大国化をめざし、地球の支配者となろうとした。生前には、その野望は達成されなかったが、彼の死後、中国共産党は、超大国化の道を歩み続けた。そして、21世紀の今日、共産中国は日本への脅威となり、アジアへの、また世界への脅威となっている。その憎悪と謀略の反日思想によって。また、核ミサイル、原子力潜水艦、自然破壊、食料不足、エネルギー争奪、エイズの蔓延等によって。

 共産中国は、建国の初期から核開発を行い、核大国となった。核の開発・保有こそ、毛沢東が最も執着したことだった。現代中国の歴史は、核開発の過程を抜きには理解することができない。


●核開発が中国を軍事大国にした

 中華人民共和国は、昭和24年(1949)、シナに誕生した。建国の初期に、毛沢東は、核兵器を保有して米国の世界支配に挑戦するという国家目標を掲げた。以来、半世紀を超える間、中国はその国家目標を実現するために、核兵器開発を最優先とした国家戦略を立て、国家の総力を集中して核兵器を開発してきた。
 国際社会で、中国が大国として発言力を持つようになった理由には、核兵器を保有したことがある。核を持ったことで、中国は、米ソが侮れない存在となり、台湾に替わって、昭和46年(1971)に国連での代表権を獲得した。
 核開発から始まった中国の国家戦略は、大陸から海洋・宇宙空間へと発展している。今日、共産中国の国家戦略は、核・海洋・宇宙という三つの領域に明確に焦点を定め、それらが総合的に機能し始め、アメリカに対抗してアジアでの覇権をめざすものとなっている。

●共産中国の国家目標・国家戦略
 
 共産中国の歴史を見ると、反右派闘争、大躍進、文化大革命、毛沢東死後の四人組の粛清等、混乱や権力闘争が繰り返されてきた。その間、6500万の命が犠牲になった。しかし、こうした時期を経ながらも、核ミサイルの開発は、一貫して進められてきた。そこに共産中国という国家の特質がある。そのことを明確に指摘したのが、平松茂雄氏である。平松氏は言う。
 「中国という国は常に明確な国家目標を掲げ、その目標を実現するための国家戦略があり、その目標を実現するために強い国家意思の働く国である。そのためにパイの配分が行われ、よほどの政治的混乱、経済的停滞がない限り、それが実施される国である。中国の核ミサイル開発の過程はそれを教えてくれる」と。
 この過程を現代中国の歴史の中でたどってみよう。軍事的な側面は、平松氏の著書『中国、核ミサイルの標的』(角川Oneテーマ21)、共著『日本核武装の論点』(共著、PHP)に多くを負っている。

●毛沢東の決断

 昭和24年(1949)9月、毛沢東は、中華人民共和国の建国の意義を次のように語った。
 「中国人はもともと偉大な、勇敢な、勤勉な民族であるが、ただ近代になって落伍してしまった。こうした落伍は、まったく外国の帝国主義と自国の反動政府による抑圧と搾取の結果にほかならない。だが中国人民が立ち上がってつくった新中国は、国防は強化され、いかなる帝国主義者に対しても、われわれの国土を二度と侵犯することを許さない」と。

 中国共産党は、日中戦争、国共内戦の中から権力をつかみ取った。毛沢東は「鉄砲から権力が生まれる」と言い、政策の根本を軍事に置いていた。ところが、中国は建国後数年の間に、アメリカから核兵器で繰り返し威嚇された。昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争、29年(1954)のインドシナ戦争、29〜30年(1955)の台湾との大陳諸島解放作戦、同じく33年(1958)の金門島砲撃の際である。毛沢東は、アメリカの核攻撃の瀬戸際に立たされた。
 この経験から、毛は、アメリカに対抗するには核兵器を保有することが不可欠と考えた。そして、核兵器とそれを運搬する弾道ミサイルの保有を決断した。

 昭和31年(1956)4月、毛沢東は中共中央政治局会議で、「今日の世界で、他人の侮りをうけたくなければ、原爆を持たないわけにはいかない」と演説した。毛沢東は、現代の国際社会で政治的発言力を持つためには核兵器が必要であり、核兵器は中国を米ソが無視できない地位に引き上げる政治的な兵器であると認識した。
 独裁的な指導者・毛沢東の決断によって、中国は1950年代中半から、核開発を進めた。開発は、ソ連の援助と協力を受けて進められた。以来、中国は、国民生活の向上や通常戦力の近代化を後回しにして、核兵器の開発・保有を遂行した。その半世紀の過程は、戦力不保持・専守防衛・非核三原則を国是としてきたわが国とは、まさに正反対の歩みである。
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関連掲示
・共産主義については、項目「共産主義」の拙稿をご参照ください。

 

 

(2)「6億人いるから半数が死んでも」

 

●「6億人いるから半数が死んでも」と毛沢東は言った

 最初に核開発に成功したアメリカの後を、ソ連が追った。ソ連は、昭和24年(1949)に原爆保有を公表し、28年に水爆実験を行った。その後、間もなく昭和32年(1957)8月、ソ連は、大陸間弾道ミサイルの発射実験に成功した。アメリカは先を越された。10月には人工衛星スプートニク1号、続いてライカ犬を搭載したスプートニク2号の打ち上げにも、ソ連は成功した。ソ連はアメリカに対する軍事的優位に立った。
 しかし、ニキータ・フルシチョフは、核の破壊力を増大していくと、いずれ米ソは核戦争に突入し、人類の絶滅につながると認識するようになった。フルシチョフは、軍事よりも経済でアメリカを抜くことを目指す政策に転じた。「大砲よりバター」で、社会主義体制の優位を示そうとした。

 毛沢東は、違う考えを持っていた。毛は朝鮮戦争(1950-1953)の時、途中から北朝鮮の意思を越えて、戦争を拡大した。戦争を拡大することにより、スターリンから核開発への援助・協力を取り付けようとしたのである。
 昭和32年(1957)10月、ソ連は、毛沢東の強い要望に応えて、中国と核兵器開発の技術援助を行う協定を結んだ。以後、中国の核兵器開発は、ソ連の技術援助により進められた。

 当時、毛は、ソ連が大陸間弾道ミサイルの発射実験に成功したことをもって、「東風は西風を圧倒している」と認識した。東側の諸国が西側の諸国に対して力の優位に立ったというわけである。そして、毛は、ソ連を中心とする社会主義陣営が団結して、アメリカの核を恐れず、「原爆は張子の虎」であることを暴露すれば、世界戦争は起こらない、そればかりか帝国主義を絶えず弱体化させ、究極的には圧倒することができると主張した。

 「中国は人口が6億人いるから、仮に原水爆によって半数が死んでも、3億人が生き残り、何年がたてばまた6億人になり、もっと多くなるだろう」と、毛は語った。
 これには、フルシチョフも呆れ果てた。毛の思想は「核兵器のいかなるものかを知らない」人間の「非人間的な考え方」であり、「野獣の考え方」であると厳しく批判した。シナの伝統である人命軽視の価値観は、ソ連の指導者をも驚かせ、警戒させたのである。

 やがて中ソに亀裂が生じた。ソ連は昭和34年(1959)6月に中国に対する核開発技術援助供与を一方的に打ち切った。打ち切りに対して、中国はソ連に反発した。毛沢東は、ソ連との同盟関係を反故にし、ソ連の社会主義陣営を離脱し、自国を危機にさらしてでも、自力で核開発を推進しようと考えた。

●核開発のためだった大躍進・人民公社

 こうした中国の核開発の初期に、大躍進(1958-1960)が試みられた。毛沢東は、建国10年を迎える中国が社会主義建設を進めるためのスローガンとして、「大躍進」を打ち出した。これは、生産大躍進として、人民公社革命・社会主義建設総路線と並んで、三面紅旗の一つをなすものだった。
 「大躍進」という名目で、全国民を挙げての製鋼事業が行われた。伝統的な工法による粗鋼の生産に労力が集中されたため、農作物の収穫が満足に出来ず、作物は腐るまで放置された。その結果、ひどい食料不足を招き、少なくとも2000万人、多く見て4300万人が餓死したといわれる。餓死者続出のなか、鍋・釜まで供出して民衆が作った鉄は、ほとんど使い物にならなかった。

 壮大な失敗に終わった大躍進政策は、実は中国の限られた財源・資源を核兵器開発に集中するために行われたものだった。
 中国が大躍進政策を始めた昭和33年(1958)から、毛沢東は、核ミサイル開発と人民戦争の組み合わせによる「二本足軍事路線」を取った。
 毛沢東は、核開発を進めるとともに、核攻撃を生き延び、侵略した敵を「人民の大海に埋葬する」という人海戦術を打ち出した。そして、広大な農村に「星をちりばめたように散在する」人民公社が設立された。人民公社は、革命後の土地改革で農業の集団化が進められた。その発展形態が、人民公社である。
 人民公社は、単なる農業生産組織ではない。政治・経済・文化・軍事など国家・社会のあらゆる機能を兼ね備えた一種の「自給自足社会」であり、「小国家」であった。かつまた人民公社を単位として民兵が組織された。万が一、アメリカの核攻撃を受けた場合は、人民公社で生き残ることを、毛沢東は考えたわけである。
 毛は、原爆で中国の人口の半分が死んでも、半分は生き残って、また元に戻っていくという発言によって世界を驚かせたが、その根拠は人民公社にあった。

 大躍進と人民公社は、毛沢東の愚劣さを示す代名詞となっている。しかし、それらは核兵器を開発するために採られた戦略だった、と平松氏は言う。核開発と大躍進・人民公社は、一体のものとして推進されたのである。
 人民公社は、農業政策としては失敗だった。農地の共有化と農業の集団化は、農民の労働意欲をそぎ、生産性は低迷した。1980年代には、土地を貸与する方式に転換され、昭和60年(1985)には人民公社の解体が完了した。しかし、毛沢東の強引な政策によって、独自の核開発は進められた。4300万ともいわれる犠牲者を伴いながら、やがて中国の核は産声をあげることになる。

●共産党指導部の路線対立

 毛沢東による「二本足軍事路線」の採用は、建国以来のソ連を雛型とした中国近代化路線の転換となった。人民解放軍の内外の反対と抵抗は大きかった。また、大躍進政策は、生産活動に混乱をもたらし、食糧生産が低下したため、多数の国民が餓死した。食人はシナ文明の特徴であるが、飢えた民衆は、人肉を食べた。
 あまりの悲惨さに心を痛めた彭徳懐は、昭和34年(1959)の廬山会議で三面紅旗を批判した。そのため国防部長を解任され、自分を粛清する決議に署名させられた。毛沢東は、彭に同調する幹部を免職・監禁して反対意見を押しつぶし、軍事路線の転換を断行した。

 核開発は進んだ。国民は困窮した。大躍進の後、経済再建を指導したのが、34年に毛沢東に替わって国家主席となった劉少奇であり、その盟友のケ小平である。彼らは、毛の破滅的な政策をやめ、現実的な政策を行った。それによって、中国経済は回復した。
 実権を失った毛沢東は、劉少奇に深い恨みを抱き、復讐のチャンスを狙った。復讐は、文化大革命(1965-1976)という形で実行されることになる。

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(3)ソ連と対立しても核を開発

 

●最初の核実験に成功

 毛沢東による「二本足軍事路線」への転換は、ソ連との同盟関係の悪化につながった。
 少し時期をさかのぼるが、昭和28年(1953)にスターリンが死んだ。31年(1956)のソ連共産党第20回大会からスターリン批判が開始された。批判の中心となったフルシチョフは、第一書記から33年に首相となった。彼は、積極的に平和共存政策を提唱し、外交政策の基本路線として定着させていった。これに中国が反発し、中ソ論争が始まった。論争は、昭和35年(1960)から表面化した。

 中国は、毛沢東への個人崇拝を中心とする共産党の専制を続けている。スターリン主義を堅持する中国共産党は、フルシチョフを修正主義者と非難した。平和共存政策は階級闘争を放棄するもの、マルクス主義の原則を逸脱するものとして糾弾した。

 そういう中で起こったのが、キューバ危機である。昭和37年(1962)10月15日から13日間、米ソは一触即発の状態になった。キューバにミサイル基地を建設しているソ連に対し、アメリカのケネディ大統領が抗議し、戦艦と戦闘機で海上封鎖した。米ソによる世界核戦争の脅威が現実に近づいた事件だった。
 危機は回避された。その後、米ソは急速に接近し、翌年米ソにホットラインが作られ、部分的核実験停止条約が結ばれた。平和共存と「雪解け」が進んだ。
 しかし、米ソの共存を打ち破るように、中国は昭和39年(1964)10月、最初の核実験を行った。42年(1967)には、水爆実験にも成功した。核を持った中国は、ソ連への対抗的な姿勢を強めた。根底には、アメリカへの挑戦があった。核を持った毛沢東は、地球の支配者となることを目指していた。


