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  政治・経済・社会

                       

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友愛を捨てて、日本に返れ

  〜鳩山政治哲学の矛盾・偽善・破綻

2010.4.23

 

<目次>

はじめに

第1章 鳩山由紀夫氏の「友愛」

(1)「友愛」とは

(2)フランス革命と「友愛」

(3)カレルギーに依拠する「友愛」

(4)「友愛」は社会の構成原理になりえない

(5)教育勅語の「博愛」と「友愛」の違い

(6)人間観の違い〜個人主義か家族愛か

(7)権利と道徳

(8)「友愛」に悖る鳩山氏の不道徳

第2章  「友愛」から導かれる政策の危険性

(1)日本を衰えさせる経済政策

(2)社会に混乱をもたらす社会政策

(3)日本を移譲する永住外国人参政権付与

(4)国家を解体する地域主権の実現

(5)日本を消滅させる東アジア共同体の構想

(6)安全を保障しない安全保障政策

第3章 友愛外交は亡国外交

(1)日本を危くする対米外交

(2)「友愛」は北朝鮮を喜ばせるのみ

(3)中国に友愛外交は通じない

(4)対中外交を転換せよ

(5)新文明の創造を目指す戦略的な外交を

第4章 「友愛」から「調和」の理念へ

(1)定見なき鳩山由紀夫氏の変遷

(2)日本の近代化における「和魂洋才」

(3)戦後日本の根本問題とは

(4)高度経済成長後に落とし穴が

(5)鳩山氏の政界登場とその航跡

(6)民主党が政権を奪取

(7)独裁を防ぎ、日本の軌道修正を

結びに〜日本再建のための12の課題

 

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はじめに

 

 平成21年(2009)8月30日に行われた衆議院議員総選挙で、民主党が大勝し、鳩山由紀夫氏が内閣総理大臣になった。選挙前の8月27日、ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)に、鳩山氏の論文が掲載され、アメリカ国内に波紋が広がった。
 鳩山氏は論文のなかで、「冷戦後、日本はアメリカ主導の市場原理主義、グローバリゼーションにさらされ、人間の尊厳が失われている」と指摘し、自ら掲げる「友愛」の理念のもと、地域社会の再建、東アジアの通貨統合と共同体の構築をめざすことを主張した。これに対し、アメリカの専門家らが、日米関係の今後に懸念の声を上げた。
 この論文は、月刊「Voice」9月号(PHP研究所)に掲載された論文を英訳したものだった。もとの論文は、鳩山氏(当時民主党代表)が政治哲学として掲げる友愛への理解を広げようと、鳩山氏側がPHP研究所に持ち込んだ。それが欧米のジャーナリストの目に留まり、アメリカの記事配信サービス会社が英訳して配信した。英訳は部分訳の上、前後を入れ替えるなどの加工がされた。そのため、鳩山氏がアメリカ主導の市場原理主義、グローバリゼーションに批判的であることが強調される、刺激的なものとなった。
 私は、もとの「Voice」誌掲載の原文を読み、論文全体の検討が必要だと感じた。この論文は、直接的には日本人を対象に、氏の政治哲学である友愛と、氏の考える政策を知らしめようとしたものである。アメリカ主導の市場原理主義、グローバリゼーションへの批判は、内容の一部であって、そこが注目されただけでは、論文の主旨は見逃される。
 私は、鳩山氏の掲げる友愛に、理念としての限界を感じる。またそれゆえに、友愛から導き出される政策のいくつかに危険性を感じる。そこで、本稿において、鳩山論文を内容に沿って詳しく見ながら、友愛という理念、及びそこから導き出される政策について批判的な考察を行ないたいと思う。また鳩山氏が依拠するヨーロッパ産の友愛に対し、それを超えるものとして、日本独自の理念を提示したい。

本稿は平成21年(2009)10月26日から22年(2010)4月18日まで、MIXIの日記とブログに連載した原稿を編集したものである。連載は時々刻々と変化するわが国の政情と国際情勢の中で書いた。本稿にまとめるに当たり、修正は日時など最小限にとどめた。リアルタイムのドキュメント性を保つためである。

 

 

第1章 鳩山由紀夫氏の「友愛」

 

(1)「友愛」とは

 

●鳩山由紀夫氏の「友愛」

 月刊「Voice」平成21年9月号に掲載された鳩山由紀夫氏の論文は、「祖父・一郎に学んだ『友愛』という戦いの旗印」と題されている。この論文は、「私の政治哲学」と改題されて、鳩山氏のサイトに掲載されている。
鳩山氏は「私にとって『友愛』とは何か。それは政治の方向を見極める羅針盤であり、政策を決定するときの判断基準である」と言う。すなわち、鳩山氏の政治哲学の中心にあるのが、友愛である。それゆえ、鳩山氏の政治思想を理解するには、友愛なるものを理解しなければならない。
 「私の言う『友愛』は(略)フランス革命のスローガン『自由・平等・博愛』の『博愛=フラタナティ(fraternite)』のことを指す」と鳩山氏は言う。
 友愛は、鳩山氏が祖父・鳩山一郎から受け継いだ理念である。鳩山一郎は、この理念をヨーロッパ統合運動の父と呼ばれるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーから受け継いだ。本稿では単純化のため、主にカレルギーと称する。
 カレルギーは、大正12年(1923)に「汎ヨーロッパ」という著書を刊行し、今日のEUに至るヨーロッパ統合運動の提唱者となった。カレルギーは昭和10年(1935)に、「全体主義国家対人間(Totalitarian State Against Man)」と題する著書を出版した。原題は「人間に敵対する全体主義国家」という意味だろう。戦後、鳩山一郎は本書を読み、自ら翻訳して、「自由と人生」という書名で出版した。この時、鳩山一郎は、カレルギーが掲げた「博愛=フラタナティ」というフランス革命の理念を「博愛」ではなくて「友愛」と訳した。
 鳩山由紀夫氏は、こうした祖父・一郎の事績を紹介し、一郎がカレルギーから受け継いだ「友愛」について、「柔弱どころか、革命の旗印ともなった戦闘的概念なのである」と書いている。
 最初に注目したいのは、鳩山氏の政治哲学の中心となる友愛は、フランス革命のスローガンの一つだということである。またクーデンホーフ=カレルギーの思想を継承したものだということである。このことは、友愛とは、わが国の文化・伝統・国柄に根ざした理念ではなく、ヨーロッパに生まれた思想を、鳩山一郎・由紀夫祖孫が、日本に移植しようとしているものであることを示している。

●鳩山一郎がヨーロッパ産の「友愛」を移植

 鳩山由紀夫氏の祖父・一郎は、クーデンホーフ=カレルギーの著書を翻訳し、「自由と人生」と題して出版した。クーデンホーフ=カレルギー著、鳩山一郎訳の「自由と人生」は、「ソ連共産主義とナチス国家社会主義に対する激しい批判と、彼らの侵出を許した資本主義の放恣に対する深刻な反省に満ちている」と鳩山氏は言う。
 そして、祖父を通じて受け継いだ友愛について、鳩山氏は次のように書いている。
 「カレルギーは、『自由』こそ人間の尊厳の基礎であり、至上の価値と考えていた。そして、それを保障するものとして私有財産制度を擁護した。その一方で、資本主義が深刻な社会的不平等を生み出し、それを温床とする『平等』への希求が共産主義を生み、さらに資本主義と共産主義の双方に対抗するものとして国家社会主義を生み出したことを、彼は深く憂いた」と。そしてカレルギーの言葉を引用する。
 「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」。
 鳩山氏は続ける。
 「ひたすら平等を追う全体主義も、放縦に堕した資本主義も、結果として人間の尊厳を冒し、本来目的であるはずの人間を手段と化してしまう。人間にとって重要でありながら自由も平等もそれが原理主義に陥るとき、それがもたらす惨禍は計り知れない。それらが人間の尊厳を冒すことがないよう均衡を図る理念が必要であり、カレルギーはそれを『友愛』に求めたのである」と。
 祖父・鳩山一郎は、カレルギーの著書を翻訳・出版するとともに、カレルギーの友愛を自らの政治活動の旗印とした。孫の由紀夫氏は、祖父について、次のように書く。
 「彼の筆になる『友愛青年同志会綱領』(昭和28年)はその端的な表明だった。『われわれは自由主義の旗のもとに友愛革命に挺身し、左右両翼の極端なる思想を排除して、健全明朗なる民主社会の実現と自主独立の文化国家の建設に邁進する』」と。
 「左右両翼の極端なる思想」とあるのは、左翼は共産主義、右翼は国家社会主義を指すものだろう。鳩山一郎は、これらの思想を排除しつつ、戦後の日本で「健全明朗なる民主社会の実現と自主独立の文化国家の建設」を目指そうとした。その際に提唱されたのが、「自由主義の旗のもとでの友愛革命」だった。「友愛革命」とは、カレルギーが提唱したものである。
 鳩山一郎は、昭和29年(1954)に日本民主党を結成し、その年から2次にわたって首相を務めた。30年11月22日、保守合同で自由民主党を結成し、翌31年12月まで第3次鳩山一郎内閣を率いた。その彼の政治信条が、ヨーロッパ産の「友愛」だった。そして、「友愛」をヨーロッパから日本に移植しようとしたのである。

●孫の由紀夫氏が「自立と共生の原理」と再定義

 鳩山一郎が「友愛青年同志会綱領」を発表した43年後の平成8年(1996)9月11日、孫の由紀夫氏は、旧民主党を結党した。今日の民主党の母体となった政党である。鳩山氏は、祖父・一郎の「友愛」を受け継いでいた。旧民主党の「立党宣言」に、鳩山氏は、次のように書いた。
 「私たちがこれから社会の根底に据えたいと思っているのは『友愛』の精神である。自由は弱肉強食の放埒に陥りやすく、平等は『出る釘は打たれる』式の悪平等に堕落しかねない。その両者のゆきすぎを克服するのが友愛であるけれども、それはこれまでの100年間はあまりに軽視されてきた」と。
 鳩山氏がこのように書いたのは、平成3年(1991)に、米ソ冷戦の終結によりソ連が解体し、アメリカが唯一の超大国となって5年後のことである。平成8年(1996)は、サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」を出版した年である。ハンチントンはこの世界的な名著で、冷戦後、世界が初めて多極化し、多文明化したことを指摘し、文明の衝突を避け、世界秩序の再生を図るべきことを説いた。
 鳩山氏は、そのような時代に、自由と平等の「ゆきすぎを克服する」ものとして、友愛を「旗印」に掲げた。鳩山氏は、次のように「立党宣言」を続ける。
 「私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという『個の自立』の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという『他との共生』の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない」と。
 鳩山氏は平成21年(2009)、雑誌「Voice」に書いた論文で、自分は「カレルギーや祖父一郎が対峙した全体主義国家の終焉を見た当時、『友愛』を『自立と共生の原理』と再定義した」と記している。
 友愛は、フランス革命のスローガンの一つだった。またヨーロッパの統合運動の理念となった。その友愛を、鳩山氏は「自立と共生の原理」と再定義したわけである。

 

●今日の日本では「共生の経済社会」を目指す

 鳩山由紀夫氏が旧民主党を結党してから、政権を奪取し、首相の座に着いた平成21年(2009)までの間に13年が経過した。鳩山氏は雑誌「Voice」の論文に次のように書く。
 「この間、冷戦後の日本は、アメリカ発のグローバリズムという名の市場原理主義に翻弄されつづけた。至上の価値であるはずの『自由』、その『自由の経済的形式』である資本主義が原理的に追求されていくとき、人間は目的ではなく手段におとしめられ、その尊厳を失う。金融危機後の世界で、われわれはこのことにあらためて気が付いた。道義と節度を喪失した金融資本主義、市場至上主義にいかにして歯止めをかけ、国民経済と国民生活を守っていくか。それがいまわれわれに突き付けられている課題である。
 この時にあたって、私は、かつてカレルギーが自由の本質に内在する危険を抑止する役割を担うものとして『友愛』を位置づけたことをあらためて想起し、再び『友愛の旗印』を掲げて立とうと決意した」と。
 鳩山氏は、冷戦終結後、「自立と共生の原理」と再定義した友愛を、ここで再び持ち出す。
 「現時点においては、『友愛』は、グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統のなかで培われてきた国民経済との調整をめざす理念といえよう。それは、市場至上主義から国民の生活や安全を守る政策に転換し、共生の経済社会を建設することを意味する」と言う。
 友愛は、グローバル化した資本主義と国民経済の調整、「共生の経済社会」の建設の理念とされる。「共生の経済社会」は、「共生の社会」とも言われる。具体的には、次のように鳩山氏は言う。
 「冷戦後の今日までの日本社会の変貌を顧みると、グローバルエコノミーが国民経済を破壊し、市場至上主義が社会を破壊してきた過程といっても過言ではないだろう。(略)この間、日本の伝統的な公共の領域は衰弱し、人々からお互いの絆が失われ、公共心も薄弱となった。現代の経済社会の活動には『官』『民』『公』『私』の別がある。官は行政、民は企業、私は個人や家庭だ。公はかつての町内会活動やいまのNPO活動のような相互扶助的な活動を指す。(略)われわれが真に豊かな社会を築こうというとき、こうした公共領域の非営利的活動、市民活動、社会活動の層の厚さが問われる。
 『友愛』の政治は、衰弱した日本の『公』の領域を復興し、また新たなる公の領域を創造し、それを担う人々を支援していく。そして人と人との絆を取り戻し、人と人が助け合い、人が人の役に立つことに生きがいを感じる社会、そうした『共生の社会』を創ることをめざす」と。

●所信表明で「友愛政治」の実現を訴える

 首相となった鳩山由紀夫氏は、10月26日、衆院本会議で就任後初の所信表明演説を行った。この演説において、鳩山氏は2箇所で友愛について述べた。
 「社会の中に自らのささやかな『居場所』すら見つけることができず、いのちを断つ人が後を絶たない、しかも政治も行政もそのことに全く鈍感になっている、そのことの異常を正し、支え合いという日本の伝統を現代にふさわしいかたちで立て直すことが、私の第一の任務であります。
 かつて、多くの政治家は、『政治は弱者のためにある』と断言してまいりました。大きな政府とか小さな政府とか申し上げるその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点として、ここに宣言させていただきます」
 「地震列島、災害列島といわれる日本列島に私たちは暮らしています。大きな自然災害が日本を見舞うときのために万全の備えをするのが政治の第一の役割であります。また、同時に、その際、世界中の人々が、特にアジア近隣諸国の人々が、日本をなんとか救おう、日本に暮らす人々を助けよう、日本の文化を守ろうと、友愛の精神を持って日本に駆けつけてくれるような、そんな魅力にあふれる、諸国民から愛され、信頼される日本をつくりたい。これは私の偽らざる思いであります」と。
 鳩山氏はここで、弱者・少数者の尊重が「友愛政治の原点」と宣言し、後者では災害時に近隣諸国が「友愛の精神」をもって駆けつけてくれるような日本をつくりたいと語っている。弱者・少数者の尊重は、「友愛」というより「平等」を追求する立場だろうし、自然災害に台湾や中国等に駆けつけて感謝されているのは、「日の丸」をつけた日本の救助隊である。また、これら所信表明での発言が、フランス革命のスローガン、ヨーロッパ統合の理念、「自立と共生の原理」「共生の社会」とどのように関係するのかも、分かりにくい。
 はっきり言えるのは、「友愛」は「鳩山家の旗印」であり、鳩山氏は自家の紋所のもとに、折々の思いをどれも「友愛」と言っていることである。何でも「友愛」と言えばよいのだから、まことに都合が良いのだろう。そして、鳩山氏はこの「鳩山家の旗印」を民主党の旗印にし、さらに日本の旗印にして、世界に広めようとしているのである。

●「友愛」の矛盾・偽善・破綻を明らかにする

 鳩山氏は、自分にとって友愛は「政治の方向を見極める羅針盤」であり、「政策を決定するときの判断基準」だと言う。「そして、われわれがめざす『自立と共生の時代』を支える精神たるべきものと信じている」と鳩山氏は「Voice」論文で述べている。
 このように「友愛」は、まさに鳩山氏の政治哲学の中心となる概念であり、鳩山氏は「友愛」を日本国民に訴え、国の内外に説き広めている。そこまで、友愛を強調するのであれば、民主党は党名を改称して、「友愛民主党」としてはどうか。民主党という党名は、自由民主党、社会民主党に比べ、名前だけでは、党の理念がわかりにくい。自由民主党は自由主義、社会民主党は社会主義を標榜していることが分かる。価値で言えば「自由」と「平等」をそれぞれ掲げているわけである。これに対し、鳩山氏の民主党が「友愛」を価値として掲げるのであれば、党名を「友愛民主党」とするのが妥当だろう。略して「友民党」。どこかで聞いたようでまずいだろうか。
 それはともかく、「友愛」は鳩山氏の政治哲学の中心概念であり、「羅針盤」にして「判断基準」だという。それだけに、「友愛」という思想に矛盾・偽善・破綻があれば、これは単に鳩山氏個人の声望を危うくするだけでなく、日本の針路を誤らせることになる。そこで、続いて鳩山氏の「友愛」について、様々な角度から批判的な考察を行ないたい。まず定義や主旨について検討し、その後、「友愛」から導き出される政策を批判する。ページの頭へ

 

(2)フランス革命と「友愛」

 

●「友愛」はフランス革命のスローガン

 鳩山由紀夫氏は、自身の政治哲学に「友愛」を掲げる。鳩山氏は、近代社会の課題である自由と平等の問題を認識し、20世紀における資本主義・共産主義・国家社会主義というイデオロギーの対立を反省して、友愛による政治を提唱している。冷戦終結後の世界において、鳩山氏は友愛を「自立と共生の原理」と定義し直し、日本の社会における人間関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にまで貫かれるべき原理としている。
 こうした鳩山氏の思想をどう評価するかについては、おいおい述べるとして、わが国では、鳩山氏のように自らの政治哲学を語る政治家は少ない。中曽根康弘氏、武藤嘉文氏、平沼赳夫氏、小沢一郎氏、安倍晋三氏、麻生太郎氏等、自らの政治信条を著書に表す政治家はいるものの、鳩山氏ほど明確に理念を打ち出している政治家は珍しい。そうした政治家がわが国の首相となった。それだけに、彼の思想の歪みは、日本の国家、及び日本の将来に重大な影響をもたらす。
 鳩山氏の「友愛」は、フランス革命のスローガンの一つによるという。フランス革命のスローガンは、「自由、平等、友愛」の三つである。鳩山氏は、フランス革命に何らかの憧れを持って、三つのスローガンから「友愛」を継承しているのだろう。
 わが国では、フランス革命を人類の進歩として語る意見が多い。しかし、フランス革命の実際は、素朴な理想化を許さない血塗られた出来事の連続だった。革命の過程では、殺戮、破壊、処刑が横行した。王政を倒し共和制が実現したものの、ロベスピエールという独裁者が現れた。反対派がロベスピエールを駆逐すると、国民は選挙によってナポレオン・ボナパルトを最高指導者に選出した。ナポレオンは自ら国王より上位の皇帝の座に着き、帝政が出現した。ナポレオンが失脚すると、王政復古、七月王政、第二共和制、第二帝政などと、フランスの政体はめまぐるしく変化した。一応の政治的な安定に達するのは、革命の開始後、80年以上も経て、第三共和制に至ってからである。
 フランス革命については、拙稿「西欧発の文明と人類の歴史」の第4章「市民革命・国民国家・合理主義」の「(2)啓蒙の光と影」及び「(4)フランス革命の功罪」に書いた。詳しくはそちらを読んでいただくとして、ここでは「友愛」に関することに、話をしぼろう。
 鳩山氏は、フランス革命の上記のような過程について、知らないわけではない。平成12年(2000年)に氏が発表した憲法改正試案には、次の一節がある。
 「何事によらず原理主義には気をつけたほうが良い。とくに民主『原理』主義には、ジャコバン党の昔から幾つも前科があり、要注意だ。もともと民主主義は、全ての人民が統治の主体でもあり客体でもあるという実行不能のフィクションに基づく。だからこれを極端に突き詰めていくと、かつての共産主義諸国家のような全人民の名を僭称する独裁政党による支配をも生み出すことになる」
 この鳩山氏の記述は、デモクラシーの本質に関するものである。氏が「民主『原理』主義」と呼ぶものは、フランス革命における人民主権型のデモクラシーに当たる。フランス革命においては、「自由」と「平等」の実現が追及されたが、特に急進的に「平等」を追求する過程で、独裁者が出現した。鳩山氏は、こうした歴史の反省を踏まえて、フランス革命の三つのスローガンから「友愛」を継承し、「自由」や「平等」の行き過ぎを是正する理念としようと考えているのだろう。
 しかし、フランス革命の過程では、「友愛」は「平等」の行き過ぎを是正するどころか、「友愛」を掲げた者同士が激しく戦い、流血と混乱を助長した。「友愛」では「平等」の行き過ぎを抑えることはできなかったことを、歴史は示している。

●フリーメイソンが「友愛」を掲げて対立・抗争

 ここで改めて、フランス革命のスローガンである「自由、平等、友愛」について述べる。これら三つのスローガンは、原語はliberte(リベルテ)、egalite(エガリテ)、fraternite(フラテルニテ)である。前の二つには「自由」「平等」という定訳がある。最後の「フラテルニテ」は「博愛」と訳されることが多い。鳩山由紀夫氏の祖父・一郎は、これを「友愛」と訳した。フラテルニテという言葉の本来の意味は、兄弟愛・同胞愛である。だから鳩山一郎が「友愛」と訳したのは、「博愛」より語義に近いものだった。この訳語にひそむ問題点については後述する。
 「博愛」というと、多くの人はキリスト教の説く「隣人愛(charite、シャリテ)」を連想するのではないか。キリスト教の隣人愛は、「汝の敵を愛せよ」というイエスの格言に言い表されている。しかし、フランス革命の「フラテルニテ」つまり「友愛」は、キリスト教の教えとは違う。
 フランス革命の過程では、キリスト教を否定する無神論が唱えられ、理性を崇拝する祭典が行なわれた。最も過激な一派はカトリック教会を破壊し暴行を行なった。「隣人愛」を説くキリスト教会を、「友愛」を掲げる集団が襲撃したのである。
 「友愛」は、キリスト教ではなく、フリーメイソンの思想から来ているといわれる。「友愛」を含む「自由・平等・友愛」のスローガン自体が、当時のフリーメイソンの理念を端的に表したものだった。
 フリーメイソンは、17世紀イギリスで発達した秘密結社である。メイソンは「自由・平等・友愛」をスローガンに掲げたが、もとはロックの「統治二論」である。ロックは、本書で、自然状態において完全に自由かつ平等である人間が、自然法と理性に基づいて行動し、正義と博愛という原理に導かれると説いている。それゆえ、フリーメイソンがロックの思想を摂取したと考えるべきだろう。
 メイソンについても詳しくは先の拙稿「西欧発の文明と人類の歴史」に書いた。18世紀前半、メイソンはカソリックから破門にされた。フランスでルソーらの啓蒙思想と結びついて急進化した。メイソンのロッジ(支部)がパリを中心に700近くも作られ、革命の温床となった。特にジャコバン・クラブに集まった者には、メイソンが多かった。
 メイソンは「友愛」を掲げたのだが、革命の過程で、メイソン同士が意見の違いから、激しい対立・抗争を繰り広げた。メイソンの指導的な立場にあったド・シャルトルは断頭台で処刑され、マラーは暗殺され、コンドルセは服毒自殺した。断頭台に名を留めたギロチン博士もメイソンだった。「友愛」を旗印とする者同士が、殺伐とした戦いを行なったのである。
 鳩山一郎はフリーメイソンの会員であることを公言している。鳩山由紀夫氏も会員であるかどうかは不明だが、祖父・一郎はフリーメイソンとして「友愛」を唱えたのである。鳩山由紀夫氏は、フランス革命の殺戮、破壊、処刑を語らず、祖父が一員だったフリーメイソンの関わりを語らない。ただ「友愛」という理念を継承し、現代の日本で説いて回るのである。

●「友愛」は、敵と戦う仲間の同士愛

 フランス革命の「友愛」の語義は、兄弟愛・同胞愛である。兄弟愛は、同じ親から生まれた血を分けた兄弟間の愛である。同胞というのも、同じ腹、つまり母親の胎内から生まれた兄弟のことである。こうした血縁的・家族的な兄弟・同胞が、比ゆ的に使われ、同じ集団に所属する仲間を兄弟・同胞と呼ぶことがある。ここにいう集団とは、親族・部族・氏族・団体・結社・民族・国家等の集団であり、人々のアイデンティティの根拠となるものである。フランス革命において、「友愛」はこうした比ゆ的な意味での兄弟愛・同胞愛を意味した。
 鳩山氏は、「友愛」は「革命の旗印ともなった戦闘的概念」「戦いの旗印」だと言う。もし「友愛」が「戦いの旗印」だとすると、戦いには相手がある。それが敵である。敵は打ち破らなければならない。それゆえ、「友愛」とは、敵と戦う仲間の同士愛と考えることができる。同士愛の強い仲間を、血縁・家族の比ゆをもって、兄弟・同胞というのである。集団が自己を守る、または自己を広げる、そのために外部の別の集団と戦う。その際の集団内部の同士愛こそが、「友愛」である。
 私のこのような理解を裏付けるものがある。フランスの国歌である。市民革命が生んだ国・フランスは、「ラ・マルセイエーズ」を国歌とする。「ラ・マルセイエーズ」は、革命の中から生まれた歌である。革命は対外戦争に発展し、「祖国の危機」が叫ばれ、義勇兵が結集した。その義勇兵が歌った歌が国歌になっている。
 その歌詞を次に示そう。鳩山氏が、「友愛」は「革命の旗印ともなった戦闘的概念」「戦いの旗印」だと言う意味がよくわかるだろう。

「ゆけ、祖国の国民 ときこそ いたれり。
 正義の われらに 旗は ひるがえる、旗は ひるがえる。
 聞かずや、野に、山に、 敵の 叫ぶを。
 悪魔のごとく 敵は 血に飢えたり。
 立て、国民、 いざ、ほことれ。
 進め、進め、 あだなす敵を ほおむらん」

 悪魔のごとく血に飢えた敵と戦い、敵を打ち滅ぼせという戦闘的な内容の歌である。この歌を歌いながら進むフランス国民の団結心、敵と戦う同士愛が「友愛」なのである。ちなみに「ラ・マルセイエーズ」の作曲者も、義勇兵の隊長もメイソンだった。

●「友愛」の戦いがヨーロッパに大戦争をもたらした

 「ラ・マルセイエーズ」は1792年、フランス革命が対外戦争を伴うものになった段階で生まれた歌である。その翌年、ルイ16世と王妃マリー=アントワネットがギロチンで処刑されると、イギリスが中心となって第1回対仏大同盟が結成された。外圧による危機が高まるなか、ロベスピエールが独裁体制を敷くと、クーデタが起き、ロベスピエールは舞台から消えた。混迷と戦争のなか、国民の支持を集めたのは、軍人ナポレオン・ボナパルトだった。国民投票によって終身統領となったナポレオンは1804年、自ら皇帝の地位に就いた。王政を倒し共和制を目指したはずの革命が、国王以上の権力者を生み出したのである。
 ナポレオンは、フランス革命の理念を伝えるという大義のもと、対外的な大戦争を推し進めた。イギリスは大陸諸国と結び、05年に第3回対仏大同盟で対抗した。トラファルガーの海戦で敗れたナポレオンは、戦域を北方に拡大したが、冬のロシアで苦戦した。フランス軍に侵攻された国々では、ナショナリズムに目覚めた諸民族が各地で一斉に蜂起した。ここに至ってナポレオンは14年に退位し、エルバ島に流刑となった。その後、ナポレオンは、同島を脱出して再起し、皇帝に復位した。諸国連合軍は再びナポレオン軍に立ち向かい、ワーテルローの戦いでこれを破った。ナポレオンはセントヘレナ島へ送られ、そこで波乱万丈の生涯を閉じた。
 ナポレオン戦争は、ヨーロッパが体験した最初の大戦争だった。「友愛」で団結するフランス国民軍が怒涛の勢いで周辺諸国に侵攻し、キリスト教国同士が、ヨーロッパの広域で大戦争を繰り広げたのである。
 以上、フランス革命の「友愛」を見てきたが、「友愛」は決して友好的・平和的なものではないことがわかるだろう。鳩山氏は、フランス革命の「友愛」を肯定的・進歩的な意味合いでとらえているが、歴史と思想を振り返るならば、浅はかな思い込みと言わざるをえないのである。ページの頭へ

 

(3)カレルギーに依拠する「友愛」

 

●鳩山氏はカレルギーの「友愛」を継承

 鳩山由紀夫氏は、フランス革命のスローガンである「友愛」を、直接的には祖父・一郎の訳した著書を通じて、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーから学んだ。
 カレルギーは、オーストリア・ハンガリー帝国駐日特命全権大使のハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と日本人女性・青山光子の子として、東京で生まれた。カレルギーは第1次世界大戦後の1923年、「汎ヨーロッパ」を刊行し、ヨーロッパ統合を提唱した。1938年、ナチスがオーストリアを併合すると、カレルギーは所領のあるチェコスロバキアを離れ諸国を経て、フランスに移った。1940年、フランスがナチスの手に落ちると、アメリカに逃避した。第2次世界大戦後も、1947年にヨーロッパ議員同盟を創設するなどして、ヨーロッパ統合運動に尽力した。
 カレルギーは、ヨーロッパ統合の理念をフランス革命の「友愛」に得ている。先にフランス革命について書いた。「友愛」を掲げるフリーメイソン同士が対立・抗争したこと、「友愛」はキリスト教の隣人愛ではなく、敵と戦うための同士愛だったこと、また「友愛」で団結するフランス軍がヨーロッパのキリスト教国同士の大戦争を巻き起こしたことを述べた。「友愛」を掲げたフランス革命から、カレルギーによるヨーロッパ統合の提唱の間には、130年以上の歳月がある。革命からナポレオン戦争までは既述した。その後のヨーロッパ史に触れてからでなければ、カレルギーの「友愛」を語ることはできない。

●カレルギーの「友愛」は、ハプスブルグ家という出自と矛盾

 クーデンホ−フ=カレルギー家はハプスブルグ家に仕える貴族だった。ハプスブルグ家は13世紀から20世紀にかけて栄えたヨーロッパ隋一の名門である。歴代の神聖ローマ皇帝を輩出したほか、ドイツ、イタリア、スペインなどに広汎な領地を持ち、汎ヨーロッパ的な存在だった。
 ハプスブルグ家にとって、フランス革命は支配と領有を脅かされる大事件だった。ルイ16世の王妃として断頭台の露と消えたマリー・アントワネットは、ハプスブルグ家の出身で、オーストリアの女帝マリア=テレジアの娘である。ナポレオンの指揮のもと、フランス国民軍の「友愛」の軍隊が、ハプスブルグ家の帝国・王国を脅かした。ナポレオンがフランス皇帝となると、フランツ2世が神聖ローマ皇帝を退位し、ここに神聖ローマ帝国は終焉した。それゆえ、カレルギーがフランス革命のスローガンから「友愛」を取って自らの旗印とするのは、出自と矛盾しているのである。
 ナポレオン戦争の混乱の後、ヨーロッパに国際秩序が戻った。ナポレオン失脚後のヨーロッパにおいて、ハプスブルグ家は再び重要な役割を果たした。オーストリア帝国のハプスブルグ家に仕えるメッテルニッヒは、この時代のヨーロッパに平和と均衡をもたらした大政治家である。
 フランスから革命が輸出され、王制が打倒され、共和制になることを防ぐために、イギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン等の君主国は、協同した。対仏大同盟や戦後のウィーン体制には、後の欧州連合に発展する要素があったと私は見ている。実際、欧州連合には、イギリス、オランダ、スペイン、ベルギー等の君主国が多数参加している。欧州連合は、フランス革命の目指した共和制を欧州に広めたものではなく、君主制の国家、共和制の国家が共存する連合体である。
 ナポレオン戦争の約100年後、ヨーロッパは再び大戦争に突入した。それが、第1次世界大戦である。多数の人命が失われ、ヨーロッパは荒廃した。オーストリア=ハンガリー帝国は解体し、皇帝が退位し、君主制は崩壊した。ハプルブルグ家の栄光は、費えた。
 戦後、国際連盟や不戦条約によって、国際協調が目指された。カレルギーは、こうした時代に「汎ヨーロッパ」を刊行し、ヨーロッパ統合運動を提唱した。それは、自由を極端に追求するアングロ・サクソン的な自由主義でも、平等を極端に追求するロシア的な共産主義でもなく、自由と平等の均衡を図る「友愛」の理念を打ち出した運動だった。彼のヨーロッパ統合の構想には、崩壊したハプスブルグ家による汎ヨーロッパ的な連合を、新たな形で再構築するという意図がうかがわれる。しかし、その統合の理念として、ハプスブルグ帝国を崩壊に導いたフランス革命の「友愛」を掲げたことは、自家撞着だったのである。

●カレルギーにユダヤ系資本家が資金援助

 第1次世界大戦後、ヨーロッパでは、大戦の悲劇により、平和への願いは切実なものとなっていた。ヨーロッパの平和はヨーロッパの統合によるのみという思想が、さまざまな運動となって現れた。そういう運動の一つが、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーによるものだった。
 近代の戦争は、巨大な工業力を必要とする。だからもし資源を共通の権威の下に置くことができれば、大国同士の戦争を避けられるだろう、とカレルギーは考えた。ドイツの石炭とフランスの鉄鋼が、両国にまたがる権威の管理下にあるなら、独仏の戦争の回避を期待できる、とカレルギーは主張した。単なる理想を説くのではなく、国際関係に係る具体策を提示したところに実現の可能性があった。こうした方策をもって構想されたのが、汎ヨーロッパ同盟である。
 ここで注目しておきたいことがある。カレルギーが「回想録」の中で、彼の汎ヨーロッパ同盟は、ルイス・ド・ロスチャイルド男爵とマックス・ウォーバーグから資金援助を受けたと述べていることである。マックス・ウォーバーグは、全生涯にわたって汎ヨーロッパ同盟に真剣に関心を持ち続けたという。またマックスの紹介でアメリカを訪ねたカレルギーは、その弟のポール・ウォーバーグとバーナード・バルークからも資金を提供されたと述べている。彼らはみなユダヤ人である。ヨーロッパ統合運動にユダヤ系の金融資本家が賛同し、資金を提供したのである。
 カレルギーの汎ヨーロッパ同盟は、アメリカにも広がった。ウイルソン大統領の参謀エドワード・マンデル・ハウス大佐と、後に大統領になるハーバート・フーヴァーが、汎ヨーロッパ同盟のアメリカ支部を設立した。ハウスとフーヴァーは、合衆国が国際連盟に加盟するよう訴えて、各地を遊説した。ヨーロッパの統合を進める運動と、アメリカの国際連盟加盟を促進する運動は、連携していた。それらの動きをユダヤ系の国際金融資本家が、資金的に支援したのである。
 ヨーロッパでは、古くからユダヤ人の隔離や排斥が繰り返されてきた。それゆえ、ユダヤ人は、国家や民族を超える経済活動や社会主義を推進しようとする。国境を越えて自由に移動でき、金融や商業をできることは、ユダヤ人にとって有利である。なかでもロスチャイルド家は、そうした超国家的な経済活動で、巨富を築いていた。他のユダヤ人資本家も、そうである。彼らにとって、ヨーロッパの統合や国際組織の発達は、より大きな利益の獲得につながるのである。

●周辺には英米の世界政府運動があった

 カレルギーのヨーロッパ統合運動は、英米の世界政府運動と関係づけて語るべきものである。英米では、遅くとも1910年代には世界政府の構想が支配集団の間に芽生えていた。カレルギーが活躍する以前のことである。世界政府運動の元は、大英帝国の維持・拡大のために、セシル=ローズとその弟子たちが創った秘密結社「円卓会議(Round Table)」にある。共産主義の思想は、理論的にプロレタリア独裁による世界政府の樹立を目指す。これに対抗するため、ブルジョワジーによる世界政府が構想されたのである。共産主義の統制主義国家群をも取り込む形で、資本主義世界政府の樹立が企画されたのだろう。その構想の第一歩となったのが、国際連盟の創設だった。
 しかし、国際連盟はアメリカの不加盟によってつまずいた。そこで、円卓会議をもとに、イギリスの王立国際問題研究所(RIIA)とアメリカの外交問題評議会(CFR)が作られ、英米主導で世界政府を目指す動きが続けられた。この動きには、ヨーロッパのロスチャイルド家・ウォーバーグ家や、アメリカのモルガン家・ロックフェラー家等の巨大国際金融資本家が関わり、資金も供出していた。
 それゆえ、カレルギーのヨーロッパ統合運動は、こうした英米のアングロ・サクソン=ユダヤ連合の動きと関係付けてとらえる必要があるのである。また第2次世界大戦後、実際にヨーロッパ統合が進められた際には、欧米の支配者集団が連携するビルダーバーグ・クラブが中核的な役割を果たした。鳩山氏は、カレルギーと友愛のみを挙げるが、それだけでヨーロッパ統合の運動を把握することはできない。
 なお、英米の世界政府運動、円卓会議、RIIA、CFR、ビルダーバーグ・クラブ等については、拙稿「現代の眺望と人類の課題」に書いた。その第9章「現代世界の支配構造」、第10章「アメリカを動かす外交評議会」、第11章「ビルダーバーグ・クラブ」をご参照願いたい。20世紀以降の世界の歴史、及び現代世界の政治経済を深く理解するには、わが国の多くの政治家や歴史家が立ち入ろうとしない、この領域に目を向けなければならない。

●「友愛」より生存と利益の追求が欧州統合の推進力

 第1次世界大戦後、ヨーロッパの平和は長く続かなかった。大戦で敗れたドイツは、ヴェルサイユ条約で過酷な条件を課せられた。英仏のドイツへの徹底的な報復政策は、ドイツ国民を復讐に駆り立てた。ナチスが台頭し、戦勝国による秩序に挑戦した。国際連盟は平和を維持する力を持たず、また主要国が次々と脱退し、組織が形骸化した。昭和14年(1939)9月、ヒトラーの電撃作戦によって、ヨーロッパは再び、世界大戦の舞台となった。「自由・平等・友愛」を掲げるフランスは、ナチスの支配下に置かれた。この時代については、拙稿「西欧発の文明と人類の歴史」の第6章「第1次世界大戦と世界の動揺」、第7章「人類の危機と第2次世界大戦」に書いた。

 カレルギーは、ナチスの支配を逃れ、アメリカに亡命した。彼のヨーロッパ統合運動は、挫折した。彼を支援したロスチャイルド家等も、ナチスによって打撃を受けた。しかし、世界政府を目指す動きは、国際連盟の失敗を経て、次の段階に入った。第2次大戦の最中から、アメリカを中心に国際連盟に替わる新たな機関の設立が進められた。軍事同盟である連合国を恒常的な国際機関に発展させる動きがそれである。昭和20年(1945)6月サンフランシスコ会議で国際連合憲章=連合国憲章が採択され、10月に国際機構としての国際連合=連合国が改めて発足した。
 こうした状況を踏まえ、ヨーロッパでは、フランスの実業家で政治家でもあるジャン・モネが、新たなヨーロッパ統合論を唱えた。カレルギーの構想は、ハプスブルグ家の威光による統合を志向し中欧を含むものだったが、モネはフランスの国益を重視し、範囲を西欧に限定した。昭和35年(1950)5月、フランスのロベール・シューマン外相が、モネの原案をもとに、ドイツとフランスの石炭及び鉄鋼の全生産を共通の管理下におき、他のヨーロッパ諸国の参加も認めるというシューマン・プランを提唱した。以後、ヨーロッパ統合運動は、カレルギーとは別のところに中心が移った。
 シューマン・プランが提唱された当時、西欧は戦乱によって疲弊していた。また大戦で強大化したソ連・東欧の共産圏と陸続きで対峙することになり、共産化の危機が高まった。アメリカは、西欧の復興のためにマーシャル・プランを実行した。マーシャル・プランは、1948年から51年(昭和23〜26年)にかけて推進された。またこの復興計画の実行中だった49年(24年)4月、北太平洋条約機構(NATO)が結成された。共産主義ソ連のヨーロッパ侵攻を食い止め、ヨーロッパを守るために、アメリカが主導して、地域集団安全保障体制が作られたのである。アメリカ、カナダ、ヨーロッパ10カ国が加盟した。翌年ソ連はこれに対抗して、東欧7カ国との間でワルシャワ条約機構を創設した。ヨーロッパは二大陣営に分裂し、東西対立は決定的になった。しかも世界は核の時代に入った。
 こうした冷戦下で、西欧諸国には、相互の連携とアメリカとの関係強化が求められた。西洋文明の二大地域である西欧と北米が協力する体制が必要だった。その課題への取り組みの一環として、欧州統合運動を具体化したのが、ジャン・モネだった。これは、アメリカの動きに応じて、ヨーロッパが独自の運動を進めたものと思われる。
 このようにヨーロッパの統合は、「友愛」という理念の実現というより、共産主義への対抗や地域安全保障、経済発展など、生存と利益の追求のために推進されたのである。

●冷戦下、NATOのもとでこそ、ヨーロッパの統合は進んだ

 私が特に強調したいのは、ヨーロッパの統合は、経済協力だけで進んだのではなく、NATOという地域集団安全保障体制が先に確立されており、そのもとで統合が進んだということである。
 米ソの冷戦により、西ヨーロッパ諸国は、ソ連・東欧から押し寄せる共産化の波を防ぎ、自由を守るために、協力せざるを得なくなった。アメリカに続いて、ソ連も核を開発・所有し、本格的な核時代に入った。もはや一国で、自国の防衛をすることはできない。独仏の協調・連合は、そういう構図の中でとらえるべきだろう。特にドイツは、敗戦後、東西に分断されていた。西ドイツは、ベルリンの壁で、ソ連圏と接している。共産軍の侵攻を食い止めつつ、ドイツ民族の統一を図ることは、悲願だった。フランスもまた独自の核兵器の開発に成功したとはいえ、ドイツと再び戦うことのないようにしながら、ソ連に対抗しなければならない。そこに独仏の利益が一致した。仇敵同士が、より大きな敵を前に対して、協力せざるを得なくなったわけである。
 独仏の協調に始まって、ヨーロッパ諸国は、原子力共同管理、経済協力等を進めた。それが、欧州連合や単一通貨ユーロへと発展していく。だから、私の味方では、NATOあってのヨーロッパ統合の動きである。安全保障が先であり、特に共産主義への対抗がポイントである。ヨーロッパは単に戦争の体験を経て、平和のために統合したのではない。米ソの対立、ソ連の脅威という中での選択を行なったのである。
 それゆえ、ヨーロッパは、単に「友愛」で結びついたのではない。もし「友愛」と言いたいのなら、共産主義ソ連という共通の敵に対抗するために、同士愛を結んだのである。ソ連は、カレルギーが「友愛」を掲げて戦った全体主義国家の一つである。鳩山氏は、カレルギーの友愛を継承して、東アジア共同体構想を説くが、ヨーロッパ統合における反共反ソの集団安全保障体制の重要性をよく認識していない。鳩山氏は、政治家として重大な欠陥が何点かあるが、その一つは軍事・安全保障に関する感覚が貧弱なことである。

●欧米でのカレルギーの評価は高くない

 西欧諸国は、ジャン・モネの構想によるシューマン・プランに基づき、昭和26年(1951)に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)を設立した。モネは、ECSC最高機関(のちの欧州委員会)の初代委員長となった。
 ECSCの設立は、ヨーロッパ統合への第一歩だった。続いて、欧州原子力共同体(ユートラム)、欧州経済共同体(EEC)等へと発展し、今日の欧州連合(EU)に至る。ヨーロッパ諸国は、現実的な共通利益のために、部分的な共同組織づくりから始め、それを経済・政治・通貨等の分野に広げ、段階的に統合を進めてきたのである。
 この過程で、ヨーロッパ統合運動の中枢として機能したのが、ビルダーバーグ・クラブ(BC)である。BCは昭和29年(1954)に設立された欧米支配集団の連携組織である。BCはヨーロッパ統合を目指しつつ、当初は第2次大戦によって分裂した欧米諸国の信頼関係を回復させ、経済的な協力を深めることを目的とした。先に英米における世界政府運動に触れたが、BCは欧米の所有者・経営者が集合して、これを推進しようとする組織である。BCはヨーロッパ統合にとどまらず、欧米の財閥・大企業・政治家・官僚が、巨大国際金融資本が主導して、「新世界秩序」(the New World Order)を形成するための政策フォーラムに転化している。
 カレルギーは昭和47年(1972)に没した。彼が1920年代にヨーロッパ統合を提唱し、運動を起こしたことは意義あることだったが、具体的な統合の過程は、彼が掲げた友愛の理念で進んだとは言えない。EUの生みの親はシューマン・プラン、EUの父はモネというのが定説である。また統合の実現には、フランスのドゴール、ポンピドー、ジスカール・デスタン、ミッテラン、ドイツのアデナウアー、シュミット、コール等の多くの政治家が関与した。カレルギーは特別の存在となっておらず、今日、ヨーロッパでは、カレルギーの評価はあまり高くないようである。特にイギリスでは、批判的な見方が強い。カレルギーの構想では、イギリスはヨーロッパ統合の対象から除かれていたことによる。またアメリカでは、カレルギーの名前は、ほとんどマスメディアに登場することがないという。それゆえ、鳩山氏が、あまりカレルギーの「友愛」を強調するのは、欧米人に疑問を与えるだろう。