●中ソは対立へ

 核実験成功の翌年、文化大革命が開始された。文化大革命は、文学者への批判に始まったので「文化」大革命といわれるが、実態は毛沢東が劉少奇から権力を取り戻すために起こした奪権闘争である。
 劉少奇は、大躍進政策の途中で国家主席となった。毛沢東の荒唐無稽、実態無視の政策による混乱を見た劉少奇は、民衆の生活を考慮した建設的な政策を進めた。毛は、こうした劉に個人的な怨恨を抱いていた。
 毛は、劉少奇らを、社会主義を裏切り資本主義に走る「走資派」と呼んで、激しく批判した。毛は、若者を洗脳して紅衛兵を組織し、彼らを扇動して、奪権を進めた。劉を悪者に仕立てて共産党から除籍した。
 毛は劉を監禁状態において虐待した。劉少奇は、まともな治療も与えられず、苦悶の中で病死した。劉は偽名で埋葬され、その死は長年、国民に発表されなかった。
 こうした共産党指導部内の権力闘争には、私闘的な性格が色濃いが、根本には国家建設の方針の違いがあり、核開発・核戦争戦略をめぐる路線の対立があった。

 一時主席となり、後に失脚した胡耀邦は、文化大革命では「約1億人が連座された。中国の人口の10分の1に相当する」と述べた。犠牲者数は、少なくとも773万人と推計されている。明記すべきは、虐殺の大部分は、紅衛兵によるものではなく、人民解放軍の将兵、武装民兵、党員幹部によるものだったことである。

 文化大革命によって、実権を取り戻した毛は、核ミサイル開発計画を推進した。ソ連との対決を辞さずという決意で開発を進めた。

 中国で文化大革命の火が燃えさかっていた当時、ソ連は「社会主義大家族」という理念で、東欧を支配していた。昭和43年(1968)、チェコで民主化運動が起こった。ソ連は、これを鎮圧せんと戦車で侵攻した。「プラハの春」事件である。
 以後、中ソ論争は激しさを増した。中国はソ連を「社会帝国主義」と決め付け、ソ連も中国を「反レーニン主義」と規定して対立した。遂に、昭和44年(1969)、中ソは国境で数回にわたって武力衝突した。ソ連は、中国の各施設を破壊するため、本格的な侵攻を計画したほどだった。

 このように中国とソ連は、同盟関係から敵対関係へと急速に変化した。敵対関係にいたった最大の要因は、中国の核兵器開発であり、核戦略思想だった。
 

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(4)日本を核ミサイルの標的に


●核の第二撃は都市住民を狙う

 20世紀後半における核戦略は、どういうものだったか。
 核戦争では、一般に核兵器の精度と破壊力に優れた側が、第一撃によって相手の報復力を先制攻撃する。これを対兵力戦略(カウンター・フォース・ストラテジー)という。相手の核ミサイル基地を攻撃して、核ミサイルを破壊するわけである。
 これに対して劣勢側は、相手に先制攻撃を思いとどまらせる手段を持たねばならない。それには、相手の第一撃で生き残り、第ニ撃を行う能力を持つ必要がある。第一撃との違いは、第二撃は相手の住民を目標とすることである。これを対都市攻撃戦略(カウンター・バリュー・ストラテジー)という。住民を攻撃の対象とすることによって、劣勢側は、相手に先制攻撃を思いとどまらせることができる。これが最小限核抑止力である。
 先制攻撃する側は、第一撃で相手の核兵器・関連施設のすべてを破壊しなければならない。一つでも核ミサイルを残してしまうと、自国の都市を報復攻撃され、住民が犠牲になる。反対に、劣勢側は一発の核兵器でも第一撃を免れることができれば、第ニ撃で相手に反撃することができる。実際に攻撃しなくとも、核兵器で攻撃するぞと威嚇することによって、住民をパニック状態にすれば、よい。デモクラシーの国家では、世論が政策を左右するから、特に有効である。優勢側は、戦力で優っていても、自国の住民多数を生命の危険にさらし、政権の支持を失う危険を冒してまで、先制攻撃をすることを控えるだろう。
 それゆえ、劣勢側は、相手より少ない数であっても、ある程度の水準の核兵器を保有すれば、相手と対等の立場に立つことができる。中国の核開発は、このような核戦略のもと、最初からアメリカを敵国とし、アメリカに対する核攻撃能力を持つことを目標として推進されたと思われる。

●日本が核ミサイルの標的に

 中国は、短期間に独自の核開発に成功し、アメリカに対する最小限核抑止力を獲得した。開発は、次のように進んだ。
 昭和39年(1964)に核実験に成功した中国は、昭和45年(1970)年4月、人工衛星を打ち上げ、IRBM(中距離弾道ミサイル)が完成していることを世界に示した。人工衛星打ち上げの成功により、中国は、日本とわが国にある米軍基地を攻撃することができるようになった。アメリカ本土を直接、核攻撃することはできないが、いわば日本人と在日米軍を人質に取ることによって、アメリカの核攻撃を断念させる「第二撃能力」を保有したわけである。文化大革命の大嵐の最中にも核ミサイルの開発は、着々と進んでいたのである。

 この年つまり昭和45年(1970)年に、中国は、わが国を核攻撃の対象とした。わが国は、中国の核ミサイルの標的になったのである。
 本年、平成18年(2006)の7月、北朝鮮がミサイルを乱射し、10月には核実験を強行した。それによって、国防について真剣に考える人が急増した。結構なことだが、わが国は、昭和45年以来、今日北朝鮮から受けている以上の脅威を、共産中国から受けているのである。政治家がそれを言わず、マスコミがそれを報じない。国民は、高度経済成長による「もの」の豊かさに酔いしれ、いまそこにある危機を、見て見えずという状態が続いてきた。

●核開発は一貫して実行

 現代中国研究では、1960年代は「不毛の10年間」とされる。だが、その10年間に、中国は核兵器を開発した。核兵器を保有することによって、中国は国際社会での存在感を強め、昭和46年(1971)に、台湾に替わって国連への加盟を果した。一気に、安保理の常任理事国となり、拒否権を持つ大国として強い発言力を持つに至った。
 平松氏は、1960年代は「不毛の10年間」どころか、「実りある10年間」だったと言う。中国は、大躍進や文化大革命によって、混乱・混迷を続けてきた。しかし、「政治・軍事の中枢は『正常』であり、『健全』に機能してきた」と平松氏は表現している。これが、共産主義国家の特質だと思う。
 全体主義においては、軍に対する民主的な規制はない。国民が生活に窮しても、軍は自律性をもって成長し得る。中国の共産党と人民解放軍の関係には、よくわからないところがあるが、党の指導部で権力争いの転覆闘争が繰り返されても、軍は核兵器の開発を遂行してきたものと見られる。それが、「実りある10年」をもたらし、1970年代以降、中国が飛躍する土台となったのだろう。

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(5)日中国交回復後に核大国化

 

●核が生じた米中接近・日中国交回復

 昭和44年(1969)の中ソ国境紛争を契機に、ソ連は、中国が核大国になる前に叩こうとした。これを察知したアメリカは、中国に接近し、中ソを分断させることに成功した。昭和47年(1972)2月、ニクソン大統領が北京を訪れた。電撃的な米中首脳会談によって、米中共同声明が発表された。
 この時、アメリカは、イデオロギーより、バランス・オブ・パワーを優先した。こういう行動は、初めてではない。第2次大戦では、連合国VS枢軸国の対立を、民主主義VSファシズムと粉飾して、アメリカは、「民主主義」のソ連と手を結んでいる。

 米中接近は、わが国に事前協議なしに行われた。従属国的被保護国的地位にあるわが国は、アメリカに追従せざるを得ず、同年9月、田中角栄首相が北京を訪問し、日中共同声明が調印された。これにより、わが国と中国は、戦争状態を終え、はじめて国交が開かれた。
 最も重要なことは、この時点で、中国はわが国を核ミサイルで攻撃する力を持つに至っていたことである。中国が日本及び日本にある米軍基地を核攻撃できる軍事力を持ったために、アメリカは中国とソ連を分断し、中国と結んだのである。
 台湾は、核時代の国際政治の力学の狭間で、国連から脱退し、アメリカから断交された。旧本国であるわが国も断交した。

 わが国の戦後処理は、サンフランシスコ講和条約に従って行われた。中国、台湾はともに講和会議に招かれなかったが、台湾は昭和27年(1952)4月の日華平和条約で、「日本国民に対する寛厚と善意の表徴として」、戦争賠償請求権を放棄した。同条約は47年(1972)9月の日中国交正常化で終了したと日本政府は認識していている。
 国交正常化に伴う日中共同声明は、「中華人民共和国政府は中日両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」ことを確認している。

●毛沢東の死、実権の移動、対中ODAの開始

 文化大革命は、毛沢東最後の権力闘争だった。しかし、昭和51年(1976)、独裁者・毛沢東は死んだ。その後、国家主席となった華国鋒は、毛一派の江青ら四人組を逮捕した。その後、毛沢東に近い立場にあった華国鋒は、毛沢東批判勢力によって、失脚させられた。それにより、かつて走資派と呼ばれていた者たちが、復権を成し遂げた。彼らの頭目が、ケ小平である。
 ケは、毛沢東の生前、3度失脚し、また復権した。ケが実権を掌中に収めるに従い、中国は大きく路線を転換していく。

 日中国交回復後、わが国は、中国に対して賠償金を支払うのではなく、経済援助を行うことにした。昭和53年(1978)、中国と日中平和条約を結び、翌54年(1979)から、本格的に中国への政府開発援助(ODA)の供与を始めた。
 日本のODAは、中国の経済成長に大きな助力となった。ODAは総計3兆円支出された。民間からの援助金を含めると、6兆円にもなると推計されている。こうした日本の金は、中国の経済発展にのみ使用されたのではない。日本の金は、中国の核ミサイルの開発・製造にも使われたのである。わが国は、中国に金を出して、わが国に向けた核ミサイルを作らせ、中国に従属させられるために、せっせと金を貢いだようなものである。
 しかも、中国からは、一切感謝されていない。中国の一般国民は、日本からの経済援助の事実を知らされていない。そのうえ、中国指導部は、わが国からもっとむしり取ろうと、遺棄化学兵器の処理問題など新手を繰り出してきている。

●増大し続ける中国の核戦力

 中国は、ケ小平の指導のもと、昭和53年(1978)に「開放経済」に踏み切った。彼の打ち出した「社会主義市場経済」という概念は、明らかに資本主義を取り入れる政策だった。ケは、共産党と人民解放軍を掌中に収め、高度経済成長を指導した。ケ小平は平成9年(1997)まで中国の最高指導者の地位にあった。
 この間、中国は、昭和56年(1981)に、核ミサイルの多弾頭化をめざす実験に成功した。また63年(1988)には、原子力潜水艦からの弾道ミサイルの水中実験に成功した。
 こうして中国は、1980年代には、第1世代の核兵器を完成させ、最小限核抑止力、すなわちアメリカの本土を攻撃できる「対米第二撃能力」を保有した。中国は、米国本土を核攻撃するとアメリカを威嚇できるところにまでいたったのである。

 これによって、アメリカが同盟国を保護する「核の傘」は、事実上無効になった。同盟国が核攻撃を受ける脅威にさらされても、本土を核攻撃するぞと脅されたら、アメリカは自国の国民の生命を犠牲にしてまでも、他国を守るはずがないからである。日本は、中国の核から国民を守れない状態になっている。国民に「核の傘」が機能していると思わせてきた政治家の行いは、犯罪的である。
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(6)激烈な反日と猛烈な軍拡

 

●日中友好から反日愛国主義への大転換

 中国の反日は、戦後ずっとそうだったのではない。日中国交回復の際、毛沢東・周恩来は日本の戦争責任を追及し賠償金を求めるようなことはしなかった。ケ小平が昭和53年(1978)に主席になり改革開放政策が推進されたが、海外からの技術と資金の導入を求める中国は、日本との積極的交流を国策とした。
 中国人評論家・石平(せき・へい)氏が書いた感動の書『私は「毛主席の小戦士」だった』(飛鳥新社)によると、昭和59年(1984)に訪中した中曽根首相は熱烈歓迎を受け、石氏が学生だった北京大学でも親日ムードで一杯だった。俳優の高倉健や栗原小巻は、中国で国民的なアイドルとなり、山口百恵を知らない中国人はいないくらいの人気だった。
 それが一転、反日愛国主義に転じた。この極端な転換は、天安門虐殺事件の後のことである。日中人民の真の友好を妨げているのは、中国共産党指導部なのである。

 市場経済の導入で外国資本が投資されるとともに、自由主義・デモクラシーの思想が中国に流入した。当時、ソ連を中心とする社会主義陣営は、崩壊の時を迎えていた。アメリカは、ソ連に軍拡競争を仕掛け、ソ連は経済的に逼迫した。ソ連から植民地のように収奪を受ける東欧諸国では、民主化運動が起こった。それが本格化したのが、平成元年(1989)だった。
 6月、中国でも自由と民主主義を求める学生・民衆が行動を起こした。共産党政府は、天安門広場に集まった学生・民衆を虐殺した。中国共産党は、国内における民主化運動を抑圧しなければ、ソ連・東欧の共産党政権の二の舞になることを、痛感したに違いない。

 平成5年(1993)ケ小平は、江沢民を総書記に抜擢した。開放経済によって、国家資本主義的な発展を続ける中国社会は、マルクス=レーニン主義、毛沢東思想の理論とは、大きく乖離し始めた。共産主義では、国内を統制できなくなってきた。そこで江沢民が導入したのが、愛国主義である。
 排外的な民族主義は、国内の矛盾への目を外に向けさせる常套手段だ。国民、特に青少年に反日教育が徹底された。その教育は、文化大革命の時代に毛沢東が、紅衛兵世代に行ったのと同じような、徹底的な統制の中での洗脳教育だった。今日、異常なまでに激化・興奮している反日感情は、共産党専制体制を維持するための意識操作なのである。

●世界の大勢に逆行する軍拡

 天安門虐殺事件の年、ポーランドで自主管理労組「連帯」が選挙で圧勝し、民主化革命が起こった。これをきっかけに、東欧諸国では、次々にソ連型の一党独裁体制が放棄された。11月には、東西ベルリンを隔ててきた壁が取り払われ、翌年(1990)10月、東西ドイツが統一された。共産圏の盟主・ソ連では、この年、ゴルバチョフが共産党の一党独裁を放棄し、翌年(1991)12月、ソ連は崩壊した。
 この結果、米ソの冷戦は終結した。世界は対立と闘争から対話と協調の時代に入ったかと思われた。しかし、その動きに異を唱えるように、中国は猛烈な軍備拡張を開始した。かつてキューバ危機の後に米ソが平和共存に転じたが、その際も共産中国は核開発を進め、共存でなく闘争の旗を振ったことが思い起こされる。

 中国は、平成元年(1989)から18年間、毎年2ケタ台の伸び率で軍事予算を増加している。5年間で軍事費が倍増という猛烈さである。しかも、この数字は実態を表わすものではない。中国は、世界の武器貿易の約4割を占めるペースで、ロシアなどから新しい武器を購入してきた。輸入量は世界一である。こうした武器の購入費は、軍事予算に入っていない。宇宙兵器の開発費なども入っていない。実際の軍事費は、公表されている数字の約3倍だろうと見られている。実態はそれ以上かもしれない。
 危険なことは、猛烈な軍拡と、排外的・好戦的な思想教育が結びついていることである。共産中国は、単なる共産主義ではなく、ファシズム的な共産主義に変貌しつつあるのである。

●高圧的・傲慢な態度は、核の裏づけによる

 中国は、核拡散防止条約(NPT)に平成4年(1992)に加盟したが、平成7年のNPTの無期限延長の採択後も、条約の特権を濫用して、核実験を行った。平成8年9月の包括的核実験停止条約の締結を前にして、小型化・軽量化、複数弾頭化を目的とする実験を実施したものである。

 中国のアメリカや日本への態度が、高圧的になったのは、平成7年(1995)からと見られる。この年から、中国は台湾侵攻のとき、アメリカが軍事介入すれば、中国は米国に核攻撃を行うという威嚇を、米国政府高官に対して何度も行っていると伝えられる。それは、移動式・多弾頭の核ミサイルを完成させたからである。
 移動式のものは、先制攻撃で破壊することができない。中国の対米第二撃能力は、ここに完成した。これによって、中国はアメリカに対し、強気の姿勢を示すようになった。日本に対しても、傲慢な態度を取るようになった。歴史教科書、歴史認識、靖国神社参拝等に関する理不尽な要求は、核の裏づけによる。

 中国の核技術の向上の過程で重要なことは、中国はアメリカから先端技術を盗み出し、それによって、移動式の多弾頭ミサイルを完成させたことである。国際政治アナリストの伊藤貫氏によると、ビル・クリントンが大統領だった時期(1993-2001)、中国は移動式・多弾頭の核ミサイルに関する先端技術をアメリカから盗んだ。それによって中国はアメリカ本土を核攻撃できる能力を手にした。
 クリントン政権は、この窃盗事件に関して対抗策を取らなかった。理由は、クリントン夫妻やゴア副大統領、ケリー上院議員、民主党の幹部・有力者が、中国のスパイ組織を通じて、共産中国から多額の賄賂を受けていたからである。

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(7)中国は核戦争で勝利を目差す


●核から海洋と宇宙空間の開発へ

 平成14年(2002)、江沢民に替わって、胡錦涛が国家主席となった。胡政権においても、核兵器の増強を中心においた軍拡路線は、一貫して継続されている。
 いまや中国の大陸間弾道ミサイルは、1万2000キロメートル以上飛んで、ワシントン、ニューヨークを含む米国東部海岸に到達することができる。
 中国のミサイル技術は、急速に向上している。平成15年(2003)、中国は「神舟5号」による最初の有人宇宙船の打ち上げを行った。17年10月12日には、「神舟6号」による第2回目の有人宇宙船の打ち上げに成功した。有人宇宙船の打ち上げ成功は、ミサイル誘導技術の向上を意味する。
 有人宇宙船を打ち上げるロケットは、アメリカ本土に届く大陸間弾道ミサイルを発射するロケットを利用する。中国が、有人宇宙船を予定の軌道に正確に投入したことは、大陸間弾道ミサイルにより、アメリカを核弾頭で正確に攻撃できる能力を備えたことを示している。

 中国海軍は、猛烈な勢いで潜水艦を増やしている。平成17年(2005)6月16日、中国は94型潜水艦から大陸間弾道弾の発射に成功した。このミサイルは、東シナ海の海中から中国内陸部の砂漠地帯の目標地点と見られる地域に飛んだ。この実験の成功は、中国が日本だけでなくアメリカ本土も攻撃できるようになり、ワシントンやニューヨークを一撃のもとに壊滅させることができることになったことを意味する。命中率は、アメリカ海軍の原子力潜水艦から発射されるトライデントミサイルに匹敵すると見られている。
 アメリカ国防総省は、この新型ミサイルをJL−2と命名した。JL−2は、3つないし8つの核弾頭を装備できると見られる。JL−2を搭載した94型潜水艦は、核の第一撃能力を持つ。中国の最新型潜水艦は、アメリカ海軍の監視の及ばない海中からミサイルを発射し、相手が気づかないうちに、第一撃で敵の頭脳部・心臓部を壊滅させてしまうことができることになったわけである。

 中国は、平成22年(2010)には、94型潜水艦を数隻保有することになると見られている。一隻の潜水艦が、16発のJL−2ミサイルを装備する。そうなると、中国は、アメリカの大都市のすべてを、いつでも同時に核攻撃できる力を持つことになる。早ければ中国は、平成22年にアメリカと並ぶ核大国の立場を確立することになるという観測がある。

●宇宙戦争に挑もうとする共産主義者

 20世紀末から21世紀初頭にかけて、小型、軽量化された核弾頭を搭載した数種類の移動式の大陸間弾道ミサイル、中距離弾道ミサイル、短距離弾道ミサイル、さらに原子力潜水艦とそれに搭載する弾道ミサイルが完成し、中国の核戦力は向上し続けている。
 さらに中国は、地上や海中だけでなく、宇宙空間からの攻撃をも開発しつつある。アメリカは中国のICBMに対するミサイル防衛システムの構築を急いでいる。これに対し、中国は、そのシステムを無力化するために、宇宙ステーションを建設し、軍事衛星からの攻撃ができるようにすることを考えている。
 アメリカのMDシステムを打ち砕くために、中国は、レーザー兵器をはじめ、粒子ビーム兵器、極短波パルス兵器等の宇宙兵器を装備し、それに関連した技術を有する軍人や専門家からなる宇宙軍を編成し、宇宙軍事基地を建設して、宇宙での制空権の掌握を目指そうとしている。
 21世紀の世界は、宇宙戦争を制する者が、地上の核戦争で優位に立つという段階に入ってきている。その覇者となることを中国共産党指導部は目指している。

●朱成虎将軍は、毛沢東思想の継承者

 共産中国は、毛沢東という独裁者によって形成された。アメリカに対抗して核を持ち、地球の支配者となろうと目指したのは、毛沢東である。今日も天安門広場に写真が掲げられているこの恐怖と恫喝の支配者は、かつて次ぎのように語った。
 「中国は人口が6億人いるから、仮に原水爆によって半数が死んでも、3億人が生き残り、何年がたてばまた6億人になり、もっと多くなるだろう」と。

 今日、朱成虎少将は、次のように発言している。
 「米国がミサイルや誘導兵器で中国の領土を攻撃するなら、中国は核兵器で反撃せざるを得ない」「中国の領土には、中国軍の艦艇や戦闘機も含まれる」「中国は西安以東の都市の全てが破壊されることを覚悟しており」「米国も当然西海岸の100以上、もしくは200以上、さらにはもっと多くの都市が中国によって破壊されることを覚悟しなければならない」

 朱成虎は、毛沢東の同士として人民解放軍を領導した朱徳元帥の孫である。朱は、さらに次のように語っている。
 「人口問題を解決するには、核戦争が最も有効にして手っ取り早い方法だ」「もし我々が被導的でなく主導的に出撃すれば、計画的に全面核戦争に出れば、情勢はきわめて有利である。(略)政府はすべての幻想を捨て、あらゆる力を集中して核兵器を増やし、10年以内に地球人口の半分以上を消滅できるようにしなければならない。(略)人口をもっと増やし、そして計画的に周辺諸国に浸透させるべきだ。(略)全面核戦争が起こったら、周辺諸国に疎開した人口の半分と、農村に疎開した人口の半分があるから、他国に比べて多くが生き残ることができる」「歴史は必ず私の所説の正しさを証明してくれる。(略)核大戦のなかで、我々は百余年来の重荷を下ろし、世界のすべてが得られる。中華民族は必ず核大戦のなかで、本当の復興を得られる」

 朱成虎の核戦略思想は、毛沢東思想の継承であり、その発展である。核大国化した中国において、核先制攻撃戦略や核戦争生き残り戦略が唱えられていることは、単にわが国のみならず、世界人類にとって存亡に関わる事柄である。真の世界平和の実現のために、知恵と願いを結集すべきだと思う。
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関連掲示
・拙稿「共産中国の覇権主義」「共産中国の国家目標」「人類史上最も危険な思想〜中国の積極的核戦争論

  

 

第2章 日本は対米依存で、非核・専守防衛に

 

(1)中国とは対照的なわが国の道

 

●日本に制約を課したGHQ製憲法

 第1章で述べたように、戦後、シナを共産化した中華人民共和国は、わが国とまったく対照的な道を進んできた。建国後、繰り返しアメリカから核攻撃の威嚇を受けると、1950年代中半に核を保有する方針を決め、国力を集中して核開発を進めた。昭和39年(1964)に最初の核実験に成功し、昭和45年(1970)に、日本を射程に収めるIRBMを完成させた。わが国は、この時点から、中国の核ミサイルの標的になっている。

これに対し、わが国は、大東亜戦争で有史以来の大敗を味わった。多くの日本人が、二度と戦争はしたくないと思い、また、核の廃絶を願った。占領下でGHQに憲法が押し与えられ、国防が制限された。その憲法が放置されたまま、昭和43年(1968)に、わが国は、非核三原則の政策を掲げた。さらに昭和47年には、国防を受動的な防御に徹する専守防衛に限定した。

最初に憲法について述べる。敗戦後のわが国は、6年8ヶ月にわたり、連合国軍の占領を受けた。GHQはこの間、日本弱体化のための政策を強行した。弱体化政策の要は、憲法の改正だった。マッカーサーは、わずか1週間ほどで起草した憲法草案をわが国に押し付けた。銃砲によって言論が管理されるなか、翻訳憲法が制定された。新憲法は、第9条に戦争や戦力・交戦権に関することを定めた。

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第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 この条項は、規定内容が明確でなく、いろいろな解釈がある。第1項は、侵攻戦争の放棄を意味するとされる。「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を永久に放棄したと規定されている。「国権の発動たる戦争」とは不戦条約の「国家の政策としての戦争」を指し、「武力による威嚇又は武力の行使」は、国連憲章第2条の「武力による威嚇又は武力の行使を慎まなければならない」からの引用だろう。
 しかし、不戦条約においても、ある戦争が侵攻戦争であるか自衛戦争であるかを決めるのは、その当事国の判断に委ねられている。攻撃された国は侵攻だと主張しても、攻撃した国は「居留民保護」「権益保護」等の戦争目的を主張する。自ら侵攻戦争だと認める国は、ほとんどない。日本くらいのものだろう。首相が過去の戦争を「侵略戦争だと認識している」などと公言するのは。