●カレルギーはヨーロッパ統合にとどまらず、世界連邦を目指した

 ここでカレルギーのヨーロッパ統合論の内容について補足する。カレルギーは、確かに友愛を理念としてヨーロッパの統合を説き、鳩山氏は彼の友愛と地域統合を継承している。しかし、カレルギーのヨーロッパ統合論の内容は、そう単純ではない。
 カレルギーは、ヨーロッパの統合を4つの段階に分けて構想した。第1段階は欧州議会の設立、第2段階は欧州相互安全保障条約の締結、第3段階は欧州関税同盟及び通貨同盟の結成、第4段階は欧州合衆国の建国である。現実のヨーロッパ統合は、第2段階の地域安全保障からスタートした。その点は、先に冷戦とNATOに関する項目で書いた。第3段階の欧州関税通貨同盟は、域内関税の低減・廃止や単一通貨ユーロによって実現した。第1段階の欧州議会も設立されている。しかし、問題は、第4段階である。EUは、君主制と共和制という異なる政体の国家が混在した連合組織である。アメリカ合衆国のような国家を、ヨーロッパにも創ろうとする共和主義の運動ではない。鳩山氏がカレルギーを引用する際、こういう点は無視されている。
 さらに私が重要だと思うのは、カレルギーのヨーロッパ統合論は、ヨーロッパ統合論にとどまるものではない点である。カレルギーにおいて、欧州合衆国は世界連邦を設立するための前段階だった。彼は、世界を5つの地域国家群(ブロック)に分け、ブロックごとに統合を進めて、最後に世界連邦を形成するという構想を抱いていた。5つのブロックとは、ヨーロッパ、イギリス連邦、南北アメリカ、東アジア、ソ連(当時)である。このうちの一つが、ヨーロッパ・ブロックだった。ヨーロッパの統合は、世界連邦を創設するための一段階に過ぎなかったのである。私は先に英米の世界政府構想について触れた。また英米のユダヤ系国際金融資本家が、カレルギーに資金援助をしていたことについても述べた。カレルギーの世界連邦的ヨーロッパ統合論は、そういう文脈の中で、理解する必要がある。
 もう一つ重要なことを述べる。カレルギーは、友愛からヨーロッパの統合を考え、さらに世界の5ブロック化と世界連邦の形成を描いた。その世界連邦の形成において、カレルギーは、東アジアが一つのブロックとなることを構想していた。鳩山氏は東アジア共同体構想を提唱しているが、それがこうしたカレルギーの世界連邦論と関係するのかどうか、言及しない。鳩山氏は、自身の東アジア共同体構想を述べる際、カレルギーの説く世界連邦、及び東アジア・ブロックとの関係を、明らかにすべきである。ページの頭へ

 

(4)「友愛」は社会の構成原理になりえない

 

●鳩山氏の「友愛」の矛盾した性格

 鳩山氏は「友愛」を「革命の旗印ともなった戦闘的概念」「戦いの旗印」と言う。確かに「友愛」は、「戦いの旗印」なのである。鳩山氏が、戦う革命家であり、戦う司令官であれば、その旗印にふさわしい。
 ところが、鳩山氏は「友愛」をフランス革命における歴史的な意味とは異なる意味で使っているようである。平成21年(2009)9月、首相就任後、間もなく国連の舞台に華々しく登場した鳩山氏は、中国首脳との対談で、「友愛外交」を強調した。日中の懸案であるガス田問題については、「東シナ海を『友愛の海』にしたい」と述べた。ここで鳩山氏が「戦いの旗印」という意味で「友愛」を使っているのであれば、日本国民に対して、中国との戦いを呼びかけるものとなりそうなところである。
 実際には鳩山氏は、「友愛」を全く違う意味で使っている。「友愛外交」「友愛の海」などと言うときの「友愛」は、血縁的・家族的な兄弟愛でも、戦闘的・同士的な兄弟愛でもなく、普遍的な兄弟愛、つまり人類愛に近い意味で使われている。「人類みな兄弟」という時のそれである。
 鳩山氏が普遍的な兄弟愛、人類愛に近い意味で「友愛」を使うのであれば、その「友愛」は「戦いの旗印」「革命の旗印ともなった戦闘的概念」ではない。敵と戦う仲間の同士愛ではなく、「汝の敵を愛せよ」というキリスト教の教えに近いものとなる。
 一体、鳩山氏の「友愛」は、どっちなのか。「戦いの旗印」なのか、「人類みな兄弟」なのか。鳩山氏の「友愛」は、その時々で正反対のものに都合よくひっくり返る無原則的な言葉ではないか。ここに鳩山氏の「友愛」の矛盾した性格を、私は指摘する者である。

●カレルギーの「友愛」のキリスト教的な意味合い

 鳩山氏の「友愛」は矛盾した性格を露にしながら、キリスト教的な色合いを響かせる。鳩山氏がキリスト教を信奉しているのかどうか分からない。私に明らかなのは、鳩山氏の「友愛」にキリスト教的な響きがあるのは、クーデンホーフ=カレルギーに元があることである。
 祖父・一郎がカレルギーの著書を訳した「自由と人生」は、冒頭に「人間は神の創造物である。国家は人間の創造物である」と書かれている。この一文は、カレルギーが、キリスト教の創造説を前提としていることを表している。神の被造物としての人間は、同じように創られた同胞を愛さなければならないというキリスト教の教えが、カレルギーの友愛には込められているわけである。
 この点を確認できるのは、同書の第12章「友愛革命」の次の一文である。「友愛主義の革命は、今や国民と国民との間、階級と階級との間に橋梁を架し、以て彼等の全部に対して自由なる人間が四海同胞たることの福音を伝えるであろう」
 人間が四海同胞であるという考えは、キリスト教の「人類みな兄弟」の発想による。また、「友愛主義の革命」は「福音」を伝えるという主張は、カレルギーの友愛主義はキリスト教の伝道に近い発想であることを示している。
 鳩山由紀夫氏は、「友愛」という自身の政治哲学の理念を、直接的には祖父・一郎、そして彼が訳したカレルギーの著書から、学び取っている。だから、鳩山氏の友愛には、キリスト教的な響きが自ずと出てくるわけである。鳩山氏自身の思想ではない。他人の思想を取り入れただけのように思える。
 このようにカレルギーの友愛主義は、キリスト教の創造説や隣人愛の教えが土台にあるものであり、フランス革命の反キリスト教・理性崇拝・共和主義の闘争思想とは、異なる。

●全体主義と戦わない鳩山氏の「友愛」は「偽の友愛」である

 先ほど引用したカレルギーの著書の冒頭にある言葉は、「人間は神の創造物である。国家は人間の創造物である」であった。その一文は、次の言葉が続く。「国家は人間の為に存在するが、人間は国家の為に存在するのではない。国家なき人間と云うものは考え得られるが、人間の無い国家は到底考え得られない。人間は目的であって、手段ではない。国家は手段であって、目的ではない」と。
 ここに見られるのは、極端な国家主義に対する批判である。鳩山氏は「Voice」論文で、最後の「人間は目的であって、手段ではない。国家は手段であって、目的ではない」というカレルギーの言葉を引用している。しかし、カレルギーの前提となっている「人間は神の創造物である。国家は人間の創造物である」という一文は引用していない。そのことにより、鳩山氏は「友愛」の持つキリスト教的な響きの源泉を明らかにせずに、「友愛」を都合よく使っているのである。
 私は、友愛がフランス革命の思想に基づくものであれ、キリスト教に関係するものであれ、どちらでも構わないのだが、カレルギーが人間の尊厳を守るために全体主義を批判したことは、評価している。鳩山氏が信奉するカレルギーは、「全体主義国家対人間」を著し、友愛の理念をもって全体主義と戦った。ソ連の共産主義、及びドイツのナチズムとの戦いである。
 第2次大戦でナチズムは敗退した。その後、ソ連の共産主義が冷戦の終結の後に、崩壊した。しかし、東アジアには、依然として全体主義国家が存続している。中国と北朝鮮である。もしカレルギ−が今日、東アジアにいれば、友愛を掲げ、中国と北朝鮮の全体主義と戦うだろう。しかし、鳩山氏は全体主義を人間の尊厳を踏みにじるものだと告発せず、中国・北朝鮮を含む東アジア共同体を構想する。鳩山氏は、「友愛、友愛」と説いて回りながら、全体主義国家と戦おうとはしない。全体主義と戦わない友愛は、カレルギーの友愛とは違う。私は鳩山氏の友愛は「偽の友愛」だと思う。

●「友愛」は社会の構成原理になりえない

 クーデンホーフ=カレルギーは、邦題「自由と人生」の第12章「友愛革命」に、次のように書いている。「友愛主義の政治的必須条件は連邦組織であって、それは実に、個人から国家をつくり上げる有機的方法なのである。人間から宇宙に至る道は同心円を通じて導かれる。すなわち人間が家族をつくり、家族が自治体(コミューン)をつくり、自治体が郡(カントン)をつくり、郡が州(ステイト)をつくり、州が大陸をつくり、大陸が地球をつくり、地球が太陽系をつくり、太陽系が宇宙をつくり出すのである」と。
 カレルギーは、ここで「友愛」を、個人が家族を作り、家族が自治体・郡・州を、さらに大陸・地球・太陽系・宇宙をつくる有機的な原理に関係付けている。「友愛」は兄弟愛・同胞愛である。兄弟愛を家族・社会の構成の原理とする発想は、唯一神ヤーウェが人間を創造したとするキリスト教の創造説と、近代西洋における原子的アトム的で抽象的な個人の観念によるものだろう。
 だが、キリスト教においても、神が直接創造したのはアダムとイブのみであって、その後の人間はみな両親の生命から生まれきた。夫婦の愛があって子どもが生まれ、親子の愛があって子どもが育つ。兄弟から子どもは生まれない。子どもはただ両親からのみ生まれる。兄弟愛の前に、夫婦・親子の愛があるわけである。兄弟愛は、家族愛の一部に過ぎず、親子・夫婦・祖孫の愛を包含するものではない。そうした部分的な要素を拡大して、家族や社会の構成原理とすることには、無理がある。
 仮に兄弟愛を人間界の構成原理にしたとしても、友愛は人間のあいだの愛であって、大陸や地球・太陽系・宇宙には敷衍できない。もし愛を人間界以外の自然界にまで拡張するならば、その思想はロマン主義の思想となるだろう。
 鳩山氏は、こうしたカレルギーの「友愛」を批判的に考察していない。ただ祖父から家訓のように受け継ぎ、それを自分では「自立と共生の原理」と再定義している。そして、この原理を日本社会の人間関係、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも当てはめるというのだが、もともと「友愛」が持っている限界を検討せずに、「自立と共生の原理」に置き換えて使い回しているのである。
 また、カレルギーは上記の引用で、「友愛主義の政治的必須条件は連邦組織」と言っているが、この考え方は、世界連邦の構想によるものである。彼にとって、ヨーロッパの統合は世界連邦を構成する5つのブロックのうちの一つを作ることだった。鳩山氏はそのことに触れない。もし「自立と共生の原理」を人類世界の構成原理として掲げるのであれば、世界連邦はその具体的形態とでも言えそうだが、鳩山氏はそのことにも触れない。

●「友愛」より「調和」こそ、根本理念にふさわしい。

 鳩山氏は自由が放恣になり、平等が悪平等になるという問題の解決のために、「友愛」を掲げる。私はそれらについてであれば、ヨーロッパの思想によらなくとも、取り組みができると思う。私は、カレルギーが人間界から自然界までを貫く原理のように考えた「友愛」は、「調和」という理念に置き換えられると考える。
 調和は、日本の文化が産み出した理念である。縄文時代から日本に自生した考え方で、聖徳太子によって「和をもって尊しとなす」という言葉に定着された。「和」は、わが国の国名として「大和(やまと)」として使われもする。「和風」と言えば、日本風を意味する。
 調和の理念は、日本文明史を通じてさらに発達し、江戸時代に熟成して、近代日本に受け継がれた。教育勅語では「夫婦相和し」と夫婦の間の徳目に「和」が挙げられたが、「和」は、家族・地域・企業・団体・社会等、広く人と人の調和を表す。また人と自然の関係にも、調和はあるべき状態を表す。このように、人と人、人と自然を貫く理念として、「調和」を理解することができる。
 私の見るところ、鳩山氏はわが国の固有の文化・伝統・国柄を、あまり深く理解してはいない。氏が依拠するのはフランス革命のスローガンであり、カレルギーの思想である。氏の「友愛」は、日本の文化・伝統・国柄に根を持たない。鳩山氏はわが国固有の価値を把握・体得していないから、価値を外来の思想に求めるのだろう。
 鳩山氏は「友愛」を「自立と共生の原理」と定義し、日本社会の人間関係、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも当てはめようとする。しかし、元が「友愛」なのだから、人間界には適用できても、人間と自然の関係にまで広げるのは、無理がある。私は、「自立と共生の原理」は「調和」の理法に包摂されると考える。個と個、個と全の調和、部分と部分、部分と全体の調和である。こうした調和の実現された状態が「大和」であり、近代のわが国では共存共栄とも呼んできた。兄弟愛・同胞愛という限定的な原義を持つ「友愛」より、「調和」は、心身から家庭・社会・国家・文明、さらには自然にまで一貫した根本理念としてふさわしい。この点については、本稿では立ち入らない。関心のある方は、関連掲示をご参照願いたい。ページの頭へ
 
関連掲示
・マイサイトの「和の精神」のページ

 

(5)教育勅語の「博愛」と「友愛」の違い

 

●「博愛」を使わず、「友愛」と訳した事情

 鳩山一郎は、カレルギーの著書「全体主義国家対人間」を翻訳する際、fraternite(フラテルニテ)を「博愛」ではなく、「友愛」と訳した。「博愛」は、戦前わが国の学校で教えられ、誰もが知っている言葉だった。それは、教育勅語に「博愛衆に及ぼし」という一節があるからである。私は、鳩山一郎は、教育勅語の「博愛」との違いを明瞭にするために「友愛」を使ったのだろうと考える。
 教育勅語は、戦前のわが国では、教育と道徳の指針となっていた。教育勅語は、父母への孝、夫婦の和、兄弟の友という家族愛に始まり、朋友の信を説いて、「博愛衆に及ぼし」と続く。博愛は、儒教の経典である「孝経」にある言葉で、「広く平等に愛すること」をいう。
 明治42年(1909)、日本国政府は教育勅語を外国語に訳して、各国政府に配布した。「博愛衆に及ぼし」の一節は、英訳では “extend your benevolence to all”、仏訳では “extendez votre bienveillance a tous”と訳された。博愛の訳語である benevolencebienveillanceは、ともに同じラテン語からきており、「善意、慈悲心」を意味する。
 鳩山一郎が「友愛」と訳した「フラテルニテ」は、兄弟愛・同胞愛を意味する。教育勅語には兄弟愛に関係する「兄弟に友に」という一節もある。その一節は、英訳では“affectionate to your brothers and sisiters”、仏語では“freres affectionnes”とされた。
affectionate
affectionne は、やはり元は同じ言葉から来ている。
 産経新聞の記者が鳩山由紀夫氏に首相へのぶらさがりインタビューで、「友愛」について質問した。そのやりとりが阿比留瑠比記者のブログ(平成21年6月2日)に掲載されている。

Q 鳩山氏は「友愛」を掲げているが、それを別の言葉で言うと「同志愛」と「博愛」、どちらの意味が近いか。友愛は本来、同志愛の意味が近いと思われるが
A まあ、博愛というほうが近いかもしれませんね。同志という言葉が今、必ずしも、適切な言葉ではないような気がしますが。まあ私は、フラタニティという意味も大好きではありますし、また博愛という意味も、大変大事な言葉だと。そのように思っておりますから、その両方を、ある意味でもっと国民のみなさんに広く知っていただくように努力したいと思います。

 この回答を見ると、鳩山氏は「フラテルニテ」や「友愛」「博愛」に関して、哲学的な考察をまったく行なっていないようである。「友愛」と「博愛」は、どちらのほうが「近いかも」とか、「両方を」とかいえるような類義語ではない。鳩山氏は、フランス革命の「友愛」もカレルギーの「友愛」も、自分の頭で検討せず、「友愛」も「博愛」も「愛」である、という程度の考えで使っているのではないか。また氏は、「博愛」は charite bienveillance の訳語ではなく、儒教の伝統的な言葉であり、明治天皇が教育勅語に用いられた言葉であることも、よく認識していないのだろう。

●教育勅語の「博愛」ではなく、ヨーロッパの思想を導入

 教育勅語の「博愛」は、戦前のわが国では、教科書に実話を揚げて教え られていた。教育によって「博愛」は日本人の精神の一部となっている。日本人の間だけでなく、外国人にも仁愛を及ぼすべきことが、教えられていた。
 戦前の尋常小学校の「修身」の教科書には、「博愛」という表題がつく単元が3種類あった。
 第一は、第3学年向け。幕末に紀伊の水夫虎吉が漂流してアメリカの捕鯨船に救助され、保護を受けて3年後に帰国できたという話。その話の後に、「知っている人も知らない人も博く愛するのが人間の道であります。いろいろ災難にあって困っている者を救うのはもちろん、たとい敵でも、負傷したり、病気になったりして苦しんでいる者を助けるのは、博愛の道です」(八木秀次監修『精選尋常小学修身書』の現代文訳、以下の引用も同じ)と書いてある。
 第二は、第4学年向け。イギリスの看護婦ナイチンゲールが、クリミヤ戦争に従軍し、傷病兵の看護に尽力した話。その話の後に、「日本人は昔から博愛の心の深い国民であります。」とあり、日露戦争の時、上村艦隊がウラジオストック艦隊と戦い、敵艦が沈没した際、溺れかかった約600名を救い上げた話が書かれている。
 第三は、第5学年向け。明治6年(1873)年、宮古島沖で座礁したドイツ商船の船員を島民が救助し、本国に帰してやったところ、これを喜んだドイツ皇帝ウィルヘルム1世が軍艦で同島に記念碑を運ばせて建立させた話。「その記念碑は、今もこの島に立っていて、人々の美しい心をたたえています」と書いている。
 戦前のわが国では、こうした「博愛」の単元を教える際、教育勅語の「博愛衆に及ぼし」を基に教えるべきことを、文部省は教師用指導書で指示している。「博愛」は、わが国の国民だけでなく、他国の国民にも及ぼすべきものということが、幼い子どもたちにしっかり教育されたのである。
 戦後、日本を占領したGHQは、教育勅語を教育から除去するように仕向けた。わが国の国会は、連合国軍の銃砲の下で、教育勅語の排除・失効を決議した。そういう時代に鳩山一郎は、カレルギーの掲げる「フラテルニテ」を「博愛」ではなく「友愛」と訳した。確かに「友愛」の方が原義の兄弟愛に近いのだが、「博愛」と訳すと、教育勅語の「博愛」と混同されることを避けようとしたのではないか。私は、鳩山一郎が、日本の伝統的な道徳、自生の理念ではなく、ヨーロッパ産の思想をもって、戦後の日本を変えようとしたと理解する。
 もし鳩山由紀夫氏が、「友愛」を普遍的な兄弟愛、人類愛の意味を込めて使っているなら、戦前の教科書に掲載された「博愛」の話を広め、その元にある教育勅語を顕彰すべきところなのである。ページの頭へ

関連掲示
・拙稿「教育勅語を復権しよう

 

(6)人間観の違い〜個人主義か家族愛か

 

  友愛は近代西洋的人間観に基づく

 私は、鳩山氏が唱える友愛に、日本の伝統・文化・国柄に根を持たない外来の思想に頼る安易さを感じる。鳩山氏は友愛を独自に「自立と共生の原理」と定義しているが、友愛の由来はフランス革命のスローガンであり、ヨーロッパ統合の思想である。友愛の政治は、フランス革命の思想に基づいて日本の民主化を徹底し、ヨーロッパ統合の事例に基づいて日本を地域統合に進める政治となるだろう。私は、友愛政治は日本の伝統・文化・国柄を損ない、日本を脱日本化する政治であると批判するものである。
 「友愛」は、教育勅語の「博愛」とは違い、ヨーロッパの理念であり、近代西洋的な人間観に基づく。「自由」「平等」も同様である。近代西洋的人間観は、「われ思う。故に我あり」と認識したデカルトに始まる。デカルト以後、近代西洋では、要素還元主義的な発想によるアトム的・原子的な個人を想定した思想が支配的になった。
 エマニュエル・トッド(註)によると、絶対核家族が支配的なイギリス(イングランド等の中心地域)では、「自由」を価値とする。絶対核家族は、親子関係はトッドの言う意味で自由主義的であり、兄弟関係は不平等主義的である。「自由」を価値とするが、社会的な平等は追求しない。
 私見を述べると、こうしたイギリスで、アトム的・原子的な「個人」を原理とする個人主義が発達した。またその個人の権利の擁護・拡大を図る政治学的な意味での自由主義、個人の政治参加を実現するデモクラシーが発達した。
 トッドによれば、この「自由」という価値を共有するのが、北フランス、パリ盆地等である。この地域では、平等主義核家族が支配的である。平等主義核家族は、親子関係は自由主義的で兄弟関係は平等主義的である。「自由」だけでなく「平等」をも価値とする。イギリスは不平等主義的ゆえ君主制や身分制が維持され、フランスは平等主義的ゆえ共和制を実現しようとする革命が起こった。
 私見では、「自由」とともに「平等」もまたアトム的・原子的な「個人」の価値である。英仏では、「個人」の「自由」ないし「平等」が価値として追求された。またアトム的・原子的な個人の集合として社会をとらえ、そこから国家の発生を想定する社会契約説が発達した。ロックの社会契約説は、ルソーによって急進化した。フランス革命は、社会契約説を革命の理論とし、契約による国家を実現しようとした革命だった。
 わが国の日本国憲法は、GHQが極秘に作った英文がもとになっており、社会契約説の国家観に基づく憲法である。わが国の国柄とは全く違う国家観による憲法が、戦後の日本を変えてきている。またわが国は、直系家族が支配的な社会だが、都市化と農村共同体の解体、及び戦後アメリカの占領政策による民法の改正によって、平等主義的核家族が増加しつつある。それによって、直系家族的集団主義的な価値観が弱まり、核家族的個人主義的な価値観が強まる傾向となっている。
 なお、ヨーロッパには、直系家族や共同体家族が支配的な地域もあり、そこでは異なる価値観、異なる思想が発達した。本稿は「友愛」を論じるものゆえ、ヨーロッパの多様性は括弧に入れて、以下、論を続ける。

・トッドについては、拙稿「家族・国家・人口と人類の将来〜トッド」をご参照ください。


●「友愛=兄弟愛」は家族愛の一部に過ぎない

 さて、鳩山由紀夫氏は、祖父・一郎に習い、近代ヨーロッパの思想を模範として摂取している。フランス革命とカレルギーから友愛という理念を輸入し、それを日本で実現しようと図る。
 鳩山氏は「自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという『個の自立』の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという『他との共生』の原理を重視したい」と述べる。
 ここに見られる「個」とは、近代西洋的人間観による個人主義から出てくる概念である。鳩山氏が信奉する友愛もまたそのような「個」の間の友愛である。
 それゆえ、友愛を説く政治は、個人主義を徹底し、「個の自立」を促して「自立した個」の「共生」を目指すことが政治目標となる。選択的夫婦別姓の導入や扶養控除・配偶者控除の廃止等の政策は、家庭における「個の自立」を追及する政策であり、夫婦や親子の関係を「個」の関係に還元する政策である。
 わが国の伝統的な人間観は、親子・夫婦・祖孫のいのちのつながりの中で個人をとらえてきた。これに対し、鳩山氏の友愛は、近代西洋的な人間観によるもので、日本独自の自生の思想ではない。私は、近代西洋的な人間観は人間の本質を正しく把握したものではないと考える。人間は、アトム的原子的な個人ではない。人は男女が結びついて夫婦となり、親があって子が生まれる。親の前には、先祖があり、子供も後には子孫が続く。こうした家族の関係は、人間の生命に基づくものであり、人間はこうした生命的家族的な関係においてのみ、個人として存在する。
 人間は集団的な動物であり、その基本的集団は家族である。家族は、生命を集団的に共有する共有生命的な単位集団である。家族という単位集団は、時間的には先祖や子孫へと、生命的に連なり、空間的には親族や地域共同体へと、社会的に広がる。その時間的・空間的かつ生命的・社会的な関係の中に、各個人が生きて存在する。個人は、こうした関係の中に、親を通じて生まれてきた。
 その親を共にする者が、兄弟である。兄弟は、父母から生まれた子供たちである。鳩山氏の友愛は、その兄弟の間の兄弟愛をもとにする。だが、兄弟愛の前には、親子の愛や夫婦の愛がある。また祖先と子孫の間の愛もある。兄弟愛は、こうした生命のつながりに基づく家族愛の一部である。人間の愛の原理とはいえない。

●利己でも利他でもなく共存共栄

 人間の存在は、単に「ある」ということではない。人間は、生きて存在する。存在論的には共同存在的であり、かつ共有生命的である。共同存在的・共有生命的な人間には、利己的な面がある。それは、自己の保存のために必要な機能である。しかし、人間には同時に利他的な面がある。それは集団の維持・繁栄のために必要な機能である。利己的になりすぎると、他者否定・他者犠牲となる。利他的になりすぎると自己否定・自己犠牲となる。利己的・利他的のどちらに偏りすぎても、自他のどちらかが成り立たない。
 人は、家族において、親子・夫婦・兄弟・祖孫が共に生き、共に栄える関係にある。その関係は、利己・利他の一致による共存共栄の関係である。この関係が、人間の社会的関係の原型である。自他一如の共存共栄の道こそ、人間の共同存在的・共有生命的な本質を実現するものである。
 鳩山氏は「自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという『個の自立』の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという『他との共生』の原理を重視したい」と述べる。
 私は、こうした鳩山氏のいう「自立と共生の原理」は、アトム的原子的な個人の間では成り立たず、親子・夫婦・兄弟・祖孫の家族的生命的な関係でこそ成り立つ原理だと考える。近代西洋の思想は、その関係から個人を切り離して抽象し、抽象的な個人の集合として社会をとらえるという二重の誤りを犯している。そうした誤った人間観から生まれたのが「友愛」という理念である。それゆえ、「友愛」は、人間の生命的な本質から外れた個人主義的な思想である。
 「自立」とは、自立していない状態から「自立」することを言う。いかなる個人も、はじめから「自立」した存在として、存在するのではない。誰しも誰かの子として、その生命を分かち与えられて、この世に生まれる。そして、生命の源であり分身のもとである親に育ててもらって、成長し、自我の意識にめざめ、親から自立する。「自立」の原型は、親子関係における子どもの親からの自立にある。
 しかし、個人は、男であれ、女であれ、自己だけでは、生命の機能が完結しない。異性と出会い、愛し合い、子どもを生み育てることによってのみ、超個体的に生命を維持・発展させることができる。両性の生命が交接し、合体して初めて、新しい生命が生まれ、種の生命が維持される。また父母が調和・協力して子どもを守り育てるところに、生命と文化が世代を通じて継承される。個人がみな「自立」しているだけでは、その集団は滅ぶ。そこに「共生」の必要性がある。「共生」とは、共に生きることである。生命を共有し、協同的に生活すること、すなわち、共同存在的・共有生命的に生活することである。その「共生」の原型は、夫婦関係における男女の共生にある。
 鳩山氏の「友愛」という理念は、個人を抽象的・原子的にとらえているために、生きた人間の家族的・生命的な関係における「自立と共生」を把握することができていない。この根本のところの把握ができていないから、社会一般ないし国際社会における「自立と共生」についても、観念的な理解しかできないのである。

●家族構造が生み出す価値と「友愛」

 私は、先に書いたように、人間を家族的生命的な関係において、生きて存在するものととらえる。このような観点から、近代的社会の下部構造は、生産関係ではなく、家族であることを明らかにしたエマニュエル・トッドの所論に注目している。トッドは、ヨーロッパの社会に人類学的基底と彼が呼ぶものを見出した。その基底とは、家族である。
 トッドによれば、ヨーロッパの家族には、主に四つの型がある。絶対核家族、平等主義核家族、直系家族、共同体家族である。これらの家族型はそれぞれ親子・兄弟の関係が違う。財産の相続の決定の仕方や結婚後の同居・別居、外婚・内婚というあり方が違うのである。そこから親子関係における権威と自由、兄弟関係における平等と不平等という二項対立の価値観が出てくる。識字化と脱宗教化による近代化が進む中で、宗教の代替物として発達したイデオロギーにも、こうした家族構造に基づく価値が表現されている。ヨーロッパは一律ではなく、家族構造の多様性に基づく文化の多様性を持っており、ヨーロッパの統合はかえってその文化的な違いが明らかになって、うまくいかないだろう。大まかに言うと、こういうことをトッドは説いており、大著「新ヨーロッパ大全」(藤原書店)で詳細に論述している。
 トッドによれば、家族構造に基づく価値の中に、自由と平等がある。自由と平等は、近代になって初めて現れたのではなく、もともと絶対核家族では自由が、平等主義家族では自由と平等が価値となっていた。それらの価値が近代化の中で、自由主義や平等主義として表現されたものである。トッドの国・フランスでは、北フランス、パリ盆地が平等主義核家族が支配的な地域である。ここではもともと自由と平等が家族構造から来る価値だった。それらの価値が追求されたのが、フランス革命だった。
 このように、人間がいのちのつながりによって結ばれている家族という集団は、親子・兄弟の関係のあり方によって、異なる価値観を生み出し、その価値観が近代的社会においてもイデオロギーの多様性として現れている。鳩山氏は、ヨーロッパの思想からフランス革命とカレルギーを結ぶ「友愛」という理念を取り出しているが、「友愛」もまた家族構造に基づく諸価値との関係の中で、理解する必要があるのである。

●家族的価値と家族愛の関係

 トッドは、ヨーロッパにおける家族構造に基づく価値として、権威と自由、平等と不平等を二項対立に挙げ、それらのイデオロギーへの反映を解明した。そこに「友愛」は登場しない。それは、トッドが、家族型における価値を、財産の相続の決定の仕方や結婚後の同居・別居という経済社会的な点からのみ見ているからである。家族愛は、価値と位置づけられていない。鳩山氏の説く「友愛」の原義は兄弟愛だが、兄弟の間の愛を含む親子・夫婦・祖孫等の間の家族愛については、トッドは家族的な価値とみなしていない。
 しかし、人間は家族的生命的な関係において、生きて存在するものである。家族型の違い以前に、親子・夫婦・兄弟・祖孫のいのちのつながりがあり、家族的な価値の以前に、家族の愛がある。そこに生まれる親子愛・夫婦愛・兄弟愛・祖孫愛が近代化の中で、どのように維持または変化し、近代化に対応する思想に表れたかということは、見逃せない問題である。トッドのヨーロッパ研究は、この点において不足があると私は思っている。
 私の観察では、家族愛は、近代ヨーロッパにおいて、神と人間の関係を強調する宗教や、個人や国家、階級や民族を強調するイデオロギーに隠れて、思想の次元には現れなかった。むしろ、家族愛のひずみは病気として現れ、精神医学者の研究と治療の対象となった。そこにフロイト及びフロイディズムの重要性がある。後に触れるフロムは、精神医学の領域から、家族愛に基づく道徳の復活を説くことになった。
 これに対して、わが国では、明治維新後の近代化の中で、家族愛は教育勅語に徳目として表現された。それによって、家庭道徳は社会道徳・国民道徳の基礎として位置づけられた。わが国は、直系家族が支配的な社会である。共同体家族が支配的なシナで生まれた儒教を輸入し、これを土着化し、日本人に合うものに変えた。こうした家族構造と日本的な儒教が、教育勅語には反映している。教育勅語は、日本人を近代国家の国民として教育するための方針を示したものであり、伝統的な道徳と近代的な道徳を総合し、国民に教育すべき規範としている。
 教育勅語は、近代化の中で家族愛を保持し、家族愛を基礎に近代的社会における社会道徳、国民道徳を示したものである。ヨーロッパでは、教育勅語のように伝統的な道徳を集約しつつ創造的に近代化し、これをもって国民教育を実践するという公的な規範は、生まれることがなかった。そのヨーロッパで、カレルギーは友愛を説いた。しかし、友愛は、人間を生命的にとらえておらず、また兄弟愛は家族愛の部分でしかなく、一般的な道徳の原理となりうるものではない。その友愛を鳩山一郎が輸入し、孫の由紀夫氏が国民に説いている。わが国において近代化の中で家族愛を保持してきた教育勅語に対して無関心または否定的な鳩山祖孫の姿勢は、私には日本人としての自覚の弱さを感じさせるのである。ページの頭へ

 

(7)権利と道徳

 

●自由が不自由を、平等が不平等を生む逆説


 フランス革命は、王政の打倒による人民主権を樹立した。国王から主権を奪って国民が主権を獲得した。自由とは、国家権力が個人の活動に介入することを斥けた状態であり、平等とは王族・貴族の封建的身分を否定し、法の下に権利が平等となった状態である。ところが、自由の追求は新たな不自由を生み出し、平等の追求が新たな不自由を生み出した。すなわち、ロベスピエールという独裁者が出現し、独裁に反対する者は自由を抑圧され、平等から除外され、生命さえも奪われた。この逆説は、フランス革命に限らない。ロシア革命は、レーニンとスターリンという独裁者を生み、新たな特権階級が形成され、秘密警察と強制収容所が政治の道具となった。
 カレルギーは、「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」と言う。そして、友愛は、自由と平等のゆきすぎを是正するものとして掲げられる。ここで注意したいのは、自由と平等は権利に関する概念だが、友愛は道徳に関する概念であることである。
 自由と平等を求める社会は、権利の争いの社会である。カレルギーは、そうした社会に、友愛という道徳が必要だと考えたのだろう。権利は力によって獲得され、法によって規定される。しかし、道徳は愛によって育まれ、良心によって保持される。ヨーロッパでは、政治権力は個人の内面に干渉しないとする思想・信条の自由に始まり、政治的・経済的自由が擁護・確立されていった。しかし、法は最低の道徳である。道徳があってこそ、法の秩序が保たれる。道徳なき指導者が権力を振るえば、放恣や暴政が横行する。ロベスピエールやスターリン、ヒトラーがそれである。
 それゆえ、私は、カレルギーが自由と平等だけでなく、道徳が必要だと打ち出したことを評価する。しかし、カレルギーは自由が不自由を生み、平等が不平等を生むという逆説には気づいていない。自由主義の背後にある権力と富への欲望、全体主義の背後にある権威への服従と融合には、解明の手を伸ばしていない。そして鳩山由紀夫氏は、カレルギーの友愛を自ら考察することなく、「自立と共生の原理」に置き換えただけなのである。

●ナチズムと共産主義を考察し、道徳を説いたフロム


 自由が不自由に、平等が不平等になる逆説は、人間の心理の深層に関わる問題で、今日なお心理学者たちも原因の解明に至っていない。そうした中で、世界的に知られる研究のひとつが、エーリッヒ・フロムのものである。
 ユダヤ人としてナチスの弾圧を経験したフロムは、『自由からの逃走』で、ドイツにおけるナチズムの心理的なメカニズムを考究し、権威主義的性格について分析した。権威主義とは、自我の独立性を捨てて、自己を自分の外部にある力、他の人々、制度等と融合させることである。言い換えると、親と子、共同体等の一次的な絆の代わりに、指導者等との二次的な絆を求めることである。このメカニズムは、支配と服従、サディズムとマゾヒズムという形で表れる。そしてフロムは、サドーマゾヒズム的傾向が優勢な性格を、権威主義的性格と呼ぶ。
 トッドを借りれば、直系家族が支配的なドイツでは、親子関係が権威主義的で、兄弟関係が不平等的である。トッドは、こうした直系家族の価値が民族主義のイデオロギーに現れたものが、ナチズムだとする。フロムは直系家族の価値が性格になった典型を権威主義的性格と呼んだわけである。
 フロムは、『正気の社会』において、マルクスは人間疎外の原因を追求するために経済学的分析を行ったが、彼は人間性には独自の法則があり、経済条件と相互作用の関係にあることを十分認識していなかった、と批判した。
 フロムによると、マルクスは人間の心理学的洞察に欠け、人間の内部にある非合理的な権力欲、破壊欲を認識しなかった。そのため、3つの誤りを犯している。第一は、人間における道徳的要素を無視しているので、新しい社会体制になったとき、新しい道徳が必要となることに注意を払わなかった。第二は、革命によって「よい社会」が直ちに来ると考え、権威主義や野蛮性が現われる可能性を軽く考えていた。第三は、生産手段の社会的所有を必要十分条件と考えてしまったことである。こうしたフロムの主張は、共産主義が見失っていた心の問題を明らかにし、人間性の回復に寄与した。
 フロムは、ナチズムと共産主義を考察し、近代西洋人が失っている愛や幸福を人々に説き、道徳的な価値の大切さを再認識させた。

●道徳の基礎に自己実現の欲求を発見したマズロー

 現代における道徳という点で、教育や経営等に広く影響を与えているのが、アブラハム・マズローである。マズローは、健康で豊かな精神生活を送っている多数の人々に会って研究した。そこで彼が発見したのは、精神的に健康な人は、例外なく自分の職業や義務に打ち込んでおり、その中で創造の喜びや他人に奉仕する喜びを感じていることだった。こうした画期的な研究をもとに、マズローは健康と成長のための理論をめざした。そして、人間の欲求は、次の5つに大別されるという説を唱えている。

1.生理的欲求: 動物的本能による欲求(食欲、性欲など)
2.安全の欲求: 身の安全を求める欲求
3.所属と愛の欲求: 社会や集団に帰属し、愛で結ばれた他人との一体感を求める欲求
4.承認の欲求: 他人から評価され、尊敬されたいという欲求(出世欲、名誉欲など)
5.自己実現の欲求: 個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求。さらに、人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望

 マズローは、人間の欲求がこのような階層的な発展性を持っていることを明らかにした。生理的な欲求や安全性の欲求が満たされると、愛されたいという欲求や自己を評価されたいという欲求を抱くようになり、それも満たされると自己実現の欲求が芽生えてくるという。自己実現こそ人生の最高の目的であり、最高の価値である、人間が最も人間的である所以とは、自己実現を求める願望にあると説く。富や権力への欲求はこれに比べ、低い階層の欲求であり、自己実現を求める欲求に、道徳の心理学的な基礎を見出したのが、マズローである。
 私は、自由と平等に対し、道徳的な理念を打ち出したカレルギーを評価するが、カレルギーはフランス革命の友愛にこだわって、反キリスト教とキリスト教という矛盾に陥り、また友愛を自然や宇宙に広げる観念論哲学に陥った。鳩山由紀夫氏は、カレルギーの友愛を、哲学や心理学の知見に学んで自ら深めることなく、「自立と共生の原理」と言い換えただけである。それでは日本の国民も、諸外国の国民も、導くことはできない。
 現代に求められている道徳は、友愛ではなく、それを超えたもっと人間性の深い部分に基づいた道徳でなければならない。自由と平等の逆説を超えるのは、自己実現を協同的・相助的に促す社会の建設であり、人間の徳性・霊性の発揮、新しい精神文化の興隆である。私は、わが国においては、日本人に伝わる伝統的な精神の中に、それを実現する可能性を感じている。

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関連掲示
・マイサイトの「心と健康」のページ
 04 「フロイトとマルクスをともに批判〜フロム」
 06 「人間には自己実現・自己超越の欲求がある〜マズローとトランスパーソナル学」

 

(8)「友愛」に悖る鳩山氏の不道徳

 

●「友愛=兄弟愛」を説く政治家が兄弟争いとは


 鳩山氏が説く友愛は、道徳的な理念である。政治家が国民に道徳を説くのであれば、まず自らが実践し、率先垂範すべきである。東洋の政治哲学である儒教は、そのように為政者、君子に教えてきた。鳩山氏は、日本国民に対して友愛を説くだけでなく、外国の指導者や他国民に対しても友愛を説く。それほど高唱するのであれば、鳩山氏は、国の内外に広く自ら模範を示す必要がある。
 ところが、鳩山氏は、弟の鳩山邦夫氏とは政治的な意見が異なり、兄は民主党、弟は自民党である。平成21年(2009)10月26日、鳩山首相は、友愛の理念のもとに、国会で所信表明演説を行なった。これに対し、弟・邦夫氏は、「若い女性向けの少女マンガのシーンみたいな話ばっかりだ」と酷評した。また、「兄弟だから1、2割は共感するが、あとはただの美辞麗句だ。辞書の中から美しい言葉ばかりを全部引っ張ってきたような作品だ」などと皮肉交じりに批判した。
 8月の衆議院選挙の際には、邦夫氏は、兄は「黒い鳩」だ、自分は「白い鳩」で正義を行なっていると有権者に訴えた。兄の由紀夫氏が友愛、つまり兄弟愛・同胞愛を満天下に説くのであれば、実の弟である邦夫氏すら信服させられなくて、どうして日本国民や外国の指導者や国民を啓発することができようか。兄が自ら実践し、弟が呼応し、誰もが認めるものとならなければ、鳩山氏の友愛は偽善である。

●偽装献金問題で「黒い鳩」と弟が非難

 鳩山由紀夫氏が「黒い鳩」と弟から非難されるのは、政治資金収支報告書の虚偽記載による偽装献金問題による。21年6月、鳩山氏の資金管理団体「友愛政経懇話会」が、すでに死亡している人や実際には献金していない人から個人献金を受けたと、事実と異なる内容を収支報告書に記載していたことが明らかになった。鳩山氏は記者会見し、収支報告書に記載した5万円を超える個人献金のうち、故人や実際には献金していない人の名義の記載が、平成17〜20年の4年間で計約90人、193件、総額2177万8千円に上ると公表した。鳩山氏は自分は知らず、秘書がやったことだと弁明した。しかし、東京地検特捜部から事情聴取を受けた鳩山氏の元公設第1秘書は、虚偽記載は10数年前から行なっており、鳩山氏の父・威一郎の代から長期にわたって繰り返していたと語っている。鳩山家の伝統は友愛だけではなかった。偽装献金も、鳩山家の伝統に加えなければならない。祖父からは友愛を、父からは偽装を受け継いだのが、由紀夫氏である。
 虚偽記載の問題は、東京地検特捜部が現在調査中である。仮に鳩山氏自身が起訴されることになれば、現職の総理大臣が法廷で裁かれることになる。鳩山氏は、首相となる以前、平成15年(2003)7月に、自身のメールマガジンに次のように書いている。「私は政治家と秘書は同罪と考えます。政治家は金銭に絡む疑惑事件が発生すると、しばしば『あれは秘書のやった こと』と嘯いて、自らの責任を逃れようとしますが、とんでもないことです。政治家は基本的に金銭に関わる部分は秘書に任せており(そうでない政治家も いるようですが)、秘書が犯した罪は政治家が罰を受けるべきなのです」と。
 鳩山氏のこの言葉と、今回の虚偽記載での氏の発言は、まったく矛盾している。私は、鳩山氏がうそを言っていると疑わざるを得ない。弟から公然と「黒い鳩」と指弾されても厚顔を保つ鳩山氏は、国内外に友愛を説き続けている。「うそつきは泥棒のはじまり」ということわざがあるが、もし「友愛はうそつきのはじまり」ということになったら、友愛は道徳の理念ではなく、不道徳の隠れ蓑になるだろう。

●「友愛」の名の下で偽装献金

 

「友愛政経懇話会」は、「友愛」の名の下に、偽装献金を行なっていた。亡くなった人の名前まで使っていることをもじって、「故人献金」とも報道された。自分が献金していないのに、勝手に名前を使われた人は驚き、あきれた。鳩山氏の小学校時代の恩師もその一人だった。テレビニュースで氏名・顔出しで驚きを語っていた。
 私は、この偽装献金は「友愛偽装献金」と呼ぶのが良いと思う。5万円以下で個人名などを記載する必要がない「匿名献金」も大半が虚偽であり、パーティー券収入も実際の収入より年間数百万円水増しして記載されていた。虚偽記載の総額は、2億円近くに達すると見られている。
 収支報告書の虚偽記載は、5年以下の禁固または100万円以下の罰金が科せられ、規正法の中で最も重い。鳩山氏は、元秘書が単独で行ったとして、秘書を解任した。自分は知らなかったと言うのである。
 しかし、鳩山氏は先に引いたメールマガジンで、「秘書が犯した罪は政治家が罰を受けるべきなのです」とかつて公言した。自分が発した言葉には責任を持つという道徳心があるなら、鳩山氏は秘書に罪を押し着せるのではなく、自ら責任を取るべきだろう。また、人に「友愛」を説くほどの政治家であれば、自分に仕えた秘書に対しても、「友愛」を示してほしいものである。
 「友愛偽装献金」の原資には、鳩山氏の個人資産が充てられていた。鳩山氏は国会で、資産管理会社「六幸商会」が管理する自身の口座から、元秘書が過去6年間に年平均5000万円前後、計約3億円を引き出して、政治活動や鳩山氏個人の支出などに充てていたことを認めた。その一部が、献金の原資にされていたのである。しかもその資産の相当部分は、母親から提供を受けたものだった。
 東京地検特捜部の調べによると、鳩山氏の母・安子氏からの資金提供は、平成14年(2002)からで、鳩山氏の政治活動費などに充てていたという。安子氏は、大手タイヤメーカー「ブリヂストン」創業者の長女で、同社の大株主である。資金提供は、総額11億円に上り、平成16〜20年までの5年間では毎年1億8千万円、総額は9億円になるという。このうち数千万円が懇話会に流れ、偽装献金の原資になったとされる。