 憲法第9条第2項は、「前項の目的を達するため」という一句で始まる。芦田条項として知られるこの一句が、自衛権の行使を可能にしたといわれるが、なお明確でない。「前項の目的」とは侵攻戦争を放棄することだとしても、次の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という規定は、解釈が分かれる。侵攻戦争を行うための戦力は持たないが自衛のための戦力はよい、自衛も含めて戦力そのものをまったく持たない、自衛隊は名称が軍隊でないから戦力ではない、自衛隊は侵攻戦争を行えるような戦力ではないから合憲だ等のさまざまな見解が出てくる。
 現在、政府は、自衛のため「必要最小限度」という表現で、自衛隊の実力を正当化している。その論理であれば、自衛隊ではなく、自衛軍・国防軍を保持することは、憲法と矛盾しない。
 第1項においては、「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を永久に放棄するとしているが、後者には「国際紛争を解決する手段としては」という条件がついている。侵攻戦争は放棄するが、自衛権の行使は当然の権利とするのであれば、憲法は自衛のための武力行使を禁止していないと解釈するのが自然である。自衛隊の武器使用について、隊員個人の正当防衛用の武器の携行ではなく、部隊自衛用の部隊装備が検討されねばならない。ところが、そういう検討は、カンボジアやイラクに自衛隊の海外派遣が行われるようになっても、未だ積極的にされていない。
 憲法第9条によって、わが国は、国防を制約されたうえに、さらに政府解釈で自制を加え、対米依存を深め、専守非核への道を進んできた。

●マッカーサーの証言

 現行憲法は、前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書いている。しかし、憲法公布のわずか4年後、昭和25年(1950)の6月25日、朝鮮戦争(〜28年)が勃発した。「平和を愛する諸国民」の一角をなすソ連のスターリンが金日成に侵攻の指示を出し、戦争は始まった。アメリカを中心とした国連軍が、ソ連の支援を受けた中国・北朝鮮軍と戦った。

 戦争の勃発によって、つかの間の平和は終わった。米ソ二大超大国の対立の時代が始まった。開戦後約5ヶ月たった昭和26年初め、マッカーサーは、年頭挨拶で、日本国民に対し再軍備と改憲を示唆した。マッカーサーは、朝鮮で戦うことによって、戦前の日本の立場を理解した。日本の国防のためには、朝鮮を守らねばならず、朝鮮を守るためには、満洲が生命線となる。満洲を失えば、ソ連・中国が攻め寄せて来る。そのことがよくわかったのだろう。
 毛沢東の人海戦術に苦戦したマッカーサーは、トルーマン大統領に中国本土への爆撃を建策し、原爆の使用を求めた。それによって、彼は26年4月、日本占領の連合国軍最高司令官と、朝鮮戦争の連合国軍(=国連軍と訳す)の最高司令官とを解任された。

 アメリカに帰国したマッカーサーは、上院の軍事外交合同委員会で、次のように証言した。
 日本の産業構造は、絹以外固有の資源がほとんどなく、外国にそれを求めざるを得ない旨を語った後に、マッカーサーは述べる。「もしこれらの原料の供給を絶たれれば1千万人以上の失業者が発生するであろうことを日本は恐れた。従って日本が戦争に飛び込んでいった動機は大部分が安全保障(security)の必要に迫られてのことだった」と。

 この証言は、大東亜戦争は、日本による侵攻戦争ではなく、概ね自衛戦争だと述べているのに等しい。この見解は、マッカーサー自身が行った東京裁判や、占領下での憲法改正は、やりすぎだったという反省につながるものだろう。渡部昇一氏が啓蒙に努めているように、極めて重要な歴史的証言である。しかし、マッカーサーの証言は、今日までわが国のあり方を変えるものとはなっていない。

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関連掲示
・拙稿「日本弱体化政策の検証

 

(2)憲法を放置し、国防は他に依存

 

●独立は回復したが、憲法は放置、国防は依存

 朝鮮戦争の最中、わが国は、昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約に調印した。この条約に基づき、独立回復後の安全保障のため、日米安全保障条約が締結された。
 昭和27年4月28日、わが国は独立を回復した。回復したといっても、憲法によって主権に制約がかけられていた。主権の重要要素である国防が制限され、わが国は、アメリカの軍事的な庇護の下に置かれた。講和条約が発効されると同時に、日米安保体制が開始された。講和条約と安保条約は、セットになっていた。講和によって独立回復を認めるが、軍事的には保護下に置くという仕組みである。
 この時発効したのが、旧安保条約である。旧安保は、日本はアメリカに駐留権を与えるが、駐留軍は日本防衛の義務を負わないという片務的な内容だった。内乱条項といわれる「大規模の内乱及び騒擾を鎮圧」する役割をも米軍が担っていた。事実上、戦勝国の軍事占領の継続を認める不平等条約だった。

 独立は回復したが、日本人は、憲法改正を成し遂げられなかった。これは、他国から妨害があったからではない。実は、連合国の極東委員会は、新憲法が昭和21年11月に公布された後、2年以内に再検討すべしと決めていた。占領基本法のような一時的な性格のものだからである。マッカーサーも、憲法の押付けは理不尽であることを十分理解していた。そこで、彼は極東委員会の決定を受けて、吉田茂首相に、憲法施行後1〜2年の間に改正が必要であるなら、国民の判断に委ねるべきことを伝えた。しかし、吉田は、これを無視した。この吉田の憲法放置・国防依存の方針が、わが国のあり方を束縛することになった。
 独立回復後の日本では、国論は分裂し、国民的な団結は生まれなかった。左翼勢力が成長増大したからである。彼らは、日本国憲法は自己の活動に有利と見た。そして、その下で社会主義・共産主義を目指す革命運動を展開してきた。

●自衛隊の創設は、アメリカの要請による

 朝鮮戦争は、昭和28年(1953)7月27日休戦協定が結ばれた。戦争の後半は、毛沢東が中国軍を大量投入したために長引き、双方に多大な犠牲者が出た。朝鮮で共産軍と戦うことになったアメリカは、日本における治安維持と防共のために、警察力の強化と軍事力の回復の必要性を痛感した。その結果、アメリカの要請により、昭和25年(1950)に警察予備隊が創設され、その後、段階を経て、29年(1954)に自衛隊が組織された。これは、アメリカの管理の下に、日本の限定的な再武装を行うものだった。
 自衛隊の編成は、アメリカ軍を補完する形で進められた。日本は、独自の国軍を持たない代わりに、アメリカの軍事的な保護を受けるという被保護国的な立場にあり続けることを選択した。軍事だけではない。日本は、エネルギー、食糧等、国家安全保障の基本要素をアメリカに管理される状態となった。

 一方、共産中国は、朝鮮戦争でアメリカの核による威嚇を受けた。それに続く、インドシナ戦争等でも、繰り返し威嚇された。毛沢東は、アメリカに対抗するために、核保有を決断した。そして、国力を集中して、核開発を推進した。日中戦争後の日中両国は、全く異なった国家体制と国策を取った。その違いは、年を追うごとに対照的になっていった。
 私は、昭和29年に生れた。ここに書いているのは、私が生きてきた同時代の日本、私の祖国の歴史である。

●55年体制の間に、日中の力の差が広がった

 この昭和29年に日本民主党が結成され、鳩山一郎内閣が誕生した。この内閣は、自主憲法の制定、自主外交による領土回復、自衛軍の創設など、自主独立路線を基本とした。しかし、昭和30年(1955)の総選挙において、鳩山内閣は改憲に必要な勢力の確保に失敗した。独立回復後、憲法改正に最大のチャンスは行き過ぎた。
 この年、左右の社会党が統一し、護憲、再軍備反対の勢力を形成した。前後して、自由党と民主党の保守合同が実現し、二大政党が成立した。両勢力は一定の均衡に達し、この枠組みのままわが国の政治は推移した。これが55年体制と呼ばれる。

 55年体制は、米ソ冷戦の時代に、日本国内で、親米派と親ソ派が拮抗した状態だった。それはまた「改憲か護憲か」の対立と膠着の構図だった。自衛隊は軍隊か否か、合憲か違憲かという国際社会の厳しい現実とは、かけ離れた論争が行われた。保守と革新の緊張は、やがて馴れ合い政治に堕し、自民党単独の政権が持続した。
 平成3年(1991)にソ連が崩壊し、米ソ冷戦が終結すると、わが国の国内政治にも構造的な変化が起こった。平成10年(1998)、細川護煕を首班とする反自民連立政権が誕生した。これによって、38年間続いた55年体制は終結した。

 この間、中国は、核開発を行い、アメリカを脅かす核大国に成長した。わが国は対照的に、対米依存を深め、非核三原則を掲げ、受動的な防御に徹する専守防衛を国防の方針としてきた。その結果、現在では、わが国と中国の戦力の差は、途方もなく広がっている。
 近年の中国の高圧的な外交姿勢・内政干渉は、軍事的優位の表われである。わが国は、中国に土下座外交を続けてきた。それのみならず北朝鮮に対しても、屈辱的な弱腰外交を続けてきたのは、国防の欠陥に最大の原因がある。
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(3)鳩山・岸は自主的かつ現実的だった


●鳩山首相は敵基地攻撃が可能と答弁

 わが国は、独立回復後、最初から対米全面依存・専守防衛・非核三原則の方針を取っていたわけではない。憲法の制約はあったものの、昭和30年代までは、国家指導者が国防に対して、もっと自主的かつ現実的な考えを示していた。

 昭和31年(1956)2月29日、鳩山一郎首相は、衆院内閣委員会で防衛問題について答弁した。当日鳩山は公務で委員会を欠席したので、船田中(ふなだ・なか)防衛庁長官が首相答弁の要旨を代読した。内容は、以下のようである。
 「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して滅亡を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう攻撃を防ぐのに万やむをえない必要最小限度の措置を取ること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います」

 誘導弾とは、ミサイルのことをいう。この時点でアメリカのほかに核兵器を持っていたのは、日本周辺ではソ連だけだった。鳩山は、ソ連を想定している。場合によって、ソ連の核ミサイル基地を攻撃することは、憲法上可能だという見解を、鳩山は明らかにしたわけである。独立回復後、数年のうちの日本の政治家は、こういう気概を持っていた。

●岸首相は核保有を留保した

 また、核兵器についても、非核三原則が提唱される前には、政治家はそのような硬直した政策を掲げてなかった。昭和32年2月に首相となった岸信介は、35年(1960)3月7日参議院予算委員会にて、次のように答弁した。
 「自衛権を裏づけるに必要最小限度の実力という問題の内容は、これは、言うまでもなく、科学兵器の発達等によりまして、大砲が何門だとか、あるいは小銃がどうだとか、というふうに限るわけには私はいかぬと思います。発達につれて必要な実力というものを持つことは許しておる、こう解釈すべきものだと思う。従って、その意味においていやしくも核兵器という名がついたから全部いかないのだという憲法解釈は、これは憲法の解釈としては、われわれはとらないところだということを申しておる。
 しかしながら、いわゆる、現在ありますところの核兵器の大部分というものは、主たるものが相手方の攻撃の内容を持っており、そういうものを主たる内容としておるような実力を持ち得ないことは、自衛力という立場から、本来の解釈から、私は当然だと思います」と。

 岸は、必要最小限度の実力は、科学兵器の発達によって変わってくる。だから、核兵器と言えば、憲法上全く駄目という解釈は取らないというわけである。岸発言は、憲法解釈上、将来における核兵器の保有を留保したものといえる。攻撃的ではなく防御的な核兵器が開発された場合には、保有は可能という含意があったのだろう。

 その後、核の技術は進んだ。今日では、核弾頭が小型化され、巡航核ミサイルが開発されている。巡航核ミサイルは、先制核攻撃に使用されることはない。報復核攻撃の実施だけに使用できるものゆえ、「軍事バランスを安定化させる核ミサイル」といわれている。岸がどの程度、時代の先を読んでいたかわからないが、あのギョロ目は炯眼だと私は思う。
 現行憲法は自衛権を認めていると解釈するのであれば、最小限度の自主的な核抑止力は自衛力の一部と考えることができる。あとは核の開発・保有がわが国の国益にとってプラスが大かマイナスが大かを判断する政策上の問題となる。科学兵器の発達の度合いや国際環境の変化に応じて、政策の適否を点検していけばよいのである。
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(4)国防の回復より経済中心に


●防衛政策を規定した「国防の基本方針」

 昭和32年(1957)5月20日、岸内閣の時代に、国防会議と閣議で「国防の基本方針」が決定された。この基本方針は、今日にいたるまで、わが国の防衛政策の基本方針となっている。内容は、以下の通りである。
 「国防の目的は、直接及び間接の侵略を未然に防止し、万一侵略が行われるときはこれを排除し、もって民主主義を基調とするわが国の独立と平和を守ることにある。この目的を達成するための基本方針を次のとおり定める。
(1)
 国際連合の活動を支持し、国際間の協調をはかり、世界平和の実現を期する。
(2)
 民生を安定し、愛国心を高揚し、国家の安全を保障するに必要な基盤を確立する。
(3)
 国力国情に応じ自衛のため必要な限度において、効率的な防衛力を漸進的に整備する。
(4)
 外部からの侵略に対しては、将来国際連合が有効にこれを阻止する機能を果し得るに至るまでは、米国との安全保障体制を基調としてこれに対処する。」