●母子間の異常な関係を「友愛」で隠匿

 資金提供が母親から鳩山氏への贈与なら、鳩山氏に贈与税の支払い義務が生じる。また寄付の場合は、個人が一つの政治団体に献金できる上限額を年間150万円と定めた政治資金規正法の量的制限に違反する。資金について、実母側の関係者は特捜部の事情聴取に「実母から鳩山氏本人への貸付金」と説明しているという。
 貸付金であれば、法的な問題は生じないものの、貸付金としては十億円以上は金額的に多すぎる。また利息や返済計画などを定めた借用書がなく、返済したことを示す証拠もなく、貸し付け実体がないという。これらの点について明確な説明ができなければ、鳩山氏は、贈与税を払わず、政治資金規正法上の量的制限も受けずに、母親から資金を受けていた疑いが強まる。
 鳩山氏は、母親の資金提供について、「私の知る範囲では、ないと信じている」「全く私の知らないところで、何が行われていたのか。事実かどうかを含め大変驚いている。私はないと信じていたし、今でもないと信じていたい」と、自分が関知していないことを強調している。しかし、息子本人がまったく知らずに、母親が息子ないし息子の資産管理団体に11億円も貸し付けていたというのは、不自然極まりない。
 今後、司法によって事実が明らかにされていくだろうが、鳩山氏は、母親から提供を受けた資金を違法な仕方で処理し、それを原資にして故人や献金をしていない人の名義で政治資金収支報告書に虚偽記載していた可能性が高い。「友愛」という言葉で母子間の異常な関係を隠し、一般の支持者の献金に見せかけたものであれば、手口は巧妙かつ悪質である。
 祖父から「友愛」を受け継いだ鳩山氏は、父から「偽装献金」を学び、母から多額の資金を違法な形で受け、故人や献金をしていない人からの献金と偽装し、その資金を使って「友愛」を広めていたのだろう。「友愛偽装献金」は、道徳どころか法律も守らない政治家が「友愛」を説くことの矛盾・偽善を暴露するものとなるだろう。
 可能性としては、鳩山氏自身は関知しておらず、秘書と母親が氏に知られないように内密にやっていたということも考えられる。その場合、鳩山氏は、母親から巨額の「子ども手当」を何年もの間、受け続けていたことに気づかず、自分の資産管理団体の危機的な収支状況も理解できていなかったことになる。鳩山氏の資質が疑われる。一般社会では通用しない。まして一国の総理としては、不適格である。

●世話になった人から妻を奪った男が総理大臣に

 

友愛という道徳を説く鳩山氏について、もうひとつ見逃せない不道徳は、略奪愛である。
 「週刊文春」平成21年9月24日号は、「鳩山幸元夫・田浦新一朗氏が実名告発 『私を裏切った由紀夫くんと幸へ』 不義理な略奪愛 新首相の『資格』を問う」という表題の記事を載せた。
 「週刊文春」は、9年前にも鳩山幸(みゆき)夫人の前夫の義兄・ジェームズ坂田氏の手記を掲載した。そこには、義弟の妻を奪い、その家庭を壊した、およそ「友愛」とはほど遠い鳩山由紀夫氏の行状が綴られていた。その鳩山氏が日本国の総理大臣になった今、前夫の田浦新一朗氏本人が重い口を開いたとして、今回の記事が掲載されている。
 「週刊文春」は、平成12年10月12日号に「総理を狙う男を告発! 義弟の妻を奪った輩を許さない 初めて明かす鳩山由紀夫の不道徳な“略奪婚”」という記事を載せた。そこで田浦氏の義兄・ジェームズ坂田氏が、鳩山氏の略奪愛を告発した。このとき妻を奪われた田浦氏は「義兄と姉は、由紀夫君が30年以上前“サンフランシスコでしたこと”を現在も許せずにいます。(略)現在、由紀夫君は総理を狙う政治家というではありませんか。ならば、過去のことを日本の方々に話したいという義兄の気持ちに、反対する理由はありません」と同誌に語った。田浦氏は、今日もサンフランシスコ郊外に居住している。
 坂田氏の手記は概要、次のとおりである。昭和45年(1970)、鳩山氏は東京大学卒業後、アメリカのスタンフォード大学に留学。知人の紹介で、日系2世の坂田氏一家が、鳩山氏の慣れない外国暮らしのアテンドをすることになった。当時坂田氏はサンフランシスコで日本料理店「蝶々」を経営。そこを手伝っていたのが、田浦氏と妻の幸氏だった。翌年、由紀夫氏と幸氏の密会が目撃されるようになった。その後、幸氏は計画的に田浦氏の家を出て、鳩山氏と同棲。以来、今日に至るまで、侘びはおろか連絡も一切ない。「昔から『据え膳食わぬは男の恥』という言い方もありますが、一宿一飯の世話になった男の嫁に関しては、話は別というのが常識でしょう。(略)由紀夫氏には、そういったモラルが完全に欠如している」と坂田氏は書いている。

●背徳者が説く「友愛」は破綻する

 昭和50年(1975)3月、鳩山夫妻は結婚。当時のマスコミは、鳩山家の御曹子がバツイチの女性と結婚するというので随分書き立てた。不義理の末の駆け落ちと報じられたが、由紀夫氏は「それは間違いです。僕も彼女もなるべく円満に事を運ぶために、忍耐強く、時間をかけました」(「週刊新潮」昭和50年4月10日号)と弁明した。しかし、鳩山夫妻は、幸氏が田浦家を出てから一度も、田浦氏はもちろん坂田夫妻とも話し合う機会を持とうとしなかった。
 坂田氏は、先ほどの手記の最後に自身の思いを書いている。「モラルのない人間が政治をやると、それはただの『政治屋』になってしまいます。先の大戦で無辜の民を苦しめた日本の政治家は、依然として同じ体質なのでしょうか。(略)こんな男に国をまかせておいていいのか‥‥」と。この時の取材で、坂田氏は憤りを露にし、「間男をするような男、泥棒に総理大臣は務まらないでしょう」と吐き捨てたという。
 鳩山氏を告発したジェームズ坂田氏は、5年前に他界した。田浦氏はこの度の「週刊文春」の取材で、次のように語った。「義兄がそのとき発言したことを鳩山夫妻が真摯に受け止めてくれることを願っていたのですが、最近の様子を聞くと、どうやらそういうこともないようですね」と。
 平成21年8月30日の衆議院総選挙で、民主党が第一党となった。その翌日、幸夫人は、「スポーツニッポン」に手記を寄せた。そこに幸氏は「家庭を守れない者に国は守れません」と書いている。夫ある身でありながら、若い留学生と不倫をし、家庭を棄ててその男の元に走り、元の夫を傷つけた女性が、「家庭を守れない者は国を守れません」と、のたもう。鳩山氏によく似た物言いである。
 略奪愛は、友愛とは正反対である。愛欲による利己的行為であり、配偶者を奪われた者は深く傷つく。男性が他の男性の妻を寝取るのは、多くの社会では犯罪とされる。鳩山氏は、こうした背徳行為を行なっている。幸夫人もまた首相夫人、ファースト・レディとして公の場に出る以上、過去を問われるのは当然である。不倫の末の略奪愛を告発された鳩山夫妻が、国内外で友愛を説くのは、偽善である。私は、鳩山夫妻は日本国の首相及び首相夫人に、ふさわしくないと思う。
 鳩山氏は友愛という道徳的な理念を自らの政治哲学の根本としている。しかし、鳩山氏は、「友愛=兄弟愛・同胞愛」を説きながら兄弟で争いをし、母親から受けた多額の資金で偽装献金をし、また世話になった人の妻を奪って「泥棒」と非難されている。背徳者は、道徳を説いても、自ら正体を暴露し、破綻にいたる。鳩山氏の友愛は、既に氏自身の行状によって破綻しているのである。
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第2章 「友愛」から導かれる政策の危険性

 

鳩山氏は、冷戦後のグローバリズム、市場原理主義とそれによる国民経済の破壊や世界経済危機という新たな世界的状況に際し、友愛の理念による対応を政策として打ち出している。鳩山氏は、友愛の理念を政策に実現する。あるいは、さまざまな政策を、友愛をいう理念で裏付けようとする。

しかし、友愛という理念は、わが国の伝統・文化・国柄に根を持たない。また鳩山氏は独立主権国家の首長でありながら、国家・国民・主権の意識が薄い。そのため、打ち出す政策がすべて、わが国の伝統・文化・国柄から離れ、国家・国民・主権を弱めるものとなっている。
 次に、その政策のうちから、経済政策、社会政策、永住外国人への参政権付与、地域主権国家の実現、東アジア共同体の構築、安全保障政策を取り上げて検討を行う。

(1)日本を衰えさせる経済政策

 

●グローバリズムに対する国民経済の重視

 

平成8年(1996)、旧民主党の結党から平成21年(2009)まで13年が経過した。鳩山氏は次のように書いている。
 「この間、冷戦後の日本は、アメリカ発のグローバリズムという名の市場原理主義に翻弄されつづけた。至上の価値であるはずの『自由』、その『自由の経済的形式』である資本主義が原理的に追求されていくとき、人間は目的ではなく手段におとしめられ、その尊厳を失う。金融危機後の世界で、われわれはこのことにあらためて気が付いた。道義と節度を喪失した金融資本主義、市場至上主義にいかにして歯止めをかけ、国民経済と国民生活を守っていくか。それがいまわれわれに突き付けられている課題である。
 この時にあたって、私は、かつてカレルギーが自由の本質に内在する危険を抑止する役割を担うものとして『友愛』を位置づけたことをあらためて想起し、再び『友愛の旗印』を掲げて立とうと決意した」と。
鳩山は、冷戦終結後、「自立と共生の原理」と再定義した友愛を、ここで再び持ち出す。
 「現時点においては、『友愛』は、グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統のなかで培われてきた国民経済との調整をめざす理念といえよう。それは、市場至上主義から国民の生活や安全を守る政策に転換し、共生の経済社会を建設することを意味する」と言う。
 鳩山氏はアメリカのグローバリズムを批判し、ヨーロッパの友愛主義を称揚する。グローバリズムから「国民経済と国民生活を守る」と言い、友愛は「グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統のなかで培われてきた国民経済との調整をめざす理念」だとする。しかし、鳩山氏によれば、友愛は、そのもとでヨーロッパが地域統合を進めてきた理念であった。ヨーロッパの地域統合は、国民経済を開放し、国家を超えた共通通貨を実現した。その地域統合の理念である友愛が、どうして国民経済を重視するものとなりうるのか。地域統合を推進することと、各国の国民経済を守ることとは、正反対である。その正反対のものを、鳩山氏は、友愛という言葉で示そうとしている。
 私は、ここに重大な矛盾があると思う。友愛を説くなら、国民経済は超越されねばならない。国民経済を保守するなら、友愛を捨てねばならない。私は、そのように考える。

●国民経済を重視すると言うが、目指すべき姿が見えない

 グローバリズムは、米英のアングロ・サクソン的な価値観や制度・基準を、世界に広めようとする思想・運動である。これに対し、非アングロ・サクソンの国家は、抵抗を行なっている。その際のポイントの一つが、国民経済の保守である。国民経済の保守は、米英外の諸国で様々な政治家・経済学者・評論家等が主張している。
 鳩山氏は、「グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統のなかで培われてきた国民経済との調整をめざす理念」として、友愛を掲げる。そして、国民経済を重視し、国民経済を守ることを方針として打ち出している。
 その方針のもとに、鳩山民主党は、子ども手当て、出産時に55万円の助成、高校の学費の実質的無償化、ガソリン等の暫定税率の廃止等の政策を国民に公約している。国民生活を守るために、国民の生活を直接支援する政策である。また、中小企業の税率の半減、農業者への戸別所得補償、最低賃金を全国一律1000円等の政策も、打ち出している。全体に労働者や弱者に目をむけた政策である。また1990年比でCO2の排出量を2020年までに25%削減するという目標を掲げて、鳩山首相は国連で自ら演説した。これらの政策のよしあしについては、いろいろな議論がある。同時に施行すると矛盾する政策もあり、詳細な検討が必要だろう。
 私は、個々の政策よりも、こうした政策によって目指すわが国の国民経済の姿を、鳩山氏に問いたいと思う。世界経済危機によって、世界的に不況に陥り、わが国も深刻な景気後退に陥っているなかで、景気対策をどのように実行するかという課題がある。景気を回復させ、国民経済が全体として成長しなければ、税収は減少し、所得が低下し、企業は倒産し、失業は増える。そうなると、先に掲げた諸政策を実施することもできなくなる。鳩山氏の政策は、国民経済を重視し、国民経済を守ると言ってはいるが、目指すべきわが国の国民経済の姿が見えないのである。

 

●「伝統のなかで培われた国民経済」の何を守るのか

 

グローバル化する現代資本主義に対して国民経済を守るためには、まずわが国の国民経済の特徴をとらえることが必要である。資本主義のグローバル化は、鳩山氏の認識によれな、冷戦終結後の1990年代から進んだ。それ以前の1980年代までの日本は、氏のいう「伝統のなかで培われた国民経済」を維持していたといえるだろう。しかし、鳩山氏は、90年代以降のグローバリゼーションが生み出した問題点を指摘するばかりで、グローバル化以前のわが国の国民経済のあり方を積極的に評価していない。
 わが国の国民経済は、わが国独自の資本主義に基づく国民経済である。その特徴を理解するには、資本主義は画一的なものではなく、多様性があるという認識が必要である。資本主義の多様性の研究は、1990年代から発達し、わが国でもよく知られている。
 エマヌエル・トッドは、資本主義の多様性を説く論者の一人である。トッドは、持ち前の人類学の理論を用い、現代の経済社会を分析している。その著『経済幻想』(藤原書店)によれば、イギリス・アメリカ等のアングロ・サクソンの社会は、絶対核家族が主たる家族型である。その価値観は自由であり、平等には無関心である。こうした社会で発達した資本主義は、個人主義的資本主義である。それを世界に広めようとするところに、グローバリズムが出現した。これに比し、日本・ドイツ等の社会は、直系家族が主たる家族型である。その価値観は権威と不平等である。こうした社会で発達した資本主義は、直系家族型資本主義である。日独の資本主義を、統合的資本主義と呼ぶ経済学者もいう。私は概念の対比を明らかにするために、個人主義的資本主義に対し、直系家族型または統合的資本主義を集団主義的資本主義と呼ぶ。
 アングロ・サクソンの絶対核家族型の個人主義的資本主義と日独の直系家族型の集団主義的資本主義は、対照的な性格を持つ。前者は、個人本位、株主本位、短期的利益の追求、個人・資本の移動の自由を重視という特徴を示す。後者は、個人より国民の利益、株主より企業の利益、短期的利益より長期的利益、消費者より生産者が中心、人材育成を重視という特徴を示す。資本主義は、このように家族構成に基づく社会的な特徴によって、大きく二つの型に分類される。
 なおトッドのいう直系家族型資本主義には、族内婚と族外婚の違いがある。日本・ユダヤは族内婚的な直系家族型資本主義、ドイツ・韓国は族外婚的な直系家族型資本主義である。前者は国際貿易において閉鎖的であり、後者は開放的である。

●戦後日本の社会の変化

 国民経済は、その国の家族型に基づく資本主義の特徴を帯びる。もし鳩山氏がわが国の国民経済を重視するのであれば、わが国の資本主義の特徴をとらえたうえで、その「伝統のなかで培われてきた国民経済」を、いかにグローバル化する資本主義から守るかという課題を立てるべきだろう。
 わが国の伝統的な社会は、家族の血縁関係を基礎とし、地域の地縁、企業・団体の社縁が重合した組織である。わが国の家族は直系家族を主としており、わが国の資本主義は、そうした社会を基盤として発達した。それが直系家族型で族内婚的な、集団主義的資本主義である。
 しかし、戦後日本の社会は、直系家族的な大家族が解体されて、核家族化が進んでいる。戦前から農村の村落共同体が崩壊して都市化が進んでいたが、敗戦後、GHQの日本弱体化政策により、民法が改正されて長子相続から均等相続になった。その結果、私の理解では、都市部を中心に平等主義核家族に近い核家族が増加している。その影響で価値観も変化しつつある。
 トッドは、ある社会で、伝統的な家族型が変化しても、その家族型に基づく価値観は長く続くと言う。そのことをヨーロッパの諸社会について論証している。これと同様に、わが国においても、直系家族的な価値観は、今も根強く保たれている。また、経済社会に関しても、1980年代までの日本は、直系家族型の集団主義的資本主義の特徴を示す国民経済を発達させていた。
 しかし、戦後50年を迎えた平成7年(1995)を境目として、わが国では、戦後教育及び世代交代の影響が色濃くなり、個人主義的、核家族的な考え方が目立ってきた。個人の経済的な価値観や企業の経営思想も、それに伴って変わりつつあったと私は感じている。ちょうどその頃、わが国にアングロ・サクソンのグローバリゼーションが押し寄せた。わが国の伝統に基づく国民経済は、外圧によって、大きな変化を余儀なくされたのである。

●わが国に押し寄せたグローバリゼーション

 

戦後50年を迎えた平成7年(1995)の前後から、わが国にアングロ・サクソンのグローバリゼーションが押し寄せた。
 平成5年(1993)、アメリカ大統領に就任したビル・クリントンは、平成元年(1989年)のバブルの崩壊後、深刻な不況にあえぐ日本に対し、ここぞとばかりに「経済戦争」を開始し、激しく経済的・外交的攻撃をかけてきた。対日経済戦争は、グローバル・スタンダードという名の下にアメリカ一極体制の世界を築く戦略に基づく行動の一環だった。平成6年(1994)から、アメリカによる「年次改革要望書」が毎年わが国に対して提出されるようになった。この文書は、アメリカが日本に対し、アメリカ主導による改革を迫るものであり、アメリカ発のグローバリズムを様々な政策の実行によって押し進めるものである。
 平成13年(2001)に成立した小泉内閣は、アメリカの新自由主義、市場原理主義をわが国で推進した。小泉=竹中政権による構造改革は、アメリカ主導のグローバリゼーションを、わが国の政府が自ら推進するものだった。小泉=竹中政権によって、わが国の伝統に基づく国民経済は、劇的な変化を蒙った。わが国の直系家族型資本主義の特徴であった家族主義的経営、終身雇用・年功序列・格差僅少・信用重視・長期的投資等の価値観が否定され、アングロ・サクソン的な絶対核家族型資本主義の特徴である個人主義、規制なき自由競争、株主本位、米英的な商慣行・法制度等が導入された。
 その結果、わが国は短期的な成長は得られたものの、深刻な社会問題が生じた。個人主義の蔓延、家庭の崩壊、自殺者の増大、格差の増大、下流から下層の固定化等である。

●グローバリゼーションに対抗するには、友愛を捨てよ

 鳩山氏は、こうした小泉改革の弊害の是正を目指す政治的潮流の中から、政権の座を得た政治家である。そして「グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統のなかで培われてきた国民経済との調整をめざす」と説く。その主張は、国民が期待を寄せられそうなもの言いだが、少し検討を行うと、あいまいさが目立ってくる。
 もし鳩山氏が、グローバル化する資本主義からわが国の国民経済を守るというのであれば、わが国独自の国民経済の特徴を把握し、破壊され喪失された伝統的な美風や長所を復活し、今日に生かすことが目標となるだろう。戦後の日本は、敗戦で大打撃を受け、アメリカの占領政策で思想・制度・組織を改造された。しかし、こうした試練に直面した日本人は、伝統に基づく精神を発揮したから、わが国は驚異的な復興と高度経済成長を実現し得たのである。1980年までの日本は、自由主義でありながら平等を重んじ、民主主義でありながら皇室を尊崇する国だった。当時の日本を最も成功した社会主義国家と見る見方があるのは、国全体が豊かになるとともに、国民一人一人も豊かになれるような国民経済が追求されていたからである。
 ところが、鳩山氏には、わが国の伝統的な社会をどう評価し、日本の何を保守しようとするのかが、不明である。どういう伝統を継承して創造的な発展を目指すのか、が明確でない。だから、グローバル化する現代資本主義と国民経済とを調整して、どういう国民経済を築こうとしているのか、示せないのだろう。
 私は、この原因もまた、鳩山氏が友愛を理念にしているためだと考える。友愛は、ヨーロッパ産の思想であり、個人主義を基盤とする理念である。友愛を理念として、わが国の国民経済を構築しようとすると、個人主義を推進するものとなる。その結果は、わが国の国民経済を、「伝統のなかで培われた国民経済」とは違うものへと変えることになるのである。私は先に友愛は地域統合を推進する理念であるから、国民経済を守るなら、友愛を捨てねばならないと述べた。今度は、ここで、グローバリゼーションから国民経済を守るためにも、友愛は捨てねばならないと私は主張するものである。
 なお、鳩山氏は、グローバリズムを市場原理主義と同一視している。たとえば、「アメリカ発のグローバリズムという市場原理主義」と言う。この理解は、グローバリズムを経済思想としてのみとらえるものである。私の理解するところ、グローバリズムには、20世紀初頭に英米で構想された世界政府をめざす運動が根底にある。世界資本主義的な地球統一主義である。そのグローバリズムの経済思想が経済的自由主義であり、市場原理主義なのである。
 実は、鳩山氏が依拠するカレルギーは、世界を五つの地域国家群に分け、それらによる世界連邦を設立することを構想した。カレルギーのヨーロッパ統合運動は、世界連邦を目指して大陸ヨーロッパの統合を進めるものだった。それゆえ、カレルギーの世界連邦論は、私のいうグローバリズムの一種なのである。
 鳩山氏のグローバリズムへの理解は狭く、カレルギーへの理解も浅い。市場原理主義の背後にある思想をとらえなければ、本当のグローバリズム批判にならないと私は思う。ページの頭へ

 

(2)社会に混乱をもたらす社会政策

 

●友愛の政治は「共生の社会」をめざす

 

前項に書いたように、私は、国家を超える地域統合をめざす友愛は、国民経済を重視する考えとは正反対の理念であり、またグローバル化する現代資本主義と国民経済との調整をめざす理念ともなりえないと考えている。しかし、鳩山氏は、友愛は国民経済を守る理念となるのだと主張する。そして友愛は、「市場至上主義から国民の生活や安全を守る政策に転換し、共生の経済社会を建設することを意味する」と言う。
 鳩山氏は「共生の経済社会」を「共生の社会」とも言う。鳩山は「共生の社会」について、次のように書いている。
 「冷戦後の今日までの日本社会の変貌を顧みると、グローバルエコノミーが国民経済を破壊し、市場至上主義が社会を破壊してきた過程といっても過言ではないだろう。(略)この間、日本の伝統的な公共の領域は衰弱し、人々からお互いの絆が失われ、公共心も薄弱となった。現代の経済社会の活動には『官』『民』『公』『私』の別がある。官は行政、民は企業、私は個人や家庭だ。公はかつての町内会活動やいまのNPO活動のような相互扶助的な活動を指す。(略)
 われわれが真に豊かな社会を築こうというとき、こうした公共領域の非営利的活動、市民活動、社会活動の層の厚さが問われる。『友愛』の政治は、衰弱した日本の『公』の領域を復興し、また新たなる公の領域を創造し、それを担う人々を支援していく。そして人と人との絆を取り戻し、人と人が助け合い、人が人の役に立つことに生きがいを感じる社会、そうした『共生の社会』を創ることをめざす」と。
 引用文の最後に、「共生の社会」について、「人と人との絆を取り戻し、人と人が助け合い、人が人の役に立つことに生きがいを感じる社会」という定義が出てきた。この引用文の内容を分析してみよう。

●鳩山氏は東京裁判史観、現行憲法、日教組教育の落とし子

 まず鳩山氏は、冷戦後、グローバルエコノミーが国民経済を、市場至上主義が社会を破壊し、伝統的な公共の領域は衰弱し、人々からお互いの絆が失われ、公共心も薄弱となったという。大意は概ね同感だが、鳩山は冷戦後のことばかり言っている。戦前までの日本の伝統の価値を書いていない。また戦後、冷戦期までの日本の社会について、積極的に評価していない。
 私の見るところ、わが国は敗戦後、GHQによって制度・機構を変造され、憲法を押し付けられ、東京裁判史観を植えつけられ、アメリカ的自由主義とソ連的平等主義を模倣してきた。その結果、日本人は年々、本来の日本精神を失ってきて、戦後50年の平成7年(1995)ごろから、この劣化が顕著になってきた。鳩山氏は、こうしたわが国の変化をほとんど認識していない。昭和22年(1947)年生まれの鳩山氏は、戦後の東京裁判史観、現行憲法、日教組教育の落とし子であり、ある意味で現代日本を象徴する人物である。
 次に注目したいのは、鳩山が「日本の伝統的な公共の領域は衰弱し、人々からお互いの絆が失われ、公共心も薄弱となった」と指摘し、「『友愛』の政治は、衰弱した日本の『公』の領域を復興し、また新たなる公の領域を創造し、それを担う人々を支援していく」と述べていることである。こうした「公」の復興と創造によって目指す社会が、鳩山氏の「共生の社会」である。特徴的なのは、「公はかつての町内会活動やいまのNPO活動のような相互扶助的な活動を指す」とし、「われわれが真に豊かな社会を築こうというとき、こうした公共領域の非営利的活動、市民活動、社会活動の層の厚さが問われる」と述べていることである。
 この公共観には、根本的な欠陥がある。わが国で本来「公」と呼ばれていたものの欠落である。この点については、次の項目で述べたい。

●国家公共を欠いた公共観


 わが国における「公」は「おおやけ」に漢語を当てたものである。「おおやけ」は、天皇や朝廷を意味した。徳川幕藩体制においては、「公儀」は、朝廷の下の政府としての幕府を意味するようにもなった。明治時代以降、「公」は近代国家における公共を意味するようになった。教育勅語に「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」とあるが、この「公」がそれである。戦前のわが国においても、「公」は国家公共であり、その国家を象徴する天皇が、「公の中の公」ともいうべき存在となっている。鳩山氏の公共観には、こうした天皇を象徴と仰ぐ日本という国家が欠落している。そのため氏が「日本の伝統的な公共の領域は衰弱し、人々からお互いの絆が失われ、公共心も薄弱となった」と言うとき、何が衰弱したのか、具体性がない。
 こうした鳩山氏は「現代の経済社会の活動には『官』『民』『公』『私』の別がある。官は行政、民は企業、私は個人や家庭だ」と言う。鳩山氏は「官」「民」「公」「私」を並列的に並べているが、「官」も「民」も「公」の部分である。また「官」と「民」の中にも「私」がある。「公と私」の関係は、家族・親族・地域共同体・企業・団体・地方自治体・国家等が重層的な構造をなし、階層が上がると、下の階層は上の階層に対して「私」となるような入れ子構造になっている。
 こうした「公」の内容に、「官」と「民」がある。先に天皇は「公の中の公」だと書いたが、その天皇に仕える官吏が「官」である。鳩山氏は内閣総理大臣だが、内閣総理大臣は天皇の親任官である。いわば「官の中の官」である。「民」もまた「君」に対する「民」であり、「民」としての国民の統合を象徴する存在が、天皇である。日本国憲法に天皇は象徴であると規定するのは、あえて大和言葉でいえば、天皇は「おおやけ」であるということである。それゆえ「官」と「民」を論じる時にも、国家公共という観念が重要となる。
 ところが、鳩山氏が述べる「公」は、地域共同体や市民運動団体のレベルの「公」であって、国家を欠いている。「公はかつての町内会活動やいまのNPO活動のような相互扶助的な活動を指す」と言っているとおりである。「われわれが真に豊かな社会を築こうというとき、こうした公共領域の非営利的活動、市民活動、社会活動の層の厚さが問われる。『友愛』の政治は、衰弱した日本の『公』の領域を復興し、また新たなる公の領域を創造し、それを担う人々を支援していく。そして人と人との絆を取り戻し、人と人が助け合い、人が人の役に立つことに生きがいを感じる社会、そうした『共生の社会』を創ることをめざす」と鳩山氏は言う。氏の「友愛の政治」がめざす「共生の社会」とは、国家公共を欠いた非国民的な市民や地球市民が集う社会なのだろう。
 「人と人との絆を取り戻し、人と人が助け合い、人が人の役に立つことに生きがいを感じる社会」といえば、わが国の伝統である家族的生命的な関係に基づく共同社会と似た響きがする。しかし、上記したように、その実態はまったく異なるものである。

●「新しい公共」は、日本の家族や社会を変造する

 鳩山氏は、平成21年(2009)10月26日の国会における所信表明演説で、「新しい公共」について次のように述べた。
 「私が目指したいのは、人と人が支え合い、役に立ち合う「新しい公共」の概念であります。『新しい公共』とは、人を支えるという役割を、『官』と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという新しい価値観です」と。
 そして、政府の役割については、「政治ができることは、市民の皆さんやNPOが活発な活動を始めたときに、それを邪魔するような余分な規制、役所の仕事と予算を増やすためだけの規制を取り払うことだけかもしれません。しかし、そうやって市民やNPOの活動を側面から支援していくことこそが、21世紀の政治の役割だと私は考えています」と言う。ここには、左翼系の市民運動の思想が影を落としている。
 鳩山氏は続ける。「国民一人ひとりが『自立と共生』の理念をはぐくみ発展させてこそ、社会の『絆』を再生し、人と人との信頼関係を取り戻すことができるのであります」と。ここでは、友愛という言葉は使っていないが、「自立と共生の理念」とは友愛のことである。ヨーロッパ産の理念である友愛は、個人主義的な人間観に基づく。鳩山氏は、ヨーロッパ思想を日本に移植することで、社会の絆が再生できると錯覚しているのである。そして、「私は、国、地方、そして国民が一体となり、すべての人々が互いの存在をかけがえのないものだと感じあえる日本を実現するために、また、一人ひとりが『居場所と出番』を見いだすことのできる『支え合って生きていく日本』を実現するために、その先頭に立って、全力で取り組んでまいります」と話を結ぶ。この「居場所と出番」とは、日教組の用語である。
 私はこうした鳩山氏の「新しい公共」は、わが国の社会の伝統的な価値を尊重する姿勢とは、正反対のものであると判定する。ページの頭へ

関連掲示
・拙稿「日本の公と私〜新しい公民倫理のために
・個人主義的な人間観を超える人間観については、項目「文明と倫理」の次の拙稿をご参照ください。
 30「日本的倫理は世界的人倫実現の鍵〜和辻哲郎(1)

 

 

(3)日本を移譲する永住外国人参政権付与

 

●外国人参政権は「友愛」で付与すべきものではない

 平成21年(2009)8月30日、衆議院議員総選挙で、民主党は圧倒的な勝利で絶対安定多数を得た。民主党は、選挙の前に、マニフェストを配布した。マニフェストは政権公約であり、国民との契約だという。その民主党マニフェストには、永住外国人への地方参政権付与は、一言も書いていない。ところが、政権を取るや、永住外国人への地方参政権付与を早期に実現しようと動きはじめている。
 永住外国人への地方参政権付与は、選挙前に国民に、公約した政策ではない。なぜマニフェストには載せなかったのか。選挙前は、国民に疑問や反発を与えるような政策は除き、政権を取った後に、推し進めようというやり方だろう。
 もともと民主党は、平成10年(1998)の結党時、基本政策の一つに「定住外国人の地方参政権の実現」を揚げた政党である。参政権付与の法案を繰り返し国会に提出しており、過去の政策論文集でもこの方針を打ち出している。
 永住外国人には、2種類ある。サンフランシスコ講話条約の発効で日本国籍を失った者とその子孫である「特別永住者」と、経済的基盤が日本にあることなど条件に法相が永住許可を与えた「一般永住者」である。民主党や公明党の参政権付与法案は、この両者をともに対象としている。しかし、主たる対象は、特別永住者、在日韓国人であることは明白である。
 鳩山氏は9月16日、わが国の首相となった。それに先立つ4月17日、当時民主党幹事長だった鳩山氏は、インターネット動画サイト「ニコニコ動画」の番組に出演し、永住外国人に参政権を付与すべきとの持論を繰り返した。その上で、鳩山氏は「日本列島は日本人だけの所有物じゃない。仏教の心を日本人が世界で最も持っているはずなのに、なんで他国の人たちが、地方参政権を持つことが許せないのか」と発言した。
 また、同月24日の記者会見で「これはまさに愛のテーマだ。友愛と言っている原点がそこにあるからだ。地球は生きとし、生ける全てのもののものだ。日本列島も同じだ」と述べた。
 永住外国人に地方参政権を与えることは、彼にとっては友愛という理念の実践であるらしい。しかし、憲法は参政権を「国民固有の権利」と定めている。「国民」とは、日本国籍を持つ者のことであり、日本国籍のない者は、「国民」ではない。故に、外国籍の人間に参政権を与えることは、明白な憲法違反である。外国人参政権は、「友愛」で付与すべきものではない。
 また、しばしば外国人参政権付与の論拠とされる国際人権B規約には、国連加盟国192カ国中、164カ国が批准している。そのうち外国人地方参政権を認める国は、38カ国のみである。ほとんどはEU加盟国、英連邦諸国と関係国という事実上の共同体か隣接国同士である。民主党の法案のように、国籍を限定せず参政権付与をしている国は、全世界でわずか24カ国、8分の1である。外国人参政権付与は、世界基準ではなく、世界の大勢でもない。
 驚くべきことに鳩山氏が付与すべきと考えているのは、地方参政権だけではない。平成8年(1996)6月号の雑誌「論座」に寄せた「わがリベラル友愛革命」で、鳩山氏は「定住外国人に国政参政権を与えることをも真剣に考えても良いのではないかと思っている」と書いている。また14年(02)8月8日の夕刊フジ・コラムでは、民主党代表としての発言で、「日本列島は日本人の所有物と思うなという発想は、日本人の意識を開くことであり、死を覚悟せねば成就は不可能であろう。私はそこまで日本を開かない限り、日本自体の延命はないと信じる。だから私はその尖兵を務めたいのだ」と書いている。
 日本の解放・脱日を熱望している人物が、日本の首相になったのである。鳩山氏は、首相という立場を考えて、自説を抑え、地方参政権の付与のみを述べている。だが本音は、死を覚悟してでも国政参政権を外国人に与えたい、と思い込んでいるのである。実に危険な思想である。

●韓国・中国からの移民を警戒せよ

 鳩山氏は「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と言う。日本列島の不動産なら、外国人も合法的に所有できる。在日韓国人も同様である。しかし、参政権はこれとはまったく別の話である。
 参政権を望むならば、日本国籍を取得して日本国民となればよいのである。日本列島から外国人を排斥したり、追放したりはしていない。日本国は帰化したいという外国人には門戸を開いている。実際、在日韓国人は、毎年1万人ほどが日本に帰化している。しかも韓国は、平成21年(2009)2月に在日韓国人を含む在外韓国人に母国での参政権を認めるよう法改正をした。このうえ、母国での参政権を持つ韓国人に、わが国の地方参政権を与えるならば、母国の国益のために、その参政権を使用することになるだろう。
 ここで最も警戒しなければならないのは、対馬である。韓国に最も近い日本の領土である対馬(長崎県)は、韓国人が多くの土地を買い占めている。また韓国の国会議員約50名が対馬を日本から取り戻す法案を国会に提出したという動きもある。もし在日韓国人が地方参政権を得て、多数住民票を対馬に移したならば、対馬の地方自治は外国籍の有権者に左右されるようになる。
 永住韓国人だけでなく、中国人の移民についても、慎重に考える必要がある。ここ数年の統計によると、特別永住者は1年に約1万人減少しているのに対し、中国人の一般永住者は逆に毎年1万人以上増加している。平成20年には14万2400人に達し、今後も増え続けるだろう。単純にこのペースで行けば、15年ほどで在日永住韓国人と在日永住中国人の人数が逆転する。
 もはや参政権付与問題は、在日韓国人の処遇の問題から、対中国問題へと変化しつつあるのである。中国は、共産主義の国である。共産党が事実上の一党独裁を敷き、人民解放軍は共産党の軍隊である。中国人移民に、地方参政権を与えれば、日本の共産化を諮る工作員がますます活発に活動するだろう。
 日本人が日本精神を取り戻し、しっかり団結したうえで移民問題に対処しないと、わが国は外来者に侵食される。「友愛」は、こうした日本人としての意識を鈍らせ、健全な判断力を麻痺させる危険な言葉である。

●「仏教の心」を言うなら、チベットに手を差し伸べよ

 

「日本列島は日本人だけの所有物じゃない。仏教の心を日本人が世界で最も持っているはずなのに、なんで他国の人たちが、地方参政権を持つことが許せないのか」と鳩山氏は言う。
 ヨーロッパ産の友愛と「仏教の心」が鳩山氏の中でどう結びつくのか分からないが、鳩山氏は日本人に対し、日本人が「仏教の心」を「世界で最も持っているはず」だから「仏教の心」を持って、外国人に参政権を与えよと説く。私は、これは失礼な物言いだと思う。日本人が世界で最も「仏教の心」を持っているとはいえない。アジアには仏教国が存在する。チベット、タイ、モンゴル等の国民に対し、失礼ではないか。
 なかでもチベットはラマ教を国教とする敬虔な仏教国として知られる。そのチベットは、共産中国の侵攻を受け、文化を破壊され、僧侶は弾圧され、民衆は虐殺・虐待されてきた。仏教は慈悲を説くとともに、無執着を説く。しかし、それでは国民の生命と財産は守れない。チベットの悲劇は、そのことを明白に示している。
 鳩山氏は友愛を説く。「仏教の心」も説く。そうであれば、チベットへの弾圧・虐殺に関し、中国共産党政府に抗議し、チベットの民衆に愛の手を差し伸べるべきだろう。また、中国共産党指導層に友愛を説いて、チベットでの弾圧・虐殺をやめさせる。また漢民族とチベット民族の「自立と共生」を促すべきだろう。ついでに北朝鮮に対しても、金正日に友愛を教えて、拉致を非難し、日本人を返すように説く。収容所に入れられている国民を解放するように言う。飢餓と貧困に苦しむ国民を愛するように説くべきである。そこまで行けば、友愛も価値が出てくるだろう。
 ところで鳩山氏の友愛は、人間に対するだけものではないらしい。鳩山氏は「地球は生きとし生けるもののものだ。日本列島も同じだ」と言う。一見、自然界に適った表現のようだが、ライオンにはライオンの住む場所、イルカにはイルカの、白鳥には白鳥の住む場所がある。ライオンはイルカの泳ぐ海では生きられず、イルカは白鳥の飛ぶ空には上がれず、白鳥はライオンの草原を走れない。日本列島も、生きと生けるもののものだとは言えない。ホッキョクグマやオランウータンが日本で住めるのは、動物園だけである。
 生物社会では、同じ種であっても、それぞれ生存のための場所を占め、棲み分けをして共存共栄している。生存本能を持ち、自己防衛能力を備え、なわばりを侵すものには警告し、戦って排除する。私は、人間の社会もそれぞれに合った場所で、独自の掟やならわしを守りながら生活することは、生物社会の自然に適っていると思う。グローバリズムから国民経済を守ることが正当であるように、移民に対して国民に参政権を限ることもまた正当である。人々の移動・居住の自由を否定するものではないが、すべてを一律と見る観念的な普遍主義は、無秩序と混乱をもたらすと思う。

●参政権付与ではなく、帰化の促進が妥当

 私は外国人に外国籍のまま、わが国の参政権を与えてはいけないと考える。参政権を得たい外国人は、日本に帰化するとよい。帰化すれば、日本国民の権利として参政権を得ることができる。日本国籍を取得すれば、日本人と同等の権利が与えられる。鳩山氏が「仏教の心」だ、「愛のテーマ」だなどと、個人の思想・信条を持ち出す事柄ではない。
 特別永住者については、帰化がしやすいように、特例的に手続の簡略化・迅速化をするのがよいと思う。帰化を望まない人には、帰国の道もあるから、一定の期間を決めて、どちらかを選択してもらう。その後、入管特例法を改正して「特別永住者」の制度を廃止する。帰化によって日本国籍を取得したコリア系日本人は、基本的に日本国民と同じ権利に限定する。参政権は与えるが、各種の特権、いわゆる在日特権は廃止する。引き続き外国籍のままで日本に在留したい人は、一般永住者の地位で居住を許可する。このようにするのがよいと思う。
 私は、外国人への二重国籍許可には反対する。外国籍を持ったまま、日本国籍も与えるとすれば、その人は、二つの国家に帰属することになる。この場合、わが国がその国と戦争になったら、二重国籍者は相手国を利する行為を行なう可能性があるから、国家安全保障上、二重国籍を認めるべきでない。また、国益に係る重大な問題が生じた場合、二重国籍者はもう一つの祖国の利益のために、行動する可能性があるから、国益上、二重国籍を認めるべきでない。
 とりわけわが国は、現状、憲法に国民に国防の義務がなく、国家忠誠の義務もまた憲法に規定されていない。また刑法は外患援助罪のうち、第83条から89条の通謀利敵に関する条項が、敗戦後GHQにより削除されたままである。このような状態で、外国人に地方参政権を付与し、二重国籍を認めることは、危機管理上、危険である。ページの頭へ

 

 

(4)国家を解体する地域主権の実現

 

●最も力を入れたい政策は「地域主権の実現」と言う

 鳩山氏は平成21年(2009)5月、民主党の代表選挙で党代表となった。その際、記者の質問に対し、「最も力を入れたい政策」は、「中央集権国家である現在の国のかたちを『地域主権の国』に変革」することだと答えた。いわゆる「地域主権の実現」である。
 極端に中央集権、東京への一極集中が進んだわが国は、そのための弊害が大きくなり、地方分権を必要としている。地方分権とは、端的に言えば権限と財源の委譲である。しかし、鳩山氏の言う「地域主権の実現」は、中央政府がそれぞれの地方自治体に対して、「地域主権」と呼べるところまで、権力の移譲を徹底して進め、日本の国の形を根本から変えようという政策である。鳩山氏はこの政策も友愛の実現として打ち出している。私は、この政策に強く反対する。
 近代国家の主権とは、一国の政府が他の国に対して持つ自立的な統治権である。また、主権は、国内において領土・国民に対する最高の権限である。もし「地域主権」を実現し、個々の地方自治体の持つ権限こそが主権だとすれば、政府はその自治体に対して主権を持たず、政府の権限は、その地域については、自治体の権限より下になる。そのような政府は、独立主権国家の政府ではない。それゆえ、「地域主権の実現」は、独立主権国家を否定することになる。
 しかも鳩山氏は、永住外国人に地方参政権を与えることが、友愛の実行だという。もしこの政策が行われれば、現在より遥かに大きな権限と財源を持つ地方自治体において、外国人が参政権を持つことになる。外国籍の住民は、自分たちの権利を拡大し、自分たちの主張を実現しようと図るだろう。人口30万人ほどの自治体なら、多数の外国人が計画的に移住すれば、選挙や行政に大きな影響を与えることができるだろう。
 「地域主権の実現」は、主権の分散である。外国人参政権付与は主権の分譲である。主権の分散と分譲は、わが国の国家としてのあり方を、劇的に変える。その結果、生まれるのは、「地域主権国家」という新しい形態の国家ではなく、「主権喪失国家」という国家の残骸である。
 国家統治権と地方自治権が、最も強い緊張関係に置かれるのは、他国による侵攻、内乱・騒擾、大規模自然災害等の場合である。わが国では現状、国民に国防の義務がなく、憲法に非常事態条項がない。こうした憲法のまま、地方分権を極端に進めたならば、万が一の危機のときに、国家分裂に陥りかねない。私は地方分権を進める前に、わが国が独立主権国家として体制を確立することが、絶対不可欠だと考える。この手順を誤ると、日本は崩壊するおそれがある。
 鳩山氏の「地域主権の実現」という構想には、こうした問題意識が欠如している。日本の独立と主権についてしっかりした意思を持たずに、「地域主権の実現」を進めると、周辺諸国の軍事力や人口力によって、日本の国家・社会が浸食され、日本人は固有の文化や伝統、精神を失ってしまうだろう。

●「地域主権の実現」も友愛から導き出したもの

 平成22年(2010)1月29日、鳩山氏は首相になって初めての施政方針演説をした。そこで首相は述べた。「本年を地域主権革命元年とすべく、内閣の総力を挙げて改革を断行してまいります」と。「革命」という言葉を一国の首相が使っている。この場合の「革命」は情報革命・ファッション革命のような比喩的表現ではない。文字通り政治権力が移動する「革命」である。鳩山氏は現政権が革命政権であるかのように錯覚し、「地域主権革命」を22年から推進しようとしている。
 日本を解体に導く危険性の高い「地域主権の実現」もまた鳩山氏が「友愛」という理念から導き出した政策である。この点を説明するために、鳩山氏は「Voice」論文において、カレルギーの著書「全体主義国家対人間」の第12章「友愛革命」から、次の一節を引用する。
 「友愛主義の政治的必須条件は連邦組織であって、それは実に、個人から国家をつくり上げる有機的方法なのである。人間から宇宙に至る道は同心円を通じて導かれる。すなわち人間が家族をつくり、家族が自治体(コミューン)をつくり、自治体が郡(カントン)をつくり、郡が州(ステイト)をつくり、州が大陸をつくり、大陸が地球をつくり、地球が太陽系をつくり、太陽系が宇宙をつくり出すのである」。
 私は先にこの一節を引いて、批判を行なった。友愛は兄弟愛であるが、兄弟愛は家族愛の一部に過ぎない。そういう部分的なものを拡大して家族や社会の構成原理とするのは無理がある。仮に兄弟愛を人間界の構成原理にしたとしても、友愛は人間のあいだの愛であって、大陸や地球・太陽系・宇宙には拡大できない。もし愛を人間界以外の自然界にまで拡大するならば、ロマン主義の思想となるだろう、と。
 しかし、鳩山氏は、カレルギーを鵜呑みにし、次のように論を進める。「カレルギーがここで言っているのは、いまの言葉で言えば『補完性の原理』ということだろう。それは『友愛』の論理から導かれる現代的政策表現ということができる」と。カレルギーは友愛を個人から社会組織を構成する原理とし、さらに人間界だけでなく、自然界をも貫く構成原理だとしている。これに対し、補完性の原理とは、意思決定や自治等をできるかぎり小さい単位で行ない、できないことのみをより大きな単位の団体で補完するという考え方である。一方は社会や宇宙のシステムの構成原理であり、一方は人間の活動や行政の方法である。これらは、まったく異なる概念である。
 大陸ができないことを地球が補い、地球ができないことを太陽系が補うなどとは、よほどの夢想家でも口にしない。ところが、鳩山氏は、「『友愛』の論理から導かれる現代的政策表現」が、補完性の原理だと主張する。ここには、大きな論理の飛躍がある。こうした飛躍を意に介さずに、鳩山氏は、次のように述べる。
 「経済のグローバル化は避けられない時代の現実だ。しかし、経済的統合が進むEUでは、一方でローカル化ともいうべき流れも顕著である。()グローバル化とローカル化という二つの背反する時代の要請への回答として、EUはマーストリヒト条約やヨーロッパ地方自治憲章において『補完性の原理』を掲げた」「補完性の原理は、今日では、たんに基礎自治体優先の原則というだけでなく、国家と超国家機関との関係にまで援用される原則となっている」と。
 EUが補完性の原理を採用しているのは事実である。しかし、それをグローバル化とローカル化という「時代の要請への回答」だという鳩山氏の所論も、十分な検討を要する。

●未だ存在しない東アジア共同体を前提とした架空の議論

 

鳩山氏は、友愛から導かれる「補完性の原理」によって「地域主権国家」の実現を目指す。注意しなければならないのは、鳩山氏はEUという多数の主権国家が集合する組織の話と、日本という一個の国家の話を、ごっちゃにしていることである。
 私は、この議論を整理するには、まず今日の世界の経済には、4つの階層が存在することを明確にすべきだと思う。すなわち、グローバル(地球的)つまりアメリカ主導で進んでいる単一市場経済、リージョナル(広域的)つまりヨーロッパのような地域統合による広域経済、ナショナル(国家的)つまりフランス・ドイツ等の国家による国民経済、ローカル(地方的)つまり各国の内部におけるプロバンス地方・バイエルン地方等における地域経済の4つである。EUは、ナショナルに対して、リージョナルであり、ナショナルな階層を内に含んだ上位の階層である。そのEUにグローバル化の波が打ち寄せている。またその嵐の中で、ローカル化の要請が出ているのである。
 だが、鳩山氏は、グローバル、リージョナル、ナショナル、ローカルの階層構造と、階層間の相互関係・相互作用を具体的にとらえていない。そのため、鳩山氏の論文の読者は、地域統合が進んでいるヨーロッパの事情と、東アジアにおける日本の事情を混同しやすいのである。
 EUにおける「補完性の原理」の採用は、数十年かけて経済的な地域統合が進んでいるヨーロッパにおける試みである。日本は独立主権国家であり、日本の地方自治をどうするかというのは、あくまでわが国の独自の課題である。これと広域統合が進むEUでの各国の国内の話は、枠組みが異なる。
 ヨーロッパでは安全保障・経済・政治のリージョナルな組織があって、その参加国がナショナルな課題として、ローカルな地方行政の尊重をやっている。日本の場合、東アジアにはEUのような共同体は存在しない。「APEC」「ASEAN+3(日中韓)」等の経済協力があるのみである。特に、ヨーロッパのNATOにあたる地域集団安全保障体制がない。東アジアでは、冷戦は終わっていない。朝鮮半島には民族分断国家が並存し、朝鮮戦争は休戦状態のままである。北朝鮮が核開発を進め、アメリカ・ロシアを含む6カ国協議が対応の場となっている。また急速に軍事力を増強する中国が、東アジア諸国に重大な脅威を与えている。かつての米ソのように、アメリカと中国が、アジア太平洋地域で軍事的に対峙するようになっている。
 鳩山氏は、こうした現実を見すえず、未だ存在しない東アジア共同体を前提として、まるでわが国がEUの参加国でもあるかのように、「補完性の原理」を説くのである。

●友愛は主権を分散・分譲して、日本を解体する

 鳩山氏は、日本とヨーロッパの事情の違いを無視したまま、「補完性の原理」を、次のように解釈する。
 「個人でできることは、個人で解決する。個人で解決できないことは、家庭が助ける。家庭で解決できないことは、地域社会やNPOが助ける。これらのレベルで解決できないときに初めて行政がかかわることになる。そして基礎自治体で処理できることは、すべて基礎自治体でやる。基礎自治体ができないことだけを広域自治体がやる。広域自治体でもできないこと、たとえば外交、防衛、マクロ経済政策の決定など、を中央政府が担当する。そして次の段階として、通貨の発行権など国家主権の一部も、EUのような国際機構に移譲する……。」と。
 鳩山氏はこのように解釈した「補完性の原理」を、わが国の国家のあり方に適用しようとする。それが極端な地方分権政策である。「補完性の原理は、実際の分権政策としては、基礎自治体重視の分権政策ということになる」と鳩山氏は言う。これは、地方分権のための一つの考え方ではある。問題はそこから鳩山氏が一気に極端に走ることにある。「われわれが、友愛の現代化を模索するとき、必然的に補完性の原理に立脚した『地域主権国家』の確立に行き着く。(略)『地域主権国家』の確立こそは、とりもなおさず『友愛』の現代的政策表現であり、これからの時代の政治目標にふさわしいものだ」と。
 「われわれが友愛の現代化を模索するとき」と言うが、友愛にこだわり、その現代化を模索しているのは、鳩山氏だけである。鳩山氏は、かつて友愛を「個の自立」と「他との共生」を図る「自立と共生の原理」と定義した。今度は「補完性の原理」だと言う。「自立と共生の原理」においては、自己と他者が対等で協働する関係の構築が目標とされる。「補完性の原理」においては、個人・家族・地域社会・NPO・基礎自治体・広域自治体・中央政府・国際機構が包括・被包括の関係に立ちつつ、下位が自立し、上位が補助する関係の構築が目標とされる。前者は横の平面的な関係だが、後者は縦の立体的な関係である。
 私は、先に友愛は鳩山家の旗印だと言った。鳩山氏は、状況の変化に応じて、自分に都合のよい政策や理論を他から取り入れ、それに「友愛」という判子を押す。そして、それらがもともと友愛という理念から引き出されたものであるかのように、吹聴するのである。
 鳩山氏は、今度はその「友愛」という鳩山家の紋所を、わが国の国家のあり方に当てはめようと、する。そして、友愛の現代化の模索から、「必然的に補完性の原理に立脚した『地域主権国家』の確立に行き着く」と主張する。どうしてそれが「必然的」なのか、どうして「地域主権国家」に行き着くのか。ここにもまた論理の飛躍がある。
 さらに、鳩山氏は「補完性の原理は、基礎自治体優先の原則というだけでなく、国家と超国家機関との関係にまで援用されている」と言うから、わが国を「地域分権国家」に分解したうえで、「超国家機関」に包括されることが、前提になっている。日本列島をヨーロッパに移動し、わが国がEUの一員にでもなるのなら、いざ知らず、日本が位置するのは、東アジアである。
 鳩山氏の主張は、わが国の主権を地方に分散し、外国住民に分譲し、さらに国外組織に移譲して、独立主権国家としての日本を否定する危険な主張である。その鳩山氏の思想の根底にあるのが友愛である。友愛の政策的表現は主権の分散・分譲、移譲と、それによる日本の解体なのである。私は、友愛、及び地域主権国家に断固反対する。
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(5)日本を消滅させる東アジア共同体構想

 

●友愛が導く東アジア共同体の構想

 

友愛から「地域主権国家の実現」という国家目標を導き出す鳩山氏は、「Voice」論文で、「『友愛』が導くもう一つの国家目標は『東アジア共同体』の創造であろう」と言う。どうして友愛から東アジア共同体が導かれるのか。
 鳩山氏は平成17年(2005)に「新憲法試案」を作成したとき、その「前文」に、これからの半世紀を見据えた国家目標を掲げて、次のように述べた。
 「私たちは、人間の尊厳を重んじ、平和と自由と民主主義の恵沢を全世界の人々とともに享受することを希求し、世界、とりわけアジア太平洋地域に恒久的で普遍的な経済社会協力及び集団的安全保障の制度が確立されることを念願し、不断の努力を続けることを誓う」と。
このことについて、鳩山氏は次のように述べる。
 「私は、それが日本国憲法の理想とした平和主義、国際協調主義を実践していく道であるとともに、米中両大国のあいだで、わが国の政治的経済的自立を守り、国益に資する道でもある、と信じる。またそれは、かつてカレルギーが主張した『友愛革命』の現代的展開でもあるのだ。」と。
 すなわち鳩山氏は、「友愛革命の現代的展開」は「人間の尊厳を重んじ、平和と自由と民主主義の恵沢を全世界の人々とともに享受することを希求し、世界、とりわけアジア太平洋地域に恒久的で普遍的な経済社会協力及び集団的安全保障の制度が確立されること」だと言う。
 鳩山氏はこの時点では「アジア太平洋地域」という言い方をよくしていた。それが現在では、主に「東アジア」という言い方に変わっている。どうして用語が変わったのか説明がない。しかし、用語が替わったことで、アメリカの存在が希薄になっている。アメリカを軽視ないし除外したものと疑われている。

●中国の東亜共同体の再提案か

 鳩山氏の「東アジア共同体」構想は、中国共産党政府が平成17年(2005)ごろから東南アジア諸国連合(ASEAN)の会議等で打ち出した「東亜共同体」と似た構想である。中国の「東亜共同体」は、ASEAN等から、アジアにおけるアメリカの影響力を後退させる中国の外交戦略と見なされて、中国が引っ込めた。ところが、鳩山氏は、中国と似た構想を、改めて日本の側から提案した。なぜ今になってまた似たようなものを提案するのか、理由は説明されていない。「東アジア共同体」と「東亜共同体」との違いも、説明されていない。
 仮に鳩山氏の構想を単なる地域協力案だと考えても、アジアにはすでに、ASEANプラス3(日中韓)、ASEAN地域フォーラム(ARF)、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)、アメリカも参加するアジア太平洋経済協力会議(APEC)など、各種の対話や協議のための機関が存在する。また、アジア太平洋自由貿易地域(FTAAP)の議論もされている。こうした中で、わが国が東アジア共同体を呼びかけても、新たな求心力を生み出すことは難しい。
 そのうえ、東アジア共同体構想は、対象範囲がはっきりしない。鳩山首相は「米国を除外しない」と言うが、岡田克也外相は「日本、中国、韓国、ASEAN、インド、豪、ニュージーランドがメンバー」として、米国を除外する。まず対象範囲について、鳩山氏は政府見解を統一すべきである。首相と外相の見解が違うのでは、外国指導者に当惑を与えるだろう。とりわけ米国に対しては、日米同盟と東アジア共同体との関係を明確に伝えないと、不信を買うだろう。地域集団安全保障体制と経済協力の関係、特に共産中国を共同体の中でどう位置づけるか等、具体的な構想を提示しなければ、日米関係がギクシャクし、中国から日米の分断に利用されるおそれがある。
 私は、東アジア共同体構想に対して、ASEAN諸国は慎重な姿勢を保つだろうし、インド、オーストラリア、ニュージーランドは共産中国との国家連合に賛同しないと思う。鳩山首相に望みたいことは、わが国の存立における日米関係の重要性を真に理解し、東アジア共同体というアメリカ軽視の構想ではなく、日米関係を主軸としたアジア太平洋地域という構想に転換することである。アメリカを含むアジア太平洋地域の国際体制の整備への転換である。

 

●東アジアの現実を見よ

 

東アジア共同体の構築については、それがどのような組織・機構なのか、鳩山氏の主張には具体性がない。鳩山氏は、カレルギーの「友愛」を理念として、東アジア共同体を説いているから、EUをモデルとしているらしい。
 鳩山氏はカレルギーの友愛をもってEUをとらえ、その下に、東アジア共同体を構想しているようである。しかし、ヨーロッパと東アジアは、事情が大きく異なる。その点を鳩山氏は軽く考えていると思う。
 私は、ヨーロッパと東アジアには、大きく7つの違いがあると思う。
 (1)文化・歴史の違い、(2)文明の違い、(3)体制の違い、(4)民族分断国家の存在、(5)永住外国人の存在、(6)経済発展段階の違い、(7)安全保障体制の違いの7つである。

(1)
 文化・歴史の違い
 ヨーロッパは、キリスト教という共通の宗教を持つ。カトリックとプロテスタントに分かれてはいるが、イエス=キリストを信仰し、聖書を聖典とする点では共通する。ローマ帝国滅亡後、ギリシャ=ローマ文明を継承したという文化的・歴史的な一体感も持っている。ヨーロッパの統合運動は、こうした文化要素の共通性をもとに進められてきた。
 これに比べ、東アジアでは、ヨーロッパのような宗教・文化・歴史の共通性がない。統合のもとになる土台がないのである。

(2)
 文明の違い
 ヨーロッパは一つの文明。ヨーロッパ文明。アメリカにも広がったことを踏まえれば、西洋文明。
 これに対し、ハンチントンは、『文明の衝突』で次のようにいう。「冷戦後の重要な国際関係に中心舞台があるとすれば、それはアジア、特に東アジアである。アジアは文明の坩堝だ。東アジアだけで6つの文明に属する社会がある。日本文明、シナ文明、東方正教会文明、仏教文明(主要文明とはしていないが)、イスラム文明、西洋文明で、南アジアを含めるとヒンドゥー文明が加わる」と。
 ハンチントンは、東アジアには多数の文明が存在し、文明間の複雑な関係が存在するととらえる。鳩山氏は、多文明のアジアの統合の困難さを認識することが、十分できていない。

(3)
 思想と体制の違い
 ヨーロッパは、すべての国が自由民主主義を政治思想の基本としている。だがアジアには、共産主義・全体主義を国家の基本思想としている国々存在する。

ヨーロッパでは、東欧諸国が共産主義を捨て、民主化された。ベルリンの壁の撤去、ソ連・東欧の共産主義政権の崩壊によって、冷戦は終焉したというのが通説である。
 しかし、東アジアはそうではない。東アジアでは、冷戦は終焉していない。マルクス=レーニン主義の影響を受けた社会主義・人民民主主義を、広義の共産主義というならば、中国・北朝鮮は共産主義の国家である。高度の統制のもと、政治的自由が極度に制限され、選挙さえ行われていない。 東南アジアにもベトナムという社会主義共和国もある。

(4) 民族分断国家の存在
 ヨーロッパでは、東西ドイツが統合され、異なるイデオロギーで民族が分断されていた国家が一つになった。東アジアでは、朝鮮民族は、第2次大戦後、正確に言えば朝鮮戦争後、二つの国家、二つの体制に分断されたまま、統一されていない。韓国と北朝鮮は、38度線で対峙しており、国連軍が駐留している。冷戦期の東西ドイツに似た民族分断国家が、わが国の最も近くに存在するのである。
 中国と台湾は、蒋介石が大陸から台湾に逃げ込んだのだから、民族分断国家とはいえない。しかし、中国と台湾は、政権の正統性を争っている。統一か独立かの緊張関係にある。中国が台湾を武力統一する可能性がある。わが国のシーレーンは、いつでも押さえられる危険にさらされている。

(5)
 永住外国人の存在
 民族分断国家が今も存在し、地域の平和と安全に重大な脅威を与えているのが、東アジアであるが、そうした中で、わが国には、多数の在日韓国人・朝鮮人が在留している。約55万人いる。彼らは民族分断のままであり、しかもその一方の国は共産主義国、国際的な犯罪国家である。日本人を拉致して勾留し、今も被害者が日本に帰国できていない。わが国は、こういう分裂民族の居留民を、関西を中心として多数、抱えている。
 こういう例は、ヨーロッパにも英連邦諸国にも見出すことが出来ない。

(6)
 経済発展段階の差が大きい
 ヨーロッパの場合は、諸国の経済的な差が小さいから、一体化しやすい。東ドイツはソ連圏でソ連に継ぐ工業国だった。東アジアは、経済の発展段階の差が大きい。特に北朝鮮は世界最貧国のレベル。中国と同じくソ連の共産主義から派生した国家であり、そのうえ、アジア的専制国家のような指導者の世襲制が敷かれている。独裁者の領導により、人権無視は甚だしく、餓死者300万人とも伝えられる。さらに、日本人・韓国人等の拉致、偽ドルの製造、麻薬の製造・密輸等の国家犯罪を行っている。
 ドイツ統一の際の西ドイツ・東ドイツの経済的な差は、朝鮮の南北の差より遥かに小さかった。それでも統一後の旧西ドイツ側の負担は大きかった。まして、朝鮮の場合、統一によって、韓国にどれだけの負担がかかるか分からない。またわが国は歴史問題を口実にして、多額の援助を要求される可能性がある。

(7)
 安全保障の違い
 ヨーロッパには、NATOが存在し、地域集団安全保障体制が確立している。しかし、東アジアには、地域集団安全保障体制は存在しない。アメリカは日本、韓国、オーストラリア等と個々の安全保障条約を結んでおり、汎アジア的な体制を組んでいない。わが国にとっては、中国は核大国である上に、猛烈な軍拡を続けている。また北朝鮮は核開発を行い、日本やアメリカに向けた中距離ミサイルを開発・実験している。
 これと関連して、東アジアには領土問題が多数存在する。東シナ海の海底油田、尖閣諸島と大陸棚資源、南シナ海の海底油田、竹島、北方領土等である。それぞれ各国の利害が鋭く対立しており、ヨーロッパの事情とは大きく異なる。

 以上ヨーロッパと東アジアの違いを7点挙げたが、彼我の事情は大きく異なるのである。

 

  現在の東アジアは、冷戦下のヨーロッパに似ている

 

先に東アジアとヨーロッパでは、大きな違いが7つあると書いた。それらの違いを踏まえるならば、鳩山氏の東アジア共同体構想は、東アジアの現実を見ない理想論といわざるを得ない。現実を踏まえてこの地域の今後のあり方を考えるには、1970〜80年代のヨーロッパと2000〜2010年代の東アジアを比較することが有益だと私は思う。
 1970〜80年代のヨーロッパで、西欧諸国は、アメリカとNATOによる軍事同盟を結び、ソ連に対する防衛体制を取っていた。その体制の下でヨーロッパは統合を進めた。2000〜10年代の東アジアで、この関係に相似する点は、日本がアメリカと軍事同盟を結んでおり、日米安保体制がNATOに相当することである。また、1970〜80年代のヨーロッパ諸国にとってのソ連に相似するのが、2000〜2010年代における中国である。
 ソ連は、1970〜80年代に軍事力を増強し、80年代半ばに軍事的なピークを迎えようとしていた。ヨーロッパは三度目の大戦の舞台になり、核戦争の戦場となりかねないという危機感が、ヨーロッパ統合の推進力になった。
 ヨーロッパ諸国はアメリカとのNATOを堅持して、ソ連の軍事的冒険主義を防ぎ、ソ連・東欧の共産政権を崩壊させ、民主化に導いた。ソ連の労働者・農民・少数民族は、共産党支配から解放された。わが国がこの歴史的事例に学ぶとすれば、アメリカとの安保体制を堅持して、中国の軍事的膨張主義を防ぎ、共産政権を崩壊させ、民主化に導くことである。それは、中国の労働者・農民・少数民族を、共産党支配から解放することになるだろう。
 今日、日本の取るべき道は、決してアメリカから離れて、中国と結ぶ道ではない。その道は、1970〜80年代のヨーロッパで言えば、アメリカから離れて、ソ連と結び、社会主義化する道である。

●全体主義と戦わない鳩山氏の友愛は「偽せの友愛」である

 ここで鳩山氏の好む「友愛」という言葉を使うならば、1970〜80年代のヨーロッパ諸国はアメリカとの「友愛」を堅持して、ソ連の全体主義に対抗し、全体主義国家を崩壊に導いたのである。今日の日本はその先例に学んで、アメリカとの「友愛」を堅持して、中国の全体主義に対抗し、全体主義を崩壊に導くべきだということになる。
 東アジアには、まだNATOに当たるものがない。地域集団安全保障体制が存在しない。日本が結んでいるのは、日米安保条約のみ。日米と中国は軍事同盟を結ぶ関係ではなく、むしろ対立関係にある。
 鳩山氏が信奉するカレルギーは「全体主義国家対人間」を著し、友愛を掲げて全体主義と戦った。ソ連の共産主義、及びドイツのナチズムとの戦いである。カレルギーの妻はユダヤ人だったから、ナチスとの戦いは命懸けだった。
 第2次大戦でドイツのナチズムは敗退した。その後、ソ連の共産主義は、冷戦の終結後に、崩壊した。鳩山氏は、冷戦終結後、「自由」を価値とする新自由主義・市場原理主義への批判に特化する。ここで、鳩山氏はソ連・東欧の共産政権崩壊によって、全体主義がすべて消滅したかのように錯覚している。東アジアには、依然として全体主義国家が存続している。中国と北朝鮮である。
 鳩山氏は全体主義を人間の尊厳への抑圧だと告発せず、中国・北朝鮮を含む東アジア共同体を構想する。しかし、1970〜80年代のヨーロッパ諸国は、ソ連・東欧の全体主義に屈することなく対峙し、1990年前後、ソ連・東欧の全体主義が崩壊した後に、本格的に統合を進めた。ヨーロッパとアメリカの友愛が共産諸国を崩壊に追い込んだ。日本の経済力も大きな役割を果たした。
 もしカレルギ−が今日、東アジアにいれば、友愛を掲げて、中国と北朝鮮の全体主義を厳しく批判するだろう。中国の天安門事件や生体臓器摘出、チベットや新疆ウイグルでの虐殺・虐待等、また北朝鮮の強制収容所や多数の餓死等に関して、これら全体主義国家に抗議するだろう。またミャンマーの軍事政権を批判し、その後ろ盾になっている中国を告発するだろう。
 しかし、鳩山氏は、友愛、友愛と説いて回りながら、本気で全体主義国家を批判しようとしない。形ばかりの言辞を吐くのみである。全体主義と戦わない友愛は、カレルギーの友愛とは違う。私は鳩山氏の友愛は「偽の友愛」だと思う。

 

●鳩山「東アジア共同体」論の背景となる世界認識

 これまで書いてきたことを前提として、鳩山氏の東アジア共同体構想について、氏の「Voice」論文の展開を追いながら、批判的に考察したい。
 鳩山氏は、東アジア共同体の創造は、「友愛」が導く国家目標だという。この構想は、従来の日米外交とは、どういう関係になるのか。鳩山氏は言う。「もちろん、日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづけるし、それは紛れもなく重要な日本外交の柱である。同時にわれわれは、アジアに位置する国家としてのアイデンティティを忘れてはならないだろう。経済成長の活力に溢れ、ますます緊密に結びつきつつある東アジア地域を、わが国が生きていく基本的な生活空間と捉えて、この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力を続けなくてはならない」と。そこから出てくる構想が、「東アジア共同体」の創造だというわけである。
 ここで重要なのは、今日の世界をどのように理解するかである。私たちは、平成20年(2008)の世界経済危機以後の世界にいる。鳩山氏は、こうした世界及びアジアの現状をどのように認識しているか。鳩山氏は、次のように言う。「今回のアメリカの金融危機は、多くの人に、アメリカ一極時代の終焉を予感させ、またドル基軸通貨体制の永続性への懸念を抱かせずにはおかなかった。私も、イラク戦争の失敗と金融危機によってアメリカ主導のグローバリズムの時代は終焉し、世界はアメリカ一極支配の時代から多極化の時代に向かうだろうと感じている。しかし、いまのところアメリカに代わる覇権国家は見当たらないし、ドルに代わる基軸通貨も見当たらない。一極時代から多極時代に移るとしても、そのイメージは曖昧であり、新しい世界の政治と経済の姿がはっきり見えないことがわれわれを不安にしている。それがいま私たちが直面している危機の本質ではないか。」
 私は、この世界認識は大まかにはその通りだが、見方が粗くて浅いと思う。冷戦後の世界を理解するには、ハンチントンの理論と主張によく耳を傾ける必要があると私は思っている。
 ハンチントンによれば、アメリカの一極体制は、冷戦終結後のわずかな期間のみで、その後は、一極・多極体制となっている。一極・多極とは一見矛盾した表現だが、一極体制でもなく、多極体制でもない過渡期の国際構造を把握したものである。政治家・評論家でハンチントンの一極・多極体制論をそのまま取り入れている人はほとんどいない。しかし、こうした複雑な表現をせざるをえないところに、今日の世界の構造がある。その構造が多極の方向に変化しつつあり、世界は今日初めて真の多極化に向かっている。同時に多文明化にも向かっている。鳩山氏の言う多極化は、単に国家単位の多極化ではなく、多文明化ともとらえるべき変化である。諸文明の中核国家ないし第2の地域国家が、それぞれ文明をもとにした集団を踏まえて、競合する世界に変化しつつあるのである。

●東アジアでは特に文明単位の観点が有効

 鳩山氏は、「Voice」論文で、現在の世界は「マルクス主義とグローバリズムという、良くも悪くも、超国家的な政治経済理念が頓挫したいま、再びナショナリズムが諸国家の政策決定を大きく左右する時代となった」という認識を明らかにしている。この認識は、イデオロギーの時代からナショナリズムの時代へという認識である。
 確かに冷戦の終結後、米ソによる支配体制が崩れたことにより、様々な国家・民族の対立が表面化した。世界は一見、混沌とした様相を呈しているわけだが、そこに文明という観点を提唱したのが、ハンチントンである。ハンチントンは、冷戦終結後の世界において、諸国家・諸民族は文化的なアイデンティティをもとにして集合する傾向にあることを明らかにした。世界を7〜8つの文明に分類し、文明を単位として国際政治を理解することによって、大局的な構図を提示したのである。
 鳩山氏は、文化的アイデンティティによる文明という単位を重視していない。そのため、現代世界の大局的な構図を見とれていないと私は思う。文明の時代か、ナショナリズムの時代か。この認識の違いは、わが国の外交政策に大きく影響する。
 ハンチントンが文明の重要性を強調したことにより、彼は国家の役割を軽視しているという誤解を生じた。しかし、彼は元々国際政治学者であり、国家の役割をいささかも軽んじていない。ハンチントンは、冷戦終結後の世界をとらえるために、従来の国際政治学を、文明学の枠組みに取り込み、文明という観点を加えて、今日の国際政治を分析・把握しようとする。そして、そうした文明学的な国際政治学が、最も効力を発揮するのが、東アジアである。
 私は、東アジアに位置するわが国にとって、国家単位の見方だけでなく、文明を単位とした見方が必要だと思う。鳩山氏の掲げる東アジア共同体構想を批判的に考察する上でも、文明単位の観点は有効だと私は考えている。具体的には次の項目で述べる。

 

  東アジアには6つの文明がある


 ハンチントンは、名著「文明の衝突」で次のようにいう。「冷戦後の重要な国際関係に中心舞台があるとすれば、それはアジア、特に東アジアである。アジアは文明の坩堝だ。東アジアだけで六つの文明に属する社会がある。日本文明、シナ文明、東方正教会文明、仏教文明、イスラム文明、西洋文明で、南アジアを含めるとヒンドゥー文明が加わる」と。
 このようにハンチントンは、東アジアには多数の文明が存在し、文明間の複雑な関係が存在するととらえる。またその中で日本は一個の主要文明であり、「一国一文明」とし、日本の進むべき道についても発言している。これに対し、鳩山氏は、従来の国際政治学に則り、国家単位の見方をしている。そのため、日本文明の独自性、日本文明とシナ文明の違い、近代における日本文明の西洋文明への応戦を理解した上で、多文明の東アジアにおける地域統合の困難さを、十分認識することができていない。
 ここではハンチントンの理論には立ち入らないが、ハンチントンが冷戦後の世界において、西洋文明とイスラム文明が衝突する事態を警告したことは、いまや社会常識の一つでさえある。しかし鳩山氏は、イスラム教徒の国家を超えたアイデンティティによる結合が、現代世界でいかに重要な要素になっているかを理解していない。イスラム文明は東アジアにも存在する。イスラム諸国で最大の人口を擁するインドネシア、イスラムを国教とするマレーシア、中国の新疆ウイグル自治区等がそれである。中国はイスラム諸国中最強のイランと、また北朝鮮は核保有国であるパキスタンと深い関係を持っている。
 ハンチントンは、イスラム文明以上にシナ文明の台頭を重視した。そして、「シナ文明=イスラム文明連合」が西洋文明と対決する可能性を警告し、「文明の衝突」では日本がその連合の側につく可能性を予想し、後の著書では日米の双方に日米関係を強化すべきことを提言した。
 またハンチントンは、新興国に対する外交には、バランシングとバンドワゴニングの二つがあると説く。バランシングは、軍事力の均衡を図って相手を抑えながら、時期を見て雌雄を決するという均衡・対決路線である。バンドワゴニングは、新興国と競争・対決することを避け、追随・従属するという追随・従属路線である。
 ハンチントンは、日本が中国に対し、バンドワゴニングの外交を行なう可能性を指摘した。それが最もよく当たっているのが、鳩山氏の政策である。鳩山氏は、日米同盟の重要性を口では言いながら、中国という巨大な新興国に追従する媚態を作っている。文明を単位として言い直せば、鳩山氏の「友愛外交」が向かうのは、日本文明がシナ文明の周辺文明ないし下位文明になるのをよしとする方向である。

●聖徳太子以来の日本文明の「自立」を止めるつもりか

 かつて聖徳太子は、シナ文明の大帝国・隋の煬帝に対して、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」「東の天皇、西の皇帝に曰(もう)す」と記した国書を送った。聖徳太子は、シナの册封体制から離脱し、対等な国際関係を築こうとした。その意を受けて、大化の改新後、「天皇」の称号が定着した。また、「日出づる処」を意味する「日本」が、国名として用いられるようになった。これによって、わが国はシナ文明とは異なる日本文明として、「自立」を示した。
 鳩山氏は、知識としてはこのことを知っている。平成17年(2005)の時点では憲法改正試案に、次のように書いていた。
 「『天皇』という称号が登場したのは、天智朝から天武朝の頃だとされる。『日本』という国号もこの頃定まった。当時の日本は、白村江の戦いで唐の水軍に大敗し、大陸からの侵攻も予想される対外的な危機と、壬申の乱という国内的な危機が重なる中で、必死に律令国家体制の確立に邁進していた。
 制度としての天皇は、こうした危機意識の中で大陸文明に対する日本の自己主張の表現として創始された。それ故天皇は『文明としての日本』の核心であり続けたのであり、歴史上内外の危機が高まる度に天皇が浮上した所以もここにある。
 21世紀の日本は、緩やかな衰退を運命づけられている。日常化する危機のなかで、衰退を食い止めるようと苦闘するわれわれ日本人にとって、天皇の存在は今まで以上に大きな意味合いを帯びることになるだろう」と。
 かつてこのように書いた鳩山氏であるが、現在の氏には、天皇を「核心」とする日本文明を、一個の文明として維持・発展させようという意思が感じられない。聖徳太子の独立自尊の気概も感じられない。文明学的な知見に基づいて日本の戦略を立案する構想力も見られない。氏の「友愛外交」は、聖徳太子以来、保ってきた日本文明の「自立」を止め、シナ文明に融合する道でしかない。鳩山氏は、矛盾・偽善・破綻を露呈する「友愛」を捨て、日本文明の立場に立って、多文明的な東アジアにおける外交のあり方を立て直すべきである。

●日米中の関係の理解に歪み

 先に書いたように、鳩山氏の世界認識・アジア認識には大きな欠陥がある。その欠陥を持った状態で、鳩山氏は、日米中の関係を次のように捉えている。
 2008年世界経済危機後の世界を、鳩山氏は次のように予想する。「アメリカは影響力を低下させていくが、今後2、30年は、その軍事的経済的な実力は世界の第一人者のままだろう。また圧倒的な人口規模を有する中国が、軍事力を拡大しつつ、経済超大国化していくことも不可避の趨勢だ。日本が経済規模で中国に凌駕される日はそう遠くはない。覇権国家でありつづけようと奮闘するアメリカと、覇権国家たらんと企図する中国の狭間で、日本は、いかにして政治的経済的自立を維持し、国益を守っていくのか。これからの日本の置かれた国際環境は容易ではない」と。
 こうした米中の現状及び今後の認識、またわが国の立場と課題については、概ねその通りである。わが国が米中の狭間で「いかにして政治的・経済的自立を維持し、国益を守っていくのか」という課題は、アジアのほかの多くの国々にも共通する。鳩山氏は「これは、日本のみならず、アジアの中小規模国家が同様に思い悩んでいるところでもある」と言う。
 そして、「この地域の安定のためにアメリカの軍事力を有効に機能させたいが、その政治的経済的放恣はなるべく抑制したい、身近な中国の軍事的脅威を減少させながら、その巨大化する経済活動の秩序化を図りたい。これは、この地域の諸国家のほとんど本能的要請であろう。それは地域的統合を加速させる大きな要因でもある」と鳩山氏は言う。
 ここで「ほとんど本能的要請」だという言い方はおかしい。こういうとき、普通は本能的とは言わない。むしろ非常に高度な外交戦略の課題である。「本能的要請」が「地域統合を加速させる」のではなく、国家の生存・繁栄をかけた選択肢の一つに、地域統合という道があるというに過ぎない。

●まず独立主権国家としてのあり方の整備を

 鳩山氏は、米中の狭間に立つ日本は、主権を他に移譲し、東アジア共同体に融合する方向に進むべきだという。しかし、わが国が政治的・経済的自立を維持し、国益を守るためには、まず一個の独立主権国家としてのあり方を整備することが必要である。
 「本能的要請」というなら、まず生存のために自己防衛本能を働かせることだろう。具体的には、憲法を改正し、国民に国防意識を促し、国民参加で国防を整備することが課題となる。その上で、他国と共同防衛を図るために、地域集団安全保障体制を構築するという順序になる。順番は決して逆ではない。鳩山氏の掲げる原理で言えば、「自立」あっての「共生」である。そして、東アジアで地域集団安全保障体制を構築するとすれば、その体制は「アメリカの軍事力を有効に機能」させるための体制だろう。また共通の脅威となっている軍事大国・中国との勢力の均衡を図るものとなるだろう。
 例えば、中国が海軍を強化して東シナ海・南シナ海・西太平洋を掌中にしようとしているのに対して、アメリカを中心に、日本・韓国・台湾・フィリピン・インドネシア・ベトナム・オーストラリア等が、アジア太平洋条約機構(仮称 APTO)を結ぶという方向が考えられる。
しかし、鳩山氏の考えの根底には、国防の「自立」は存在しない。鳩山氏の主張は、これまで自民党が取ってきたアメリカへの依存から脱して、中国へと依存の対象を乗り換えようとしているものだと私は思う。
 自民党はアメリカへの事大主義だった。民主党は中国への事大主義である。事大とは「大に事(つか)える」という意味である。事大主義とは、「自主性を欠き、勢力の強大な者につき従って、自分の存立を維持するやり方」を言う。独立主権国家でありながら、独立の気概がなく、主権を守る意思のない国の指導者は、事大主義に陥る。

●中国の「過剰なナショナリズム」は批判せず

 

鳩山氏は、東アジアの安定のためにアメリカの軍事力を有効に機能させつつも、その政治的経済的放恣はなるべく抑制し、身近な中国の軍事的脅威を減少させながら、その巨大化する経済活動の秩序化を図ることが、「この地域の諸国家のほとんど本能的要請」であり、それは「地域的統合を加速させる大きな要因」でもあると、「Voice」論文で言う。
 「そして」と、鳩山氏は続ける。「マルクス主義とグローバリズムという、良くも悪くも、超国家的な政治経済理念が頓挫したいま、再びナショナリズムが諸国家の政策決定を大きく左右する時代となった。数年前の中国の反日暴動に象徴されるように、インターネットの普及は、ナショナリズムとポピュリズムの結合を加速し、時として制御不能の政治的混乱を引き起こしかねない。そうした時代認識に立つとき、われわれは、新たな国際協力の枠組みの構築をめざすなかで、各国の過剰なナショナリズムを克服し、経済協力と安全保障のルールを創り上げていく道を進むべきであろう」と。
 鳩山氏は、わが国の国家のあり方の整備という課題は脇において、「過剰なナショナリズムの克服」へと話を移す。
 鳩山氏はここで「過剰なナショナリズム」と言い、中国の反日暴動に言及していながら、中国の「過剰なナショナリズム」が、愛国主義反日教育によることを見ようとしない。反日暴動やインターネットの激越な書き込みが、共産党政府によって操作され、扇動されており、制御不能ではなく、政府が制御していることを、見ようとしない。

●むしろわが国の健全なナショナリズムを抑える

 鳩山氏は、中国の「過剰なナショナリズム」を批判せず、「過剰なナショナリズム」を各国に一般化して克服すべきものとする。それによって、わが国が持つべき健全なナショナリズム、正当なナショナリズムをも「克服」すべきものとしているように、私には見える。
 アメリカに対しては、鳩山氏は、対等にものを言おうとする。これは、健全なナショナリズム、正当なナショナリズムの表現である。ところが、鳩山氏は、中国に対しては対等にものを言おうとしない。これは、健全なナショナリズム、正当なナショナリズムの自制である。相手によって態度を変えるようなナショナリズムは、本物ではない。過剰も良くないが、過少もよくない。
 中国では、どうして「過剰なナショナリズム」が現れたのか。それは共産党政府が、愛国主義反日教育を行なうようになったからである。愛国主義反日教育はケ小平の時代に始まり、江沢民の時代に徹底された。市場経済の導入で共産党の正統性が揺らぎ、政権維持のために、愛国主義反日教育が行なわれた。それ以前は、過激な反日はなかった。鳩山氏はこうした歴史認識をしていない。それは、彼の根底にある歴史観が、日本が一方的にアジア諸国を侵略し、罪を犯したという東京裁判史観、日本悪玉史観、自虐史観だからである。そして、中国に対しては、謝罪的・媚中的な姿勢を露にするのである。
 鳩山氏は、急激に増大する中国人民解放軍には脅威を感じていないようである。無感覚と言ってもよいだろう。そして、アメリカに対しては、対等にものを言っていくのは、よいのだが、中国政府に対しては、対等なものの言い方をしない。それが、鳩山氏の「友愛」の最も本質的な特徴である。
 私は、鳩山氏の「友愛」は、カレルギーとは違って、全体主義と戦わない「偽の友愛」だと先に書いた。鳩山氏は、全体主義と戦って人間の尊厳を守ろうとしない。全体主義国家に媚び、追従するのが、鳩山氏の「友愛」である。私は、これは「偽の友愛」だと思う。別に私は「本物の友愛」ならよいと「友愛」を信奉しているわけではないが、鳩山氏はこういう重大な偽善を隠して、経済的統合へと話を変える。そういう姿勢を批判するのである。

●離米志向のアジア共通通貨構想


 鳩山氏は、東アジアについて次のように言う。「ヨーロッパと異なり、人口規模も発展段階も政治体制も異なるこの地域に、経済的な統合を実現することは、一朝一夕にできることではない。しかし、日本が先行し、韓国、台湾、香港が続き、ASEANと中国が果たした高度経済成長の延長線上には、やはり地域的な通貨統合、『アジア共通通貨』の実現を目標としておくべきであり、その背景となる東アジア地域での恒久的な安全保障の枠組みを創出する努力を惜しんではならない」という。
 経済協力にはいろいろな仕方がある。現にAPECやASEAN+3(日中韓)等による経済協力が行われている。しかし、鳩山氏は「地域的な通貨統合、アジア共通通貨の実現」へと話を飛躍させる。
 鳩山氏は「『アジア共通通貨』の実現を目標」とすると言うときに、「その背景となる東アジア地域での恒久的な安全保障の枠組みを創出する努力」と述べる。鳩山氏は地域集団安全保障が共通通貨の実現の「背景」となるものであり、先行すべきものであることを認識しているわけである。認識しているのに、その問題を無視して、アジア共通通貨に話を移すのである。安全保障の問題は、次の項目で述べることにして、まず通貨について書きたい。
 鳩山氏はアジア共通通貨も、「友愛」から導かれるものだとする。氏は「世界、とりわけアジア太平洋地域に恒久的で普遍的な経済社会協力及び集団的安全保障の制度が確立されることを念願し、不断の努力を続けること」が、「日本国憲法の理想とした平和主義、国際協調主義を実践していく道」であり、「米中両大国のあいだで、わが国の政治的経済的自立を守り、国益に資する道」でもある。また「カレルギーが主張した『友愛革命』の現代的展開」でもあると言う。ここから通貨のことに話が進むのだが、鳩山氏は「こうした方向感覚からは、たとえば今回の世界金融危機後の対応も、従来のIMF、世界銀行体制のたんなる補強だけではなく、将来のアジア共通通貨の実現を視野に入れた対応が導かれるはずだ」と言う。
 そして、「アジア共通通貨の実現には今後10年以上の歳月を要するだろう。それが政治的統合をもたらすまでには、さらなる歳月が必要であろう。世界経済危機が深刻な状況下で、これを迂遠な議論と思う人もいるかもしれない。しかし、われわれが直面している世界が混沌として不透明で不安定であればあるほど、政治は、高く大きな目標を掲げて国民を導いていかなければならない。いまわれわれは、世界史の転換点に立っており、国内的な景気対策に取り組むだけでなく、世界の新しい政治、経済秩序をどう創り上げていくのか、その決意と構想力を問われているのである」と書いている。
 引用が長くなったが、私も今日、世界金融危機後の対応は、従来のIMF、世界銀行の補強にとどまってはならないと考えている。むしろ、ドルを基軸通貨とするIMF=世界銀行の体制に替わる新しい体制の創出が求められていると思う。しかし、鳩山氏の発想は、世界経済の全体を考えるのではなく、アジア地域に局限されている。なぜアジアに限定するのか。私はここにも鳩山氏の根本的な反米姿勢を見る。ドルを外しドルを除いて、アジアの通貨を考えているわけである。私は、アジア共通通貨構想は安全保障における離米志向に対応した経済における離米志向だと思う。

 

●通貨の背後には国家がある

 

鳩山氏は、地域通貨を統合してアジア共通通貨を実現するというのだから、ヨーロッパの共通通貨であるユーロのアジア版のようなものを考えているのだろうか。ただ、この構想にも、具体性がない。世界的には、ドル基軸体制に替わる新たな通貨体制として、ドルを含む複数の通貨を組み合わせる「通貨バスケット方式」、複数の通貨に金(ゴールド)だけでなく様々な基本物資を加えて裏づけとする「コモディティ・バスケット通貨方式」、ケインズが唱えた国際通貨「バンコール」の現代版のような「グローバル紙幣」の創出などの案が出ている。
 鳩山氏の場合は、基本的な発想がグローバルではなく、東アジアに限定されている。現在、アジアで有力な通貨は、アメリカのドル、日本の円、中国の人民元である。地域通貨ゆえ、米ドルは対象でないとすれば、まず円と元を統合する。そこに韓国のウオン、シンガポール・台湾等のドル、タイのバーツ等、他の国々の通貨を統合するという手順になるだろうか。問題は、円と元の統合、そのメリット、デメリットにあることは明らかである。しかし、鳩山氏は、そのことにすら触れない。
 私が重要だと思うのは、通貨の背後には国家があるということである。ユーロの場合、ドイツとフランスの協調がもとになった。両国は体制を同じくする国々であり、自由主義、デモクラシー、人権、キリスト教等の共通の価値観を持つ。経済力もほぼ互角である。だから、マルクとフランを統合して幹とし、そこに各国の通貨を統合して枝葉とすることができた。ただし、主要国の一つであるイギリスは、自国通貨のポンドを維持している。そういう選択する国がヨーロッパには存在するのである。
 日本と中国の場合は、どうか。日本と中国は、経済交流は進んでいるが、国家の体制が異なる。経済的には実質的に資本主義だが、政治的には自由主義と共産主義という相違がある。また安全保障の上では、日中は同盟関係にはない。私は、日本が共産化するか、中国が自由化するかのどちらかにならない限り、通貨の統合は無理だと思う。ここでも鳩山氏の主張には、中国は共産主義国家だという明確な認識がないのである。
 