 以上の方針の基本姿勢は、自主国防が第一ではなく、他に依存するということである。国連を中心とするが、国連が有効に機能するようになるまでは、日米安保に頼るということである。
 問題は、国連は一枚岩ではないことである。安保理常任理事国の五カ国は拒否権を持ち、特にアメリカと旧ソ連=現ロシアは、しばしば方針が一致しない。アメリカは、国連の動向が自国の利益にならない場合は、国連の決議を得ずに行動する。国連中心主義ではなく、国益中心主義である。そのため、わが国の防衛政策は、一貫性がなく、主にアメリカの意思に合わせるものとなっている。
 方針の第2に「愛国心を高揚し」とあるが、政府は、これをほとんど実行していない。平成18年の改正教育基本法でも、「愛国心」という言葉は避けられた。国家の防衛力は、単に兵器の質と量で決まるのではない。自ら国を守ろうという国民の意思が最も大切である。国家・国民という意識を育て、国益・国防に関する関心を高めなければ、独立主権国家としての国防は確立されない。

●日米安保の新条約も片務的・依存的

 岸首相は、「国防の基本方針」のもと自衛力の増強に努め、また安保条約の改定をはかった。旧条約は、わが国を軍事的被保護国のように扱っていた。内乱条項といわれる「大規模の内乱及び騒擾を鎮圧」する役割まで米軍が担っていた。条約の期限もつけられていなかった。岸は、こうした屈辱的な内容を改めようとした。
 昭和35年(1960)5月19日に新条約案が国会で強行採決されると、安保反対のデモが国会に押し寄せた。しかし、国民多数の意思に基づいて、6月23日、日米安保新条約の批准書が交換された。岸内閣は責任を取る形で総辞職したが、安保の改定は、日本の主権の回復において必要不可欠のことだった。

 岸は、安保条約の改定が日本の国益の回復になると固く信じて、新条約の締結を成し遂げた。新条約では、内乱条項はなくなった。期限がつけられ、10年を経過した後は、1年毎の自動延長とされた。事前協議制も取り入れられた。新条約に伴って、在日米軍と軍属の地位に関する協定が改められ、日米地位協定が作られた。
 改善はされたものの、日米安保が片務条約であるという本質は、変わっていない。米軍基地や駐留米軍の国内法に束縛されない特権は維持された。事前協議制は、有名無実と化すことになった。最も重要なことは、日本が第三国の侵攻を受けた場合、米軍が参戦するという義務は規定されていないことである。いざとなったとき、アメリカが本当に日本を守るかどうかは、不明瞭である。
 ただし、日米安保は、対等の攻守同盟ではないから、これもやむをえない。命がけの防衛義務を相手に求めるには、こちらも同じ義務を果たせねばならない。命を賭けて互いを守るという真の友情は、基地の提供や金銭的負担で得られるものではない。憲法の改正、国軍の保有、集団的自衛権の行使等を実現せずに、他国民の献身に期待するのは、都合が良すぎるというものである。不平等条約を改正するには、まず日本が真の自主と独立の国にならねばならない。

●経済中心の日本、核中心の中国

 鳩山にしろ岸にしろ、敗戦後10数年の間は、独立主権国家たるべき国防思想を、日本の政治家は持っていた。また、憲法を改正して、主権を完全に回復するために努力していた。
 しかし、昭和35年(1960)、池田隼人が首相になると、憲法改正は棚上げされた。池田は、経済官僚出身らしく、所得倍増政策を打ち出した。これが高度経済成長の皮切りとなった。

 わが国は、日本国憲法と日米安保の組み合わせによって、防衛負担なく高度経済成長ができる立場にあった。資源のないわが国は、戦前、英米の排他的なブロック経済で窮地に立ち、大陸に進出して、中国・米英等と戦う羽目になった。戦後は、ブレトン=ウッズ体制に転換され、日本にとっては、武力を用いずに石油と市場を得られる環境となった。アメリカに対する従属国的被保護国的な地位で主権を制限されたまま、日本は経済大国へと成り上がっていく。

 中国は、国民生活を省みずに核開発を続けた。最初の核実験が行われたのは、昭和39年(1964)10月である。ソ連に続いて、中国が核を持つに至ったことは、わが国の国防を根本的に見直すべき出来事だった。しかし、中国の核が、どれほど潜在的な成長力を持っているか、ほとんど意識されなかった。
 中国が核実験に成功した39年10月。わが国では、東京オリンピックが行われていた。オリンピックは、敗戦国・日本が国際社会に復興の姿を示す一大ページェントだった。国際競技に備えて新幹線や首都高速道路が建設された。高度経済成長を成し遂げるインフラが整備されていったわけである。経済中心の日本と核中心の中国は、著しい対象を示していた。

 ここで重要な政策が開始された。オリンピックの翌年の昭和40年(1965)、わが国は赤字国債の発行を決めた。財政の原則は収支のバランスである。わが国はこの原則を曲げて、借金の上に借金を重ねながら成長を続けるという禁じ手を使った。
 赤字国債はやがて返済の先送りをされ、さらに昭和60年には「60年償還ルール」が採用された。償還に60年とは、将来の世代に責任を持たない自世代本位の考え方である。これが、今日の巨額財政赤字国家・日本を生み出すことになった。
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(5)非核三原則の欺瞞

 

●佐藤首相による非核三原則の提唱

 わが国は、世界で唯一の被爆国である。わが国は、わが国に原爆を落としたアメリカの占領を受け、そのアメリカと安全保障条約を結び、アメリカに国防の大部分を委ねてきた。アメリカにとっては旧敵国の継続占領、日本にとっては安保ただ乗りによる経済成長。これが、コインの両面である。
 わが国の防衛政策を特徴付ける非核三原則は、国民が国防の意識すら失い、ひたすら、ものとお金を得るために働き続けているなかで、提唱された。

 昭和42年12月11日の衆院予算委員会で、佐藤栄作首相は、次のように述べて、非核三原則を掲げた。
 「この際私どもが忘れてはならないことは、わが国の平和憲法であります。また核に対する基本的な原則であります。核は保有しない。核は製造もしない、核は持ちこまないというこの核に対する三原則、その平和憲法のもと、この核に対する三原則のもと、そのもとにおいて日本の安全はどうしたらいいのか、これが私に課せられた責任でございます」と。

 この「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則は、翌43年1月の佐藤の施政演説で提唱された。佐藤は、「平和憲法」と非核三原則を、ほとんど同等の原則と位置づけている。「平和憲法」が戦勝国による敗戦国への主権制限であることを考えると、佐藤の非核三原則は、アメリカに対して、日本は独自に核兵器を製造・保有しない、どこまでもアメリカの保護下にとどまる、と誓約したようなものだろう。この政策によって、佐藤は、岸が留保していた核保有の意思を否定した。憲法解釈としても、憲法が認める自衛権を、非核という範囲に限定したものである。

 その後、46年11月24日に、衆議院で「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」がされた。「政府は、核兵器を持たず、作らず、持ち込まさずの非核三原則を遵守するとともに、沖縄返還時に適切なる手段をもって、核が沖縄に存在しないこと、ならびに返還後も核を持ち込ませないことを明らかにする措置をとるべきである」としている。以後の衆院決議では、非核三原則は「国是」と表現されてきた。

●佐藤=ジョンソン会談で「核の傘」が明言

 昭和42年に佐藤栄作首相は、非核三原則を唱えた。どうして、佐藤はこれを唱えることになったのか。
 中国が最初の核実験を行ったのは、昭和39年(1964)の10月だった。その直後の12月、佐藤栄作首相はライシャワー駐日米大使と会談した。ライシャワーは、会談の内容について、ラスク国務長官に極秘文書を提出した。

 佐藤はライシャワーとの会談で、中国の核実験に関して、「もし相手が核を持っているのなら、自分も持つのは常識である」と述べたとライシャワー報告は書いている。
 ライシャワーは、「佐藤が池田よりも慎重さに欠けるとの評判通りだ。彼の率直さと熱意は新鮮だが、私はそこに深刻な危険も見る。彼が危険なコースに陥らないよう、池田にした以上の教育が必要だ」と本国に打電した。
 これを受けたラスクは、「これ以上の核拡散」に反対すべきであることなどをリンドン・ジョンソン大統領に進言した。

 翌40年(1965)1月、佐藤=ジョンソン会談が行われた。会談で佐藤は核保有論に言及していないらしいが、米側文書には、ジョンソンが「もし日本が防衛のためにアメリカの核抑止力を必要としたときは、アメリカは約束に基づき防衛力を提供すると述べた」とある。佐藤は「それが問いたかったことである」と語った。ジョンソンは、日本の核武装を防ぐために、初めて「核の傘」の提供を明言したとされる。

 その後に、佐藤は非核三原則を提唱した。佐藤は、自主的な核戦力を持つ意思があったのに、ライシャワーらに「教育」されて考えを変えたのか。それとも核保有の意思を示すことで、アメリカから「核の傘」の提供を引き出すことが狙いだったのか。
 真相はわからないが、わが国は、実際には当てにならない「核の傘」の下に入り、国民は自主独立の精神を一層失う結果となった。

●「持ち込ませず」で「持ち込みOK」の欺瞞

 話しは少し飛ぶが、昭和46年(1971)、佐藤政権の時に、日米間で沖縄返還協定が調印された。翌47年、27年ぶりに沖縄は日本本土に復帰した。沖縄返還は、戦勝国が敗戦国に領土を返還した歴史的に稀な出来事だった。この際、佐藤の提唱した非核三原則のうち、「持ち込ませず」が重要な原則として機能した。基地付きだが、核抜きだというわけである。
 しかし、「持ち込ませず」は、まことに疑わしい。米国艦隊は、核兵器を装備した状態で、日本に寄航しているはずである。新安保条約には事前協議が定められているが、実際には行われていない。入港時に、日本側が検査をするわけでもない。
 建前は「持ち込ませず」だが、実態は「持ち込みOK」だろう。「持ちこませず」という文言は、私には、国民を欺くためとしか考えられない。

 その後、非核三原則は、あたかも憲法の規定に並ぶ不変の大原則であるかのようになっている。しかし、この三原則は法制化されたものではない。また国際条約でもない。あくまで政策として取られているものであって、国益に照らし、また国際情勢によって再検討されるべきものである。私は、まずこれまでの欺瞞をやめ、「持ち込ませず」という原則をはずすべきだと思う。
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(6)70年安保の危機後、中国の核の標的に

 

●知られざる70年安保の危機

 昭和40年代のわが国は、戦後かつてない激動の時代を迎えていた。
 昭和35年締結の新安保条約は、10年が期限だった。昭和45年、1970年はその期限の年だった。その後は、1年ごとに自動延長されるという定めとなっていた。
 昭和40年に、大学紛争にはじまった学生運動は、43年に全共闘の結成に至り、新左翼を中心とした暴力革命運動に変化していった。焦点は、70年安保だった。共産革命をめざす勢力は、日米安保の破棄を呼号して激しい実力闘争を繰り広げた。安保を堅持すべしとする勢力は、治安を保ち、日米安保の自動延長をめざした。

 昭和40年の年頭、透徹した洞察力を持つ大塚寛一先生は、重要な警告をされていた。3年から5年のうちに、日本はもとより人類は存亡の岐路に遭遇するというのである。警告後まもなく、世界は激動の時代に入った。アメリカのベトナム北爆、中ソ対立、中東戦争など一触即発の危機が続いた。欧米先進国では、共産主義革命運動が激化し、赤旗の波はわが国にも押し寄せた。背後には、世界の共産化をめざすソ連の工作や資金援助があった。加えて毛沢東の思想が、知識人・学生を酔わせていた。
 こうしたなか、大塚先生は、昭和43年6月、日本精神復興促進運動を開始し、活発な啓蒙活動を展開された。全国の人口30万人以上の都市で連続講演をし、日本人は日本精神に返れと訴えをされた。

 私は翌44年4月、故郷北海道の高校に入学した。この年は、東大安田講堂の攻防戦に始まり、70年安保をめぐる大衆闘争で国内が騒然としていた。ベトナム戦争の反戦運動が急進化するなか、アメリカはアポロによる人類初めての月面歩行に成功した。東京・大阪等の大学だけでなく、オホーツク海に近い田舎の高校でも学生による紛争があった。そういう時代だった。
 この年の12月、衆議院総選挙があった。安保破棄を唱導する社会党が、圧倒的優勢と見られていた。多くのマスメディアが盛んに政府批判を煽っていた。もしこの選挙で社会党が大勝し、政権が左翼に移動していたら、日米安保は破棄されたかもしれない。
 左翼政権は、日本を無防備化する非武装中立政策を取っただろう。アメリカがこれに介入すれば、反米闘争が高まり、親ソ容共勢力は、共産軍による「解放」を求めただろう。仮に北海道や北九州等から、共産軍が侵攻したら、日本列島は米ソの決戦場となったかも知れない。最悪、米ソが日本で互いに核を撃ち合い、それがきっかけで核による第3次世界大戦に発展した危険性もあった。
 幸い総選挙は、予想を覆して社会党の惨敗に終わった。左翼の暴力革命運動は下火になり、翌45年の6月23日、安保条約は自動延長された。日本の共産化は防がれた。