●中国は「アジア共通通貨」を無視して人民元をアジアに広げる

 中国は鳩山氏の「アジア共通通貨」の呼びかけなど無視して、東アジアを人民元の経済圏にするための計画を進めている。既に各所で布石を打ち終え、平成22年(2010)から本格的に展開する用意を整えた模様である。
 中国は平成20年(2008)9月のリーマン・ショックをきっかけに、人民元経済圏の拡大に乗り出した。人民元の対ドル・レートを固定したことにより、中国の取引先は為替変動リスクを被る恐れがなくなり、人民元建て貿易決済を受け入れるようになった。同時に中国は、ドルを大量に発行するアメリカに対抗して、人民元を大量に印刷して、人民元が周辺アジアに大量に流れ込ませている。
 人民元は、すべて毛沢東の肖像が印刷された紙幣である。マルクス=レーニン主義者にして、抗日民族解放戦争の指導者・毛沢東の肖像である。人民元がアジアに広がるということは、毛沢東がアジアに広がるということである。
 中国は22年1月、東南アジア諸国連合(ASEAN)との自由貿易協定を発効させる。中国は協定の対象地域を「自由貿易区」と呼ぶ。これまで中国はベトナム、ラオス、ミャンマー、北朝鮮、ロシア極東部等と人民元建ての交易を活発に行い、出稼ぎ労働者や経営陣を大量に送り込んできた。今後、ASEAN諸国が「自由貿易区」になることで、中国は人民元を東南アジア全域に普及させようとしている。
 中国最大の国有商業銀行である中国工商銀行は、21年(09)9月、インドネシア企業向けに人民元を融資した。中国企業との貿易決済用で、初めての人民元貿易金融取引になるという。人民元貿易金融取引外国企業への人民元融資の最初の例となった。同行はこれを機に、東南アジア等で対外貿易決済用の人民元資金融資を一挙に拡大しつつある。国際化の最も進む中国銀行も、インドネシア、シンガポール、タイ、マレーシアでの支店で人民元決済業務を拡大させている。
 こうした動きに応えて、イギリスの香港上海銀行グループ(HSBC)は21年(09)11月、インドネシアで人民元建ての貿易決済サービスを開始した。マレーシア、タイ、シンガポール、ベトナム、ブルネイにも同様の業務を展開する計画という。ポスト・ドルの時代に向けて、ロスチャイルド財閥と中国共産党が支配する金融機関が連携を強めている動きと思う。この連携には、さらにロックフェラー財閥等の米欧の巨大国際金融資本が連なっているだろう。
 中国は人民元をアジアの標準決済通貨とするように、着々と計画を進めている。これに対し、鳩山氏には、まったく戦略がない。国際的な準備通貨として円のシェアは、過去10年間で半減し、いまや世界の3%にすぎない。円が後退し、元が拡大するなかで、鳩山氏は何の戦略も示さずに「アジア共通通貨」を説いている。愚かと言うしかない。中国は「友愛」による「アジア共通通貨」の呼びかけを無視しながら、人民元によるアジア経済支配を進めているのである。
 さらに中国は、人民元をドルに対抗する国際決済通貨にしようと目論んでいる。この点は、アジアという枠を超えるので、後の項目で改めて述べたいと思う。 ページの頭へ

 

 

(6)安全を保障しない安全保障政策

 

●安全保障における鳩山氏の大きな後退

 

鳩山氏は、わが国が米中の狭間で「いかにして政治的・経済的自立を維持し、国益を守っていくのか」という課題を自覚している。また「経済協力と安全保障のルールを創り上げていく道を進むべき」「東アジア地域での恒久的な安全保障の枠組みを創出する努力を惜しんではならない」とも言うから、日米安保体制だけでなく、東アジアの地域集団安全保障体制を構築することによって、わが国の安全保障を強化することを目指しているらしい。
 ところが、鳩山氏の安全保障論には、ほとんど中身がない。国家安全保障の核心は軍事である。具体的には、国防の意思と実力である。安全保障の問題は、誰が日本を守るのか、という根本的なところから考えなければならない。国防の主体は誰なのか、日本の国民なのか、自衛隊員なのか、米軍兵士なのかという点から、考えるべき問題である。
 鳩山氏は、平成17年(2005)の新憲法試案では、「安全保障」という独立した章を設け、自衛隊を自衛軍とする案を発表した。「日本国は、自らの独立と安全を確保するため、陸海空その他の組織からなる自衛軍を保持する」という条文を示し、集団的自衛権については、現在の政府見解である内閣法制局の解釈を改め、「集団的自衛権の制限的な行使を容認する」という立場に立つことを明らかにした。
 ところが、鳩山氏は、首相となると自衛軍への改正を語らなくなり、集団的自衛権に関する自説を撤回した。つまり、現状維持ということである。いったい日本の戦力を自衛隊と呼び、集団的自衛権は保有するが行使できないというわが国の現状のままで、東アジアの国々と集団安全保障の枠組み作りなどできるだろうか。集団的自衛権は保有するが行使できないというわが国のような国と、国家の運命をともにしようという国がアジアに存在するだろうか。私は存在しないと思う。日米関係が極めて特殊なのである。

●「逆説」ではなく破綻

 鳩山氏は、安全保障に関する姿勢に重大な問題を露にしながら、次のように「Voice」論文に書く。
 「いまやASEAN、日本、中国(含む香港)、韓国、台湾のGDP合計額は世界の4分の1となり、東アジアの経済的力量と相互依存関係の拡大と深化は、かつてない段階に達しており、この地域には経済圏として必要にして十分な下部構造が形成されている。しかし、この地域の諸国家間には、歴史的文化的な対立と安全保障上の対抗関係が相俟って、政治的には多くの困難を抱えていることもまた事実だ」と。
 氏の所論は、ここで大きく乱れる。「しかし」と鳩山氏は続ける。「軍事力増強問題、領土問題など地域的統合を阻害している諸問題は、それ自体を日中、日韓などの二国間で交渉しても解決不能なものなのであり、二国間で話し合おうとすればするほど双方の国民感情を刺激し、ナショナリズムの激化を招きかねないものなのである。地域的統合を阻害している問題は、じつは地域的統合の度合いを進めるなかでしか解決しないという逆説に立っている。たとえば地域的統合が領土問題を風化させるのはEUの経験で明らかなところだ」と。
 鳩山氏は「軍事力増強問題、領土問題など地域的統合を阻害している諸問題」は、「二国間で交渉しても解決不能」であり、「二国間で話し合おうとすればするほど双方の国民感情を刺激し、ナショナリズムの激化を招きかねない」と言う。そして「地域的統合を阻害している問題は、じつは地域的統合の度合いを進めるなかでしか解決しない」という。
 これは「逆説」ではない。「妄説」であり、論理の破綻である。

●大国による力の支配を防ぐべし


 鳩山氏は「地域的統合を阻害している諸問題」を二国間で話し合っても逆効果だと言いながら、「地域的統合を阻害している問題は、じつは地域的統合の度合いを進めるなかでしか解決しない」と言う。二国間で話し合っても逆効果になる問題が、多国間で話し合えば解決に向かうと、どうして言えるのか。それと同時に、地域統合を阻害する問題が存在する中で、どうやって地域統合を進め得るのか。「友愛!」と言えば、国々の間の対立要因が太陽の光を浴びた霜のように消え失せるとでも、鳩山氏は思っているのだろうか。国際政治の舞台は、子供向けの演劇の舞台ではない。
 鳩山氏が、地域的統合を進めれば軍事力増強問題・領土問題が解決すると言うのは、詭弁である。現在、東アジアでは、中国が21年間、軍事費を二桁以上、増加し、猛烈な軍拡を行なっている。その中国との間で、わが国や台湾、フィリピン、ベトナム、マレーシア、インドネシア、ブルネイ等が領土・領海問題に直面している。中でも台湾は、もともと中国の歴史的な領土ではないのに、独立すれば武力侵攻すると脅されている。
 この状態で、東アジアの地域統合を進めるとなれば、わが国をはじめとする中国周辺の国々が、中国政府の意思に従い、中国共産党による支配体制に参入することでしかないだろう。中国が東アジアで勢力圏を拡大すれば、その地域では軍事力増強や領土問題は収まる。弱小国は、抵抗することができなくなるからだ。チベットや内モンゴル、新疆ウイグルは、共産中国によって統合された。それは、力による支配が拡大したのであって、EUのような国家連合による統合とは、全く異なる。鳩山氏の唱える「友愛」ではなく、力による併合である。こうした大国による力の支配を防ぐ道こそ、東アジアにおける地域集団安全保障や地域統合の目的でなくてはならないと私は考える。

●東アジアの領土・領海問題は甘くない

 鳩山氏は、EUの経験により、地域統合が領土問題を「風化させる」ともいうが、東アジアの領土問題は、ヨーロッパとは程度が異なる。わが国は、第2次大戦の末期、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連の侵攻を受け、北方領土を不法占拠され、今日に至っている。そのため、日本はロシアと平和条約の締結を行なっていない。
 鳩山氏の所説によれば、北方領土の返還は、「二国間で交渉しても解決不能」であり、「地域的統合の度合いを進めるなかでしか解決しない」。だから、北方領土問題を解決したければ、ロシアと地域統合を進めるしかないという論理となる。しかし、北方領土問題が未解決で、平和条約を締結できてもいないロシアとどうやって地域統合をするのか。経済交流を深めることと、地域統合は別の話である。
 また、第2次大戦後、新たに出現した韓国との竹島、中国との尖閣諸島、東シナ海・南シナ海の大陸棚等の領土・領海問題は、新興国のナショナリズムと資源の問題が関係している。韓国はわが国の領土である竹島を実効支配している。中国は日中両国が共同開発で合意している東シナ海のガス田に関し、日本が出資予定の「白樺」で一方的に掘削施設を完成させた。これらは、戦後のヨーロッパにおける領土問題とは、全く異なる性質の問題である。独仏は、石炭・鉄鋼の共同管理をした。いわば「友愛」によって戦略資源を共同管理したわけだ。であれば、日中の間では、東シナ海の海底油田・天然ガス田を共同管理するという方向か。しかし、中国はわが国との合意を無視して、資源の開発と略取を進めている。
 鳩山氏は「東アジアを『友愛の海』にしたい」と胡錦濤主席に言ったが、「友愛」という魔法の呪文を唱えれば、現実が一変するのではない。あっという間に変わるのは、鳩山氏の所論だけである。

●東アジア共同体は、中国の帝国主義的膨張を助長する

 鳩山氏は、北朝鮮も東アジア共同体の対象に含むと言うから、東アジア共同体は、日中韓を中核とし、北朝鮮も加えた北東アジア共同体を作りうるかどうかに、成否がかかるだろう。しかし、中国・韓国・北朝鮮は、反日的な姿勢が強い。アジア諸国のうち反日的なのは、これら三国のみであり、特定アジアともいう。
 中国・韓国は、国益のために、わが国に対して歴史問題や靖国神社首相参拝問題を持ち出して利用してきた。両国は友愛を掲げる日本への外交攻勢を強め、贖罪の意識に駆られる鳩山政権は押し捲られるだろう。しかも、中国と北朝鮮は、体制の違う国である。政治的社会的な体制の違いをどうやって乗り越えるのか。また韓国と北朝鮮は統一が出来ていないうえに、北朝鮮はいつ体制が崩壊するか、また冒険主義的な行動に出るかわからない。中国と台湾の関係も、台湾の独立か中台の統一かという深刻な問題が存在する。経済的社会的な危機にある中国がファッショ化し、台湾の武力統一を図る可能性はある。
 これが、北東アジアの現状である。状況判断を誤って、北東アジアで東アジア共同体構想を進めると、わが国は大失敗すると思う。
 東アジア共同体構想は、鳩山氏の意図にかかわらず、中国の東アジア全域への膨張に助力することになる。中国の中華帝国主義を助長するような政策は、自滅行為である。中国の拡大とともに、周辺諸国は中国に呑み込まれてしまう。チベット、モンゴル、香港、新疆等に前例がある。
 中国は今日、かつてのイギリス、アメリカ、ソ連を上回る史上最大の帝国主義国家として、急速に成長し続けている。石油・金属等の資源獲得のために、アフリカの全域に猛烈な進出を行っている。スーダンのダルフール問題等では、国連安全保障理事会で拒否権を行使して、自国の利益を追求する。西アジアやラテンアメリカにも進出している。
 鳩山氏は、アジアの地域大国であり、さらに世界的な覇権獲得をめざす中国におもねり、身を摺り寄せて庇護を受け、中国の野望を手引きして、分け前に預かろうとするものだろうか。しかし、そのような目論見は、覇権国家を目指す中国を利し、日本が中国の属国と化す危険性がある。

●大東亜共栄権の二の舞になるな

 仮に朝鮮半島で南北統一がなったとしても、半島はやがて中国に併合され、朝鮮省のような状態になるだろう。朝鮮が中国の一部となれば、次はわが国である。鳩山氏の友愛政策が実現されると、わが国は中央集権国家から地域主権国家に変わってしまう。また永住外国人は、強大化した地方自治体で、参政権を行使する。そのように主権を国内外に分散・分譲した状態で、日本は東アジア共同体に加入することになる。
 そうした日本に中国から多数の移民が押し寄せ、中国国籍のまま、行政への影響力を強める。我が物顔で行動する中国人によって、日本のシナ化が進み、日本は中国に併合されていきかねない。日本の西半分(愛知県・岐阜県・石川県より西)は「東海省」、東半分は「日本自治区」にされてしまうかもしれない。2050年の東アジアとして、日本が二つに分かれた地図が流布している。鳩山氏が掲げる東アジア共同体とは、日本をそのような未来へと進める、非常に危険な構想である。
 東アジア共同体の歴史的な原型は、昭和戦前期のわが国が目指した大東亜共栄圏である。わが国は大東亜戦争に突入後、自存自衛という戦争目的に加えて、後から目的に加えたのがこの共栄圏構想だった。昭和18年(1943)11月、大東亜会議を開催し、中国・タイ・フィリピン・ビルマ・満州国の各代表が参加し、自由インド仮政府代表も陪席した。アジア諸民族が西洋白人種の支配から脱し、独立を勝ち取るというアジア解放の大義が掲げられた会議だった。
 しかし、この構想は、日本の敗戦によって、挫折に終わった。東条英機政権は「アジアは一つ」という理想を、力づくで実現しようとして、早咲きに終わらせてしまった。日本は、物量に勝るアメリカに叩き潰され、占領・支配された。わたくしの見るところ、鳩山氏の東アジア共同体構想もまた時期尚早である。理想としてはよくとも、時を誤って焦って進めれば、大失敗に終わる。
 人類社会は、これから大きく変化していく。EUのような国家連合・地域共同体の形成が、北米等でも進むかもしれない。しかし、東アジアは、まだまだ大きな課題をかかえている。東アジアの地域統合は、いつか将来、朝鮮半島に民主的な統一国家が生まれ、日本の統治時代を評価して日本に感謝するようになり、中国が民主化され、愛国主義・反日思想・中華思想をやめ、少数民族の自由を認めるようになって、東アジアでも民主的な国家連合を構想できるようになった段階で、改めて考えればよい事柄だと思う。今は、経済協力を拡大・深化するので十分である。そして、経済協力を通じて、もっと文化の交流が進み、相互理解を深めていくこと。統合の構想は、ずっと先でよい。
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第3章 友愛外交は亡国外交

 

(1)日本を危くする対米外交

 

●友愛外交は亡国外交

 

鳩山政権の「友愛外交」は、内外に疑問や不安を広げた。私は、「友愛外交」は、日本を危険にさらし、自壊滅亡に導く亡国外交だと見る。東アジア共同体については既に書いたので、次に対米外交・対中外交を中心に、その理由を書きたい。
 平成21年(2009)8月30日の衆議院選挙で、民主党は308議席を獲得した。ところが、各種の世論調査によると、有権者の70%以上が、自分たちが選んだ政権に不安を感じている。その原因の一つは、民主党の安保・外交政策が定かでないことにある。とりわけ鳩山氏の「友愛」という言葉が、安保・外交政策への不確かさを助長している。
 外交において「友愛」という場合、「友愛」は何を意味するのか。フランス革命の敵と戦う同士愛か、キリスト教的な普遍的兄弟愛・人類愛か、鳩山氏流の「自立と共生の原理」か。何が「友愛」か、多義的で定義があいまいである。鳩山氏は「友愛」を外交の場では「フラターニティ」と言っている。英語の「フラターニティ」には、これほどの多くの語義や意味の広がりはない。そうした言葉を、国家と国家が国益をかけて交渉する場で用いたところで、外国指導者の理解や賛同は得られないだろう。
 友愛外交が、特に問題なのは、わが国の外交・安全保障の基軸となるアメリカとの関係に、きしみを生じていることである。わが国は、国家安全保障を自己だけで、実現できない。安全保障条約を結んでいるのは、唯一アメリカ合衆国とのみである。日米安保条約は、平成22年(2010)1月19日、締結後50周年を迎えたが、鳩山政権になって友愛外交が行なわれると、そのアメリカとの関係がにわかに、ギクシャクしだした。もしアメリカとの同盟が解消にいたった際、わが国は自力で国を守る用意がまったくできていない。軍拡を続ける中国、核ミサイルの開発を行なう北朝鮮、わが国でも起こりかねないテロ等を考えるとき、友愛外交はわが国を亡国に導く亡国外交といわざるを得ない。

●オバマ政権による米中関係の変化

 バラク・オバマは、平成21年1月、アメリカの大統領に就任以来、中国重視の姿勢を示している。日米同盟の重要性を口にしながらも、中国優先の対応が目立つ。かたや、9月に成立した鳩山氏の民主党連立政権は、米国離れと中国接近を進めようとしている。そのため、日米関係に隙間が生まれた。
 オバマ政権は、19年(07)アメリカのサブプライム・ローン問題に端を発した20年(08)世界経済危機の中で、アメリカ経済を再建することを第一の課題とする。再建には、アメリカ国債を最も多く買ってドルを支えている中国への経済的依存関係を保たざるを得ない。またオバマ政権は、イラク戦争を終結しアフガニスタン情勢を好転させることを第2の課題とする。そのため、東アジアで中国を軍事的に封じ込めることに、力を多く注ぐことができない。そのため、中国の軍拡を警戒しつつも、対決を避け、融和・連携の方針を取っている。そのうえ、もともとオバマ大統領は、個人的に日本への関心が薄く、オバマ政権の枢要部は親中派の政治家・財界人が多くを占めている。
 21年7月米中両政府は、ワシントンで初の包括的戦略対話を行った。その際、オバマ大統領は、「米国と中国の関係が、21世紀を形作る。そしてそれは、世界中のどの2国間関係と同様に重要である」と述べ、中国重視の姿勢を鮮明にした。大統領は「東アジアでの核軍拡競争は米中の『国益』にならない」と発言し、核保有国としての「共通利益」を軸に、北朝鮮の核開発阻止を呼びかけた。
 その一方、北朝鮮より遥かに大きな脅威をアメリカ及びアジアに与えている中国に対しては当時、軍拡への懸念を表したり、牽制したりする言葉を一切口にしなかった。こうしたオバマ大統領の外交姿勢は、「G2」すなわち米中による世界共同統治へと、大きく舵を切りつつあるという見方が広がった。
 イラク戦争・アフガン戦争と世界経済危機で衰退の兆しを強めている覇権国家アメリカは、猛烈な勢いで成長し、強大化する中国を押さえきれなくなった。特にアメリカの借金経済を支えている米国債を世界一多く購入している国が、中国である。中国は20年(2008)年末時点では、約7000億ドル、約65兆円相当の米国債を保有しており、アメリカ経済の生殺与奪を握るにいたっている。軍事的にも、アメリカは中国を攻撃して、勝利することは難しくなっている。それゆえ、アメリカは中国と手を結んで、経済的政治的軍事的に、協同で世界を支配・管理する体制への転換を試みているのだろう。しかし、同時に中国はアメリカとは国家体制・価値観の異なる統制主義の国である。よくわけのわからない相手を警戒しながら、関係を深めていくというところだろう。

●自立なき事大主義で反米媚中

 こうした米中関係の変化の中で、わが国に鳩山由紀夫政権が成立した。鳩山民主党は、マニフェストに「緊密で対等な日米同盟関係をつくる」と書く一方、日米地位協定の改定や米軍再編や在日米軍基地のあり方の見直しを打ち出しており、「Voice」論文の抄訳が米紙に掲載されると、アメリカに批判的、反米的と理解されて、反発と疑問を引き起こすなど、日米間がギクシャクし始めた。とりわけ普天間基地の移設問題が、日米間の重大な懸案となっている。
 鳩山氏は、21年9月の首相就任直後に訪米し、23日にオバマ大統領と会談した。鳩山首相は、日米同盟について、「これからも安全保障の基軸だ」と述べ、大統領は「両国の安全保障、経済繁栄の基盤だ」と応じた。表面的には日米同盟の絆を世界にアピールした格好だが、日米に生まれた隙間は隠せない。
 私が思うに、鳩山氏の基本的な外交姿勢は、自立を欠いた事大主義であり、アメリカへの依存から中国への依存に移行しようとしている。反米的で媚中的である。ただし、戦略的な思想・方針があるわけでなく、反米的な気分、媚中的な心情で動いているに過ぎない。自立を欠いた事大主義。それを「友愛」という理想主義的な協調外交を思わせる言葉で化粧・粉飾しているのが、鳩山友愛外交であると思う。

●安全保障における「自立と共生」

 

戦後日本外交の最大の弱点は、国民に国防の意思がなく、自ら国を守る防衛力を欠くことである。軍事力の裏づけのない外交は、相手に意思を受け入れさせることが難しい。逆に、当方が相手の意思に従わざるを得なくなる。この戦後日本外交の弱点を助長するのが、鳩山氏の「友愛外交」である。
 鳩山氏は、「友愛」とは「自立と共生の原理」だと言う。その原理を外交・安全保障に当てはめると、どうなるか。
 私は「友愛」を信奉しないが、「自立と共生の原理」は外交・安全保障の基本だと思う。自分で自分の国を守ることのできる「自立」した国が、他国と共同で防衛するのが「共生」だからである。わが国の場合は、日本人の国民意識を高め、自主防衛を整備する「自立」がまず必要であり、同盟国アメリカとの間では集団的自衛権の行使と日米安保条約の双務化による「共生」が目標ということになる。
 ところが、鳩山氏の「友愛外交」は、「自立と共生の原理」を実行するものではない。「友愛」とは「自立と共生の原理」だと言いながら、安全保障では「自立」を目指さない。そこに、「友愛外交」の重大な矛盾がある。
 平成22年1月29日、鳩山首相は首相になって初めての施政方針演説をした。そこで首相は述べた。「いのちを、守りたい。いのちを守りたいと、願うのです。生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。‥‥働くいのちを守りたい。‥‥世界のいのちを守りたい。‥‥地球のいのちを守りたい‥‥私は、来年度予算を『いのちを守る予算』に転換しました。‥‥いのちを守りたい。私の友愛政治の中核をなす理念として、政権を担ってから、かたときも忘れることなく思い、益々強くしている決意です‥‥人のいのちを守る政治、この理念を実行に移すときです。子どもたちに幸福な社会を、未来にかけがえのない地球を引き継いでいかねばなりません。国民の皆さま、議員の皆さん、輝く日本を取り戻すため、ともに努力してまいりましょう」と。
 この演説によると、鳩山首相の友愛政治の中核になす理念は「いのちを守りたい」ということになる。倫理的ないし宗教的な願いとしては理解できる。しかし、一個の国家の政府が「いのちを守る」政治を行なうとすれば、まず国民の生命と安全を守ることが課題でなければならない。国家安全保障のための軍事的課題を抜きにして「いのちを守る」政治はありえない。ところが、鳩山氏の施政方針演説には、この点が抜け落ちている。
 鳩山氏は、国家の独立と主権、国民の生命と安全を守るためには、軍事力が不可欠であり、軍事力を基盤として初めて国家安全保障が成り立つという国際政治の常識を理解していない。端的にいえば、自分の国は自分で守るという意思を欠いている。国防をアメリカに依存し、国民自ら国を守ることを啓発しない。
 そのような姿勢で、アメリカに対して安全保障体制を改善しようと求める外交を行なうならば、アメリカの怒りを買うか、突き放されるかどちらかだろう。この点をよく理解し、「友愛」を捨てて、「自立と共生の原理」に立った外交・安保政策を行うことを、わが国の政府に求めたい。

●日米安保を軸とした対米外交を

 わが国は、敗戦後、現行憲法と日米安保条約のもとで、独立主権国家でありながら、「自立」できずに、今日まで来た。アメリカによる日本弱体化と「日本永久占領」(片岡鉄哉氏)の方針のもと、国防をアメリカに依存し、米軍に基地を提供し、自衛隊は米軍を補完する編成・装備にとどめて、経済発展に傾注してきた。
 現在、わが国はアメリカとの軍事同盟によって安全保障を確保している。長く自民党が取ってきた従米的な政策を改めるには、日本は日本人が守るという独立主権国家の基本的なあり方を取り戻し、国防の自主性を高めなければならない。
 中国は台湾に対しては武力行使も辞せずとし、周辺諸国にも軍事力を振るって暴走しかねない。北朝鮮は「ソウルを火の海にする」と恫喝している一方、国家崩壊や金正日の後継者をめぐる動乱が起きかねない。そうならないよう抑止しているのが日米同盟である。中国や北朝鮮の侵攻から守ってもらいながら、アメリカに日米地位協定、基地の移設等に関する要望ばかり言うのでは、同盟国としての信頼関係は保てない。
 「自立」の出来ない日本が、アメリカに依存しながら、要求だけは、「対等」なもの言いをする。それが鳩山氏の友愛外交である。この姿勢は、鳩山氏の掲げる「友愛」=「自立と共生の原理」に外れている。 「友愛外交」は、アメリカに支配・管理・庇護されてきた日本が、「自立」を目指さぬまま、アメリカから中国への依存に乗り換えようとするもの、と私には見える。こういう政治姿勢は、事大主義である。自主性を欠き、勢力の強大な者につき従って、自分の存立を維持するやり方である。
 司馬遼太郎が『坂の上の雲』に描いたように、明治の日本は独立自尊の精神に満ちていた。これに対し、当時の朝鮮は事大主義に陥っていた。シナ(清)、ロシアという大国に事(つか)えることが外交政策であり、どちらに従うかで、指導層が分かれ、混迷していた。今日のわが国は、かつての朝鮮のような状態になっている。それをよく表すのが「友愛外交」である。

 

●対等の対米関係を結ぶには


 民主党のマニフェストは、「マニフェスト政策各論」の「7外交」の51に、「日米外交の基盤として緊密で対等な日米同盟関係をつくるため、主体的な外交戦略を構築した上で、米国と役割を分担しながら日本の責任を積極的に果たす」と書いている。
 わが国は、軍事的には米国の保護国の地位にある。そのため、わが国は米国の属国的な状態にあり続けている。しかし、鳩山氏の「友愛外交」は、米国と対等な同盟関係を結びうる独立主権国家としてわが国を再興することを目指すものでは、全くない。
 軍事同盟においては、双方が集団的自衛権を行使することで初めて「対等」となる。日本が米国に対し「対等」な関係になるには、集団的自衛権を保有はするが、憲法上行使はできないという内閣法制局の解釈を改める必要がある。また、役割分担で積極的に責任を果たすには、現在の日米安保条約の片務的な規定を、双務的つまり対等なものに改正しなければならない。安保条約が現状のままでは、対等な関係とはなりえない。
 日米間で対等な同盟関係を築くには、日米安保条約第5条を攻守同盟に変える必要がある。また、第6条の基地提供、思いやり予算など、条約上の義務としての駐留国支援を軽減しなければならない。日米地位協定は、安保条約の付属協定にすぎないから、それを改定しただけでは対等な関係にならない。
 鳩山首相は、平成21年9月首相として初めて訪米した際、オバマ大統領に対して、日米安保条約の第5条、第6条をそのままにして条約の堅持を約束した。そのように約束したら、沖縄の基地提供、協定外の思いやり予算、沖縄米海兵隊のグアム移駐経費6千億円の負担等を、条約による義務として実行せざるを得ない。これは「対等」な日米関係とは矛盾する。
 対等な日米同盟関係をつくるには、日米安保条約の改定が必要である。安保の改定には、憲法を改正し、自主国防力を高めることが必要である。憲法改正・安保改定以外に、対等な軍事同盟は結び得ない。こういう根本的な課題をあいまいにしたまま、「緊密で対等な日米同盟関係をつくる」と言うのは、わが国民を欺く、米国政府に虚言を吐くものである。

●核の問題抜きに、安全保障は論じられない

 現代における安全保障の最大課題は、核の問題である。核時代の世界では、自国が核武装するか、他国の核抑止力、いわゆる核の傘に入るか、どちらかしか現実的な選択はない。この点をあいまいにして、安全保障を論じることはできない。 
 わが国は、アメリカと日米安保条約を結んでいるが、日米安保の最大の課題も、核の問題である。わが国は、アメリカの核の傘に入ることによって、ソ連・ロシア、中国の核兵器から守られてきた。また北朝鮮の核兵器からも守られている。
 わが国は、米国の核抑止力に、自国の安全保障を決定的に依存している。この点を暗黙の了解としながら、わが国は、佐藤栄作首相の時から、非核三原則を打ち出して今日までやってきている。非核三原則は、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という三つの原則である。非核三原則は、憲法に規定されていることではなく、法制化されたものでも国際条約でもない。単なる政策の一つなのだが、わが国の政府は「国是」としてきた。しかし、そもそも日米安保は、核安保である。アメリカの核の傘に入って守られていながら、わが国が核兵器とは無縁であるかのように装うのは、自己欺瞞である。

鳩山政権は、岡田外相が中心となって、核兵器に関する日米の密約の調査を行なった。平成22年(2010)1月発表の予定が3月に延び、3月9日、日米間の四つの「密約」を検証してきた外務省の有識者委員会が、岡田外相に報告書を提出した。報告書は、4点のうち3点を「密約」と認定し、密約の存在を一貫して否定してきた従来の政府の主張を覆した。
 四つの「密約」とは、次のようなものである。

(1)60年の安保条約改定時の核持ち込みに関する密約−核兵器を搭載した米軍の艦船や航空機の日本通過や寄港について、事前協議の対象とする
(2)60年安保改定時の朝鮮半島有事の際の戦闘行為に関する密約−米軍は事前協議なしに在日米軍基地から出撃できる
(3)72年の沖縄返還時の有事の際の核持ち込みに関する密約
(4)72年の沖縄返還時の現状復帰保障費を日本が肩代わりするとの密約

 報告書はこれらのうち、(1)(4)は「暗黙の合意」による「広義の密約」があった、(2)は「狭義の密約」があったと判断した。(3)は密約には当たらないと判断した。

 問題は、こうした過去の外交の確認を、現在にどう生かすかである。鳩山首相、岡田外相は「非核三原則」を変更しないという見解を述べたが、直接かかわるのは「持ち込ませず」の原則である。民主党政権は密約の存在を明らかにした。そのうえで、政府がこの原則を堅持するならば、「持ち込ませず」を徹底することになるだろう。普天間基地の移設問題によってぎくしゃくした日米関係において、「持ち込ませず」を徹底することは、日米同盟を脆弱化する。
 自主国防を整備することなく、日米同盟が決裂すれば、わが国はアメリカの「核の傘」から外に出て、対核無防備状態に進むことになる。中国は核ミサイルを日本に向けて多数配備し、北朝鮮も核ミサイルの開発を進めている。こうした国際環境で、わが国が対核無防備状態になることは、非常に危険である。

 私は、むしろ密約の存在を確認したことを踏まえて、従来のあいまい外交をやめ、「持ち込ませず」の原則を見直すべきだと考える。今朝の読売新聞の社説、産経新聞の主張(社説に当たる)は、ともにアメリカの核の傘は必要との立場に立ち、「核兵器の日本国内配備の禁止は継続するとしても、寄港・通過などは除外する」(読売)、「少なくとも緊急時などに核の寄港・通過を認める「2・5原則」のような形に修正する」(産経)という見解を示している。
 私も最低限、緊急時の核の寄港・通過は認める必要があると思う。日本国民は、わが国が核大国の中国や、核ミサイル開発を進める北朝鮮が、そこに存在することよく自覚すべきである。とりわけ北朝鮮は、韓国侵攻または対日攻撃を行なう意思を持った国である。国内の困窮や政権の崩壊から冒険主義的な行動に出て、核使用にまで進む可能性がある。そういう時は、事前協議では間に合わない。核が使用されてから、対応を協議しているのでは、人命・財産への被害が拡大するばかりとなる。だから、万が一の事態に備えるために、アメリカの「核の傘」が有効に機能するような関係を築いておくべきである。

 以上は最低限のことだが、私はそもそも「持ち込ませず」の原則は、三原則からはずすべきという意見である。アメリカの空母や原潜が核兵器を装備したまま、日本の基地を出入港していることは、公然の秘密である。今回、3つの密約が存在したことが明らかになったところで、まずこういう欺瞞的なことをやめることから、国民は意識を変える必要がある。「狭義の密約」や「暗黙の合意」で国民を欺いてきた自民党の責任は問われるべきだが、根本は日本国民自身の問題である。
 現行憲法の前文と第9条2項といい、専守防衛の戦略思想といい、日本人は国防について自己欺瞞を続けている。人間は自己欺瞞を続けると、精神が荒廃し、ついには変調をきたす。核の問題についても、現実に向き合い、事実を認め、言葉と実際が一致するところから姿勢を正すべきである。 現在、わが国は「非核三原則」を「国是」としている。これは佐藤栄作首相が、昭和43年(1968)に核を「持たず、作らず、持ち込ませず」という政策を唱え、衆議院で決議したものである。 その後、あたかも憲法の規定に並ぶ大原則であるかのように政治家は言う。しかし、この三原則は法制化されたものではない。また国際条約でもない。単なる政策に過ぎない。
 佐藤が非核三原則を唱えた時、核保有国は、国連安保理の常任理事国5カ国だけだった。注目すべきは、この時点で既に中国は核を保有していたことである。しかも、非核三原則が出されたわずか2年後に、中国はわが国を射程に入れた核ミサイルを開発した。佐藤の政策は、東アジア情勢に逆行し、わが国の国防を危うくするものだった。
 この度の「密約」に関する調査で、外務省は関連文書多数を公開した。その中に、佐藤が「持たず、作らず、持ち込ませず」の「非核三原則」を打ち出したことについて、政府内の協議で後悔の念を漏らしたことを記録したメモなどが含まれている。1960年代末、佐藤は外務次官らと沖縄返還交渉について打ち合わせた際、「非核三原則の『持ち込ませず』は誤りであったと反省している。この辺で、不完全武装だからどうすべきかということをもっと明らかにすべきであろうかと考えている」と述べたことが記載されているという。

 佐藤が非核三原則を提唱する前、わが国は、そのような原則を立ててはいなかった。岸信介首相は、昭和35年3月7日参議院予算委員会にて、次のように答弁している。
 「憲法は、言うまでもなく、憲法で持ち得ることは自衛権を持っており、これを裏づけるため必要な最小限度の実力を持つということを申しております。(略)いやしくも核兵器という名がついたから全部いかないのだという憲法解釈は、これは憲法の解釈としては、われわれとらないところだということを申しておる」と。
 岸発言は、憲法解釈上、将来における核兵器の保有を留保したものと言える。現行憲法は自衛権を認めていると解釈するのであれば、最小限度の自主的な核抑止力は自衛力の一部と考えることができる。あとは核の開発・保有がわが国の国益という観点からプラスかマイナスかの判断であり、これは政策上の問題である。そして、科学兵器の発達の度合いや国際環境の変化におうじて、政策の見直しは必要である。

 核の時代において、この約60年の国際社会の歴史が示しているのは、核攻撃を抑止できるものは、核兵器しかないという現実である。また、現代の国際社会で発言力を持つのは、核兵器を保有している国だけである。自力で国を守るという国防の基本に立ち返るなら、自衛の手段としての核抑止力についての検討がされねばならないと思う。
 核兵器は、人類を自滅に招きかねない兵器である。核廃絶は、人類の悲願である。唯一の被爆国である日本は、世界的な核廃絶の先頭に立って行動すべきである。しかし、その前にわが国が、中国や北朝鮮の核で壊滅してしまっては、本(もと)も子もない。日本人の多数が核攻撃で死亡し、生存者の大半が放射線障害に苦しみ、再起不能なほどに生産力を喪失したならば、世界平和への貢献どころではない。
 日本を侵されない体制を整え、国際社会での発言力を高めつつ、長期的に核の削減を進めていくべきものと思う。


関連掲示
・拙稿「中国の日本併合を防ぐには
 第3章 日本併合を防ぐ方策

 

●普天間基地移設問題で日米に亀裂のおそれ

 

鳩山氏は安全保障についての基本的な認識を欠いたまま、日米外交を進めている。焦点は、米軍普天間飛行場(沖縄県萱野湾市)の移設問題である。鳩山氏は、従来の日米両国政府の合意事項である米軍キャンプ・シュワプ沿岸部(同県名護市辺野古)に移設する計画を実行するのではなく、県外ないし国外への移設も含めてゼロベースで検討したいという。
 鳩山氏が社民党との連立を重視して、米側が強く求めていた21年(2009)中の決着をせず、日米合意以外の新たな移設先の検討を指示したので、日米関係は大きくきしむことになった。米側は「普天間移設が進まないと、在沖縄海兵隊のグアム移転や嘉手納基地以南の土地の返還を含むロードマップ(日米合意)全体に悪影響が出る」と懸念を表明した。ルース駐日大使は、米軍キャンプ・シュワプ沿岸部への移設計画が「唯一実現可能な案だ。このままでは状況はさらに困難になる」と強く履行を求めた。
 鳩山氏は同年11月の日米首脳会談でオバマ大統領に「私を信じてほしい(Please trust me.)」と述べたという。「信じてほしい」とは、相手に約束を守る意思を伝えるときに使う言葉である。ところが鳩山氏は、舌の根の乾かぬうちに、翌年への先送り方針を固めた。米側にとっては首相が大統領にウソをついたことになる。これは米国政府関係者や日米関係の専門家たちの怒りを買った。鳩山氏は同年12月、COP15の舞台となったコペンハーゲンでヒラリー・クリントン米国務長官と会談した。その際のことにつき、鳩山氏は記者会見で、長官が首相の見解に同意したと取れる発言をした。これに怒った長官は斉藤駐米大使を呼びつけて抗議を行なった。一国の首相が、同盟国の大統領、及び外交の最高責任者に、ウソ、偽りと取られる発言を繰り返している。これで、国家間関係がうまくいくわけがない。
 鳩山氏は自ら作り出したこうした危機的状況を理解できていない。そして22年(2010)5月以降に結論を先送りすることを決めた。本稿の時点で5月末までに結論を出すと公言している。鳩山氏は、日米の同盟関係よりも、与党間の連立関係を優先し、日本国民全体の利益よりも、沖縄県民の一部の感情を重視した。米側は2010年度予算で沖縄海兵隊のグアム移転を行うことを断念した。米側の不満は高まる一方である。
 鳩山氏は、政治家としての資質以前に、人間として人格的な問題が多すぎる。鳩山氏が普天間移設問題の先送りを決めたことは、日米関係に大きな打撃を与えた。日本の首相は決断のできない人間として、米国内での首相に対する信頼は失われる。アメリカは議会制民主主義の国である。大衆が日本離れを起こし、議会が反日的な雰囲気になっていけば、政府は大衆と議会の意思を無視できなくなる。一人の政治家の優柔不断が日米同盟に亀裂を生むとしたら、これは歴史的な不幸である。
 22年(10)1月19日、日米安全保障条約改定50周年を迎えた。本来であれば、両国を挙げて50周年を祝い、同盟関係の一層の強化を図るべき時だったが、50周年は形式的なものに終わった。一部には、日米同盟は解消寸前、風前の灯という見方まで出ている。
 「友愛」を掲げる鳩山氏がわが国の首相である限り、日米関係はどこまでおかしくなるかわからない。独立主権国家としてのあり方を十分整備できていない状態でアメリカと離反したら、わが国は中国の軍事力・人口力に圧倒されてしまうに違いない。しかし、鳩山氏は国民の生命・財産を守るという国益に基づく外交判断ができず、「友愛」の旗印のもと、日米関係を危うくし、アジアの勢力バランスを崩す方向に進み続けている。私には、鳩山氏の姿は、火事場で火の元のほうにふらふらと進む夢遊病者のように見える。ページの頭へ

 

(2)「友愛」は北朝鮮を喜ばせるのみ

 

●アメリカを怒らせ、北朝鮮を喜ばせる友愛外交

 「友愛外交」は日米関係をおかしくしている。それを最も喜んでいるは誰か。北朝鮮の指導部だろう。平成21年(2009)12月16日付けの北朝鮮の内閣機関紙「民主朝鮮」は、鳩山政権が米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題を再検討していることに言及し、「日本政府の対米政策は、沖縄県住民はもちろん、日本社会の全面的な支持を得ている」と評価した。北朝鮮メディアは、海上自衛隊によるインド洋給油活動の期間延長問題など、日米関係を巡る混乱を、肯定的に意義づける報道を続ける一方、民主党政権への批判を控えている。これは北朝鮮指導部が、日米関係の悪化を歓迎し、鳩山政権下で日朝関係の進展に期待するものだろう。すなわち、「友愛外交」はアメリカ指導部を怒らせ、北朝鮮指導部を喜ばせる外交なのである。
 鳩山氏の率いる民主党のマニフェストは、対北政策について「53.北朝鮮の核保有を認めない」に、次のように書いている。
 「北朝鮮が繰り返す核実験とミサイル発射は、わが国および国際の平和と安定に対する明白な脅威であり、断じて容認できない」「核・化学・生物兵器やミサイルの開発・保有・配備を放棄させるため、米韓中ロなどの国際社会と協力しながら、貨物検査の実施を含め断固とした措置をとる」「拉致問題はわが国に対する主権侵害かつ重大な人権侵害であり、国の責任において解決に全力を尽くす」と。
 「断じて容認できない」「断固とした措置を取る」「全力を尽くす」と、一見強い決意を示す言葉が使われている。しかし、鳩山氏の「友愛外交」は、北朝鮮に対して「対話と圧力」の両面で対処する外交ではない。圧力を用いず、対話のみで解決を図ろうとするものである。
 北朝鮮は平成21年(2009)4月5日、国際社会の強い非難を無視して、ミサイル発射を強行した。発射されたミサイルは、わが国の東北地方上空を通過して太平洋上に落下した。オバマ大統領は、これをテポドン2だと断定した。日本政府はイージス艦やPAC3で対抗措置を準備していたが、迎撃しなかった。
 北朝鮮は試験通信衛星を軌道に乗せることに成功したと世界に向けて自賛報道をしている。アメリカはいかなる物体も周回軌道には乗っていないと明確に否定した。

●ノドンは7〜10分で日本に到達する

 北朝鮮は、核兵器の開発を終え、核の小型化を進めている。長距離ミサイルの開発も並行して進めているから、いずれ核兵器を搭載した大陸間弾道弾がアメリカ中枢部を攻撃できるようになるだろう。それにはまだ少なくとも数年かかる。北朝鮮は、後ろ盾である中国をミサイルで攻撃することはありえない。韓国への侵攻には、中長距離のミサイルは必要ない。だから現在の時点で北朝鮮のミサイルが現実の脅威であるのは、日本のみである。
 わが国にとって、北のミサイル発射は、決して新たな脅威をもたらすものではない。既にわが国は、中距離ミサイルのノドンの標的になっているからである。北朝鮮は、ノドンを200発ほど保有すると見られる。核ではなく、サリンなどの毒ガスを使った大都市攻撃も可能である。
 ノドンは発射後、わが国に7〜10分で到達する。今回注目されたMDシステムは、相手のミサイルが1発、2発であれば、打ち落とせるだろう。しかし一度に、数十発発射されると、対応しきれない。わが国は、こういう状態にある。
 北朝鮮のミサイル発射に対し、わが国は集団的自衛権の問題について真剣に議論しなければならない状況にある。私は、自国の生存と安全の保障のために、集団的自衛権に関する政府解釈を改め、早急に集団的自衛権の行使を決定すべきであると主張している。
 しかし、鳩山氏はこうしたわが国の安全保障の重大問題について、まったく向き合おうとしていない。現状わが国を北朝鮮の攻撃から守るには、アメリカ軍の武力に依存せざるをえないのに、鳩山氏は、北朝鮮の攻撃への防備より、アメリカ軍の基地をどこに移設させるかに心を向けている。それによって、国民の防衛意識を薄弱にさせている。

 

●北朝鮮軍部の暴走を警戒すべし


 自民党政権は、北がミサイル発射を準備していた平成21年(2009)3月27日、北朝鮮が発射した長距離弾道ミサイルが日本の領土・領海に落下する事態に備え、ミサイル防衛(MD)システムで迎撃する方針を決めた。これを受け、浜田靖一防衛相は自衛隊に「破壊措置命令」を発した。
 その2日後、アメリカのゲーツ国防長官は「米国を標的にしない限り、迎撃する計画はない」と述べた。また、クリントン国務長官が「日本には領土を守るあらゆる権利がある」と述べた。これらの発言は、日本が軍事的な脅威にさらされても米国は動かぬ場合があることを意味している。
 ゲーツ国防長官やクリントン国務長官の発言に対し、わが国の政府は反論できない。彼らの発言は、日米安保条約の片務的な条文にのっとったものであり、またわが国は、集団的自衛権の政府解釈によって、集団的自衛権を行使できず、米国に向かう北のミサイルを迎撃できないから文句をいえない。
 同年6月18日共同通信の記事によると、米国の朝鮮半島問題研究者、国際政策センターのセリグ・ハリソンは、米下院外交委員会の公聴会で、北朝鮮が戦争状態に陥った場合、韓国ではなく日本を攻撃するとの見方を述べたと報じた。
 北朝鮮のミサイルが日本を攻撃対象にしているのはもともと明らかなことであるが、ハリソンは、「国連制裁の結果、事態が悪化した場合、北朝鮮は報復として韓国ではなく日本か在日米軍基地を攻撃するだろう」という予測を述べた。日本が攻撃対象である理由は、金正日総書記の健康状態が悪化した後、「反日感情が強く国粋主義的で、海外経験のない若手将校らが政権内で立場を強めた」ことだという。ハリソンは、若手将校らは金総書記が平成14年(2002)に日本人拉致を認め「謝罪したことに憤慨」しており、「日本と紛争になった場合の北朝鮮の能力を非現実的なほど高く評価し、他の高官らを憂慮させている」と語ったという。
 戦前のわが国では、昭和恐慌後の農村の悲惨を背景に青年将校がクーデタを試み、それを利用した軍指導部が政治の実権を握り、わが国の進路を誤らせた。偏狭で独善的なナショナリズムや、感情的な排外主義は、冒険主義的な行動に走りやすい。北朝鮮の若手将校が、政府や軍部でどの程度の影響力をもっているのかわからないが、われわれ日本人は、よく警戒・自衛すべきである。

●「友愛」は北朝鮮には意味なき空語

 鳩山氏の友愛外交は、観念的理想主義であって、北朝鮮にはまったく通じない。鳩山氏は北朝鮮を訪問し、金正日総書記に「友愛」を説くつもりかもしれないが、軽蔑と嘲笑の的になるだけだろう。北朝鮮にせよ中国にせよ、鳩山氏が国家指導部に「友愛」を説いたところで、相手にとっては何の意味もない空語である。
 北朝鮮が本気でわが国にミサイル攻撃をしてきた場合、わが国は危うい。鳩山氏の友愛外交は、わが国を一段と危険な状態にさらしている。
北朝鮮の背後には中国がいる。今日、金正日体制が存続しえているのは、中国が体制を支えているからである。北朝鮮の核開発やミサイル実験は、中国の理解や技術協力なくては、なしえない。また中国は北朝鮮に石油や食料を供給して、体制の崩壊を防ぎ、自国の影響下に置いている。北朝鮮問題は、常に「中国=北朝鮮問題」として、より大きな枠組みでとらえるべきものである。
 北朝鮮のミサイルであれば、まだしもわが国の国民は警戒をし、反発もするが、もっと重大な脅威に対しては、意識が鈍い。もっと重大な脅威とは、中国のミサイルである。中国はボタン一つで自動的に日本全国の主要都市を壊滅できる破壊力を保有している。今日、わが国の国防は、軍事大国中国への対応を抜きには、考えられない。北朝鮮に脅威を感じるなら、その背後の中国の脅威にこそ、日本人は意識を向けるべきであるページの頭へ
 
関連掲示
・集団的自衛権の問題については、拙稿「集団的自衛権は行使すべし」をご参考に願いたい。

 

(3)中国に友愛外交は通じない

 

●「友愛」のメガネでは、中国の実像が見えない

 

鳩山政権の「友愛外交」によって日米関係が急激に悪化し、日米離間の可能性が高まっている。そのことを最も喜んでいるのは、中国共産党指導部だろう。中国は日本が自立できないでいることを望み、そのままの状態でアメリカと決裂して、中国の属国に入る日を待ち望んでいるだろう。
 東アジア共同体の項目で、私は鳩山氏の対中外交の危険性について、少し触れた。今日の中国をどのような国と認識するかによって、外交は全く変わっている。私はこれまで、共産中国に関して、様々な文章を書いてきた。マイサイトの「」のページに主なものを掲載しているが、特に下記の拙論が本稿の元になっている。
 B16「現代中国をどうとらえるか〜ファシズム的共産主義の脅威」
 B21「核大国化した中国、備えを怠る日本〜日中戦後のあゆみ」
 B21「中国の日本併合を防ぐには」
 B26「中国の『大逆流』と民主化のゆくえ」

 鳩山氏の中国認識は、上記拙論に述べている私の認識とは、大きく異なる。私は政治の専門家でも安全保障の研究者でもない一介の素人だが、今日、日本外交の長期的な最大課題は、強大化する中国への対処であることは、大方の一致するところである。ところが、鳩山氏は、「友愛」という理念を語ることに酔い痴れて、東アジアの厳しい現実が見えていない。鳩山氏は「友愛」というメガネをかけているために、中国の実像が見えていないのである。
 例えば、鳩山氏は平成21年(2009)9月、日本の新首相として国連の舞台に登場した際、中国・胡錦濤主席との対談で、「友愛外交」を強調した。日中の懸案であるガス田問題については、「東シナ海を『友愛の海』にしたい」と述べた。中国は日中両国が共同開発で合意している東シナ海のガス田に関し、日本が出資予定の「白樺」で一方的に掘削施設を完成させた。その上、東シナ海だけでなく日本周辺海域にまで、中国の潜水艦が隠密行動を行っている。中国では、沖縄は本来中国領であり、日本は沖縄を中国に返還すべきだという主張が広がっている。こうした状態で、東シナ海を「友愛の海」にしたいと中国の指導者に語ることは、中国との対立・摩擦を避け、一方的な譲歩で「友愛」を図るという意味と理解されるだろう。
 鳩山氏は得意の絶頂にいるのだろうが、中国共産党や人民解放軍の指導者からは、実に扱いやすい存在だろう。

●鳩山氏は中国に軍事的脅威を感じていない

 中国は21年間連続、2桁以上の軍事費の増大を続けている。それにより、アジア太平洋地域の諸国に、重大な脅威を与えている。ところが、鳩山氏は、中国に対して、軍事的脅威をほとんど感じていないようである。鳩山氏には、安全保障のセンスがまったくないか、あるいは氏は中国に従属ないし同化することを政治目標としているかのどちらかだろう。
 北朝鮮のミサイルについて先に書いたが、中国は少なくとも26発の大陸間弾道弾を保有する。300発ともいわれる核ミサイルをわが国に向けて配備している。ボタン一つで日本全国の主要都市を壊滅できる。さらに宇宙空間兵器の開発にも力を入れている。
 中国は、海軍力の増強にも力を入れている。わが国を取り巻く東シナ海、日本海、太平洋で、中国海軍の軍艦や原子力潜水艦が活動を広げつつある。さらに空母を建造し、外洋海軍を増強している。このことは、わが国が中東からの石油の運搬路としているシーレーンが脅かされることを意味する。ところが、鳩山民主党のマニフェストに、中国の軍事力の近代化に対する具体的防衛策は何も書かれていない。
 たとえば、中国が台湾侵攻作戦を展開し、シーレーンの通行が規制されたならば、わが国はのど元に手をかけられたも同然となる。石油は現代経済の血液である。石油が入ってこなければ、わが国は、戦わずして相手の条件を飲んで屈服するか、圧倒的な彼我の軍事力の差を知りながら絶望的な戦いに突入するかどちらかだろう。そのとき、鳩山氏の「友愛外交」によって日米関係が決定的に悪化していれば、アメリカは中国との全面対決という多大な危険を冒してまで日本を守ろうとはしないだろう。
 どうしてここまで鳩山氏は、中国に対して、異常に無防備であり、無警戒なのか。私は、鳩山氏の中国認識は、根底に東京裁判史観、日本悪玉史観があると見ている。近代の日本はアジア諸国を侵略し、虐殺・略奪したという歴史観である。だから、謝罪・贖罪・賠償が外交の基本姿勢となる。村山談話の踏襲による歴史認識・歴史教育、河野談話による慰安婦への謝罪と個人補償、国立国会図書館に恒久平和局を設置、靖国神社に閣僚の参拝を禁止等が、その具体策である。こうした対中友愛外交は、自民党が行ってきた土下座外交、謝罪外交を極端に推し進めるものである。鳩山氏が首相の座にあり「友愛」を外交の基本としている限り、日本国民は安心できる外交・安全保障を政府に期待することはできない。

●アメリカの対アジア政策の変化

 第3章(1)「日本を危くする対米外交」に書いたが、オバマ氏は、大統領就任以来、中国重視の姿勢を示し、米中の融和と協力関係の構築が進められてきた。米国はアジア太平洋地域に積極的に関与していく方針を明らかにしてもいる。こうした中で、鳩山氏の「友愛外交」は、大局的な歴史観・文明論を欠き、今日進みつつある米中関係の変化に対しても、有効な外交を行えていない。
 オバマ大統領は、中国を重視する一方、日本については、ほとんど意識さえしていないようだった。ところが、鳩山政権が沖縄の普天間基地移転問題で、日米合意と異なる動きを示したため、日本への関心が生じたようである。皮肉な展開となった。

 オバマ氏は、平成21年(2009)11月13日から19日にかけてアジアを歴訪した。最初にわが国を訪れ、13日に鳩山首相と会談して、共同声明を発表した。首脳会談において、オバマ氏は「最初のアジア訪問に日本を選んだことは米国の日米同盟重視を表すものだ」「米国と日本の同盟関係は両国だけでなく、アジア・太平洋地域の安定と繁栄の基軸だ」と語った。またアジア太平洋地域に関して、「アジアに積極的に関与していく。米国はこの地域における重要なプレイヤーだ」と述べた。
 続いてオバマ氏は14日に行った東京演説でも、「日米同盟が発展し未来に適応する中で、対等かつ相互理解のパートナーシップの精神を維持するよう常に努力していく」「米軍が世界で二つの戦争に従事している中にあっても、日本とアジアの安全保障へのわれわれの肩入れは揺るぎない」と強調した。オバマ氏は、中国を重視しつつも、日米関係の重要性を認識しつつある。
 東京演説で私が特に注目するのは、オバマ氏が「私はハワイで生まれ、少年期をインドネシアで暮らした米国の大統領だ」と述べ、自分を「米国初の『太平洋大統領』」と称したことである。また合衆国を「太平洋国家」と呼び、「この太平洋国家が世界で極めて重要なこの地域においてわれわれの指導力を強化し持続させていくことを約束する」と明言したことである。
 東京での予定を終えると、オバマ氏は、シンガポールへ飛び、米・ASEAN首脳会議に参加した。ここでオバマ氏は「経済成長を続けるASEANの重視と連携強化の姿勢を明確にした。今日アジアは世界の成長センターである。今後ますます人口・生産力・消費力等で、世界の中心地域としての地位を高めていく。そういうアジアに積極的に関与することは、アメリカの世界戦略において重要な要素となる。仮にアメリカがアジアから後退したり、あるいは排除されたりしたら、アメリカは世界的強国としての地位を失うだろう。だから、日本との同盟関係が、アメリカのアジア太平洋戦略において、重要な意味を持つことを、オバマ大統領は理解してきている。日米軍事同盟が崩れれば、アメリカはアジア太平洋地域での大きな足がかりを失う。そして、中国がアジアで覇権を確立することを許すことになる。
 わが国の指導層は、こうしたオバマ大統領の姿勢をとらえ、アメリカに対し、中国との関係以上に、日本との関係を大事にするよう働きかけるべき状況にある。しかし、鳩山氏は、このことを全く認識していない。かえって日米関係を悪化させている。

●「G2」時代は到来するか

 オバマ大統領のアジアへの積極姿勢には、アメリカが覇権国家としてアジアへの影響力を強めようというより、強大化する中国をけん制しながら自国に有利な形にアジア太平洋地域のバランスを取ろうという意図が見える。
 平成21年11月のオバマ大統領のアジア歴訪における最大の焦点は、中国訪問だった。同月17日北京で行われた米中首脳会談で、オバマ大統領と胡錦濤国家主席は、米中が戦略的関係を強め、世界規模の問題で協調することなどで合意した。この会談は、「G2」時代の到来を予感させるものとなったという見方が多い。
 「G2」とは、米中二国が世界規模の問題に共同で対処する体制をいう。中国では、「中美共治」と呼ぶ。「美」は美国、アメリカである。「中美共治」は、文字通り中国と米国で世界を統治するという意味である。
 中国初訪問において、オバマ大統領は、アメリカは対中融和外交に大きく転換したことを示した。その一方、共産中国に対する低姿勢が目立った。
 共同声明では、世界経済に重大な悪影響をもたらしている中国の人民元為替操作や知的財産権侵害に、触れていない。アメリカの消費者の間で大きな問題となっている偽造商品・海賊商品についても、中国を非難しなかった。人権や民主化運動への抑圧も、指摘していない。チベットやウイグルなど少数民族への虐待・虐殺についても、議題に持ち出さず、ただ共同声明に「人権で意見の相違がある」と文章化したのみである。世界最悪の環境破壊国となっている中国に対し、オバマ氏は厳しく改善を求めることもしなかった。また、安全保障に関しては、猛烈な勢いで軍備増強を続ける中国に対し、オバマ大統領は自制も求めることなく、軍事費の透明化を求めることもなかった。台湾問題でも「一つの中国」の立場を明確にした。しかし、軍備増強を続ける中国に対し、オバマ大統領は自制も軍事費の透明化も求めなかった。世界に冠たる軍事力を持つアメリカとしては、全体に中国への低姿勢が目立つ。
 こうしたオバマ大統領の姿勢は、アメリカが共産中国に対して強く出られなくなっている事情の現れである。私はアメリカ指導層の弱気よりも屈辱を感じ取っている。オバマ大統領の対中外交は、屈辱的な譲歩であって、単なる協調・融和ではない。こういう二国間関係が順調に発展し「G2」時代が容易に到来するものとは、私には思えない。

●アメリカが中国に低姿勢である経済的理由

 なぜアメリカは今日、共産中国に低姿勢なのか。その原因は、経済と安全保障の二つにある。まず経済については、平成21年度の中国のGDPは421兆円、日本は446兆円だった。22年度にも中国はGDPで日本を追い越し、アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国になる勢いである。CIAの予測では、中国は、2010年代後半から2020年頃までには、実質購買力でアメリカを抜いて世界最大規模になる。中国の外貨準備高は近年急速に増え、いまや世界最大、2兆ドル(2009年現在)に上る。中国は、人民元を印刷して、貿易黒字や対中投資によって流入するドルを買う。獲得したドルでアメリカの国債を買う。それによって、ドルが米市場に還流する。アメリカにすれば、中国に米国債を買ってもらうことで、ドルの覇権を維持でき、経済的繁栄を支えられている。
 わが国は、これまで米国債を買って、アメリカの経済を支えてきた。しかし、中国の米国債保有量は日本を抜いて世界1位であり、本年(2010)2月末時点で8775億ドルである。ドルが暴落すれば、中国はドル建て資産の価値を大きく喪失する。だから、今は、中国はドルを支えている。
 アメリカは、日本には米国債を売らないように圧力をかけてきた。わが国は安全保障を米国に依存しているから、それに従わざるを得ない。これに対し、中国は自主防衛を確立しており、アメリカ本土にICBMやSLBMを打ち込む能力も待つ。アメリカの脅しには屈しない。だから、中国はいざとなったら、米国債を売却するだろう。計画的に進める可能性もある。
 もし中国が大量に米国債を売りに出すと、米国債の価値は暴落する。それとともに、国債で支えられているドルが暴落し、アメリカ経済は壊滅的な打撃を受ける。当然中国もダメージを受けるが、それでもやりかねないところに、中国の不気味さがある。中国は金(ゴールド)の産出でも世界一である。世界的な金本位制の復活は、今日の貨幣流通量から見て無理だろうが、中国は多大な金保有量を裏づけにして、自国に有利な金融システムに変える底力を秘めている。ロスチャイルド家やロックフェラー財閥がこれを推すか、抑えるか、その辺は分からないが、国家としてのアメリカは、中国の出方を考慮し、低姿勢にならざるをえないだろう。

●安全保障も対中低姿勢の理由

 アメリカが共産中国に対して低姿勢である理由には、安全保障の問題もある。覇権国家アメリカは、新興大国・中国に挑戦を受けている。これにどう対処するか。アメリカが取り得る路線は二つである。一つは、中国と対決し、これを打ち破って、覇権を維持する路線である。もう一つは、中国と融和・協調を図り、その力を生かして衰退を防ぐ路線である。
 ブッシュ子政権は、前者の対決路線を取り、中国を軍事力で封じ込めつつ、経済的には利用しようとした。政権中枢を占めたネオコンは、イスラエルの防衛を第一とし、中東を力で支配する政策を強行した。平成13年(2001)9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以後、ブッシュ政権は、アフガニスタン、続いてイラクに侵攻した。しかし、アメリカは中東でつまずいた。イラクでの戦争は終えたものの統治は泥沼化し、アフガニスタン情勢も解決が見えない。この間、中国は急速な軍拡を続け、イスラム諸国との連携を強め、またアジアでも影響力を強めた。その結果、米中冷戦といわれるほどの緊張が一部に生じ、米中対決へとエスカレートするかという観測さえ現れた。
 とはいえ、中東から抜け出せないアメリカは、アジア太平洋に手が回らない。軍事行動は現実的ではない。長期的に衰退が予想されていたアメリカは、自らの失策で衰退を早めた。イランや北朝鮮等の反米的な国々は、背後で中国とつながっている。それらの国々への対処においても、中国と敵対することは事態を一層難しくする。むしろ中国の協力を得ないと、アメリカは「ならず者国家」を抑えられない状態になっている。
 こうした状況で成立したのが、オバマ政権である。オバマ大統領は、ブッシュ子政権の路線から大きく転換し、中国との対決を避け、融和・協調を図って衰退を防ぐ道を選んだ。私は、この転換は、米欧の巨大国際金融資本が富と権力を維持するために、ブッシュ子政権の対決路線をやめ、中国と手を組む方向に舵を切ったものと思う。中東での戦争はビジネスになるが、中国との戦争はビジネスにならない。逆に中国に投資した膨大な資産を失うことになる。オバマ氏の外交政策の背景には、所有者層の意思があるだろう。
 中国は、低賃金・模造偽造等によるチャイナ・プライスや人民元の固定レートが生む膨大な利益を、民生ではなく軍事につぎ込む。中国は、既に世界第二の軍事大国になっている。2025年から2030年頃に、アメリカを超えて世界最強になる、と予測されている。仮に中国共産党がファッショ的な仕方で国内の矛盾を抑え込み、現在の経済成長・軍拡を継続することができれば、2020年代の半ばから30年頃には、中国は余裕をもって東アジアで覇権確立のための行動を起こせるだろう。その時点では、もはやアメリカは中国を抑えられないだろうと予想される。
 こうした将来予測に基づく動きかどうかはわからないが、平成21年11月のオバマ氏のアジア歴訪の時点では、安全保障に関して、重要なことが二つあった。中国封じ込めの放棄と軍事交流の推進である。歴代の米政権は中国に対して接触と封じ込めを併用してきたが、オバマ氏は東京演説で「中国を封じ込める意図はない」と述べ、封じ込めの放棄を宣言した。これはアメリカの対中政策が大きく変わり、融和的な方針に転換したことを示すものである。そして、米中首脳会談では、米中は軍事交流を推進し、軍指導者の相互訪問の日程を決めた。
 上記のようにオバマ政権のアメリカは、経済と安全保障の両面から、共産中国に対して低姿勢を取らざるを得なくなってきているのである。

●アメリカは中国に屈服してはいない


 一般に二国間関係においては、激しく対立しているようでいて、ビジネスではしっかり手を結んでいたり、円満に協調しているようでいて、軍事的には準仮想敵国のように対峙していたりする。一国の外交も、現実主義路線を取る政権が、理念の部分では頑固な打ち出しをしたり、理想主義路線を掲げる政権が、時々で柔軟な対応をしたりする。
 米中関係にも、複雑で多面的な様相と大小種々の変化が見られる。オバマ政権は対中融和外交に転換し、「G2」の時代の到来かと思わせる面がある。オバマ大統領は、台湾問題では中国が主張する「一つの中国」の立場を支持している。しかし、見逃してはならないのは、その一方、大統領は、台湾関係法を踏まえて行動することを明言したことである。すなわち、もし中国が台湾を侵攻したならば、アメリカは台湾を防衛する意思を表明している。
 このことは、アメリカは、決して中国に屈服してはいないことを示している。超大国アメリカの指導層は、強い誇りと自負を持っている。国益のために中国に対し、今は低姿勢を取らざるを得ない。しかし、そうせざるを得ないことは屈辱である。相手に合わせなければならないほど、反発の感情とエネルギーは蓄積される。私はそのように推測してきたが、オバマ政権がスタートして約1年。ここへきて米中関係に対立的な要素が生じてきている。

●米中の間に対立的要素が出現

 にわかに出現した米中間の対立的要素は、地球温暖化、台湾、人民元、イラン、チベット、グーグル等である。対立は、国益や国家の威信、基本的な理念にまで広がっている。展開の仕方によっては、米中関係がきしみ出すかもしれない。
 協調・融和的な米中関係に変化が現れたのは、気候変動をめぐるものだった。第1の対立的要素は、この気候変動である。平成21年12月、コペンハーゲンで開かれた国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)がきっかけである。オバマ政権は地球温暖化への対応として、グリーン・ニューディール政策を開始した。しかし、CO2排出量世界最大の中国は、途上国の代表と自国を位置付け、積極的にCO2削減を行なおうとしない。オバマ大統領はCOP15の直前の演説で、合意に消極的な中国を批判した。これに憤慨した温家宝首相は、大統領とクリントン国務長官が参加する米中交渉への出席を取りやめた。代わりに格下3人の代表団を送ってきた。この扱いに、大統領は「政治的決断ができる人物と交渉できればよかったのだが」と、苦り切った表情で語ったという。以後、オバマ政権は、発足から1年間続けた中国への低姿勢外交に効果がなかったとみて、厳しい態度を見せるようになった。
 第2の対立的要素は、台湾への武器供与である。中国の侵攻を警戒する台湾は、アメリカに対し、最新兵器の売却を求めた。当然、中国は売却に反対した。しかし、オバマ政権は22年1月29日、F16戦闘機は見送ったものの、パトリオット・ミサイル(PAC3)と攻撃ヘリの売却を断行した。兵器売却は、台湾の自衛力を保障する台湾関係法に基づく安全保障上の判断だろう。中国はこれに対し、翌30日、米中軍事交流の停止と兵器売却にかかわった米企業への制裁実施を発表した。2月1日に発表された国防総省による「4年ごとの国防計画見直し」(QDR)は、中国の「軍拡の長期的な意図に疑念が生じている」と警戒感を表現した。米中の間にもともと存在する対立的要素が表面に出てきたものである。
 第3の対立的要素は、人民元である。中国は人民元の対ドル・レートを1ドル=6・83元前後に固定している。アメリカにとっては、これが中国の輸出攻勢の元凶であり、人民元は25〜40%も低めに誘導されているという見方がある。これによって得た巨額資金は、中国人民解放軍の軍事費を押し上げている。オバマ大統領は、21年11月の訪中時には、中国の不正な為替操作を指摘しなかった。しかし、2月3日、大統領は「米産品価格が人為的に引き上げられ、彼ら(中国)の産品が人為的に引き下げられないようにする」と中国に警告した。アメリカ経済は、世界経済危機後、回復が遅れており、失業率は10%前後もある。国民にオバマ政権への失望が広がりつつあり、大統領は雇用を創出し、5年以内に輸出を倍増することを公約している。その実行のためには、中国の為替政策を改めさせねばならないだろう。

 

米中間における第4の対立的要素は、イランである。イランは中東で最も反米的な国であり、中東にシーア派を広め、またイスラエルを駆逐することを諮っている。イランの核開発疑惑は、アメリカの指導層が大いに警戒するところである。ところが、中国はイランの石油や天然ガスに利権を拡大し、関係を深めている。核疑惑に対しても、中国は米欧が推進する制裁に反対する立場を強めている。これに対し、クリントン長官は22年1月29日、中国に対し「長期的影響を考慮すべきだ」と翻意を迫っている。今後のイランの出方によっては、米中に緊張が高まるだろう。
 第5の対立的要素は、チベットである。オバマ大統領やクリントン長官は、中国のチベット弾圧に触れないできている。しかし、22年2月17日、オバマ大統領は、訪米したチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世と会談した。アメリカの知識層には、中国のチベット弾圧を厳しく批判する意見がある。米中は、基本的に自由や人権に関する考え方が、対極的なほど違っている。中国共産党は、チベット支配への批判を看過できない。米中の基本理念の対立が確認された。
 第6の対立的要素は、グーグルである。グーグルは、ネット検索最大手。平成18年(2006)、中国市場参入のために「検索結果を規制する」という中国共産党政府の要求をのみ、情報統制政策に協力した。しかし、グーグルは中国発のハッカー攻撃を受けたとして、攻撃や検閲に異議を申し立てた。中国市場からの撤退も覚悟しての行動である。我慢の限界を超えたのだろう。これは単に1企業の問題ではない。米連邦捜査局(FBI)報告によると、中国は18万人のサイバースパイを養成し、国防総省のコンピューターだけでも年9万回の攻撃を仕掛けているという。クリントン長官は、インターネットの自由に関する講演で、「情報や機会へのアクセスが居住地や検閲官のきまぐれに左右される分裂した惑星に住むのか」と問い、中国との理念上の違いを強調した。
 以上、最近表面化した米中間の対立的要素として、地球温暖化、台湾、人民元、イラン、チベット、グーグルを挙げた。掘り下げていけば、米中の根本的な価値観の違い、国家体制の違いに起因する。アメリカが、これらの要素において、すべて中国の意向に従うことはありえない。それゆえ「G2」ないし米中軍事同盟は、容易に実現するものではない。

●わが国は米中関係を観察・分析し、国益追求の外交をせよ

 わが国は、単純な「G2」でも米中対決でもなく、複雑で多面的な様相と大小種々の変化を見せる米中関係を、よく観察・分析し、短期的・表面的な展開に右往左往せず、自国の国益の追及を根本においた外交を行なうべきである。
 たまたま現在、アメリカはオバマという大統領、民主党の政権となっている。しかし、米国内には共和党も存在する。民主党の中にも対中強硬派や人権重視派も存在する。国務省は親中的な傾向が強いが、国防総省は中国に警戒的であり、両者の近田関係もある。中国市場で多大な利益を上げる企業もあれば、中国製品の進出で打撃を受ける企業もある。このように米国内にも多様性がある。現在は一定の部分が支配的だが、何かのきっかけで、違う部分が強く動き出すかもしれない。
 私が同時代を生きる人間として見て来たアメリカの歴代政権は、ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ父、クリントン、ブッシュ子である。これらの政権は、一つの主義、一つの路線では割り切れない、多様で、時に矛盾した外交を行った。それゆえ、私はオバマ政権も単純な見方はできないと思っている。わが国は、相手の変化に右往左往せず、わが国の国益を追求しなければならない。
 仮に米中対決になれば、日本はアメリカとともに中国と戦うのか、それとも同盟を離脱して参戦を避けるのか。逆に米中同盟になって、双方から突き放されたら、日本は米中双方の言いなりになるのか。いずれにしても、最終判断は日本人が自ら下さねばならない。
 ところが、自民党も民主党も、自立なき事大主義に陥り、方やアメリカ、方や中国に追従する外交に終始している。自らのよって立つ基盤の強化に努め、主体的な判断・行動を行うのが、一国の外交の基本であることを、忘れてはならない。鳩山氏の「友愛外交」は、国益の追及という外交において最も重要な目的があいまいである。アメリカ依存から中国依存に転換するだけの自立なき事大主義の外交では、国家国民の利益を守れないことをよく理解すべきである。そして、どんな状況であっても主体的な判断・行動ができるためには、自主防衛の整備が不可欠であることを再認識すべきである。

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(4)対中外交を転換せよ

 

●米中間で日本が取るべき役割


 わが国は、米中の間にあって、しっかりした理念を立て、長期的な展望をもって、存立と繁栄を図らねばならない。私は、日本は従米でも従中でもなく、独立自尊の道を行き、西洋文明の模倣でも、シナ文明の追従でもなく、独自の文明を発展させて、アジアと世界の平和と繁栄に貢献すべきと思う。しかし、鳩山氏の「友愛外交」には、一国を成り立たせる根本的な理念も長期的な展望もない。
 本来日本は、西洋近代に生まれた物質偏重・自然支配の文明から新たな文明へと世界全体を先導する役割がある。その新たな文明とは、物心調和・共存共栄の文明である。わが国は、そうした文明を築く指導理法が内在する文化を、伝統として受け継いできている。
ところが、その日本がアメリカを模倣し、今度は中国を追従していると ころに、日本自体の混迷と世界人類の不幸がある。これまでの自民党の指導者は、この日本の役割を深く理解することなく、経済優先、米国追従の道を取り、わが国を停滞させてきた。政権を得た民主党の鳩山氏はもっと決定的にわが国を混迷に導きつつある。先に対米外交について述べた。次に対中外交について述べたい。
 まず私たち日本人は、20世紀から21世紀にかけて、世界を支配している資本主義と共産主義の共通点を理解する必要がある。鳩山氏は、資本主義と共産主義を「自由」と「平等」という理念でとらえているが、それほど単純な話ではない。資本主義と共産主義の矛盾と限界を見極めることから、日本は対中外交を構築する必要がある。

●資本主義と共産主義の共通点

 多くの人は、資本主義と共産主義は対立するものと見ているが、実は資本主義と共産主義には根本的な共通点がある。それは、ともに西洋近代文明が生み出した政治・経済の思想・制度であり、近代化=合理化の運動であることである。資本主義と共産主義がともに、追及するのは、欲望の解放・増大である。物欲、食欲、金欲等の物質的な欲望を、最大限に追求する思想・制度が、資本主義であり、共産主義である。
 かつて共産主義は、資本主義とは原理的に異なるものであり、資本主義の矛盾を解決するものと宣伝された。実態はそうではない。共産主義は統制主義的資本主義の一形態である。共産主義の経済は実態としては資本主義経済を変形したものであって、資本主義とまったく原理的に異なるものではない。
 どうしてそう言えるか。共産主義は、生産手段の私的所有を止め、国家的所有に転換する。ではそれによって、社会的格差がなくなり、階級支配がなくなるかというとそうではない。生産手段への関わりには所有と管理という両面があり、所有の形態がどうであれ、誰が管理するかによって、富の配分が決定されるのである。そこに支配の問題が存在する。
 マルクスは所有のみに矛盾を見出し、支配の問題をあいまいにした。革命によって政治権力を握った支配者集団は、生産手段を管理することによって、自らに有利な形で富を配分する。ソ連においては、共産党官僚が富を多く取得して革命貴族に成り上がり、共産党官僚が労働者を支配する国家となった。またソ連は社会主義的計画経済を行なったが、市場経済か計画経済かに、資本主義と共産主義の本質的な違いがあるのではない。国家経済が政治的な統制のもとに行なわれているかどうかにポイントがある。統制の仕方の一つが計画経済であり、共産党支配の下で、管理された市場経済も取り得る。そのことは、レーニンが行なったネップ(NEP)において原理的に現れていた。

●中国の経済体制は統制主義的資本主義

 中国共産党はマルクス、レーニンの理論に基づいて、社会主義国家の建設を目指した。しかし、経済体制は、政府主導の計画経済と重要産業の国有化を進めたもので、所有と管理による利益は特権集団たる共産党官僚が領有した。これは資本主義の統制的形態であり、統制主義的資本主義である。これをマルクス、レーニンの用語を使って社会主義であるかのように粉飾した。
 毛沢東は社会主義の建設過程において、資本主義は復活または発達し得ると予測した。これも、もともと共産主義は資本主義の変形であり、資本主義の統制的形態であって、原理的に別のものではないからである。計画経済には、市場による生産量と価格の調整という過程を欠く。そのため、国家経営・企業経営は早晩行き詰まる。経営再建のためには、自由主義的な政策を取り入れざるを得ない。自由主義的政策を行えば、自由主義的な資本主義に変化する。その際、統制主義の国家では、権力を掌中にする支配者集団に、富もまた集中する。富の集中を防ぐには、極めて高い倫理が必要となる。これは思想の問題だけではなく、共産主義が内包する根本的な問題なのである。
 統制主義的計画経済によるソ連の停滞と毛沢東の失政を見たケ小平は、中国に社会主義市場経済を導入した。以後、中国では実質的な一党独裁を敷く共産党が政治的に国家を統制する体制のもとで、市場経済が営まれている。
 これを共産主義と見るか、資本主義と見るか、見解が分かれている。確かに社会主義市場経済は一見珍妙な概念だが、もともと共産主義は資本主義と原理的に異なるものではなく、資本主義の国家統制的な形態と理解すれば、政府の統制のもとで市場経済を拡大する政策は、実行可能なのである。中国の経済体制は、統制主義的資本主義に自由主義的要素を取り入れたものである。政治的には強権支配、経済的には管理された市場経済という体制である。
 私の見るところ、鳩山氏には、現代中国をどうとらえるかという基本的な政治学的・経済学的理論がない。そのため、皮相な見方しかできないのだと思う。

 

●巨大国際金融資本と共産主義者は手を結ぶ


 鳩山氏によれば、資本主義は「自由」を理念とし、共産主義は「平等」を理念とする。こうした基本的な理念の異なる資本主義と共産主義が対立するのは、自明の理のようだが、歴史は、全く違う実態を表している。
 米欧の巨大国際金融資本は、ロシアにおける共産主義運動を育成・支援し、ロシア革命を成功させた。革命後はボリシェビキ政府と経済活動を行ない、莫大な富を得ていた。資本家と共産党官僚は対立・構想する一方、相互に利益を追求していた。共産主義は、帝政ロシアのような前近代的国家において、強力に近代化を進める。政府による上からの近代化である。それゆえ、巨大国際金融資本は、前近代的国家における共産主義を歓迎した。徹底した合理化によって、急速に近代化を進めるからである。私の見るところ、統制主義的資本主義も資本主義であるから、巨大国際金融資本はその政府と契約することにより、市場と資源を獲得することができるのである。
 米ソの冷戦は、イデオロギー的には絶対的な対立のように見えていたが、米ソは経済的には相互依存関係にあった。米欧の私的資本は、思想や世界観の違いを無視して利益を追求し、ソ連の共産党指導層も外貨や技術を求めたからである。中国に関しても同様であって、米欧の巨大国際金融資本は、共産党政府と取引をし、巨大なビジネスを展開してきた。中国共産党官僚は、この依存関係によって集団的かつ私的な利益を得ていた。
 自由主義的資本主義のアメリカは、私的資本を中心とした集団の利益を追求する。統制主義的資本主義の中国は、共産党官僚を中心とした集団の利益を追求する。どちらも富と力を掌中にしている支配者集団が、政府という権力機構を用いて利益を追及し、またその体制を維持しようという点は、共通している。だから、アメリカと中国は、資本主義と共産主義というイデオロギーの違いから絶対的に対立するように見えて、実は物質的な利益のためには、取引もし協力もするのである。

●今日の中国とアメリカの共通点

 世界経済危機をもたらしたアメリカ・ウォール街の資本主義は、「強欲資本主義」と呼ばれる。これに対し、私は、共産中国の共産主義を、「貪欲共産主義」と呼んでいる。アメリカの強欲資本主義と中国の貪欲共産主義は、ともに現実世界における物質的繁栄を至上の価値とする。
 アメリカは西欧近代に生まれた文明を継承し、大量生産・大量消費・大量破棄の物質文明を発達させた。中国は近代化しつつ、この物質文明を模倣している。しかも、中国は統制主義の国家であり、基本哲学は唯物論である。それゆえ、物質文明の発達を一層徹底的に推進するものとなっている。
 資本主義と共産主義の違いは、同じ資本主義における私的所有か集団的所有か、自由主義的か統制主義的かの違いにある。それゆえ、21世紀の強欲資本主義に替わるものは共産主義ではありえない。従来の資本主義ではなく、また共産主義でもない新たな経済体制が創出されなければならない。鳩山氏の「友愛」は、資本主義と共産主義の理論的分析に基づくものではなく、こうした新たな経済体制を創出する理念とはなりえない。
 資本主義国家には、まだしも宗教や伝統的な道徳が存在し、物質的な繁栄の追及に、一定の抑制が働く。しかし、共産中国は、宗教や伝統的道徳を否定し、また自由や人権の尊重という観念も存在しない。その結果、中国はあらゆる不道徳が平然と行われる国家となった。中国は今日、汚染・破壊・略奪・搾取・偽造・弾圧・虐待・虐殺・虚言等が横行する世界最悪の国家となっている。中国における道徳心や順法意識の欠如を是正しないと、この状態は変わらないだろう。中国が環境政策・経済政策・社会政策を改めなければ、中国の膨張・拡大とともに、世界人類は破滅の道に引きずりこまることになる。
 物質中心・欲望増大の文明は破局にいたるしかない。中国とアメリカは、政治・経済の形態は違うが、物質中心・欲望増大の文明である。根本的に同じ性格を持っている。そして、21世紀の現在、蕩尽の大国・中国は、消尽の大国・アメリカと相互に依存しながら、欲望のままに地球を食いつくし、奪いつくし、壊しつくそうとしている。こういう収奪・消費・破壊型の文明に対して、節度・保全・調和型の文明が打ち出されねばならない。そこにわが国の重大な課題と使命があると私は思う。

●中国は覇権国家となり得るか


 世界的な覇権を握る国家に最も必要な条件は、軍事力と経済力である。世界に展開し得る圧倒的な軍事力と、自国の通貨を基軸通貨とする経済力が、覇権国家には必要である。かつてのイギリスや現在のアメリカはそれを備えている。
 20世紀の前半にイギリスを凌駕したアメリカは、20世紀末にいたり、衰退の坂を下り出した。これと交差するように、中国は現在、興隆の坂を上っている。青年期のアメリカは20世紀中半でナチスと戦ってこれをねじ伏せ、壮年期のアメリカは20世紀後半にソ連と対峙して内部崩壊させた。しかし、老年期を迎えたアメリカは、富でも力でも中国と戦えなくなりつつある。
 アメリカの衰退が進む一方、中国はアメリカに替わる世界覇権国家となりうる条件を整えつつある。軍事的には、中国は核兵器・ICBMを多数保有しており、原子力潜水艦からSLBMでアメリカ本土の主要都市を攻撃することもできる。宇宙空間にも進出し、衛星システムを使ったアメリカの軍事的優位を揺るがしている。また経済的には、中国は米国債を大量に購入・保有し、アメリカ経済の生殺与奪の権を握るにいたっている。外貨準備高は世界第一であり、また平成22年度(2010年度)にはGDPで日本を抜き、世界第二の経済大国になると予想される。
 仮にこのようにアメリカから中国へと覇権が移ったとしても、それは真に、人類文明の繁栄の中心が西洋から東洋・アジアに移動したことを意味しない。今日の中国は、東洋・アジアの文明を失い、西洋近代文明の体現者になっている。居三党が支配する中国は、西洋近代国家の一形態である。西洋近代文明は、ロシアからシナに拡大したことによって、近代化=合理化の運動を極端に推し進めているのである。
 しかし、中国の繁栄は、決して長続きしない。アメリカに続いて、中国もまた破綻すると私は見ている。

●中国の繁栄は長続きしない

 既に中国は、汚染・破壊・略奪・搾取・偽造・弾圧・虐待・虐殺・虚言等の世界最悪の国家となっている。中国社会の実態は、マルクスが資本論に書いた19世紀イギリスよりもっと劣悪な状態になっている。経済的にも社会的にも環境的にも、危機が増大している。猛烈な勢いで成長する中国は、同時に内部で自壊作用が強まっている。
 まず経済的危機である。中国は極端な外需依存型の経済成長を続けてきたが、それが壁に激突した。平成20年(2008)の世界経済危機によって、世界各国は大不況に陥り、輸入購買力が低下している。中でも世界経済の牽引車となり、中国製品を最も多く買っていたアメリカの個人消費が冷え込んでいる。中国が経済成長率を維持しようとすれば、内需の拡大しかない。しかし、中国では内需拡大の要となる個人消費は伸びない。社会保障制度・医療保険・年金制度が整備されていないため、大多数の国民は、少しでもお金が残れば病や老後のために貯蓄をするからである。
 次に社会的危機である。世界経済危機後、輸出産業を中心に倒産する企業が続出している。中国政府が発表する失業率は、労働者として登録している都市労働者に対象を限っている。都市に流入した「民工」と呼ばれる出稼ぎ農民は、対象になっていない。彼らが多数失業しても数字には表れない。彼らを加えると、実際の失業率は10%を超えると見られる。10%以上の失業率とは1億人以上もの人々が職を失い、困窮していることを意味する。8%以上の成長を維持していたときでさえ、年間9万件もの暴動が発生したと中国政府は発表していた。今後、都市で職を失い、故郷に帰っても仕事のない農民による暴動の激化・拡大が予想される。
 次に環境的危機である。中国はいまや世界最大の環境破壊国である。物質的な繁栄を追及する中国は、環境の保全を考慮せず、土壌・大気・河川・海洋の汚染を繰り広げている。CO2の排出量は世界第一となった中国だが、共産党政府は自国を途上国の代表と位置付け、積極的にCO2削減を行なおうとしていない。中国が生み出す酸性雨や黄砂はわが国に深刻な影響を与えており、アメリカ西海岸の諸都市では中国に原因を持つスモッグが発生している。経済の発展は、自然の恵みによる。恵みのもとである自然環境を破壊すれば、その国家は自ら衰滅する。同時に国民の健康も害され、ガンや先天性障害者等が増え、国民の生命力も衰退していく。
 こうした中国の危機は複合的であり、かつ深刻化する一方である。いかに富と力を得て繁栄しても、あまりにも無理があり、このまま進めるわけがない。自然の法則や生命の秩序に反している。それゆえ、中国は絶頂に近づくとともに自壊する。
 中国の繁栄は、決して長続きしない。だから、鳩山氏のようにこれからは中国の時代だと過剰な期待をして、対中追従の道を行くと、わが国は中国に呑み込まれ、中国の自壊とともに、日本も破滅に至ることになる。わが国は、大国への依存心理を止め、独立自尊の気概を持って、国家の再建を図る以外に、存続と繁栄の道を進むことはできない。そのことを指導層も国民も、ともによく理解すべきである。ページの頭へ

 

 

(5)新文明の創造を目指す戦略的な外交を

 

●日本は米中共衰を見越して進め


 西洋近代文明が生んだ政治・経済の思想・体制が、資本主義と共産主義であり、これらはいずれ崩壊する。だから、日本はその先を見越して、新たな文明を創造・提示すべきである。わが国は、米中の間にあって、しっかりした理念を立て、長期的な展望をもって、存立と繁栄を図らねばならない。私は、日本は従米でも従中でもなく、独立自尊の道を行き、西洋文明の模倣でも、シナ文明の追従でもなく、独自の文明を発展させて、アジアと世界の平和と繁栄に貢献すべきと思う。しかし、鳩山氏の「友愛外交」には、文明を創造する根本的な理念も長期的な展望もない。
 本来日本は、西洋近代に生まれた物質偏重・自然支配の文明から新たな文明へと世界全体を先導する役割がある。その新たな文明とは、物心調和・共存共栄の文明である。わが国は、そうした文明を築きうる文化を、伝統として受け継いできている。そのことを認識した上で、わが国は、現代世界の二大大国であり、また西洋文明とシナ文明を代表するアメリカと中国に対し、自らのできることを果たしていくべきだと思う。

●アメリカに対して日本が果たすべき役割

 まずアメリカに対してであるが、アメリカは、軍事的にはわが国の唯一の同盟国であり、安全保障上の重要性は、他国と比較にならないほど大きい。しかし、それがために、アメリカに依存し、追従する政策は誤りである。日本は自立と共栄の道を進まねばならない。そのうえで、わが国はアメリカに対して、経済や軍事で対抗するのではなく、新たな文化を提示することが求められる。
 なにより日本文明の文化的アイデンティを再確認することが必要である。文明の中核には宗教ないし精神文化がある。日本文明の場合、それを最もよく表しているのは、皇室・神道・武士道だと私は思う。そしてそれらを貫いているのが、日本精神である。その伝統的な精神を受け継いで、今日において発揮するところに、日本文明が日本文明として維持・発展する道がある。日本人が日本人としての精神を発揮することが、新たな文明を創造する力となる。
 そして、アメリカに対して、日本の精神文化を伝えることが大切である。物質偏重ではなく、物心調和の価値観を示すことが、アメリカにおける価値観の変化を促すことになる。アメリカは長期的には脱西洋化せざるを得ない。有色人種が人口の多くを占める人口構成の変化とそれに伴う多文化化がそれを示している。そしてそこに日本の精神文化を伝えることは、西洋近代文明の矛盾・限界を縮小させることになるだろう。またアメリカを変えることによって、ヨーロッパにも影響が波及する。さらに西洋近代文明全体にも波及していく。