 70年安保の時期の危機が、世界的に見て、いかに大きなものだったか。大塚先生の著書や講演記録を読むと慄然とするものがある。日本の指導者、世界の有識者でも、この危機の意味するものに気づいている人は、まだほとんどいない。
 あまりにも時代の先を見通した警告や建策は、多くの人に理解されるために、30年、50年の月日を必要とするのかもしれない。

参考資料
・大塚寛一著『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872576896/mixi02-22/

 

●中国のIRBMが完成、標的になった日本

 昭和42年佐藤首相が非核三原則を唱えた時、核保有国は、国連安保理の常任理事国5カ国だけだった。わが国が非核三原則を政策とした時点で、既に中国は核を保有していた。このことに十分、注目する必要がある。
 昭和45年(1970)4月、中国は、人工衛星の打ち上げに成功し、日本を射程に収めるIRBMの技術を取得した。それは、非核三原則が出されたわずか約2年後のことだったのである。

 この時、わが国は、大阪万博の最中だった。万博は、3月から9月にかけて行われた。わが国が高度経済成長の成果を世界に示し、さらに経済中心、もの中心の社会に一層本格的に進むメルクマールとなった。
 日米安保条約は、この年6月に自動延長された。左翼の革命運動は、大衆運動としては前年秋から退潮に入った。極左翼は一部武装闘争に激化し、この年3月に赤軍派が「よど号ハイジャック事件」を起こした。北朝鮮にわたった赤軍派は、金日成にひれ伏し、日本人拉致に加担した。一方、11月25日に、三島由紀夫は、憲法の改正を訴えて自衛隊に決起を促し、失敗。三島は割腹自殺した。左右の実力行動は、ともに憲法と日米安保による戦後日本の体制を変えるほどの動きには、ならなかった。

 昭和45年以降、日本が経済大国に成長する一方、中国は着実に核大国へと成長していった。わが国は、中国の核への防備を進めることなく、アメリカの「核の傘」に深く依存するという選択をした。しかし、IRBMを保有したことで、中国は「第二撃能力」を獲得したのである。中国は、在日米軍と日本国民を人質に取ることによって、アメリカの優位を崩した。アメリカの「核の傘」は、早くもほころんだ。日本は、中国の核ミサイルの標的となった。このことを日本人は、しっかり理解する必要がある。
 非核三原則は、こうした実態を覆い隠し、代わりに、「平和憲法」とともに、平和の永続という幻想を国民に与えるものとして、機能してきたのである。

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(7)米中の密約と専守防衛の変質


●専守防衛と戦略守勢の違い

 ここで防衛に関する戦略思想について述べたい。昭和31年の鳩山答弁は、状況により敵ミサイル基地への攻撃を憲法上可能としていた。対象を中国にも拡大すれば、中国の核ミサイル基地を叩くことも可能ということになる。
 現在では、あたかも憲法制定以来の原則であったかのように誤解されている「専守防衛」という言葉は、昭和40年代に入って出始めた言葉である。当初、専守防衛は、政治的な用語で、確定した定義はなかった。45年ごろ当時の中曽根康弘官房長官が言い出したらしい。

 防衛庁は、昭和45年に『日本の防衛』を発表した。初めての防衛白書である。この白書は、「専守防衛の防衛力」という項目に、次のように記述している。
 「わが国の防衛は、専守防衛を本旨とする。専守防衛の防衛力は、わが国に対する侵略があった場合に、国の固有の権利である自衛権の発動により、戦略守勢に徹し、わが国の独立と平和を守るためのものである」。

 「専守防衛」を本旨とするとしながら、「戦略守勢」という用語も使用している。「戦略守勢」は軍事用語で、全般的にみれば守勢であるが、戦術的な攻撃を含んでいる。敵から攻撃を受けた場合は、敵基地へも反撃を行う。また、明らかに攻撃を受けることが予測される場合は、先制攻撃を行うことも含む。
 したがって、昭和45年の時点では、専守防衛といっても、防衛庁の見解は、攻撃を受けた場合の敵基地への反撃や自衛のための先制攻撃ができるものだったと考えられる。ここには、鳩山の主旨が貫かれていると見てよいだろう。

 また、この昭和45年版防衛白書は、核兵器については、次のように述べている。
 「(註 わが国は)核兵器に対しては、非核三原則をとっている。小型の核兵器が、自衛のため必要最小限度の実力以内のものであって、他国に侵略的脅威を与えないようなものであれば、これを保有することは法理的に可能ということができるが、政府はたとえ憲法上可能なものであっても、政策として核武装しない方針を取っている」

 法理的に可能という部分は、昭和35年の岸の見解を保っている。政策上の方針とは、佐藤首相の非核三原則を指している。これらを踏まえて、核武装は「たとえ憲法上可能なものであっても、政策として核武装しない方針」と表現している。「政策として」と明記しているので、政策の変更がありうることが含意されている。
 そして、この白書は、他国を侵略する兵器は持てないが、自衛のために攻撃する兵器は持てるという見解を示していた。B52のような長距離爆撃機、攻撃型航空母艦、ICBM等は保有しないとしているが、世界最高級のB52まではいかない長距離爆撃機であれば、保有しうるということである。モスクワまで届くミサイルは持てないが、シベリア、北京に届くミサイルを持つことは可能。シーレーンを往く艦船を護衛する小型空母は可能。こういう余地があったわけである。

 現行の「平和憲法」の下でも、45年版防衛白書は、このように書いていた。鳩山・岸の意思を保持した45年版白書の内容のままであれば、わが国は平成になって北朝鮮の核に右往左往することなく対応でき、外交においてももっと毅然とした姿勢をとりえただろう。
 ところが、この後、専守防衛という用語は、戦略守勢と異なる受動的な防御を専らとするという意味に変質する。わが国の防衛政策は、昭和40年代後半から大きく後退してしまうのである。
 この後退には、米中接近・日中国交回復という戦略・政略の一大変化が関係していた。

●昭和47年、米中提携で密約が

 昭和45年版の防衛白書における専守防衛は、戦略守勢という意味だった。戦略守勢であれば、敵基地への反撃や自衛のための先制攻撃ができる。しかし、この考えに重大な変化が生じた。それは、日中国交回復以後である。
 軍事評論家の柿谷勲夫氏は、次のように指摘する。
 「わが国の政府与党は、私利私欲、保身のために、野党に迎合、根本問題で妥協し、防衛問題を先送りしてきた。この傾向は昭和40年頃以降、特に日中国交回復以降顕著である」(『徴兵制が日本を救う』展転社)

 昭和47年2月、アメリカは、わが国に事前協議なしに、ニクソン大統領が訪中し、米中共同声明を発表した。台湾とは断交した。アメリカは、ソ連への対抗のために、イデオロギーより、バランス・オブ・パワーの理論によって、戦略・政略を選択した。
 それまでアメリカとともに共産主義に対抗してきたわが国にとっては、晴天の霹靂だった。しかし、わが国は、アメリカに追従するしかなかった。9月、田中角栄首相が北京を訪れ、毛沢東・周恩来と会談し、日中共同声明を発表した。

 国際政治アナリストの伊藤貫氏によると、米中接近のため、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官が、周恩来首相と北京で会談した際、米中両国政府は対日政策に関する密約を結んだ。この密約の要点を書きとめたニクソンの手書きのメモが残っているという。密約は、次の三点である。

(1)東アジア地域において、日本にだけは核兵器を持たせない。
(2)米軍は日本の自主防衛政策を阻止するため、日本の軍事基地に駐留し続ける
(3)日本政府には、朝鮮半島問題と台湾問題で発言権を持たせない。

●米中密約が日本を隷属に

 伊藤氏は、これらの三点は現在も有効だという。平成14年(2002)10月、ブッシュ大統領は、江沢民と会談し、北朝鮮の核問題で中国政府にリーダーシップを執らせることを決めた。この際、米中両国政府には、「我々は北朝鮮の核問題をなるべく早く処理して、日本の核武装を阻止しなければならない」という明確な合意があったという。(伊藤貫著『属国か独立かーー日本外交の危機』「日本の息吹」平成19年1月号)

 昨年(平成18年)10月に北朝鮮が核実験を行ったと発表した。北の核への対応のため、ライス国務長官は日・中・韓をまわった。その際、ライスは、わが国に対し、日米の連携を強調して「核の傘」について言及し、「米国はあらゆる手段で日本の安全を確保する」と言明した。この発言は、裏を返せば、日本が自主的な核抑止力を持つことは認めないという基本姿勢を、アメリカが改めて示したものとも取れる。
 
 日本は、アメリカ・中国にとっては旧敵国である。国際連合は、第2次大戦における連合国が発展したものであり、わが国は、旧敵国の地位にある。これに対し、共産中国は核を持つことで、安全保障理事会の常任理事国の特権を得ている。アメリカは、特権国クラブの一員である中国と結んで、旧敵国の日本を従属的立場に置いて、その力を自国の国益に利用している。
 わが国は、アメリカに金融を通じて国富を召し上げられるだけでなく、中国にもODAを通じて血税を吸い取られる構造に置かれてきた。こういう構造は、昭和47年の米中密約に源を持つものだろうと、私は考えている。
 日本人は、憲法を改正し、国防力を整備し、国際社会で自らの意思を明確に主張できるようにならなければ、この構造から脱却し、真の世界平和の実現に貢献することできない。

●田中首相による受動的専守防衛への転換

 話を、日中国交回復の時代に戻す。
 田中首相は当時、ニクソンやキッシンジャーまたは周恩来から、アメリカと中国と結んだ密約について聞かされていたのだろうか。私には、そうは考えられない。田中は、キッシンジャー外交の裏が読めないまま、アメリカの外交に従い、わが国の防衛戦略に重大な変更を行ったのだろうと私は想像する。

 防衛戦略の重大な変更は、日中国交回復の翌月に行われた。昭和47年の10月31日、田中は、衆院本会議で次のように答弁した。
 「専守防衛ないし専守防御というのは、防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行うということでございまして、これはわが国の基本的な方針であり、この考え方を変えるということは全くありません。
 なお戦略守勢も、軍事的な用語としては、この専守防衛と同様の意味のものであります。積極的な意味を持つかのように誤解されないーー専守防衛と同様の意味を持つものでございます」と。

 これが、その後、30年以上、わが国の防衛政策を制約した政策の変更である。田中は、ここで専守防衛を「防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行う」と説明している。

 田中のいう意味での専守防衛は、戦略守勢の概念とは大きく異なる。戦略守勢は、全般的にみれば守勢であるが、戦術的な攻撃を含んでいる。敵から攻撃を受けた場合は、敵基地に反撃するし、明らかに攻撃を受けることが予測される場合は、先制攻撃することも含まれる。
 ところが、田中は、戦略守勢を、田中が上記のように定義した専守防衛と同様の意味のものであるという。これは、戦略守勢の本来の意味を否定し、受身の防御をもって「専守防衛=戦略守勢」だと歪曲したものである。

●防衛の意識も訓練もなき専守防衛の危険性

 柿谷勲夫氏は、田中による国防政策の転換について、「田中首相が意識的に変えたのか、無知によるものか不明であるが、鳩山発言から大きく後退した戦略思想の大転換である」と指摘している。
 田中が意識的に変えたとすれば、自国より他国を有利にする転換である。無知による誤りだったとしても、その政治的責任は大きい。田中は、日中国交回復によって、経済的な利益を求める一方、わが国の防衛を危うくした。私は、国益を大きく損ねた重大な過失だと思う。そして、その背後には、日本の核武装と自主防衛を阻止し、東アジアで日本に発言権を持たせないという、アメリカ・中国の密約があったものと思う。

 専守防衛という政策は、よほど国防をしっかりしないと、国を危うくする。相手が攻めてくるのを防ぐのみでは、相手はこちらが防ぎきれなくなるまで攻め続けるだろう。よほど守備がしっかりしていないと、執拗な攻撃を防ぎきれず、敗北する。スポーツでも武道でも、彼我の力に大差がない限り、防御だけで守り通すことは、できない。
 もし専守防衛という理想を追求するなら、よほど国民の国防意識を高め、共同防衛の義務を徹底し、防備と訓練を怠らないようにしなければならない。私は、永世中立国だったスイスに学ぶべきものが、非常に多いと考えているが、わが国は、スイスに比べ、国民の国防意識が著しく低く、防衛の装備も訓練もされていない。非常事態のマニュアルもない。核シェルターもない。受身一方の専守防衛政策を取りながら、国民をこのような状態に置いてきた政治家の怠慢は、許しがたい。しかし、これもまた、そうした政治家を選び、国政をゆだねてきた国民の責任ではある。

●昭和51年版防衛白書の攻撃なき専守防衛

 昭和47年の田中答弁の後、昭和51年に「防衛計画の大綱について」が策定され、第二版の防衛白書が発表された。
 この白書では、「戦略守勢」という軍事用語が削除された。すなわち、「わが国の専守防衛に徹する防衛力
‥‥」とか「わが国の防衛力は自衛に徹する専守防衛のものでなければならない」とかの表現が使われ、戦略守勢とは言っていない。ここでの専守防衛は、45年版のそれとは意味が変わっている。自衛のための攻撃を行わない受動的な防御の意味になっている。田中が「防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行う」と定義した専守防衛に変化している。