●中国に対して日本が果たすべき役割
 
 次に中国に対してであるが、中国の繁栄は長続きしない。中国が破滅を逃れるには、共産主義を放棄して民主化することが必要である。民主化は、漢民族内部だけでなく、少数民族(チベット、ウイグル等)を含み、民族自治を認めることが必要である。そのうえで私は、中国は伝統的な道徳と自然観を回復しなければ、だめだと思う。単なる民主的な近代国家では、イギリス・アメリカの後継者となるに過ぎない。東洋・アジアの文明を復興し、文明を転換しえてこそ、世界に貢献できる国家となり得る。
 ただし、私は、この転換は中国単独では無理だと思っている。中国は伝統的な道徳と自然観を失いすぎている。もはやシナ大陸には、ほとんど伝統的な道徳と自然観が残っていない。中国共産党政府は「和諧社会」の実現を国家目標に挙げているが、現在の諸矛盾を乗り越えて「和諧社会」をめざすには、日本の「和の精神」を取り入れる以外に道はないと私は思う。「和の精神」とは、人と人、人と自然が調和する精神であり、それが日本精神である。
 中国は共産主義を放棄し、民主化するとともに、日本の精神文化を摂取する時に、初めて調和ある発展の道を進むことができる。このことは、独り中国のみならず、人類の運命にかかわる課題である。日本は自らの日本文明に内在する「和の精神」を深く自覚し、これを中国に伝え、中国の文明的転換を促進する役割がある。

●「一国一文明」としての独立自尊を

 上記のような対米・対中の二重の役割を果たすためには、日本は、一個の独立主権国家として、自立する必要がある。そして、「一国一文明」である日本文明の特長を発揮し、世界人類の平和と繁栄に貢献しなければならない。わが国が自立するためには、当面アメリカとの軍事同盟を堅持し、連携を図りながら、憲法を改正し、自主国防を整備する必要がある。この間、日本はアメリカと連携しながら、米中のバランスを取り、自国の国益を守りながら、日米中の共存共栄を図るべき役割がある。やがてアメリカは経済的にも軍事的にも衰退していく。そしてアメリカが日本を守る力を振えない状態になっても、わが国は中国に侵されずに、自立を保つことのできる独立主権国家となっていなければならない。こうした日本となってこそ、わが国はアジア太平洋地域に平和と繁栄を実現できる。そして、日本文明に潜在する指導理法を開顕・展開しうるだろう。これはアジアのみならず、全人類の運命がかかった課題である。
 世界は多文明化・多極化しつつあり、アメリカの国際的な地位は、相対的に低下していくことは明らかである。この長期的な展望のもと、わが国は、対米追従でも対中追従でもなく、一個の文明、一個の極として国際社会で存在感を発揮し、日本独自の特徴を発揮して世界人類に貢献するという目標を持って、21世紀を進むべきでる。日本人は、自立のできない、他に依存するばかりの「友愛」を捨てて、独立自尊の気概を持って、共存共栄を図る調和の精神を発揮しなければならない。
 こうしたわが国の役割を今日の世界で遂行していく上で、鳩山氏の「友愛外交」は何らプラスがなく、害を生むばかりである。日本人はただちに「友愛外交」を止め、日本の進むべき道へ軌道修正しなければならない。

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第4章 「友愛」から「調和」の理念へ

 

(1)定見なき鳩山氏の変遷


 鳩山氏は、祖父・一郎を通じて、フランス革命のスローガンである「友愛」を、ヨーロッパ統合の理念としたカレルギーから継承した。カレルギーは、原義は兄弟愛・同胞愛であり、実態は敵と戦う同士愛である「友愛」に、キリスト教的な色合いを加え、人間界のみならず自然界にまで一貫する理念にしようとした。しかし、もとが兄弟愛・同胞愛であって、家族愛の部分でしかない「友愛」を拡大することには、無理があった。鳩山氏は、「友愛」を「自立と共生の原理」と再定義し、共生経済の社会の原理としようともする。そして、鳩山氏は、「友愛」から様々な内政・外交の政策を導き出す。そのうち、経済政策、社会政策、地域主権、外国人参政権、東アジア共同体、友愛外交について、私は問題点を指摘し、矛盾や危険性を述べてきた。そもそも近代西洋の個人主義的な人間観に基づく「友愛」を、定義し直してみたところで、限界がある。
 それゆえ、「友愛」にとらわれていると、日本は危ない。鳩山氏、民主党、及びすべての日本国民に、すみやかに友愛を捨てて、日本に返れと私は訴えるものである。
 本稿における「友愛」に関する批判的考察を補足するため、次に歴史的な観点から考察を行なう。その中で、鳩山氏の政治的思想・立場の移り変わりが、定見なき変遷であることを明らかにしたい。

●鳩山首相の施政方針演説における日本

 平成22年1月29日、鳩山首相は首相になって初めての施政方針演説をした。「いのちを守りたい」という言葉が繰り返される異例の演説だった。その中で首相は次のように述べた。
 「日本は四方を豊かな実りの海に囲まれた海洋国家です。古来より、日本は、大陸や朝鮮半島からこの海を渡った人々を通じて多様な文化や技術を吸収し、独自の文化と融合させて豊かな文化を育んできました。
 漢字と仮名、公家と武家、神道と仏教、あるいは江戸と上方、東国の金貨制と西国の銀貨制というように、複合的な伝統と慣習、経済社会制度を併存させてきたことは日本の文化の一つの特長です。近現代の日本も和魂洋才という言葉のとおり、東洋と西洋の文化を融合させ、欧米先進諸国へのキャッチアップを実現しました。
 こうした文化の共存と融合こそが、新たな価値を生み出す源泉であり、それを可能にする柔軟性こそが日本の強さです。自然環境との共生の思想や、木石にも魂が宿るといった伝統的な価値観は大切にしつつも、新たな文化交流、その根幹となる人的交流に積極的に取り組み、架け橋としての日本、新しい価値や文化を生み出し、世界に発信する日本を目指していこうではありませんか」
 誰もが受け入れられる主張のように見える。近年、保守的要素を失ってリベラルに移り、さらに左傾化が顕著な鳩山氏としては、保守的要素の残存を感じさせる文章だろう。しかし、この文章は、過去の鳩山氏の文章より、ずっと脱日化している。それを見抜く眼力が必要がある。

●日本人の主体性より渡来人や外国人の受け入れを強調

 鳩山氏は、平成17年(2005)の時点では新憲法試案に、次のように書いていた。
 「『天皇』という称号が登場したのは、天智朝から天武朝の頃だとされる。『日本』という国号もこの頃定まった。当時の日本は、白村江の戦いで唐の水軍に大敗し、大陸からの侵攻も予想される対外的な危機と、壬申の乱という国内的な危機が重なる中で、必死に律令国家体制の確立に邁進していた。
 制度としての天皇は、こうした危機意識の中で大陸文明に対する日本の自己主張の表現として創始された。それ故天皇は『文明としての日本』の核心であり続けたのであり、歴史上内外の危機が高まる度に天皇が浮上した所以もここにある。
 21世紀の日本は、緩やかな衰退を運命づけられている。日常化する危機のなかで、衰退を食い止めるようと苦闘するわれわれ日本人にとって、天皇の存在は今まで以上に大きな意味合いを帯びることになるだろう」と。
 先に引いた施政方針演説には、わが国は天皇を文明の核心とし、「大陸文明」つまりシナ文明に対して自己主張をし、また危機が高まる度に天皇が浮上してきたという歴史認識は、見られない。その替わりに「古来より、日本は大陸や朝鮮半島からこの海を渡った人々を通じて多様な文化や技術を吸収し、独自の文化と融合させて豊かな文化を育んできました」と述べ、古代におけるシナや朝鮮からの渡来人の受け入れや、現代における「新たな文化交流、その根幹となる人的交流」が強調されている。その反面、日本人の主体性や日本文化の独自性の認識が弱まっている。そして、日本文明が独自の原理を持ち、その原理のもとに、外来の文化を取捨選択して摂取し、自らの文化を豊かに発展させてきたという理解は、薄まっている。

 施政方針演説の引用文の中ほどに、「和魂洋才」という言葉が引用されている。この言葉は、「和魂漢才」がもとになっている。「和魂漢才」とは、古代日本がシナ文明に吸収・同化されるのではなく、「和魂」すなわち「大和魂=日本精神」を根本に置いて、外来文化を主体的に取り入れる態度を言う。単に固有の文化と外来の文化を共存・融和させるのではなく、日本文化の独自性をしっかり保ちながら、外来の文化を摂取し、さらに日本人に合うものに変えてしまうところに、「和魂漢才」がある。仮名文字や日本的律令制、日本的仏教等は、こうした創造的な精神活動の所産である。
 19世紀中半、西洋近代文明と出会った日本人は、こうした歴史を思い起こし、「和魂洋才」を唱え、主体性・独自性を保ちながら、西洋近代文明を摂取し、それをもとに独自の文化を創造した。
 ところが、鳩山氏が主張するのは、日本文明の主体的な発展ではなく、渡来人や在日外国人・移民の受け入れによる「文化の共存と融合」である。日本には独自の精神文化があり、その精神文化が「和魂漢才」や「和魂洋才」という態度を生み出した。その根本のところを鳩山氏は、把握していない。そして、鳩山氏が政治哲学の理念としているのは、わが国に伝わる「和魂=大和魂=日本精神」ではなく、ヨーロッパ産の「友愛」なのである。「友愛」は「和魂」ではなく「洋魂」である。それゆえ、鳩山氏の「和魂洋才」は、文字は同じ四文字でも、中身は「洋魂洋才」なのである。

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(2)日本の近代化における「和魂洋才」

 

●近代化とそれへの対応


 鳩山氏がカレルギーから継承した「友愛」は、西洋文明では、自らの文化・伝統に根ざしたものゆえ、有効だろう。しかし、これを文化・伝統の異なるわが国に移植するのは、西洋近代文明の同化に陥る。「友愛」か日本的理念かーーこれは、西洋近代文明への対応というわが国の幕末以来の課題に関係する選択である。この選択について述べるには、まず近代化、及び近代化への対応について、全般的に語ることからはじめなければならない。
 近代化とは何か。私は、マックス・ウェーバーにならい、近代化とは、価値観の合理化であり、生活全般における合理化の進展と理解している。合理化とは、合理性が増大することである。合理性とは、恣意、衝動、呪術、神秘主義、伝統、特殊関係などの「非合理的なもの」による判断や、これにもとづく慣習を排して、効率的で、かつ計算可能なルールや生活慣行を重視する傾向である。したがって、合理化とは、こうした非合理的なものが、生活の全般にわたって、しだいに合理的な思考方法や生活慣行に取って代わられていくことである。文明学的に言い換えると、近代化とは、ある文明の文化要素の全般にわたって合理化が進むことである。
 社会学者・富永健一氏によると、近代化は、四つの領域において進行した。すなわち、文化的、社会的、政治的、経済的の四つである。文化的近代化とは、宗教・思想・科学等における合理主義の形成。社会的近代化とは、共同体の解体とそれによる近代的な核家族、機能集団である組織や市場の成立、近代都市の形成。政治的近代化とは、近代主権国家の成立、近代官僚制と近代民主主義の形成。経済的近代化とは、近代資本主義・産業主義の形成を、それぞれ主な現象とする。
 こうした近代化を具体的な指標でとらえたのが、人類学・人口学・歴史学の巨人エマヌエル・トッドである。その指標とは、識字率の向上と出生率の低下である。識字率の向上と出生率の低下は、「心の近代化」をもたらす。これは、四つの領域では文化的近代化に含まれる。それと同時に、識字率の向上は教育を受けた工業労働者を生み出し、政治的な意識を高め、出生率の低下は脱宗教化を伴い、また家族構造を変える等により、文化的、社会的、政治的、経済的な近代化を押し進める。
 ヨーロッパにおける近代化の過程において、経済的・政治的にはイギリスが先進国となった。イギリス(主にイングランド)では、最も早く市民革命が起こり、君主制の議会政治が発達した。中世からの伝統、祖先伝来の慣習を保ちながら、自発的な近代化が進んだ。近代資本主義や産業革命は、イギリスで発生した。
 この先進国イギリスの政治体制を理論化したのが、後進地域のフランスで発達した啓蒙思想。それを実現しようとしたのがフランス革命だった。人間理性を絶対化し、急進的に社会を変革しようとする運動だった。この革命の危うさを見抜き、革命による破壊を防ごうとしたイギリスのエドマンド・バークの主張が、保守主義の嚆矢となった。
 最先進国イギリス、次先進国フランスに対し、ヨーロッパのほかの地域は、近代化において遅れていた。ドイツは、識字化と宗教改革という文化的近代化においては、英仏の先を行っていたが、社会的・政治的・経済的には後進地域となった。ドイツ等の諸国では、フランス革命や資本主義の波及に対し、民族的な伝統・文化を保守しながら近代化を行なった。ここに各国それぞれの保守主義が出現した。
 イギリス・フランス・ドイツの例は、ヨーロッパにおける近代化への対応の例である。それらは、西洋文明の内部における近代化の例であり、その中での地域差である。これに対し、わが国のような非西洋社会は、西洋文明の諸国とは異なる条件のもとに、近代化に直面した。近代化は、西洋列強の非西洋社会への侵出、世界的拡大として押し寄せてきた。幕末・明治のわが国は、この西洋近代文明の挑戦に応戦し、近代化に対して独自の対応をした。

●わが国独自の近代化は「和魂洋才」による


 西洋文明の内部と異なり、非西洋社会における近代化への対応には、三つの仕方がある。
 第一は、近代化=西洋化の拒否である。伝統を固定的に保持する伝統主義であり、固有の文化を絶対化し、時に排外的になる。これがわが国では、私の分類によるところの「極右翼」の源流となった。人類文明史的には、異文明の拒否である。
 第二は、伝統を守りつつの近代化である。国粋主義であり、固有の精神文化を保ちながら、西洋近代文明を摂取する。これが非西洋的な「保守」の源流となった。人類文明史的には、異文明の主体的摂取である。
 第三は、近代化=西洋化の推進である。近代主義であり、固有の伝統を否定し、積極的に西洋近代文明に同化する。これが非西洋的な「進歩」の源流となった。「リベラル」や「左翼」はこの系統である。人類文明史的には、異文明への同化である。

 19世紀半ば、西洋列強と邂逅したわが国においても、近代化=西洋化の拒否、伝統を守りつつの近代化、近代化=西洋化の推進という三つの仕方の対応が現れた。そのせめぎあいの中で、伝統を守りつつの近代化する対応が主流となった。西洋列強の植民地となり、白人種の奴隷とされないよう、開国・維新を進めたわが国の指導者たちは、西洋文明から必要なものは取り入れるが、精神面では日本の道徳を保つという姿勢を貫いた。それが「和魂洋才」である。「和魂」とは大和魂であり、日本精神である。「洋才」とは、西洋の科学技術や諸制度である。
 「和魂洋才」を貫いた幕末の指導者の一人、佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術」と言い、西洋の科学技術を摂取しつつ、東洋の道徳を保つべきことを教えた。また横井小楠は、富国・強兵とともに士道を国是とし、「なんぞ富国に止まらん なんぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」と説いた。明治維新においては、象山や小楠の弟子、ないしその影響を受けたものたちが大いに活躍した。
 わが国は、大政奉還・王政復古によって、天皇を中心とした近代国家の建設に歩を進めた。その際に発せられた「五箇条の御誓文」には、「和魂洋才」の姿勢がよく表れている。明治天皇は、祖先神及び先祖に対して、「旧来の陋習を破り天地公道に基くべし」「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」等と誓約している。「五箇条の御誓文」はわが国の国是となり、そのもとに大日本帝国憲法、皇室典範、教育勅語が発せられた。大日本帝国憲法、皇室典範は、それぞれ西洋近代諸国の憲法・王位継承法に学び、わが国独自の国柄、すなわち国体を法制度的に表現したものである。また教育勅語は、伝統的な道徳を保ちつつ、近代国家の国民としてのあり方を示すものとなっている。明治憲法・皇室典範・教育勅語の起草には、象山・小楠に学んだ者たちが参与したが、そこに「和魂洋才」の姿勢がよく表れている。
 「和魂洋才」という主体的な姿勢を保ったからこそ、日本人は、近代化はするが西洋化はせず、固有の伝統を創造的に発展させ、独創的な近代化を成し遂げたのである。この日本のあり方が、アジア・アフリカ諸国の近代化のモデルともなった。私はこの「和魂洋才」を「日本的な『保守』」の源流と位置付けている。
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(3)戦後日本の根本問題とは


●ないがしろにされた戦後日本の根本課題

 わが国は、幕末から伝統を保ちつつ、近代化を進めた。近代化がイコール西洋化とならないようにして、日本独自の近代化に成功した。
 わが国は、明治維新によって、天皇を中心とした近代国家の建設を進めた。憲法を制定して、立憲君主制のもとに議会制デモクラシーを行い、大正期には普通選挙を実現した。
 しかし、大正・昭和戦前期に欧米の思想が流行し、国家指導者の一部が、本来の日本精神から外れるようになった。すなわち「和魂洋才」の「和魂」を失い、独伊のファシズムの模倣に走ったのである。明治天皇の遺勅に反して軍人が政治に関与し、昭和天皇の意向に反して、日独伊三国同盟を締結した。これによってわが国は英米から敵対視されて、追い詰められ、遂に大東亜戦争に突入した。その結果、未曾有の敗戦を喫した。
 戦後日本は、こうした反省の上に立って、日本の再建を進めるべきだった。敗戦後、わが国は戦勝国の占領を受け、日本弱体化政策が強行された。アメリカ主導の民主化が行われ、日本の変造が押し進められた。独立回復後も、わが国は主権を実質的に制限され、軍事的にはアメリカの保護国の地位に置かれた。
 それゆえ、戦後のわが国は、一個の独立主権国家として、占領下で強行された変造を是正し、日本人自身の手で日本の再建を行うことを根本課題としている。具体的には、憲法、皇室、国防、教育、歴史、道徳等に関する課題である。戦後体制の脱却、東京裁判史観の克服、自主憲法の制定、自主国防による独立自尊の道を行き、日本精神を発揮して、資本主義・社会主義、自由主義・平等主義を止揚すること、また人と人、人と自然の調和を実現することが、目標であるべきだった。この目標は、幕末以来の「和魂洋才」を発揮してこそ、成し遂げられるものである。
 しかし、日本人は、たった一度の敗戦で自信を失い、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム、戦争犯罪宣伝教育計画)による洗脳から脱皮できず、戦前までの日本のよい点までも否定し、また自らの失敗を徹底的に反省しなかった。GHQに押し付けられた憲法を改正することなく、自主国防を整える意思を持たず、東京裁判で決め付けられた歴史観を跳ね返さないまま、次世代への教育を行ってきた。
 そして、日本人は、戦後日本の根本課題を放置したまま、経済の復興・成長に精力を集中してきた。その結果、物質的には豊かさになったが、国民は日本人は本来の日本人としての精神をますます失うようになった。鳩山由紀夫氏率いる民主党政権下の現在の日本は、そのなれの果てである。

関連掲示
・拙稿「日本的な『保守』の役割と課題〜右翼・左翼・リベラル等との対比を踏まえて

 

●米ソ冷戦とわが国の55年体制


 米ソ冷戦期は、一般的に言えば資本主義と社会主義の対立だった。これはまた「自由」と「平等」の対立だった。この対立構造に対応してわが国には、自民党対社会党という55年体制が生まれた。自民党が「自由」の勢力、社会党が「平等」の勢力を代表した。当時、「自由」を実現すべき価値とする勢力は「保守」、「平等」を実現すべき価値とする勢力は「革新」と呼ばれた。
 実は、わが国で「保守」という用語が一般的に使われるようになったのは、第2次世界大戦後のことである。戦前の日本は、国民が「忠君愛国」で強く結束しており、日本の伝統・文化・国柄を守ることを、「保守」と呼ぶ必要はなかった。日本人として当然の態度だったからである。共和主義・個人主義はわが国の「国体」になじまない思想と理解され、社会主義・共産主義は危険思想とみなされた。共産主義者が政治的自由を与えられたのは、大東亜戦争の敗戦後、わが国の被占領期に、GHQが獄中の共産党員を解放し、労働組合を組織化するなどして、彼らの活動を促進してからである。
 戦後、ソ連が勢力を拡大し、資本主義と共産主義、自由主義と統制主義が世界を二分して対立するようになった。わが国では、社会主義・共産主義の勢力が「革新」を自称し、進歩的勢力という虚像を作った。その「進歩的」な「革新」に対して、日本の伝統・文化・国柄を守り、また自由とデモクラシーを守る勢力が「保守」と呼ばれることになった。
 戦前との違いは、占領期にアメリカによるアメリカ型の民主化がされ、憲法も変えられたため、外来の自由主義・民主主義が政治体制に移植されたことである。そのため、戦後日本の「保守」には、わが国の伝統を尊重する日本主義的な保守と、米英の政治・経済思想を実現しようとする自由主義的な保守がある。私は前者を伝統尊重的保守、後者を経済優先的保守と呼んで区別している。

●「和魂洋才」が「保守」の源流

 先に書いたように、19世紀半ば、西洋列強と邂逅したわが国は、伝統を守りつつ独自の近代化を成し遂げた。開国・維新を進めたわが国の指導者たちは、西洋文明から必要なものは取り入れるが、精神面では日本的な精神を保つという姿勢を貫いた。それが「和魂洋才」である。私はこの「和魂洋才」を、戦後の保守の源流と位置づけている。
 「和魂洋才」は、伝統を守りつつの近代化であり、近代化=西洋化の拒否ではない。欧米諸国との国交を拒絶し、西洋近代文明の摂取を否定した封建勢力は、保守の源流ではない。保守とは、伝統を保ちつつ近代化を進め、民族的な価値を守りながら主体的に国家建設を行い、自らの精神文化を中核として西洋近代文明を摂取し、自己の文明を発展させる姿勢である。
 しかし、伝統を守りつつ近代化を進める態度は、近代化=西洋化の拒否、または近代化=西洋化の推進に傾きやすい。近代化=西洋化の拒否に傾けば排外的になり、近代化=西洋化の推進に傾けば同化的になる。排外的なナショナリズムや同化的な事大主義は、歴史の中で繰り返し、現れてくる。こうしたぶれに抗して、「和魂洋才」の姿勢を保つところに、日本的な「保守」が現れる。
 近代日本人の基本的な態度は、「和魂洋才」だった。明治維新において国是となった「五箇条のご誓文」に従い、明治憲法・皇室典範・教育勅語に表れた伝統・文化・国柄を受け継ぎ、守り、発展させていく態度である。その態度が、第2次世界大戦後、政治的に「保守」と呼ばれるようになった。それゆえ、戦後の「保守」は、幕末・明治以来、日本人の最も一般的な考え方を体得したものであり、近代日本の主流である。ところが、この「保守」は「革新」の側から守旧・反動の勢力とされ、価値が逆転したような見方が広がった。
 なお、保守ではなく「保守主義」を自称する学者・政治家が現れたのは平成になってからである。「保守主義」はエドムンド・バークを元祖とする英米の思想を継承する。幕末以来の日本人の思想がそのまま発展したものではなく、実際、戦前の日本ではバークはほとんど読まれていない。日本的な「保守」は、バーク的保守主義を受容・継承したものではない。

●「自由」と「平等」の日本的な均衡


 資本主義と共産主義、「自由」と「平等」という二項対立について、戦後の日本人は独自の仕方で解決を図ってきた。日本の伝統である「和」の精神を創造的に発揮して、共同体な人間関係を保ち、相互扶助に努めた。皇室を中心とし、家族の絆を大切にし、企業を家族的な共同体とし、地域での共同性を維持してきた。経済的には、「自由」だけでなく「平等」を重んじる一種の修正リベラリズムを実現した。ただし、近代西洋的な個人主義に基づくのではなく、伝統的な共同体を重視した集団主義に基づくものである。個人の「自由」を極度に追求すると、社会的な調和と対立する。共同性を壊さない範囲で、個人の「自由」を尊重し、互いに助け合う。わが国の奇蹟ともいわれる敗戦後の復興と高度経済成長は、こうした集団主義的な修正リベラリズムによる。
 たとえば、わが国では、高度経済成長を成し遂げても、所得の個人差は欧米ほど大きくない。会社で言えば、社長と社員の給与の差は、数倍から10倍程度である。欧米の場合は、100倍以上もの差になる。わが国では、こうした巨大な格差は避けられ、個人的な成功よりも、会社 ないし社会全体の発展が目指すべき価値とされてきた。
日本人は、GHQによって日本弱体化政策を強行され、憲法を押し付けられ、国防を制限され、文化的思想的にはアメリカナイズされ、またソ連・中国の共産主義の思想の浸透を受けながらも、なお日本の伝統を保ち、その独自性を発揮してきたのである。
 しかし、政治においては、1960年代に入ると、自民党は結党の方針を放置したまま、池田政権以降、経済的自由主義の政治を行い、対米依存・金権横行・官僚天国で腐敗・堕落した。ページの頭へ

 

(4)高度経済成長後に落とし穴が


●オイルショックからプラザ合意へ

 高度経済成長を成し遂げた日本は、中東戦争によるオイルショックで、深刻な事態に直面した。石油資源に乏しい日本は、原油の値段が上がると、甚大な影響を受ける。そのため、1980年代から、国際的な競争で生き残るため、伝統に基づく日本的経営をやめ、アングロ・サクソン的な合理的経営方法を模倣する傾向が強まった。「個の自立」を強調し、女性の社会進出を促進し、家族の解体が進んだ。企業の風土も、「和」に精神に基づく終身雇用、年功序列、大企業と中小企業の系列化等をやめ、アングロ・サクソン的な個人主義・競争重視・株主本位の方向に進んだ。
 1980年代、イギリス・アメリカでは、サッチャー・レーガンの政権が、反共反ソのため、古典的な自由主義を復活させた保守革命と言われる政策を実行した。ここでのポイントになるのが、プラザ合意である。
 戦後、わが国はただ経済的成長を追い求めた。アメリカは自らの優位を脅かすまでになった日本の経済力を、自国の利益のために利用する仕組みを作った。1980年代、日本経済が最高潮にあったとき、1985年(昭和60年)9月に、プラザ合意が結ばれた。プラザ合意とは、アメリカが日欧にドル防衛を求めたものである。軍拡競争でソ連を破ろうというアメリカの世界戦略に、日本は経済面で協力することを約束した。それはアメリカにとって、ソ連と日本という二つのライバルをともに潰す一石二鳥の政策だった。
 軍事的・経済的に追い詰められたソ連は、冷戦の終結に動いた。ソ連支配下の東欧では、自由化・民主化の動きが広がり、共産党政権は次々に崩壊し、ソ連自体も解体された。日本はアメリカを経済的に支援することで、共産圏の自由化・民主化に貢献した。しかし、その過程で、日本はアメリカに金融的に従属させられてしまった。

●日本はアメリカの経済的攻勢に敗れ、再従米化

 

プラザ合意により、円高ドル安、超低金利政策を通じたドルの還流で、日本の富を為替と金利でアメリカに吸い上げる。日本はアメリカの財政赤字を支え、アメリカは日本を利用して繁栄を続ける構造が作られた。こうして日本は軍事的にアメリカの保護国であることに加えて、経済的にもアメリカの金融体制に組み込まれた従属国となった。以後、日本の指導層は、アメリカの中長期的な日本乗っ取り戦略の前に、なすすべなく対米従属の外交を続けてきた。
 ここで鳩山氏のことを差し挟むと、鳩山氏はプラザ合意の翌年、昭和61年(1986)に自民党代議士になった。その後、冷戦の終焉、ソ連の解体、わが国の55年体制の崩壊という歴史的な節目を経て、55年体制の崩壊を平成5年(1993)に新党さきがけに入り、非自民連立の細川政権に参加し、6年(94)に自社さ連立政権に関わった。鳩山氏が政治の舞台で活動するようになった時期は、日本の対米金融的従属化、冷戦終焉に伴う国内政治構造の変化の時期だった。
 私は、戦後50年となる平成7年(95)を境に、一層日本の脱日本化が顕著になったと見ている。そしてその頃、勢いを失った日本に対し、アメリカは経済的な侵攻を本格的に開始した。それが、ビル・クリントン政権による対日経済戦争である。9年(97)にアジア通貨危機が起こり、翌10年(98年)には日本は「マネー敗戦」を喫した。私はこれらを一連の出来事ととらえ、「大東亜経済戦争」と呼んでいる。この戦いは、西洋文明が日本を中心としたアジア諸文明の台頭を抑え、西洋文明の優位を維持し、支配を永続化することを目指して、計画的に仕掛けた経済戦争だった。日本はアメリカに対してあらためて経済的に従属した。
 この再従米化の過程で、最も深刻な出来事だったのが、平成10〜12年(1998〜2000)にかけての旧長銀の買収と、13〜15年(2001〜03)にかけての郵政民営化だった。これによって、米欧の巨大国際金融資本が、日本の資産を直接略取する関係がつくられた。
 詳しくは、拙稿「アメリカに収奪される日本〜プラザ合意から郵政民営化への展開」に書いたので、ご参照願いたい。

●冷戦終結後の世界の変化と日本の混迷

 冷戦の終結とソ連の崩壊の結果、アメリカは唯一の超大国になった。言い換えれば、世界覇権国、世界帝国としてのアメリカの出現である。
アメリカの一極支配によって、世界的に「自由」が強勢になった。共産主義という対抗勢力がなくなると、資本主義は一層自由主義化した。1929年の世界恐慌以後、自由主義的資本主義の行き過ぎを防止するため、様々な金融への規制が行われてきた。
 しかし、共産主義革命に現実性がなくなると、規制が次々に除去・廃止された。資本主義は再び、自由放任の環境を得て、利潤最大化へと巨大なエネルギーを噴出するようになった。それを推し進めたのが、新自由主義、市場原理主義である。
 わが国では、冷戦終焉後、世界的な左翼の後退とともに、社会党が衰退し、分裂した。その結果、自民党対社会党、「自由」と「平等」の対立による55年体制は終焉した。自民党は、自らの結党の理念を実現できる環境に至ったかに思える。しかし、実際には、自民党はそれまでの間に変質・劣化し、また日本が国としてアメリカに再従属化してしまい、日本を変革する力を発揮できなくなっていた。
 その結果、戦後日本は、国家としては主権の全面的な回復のできぬまま、アメリカの保護国・属国的な状態であり続けている。国民はこの隷属状態を屈辱とさえ感じなくなっている。むしろ保護されている気楽さを、快く感じるという錯覚に陥った。「平和ボケ」ではなく、「保護ボケ」(加瀬英明氏)である。しかし、高度経済成長は、ゆるぎなく根を張った繁栄ではなく、虚構の栄華にすぎなかった。そのため、経済成長が停滞に至るや、家庭・学校・社会の崩壊、国家・民族の衰退が始まった。この時になって、戦後の日本人の意識を呪縛してきた現行憲法の、日本を衰亡に導く作用が明確に現れている。そのため、わが国は、かつてない混迷に陥り、容易に抜け出せないのである。ページの頭へ

 

(5)鳩山氏の政界登場とその航跡

 

●戦後日本の政治を担った自民党の腐敗と堕落

 

敗戦後から長く日本の政治を担ってきたのは、自由民主党である。自民党は、革新勢力の合同に対抗するため、保守勢力が合同して作った政党である。自民党は、結党の際につくられた綱領に、自主憲法の制定、自主国防の整備、占領政策の是正等を目的として挙げている。
 ところが、私の見るところ、自民党は結党以来、その課題を実現できぬまま、今日まで九つの段階を経て、変質・劣化してきた。

@独立自尊ではなく対米追従へ(昭和20年代、吉田内閣)
A憲法改正ではなく経済優先へ(昭和30年代後半、池田内閣)
B政治家主導ではなく官僚主導へ(同、池田内閣)
C理念を中心とした政治ではなく金権政治へ(昭和40年代後半、田中内閣)
D日中の対等外交ではなく媚中化(昭和50年代半ば〜60年代初め、鈴木内閣・中曽根内閣)
E38年ぶりに下野した後、政権復帰のため社会党と連立(平成初年代、宮沢内閣・村山内閣・橋本内閣)
F自浄による再生ではなく公明党=創価学会に依存(平成10年代初め、小渕内閣)
G主体的でなく従米的な郵政民営化(平成10年代後半、小泉内閣)
H歴史的な大敗で政権から転落(平成20年代初め、麻生内閣)

 以上の9段階である。第10段階として、自民党は現在、四分五裂による解党に至りかねない状態にある。
 腐敗・堕落を続ける自民党は、国民の信頼と期待を失い、ついに平成21年9月、民主党に政権を明け渡した。そこで首相となったのが、鳩山由紀夫氏である。鳩山氏は「友愛」を説く。本稿は、その「友愛」の問題点を指摘し、日本人は「友愛」を捨てて、戦後日本の根本課題を確認し、日本的な理念のもとに、日本の再建を進めることを目的としている。

●鳩山由紀夫氏の政治的航跡

 ここから鳩山由紀夫氏に関する事柄に、話を進めたい。鳩山氏は、昭和22年生まれ、団塊の世代である。祖父・一郎は自民党創設者の一人であり、父・威一郎も同党の有力政治家だった。由紀夫氏は、祖父・父に続き、先に政界に入った弟・邦夫氏の後を追って、政治家となった。
 鳩山由紀夫氏は、昭和61年(1986)、衆議院議員総選挙で自民党から出馬して初当選した。祖父・父の血を引く、保守のサラブレッドとして、注目を集めた。平成5年(1993)、政治改革の考えの違いから自民党を離党し、武村正義氏らの新党さきがけに加入した。平成8年(96)にはさきがけを出て、弟・邦夫氏と旧民主党を作り、10年(98年)現・民主党を結成した。15年(97)には、小沢一郎氏の自由党を吸収合併して党勢を増し、自民党に替わって政権を取るに至った。
 私は、鳩山由紀夫氏は、平成17年(2005)の新憲法試案までは、保守的な思想・政策を持っていたと見ている。保守ではあるがリベラルな傾向を持つ保守系リベラルだったといえよう。しかし、その後、鳩山氏は保守的要素を失って、リベラルに移り、さらに左翼色を帯びたリベラルに変貌している。今日の鳩山内閣は、民主党・社民党・国民新党の連立政権であり、その政策には労働組合、及び左翼政党、社民党、及び旧社会党等の主張が相当多く取り入れられている。それが、左翼色を帯びたリベラルという理由である。
 鳩山氏の政治的航跡は、左へ、左へと曲がり続けている。その左進行の先にあるのが、共産主義の中国である。

●保守とリベラルの違い


 鳩山由紀夫氏は、保守からリベラルに移ったと先に書いたが、リベラルとは「革新」の後裔の一つである。
 保守もそうだが、リベラルもまたややこしい言葉なので、ここで私見を述べたい。まずリベラルから始めると、リベラルとはリベラリズムの略であり、自由主義と訳される。
 17世紀イギリス以来のリベラリズムは、国家権力の介入を排し、個人の自由と権利を守り、拡大していこうという態度を言う。これは言葉の本来の意味での自由主義であり、国権の抑制と自由競争に特徴がある。それに対し、今日の「リベラル」は、19世紀半ばのイギリスに現れた「進歩」という概念がもとにあり、それまでの自由主義を修正したものである。「自由」という価値に対し、「平等」という価値に配慮する立場である。社会改良と弱者救済に特徴があり、私は「修正的自由主義」と呼ぶ。これに対し、もともとのリベラリズムを、私は「古典的自由主義」と呼ぶ。
 エマヌエル・トッドによる人類学的分析を応用すると、イギリスの社会は絶対核家族を主とする。絶対核家族は、親子関係における自由、兄弟関係における不平等を価値とする。こうした家族的価値観を持つ社会に生まれたのが、自由を至上の価値とする古典的自由主義である。修正的自由主義は、古典的自由主義における「自由」の行き過ぎに対し、ある程度の「平等」を加えるものである。どちらも基本的に近代西洋的な個人主義的な人間観に立つ。 
 古典的自由主義は、英米では「保守」の態度でもある。なぜなら、伝統的な家族的価値から現れた思想であり、国権の抑制と自由競争が歴史的に制度化され、伝統となっているからである。
 「保守主義」は、イギリスにおいて、フランス革命の波及への防衛として登場した。エドマンド・バークを元祖とし、イギリスで歴史的に形成された君主制議会政治を保守する立場である。バークの影響により、欧州各国でも、フランス革命の共和主義・急進主義・普遍主義に対抗し、それぞれの伝統と政体を守る政治的態度が、保守主義となった。
 イギリスでは、保守主義は自助努力と自己責任の原則を強調し、機会均等を達成した上で、効率的な市場経済を担保しようとする。この伝統は、古典的自由主義と重なり合う。
 わが国には、こうした伝統はない。わが国における保守は、日西洋社会における保守であり、近代西洋文明に対し、わが国固有の伝統を保守する立場である。私はこれを「伝統尊重的保守」と呼ぶ。これとは別に、わが国には、英米的な古典的自由主義を信条とする者もおり、これを私は「経済優先的保守」と呼ぶ。
 わが国は直系家族の社会である。その伝統的価値を保守するのが、伝統尊重的保守であり、核家族化が進むなかで核家族的な価値を拡大しようとするのが、経済優先的保守である。伝統尊重的保守は日本主義、経済優先的保守は自由主義ということができる。伝統尊重的保守は、戦前世代に多く、民族的・国粋的な意識が強い。経済優先的保守は、戦後世代に多く、アメリカの影響が強い。

●わが国のリベラル及び保守系リベラル

 次に、わが国におけるリベラルについて述べる。もともとイギリス産のリベラルには「進歩」をよしとする価値観があるのだが、わが国のような非西洋文明の社会においては、近代化を同時に西洋化ととらえ、近代化=西洋化を「進歩」と考える態度が、これに加わる。そのため、わが国の伝統・文化・国柄を積極的に守ろうとせず、むしろ先祖代々継承されてきた日本独自のものを否定し、脱日本化をよしとする傾向がある。
 自国の伝統・文化・国柄の否定は、外国の模倣に進みやすい。本来的な日本をあるべき姿と考えるのでなければ、アメリカ、ソ連、中国等の外国をモデルにして、そのモデルのようになることを目指す傾向に陥る。この傾向が進むと嫌日的となり、極端になると、日本人でありながら反日的という倒錯に陥る。
 リベラルの政策は、経済面での修正的自由主義を中核とする。同時に、わが国の場合、社会面では西洋化の一環として個人主義を推進し、教育面では自虐史観、安全保障面では国防の軽視ないし忌避を傾向とする。
 こうした保守とリベラルの間には、その中間的な立場がある。これを私は「保守系リベラル」と言う。保守系リベラルとは、保守とリベラルの中間的な立場である。わが国固有の伝統をある程度尊重し保守するという要素を持ちながら、修正的自由主義という意味での「リベラル」を信条とする政治的態度を言う。
 保守系リベラルは、中間的であるゆえに個人差が大きい。大まかに言うと、文化面では伝統を尊重するが、社会面では個人主義的、教育面では自虐史観的、安保面では自主国防の意思を持たないという傾向がある。リベラルとの違いは、リベラルが伝統より進歩をよしとし、近代化・西洋化を推進するのに対し、保守系リベラルは、伝統をある程度尊重し、日本文化の保存を図ろうとする点にある。保守系リベラルを中道右派とすれば、リベラルは中道左派となる。
 保守系リベラルとリベラルとの違いは、わが国の極めて明確な特徴である皇室と神道に対する認識に現れる。保守は皇室を崇敬し、神道を尊重する感情を持つ。リベラルはこうした感情が薄い。または持っていない。
 政党で見ると、自民党には、伝統尊重的保守、経済優先的保守、保守系リベラルが多い。右翼・左翼という対比で言えば、主に右翼から中道右派までといえよう。一方、今日の民主党には、保守系リベラル、リベラル、左翼が多い。主に中道右派・中道左派から左翼までといえよう。

  鳩山氏の政治家としての経歴

 

ここで鳩山由紀夫氏の政治的航跡に話を戻したい。
 平成5年(93)7月の衆議院総選挙で、自民党は単独過半数に達しなかった。55年体制の成立後、自民党は、38年目にして初めて野に下った。ここで誕生したのが、細川護煕氏を首相とする非自民連立政権である。ちなみに私は細川姓だが、細川護煕氏と特に関係はない。
 非自民連立政権は、新生党・新党さきがけ・日本新党・社会党・公明党等の8党の寄り合い所帯だった。鳩山氏は新党さきがけの主要メンバーとして、連立政権に参加した。首相となった細川氏は、日本新党の代表だった。その細川氏を首相に担いで、非自民連立政権を実現したのは、後に鳩山氏と一蓮托生の関係となる小沢一郎氏の力が大きかった。
 小沢氏は平成元年(1989)、47歳にして自民党の幹事長になった。田中角栄・金丸信の秘蔵っ子として、総裁候補にまで挙がった。しかし、金丸失脚後、経世会の跡目争いに敗れて自民党を離党した。この時、反小沢の急先鋒だったのが、野中広務氏である。以後、日本の政治の一面は小沢対野中、「親小沢対反小沢」という構図で展開した。
 新生党を結成した小沢氏は、自民党の崩壊を目指して野党を結集し、非自民連立政権を実現した。反自民であれば社会党とでも公明党とでも組むというのが、小沢氏の手法である。労働組合や宗教団体の組織票を手に入れるためには、自らの政治理念や重要政策を変える。権力の奪取そのものが目的化される。
 細川内閣は平成6年(1994)4月、細川首相が突然辞任したことにより、短命に終わった。後継首相は小沢氏の盟友、新生党の羽田孜氏だったが、社会党が政権を離脱したため、わずか2ヶ月で退陣した。このとき、自民党は政権に復帰するため、首班指名選挙で社会党の村山富市氏に投票した。それにより同年6月、自社さ連立政権が誕生した。55年体制では考えられない出来事だった。
 自民党の最高実力者となっていた野中氏は、小沢氏に対抗して社会党と組むという無節操な術策を取った。そのため、自民党は結党の精神を失った。自民党は権力の座を維持すること自体を目的とする政治集団に堕落した。
 鳩山氏は、自社さ連立政権においては、さきがけの幹事長として政権を支えた。この時は、自民党と組んでいる。その後、平成8年(1996)にさきがけを離党し、弟・邦夫氏等とともに旧民主党を結党した。10年(98)には現・民主党を結成し、翌年代表に就任した。その後、21年(2009)9月にわが国の総理大臣になった。

●鳩山氏と小沢氏の合体

 鳩山氏が自社さ政権の側にあったとき、小沢氏は、平成6年(94)新生党を解党して、新進党を結成した。公明党がこれに合流した。小沢氏は創価学会に接近し、手堅い組織票を獲得した。しかし、新進党は分裂に終わり、小沢氏は10年(98)に自由党を結成した。
 自民党の野中氏は、それまで小沢氏を「悪魔」とまで呼んで批判していた。だが、小渕内閣の官房長官となるや、小沢氏に「ひれ伏してでも」と協力を求め、11年(99)1月、自自連立政権が成立した。7月には公明党が加わり、自自公連立政権となった。その後、自民党は自自連立の際の政策合意を実行しなかった。不満を持った小沢氏は、小渕首相に自民党・自由党の解党を迫った。要望が入れられないと、翌12年(2000)に連立を離脱した。
 自自連立を仕掛けた野中氏の真の狙いは、公明党と組むことにあった。もはや単独では政権を維持できなくなった自民党は、公明党=創価学会への依存を深めた。公明党は自民党の生命維持装置となった。
 自公連立によって、自民党は約10年政権与党として延命した。しかし、私の見るところ、自民党は平成6年(94)、政権復帰のために社会党と組んだ時点で、日本の政治を担う責任政党としての資格を失った。野中氏の害悪は大きい。しかし、その先例は小沢氏の非自民連立にあった。小沢氏は直接間接に日本の政治を捻じ曲げ、権力の奪取と維持を目的とする政治に変質させた。
 こうした小沢氏に鳩山氏が合体したところに、今日の民主党がある。民主党は12年(2000)6月の衆院選、13年(2001)7月の参院選など、国政選挙の度に党勢を拡大させた。ここで当時党代表だった鳩山氏は、小沢氏に接近した。政権交代を実現するために、反自民の野党が結集するのが目的だった。
 小沢氏は、鳩山氏の民主・自由両党合併に向けた協議提案を受け入れた。その後、民主党代表となった菅直人氏が合併を決断し、15年(2003)9月、民主党・自由党は正式に合併した。自由党は解党して、民主党に合流した。党名・代表・執行部等、民主党が主となった。形の上では、吸収合併である。しかし、民主党に入り込んだ小沢氏は、党内で地歩を固め、中心的な存在になっていった。

 

●伝統尊重的保守の後退


 平成11年(1999)、自民党は公明党と連立を組むことによって、以後10年政権の座にあり続けた。この間に、従来の自民党の体質は変わらず、国民の自民党離れが進んだ。自民党を支持してきた層でも、自民党に不満が高じた時、「自民党をぶっこわす」と訴える小泉純一郎氏が、平成13年(2001)総裁に指名された。自民党の中にいながら、古い自民党を壊すという小泉氏の立場が、有権者に新鮮さを感じさせた。小泉氏は、聖域なき構造改革を唱え、とりわけ郵政民営化を最重要政策とした。そして平成17年(2005)9月11日の衆議院総選挙を、郵政民営化の是非を問うという形で展開した。
 このとき、自民党は歴史的な大勝をした。この選挙は郵政選挙と呼ばれ、自民党内で郵政民営化に反対した勢力が大きく後退した。その一部は伝統尊重的保守だった。彼らは小泉・竹中による民営化が、まやかしのものであり、日本をアメリカに売り渡す文字通り売国的な政策であることを見抜いていた。小泉首相は、彼らを排除・抑圧した。選挙で公認せず、選挙区に刺客を送るなどして、駆逐しようとした。
 郵政選挙の結果、自民党では伝統尊重的保守が弱小化し、経済優先的保守や保守系リベラルが主流派となった。小泉=竹中政権は従米的・売国的な郵政民営化を推進し、新自由主義、市場原理主義が日本を席巻した。その矛盾・弊害は日増しに増大した。所得の格差拡大、都市と地方の格差拡大、中小企業の倒産、失業の増大、家庭の崩壊、自殺者の増加、凶悪犯罪の増加等、矛盾・弊害が増大した。
 小泉内閣に続く安倍晋三氏は、伝統尊重的保守に分類される政治家である。安倍氏は「戦後体制からの脱却」を掲げ、憲法改正に向けた国民投票法を成立させ、教育基本法を改正するなど、戦後日本の課題に取り組んだ。戦後初めての取り組みだった。しかし、小泉内閣の官房長官だった安倍氏は、真の伝統尊重的保守ではなく、経済政策や郵政民営化は小泉=竹中路線を基本的に継承したため、改革は中途半端なものとなった。安倍氏はその矛盾を抱えた状態で、リベラルや左翼から強い反発を跳ね返せず、任期半ばで辞任した。
 自民党・公明党は、保守系リベラルの福田康夫氏を後継首相とした。福田氏は安倍氏の伝統尊重的な改革を止め、もとに戻そうとした。福田氏は、途中で政権を投げ出し、国民の自民党への信頼はさらに低下した。続いて、安倍氏の盟友・麻生太郎氏が政権を後継した。
 ここで、平成20年(2008)9月、世界経済危機が勃発した。アメリカのサブプライム・ローンの破綻に端を発した金融危機は、大手投資銀行リーマン・ブラザーズが倒産し、自動車会社のビッグ3も経営破綻に至るという大きな展開を見せた。1929年の世界恐慌以来の経済危機は、わが国にも大波となって押し寄せた。大波の直撃を受けた麻生政権は、景気の回復や格差の是正に努めたが、自民党の長年の腐敗・堕落と、小泉=竹中政治による新自由主義・市場原理主義の弊害を払拭することができなかった。国民の生活は脅かされ、政治への不満は強まった。ページの頭へ

 

(6)民主党が政権を奪取


●民主党の伸長、政権奪取

 ここに自民党に替わる政権の受け皿として、民主党が浮上した。民主党は、平成17年(2005)9月11日の衆院選、いわゆる郵政選挙では大敗し、結党以来の危機に直面した。鳩山氏の新憲法試案は、この年に発表されたものである。混迷する民主党にあって、小沢氏は、小泉自民党に巻き返しを図るため、組織固めと選挙対策に専念した。わが国で最も選挙戦術に長けた政治家である小沢氏の力が、民主党で発揮された。
 19年(07)年7月の参議院選挙では、民主党が大勝した。国会では与党が多数を占める衆議院と、野党が多数を占める参議院という「ねじれ現象」が起こった。国民の自民党と民主党に対する支持は、拮抗するようになった。そして、ついに21年(09)8月30日の衆議院総選挙で、政権交代が実現した。
 自民党にはもう任せておけないと愛想をつかした人々の多くが、別の受け皿として民主党に期待を寄せて投票した。歴史的大敗を喫して下野した自民党は、もはや多数派が対米追従、経済優先、官僚主導、媚中外交、創価学会依存という集団に変貌していた。その中において、17年の郵政選挙で大きく後退した伝統尊重的保守は、21年の衆議院選挙では、さらに大きく後退した。選挙における自民党の勝ち負けに関わらず、真の日本的な保守は、後退を続けている。
 21年9月、民主党は社民党・国民新党と連立を組み、鳩山内閣が成立した。しかし、民主党は、日本を崩壊に導く危険性を持った政党である。その危険性が政権発足後、明らかになってきている。もし民主党政権が長期化すると、わが国は後々回復が困難なほど深刻な打撃を受けるだろう。

●鳩山氏は「和魂洋才」を失い、「友愛」を唱える

 

近代日本、戦後日本と鳩山氏の政治的航跡をたどってきたが、それを踏まえて、再び鳩山氏の「友愛」とそこから導き出される政策を批判したい。
 鳩山氏の場合は、自民党内の保守系リベラルだったが、自民党を飛び出して新党さきがけに入り、その後、民主党を作り、反自民の保守系リベラルとなった。そして、さらに脱保守化して左傾化し、左翼との親和性を強くしてきた。左翼色の強いリベラルが、今日の鳩山氏の政治的立場である。
 鳩山由紀夫氏の祖父・一郎は、日本的な保守の政治家だった。孫の由紀夫氏も、当初はその姿勢を受け継いでいた。しかし、定見なき変遷の中で、保守的要素を失った。先に私は「和魂洋才」が保守の源流だと書いた。幕末の「和魂洋才」が大東亜戦争の敗戦までは、日本人に受け継がれていた。戦後の保守は、敗戦前の日本人の大部分が持っていた考え方を継承したものだと書いた。ところが、鳩山氏においては、「和魂洋才」の態度が失われている。平成22年1月29日の施政方針演説で鳩山氏は、この「和魂洋才」という言葉を使った。しかし、言葉だけで、根本的な精神が伴っていない。それどころか、鳩山氏は、日本の「和魂」をヨーロッパ産の「友愛」に変えようとしている。これは鳩山氏が、日本人の守るべき伝統・文化・国柄を、深く理解・体得していないことによると私は思う。
 この点は、鳩山氏が、日本の社会を一個の文明として、すなわち日本文明としてとらえる文明学的な認識を欠くことと関係している。

●「友愛」に同調すれば、魂なき漂流者に

 鳩山氏が「友愛」を再定義した「自立と共生の原理」を文明間の関係に当てはめると、古代の東アジアにおいて、日本社会がシナ文明から「自立」し、一個の文明として発展し、シナ文明と対等の関係を築いてきた。シナ文明に同化していたら、「自立」も「共生」もありえない。シナ文明に同化される危機において、発揮されたのが「和魂」であり、「和魂漢才」の態度が日本文明の「自立」を貫いたのである。そして、この古代における「和魂漢才」が、近代における「和魂洋才」の原型である。
 近代の世界においては、西洋文明の世界的拡大に対し、非西洋諸文明が抵抗・反発して、諸民族が植民地から独立し、民族自決を実現することが、「自立」である。また、西洋文明の挑戦に応戦して植民地化されるのを防ぎ、独立を保ちながら、独自の近代化を進めることが、「自立」である。明治維新を成し遂げたわが国の歩みは、近代化=西洋化ではなく、文明の独自性を保守しながら近代化する「自立」の道だった。
 日本人が「和魂洋才」をもって「自立」の道を進むことができた背景には、日本が一個の文明として高度に熟成した文化を誇っていたことがある。その文化の最も特徴的な要素として、皇室、神道、武士道を挙げることができる。そして、こうした特徴的な要素を持つ独自の文明を発達させてこれたのは、「和魂」をもとにした異文明への対応姿勢によるのである。
 しかし、鳩山氏は、文明学的な認識を欠くため、日本文明の独自性と、古代から近代へと貫く日本文明の「自立」の歴史を理解できていない。そのため、鳩山氏は「和魂漢才」を近代に応用した「和魂洋才」の態度を失い、外国の模倣・追従に陥っている。日本の「和魂」を失って、ヨーロッパ産の「友愛」を移植しようとする。さらにシナ産の「友好親善」に同化しようとする。固有の文明の魂を失うとき、心の空隙に異文明の魂が入りこむのである。
 「和魂洋才」を失った鳩山氏が説く「友愛」に同調することは、日本人が日本人であることを否定し、文化的アイデンティティを失うことである。日本人が日本精神を失い、魂なき漂流者となることである。

 「文化的アイデンティティ」は、ハンチントンの言葉だが、彼の場合は、国家という政治的な組織・集団とは異なる、文明または民族・部族等の文化的な組織・集団への帰属意識的自己同一性を言っている。
 私は、ハンチントンの用語にヒントを得て、政治的な組織・集団への帰属意識的自己同一性を「政治的アイデンティティ」、家族・郷土・会社等の社会的な組織・集団へのそれを「社会的アイデンティティ」と呼び、これらと区別して「文化的アイデンティティ」という用語を使用している。
 たとえば、「私は日本人である」という命題は、日本国の国民という集団に所属しているという意味では、政治的アイデンティティを表す同定式である。同時にこの命題は、日本文化という固有の文化を持つ集団に所属しているという意味で、文化的アイデンティティを表しもする。文化的アイデンティティは日本の言語・歴史・伝統・国柄・宗教等の精神文化の理解・体得なくしては成立しない。
 文化的アイデンティティを失うと、日本人ではあっても、日本国民という組織・集団に形式的に所属しているだけで、内容的には固有の精神文化を失った空虚な自己となってしまう。

 

●日本の伝統を生かすなら、友愛など不要


 先に書いたように、鳩山氏は、平成17年(2005)の新憲法試案の段階までは、保守的要素を持っていた。憲法に関しては憲法改正を提唱し、明治憲法・昭和憲法を受け継ぐ平成新憲法の試案を公表した。国防に関しては、自衛隊を自衛軍とし、集団的自衛権に関する内閣法制局の広義の解釈を止め、米軍が攻撃されたら反撃するという見解を明らかにしている。天皇に関しては、権威と権力の分離を評価して「天皇制」を「伝統原理」とし「民主原理主義」を是正するものと評価した。また新憲法試案には天皇を元首と明記した。文明に関しては、天皇という称号、日本という国名は、「大陸文明」に対する「文明としての日本」を現すものという認識を示した。外交に関しては、日米安保体制が基軸であることを鮮明にしていた。
 鳩山氏自身、新憲法試案の「天皇制」を「伝統原理」として評価すると書いた箇所で、保守主義の元祖といわれるイギリスのバークに触れている。バークを挙げると言うことは、自分の立場は保守であると自覚していたのだろう。しかし、鳩山氏は、その後、保守的要素を大幅に失った。脱保守化し、リベラルに移行し、さらに左傾化した。
 こうした兆候は、新憲法試案の段階で現れていた。そこで鳩山氏は、無批判に「天皇制」という用語を使っている。「天皇制」は左翼用語であり、コミンテルンによるものである。わが国では、コミンテルン日本支部としての日本共産党が、「32年テーゼ」で初めて使用した。「32年テーゼ」は、日本の共産革命の方針を示したものである。それゆえ、わが国の伝統を心から尊重する者は、「天皇制」という言葉は使わない。私は先達にならって、「皇室制度」と呼ぶ。
 鳩山氏がその名を引くバークは、フランス革命で現れた人民主権の共和主義に反対し、祖先から受け継いだ伝統を尊重し、君主制とデモクラシーの調和を保つべきことを説いた。わが国においては、皇室制度が伝統の核心に存在する。明治維新では、天皇を中心とした国柄を復興するとともに、西洋からデモクラシー、立憲議会政治を摂取し、伝統と近代、日本文化と西洋文化の融合を実現した。こうした伝統を創造的に生かすならば、「友愛」は不必要なのである。
 実は、鳩山氏の新憲法試案には「友愛」が登場しない。氏は「友愛」を政治哲学とすると明言するのだから、「友愛」を理念とする憲法を起草すべきだろう。しかし、「友愛」は、試案の本文にも解説にも一切出てこない。この点からも、私は、鳩山氏の「友愛」は原理的な概念足りえないと判定する。
 「友愛」という理念からは、日本の憲法は導き出せない。また「友愛」に基づく限り、わが国の伝統・文化・国柄を、憲法に表現できない。もし「友愛」を憲法に盛り込むならば、歴史の連続性、先祖と我々のつながりは断絶される。
 私は、そのような「友愛」など捨てよ。日本に返り、日本の伝統的な理念を今日に生かせと主張するものである。

●「友愛」は鳩山氏の左傾化を覆い隠す言葉


 祖父・鳩山一郎の場合は、自民党結党時の指導者の一人として「友愛」を説いた。これは「自由」の側から「平等」要素を取り入れるものだった。また自民党の結党の目的である自主憲法の制定、自主国防の整備、占領政策の是正等を目指していた。保守系リベラルと言えよう。しかし、孫の鳩山由紀夫氏には、こうした問題意識は希薄である。
 鳩山氏は、自民党を離れて反自民党の立場に立ち、新党さきがけに入って、自社さ連立政権の一員となった。その後、自ら民主党を作って「友愛」を説いている。そして、保守系リベラルからリベラルに移り、さらに左翼色を帯びたリベラルへと変貌した。左へ、左へと旋回した先には、共産主義の中国の姿が見えてきている。
 鳩山氏は、なぜこうした左旋回を続けるのか。私は、鳩山氏が自民党政治家の名門に生まれていながら、わが国の伝統・文化・国柄を深く掘り下げて理解・体得していなかった。そのため、勝者の歴史観である東京裁判史観に呪縛され、戦勝国への謝罪文を前文に付せわれた憲法に意識を侵犯され、日教組による教育を克服できない。戦後生まれの日本人の多くが持つ精神の歪みが、鳩山氏において典型的な形で現れたものと思う。鳩山氏の友愛は、こうした戦後日本人の精神に多く見られる歪みを隠し、逆に美化・正当化する言葉になっている。
 鳩山氏は今日では、保守的要素を失い、リベラルとなっている。先に書いたように、ここにいうリベラルは、自由を追求する古典的自由主義の意味ではなく、平等に配慮する修正的自由主義の意味である。リベラルの政策は、経済面での修正的自由主義を中核とする。リベラルは、わが国の場合、社会面では西洋化の一環として個人主義を推進し、教育面では自虐史観、安全保障面では国防の軽視ないし忌避を傾向とする。
 欧州産のリベラルは、もともと「進歩」の概念を内包する。非西洋文明の社会においては、近代化を同時に西洋化ととらえ、近代化=西洋化を「進歩」と考える態度が、リベラルに加わる。そのため、わが国のリベラルは、自国の伝統・文化・国柄を積極的に守ろうとせず、むしろそれらを否定する傾向がある。自国の伝統・文化・国柄の否定は、外国の模倣に進みやすい。伝統的な日本を保つべきモデルとするのでなければ、アメリカ、ソ連、中国等の外国をモデルにして、それを目指すという傾向に陥る。さらにその傾向が進むと、日本人でありながら反日という倒錯した状態に陥る。
 鳩山氏の「友愛」という言葉は、自国の伝統・文化・国柄の否定、外国の模倣、日本人でありながら反日というリベラルの傾向を、進歩的なものと思わせる働きを持っている。

●個人主義的で、反家族・反民族・反国家の政策を推進

 鳩山氏は、基本的にリベラルの立場から、新自由主義・市場原理主義を批判している。修正的自由主義は本来、家族・民族・国柄の尊重と矛盾しない。しかし、日本のリベラルは、個人主義的で、反家族・反民族・反国家の傾向が強い。鳩山氏もまたそうである。「友愛」というヨーロッパ産の理念を掲げ、日本の伝統から離れ、反家族・反民族・反国家の政策を推進する。それが、鳩山氏の友愛政治である。
 しかし、反家族・反民族・反国家のリベラルでは、新自由主義・市場原理主義を根底から批判することはできない。なぜならば、リベラルは新自由主義・市場原理主義と同じく個人主義に基づくからである。個人を原理とすることで、家族・民族・国家を単なる個人の集合体とし、「個の自立」を目指す。その点が共通しているのである。
 新自由主義・市場原理主義への批判は、リベラルが行なっているだけではない。日本の伝統を保守する側は、もっと厳しく批判している。日本の伝統尊重的な保守は、自由と平等の均衡を図る点では修正自由主義に通じるが、リベラルが個人主義的であるのに対し、集団主義的な修正自由主義である点が異なる。それは、生命的・共同的関係を基本に、社会を理解するからである。伝統尊重的保守は、家族・民族・国柄を尊重し、皇室を崇敬する。
 伝統尊重的な保守こそが、新自由主義・市場原理主義を根底から批判することのできる唯一の政治思想である。新自由主義・市場原理主義とリバラリズムは、共通の基盤の上に立っている。それは、アトム的な個人をモデルとする個人主義的な人間観である。「自由」と「平等」という二つの価値も、アトム的な個人の関係における「自由」と「平等」を言うものである。この点は社会主義・共産主義も同様である。西洋近代思想は、共通の人間観の変形なのである。
 これに対し、日本的な保守は、集団主義的な人間観に基づく。集団主義というのは、個々の人間を抽象的な個人ではなく、親子・夫婦・祖孫という生きた生命的共同的な関係においてとらえる見方である。「自由」と「平等」については、同質的・同型的な個人の間の権利とするのではなく、生命的共同的な関係における「自由」と「平等」を実現しようとする。
 政府の規模で言えば、古典的自由主義、及び新自由主義としての経済優先的保守は「小さな政府」、個人主義的修正自由主義としてのリベラルは「大きな政府」を志向する。集団主義的修正自由主義としての伝統尊重的保守は、その中間の「中くらいの政府」を志向すると言えよう。
 鳩山氏は、人間観・社会観に関する原理的な検討をせずに、保守系リベラルから、リベラルに移った。そして、またそれゆえに社会主義にも親和するのである。
 なお、トッドの家族制度論との関係を補足すると、個人主義的な人間観、及びそれに基づく自由主義の諸形態は、核家族の社会で発達した。集団主義的な人間観、及びそれに基づく日本的な保守思想は、直系家族の社会で発達したと言える。

●民主党は反自民で集結した政党

 

鳩山氏は、保守系リベラルから脱保守化し、リベラル、しかも左翼色を帯びたリベラルへと変貌している。鳩山氏は平成17年(2005)以降、自民党に対抗するため、労働組合や旧社会党系の団体の要望を多くいれ、また日教組の教育政策をほとんどそのまま受け入れるなど、左傾化が進んだ。さらに21年(09)政権を取ると、社民党と連立を組み、民主党内の旧社会党左派の政策を容認し、左傾化が著しくなっている。
 55年体制の終焉後、政治家の集合離散が繰り返されてきた。いくつもの新党が現れては消えた後に、反自民で寄り集まった最大の集団が、民主党である。
 冷戦の終結により、共産主義・社会主義が世界的に大きく後退し、わが国では社会党が四分五裂して、左翼が弱体化した。「平等」の後退後の「自由」の行き過ぎを制するものとして、鳩山氏の民主党が伸長し得る環境が生まれた。
 鳩山氏の民主党は「友愛」を掲げ、「平等」に近い側から、「自由」と「平等」を調整しようとする政党である。鳩山氏のような元自民党員から、旧社会党の最左派・社会主義協会までが、民主党には幅広く集合している。保守系リベラルから、リベラル、左翼の社会民主主義者までが集まっている。それが、反自民で集結した政党が民主党である。
 鳩山氏は、旧民主党の設立において、「友愛」の旗印を掲げた。その旗印は、巨大化した現在の民主党でも、依然掲げられている。しかし、民主党に様々な政治団体が参入したのは、鳩山氏の「友愛」の理念をよしとして、結集したのではない。

●「第2社会党」的な政党に変貌

 民主党は、巨大化の過程で、傘下に労働組合や各種の左翼団体を抱えるようになった。そして、こうした集団は組織的な集票力がある。それだけ、政党の指導層に影響力を持つ。そのため、民主党は「第2社会党」的な政党に変わってきた。民主党という名称は、保守的・中道的な感じを与える。ソフトで明るくやさしい感じを与える。その看板のもとに、旧社会党系の諸団体が鳩合し、巨大な政治勢力としてよみがえっているのである。
 今日、民主党の最大支持基盤は、労働組合である。最大の支持団体は連合(日本労働組合総連合会)である。また日教組・部落解放同盟を支持団体に持つ。民主党は在日外国人も党員になれる政党であり、在日韓国人による民団との関係も深い。民主党の政策は、リベラルの政策をベースにしながら、連合、日教組、部落解放同盟、在日コリアン団体等の主張・要望が混合されたものとなっている。
 私は、民主党は、55年体制での自社の馴れ合い政治を、政党の形にしたものだと見ている。自民党の金権体質と旧社会党の組合体質が融合し、権力の奪取と強権の行使が目的化している。自民党出身で田中角栄・金丸信の弟子だった小沢一郎氏と、日教組出身の輿石東氏の結束がその象徴である。民主党には国会議員の間ですら、自由な言論ができず、小沢氏を中心とした幹部が意思決定する。民主党には「自由」も「民主」もなく、国民も不在である。
 鳩山氏はそういう政党の表向きの代表の座にある。現在の鳩山氏の政策には、リベラルの要素として、地域主権国家、永住外国人への参政権付与、個人主義的な「個の自立」、選択的夫婦別姓の導入がある。皇位継承については、男子優先だが女帝容認・女系継承容認であり、伝統を否定する態度を取っている。また、左翼的な要素としては、旧社会党系勢力の主張を受けて、憲法改正を棚上げしていること、自衛隊を自衛軍にするという持論を引っ込め、また集団的自衛権の行使を可とする見解を撤回したこと、日教組の教育政策をほとんどそのまま取り入れていることなどが挙げられる。
 鳩山氏の左傾化の先には、共産主義・中国が見えている。鳩山氏は、中国・韓国に対して過剰な謝罪や補償を行なおうとし、両国に配慮して、閣僚に靖国神社への参拝を禁じている。アメリカにはものを言うが、中国のチベット・ウイグル問題や人権問題は強く批判しない。中国がかつて唱えた東亜共同体を持ち出すなど、共産中国への追従が顕著になっている。ページの頭へ

 

 

(7)独裁を防ぎ、日本の軌道修正を

 

●「友愛」は小沢独裁政治を先導する

 民主党の本質は、反自民の諸党・諸派が結集した政党という点にある。その中核には、小沢一郎氏がいる。
 小沢氏の自由党と合併する前、鳩山氏は資金力はあるものの、政治的な手腕に乏しく、民主党において求心力に不足していた。鳩山氏が反自民の政権を目指すには、小沢氏の力が必要だった。民主党は、小沢氏の自由党と合併したことによって、政権交代を実現し得る政党に成長した。そして実際に民主党が政権を奪取できたのは、小沢氏の選挙戦術の賜物である。小沢氏と組んだことによって、鳩山氏は政権交代を実現し、首相の座に着くことができた。これは小沢氏なしには不可能だった。
 しかし、民主党に入り込んだ小沢氏は、巨額のカネと独裁的な手法によって、民主党の最高実力者となった。鳩山政権が発足すると間もなく、民主党の権力は二重構造となっていることが、国民の目に明らかになった。表では鳩山氏が首相として内閣を総理しているが、裏では小沢氏が政府も選挙も国会対応も取り仕切っている。日本の政治の実権を小沢氏が握り、内閣の外から鳩山首相や閣僚を牛耳っている。
 鳩山氏は「友愛」を掲げ、自分の理想を目指す政治をしているかのように振る舞っているが、実態は小沢氏のご機嫌をうかがい、小沢氏の意に沿うように動いている。鳩山氏の「友愛」は、国民に対し、独裁者・小沢一郎の存在をカムフラージュする言葉となっている。そして、実はこの点こそ、「友愛」という言葉が持つ最も危険な点なのである。かつてフランス革命において、フリーメイソンの「友愛」の理念が掲げられ、急進的な改革が強行される中から、ロベスピエールという独裁者が出現した。今日、わが国においても、「友愛」が、独裁政治を先導するおそれがある。
 旧社会党や日教組系の政治家は、小沢氏の采配に反発しない。逆に小沢氏を強く支持し、結束している。小沢氏の独裁者的な性格と手法は、マルクス=レーニン主義的な組織原理と親和するのだろう。小沢氏が土地疑惑問題を生き延びれば、民主党は個人独裁の国家社会主義に変貌する可能性がある。人権擁護法案はファッショ化に利用されるだろう。
 鳩山氏の「友愛政治」に日本を委ねることは、暴君・小沢一郎に日本の政治、日本人の運命を委ねることである。日本人は、このことに気づかねばならない。

●「友愛」と「独裁」の民主党から、日本の軌道修正を

 21年8月、自民党はもうだめ、民主党のほうがまし、一度政権を任せてみよう、そんな考えで、民主党に投票した人は多かった。しかし、民主党の実態が知られるにつれ、失敗したと後悔している人が増えている。
 では、野党となった自民党に、国民は期待できるのか。歴史的惨敗を喫した自民党は、党の再生を迫られている。再生をかけた総裁選挙に、谷垣禎一氏、河野太郎氏、西村康稔氏の3名が立候補した。彼らはいずれも保守系リベラルだった。伝統尊重的保守からは立候補者が出なかった。総裁には谷垣氏が選出された。谷垣氏は「みんなでやろうぜ」を合言葉に、自民党の結束を訴えた。だが、自民党の再生は遅々としており、果たして再び政権を担える政党へと建て直しができるのか、心もとない状態である。
 戦後の復興・経済成長の根本動因であった日本的な精神を、最もよく表現してきた勢力は、伝統尊重的保守である。伝統尊重的保守が、自民党内で大きく後退し続けている。その結果、現在の自民党は、自主憲法、自主国防、占領政策是正等の結党の精神を失い、経済優先的保守、及び保守系リベラルが多数を占める集団となっている。そのため、多くの国民にとって、自民党の政策や主張は、民主党との比べて明確な区別がつかない。
 これまでのように、自民党が結党の精神を忘れ、日本的な保守の姿勢を失っていけば、政党としての存在価値はなくなる。衰退・縮小しつつ、四分五裂していくだろう。そうなれば、政権を担い得る政党は、現状では民主党のみである。国民は、民主党に政治を委ねるしかなくなる。
 自民党が民主党による日本の崩壊を防ぐには、保守の政党としての結党の精神を取り戻し、保守の理念・政策を前面に打ち出す必要がある。それには、日本的な保守である伝統尊重的保守が基軸となる以外にない。もしもはや自民党ではそれができないなら、伝統尊重的な保守の自覚を持つ政治家は、新たな潮流を作り出していくべきだろう。伝統尊重的な保守は自民党だけでなく、他の政党・団体にもいる。そうした人々が大同団結して、日本再建のための新たな運動を起こしていくことが期待される。ページの頭へ

 

 

結びに〜日本再建のための12の課題

 

本稿において、私は鳩山由紀夫氏の「友愛」を批判的に考察し、「友愛」の矛盾・偽善・破綻を明らかにした。伝統的な日本精神は教育勅語に最もよく表現されていること、教育勅語の「博愛」は、個人主義的な「友愛」とは異なり、家族愛を民族愛に広げ、人類愛にいたるものであることを述べた。「自由」の行き過ぎと「平等」の弊害は、わが国古来の理念である「調和」をもって正すことができることを主張した。
 また鳩山氏が「友愛」から導き出す様々な政策――経済政策、社会政策、地域主権、外国人参政権、東アジア共同体、友愛外交について、問題点と危険性を述べた。そもそも西洋近代の個人主義的な人間観に基づく「友愛」を、定義し直してみたところで、限界があることを示した。
 「友愛」にとらわれていると、日本は危ない。「友愛を捨てて、日本に返れ」と私は訴えるものである。鳩山氏の「友愛」に欠けているのは、日本である。日本の伝統・文化・国柄が欠落している。「友愛」はヨーロッパ産の思想であって、それを日本に移植しようとする鳩山氏には、日本人の精神が大きく失われている。私は、日本の伝統・文化・国柄に立ち戻り、そこから自生の理念を立て、日本の再建と発展のための政策を立案・実行することを、日本人同胞に呼びかける。
 本稿の結びに、日本独自の精神に基づいて、日本の再建と世界的な文明の転換を図ることを提案したい。

●日本再建のための12の課題

 目下の日本人の課題は、矛盾・偽善・破綻を示す「友愛」を捨てて、日本を建て直すことである。戦後日本の原点に帰って、日本人の課題を再確認し、実行することである。それ以外に日本の衰退を免れ、再興を進める道はない。
 ここで日本人が日本再建のために取り組むべき課題を12点提示したい。

課題1 大東亜戦争の総括
課題2 占領政策の克服
課題3 自主憲法の制定
課題4 皇室の復興
課題5 国民の復活
課題6 自主国防の整備
課題7 誇りある歴史の教育
課題8 日本的道徳の回復
課題9 家族の復権
課題10 生命力の発揮
課題11 自然との調和
課題12 精神的な向上

<課題1 大東亜戦争の総括〜大東亜戦争は日本精神から外れたため>

 大東亜戦争は侵略戦争か、自衛戦争かという論議が繰り返されてきた。真相は、大東亜戦争は、戦う必要のない戦争だった。戦わずして勝つ道があった。わが師・大塚寛一先生は、そのように看破されていた。先生は、昭和14年9月から時の指導層に建白書を送付した。日独伊三国同盟に反対し、英米と開戦すれば大敗を喫すと警告した。大都市は焦土と化し、新型爆弾を投下されると予言した。そして、厳正中立・不戦必勝の大策を建言した。しかし、当時の指導層はその建言を入れず、警告どおりの結果を招いた。大東亜戦争の総括は、この歴史的事実を知ることなしに、決してなしえない。
 大塚先生は説く。大東亜戦争は日本精神による戦争ではなく、指導者が日本精神から踏み外れたために行った戦争である、と。戦後の日本人は、こうした観点から、大東亜戦争の総括を行なえていない。そのため、多くの人々は、ますます日本精神を失ってきている。自民党の腐敗・堕落も、民主党の迷妄・混乱も、そこに原因がある。
 真の日本精神に基づく歴史観を理解する人が増えること。これなくして、日本の再建はない。

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・マイサイトの「基調」その2


<課題2 占領政策の克服〜占領政策は日本弱体化が目的>

 敗戦後のわが国で行われた占領政策は、今日では日本を民主化したものとして、肯定的に理解されている。しかし、その実態は、異例の6年8ヶ月にも及ぶ軍事占領のもとで強行されたものだった。目的は日本の弱体化である。日本が再び米国及び世界の脅威にならないように痛めつけることが、目的だった。憲法の押し付け、天皇の権威の引き下げと権能の限定、国民との紐帯の断絶、皇室の人員削減と経済的基盤の縮小、国防の規制、戦争に関する罪悪感のすり込み、民族の誇りの剥奪、勝者の歴史観の植え付け、伝統的道徳の否定、教育勅語の排除・失効の誘導、等。
 こうした日本弱体化政策の本質をとらえ、これを克服することなく、経済政策、社会政策、外交政策等を行なっても、国家としての日本は再建されない。諸政策は、日本再建策の実行あってこそ、成果を生む。

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・拙稿「日本弱体化政策の検証〜日本の再生をめざして

<課題3 自主憲法の制定〜現行憲法は亡国憲法>

 現行憲法は、人類の理想を表したものとして護持すべきか、占領者によって押し付けられた憲法として破棄すべきか。この論議も繰り返されてきた。最も重要なポイントは、現行憲法は、日本人が自ら創った憲法ではないということである。
 憲法は国の基本法であり、国の理念・制度・機構を規定している。その憲法が日本人の作ったものではない。このことが、日本人の自信や誇りを損なっている。現行憲法は、敗戦後、GHQが約1週間で秘密裏に英語で書いたものが草案となった。その翻訳をもとに、制定された。明治憲法の改正手続きは踏んでいるが、占領下で押し付けられた憲法である。
 独立回復後、日本人は即刻自ら改正し、自主憲法を制定すべきだった。それが制定後60年以上、一字一句改正されていない。自ら憲法改正を実行しない限り、日本人は独立主権国家の国民という精神を取り戻すことができない。このまま現行憲法を押し頂いていると、わが国は亡国にいたる。日本の再建は、日本人自ら憲法を改正してこそ、力強く進められる。

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・拙稿「日本国憲法は亡国憲法〜改正せねば国が滅ぶ

<課題4 皇室の復興〜皇室の維持・繁栄に英知を結集すべし>

 占領政策は日本弱体化政策だった。最大のポイントとされたのが、天皇のご存在である。わが国の強い団結力は、天皇を中心に国民が結束するところに発揮される。これを恐れたGHQは、天皇の権威を引き下げ、天皇の権限を少なくし、天皇と国民の紐帯を弱めることを日本弱体化政策の核心とした。昭和天皇に、いわゆる「人間宣言」をさせ、憲法の天皇条項を変え、皇室典範を普通の法律に下げた。皇室の経済的基盤を縮小させ、やむなく11宮家51方の皇族が臣籍降下した。
 独立回復後、皇室典範を初めとする皇室関係法を整備し、元宮家を皇族に復帰すべきだった。ところが、憲法改正がされないままであると同時に、皇室に関する改革もなされず、放置状態が続いている。皇族が減員し、そのうえ男系男子が41年間誕生されなかったことにより、次世代の皇族が急激に少なくなり、皇室は存続の危機にある。
 皇室の維持・繁栄は、わが国の存続・発展の要である。今のままでは、悠仁親王殿下が皇位に就かれるだろう30〜40年後には、皇族は悠仁様以外ほとんどいらっしゃらなくなっているかもしれない。旧宮家の復帰、養子、女性宮家の創設等の方策を実行し、男系男子による皇位の安定的な継承ができるように整備する必要がある。

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・拙稿「皇位継承問題――男系継承への努力を

<課題5 国民の復活〜国民的アイデンティティの回復・強化を>

 占領政策は、日本人としての誇りを奪い、愛国心を損ない、自ら国を守る意思を挫くものだった。戦争犯罪を誇張・捏造して宣伝・教育し、日本人が日本人であることに自己嫌悪に陥るようにした。団結することは危険だという意識を植え付け、団結心を自己規制させた。その一方で、個人の自由と権利を拡大し、義務を縮小した。
その結果、国民としての意識が低下した。国民より個人や階級に関心を分散した。とりわけ国防の義務をなくし、自ら国を守るという気概をなくしたことが、国民は運命共同体だという認識を弱めた。
 これに対し、国民意識を興隆し、国民的アイデンティティを回復・強化することが必要である。それには、教育が重要である。愛国心や公徳心を涵養し、日本人としての自己意識を育てる教育を実施しなければならない。安倍内閣で約60年ぶりに教育基本法が改正されたが、同法に基づいて、伝統を尊重し、国を愛する心を教えることである。
一方、大人は、国益という観念を取り戻す必要がある。国益とは、国民の共通利益である。個人の利益と対立するものではなく、個人の利益を守り、増大するものである。
 戦後の日本は、優れた精神的伝統を棄てたことにより、敗戦以上の誤りを犯し続けている。敗戦国が精神的に復興しなければ、3世代以内に滅亡する。日本人は日本精神を取り戻せ。それ以外に日本の存続・繁栄の道はない。

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・拙稿「国家と国益を考える
 目次から23へ

<課題6 自主国防の確立〜自ら国を守る者のみが自らの文化を守り得る>

 戦後日本は、憲法第9条により、国防を規制され、アメリカに安全保障を依存する国家となった。日本人は、自ら国を守るという意思を失い、他に運命を委ねる受動的な集団となった。
 自ら国を守ろうとしない国民は、他国に頼って、平和と安全を維持しようとする。そのため、アメリカに依存すればアメリカ化、ソ連に依存すればロシア化、中国に依存すればシナ化する。独立自尊の姿勢を失い、大国・強国に従属することになる。
 独立と主権、生命と財産、自由と人権を、自らの力で守る姿勢があってこそ、精神的・文化的な価値も守ることができる。国民が自ら国防をせず、他国に依存している国は、伝統・文化・国柄を守り得ない。他国が守ってくれるのは、その国の利益にかなう範囲での領土・権益である。自らを守る国民のみが、自らの伝統・文化・国柄を守り得る。
 国防を怠っていると、日本人は、日本人としての国民的アイデンティティを失う。それによって日本文明は、文化的なアイデンティティを失い、他の文明の周辺文明または下位文明に変質していくこととなる。
 日本が日本であるためには、国民に自ら国を守るという意思が必要である。戦後日本に欠けているのは、この意思である。自主国防を整備し、自ら国を守る体制を回復・強化すべきである。

関連掲示
・拙稿「国防を考えるなら憲法改正は必須

<課題7 誇りある歴史の教育〜日本人自らの歴史を伝える>

 戦後、日本で流布されたのは、東京裁判で勝者が日本を一方的に断罪するために作り上げた歴史観だった。この歴史観は、アメリカの太平洋戦争史観とソ連の階級闘争史観、中国の民族解放史観が融合したものである。これを東京裁判史観という。
 東京裁判史観は、戦後の日本人の意識を深く支配している。その克服は、重要な課題である。日本人の立場に立った歴史観を取り戻さねばならない。
 歴史とは、アイデンティティの確認である。自分とは何者か。自分には親があり、親にはそのまた親がいる。生命のつながりの中に自分はある。この親・先祖からの生命の連続性を、事象の継起を通して表現したのが、歴史である。自分が今日あることを、親に感謝する。先祖の苦難と努力に敬いの気持ちを持つ。そこに、日本人として生まれたことへの誇りが湧く。また喜びとなる。
 青少年には、日本人のよいところを教え、誇りを持たせることが大切である。そこに自然と愛国心が育つ。過去の反省は、自己肯定の感情あってのものでなくてはいけない。自己否定や自己嫌悪からは、自嘲や自虐しか生まれない。その先に動き出すのは、自滅への衝動である。

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・拙稿「教科書を改善し、誇りある歴史を伝えよう

<課題8 日本的道徳の回復〜教育勅語を復権する>

 明治時代にわが国の伝統的な道徳は、教育勅語に集約され、教育勅語に基づく教育が行われた。教育勅語は、家庭道徳、社会道徳、国民道徳の徳目を並べ、伝統を踏まえつつ、近代国家の国民の育成を期したものだった。
 敗戦後、GHQは国会で教育勅語が廃除・失効されるように誘導した。これによって学校教育で、日本の道徳は教えられなくなった。明治生まれ、大正生まれの世代が家庭や社会にいる間は、民間において民族の道徳が伝えられた。しかし、その世代が少なくなるにしたがって、戦後教育の影響が顕著になった。
 戦後教育は、教育基本法に基づく。教育基本法は、日本国憲法の精神を教えるものである。憲法は、アメリカ人が起草した。憲法は、アメリカ的な自由主義・民主主義・個人主義の価値観に基づいている。その占領者の価値観を身に着けた日本人を育てる教育がされた。日本人を親や先祖とは違う価値観を持つ日本人に変える教育である。その教育が浸透するにつれ、利己主義や拝金主義が蔓延した。家庭が崩壊し、社会が荒廃した。
 日本人は、本来日本人が持っていた道徳を取り戻さねばならない。そのためにまずなすべきことは、教育勅語を復権することである。

関連掲示
・拙稿「教育勅語を復権しよう

<課題9 家族の復権〜生命のつながりの自覚を>

 GHQは、日本人の団結力の基盤が家庭にあると見て、日本の家族制度を改変した。憲法・民法を改正した。イエ制度は、封建的で個人を拘束するものとして廃止させた。個人を解放して、自由と権利を拡張した。人類学的には、直系家族型の制度を核家族型の制度に変えるものだった。それによって、集団主義から個人主義への変化が起こり、また父親の権威が低下した。戦後日本では、農村の村落共同体が解体されて都市化が進み、三世代同居の大家族は核家族に分解した。今日では、晩婚化・未婚化が顕著になり、少子高齢化が急速に進行している。少子化は、識字率の向上による出生率の低下という近代化の一般的傾向だが、わが国は、それが極端に進行している。
 人は、親子・夫婦・祖孫の生命のつながりの中で生まれ、また育つ。個人はアトム的個人ではなく、家族はアトム的個人の寄り集まりではない。家族は、社会の最小単位であり、また生命と文化の継承の場所である。父性と母性が協力し、それぞれの特徴を発揮するところに、健全な子育てができる。親の愛受けて成長した子供は、自己を確立し、自立した大人となり、自らも家庭をつくり、子供を生み育てる。そこに個人の自己実現が達成されるとともに、集団における生命と文化の継承が実現する。
 家族の復権なくして、日本の再建はなしえない。明るい家庭が、明るい社会の基礎である。調和のある家庭が、調和のある世界の基礎である。

関連掲示
・拙稿「家族の危機を救え!

<課題10 生命力の発揮〜健康と生命に基づく国づくりを>

 多くの人は病気になったら薬を飲む。薬が病気を治すと思っている。実はそうではなく、自然治癒力があるから治る。薬は自然治癒力を補助するに過ぎない。不健康な生活をして病気になり、安易に薬や医者に頼る。そのため、今日のわが国では、病院が続々と建てられても満杯になり、医療費が国家財政を圧迫し、財政赤字が増える原因ともなっている。これでは個人としても国家としても、健康な状態ではない。
 国民が健康を失えば、国家は衰亡する。健康という点から、国家のあり方を考え直すべきである。健康と生命に基礎を置いたものの考え方、生き方を回復する必要がある。
 生命力を発揮することができれば、人は医薬に頼らずに健康に過ごせる。また大抵の病気は治る。極度に生命力が発揮されるときには、ガン・難病等も治癒する。お産にしても、自然分娩で無痛安産ができる。健康で寿命を全うし、大安楽往生ができる。脳細胞が活性化し、頭部が隆起する。それだけ偉大な生命力が、人間には内在している。その生命の偉大さを自覚してこそ、個人・家族・社会・国家・人類の発展がある。
 まず自分に与えられている生命力を維持・増進するよう努力すること。そういう考え方を、個人も国家も基礎に置くことが必要である。脱少子化の取り組みも、ここに根本を置くべきである。

関連掲示
・拙稿「脱少子化は、命と心の復活から

<課題11 自然との調和〜自然エネルギーの本格的利用を>

 文明は自然に働きかけ、環境に変化をもたらす。文明は古代からそういう側面をもっていた。しかし、多くの場合、自然の回復力は人間による変化をはるかに上回っていた。だから、人類は人口を増やし、文化を発達させることができた。しかし、西洋近代文明はユダヤ=キリスト教、資本主義、近代国家、産業革命が合体したことにより、自然を征服・支配する文明を生み出した。これを自然と調和する文明に転換することが必要である。
 石油・石炭のような化石燃料をエネルギー源とすれば、温暖化や大気汚染等を引き起こす。これに替わるクリーンな自然エネルギーの活用を推進しなければならない。太陽エネルギー、風力、潮力、地熱、バイオマス等。取りわけ太陽光発電と電気自動車の組み合わせは、21世紀の産業革命ともいえる産業と文明の変化をもたらすと期待されている。
 西洋近代文明の根本は、神なき自然、魂なき自然、物質としての自然という自然観に基づく。これに対し、自然を単に物質・エネルギー循環のシステムと観るのではなく、人間の生命や心霊と通底したものと感じる心を取り戻すことが必要である。環境保全のためのエコロジーも、生命的心霊的な自然観に裏付けられる時、自然と調和した文明を生み出すものとなるだろう。先進国の中で唯一、わが国は今日でも、神道の自然観を保っている。森を守り、海を守る日本人の心を今日の地球に生かすことにより、人類文明の転換に貢献し得るのである。

関連掲示
・マイサイト「自然」の拙稿

<課題12 精神的な向上〜日本精神の復興を>

 以上の課題を実行する上で、最も大切なのは、日本の伝統・文化・国柄を知り、日本精神を取り戻すことである。日本人が世代を超えて伝えてきた、人と人、人と自然が調和して生きる生き方を回復することが求められている。日本精神に基づいて、家庭・社会・国家を建て直すこと。さらに、日本精神の奥底に存在する自然の理法を自覚・体得することが、21世紀の日本人の課題である。
 西洋近代文明は、西洋近代思想に基づく。西洋近代思想の行き着くところは、個人主義と唯物主義である。心の現象は、脳の物質現象と見る。また人間の存在をパーソナルでローカルなもの、個別的で局所的なものと観る。個人中心で、現実世界限定の人間観は、道徳の低下や精神の荒廃を生み出す。生の目的は、金銭の獲得と欲望の追求になる。既成宗教は陳腐化し、脱宗教化した人々を善導することができない。こうした今日、新しい精神文化の興隆が待望されている。
 私は、21世紀の人類を導く精神文化は、日本から出現すると確信している。日本人には、自らの伝統的な精神を取り戻し、その精神に内在する原理を発動して、世界人類を精神的な向上に導く使命があると思う。日本精神の真髄を学び、実践する人が一人でも多く増えることを期待したい。

関連掲示
・拙稿「心の近代化と新しい精神文化の興隆

●友愛を捨てて、日本に返れ

 本稿の結びに、日本人が日本再建のために取り組むべき課題を12点提示した。<課題1 大東亜戦争の総括><課題2 占領政策の克服><課題3 自主憲法の制定><課題4 皇室の復興><課題5 国民の復活><課題6 自主国防の整備><課題7 誇りある歴史の教育><課題8 日本的道徳の回復><課題9 家族の復権><課題10 生命力の発揮><課題11 自然との調和><課題12 精神的な向上>である。
 これらの課題に取り組み、日本独自の精神に基づいて、日本の再建と世界的な文明の転換を図ることを提案する。
 最後に繰り返しになるが、鳩山氏の「友愛」に欠けているのは、日本である。日本の伝統・文化・国柄が欠落している。「友愛」はヨーロッパ産の思想であって、それを日本に移植しようとする鳩山氏には、日本人の精神が大きく失われている。私は、日本の伝統・文化・国柄に立ち戻り、そこから自生の理念を立て、日本の再建と発展のための政策を立案・実行することを、日本人同胞に呼びかける。「友愛」にとらわれていると、日本は危ない。「友愛を捨てて、日本に返れ」と私は訴える。ページの頭へ

 

 

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