 昭和45年版の防衛白書は、他国を侵略する兵器はもてないが、自衛のために攻撃する兵器は持てるという含意のある見解だった。ところが、昭和51年版では、専守防衛の意味の変化により、自衛に用いる攻撃的兵器が持てなくなった。
 45年版は、ICBM、B52のような長距離爆撃機、攻撃型航空母艦等は保有しないとしていたが、51年版では、長距離弾道弾(ICBM、IRBM)、長距離爆撃機、攻撃型航空母艦等は保有しないという内容になった。45年版は、モスクワまで届くミサイルは持てないが、シベリア、北京に届くミサイルは持てたが、51年版は、北朝鮮に届くミサイルも持たない。IRBMを持たないからである。長距離爆撃機には「B52のような」という限定がなくなり、長距離爆撃機を一切持たないことした。
 これによって、わが国は敵基地を攻撃し得る兵器を持つ意思を否定した。これは、防衛戦略の大きな後退である。憲法の規定は、変わらない。同じ第9条2項のもとで、国防の制約を自ら行ったものである。

 私は、中国による日本併合への道は、昭和47年10月の田中答弁によって、土木工事が着工されたようなものだと思う。 田中によって、受動的防御に徹する専守防衛が、わが国の国防の基本方針となってしまった。そのうえ、中国にODAとして供与した日本の金は、中国の経済成長だけでなく、軍備拡張にも使われてきたと考えられる。その軍事力の向けられている先の一つは、わが国である。
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(8)中国は工作、北朝鮮も核開発


●中国による日本共産化のための秘密文書

 ここで日中関係を考える際に、注目すべき文書がある。昭和47年8月、中国共産党の秘密文書なるものが出現した。田中内閣が成立し、マスコミが日中早期国交のキャンペーンを展開していた時だ。西内雅(ただし)がこの文書を入手し、その翻訳版を国民新聞社が出版した。それが、『中共が工作員に指示した「日本解放」の秘密指令』である。
 本書には、次のような内容が書かれている。まず本書は、「我が党の日本解放の当面の基本戦略は、日本が現在保有する国力のすべてを我が党の支配下におき、我が党の世界解放戦に奉仕せしめる」と規定する。
 「日本解放」つまり日本の共産化は、3段階を経て達成するとし、第1目標は日中国交の樹立、第2目標は「民主連合政府の形成」、第3目標は「日本人民民主共和国の樹立ー天皇を戦犯の首魁として処刑」である。
 本書は、田中内閣成立で第1目標は達成されつつあるとし、第2目標の民主連合政権樹立に必要とする心理作戦、マスコミ、政党、左右両団体への工作、さらに在日華僑対策を具体的に指示、在日中共大使館開設によってさらに筋金入りの革命工作員2千名を派遣、第3目標達成に全力をあげるとしている。
 「民主連合政府」の形成は、それ自体が目的ではなく、次の「人民共和制=共産政府樹立」に転じていくための、単なる手段にすぎないことが、明記されている。あくまで最後は暴力方式をとって共産政権を樹立することが目標である。その際、連合政権樹立に協力した、当時の既成政党(自民党・社会党・民社党・公明党など)の一切を打倒し、排除することとしている。この過程で最も注目すべきは、天皇を「戦犯の首魁」と規定し、「処刑する」ことが、はっきりと明記されていることである。
 本書の出版後、中国共産党は、毛沢東主義からケ小平の開放経済に転じた。政治・外交も大きく変わった。しかし、一貫しているのは、軍事力の拡大であり、また日本を従属化しようという意思である。中国共産党は、本書の内容を修正しながら、引き続き対日政治工作計画を立て、30年以上にわたって、工作活動を行っているのではないか。今日の日本を見ると、そう考えられるのが、この秘密文書の存在である。
 昭和天皇は崩御されたから、上記の天皇の「処刑」の部分は、女性天皇・女系継承による皇統断絶と皇室制度の廃止などと修正されているかもしれない。
 わが国は、スパイ天国といわれる。わが国は、占領下で主権が制限され、刑法第83条〜86条を削除された。独立回復後も、これらの通牒利敵条項が復活されていない。スパイ防止法も存在しない。旧ソ連・中国・北朝鮮等の工作機関は、やりたい放題だろう。特に中国は、わが国の政界・官界・学界・マスメディア等に、巧妙に工作を行ってきたものと思う。

●国防自制の間に、北朝鮮も核保有へ

 昭和47年の田中答弁以降、わが国が国防を極度に自制している間に、中国は、わが国を標的にする核ミサイルを増産してきた。この間、北朝鮮までが核兵器を保有するようになった。

 北朝鮮による日本人拉致は、昭和52年(1977)9月に、久米裕(ゆたか)さんが拉致されたのが始めとされてきた。その2ヵ月後に、横田めぐみさんが、昭和53年には、3組のアベックが拉致された。この前後に、田口八重子さんや曽我ひとみさん母子らも拉致されたと見られる。
 昭和50年代初めに、わが国の領土で日本人が次々に拉致されたことと、昭和47年の田中答弁、51年の防衛白書の内容後退とは、無関係ではないと私は思う。北朝鮮による拉致は、国家によるテロであり、平時における作戦行動である。わが国の国防の自制と怠慢が、北朝鮮の工作活動を許したものと思う。

 北朝鮮は、軍事優位の国である。自ら「先軍政治」というのだから、軍国主義が国是である。北朝鮮は、国家体制や核政策等の多くを、中国に学んでいる。金正日は、平成5年(1993)に核拡散防止条約を脱退し、核開発を進めた。毛沢東の跡を追ったことは明らかである。北朝鮮は、平成8年(1996)には、数発の核爆弾を保有したと見られる。平成10年(1998)、北朝鮮が発射したテポドンと見られる飛翔物が、わが国の頭上を越えて、太平洋上に着弾した。日本人は度肝を抜かれ、にわかに、国防が論じられるようになった。その結果、平成15年(2003)に有事関連三法が制定された。
 新設された武力攻撃事態法では、先制的自衛権が認められている。先制的自衛権とは、昭和31年の鳩山答弁の見解を法制化したものといえる。また、田中角栄以来の受身的な専守防衛を否定し、戦略守勢に戻したものと理解できる。田中及びそれ以後の政治家が、約30年間にわたり、国防に関して国益を損ねてきたことは、厳しく批判されねばならない。

 柿谷勲夫氏は言う。
 「日米安全保障条約の改定前(旧安保時代)、在日アメリカ軍はわが国に発生した内乱、騒擾鎮圧任務を持っており、『半独立国』だったが、心は『独立国』だった」「政治家は、独立精神を保持し、後に続く日本人に手かせ足かせせず、敵基地の攻撃、核保有を留保する発言をしていた」。しかし、「安保条約を改定し、形式上はアメリカと対等になったが、日中国交回復以降、心は『従属国』に成り下がった」。その後、「わが国に脅威を及ぼす国は、ソ連(ロシア)から中国、北朝鮮へと拡大の一途を辿り、今や北朝鮮がボタンを押せば、約10分でわが国が火の海になる事態に立ちいたった」と。
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関連掲示
・拙稿「『日本解放綱領』の残影〜中国の対日政治工作

 

(9)国防の基本から外れた日本

 

●わが国は核拡散防止条約に加盟


 わが国の核のことに話を戻すが、昭和45年(1970)にわが国は核拡散防止条約(NPT)に署名した。署名はしたが、賛否両論の議論が続いた。6年後の51年に批准、加盟となった。


 最初の核保有国アメリカは、昭和20年にわが国に原爆を投下した。その後、27年に水爆実験を行った。続いてソ連が24年に原爆保有を公表し、28年に水爆実験を行った。イギリスは27年原爆、31年水爆実験。フランスは35年原爆、43年水爆実験。中国は39年原爆、42年水爆実験を行った。これ以上の核の拡散を防止するために設けられたのが、NPTである。

 NPTには、43年7月にアメリカ・ソ連・イギリス等の62カ国が調印し、45年に発効した。この時点で、核保有国は上記の5カ国だった。うちフランスと中国は、当初はNPTに加盟していなかった。中国は、NPT発効後の昭和46年(1971)に、国連の代表権を認められた。その後、平成4年にNPTに加盟した。この年、フランスも加盟した。

 NPTには、核兵器の拡散を防ぐという意味と、核保有国の核独占を認めるという意味の両面がある。結果的に、第2次世界大戦の戦勝国で、国連安全保障理事会の常任理事国5カ国が、核を独占する体制が確立された。


 平成7年、NPTの無期限延長が採択された。核拡散防止条約を無期限延長するということは、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国に対して無期限にわたって大国としての地位を与えることを意味する。他のNPT加盟国は、自ら不平等条約に加盟したわけである。五大核保有国を一等国というならば、非核諸国は、二等国またはそれ以下という序列となる。

 この体制に反発して核を保有した国が、インド・パキスタンである。インドは昭和49年に、パキスタンは平成10年(1998)に核実験を行った。インドは、中国の核への対抗上、核を保有した。パキスタンは、そのインドに対抗するために核を開発した。印パ両国は、NPTに加盟していないから、核を保有しても違法行為ではない。

 これ以外に核保有疑惑国として、イスラエル、北朝鮮などがある。イスラエルはNPTに加盟していない。北朝鮮は、平成5年に脱退した。NPT締結国には脱退する権利が認められているから、脱退して核を保有することは、違法ではない。


●歴史の教訓に反した防衛政策


 昭和47年から平成15年まで(1972-2003)、30年以上にわたり、わが国は受動的防御に徹する専守防衛を国是としていた。相手から攻撃されるまでは絶対に手を出さない、外国に脅威を与える軍事力を持たない、非核三原則を堅持するというのが、それである。

 そのため、ここにきて北朝鮮の軍事力に脅威を覚え、「反撃」だ、「先制攻撃」だ等と言っても、現在の自衛隊では対処できない。そのための兵器を整備してきていないからである。IRBMも、長距離爆撃機も、攻撃型航空母艦もなく、相手に有効な損害を与えることはできない。これでは、侵攻を抑止する抑止力にはならない。


 世界の歴史から得られる教訓の一つは、国と国の間で、軍事力に大きな差が生じると、強いほうが弱いほうに攻め入るということである。豊かだが力の弱い国は、その豊かさと弱さが、侵入者を刺激する。また別の教訓は、相手に脅威を与えない程度の力では、戦争の抑止力にならないことである。攻めても相手にやり返す力がないことがわかれば、侵攻を誘発する。

 戦争を防ぐには、当方が独自の反撃力を持ち、攻められれば必ず反撃すると公言し、相手に当方の反撃の能力と意思を確信させねばならない。当方を攻撃すれば反撃を受け、利益よりも損害がはるかに大きくなることを、相手にはっきりと認識させねばならない。核の時代においても、この国防の基本は、そのまま当てはまる。受動的防御に徹する専守防衛という戦略思想は、歴史の教訓に反し、国防の基本に外れたものである。ページの頭へ

 

 

第3章 わが国の国防の現状と課題

 

(1)うそ寒い国防の現状

 

  わが国の国防の現状

 

わが国の国防について、基本的なあり方は、これまで書いてきたことと、根本的には変わっていない。戦後日本の国防の歴史を振り返ると、国家として情けないが、現在もまた危うい状態が続いている。
 日本国政府は、憲法第9条は侵攻戦争を禁じているもので、自衛権の行使までは禁じていないという立場を取っている。しかし、最小限度を超えない実力として、自衛隊を保有するにとどめ、装備は他国に脅威を与えない範囲に自制している。憲法の規定を自ら規制的に解釈し、集団的自衛権は保持するが、行使できないとする。また、単なる政策であった非核三原則と専守防衛を国是とまでする。このような方針のもとに、政府は防衛政策を行っている。

 わが国は、こうした政策を取りながら、日米安全保障条約のもとで、アメリカと役割を分担してきた。米軍が攻撃面、自衛隊が防御面を受け持つ。いわば米軍が「矛」、自衛隊が「盾」の役割を果す関係にある。自衛隊の実力は、米軍を補完するために整備されてきた。そのため、自衛隊には、世界的にも高いレベルに達している部分もあれば、全く整備されていない部分もある。それゆえ、日本は、独立主権国家として、自主的な防衛力を持っておらず、極めてアンバランスな状態にある。

●自衛権についても曖昧さが続く

 自衛権には、個別的自衛権と集団的自衛権がある。ともに、国連憲章で国家の固有の権利と認められている。集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある国(同盟国等)が、第3者による武力攻撃にさらされているとき、自国が攻撃されていなくても、その攻撃が自国に対するものとみなされる場合は、第3者を排除・阻止するために武力を行使する権利である。
 ところが、わが国の政府は、わが国国際法上集団的自衛権は持っているものの、それを行使することは、憲法に照らして認められないという解釈をしている。「自衛のための必要最小限の範囲を超える」ためだという。
 持ってはいるが行使はできないという権利を、権利と言えるだろうか。集団的自衛権の不行使は、憲法解釈の問題である。現行憲法が明文的に行使を否定しているものではない。政府が不行使説を取っている限り、日米安保は、双務的なものとなり得ない。

 自衛権、現状では個別的自衛権のことになるが、その自衛権の行使については、従来、政府は、次ぎの三つを要件としている。

(1)わが国に対する急迫不正の侵害があること
(2)これを排除するために適当な手段がないこと
(3)必要最小限の実力行使にとどまるべきこと。

 これらの要件は、国内法における個人の正当防衛について言うものと変わらない。自衛隊員が自分個人を守るのではなく、国家を守るために戦う場合が、想定されていない。自衛隊が集団で任務に当たる際の部隊の自衛のための部隊装備について、考慮されてない。それゆえ、上記の要件は、他国軍の侵攻を受けた場合の自衛権の要件には、なっていないのである。

 政府は、このような全く欠陥だらけのものを自衛権の要件として挙げるのみである。そのうえ、実際に自衛隊が行動するための法整備を、長年行ってこなかった。
 昭和53年(1978)、当時、統合幕僚会議議長だった栗栖弘臣氏が、法制の不備を指摘し、奇襲侵略を受けた場合、自衛隊は早期に対応するため、首相の命令をまたずに「超法規的行動に出ることがあり得る」と発言した。これが問題発言とされ、栗栖氏は事実上解任された。その後も、法制の不備は長く改善されず、国家安全保障上、大きな問題となっていた。

 

●有事関連三法は未だ不十分

 平成10年(1998)、北朝鮮がテポドンを発射した。日本列島を越えて、三陸沖に着弾した。国民の危機感が高まった。これをきっかけに、平成15年(2003)6月に、有事関連三法が成立し、有事における自衛隊の活動は、一応の法的裏づけを得た。
 有事とは、何か。新設された武力攻撃事態法は、「現に武力攻撃を受けている事態のほかに、「武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態」及び「武力攻撃が予測されるにいたった事態」を有事と定義している。定義とは、曖昧さを免れないものではあるが、それにしても上記の定義は、わかりにくい。有事という言葉そのものが、婉曲的な表現である。「事が有る」というが、何が事なのか。有事が実際に意味するものは、国家緊急事態であり、特に戦争である。そうはっきり表現すべきである。

 武力攻撃事態法は、日本の有事=戦争において、先制的自衛権の行使を可能としている。また、自衛権を行使できる範囲は日本の領空・領海にとどまらないことが、政府答弁で明らかになっている。この点は、受動的な防御に徹した専守防衛と違う。田中角栄以前の戦略守勢の概念に戻したものと思う。北朝鮮が核ミサイルを開発していることにより、現実離れした防衛思想を取っていられなくなったのである。
 こうして法的には、先制攻撃が可能になった。しかし、現時点では自衛隊にその能力はない。受身の専守防衛に徹するための装備しかない。この約30年の政策の誤りは深刻である。
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(2)これでは日本を守れない


●法律を変えただけで有効な装備はない

 例えば、いまこの現在、北朝鮮が日本に向けて核ミサイルを発射したら、わずか10分で日本のどこかに着弾する。日本は必ず被害をこうむる。核でなく、生物化学兵器を搭載する可能性もある。しかし、日本には、有効な抑止力がない。BMDシステムは、まだ構築中である。1兆円かけても、果たしてどの程度の実効性があるか、疑問が出されている。
 いずれにせよ、現状では、ミサイルが発射される前に、敵のミサイル基地を攻撃する以外に、日本を守る方法はない。ところが、わが国の航空自衛隊の戦闘機は、航続距離が不足している。ミサイル基地を攻撃できる兵器も、巡航ミサイルも持っていない。海上自衛隊もまた敵地を攻撃できる巡航ミサイルがなく、洋上を機動的に動いて艦載機を飛ばせる小型空母もない。

 法律を作っても、戦力を整備しなければ意味がない。整備には、総合的な計画が要る。予算が要る。何より、時間がかかる。平成19年(2007)1月から防衛庁が防衛省に昇格するなど、国防の重要性が徐々に認識されつつあるが、対北朝鮮防衛に即応できるだけの予算は、組まれていない。
 まして中国を相手に想定した場合、彼我の差は非常に大きい。中国は核大国である。移動式・多弾頭の精密誘導弾道ミサイルを多数配備している。潜水艦から撃つ核弾頭ミサイルも持っている。今後、通常兵器をいくら整備したとしても、それのみで中国の侵攻を抑止することはほとんど不可能である。中国は、台湾侵攻または尖閣諸島略取の際、日本を核攻撃するぞ、と必ず恫喝するだろう。現状では、その対応は、アメリカに依存するしかない。ただし、アメリカが、必ず日本を守るという保証はない。

●現在の国防を定めている「防衛計画の大綱」

 平成7年(1995)に、昭和51年版の「防衛計画の大綱」が改定された。この改定は、冷戦の終結などにより国際情勢が大きく変化していること、大規模災害など各種の事態への対応やより安定した安全保障環境の構築への貢献などの分野でも、自衛隊の役割を対する期待が高まっていることなどを踏まえた改定だった。
 平成17年(2005)に政府は、第3版となる「防衛計画の大綱」を策定した。弾道ミサイル防衛システムを導入するのに伴う改定だった。立案の過程では、防衛庁が他国の弾道ミサイル発射基地などを叩く「敵基地攻撃能力」の保有を検討したという。また、航空自衛隊がF−2用に導入を決めた精密誘導弾JDAM(統合直接攻撃弾薬)を敵基地攻撃にも使用するほか、対艦ミサイルを改良して陸上攻撃もできるようにした米軍の「ハープーン2」(射程200キロ超)や、巡航ミサイル「トマホーク」(射程2000キロ前後)、軽空母の導入が検討対象となったという。
 この検討は、武力攻撃事態法に対応したものと思う。戦略守勢に基づく装備の検討だろう。しかし、出来あがった「大綱」には、自主的な「敵基地攻撃能力」の保有を進める内容は、盛り込まれていない。弾道ミサイル防衛システム(BMDシステム)に特化した方針だからだろう。

●綻んだ「核の傘」と疑わしいBMDが頼み

 「大綱」は、東アジア情勢については、よく書いている。 
 「北朝鮮は大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発、配備、拡散等を行うとともに、大規模な特殊部隊を保持している。北朝鮮のこのような軍事的な動きは、地域の安全保障における重大な不安定要因であるとともに、国際的な拡散防止の努力に対する深刻な課題となっている。また、この地域の安全保障に大きな影響力を有する中国は、核・ミサイル戦力や海・空軍力の近代化を推進するとともに、海洋における活動範囲の拡大などを図っており、このような動向には今後も注目していく必要がある」と記している。
 ところが奇妙なことに、続いてすぐ「我が国に対する本格的な侵略事態生起の可能性」は「低下」していると書いている。むしろ反対に、可能性は上昇していると明記すべきだろう。「大綱」の内容は、矛盾しているのである。

 「大綱」は、侵略事態生起可能性が低下という矛盾した認識のもとに、次ぎのように述べている。
 「我が国は、日本国憲法の下、専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とならないとの基本理念に従い、文民統制を確保するとともに、非核三原則を守りつつ、節度ある防衛力を自主的に整備するとの基本方針を引き続き堅持する。核兵器の脅威に対しては、米国の核抑止力に依存する」と。
 基本理念は、「日本国憲法の下、専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とならない」と示されている。ここにおける「専守防衛」は、武力攻撃事態法の先制的自衛権の行使を含むものであるのかどうかは、明瞭でない。「他国に脅威を与えるような軍事大国とならない」ということは私も賛成だが、日本は、他国から脅威を受けている。その中で、自国を守るために必要な装備を持つことと、「他国に脅威を与えるような軍事大国」となることは、明確に区別されねばならない。
 次に、基本方針は、「文民統制を確保するとともに、非核三原則を守りつつ、節度ある防衛力を自主的に整備する」とある。ここにおける非核三原則を守って節度ある防衛力を整備するとは、弾道ミサイルに関していえば、どのような整備となるのか。

 「大綱」は、「弾道ミサイル攻撃に対しては、弾道ミサイル防衛システムの整備を含む必要な体制を確立することにより、実効的に対応する。我が国に対する核兵器の脅威については、米国の核抑止力と相まって、このような取組により適切に対応する」としている。
 核兵器の脅威には、米国の核抑止力に依存しつつ、BMDシステムで対応するというわけである。しかし、アメリカの「核の傘」は、とうの昔に破れている。またBMDシステムは、高価な割に実効性が疑われている。「核の傘」とBMDシステムでは、日本を守れない。ところが、その「核の傘」とBMDシステムに日本の運命を託すのが、「大綱」の内容となっている。

 「防衛計画の大綱」は、次ぎの改定までの間、これをもとに毎年の防衛政策が行われていく。既に5年計画が発表されているが、「大綱」は中期計画というより長期展望に相当する。10年くらいは、この大綱で進むことになるだろう。発端における少しのずれは、先に行くと何倍もの開きとなって現れる。東アジアの10年先、20年先を予想して、わが国の防衛政策を早急に見直す必要があると思う。
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(3)急がれる根本的な見直し

 

 現在、わが国が核の脅威を受けている国は、ロシア・中国・北朝鮮である。これらの国々の核からわが国を守ってきたのは、日本国憲法ではない。アメリカの核である。
 当面、日本にとっての脅威は、中国と北朝鮮の核である。中国は、アメリカに対する「第二撃能力」を持っており、アメリカは自国の国民多数を生命の危険にさらしてまで、中国と戦って日本を守るとは限らない。北朝鮮の核ミサイルは、現状ではアメリカ本土には届かないと見られる。それゆえ、いまのところ北の核は、日本にとってのみ脅威である。北朝鮮には、核の抑止力はほとんど意味がない。生き残りのために必死で、または体制崩壊の道連れとして、核ミサイルを打ってくることを覚悟しなければならない。

 北朝鮮が東京や大阪を核攻撃した場合、アメリカは自国を攻撃される恐れがないから、反撃するだろう。その結果、北朝鮮は手痛い損害を受けるだろう。ただし、北朝鮮がわが国に核ミサイルを発射する準備に入ったとき、必ずアメリカが先制攻撃をして北の核ミサイル基地を叩くとは限らない。また仮に攻撃しても、すべてのミサイルを破壊できるとは限らない。山中にトンネルを掘って、その中に発射装置があるという構造だと、アメリカの高性能ミサイルもどれだけ打撃力を発揮できるかわからない。

 憲法の戦力不保持にはじまり、非核三原則、専守防衛と国防に自己制約を加えてきたわが国は、中国や北朝鮮の核ミサイルに対して、抑止手段も防御手段も持っていない。こうした極端な軍事的アンバランスが、わが国の外交を非常に弱いものとしている。
 わが国は、これらの国と対等の交渉ができなくなっている。中国に土下座外交とODAの朝貢を続け、北朝鮮に国民を拉致されても取り戻せないでいるのは、わが国の外交には軍事力の裏づけがないからである。さらに、国防についての意識や技術を失った日本人は、誇りや気概をも失っている。アメリカに屈従し、中国・北朝鮮にも平身低頭する日本人の姿は、真の日本人の姿ではない。幕末の志士の姿を思い起こせば、このことは明らかである。

 なお、ロシアは、経済力が低下し、国内が不安定であって、東アジアで積極的な行動を行う力を持っていない。しかし、現在も世界第2位の核大国である。また、BRICSの一角として、21世紀に大国になると予想されている。Bはブラジル、Rはロシア、Iはインド、Cは中国である。
 これから経済力を伸長すれば、ロシアは、再びわが国にとって大きな脅威となるだろう。その際、ロシアは中国と提携する可能性が大きい。既に、ロシアは中国との関係を深めている。そこに、現在のアメリカの最大のライバルであるイランが加わっている。

 対米依存・専守・非核では、わが国の将来は、まことに危ういと言わねばならない。

結びに〜国防の整備を進めよう


 日本人は、国防について真剣に考え、防衛政策の見直しに取り組まねばならない。私は、憲法の改正、日米安保の攻守同盟化、刑法の通牒利敵条項の復活、核抑止力の検討を含む総合的な国家安全保障の研究が必要だと考える。その点は、拙稿「中国の日本併合を防ぐには」の第3章に書いているので、ご参照願いたい。

この章は、直接的には中国による日本併合を防ぐことをテーマとしているが、その方策は、わが国の国防全般に共通すると考える。内容は、そちらに譲ることにして、本稿を終えたい。ページの頭へ

関連掲示
・拙稿「『フランス敗れたり』に学ぶ〜中国から日本を守るために
参考資料
・防衛省・自衛隊ホームページ
http://www.mod.go.jp
・防衛大学校安全保障学研究会編『安全保障学入門』(亜紀書房)
・栗栖弘臣著『日本国防軍を創設せよ』(小学館文庫)
・柿谷勲著『徴兵制が日本を救う』(展転社)
・佐藤守監修『これが日本の戦争力だ!』(実業之日本社)

 

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